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    近代日本による刑政大改革と人権向上 ―韓国の歴史から見えるもの

    別冊正論23号「総復習『日韓併合』」より古田博司(筑波大学大学院教授)朝鮮はずっと古代の「廊下」だった さて今回、『別冊正論』編集部の私への依頼は、朝鮮の法治、とりわけ刑政について語ってほしいということである。なるべく分かりやすく説明したいのだが、煩瑣な専門用語がどうしても邪魔になる。李朝は漢文の世界だから、下手をすると突兀(とつこつ)とした文字面になってしまう。それを何とか避けながら語ってみよう。 まず押さえておきたいのは、朝鮮の地政学的な位置である。大陸からここを通ってくる敵に対しての自然の防壁が全くない。ただの「廊下」である。異民族の侵入に抗することができないので、朝鮮半島の歴代の王はみな逃亡してしまう。 李朝では、海沿いの江華島に逃亡用の王宮までしつらえられていた。10世紀から11世紀に遼(契丹(キタイ)族)が高麗を攻めたときも、16世紀の豊臣秀吉の朝鮮の役でも、17世紀の後金(後の清、女真(ジュシェン)族)の侵攻でも、王は逃げた。 これは近代でも変わっていない。20世紀、朝鮮戦争の時も北の侵攻に対し南の大統領・李承晩は民衆や軍隊を置き去りにしたまま、漢江にかかる橋を爆破して南に逃げてしまう。逆にアメリカ軍がくると、今度は金日成が軍事を中国援軍の彭徳懐将軍に丸投げにして、中朝国境まで逃げこんでしまった。 このような国では安定した国家運営はむずかしい。民衆が為政者を信頼した歴史をもたない。国政混乱・綱紀紊乱(びんらん)・強権強圧がふつうなのである。 日本が来るまでシナ・コリア地域たる東洋は、ずっと古代だった。現在の中国共産党がアヘン戦争までを古代とし、歴史認識に「中世」期をもたないのはある意味で正しい。ただ、日本に敗けた日清戦争からが近代なのだ。それが嫌でアヘン戦争からだと言い張っている。でも、彼らがずっと古代の王朝国家だったことに変わりはない。まず土地の所有権がない。長期間継続する使用収益を根拠とする文書の交換だけである。これは社会主義政権下の中国では、土地の国家所有や集団所有に引き継がれた。 一方、朝鮮に民法典を与え、私的所有権を認めたのは近代日本である。さかのぼって李朝時代には、売買が成立せずに小売商さえいなかった。京城・平壌・開城その他の重要都市には商人がいたが、官府の貢進物を売買する御用商人のみである。 では一般では日常品をどうするかといえば、ぜんぶ市場での物々交換でまかない、物品供給は行商人がになっていた。今のソウルの南大門や東大門の市場は、その市の名残だ。清は「少しましな古代」、李朝は「ひどい古代」と思うとよいだろう。 次に、シナ・コリア地域の関係性が問題になる。これは例を挙げながら述べてみたい。朝鮮の法令もシナ事大主義だった 李朝では国初より14世紀の明国の法令、「大明律」をもって自国の法律と同一視した。それでも足りないところは、その都度、補助法規集を刊行し、これを補ったのである。 それらには、経国大典(1470)、大典続録(1492)、大典後続録(1543)、受教輯(しゅう)要(よう)(1698)、続大典(1744)、大典通編(1785)、大典会通(かいつう)(1865)などがあり、「大典」と名付くものの「刑典」部分には、全て「大明律を用う」と、ある。 結論から言えば、異国の法律を事大主義で正典として適用したものであるため、非常な無理が生じた。たとえば、18世紀の続大典に「(墓の)坑処を穿ち放火し、あるいは穢物(わいぶつ)を投げ込んで戯(ざれ)をなした者は、(大明律の)『穢物、人の口と鼻に灌ぐ律』により(罪を)論ず」とある。 この背後には、李朝後期になると、山争いが頻発し綱紀紊乱するという時代背景があった。朝鮮では墓は土饅頭で山にある。一族で山を占拠し、代々の墓を守るのである。山の数には限りがあるから、自然、他族との闘争が始まる。ひどい時には、前の墓を掘りかえして棺桶を焼いてしまう。風水信仰で棺のなかの骨には一族繁栄のパワーが宿っていると信じていたので、焼かれた側は激怒する。こうして一族郎党で鎌や棍棒をもって山にせり上がり大乱闘が始まるのである。 この条文は、その闘争の初期を封じているのだ。人の墓に放火したり、汚物を投げ込んだものを大明国の律で罰しようというのである。  問題の大明律の条文の方を見てみよう。大明律刑律闘殴条にある。「人の一歯および手足一指を折り、人の一目を眇(つぶ)し、人の耳鼻を抉毀(えぐ)り、人骨を破り、銅鉄汁(スープ)で人を傷つけるがごとき者は、杖(こんぼう)一百。穢物を以て人の口鼻内に灌ぐ者、またかくのごとし」という私闘の際の罰則規定であり、山争い・墓争いとは何らの関係もない。李氏朝鮮の拷問。右から角形枡に膝を突っ込ませ棒で打つ「跪膝方斗」、足指の間に熱した鉄棒を挟む「足指灸之」、逆さに吊るし鼻孔に灰水を注入する「鼻孔入灰水」(朝鮮総督府『司法制度沿革図譜』昭和12) 明国の方もヘンである。平成22年11月11日付産経新聞「産経抄」に、中国密航船員が脱糞して女性海上保安官に投げつける話があるが、それを彷彿させる。 目くそが鼻くそをまねるというと私が品格を失ってしまいかねないが、両国の関係とはこのようなものだった。朝鮮は法令で、シナ人の顔面を朝鮮人の墓面に置きかえるという無理をしてまで、シナの権威にすがろうとしたのである。 シナ・コリア地域を過大評価して、朝鮮は中国に「挑戦すれば討伐されるが、朝貢すれば共存できる」という関係を維持したのだと、思いこんでいる方が日本にはおられるが、そうではない。朝鮮はシナに「挑戦など考えられない、臣従して生きるしかない」という、もっと切実な関係に甘んじてきたのである。 第一、派兵能力がちがう。シナは5万人、朝鮮は1万5千人。勝てるわけがない。だからシナの王朝は朝鮮を征伐したこともなければ、する必要もないのである。 第二に朝鮮には権威がない。「行き止まりの廊下」の地勢で国民を守れたことがない。与(くみ)しやすしと見られると、満州のジュシェン(女真)族が直ぐに鴨緑江を越えて、物を奪い、人を狩って農奴にする。 ジュシェンと交流して友好策を図ろうとすると、シナの王朝が邪魔をする。「お前は忠貞なる、うちの東の家来だったではないか」と、文書でしかりつけてくる。シナはシナで一緒になって攻めてくることを恐れている。「夷を以て夷を制する」にしくはなし、と見る。 ジュシェンの方は諸部族に分かれ満州で暮らしていた。甲賀者や伊賀者の里のようなところで、捕まえてきた明人や朝鮮人に農耕をさせる。根拠地も忍者の砦のように城をもたず、時々移動するので居場所がよくわからない。朝鮮はシナの権威で国内を押さえ、同権威で国境に睨みを利かせるしかなかったのである。官庁ごとに私設の監獄があった官庁ごとに私設の監獄があった さて話は変わって、日本統治時代の朝鮮に、元京城刑務所長だった中橋政吉という人物がいた。日韓併合後に朝鮮にわたり、大正12年(1923)頃刑務官となり、近代日本が彼の国を近代化する有様をつぶさに見た。文献を集め、沿革の史料を求め、『朝鮮旧時の刑政』(昭和11年)一冊を書き残している。 貴重なのは、李朝末期を生きた朝鮮人の古老からの聞き書きである。二十八、九歳の時、典獄署の書吏をしていた金泰錫氏から監獄の見取り図を得、地方の郡守だった朴勝轍氏から斬刑の目撃談を聞き、李朝時代の前科者の尻に残る笞(むち)痕(あと)を見、隆煕2年 (1908)の旧軍隊の解散の際の暴徒の首謀者で、島流しにされた鄭哲和氏から当時の配流生活を知る。史料価値も一級である。 今この書を読者に紹介しつつ、私の知るところを織りこんで、以下綴(つづ)ることにしたい。 今のソウルは、李朝では京城あるいは漢城と漢語で書き、時の発音ではショヴォルといった。語尾のオルを同じくする地方はシゴル(郡)といい、対立概念である。両方合わせて「中外」と称する。 京城の公式の監獄には二つあった。義禁府の禁府獄(きんぷごく)(今の鍾路(チョンノ)の第一銀行(チェイルウネン)の場所)は官人の犯罪者を拘留し、国王の命令がなければ開くことができない特別裁判所だった。構内に南間、西間の獄舎があり、オンドル式だった。四方の内側は板壁、外側は土壁、前面のみ高窓があり、出入口には戸扉がはめられた。これを金吾獄ともいう。 刑曹(けいそう)所属の典獄署の典獄(てんごく)(金吾の道を挟んだ対面)には庶人の犯罪者を拘留していた。構内の円形の墻(しょう)内に半分オンドルの獄舎を設け、庁舎はその周りに配されていた。シナの六部の縮図が六曹で、所轄の刑曹はその一つ、裁判と刑罰担当である。 その他に、兵曹、司諌府、備辺司、補盗庁などにも各権限に応じて日中の逮捕の権があった。煩瑣なので各官庁の説明は省く。その獄舎は留置場程度で、そうでない立派な監獄は兵曹所属の補盗庁(ほとうちょう)のみで、左獄・右獄といわれ恐れられた。 京城の夜は外出禁止なので補盗庁が夜回りと盗賊逮捕をになっていた。構内には五間ばかりの板場の獄舎と隣接して絞首刑執行場があった。獄舎の四方の内側は板壁、外側は土壁、前面のみ高窓、出入口は板戸に横木でカンヌキがしてある。舎内の壁には丸木が露出していた。 こうした各官庁の監獄は時代を経るにつれてどんどん増えていった。つまり分業がうまくできず、あちこちの官庁が勝手に留置場を設けてしまうのである。これを「私獄濫設の弊」という。1725年、軍関係の五つの軍営にまで拘留の間があると報じられ、英祖王はこれを禁じた。 18世紀前半に各官庁の擅囚(せんしゅう)の弊が極に達した。「擅囚」とは読んで字のごとしで、「ほしいままに捕えた囚人」のことである。百司百官で私獄のないものがない状態になった。庶民はいつ役人に捕縛されるやも知れず戦々兢々(きょうきょう)としていた。 1740年の報告では、各官庁の私事の逮捕監禁がひどい、私的な怒りで捕えたものばかりだ、とあった。翌年、王は濫囚するものがあれば報告せよと命じた。これを「擅囚の弊」とか「濫囚の弊」といったが、改まらなかった。 地方官も六曹の縮図のように六房を置き、刑房に裁判・禁令・罪囚・監獄の事務をさせていた。道獄、府獄、郡獄と呼ばれる地方獄があった。地方官に司法権を兼掌させたために、司法と行政が区別されず錯綜していた。地方では観察使(かんさつし)(=道知事)以下の行政官が、裁判権をほしいままにしていた。彼が何を観察するかと言えば、民衆の儒教道徳実践を観察するのである。 裁判は役所の前庭のお白州で行われ、審理には拷問が付き物だった。審理は、死罪は30日、流刑は20日、笞杖(ちじょう)(鞭と棍棒)刑は10日の期限を定め、故意に延ばすものは誤決と同罪として処罰することとし、中央の刑曹には毎月1日に判決の月日を報告させることにしていた。 みだりに捕え、放っておく弊害 ところが、監獄で憂慮されたのは、国初から「違法濫刑」、「獄囚延滞」にともなう凍死と疫病であった。これも読んで字のごとく、「濫(みだ)りに刑罰を科し、判決を出さずに延ばし延ばしする」のである。審理・判決の期日は、結局守られなかった。 1427年の冬には凍死の恐れがあるから囚人を解き放てと命じている。つづく世祖王代には官吏を派遣して地方の監獄を調べさせたが、先の濫刑、延滞の二項がとくに甚だしかった。1457年には、獄囚延滞が無きようにと地方に命じた。この王さまはわりと良い人だった。役所ごとに勝手に行われた李朝からの〝お裁き〟日本によって導入された近代法制下の京城地方法院の裁判(朝鮮総督府『写真帖朝鮮』大正10) 1466年の冬には凍死せぬように釈放令を出した。朝鮮の冬はもちろん、吐く息が凍るほどの零下である。睿宗(えいそう)元年(1469)、忠清道の囚人は400人に達するとの報告があり、濫囚の弊が甚だしかった。 1567年には、濫刑の官吏をひどく罰せよと王が命じた。この頃より、各役所が濫りに人を逮捕して監禁し、権勢を振るう弊害が表面化した。この後、30年で豊臣秀吉軍の侵攻にさらされることになる。治まって、1625年、仁祖王が擅囚の弊をいさめたが、効き目なし。債務強制のための監禁の弊が表面化した。つまり負債を返せないと、どしどし投獄した。貸す方も悪(わる)だが借りる方も踏み倒しの悪である。 そんなことをやっているうちに、翌々年、ジュシェン(女真、後の清)のヌルハチの子、ホンタイジが攻めてきた。仁祖王は、江華島に逃げた。寝返った朝鮮人の武将が船でやってきて、「お前は泥人形か」と、王を侮辱した。王は降伏したふりをしたがばれて、もう一度攻められた1636年、京城は落城した。 時はたったが、監獄は変わらない。1651年、ソウルの獄で衣服、薪炭が行き届かず凍死するものが多かった。翌年、獄にいるハンセン病患者に薬物を与えた。獄内では不潔不衛生により伝染病その他の病魔に襲われる。獄内に充満する吸血虫の弊害で皮膚病にかかり命をおとすに至るのである。 第一、ソウル自体が不衛生の巣だった。だいぶ下って、19世紀の英紀行家マダム・ビショップに世界第二の不潔都市と紀行文に書かれた、「誇り高き不潔都市」である。ちなみに第一位は、シナの紹興だった。ソウルのメーンストリート鐘路も併合前はこんなだった(東京朝日新聞『ろせった丸満韓巡遊紀念写真帖』明治39) 1680年、獄囚延滞で89人も死んだと粛宗王は報告を受け、責任を問うた。地方はもっとひどい。罪が重いと処決せずに数十年延滞しているとの報告があり、1697年には、疫病が京城の典獄(庶人監獄)にも広まった。刑曹の報告により保釈する。禁府獄(官人監獄)も重病の者を上に報告して保釈した。 1707年、監獄で湿所に病を発する者が多いので板を敷けと命じられた。つまり朝鮮の監獄は土間だったのだ。朝鮮おそるべしである。粛宗王代には王室の祭祀忌辰(先祖の祭や命日)で裁判の開廷を止めることが多く、獄囚延滞の弊が特にひどかった。李朝古代から日本近代への大改革 李朝古代から日本近代への大改革 1745年、「替囚(たいしゅう)の弊」甚だしと、報じられた。これは何かというと、罪人に替えてその親族が入獄するのである。夫の替りに妻が入るのを「正妻囚禁」、子の替りに父が、弟の替りに兄が入るのを「父兄替囚」といった。 後者は人倫に反するというので粛宗代に「制書有違律」で処罰された。これも大明律の官吏の罰則で、王の言を制、それを記したものを書という、「詔(制書)を奉じてその施行にたがうものがあれば、棍棒で百回殴る」という律で、替囚とは何の関係もない、こじつけである。 本場シナの方にしても、王言がそのまま錯誤・遅滞なく実行されたとはとても思われない。東洋の法治はこのようなファンタジーとこじつけに満ちているのである。 正祖王の8年(1784)、獄囚に飢餓迫る。獄中の食事は自弁できない者には官給せよと命じた。これはこれまで何度か命じたが効果なし。食事の官給はなかった。 高宗王の8年(1866)に天主教(カトリック)弾圧に遭い、補盗庁の獄舎につながれた仏宣教師リデルの記録『京城幽囚記』によれば、食事はクワンパン(たぶん官飯(クワンパプ)の意)という朝夕に米ほんの少しばかりの食事で、二十日もたてば骸骨となってしまうという。 当時、囚人には盗賊、負債囚、天主教徒の三種類がいた。収監されるとチャッコー(着庫)という足枷(あしかせ)をはめられるが、盗賊以外はチャッコーから足を抜く方法を獄卒から教わり、夜は仰臥できる。盗賊は昼夜足枷をはめられ、疥癬(かいせん)に侵され、杖毒(杖刑の不潔な棍棒で打たれ病原菌に感染すること)で肉は腐り、飢餓に苦しむ。死が近づけば獄卒が蹌踉(そうろう)とした囚人を屍体部屋に連れ出し、死ねば菰(こも)にくるんで城外に捨てに行った。女囚は足枷をしないが、チフスなど疫病にかかりやすい。乳飲み子を連れている女もいた。 東学党の乱など内政が乱れる朝鮮をめぐって清と対峙する日本政府は、日清戦争勃発直前の明治27年(1894)6月、清からの朝鮮独立を促す改革案を閣議決定し、翌七月に官職の綱紀粛正、裁判の公正化、警察・兵制の整備などの内政改革を朝鮮政府に求めた。 朝鮮では高宗王の31年(1894)、甲午改革を進めるために置かれた軍国機務所から、大小官員で贈賄を犯したものが下僕を替囚して罰金を払い、そのまま下僕を獄囚延滞するという弊害があるから、今後は本人を収監せよという命令が出た。 1895年の改革で、未決囚と既決囚を区別して収監すること、共犯者は監房を別にすること、収監には裁判所または警察署の文書が必要であること、携行の乳飲み子は3年までこれを許すことなどが決められた。典獄署は監獄署と改名、義禁府は法務衙門権設裁判所と改名し、両獄の罪囚は全部監獄署に移した。地方は官制を定めなかった。日清戦争と下関条約の結果、朝鮮はシナから独立開国し、ようやく近代化の途についたのだった。  1896年の改革(乙未改革の一環)で、日本東京府の各監獄が警視庁の所轄であったことにならい、警務庁を設けて監獄署を一分課として所属させた。この警務庁時代に丸山警務顧問が進言し、西大門外の仁旺山(におうさん)麓、金鶏洞に5万円で監獄を新築し、1907年竣工した。木造、庁舎80坪、獄舎480坪、監房は丁字型、工場あり、浴室あり、500人収容可だった。 明治37年(1904)、第一次日韓協約で統監府を置き、1906年、地方に13カ所の理事庁を設け、日本人の犯罪者を獄舎に収監した。1905年の第二次日韓協約で、1908年から監獄官制が施行された。 刑政を控訴院検事長の管轄下に置き、地方裁判所在地と同様に監獄を全国8カ所(計293坪にすぎなかった)に設置し、事務室、監房、炊事場、浴場を設備した。水原(スウォン)の京畿監獄のみが完備されていた。また典獄以下の職員の大部分は日本人を採用した。法務大臣に趙重応、京城控訴院検事長に世古祐次郎が任官した。併合前からの監獄。丸太をまばらに立てた壁は隙間だらけ。ここにこれだけの囚人を詰め込んだ…日本によって開設された近代的な京城の刑務所(『写真帖朝鮮』) 1908年、各地の理事庁獄舎を増加し、永登浦監獄を設け、未決囚のみ京城に、既決囚は永登浦監獄に移した。これが永登浦監獄の起源である。翌年、韓国の司法および監獄事務を日本に委託する約定が成立し、統監府監獄官制が布(し)かれた。統監府理事庁監獄に日本人、朝鮮人共通の監獄ができた。監督機関として、統監府司法庁が置かれた。 1908年の改革(刑法大全改正)のとき、典獄(鐘路の庶人監獄)に拘留されていた者は309人(未決囚123人、既決囚186人)だった。各地方の監獄はすでに2千人を超え、大邱監獄の監房は全部で3室総面積15坪しかない所へ収監者150人だった。房内に縄を張り、それに両足をかけて上半身だけ床に横たえさせた。公州監獄では房内へ便器を入れる余地なく、外に四樽を備え、漏斗で内から放尿させていた。 朝鮮総督府監獄官制の実施、大正8年(1919)11月1日より3カ月で監房面積は1479坪、収監人数7021人、一坪当たり収容人員は4・7人で、半分以下に緩和され、房内衛生も大幅に改善された。放政ゆえの苛政と「恨」の起源  統監府は設置から5年後の明治42年(1909)、新たな戸籍制度を導入した。賤民層にも等しく姓を名乗らせる一方、身分記載を廃して身分解放を進め、教育の機会均等も促した。独立した司法制度を敷いて私刑を廃した。水原の京畿道地方裁判所に赴任後、残酷な拷問をたびたび目にした日本人法務補佐官の建言で1908年に取り調べにおける拷問を禁止している。 日本の朝鮮に対する改革は、古代を近代にする改革だった、とひとまず言えるだろう。その初期の目的は日本の安全保障のための併合だったとしても、これを放置するにはあまりにも浪費が多く、コストがかかりすぎた。近代的な改革を施さないわけにはいかなかったのである。 これはロシアとの開戦の最中も、着々と朝鮮統治の施策を実施していたことから明白であろう。 李朝の政治は苛政というよりは放政ゆえの苛政というべきである。古代経済社会のうえに、中国古代のファンタジーを権威模倣として採用し、地政学上の「廊下」を往来する異民族の来襲から王は民衆を放りだして逃走した。 国政混乱・綱紀紊乱のさなか、為政者不信の民衆を強権強圧する官僚を王が儒教の徳目で牽制する(これには両者の役割が逆の時代もあった)という形で、李朝は500年間崩壊することなく、放政と苛政の均衡を保ったのである。 これにはおそらく、「行き止まりの廊下」の行き止まり部分が有効に働いている。民衆は逃げ出そうにも廊下の先は海なのである。これが民衆の耐性を育てた。この無念と諦めの鬱屈を「恨(ハン)」という。 私はよく読者から、朝鮮が本当に好きなのかと、問われる。嫌いならば40年間もの研究生活を送れたはずがない。ただ、私は、好きなものの味方はしないのである。好きなものの味方をすれば、好きなものが悪くなったときに、その悪いところを隠そうと、良い部分をデフォルメして喧伝するようになるだろう。 今の中国研究者、朝鮮研究者には、そのような運動家となった人々が叢生している。悪いものの敵になる運動家ならば筋が通るのだが、悪いものの味方をする運動家はいただけない。これは嘘つきである。 今の韓国をつらつらみるに、法治主義の失敗と民主主義の破綻、過去の東洋的専制主義への退行は明らかなのだから、韓国がどんどん悪くなっていることは否定できない。そのとき、韓国の歴史がどんなに苛政だったか、それを知らなければ韓国の行き先も見えないことになってしまうだろう。そのような立ち位置で今回の仕事を引き受けたのである。 それでは立ち位置を明らかにしたので、われわれは先に進むことにしたい。つぎに李朝の刑罰の歴史に入って行こう。斬首から始めたい。 斬首刑は光武9年(1905)の刑法大全制定により廃止された。それまで、大逆犯の処刑は南大門や鍾路の辻で行われることがあった。1896年の国王毒殺事件の犯人、金鴻陸(きんほうりく)を処刑して梟(きゅう)したのも鍾路だった。梟(ふくろう)の棒先にとまるように首をさらすので梟刑という。逆賊を誅するときには、首を切り、臂(ひじ)を断ち、脚を断ったので、五殺といった。 斬首刑の場合、「待時囚(たいじしゅう)」と「不待時囚」と二種類があった。待時囚は、春分前、秋分後に執行し、不待時囚は判決後、時を待たず直に執行した。 十九世紀後半の高宗時代には刑場は龍山(ヨンサン)近くに二カ所、待時囚用があった。セナムトとタンコゲである。刑木に髷(まげ)を吊りさげて首と胴を断った。不待時囚用は武橋洞(ムギョドン)、待時囚の緊急用は西小門(ソソムン)外だった。刑木に吊りさげずに斬るので首と胴は離れなかった。 執行方法は、まず罪人を監獄から引き出して、車に乗せて牛に牽かせる。車に乗せるには、罪人の両手を広げ、両脚を揃えて踏み台の上に起立させ、牛車の箱に縛りつけておく。途中南大門を過ぎる時に踏み台を取り除き、牛を疾駆させる。罪人は両手のちぎれるばかりに振られ、舌は歯の振動で鮮血がほとばしり、刑場につく頃は死人同然となった。大きな鈍刀で囚人の首を斬る様子。首はそばに立てた竿に吊って見せしめにした(『司法制度沿革図譜』) 執行日は家族に知らせる。家族が来て、刑吏に賄賂をおくり、なるべく苦痛がないように一遍に斬ってもらうためだ。後年、斬刑は獄内でも密行されるようになり、構内でうつぶせにして斬った。「行刑刀子」といい、薙刀(なぎなた)のような大きさの鈍刀で、ただの重みで叩き斬った。朝鮮人もシナ人も、刀に刃をつけるのがどうも苦手のようである。 かわって薬殺は得意だった。王族や士大夫の罪人の面目を重んじて王より毒薬を賜い、これを嚥下させる。砒素(ひそ)を用いたらしい。流刑で外地に出した場合、後の報復が予想されるときには到着する前に、使者に薬をもたせて途中で罪人に服毒させて殺した。儒者官僚・宋時烈が済州島に流される途中で客死したのも、粛宗に廃妃を諌めた朴泰輔らが配流の途中死んだのも賜薬(しやく)による。 磔刑(たっけい)や絞首刑は、朝鮮人には物足りなかったためほとんど行われなかった。日本人の逆である。絞首刑が行われるようになったのは、比較的新しい。 高宗3年(1866)に天主教弾圧に遭い、補盗庁の獄舎につながれた仏宣教師リデルの記録によれば、補盗庁左獄で刑場は監房に隣接し、刑場の中央を板壁で仕切り、その壁の上部に穴をあけて縄を通して縄の端に受刑者の首をくくり、隣室から縄を引いて絞め殺したという。日本人と異なる東洋の処刑法 日本人と異なる東洋の処刑法 1908年から監獄官制が施行された。当時残っていた旧八監獄を改修したが、水原(スウォン)の京畿監獄のみ、施設が完備された。 中橋政吉の見たところ、水原の京畿監獄だけ、刑場が二階式だった。鍾路監獄では物置のような場所の低い天井の梁に鉄製の井戸車を吊るして縄をかけ、床下3尺ばかり掘り下げて縄巻き器をすえ、回転させて巻き上げた。大邱監獄では丸太3本を三叉に組んで、その中央に縄を吊るして執行した。 海州監獄では監房の一つをあけて、上記の補盗庁のようにしていた。平壌監獄では元の観察使、後の平壌地方裁判所の構内の建物の一つをあけて上記の梁木・滑車式で殺した。そこには死刑囚が暴れたときに殴るため洗濯棒のような棒が備え付けられていた。 凌遅(りょうち)刑という、日本人には聞き慣れない刑罰がある。シナ清代では阿片を吸引させ陶酔したところで四肢から生きたまま切り刻むのだが、朝鮮では死者に対してこれを科した。 大逆罪の屍骸の頭、左右腕、左右脚、胴の順で六つに断ち、残骸を塩漬けにして各地に分送する。この刑罰は17世紀、光海君の代に隆盛を見た。仁祖王代に厳禁としたが廃するに至らず、英祖王代に叛逆を謀った尹光哲と李夏徴なるものの屍骸に凌遅の刑を施した。 19世紀の高宗王代、金玉均(きんぎょくきん)にも凌遅の刑が科せられた。 日本の明治維新を手本に朝鮮の近代化を目指し、1884年、閔氏政権打倒のクーデター(甲申事変)を起こしたが清の介入で失敗し、三日天下で日本に亡命してきた。各地を転々とした後、上海に渡る。1894年3月28日、上海で閔妃の刺客洪鐘宇に銃で暗殺された。 遺体は清国軍艦咸靖号で朝鮮に運ばれ凌遅刑に処せられた。頭と胴は漢江の楊花津頭に梟し、手足は八道に分梟し、躯(むくろ)は漢江に投げ入れ魚腹に葬らせた。 日清戦争後の下関条約で朝鮮は独立し、1895年の改革で、「処斬凌遅」等の刑の廃止令が出て凌遅刑は終わった。だが今日でも「殺してもあき足らない奴」というときに、「凌遅之刑(ヌンチヂヒョン)・当(タン)ハル奴(ノム)」と韓国語で悪口を言うことがある。 最後に、追施刑という刑がある。追施刑とは死者の棺を掘り起こして加える刑罰である。 15世紀、燕山君の史獄のとき、刑曹判書(=刑曹長)金宗直を大逆罪とし、その棺をこわし屍骸を掘り出して斬った。その後、燕山君の生母、尹氏を廃妃にした謀議に加わった数十人を捕え処刑したが、そのうちすでに死んだ者は棺を壊し屍骸を引きずりだして斬り、骨を砕いて風にさらし屍は江に投じた。 追施刑の結果は罪人の子または親も同時に連座させられるので、英祖32年(1756)に王政の忍ばざるところとして廃止されたが、これで終わった形跡はない。なぜこのような刑罰をしたのかというと、風水信仰で屍骸の骨には一族繁栄のエネルギーが宿っていると信ずる。そこで生きている親族を連座させてこれを行い、残族に還流するエネルギーを根本から断つのである。 この刑罰もシナが本場である。日本と提携し、シナの近代化を求めた政治家・汪兆銘(おうちょうめい)は、死後の民国35年(1946)1月15日、国民党軍により墓のコンクリートの外壁を爆破され、棺とともに遺体を引き摺りだされ、灰にされ野原に捨てられた。賄賂次第の笞刑、身代わりの下僕 ここらあたりで日本の普通の読者は、胸糞がわるくなって、もううんざりということになるのではないだろうか。お気づきとは思われるが、日本人は地理上は“東アジア”人であっても、歴史文化上の“東洋”人では決してない。独立採算制の地域分業とでもいうべき「封建制国家」の子孫であり、「王朝国家」は遥か12世紀に終わっている。 その王朝の頃でも、シナの肉刑・宮刑・奴隷制など「人間の家畜視」は受け入れなかった。風水信仰も湿潤な日本では発達しなかった。陰宅(死後の家、墓)の骨など埋めても腐るから、一族のエネルギーの元などにはなり得ようもない。陽宅(生きているときの家)の方角などの吉凶占いだけが残った。 というわけで、私もこの辺で終わりにしたいのだが、別冊正論編集部から依頼された紙幅にはまだ届かない。申し訳ないがもう少し陰惨な東洋の話をつづけることにする。つぎは、笞(むち)と杖(こんぼう)から始まる。 朝鮮の打撃刑は、高麗時代から笞刑と杖刑が区別されていた。軽いものには笞を用いる。李朝ではいずれの官庁も、刑具も執行方法も勝手放題。賄賂の多寡により刑を加減したためバラバラになったのである。犯人の夫を捕えた刑吏に牛と反物を賄賂として渡し釈放を願い出る妻(『写真帖朝鮮』) 賄賂をした者は始めの三打まで手加減し、四打以降は外観のみ強く打つように見せ、受刑者にわざと号泣させた。賄賂しない者には強打し、賄賂を促した。賄賂しない者は永久に消えない傷跡を臀部に残した。中橋政吉はこれを当時の前科者から目撃したという。 杖でも笞でも、硬質の木材のものもあれば、桐のような軟木もあり、甚だしきは紙製のものに朱漆を塗って外観だけ丈夫にしたものもあった。これを朱杖(しゅじょう)という。刑具は受刑者の負担として自分で作って官へ持参させた。笞は自然に繊弱に流れ、すぐ折れるので数十本の予備の笞を要することがあった。 1673年、広州府尹(=府知事)の李世華の検田に過失があり、杖刑の命が下ったが、判義禁(=義禁府長)の金寿恒が上大夫に杖刑は奴隷と同じだから他の刑に代えてほしいと上奏し、王はこれを許した。このような例はいくらでもあった。 両班に対して笞刑を加える時にはその名誉を重んじ、庶民のように臀部を打つことはせず、「楚撻(そたつ)」といって、木の小枝で両脚の前脛部を打って済ませたものだった。それが、後には代人を出し、下僕が笞刑を受けるようになった。 17世紀、粛宗王代に「累次の兵乱を経て法制みだれ、杖を大きくするの弊がひどい。これからは笞を用いよ。軍律処断以外の者に棍棒を用いてはならない」と、命じた。18世紀、正祖王代に欽恤(きんじゅつ)典則が制定され、笞刑の改正を行ったが、濫刑の弊は治まらなかった。 1896年、刑律名例を制定し、刑罰を死・流(る)・徒(ず)・笞(ち)の四種に改め、古来の杖刑を廃し、笞刑は従来の回数10ないし50を、範囲を広めて10ないし100とし、十等に区別した。1905年制定の刑法大全では、死・流・徒・禁獄・笞の五種とし、杖刑は認めず。笞刑は刑量を定め、婦女に対しては水に濡らした衣を着せること、姦通罪の場合は衣を着せずに執行とした。 日韓併合後も、刑法大全の笞刑は朝鮮人に限り適用されていたが、明治45年(1912)9月制令第三号をもって、笞刑は代用刑に改められ、懲役・拘留・および金刑(金額に代える)に代えて行うこととしたため、自然に磨滅していった。流刑には妻や妾を随伴した 流刑には妻や妾を随伴した 流刑には海と陸とがあり、海の島に流す場合も、有人島と無人島の別があった。その他に「安置」「囲籬(いり)安置」「充軍」の分類がある。安置は、配所で更に場所を指定して幽居させる。いわゆる閉門である。王族または高位高官の者に限られた。 罪の重いものは絶海の孤島に流す「絶島安置」があり、軽いものは本人居住の郷で幽閉する「本郷安置」があった。だが実際には政敵を葬るために、ほしいままに絶海流配することはいくらでもあった。 本郷安置には二種類があり、最初から本郷におかれるものと、いったん島に送られ、蕩滌(とうじょう)(罪名を除くこと)によって配流を解かれて本郷に帰還して安置されるものとがあった。また王命により遠島に処せられることなく自宅に置かれるものは、「杜門(ともん)不出」といった。 囲籬安置は「加棘(かきょく)安置」ともいい、棘のあるカラタチの木を周囲に植えて籬(まがき)とし、その内側に幽閉した。カラタチの木は全羅道に産するため、この道の島地で行われた。18世紀の景宗王代、壬寅の禍で、領義政(=首相)金昌集を巨済島に、領府事(=中枢府長)李頤命(りいめい)を南海に、判府事(=中枢府職)趙泰朱を珍島に囲籬安置した。 充軍は、辺境を守備する軍に投じて配流するものである。これはかなりきつい。国境付近で凍死して客死するので、遺体が行方不明になることがあった。 その他、流刑は千里以上だが、「遷徙(せんし)」といい、千里の外に配流するものがあった。ただし、流刑を二千里ないし三千里と定めたのは、シナの制度をそのまま持ってきただけで、朝鮮の千里は日本の百里ほどであるから、朝鮮の尺の二千里ないし三千里ということである。それでも狭い朝鮮では長距離になってしまうので、各地を大迂回して距離を積算して辻褄を合わせたこともあった。 また、「移郷」あるいは「放逐田里」というものがあり、居を田野に移し、居住地や王都に入ることを禁じた。1545年、清州人の父を救うために殺人した者を移郷に処した。明宗代には、権勢家の尹元衡の爵を削り移郷したことがあった。「全家徙辺(しへん)律」といい、罪人の全家族を辺境に移すものがあったが、英祖20年(1744)に、廃止されこの処分はなくなったという。 元々流刑の軽重は距離によるものであり、期間に制限はなかった。ゆえに恩赦や「量移(りょうい)」によって減刑されて帰還する以外なかったが、頻繁に行われたので大抵は帰還した。量移というのは、配流者が多数になったとき、整理するために減刑し帰還させるのである。運悪くどちらにもかからず一生を過ごす者もいた。 流刑者には家族の随伴を許していた。今の韓国の五千ウォン札の絵柄になっている儒者・李栗谷の時には、妾を伴っていたことが彼の日記に見える。正祖14年(1790)、重ねて流人の妻または妾が随従を願うときには許せと命じた。その他、士大夫で遠地に送られるものには衣食を給したこともあった。配流は日本に比べ、けっこう楽勝だった。 大典会通(1865)では、70歳直前の流刑者には、70までの期日に一日1両4銭をかけて金銭を納めれば帰還を許した。1905年の刑法大全制定では、本人が病気の時と親の喪に遭ったときは暫時の保釈を許した。婦女、70歳以上の男子、15歳以下の男子で、流刑10年以下の場合には、極寒猛暑の折には保釈とした。 流刑に処せられたものはすべて刑曹の帳簿に記載すべきことになっていた。流刑地で最も多かったのは、陸地では咸鏡南北道、平安北道の国境線の穏城・鐘城・三水・甲山(カプサン)・江界(カンゲ)が最も多く、島地では南沿岸の島地が最も多かった。 古来、陸海いずれに送るも適宜だったが、隔離するには島地が便利だったので、刑法大全では、原則として島地に押送するものとした。その頃の流配の島地は済州島・智島・珍島・楸子島・莞島・鉄島だけだった。島で商売や学塾経営で成功して気楽な余生を送るものもいた。 明治43年(1910)、日韓併合の恩赦で流刑者は全部流刑地から引き揚げ、最寄りの監獄に移した。次いで政治犯全部に大赦を行い、獄内においても流刑者はその姿を消した。 他に大明律記載の徒刑(配流して労働刑に処す)があったが、李朝では行われた形跡がない。拷問は脚折りと緊縛が主流 拷問刑は法令上定めたところがない、法外の刑である。わが国の石抱きのような圧膝(アプスル)や、周牢刑(カセチュレ)といい両脚を緊縛しその中間に棒を挿入して左右に開く刑があり、補盗庁で行われた。棍棒で乱打する乱杖刑などもあった。18世紀の英祖王代に残虐の刑は廃止されたが、その後逆転し、依然無統制の状態から脱することができなかった。 現在の韓国で展示されている「日帝による拷問」では、周牢刑や乱杖刑などが再現されているが、これは伝統を日本のせいにする、お得意の「歴史の歪曲」である。 さて、正祖王代に欽恤典則を制定し、笞刑の改正を行ったが、濫刑の弊は治まらなかった。1905年の刑法大全制定により、次の六種の刑具が定められた。まず枷(かせ)(項鎖)、朝鮮語でモッカルといい、長さ五尺五寸の板に刳り抜かれたところに頭を挿入し、横より栓を施して鍵をかけた。長い板が首にかかっているので日中はほとんど動けない。李氏朝鮮時代とみられる周牢刑の写真。人々の目前で交差した棒に体重を掛け、囚人の脛骨を折っている 杻(ちゅう)(手枷)は実際には使われなかった。鍾路監獄では麻縄で両手を束ね、これをさらに強く腹部に縛り付けておいたもので、食事に手が使えないため、犬のような格好で頭を垂れて直に口を付けて食べていた。桎(しつ)(足枷)、朝鮮語でチャッコー(着庫)といい、数人まとめて連施したもので、左右より交互に罪囚の左足または右足を一本ずつはめ込み、抜き差しできないよう鍵をかけた。 厠に行く場合には外すが、夜これを施したまま寝かせることもあった。その他、紅絲鎖(捕縄)、朝鮮語でオラチウルといい、紅色の糸を撚り合わせた縄で、端に龍頭飾りをつけ、12個の環を通してあった。環は肩先より腕に流れ、龍頭は胸に垂れ、威厳を感じさせたという。恩赦濫発の伝統は今も生きる恩赦濫発の伝統は今も生きる 恩赦は、①建国時②国王即位、立后、立太子、太后尊号、王と王族の誕生、薨去など③国王行幸時④宮の造営と罹災⑤極寒猛暑に際し獄囚を憐れんだ時⑥天地異変、彗星出現時など⑦女真族を成敗した時⑧瑞象出現⑨疫病流行⑩個人特赦(父殺しの仇打ち)などで頻発された。 恩赦はあまりに頻繁で数えることができないほどだった。歴代の王が赦をもって徳治となして、これを行うことですべての災厄から逃れることができると信じたことによる。 その弊害を「濫赦の弊」という。粛宗10年(1684)に、奸人の僥倖(ぎょうこう)を開いてしまったと言い、恩赦を行いすぎたことを悔いて官をいさめた。英祖王代にも、自分の濫赦を悔い、今後の王は行うなと戒めた。これらは濫赦の弊害を伝える。 浅見倫太郎「朝鮮法制史」中に、「寛典(あまい法律)の弊に至っては苟免(こうめん)無恥(一時逃れの恥知らず)の思想を誘致し、半島人をして非行を為すを以て意に介せざるに至らしめたるものなり」とある。罪囚のすべてが恩赦の前例を知っているので、長期刑を下されても苦にせず、釈放機会を予期して待ったという。 現代の韓国でも、この「濫赦の弊」は、伝統として続いている。蓄財で逮捕された元大統領や、贈賄で収監された元会社社長、左翼運動で事件を起こし死刑判決を受けた元学生などが平然と出獄し、豊かな老後を送ったり、死刑宣告を勲章のようにして左翼政党の議員として返り咲いたりするのはこのためである。 以上より、「濫囚」「濫刑」「濫赦」が彼らの「放政」の伝統であることは明らかだろう。したがって私は、今の韓国の地で、いかに日本人が不当な逮捕、審問、判決、投獄をされようとも驚かないのである。ふるた・ひろし 昭和28年横浜市生まれ。54年慶應義塾大大学院修士課程修了。55年に渡韓、57年からソウル大師範大学院留学、延世大などで61年まで講師を務める。下関市立大講師、筑波大助教授などを経て平成16年から現職。第一期日韓歴史共同研究委員会委員、第二期日韓歴史共同研究委員会委員教科書班チーフを歴任。朝鮮半島研究、韓国論にとどまらず文明論や思想でも論考を発表。11年サントリー学芸賞、16年読売・吉野作造賞、18年正論新風賞。近著に『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(WAC BUNKO)、『ヨーロッパ思想を読み解く―何が近代科学を生んだか』(ちくま新書)など。

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    「被害者の立場は千年変わらぬ」説く韓国に加害者の過去あり

     韓国人の日本に対する「恨」(ハン)は秀吉の朝鮮出兵まで遡る。だが、鎌倉時代・中国を支配していた「元」による九州への攻撃・「元寇」における高麗軍の蛮行について、韓国は未だ固く口を閉ざしたままだ。* * * 韓国大統領・朴槿恵は2013年3月1日の「3・1独立運動記念式典」で日本統治時代を振り返ってこう発言した。 「加害者と被害者という立場は1000年の時が流れても変わらない」 この“被害者メンタリティ”に凝り固まった韓国人が「最も嫌いな日本人の一人」とするのが、16世紀に朝鮮出兵した豊臣秀吉だ。最近も韓国では、秀吉軍を海戦で打ち破った民族の英雄・李舜臣を描く映画『鳴梁』が大ヒットした。 しかし、明星大学戦後教育史研究センターの勝岡寛次氏は、韓国の一方的な被害者意識に異を唱える。 「実は秀吉の朝鮮出兵の300年前に韓国(高麗)軍は日本に侵攻し、暴虐の限りを尽くしました。この事実を韓国は都合良く忘れています」 1274年、中国を支配していた元が鎌倉時代の日本に侵攻した。この時、元に征服されていた高麗は遠征軍に加わり、対馬と壱岐に攻め入ったのだ。 当時、元への警戒を鎌倉幕府に呼びかけた日蓮聖人の遺文を集めた『高祖遺文録』に元・高麗連合軍侵攻時の残忍な記録が残っている。 《百姓等ハ男ヲバ或ハ殺シ、或ハ生取ニシ、女ヲバ或ハ取集テ、手ヲトヲシテ船ニ結付、或ハ生取ニス》 住民の男は殺されるか生け捕りにされ、女は手に穴を開けられ数珠つなぎの捕虜にされたという記述だ。勝岡氏が文献を解説する。 「『高祖遺文録』を所収した『伏敵編』の編者で歴史学者の山田安栄氏によれば、捕虜の手の平に穴を開けて縄を通すのは、百済の時代から朝鮮半島の伝統であり、“数珠つなぎ”は高麗軍の仕業と推測しています。また『高麗史』によれば、高麗軍は日本で200人もの童男童女を生け捕りにして、高麗の忠烈王とその妃に献上したということです」蒙古兵相手に奮戦する竹崎季長(右)=「蒙古襲来絵詞」(宮内庁三の丸尚蔵館蔵、部分) 2度目の元寇となる1281年の「弘安の役」でも高麗軍の非道ぶりは際立っていた。蒙古襲来直後に成立した寺社縁起の一つである『八幡愚童訓』には、こんな記述がある。 《高麗ノ兵五百艘ハ壱岐・対馬ヨリ上リ、見ル者ヲバ打殺ス》 この時、上陸した高麗兵を怖れ山奥に逃げた島民は赤子の泣き声を聞いた兵が押し寄せるのを避けるため、泣く泣く我が子を殺めたという。「地元では今でも泣く子をあやすための“むくりこくり(蒙古高句麗)の鬼が来る”という伝承が残っている。元寇は当時の日本人に700年経っても消せない恐怖心を植えつけたのです」(勝岡氏) しかも、元寇そのものが高麗の執拗な働きかけの産物だったと勝岡氏は指摘する。 「『元史』によると、フビライ・ハンに仕えていた高麗人の趙彜(ちょうい)が日本への使節派遣を促した。更に高麗の世子椹(後の忠烈王)もフビライに盛んに東征を勧めたという記録もあります。高麗が進言しなければ、元寇は起きなかった可能性すらあるのです」 2度に及ぶ元寇は日本に深い傷跡を残し、その後の歴史を動かす原動力となった。 「元寇で窮乏した御家人が海賊となり、残虐な高麗に報復しようとしたのが倭寇の始まりです。秀吉の朝鮮出兵も、究極的な原因は元寇にあったという説すらあります」(勝岡氏) 最大の問題は、この歴史的な事実を韓国が「なかったこと」にしていることだ。 「韓国の歴史教科書は、秀吉の朝鮮出兵に多くの紙幅を割く一方で、高麗が元をそそのかした経緯や、元寇における高麗軍の残虐行為には一切、触れていません。日本への加害は民族的記憶から消し去り、自らの被害だけを強調して教えているのです。“被害者の立場は1000年変わらない”と訴える韓国こそ、日本に対する“加害者だった歴史”を直視すべきです」(勝岡氏)関連記事■ 大河『軍師官兵衛』 秀吉の「朝鮮出兵」はどう描かれるのか■ 世界初の飛行機は秀吉朝鮮出兵時に城から脱出した「飛車」説■ 拉致問題や拉致被害者の家族は韓国政府にとって厄介な存在■ 拉致命じられ日本に潜入した韓国秘密工作隊の悲劇を描いた本■ 朝鮮民族の「恨」は恨み辛みや不満を生きる力に転換した状態

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    恩に仇する韓国の「日本隠し」

    韓国では日本の朝鮮統治を「日帝の七奪」と非難し続ける。戦後も、日本の多大な経済協力に感謝するどころか唾して平然としてきた。現在の韓国人が、戦前の日本が半島に注いだ努力を「侵略」「大罪」などと非難するのは、彼らがきっと「歴史」を知らないからに他ならない。

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    日韓国交正常化50年 「日韓友好」の原点回帰は可能だ

    大統領夫人暗殺事件が起きると、韓国では反日感情が爆発し、朴正煕政権は日韓断交さえ検討した。この時こそ日韓関係は最悪だった。外交の道具となった歴史問題 全斗煥政権の反日も当初は、日本が自由主義陣営に属しながら応分の軍事費負担をしていないというものだった。当時の自民党政権と外務省は安保経済協力を拒否していた。その渦中の82年、日本マスコミの誤報から教科書事件が起きた。全政権は経済協力資金を得る便法としてそれを使った。中国共産党と日本の反日マスコミと韓国の反共政権の連携というおかしな構造がこの時にできた。歴史認識問題を外交交渉にのせるという歪(ゆが)んだ構造がここで生まれた。 92年、やはり日本の反日マスコミの誤報により突然、外交問題化した慰安婦問題でも、盧泰愚政権は日本からの技術移転を求める交渉の道具としてこれを使うことを決め、宮沢喜一首相の訪韓での謝罪劇が生まれた。 80年代、北朝鮮の韓国への政治工作の主要武器は韓国版自虐史観だった。全斗煥、盧泰愚政権の歴史問題を外交道具にするという歪んだ政策が北朝鮮の工作を後押しして、当時の大学生のほとんどが自虐史観のとりこになった。李栄薫ソウル大学教授は著書「大韓民国の物語」でその誤った歴史観を次のように要約した。 「宝石にも似た美しい文化をもつ李氏朝鮮王朝が、強盗である日本の侵入を受けた。それ以後は民族の反逆者である親日派たちが大手を振った時代だった。日本からの解放はもう一つの占領軍であるアメリカが入って来た事件だった。すると親日派はわれ先に親米の事大主義者にその姿を変えた。民族の分断も、悲劇の朝鮮戦争も、これら民族の反逆者たちのせいだった。それ以後の李承晩政権も、また1960~70年代の朴正煕政権も、彼らが支配した反逆の歴史だった。経済開発を行ったとしても、肝心の心を喪ってしまった」共通の敵は北朝鮮の独裁政権 この歴史観に立つから、冷戦で共産陣営が敗北しても、韓国内の北朝鮮の独裁政権に従属する「従北派」は力を拡大し、2012年の大統領選挙では、従北派との連立を公約した左派候補が48%の支持を得た。朴槿恵大統領はこの歴史観と正面から戦うことができないまま、反日外交を続けている。 心配なのは日本人の嫌韓だ。韓国の反日の背後にある政治工作を見ず、韓国人の民族性のみに還元する議論が拡散しているからだ。 しかし、日韓関係は最悪ではない。韓国が米国と同盟である以上、日本は安保において韓国と同じ船に乗っている。北朝鮮の独裁政権を共通の敵として、歴史観や領土問題などをお互いに譲歩し合う50年前に両国の先人が築いた日韓友好の原点に戻ることは十分可能だ。すでに韓国内の自由統一を目標としている健全な保守勢力は、そのような立場から日韓関係の改善を提起している。 50年前も、そして今も釜山に赤旗が立つことは日本の安全保障にとって最悪のシナリオだ。韓国が反日自虐史観を清算して自由統一を迎えるのか、あるいは逆に、自虐史観に飲み込まれ北朝鮮の思うつぼにはまっていくのか、まだ勝負はついていない。(にしおか つとむ)

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    「自国の批判をする韓国人は存在を許されない」と韓国人作家

     日韓国交正常化50周年の今年、韓国の反日の嵐は衰える気配がない。 なぜ韓国人が日本への復讐心と劣等感を拭い去れないのか──この謎に迫り、昨年夏、韓国で大論争を巻き起こした話題書『あなたたちの日本』が、『韓国人の癇癪 日本人の微笑み』と改題して小学館より出版された。 同書の著者・柳舜夏(ユ・スンハ)氏と『恨の法廷』など韓国関連の書も多い作家の井沢元彦氏が、韓国が抱える「歴史の宿痾」を論じ合った。井沢:このような本を韓国で出版できたことに、まずは「おめでとうございます」と申し上げます。柳:幸運にも勇気ある出版社に出会えました。日本での出版も実現し、日本の読者と出会う機会ができたことにも感謝しています。井沢:かつて『親日派のための弁明』を書いた金完燮氏(キムワンソプ/※注)は、戦前の日本の朝鮮統治を肯定的に評価したことで処罰されています。 私は金氏と対談したことがありますが、彼の知り合いの歴史学者は「著書の内容は正しい」と褒めたが、同時に「自分が褒めたことは内緒にしてくれ」と頼んだそうです。柳さんの身に危険は及んでいませんか?日本からの「解放記念日」を前にした 2010年8月11日、ソウルの在韓日本大使館前で、 日本への激しい憎悪をむき出しにする韓国人男性 (水沼啓子撮影)柳:韓国で親日派の烙印を押されるのは致命的で、最近も首相候補の文昌克氏が日本による統治を肯定する過去の発言を問題視されて失脚しました。私は政治家でも学者でもなく作家という自由人の立場ですので、今のところは大丈夫です。ただ、言論の世界では激しく批判されていますし、暴言も浴びています。井沢:逆に、共感や支持の声はありますか?柳:もちろんあります。しかし、やはり批判のほうが多いです。井沢:10年前、20年前と比べて、韓国国内の空気は変わっていますか。柳:悪化していると思います。日本統治時代を知っている世代はどんどん減り、日本に行ったこともなければ、日本人に出会ったこともない人々が、やたらと反日を叫んでいる。安倍晋三首相と朴槿恵大統領がお互いにそっぽを向いてしまっていることも影響している。井沢:今回、柳さんの著書を読んで、日本文化の解釈に多少異論があるものの、基本的には志を同じくする人だと感じました。私も韓国を批判しているのは、隣国人として「韓国にいい国になってほしい」という気持ちからであって、嫌いだからではありません。 たとえば朝日新聞のように、真偽を確かめもせずに韓国に迎合してその主張を垂れ流すのは、韓国人の耳には心地いいかもしれませんが、それで韓国社会はよくならないし、日本人の嫌韓気分を増幅させるだけです。柳:韓国では、日本を批判する日本人を良心的知識人と呼んでもてはやしますが、韓国を批判する韓国人は存在を許されない。井沢:そういう社会は危険です。批判が改善を生むわけで、言論の自由のない国はいつか滅びます。柳:30年前は大統領の批判さえ許されなかったわけで、前進はしているのです。ただ、国際社会から見るとかなり遅れている。産経新聞の加藤達也・前支局長が書いた朴大統領の記事は、確かに品はよくなかったけれども、逮捕・起訴したのは間違いです。 韓国では法の適用に際して解釈の幅が広いため、運が悪いと捕まってしまう。だから、ジャーナリストや作家は自主規制してしまうんですね。井沢:私が問題だと思うのは、ジャーナリズムだけでなく学問の世界にまで反日イデオロギーが浸透し、少しでも日本を評価する意見が出てくると一斉に叩かれて、自由な議論ができなくなってしまうことです。柳:韓国社会にはタブーが2つあります。1つは共産主義で、もう1つは親日。共産主義との絡みで叩かれる学者はたくさんいるのですが、最近では親日で叩かれているのは唯一、私くらい(笑い)。井沢:他にいなくなっちゃったんですね。柳:日本と比較して韓国を批判する行為は、韓国ではまったく受け入れられてこなかったが、私はあえてそのタブーを破った。韓国メディアは無視していますが、日本で本を出すと韓国人は内容を非常に気にしますから、その影響はこれから出てくると思います。これは作家としての戦略です。(※注)1963年生まれの評論家。2002年に出版した『親日派のための弁明』では、日本による朝鮮統治を「近代化に貢献した」と肯定的に評価し、韓国の反日教育は誤った歴史観を押しつけるものだと批判した。同書の記述が死者への名誉毀損に当たるとしてソウル高裁から罰金刑を言い渡された。同書は日本で40万部のベストセラーになるも、韓国では青少年有害図書に指定された。関連記事■韓国では「サザエさん韓国人説」が流布し真に受けている人も■一部の韓国人 イギリス人もキリストも韓国が起源と主張する■「活版印刷」と「羅針盤」 韓国が起源は韓国人の間では常識■アジアで8割超が日本に好印象 中韓だけ日本嫌いの現実あり■小雪「国内セレブ産院での出産批判を避けるため韓国へ」の声

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    米の「慰安婦」騒動を解決する決定的ロジック

    渡辺惣樹(日米近現代史研究家・作家)かつて日本人は強制収容された 私たちのように北米西海岸に住むものにとって、韓国ロビー団体の進めるいわゆる「慰安婦像」設置運動は不気味なものである。とくに子供を現地の学校に通わせている家庭は心配になる。アメリカ・カナダでも、日本人は野蛮であると信じたい政治勢力が白人のグループにもいるだけになおさらである。反捕鯨グループのプロパガンダ映画「ザ・コーヴ」を授業で見させられた息子が気落ちして学校から帰ってきたことを思い出す。わが町に「慰安婦像」なるものなど建てられたらたまらない。 私の住む町(カナダ・バンクーバー)では、百年前、白人種による激しい反日本人暴動があった(一九〇七年九月七日)。それだけに神経が過敏になる。この日の暴動では、ダウンタウンにあった日本人街が白人集団に襲撃された。幸い当時は日英同盟が堅固な時代であったから、カナダ政府は日本に対して丁重に謝罪した。そのため大事には至らなかったものの、この事件は後の日本人移民の運命に暗い影を落とした。バンクーバーにある日本人街、パルエル バンクーバー暴動の調査に当たったのはウィリアム・マッケンジー・キングである。後にカナダ首相となる人物である(任期:一九二一年から三〇年および一九三五年から四八年)。反日本人暴動の調査に当たったころのマッケンジー・キングはまだ三十代前半の少壮官僚であった(一八七四年生まれ)。その調査を終えた彼を、時のアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトがワシントンに招聘した。 当時、ルーズベルト大統領はアメリカ西海岸一帯で嵐のように吹き荒れる日本人移民排斥運動を深く憂慮していた。バンクーバーの暴動もシアトルからやってきた日本人・朝鮮人排斥連盟の同市支部長に扇動されたものだった。アメリカの排斥運動とバンクーバーの暴動は連動していたことをルーズベルトは知っていたのである。 ルーズベルト大統領は、日本人排斥運動に道理のないことをよくわかっていた。彼は日本文化に造詣が深かっただけに苦々しい思いを持っていた。道理がないだけに日本がアメリカに怒りをぶつけてもいたしかたなかろうとも考えていた。しかし政治家としてはそれを座視するわけにはいかなかった。ルーズベルトは、一八九八年の米西戦争で領土化したフィリピンの安全保障が気がかりだった。それを脅かす可能性のある日本の目を北に向けなければならなかった時期であった。日本を刺激することを避けながら国内の反日本人活動を沈静化させなければならなかった。 ルーズベルトにとって日本人移民問題を解決する最善の方法は、ハワイ経由も含む日本からの移民そのものを抑制することであった。ただその方法は強制であってはならなかった。誇り高い日本人を差別的に扱うことは避ける必要があった。日本人の誇りを傷つけることがないよう、あくまで日本政府の自主的判断で日本人移民の数を減らさなければならなかった。ルーズベルト政権は、一九〇七年十一月から翌年二月まで交渉を続け、日本政府に移民の自主規制(日米紳士協定)を約束させている。 対日外交に丁寧(慎重)であったルーズベルト大統領は、日本の同盟国であるイギリスに配慮することを忘れなかった。カナダは大英連邦の主要国である。先述のバンクーバー反日暴動の調査に当たったマッケンジー・キングをホワイトハウスに招き(一九〇八年一月二十五日)、イギリスに対して、移民規制問題では日本にかなり強硬な態度で交渉していることを伝えた。日本人移民問題で同じような悩みを抱えるカナダを通じて、アメリカの考えをイギリス本国に伝えさせ、予め了解をとっておきたかったのである。 ルーズベルトは、バンクーバー暴動の詳細を知るマッケンジー・キングに対し、ロンドン行きを勧め、北米西海岸の日系人移民問題をイギリス政府に直接説明するよう要請した。この考えにローリエ・カナダ首相は理解を示し、マッケンジー・キングをイギリスに遣っている。一九〇八年春にイギリスに渡ったマッケンジー・キングはイギリス政府にカナダの考えとルーズベルト大統領の意向を伝えたのであった。彼は、そこから更にインド、中国、日本に足を延ばして移民問題の調査に当たっている。彼はこの経験を通じて、日本人を含む全てのアジア系移民に強い警戒感を持つことになった。 マッケンジー・キングは第二次世界大戦勃発前後の時代に長期にわたってカナダ首相を務める大物政治家となっている。彼は、日本人(他のアジア系も含む)は白人社会に同化不可能な人種であると決め付けた。日米開戦後は、アメリカの日系人強制収容政策に倣って、カナダ西海岸の日系移民を内陸部に強制移住させている。彼の日本人嫌いは一九〇七年九月のバンクーバー暴動に端を発していたのである。 バンクーバーには日本人街があった。しかし、強制収容を経験した日系移民のほとんどはそこには戻らなかった。筆舌に尽くしがたい苦痛を思い出したくなかったのである。二束三文で売り払わなければならなかった土地や店舗を見たくはなかった。かつて日本人街のあった場所に、もはや日本人は住んではいない。そこにある小さな公園で毎夏開かれる日系人のお祭り(パウエル祭)だけが、このあたりにかつて日本人街があったことをかすかに思い出させるだけである。 北米西海岸の諸都市で実施された日本人強制収容政策がいかなるものであったか。日系人が味わった苦しみはいかなるものであったか。それについては当時のジャーナリストであったカレイ・マックウィリアムスが詳細な記録を残し(一九四四年)、時のフランクリン・ルーズベルト政権を批判している(『日米開戦の人種的側面』拙訳、草思社)。一読を勧めたい。営々と努力を続けた日本人移民営々と努力を続けた日本人移民 多くの子供たちも強制収容所生活を強いられた。その中の一人がミネタ・ヨシオ(峯田良雄、ノーマン・ミネタ)である。父の国作は静岡県三島市の出身である(一九〇八年サンフランシスコ移住)。ヨシオがカリフォルニア州サンノゼに生まれたのは一九三一年のことである。ヨシオ少年はアメリカ生まれであるにもかかわらず、ロッキー山脈を越えたワイオミング州の荒野に作られたハートマウンテン収容所に送られた。戦後は、情報担当士官として韓国と日本で働いている。ノーマン・ヨシオ・ミネタ 民間人に戻ったミネタがサンノゼ市長に当選したのは一九七一年のことである。日系二世のミネタの活躍はアメリカ社会にあった日本人は白人社会に同化できない人種であるという偏見を見事に打ち破った。サンノゼ市はサンフランシスコ市の南にある大都市である。大都市の市長に日系人が選出されたのは彼が初めてであった。この四年後にはワシントン議会下院議員となった。 ミネタ氏の市長当選を心から喜んだ元下院議員がいる。ニューヨーク州選出の共和党議員であったハミルトン・フィッシュである。一九七一年四月十四日付のニューヨーク・タイムス紙はミネタ氏とその当選を喜ぶ妻の様子を伝えていた。フィッシュ元議員はその記事を読んだのである。 ハミルトン・フィッシュは日本人には全く知られていない。しかし、日本とは関係の深い人物である。真珠湾攻撃の翌日(一九四一年十二月八日月曜日)、フランクリン・ルーズベルト大統領は日本に対して宣戦布告を求める議会演説(恥辱の日演説)を行った。ルーズベルトの演説に続いて、下院議員としてそれを容認する演説を行ったのがハミルトン・フィッシュ議員である。フィッシュ議員の演説を全米二千五百万人がラヂオを通じて聞きいった。当時のアメリカ人口はおよそ一億三千万であった。 フィッシュ議員は大のルーズベルト嫌いであった。ヨーロッパの戦いに干渉したがるルーズベルトを警戒し、アメリカが参戦することに強く反対していた。彼は、アメリカ孤立主義運動の先頭に立つ有力議員であった。このころ、アメリカ世論の八割以上がヨーロッパやアジアの争いに巻き込まれることを拒否していた。 その世論の流れを一気に変えたのが真珠湾攻撃であった。アメリカ孤立主義運動は真珠湾攻撃によって粉々に破壊されてしまった。運動の指導者であったフィッシュ議員でさえ、対日宣戦布告を容認せざるを得なかったのである。彼は次のように演説した。(*1) 「国を守るためにはどんな犠牲を伴っても致し方ない。気の触れた悪魔のような日本を完膚なきまでに叩き潰すためには、どのような犠牲であれ大きすぎることはない」「戦いの時は来た。手を携え、堂々とアメリカ人らしく戦いを始めよう。そしてこの戦争は、たんにわが国に向けられた侵略に対する防衛の戦いというだけではない。世界に、自由と民主主義を確立するための戦いであることを知らしめよう。勝利するまで、わが国はこの戦いをやめることはない」 しかし、戦後になるとフィッシュ議員はこの演説を深く恥じることになる。ルーズベルト政権の対日交渉の詳細が次々と明らかになってきたからである。とくにフィッシュが問題にしたのは、ルーズベルトが、「ハルノート」の存在を議会に隠していたことであった。「アメリカが誠意を持って対日交渉を続けているさなかに、日本は卑怯にも真珠湾を攻撃した」。ルーズベルトはワシントン議会や国民にそう説明した。しかしそれは偽りであった。 「私たちは、日本が、和平交渉の真っ最中にわが国を攻撃したものだと思い込んでいた。一九四一年十一月二十六日の午後に日本の野村大使に国務省で最後通牒が手交された。それはハル国務長官が渡したものである。ワシントンの議員の誰一人としてそのことを知らなかった。民主党の議員も共和党の議員もそれを知らされていない」(*2) フィッシュ議員はルーズベルトに騙されたことに気づいたのである。彼は共和党員であり、ルーズベルトの前任のフーバー大統領(共和党)の抑制的な対日外交を知っていた。それだけに、ハルノートの内容が日本に対する最後通牒そのものであったことを直ぐに理解した。彼はハルノートは議会の承認を得ない対日最後通牒であると言い切っている。それは、議会だけに開戦権限を認める合衆国憲法の精神にも違背する外交文書であった。だからこそ、フィッシュ議員はハルノートの存在を隠したルーズベルトを軽蔑した。そして、その嘘に乗せられて対日宣戦布告を容認したことを強く恥じたのである。 戦後の研究で、日本の天皇も指導者も対米戦争を望んでいなかったことまでが明らかになると、フィッシュ議員の怒りは頂点に達している。あの戦いで命を落としたアメリカの若者の犠牲を悼むだけではなかった。命を失った日本人に対しても深い哀悼の念を表している。「日本人はあの戦争を最後まで勇敢に戦った。わが国と日本のあいだに二度と戦いがあってはならない。両国は、偉大な素晴らしい国家として、自由を守り抜き、互いの独立と主権を尊重し、未来に向かって歩んでいかねばならない。日本が攻撃されるようなことがあれば、わが国は日本を防衛する。それがわが国のコミットメントである。そのことを世界は肝に銘じておかねばならない」(*3) フィッシュ議員は、国民の意思を「対日戦争止むなし」にまでまとめ上げてしまったことを恥じ続けた。だからこそ、ミネタがサンノゼ市長に選出された報道に接し、それを心から喜んだのである。真珠湾攻撃をめぐるルーズベルト政権の「悪意」を許せなかったフィッシュ議員とルーズベルト大統領の確執については拙著『アメリカはいかにして日本を追い詰めたか〜「米国陸軍戦略研究所レポート」から読み解く日米開戦』(草思社、二〇一三年十一月二十一日発売)で詳述したので是非一読願いたい。 さて、民主党員のミネタはクリントン政権では商務長官を、さらに共和党のジョージ・ブッシュ政権になっても運輸長官を務めた。北米に住む日本人が白人社会に同化するまでには一世紀以上にわたる苦い歴史がある。ミネタ氏に代表されるような日本人(日系人)の努力によって、日本人は北米社会でも認められる存在になったのである。 人種問題はデリケートなものである。いまだに日本人は人種として危ない民族である、と考えたい勢力が存在する。アメリカの知識人の多くは上述のハルノートの存在を知っているが、国民のほとんどは知りはしない。いまだに真珠湾攻撃をだまし討ちだと信じている。フランクリン・ルーズベルトを偉大な大統領だと思い込んでいるものも多い。国家元首でもある大統領が国民を欺くことなどするはずがない。それがほとんどのアメリカ国民の感情なのである。日本人はずるい民族であると信じる、あるいは信じたい勢力は根強いのである。日本を貶める情報戦争日本を貶める情報戦争 日本人は野蛮でずるい民族であると訴えたいグループのひとつが反捕鯨団体であることはすでに述べた。もちろんそういったグループはこれだけではない。いわゆる「南京虐殺事件」を使って反日本人プロパガンダ工作を続けるグループも存在する。歴史書の体裁をしたプロパガンダ本「ザ・レイプオブ南京」はいまだに書店の棚に並んでいる。 著者のアイリス・チャンは北米各地で講演活動を繰り広げていた。わが町の有力大学でも講演していた(ブリティッシュ・コロンビア大学 二〇〇三年三月)。彼女は二〇〇四年十一月にピストル自殺を遂げている。しかし、南京で日本軍が三十万人を超える虐殺をしたと主張する政治グループは、彼女を殉教者として聖人化する活動を継続しているのである。 いわゆる「南京虐殺事件」についてのプロパガンダ情報戦争では日本は劣勢を強いられている。欧米の歴史家はもはや数十万規模の虐殺や大量の強姦事件があったと、疑いもしない。例えば、ニーアル・ファーガソン教授(ハーバード大学)は金融史経済史の分野では評価が高く、私も彼のこの分野の作品は文献として使用している。しかし戦争問題を扱った歴史書(「世界の戦争:憎しみの時代」(二〇〇六年)(*4))は噴飯ものである。彼はこの書で六ページ半を費やして「南京虐殺事件」を描写している。 「犠牲者の数は二十六万人と推定されている」(上掲書 p477) 「南京攻撃で忘れてはならないのは強姦である。(中略)八千人から二万人の女性が強姦されたと推定されている。アメリカ人宣教師のジェームス・マッカラム(James McCollum)は一晩で少なくとも千人の女性が強姦されたとしている」(上掲書 p477−8) ファーガソンは、この問題については歴史家としては失格である。彼はこうした数字について強い疑義が呈されていることに全く言及していない。おそらくこの事件について懐疑的な文献には一切目を通していないのではないかと思われる。彼の使用した文献リストには「ザ・レイプオブ南京」が臆面もなくあげられている。(上掲書 p663)この書は歴史家のプライドがあれば出典にあげることは躊躇う代物である。 さらにファーガソンは南京で実際に強姦したという日本兵Azuma Shiroなる人物を登場させている。「女性をレイプすることはお咎めなしだった」「強姦した女は刺し殺した。殺せばしゃべりはしない」(*上掲書 p479)。この証言者は東史郎のことだと思われる。本誌の読者であればすぐにぴんとくる人物である。ファーガソンは東が中帰連(中国帰還者連絡会)の幹部であったこと、つまり撫順戦犯管理所で教育を受けた人物であることには何の言及もせず、一介の兵士の発言として記述しているのである。 これが欧米の「一流」の歴史書の現実である。ファーガソン教授はタイム誌で「世界で最も影響力のある100人」(二〇〇四年)に選出されている。「慰安婦だった」と主張する女性の遺影の前でひざまづいて線香をあげるエド・ロイス米下院外交委員長=2014年1月31日(現地時間)、 米カリフォルニア州グレンデール市(中村将撮影)危うい「慰安婦像問題」 さてここで冒頭の「慰安婦像問題」に話を戻す。外国に暮らす多くの日本人にとって、とりわけ北米西海岸に暮らす日本人(日系人)にとって、ロサンゼルス市近郊の町グレンデールの公園内に「慰安婦像」なるものが設置されたことは不快の極みである。あの日本人強制収容の引き金になったのは、日本人は北米社会に同化できない劣等「人種」であるとする思想であった。 あのような異形な少女像をもってして、また再び日本人という人種そのものが獣のような性格である、などと誤解されたら、悪夢のような日本人排斥運動さえ再発するかもしれない。外国に暮らす日本人は、韓国の異常なロビー活動に不愉快な思いを抱き、強く憤っている。日本政府が毅然とした態度を見せないことにも苛立っている。 私の暮らすバンクーバーは同市周辺を含めるとおよそ二百三十万の人口を抱えている。そのうちの四万六千人(二・二%)が韓国系である。日系の三万人(一・四%)を大きく上回っている。いつグレンデール市の二の舞いにならないとも限らないのである。 この町に暮らす韓国系の人々は狂信的ではないと信じてはいるものの、万一に備えなければならない。グレンデール市のような動きが始まったら、私たちは直ぐに行動を起こさなければならないと考えている。私たちはメディアを含む白人社会に対してどのようなロジックを使って訴えたらよいのだろうか。そのことを予め考えておく必要がある。 実は、私はその訴えの作業はそれほど難しくはないと考えている。正しいロジックで白人社会に訴えれば、案外簡単に理解してもらえるのではないかと考えている。〝クロス〟に晒されない証言は無価値 実は私は従前から河野談話はかなりいい加減な証言を根拠にした、外交的配慮で実施されたものであろうと疑っていた。産経新聞が河野談話の基礎となるいわゆる「慰安婦」証言の実態をスクープ(二〇一三年十月十六日、本誌二〇一三年十二月号にほぼ全文が掲載されている)したことで、この考えに間違いないと確信するにいたった。私が確認したかったのは、「慰安婦」であったと証言する女性に対して「クロスcross examination(反対尋問)」がなされたか否かであった。 彼女たちの主張は、かつての日本が罪を犯したと訴えるものである。その主張は極めてシリアスである。したがって、日本に対する糾弾は法のルール(ロジック)に則るものでなくてはならない。そのルールは法廷の場だけの特殊なものではない。法廷外における論争にも適用される。韓国は、日本国民に対して謝罪と金銭を要求している。法の精神に則った適正な議論(due process)があって当然だ。 証言が証拠として価値を持ちうるには「反対尋問」に晒されなければならない。法理論の基本中の基本である。私は河野談話発表にいたる過程で、反対尋問あるいはそれに類似のプロセスは踏まれていないだろうと推察していたが、それが産経新聞のスクープで明らかにされたのである。私のいう「反対尋問」とは、彼女たちの人格を否定する作業ではない。証言に矛盾はないか、嘘がないか、伝聞証言ではないか。そうしたことを厳格にチェックするプロセスである。 この問題に挙証責任(burden of proof)があるのは韓国側である。日本にはない。したがって、韓国側が提出する証拠を吟味し、証言に対してはその証言者に「反対尋問」するだけでよい。こちらから「なかった証明」などしなくてよい。それをしたかったらすれば良いがその行為はあくまで外交的配慮であって、日本には挙証責任はない。それが大原則である。「売春婦」ではなく「性奴隷」であったと訴えたければ、挙証責任はあくまでそれを主張する女性の側にある。 日本は、あの時代に売春ビジネスがあったことは否定していない。ただ、あの詐話師吉田清治のファンタジー(軍命令による女性狩り、誘拐など)のような事件などありはしなかった。もちろん性奴隷など存在しない。「それを示す証拠も、信ずるに足る証言もない」。そう反論し、どっしり構えていればよいのである。アメリカでさえネバダ州の一部の地域では売春は依然合法である。当時、売春が合法であったということを理解することはそれほど難しいことではないのだ。 産経新聞の報道にあるように、自称「慰安婦」の聞き取り調査は「杜撰」であった。しかし北米社会では「杜撰」という言葉は意味をなさない。「杜撰」の本質を明示する必要がある。その本質は、前述のように「慰安婦証言はクロスがなされていない。したがって無価値である」ということなのである。北米はアメリカでもカナダでも陪審制度が根付いている。テレビでは裁判のドキュメント物が人気である。一般人でさえ、証言が「証拠価値のある証言」足りうるには「クロス(反対尋問)」のプロセスが必須であることを理解している。ハルノートの存在を知らない一般人でもこのことはよくわかっているのだ。 万一カナダで「慰安婦像」設置の動きがあれば、「『クロスのなされていない証言』を証拠として採用しろというのか」と反論すればよいのである。河野談話は日本国憲法違反河野談話は日本国憲法違反 アメリカやカナダでは上述のように反対尋問権がどれほど重要であるかについては一般人でさえ理解している。この権利が侵害されたら、いつ何時、罪を着せられてしまうか分かりはしないからである。仮に韓国の主張にシンパシーを感ずるカナダ人がいたとしても、「『クロスのなされていない証言』を証拠として採用しろというのか」という反論には怯むのである。 私自身も、アメリカでもカナダでも裁判を経験してきた。相手方弁護士からの尋問に晒された経験は何度もある。嫌味な質問をどれだけ浴びせられたかしれない。しかし私の証言が価値を持つためにはこのプロセスは不可避である。裁判官はクロスのない証言を証拠採用しない。英米型の裁判では民事でも刑事でも反対尋問を経ない証言は証拠力を持たないという原則が徹底しているのである。 河野談話はこのプロセスを無視した。先祖を含む、全ての日本人を侮辱するシリアスな糾弾に対して、最も重要な権利である反対尋問権を行使した日本人擁護の義務を怠ったのである。 反対尋問権は日本国憲法でもはっきりと重視されている権利である。日本国憲法第三十七条二項にそれが明記されている。 刑事被告人は、すべての証人に対して審問する機会を充分に与へられ、又、公費で自己のために強制的手続により証人を求める権利を有する。(傍点筆者) 日本政府は、糾弾されている日本人のために、「慰安婦」証言に対して反対尋問権を行使しなければならない。もし、韓国側がそれを拒否するのであれば、そのような証言は証拠能力を持たないときって捨てればよい。 左翼系の論者の中に、慰安婦証言を「生き証人」によるものだなどと主張するものがいる。これは「証人が生きている」という事実だけの意味しかない。彼らが北米で「生き証人」などという用語を使えば一笑に付されるであろう。証人が生きていようがいまいが、その証言が反対尋問のプロセスにさらされていなかったり、証人が反対尋問を拒否したりしていれば、その主張(証言)には何の信憑性(証拠価値)もないのである。 前述の日本国憲法第三十七条二項にもあるように反対尋問権は極めて重要な国民の権利である。ところが日本の司法では、反対尋問権を北米ほどには重視しない悪癖がある。反対尋問のプロセスを経ない証言が、時に、こじつけのような例外規定をもってして証拠採用されることがあるのだ。英米法の法プロセスの中で生活するものは、時折、日本の司法判断には、あれ、と思わされることがある。 日本政府が、河野談話発表前に、日本人の名誉を守るために反対尋問権を行使しなかったことは、私たちの視点からみたら、とても看過できるものではない。日本の有識者がこのことを問題にしないのは、日本の司法システムの特殊性に慣らされた結果ではないかと疑わざるを得ないのである。 韓国側は、この日本の特殊性を十分に利用した。当たり前の反対尋問権を行使しなかったのは日本政府の責任である。日韓だけのもめごとであれば、弱腰の日本政府の対応を憂えていればそれで足りる。しかし、韓国はそのロビー活動を北米に移してきた。戦いの場を北米にまで広げてきたのである。こちらでは日本のようにはいかない。彼らの主張は北米型の法の考え方に晒されるのである。河野談話は親韓政権の「置き土産」 それでは日本政府が河野談話を発表しているではないかという反論にはどう答えればよいだろうか。私は当時の政権が「親韓政権」であったからと答えるだけでよいと考えている。破棄をしない政権も「親韓政権」であると答えればよい。国家間外交では法の精神を踏みにじったり、脱法的な行動を政府が取ったりすることはよくあることだ。 先に、ハミルトン・フィッシュ議員のルーズベルト嫌いに触れたが、フィッシュがルーズベルトを嫌ったのはそうした行為が目に余ったからである。アメリカがまだ中立の立場であった時期にも、ルーズベルトはアメリカ海軍にイギリス海軍との共同作戦を命じ、実質的な対ドイツ戦争を始めていた。米海軍駆逐艦グリア号が英国軍機と連係してドイツUボート(U652)を追い詰めた事件(一九四一年九月四日)がその典型だった。しかし行政府が法の精神をろにすれば、後に厳しく非難されるのである。 「将来において、日本政府が親韓政策を変更するときには、河野談話は破棄されるでしょう」と答えておけばよいのだ。英米法の世界において、河野談話が存在するからといって、「クロスのない慰安婦証言」が証拠価値を持つことなどあり得ない。 報道によると、アメリカ政府は、日本政府の河野談話見直しに難色を示しているそうだ。この真偽は不明であるが、そんなことをアメリカから言われたとしても、私たちは「アメリカはクロスのなされていない証言に証拠価値を認めろというのですか」と反論すればよいだけである。河野談話のもとになったいわゆる「慰安婦」証言聞き取りの模様が非公開であることも大いに問題である。彼女たちの証言の模様が公開されていないことは、その価値を二重に減殺させる。これほど重大な日本人に対する糾弾の証言がビデオ録画されていないはずがない。それが非公開であれば、なおさらその証言に証拠価値などありはしない。 証言がビデオ録画されることは北米の法システムでは常識である。警察の尋問の様子ももちろん録画されている。裁判官も陪審員もその模様をビデオによって確認できる。わたしはふと心配になるのだが、慰安婦問題を聞く北米の人々は、当然のように自称「慰安婦」に対する聞き取り調査(反対尋問)はビデオ録画され、そしてそれは公開されていると思っているはずだ。その上で河野談話がなされていると思い込んでいる可能性が高いのである。 アメリカは現在進行中のTPP交渉の中で、アメリカ型法規範をTPPの仲裁調停の枠組みの根幹に据えようとしている。日本の法システムに対しても証拠開示請求制度の導入を目論んでいる。この制度も反対尋問権が存在しなければ無意味な制度である。そんな中で、アメリカ型法システムの重要概念である反対尋問権を蔑ろにしてもいいから、河野談話を継承しろなどとは言えはしまい。聞き取り調査のビデオが公開もされていない証言を信じるべきであるなどと強要できるはずもない。私はアメリカ政府がそのような圧力をかけることはないと推察する。アメリカはむしろ「クロスもない証言、ビデオ公開されてもいない証言をもとに日本政府は謝罪したのか」と驚き呆れるのではないか。 日本の政治家には「慰安婦問題」について、学術的な研究が不十分である、などと緊張感の感じられない呑気な発言をするものもいるようだ。「慰安婦証言」にはなんの証拠能力もないとはっきり主張してくれる政治家の出現を期待したい。もちろん彼女たちはその証言に証拠能力を持たせることはできる。堂々と「反対尋問」に答えればよい。そしてその模様をすべての国民に見せればよい。そこで初めて、彼女たちの証言が証拠の一つとして採用される可能性がでてくるのである。 かりにこちらの法システムのもとで北米の敏腕弁護士が彼女たちを尋問したら容赦のない質問が浴びせられるだろう。彼らは、「筆舌につくし難い苦痛を味わったことを理解するが」などという枕詞などは使わない。矛盾があれば徹底的に説明を求めてくる。「筆舌につくし難い侮辱」を受けているのは北米に暮らす日本人なのである。 日本に住んでいる限り日本人はマジョリティーである。どれだけ無茶な糾弾を受けてもマジョリティーである現実は変わらない。のんびりとした発言も許されよう。しかし、北米に暮らす日本人はマイノリティーである。韓国系移民の数の方が多いのである。うかうかしてはいられないのだ。「日本人は民族として卑しい」というメッセージを発するロビー活動には断固とした態度で反撃しなくてはならない。あの悪夢のような日本人排斥運動にもつながりかねない悪辣な韓国のロビー活動をけっして許してはならない。*1:Hamilton Fish, FDR: The Other Side of The Coin, Institute of Historical Review, 1976, pp144-145*2:同右、p143*3:同右、p140*4:Niall Ferguson, The War of The World: Historyʼs Age of Hatred, Allen Lane Penguin Group, 2006わたなべ・そうき 昭和29(1954)年、静岡県下田市出身。東京大学経済学部卒業。専売公社(現JT)勤務を経て、カナダに移住し、貿易会社を経営。現在は、近現代における日米関係の深層を新たな視点から探るべく、米側資料を広く狩猟している。著書に『日本開国』『日米衝突の根源1858―1908』『TPP知財戦争の始まり』(いずれも草思社)。『日米衝突の萌芽1898―1918』(同)で2013年山本七平賞奨励賞受賞。

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    戦後の対韓協力と韓国の仕打ち 恩に仇する〝何が何でも日本隠し〟

    という関係では、被害妄想のように顕著に現れる。これら韓国人の歴史、民族性を踏まえたうえで、特に戦後の日韓関係を眺めると、日本人の対韓認識が、どれほど誤っていたか、はっきりする。発展には日本教育世代が活躍発展には日本教育世代が活躍 昭和40(1965)年、日韓基本条約が、締結される。今年は、その五十周年に当たるが、日本は、僅か18億㌦しかなかった外貨準備のなかから、有償無償あわせて五億㌦を、韓国に提供した。この資金が、韓国の高度成長の基礎を築いたのである。逆説めくが、韓国の発展は、すべて日本のおかげだということを、日本人も、常日頃から、言いたてないと、日韓関係は好転しない。日本窒素水豊発電所の巨大な吸出管(『日本窒素事業概要』昭和15) 当時の朴(パク)正熙(チョンヒ)大統領は、国民の反日傾向のなかで、日本との修好を進めたわけだが、これは、韓国動乱(朝鮮戦争)の戦火さめやらぬ時代だったため、北朝鮮との間で、復興の遅れから、溝を開けられていることを、計算に入れたからである。第5~9代韓国大統領朴正煕 この日本からの資金が、京釜(キョンブ)高速(コーソク)道路(トーロ)をはじめ、韓国の高度成長の基礎となるインフラにまわされた。つまり、日本のおかげなのである。日本人は、こういう事実を、絶えず韓国に対して言いつづけないと、日韓関係の好転は望めない。 以後、日本人は、熱心に韓国へ関わって行く。そこに、“元日本人”への共感と、一種の贖罪感が作用したから、あらゆる面で、心から韓国の復興、繁栄を願って、惜しまず協力したのである。先進国の仲間入りした韓国の現代の繁栄は、日本人の協力によってもたらされたものと、はっきり断言できる。しかも、日本人が、恩着せがましくしない点に、今日の問題の全ての淵源がある。 現在、日韓のあいだには、多くの問題があるが、その多くは、日本人が、こうした事実を、いちいち韓国人に確認しなかったことから発生したのである。日本人は、恩着せがましくされることを嫌うし、相手にも恩着せがましくすることはない。だが、韓国人相手には、言外の言、理外の理は、通じない。 寅さんの決め台詞だが、日本人は「それを言っちゃあ、おしめえよ」と、言うべきことも言わずに、相手が察するのを待つのが、ふつうである。確かに、日本人同士では美徳だが、韓国人相手では、これは逆効果しか生まない。 韓国の建国に当たっては、日本で教育を受けた人々が、大きな役割を担った。朝鮮戦争における活躍によって、韓国では救国の英雄とされる白(ペク)善燁(ソニョプ)将軍は、日本での軍事教育を受けている。韓国で栽培される野菜、果物など、ほとんどの品種は、多くの日本人の善意に支えられ、東大に学んだ種苗学者の禹(ウ)長春(チャンチュン)博士が、日本からもたらしたものである。実際、禹博士は、常日頃日本人への感謝を口にしていたそうである。禹長春博士 しかし、こうした日本世代の日本に感謝する気持ちは、現代の韓国では受け継がれていない。林檎のフジという品種は、日本から導入されたものだが、富士と言う漢字を韓国音で読み換えて、プサという名で知られている。一般の韓国人は、プサという林檎が、日本からもたらされたものだという事実を知らない。 条約の締結の以前から、日韓の協力の動きは、すでに始まっていた。先年、94歳の天寿を全うされた全仲(チョンジュン)潤(ニュン)氏は、韓国屈指のインスタントラーメン会社である三養(サミャン)食品(シクプム)の創立者として、よく知られる。全氏は、朝鮮戦争の惨禍から回復できず、食糧難に苦しんだ1960年代の初め、日本で口にしたインスタントラーメンの味を忘れられず、日本の明星食品の奥井清澄社長を頼った。奥井社長は、国民を食糧難から救いたいという、全氏の志を受け入れて、ラーメンの製法を、無償で提供し、技術指導に当たった。全仲潤・三養食品前会長発売当時の三養ラーメン 当時、多くの日本人が、元日(・・)本人(・・)である朝鮮半島の人々に、同胞意識を抱いていたからである。朝鮮半島の人々も、“元日本人”として、本土の日本人に親近感を持っていたからでもある。実際、全会長は、生涯、奥井氏を含めた日本人への感謝を、口にしていたそうである。 日韓条約によって、日本を知る人々、日本から戻った人々が、日韓の窓口、橋渡しの役割を務め、日本からの技術協力・移転が、さらに加速されていった。早くからあった〝日本隠し〟早くからあった〝日本隠し〟       しかし、日本の協力、努力、誠意が、いっこうに韓国人の感謝の対象とならない、いわゆる〝日本隠し〟の事実は、早くから顕在化した。 1974(昭和49)年、ソウルの地下鉄の一号線が、日本の協力によって竣工した。ソウル駅から、東のターミナル清涼里(チョンニャンニ)駅へのルートである。東京で言えば、東京駅と新宿駅を結ぶような幹線に当たる。建設費用のほとんどが、日本からの借款で賄われたばかりか、日立製の最新型の車両60両が、提供された。 しかし、その竣工式では、日本の協力があった事実は、すべて伏せられていた。立ち会った日本人関係者は、臍(ほぞ)を噛む思いだったという。 こうした韓国人の〝日本隠し〟の性癖は、まだ、日本人のあいだでは、広く知られることもなく、日韓の技術提携、技術協力は、加速されていった。日韓の経済協力に関わった松本氏が作成された上記表を見ていただければ、すぐ判る経緯なのだが、昭和60年の時点で、今日の韓国が得意とする技術分野における日本からの技術移転は、広範な規模でほぼ完了しているのである。豊田有恒著『いい加減にしろ韓国』より これらの技術に関して、私が眼で見たケースだけ眺めても、韓国経済がテークオフするに当たって、日本からの協力が不可欠だったどころか、商売の域を越えた日本人の献身的な努力に支えられたことが判る。自動車は日本が全面協力 私事ながら、車とバイクが趣味なので、自然な成り行きで、この趣味は、韓国へも向かって行った。70年代、ソウルの太平路(テピョンノ)の世宗(セジョン)会館(フェグァン)の向かいに、現代(ヒョンデ)自動車(チャドンチャ)のショールームがあり、なんどか通った。現代ポニーは、最初の量産車だった。貧しかった韓国では、外貨節約のため。せめてタクシー需要だけでも、国産でまかないたいという当時の朴大統領の命令で、いわば国策として進められたプロジェクトであり、日本の三菱自動車が、エンジンの提供などをふくめて、おおいに協力した。 昭和53年「韓国の挑戦」を上梓した際、韓国の自動車産業の発展のポテンシャルに言及したが、当時、韓国が自動車生産国になると予見した日本人は、口はばったいようだが、私以外にはいなかった。 当時、拙著を読まれた業界の関係者と思われる方から、丁重な手紙を頂戴した。その方は、専門家らしく、多くの論拠をあげて、韓国の自動車産業が発展する可能性は皆無だと断定しておられた。 現代ポニーは、三菱からランサーのシャシー、サターン・エンジンなどを提供されたが、デザインは、イタリアのスーパーカーで有名なジョルジエット・ジウジアーロに委託した。私も、ハンドルを握らせてもらったことがある。タクシー需要を見こんだため、サスペンションは固く、乗り心地が良くなく、造りも雑だったが、流麗なファストバックのボディは、いかにも魅力的で、商品性があると思えた。三菱自動車の全面協力で誕生した初代現代ポニー このポニーの成功が、韓国の自動車生産の基礎となる。エンジン、シャシーの技術は、日本に仰いだが、デザインには金を惜しまず、それが成功につながった。日本車と酷似したデザインを臆面もなく採用する今日と比べると、当時の韓国には、それなりのプライドがあった。 自動車業界の日韓提携の動きは、この現代だけに留まらない。起亜((キア)自動車は、日本時代からの部品メーカーで、老舗の少ない韓国では例外的な存在だが、マツダと提携して早くからオート三輪の生産を行なっていて、マツダ・ファミリアをプリサの商品名で生産するようになり、自動車業界の一翼を担うことになった。ただ、乗用車としては、現代ポニーに及ばなかったため、ワンボックスワゴンに特化して、マツダ・ボンゴのライセンス生産に力を入れた。 私も、日本のテレビ局のコメンテーターとして、なんども韓国での取材に参加したが、ロケバスは、ボンゴばかりだった。ちなみに、韓国では、今も、ワンボックスワゴンのことを、ボンゴと呼ぶほど、普通名詞化しているのである。韓国でワンボックス車の代名詞にもなったマツダ初代ボンゴ 現代、起亜という老舗ばかりでなく、韓国の自動車産業には、多くの日本メーカーが関わっている。日産も早くから、現地メーカー新進(シンジン)と提携していたが、これにトヨタが加わったため提携を解消している。代わったトヨタも、コロナなど現地生産したものの、やがて手を引いた。 部品の国産化比率を引き上げられ、達成不可能だとしたせいだとするが、巷説では当時のKCIAの実力者李(イ)厚洛(フラク)氏が関わっていたため、あまりにも露骨に賄賂を要求され、嫌気がさしたとも言われている。 やがて新進自動車は、大宇(テーウ)グループの傘下に入り、再編されることになる。グローバル戦略からGM系列に加わったため、日本からスズキも提携することになり、スズキ・アルトを生産している。 アメリカ大使館の裏手の大林(テーリム)産業(サノプ)のショールームにも、なんどか足を運んだ。ここでは、日本のホンダと提携してバイクを生産していた。70~80年代には、韓国のモータリゼーションも未だしの感があり、バイクは趣味的なものではなく、大きな荷台を取り付けて輸送用にも使われていたが、日本のバイクは、こうした過酷な使用法にも、じゅうぶん応えられたのである。 見栄っ張りな韓国人の国民性からか、カラフルなカウルをつけた荷物用バイクが街中を走り回っていた。これには違和感をおぼえた。フロントカウルは、空気抵抗を減らすためだろうから、街中を低速で走る荷物用バイクには、必要あるまい。感謝はなく、技術まで盗む感謝はなく、技術まで盗む 今から30年ほど前、新日鉄に勤める知人T氏に頼まれ、同社の独身寮で講演した。韓国人の国民性、文化、歴史など、入門的に話し、好評だったが、帰り際に、T氏は、思いがけないことを口にした。なんと、こう言ったのである。 「講演、たいへん面白かったのですが、うちの会社には、韓国が好きだという人間は、ひとりもいませんからな」 そのときは唖然としたものである。訊いてみると、浦項(セハン)製鉄所(現POSCO)に、同社はじめ日本の各社が技術援助し、当時最新鋭の君津製鉄所とほぼ同じレイアウトの工場を完成させ、操業に漕ぎつけたものの、相手からはなんの感謝もなく、その後は、新日鉄のシェアを奪うばかりで、多くの新日鉄社員が、肚に据えかねる思いなのだという。新日鉄など日本側の全面支援で計画された浦項製鉄所現POSCO)の完成模型浦項製鉄所は昭和45年から建設が始まった 日本人なら、双方ともに感謝を口にし、和を保つところだが、韓国人は、得意の〝日本隠し〟に走り、まったく日本の援助がなかったかのように振る舞ってしまう。 一時期、家族ぐるみでつきあった国際人のT氏は、海外勤務も長く、スイス人の奥さんを持ち、偏狭なナショナリストではない。この方が、そこまで言われるのだから、技術移転に当たり、相当なトラブルがあったのだろうなと、鉄鋼業界には素人ながら、妙に納得した記憶がある。 その後、推理作家協会の訪韓団で、POSCOを訪れる機会ができた。迎賓館のような豪華なゲストハウスに泊めてもらい、工場も見学したのだが、すべて自社開発したかのような説明に終始し、日本側の協力に関しては、一言も言及されなかった。その際、あのときT氏が口にした言葉が、真実だと、実感した。 こうした際、日本人なら提携相手先の協力に感謝するだろう。そのほうが、単に相手を立てるばかりでなく、より自分を立派に見せることにつながるのだが、韓国人は、そういう大人の態度が取れないのである。 その後、新日鉄と、POSCOのあいだで、係争が発生する。新日鉄を辞めた技術者が、方向性電磁鋼板という最新技術を、POSCO側に売ったというのだが、この件では、アメリカも絡んで、複雑な展開に至っている。現・新日鉄住金は、POSCOの大株主でもあるわけで、告訴に至ったのは、よほど肚に据えかねる事情があったからなのだろう。 総じて、韓国の企業は、自意識過剰と言うか、自社製品を誇大に言いたてるきらいがあるが、日本の技術がからんでいるとなると、なんとかして隠そうとする。他の多くの分野でも知られる〝日本隠し〟という性向のためだが、事実を枉(ま)げても、あたかも全てを、自社開発したように、捏造するから問題なのである。排斥してもケロリ顔で輸入再開排斥してもケロリ顔で輸入再開 私と関わりのある例を、もう一つ挙げてみよう。韓国のアニメである。かつて日本国内の人件費高騰から、日本アニメ界は、韓国に進出した。 私の知り合いでも、技術指導に行ったアニメーターは少なくない。例えば「コンバトラーV」というアニメは、韓国で製作されたものである。韓国は、日本の善意と協力によって、アニメ技術をマスターした。しかし、そのうち、例の悪い癖も出てくる。私がSF設定を担当した「宇宙戦艦ヤマト」そっくりのシリーズが登場した。「銀河(ウナ)艦隊(ハムデ)地球号(チグーホ)」という。これには、あきれた。「宇宙戦艦ヤマト」そっくりな「銀河艦隊地球号」 70~80年代から続く傾向なのだが、韓国は、対日貿易赤字を抱えている。ライセンス料、精密加工機器、中間原材料など多くを日本に負っているからで、それだけ、日本が韓国の発展に協力した証でもある。 ところが、奇妙で歪んだ歴史観からか、韓国では、対日赤字が許せないものに思えてきた。当時、貿易(モヨク)帝国(チェグク)主義(チュウィ)という穢(きたな)い言葉が、日本に向けて、投げつけられたものである。つまり、日本が、技術、原材料などを餌に、韓国を隷属させようとしているというのである。 しかし、韓国経済が日本に依存したのは、かれらが選択した事実であり、ことさら無視しようとするから、そこに無理が生じる。 三菱自動車のサターン・エンジンのように、ただ同然のライセンス料で、提供された技術に関しては、旧式な技術を韓国に輸出し、有利な立場に立とうとしているという言いがかりのような非難もあった。もし、ライセンス料が高額だったら、それはそれで、日本に搾取されているというような非難が、一斉に沸き起こったことだろう。 こうした際、主義主張が先立ち、冷静に事実が見えなくなるのは、韓国人の悪い癖である。日本から恩恵を受けたくないという願望からか、盧(ノ)泰愚(テウ)政権のころだったと思うが、輸入先多角化法案が成立した。つまり、日本から輸入されている部品、中間原材料などを、なるべく別な国からのものにシフトするというもので、助成金も設けられた。全斗煥元大統領(右)とともに1996年、粛軍クーデターや民主化運動弾圧の罪で控訴審判決を受ける盧泰愚元大統領 法令に基づいて、これまで日本から輸入していた部品などを、まったく取引のなかった欧米メーカーから輸入してみたものの、規格が合わないケースが続出したばかりか、法外な技術料を請求される事態も起こった。韓国のほとんどの産業は、親韓的でお人よしの日本という国からの、善意あふれる協力で、これまで発展してきた。いきなり欧米からの部品に切り替えようとしても、すぐさま応用がきくわけではない。 規格が合わない部品によって、工場の操業が停止に追い込まれた例もある。また、これまで通り、日本製の部品を輸出したため、日本のメーカーの社員が、ソウルへ到着するなり逮捕される事件も起こった。日韓双方に、混乱を招いただけで、韓国経済にとって、なんの利益も生まない空しい結果に終わる。 輸入先多角化法案は、まもなく骨抜きになり、日本からの輸入に頼ることに戻ってしまった。こうした際、あれほど、日本を排斥したのが、まるで嘘だったかのように、けろりとした顔で、取引の再開を求めてきたので、あきれたという日本側担当者の感想を、耳にした。つけ込んで生き延びる歴史つけ込んで生き延びる歴史 繰り返すが、このケースのように、韓国人は、主義主張が先走り、現実が見えなくなることが少なくない。意見が対立した際、日本や欧米のように、それぞれ論拠を挙げて、最善の方法を選択することが、きわめて苦手である。自分と異なる意見にでくわすと、自分の主張を押し付け、なんとしても相手を黙らせようとする。議論が成り立たない社会なのである。大声を上げ、相手を罵(ののし)り、力ずくで意見を圧殺するのが、ポピュラーな展開である。それが通じないときは、話題をすり替える。 たとえば、竹島の不法占拠でも、竹島領有の根拠を、日本側が示そうとすると、まず怒って怒鳴りちらす。しかも、日本が、もともと朝鮮王朝のものだった竹島を、日韓併合の布石として、軍事力を背景に奪い取ったのだと、頑強に主張する。 確かに、竹島を国際法上の無主地(むしゅち)として、日本が領有宣言をしたのは、明治三十八年、日韓併合に先立つこと五年である。しかし、竹島領有と日韓併合は、なんの関係もない。あの帝国主義の時代である。併合の布石として本気で奪うつもりなら、竹島では、岩山ばかりで利用価値がないから、鬱陵島(ウルルンド)か済州島(チェジュド)のほうが、軍事的に利用価値がある。 韓国側は、もともと韓国領だった獨島(トクト)(竹島)を、日本が奪ったという虚構から、出発するのだから、まったく議論にならない。それが通じないと見てとると、今度は、日本が竹島領有を主張するのは、日本で軍国主義が復活したからだと、言い返してくる。軍国主義の話をしているわけではなく、竹島領有の根拠について、議論しているつもりだが、これが韓国人相手では通じないのだ。 過酷な歴史の後遺症で、韓国人は、自国に不都合なことは、忘れようと努力する。特に、異民族から、なんらかの恩恵を受けた際には、かならず過大な対価を課せられたから、なんとしても認めないのである。認めないうちに、自分に納得させるためか、恩恵を受けても受けなかったことにしてしまう。事実と異なっても、そう考えるほうが、精神衛生上も、好ましい効果を上げる。特に日本の朝鮮統治は、実際には近代化の引き金ともなったが、それを認めると、プライドが傷つくと見えて、断固として認めない方針を貫こうとし、算盤勘定ができなくなる。 日本人としては、これまで、全て逆の対応をしてきたのである。韓国人の気持ちを忖度(そんたく)して、配慮を示すことが、日韓友好に寄与すると、錯覚したのである。だが、ここが、ボタンの掛け違いのはじまりである。 こちらの好意は、疚(やま)しさ、弱さとしか、受け取られない。強大な異民族の征服者と伍していくためには、相手の好意、譲歩などに、つけ込むしかなかった歴史である。好意、善意を示せば示すほど、言葉は悪いが付け上がる民族性なのである。 島根県が、竹島の日を制定したとき、民主党政権は、韓国を刺激することを恐れ、政府高官の派遣を手控えた。ところが、韓国からは、マスコミをはじめ、大勢が松江に押し掛け、路上で暴れまわるなど、乱暴狼藉を働く始末だった。つまり、こちらが、疚しいことがあるから、譲歩したと見てとり、かさにかかった態度に出たわけだ。「はず」「べき」民族 韓国人は、はずべき民族である。ヘイトスピーチを始めたのではない。韓国は、“はず”と“べき”の社会ということだ。われわれは、優れている“はず”だ。日本などに、してやられる“はず”がない。竹島は、われわれのものである“べき”だ。われわれの婦女子は、日本軍など相手に、売春などす“べき”でないし、した“はず”がない。われわれの会社は、日本から技術援助されたりす“べき”でないし、された“はず”がない。そう言っているうちに、事実と“はず”、“べき”が、しだいに混同してくる。 その結果、竹島は、韓国のものになり、日本の技術提供はなかったことに、されてしまうのだ。 ここは、日本人も、声を大に叫ばないといけない。庶民は文盲が多く、王朝は人民そっちのけで権力闘争に明け暮れ、中国への事大主義にしがみついた。その朝鮮に、鉄道、工場、学校、炭鉱、発電所など、多くの社会基盤を整備したのは、まぎれもなく日本である事実を再認識してもらおう。当時、日本と韓国は併合していたのである。自国民を強制的に、軍隊相手の売春婦に仕立てたり、勝手に、殺したりすることは、許されなかった事実も、はっきり伝えよう。訪韓した中国の習近平国家主席を握手しながら見上げる朴槿恵大統領 戦前のことだけではない。今日、韓国が先進国並みになれたのは、自国の努力があるにしても、総じて誰のおかげかを、データを挙げて、懇切丁寧に説明しようではないか。歴史認識が、必要なのは、どっちの国かも、改めて示してやらないと、理解できないらしい。インスタントラーメンから、鉄鋼にいたるまで、すべて日本人が技術を提供したのだ。こうした事実を改めて示そう。 ここまでやらないと、眼を覚ましてくれそうにない民族であることも、厳然たる事実なのである。もし、将来、日韓友好がもたらされるとすれば、日本側が有無を言わせず強硬に振舞った後のことだろう。とよた・ありつね 昭和13年前橋市生まれ。父の医院を継ごうと医者をめざし、合格した東大を嫌い慶應大に入るも、目標が変わり武蔵大に入学。第一回日本SFコンテストなどに相次いで入賞して在学中の37年作家・シナリオライターとしてデビュー。手塚治虫のもとで「鉄腕アトム」のシナリオを二十数本担当。「スーパージェッタ―」「宇宙少年ソラン」の脚本も手掛ける。『倭王の末裔 小説・騎馬民族征服説』が46年にベストセラーとなる。47年東アジアの古代史を考える会創設に幹事として参画。五十年「宇宙戦艦ヤマト」の企画原案、SF設定を担当。SF作家クラブ会長、島根県立大学教授などを歴任。63年オートバイ日本一周を達成。近著に『日本の原発技術が世界を変える』『どの面下げての韓国人』(ともに祥伝社新書)など。  

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    実際はこうだった!併合前後の朝鮮殖産振興

    別冊正論23号「総復習『日韓併合』」より杉本幹夫(近現代史・植民地研究家)第一節 土地調査事業 日本の朝鮮統治で最も非難されるのは、「土地の収奪」である。1995年発行の韓国国定高校歴史教科書には、「土地調査事業により、不法に奪い取られた土地は、全国農地の40%に達した」とある。 日本が朝鮮を統治して驚いたのは、行政の乱雑さであった。基本である土地の所有者、面積、使用状況が、はっきりしていないのである。飢饉で租税が納められない耕作者が逃亡し、その跡地を無断で開墾し売買したり、いつの間にか管理人が実質上の所有者になっていたり、権利関係が極めて不明確になっていた。そこで始められたのが、土地調査事業であった。土地調査事業で実際に行われた測量作業の様子(朝鮮総督府臨時土地調査局『朝鮮土地調査事業報告書追録』大正8) 韓国併合翌年の明治44(1911)年から大正7年まで約8年かかった。この調査は韓国政府でも1895年(明治28年)に量田調査として始められたが、政変により中断されていたものである。 この調査で最大の問題点は、駅屯土と総称される、元々は公共用地・宮室用地であったが、実質上民間の所有となっていた土地約12万町歩(1町歩=約9900平方㍍)の所有権をどうするかであった。この裁定に当たり、総督府は数百年にわたり故事来歴を調べ、それまでの韓国政府の主張を認め、多くの土地で民の所有権を否定した。 その他、定められた期間に申告しなかったり、所有権を証明する書類がなかったりで、接収された土地が2万7000町歩あり、合計14万7000町歩の耕地が接収された。当時の全耕地面積は約450万町歩で、約3%強である。作業から戻った担当者らは測量結果を詳しく記録し地図も作成した これに正当な売買による取得地を加えた、大正11(1922)年末の日本人農業者所有土地面積は、一般地主17万5000町歩、東洋拓殖8万町歩、合計25万5000町歩で全耕作面積の6%弱に過ぎない。 それでは韓国歴史教科書が主張する、40%と言う数値はどこから出てきたのであろうか。全錫淡他著・梶村秀樹他訳『朝鮮近代社会経済史』によると、「駅屯土として国有地に編入された耕地は13万4000町歩で、全耕地の5%に当たる」としている。 5%と言う数値から、この時の全耕地面積は270万町歩としていることが分かる。未墾地と認定された90万町歩を含めると接収面積は100万町歩を超え、韓国教科書の言う40%以上と合致する。 即ち耕地面積約270万町歩と考え土地調査したところ、全耕地面積は420万町歩以上あり、その他に未墾地が90万町歩あったのである。この未墾地は持ち主不明ということで、接収されたのである。しかし、この未墾地はあくまで未墾地であり、その後の統計でも耕地面積に含まれていない。土地調査の測量地をもとに作成された図面(同)李朝時代からのおおざっぱな土地区分図は誤差が大き過ぎる(同) この持ち主不明の土地の接収は裁判によるものであるが、この結果接収した土地を日本人に払い下げ、30万人以上の朝鮮農民に不満を残した事は、寺内正毅総督の失敗だと言わざるを得ない。土地の所有権を国に移管しても、小作権を残す方法もあったように思う。寺内正毅総督 平成8年文部省認定、清水書院発行の中学校歴史教科書には「国と少数の地主しか土地の所有権を認めなかった」と書いてあるが、土地調査完了時、土地の所有を認められたのは187万人もおり、明らかに間違いである。第二節 斎藤総督の文化政治 二・二六事件で凶弾に倒れた斎藤実総督は大正8年8月から昭和6年6月まで、途中、宇垣一成臨時代理(後の第六代総統)、2年弱の山梨半造第四代総督を挟んで、第三代と第五代の総督として延べ十年も朝鮮に君臨した。日本の朝鮮統治が36年であるからその3分の1近くが斎藤時代であった。彼の統治は、寺内・長谷川好道の武断政治に対し、文化政治と言われ朝鮮統治の基礎を築いたのである。斎藤実総督 彼が朝鮮総督に任じられたのは、大正8(1919)年3月1日に発生した、三・一独立運動により、長谷川総督が辞任したことによる。アメリカ大統領の民族自決主義に勢いづいた朝鮮学生は、キリスト教、天道教の反日勢力と結び、前国王・高宗の国葬を機会に暴動を起こした。それから一年、全朝鮮を揺るがす大騒乱事件に発展した。この事件に頭を悩ませた原内閣は、海軍大臣を辞任後、5年も隠退生活を送っていた齋藤實を引っ張り出したのである。李太王(高宗)国葬の葬列(『李王家紀念写真帖』大正8) 彼が統治に当たり立てた五大政策は―一、治安の維持、二、地方制度の整備三、教育の普及及び改善四、産業の開発五、交通・衛生の整備―であった。 治安の回復の第一歩として憲兵警察を止め、一般警察に移行した。朝鮮人警官のみにあった巡査補の階級を廃止し、巡査に統一、日本人と朝鮮人の格差を無くした。 また、朝鮮人官吏と日本人官吏の基本給の差を無くした。但し内地人は基本給の五割とか六割に及ぶ在勤加俸があったが、内地に帰ればその加俸分は無くなるのである。公立普通学校長にも大正8年、初めて朝鮮人を登用したが、その人数も次第に増やした。地方の課長クラスや裁判所の判・検事にも朝鮮人を登用し、内地人や外国人の事件にも、参画させるようにした。 地方行政では、地方議会に当たる道評議会、府(内地の市に相当)・面(内地の村に相当)協議会等の制度を作り、民意の吸収を図った。彼の功績は色々あるが、一番は教育の普及・改善であろう。二度の制度改正により、内地の小学校・中学校等の制度と同じにした。 特筆されるのは京城帝国大学の設置である。これについては、後ほど述べる。慶尚北道評議会の様子(朝鮮総督府『写真帖朝鮮』大正10)第三節 朝鮮農業の実態 日本外交が朝鮮に進出すると、後を追うように日本人商人が進出した。彼らは上海・長崎で仕入れた綿織物を輸出し、米の輸入を考えた。そこで知ったのは、灌漑設備の不良による広大な荒れ地である。そのことを知った細川侯爵家や後に不二興業を設立した藤井貫太郎等は農地の買収と共に、大蔵省主計局長等を経て第一次日韓協約(明治37年)により韓国財政顧問となった目賀田種太郎に働きかけ、水利組合の制度を作らせた。この水利組合に低利の金を融資させ、灌漑設備の整備を図ったのである。京畿道振威郡青北面で干拓によって生まれた広大な農場(同) 大正七年、富山の米騒動に端を発した全国的な「米よこせ運動」により、内外地一体となった米の増産計画が立てられた。朝鮮でも大正9年、水利事業を中心に品種改良、耕作法の改善により、920万石の増産計画が立てられたが、第一次世界大戦後のインフレで、14(1925)年までの6年間で予定の半分しか実績を上げられなかった。 この第三代斎藤実総督時代に、総督に次ぐ政務総監として登場したのが下岡忠治であった。学友の大蔵大臣浜口雄幸や元大蔵大臣井上準之助を動かし、国庫補助金、大蔵省預金部からの低利資金等を引き出すことに成功した。下岡忠治政務総監 朝鮮の西海岸は干潟が重なり、海岸線が入り組んでいるので、比較的少額の費用で干拓が大いに進んだ。ところが昭和初期の大不況により破綻する事業組合が続出し、この計画は中断に追い込まれた。 しかしこの一連の対策により、耕地面積は土地調査終了時の耕地面積450万町歩が昭和11年には494万町歩に増え、灌漑比率面積が、水田面積の20%しかなかったものが、70%まで増えた。 昭和6(1931)年、宇垣一成が第六代朝鮮総督に就任した頃は、世界的な農村恐慌で有名な時期である。代表的な産物である米は大正8(1919)年をピークにして、3分の1に値下がりした。当時は物々交換の時代から貨幣経済の時代に入っていた。農民は自分で作った米は現金に換えるため食べられず、粟(あわ)か稗(ひえ)しか食べられなかった。 宇垣総督は着任後、直ちに農村を視察し、農村振興運動を展開した。この運動で宇垣が最も主張したのは、「心田開発」であった。即ち心の持ち方であった。「奉公の精神、共同の精神、自助の精神」であった。朴正煕時代の「セマウル運動」との違いは「奉公」が「勤勉」に変わっただけである。宇垣一成総督 この運動と同じ時期、日本で行われた農村経済更正運動との最大の違いは、個人レベルを指導の対象としたことである。適当な農村指導者のいる集落を指導集落に選定し、各戸に家計簿を付けさせた。当時読み書きのできない人が大半だったので、村の吏員が聞き取り記帳を代行したのである。 その課程で読み書き算盤を教え、「入(い)るを量(はか)り、出(い)ずるを制す(・・)」経営の基本を教えたのである。また同時に昭和9年、簡易学校の制度を発足させ、文盲の解消を図った。なお、これらの団体は反日運動の温床として、それまでは極めて抑制的な方針を取っていたのである。 当時の朝鮮農家の最大の問題点は、一日の作業時間が短いことであった。田の除草、施肥、堆肥作り、家畜の飼育の奨励等により日本の農家並みに働くことを求めた。更に冬作として麦、レンゲ草、菜の花作り等を推奨した。これらの方針の徹底を期すべく、青年団、婦人会等を積極的に活用した。 この結果、内地の半分強しかなかった米の作付面積当たり収量が急速に増え、農村経済は立ち直ったのである。この運動は戦後に社会経済改革をめざしたセマウル運動の原型となり、当時宇垣の秘書でブレーンでもあった鎌田沢一郎は、韓国に何回も呼ばれ、指導に当たった。総督府は農地拡大と農村振興のため各地に水利組合を設立させた。全羅北道全州郡東上面大雅里の渓谷に益沃水利組合が建設した貯水量3万3千立法㍍のダム式貯水池(朝鮮総督府鉄道局『朝鮮之風光』昭和2) 「聖者と呼ばれた日本人」第四節 「聖者と呼ばれた日本人」 重松髜(まさ)修(なお)という人物がいる。『朝鮮で聖者と呼ばれた日本人』(田中秀雄著、草思社)で詳しく紹介されている。高松宮家編『有栖川宮記念厚生資金選奨録』(昭和9)で紹介された重松髜修 重松は明治24年愛媛県の生まれである。裕福な地主の子供で、明治44年松山中学を卒業し、後の拓殖大学、東洋協会専門学校に入学した。同校は桂太郎が新領土経営に要する人材の育成のため、設立したものである。在学中の大正2年の夏休みに重松は、友人と朝鮮旅行を行った。汽車で新義州まで行き、鴨緑江の壮大な眺めを見て感動した。 大正4年卒業し、総督府の土地調査局に勤めた。大正6年秋に農工業開発や金融緩和を目的として日本が各地に設立した金融組合に転籍した。 大正8年、三・一独立運動が発生、右足に被弾、貫通銃創の重傷を負い、松葉杖が離せなくなった。大正14年7月平壌の東、40㌔の江東金融組合に理事として転勤した。 その年9月総督府は、朝鮮農家経済に関する調査結果を発表している。全朝鮮で総農家283万戸の内、窮農16万戸余りである。彼らは小作も出来ず、農家の労役に従事しているだけのものである。彼らのうち転業しても手に職がない人は、都会の浮浪者になる他はない。全羅南道の務安金融組合の総会風景(朝鮮総督府『写真帖朝鮮』大正10) 平安南道の場合、総転業者は約15万人、労働者或いは雇われ人になる人7万人、内地への出稼ぎ人2万5000人、商業への転業者2万4000人、工業及び雑業への転業者1万7000人、 一家離散者6800人、その他4600人であった。全く現在では考えられない悲惨な時代であった。 着任した重松は、数日後3人の書記を集め、この地方に適した副業はないか、相談した。その時、ふと窓の外を見た重松の目に飛び込んできたのは、数羽の鶏であった。養鶏ならどこの家でも行っている。ただしあくまで自家用である。 重松はこれを副業としてやれないかと提案したのである。「鶏は総督府が推薦している品種を勧め、卵は共同販売とし、販売代金は郵便貯金にする」。この案に書記達は、これがうまくいけば、大変な事業になると興奮し、この案の実現に努めることになった。 彼は「隗より始めよ」と、まず自宅で始めることにした。鶏舎を建て、卵から育て、農家に有精卵を無償で配布するなどして、次第に事業を拡大した。それと共に出来るだけ、農民との会話に努めた。それは養鶏を強制するものではなかった。しかしそれが農民の心を掴み、養鶏は次第に普及し、自立農家が次第に増えたのである。第五節 教育の普及 生活改善の基本は、民度の向上である。  朝鮮では、科挙の制度に対応し、首都に成均館、各地に郷校が設置され、その予備校として、両班が書堂を経営し、子弟の教育に当たっていた。成均館は今日も成均館大学として残っている。 しかし日本が併合した頃、書堂の数は約1万7000、生徒数14万人で推定学齢人口の7%弱に過ぎなかった。遡ること三十余年の明治11年でも日本の就学率は41%だから、大分遅れていた。 1894年日清戦争が勃発し、日本の働きかけで行われた甲午改革の一つとして、近代学制の整備があり、師範学校、中学校、小学校の制度が定められた。その結果主要都市に幾つかの小学校が出来たが、日本が統監府を置いた翌年の明治39年でも、僅か22校、生徒数2000人弱に過ぎない。併合前からある書堂の授業の様子門前から見た書堂の外観(朝鮮総督府『写真帖朝鮮』大正10) 明治43年の併合後、日本は教育の普及に努めた。昭和18~21年頃の義務教育全面実施を目標にしていたが、戦争の激化・敗戦により、全面実施には至らなかった。 中高等教育の分野では京城帝国大学の設立が特筆される。大正13年設立は東京、京都、東北、九州、北海道に続く6番目である。先に日本統治下に入った台湾より2年早い。この設立により、小学校から、大学までの体制が整った。日本の統治によって本格導入された学校教育全羅北道錦山公立普通学校の授業風景㊦平安北道宜川公立普通学校で広々した校庭に整列する児童ら(朝鮮総督府『写真帖朝鮮』大正10) 朝鮮文字ハングルは、朝鮮第四代国王世宗が学者を集めて、1446年制定されたものである。しかし科挙が漢文で行われていたため、諺文として書堂等では教えられなかった。字数が少なく、発音通りなので、ふりがなとして使われたりして、自然にある程度普及していた。 最初にハングルを普及させたのは、キリスト教であった。彼らは聖書をハングルに訳し、利用した。次は朴泳孝である。1882年訪日した彼は福沢諭吉に感化され、新聞の発行を始めた。当初漢文であったが、甲申事変で中断後、1886年「漢城通報」として復活した時、漢字とハングルの混淆(こんこう)文とした。 甲申事変から十年後の甲午改革で、法律・勅令はすべて「ハングルを以て正文とする」とすることが決められ、小学校でハングルを教えられることになった。この結果、朝鮮人の発行する新聞も次々とハングルを採用し、ハングルは朝鮮人では必須の文字となり、日清戦争後はすべてハングルに統一された。 明治38(1905)年第二次日韓協約による韓国の保護国化で、教育行政が動き始めた。最初の普通学校(小学校)の授業時間は、1、2年は週28時間、3、4年は週30時間であった。そのうち韓国語、日本語が共に週六時間、漢文が週4時間であった。6年制になったのは大正9年であった。 併合により日本語が十時間になり、その分朝鮮語と漢文が合計で六時間に減った。それと共に教育言語が日本語に代わった。これは児童にとって大変負担になったと思われる。 朝鮮の産業革命第六節 朝鮮の産業革命 大正末期、後に日本工営社長として活躍した久保田豊は朝鮮を旅行し、大量の地図を買ってきた。その地図から鴨緑江上流の赴戦江、長津江をせき止め、流れの方向を変え、逆方向の日本海に落とすことにより、大変有利な発電が出来ることを発見した。その計画は当時日本最大の蟹寺発電所が4万5000キロワットの時代に、10万キロワット以上となるものであった。 しかし如何に有利な発電所であっても、使ってくれるユーザーが無ければどうしようもない。彼はパートナーの森田一雄と共に、森田の友人である日本窒素社長の野口遵を口説き落とした。当時化学肥料は最大の電力消費工業だったのである。北部・咸鏡南道の咸興が水力発電で急速に工業化していることを伝える朝鮮総督府鉄道局編『半島の近影』(昭和12)。写真は日本窒素が設立した朝鮮窒素興南工場 彼らの熱意により、赴戦江第一発電所13万㌔㍗が完成した。それと共に興南に一大化学工場が完成した。そして久保田と野口の二人三脚による大化学工業地帯の建設が始まった。この計画はアメリカのテネシー川開発(TVA)に匹敵するものであった。 その後赴戦江第一(13万キロワット)に続き、長津江第一・第二、虚川江第一と進み、最後に鴨緑江の水豊(70万キロワット)へと進んだ。戦後日本で騒がれた黒四ダムの建設当初出力は26万キロワット弱である。如何に巨大な計画か分かる。 この電力はソウルにも送電された。送電電圧は20万ボルトである。日本の当時の最高送電電圧は15万4000ボルトである。電力は「電圧×電流×力率」であり、大電力を送るには高電圧にする必要があった。北部・黄海道の日本製鉄兼二浦製鉄所と鉄鉱石を供給した平安南道の价川鉄山を紹介する『半島の近影』 設備をどれだけ残しても、その設備を運転し、保守する人材が育っていなければ、宝の持ち腐れである。日本の敗戦後、後を引き継いだのは、分社化された発電会社の社長である。朝鮮人エンジニアも差別なく育てていたのである。 それと共に産業革命の起爆剤となったのは、鉱業の発展であった。宇垣総督は古来朝鮮の金細工が発達していることに目をつけ、金の探鉱・ 採掘に奨励金を出した。 その結果北朝鮮は鉱物の標本室と言われる位、各種鉱物資源が豊富にあることが分かった。今日北朝鮮が核開発を行っているが、その原料のウランも国産品である。第七節 アメリカのフィリピン統治  日本が朝鮮を統治したのは1910年からである。日露戦争が終わり、朝鮮が保護国(半植民地)化されたのが、1905年である。一方フィリピンが米西戦争により、スペインからアメリカに統治権が移ったのは1898年である。 朝鮮、フィリピンとも大東亜戦争により、独立している。即ちほぼ同時期、同期間片方は日本に、もう一方はアメリカに統治された。このことにより、この二つの国がどのように変わったか、検証することは、極めて重要なことと考える。  フィリピンは1521年マゼランのアメリカ経由、世界一周探検隊により発見された。豊臣秀吉の頃より、スペインの統治下にあった。フィリピンは広い国である。ミンダナオ島等は全く開発が進んでいなかったが、ルソン島南部、セブ島等からはスペインへ留学する人も多く、西欧文明を吸収していた。 米西戦争に勝ったアメリカは、「教育こそ最大の武器」として、日本と同じく、大量の教科書を持ち込み、現地人教育を始めた。フィリピンではスペイン時代からセント・トーマス大学等いくつかの大学があった。 1886年当時、セント・トーマス大学の学生約2000人の内7割が現地人だった。アメリカが大学を作ったのは、1908年のフィリピン大学である。日本の韓国併合前である。日本が京城に帝国大学を設立したのは1924(大正13)年である。東京、京都、東北、九州、北海道に次ぎ6番目に設立された京城帝国大学(『京城帝国大学一覧』) 鉄道の敷設もフィリピンは早い。1892年マニラ―ダイバンの195㌔が完成している。只この路線は米西戦争により経営が破綻し、工事は中断した。1906年工事が再開され、1909年南部線が開通した。それに対し、朝鮮は日露戦争で兵站線の強化のため、突貫工事で、釜山、京城間が明治38(1905)年、京城、新義州間が、翌39年開通している。日本の資金投入によって路線が拡充した鉄道網(朝鮮総督府鉄道局編『半島の近影』昭和12) これらのことから、当時のアメリカが、如何に真摯にフィリピン統治に努力していたか分かる。 しかし1913年アメリカ大統領が、民族自決で有名な民主党のウィルソンに代わった。これに伴い政府のフィリピン関係の予算は大幅に削減され、フィリピンに移住していたアメリカ人は、本土に引き揚げた。かくしてフィリピンの発展は止まった。 アメリカは「植民地は搾取の対象」と考えた。それに対し日本は「本土と植民地は国家発展のパートナー」と考えた。マルクス主義では資本家は労働者を搾取するものだと主張するが、近代経済学では、資本家と労働者は企業経済発展のためのパートナーと考える。この事例はマルクス主義が如何に間違っているかの実証例である。すぎもと・みきお 昭和8年富山県生まれ。東京大学卒業後、日本セメント(現・太平洋セメント)入社、平成元年埼玉工場長で退職。「朝日新聞の『従軍慰安婦』をはじめとするマスコミ報道や、大東亜戦争、韓国併合などについて「謝罪」した細川護煕元首相ら一部政治家の反日・偏向姿勢に強い疑義を抱き、自ら検証しよう」と、國學院大大学院で国史学を研究し、8年に修士課程修了。著書に修士論文をもとにした『データから見た日本統治下の台湾・朝鮮プラスフィリピン』(龍渓書舎、平成9年)、『日本支配36年「植民地朝鮮」の研究―謝罪するいわれは何もない』(展転社、14年)など。八十代となった今もフェイスブックなどで発信を続ける。23年に夫人を亡くしたが「残りの人生も充実して過ごしたい」と、中高年サークルなどに積極的に参加し、活動的な日々を過ごしている。   

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    韓国が戦勝国面するのはなぜか

    韓国の朴槿恵大統領が3日、中国の抗日戦勝70年を祝う軍事パレードに出席した。習近平国家主席と満面の笑みで握手を交わし、存在感をアピールしたが、そもそも韓国は先の大戦で日本と戦っていない。中露首脳に交じり、韓国までも戦勝国面するのはなぜか。

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    韓国版極左史観が生む反日と嫌韓の連鎖

    1977年大学3年次に1年間、韓国に留学した。留学準備期間を含めると私は、そのうち約40年間、韓国と日韓関係を研究対象としてきたことになる。40年間、多くの尊敬できる韓国人と出会い、たくさんのことを教えていただいた。私の研究はそれ抜きには成り立たなかった。 いま、日韓関係が悪化している。論者の中には最悪だという者さえいる。本稿で詳しく論じるように最悪ではないのだが、悪くなっていることは間違いない。 心配なのは韓国人の反日ではない。それは北朝鮮とそれにつながる左派勢力によって人工的に作られたものだから、声高に聞こえるが実質はそれほど強いものではない。韓国の反日は、ソウルの日本大使館前と国会とテレビ・新聞の中にしかない、少し極端だがそれが私の実感だ。 それに比べて、心配なのは日本人の嫌韓だ。韓国の反日の背後にある政治工作を見ず、その理不尽さをすべて韓国人の民族性・国民性に還元する議論の拡散を私は心配し続けている。事柄を形づくる要素のうち、一番最近に起き、かつ一番影響力が大きい部分を見ないで議論すれば、事柄の全体像を正確に把握することが出来ない。その結果、悪意を持って政治工作を行っている勢力だけが喜ぶことになる。 本稿では日韓両国民の感情的対立、特に最近の日本人の嫌韓感情を作り出した主犯として、北朝鮮と韓国内左派勢力、そしてそれを煽る日本国内の反日日本人らが作り出した「韓国版自虐史観」あるいは「極左的民族主義歴史観」を提示する。そして、その歴史観がいつからどの様な形で日韓関係を壊してきたのかを時系列を追って示していきたい。70年代の韓国で出合った気高き民族主義 私の処女作『日韓誤解の深淵』(1992年亜紀書房刊)の前書きから話を始めたい。私は、日韓関係を心配して次のように書いた。読み返すと拙劣な文章で赤面するばかりだが、率直に思いを綴ったことだけは確かだ。《1977年、当時大学3年生だった私は韓国の延世大学に交換留学生として留学した。在日朝鮮人差別問題のサークルの会員だった私は、日本人の一人として韓国の人々に過去を深く謝罪したいという気持ちで金浦空港に降り立った。 留学した当初は韓国語があまり出来なかったので、親しくなった友人とはブロークンの英語で話し合っていた。K君もその友人の一人だった。ところがK君は実は日本語が出来たのだ。私が少ない奨学金を工面して大学での授業以外に家庭教師を雇って韓国語の勉強をしているのを知った後、K君は日本語を使い始め私を驚かせた。それまで三、四回話したときはまったく日本語を分かる素振りすらみせなかったのに、である。私の韓国に対する姿勢をひそかに確かめていたのだろうか。 私はさっそくK君に対し、英語では伝えられなかった私の気持ち、つまり、日本人の一人として植民地支配について謝罪したいと語った。すると彼は「力の強い国が弱い国を植民地にしたのは当時としては当たり前のことだった。我々が弱かったから侵略されたのだ。謝ってもらうべきことではない。国際社会はパワーがすべてだ。ぼくが今、日本語を勉強しているのも、うんと極端なことを言うと、もし将来日本と戦争になった場合、相手の無線を聞いて作戦を立てられるようになるためなんだ。日本語が分かる者がいればその分韓国のパワーを強めることになるからだ》 私は彼の論理の明快さと自信に圧倒された。私が交換留学生としてソウルで暮らした77年から78年にかけて、日本の安易な謝罪を拒否し自民族の弱さを直視してそれを自分たちの努力によって補おうという気高き民族主義に出合うことが多かった。 78年3月1日、3・1独立運動記念日でソウル市内の至る所に韓国の国旗である太極旗が掲揚されていた。私は韓国人の友人P君と大学街を歩いていた。一人の幼稚園生くらいに見える男の子が門柱から垂れ下がっていた太極旗を棒でたたいて遊んでいた。それを見たP君が大きな声で「国旗をないがしろにしたらだめだ」と叱りつけた。 そして、私の方を向いて「お前の家には日の丸があるか。日本ではいつ国旗を飾るのか」と聞いてきた。うちには国旗がない。また、日本では公立小学校や中学校の卒業式に日の丸を掲げることを反対する声が強い等と説明すると、P君は「日本人は愛国心がないな。先日の新聞を見ると日本の若者の過半数が戦争になったら逃げると答えていた。俺はもし自衛隊が竹島を取りに来たら銃をとって戦うぞ。お前も日本人なら愛国心を持って日本のために戦え」とまじめな顔で言われたことを今も鮮明に覚えている。相手国の民族主義をも尊重する健全な民族主義、愛国心を、私は韓国で学んだ。 このような誇り高い民族主義は、1965年日韓国交正常化を推進した朴正熙大統領が持っていたものだ。朴正熙大統領の演説からいくつかの名言を紹介しよう。まず、朴正熙大統領の率直な反日感情とそれにもかかわらず「自由と繁栄のための賢明と勇気」を持って決断を下すと語った1965年5月18日、米国ワシントンDCのナショナル記者クラブでの「自由と平和のための賢明と勇気」演説からだ(『朴正熙選集・主要演説集』鹿島研究所出版会)。《韓日会談が14年間も遅延してきたことは、みなさんよくご存じのことと思います。それには、それだけの理由があるのでありまして、外交史上いかなる国際関係にも、類例のない幾多の難関が横たわっているのであります。 周知のとおり、いま韓国には、韓日問題について、極端論をふくむありとあらゆる見解が横行しております。もしみなさんがわたくしに『日本について…』と質問されれば、わたくしはためらうことなくわたくしの胸に鬱積している反日感情を烈しく吐露することでありましょう。またみなさんがわたくしに『親日か』、『反日か』ときかれるならば、わたくしの率直な感情から言下に『反日だ』と答えることでありましょう。これはいやしくも韓国人であれば、誰でも同じことであります。四十年にわたる植民統治の収奪、ことに太平洋戦争で数十万の韓国人をいけにえにした日本は、永久に忘れることのできない怨恨を韓国人に抱かしめているのであります。 それにもかかわらず、そしてこの不幸な背景と難関をのりこえて、韓日国交正常化を促進せねばならない韓国の意志にたいして、みなさんの深いご理解を期待するものであります。われわれは、より遠い将来のために、より大きな自由のために、より高い次元の自由陣営の結束のために、過去の感情に執着することなく、大局的見地において賢明な決断をくだしたいと考えるのであります》 次に紹介するのは1965年6月23日、韓日条約に関する韓国国民への特別談話からだ。《去る数十年間、いや数百年間われわれは日本と深い怨恨のなかに生きてきました。彼等はわれわれの独立を抹殺しましたし、彼等はわれわれの父母兄弟を殺傷しました。そして彼等はわれわれの財産を搾取しました。過去だけに思いをいたらすならば彼等に対するわれわれの骨にしみた感情はどの面より見ても不倶戴天といわねばなりません。しかし、国民の皆さん! それだからといってわれわれはこの酷薄な国際社会の競争の中で過去の感情にのみ執着していることは出来ません。昨日の怨敵とはいえどもわれわれの今日と明日のために必要とあれば彼等とも手をとらねばならないことが国利民福を図る賢明な処置ではないでしょうか。(略) 諸問題がわれわれの希望と主張の通り解決されたものではありません。しかし、私が自信を持っていえますことはわれわれが処しているところの諸般与件と先進諸国の外交慣例から照らしてわれわれの国家利益を確保することにおいて最善を尽くしたという事実であります。外交とは相手のあることであり、また一方的強要を意味することではありません。それは道理と条理を図り相互間に納得がいってはじめて妥結に至るのであります。(略) 天は自ら助ける者を助けるのであります。応当な努力を払わずにただで何かが出来るだろうとか、または何かが生まれるであろうとかという考えは自信力を完全に喪失した卑屈な思考方式であります。 今一部国民の中に韓日国交正常化が実現すればわれわれはまたもや日本の侵略を受けると主張する人々がありますが、このような劣等意識こそ捨てねばならないと同時にこれと反対に国交正常化が行われればすぐわれわれが大きな得をするという浅薄な考えはわれわれに絶対禁物であります。従って一言でいって韓日国交正常化がこれからわれわれによい結果をもたらすか、または不幸な結果をもたらすかということの鍵はわれわれの主体意識がどの程度に正しいか、われわれの覚悟がどの程度固いかということにかかっているのであります》日韓で真逆だった国交への反対理由 朴正熙大統領が進めた日韓国交正常化交渉に対して、韓国内では激しい反対運動が起きた。私は修士論文のため、韓国の反日の論理を調べたが、その一環として当時の反対論をかなり集めて分析した(拙稿「戦後韓国知識人の日本認識」、川村湊・鄭大均編『韓国という鏡』収録)。 野党と言論はほぼ反対一色、学生らは街頭に出て激しいデモを行った。それに対して64年に戒厳令、65年に衛戍令を布告して軍の力で押さえつけて正常化を決めた。自分は反日だと断言する朴正熙大統領が、そこまでして日本との国交を結んだ背景は、北朝鮮とその背後にあるソ連、中国という共産陣営に対する危機感があったからだ。特にその頃、中国は原爆実験を成功させ、国連で支持国を増やして近い将来、中華民国から国連議席を奪う見通しだった。東アジアの自由陣営にとって大きな脅威になりつつあった。 その点は当時の韓国内の対日国交正常化反対運動も認識を一致させていた。反対の論理は大きく2つだった。第1は、韓国の民族的利益が十分確保されていないという批判、すなわち過去の清算が不十分であり、再び日本の経済的侵略を受けるおそれがあるという議論だった。第2は、日本が反共の立場にきちんと立たず、二股外交、北朝鮮やその手先である朝鮮総連への配慮、優遇を止めていないという批判だった。 一方、日本国内の反対運動は、韓国の反対運動と重なり合う部分が全くなく、真逆の立場からのものだった。韓国の反対理由の第1の点については、逆に日本の利益が侵されているという主張が多かった。すなわち、過去清算で韓国に譲りすぎであり、竹島不法占拠を事実上認めているなどだった。当時、社会党議員が国会で朝鮮からの引き揚げ者がおいてきた莫大な財産について言及して対韓経済協力が大きすぎると批判し、労組の反対デモでは(経済協力資金を)「朴にやるなら僕にくれ」というスローガンがあった。そして、与党自民党もこの点は内心、同じ考えを持っていた。 韓国の反対運動の第2の論点、反共の立場については、日本の反対運動は米国の戦争戦略に巻き込まれるとして、烈しい批判を展開していた。それに対して、自民党政府は「釜山に赤旗が立てば日本の安全保障に重大な危機が来る」として、反共韓国への支援が日本の安全保障に繋がると主張した。 こうしてみると、日韓国交正常化は、両国内の民族的利害を主張する反対論を、両国政府が反共自由陣営の結束という安全保障上の共通認識で押さえ込んだものと言える。 当時の韓国は朝鮮戦争で共産軍からひどい扱いを受けた体験を土台にした反共意識が強く、反共法などで国内の左翼活動を厳しく取り締まっていた。ところが、日本では1960年に日米安保反対運動が国民運動として大きく盛り上がるなど、国内で反米左翼勢力や中立の志向する勢力が一定程度、力を持っていた。だから、共産陣営という共通の敵の存在によって、日韓両国が民族的利害を相互に譲歩して国交正常化を進めたのに対し、日本国内の左派が内部から反対するという構図があった。それについて朴正熙政権が国内の反対運動に答えるために1965年3月に発行した『韓日会談白書』はこう書いた。拙訳で引用する。自由陣営の結束 最近のアジアの情勢とベトナム事態の流動的国際情勢の激変をあらためて列挙しなくても、自由陣営の結束はそのどの時期よりも最も至急に要請されているのが事実だ。(略) 日本も変遷する国際情勢と中共の急速な膨張に対処するため自由陣営が結束しなければならず、特に極東において共産勢力の脅威をもっとも近距離で受けている韓日両国が国交正常化を通じて結束しなければならない必要性、ないしは不可避性を認識していることを物語っていた。 韓日両国が国交を正常化することは、ただ韓日両国だけでなく全自由世界の利益に符合している。 これがまさに米国をはじめとする友邦国家が一斉に韓日交渉の早期妥結を強力に希望している理由であり、同時に中共、北傀[北朝鮮の傀儡政権の意味・西岡補]、および日本の左翼勢力がいままで韓日会談の破壊工作を執拗に展開してきたもっとも大きな理由なのだ》共産陣営に甘かった日本政府共産陣営に甘かった日本政府 日韓関係はその後も、共通の敵に対する日本側の態度の甘さに韓国が反発し、揺れ続けた。ところが80年代に入ると、韓国国内では、急速に広がった左傾自虐史観によって共通の敵をむしろ擁護する勢力が急成長し、日韓の動揺の幅がいよいよ大きくなっていった。昨今の韓国の執拗な反日外交とそれに対する日本国内の嫌韓感情の増大は、この枠組みで見ないと全体像が理解できない。 まず、70年代までの日韓関係をこの構図から概観する。韓国保守派随一の知日派である洪ヒョン・元駐日大使館公使は、日韓国交50年間を振り返り、関係悪化の根本原因は1965年の国交正常化の際、日本が韓国を半島における唯一の合法政府だと認めなかったことだと指摘する。 中共と国交を結んだとき日本政府は台湾との関係を断絶した。中共側が強力に要求した「1つの中国」という主張に譲歩したのだ。しかし、自由陣営の結束という共通の利害から行った日韓国交において日本は、最後まで「2つの朝鮮」の存在を認めることに固執した。すなわち、韓国の憲法では韓国の領土を韓半島とその付属島嶼と規定しており、韓国政府は日本に対して基本条約でそのことを認めるように要求していた。その結果、基本条約第3条は「大韓民国政府は、国際連合総会決議第百九十五号に明らかに示されているとおりの朝鮮にある唯一の合法的な政府であることが確認される」とされている。 一見すると韓国の主張が通ったかのようだが、国連総会決議を引用することで日本は韓国の主張を巧妙にかわした。この決議は、韓国政府を、1948年5月に国連の監視の下で行われた選挙によって成立した半島の「唯一合法政府」と定めたものだ。北朝鮮地域を占領していたソ連軍と北朝鮮を事実上支配していた人民委員会(委員長金日成)は国連監視団の入境を拒否したため、選挙は38度線の南に限定して行われた。日本のこの条文解釈は、「北朝鮮地域については何も触れていない」というものだ。従って、日本が北朝鮮と国交を持たないでいることと第3条は関係がない。「第3条の結果としてそうなったり、そうする義務を法律的に負うのではない」(外務省条約局条約課の見解。『時の法令別冊日韓条約と国内法の解説』大蔵省印刷局1966年) この解釈の結果、事実上、わが国政府は日本を舞台にした韓国政府転覆活動を放置することになった。韓国では憲法の規定にもとづき、政府を僭称する団体などを反国家団体として位置づけ、その構成員や支持勢力を処罰する国家保安法という法律がある。同法第2条は反国家団体を「政府を僭称することや国家を変乱することを目的とする国内外の結社又は集団として指揮統率体制を備えた団体」と規定している。同法に基づき国家情報院(朴正熙政権下では中央情報部と呼ばれていた)が反国家団体などを取り締まっている。朝鮮民主主義人民共和国だけでなく、日本にある朝鮮総連と韓民連(在日韓国民主統一連合、1978年に指定)も反国家団体とされている。反国家団体の首魁は最高死刑と定められていて、韓国の法体系の中で重大な犯罪者だ。ところが、日本政府は国内で活発に韓国政府を転覆することを目的として活動する2つの「反国家団体」を放任してきた。 その結果、70年代に入り、野党大統領候補だった金大中氏が半亡命状態で日本に滞在し、朝鮮総連と背後で繋がりながら民団を分裂させようとしていた在日韓国人活動家らと韓民統(後の韓民連)を結成する動きを見せたときも、日本当局はそれを放置していた。事実上の亡命政権的組織が東京で出来るかもしれないと危機感を持った中央情報部は韓民統結成の直前である1973年8月、金大中氏を東京のホテルで拉致して強制的に韓国に帰国させる事件を起こした。韓民統は金大中氏不在のまま、彼を初代議長にして発足した。 当時、日本外務省は、韓国の実定法に反する反国家活動をしていた金大中氏を保護していた(外務省が身分保障をして赤十字社にパスポートに代わる身分証明書を発給させ、ビザを与えた)。白昼、日本国内のホテルから自国の政治家を暴力で拉致した韓国情報機関の乱暴なやり方は許されないが、その背後には日本外務省が金大中氏の日本での韓国政府転覆活動を裏で支援して自由陣営の結束を乱し、ともに戦うべき相手である北朝鮮を有利にしたことがあった。 金大中拉致事件の翌年1974年8月には、日本を実行拠点とする重大テロ事件が起きた。文世光事件である。在日韓国人文世光は朝鮮総連生野支部政治部長の金浩龍らによって洗脳され、大阪港に入港した万景峰号の船室で北朝鮮工作機関幹部から朴正熙を暗殺せよとの指令を受けた。文は大阪の交番から盗んだ拳銃と偽造した日本旅券を持って訪韓し、独立記念日の行事会場に潜入して朴正熙大統領に向けて拳銃を撃ち、大統領夫人らを射殺したのだ。 韓国政府は朝鮮総連と関連地下組織に対する徹底した取り締まりを日本に求めたが、日本政府は事実上それを拒否した。総連は捜査を受けず、文を洗脳した総連幹部も逮捕されなかった。それどころか、日本マスコミは朝鮮総連の宣伝に乗せられてむしろ韓国政府批判のキャンペーンを行った。朴正熙政権による自作自演説が報じられさえした。国会では外務大臣が「韓国に対する北朝鮮の脅威はない」と答弁した。韓国では反日デモ隊が日本大使館になだれ込むという前代未聞の事件が起きた。朴正熙大統領は一時、国交断絶も検討したという。 横田めぐみさん拉致を国会で最初に取り上げた西村眞悟前議員は、この事件で日本当局が総連を捜査しなかったため、その後次々と日本人が拉致されたのだと以下のように鋭く追及している(「西村眞悟の時事通信」電子版2013年12月20日)。私も全く同感だ。《問題は、日本のパスポートと日本警察の拳銃を所持して日本から出国し隣国に日本人として入国して大統領を狙撃するというほどの事件であるにもかかわらず、また、金正日が認めるまでもなく、事件当初から朝鮮総連の関与が明白であるにもかかわらず、何故日本政府(田中角栄内閣)は、朝鮮総連の捜査をしなかったのか、ということである。 昭和四十九年の時点で、この捜査を徹底しておれば、その後の拉致は無かった。宇出津事件も横田めぐみさん拉致もなかった。そして、大韓航空機爆破もなかったのではないか。(略) しかし、朝鮮総連をアンタッチャブルとしようとする政治家の政治的思惑が最も大胆かつ露骨に捜査よりも優先したのは、明らかに文世光事件であった。 以来、内閣が替わってもこの思惑は生き続け、大統領狙撃指令に使われた北朝鮮の万景峰号も何事も無かったように北朝鮮と我が国をいろいろな物資と人物を乗せて往復し続け、朝鮮総連も何事もなかった如く現在に至る。そして、日本人は国内から忽然と拉致され続けたのだ》 文世光事件も日本人拉致事件も日韓の共通の敵である北朝鮮政権によって引き起こされたテロである。ところが、70年代に日本が反共姿勢を曖昧にして利敵行動をとっていたため、文世光事件の結果、日韓関係が悪化し、日韓の当局の協力が弱くなり日本人拉致を防げなかったという、日本の国益に反する事態が生まれた。 この日本の利敵行動は全斗煥政権になっても続いた。北朝鮮の脅威に対する危機感からクーデターで政権を握った全斗煥将軍らは、レーガン政権が進める世界規模での共産勢力に対抗する軍拡路線に参与するため、韓国軍の近代化を行うことを計画し、そのための資金援助を日本に求めた。そのとき、日本外務省は「全斗煥体制は、軍事ファッショ政権」だとして経済協力に反対した。当時の外務省の内部文書(1981年8月10日付外務省文書「対韓経済協力問題」。小倉和夫『秘録・日韓1兆円資金』講談社に収録)は次のように反対理由を挙げた。《(一)全斗煥体制は、軍事ファッショ政権であり、これに対して日本が財政的てこ入れをすることは、韓国の民主化の流れに逆行するのではないか、とくに、金大中事件が完全に解決していないまま、かつ政治活動の規制がきびしく実施されている現在、韓国に対して経済協力を行うことは、日本の対韓姿勢として納得できない。(二)韓国への経済協力は、韓国への軍事的協力のいわば肩代わりであり、日・韓・米軍事同盟(強化)の一環として極東における緊張を激化させる。(三)南北間の緊張が未だ激しく、南北対話の糸口さえ見出しえない現在、その一方の当事者である韓国のみに多額の経済協力を行うことは朝鮮(半島)政策として理解しがたい》 この文書に表れている外務省の認識の決定的欠陥は北朝鮮政権の位置づけがないことだ。朝鮮戦争を起こして300万人を死亡させ、その後も繰り返し韓国へのテロを続けるだけでなく、日本人拉致を行っていたテロ政権の脅威と、それとの対抗のために完全なる民主化を遅らせざるを得ない韓国政治の実態を完全に無視する容共姿勢に驚くばかりだ。 自由陣営の一員として共産主義勢力を共通の敵とする意識は全くない。この時点で外務省は日・韓・米軍事同盟の強化に反対していたのだ。全斗煥政権がファッショならそれを支援する米国レーガン政権の外交をどう評価するのか、いや、北朝鮮政権をどう評価するのかという根本的観点の欠落こそが、日韓関係悪化の第1の要因だ。韓国の反日外交の始まり 日米韓同盟強化は日本にとって望ましくないという歪んだ容共姿勢は、少しずつ改善されてきた。特に90年代後半、韓国情報機関が人道的観点からある意味超法規的に日本に提供してくれた横田めぐみさん拉致情報により日本は北朝鮮の脅威に目覚めはじめた。そして、中国の急速な軍事的台頭を目の当たりにして現在の日本は、限定的ながら集団的自衛権の行使を可能にする大きな政治決断をしながら日米韓同盟の抑止力を強化する方向に動き出した。「抗日戦争と世界反ファシズム戦争勝利70周年」の軍事パレードを前に大型スクリーンに映し出された、習近平国家主席夫妻と韓国の朴槿恵大統領(左)=2015年9月3日午前、北京の天安門(共同) これに逆行して「共通の敵」への姿勢がおかしくなってきたのが韓国である。始まりは80年代に遡る。全斗煥政権は上記の日本の容共姿勢に業を煮やし、中国共産党と日本内の反日左派勢力と手を組んでその圧力で経済的支援を得ようとする歪んだ反日外交を開始した。日本軍慰安婦などの歴史問題で日本を糾弾している現朴槿恵大統領の中国との「共闘」の原点とも言える。 1982年、日本のマスコミの誤報から始まった教科書問題で中国と歩調を合わせて韓国が外交的に日本を非難しはじめたのだ。問題の発端は「(旧文部省が)検定によって政府が華北への侵略を進出と書き直させた」という誤報だったが、いつの間にか韓国では「韓国・中国への侵略を進出と書き直させた」とする2つめの誤報がなされた。それなのに、鈴木善幸内閣は謝罪し検定基準を直して韓国、中国の意見を教科書基準に反映する異例の措置をとった。外務省は文部省の反対を押し切ってそれを推進した。 その後、中曽根政権が40億ドルの経済協力実施を決めた。中国と組んだ韓国の対日歴史糾弾外交は成功して多額の経済協力が決まったのだ。これ以降、韓国政府は日本マスコミが提供する反日事案を外交案件としてとりあげ、テーブルの下で経済支援を求めることをつづけた。 1992年1月、宮沢総理が訪韓した際、盧泰愚政権は朝日新聞などが行って作り上げた「強制連行」説に乗っかって首脳会談で宮沢総理に謝罪を求め、宮沢総理はそれに応じて八回も謝罪した。このときも、駐日大使などが首脳会談で慰安婦問題を取り上げることに反対したが、経済部署が日本からの技術協力などを得る手段として取り上げるべきだと主張したという。 全斗煥大統領は韓国内で演説して、植民地支配を受けた原因である自国の弱さを直視しようと訴えるなど、朴正煕大統領とつながる健全な民族主義の精神を持っていた。日本から学ぶべきことは多いという認識も持っていたという。盧泰愚大統領も慰安婦問題の実態を実は理解しており、日本のマスコミが韓国国民感情に火をつけたと、正鵠を射る指摘をしていることは関係者がよく知っている事実だ。 韓国政治研究の泰斗である田中明先生は韓国の反日が「拒否する」反日ではなく「引き寄せる」反日だと次のように述べている(田中明『遠ざかる韓国』晩聲社)。《誰それがけしからぬというとき、われわれはそういう手合いとはつき合わぬ(拒否する)選択をするが、韓国の場合は違う。「汝はわれわれの言い分をよく聞いて反省し、われわれの意に副う・正しい・関係を作るよう努力せよ」というおのれへの「引き寄せ」が流儀である。それは一見“主体的”な態度に見えるかもしれないが、詰まるところは、けしからぬ相手の翻意に期待する他者頼みの思考である》 他人のせいにせず自己の弱さを直視する朴正熙大統領や私の留学時代の友人K君の「反日」とは全く違う甘えをそこに感じざるを得ない。それが積み重なって韓国は日本人から尊敬心を得られにくくなっている。 その後、金泳三大統領時代から歴史糾弾外交の目的が変化した。それまでは経済支援が目的だったが、1995年、金泳三大統領が江沢民総書記と会った後に猛烈に展開した反日外交は、国内での自身の支持率を上げることを目的としていた。金泳三大統領はそのとき、日本人指導者のポリチャンモリ(生意気な頭の中)を直すと語り、竹島近海で軍事演習を行った。その年の夏村山談話が出た直後の出来事だから、日本が謝罪をしないからでなく、韓国の内政上の目的があればいつでも反日が利用されることが明らかになった。 李明博大統領の竹島上陸強行や朴槿恵大統領の反日告げ口外交も同じ文脈から理解できる。その意味で、日韓関係を悪化されている2つめの要素は全斗煥政権以降始まった「引き寄せる反日」外交、すなわち日本からの支援や内政上の人気回復のためのパフォーマンス外交を挙げざるを得ない。反日パフォーマンスを支える従北自虐史観反日パフォーマンスを支える従北自虐史観 しかし、国交正常化50年を迎えても、反日パフォーマンスが支持率上昇につながるという韓国社会の状況は、自然にできあがったものではない。70年代末以降、北朝鮮とそれにつながる韓国内左翼勢力が作り出した反日自虐史観が韓国社会を強く束縛していることが、その根本に存在する。これが私の考える3つめの日韓関係悪化要因である。そして、この呪縛から韓国社会が抜け出せなければ、今後の日韓関係はより一層悪化し、韓国が自由主義陣営から抜けて、具体的には韓米同盟を破棄し、中国共産党の影響下に入るか、北朝鮮テロ政権主導の統一が実現するという悪夢の可能性さえ存在すると私は危機感を持っている。 韓国社会をここまで反日に縛り付けた契機は、1979年に出版された『解放前後史の認識1』という1冊の本だった。それまで韓国の学生運動や反体制運動には容共反米は存在しなかった。反日の半分は、日本の容共的姿勢を糾弾するものだった。ところが、朴正熙大統領が暗殺された年に出たこの本は、その枠組みを大きく揺り動かす歴史認識を若者らに植え付けた。 巻頭論文を書いたのが宋建鎬だ。彼は長く新聞記者として朴正熙政権を激しく批判してきた反政府活動家で、1980年全斗煥政権下、金大中氏らとともに逮捕された。彼は反日を入り口にして、大韓民国は生まれたときから汚れた国で、北朝鮮こそ民族史の正当性の継承者だという当時の学生らに歴史観のコペルニクス的転換を求める「解放の民族史的認識」と題する論文を書いた。その結論部分を訳しておく。《この論文は、8・15が与えられた他律的産物だったという点から、我が民族の運命が強大国によってどれくらい一方的に料理され、酷使され、侮辱され、そのような隙を利用して親日派事大主義者らが権勢を得て愛国者を踏みつけて、一身の栄達のため分断の永久化を画策し、民族の悲劇を加重させたかを糾明しようとするものだ。過去もまた今も自主的であり得ない民族は必ず、事大主義者らの権勢がもたらされ民族倫理と民族良心を堕落させ、民族の内紛を激化させ、貧富の格差を拡大させて腐敗と独裁をほしいままにし、民衆を苦難の淵に追い込むことになる。民族の真の自主性は広範な民衆が主体として歴史に参与するときだけに実現し、まさにこのような与件下でだけ民主主義は花開くのだ。 このような観点からすでに半世紀が過ぎた8・15が一体どのように民族の正道から逸脱して行って、それによって民衆がどの様な受難を受けるようになったのかを冷静に糾明しなければならない必要性が生まれるのだ。このような糾明はけっして過ぎた歴史の糾明でなく明日のための生きた教訓になるのだ。8・15の再照明はこのような点で今日のための研究だといわなければならない》 論文の中で宋は、韓国の建国の父である李承晩を徹底的に攻撃している。李承晩は手段方法を選ばない権力主義者で、米国をバックに日本の植民地統治に協力した親日派を取り込んで分断の固定化に繋がる韓国単独政府を樹立し、親日派処分を妨害し、土地改革を遅延させ、日本統治時代に利益を得ていた地主勢力と結託した――。 宋らが提唱した自虐史観の中心にあるのが、実は「親日派」問題だ。ここでいう親日派とは、単純に日本に親近感を持っているという意味ではなく、日本の統治に協力して民族の独立を阻害した勢力という意味だ。「解放前後史の認識」は80年代に韓国学生街で大ベストセラーになった。79年から10年がかりで刊行された6巻のシリーズで合計100万部売れたという。盧武鉉大統領も弁護士時代に同書を手にして雷に打たれたような衝撃を受けたという。その歴史観を李榮薫ソウル大教授は以下のように要約している。「日本の植民地時代に民族の解放のために犠牲になった独立運動家たちが建国の主体になることができず、あろうことか、日本と結託して私腹を肥やした親日勢力がアメリカと結託し国をたてたせいで、民族の正気がかすんだのだ。民族の分断も親日勢力のせいだ。解放後、行き場のない親日勢力がアメリカにすり寄り、民族の分断を煽った」(『大韓民国の物語』文藝春秋) この歴史観に立つから、金日成が民族の英雄となり朴槿恵大統領の父親、朴正熙大統領は日本軍人出身だとして「親日勢力」の代表として非難されるのだ。そしてこの歴史観は、日本国内の左翼反日自虐観と呼応していることは言うまでもない。 そして恐ろしいことに、この歴史観は北朝鮮が一貫して維持してきた対南革命戦略と見事に一致している。北朝鮮は韓国を植民地半封建社会と規定し、まず米国帝国主義とそれに寄生する親日派勢力を打倒し、地主を追い出して農民を解放し、その後、社会主義革命を行うという2段階革命論をとってきた。宋らが6巻のシリーズで主張した韓国社会認識はまさにこの土台の上に立っている。北朝鮮の工作がそこに入っていないとみるのはあまりにナイーブな考え方だろう。 この歴史観は90年代以降、各界各層に浸透し、現在使われている韓国の小、中、高校で使われている歴史教科書もこの歴史観にもとづき書かれている。2005年以降、一部の実証主義学者らが教科書改善運動を開始したが、彼らが執筆した歴史教科書は今も、採択率ゼロだ。 朴槿恵大統領はまさに親日派の娘という批判を一番恐れている。その政治的資産は選挙に強いことだった。父親に対する絶対的支持層が彼女の基礎票となり、その上に若者らの票をいかに積み上げるかがこれまでの政治活動の根底にあった。だから、朴槿恵大統領は反日自虐史観に正面から対決せず、それと迎合し続けている。慰安婦問題は自虐史観派にとって格好の材料となっている。朴槿恵大統領が慰安婦問題に取り組まないと、慰安婦問題を抜きに日韓国交を正常化させた親日派の朴正煕の悪業を隠蔽しているという理屈が成り立つからだ。もちろん、当時を生きていた誰もが慰安婦の強制連行などなかったことを知っており、だから韓国は日韓国交交渉で一度も慰安婦問題を持ち出さなかったのだ。 自虐史観派から激しく非難されている李承晩大統領は「悪質的な独立運動妨害者以外に親日派はありえない」「倭政の時にいくら警察官だった人でも建国事業に参加して大きい功績をたてればその人はすでに親日派ではない。著しい親日経歴がない人でも日本語をしばしば口にして日本食が好きで日本にしばしば行き来し、日本が再進出してくることを待つ人ならば彼らこそ清算される親日派だ」と繰り返し明言しつつ、日本時代に教育を受け実務経験を積んだ官僚、軍人、警察官らを建国過程で使い続けた。それが大韓民国建国に役立つと信じたからだ。この李承晩の信念を李栄薫教授は「建国のための未来指向的な精神革命としての親日清算」と呼んだ。 朴槿恵大統領がその立場に立てば、北朝鮮の世襲テロ政権を共通の敵として歴史観や領土問題等をお互いに譲歩し合う、50年前朴正熙大統領が築いた日韓友好関係に戻ることは十分可能だ。すでに韓国内の自由統一を目標としている趙甲済氏ら健全な保守勢力はそのような立場から日韓関係の改善を提起している。 50年前もそして今も、釜山に赤旗が立つことは日本の安全保障にとって最悪のシナリオだ。韓国が反日自虐史観を清算して自由統一を迎えるのか、あるいは、自虐史観に飲み込まれ北朝鮮の思うつぼにはまっていくのか、まだ勝負はついていない。  

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    中国主催「抗日戦争式典」に朴氏参加のめちゃくちゃ度

     21日付け朝鮮日報記事から。中国・抗日式典出席の朴大統領、閲兵式にも出席か 韓国の朴槿恵(パク・クンヘ)大統領は20日、9月3日に北京で開かれる「抗日戦争勝利・世界ファシズム戦争勝利70周年記念式典」に出席すると発表した。韓国の大統領が中国の戦勝記念日の行事に出席するのは初だ。 朴大統領は今回の訪中期間に習近平国家主席と首脳会談を行い、韓中日首脳会談の実現などについて話し合う予定だ。朴大統領の就任後、習主席との会談は6回目となる。また、2013年以降、朴大統領は毎年中国を訪れることになる。 記念式典の一環として中国が準備している軍事パレードに朴大統領が出席するかどうかはまだ決まっていないという。 韓国大統領府(青瓦台)の朱鉄基(チュ・チョルギ)外交安保首席秘書官によると、朴大統領は9月2日から4日までの日程で訪中する。朱秘書官は「軍事パレードに出席するかどうかは諸般の状況を把握しながら検討している。適当な時期に発表する」と説明した。 大統領府は朴大統領が軍事パレードにも出席する方向性を固めたとされる。大統領府関係者は「軍事パレードは戦勝記念日の行事の最後に予定されている。中間で朴大統領が退場すれば、記念式典に欠席するのに等しい逆効果を生みかねない。最後まで出席する可能性が高い」と述べた。大統領府が慎重な態度を保っているのは、中国と北東アジアで覇権を争う米国の立場に配慮したためとみられる。(後略)http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2015/08/21/2015082100658.html 韓国の朴槿恵大統領が、北京で開かれる「抗日戦争勝利・世界ファシズム戦争勝利70周年記念式典」に出席、その後の軍事パレードにも出席する方向性を固めたそうであります。 うむ、この報道が事実だとすれば、朴槿恵大統領の大英断であります。 そもそも第三国同士のこと、菅官房長官ではないですが、日本には関わりのないことであります。 そこは余計なお世話であることは承知の上でありますが、当ブログとしてこの件を取り上げてみたいのであります。 まず「抗日戦争勝利・世界ファシズム戦争勝利70周年記念式典」ですが。 あれ、中国共産党って、日本軍に勝ちましたか? 確かに日本は70年前、ポツダム宣言を受諾、日本軍は連合国に「無条件降伏」いたしました。 その連合国の中に中国も入っておりますが、それは中華民国すなわち重慶政府(蒋介石を長とする国民党政府)に対してであります。 実際の中国戦線において日本軍の主敵は国民党政府軍でありました、山岳地帯でほそぼそとゲリラ戦を行っていた人民解放軍(共産党軍)ではありませんでした。 あまり戦ってもいないのに「抗日戦争勝利」を祝うのはこっけいでもあります。 まあよろしいです。 韓国の朴槿恵大統領、あなたです。 あなた、どんな立場で中国共産党主催の「抗日戦争勝利・世界ファシズム戦争勝利70周年記念式典」に参加するおつもりなのですか。 戦勝国の一員としてですか、それとも敗戦国旧日本の代表としてですか。 そこのところはっきりした方がよろしいです。 だって間違っても戦勝国・連合国の一員としてはふるまわないでいただきたいのです。  読者のみなさん、知ってます? 韓国の教科書では大韓民国はなんと大日本帝国に宣戦布告していたことになっているのですよ。 ウソだろって? データをもとに事実の徹底的分析や検証を売りにしている当ブログが読者に嘘をつくはずないです。 はい、朝日新聞記事の出番です。 韓国の教科書を紹介する朝日新聞桜井泉記者の記事です。〈教科書を比べる〉韓国―光復軍の戦いぶりを2ページで アジア・太平洋戦争は、世界史分野の「社会2」と、韓国史を扱う国定教科書の「国史」の両方で教える。 広く使われている金星出版の「社会2」は、第2次大戦の経過を、ドイツのポーランド攻撃から原爆投下まで2ページで絵や写真入りで説明。「日本軍、インドシナ侵攻」「日本の真珠湾奇襲」などの項目を立て事実関係を記す。 執筆者が取材に応じてくれたティディムドル出版の「社会2」は、広島の被爆中学生の手記を紹介している。金陸勲(キム・ユックン)・泰陵高校教諭は「核兵器がいかに恐ろしいか韓国人はよく知らない。侵略国も侵略された国でも、戦争が民衆に大きな苦痛を与えたことを教える」と執筆の意図を語る。 国史の教科書は、中国にあった大韓民国臨時政府につくられた韓国光復軍の戦いぶりを2ページで記述する。 《日帝が太平洋戦争を起こすと、大韓民国臨時政府は日本に宣戦布告し、連合軍とともに独立戦争を展開した。このとき、韓国光復軍は中国各地で中国軍と協力して日本軍と戦い、遠くインドやミャンマー(ビルマ)戦線にまで進み、イギリス軍とともに対日戦闘に参加した。》 さらに《わが民族の積極的な独立戦争は各国に知られ、世界列強は韓国の独立問題に関心を持つようになった。》 《連合国の首脳らが集まったカイロ会談とポツダム宣言で、韓国の独立を約束する土台が築かれた。》と述べ、光復軍の戦いが独立に寄与したことを強調している。 国史編纂(へんさん)委員会の許英蘭(ホ・ヨンナン)博士は「対日宣戦布告が戦況にどれほど影響を与えたかはともかく、植民地にされていた朝鮮が戦勝国になったことを強調した」と話す。「日本の右翼が、日本はアメリカに負けたのであって植民地朝鮮に敗れたのではない、という論理を展開することがあり、それを批判する意味もある」という。http://www.asahi.com/international/history/chapter07/textbook/03.html どうですか。 日帝が太平洋戦争を起こすと、大韓民国臨時政府は日本に宣戦布告し、連合軍とともに独立戦争を展開した。 すごいでしょ、これ教科書に載っているんです。 まず、大韓民国臨時政府ですが、たしかに中華民国の上海で結成され、日中戦争勃発後は重慶に移りましたが、存在していました。 しかし政府としての実態がまったくともなっていなかったので、枢軸国・連合国双方からいかなる地位としても認められず、国際的承認は最後まで得られなかったのです。 したがって大韓民国臨時政府の日本に対する宣戦布告文書は、日本にも無視され、連合国にも無視されています。このとき、韓国光復軍は中国各地で中国軍と協力して日本軍と戦い、遠くインドやミャンマー(ビルマ)戦線にまで進み、イギリス軍とともに対日戦闘に参加した。》 で、これも全くウソです。 韓国光復軍はなかなか人数がそろわずピークでも2000人余り、部隊として正規の戦線では一度も日本軍とは交戦していません、できなかったんです。 「遠くインドやミャンマー(ビルマ)戦線にまで進み、イギリス軍とともに対日戦闘に参加」の部分ですが、ここは少しだけほんと、戦闘の実績がほぼない光復軍の唯一の実績です。 ただね、「イギリス軍とともに対日戦闘に参加」はまったくのデタラメ、実際はインド・ビルマ戦線に光復軍工作隊(13名)を派遣して朝鮮系日本兵の投降を呼びかけた諜報活動しただけです。 大韓民国臨時政府もまったく実態がともなわず、韓国光復軍も戦績がなく、だからこそ、サンフランシスコ講和条約で韓国が連合国の一員に参加させろと強く要望しても、連合国側から一顧だにされずリストから除外されているじゃないですか。 韓国の朴槿恵大統領、あなたの父君も含めて、24万人を超える軍人・軍属が半島出身者として、我が皇軍に参加されていたではないですか。 多くが志願兵でありましたし、戦犯で処刑された洪思翊中将初め9人の中将・少将以下、たくさんの士官も輩出されていたではないですか。 事実を真摯に振り返れば、まちがっても戦勝国の一員としてなどふるまえないはずです。 ・・・ それにしてもです。 戦ってもいない者同士で「抗日戦争勝利・世界ファシズム戦争勝利70周年記念式典」を祝うのであります。 で、韓国の朴槿恵大統領はその後の中国人民解放軍の軍事パレードまで参加するのだと。 中国人民解放軍といえば、朝鮮戦争時に「義勇軍」と偽証して北朝鮮を援護して「国連軍」(米軍・韓国軍)に交戦、100万同胞の屍を踏み蹴散らして半島を蹂躙した、宿敵の軍隊ですよ。 あなた、そんな軍隊に敬礼できるのですか。 聞けば、大統領などが参加するロシアやモンゴルの軍隊もパレードするのだとか。 うむ、金正恩第1書記よ、チャンスですよ。 最近中国と仲が悪くて今回も参加しないようですが、ここは参加しましょ。 さすれば栄光ある共和国軍の隊列に対し、南朝鮮米帝傀儡政権の大統領が敬礼をするという、前代未聞の珍事が起こることになります。 ・・・ ふう。 なんかなあ、めちゃくちゃなんですが。 余計なお世話ではあります。

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    戦争責任を認めるとはどういうことか―その「未来志向」的な在り方

    『別冊正論』24号「再認識『終戦』」より山田寛人(朝鮮教育史研究家)責任という概念のあいまいさ 戦争責任と言えば、過去に起きた具体的な事実に基づいて、どこにどのような責任があるのかということを論じるのが一般的である。しかし、本稿ではそのような論じ方はしない。日本の戦争責任に関わる事例を取り上げる前に、まず「責任とは何か」という根本的な問題を素朴な論理的思考によって追究することで、日本の戦争責任について考えるための手がかりとしたい。 われわれは普段の生活の中で何か問題が起きたときに、比較的軽い気持ちで責任が「ある/ない」と言う。しかし、少し考えてみればわかるように、責任があるのかないのか、ということは簡単には決められない。 例えば、「Aが手に持ったナイフでBの胸を刺した結果、Bが死亡した」という事件があったとする。この情報だけであれば、Bが死んだ責任はすべてAにあるように見える。 ところが、そのナイフは元々BがAを刺すためにもっていたもので、Bに殺されそうになったAがそのナイフを奪い返して自分の身を守るためにBを刺したのかもしれない。そうするとAの正当防衛が認められそうである。しかし、Bは自分の家族をAに殺されたことに対する恨みをはらすためにAを襲ったのかもしれない。 このようにBが死亡したという事実は確かなものであったとしても、その原因は無限にさかのぼっていくことができてしまう。 そんなことでは収拾がつかなくなるので法律というものがあって、それに則ってどこにどれだけの責任があるのかないのかを、裁判官が判決という形で決めていくのである。つまり、判決を書くのも人間なら、判決の根拠となる法律という約束事をあらかじめ決めているのも人間なのである。人間がすることである以上、絶対に正しいということはあり得ない。 現に、裁判官によって判決内容が異なることは多々あるし、判決の根拠となる法律自体も人の手によって定められたものであるため、国や時代が変わればその内容も変化する。したがって、判決という形で明らかにされる責任の所在(有罪/無罪)とその度合い(量刑)は、「とりあえずそういうことにしておこう」という程度のものでしかないのである。 「責任を問う」という行為について、本稿では、三つの段階に分けて考えていく。①どこにどれだけの責任が「あるのか」について、たった一つの解を求めることは原理的に不可能である②しかし、さしあたり、どこにどれだけの責任が「あることにするのか」を決める必要がある③ということは、何らかの事実に基づいて責任の所在を明らかにすること以上に、責任の所在を決める意志がより重要だということになる―。このようにして責任という概念について整理したうえで、それに基づいて日本の戦争責任をどう考えていくべきかについて論じる。責任の所在と度合いは相対的 責任の所在やその度合が問われる場合、一般的には、その責任が問われる原因となった行為の結果に基づいて、何らかの判断が下される。ところが、その原因となった行為の結果が明白な事実であったとしても、その事実に対する評価は一定しないのが普通である。終戦から70年を機に日本の宰相として初めて米上下両院合同会議で英語で演説する安倍晋三首相=平成27年4月29日 例えば、通りを渡ろうとした歩行者が車にはねられて死亡したとする。この場合、その車が制限速度を超える速度で走行していたのだからという理由で、運転者に責任があったと判断されるかもしれない。一方、歩行者が横断歩道のないところを無理矢理渡ろうとしていたのだからという理由で、歩行者にも責任の一部があったと判断されるかもしれない。 また、その車には急病人が乗っていて一刻を争う事態だったために制限を超える速度で走行していたのかもしれないし、その道の向こう側の池で人がおぼれそうになっているのを見つけた歩行者が、急いで横断歩道のないところを無理矢理渡ろうとしたのかもしれない。この場合、運転者にも歩行者にも情状すべき点があったということになり、責任をすべて押し付けられるかどうかは、微妙なものになる。 さらに、車にはねられた人はケガで済んだ可能性もあったのに、その人を運ぶ救急車が渋滞に巻き込まれたために手遅れになって死に至ったのかもしれないし、運び込まれた救急病院の医師の技術が未熟だったために死に至ったのかもしれない。この場合、死なせた責任は、どこまで運転者にあったことになるのか。これもまた判断が難しい。 非常に単純な例えではあるが、このように考えてみると、責任の所在や度合を正確に特定することは不可能に近いということがよくわかる。仮に、その結果に至る経緯を「責任判定機」にすべて入力して、責任の所在と度合を出力したとしても、その判定結果にすべての人が一〇〇%納得するということはあり得ないだろう。 責任というものは、その結果をもたらした原因をたどっていけば自動的に明らかになる、というような性質のものではないのである。 責任につながる原因は無限にさかのぼることができるからである。さらに、無数の原因のうち、どれを採用するのかは、法律のような約束事に基づいて決めるわけだが、その法律自体が相対的なものであって普遍性を持たない。 例えば、東京裁判が客観的で公平な裁判だったと考える人はあまり多くはないだろう。東京裁判を例に挙げるまでもなく、どんな裁判でも根本的には同じことである。なぜならば、そもそも責任の所在と度合を決める法律自体も時代や場所によって異なる相対的なものであり、その判決結果に納得いかない人の目から見れば、その法律はどうしても恣意的なものに見えてしまうからである。 すべての人が納得する約束事にしたがって責任の所在と度合が決められるのが理想なのだろうが、そういうことは現実にはあり得ない。だからと言って、責任を明らかにする必要がなくなるわけでもない。 重大な結果が生じてしまったのであれば、それに対する責任を追及するのは当然である。何が起きても責任を追及しないということになれば、あらゆる犯罪行為が許され、誰も責任を取らなくてよいことになり、結果として社会秩序が維持されなくなってしまうからである。何のために責任を問うのか 何のために責任を問うのか だからこそ、「どこにどれだけの責任があるのか」を追及すること以上に、「何のために責任を問うのか」ということが重要になるのである。 つまり、責任を問うことの意味は、過去にさかのぼってその原因となった行為を特定して「正しい」判断を下すということではなく、責任を問う側と問われる側の未来の関係性をどのようなものにしていくのかというところにある。オランダ・ハーグで行われた日米韓首脳会談で、韓国の朴槿恵大統領は安倍首相の韓国語でのあいさつを徹底的に無視した=平成26年3月25日 責任とは、過去に起きた事実をめぐる問題であるというよりも、未来に対する意志をめぐる問題なのである。責任が「あるのか/ないのか」ではなく、責任を「あることにするのか/ないことにするのか」を問うのである。 「あることにする」などというと、ずいぶん乱暴で無責任な言い方だと思われそうだが、そうではない。その責任の根拠となる事実を追求することや、そのための判断基準を設定すること自体を否定しているわけではない。むしろ、そうした作業を前提にして「どこに責任があることにするのか」を考える必要がある、ということなのである。 これまで述べてきたことは、一般的な裁判について考えてみればわかりやすい。「被害者」は、「加害者」に対して無限に責任を追及するかもしれない。「加害者」は、可能な限りの弁明をするかもしれない。前述した交通事故の事例のように、理屈をこねくり回せば、そうした追及や弁明はいくらでもできてしまう。双方の言い分をすべて受け入れて、誰の目から見ても公明正大な裁きを下すことは原理的に不可能なのである。 だからと言って、裁判そのものを否定して「判決を下すべきではない」ということにはならない。不完全ながらもどこかで「線引き」をしてそれなりの判決を下す必要がある。それは、特定の正義を実現するためではなく、その社会に生きる人たちがある程度落ち着いて暮らせるようにするためである。韓国では反日行為が収まらない(AP) つまり、過去に起きた事実に対して絶対的な正義に基づいた公正な判決を下すことではなく、可能な範囲内での暫定的で相対的な正義に基づいた適度に公正な判決を下すことによって、よりマシな社会を未来に向けて構想していく。それが裁判の目的なのである。「加害者」と「被害者」のあいだ ようするに、責任は客観的・普遍的・絶対的な正義によって決まるというものではない。戦争責任の主体もまた、切れ目のない連続体をなしている。われわれが「常識」的な判断に基づいて分けて考える「加害者」と「被害者」の間にも実は切れ目はない。 例えば、過去の歴史に関して、日本人は「加害者」であり、韓国人は「被害者」であるという見方がある。しかし、「加害者」とされる日本人の中にも原爆や空襲などによって犠牲になった民間人がいる。軍人も対外的には「加害者」であるかもしれないが、対内的に言えば公務を遂行させられた結果、戦死・餓死・病死・負傷した「被害者」としての側面も否定できない。 一方、「被害者」とされる韓国人の中にも日本軍の兵士として戦った軍人がいる。日本による「植民地支配」と言われるが、それが三十五年間続いた背景には、結果としてそれを支えることになった韓国人のさまざまな働きがあった。 つまり、「一〇〇%の加害者、一〇〇%の被害者」という見方は原理的には不可能なのである。このようなことを言うと、日本の戦争責任を相対化して責任逃れをしようとしているのではないか、という批判を受けそうである。だが、すでに述べたように、責任の所在や度合いを決めるための約束事自体がそもそも相対的なものなのである。だからこそ、逆に「日本の戦争責任はゼロである」ということもできない。 広島平和記念資料館を訪れると、日本による対外的な加害の歴史に関する展示を見せられる。自分たちは一〇〇%の「被害者」であると思っている被爆者や犠牲者の遺族からすれば、ありえない展示である。なぜ、「被害者」である自分たちの側にも責任があることになるのか、まったく理解できない。それは当然だろう。実際にも、そのような展示に対する反発や批判の声は強かったようである。 しかし、結果として、あの戦争を止めることができなかったという点においては、非常に小さくて間接的であるとしても、原爆による犠牲者も含めて「日本人全体に戦争責任があった」ということになる。 それとは逆に、「加害者」としての側面が強調されがちな戦争指導者を追悼することに対しては、隣国から批判の声が上がる。それは対外的な戦争責任の面からである。かれらの目から見れば日本の戦争指導者は一〇〇%の「加害者」なのである。 さらに、戦争指導者は対内的な責任も負うべき立場にあったので、かれらの命令に従って任務を遂行した結果、戦死・餓死・病死・負傷した軍人や、空爆や原爆の犠牲となった民間人からみれば、戦争指導者は一〇〇%の「加害者」であり、自分たちは一〇〇%の「被害者」ということになる。韓国同様反日を喧伝する中国の習近平国家主席。2年半ぶりの首脳会談で握手の際にそっぽを向いた=平成26年11月9日、北京・人民大会堂 しかし、新右翼団体「一水会」顧問の鈴木邦男氏が「戦争は軍部が国民に押し付けたというが、うそだ。国民のかなりが戦争したかった」(47NEWS平成二六年六月二一日配信)と述べているように、戦争指導者を一〇〇%の加害者と見るのには無理がある。 そのように考えるのであれば、「A級戦犯として処刑されたかたがたは、国家全体によってなされた行為をみずからの命にかえて責任をとった人たちということになり、国家として当然弔うべき人たちということになる」(東郷和彦『歴史と外交』講談社)。追悼と記憶の二面性追悼と記憶の二面性 戦争責任を考えるうえで、過去を記憶することの意味を問うこともまた重要である。 現代社会では「戦争という悲惨な過去の体験を忘却せず次世代に伝えていくことが、平和な社会をつくっていくための土台となる」という考え方が共有されている。特に国際社会では、この考え方を否定するような言動をとれば即座に猛烈な批判を受けることになる。とはいえ、素朴な疑問として、そもそも、なぜ、過去を忘却しないことが平和につながるのか。 それに関して平成七年の村山談話では「私たちは過去のあやまちを二度と繰り返すことのないよう、戦争の悲惨さを若い世代に語り伝えていかなければなりません」と説明されている。確かに「過去のあやまちを二度と繰り返すことのないよう」というのは、そのとおりである。悲惨な過去の体験を是非もう一度あじわいたいという人はあまりいないからである。中国の尖閣諸島への領土的野心は強い。公船(写真奥)に日本領海を侵犯させ「ここはわが国領海だ。退却せよ」と海上保安庁の巡視船に呼びかける(同庁提供) 先に述べたように「一〇〇%の加害者、一〇〇%の被害者」という考え方をせず、「被害者」の中の加害性や、「加害者」の中の被害性という、複雑な実態を踏まえたうえで、死者を追悼したり、過去を記憶にとどめて次世代に伝えたりするというのであれば、それは平和への祈りや誓いになるかもしれない。 しかし、それとは逆に、「一〇〇%の加害者、一〇〇%の被害者」という考え方に基づいて、死者を追悼したり、過去を記憶したりする態度は、まったく別の方向にむかう可能性をはらんでいる。 自分たちの側が一〇〇%の「被害者」であれば、危害を加えた相手は一〇〇%の「加害者」であるということになり、場合によっては復讐を正当化することになる。逆に、自分たちの側が一〇〇%の「加害者」にされるのは不当であるという考え方を拡大していくと、自分たちが行ったはずの加害の事実がなかったということになり、責任を取らないことを正当化することになる。 「被害者」側の視点から過去の記憶を留めるために建てられた施設を、「加害者」側の人たちが見学する時に感じる複雑な思いの原因は、過去の記憶のこうした二面性に起因している。韓国の独立記念館や西大門刑務所歴史館を訪れる日本人の中には、日本が過去にこんなにひどいことをしたのかと感じて恥じ入る人もいれば、ここまで被害を強調する生々しい展示が必要なのかと疑問や反発を感じる人もいるだろう。あるいは、その二つが入り混じった複雑な思いを抱く人もいるだろう。 戦没者を追悼する施設の場合には、それとは逆のことがいえる。確かに一〇〇%の「加害者」はいないのだから、いわゆる「戦犯」とされた人や軍人も追悼の対象にすべきである。しかし、その人たちの加害性を一切認めずに死者の功績を強調して顕彰すれば、疑問や反発を感じる人も出てくる。一〇〇%の「加害者」ではないからといって、加害責任ゼロということにはならないのである。 平和のためにという思いを込めて、過去の悲惨な戦争の記憶を伝えたり、戦没者を追悼したりしているのに、そのことが逆に憎しみの連鎖を生み出す原因になってしまうのは、「加害者」側、「被害者」側の双方が「一〇〇%の加害者」「一〇〇%の被害者」という極端な考え方にとらわれているからなのではないか。 「平和のために戦争をする」という矛盾の根は、こういうところにあるのかもしれない。 過去の事実ではなく未来への意志 ではどうすればよいのか。それについては、一般的な責任問題を取り上げて先に述べたとおりである。戦争責任もやはり、過去に起きた歴史的事実をめぐる問題ではあるが、それ以上に、未来に対する意志をめぐる問題として考える必要がある。 そこで出てくるのが「未来志向」である。しかし、この未来志向という言葉は物議をかもしやすい。例えば、日本と韓国の間で歴史認識をめぐる議論をする中で未来志向という言葉が使われる場合、その意味するところは両者にとって大きく異なってくる。 韓国側にとって未来志向とは、「日本側が過去の歴史について侵略と加害の事実を認めたうえで」めざすべきものという意味になる。日本側にとって未来志向とは、「韓国側が過去の歴史について謝罪を要求するのをやめたうえで」めざすべきものという意味になる。 この場合、両者ともに、「正しい」歴史認識や、「明確な」責任というものが存在するはずだという錯覚にとらわれてしまっている。つまり、両者ともに未来志向という言葉を使いながら、「正しい」歴史認識という「過去志向」にとらわれている。安倍首相の米上下両院合同会議の演説では、議員たちの立ち上がっての拍手が14回を数え、日米の結束を見せ付けた(共同) 未来志向は過去志向とは考える順序が逆になる。過去志向では、過去にこのような事実があったからこのように認識するべきである、このような責任が「あるはずである、ないはずである」と考える。一方、未来志向では、責任が「あるのか、ないのか」という事実とそれをめぐる評価の問題ではなく、両国同士でどのような未来を創っていくのかというビジョンが先にあって、そのビジョンを実現するという目的のために過去の歴史に対する責任を「あることにするのか、ないことにするのか」という意志の問題になる。 次世代の党の和田政宗参院議員が提出した、村山談話における「植民地支配」と「侵略」の定義についての質問主意書に対して、安倍晋三内閣は二十七年三月二十日に「『植民地支配』及び『侵略』の定義は様々な議論があり、答えることは困難だ」とする答弁書を決定した。 定義は困難なのだから、戦争責任の有無も、謝罪すべきかどうかについても即座には答えられないということである。質問者としては大いに不満だろうが、この答弁書には不備がない。問題は「だったらどうするのか」というところにある。 「正しい」歴史認識に基づいて戦争責任の有無を決めることなど不可能だというのは、未来志向で考えていくための前提にすぎない。その前提に基づいて、どこにどれだけの戦争責任が「あることにするのか」を考えていくのが未来志向の姿勢なのである。 和田議員は、「植民地支配」や「侵略」の定義さえはっきりすれば、日本の戦争責任の有無も明確になるはずだという見通しのもとで、このような質問をしたのだろう。しかし、定義というものは、いかようにも設定し得る。だからこそ、定義自体の的確さや説得力よりも、どういう目的で定義するかの方が実は重要である。問われているのは、「侵略かどうか」という定義の問題ではなく、「侵略だったことにするかどうか」という未来に対する意志の問題なのである。隣国に対しどのような意志示すか隣国に対しどのような意志示すか ヨーロッパ諸国が過去の植民地支配について侵略性を認めず謝罪もしていないのに、なぜ日本だけが謝罪しなければならないのかという意見があるが、それはこの問題が個別具体的な隣国関係に関するものだからである。 つまり、韓国や中国が謝罪せよと現在も言い続けているからこそ、それに対して何らかの反応をしなければならないのである。日本が謝罪すべき侵略行為をしたかどうかという過去の歴史の事実そのものが問われているのではなく、今後、隣国とどのような関係を作っていくつもりなのかという未来に対する意志が問われているのである。それに反応したものの一つが村山談話である。 「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます」 この中の「疑うべくもないこの歴史の事実」という表現には疑問をもつ人がいるかもしれない。「疑うべくもないこの歴史の事実」が指し示す「植民地支配と侵略」とは、歴史的な「事実」を表すものではなく、一定の意志にもとづいて示された「評価」を表すものだからである。対日宣戦布告文書に署名するF・ルーズベルト米大統領。米国も70年前は徹底した排日思考に覆われていた… 歴史的な事実に対してはさまざまな評価が可能だが、この談話ではその中から「植民地支配と侵略」という評価(事実ではなく)を日本国の意志として選んだにすぎない。したがって、「疑うべくもないこの歴史の事実」という表現は、この談話の歴史認識の間違いを示すものではなく(もちろん、正しさを示すものでもなく)、「事実」という日本語の用法の間違いと理解した方がよい。 ともあれ、この談話は、時の政府の意志として日本に戦争責任が「あることにした」ことを示そうとしたものであって、客観的事実そのものを示そうとしたものではない。 そもそも、このように短い談話という形式の中に、詳細な客観的事実を盛り込んで表現することなど不可能である。したがって、この談話は、日本に戦争責任が「あることにする」ことが、未来の国際社会において日本と諸外国との関係をよりマシなものにするだろうという期待を込めた、未来志向的な判断に基づいて示された、当時の日本国としての意志であったと理解すべきである。 重要なことは、過去の歴史についての謝罪を要求してくる隣国に対して、「正しい」歴史認識を示すことではなく、未来に向けた日本国としての意志を示すことである。 戦後七十年を機にした首相談話において大事なのは、日本国としての未来への意志をどのように盛り込んだか、ということである。ベランダ栽培のインゲンの実り具合は…=広島市の自宅やまだ・かんと 昭和42年名古屋市生まれ。広島大学大学院修了(平成13年)、博士(学術)。韓国外国語大学などで非常勤講師。「日本語強制・朝鮮語抹殺」という側面でのみ語られがちな日本統治下朝鮮の実際について、講演なども行っている。著書に『植民地朝鮮における朝鮮語奨励政策―朝鮮語を学んだ日本人』(不二出版、平成16年)、著作に「植民地朝鮮における近代化と日本語教育」(日韓歴史共同研究委員会『第二期日韓歴史共同研究報告書(第三分科会篇)』 平成22年)、「『東海(トンヘ)』は『日本海』か?―朝鮮語と日本語の視点の差異」(山本真弓編『文化と政治の翻訳学』明石書店 平成22年)など。

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    日本人と共に戦った朝鮮人

    大日本帝国による韓国併合が「反日ナショナリズム」の淵源なのだろう。しかし、戦時中、少なからぬ朝鮮人が「日本と共に戦いたい」と入隊を希望したのも事実。朝鮮人としての誇りを忘れることなく、日本軍の一員として戦ったのだ。決して「強制」ではなかったことを知ってほしい。

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    不都合な歴史を直視しない韓国 日本人はいわれなき批判に反論を

    ヘンリー・S・ストークス(元『ニューヨーク・タイムズ』東京支局長) 韓国の人々は毎年、「光復節」(8月15日)が近づくと、まるで自国が第2次世界大戦の戦勝国のような言動を繰り返している。だが、間違ってはならない。朝鮮半島の人々は戦争中、日本人として連合国と戦ったのだ。靖国神社のご祭神にも多くの朝鮮出身者がいる。特攻隊として散華された方もいる。 韓国が独立したのは、日本からではない。朝鮮独立運動の結果でもない。日本の降伏(1945年8月15日)に伴って、朝鮮は自治権(=独立ではない)を得たが、翌月に進駐してきた米軍は自治権を認めず、軍政を敷いたのだ。韓国は48年8月13日、「米国の占領統治から独立させてもらった」というのが歴史的事実である。韓国の李承晩(イ・スンマン)初代大統領 世界文化遺産をめぐっても、事実誤認や嘘が多い。 先日登録が決まった「明治日本の産業革命遺産」をめぐり、韓国では「一部施設で朝鮮半島出身者が強制労働させられた」「強制徴用された韓国人(=当時、韓国という国はない)は200万人」という報道まであるようだが、これでは日本人の「韓国嫌い」が増えるだけだ。 そもそも、戦時下での労働力不足を補う「徴用」は、わが祖国・英国でも、米国でも行われた合法なもので、当然、賃金も支払われていた。朝鮮半島に国民徴用令が適用されたのは1944年9月から翌年8月の終戦までの1年弱だ。敗戦濃厚だった時期に、日本に朝鮮半島から200万人も連行するほどの海運力があったと思うのか。 慰安婦問題による、日本批判もいい加減、やめた方がいい。 米軍が44年、ビルマ(現ミャンマー)で朝鮮人慰安婦20人を尋問した報告書でも明らかなように、彼女たちは賃金を得ており「性奴隷」ではない。慰安婦にならざるを得なかった不幸な運命には同情するが、当時、公娼制度は合法であった。 朝鮮戦争の休戦(53年)後、在韓米軍基地近くの売春街(基地村)には、米兵ら相手の売春をしていた「米軍慰安婦」(ヤンコンジュ)がいた。韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領の父、朴正煕(パク・チョンヒ)元大統領の署名入りの文書記録が韓国国会で取り上げられたこともある。 週刊文春は今年3月、韓国軍がベトナム戦争中、サイゴン(現ホーチミン)に「慰安所」を設けていた-というスクープ記事を報じた。韓国紙「ハンギョレ」は翌月末、「腹立たしくはあるが反論しにくい」「韓国政府は今後、ベトナム当局との協議を通じて(中略)調査と後続措置に乗り出さなければならない」と報じたが、韓国政府はどう対応したのか。 私はこれまで著書に何度も書いているが、韓国も米国も国連も、日本を慰安婦問題で批判をできる立場にはないのだ。 日本人は、いわれなき批判には、断固反論しなければならない。(取材・構成 藤田裕行)ヘンリー・スコット・ストークス 1938年、英国生まれ。61年、オックスフォード大学修士課程修了後、62年に英紙『フィナンシャル・タイムズ』入社。64年、東京支局初代支局長に着任する。以後、英紙『タイムズ』や、米紙『ニューヨーク・タイムズ』などの東京支局長を歴任。著書に『英国人記者が見た 連合国戦勝史観の虚妄』(祥伝社新書)、共著に『連合国戦勝史観の徹底批判!』(自由社)など。

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    朝鮮語を「奪った」とは謬論だ 日本がハングルを学校で教えた

    藤岡信勝(拓殖大学客員教授) 日本の歴史教育では、小学生段階から日清戦争を扱い、日本はこの戦争に勝って清から賠償金を取り、台湾を日本の領土にしたことを教えているが、日本が日清戦争をたたかった真の目的を教えていない。 戦争に勝った国は、講和条約の最初の条文にその国が最も欲することを書き込む。日清戦争の戦勝国である日本が日清講和条約(下関条約)の第一条に書き込んだのは、領土でも賠償金でもなく、「清国ハ朝鮮国ノ完全無欠ナル独立自主ノ国タルコトヲ確認ス」という文言だった。日本が最も求めていたのは、朝鮮国の清国からの独立だったのである。なぜか。半島に自主独立国家を期待 欧米列強の脅威にさらされていた明治の日本は、自国の安全を確保するため、朝鮮半島に自主独立の近代化された国家が成立することを強くねがった。福沢諭吉は次のように論じた。 「いま西洋が東洋に迫るそのありさまは、火事が燃え広がるのと同じである。この火事から日本という家を守るには、日本の家だけを石造りにすればすむというものではない。近隣に粗末な木造家屋があれば、類焼はまぬかれないからである」 日本、朝鮮、清国という、お互いに隣り合う家屋の安全のためには、隣の家の主人を半ば強制してでもわが家に等しい石造りの家をつくらせることが必要である、というのが福沢の考えであり、明治政府の考えでもあった。近代日本の置かれた立場を理解させない歴史教育は教育の名に値しない。朝鮮語を「奪った」との謬論 李朝時代の朝鮮が「粗末な木造家屋」であったことは、朝鮮の外交顧問であったアメリカ人のスティーブンスさえ、日露戦争のあとで、次のように述べていたことからわかる。 「朝鮮の王室と政府は、腐敗堕落しきっており、頑迷な朋党は、人民の財産を略奪している。そのうえ、人民はあまりに愚昧(ぐまい)である。これでは国家独立の資格はなく、進んだ文明と経済力を持つ日本に統治させなければ、ロシアの植民地にされるであろう」 朝鮮の近代化は、日韓併合後の日本統治によって初めて実現した。日韓併合100周年に当たっての菅直人首相の謝罪談話を推進した仙谷由人官房長官は8月4日、日本の「植民地支配の過酷さは、言葉を奪い、文化を奪い、韓国の方々に言わせれば土地を奪うという実態もあった」と発言した。あまりの無知に開いた口がふさがらない。ここでは、日本が朝鮮人から「言葉を奪った」という官房長官の妄想についてだけとりあげる。2010年8月10日、日韓併合100年に関する首相談話の記者会見を終えた菅直人首相。右は頭を下げる仙谷由人官房長官(酒巻俊介撮影) 日本統治時代、朝鮮半島に在住した日本人は、人口の2%に過ぎない。2%の人間がどうして他の98%の人間から、土着の言葉を「奪う」ことができるのか。 仙谷氏は、日本統治下の学校で日本語が教えられたことを、誤って朝鮮語を「奪った」と一知半解で述べたのかもしれない。それなら、この謬論(びゅうろん)を粉砕する決定的な事実を対置しよう。 韓国人が使っている文字、ハングルを学校教育に導入して教えたのは、ほかならぬ日本の朝鮮総督府なのである。 李朝時代の朝鮮では、王宮に仕える一握りの官僚や知識人が漢文で読み書きをし、他の民衆はそれができないままに放置されていた。ハングルは15世紀に発明されていたが、文字を独占していた特権階層の人々の反対で使われていなかった。それを再発見し、日本の漢字仮名まじり文に倣って、「漢字ハングル混合文」を考案したのは福沢諭吉だった。先人の苦闘の歴史冒涜するな 朝鮮総督府は小学校段階からハングルを教える教科書を用意し、日本が建てた5200校の小学校で教えた。日本は朝鮮人から言葉を奪うどころか、朝鮮人が母国語の読み書きができるように文字を整備したのである。 併合当時、韓国の平均寿命は24歳だったが、日本統治の間に2倍以上に延び、人口の絶対数も倍増した。反当たりの米の収穫量が3倍になり、餓死が根絶された。はげ山に6億本の樹木が栽培され、100キロだった鉄道が6000キロに延びた。北朝鮮が自慢げに国章に描いている水豊ダムは、日本が昭和19年に完成させた、当時世界最大級の水力発電所だった。 これらのめざましい発展は、統治期間に政府を通じて日本国民が負担した、現在価値に換算して60兆円を超える膨大な資金投下によってもたらされた。本国から多額の資金を持ち出して近代化に努めたこのような植民地政策は世界に例がない。日本の朝鮮統治はアジアの近代化に貢献した誇るべき業績なのである。 日韓併合100年の首相謝罪談話は、このような歴史的事実を無視した虚偽と妄想の上に成り立っている。それは、わが国の先人の苦闘の歴史を冒涜(ぼうとく)するものであると同時に、日本統治下で近代化に努力した朝鮮の人々の奮闘をも侮辱するものであることを忘れてはならない。(※iRONNA編集部注:肩書き等は『産経新聞』掲載当時のものです)

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    日本人化の時代 「創氏改名」と「族譜」は関係なかった

    【20世紀特派員】隣国への足跡(19)(肩書き等は『産経新聞』掲載当時のもの)黒田勝弘(産経新聞ソウル支局長) 戦前の韓国(朝鮮)で生まれ育った作家・梶山季之の贖罪意識が反映した小説「族譜」は「創氏改名」をテーマにしたものである。小説としての評価や韓国での映画化のできばえはよかったが、問題の「創氏改名」については誤解があるとして専門家の間では評判がよくない。この誤解は日本統治時代の「創氏改名」(昭和15年から実施)の悪名ぶりを強調するあまり、現在、日韓双方にある。「皇軍兵士」に 映画「族譜」は「創氏改名」に抗議して自殺した人がいたという実話を素材にしている。自殺例は全羅北道高敞郡での一件だけが記録として残っているのだが、映画は「創氏改名」によって韓国人が先祖代々、自らの存在証明(アイデンティティー)として受け継いできた一族の系譜である「族譜」が断絶するかのように描いている。しかしこれは誤りだという。 まず「創氏改名」は戸籍に別途、日本式の「氏名」を新たに作るというものであって、個人が所持し維持してきた「族譜」はそのまま残ったし、韓国人が大事にしてきた金とか李とか朴といった「姓」も戸籍にはそのまま残された。つまり、実際は「創氏改名」と「族譜」は関係なかったのだ。 韓国(朝鮮)は昔から男系社会であるため妻は夫の家系に入ることができず夫婦別姓である。また子供は必ず夫の姓を受け継ぐ。したがって戸籍では夫と妻の姓が違い、夫や妻の母親もそれぞれ別姓で、同じ戸籍にいくつもの姓が混在している。しかも姓自体が二百数十しかないため三大姓の金・李・朴だけで何百万人もいる。 「創氏改名」は日本風の氏名、日本風の戸籍にすることで韓国人の家族観を変え、日本人にしようとしたものというわけだ。 日本が植民地の韓国(朝鮮)や台湾を含め、国家総動員体制で戦争に対処しなければならなくなった南次郎総督時代のいわゆる「内鮮一体」「皇民化」政策である。とくに「皇軍兵士」として韓国人を動員する必要性から日本人化が進められたともいえる。 韓国人にとって最も重要な家族-血縁に関する問題だけに当然、反発があったし、ごく一部だが自殺者も出た。「創氏改名」は法律による半ば強制、半ば自由意思という政策だったが、応じないと不利益をこうむるといわれ、さらに「時流」もあって韓国人の約8割が応じた。進む一体化 著名な文学者だった李光洙は昭和15年2月、「香山光郎」と「創氏改名」した際、その理由を次のように説明している。 「内鮮一体を国家が朝鮮人に許した。朝鮮人が内地人と差別がなくなる以外に、何を望むことがあろうか。したがって差別を除去するためにあらゆる努力をすることの他に、何の重大でかつ緊急なことがあるだろうか。(略)われわれの従来の姓名は、支那を崇拝した先祖の遺物である。地名や人名を支那式に統一したのは、わずか六、七百年前のことだ。すでにわれわれは日本帝国の臣民である。支那人と混同される姓名を持つよりも日本人と混同される氏名を持つ方が、より自然だと信じる」 李光洙は「同じ日本人」として差別排除を願って日本人風の氏名を選択したというのだ。朝鮮総督府 たしかに日本軍では韓国(朝鮮)人の上官の下で日本人の兵が動くという、西欧の植民地国では考えられないような「平等」ぶりも見られたが、李光洙の「願い」は5年後の日本の敗戦、撤退もあり結局、実現はしなかった。 余談だが、前述のように「族譜」は韓国では「創氏改名」とは関係なく維持され、人びとは数百年、ときには千年以上もさかのぼって祖先を意識しながら血縁・同族社会に生きている。しかし北朝鮮では1945年の解放後、共産主義化によってあの「日帝」もやらなかった「族譜」の全面廃棄ということをやっている。 韓国の歴史教科書を見ると、日本統治時代の末期にあたる1940年あたりから解放の1945年までがきわめて簡単である。「われわれはよくがんばった」という抵抗史観からすれば、このころはもう目ぼしい抵抗の歴史が見当たらないということだろう。 戦時体制下でそれほど日本との一体化が進み、日本への協力が進んだ時代ということである。当時、少年だった韓国人は今、六十代だが、彼らの多くは「あの当時、ぼくらはもう日本人になりつつあった」という。先に紹介した学徒兵出身の作家・韓雲史氏も「あのままいってたら完全に日本人になっていただろうね」という。99%日本人 ぼくは70年代の韓国留学時代、元日本軍出身だという行きつけの食堂のオヤジから「日本が戦争に負けていなければ自分は今ごろはアメリカのカリフォルニアの知事にでもなっているのに」と、まじめ半分、冗談半分の顔でいわれ驚いたことがある。 日本がアメリカを支配して自分も出世しているというわけだが、今回、日本統治時代に日韓同数の生徒で日韓共学をやっていたというソウルの名門高校・善隣商業を取材しようと、ある韓国人OBと会ったときもこんな話が出た。 あまりにも鮮やかな印象だったので紹介する。昭和19年(1944年)春、陸軍航空少年兵の募集があって、学校の上空に日の丸をつけた陸軍戦闘機「隼(はやぶさ)」3機が飛来して何回も低空旋回した。 生徒はみんな校庭に出て手を振った。その中の一機のパイロットが善隣商業出身の韓国人で、機上からしきりに手を振るのがはっきり見えた。この後、生徒たちはわれもわれもと少年航空兵に志願したが、実際に行けたのはわずかだった。この話の主は「あの時、ぼくらは99%日本人になっていたからねえ」といっていた。 日本の韓国併合は35年間続いた。これは一世代分である。1940年代の戦時中、壮年以下の韓国人は日本人化していた。 解放後の韓国で徹底した反日教育が行われたのもこうした背景がある。日本人になってしまったのを元の韓国人にするためには、日本を全否定する反日教育が必要だったのだ。いまなおマスコミや識者が一方で「日本に学べ」といいながら「反日」に熱心なのも、「日本人になってしまった」という過去の経験からくる不安のせいかもしれない。

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    分別ある人が黙る国はよくない 日本めぐる自由な言論空間を

    平川祐弘(東京大学名誉教授) 悪霊が豚にのりうつった。「すると又(また)一匹あらはれた。此(こ)の時庄太郎は不図(ふと)気が附いて、向ふを見ると、遥の青草原の尽きる辺から幾万匹か数へ切れぬ豚が、群をなして一直線に、此絶壁の上に立つてゐる庄太郎を目懸けて鼻を鳴らしてくる」 漱石『夢十夜』で庄太郎は七日六晩、杖(つえ)で豚の鼻頭を叩(たた)いて谷底へ落としたが、とうとう精魂が尽きて仕舞に豚に舐(な)められてしまった。 この話が新約聖書マルコ伝5章に由来すると世間は察したが、確証は得られない。寺田寅彦は明治末年ロンドンで「絶壁に野猪の群が駆けてくる絵」を見て漱石先生の夢の一節は此れだなと思ったが、さてどこの美術館かは忘れてしまった。そんな第十夜の発想源が、百年前はテイト・ギャラリーに展示されていたリヴィエアの一幅と突き止めたのは東大大学院留学中の尹相仁(ユン・サンイン)氏で、氏の『世紀末と漱石』は岩波書店から刊行されサントリー学芸賞を授けられた。 その『ガダラの豚の奇跡』が今回初めて日本で展示された(『夏目漱石の美術世界』東京藝大美術館、7月7日まで)。その折に尹博士と20年ぶりに久闊(きゅうかつ)を叙した。聞けばこの3月、ソウル国立大学校アジア言語文明学部の初代の日本専攻教授に就任したという。ソウル大で日本語が学術語に 「日本語がソウル大でも学術語としてついに認められたということです」「東大でも今は韓国語は第二外国語の一つ、韓国語を学ぶ者は今年は五十数人です」。尹教授と日本の韓国語専任教員が話している。日韓のわだかまりについて各国学生ともども話し合った。 平川「台湾でも李登輝総統が出てくるまで官立大学では日本語はご法度(はっと)でした。私は30年前、台湾の私立大学で東方語という名義で日本語を教えました」 尹「韓国では外大で1961年から日本語を教えだしました。日本語教授も日本関係学会も多い。しかし大学受験の外国語から日本語は排除され教育の権利を侵害されたと訴訟が起きたこともある。今度ソウル大に日本語専攻ができたことで韓国の学問世界でも日本語日本文化は市民権を得ました」 平川「植民地支配は二級市民を作り差別するから悪ですが、日本のように植民地に国立大学を造った国は珍しくありませんか」 尹「京城帝大は1924年創立、日本の6番目の帝大で大阪、名古屋の帝大より古い。3分の1が朝鮮人学生でした。ソウル大は1946年の創立、今年で67年目。李承晩大統領は京城帝大を出て総督府の官吏となった者も左翼運動に飛び込んだ者も憎んだ」京城帝国大学(Wikimedia Commons)京城帝大と台北帝大の違い 元台湾大学客員教授「韓国の人は京城帝大のことをよくいいませんね。台湾大学は先年、建学80周年を祝しました。日本が台北帝大を創立した1928年から数えてです。台湾の方は台北帝大を誇りにしています」 韓国人留学生「いや韓国でも出身者は京城帝大を誇りにしています」 平川「2005年に台湾大学は日語系の大学院が完成し、私も集中講義に招かれましたが、その時、私の恩師の島田謹二教授が戦前台北で教えていた教室で、私も教えるよう取り計らってくれました。台湾の人はおおっぴらに台北帝大を肯定しています。そうしたことは韓国ではあり得ないでしょう。ただ日本の台湾統治と朝鮮統治と同じに論じてはいけない。中国にとって化外(けがい)の地であった台湾と違い、朝鮮は一つの文明で長く王朝も続いた。その朝鮮全体を奪うことは民族の誇りも奪うことになったから反日感情も強かった」 尹「京城帝大の日本人の先生にはよい思い出ももっています」 だが、個人的によく思っていても、後難をおそれ公然と口に出せない雰囲気だとすると、韓国のお国柄はやはりきついな、と私は考えた。第二次大戦前夜、日本の新聞は無闇(むやみ)に反英を煽(あお)った。日本の要人が釈明して英国大使館のサンソム参事官に「日本人は個人的には英国に対しよい感情をもっている。しかし分別のある人は今は黙っているのです」と言った。するとサンソム氏は「真面目で分別のある人が黙るような国は到底いい状態にあるとはいえませんよ」と答えた。事実、悪霊に取りつかれた群のように日本人は亡国の断崖に向かって駆けた。そんなことも思い出された。日本めぐる自由な言論空間を 尹教授は「漱石と同様、自己本位の立場で日本研究を進めます」と話を結んで拍手を浴びた。かつての日本には研究対象国に惚(ほ)れ込み毛礼賛に走った中文の教授もいた。近頃は逆に嫌中・嫌韓の人もいる。動は反動を生む。北京やソウルで日本について分別のある発言が難しくなれば大変だ。韓国における日本論や日本研究は今後どれだけ自由な(或(ある)いは不自由な)言論空間の中で発展することか。 最後に司会が、京城帝大や台北帝大の功罪を3カ国・地域の関係者が一堂に会して論ずると、客観的な歴史認識が出るのでないかと示唆した。良い提案に思われた。ひらかわ・すけひろ 1931(昭和6)年東京都生まれ。1953(昭和28)年、東京大学教養学部教養学科卒業。フランス、ドイツ、イタリアに留学し、北米、中国、台湾などで教壇に立つ。平成4年、東京大学名誉教授。著書に『和魂洋才の系譜』(平凡社)、『アーサー・ウェイリー「源氏物語」の翻訳者』(白水社)、『ダンテ「神曲」講義』『西洋人の神道観』『日本の正論』(河出書房新社)、『竹山道雄と昭和の時代』(藤原書店)『市丸利之助伝』(肥前佐賀文庫)、『日本人に生まれて、まあよかった』(新潮新書)等多数。

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    李承晩ラインで日本漁民が味わった塗炭の苦しみ 射殺、餓死…

     日韓関係の悪化について、韓国側は「日本の右傾化が原因」「加害者と被害者の関係は1000年経っても変わらない」などと、一方的に日本を批判している。だが、歴史を振り返ると、韓国はこれまで、日本に理不尽かつ非道な行動・対応を取り続けてきた。韓国が口を閉ざす「理不尽な真実」について、元大手商社マンで日韓問題研究家の松木國俊氏が迫る。 「李承晩(イ・スンマン)ライン」。それは、日本の主権回復を承認するサンフランシスコ平和条約発効直前の1952年1月、韓国が海洋資源を独占し、領土を拡張するため、島根県・竹島を取り込んで、一方的に公海上に引いた軍事境界線・排他的経済水域である。2012年8月、竹島を訪問した韓国の李明博大統領(当時)(聯合=共同) いかなる国際法を持っても正当化できるものではなかったが、日本政府は憲法第9条などに縛られて手も足も出せなかった。これより13年にわたって、日本漁民は、韓国警備艇による射殺、体当たり、拿捕(だほ)、抑留、餓死という塗炭の苦しみを味わった。 日韓漁業協議会発行の『日韓漁業対策運動史』に、当時の詳しい記録が残っている。韓国の暴虐を風化させないため、あえて、その悲惨な過去を振り返ってみる。 韓国警備艇は、李承晩ラインの外側を航行中の日本漁船にまで見境なく襲い掛かり、罪のない日本漁民を拿捕して釜山港へ連行した。棒でたたくなど残虐な拷問を加え、自白を強要し、文明国では考えられない人権を無視した一方的な裁判で判決を言い渡した。 獄中生活は悲惨を極めた。雑居房には20人前後が押し込められ、手足だけでなく体も重ねあわせて寝なければならなかった。食事の不潔さは言語に絶し、カビの生えた麦、腐敗した魚は度々で人間の食べる物ではなかった。ほぼ全員が栄養失調状態となって死線をさまよい、ついに餓死者まで出たのだった。 54年以降は、「刑期」を終了した者さえ釈放せず、韓国側は抑留者を「人質」にしてさまざまな要求を日本に突き付けてきた。帰国の希望を奪われた抑留者は、肉体的にも精神的にも限界を超え、狂乱状態になるものもあったという。残された家族にも、重い経済的、精神的負担が発生した。堪えかねて精神を病み、自殺した妻もいた。 日本漁民を守るべき海上保安庁の巡視船は「不測の事態を避ける」という理由で砲を撤去させられていた。拿捕されそうな日本漁船を救出するため、丸腰で韓国警備艇との間に割り込み、自ら銃弾を浴びながら漁船を逃す以外になかったという。 65年に日韓基本条約や請求権・経済協力協定、日韓漁業協定が締結されるまでの間、韓国の不法拿捕により抑留された日本漁民は3929人、拿捕時の攻撃による死傷者は44人、物的被害総額は当時の金額で約90億円にも上る。 にもかかわらず、韓国は現在に至るまで一言の謝罪も補償もしていない。それどころか、朴槿恵(パク・クネ)大統領は高飛車な態度で、反日発言を続けている。日本人は、韓国の非道な行為で無念の死を遂げた同胞のことを、決して忘れてはならない。 ■松木國俊(まつき・くにとし) 1950年、熊本県生まれ。73年、慶応大学を卒業し、豊田通商に入社。直後から韓国担当を務め、80~84年、ソウル事務所に駐在する。秘書室次長、機械部次長を経て、2000年に退社。松木商事を設立する。韓国問題を長く研究しており、「慰安婦の真実国民運動」幹事長。著書に『ほんとうは、「日韓併合」が韓国を救った』『こうして捏造された韓国「千年の恨み」』(ワック)など。

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    日本が「領土問題」訴える好機だ

    をしていることに問題がある点を、米国が理解していないのは公正さを欠く。 米国が日韓に公正に対処すれば日韓関係の改善に役立つし、結果として法の支配に基づく日本外交に自信と威厳を与える。(にしはら まさし) 

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    失われつつある領土「竹島」

     島が見え出すと、韓国人の観光客は大型客船のデッキに集まり、歓声を上げて一斉にカメラのシャッターを押した。大衆歌謡「独島はわれらの土地」の大合唱が青くすんだ海に響く。 緑の木も、白い砂浜もない。焦げ茶色の絶壁がそそり立つ。文字通り、とりつく島のない岩山だった。 産経新聞社ソウル支局長の黒田勝弘は昨年秋、韓国人観光客に交じって、日本と韓国のほぼ中間の日本海に位置する日本固有の領土である竹島(韓国名・独島)の取材に訪れた。 島にへばりつくように、コンクリート建ての警備隊宿舎やヘリポート、レーダー施設が建つ。孤島の軍事要さいだ。長さ八十メートルの防波堤などの建設も進む。 竹島が「岩か、島か」という論争がある、という話を黒田は思いだした。 「やはり、岩だな」□■□ 昨年2月。政治家になって一日も休んだことのない自民党政調会長の山崎拓は、都内のホテルで、突然の休日にぼうぜんとした。 与党訪韓団が出発前日になって入国を拒否されたためで、外交上は異例。韓国が彼らの言う竹島の実効支配を強める形でふ頭建設を進め、外相の池田行彦が抗議をしたのがきっかけだった。島根県隠岐の島町の竹島沖の日本領海を含む海域で射撃訓練をする韓国海軍(聯合=共同) 「実効支配」。実際に自分のものとして確保していることを示す言葉で、領土紛争では、実効支配の有無が決定的な意味を持つ。 「この騒動を機に竹島の資料を復刻しよう」。東京・中野のエムティ出版社長の新岡和幸は、国立公文書館の内閣文庫から外務省資料「竹島考証」を取り寄せ、復刻作業に入った。 明治14年、政府の命令で北沢正誠がまとめた数少ない竹島研究書の一つ。新岡のところに、在京の韓国大使館員を名乗る男性から意外な電話が入った。 「竹島に関する本を出版されると聞いた。出版する前に見せてください」 「事前検閲か。書店に出てから買ってください」 新岡が突っぱねると、抗議の手紙もきた。「韓国の領土について日本人が本を出すのは困る。出版は天につばする行為だ」□■□ 自民党のある外交調査会メンバーが最近、顔を寄せてひそひそ声になった。 「昨年11月の日韓外相会談の中に、極秘の内容があるらしいぞ」 韓国側が竹島上空に軍用機の常設訓練空域を設定すると通告したため、池田が抗議して撤回させ、「このやりとりは公開しないことにしたい」と封印してしまったというのである。 外務省側はこれを否定する。メンバーは「領土問題は世論が大切なのに、外務省は自分たちが管理しているつもりになって、結果的に竹島を国民の目から遠ざけている」と批判する。 今年4月の自民党幹部との懇談の席上だった。首相の橋本龍太郎が酒の酌をして回ると、「日米安保条約は竹島には適用できない」とする池田の国会答弁が、ある議員と話題になった。 「隣に座って聞いていたが、私も少しひやっとしたんです」。外務官僚が用意した池田答弁だったが、橋本はこう受け止めた。□■□ 昭和53年5月。韓国の閣僚が車の中で、自民党訪韓団の衆院議員、相沢英之に語りかけた。 「水もないし、人も住めない島です。両国の船で出かけていって、砲撃して島を爆破しましょうか」 「そうしましょう」 二人は笑い合った。韓国政府は領海十二カイリを宣言する一方で、竹島周辺で島根のイカ釣り漁船のだ捕を続けていた。 相沢らの強い抗議を受けて、閣僚らは「警備艇がきたら逃げてくれ」と述べ、事実上、だ捕しない方針を非公式に伝えた。 同行者は「当時は、まだ韓国が経済的に自立する前で、韓国にとって日本は『憎いが頼もしい国』だったからね」と回顧する。□■□ 韓国の教科書に、こんなくだりがある。「日本は我が国を侵略する時、独島を強奪。露日戦争の時、強制的に日本領土に編入してしまった」(『国史 中学校 下』=一九九〇年) 竹島は独立と抗日運動のシンボルである。韓国は今や、外交上の「竹島カード」も獲得しつつある。 日韓漁業交渉は国連海洋法条約に基づき、天然資源の開発・利用権も持つ排他的経済水域の線引きが焦点だ。だが、竹島の領土問題が明確でないため、線引きが困難になっている。 早々と原則論を放棄して問題の「棚上げ」を主張する日本側に対し、韓国側は線引きによる漁民の利益減少を恐れ、原則論を言い続けて交渉を長引かせる。 竹島は「実効支配」を現在進行形で失いつつある領土といえる。(敬称略、肩書、日付など当時のまま)〈メモ〉 竹島は島根県隠岐島の北西157キロ。東島、西島と呼ばれる二つの小さい島と、周辺の岩礁からなる。総面積は0・23平方キロ。アワビ、サザエなど海産物の宝庫といわれる。日本では過去に「松島」の名称で呼ばれた。明治38年、島根県告示で竹島を島根県に編入し、領有の意思を明確にした。韓国は昭和27年に李承晩ラインを設定、竹島を韓国領に含めた。40年の日韓基本条約では、「竹島を平和的に処理する」との交換公文を締結。52年、日本は韓国周辺海域を除外して12カイリの領海法を施行したのに対し、韓国は53年、竹島周辺にも12カイリの領海を設定した。63年には韓国漁民が竹島に移住し、平成7年に船の接岸施設を建設。「竹島をめぐる領土紛争を契機に日韓が全面戦争に突入する」というストーリーの映画も韓国で公開されるなど、韓国世論は沸騰している。

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    韓国「竹島不法占拠」の歴史 日本人の死傷者44人

     日本の領土でありながら韓国が実効支配する竹島。韓国はいかに占拠を進めていったのか、その歴史を振り返る。 第2次世界大戦後、竹島は韓国による不法占拠への道を辿る。 1952年1月、韓国の李承晩大統領が一方的に軍事境界線(いわゆる李承晩ライン)を引き、竹島の領有を宣言した。それ以前に韓国は、サンフランシスコ平和条約の起草に際し、アメリカに「日本が放棄する領土に竹島と対馬を含めよ」と要求していたが、アメリカ側は「これらの島が朝鮮の一部として取り扱われたことは一度もない」と却下。そのため、韓国は52年4月のサンフランシスコ平和条約発効に先立ち、国際法を無視し、一方的に領有を宣言したのである。「日本郡國一覧」。地図の中央上部に記された「竹島」「松島」 この当時、なぜ韓国は竹島を欲したのかというと、朝鮮戦争の最中で(53年7月に休戦)、北朝鮮に海から侵攻される危険があり、日本海を監視するためだった。 当然のことながら日本はこれに反発し、53年6月に島根県は隠岐島漁業協同組合連合会に共同漁業権の免許を与え、島根県と海上保安庁が共同で竹島を調査し、韓国人6名を退去させ、領土標識を建てた。 しかし、韓国は54年に竹島に海洋警察を上陸させ、不法占拠を開始。それと前後して、竹島近海で操業している日本漁船に対して、銃撃や拿捕を繰り返すようになったのだ。 まず53年2月、韓国・済州島付近で操業していた第一大邦丸が韓国海軍に銃撃・拿捕され漁労長が撃たれて死亡する事件が起きた。同年7月には、海上保安庁の巡視船が竹島に上陸していた韓国の官憲から発砲され、船体に被弾した。 日韓漁業協議会の調べでは、65年に日韓基本条約と漁業協定が締結されるまでに、拿捕された日本の漁船は328隻、抑留された船員は3929人、死傷者は44人にのぼる。損害額は当時の金額で90億円を超えたとされている。 島根県竹島資料室の杉原隆氏はこう語る。 「当時は竹島の不法占拠は国会でも大きな問題になり、日本政府は韓国に抗議もしていた。国際司法裁判所への提訴も提案したが、韓国に断わられ断念した。日本側には外交的に解決できるという予断があったのでしょう。最終的に、日韓の国交回復が優先され、竹島問題は先送りされ、それ以降、竹島問題は腫れ物に触るかのような扱いで、うやむやにされたままなのです」 71年に、隠岐島の漁業組合は島根県選出の竹下登官房長官(当時)に竹島漁業再開の嘆願書を提出したが、何も回答はもらえなかった。関連記事■ 尖閣諸島狙う中国 韓国による竹島占拠の手法を現在学習中■ ポルトガルの世界遺産に隣接する世界地図に「独島」の落書き■ 竹島の日本人漁師の写真あるも大メディアはこの事実を報じず■ 竹島に本籍置く人79名 「日本領土の証明になる」の思いから■ 韓国の嘘バレる日迫る今こそ手を差し伸べる包容力見せるべき

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    前駐韓大使がここまで語った韓国への諫言

    は深刻です。韓国と長く付き合って愛情を感じ、もっと韓国を知り、理解すべきだと提言してきた結果がいまの日韓関係であり、みんな韓国の現状に気落ちしている。大使も同じことを感じられ、このままでは大変なことになりますよと韓国に伝えたいという衷情がこの本に表れています。「勇敢な憂韓の書」ですよ(笑い)。武藤 この本を書いたことで、日本でも韓国でも私は批判を浴びるでしょう。それも覚悟の上です。日韓関係が急速に悪化した今、私の意見を率直に述べ、皆さんの議論の出発点とすることが、必要なのではないかと考えました。日韓関係のルールを変えないともはや収まらない状況になってきていると思います。韓国には反日はやめ、日韓関係を客観的に見てもらう必要があります。日本に改めてほしい点も書いていますが、韓国からすると厳し過ぎると感じられる点は多々あるでしょう。 韓国についていま感じていることから始めます。第一に、韓国は相変わらずだな、という点。「日本は歴史認識を改め、過去を反省せよ」「日本は右傾化、軍国主義化している」と言い続け、現実を理解しようとしない。 第二は、行きすぎた反日です。たとえば2011年8月に出された慰安婦問題をめぐる韓国憲法裁判所の判決です。韓国政府が対日賠償請求問題に具体的に取り組んでいないのは憲法違反であるという内容で、これ以降、韓国政府が改めて日本政府の責任を問い始めました。日韓基本条約と同時に締結された請求権・経済協力協定で日韓間の賠償問題は完全かつ最終的に解決しています。にもかかわらず司法の最高機関が、国交正常化の合意を無視して、国民感情を体現した判断をしたのです。 そして、ソウルの日本大使館前の慰安婦像です。つくったのは、慰安婦問題に長年取り組んできた「韓国挺身隊問題対策協議会」(挺対協)です。韓国政府は発足当初から挺対協に対して何も言えませんでした。 朴槿惠大統領は就任以来2年余り、日本の取り組みによる慰安婦問題の解決、進展が日韓首脳会談を行う前提だと言ってきました。しかし、安全保障問題で鋭く対立している国と国との間でさえ首脳間の対話は続けています。友好関係にあるはずの日韓の首脳が、一つの問題のため対話しないのは国益に反する。李明博前大統領が竹島に上陸したり、陛下に極めて非礼な発言をしたりもしました。これも従来なら考えられなかったことです。 三点目は、政治、メディア、一部NPOなど声の高い人の反日感情が、一般国民の意識から乖離してひとり歩きをしていること。一般国民の対日感情はそれほど悪くはありません。四点目は、今は韓国の反日よりも日本の嫌韓のほうが強くなっている、ということです。こちらも手当てしないと日韓関係は良くならない。挺対協に振り回される韓国政府黒田 二国間関係の最大の障害になっている慰安婦問題からみていきましょう。この問題は、日本政府が河野談話を出し(1993年)、元慰安婦の女性たちに償いと謝罪、支援をする「女性のためのアジア平和国民基金」(アジア女性基金)を官民共同で創設(1995年)したことで解決するはずでした。ところが、あくまで日本の国家としての謝罪と賠償を求める挺対協が納得せず、結果的に国民世論も同調し、それに押された政府も日本への非難、要求を蒸し返した。この本にも、韓国で日本のアジア女性基金の取り組みが挺対協によって後退させられていくプロセスが詳しく書かれていて、韓国政府が挺対協に振り回されてきたと指摘されています。 なぜ挺対協という一運動団体に政府が振り回されているのか。そこには、韓国社会の変化、あるいは国家状況の変化があると私は考えています。韓国は“NGO国家”つまり“非政府国家”になってしまったということです。とくに左派系NGOが影響力を拡大した盧武鉉政権の時代から国家より個人が重要という社会的雰囲気になりました。官と民の力関係が変わって、官が民をコントロールできなくなってしまっている。武藤 私も同じ問題意識を持っています。いわゆる「三金」、金泳三、金大中、金鍾泌氏のような実力者がいた時には、政府の野党対策も比較的容易だった。 挺対協に話を戻しますが、彼らは、一部にあったかもしれないことが一般的であったかのように誇張し、慰安婦問題を国際社会にアピールしてきました。その事実関係の過ちが明らかになれば、問題解決の契機になると私は考えています。 韓国内でもそのことを分かっている人はいますが、声を上げると社会的に抹殺されかねません。実際、『帝国の慰安婦』という本を読めば、挺対協の事実主張の誤りが分かりますが、この本は挺対協の支援を受けた元慰安婦の女性らの申請で発禁となり、著者の朴裕河・世宗大学校日本文学科教授が名誉毀損で刑事告発されています。朴裕河さんは真剣に日韓の和解を追求している学者です。その人の書が正当に評価されないのが今の韓国です。 ただ彼らにも弱みがあります。彼らは、日本が元慰安婦の女性たちに償いと謝罪、支援をするため官民一体で1995年に立ち上げたアジア女性基金について、「日本政府の賠償責任を回避するためのまやかしだ」として全面否定し、元慰安婦の女性たちに受け取りを拒否させ、当初受け取った7人の元慰安婦たちに対して嫌がらせをしました。それが「元慰安婦を支援する組織」のやることですか。 その後さらに54人がアジア女性基金の償い金を受け取りました。これは元慰安婦の立場を考慮し公表されませんでしたが、この時受け取っていれば、おばあさんたちにとって、より安らかな老後だった筈です。 日本が、アジア女性基金のやり方や挺対協の妨害行為についてうまく情報発信をすれば、挺対協が盛んに運動しているアメリカでの評価も変わるでしょう。挺対協の主張する事実関係の誤りが理解され、挺対協に対する支持が弱まれば、彼らに扇動されている格好の韓国社会の状況も変わるのではないでしょうか。黒田 しかし、アジア女性基金式の解決策は、本誌の読者には受け入れられないかもしれません(笑い)。その読者の怒りに火に油を注ぐようなことを敢えて申し上げますが、私自身は、慰安婦問題で改めて外交決着をすべきだと考えています。第一次が河野談話、第二次がアジア女性基金で、第三次外交決着です。 そこで課題となるのは、NGO国家となった韓国が、もう一度国家としての権威を取り戻して、日本と外交決着を図る意志を持てるかどうかです。朴槿惠大統領は、世論の大反対を戒厳令を敷いてまでして押し切って日韓基本条約を締結した父親の朴正煕大統領のように「歴史が判定してくれる」と決断できるのか。 慰安婦問題の解決に向けての一番の障害である挺対協ですが、日本は国家的、法的な責任を認めろというのが彼らのコアな主張です。韓国の外交当局者も本音では、それは無理だということは分かっていますが、猛烈な批判を恐れて声を上げることができない。 しかし、その挺対協も韓国内で孤立しつつあるんです。アジア女性基金への妨害行為で、彼らの運動が本当に元慰安婦のおばあさんたちのためのものなのかと、朴裕河教授らが問題提起し運動を始めている。日本が受け入れられないような強硬な主張をすることでおばあさんたちの救済を遅らせているのではないか、という批判が出はじめているのです。 そうした真っ当な考え方が挺対協の強硬な主張を押し切れば、韓国政府も、人道的、道義的責任において対処するという日本にも可能な範囲での取り組みを受け入れる名分が立ちます。朴大統領も「おばあさん方は余命いくばくもないから、早期に温かい配慮を」と言ってるわけですから。そうなれば、日本の外交当局者も頭がいいから、いろいろなアイデアを出してくると思います。 日本の世論は新たな外交決着に簡単には納得できないかもしれません。河野談話にしてもアジア女性基金にしても、解決のためとはいえ事実でない強制連行を認めるような形になったり謝罪を繰り返したりしたことで、逆に事態の悪化を招いていると多くの日本人は見ています。今回改めて謝っても、さらに事態を悪化させるだけではないかという懸念は消えない。武藤 私は挺対協の主張は論外だと思います。彼らの言うラインでの解決などあり得ません。韓国は、日本との関係においては、倫理的、道徳的に優位に立とうとします。しかし、いったん韓国側の論理を否定し、その誤りを正したうえで、日本人としての気持ちを示すということであれば、日本が道義的に上位に立つことになり、韓国は二度とこの問題を提起できません。そういう形であれば、日本国民もやむを得ないと考えてくれるのではないでしょうか。 いわゆる歴史教科書問題についての宮澤官房長官談話(昭和57年8月)でも、「(日本)政府の責任において(教科書の記述を)是正する」と書かれています。韓国や中国から批判されたのではなく、日本の判断で取り組むのだと明確にしています。前駐韓日本大使の武藤正敏氏黒田 近隣諸国条項ですね。ですが大使、近隣諸国条項も本誌の読者には、自虐史観的教育を蔓延させたと思われています。むしろ「自虐史観に染まった外務省が近隣諸国条項を主導した」と思うでしょう。あれは韓国とはコトを荒立てないという、過去の事なかれ外交の典型例でしょう。武藤 私は歴史問題について、韓国の主張する歴史認識に日本が妥協するのはもう止め、お互いに客観的事実を探究していくべきだと考えています。それが日本国民の嫌韓感情に応える道だと思います。今までのやりかたは日韓関係にプラスにならないと思っています。黒田 なるほど。日韓が膝を詰めて議論をしてもなかなか出口は見えてきません。問題自体が国際化していて、国際世論を味方に付けることも重要です。その国際世論を動かせれば、挺対協を孤立させ、当事者能力を失わせることは可能だと思います。 そのうえで、拡大版の女性基金を構想するのはどうでしょうか。アジアではなくて世界女性基金。安倍首相も国連やアメリカで女性の人権問題を取り上げています。その観点を入れて、紛争地域や戦地における女性の人権保護、あるいは将来に向けての女性の人権保護拡大といったように問題を拡大する。その趣旨の中に、過去の教訓として慰安婦問題を入れ込めば、国際世論を日本の味方にできるのではないでしょうか。脱北女性の問題を入れてもいい。武藤 狭義の強制性はなかったのだという議論がありますが、強制性を日本が否定して国際的には理解を得られませんでした。黒田さんがおっしゃったような解決策を提示する一方で挺対協のアジア女性基金に対する歪んだ姿勢や、事実主張の誤りを国際社会に説得していけば、間接的な形ではありますが、強制性に関する日本の主張を理解してもらえるのではないでしょうか。メディア発信を強化せよメディア発信を強化黒田 慰安婦問題で新たな外交決着案を考えることに、日本の世論が「またか」と懸念するのはこれまでの経緯からすると当然だと思います。ただ今後、さらに問題が蒸し返されて第四次、第五次決着という事態になっても仕方がないと思う。外交は相手があることですから。韓国は実にやっかいな相手ですが。武藤 これまでとの違いを明確にしたうえで決着させることが大切です。第一次、第二次は韓国政府から言われてやったという側面があった。しかし、挺対協には多くの事実認識の誤りがあり、第二次決着も妨害した。そのことを日韓双方で確認したうえであれば、第一次、第二次とは質的に違う決着が可能ではないでしょうか。 ここまで日韓関係が悪化した以上、いったん関係を見つめ直して新たな次元のものにしていくべきです。この本の趣旨もそこにあります。日本が言うべきことは言い、韓国にもすべて自分が正しいと考える姿勢を改めていただく。いまのままでは対立は収まらないし、日本としても納得できません。 彼らには自分たちの主張が国際社会では評価されていないと悟ってもらうことが大切です。だからこそ、挺対協の誤りを各国に理解してもらう努力が必要になってくる。今度の安倍総理のワシントンでの上下両院合同会議の演説は、韓国が要求していた慰安婦問題での謝罪はなかったのに、おおむね好意的に評価されていますね。黒田 ええ。韓国マスコミは批判の声ばかり伝えてましたが。武藤 中国でさえ、韓国のような大々的な批判は避けている。韓国は慰安婦問題で、朴槿惠大統領を先頭にいわゆる「告げ口外交」をあちこちでやって、各国を自分の味方に引きずり込むことで日本に圧力をかけようとしてきました。しかし、それが効果を上げていないことが分かれば、自らも姿勢を見直すでしょう。黒田 日本側の主張が韓国でなぜまったく理解されてこなかったのか。私は以前から、日本政府や外務省のアピールや取り組みが不十分だと思っていました。韓国を刺激してはいけないという事なかれ主義に日本の過去の対韓外交は縛られていた。武藤 外務省も日本の立場を主張してきました。しかし、韓国は自分たちよりの発言をする、いわゆる「良心的日本人」の言うことを取り上げ、一方的に日本は誤っているとの論理を作り上げますから、馬耳東風なのです。黒田 しかし、その日本の事なかれ外交もすでに過去のものになったと思います。一つは民主党政権が政治主導を言い出して、外務省から外交の主導権を奪ったうえで、財務大臣だった安住淳氏が「対韓制裁」という言葉を使いました。日本の政府高官が韓国に「制裁」という言葉を使ったのは歴史的に初めてですよ。 そして現在の安倍政権になって、対外発信に予算を随分とつけるようになった。韓国メディアでは最近、日本が対米世論工作やロビー外交に力を入れていて、韓国の脅威になっているという報道が目立ちます。俺たちも負けずにやるべきだというんですね。 ですから、政治の姿勢は明確に変わった。官も、武藤大使の時代から、韓国のメディアに対して言うべきことは言うようになったのも確かですしね。武藤 ええ、報道内容に事実関係の誤りがあれば、きちんと指摘するよう取り組んできました。ただ、訂正記事が載ることはなかった。反論を載せろといっても応じなかった。そこで大使館のホームページに載せたりはしました。ただ、論評記事は言論や報道の自由の範疇ですからコメントはしませんでした。 メディアに抗議しても直接的な効果はあまりなかったのかも知れません。ただ、うるさいなとは思われたでしょう。それが報道の自制を促すよう今後も強化していくべきです。メディアだけではなく、有識者に対してもいろいろと言い講演でも言いましたが、「大使は全て韓国が悪いと言うのか」という反発が返ってくるだけでした。黒田 分かります(笑い)。今回の安倍首相のアメリカ議会上下両院合同会議での演説も、早く韓国語にして韓国社会に発信すべきではないでしょうか。英語と日本語はあっても韓国語がない。それから昨年政府が公表した河野談話の作成経緯の検証報告書も韓国語で発信していただきたい。報告書を韓国の普通の人が読めば「日本も一生懸命やってきたんだ」と分かるはずです。武藤 非常に重要な指摘ですね。外務省に言っておきます。ホームページに載せてもいい。黒田 河野談話の検証報告書には、61人がアジア女性基金の償い金を受け取ったことも掲載されていますしね。これは韓国人にはぜひ知らせるべきです。武藤 その点がもっと大きく報道されれば良かったと思います。意図的な「日本隠し」こそ歴史歪曲黒田 大使がこの本で強調されている一つが、国交正常化以降、日本が韓国に対して行った協力が韓国ではまったく知られていないという問題です。武藤 黒田さんの本を少しクオートさせていただきました(笑い)。黒田 その点は昔から大使と意見が一致しています。彼らが知らないふりをするなら、日本がアピールして韓国民に知らせるしかない。日韓の国交正常化50年は、先日のオバマ大統領ではありませんが「お互いさま」の歴史であり、韓国にとってもプラスがあった。その事実が韓国社会に知られていたら、日本は非情な国で過去をまったく償ってないという誤解や反日感情は生まれなかったかもしれません。武藤 私は1975年に韓国に行き、韓国語研修のあと大使館で経済協力を担当しました。当時、日本は請求権・経済協力協定に基づくもの以外にも、毎年の定期閣僚会議を通じて新たな経済協力を実施していました。しかし、他の国々の協力は報道されましたが、日本の協力は報道されませんでした。あってもベタ記事程度。 私は、国務総理や外交通商部長官らに大使離任の挨拶をしたときに、こう言って回りました。「私はなにも韓国に感謝しろと言うつもりはない。ただ日韓関係を改善させたいなら、日本が韓国に対して誠意をもって向き合ってきたことを韓国の人々に知らしむべきではないか。それは韓国の国民感情を和らげ、対日外交をやりやすくするはずだ」。みな嫌な顔をしていましたね。黒田 このほど外務省のホームページで、戦後の日本のアジア各国への協力がアジアの発展に寄与したことを説明する「戦後国際社会の国づくり:信頼のおけるパートナーとしての日本」という約2分間の広報動画を、韓国語を含む10カ国語で流し始めたところ、すぐ朝鮮日報が「新たな歴史歪曲だ」と1ページもの特集を組んで非難キャンペーンをしました。さきほど日本の経済協力が「知られていない」と言いましたが、実態は「日本隠し」です。韓国は意図的に隠してきた。日本の支援・協力を否定することこそ歴史歪曲ですよ。 そのことが分かるのが、教科書の記述です。約10種類の高校の近・現代歴史教科書のうち、日本の経済協力に触れているのは1点のみ。それも1行です。しかも保守派の教科書だとしてバッシングされ、採択したのは全国約2400校のうち僅か3校です。 しかし実は、ある種の過去の償いの象徴である日韓国交正常化時の対日請求権資金、無償借款3億ドル、有償借款2億ドルの対韓経済協力資金はどのように使われたのか。韓国政府が1976年にまとめた「対日請求権資金白書」という500ページを超す報告書に克明に書かれています。釜山―ソウル高速道路や浦項製鉄所はもちろん、あらゆるインフラ建設に使われ、しかも個人補償にまで使われたことが記録されている。 この白書はぜひ復刻されるべきだと言って回っていたら、ソウルの日本人会(SJC)が複製してくれました。韓国語ですし、是非韓国人に読んでほしい。武藤 そうした事実を公にできないことが、韓国の問題でしょう。自分たちの考える正しさに沿ったものしか受け入れられない。結局、韓国の人たちに日本がらみの事柄を客観的に知ってもらうためには、当面は国際社会を絡ませることが有効でしょう。最初は反発するでしょうが、いずれ自分たちの主張は「大丈夫かな」という意識が出てくる。そこが出発点だと思います。黒田 日本の支援・協力が韓国の現在の発展につながったというのは韓国を除く世界中の常識なんですがね。武藤 そのためにも日本は感情的なことを言わずに冷静に対応して、韓国の側に問題があると国際社会に理解してもらうべきです。黒田 アメリカに言ってもらうのがいちばんいい。武藤 シャーマン国務次官が今年2月、歴史問題をめぐる日本と中韓の対立で、「指導者が旧敵国を非難することで国民の歓心を買うのは簡単だが、そのような挑発は機能停止を招くだけだ」と発言したことに韓国は大きく反発したのは相当に気にしていることの表れです。黒田 アメリカ当局者も、日本を歴史問題で攻撃して日米韓の関係を揺るがす韓国の姿勢にうんざりしているんですよ。“Korea Fatigue”という言葉があるくらいでね、韓国疲労症。竹島を世界自然遺産に竹島を世界自然遺産に黒田 竹島問題は近年になって、韓国人の愛国のシンボルとして激しくなったと私は理解しています。大使もこの本で、その転換点は盧武鉉大統領時代だったと指摘されています。それより前に金泳三政権が竹島に埠頭を造った(1995年12月建設着手)ことも転換点の一つだったと思います。この大きな現状変更に、当時の外務省をはじめ日本は韓国に遠慮があったのか対応が十分でなかった。その後、韓国はやり放題になりましたからね。武藤 外務省として相当抗議をしましたが、現実として建設を止められなかった。黒田 あの頃、民主化をきっかけにそれまでの日韓関係を支えてきた古くからの知日派が後退し、日韓双方がお互いを忖度しながら交渉するということがなくなったことも影響した。武藤 そうですね、通常の外交ルートでの交渉しかできなくなりました。これが普通の国家同士の外交であればいいけれども、日韓のように山積する課題を抱えている関係では普通の国同士の交渉でうまくいくのか。黒田 埠頭の建設は上陸や往来を容易にするということです。そして盧武鉉政権時代に民間人の往来が現実に自由化された。それまではなかなか行けなかったのが、観光地化され、いまや年間20万人以上が上陸しています。一日500人ですよ。盧武鉉政権時代に竹島問題は一気に大衆化、国民化したのです。武藤 盧大統領は「過去の不当な歴史で取得し、侵略戦争で確保した占有地に対する権利を主張する(日本の)人々がいる」と言って歴史問題にしたのです。黒田 日本は、かつて奪った島を再び奪おうとしていると曲解され、竹島への関心が一気に広がった。その背景にも韓国社会の変化があったと思います。盧大統領は戦後生まれで、解放後世代が初めて中心になった政権でした。過去の体験がない彼らは日本に侵略されたとか“独立戦争”を戦ったとか、そんな教えられた知識だけであの時代を見ています。その彼らの対日イメージが「独島は日帝侵略によって奪われ、再び奪われようとしている」という図式にぴったりと合致した。そこから竹島が対日ナショナリズムのシンボルとして局部拡大された。武藤 そのとおりです。日本にも「日本が軍国主義化している」「右傾化している」などと非現実的なことを言う人々がいて拍車をかけた。黒田 今や竹島は宗教化していますよ。国民宗教としての「独島教」ですね。日本の言い分などまったく聞こうとしません。武藤 日本が何をやってもけしからんという反応が返ってくる。領土問題としてみると、「竹島の日」を制定したり教科書に記述したりという日本の取り組みなど穏健なものですよ。中国が尖閣諸島、あるいは南シナ海で何をやっているか見てほしい。それでも韓国が反発するのは、歴史問題になっているからです。 私は、竹島問題が将来解決に向かうためには、幾つかの要素が必要だと思っています。一つは、韓国に日本は重要な国だと再認識してもらうこと。この問題で激しく日本と対立するのは韓国の国益に反すると悟らせること。二点目は、歴史問題から領土問題に戻すことです。ここでも慰安婦問題が鍵になると思います。慰安婦問題をきっかけに韓国の人たちに歴史問題で自分たちの考えがすべて正しいわけではなかったと認識をあらためてもらう。そのことが竹島問題にもよい影響を与えると思います。黒田 かつて朝日新聞の論説主幹が日韓友情の島として竹島を韓国に譲れと書いて批判されました。韓国は大喜びでしたが、友情の島といいたいなら日韓共同でユネスコの世界自然遺産として登録すればいい。自然遺産になると、韓国がつくった施設は自然環境保護のため全部撤去しないといけませんからね。あの島は「まず自然に返せ」ですよ。武藤 おもしろいアイデアですね。黒田 あの小さな島は、韓国の各種施設で満身創痍ですが、不思議なことに韓国では自然保護地域なんですよね。大人同士の関係構築に向けて黒田 嫌韓・反韓感情が高まっている日本では、韓国が何を言っても放っておけという雰囲気が支配的です。付き合うメリットはないと考える国交断絶論者も珍しくない。ここで改めて日韓関係が大切である理由を考える必要があるでしょう。その一つが中国問題ではないかと思うんです。これまで日米の側にいた韓国が、中国との距離を縮めている。このまま中国の側に追いやらないよう、日米の側にとどめることが必要だという機運が生まれたら、日韓関係の改善につながるかもしれません。 そこで大使にうかがいたいのですが、韓国が中国の側につく、たとえば米韓同盟を手直し、後退させたり、中国に軍事的に依存したり、といったことはあり得るのでしょうか。韓国人に聞くと、米中の間でバランスを取ろうとしているにすぎず、「そんなことはあり得ない」と言います。一方、日本では昔のイメージで、韓国が華夷秩序にまたも組み込まれようとしている、新たな朝貢外交の始まりだとしきりに言われています。武藤 日本もアメリカも、韓国がごねると折れてなだめてきた。韓国はそれが当たり前になっていて、中国を怒らせるよりも、「アメリカさん、日本さん、すこしだけ我慢してくださいよ」という状況でしょう。 ただ、朴槿惠大統領は明らかに中国に寄り過ぎています。本にも書きましたが、就任前の彼女の頭の中は中国で埋め尽くされていた。彼女を大統領にするための準備組織にいた人はそう言っていましたね。 中国の現在の存在感を考えると重視するのも分からないではない。いまや韓国の最大の貿易相手で、北朝鮮に向き合う上でも重要な存在です。しかしこれまで、北朝鮮との関係で韓国を助けてきたのはアメリカと日本です。中国が東シナ海に一方的に設定した防空識別圏でも韓国のことは無視でしたでしょう。中国と仲良くすれば、結局は取り込まれます。 そのことを理解していれば、中国の側につくことはないと思いますが、韓国の人たちが希望的観測を抱きがちであることは気になります。すべて自分たちが正しいと考えるのもその傾向のためだと思いますが、国際情勢評価を間違えるとたいへんなことになります。黒田 日本には執拗なのに中国とは歴史の清算をしなくても平気でいるのも不思議ですよ。韓国が中国に対し朝鮮戦争介入について謝罪や反省をしろと要求したことなどありません。武藤 中国に対しては面と向かって言えない。黒田 韓国はとにかく日本が絡む問題になると国際的常識に合わない行動を取る。日本大使館前の慰安婦像問題にしても、アメリカ大使館前に不法な反米記念像ができたら韓国当局が放置することはあり得ないでしょう。武藤 そうですね。黒田 なぜそうなのか。批判すると必ず韓国の外交当事者や政治家は「わが国には特殊な事情がある」と言う。日本に対する厳しい国民感情があるからだ、と。韓国には《国民情緒法》という、憲法より上位の特殊な法律があると自嘲気味に語る人もいます。武藤 憲法裁判所の慰安婦判決がそうでしょう。黒田 実際の法体系ではあり得ない判決が、国民感情に沿って出される。その根拠が《国民情緒法》だというわけですね。NGO国家化した韓国内で日本だけ適用される《法律》ですが、なぜ日本にはそれが通用するのか。結局、これまで韓国の無理難題に日本が応じてきたからでしょう。 しかし、民主党政権末期から安倍政権になって、日本はもう無理難題を受け入れなくなりました。私は、これは長期的にみると日韓関係正常化には必要なことで、《国民情緒法》も効果がないという経験が積み重なれば、撤回されるかもしれないと思っています。武藤 安倍首相が4月のバンドン会議やアメリカ議会での演説で謝罪しなかったのも、これ以上韓国の言いなりにはならないという姿勢の表れだと思います。 私は1975年に韓国に初めて赴任して以来、韓国が強くなれば日韓関係は成熟するだろうと期待してきました。韓国は経済先進国となりましたが、「相変わらず」です。いい加減に大人になってもらわないと日韓関係は改善しません。事実は事実として受け止めて、大人同士の関係を築いてほしい。この本には、そんな希望を込めています。嫌韓で書いたわけではない。 日本が韓国をけしからんと考えるのも仕方がない面があります。しかし、感情的に行き過ぎた発言やヘイトスピーチの類いは控えたい。韓国の国民レベルでは反日感情はほとんどありません。韓国に対して倫理的に優位に立つ。そして慰安婦問題など懸案事項は国際社会を味方につける。この姿勢が対韓国では大切だと思います。むとう・まさとし 昭和23(1948)年、東京都生まれ。横浜国立大学卒業後、外務省入省。韓国語研修の後、駐大韓民国日本国大使館勤務。参事官、公使を歴任。前後してアジア局北東アジア課長、駐オーストラリア日本大使館公使、駐ホノルル総領事、駐クウェート特命全権大使などを務めた後、2010年、駐大韓民国特命全権大使に就任。2012年退任。くろだ・かつひろ 昭和16(1941)年、大阪府生まれ。京都大学経済学部卒。共同通信社に入社後、韓国延世大学校に留学。ソウル支局長などをへて平成元年から産経新聞ソウル支局長を務める。日韓関係の報道でボーン・上田賞、日本記者クラブ賞、菊池寛賞を受賞。著書に『韓国人の歴史観』『・日本離れ・できない韓国』『韓国 反日感情の正体』など。

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    「李承晩ライン」で韓国が繰り広げたこと

    ・抑留の印象は異なる。どちらも漁船が銃撃を受けることがあり、韓国の拿捕では8人が死亡した(森田芳夫『日韓関係』48年。後の日本政府による補償認定では、昭和30年2月14日に五島沖で韓国艦艇に追突されて沈没した第6あけぼの丸の死者21人も加えられた)。 一方、中国の場合は拿捕時に16人もの死者が出た(『日韓漁業対策運動史』昭和43年)にもかかわらず、「日中漁業問題には日韓漁業問題のような陰鬱さがない」と関係者は記す(『日本遠洋底曳網漁業協会二拾年史』43年)。 日韓漁業問題の「陰鬱さ」の理由は三つある。まず、韓国の待遇の劣悪さ、とりわけ貧弱な食料事情と最長3年半を越す抑留期間の長さ。次に、中国による拿捕が昭和30年の日中民間漁業協定で実質的に終結したのに対して、韓国の場合はその10年後の40年に日韓漁業協定が結ばれるまで、漁業者は拿捕の危険性に怯えねばならなかったこと。そして、抑留者を利用した韓国の「人質外交」(日韓会談代表で後に韓国の外相を務めた金東祚が1986年刊『回想三十年 韓日会談』で使用した言葉)に日本が振り回されたことで ある。 この「陰鬱さ」から日韓関係を考えるのが小文の目的である。 ただし、中国による拿捕・抑留には思わぬ弊害があったことは触れておかねばならない。日本人漁船員に対する思想教育である。 昭和28年9月18日に博多に帰還した漁船員たちは「中共支給のレーニン帽と工人服に身を包んだまま…略…押し寄せた家族の喜びの呼びかけにも、一切物いわず、ただただ、腕を上下に振り、身を左右にゆすって、中国解放の歌や労働歌を、つぎからつぎから歌いまくるやら、中共礼賛の演説をぶつばかり」という光景があった(アサヒグラフ28年10月7日号)。 26年に約4カ月間中国に抑留された元漁船員は、中国の待遇はよかったと回想し「思想教育など受けた覚えはないが、それでも最近まで中国を良い国だと思っていた」と私に語った。漁業者たちの「異文化体験」は、戦後日本が置かれた状況を考えるための貴重な資料である。 マッカーサーラインへの便乗 「韓国人はたたく」。元漁業者への取材中、一人の言葉に周囲もうなずいた。日本人漁船員すべてが受けたのではないにせよ、韓国による拿捕時の暴行の記憶は元漁業者たちに共有されている。 日本を占領支配していた連合国軍総司令部(GHQ)の文書の一つ「Korean seizures-Petitions」に5件8隻の拿捕事件の報告がある。うち3件で取り調べ時の暴行の証言がある。次は瑞穂丸船長報告の一部である。瑞穂丸は23年5月14日に拿捕され済州島に連行された。韓国・済州港にびっしりと係留された拿捕日本漁船。船体、漁具、漁獲物すべてが没収され、罰金も科された(アサヒグラフ昭和28年10月28日号) 「私は警備船に呼ばれ、東経一二六度一二分、北緯三二度四八分に同意し捺印を求められたが、其の位置が事実と全く相違しているので、其の訂正を乞ふた処、警備船士官二名は顔面を十回位殴打し、口中よりは血を出し其の上堅木にて全身を乱打意識不明となる。 余りにも無謀なる処置に唖然としました。此の状態では到底我々の意を解する事は絶対になく、意見を主張すればする程却って激昂し身に危険を感ずる計りと考へまして、不本意ながら右警備船の位置に同意しました。警備隊員は無線機、航海用具、船員私物等悉く持去りました(略)。 十六日西帰浦より済州に回航当時本船に(士官一名下士官兵七名)計八名が懲戒の為乗組んだのであります。八名の三食を本船にて給与せねばならないので配給で限度のある為一食にはトウモロコシを入れたので其れに憤慨して我々に雑穀を入れて出した。馬鹿にしている。船長が命令したのであろうと云って、堅木にて十四、五回までは意識あるも後は意識不明となる」 瑞穂丸の船長は、報告書の最後を、日本人乗組員が暴行を受けた理由について「外に此れという理由もありません。朝鮮人は日本人に如何に虐待を受けて来たかにあるようであります」と結んだ。35年間の日本の朝鮮統治に対する〝報復〟が東シナ海の海上で行われていた。 韓国(当時は南朝鮮過渡政府)が拿捕位置の確認を強要したのは、瑞穂丸のマッカーサーライン違反を認めさせようとしたからである。 マッカーサーラインは昭和20年に総司令部が日本漁船の操業の限界線として設定したもので、韓国とは本来無関係なものであった。25年1月19日に総司令部は「公海における日本の漁労活動は総司令部の命令によってのみ管理される」と日本漁船拿捕停止を韓国に求めた。マッカーサーラインを日韓の国境のように誤解し、連合国(=戦勝国)ではない韓国が連合国のようにふるまうことは日韓関係に悪影響を与えると、総司令部は危惧していた。 しかし、同6月に始まる朝鮮戦争で国連軍(米軍)がまきかえすと、同12月に韓国は日本漁船拿捕を再開した。日本の漁業者は、米国の「防共の第一線に立つ韓国への甘やかし」が韓国の横暴を招いたと憤った(『日韓漁業対策運動史』)。李承晩ライン宣言李承晩ライン宣言 昭和27年1月18日に韓国は李承晩ラインを宣言、広大な水域からの日本漁船排除をめざした。彼らが既得権益と考えたマッカーサーラインが、韓国の度重なる米国への要請にもかかわらず、同4月28日の日本の主権回復により消滅確実となったための措置であった。 李承晩ライン宣言とは、外交交渉で得られなかったものを一方的な宣言によって獲得しようとした極めて非常識なものであった。そして韓国は、宣言の1カ月後の日韓会談(日韓国交正常化交渉)で、李承晩ラインを「既成事実」として日本に突き付けて認めさせようとした。昭和25年6月の朝鮮戦争勃発直後、金浦空軍基地で韓国大統領・李承晩に出迎えられた連合国軍最高司令官のダグラス・マッカーサー 日本は資源保護のため一部漁業の禁漁区域と禁漁期間を設けることを提案したが韓国はこれを受け入れず、すべての日本漁船の操業禁止区域設定を求めたのである。 韓国の強引さの背景には水産業の重要性があった。水産物輸出は朝鮮戦争前には韓国の総輸出総額の7割を占め、外貨獲得の柱として期待されていた(大韓民国公報處『週報』八 1949年)。遠洋漁業振興のため、東シナ海から黄海にかけての好漁場に日本漁船が操業できない区域を作り、その漁業資源を独占することは、韓国の悲願だった。 すでに1948(昭和23)年の建国前から「遠洋漁業には済州島西南東シナ海のトロール漁場の開拓と南氷洋捕鯨漁業の進出の二つがある」とし、このトロール漁場に「我が戦士を進出させ、日本漁夫の侵略企図を防止せねばならない」と韓国の水産行政担当者は主張していた(同1月11日付東亜日報)。 このトロール漁業とは底曳網漁業の一種で効率のよい漁業であった反面、資源を枯渇させるため沿岸漁業者との紛争を明治以来おこしてきた。朝鮮総督府は沿岸漁業保護のため、トロール漁業禁止区域=図②=を定め、また朝鮮への導入を許さなかった。しかし、韓国政府は建国後すぐにトロール漁船を購入して遠洋漁業振興の姿勢を示した。 李承晩ライン原案の「漁業管轄水域案」=図③=は、日本の批判を弱めるため朝鮮総督府のトロール漁業禁止区域を基礎とした。そして東シナ海北部から済州島南部までの底曳網漁業の好漁場をそれに加えて突出させ、好漁場の独占をめざした。 朝鮮戦争で国土が荒廃した韓国にとって、資源に恵まれた水産業にかける期待は大きかった。「韓国の水産業は正常に生産活動を行っているおそらく唯一の産業」という総司令部の当時の評価が残されている。抑留者の辛苦 拿捕が最も多発したのは昭和28~30年の3年間で、1年に500人前後の日本人が抑留された。この時期、日本の朝鮮統治にもよい面があったと述べた28年の「久保田発言」を理由に韓国は日韓会談を決裂させていた。30年に韓国は対日貿易全面禁止や日本漁船に対する砲撃声明を打ち出すなど日韓関係は最悪の状態に陥った。 29年からは、韓国は拿捕の法的根拠としていた漁業資源保護法で定めた刑期が終了したにもかかわらず、漁船員を釜山の外国人収容所に抑留する措置をとった。そのため抑留漁船員の数は900人を越えた。 この時期に拿捕された漁船員の回想・記録の一部を紹介する。 「韓国警備艇というのは無茶苦茶でしたね。拿捕された時は、本当に情けなくなりましたね。海賊船以上ですわね。だって国を守り正義を尽くさねばならない警備艇がですよ、僕らの船にパッと横付けして、目を覚ませば、僕らの草履はないわ、もう茶碗、食器類、全部ないんですからね。ただ寝具が残っていただけですからね。あれには、僕は往生しました」=金毘羅丸乗組員。30年11月25日に対馬南方で拿捕(『山口県史資料編現代二』平成12年)。 「刑務所での厳しい生活は、体が覚えている。『六畳の板の間に三十人がいて、夏は暑く、冬は寒くて大変。禁固刑だから一日中部屋にいなければならず、つらかった』。しかも、当時の韓国は食糧が乏しく、食事は粗 末。三十人がおけ一杯の水で、一日を過ごさなければならないのもこたえた。刑を終えても、幾度となく思い浮かべた家族の待つ故郷には帰れず、釜山の外国人収容所に移送。刑務所に比べ、制約は穏やかだったが、衛生状態や食糧事情は悪く、結核になる人もいた。 見えない行く末が不安を増幅させた。そんな中、心のよりどころとなったのが、家族からの手紙や物資。浜田の缶詰工場で、魚と紙幣を入れて密封した缶詰を送ってもらい、食料などを買って、疲れた心身を癒した。(略)『収容されていた三年余りは、本当に無駄な時間を費やした』」=第三平安丸乗組員。29年12月21日に対馬西方で拿捕(『フォトしまね』一六一平成18年)。 収容所を管理する韓国人警察官の腐敗についての証言は多い。抑留者の命綱だった差し入れ品も荷抜きや没収されることがあった。 30年には「月に三度の家族宛の便りが殆ど不着に終っていたが(当時竹島切手を強制的に貼らされた事もある)、不着の原因が年末に至り、(韓国人警察官が)貼付した切手をはがし再び我々に売りつけていた事実が判明」し、これに日本人が抗議したこともあった(『韓国抑留生活実態報告書』33年)。 「外部との接触を厳重に禁止されている吾々は、彼等にとっては、絶好の鴨であったのである。公務員を通じて、物一つ購入するにも手数料を取られ、差入れ品や慰問小包品を安く買い取られる等、間接に吾々抑留者が警察官や刑務官の生活を支えていた」(『日韓漁業対策運動史』)。    31年には「九月五日に抑留漁船員二人が強制送還によって大阪港に帰国した。二人とも結核におかされ、精神に異常をきたしていた。十月二日に抑留漁船員の妻が、悲嘆のあまり自殺した。さらに、罹病し病勢悪化が家族あての音信によって判明したので、外務省を通じて韓国政府に特別送還を申し入れてあった抑留漁船員が、十二月七日に遂に死亡した」(『日韓漁業対策運動史』)。「李承晩ライン」を理由に韓国に拿捕・抑留され、無事帰還した息子と再会して嗚咽する母親=昭和28年11月、山口県下関市 当時、韓国は李承晩ラインを、日韓間に公平な境界線を引いて紛争を防止する「平和線」と呼んだが、日本にとりこの名称は皮肉そのものであった。28年に設立されていた日韓漁業対策本部は30年12月に李ライン排撃行動大会を挙行した。翌年6月には抑留船員留守家族が上京して陳情し、国際赤十字社への働きかけも行った。事態打開を求める日本政府への声は切実だった。韓国の「人質外交」韓国の「人質外交」 韓国の「人質外交」 が最も「成果」を上げたのが「三十二年十二月三十一日の合意」だった。当時、刑罰法令違反による退去強制者や送還される不法入国者の受け取りを韓国が拒否したため大村入国者収容所が「超満員」で、日本は韓国のもう一つの「人質外交」に困っていた。 32年末の合意によって、不法入国者(1002人)と漁船員(922人)の相互送還が行われ、日本は大村収容所にいた本来は国外退去になるはずの在日韓国人刑罰法令違反者(刑余者)474人を仮放免し、彼らに対して在留特別許可を与えた。また、日本が「久保田発言」を撤回し、さらに日本人が韓国に残した財産に対する請求権を撤回することで、日韓会談を再開することも約束された。 当時駐日韓国代表部代表だった柳泰夏は「請求権、平和線など、この時我々の要求がほとんど九〇%程度受け入れられた」「(この合意で)韓日会談は始まったと言っても過言ではない」(『現代史の主役たちが語る政治証言』1986年 ただし李承晩ラインを日本は認めてはいない)と回想した。この駐日代表部は昭和24年に戦勝国であるかのように総司令部に対して派遣されたもので、日本が独立しても退去しなかった。 交渉カードとしての李承晩ラインがこのような破壊力を持つことに、宣言前から韓国が気づいていたかは、わからない。ただ、「政治というものがこうしたブラッフ(はったり)とバーゲン(駆け引き)の連鎖であるとするならば、彼は当代一流の政治家であることはまちがいない」(宍戸寛『評伝 李承晩』中央公論昭和31年2月号)と、当時の日本人が評した李承晩大統領は、日本にとって容易ならざる相手ではあった。韓国による長い拿捕・抑留から帰還する漁船員を出迎えるため慰労の垂れ幕を掲げて港の休憩所に集まった家族ら=昭和35年3月、山口・下関 韓国の「人質外交」の犠牲となった日本人漁船員は帰還後も苦しんだ。35年5月3日付西日本新聞には「抑留されていると、ひどい栄養失調におちいる。主食といえばダイズ、ムギの混合食、ミソ汁といえばなかみがほとんどないナイロン汁―これを長い間食べていたのではどんな丈夫なものでもたまらない」という証言を紹介し、32年末の合意で帰国して2年以上たっても、100人近くが病気と失業にあえいでいるとある。同記事はまた、韓国に漁船を没収された自営の船主が先の見通しが立たずに途方に暮れている様子や、経営の安定している会社に勤めていても、抑留されていた3年間の操業技術の進歩に戸惑い仕事に不安を漏らす船長の声を伝えている。 日韓漁業交渉の難航 李承晩政権が1960(昭和35)年に倒れて国交正常化に積極的な朴正熙政権が登場したが、依然として日本漁船拿捕は続き、37年に請求権問題に目途がついた後も漁業交渉は難航した。それは、「日韓会談とは実は日韓漁業会談だ」とある歴史研究者が喝破したほどだ。 東シナ海・黄海の好漁場を独占しようとする韓国の要求は、「領海三海里、公海自由」が一般的であった1950年代の国際社会で認められるはずはなかった。 韓国は漁業資源保護のためと主張したが、李承晩ライン宣言は隣接公海での漁業資源保護のための規制は関係国と協議して行うという国際常識を無視した一方的なもので、世界各地で漁船が操業していた日本はとうてい容認できなかった。 結局、昭和40年の日韓漁業協定で、日本は朝鮮半島近海に距岸12海里までの漁業専管水域を認め、さらにその外側に距岸40海里までの共同規制水域を設けた(「戦後韓国はどうやって竹島を奪ったか」地図B)。日本が12海里漁業専管水域を認めたのはこれが初めてであった。1960年代に世界各国が結んだ漁業条約では漁業専管水域設定が一般的になったことが、この背景にあった。 平たく言えば、日韓漁業協定で日本は最大で距岸200海里もある李承晩ラインを12海里まで押し込んだのだが、そのためには韓国漁業振興のための日本の漁業協力(援助)が必要だった。韓国の要求の根底にあるのは、日韓間の漁業の絶望的ともいえる格差だったからである。日韓基本条約締結への道筋を話し合う大平正芳外務大臣(右)と金鍾泌韓国中央情報部長=昭和37年、東京都内 日韓漁業協定締結に合わせ、日本は韓国に9000万㌦の民間資金による漁業協力、漁船の輸出禁止の解除、そして水産物輸入を拡大することになった。昭和37年の「金・大平合意」で決定した3億㌦の無償「請求権資金」のうち9・1%が水産業へ投入された。その6割が「漁船導入および建造および改良」に充てられ、1966(昭和41)~75年に建造された3299隻の漁船のうちトン数で49・2%が「請求権資金」によるものであった。 こうして「小型漁船で沿岸漁業に従事するにすぎなかった」韓国漁業が、「我が国漁業の遠洋漁業への進出は請求権資金による大型漁船導入によりさらに活発に展開され、近海漁業においても先進漁業国の日本と相互牽制」できるようになった(『請求権資金白書』1976年)。 1950(昭和25)年に李承晩が「マッカーサーラインのあちら側では日本人漁船が海を覆って魚を獲っているのに、こちら側では船一隻見ることができない」(『大統領李承晩博士談話集』1953年)と嘆いた状況は過去のものになった。それどころか昭和50年代後半から、北海道や西日本の沿岸漁業者は韓国漁船の操業に悩まされることになる。 漁業交渉が難航したもう一つの理由は、韓国の世論が李承晩ラインを国境線と誤解して日韓会談妥結に反対したことだった。「平和線の譲歩は領土の縮小を意味する」という主張に対し、韓国の与党は、そのような主張は「大韓民国を国際的に嘲笑の種にして孤立化させる仕打ちとしか見ることができない」と強くたしなめねばならなかった(「韓日国交正常化問題-韓日会談に関する宣伝資料 補完版一」1964年)。「李承晩ライン」の一方的宣言に懸念を示すため、国内の出版社が昭和29年に書店にあてた年賀状 昭和27年の李承晩ライン宣言(正式名称・隣接海洋に対する主権に関する宣言)後、韓国は米国はじめ諸外国の抗議を受けて主権の主張を撤回し、「主権」とは「漁業管轄権」のことだと、苦しい言い逃れをした(漁業管轄権も当時は国際的に認められておらず、日韓会談で韓国は日本に論破された)。しかし、日本に対する「元気のよい意見」(日韓会談の兪鎮午・韓国代表の言葉)に押されて公海に主権を宣言するという失態を犯した事実は消えなかった。李承晩政権の対日政策を支えた「元気のよい意見」の後始末に朴正煕政権は苦慮することになったのである。韓国への「苦い視線」韓国への「苦い視線」 漁業者団体は、拿捕による被害額を、昭和39年当時の評価基準で総額約90億円と算定した。内訳は、漁船の被害(未帰還船185隻の船体・付帯設備、帰還船142隻の修理費)24億円、積載物8億円、事件に伴う出費2億円、抑留中の賃金25億円、休業補償25億円、死亡障害補償5億円であった。この直接的被害に、「漁場への迂回、漁場の喪失、精神的負担など」間接的被害を加えると被害総額は約250億円を上回るとされる(『漁業で結ぶ日本と韓国』昭和40年)。 被害を補償したのは加害者韓国ではなく日本政府だった。約90億円のうち拿捕保険などで処置済みのものを差し引いた被害額を、特別交付金40億円に加え、低利長期融資10億円という形で、被害者に補償したのである(『日韓漁業対策運動史』)。 40年に結ばれた日韓条約中の請求権および経済協力協定では「両締約国は、両締約国及びその国民(法人を含む)の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が、(略)完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する」とある。そして同協定の合意議事録には、この「問題」には「この協定の署名の日までに大韓民国による日本漁船のだ捕から生じたすべての請求権が含まれており、したがって、それらすべての請求権は、大韓民国政府に対して主張しえない」とされていたからであった。 一方で、この合意議事録では、この「問題」には「日韓会談において韓国側から提出された『韓国の対日請求要綱』(いわゆる八項目)の範囲に属するすべての請求が含まれており、したがって、同対日請求権に関しては、いかなる主張もなしえない」とされていた。「韓国の対日請求要綱」の中には「被徴用韓人の未収金」や「戦争による被徴用者の被害に対する補償」があった。日韓基本条約に反して日本企業に戦時徴用をめぐる個人への賠償を命じた韓国・ソウル中央地裁 2012(平成24)年以降、韓国の裁判所は戦時中に徴用された韓国人労働者が日本企業に損害賠償などを求めた訴訟で、日本企業に対する元韓国人労働者の訴えを認める判断を盛り込んだ判決を言い渡している。日韓条約を遵守して漁船拿捕による被害の補償を韓国に求めない日本との違いは、あまりに大きい。 昭和28年、李承晩大統領は渡韓した日本の水産業界代表に対して、「日本は四十年にわたって漁業を占有していたことに韓国人として不満がある」「四十年遅れたので、それを取り戻さねばならない」と日本漁船排除の正当性を強調した(「日韓漁業対策運動史」)。しかし、日本統治期の朝鮮漁業は「漁獲量世界第二位の水産大国」と後に韓国人が誇るほど発展したのであり、李承晩の非難は物事の一面にすぎない。 そして、戦前を朝鮮で過ごしたある人物が、韓国の対日姿勢「にがり切りながら、歴史や民族のふしぎを考えています」と私への葉書で記したように、李承晩ライン問題によって、日本人の韓国に対する「苦い視線」=否定的評価は確実に増したのだった。  

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    戦後韓国はどうやって竹島を奪ったか―竹島問題の現位置

    力、在日韓国人の法的地位、文化財および文化協力)、そして「紛争解決に関する交換公文」からなり、現在の日韓関係の基礎となる重要な条約である。 日韓条約のうち竹島問題に関するのは「両国間の紛争は、まず外交上の経路を通じて解決するものとし、これにより解決することができなかった場合は、両国政府が合意する手続に従い、調停によって解決を図るものとする」という「紛争解決に関する交換公文」である。 同3月30日に椎名悦三郎外相は、竹島問題については「竹島問題を解決する的確なる方法を決めるということ以外にはないのでございまして、今日の場合においては、この目途をつけるということによって一括解決を図りたいと、かように考えております」と国会で答弁した。日韓条約調印式で韓国の李東元外務部長官(右から2人目)に続き金東祚特命全権大使と握手する佐藤栄作総理大臣(左から2人目)。顔をそむける佐藤総理の表情が、交渉での日本側の苦い思いを示すようだ=昭和40年6月22日、総理大臣官邸 竹島問題は日韓会談の議題ではないとする韓国の強硬な態度の前に、日本は「竹島問題の解決なくして国交正常化なし」という姿勢から後退。しかも、竹島問題を「解決」するという約束が「解決の目途」をつけることへと変わっていたのである。   日本が「解決の目途」としようとした交換公文の作成は、日韓条約が調印される同6月22日の5日前から行われた。日本側原案では「紛争」は竹島問題を含むと明記していた。しかし、韓国はこれに反対して日本が譲歩し、交換公文の文言からは竹島問題の表記は消えた。 さらに、6月22日の調印45分前の午後4時15分に始まった佐藤栄作首相と李東元外務部長官の会談で李長官は、「両国間の紛争」を「両国間に生じる紛争」として「紛争」が竹島問題を除いたものを意味するよう要求した。佐藤首相は「今までの日本側の案ですら、自分の予想を超えた譲歩であるので、自分としては不満であるが、大局的見地からこれを承認することにした実情であるので、これ以上の譲歩は不可能である」と述べて拒絶した。 それでもなお、李長官は「帰国後、本件了解には竹島が含まれないとの趣旨を言明することがあっても日本側からは直ちに反論を行わないでほしい(我々の命にかかわる)」「もっとも、日本で後日、国会で竹島を含む旨の発言を差し控えることまでお願いするつもりはない」と懇請し、佐藤首相も了承した。 8月9日の韓国国会で李長官は、交換公文に「独島問題が包含されていないことは椎名外相また日本の佐藤首相も了解した」と、佐藤首相の了承とはまったく異なる発言をした。佐藤首相も椎名外相も当然この発言を否定した。 こうして、日本は竹島不法占拠を解消できなかった。日本政府は交換公文の「紛争」は竹島問題を指すと説明したが、韓国政府は「紛争」とは竹島問題ではない、すなわち日韓間に領土問題は存在しないと強弁して竹島の不法占拠を続けている。 議事録に残る、日韓会談で日本が韓国に示した多くの配慮と譲歩は問題解決に役立ったとは思われない。 なお、日韓条約締結時に竹島問題を棚上げするため「竹島密約」があったという説がある(ロー・ダニエル『竹島密約』平成20年)。 「竹島、独島問題は、解決せざるをもって解決したとみなす。したがって条約では触れない」。すなわち「(イ)両国とも自国の領土であることを認め、同時にそれに反論することに異論はない…略…(ハ)韓国は現状を維持し、警備員の増強や施設の新設、増設を行わない(二)この合意は以後も引き継いでいく」というものである。 密約の存在を日本政府は否定しているが、もし事実ならば、条約締結後に竹島の不法占拠を強化して「現状を維持」していない韓国は約束を反故にしているのであるから、国際信義にもとるものである。 国際法上、紛争発生(竹島問題ならば昭和27年)後に、当事国が自国の立場を強化するためにことさら執った措置は、領有権の判定に際しての証拠にならないことも知っておきたい。「竹島周辺」漁業の変化「竹島周辺」漁業の変化 韓国が李承晩ラインを理由に多数の日本漁船拿捕を行っていた昭和30年代後半まで、竹島および竹島周辺での漁獲高は国を動かすほどではなかった。竹島周辺は水深が深く底曳網漁業の好漁場ではなく、また旋網(まきあみ)漁業も未発達であった。 昭和40年に島根県は1億円強あるいは5億円の可能性があると推定したが、水産庁の統計で昭和27年の李承晩ライン水域全体の漁獲高を130億円としているのに比べればかなり少ない。 日韓会談で激論が交わされたのは対馬から済州島にかけた漁場での操業区域や漁獲高などについてであって、竹島周辺水域ではなかった。現在のように竹島問題と漁業問題とは絡まっていなかったのである。 ところが、その後日本海でイカ釣漁やベニズワイガニかご漁が盛んになり、竹島周辺の価値は急上昇。昭和51年頃の大日本水産会試算では「竹島周辺水域」の漁場価値は76億7000万円、うちイカ釣漁43億9000万円、ベニズワイガニかご漁15億8000万円である。近畿農政局統計では、「西部日本海」の漁獲高のうち「竹島周辺水域」の比率は、イカ釣漁では46年に48%、ベニズワイガニかご漁では49年には45%という高いものであった。 43~49年に出漁した島根県の漁業者は「当時は、竹島から鬱陵島にかけて大小千隻ものイカ船が集中(略)島に近づくほどイカも豊富で、五〇~一〇〇㍍沖まで近づいて操業していた」と証言した(62年1月13日付中国新聞島根版)。  当時の写真(48年5月29日付朝日新聞大阪本社版)には、竹島北方で操業する日本漁船の集団が写っている。日の丸や旭日旗(最近の韓国人は「戦犯旗=侵略の象徴」として非難している)を掲げて竹島の至近距離で操業する日本人の姿は、現在の韓国人にとって十分刺激的である。 当時出漁した島根県のイカ釣漁業者によれば、45年頃までは竹島近海で操業する韓国人のイカ釣漁船はなかった。竹島近海は日本漁船の独擅場で「竹島のすぐ傍で操業しても韓国人からとやかく言われたことはない」というのが実態であった。 このような話を聞けば、このところネット上などで散見される「竹島を不法占拠する過程で韓国は島根県の漁民を虐殺した」などという記述が誤りであるとわかるであろう。韓国による日本漁船拿捕が相次いだ40年までの時期に、竹島近海で韓国に拿捕された日本漁船はなかった。 日本漁船拿捕が多く、死者まで発生したのは、主として対馬から済州島にかけての底曳網漁業や旋網漁業の好漁場を持つ海域だった。「リャンコ(竹島)はわしらのもんじゃけん」と竹島に上陸しての漁業ができない口惜しさを語る隠岐の漁業者の言葉(アサヒグラフ40年12月31日号)は記憶すべきである。 しかし、漁業問題と領土(竹島)問題を混同して「日本はウソで心情を刺激し、嫌韓感情を煽っている」などと足元をすくわれる口実を韓国に与えるべきではない。昭和53年の竹島昭和53年の竹島 昭和40年の日韓条約でいったん「寝た子」となった竹島問題は53年に目を覚ます。同年5月9日、韓国政府は領海12海里を適用して竹島近海の日本漁船を排除し、陳情を受けた日本政府は韓国政府に竹島周辺での日本漁船の安全操業を要請せざるを得なくなったのである。 当時、国連海洋法条約を採択することになる第三次国連海洋法会議が開催中で、世界は領海12海里・排他的経済水域(沿岸国が資源を独占して管理でき、他国は沿岸国の許可なしに資源を利用できない水域)200海里の時代に向いつつあった。 領海を12海里に拡大することについては、日韓両国とも昭和52年に「領海法」で立法化していた。同2月5日の国会で福田赳夫首相は、竹島は「わが国の固有の領土でありますので、その固有の領土であるという前提に立って12海里ということが設定される」と述べ、韓国はこれに反発していた。竹島をめぐって日韓間に緊張が高まる中で、ついに竹島近海にいた島根・鳥取両県の約100隻の日本漁船が、韓国の艦艇に追われて退去させられたのである。 島根県と鳥取県、両県の関係団体、そして両県の国会議員は共同して国に竹島近海での安全操業実現を陳情した。両県が竹島問題で共闘するのはこの時がはじめてであった。しかし、韓国は日本漁船の操業を認めず、竹島近海の漁場は日本人漁業者の手から失われていったのであった。 このような事態になることを危惧して、島根県は前年に「島根県竹島問題解決促進協議会」(促進協)を設立していた。韓国が竹島を基点として200海里漁業水域(沿岸国が漁業資源の保存・管理のために領海の外側に設置する水域。現在の排他的経済水域の先駆けとなった。漁業専管水域ともいう)を設定した場合日本の漁業者は壊滅的な打撃を受けるとして、根底にある竹島問題の解決を国に働きかける組織であった。 とりわけ、戦前から竹島で漁労を行い、戦後も竹島の漁業権を更新してきた隠岐の漁業者の熱意は強かった。島根県隠岐島漁業協同組合連合会による次の昭和52年4月8日付「竹島の領土権確保に関する陳情書」は読む者の胸を打つ。 「そもそも一国の領土は尺寸の地といえども故なくして譲るべからざるは古今の鉄則であり、故なくしてこれを実力をもって占拠する韓国に対しては須からく自衛権の発動によって原状回復を図るべきであり、若し我が国に於て、これを国際間の紛争にして憲法九条により実力に依って解決すべき筋合のものにあらずとするならば、よろしく韓国をして国際司法裁判所に提訴して帰属の判断を求めることに合意せしむべく万一韓国にして、この提訴に応ぜざるにおいては、よろしく韓国に対する経済援助を打切る等適切な措置を講ぜられたく強く要望する」 この熱意を受けて対韓交渉を行ったのが当時の園田直外相であった。 園田外相は「竹島問題で、今秋の日韓定期閣僚会議の延期や経済協力の打ち切りを含めた強い姿勢をみせ」(53年6月9日付山陰中央新報)、「定期閣僚会議の正式議題に竹島問題を取り上げるべきだと表明」(同19日付朝日新聞大阪本社版)。そして同9月の日韓定期閣僚会議では朴正熙大統領と直接折衝して、日本漁船の安全操業確保の約束をいったんは取り付けた。交渉を進展させるために「(竹島は)価値のない島だから爆破したらどうか」などという発言が日韓双方から飛び出した日韓会談の時期とは異なり、価値を増した竹島をめぐる漁業問題は日本政府を動かしたのである。島後の西郷港に立つ竹島の標語看板=島根県隠岐の島町 昭和53年の事件は日韓両国の竹島問題をめぐる議論に影響を与えた。韓国では、竹島問題に関する研究論文や記事が急激に増えていく。米国の外交文書開示によってこの年、サンフランシスコ平和条約草案が作成される過程で竹島を日本領から除こうとする韓国の要求を米国が拒否したことが明らかになったことへの危機感もあったのかもしれない。 一方、日本では、この事件の影響を直接受けて神奈川大助教授だった梶村秀樹氏が「竹島=独島問題と日本国家」(『朝鮮研究』一八二 53年)を書いた。朝鮮半島にあった政府が竹島を領有していたことを何ら証明していないにもかかわらず、明治三十八年の日本政府による竹島編入は日韓併合に至る日本の朝鮮半島侵略の一環と決め付ける梶村氏の理解しがたい主張は、今日の竹島問題をめぐる論争にも影響を与えている。新日韓漁業協定と竹島新日韓漁業協定と竹島 昭和53年、島根県の漁業者にとって重大なもう一つの韓国との漁業紛争が起きた。前年から、米ソ両国の200海里漁業水域設定により北洋漁場(ベーリング海とカムチャッカ近海)から締め出された韓国の大型漁船が、北海道周辺で本格操業するようになり、北海道の沿岸漁業者は被害を訴えた。53年からは韓国漁船は島根県の沖合に大挙押し寄せ、漁業者は韓国船による漁具荒らしと漁場占拠に苦しむことになる。最初の被害はシイラ漬け漁だった。島根県大田市の和江漁協組合長だった月森元市氏は次のように語った。「六月、韓国船によって漁の仕掛けである筏のロープが切られる事件が起こった。以来何度か渡韓して被害の実態と再発防止を訴えたが効果はなかった。ある時は『公海上に障害物を置くな』と言われたことがある。筏に灯火をつけて位置を知らせたり、テープレコーダーに韓国語で注意を吹き込んで韓国漁船に呼びかけたが無駄だった。それが裏目に出て灯火のついている筏のロープが切られて無くなり、灯火だけが盗まれていたこともあった。石見海区では三十五統あったシイラ漁の漁船が五十九年には十四統にまで減った」 その後、リーダーとして韓国漁船対策に奔走することになる月森氏は「日本海のわが国周辺水域は韓国船のやりたい放題で、乱獲による資源の枯渇と漁場の荒廃が進む一方となった」「日本の領海十二カイリから一歩先沖に出れば公海だが、韓国船がひしめく状況ではとても公海とはいえず、『日本海はもはや韓国の海となってしまった』という悲痛な嘆きの声が、漁民の間から次々と上がった」と嘆いた(「豊饒の海 悲劇の海―韓国漁船対策22年間の闘い―」漁業協同組合JFしまね 平成21年)。このような状況は島根県だけでなく北海道や西日本の沿岸各地で見られたものであった。 海を守るため「200海里全面適用を基本とする体制を早期に確立せよ」と、排他的経済水域を設定して外国漁船を排除しようとする声が日本の漁業者の間に高まった。 昭和40年の日韓漁業協定では、日本は12海里漁業専管水域を認めて、李承晩ラインを理由とした韓国の日本漁船拿捕を終わらせた=地図B。しかし、韓国の拿捕再発を恐れてその外側の公海での漁船の取り締まりや裁判は漁船の属する国のみが行えるという「旗国主義」としたことが、皮肉にも、日本近海での韓国漁船の横暴を助長したのであった。 実は、日本は52年に200海里漁業水域を設定したが、韓国および中国には適用を除外していた。当時中韓両国の漁業は未発達で、日本周辺の両国の漁船の操業を規制すれば、それよりも圧倒的に多い両国周辺で操業する日本漁船の操業が規制されかねなかったからであった。 しかし、平成に入り「日本の排他的経済水域内の韓国漁船漁獲実績はほぼ1600隻、漁獲高約22万㌧程度、これに対し、日本漁船の韓国水域での操業実績は、約1600隻、9万㌧程度」と推定され(杉山晋輔「新日韓漁業協定締結の意義」『ジュリスト』一一五一平成11年)。漁業で日韓は攻守逆転していたのである。 平成8年に日韓両国は200海里排他的経済水域(EEZ)を設定し、新漁業協定の締結交渉を始めた。排他的経済水域の画定問題をはじめとして難問が山積し交渉は難航した。 結局、漁業問題と領土(竹島)問題を切り離すことで一致し、境界画定が困難な水域には「暫定水域」を設定して境界問題を回避することになった。新漁業協定は10年に調印されて11年に発効した=地図C。 日本沿岸については「日本の海」を取り戻すことができたものの、新日韓漁業協定に対する日本の漁業者の不満は強い。暫定水域は本来なら日韓両国の漁船が操業できる水域であるが、現実には竹島に日本漁船は近づくことはできない。 ズワイガニ漁では休漁期のほとんどない韓国漁船の漁具(底刺し網)が始終置かれ、好漁場での日本の底曳網漁船の操業が難しい。ベニズワイガニかご漁は日韓が同じ漁法のため合意形成されつつあるが、ズワイガニ漁では隠岐北方の漁場の交代利用に合意したものの、重要な「浜田三角」では協議の進展が見られない。 それどころか、日本側排他的経済水域への韓国漁船侵入阻止に日本の取締船は汲々とし 、「浜田三角」西側の日本の排他的経済水域では、韓国漁船が監視の目を盗んで違法に設置した漁具によって日本の底曳網漁船が操業できない場所もあるというのが、日本海の現実である。 17年に島根県が「竹島の日」条例を制定した背景にも漁業問題があった。 「新日韓漁業協定において竹島の帰属が確定しないことにより、山陰沖を中心に設けざるを得なくなった広大な暫定水域は、事実上韓国漁船が独占する海域となり、本県を初め我が国の漁船はほとんど立ち入ることが不可能である状況を見るとき、その損害ははかり知れないものがあります」 島根県議会で条例提案者の議員は、このように理由を説明した。竹島問題の現状竹島問題の現状 島根県の「竹島の日」条例制定は韓国を刺激し、平成24年の李明博韓国大統領の竹島上陸という事態を招いた。この結果国民の関心も高まり、日本政府も竹島問題への取り組みを強めつつある。 日韓条約が結ばれた昭和40年、佐藤首相は「竹島問題が解決しないかぎりそのほかの日韓懸案を進めないというわけにはいかない事情なので、この点を地元でもよく理解してほしい」と島根県知事に述べて(同10月8日付島根新聞)、竹島問題は「寝た子」にさせられた。 53年には島根県は鳥取県と共闘して竹島近海での日本漁船安全操業をめざしたが、かなえられなかった。しかし今、竹島問題は国民的課題になっており、島根県は過去の限界を越えつつあるように見える。 ただし、現在の竹島問題に関する言説には懸念されるものが多い。 まず、日韓友好のために竹島を共有しようという主張が日本人の間にある。背景にあるのが次のような考え方である。「日韓両国の言い分はそれぞれあって、どっちが百点という話じゃないだろう。どちらにも言い分はあり、日本政府の主張にもおかしな部分があるのは間違いない」(「領土という病―国境ナショナリズムへの処方箋―」平成26年)。これは17年3月27日付朝日新聞で、日本が竹島を譲るかわりに韓国が「周辺の漁業権」を譲ることを提案した元朝日新聞主筆の若宮啓文氏(当時は論説主幹)の発言である。 このような日韓主張のどちらにも瑕疵があるから双方とも譲歩すべきだという「相殺論」に説得力はない。韓国は現在の日本の領土を最終決定したサンフランシスコ平和条約に反して竹島を不法占拠した。根拠のある日本の主張にも間違いがあるとすれば、韓国の主張には根拠自体がないのであり、根拠のあるものとないものを同等に扱うことはできない。 この竹島領有根拠「相殺論」は日本の主張に疑問を抱かせ、その結果韓国を助けているのである。 次に、朝鮮半島にあった政府が竹島を自国領土として支配していた根拠を示さないまま、もっぱら日本と竹島の関わりを問題視して日本を動揺させようとする主張がある。 とりわけ、明治10年に明治政府が出した「竹島ほか一島のことは本邦と関係がないものと心得よ」とした太政官指令で、竹島は日本領から除外されたのだという論者は多い(この主張に対しては「太政官指令『竹島外一島』の解釈手順」(http://ironna.jp/article/700)で説得力のある反論が行われている)。 しかし、これは日本政府内部におけるやりとりであって、日本政府が対外的に表明したものではない。仮に日本政府がこの時点で竹島の領有意志を持っていなかったとしても、後に領有することが認められないということはない。そもそも、相手国の領土主張を否定するだけでは自国領土であることにはならない(塚本孝「元禄竹島一件をめぐって―付、明治十年太政官指令」『島嶼研究ジャーナル』二巻二号)。 明治10年の太政官指令をめぐる論議は、「日本領からはずされたならば朝鮮領になったのではないか」という錯覚を利用して日本を揺さぶろうとするもので、竹島問題の本質とは関係ない。竹島問題の本質に迫るためには、韓国は、明治38年以前に朝鮮半島にあった政府が竹島を自国領土として支配していた根拠を示し、その上で戦後韓国が国際条約に反して竹島を不法占拠したという主張に根拠を持って反論せねばならない。 そして、竹島は古来欝陵島と一体だったという「属島論」がある。韓国の新聞が竹島を「独島」として報道し始めた昭和22年以降、韓国はこの主張を繰り返してきた。17世紀末の日朝間の外交交渉は欝陵島をめぐるものであって竹島ではなかったにもかかわらず、江戸幕府の欝陵島渡航禁止令で竹島は欝陵島とともに朝鮮領になったなどという主張もそうである。近年の韓国では「欝陵諸島」という言葉まで飛び出している(獨島研究保全協会二〇一三年学術大討論会)。竹島全景。手前が西島、後方が東島(昭和29年1月、産経新聞社機から撮影) 日本統治期(明治43~昭和20年)についても、大正14年に欝陵島在住の島根県出身者がアシカ猟以外の漁業権を買い取って竹島で漁業をしたこと、その使用人の朝鮮人が竹島で密漁したらしいこと。これらから、日本統治期の竹島経営は欝陵島の一部の日本人漁業者が独占し、戦後日本人に雇われていた欝陵島の朝鮮人が「主体的に」渡航を行うようになった。さらには、日本統治期に竹島は隠岐島の「属島」から欝陵島の「属島」へと変化し、それによって解放後の朝鮮人の「実効支配」に繋がる基礎が形成されていったとまで書く論者が現れた。 竹島の漁業権は本来島根県が隠岐の人々に許可したものであることや、竹島の行政権が朝鮮総督府に移った事実はないことを無視してここまで書く勇気には驚くが、大きな流れとして、韓国は昭和28~29年に「島」を奪い、53年に「海」を奪い、そして今日本とのつながりの「記憶」を奪おうとしている。 以上三つの論点は、今後竹島に関する領土教育が進められる中で、教育現場でも避けることのできない問題となるであろう。昭和28年夏の竹島昭和28年夏の竹島 2枚の写真がある。昭和28年に島根県と海上保安庁が共同で竹島調査を行い、6月27日に、島根県職員、海上保安官、島根県警察官総勢30人が竹島に上陸して、不法入国していた6人の韓国人を事情聴取しているものである。竹島に不法侵入して野営していた韓国漁民を事情聴取する島根県職員、同県警捜査員、海上保安官(昭和28年6月27日) 県職員は報告書で次のように記す。彼らは欝陵島の漁民で6月9日に来島して海草を採取していたが、時化で母船が来ないため食料が無くなって困っていた。一昨日隠岐高校水産練習船鵬丸の乗員から米を与えられて救われた。自分たちを鬱陵島に送ってほしいと希望を述べた。彼らに対しては母船が到着次第速やかに退去するよう勧告した(『獨島問題概論』には、この時海上保安庁巡視船は米国旗で偽装し、昭和23年の米軍機竹島爆撃事件で亡くなった韓国人の慰霊碑を壊したという、信じがたい記述がある)。 この事件に対応して、7月8日に韓国国会は「大韓民国の領土である独島に日本官憲が不法侵入した事実に対し政府が日本政府に厳重抗議」を求める建議文を採択した。そこでは主権侵害を防止するため「積極的な措置」をとることが記され、韓国はそのとおり実行した。冒頭に書いたように、7月12日に海上保安庁巡視船「へくら」が竹島から数十発の銃撃を受け、一発が船体に命中する事件が起きるのである。 日本では、7月8日の衆院予算委員会で岡崎勝男外相は、韓国人は竹島にはすでにいないとして「韓国側も特に事を荒立てるという気持はないよう」なので「軍艦を派遣するとか何とかいうことは、さしあたり考えられない」と述べた。 8月4日の衆院水産委員会では、5月28日に竹島に30人もの韓国人がいると島根県の報告がありながら1カ月放置した責任、発砲事件や韓国が竹島に要塞を築くという情報への対応を問う質問があった。 岡崎外相は、最近の報告では竹島には異常はないとして「要塞云々のことは何かうわさで、間違いであろう」「国際紛争解決に武力を行使しないということは憲法の示すところ」なので竹島問題の解決は「平和的手段によるべきもの」と答弁した。 8月10日の同委員会では、竹島問題に日米安全保障条約が適用されるかという質問に対し、現在は「向こうの方は来ていないというような実情」なので「今ただちに竹島問題について駐留軍の行動を促すというような措置は、差し控えるべき」だという政府答弁があった。日本政府は紛争回避を優先し、竹島不法占拠を強行する韓国の意図を見誤った。 6月30日に柳泰夏駐日韓国代表部参事官が外務省を訪問して「報道によれば竹島で韓国船が日本側に拿捕され、韓国漁民が拉致されたというが、これは本当」かと質問した。七月七日の韓国国会では、この報道は誤報であって「独島を日本人が占拠している事実はない」という駐日代表部の報告が読み上げられた。 竹島に上陸した韓国人に対する措置が逮捕ではなく退去勧告にとどまったこと、公務員常駐など竹島の管理強化をしなかったこと、これらの日本の対応は韓国を増長させた。 写真でわかるように、昭和28年6月27日の竹島は日本が管理していた。「日本船舶の不法領海侵入と彼らの脅迫的な態度と言動で純真な韓国人漁労者たちは、不安と恐怖で漁労を中断する」(『獨島問題概論』)状況が同日直後の竹島にはあった。なぜこの状態を日本が維持できなかったかを考えねばならない。昭和28年6月27日の島根県と海上保安庁の共同調査では「島根県穏地郡五箇村(現・隠岐郡隠岐の島町)竹島」の行政区域標柱が設置された(海上保安庁提供) たしかに、貧弱な装備で韓国と対峙せざるを得なかった当時の海上保安庁の苦境は察する必要があろう。 28年7月12日に巡視船「へくら」に乗り込んで来た韓国警備官は「へくらが自分等の船より大きいのと、武装しているのではないかと内心おそれているようであったが、へくらに機関銃一つ、小銃一つないのを見てとると急に態度が大きくなった」(『キング』28年11月号)、「警備船程度の装備しかない海上保安庁では実力をもって韓国官憲に対し対抗することは難しく、外務省としては警備隊の実力を行使することなく平和的に解決したい方針である」(28年7月14日付毎日新聞東京本社夕刊)とある。 翌年海上自衛隊になる警備隊の竹島防衛への出動という選択肢は日本政府にはなかった。この年の夏、警備隊が行ったのは、韓国による竹島不法占拠阻止ではなかった。6月28日から7月10日まで実施された、関門トンネルも水没して通行不能になるほどの西日本各地の水害に対応して行った海上自衛隊史上初の災害派遣であった。 竹島問題は、米国の庇護の下で対外摩擦を避けてきた戦後日本の象徴であるかのように私には思われる。昭和27年に日本は本当に独立したのか、それが今問われている。【追記】明治10年の太政官指令の問題については、「竹島ほか一島」とは現在の竹島ではなく「竹島とか松島と呼ばれる島」すなわち鬱陵島のことであるとする最新の論考(杉原隆「明治4年提出の二つの「竹島(鬱陵島)渡海願」)が発表されている。ふじい・けんじ 昭和30年島根県生まれ。54年広島大文学部卒。55年から兵庫県の公立高校で地歴公民科(社会科)を教えつつ近現代の日本と朝鮮半島の関係史に関心を持ち続ける。島根県など山陰沖で激化した韓国漁船操業問題をきっかけに兵庫教育大大学院で本格的な研究に取り組む。平成13年修士課程修了。修士論文は「日韓漁業問題の研究―李承晩ラインとは何だったのか」。日本統治時代の朝鮮で水産業に従事し、戦後引き揚げた人たちを追った「朝鮮引揚者と韓国―朝水会の活動を中心に」(崔吉城・原田環編「植民地の朝鮮と台湾―歴史・文化人類学的研究」第一書房)など地道な聞き取り調査をも重視した実証的な研究を続け、21年に島根県竹島問題研究会委員に起用される。24年から島根県竹島問題研究顧問。近く「戦後日韓海洋紛争史」(ミネルヴァ書房)を刊行予定。   

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    竹島問題、日本政府はなぜ対処できなかったのか

    る日本政府に対し、韓国政府は不法入国者等にも日本定住の「法的地位」を与えるよう求めたのである。 この日韓関係に変化が現れたのは1994年、国連の海洋法条約が発効し、国際ルールに従って対話をする機会が訪れたからである。そこで韓国政府は、竹島の不法占拠を正当化すべく、竹島に接岸施設の建設をはじめ、日本政府が抗議すると、反日感情を爆発させて牽制したのである。 だが日本政府は、韓国側の反日感情を考慮してか竹島問題を棚上げし、1998年末、新「日韓漁業協定」を締結したのである。その結果、日本海には排他的経済水域の中間線が引けずに、日韓の共同管理水域が設定され、韓国漁船による不法漁撈問題が発生したのである。そこで島根県議会は2005年3月16日、「竹島の日」条例を成立させ、竹島の領土権確立を求めたのである。 だが当初、日本政府は「竹島の日」条例には批判的で、竹島問題を歴史問題や漁業問題に局限し、韓国側の動きに同調する動きも強まった。そこで島根県では2014年2月、『竹島問題100問100答』(ワック出版)を刊行し、韓国側には竹島の領有権を主張できる歴史的権原がない事実を明らかにしたのである。これに対して、韓国側では今に至るまで反論ができていない。 ここで問題となるのは、日本の国家主権が侵され続けて半世紀、その間、日本政府は適切な対処をしていたのかということである。外務省のホームページで「竹島は日本固有の領土」とし、「韓国が不法占拠している」とするのは、「竹島の日」条例の成立が確実となってからのことで、『防衛白書』に竹島問題が記述されたのも2005年度版からである。 それに島根県竹島問題研究会が『竹島問題100問100答』の企画を進めていた頃、外務省でも島嶼研究の基本調査と称して8億円の予算を組んでいた。だがこの類似の試みに対し、韓国側が反応したのは、出版費200万円程の『竹島問題100問100答』の方であった。それも『竹島問題100問100答』を批判した慶尚北道独島史料研究会では、『竹島問題100問100答』を韓国語訳し、その後に批判を加えた『「竹島問題100問100答」に対する批判』をネット上に公開したことで、墓穴を掘ってしまったのである。これまで韓国内では韓国側に不利な竹島関連の情報は制限されていたが、島根県竹島問題研究会の見解と、それを批判する韓国側の見解を比較できる場を作ってしまったからだ。 だが事の重大さに気がついたのか、慶尚北道庁は突如、『「竹島問題100問100答」に対する批判』をネット上から削除したのである。事実上の敗北宣言である。 竹島問題は、領土問題である。それを解決していくには、歴史の事実と若干の戦略が要る。島根県にできることが、日本政府には何故できなかったのか。ここに竹島問題の本質がある。

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    中立を装う朝日新聞の欺瞞と独善

    古田博司(筑波大学大学院教授) 昨年は朝日新聞社の慰安婦誤報事件をめぐり、様々な検証が行われてきたが、どうもいまいちすっきりしない。いったい何がいけなかったのか根本が極められていないので、朝日以外の他社の新聞記者にまで世上を見る際の視座に不安を及ぼしているというのが現状ではないだろうか。 「角度を付けすぎてはいけないんだ」とか、「特権振りかざすような気分はひかえなければ」とか、「一方に過剰に偏ってはいけない」とか、いくらでも教訓は引き出せるが、教訓というのは断片にすぎないから弥縫策にしかならない。 そこで私は考えたのだが、朝日新聞のまちがいの根本は、「均衡中立性崩壊」にあるのではないか。本来、世上では様々に反対意見の集団が対峙しているし、世界では様々な国々が対立している。それがビリヤードの玉のようにぶつかり合う。そこに政治が生まれるのだが、この政治にははじめから均衡点がない。 あれば皆がそこを目指すからいつかは平和な状況がやってくると期待することができるはずである。でもないので対話の機会を設けて互いに説得し合う。あるいは似た色の玉同士で同盟を作り、圧力をかける。どうしようもなければ局地的に少し暴れる。でも現在では熱い戦いにはなかなかならない。下手をすれば自分が滅亡してしまうことをよく知っているから、摩擦を起こしながら相手を動かしていく。 国会中継を見ていても、昔のように議論白熱し武闘派が暴れるようなことは最早ない。みんなフリップをもってきて、ビジュアルに訴えるような形で説得する。議論や熱い戦いの時代は去り、説得と圧力、摩擦で反対側を動かしていくのである。均衡点はあらかじめあるわけではないから、先んじて中立点をつかむことはできない。中立性をつかんだ気になり、自分こそ客観的だと思うことが危険なのだ。 中立性と客観性は明らかに別物である。反対側の相手にだって客観性はある。だからこそ反対側の人々からも説得力のある意見が当然聞かれる。 朝日新聞社は率先してこの時代の先見性をはずしたのだと思う。はじめから均衡点があると過信する。たとえば日本と中韓もこの均衡点に向かっている。だから平和は双方が議論し、歩み寄りに努力すれば可能なのだ。 自分はこの均衡の位置から中立的に両者を高みから見下ろせばよく見えるはずだ。それで、そうしようとするのだが、そんな場所はないのでどちらかに転がり落ちる。自分は日本人だから日本側に落ちそうになるかもしれない。頑張って落ちないようにしようとすると中韓の側に落ちる。そこで日本の平和への努力不足を批判するという無難な形でこれまでやってきた。 朝日新聞の「日韓国交五十年 歴史の節目に歩み寄りを」(二〇一四年十二月三十日付)の社説は、日本と韓国の間で何とか中立性を奪取しようとする苦肉の策だった。あれほど世間的に批判されたのだからそうされないように、「角度を付けないように」「偏らないように」「傲慢にならないように」と、必死にやじろべいをした。 でも慰安婦の「強制性」を否定したら負けなのでナニクソと「一方で『韓国には軍に無理やり連れて行かれた』と証言する女性がいる」と述べた。この時点で、実は韓国側に転がり落ちている。中立性など均衡点のない世界では無理なのである。でも、次もナニクソと踏ん張る。「韓国の朴槿恵大統領も(省略)日本が加害者であるからといって、ただ提案を待つだけでは問題の決着はありえない」と、韓国側もいさめてみせる。 この時点で読者はげんなりする。こんなに相手側に転げ落ちてまで、まだ中立点に自分がたっていると信じ込んでいる愚かさが「欺瞞」という匂いで読者の鼻を衝くからである。 そして最後に、先見性から物の見事に失墜する。よせばいいのに、「国交正常化に、安倍首相の祖父の岸信介氏は大きく関わり、朴大統領の父、朴正煕氏は国内の反対を押し切って決断した。このままでは日韓双方で当時の決断を疑問視する声さえ強まりかねない」と言ってみせた。 今は過去になったのではっきりしているが、韓国は日米の圧力に屈し、六月二十一日外相会談をもち日本に妥協するとともに、翌日両国で催された日韓国交五十年式典に各々の首脳が出席し、韓国は日韓基本条約の基本線にもどったのである。 朝日新聞社の一体何がいけなかったのか。これで明らかになったと思われる。それは「均衡中立性崩壊」の現代で、崩壊に気づかずに、ことさら中立性を取ろうとして日本の反対側に転がりつづけたことである。新聞記者諸兄姉には是非注意してほしい。世界にあらかじめ均衡点などなく、中立性は取れないのだ。 どちらかに視座をしっかりと据えて、反対側の意見も無視しないことである。反対側にも客観性があることを肝に銘じ、自分がどちら側についているかしっかりと自覚して筆を執る。では、いったいどちらに付いたならばよいのか。それが先見性というものなのである。先見性から失墜すれば、当然予測を外し、せっかく正義の中立点を取ろうとした者が悪になる。朝日の誤報事件は秀才がこの先見性に恵まれていないことを秘かに暗示している。

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    「ランドセル」にまで目くじら立てる韓国人

    水野俊平(北海商科大学教授) 最近、韓国では「旭日旗」を「日本帝国主義の象徴」と見なして糾弾しようとする運動が顕著化している。昨年9月、仁川アジア大会に出場した陸上ホッケーの日本男子選手が、旭日旗を連想させる模様のバッジを記念品として韓国の女子高生に渡したことが非難の対象になった。また、国際サッカー連盟(FIFA)の公式マガジンの表紙に「旭日旗」が描かれていたとして、非難が浴びせられた。 こうした運動は韓国国内だけではなく、アメリカやヨーロッパにも飛び火している。2013年にはイタリアの「BENJAMINS」というメーカーが販売していたスマホケースのデザインが旭日旗に似ているとして、「旭日旗を使うな!」と韓国人が抗議メールを送る騒動があった。昨年にはアメリカのペンシルバニア大学構内に設置されたステンドグラスの意匠が旭日旗に似ているとして、韓国人学生が撤去を要求している(大学側は撤去を拒否)。 日本と戦争したアメリカも旭日旗を問題にしていないのに、なぜ韓国人がなぜ旭日旗に言いがかりをつけてくるのだろうか? その理由は簡単である。彼らが旭日旗を「日本帝国主義の象徴」と見なしているからだ。ただし、その「見なし」にはかなり突発的で恣意的な側面がある。そうである故に、日本人は、なぜ韓国人がいきなり旭日旗を非難と糾弾の対象とするようになったのか、いまいち理解できないでいるのである。 韓国で旭日旗が「日本帝国主義の象徴」として非難の対象になったのは2012年前後からである。サッカーの国際試合における日韓戦の応援で、日本サポーターが旭日旗を使用した(と韓国内で報じられた)ことから、「あれは日本帝国主義の象徴だ」という非難が突如沸き起こった。ただし、それまではサッカーの応援や公式の場(海上自衛隊の韓国寄港など)に旭日旗が登場しても大した話題にもならなかった。韓国の有力日刊紙・朝鮮日報の記事を検索してみても、旭日旗を非難する記事が登場するのは2012年からである。つまり、韓国における旭日旗糾弾が顕著化したのは、2、3年前からのことであり、かなり突発的な現象なのである。 ただし、韓国では「日本帝国主義(=日帝)」と関連があるとして、一度糾弾や非難の対象になると一切の反論は許されない。それまでの経緯がどうであれ、非難や糾弾の妥当性の有無にかかわらず、一切異論をさしはさむことは許されない。異論をさしはさむ輩は、それこそ「日本帝国主義」を擁護する「親日派(=売国奴)」と見なされる。こう述べると、きまって韓国人から「それは極論である」「韓国人全部がそうではない」「韓国にはそうした感情的な反日感情は存在しない」などという反論が提起される。ならば、日本に対する非難や糾弾に対して、反論が提起できる雰囲気が韓国にあるのか問い返したい。そうした反論を試みた場合、反論の内容や妥当性に関わらず「親日派(=売国奴)」と見なされて、旭日旗よろしく糾弾の対象になるのは、過去の事例から見て明らかである。なぜか「日章旗」や「君が代」には目くじらを立てない韓国人 かくして、韓国における旭日旗糾弾はどんどん拡大し、とりあえず旭日旗のように見える意匠なら何でも糾弾の対象になる、という段階にまで至っている。2012年には京畿道高陽市の駅前広場の設計が旭日旗に似ているとかで問題となった。昨年は、人気アニメ「ワンピース」に「旭日旗」のような旗が登場するという理由でイベントが中止になりかけたりした(結局、イベントは実施)。今年に入っても釜山市民公園にある歴史館の天井の模様が「旭日旗」に似ているとして変更されたりしている。 さて、「旭日旗」を非難する韓国人も、なぜか「日章旗」や「君が代」には目くじらを立てない。冷静に考えれば、国旗である日章旗のほうが、軍旗であった「旭日旗」よりも、よっぽど「大日本帝国」を象徴するものだったはずである。かつて植民地だった朝鮮にも日章旗は翻っていたわけであるし、植民地下の朝鮮人は「君が代」を歌わされていたわけである。 しかし、彼らは日章旗を掲揚し、君が代を歌う日本人を非難しようとしない。ソウルの日本大使館の前などで日章旗を焼いている過激な市民団体の示威行動が報じられることがあるが、そうした韓国人はごく一部である。イベントなどに用いられる万国旗にも日章旗が含まれているし、公式の場で日章旗が掲揚される場合も多いが、これに文句をつける韓国人はいない。 日本には学校行事における日章旗の掲揚や君が代の斉唱に反対している教職員がいるが、韓国人はそうした運動にもまったく無関心である。彼らは「自国の国歌や国旗を敬愛するのは当たり前である」という(日本とは異なる)教育を受けているため、日本人が日章旗を掲揚したり、君が代を斉唱しても、ある意味、当然と捉えているのである(ただし、韓国人が同じような行動をとれば非難の対象になるだろう)。こうした理由から、彼らが「日章旗」や「君が代」を敢えて「日本帝国主義の象徴」と見なそうとしていないのである。このことからも、韓国人が何らかの事象を「日本帝国主義の象徴」と見なす基準が、かなり恣意的であることがわかる。 韓国では「〇〇は日本帝国主義の残滓である」「〇〇は日本帝国主義の象徴である」といった「糾弾対象探し」が常に行われている。最近でも朝鮮日報(6月11日付け)に「日本の小学生が背負っているランドセルは帝国主義の残滓である」という内容のコラムが掲載された。コラムを執筆した記者は大真面目に「帝国主義日本の陸軍歩兵が担いだカバンをまねた(ものが)ランドセルだった」「(ランドセル)日本軍国主義精神を小学生に教えることにあった」などと書いている。 まあ、韓国人が何を「日本帝国主義の象徴」と見なそうが韓国人の勝手であると言われれば、それはそうであると言うしかない。ただし、いつ何時、予想もしなかった文物が「日帝の象徴」として韓国人の糾弾の対象になる可能性があるということは知っておいたほうがいいだろう。

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    なぜ韓国人は、朝日の社旗に怒らないのか

    マッチポンプという言葉があります。日韓関係が現在のように険悪になったのは、朝日新聞のマッチポンプ報道が原因の一つであると言われています。その下品な手法をちょっと参考にしてみました。

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    韓国メディア 今度はランドセルを“攻撃”「軍国主義の象徴だ」

     「クール・ジャパン」アイテムとして外国人に人気の日本製ランドセルが韓国にも上陸、7万円を超えるブランド商品が飛ぶように売れているという。このブームに韓国紙は「日本軍国主義の象徴だ」と警告するコラムを掲げ、待ったを掛けた。日本文化の流入となれば、ことあるごとに難癖を付けてきた韓国メディアだが、日本発のアニメやグルメが市民権を獲得したいまなお、その“お説教”姿勢は健在のようだ。(桜井紀雄)7万円超でも一瞬で売れ 「『ランドセル』と呼ばれる日本から輸入した今年の新製品は70万ウォン。このデパートの売り場だけで100個余りが瞬く間に売れ、追加注文しました」 韓国のテレビ局MBCは今春、ニュースで、日本製ブランド・ランドセルの人気をこうリポートした。 この商品の価格は正確には、69万8千ウォン(約7万6千円)。別のメディアは「子供が転んでも頭を打たず、水に落ちても安全に救助できるように設計されているため高額だ」との業者側の説明を伝えた。 聯合ニュースは、小学生用通学かばんがベルギー製の人気ブランドでも約15万~30万ウォン、韓国製なら約4万~23万ウォンの価格帯のなか、約70万ウォンの日本ブランドまで登場し、「保護者の負担を増大させている」との消費者問題研究所代表の言葉を報じた。 MBCは、高額学用品が飛ぶように売れる背景として、少子高齢化で一人っ子世帯が増えるなか、両親と双方の祖父母の計6人が子供への出費を惜しまず、子供はいわば「6つのポケット」を持つためだと分析した。CMの一場面にお説教 日本製ランドセルの人気にあやかって、韓国の大手通信会社は、ランドセルを背負った子役を登場させた子供用スマートフォンのCMを放映した。 このスマホの売れ行きも上々だというが、韓国最大手紙、朝鮮日報は最近、コラムで、同社が「ランドセルの由来を知ったら、テレビ画面に日本軍国主義の象徴を映すことはなかっただろう」と指摘し、ブームに冷や水を浴びせた。 コラムは、日本の初代首相の伊藤博文が皇太子当時の大正天皇に帝国陸軍の歩兵が背負っていたかばんを模した「ランドセル」を贈ったとの逸話を紹介。「ランドセルの由来は、日本軍国主義の精神を小学生に教えるところから来ている」と論じた。 ランドセルの横に付いた上履き袋などを提げる輪が「もともと手榴(しゅりゅう)弾をつるすためのものだった」との日本のバラエティー番組で耳にしたとする説明も加え、「ランドセルを背負った日本の子供たちを見るたび、軍国主義が重なってみえる」と吐露した。 最後は「韓国には、韓国人が知らない日本軍国主義の残滓(ざんし)がある」とし、戦後70年を迎える今、「日本と日本人の軍国主義について、韓国人が何を知らずにいるのか一度、考えてみるのはどうだろう」と結んだ。宿敵、伊藤博文が由来 社団法人「日本かばん協会 ランドセル工業会」のホームページによると、幕末に西洋式の軍隊制度が導入された際、布製の背嚢(はいのう)も輸入されたのがランドセルの始まりという。 語源は、オランダ語の「ランセル」にあり、明治時代に開校した学習院が、背嚢に学用品を詰めて通学させるようになった。当時は、リュックサックに近かったが、伊藤博文が大正天皇の入学に合わせ、特注したものが現在の箱型ランドセルの原形。戦後になって、それが全国的に普及したという。 由来は軍の背嚢にあっても、丈夫で子供が背負いやすいものをと、日本独自の発達を遂げたかばんといえる。 これが最近、「キュート」だとして、ハリウッドのセレブをはじめ、欧米でもヒット。外国人観光客が日本土産として購入するなど、「クール・ジャパン」の一角を占めるブームとなっている。お隣の韓国に上陸するのも自然な流れといえた。 それでも、日本発で、韓国が日本による支配の元凶と恨む「伊藤博文」が由来に関わっているとなれば、一言いわねば気が済まないのが、韓国メディアの“悲しいさが”でもある。 「明治日本の産業革命遺産」の世界文化遺産登録をめぐっても「韓国人が強制徴用された」という自国の言い分が通らなければ、登録そのものに反対し、外交関係をこじらせたのと相通じる独善性が漂う。日本隠しの裏で「何でも韓国発祥」 日本の映画や歌謡曲は1990年代後半まで長らく韓国での放映・放送が禁じられてきた。半面、日本由来であることを隠したまま、模倣したアニメや菓子が量産され、子供たちの心をつかんできたのも事実だ。 ただ、この“日本隠し”が、もとは日本製のコピーにもかかわらず、「わが国は、すばらしいアニメや菓子を作ってきた」といびつな自意識を醸成させてもきた。 逆に、由来の「正統性」への頑固なこだわりから、漢字や漢方医学、活版印刷など、何でもかんでも「韓国が発祥だ」といったトンデモ歴史観がまかり通り、中国との間でも文化摩擦を生んでいる。 韓国はいわば、文明の通り道として、古くは中国から多くの文化を受容し、日本にも伝えた。近代以降は、日本経由で多くの文化や技術を取り込み、発展もさせてきた。 チーズなど斬新な具材を巻き込み、独自に進化した韓国版のり巻き「キンパプ」や、日本にも逆輸入された辛い韓国式インスタントラーメンなどがいい例だ。 韓国が文物の由来をめぐる儒教的「正邪論」へのこだわりを脱ぎ捨て、「文化の発展は伝播(でんぱ)にある」という当然の摂理を鷹揚(おうよう)に受けとめる余裕を持てば、韓国文化は、いっそう花開くと思えるのだが。日本原作の漫画を、ためらうことなく次々「韓流ドラマ」化し、コンテンツの海外輸出を成功させたように…。

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    韓国人学生 米名門大で旭日旗ステンドグラス撤去要求も却下

     アジアから遠く離れた米国で「反日」の狼煙を上げ続ける韓国系ロビー団体。カリフォルニア州グレンデール市では「票」の力により慰安婦像が設置されてしまったことは本誌が報じてきた通りだ。しかし、米国の「本流エリート」相手には彼らの無理筋な主張は通じなかった。ジャーナリストの高濱賛氏が報告する。* * * フィラデルフィア市郊外にある全米屈指の名門校、ペンシルベニア大学。広大なキャンパス中央部には古いレンガ造りの芸術文化研究ホール(ARCH)がある。その食堂のステンドグラスが”告発”されたのは今年3月中旬のこと。同大に通う韓国人学生が「旭日旗のデザインが施されている」として写真をフェイスブックに投稿したのだ。 言い分はこうだった。 〈あれはどう見ても日本帝国主義のシンボル。韓国人だったら見ただけで吐き気を催す「戦犯旗」だ。そんな旗が世界でも有数の最高学府にあるとは驚きだった〉 食堂内のステンドグラスの一つには、確かに旭日旗によく似た意匠が施されている。白地に太陽の光を表わす赤い線をあしらった「陸軍御国旗」(1870年制定)をモチーフにしたデザインだ。 フェイスブックに投稿した学生は韓国系学生会幹部らと共にウィリアム・ギプソン副学長(学務担当)ら大学側と面談、問題のステンドグラス撤去を申し入れた。 この出来事を学生新聞「デイリー・ペンシルべニアン」が報じると(書いた記者は韓国系アメリカ人)、同紙ブログには一般学生から「今、なぜこの旭日旗が問題視されなければならないのか」「コリアンよ、少し頭を冷やしたらどうか。伝統ある最高学府であまり非常識で偏狭な態度をとるなよ」と韓国人学生を戒める意見が殺到。ブログを読んだ大学関係者の一人は「アメリカのエリートたちの率直な気持ちが表現されていたと見ていい」と筆者に語った。 数日後、撤去しない方針を固めた大学当局は韓国系学生らを招いて説明し、その理由を伝えた。ギプソン副学長ら大学側はこう述べたという。 「指摘されたステンドグラスにある旗(旭日旗)は1928年に設置されたもので、当時、キリスト教学生協会が世界中に宣教活動を広げたことを示すシンボルの一つである。 この問題について大学側が君たち学生と議論することはやぶさかではない。大学側としては学生諸君の問題提起に関心を持っている。すべての人が満足するような解決策が出ることを期待するが、そのような解決策が出るのは難しいとも思っている。我々が最大限理解している限りでは、ARCHに取り付けられたすべてのステンドグラスにはそれなりの目的があった。こうした経緯についてはステンドグランス周辺に何らかの形で明記したい」 そこへキャンパス外から介入してきた団体がある。ニューヨークに拠点を置く「韓国系アメリカ人保護者協会」だ。 「保護者協会」と名乗っているが、実はペンシルベニア大学の韓国系学生とは全くの無関係。設立当初、韓国移民の児童たちの面倒を見る「保護者」的役割を始めたところからこの名称が用いられている。ニューヨーク州に慈善事業団体として登録されているが、実態は韓国系のロビー団体。 今年1月には、店内に長時間居座る韓国系高齢者たちを「商売に影響が出る」として警官に排除させたニューヨーク市クイーンズ区のマクドナルド店舗に抗議、謝罪を引き出した。2月と3月には「旭日旗反対闘争」をそれぞれ展開するなど、行動派の団体だ。 同会共同会長のチェ・ユンヒ女史は次の書簡をエイミー・ガットマン学長に送りつけた。 「アメリカ社会では日本の帝国主義とアジア侵略のシンボルである『戦犯旗』に関する認識が欠如している。この旗はナチスのハーケンクロイツの旗と同じだ。世界屈指の最高学府であるペンシルベニア大学には『ヒューマニティを助長させる知識』という校風がある。その大学のキャンパス内に『戦犯旗』のデザインが飾られている事実は極めて衝撃的だ。速やかにこれを撤去することを期待する」 大学当局は韓国系学生たちに回答した経緯を説明する返書を送り、問題はすでに解決済みとの見解を示している。「建国の祖」の一人、ベンジャミン・フランクリンが創設した伝統校。新参者の韓国人学生やその支援団体に270余年の歴史を書き換えさせるほど馬鹿ではなかった。関連記事■ 米カリフォルニアで慰安婦像レプリカ設置の動きが最終局面に■ 中韓反日現地組織 豪シドニー近郊で慰安婦像設置を仕掛ける■ 韓国人学生 日本人学生を「ありがたいくらい馬鹿」と評す■ KARA、少女時代、キム・ヨナを通じて日韓の違いを理解する■ ハーバード大の日本人留学生数 韓国人の1/8、中国人の1/7

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    もがく韓国「中国依存」という病

    韓国(朝鮮)の外交は、その時々の大国との距離感を測る外交スタンスを取り続けてきた。現在は、米中という2つの超大国との距離感が韓国外交にとっての最大のテーマだ。とかく慰安婦などの目立つバズワードばかりに目を奪われがちになるが、韓国の外交・安全保障戦略をリアリスティックに分析すべきだ。

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    尖閣見て中国に震撼する韓国の「連米連中」外交

    幻想は、主として進歩派の人々が抱くものであり、それは活発な交流が進めば、相互の理解が深まり、好ましい日韓関係がやってくるという期待として表れる。 だが実際には、日韓間の交流の量的拡大は、韓国と他国との更なる交流の拡大により、相対化されてしまっている。そもそも今日の日韓間の交流は、既に1年間に500万人以上、つまり1日に1万3000人を超える人が行き来する水準になっている。にも拘わらず、領土問題や歴史認識問題を巡る状況は悪化する一方だ。この事は、単なる交流の量的拡大による関係改善効果は極めて限定されている事を示している。 他方、中国経済の拡大が進む限り、韓国における中国の影響力は拡大する。韓国は自らの生き残りの為に、中国との関係を深めていくだろう。今日の韓国では、保守派の政治家や言論人の中にさえ、中国との関係強化に異を唱える人は少ない。日韓の軍事情報保護協定に止めを刺したのも、保守派の与党から大統領選に立候補している朴槿恵(パククネ)なのだ。拡大する中国の影響力の中、韓国の中国への傾斜は最早止める事のできないものとなっているように見える。 だとすれば我々が行うべきは、「連米連中」路線へと韓国が進む事を前提にして、もう一度戦略を立て直す事だ。韓国が本当に中国への傾斜を強めるなら、日本がやらなければならない事は沢山ある。 例えば、米韓の関係が悪化すれば、盧武鉉政権期同様、アメリカは在韓米軍の見直しを考える事になるかもしれない。韓国にはアメリカの空軍基地もあり、その時、日本が代替の基地を提供する事ができるかが問題になるだろう。中韓の経済的関係が中国主導で進めば、近い将来、中韓貿易が人民元で決済される時が来るだろう。或いは、中国はその実績を生かしてアジア全域での人民元の流通を目論むかもしれない。それに対してわが国はどう対処していくのか。準備すべき事は山ほどある。 我々は韓国に対して、彼らが向かう方向を真剣に問い質すべき時が来るかもしれない。甘い夢を語る時期は過ぎ、現実と真剣に向かい合う時が近づいている。きむら・かん 神戸大学大学院国際協力研究科教授。1966年生まれ。京都大学大学院法学研究科博士前期課修了。ハーバード大学フェアバンク東アジア研究センター客員研究員、神戸大学大学院国際協力研究科助教授などを経て現職。専門は比較政治学、朝鮮半島地域研究。関連記事■ 中国の新・国防白書 2020年までに尖閣奪取行動起こすと示唆か■ 中国が虎視眈々と狙う日本の海と空■ 不可解で危険な中国の言い分 米国による平和は維持できるか   

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    仮想敵は日本 韓国軍が狂わせる日米韓の歯車

    勝股秀通(日本大学総合科学研究所教授)これまでいくら日韓の国民感情が悪化しても、自衛隊と韓国軍の関係は維持されてきた。ミリタリーの関係は、両国間の政治的な対立を軍事的な緊張にまで至らせない「安全装置」だったのだ。しかし今、仮想敵を日本に置いたとしか思えない韓国軍の行動が相次ぐ。米国を基軸とした同盟の原点を見失えば、地域の平和と安定は崩壊するだろう。 シンガポールで開かれたアジア安全保障会議。日米韓の3カ国は6月1日、北朝鮮に核開発計画の放棄を強く求める共同声明を発表したものの、日本が求めていた韓国との防衛相会談は、韓国から拒否され開けなかった。日米韓が5月中旬に日本海で捜索救難訓練を実施したときも、韓国海軍は訓練の非公開を条件に参加していた。自衛隊幹部は「海上自衛隊との連携場面が報道されれば、韓国世論から反発を受けるという判断だろう」と説明する。だが、日韓の軍事面での関係悪化が表面化したのは氷山の一角にすぎない。相次ぐ軍事交流の一方的なキャンセル 5月の連休後半に韓国海軍の高官らとの会談を予定していた海上自衛隊トップの河野克俊海上幕僚長の訪韓が4月下旬、日程調整の最終段階になって突然取りやめとなった。靖国神社の春の例大祭に、多くの国会議員が参拝したため、韓国軍側から「不都合になった。訪問は受け入れられない」との連絡があったという。 実はその1カ月前にも、陸上幕僚監部の2人の部長(陸将補)が計画していた韓国陸軍との軍事対話が、相次いでキャンセルされていた。今年に入って、韓国陸軍は陸上自衛隊に対し、「陸将以上の訪問は遠慮願いたい」と、一方的に通告してきた。このため、陸幕では「陸将より下位の陸将補であれば、韓国側も受け入れるはず」(陸自幹部)と判断、装備部長と運用支援部長の2人を訪韓させ、北朝鮮の核やミサイル開発など朝鮮半島情勢について意見交換するつもりだった。 防衛省にすれば、自衛隊幹部が訪韓することによって、韓国の李明博大統領(当時)が竹島に強行上陸した昨年8月以降、北朝鮮のミサイル発射や核実験などの場面で連携が希薄となっていた韓国軍との関係を正常化させる狙いがあった。しかし、相次ぐ受け入れ拒否に、自衛隊幹部は「青瓦台(韓国政府)の指示で、軍のエリート将校養成課程が取りつぶされたように、ここ数年、軍のステータスは著しく低下している。軍も政府の了解がなければ自衛隊との関係を強化できない」と分析する。 これまで、日本海に浮かぶ竹島の領有権をめぐって日韓両政府が対立したときも、従軍慰安婦など歴史認識の問題で双方の国民感情が悪化したときも、自衛隊と韓国軍の関係が損なわれることはなかった。 ミリタリー同士の良好な関係による「安全装置」が壊れ始めていることは、昨年12月に公表された韓国の『2012年版国防白書』が裏付けている。ある自衛隊幹部は「目を疑いたくなるような内容だった」と評している。 韓国が独島と呼ぶ竹島をめぐっては、日韓両国とも領有権を主張しているが、白書には、韓国海軍のイージス艦「世宗大王」を先頭に、艦隊による島の警備活動の模様が大きな写真で強調されていた。前回の『10年版国防白書』では、わずか1枚ずつだった竹島の写真と領有を示す地図が、今回は計4枚も掲載されている。 日本との防衛交流や防衛協力に関する記述では、「独島は疑いもなく、地理的にも歴史的にも、そして国際法的にも韓国の領土である」と明記した上で、「日韓の将来の防衛交流や協力を発展させるためには、独島に対する日本の誤った認識や不当な主張を打破しなければならない」とまで記述している。 腹立たしい限りだが、今必要なことは、居丈高な韓国の振る舞いに対し、感情的になって憤ることではなく、冷静な視点で、自衛隊と韓国軍との連携が、韓国の平和と安全にとって何よりも重要であるということを指摘し、韓国軍、そして青瓦台の目を覚まさせることだ。韓国防衛支える自衛隊 沖縄・尖閣諸島の領有権をめぐる日中対立が激化し、今でこそ、日米同盟や在日米軍が存在する意義は、中国に対する抑止力を維持することのように思われがちだが、戦後一貫して、その主目的は朝鮮半島有事への備えである。自衛隊や在日米軍の体制は、安保条約に基づく日米同盟という枠組みの中で、米国の同盟国である韓国を防衛するために、強力な半島有事シフトを維持している。 具体的には、航空自衛隊は福岡県の築城と芦屋、山口県の防府北の3カ所に、1500~2000メートル級の滑走路を保有しており、海上自衛隊の大村(長崎)、陸上自衛隊の目達原(佐賀)、高遊原(熊本)、在日米空軍が使う板付基地(福岡空港)とあわせれば、北部九州という極めて限定されたエリアに7カ所もの航空基地が点在している。これは万一、第2次朝鮮戦争が発生すれば、米軍の戦闘機や輸送機が発進する拠点として活用されるのはもとより、日本人や米国人だけでなく、韓国から避難してくる多くの民間人の受け入れ基地としても活用されるはずだ。 さらに、北部九州地区には、福岡病院、大分・別府病院、長崎・佐世保病院、熊本病院という4つの自衛隊病院が集中している。これも韓国防衛のために傷ついた米軍や多国籍軍の兵士らの治療を前提に整備、維持されてきたのは紛れもない事実だ。このほか、朝鮮半島と向き合う長崎県の佐世保基地は、米海軍第7艦隊の戦略拠点であり、広大な佐世保湾の大半は、半島有事に緊急展開する米軍が占有したままだ。 そもそも戦後、北朝鮮の侵攻で始まった朝鮮戦争を機に、自衛隊は警察予備隊として発足し、日本各地の空港や港湾は、韓国防衛のために出撃する米軍などの拠点となった。それだけではなく、開戦当初、北朝鮮の攻勢を食い止めるため、米軍などによる仁川・元山への上陸作戦を前に、連合国軍総司令部(GHQ)の命令によって、日本は特別掃海部隊を編成、朝鮮半島の周辺で北朝鮮が敷設した高性能ソ連製機雷の除去作業に従事した。不幸にも活動中、1隻が触雷して沈没、乗組員1人が死亡、18人が負傷している。朝鮮戦争では日本人も戦死しているのだ。 にもかかわらず、休戦後も、日米同盟に基づいて、自衛隊が韓国の平和と安全を支え続けてきたという認識が、韓国はあまりに希薄過ぎるのではないだろうか。それが証拠に、『12年版国防白書』の中で韓国は、「朝鮮戦争で韓国を支援した国々」を特集しているが、日本は5万ドル相当の資材を提供した国として、わずか1行だけ取り上げられているに過ぎない。 今年7月27日は、朝鮮戦争の休戦協定締結から60年という節目にあたる。もちろん、朝鮮半島の混乱は日本の平和と安全に直結する事態であり、自衛隊と在日米軍の半島有事シフトは日本のためでもある。しかし、韓国防衛に対する日本の献身的な貢献がきちんと伝わっていないのだとすれば、それをしっかりと認識させることは、日本政府にとって対韓外交の柱であっていい。戦力増強する韓国軍と新たな基地建設 自衛隊と韓国軍の間で狂い始めた歯車を、早急に元に戻さなければならない理由はほかにもある。それは近年の韓国軍の増強ぶりと新たな基地建設の動きに対し、自衛隊が不信感を募らせているからだ。 かつて韓国は、『08年版国防白書』まで、外部の軍事的脅威である北朝鮮を「主敵」と位置づけていた。だが、10年版白書から主敵の表現が姿を消し、「北朝鮮政権と北朝鮮軍は韓国の敵」という表現に弱められている。呼応するように、100万を超す陸上兵力を持つ北朝鮮軍と、38度線を挟んで対峙しているにもかかわらず、韓国では現在、陸軍と海兵隊あわせて約55万人の陸上戦力を、22年には40万人程度にまで大幅削減する方向で検討しており、それに代わって増強しているのが海軍力だ。 08年以降、韓国海軍はイージス艦2隻を相次いで就役(現在、3隻目が試験運用中)させたほか、外洋航行に適した攻撃型潜水艦9隻を整備。駆逐艦6隻を含めた初の機動部隊を創設している。編成の目的は「国家の対外政策の支援、海上交通路の防衛、北朝鮮に対する抑止」を掲げているが、海上自衛隊幹部は「韓国は日本に負けたくないという思いが強い。あれだけの数のイージス艦と潜水艦をどこで使うのか。韓国がリムパック(環太平洋合同演習)以外で、太平洋で訓練したことなど見たこともない」といぶかる。対潜水艦作戦を念頭に置いたP3Cなどの哨戒機も16機保有しているが、搭載する対艦ミサイル「ハープーン」で攻撃するような水上艦は、北朝鮮軍には見当たらない。日本の海上自衛隊と米韓両国の海軍による合同海上訓練のため、韓国南部の釜山港に入港した米海軍の原子力空母ジョージ・ワシントン=2013年10月4日(共同) 不可解なのはそれだけではない。1つは佐世保の西方約200キロに位置する済州島に大規模な海軍基地を建設していることだ。数年以内には、P3Cの航空基地も併設され、大型揚陸艦も含め、韓国海軍は機動部隊を配備する計画を打ち出す。防衛省幹部は「済州島は日本海と東シナ海をにらんだ前線拠点であり、将来、中国海軍が寄港するようになるとやっかいだ」と打ち明ける。 また、これまで韓国は、米国との取り決めで弾道ミサイルの射程を300キロに制限してきたが、昨年10月、これを800キロに延長した。韓国南端から北朝鮮北端までの距離と説明するが、大阪など西日本は完全に射程圏内に入る。弾道ミサイルの射程延長に併せ、韓国は陸上発射型の巡航ミサイル(射程1500キロ)を配備し、駆逐艦や潜水艦には射程400キロの巡航ミサイルを搭載していることを公表した。北朝鮮を攻撃するためとしているが、「仮想敵は日本だ」とみる自衛官は少なくない。 日米同盟と米韓同盟。日韓は互いに米国を介して朝鮮半島の安定に力を注いできた。在日米軍やその基地施設をめぐって国内が二分することがあっても、日本は戦後、多くの資材と資金を投入し、半島有事シフトを維持してきた。しかし、韓国には日本の努力への理解が乏しく、日本も自らが果たしてきた役割の重要性を認識していない。 その間隙を突くように今、北朝鮮は核とミサイル開発を推し進め、中国は韓国を取り込みながら海洋進出を活発化させ、米国を基軸とする同盟に揺さぶりをかけている。何のために、日本と韓国は米国と同盟を組み、互いの同盟を基盤にしながら連携と信頼を築き上げてきたのか。その原点を見失ったとき、この地域の平和と安定は崩壊するだろう。かつまた・ひでみち 日本大学総合科学研究所教授。1983年に読売新聞社入社。93年から防衛省・自衛隊を担当。防衛大学校総合安全保障研究科に初の民間人として入校、修士課程修了。編集委員、解説部長兼論説委員、調査研究本部主任研究員などを経て現職。関連記事■ 韓国は日米と歩むほか道はない■ 「孤立論」まで飛び出した 韓国歴史外交の敗北■ 不可解で危険な中国の言い分 米国による平和は維持できるか   

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    反日外交に反省し始めた韓国メディア 朴大統領の「不通」の風当たり強まる

    立つ。このままでは、韓国が外交的に孤立するかもしれないという危機感の表れともいえるだろう。そんな中、日韓関係の改善の兆しを歓迎する声も上がるようになった。関係改善の兆しを歓迎 中央日報(電子版)は15日、「不通(プルトン)の韓日関係、ならば経済界が動き出すか」と題する社説を掲載した。「不通」とは韓国で最近、朴槿恵大統領(63)の意思疎通不足を表すときによく使われている言葉だ。 社説は、韓国ソウルで開催された「日韓経済人会議」で発表された経済協力と民間交流の強化などを促す共同声明について触れ、「2年以上も首脳会談が開かれていないほど韓日関係は『複合骨折』状態だ。しかし過去にも韓流など文化交流が基礎となり両国関係が良くなった経験がある。今回も温かい『ソフトパワー』を作動させて凍結した韓日関係を解かそうという望ましい方向に違いない」と肯定的に評価した。 一方、文正仁(ムン・ジョンイン)・延世大教授が寄稿した中央日報のコラム「中央時評」は18日、「日本牽制(けんせい)が韓国外交の存在理由なのか」という見出しを掲げ、「与野党を問わず朴槿恵政権の外交の総体的危機を取り上げ、尹炳世(ユン・ビョンセ)「外相の辞任まで要求した。理由はさまざまだ。『外交戦略の不在』『無謀な原則固守』『無能と安易な情勢認識』『我田引水と自画自賛』…」と記した。 その根拠として中央日報が実施した調査で「専門家の67.7%、一般国民の47%が韓国外交は危機だと評価した。多くの人々が朴槿恵政権の外交を厳しく評価しているということだ」と断じた。日本牽制が招く敗着日本牽制が招く敗着日韓国交正常化50年を迎え、ソウル市内のホテルで開かれた日本側記念行事で笑顔を見せる韓国の朴槿恵大統領=6月22日(共同) その上で、韓国外交の問題点を2点挙げている。「一つは北東アジア情勢の激動にもかかわらず状況を正確に読み取れていない。もう一つは対日牽制外交に失敗したという点だ。政界の批判は特に後者に注目する」とし、4月の安倍晋三首相(60)の訪米を取り上げ、「慰安婦問題を含む過去の歴史を薄めて『日米新蜜月時代』を開いている」とした。 さらに「日本を牽制して孤立させるために米国と中国に働きかける外交をすべきなのか。このような形の国内的圧力が強まるほど、韓国の外交の立つ瀬が狭くなるしかない。日本牽制が外交の目標になることはできず、なってもいけない。自ら失敗を招く敗着であるからだ」と自己反省を促している。 また、18日の中央日報社説では、安倍首相の訪米について触れ、「(日米が)新たな蜜月時代を切り開いていく雰囲気だ。こうした中、米日豪間の三角協力体制を構築しなければならないという主張まで提起され、ワシントンの一角では『韓国排除論』も出ている状況だ」と危機感を募らせている。「米中均衡」は実利なし 韓国経済新聞は20日、「米国や日本、中国は対立の中でも国益のためには互いに手を握っているが、韓国はそのはざまでしっかりした外交戦を展開できずにいる」とし、「米国と中国の間での均衡外交は実利も得られない上に原則まで揺らいでいるという指摘がある。韓米日の三角同盟を支持して早めに米国側に立った日本は、米中の間で躊(ちゅう)躇(ちょ)する韓国と明らかに比較されているというのが専門家たちの分析だ」と朴槿恵政権の外交を手厳しく批判している。 「日本が米国との密着した有利な立場を獲得した一方、韓国の位置づけは狭まったという評価だ。安倍首相は領土をめぐり紛争している中国とも関係改善に乗り出した。いわゆる実利外交だ。訪米に先立ちインドネシアで開かれたバンドン会議で、中国の習近平国家主席と会談する場面を演出した。日本に強硬な態度を取って距離をおく韓国が孤立するかもしれないという観測が出てくる背景だ」とした。 朝鮮日報(電子版)は19日、「韓日対立、韓国の淡い期待に背を向けたケリー氏」と題した社説で、「ケリー氏(米国務長官)は韓日関係について『韓日両国はデリケートな歴史問題について自制心を持って対処し、今後も対話を続けて互いが受け入れ可能な解決策を見いだしてほしい』と注文した。つまり慰安婦問題をはじめとする韓日間の懸案についても、ケリー氏は米国政府によるこれまでの立場を繰り返す以上の踏み込んだ発言はしなかった。その結果、ケリー氏による今回の来韓を受け『米国政府は日本ではなく韓国の側に立ってくれるのではないか』という淡い期待が、外交的に見ていかに純朴な発想であるかをわれわれはあらためて思い知った」と反省しきりだ。(国際アナリスト EX)

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    韓国のAIIB参加、カギは「北」だった…暗闘、駆け引きで浮かぶ中国の深謀遠慮

     韓国政府が3月27日、中国主導のアジアインフラ投資銀行への参加を決めたと発表した。先に米国の制止を振り切って英国などの欧州諸国やオーストラリアなど他の米国の同盟国も参加しているのだから、ワシントンも「各国の判断にまかせる」と言わざるをえなくなった。韓国メディアは「韓国企業がアジア地域のインフラ開発事業に参加する機会が大きく開かれた」(中央日報電子版3月30日付)とおおはしゃぎである。韓国はとにかく実利を優先したのだが、彼らにとって真っ先に考える実利先はアジア一般という漠然とした地域概念であるはずがない。北朝鮮であろう。切られた「北朝鮮カード」 これまで韓国のAIIB参加をめぐる米中の暗闘はすさまじかった。 2014年5月に訪韓した中国の王毅外相は朴槿恵大統領に対し、7月初旬の習近平国家主席の訪韓時の中韓共同宣言文に『韓国がAIIBに加盟することにした』と明示してほしいと要求してきた。さらに北京は6月初旬に訪中した韓国の副首相に念を押した。これに対し、米側は危機感を強め、「韓国がAIIBに参加するなら、米韓の信頼関係を壊す」とまで警告した。米国の強硬姿勢を受けて、朴氏も習氏との会談で「参加します」とは約束できなかった。以来、水面下で中韓間のすり合わせが行われてきた。 輸出に依存し過ぎる韓国経済の構造改革は待ったなしの状態だ=ソウル市内 その中で、韓国側は「ソウルにAIIB本部設置という条件を提示した」(中央日報電子版14年7月14日付)という。中国が出資金の5割を出し北京に本部を置こうというのに、ソウルに本部を置いてくれれば韓国も参加します、というのは、いかにも韓国らしい夜郎自大式発想だと思われがちだが、老(ろう)獪(かい)な北京はその言葉の裏を読み込んだに違いない。ソウルにAIIBを置け、というのは、AIIBは朝鮮半島、つまり北朝鮮をカバーしろ、という意味だと。 案の定、中国は最後に「北朝鮮カード」を切った。3月27日の産経新聞ソウル支局藤本欣也記者電によると、「韓国の企画財政省高官はAIIBの総会で認められれば北朝鮮にも投資可能だ」と語り、AIIBを通じた北朝鮮のインフラ開発に期待感を示した。 AIIBの設立趣旨では、世界銀行やアジア開発銀行に未加盟の国、つまり北朝鮮にはAIIBも融資はできないことになっているはずだが、韓国政府はご丁寧にも、AIIB総会の承認があれば可能という言質を北京から取り付けたのだ。 欧米メディアによれば、北朝鮮の方は2月に北京に特使を送り、AIIBの金立群臨時事務局長に参加の希望を伝えたが、金氏は参加の前提となる詳細な経済・金融データを北朝鮮側が示していないため拒否したという。日米、結束強化し対応を 11年12月に死去した父親の金正日総書記から最高権力者の地位を継承した金正恩第1書記が親中派の叔父、張成沢を国家反逆罪で処刑したのは13年12月。以来、中国は北への原油輸出を全面停止し、現在に至る。一方、中国資本が関与しているとおぼしき北の炭鉱からは引き続き石炭を輸入し、この石炭と引き換えに石油以外の中国産品を北が輸入するというパターンが続いている。その北が派遣した特使に応対したのはAIIBの金臨時事務局長という低レベルの官僚で、しかもすげなく追い返した。 その舌の根も乾かぬうちに韓国への返答で、中国は北朝鮮への融資への道を用意しているところが、何とも意味深長だ。 韓国は喜び勇んで参加を決める。北京は原油供給停止で締めつけておいて、金正恩体制を揺さぶる一方で、近い将来の北の支配者交代をもくろんでいるのだろうか。 北朝鮮に強硬姿勢を貫く日本と米国はAIIB問題で今後、結束を強化して対応していくしかない。ただし、それは日本主導であるべきだ。(産経新聞特別記者・編集委員)

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    朴外交“敗北”の裏事情 日韓関係改善ムードも気になる情報が…

    世界中にまるで「日本が韓国に大幅譲歩している」かのような印象をバラまいたが、真相は真逆だったのだ。 日韓関係の改善は、私(加賀)も含めて日本国民の多くが切望するところだ。だが、今の韓国を信用できるのか。実は大変な情報がある。以下、外事警察関係者の話だ。 「韓国は相変わらず中国と手を結んでいる。自衛隊の重要情報が韓国経由で中国に流れ、中国はそれをもとに沖縄県・尖閣諸島に関する工作活動などを練っている」 「与党の一部が裏で『反安倍グループ』をつくり、中韓両国と通じて情報を流している。彼らは、国民から安全保障関連法案反対の声が出ている今こそ『安倍首相を倒すチャンス』とみて、中韓と連動して卑劣な工作を仕掛けている。国会周辺や沖縄の米軍基地周辺デモを扇動している情報も確認されている」 安倍首相に申し上げたい。日本はこれまで通り、毅然とした、天に恥じない態度で韓国に対応していただきたい。そして、もう一言。すぐそばに裏切り者がいる。油断は禁物だ。かが・こうえい ジャーナリスト。1957年生まれ。週刊文春、新潮社を経て独立。95年、第1回編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム大賞受賞。週刊誌、月刊誌を舞台に幅広く活躍し、数々のスクープで知られている。関連記事■ 韓国は日米と歩むほか道はない■ 「孤立論」まで飛び出した 韓国歴史外交の敗北■ 不可解で危険な中国の言い分 米国による平和は維持できるか

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    韓国は日米と歩むほか道はない

    関連記事■ 100回謝罪しても当たり前とは やっぱり韓国とは付き合いきれない■ 「謝るほどに悪くなる日韓関係」ついに終止符を打つ時が来た■ 韓国による濡れ衣「もう傍観できない」個人の挑戦

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    日韓基本条約 50年目の真実

    「日本を批判はするがカネはくれ」――「用日論」をいう韓国の本音だろう。韓国経済がウォン高で悲鳴を上げるなか、6月22日、日韓国交正常化から50年目を迎えた。しかし、首脳会談はいまだ開かれず、両国関係は最悪の状態だ。日韓の真の友好は、どうすれば築かれるのだろうか。

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    迷走…交渉14年 日韓国交正常化の舞台裏

    日。退役後も、日本で会社を設立するなど、約40年間、日本に滞在した。国交のなかった20年間を、朴は「日韓関係史上、最悪の時期だった」と振り返る。 「当時の日本人は、韓国が植民地だった事実すら忘れかけるくらい無関心で、食べることに精いっぱいだった」日韓基本条約の調印式に臨む日韓両国の外相ら。14年の交渉が実った=昭和40年6月22日、東京・首相官邸大ホール 一方、韓国でも状況は同じだ。「植民地支配した日本人をみな嫌いだった。韓国は敗戦国日本よりも貧しく、発展の遅れなど何でも日本のせいにした」 反日感情は国民だけではなかった。李承晩(イ・スンマン)大統領も大の日本嫌いで知られ、米軍からの援助もあり、国交正常化を端(はな)からやる気はなかった。 交渉に前向きになったのは、続く張勉(チャンミョン)政権からだ。1960年代に入り、米国からの援助が減る中、「新経済開発五カ年計画」を打ち立てており、日本からの支援が必要だった。 張勉政権が日本との非公式チャンネルとして目をつけたのが、日本の政界に影響力を持つ陽明学者、安岡正篤と、日本の政財界に人脈が豊富な朴だった。朴は張総理の密使として、日韓を行き来し、国交正常化に向けた整地作業を手伝った。 結局、朴正煕少将らによる軍事クーデターで張政権が倒れ、すべて水泡に帰したが、朴は張政権下で田中角栄、野田卯一ら自民党議員団が訪韓したときのこんな秘話を口にした。 「日韓の非公式接触で、韓国側が十八億ドルの請求額を提示し、日本側は12億ドルで対抗。訪韓団の一員だった田中角栄さんが『仲割り』という独特な日本語を使って、15億ドルでの妥協を示唆したというんですよ」 当時の日本の外貨保有高は十四億ドル足らず。15億ドルは法外な額だった。◆◇◆ 安岡・朴のラインは朴正煕政権にも受け継がれ、冒頭のシーンに続く池田・朴会談の実現となった。日本の資金で近代化を図ろうとする朴政権は、交渉に積極的だった。しかし、安岡・朴らの手を離れ、表舞台に協議の場が移ると、請求額などをめぐって紛糾。さらに4年余の歳月を要することになる。 昭和40年6月22日、日韓基本条約が調印された。国交正常化に至るまで、会談は第七次に及び、諸会合は約1200回。 最終的に対日請求額が六億ドルで合意したことを考えると、「張政権のときに日韓基本条約が結ばれていたら、韓国にもっと有利な形になっていたかもしれない」と朴は残念がる。 それでも朴は「万感の思いがあった」という。 「安岡先生に『国士』と呼ばれ、ある種の義務感とか使命感で、国交正常化や日本からの支援で建設された浦項(ポハン)製鉄の設立にもかかわってきた」 朴は滞日40年余の間に体験した日韓国交正常化交渉の舞台裏などをつづった自著の日本語版『日韓交流 陰で支えた男-朴哲彦の人生』(産経新聞ニュースサービス発行)を来月、出版する。 日韓国交正常化から40年。この間、「金大中拉致事件」「教科書問題」「竹島問題」などが日韓間に立ちふさがり、必ずしも平坦(へいたん)な道のりではなかった。 そんな日韓関係に大きな変化が表れた。昨年はヨン様ブームで韓流に火がついた。国交正常化から40周年の今年は「日韓友情年」。民間の文化交流も盛んだ。 「互いに理性的に見られるようになり、あれだけあった怨念(おんねん)が、40年の間にヨン様という形になった。これが一時的な現象でないとよいが」 15年前からハワイで暮らす朴は、日韓両国を遠くに見ながら、こんな感想を漏らした。=敬称略 (水沼啓子)関連記事■ 一色正春が説く 韓国が日本を見下す理由■ 朴槿恵大統領の呆言、妄言、妄言録■ 朴槿恵大統領は父親を糾弾すべし

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    日韓国交正常化50年 日韓を結びつける安保の「磁力」 

    め在日米軍の基地使用が明記された。日韓基本条約が交わされたのは、その5年後の65年6月であった。戦後日韓関係史は、日米安保体制に組み込まれることから始まったと言ってもよい。「先祖返り」した関係 新旧を問わず、日米安保条約にいう「極東」のうち、その相当部分が韓国を指していたことは言を俟(ま)たない。韓国が再び「戦時」に陥ったならば、在韓米軍に加え、朝鮮戦争がそうであったように、国連軍として多くの在日米軍部隊が出動したであろう。 だがその一方で、韓国「平時」では、日本には再び北朝鮮の侵略を許さない「勁(つよ)き韓国」の建設のため、経済協力が求められた。韓国の安全のための日米間の緩やかな「分業体制」こそが、冷戦期の日米韓関係を支えていた。韓国はその時期、対日関係で北朝鮮と共鳴する問題でナショナリズムが噴出することを懸念し、時にそれを制御さえした。 冷戦終結とほぼ時期を同じくして、韓国の民主化が北朝鮮を遥(はる)かに凌駕(りょうが)する経済成長を伴ったことが、日米間の緩やかな「分業体制」を揺るがしたのは当然であった。軍出身者政権下で制御された対日ナショナリズムの多くは、民主化以降に噴出し、その度合いは次第に高まった。 断っておくが、軍出身者政権下のかの地で一時期を過ごした者として、韓国が軍出身者政権へと回帰することを望むわけでない。国会議事堂内に乱入した学生らに放水を行う機動隊員=昭和35年6月15日、国会議事堂 だが、竹島に接岸施設を竣工(しゅんこう)したのは、民主化後初の文民大統領となった金泳三政権であった。この問題で日本に「外交戦争」なるものを挑んだのも、人権弁護士出身の盧武鉉政権であった。竹島に現職大統領初の上陸を果たしたのは李明博氏だった。 そのナショナリズムは日本統治下に遡(さかのぼ)り、権力によって制御されるどころか、主唱されるに至っている。日韓関係の「先祖返り」とでも呼ぶべきか。進歩派の対日ナショナリズム 「先祖返り」は、何も外交関係に限ったことではなかった。韓国で一般に「進歩派」と呼ばれる勢力が、人権などの市民的価値を標榜(ひょうぼう)したのは確かである。しかし、それは時として、前近代的な価値と手続きに浸食されていった。進歩派が日本統治下の親日派処罰を遡及(そきゅう)して立法化したとき、当初は彼らに共鳴していた日本のリベラル派は、少なからず当惑した。 そもそも、韓国の進歩派はナショナリズムと吻合(ふんごう)し、しばしば「民族派」と呼ばれるのに対し、日本のリベラル派は、ナショナリズムとは背反する。日本でいうリベラル派は、韓国社会には有意には存在しない。 先の大統領選挙で、朴槿恵氏は盧武鉉政権で青瓦台秘書室長の任にあった文在寅氏を破るが、それは薄氷の勝利であった。対日関係だけが争点であったわけではないが、韓国社会はそれ程に「進歩化」している。それが、自らが語る歴史を「正史」とし、日本がそれを受け容(い)れることを日韓「和解」と看做(みな)す素地を形づくった。原型に忠実な安保の再確認 そうだとしても、朴槿恵氏が米韓同盟強化を謳い、昨年「戦時」作戦統制権を引き続き米軍に委ねると決めたことは、吟味されなければならない。確かに、韓国軍が米軍に「戦時」作戦統制権を委ねながら、米軍の展開を支援する自衛隊を牽制(けんせい)しようとする朴槿恵政権の主張は、純軍事的には説明はつきにくい。だが、文在寅氏が大統領だったなら進歩派政権宜(よろ)しく、米軍から「戦時」作戦統制権を「奪還」したであろう。こう考えたとき、朴槿恵政権には、安全保障の「磁力」が働く余地はまだ残されている。 韓国の安全を損ないかねないナショナリズムの噴出を危惧する勢力は、確実に存在する。90年代前半の北朝鮮核危機を経て策定された97年ガイドラインの後、小渕恵三首相と金大中大統領は、防衛協力を盛り込んだ日韓行動計画を発表していた。 折しも現在、ガイドライン改定を受け、安保法制が審議中である。日韓防衛相会談も4年ぶりに実現した。安全保障上の利害関係の再確認は、一方の歴史認識を他方が受け容れて得られる「和解」よりも、遥かに健全であり、何よりも原型に忠実である。 日韓国交正常化半世紀を経て、現行の日米安保条約を生んだ岸信介首相の孫と、日韓関係を日米安保体制に深く組み込んだ朴正煕大統領の息女が向かい合っている。何という巡り合わせであろう。関連記事■ 朴槿恵大統領はなぜ第三国での日本批判を繰り返すのか■ 韓国好きの私が韓国を批判するワケ■ 呉善花 恨と火病と疑似イノセンスと― 異常な反日行為と心の病

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    中韓に「おわび」したからこうなった

    な講演録『職業としての政治』のなかでこう指摘している。いまから100年近く前の言葉だが、まるで日中、日韓関係のようにも思える。 めざすべき将来よりも、思い込みと偏見で禍々(まがまが)しく彩られた慰安婦問題などの過去にこだわる韓国の朴槿惠大統領は、まさしくこの「政治的な罪」を犯している。 いや、韓国だけでなく中国も、そして『朝日新聞』をはじめとする日本国内の左派メディアも同様だろう。現実の国際情勢にも日本の国益にも目を向けず、ひたすら解決不可能な過去に拘泥(こうでい)しつづけている。 だが、個人でも国でも、誰が過去しか見ない相手と付き合いたいと思うだろうか。いつまでも70年以上昔の話、それも誇張され歪(ゆが)められたことばかり繰り返す者と誰が友情を育みたいと考えよう。 「韓国はシック(病気)でタイアッド(うんざり)だ」 今年3月、米東海岸を訪れ、米政府関係者やジャーナリストらと意見交換した日本政府関係者は、米側から異口同音でこうささやかれたと明かす。日韓関係について、当初は韓国に同情的だった米国の見方は変わった。外務省筋は語る。 「第二次安倍晋三政権発足からしばらくは、米国は『日本のほうが大きな国なんだから、韓国に譲ってうまくやってくれよ』という感じで、日本側の譲歩ばかり求めていた」 それが、韓国の東アジアの安全保障環境も経済利益も目に入らないあまりにしつこい歴史粘着ぶりに、いまや呆れだしているようだ。 韓国は安倍首相が4月29日に米上下両院合同会議で行なった演説についても、これを中止させようと熱心なロビー活動を展開したが、韓国の異常さを露呈しただけだった。 米国が国賓待遇で招聘した他国の首相の議会演説を、直接関係ない第三国が阻止しようとすることがいかに筋違いで、米国の顔をつぶす行為であることか。世界は韓国を中心に回っているわけではないという当たり前のことが、韓国には理解できていない。 実際の安倍首相の演説は韓国や『朝日新聞』などが求めた「侵略」「植民地支配」「おわび」などのいわゆる「キーワード」は使わなかった。それでも、戦後の日米の「和解」と未来志向の「希望の同盟へ」というテーマが米議員らの共感を呼び、スタンディング・オベーション(総立ちでの拍手)が起きた回数は14回に及んだ。会場では、ベイナー下院議長が目を押さえ泣いている姿もあった。 「演説後、たくさんの米議員らに握手を求められ、『謝罪や反省はもう十分だ』といわれた。米国とのあいだでは、歴史問題は『終わった感』がある」 安倍首相は帰国後、周囲にこう語った。日本のメディアはマイク・ホンダ下院議員らごく少数の演説批判者に着目していたが、ほとんどの議員は演説を歓迎し、喝采を送っていたというのが事実だろう。 これまで安倍首相のことを歴史修正主義者やナショナリストなどと決め付けてきた米メディアの論調はまだ批判的なものも多かったが、少なくとも米政府・議会を味方に付けることには成功したといえる。米カリフォルニア州のグレンデール市に設置された慰安婦像の前で両ひざをついて線香をあげるエド・ロイス米下院外交委員(中村将撮影) 逆に、義父の葬儀出席のため安倍首相演説に欠席しておきながら、「性奴隷の侮辱に苦しんだ女性たちに謝罪するべきだった」と非難声明を出したエド・ロイス下院外交委員長は、手厳しい批判にさらされた。 ワシントンのニュース評論サイト『ネルソン・リポート』は次のように報じた。 「家族は最優先されるべきだが、これほど重要な演説の場に出席できないのなら、せめて演説原稿を注意深く読んでしかるべきだ。自分の思いどおりのことをいわなかったからといって、米国にとり最も重要なアジアの同盟国の首相に言いがかりをつけることが外交委員長の仕事なのだろうか」 同サイトはもともと、慰安婦問題などでは韓国寄りで、日本に対しては厳しい姿勢をとってきたにもかかわらず、である。 演説後には、ケネディ駐日大使が『読売新聞』のインタビューに応じ、安倍首相が「おわび」という表現を用いなかったことについてもこう擁護した。 「彼は深い哀悼と表現した。気持ちや行動が重要だ」 やはり、大切なのはメディアが勝手に想定した「キーワード」など定型文ではなく、あくまで演説に込められた理念であり、共感を呼ぶ内容なのだろう。 ところが、朴大統領は5月4日の首席秘書官会議で、なおもこう言い募った。 「誠実な謝罪によって近隣諸国と信頼を深めることができる機会を生かすことができなかったことは、米国でも多くの批判を受けている。日本が歴史を直視できず、自ら過去の問題に埋没していっている」 とはいえ、過去の問題に埋没していっているのは、どう考えても韓国のほうだろう。安倍政権が現在、韓国に対しては「放置する」とのスタンスを取っているのも、こうした意思疎通の困難さからだろう。『朝日新聞』は村山答弁に学べ『朝日新聞』は村山答弁に学べ また、『朝日新聞』は4月30日付朝刊の一面に立野純二論説副主幹が「対米・対アジア 二つの顔」の見出しで次のように書いた。 「『希望の同盟へ』と題した安倍首相の演説は予想通り、『未来志向』の言葉に満ちている。『侵略』も、『おわび』も、ない。そこから強くにじむのは、前世紀の日本の過ちが残した歴史のくびきを解こうとする安倍氏のかたくなな執念である」 「対米関係というレンズを通してしか世界を見ない日本外交こそ、『戦後レジーム』ではないのか。侵略など国際的に広く共有された歴史認識への言及をひたすら避ける安倍氏の演説は、そんな皮肉を感じさせる」 侵略とおわびのくだりでの不自然な句読点の打ち方から、立野氏の苛立ち、侵略とおわびへの愛着が伝わってくるようだ。 そもそも、戦後70年もたつ現在、そろそろ歴史のくびきを解こうとすることがなぜ「かたくな」と表現されなければならないのか。『朝日新聞』はなぜ、日本をかたくなに歴史のくびきにつないでおきたいのか。 記事では、「侵略など国際的に広く共有された歴史認識」と根拠不明なことが述べてあるが、立野氏には次の言葉を送りたい。 「侵略という言葉の定義については、国際法を検討してみても、武力をもって他の国を侵したというような言葉の意味は解説してあるが、侵略というものがどういうものであるかという定義はなかなかない」 これは平成7(1995)年10月12日の村山富市首相(当時)の衆院予算委員会での答弁だ。村山氏は同年8月15日に、過去の植民地支配と侵略をおわびした「村山談話」を発表したあとの国会答弁で、侵略に定義はないと明言しているのである。 村山談話を聖典かドグマのように奉じている『朝日新聞』は、この村山答弁も神託としてありがたく受け止めるべきだろう。安倍首相は以前、周囲にこう語っていた。 「自国が侵略したなどといっている国は日本以外にない。侵略というなら、なぜ英国はシンガポールやマレーシアにいたのか。同様になぜオランダはインドネシアにいたのか。日本は英国やオランダを侵略したのか。日本が侵略したというのなら、欧米はみんな侵略していたといわなければならない」 安倍首相は、昨年7月8日のオーストラリア議会演説でも、今年4月22日のアジア・アフリカ会議(バンドン会議)での演説でも、米議会演説でも「侵略」や「おわび」といった「キーワード」は使わなかった。その真意について、首相周辺はこう解説する。 「安倍首相は、先人たちが悩み、迷い、苦しみ、将来に夢を描き、家族を慈しみ、友人たちを信じ、さまざまな思いと苦労のなかでそれぞれの人生を生き抜いた時代を、後世の政治家が勝手に『侵略』という一言でくくることなどできないと考えている」 一理も二理もある見解だと思う。安倍首相は国会答弁などで繰り返し、「歴史問題については政治家は謙虚でなければならず、歴史家や専門家に任せるべきだ」(4月1日の参院予算委員会)と発言しているが、その背景にはこうした考え方があるのだろう。 それに比べて、自身の社会党的で特殊、偏狭な政治信条を村山談話に反映させた村山氏も、韓国にすり寄り、根拠もなく慰安婦募集の強制性を認めた河野談話を平成5(1993)年8月に出した河野洋平元官房長官も、歴史に対してまったく謙虚ではない。 政治が恣意的に歴史を定義しようと試みた彼らのやり方は、むしろ傲慢で身の程知らずだともいえる。どこに談話の効果が? 村山氏は近年、自ら村山談話について「国是みたいなもの」と持ち上げるようになり、執拗に安倍首相に踏襲を迫っている。今年四月二十二日の講演では、こう自賛もした。 「村山談話が出てから今日まで、歴史問題で日韓・日中関係がガタガタすることはなかった」 4年前の平成23(2011)年9月発行の『村山富市の証言録』(新生舎出版)では、のちの首相も村山談話を踏襲すると思ったかと聞かれ、このように答えていたにもかかわらずだ。 「いやいや、そんなことまでは想定してませんでしたね。(中略)後の首相が踏襲してくれるだろうというような、期待はあったにしても、誰がなるかわからないのでね、そこまで考えて談話を出したわけではないね」 だが、村山談話が出てから日中・日韓関係に歴史問題は生じなかったとの言い分は明確に事実に反する。村山談話が発表されてからいまに至るまで、歴史問題は中韓からつねに提起されつづけている。むしろ、村山談話以降、その傾向は強まっているのではないか。 村山談話発表から3週間もたたない平成7年9月3日、中国の江沢民国家主席は「抗日戦争勝利記念日」の演説で、次のように激しく日本を批判した。 「ここ数年、日本では侵略の歴史を否定し、侵略戦争と植民地支配を美化しようとする論調がしばしば出ている。日本は真剣に歴史の教訓をくみ取り、侵略の罪を深く悔い改めてこそ、アジアの人民と世界の理解と信頼が得られる」 この言葉のどこに村山談話の効果が表れているというのだろう。村山氏は現在、いったい何を根拠にああも胸を張っているのだろうかと不思議になる。江主席はこの年11月に韓国の金泳三大統領(当時)と会談した際も、こう主張した。 「戦争終結から半世紀たっても、日本国内には誤った歴史観に立ち、日本軍国主義が中国、その他のアジア諸国に対し侵略戦争を発動した事実を否定するいくらかの人がたしかにいる」 これに金大統領も同調し、「今度こそ、日本の態度を必ず、改めさせる」と高飛車に述べた。ここに村山談話が歴史問題で何かの役に立った跡は見当たらない。 日中関係も日韓関係も、日本側が「侵略」だとか「おわび」だとか言い出す以前のほうが良好だったという見方もできる。村山談話は中韓による対日要求のカードとして利用されてきただけではないのか。戦後70年談話で「キーワード」は使わない 村山談話以後、慰安婦問題や靖国神社参拝問題、教科書問題がゴタゴタしなかったなどと誰が信じられるだろうか。本来は歴史問題とは違う範疇であるはずの尖閣諸島問題や竹島問題まで、いまや中韓は歴史認識絡みで語るようになった。歴史問題は拡大こそすれ沈静化などしていない。 河野談話もそうである。文書など物的証拠も信頼に足る証言者もまったくないまま、「元慰安婦の名誉回復のため何らかのかたちで強制を認めてほしい」という韓国側の要請をよかれと思って受け入れた結果、どうなったか。 河野談話は日本政府が公式に慰安婦強制連行を認めたものだと拡大解釈され、それどころか荒唐無稽な朝鮮人女性20万人強制連行説や、性奴隷説を世界に広めるのに利用されてしまった。 「日本側の善意が裏切られたということになる」 河野談話作成時の事務方トップ、石原信雄元官房副長官は『産経新聞』の取材に、韓国側の対応についてこう語ったが、後の祭りだ。 石原氏は「強制性を認めれば、問題は収まるという判断があった」とも明かしたが、日本側の善意や譲歩は中韓には弱みとしか受け取られず、付け入られただけだった。 そしてその結果、日韓関係は慰安婦問題をめぐって戦後最悪の状態となっている。冒頭、引用したヴェーバーは『職業としての政治』のなかでこうも語っている。 「善からは善のみが、悪からは悪のみが生まれるというのは、人間の行為にとって決して真実ではなく、しばしばその逆が真実であること。(中略)これが見抜けないような人間は、政治のイロハもわきまえない未熟児である」 春秋の筆法によれば、村山氏も河野氏も政治のイロハも理解していない。両氏を称賛してやまない『朝日新聞』など左派メディアも同様だろう。『朝日新聞』は今年1月3日付の社説で村山談話と戦後70年談話についてこう記している。 「政府の歴史認識の決定版であり、近隣諸国との関係の礎となってきた。その価値を台無しにすることは許されない」 「うわべだけの『帝国の名誉』を叫ぶほど、世界は日本の自己欺瞞を見て取る。この不信の連鎖は放置できない。断ち切るのは、いまに生きる者の責任だ」 論理が飛躍・混濁していて何が決定版なのか礎なのかよくわからないが、とにかく村山談話を持ち上げていることは理解できる。村山談話をそのまま踏襲すれば、不信の連鎖とやらが断ち切れるといっているのだとすれば、いよいよもって訳がわからない。 『毎日新聞』も1月4日付社説でこう書いた。 「70年談話に必要なのは、戦後50年時の村山富市首相談話を戦後日本の揺るぎない基礎と位置づけ、その上で未来を展望する姿勢だろう」 「今や歴史を排他的なナショナリズムから遮断すべき時期である。他者への想像力を伴ってこそ、その主張は受け入れられる。日本の政治指導者は、偏狭な自分史に閉じこもってはならない」 こちらのほうがまだ何がいいたいのかわかる分ましだが、いきなり揺るぎない基礎といわれても論拠不明だ。排他的ナショナリズムや偏狭な自分史うんぬんは、日本政府ではなく中韓側にいってほしい。「キーワード」は使わない 「『侵略』などの『キーワード』にこだわっているのはもう韓国だけだ」 これは最近、安倍首相が周囲に漏らした言葉だが、あえてそこに「日本の左派メディア」を付け加えたい。 中国は習近平国家主席と安倍首相が二度、首脳会談を行なったこともあり、戦後70年談話ほか歴史問題で日本を牽制しつつも、以前に比べ言動が柔軟になっている。 米国は日本との安全保障協力が大きく進み、安倍首相の議会演説が上下両院議員らの琴線に触れたことや、韓国という国の面倒臭さを理解し始めたこともあり、日本の歴史問題に言及することに慎重になってきた。 中韓以外のアジア諸国は、もともと日本の戦後70年談話に干渉しようとはしておらず、むしろ膨張する中国の脅威を深刻に捉えている。 近隣諸国の抗議と反対を無視し、南シナ海で岩礁を埋め立て、空母代わりの滑走路を建設するなどの現在進行形の中国の横暴な振る舞いのほうが、70年前の戦争中の出来事より各国にとって重要なのは当然である。 日本もまた、尖閣諸島を狙う中国の公船による領海や排他的経済水域(EEZ)内への侵入に日常的に悩まされている。韓国の李明博前大統領が歴代大統領で初めて竹島に上陸してから、まだ3年もたっていない。そうした厳しい国際環境、いまそこにある危機から目をそらし、中韓にもっと気を使え、刺激するなと叫んでいるのが韓国と日本のメディアというわけだ。 安倍首相は戦後70年談話で、彼らが求める「キーワード」は使わないと見られる。当然、彼らは強く反発するだろうが、それ以外の国も日本国民もそうした脊髄反射(せきずいはんしゃ)のようなバカ騒ぎには飽き飽きしており、冷静さを保つことだろう。関連記事■ 韓国人こそ歴史を学べ!――朴槿惠大統領は父親を糾弾すべし■ [日韓「歴史戦争」]日本がサンドバッグ状態を脱するとき■ <特別対談>慰安婦問題はフィクションだ■ トンチンカンな左派マスコミ

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    「孤立論」まで飛び出した 韓国歴史外交の敗北

    正常化50周年にあたるが、何とも皮肉な状況になってしまった。祝賀ムードなどどこにもない。周知のように日韓関係が過去最悪といわれるほど冷え込んでいるからだ。背景には韓国の度を越した自制なき反日と、日本での反韓・嫌韓感情の広がりがある。 これまでにない冷たい関係の象徴は、双方の首脳が2年以上にわたってまだ一度も首脳会談を開いていないことだ。日本の安倍晋三首相は「いつでも門戸を開いている」と言い続けているが、韓国の朴槿惠大統領は慰安婦問題を理由に会談を拒否している。こういう場合、国際的には「会いたい」といっている相手に「会いたくない」といっているほうが分が悪い。 ということもあって、朴槿惠大統領にとってその外交的環境は次第に厳しくなりつつある。 国交正常化50周年を考えるとき、日韓関係を最悪にしてしまったのがよりによって朴槿惠大統領時代とは、歴史的な皮肉というしかない。 彼女は50年前、日本と国交正常化を実現した朴正熙大統領の娘である。彼女が大統領になれたのは、歴代大統領のなかで最も国民的な人気がある父のイメージ、つまり「朴正熙の娘」だったからといってもいい。その父が政治生命を懸けて決断した、歴史的業績である日韓国交正常化の50周年を娘が祝えないとは。親子の絶対的関係を重視する儒教的価値が強い韓国では、これは「親不孝」ということになる。 日本はそれほど儒教的ではないが、似たようなことは安倍晋三首相にもいえないことはない。 というのは日韓国交正常化を実現した佐藤栄作首相は、安倍首相の外祖父・岸信介の弟で、安倍首相の縁戚になる。岸信介元首相も親韓派として国交正常化の影の立役者だった。安倍首相にとってはこの日韓の歴史は政治的にひときわ感慨深いはずである。にもかかわらず50周年に際しその歴史を祝う雰囲気にないことは、内心忸怩たるものがあるだろう。 余談だが、安倍首相サイドの歴史的エピソードには岸信介と朴正熙とのあいだの逸話がある。以下のことは岸信介元首相から直接聞いた話である。 朴槿惠大統領の父・朴正熙は1979年10月26日、内政上の葛藤から側近に暗殺され18年にわたる長期政権は幕を下ろした。彼は国葬(11月3日)となり、日本から岸信介が弔問特使として訪韓した。そのとき、筆者は同行記者として同じ飛行機に乗った。機内で岸信介にインタビューした際、こんな思い出を語ってくれた。 朴正熙は1961年5月、クーデターで政権を握ったあと、過渡期の国家再建最高会議議長として訪米しその帰途、日本に立ち寄った。朴槿惠大統領の父・朴正熙の日本訪問は後にも先にもこれだけだ(戦前、満州軍官学校から日本の陸軍士官学校に留学はしている)。その後、長期政権にもかかわらず大統領としての日本訪問は諸般の事情で一回もなかった。余談中の余談だが、朴・父娘にとって日本公式訪問は鬼門? 岸信介によると、朴正熙は軍事政権スタート直後の唯一の訪日の際、岸に対し「自分は幕末・明治維新の吉田松陰、高杉晋作の気持ちで国作りをやっています」といって日本の協力を要請したというのだ。 これは岸が山口出身で松陰、晋作と同じ旧長州の出であることを踏まえたうえでの発言ではなかったか。そして安倍首相自身が日ごろこの旧長州の政治人脈を意識していることは、つとに知られている。 こうした政治的因縁と世代を同じくする「朴槿惠と安倍晋三」が、いまだに首脳会談を開けないことは皮肉を超えて悲劇(?)に近いが、ここにきてやっと韓国側に日韓関係改善に向けた前向きの機運が出ている。とくに4月の安倍首相訪米のあと、首脳会談早期開催必要論が広がっている。反日好きで“安倍叩き”を続けてきた韓国メディアだが、このところの論調はほとんど一致して首脳会談の早期開催を政府に促している。 メディアで見るかぎり、あとは朴槿惠大統領の決断だけという雰囲気だ。メディア論評のなかには50年前、反対世論を抑えるため戒厳令まで宣布し日韓国交正常化を決断した父を例に、「父にならえ」と決断を求めるものもある。 韓国側の“変化”の背景には、政治・外交的には安倍首相訪米による日米蜜月ムードのほか、日中首脳会談の実現と日中関係改善の流れがある。とくに前者の影響が大きい。安倍訪米による日米同盟関係強化に対し韓国の反応は「米国は韓国に冷たい」「米国は日本寄り」との声がもっぱらだ。そこから出てきているのが「韓国孤立論」である。 安倍訪米をめぐる韓国の異様な関心と狂騒の意味についてはあとで触れるが、韓国における外交的孤立化論は対日関係でもうかがわれる。「こんなに長く日本との関係がよくなくていいのか」という不安感、孤立感は安倍訪米の前から徐々に出ていた。それが安倍訪米によって一気に広がり、日韓首脳会談早期開催論を強く後押ししているのだ。 日韓関係については日本人と違って韓国人の心理はいつも微妙である。端的にいって、現状のような日韓関係悪化とその長期化に対し日本人にどれだけの不安感や孤立感があるだろうか。もちろん政府当局者や識者にはそれなりに懸念はあり、その打開を模索する声や動きはうかがわれるが、不安感、孤立感ということではないだろう。 しかし、韓国では国民心理としてそれがあるのだ。日韓関係の長期悪化や首脳会談不発が続くなか、当局者や識者、メディアばかりではなく街の声にもそれが出はじめている。筆者の周辺でも街の声として、事態を懸念する声が多く聞かれるようになった。韓国で高まる外交的孤立感韓国で高まる外交的孤立感 韓国の場合、日本と違ってその置かれた地政学的環境や歴史的経験から、周辺国との関係には古来、きわめて敏感である。歴史的には対外関係悪化はしばしば戦争や侵略という事態につながり、民の生存が直接影響を受けるという経験を重ねてきたからだ。 ここでも余談になるが、いま、韓国ではNHKにあたるKBSテレビが年初から「光復70周年記念番組」と銘打って大河歴史ドラマ『懲毖録(ジンビロク)』を毎週末、放送している。 このタイトルは16世紀末、日本の秀吉軍の侵攻である韓国でいうところの「壬辰倭乱」(文禄・慶長の役)の際、それを迎え撃った韓国朝廷の重臣、柳成竜が書き残した回顧録そのままである。したがってドラマの主人公は柳成竜である。 余談の余談でいえば、韓流ファンにとっては先刻承知のことだが、韓流スターの草分けの一人であるリュー・シウォン(柳時元)はその直系の子孫として知られる。柳家の古宅は慶尚北道・安東の民俗村「回会村(ハフエマウル)」にあって観光スポットになっている。 周知のようにこのときの“日韓戦争”は、明(中国)征服という豊臣秀吉の野望がきっかけだった。しかし朝鮮出兵ののち、途中で秀吉が死亡したため日本軍は撤退した。韓国からすれば結果的に日本を撃退した勝利の戦争ということになるが、実際は日本軍の侵攻で長期間(あしかけ6年!)、戦場となった韓国は大打撃を受け疲弊する。 もう一つ余談を重ねれば、ソウルに語学留学した1970年代後半にこんなことがあった。留学生仲間の日本人の話で、下宿先でカセットラジオが無くなったことを話題にしたところ、同じ下宿の韓国人から「そんなことでガタガタいうな。秀吉軍が韓国でしたことに較べれば何でもないじゃないか」と叱られたという。 この「壬辰倭乱」の愛国ドラマは韓国版・忠臣蔵みたいなものである。昨年は日本水軍との海戦で勝利した「救国の英雄」李舜臣(イ・スンシン)を主人公にしたスペクタクル映画『鳴梁(ミョンリャン)』が、観客動員1700万人突破の史上最高を記録している。十六世紀の歴史がいまに生きていて、国民ドラマとして繰り返し刷り直しが行なわれているのだ。 「壬辰倭乱」の“日韓戦争”は、途中から明軍が韓国支援に加わったため“日中戦争”になる。韓国朝廷はとくに休戦交渉にあたって日中のあいだで右往左往する。この稿を書いているとき、KBSドラマの展開はそのあたりに差し掛かっている。 『懲毖録』(日本語版は平凡社の東洋文庫)は日本の侵攻を予期できなかったことや、韓国側の内部混乱、そして日中韓の外交葛藤など自己批判を込めた記録である。東アジア情勢が流動化するなか、光復70周年記念として大河ドラマに選ばれたのは理由があるのだ。 そんな韓国だから、日本と首脳会談さえまだ一度も開かれていないという長期間の不和や緊張には、間違いなく不安が伴う。しかも国際関係では最大の頼みである米国さえ日本寄りとあっては、不安はいっそう募る。それに韓国と共に日本非難の“歴史共闘”をしてくれていたはずの中国さえ、日本との首脳外交に応じ実利外交に転じた。韓国に外交的孤立感が生まれても不思議ではない。 思えば不思議なことだが、韓国は今回の安倍首相の訪米に対し“妨害工作”に官民挙げて狂奔した。その関心は訪米前から始まり、メディアはまるで韓国の首脳が訪米するかのような興奮ぶりだった。事実、韓国紙のワシントン特派員は「2013年5月の朴槿惠大統領がワシントンを訪れた時より忙しかった」(5月11日付『東亜日報』)と述懐している。 最大の関心事は歴史問題だった。それも日米の歴史問題ではない。日韓の歴史問題である。端的にいえば慰安婦問題だ。とくに安倍首相に米議会演説で慰安婦問題に関し、いかに謝らせるかだった。先のワシントン特派員は「安倍総理が第二次世界大戦中の日本軍慰安婦など過去史の蛮行を認め謝罪するかどうかは、すでに韓民族の自尊心がかかった状態だった」と書いている。 そしてその間、韓国外務省の北米局北米一課は“米日課”といわれるほど米国での反日工作に励んだというのだ。 そのため韓国はまず安倍首相の国賓訪問ということにイチャモンを付けていたが、次は在米韓国人や親韓派の米議員などを動員し議会演説阻止に動いた。「アベに免罪符を与えるな」というわけだ。議会演説やむなしとなると、今度は演説に謝罪の文句を入れさせようと必死になった。 この過程で例によって本国から、いまや国際的にも反日名士になった元慰安婦の老女が“動員”された。彼女らを押し立てた安倍非難の反日パフォーマンスが、ホワイトハウスや議会前などで執拗に展開された。愛国ポピュリズムには弱いエリートたち愛国ポピュリズムには弱いエリートたち ここでワシントンの慰安婦デモで目撃された不思議な光景についてぜひ紹介しておきたい。慰安婦デモは当然、民間団体が組織したものだったが、その場に韓国の国会議員(与党)が登場し、安倍首相非難のプラカードを掲げていた。その国会議員が何と、外交官出身で先年、韓米FTA交渉の韓国政府首席代表だった金鍾勳氏だった。 FTA交渉に際しては、毎日のようにその顔がマスコミに登場していた。そうした経歴と知名度を買われて与党の国会議員になったのだが、舞台裏での対米工作ならともかく、元慰安婦など反日運動団体と一緒になってデモまでしているのだ。超エリートの大使級外交官出身でも“愛国ポピュリズム(大衆迎合主義)”に弱いのだ。 強硬な反日支援団体(挺身隊問題対策協議会=挺対協)に振り回され、解決できなくなっている慰安婦問題が象徴するように、国家的権威が弱体化している近年の韓国について筆者は“NGO国家”とよく皮肉っている。その意味でワシントンでの韓国国会議員の風景は、そうした韓国の国家状況を象徴するものとしてじつに興味深かった。 安倍演説には、韓国が要求してやまなかった「謝罪」は含まれなかった。関連部分は「戦後の日本は先の大戦に対する痛切な反省を胸に、歩みを刻みました。自らの行ないが、アジア諸国民に苦しみを与えた事実から目をそむけてはならない。これらの点についての思いは、歴代総理とまったく変わるものではありません」となっている。日米関係は日韓関係ではない。これで十分だろう。 韓国側で官民挙げて不満、非難が語られても、ここは日米関係の場である。日本の大方の国民世論としては、日米関係にまで韓国がシャシャリ出てきて、米国での首相の議会演説にまでイチャモンを付けられたのではたまったものではない。日本世論の反韓・嫌韓感情に新たな油を注いだことは容易に想像できる。 後世、韓国外交史の汚点といわれるかもしれない今回の安倍演説阻止工作について、早くから批判と反対を明確にしていたメディア論調がある。唯一の批判として紹介するが、以下は『週刊朝鮮』(朝鮮日報社系、3月2-8日号)の崔埈碩植編集長が編集後記のエッセイで書いたものだ。 「安倍政府の過去史問題に対する認識を憂慮する。日本社会の過去回帰の動きはじつに心配です。しかし韓国はこれに知恵深く対処しなければならない。一部の人びとが度を越えた行動をし、言論がいちいちラッパを吹くというやり方はよくありません。“強力に対応すべし”などと言うのはやめよう。柳成竜は『懲毖録』に“わが国は日本と平和に付き合うべきということをぜひ忘れないでほしい”と(対日外交を担当した)申叔舟が死に際し国王に伝えたと書いています。大韓海峡の波濤が高まらないことがわれわれの利益です」 安倍首相訪米が終わったあと、韓国では韓国外交の失敗と孤立化そして危機論がしきりに語られている。これまで歴史問題にこだわりすぎたというのだ。これからは歴史と安保・経済・文化などを切り離し、後者を優先したいわゆる“ツー・トラック外交”をすべきだという。すでに指摘した日韓首脳会談早期開催論もその一環である。 これまで韓国マスコミは慰安婦問題を押し立て、日本非難の“歴史外交”を煽ってきた。そして「安倍憎し」から日米同盟強化が韓国にとってまるでマイナスかのように歪曲、扇動を繰り返してきた。そんなマスコミが手のヒラを返したようなことを言い出したのだ。典型的な“マッチポンプ”で可笑しいが、自己批判と反省なら歓迎である。安倍総理は悪魔か 安倍演説に対し直後の韓国マスコミは、自らへの癒やしとして米国の親韓派議員や知識人を動員し不満と批判を語らせていたが、日韓首脳会談早期開催論をはじめその後の韓国世論の展開を見るかぎり、とりあえず安倍首相の対韓外交は勝利したことになる。 首脳会談早期開催を主張しているなかで、米国通の代表的コラムニスト金永煥氏は「米国は(今後)韓国に対し日本との関係正常化や韓米日安保協力体制参加の圧力を強めるだろう。慰安婦や歴史問題にこれ以上こだわって日本を避けるなら、韓国は米国から孤立するだろう」と警告している(5月8日付『中央日報』)。 そのうえで「アベは道徳的に問題のある人物だが、国益のためには悪魔とも踊りを踊らなければならない」という。安倍バッシングの韓国マスコミによって安倍首相もとうとう〝悪魔〟にされてしまった。余談的だが、これなど朴槿惠大統領に対する『産経新聞』の名誉毀損告訴事件を考えれば、韓国流では告訴モノではなかろうか。 米国で「アベに謝罪させる」ことに失敗した韓国は、六月中旬には朴槿惠大統領が訪米することになっている。韓国にとってはいわば日本を強く意識した雪辱戦である。「日本寄りになった米国を韓国に引き戻す」「日本よりもっと多くの成果を」と早くも政府はマスコミ世論からシリを叩かれているが、一方では「大統領の訪米は“過去史外交戦”の舞台ではない」(5月16日付『朝鮮日報』)とか「日本牽制が韓国外交の存在理由なのか」(5月18日付『中央日報』の文正仁・延世大教授)と外交路線転換を求める声が強く出ている。 硬直した朴槿惠大統領の対日外交が、いまや世論の批判にさらされているのだ。父・朴正熙は50年前、世論の反対を押して国交正常化を決断したが、娘は世論の反対を押して日韓首脳会談拒否を続けるのか。国交正常化に比べると首脳会談開催―関係改善など“歴史的決断”というほどのものではない。しかも世論の負担もない。早く日本との関係を何とかしないとこの夏、国民はもっと落ち着かなくなる。関連記事■ 韓国人こそ歴史を学べ!――朴槿惠大統領は父親を糾弾すべし■ [日韓「歴史戦争」]日本がサンドバッグ状態を脱するとき■ <特別対談>慰安婦問題はフィクションだ■ トンチンカンな左派マスコミ

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    「用日論」をいう韓国に手助けは無用

    拳骨拓史(作家)追いつめられる韓国経済 1965年6月22日、日本と韓国は日韓基本条約を締結し、国交正常化を果たす。今年は締結50年の節目であるが、日本と韓国の関係は日を追うごとに悪化している。5月12日、韓国国会は本会議で「反省のない安倍糾弾決議案」を在籍議員238名の全員一致で可決した。『中央日報』によれば、この決議案の目的は安倍晋三首相が米国議会で行なった演説や、あらゆる場所で日本の侵略と植民地支配、慰安婦問題について言及していないことに対する抗議だという。 そもそも日本の首相がなぜ“あらゆる場所”で、謝罪をしなければならないのか疑問だが、一方で韓国は「政経分離」を叫び、韓国経済の成長が鈍化するなか、日本からの投資拡大を呼びかけている。円安などの影響で輸出が先細りし雇用が少なく、若者の就職難が深刻となるなか、減少しつつある日本からの投資を増やして技術や共同開発などを拡大させ乗り切りたいと韓国は考えている。そこで韓国は5月12日に崔ギョン炅煥(チェ・ギョンファン)副首相が日韓経済協会の佐々木幹夫会長らに対し「韓日関係は歴史問題で多少の支障があるが、経済関係は『政経分離』でさらに活性化するよう願う」と話したように、「政治と経済は別」だと主張し始めた。 14日には韓国経済研究院のノ・ソンテ元院長が「韓日通貨スワップ協定の中断は、アジアの金融協力の精神に合致しない」「協定復活を模索し、両国間の和解を金融・経済部門からスタートすべきだ」と訴えている。打ち切り前には、「(打ち切りの)影響は大したことはない」と胸を張っていたが、2月23日の打ち切りから3カ月も経たないあいだに復活を望んできたのである。 「日本を批判はするがカネはくれ」とは随分と虫のいい話であるが、昨今の日中関係を見てもわかるように、政治が不安定な状況では、経済にも深刻な影響を与えることになることは明らかであり、額面どおりに信じることはできない。 韓国との歴史問題訴訟では、慰安婦問題とともに徴用工訴訟が有名だが、現在、裁判となっている三菱重工業、新日鐵住金、不二越などのほかにも、2012年8月29日に韓国の政府機関である「対日抗争期強制動員被害調査および国外強制動員犠牲者等支援委員会」は、日本植民地時代に朝鮮人を強制連行して働かせた日本の企業を「戦犯企業」として公表。このなかには、三菱、三井、住友、日立、日産、マツダ、カネボウ、キリン、パナソニックなどが含まれている。 韓国は強制徴用工の人数は22万人に及ぶと主張し、裁判ではおおよそ1人当たり8000万ウォン(約900万円)を支払う判決が出ている。仮に1人当たり900万円の賠償請求を支払うのであれば、賠償金の総額は約2兆円にものぼる。自ら戦犯企業リストを作成して日本企業を訴えていながら、政経分離を提唱して投資を呼びかけるなど正気の沙汰ではない。このようなカントリーリスクを抱える地域に投資する企業が減少するのは当然の話である。 韓国が「政経分離」のような、ご都合主義な要求を突き付けてくるのは、昨今の韓国国内でムーブメントとなっている。これを「用日論」という。 「用日論」とは日本とうまく付き合い、利用すべきだという考え方であり、『中央日報』(2014年1月9日)が社説として「政府、『用日』の世論に耳を傾けるべき」と書いたのが最初となる。社説では日本からの対韓直接投資、観光客共に激減していることを述べ、「原則よりも、国家の利益がさらに重要だ」と指摘している。 一方で「用日」とは、日本の支援なくしては成り立たないという韓国人の自尊心を傷つけず、都合よく利用しようという上から目線のスタンスとなっている。 この背景には小中華思想(韓国は自らを中国に次ぐ文明国である「小中華」と自負し、周辺に位置する日本などは夷狄(いてき)〈野蛮な国〉と見下す思想)が垣間(かいま)見えるが、いままで歴史問題や領土問題で日本を叩いてきた韓国が急に姿勢を変えるわけにもいかず、面子に固執する側面もあり、同時にそれだけ韓国が窮地に追い込まれていることを示しているといえるだろう。国内でも無能のレッテルを貼られる朴大統領国内でも無能のレッテルを貼られる朴大統領 とくに致命的なのは経済だけでなく、外交においても安倍外交に韓国が封じ込められた点である。 4月29日、米国連邦議会上下両院合同会議において安倍首相が行なった「希望の同盟へ」と題する演説については、成功したとみて間違いない。スタンディングオベーションが14回に及んだことは、外交儀礼という見方もあるが、演説を終えて議場を引き揚げようとする首相に多くの議員が演説を讃えて握手を求めたため、安倍首相は十分以上も退出できなかった。 これを苦々しく見ていたのが国ぐるみで安倍首相の演説阻止をめざした韓国であり、翌日30日には「正しい歴史認識を通じ、周辺国との真の和解と協力を成し遂げる転換点になりえたのに、そうした認識も心からのおわびもなく、非常に遺憾に思う」と韓国外務部は批判した。 もともと韓国大統領選のとき朴槿惠(パク・クネ)大統領は、内政は未知数だが父である朴正熙(チョンヒ)大統領のファーストレディーを経験したことなどから、外交通であることをアピールして当選した。 その“得意の外交”により、日本を世界から孤立させ韓国の地位を高めるどころか、韓国が世界から孤立していく状況が、安倍演説により明らかとなったことで、韓国世論は朴大統領に「無能」の烙印(らくいん)を押し始めている。 『朝鮮日報』(4月24日)は「日本の後進外交、韓国の無能外交」と題し、4月30日には「韓国外交が、過去2年余りの無能と無気力から目覚め、国の生存戦略を立てて、これを行動に移していかなければならない時だ」と評し、さらに5月4日には「人事の刷新を通じて国を率いる力を取り戻さなければ、この政権は『無気力』という批判に晒され続けることになろう。そして結局は『無能な政権』という汚名をそそがざるをえなくなるのだ」と述べている。 『中央日報』(2015年5月8日)は「朴大統領は(中略)慰安婦や歴史問題にこれ以上しばられて日本を冷遇し続ければ、韓国は米国からも孤立するだろう。(中略)日本の嫌韓の雰囲気は極みに達した。安倍首相の歴史修正主義や軍事大国路線をいくら非難しても何も変わらない。(中略)慰安婦への謝罪を拒否する安倍首相は道徳的に問題のある人だ。 それでも国益のためには悪魔ともダンスを踊らなければならない」と書いている。 『ハンギョレ新聞』(5月14日)は「現在の東アジアの最大の不安要素は『安倍の歴史認識』や『金正恩の暴走』ではなく、『朴槿惠の無能』かもしれない」と痛烈に批判している。 朴槿惠大統領は5月13日に榊原定征(さだゆき)経団連会長らと会談した際、歴史問題について言及しなかった。朴大統領が日本の要人と会談して歴史問題に触れないのはきわめて異例の対応であり、八方ふさがりとなる朴大統領が方向転換を迫られていることの表れともいえよう。日韓国交回復交渉の経緯日韓国交回復交渉の経緯 最近、興味深く読んでいるのが、『中央日報』(韓国語版)で連載されている金鍾泌(キム・ジョンピル)元首相の「笑而不答」と題する回顧録である(連載は3月2日から5月11日まで続いた)。金鍾泌とは五・一六軍事クーデターで朴正熙政権誕生の立役者となった人物であり、日韓国交回復交渉でも大きな役割を果たした韓国政界の重鎮である。 韓国は日本に対し、サンフランシスコ講和条約締結が終わるとすぐに賠償を要求しているが、1952年1月、一方的に日本海・東シナ海に軍事境界線「李承晩(イ・スンマン)ライン」を引いた上、日本人漁船員4000名以上を抑留、拷問したことで、1953年10月から4年半近く交渉が途絶えている。 日韓交渉が軌道に乗り始めたのは、安保闘争によって岸信介内閣が退陣し、池田勇人内閣が誕生した1960年10月の第5次日韓会談からである。 だが池田は当初、日韓問題については積極的ではなかった。彼を前向きにさせたのは、米国のケネディ大統領からの説得であった。池田内閣の影の官房長官と呼ばれる伊藤昌哉は「『池田さん、あんたに頼みがある。日韓だ。韓国の問題は日本が中心になってまとめなければ、どうしてもまとまらないという決定的なキー・カントリーだ、日本が。それをあんたにやってもらいたいと思う』とケネディが頼むんだよ、池田に」と当時を回想している。 韓国では李承晩政権が崩壊。野党の民主党が政権を樹立し、尹ボ善(ユン・ボソン)を大統領、張勉(チャンミヨン)を国務総理とした「第二共和国」が誕生した。 当時の韓国は農工生産も日本統治時代以下の水準となり、毎年1000万世帯の農民が深刻な食糧不足に困窮。約700万人の失業・半失業者が恒常化しており、北朝鮮やフィリピン等より貧しい状況であった。このとき、北朝鮮からは金日成によって朝鮮統一提案が韓国に行なわれている。当時の北朝鮮は経済発展が目覚ましいとされ、韓国では朝鮮統一の機運が急速に高まりつつあった。 張勉は日本からの支援を求めるため、李承晩からの政策である反日を外し、日本へと接近。日本もまた韓国の赤化を止めるため、協議を再開させる必要があったのである。 しかしこの協議も1961年5月には「反共を国是の第一義とし、今日までの形式的口合に終わった反共態勢を再整備、強化する」ことを革命公約に謳った朴正熙少将を中心としたクーデターによって中断することになる。朴大統領も日本やアメリカと同様に日韓会談に積極的であり、日本から資金を引き出し、経済危機を乗り越えようとしていた。 日米韓3カ国にとって、日韓提携は韓国経済の発展のみならず北朝鮮への対抗としても望ましい選択だと考えられたのである。 領土問題や歴史問題などは、1965年1月に日本の国務大臣河野一郎と丁一権(チョン・イルグォン)国務総理のあいだで「解決しなければならないものとして解決したものと見做(みな)す」という「丁・河野密約」(竹島密約)により棚上げされ、日韓交渉の最大の焦点は請求権問題となった(ただし、竹島密約は韓国側が主張しているものであり、日本政府は存在を否定している)。 賠償請求の金額については両者の溝は大きく、韓国側は8億ドルもの賠償金を要求するのに対し、日本側は8000万ドルであった。 両者の主張が平行線をたどるなか、大平正芳外務大臣(のちの首相)は「経済協力」によって請求権を肩代わりすることを思い付く。大平の構想は純粋請求権、無償供与、長期借款の三本柱で約3億ドルとする総額方式をとり、外貨ではなく役務や資本財を充てるものであった。大平は金鍾泌中央情報部長と会談し、無償3億ドル、有償2億ドル、民間借款1億ドル以上という条件で日本が韓国に対し経済協力をすることで合意した。「金・大平メモ」である。 この結果、日本は韓国と「日韓請求権並びに経済協力協定」を結んだ。本協定によって日本は韓国に対し3億ドルを無償で支払い、2億ドルを低利融資することを定めた。このほかにも3億ドル以上が民間借款として低利融資されている。 1965年当時、日本の一般会計予算は3兆7000億円であり、韓国の国家予算は3.5億ドルであった。無償供与だけで韓国の国家予算に匹敵する巨額の賠償金が支払われたのである。 マスコミなどはあまり取り上げないが、日韓交渉の際には、韓国に残してきた日本人の財産に対する請求権の放棄も行なわれている。日本が韓国に残してきた財産は、GHQの調査によると53億ドルにのぼっている。日本はこの53億ドルもの請求権を放棄し、加えてこれだけの賠償金を支払うことを決断したのである。1964年6月3日、日韓交渉に反対してソウル中心部に集結した学生ら(奥)と治安部隊(「写真と読む 大統領朴正熙」から) 1963年2月14日の参院予算委員会において、日本社会党の戸叶武(とかのたけし)は大平に対し、「日本人の国民感情ということをもう少し日本の外務大臣だから知っておくことが必要だと思う。(中略)韓国に行ってから、あの大風呂敷の大野副総裁ですら、大平というやつはとんでもねえことをしちゃって」と発言し、対韓妥協について日本国民の感情に配慮すべきではないかと質問したように、当初の対韓妥結金額が8000万ドルであったことを思えば、日本の国民感情と乖離し韓国側の主張をほぼ呑んだ形で賠償金問題は片付いたのである(池田も大平が勝手に金額を締結したことに激怒し、その後両者の関係は悪化していく)。 だがこれほどの巨額の賠償金を韓国政府は個人にはほとんど支給せず、韓国の経済基盤を整備するために使用した。韓国政府はこのことを長く隠していたが、2009年に徴用工の未払い賃金も含まれていたと公式に弁明している。 韓国は日本からの多額の資金を元にして「漢江の奇跡」と呼ばれる経済発展を遂げて現在に至っている。「竹島密約はなかった」金鍾泌元首相の証言「竹島密約はなかった」金鍾泌元首相の証言 日韓国交回復交渉の最大の焦点は、戦後賠償であり、これは「金・大平メモ」により決着がついた。その意味においても、先の金鍾泌元首相の「笑而不答」には興味深い内容がいくつか含まれているのでご紹介したい。 一つは先述した「竹島密約」はデマであることを認めた点である。金曰(いわ)く、「(河野一郎は竹島に対して)『この問題は叫ぶ事案ではない。解決できない問題だからそれだけ言っても仕方ない』と話した言葉を、丁一権首相が国内に伝えた。その話が膨らんで『竹島密約』やこれに対する合意文書があるというような話に膨らんだデマにすぎない」と述べている。日本政府も竹島密約を否定しているので、金の証言は信憑性がある。 二つには、2005年8月26日に韓国外交部が公開した「金・大平メモ」は偽物であることを指摘した点である。 外交部が公開したメモは、156件、3万5354ページにも及ぶものであり、日本と合意した「無償3億ドル、有償2億ドル、民間借款1億ドル以上」を提供する経済協力方式で合意したことが含まれているが、金が言うには「そのとき使用した紙は、大平執務室にあった手のひらほどの大きさのメモ用紙1枚で、その内容も非常に簡単で3、4行にすぎなかった。字体も私の手書きではない。私はハングルと漢字を混用して作成した」と述べており、大平が作成したものではないかという問いに対しても、「大平も1枚のメモ用紙に記載された同じ内容を記録した。私たちは、各自が書いたメモを相互に比較して、確認した。会談のなかで彼が書いたものではない」と明確に否定している。その上で、原本は「渡したメモは長官を介して外務省に伝達されたり、保存する過程で失われたのではないか」と推測している。 三つ目に金鍾泌元首相といえば、日韓国交回復交渉のとき、「正常化交渉の邪魔になるならば、竹島を爆破してしまえ」と発言したことが有名だが、それについては「金・大平メモ」作成時、大平から竹島問題を持ち出され、「国際司法裁判所に提訴する」と言われたため、「好きにしろ。私たちは決して、国際司法裁判に応じないだろう」「独島は私たちが実効支配している。独島を爆破したとしても、あなたに与えることはできない」と述べたのが、誤って広まったものだと述べている。金元首相が述べる明らかなウソ金元首相が述べる明らかなウソ 金鍾泌元首相の証言は見るべき点も多いが、一方で明らかな虚言が交ざっている。慰安婦問題に関する発言がそれである。 「朝鮮人慰安婦」問題は、歴史的に重要な問題として韓日会談で取り上げられていなかった。1951年から65年までの14年間の会談で慰安婦は一度も議題になったことがなかった。62年11月、私は大平正芳外相と請求権交渉を繰り広げるも、この話は取り出さなかった。この問題を知らなかったわけでもなく、日本の過ちを上書きすることは意味もなかった。それが私たちの社会の暗黙の雰囲気であった。当時、慰安婦はひどい戦場を転々としながら、人間以下の最低地獄に落ちながらも九死に一生を得て帰ってきた人びとである。体も心も傷だらけの人だった。彼らの年齢はまだ30代から40代前半であり若かった。凄惨な苦労を経験したあと、やっと母国に戻って結婚をして子供を産んで家族を養っている。彼らの過去の歴史と傷を取り出すのは二重・三重の苦痛を抱かせることだった。 韓国がいうように20万人もの女性が拉致され、慰安婦にされたというならば、社会的な大問題であり議題に取り上げないはずはない。慰安婦を問題として取り上げなかったのは、金氏が述べるような慰安婦への配慮ではなく、韓国社会全体が彼女たちを売春婦だと見下していたからにほかならない。 2000年初頭に私が韓国に行ったとき、韓国で有力な地位にある人から「慰安婦は日本統治時代は日本からカネを貰い、戦後は韓国からカネを貰い、また日本から賠償金を取ろうとする。賤しい人たちだ」と直接話を聞いている。しかし2年ほど前に再会したときには、「日本は慰安婦のお婆さんへ賠償すべきだ」と真逆のことを聞かされ、韓国社会の潮流が変わってきたのだと肌身に感じさせられた。さらに金氏は、 「(慰安婦たちが)安心して平和にこの世を去ることができるようにして差し上げるべきである」と述べるが、日本と韓国は日韓基本条約により、韓国に対する莫大なる経済協力と韓国の日本に対する一切の請求権の完全かつ最終的な解決、それらに基づく関係正常化を取り決めたはずである。慰安婦たちに手を差し伸べるのは日本政府ではなく、韓国政府にほかならない。 2012年3月、民主党の野田佳彦内閣のとき、佐々江賢一郎外務次官が慰安婦問題について解決すべく3項目の案を提示している。(1)日本の首相が公式謝罪をし(2)慰安婦被害者に人道主義名目の賠償をし(3)駐韓日本大使が慰安婦被害者を訪問して首相の謝罪文を読み、賠償金を渡す という内容である。結果的に第2項の人道主義名目の賠償を韓国が受諾しなかったため、暗礁(あんしょう)に乗り上げ、その後、野田政権は退陣した。 仮にこの「佐々江案」が了承され実行された場合、日韓のみならず、賠償金を追加で欲しいと要請する国には、たとえ「完全かつ最終的な解決」が明記されていたとしても、日本政府は支払う義務を生じ、戦後賠償はすべてやり直しになる。慰安婦問題は日韓だけの問題ではないことを肝に銘じる必要がある。その上で日本は韓国に対し、歴史問題において一歩も退く必要はなく、毅然と振る舞えば良い。韓国は日本に資本財(企業が生産活動をするために必要な資材)を依存しており、日本がなければ経済は成り立たない。本稿の最初に紹介した韓国国内をめぐる動きは、ここに端を発している。 一方で日本も「用日」という言葉を聞いてただイライラするのでは、戦略的思考であるとはいえない。韓国が役に立つならば「用韓」して利用すれば良い。国際社会は利用し、利用されるのが常であり、無償の愛など存在しないからだ。そのためには、日本は韓国に対し、もっと冷淡にいくべきである。日本が韓国に対し冷淡になっていけば、いずれ「用日」などとも言えず、日本に従わざるをえない「従日」へと変化していくであろう。今年は大東亜戦争終戦70周年である。韓国が日本にすり寄ってくるいまこそ、安倍首相は大手を振って靖国神社に参拝すべきである。 日韓国交50周年が経ち、日本と韓国の真の友好を願うならば、日本は韓国に中途半端な手助けや助け舟は出してはならない。それこそが、日韓友好の礎となると信じるのである。※崔ギョン煥の「ギョン」は日かんむりに火※尹ボ善の「ボ」はさんずいに普げんこつ・たくふみ 1976年生まれ。漢学、東洋思想、東洋史の研究を行ない、名越二荒之助(元高千穂商科大学教授)、杉之尾宜生(元防衛大学校教授)に師事。論文や研究発表などを精力的に行なう。著書に、『韓国が次に騒ぎ出す「歴史問題」』(PHP研究所)、『韓国「反日謀略」の罠』(扶桑社)などがある。関連記事■ [日韓「歴史戦争」]日本がサンドバッグ状態を脱するとき■ <特別対談>慰安婦問題はフィクションだ■ トンチンカンな左派マスコミ

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    韓国が日本を見下す理由

     前回、韓国がなぜ反日活動を執拗に行うのかを説明し、その問題を根本的に解決するためには、歴史を直視する事が必要であると結びました。そこで今回は、日韓の近代史を振り返って見ましょう。 西暦1392年、それまで朝鮮半島を支配していた高麗王朝の王位を李成桂という男が簒奪しました。彼はすぐさま明に使者を送り皇帝に国名を選んでもらいました。それが二十世紀初頭まで続いた朝鮮という国です。 19世紀中頃になると、当時、世界を覆いつくさんばかりの欧米列強の魔の手が、とうとう北東アジアにも伸びてきました。まず、清国が阿片戦争で血祭りにあげられ、その後、西欧諸国は日本や朝鮮に対しても、首都の近くまで船を進めて開国を迫るようになってきました。日本における、その典型的な事件がアメリカのペリー提督率いる黒船来航でした。 当初、日本では、外国人を国内に入れるなという意見が大勢を占めていましたが、欧米の科学力に裏打ちされた軍事力を知るにつけ「これは、とてもかなわない」と思う人間が増えはじめ、更に清国の現状を知り「日本も欧米の植民地にされるかもしれない」という猛烈な危機感を抱いた人たちが、欧米に対抗すべく中央集権体制の国家を樹立したのが明治維新です。 そして西欧列強国に対抗するには、彼らから学ぶしかないと考えた日本政府の要人たちは、なりふり構わず西洋の社会システムを模倣しました。また、彼らの軍事的脅威に対抗するために隣国の朝鮮と同盟を結ぼうと考え、国の統治体系が変わったこともあり、改めて国交を結ぶべく使者を送ったのが西暦1868年です。 当時、欧米の軍事力は圧倒的に日本を凌駕していたのですから日本の立場としては少しでも仲間が多い方が良いと思うのは当然のことであり、また、朝鮮が日本を狙う侵略国に占領されてしまえば、その地理的位置から自国の防衛が非常に困難になるため、日本としては、何としても朝鮮と同盟関係を結ばねばならなかったのです。 ところが朝鮮は、長らく華夷秩序体制(中華皇帝を中心とした国際関係。周辺諸国を夷狄の王として中国より格下に位置付けた冊封体制)の中にいたため自分達より中華から遠い日本を蔑視していただけではなく、西洋人を夷狄として忌み嫌っていました。その外国と条約を結んだ日本から中華皇帝以外に使用を許されない「皇」の字が入った親書が来たものですから、親書の受け取り自体を拒否したのです。 本来、日本は中華冊封体制の外に位置し、独自の天皇を頂く国ですから「皇」の字を使用したとしても何の問題もないのですが、朝鮮側の一方的な思い込みにより国交樹立のための交渉のテーブルに着くことすらかないませんでした。(高まる中国や北朝鮮の脅威に日韓が連携して対抗しなければならないというのに、日本にとっては言いがかりの理由で会談すら拒否する、今の大統領を見れば、こういうところは何も変わっていないことが良く分かるでしょう)     西郷隆盛 そこで、日本国内に巻き起こったのが、朝鮮に出兵して武力で従わせようとする「征韓論」です。しかし、当時、参議であった西郷隆盛は自分が全権大使として朝鮮を説得し、平和的に同盟を結ぶと言い張り、西郷大使の派遣は実現まであと一歩の段階まで迫ったのですが、日本国内の政変により日の目を見ませんでした。簡単ではなかった朝鮮の独立 その後、日朝両国は互いに国内の政変などの紆余曲折を経た後、江華島事件を契機として「日朝修好条規」を締結しました。この条約は、この時代における他の条約と同様、ご多分に漏れず不平等条約でしたが、一つ大きな違いがありました。 それは第一条において「朝鮮は自主の国であり、日本と平等の権利を有する国家と認める」と、わざわざ朝鮮が独立国家であると謳っていることです。しかも日本は、この日朝修好条規締結の5年前、清との間に両国が対等である事を確認した「日清修好条規」条約を結んでいました。つまり日本=清、日本=朝鮮という対等関係になれば長年主従関係にあった清国と朝鮮も清=朝鮮という対等関係になるという理屈です。 しかし、ことはそう簡単に行くはずもなく朝鮮の独立には、それからも歳月を要しました。とはいえ、この条約をきっかけに、建国から約500年の時を経た朝鮮が、ようやく独立への第一歩を踏み出したことには間違いありません。ただし、ここで確認しておかねばならないのは、日本は善意だけで朝鮮を独立させようとしていたのではないということです。 例えが適当かどうかわかりませんが、自分の二軒隣の家が燃えている場面を想像してください。隣の人は、そんな大変な時だというのに、自分の住んでいる家は借家なので、燃えても仕方ないと思って逃げ出そうとしているようなものでした。当時の国際社会には消防局もなく、しかも日本は新しい家の建築中で他家の消火活動を行う余裕がなかったのですから、隣の朝鮮に住んでいる人たちに、本当は借家ではなく自分の家であるとの自覚を持ってもらい、自分の家は自分で消火してもらおうと懸命だったのです。 そのために日本は朝鮮の自主独立派に軍事顧問を送るなどして援助し、清からの独立を後押しした結果、その独立派が政治の主導権を握り、そのまま朝鮮も近代化への道を歩むかと思われましたが、従来通り清の冊封体制を維持しようとする守旧派がクーデターを起こしたため、一転して独立派は窮地に陥りました。 朝鮮では古来より外国勢力の助けを借りて政敵を倒すのが常套手段でしたから、この時も独立派は遅滞なく外国勢力に助けを求めたのですが、問題は、その相手です。この時、独立派の頭目である閔妃が頼ったのは従来から付き合いがあり独立を支援してくれる日本ではなく、対立する守旧派の後ろ盾である清の軍人袁世凱でした。 結果、従来からの親清派でクーデターの首謀者である大院君(国王の父)は清に捕らえられ、その一派と対立していた日本寄りの閔妃が、一夜にして親清派に転向したのです。もはや国家国民や政策など関係なく、ただ己の権力を維持するための争いでしかなかったというわけです。日本の努力は水泡に中華民国の初代総統・袁世凱 このような行動は我々日本人には理解しにくいところですが、もともと裏切りによってできた国であり、事大主義政策が国是とも言える朝鮮にとっては当たり前のことで、また一方の袁世凱にとっても朝鮮を牛耳る、またとない機会なので断る理由はなく、結局、割を食ったのは朝鮮独立のために援助し続けてきた挙句、いともたやすく裏切られた日本だけだということです。  朝鮮の基本政策である事大主義を日本の諺で言えば「長い物には巻かれろ」という意味で、長年、大国に隣接してきた小国としては、ある意味当然の選択だったのかもしれません。当時の清は大国でしたが、一方の日本は、まだまだ弱小国だったのです。弱小国の日本は、この動乱で自国の公使館が襲撃を受け、軍事顧問や外交官が殺傷されましたが何も出来ず、朝鮮独立のために尽くした日本の努力は水泡に帰したのでした。 こうして朝鮮は王の外威である閔氏一族が近代国家への道を閉ざし、再び国民の生活を顧みない政治を行うようになりました。しかし、朝鮮にも心から祖国を憂う骨のある人間がおり、この二年後にクーデターを起こして閔氏一族を追放し、国王を皇帝と改め朝鮮の独立を宣言しました。ところが、またも閔氏の要請により出動した清軍によって独立派が駆逐され朝鮮の独立はわずか三日で終わってしまいました。まったく自国の独立運動を自国民が妨害するのですから、どうしようもありません。 結局のところ、この時代の朝鮮の権力者たちは己の権力を如何に保持するのかという事しか頭になく、国家の独立、ましてや民の暮らしの事などは全く考えていなかったのです。そして、この動乱の際にも、また多くの日本人居留民が犠牲になりました。このような私利私欲のための裏切り行為や反対派に対する鬼畜のような残忍な所業を目の当たりにして、忍耐強い日本人の中にも朝鮮や清に愛想を尽かす人が多くなり始め、その意見の代表的なものが、このころ発表された福沢諭吉の「脱亜論」です。 日本としては自身が関与しなくとも朝鮮が名実ともに独立してくれさえすれば良く、あえて手のかかる朝鮮半島から手を退きたかったのですが、その後に清が居座るようになっては困るので、天津条約を結び両国が同条件で撤兵することとしました。このとき日本は外国からの侵略などの特殊なケースを除き朝鮮半島から永久に撤兵すべきであると主張しましたが、清としては属国である朝鮮の内乱などに「宗主国が出兵するのは当然だ」と一歩も譲らず、最終的に互いの国が、今後、朝鮮半島に派兵する場合は相互通知することで合意しました。ロシアにすり寄る朝鮮 ようやく日清両国が兵を退き、平和になるかと思われた朝鮮半島でしたが、相変わらず朝鮮は自立するでもなく、新たな後ろ盾を求めて今度はロシアに接近し始めました。そんなことをすれば宗主国の清が黙っているはずもなく、袁世凱は閔氏一族のライバルである大院君を伴って朝鮮に乗り込み朝鮮政府を指導する立場に就任しました。 しかし、それでも朝鮮国王はロシアへの接近を止めませんでした。その心境は「自分で独立するのは面倒なので誰かに頼りたいが、特定の誰かには支配されたくない」という感じなのでしょうか、清の顔色を伺いながら、あちこちの国に色目を使うさまは、なんとも哀れとしか言いようがありません。 それでも朝鮮政府は一定の開化政策を試み、欧米諸国から借金をしようとしますが、朝鮮独自の発展を望まない宗主国の清が許すはずもなく、様々な政策が、ことごとく失敗に終わり、それでも王侯貴族たちは民衆の生活を顧みなかったので、庶民の間にどんどんと不満が高まっていきました。 そして1884年に朝鮮国内で大規模な反乱が起きたのですが、事態を収拾する能力がなかった朝鮮政府は、またも清に派兵を要請しました。それを受けた日本も過去の動乱で自国民が虐殺された経験から、天津条約に基づき居留民保護のために派兵しました。そして反乱が収まっても日清両国が一歩も引かず、とうとう戦争になったのです。それが日清戦争です。 この戦争は詰まる所、朝鮮における日清両国の権力闘争でしたが、その影響は朝鮮半島にとどまらず、広く、その後のアジアの運命を大きく変えました。もし、清が勝利していれば、朝鮮はもとよりアジアの多くの国は、今でも欧米の支配下にあったかもしれません。 何故ならば、日本が朝鮮の独立のために戦ったのに対して、清は現状維持=植民地支配肯定が戦争の目的だったからです。事実、日本は「宣戦ノ詔勅」から「講和条約」に至るまで終始一貫して朝鮮の独立を謳い、そのために戦いました。日清講和条約が締結された割烹旅館。日清講和記念館には会議の様子を描いた画なども展示している それは、日清講和条約(下関条約)第一条を見れば良く分かることで、そこには「淸國ハ朝鮮國ノ完全無缺ナル獨立自主ノ國タルコトヲ確認ス因テ右獨立自主ヲ損害スヘキ朝鮮國ヨリ淸國ニ對スル貢獻典禮等ハ將來全ク之ヲ廢止スヘシ」と明記されています。 講和条約=戦争の目的=朝鮮の独立ということで、しかも条約において一番重要なことを定める第一条に明記されているのですから、これ以上の説明は不要でしょう。なにも日本が純粋に朝鮮の独立のためだけに戦ったと言うつもりはありません。当然、自国の利益のために戦ったのですが、いくら自国の利益のためとは言え、古今東西、当事国が何もしないのに、勝てる見込みの少ない戦争を他国の独立のために多大な犠牲を払って戦った国があったでしょうか。 そして、その言葉通り朝鮮は、日本の勝利により有史以降初めて独立したのでした。その象徴が、それまで建っていた属国の証である「迎恩門」(歴代朝鮮王が中国皇帝の使者を迎えるために建てられていた門)を取り壊し、文字通り朝鮮の清からの独立を記念して、その隣に建てられた「独立門」です。歴史の事実を知らない韓国国民 独立門は、現在も韓国の首都ソウルにある西大門に建っていますが、多くの韓国人が、この門について日本から独立したときに建てられたものだと誤解しています。普通に考えると、この門が完成した1897年11月20日という日付を見れば、直ぐその間違いに気が付きそうなものですが、それすら分からないということは、韓国において歴史は事実である必要がないということなのでしょう。 もう一点、韓国の歴史観を教えてくれるのが、この「独立門」の扁額は李完用の作品だということです。彼は日韓併合条約に調印した人物で、本当のところはともかく韓国国民からは親日派=売国奴ナンバーワンとも言われ、2007年に作られた事後法により、彼の子孫は財産を強制的に没収されるくらい憎まれています。 それなのに、その彼の作品が史跡として登録され、そこに多くの人が観光に訪れているのを見れば、いかに韓国国民の多くが歴史の事実を知らないのかということが良く分かります。 さて、それはともかく日本と清の講和条約により、目出度く独立国となった朝鮮。日本としては多大な犠牲を払って獲得した独立ですから、彼らが自力で国家発展の道を歩んでくれるものと期待していましたが、そうはいかないのが朝鮮という国です。 彼らは、口では独立と言っていましたが、とても当時の国際社会の荒波を乗り切っていけるだけの力はなく、彼らも本心は独立が現実的ではないことを理解していました。ですから、当初は単に宗主国を、戦争に負けた清から勝った日本に乗り換えるくらいのつもりだったのでしょう。 しかし、日清講和条約締結のわずか6日後に起きた「三国干渉」により、事態は一変します。三国干渉とは、日清戦争において日本の勝利が濃厚になり、自国の満州や支那における権益に対して危機感を持ったロシアがドイツとフランスを巻き込んで日本に圧力をかけ、日本に日清戦争で血を流して獲得した大陸における権益を放棄させた事件です。 その大義名分が、日本が遼東半島を所有すれば「極東平和の妨げになる」というものでした。しかし、日本が放棄させられた権益は、その後、彼ら自身があの手この手で清から奪いとったのですから無茶苦茶という他ありません。しかし、この時代は力こそ正義であり弱小国日本としては黙るしかありませんでした。一つ言える事は、いつの時代も臆面もなく「平和」という言葉を使う人間や国は信用出来ないということです。 その結果、朝鮮は宗主国を日本からロシアへと乗り換えました。朝鮮としては、宗主国は強いことが第一条件ですから、より長いものにまかれることは当然の行動でした。しかし、日本としては多大な犠牲を払って獲得した朝鮮の独立や日本の権益が失われることを座視できるはずもなく、それに呼応した日本派とロシア派の争いが朝鮮政府内で勃発し、しまいには国王がロシア公館に逃げ込む事態にまで発展しました。 その後、国王を手の内に取り込んだロシアは朝鮮での権益をどんどんと拡大させていきます。日本としては日清戦争で多大な犠牲を払ったにもかかわらず大陸での権益を三国干渉で横取りされたうえ、また朝鮮での権益を横取りされそうになっているわけですから、たまったものではありませんでした。 しかも、前述したとおり朝鮮をロシアにとられるということは権益云々というより国家としての死活問題なわけですから、これだけは譲れなかったのです。当初、ロシアに対して大幅に国力が劣る日本は懸命に外交努力を重ねましたが、力(軍事力)なき外交はみじめなものでした。日本の世論は併合賛成へ 当時、世界一の陸軍国であるロシアは東洋の島国のことなど歯牙にもかけず、だんだんと交渉の余地はなくなり、とうとう日露戦争が勃発してしまいました。結果、辛くも日本は勝利をおさめましたが、相変わらず朝鮮は大韓帝国と名を変えてもシャキッとしません。 日本としては、二度の戦争を行い朝鮮半島や満州におけるロシアの影響力を排除したものの、相変わらず大韓帝国が、またふらふらと他国にすり寄ってはかなわないので、保護国としました。しかし、彼らは相変わらず密使を送るなど、ちょろちょろとした動きを止めませんでした。そのような彼らの行動に対して日本国内では「朝鮮併合すべし」という意見が強くなってきました。伊藤博文 しかし、一方で財政上の理由などで反対する人も沢山おり、この問題は文字通り賛成派と反対派で国論を二分していましたが、その状態にけりをつけたのが現在韓国で英雄と崇められている安重根その人です。彼が併合に慎重だった伊藤博文を暗殺したため、日本国内の世論は、一挙に併合賛成へと傾いたのです。「英雄視」の疑問 この事件についても現在の韓国では、韓国義勇軍による戦闘行為だったと教えていますが、当時の法令や常識に照らしても理解不可能な話です。第三国の領土において軍服を着用せず、非戦闘員に対して、いきなり銃口を向けるという卑怯な手段により殺害した行為を独立戦争と呼ぶのはあまりにも常軌を逸しています。 さらに彼の主張は、暗殺後に行われた裁判での陳述や彼が唱えた東洋平和論を読めば分かるのですが、特段、反日思想に凝り固まっているわけではなく、欧米列強の侵略に対する日中韓の連携を呼びかけているだけで、暗殺は当時の朝鮮人が持つ伊藤博文個人に対する誤った認識に基づくものであったと考えるのが妥当です。安重根義士記念館敷地内に建立された安重根像=韓国・ソウル市内 いずれにしても、自国が日本に併合されるきっかけを作った人物を、彼の本心を理解せぬまま、ただ単に日本の偉人を殺害したという理由だけで英雄視しているというのは実に皮肉なものです。まあ、客観的に見れば日本と併合して初めて朝鮮が近代化したわけですから、ある意味祖国を救った英雄とも言えますが・・・。 少し話はそれますが、他にも、韓国では上海天長節爆弾事件で日本人2名を殺害し、中国国民党から大金をもらったとされる尹奉吉も英雄視されています。とにもかくにも、現代韓国においては手段や動機にかかわらず日本の要人を殺害した人間が英雄視されているのが現実なのです。 普通に考えれば他国の要人を暗殺した人物を国家が英雄として崇め奉るというのは、その国のことを見下していなければできない行為で、韓国人が日本人には何をやっても構わないと思っている証拠です。 話しを日韓併合に戻しますが、現代韓国では日本が武力で大韓帝国を植民地にしたと信じている人が少なくはありません。しかし、日本は国対国として朝鮮に武力を行使したことはなく(正当防衛等の突発事案は除く)、日韓双方が平和裏に話し合った合意に基いて、国際法に則った手続きにより大日本帝国が大韓帝国を併合したのです。 また、植民地と併合では全く意味が違います。イギリスを例に挙げれば、イギリスはアメリカやインドを「植民地」として支配しましたが、北アイルランドやスコットランドは「併合」して同じ国になり、現在もそのままです。 また、日韓併合を会社に例えるならば、業績が悪化した会社(朝鮮)をベンチャー企業(日本)が、子会社にするのではなく吸収合併したようなものです。その結果、日本が朝鮮の借金を棒引きし、インフラ整備などに莫大な資金を費やしたのは、同じ国になったのですから当然のことです。 そして、その過程で新会社の方式を取り入れて従来の方式を廃止することもあれば、人事の面でいろいろと差が出たりするのは会社合併でよく見られる光景と同じです。そんな中でも日本は朝鮮の王家に敬意を払い、王族や一部の貴族を併合後も、その地位にとどめました。 にもかかわらず、何が何でも日本が無理矢理朝鮮を植民地にしたというのは、当時、韓国最大の政治団体「一進会」が併合に対して積極的賛成であったという事実をも無視し、当時の人たちが無能で無為無策だったために併合されたと言っているのと同じことで、実に彼らを馬鹿にした話です。 ちなみに、当時の弱小国日本は、三国干渉の苦い経験から事前に日韓併合について主要国に打診しており、その結果、米英は賛成し、清国を含む、その他の主要国から反対の声は全くありませんでした。(それどころか米英から「韓国の面倒を見るように」と、押し付けられたという説もあります) こうして、新生日本が朝鮮に親書を送ってから42年の歳月をかけて、ようやく日本は朝鮮半島の住人とともに西欧列強と戦うスタートラインについたのでした。

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    歴史を知らない韓国

    「日本に正しい歴史認識を基にした誠意ある行動を期待する」―朴槿惠大統領はブラジル訪問の際、こう述べた。米国でも「韓国疲労症」が指摘されるほど執拗な反日の姿勢には嫌気がさす。しかし歴史を知らないのは韓国のほうではないのか。朴大統領にお父さんのことも含め、歴史認識を改めてもらいたいものだ。

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    朴槿恵大統領は父親を糾弾すべし

    論理的に自爆した」テロリスト ――ケント・ギルバートさんは最近、戦後日本の在り方についてのみならず、日韓関係についてもさまざまな意見を述べられており、各方面で大きな反響を呼んでいます。そもそも、このような問題に関心を抱かれた理由を教えていただけますか。ケント・ギルバート(以下、ケント) 私はもう日本に40年近く住んでいますが、この国には本当に素晴らしいところがたくさんあります。それなのに、70年も前の戦争の記憶がいまだに日本人の行動や考え方を縛り付けていると感じたんですね。自分なりにいろいろと調べてみると、じつは戦後占領期にGHQが検閲などを通じて日本人に施した「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)」というマインドコントロールが、いまも解けておらず、それがさまざまな分野に悪影響を与えている元凶であることがわかりました。 日本は早く目覚めなければならないのに、一方で、その状態を利用して、近隣諸国が好き放題にやっている。とくに韓国の論理はメチャクチャで、幼稚なのに、日本はやられっ放しという姿をみて、「いい加減にしろ、あなたたちに何をいう権利があるのだ」と思いました。 ――メチャクチャといえば、今年3月5日、ソウル市内で開催された朝食会に出席していたマーク・リッパート駐韓米大使が、突然男に刃物で襲われるという事件が発生しました。ケント 今回の事件は完全にテロ行為であり、外国要人暗殺未遂事件です。犯人は、韓国による竹島の領有権を叫び、在韓米軍の軍事演習に反発する金基宗という前科六犯の男です。この男は過去に駐韓日本大使に投石するなど曰く付きの人物で、韓国治安当局のあいだでも顔と名前を知られた有名人でした。そんな要注意人物の侵入と凶行を、現地の警察は阻止できなかったのです。 ――アメリカ人は今回の事件をどのように見たのでしょうか。ケント 私の周辺のアメリカ人は、このニュースを聞いて「いったい、セキュリティはどうなっていたんだ!」と驚き、怒り、最後は呆れ返っていましたが、つまるところ、これが韓国政府の「実力」なのです。 実際、アメリカ人の多くはこの事件をみて、韓国がまだまだ国家として、まともな治安維持能力さえもたないことを痛感し、金容疑者の思惑とは裏腹に、「韓国はまだ一人前ではない」「在韓米軍はやはり必要だ」と考えたのです。一人の危険人物さえ阻止できない韓国から米軍が撤退すれば、翌日にも北朝鮮軍が攻め込んできて、首都ソウルは数時間以内に陥落するでしょう。 ――金容疑者はかつて、日本大使への襲撃を試み、日本人女性職員を負傷させる事件を引き起こしました。ケント 日本大使襲撃事件の際、韓国の反日メディアはこぞって金容疑者のテロ行為を「英雄的である」と報じたそうです。結局、金容疑者に対しては執行猶予付きの判決しか下りず、のちに本まで出版する人気者になった。韓国はメディアや世論だけでなく、司法までもが未熟です。欧米や日本などの先進国では、他国の要人を暴力で襲撃した人物を英雄視するなど考えられません。法治国家の根底を覆す重大な違法行為を称賛しますか? 韓国人がもっとも尊敬する歴史上の人物の一人は、ハルビン駅で伊藤博文を暗殺したテロリストの安重根ですが、このこと一つ取っても、韓国はテロリストを礼賛する国だと思われても仕方ありません。 ――安重根という人物は、いまの韓国人が信じているような、たんなる抗日運動家ではありませんよね。ケント 韓国人は安重根を理解していません。安が殺害した伊藤博文は、日韓併合にきわめて慎重でした。だから、安が伊藤を殺したことで日韓併合は一気に加速しました。駐韓米大使を襲った金容疑者と同様、自らの短絡的な行動によって、自分が最も望まない結果を導いてしまった。「論理的に自爆した」という意味において、これら二人のテロリストには大きな共通点があるといえます。これこそ本物の「自爆テロ」ですね。 ――安重根は、じつは刑務所の日本人看守や日本国内の一部民族主義者らから支持されていました。ケント そもそも安重根は明治天皇に対して大きな敬意を抱いていました。そんな安が伊藤博文を襲ったのは、「伊藤が天皇陛下の意思に反した政治を行なう大逆賊である」と考えたことが最大の理由です。 また、安が日本人の看守や、一部の民族主義者のあいだで支持された理由は、安自身が欧米列強の有色人種に対する帝国主義的植民地支配に異議を唱えていたという点にもあります。天皇に敬意を示し、欧米の植民地にされたアジアを解放しなければならないとする安重根の思想は、やがて日本が提起することになった「八紘一宇」や「大東亜共栄圏」の思想と同じです。 つまり、安重根を英雄として奉ることは、いまの韓国人が忌み嫌っているはずの、戦前の日本の政治思想をそのまま敬っていることにほかなりません。歴史を知らない韓国人は、ここでもまた論理的に自爆しているのです。歴史的ファクトを無視すると、必ずこういう自己矛盾が生じることになります。 韓国人がしっかりと歴史を学ぶことができないのは、ある意味で仕方ないともいえます。なぜなら、彼らは「漢字が読めない」からです。戦後、日本統治時代の業績をすべて否定するという韓国ナショナリズムが盛り上がった結果、韓国政府は漢字の使用を廃止し、ハングル文字のみの使用を推進しました。その結果、今日ほとんどの韓国人が漢字を理解できなくなりました。ハングル文字を導入した李氏朝鮮第4代国王の世宗像=ソウル 一方、李氏朝鮮第4代国王の世宗が導入したハングル文字は、長いあいだ、漢文を読みこなす教養のない女子供が使う文字として蔑まれていました。国として教育や使用を禁じた時代もあります。いまとは真逆の状況です。 ――歴史的に軽んじられていたハングル文字を朝鮮全般に広めたのは、皮肉にも統治時代の日本ですが、現在、ハングル文字は「朝鮮民族の誇り」になっています。ケント 日韓併合に際して、日本政府は一般朝鮮人の教養レベルのあまりの低さに驚きます。そこで、朝鮮人の識字率向上のために各地で新たに学校を建設しました(20世紀初頭の小学校は40校程度→40年ほどで1000校以上増加)。小学校では、日本語のみならず、ハングル文字を普及させ、数学や歴史(朝鮮史を含む)まで子供たちに教えたのです。そんな努力の結果が今日のハングル文字の民族的普及に繋がりました。 私は、19歳から最初はローマ字で日本語の学習を開始して、ひらがな、カタカナ、漢字と学びました。そんな私が間違いなくいえるのは、日本語の「漢字かな(+カタカナ)交じり文」は合理的な上に素早く読めて、しかも表現の自由度が高いということです。ですから「漢字ハングル交じり文」は片方の文字種の単独使用よりも確実に優れた表記法だと思います。読書速度や学習効果にも差が出るはずです。やめたのはじつにもったいない。韓国人は永遠の「中二病」武士と両班は真逆  ――明治維新を経て欧米列強の力に触れた日本人は、欧米的な政治や社会の概念を日本語(漢字)に翻訳した結果、多くの「造語」が生まれました。その造語が日本から中国、韓国に流れていった結果、向こうの人たちは初めて欧米文明を理解し始め、近代化に成功しました。ケント 民主主義や自由、共和制、交通、情報、経済、銀行などの言葉は、すべて日本人の発明です。日本人がいなければ「中華人民共和国」や「朝鮮民主主義人民共和国」という国名はありませんでした。 長いあいだ、旧態依然とした時代遅れの「中華思想」のなかで呑気に生きていた韓国・中国人は、日本人が必死になって努力したおかげで今日の近代的な生活を享受しているのです。そのことを忘れるなといいたい。 私が最も指摘したい日本の業績の一つは、朝鮮半島において、李氏朝鮮時代から厳しい階級格差と差別に何百年間も苦しんでいた人びとの「身分解放」を日本政府が行なった事実です。日本は韓国人のために、本当に正しく立派なことをしたと思います。 ――朝鮮半島での「身分解放」は日本でもほとんど語られていませんね。かつての朝鮮人は、両班という階級を頂点とした「良民」と、奴婢や白丁、僧侶などの「賤民」に分けられていました。ケント 両班階級は、汗をかくような労働を嫌悪し、「箸と本より重いものは持たない」ことを誇りにしました。自分より下層の者を徹底的にいじめ、金品を差し出させ、いうことを聞かなければ自宅に連れ帰って拷問しても、罪に問われない特権を何百年も維持したそうです。 一方、上の階級から非人間的な仕打ちを受けていた賤民階級は、住居や職業、結婚などで激しい差別を受け奴隷として市場で人身売買され、白丁に至っては人間とすら認められていなかった。当然、文字など読めません。 もちろん、日本も過去に階級差別はありましたが、日本は中世以降、事実上の統治者となった武士階級は、兵士であると同時に、有能な官僚でした。さらに江戸時代になると、「武士は食わねど高楊枝」で言い表される「清貧」と「誇り」を維持する日本の武士は、庶民の期待と憧れを一身に受けました。だから『忠臣蔵』などの歌舞伎の演目が人気だったのです。同じ支配者層でも、庶民の恨みと憎悪の対象だった朝鮮の両班とは真逆です。武士の起源は、天皇を頂点とする朝廷の警護役です。じつは将軍、貴族、農民などの身分や、年齢にもいっさい関係なく、日本人は全員が天皇の下にいる臣民です。朝鮮や中国大陸だけでなく欧米でも当たり前だった奴隷売買の習慣が日本にだけなかった理由はそこにあると思います。 両班を頂点とする当時の朝鮮の激しい身分差別と、悪しき因襲は、誇り高き武士道精神をもった元下級武士らがリーダーとなり、明治天皇の下で文明開化を実現してきた当時の日本人にはとても受け入れ難く、朝鮮半島近代化の最大の足かせになることは明白でした。このため日本政府は劇的な「身分解放」を行なったのです。 ――「身分解放」は韓国近代化の第一歩となったということですね。ケント 朝鮮人を厳しい階級差別から解放した日本は、若者たちを教育するため、学問の機会を広く提供しました。おかげで、白丁の子弟でも学校に行けるようになりました。日本の朝鮮半島政策が、搾取目的の「植民地化」ではなく、自国の一部として迎え入れる「併合」だった事実がわかります。奴隷に勉強は教えません。 日本政府による朝鮮人の「身分解放」は、1863年にリンカーン大統領が行なった「奴隷解放宣言」に匹敵する先進的な政策であり、これが韓国近代化の第一歩だったことは疑う余地のない歴史的ファクトです。今日の韓国人はこの点だけでも、日本に大恩があるはずですが、それに対する感謝の言葉は聞いたことがありません。韓国人は永遠の「中二病」 ――日本政府は、日本国民から集めた血税の多くを朝鮮半島に注ぎ込み、そこで上下水道や電気、道路や鉄道などの近代的なインフラを導入しました。ケント 現在でも、北朝鮮には水豊ダムという巨大なダムがありますが、これもまた、日本政府が最新の土木工学技術と労力を投入して建設したものです。その予算たるや、当時としては莫大なものだったはずです。 ――当時日本政府が構想していた東京と下関を結ぶ「新幹線計画(弾丸列車)」に匹敵する額でした。ケント それだけでも当時の日本が朝鮮半島の近代化にどれだけ尽くしたのかよくわかりますね。 水豊ダムは、水量や発電規模も、そうとう大きかったと記憶しています。 ――資料によると、琵琶湖の約半分に及ぶ湛水面積を有し、完成した1944年当時としては、発電規模において世界最大級を誇りました。構造自体も要塞のように堅固だったようです。ケント じつは朝鮮戦争中、アメリカ軍はこのダムと「喧嘩」をしているのです。当時アメリカ軍は、北朝鮮に対する電力供給を遮断する作戦を行なっていましたが、その攻撃目標の一つがこの水豊ダムでした。アメリカ空軍は何度もダムを空爆し、最後には大型の魚雷を何本も撃ち込みましたが、それでもダムが決壊することはなかった。その後もほとんど改修を加えられることなく、今日もなお当時と変わらず発電を継続し、北朝鮮最大の電力源の一つとなっています。メイド・イン・ジャパンの底力は、当時から健在だったのです。 このように朝鮮半島の発展のために努力した日本を、いまの韓国政府とマスコミ、そして真実の歴史を調べもしない多くの韓国人が口汚く罵っている。まさに「恩知らず」であり、永遠の「中二病」みたいです。世界各国でささやかれる「芳しくない評価」も理解できます。ちなみに外国人による日本人の評価は、「正直」「誠実」「親切」「勤勉」「冷静」「寛容」「トラブルを起こさない」などですが、韓国人は見事にこの真逆です。 知り合いの外国人は、知れば知るほど韓国から気持ちが離れていきますが、私のようにどんどん日本が離れ難くなる外国人は多いです。正義感は強いが感情的にならず、穏やかに国を運営していく日本人の平和的な態度は嫉妬されないかぎり好感をもたれます。半島国家の悲しきサバイバル術半島国家の悲しきサバイバル術 ――戦後に成立した大韓民国では、「日本憎し」のあまり、ありもしない歴史が教えられています。 日本政府が今年の4月6日、中学校で使われるすべての社会科教科書に竹島領有権の主張を含めたことに対し、韓国政府は「日本政府は、韓国固有の領土である独島(ドクト)について不当な主張を強化し、歴史的事実を歪曲している」などと強く反発し、日本側に抗議しました。ケント 日本政府の提案で教科書問題を2カ国間で話し合えばいい。「韓国側の教科書と根拠資料をすべて出してください。日本側も出します。内容が妥当かどうか話し合いましょう」と呼び掛けるのです。2002~10年まで二度にわたり行なわれた日韓歴史共同研究は残念ながら非公開でした。次は公開でやりましょう。 ――なぜ韓国の歴史認識がここまで歪んでしまったのでしょうか。2014年2月、ソウルの「朴正煕大統領記念図書館」を訪れた朴槿恵氏(共同)ケント 韓国は戦後一貫して自国を「戦勝国の一員」だと主張し、「連合国側だった」と自己洗脳する努力を重ねてきました。しかし1945年の大東亜戦争終結まで、朝鮮半島は「日本領土」でした。これは歴史的ファクトです。いま韓国人と呼ばれる人たちの先祖は「日本人」として連合国と戦い、敗戦の日を迎えました。戦後に建国された大韓民国の国民ではなかったのです。存在しなかった国がどうして「戦勝国」になれますか。 戦時賠償の件も同じです。いまになって韓国は慰安婦問題などで日本政府に対する個人補償を求めていますが、もともと日本は個人補償をするつもりでした。 1965年に日韓基本条約を結ぶとき、かつての朝鮮人の軍人や軍属、役人らの未払い給与や恩給などに対する補償を求めた韓国政府に対して、日本政府は、「韓国側からの徴用者名簿等の資料提出を条件に個別償還を行なう」と提案しました。日本は、韓国政府の提出資料を個別に検討し、個人に対する補償として支払うべきは支払って、将来の友好関係へ繋げようとしたのです。日本政府の対応は、法律に適合した真摯なものでした。 しかし韓国政府は日本の提案を拒絶しました。彼らの主張は、「個人への補償は韓国政府が行なう」ので、それらの補償金は「一括で韓国政府に支払ってほしい」というものでした。日本政府は相手の要求に従い、「独立祝賀金」という名目で、無償3億ドル、有償2億ドル、そして民間借款3億ドルの供与と融資を行なったのです。 ――日本が支払った金は、当時の韓国政府の国家予算の2倍以上だったといわれています。ケント 法律論でいえば、日本は韓国に対して、オランダがインドネシアに対して行なったように、過去に投じたインフラ整備費用を請求できましたが、当時の日本政府は請求権をすべて放棄したのです。日本は日韓基本条約において、当時の韓国政府の国家予算の2倍以上の金を支払ったばかりか、莫大な金を投じて朝鮮半島に整備した近代的インフラなどをすべて無償で贈与し、韓国の以後の飛躍的な発展を大いに助けたのです。 そればかりではありません。日本は日韓基本条約後も、韓国政府に大金を支払い続けています。1997年に発生した韓国通貨危機や、2006年のウォン高騰に対する経済支援、そして08年のリーマン・ショック後の混乱を軽減するための支援など、日本は毎回韓国に兆単位の資金を提供し続けてきました。02年の日韓ワールドカップのときはスタジアム建設費用も提供しています。 にもかかわらず、これまでに韓国に貸し付けたお金は、まだ一部しか返還されていませんし、日本人が本当に苦しんだ東日本大震災のあとには、サッカーの試合で「日本の大地震をお祝いします」という横断幕を掲げた韓国人サポーターまで出る始末です。 ――実際に韓国では日本に降りかかった不幸を喜ぶ声が多かったようですね。ケント 強い者には媚を売る事大主義。強い相手が複数だと二股三股。弱いとみた相手からは「ゆすり」「たかり」で金を巻き上げ、罵詈雑言を浴びせ、酷い仕打ちをする。それが伝統的な「両班」の精神です。大国に翻弄され続けた半島国家が身に付けた悲しきサバイバル術かもしれませんが、政府や国民が両班のような対応をしていたら、国際社会で評価や尊敬をされるはずがありません。良識ある韓国人は、声を上げるべきです。漢字の勉強をやり直せ漢字の勉強をやり直せ ――日本は正式に韓国や中国に謝罪していないと思っている欧米人も多いようです。ケント 先日、ジャーナリストの櫻井よしこさんの番組に出演した際に、「日本は合計で約60回も謝罪している」と櫻井さんがいわれたので、「もう謝罪しなくていいですよ」と答えました。謝罪するたびに金を要求される悪徳商法にいつまで付き合うつもりですか。 韓国人に対しては、ひたすら歴史的なファクトを出すだけでいい。謝罪はもう何度もしたし、日本国の見解はこれまでの謝罪で十分示せました。謝れば謝るほど、「もっと謝れ」「もっと金出せ」といわれるだけです。 ――今年は戦後70年です。忍耐強い日本人も、「そろそろいい加減にしろよ」という具合になってきました。ケント 日本人は忍耐強いですが、じつは戦いはもっと強い。いったん怒ると、一刀両断で一気にカタを付けるか、相討ち覚悟で徹底的にやる。高倉健さんが主演する任侠映画と同じです。ナメた態度で挑発して怒らせたほうが絶対に悪いんです。だから、誰か韓国人に教えたほうがいい。「いい加減にしないと、死ぬほど痛い目に遭うよ」と。 とにかく韓国人は、戦時中の慰安婦問題や日本軍の蛮行なるものを持ち出して日本の過去を責める権利も資格もいっさいありません。彼ら自身がかつて「日本人」であったという事実もさることながら、当時慰安婦を管理した大半は朝鮮人経営者でしたし、違法に若い娘たちを売り飛ばしていたのも朝鮮人でした。そんな悪い連中を、日本政府は取り締まる側でした。 一方で、大韓民国の独立後、外貨を稼ぐために在韓米軍を対象にした慰安所を多く整備したのは、韓国政府です。それをやったのは、現大統領(朴槿惠)のお父上である朴正熙です。朴槿惠大統領は、日本にとやかくいう前に、まずは自分の父親の行為を糾弾すべきです。 さらに、韓国軍はベトナム戦争で、韓国兵専用の慰安所を運営していましたし、ベトナムの民間人に対し、目を覆いたくなるような残虐行為を数多く働いています。ベトナム人女性をレイプした韓国兵が異常なほど多かったのに、その事実に対してまともに向き合っていません。 ――アメリカでは慰安婦像の設置が行なわれていますが、これも強い者や先生に「いいつけてやる」という事大主義の精神ですね。米グレンデール市の慰安婦像の横に座る元慰安婦のイ・ヨンスさん=5月6日(中村将撮影)ケント アメリカに住む韓国人は、もう収拾がつかなくなっています。慰安婦像の設置は、人種や宗教、国籍による差別を禁じたアメリカの公民権法違反の疑いがありますよ。ただ、大半のアメリカ人は日本人と韓国人の区別さえついていませんし、歴史問題などまったくわかっていません。慰安婦問題の認知度は10%程度だそうです。オバマ大統領もちゃんと理解していないと思います。面倒くさいけど、日本はアメリカに対してはっきり説明していかないといけない。 私は何度もいっていますが、誤報問題を引き起こした『朝日新聞』は、見開きで『ニューヨーク・タイムズ』や『ワシントン・ポスト』『ロサンゼルス・タイムズ』などに、自分たちの過ちを広告掲載すべきです。その上で、載せてくれないでしょうが、韓国の新聞にも掲載すれば、わかる人にはちゃんと伝わります。韓国にも、日本のことを理解して、敬意を抱く立派な人はいるはずです。日本も、そういった意識の高い親日派韓国人の味方になってあげて、何か支援ができればいいですね。 ――レベルの低い感情的な言い掛かりに対しては、まさにファクトを提示し、しっかりと議論で返すことが必要ですね。ケント 「韓国人こそ歴史を学べ」の一言に尽きるのですが、そのためには、ハングル文字だけの現代の資料では歴史的ファクトを見詰め直すことができません。要するに、漢字の勉強を一からやり直してもらいたい。韓国はそれだけで間違いなく国力が上がります。ちなみに私が漢字を学び始めたのは20歳ごろです。「自分たちのご先祖様が書いたものを自分の力でちゃんと読んでみろ」といいたい。議論はそれからですよ。 本当は放っておくのが一番です。日本は韓国と国交がなくなってもじつは何も困らない。日本に見捨てられたら生きていけないのは韓国のほうですが、引っ越し不能な隣人だからまったく付き合わないわけにもいきません。 一方、日本人の皆さんには、沈黙せずにはっきりと論理的に主張してほしいと思います。ただし、その反論の姿勢はあくまでも冷静かつ紳士的であるべきです。 ――品性を欠けば、たんなる罵り合いになり、みっともないですからね。ケント いろんなブログのコメントを見ていると、韓国人は酷い言葉を使って相手を罵るのが得意です。そんな韓国人に向かって、日本人が同じレベルに堕ちて、汚い言葉で感情的に罵れば、外国人の大半は、「ああ、日本も韓国もどっちもどっちだな」と思うでしょう。 とくに、一部のヘイトスピーチや、問題があると何でも「在日」のせいにする風潮などは、見ていて情けないし残念です。日本人には、そのような低い土俵に下りてほしくないし、下りる必要がない。その点には注意しつつ、韓国からの言い掛かりに対しては、歴史的ファクトを示し、大いに反撃してほしいと思っています。ケント・ギルバート 1952年、米アイダホ州生まれ、ユタ州育ち。71年に初来日。80年、国際法律事務所に就職して東京に赴任。83年、TV番組『世界まるごとHOWマッチ』に出演し、一躍人気タレントに。公式ブログ「ケント・ギルバートの知ってるつもり?」で論陣を張る。近著に『まだGHQの洗脳に縛られている日本人』(PHP研究所)がある。関連記事■ [日韓「歴史戦争」]日本がサンドバッグ状態を脱するとき■ <特別対談>慰安婦問題はフィクションだ■ トンチンカンな左派マスコミ

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    100回謝罪しても当たり前とは やっぱり韓国とは付き合いきれない

    室谷克実(評論家) 国を背負っている人間も、国を取り巻く状況が日に日に悪化して、個人的にも追いつめられると、突如として(俗な言葉でいうと『切れて』だろうか)思い詰めていた本音を吐く。韓国外交省「高官」の「加害者というものは謝罪を100回しても当たり前ではないか」との発言は、朴槿恵(パク・クネ)大統領の「恨み1000年」発言以来の“ヒット作”だ。日本国は、この本音発言を100年は忘れてはなるまい。 重大人物の重大発言も、記憶そのものの脳内劣化や、自己都合的な短縮化、さらには、ネットメディアの拡大に伴う「情報取り扱い」の粗雑さが重なり、変容していく。 最近、「田中角栄(元首相)が“刎頚(ふんけい)の友”と呼んだ小佐野賢治(=国際興業グループ創業者)は…」との文章を読んで、そう思った。田中が“刎頚の友”と呼んだのは入内島金一(=角栄が上京し勤め始めたときの会社の先輩)であり、小佐野ではなかった。 ある新聞には「朴大統領は『歴史を忘れた民族に未来はない』と言い…」との記述があった。「歴史を忘れた民族に…」は、そもそも独立運動家、申采浩(シン・チェホ)の言葉とされ、サッカー場の横断幕に登場して有名になった。朴大統領がそれを述べたとしても、引用発言だ。いや、引用して述べたこともないのではないか。 外国の重要人物の重要発言は、丁寧に取り扱われるべきだ。それを伝える1次マスコミは、特派員のコメントなどどうでもいいから、カギ括弧の中を丁寧に伝えるべきだと思う。会談を前に握手する岸田外相(左)と韓国の尹炳世外相=3月21日、ソウルの韓国外務省(共同) さて、問題の韓国外交省「高官」の発言だ。日本では共同、時事両通信社が、韓国の通信社である聯合ニュースの報道を引用して伝えたが、唯一のソースである聯合の原文を私が直訳すると、こうなる。 「加害者というものは謝罪を100回しても当たり前ではないのか、何回しても関係ない」(と強調した)。 私の韓国語理解では、後段の「何回しても関係ない」とは、「これまでに何回謝罪したかなんて問題ではない」というニュアンスであり、前段の「100回しても当たり前」を補っている。つまり、永遠に謝り続けろと言っているのだ。 つい最近までの流れを見れば、以下のようになる。 ▽韓国「謝罪しろ」 ▽日本「すでに謝罪した」 ▽韓国「していない。謝罪しろ」 ▽日本「国交交渉当時の椎名悦三郎外相も…全斗煥(チョン・ドゥファン)大統領に対しても…金泳三(キム・ヨンサム)大統領に対しても…村山談話でも…」 実際には、韓国人記者との懇談の席では「コウモリ外交=日和見外交」批判論議に続き、米国首脳部に台頭する「韓国疲労論」をめぐるやりとりがあったのだろう。ここで「何回しても関係ない」「加害者というものは…」が出たのだ。 「加害者と被害者という歴史的な立場は1000年の歴史が流れても変わらない」(朴大統領)、「加害者というものは謝罪を100回しても当たり前」(高官)-見事な対句をなすではないか。が、日本人からすると“もう付き合い切れない人たち”としかならないだろう。むろたに・かつみ 1949年、東京都生まれ。慶応大学法学部卒。時事通信入社、政治部記者、ソウル特派員、「時事解説」編集長、外交知識普及会常務理事などを経て、評論活動に。主な著書に「韓国人の経済学」(ダイヤモンド社)、「悪韓論」(新潮新書)、「呆韓論」(産経新聞出版)、「ディス・イズ・コリア」(同)などがある。関連記事■ 朴槿恵大統領の呆言、妄言、妄言録■ 呉善花「反日」という「バカの壁」からの脱出■ 一色正春が説く なぜ韓国は日本を許さないのか

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    日韓協力推進のカギは多国間の取り組み

    崎研究所 米外交問題評議会(CFR)のバン・ジャクソン研究員が、4月20日付のDiplomat誌で、日韓関係改善の道は、PSIなど第三国を含む枠組みの中で協力関係を図ることにあり、米国もその方法により関係改善を支援すべきである、と論じています。 すなわち、理論的指標からみると、日韓はお互いに友好国になる筈だが、両国は島の問題などのため意味ある二国間関係を持てないでいる。 理由の一部は、両国の国内政治にあると言われる。しかし、国内政治だけでは十分な説明にならない。社会学者や歴史学者は、問題は、特に植民地時代の経験を通じて作られたアイデンティティーにあるとする。しかし、同様の経験を持つフィリピンでは事情は違っている。韓国では、対日関係が団結のためのナショナリズムになっている。日本統治の辛苦が韓国人の韓国人たる所以になっている。 さらに、日本人の記憶は違う。過去につき日本に責任があるがすべてが悪かったわけではないとか、日本も犠牲者だったとかといったことになる。確かに、原爆の犠牲になった唯一の民族である。 このようにみると、歴史問題は簡単には克服できそうもない。ビクター・チャーは、地政学的脅威や利益を共有しても日韓友好の新時代が到来するとは言い切れないとする。共同記者会見を終え、握手するケリー米国務長官(左)と韓国の尹炳世外相=5月18日、ソウルの韓国外務省(共同) しかし、成す術がないわけではない。二国間関係が悪くても、両国は他のレベルや他の方法で協力することができる。2005年双方の海保が対峙した時でも両国は六カ国協議には活発に参加した。2012年に日韓防衛情報保護協定が署名直前に韓国の反対でできなくなった時でも、日韓は大量破壊兵器不拡散イニシャティブ(PSI)の演習など諸々の活動に参加した。 米国が日韓を協力させたいのであれば、両国に第三国を含む多国間の活動に参加させるようにすべきである。そうすれば、日韓協力の道筋が見える。日韓二国間の利益計算の枠内で両国に協力を促すことに時間を浪費するよりも、アジアの他国との多国間の枠組みで両国が協力するように焦点を当てるべきである、と論じています。出典:Van Jackson ‘How to Fix the Japan-South Korea Relationship’(Diplomat, April 20, 2015)http://thediplomat.com/2015/04/how-to-fix-the-japan-south-korea-relationship/* * * 日韓を二国間の枠内で協力させようとしてもうまく行かず、むしろ、多数国間の枠内で日韓を協力させていくべきだとの主張は、目新しいものではありませんが、有益です。 日韓両国が二国間シンドロームから抜け出すには、国内の、あるいは、国外のオネスト・ブローカーが必要となります。かつては、両国の大物政治家がそのような役割を果たしてきました。しかし、今はそれも期待できません。そうであれば、米国しかありません。今、米国は、日韓関係を改善しようと、努力を続けています。2月27日の国務省シャーマン次官補のアジア演説は日韓関係にも触れた良い、正直な演説でした。ところが、これに韓国は強く反発しました。米国が釈明のステートメントを出して、問題にはならなかったようですが、最後のオネスト・ブローカーである米国を疲れさせてはいけないでしょう。 ジャクソンは、2012年9月26-27日のPSI演習を高く評価しています。同年の演習は韓国が主催したもので、韓国の威信もかかっていました。開催されたことは良かったですが、問題もありました。参加国の艦艇は釜山港寄港を予定していましたが、海上自衛隊護衛艦の寄港は拒否されたのです。 いずれにしても、日韓関係は、双方の努力により何とか前に進めて行くことが必要です。それには、以下のようなことが考えられます。 例えば、北朝鮮のミサイル、核、そして拉致問題をみても、深刻さを増しています。民主主義国家である日米韓の連携が、益々重要となってきていることを、韓国も認識して行動をとってくれることを、日米両国とも願っています。韓国内でも、安全保障専門家の中には、同様の意見を持つ者も多いようです。関連記事■ 韓国の論理「日本にある物はすべて略奪された」 ■ あの日を境に変わった私のメディア認識■ ケント・ギルバートが説く 日本がサンドバッグから脱するとき

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    韓国はなぜ謝罪にこだわるのか?

    岡本裕明(Blue Tree Management 株式会社 代表取締役) 安倍首相がアメリカから帰国し日にちが経っているにもかかわらず、一部ネットのニュースには今だ、韓国発の「安倍首相の謝罪要求」のテーマが並んでいます。先日は中央日報が「日本はなぜ謝罪をしないのか?」というコラムを立ち上げていましたがしつこい韓国人の性格がよく表れていると思います。 朴政権の対日外交は失敗した、あるいは中国からもアメリカからも冷たくされたという報道で慰安婦問題は切り離すと言いながら両国間の問題の本質であることに変わりはありません。(経済と慰安婦を切り離すことでいいとこどりする作戦なのでしょうか。) 安倍首相がアメリカで様々な講演をした中でもっとも重要なポイントは日米が未来志向の努力をしてきたことを双方がきちんと認識し、前に向かっていることを確認したことではないでしょうか?もしも日本が韓国のような謝罪要求文化を前面に出していれば広島、長崎の原爆、大空襲による民間人の損害賠償で今の日米関係はあり得なかったでしょう。そうなれば直接的交戦がほとんどなかった欧州と仲良くしていたのでしょうか?歴史のレバタラです。 日本が未来志向であるのは8月15日の涙によって切り替わった点でもよくわかります。人はそれほど変ることが出来るのか、という外国人の疑問はあるでしょう。しかし、外国には宗教があり、その予言者なり牧師なりがお言葉を発した時、人々の発想は素直に納得し、180度転換することもありましょう。日本は神道であり、八百万の神がいます。その究極は万世一系の天皇であり、その陛下のお言葉は日本人にとっては神の声そのものであったと言ってもよいのであります。 マッカーサー元帥が昭和天皇を戦犯にするかどうかを検討した結果、それをすることは日本を死に追いやるという判断を下したのは実に賢明であるとともによくぞそれだけの勇気ある決断をしたと思います。それが日米間の新たなる未来志向の関係のベースラインであり、現代の成熟しお互いが尊重し合える関係が形成されてきたと思います。 では韓国人はなぜ、謝罪にこだわるのか、様々な見方があるかと思います。 根本は儒教に依るところは否定できないでしょう。司馬遼太郎氏はその著書で「儒教とは華(文明)であるにはどうすればいいかという『宗教』で、『野蛮』を悪とした。しかし現実には文明が野蛮に服従している」とあります。これはうまく言いあてていて、「野蛮」に日本を当てはめるとぴったりくるわけです。 韓国は自分たちが上であるという自負が強い一方で実際には日本から様々な技術を盗み、日本料理をまね、物まねコンビニを作り上げてきました。つまり日本は必要悪であり、なくては困るのです。しかし、悪は悪なのですから思想的に許されません。 残念なことに儒教は宗教の様に代弁する人がいません。ですので儒教は宗教ではなく思想であります。これは発想の修正、修復がしにくい点で過去に固執し、がんじがらめになりやすくなるともいえないでしょうか? 日本は慰安婦問題について過去、何度も謝罪を繰り返しています。しかしながら首相が代わる度に「謝罪」を要求するのはなぜでしょうか?これは謝罪の意味が違うのだろうと考えます。日本では問題が生じた時、世論が騒ぎ、最後、テーブル越しに3人ぐらいが立ち上がり、フラッシュがたかれる中、深々と頭を下げることを意味します。その時点で日本人は程度の差こそあれ、許すことを知っています。許しが出れば再生できるわけです。よく日本人は失敗するとバッテンがついて一生立ち直れないと言います。しかし、ことと状況次第では不遇にはなりますが、ひっそりと静かに生きるという再生は可能です。 ところが韓国の場合には大統領からして1000年も恨み続ける文化であると述べています。これは日本の首相が2年に一度変わるとして500回謝罪してもまだ許しをもらえないという意味であります。 私はこの謝罪とは上下関係の明白化であると考えています。つまり絶対服従を意味しているのではないでしょうか?中華思想において日本は野蛮な国であります。その野蛮な人種から辱めを受けたとするならばそのつじつまは合います。よって謝りつづけさせることによりその上下関係を明白にするポジションセットが背景にあると考えています。 韓国が求める謝罪要求文化についてもう少し書いてみたいと思いますので明日に続けたいと思います。韓国人が日本人に謝ることはあるのか韓国人が日本人に謝ることはあるのか 日本に対して謝罪を要求し続ける韓国ですが、韓国人が日本人に謝ることはあるのでしょうか?私の経験からは日本人には謝るどころかお礼すらまともにされないことがしばしばでした。自分が日本人から習いたい時は「センセイ」と敬い、揉み手ですり寄る一方で、それをゲットした瞬間、態度は豹変です。 教えてもらって当たり前、これはもらって当たり前、という発想です。私が高校生の時、嫌なクラスメートがいて「君のモノは私のモノ、私のモノは私のモノ、だから借りたものは返さない」というとてつもない論理を振り回していた人がいて、いまだに貸したモノは返ってきていません。私も1000年の恨みを言い続けようかと思ってしまいますがこれと同じ論理ではないでしょうか? 韓国人が謝らないのは「チェミョン(メンツ)」を大事にし、論争好きであるとする法政大学、朴チョン玄教授の著書もあります。謝れば自分の非を認めることになり一生、その挽回は出来なくなると考えているというのです。ならば日本人もこれ以上、謝ってはいけないともいえるのです。だからこそ、安倍首相のアメリカ議会での演説、あるいはインドネシアでのバンドン会議で深い反省の意は表したものの謝罪はありませんでした。これは首相が謝罪の定義をきちんと捉えている表れではないでしょうか? 韓国ではメンツを大事にするが故にあちらこちらで殴り合いのけんかが起きてしまいます。その血みどろの戦いを最後に解決方法ですが、朴教授の著書によると「ウリという身内意識が強く、同郷の地縁、血縁、学縁、親、先輩、先生の序列上で上が述べたら下は従う」という事であります。これは一神教には神がおり、日本には天皇陛下、韓国にはウリがいるという事なのでしょうか?やや次元が違う気もしますが否定もできないでしょう。 ここに一つ注目したいのはこのウリに政府は入っていないということです。私が問題視しているのは国民感情と政府は一体化しておらず、ここにも韓国人論でキーワードともいえるアンビバレンス(相反感情)があるともいえるのです。そして精神的なリーダーシップ不在となる中で韓国がてんでバラバラとなりつつあるともいえるのです。 これは韓半島の歴史そのものであり、いまだに北と南で相反する関係もそれである程度説明できるでしょう。あるいは朴大統領の低支持率や相次ぐ首相の交代も良い例であります。 ところで日本と韓国がいつから仲が悪くなったのか、いろいろ紐解いてみました。大陸と日本の間には長い行き来の歴史があり、その中で長年、日本を蔑む傾向はあったようです。が、直接的きっかけは私がみる限り、1592年の豊臣秀吉の朝鮮出兵である文禄・慶長の役ではなかったかと思います。その当時より朝鮮人からすれば日本はとんでもなく野蛮な人種であることを強く印象付けたようです。 その背景は明と李氏朝鮮の関係に遡ります。中国で蒙古族の元が倒れ漢民族の明となったのが1368年です。時を同じくして朝鮮半島では李氏朝鮮が1392年に勃興します。その李氏朝鮮は仏教を禁じ、儒教をもって国教とし、明でポピュラーになった科挙も取り込むことで明と李氏朝鮮は一体化した体制を作り上げました。それは儒教の「礼」の思想を根底とした主従関係(冊封関係)を体系化したと言ってもよいでしょう。 言わずもがな日本は野蛮な国としての認識を深めたわけであります。そのような主従関係がしっかり出来上がった大陸に対して豊臣秀吉が朝鮮出兵をし、非常に後味の悪い結果を生んだことは朝鮮の歴史に深く刻み込むことになったのかもしれません。 韓国の要求する謝罪の意味あいは日本人の口癖である「アイム ソーリー」とまるで違うということをまずは知るべきです。日本ではソーリーは何回行ってもそれ以上の意味合いはありません。人間関係の潤滑剤のようなものだからでしょう。しかし、諸外国では謝罪はその責任を取り、何らかの補償を行うことに繋がります。 安倍首相がこれ以上の謝罪をしないのは65年の日韓基本条約で責任問題は解決済みだというスタンスを貫いているからであります。謝罪すれば李明博前大統領のように「日本が解決策を打ち出さない」というとんでもない論理を振りかざされてしまいます。 慰安婦問題などを論じるにあたり謝罪が解決することはないと考えています。中華思想という差別史観が何百年もの間続いた中で謝罪の定義がまるで違うことを双方が理解した上で切り口を変えたアプローチをするしかありません。 その間、両国間の謝罪文化には他国の人には簡単に理解しえない歴史とファンダメンタルな思想的相違があることを広く世界にボイスアウトし、日本が一方的に悪いイメージを持たれないような努力もすべきでありましょう。 二回にわたり、韓国の謝罪要求について考えてみました。(ブログ『外から見る日本、見られる日本人』(http://blog.livedoor.jp/fromvancouver/)より5月13日、14日分を転載)関連記事■ 朴槿恵大統領の呆言、妄言、妄言録■ 呉善花「反日」という「バカの壁」からの脱出■ ドローンの恐怖 加速する進化についていけない日常社会

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    折れた朴槿恵 父の遺産をなぜ壊したか

    ――これを阻む東アジアの冷戦構造は半世紀たってもさほど変わっていない。しかし、父が苦心して作り上げた日韓関係を、娘はドロ沼に突き落としてしまった。アメリカからの厳しい目 4月14日、韓国政府は、朴槿恵大統領への名誉毀損で在宅起訴され公判中の産経新聞の加藤達也前ソウル支局長の出国禁止措置を8カ月ぶりに解除した。 なぜ、このタイミングだったのか。韓国司法当局は解除の理由を「重要な争点の審理が終わった」ことや、「前支局長への人道的配慮」を挙げているが、態度の転換が政治的判断であるのは明らかだ。「対米配慮だろう。特に“言論の自由”や“人道問題”で米国に文句を言われたくなかったのだろう」(外交筋)との見方が少なくない。 直後の16日には、米ワシントンでの日米韓外務次官級協議と日米韓防衛局長級協議が控えていた。特に次官級会議は米国が設定したもので、日米韓の間で初めての開催となった。議題は北朝鮮問題と日韓問題だった。また、その後に安倍首相のバンドン会議(アジア・アフリカ会議)での演説、そして安倍訪米と上下両院合同会議での演説と続く。世界に向けた日本の発信と安倍首相のアピール、そして日米関係強化の日程が目白押しだった。2014年11月、北京の人民大会堂で中国の習近平国家主席(右)と握手する韓国の朴槿恵大統領(共同) 米国は韓国に苛立っていた。今春以来、米要人の発言が相次いでいだ。シャーマン米国務次官は「政治家たちが過去の敵を非難して安っぽい拍手を浴びるのは難しいことではない」と忠告し、キャンベル前米次官補は「金正恩氏とは条件ナシに会う用意があると言うのに、朴氏はなぜ安倍首相とはそうできないのか」と批判した。ローレス元国防副次官は「習近平氏は歴史問題を利用して日米韓から韓国を引き離そうとしているのだ」とずばり指摘していた。リーダーとしての器量が父と違う いまではよく知られるように、半世紀前の日韓国交正常化には背後に米国の強い意向が働いていた。朝鮮戦争(1950―53年)を経て・アジアの火薬庫・となった韓国、北朝鮮という分断国家は、東西冷戦の最前線であった。米国にとって日韓国交正常化は、アジアにおける自由主義陣営の砦であった。 一方の軍事クーデターで政権を取った朴正煕氏にとっては、政権の正統性や大義名分は第一国是の「反共」だけでは足りなかった。目の前には朝鮮戦争で荒れ果て復興できずにいる民衆と国土があった。「飢餓や貧困にあえぐ民衆の救済」こそが必要で、体制競争する金日成を制するためにも、経済開発に一刻の猶予もなかった。その朴正煕のモデルは満州国の経済発展だった。国交正常化で得た無償3億ドル、有償2億ドルの対日請求権資金と日本の民間ベース資金は、乾いた砂漠のような韓国全土を潤し始めた。 朴正煕氏は日韓国交正常化で米韓関係を安定化させ、日本との正常化で国際社会に政権の正統性を印象付け、経済資金を手に入れた。プラグマチスト(実用主義者)の朴正煕氏は強い指導者だった。日韓国交正常化のあと米国はベトナムに関与を深めていき、韓国はベトナム戦争に参戦、ベトナム特需で飛躍し、日本資本で高度経済成長を遂げた。 しかし、日本に「正しい歴史認識」と慰安婦問題の謝罪を要求し続ける朴槿恵氏に、父親のような政治へのリアリズムも外交の戦略性も見いだせない。 父、朴正煕氏は世論調査で常にトップの評価を受けてきた。国民所得を約20年で20倍という「漢江の奇跡」を実現、その半面で独裁、圧政の非難も受けたが、人材登用では能力のあるものを抜擢し、組織運営に長けていた。しかし娘、朴槿恵氏の政治はあらゆる問題に対応が遅く、鈍い。人事で何度も躓き組織が動かない。韓国国民の朴槿恵大統領への視線は日に日に厳しさを増し、3年目に入った朴政権はいま、苦悩している。 4月中旬のセウォル号沈没事件一年の追悼式典や集会は、事故後の対応に不満と不信を募らせた遺族らの抗議集会と化した。事故対応の不手際、その後の人事の混乱、一年たっても始まらない真相究明調査、船体の引き揚げ作業など、どれをとってもリーダーの指導力不足が批判の的だ。加えて朴政権は新たに発覚した朴大統領側近らの裏金献金疑惑も抱え、現役首相が検察の捜査を受けた。取り調べ結果いかんで首相退陣は避け難い情勢で国政には暗雲が垂れ込めている。若干持ち直していた朴大統領の支持率は再び急降下、30%台に急落している。反日外交にも疑問の声 そんな朴政権で唯一、国民の支持を受けていたのが「反日外交」だった。だが、この評価も最近怪しくなってきた。韓国の有力メディアに「別次元に進化した米日同盟、韓国は対応できるのか」「対米外交で日本がリード」「日本よりの姿勢みせる米国」などの見出しが目立つようになったのは、日本が安倍首相の所信表明に続き外務省のホームページ、外交青書のそれぞれで、これまで韓国に関して使ってきた「基本的な価値や利益を共有」との文言を外してからだ。ソウルでは、折しも駐韓米大使を親北分子が襲撃、重傷を負わせる事件も発生した。米韓関係への韓国の不安は一気に高まった。 一方、安倍外交の日米関係強化の成果は、ようやく形となってきた。昨秋の集団的自衛権容認の閣議決定に基づき、安保法制の準備が本格化し、日米防衛協力の指針(ガイドライン)改正も間近だ。経済連携政策でも日米は中国主導のアジアインフラ投資銀行(AIIB)に対する慎重姿勢や、環太平洋戦略経済連携協定(TPP)交渉で対中政策の歩調を合せてきた。 そうした日米関係が韓国世論を刺激している。「米国との関係で日本にリードされてしまった!」というわけだ。 安全保障問題だけではなく、慰安婦問題でも米国は安倍首相の歴史認識を評価した。米紙ワシントンポストの取材に安倍氏は慰安婦が「人身売買の犠牲となり、筆舌につくしがたい痛みと苦しみを経験されたことを思うと、心が痛む」と述べた。慰安婦は米国で通常「人身売買の被害者」と表現されていることから、米国務省は安倍氏の発言を「歓迎」したが、これが韓国は気に入らない。「人身売買」とされて強制連行のイメージは薄れてしまった。セックス・スレーブ(性奴隷)は金銭で買われていた。慰安婦に対する日本の歴史認識が「正しくない」と、日韓首脳会談に「日本の正しい認識」を求めてきた朴外交の土台は、米国の安倍発言の評価で揺らいでしまった。 朴大統領の原則主義が放置してきた日韓関係について、韓国の知識人がようやくモノ申すようになった。韓国の著名な日本研究者は有力紙にこう寄稿している。『日米は韓国の安保の支えだ。日本との関係が改善しなければ米韓関係にヒビが入る可能性があると見抜く眼力が必要だ』。保守政治家もこう書いた。『対日外交、安全保障と歴史認識を切り離せ』『外交の舞台では悪魔と踊ることもためらってはならない』朴槿恵氏の目は覚めるのか 朴槿恵大統領は6月にも訪米を予定している。米韓関係は、中国が強く牽制する米国の最新鋭迎撃システム「高高度防衛ミサイル」(THAAD)配備問題が最大テーマとなる訪米だ。AIIB参加を表明した朴政権は、米中両国の顔を立てることに懸命である。 日韓の戦後を総括する機会となるはずだった国交正常化の記念日、6月22日を両国首脳がどう迎えるのだろうか。日本では朴槿恵政権が醸成してきた嫌韓ムードも一段落の観である。いま日本人は「韓国にはもう疲れた」と言いコリア・パッシング(韓国は無視)といった雰囲気が漂う。 朴槿恵氏に問いたいところだ。日韓関係は「父の遺産」であったはず。それは正の遺産ではなかったか? 負の遺産であったのですか?関連記事■ 朴槿恵大統領はなぜ第三国での日本批判を繰り返すのか■ 呉善花 恨と火病と疑似イノセンスと― 異常な反日行為と心の病■ 「大韓ナチズム」に堕ちた韓国