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    秀吉を悩ませた朝鮮出兵「奴隷狩り」

    天下統一を成し遂げた秀吉の支配欲は、まず朝鮮に向けられ、「文禄・慶長の役」として決行された。その際、侵略地の荒廃を防ぐため、秀吉は戦国時代の慣例だった「奴隷狩り」や略奪行為を禁じたが、順守されなかったという。秀吉の命令にも関わらず、なぜ奴隷狩りは横行したのか。(写真は和歌山県立博物館提供)

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    秀吉禁止令も頬被り、朝鮮出兵で横行した理性なき「奴隷狩り」

    渡邊大門(歴史学者) ここまで、豊臣秀吉の人身売買に関する政策、そしてポルトガル商人によって日本人奴隷が海外に輸出された状況を確認してきた。日本と海外との通交が盛んになるに連れ、人身売買の規模もよりワールドワイドに展開したことが分かる。次に、状況が変化したのは、文禄・慶長の役だった。 天正18(1590)年に小田原征伐により北条氏が滅亡すると、国内における大戦争は終結し、平和な時代を迎えた。秀吉の支配欲は海外へと向けられ、それが現実のものとなる。秀吉は中国や朝鮮へ侵攻し、そこに天皇を移して、諸大名に領土を分け与える構想を持っていた。その戦争こそが、文禄・慶長の役なのである。 文禄・慶長の役とは、豊臣秀吉が文禄元(1592)年から自身が亡くなる慶長3(1598)年にかけて、中国の「明」征服を目指し、朝鮮半島に出兵した一連の戦争である。当時の日本では、「唐入り」または「高麗陣」と呼ばれていた(朝鮮側では「壬辰・丁酉の倭乱」と呼んだ)。 秀吉は関白に就任した天正13(1585)年ごろから、明の征服構想を持っていたといわれている。その構想が具体化したのは、天正15年における薩摩・島津氏征伐直後のことである。秀吉は対馬の宗義智(そう・よしとし)が朝鮮と交流があったことから、対朝鮮交渉を命じた。その内容とは、第一に朝鮮が日本に服属すること、第二に日本が明を征服するに際して、その先導役を務めさせるというものだった。 日ごろ、朝鮮と通交のある義智にとって、秀吉の命令は実に大きな難題であった。以後、義智はこの問題をめぐって、苦悩することになった。 朝鮮との関係を憂慮した義智は、秀吉の意向をそのまま伝えなかった。義智は家臣を日本国王使に仕立て上げ、第一に秀吉が日本国王に就任したこと、第二にその祝賀のため通信使を派遣するよう朝鮮サイドに依頼した。義智の考え抜いた対応が、のちに大きな誤解を生んだのである。 朝鮮サイドはこの申し出を断ったが、強硬な態度で臨んだ秀吉は、決して納得しなかった。そこで義智は、改めて博多の豪商・島井宗室らと朝鮮に渡航し、再び通信使の派遣を要請したのである。 天正18年、再び要請を受けた朝鮮側は、通信使を派遣し秀吉との謁見に臨み、事態の収拾を図ろうとした。交渉の席には、秀吉をはじめ菊亭晴季(きくてい・はれすえ)らの公家も参列した(『晴豊記』)。朝鮮側の意向にかかわらず、秀吉が通信使に改めて命じたのは、明征服のための先導役だったが、それを知らない朝鮮通信使は秀吉の祝賀のため来日したのである。豊臣秀吉像 秀吉の明征服の先導役を命じるという要求は、通信使から朝鮮国王にも伝えられた。同時に翌天正19年、秀吉は明征服のための拠点を作るため、肥前名護屋(佐賀県唐津市)に城郭を築城した。一方、朝鮮との交渉は難航を極め、交渉役の宗義智と小西行長は対応をめぐって頭を抱えていた。 2人は考え抜いた揚げ句、朝鮮に明攻略の先導役を務めるのではなく、明征服のために道を貸して(開けて)欲しい、と交渉内容をすり替えた。しかし、最終的に両者の交渉は決裂し、日本は朝鮮半島に侵攻する。禁止された「乱取り」 文禄・慶長の役においては、日本の戦国大名がこぞって参加し、朝鮮半島へ侵略行為を行い、いわゆる乱取り=奴隷狩りが行われていた。 日本軍は朝鮮半島での戦争の際、日本での慣例に習い、多くの女や子供を連行した。その様子は、奈良・興福寺の多聞院主が書き継いだ日記『多聞院日記』に描かれており、奈良に連行したことが知られている。 島津軍などは、朝鮮から薩摩へ帰る際、奴隷を連行するための手形を船頭に与えている。のちに、日本と朝鮮が和平を行ったとき、日本の奴隷連行が大きな障害となったほどである。以下、人身売買や拉致などの問題を中心に述べることにしよう。 日本国内の戦場において、人や物資が略奪(乱取り)されたことはここまでに触れた通りである。乱取りは雑兵たちの戦利品となり、彼らの懐を潤した。あるいは、戦争に出陣する目的が乱取りにあったのではないかと思うほどである。 秀吉が朝鮮出兵の際に出した方針は、次に掲げるものだった(「毛利家文書」)。天正20年4月26日付のものである(主要なものを抜粋)。 ①還住した百姓や町人に米銭金銀を課してはならない。 ②飢餓に苦しむ百姓を助けること。 ③あちこちで放火をしてはならない。(以下、補足として)今度の朝鮮出兵で人を捕らえた場合は、男女によらず、それぞれのもといた居住地に返すこと。 ④法令順守の徹底。 主に現地支配にかかわるものを抜粋してみた。まず①について。秀吉は同じような趣旨の命令を日本国内でも発している。たとえば、織田重臣時代の天正8(1580)年1月に三木合戦で別所氏が滅亡すると、荒廃した三木(兵庫県三木市)に百姓や町人の還住を促した(「三木町有古文書」)。戦争で荒廃した村や町を復興するための政策である。 ②についても、同様の趣旨と捉えてよいであろう。せっかく占領しても、百姓が飢えてしまい、占領地が荒れ果てていると意味がない。そう秀吉は考えていたのだろう。 注目すべきは、③である。冒頭の放火の禁止は、町や村の荒廃を避けるための方策である。重要なのは補足として、男女にかかわりなく生け捕りにした場合は、それぞれのもとの居住地に返すことが規定されている点である。 つまり、秀吉は戦場における乱取りを禁止していたことになろう。④における法令順守は、その延長線上にあり、数多くの禁制が発給されていた(「鍋島家文書」など)。秀吉は、朝鮮の百姓に危害を加えないように配慮していた。無視された秀吉命令 しかし、日本を遠く離れて朝鮮半島に出陣した雑兵に対して、秀吉の意図が十分伝わったのか大いに疑問である。雑兵の戦場における目的は、やはり「乱取り」にあり、それが第一義にあった。案の定、秀吉の方針は無視され、朝鮮半島の各地で「乱取り」が行われた。次に、その実態を概観することにしよう。 戦場において、人間はなかなか理性をコントロールできないものである。いざ朝鮮半島で戦いが始まると、秀吉の命令は無視され、雑兵は「乱取り」に夢中になった。 文禄元(1592)年、日本軍が朝鮮半島に上陸すると、佐竹氏の家臣・平塚滝俊が肥前名護屋城で留守を務める小野田備前守に宛てて書状を送っている。滝俊の生没年や出身地は不明であるが、佐竹氏家臣団の中では、中級クラス以上の地位にあったと考えられている。この書状は、歴史学者の岩沢愿彦(いわさわ・よしひこ)氏が紹介したものである(「肥前名護屋城図屏風について」)。書状の概要を次に示しておきたい。高麗で二・三の城を攻め落とし、男女を生け捕りにして、日々を送ってきた。(朝鮮人の)首を積んだ船があるようだが、私は見たことがない。男女を積んだ船は見た。 日本軍は朝鮮の城を攻め落とすと、戦利品とばかりに男女を生け捕りにし、船に積んで日本へ送った。また、討ち取った朝鮮人の首も運ばれていた。 朝鮮人の首が秀吉のいる肥前・名護屋城に送られたのは、出陣した武将が軍功を認めてもらうためである。いわゆる「首実検」のためだった。おそらく船が満杯の状態で運ばれたのであろうが、実におびただしい分量になったと思われる。「名護屋城」城跡の石垣。秀吉の朝鮮出兵の兵站基地だった=佐賀県唐津市 これだけの分量になると、本当に正しい検分ができたのかどうか、非常に疑問である。参考までにいうと、首は非常に重量があるので、のちに首でなく耳や鼻が持ち帰られた。それを供養したのが耳塚(鼻塚)であり、京都市東山区の豊国神社前にある。 耳や鼻を削いで持ち帰る際、日本軍により残酷な行為が行われていた。慶長3(1598)年10月に泗川(サチョン)新城で戦いが行われると、島津軍が明・朝鮮の連合軍の兵3万3700人を討ち取り、城の外に大きな穴を掘って埋めたという。そして、その遺体から鼻を削ぎ取り、塩漬けにして日本に送ったのである(『島津家記』)。 加藤清正の武将・本山豊前守の手になる『本山豊前守安政父子戦功覚書』には、男女や生まれたばかりの赤ん坊も残らず撫で切りにし、鼻を削いで毎日塩漬けにした、と記されている。塩漬けにしたのは、腐敗を避けるためだろう。もはや戦闘員・非戦闘員を問わず、鼻をどれだけ獲ることができたのか競った感がある。その数は、一度に2、3万に及んだこともあった。 問題になるのが、朝鮮半島で生け捕った男女も船で肥前・名護屋城に送られたことである。これは、先に示した秀吉の方針と相反する行為である。秀吉の意向とは裏腹に、現地では日本の慣習にならって、「乱取り」が行われた。崩壊した秩序 実のところ、各大名にとって朝鮮への出兵は、多大な経済的な負担であった。第一に、多くの軍兵が動員されたうえに、半農半兵の土豪たちも出陣を余儀なくされた。出陣は長期間にわたったので、必然的に農業の担い手を失うことになる。同時に、農地が放棄される状態にあった。薩摩の島津氏は、戦費の捻出に苦労したという。 とりわけ捕らえられた人々は、老人、女、子供が多かったといわれている。彼らは屈強な男性とは異なり、反抗することが少なかったと考えられ、奴隷としては最適であったからだろう。 雑兵たちにとっての戦争は、極端に言えば勝ち負けが問題ではなく、いかに戦利品を得るかが重要であった。そうなると、秀吉の指示をまともに聞いていれば、何ら見返りのない「ボランティア」になってしまう。実際、略奪は多くの大名が黙認し、幅広く行われていた。 文禄2年に推測される8月23日付の「石田三成覚書」によると、三成は薩摩・島津氏に対して種々の命令を伝えているが、その中に船を使って乱妨・狼藉を働かないように指示を行っている(「島津家文書」)。 こうした指示が与えられるところを見ると、実際に乱取りが行われており、島津氏は黙認していたのであろう。同様の事例は、普州(チンジュ)城で戦っていた加藤清正軍にも見られる。この場合は、清正に知られないようにして、配下の武将が雑兵たちに略奪行為をさせたという。もはや秩序は、完全に崩壊していた。 こうした状況が秀吉の耳に入ったのか、あるいは別の事情があったのか、秀吉自身も人身売買や生け捕りについて容認したと受け取られかねない命令を発する。その命令こそが、次に示すものである(「島津家文書」ほか)。急ぎ仰せを伝えます。捕らえた朝鮮人の中で、細工のできる者、縫官、手先の器用な女性がいれば、進上すること。召し使うようにする。家中を改めて、こちらに遣すこと。 この秀吉の朱印状は島津家だけでなく、多くの大名家に伝わっている。つまり、秀吉は自身が召し使うため、さまざまな技量を持つ女性を集めていたことになる。ただし、この史料はいずれも年次を欠いており、文禄2年あるいは慶長2年のいずれかが該当すると考えられている。前者なら出兵直後、後者なら二度目の出兵の時期となる。「壬辰倭乱図」(和歌山県立博物館提供) 当初と異なり、秀吉は大きく方針を転換したが、各大名たちが朝鮮から人々を連れ去った事実は当然把握していたことであろう。むしろ、そうした事実を知っていたので、優秀な人材を確保しようと考えたのかもしれない。 文禄・慶長の役において、多くの朝鮮人が日本に連れ去られ、売買されることになった。それらの経緯を確認しよう。転売された朝鮮人奴隷 東洋史家の内藤雋輔(ないとう・しゅんぽ)氏が紹介した『月峯海上録(げっぽうかいじょうろく)』には、朝鮮人奴隷の様子が詳細に記述されている(翻刻は『文禄・慶長役における被擄人の研究』)。内藤氏の研究成果を交えつつ述べておくと、文禄の役と慶長の役とでは、後者の奴隷狩りが圧倒的に多かったという。 しかも、その被害は圧倒的に朝鮮半島南部に集中していた。文禄の役では朝鮮半島の奥地まで侵攻したが、慶長の役ではそこまで侵攻できなかったのが要因であろう。慶長の役は長期化したものの、勝利の可能性が乏しかったため、奴隷狩りに注力したと考えられる。 強制的に奴隷として日本に連行された朝鮮人は、主に九州各地に住んでいたが、薩摩・島津氏の領内では、その数が3万7千人にも及んだという。彼らは苗代川(鹿児島県日置市)に集住し、陶工・朴平意(ぼく・へいい)らを中心にして、陶磁器の製造を行った。苗代川窯は白釉と黒釉を用いて、日常的に使用する陶器を製造した。技能集団が日本に根付いた一例である。 この頃、平戸や長崎は朝鮮半島から連行した朝鮮人を売買するなど、世界でも有数の奴隷市場として知られていた。 日本人の人買商人のうち、ある者は自ら朝鮮半島に渡海して奴隷を買い漁り、またある者は日本国内でポルトガル商人に転売して巨万の富を得た。彼らはポルトガル商人が持っていた鉄砲や白糸の代価としていたのである。 ほとんどの奴隷は捨値で売られたというので、薄利多売の様子がうかがえる。日本を窓口にして、多くの奴隷が世界に渡っていったのである。それは朝鮮人だけではなく、多くの日本人が含まれていたことが指摘されている。 日本人が朝鮮半島で行った奴隷狩りは、どのような形で行われたのであろうか。その点は、次回に触れることにしよう。主要参考文献渡邊大門『人身売買・奴隷・拉致の日本史』(柏書房)■「倭寇の人身売買は貴重な労働力」日中朝を席巻した海賊集団の謎■川中島の戦いは略奪が目的だった? 信玄も黙認した「乱取り」の真実■「極悪の欲情」女好き秀吉、フロイスの目にはどう映ったか

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    信長「オカルト朱印」改定の真意

    毛利水軍に完敗し本願寺包囲網が破られた信長は、その翌年「天下布武」朱印を改定した。新しい朱印には2頭の龍が描かれているが、「黄色の旗印」「麒麟の花押」と合わせて信長のオカルト信仰を極致へ導き、天下人になるための重要なアイテムだった。朱印に龍を取り入れた真意とは。

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    信長を「天下人」に導いたオカルト朱印

    橋場日月(歴史研究家、歴史作家) 第一次木津川口の戦いは、戦歴で圧倒する精鋭・毛利水軍が質量ともに劣る織田水軍を完璧に撃ち破って終わった。3カ月前から大坂に7カ所の付城(つけじろ。敵の城を監視するとともに攻撃の拠点になる)を作り、本願寺を包囲して兵糧攻めにしようとしていた信長の計画は、毛利水軍が海上から本願寺に兵糧を運び入れたことで絵に描いた餅となって終わったのだ。 そのことに落胆したかどうかは別にして、この年、天正4(1556)年の信長はその後目立った行動を起こしていない。秀吉に中国地方の攻略担当を命令したぐらいで、オカルトマニアらしく11月に内大臣に昇任した際に真言密教の道場として知られる大津の石山寺で2日間を過ごしたこと、その後に安土城へ戻り、元伊勢国司だった北畠具教(とものり)を殺させたことしか見るべきものがない。ただ、石山寺で信長を接待したのが瀬田城の山岡景隆・景猶(かげなお)兄弟だったことは心にとどめておこう。そう、龍の橋、瀬田橋の架設工事を担当した山岡さんだ。 明けて天正5(1577)年。2月から3月まで紀州雑賀攻めを行った後の信長は、こんな書状を発行している。「上山城の当尾には、去年実施した指出以外にも隠し田があるとのことなので、代官として早々赴任して処理せよ」 上山城の当尾(とうの)というのは現在の京都府木津川市加茂町の内で、京都市の南、奈良県との国境近くの郷村だった。指出(さしだし)は指出検地、自己申告制の検地なのだが、のちの太閤(たいこう)検地のような強制的に官吏が測量する検地と違い、いくらでもごまかしが効く。特に当尾は入り組んだ山谷が続く地形だから、多くの田畑を申告せず隠しておける。信長はそれを摘発しろ、と代官に任命した家来に命じているのだ。 というのは余談で、本テーマにはまったく関係ない(笑)。肝心なのは、この命令文の最後に捺(お)された印判だ。天下布武龍章御朱印=建勲神社(中田真弥撮影) 第11回で紹介した「天下布武」の朱印が、この命令書から新しいバージョンになったのだ。第11回ではこの印判について「後年改定されて重要な意味を持つことになるので、ぜひ心にとどめておいていただきたい」と述べたが、ここでいよいよその重要な意味というものを考えてみよう。「天下布武」印の意味 まずは「天下布武」印を少し整理しておく。①第1バージョン 永禄10(1567)年11月から使用開始。一重の楕円(だえん)形の中に天下布武の文字②第2バージョン 永禄13(1570、4月に元亀へ改元)年3月から使用開始。一重の楕円形の外周に馬蹄(てい)形の太線が加わる③第3バージョン 天正5年から使用開始。「双竜形天下布武印判」と呼ばれ、文字通り2頭の龍が「天下布武」の刻文を囲む ②の馬蹄形というのは、文字通り馬のひづめの形だ。日本では近世まで馬のひづめに蹄鉄(ていてつ)をつけることは九州の一部を除いてほぼ無く、馬沓(うまぐつ)・馬わらじと呼ばれる皮革や藁(わら)で作った馬用のわらじをはかせた。欧米では馬のひづめに装着する蹄鉄=ホースシューには魔除けのパワーがあると考えられている。東京ディズニーランドにあるショーレストラン、「ザ・ダイヤモンドホースシュー」の正面入り口の上に掲げられている看板の大きい蹄鉄がまさにそれで、蹄鉄を魔除けのお守りとしてU字形に扉へ打ち付けるという慣習に基づいた演出だ。 一方の日本では、馬沓には病気や悪霊を退散させ、雷を封じる効力があると信じられてきた。道ばたに履き捨てられた古い馬沓は、拾って家の軒下に下げておけば魔除けや招福のお守りになる、というものだ。この迷信は現在でも各地に残っている。織田信長が使用した「天下布武」の印 また、山梨県の小室浅間(おむろせんげん)神社では流鏑馬(やぶさめ)の儀式でついたひづめの跡で地元の吉凶を占う風習が残っている。 「天下布武」を包み込む馬蹄形。信長がこの印判にバージョンアップした永禄13年3月といえば、越前朝倉義景攻めに出陣する直前だ。傀儡の将軍・足利義昭を戴きながらも、自身が天下(将軍の支配域)への号令を開始するというターニング・ポイントにあたる。このタイミングでの馬蹄形印判は、まさに信長の信長による「天下布武」に幸運を呼び込む仕掛けだった。 そして、今回の「双竜形天下布武印判」だが、2頭の龍は下を向いている。つまり下り龍なのだが、例えば上野東照宮の唐門の彫刻「昇り龍」「降り龍」がセットであること、富塚鳥見神社などの龍柱も「昇り龍」「降り龍」が対になっていること、沖縄の首里城の正殿の妻飾にいたっては「降龍」のみの対であることで分かるように、「昇り」「降り」には上下の差はない。「下り龍」の意味 では、下り龍は聖域を守るという以外にどんな意味があるのだろうか。 龍で思い浮かぶのは、四神の一、青龍。東の方位を守る神獣だが、これとは別に、北を守る聖獣としての下り龍がある。 本来、北を守るのは玄武だ。ところが、亀と蛇の融合体であるこの神獣については、足利義昭が積極的に改元を進めた「元亀」の元号にその意味が込められ、信長がそれを嫌ったことはすでに述べた。 古来、聖なる都は風水によって「四神相応の地」といい、北・東・西を山に囲まれ、南だけが開けた土地を選んで造営された。平城京しかり、平安京しかり、である。 特に北に山があることが肝心で、そこから「気」(エネルギー)が取り込まれて都に流れ込み、開けた南へ流れていく。京で言えば鞍馬山以北の山並みが「気」の入り口、すなわち「龍脈」にあたる。そして、鴨川・桂川がそれを南へと流していく。 だが、すべての場合にそういう地形、そういう土地が選べるわけではないから、風水はそれをカバーする方法も提案している。それが「下り龍」というわけだ。彫刻の置物でも絵でも良いから、下り龍をモチーフにしたものを北方位に備え付けることで、「気」を呼び込む。これで龍脈の代わりとなる。 義昭の「元亀」を否定した=玄武を避けた信長にとっては、下り龍はまさにうってつけのモチーフではないか! 「天下布武」の四文字を2頭の下り龍で囲んだバージョン③には、誰の代理でもない、信長自身の天下布武に龍のパワー(「気」)を導き入れる意図が隠されていた。 さらにいえば、黄龍というものもある。『芸文類聚(げいもんるいじゅう)』という中国の古書に「黄龍者(は)四龍之(の)長」と記されているなど、東西南北の中央に位置し四方向それぞれの龍神の長たる存在だ。ゆえに、中国では皇帝の象徴となる。信長の旗印。黄色地に永楽通宝の文字が書かれている=清州城(中田真弥撮影) そこで問題。信長の旗印は何だったか? これについても以前に触れたが、皆さまよくご存じの「黄色地に永楽通宝」。彼が天皇に遠慮せずその色を使った件も第14回で触れたが、信長が早くから黄龍の神通力を意識していたとすれば、旗印の件も一層説得力が増す。ちなみに、織田家の陣幕も黄色地に木瓜紋だ。天下布武「最後の鍵」 それだけではない。中国において、黄龍はのち麒麟(きりん)に置き換えられた。龍、黄、麒麟。すべてのキーワードがここで揃ったではないか。 こうなると信長が花押(サイン)に麒麟の形象を取り入れたことも含めて、すべてが龍中心思想の世界にあることがハッキリしてくる。 信長は内大臣に昇進した直後から、家臣に「上様」と呼ばれるようになっている。内大臣は左右大臣の代理を務めることができ、朝議を主宰する者の代理という役職だが、それだけでは「上様」と呼ぶのははばかられるかもしれない。 当時大名のことは「殿様」と呼び、「上様」と呼ばれるのは国王(天皇)や公方(将軍)ら「最上の主君」だけ(『日葡辞書』)。信長がそれに匹敵する立場にあることが周囲にも認識され、呼称になって表れていた。公家の山科言継の娘が父に手紙で「明年は安土へ内裏様行幸申され候わん」と書き送った「明年」の天正5年、実際に信長が天皇の象徴である龍を完全に乗っ取り、天下の主として振る舞い始めたことがわかる。信長は正親町天皇の嫡男である誠仁(さねひと)親王に譲位させたうえで、新天皇となった誠仁親王を安土城に迎えようと考えていたという。 そして閏(うるう)7月6日(当時の陰暦ではうるう月があった)、信長は「龍躍池」を取り込んで、内裏の裏鬼門を守る京の新屋敷へ移徙(わたまし)した。天王寺にある茶臼山古墳。筆者はこのあたりが信長の天王寺砦だったと考える(筆者提供) この屋敷が完全に竣工するのは9月末なのだが、せっかちな信長としては、安土城建築開始早々に移り住んだように、のんびりと完成を待つ気はまるで無かったようだ。12日にこの新屋敷で前関白・近衛前久の子、信基(のぶもと。のち改名して信尹、のぶただ)の元服式を執り行うと、翌13日、また瀬田で山岡景隆の城に泊まり、安土へ帰っていった。 そして8月17日になると、本願寺攻めのため天王寺砦(とりで)に詰めていた松永久秀が突然砦を引き払い、居城の大和信貴山(しぎさん)城に立てこもる。信長への敵対を表明していた越後の上杉謙信が、いよいよ西に出陣する動きを開始しようとしていた。久秀はそれに呼応して信長に奪われた城や権利を回復しようと考えたわけだが、信長が久秀を攻めようと準備を進めるなかの9月29日、『信長公記』に面白いことが書かれている。「戌刻、西に当って希(まれ)にこれある客星ほうき星出来(夜8時、西の方角にまれに現れる彗星が出現した)」■安土城「蛇の巨石」に隠された信長の仰天プラン■「龍宮に続く橋」信長のオカルト願望を叶えた御用建築家■またも龍パワー? 安土城と京屋敷、信長が同時普請にこだわったワケ

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    「愛子天皇」待望論者たちよ 、もう一度壬申の乱を起こしたいのか

    例を貴ぶ世界だということである。わが国は初代神武天皇の伝説以来、2679年の一度も途切れたことがない歴史を誇る。風の日も雨の日もあったが、昨日と同じ今日をこれまで続けてきた。幸いなことにわれわれの日本は、この幸せが明日も続きますように、と言える国なのである。 皇室の祖先である神々を祀っている最も格式の高い神社は、伊勢神宮である。正式名称は神宮。ユーラシア大陸でイスラム教が勃興した西暦7世紀には既に、「いつの時代からあったか分からないほど古い時代からあった」とされる。神宮では毎日、日別朝夕御饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい)という神事が行われている。毎日、同じ御食事を神様に捧げる。昨日と同じ今日が続いてきた証として。そして今日と同じ明日が続きますようにと祈りを込めて。 京都御所の鬼門を守るのは、比叡山延暦寺だ。その根本中堂には、伝教大師最澄が灯した不滅の法灯が今も光を放っている。叡山は三度の焼き討ちにあったが、そのたびに他の地に分灯していた火を戻し、1300年前に伝教大師が灯した光が消えることはない。毎朝、たった一筋の油を差す。その行為自体に何の意味もない。 しかし、毎朝油を差し続けているから、不滅の法灯が消えることはない。いかなる権力があろうと、武力や財力があろうと、今から神宮や不滅の法灯を超える歴史を作ることはできない。不滅の法灯は個人ではなし得ない。歴史を受け継いだからこそ存在しているのだ。 歴史に価値を認めない人間にとっては、何の意味もないだろう。そもそも不滅の法灯など、物理的には一吹きの息で消え去る。いくら言葉を尽くしても、「不滅の法灯などという面倒なものはやめてしまって、電球に取り換えればいいではないか」という人間を説得することなどできまい。そのような人間には、歴史を理解することができないからだ。先例など、何の意味も持つまい。 そういう人間は日本にもいた。それなのに、なぜ皇室は続いてきたのか。変えてはならない皇室のかたちを守ろうとした日本人が続けてきたからだ。もし、日本人が「皇室などやめてしまえ」「これまでの歴史を変えてしまえ」と思うなら、先例など無視すればよい。ただし、それはこれまで先人たちが守ってきた、皇室を語る態度ではない。 古来、皇室では「新儀は不吉」だとされてきた。これは、時の天皇の意向であっても変えることができない、皇室の慣習法である。貫史憲法とも呼ばれる。かの後醍醐天皇は、「朕が新儀は後世の先例たり」と宣言し、公家の支持を失った。歴史を無視し、時流にだけ阿(おもね)れば良いのなら、歴史はいらない。ついでに言うと後醍醐天皇の言う通りにすれば、当時の公家の存在価値などないから、あきれられるのも当然だろう。 もちろん、先例であれば何も考えずに従えばよいのではない。先例にも、吉例と悪例がある。歴史の中から、どの先例に従うのが適切かを探し、「発見」するのである。法は発明するものではなく発見するものであるとは、西欧人の自然法の発想である。日本人は西欧人が自然法を発見する千年前から、その知恵を実践していた。譲位を報告するため伊勢神宮外宮を参拝、板垣南御門に到着された天皇陛下(当時)=2019年4月、三重県伊勢市(彦野公太朗撮影) 幕末維新で国の存亡が問われたとき、御一新が求められた。古いやり方では西洋の侵略に対抗できない。元勲たちは必死の改革を行い、生き残った。その改革の最初が王政復古の大号令である。ここでは「神武創業の精神」が先例とされた。皇室とは、これほどまでに先例を貴ぶ世界なのである。 どうしても新儀を行わねばならないような非常事態はある。たとえば、大化の改新(645年)、承久の乱(1221年)、大東亜戦争敗戦のような場合である。大化の改新は、宮中の天皇陛下の御前で殺人事件が起きた。しかも犯人は天皇の実子である皇子である。殺された蘇我入鹿の専横に中大兄皇子が怒り、事に及んだのだ。そして多くの改革を始めていく。元号が制定されたのもこのときである。実の息子が起こした殺人事件に際し母親の皇極天皇は驚愕し、史上初の譲位を行った。悠仁親王につながる糸 承久の乱は、「主上御謀反」である。鎌倉幕府は、乱を起こした後鳥羽上皇らを島流しにし、時の九条帝を廃位した。九条帝は、践祚(せんそ、天皇の地位を受け継ぐこと)はしたが、即位していなかったので「半帝」呼ばわりされた。「九条廃帝」である。「仲恭天皇」の名が贈られるのは、明治3年。実に600年後である。なお、乱後に治天の君として院政をしいたのは守貞親王だ。後に後高倉上皇の名が贈られた。史上初の「天皇になっていない上皇」となった。 敗戦は、国土を外国に占領されるという未曽有の不吉だった。その際、昭和天皇が自らラジオで国民に語りかけ、結束を訴えた。玉音放送である。 いずれも、血なまぐさい不吉な事件により、新儀が行われている。もちろん、ここで挙げた例でも、元号、譲位、玉音放送(なぜかビデオメッセージと呼ばれる)は現代でも行われ先例となっているので、それ自体は悪いことではない。一方で、廃位や上皇の島流しなどは何度も行われているが、言うのも憚(はばか)るような悪例である。皇室において、新儀とは無理やり行うものなどではないのである。 二つ目の原則は、皇位の男系継承である。今上天皇まで126代、一度の例外もない。八方十代の女帝は存在するが、すべて男系女子である。男系継承をやめるとは、皇室を亡ぼすのと同じである。 現在、悠仁親王殿下まで、一本の糸でつながっている。その今、男系をやめる議論をすること自体が、皇室に対する反逆だ。いかに、これまでの歴史をつないでいくか、たった一本の小さな糸を守るべきかを考えなければならない。それをやめる前提の議論など、不滅の法灯をLED電球に変えようとするのと同じである。 蘇我入鹿も、道鏡も、藤原道長も、平清盛も、足利義満も、徳川家康も、皇室に不敬を働いた権力者は数あれど、誰一人として皇室に入り込むことができなかった。この中で陛下と呼ばれた者は一人もいないし、息子を天皇にした者はいない。せいぜい、自分の娘を宮中に送り込み、娘が生んだ孫を天皇にするのが、限界だった。男系の原則が絶対だからだ。それを今さら男系継承をやめるとは、今までの日本の歴史は何だったのか。男系継承は、皇室が皇室であり続ける、日本が今までの日本であり続ける原則なのである。 三つ目の原則は、直系継承である。間違ってもらっては困るが、「男系継承の上での直系継承」だ。二者択一ではない。世の中には、勉強のしすぎで肝心な原則を忘れ、女系論を振り回す論者がいる。この人たちの言い分は、直系継承である。三分の理はある。しかし、肝心な原則である男系継承を無視して女系論を振り回すから、世の常識人に鼻をつままれるのだ。皇后さまのお誕生日を祝うため、皇居に入られる皇太子ご一家(当時)=2018年10月(代表撮影) 不吉なたとえだが、単なるフリーターが内親王殿下と結婚して男の子が生まれたら天皇になれるのか? そんな簡単なことが許されるなら、なぜ藤原氏は摂関政治などという面倒くさいやり方を何百年も続けたのか。 平民の男子は陛下になれない。内親王殿下と結婚しても、平民は平民である。これがわが皇室の絶対の掟である。わが国は一君万民であり、君臣の別がある。皇室から見れば、藤原も平も源も、皆、等しく平民である。皇室から見れば、貴族と平民に差はない。あるのは皇族と貴族・平民の差だけである。 ただ、私は男系絶対派の中で、最も女系論者に理解を示してきたつもりだ。理由を一言でまとめると、「一部の男系論者の頭が悪すぎるから」となる。女系論者の中には、「あんな連中と一緒にされたくない」「あのような連中が言っているのだから、たぶん逆が正しいのだろう」と考えたくなる気持ちはわかる。その愚かな主張から、代表的な二つを取り上げよう。一つは、「皇室のY染色体遺伝子が尊い」である。不敬な論理 いつから皇室の歴史を遺伝子で語るようになったのだ? ちなみに、この理屈、高校生物の知識としても間違っているのだが、それは本筋ではないので無視する。言うまでもないが、遺伝子どころか、アルファベットが生まれる前から、わが皇室には歴史がある。「Y染色体遺伝子」などで皇室を語るなど、児戯(じぎ)に等しい。なお当たり前だが、皇極天皇から後桜町天皇の歴代女帝のすべての方は、「Y染色体遺伝子」を有していない。こうした議論は今や見向きもされなくなったが、高校生物程度の知識で皇室を語る輩(やから)が後を絶たない。 最近よく聞く風説は、「皇太子より血が濃い男系男子が存在する」である。皇太子殿下は本日、めでたく践祚された。さて、この風説を流す者は、今の陛下の正統を疑う気か? 最初にこの失礼極まりない言説を聞いたとき、「それは今の殿下(今上陛下)が(上皇)陛下の実子ではないと言いたいのか?」と訝(いぶか)ったが、そうではないらしい。先般、お亡くなりになられた東久邇信彦氏とその御子孫の方を仰(おっしゃ)りたいらしい。 小泉純一郎内閣で女系論が話題になったとき、占領期に皇籍離脱を迫られた旧皇族の方々のことが話題になった。特に信彦氏は、両親と4人の祖父母が全員皇族(母方の祖父は昭和天皇)、さらに母方の曽祖父が明治天皇である。 しかし、皇室の歴史では、高校生物の理屈など持ち込まない。今の皇室の直系は今上陛下である。今上陛下は、上皇陛下と太后陛下の紛れもない嫡子であらせられる。この論点に争いはない、などと言わされるだけ愚かしい。皇室の直系を継いだ今上陛下より血が濃い方など、いらっしゃらないのである。 ご本人たちに迷惑な書き方だが、一部の風説に従い東久邇信彦氏の方が今の陛下よりも血が濃いとしよう。その根拠は、太后陛下が皇族の出身ではないからになるではないか。実に不敬である。 そもそも、男系が絶対ならば、天皇陛下のお母上は誰でも良いではないか。「皇太子より血が濃い」などと主張する論者は人として失礼なだけでない。男系絶対を言いながら自説の根拠が女系である。論理も破綻している。この論者の言う通りにすれば、古代国家のような近親結婚を永遠に繰り返さなければならない。皇居と宮内庁=東京都千代田区(産経新聞チャーターヘリから) 一部の男系絶対主義者のおかしな主張への反発で女系論に走った論者も、女系論の悪口さえ言っていれば、いかなるでたらめな男系論でも構わないとする論者も、何が大事か分かっていない。 男系継承は絶対である。しかし、直系継承もまた重要である。そもそも、わが国の歴史は皇室の歴史であり、皇位継承とは誰の系統が直系になるのかの歴史なのだから。今上陛下の父親の父親の…と男系でたどっていけば、江戸時代の第119代光格天皇にたどり着く。当時の第114代中御門天皇の直系が第118代後桃園天皇で途絶えたので、閑院宮家から即位された。「傍系継承」である。 しかし、後桃園天皇から父親の父親の…と男系でたどっていくと、第113代東山天皇にたどり着く。東山天皇から見れば、後桃園天皇は玄孫、光格天皇は曾孫である。東山天皇まで継承されてきた直系は、光格天皇から今上陛下まで継承されてきているのである。「五世の孫」の原則 ちなみに私はこの前、「光格天皇六世の孫」の方に会った。由緒正しき、光格天皇の男系子孫の男子である。血は完全だ。しかし、この方に皇位継承資格はもちろん、皇族復帰資格もない。「五世の孫」の原則があるからだ。 皇族は臣籍降下したら、皇族に戻れないのが原則である。もちろん、例外はある。定省王が臣籍降下して源定省となったが、皇籍復帰して定省親王となり、践祚した。第59代、宇多天皇である。元皇族から天皇になった、唯一の例である。 宇多天皇が源定省であったときに生まれたのが源維城(これざね)であり、後の第60代醍醐天皇である。生まれたときは臣下だったが、本来の皇族の地位を回復し、天皇になった、唯一の例である。元皇族と区別して、旧皇族と呼ぶ。いずれも当時の藤原氏の横暴により、皇位継承が危機に陥ったが故の、例外的措置である。決して吉例とは言えない。 ただ、明らかに現在は、醍醐天皇の先例に習うべき危機的状況だろう。かたくなに「君臣の別」を唱え、「生まれたときから民間人として過ごし、何世代も経っている」という理由で元皇族男子の皇籍復帰に反対する女系論者がいる。 では、誰ならば皇族にふさわしいと考えているのか。どこぞの仕事もしていないフリーターならば、よいのか。身分は民間人に落とされても皇族としての責任感を継承して生きてこられた方たちよりもふさわしい人がいるのか。女系論者は「実際に、そんな男系男子はいるのか」と主張し続けていたが、東久邇家の方々よりふさわしい方はおるまい。むしろ、女系論を主張するならば、東久邇宮家の皇籍復帰こそ命がけで訴えるべきだろう。 東久邇家の方々に限らず、占領期に臣籍降下された11宮家の方々は、父親の父親の…と男系でたどっていくと、北朝第3代崇光天皇にたどり着く。「五世の孫」の例外とされた伏見宮家の末裔の方々だ。男系では、直系からは遠すぎる。しかし、女系では近い。 本来、女系とは男系を補完する原理なのである。分かりやすい一例をあげよう。古代において、当時の直系は第25代武烈天皇で絶えた。そこで、第15代応神天皇の五世の孫である男大迹王(をほどのおおきみ)が推戴された。継体天皇である。神武天皇以来の直系は継体天皇の系統が継承し、今に至っている。なお、五世の孫からの即位は唯一であり、この先例が、直系ではない皇族は五世までに臣籍降下する原則の根拠となっている。 ちなみに、継体天皇と武烈天皇は十親等離れている。それこそ血の濃さを持ち出すなら、「ほぼ他人」である。継体天皇から光格天皇まで、傍系継承は何度かある。むしろ古代や中世においては、誰の系統が直系を継承するのかで、皇位継承が争われてきた。新年一般参賀に訪れた人たちを前にお言葉を述べられる天皇陛下と皇后さま(当時)=2019年1月、皇居(佐藤徳昭撮影) その最たる例が、壬申の乱(672年)だ。その壬申の乱は「天智天皇が勝った」と言えば驚かれるだろうか。第38代天智天皇の崩御後、息子の大友皇子(明治3年に弘文天皇の名が贈られた)と弟の大海人皇子(天武天皇)が皇位を争った。践祚した大友皇子に対し大海人皇子が兵を挙げ、自害に追い込み自らが即位する。その後、皇位は天武天皇の系統が継承した。天皇の崩御後は皇后が持統天皇として即位したが、以後の奈良時代の天皇はすべて天武天皇の男系子孫である。天武朝とも呼ばれる。奈良時代は女帝が多いが、天武天皇の直系を守ろうとしたからである。 ところが、健康な男子に恵まれず、称徳天皇の代で途絶えた。この女帝のときに道鏡事件が起きるのだが、「皇位を天智系に渡すくらいなら」との執念すら感じられる。もちろん、民間人の天皇など認められず、皇位は天智天皇の孫(施基親王の皇子なので男系男子)の光仁天皇が継承した。ここに天武朝は途絶え、直系は天智天皇の系統に移った。これが「壬申の乱は天智天皇が勝った」と評するゆえんである。臣民の責務とは ちなみに、女系を持ち出すなら、第43代元明天皇は天智天皇の娘である。第44代元正天皇は、元明天皇と草壁皇子の娘で、天智天皇の孫娘だ。よって、女系では天智天皇の子孫である。しかし、当時は早逝した草壁皇子の系統にいかに直系を継承するかが、天武朝の悲願だった。草壁皇子は天武天皇の息子である。女系でよいなら、天智系と天武系の血で血を洗う抗争は何だったのかと、古代史の門外漢の私ですら思う。皇室が女系で構わないと主張したいなら、古代史を書き換えてからにしていただきたい。 そして、天智朝にしても天武朝にしても、第34代舒明天皇の男系子孫であることには変わりないが、いずれが直系かをめぐり、100年の抗争を繰り返したのだ。それほどの抗争を繰り広げながらも、男系継承の原理を守ってきたので、皇室は続いてきたのだ。 このように、どの天皇の系統が直系を継承するかをめぐり争った歴史は何度かある。第63代冷泉天皇と第64代円融天皇の系統は、交互に天皇を出し合っている。この「両統迭立」は、円融天皇の孫の第69代後朱雀天皇の系統が直系を継承する形が成立するまで続いている。 自分の子供に継がせたいとする感情は、皇室でも同じなのだ。院政期の抗争もそうだ。それは保元の乱で爆発したが、院政期は常に抗争が繰り広げられた。鎌倉時代の両統迭立は南北朝の動乱にまで発展した。そして、大覚寺統(南朝)の中でも、持明院統(北朝)の中でも、直系をめぐる争いはあった。 北朝第3代崇光天皇は動乱の中で南朝に拉致され、そのまま廃位された。皇位は弟の後光厳天皇が継ぎ、直系はその系統に移った。しかし、後光厳天皇の直系が絶えたとき、崇光天皇の曽孫の彦仁(ひこひと)親王が即位された。後花園天皇である。崇光天皇が皇位を奪われてから、77年ぶりの奪還である。 戦国時代以降は、ここまでの激しい皇位継承争いはない。むしろ、皇統保守のために、宮家の方々は天皇陛下をお守りしてきた。江戸時代、幕府の圧力から朝廷を守った後水尾天皇にも、皇室の権威を回復した光格天皇にも、優れた皇族の側近がいた。後水尾帝を支えた近衛信尋は臣籍降下した天皇の実弟であるし、光格天皇は自身が閑院宮家において直系断絶に備えていつでも皇位継承できるよう準備をされていた。陛下御一人では、皇室は守れない。皇族の方々の御役割とは、かくも大きいのだ。 先帝陛下には先の美智子陛下がいらっしゃった。今上陛下を支える筆頭は、東宮となられた秋篠宮殿下である。将来、悠仁親王殿下が皇位を継がれ、日本国は守り継がれていく。お茶の水女子大学附属小の卒業式を終えられた悠仁さまと秋篠宮ご夫妻=2019年3月、東京都文京区(代表撮影) さて、ここまで皇室の歴史を簡単に振り返ったが、「愛子天皇」待望論を唱える者たちは、今の皇室の直系をなんと心得るか。いずれ皇統の直系が悠仁殿下の系統に移られたとき、愛子内親王殿下も陛下をお支えする立場にある。 それを、畏(おそれ)れ多くも悠仁親王殿下がおわすのに、どういう了見か。直系を悠仁親王殿下から取り上げようと言うのか。 もう一度、壬申の乱を起こしたいのか。それとも保元の乱か。はたまた、南北朝の動乱を再現したいのか。 今この状況で、「愛子天皇」待望論を唱える者たちよ。貴様たちは自分の言っていることが分かっているのか。 悠仁親王殿下につながる直系をお守りする。これが、臣民の責務である。■ 「眞子さまへの純真は本物か」小室圭氏よ、試練を歩み解を出せ■ 女性宮家の創設とは「制度化された道鏡」に他ならない■ 女性宮家以外にも「皇統の断絶」を防ぐ手立てはある

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    皇室の危機は一目瞭然、「愛子天皇」待望論の答えは一つしかない

    天皇であるべきことが確定している「皇太子(または皇太孫)」とは立場が異なる。 天皇の弟で皇嗣の場合は歴史上、「皇太弟」という立場があった。このたびの皇室典範特例法でも、秋篠宮殿下の皇位継承上の地位を固めるためには、そうした称号を新しく設けるべきだった。だが、秋篠宮殿下ご本人が辞退されたと伝えられる。「皇太子になるための教育は受けてこなかったから」と。 常識的に考えて、秋篠宮殿下を単に「皇嗣」として、特段の称号を用意しないという法律の作り方は、かなり非礼な扱い方と言える。当事者のご意向を前提としなければ、こうしたやり方は一般的に想定しづらい。だから、そこに秋篠宮殿下のお考えが反映されている、と推測するのが自然だろう。 それが事実だとすれば、重大事だ。言うまでもなく、「天皇」という地位は皇太子(皇太弟)などより遥かに重い。ならば、皇太弟すら辞退された方が、そのまま天皇に即位されるというシナリオは、いささか考えにくいのではあるまいか。 その上、皇太子殿下と秋篠宮殿下はご兄弟で、ご年齢が近い。皇太子殿下が今上陛下と同じ85歳まで在位された場合、秋篠宮殿下は79歳または80歳でのご即位となる。さすがにそれは現実的には想定しにくいだろう。 そうかといって、皇太子殿下がまだまだご活躍いただける年齢で、早めに皇位を譲られるというのも、今回のご譲位の趣旨から外れてしまう。平成最後の「歌会始の儀」を終えて退席される天皇、皇后両陛下と皇太子さま、秋篠宮さま=2019年1月16日、皇居・宮殿「松の間」(代表撮影) 皇室典範には、「皇嗣」に「重大な事故」がある場合は「皇室会議の議により」「皇位継承の順序を変えることができる」という規定がある(第3条)。したがって、今の制度のままでも、秋篠宮殿下がご即位を辞退されるという場面は、十分にあり得る。と言うより、先の年齢的な条件を考慮すれば、その可能性はかなり高いだろう(朝日新聞4月21日付1面に、こうした見方を補強するような秋篠宮殿下のご発言が紹介された)。そのようであれば、愛子内親王殿下への注目はより高まるはずだ。「属人主義」に陥るな ただし、くれぐれも誤解してはならないのは、皇太子殿下の「次の」天皇については、具体的な誰それがよりふさわしい、といった「属人」主義的な発想に陥ってはならないということだ。 そうした発想では、尊厳であるべき皇位の継承に、軽薄なポピュリズムが混入しかねない。そうではなくて、皇位の安定的な継承を目指す上で、どのような継承ルールがより望ましいか、という普遍的な問いに立ち返って考えなければならない。 そもそも、皇位継承資格を「男系の男子」に限定したのは明治の皇室典範が初めてだった。しかも、明治典範の制定過程を見ると、2つの選択肢があった。 ①側室制度を前提とせず、非嫡出の皇位継承を認めないで、「男系の男子」という制約は設けない。 ②側室制度を前提とし、非嫡出にも皇位継承資格を認めて、「男系の男子」という制約を設ける。 これらのうち、①は明治天皇にいまだ男子がお生まれになっていない時点でのプランだった。しかし、その後、側室から嘉仁親王(のちの大正天皇)の誕生を見たため、①が採用される余地はなくなった。 ところが、今の皇室典範はどうか。 ②の「男系の男子」という制約は明治典範から引き継いだ。一方、それを可能にする前提条件だった側室制度プラス非嫡出の皇位継承は認めていない。つまり、①の前段と②の後段が結合した、ねじれた形になってしまっている。 ③側室制度を前提とせず、非嫡出の皇位継承を認めないで、しかも「男系の男子」という制約を設ける。 率直に言って、このようなルールでは皇位の安定的な継承はとても確保できない。 過去の歴代天皇の約半数は側室の出(非嫡出)であり、平均して天皇の正妻にあたる女性の4代に1人は男子を生んでいなかった。傍系の宮家も同様に側室によって支えられていた。 したがって、③をこのまま維持すると、皇室が行き詰まるのは避けられない。もし皇室の存続を望むならば、明治典範制定時の①と②からどちらを選ぶか、改めて問い直さなければならない。 しかし、いまさら②が前提とした側室制度を復活し、非嫡出による皇位継承を認めることができないのは、もちろんだ。何より皇室ご自身がお認めにならず、国民の圧倒的多数も受け入れないだろう。側室になろうとする女性が将来にわたって継続的に現れ続けるとは想像できないし、逆に側室制度を復活した皇室には嫁ごうとする女性がほとんどいなくなるだろう。 そのように考えると、答えは自(おの)ずと明らかではあるまいか。皇太子さまと資料を見ながら修学旅行について話をされる皇太子ご夫妻の長女、敬宮愛子さま=2018年11月25日、東京・元赤坂の東宮御所(宮内庁提供) 「愛子天皇」待望論についても、目先の週刊誌ネタなどによって短絡的に判断するのではなく、持続可能な皇位継承のルールはいかにあるべきかという、広い視点から慎重に評価されるべきだろう。■ 「眞子さまへの純真は本物か」小室圭氏よ、試練を歩み解を出せ■ 女性宮家の創設とは「制度化された道鏡」に他ならない■ 女性宮家以外にも「皇統の断絶」を防ぐ手立てはある

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    「愛子天皇」を実現させる令和おじさんの布陣

    年11月、東京・首相官邸(門井聡撮影) われわれ日本人にとって皇室とは何か。天皇や皇族からなる皇室の歴史を振り返れば、日本が危急存亡の秋(とき)にわが国を守ったのが天皇や皇室の統合力であったことに気づかされる。かつて福沢諭吉は『帝室論』の中で「帝室は政治社外のものなり」とし、政治が皇室の尊厳やその神聖さを侵すことがあってはならないと警鐘を鳴らした。新天皇の課題 皇室の存在意義は、政治を超越した立場から社会秩序の維持に寄与することにある。戦後、福沢の描いた皇室像は、現行憲法の定める象徴天皇制度としっかりと結びついた。こうした福沢の思想を継承したのは、慶應義塾長(現慶応大)の小泉信三である。小泉は東宮御教育常時参与として、皇太子時代の上皇さまとともに福沢の『帝室論』を音読し、帝王学を施した。福沢の皇室像は戦後の象徴天皇を先取りしていたといえよう。 象徴天皇制度の下での帝王学は、天皇と国民との相互作用から天皇ご自身で体得されてゆく側面が大きい。すなわち、象徴天皇のあり方は、天皇自らが国民とのふれあいを通じて模索されるべきものである。上皇さまはいみじくも、「天皇像を模索する道は果てしなく遠く」と述べられた。その時代時代に合った象徴のあり方が模索されねばならないということであろう。 よって、いかに国民との関係を構築してゆくかは、陛下の最大の課題といっても過言ではない。同時に、日本国憲法1条は、天皇は「日本国と日本国民統合の象徴」であり、「この地位は、主権の存する日本国民の総意」に基づくと規定されており、われわれ国民もしっかりと主権者の自覚を持ちその責任を果たさなくてはならない。 現在の皇室は大きな不安を抱えている。いうまでもなく、それは皇統断絶の危機にほかならない。今世紀に入り、愛子さま、悠仁さまが生誕したとはいえ、若い世代の皇族方の多くは皇位継承権を有しない内親王や女王であり、年配の皇族方の薨去(こうきょ)や女性皇族の婚姻に伴う皇籍離脱により皇族の減少に歯止めがかからない。 皇族減少への対応の必要性については、小泉内閣、野田佳彦内閣、安倍晋三内閣の共通認識となっている。それぞれの内閣において、女系拡大論や女性宮家の創設などによる皇位継承の安定化や天皇の公務の負担軽減が議論されてきた。しかし、いざ皇位の安定継承策を議論すると、イデオロギー対立の先鋭化とともに国論がなかなかまとまらない。日本の大切な宝であり、国家・国民統合の象徴である皇室を守るためには、養子の解禁と一代限りの女性宮家の創設を組み合わせるなど思い切った皇室制度の改革が求められよう。慶応大学三田キャンパス内にある福沢諭吉の胸像=2008年10月、港区三田の慶應義塾大学内(大山実撮影) 3月18日の参議院予算委員会で、菅義偉官房長官は5月1日の陛下即位後、速やかに皇位の安定継承策について検討に入る意向を表明した。その後、メディアはさまざまな憶測記事やうがった見方を報じているが、あの菅氏が何の根拠もなくああした踏み込んだ発言をするはずがない。 2016年から翌17年にかけての「退位特例法」成立に向けた菅氏の手綱さばきは実に見事であった。これまでの経験を踏まえれば、皇位継承問題を前進させるには、長期安定政権でしかも内閣官房が指導力を発揮しないと成果をあげることは難しい。鍵は「旧自治省シフト」 皇位継承安定化策の立案をめぐっては、内閣官房のうち、とりわけ重要なのが内閣総務官室である。そのトップである内閣総務官(かつての首席内閣参事官)は次官級コースとされ、現に野田内閣の二人の内閣総務官はそれぞれ厚生労働審議官、内閣府事務次官に栄進した。現職の宮内庁長官も内閣府事務次官からのぼりつめた旧自治官僚であり、安倍内閣で辣腕(らつわん)をふるい「退位特例法」を成就させた内閣総務官と内閣審議官もまた旧自治省出身で、おのおの内閣府事務次官や内閣法制局の主要ポストに異動している。 菅氏の強力なリーダーシップの下に上記のような「旧自治省シフト」を動員し、大島理森衆議院議長を中心に国会とも緊密に連携すれば、事態は大きく動くと筆者は期待する。もはや「旧自治省シフト」は内閣官房のみならず、宮内庁や宮内庁が設置されている内閣府、さらには内閣法制局をも席巻している。これを警察庁OBがバックアップする格好だ。 そもそもこの問題は政治家にとって「リスクが大きい割に票にならない」ため、これまで率先して問題解決に取り組もうという内閣は少なかった。しかし、政府が手をこまねいているうちに、若い世代の女性皇族の婚姻に伴う皇族の減少はさらに深刻化していった。もはや待ったなしといっても過言ではあるまい。安倍内閣が同問題を先送りすれば、将来皇統断絶の危機に直面したとき、同内閣の不作為はまちがいなくやり玉にあげられよう。 もはや水面下では皇位継承安定策がかなり具体化しているはずである。確かにかつての民主党や民進党が熱心に取り組み、「退位特例法」の付帯決議にまで盛り込んだ女性宮家の創設は将来、女系拡大につながる可能性がある。よって、少なくとも「一代限り」といった条件付けが必要となろう。 一方、皇室典範9条が禁じる養子を解禁する方策はどうであろうか。養子といってもさまざまな形態があり、女性皇族との婚姻を前提とした婿養子には、婚姻を「両性の合意のみ」と規定する憲法24条が適用されることになる。現在のままではいずれ絶家となる運命の三笠宮家や高円宮家が養子をとることの方が現実的かもしれない。その場合、緊急避難的措置として特例法を用いることも選択肢の一つであろう。静養のため、JR長野駅に到着された皇太子ご一家=2019年3月、長野市(代表撮影) ここのところ、秋篠宮家をめぐる報道や愛子さまの高評価を伝える記事が散見される。しかし、これらは事実上の問題であって、制度上の問題ではない。もちろん象徴天皇制度を念頭に置けば、世論の動向は無視しえないが、やはり制度設計にあたってはいったん両者を切り離した上で冷静な議論が求められる。いずれにせよ、事の成否は安倍総理の決断と「令和の顔」となった菅氏の手腕にかかっているといえよう。■語り継がれる「天皇の旅」 批判はあっても膝をつかれた陛下のスタイル■新元号「令和」公表にチラつく支配欲と主導権争い■「天皇はかくあるべし」上から目線の知識人が錯覚した陛下のお気持ち

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    秋篠宮家の評判に関係なく「愛子天皇」を真剣に議論すべきである

    会に出演した愛子さま その他にも、男性優位は日本の固有の慣習、女性が天皇になれば夫に政治関与される、歴史上の女性天皇は「中継ぎ」であったので例外、などの理由を説明している。 この男系男子に天皇を限定する仕組みは、家制度が崩壊した敗戦後に変化させるべきであった。日本国憲法では第14条で「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」とあり、女性が天皇になれないことはそれに反する可能性があるからである。 明治期の「男性優位は日本の固有の慣習である」という説明が正しいかどうかは別として、そうした陋習(ろうしゅう)はここで断ち切られたはずであった。ただし当時は、民法が改正され家制度がなくなったとはいえ、その慣習が社会にまだ残っていた。女性天皇は「中継ぎ」にあらず そして、男性皇族もまだ多く、切迫した状況ではなかったかもしれない。そのため、女性天皇は考慮されず、旧皇室典範が廃止され、法律として新たに制定されたものの、明治期に形成された制度がそのまま継続した。 現在の日本社会は、国連の女子差別撤廃条約の批准、いわゆる男女雇用機会均等法の制定と改正などが行われ、敗戦直後以上に性別による差をなくす方向性に進んでいる。社会が、男女が平等になるようにさまざまな努力がなされている中で、なぜ天皇だけが男性に限定されるのだろうか。女性が天皇になれば夫に政治関与されるという明治期になされた説明も、天皇が政治に関わることがなくなった象徴天皇制においては意味をなさない。 そもそも、なぜ男性天皇は妻に政治関与されないという前提があるのだろうか。それこそ、女性ならば人の意見に左右されやすいという、女性への差別的な考え方が根本にあるのであり、現在では相いれない思考だろう。 歴史上の女性天皇は「中継ぎ」であったという説明も、現在の日本古代史の研究によって、それは否定されている。その時期の皇族の中で政治的に優れた年長の女性が天皇に即位しており、ならば現在でも人物的に優れた人物であれば男性でも女性でも関係なく天皇に即位することが、「伝統」的な考え方に合致しているのではないか。 むしろ、現在の象徴天皇制は、その人物がいかなる考えを持ち、行動をするかがマスメディアを通じて伝えられ、それによって人々から支持されている。「平成流」への評価はその最たるものだろう。性別に関係なく「人物本位」というのは、現在の流れとも合致する。 ここ最近、週刊誌やインターネット上で、「愛子天皇」待望論が出ている。しかしこれは、これまで述べてきた理由で提起されたものではない。従来、秋篠宮家の世間の評判は高かった。病気を抱える雅子皇后が皇太子妃時代、公務をこなす量が少ないことから、批判が出て、相対的に秋篠宮家への評価は高くなっていた。 しかし、この状況が変化するのが、眞子内親王と小室圭さんの問題である。小室さんの実家の金銭問題が浮上、それへの適切な説明がないと見られ、批判が噴出している。 妹の佳子内親王が国際基督教大(ICU)卒業に際して発表した文書の中で、自らの意思を強く示し、「姉の一個人としての希望がかなう形になってほしいと思っています」と姉を擁護したことも、批判が高まる要因となった。これらから、秋篠宮家に対する評価が下がり、今度は逆に相対的に皇太子一家への評価が上がり、「愛子天皇」待望論へと向かっているのである。2019年3月、「千葉県少年少女オーケストラ」の東京公演を鑑賞するため、会場に到着された秋篠宮家の長女眞子さまと次女佳子さま(代表撮影) これは、いい意味での女性天皇誕生ではない。秋篠宮家の評判が落ちているから、またその評判をより落とすために、たまたま女性である愛子内親王を天皇にしようとする動きが出ているに過ぎない。 求められているのはそうした動きではなく、現在の社会に合致した象徴天皇制のあり方である。国民の生活と遊離したもの、世間の風に影響されすぎるものではない。愛子内親王が天皇になることは、皇室典範を改正し、今後も女性天皇・女系天皇を安定的に認めていく制度にすることである。■ 「眞子さまへの純真は本物か」小室圭氏よ、試練を歩み解を出せ■ 女性宮家の創設とは「制度化された道鏡」に他ならない■ 女性宮家以外にも「皇統の断絶」を防ぐ手立てはある

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    女帝、斉明天皇はなぜ皇位を譲り、再び即位したのか

    吉村武彦(明治大学名誉教授) 飛鳥〈あすか〉時代前後から奈良時代にかけて(七~八世紀)、推古〈すいこ〉天皇から称徳〈しょうとく〉天皇まで、六人の女性天皇が即位しました。そのうち皇極〈こうぎょく〉天皇と孝謙〈こうけん〉天皇は二度即位していますので、六人で八代の天皇が存在したことになります。この時代が「女帝の世紀」と呼ばれる所以〈ゆえん〉です。 そして、女性天皇だけに見られる特徴がいくつか存在しました。とりわけ注目されるのが、天皇史において画期的な出来事とされる「譲位〈じょうい〉」及び「重祚〈ちょうそ〉」が、皇極天皇によって初めてなされたという事実です。なぜ皇極天皇は譲位し、また重祚して斉明〈さいめい〉天皇となったのか。時代背景も踏まえながら、斉明天皇はどんな存在であったのかを考えてみましょう。 皇極天皇は即位する前、寶皇女〈たからのひめみこ〉と呼ばれていました。父は茅渟王〈ちぬのみこ〉、母は吉備姫王〈きびつひめのみこ〉。同母弟に軽皇子〈かるのみこ〉(孝徳〈こうとく〉天皇)がいます。『日本書紀』の斉明即位前紀には、「初め用明〈ようめい〉天皇の孫高向王〈たかむくのみこ〉と結婚し」「後に舒明〈じょめい〉天皇と結婚して二男一女を生む」(現代語訳)とあります。 二男一女とは、中大兄〈なかのおおえ〉皇子(天智〈てんち〉天皇)、間人皇女〈はしひとのひめみこ〉、大海人〈おおあま〉皇子(天武〈てんむ〉天皇)のことでした。 さて舒明天皇十三年(六四一)に舒明天皇が崩御〈ほうぎょ〉すると、皇后の寶皇女が即位して、皇極天皇となります。この時、舒明天皇の第一皇子である古人大兄〈ふるひとおおえ〉皇子や、厩戸〈うまやと〉皇子の子である山背大兄王〈やましろおおえのおう〉らをさし措〈お〉いて、皇極が即位したのはなぜなのか。 最近の研究では、当時の即位には適齢期があったと考えられており、一つの基準を三十五歳と見ています。その点、古人はまだ二十歳前後、山背大兄も年齢的に達しておらず、適齢の皇子がいないということで、四十九歳の皇極が推古天皇に倣〈なら〉って即位したのでしょう。 かつては皇位継承で競合する候補が複数いる場合、争いを避ける意味で女帝を立てたと考えられました。その可能性も否定はできませんが、最近はむしろ適齢か否〈いな〉かが問題であったと見ています。飛鳥宮跡(伝飛鳥板蓋宮跡、明日香村提供) ところで女性天皇について、男性と変わりはなく「中継ぎ」ではないとする説があります。しかし、皇極は女性天皇として史上初の譲位を行ない、また史上初の重祚も行ないました。 一方、男性天皇の譲位は八世紀に下って、聖武〈しょうむ〉天皇が初めてです。こうした点からも、私は女性天皇と男性天皇は同じではないと考えています。たとえば持統〈じとう〉天皇も、明白に「中継ぎ」として即位していました。「乙巳の変」と史上初の譲位 「八月一日、天皇は南淵〈みなぶち〉の川上においでになり、跪〈ひざまづ〉いて四方〈よも〉を拝し、天を仰〈あお〉いで祈られると、雷鳴がして大雨が降った。雨は五日間続き、天下はあまねくうるおった。国中の百姓は皆喜んで、『この上もない徳をお持ちの天皇である』といった」(現代語訳)。 『日本書紀』には、日照〈ひで〉りに民や蘇我〈そが〉氏が雨乞いしてもほとんど降雨が得られなかったところ、皇極が祈るとたちどころに大雨になったと記され、皇極が巫女〈ふじょ〉的な要素を具〈そな〉えていたのではとする見方もあります。 もちろんそうした側面があってもよいのかもしれませんが、そもそも雨乞いは中国的な風俗で行なわれたもので、必ずしも土着の、日本の巫女的なものではありません。従ってこの記述は、皇極の巫女性というよりも、天皇の霊験〈れいげん〉があらたかであることを表現したものととらえるべきでしょう。 さて、皇極朝の頃、中国大陸では唐〈とう〉が膨張〈ぼうちょう〉し、朝鮮半島諸国にも政治的影響が及ぶ中、半島で政変が起こりました。高句麗〈こうくり〉では六四二年(皇極元)、大臣が国王を殺害し、政権を握るクーデターが勃発〈ぼっぱつ〉。また百済〈くだら〉では六四三年に国王の母が没すると、国王の弟や子どもが島に追放される事件が起こります。 こうした半島での政変の情報は、倭国にさまざまな波紋を投げかけました。貴族が実権を奪った高句麗型の政変と、国王が権力を集中した百済型の政変です。当時、政治の実権を握る蘇我本宗家〈ほんそうけ〉にすれば、飛鳥でも何か不測のことが起きるかもしれないと感じたことでしょう。邸宅の門周辺に武器を備えたり、火災除〈よ〉けの水桶を置いたりしたといわれます。 緊張感に包まれた六四五年六月、皇極の息子・中大兄皇子と、中臣鎌足〈なかとみのかまたり〉が謀〈はか〉り、板蓋宮〈いたぶきのみや〉で「三韓の調〈みつち〉」を献上する儀式の最中、権力を一手に握る蘇我入鹿〈いるか〉を暗殺しました。皇極天皇が臨席し、群臣が居並ぶ場においてです。 入鹿の死に、父・蘇我蝦夷〈えみし〉も自尽〈じじん〉し、蘇我本宗家は滅亡。「乙巳〈いっし〉の変」と呼ばれるこの政変は、大化〈たいか〉の改新〈かいしん〉の始まりとして知られます。 乙巳の変は単に権力を握る蘇我本宗家を倒しただけでなく、蘇我氏を代表とする貴族政権に、王家が鉄槌〈てっつい〉を下すという意味を持っていました。そしてこの時、皇極が譲位します。当時は「終身王位制」ですが、皇極が譲位に踏み切ったのは、女性ということもあったのでしょう。そして、貴族は介在せず、王家の意思で新帝を決め、皇極の弟・軽皇子が即位することになりました。孝徳天皇です。 乙巳の変を機に行なわれたのは、いわば天皇側の権力の奪還と集中であり、また皇極の生前譲位は、王家の自律的意思によって皇位継承がなされることを内外に示したものといえるでしょう。酒船石(明日香村提供) 皇極の譲位後、軽皇子が即位したのは、やはり適齢の問題と考えられます。かつては実質的トップが中大兄で、孝徳天皇はロボットだったという説が有力でした。しかし、実際は天皇が認めなければ詔〈みことのり〉は出ませんので、最近は孝徳を評価する動きがあります。 では、譲位後の皇極の政治的影響力はどうであったのでしょうか。皇極は「皇祖母尊〈すめみおやのみこと〉」と呼ばれることになり、天皇、皇祖母尊、太子(中大兄)の三人が群臣を招集して誓約を行なって、政治的意思統一を図りました。重祚と「時に興事を好む」 その後、孝徳天皇は難波〈なにわ〉に遷都しますが、白雉〈はくち〉四年(六五三)、事件が起こりました。中大兄が難波から大和〈やまと〉への遷都を進言し、孝徳が拒〈こば〉むと、中大兄は皇極と間人皇后〈はしひとのきさき〉を連れて、飛鳥へ戻ってしまうのです。 難波に残った孝徳はほどなく、失意のうちに崩御しますが、中大兄が皇極と同意の上でこうした挙に出たことを見れば、前天皇の皇極が一定の影響力を持っていたことは明らかでしょう。 孝徳崩御後、皇極は再び即位し、斉明天皇となります。史上初の「重祚」でした。斉明が重祚を選んだのは、終身王位制の影響が強かったのかもしれません。この時、孝徳の子・有間〈ありま〉皇子は十六歳前後、中大兄は三十歳前後ですので即位の適齢に達しておらず、中大兄が引き続き太子として政務を執〈と〉りました。 さて、『日本書紀』には斉明について「時に興事〈こうじ〉を好む」「溝を掘らせ、香久山〈かぐやま〉の西から石上山〈いそのかみのやま〉にまで及んだ」と大工事を行ない、「狂心〈たぶれごころ〉の渠〈みぞ〉の工事。むだな人夫を三万余り。垣〈かき〉を造るむだな人夫は七万余り」と人々から謗〈そし〉られたとあります。 他にも多武峰〈とうのみね〉に観〈たかつき〉と両槻宮〈ふたつきのみや〉を建てたり、苑池〈えんち〉などの土木工事も行なったとされ、実際にそれらしき遺跡も出土しているので、事実なのでしょう。 観や両槻宮は道教の影響も考えられますが(遺跡は未発見)、苑池工事は都づくりの一環〈いっかん〉と捉えることができます。この頃になると、来朝した外国人使節に見せるために盛んに造られていた巨大古墳は影を潜〈ひそ〉め、代わって王宮〈おうきゅう〉に付随した苑池や石敷き庭園などの充実が図られていくのです。 大化改新以降も、唐の膨張と朝鮮半島の動揺は続き、日本は東アジアの外交問題に巻き込まれざるを得ませんでした。一方、国内では領土拡張(=王権拡大)を狙〈ねら〉って、阿倍比羅夫〈あべのひらふ〉の北征が始まります。特に朝鮮半島と大陸に面する日本海側では、蝦夷を制圧して体制を整えておく必要があったと考えられます。 斉明六年(六六〇)、百済の使者が、百済が新羅・唐連合軍に降伏したことを伝え、さらに百済の遺臣が、日本にいる百済王子・余豊璋〈よほうしょう〉の帰国と援軍の派遣を求めました。 斉明天皇はこれを了承し、余豊璋を王位に就〈つ〉けて帰します。大和王権の百済王権への干渉であり、日本による冊封〈さくほう〉でした。一種の帝国意識の高まりをここに見出すことができるでしょう。 そして百済救援のため、斉明は自ら筑紫〈つくし〉に赴〈おもむ〉き、朝倉宮〈あさくらのみや〉で崩御しました。天皇自ら前線に赴いたところからも、百済滅亡への日本の危機感がいかに強かったかがわかります。白村江〈はくそんこう〉の戦いが起きるのは、直後のことでした。 乙巳の変に直面した皇極天皇時代、朝鮮半島の動乱に直接関わった斉明天皇時代。それはまさに半島情勢の急変が日本を直撃し、王家が政治の実権を奪還して、王権の拡大に乗り出した時期でした。その難しい舵取〈かじと〉りを二度即位した女帝が担〈にな〉ったという点は、実に興味深いといえるのかもしれません。関連記事■ 毘沙門天の化身・上杉謙信、その実像に迫る3月号■ 大坂の陣、参陣するなら、徳川方? 豊臣方?■ キリシタン武将・明石掃部の実像

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    元宮内庁長官、羽毛田信吾手記「今上陛下に象徴天皇の極致を見た」

    羽毛田信吾(元宮内庁長官) 「平成」から「令和」へ、御代替わりの時を迎える。平成の後半、11年間を天皇陛下のお側近くで勤務した者としては、さまざまな困難を乗り越えてご在位の最後まで誠心誠意を貫き通されたお歩みを思い、感慨ひとしおである。 平成は、世界的にはベルリンの壁の崩壊とともに明けたが、その後の展開は必ずしも協調と平和には向かわず、民族、宗教などの対立が支配する複雑な様相を呈している。 わが国も、少子高齢化が進む中、バブル経済がはじけて「平成不況」に見舞われ、さらに地震、豪雨など大規模な自然災害が多発した時代でもあった。平成もまた平坦(へいたん)ならざる苦難の時代だったと言えよう。この苦難の時代にあって、陛下は象徴としての望ましい在り方を常に自らに問いつつ、務めに身をささげてこられた。また、陛下のお考えの最も良き理解者として一心に支えてこられたのが皇后陛下であった。 陛下がどのような思いと覚悟で務めを果たしてこられたかは、平成28年8月8日のビデオメッセージ「象徴としてのお務めについてのお言葉」に凝縮されているように思う。「日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごして来ました」その模索の中から、象徴天皇の道を、国民の幸せや平和を祈ると同時に、積極的に人々の傍らに身を置き喜び苦しみに心を寄せることにあると思い定め、全身全霊を傾けてその実践に努めてこられたのである。 私が宮内庁在勤中、最も印象深かったことを二つあげるとすれば、一つは、平成23年の東日本大震災における両陛下のなさり様であり、いま一つはサイパンへの慰霊の旅である。いずれについても私は、平成における象徴天皇の道の極致のように思った。山田町役場に到着し、出迎えた人たちに声をかけられる天皇、皇后両陛下=2016年9月、岩手県山田町(代表撮影) 平成23年3月11日に東日本を襲った未曾有(みぞう)の大災害に際して、両陛下は7週間連続して自衛隊機とヘリコプターを乗り継いでのお見舞い行脚を続けられた。避難所で、膝をついて一人一人丁寧に見舞われる姿、がれきの山と化した街並みに黙祷(もくとう)される姿、ヘリコプターから眼下に広がる無残な津波の傷跡を悲痛な面持ちで見入られる姿、実に気の重い随行であった。同時に、人々の身の上を案じられる両陛下と、立ち直ろうという気持ちでそれに応える被災者との心の交流を間近に見る感銘深い随行でもあった。 被災者のお見舞いに限らず、陛下と国民の関係は、一人一人の喜び悲しみに心を通わされ、その積み重ねの先に国民全体がある、そういう有り様ではないかと思う。個を通じて全体を見ると言ったらよいのだろうか。衝撃を受けた陛下のお考え 陛下が心をこめてなさってきたことのもう一つの柱が、平和への願いである。在任中の代表例としてサイパンへの随行を印象深く記憶する。陛下は、戦争の惨禍を繰り返してはならない、平和を守らねばいけないという願いを強く持ち、戦後生まれが80%を占める今、戦争の記憶が風化することへの心配を繰り返し述べておられる。 国の内外を通じて戦争犠牲者に対する慰霊の旅を重ねてこられたが、平成17年、6万人近くが犠牲になったサイパンに赴かれた際には私もお供をした。多くの人が身を投げたバンザイクリフやスーサイドクリフで海に向かって黙祷される姿を拝しながら、これは慰霊の旅であると同時に、激戦の地に身を置くことによって自らの姿で平和の尊さを訴えておられるのだと思った。 在位中では最後となった昨年の全国戦没者追悼式にて、陛下は「戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ」というくだりを加えられた。昨年は明治維新150年、同時に先の大戦までが73年、4年の大戦をはさんで戦後が同じく73年という節目でもあった。戦前の73年が何度かの戦争を経たのに対し、戦後の73年は戦なき世であった。さらに言えば、平成時代は明治以降、日本が干戈(かんか)を交えなかった唯一の時代として記憶されることになるだろう。戦後そして平成の平和を後の世にもしっかりと引き継いでほしいという、万感の思いをこめたお言葉だったように思う。 私事だが、今、昭和館という展示館の館長として、戦争により、庶民がどう苦しみ悲しみ、どんな生活を強いられたか、戦争の狂気にどう巻き込まれていったかといったことを後世に伝える仕事に携わっている。陛下の戦争と平和に関するお考えを日々思い起こしながら、若い世代にいかに実感を持ってこれを伝えるかに腐心する毎日である。 ご譲位は、突き詰めていえば、全身全霊を傾けてお務めを果たすという象徴天皇の在り方と、ご高齢に伴う体力面などの避けられない制約の二つを前提に、いかに円滑に皇位を引き継いでいくかという命題だと思う。それを考え抜かれての平成28年のお言葉だったのではあるまいか。在任中、最初に陛下のお考えをうかがったときは、正直言って強い衝撃を受けた。しかし、陛下の深い考えを理解するにつれ、これは陛下お一人のことではなく将来の天皇にも通ずる普遍的課題だと思うに至った。 85歳の誕生日を前に、涙で声を詰まらせながら記者会見で話される天皇陛下=2018年12月、皇居・宮殿「石橋の間」(代表撮影) 令和の時代を迎え、改めて将来にわたって国民から敬愛される皇室、国民の心の支えとなる皇室であり続けてほしいと願う。民主主義はともすると「自分さえ良ければ」「自分の国さえ良ければ」という思考に堕する危うさを内包していることを考えると、政治的な思惑や利害を超えて人々のために祈り活動される公平無私な存在が、一層重要に思えるのである。■釜石市長手記「被災地を照らし続けた両陛下のお姿」■語り継がれる「天皇の旅」 批判はあっても膝をつかれた陛下のスタイル■所功手記「新元号『令和』は想定外なれど、感服するほかない」

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    南蛮人が大いに利用した「武勇の民」日本人奴隷の戦闘力

    渡邊大門(歴史学者) 前回述べたように、多くの日本人は多くが東南アジア各地またはポルトガルに送り込まれ、さまざまな形で労働を強いられた。天正遣欧少年使節の面々は、ヨーロッパの人々が親切であるとか、日本人奴隷がキリスト教の教えを受けることをもって、自らを納得させていた感がある。 ところで、日本人奴隷たちの実態は、どのようなものだったのだろうか。以下、歴史学者、岡本良知氏の研究によって、確認することにしよう。1551年11月、ポルトガル人司教のカルネイロは、マカオから書状を送った。次に、岡本氏の『改訂増補 十六世紀日欧交通史の研究』からその内容を掲出する。 当地方(マカオ方面)に来るポルトガル人は、皆真理を忘却している。その理由の一つは、商売の欲望である。もう一つは、日本から来たポルトガル人が女奴隷のために罪に陥っていることだ。 キリスト教布教と相まって、ポルトガル商人が日本にやって来たのであるが、あまりに金もうけに熱中していることは非難されてしかるべきだったといえる。彼らは、完全にキリスト教の真理から逸脱していた。問題は、二つ目の理由である。 少し婉曲的な表現をしているが、これはポルトガル人が奴隷となった日本人女性と性的な関係を結んでいたと見て間違いない。これまで豊臣秀吉の時代の天正年間を中心に見てきたが、それより約三十数年前にポルトガル人が日本人奴隷を買っていたのは事実であろう。しかも、それは彼らが性的な欲求を満たすため、女性の日本人奴隷を買っていたとみてよい。 このようにポルトガル人がキリスト教の信仰を忘れ、女性との性的な快楽に溺れることは、決して許されることではなかった。岡本氏の指摘によると、こうした事象は散見されるとのことである。 1583年、マカオを出発しインドへ向ったポルトガル船は、マラッカに近いジョホール沖で座礁するに至った。それは、日本や中国で活動していたポルトガル商人の放逸な行為(性にまつわる逸脱行為)に原因があるとし、それゆえに神罰が下ったとされている。すっかり女性の虜(とりこ)になっていたのだ。※画像はイメージ(ゲッティ・イメージズ) その事実は、次のように詳しく記述されている。 神はポルトガル商人らが神を恐れることなく、色白く美しき捕らわれの少女らを伴い、多年その妻のように船室で妾として同棲した破廉恥な行為を罰したのである。この明らかな大罪は、神からも明白に大罰を加えられたのであった。それゆえ、彼らに神の厳しい力を恐れさせるため、中国・日本の航海中に多数の物資を積載した船を失わせ、もってこれを知らしめようとしたのだ。また、中国・日本方面では、ほかの国々よりもポルトガル人の淫靡な行為がはるかに多いので、神はそこに数度の台風によりそれらの者を威嚇・懲罰し、その恐ろしい悪天候により怒りを十分に示そうとしたことは疑いない。岡本良知『改訂増補 十六世紀日欧交通史の研究』より この記述を見ると、日本だけでなく中国からの女奴隷も餌食(えじき)になったようである。宣教師たちは、苦々しい思いで彼らの姿を見ていた。こうした原因の一つには、ポルトガル商人の多くが独身者であったという指摘がある。独身であるがゆえに女性を求め、それゆえに性的に乱れた生活をしていたのである。宣教師も悪行? 同趣旨のことは後年に至っても問題視され、ポルトガル人が購入した奴隷の少女と破廉恥(はれんち)な行為をし、また渡航中に彼女らを船室に連れ込むことは、決して止むことがなかったと言われている。 これまでは特に触れなかったが、実はこうした性的な不品行が豊臣秀吉の逆鱗に触れたようである。コエリョは、次のように報告している。秀吉の家臣が用務を帯びて長崎に来ると、ポルトガル商人の放縦な生活を目の当たりにした。秀吉が言うには、宣教師は聖教を布教するとはいえ、その教えをあからさまに実行するのは彼ら商人ではないか、と。商人は若い人妻を奪って妾とし…(以下略)。岡本良知『改訂増補 十六世紀日欧交通史の研究』より 宣教師は口でこそキリスト教の崇高な教えを説いているが、実態は大きく乖離していた。ポルトガル商人が囲っていた若い人妻とは、奴隷身分だったのだろうか。いずれにしても、キリスト教の教義に沿わない行為である。とにかく秀吉ら日本人は、ポルトガル商人の奔放な行動に手を焼いていたようである。 このように日本人奴隷でも特に女性は、通常の労働(農作業、家事労働など)にも駆り出されたが、ときに性的な対象として悲惨な処遇を受けることがあった。多くの日本人の女性奴隷は、性的な関係を望まなかったのではないだろうか。ただし、中には生活のためにやむを得ず、そうした道を選ばざるを得なかった女性がいたのかもしれない。女性が悲劇的な一面をもって奴隷となったことを見たが、奴隷となった男性はいかなる運命をたどったのだろうか。 1603年、ゴア市民からポルトガル国王に陳情書が提出された。次に示す通り、そこには興味深いことが記されている。少し長いが、引用しておこう。 日本人奴隷は近隣のイスラム教国へと公然と売られ、毎年船に積まれて、ついに彼らはイスラム教を信仰する。われら(=ゴア)のところに来るものは、すべてキリスト教徒になる。それは同時に、陛下(=ポルトガル国王)の臣民が増加する理由です。しかもパードレたちは、二年間のキリスト教の教化を彼らに行ってから解放しています。もし、都合が悪いようなら、彼らを甘んじてイスラム教徒たらしめるため、他国人に買わせることです。インドには日本人奴隷が数多くいて、その主を守護する任務に充てている。その理由は、ポルトガル人の数は最小の城を守る数にも足りず、有事の際にポルトガル人一人が鉄砲を携え、奴隷五・六人を率いれば、日本人は甚だ好戦的なので、その値打ちは少なからずある。それゆえ奴隷を解放したのち、我ら(=ポルトガル人)の敵と通謀して、反乱を起こす可能性もある。また、われらより数が多ければ、われらを殺戮する疑いも否定できない。岡本良知『改訂増補 十六世紀日欧交通史の研究』より 前半部分は奴隷解放に関わるもので、日本人奴隷を解放して、みすみすイスラム教徒に改宗させてはならないという見解である。当時、異教徒間では争いが絶えなかったので、理屈として持ち出したのだろう。この記述から分かるように、インドのゴアにはかなり多くの日本人奴隷が連行されていた。※画像はイメージ(ゲッティ・イメージズ) インドのゴアの近隣にはイスラム諸国があり、彼らは異教徒と認識されていた。臣民とある彼ら奴隷は、労務年限が来ると奴隷身分から解放され、ポルトガル国民として数えられたのである。彼らは順次、キリスト教に改宗すべく教えを受けた。奴隷を獲得することは、彼らを異教徒から守る側面があった。 問題は、日本人奴隷の職務である。彼らの職務は、主人を守ることであった。そして、万が一の時には主人に従って、敵と戦うこともあった。日本人は好戦的であったため、甚だ戦いでは活躍した様子がうかがえる。高い戦闘能力の日本人 それだけではなく、もし日本人を解放したならば、日本人が敵と通じて叛旗を翻す恐れがあるという。それほど日本人奴隷の戦闘能力は高かったようである。日本人が主力部隊を任されていたとは、大変意外な話である。 なぜ、日本人奴隷が必要なのか。それは、日本人の戦闘能力であって、ポルトガル人はそれを利用して植民地における兵力の不足を補おうとした。本国から兵を呼び寄せるよりも、安価で供給が可能という事情もあったであろう。 当時、ポルトガルはオランダと植民地支配をめぐって、戦いを繰り広げていた。その戦いに勝利を得るには、どうしても日本人の力が必要だったのである。この事実を裏付けるかのごとく、1604年にゴア市民からポルトガル国王に意見書が呈上されている。 日本人奴隷は労務年限が来ると、解放されて陛下(=ポルトガル国王)の臣民となる。彼らは、ゴアに多数存在する。武勇の民で、戦争で貢献した。最近、オランダとの戦いで見られたように、包囲戦や戦況が緊迫した状態になると、ポルトガル人一人が若者(日本人奴隷)七・八人を率い、鉄砲と槍を持ってあらわれる。インドにおいては、この日本の若者のみが軍役に耐えうる奴隷である。岡本良知『改訂増補 十六世紀日欧交通史の研究』より この史料を読むと、日本人奴隷には年季(雇用される期間)があり、一定の期間が過ぎると奴隷身分から解放されたようである。奴隷身分から解放されると、彼らはポルトガルの国民になった。ただ、日本に帰るのが困難だった理由もあってか、インドのゴアの地に止まらざるを得なかった。 オランダとポルトガルの戦いで、日本人が参戦したのは衝撃の事実である。しかも、その戦闘能力は非常に高く評価された。おそらくゴアには、中国、朝鮮そのほかの国々から奴隷が調達されたのだろう。ところが、軍役に耐えられるのは、好戦的と言われた日本人だけであった。 本来ならば、ポルトガル本国で若者に兵役を課し、連れて来るのがベストであったに違いない。ただ、それでは費用や時間があまりにかかりすぎる。そうなると、手っ取り早く質の高い兵卒を確保するには、日本人奴隷が最適であった。 実は、この意見書には「日本人奴隷の禁止をする前に、戦争における日本人奴隷の活躍という実態をお忘れにならないように」と締めくくられている。ポルトガルにとって、日本人奴隷は大きな魅力だったのだ。 近年、報告されているように、16、17世紀のヨーロッパや南米には日本人が数多く存在したようである。むろん、東南アジアもである。 そのなかでもっとも有名なのが、山田長政であろう。長政は駿河国に誕生し(生年不詳)、もともと沼津城主の駕籠(かご)かきを務めていたという。一大決心した長政は、慶長17(1612)年ごろ、朱印船に乗ってシャムに渡航した。山田長政像(模本、東大史料編纂所) やがて、長政は頭角をあらわすと、日本人町の頭領となり、国王ソンタムの信任を得た。しかし、ソンタム没後、王位を狙うオーヤ・カラホムによって毒殺されたという。亡くなったのは、寛永7(1630)年ごろとされている。傭兵としても活躍 また、最近の研究により、17世紀初頭の東アジアにおいて、日本人の多くが傭兵(ようへい)としてオランダなどで雇用されていたと指摘されている。先にも述べたが、日本人は好戦的な民族であり、戦いの能力に長けていた。 ヨーロッパの本国から兵士を呼び寄せるよりも、はるかに人件費などが安上がりである。実際、オランダでは日本人が良く訓練されており、しかも給与や食費が安く済む、と認識されていた。何よりも驚くのは、オランダが徳川家康と傭兵の供給について、合意に達していたことである。 同時に重要なのは、日本国内で製造された武器が、オランダなどに供給されていた事実である。つまり、日本は傭兵や武器を供給することにより、東アジアで展開されるヨーロッパ列強の戦争に関わっていたことになろう。 相当な数の日本人が、東南アジアにおけるヨーロッパ列強の戦争に駆り出されたが、やがてそれも認められなくなる。元和6(1620)年以降、江戸幕府は人身売買、武器輸出、海賊をついに停止した。これは、いわゆる鎖国(海禁)と連動した政策だったといえよう。 ここでは人身売買と記しているが、実際には雇用(=傭兵)も禁止されていた。これまで安く日本人の傭兵を雇用していたオランダなどは、大きな衝撃を受ける。傭兵ならずとも、武器を購入できないことも問題となった。彼は日本が傭兵などを禁止したため、新たな対応を迫られることになった。 その後も日本からの奴隷の輸出は問題視されるが、幕府による海禁によって、その数は減少の一途をたどった。それでも、日本人が海外に存在したことは、その後も確認できる。「ジャガタラお春」もその一人だ。 お春は、イタリア人航海士のニコラス・マリンと母マリアの間に生まれた女性である。お春は、混血児であるがゆえに、ジャカルタ(インドネシア)に追放された。ジャガタラとは、ジャカルタのことである。キリシタンであるお春は、やがてオランダ人のシモン・シモンセンと結婚し、貿易業を営んだ夫と裕福な生活を送ったという。※画像はイメージ(ゲッティ・イメージズ) それにしても、東南アジア、ヨーロッパあるいは南米へと渡った日本人は、いかなる気持ちだったのだろうか。現在は情報手段(テレビ、ラジオ、インターネットなど)が多岐にわたっているので、海外の情報は比較的得やすい。ところが、彼らはまったく何の予備知識もなく、突然異国の地に放り込まれたのである。 今回は、奴隷などとして海外に渡った日本人の実態について触れたが、次回は文禄・慶長の役における拉致、人身売買、奴隷の問題を取り上げることにしよう。主要参考文献渡邊大門『人身売買・奴隷・拉致の日本史』(柏書房)■ 「極悪の欲情」女好き秀吉、フロイスの目にはどう映ったか■ 百田尚樹『日本国紀』はなぜ支持されるのか■ 川中島の戦いは略奪が目的だった? 信玄も黙認した「乱取り」の真実

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    「日本人奴隷は家畜同然」バテレン追放令に秘めた秀吉の執念

    渡邊大門(歴史学者) 前回、天正遣欧少年使節が感じた奴隷貿易などについて述べた。日本人奴隷の売買については、宣教師たちからすれば、「日本人が売ってくるから奴隷として買う」という論理だった。しかし、豊臣秀吉にとって同胞の日本人が二束三文で叩き売られることは、実に耐え難いことであった。そこで、秀吉は対策を講じたのである。 前回触れた通り、秀吉がポルトガル出身のイエズス会宣教師、コエリョに厳しく問い質した後、天正15(1587)年6月18日に有名な「バテレン追放令」を制定している(神宮文庫蔵『御朱印師職古格』)。本稿では、その中の人身売買禁止の部分に絞って、話を進めることにしたい。バテレン追放令の第10条には、次の通り記されている。一、大唐・南蛮・高麗(こうらい)へ日本人を売り遣わし候こと、曲事(くせごと)たるべきこと。付けたり、日本において人の売り買い停止のこと。 この部分を現代語に直せば、「大唐・南蛮・高麗へ日本人を売り渡すことは違法行為であること。加えて、日本で人身売買は禁止すること」という意味になろう。実は、この「バテレン追放令」は原本が残っておらず、多くの写しがあるに過ぎない。豊臣秀吉画像 写しの間には文言の異同があり、これまでいくつかの解釈がなされてきた。例えば、提示した史料の「曲事たるべきこと」の箇所は、先に提示した史料の原文には「可為曲事事」とあるが、別の史料では単に「曲事」となっているものもある。それゆえ、読み方についても、研究者によって諸説ある。 立教大名誉教授の藤木久志氏は、本文の異同に注目して次のように読んだ(『新版 雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り』)。一、大唐・南蛮・高麗へ日本人を売り遣わし候こと曲事に付き、日本において人の売り買い停止のこと。 藤木氏はこのように、ポルトガル商人による日本人奴隷の売買は大前提であり、国内における人身売買こそが主文であると解釈する。秀吉が動かした「不退転の決意」 また、歴史学者の峯岸賢太郎氏は「付けたり」以降の文言が主文であると解釈した。つまり、秀吉がポルトガル人による日本人奴隷の売買という「民族問題」を契機にして、国内の人民支配を強化しようとした人身売買禁止令であると解釈している(「近世国家の人身売買禁令」)。藤木氏も峯岸氏も共通するのは、このバテレン追放令が国内に発布されたということになろう。 この見解に対しては、日本史学者の下重清氏の反論がある(『<身売り>の日本史―人身売買から年季奉公へ』)。下重氏は、18日付のバテレン追放令がコエリョらポルトガル人に通告したものであり、国内に発布されたものではないとする。 つまり、主文はポルトガル人による日本人奴隷の売買禁止であり、「付けたり」以下は禁則の法的根拠と解釈する。もともと日本では国内における人身売買を禁止していたことを根拠として、ポルトガル人の行為を禁止したことになろう。 確かに、日本では原則として人身売買は禁止されていたが、これまで見てきたようになし崩し的、あるいはしかるべき手続きにより、容認されていたという事実がある。これを改めて法的に確認したことになると考えられる。 いずれにしても、秀吉はポルトガル商人による日本人奴隷の売買を禁止した。同時に、国内における人身売買も禁止したのである。 秀吉の日本人奴隷売買禁止の執念は、9年後の慶長元(1596)年にようやく結実することになった。同年、イエズス会は奴隷売買をする者に対して、破門することを決議したのである。次に、その概要を示すことにしよう。 セルケイラの前任司教ペドロは、当初こそ長い年月の慣習により、ポルトガル商人が少年少女を購入し日本国外へ輸出する際、労務の契約に署名するなどして認可を与えた。しかし、日本の事情に精通すると、奴隷とその労務年限から生じる弊害を看取し、インドへ出発する前に破門令を定めた。その破門令は、長崎で公表された。当該法令は、その権を司教一人が保留し、その行為自体により受ける破門の罰をもって、およそポルトガル人が日本から少年少女を購入して舶載することを厳禁した。そして、その罰に加えて、買われた者の損害(購入代金は返金されない)以外に、各少年少女一人ごとに十クルザードの罰金を科した。岡本良知『改訂増補 十六世紀日欧交通史の研究』引用史料 こう記された後、「いかなる人物であれ、ただの一人でも奴隷購買に許可を与えないという宣告である」と明記されている。まさしく不退転の決意であった。 しかも、破門を命じる権限は、司祭がただ一人有するものである。解放された少年少女には、当座の生活資金として10クルザードが与えられた。 歴史学者の岡本良知氏らが指摘するように、秀吉の九州征伐に至るまで、イエズス会は日本人奴隷の売買や海外への輸出をやむを得ず容認する立場であった。しかし、秀吉からの強い禁止の要望により、これまでの方針を転換せざるを得なくなった。キリスト教「破門」の意味 日本人奴隷の売買禁止は、司祭の交代が良いタイミングになったのであろう。何よりも人身売買を継続することで、キリスト教の布教が困難になることが恐れられた。岡本氏が指摘するところの「自衛手段」である。 ところで、キリスト教における破門というのは、いかなる意味を持っていたのであろうか。なかなかキリシタン以外には分かりにくいかもしれない。 破門を命じることができるのは、教会の聖職者に限定されていた。破門の具体的な内容とは、キリスト教信者が持つ教会内における宗教的な権利を剥奪することである。加えて、破門された者は、キリスト教信者との交流を断たれた。 さらに、破門された者は世俗的な教会からの保護も受けられなくなり、教会の墓地への埋葬も許されなかった。欧州では、キリスト教信者が大半を占めるので、破門宣告は「死の宣告」と同義であったと言えよう。そうなると、宣教師の側も並大抵の覚悟ではなかったといえるかもしれない。 翌年の慶長2年、先の司教らの意向を受けて、インド副王がポルトガル国王の名において、次の通り勅令を発布した。それは、マカオ住民の安寧と同地で行われる紊乱(びんらん)非行を避けるなどの目的があった。 朕(=ポルトガル国王)は本勅令により、本勅令交付以後、いずれの地位にある日本人といえども、それをマカオに居住せしめたり連行されることなく、また他のいずれの国民であっても拘束・不拘束にかかわらず、奴隷として連れて来ることを禁止する。岡本良知『改訂増補 十六世紀日欧交通史の研究』引用史料 日本人だけではなく、その他の国の人々も対象となった。この後に続けて、刀を輸入することを禁止し、これを発見した場合には厳しい処罰が科された。 その罰とは、ガレー船に拘禁させられるというものであった。ガレー船とは軍船の一種で、映画『ベン・ハー』で奴隷に落ちぶれた主人公のベン・ハー役を演じた、チャールトン・へストンが漕いでいた船のことである。実に厳しい重労働であった。ブラジル・リオデジャネイロで見つかった、カトリックのイエズス会が17世紀初めに長崎で印刷した日本語とポルトガル語の対訳辞書の本文部。「Inori」などの見出し語がある(共同) ここには、特に人身売買に関する処罰が記されていない。しかし、先に見た通り、禁を犯したものは破門されるわけだから、それが最も重い罰といえよう。 ところが、この問題は一向に解決しなかったようである。秀吉が病没した翌年の慶長3年には、奴隷輸出をストップするための努力がさらに求められた。 そこで問題視されたのは、貪欲の虜(とりこ)になったポルトガル商人が日本人や朝鮮人をタダ同然で購入し、毎年のように輸出することが、キリスト教の悪評を高めることになっていたことである。この場合の「朝鮮人」とは、文禄・慶長の役で日本軍が朝鮮半島で拉致した朝鮮被虜人を意味している。ポルトガル人が考えた四つの理由 キリスト教からの破門という究極の罰をちらつかせながらも、奴隷の売買や輸出は止むことがなかったようである。 以上のような過程を経て、秀吉は人身売買を禁止した。では、なぜ日本人奴隷たちは、その身を落としたのであろうか。彼らが奴隷になった理由はさまざまであり、年端も行かない少年少女は、半ば騙されるようにしてポルトガル商人に買われたこともあったという。その際、仲介者である日本人には、謝礼が払われていた。 ポルトガル人が考えた、日本人が奴隷となりポルトガル商人に売られた理由は四つに大別されよう。 第一に挙げなくてならないのは、戦争を要因とするものである。大友氏領国の豊後(大分県)が戦場になった際、多くの百姓などが他の各国に連行された。連行された人々は、農作業などに使役されることもあったが、肥後(熊本県)では飢饉(ききん)という事情もあって、豊後から連れてきた人々を養うことができなかった。 そこで、彼らを連行した人は困り果て、暗躍するポルトガル商人に売ったのである。しかも、値切られたのか不明であるが、最終的には二束三文という値段にまでディスカウントされたという。 第二の理由は、日本の慣習によるものであった。日本人が奴隷に身を落とす例は、次のように分類されている。① 夫が犯罪により死刑になった際、その妻子は強制的に奴隷になる。② 夫と同居することを拒む妻、父を見捨てた子、主人を顧みない下僕らは、領主の家に逃れて奴隷となる。③ 債権者が債務者の子を担保として金銭を借り、支払いが滞った場合は、子は質流れとなり奴隷となる。 おおむね理由は、①が「犯罪絡み」、②が「家族関係の破綻」、③が「借金」の三つに分類される。ポルトガル商人は、こうして奴隷に身を落とした人々を仲介者から購入したようである。 第三の理由は、親が経済的に困窮したため、やむなくわが子を売るというものである。当時、貧しい百姓は領主から過大な年貢を要求され、自らの生活が成り立たないほどであったと宣教師は述べている。狩野内膳作『南蛮人渡来図』(神戸市立博物館所蔵 Photo : Kobe City Museum / DNPartcom) 貧しき百姓は、1年を通して野生の根葉により、何とか食いつないだ。それすらも困難になると、ポルトガル商人に子を売ることになる。 そしてポルトガル商人は、特段疑うことなく奴隷として購入した。宣教師は「彼らを救済する方法を調査しているのか」と疑問を投げ掛けるが、ポルトガル商人は考えもしなかったであろう。単に商売を目的として、彼らを買っただけである。志願して奴隷になった日本人 最後の理由は、これまでの貧困とは異なっており、自ら志願して「自分を売る」というスタイルであった。岡本氏が言うところでは、海外に雄飛すべく覇気に満ちた日本人といえよう。 しかし、「自分を売る」人々は、あまり歓迎されなかった。その理由は、おおむね次のようになる。 それらの者(=自分を売った者)の大半は承諾した奴隷の境遇に十分な覚悟を持っておらず、マカオから脱出して中国大陸に逃走し、そこで邪教徒になる意志を持っており、単にお金が目当てで自分を売っているに過ぎない。他の者の中には価格に関係なく、その代価を横領する第三者に威嚇されて売られた者もあった。また、ある者はマカオに渡航しようと欲したが、ポルトガル人の旅客として乗船を許可されないことを懸念し、ポルトガル商人の教唆により「自分を売る」者があった。しかし、実際にポルトガル商人は彼ら(=自分を売った者)の大部分が脱走することを恐れ、「自分を売る」という者には最小の対価しか払わなかった。岡本良知『改訂増補 十六世紀日欧交通史の研究』引用史料 意外なことではあるが、戦国時代には名もなき民が海外への雄飛を期して、自ら奴隷となる者がいたのである。それは、シャム(タイ)で活躍した山田長政の先駆け的な存在であった。 しかし、「自分を売る」という手段で奴隷になった者は、最初から奴隷の仕事に従事する気はなく、もらった金を懐にして、たちまち脱走するパターンが多かったようである。したがって、こうした人々は商品にならないので、ポルトガル商人から敬遠されたようである。 ただ、以上の見方は、ポルトガル商人側から見た一つの側面に過ぎない。一貫しているのは、「日本人が奴隷を売ってくるから」ということになろう。彼らは奴隷を売買して、儲けることができればいいのである。 宣教師たちには布教という最大の目的があり、同時に日本と関わりを持ったポルトガル商人たちは「金儲け」という目的があった。それぞれの目的が異なったために利害が対立したのは、これまで述べた通りである。したがって、宣教師の残した記録には、やや弁解じみているように感じてならない。※ゲッティ・イメージズ 余談ではあるが、当然ながら日本から連行された奴隷たちは、単なる一商品にしか過ぎなかった。その待遇は劣悪そのものであり、人間性を伴った配慮はなかった。奴隷は家畜と同等と言われているが、まさしくその通りなのである。 日本人奴隷は航海中に死ぬことも珍しくなかった。病気になっても世話をされることもなく、そのまま死に至ったという。船底は太陽の光すら当たらず、仮に伝染病にでもなれば、もはや死を覚悟するほかはなかったであろう。 次回は、海外に雄飛した日本人を取り上げることにしよう。主要参考文献渡邊大門『人身売買・奴隷・拉致の日本史』柏書房(2014)■ 後世の人間まで騙し続けた不徳の男、豊臣秀吉の「大魔術」■ 「日本人奴隷は神の恩寵」秀吉の逆鱗に触れたイエズス会の解釈■ 書状で鬱憤晴らすねちっこい男? 子飼いの重臣に見せた秀吉の小物ぶり

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    所功手記「新元号『令和』は想定外なれど、感服するほかない」

    従来は専ら漢籍(中国の古典)が使用されてきたが、今回は初めて国書(日本の古典)が採用された。しかも、歴史書の『古事記』や『日本書紀』でなく、和歌(やまとうた)を集成した『万葉集』が典拠されたことは想定外ながら感服するほかない。 この『万葉集』巻五に、九州の大宰(だざい)府で、天平(てんぴょう)2(730)年正月13日に開かれた梅花を賞(め)でる宴会において、32人の官人たちが詠んだ和歌と、冒頭に序文が収められている。 その序文は、大宰帥(だざいのそち、長官)大伴旅人(たびと)か、筑前守(かみ、国守)山上憶良(おくら)の作とみられる。「時には初春(正月)の令月(よき月)にして、気淑く風和(やわら)ぎ(穏やかで)、梅は鏡前の粉を披(ひら)き(おしろいのように白く咲き)、蘭は珮後(はいご)の香(こう)を薫(かお)らす(匂い袋のように香っている)」などと、宴会の状況が的確に描かれている(括弧内の注釈は中西進氏『万葉集』全注釈)。 この文中にある「令」と「和」を組み合わせて「令和」という元号ができたのである。しかも、その背景として、唐風文化の開花期である天平時代に、大宰府という中国大陸や朝鮮半島との外交を統括する公館における梅花宴で、教養の高い官人たちが、漢詩でなく和歌を詠んでいることに思いを致すと、一層味わい深い。 梅というのは、中国伝来ながら、日本各地で旧暦1月の春先ごろに花が咲き、香りが芳(かぐわ)しい。わが国には「梅は寒苦を経て清香を発す」という名句がある。新元号「令和」の引用元の万葉集の歌が詠まれたとされる大宰府政庁跡にある坂本八幡宮=2019年4月1日 その句を加味すれば、天災などの苦難もみんなの助け合いで乗り越えてきた平成の日本人が、さらに今後も心を寄せ合って本当に美しい平和な日本を花咲かせよう、という理念を表明したことにもなろう。 今や国際化・グローバル化の加速する日本で必要なことは、日本人としてのアイデンティティーを再認識し、その上で可能な限り国内外のために貢献することではないかと思われる。そんな新時代への展望と期待をこめて、「令和」元号の誕生を言祝(ことほ)ぎたい。■ 呉智英が読む平成30年史「日本人はどう変わったか」■ 幕末幻の元号「令徳」が示す改元のインパクト■ 元号をめぐる「タブーなき議論」こそ平成と昭和の差である

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    新元号「令和」に言いたい

    平成の次の時代を表す新元号が「令和」に決まった。大化から数えて248番目となる元号は日本最古の歌集「万葉集」から引用されたが、「令」という漢字は初めて採用された。これまで元号で使われた漢字は、たった73文字しかないのも驚きだが、なぜ「令和」が選ばれたのか。その意味を考えたい。

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    新元号「令和」公表にチラつく支配欲と主導権争い

    いだろうか。■幕末幻の元号「令徳」が示す改元のインパクト■信長でも苦慮した改元「元亀から天正」暗闘の歴史■67年前、日本は「元号」を奪われる最大の危機にあった

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    新元号「令和」と「昭和」の知られざる共通点

    名を生み出した古典中の古典です。また、出典の箇所ももちろん、とてもいい意味だとされています。 元号の歴史に照らし合わせた「伝統」という意味では、これまでがほぼすべて中国古典を出典としていますから、その流れに沿うべきだという考え方もあるでしょう。元号は誰のものか 他方で、日本固有の伝統としての「万葉集」を重視するという考え方もあり得ます。日本が生み出した文化が大事だと考える立場もあり得ます。今回、安倍政権は後者をとったと、私は見ています。 そうした昭和との共通性をふまえると、今回の新元号はいくつかの論点を示しています。一つは、元号は誰のものなのか、という論点です。 元号法は、元号は政令で定める、そして、元号は皇位の継承があった場合に限り改める、と定めています。この法律の主語は、誰でしょうか。政令は、政府が定めますので、手続きとしては、主語は政府です。すると、元号は政府のもの、ということになるのでしょうか。 あるいは、この政府を決めるのは国民だという立場に基づけば、元号は国民のものだ、ということになるのでしょうか。もしくは、皇位の継承が行われるのは、いうまでもなく天皇陛下によるので、すると主語は天皇陛下、ということになるのでしょうか。 少なくとも、法律の上からは、政府が主語だと考えざるを得ません。あくまでも、政府が元号を決めます。今回の新元号発表にあたっても、菅義偉官房長官が閣議決定事項として発表し、安倍晋三首相が談話として自ら述べました。  また、大化から昭和にいたる246の元号は、すべて最終的には天皇が決めてきましたが、元号法のもとでは平成も令和も内閣が決めています。こうした経緯をふまえて、それでもなお元号は誰のものなのか、という論点は残り得るのかもしれません。 また、次の論点として、元号は隠すべきものなのか、という点が挙げられます。今回、政府は元号に関する情報管理を徹底したと報じられています。新元号候補が、事前に報道された場合には、差し替えると語ったとも言われています。 ただ、そもそも、なぜ新元号を、ここまで隠す必要があるのでしょうか。もちろん、次の天皇陛下のおくり名(追号)として使われるのだから、国家の最重要機密なのだ、という理屈は、考えられます。新元号「令和」に関し記者会見で談話を発表する安倍首相=2019年4月1日午後0時21分、首相官邸 かといって、新元号候補や考案者を、かたくなに隠そうとするばかりです。少なくとも政府から公式には、上記の説明はありません。菅官房長官による公式の説明としては、3月29日の記者会見で「決定された新元号が、広く国民に受け入れられ、日本人の生活の中に深く根ざしていくものになること」と述べたところまでです。 「本当に」元号は「絶対に」隠さなければならないのか、という点については議論の余地があります。 他にも、元号予測が、ここまでイベント化してしまってよかったのかどうか。あるいは、保守派が主張するように、改元前の新元号公表は、そもそも是なのか、非なのか、といった論点が浮かびます。こうしたいくつかの論点をどのように受け止めるのか、ということが問われているのではないでしょうか。■ 信長でも苦慮した改元「元亀から天正」暗闘の歴史■ 67年前、日本は「元号」を奪われる最大の危機にあった■ 呉智英が読む平成30年史「日本人はどう変わったか」

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    新元号「令和」が持つ本当の意味を日本人はどれだけ理解しているか

    「令和」の御世は新天皇の下で今後、無数の記録が書き込まれていく。そして全国民にとって各自の唯一無二の歴史となる。このように理解すると元号制度が極めて人間的で文化的なものであることが分かるだろう。 ところで新元号「令和」は、今上陛下のご譲位にあたり1カ月前に発表された。異例である。これは産業界の要請など政府にも事情があるのだろうが、伝統的権威は伝統によってのみ維持されるから天皇に関わる事柄は、すべて無条件で伝統に従うことが大原則だ。 今回の異例のご譲位と改元はご高齢であることが挙げられるが、本来摂政を立てられればよいことであり、これは日本が先の大戦を踏まえた講和条約を結んだにもかかわらず、いまだに占領で破壊された民族の大切な伝統が回復されていないことを示している。モニターに映し出された新元号「令和」の文字=2019年4月1日、東京都千代田区 したがって今回はやむを得ないとしても、なるべく早く「占領憲法」を改正し、次回からは伝統に戻すことが必要だ。これは政府だけでなくわれわれ国民の責務である。 そもそも日本民族における元号制度の機能は歴史に期間を設定し「時代」の概念を作ることである。これにより、元号制度が日本人にとって文化的、そして政治的、社会的に重要なものになってくるのである。 その一方で、元号反対論には誤解によるものと政治的な陰謀がある。誤解によるものは、暦は数えやすいようにキリスト歴一本にすべきという単純な意見である。しかし、これは短い人生を終える国民の歴史的感慨に配慮のない意見である。共産党の矛盾 結論としては、キリスト歴は巻尺であり、元号はもの差しに当たると考えて併用すればよい。換算が不便というが、たいした手間ではない。早見表を見れば良いだけの話で小学生でもできることだ。 共産党の志位和夫委員長はこれまで、元号制度は支配者が時を支配するものだから反対と述べたことがある。しかし、時というものは想像上のもので存在しないことは古代の龍樹、アウグスチヌス、道元などの先哲がすでに明らかにしている。 だから時は誰も支配などできない。そして共産党の代案がマルクス暦というのなら分かるが、キリスト歴というのでは驚いてしまう。共産党はいつからキリスト教徒になったのか。 そして唯物無神論ではなかったのか。あまりにも無原則で機会主義的だ。キリスト歴はあくまでも宗教暦であり、キリスト教徒の暦である。イスラム圏ではイスラム暦があり、中東の新聞ではキリスト歴はカッコ付きで付記されている。 そもそも元号問題は戦後2回、大きな政治問題になった。1回目は昭和25(1950)年に元号廃止が国会で検討されたことだ。これは戦後のドサクサを利用して日本の伝統文化を廃止しようとする左翼、キリスト教勢力の陰謀であったが、左翼の最優先課題がサンフランシスコ平和条約の反対運動にシフトしたため、幸い防ぐことができた。実に危なかった。 2回目は昭和53(1978)年で愛国的な国民が結集し元号法を制定した。この時は危機感の高まりで元号制度制定促進を求めて国民があの日本武道館いっぱいにあふれたのである。 また、元号制度は連続した歴史に期間を決めることにより「時代」の概念を作るが、これにより歴史はとりとめのない時点主義から人生の記録を示す人間の歴史になる。この中で各人は天皇の謚(おくりな)を通じて公の歴史につながることができる。新元号が「令和」に決まり、記者会見で談話を発表する安倍首相=2019年4月1日、首相官邸 私の場合、昭和に生まれ、平成を経験し、新しい元号の時代に死ぬことになるから三代の天皇を戴いて生きたということである。ささやかであるが、私の公的記録だ。また、歴史が時点主義から期間になることにより、共同体の成員にとって国家の歴史が成員の共有財産になる。 われわれ日本人は元号を介して歴史を共有する民族なのだ。これが、われわれが元号制度を守らなければならない大きな理由なのである。元号が持つ時代感覚 ところで、元号は日本の文化に多くの影響を与えているが、その一つとして俳句がある。有名な句に、俳人である中村草田男の「降る雪や明治は遠くなりにけり」がある。この句の感慨は明治だからこそであり、これがキリスト暦では俳句にならない。 そして明治という元号は明治天皇を戴き、全国民が心を一つにして大きな犠牲を払いながらも大敵を撃退した日本民族の苦しくも栄光の時代を意味している。この時代の国民の感動と感慨が夏目漱石の小説「こころ」、乃木希典将軍の殉死など、国民の深い感慨になっている。中村草田男もその一人だ。 また、明治の元号を冠する明治大学の校歌には明治時代の明るさと力強さを感じる。作家の戸川幸夫は、明治は日本人にとって特別の時代であったと記し、次のように述べている。 私は明治人間である。と言っても末年に生まれたので、大きな顔は出来ないが、それでも九州の片田舎で育ったので、当時はまだ明治の気風がそのまま色濃く残っていた。私は大東亜戦争に従軍し苦労を体験したので、戦後の平和な今を生きる若い人がうらやましいが、同時に不安も感じる。明治の人々やそれ以前の日本人が歩き残していったものを伝えるべきであった。その意味で今が明治の昔を振り返って学ぶべきことを学ぶ大切な時期と思う…(「明治の気概」抜粋要約) こうした時代の感動が元号による時代認識として共同体の成員に共有され、さらに若い世代に継承されるとしたら、これはすばらしいことである。時代機能のないキリスト歴では到底考えられない。元号はその共通の時代意識を通じて日本民族の伝統意識を作っている。これは日本社会の安定のために非常に重要だ。 フランスの社会心理学者、ル・ボンは19世紀欧州の革命暴乱をみて国民の精神的伝統の深層が破壊されると社会は流動的になり、それが強い刺激を受けると想定外の暴走を始め悲劇を生む、と民族の深層を守る伝統意識の重要性を記している。 彼によると、フランス革命前夜のフランス社会ではキリスト教の権威の衰退、地方から都市への移住、産業の変化などがそれまでのフランス人の深層意識を不安定化したため、パリの暴動事件が全国規模の革命の大乱に拡大したという。川越市立博物館蔵の五姓田芳柳筆「明治天皇肖像」 また、ロシア革命でも農奴解放や産業化による社会の変動が人心の流動化を招き、あの大規模な内戦と革命の悲劇を生んだ。ドストエフスキーは小説『悪霊』で19世紀中頃のロシア社会の深層の変化について、次のように記している。  それは一種特別な時代であった。以前の平穏さとは似ても似つかない何か新しい事態が始まりそれが至るところで実感されるのであった。その背後にそれらに付随する思想が生み出されていることは明らかであった。しかしそれがおびただしい数に上がるので突き止めようとしても不可能であった…的外れな元号非難 われわれ日本人は現在、幸い何となく安心して暮らしているが、その深層には同じ民族としての共通の信頼感があることは間違いない。その柱が天皇崇敬であり、それに伴う元号の作る共通の時代意識なのだ。 ル・ボンは社会の大乱を深海の大地震が起こす大津波に例えている。民族の深層が強固なら地震の揺れを吸収するが、そうでないと、大津波となって社会を崩壊させてしまうのだ。元号は天皇崇敬とともに、この大地震を吸収する有力な緩衝材の一つである。だからこそ元号制度は敵に狙われるのであり、われわれは意識してしっかり守らなければならない。 ただ、今上陛下の譲位を控えた本年の一般参賀にうかがった国民の数は15万人に上り、史上最多であった。また、先日の今上陛下の神武天皇陵参拝の関西行幸には異例の多くの国民がお迎えした。これは今上陛下への敬慕の思いと、自分の歴史としての平成の時代が過ぎていくことを実感し惜しんだからではないか。これはまさに平成という元号が国民各自の時代でもあったことを示している。 だから帝王が「元号によって時を支配する」などという非難が、全く的外れであることが分かる。これは同時に日本民族の深層が天皇崇敬と元号制度を通して、まだしっかり維持されていることを示しており心強い。 日本の元号制度とは、天皇の謚によって、長大でとりとめのない歴史を時代という概念で等身大に切り取り、それを保管、共有し、後世に伝えるという極めて高度で素晴らしい制度である。 ゆえに、新元号について、文字の善し悪しなどを論じるのは本筋から外れていると思う。時代は、元号の文字によるのではなく、その時代の歴史の評価で強く記憶されてきたからだ。それは現代ではわれわれが作るものであり、時代に生きるわれわれの力量を示すものである。帰京のためJR京都駅を出発される天皇、皇后両陛下=2019年3月、京都市下京区(代表撮影) 冒頭でも記したが、これが国家とともに自分個人の唯一無二の歴史を作ることにもなる。時代概念は時の容器である。新しい時代の始まりを見て期待とともに、ある種の畏(おそ)れの念を持つのは私だけではないだろう。 今われわれは過ぎ行く平成の御代を惜しみながらも、新しく始まる時代を迎える心の準備をしている。後世の日本人に感謝されるよう父祖にならって新しい天皇陛下の下で強く団結し、内外の危機を乗り切っていかなければならない。■ 呉智英が読む平成30年史「日本人はどう変わったか」■ 幕末幻の元号「令徳」が示す改元のインパクト■ 元号をめぐる「タブーなき議論」こそ平成と昭和の差である

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    新元号決定、不敬なプロセスが生む「第2の光文事件」

    後藤致人(愛知学院大文学部歴史学科教授) 天皇代替わりにあたり、元号を即位の日にあわせて改元する、いわゆる「即日改元」は本当に必要なのだろうか。今回の改元は、譲位1カ月前に公表し、暦の変更に不都合がないように配慮がなされている。ただ、新天皇即位にあわせての「即日改元」の原則は変わっていない。 改元手続きは、どんなに急いでも数カ月はかかる。つまり、先帝崩御の場合、翌日に改元するためには、天皇が亡くなることを予期して手続きを進めなければならず、これほど失礼なことはない。もしも天皇に不慮の事故があったとき、物理的に「即日改元」は不可能である。このような綱渡りを、天皇代替わりごとに行わなければならないのはおかしくはないか。また、文字案は秘密裏に審議が進められるが、象徴天皇制にふさわしくないのではないか。 「即日改元」が定められたのは明治時代になってからで、皇室典範や登極令(旧皇室令)などによって、改元は新帝即位直後、文字案の審議は枢密院で行い、勅定するとした。明治天皇の病状が悪化すると、来るべき改元に備えて、西園寺公望(きんもち)首相が元号の内案作成を命じ、天皇崩御の後、新帝即位直後に元号案は枢密院で審議され、第1案であった「大正」が決定した。 改元詔書では明治45年7月30日以後を大正元年とすることが明記された。明治改元のときは慶応4年を明治元年に改元するとのみ書かれており、月日をはっきり明記するようになったのはこの大正改元からである。 大正天皇の病状悪化のときも、元号内案の作業に着手している。このときは宮中と内閣で別々に作業が始まっている。宮中では一木喜徳郎(いちききとくろう)宮内大臣が図書寮編修官に命じ、3案にまとめられ、牧野伸顕(のぶあき)内大臣と元老・西園寺公望の了解を得ている。大正天皇 一方、内閣の方では若槻礼次郎首相が着手を命じ、5案を得ている。この宮中3案と内閣5案をあわせて内閣書記官長が精査し、第1案を「昭和」、他2案に絞っている。この3案はすべて宮中案であった。 大正天皇が崩御し、新帝が即位すると、その直後に枢密院で元号案が審議され、第1案の「昭和」と決定した。このとき、毎日新聞の前身である『東京日日新聞』が、新元号は「光文」と誤報する。いわゆる「光文事件」だが、この「光文」は内閣から出された候補の一つで、最終候補にも入っていない。ふさわしい改元手続き 戦後新しい皇室典範からは元号規定が削除され、長らく元号は法的根拠を失った。元号法を模索する動きは水面下であったものの、革新陣営からは、天皇が時を支配するという考え方に抵抗感があり、成文化するには時間がかかった。 ようやく福田赳夫内閣で元号法制化による存続を明確化し、大平正芳内閣で元号法が公布された。ただ、元号存続の是非に関わる本質的な論戦を避けたため、非常に簡素な条文となっている。元号は政令で定めることと、皇位継承があった場合に限り改元する旨が書かれているだけである。しかし「即日改元」の原則は続けることになり、象徴天皇制下でもなお、天皇崩御を予期して、秘密裏に文字案の選定が進められることになった。 昭和天皇の病状が悪化すると、内閣の担当者で協議が始まり、新天皇が即位すると有識者による懇談会が開かれ、小渕恵三官房長官が三つの原案を示し、その後衆参両院の正副議長の意見を聞き、閣議を開いた上で「平成」を決定している。今回の選定過程もこの平成改元にならっている。 元号は天皇の在位期間を基本に数える政治的紀年法ではあるが、正確に天皇の即位と退位にあわせる必要はない。明治改元は明治天皇即位より1年9カ月後に行われている。前近代では先帝崩御の1年後、もしくは2年後に改元することの方が一般的であった。先帝に対する一定の服喪の期間を経て改元する方が、儀礼的にもふさわしい。例えば、崩御後翌年の1月1日をもって改元とすれば、このような綱渡りをしないで済むし、西暦との換算も楽になる。 元号は国民生活と密接な関係にあり、文字案の審議も原則公開で行った方がいいのではないか。天皇崩御を予期して改元手続きをしなければならないから、非公開にならざるを得ないのであり、翌年改元となれば、公開しても不都合はない。また秘密裏に進めれば、それを知りたくなるのが人情であり、マスコミによるスクープ合戦も起きる。ごく少数の人間で審議を進めると、元号の文字に致命的なミスが起きやすい。昭和天皇の霊柩を乗せた惣華輦(そうかれん)が、おごそかに、ゆっくりと葬場殿に向って進む=平成元年2月24日 今回の改元は、譲位によるものであり、崩御を予期しての改元手続きでないため、作成過程を公開しても問題はなかった。将来の課題として、象徴天皇制にふさわしい元号制定過程を検討した方がいいのではないか。■幕末幻の元号「令徳」が示す改元のインパクト■平成改元「運命の一日」官邸発表までの舞台裏■新元号をめぐる「タブーなき議論」こそ平成と昭和の差である

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    安土城「蛇の巨石」に隠された信長の仰天プラン

    橋場日月(歴史研究家、歴史作家) 『歴史街道』4月号(PHP研究所)「明らかになった小牧山城」で、歴史学者で城郭研究の権威・中井均氏(滋賀県立大学教授)が信長の小牧山築城の意図は間々観音降臨のための磐座(いわくら)と説明されていた。筆者がこの連載の第8回で述べた内容を、偶然ではあるだろうが肯定いただいている点で、素直に喜んでいる。 さて、天正4(1576)年4月1日、安土城では石垣工事が開始された。尾張・美濃・伊勢・三河・越前・若狭・山城・摂津・近江・河内・和泉・大和の武士たちも作業員として動員され、隣の観音寺山ほかから大石が1千、2千、3千と引き下ろされて安土山へ運び上げ積まれていく。 ところが、信長の甥にあたる津田坊が持ち込んできた大石は、巨大で重すぎるためにまったく山上へ引き上げることができない。おそらくこの石の運搬作業を記録したと思われる宣教師フロイスの言葉によれば、約10メートル・112トンという大石の引き上げ作業中、けん引する綱が切れたかして下に滑ったため、150人以上が大石の下敷きになって死んだという。 そこで信長は自ら陣頭指揮を執ることにした。羽柴秀吉・滝川一益・丹羽長秀ら3重臣の配下1万人あまりが日夜ぶっ通しの作業で、3日かけてようやく運び上げたという(『信長公記』)。「信長公蛇石曳之図」(伊藤龍涯作、摠見寺所蔵)2017年1月15日 信長は足利義昭の二条御所造営の際にも造園用の名石をあや錦や花で飾り立て、笛太鼓のおはやしに乗せて運んだから、安土山でも同じ趣向でにぎやかなお祭り仕立てで作業員の士気をあげ、呼吸を合わさせて石を引かせたのだろう。 この大石だが、『信長公記』には「蛇石(じゃいし)という名石」とある。もうこの名前だけで、この連載の読者の方々は「あ、また蛇か」と思われるだろう。この石を安土に持ち込んだ津田坊とは、津田坊丸(御坊)、のちの津田七兵衛信澄(のぶずみ)で、彼は当時近江高島にいたから、高島から蛇石を船で対岸の安土へ運んだのだろうか。アワビ石の伝説 時代が少し下って編まれた『織田軍記』では、この石は「蚫(あわび)石」と呼ばれ、丹羽・滝川・羽柴の1万人あまりが昼夜兼行で曳(ひ)き、信長が自ら金の幣(ぬさ)を持ち木遣り(きやり・重いものを大勢で運ぶ時の労働歌)を歌い、3日がかりで上げたと書かれている。 鮑(あわび)はこの世とあの世をつなぐ海の精霊として扱われることが多く、船を救ったり、食べると永遠の命を得たり、害を加えると時化(しけ)を起こすなど霊験あらたかな存在として考えられていた。例えば干し鮑は長寿の象徴として縁起物にされているから、厄除けグッズマニアの信長としてはその名前だけでも自分の城に持ち込みたい一品だったろう。あるいは、この石の形が鮑に似ていたものか。 また、「蛇石」という呼び方については、現在富山県の片貝川に残る「蛇石」が水の神として祀られ、長野県横川の「蛇石」も治水の象徴として知られている。ともに蛇のような模様が入っていることも共通している。おそらく安土山へ運び込まれたものも、これらと似たような伝承や紋様を備えていただろう。 信長は、水を操る霊力を帯びた巨石を安土山の山頂へと引っ張り上げて、山と城を蛇の磐座にしようと考えたのだ。 興味深いことに、安土山の南西18キロには三上山が鎮まっている。この山は「近江富士」の異名を持つ優美な山なのだが、琵琶湖の龍神の伝説を持ち、山頂には磐座がある。この龍神は、前回紹介した瀬田の唐橋での俵藤太秀郷の大ムカデ退治に登場した龍だ。信長はこの三上山の龍神の磐座を、安土山で蛇神の磐座としてコピーしたのかもしれない。横川川の河床に横たわる大蛇のように見える「蛇石」は、いまも下流の住民を見守っている=長野県辰野町 さらに、安土山の東に連なる繖山(きぬがさやま)だ。観音寺山とも呼ばれ、かつて六角義賢(承禎)の城があったこの山の頂には雨宮龍(あめみやりゅう)神社がある。その名の通り、龍の磐座だ。 まさに信長好み、そんな良い場所があるなら、観音寺城跡を修復整備して本拠にすれば良いのに、と思わないでもないが、そこは信長。安土山を選んだのには、いくつか理由があったと考えられる。その1、琵琶湖の内湖に接し、敏速に船で移動できる安土山の立地を優先したその2、天下人として、六角氏の居城跡を再利用するのは沽券(こけん)に関わると考えたその3、室町12代将軍・足利義晴が仮の御所を置き、15代の足利義昭も永禄11(1568)年の上洛(じょうらく)戦の際ここに逗留(とうりゅう)したことから、義昭を追放した信長としては好ましい場所ではなかったその4、繖山の観音正寺と桑実(くわのみ)寺は天台宗の寺院であり、同じく天台宗の比叡山延暦寺(えんりゃくじ)を焼き討ちした信長としてはいかにも居心地が悪い驚天動地のイベント もう一つ言えば、安土山の麓には石部(いそべ)神社が鎮座していた。現在も安土城跡のからめ手、百々橋口(どどばしぐち)のすぐ内側にある古社だが、その社記には「天正4年織田信長公安土山に築城するや守護神として奉祀(ほうし)し社殿の修復をなし祭祀を厳修せり」とある(社頭掲示板)。 信長は安土城築造に際し石部神社の別当寺である九品寺(桑実寺の子院だったらしい)は焼き払ったが、この神社は城の守護神として大事に保護したのだ。この辺りにも、神と仏に対する信長の態度の違いは鮮明に表れている。 結論として安土山を選んだ信長は、安土山の頂に「蛇」を勧請(かんじょう)した。蛇石は、麓の石部神社、尾根続きの繖山の「龍」とセットとなり、安土山の城下を守る役割を果たす。彼の龍・大蛇への傾倒は、この新天地・安土でもしっかりと継承されたのだ。 徐々にその姿を現しつつある安土城。だが信長は、この城を舞台にした驚天動地のイベントを考えていた。公家の山科言経が日記の紙に転用した一通の書状(紙背文書)がある。 書状は、言経の姉で越前国の松尾兵部少輔に嫁いでいた阿茶が父、言継に出したもので、「明年は安土へ内裏様行幸申され候わん由(明くる天正5年には安土に内裏様が行幸されるとの噂)」という内容だった。(『書状研究』76.9「安土行幸を示す『言経卿記』紙背文書の一通について。橋本政宣) 内裏様というのは現代ではひな人形の「お内裏様」=男雛(親王雛)を指すが、本来的には天皇や親王単独を意味する言葉ではなく、皇后と対のセット、つまり皇室そのものを意味する。一方、「行幸」は天皇単独の外部訪問を意味する(皇后の外部訪問は「行啓」)からややこしい。織田信長が居城の安土城を建てたとされる安土山一帯。県が天守の再建を検討している=2019年1月11日、滋賀県近江八幡市安土町下豊浦(撮影・川瀬充久) ただ、後に信長の事業を継承発展させた豊臣秀吉が天正16(1588)年に実現した後陽成天皇の「聚楽第(じゅらくだい)行幸」では、天皇だけでなく母の新上東門院や妻(准后)の近衛前子らも同道しているし、同じく寛永3(1626)年の徳川幕府による京・二条城行幸でも後水尾天皇とともに妻(中宮)の和子(まさこ、徳川秀忠の娘)が赴いていることから考えると、天皇単独でなく、皇室そのものが安土城にやって来る予定だったのではないだろうか。 この信長の皇室行幸啓プランはやがて目に見える形となって来る。その際に紹介することにしよう。信長のすさまじい怒り さて、安土城石垣着工から2日後の4月3日、信長は配下の明智光秀・細川藤孝に「大坂方面の麦はぜんぶなぎ捨て終わったか。大坂本願寺にこもる一般の男女は赦免しても良いが、坊主は生かすな」と書き送っている。 大坂本願寺と講和を結んだ信長だったが、平穏な時はつかの間にすぎなかったのだ。 この年の2月8日、将軍足利義昭は紀伊国由良から毛利輝元を頼って備後国鞆(とも)に移ったのだが、本願寺はこの義昭と連携して再び反・信長の兵を挙げたという成り行きだったため、この時点では信長にとって望まざる決裂だっただろう。なにしろ、天皇を安土城に招くには畿内が平和で統一されていることが第一要件となるのだから。 信長は兵糧攻めを光秀らに指示すると、4月14日には大坂各所の砦から本願寺攻撃を再開させる。しかし、敵は手ごわかった。義昭の誘いを受けた越後の上杉謙信も5月になって反・信長を表明。信長の焦りは、残虐な処置を生む。越前で一向一揆の残党が起こした一揆では、鎮圧に当たった前田利家が5月24日、一揆衆1千人ほどを皆殺しにした。 その状況を記した小丸城(現在の福井県越前市五分市町)跡出土の瓦には、下記のようにある。「此書物後世ニ御らんじら□(欠ケ)れ御物がたり可有候(あるべく)然者(しからば)五月廿四日いき(一揆)おこり候まま前田又左衛門尉殿いき(一揆)千人ばかりいけどりさせられ候也御せいばいハはっつけ(磔)かま(釜)にいれられあぶられ候也如此候(かくのごとく) 一ふで書きとどめ候」「この記録を後世の人は読み、語り伝えてほしい。それでは(教えよう)、5月24日に一揆が蜂起したので、前田利家殿が1千人ほど生け捕りにした。その処罰は、磔(はりつけ)・釜煎り(釜に油をたぎらせて焙り殺す)だった。以上の通り、一筆書きとどめる)」 これは後世に利家の功(こう)を伝えるための記録と考えられ、一向一揆は悪と規定されたものだが、本願寺を代表する敵対仏教徒への信長の怒りはすさまじい。やがてこれが本願寺本体にも及ぶと考えると、門主の顕如(けんにょ)が必死に抵抗するのも当然だったろう。織田信長公像=2018年11月、岐阜市役所(中田真弥撮影) その後も信長にとっての苦境は続いた。7月の第一次木津川口の戦いでは、織田水軍は毛利水軍に惨敗を喫して本願寺の封鎖を破られ、兵糧補給を許してしまうことになる。■「龍宮に続く橋」信長のオカルト願望を叶えた御用建築家■またも龍パワー? 安土城と京屋敷、信長が同時普請にこだわったワケ■長篠合戦図屏風に描かれた「六芒星メンズ」の謎を解く

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    元幹部告白手記「靖国神社150年目の危機」

    よくよく考えてみれば、150年という佳節を迎えたとき、靖国神社が国家の施設として維持されてきた戦前の歴史は約76年、他方、宗教法人として維持されてきた戦後の歴史は約74年になる。そして現状のまま推移すれば、宗教法人としての歴史が今後、一方的に積み重ねられて行くことになるのだ。 もとより靖国神社が私的な一宗教法人として存続することを余儀なくされたのは、連合国軍総司令部(GHQ)の強圧的な宗教政策によるもので、靖国神社が自主的に選択した途(みち)でも、国民の合意のもとに決せられた性格変更でもなかった。 しかも占領下にあっては護国神社とともに特別に危険視され、何時でも廃止・解散の対象とされ得る不安定な状況に置かれたのである。 さらに、占領解除後も昭和30年代には「祭神合祀と厚生省の事務協力」が、40年代には「靖国神社国家護持法案」が、50年代には「首相の靖国神社参拝」が国会論議の争点となり、60年8月15日に中曽根康弘首相が公式参拝を行って以降は、いわゆる「A級戦犯問題」が外交問題化して「天皇の靖国参拝」中止の直接的な原因と指摘されるまでに至っている。 今や靖国神社をめぐる諸問題は「A級戦犯問題」の解決によってそのすべてが解消されるかのような錯覚を与えているが、それはあまりに皮相的な見方である。戦後の靖国神社の歴史を振り返れば瞭然のように、それら問題はすべて、占領政策によって法制度上の地位が強制変更され「靖国の公共性」が不明瞭にされたことに起因するからだ。 つまり、占領政策の核心部に位置するこの問題を解消しない限り、すべての解決などは望むべくもないのである。 まして靖国神社は「特定の教義を信じる信者によって組織された私的な宗教団体」でもなく、靖国神社と国民とのつながりは、個人の信教の自由に基づいて信じる、あるいは信じないといった関係性にはない。さらに宗教法人法にいう宗教団体は社団的な性格が色濃く、宮司や少数の責任役員の意向で神社のあり様をいかようにも変質させることができ、場合によっては消滅することも起こり得る。 筆者が平成29年に『靖国神社が消える日』(小学館)を上梓して「国家護持」という言葉をあえて議論の俎上に乗せようとしたのは、このまま戦争の記憶が薄らぎ、靖国神社は宗教法人であって当然といった意識が支配的になれば、やがて「靖国の公共性」が喪失してしまうのではないかという危機感を抱いたからである。73回目の「終戦の日」を前に、靖国神社を訪れた参拝者=2018年8月14日、東京都千代田区(宮崎瑞穂撮影) そもそも神社が国家の宗祀とされた戦前は、神社の公共性は国の法律によって他律的に維持されていた。しかし、宗教法人となった戦後は、宮司と少数の責任役員の自覚と見識によって自律的に神社の公共性が維持されているに過ぎない。 そこに神社の「公共性」と宗教法人の「私事性」の相克が生じ、公共性が顕著な神社であればあるほど、その矛盾が大きな形となって表出する。靖国神社をめぐる諸問題はその最たる事例と言えるのだ。靖国の「公共性」 わけても靖国神社は、天皇の権威のもとに国民国家が形成されて行く明治維新の過程で創建された、嘉永6年以降の国事に殉じた人々の神霊を国家・国民の守護神たる「靖国の神」として祀る神社である。天皇・国家との密接不離な関係は言うまでもなく、その極めて顕著な公共性ゆえに「国家護持」が求められてきたのであった。 このように指摘すれば、靖国神社をめぐって論じられているさまざまな問題が、本源的には「靖国の公共性」に由来していることに理解が及ぶのではなかろうか。仮に「靖国の公共性」が喪失すれば、それら諸問題もその時点で終焉する。 国家が靖国の英霊に敬意を表する必然性がなくなれば、首相が靖国神社に参拝する意義など問われることもなく、「A級戦犯問題」も一宗教法人の私的信仰の問題となって外交上の懸案事項から外されよう。そして戦没者追悼のための新施設の必要性が、より声高に叫ばれることにもなるのだろう。 だが、靖国神社が宗教法人としてどれほど長い年月を過ごそうとも、「靖国の神」は永久に、国家国民統合の象徴である天皇という存在によって祀られた国事に殉じた同胞の神霊なのである。その事実は後世のいかなる力をもってしても変えることはできない。宗教法人である靖国神社が「国家護持」という目標を自ら放棄できない理由はそこにある。 むろん、現時点において、かつての靖国法案に盛り込まれたような特殊法人化などは望むべくもない。社会状況は大きく変わっているのだ。筆者が拙著で主張した「国家護持」とは、「靖国神社の英霊祭祀に国が一定の責任を負う仕組み」「靖国の公共性を担保する制度構築」といった意味合いに過ぎない。少なくとも、そうした議論が起こるだけでも「靖国の公共性」を持続させるに有益ではないかと考えたのである。 いずれにせよ、宗教法人の「私事性」を強めれば強めるほど神社の「公共性」が喪失されていく不安定な状態に置かれたままの靖国神社が、創建以来の伝統である「靖国の公共性」を今後も保持し続けるためには、遺族や戦友が少なくなってもなお、国民の中から「国家護持」の声が沸き起こるほどに絶大な支持と信頼を得られるかが課題となる。 当面は公益法人に求められる程度の法人運営を自発的に追求しつつ、国民意識の醸成を俟(ま)つほかないが、靖国神社自ら、私人の一宗教の類と認めることだけは断じて許されない。 なお、昭和50年を最後に途絶えてはいるが、鎮座以来、靖国神社にはその創建の由来と祭神の特殊性から折に触れて天皇のご参拝があった。50年毎の節目の年を振り返っても、大正8年の御鎮座50年には大正天皇が、昭和44年の御鎮座100年には昭和天皇が記念大祭に参拝されている。本年は御鎮座150年の記念大祭が斎行される年でもあり、天皇陛下のご参拝をひたすら乞祈(こいのむ)ばかりである。靖国神社元総務部長の宮澤佳廣氏 一部には例大祭に勅使の参向があることを理由にご参拝の重要性に言及するのを避ける向きもあるが、靖国神社の英霊祭祀は、宮司以下神職がいくら丁重に祭祀を執行したところで全うされるものではなく、天皇陛下のご参拝が事あるごとにあって初めて「厳修」されることになるのだと思う。 天皇陛下のご参拝を心待ちにしているのは他でもない、九段の宮居に鎮まる246万6千余柱に及ぶ国事に殉じた神霊なのだ。短い期間ではあったが、筆者が靖国神社の神職として奉仕する中で感得させられたのは、実にそのことなのである。■実は「天皇の靖国参拝」に道を開くカギがあった■なぜ創価学会は首相の靖国参拝を許さないのか■日本人も知らない靖国神社「A級戦犯」合祀のウソ

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    「奴隷を売る日本人が悪い」天正遣欧使節、千々石ミゲルのモヤモヤ

    渡邊大門(歴史学者) 前回、日本人奴隷の扱いについて、その経緯やイエズス会の対応を確認した。では、日本人のキリシタンは、ポルトガル商人による日本人奴隷の売買について、どのような感想を持っていたのであろうか。今回は一例として、天正遣欧少年使節の発言を素材にして考えてみよう。 キリスト教の布教と相俟(ま)って、日本からローマ教皇とイスパニア国王に使節を派遣することになった。イエズス会巡察使のヴァリニャーニョは、大友宗麟、有馬晴信、大村純忠らキリシタン大名に使節の派遣について提案を行った。これが、有名な天正遣欧少年使節である。こうして天正10(1582)年、伊東マンショと千々石(ちぢわ)ミゲルが正使に任じられ、原マルチノと中浦ジュリアンを副使として、同2月に長崎から出航したのである。 少年使節は長崎を出発すると、途中でゴア、リスボン、マドリードへと立ち寄った。天正12年11月、少年使節はイスパニア国王のフェリペ二世に謁見を果たした。この間、3年近くの時間がかかっている。今では考えられないほど時間を要した。 その翌年の天正13年3月になって、ようやく少年使節は念願であるローマ教皇、グレゴリウス十三世との面会を果たしたのである。ここまでの様子は、天正遣欧少年使節に関する多くの書籍で取り上げられている。 ところで、少年使節たちは旅の途中でさまざまな場所に寄港すると、日本人奴隷と遭遇することが度々あったという。こうした事態に接した彼らの心境は、いささか複雑なものだったようである。 日本人としてのアイデンティティーとキリスト教信仰との間で、随分と少年使節の心が揺れ動いた。その様子を少年使節の会話の中から確認しておこう(エドウアルド・サンデ『日本使節羅馬教皇廷派遣及欧羅巴及前歴程見聞対話録』より)。グレゴリウス十三世(ゲッティ・イメージズ) まず、問題になったのは、ヨーロッパの国家の間で戦争に至って捕虜になるか、降参した場合、それらの人々はいかなる扱いを受けるのかという疑問である。海外の日本人奴隷を思ってのことであろう。以下、少年使節の中での議論である。 少年使節は捕らえられた人が、死刑もしくは苦役に従事させられるのかを問うている。日本では、その扱いはさまざまだった。この疑問に答えたのは千々石ミゲルであり、その答えは次のように要約できる。 ①捕虜、降参人とも死刑や苦役に従事させられることはない。 ②捕虜は釈放、捕虜同士の交換または金銭の授受によって解放される。 この回答には理由があった。つまり、ヨーロッパでは古い慣習が法律的な効力を持つようになり、キリスト教徒が戦争で捕虜になっても、賤役(奴隷としての仕事)には就かないことになっているとのことであった。 ただし、キリスト教の敵である「野蛮人」の異教徒については別で、彼らは賤役に従わなければならなかった。これが法的な効力を持つようになったのである。この回答に対して、少年使節は改めてキリスト教徒が戦争中(対キリスト教国家)に捕虜になった場合、本当に賤役に従事させられないのか確認した。ミゲルが抱いた怒り これに対するミゲルの回答は、「イエス」である。一同はキリスト教徒が奴隷にならないと聞いて、「ほっ」としたかもしれない。しかし、その回答の後に続けて、ミゲルは日本人奴隷について次のように感想を述べている。 日本人は欲と金銭への執着が甚だしく、互いに身を売って日本の名に汚名を着せている。ポルトガル人やヨーロッパ人は、そのことを不思議に思っている。そのうえ、われわれが旅行先で奴隷に身を落とした日本人を見ると、道義を一切忘れて、血と言語を同じくする日本人を家畜や駄獣のように安い値で手放している。わが民族に激しい怒りを覚えざるを得なかった。 ミゲルにとっては、日本人の「守銭奴」ぶり、そして金のために日本人奴隷を売買する同胞が許せなかった。その強い憤りが伝わってくる。そのミゲルの言葉に同意したのが、伊東マンショである。 マンショはヨーロッパの人々が文明と人道を重んじるが、日本人には人道や高尚な文明について顧みないと指摘している。マンショが言うところの文明と人道とは、あくまでヨーロッパ諸国やキリスト教を基準としたものであろう。 マルチノもミゲルの言葉に同意しつつも、次のような興味深い指摘を行っている。 ただ日本人がポルトガル人に売られるだけではない。それだけならまだしも我慢できる。というのも、ポルトガル人は奴隷に対して慈悲深く親切であり、彼ら(=奴隷となった日本人)にキリスト教の戒律を教え込んでくれるからだ。しかし、日本人奴隷が偽の宗教を信奉する劣等な民族が住む国で、野蛮な色の黒い人間の間で奴隷の務めをするのはもとより、虚偽の迷妄を吹き込まれるのは忍びがたいものがある。 マルチノは、日本人がポルトガルに売られるだけなら我慢できるという。その理由とは、仮に日本人奴隷がポルトガル人のもとにいたならば、キリスト教の崇高な理念を教えてくれるからである。少年使節の考えは、あくまでキリスト教がすべてであった。 そして、現実には東南アジアで多くの日本人が奴隷として使役されており、そこで異教(キリスト教以外の宗教)を吹き込まれることが我慢ならないとする。同じ日本人奴隷であっても、キリスト教さえ信仰してくれたらよいという考えである。 つまり、日本人が奴隷として売られても、キリスト教を信じることになれば、最低限は許せるということになろう。この考え方は、ポルトガル商人がアフリカから奴隷を連行することを正当化する論理と同じである。千々石ミゲル像(雲仙市提供) この言葉には、少年使節の賛意が示されている。そして、まだまだ議論は続く。マルチノは、もともと日本では人身売買が不徳とされていたにもかかわらず、その罪をパードレ(司祭職にある者)やポルトガル商人になすりつけ、欲張りなポルトガル商人が日本人奴隷を買い、パードレはこれを止めようともしないと指摘した。 この指摘に反応したのがミゲルである。ミゲルは、次のような見解を示している。 ポルトガル人には、いささかの罪もない。彼は何と言っても商人である。利益を見込んで日本人奴隷を購入し、その後、インドやそのほかの国々で彼ら日本人奴隷を売って金儲けをするからといって、彼らを責めるのは当たらない。とすれば、罪は日本人の方にあるのであって、普通なら大事に育てなければならない子供が、わずかな対価で母の懐からひき離されていくのを、あれほどことなげに見ることができる人々なのだ。悪いのは日本人 ミゲルの見解は、ポルトガル人が悪いのではなく、売る方の日本人が悪いというものであった。当時の日本人は、ミゲルが指摘するように、わが子を売り飛ばすことにいささかの躊躇(ちゅうちょ)もなかったようである。 要するに、キリスト教国であるヨーロッパ諸国と比較すると、日本は人道的にも倫理的にもはるかに劣っていたということになろう。ミゲルの「奴隷を売る日本人が悪い」という考え方は、ポルトガル側の常套句に通じるところがある。ちなみに、彼らは当時、10代半ばの少年であった。 以上の会話のやりとりをまとめれば、次のように要約されよう。 ①日本人が奴隷として売られても、ポルトガルでキリスト教の正しい教えを受け、導かれるのならばそれでよい。しかし、日本人奴隷が異教徒の国で邪教を吹き込まれることは我慢ならない。 ②日本人が奴隷になるのは、人道的、倫理的に劣る日本人が悪い。ポルトガル商人は商売として人身売買に携わっているので、何ら非難されることはない。 天正遣欧少年使節の面々は日本人であったが、むしろ不道徳な日本人の考え方を嫌い、キリスト教の教えに即した、ポルトガル商人やイエズス会寄りの発言をしていることに気付くであろう。 余談ながら、天正遣欧少年使節の面々は、その後どうなったのだろうか。伊東マンショ、原マルチノ、中浦ジュリアンは、その後もキリスト教の勉強を続け、司祭の地位に就いた。しかし、キリスト教が禁止されると、厳しい立場に追い込まれ、マンショは慶長17(1612)年に逃亡先の長崎で病死した。 マルチノは海外に活路を見いだし、マカオへ向かった。そして、寛永6(1629)年に同地で死去している。ジュリアンは国外に逃亡せず、長崎で潜伏生活を送った。しかし、寛永9年に小倉で捕らえられ、翌年に激しい拷問を受けて亡くなった。ミゲルはただ1人棄教の道を選択し、後に大村藩の藩主に仕えた。 キリシタンである天正遣欧少年使節の面々は、ポルトガル人(あるいはヨーロッパの人々)やキリスト教に理解を示していたが、豊臣秀吉については決してそういう考えではなかったかもしれない。豊臣秀吉像(模本、東大史料編纂所蔵) 率直に言えば、秀吉はキリスト教の教義などに関心は持っていなかったが、自らの政治的な野心を満たすために認めていたに過ぎない。天正16年6月に秀吉はパードレたちに使者を送り、次の4カ条について質問を行っている。次に、要約しておこう。 ①なぜ日本人にキリスト教を熱心に勧めるのか(あるいは強制するのか)。 ②なぜ神仏を破壊したり、僧侶を迫害したりして融和しないのか。 ③牛馬は人間に仕える有益な動物なのに、なぜ食べるという道理に背く行為をするのか。 ④なぜポルトガル人が日本人を買い、奴隷として連れて行くのか。 キリスト教の伝来とともに、多くの文物が日本へもたらされた。秀吉は九州征伐直後、中国大陸への侵攻を構想していたという(最近は否定的な見解もある)。そのとき頼りになるのが、西欧からもたらされる強力な武器の数々である。 やや極論かもしれないが、西洋の文物や武器が入手できれば、キリスト教などどうでもよかったと考えられる。しかし、それも度が過ぎると、承服できない点があったに違いない。その代表的なものの一つが、人身売買であった。曖昧なイエズス会 もっとも、肝心なのは先の4カ条目の質問である。この点については前回も触れた通り、ポルトガル出身のイエズス会宣教師、コエリョは次のように述べている。 ポルトガル人が日本人を買うのは、日本人が売るからであって、パードレたちはこれを大いに悲しみ、防止するためにできるだけ尽力したが、力が及ばなかった。各地の領主その他の異教徒がこれを売るので、殿下(秀吉)が望まれるならば、領主に日本人を売ることをやめるように命じ、これに背く者を重刑に処すならば容易に停止することができるであろう。 コエリョの回答は天正遣欧少年使節と同じく、「売る方が悪い」という理屈である。このやり取りについては、ポルトガル人宣教師、ルイス・フロイスの『日本史』にも詳しく記載されている。次に、紹介しておこう。 私(=秀吉)は日本へ貿易のためにやってくるポルトガル人らが日本人を多数購入し、奴隷としてそれぞれの本国に連行すると聞いた。私にとっては、実に忍びがたいことである。そのようなことなので、パードレはこれまでインドそのほかの国々へ売られたすべての日本人を日本に連れ戻すようにせよ。もし遠い国々で距離的に不可能な場合は、少なくても現在ポルトガル人の購入した日本人奴隷を放免せよ。私(=秀吉)は、ポルトガル人が購入に要した費用をすべて負担する。 宣教師たちからすれば、日本人が売ってくるから奴隷として買うのだ、という論理であった。しかし、秀吉にとって同胞の日本人が二束三文で叩き売られることは、実に耐え難いことであった。購入にかかった費用を負担してまで買い戻すというのであるから、凄まじい執念といえよう。これに対する回答は、次の通りである。 この件は、殿下(=秀吉)に厳罰をもって禁止することを乞い、パードレが覚書に示した主要な事項の一つです。日本国内はもちろんのこと、海外諸国へ日本人が売られることは、日本人のように卓越し、自尊心の高い民にとって不名誉であり、価値を引き下げることです。この災難は九州のみで行われ、畿内や関東にまで広がっていません。われらパードレは、人身売買と彼らを奴隷にすることを妨害するため、少なからずつらい思いをしています。いずれにしても、それらを禁止する根本的な手段は、殿下(=秀吉)が外国船が寄港する港の領主に禁止を勧告することになりましょう。 この主張を信じるならば、当時、日本人奴隷の売買はポルトガル商人の寄港地である九州を中心にして行われていたことが分かる。いずれにしても宣教師たちの努力では奴隷売買をやめさせるのは難しいようで、秀吉自らが禁止命令を出すべきであるとする。常々、彼らは奴隷として売る日本人が悪いと言っているのであるから、取り締まるのなら日本の方で責任をもってやって欲しいということになろう。狩野内膳作『南蛮人渡来図』(右隻)神戸市立博物館所蔵(Photo : Kobe City Museum / DNPartcom) ところで、先行研究の指摘があるように、イエズス会は陰で日本人のキリシタンに寺社の破壊を命じたり、奴隷売買にもかかわっていた(高瀬弘一郎『キリシタンの世紀』)。それを隠蔽し、言い逃れをしていたのである。ところが、こうしたイエズス会の曖昧な態度は、秀吉に強い対応策を取らせることになった。 次回はもう少し奴隷売買に対する、秀吉の対応を考えてみよう。主要参考文献渡邊大門『人身売買・奴隷・拉致の日本史』(柏書房)■「日本人奴隷は神の恩寵」秀吉の逆鱗に触れたイエズス会の解釈■「人身売買」の戦国史、乱世の常識覆した秀吉の禁止令■「倭寇の人身売買は貴重な労働力」日中朝を席巻した海賊集団の謎

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    「日本人奴隷は神の恩寵」秀吉の逆鱗に触れたイエズス会の解釈

    渡邊大門(歴史学者) 前回、豊臣秀吉がいかにして、人身売買の対策を講じたのかを確認した。今回は、世界的な規模に達した奴隷貿易と日本との関係について触れておこう。 最初に、キリスト教の布教について説明しておく。船による長距離の移動が可能になり、ヨーロッパの人々がアジアに行き来することも可能になった。これが大航海時代である。商人たちが貿易のために各国を訪れ、同時にキリスト教の海外での布教も積極的に行われた。その中心的な役割を果たしたのが、イエズス会である。 1534年、スペインの修道士、イグナティウス・デ・ロヨラら6人は、パリのモンマルトルで宗教改革に対抗しイエズス会を結成した。彼らは清貧・貞潔・服従を誓約し、イエズス会がイエス・キリストの伴侶として神のために働く聖なる軍団となることを目標とした。 その中には、後に日本でキリスト教布教の中心的な役割を果たした、フランシスコ・ザビエルも含まれている。イエズス会は、1540年にローマ教皇の認可を受けた。以降、イエズス会の面々は、アジアや新大陸で熱心に布教活動を行った。 ザビエルとは、いかなる人物なのだろうか。ザビエルが誕生したのは1506年のことで、日本ではちょうど戦国時代が始まったころである。ザビエルは、ナバラ王国(ピレネー山脈西南部)出身のバスク人であった。 ザビエルは19歳でパリ大学の聖バルバラ学院で神学を学び、イエズス会の創設に加わった。1542年にはインドのゴアに派遣され、布教活動に従事した。その後、ザビエルはマラッカで布教中に、「アンジロー」という薩摩出身の日本人と会う。これが日本へ赴くきっかけとなった。 1549年4月、ゴアを出発したザビエルは、8月に薩摩に上陸した。ザビエルは島津貴久に面会を求めるなど精力的に活動し、周防の大内義隆や豊後の大友宗麟に布教への理解を求めた。ザビエルは2年余り伝道を行い、いったんインドに帰国し、さらに中国へと向かうが、1552年に中国の広東で病没した。ザビエルの布教活動により、キリスト教に理解を示した人々もいたので、大きな功績と言えるであろう。 ザビエルの後を受け継ぐかのごとく、登場したのがルイス・フロイスである。1532年、フロイスはポルトガルのリスボンに誕生した。16歳でイエズス会に入り、その後はインドに渡海した。フロイスが日本への渡海を果たしたのは、永禄6(1563)年のことである。 肥前横瀬浦(長崎県西海市)に上陸したフロイスは、スペイン出身の宣教師、フェルナンデスから日本語と日本の習俗について教えを受けた。その後、織田信長や豊臣秀吉に接近し、円滑に布教活動を行うべく奮闘した。これまでもたびたび引用した、フロイスの『日本史』は当時の日本を知る上で、貴重な史料である。 キリスト教の布教と同時に盛んになったのが、南蛮貿易である。天文12(1543)年にポルトガル商人から種子島へ火縄銃がもたらされて以降(年代は諸説あり)、日本はポルトガルやスペインとの貿易を行った。イグナティウス・デ・ロヨラ(ゲッティ・イメージズ) ポルトガルから日本へは、火縄銃をはじめ、生糸など多くの物資がもたらされた。逆に、日本からは、銀を中心に輸出を行った。こうして日本は、キリスト教や貿易を通して海外の物資や文物を知ることになる。 これより以前、ヨーロッパでは奴隷制度が影を潜めていたが、15世紀半ばを境にして、奴隷を海外から調達するようになった。そのきっかけになったのが、1442年にポルトガル人がアフリカの大西洋岸を探検し、ムーア人を捕らえたことであった。 ムーア人とは現在のモロッコやモーリタニアに居住するイスラム教徒のことである。キリシタンからすれば、異教徒だった。その後、ムーア人は現地に送還されたが、その際に砂金と黒人奴隷10人を受け取ったという。奴隷を正当化した宗教 このことをきっかけにして、ポルトガルは積極的にアフリカに侵攻し、黒人を捕らえて奴隷とした。同時に砂金をも略奪した。これまで法律上などから鳴りを潜めていた奴隷制度であったが、海外(主にアフリカ)から奴隷を調達することにより、復活を遂げたのである。では、奴隷制度は宗教的に問題はなかったのだろうか。 1454年、アフリカから奴隷を強制連行していたポルトガルは、ローマ教皇のニコラス五世からこの問題に関する勅書を得た。その内容は、次の通りである(牧英正『日本法史における人身売買の研究』引用史料より)。神の恩寵により、もしこの状態が続くならば、その国民はカトリックの信仰に入るであろうし、いずれにしても彼らの中の多くの塊はキリストの利益になるであろう。 文中の「その国民」と「彼らは」とは、アフリカから連行された奴隷たちを意味している。奴隷の多くは、イスラム教徒であった。つまり、彼らアフリカ人がポルトガルに連行されたのは「神の恩寵」であるとし、ポルトガルに長くいればキリスト教に改宗するであろうとしている。 そして、彼らの魂はキリストの利益になると強引に解釈し、アフリカ人を連行し奴隷とすることを正当化したのである。キリスト教徒にとって、イスラム教徒などの異教徒を改宗させることは、至上の命題だったのだろう。それゆえに正当化されたのである。 当初、アフリカがヨーロッパに近かったため、かなり遠い日本人は奴隷になるという被害を免れていた。しかし、海外との交易が盛んになり、その魔の手は着々と伸びていたのである。この問題に関しては、岡本良知『十六世紀日欧交通史の研究』(六甲書房)に詳しいので以下、同書を参照して考えてみたい。狩野内膳作『南蛮人渡来図』(右隻)神戸市立博物館所蔵(Photo : Kobe City Museum / DNPartcom) 日本でイエズス会が布教を始めて以後、すでにポルトガル商人による日本人奴隷の売買が問題となっていた。1570年3月12日、イエズス会の要請を受けたポルトガル国王は、日本人奴隷の取引禁止令を発布した。その骨子は、次の通りである。①ポルトガル人は日本人を捕らえたり、買ったりしてはならない。②買い取った日本人奴隷を解放すること。③禁止令に違反した場合は、全財産を没収する。 当時、ポルトガルは、マラッカやインドのゴアなどに多くの植民地を有していた。まさしく大航海時代の賜物であった。彼らが安価な労働力を海外に求めたのは、先にアフリカの例で見た通りである。ところが、この命令はことごとく無視された。その理由は、おおむね二つに集約することができよう。 一つは、日本人奴隷のほとんどが、ポルトガルではなくアジア諸国のポルトガル植民地で使役させられていたという事実である。植民地では手足となる、労働に従事する奴隷が必要であり、それを日本から調達していたのである。理由は、安価だからであった。植民地に住むポルトガルの人々は、人界の法則、正義、神の掟にも違反しないと主張し、王の命令を無視したのである。秀吉とコエリョの口論 もう一つの問題は、イエズス会とポルトガル商人にかかわるものであるが、こちらは後述することにしたい。 では、秀吉は日本人奴隷の問題にどう対処したのだろうか。天正14年から翌年にかけて九州征伐が行われ、秀吉の勝利に終わった。前回触れたが、戦場となった豊後では百姓らが捕らえられ、それぞれの大名の領国へと連れ去られた。 奴隷商人が関与していたのは疑いなく、秀吉によって人身売買は固く禁止された。実は、人身売買に関与していたのは、日本人の奴隷商人だけでなく、ポルトガル商人の姿もあったのである。 そのような事情を受けて、秀吉は強い決意をもって、人身売買の問題に取り組んだ。天正15年4月、島津氏を降伏に追い込んだ秀吉は、意気揚々と博多に凱旋した。そこで、ついに問題が発生する。 翌天正16年6月、秀吉とイエズス会の日本支部準管区長を務めるガスパール・コエリョは、日本人奴隷の売買をめぐって口論になったのである(『イエズス会日本年報』下)。次に、お互いの主張を挙げておこう。秀吉「ポルトガル人が多数の日本人を買い、その国(ポルトガル)に連れて行くのは何故であるか」コエリョ「ポルトガル人が日本人を買うのは、日本人が売るからであって、パードレ(司祭職にある者)たちはこれを大いに悲しみ、防止するためにできるだけ尽力したが、力が及ばなかった。各地の領主その他の異教徒がこれを売るので、殿下(秀吉)が望まれるならば、領主に日本人を売ることを止めるように命じ、これに背く者を重刑に処すならば容易に停止することができるであろう」 秀吉が見たのは、日本人が奴隷としてポルトガル商人に買われ、次々と船に載せられる光景であった。驚いた秀吉は、早速コエリョを詰問したのである。コエリョが実際にどう思ったのかは分からないが、答えは苦し紛れのものであった。※写真はイメージ(ゲッティ・イメージズ) しかも、奴隷売買の原因を異教徒の日本人に求めており、自分たちは悪くないとした上で、あくまで売る者が悪いと主張しているのである。もちろんキリスト教を信仰する日本人は、奴隷売買に関与しなかったということになろう。 日本人が売られる様子を生々しく記しているのが、秀吉の右筆、大村由己の手になる『九州御動座記』の次の記述である。日本人数百人男女を問わず南蛮船が買い取り、手足に鎖を付けて船底に追い入れた。地獄の呵責よりもひどい。そのうえ牛馬を買い取り、生きながら皮を剥ぎ、坊主も弟子も手を使って食し、親子兄弟も無礼の儀、畜生道の様子が眼前に広がっている。近くの日本人はいずれもその様子を学び、子を売り親を売り妻女を売るとのことを耳にした。キリスト教を許容すれば、たちまち日本が外道の法になってしまうことを心配する。 この前段において、秀吉はキリスト教が広まっていく様子や南蛮貿易の隆盛について感想を述べている。そして、人身売買の様相に危惧しているのである。秀吉は日本人が奴隷としてポルトガル商人により売買され、家畜のように扱われていることに激怒した。奴隷たちは、まったく人間扱いされていなかったのである。黙認したイエズス会 それどころか、近くの日本人はその様子を学んで、子、親、妻女すらも売りに来るありさまである。秀吉は、その大きな要因をキリスト教の布教に求めた。キリスト教自体が悪いというよりも、付随したポルトガル商人や西洋の習慣が問題だったということになろう。イエズス会関係者は、その対応に苦慮したのである。 理由がいかなるところにあれ、秀吉にとって日本人が奴隷として海外に輸出されることは、決して許されることではなかった。また、イエズス会にとっては、片方でキリスト教を布教しながら、一方で奴隷売買を黙認することは、伝道する上で大きな障壁となった。イエズス会は、苦境に立たされたと言えよう。そうした観点から、彼らはポルトガル国王に奴隷売買の禁止を要請していたのである。 しかし、日本に合法的な奴隷が存在すれば、話は別である。率直に言えば、当時の奴隷は家畜のように売買される存在であった。モノを売るのであれば、それはまったく問題ないと解釈することが可能である。 幸か不幸か、少なくとも奴隷売買商人は、日本には法律で認められた奴隷が存在すると考えていた。次の史料は、牧英正『日本法史における人身売買の研究』(有斐閣)に紹介された史料である。日本には奴隷が存在するか否か、また何ゆえに奴隷となるのか。また子供は、奴隷である父もしくは母の状態を継続するのか否か。彼ら(=奴隷売買商人)が答えて言うには、奴隷は存在する、と。奴隷は戦争中に発生する。また、貧しい親は自分の子供を売って、奴隷とする場合もある。(以下、二つ目の質問に関する回答)子供は次の方法によって、親の状態を受け継ぐ。つまり、父が奴隷で母が自由民の場合は、誕生した男子は奴隷で、女性は自由人である。父が自由人で母が奴隷の場合は、誕生した男子は自由人で、女性は奴隷である。両親とも奴隷の場合は、誕生した男女はともに奴隷である。 この問答の様子は、イエズス会が奴隷売買業者を破門にするか否かの尋問を記録したものである。牧氏が指摘するように、この回答は的を射たものである。たとえば、奴隷が戦争中に発生するというのも、これまで戦場での略奪行為「乱取り」で見てきた通りである。親が子を売る例も、たびたび見られた。 加えて、親の奴隷身分(あるいは自由民の身分)がどのような形で引き継がれるかも、日本の慣習に符合したものであった。当時における日本の情勢と比較して、彼らの言葉に特段の矛盾点は見られないようである。 このような解釈が存在したため、イエズス会では奴隷売買の商人による日本人奴隷の売買を黙認していた節がある。とはいうものの、こうしたデリケートな問題は、徐々にキリスト教の布教をやりにくくしていった。豊臣秀吉像(東大史料編纂所提供) 大きな問題だったのは、一部の宣教師たちが奴隷商人と結託して、日本人奴隷の売買に関与していたということである。そのような状況の中で出されたのが、先述したポルトガル国王の奴隷売買禁止の命令なのである。 ここで触れた、ポルトガル商人による奴隷売買については、次回も続けて取り上げることにしよう。主要参考文献渡邊大門『人身売買・奴隷・拉致の日本史』(柏書房)■「人身売買」の戦国史、乱世の常識覆した秀吉の禁止令■川中島の戦いは略奪が目的だった? 信玄も黙認した「乱取り」の真実■「倭寇の人身売買は貴重な労働力」日中朝を席巻した海賊集団の謎

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    「龍宮に続く橋」信長のオカルト願望を叶えた御用建築家

    橋場日月(歴史研究家、歴史作家) 前回は安土築城開始と二条御新造築造について触れたが、ここで前年、天正3(1575)年に少し話を戻したい。 越前で行われた、越前一向一揆の大虐殺。一揆側の死者は1万数千人、生け捕りにされ奴隷として送られた者は2万人以上に及んだ。前年の長島一向一揆は2万人以上の死者を生んだが、越前でもそれに勝るとも劣らない数の犠牲が出たのだ。 9月、越前で戦後処理中の信長が配下の者に出した書状は「嘉例の紙子(かみこ)□(欠け)来(到来か)候」と、紙製の衣服を贈られた礼を述べたものだが、「嘉例=めでたい前例=縁起担ぎ」を喜ぶ彼の性向が現れているとともに、重要な一節も含んでいる。 「その表の儀も本意程有るべからず候」 宛て先不明なので「その表(その方面)」がどこなのか確定できないのだが、当時の状況から考えて大坂本願寺のことだろう。「本願寺攻めの最終的な勝利も間もなくだ」と信長の鼻息は荒い。彼はこの年の春の段階で、既に「秋に本格的な本願寺攻撃作戦を実行する」と宣言し、細川藤孝にも「大坂本願寺など、ものの数ではない」と豪語している。 だが、長島と越前を失った本願寺は動揺していた。そして、いったん態勢を整えるための時間稼ぎを狙ってこの後、和平攻勢を掛けてくることになる。大阪城で発掘された石山本願寺の礎石 実は、これは信長にとってもメリットがある話だった。それについてはこの後すぐ説明していくとして、いったん話を他の方面へ転じよう。舞台は南近江の大津である。 10月12日。3カ月前に立柱式を行った瀬田川に架かる橋が竣工(しゅんこう)。交通の要衝として、さらには観光名所として、「勢多の唐橋」は歌枕になるほど有名だったが、観応の擾乱(かんのうのじょうらん、1349~52年にかけて続いた足利政権の内紛)で焼け落ちて以来、放置されていた。そのため信長は仮の舟橋(船を何隻も並べ、その上に板を敷いて渡る)を設置させていたのだが、ちょうど前年から始めさせていた支配権内の道路・橋の整備の一環として、この橋も再建させたのだ。 完成した橋は、幅4間(約7・3m)、長さ180間(約327m)余り。かつて朝廷によって架けられ、メンテナンスされてきた橋が信長によって再建されたということは、信長の権威がある意味で朝廷をしのいだことを意味する。それではさすがに刺激が強すぎて憚(はばか)りがある、と考えたか、信長は「天下のためというのは建前で、本音は行き来する旅人を思いやってのことだ」とオブラートにくるんだ物言いをしている。「唐橋」に隠された伝説 だが、その一方でこの新しい勢多の唐橋には注目すべきエピソードが残っている。信長の死後100年経って成立した伝記ということで信頼度はあまり高くないのだが、『総見記』にはこうある。 「そもそもこの橋の下は、龍宮の城門なんど(と)云伝へ」 勢多の唐橋の水底には、龍宮の城門があると言い伝えられていた、というのだ。もしそうなら、龍や大蛇を信奉する信長としては、何がなんでも龍宮に通じる橋のスポンサーにならなければならないではないか。 確かに、勢多の唐橋の東西のたもとには今も「橋姫神社」と「勢田橋龍宮秀郷社」が鎮座している。橋姫神社は龍神、龍宮秀郷社は大蛇に姿を変えて現れた龍神の神託によって勢多のムカデを退治した「俵藤太(たわらのとうた)」と呼ばれた藤原秀郷(ひでさと)を、それぞれ祀るものといい、平安時代から信長の時代を経てこの伝承が語り継がれていたことが分かる。信長が目をつけるのも当然だ。 その上、橋の再建場所は水深が深く、柱を立てる適当な場所もなさそうだったにも関わらず、まるで川底から生えてきたように大石があり、しかも柱を立てるのにちょうどよい穴まで開いていた。これはすべて偶然で、皆が「龍神のする所」と言い合った、と話は続く。これは、まさに信長が龍神に祝福された存在であることを世間に宣伝するための「奇跡譚」そのものだ。 信長は、朝廷に対しては「旅人のためですから」と当たり障りのないコメントを出しておいて、一方では勢多の龍神を朝廷から取り上げたのだ。欄干がやや濃い茶色に塗り替えられた瀬田唐橋=2012年6月、滋賀県大津市(小川勝也撮影) ちなみに、この工事に際して信長は「末代のために頑丈に作れ」という言葉を使っている。表面的には末代まで旅人の利便に供するように、ということだろうが、一方では龍神のパワーが永遠に信長の手中にあるように、とも取れる。というよりも、むしろ後者が信長の意図するところだったと考えた方がよさそうだ。 その7日後。京の妙覚寺に滞在している信長のもとを訪れた者がいた。奥州の伊達輝宗の使者である。輝宗は後に豊臣秀吉や徳川家康から警戒された「独眼竜」政宗の父であり、伊達家は代々将軍や朝廷に献金して陸奥国守護職や奥州探題に任じられ、中央の権威を利用して勢力を拡大してきた。輝宗は、信長を天下人と認めてよしみを通じようとしたわけだ。信長「満面の笑み」のワケ 輝宗は信長に岩石黒(がんぜきくろ、黒鹿毛)と白石鹿毛(しろいしかげ)という2頭の馬を献上した。特に白石鹿毛は奥州でも有名な、乗り心地抜群の駿馬(しゅんば)で、信長も礼状に「非常に目を驚かされた。近来まれに見る名馬で、大いに秘蔵している」と記している。 実はこの馬、「竜(りょう)の子の由なり」と解説が付いていたという。龍の子だそうだ、とは聞き捨てならない。信長が気に入るのも当たり前の話だ。名馬は龍の子=龍馬(りゅうめ)、龍蹄(りゅうてい)と呼ばれたものだったが、それを手に入れ、騎乗している信長の満面の笑みを想像しただけで、ニヤニヤとしてしまうのは筆者だけだろうか。 こうして信長が龍の子のオーナーとなってからわずか2日後の21日、政治的に大きな出来事が起こった。大坂本願寺との講和成立である。戦況不利によって和平工作を展開していた本願寺側の努力が功を奏し、茶湯の名物道具を献上された信長も「本願寺から懇望されているから、二度と心変わりしないようよく念を押した上で」と同意したのだ。 「あれだけ本願寺の討滅を叫び、圧倒的に有利な状況になっていた信長がなぜ?」と思うところだが、その理由は後で明らかになる。 11月4日、信長は朝廷から従三位権大納言に叙位任官され、続いて7日に右近衛大将に任じられる。これが重要な意味を持っていた。左右の近衛大将は武家の最高職であり、とりわけ右近衛大将、略して右大将というのは鎌倉幕府を開いた源頼朝が就いた役職だった。ということは、信長は幕府を開くか、そうでなくてもそれに相当する政治体制を主宰する大義名分を得たことになる。 その上、信長が京から追放した室町幕府の将軍、足利義昭は左近衛中将のままであり、以前から右大将への昇進を熱望していたのだが、信長に横取りされてしまった形だ。つまり、信長は官職の面で義昭を上回った。実質だけでなく形の上でも室町幕府の上位にある存在、今や信長は文字通り武家の最高権威となったのだ。以降、信長に対する呼び方は「上様」が定着していく。新清洲駅前にある織田信長像=愛知県名古屋市(中田真弥撮影) この年、義昭は亡命先の紀伊国田辺から甲斐(かい)の武田勝頼、相模の北条氏政、越後の上杉謙信の三大勢力に働きかけて交戦を中止させようとしていた。「反信長同盟」に引き込んで、信長を討たせようと目論んだわけだが、ちょうど信長が本願寺からの講和要請を受け入れたころに武田と上杉は和平を結び、背後の脅威が去った勝頼はすぐに東美濃へ兵を動かすことになる。 これに対して信長は「上様」となり、義昭を「反逆者」と世間にアピールした。その上、本願寺と講和したことによって室町幕府が掌握していた京とその周辺(当時はこれを「天下」と呼んでいた)に敵対勢力はいなくなり、その面でも信長は将軍に匹敵する実績を挙げた形になった。これも、龍の橋を造り龍馬に乗った効験だろうか。信長の「御用建築家」 11月10日、東美濃の岩村城を包囲していた織田軍に対して攻撃をかけた武田軍は信長の嫡男・信忠によって破られ、1100人余りの死者を出して退却。救援の望みを失った岩村城は開城降伏した。信忠は父・信長が右大将任官の時、「秋田城介(あきたじょうのすけ)」という官職を与えられたが、これは将来的に信忠が関東・東北方面の攻略のリーダーになることを宣言する意味があったと考えられる。 18日後、その信忠に織田家家督と美濃・尾張の2カ国、それに岐阜城を譲った信長は、織田家も将軍も超越する存在として天正4(1576)年を迎えるのだった。 ここで話は前回の続きとなる。 明けて正月、織田家一同が屠蘇(とそ)気分を味わう時間は短い。信長が安土築城の大号令を発したのだ。普請奉行は丹羽長秀。1カ月後には早くも仮御殿が完成し、信忠に岐阜城を譲って以来、佐久間信盛の屋敷に居候していた信長は早速そこに引っ越ししている。 信長が安土山を新たな本拠地に選んだ理由は何だったのか? それは単に京との行き来の手間を短くする、ということもあっただろうが、それ以上に本願寺や紀伊雑賀衆、中国地方の毛利氏など、近い将来敵として戦うことになるだろう相手との距離を詰めておきたい、という狙いもあった。 軍勢の規模が大きくなっていたために、岐阜城からでは補給線が長くなりすぎて長期戦の維持が困難だったからだ。事実、上洛(じょうらく)以来信長の作戦行動の範囲は大坂辺りが限界点となっている。それを解決する手段が、関ヶ原経由で岐阜とも結ばれ、琵琶湖に面する舟運の便にも恵まれた安土山だった。安土山頂から西の湖(琵琶湖の内湖。かつての大湖・中湖の一部)を望む(著者撮影) 4月1日からは天主(天守閣)の工事も始まった。こちらの普請奉行は木村次郎右衛門(名は高重)という男で、勢多の唐橋の架橋工事や、信長の右大将任命を決定する「陣座(じんのざ。上級の公家が政策を決定する場所で、現代なら首相官邸の閣議室といったところか)」の建築工事も彼の仕事だった。いわば信長の「御用建築家(アーキテクト)」である。 「龍の橋」を築いた次郎右衛門は、信長の龍・大蛇志向を理解し、その意を受けて具象化・実体化を受け持つプロフェッショナルだったと考えられる。その彼が担当する安土城天主。それまでには存在しなかった唯一無二の建造物が、その姿を現すのはまだ少し先の事だった。そして、京・二条の「龍躍池」の新屋敷の築造も、この頃に開始されたというわけだ。■ 天皇家への挑戦状、井沢元彦が読み解く天才信長の「自己神格化計画」■ 信長でも苦慮した改元「元亀から天正」暗闘の歴史■ 寺社ファシズムと戦った信長、日本経済に必要な「自由化」の荒療治

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    「人身売買」の戦国史、乱世の常識覆した秀吉の禁止令

    渡邊大門(歴史学者) 前回、戦国時代における人身売買の実態について、武田氏などの例を見てきた。今回は、豊臣秀吉が織田信長に代わって天下取りに名乗りを上げて以降、人身売買にどのような対策を講じたのかを確認することにしよう。 秀吉の天下取りは、戦いの連続であった。信長が本能寺の変で横死した天正10(1582)年6月以降の主な戦いに限って列挙すると、次のようになる。 ①天正10年――明智光秀を滅亡に追い込む(山崎の戦い)。 ②天正11年――柴田勝家を滅亡に追い込む。 ③天正12年――徳川家康との戦い(小牧・長久手の戦い)。 ④天正13年――土佐の長宗我部氏を降伏に追い込む(四国征伐)。 ⑤天正14年――薩摩の島津氏を降伏に追い込む(九州征伐)。 ⑥天正18年――小田原北条氏を滅亡に追い込む。 この間にも小さな戦いはたくさんあり、秀吉は全国平定に向けて、着々と足元を固めていった。戦いでは雑兵による略奪行為の「乱取り」が行われ、それが人身売買の温床になったことは言うまでもない。秀吉は人身売買を禁止すべく熱心に対策を講じており、九州征伐や小田原征伐において関係史料を確認することができる。 天正14年の九州征伐の直前、薩摩の戦国大名・島津氏に対抗すべく、秀吉に助けを求めたのは豊後の戦国大名・大友宗麟である。かつて大友氏は九州北部を統一する勢いだったが、この頃には島津氏を相手に苦戦を強いられていた。 宗麟は日の出の勢いの秀吉に助力を求めたが、島津氏は秀吉の実力を侮っていた。そして、大友氏を血祭りに上げるべく、豊後に攻め込んだのである。戦乱の中で、乱取りや人身売買に苦しめられたのが、豊後に住む普通の人々であった。ポルトガル人宣教師のフロイスは著作『日本史』で、乱取りや人身売買の惨状を次のように記している。薩摩の兵が豊後で捕らえた人々の一部は、肥後へ売られていった。ところが、その年の肥後の住民は飢饉に苦しめられ、生活すらままならなかった。したがって、豊後の人々を買って養うことは、もちろん不可能であった。それゆえ買った豊後の人々を羊や牛のごとく、高来(長崎県諫早市)に運んで売った。このように三会・島原(以上、長崎県島原市)では、四十人くらいがまとめて売られることもあった。豊後の女・子供は、二束三文で売られ、しかもその数は実に多かった。 実に生々しい光景である。島津氏配下の雑兵は捕らえた豊後の人々を肥後で売ろうとしたが、飢饉により売買が困難と知るや、今度は現在の長崎県諫早市へ行って売買した。売られた人々は、かなりの数であったことが判明する。豊臣秀吉像(東大史料編纂所提供) いくら奴隷が安価な労働力とはいえ、二束三文とはあまりに安すぎる。この話が事実であったことは、島津氏の家臣、上井覚兼(うわい・かくけん)の日記『上井覚兼日記』天正14年7月12日条に次の通り記されている。路次すがら、疵(きず)を負った人に会った。そのほか濫妨人(らんぼうにん、乱暴狼藉を働く人)などが女・子供を数十人引き連れ帰ってくるので、道も混雑していた。 島津領内には、戦いで負傷した兵卒たちも帰還したが、濫妨人は戦利品として豊後から女や子供をたくさん引き連れ、道が混雑していたというのである。戦利品として人を略奪するのは、すでに当たり前になっていた。憂いた農村の荒廃 この惨劇を目の当たりにしたであろう秀吉は、いかなる対応をしたのであろうか。以下、確認しておこう。 先に掲出したフロイスや上井覚兼の記述は事実であり、秀吉はすぐに人身売買の対策を行った。天正16年8月になって、秀吉は人身売買の無効を宣言する朱印状を発給している(「下川文書」)。次に示しておく。豊後の百姓やそのほか上下の身分に限らず、男女・子供が近年売買され肥後にいるという。申し付けて、早く豊後に連れ戻すこと。とりわけ去年から買いとられた人は、買い損であることを申し伝えなさい。拒否することは、問題であることを申し触れること。 この文書は、加藤清正と小西行長に宛てられたものである。2人が肥後国に配置されたのは、天正16年閏5月15日のことである。したがって、2人の肥後入部直後には、秀吉から指示があったと考えられる。 この場合、人を買った者には、秀吉からの金銭的な補償はなく、「買い損」ということになっている。では、どのような理由があって、秀吉は買われた人々を豊後へ連れ戻す措置を指示したのだろうか。 戦場で雑兵が戦利品として人々を連れ去り、売買することは前回も述べた。しかし、戦争で田畑が荒れ果てたうえ、肝心の農民たちが他国に売買されたとなると、農村の復興が進まなくなる。それでは農作物の収穫がなくなるので、大名領国化の経済を揺るがす、非常に大きな問題だった。 逃散(ちょうさん)などによって農地が放棄されるがごとく、人身売買によって肝心の耕作者がいなくなってしまうことは、秀吉の本意ではなかった。秀吉はこれまでも、戦争後に還住令(逃げた農民が元の土地に戻るよう勧める法令)を発布するなどし、戦災後の復興に力を入れていた。そうでなければ、土地を奪い取った意味がなくなるからである。 同じような朱印状は、筑後の大名である立花宗茂と毛利秀包(ひでかね)にも発給された。やはり、対象となったのは、豊後から筑後へ売買された人々の扱いであった。大友氏の領国である豊後は戦場になったのであるが、年貢を納入する主体の農民が数多く連れ去られ、農村の荒廃が進んでいたのは疑いないところである。大分市にある大友宗麟像 秀吉の人身売買禁止という強い姿勢は、降伏に追い込んだ島津氏にも向けられた。次に、史料を掲出しておこう(「島津家文書」)。先年、豊後から連れ去った男女のことは、薩摩の領内を捜し出し、見付け次第に帰国させることを申し付ける。隠し置いた場合は、落ち度である。人の売買は一切禁止することは、先年定めたとはいえ、重ねて言うところである。 本文書の発給された年次は不詳であるが、天正16年ごろと見るのが妥当ではないだろうか。和睦したとはいえ、薩摩・島津氏は大身の大名である。それでも容赦せずに、薩摩領内にいる豊後の人々を帰還させるように命じた。2行目の後半部分にあるように、人身売買禁止はすでに決まっており、重ねての通知だったようだ。広がった禁止令 ところが、人身売買の禁止令は、戦場となった豊後だけが対象ではなかった。次に、秀吉が寺沢広高に宛てた朱印状を挙げておこう(「島津家文書」)。薩摩出水、肥後水俣の侍・百姓、男女に限らず、薩摩・大隅・日向そのほか隣国へ彼らが買い取られたことを聞いた。法度の旨に任せて、早々に召し返して帰還させるように申し付ける。もし違反する者があったら、すぐに報告すること。右の趣旨を堅く申し触れ、彼らを帰還させること。 薩摩出水(鹿児島県出水市)、肥後水俣(熊本県水俣市)では侍・百姓や男女を問わず、島津氏領国の薩摩・大隅・日向やその隣国で売買されていた。秀吉は、それらの人々を早急に帰還させよというのである。こちらも本文に記されているように、人身売買は違法行為であることが強調されている。 実は、薩摩出水、肥後水俣を治めていた島津忠辰(ただとき)は、秀吉にその領土を没収されていた。その後の措置にあたったのが肥前唐津(佐賀県唐津市)の寺沢広高であったが、混乱の中で領内の多くの人々は売り払われたのであろう。これでは、戦後の復興はままならない。秀吉は人身売買禁止という方針をもとに、その対策を広高に命じたのであった。 かつて、戦場における人の略奪は、当然の行為として認識されてきた印象がある。しかし、秀吉は人の略奪や人身売買禁止という政策を採った。その方針は、国内の大戦争である小田原北条氏との戦いでも受け継がれた。 天下取りを目指す豊臣秀吉にとって、最後の強敵は小田原北条氏を残すのみとなった。北条氏は関東一円を支配下に収め、その実力は侮れないものがあった。 天正17年11月の名胡桃(なぐるみ)城事件が秀吉の惣無事(私戦の禁止)の基調に違反したため、同年末に秀吉は北条氏に宣戦布告し、両者の戦いが始まった。名胡桃城事件とは、沼田城代の北条氏の家臣である猪俣邦憲(いのまた・くにのり)が、謀略によって真田昌幸の名胡桃城を占拠した事件である。戦いは関東各地で繰り広げられたが、北条氏は徐々に劣勢に追い込まれ、ついに天正18年6月に小田原開城となった。小田原城=神奈川県小田原市 この間、秀吉は諸大名に対して、人身売買を禁じる旨を申し伝えている。天正18年4月27日、秀吉は上杉景勝に宛てて朱印状を発給した。次に、内容を確認しておこう(「上杉家文書」)。国々の地下人・百姓などは、小田原町中の外で、ことごとく還住させることを申し付ける。そのような中で、人身売買を行う者があるという。言語道断で許しがたいことである。人を売る者も買う者も、ともに罪科は軽いものではない。人を買った者は、早々に彼らをもといた場所に返すこと。以後、人の売買は堅く禁止するので、下々まで厳重に申し付けること。 小田原城が戦場になったものの、戦いは関東各地で繰り広げられたので、人々は戦火を避けてあっちこっちに避難したのであろう。豊臣方は戦いを優勢に進める中で、未だに戦場である小田原町を除き、そのほかの場所については、百姓らを帰還させるように手配した。秀吉は戦争が終結した地域から順に、復興を進めたのである。目的は戦後復興 一連の措置には、人々が元にいた場所に帰還させることによって、できるだけ早く戦後復興を円滑に進めるという目的があった。しかし、戦争というどさくさの状況で、人身売買が横行したこともあり、秀吉はその禁止を命じた。それは人を買う者であっても、売る者であっても罪は等しく重かったのである。 上杉景勝が主戦場としていたのは、松井田城(群馬県安中市)であり、同年4月22日に城主である大道寺政繁(だいどうじ・まさしげ)は降伏していた。人身売買の禁止は、それから5日後の措置である。実は、ほぼ同内容の書状は、同年4月29日に秀吉から真田昌幸に送られている(「真田家文書」)。 つまり、戦いが終わった場所では、速やかに人を帰還させるように昌幸に命じ、その間の人身売買を無効としたうえで、人を売買する者の摘発を命じている。やはり小田原を除いているのは、まだ同地では戦争が継続していたからである。 秀吉の人身売買禁止令は、小田原北条氏の滅亡後も徹底していた。天正18年8月、秀吉は下野の宇都宮国綱に対して掟書の条々を送った。そのポイントは、次の2つになろう(「宇都宮家蔵文書」)。・百姓などを土地に縛りつけ、他領に出ている者は召し返すこと。・人身売買は、一切禁止すること。 重要なことは、百姓などが勝手に移住し、耕作地が荒れることを防ぐということになろう。同時に人身売買によって、貴重な労働力が移動することも危惧された。つまり、人身売買の禁止というのは、さまざまな目的があるものの、倫理的、人道的な問題というよりも、むしろ労働力の問題として重視されたと考えられる。 天正18年以降に秀吉が発給したと考えられる文書には、次のような規定がなされている(「紀伊続風土記」所収文書)。人の売買については、一切禁止する。天正十六年以降、人が売買された件は無効とする。今後、人を売る者はもちろんのこと、買う者についても罪とするので、噂を聞きつけて報告した者には褒美を遣わす。 このように見る限り、天正16年という年を一つの基点にしていることがわかる。また、これまで人を買った者は、未だに罪として認識していなかったようである。売る方は積極的であったが、買う方は受動的であったので罪が軽かったのだろうか。いずれにしても、人身売買は売るのも買うのも、罪は等しくされたのである。長浜城天守閣跡に建てられた豊臣秀吉像=滋賀県長浜市 そもそも人を略奪して人身売買をすることは、出陣した兵の給与の一部のようなものだった。しかし、戦後復興を考えたとき、人身売買によって人がいなくなり、耕作地が荒れると収穫が減るので大問題だった。それゆえ秀吉は倫理的、人道的というよりも、労働力の問題として、人身売買を禁止したのである。こうして経済基盤の安定化を図ったのである。 ところで、人身売買の問題を考えるには、キリスト教や南蛮貿易のこと、また、ポルトガル商人を通して日本人奴隷が海外に売りさばかれた例を検討する必要がある。秀吉は日本人奴隷が海外に輸出されることを懸念していた。この点に関しては、次回に取り上げることにしよう。主要参考文献渡邊大門『人身売買・奴隷・拉致の日本史』(柏書房)■「倭寇の人身売買は貴重な労働力」日中朝を席巻した海賊集団の謎■「強欲でケチ」秀吉はいかにして巨万の富を築いたか■「キリシタンへの見せしめ」秀吉が黒田官兵衛を疎んじた理由

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    日本人が知らない改元の意味

    改元とは何か。この意味をきちんと説明できる人は恐らく日本人でも少ないだろう。大化以降の歴史をひも解くと、江戸時代まで天皇の在位中に慶事や大災害があれば頻繁に改元が行われた。天皇一代限りの一世一元が原則になったのは明治以降である。平成の終わりに、改元の意味を考えたい。

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    幕末幻の元号「令徳」が示す改元のインパクト

    後藤致人(愛知学院大文学部歴史学科教授) 元号とは、漢字と数字を組み合わせて、天皇の在位期間を基準にした政治的紀年法の一つである。ただ、明治に一世一元制を採用する以前は、災異や大変革が起こるといわれる年「辛酉(しんゆう)革命・甲子(かっし)革令」に基づく改元があった。 現在、元号は日本にしか存在しない。元号は、漢字と数字の単純な組み合わせではなく、そこに皇帝・天皇・国王の在位期間という要素が必要条件となる。元号とは、君主が時を支配するという思想に基づいた暦年法なのである。現在、漢字文化圏で君主制の残っている国は日本しかないため、元号もまた日本にしか存在していない。 中華人民共和国では公暦を使っており、これは西暦と同じである。台湾では、民国何年という数え方をしている。漢字+数字なので、一見元号のようであるが、これは元号ではない。1911年の辛亥革命で清朝が滅び、中華民国政府成立した1912年から数え始めた年の数え方であり、君主制とは関係がないので、元号とはいえない。 元号は、中国の漢代から始まっている。それが漢字文化圏に広がっていくのだが、日本では大化の改新で有名な「大化」から始まる。ただ、途中元号が建てられなかった時期があり、今日まで連続して元号が建てられるようになったのは、大宝律令で有名な701年の「大宝」が最初となる。律令体制は文書主義であり、文書に記述するため、より正確に時を記述する必要があったのであろう。 朝鮮では、日本の大化の改新より約100年前から新羅(しらぎ)暦が存在していた。ところが、その後独自の元号は持たず、中国暦を使用している。これは、新羅は中国唐の力を借りて、悲願の朝鮮半島統一を成し遂げたことに由来している。 唐を宗主国として立てる必要があり、そこから独自の元号である新羅暦を廃止したのである。以後、高麗(こうらい)王朝も朝鮮王朝も一時期を除いて独自の元号を持たず、中国暦を使用した。「大化の改新」の孝徳天皇をまつる豊崎神社=大阪市北区(木戸照博撮影) ところが、19世紀末に突如朝鮮暦は復活する。これには当時の国際状況の激変が背景としてある。19世紀後半、東アジア的な国際秩序が揺らぐ中で、ヨーロッパ的な国境概念が入ってきた。 日本は明治維新後、ヨーロッパ的国境概念に転換するが、中国の清は伝統的な中華思想を維持し、内国とは別に、朝鮮やインドシナ、チベットは属国(朝貢国・藩部)として位置づけていた。 この清による属国概念に、まずフランスが挑戦した。インドシナを舞台に清仏戦争でフランスが勝利すると、清による属国を否定した上で、インドシナを植民地とした。 朝鮮半島では、日本がこの属国概念に挑戦し、1894~95年の日清戦争で勝利すると、下関条約で朝鮮の独立を清に認めさせた。その結果、1897年に清の属国ではない大韓帝国が成立し、元号も建てられたのである。満州にも独自の元号 1896年、太陰太陽暦からグレゴリオ暦に転換するときに元号「建陽(けんよう)」が建てられ、清の元号から独立し、1897年大韓帝国成立とともに、「光武」に改元している。しかし、この大韓帝国の元号は1910年韓国併合によって消滅した。 「満州事変」後に成立した満州国でも独立した元号が建てられている。1932年3月、満州国が建国され、清朝最後の皇帝、溥儀(ふぎ)を「執政」の地位につけ、元号を「大同」とした。そして、1934年3月、溥儀が満州国皇帝に即位し、これをきっかけに元号を「康徳」に改元している。 満州国は事実上日本が実権を握っている国ではあったが、植民地ではなく、君主制を敷いていたため、元号が時を数える暦年として存在していたのである。「康徳」は、満州国滅亡まで続いた。 元号に使われる漢字には、時にメッセージが込められている。室町幕府15代将軍、足利義昭は、室町幕府の復興を祈念して「元亀」という元号を天皇に奏請している。 しかし、織田信長はこの元号を嫌い、1573年義昭を畿内から追放し、事実上室町幕府を滅ぼすと、改元を促した。そして、信長の旗印「天下布武」にちなみ、「天正」としたのであった。 幕末の元号にも、メッセージ性の強いものがある。ペリー来航以降の元号を並べてみよう。「嘉永(かえい)」・「安政」・「万延」・「文久」・「元治」・「慶応」・「明治」・「大正」・「昭和」・「平成」。どれが最もメッセージ性の強い元号か、分かるだろうか。満州国建国 満州国皇帝・愛新覚羅溥儀(左)と乾杯する武藤元帥(右) 「明治」は、その改元手続きが画期的であったことが知られている。明治天皇が東京へ行幸するのを前に、天皇代替わりに基づく改元を行うこととなった。このとき岩倉具視は一世一元を主張、あわせてそれまで行われていた公卿(くぎょう)による議論を繰り返す難陳(なんちん)という手続きの廃止を求めた。 この提言に基づいて、文学・史学の漢籍を専門とする「文章(もんじょう)博士家」である菅原氏らの勘文(かんぶん)の中から、議定の松平慶永が2、3の良案を選定して上奏した。 そして天皇は宮中の賢所(かしこどころ)でそれをくじで選び、明治の改元を行ったのである。天皇がくじで決めた元号というのは、このときをおいて他にない。ただ、「明治」という元号自体は、メッセージ性の強いものではない。 元号に使う字は、何でもいいわけではない。もちろん縁起の良くない字は不可であるし、国や時代によっても使う漢字の傾向は異なっている。近世以降の日本では「長く、平和で、安定した世の中が続きますように」というニュアンスの文字が並ぶことが多い。幻となった「令徳」 「嘉永」は、「嘉(よろこ)ばしく、永遠に」というニュアンスであるし、「安政」も「安定した政治」と解される。「万延」も「万のように永遠に」など、「平和で安定した政治」という意味合いのものばかりである。 ところが、「元治」は違う。「元」も「治」も元号ではよく使われる漢字ではあるが、これを組み合わせると、「元(はじま)りの政治」となり、新政府を宣言するメッセージが現れるのである。 この元号は、実は第2候補であった。本当はもっとメッセージ性の強い元号になるはずだったのだ。それは「令徳」である。この元号の衝撃度は、お分かりだろうか。レ点を付けて読めば、「徳川に命令する」となり、これからは朝廷が幕府よりも上位の世の中となる、ということを露骨に世間に宣言している。 江戸時代、改元手続きの主導は事実上幕府にあったが、この元号を主導したのは朝廷であった。1862年勅使関東下向によって文久の幕政改革が進み、その後1863年、将軍・諸大名が上洛(じょうらく)した。 幕府は安政の大獄の失政を謝罪した上で孝明天皇に忠誠を誓い、天皇・公家に対する武家側の儀礼が朝廷を上位として改善された。改元に関しても、幕府側の露骨な介入がはばかられたのだ。 1864年、甲子革令に基づく改元を行うとき、朝廷では「令徳」と「元治」が候補に挙がり、「令徳」が第1候補だとして、関白から幕府に内談があった。二条城二の丸御殿で再現された大政奉還のようす=2017年10月、京都市中京区(寺口純平撮影) 老中らは、「徳川に命令する」意味に解されるとして難色を示したが、老中からの申し立てはできかねる、と松平慶永に関白らへのあっせんを求め、第2候補の「元治」に決定したのであった。江戸幕府が相当苦慮していたことがうかがえよう。江戸幕府にしてみれば、「元治」もメッセージ性を含んではいるが、「令徳」だけは避けたかったのである。 こうして元号の歴史を考察してみると、「文久」と「元治」の間に、大きな政治的な変化があったことが分かる。1863年に将軍諸大名が上洛して以降、武士の間では「皇国帝都」という言葉が流行していた。つまり、日本は天皇を戴く国であり、帝のいるところが首都であるという考え方が広まっていたのである。 近代天皇制国家の出発は、必ずしも明治維新ではないのではないか。元号の歴史は、そのことを暗示している。■こうして元号は「時代を映す鏡」になった■67年前、日本は「元号」を奪われる最大の危機にあった■新元号をめぐる「タブーなき議論」こそ平成と昭和の差である

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    天皇大権を蔑ろにする「元号の事前公表」黒幕は誰か

    倉山満(憲政史家) 安倍晋三首相は今年4月1日に新元号を公表する意向を明らかにしたが、元号を御世代わりの前に公表したい勢力があるようだ。その勢力の筆頭として、報道されるたびに名前が挙がるのが杉田和博官房事務副長官だ。 官房事務副長官とは、各官庁の調整を行う職だ。杉田副長官は警察庁出身で、内閣人事局長も兼ねる。霞が関に睨(にら)みを利かせ、「安倍一強」「官邸主導」の立役者として政官界では知られる。 だが、あえて言おう。杉田副長官とて、黒幕の走狗(そうく)にすぎない。黒幕を叩かずして、走狗を攻撃しても意味がない。 その黒幕が誰かはさておき、そもそも元号の事前公表とは、どういう問題なのか。明治維新に際して一世一元の制が定められ、皇室典範で成文法化された(旧典範第12条)。だが、敗戦の際に旧典範は廃止され、その後は慣習法が元号の法的根拠となった。 やがて学界と言論界を中心に元号廃止運動が盛り上がり、対抗する形で保守陣営が元号法制化運動を進め、法制化された。成文法でも根拠を持った形になる。現行の元号法は2条しかない、短い法律だ。【元号法】第一条 元号は、政令で定める。第二条 元号は、皇位の継承があつた場合に限り改める。【附 則】 第一項 この法律は、公布の日から施行する。第二項 昭和の元号は、本則第一項の規定に基づき定められたものとする。 最初の元号である「大化」以来、元号が事前に公表された先例はない。皇室を論じる場合に最も大事なのは、先例である。皇室において、新儀は不吉である。新儀はやむ得ない場合に行うものであり、自ら行うものではない。 そうした日本国憲法どころか帝国憲法よりも以前から存在する皇室の慣習法を知らずとも、現行元号法のどこをどう読めば、元号を事前公表できるのか。 昭和から平成への御世代わりを思い出してみよ。1年間、昭和天皇のご病状は悪く、政府は「その日」に備えて新たな元号を用意していた。しかし、昭和64年1月7日の崩御まで公表は差し控えられた。同日、当時の小渕恵三官房長官が「平成」の元号を公表したのを昨日のごとく思い出す方も多いだろう。システム上の問題など、特になかった。 当時の竹下登内閣は、日本人としての道理を知っていた。竹下登と言えば中国に日本を売り飛ばした極悪人であり、闇将軍として次々と傀儡(かいらい)の総理大臣を挿げ替え平成の最初の10年を汚してくれた大悪党である。その竹下ですら、元号の事前公表などという暴挙は行わなかった。その暴挙を、保守を自認する安倍内閣が行おうとしている。 一世一元の制においては、元号は新帝の贈り名となる。だから、新帝の名で公表されるのだ。現行憲法では使われない用語だが、改元は天皇の大権なのである。一世一元の制において新帝践祚(せんそ)に際してのみ元号が公表されることにより、現行憲法改元大権は健在なのである。元号法第2条こそ、改元大権の規定なのだ。全国障害者スポーツ大会の開会式に出席された皇太子さま=2018年10月、福井市 どうしても事前公表したいのなら、元号法を改めるなり、一世一元の制をやめるなりすればよい。正当な手続きである、新規立法により行うべきだ。 わが国の国体とは、皇室と国民の絆である。その国民による選挙で選ばれた国会議員が法律を変えたいと言い出した時、止める方法はない。仮に元号の事前公表のために元号法を変えるなら、一世一元の制を廃することとなる。蔑ろにされた天皇大権 一世一元の制など150年の伝統しかないのだから、それ以前の先例に従い、天皇崩御に際して贈り名を熟議すればよい。結果として新帝の贈り名が先帝の御世に公表された元号であっても、この方法なら天皇の改元大権を傷つけない。今回で言えば、平成の間に元号を公表し、その元号が新帝の贈り名となっても、たまたま新帝が改元をしなかったというだけの話になるので。 今上陛下の御譲位が決まってから、1年もあった。新規立法の時間など、十二分にあった。政府が新元号を早めに公表したいのなら、国会に元号法の改正案を提出すればよかったのだ。ところが、何を今さら?安倍内閣は解釈により「事前公表は可能」との立場を採る。 なぜ、国会による立法ではなく、政府による解釈で乗り切ろうとするのか。これは安倍内閣の不手際のように見えるが、違う。陰謀である。改元大権を干犯しようとする黒幕の。 この場合の政府とは、安倍晋三でも杉田和博でもない。法律の解釈権を握る者だ。ここまで書けば、賢明なる読者諸氏には黒幕が誰か明らかだろう。  内閣法制局長官、横畠裕介である。  内閣法制局とは、憲法を頂点とする日本国の法令のすべてに対する解釈権を持つ。政府が国会に提出する法律は、法制局の審査(つまり許可)がなければ、閣議決定されない。今の日本国に、法制局の見解に逆らえる政治家と官僚は、一人もいない。その法制局は「天皇ロボット説」に固執し続けている。今上陛下の譲位に際しても徹底的に抗い続け、「天皇の意思による譲位はさせない」との立場を貫いた。衆院憲法審査会の参考人発言に対する政府見解について説明に臨む横畠裕介内閣法制局長官(手前)=2015年6月、国会内(酒巻俊介撮影) 今回、法解釈による元号の事前変更を安倍内閣にさせようとしている。安倍内閣の意思だけで、そんな大それたことができるわけがない。法制局の見解がお墨付きを与えていないはずがない。もしかしたら、安倍内閣の閣僚は、誰も事の重大性を分かっていないのではないか。改元大権を干犯しようとしていること、大化以来の先例を蹂躙(じゅうりん)しようとしていることの重大性を。 立法ではなく法解釈により改元前に事前公表すると、天皇の元号ではなく、政府の元号となる。新たな元号の下で、皇室も、政治家も、政治家を選んだ国民も、法制局の権威の下で生きていくということだ。 安倍内閣に申し上げたい。今からでも遅くはない。元号の事前公表など、はっきりやらないと宣言すべきだ。 確かに元号は常に時の権力者に左右されてきた。その意味で、改元大権は最も蔑(ないがし)ろにされた天皇大権の一つである。それでも、皇室は今まで生き残ってきた。だから、今回も改元大権が蔑ろにされたところで、天皇にも皇室にも傷はつかない。 しかし、これだけは言っておく。蔑ろにした者は、逆賊だ。(文中一部敬称略)■67年前、日本は「元号」を奪われる最大の危機にあった■日本人に覚悟を問う「皇室は民主主義のロボットではない」■皇室の未来と「象徴」の地位を縛りかねない陛下のお言葉

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    信長でも苦慮した改元「元亀から天正」暗闘の歴史

    小和田哲男(静岡大名誉教授) 改元は、古代から基本的に天皇の権限に属していた。ところが、鎌倉時代の後半から幕府が干渉するようになり、室町時代にはさらに幕府のトップである将軍の力が強くなった。そのため、江戸時代も年号は将軍が内定し、天皇がそれを認可する形をとっていたのである。 将軍の力が強いときは、それで問題はなかったが、将軍の力が弱体化したときは問題が生じている。ここでは、室町時代末期、戦国時代に発生した改元にまつわるトラブルについて見ておきたい。 足利15代将軍となった足利義昭は、周知のように、織田信長に擁立され、将軍の位に就くことができた。13代将軍だった足利義輝が松永久秀らによって殺された後、弟だった義昭が各地を流浪した末、信長の援助によって上洛(じょうらく)を果たし、永禄(えいろく)11(1568)年10月18日、征夷大将軍に任命されている。 はじめのうち、義昭も自分を将軍にしてくれた信長に感謝の念を抱いていたが、やがて翌12年正月16日、信長が「室町幕府殿中御掟(でんちゅうおんおきて)」を制定した辺りから、信長と義昭の不和が表面化し始めている。義昭が信長の傀儡(かいらい)将軍となりつつあることに不満を持ち始めたからである。 そして信長は、さらに翌元亀元(1570)年正月23日、五カ条の「条々」を義昭に認めさせ、将軍義昭の行動に縛りを掛けている。例えば、その第一条では、諸国へ御内書を遣わすときには、信長の書状を添えることが決められている。 しかし、注目されるのは、信長によって将軍義昭の行動に縛りが掛けられたにもかかわらず、改元の権限は義昭が握っていた点である。具体例を挙げておこう。元亀3(1572)年3月29日、改元について、幕府と信長に勅命があった。ところが、このとき、義昭が改元の費用を出さなかったため、改元は実行されなかったのである。 このことについて、信長は同年9月、義昭を批判して「異見十七カ条」を義昭につきつけているが、そこには、元亀の年号不吉に候間(そうろうあいだ)、改元然(しか)るべきの由、天下の沙汰に付いて申上候。禁中にも御催の由候処 に、聊(いささか)の雑用仰付けられず、今に遅々候。是は天下の御為に候処、御油断然るべからず存候事(『信長公記』)。織田一族発祥の地に立つ織田信長像=福井県越前町織田   と記されている。これだけでは、信長がなぜ元亀という年号を不吉だと考えたのか分からないが、信長は永禄から元亀への改元に反対の意向を持っていたことが分かる。 おそらく、そうした意向を朝廷にも伝え、朝廷から正親町天皇の勅令という形で幕府に改元を促したものと思われる。増幅した不協和音 ところが、このときは義昭が改元にかかわる費用を出し渋ったため、改元はされず、そのまま元亀の年号が使われているのである。信長が費用を出せば改元できたのではないかと考えたくなるが、当時はそうもいかなかったらしい。 信長がなぜ元亀の年号を不吉と判断したのか、義昭がそれにもかかわらず元亀の年号に固執したのかは分からない。だが、少なくともこのことによって、改元の権限が実力者信長ではなく、傀儡である将軍義昭の手に握られていたことが伺われる。 こうしたこともあり、当然のことながら、信長と義昭の2人の間に不協和音が増幅されることになり、ついに決定的な時を迎える。 義昭は信長の傀儡将軍であることを潔しとせず、ついに密かに武田信玄や朝倉義景、浅井長政らと手を結び、「反信長包囲網」を築き上げた。元亀3(1572)年10月には、信玄が甲斐から駿河・遠江に出陣し、12月22日の遠江三方原の戦いで信長の同盟者、徳川家康を破っている。 この信玄の破竹の進軍ぶりに義昭は強気になり、とうとう翌年3月、信長と戦うことになった。しかし、その頼みの信玄が4月12日、病気で急逝してしまい、義昭は宇治の槇島城に籠城したものの、7月18日、信長に降伏しているのである。 義昭は追放される形で、この後毛利輝元に保護され、備後の鞆(とも)に居住することとなる。征夷大将軍の職を解任されたわけではないが、この槇島城退去の日をもって室町幕府は滅亡という形となる。宇治川右岸から槇島城があった京都府宇治市槇島町方向を望む。槇島城があった場所は特定されていない=2007年8月(撮影・加藤孝規) そこからの信長の動きは素早い。それだけ、永禄から元亀へ改元されたときのことを根に持っていたことを物語る。 実は、永禄から元亀へ改元されるとき、元亀と天正の二つが候補に挙がり、義昭が元亀を推し、信長が天正を推した。結局、将軍義昭の推す元亀に決まるといういきさつがあり、信長はずっとそのことに不満を持っていたのである。信長としては、義昭を追放したことで、ようやく改元の権限を握ることができたわけである。 元亀から天正への改元は、義昭追放後わずか10日で、7月28日のことであった。天正という元号は、その意味で信長がかかわった唯一の元号ということになる。■ 信長に感謝した正親町天皇が「暗殺の黒幕」など有り得ない■ 神仏を恐れぬ織田信長の「悪魔信仰」を示唆する2つの記述■ 信長が戦った最大の敵は、戦国時代の「デフレ経済」だった!

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    またも龍パワー? 安土城と京屋敷、信長が同時普請にこだわったワケ

    橋場日月(歴史研究家、歴史作家) 天正3(1575)年8月12日、織田信長は岐阜城を発して越前国に向かった。朝倉義景滅亡後、いったんは織田家の支配下にあった越前は一向一揆によって奪われており、それを再び自分の手に取り戻すための作戦が発動されたのだ。 15日、大良越(だいらごえ、現在の福井県南条郡河野あたり。敦賀湾に近く、海沿いで越前北部に通じる口)から越前府中(現在の福井県越前市のうち)へ柴田勝家以下、羽柴秀吉・明智光秀ら先鋒(せんぽう)3万人が殺到した。 「以外(もってのほか)風雨候」と『信長公記』は記しており、信長が大風雨を冒して進撃命令を下したことが分かる。風が吹き付けようが、バケツをひっくり返したような雨が降ろうが、お構いなし。いかにも信長らしい激烈ぶりではないか。 いや、激烈というのは少し違うかもしれない。陸路を征(い)く柴田勝家たちはまだマシだった。同じ日、信長は水軍にも出動を命じていたのである。「海上を働く人数、(中略)数百艘(そう)催し」(同書) 数百艘の軍船が、越前府中の沿岸に兵をあげて、焼き討ちを行った。 陸の兵たちはまだしも、水軍にとって大風雨は命の危険さえあるハイリスクな天候条件だ。その中でも出動を命じた信長は、かつて村木砦の戦いで自ら「以外(もってのほか)大風」と記された強風をついて伊勢湾を強行渡海したように、部下たちにも命がけの働きを要求したのだ。 村木砦の戦いでの信長の兵数は1000人程度と考えられるが、今回は数百艘の軍船でおそらく1万人程度。10倍の兵数である。それだけに事故が起こる確率も高い。長篠の戦いで天候を味方につけた信長は、気象は常に自分の味方であり、大風雨も自分の軍に仇を成すことはない、と楽観視していたのだろうか。新清洲駅前に並ぶ織田信長像=愛知県名古屋市(中田真弥撮影) ここで気になるのが、大風雨の中で出動した織田水軍の兵たちが、越前府中の沿岸に上陸すると焼き討ちを行った、という事実である。「所々(ところどころ)に烟(けむり)を挙(あ)げられ候」(同書)とあるから、焼き討ちは行われただけではなく実際に成功し、各所で炎と煙が上がっている。ということは、この時点では大風雨、少なくとも雨はすでに止み、焼き討ちが可能な天候に変わっていたはずだ。 大風雨の中、水軍を無事目的地に到達させ、折よく雨もあがって焼き討ちも成果を上げる。こんな都合の良い話があるだろうか。だが、本当なのだから仕方がない。あるいは、ここでもまた「六芒星(ろくぼうせい)メンズ」が信長に「この大風雨は間もなく収まります」とアドバイスしたかもしれない。 気象データを読み尽くし、天候を操る大蛇・龍の妖しいパワーにますますのめり込んでいく信長の姿が浮かび上がってくるようだ。秀吉がパクった決めセリフ 翌16日、敦賀に本陣を置き先鋒の働きを見守っていた信長も、府中に進む。各地の一揆の拠点となっていた城はしらみつぶしに攻め落とされ、2000人以上が斬り殺され、生け捕りにされた3、4万人のうち1万2250人余りが処刑された。「数多首をきり、気を散じ候(多くの者の首を切り、心の憂さを晴らした)」「府中の町は、死がい計にて一円あき所なく候(府中の町は死骸で埋まり、全域すき間もない)」「山々谷々残る所なく捜し出し(山々谷々まで分け入って残らず一揆勢を捜し出し)」「くひ(中略)一向数を知らず候(切った首はまったく数え切れない)」「くれぐれ此国には敵一人もなく候(念には念を入れ、この越前国にはもはや敵は一人も残っていない」 信長自身が記した書状の行間には、長島に続いて越前と、長年悩まされ、黄金のドクロに討滅を誓った一向一揆を壊滅させた満足感、さらに一人も逃さず殲滅(せんめつ)するという意気込みがあふれている。 スーパーナチュラル(神懸かり的な)信長のパワーに影響されたか、加賀国まで進んだ羽柴秀吉も一揆勢が出撃してくると「天ノ与フル所」と叫んで迎え撃ち、大勝利を収めている。長篠の戦いでも使われた信長の決めセリフを拝借してあやかろうというわけだ。ここに来て、織田家は完全に「信長教」の集団となっていた。 9月に入り、越前国内の8郡49万石を柴田勝家に、府中10万石を前田利家・佐々成政・不破光治の三人衆に、それぞれ与える。 勝家に下した「掟 条々」にいわく。「とにもかくにも自分を崇敬して、影後ろでも反抗心など持つな。自分の方へは足も向けぬ気持ちが大切だ」 常に自分を尊敬して崇め奉り、信長の目の届かないところに居ても忠誠心を保って寝るときも足を向けないようにせよ。日本の神々というよりも、キリスト教の唯一絶対神のような信仰を自分に向けるように家臣に訓示する信長。彼は次の大蛇・龍パワーのプロジェクトを胸に岐阜へと凱旋(がいせん)していったのだった。 そして明くる天正4(1576)年、新年の行事も一段落した1月中旬にそのプロジェクトは動き始める。近江国(現在の滋賀県)の蒲生郡安土山に、信長の新しい本拠地とするべく安土城の建造工事が開始されたのだ。重臣の丹羽長秀が普請(ふしん)奉行を命じられ、工事は織田家の全力を投入して進み、2月23日には早くも山麓の家臣団屋敷群が完成。信長も岐阜城から仮御殿に移転した。城郭資料館に20分の1のスケールで再現された安土城=2010年1月、滋賀県(北村博子撮影) 4月1日には本丸石垣の普請も開始されている。そして、おそらく同じ月、京においては二条屋敷の築造も始められている。この二条屋敷は、後に正親町天皇の第一皇子である誠仁(さねひと)親王に献上され、「二条新御所」と呼ばれるのだが、実はこれ以前、信長は京に屋敷を持っていた。 「え? 信長って京に本拠地がなくて本能寺や妙覚寺に泊まっていたのでは?」と思われる向きもあるかもしれないが、正確には、この京屋敷は完成していない。まだ建設途中だった元亀4(1573)年3月7日、将軍・足利義昭によって取り壊されてしまった。信長を狙った呪詛 その場所は、上京武者小路。現在の上京区武者小路町あたりで、前年に義昭が公家の権大納言・徳大寺公維(とくだいじきんふさ)の屋敷地だったものを収公し、信長に与えたものだった。 信長はこの土地に築地(瓦屋根付きの土塀)をめぐらし、門までは造ったのだが、そこで義昭と決裂したために破棄され、ついに日の目を見ることはなかった。 この武者小路屋敷について考えてみたい。 場所は前述の通り、現在の烏丸今出川の交差点のすぐ南西。御所からは戌亥=北西方向きだ。この方位は「天門(てんもん)」と呼ばれ、鬼門同様に怨霊や魔物が出入りする方角と考えられている。信長との関係が悪化していた義昭は、親切ごかしにこの土地を与えて災いが信長に降りかかるよう仕組んだのだろう。 この呪詛(じゅそ)のおかげか、この元亀3(1572)年12月には甲斐の武田信玄が遠江国(現在の静岡県西部)へ兵を動かし、徳川家康と信長からの援軍(佐久間信盛ほか)との連合軍を三方原で完膚なきまでにたたき潰している。だが、その後の事態は義昭が思うようには進まない。越前国(現在の福井県北部)の朝倉義景は近江から兵を退(ひ)き、信玄は発病によって進撃を停止してしまったのだ。 こうなると、義昭にとって武者小路屋敷の地を信長に与えたことはもろ刃の剣と化す。戌亥=天門は災いを招く方角であると同時に、それを乗り越える、つまり鎮めることができれば末代まで家運が隆盛する上々大吉に転じる方角でもあるのだ。「いかん、このままでは信長の運気がますます上昇してしまうではないか」 慌てた義昭がとった対応が、翌年3月7日の工事現場の破壊だった。 しかし、工事現場を取り壊してはみたものの、信玄は病死し、義昭は京を追われてしまう。そして、安土築城と並行し信長は改めて京に新屋敷を築き始めたのである。その場所がまた武者小路だったかというと、そうではない。信長は破棄された武者小路の屋敷地を放置し、今度は二条の関白・二条晴良の屋敷(現在の烏丸御池交差点南西)を接収して新たな屋敷地とした。 二条屋敷は「龍躍池」という名物の小池があり「小池の御所」と呼ばれたが、戦火に焼かれ晴良はその一隅にささやかな仮屋を建てて住んでいた。信長はその晴良に報恩寺(御所の東北、一条)を屋敷として提供し、明智光秀にその建築工事を奉行させ、二条を京における織田家の本拠地として整備したのだ。現二条城に復元された二条御所(信長二条新屋敷)の石垣=筆者提供 ここで地図を眺めてみると、面白いことに気付く。内裏から見て義昭の二条城の延長線上に信長の二条新屋敷の地があり、その隣には西福寺がある。西福寺は浄土宗の寺院で、この場合内裏の裏鬼門である未申(ひつじさる=坤)を鎮める位置取りだ。後の江戸城に対する、浄土宗の芝増上寺のような関係と考えればよいだろう。 義昭の二条城もその内側にあって御所の裏鬼門を固めていたのだが、その建造を進めたのは信長だった。その信長が、義昭追放後の内裏の裏鬼門に、二条新屋敷を築く。当然、それは「これからは義昭に代わって自分が天皇を守る」という宣言に他ならない。 ただ、彼の言う「守る」の意味が、奉仕者としてのものなのか、保護者としてのものなのか、という重大な問題が残る。それについては、姿を現しつつある安土城によって答えを見いだすことができるだろう。■ 天皇家への挑戦状、井沢元彦が読み解く天才信長の「自己神格化計画」■ 寺社ファシズムと戦った信長、日本経済に必要な「自由化」の荒療治■ 「優れた経済人」織田信長だったらデフレ脱却にどう挑むか

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    百田尚樹『日本国紀』をコンナヒトタチに批判されたくない

    久野潤(大阪観光大学講師) 近年、改めて歴史ブームと言うべき現象が起きているのかもしれない。歴史好きの女性「歴女」や歴史アイドル「歴ドル」の存在をはじめ、歴史に詳しいことが一つのステータスとなるような時代となっている。呉座勇一著『応仁の乱』(中公新書)のような一見カタそうな書籍がベストセラーになるのも、そうした風潮と無縁ではなかろう。 一方、近隣諸国とのいわゆる歴史認識問題についても、かつてのように一部で激しく議論されつつも結局相手国やその主張に同調する勢力に押し切られるというようなことはなくなり、かつてないほどに日本人が自国の歴史に目覚め、主張できる時代となってきている。 筆者が小学生であった平成の初め頃には想像もつかないであろうこの状況を鑑みれば、平成という御代は、後世から見て戦後日本が自らの国史を取り戻す重要なステップとなった時代だと評価されるかもしれない。 その平成最後の年(改元前の最後の年)となった昨年、百田尚樹著『日本国紀』(幻冬舎)がベストセラーとなり、筆者もかかわらせて頂くことになったのは何かの御縁であろう。『日本国紀』の監修依頼を受けたのは、昨年9月半ばのことである。その2日後に幻冬舎より500ページ超のゲラを受け取り、その重厚さに改めて驚くことになる。 著者の百田尚樹氏には拙著『帝国海軍の航跡』(青林堂)に帯文を頂いたことがあり、編集の有本香氏とは何度かお目にかかったことがあったが、仕事で御一緒させていただいたことはなかった。それを今回、大御所ではなくこのような若手の歴史学者に機会をくださったことには本当に感謝している。 ゲラを受け取った筆者は、本能的にワクワクした。念のために言うと、「売れそうな本だから乗っかっとこう」などといったものではない。日本を代表する作家である百田氏には百田氏なりの重厚な歴史観があり、それに沿った著作となろう。ただそこで、いわゆる大御所の学者が形だけの「監修」として名を貸すようなものではなく、発売前の大著に目を通したうえで意見を具申し、完成までの議論に参画できる(そうすることを求められている)という期待があった。 そして、2週間かけてゲラをチェックしていった。筆者の専門は昭和戦前期の政治外交だが、他の時代も合わせて、ほぼ全ページに赤(実際のペンの色は、他の編集工程をはばかって青であったが)を入れさせていただいた。幻冬舎側のチェックも、相当細かいところまで行われていたことを付記しておく。※画像は本文と関係ありません(GettyImages) 自分の研究室での作業だけでなく、移動中も膨大なゲラを持ち歩いてチェックしたものである。そしてその後のやり取りも経て、校了となった。筆者は、奥付などの書誌情報上は「監修」としてクレジットされていない。ただ、自分のかかわり方として「監修」たることを、校了後の編集側とのやり取りや、本書末尾〈謝辞〉での記載も含め、改めて確認した。それで『日本国紀』について発信する際、折に触れて「監修」と称しているわけである。 フェイスブックでは10月28日、ツイッターではその翌日、自分が監修させていただいた『日本国紀』が翌月12日の発売前からネット通販大手のアマゾンにおいて2週間連続でベストセラー1位であることを書いた。フェイスブックでは「いいね!」が500以上つき、多数のコメントと共にシェアも100を超えた。また、かなり久々にメッセージをくれる方もいた(笑)。ツイッター上の罵詈雑言 ところがネット上で使う名前(ハンドルネーム)が常用されるツイッターでは、フェイスブック同様の「買います」「楽しみです」といったコメント以外に、特定アカウントからネガティブなコメントが寄せられるようになった。 筆者は自分の著書や自分のかかわった書籍を機会あるごとにゆかりの神社へ奉納することにしているのだが、ある神社に『日本国紀』を奉納した記事に対しては「バチ当たるぞ」「トンデモ本奉納されて神様も困るだろ」「今時がどんど焼きの時期なのでしょうか」「穢れるやんけ」などというコメントが立て続けに書き込まれた。 文筆家の古谷経衡氏が言う「道徳自警団」の中でも質が悪い層であろうか。さらには坊主憎けりゃ袈裟(けさ)まで憎いとばかりに、「既に目が逝ってるね、こいつ」「大阪観光大学ってナニ?」などと、批判勢力の品性を疑わせるものもあった。 そうしたツイッターアカウントの中で、『日本国紀』の皇室についての記述などについて「あなたも同じ主張か」とばかりに詰め寄ってくる方もいた。そこで筆者は、フェイスブックで次のように公開投稿を行った。『日本国紀』へのインターネット上の一部匿名者による批判(とさえ言えぬような罵詈雑言)について御心配の声を頂きますので、念のために書きます。当然ですが当方は一切、「監修」にあたって後ろめたいことなどありません。私は500ページ超のゲラ全ページに目を通し、2週間かけてほぼ全ページにわたって歴史的な事実関係確認をはじめ意見具申をしました。もちろん容れられたところもそうでないところもあり、監修者や協力者はそれを甘受するものです。そのうえで、百田先生の著作として『日本国紀』を多くの方に読んでいただきたいと思っています。書籍の内容についての諸々の御指摘によって建設的な歴史論議が深まることは、著者にとっても望むところではないでしょうか。 ところが残念なことに、本名も名乗らず氏素性も告げず、揚げ足とる気満々の文脈で「質問に答えろ」とか言ってくるツイッターユーザーがいたりするわけです。いちおう日々の仕事や原稿そして(有益な)情報収集に勤しんでいる研究者をつかまえて、コンナヒトタチに(←安倍首相調)時間をかけて対応せよと言うつもりでしょうか。万一「返信がないということは・・・」などと連鎖的に妄想してる方々がいるとすれば、歴史談議の前にまず頭を現実社会に戻していただければと思います。 仮に所属・姓名を明示したうえで問い合わせがあれば、私個人の歴史観や史実認識についてお答えすることもあるでしょう。でも悪意あるコンナヒトタチが答えさせようとしているのは、明らかにそういうのではありませんよね? 中には自分のオピニオンサイトらしきものを展開しているユーザーもいるのだが、少なくとも同様の絡み方をしてくる際に本名を名乗る人はそれ以降も現れていない。もちろん仮に匿名でなくとも、『日本国紀』の「間違い」を指摘しながら「あなたは本当にチェックしたんですか?」などと下衆の勘繰りを展開する手合いには付き合えるはずもないが。 さて一方、『日本国紀』の内容についての実名による批判も出ている。ただ、同書の批判を含むものとしては最初に書籍化されたものと思(おぼ)しき『「アベ友」トンデモ列伝』(宝島社)も、「アベ友」作家だと決めつける基本コンセプトのもと、「百田尚樹『日本国紀』パクリ大検証!」と銘打っていながら、その検証素材は上記ツイッターユーザーのオピニオンサイトらしきものという点で問題にもならない。秦郁彦氏の批判 なお『日本国紀』の「パクリ」事案については、例えば、決して思想的に百田氏と近い母体ではなかろう「弁護士ドットコム」の11月27日付記事でも「出所の明示だけでなく、それぞれの部分について、明瞭区別性や主従関係などの要件に合致するのか、引用先(『日本国紀』)の歴史書としての特性や引用元の特性なども考慮にいれる必要がある」「偶然類似してしまった可能性もあるので、『依拠』の要件を満たしているのかという議論もある」と述べられている。つまり、最初から批判ありきで類似性をあげつらうだけでは話にならないのである。 もし議論に付き合う価値があるとすれば、実名による論点明瞭な批判である。12月26日付毎日新聞「売り上げ好調百田氏「日本国紀」に「コピペ」騒動 専門家の評価は?」では、秦郁彦氏(現代史家)と辻田真佐憲氏(近現代史研究者)のコメントが寄せられている。 辻田氏は現状での『日本国紀』批判が「このままでは単なるネット上の"百田たたき祭り"で終わってしまい、結果的には社会の分断を広げるだけで終わってしまう」といった作法(?)についてのものだが、秦氏は『日本国紀』の連合国軍総司令部(GHQ)やウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)に関する記述を「陰謀史観的だ」と批判し、「WGIPに言及した部分は元々、(文芸評論家の)江藤淳が提唱したものです。そこから取ったのでしょうが、これまで広がらなかったのは、その論に説得力がなかったから。WGIPがそこまで大それたものだったかという点で疑問があります」としている。 いわゆる慰安婦問題についての秦氏の研究には、戦前日本が軍、政府命令で強制連行したわけではないことを明らかにした点で大いに敬意を表したい。しかし秦氏の研究をもってしても、いまだ「日本は慰安婦に無理やり悪いことをしたんじゃないか」と思っている日本人も大勢いる。 これも、まさに江藤淳著『閉された言語空間』(文藝春秋)で指摘されたような自虐史観を自己増殖させるメカニズムによるものではないのか。戦争に負けたことを知っていてもWGIPの存在自体を知らない日本人がまだまだ圧倒的に多い現在、こうした議論自体が『日本国紀』によって知らしめられることを、日本人は歓迎できないのであろうか。呉座勇一さん=2018年3月14日、京都市西京区(寺口純平撮影)  朝日新聞では12月4日より毎週火曜に、冒頭で挙げた『応仁の乱』の著者でもある呉座勇一氏による「呉座勇一の歴史家雑記」で『日本国紀』批評が展開されている。その初回では「さぞかし過激な内容だろうと予想していた私は正直、拍子抜けした」とあるが、はて一体どのような内容を「予想」したのであろうか。監修者の意見が通った部分 百田氏は12月18日発売の『FLASH』でも述べている通り、「日本人が自分の国や祖先に誇りを持てる歴史書」を書こうとしたのであって、別に過激な(特異な?)歴史観で衆目を集めようとしているわけではない。12月11日付でも呉座氏は「私の見る限り、古代・中世史に関しては作家の井沢元彦氏の著作に多くを負っている」と指摘するが、すでに校正段階で筆者もその件で百田氏に直接尋ねたところである。自らの知見に基づいて部分的に井沢説を採りつつ論を展開するのは、百田氏の著作である以上自由であろう。 「学界の通説と作家の思いつきを同列に並べるのはやめてほしい」とのことだが、戦前日本が他国を一方的に侵略していたかのように断ずるかつての「学界の通説」がいかに実情を無視したものであるか。あるいは呉座氏の主張と違うところが多い、戦前の「学界の通説」についてはどう捉えているのか。 『日本国紀』は百田史観が色濃く出ている一方で、表記や語法のミスなど以外でも、監修者の具申が受け入れられた個所も多い。例えば織田信長については、初稿では「今でいう無神論者に近い」となっていた。これは例えば、メディアでも人気の歴史学者である本郷和人氏の近刊『東大教授がおしえるやばい日本史』(監修)『戦国武将の精神分析』(対談)でも描かれている歴史観なので、少なくとも学者からも袋叩きに遭うことはない。 しかし、筆者は自らの史料調査や寺社取材により、信長が無神論者どころか神仏を篤(あつ)く崇敬し、天皇を支える勤皇の武将であったと相応の根拠をもって確信している。「革命児」「無神論者」「天皇や将軍を蔑(ないがし)ろにした」と評価されるようになったのは戦後のことであり、この点筆者も呉座氏の「日本人の歴史観は歴史学界での議論ではなく有名作家による歴史本によって形成されてきた」(12月18日付朝日新聞)という主張に同意である。 とりあえず伊勢の神宮はじめ、さまざまな神社仏閣を復興したことなどを具体的に指摘したところ、発刊時には修正されていた。要するに、歴史学者諸氏が指摘したいような論点のうち主要なものは、すでに校正段階において監修者との間で議論が行われ、また著者の頭の中でもさまざまに検討されてきたということである。筆者自身、「諸説の存在を分かったうえでお書きとは思いますが…」と前置きしながら種々の指摘を行ったものである。 「百田氏は知らないだろうから教えてあげよう」という類いの論評の多くが、これまでに蓄積された膨大な教養を駆使して歴史を叙述する百田氏への真摯な忠告ではなく、『日本国紀』50万部の読者を利用した自己アピールに見えてしまうのは筆者だけであろうか。講演する百田尚樹氏=2018年3月2日、大阪市中央区の松下IMPホール(永田直也撮影) ともかく『日本国紀』とは、著者―編集者―監修者の間でかなりの議論を経て生み出されたのである。各分野の研究史を踏まえた歴史のプロである監修者の指摘を受け入れず、百田史観を貫いた部分については、読者も百田氏のそれなりのこだわりを感じて読むことになろう。「学界の通説」にかなっているか否かの判断だけでなく、こうした歴史書の著者が掲げた問題意識や仮説に応えられているかを自省できる歴史学界であってほしいと、学界の末席から願う次第である。■ 【百田尚樹独占手記】私を「差別扇動者」とレッテル貼りした人たちへ■ 百田氏の講演中止問題で剥がれ落ちた「護憲リベラル派」の化けの皮■ 百田尚樹に嫌われる私でも、一橋大「講演中止」の判断は残念に思う

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    百田尚樹『日本国紀』を読んで「がっかりした」理由

    を、私は発売当初から読みたいと思ってきた。ただ話題になっているからではない。編集者の一人として、また歴史に関する著作のあるジャーナリストとして、一個人の手になる日本通史の描き方に大いに関心を持っていたからである。 私が青春を過ごした1970年代は、マルクス主義と史的唯物論の影響を受けた「戦後歴史学」が影響力を持っていた時代である。日本通史についても、井上清の『日本の歴史』(上中下巻・岩波新書)などが幅を利かしていた。それは誤解を恐れずに言えば、国家権力に対する民衆の闘いが歴史を変革してきたという立場のものであり、現在の資本主義社会も永遠ではないことを教えようとするものであった。 そのような「歴史観」が全面に出る歴史学のあり方には、内外から批判と反省もあり、歴史の描き方を巡る模索があった。しかし、ソ連の崩壊により、資本主義が社会主義に変わるという史的唯物論の根幹が挑戦を受けたことをきっかけとして、戦後歴史学は衰退していく。 それでも、90年代半ばまでは、網野善彦『日本社会の歴史』(上中下巻・岩波新書)に見られるように、一人が日本通史を描く試みは続いていたのである。この本は「奴隷制社会、封建社会、資本主義社会などの(中略)社会構成の概念だけで、人類社会のきわめて多様なあり方をとらえうるかが、事実そのものの力によって問われている」(下巻「あとがき」)として、史的唯物論をそのまま日本社会に適用する態度に対して、批判する立場を明確にしている。それでも、史的唯物論に代わって、「事実そのものの力」を持って通史を描こうという問題意識が貫かれていた。 しかし、その後の歴史学は、網野の問いかけを受け止め、発展させるようなことがなかったように思う。歴史観や歴史の全体像にも関心を持っていた歴史学者も少なくないであろう。だが、発表された著作を見れば分かるように、自分の専門分野を深く掘り下げる仕事に集中していった。 こうして、歴史は「暗記物」となって、若者の関心も薄れていくことになる。「歴史観」が表れていたのは、明治以降の日本の戦争をどう捉えるかの分野に限られ、侵略と植民地支配の責任に関する歴史観も一定の方向性に保たれていた。 そこに現れたのが、99年に刊行された西尾幹二氏の『国民の歴史』に代表される、戦後初めて登場した右派による通史であった。もともと、ドイツの文学・思想の研究者である西尾氏の著作であったから、日本史学の到達を踏まえたものではなく、学問的には大きな批判を浴びたが、国民の間では一定の支持を集める。歴史学者の網野善彦=1998年11月撮影 歴史学の全体が日本の戦争責任の解明に集まる中で、「日本の歴史は誇っていいものだ」という呼びかけには、それなりに国民の心に響くところがあったのであろう。その後も、学問の世界においては引き続き真面目な成果が出ているが、国民の間ではいわゆる「歴史修正主義」が跋扈(ばっこ)する状況が続いてきた。 そのころから、私は編集者として、ある歴史観を持って日本の通史を描く著作を刊行したいと考え、多数の歴史学者に接近していった。それを通じていくつかの著作が生まれたが、どれも複数の著者によるものだ。 特定の強烈な歴史観で日本通史を描くとなると、やはり一人で挑戦することが不可欠だと考えて働きかけてもいるが、まだ実ってはいない。いっそのこと、学者ではない人に依頼するしかないかとも悩んでいる。違和感を覚えた「万世一系」 百田氏の『日本国紀』は、そういう私の模索の過程で登場したものだ。もちろん、西尾氏から続く右派の通史であり、立場が異なることは承知している。 しかし、歴史の「素人」であっても通史を書こうとするわけだから、歴史学の成果をわが物にしようと努力したであろう。そして、それがどんな影響を百田氏に与えたかについては、同じく学者ではない人による通史の刊行も考えている私には関心がある。また、通史を書こうとするなら不可欠な問題意識というか、国民に何を問いかけようとするのかは、左右の立場の違いを超えて学ぶものがあるのではないかとも感じた。 『日本国紀』を真剣に読んだのは、これらの理由からである。だから、正直に告白しておくと、読み進めてしばらくの間、『日本国紀』にある程度の期待を抱いていた。その結果はどうだっただろうか。 最初に目に付いたのが、本の帯だった。「私たちは何者なのか─。」と大きく書かれていて、『日本国紀』全体を貫くテーマなのだと分かるが、その問題意識は悪くない。「2000年以上にわたる国民の歴史と激動にみちた国家の変遷を『一本の線』でつないだ、壮大なる叙事詩」(帯文)とあって、立場は違っても、日本人というものを「一本の線」で描くという百田氏の意欲が伝わってくる。 そして早速、弥生時代の記述の個所で、「私たちは何者なのか─。」の萌芽(ほうが)が出ている。『魏志』の記述を引用する形で、「私たちの祖先が、他人のものを盗んだり、他人と争ったりしない民族であったということを、心から嬉しく思うのである」と書かれているのだ。 常日頃、百田氏がインターネット上で、立場の違う人に対する激しい批判を見ているだけに、この記述について言葉は悪いが「お前が言うか」と思わざるを得ない。しかし、もしかしたら、百田氏はこの本の執筆を機に「他人と争ったりしない」方向に転換を試みているのかもしれない。また、「他人と争った」日本の近現代史に新たな見方が提示されている可能性もあるので、この時点で突っ込むことはせずに読み進めた。 また、古代の話を読んでいると、歴史学の成果と無縁に書かれているというのでもないことが分かる。ただ、最初に違和感を覚えたのは「万世一系」の問題である。日本の皇室は神武天皇以来、同じ系統で面々と続いてきたという問題だ。 たとえ後に「神武東征」に喩(たと)えられるような事実があったとしても、神武天皇が現実の存在ではなかったことも、現在の天皇家が神武天皇の系列ではないことも、歴史学の世界では常識に属することである。太田茶臼山古墳とも呼ばれる継体天皇陵。後方に見える今城塚古墳が「真の陵」とする説が有力になっている(産経新聞社ヘリから、宮沢宗士郎撮影) 百田氏も、『日本国紀』を執筆するにあたって、歴史学の成果をそれなりに渉猟したのであろうから、そこには気づくことになる。継体天皇のことを記述する際、「歴史を見る際にはそうしたイデオロギーや情緒に囚(とら)われることは避けなければならない」として、次のように述べるのである。 「だが、継体天皇の代で王朝が入れ替わったとするなら、むしろ納得がいく。(中略)現在、多くの学者が継体天皇の時に、皇位簒奪(本来、地位の継承資格がない者が、その地位を簒奪すること)が行われたのではないかと考えている。私も十中八九そうであろうと思う。つまり現皇室は継体天皇から始まった王朝ではないかと想像できるのだ」 これは誰が見ても、日本の皇室は「万世一系」ではないということを意味している。百田氏の言葉を引用すると、現在の天皇家というのは「本来、地位の継承資格がない者が、その地位を簒奪」して誕生したということになる。ところが、百田氏はこの本の最後の最後まで、「日本は神話とともに誕生した国であり、万世一系の天皇を中心に成長した国であった」(「終章 平成」の冒頭部分)と、「万世一系」に固執しているのである。テーゼに縛られて消える真実 百田氏も、ただ無邪気に「万世一系」を唱えているわけではない。継体天皇が神武天皇の系列にないことを前提とした「万世一系」論を構築しているのである。 継体天皇が新しい王朝を打ち立てたと宣言しなかったのは、その当時から「『天皇は万世一系でなければならない』という不文律があったから」だというのだ。つまり、神武天皇に値するような人がいたとして、別の実力者がその系列の王朝を打倒したとしても、「自分はその跡継ぎだ」と宣言するような思想があったから、「万世一系」であることに変わりはないというのが、百田氏の考え方なのである。 そういう思想が当時に存在していたかは、素人の私には分からない。しかし、歴史の現実は「万世一系」ではないことを認めておきながら、なおかつ「万世一系」と言い張るのでは、少なくとも「歴史書の名に値するか」という問題が生じてくることは避けられない。百田氏は、神武天皇の系統は継体天皇で途絶えたこと、現在の天皇家は資格のなかったものが実力で地位を簒奪(さんだつ)したものであることを、堂々と明言すべきではなかろうか。 『日本国紀』では、その後も日本人の素晴らしさについての記述が多い。しかも、百田氏の日本史の捉え方は、世界との対比で日本を際立たせようとするものだ。「世界的にも珍しい」「ヨーロッパや中国では」「世界に類を見ない」「世界を見渡しても」とあるように、「世界は劣っているが、日本は優れている」という論法なのである。 それらの指摘の中には、事実が含まれるのかもしれない。しかし、世界190カ国の歴史を調べたことのない私には分からないし、百田氏が比較の基とした資料などが提示されるわけでもない。歴史をただ光に満ちたものとして描くことは、逆に現実から遊離することにならないだろうか。そういう制約があっては、歴史学の成果を踏まえた論考というより、政治的なテーゼ(命題)が提示されているだけと言われても仕方がない。 テーゼは大事だが、それに縛られると真実が見えなくなってしまう。明治以降の日本の歴史の描き方についても、同様の感想を抱く。日本の優れた点がいろいろと書かれているが、「光だけでなく陰も合わせて見ようよ」と感じてしまう。この時代の戦争体験は、現在の日本と日本人、日本と周辺国の関係を直接にも規定するものだけに、リアルさが求められるのである。 論点はたくさんあるが、一つに限る。百田氏の言う「大東亜戦争」のことである。百田氏は「日本が戦争への道を進まずに済む方法はなかったのか─。私たちが歴史を学ぶ理由は実はここにある」と述べているから、どんなことを学んだのかと思って読んだのだが、残念ながら、どこにもそれらしい記述は見当たらなかった。 満州事変について言えば、「満州は古来、漢民族が実効支配したことは一度もない」と強調され、国際連盟が日本の撤退を求めたことを批判する。それに続く中国との全面戦争は「確固たる目的がないままに行われた戦争」とされている。「気がつけば全面的な戦いになっていた」というのである。 他方、太平洋戦争のきっかけとなった「ハル・ノート」を論じる個所では、満州は当然のごとく中国の一部だと日本政府も考えており(満州事変の時は中国の一部でなかったはずなのに)、だから「日本が(中略)中国から全面撤退する」という要求が飲めなかったと指摘している。戦争に踏み切ったのは「ハル・ノート」を受け入れると、「欧米の植民地にされてしまうという恐怖」が生み出したもの、ということらしい。東京・荻窪にあった近衛文麿の別邸「荻外荘」。現在は一部が公園として整備されている(松本健吾撮影) これでは「日本が戦争への道を進まずに済む方法」への示唆がどこにもない。唯一、それらしい個所があるとすると、それ以前の日清戦争を論じた次の記述であろう。 「清から多額の賠償を得たことで、国民の間に『戦争は金になる』という間違った認識が広がった。その誤解と驕りが『日露戦争』以後の日本を誤った方向へと進ませた」叙述視点が変わった「時代」 「国民の間違った認識」が日本を誤らせたという論理である。そう言われると、太平洋戦争を論じた個所でも「日本はそれでもアメリカとの戦争を何とか回避しようと画策した」と、その「努力」のあれこれを列挙した上で、ここでも「国民の誤り」に言及する。 「日本の新聞各紙は政府の弱腰を激しく非難した。満州事変以来、新聞では戦争を煽る記事や社説、あるいは兵士の勇ましい戦いぶりを報じる記事が紙面を賑わせていた。(中略)『日独伊三国同盟』を積極的に推したのも新聞社だった」 国民や新聞社の戦争責任がないとは言わない。しかし、政府は戦争を回避しようとしたが、国民が煽ったから戦争になったというのでは「日本が戦争への道を進まずに済む方法」は見えてこないのではなかろうか。ただ、今の日本が戦争に突き進むことのないよう、百田氏も含む一部の保守論客や国民への自戒と捉えれば、意味のある指摘かもしれない。 以上、『日本国紀』の問題点をあれこれ指摘してきた。それでも、ここまでは「当代一のストーリーテラー」(帯文)の面目躍如という要素もあったから、それなりに楽しく読み進むことができた。 政治的立場やイデオロギーは違うことは分かっていたし、それでも百田氏がいろいろと努力して学んだ成果もうかがえ、もっと肯定的な論評にするはずだった。しかし、先の大戦後の叙述を読んだ後は「これは歴史書ではない。日本通史はこのように描かれてはならない」と結論づけるに至った。なぜか。 『日本国紀』のそれまでの叙述では、日本人の素晴らしさが強調されてきた。これまで述べてきたように、そこには光だけを取り上げる行き過ぎもあり、他国を貶(おとし)める問題もあるのだが、立場の違いとして見過ごせる要素もあった。 ところが、戦後の話になると、叙述の視点そのものが変わってくる。百田氏は「これほど書くのが辛い章はない」と述べるが、「読むのも辛い」ものとなっていく。作家の百田尚樹氏(志儀駒貴撮影) どう変わるかと言えば、突然日本人が批判の対象とされるのだ。それまで日本の素晴らしさが強調されたのは、現在の日本人のあり方を糾弾するためにあったのだと、ここに来てようやく気づくことになる。百田氏の言葉を引用すると、戦後の日本と日本人というのは、次のようなものであった。 「『敗戦』と、『GHQの政策』と、『WGIP洗脳者』と、『戦後利得者』たちによって、『日本人の精神』は、70年にわたって踏みつぶされ、歪められ、刈り取られ、ほとんど絶滅状態に追い込まれた」 WGIPは「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」の略語ことであり、戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けるため、連合国軍総司令部(GHQ)による洗脳計画とされるものだ。要するに、米国の占領政策によって、戦前の日本の伝統が根こそぎ崩壊したという主張である。その象徴が日本国憲法であり、「日本らしさを感じさせる条文はほぼない」と百田氏は指摘する。そして、失われた伝統、日本の素晴らしさを取り戻すのが現在の課題であるというのが本書の結論であった。 この結論を導くためには、日本人全体がWGIPに犯されていると主張する必要がある。そのため、百田氏は「共産主義的な思想は日本社会のいたるところに深く根を下ろしている」と指摘した。日本人が先の大戦を侵略戦争だとみなし、周辺国に謝罪したのも、その影響からなのだそうだ。政治的主張を散りばめた「作品」 百田氏が、先の大戦を侵略戦争と考えていないのは理解しているつもりだし、そう考える人を糾弾するのも自由である。迷わずにやればいい。けれども、そういう思想を「共産主義」だと位置づけ、それが日本全体を覆っているかのような見方は、事実として成り立たないだろう。 戦後の日本では、共産主義と対峙(たいじ)した自民党政権が長らく続いており、他方で共産党は少数のままであり続けた。その自民党政権が、先の大戦を侵略とみなすことを拒否し続けてきた一事をもってしても、それは明らかである。証明すら不要なことだろう。 つまり、百田氏がそういう結論を導こうとして戦後史を眺めたために、本書ではいろいろな場面で矛盾に直面する。いくつか例を挙げよう。 独立後すぐに戦犯を赦免するための署名運動が起こり、4千万人が署名したのだが、これはWGIPによる洗脳説では説明できない。すると、百田氏は「洗脳の効果が現れるのは、実はこの後なのだった」と、論理の破綻を糊塗(こと)しようとする。 60年安保闘争を批判し、それに参加した人が少数であったことを強調するため、直後の総選挙で自民党が圧勝したことを指摘するのだが、それは選挙時の有権者が全て素晴らしい伝統を持っていた戦前生まれだったからだというのだ。では、素晴らしい日本の伝統を受け継がない戦後生まれ(共産主義に洗脳もされている)が多数になっても、自民党が選挙で勝ち続けている事実を一体どのように説明するのか。60年安保闘争(全学連)で、警視庁前から国会に向かう学生や労働組合員のデモ隊=1960年6月 要するに、『日本国紀』というのは、歴史を叙述した著書ではないということだ。歴史に名を借りて、百田氏の政治的な主張を散りばめた作品なのである。 冒頭から書いているように、歴史を描くのに政治的・イデオロギー的な中立性は必ずしも必要ではない、というのが私の考えである。しかし、そうであっても、自分の政治的・イデオロギー的な立場が矛盾する事実に直面したとき、それを隠さないで、あるいは歪めないで、どう対応するかが学問に求められる最小限の節度ではないだろうか。 ある場合は、さらなる探求の結果、元の立場に矛盾しない説明方法が見つかるかもしれない。別の場合、自分の立場を修正する必要性が生まれてくるかもしれない。それが学問というものである。『日本国紀』はその節度から外れているというだけでなく、最後の結論部分に至っては、政治的主張のために学問を歪めるものである。 もし私であれば、誰かに日本通史の執筆を依頼する時は、この節度を何よりも求めるだろう。『日本国紀』は、その重要性を私に自覚させてくれた点で、それなりの存在意義を持っていると付記しておく。(一部敬称略)■ 安保闘争 過剰な「連帯感」は民主主義なのか■ ポスト60年安保と革新幻想■ ピンク大前へ! 学生運動も学歴社会

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    日本人はなぜ自国の歴史を教わらないのか

    士)呉善花(拓殖大学教授)ケント 日本人が他国によるプロパガンダに弱い原因は、学校教育のなかで自国の歴史や文化をきちんと教えていないことが大きい。自虐史観を植え付け、自尊心を奪うような教育ばかりを日本ではしていますからね。 こうした現状をなんとかしたいと思った私は、日本人に日本とは何かを改めて知ってもらう必要があると考え、『ついに「愛国心」のタブーから解き放たれる日本人』(PHP新書)を書きました。 じつは本書では「愛国心」ではなく、「母国愛」という言葉を使いたかったんです。というのも、日本では「愛国心」というと、その言葉だけで右寄りというか、ネガティブな印象があるからです。ただ、「母国愛」という言葉はそこまで一般的ではないので、「愛国心」としました。 どちらの言葉を使うにせよ、国を愛するのは、母を愛するのと同じように普遍的な行為だと、この本で知ってもらいたかったのです。呉 私が日本に来たのは34年前ですが、「愛国」や「愛国心」という言葉が何か怖い印象で捉えられていたことには驚きました。韓国ではそれらの言葉は当り前のように使われていたからです。 当時の韓国で「愛国」というと、ほぼ自動的に「反北朝鮮」「反日」の感情が浮かんでくるところがありました。そして現在では「反北朝鮮」の感情がなくなって、「反日感情」だけが残っている。韓国の「愛国」は日本という憎む対象がまずあって、それによって支えられているといっても過言ではありません。 一方、日本人はあまり愛国心を表現しませんが、故郷のお国自慢は大好きですね。日本の地方に講演にいきますと、「こんなにお酒がある」「こんなに景色のすばらしいところはほかにありません」などと、一生懸命に「お国」自慢をしてくれます。日本人はつねに忘れ難きふるさとを心に抱いて生きている、愛郷心ですね。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) じつは愛郷心こそが愛国心のベースをなすものです。この古くからあるベースだけは失われていない。韓国人の愛国心にはこうしたベースがないんです。宙に浮いている。 また、「ふるさと」という言葉を聞いて日本人が思い出すのは、いつも母のことではないでしょうか。その点、ケントさんが「愛国心」とは「母国愛」のことだというのは、なるほどと思いました。「愛国心」とは「母国愛」のことケント ありがとうございます。前掲の拙著を読んで、30代の男性から6回も泣きました、という手紙ももらいました。本書では日本の歴史や伝統について、私がいちばん述べたいことを書いたつもりです。 他方、私たちアメリカ人は、世界中のあらゆる国から集まった国民です。これをどうやってまとめているかというと、星条旗です。幼稚園のときから、学校でいちばんの行事は、胸に右手を置いて起立し、アメリカ合衆国の象徴である星条旗に忠誠を誓うことです。I pledge allegiance to the Flag of the United States of America, and to the Republic for which it stands, one Nation under God, indivisible, with liberty and justice for all.(私はアメリカ合衆国国旗と、それが象徴する、万民のための自由と正義を備えた、神の下の分割すべからざる一国家である共和国に、忠誠を誓います) 私はこれを死んでも忘れません。幼稚園のときから毎朝、唱えていましたからね(笑)。 では、日本の学校で何をしているか。歴史の時間になると先生から「君たちのお父さん、おじいさんたちは、中国や韓国に対して非常に悪いことをした。いつまで反省し、謝らなければならない」と教えられる。アメリカで教師がこんな教育を続けていれば、すぐにクビですよ。 日本の教師の中には、日の丸を戦前日本の軍国主義の象徴とみなす人もいるでしょう。それは一つの意見かもしれませんが、なぜ特定の個人思想を子供たちに押し付けるのか。それは国の方針ではありません。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) 君が代を歌いたくないという教師もいるかもしれない。だからといって、子供たちに教えないというのは論外です。指導要領に反していますからね。 私が日本の親たちに提案したいのは、一度子供たちの学校の授業を見学し、もし反日的な教育が行なわれていたならば、大問題として世に提起すべきだということです。そうやって親たちが自ら積極的に動かなければ、日本の自虐的な偏向教育はけっして是正されないと思います。祖国を愛せない人間は不幸ケント ご存じのとおり、日本では学校だけでなく、マスコミも反日思想を熱心に植え付ける元凶になっています。国旗や国歌に敬意を示すのは、とんでもないという発想です。 私がそれを再認識したのは、2016年8月9日のことでした。この日は前夜からリオ五輪をテレビ観戦していたのですが、男子体操の団体総合決勝で日本のチームが3大会ぶりの金メダルを見事に取った。朝4時を回っていましたが、眠たいのを堪えて観戦していてよかった(笑)。表彰式のあと、表彰台で「君が代」がどんなふうに聞こえたか、という記者の質問に対し、内村航平選手はこんなふうに答えていました。「声が裏返るまで歌ってやろうと、みんなで言って、すごくゆっくり流れたので、ちょっと歌いづらかったですけれど、すごくみんな大きな声で歌えてよかったと思います」 もし私が新聞記者だったら、これを記事の見出しにしましたよ。ところが、内村選手の君が代に関する発言を取り上げたのは、新聞では『産経新聞』だけでした。NHKは生放送時には当然放映しましたが、その後、このシーンを二度と流さなかった。他の民放も同様です。五輪で優勝した彼らが、一生懸命に君が代を歌ったというのは、普通の日本人なら誰もが感動するいい話じゃないですか。その部分をあえて無視するなんて、日本のメディアはほんとうにおかしい。異常だと思います。呉 日本の学校では日の丸や君が代の意味や成り立ちを教えていませんからね。それどころか、日本の歴史や文化に関する基礎的なことすら教えていない。現在、私は拓殖大学の国際学部で日本の歴史と文化を教えています。学生の受講者がいちばん多い選択科目となっていますが、講義を重ねるうち、だんだん学生が引き込まれていくのを感じます。目がキラキラして、私語一つ聞こえない。毎回、レポートを書かせるのですが、A4用紙の裏までびっしりと感想を書いてくれる学生もいます。 とても興味深かったレポートがあります。ある学生は親の勧めで高校時代に英語の勉強のためにカナダに留学していたのですが、日本人としての迷いが生じると同時に、生きる自信をなくしてしまった。大学入学後、今度は宗教的体験を求めてインドまで行ったそうですが、ますます自分がわからなくなり、ついに鬱病を発症してしまった。 しかし、その学生はなんとか大学に戻り、私の講義に出ているうちに気分が明るくなってきて、自分はやはり日本人だったんだ、これからどう生きればいいのかわかりました、とレポートに書いてくれたんです。 このようなレポートを読んで感じたのは、日本人がいかに高校まで日本のことを学んでいないか、またいわゆる自虐的な教育が子供たちをいかに傷つけているかです。まさにケントさんがいわれるとおりです。ケント 祖国を愛せない人間は、祖国を愛している人間に比べたら、間違いなく不幸でしょう。それは、自分の親を愛したり、尊敬できない子供が、それを当たり前にできている子供と比べると、間違いなく不幸であることと同じです。 間もなく総選挙が行なわれます。北朝鮮によるミサイル危機が本格化するなか、「愛国心」を基準に行動している政治家、政党を見極めることが、日本にとっていまほど問われている時期はないかもしれません。関連記事■ 日本は素晴らしい歴史のある国なのにどこかヘン■ 呉善花 北朝鮮問題で韓国の出る幕はない■ ケント・ギルバート 日本は自主憲法を制定すべきである

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    作家・百田尚樹氏「戦後の日本人は軍人への敬意を失くした」

     戦後70年を過ぎ、戦争の記憶はますます遠ざかる。『永遠の0』で知られる作家・百田尚樹氏は、元日本軍エースパイロットたちの証言を集めた戦記ノンフィクション『撃墜王は生きている!』(井上和彦著、小学館文庫)の解説で、日本人の戦争観に疑問を呈している。* * * 著者の井上氏も書かれていますが、戦後の日本人は軍人に対するリスペクトというものを失くしてしまいました。 軍人というだけで、まるで犯罪者のように見る「進歩的文化人」や「左翼ジャーナリスト」が戦後のマスメディアを支配していたからです。今も、野党の国会議員の中には、自衛隊員を「人殺し」とか「暴力装置」と表現する人がいます。こんな国は他にありません。 他国においては、市民はおしなべて軍人に対する敬意を持っています。それは当然のことです。もし戦争となれば、彼らが命を懸けて自分たちを守ってくれるのですから。 たしかに「戦争」はよくない。それは当たり前のことです。しかし戦争を憎むことと、軍人を憎むことは全然違います。軍人の究極の目的は国を守ること、そして国民の命を守ることです。 この本には五人の元帝国陸海軍の戦闘機搭乗員の話が語られています。そのほとんどが本土防空戦の話です。第一章に登場する元陸軍の板垣政雄軍曹の言葉がいきなり私たちの胸を打ちます。彼はむざむざと東京空襲を許してしまった後に、こう言います。「そりゃもう、ただ東京都民に申し訳がなくてね」 板垣氏は「空の要塞」と言われたB29に、戦闘機「飛燕」で二度も体当たりを敢行して、これを撃墜した搭乗員です。これはまさしく「対空特攻」です。幸いにして板垣氏は二度ともパラシュート脱出に成功しましたが、これは体当たりの衝撃で操縦席から投げ出された結果です。おそらく体当たりした時は死ぬ覚悟であったに違いありません。爆撃機B29による本土空襲から市民の命を守りたい、その一心からの行動です。 この本に登場する搭乗員たちは、ヒーローアニメに出てくるような架空の人物ではありません。彼らは実在の男たちです。そして日本の軍人です。七十数年前は、こうした男たちが、日本のために命を懸けて戦っていたのです。そして靖國神社にはそうして命を失った二百三十万人にものぼる御霊が祀られているのです。靖国神社(ゲッティイメージズ) 現在の私たちは戦争のない平和な国に育ちました。私も含めてほとんどの国民が戦争の記憶がありません。しかしこの平和は何百万もの兵士たちの犠牲の上にあるということを忘れてはならないと思います。 井上氏が書かれたこの本はあらためてそのことを私たちに気付かせてくれます。※井上和彦氏・著/『撃墜王は生きている!』(文庫版)より関連記事■ 元日本軍戦闘機パイロット「B29へ体当たり攻撃」生還を語る■ ケント氏「韓国には嘘が恥ずかしいという概念がないのか」■ 「船越別宅周りを徘徊」松居一代が動画で激怒の記事全文公開■ ケント氏「韓国はベトナム女性に謝罪する像を建てるべき」■ 元日本軍の撃墜王 8対1の空中戦でも「絶対の自信あった」

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    戦艦「大和」元乗組員が見た当時の南京「虐殺は絶対にない」

    った“世界最大の戦艦”大和は戦後、無謀な特攻との批判を受け、無用の長物とまで揶揄された。このままその歴史観が定着することは耐えられない──声を上げたのは、他ならぬ大和の元乗組員、現在104歳である。「長いこと生きているが、台風が東から西に来たなんていうことは1回もなかった。船乗りだったから、天候は気になります」(深井氏、以下「」内同) 取材日は東京都内を台風が直撃した日だった。深井俊之助氏は、大正3年生まれの104歳。部屋の中を杖もつかずに歩き、座る姿勢は背筋がピンと伸び、驚くべき記憶力で理路整然と語る。 深井氏は戦前、海軍の通信技術者だった父親の影響から海軍兵学校に入り、終戦まで戦艦乗組員として活動した。世界最大と謳われた戦艦「大和」の副砲長まで務め、日本海軍の最前線の戦いを語ることができる最後の人物だ。その証言は、大東亜戦争を検証するうえで貴重な資料である。「海軍に入ってすぐ、私が練習艦『比叡』に乗っていた頃、昭和10年4月に満州国皇帝・溥儀(ふぎ)が来日することになり、比叡が御召艦として溥儀さんを迎えに行くことになった。そこで、一番若い士官の私が溥儀さんの世話係になりました。 ところが、大連から横浜までの間、低気圧が襲来して船は大揺れ。溥儀さんは船酔いしてげえげえ吐いた。私は洗面器を差し出し、背中をさすってあげて、汚物の後始末をしました。 言葉は通じなかったんですが、溥儀さんは頭を下げて、ジェスチャーで『ありがとう、ありがとう』と言っていました。すごく優しい人でした」 昭和12年7月7日、盧溝橋事件で日支事変が始まると、深井氏は水雷艇「雁」に転勤。南京攻略を支援するため、揚子江をさかのぼる遡行作戦に参加した。呉軍港で建造中の戦艦大和(共同通信社)「南京攻略で陸軍が進軍していくのを、揚子江をのぼりながら防備するのが我々の任務でした。『雁』は小さい船でしたが、支那軍の砲台を大砲で撃破し、それで陸軍が上陸できるようになった。その功章として金850円もらいました。 11月下旬には陸軍は南京を完全攻略し、1週間もしたら南京の町は平和になった。私らが南京に入ったら、中国人の子供たちが日章旗を振って歓迎してくれましたよ。激戦の跡も虐殺の跡もない。南京で虐殺があったと言われていますが、ないない。絶対にない。 支那軍というのは『三十六計逃げるに如かず』で、攻めていくと逃げる、追うと逃げるで、どんどん奥に引きずり込んでいくんです。だから、案内をしてくれた陸軍少尉も『激しい市街戦なんてまったくなかった』と話していました」●聞き手/井上和彦(ジャーナリスト)関連記事■ 中国「日本軍が女性200人要求」と嘘をバチカンに告発■ ケント氏「韓国には嘘が恥ずかしいという概念がないのか」■ 中国の新たな対日歴史戦 「南京慰安婦博物館」に初潜入■ 南京大虐殺記念館の池で子供が大騒ぎ 注意しない親巡り物議■ 村上春樹が南京事件「40万人説」言及で中国のネット民絶賛

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    川中島の戦いは略奪が目的だった? 信玄も黙認した「乱取り」の真実

    渡邊大門(歴史学者) 前回の倭寇による人の略奪を踏まえて、日本国内に目を向けてみよう。戦国時代は、人身売買も含めて、人の略奪が盛んに行われた時代だった。それは、まさしく「生きるため」だったといっても過言ではない。それは、天候不順による食糧不足とも連動していたと言える。 現代は便利な時代であり、暑いと言えば冷房をつければよいし、寒いと言えば暖房をつければよい。食料もビニールハウスどころか、今や工場で作るありさまである。最近の自然災害はひどい状況だが、鉄筋コンクリートの建物は、昔の木造建築に比べると非常に頑強である。むろん戦国時代の家は、粗末な木造だった。 また、今は道を歩いていれば、スーパーやコンビニがあるので、お金さえあれば食料を手に入れることができる。病気になっても、病院に駆け込めば何とかなることも多い。すべてが便利であるし、さまざまな点で不便な戦国時代とは比較にならない。 戦国時代に目を転じると、主力となる農業や漁業は自然が相手の仕事であり、ひとたび自然災害に見舞われると、農業用の機械があるわけでもないので、農地の復旧には多大な時間を要した。おまけに天候不順に陥ると、たちまち作物の収穫量はガタ落ちし、人々は飢えに苦しむありさまである。 保存食があるとはいえ、今のように冷凍食品があったわけではない。ひどい状況が続けば、やがて人々の体力を奪い、病気になることもあった。病気になると特効薬があったわけでもないので、疫病の蔓延(まんえん)は深刻な事態を招いた。 寛喜2(1230)年から翌年まで人々を苦しめた寛喜の大飢饉(ききん)では、食糧難が深刻になったので、子供を売ってでも生活の費用を捻出する必要が生じた。とにかく、戦国時代の人々は生きるために必死だったのである。 村で生活する人々はときに戦争に参加し、戦場で相手から略奪した金目のものや食料などを自分のものにした。戦場で人を捕らえた場合も、自分のものになり、捕らえた人を売ることもあった。つまり、戦争に行くこと自体が、自らの生死をかけた戦いであり、略奪が生きるために必要だったのである。 こうした戦場における人の略奪は、必然的に人身売買の温床となった。以下、戦場における人の略奪を中心にして、さまざまな事例を取り上げることにしたい。最初は、武田氏の事例である。JR甲府駅前の武田信玄像 甲斐国の武田氏や小山田氏をはじめ、当時の生活や世相を記録した史料として、『妙法寺記』(『勝山記』とも)という史料がある。そこには、数多くの人の略奪の記録が残されている。 天文5(1536)年、相模国青根郷(相模原区緑区青根)に武田氏の軍勢が攻め込み、「足弱」を100人ばかり獲っていったという。この前年、武田信虎は今川氏輝、北条氏綱の連合軍と甲斐・駿河の国境付近で戦い(万沢口合戦)、敗北を喫していた。武田氏は両者に対して、大きな恨みを抱いていたといえる。 史料中の「足弱」とは、「足が弱い人」「歩行能力が弱い人」という意味がある。転じて、女性、老人、子供を意味するようになった(足軽を意味することもある)。つまり、武田氏の軍勢は戦争のどさくさに紛れ、戦利品として「足弱」を強奪して国へ戻ったということになろう。時代を問わず、女性、老人、子供は常に「弱者」であった。川中島でもあった「乱取り」 そして、天文15(1546)年には甲斐国で飢饉があり、餓死する者が続出したという。そうした状況下、武田氏の軍勢は男女を生け捕りにして、ことごとく甲斐国へと連れ去った。生け捕られた人々は、親類が買い取りに応じることがあれば、2貫、3貫、5貫、10貫で買い戻されていった。 現在の貨幣価値に換算すると、一貫=約10万円になる。生け捕られた人々は約20万~100万円で買い戻された。身分あるいは性別や年齢で値段が決まったのであろうか。 『妙法寺記』を一覧すると、武田氏の軍勢が行くところでは、多くの敵方の首が取られたことが記述されており、同時に多くの「足弱」が生け捕りにされたことも記されている。「足弱」は売買されるとともに、農業などの貴重な労働力になったのであろう。 このように、戦場で人あるいは物資を強奪することを「乱取り」という。戦場で分捕ったものは当然、自分のものなった。ある意味で戦争に参加するのは、乱取りが目的とも思えるほどである。その姿は、『甲陽軍鑑』にも生き生きと描かれている。 『甲陽軍鑑』とは、江戸時代初期に集成された軍書であり、武田氏を研究する上で重要な史料の一つである。武田信玄・勝頼父子の治績、合戦、戦術、刑法などが記述され、20巻59品から構成されている。その成立過程は、武田氏の家臣、高坂昌信の遺記をベースにして、春日惣二郎、小幡下野らが書き継ぎ、最終的に小幡景憲が集大成したとされている。 『甲陽軍鑑』は、まさしく乱取りの事例の宝庫であるといえる。以下、いくつかの例を挙げることにしよう。 武田信玄の戦いで最もよく知られているのは、越後の上杉謙信と死闘を演じた川中島(長野市)の戦いであろう。天文22(1553)年、初めて2人が刃を交えて以来、計5回にわたって雌雄を決している(4回説もあり)。ここでは2人の名勝負ではなく「乱取り」だけを見ることにする。 川中島の戦いに際して、甲斐国から信濃国へ侵攻した武田軍は、そのままの勢いで越後国関山(新潟県妙高市)に火を放つと、人々は散り散りに逃げ出した。そして、謙信の居城である春日山城(新潟県上越市)へ迫ったのである。武田軍は越後に入ると、次々と人々を乱取りし、自分の奴隷として召抱えたという。その大半は、女や子供であった。川中島の合戦の両雄、武田信玄と上杉謙信の銅像=長野市 『甲陽軍鑑』には、兵卒が男女や子供のほか、馬や刀・脇差(わきざし)を戦場で得ることによって、経済的に豊かになったと記されている。女性に限って言えば、家事労働に従事させたり、あるいは性的な対象として扱われたりしたのであろう。場合によっては、売却して金銭に替えることも可能であったと推測される。戦争に行くことはまさしく生活がかかっており、さらに運がよければ「うまみ」があったといえよう。 こうなると、戦争に行った者たちの関心は、極端に言えば戦いの勝敗よりも、乱取りでどれだけ略奪できたかに移っていたようである。『甲陽軍鑑』の一節には次のように記されている個所がある(現代語訳)。乱取りばかりに気持ちが動いて、敵の勝利にも気付かなかった。乱取りばかりにふけっており、人を討つという気持ちがまったくない。 乱取りに熱中する人々は、「後さき踏まえぬ意地汚き人々」と評価されるところとなった。要するに「何も考えていない意地汚い連中」ということになろう。こうなると、彼らが戦争に来たのか、乱取りに来たのか目的すら判然としなくなる。忠誠より略奪 たとえば、武田軍が信濃国に侵攻した際、大門峠(長野県茅野市)を越えた付近で、兵たちに7日間の休暇が与えられた。しかし、兵たちは休むことなく、鬨(とき)の声を上げて付近の民家を襲撃した。目的は略奪行為であり、田畠の作物すら奪い取った。わずか3日間で村々から略奪を終えると、まだ余力が残っていたのか、翌日からはさらに遠方の村々まで出張って行って、略奪を繰り返すありさまだったのである。 それだけではなく、戦争が終結し、敵の城を落しても乱取りだけは続けられた。それが、兵たちの「褒美」になった。永禄9(1566)年、小幡業盛の籠る上野国箕輪城(群馬県高崎市)が信玄により落されると、雑兵は箕輪城を本拠として、敵兵を次々と捕らえ、乱取りを行ったのである。彼らにとっては、戦いよりも乱取りが本番であったと言えるかもしれない。 現代では、国家からの強制的な動員、あるいはほとばしるような愛国心に突き動かされ、人々は戦争に行くのであろう。しかし、戦国時代の戦争は収入を得る手段の一つであり、言うなれば「出稼ぎ」のようなものだったのかもしれない。動員する戦国大名にとっても、彼らを従軍させる理由やモチベーションが必要である。それが乱取りであり、彼らの貴重な収入源となった。まさしく生きるための戦争だったのである。 こうして人や物資を略奪すると、雑兵たちの生活は豊かになった。『甲陽軍鑑』には、その姿が次のように描かれている(現代語訳)。分捕った刀・脇差・目貫・こうがい・はばきを外して(売って)、豊かになった。馬・女を奪い取り、これで豊かになったので、国々の民百姓までみんな富貴になり安泰になったので、国で騒ぎが起こることがなかった。 われわれの常識では、戦国大名が産業や農業振興に腐心し、それにより国が豊かになると考えていた節がある。むろん、それも事実として正しいのであるが、実際には他国へ侵攻して戦争を仕掛け、それにより国が富むという現実を認識すべきだろう。戦争に行く人々には、愛国心や忠誠心はほとんどなかったのかもしれない。 こうした乱取りという現象は、何も武田氏の専売特許ではない。次に、肥後国の大名・相良氏の事例を取り上げてみよう。相良氏は遠江国佐野郡相良荘の出身であるが、鎌倉時代に肥後国人吉荘に本拠を移し、以後大名化を遂げた。※写真はイメージ(ゲッティイメージズ) 乱取りの様子は『八代日記』に描かれている(天文~永禄年間)。その記述によると、戦場においては、牛馬とともに人々も略奪の対象となった。ときに夜襲を仕掛けて、人を奪い去った様子がうかがえる。また、数千人が生け捕りにされており、その規模の大きさには、目を見張るものがある。 同じことは、伊達政宗が南奥羽で展開した戦いにおいても確認することができる。その状況を伝えているのが、『天正日記』である(天正16・17年)。 『天正日記』によると、戦場において数多くの人々が生け捕りにされ、敵兵の首や鼻を切り取ったという。敵兵を倒した場合、その証として首を切り取った。首の数によって、与えられる恩賞が決まったからである。 鼻が切り取られた理由は、首を腰まわりにぶら下げていると、重いうえに身動きが取りにくい。そこで、代わりに鼻を削(そ)ぎ落として、敵を討ち果たした証拠にしたのである。鼻から上唇まで切り取ると、髭(ひげ)によって男であると分かる。売り飛ばされた女たち 人が略奪された例は、薩摩・島津氏の関係者の日記でも確認できる(『北郷忠相日記』など)。『北郷時久日記』によると、人が3人誘拐されたと記されている。強引に連れ去るだけでなく、騙して連れ去ることもあったようである。 永禄9(1566)年2月、長尾景虎(上杉謙信)の攻撃によって、小田氏治の籠(こも)る常陸・小田城(茨城県つくば市)が落城した。落城の直後、城下はたちまち人身売買の市場になったという。その様子は、『別本和光院和漢合運』に次のように記されている。小田城が開城すると、景虎の意向によって、春の間、人が二十銭・三十銭で売買されることになった。 この一文を読む限り、人身売買は景虎の公認だったのかもしれない。20銭といえば、現在の貨幣価値に換算して、約2千円ということになる。おそらく、雑兵たちはかなりの数の女や子供を生け捕りにし、これを売ることにより、生活の糧にしていたと考えられる。まさしく戦争に出陣する「うまみ」であった。 数が多いので、薄利多売になったのであろうか。売られた者は、家事労働などに使役されるか、あるいはさらに転売されたことがあったかもしれない。 連れ去られた人々は、買い戻されることもあった。その際、金銭が必要なのは言うまでもないが、仲介役として商人や海賊が関与していたと指摘されている。むろん無料で引き受けるのではなく、仲介料を取っていた。つまり、戦場における人の連れ去りは、大げさに言えば、一種の商行為として彼ら商人の懐を潤わせていたのである。 人身売買の厳しい実態は、後になっても確認できる。 『信長公記』によると、天正3(1575)年に織田信長が越前国の一向一揆を討伐した際、殺された人間と生け捕りにされた人間の数が、3~4万人に及んだと伝えている。これには、兵はもちろんのこと民や百姓も含まれていた。殺された数も多かったようであるが、生け捕り分(民と百姓)は、戦利品として扱われたと推測される。 同様の事例は、大坂の陣でも確認できる。『義演准后日記』によると、大坂の陣で勝利を得た徳川軍の兵は、女や子供を次々と捕らえて、凱旋(がいせん)したことを伝えている。徳川方の蜂須賀軍は、約170人の男女を捕らえたと言われているが、そのうち女が68人、子供が64人とその多くを女や子供が占めている。弱者である女や子供が生け捕りにされるのは、共通した普遍性であった。大阪城(ゲッティイメージズ) 大坂の陣を描いた「大坂夏の陣屏風」には、逃げ惑う戦争難民の姿が活写されているが、とりわけ兵に捕まった女性たちの姿が目を引く。兵たちは戦争そっちのけで強奪に熱中しており、それがある意味で彼らの稼ぎとなっていたようなのである。そして、女性たちは売り飛ばされたと考えられる。 人身売買や人の略奪という地獄絵図は、戦国時代を経て織豊政権期に至っても続き、さらに最後の大戦争となった大坂の陣まで脈々と続けられたのである。主要参考文献渡邊大門『人身売買・奴隷・拉致の日本史』(柏書房)■「倭寇の人身売買は貴重な労働力」日中朝を席巻した海賊集団の謎■「強欲でケチ」秀吉はいかにして巨万の富を築いたか■「キリシタンへの見せしめ」秀吉が黒田官兵衛を疎んじた理由

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    西郷隆盛「征韓論」のウソ、ホント

    NHK大河ドラマ『西郷どん』が最終回を迎えた。維新の立役者、西郷隆盛が下野するきっかけになった「征韓論」をどう描くのか、それも見どころの一つだった。ドラマでは描き切れなかったであろう、日本近代史最大の謎、征韓論の真実にiRONNAが迫る。(写真は国立国会図書館デジタルコレクションより)

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    井沢元彦が説き明かす「西郷隆盛は征韓論者」の大きな誤解

    、ということだ。もちろん事実ではない。 しかし、あの海軍きっての頭脳といわれた秋山少佐ですら、それが歴史的事実だと思っていたということだ。明治のダークサイドといってもいい部分だが、幕末欧米列強の植民地にされることを恐れた日本人は、天皇を神聖化しその下に一致団結することによって、見事富国強兵を成し遂げた。 しかし、その神聖化のために、歴史的事実と必ずしも一致しない神話も「すべて真実」ということになってしまったのである。これを、そのまま読んだということはもちろん東郷平八郎も、いやそれどころか、岩倉も大久保も木戸もすべてこの神話を事実だと思っており、だからこそすべて征韓論者であった。西郷の「真意」 ちなみに当時の半島国家は朝鮮国であるのに、なぜ征朝論と言わずに征韓論と言ったのかは、これが理由だ。実際、西郷を政府から追い出した後に、大久保は江華島事件を起こし、朝鮮国を武力で叩く方針を実行している。 しかし、西郷はそうではなかった。最も肝胆相照らした勝海舟と同じく日本、中国、朝鮮が固く団結して欧米列強と闘うべきだと考えていた、そのように私は理解している。その場合、最も障害となるのは中華思想(華夷秩序)と呼ばれるもので、中国の支配者「皇帝」が周辺国家の首長を「国王」に任命し、中国が「主人」周辺国家が「家来」という形で秩序を維持していくというものだ。 つまり、中国は自国と対等な国家を認めないのである。それでも中国は強大であったので、朝鮮も琉球も国王の座に甘んじた、しかし日本は中国と対等であると考え、皇帝に対して天皇という称号を用いて一歩も譲らなかった。 そして明治になって、天皇中心の国家に生まれ変わった日本は、朝鮮に対して天皇の名をもって外交関係樹立を申し入れた。しかし朝鮮は断固拒否した。中国皇帝しか使えないはずの「皇」の字を使った「ニセモノ」からの国書など受け取れないという態度である。 日本は逆に、国書を受け取れないとは何事か、「無礼千万」ではないか、と世論が激高した。この辺りはよく知られていることなのだが、私に言わせれば、肝心のことが多くの人に忘れられている。 実は、明治6年に日本が粘り強く交渉を続けていた中国との対等な条約「日清修好条規」が、留守政府の外務卿で佐賀出身の副島種臣の尽力によって発効しているのだ。つまり、中国は有史以来、初めて「天皇」を認めたのである。 「親分」の中国が天皇を認めた以上、次は「子分」の番だから、朝鮮使節の派遣というのは強硬姿勢でも何でもなく順番通りのプログラムなのである。ただ、政府内には朝鮮の頑(かたく)なさを危ぶむ声もあったので、西郷はそうした連中を説得するために「もし自分が殺されるようなことがあったなら、その時は武力に訴えればいいではないか」と強硬派を説得したのである。東京・芝にあった薩摩藩上屋敷跡、西郷隆盛・勝海舟会見の地の碑。台座には2人のレリーフもある=2018年6月 裏を返せば、説得できると考えていた、と私は思う。それに、万一説得できなかった場合はそれでもいい、そのようにも考えていた。それが冒頭述べた「重大な目的」でる。 西郷は、あまりにも有名な僧月照との「心中」事件以来、死処(しにどころ)を求めていたのだ。自分だけ生き残ったのは申し訳ない、死ぬべき時が来たら死ぬということだ。西郷「妨害」のために天皇を説得 この「死処説」は、残念ながら私のオリジナルではないが、まさに明治6年ごろに西郷は体調の不良に悩まされていた。このまま畳の上で死ぬのは嫌だ、と考えた西郷は、交渉が不調に終わった場合は殺されるか、あるいは殺されなくても恥辱を受けたといって朝鮮国で自害をすれば、お国のためになると考えていたということだ。 一方、帰国した大久保らは、留守政府があまりに見事な仕事をしているのに危機感を持った。このままでは薩長から土佐、肥前(佐賀)に政権を奪われてしまう。特に長州は、井上馨の大汚職を佐賀出身の司法卿江藤新平に追及されれば、天皇の信頼を全く失ってしまうところまで追いつめられていた。 そこで陰謀に長じた大久保や岩倉は長州の支持を取り付け、西郷の渡韓を何とか阻止しようとした。なぜなら、これは閣議決定事項で、あとは天皇の裁可を頂くだけになっており、逆に天皇の裁可が下りなければ、天皇による「内閣不信任」と同じで、参議は全員辞職しなければならなくなる。 おそらく大久保や岩倉は「西郷ファン」の天皇を「西郷は死ぬつもりですぞ」と説得し、裁可をさせなかったのだろう。それは全くのウソではないので天皇も騙された、ということだ。 西郷および留守政府の面々は憤激し、野に下った。まさに大久保らの思うつぼで、元司法卿江藤新平に反乱を起こさせ、死刑に処することもできた。逆に井上馨はまんまと逃げおおせた。そのこともあって西郷の怒りは頂点に達し、西南戦争へとつながったのだろう。 ただし、西郷は勝つつもりはなかった。勝つつもりがあれば、熊本城を攻めたりはしない。真っすぐ東京を目指すはずだ。そうすれば各地で不平士族が合流し大変な勢力となったはずである。 しかし、それではせっかく築き上げた明治政府を潰してしまうことになる。だからこそ、わざと負ける道を選んだ。諫死(かんし)である。これで死処も得られる。自分たちの死をもって、中央で驕り高ぶっている人々を反省させようとしたのだと思う。 だが、彼らは反省などしなかった。むしろ欧米列強と同じやり方で朝鮮を屈服させる道を選んだ。そして、それを成功させるために、国民に絶大な人気のあった西郷を利用しようとした。つまり、「あの西郷もわれわれと同じ征韓論者だったのだ」と国民に思い込ませようとしたのだ。岩倉具視が肖像画の五百円札(ゲッティイメージズ) では、明治六年の政変が起こったとき、「西郷が征韓論を唱えたからだ」と最初に言い出したのは一体誰か? 私の知る限り、それは岩倉具視である。

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    西郷隆盛が唱えた「征韓論」真の目的は何だったか

    原口泉(歴史学者、志學館大教授) 「征韓論」とは文字通り読めば「韓国を征伐する」であり、武力で朝鮮を支配しようとする主張のことである。この論を唱えた主役は、西郷隆盛とされている。そしてこの征韓論で引き起こされた一連の政治騒動を「征韓論政変(または明治6年の政変)」と呼ぶ。 この政変は、辞書や教科書では「明治初期、内政優先派に敗れた西郷ら多くの征韓派が下野した一大政変で、これを発端に不平士族の反乱や自由民権運動が起こった」といった書き方がされている。 しかし一方で、このころの文献、史料のどこにも、西郷がこれほどはっきり「征韓」を唱えたという記録はない、と指摘する研究者が少なくない。では、西郷の考える「征韓論」とはどのようなものだったのだろうか。 当時の朝鮮は鎖国政策をとっていた。それまで日本とは江戸時代から国交があり、両国の交渉は、すべて対馬藩を介して行われた。徳川将軍の代替わりごとに朝鮮国王の国書を持った通信使が派遣され、江戸時代を通じてその回数は12回にも及んでいる。 ところが、江戸幕府はアメリカやロシアなどの欧米列強諸国と通商条約を結んでしまった。鎖国政策をとっている朝鮮としては「夷狄(いてき)」(欧米列強のこと)と付き合うような日本と交際するわけにはいかないと国交を断絶してしまったのである。 明治政府が次第に形づくられる中、日本の統治者が将軍から天皇に代わったことで、日朝関係を正常化させようという動きが起こった。初めは、日本の王政復古を通知する外交文書を朝鮮政府が受け取りを拒否するという行為に端を発した。雲揚号兵士朝鮮江華戦之図(木版画 想像図) 日本が幾度となく派遣した使節も甲斐なく、朝鮮側は国交断絶の強い姿勢を見せた。明治政府の国書には「皇上」や「奉勅」という言葉があり、朝鮮側にとって、そのような言葉を使うのは宗主国である清国の皇帝だけだという認識があった。 明治3(1870)年4月、外交官の佐田白茅(はくぼう)が森山茂とともに、朝鮮に使節として釜山の草梁倭館に派遣されたが、朝鮮側の態度に憤慨し、佐田は帰国後激しい征韓論を唱え始めた。 この佐田の征韓論に当初賛成したのが、後に大反対の姿勢をとった木戸孝允であった。佐田の熱心な遊説は次第に他の多くの政府高官たちを洗脳していき、征韓論は明治政府内で非常に熱を帯びたものとなった。 閣議では、板垣退助が「朝鮮即時出兵」を主張したのに対し、西郷は軍隊を使わず、しかるべき位の大官が正装で赴き、礼を尽くした交渉をすべきであると反論した。そしてその朝鮮への全権大使を自分に任命してもらいたいと主張した。 日本政府の筆頭参議・陸軍大将という重責を担う自分が、非武装のほとんど裸同然で「烏帽子直垂(えぼしひたたれ)」に身を正し、単身で乗りこめば、朝鮮も話を聞いてくれるだろうという自信があったのだ。戦争は最悪の場合であり、そこに至らせないための外交交渉を西郷は考えていた。「征韓論」ではなく「遣韓論」 このように、西郷が主張したのは、実は「征韓論」ではなく「遣韓論」もしくは「朝鮮使節派遣論」だったと考える方が、史料などからは自然である。そして、西郷は自分の主張通りに正式に朝鮮使節に任命される。 ところが、洋行から帰ってきた岩倉具視、大久保利通らが、西郷の朝鮮派遣に反対した。大久保はかつての盟友である西郷と決定的な対立関係になる。そこでも議決自体は、西郷の進退を賭けた主張の通りになった。 しかし、最終的には岩倉が天皇に上奏する時、反対論を個人的に主張してどんでん返しが起き、西郷の使節派遣論は潰されることになった。 まず、そもそも西郷が朝鮮問題に熱心になった背景とは何なのか。一般論としては、それが解決しなければならない当面の重要外交課題であったことは間違いない。だが、西郷が懸念する外交問題は朝鮮だけにとどまらず、ロシア対策が念頭にあったということは特筆すべきであろう。 19世紀初頭より、樺太や千島をめぐって断続的に日露間の紛争が発生していた。ロシアは清国への影響を強めると同時に樺太へもその力を及ぼし始めた。西郷が、ロシアのみならず、アメリカとの対比で、イギリス、ドイツなどの列強の形勢に注目していたことは、アメリカ滞在中の大久保利通に宛てた書簡の一節からもうかがい知ることができる。大久保利通像(ゲッティイメージズ) 「独と魯との間には、弥(いよいよ)隔意を生じ候趣(そうろうおもむき)、追々(おいおい)申し来(きた)り」と、ドイツとロシアをめぐる国際関係にも強い関心を寄せている。つまり、朝鮮問題の解決を急いだ西郷の念頭には、迫りくるロシアの脅威に、いかに対抗するべきかという切実な課題があったことは疑う余地はない。  また、歴史作家の海音寺潮五郎氏は、西郷が朝鮮派遣にこだわった理由を勝海舟の影響があったのではないかという。勝はかねてから、日本と中国、朝鮮が同盟を結んで、列強の侵略に対抗すべきであるという説を持っていた。江戸無血開城の交渉を持ち出すまでもなく、西郷と勝は肝胆相照らす仲だった上に、明治政府で西郷は陸軍、勝は海軍の重鎮である。その二人が話し合わないはずがない。 筆者も同様、日本、中国、朝鮮の三国が連携するという「三国連携論」が、西郷の頭の中にはあったのだろうと考える。

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    西郷隆盛「征韓論」を善悪二元論で語ってどうする

    蓮の5人である。代表的日本人の筆頭に置かれた西郷隆盛を扱った部分には面白い一節がある。 もしわが国の歴史から、もっとも偉大な人物を二人あげるとするならば、私は、ためらわずに太閤と西郷との名を挙げます。二人とも大陸方面に野望をもち、世界を活動の舞台とみていました。 太閤とは、いうまでもなく豊臣秀吉のことを指す。内村は豊臣秀吉と西郷隆盛こそが日本史上もっとも偉大な二人であったというのだ。私が大変興味深く思うのは、両者がともに大陸方面に野望をもっていたことを含めて、内村が両者を偉大であると説いている点だ。 昨今では、豊臣秀吉、西郷隆盛を語る際、どこかに贖罪意識を持たねばならないという雰囲気がある。要するに、秀吉であれば朝鮮出兵、西郷であれば「征韓論」に関して「反省」の意識がなければならないとされている。そうした空気からまるで自由な内村の発想を興味深いと思うのだ。 西郷隆盛を讃える内村の文章は熱烈な尊敬と愛情に満ちている。西郷隆盛がなければ明治維新は成し得なかったと説き、明治維新とは「西郷の革命であった」という。そして西南戦争の中、城山で没した西郷は「最後のサムライ」であったとすら評している。西郷隆盛の後にサムライなしとは、最大限の賛辞といってよいのではないだろうか。 内村が西郷を尊敬してやまなかったのは、西郷の道義を重んずる態度に感銘を受けていたからであろう。西郷に関する文章の最後は次のように締めくくられている。 西郷には、純粋の意志力との関係が深く、道徳的な偉大さがあります。それは最高の偉大さであります。西郷は、自国を健全な道徳的基盤の上に築こうとし、その試みは一部成功をみたのであります。 内村が極めて道徳的であったと崇め立てる西郷隆盛だが、誰もが内村のごとき評価を下しているわけではない。征韓論の主唱者であり、近代日本の大陸侵略の嚆矢(こうし)となった軍国主義者とみなす人々も少なくない。彼らにとって、西郷とは非人道的な侵略者であり、西郷を道徳的であったとは決して見なさないだろう。鹿児島県霧島市の西郷公園に立つ西郷隆盛像(竹川禎一郎撮影) 西郷隆盛を道徳的であったとみなす内村は、この征韓論の問題をどのように捉えていたのだろうか。内村鑑三が崇拝した理由 征韓論については諸説が存在しており、西郷隆盛には「征韓」の意図はなかったと西郷を擁護する人々も存在する。西郷は朝鮮を侵略する意図はなく、平和裏に国交を結ぶことができると考えていたのではないかと説くのだ。こうした立場に立てば、西郷は侵略戦争を鼓吹(こすい)した野蛮な人物ではなく、道徳的に指弾する必要はなくなる。だが、内村はこうした立場には立たない。内村の「征韓論」に関する議論は次のようなものだ。 日本からの派遣した使者に対して、朝鮮は無礼な態度をとった。さらに、朝鮮に住む日本国民に対して、敵意を向け、日本の名誉を傷つけるような布告を発した。西郷隆盛は、朝鮮が無礼な態度をとっただけで戦争を仕掛けろと主張したのではない。いきなり武力を行使するのではなく、少数の使節を派遣し、無礼に対する責任を問うべきと説いたのだ。そして、仮に新しい使節団に対して侮辱を加えたり、身体を傷つけた場合には、軍隊を派遣し、征服せよと主張した。さらに、その危険を伴う使者は西郷自身が引き受けたいと申し出たのである。 内村の説明する征韓論の細部に誤りがあるのか、否かをここで問うつもりはない。ここでは、西郷隆盛が場合によっては朝鮮を征服せよと主張したことを内村が十分に認識した上で、西郷を尊崇(そんすう)していることを確認しておきたい。 さらに内村は、西郷の唱えた「征韓論」が退けられたことを悔やむかのように次のように述べている。 岩倉とその一派、『内治派』の思惑どおり、国はいわゆる文明開化一色となりました。それとともに、真のサムライの嘆く状況、すなわち、手のつけられない柔弱、優柔不断、明らかな正義をも犠牲にして恥じない平和への執着、などがもたらされました。 現在のわれわれの感覚とは全く異なる価値観がここに表明されているといってよいだろう。「正義をも犠牲にして恥じない平和への執着」は、けしからぬことだと説く内村は、平和を何よりも重んずべきだと主張する戦後日本の風潮とはまるで異なる価値観を有していた。 誤解されたくないので強調しておくが、現在において、正義を貫徹するために速やかに戦争を遂行せよなどと主張するつもりはない。ただ、価値観は時代によって大いに変化するものであり、その当時の価値観を無視して現在の価値観を押し付けて歴史を解釈してみても始まらないということを指摘したいのだ。 西郷隆盛は「征韓論」を唱えた人間だから悪人であった。 西郷隆盛は実際には武力で朝鮮半島を支配する意図を持っていなかったので善人であった。 どちらも、「武力を行使して他国を侵略することは悪である」との価値観から歴史を裁こうとする態度であるという点に径庭(けいてい)はない。どちらの評価もあまりにばかばかしい評価なのだ。内村鑑三『代表的日本人』(鈴木範久訳、岩波文庫) もちろん、ナチス・ドイツのジェノサイド、ソ連におけるウクライナ飢饉(ききん)の問題など、いかなる時代においても許されざる蛮行というものが存在することも事実だ。こうした大量虐殺を単に時代の趨勢(すうせい)の結果とすることがあってはならないのは当然のことだ。 われわれが歴史を振り返る際、重要なのは歴史を裁くことではなく、先人たちの胸中を去来した想いを想像してみることだ。 何故、西郷隆盛は征韓論を唱えたのか。 何故、西郷隆盛は政府を去ったのか。 何故、西郷隆盛は挙兵し、城山に散ったのか。 単純な善悪二元論に陥るのではなく、史料をもとに想像してみることこそが歴史を学ぶということだろう。

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    西郷隆盛と大久保利通 「征韓論」で決別した本当の意味

    家近良樹(歴史学者、大阪経済大特別招聘教授) 西郷隆盛の朝鮮への使節としての派遣が阻止される上で、最大の役割を演じたのは、言うまでもなく大久保利通であった。むろん、事の重大性からいって、大久保がおいそれと自ら手を挙げて、こうした役割を積極的に果たそうとしたわけではなかった。あくまで、きっかけを作ったのは伊藤博文ら長州藩出身の政府要人であった。 伊藤らから執拗に参議への就任を要請され、苦渋の末に承諾を与えてから以後の大久保は、文字通り決死の覚悟をもって西郷の朝鮮使節を葬(ほうむ)る活動に従事する。彼が、この問題に生命を賭けたことは、息子に宛てた「遺書」の内容によって容易にうかがわれる。 さて、続いて大問題となるのが、大久保が西郷の派遣を断固阻止しようとした理由である。これに関しては、公的な(表向きの)理由と、私的な(個人的)理由の双方が挙げられる。 前者は、やはりなんと言っても、彼が欧米諸国を模擬した近代国家を建設しようとしたことに関係した。大久保は、これより前の1年半余、日本を不在にした。言うまでもなく、欧米に渡航した「岩倉使節団」への参加のためである。 そして、この過程で、絶望感に時に激しく襲われながらも、欧米諸国をモデルとする国家建設のプランを抱いて日本に帰ってくる。これに次いで、参議に就任した後の明治6(1873)年10月14日の閣議の席で、真正面から西郷の朝鮮への即時派遣に異議を唱えた。 残念ながら、この日、大久保が閣議の席でどのような主張をしたのかは不明である。具体的な発言内容を記した史料が一切存在しないからである。ただ、この日の大久保の発言内容は、ほぼ推測しうる。 先述の「遺書」とこの頃に記されたと思われる彼の「意見書」が存在するからである。そこから浮かび上がってくるのは、大久保が西郷の派遣が朝鮮との戦争に直結することを危惧し、かつ財政、内政、外交上の困難をもたらすので、反対しただろうというものだ。 大久保の主張で特に留意すべき点が二つある。第一点は、西郷の即時遣使は「深謀遠慮」に欠けるとしたことだ。大久保によれば、国家を運営し、かつ国土と国民を守るためには、「時勢」を考慮し、そのうえ国家や国民の将来を見据えて決断を重ねなければならないものであった。すなわち、そうした点で、西郷の派遣はあまりにも「深謀遠慮」を欠く性急な決定の上になされたと批判したのである。大久保利通像(ゲッティイメージズ) 第二点は、朝鮮が、慶応2(1866)年と明治4(1871)年に、それぞれ軍事挑発を仕掛けてきたフランスとアメリカ両国の艦隊と戦い、撃退することに成功した例をもって、西郷の派遣は同国との開戦に繋がりかねないとみたことだ。 さらに大久保は、朝鮮と戦端を開くようになった場合、極東地域に領土的野心を持つロシアに「漁夫の利」を得られかねないとも考えた。その上で大久保は、もし朝鮮との戦争になれば、膨大な額にのぼる軍事費が深刻な財政危機を招来し、その後士族反乱や民衆騒擾といった困難な国内状況を招きかねないと冷静に判断し、西郷の派遣をあくまで阻止しようとしたのである。如実に出た大久保の性分 次いで、大久保が西郷の即時派遣に反対せざるを得なかった私的な理由に筆を及ぼすことにしたい。そして、ここに大久保の政治家としての本質も、彼が本来有した陰湿な性分も、ともに如実にあらわれる。 大久保が西郷の派遣に反対した私的な理由(むろん、それは半ば公的な理由でもあったが)の最たるものとしては、彼が欧米流の近代国家を建設する上で、大きな障害となると判断した勢力を至急排除しようとしたことが挙げられる。 排除の対象となったのは、征韓を希求する西郷とその配下であった。具体的には、廃藩置県後も鹿児島にあって、政府の推し進めようとする近代化路線に抵抗し続けていた島津家武士、および東京で征韓の実行を求める軍人、兵士であった。 それと、岩倉使節団派遣中の留守政府内にあって台頭してきた土佐(高知)、肥前(佐賀)出身の政府高官であった。板垣退助や江藤新平、後藤象二郎といった面々がそれに該当した。 彼らは筆頭参議であった西郷の承認の下、それぞれが主導して、銘々が信じる近代化政策を推進していた。そして、長州派を含む大久保らの目にはおそらく、それは薩長出身者が主流の座を占めてきた新政府のこれまでのあり方を改変しようとする、真にけしからぬ動向と映ったに違いない。 そういう意味では、大久保や伊藤らは、早急に土佐、肥前出身の新任参議らの政府内からの追放と、自分たちの主導権の奪回(回復)を図らねばならなかったのである。そして、その対象には、新たに参議職に就くことになった肥前出身の副島種臣も含まれたと考えられる。 副島は元来、大久保にとっては貴重な囲碁仲間であったが、当時西郷の朝鮮への派遣に積極的な賛意を表するようになっていたからである。また、大久保にとって、外務卿でもあった副島の主導する外交路線は古臭く、到底近代国家のそれにふさわしいものではなかった。西郷隆盛像(ゲッティイメージズ) 以上、大久保が西郷の派遣を阻止するに至った背景をごく簡単に振り返ったが、もし彼がこうした行動に出なかったら、近代日本の進路は、われわれの知るそれとは大きく異なるものとなった可能性は大であろう。 そういう点で、大久保個人の果たした役割は非常に大きなものがあった。朝鮮使節を志願し、そのことで政局に大混乱をもたらした西郷とともに、維新が「西郷と大久保の時代」でもあったと、しばしば見なされるのは、こうした歴史的経緯があったからなのである。

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    「征韓論」の真実は「西郷が自ら外交問題を解決したかった」

    すため、武力をもって朝鮮に国交を開かせるものだったと言われている。『西郷隆盛伝説の虚実』の著書がある歴史家の安藤優一郎氏が語る。 「西郷が朝鮮へ行きたがっていたことは間違いないでしょう。しかし、巷間言われるように、武力で威嚇し、自分が殺されることで戦争のきっかけを作ろうとしたわけではない」 それを裏付けるのが明治6(1873)年10月、西郷が提出した「朝鮮派遣使節決定始末」である。その中で西郷は「護兵の儀は決して宜しからず」と、兵隊を引き連れない平和的な使節を派遣することが先決であると述べているのだ。 「当時、西郷は明治天皇から医師を派遣されるほど体調が悪く、自身最後の仕事としてあくまでも平和的に外交問題を解決しようとしていたのです。しかし、留守政府において影響力と存在感を増していた西郷を、大久保利通や岩倉具視らは面白く思っていなかった。鹿児島市城山にある西郷隆盛の銅像(ゲッティイメージズ) 彼らの強硬な反対に遭った西郷は、身体的・精神的に不安定だったこともあり、生来の血気盛んな性格が前面に出てしまい、西郷をはじめとする参議5人らが下野する政変へと追い込まれたのでしょう」(安藤氏)◆取材・構成/浅野修三(HEW)関連記事■ 西郷隆盛 敗北見えていたにも関わらず西南戦争起こした理由■ 新発見の直筆手紙で判明 「西郷は龍馬暗殺の黒幕説」の真実■ 西郷隆盛の肖像画、どれが最も似ているか論争に決着■ 「開明派」の福沢諭吉はなぜ「反乱者」西郷隆盛を擁護した?■ 西郷隆盛「大の写真嫌い」はウソ 「顔が違う」伝説の真相

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    西郷隆盛は西南戦争の主体でもない上に本意ではなかった

    つ士族たちを集め、明治7年に私学校と総称される軍事学校を設立した。『西郷隆盛伝説の虚実』の著書がある歴史家の安藤優一郎氏が語る。 「西郷の設立した私学校は、郷里に帰ってもすることがなく、士風が退廃し始めた兵士を統率するためのものでした。政府側からすると旧薩摩藩の軍事力を西郷が掌握したように見えたのでしょう」 その後、廃刀令などに不満を持つ士族たちの反乱が各地で連鎖し、頻発していった。そして明治10(1877)年2月、遂に西郷は挙兵。日本史上最後の内戦となる西南戦争が勃発した。 「西郷挙兵の引き金となったのは、捕えられた政府派遣の警察官が供述した西郷暗殺の密命です。この供述は西郷を慕う士族を激昂させるには十分でした。遂に西郷の抑えもきかなくなり、担ぎ出されてしまう。 西郷は自らクーデターを起こそうとしたわけではなかったが、西郷軍は朝敵となった。政府軍の総攻撃目前に、西郷麾下の河野主一郎と山野田一輔が政府軍総司令官の一人、川村純義に面会を求め、西郷の助命を嘆願しています。部下に慕われた西郷ならではの逸話でしょう」(安藤氏)鹿児島のシンボル、桜島。手前は鹿児島市街(ゲッティイメージズ) 助命嘆願は叶わず、西郷は「晋どん。もうここらでよか」と別府晋介に介錯を頼み、西南戦争が終結する。 その12年後、明治22年、西郷は大日本帝国憲法発布の大赦により正三位が贈られ、名誉が回復されている。◆取材・構成/浅野修三(HEW)関連記事■ 西郷隆盛 敗北見えていたにも関わらず西南戦争起こした理由■ 2018大河『西郷どん』 鈴木亮平主役抜擢までのドタバタ劇■ 橋爪大三郎氏「西郷隆盛は日本右翼の原型である」■ 『西郷どん』 斉藤由貴の不倫降板でNHKは代役探しに奔走■ ジャズピアニスト・山下洋輔が語る西郷隆盛との奇縁

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    長篠合戦図屏風に描かれた「六芒星メンズ」の謎を解く

    橋場日月(歴史研究家、歴史作家) 長篠の戦いでも天候に恵まれた信長。もっとも、彼のために弁明すると、彼が長篠の戦いで武田軍を「必ず皆殺しにしてやる」と宣言した背景にあったのは、龍の力の盲信だけではなかった。鉄砲や弾薬を西からはるか長篠まで大量に集めてくる資金は尋常ではない。 3000挺の鉄砲が投入されたと仮定すると、その銃の費用は現代の価値で20億円。1挺あたり300発分の火薬(長篠の戦い直後に武田家が制定した分量)は18億円、それに鉛の弾丸が1億4000万円で、トータルすると40億円近くが投入された計算になる。未明から昼過ぎまでの7~8時間で、40億円が戦場の煙と化したのだ。 当然、信長としてはそれだけの投資を無駄にしないためにも、梅雨どきなのに鉄砲で勝つ=梅雨にもかかわらず雨が降らない条件を整えなければならない。 そしてそれは、神頼みだけではなかった。 ここで大阪城天守閣に所蔵されている「長篠合戦図屏風」を見てみよう。信長の本陣は六曲一隻のうちの第六扇(左端)の上部に描かれている。永楽通宝の旗印や南蛮兜(かぶと)などを奉じて控える家来たちの奥で、白馬にまたがった信長が正面の戦場を見つめているのだが、その足元に注目していただきたい。 背中を朱の星で大きく染め抜いた白羽織の男が3人、侍(はべ)っているのがわかるだろう。 この星印は「六芒(ろくぼう)星」という。有名な星印は安倍晴明の「五芒(ごぼう)星」だが、こちらはひとつ角が多いものの、陰陽師(おんみょうじ)の象徴として知られる晴明の五芒星(晴明桔梗)同様、陰陽師のシンボルだ。白馬にまたがる信長=長篠合戦図屏風(大阪城天守閣蔵) では、その違いは何か。安倍晴明の血統を継ぐ土御門家が朝廷の陰陽師であるのに対し、六芒星は晴明に敵対した蘆屋道満(あしやどうまん)のマークだ。元々は播磨の陰陽師だったと伝わる道満は、藤原道長に仕える晴明の力を封じるべくライバルの藤原伊周(これちか)に召し出されたという。 妖術合戦に敗れる姿は多くの作品に描かれているが、現実の道満は伊周が道長との政争に敗れたことで元の民間陰陽師に戻ったのではないか。彼に連なるという陰陽道の系譜は、道満の子孫という土師(はじ)氏の他にも多く残っている。 図屏風は、信長がこの道満流の民間陰陽師を戦場に伴った可能性を示唆しているのだ。ここで注意しなければならないのは、この大阪城天守閣蔵の図屏風には原本がある点だ。成瀬家本と呼ばれるもので、17世紀半ば、長篠の戦いから100年経った頃の制作と考えられている。犬山城主の成瀬家の先祖・正一は長篠の戦いに参加しているので、子孫が家の言い伝えや『甫庵信長記』などの軍記物を参照して顕彰のために描かせたのだろう。2つの図屏風のナゾ この成瀬家本では、信長の本陣にいる3人の男の背に六芒星はなく、濃緑の地に赤く「十六葉菊」が描かれているが、これは信長が朝廷から許された菊紋というにすぎない。 これでは、「一番古いオリジナルの絵がそうなら、信長が陰陽師を使ったという推測は無理じゃないか」と言われそうだが、これがそうでもないのだ。 成瀬家本の図屏風には、家康本陣に六芒星の男が2人いる。その装束は大阪城天守閣本の信長本陣の3人とまったく同じだが、その手には槍や薙刀を持つという違いがある。これは陰陽師としての職掌からはまったく外れている。 この六芒星組が大阪城天守閣本では信長本陣に移動し、手には何も持たない陰陽師本来のいでたちに描き換えられたのは、なぜか。 もう少しこの大阪城天守閣本を観察してみよう。 と、さらにひとつ違うところがあった。第五扇目(左から2番目)の上、ここには羽柴秀吉の部隊が布陣している。金のひょうたんの馬印が高く掲げられ、秀吉も最前線を凝視中だ。 問題なのはその前方に白く細長く湾曲した川が描きこまれている点だ。設楽原では、武田軍と織田・徳川連合軍の間に連吾川が南へ流れていたが、それと平行して、連合軍の布陣している丘の背後(西側)にも平行して流れる大宮川(宮川)という川がある。金のひょうたんの馬印を掲げた秀吉(左上)=長篠合戦図屏風(大阪城天守閣蔵) 成瀬家本では、この大宮川が秀吉隊のところには流れは無く、家康のすぐ後ろから流れが始まっているのだ。 大阪城天守閣本がもっと上流から描き始めているのは、こちらの方が正しい。(ただし実際の大宮川は信長本陣よりも西なので、少しおかしいのだが) この川の加筆は、成瀬家本の成立から間もなくそれを模写することとなった大阪城天守閣本の制作者が、現地の地形や合戦の様子について詳しい者から修正を指示された、ということなのだろう。細部にこだわってよりリアルを追求していこうというのは、いつの時代もオタクを突き動かす本能的な欲求なのだ(笑)。 ということは、六芒星メンズたちの移動も、信長の本陣に居るのが正しい、と考えてのことだったのではないか。 そもそも、この六芒星を背負った男たちは戦場で何をしていたのか。陰陽師だからといって、怨敵調伏の祈祷をしたり、式神を使って敵を討とうとしていたと考えるのは早計だ。彼らは、天気予報士だったのである。六芒星メンズの活躍 朝廷における陰陽師の配属部署「陰陽寮」は、星の動きを観察し、天文の計算によって日食を予測するなどして暦を作成し、風雲(気象)を監視して天気を予報する、専門家集団だった。 民間の陰陽師たちも同様に、それぞれの地域で暦を作り天気を予報する。農耕には気象の予測が何よりも大事なのだ。関東の三島暦・大宮暦、伊勢の丹生暦はその代表的なもので、特に三島暦は朝廷の陰陽暦と絡んで信長も関係する大騒動を呼ぶのだが、それはもう少し後の話である。 六芒星の陰陽師たちは、気象を観測し戦闘に適した日程を大将にアドバイスする。 彼らは「軍配者(軍師)」とも呼ばれた。第7回の桶狭間の戦いのくだりでも紹介した軍配者は、占いや敵味方の「気」を観察することで戦機をはかったと言われているが、一方で常日頃膨大な気象データを蓄積し、体験的な予報を下す科学者たちでもあった。 桶狭間の戦いで奇跡的な勝利を信長にもたらしたのも、大蛇(龍)への祈りと彼ら軍配者の正確な気象予報だったが、長篠の戦いのときに彼らが信長の側に待機していなかったと考える方が不自然だ。これは何も信長に限ったことではなく、当時の大将たちは皆軍配者=陰陽師を戦場にともなった。陰陽道の祖として知られる安倍晴明が祀られる晴明神社=2007年1月、京都市上京区(撮影・門井聡) その意味で、成瀬家本が家康本陣に六芒星メンズを描きこんだのも間違いではないのだが、大阪城天守閣本を描かせた人物は大宮川の流れのように「信長の軍配者こそが勝利の立役者だった」という伝承に触れていた可能性が高い。信長は、大蛇(龍)の力をあてにするだけではなく、最大限合理的で有利な条件で戦えるよう、手を打っていたのだ。 信長のブレーンというのは、まさにこの軍配者たちだった。「おみゃーら、どうだて、お天道様はしばらくの間は出ておりゃあすか」「いーーっ、ここ2、3日は雨は降らずと勘考しとりますで、お戦にかかられませ!」「であるか!もし外れたらワヤだで、間違いありゃせんか。そんなら始めよまいか!」この主従が尾張弁でこんな会話を交わしていたかと想像するのも一興だろう。信長とユダヤの関係 実はこの六芒星メンズについては、もう一つ信長との深い関係性をうかがわせる事実がある。信長の織田氏は通常平氏の流れを自称していたが、本当のところは忌部(いんべ)氏だったという。 忌部氏というのは朝廷の祭祀行事を担当した一族で、その末裔(まつえい)である織田氏は越前の織田劔(つるぎ)神社の神官だった。古代の祭祀は、あたりまえだが農耕と密接に関係しているため、暦とは切っても切れない関係がある。これだけでも陰陽師とは近しいのだが、それだけではなく忌部氏自体がユダヤ人を祖とするとも言われているのだ。 そしてユダヤ人のシンボルは、「ダビデの星」すなわち六芒星。魔除けにも「籠目」という文様がある。竹編みの籠の編み目を図案化したもので、これも六芒星そのものだ。 魔除けグッズ好きの信長にとって、六芒星メンズは実用的にも趣味的にも手放せない存在だっただろう。信長と陰陽師は幾重もの縁で結ばれていたのかもしれない。 「長篠合戦図屏風」には、もう一つ、まったく系統の違う一隻がある。名古屋市博物館蔵のもので、これが一番制作年代が古い。こちらは至ってシンプルな内容だが、描かれている武者の多くが扇を使っているのが目につく。面白いではないか。最古の長篠戦図だけに、当日は暑かったという記憶がまだ残っていたのだろう。 晴れ渡った空の下、長篠の戦いは始まり、信長は一方的な勝利を手に入れた。武田軍が突破できなかった三重の馬防柵と堀 「あっという間に切り崩し、数万人を討ち果たした。最近たまっていた鬱憤(うっぷん)を晴らしてやった」 細川藤孝(幽斎)宛てで誇らかに書き送った信長。そこには、呪術と科学というまったく相反する二つの力で大敵・武田軍を撃破した自信があふれている。 そしてこの頃から、信長は「天の与え」という言葉をしばしば使い始める。これは敵がわざわざ出て来てくれたことを指すのだが、「天がチャンスを与えてくれている」と、ラッキーボーイぶりを口頭でも書状でもアピールするようになったのは、おのれが「神に守られた存在」であることを自分自身が最も強く信じ始めた証拠だったのではないだろうか。 そしてこのあと、彼は越前へ兵を向けるのだった。

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    「倭寇の人身売買は貴重な労働力」日中朝を席巻した海賊集団の謎

    渡邊大門(歴史学者) 前近代(特に中世)において、人身売買が行われていたことはご存じだろうか。それは決して公に認められたものではないが、公然の秘密だったといえる。今回はその源流を探るべく、室町時代の人身売買の例を取り上げることにしよう。 鎌倉幕府滅亡後の1336年、足利尊氏が室町幕府を開くと、鎌倉幕府と同様に指針となる法令を制定した。これが『建武式目』であり、中原是円、真恵兄弟らが足利尊氏の諮問に答えた形式を採っている。 『建武式目』は『御成敗式目』のような裁判規範でなく、むしろ政治的な方針を示したものといわれている。その点は性格が異なっているが、以後は鎌倉幕府と同様に多くの追加法が制定された。 ただし、『建武式目』をはじめとする室町幕府の法令においては、人身売買を禁止した規定を見いだすことはできない。しかし、人身売買が行われていなかったわけではなく、関係した史料(人身売買の売券など)は残っている。 当時、人身売買や人の略奪という行為は、よりワールドワイドな方向で展開した。奴隷は世界的に存在しており、常に売買の対象となり流通していた。イスラム世界では高度に洗練された奴隷の流通システムが構築されており、中央アジア、ロシア草原、バルカン半島、ヨーロッパ北部、アフリカ大陸北部などに広がっていたという。そして、それを媒介していたのが、イスラム商人だった。 日本は島国であったが、海で広く世界につながっていた。そして、日本人の略奪や人身売買も東アジア社会で展開することになる。とりわけ中国や朝鮮との関係が重要である。その契機となったのが、14世紀半ば頃から猛威を振るった「倭寇(わこう)」の存在である。 倭寇には、「日本の侵寇」あるいは「日本人の賊」という意味があり、盗賊団のようなものになろう。倭寇という文字そのものは、404年の「高句麗広開土王碑文」に初めて確認できる。その活動は、おおむね14世紀半ば頃から15世紀初頭にかけて見られるようになった。倭寇図巻(東京大学史料編纂所提供の模写) 彼らの活動範囲は、朝鮮半島、中国大陸の沿岸や内陸および南洋方面の海域と非常に広範囲に及んでいる。当時の朝鮮人・中国人たちは、こうした日本人を含む海賊的集団を「倭寇」と呼んだのである。 倭寇の意味するところは、時代や地域によって異なっており、その定義を厳密に行うことは難しい。ちなみに、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)や20世紀における日中戦争も倭寇という言葉で表現された。そうなると、倭寇は賊に加えて、侵略者としての意味も持つことになる。 倭寇は食料などの物資に限らず、人間までも略奪行為の対象とした。朝鮮半島や中国大陸では、倭寇により人がさらわれ、そのまま日本に連行された。こうして日本に連行された人々を被虜人(ひりょにん)と称する。以下、倭寇による人の略奪を取り上げることにしよう。倭寇に悩まされた「明」 高麗王朝史の正史『高麗史』によると、1388年6月に倭寇が朝鮮半島の全羅・慶尚・揚広の三道に進攻し、多くの人々が略奪されるという甚大な被害を受けたと記す。『高麗史』の別の個所では、倭寇の船団は50艘あまりもあり、千余人を連れ去ったというのである。まさしく国家存亡の危機だったといえよう。 事情は中国においても同じであった。『皇明太祖実録』の1373年5月の記録によると、倭寇による人の殺戮(さつりく)などが問題となっており、翌年には対策が練られている。倭寇対策として水軍を充実させ、周辺海域をパトロールさせることになったのである。当時の「大明国」が倭寇の被害に頭を悩ませている様子がうかがえる。 『老松堂日本行録』という史料には、倭寇が日本海域を席巻し、朝鮮半島や中国で人をさらっていたことが記されている。『老松堂日本行録』は応永27(1420)年に足利義持の派遣使節の回礼使として日本を訪れた、朝鮮の官僚、宋希璟(そうきけい)の日本紀行文集で、当時の西日本の社会や風俗および海賊衆を記す貴重な史料である。次に、その中の一節を挙げることにしよう。  一人の日本人がいて、小船に乗って魚を捕まえていた。私(宋希璟)の船を見ると近づいてきて、魚を売ろうとした。私(宋希璟)が船の中を見ると、一人の僧が跪いて食料を乞うた。私(宋希璟)は食料を与えて、この僧に質問をした。僧は「私は江南台州(中国浙江省臨海市)の小旗(10名の兵を率いる下級軍人)です。一昨年、捕虜としてここに来て、剃髪して奴隷になりました。辛苦に耐えられないので、あなた(宋希璟)に従ってこの地を去ることを願います」と言うと、ぽろぽろと涙を流した。(この僧の主人である)日本人は「米をいただけるなら、すぐにでもこの僧を売りますが、あなた(宋希璟)は買いますか」と言った。私(宋希璟)は僧に「あなたはが住んでいる島の地名は何と言いますか」と質問した。僧は「私は転売されて、この日本人に従って2年になります。このように海に浮かんで住んでいるので、地名はわかりません」と答えた。 この男は「僧」と称されているが、「剃髪して奴隷になった」とあるので、頭を剃(そ)る行為が奴隷を意味していたと考えられる。あえて剃髪して異形にすることにより、普通の人と違うことを際立たせ、奴隷であることを視覚化させたのである。要するに剃髪した風貌が僧に似ていたので、仮に宋希璟は僧と呼んだのであろう。この男は連れ去られたのちも、転売されて今の主人に従ったらしい。 この男は故郷の中国にいたときに倭寇によって連れ去られ、売買されたのであろう。場所は、対馬と推定されている。男は慣れない漁業に従事し、食料にも事欠くありさまだったようだ。遠い異国のことでもあり、心情を察するところである。では、なぜ倭寇は中国や朝鮮から人々を連れ去ったのだろうか。 日本において南北朝の乱が始まると、それが約半世紀という極めて長期間に及んだ。とりわけ九州においても各地で戦いが繰り広げられ、著しい内乱状態に陥った。当然、農地は荒れ果て収穫が困難となり、食料が不足したに違いない。戦争時における、食料などの略奪も問題になったと考えられる。 そうなると田畑を耕作する人間は国内で調達することが困難になるので、必然的に国外に求めざるを得なくなった。九州では農業従事者の慢性的な不足があったため、捕らえた朝鮮人や中国人を売却し、農作業に従事させていたのである。対馬は朝鮮半島に近いこともあり、人身売買が盛んに行われていたという。こうして日本国内における労働力の不足は、中国や朝鮮の人々によって補われた。転売もあった人身売買 もちろん、彼らが従事したのは農業だけでない。それらを挙げると、牧畜、漁業、材木の運搬などが主たる業種である。いずれも過酷な肉体労働であり、まさしく奴隷が家畜同様に使役された物悲しさを語ることである。 しかし、近年では以上のような肉体労働だけでなく、さまざまな職種に就いていたことが指摘されている。 一つは通訳である。当時の公用語が中国語とみなされていたことから、通訳はほぼ中国人に限定されていた。中国語の読み書きがある程度できる者は、奴隷として日本に連れ去られ、日本語も堪能になると通訳を任された。通訳になると、先述した厳しい肉体労働から解放された。なお、対馬、壱岐、北九州では、日本人でも朝鮮語に通じた者がいたと推測されており、朝鮮語の通訳は必要でなかったと考えられている。 もう一つは、中国や朝鮮などの案内人として従事させることである。倭寇が中国や朝鮮に上陸する際、地理に不案内なため、どうしても土地に詳しい者が必要であった。いうなれば、倭寇の手先ということだ。皮肉にも被虜人が、倭寇の手助けをし、新たな被虜人を生み出すことになった。案内人としての職務については、中国人、朝鮮人とも行っていたようである。 謡曲に『唐船』というものがある。九州・箱崎の某(なにがし)なる者が、唐土との船争いの際、官人の祖慶(そけい)を捕らえた。祖慶は13年もの間、牛馬の飼育に使役され、肉体労働を強要されたのである。祖慶は、唐土に2人の子供を残していた。2人は父を慕い、連れ帰ろうとして日本に渡海した。祖慶は日本で結婚し2人の子供がいたが、実子との再会に大いに喜んだ。 2人の子供は箱崎の某の許可を得て、父を連れて帰ろうとしたが、日本の子供が別れを悲しんで引き留める。思い余った祖慶は海に身を投げようとするが、箱崎の某は日本の子供も唐土へ連れて帰ることを許した。 ここで重要なのは、祖慶が自由の身になっても、その子供たちは主人の奴隷ということに変わりなかったことである。父子5人は、船中で喜びの楽を奏でながら、帰国の途につくのである。この話は決して架空のものでなく、悲しい実態を反映した作品なのだろう。 このように被虜人は、国内における貴重な労働力であるとともに、倭寇の活動を支える存在であったといえるのである。当時、人身売買は各国で行われており、それは日本でも同じだったのだ。※画像はイメージ(ゲッティイメージズ) そして中国人や朝鮮人の売買は1回で完結するのではなく、さらに転売が伴った。転売された人物としては、魏天(ぎてん)なる者が存在する(以下『老松堂日本行録』)。魏天の生没年は不明であるが、中国の明で誕生し、のちに倭寇によって捕らえられ、被虜人として日本に連行された。その後、魏天は転売を繰り返され、朝鮮→日本→明→日本と移動した。最後は明への帰国を成し遂げ、洪武帝によって日本に派遣された。立場上は日本語を理解していたので、通訳ということになろう。牛馬より安価 再度訪れた日本では、室町幕府の三代将軍・足利義満の寵(ちょう)を受け、京都に居を構えたという。応永27(1420)年には、宋希璟と四代将軍・義持との会見の実現に大いに貢献した。皮肉にも魏天は、被虜人としての生活や日本語の取得が役立ったということになる。魏天は幼少時は被虜人となり、不幸であったかもしれないが、晩年は恵まれており幸運な部類に属するであろう。 被虜人は、遠く当時の琉球にも転売されたようである。14世紀の終わり頃、琉球の中山王察度は4回に渡り朝鮮に被虜人を送還している。1416年、朝鮮国王・太宗も使節を琉球に派遣して、被虜人を帰国させた。おおむね被虜人は、九州を中心にして、東は京都、南は琉球まで転売され、存在したようだ。15世紀後半の京都・建仁寺の禅居庵には、浙江省温州で被虜人になった人物が住んでいた。 女性の被虜人の場合は、日本人男性の妻になった例もあるという。また、中には性的な労働に従事させられた者もあったと推測されている。 以上のように、朝鮮や中国から連行された被虜人は、西日本を中心にして繰り返し転売されることになった。しかし、14世紀の終わり頃になると、朝鮮は日本との通交を積極的に推し進め、被虜人の送還を歓迎した。朝鮮との通交を希望する者は、被虜人の送還を進めた。この動きは15世紀初頭まで続くが、朝鮮の倭寇懐柔策により被虜人の供給が激減したため、以後はあまり見られなくなったという。 倭寇が朝鮮・中国で猛威を振るい、人々を略奪したことを述べてきたが、逆のパターンがあったことにも注意すべきである。朝鮮では報復措置として、日本人を捕らえて奴隷とし、使役あるいは売買したことが知られている。 そもそも李氏朝鮮には、法律上で奴隷の売買が許されており、世襲的な奴婢(ぬひ)が存在していた。14世紀の終わり頃、奴婢の売買は盛んに行われていたが、その価値は牛馬よりも劣っていたといわれている。日本よりも悲惨な現状にあった。しかし、次第に奴婢の売買は制限が加えられるようになり、15世紀の終わり頃には事実上の禁止となったという。 『李朝世宗実録』によると、1429年に朴瑞生(ぼくずいせい)が日本通信使として来日し、帰国後に倭寇に拉致された被虜人のこと、そして日本における人身売買について報告を行っている。その中で注目すべきは、日本人が朝鮮人や中国人を奴隷として売買していたことに加え、朝鮮人も捕らえた日本人を奴隷として売買していた事実が報告されていることだ。 朝鮮人が日本人奴隷を使役していた事実は、1408年の『李朝太宗実録』で確認することができる。この記録によると、日本国王・足利義持が派遣した船の中に、当時、朝鮮人のもとで労働に従事していた日本人女性が逃げ込んだという。この日本人女性が、いかなる経緯で朝鮮人に捕らえられたのかは明らかでない。これにより、朝鮮人のもとで日本人奴隷が存在していたことが明白になった。倭寇図巻(東京大学史料編纂所提供の模写) その後の顛末(てんまつ)はどうなったのであろうか。朝鮮サイドでは府使を遣わし、日本の船に逃亡した日本人女性を返還するよう求めた。奴隷は主人の所有物なので、ある意味で当然の要求といえるかもしれない。しかし、日本サイドの使者は、「日本に私賤はいない」と突っぱねて返還を拒否した。そのような経緯を踏まえて、太宗は日本人奴隷の売買を禁止する法令を発布したのである。 一説によると、当時の朝鮮における奴隷の割合は、相当に高かったという。太宗がいかなる理由で、日本人奴隷の売買を禁止したのかは不明であるが、仮に朝鮮で普通の人の売買を禁止しているならば、日本の「私賤はいない」という主張に従って、措置をしたのかもしれない。日本人女性が奴隷でないならば、返還するのが筋だからである。 このように、15世紀の日本において人身売買が国の枠を超えて行われたことは、非常に興味深いところである。次回以降は、さらに人身売買や奴隷の詳細を明らかにしていこう。《主要参考文献 渡邊大門『人身売買・奴隷・拉致の日本史』(柏書房)》■「強欲でケチ」秀吉はいかにして巨万の富を築いたか■「キリシタンへの見せしめ」秀吉が黒田官兵衛を疎んじた理由■「極悪の欲情」女好き秀吉、フロイスの目にはどう映ったか

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    旗印への執着と日照りが生んだ長篠の大勝利

    橋場日月(歴史研究家、歴史作家) 長島一向一揆が壊滅して8カ月近くが過ぎた天正3(1575)年4月(天正2年には閏11月があった)。信長はある人物にその姿を目撃されている。男の名は、島津家久。南九州の大名、島津義久の末弟だ。 家久は兄、義久による薩摩・大隅・日向平定のお礼参りに伊勢神宮などを巡るため上洛したのだが、同月21日、京で織田軍の行列を見たのだ。6日から10万にのぼる大軍を率いて大坂本願寺勢力との戦いに出陣し各地に転戦していた信長は、この日ようやく京に引き揚げてきた。 家久は、信長の前にまず9本の幟(のぼり)が通るのを、「黄礼薬と呼ばれる銭の形を紋にしている」と記録している。「礼薬」は「永楽」の聞き間違いだろう。つまり、これは信長の旗印としてよく知られている黄色の地に永楽通宝の図案を染め抜いた「永楽銭の旗」だったわけだ。 本稿のテーマ的には、この旗を見過ごして先に進むわけには行きそうもない。 黄色に永楽銭の旗印については、第8回ですでに触れた。自らの手で京を安定へ導くため、龍だけでなく麒麟(きりん)のパワーをも取り込もうと考えてそれを象徴する黄色を使ったという内容だったが、ここでもう少し深く考えてみたい。 そもそも、大将格の人物の黄色い旗印というもの自体が珍しい。ざっと戦国合戦の模様を描いた図屏風を見渡してみても、「湊川合戦図屏風」(京都市個人蔵)での新田義貞(黄色地に七曜紋)と「長篠・小牧長久手合戦図屏風」(松浦史料博物館蔵)の織田信長(黄色地に永楽戦)が挙げられるだけだ。後は、「関ヶ原合戦図屏風」(垂井町個人蔵)の徳川家康本陣を守る重臣のものと思われる黄色地三つ巴の旗印ぐらいか。 おっと、有名なところで「地黄八幡」の旗印で知られる北条家の猛将・北条綱成がいるのを忘れていた。この「地黄」は「北条五色備(ごしきぞなえ)」と呼ばれる赤=北条綱高、青=富永直勝、白=笠原康勝、黒=多目元忠の筆頭としての黄=綱成だった。 綱成が筆頭であるのは異論がないところだが、なぜそれが黄色なのか。 これは、古代中国の「陰陽五行」という思想からきている。すべてが木・火・土・金・水の五大要素からできていると考え、木=青、火=赤、土=黄、金=白、水=黒、と五色を割り当てたのだ。これが神にもあてはめられ、木=青龍、火=朱雀、土=麒麟、金=白虎、水=玄武となる。そのうち、大地を表す土、つまり黄色こそが筆頭とされた。武勇ナンバーワンの綱成がその色を使うのは当然だろう。 だが、ここで疑問が出てくる。なぜそんな最強の色が、他の武将たちにはなかなか用いられなかったのか。織田信長像(東京大学資料編纂所所蔵模写) それには立派な理由がある。黄色は、特別な色、高貴な色だったからだ。中国では宋の時代(10世紀末~)から黄は皇帝を象徴する色だった。広大な中国の大地=土は黄であり、同時に皇帝の「皇」と黄は拼音(ぴんいん)が同じ(huáng)であるところからそうなったのだろうが、近代までの中国において黄色は皇帝以外の使用が許されなかったのだ。 そんな色だから、中国の文化を最高のものと尊ぶ当時の日本の上層階級でも黄色はみだりに用いてよい色ではなかった。僧侶の着る法衣(褊衫、へんざん)は黄色に見えるが、それより少し赤みを加えて濁らせた壊色(えしき)と呼ばれる色になっている。旗印は永楽銭 信長は、それほど高貴な色とされた黄色を臆面もなく自分の旗印のテーマカラーとしていた。しかも、1世紀半前の中国「明」の皇帝、永楽帝の時代の銅貨である永楽通宝を意匠として。 信長のために弁護するならば、一時は織田氏と並ぶ存在だった尾張緒川~三河刈谷の大勢力だった水野氏も永楽銭(白地)を旗印としていた。 それは永享7(1435)年に関東公方の足利持氏が京の幕府に近い長倉義成の討伐に失敗する経緯を記した『長倉追罰記』(合戦後まもなく書かれたという)で参陣した水野氏について「永楽の銭は三河国水野が紋」と紹介されていることからも、信長よりかなり早い時代に織田氏が永楽銭をなんらかのモチーフに採用していた可能性もかなり高いと思う。 その一方で『旗指物』(高橋賢一著、新人物往来社)を見ると、馬印そのものが元亀の頃から使われ始め、信長が金(黄)に永楽銭の紋様を旗印とした、と説明されているので、第6回で紹介したように、銭まじないの効果を信じていた信長としては、先祖が採用した永楽銭の紋様が、偶然にも自分の好みに合っていたために旗印にも取り入れたということだろうか。 しかし、その旗印を掲げて上洛し畿内を支配するということになると、話は変わってくる。ただでさえ使用を遠慮すべき尊貴の色である黄を使うだけでなく、その中に俗なものの代名詞とも言える銭の紋様を配した旗を京にひるがえす信長に対して、中国的教養に富んだ公家や仏教勢力は「なんだ、この田舎者の物知らずめ」と鼻で笑い、織田軍を蔑(さげす)みや嫌悪の目で見ただろう。 それでも信長は意に介さなかった。この日も、黄色地に永楽銭の旗印を掲げて都に戻ってきたのだ。その次には彼の親衛隊である母衣衆(ほろしゅう)20人が通り、さらに護衛役の馬廻衆100人が露払いとなって、いよいよ信長自身が見物の群衆の前を通った。 「上総殿(信長)支度皮衣なり、眠り候て通られ候」 信長は毛皮勢の衣を着て、馬上居眠りをしたまま通り過ぎていったのである。まさに絵に描いたような田舎者の姿、だった。 いくら反発を受けても暖簾(のれん)に腕押しとばかりの態度で押し通す信長。銭の呪力を信奉していたとしても、無用な反発を生むのは得策ではないとも思われるのだが、彼の真意はやがて明らかになっていく。 居眠りをしてしまうほど本願寺との戦いに全精力をつぎこんだ信長。しかし、彼は休む間もなく次の戦場へと向かって行く。それがこの直後の、「長篠の戦い」だった。武田勝頼画像(東京大学資料編纂所所蔵模写) 実は、信長は三河・遠江の同盟者、徳川家康の使者から東三河に武田勝頼の軍勢が侵入してきたと知らされ、本願寺との戦いを切り上げて京に戻ったのだ。馬の上でも寸暇を惜しんで睡眠をとっておこうとするのも無理はない。 4月27日に京を出発、28日に岐阜城帰着。5月13日に3万8000の軍勢を率いて岐阜を出陣、18日に武田軍によって包囲攻撃されていた長篠城の西方、設楽原(したらがばら)極楽寺山に着陣する。勝因となった日照り よく知られているように、このとき信長は諸方面から鉄砲とその射撃手を引き抜き、設楽原に集結させている。戦場に投入された鉄砲の数は一般に3000挺。彼は設楽原を流れる連吾川の西に連なる山地をすべて陣地化し、前面に柵と空堀を設け、そこへ武田軍を誘い込んで銃撃戦で撃滅しようと考えていたのだ。 だが、信長着陣の5月18日は、現在の暦に直すと7月6日。まだ梅雨が明けない時期だ。戦国時代も同様で、この前後の4月25日、5月2日・11日・18日・21日・23日・27日と雨が降っている(『多聞院日記』)。 しかし、合戦当日の21日、設楽原には雨は降らなかった。多くある長篠の戦いの画(え)の中で最も年代が古く、合戦から30年ほど後の制作と考えられる「長篠合戦図屏風」(名古屋市博物館蔵)には、扇を広げて用いている武者が何人も描き込まれている。当日は暑かったという記憶が、まだ関係者に残っていたのだろう。実はこの年も「日照り」が発生し、奈良でも「近頃炎天」が続き、雨乞いの祈祷も行われるほどだったのだ。 雨さえ降らなければ、鉄砲はその威力を十二分に発揮できる。未明、ひそかに長篠城を包囲する武田軍別動隊の背後に迂回した酒井忠次らは信長から与えられた500挺の鉄砲を一斉に放って敵を撃破。長篠城は解放された。 こうなると、設楽原方面に移動して信長本陣をにらむ態勢をとっていた武田軍は、撤退しようとしても背後を織田・徳川連合軍から追撃される上、長篠城の鉄砲500挺が脅威となって身動きできない。正面の織田・徳川連合軍は「兵たちを配置につけた様子を隠蔽した」(『信長公記』の記述を口語訳)ため、勝頼は正面突破を狙って攻撃をしかけた。 だが、隠蔽された無数の鉄砲がその武田軍に向かって火を噴いたのだ。 武田軍は織田・徳川連合軍が放つ銃弾を浴び、なんとか柵まで取り付いた者も次々と敵兵の刃に倒れていった。『信長公記』によれば、一斉射撃によって武田軍の攻撃部隊はその過半数が戦闘不能になったという。長篠古戦場に再現された柵と堀(愛知県新城市) こうして山県昌景、土屋昌次、真田信綱・昌輝兄弟と、武田家自慢の猛将・勇将たちも鉄砲で撃たれて戦場に屍(しかばね)をさらし、武田軍は壊滅的な損害を受けて一敗地にまみれた。 実は、合戦前の15日、信長は部下にこう書き送っている。 「天の与えるところであるから、皆殺しにしてやる」(信長書状を口語訳) 「天の与え」という言葉は『信長公記』でも使われているから、信長は設楽原に移動してきた武田軍と決戦する絶好の機会をとらえ、殲滅(せんめつ)の意気込みを周囲にも公言していたのだろう。 だが、もし雨が降り続いていたなら。 当然鉄砲の力は半減、それ以下となり、長篠城を解放することもできないし、柵と堀に頼った白兵戦しか行えない。それでは敵を殲滅することもできず、武田軍は最悪の場合でも余力を残したまま悠々と退却することができただろう。 梅雨時にもかかわらず、前年の長島一向一揆攻めと同じく日照りによって大勝利をつかんだ信長。まさに、水を操る大蛇や龍の力を遺憾なく発揮した合戦だった。これによって、彼の自信はますます深まったのだった。

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    「強欲でケチ」秀吉はいかにして巨万の富を築いたか

    渡邊大門(歴史学者) 秀吉が大坂城を築城し、多くの女性を囲ってきたこと、室内に豪華な装飾品を置いたことなどは、以前に取り上げた。中でも大坂城や黄金の茶室は、秀吉の富の象徴であり、すべての人々が圧倒されたに違いない。 1586年10月17日、ポルトガル人宣教師、ルイス・フロイスはイエズス会東インド管区長のヴァリニャーノに宛てて、「富みにおいては、日本の金銀及び貴重なる者は皆(秀吉の)掌中にあり、彼(秀吉)は非常に畏敬せられ、諸侯(大名)の服従を受けている」という内容の報告書を送っている。 続けて秀吉が大変傲慢(ごうまん)で、諸大名と面会するときは蔑視(べっし)していたと述べている。秀吉は盤石な財政基盤を背景にして、諸大名を侮(あなど)っていたのだろうか。少なくともフロイスは、秀吉が巨万の富を掌中に収めていることを知っていた。 この頃、秀吉はすでに関白の地位にあり、欲しいものは何でも手に入っていた。特に、女性に目はなかったようで、1588年2月20日のフロイスの報告書には、秀吉が全国の美しい女性を求め、無理やり連行していたと記している。「無理やり」とはいえ、相手の親や夫にはいくらかの金を与えたのだろう。 江戸時代になると、秀吉の富裕ぶりは、どのように伝わったのだろうか。『信長公記』の著者、太田牛一が慶長15(1610)年に執筆した秀吉の一代記『大かうさまぐんきのうち』には、次のように書かれている(現代語訳)。 秀吉公が出世されて以来、日本国中から金銀が山野から湧き出て、そのうえ高麗、琉球、南蛮の綾羅錦繍(りょうらきんしゅう、美しく気品のある衣服のこと)、金襴(きんらん、金切箔)、錦紗(きんしゃ、絹織物の一種)、ありとあらゆる唐土(中国)、天竺(インド)の名物や珍しいものが多数、秀吉のもとに集まった。それは、宝の山を積むようだった。 この続きでは、農民や田舎者すらも黄金を多数所持し、路頭には乞食(こじき)が1人もいなかったという。秀吉の慈悲により、貧民には何らかの施しがなされたということになろう。ところが、これはあまりに大げさに書かれているのは事実で、さすがに乞食がいないなどはありえない。ただ、秀吉が金持ちだったのは事実である。牛一の秀吉に対する評価は、高かったといえるのかもしれない。 これとは、正反対の見解もある。小瀬甫庵が執筆した『太閤記』には、ユニークな見解を載せている。同書の巻頭において、甫庵は問答形式で秀吉の金配りが道(人の道)に近いのか否かを問い、次のように回答している(現代語訳)。 秀吉は富める者を優先し、貧しき者を削った。どうして道(人の道)に近いといえようか。百姓から税を搾り取って、金銀の分銅にして我がものにし、余った金銀は諸大名に配った。下の者(庶民)に配ることはなった。 つまり、秀吉は強欲だったというのである。ただ、この話も決して真に受けてはならない。ときは寛永年間で、3代将軍・徳川家光の治世だった。この後に続けて、甫庵は家光が万民に施しを行ったので、人々は大いに喜んだと記している。つまり、現政権を褒めたたえているのだ。豊臣秀吉木像(大阪城天守閣蔵) また、秀吉は刑罰を厳しくしたが、犯罪はなくならず、逆に家光の治世では、さほど法律を厳しくしなかったが、犯罪は多発しなかったと書いている。家光の政治手腕は優れているが、秀吉は無能だったと言いたいのであろう。つまり、甫庵は為政者におもねった論法を用いていたのである。 甫庵はさらに、「秀吉は何事にもぜいたくであり、倹約ということを知らなかった」とまで述べている。贅(ぜい)を尽くした茶室、趣味の能楽に多大な費用をかけるなど、秀吉はたしかに金遣いが荒かった。甫庵がどこまで事実を書いているか不審であるが、秀吉は贅沢(ぜいたく)で倹約知らず、おまけに貧民を助けない人物と評価している。秀吉「直轄領」の実態 このように、金銭的評価が二分される秀吉であるが、豊臣政権を支えた財政基盤は、どのように形成されたのだろうか。 豊臣政権の財政基盤を物語る史料は乏しく、慶長3(1598)年に成った『豊臣家蔵入目録』がまとまったほぼ唯一のものである。作者は不明であり、豊臣家の奉行の手になるものと考えられている。しかし、必ずしも完璧な内容のものではなく、九州の蔵入地が少し抜けているなど、若干の不備が認められる。 この場合の蔵入地とは、豊臣家の直轄領を意味する。『豊臣家蔵入目録』によると、豊臣家の蔵入地は約200万石あったという(多少の漏れはあるが)。当時、江戸に本拠を置いた徳川家康は、関東周辺に約240万石を領していた。近世中期になると、江戸幕府の直轄領は約700万石に上ったという。ちなみに、家康の次に多いのは、前田利家の約102万石である。 豊臣家の蔵入地(以下、蔵入地で統一)が多いか少ないかといえば、議論の余地がある。その秘密については、のちほど触れることにしよう。 蔵入地は、北は津軽から南は薩摩に及んでおり、大名領内にも置かれていた。地域的には五畿内(山城・大和・河内・和泉・摂津)が約64万石と最大で、全国36カ国に所在した。ただし、徳川領や毛利領には蔵入地が存在せず、それは互いの力関係が考慮されたと考えられる。また、経済的にうまみのない地域には置かれなかった。 筑前の博多(福岡市博多区)も蔵入地だった。博多は国内・海外に通じる一大貿易拠点で、経済的に発展した都市でもある。加えて、文禄元(1592)年に始まる文禄の役では、兵站(へいたん)基地として多くの物資を賄う拠点となった。秀吉は軍事拠点であった肥前・名護屋城と連携しつつ、戦いを有利に進めようとしたのだ。 諸大名の領内に置かれた蔵入地も、同じ観点から経済的に有利な場所に置かれた。 薩摩・島津氏は薩摩、大隅、日向に57万8733石を領していたが、うち1万石が蔵入地だった。問題は場所である。蔵入地が置かれたのは、薩摩湾の奥の加治木(鹿児島県姶良市)だった。加治木は島津領内で最大の収穫があった場所で、中国の貨幣「洪武通宝」が鋳造されていた(通称「加治木銭」)。※画像はイメージ(ゲッティ・イメージズ) それは、常陸・佐竹氏の場合でも同じである。佐竹氏の領内にも1万石の蔵入地が設定されたが、その場所は那珂湊(茨城県ひたちなか市)だった。那珂湊も港湾として栄えており、佐竹領内の一大経済拠点だったといえる。秀吉は経済的に恵まれた地に目を付け、積極的に蔵入地に編入したのである。 ところで、各大名の領内に蔵入地を置いたことは、いったい何を意味するのだろうか。それは、各大名の領内に豊臣家の出張所があり、諸大名が監視を受けている状況を意味した。豊臣政権は中央集権を進めるため、諸大名に政治的、経済的な影響を強めるべく、要衝地に蔵入地を設置したと考えられる。 そして蔵入地を活用して、秀吉は積極的に経済活動を行った。伏見城を築城する際、秋田杉を建築材として伐採し、運送の費用は蔵入地からの年貢米を充当した。そして、一定の利益を運送業者に保証した。 当時、秋田から小浜・敦賀までの運賃は、米100石につき50石だったという。500~700石積の船ならば、250~350石が運送業者の利益になった。秋田杉の運搬の事例では、敦賀の豪商・道川兵次郎が400間の杉の運送を担当し、約384石の利益を上げたという。秀吉が重視した鉱山 また、津軽地方の蔵入地の年貢として2400石の米が納められた際、豊臣政権の奉行を務めた浅野長政は、南部の金山にその一部を販売した。その際、浅野氏は南部氏に対して、ほかの米商人の関与を否定した。つまり、秀吉は米の販売権を独占することで、高値での米取引を実現したのである。秀吉が豪商を活用した点は、後に詳しく触れよう。 蔵入地が1カ所に集中するのではなく、全国各地に点在していることには、大きなメリットがあった。それは、先に記した諸大名の監視のほかに、諸大名の経済拠点を蔵入地にすることにより、効率よく収益を上げることができ、なおかつ米などを独占的に販売することで、多大な利益を確保できた点である。 直轄領として、秀吉に多大な利益をもたらしたのは鉱山だった。秀吉は越後、佐渡、陸奥、出羽などの主要な金山を掌握するだけにとどまらず、石見銀山(島根県大田市)、生野銀山(兵庫県朝来市)などの銀の産出地も配下に収めた。そこに関与したのは、豪商たちだった。 実際の運営は豊臣政権の直轄でなく諸大名が関与し、実質的には商人などに代官を任せて、金銀を運上(上納)させていた。つまり、諸大名に命じて鉱山の開発を進めさせ、鉱山経営には商人たちがかかわったのだ。たとえば、平野郷の豪商・末吉次郎兵衛は越前・北袋銀山の経営を秀吉に願い出、通常なら上納金が銀30枚のところだが、70枚にすると申し出て、見事に経営権を獲得した。豪商にとって、利権が大きかったのだろう。 そのほか、秀吉はさまざまな名目で、運上の徴収を行った。 金座の後藤氏は、金貨を鋳造しており、その品質を保証するため書判(サイン)を記していた。また、銀座の大黒常是(じょうぜ)という堺の商人も、銀貨の鋳造を行っていた。秀吉は彼らに金貨や銀貨の鋳造権を認める代わりに、上納金を徴収していた。 このほか、大津から京都への陸運、琵琶湖や淀川の水運についても、それらの権益を独占する業者に上納金を納めさせていた。古来から琵琶湖の交通権は堅田衆が握っており、往来する船から交通料を徴収していた。交通料を徴収した堅田衆は、船が安全に往来できるよう、取り計らっていたのである。これも一種の特権だった。織田信長が楽座を発布すると、堅田衆の特権は失われたが、秀吉は天正15(1587)年に堅田・大津の船を集め、「大津百艘仲間」を作った。ある意味で信長の路線から後退する流れである。現在も残る生野銀山の入り口=兵庫県朝来市 そのルールとは、琵琶湖北部方面の公定運賃を定め、その上納金として、秀吉に年間銀700枚を差し出すというものだった。また、特権の見返りとして、蔵米や御用材などについては、無料で運送を命じたのである。 京都から大坂を結ぶ淀川と神崎川の水運は、過所(書)船(関所通行証を持った船)が業務を独占していた。信長の時代でさえも、御用商人の今井宗久は過所(書)船を利用しなくてはならなかった。大津から京都を結ぶ陸運については、大津駄所という馬借(運送業)が古くから特権を保持していた。秀吉は彼らの特権を認めて、上納金を納めさせることにより、財政を豊かにしたのである。「算勘にしわき男」 ほかにも、堺諸座役料なるものがあった。戦国期の堺には同業組合としての座は知られておらず、なぜ座が残っていたのか不明である。平野郷(大阪市平野区)の豪商・末吉氏に対しては、信長が堺南北馬座を認めた例が唯一である。 今井宗久は信長に対して、塩合物(塩で処理した魚・干魚の総称)の過料銭の徴収の許可を求めている。おそらく宗久は、以前から塩合物についての特権を保持していたと考えられる。千利休も、和泉国内や泉佐野の塩魚座から何らかの収入を得ている。秀吉は盛んな経済力に目を付け、商工業の団体からさまざまな形で上納金を得ていたようだ。 さらに、秀吉は商人を積極的に活用することにより、戦争の準備を円滑に進めようとした。文禄・慶長の役の際には、兵糧の米を大量に集めるため、博多で銀10枚で80石という米相場にもかかわらず、秀吉は銀10枚で77石あるいは70石(本営のある名護屋)という高値で買い上げると言った。こうして米を買い占めた。 博多では500石積の船の運送料が銀で約60枚だったが、名護屋では銀で約70枚となった。つまり、名護屋では銀10枚程度の儲けになるので、豪商たちにとって大きな利益となった。豪商は運送だけでなく、蔵入米や各種物産の管理もしていた。 ところが、やがて秀吉の時代は終焉する。 慶長3(1598)年8月に秀吉が亡くなると、その莫大な遺産は子息の秀頼に継承された。残念ながら総額は不明であるが、相当な額だったのはたしかであるといえよう。しかし、慶長5年9月の関ヶ原合戦において、秀頼はほとんどの蔵入地を失った。それでも、豊臣家の財政は豊かだった。 秀頼は慶長19年に方広寺(京都市東山区)の大仏の造営に着手したが、それは秀吉の豊かな遺産があったからだった。ところが、皮肉なことに方広寺の梵鐘(ぼんしょう)に刻まれた「国家安康」の文字が徳川家康を呪ったものと解釈され、同年から大坂冬の陣が開始する。 豊臣方には1人として大名が味方をしなかったが、代わりに馳せ参じたのは、各地で失業生活を送っていた牢人(主人を失い秩禄のなくなった武士)たちだった。むろん、彼らの目当ては戦後の恩賞だけでなく、当座の生活資金として支給された金銀だった。豊臣家は秀吉の遺産を元手にして牢人をかき集め、徳川との戦争に踏み切ったのである。兵糧や武器・弾薬の購入にも、秀吉の遺産がつぎ込まれた。大坂城(ゲッティ・イメージズ) 慶長20年5月の大坂夏の陣で、豊臣家は滅亡した。いち早く家康は金座の後藤庄兵衛に命じて、大坂城内に残る金銀の調査を命じた。結果、城内から金2万8060枚、銀2万4000枚を見つけ出して没収した。当時の庶民の間では、金が2、3枚もあれば金持ちだとされていたので、膨大な額である。 秀吉は「算勘にしわき男(そろばん勘定にやかましい男。ケチ)」と称されたが、その経済感覚は優れたものがあった。それだけの才覚がなければ、とても天下統一などはできなかっただろう。そこには意外にも、幼少時から青年期に至るまでの「金の苦労」が少なからず影響しているのかもしれない。主要参考文献脇田修『秀吉の経済感覚』(中公新書)

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    「ドクロの盃」に誓った信長、仏教根絶と第六天魔王の深すぎる因縁

    橋場日月(歴史研究家、歴史作家) 天正2(1574)年、浅井久政・長政父子と朝倉義景の首を薄濃(はくだみ)にして正月の酒席に供するという、現代人にとっては衝撃的な演出をしてみせた信長。 だが、それは価値観が違うわれわれだからそう感じるだけで、人の首を見るなど日常茶飯事の戦国時代はまた話が違う。なにせ、当時の女性の覚書『おあむ物語』には、合戦で味方が獲ってきた生首に女性たちがお歯黒をほどこすシーンまであるぐらいなのだから。 『信長公記』でこの3人の「首」が出された場面は前回にも紹介したが、「それぞれが謡い遊興し、なんともめでたい結果になったと喜んだ」とある。これをアレンジした『甫庵信長記』でも、「この肴(さかな)で下戸も上戸もみな飲もう、とそれぞれが歌い、舞って、酒宴はしばらく終わらなかった」「信長公は皆が数年にわたって苦労して功績を重ねてくれたおかげだ、こんな肴で酒宴を開けることになったのは本当にめでたいことだ、と仰(おっしゃ)った」と、一同は浮き立つように酒宴を楽しむ情景が描かれている。 「みんな、信長が怖くて楽しんでいるふりをしたのだろう」と思うところだが、『おあむ物語』など見る限り、どうやら酒席の人々はまんざらお芝居ではしゃぐふりをしてみせたわけではなく、案外本気で喜んでいたのかもしれない。 『信長公記』にも『甫庵信長記』にも、「薄濃」にされたのは「首(こうべ、くび)」だと書かれている。これだと生首かともとられそうだが、いくら秋から冬にかけてとはいえ、生首を3カ月あまりもそのまま保存しておけるものだろうか? 塩漬けや酒漬けにしたところで、そうそう長くはもたないだろう。 肴にされた浅井長政側の史料『浅井三代記』は100年近く後に成立したもので信頼性はとても低いのだが、「肉を取り去って(漆で)朱塗りにした」と書かれている。 つまりドクロにされていたということだ。この部分に限っては、それが合理的ではないか。織田家の正月の宴に出された3人の首は、ドクロだった。※画像はイメージです(GettyImages) ちなみに、この3人のドクロの頭頂部が切り分けられて盃(さかずき)にされ、信長の家臣たちが回し飲みさせられたなどというエピソードを聞いたことがある方がおられるかもしれないが、それはこの『浅井三代記』が「盃の上に御肴にぞ出しにける」と書いてあるところから誰かが想像を働かせた創作―と言いたいところなのだが、それがどうもそうとばかりも言い切れない節がある。第六天魔王とドクロの関係 『今昔物語集』という平安時代の物語集の名前を、読者の方々も一度は聞かれたことがあると思う。その巻第一の第六話は「天魔、菩薩の成道(じょうどう)を妨げんとすること」なるタイトルだが、これは菩薩=釈迦の仏教修行を、天魔(第六天魔王)が邪魔しようとした、という意味だ。 その中で、弥伽(ミカ)と迦利(カリ)という天魔の姉妹がそれぞれ手に「髑髏(どくろ)の器」を持って釈迦の前に現れ、いろいろ妖しいポーズをとってみせた、という一節がある。この髑髏の器というのが、そのままドクロの盃のことなのだ。 第六天魔王とドクロの盃。二つをつなぐ元ネタがある以上、第六天魔王を名乗った信長が3人の首をドクロの盃に仕立てたとしても、不思議はない。仏教に対する外法(げほう。魔法、魔術、妖術なども含む)に使われる髑髏は、外法頭(げほうあたま、げほうがしら)と呼ばれることからも、ドクロの盃は「仏教の敵対者」としての象徴を意味する。 前年に第二次長島一向一揆攻めで失敗し、この正月の宴の直後には越前一向一揆に蜂起されることになる信長にとっては、「今年は刃向かってくる仏教勢力との戦いの正念場だ」という宣言でもあったのかもしれない。実際、この数カ月後に長島一向一揆は皆殺しにされ、さらに翌年には越前一向一揆も殲滅(せんめつ)される運命をたどっている。 箔濃(はくだみ=薄濃)については中国の『史記』に記述があり、台湾の故宮博物院には祭儀に用いられた箔濃が収蔵されているという。 こうして浅井久政・長政父子と朝倉義景のドクロは第六天魔王の象徴的アイテムとして漆塗りにされ諸将の前に飾られた。戦国武将の浅井長政らを描いた絵画=和歌山県高野町(山田淳史撮影) だが、どうも信長はそれだけのためにドクロを見せ物にしたわけではなさそうだ。 漢字研究の大家である白川静氏によれば、古代中国では偉大な指導者の「髑髏」が大切にされて魔除けのために祀られ、その色が「白」という漢字の起源になったという(『漢字百話』(中央公論新社)ほか)。 野ざらしで白くなった英雄のドクロ。それをたたくことでドクロの生前の霊を迎え、まじないの効果をあげようとされていたというのだから、この点でも魔除け好きな信長との接点が出てくる。浅井父子と朝倉義景は4年間にわたって信長を苦しめ続け、あわや破滅かというところまで追い詰めたほどの武将だったから、その呪霊の力も相当なものに違いない。信長の怪しいブレーン ひょっとすると、信長の側にはこういうオカルト的な知識に詳しいブレーンがいたのではないか。20世紀最悪といわれる独裁者、ヒトラーの場合、カール・エルンスト・クラフトという大物占星術師がナチスドイツの躍進に貢献したというが、実は信長にもそういうスタッフがいたと考えられる節もある。それについては近々触れることになるだろう。 さぁ、それでは話を進めて、信長がドクロを飾ってその意気込みを表現した第三次長島一向一揆攻めについて語ることにしよう。 この年の7月は、雨が極端に少なかった。徳川家康の史料『当代記』に「この夏秋、旱天(かんてん)」とあるように、旱(ひでり)が起こったのだ。奈良でもこの月「近般もってのほか炎天」と嘆かれ(『多聞院日記』)、島根でも4月からこの月にかけて干ばつとなる(気象研究所『日本旱魃霖雨史料』)など、広い範囲が水枯れで干上がった。 信長が行動を起こしたのは、ちょうどそのタイミングだった。13日に7万とも8万ともいう軍勢を率いて岐阜城から出陣した信長は、翌日戦闘を開始。海も陸も隙間なく長島を包囲した織田軍は次々に一向一揆の支城を打ち破り、一揆勢を切り捨てていく。大鳥居城と篠橋城の一揆勢は耐えきれなくなって降伏を申し入れるのだが、信長はこれを拒否した。「いろいろと一揆の者どもが懇願して来るが、この期に根切りすると決意している」と書状にも記しているように、彼は「根切り」=殲滅、皆殺し以外は考えていなかった。 8月2日、夜陰にまぎれて大鳥居城から脱出しようとした一揆勢1000人あまりが切り捨てられてしまう。雨雲がまったくない夜空は月明かりも十分に明るく、織田軍にとって一揆勢を捕捉するのは造作もなかっただろう。伊勢長島一向一揆(歌川芳員、『太平記長嶋合戦』) それより何より、河川の水位が下がっていたことが信長の強い味方となっていた。木曽川・揖斐川・長良川の「木曽三川」の流れの中にある「輪中」を城塞(じょうさい)化した長島城などは、川の水が少なくなればそれだけ防御力を喪失するためだ。 信長は大鳥居城の虐殺について、「男女ことごとくなで切りにさせた。身投げして死んだ者も多かったようだ」と自慢してみせ、「長島の願証寺がいろいろとわび言を申し入れてきているようだが、一切取り上げるなと命じてある」と改めて殲滅の実行を確認している。正月に三つのドクロを前に立てた反織田の仏教勢力の根絶の堅い誓いは、小揺るぎもしなかった。「自分は神」と確信 残る屋長島・中江の二城と本拠の長島は希望のない籠城に突入したが、特に篠橋城から多くの者たちが逃げ込んだ長島は兵糧の準備も乏しく、地獄の飢餓状態に陥っていく。「城中の男女に餓死者が殊の外多く出ているようだ」と信長はその陥落も間近いことを予期し、9月29日に一揆勢が長島から退去しようとするのを認めるふりをした上で、船で城内からこぎ出してきたところを鉄砲で一斉に撃ち倒させた。みるみる殺されていく仲間たちの姿に、死に物狂いになった一揆勢は織田軍の手薄なところに突撃をかけ、生き残った少数だけが大坂まで逃げていったという。 敵の意外な抵抗に怒り狂った信長は、その日のうちに屋長島・中江の二城に四方から火をかけた。渇水により陸の上はすっかり乾燥しきっていたこともあり、火はあっという間に回って2万人という籠城者をすべて焼き殺してしまったという。まさに地獄の業火をこの世に出現させたようなありさまだっただろう。 この日、彼は陣を払い、岐阜城へと凱旋(がいせん)の途につく。 ドクロの誓い通りにまず長島一向一揆を殲滅した信長。彼は滞陣中に「大坂を皆殺しにする準備を最優先にせよ」と細川藤孝に書き送っている。一向一揆の本尊、大坂本願寺に総力戦を挑もうというのだ。武田勝頼の銅像=山梨県甲州市 干ばつがもたらした渇水により長島一向一揆攻めを成功させた信長。彼は、桶狭間の戦い以来続いている龍・大蛇の神通力による「水」の制御がここでも自分に味方したことに気をよくしていたことだろう。   それは、彼が龍そのもの、つまり自らが神の力を備える存在だと信じる方向へと彼を導いていくきっかけとなったようだ。 そして、彼の自信を絶対の確信へと変える大作戦が、この後に待っている。明くる天正3(1575)年4月21日、甲斐の武田勝頼が1万5000の兵を率いて徳川家康領の三河国の東部へ侵入し、各地を脅かした後、5月11日に長篠城を包囲したのである。 これに対し、信長は徳川家康からの応援要請を受けて2日後の13日に岐阜城を出陣する。信長一世一代の大合戦、「長篠の戦い」の火蓋が切られたのである。

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    「キリシタンへの見せしめ」秀吉が黒田官兵衛を疎んじた理由

    渡邊大門(歴史学者) これまで見てきた通り、豊臣秀吉は決してイメージ通りの明るさがある人物ではなかった。秀吉はときに諸大名や家臣の行動に逆上し、厳しい処分を下すことがあった。秀吉の逆鱗(げきりん)に触れ、「臭い飯」を食うことになった武将も少なくない。ただ、秀吉の部下への厳しい対応は、冷徹な性格だけが理由ではなく、期待を含めた「愛のムチ」という側面もあったのだろう。 その被害者の一人として、黒田官兵衛孝高がいる。官兵衛といえば、「偉大なナンバー2」と称され、秀吉がその存在を恐れたといわれている。しかし、それは真っ赤な嘘で、わずか約13万石の小大名の官兵衛が秀吉に敵(かな)うわけもなく、いいかげんな史料に基づいた、後世の人々による過大評価に過ぎない。 結論を言うと、官兵衛が秀吉から悲惨な目に遭わされたのは、彼がクリスチャンだからだった。官兵衛がクリスチャンだったことは、福岡藩の正史『黒田家譜』には書かれていないが、フロイスの『日本史』の記述により明らかになっている。『黒田家譜』に書かれていないのは、近世になってキリスト教の禁止が本格化し、中興の祖・官兵衛がクリスチャンでは都合が悪かったからだ。 官兵衛がキリシタンに関心を抱くようになったのは、小西行長の勧誘によるものであった。次いで、官兵衛を蒲生氏郷と高山右近が受洗へと導き、「小寺シメアン官兵衛」と称したという。天正13(1585)年のことである。ただ、実際に官兵衛の洗礼名は「シメオン」なので、標記が異なるのは発音上の問題であると考えられる。実際、官兵衛は花押の代わりにローマ字印を使うこともあったので、キリシタンだったのは確実である。 官兵衛は秀吉の側近として重要な任務に従事していたので、デウス(神)のことを知る時間が甚(はなは)だ乏しかったと伝える。したがって、キリスト教に関する基礎知識には欠けていたようだ。にもかかわらず、イエズス会では官兵衛に大きな期待を抱いた。官兵衛が教えを聞く機会を持てば、その信仰は堅固になり、「デウスの奉仕」に役立つと述べている。 官兵衛が豊臣秀吉のもとで毛利氏と国境策定をめぐり、毛利輝元と交渉を行った際、イエズス会のコエリュ副管区長の要請に応じて、山口でキリシタンがもとのように居住できるよう働きかけることを応諾した。官兵衛はキリスト教の熱心な信者であり、布教の手助けを行っていたことが明らかである。黒田如水居士画像=祟福寺(福岡市)所蔵 これまで豊臣秀吉はキリスト教に一定の理解を示していたが、天正15(1587)年6月に博多でバテレン追放令を発令し(「松浦史料博物館所蔵文書」)、キリスト教の信仰は事実上禁止された。早速、秀吉はキリシタン大名・高山右近に棄教を強制し、右近がこれを拒否すると改易という厳罰に処したのである。 その矛先は、官兵衛にも向けられた。『日本史』には、秀吉がキリスト教を激しく憎悪して、19にわたる決定事項を下したと記されている。そこには、官兵衛について、次のように書かれている。 過ぐる戦争(九州征伐)において輝かしい武勲をたてた官兵衛殿に対しては、豊前の国を約束していたが、彼(官兵衛)がキリシタンであり、貴人(諸大名)たちに、我らの教え(キリスト教)を聞いて受洗するように説得しているとの理由から、後刻、(秀吉は)大いに(官兵衛)を叱責し、厳しい(仕打ちに)より彼からそれ(豊前国)を没収した。その後、(官兵衛への厳しい処分を)保持しきれなくなって、彼にふたたび(豊前国)を与えることになったが、かなりの部分をだまし取った。 キリシタンの官兵衛が受洗を諸大名に熱心に勧めたことから、秀吉は激しく官兵衛を叱責し、いったん恩賞として与える予定だった豊前を取り上げた。ところが後日、秀吉は官兵衛に厳しい態度で接し続けるのが困難であると悟り、大幅に削減したうえで、改めて官兵衛に豊前・中津を与えたというのである。秀吉が再び与えた理由は判然としないが、2人の関係に亀裂が入っていたのは明らかである。秀吉の禁教に反した官兵衛 その後、官兵衛が豊前を領したとき、短期間で多くの者たちの改宗に成功したという。その中には、自身の子息、長政や筑後の毛利秀包(ひでかね)も含まれている。これだけでなく、多くの武将に改宗を持ちかけ成功した(『日本史』)。それゆえ官兵衛は、イエズス会から大いに頼りにされたのである。これは、禁教を推進する秀吉の悩みのタネでもあり、方針に反する行為だった。 秀吉が大活躍した官兵衛に対して、わずか豊前・中津しか与えなかった理由は、これまで俗説がまかり通っていた。「官兵衛を恐れた秀吉は、九州の僻地(へきち)に押し込め、石高も最小限に抑えた」というのはその代表的な見解だろう。官兵衛を過大評価した、典型的な解釈である。実際は官兵衛がキリシタンであり、熱心に信仰を周囲に勧めることが気に入らなかったのだ。 秀吉は官兵衛に対し、豊前国を与える件について、次のように罵倒した(『日本史』)。 「汝(官兵衛)はそれ(豊前国を支配すること)に価せぬ。(豊前を)統治する能力もない。汝(官兵衛)はキリシタンになっただけでは満足せず、諸国の君侯(大名)や他の貴人たちに対して、キリシタンの教えを聞いて洗礼を受け、当初抱いていた神々(仏教、神道)への信仰を捨てるように盛んに説教し、説得し続けてきたのであるから、汝(官兵衛)に国(豊前)を与えるわけにはいかぬ」と(秀吉は)言い、さらに彼(官兵衛)に対して幾多の罵詈雑言(ばりぞうごん)を浴びせかけた。 秀吉は官兵衛に豊前を治める器量がないと、面前で言い切っているのだから、もはや両者の関係は決裂状態だろう。官兵衛がキリスト教の信仰を周囲に勧めるのも気に入らなかったらしい。おまけに、詳しくは書かれていないが、秀吉は続けて官兵衛に幾多の罵詈雑言を浴びせかけたという。それでも秀吉が官兵衛を起用し続けたのは、彼の能力が高かったからと推測される。 次の記述を見る限り、秀吉は官兵衛を高く評価しており、実は3カ国を与えようとしていたことがわかる(『日本史』)。 その後、(秀吉は)彼(官兵衛)に3カ国を授けるような期待を抱かせておきながら、豊前国しか与えず、しかもなおその(豊前国の)の一部を接収して(毛利)壱岐守に授け、汝(官兵衛)がキリシタンゆえにこれを没収したのだ、と(秀吉は)言った。 このように、秀吉は官兵衛を高く評価しており、最初は内々に3カ国を与えると約束をしていた。それは、キリスト教の棄教との交換条件だったのだろうか、結局は3カ国どころか、豊前・中津だけになったのは、先述の通りである。ただし、3カ国というのは、具体的にどの国なのかは不明である。伝黒田如水肖像(滋賀県長浜市の樹徳寺所蔵) ところが、この話はまだ終わっていない。官兵衛は相変わらずイエズス会の肩を持ち、秀吉に種々交渉を行った。官兵衛がイエズス会の側に立って発言した際、秀吉は次のように激高したという(『日本史』)。 「汝(官兵衛)はまだバテレンどものことを話すのか。汝(官兵衛)がバテレンに愛情を抱いており、また汝(官兵衛)がキリシタンであるために、汝(官兵衛)に与えるつもりでいたもの(領地)の(うち)、多くを取り上げたことを心得ぬか」と(秀吉は)答えた。 秀吉は官兵衛がキリスト教の信仰を止めず、それどころかイエズス会に寄り添った態度を取るのが気に入らなかった。官兵衛が本来与えられる領地を取り上げられたのは、彼がキリシタンだからだ、と秀吉は明快に答えている。『日本史』の別の記述によると、官兵衛が多くの人々をキリスト教に改宗させたので、秀吉は官兵衛に数カ月間会わなかったと記す。2人の関係は、険悪だった。秀吉の死を願うほどの憎悪 このように関係が悪化したのだから、官兵衛は秀吉に対し、強い憎悪の念を抱くのはやむ得ないところである。キリスト教に迫害を加える秀吉について、官兵衛は次のような感想を持っていた(『日本史』)。 拙者(官兵衛)はこのたびの悪魔的な動揺と変化(秀吉による官兵衛への罵倒)を、この上なく憂慮している。だが我らの主(デウス)が(秀吉を)かく許し給うからには、そこには極めて正当な理由が存するはずである。(中略)だがデウスは、かかる極悪人(秀吉)を罰さずにはおかれぬから、拙者(官兵衛)が思うには、(秀吉はこれ以上)長くは生き得ないだろう。 官兵衛はデウスの意志としながらも、秀吉はそんなに長生きをしないと断じている。主君の死を願っているのだから、秀吉への憎悪の念を推し量ることができる。ただ、官兵衛は秀吉と口論におよぶことはなく、一方的に罵詈雑言を浴びせ掛けられるだけだった。それは、秀吉が主君だったからで、決して口ごたえできなかったからだろう。しかし、キリスト教関係者には、秀吉への不満を正直に吐露していたのである。 こうして秀吉と官兵衛の距離は着かず離れずのまま保たれるが、文禄・慶長の役により決定的に破綻する。 文禄元(1592)年3月から、秀吉は全国の大名たちに朝鮮半島への出兵を指示した。当初、日本軍は破竹の勢いで進軍し、朝鮮半島全土を占領する勢いだった。しかし、義兵が日本軍への抵抗を活発化させ、李舜臣(り・しゅんしん)率いる水軍が日本軍を打ち破ると、とたんに情勢は不利になった。苦境に追い込まれた日本軍は、新たに手を打たねばならなかった。以下『日本史』により、秀吉と官兵衛との間にいかなることがあったのか確認しておこう。 文禄2年6月、秀吉は明に対して和平の条件を伝えたが、一方で、秀吉は朝鮮半島の海辺に12の城郭を作るため、官兵衛を派遣して現地の武将に命じるように手配した。手順は、まず官兵衛が全軍の指揮を執り、現地の武将を率いて全羅道を攻略し、その後、12の城を築くというものであった。ちなみに、秀吉の命令は絶対であり、決して逆らったり、意見したりすることはできなかった。光化門近くの広場に建つ李舜臣の像=韓国・ソウル(鴨川一也撮影) しかし、現地の武将たちの間では、まず12の城を築き、その後、全羅道を攻略すべきであるとの見解が大勢を占めた。防御施設をしっかり作った方が安心できるからであろう。秀吉の命令とは、手順がまったく逆である。そこで、官兵衛は彼らの意向を踏まえ、他の重臣とともに秀吉のもとを訪れ、現地の方針を伝えた。このことが、官兵衛に最悪の事態をもたらすことになる。 朝鮮に駐屯した武将たちは、現地の情勢を踏まえて、秀吉の作戦について変更を「お願い」するつもりだった。しかし、この頃の秀吉は度重なる敗戦に神経質になっており、自身に反対意見を述べることを許さなかった。秀吉に面会しようとした官兵衛は、次に示す通り、想定外の悲惨な目に遭ってしまう。 朝鮮にいる武将たちのこの回答と意見は、大いに関白(秀吉)の不興を買った。彼(秀吉)は、少なくとも(朝鮮全羅道)を一度攻撃した後に使者を寄こすべきであったと言い、彼ら(朝鮮に駐屯中の武将)を卑怯者と呼んだ。なおまた官兵衛に対して激高し、彼(官兵衛)を引見しようとせず、その封禄と屋敷を没収した。 秀吉からすれば、一度は命令を聞いて朝鮮全羅道を攻撃し、その後に相談に来るべきであって、自分の命令を最初から無視するのはけしからん、ということになろう。その交渉の使者が官兵衛だったが、秀吉と官兵衛はキリスト教をめぐって対立する状態にあった。秀吉の怒りは激しく増幅し、官兵衛に封禄と屋敷の没収という厳しい処分を科した。これは「見懲(こ)り」といい、諸大名に対する見せしめの一つだった。謎多き官兵衛の引退 この話がまんざら嘘でないということは、文禄2年5月25日付前田玄以書状(駒井重勝宛)により明らかである(「益田孝氏所蔵文書」)。この書状によると、官兵衛は文禄2年5月21日に名護屋城の秀吉のもとを訪れ面会を求めたが、追い返された事実が判明する。官兵衛は秀吉の指示通りの作戦を実行しなかったので、不興をこうむったのである。もう一度、官兵衛は秀吉を訪ねたが、結果は同じことだった。 秀吉の逆鱗に触れたため、官兵衛は次の通り出家に追い込まれた(『日本史』)。 官兵衛は剃髪(ていはつ)し、権力、武勲、領地、および多年にわたって戦争で獲得した功績、それらすべては今や水泡が消え去るように去っていったと言いながら、如水、すなわち水の如しと自ら名乗った。かくて彼(官兵衛)は息子(長政)がいる朝鮮に戻るのが最良の道であると考え、その地に帰っていった。彼(官兵衛)は関白(秀吉)に謁し得ることを望んでいたが、それはなんら彼(秀吉)からの寵愛を得んとしたからではなかった。なぜなら彼(官兵衛)は、もはやすでに年老い、長政の所領である豊前に隠居し、救霊のことに専念したいと願っていたのである。 官兵衛は天正17(1589)年に家督を子息、長政に譲っていたので、実害はなかったといえるのかもしれない。 これまで官兵衛引退の件に関しては、病気によるものであるという説が主流だった(秀吉を恐れて早い引退を決断したとも)。若い頃の官兵衛は、荒木村重が籠(こ)もる有岡城で、1年余にわたる幽閉生活を余儀なくされた。それにより頭髪が抜け落ち、膝にも傷病を負ったという。また、朝鮮出兵後、病により帰国したこともあった。黒田官兵衛の顕彰碑=兵庫県姫路市  ところが、『日本史』で経緯を読む限り、官兵衛が出家をしたのは、朝鮮半島における作戦をめぐり、秀吉から勘気をこうむったというのが事実らしい。官兵衛が病気などの理由により引退したという通説とは、大きく異なっている。 ただ、こうした史実について、裏付けとなる日本側の史料が乏しいのは、誠に残念であると言わざるをない。また、フロイス『日本史』の史料的な評価も十分ではなく、今後の課題である。たとえば、禁教を推進した秀吉の評価が辛く、キリシタン大名には甘いというのは一例である。しかしながら、『黒田家譜』のように官兵衛を顕彰することに一色になっておらず、ある意味でリアルな姿を伝えていることは誠に興味深い。 このように、官兵衛は秀吉から厳しい制裁を受けたのだが、後年は秀吉に対して憎悪の念がなかったような感想を漏らしている(「吉川家文書」)。そのような心境の変化がなぜ生じたのかは不明である。主要参考文献渡邊大門『秀吉の出自と出世伝説』(洋泉社・歴史新書y)

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    「卑弥呼の宮殿は吉野ヶ里」この仮説を覆す発掘成果はあるか

    七田忠昭(佐賀県立佐賀城本丸歴史館長) 邪馬台国(やまたいこく)の所在地が盛んに論議されるのは、言うまでもなく『三国志』魏書東夷(とうい)伝の中の「倭人伝(わじんでん)」に「…南至邪馬台国、女王之所都(…南には邪馬台国があり、そこは女王が都をおいているところ)」と記されているからだ。つまり、邪馬台国は倭国の都の所在地であり、倭国王卑弥呼の宮殿が置かれた国だからである。 その議論は江戸時代から本格化する。邪馬台国への行程記事と、記紀など日本の古記録に記された人物や地名からの推察が主流を占めた。本格的な議論は江戸時代の儒学者、新井白石や国学者の本居宣長、明治時代末期の東京帝大教授の白鳥庫吉(くらきち)と京都帝大教授の内藤湖南による論争以降、九州地方と近畿地方が二大候補地として定着した感があった。 考古学からのアプローチも大正末期に始まる。東京帝室博物館の高橋健自は、邪馬台国は「当時の政治・文化の中心であり、中国文化の影響が大きかった場所」に違いないと考え、中国漢・三国時代の銅鏡やその模造品が畿内で多く出土することなどから、邪馬台国は畿内にあったと主張した。 京大教授の小林行雄は、近畿地方を中心に古墳から出土する三角縁神獣鏡に代表される同笵鏡(どうはんきょう、同鋳型で鋳出された鏡)とその地方への分布関係などから近畿・大和説を唱え、三角縁神獣鏡を魏皇帝から卑弥呼やその宗女台与(とよ、壱与(いよ)とも)に下賜された「銅鏡百枚」とみた。 しかし、江戸時代以来、現在に至るまで、300年弱の年月をかけての議論は実らず、近畿(大和奈良)説と九州(九州北部有明海沿岸)説を筆頭に、混迷を極めている。文献の解釈や考古学的成果に決定打が現れないからであった。そのような中、1986年から始まった佐賀県吉野ケ里遺跡の発掘調査は、邪馬台国所在地の議論に多くの有意義な情報を提供することになった。 弥生時代の終わりころ、倭国の都があったとされる邪馬台国の位置については、後の大和王権の成り立ちや、日本の古代国家成立と関連して重要な意味を持っている。邪馬台国の位置を確定することは、歴史学・考古学の重要な課題である。 邪馬台国問題は、大和王権の成立など古墳時代以降の政治情勢、ひいては古代国家成立と深く関わる問題として重要である。奈良・大和地方で生まれた大和王権が広く列島に波及するという後の時代像に影響されることなく、まず倭人伝の記事と考古学のこれまでの成果を比較検討することから始めなければならない。 倭国は、倭人伝が伝えるように、魏と正式な外交を保ち、相互に往来もしていた。つまり、倭人伝の記述と、発掘によって明らかにされた同時期の考古学や関連諸科学の研究成果とを対比し、中国王朝との外交の成果に視点を置いて、邪馬台国の中心集落の様相について考えなければならない。邪馬台国や卑弥呼の居所のありようを知る記述が倭人伝の中にいくつか存在するが、それらは考古学でしか解釈できないからである。 ここでは、倭人伝の記述から想起される、邪馬台国と呼ばれる集落群やその中心集落の構造、中心集落の中に存在した卑弥呼の宮殿の構造を、考古学の発掘成果と照合してみると、おのずと九州北部地方だと言わざるを得なくなる。邪馬台国中枢の姿 まず、邪馬台国の所在地や様相を考える上で、参考となるべき倭人伝の記事と、考古学の発掘成果を比較してみよう。「倭国乱れ相攻伐すること暦年、すなわち共に一女子を立てて王とした。名を卑弥呼という」 彼女が共立された地域、つまり、倭国の領域内は戦争状態であったとみてよい。弥生時代中期以降、終末期まで大型化した銅矛などの青銅製武器形祭器による祭祀(さいし)が行われていた地域、つまり、九州北部こそが、戦乱など緊張状態が長く続いた地域と考えるべきである。邪馬台国と平城宮「南、邪馬台国に至り、女王の都する所にして…。官に伊支馬(いきま)有り、次を弥馬升(みましょう)と曰い、次を弥馬獲支(みまかくき)と曰い、次を奴佳鞮(なかてい)と曰う」 この記事からは、倭王卑弥呼の都が邪馬台国に置かれたが、邪馬台国にはその長官伊支馬や弥馬升以下の次官たちも存在していたことを示している。すなわち、倭国の都が置かれた邪馬台国には、卑弥呼が居住し祭事の場であり、極めて閉鎖的な倭国の宮殿空間と、伊支馬など邪馬台国の長官や次官が居住し、政事を行う邪馬台国の宮殿空間の二つの特別区画が近接して存在していたと考えられるのである。奈良時代の大和国の中に平城宮と大和国の国庁とが共存することと同様である。「景初2年(3年=239年の誤りとされる)の6月、倭の女王が大夫難升米(なしめ)等を派遣し帯方郡にまいり、魏皇帝少帝に朝貢したいと申し出てきた。帯方郡(たいほうぐん)太守劉夏は、文官と武官をつけて魏の都である洛陽に送った」 上記をはじめとする外交記録からうかがえるのは、これらの外交を通じて、倭国の要人たちが帯方郡や中国本土の都城や城郭、市井のたたずまいを観察・見聞し、祭祀(さいし)儀礼や迎賓儀礼など中国の世界観を経験したはずであろうことだ。また、その成果を東アジアの最強国中国との「外交の証し」として、倭国の都や拠点集落の中国化に努めたと考えるべきである。 有明海北岸地域では、中国城郭の城壁や入り口に付属する突出部(馬面・角楼)のように、環壕を外側へ突出させた部分をもつ環壕集落跡が集中しているが、他の地域では見られない。佐賀平野(吉野ケ里遺跡など11遺跡16環壕)、久留米市、八女市、日田市に、中国の城郭構造が反映されたと考えられる環壕集落が分布している。ただし、突出部の内側に物見櫓を設けたのは吉野ケ里遺跡のみである。 これらの環壕突出部を設けた集落が分布する地域が、文化的なまとまりが認められるが、政治的なまとまりと考えることも可能ではないかと考えている。これら集落の中で、すべての突出部に物見櫓を伴ったのは吉野ケ里遺跡だけであり、集落間の階層性が認められる。「その国もとまた男子を以って王となす、とどまること7~80年、倭国乱れ相攻伐すること暦年」 卑弥呼が共立される直前までの間は、歴代男王が存在していたことが記されている。吉野ケ里遺跡周辺(吉野ケ里のクニ)には、中期前半~後期後半の男王を埋葬した墳墓が多数存在していたことが明らかになっている。吉野ヶ里遺跡の発掘が進み、高床倉庫跡や竪穴住居跡など、弥生時代の重要な遺物が出土した=1989月3月撮影 中期中ごろまでの首長たちは大規模な吉野ケ里遺跡の墳丘墓に順次葬られたが、中期後半から後期後半にかけての首長たちは、中国製銅鏡(漢鏡)を添えて、吉野ケ里町・上峰町の二塚山遺跡から、吉野ケ里町の三津永田遺跡、二塚山遺跡、吉野ケ里町横田(松原)遺跡や東脊振村松葉遺跡、二塚山遺跡や三津永田遺跡・上峰町坊所一本谷遺跡へと順次埋葬される。首長墳墓が各所の墓地間を移動し続けるのである。 大きな漢鏡や鉄製素環頭大刀(そかんとうたち)は中国国家の権威を帯びた下賜品であり、外交の賜物(たまもの)であった。吉野ケ里遺跡一帯での出土状況は、当地が長期間にわたり、たゆまなく対中国外交に深く関わっていたことを示すものである。「カリスマ女王」住居の謎 福岡や糸島など玄界灘沿岸地域では、一つの墳墓に多数の銅鏡などを副葬する、いわゆる「王墓」が存在する。だが、これらは各地域内で断続的に出現するもので、首長の系譜が継続的ではないことを示している。 中国後漢代の高官を埋葬した洛陽焼溝漢墓では、一人を埋葬した墳墓40例のうち、銅鏡1面を副葬したものが36例、2面が3例、3面が1例となっており、銅鏡1面を副葬するのが通例であった。つまり、1面の鏡を副葬する墳墓が継続して営まれる佐賀地方は、多数の鏡を副葬する墳墓が突発的に現れる福岡・糸島地方とは、異質な社会であり、最も中国的であったことを示しているのである。 周辺の有力集落から共立され、クニの王として吉野ケ里集落に君臨し、役割を終えるか死亡したら、出身集落の墓地に中国王朝の権威を帯びた大きな銅鏡や鉄製素環頭大刀を添えて葬られたものと考えられる。吉野ケ里遺跡周辺での漢鏡・鉄製武器の副葬 素環頭大刀は二塚山・三津永田・横田遺跡などから出土している。これらのうち、人骨が出土するなどして性別が判明しているものはすべて男性であり、弥生時代後期全般にわたってクニの男王が有力集落の中から順次共立されていた土地柄であったことが分かる。 次に、邪馬台国にあった卑弥呼の宮殿の様相を考える上で、参考となるべき倭人伝の記事と、考古学の成果を比較してみよう。「すなわち一女子を共立して王となす。名を卑弥呼と曰う。鬼道(きどう)を事とし、よく衆を惑わす。…王となりてより以来、見ることある者少なし」 倭国が戦乱状態の中で、諸国から共立された卑弥呼は、「鬼道」によって民の上に君臨していたことや、めったに人前には姿を見せないカリスマ性を備えた女王であることが記されている。邪馬台国時代の吉野ヶ里遺跡の構造 吉野ケ里遺跡の北内郭は、吉野ケ里集落の中で弥生時代中期初頭から後期終末、さらには古墳時代前期まで集落が一貫して継続した唯一の空間で、墳墓が一度も立ち入らない聖域であった。中期のおびただしい祭祀土器群や、後期後半に墳丘墓に切っ先を向けて埋納された青銅製武器形祭器(中広銅戈)の出土からも、祭祀と関わりの深い空間と考えられる。 北内郭内の祭殿と目される大型建物の南北中軸線の北への延長上約190メートルの位置に、銅剣やガラス管玉が副葬された歴代の首長を葬った中期の墳丘墓の中心がある。また、南約650メートルの延長上には中期に築かれた祭壇と考えられる径40メートル超と推定される盛土遺構の中心が存在している。 このことは、中期初めに設定された墳丘墓と祭壇とを結ぶ線上に、約400年後にわざわざ大型建物を配置したことを示している。さらにこの線を南へ約60キロ延長したところには雲仙岳が存在する。北内郭の祭殿で行われた祭祀が、墳丘墓に葬られた過去の首長を対象とした祭祀であり、それは火山である雲仙岳を背景とした壮大なものであったことを示している。 また、北内郭の平面形は円形と方形を合体したような幾何学的な形である。卑弥呼の「鬼道」というものが、中国の同時代古典からみると道教とみる研究が多い。道教の「天円地方(天は丸く、地は四角)」という基本理念と吉野ケ里遺跡北内郭の平面形との関係に興味がもたれる。中国城郭を意識した吉野ケ里 この北内郭の北東―南西の中軸線の延長が夏至の日の出と冬至の日の入りの方向を向いていることも、暦など、中国の世界観をも手に入れ始めていたとも考えられるのである。「宮室・楼観・城柵を厳かに設け、常に人有りて兵(兵器)を持して守衛」 卑弥呼が居住する宮殿区画には宮室(大型建物)や楼観(物見櫓)、城柵(環壕を掘削して盛り上げた土塁の上に柵を並べた施設)が備わっていたことを示している。宮室と推定される建物跡は、北内郭跡の発掘調査で発見されたもので、4本柱からなる一辺が4列に並ぶ16本の柱からなる建物で、その平面規模は約12・5メートル四方と、国内の弥生時代建物の中でも屈指の規模を誇る。 柱穴内部の柱痕跡から柱の直径は50センチであったことが判明し、非常に大規模な高層建物であったことが推定された。この建物の線が、地形的に最高所ではなく、墳丘墓と南の祭壇を結ぶ南北中軸線上に乗せるため、東へ傾斜する位置に建設されている。 つまり、巨大な環壕集落である吉野ケ里集落内部の最重要空間である北内郭は、特に墳丘墓に眠る祖霊に対する祭祀の場で、二重の環壕(外環壕を加えると三重)と、内部を直視できない鍵形の出入口、4カ所の物見櫓を持つ非常に閉鎖された空間である。倭人伝が「自為王以来、少有見者(王となって以来、見たことがあるものは少ない)」と記した倭王卑弥呼の居館のありようと符号する。 南の祭壇や火山である雲仙岳を背景にしながら、北の墳丘墓に眠る過去の首長(英雄)の霊を祀(まつ)るための施設と考えられるのである。物見櫓跡は、南内郭跡でも旧環壕で2カ所、新環壕で4カ所発見されているが、いずれも環壕の付属施設として国内では例がないものとして注目される。 吉野ケ里遺跡は、現時点では宮室(大型建物)、楼観(物見櫓)、城柵(環壕と土塁痕跡)がそろった国内唯一の弥生時代終末期(邪馬台国時代)の集落である。しかも、国内で他に例を見ない鍵形の厳重な出入口をもつなど、中国城郭を非常に意識した集落構造となっている。魏書『東夷伝』の各国・各地域の集落構造に関する記事を見ても、倭国には中国のそれと似たような施設がそろっていることが記されている。祭事と政事の象徴、そして戦略拠点の象徴としての装置を備えた吉野ケ里集落の最重要空間である北内郭は、まさに「宮室・楼観・城柵」を備えていたのである。中国の城郭(城壁)構造と、それを模倣した吉野ヶ里北内郭 ここで、『漢書』地理志や『後漢書』東夷伝、『三国志』魏書東夷伝の外交記録を確認してみよう。記録に残る遣使は、以下のとおりである。倭国王の遣使と貢納品・下賜品 前漢の武帝により108年に朝鮮半島に楽浪郡など4郡が設置されたのち、『漢書』が「…故に孔子、道の行われざるを悼み、もし海に浮かばば、九夷に居らんと欲す。ゆえ有るかな。夫れ楽浪(らくろう)海中、倭人有り。分かれて百余国を為す。歳時を以て来たり献見すと云う」と記している。このように、倭諸国の王たちが朝貢外交を開始したことや、朝貢し礼を尽くしている、と中国に認識されていたことが理解できる。これ以後、九州北部の福岡・佐賀地方では多数の漢鏡が首長たちの威信財として所持され副葬される。 『後漢書』には「建武中元二年(57年)、倭奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武、賜ふに印綬を以てす。安帝の永初元年(107年)、倭の国王帥升等、生口百六十人を献じ、請見を願ふ」とある。57年の遣使での貢納品は記されないが、福岡市志賀島から出土した金印によって「漢委(倭)奴国王」に叙せられたことが分かる。 近年、「漢の倭の奴国」と呼んでいたものを、後漢代には後の倭国を「倭奴国」と呼んでいたとする考えも増えてきた。つまり、倭国全体の王は、倭奴国王(名は不明)、後に述べる倭国王帥升、倭国王卑弥呼、倭国王台与と推移していくことになる。「吉野ケ里」以外有り得ない 107年に160人の生口(せいこう)を貢納し遣使した「倭国王帥升(すいしょう)」は、後漢書を引用した中国の古代の事典『翰苑(かんえん)』には「倭面上国王帥升」(上は土の誤記と考えられる)とある。また、唐類函・変塞部倭国の条所引の『通典』には「倭面土地王帥升」、北宋版『通典』には「倭面土王帥升」とされる。 面土は、「上峰町米多(めた)」や「吉野ケ里町目達原(めたばる)」などの地名として吉野ケ里遺跡の近辺に残り、古墳時代には、応神天皇の曾孫が初代とされる「筑紫米多国造」の本拠地となった地域である。つまり、倭面土王は当時、国内最大級の環壕集落である吉野ケ里集落を拠点としていた可能性が大なのである。 吉野ケ里遺跡を中心とする佐賀平野では、福岡や糸島などの玄界灘沿岸地域と同じく、57年の遣使以降、後漢の銅鏡が出土し始め、107年の遣使以降はその数を増す。しかし、注目すべきは、吉野ケ里遺跡では、集落の大型化が進み、107年の遣使とほぼ同時期の後期中ごろ以降に、環壕突出部や望楼、鍵形の門などを設け、集落景観の中国化に努力した跡がうかがえることである。福岡や糸島地方など九州北部のほかの地域や、近畿地方など本州では見られない現象である。 この遣使で貢納された生口については、従来、奴隷とか技術者といった解釈がなされてきた。しかし、近年、徳を守り続けている人々ではないか、とも考えられているが、私も全く同感である。 このことは、先に示した『漢書』の記事で理解できる。「夫れ楽浪海中、倭人有り…」の前の文には『論語』にも登場する孔子の思いが述べられており、後漢末といわれる論語の成立より以前、107年の遣使の少し前に成立したとされる『漢書』の中の徳をもった倭人の記事が、後漢皇帝安帝に徳を守る倭人を求めさせたのであろう。中国皇帝は、臣民に徳を授けるために徳を積む必要があったからである。この求めに即座に応じたのが倭面土国王帥升であったと考えられる。 『三国志』にも「景初三年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む。…汝献ずる所の男生口四人・女生口六人…正始四年、倭王、また使を遣わし、生口を献ずる」とあり、引き続き中国皇帝が倭王である卑弥呼や台与に求めたのが生口であったことが分かる。 57年、倭国からの後漢に対する初回の遣使は「朝賀」とあり、元旦の行事に合わせたものであり、107年の遣使は安帝が即位した時期と推定される。まさに、国際政治的な動きであり、日本が東アジアの秩序の中に組み込まれていく過程であった。 吉野ケ里遺跡の集落構造の変革が、単なる自然的な変化ではなく、外交によってもたらされたものであった。集落景観を中国的な城郭の景観に近づけることが、国内外に対する政治的威厳の表現であったと考える。 倭人伝の記述と結びつく発掘成果は、有明海北岸の佐賀平野東部地域を除いて、ほとんど見当たらない。近畿説のよりどころとされる三角縁神獣鏡についても、魏から贈られた鏡かどうかの議論もあり、これを含めても中国系の文物が出土するのは古墳時代の古墳からであり、弥生時代終末期(邪馬台国時代)の遺跡からもほとんど出土しない。佐賀県・吉野ケ里遺跡の甕棺がのぞく墳丘墓。城柵の向こうに祭殿などが建っている ましてや、遺跡や遺構、建物配置や構造にも中国文化の流入を確認することができないのが現状である。近畿説の有力集落とされる奈良県纒向(まきむく)遺跡の、大型建物を含む建物群を貫く軸線は東西方向であり、前漢と後漢を境に君子と臣下の配置関係が「座西朝東」から「座北朝南」へ変化する中国礼制に対応していない。吉野ケ里遺跡では、墳丘墓と北内郭の祭殿が南北方向に配置され、最重要空間である北内郭と大人層の空間である南内郭についても、南北の位置関係である。 以上から、考古学の成果によって邪馬台国の所在地を考えるならば、現状では九州北部地方の佐賀平野を中心とした有明海北岸一帯であったと考えざるを得ない。弥生時代において、高橋健自が述べた「中国文化の影響が大きかった場所」は、おのずと理解いただけるのではないかと思う。【関連文献】・中国社会科学院考古研究所編『洛陽焼溝漢墓』科学出版社・七田忠昭「拠点集落の首長とその墳墓―弥生時代中期から後期の地域集落群の動向の一例」『日韓集落研究の新たな視角を求めてⅡ』日韓集落研究会・七田忠昭「倭女王卑弥呼の宮殿 倭人伝が記す邪馬台国中心集落の構造と発掘成果」佐賀大学・地域学創出プロジェクト編『佐賀学 佐賀の歴史・文化・環境』岩田書院・七田忠昭『邪馬台国時代のクニの都 吉野ヶ里遺跡』シリーズ「遺跡を学ぶ115」新泉社・七田忠昭「佐賀の弥生文化にみる中国の文化要素」安田喜憲・七田忠昭編『東シナ海と弥生文化』環太平洋文明叢書6 雄山閣・常松幹雄「奴国(玄界灘沿岸)と東アジア」『東シナ海と弥生文化』環太平洋文明叢書6 雄山閣・岡村秀典「漢帝国の世界戦略と武器輸出」『戦いの進化と国家の生成 人類にとって戦いとは1』東洋書林

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    「卑弥呼の謎」を解くカギはある

    邪馬台国の謎解きに迫るニュースが久しぶりにあった。有力候補地の一つ、奈良県・纏向遺跡から出土したモモの種を放射性炭素年代測定したところ、女王卑弥呼が在位した年代と重なることが分かったという。畿内説を補強する新しい材料だが、とまれ九州説も黙っちゃいない。再び邪馬台国論争を追う。