検索ワード:歴史/98件ヒットしました

  • Thumbnail

    テーマ

    秀吉は「どこの馬の骨」だったか

    豊臣(羽柴)秀吉の出自はいまだ謎が多い。父は足軽や農民といった諸説があるが、明確な身分は解明されていない。天下人となっただけに、史料の中には「皇統」を伝える荒唐無稽なものもある一方、賤民どころか「乞食」とする記述もある。ここは一度、史料を整理し、秀吉の出自を改めて検証してみよう。

  • Thumbnail

    記事

    「木下藤吉郎」も創作だった? 怪しすぎる秀吉のルーツをたどる

    渡邊大門(歴史学者) 豊臣秀吉の出自は、これまで単に百姓ということになっていた。しかし、実際はかなり複雑で、さまざまな説が残っており、本稿ではそれらの説を検討してみようと思う。 最初に、秀吉の生誕年について触れておこう。かつて秀吉の生年月日は、天文5(1536)年1月1日と考えられてきた(『太閤素性記』)。しかし、歴史学者の桑田忠親氏は秀吉の生年について、『豊臣秀吉研究』(角川書店)で、次のように指摘している。・「関白任官記」(『天正記』所収)の中に「誕生の年月を年ふるに、丁酉二月六日吉辰なり。周易の本卦復の六十四に当れり」とある。丁酉の年は天文6(1537)年であり、秀吉の誕生日は2月6日になる。・天正18(1590)年12月吉日白山御立願状之事(「桜井文書」)には、「関白様 酉之御年 御年五十四歳」とある。天正18年に54歳であると、誕生年は天文6(1537)年になる。 以上の点から、従来説の天文5(1536)年1月1日説は否定され、現在、秀吉の生誕年は天文6(1537)年2月6日説が定説となっている。 次に秀吉の出自について考えてみよう。最初に検討する史料は、17世紀後半に成立した土屋知貞の『太閤素性記』である。同書は、秀吉の御伽衆(おとぎしゅう)であった知貞の父、円都や母からの聞き書きがベースとなっている。次に、秀吉の出生に関係する部分を掲出する。「父は木下弥右衛門という中々村の人で、信長の父・信秀の鉄砲足軽を務めていた。多くの戦場で手柄を挙げたが、それがもとで怪我をしたので、中々村に引っ込んで百姓となった。秀吉と「とも」を子に持ったが、秀吉が八歳のときに亡くなった」(現代語訳) 鉄砲伝来は諸説あるが、一般的に天文12(1543)年とされている。弥右衛門が活躍した時代(天文年間初頭)を考慮すると、さほど鉄砲が盛んに用いられたとは考えがたく、「鉄砲足軽」というのは知貞の勘違いなのかもしれない。木下藤吉郎秀吉像=滋賀県 また、木下という姓を名乗っているならば、秀吉の父は有力名主や土豪クラスと考えなくてはならない。しかし、秀吉自身の述懐するところでは、少年期の暮らしぶりは非常に貧しく、百姓身分だったと考えた方が自然で、木下姓は不審であるといえる。 以上の点は、先学が指摘するように、おおむね次のように整理できると思う。(1)土屋知貞には秀吉が「木下」姓を名乗っていた先入観があり、父にも「木下」姓を付けてしまった(小和田哲男『豊臣秀吉』中公新書)(2)朝廷から秀吉が豊臣姓を賜った際、『豊臣系図』を作成したときの工作である。本来は、姓氏などなかった(桑田忠親『豊臣秀吉研究』角川書店) つまり、弥右衛門は「木下」姓を名乗っていなかった可能性が高い。秀吉は正親町天皇の子? 次に取り上げるのは、17世紀初頭に成立した小瀬甫庵の『甫庵太閤記』である。甫庵は秀吉などに仕えた儒学者であるが、同書の内容は誤りが少なくなく、信が置けないと評価されている。同書が記す秀吉出生の経緯は、次のものである。「父は尾張国愛智(知)郡中村の住人で、名を筑阿弥という。あるとき母の懐に日輪が入る夢を見るとすでに懐妊しており、こうして秀吉が誕生したので童名を「日吉丸」とした」(現代語訳) この史料では、父が筑阿弥となっており、弥右衛門の名は出てこない。ちなみに筑阿弥は、織田信秀(信長の父)のもとで御伽衆を務めていたという。おまけに母の胎内に日輪が入った夢を見て妊娠し、やがて秀吉が生まれたというのは荒唐無稽すぎる。 『甫庵太閤記』では筑阿弥を秀吉の実父としているが、他の史料では(木下)弥右衛門を実父とするものが多い。秀吉の父を一百姓ではなく、信秀配下の御伽衆にしたいと考えたのであろうか。 そして次は、秀吉の御伽衆・大村由己の『関白任官記』である。同書は、秀吉の意向に即して執筆された史料になろう。以下に、その関係部分を記す。「その(秀吉の)素性を尋ねてみると。祖父母は朝廷に仕えていたという。仕えていたのは萩の中納言という。今の大政所(秀吉の母)が三歳のとき、ある人の讒言によって遠流になり、尾張国飛保村雲というところで日々を過ごした(中略、ある都人から大政所に歌が贈られる)。かの中納言の歌である。大政所殿は幼年にして上洛し、朝廷に三年にわたって仕え、程なく一子が誕生した。今の殿下(秀吉)である」(現代語訳) 秀吉の祖父母は、荻の中納言なる人物に仕えていた。秀吉の母は3歳のときに尾張国に流されたが、荻の中納言に呼び戻され、落胤(らくいん)として誕生したのが秀吉なのである。つまり、秀吉は正親町(おおぎまち)天皇の子ということになる。 荻の中納言なる人物は史料で確認できず、話の筋もまったく荒唐無稽な内容となっている。由己は、何とかして秀吉を天皇の血統である皇胤(こういん)に結び付けようと考えたのであろう。あるいは、秀吉から指示があったのかもしれない。この説は完全に否定されている。 竹中半兵衛重治の子息、竹中重門の『豊鑑』(17世紀初頭成立)には、秀吉の父祖について2カ所にわたり、気になる記述が見られる。次に、その部分を掲出しておこう。「(秀吉は)尾張国に生まれ、「あやし」の民であったが…」「(秀吉は)郷の「あやし」の民の子であったので、父母の名も誰かわからない。一族についても、同じである」(現代語訳) 歴史学者の服部英雄氏は「あやし」の語に「賤」という字を当て、秀吉が卑賤の出自であったと指摘し、秀吉の賤民出自説の一端へと繋げている(『河原ノ者・非人・秀吉』山川出版社)。 しかし、「賤(いやしい)」には「あやし」という読み方はなく、「怪し」つまり「得たいが知れない」と考えるべきだろう。それが、イコール卑賤(ひせん)を意味したと解釈したほうが自然である。この点をもう少し詳しく検討してみよう。豊臣秀吉を祀る豊国神社=京都市東山区 秀吉が「あやし」の民であったことについては、興味深い史料が残っている。天正18(1590)年、名胡桃城(群馬県沼田市)をめぐる後北条氏と真田氏との争いが端緒となり、秀吉は介入せざるを得なくなった。その際、秀吉は北条氏に直接宛てた宣戦布告状の中で、次のように記している。「秀吉、若輩(若い頃)に孤(一人)と成て(以下略)」(『言経卿記』) この後、若き頃の秀吉が信長に従った過去の出来事などが綴られている。わずか1行にも満たない文章であるが、秀吉自身の言葉でもあり、かつ自分の存在を誇張するものでもない。そう考えると、『豊鑑』の「父母の名前もわからない」という記述は、まんざら嘘でもなさそうだ。秀吉は幼くして、孤児になった可能性がある。秀吉に面従腹背だった諸大名 『豊鑑』のように、秀吉が孤児であったと記したものは乏しいが、この秀吉の書状はその事実を裏付けている。父母の名も分からないとなると、秀吉の母、大政所ですら実母だったのか疑わしい。 もう少し、秀吉の出自について探索してみるが、以降は後世に成った史料(編纂物)から離れ、同時代の一次史料によって秀吉の出自を確認する。 最初に取り上げるのは、毛利氏の外交僧として活躍した、安国寺恵瓊(あんこくじえけい)の書状である。恵瓊は天正10(1582)年6月の備中高松城の攻防後、領土割譲をめぐって秀吉との交渉に臨んだ交渉人である。恵瓊は交渉能力に長けているだけでなく、信長の失脚と秀吉の将来の成長を予言するなど、洞察力が非常に優れた人物だった。 恵瓊が秀吉との領土割譲を交渉する天正12(1584)年1月、秀吉を評して記したのが、次の有名な一文である。「若い頃は一欠片の小者(下っ端の取るに足りない者)に過ぎず、乞食をしたこともある人物であった」(『毛利家文書』) 恵瓊は外交僧を務めており、幅広い情報ルートを保持していたと考えられる。そうなると、若い頃の秀吉が乞食同然の生活を送っていたということは、あながち否定できないだろう。恵瓊は情勢分析にも優れており、非常に信ぴょう性が高い情報であると考えてよい。 そうなると、若い頃の秀吉が乞食同然の生活を送っていたことは、有力な大名間において共通に認識されていた事実だったといえよう。それは、薩摩の島津氏も知っていた。 秀吉の卑しい身分については、遠く九州・薩摩国までも伝わっていた。天正14(1586)年1月、大友宗麟は島津義久の攻撃を受け、窮地に陥った。そこで、宗麟は秀吉に泣きつき、停戦に持ち込もうとした。宗麟の要請を受けた秀吉は義久に停戦を命じ、応じなければ、成敗に及ぶという厳しい通達をした。 停戦を突きつけられた島津氏は、家中で種々議論を重ねるが、その中で秀吉に関する次の記述が見られる。「羽柴(秀吉)は、誠に由来(由緒)なき人物であると世の中でいわれている。当家(島津家)は頼朝以来変わることがない家柄である。しかるに羽柴(秀吉)へ関白とみなした返書を送ることは、笑止なことである。また、右のように由緒のない人物を関白を許すとは、何と綸言(天皇のおっしゃること)の軽いことであろうか」(『上井覚兼日記』現代語訳) この前年(天正13年)、秀吉は「関白相論」に乗じて、摂関家以外で初めて関白に任じられた。あわせて、「豊臣」姓も朝廷から与えられた。島津氏は秀吉を由緒なき人物としたうえで、関白に任じられること事態が「笑止千万」という感想を持ったのである。秀吉の出自が低いということは、遠く薩摩まで知られていたのだ。豊国神社の豊臣秀吉像=京都市東山区 鎌倉時代以来の名門である島津氏にとって、秀吉は「どこの馬の骨」か分からない存在だった。率直に言えば、「名門・島津家が秀吉ごときにとやかく言われる筋合いはない」というのが本音であろう。結局、島津氏は秀吉の停戦命令を無視したが、最終的に島津氏は秀吉に屈し、ミジメな思いをするのは周知のところである。 島津氏内部における秀吉の評価は、ある意味で諸大名の心情を代弁したものであった。ポルトガルの宣教師が作成した「一五八五年の日本年報追加」には、次のような一文がある。「羽柴筑前殿(秀吉)は甚だ微賤に身を起こし、富貴・名誉及び現世の光栄に達したが、多数の競争者は彼が日本の習慣により、車の速に廻る如く没落に近づくことを期待している。日本の諸国は四百五十年来絶えざる変革に動かされていたのである」 1行目の秀吉が貧しい出自であることはこれまで通りだが、2行目の「日本の習慣」が問題となろう。「日本の習慣」の意味することは、3行目の「四百五十年来絶えざる変革」とある武家政権の激しい移ろいであった。 つまり、諸大名は「卑しい身分」だった秀吉の没落を願っていた。面従腹背だったのだ。先の島津氏の秀吉に対する認識は、ある意味で諸大名の言葉を代弁したものであったといえるであろう。 以上のように、秀吉の出自を物語る同時代史料は乏しいかもしれない。しかし、すでに秀吉が生きた時代においても、秀吉の出自がわからなかったこと(あるいは貧しかったこと)が共通認識であったことが判明する。恵瓊に至っては、「乞食」とまで記しており、誠に興味深いところである。 次回は、外国の史料を用いて、秀吉がどのように認識されていたのかを考えることにしよう。主要参考文献渡邊大門『秀吉の出自と出世伝説』(洋泉社・歴史新書、2013年)

  • Thumbnail

    テーマ

    信長の上洛を阻んだ大蛇の祟り

    龍の力を手に入れるべく本拠を小牧山に移転した信長は、その城を地獄から罪人を迎えにくる妖怪にちなみ「火車輪城」と名付けた。周辺の城を次々と地獄送りにして、ついに上洛のチャンスがやってくる。ところが、信長はこのとき「大蛇の祟り」に阻まれ、そのチャンスを逃してしまったのである。

  • Thumbnail

    記事

    上洛失敗は祟りのせい? 信長「麒麟」の花押が招いた大蛇の呪い

    橋場日月(歴史研究家、歴史作家) 龍の力を手に入れるべく本拠地を小牧山に移転すると決定した信長。その工事は、永禄6(1563)年2月に開始された。その城は「火車輪城(かしゃりんじょう)」と名付けられる(『定光寺年代記』)。火の車輪の城とはなんともビジュアル的な想像を刺激されるネーミングだが、一体この名前はどういう由来によるものなのだろうか。 「火車」「火車輪」という言葉は、仏教で地獄に落ちた罪人を縛り付けて拷問する、火のついた車輪を意味し、それがのちに地獄から罪人を迎えにくる車輪に転じた。『宇治拾遺物語』にも、昔、寺の米を5斗(1/2石)ほど借りたままにしていた老僧の臨終に際し、地獄の鬼が炎をあげて燃える火車をひいて連れ去りに来るというエピソードが納められており、あまりにも恐ろしいそのイメージは妖怪としての存在に変容していく。 つまり、信長は小牧山城とその主である自身を「正義の象徴」と規定し、逆らう者は悪であり火車輪=織田軍が出動し地獄へ送ってやるぞ、とアピールしたのではないか。昼には日の光を反射してキラキラと輝く石垣が、夜には無数のかがり火が常に敵の視界に入り、いつ何時地獄の使者として織田軍が攻め寄せて来るかと神経をさいなみ続けるのだ。実によくできた演出方法というほかはない。 彼はその後永禄8(1565)年(永禄7年説もあり)に犬山城を包囲して陥落させるのだが、それ以前、犬山城を防衛する支城だった黒田城の和田新助と小口城の中島豊後守が、丹羽長秀の調略によって信長に寝返っている。 特に小口城は小牧山城と犬山城のちょうど中間に位置しており、連日「火車輪」のプレッシャーにさらされ続けたあげく、信清の家老である中島豊後守は降伏の道を選んだのだろう。 身を守る盾を失った格好の犬山城は文字通り「生(はだ)か城」(=裸城)となり(『信長公記』)、二重三重の柵の中に閉じ込められて抵抗のすべもなく開城するのである。小牧山城跡模擬天守 ところで。 先に紹介した『宇治拾遺物語』の火車の話だが、これは非常に興味深い内容を含んでいるので、ここで取り上げておこう。巻第四ノ三「薬師寺別当の事」という項がそれである。 かつて米を少し流用したばかりに地獄に召されかけた老僧は「そんなことで火車に乗せられてはたまらぬ」と慌てて弟子たちに贖罪(しょくざい)の経を唱えさせ、なんとか極楽からのお迎えを受けることができた。 話は「さばかり程の物遣ひたるにだに火の車迎へに来たる、況(ま)して寺物を心のままに遣ひたる諸寺の別当の地獄の迎ひこそ思ひやらるれ」で終わる。この程度の着服ですら火車が迎えに来るのだから、いわんや寺の資財を自儘に使っている今の寺々の寺務長の高僧たちは、皆火車が地獄からお迎えに来ないわけがないだろうよ、というわけだ。「麟」花押のナゾ 信長は、この6年後に比叡山延暦寺を焼き討ちする。彼が『宇治拾遺物語』の火車のくだりを知っていたとすれば、「火車輪城」命名の時点で、すでに焼き討ちについての理論武装ができていたことになる。その理由についてはのちに詳しく紹介するので、ここではそのことを記憶にとどめておいていただきたい。 木曽川をはさんだ対岸すぐにある宇留間城(鵜沼城)、その上流の猿啄城(さるばみじょう)、北方の加治田城・堂洞城(どうほらじょう)は前後して調略や攻撃で織田方の拠点となっていった。稲葉山城の近くにも付城を築いて、斎藤家を牽制(けんせい)する。そして目の前に立ちふさがっていた障害物・犬山城も取り除かれたことで、信長は「いよいよ美濃へ本格進出する時機が到来した」と考えた。 ところがその直前、信長の下には京から意外な知らせが届いていた。5月19日、室町幕府将軍、足利義輝が三好三人衆(三好長慶の死後、三好党を牛耳っていた三好長逸、三好政康、岩成友通)や松永久通に攻め殺されてしまったのだ。永禄2(1559)年に上洛(じょうらく)して義輝に拝謁(はいえつ)した経験がある信長にとって、これは極めてショッキングな出来事だった。 だが、それは信長にとって次の飛躍のチャンスでもあった。義輝の死の直後、6月24日に安見(やすみ)宗房という人物が越後の上杉謙信の重臣・河田長親と直江景綱に宛ててこんな書状を送っている。 「上洛して天下を再興してほしい。尾張などにも要請が行われている」 宗房は義輝の弟、義昭(当時は出家して一乗院覚慶)を担いで天下(幕府)を再興しようと動いていたのだが、この書状の日付以前に、その関係者が信長にも協力を求めていたことがわかる。 そして、この直後から信長は新たな花押(サイン)を使い始めた。有名な「麟」字のものだ。これは伝説の霊獣、麒麟(きりん)からとったといわれるのだが、信長の時代から2世紀さかのぼった頃の臨済宗の学僧・義堂周信は『空華集』という著作のなかでこう述べている。「麟は常の獣とは異なる。麟が姿を現すのは嘉瑞(かずい)であり、至治の世にしか出現しない」。 嘉瑞は吉兆のことで、至治の世は統一された平和な世の中を意味するから、信長は自らの手で義昭を将軍の座につけ安定へ導いてみせる、という誓いを花押に込めたのだろう。同じく神獣である龍の力を恃(たの)む信長が、麒麟のパワーをも取り込もうと考えたのだ。織田信長「麟」の花押 ちなみに、風水の観点から言うと龍は青竜であり、東の守護神にあたる。これに対して麒麟は中央をつかさどり、黄色が象徴色となっているのだが、よく知られた信長の木瓜(もっこう)紋の幟(のぼり)が地黄(黄色く染められた布地)であるのは、麒麟の霊力を期待したものと考えてもあながち的外れではないかもしれない。なにせ、オカルトグッズマニアの信長のことだ。逆にそうしないのが不思議なぐらいなのである。 話はそれるが、「麟」花押の件に触れたところで、信長がそれまでに使っていた花押についても述べておこう。永禄元(1558)年頃からの彼の花押は徐々にアレンジされながら使われたようだが、永禄5(1562)年に見られるものはなんとも独特なもので、研究者の間でも何が元になっているのかは不詳のままだ。しかし、この花押が桶狭間合戦以降に使われていることを念頭に置いてこの図柄をジーーっと見つめていると、筆者にはあるイメージが浮かんだ。 中心の「ロ」部分から周囲に伸びる点は一番外側が大きい。大きな雨粒にも見えてくる。これは、桶狭間で織田軍に勝利をもたらしたダウンバーストの形だ。上空の一点から強烈に放射線状に吹き下ろす風雨。信長はこの「大蛇(龍)の力による熱田の神軍(かみいくさ)」をそのまま花押に取り入れた可能性が高いと思う。その花押を、麒麟に切り替えることによって、さらに一段高く、尾張から天下にはばたく気概を示したのだろう。美濃は武力で制圧せねば 閑話休題。義昭に頼られ、「麟」花押で応える信長。だが道のりは厳しかった。義昭を将軍に就けるためには軍勢を率いて上洛しなければならないが、その道筋の美濃には敵の斎藤龍興が勢力を維持している。信長が犬山城を落とし、美濃中部の諸城を奪ったのは、そんな状況の下だったのである。 信長は12月5日に「ご命令をいただき次第、その日のうちにでも上洛のお供を致しましょう」と義昭の側近、細川藤孝(のちの幽斎)に書き送っている。 ただ、そのためには前提条件が一つあった。上洛の道筋にあたる美濃の斎藤龍興である。この織田家にとっての強敵を説得して織田軍を無事に近江から京へと通過できるようにし、留守中の尾張の安全も確保しなければならない。義昭側は龍興にも働きかけて信長と講和休戦するよう求めた。「尾濃和睦」である。龍興もこれに応じる姿勢を見せた。 この結果、義昭側は永禄9(1566)年7月に奈良で「信長と尾張・三河・美濃・伊勢の軍勢が来月出陣する」と触れ回るなど、すでに上洛が実現間近と喜んだ。しかし、どうも龍興は裏で反織田の策謀を続けていたらしく、信長はやがて上洛を断念してしまう。それどころか、8月29日には美濃の河野島(こうのしま)に攻め込むという挙に出た。 せっかく上洛戦を敢行し、「麟」花押の目指すところを実現するまであと一歩だったのに、龍興の不穏な動きに邪魔されてあきらめなくてはならなくなったのが悔しくてたまらなかったのだろう。 「やはり美濃は武力で制圧しなければ、京への道は開くことができぬ」 信長の美濃侵入はそう思い直した結果であり、また上洛挫折の鬱憤(うっぷん)晴らしでもあったに違いない。岐阜市歴史博物館内にある織田信長像 ところが、である。この作戦は失敗に終わる。折からの大雨で木曽川が洪水を起こし、一帯が水浸しとなったために織田・斎藤の両軍ともに身動きできなくなり、やっと水がひいたのは10日後になってのことだった。川を越えて侵入している織田軍は思いも寄らない長陣に兵糧も乏しくなり、疲れきっていたことだろう。結局信長は退却するのだが、増水した川で少しばかり兵が流される損害を受けたらしい。 こういう場合、敵は「相手は数知れないほど多くの者が川で溺れ死んだ」と宣伝するものだ。斎藤家も、当然そのように世間に吹聴して、信長は義昭の講和斡旋(あっせん)を反故(ほご)にした上に美濃で惨敗を喫したとして「天下の嘲弄これに過ぎず」と信長を笑いものにした(「中島文書」)。 もっとも、信長にとってそんなことよりも無念だったのは、大蛇(龍)の力によって水を味方にすることを心がけてきたにもかかわらず、この一戦では木曽川の水に邪魔をされたことだったろう。

  • Thumbnail

    テーマ

    戦艦大和「不沈艦伝説」のナゾ

    戦時中、当時の最先端技術で造られた戦艦「大和」は現存する写真や図面が少なく、「謎の戦艦」ともいわれる。だが、建造の経緯や設計の変遷を追ってみると、そこには軍艦デザイナーたちによる帝国海軍の威信をかけた戦いがあった。「世界最強の戦艦」誕生の謎と帝国海軍の軌跡を追う。

  • Thumbnail

    記事

    大和は超高速戦艦だった? 「世界一の戦艦」建造秘話

    (デアゴスティーニ『週刊 栄光の日本海軍パーフェクトファイル』より) 世界最大を誇った大和型戦艦は、軍縮条約を挟み、実に20年ぶりに建造された戦艦であった。その間の技術的進歩を取り込みながら進められた「新時代の戦艦」の模索は、並大抵のものではなかった。大和型戦艦の計画完成までを追う! 太平洋戦争開戦と前後して竣工し、終戦を前に失われた「大和」型戦艦は、現存する写真や図面が少ないこともあり、しばしば「謎の戦艦」と呼ばれる。だが実際、その建造経緯や設計の変遷については、比較的史料に恵まれている。 「大和」型戦艦の設計が公式に開始されたのは、日本海軍がワシントン海軍軍縮条約からの脱退を決めた昭和8(1933)年頃のことである。主力艦建造を縛るこの条約からの脱退によって、日本海軍は制約を受けることなく自由に戦艦建造ができるようになった。 しかし新型戦艦の建造をにらんだ検討はそれ以前から開始されていた。次期主力艦の主砲を46センチ(18インチ)以上とすることも、パナマ運河の幅の制約により米海軍が46センチ砲戦艦を建造することは困難であるという推測から決定されたものである。 昭和8年に艦政本部四部部長、藤本喜久雄少将が次期主力艦として提案した戦艦案は、排水量5万トン、50センチ(20インチ)3連装砲塔4基、艦載機12機、速力30ノット以上の高速戦艦であった。この設計は技術的に現実味の薄いものだったが、軍令部が空母や巡洋艦部隊と共働可能な高速力を、新戦艦に要求していたことがわかる。 しかし、藤本案は短命に終わる。発表と前後して発生した水雷艇「友鶴」の転覆事故によって、藤本設計に潜む動的復元性不足という欠陥が明らかになったからである。 藤本のもとで設計に従事していた江崎岩吉造船官により再検討された案では、主砲を46センチ砲9門に縮小する一方で、船体規模を拡大し、復元性向上に配慮がなされている。 江崎案から、新型戦艦が誕生することになる。福田啓二造船官をトップに、「軍艦設計の神様」といわれた平賀譲予備役造船中将を顧問として再編成された新型戦艦設計チームの最初の提案は、全長294メートル、排水量6万9500トン、46センチ砲9門、速力31ノットのA140であった。20案から選ばれたのは このA140は、主砲の前部集中配置や機関のディーゼル化など、特色を多く持つ設計だったが、船体規模が大きすぎることを理由に却下された。 艦政本部は、新たにA140のダウンサイジング案を提案。これがA140A〜Dの4案であり、特に有力視されたのが高速戦艦であるA140A(277メートル、6万8000トン、30ノット)と、速力を抑え船体規模も抑制したA140B(247メートル、6万トン、28ノット)である。 艦政本部は船体規模の小さいA140Bを本命視していたともいわれるが、機関をオールディーゼルとするものの、砲塔動力には蒸気を使用するため専用ボイラーが必要となるなどの問題があった。 だがいずれの案でも、軍令部と艦政本部は合意に至らなかった。さらなる検討の過程で、軍令部は当初要求していた30ノット以上の速力を28ノットまで妥協して、攻守のバランスがとれた46センチ砲戦艦を要求した。 一方、艦政本部は、速力のさらなる引下げか、主砲を41センチ(16インチ)砲としてでも建造の容易な5万トン級の戦艦を模索。新型戦艦の検討は長期間におよび、その間に20種を超える設計案が提出された。 長い検討過程で、A140初期案に見られた主砲の前部集中は見直され、機関構成はディーゼルと蒸気タービン半々となり、主砲動力などの問題も回避された。 最終的な決定は、速力を軍令部の要求から一段引き下げた27ノットとする一方、排水量を基準6万トン台にまで引き上げたA140F5(253メートル、6万5200トン、27ノット)となった。A140F5は全体として常識的なデザインであったが、機関構成は依然としてディーゼルと蒸気タービンの混載だった。A-140計画艦そろいぶみの想像図。左からA-140A、B、そしてF6こと大和型戦艦  だがこの機関構成は、潜水母艦「大鯨」におけるディーゼルエンジンの運用実績不良から変更された。機関をすべて蒸気タービンとして燃料搭載量を増やし、全長と排水量をやや拡大したA140F6案(256メートル、6万8200トン、27ノット)が、昭和12年3月に採用された。これこそが、我々の知る「大和」の設計である。戦艦「大和」は、この時ようやく姿をあらわしたのである。(株式会社デアゴスティーニ・ジャパン発行『週刊 栄光の日本海軍パーフェクトファイル』創刊号、写真彩色:山下敦史、CG:松野正樹)

  • Thumbnail

    記事

    「死神」と呼ばれソロモンの激闘を戦い抜いた駆逐艦雪風の真実

    (デアゴスティーニ『週刊 栄光の日本海軍パーフェクトファイル』より) 「雪風」は太平洋戦争を生き残った唯一の艦隊型駆逐艦だ。ソロモンの死線をかいくぐり、数々の海戦に参加し、そして戦艦「大和」の最期も見届けた「幸運艦」とも「死神」とも呼ばれた雪風の真実とは。 日本海軍随一の幸運艦として名高い「雪風」は、「陽炎」型駆逐艦の八番艦として昭和15(1940)年1月20日に竣工し、翌年の昭和16年12月8日の太平洋戦争開戦時は姉妹艦4隻で第十六駆逐隊(十六駆)を編成してフィリピン攻略作戦に参加している。 雪風によって初陣となる最初の氷上戦は、インドネシア攻略に伴うスラバヤ沖海戦(昭和17年2月27日から3月1日)である。だが、この海戦では雪風に戦果はなく、同年6月5日に起きたミッドウェー海戦も空母機動部隊同士の対決で勝敗が決したため、活躍の機会はなかった。 そんな雪風の活躍が始まるのは、ガダルカナル島争奪戦の開始に伴い、ソロモン方面に進出した後からである。米空母「ホーネット」を撃沈してミッドウェー海戦の仇をとった昭和17年10月26日の南太平洋海戦における雪風は、空母「瑞鶴」の護衛として対空戦闘に奮戦し、不時着搭乗員の救助活動も行い、これにより連合艦隊司令長官山本五十六大将から感状を受けている。 ガダルカナル島の米軍飛行場砲撃にともなって発生した第三次ソロモン海戦(第一夜戦、昭和17年11月12日)は、日米両軍の船艇が入り乱れる大混戦となった。その中で奮闘していた雪風は、さらに行動不能となった戦艦「比叡」の援護にあたったが、比叡は自沈し、雪風は他艦と共に比叡艦長西田正雄大佐ら乗員を収用して帰投した。 雪風は昭和18年2月のガダルカナル島撤退作戦にも参加。小舟艇による撤退に方向転換しようとした第八艦隊司令部と陸軍が対立するが、雪風の管間艦長は「濱風」艦長と共に駆逐艦による撤退作戦の継続を主張、作戦を成功に導いた。なおガダルカナル撤退戦について、米太平洋艦隊司令長官ニミッツ大将は「見事な手腕であった」と賞賛している。ソロモンの激闘を戦い抜いた駆逐艦「雪風」 だがすべてが上手くいったわけではない。同年3月2日から3日にかけてのニューギニア輸送作戦(81号作戦)では水面近くで爆弾を投下、跳ねさせて敵に命中させる米陸軍航空隊の新戦術、反跳爆撃(スキップボミング)によって輸送船団は壊滅、護衛の駆逐艦も雪風の姉妹艦「時津風」を含む4隻が撃沈される敗北を味わう。 苦闘の続くソロモン・ニューギニア戦線だが、昭和18年7月12日のコロンバンガラ島沖海戦は、日本水雷戦隊が夜間戦闘において、なお恐るべき存在であることを証明した。 この海戦で日本海軍は二水戦旗艦「神通」を失うが、雪風ら駆逐艦は最初の雷撃の後も魚雷を再装填し反撃、最終的に米駆逐艦1隻を撃沈、軽巡2隻、駆逐艦2隻を撃破すると同時に、輸送作戦も成功させる勝利をおさめた。「大和」の最期を見届け台湾へ 昭和18年末に日本本土に帰還した雪風は二番砲塔を撤去して対空火器や電探(レーダー)の増備を実施して前線に復帰、第十七駆逐隊(十七駆)に所属を変えているが、この頃、すでに雪風には、幾多の激戦を生き残った「幸(強)運艦」という見方がある一方、僚艦が沈没する傍ら生還していることから「死神」と呼ぶ者もおり、十七駆の将兵には雪風を歓迎しない雰囲気もあったという。 第二補給部隊の護衛としてマリアナ沖海戦に参加した雪風は、海戦後に内地でさらなる対空火器の増備を実施して、昭和19年10月のレイテ沖海戦に参加した。 戦艦「大和」らと進撃を続けた雪風は、レイテ湾目前のサマール沖で米護衛空母群と遭遇(サマール沖海戦 昭和19年10月25日)、大和らと共同で米駆逐艦「ホーエル」を撃沈する戦果をあげたが、追撃とレイテ湾への突入は栗田艦長の“謎の反転”によって中止されてしまう。 レイテ沖戦後、内地に帰投した「雪風」は横須賀から呉に移動する大型空母「信濃」の護衛にあたった。雪風の寺内艦長は強く沿岸航路を主張したが、夜間外洋航路をとった信濃は、米潜水艦「アーチャーフィッシュ」の雷撃によって昭和19年11月29日に沈没した。 失意の雪風ら十七駆は、軽巡「矢矧」を旗艦とする二水戦の下で大和の沖縄特攻、天一号作戦に参加することになる。海軍の面子のために立案された作戦に対して、雪風の寺内艦長ほか二水戦各艦の艦長はみな反対したが、「一億総特攻の魁」として作戦は決行された。昭和16年10月、高知県の宿毛湾沖を航走する戦艦「大和」 その行動は、出撃直後から米軍に行動を察知されていた。昭和20年4月7日の米機動部隊による空襲によって第二艦隊旗艦大和以下、矢矧ほか3隻が沈没、第二艦隊司令長官伊藤中将の命令によって作戦は中止された。参加艦艇の半数が沈没した連合艦隊最後の海戦でも雪風は大きな損傷を受けず沈没艦の乗員を救助して内地に帰投した。その後は対空戦闘を行いつつ、人間魚雷「回天」の搭載設備を追加する工事中に終戦を迎えた。 終戦後は復員輸送に活躍した後、昭和22年に中華民国海軍に引き渡され、「丹陽」と改名され国内戦で活躍している。昭和45(1970)年に解体後には蛇輪と錨が日本に返還され、その武勲を今に伝えている。雪風が“幸運艦”か“死神”かはわからないが、武勲艦であることは確かである。(株式会社デアゴスティーニ・ジャパン発行『週刊 栄光の日本海軍パーフェクトファイル』創刊号)

  • Thumbnail

    記事

    バルチック艦隊を撃破した日本海軍「猛訓練」の秘密

    は、戦争の趨勢を決めた戦いであるとともに、その後の日本海軍の運命をも左右することりになり、文字通り「歴史に残る戦い」であった。 日本陸軍が多大な犠牲を代償としつつも、明治38(1905)年1月1日に旅順を占領した時点で、日露戦争で日本海軍の当初の敵であったロシア太平洋艦隊の撃滅は完了した。 しかし、これに先立つ明治37年10月、ロシア本国の主力艦隊たるバルト海艦隊(日本側呼称・バルチック艦隊)の艦で構成されるロシア第二太平洋艦隊が、第一太平洋艦隊の苦境を救うために極東に向けて進発していた。同艦隊は第一太平洋艦隊潰滅後も、極東水域の制海権奪還、それによる満州方面での陸戦の戦局の好転を図らんとして、極東へと進み続けた。 このため連合艦隊は、旅順封鎖終了後に予定通りバルチック艦隊迎撃態勢を整え始める。約3カ月間に渡って猛訓練に励み、艦隊各艦の砲戦及び水雷戦の技量を大きく向上させて、バルチック艦隊を迎え撃つこととなる。 極東地区に唯一残ったロシアの艦隊根拠地だったウラジオストクを目指すロシア艦隊の航路は、対馬海峡から日本海を北上するか、太平洋へ廻って津軽海峡か宗谷海峡を経由する三つの航路が予測されていた。連合艦隊司令部はこの中で対馬海峡経由が一番公算が高いと判断していたが、対馬海峡への到達予測日になってもロシア艦隊は現れなかった。 このため一時は基地としていた鎮海湾(一部は対馬)から、津軽・宗谷の両海峡突破を考慮した地点への移動も考えられた。しかし東郷平八郎司令長官の決断により、連合艦隊はロシア艦隊を現地点で待ち続けた。 明治38年5月27日払暁、済州島付近の哨区を哨戒中だった仮装巡洋艦「信濃丸」がバルチック艦隊を発見、「敵艦隊見ユ 二〇三地点 信濃丸」との報を発したのは午前4時45分のことだった。 「敵艦隊(対馬海峡)東水道ヲ通過セントスルモノノ如く見ユ」との信濃丸からの続報が着伝した5分後の午前6時、旗艦「三笠」より全艦隊に出撃命令が出され、連合艦隊は、日露戦争の行く末を決する艦隊決戦に向かって、勇躍出動していった。連合艦隊がバルチック艦隊を視界に捉えたのは、午後1時39分のことだった(この時の敵艦隊との距離は約13キロ)。神奈川県横須賀市に保存、展示されている戦艦三笠 「皇国ノ興廃ハコノ一戦ニ在リ各員一層奮励努力セヨ」を意味するZ旗が旗艦三笠に掲げられた7分後の午後2時には、ロシア艦隊の北方にあった日本艦隊は西南西に、ロシア艦隊は日本艦隊に反航する形で北東に向かいつつあった。損失は水雷艇3隻のみ このまま進めば日本艦隊は短時間の反航戦の後、長い追撃戦を行うことになったはずだが、午後2時5分、日本艦隊は舵を大きく左に切る、いわゆる“東郷ターン”を開始。ロシア艦隊との並行針路に入った。数分後、ロシア艦隊は距離7~8キロに接近した日本艦隊への発砲を開始する。日本側も午後2時10分に戦闘開始命令が下り、旗艦三笠の発砲開始を皮切りに、戦闘へと突入していった。 午後3時10分まで続いた日露艦隊第一合戦では、ロシア艦隊より優速な日本艦隊は、徐々にロシア艦隊の頭を迎える形で戦闘を行い、主導権を完全に握る。この後日没まで、断続的に戦闘が進み、昼戦終了までにさらに戦果を拡大。また夜明け前までに実施された駆逐隊と水雷艇隊の夜間襲撃により、ロシア艦隊にさらに大きな被害を与える。そして28日午前10時34分以降、残存ロシア艦隊は日本艦隊主力と短時間の交戦の後、降伏した。 日本、ロシア両軍、ほぼ同等の主力艦戦力をもっての艦隊決戦となった日本海海戦。ロシア側は戦闘により自沈含め21隻沈没、降伏時の6隻を加えた計27隻を喪失するという大損害を被っていた。また中立港へ脱出して抑留された艦艇が6隻あり、ロシア勢力下の港湾にたどり着けたのは巡洋艦1と駆逐艦2、特務艦2の5隻のみだった。 これに対して日本側では、損傷艦は少なくなかったものの、損失は水雷艇3隻に過ぎない。両軍の数的損害が示すように、日本海海戦は日本海軍の完勝といえるものであり、ロシア側に戦争継続を断念させて戦争を終結させる大きな要因ともなったのである。(株式会社デアゴスティーニ・ジャパン発行『週刊 栄光の日本海軍パーフェクトファイル』創刊号)

  • Thumbnail

    記事

    信長が日銀総裁なら必ず強行する現代版「土地より茶器」大作戦

    橋場日月(歴史研究家、歴史作家) 織田信長が日銀総裁になったら、というお題を頂戴した。「歴史にifは禁物」というが、魅力的な仮定でもある。さまざまな経済政策を実行した信長だけに、彼が現代日本の貨幣流通・金融管理の元締めをどうリードするのか、考えてみるのも面白いだろう。 史実の信長と経済との関わりでまず挙げられるのは「楽市楽座」だ。「楽」は自由、フリーという意味で、誰でも自由に商売ができ、免税され、領主の権力も介入しないという政策だ。信長はこれを美濃征服の翌永禄11(1568)年9月に、岐阜城下の加納(現在の岐阜県岐阜市加納)で実施した。 合戦で荒れた町を復興させるために手っ取り早く商人を集める手段だったのだが、この政策自体は南近江の六角氏による石寺新市(現在の滋賀県近江八幡市安土町石寺)や、駿河の今川氏による富士大宮(現在の静岡県富士宮市大宮町)の楽市指定など、先例がある。 それにこれはどちらかといえば経産省のテリトリーだろう。問題なのは、信長が加納市に宣言した「楽市」が、「借銭・借米・さかり銭」も免除した点だ。これは「楽市」に「徳政」を組み合わせたものといえる。借銭・借米はそのまま借金を指す。さかり銭は「下がり銭」、下がるは「後になる・後にする」という意味があるから、これは後払い=掛け売りに伴う手数料を指すらしい。 ということは、日銀の業務に例えれば、彼は割り引いた手形をそのまま発行元に返し、割引の手数料や利息分もタダにしたという形になるのではないか。あくまで特例的措置とはいえ、劇薬と言ってもいい金融政策だ。「何がなんでも町を立て直す」。信長の決意の固さが、ここに表れている(彼の懐は痛まず貸主が損をするだけの話だが)。「木造織田信長坐像」=大徳寺総見院所蔵(中田真弥撮影) 「現代の徳政」といわれる日本航空やりそな銀行などに対する公的資金注入にも似ているが、これは金融庁マターだから、日銀の関わりはとりあえず国庫金を払い出す業務のみだろう。 税を免除し、借金を棒引きにすれば、当然ながら短期的に市場の貨幣は増える。その分物価は上昇し、経済活動は活発化するだろう。大幅な金融緩和でデフレ脱却を目指す現在の日銀総裁と、ある意味共通した思想かもしれない。 ただ注意しておきたいのは、日銀総裁と違って信長は経済政策のすべてを総覧する立場だったことだ。彼は流通ルートの開発に励んだし、道路や橋の整備をおこない、舟運の保護にも熱心だった。市場は取引される商品がなければ成り立たないわけだが、その商品の生産についても、地元特産の瀬戸物を保護奨励し、後に志野焼や織部焼が生まれる基礎を作るなど、差別化や増産に努めたことを忘れてはいけない。信長の「新しい手法」 この年に上洛を果たした信長は、明くる永禄12(1569)年、京や奈良に「撰銭(えりぜに)令」を発する。撰銭とは、良質な貨幣とびた銭(劣化したもの、私鋳銭など)を選別して、その扱いに差をつける行為をいう。偽札が厳禁され、劣化した貨幣は回収される現代ではピンと来ないが、当時はそれが当たり前だった。信長は当初この行為を禁止したのだが、少しでも有利な貨幣をと考える人々には受け入れられなかった。 そこで彼は交換レートを定めて、撰銭も決済手段として安定的に用いられるようにし、売買取引がスムーズに行われるよう誘導したのだ。 これは必ずしもうまくはいかなかったが、銭が不足したり、撰銭のせいで流通が円滑に行われず、手っ取り早く米を代価にしたりするなど混乱した当時の状況の中で、信長がなんとか銭を基軸通貨にしようと努力したことは間違いない。それは、有名な「永楽通宝」の銭紋の旗印を掲げた信長にふさわしい政策だった。 おそらく彼が本能寺の変で死なずに天下を統一していれば、徳川家康のように貨幣鋳造事業に乗り出していただろう。この撰銭令も日本銀行の業務でいえば貨幣流通と為替の管理に相当するのではないか。 また、こうして金融政策を駆使して天下統一の歩みを進めていった信長は、「茶湯御政道」と呼ばれる新しい手法も生み出した。大金を投じて名物茶道具を集め、それを手柄のあった部下へ土地の代わりに恩賞として与えるというやり方だ。 信長から茶会を開くことを許され、茶湯に精通した文化人たちからもうらやまれるという名誉に、家臣たちは熱狂した。滝川一益など、「上野国(現在の群馬県)を賜るより茶器が欲しかった」と愚痴ったほどである。信長が新しい価値を創造し、土地に命をかける武士の価値観をガラリと変えてみせたのだ。そんな信長が日銀総裁ならば、おそらく仮想通貨を公認し、よりスピーディーな流通取引を目指すだろう。画像はイメージです(iStock) 以上を総合すると、「日銀総裁」織田信長は貨幣を増産して市場流通量を上昇させインフレに誘導し、金融緩和によって経済活動を活発化させた上に、仮想通貨という新たな基軸通貨を積極的に支持し、全く今までにない国内外の決済システムの構築に向けた取り組みを行っていたことだろう。

  • Thumbnail

    テーマ

    もし信長が「日銀総裁」だったら

    歴史に「もし」は禁物だが、この人が今の日銀総裁だったらと思わずにはいられない。戦国大名、織田信長である。信長と言えば、型破りの発想で次々と難敵を打ち破ったことで知られるが、実は傑出した経済人でもあった。デフレ脱却が至上命題の現代ニッポン。「戦国の革命児」信長ならどう挑むか。

  • Thumbnail

    記事

    「優れた経済人」織田信長だったらデフレ脱却にどう挑むか

    活性化策を実施し、領国内の経済力強化を実現してきたからでもある。なお、前述の方面軍の話も含め、本稿は歴史的検証が主眼ではないので、歴史的事実については大ざっぱな話をしている点はご了承願いたい。 さて、現代のわが国の経済について、信長ならどう取り組むかということが本稿の主題である。そのために、わが国の経済の現状を簡単に振り返りたい。 2012年12月に安倍晋三首相が政権に返り咲いて以降、わが国の経済がそれ以前に比べれば良好な状態にあることは多くの経済指標が示している。民主党政権時の3年第1四半期間(2009年9月~2012年12月)における2011年基準の実質国内総生産(GDP)の単純平均は約493兆円(年率換算、以下同)だが、直近3年第1四半期間の実質GDPの単純平均は約523兆円と約6・0%増加している。2018年4月、首相官邸で安倍晋三首相(右)と会談する日銀の黒田東彦総裁(春名中撮影) また、民主党政権時の完全失業率の単純平均は約4・7%、直近3年第1四半期間の単純平均は約3・1%と1・6%ポイント改善している。なお、2017年第4四半期の実質GDPは約535兆円、2018年3月の完全失業率は2・5%である。 しかし、デフレからの完全脱却については、まだ道半ばであろう。安倍首相が任命した黒田東彦日銀総裁は2013年4月にいわゆる「異次元緩和」を掲げ、大胆な金融政策を実施してきた。 株式市場をはじめとする金融市場からは、一時期の暗い雰囲気が払拭(ふっしょく)されたといえるが、「物価上昇率2%」という目標は達成できていない。こうした数値目標にこだわり過ぎる必要はないと思うが、わが国が再びデフレ状態に陥る懸念は完全に過去のものになったと断言できないというのが現状であろう。「新人類」だからこそ デフレとは、世の中のモノやサービスの価格(物価)が全体的に継続して下落することである。ただし、わが国の経済がデフレ状況にあるかどうかの定義についてはさまざまな議論があった。 インフレはデフレの逆で物価が全体的に継続して上昇することを指す。細かな定義の議論は別にして、デフレ下では、価格低下→企業収益減少→賃金減少→節約志向→価格低下、といった経済の縮小サイクルが継続することになる。 デフレの原因を極めて単純に説明すると、需要<供給、つまり供給過剰需要不足ということである。インフレはその逆で、需要>供給、需要過剰供給不足となる。いわゆる「失われた20年」とはデフレ的な経済が続いていたことの比喩的な表現であり、少なくとも経済的な活力は感じにくい状況であった。 一方、信長が活躍した戦国時代後期から安土桃山時代というのは、経済的には高度成長時代であり、活力に満ちていた。各地の戦国大名が領国の維持や拡張のために、富国強兵策を展開していた。軍備充実や軍隊動員には多くの需要が発生する。また戦国時代は、従来の価値体系が崩れ去っていく中で、新しい価値の探求が行われていた時代であり、軍事面のみならず農工業分野でも技術革新が進み、農工業の生産性が上昇した。 農村での余剰人口は、商人や職人になるなどして経済全体の供給力拡大に寄与した。戦国大名が公募する足軽に応募して、需要拡大に寄与した側面もあろう。需要が拡大しているだけでなく、供給力も伸長していたのである。折からのキリスト教宣教師をはじめとする南蛮人(当初の主力はポルトガル人とスペイン人)の渡来も技術革新や文化生成に大きな刺激となっている。文化生成は新たな需要と供給を生み出すことにもつながる。 つまり、当時は旺盛な需要によるインフレ的な傾向があるものの、供給力も拡大しており、需給も相まって成長していたのが戦国から安土桃山にかけての時代である。信長はそうした傾向をさらに促進するようなさまざまな施策を実践していたといえる。 さらに、「天下人」としての信長は、こうした施策の実践を、自身の決裁でなし得ていく。いくら「天下人」とはいえ、民衆の支持を失ってしまえば持続性はないが、民衆の支持は施策を実践した結果に対する評価であり、実践段階では信長の自由度は高かった。もちろん、朝廷や家臣などの関係者と全く調整しないでも良いということではない。 翻って現代は、人口減少・少子高齢化が進行している。人口減少は基本的には需要減少要因である。今、わが国が直面しているデフレへの懸念の根本は、中長期的な需要減少が想像されることにあると考える。 こうした事態に対し、当面の対応として、第二次安倍政権発足当初に掲げられた「三本の矢」、すなわち「大胆な金融政策」「機動的な財政政策」「民間投資を喚起する成長戦略」は方針としては正しい処方箋を打ち出していたと考える。「三本の矢の教え」で有名な毛利元就が生涯を過ごした広島県安芸高田市から「三本の矢」を贈られた安倍晋三首相=2013年2月(酒巻俊介撮影) さらに2015年9月には「新・三本の矢」として、「希望を生み出す強い経済」「夢をつむぐ子育て支援」「安心につながる社会保障」を打ち出している。このうち「希望を生み出す強い経済」は従来の三本の矢を強化するということだが、「夢をつむぐ子育て支援」、「安心につながる社会保障」は、人口減少・少子高齢化というわが国の中長期的な需要減少に立ち向かうための政策とも言える。 しかし、「大胆な金融政策」は黒田日銀総裁が先頭に立って実施してきたが、デフレは金融的現象であると同時に実物経済的現象でもあり、金融政策のみで解決できるものではない。他の矢との相乗効果が求められるのだ。 一方、他の矢はさまざまな関係者が関わる政策であり、当初期待したほどに徹底して実施できたとは言いにくいのではないか。例えば「機動的な財政政策」は、首相が積極的であったとしても、国会や財務省の協力なしには進められない。 「民間投資を喚起する成長戦略」も国会や財務省に加え、関係省庁や地方自治体の協力が必要である。「民間投資を喚起する成長戦略」は、行政側の協力が得られたとしても、民間側の意欲が湧くようなものになっていなければ、前には進まない。 前述したように、信長も朝廷や家臣団、あるいは宗教勢力や町衆などとの調整を全くせずに政策を実施できたわけではないだろう。 しかし、各施策についての最終決裁者であるという強力な立場、直属の実戦部隊を持っていること、さらに彼自身が当時の言葉では傾奇者(かぶきもの)や婆娑羅(ばさら)といった「新人類」であったこともあって、これからを担う世代の民衆や家臣の強力な支持があり、多くの施策を積極的に進めることができたのだと推測される。信長ならデフレ脱却を成し遂げる 信長の凄(すご)みは徹底したリアリズムと愚直な実践にあると考える。与件の中でいかに効果を最大化するか、さらに与件をどう変えるか、を徹底的に追及し、できる所から愚直に実践し続けるのが彼の生涯であった。その際、民(たみ)のために天下を静謐(せいひつ)にするという明確な将来への意志があったからこそ、たゆまず努力を続けられ、人もついてきたのであろう。 与件の中でいかに効果を最大化するかの例としては、1578(天正6)年の御所周辺の築地塀の修理が挙げられよう。信長自身が全面的に請け負うこともできたが、京都の町人が請け負う方式が良いのではと、京都の町々に持ちかけた。 町ごとに組を編成させ、区分された築地塀の修理を担当させ、競争の原理を持ち込んだ。さらに当時は「風流踊り」という群衆音楽舞踊パフォーマンスの全盛期だったそうで、町々は自慢の歌手や踊り子を繰り出し、自分の街の分担区域の修理人員の士気を上げたそうである。 「即時にできた」といった内容が『信長公記』(太田牛一著)に記されているそうだが、最初から信長自身が全面的に請け負っていたら、そこまで早くはできなかったであろう。天皇や宮廷の女性たちも見物に来て楽しんだというから、単なる修理が明るい雰囲気の中で進んだことになる。 近年の日本経済では、安倍政権発足当初の「三本の矢」を打ち出し、実践に移していったことが、株式市場をはじめとする日本経済の雰囲気を明るく転換させたことが該当するであろう。 与件をどう変えるかの例としては、地味ではあるが長きにわたって継続してきた朝廷工作が挙げられよう。朝廷を味方につけることができれば、戦国大名の一人に過ぎない状況(実力はあるが公的な存在とは認められていない)から、国家の承認を得た立場となる。福井県越前町織田の「一族発祥の地」に立つ織田信長像(関厚夫撮影) 信長の父、織田信秀は、信長がまだ少年であった1543(天文12)年に朝廷の内裏の修理費用を献納している。信長も朝廷との交渉を早いうちから始めており、1568(永禄11)年の足利義昭を奉じての入京は、既に朝廷との間の了解事項であった。 朝廷から御所の建物の修理を要請されているという形で、信長が入京する手はずは整っていたのである。そこにたまたま足利義昭が頼ってきたタイミングが重なった。近年の日本経済で考えれば、今まさに取り組んでいる「夢をつむぐ子育て支援」などが与件を変えようとすることに該当するであろう。しかし、こうした与件を変えようとすることは地道な努力を長期にわたって続けることが必要であり、すぐに効果が出るものでもない。 信長が現代日本のデフレ脱却という課題にどう立ち向かうかということでは、大きな方針としては、現政権が打ち出している方向とあまり変わらないであろうと想像される。それを民衆の支持を維持しつつ、具体的に何をやるべきかを徹底的に追求し、愚直に実践し続けるということになろう。 ただし、当時のように「天下人」というポジションは存在しない以上、関係者の調整に多くの労力を費やすことになる。信長は理想を掲げて努力を惜しまないであろうから、不慮の死や失脚などがない限り、デフレ脱却をやり遂げるのではないだろうか。

  • Thumbnail

    記事

    信長もできなかった市場との対話、黒田日銀「物価2%」実現のヒント

    が近づくと、自分の田畑がどうしても気になる。他の大名は農閑期に戦を仕掛けるしかないのである。その後の歴史を知っているわれわれは「兵農分離」は当たり前のように思えるが、それを初めて実行した信長は時代を先取りした発想の持ち主だったといえる。 さらに、兵農分離政策は軍律改革や本拠地の移転、城下町の発展という効果ももたらした。信長は戦いに勝利して敵の領地に進軍した際の略奪を禁止した。戦国時代には略奪は一般的に行われており、普段は貧しい農民兵士にとって一種のご褒美のような感覚もあったようだ。ぶれない男、信長 しかし、信長は兵農分離によって兵士の経済的な待遇を確立する一方で、略奪を固く禁じていたのである。実際、信長は上洛(じょうらく)した際に、京の街中で略奪行為を働いた兵士を斬首している。現代の感覚では厳しすぎる処分だが、いかに略奪禁止を重視していたかが分かる。これも当時では常識を越える方針だったといえる。 また、信長は清洲から小牧山、岐阜、そして安土へと本拠地を移転させていったが、これも兵農分離していたから可能だったことだ。信長は数多くの兵士を城下に住まわせることで、城下町を発展させた。このことが経済活性化にもつながったのである。 信長の経済活性化では「楽市楽座」も有名だ。鎌倉時代以来、商工業者は座と呼ばれる同業組合的な組織が独占的に販売を営んでいたが、信長はこれを解散させ、城下では自由に商業販売をさせた。今日風に言えば、徹底的な規制緩和によって既得権益を排除し経済を活性化させるものだった。 また、楽市楽座と同じような趣旨で、信長は関所の撤廃も行っている。関所というと、現代に生きるわれわれは箱根の関所のような公的なものを思い浮かべる。だが、この時代は地域の豪族や寺社、商工業者などが各地で勝手に関所を設け、関銭(通行料)を徴収していたのである。 本来は安全確保のための警備目的だったものが、実態は金もうけと既得権益のようになっていたのだ。このため物資が移動する際、何カ所もの関所を通るごとに通行料を取られるため、円滑な流通が阻害されて物価は高騰し、経済を疲弊させていた。信長はこれを廃止するとともに、主要街道の整備も大規模に実施し、物流や人の往来を活発化させた。 これらの政策、略奪禁止、楽市楽座、関所廃止、街道整備などは、庶民から歓迎されたという。このように、信長は強力なリーダーシップを発揮して天下統一に突き進んでいった。信長の政策はどれをとっても既存の常識にとらわれないものばかりで、信長という人物は時代を超える発想の持ち主でもあった。 こんな話が残っている。日本にやってきたイエズス会の宣教師が地球儀や世界地図を献上した際、信長は宣教師の説明を聞いて、献上品の「正体」をすぐに理解したという。当時、地球が丸いことを知っている日本人が誰もいなかった時代である。その場にいた家臣はだれも理解できなかったのも当然だったであろうが、信長の理解力には驚かされる。 また、宣教師が連れていたアフリカ出身の黒人を大変気に入って譲り受け、家臣にしている。黒人は奴隷出身だったと思われるが、信長は「弥助」という名前をつけて自分の側近にした。弥助は本能寺の変の際に信長に同行しており、明智光秀軍を相手に戦ったという。その際、明智軍に捕らえられた後に解放されたというが、その後の消息は不明だ。 このようなところにも、信長が偏見や既成概念にとらわれない人物であったことがうかがえる。しかも常に天下統一という大目標が軸に据えられていた。その意志は、本拠地の名を稲葉山から岐阜に改めたときから使っていた「天下布武」という言葉に表れている。比較的早い時期からはっきりとした目標を掲げ、一貫してブレなかったのである。主導すべきは日銀総裁だ そのような信長がもし日銀総裁だったら、どのような政策を採るだろうか。おそらく、デフレ脱却・消費者物価上昇率2%という目標達成のために、現在のわれわれの常識を越えた発想で政策を具体化してくれるのではないかと思う。 いや、もっと大きい目標を掲げるかもしれない。日本経済全体の本格復活のために徹底した改革を推し進めるだろう。それはもう日銀の枠を超えるものになりそうだ。 そもそも黒田総裁が5年前に打ち出した異次元緩和自体、従来の日銀の常識を打ち破る政策だったわけで、少なくとも物価を下落から上昇基調に転換させた効果は上げている。 しかし、日銀の金融政策だけでは限界があるのも事実だ。物価目標を達成してデフレ脱却を確実なものにするには、金融緩和を継続しつつ、同時に日本経済の成長力を高める抜本的な政策が不可欠である。別の言い方をすれば、最大目的はデフレ脱却と日本経済再生であり、2%はそのための数値的目標ということだ。 ただ、その目的を実現するのは、日銀というより政府の仕事だ。現状ではその点はまだ不十分で、もっと徹底した改革が欠かせない。もし信長が日銀総裁なら、経済改革を政府に迫るなどしてリードしていくだろう。むしろ信長総裁が改革を主導して政府を引っ張っていく構図になりそうで、それを期待したい。むろん、あくまで現在の制度や権限を無視して言えば、の話だが…。 黒田総裁が目標を達成するには、こうした信長的要素を取り入れて政策を具体化できるかが、一つのカギとなりそうだ。 その場合、一つ注意点がある。信長が部下や世間とのコミュニケーションでは課題を残したようにみえることだ。前述のように、信長は「天下布武」という大目標を掲げて数々の常識破りの政策を採ったわけだが、彼の真意や狙いを配下の武将たちがどこまで理解していたかどうか。京都市中京区にある本能寺跡の石碑=2016年4月(門井聡撮影) また、信長と敵対する戦国大名や宗教勢力らが「反信長連合」を形成して最後まで信長を悩ませたことも、世論形成ではうまくいかなかったといえる。 これを現在の日銀になぞらえれば、市場との対話がより重要だということである。今後は、金融緩和政策のあり方や出口戦略をめぐる議論が従来にも増して活発化することが予想される。そうであればあるほど、日銀の政策や考え方をしっかり市場に説明して理解を広げる努力が必要になるのである。

  • Thumbnail

    記事

    歴史」を学べば、経済の仕組みが見えてくる

    んと理解している人はごくわずかだろう。なぜ、経済や金融の世界の話は難しく感じられるのか。その理由を「歴史を理解していないからだ」と説くのは、経済評論家の渡邉哲也氏。新著『「お金」と「経済」の法則は歴史から学べ!』を発刊した渡邉氏にお話を伺った。 至極当然のことですが、社会は巨大な仕組みで出来ています。それを仲介するのがお金です。そして、お金も仕組みで出来ています。その大きな変化が起きたのが明治維新であり、明治維新以降の歴史を知らなければ、お金のしくみも社会の仕組みも知ることが出来ません。 しかし、学校ではほとんど近代史を教えず、お金のしくみも教えてくれません。私はここに大きな問題があるのだと思います。 そして、そのための教科書を作るべきだと考えました。そして、出来上がったのが『「お金」と「経済」の法則は、歴史から学べ!』です。 すべての物事は、原因があり過程があって結果が生じます。日々接するニュースは所詮結果に過ぎず、結果だけを追いかけていても問題は解決しません。これを解決するには、原因と過程の分析が必要であり、それを行うためには仕組みを理解する事が大切なのです。 また、歴史は繰り返すというように、本質的な仕組みが変わらないかぎり、形を変えて同じような出来事が起きるわけです。これを理解することは未来予測にも非常に重要になります。 皆さんが日々当然のように使っているお金ですが、そのお金にも歴史歴史が作り上げた仕組みが存在します。 現在のお金のしくみは明治維新以降の金本位制による中央銀行と中央銀行が発行する紙幣の仕組みに依存しており、第二次世界大戦末期に作られブレトンウッズ体制と呼ばれる仕組みがそれを支えています。これは基軸通貨ドルを生み出し、ドルの世界的な金融支配を生み出しているわけです。東京都中央区の日銀本店(早坂洋祐撮影) そして、これが覇権国家アメリカの最も大きな核であり、現在も最大の力の源になるのです。これを理解すれば、今の世界情勢も見えてくるわけです。 また、現在の日本の経済の仕組みもこれに依存します。そして、バブル以降の経済の変化とグローバリズムの本質を理解するためには、「金融ビックバン」を知ることが大切になります。 かつて鎖国状態であった日本の金融ですが、金融ビッグバンと呼ばれる大規模な自由化により世界の金融システムの一部になり、日本の金融を日本だけで語ることが出来なくなったわけです。同時にそれは株や為替だけでなく、日本のアジア戦略や世界戦略にも直結するわけです。 そして、本書では、このような本質的仕組みとデフレやインフレといった具体的用語と事例を徹底解説しているのです。大英帝国の統治が生んだ「オフショア」 本書では直接的には触れませんでしたが「パナマ文書」も英国の金融の歴史を学ぶと理解できます。 問題の「オフショア」ですが、これは英国の大英帝国時代の植民地統治のための仕組みであり、これが英国の金融システムを支えてきたわけです。英国の首都ロンドン。実はロンドンには二人の市長が存在します。1人は大ロンドン市の市長であり、これは選挙で選ばれた市長です。 そして、もう一人の市長はロンドンの中の治外法権の自由都市「シティ・オブ・ロンドン」(通称シティ)の市長で、様々なギルドの重鎮から選ばれる一年任期の名誉職なのです。 もともと、英国は世界各国に植民地を持っていました。そして、その植民地には英国女王が任命した領主が存在し、領主が自由な自治を行っていたわけです。 今も大英連邦の諸国にはその歴史が息づいています。独立国となったオーストラリアやカナダですら、この片鱗が残っているわけです。 オーストラリアやカナダには地域の領主を意味する「総督」が存在し、外交儀礼上の地域の最高責任者は首相ではなく「総督」なのです。ですから、国家のトップはNO2を意味する首相なのです。そして、未だに他国の外交官が赴任した場合、総督に任命状をお届けするわけです。ロンドン証券取引所(iStock) そして、この仕組を利用したのが「オフショア」であり「タックス・ヘイブン」だったわけです。英国の自治領に、「匿名で取引でき税金がかからない地域」を作り、ロンドンのシティの金融機関が世界中から資金を集め巨大な手数料ビジネスを行ってきました。 また、このような地域は英国領の一部ですから、英国の金融ルールが適用される仕組みになっており、英国の金融機関にとっては安全な地域でもあったのです。もともとは英国の貴族のための仕組みを新興貴族ともいえる富裕層が利用したのが今回の問題の本質といえるわけです。 そして、今回のパナマ文書で中国人やその関係者が多い理由もここに起因します。 かつて、英国の植民地の一部であった自由都市香港も英国の金融とアジア戦略の要でありました。しかし、香港は返還期限のある租借地であり、期限到来に伴い中国に返還されました。この際、多くの香港人特に富裕層は、これを恐れ英国の他のタックス・ヘイブンに資産を移したわけです。 この手助けをしたのがHSBCを中心とした英国の銀行であり、この現地代理人が今回文書の流出したパナマの法律事務所だったわけです。そして、この時の記録(設立に関するパスポートデータや資金移動など)がパナマ文書ということなのです。このように歴史を学ぶと本質的なものが見えてくるわけです。わたなべ・てつや 経済評論家。1969年生まれ。日本大学法学部経営法学科卒業。貿易会社に勤務した後、独立。複数の企業運営などに携わる。内外の経済・政治情勢のリサーチ分析に定評があり、さまざまな政策立案の支援から、雑誌の企画・監修まで幅広く活動を行なう。著書に、『中国壊滅』『ヤバイ中国』(以上、徳間書店)、『「瑞穂の国」の資本主義』『世界の未来は日本次第(共著)』(以上.PHP研究所)など多数。近著に『日本人が知らない世界の「お金」の流れ』(PHP研究所)がある。関連記事■ 人気エコノミストが教える「マイナス金利」■ 藤巻健史 私が「今はドルを買え」という理由■ 将来が不安な人のための「不動産投資」入門

  • Thumbnail

    記事

    信長が「おっぱい観音」に引っ越しを決めた理由

    橋場日月(歴史研究家、歴史作家) 大阪城の東、大阪市城東区に鴫野(しぎの)という土地がある。かつて大坂冬の陣で幕府軍の上杉景勝勢と豊臣軍の井上頼次・大野治長らが激突した古戦場で、城東小学校と八劔(やつるぎ)神社のあたりが上杉勢の陣が置かれた場所といわれているが、この八劔神社には次のような伝承が残る。 応永年間―室町3代将軍・足利義満の頃、近辺の住民の夢枕に「熱田の神」が立ち、「民を救うためこの地に現れようと思うから、明日淀川の岸辺で待て」と告げた。翌日、川には蛇が現れて鴫野村に入ったため、人々はそこに祠(ほこら)を建てた。それが社の始まりである、という内容だ。 この縁起でもわかるように、熱田社の神は蛇の姿で現れる。八劔神社の副祭神としては素戔嗚尊とその妻・奇稲田媛命(クシナダヒメノミコト)、八頭大神(ヤスノオオカミ、ヤツガシラオオカミ)などがあるが、素戔嗚尊は熱田社の副祭神でもあり、また八頭大神というのはとりもなおさず八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を指すものだろう。ここでも熱田・八岐大蛇・蛇は密接に結びついている。 また、武蔵の国の一宮として知られる埼玉県さいたま市の氷川神社は、境内に残る「蛇池」が発祥とされているのだが、この蛇池は見沼田んぼに流れ込む水源のひとつで、ここでも蛇=水の神となっている。さらにこの神社の主祭神も須佐之男命=素戔嗚尊であり、水の神、嵐の神としての性格を持つとされ、素戔嗚尊=大蛇の力を得た神=蛇=水という関係性が成立している。 ここでもう一度桶狭間の戦いを振り返ってみよう。信長はダウンバーストの発生を予測し、熱田の神に祈り、桶狭間に向かった。やがて、計算通りにひょうまじりの激しい風雨が西からやってきた。それは桶狭間の北東・沓掛付近に生えていた直径1mも1・5mもある楠の大木までなぎ倒してしまうほど強烈なものだった、と『信長公記』は記録し、これには皆「熱田大明神の神いくさか」と驚き合った、と続けている。この場合のいくさは「戦」ではなく「軍」と書く。熱田神宮に遺る信長塀(橋場先生撮影) 熱田大明神の神軍。風雨は熱田社の神の軍勢だ、という意味である。神軍が味方となってくれた、と信長方は狂喜し、勇みたった。何しろ、つい朝方に信長が熱田で必死の願いをささげていたばかり。信長も鳥肌を立てたオカルトグッズ 大敵を前にしてわらにもすがりたい思いの彼らが、「御大将には熱田の神、大蛇の神、雨ごいの神、水の神がついている、その証拠がこの大風雨だ!」と信じ込んだとしても何の不思議もない。『甫庵信長記』には、信長自身も熱田社から神宝のふたつの聖石――風を呼ぶ石と水を呼ぶ石を借り出してきていたとある。これが本当ならオカルトグッズの好きな信長らしい話で、その効き目の大きさに彼も鳥肌を立てていたのではないだろうか。 こうして神懸かりとなった織田軍は一丸となって今川軍に攻めかかっていき、信長は起死回生の勝利を得たのだ。桶狭間の長福寺には、この戦いで戦死した者の菩提(ぼだい)を弔う位牌(いはい)がある。それには、今川軍の死者2753人と記されている。 この戦いの経緯と結果は、のちに信長と家臣団に重大な影響を及ぼすこととなった。討ち死にした敵の総大将・今川義元は、緒戦で織田方の先鋒(せんぽう)隊を殲滅(せんめつ)したときに「義元の矛先には、天魔鬼神もたまるべからず」と豪語したが、図らずも彼は自分を天魔鬼神=魔神になぞらえた信長に敗れてしまった。 信長自身も、自分こそは蛇神と一体となり雨・水を自由にできる超越者、特別な存在――神であるという意識をこの時にハッキリと持ったことだろう。以降、信長はそれまで以上に大蛇・龍のパワーを意識してふるまうようになり、家臣たちは信長を神のようにあがめ始めたのだ。長福寺 この時期から数年の後、信長と面会したイエズス会宣教師のフロイスは報告書で、織田家の家臣たちが主君・信長を極めて凶暴な獅子のように恐れ畏(かしこ)む様子を描写し、「(信長は)尊大にすべての偶像を見下げ」ていたと記しているが、それも道理。信長自身が自分を霊験あらたかな大蛇神・龍神と一体化した存在と信じているのだから、他の神仏に頭を下げる必要はないではないか。 かつて信長に反抗した家臣たちも全員が神格化された信長にひれ伏し、織田家の人々は次の目標・美濃征服にベクトルを一致させたのだった。キモは「引っ越し」浅井長政像=滋賀県長浜市(関厚夫撮影) しゅうと・斎藤道三を討ったその息子・義龍は永禄4年(1561)に急死した。その死について、引導役の快川和尚(のちに甲斐の恵林寺で織田軍によって焼き殺されることになる人物)は「大地のすべてを呑み尽くす蒼龍」と評している。信長とともに龍に縁のあるあたり、いかにも好敵手としてふさわしい大人物だった。 これを好機と見た信長は、2日後に美濃へ侵入する。森部(現在の岐阜県安八郡安八町森部。岐阜羽島駅の長良川対岸)で斎藤軍と交戦した信長は、敵に「天の与える所だ」と挑みかかっていったという。仇敵の死はまさに彼にとって天の意志、神の意志なのだ。これ以降、「天ノ与フル所」というセリフは、信長の常套(じょうとう)句となっていく。 だが、義龍の跡を継いだ龍興を奉じる斎藤家臣団は手ごわかった。信長は数回にわたって美濃に手を出してははね返され、手詰まり状態となる。これを解決するために、外交と内政の両面で新たな手を打つ必要が出てきた。そこで信長が打った手とは何だろうか? ひとつは北近江の浅井長政との同盟。美濃を背後から牽制(けんせい)してもらうために、信長は長政に妹のお市をこし入れさせたのだ。 そしてもうひとつ。これが今回のキモ、永禄6年(1563)の本拠地移転である。この年、信長は清洲から小牧山へ居城を移したのだ。美濃国境に近い小牧山は、広々とした濃尾平野の中心にただひとつ、標高86mの独立峰となっており、美濃だけでなく尾張国内に残った敵、犬山城も見下ろすことができる。本拠を動かすというのは大変な事業だが、信長はそれだけの戦略と政略の価値があると信じたのだ。 ところが、この小牧山城移転には面白い話があって、信長はまず二の宮山という高山に引っ越すと家中に告知したという。発展して便利な生活を送っていた清洲から離れることを嫌った家臣たちは大ブーイングだったが、信長が「やはり二の宮山はやめて小牧山にする」と触れ出したため、「それなら河川が近くを流れているから引っ越し荷物の運漕(うんそう)ができて楽だ」と皆喜んだ。 これが信長の手で、最初から小牧山に移るというよりも、もっと不便な場所を提示しておいてから小牧山に変更した方が、家中の抵抗も少なくなるという計算だった、と『信長公記』は感心しているが、これはどうだろう?自らを神と信じる信長が、家来の反発や引っ越しの便宜を気にかけるものか?また信長を恐れ畏む家臣団が、表だって不満をぶつけるものか?決め手は「おっぱい観音」の正式名称 そこで、このフランチャイズ移転プロジェクトを詳しく検討してみよう。この話に出てくる二の宮山というのは、犬山城の南で小牧山からは北東方向、2カ所のほぼ中間点にあたる尾張国二ノ宮、大縣神社の山のことと考えられる。  この二の宮山も平野の中にポツンとある山で、しかも小牧山よりもさらに北に位置しており、とりでとして活用できる青塚古墳もあるため、拠点にはうってつけだ。それにも関わらず、信長は二の宮山でなく小牧山を選んだ。実は、そこにも信長の大蛇・龍への傾倒が影響しているのだ。 二の宮山に鎮まる大縣神社は尾張最古(つまり熱田社よりも古い)とされる由緒ある神社だが、女性を守る神として知られる。信長にはあまりひかれるところがない神というわけだ。これに対する小牧山だが、この山もどうやらかつては信仰の場所だったらしいのだ。 その寺院は、間々観音。現在は小牧山の北東隣にある寺で、伝承によれば「信長の命で小牧山から移転させられた」という。小牧山に移転し全体を城に造り替えるのに伴う措置だろう。この間々観音は間々乳観音ともいい、俗に「おっぱい観音」とも呼ばれる。文字通り健康な母乳をたくさん赤ん坊に与えられるよう祈りをささげる場所だ。 「なんだ、それでは大縣神社と変わらないじゃないか」と思われるかもしれないが、この寺、正式には「龍音寺」というのだ。龍。寺号にはしばしば使われる文字ではあるが、いかにも信長が飛びつきそうな名前である。 しかも、山号は「飛車山(ひくまやま)」。小牧山の古名が「飛車山」だったそうで、寺もそれを山号としていたのだ。 飛車は成ると「龍」「龍王」になる。信長は、龍の音にひかれ、どうせなら二の宮山よりも小牧山を選び、その別名・飛車山を自分の手で成らせて(造り替えて)龍王山にしようと考えた、とも想像できるではないか。信長が小牧山を選んだのは、意外にもそういう理由だったのかもしれない。彼は自分の手で龍王の城を築き、さらなるパワーを手に入れようとしたのだ。円頓寺商店街にある織田信長公像=愛知県名古屋市(中田真弥撮影) 現在、小牧山では小牧市による発掘作業が進められており、現地では信長による小牧山城跡のものと考えられる石垣の石材などが大量に積み上げられ調査を待っている。往時、これらの石材で固められ日の光を反射する小牧山城の主要部分は、遠く美濃からでも目に入り、信長の富と力の象徴として敵を威嚇するとともに、龍神の降り立つ「磐座(いわくら)」としても大いに存在感を発揮したことだろう。 次回はいよいよ、信長による稲葉山城攻めと龍・大蛇との関わりについて触れていこう。

  • Thumbnail

    記事

    本能寺の変と「中国大返し」の謎、秀吉共犯説はこれで論破できる

    渡邊大門(歴史学者) 天正10(1582)年6月2日に勃発した本能寺の変には、羽柴(豊臣)秀吉が関与していたとの説がある。周知の通り、秀吉は主君である織田信長の死を知ると、備中高松城(岡山市北区)で毛利方の部将、清水宗治と交戦中にもかかわらず、急いで毛利氏と和睦を締結した。 その直後、「中国大返し」と称される尋常ならざるスピードで備中高松城から上洛し、同年6月13日の山崎の戦いで明智光秀を討った。これだけのスピードで戻るのには、秀吉が事前に光秀の計画を知っていないと不可能だと指摘する論者がいる。 はたして秀吉は、事前に光秀の挙兵を察知していたのだろうか。以下、その論点を挙げて、一つ一つを検証することにしよう。 スペイン人の貿易商人、アビラ・ヒロンが執筆した『日本王国記』には、「家康をはじめ、まだ臣従していなかったその他の人々も、内密にではあったが明智の側に加わっていた」と書かれている。「その他の人々」のなかには、秀吉も含まれていたと考えているようだ。つまり、秀吉は光秀に与していたという解釈である。木下藤吉郎秀吉像=滋賀県・JR長浜駅前 ヒロンは生没年不詳。文禄元(1594)年に平戸へ来日し、以後は東南アジア方面を往来し、慶長12(1607)年に日本に戻った。少なくとも元和5(1619)年までは、日本に滞在していたという。 彼の手になる『日本王国記』は、当該期の日本の事情を知る上で、貴重な史料と評価されている。特に、商業や貿易関係の記述は、重要であるとの指摘がある。なお、残念ながら同書の原本はなく、写本だけが伝わっている。 ところが、ヒロンと同じく16世紀末頃から17世紀初頭に日本に滞在したスペイン人のイエズス会士であるペドロ・モレホンは、『日本王国記』の記述内容について「著者みずからは正確であるといっているにもかかわらず、彼の日本に関する知識の僅少の故に数多くの誤りがある」と述べている。つまり、『日本王国記』の記述を全面的に信用するのは、危険であることを示唆している。 本能寺の変が勃発したのは、ヒロンが来日する14年前の出来事で、彼自身がどうやって秀吉が光秀に与していたかという情報を知り得たのか判然としない。おまけに『日本王国記』の記述内容が不完全な可能性が高いとするならば、秀吉と光秀が結託していたという説を素直に受け入れるわけにはいかない。よって、『日本王国記』の秀吉が光秀に与していたという記述には、いささか疑念を持たざるを得ないのである。 ほかにも、秀吉が本能寺の変に関与したと主張するユニークな説明がある。秀吉は毛利氏の政僧だった安国寺恵瓊(あんこくじえけい)と謀り、備中高松城の攻防中に毛利氏といつでも和睦を結べるようタイミングを調整し、信長横死の一報が届けられるとともに「中国大返し」で上洛したという説明がそれだ。はたして、これは事実と考えてよいのだろうか。秀吉と安国寺恵瓊の関係 ここでは和睦と書いたが、実質は一時的な停戦である。山崎の戦い後、毛利氏と秀吉は領土確定をめぐって、協議を進めることになる。つまり、詳細を後日詰めることを前提とした和睦であり、秀吉が信長の仇を取るべく急いでいたのは事実であろう。 この説の前提として重要なのは、織田氏の取次の秀吉と毛利氏の取次の恵瓊は互いに旧知の間柄であり、決して備中高松城の現場では一触即発の事態ではなかったという。織田氏と毛利氏との全面戦争にもかかわらずである。つまり、表面的には戦っているふりをしているが、秀吉と恵瓊はグルだったということになろう。 秀吉と恵瓊はたしかに旧知の間柄で、恵瓊は秀吉の台頭を予言し、その優れた手腕を評価した人物である。しかし、旧知であるなどの理由だけで、2人が共謀していたというのは、まったく話にならない説明である。2人が共謀していたという、たしかな証拠を提示しなくてはならないだろう。 信長の横死後、恵瓊は主導的な立場で、秀吉との和睦を独断で結んだといわれている。しかし、それは信頼できる史料に書かれているものではなく、関ヶ原合戦後の恵瓊の評価を考慮する必要がある。 慶長5(1600)年の関ヶ原合戦後、毛利氏は120万石から30万石の大名へと転落した。その際、毛利氏や吉川氏は恵瓊に責任を転嫁すべく史料を改竄(かいざん)するなど、さまざまなアリバイ工作を行い、恵瓊の独断専行ぶりを特に強調した。『陰徳太平記』は、その代表的書物だ。同書ではことさら恵瓊を論難している。重要文化財「関ケ原合戦図屏風」(右隻、大阪歴史博物館蔵) したがって、恵瓊の独断により秀吉と和睦を結んだというのは明確な根拠がなく、後世のでっち上げとすべきものである。 補足しておくと、恵瓊は毛利氏のみならず、秀吉にも仕えるという身分だった。このこと自体は、さほど珍しいことではない。秀吉と恵瓊がグルだったと主張する論者は、恵瓊が毛利氏に滅ぼされた安芸武田氏の子孫であることから、毛利氏に対して忠誠心がなく、いつかは毛利氏の足元をすくってやろうとしていたと指摘する。 しかし、恵瓊が毛利氏の足元をすくおうとしたという説はまったくの思い込みによる根拠の薄弱なもので、信用に足りない説である。というのも、関ヶ原合戦前の恵瓊は、毛利氏(あるいは豊臣家)を勝利に導くため、必死になって行動していた。それは、一連の史料を見れば明らかである。この説も根拠薄弱な思い込みである。 結果的に関ヶ原の戦いは西軍の敗北に終わり、恵瓊は非業の死を遂げるが、むしろ恵瓊を裏切ったのは毛利氏の側なのは明らかなのだ。毛利氏は恵瓊に黙ったままで、合戦前日に徳川家康と和睦を結んでいた。恵瓊を見殺しにしたのである。「夜久文書」が伝える真相 秀吉と恵瓊との関係について、もう1点補足しておこう。先に触れた通り、天正元(1575)年12月、恵瓊は信長がやがて滅亡するであろうことを予言し、同時に秀吉が台頭することを予言した。この点について、秀吉関与説を唱える論者は、以下のとおり奇妙な説明をする。 それは、恵瓊が予言をしたのは、秀吉から信長が数年のうちに破滅する可能性が高いと説明を受けていたからだという。秀吉の説明とは、信長は実力主義で家臣を登用したが、やがて家臣間の軋轢(あつれき)を生みだすとともに、忠誠心のない家臣の台頭を招き、謀反へつながるという内容である。実際に荒木村重、松永久秀らが謀反を起こした。こちらも、秀吉が恵瓊に説明したという史料はない。 秀吉が恵瓊に説明したというのは、後世を知る論者が勝手に想像しただけであって、まったく史料的な根拠はない。そもそも恵瓊の予言を過大に評価するが、あくまでそれはそのときに抱いた感想に過ぎない。したがって、秀吉や恵瓊を予言者と持ち上げるのは、いささか見当違いだろう。 結論を言えば、秀吉が恵瓊と結託し、和睦のタイミングを見計らい、信長の横死とともに「中国大返し」で上洛したという説は、確かな根拠がなく成り立たないといえる。 秀吉関与説にまつわるユニークな説明は他にもある。「中国大返し」を実現させた理由の一つとしては、秀吉が独自の情報ルートを持っていたとの説が提起されている。そうでなければ、ただちに信長横死の情報を入手できなかったと指摘する。 秀吉は丹波の夜久氏という領主の協力を得て、京都から備中高松城までの情報伝達ルートを確保していたという(年未詳6月5日羽柴秀長書状「夜久文書」)。そのルートは、備中高松城から姫路に向かい、姫路から一気に北上して羽柴秀長(秀吉の弟)の但馬竹田城に至り、竹田から和田山、丹波の夜久、福知山、亀山を経て京都に至るルートである。とりわけ夜久付近では、夜久氏の協力を得たということになろう。備中高松城址=岡山市 この説については、大いに疑問がある。以下、検討しておこう。 該当する「夜久文書」を素直に読むと、近江国から夜久方面の往来について、夜久氏の協力を得たとしか書かれておらず、先述した情報ルート云々の話は出てこない。秀長は路次確保の協力に対して、夜久氏にお礼を申し述べているだけである。 つまり、上記の「備中高松城から姫路に向かい、姫路から一気に北上して羽柴秀長(秀吉の弟)の但馬竹田城に至り、竹田から和田山、丹波の夜久、福知山、亀山を経て京都に至るルート」というのは、単なる想像に過ぎない。ちなみに、同史料の年次は、天正6年と考えられる。少なくとも天正10年ではない。史料の内容の解釈も、年次比定も誤っているといえよう。 史料解釈や年次比定のほかに、もっと大きな疑問がある。牽強付会な関与説 京都から備中高松城に向かうには、丹波や但馬を通り抜けると、かなりの遠回りになる。やはり、摂津、播磨を通って行くのが近道である。言うまでもないが、当時は電車や自動車があるわけでもない(仮にあったとしても遠回りはしないだろう)。常識で考えると、信長横死の情報を早く伝える必要があるのに、わざわざ但馬や丹波を通り抜けて、遠回りする必要はないのではないか。 したがって、秀吉が京都から丹波、但馬を経て、独自のルートを保持していたという見解は、到底受け入れることはできないのである。 秀吉関与説の他の理由としては、秀吉自身が信長の政権構想を考えるなかで、将来に悲観したという説がある。つまり、秀吉は信長の息子たちに仕えることを余儀なくされ、やがては近江長浜城を取り上げられ、さらに明に派遣される可能性があり、将来に危機感を抱いたという。秀吉は、信長を全面的信頼していなかったというのだ。果たして、それは事実なのか。 信長には、長期にわたる政権構想があったという。それは、信長の子息の信忠、信雄、信孝に領土と重要な地位を与え、実力のある家臣を各方面軍の司令官とし、やがては彼ら実力派家臣の領土を再集約しようとしたというのである。しかし、それは断片的な史料をもとにした憶測であり、実質的には何の根拠もないといえる。従うことはできない。では、信長の「唐入り構想」については、どう考えるべきか? 信長の「唐入り構想」については、フロイスの『日本史』『一五八二年日本年報追加』に「(信長が)日本六十六ヵ国の絶対君主となった暁には、一大艦隊を編成してシナを武力で平定し、諸国を自らの子息たちに分かち与える考えであった」との記述がある。これが事実ならば、信長の構想は壮大だったといえる。 話を別の観点から考えてみよう。天正13(1585)年以来、秀吉は「唐入り構想」を盛んに口にしており、それは信長の遺志を引き継ぐものとされてきた。しかし、近年の研究によると、秀吉が「唐入り」を言明したものではないと指摘されている。それは、九州平定を矮小化するためのレトリックであり、「唐入り」の表明と考えるのは早計ということである。単なる口実に過ぎなかったのだ。豊臣秀吉像(模本、東大史料編纂所蔵) フロイスには誇張癖があり、しかも『日本史』『一五八二年日本年報追加』には意図的に改竄した個所が多数あるという。史料的に全面的に信を寄せるのは、極めて危険である。『日本史』などの史料性の問題に加え、ほかに信長の「唐入り」の表明を記した史料がないのには難がある。 そのような点を考慮すると、信長の「唐入り」表明の事実には慎重になる必要があるのではないか。もし、信長の「唐入り」の構想が家臣らに伝わっていないならば、別に秀吉が明へ移されることを恐れる必要はない。 結論としては、秀吉が信長政権における自らの地位を悲観したというが、根拠が薄弱であると言わざるを得ないのである。むしろ、中国方面の司令官を任されたのであるから、前途洋々だったといえる。 ここまで秀吉が光秀と結託し、本能寺の変に関与していたとの説を取り上げ、とても受け入れられない説であることを指摘した。この説の弱点は、以下のようになろう。①信頼度の低い史料の記述を鵜呑みにしていること。②史料的な根拠がない憶測を展開していること。③著しい論理の飛躍がみられること。④史料の年次比定や解釈が誤っていること。 いずれにしても、秀吉関与説は牽強付会(けんきょうふかい)と言わざるを得ない。秀吉が本能寺の変に関与したと主張するならば、良質な一次史料で事実を指摘する必要があろう。※主要参考文献鴨川達夫「秀吉は『唐入り』を言明したか」(『日本史の森を行く』中公新書、2014年)谷口克広『検証本能寺の変』(吉川弘文館、2007年)渡邊大門『信長政権 本能寺の変にその正体を見る』(河出ブックス、2013年)

  • Thumbnail

    記事

    桶狭間にゲリラ豪雨を降らせた信長の「ガチ祈り」

    橋場日月(歴史研究家、歴史作家) 永禄3(1560)年、織田信長はついにその前半生で最大の敵との対決のときを迎える。駿河・遠江・三河の3カ国を支配する今川義元との戦い―「桶狭間の戦い」だ。 尾張東部の今川方の拠点を奪おうと圧力を強めていた信長に対し、義元は5月10日に駿河の駿府を出陣する。彼が率いる軍勢は公称4万5000、実数は2万5000だったというが、それが藤枝を通過するとき、輿(こし)に乗っていた義元はやにわに刀に手をかけたという。彼はかつて今川家の家督を争って異腹の兄・玄広恵探(げんこうえたん)を攻め殺した過去があるのだが、その恵探その人が街頭にたたずんでいるのを目撃したというのだ。 ほかの誰ひとりそれを見た者はいなかったのだが、出陣前から義元の夢枕にはこの兄が立ち、尾張への侵攻をとりやめるよう義元をいさめていたという。「あなたはわが敵ではないか」と義元が拒むと、恵探は「今川家が滅亡するのを見たくないのだ」と嘆いた(『当代記』)。この合戦は、その幕開けからオカルティックな雰囲気が漂っていたようだ。桶狭間古戦場公園 三河から尾張に入った義元は沓掛城に着陣した。17日のことである。翌18日夕方、清洲城の信長のもとにも「今川軍接近!」の報が届いたが、彼は軍議すら開かず世間話をするだけで、夜が更けてくると「遅くなったから、皆もう帰れ」と言い出す始末。これには家老たちも「進退きわまると知恵の鏡もくもるとはこのことだ」とあきれ、苦笑しながら帰っていった(『信長公記』)。 桶狭間の戦いについては信長が動かせた兵力2000余りに対し、今川軍は前述の通り、2万5000といわれている。とはいってもそのうち2万数千までが強制動員された農民であったため、純粋な戦闘力ではほぼ対等だった、などという主張が近年有力となってきているが、これはおかしい。当時の農民は江戸時代のそれと違い兵農分離が未発達で、農民たちが農閑期ごとに金銭や米穀目当てで合戦に従っていた例は多い。彼らは半農半兵でそれなりに戦場に慣れた手だれだったのである。一方の織田軍はかつての御供衆(「チンピラ仲間」ともいう)で親衛隊メンバーの佐々成政・前田利家らが中心となる精鋭集団が中心とはいうものの、正攻法で来られれば数において圧倒的に劣る信長に打つ手はない。作戦の立てようもなく、ふてくされたように世間話にふけるのも当然だったのだ。「敦盛」を舞った信長の賭け しかし、そのまま何もしないでいれば、前線の織田方拠点は次々と攻め落とされ、信長を見限った家来たちから、今川軍に寝返る者も出てくる。やがては清洲城も内部から崩壊し、尾張は義元に蹂躙(じゅうりん)され、伊勢湾の支配権も今川家の手に落ちるだろう。 なんとしても生き残りたい! 信長は押し殺した表情でのんきに振る舞いながら、若いころ肌身離さず身につけていたひょうたんや火燧(ひうち)袋、三五縄などの魔除けグッズを出してひそかに祈りをささげていたのではないだろうか。 そんな信長のもとへ、19日未明になってまた前線からの使者が飛び込んできた。「今川軍が鷲津砦・丸根砦に攻め掛かりました!」 ふたつの砦は今川方の鳴海城と大高城を監視するためのものだったが、義元はこの目障りな砦を手始めに陥れようというのだ。 これを聞いた信長は、前回紹介した「敦盛」の幸若舞を舞った。「人間(じんかん)50年、下天(げてん)の内をくらぶれば、夢幻(ゆめまぼろし)のごとくなり。一度(ひとたび)生(しょう)を得て滅せぬ者のあるべきか」。桶狭間古戦場公園に立つ織田信長像=名古屋市緑区 勝算はなくとも、今このとき抵抗する姿勢を示さなければどのみち部下たちから見放されて滅びてしまう。ましてや相手も人間。天の味方を得ることができれば、逆に滅ぼすことも可能だろう。短い舞の中で、信長は一か八かの賭けに出ることを決意したのだ。 舞い終わった信長は、「ホラ貝を吹け! 甲冑(かっちゅう)を持ってこい!」と叫び、立ちながら腹ごしらえを済ませると、出された昆布と勝栗を口にした(『道家祖看記』)。これはこの時代に広くおこなわれていた必勝のまじないで、「勝ってよろこぶ」というものだ。ここでもやはり、信長は迷信に忠実である。 そして彼は5人の小姓を従えただけで城を飛び出し、熱田まで3里(12キロあまり)の道のりを馬で一気に駆ける。時刻は辰の刻(午前8時ごろ)。今の熱田神宮は当時熱田社と呼ばれていたが、彼がその摂社の源大夫殿宮(現在の上知我麻(かみちかま)神社)の前から東方を遠望すると、すでに鷲津・丸根両砦が攻め落とされたとみえ、煙が立ち上っている。このころには、後から慌てて信長の跡を追いかけた一行の数は200ほどに増えていた。なぜ熱田神宮じゃなければならなかったのか ここで信長はある行動に出るのだが、それが本稿のテーマに大きく関係するものなので注目していただきたい。「熱田社に参詣し、謹んで伏し拝んだ」。 これが熱田で信長がとった行動だ。記されているのは『甫庵信長記』という、やや信憑(しんぴょう)性に欠ける部分がある史料だ。ところが、現在の熱田神宮にも、信長がこのとき戦勝祈願をおこない、めでたく勝利をおさめた後で寄進したと伝わる「信長塀」が現存している。信長がここで参拝したというのは事実と考えてよいだろう。兵が集まって来るのを待つついでに参拝したと解釈しても良いが、実はここに深い意味があったのだ。熱田神宮 信長が祈りをささげた熱田社の神とは、いったい何か。それは「熱田大神」と呼ばれる。これは天照大神を意味するといわれているのだが、そのご神体が問題だ。「草薙剣(クサナギノツルギ)」。 第3回で紹介したように草薙剣は天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)とも呼ばれ、神話時代に素戔嗚尊(スサノオノミコト)が八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を斃(たお)してその体内(尻尾)から得た剣、すなわち大蛇(オロチ)の力そのものといえる聖剣である。素戔嗚尊はこれを姉の天照大神に献上し、彼自身も熱田社の副祭神とされた。 早い時期から蛇信仰に傾倒してきた信長は、人生の大一番に臨んで熱田社の大蛇(オロチ)に祈りをささげたことになる。当然、それはついでなどというものではなく、全身全霊をかけた真剣なものだったはずだ。 とはいえ、彼が大蛇(オロチ)に祈ったものは、ただ単に「我に勝利を与え給え」という、単純な、そして曖昧模糊(もこ)としたものでもなかっただろう。大蛇(オロチ)が何の神か、ということをもう一度思い出していただきたい。そう、水の神、雨の神である。これが今回のキーとなる。 熱田社で必死の祈りを終えた信長が拝殿から出てきたとき、その傘下の軍勢は1000とも2000ともいう数に膨らんでいた。前線に貼り付いている兵を合わせると、2500という全体の数に限りなく近くなるから、おおよそそれぐらいの兵が熱田にそろったのは確かだ。 そして、信長は正午過ぎには桶狭間の近くの善照寺砦まで軍勢を進めた。さらに家老衆の制止を振り切って中島砦に入り、義元が本陣を構えた「おけはざま山」(『信長公記』)と指呼の間に自身を置く。そして、ついには中島砦さえも出て、おけはざま山に連なる一帯の小丘陵の際まで接近したのだ。義元討ち取りを可能にした「情報」 と、ここで状況に変化が生じる。にわかに空がかき曇ったかと思うと、大雨が降り始めたのだ。雨は「石氷を投げ打つ様に」(『信長公記』)敵の正面に降りかかった。雹(ひょう)をともなった西向きの強い雨風の強さはすさまじく、沓掛のあたりにあった直径1~1・5メートルもあるようなクスの大木2、3本が東へ吹き倒されてしまうありさまだったという。 時期は現在の暦で6月12日。現代でいう「ゲリラ豪雨」だが、筆者は以前からこの気象現象を「ダウンバースト」だろうと指摘してきた。これは積雲や積乱雲(入道雲)からの冷たい下降気流が地面にぶつかって猛烈な突風を起こすもので、雹や霰(あられ)を伴うことが多い。その局地的なものはマイクロバーストと呼ばれ、一層破壊的な風雨をもたらすのだ。当然、この大風雨が起こる以前、西の空には入道雲が現れ、東に向けて動いていただろう。幕末の浮世絵師、月岡芳年が描いた今川義元の最期(静岡県立中央図書館蔵) 信長が桶狭間に向かう道すがら、それを目撃していたことは間違いない。当時、武将には必ず「軍配者(軍師)」と呼ばれる専門技術者が仕えていた。彼らは常に気象状況をチェックし、雲の色形や流れなどで合戦の吉凶を占う。つまり、これから天候がどう変わるかは、地元の利もあってこの軍配者がかなりの正確さで判断し、信長に上申していたはずだ。 その情報を得た信長は、雲に合わせて東に進み、ちょうどバーストが始まる直前に戦闘態勢を整えたというわけだ。  そして、大風雨が一帯を襲う。信長は、それが自分の頭上から東へ進むのを確かめると大音声をあげる。午後2時ごろのことだった。「空が晴れるのをご覧になって、すわかかれ、かかれ!と突撃命令を下された」。 ちょうどバーストに襲われたばかりの義元本陣は、信長勢の姿すら見ることができない。桶狭間一帯は、小丘陵群とその合間の「深田足入れ」と表現される低湿地が広がっている。本陣の前の山々に布陣していた先鋒(せんぽう)部隊は、通過した風雨の影響で「深田」がさらにたちの悪い泥沼と化してしまったため、本陣の急を知っても駆け付けることすらできない。 こうして、信長と義元の戦いはほぼ同数の一騎打ちとなった。敵へろくに顔も向けられず目も開けられない義元本陣の将兵は、またたくうちに信長勢に切り立てられてしまう。義元の300人ほどの旗本も中心の義元を守って円陣を組み戦っていたが、これも次第に討ち減らされていく。義元が討ち取られたのは、それから間もなくのことだった。

  • Thumbnail

    記事

    「前代未聞の大将」明智光秀の謎多きルーツをたどる

    渡邊大門(歴史学者) 明智光秀が経歴という点において、信長のほかの家臣と大きく異なっている点は、どことなく漂うインテリの香りである。光秀は美濃国の出身として知られ、名門・土岐氏(美濃国などの守護)の支族・土岐明智氏を出自とするといわれている。のちに光秀のライバルとなり天下を獲った豊臣秀吉は、一般的に農民の倅(せがれ)であったといわれており、その差は歴然としている。 そして、光秀は豊かな教養を持っていたといわれている。彼が本能寺の変の直前に詠んだ発句「時は今 雨が下しる(あるいは『下なる』)五月哉」は、通常「土岐氏の子孫である自分が天下を獲る五月である」と訳されているが、さらに深い読み込みがなされ、多くの解釈が生み出されている。この技巧が優れているがゆえに、その教養が高く評価されているといえよう。同時に光秀の教養が深いゆえに、武人としての線の細さや弱々しさもイメージとして残っている。 では、本当に光秀は美濃・土岐氏の一族である土岐明智氏の出身なのだろうか。以下、具体的に検証を試みることにしよう。 光秀の経歴については、その前半生には実に不明な点が多い。その先祖についても不明な点が多い。光秀が史上に登場するのは、永禄12(1569)年1月のことであり(『信長公記』)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛した翌年にあたる。それ以前については、後世の編纂物(二次史料)などによって、ようやく動向をうかがうことができる程度である。光秀の前半生に関連する一次史料は、圧倒的に不足している。京都・小栗栖で落ち武者狩りにあう明智光秀 =『国史画帖大和桜』(昭和10年刊)より しかも、二次史料に基づいた光秀の前半生については、不確かなものが多い。光秀の事績を記す二次史料は、史料の性質が劣るため、疑問に感じる点が多いのである。明らかな間違いも多々ある。『明智軍記』などは、その代表的な質の劣る史料である。 次に、光秀の事績に関する通説を確認しておこう。 明智氏は、美濃国の名門で守護を務めた土岐氏の支族である。土岐明智氏という。土岐氏は清和源氏の末裔(まつえい)であり、美濃国に本拠を置く名族である。南北朝期以降の土岐氏は、室町幕府から美濃国などに守護職を与えられた名族である。 土岐明智氏の出身地については、二つの説が有力視されている。一つは岐阜県恵那市明智町であり、もう一つは岐阜県可児市広見・瀬田である。前者には明知城址があり、光秀にまつわる史跡があることから、現在も「光秀祭り」が催されている。 後者にはかつて明智荘という荘園があり、今は明智城址が残っている。互いに「明智」の名を冠していることから、土岐明智氏の出身地と考えられており、非常にややこしいことになっている。室町幕府に仕えた土岐明智氏 戦国時代研究の第一人者の小和田哲男氏によると、恵那市明智町は遠山明智氏ゆかりの地であって、光秀の出身である土岐明智氏に結びつけるのは難しいと指摘している(『明智光秀―つくられた「謀反人」―』PHP新書)。むしろ、可児市広見・瀬田のほうが、可能性が高いというのが結論である。遠山明智氏は藤原北家利仁流の流れを汲み、現在の恵那市明智町に本拠を築いた。 土岐明智氏が室町幕府に仕えていたことは、事実である。奉公衆(室町幕府の直臣)の名簿である『文安年中御番帳(ぶんあんねんちゅうごばんちょう)』には外様衆として「土岐明智中務少輔」の名を、『東山殿時代大名外様附(ひがしやまじだいだいみょうとざまふ)』にも同じく外様衆として「同(土岐)中務少輔」の名を、三番衆として「土岐明智兵庫助」の名を確認することができる。『常徳院御動座当時在陣衆着到(じょうとくいんごどうざとうじざいじんしゅうちゃくとう)』にも「土岐明智兵庫助」と書かれている。 外様衆の役割については不明な点が多いものの、有力守護の支族が名を連ねている点を考慮すれば、相当な格式と地位があったといえる。何といっても、外様衆は将軍の直臣でもある。土岐明智氏もまた土岐氏の支族であるがゆえに、外様衆に加えられたのであろう。そして、土岐明智氏の名は、おおむね14世紀半ばから15世紀の終わりにかけて、多くの一次史料で確認することができる。その本拠地は、やはり美濃国だった。 次に、光秀の年齢について触れておこう。従来、光秀の年齢は『明智軍記』や明智氏の系図類に基づき、多少のばらつきがあるものの、天正10(1582)年に55~57歳の間に亡くなったと考えられてきた。つまり、光秀の誕生年は、大永6(1526)年から同8(1528)年の間になる。 信長研究の第一人者である谷口克広氏は『当代記』(織豊政権期から江戸幕府の成立期にかけての歴史を記した編纂物)という史料に基づき、67歳で亡くなったと指摘した(『検証 本能寺の変』)。つまり、永正13(1516)年の誕生となり、従来よりも年長になっている。史料の質からいえば、『明智軍記』などよりも断然『当代記』のほうが高く、後者の可能性が極めて高い。明智光秀像(本徳寺所蔵) 光秀の父については、諸説あって定まらないところである。現在、知られている系図類では、光綱とするもの、光隆とするもの、光国とするものに分かれており一致しない。整理すると、次のようになろう。 ①光綱――「明智系図」(『系図纂要』所収)、「明智氏一族宮城家相伝系図書」(『大日本史料』11―1所収)。②光隆――「明智系図」(『続群書類従』所収)、「明智系図」(『鈴木叢書』所収)。③光国――「土岐系図」(『続群書類従』所収)。 残念なことに、光秀の父について語る史料は皆無といわざるを得ない。光秀のように史上に突如としてあらわれた人物の場合、意外と父祖の名前さえ判然としないケースが多い。系図によってこれだけ名前が違い、史料的な裏付けが取れないのであるから、これらの系図の記載を詮索してもほとんど意味がない。光秀の父については、不詳といわざるを得ないのが現状だ。 では、光秀の来歴を物語る史料はないのか。信長に与えられた「惟任」姓 光秀を語るうえで重要な史料として、『立入左京亮入道隆佐記(たてりさきょうのすけにゅうどうりゅうさき)』がある。この史料は、禁裏御倉職(きんりみくらしき)の立入宗継が見聞した出来事などの覚書を集成したもので、七世の孫・中務大丞経徳が書写したものである。ただ、後世に成った史料なので、内容にいささか注意する必要がある。 同史料には、天正7(1579)年に光秀が丹波を平定した際、信長から丹波一国を与えられたことを記し、光秀について「美濃国住人とき(土岐)の随分衆也」と記録している。そして、信長によって「惟任」姓を与えられ、惟任日向守を名乗るようになったと記す。光秀の栄達ぶりを示すものである。 随分衆とは、土岐氏の中にあって、相当な地位にあったことを示している。随分には、身分が高いという意味が含まれている。残念ながら、隆佐が光秀の経歴をどこまで知っていたかは不明である。「美濃国住人とき(土岐)」というのも、確証を得ないのではないか。ところで、『立入左京亮入道隆佐記』のこの記述には、前段に次の興味深い一節がある(現代語訳)。 惟任日向守(明智光秀)が信長の御朱印によって丹波一国を与えられた。時に理運によって申し付けられた。前代未聞の大将である。 理運にはさまざまな意味があるが、この場合は「良い巡り合わせ、幸運」くらいの意味と考えてよい。理運によって、光秀は丹波一国を与えられたので、前代未聞の大将だったのである。立入宗継にとっては、光秀が名門土岐氏の相当な地位にあったと想像していたとはいえ、丹波一国を授けられたことは驚倒すべき印象を持ったと推測される。となると、隆佐は光秀を「随分衆」とは言っても、実際には光秀の経歴を詳しく知らず、風聞に拠って知った可能性が高い。天正10年1月11日付斎藤利三の書状。明智光秀を示す「惟任」の字が見える(松永渉平撮影) 光秀の父以前や自身の前半生がほとんど不明であること、また周囲の評価において「理運」「前代未聞」とあるところを見ると、光秀は土岐氏支族の土岐明智氏を本当に継いだのか再検討する必要がある。裏付けが非常に乏しいのである。 つまり、幕府外様衆の系譜を引く土岐明智氏ではなく、まったくの傍系の明智氏である可能性や、土岐氏配下の某氏が明智氏の名跡を継いだ可能性も否定できない。光秀が本当に土岐明智氏の系譜を引いているのかについては、未だ疑問が多い。それゆえに、父の名前さえ系図によって、異なっているのであろう。 たとえば、幕府の奉公衆などの名簿の『永禄六年諸役人附』には足軽衆として、「明智」の姓が記されている。従来説では、この明智が光秀であると考えられてきた。ただ、肝心の名前が記されていないので、この「明智」が光秀である確証はない。足軽衆とは単なる兵卒ではなく、将軍を警護する実働部隊と考えてよいであろう。 『永禄六年諸役人附』に記載された足軽衆は、名字のみしか記されていない者も多く、メンバーはおおむね無名の存在ばかりである。奉公衆クラスを出自とする者は存在しない。そうなると、逆に土岐氏の支族で「名門」の土岐明智氏が、なぜ足軽という地位に止まったのか不思議である。かつて土岐明智氏は、外様衆という高い身分にあったからである。 つまり、これまでの光秀は、外様衆・明智氏を出自とすると考えられてきたが、誠に程遠い存在といえよう。『永禄六年諸役人附』の明智が光秀と同一人物であるか否かは不明であるが、いずれにしても当時の明智氏(あるいは光秀)は、まったくの無名の存在であったと考えるのが妥当ではないか。『永禄六年諸役人附』の記述をもって、光秀を名門の土岐明智氏に繋げるには、あまりに材料不足である。「よそ者」だった光秀 信長に仕えて以後の光秀は、無名のところからはい上がり必死であった。信長は能力主義者であり、名門の出自であることなどほとんど考慮しなかったであろう。ゆえに、信長の重臣の多くは、ほとんど無名の立場から這い上がった者が大半であった。したがって、光秀が名門土岐氏の支族である土岐明智氏の出自であることについては、頭から信用するのは危険であると考えなくてはならないと指摘できよう。 もう少し、光秀の出自について考えてみよう。 光秀の前半生を語るうえで、重要視すべきなのは二つの史料である。その二つとは、光秀が家中に発した「家中軍法」が一つであり、もう一つはフロイスによる光秀の評価である。この二つの史料について、これから考えてみよう。 天正9(1581)年6月、光秀は家中に「家中軍法」を発した(「御霊神社文書」)。その内容は18カ条から成り、戦場や行軍中に守るべきことや、与えられた石高に対して負担する軍備などが列挙されている。これ自体が珍しいものであるが、注目すべきは結びの言葉である。次に、示すことにしよう。 すでに瓦礫のごとく沈んでいた私を(信長が)召し出され、さらに多くの軍勢を預けてくださった。 この言葉は、実に重みのある内容を含んでいる。少なくとも光秀が苦しい前半生を送っていたことは間違いなかったと考えられるが、何らかの契機に信長に仕官することによって、この段階で大きく出世を遂げたのである。 注意しなくてはならないのは、豊臣秀吉が農民の倅(せがれ)を出自としながらも、信長の配下で大出世を遂げたことである。前半生が不明であることも含めて、信長に登用されたことが二人の共通点である。この史料の一節は、光秀の前半生が不遇であったことを伝えるものである。裏返して言えば、名門・土岐明智氏の出身でない可能性をうかがわせる。明智城址=岐阜県可児市 もう一つの史料がフロイスの手になる『日本史』である。同書には、光秀の立場について「殿内にあって彼はよそ者であり、外来の身であったので、ほとんど全ての者から快く思われていなかった」と記している。この史料もまた、光秀が信長に仕えるまで、さほど活躍していなかったことをうかがわせるものがある。さらに「よそ者」という言葉は、光秀の外様としての立場を如実にあらわしている。 これまでの光秀は、美濃国土岐氏の支族・明智氏の系譜を引く名門と考えられてきた。ところが、その可能性は低いのではないだろうか。そもそも父祖の記録がないことが気にかかる。光秀が土岐明智氏の名を勝手に名乗っているか、名跡を継いだという可能性も残されている。 『立入左京亮入道隆佐記』では、その辺りの事情を十分に把握していないので、本人の言葉を信じて記録したことも考えられよう。いずれにしても、確証を得ることができず、光秀の前半生は名門・土岐明智氏を出自とする点が疑問であり、あまりに謎が多すぎる。 つまり、光秀が美濃国土岐氏の支族・明智氏の系譜を引く名門という説は、再検討の余地が十二分にあり、現段階では何の証拠もないのだ。※主要参考文献 谷口研語『明智光秀 浪人出身の外様大名の実像』(洋泉社歴史新書、2014年) 渡邊大門『信長政権 本能寺の変にその正体を見る』(河出ブックス、2013年)

  • Thumbnail

    記事

    道三を見捨てた信長の「銭まじないと下天の決意」

    橋場日月(歴史研究家、歴史作家) 信長が干ばつをきっかけとして弟の信勝を謀殺する以前、信長は妻の父を喪っている。美濃の斎藤道三だ。信長が道三の娘を正室に迎え、舅(しゅうと)の道三を後ろ盾にしたことについては第3回で述べた。その道三が、弘治2(1556)年4月、長男の義龍に討たれたのである。道三が義龍を嫌い、次男、三男をえこひいきしたことが直接の原因で、その背景には尾張に対してなどの外交方針をめぐる対立があったようだ。道三のバックアップによってようやく尾張での主導権を維持していた信長のこと、当然ながら窮地に立たされた道三を援護すべく美濃に出陣する。 自分をかわいがり、信長が合戦におもむく際には美濃の兵を清洲城の留守番に貸してくれるなど、何かと便宜を図ってくれた舅。それを救うべく美濃におもむくなど、何とも絵にもドラマにもなる話ではないか。 ところが、である。信長の人生を脚色しながら面白おかしく伝えた『甫庵信長記』はじめ、後世の軍記物はこのときの彼の行動にまったく触れていない。『武将感状記』では出陣そのものも道三戦死の後のこととし、「弔い合戦に出陣した信長は義龍が手ぐすねひいて待っているのを知ると気をのまれたのか、途中で引き返してしまった」などと記しているのが唯一の例で、その話自体もまったくさまにならないのだ。 では、実際彼はどのように行動したのだろうか。『信長公記』によると、信長は道三救援のために一応出陣はしている。木曽川、飛騨川を渡って大良(現・岐阜県羽島市正木町の大浦あたり)の南辺りまで進んだ信長だが、彼はここで進軍をストップした。戸嶋東蔵坊という寺の敷地がその本陣とされたのだが、この本陣でちょっとした騒ぎが起こる。 「境内のあちこち、堀や垣根からも銭が詰まった瓶が掘り出され、どこも銭を敷いたような具合だった」(同書、『太田牛一雑記』) 当時、有力な寺は高利貸で莫大(ばくだい)な財産をため込んでおり、東蔵坊もそういう「財テク」で稼いだ金銭を地面に埋めて保管していたのだろう。今でも、中世にそうして埋められたまま忘れ去られた銭の瓶が、たまに発掘されている。金華山(稲葉山)山頂にある岐阜城=4月23日、岐阜県岐阜市(本社ヘリから、門井聡撮影) 問題は、なぜ信長が堀や垣根まですべて掘り返していたのか、ということなのだが、考えるまでもなく、本陣を堅固な要害に大改修し陣城に造り替えるためである。道三が布陣している稲葉山城北西の鷺山までは約14km。「こんなところで城作りにかまけ、油を売っている場合ではないぞ!」と誰もが余計な心配をしてしまう呑気(のんき)さではないか。 そして、案の定、その間に道三は義龍との決戦に敗れ、首を取られてしまった。信長の「銭まじない」 どうも、信長は「美濃の国の領地持ちの武士たちは、みな義龍方となった」(『太田牛一雑記』)という情勢に勝ち目なしとみて、戦意を喪失してしまったらしい。そしてサボタージュをごまかすために築城工事にかかり、その工程で無数の銭を掘り出してしまったわけだ。 さて「地中から銭が出てきました」と報告を受けた信長は、その後どうしたのだろうか。同書はいう。 「銭をつながせ御覧候」  銭をひもでつながせて、それを見物したのだ。銭をひもでつなぐというのには、2つのケースが考えられる。1つは100文単位、1000文単位などで銭の穴に縄を通してまとめる「鎈(ぜにさし)」を行ったケース。 当時、銭を保管したり取引に用いたりする際、まとまった単位の鎈がよく用いられたから、それを行わせたのだろうか。 しかし、境内の至るところから出てきた無数の銭を、いちいち計数して単位ごとにつながせ、それを検分するなど、自分の戦意のなさを部下の兵たちや敵のスパイにも見透かされてしまうような振る舞いを信長がするだろうか。 そこで、もう1つのケースが有力となってくる。今でも名古屋とその周辺では5円玉12枚に麻ひもを通し、それを赤ちゃんの産着に結びつける風習が残っている。これは「紐銭(ひもせん)」「帯銭(おびせん)」の一種と考えられ、関西で祝儀袋を結びつけるのと同様、お金に困らないようにというまじないの意味を持つ。信長もこのまじないを実行したのではないか。 かつて中国には「厭勝銭」(えんしょうせん、あっしょうせん)というまじない用の非流通銭があり、日本でも室町時代から盛んに行われた。銭の形には呪術(じゅじゅつ)的な力があると信じられていたのだ。信長も銭の霊験を信じ、地元に伝わる紐銭のまじないを実行して幸運を祈念したのではないだろうか。それならば、部下たちの士気も下げず、敵にも足元を見られずに済むというものだ。名古屋市の万松寺にある幸若舞『敦盛』を舞うからくり人形の信長(中田真弥撮影) このようにして信長が模様眺めをしながら、まじないにふけっているうちに道三を破った義龍の軍勢が大良にも攻め寄せてきた。信長はこれにひと当てした後、自ら木曽川の舟の上で殿軍(しんがり)を務めて配下の兵たちを尾張へと引き揚げさせる。後には、信長の援軍をあてにしていた道三がその交換条件として出した「美濃一国の譲り状」が残った。「(美濃国は)織田上総介信長存分に任すべき」という、有名な内容の書状だ(『妙覚寺文書』)。 信長のまじないは、義龍との不利な戦いを避けるために役立ち、後に彼が美濃に侵攻する際の大義名分までもたらしてくれたのだった。世話になった舅をあっさりと見捨てた信長だが、乱世を生き抜くためには舅でも利用し、都合が悪くなれば見切ることを躊躇(ちゅうちょ)しないという合理主義は、彼の中で厄除けや蛇神にさえ頼るという思想と矛盾しないのだろう。武田信玄の嫌な予感 その翌年、信勝を排除した信長は、永禄2(1559)年に尾張上四郡守護代家、岩倉城の織田信賢を下して国内をほぼ平定する。明くる年にはいよいよ彼の一世一代の大勝負、「桶狭間の戦い」へと突入していくのだが、その前にこの頃の彼の日常に触れておこう。 天永寺というのは清洲城から前回紹介した蛇池を越えてさらに東に進んだ味鋺(名古屋市北区楠味鋺)の寺で、現在も天永寺護国院という名で同地にある。その寺の天沢(てんたく)という学識豊かな僧侶が、関東に下る途中で甲斐を通り、武田信玄に招かれて信長について述べている。 その中でよく知られているのが、 「幸若舞の『敦盛』がお好きで、『人間50年、下天(げてん)の内をくらぶれば、夢幻(ゆめまぼろし)のごとくなり』と口ずさまれながら舞われます。舞はこの一曲のみです。また、小唄では『死のうは一定(いちじょう)、忍び草には何をしよぞ、一定かたり起こすよの』をよく唄われます」という部分だ。信長を描くドラマでもしばしば紹介されているので、ご存じの方は多いだろう。建勲神社にある「敦盛」の句が刻まれた石碑=2017年12月1日、京都(中田真弥撮影) この幸若舞『敦盛』に出てくる「下天」というのは何かというと、天上界(天界)の最下層の「他化自在天」を意味する。その下天でさえ、時の流れは一日一夜が人間界(俗界)の1600年にあたるという気の遠くなるような長いものであり、人間界に生きるわれわれの50年の人生など一瞬にすぎない、と喝破しているのだ。 信長はこの舞で限られた時間を自覚し、続いて小唄で「短い人生、人はどうせ必ず死ぬのだから、必ずや何事かを仕遂げ、後世の語り草にしてやる」と意欲を燃やす。人生のクライマックスを間近に控え、何が何でも運命を切り開いていこうという決意がうかがえるではないか。 このほかにも信長のやり方を根掘り葉掘り天沢からヒアリングした信玄は「信長が軍事にたけているのも無理はないな」とつぶやき、苦虫をかみつぶしたような顔をしていたという。恐るべき奴が尾張に出てきた、と恐れを抱いたのだ。そして、彼のこの嫌な予感は、この時期から20年あまり後に武田家が信長に滅ぼされることによって的中する。 ところで、この「下天=他化自在天」、もうひとつ別の呼び方を「第六天」という。天上界の下部に位置し、上から四大王衆天、忉利天、夜摩天、兜率天、化楽天と続く最後、6番目の天だから第六天、というわけだ。この第六天は今後のキーワードとなるので、心に留めておいていただきたい。 この甲斐での出来事は、その後帰国した天沢によって織田家に伝えられたらしく、太田牛一は『信長公記』に収めた。言うまでもなく、信長の耳にも入っただろう。信長はこれを強烈に覚えていたものと見えて、後に信玄との外交的なやりとりの中でもこの話を伏線として文言に含ませるのだが、それはまたいずれ解説しよう。 次回はいよいよ、桶狭間の戦いで信長のオカルト趣味が炸裂(さくれつ)する。

  • Thumbnail

    テーマ

    功臣か賊臣か、西郷どんの実像

    明治維新150年の節目、2018年のNHK大河ドラマは『西郷どん』である。主人公、西郷隆盛は木戸孝允、大久保利通とともに維新三傑に挙げられる英雄だが、その波乱な人生から「幕末の功臣にして明治の賊臣」との評価もある。西郷隆盛とはどんな人物だったのか。知られざる実像に迫る。

  • Thumbnail

    記事

    なぜ西郷隆盛は「幕末維新の立役者」になれたのか

    木村幸比古(霊山歴史館副館長) 薩摩が動けば日本が変わる。その中心的存在が西郷隆盛であろう。上野の西郷像に示されるように、その熱いまなざしで世界を見つめている。身長は五尺九寸(178センチ)体重は三十二貫(120キロ)。首まわりは19インチで、洋行帰りの友人からの土産のワイシャツをよく着ていたという。血液型はB型で繊細な性格である。頭を丸めたきっかけは、かわいがっていた弟の吉二郎が戊辰戦争で戦死を知り、深く嘆きまげを切った。 明治22(1889)年2月11日、大日本帝国憲法公布の恩赦で、西郷の西南戦争の「逆臣」の汚名がそそがれ、正三位を受けた。東京都台東区の上野公園にある西郷隆盛の銅像(大井田裕撮影) 西郷の銅像といえば、三銅像が有名である。明治31年(1898)に建立された上野の像は高村光雲作で、犬は後藤貞行が手がけた。銅像は吉井友実らが発起人となり、宮内省から500円、全国2万5千人から寄付金が寄せられた。 鹿児島・城山のふもとにある陸軍大将姿の西郷像は昭和12(1937)年に完成、鹿児島出身の安藤照の作品である。安藤は渋谷の初代忠犬ハチ公も作っている。銅像建設計画があがるや、銅像の築山づくりに延べ3万4千人の県民が奉仕作業を行い、対岸の大隅半島から花崗(かこう)岩550個を運び入れた。2キログラムほどの小石は海岸から築山までの6キロの距離を、小中学生が横一列に並んで手渡しで運んだという。そして8年の歳月をかけ、県民総出で作りあげた軍服姿の西郷像は、歴史家の海音寺潮五郎も絶賛するほどの出来映えであった。 近年では、鹿児島県霧島市溝辺町に建つ「現代を見つめる西郷隆盛像」がある。昭和52年(1977)に完成した像は古賀忠雄の作品である。関西鹿児島県人会の有志が発注したが、発起人の死去により10年近く富山県高岡の鋳造所で眠っていた。当時、鹿児島選出の迫水久常参院議員(元書記官長)の関係者から私に建設所の相談を受けた。はじめは西郷のゆかりの地の京都清水寺と協議したが、本堂の屋根より高かったため景観問題で断念した。そこで、私の勤務する霊山歴史館の裏山に設置する案が浮上したが、銅像を設置した場合の公園の広さ不足と、地震帯が走る地質のせいで、建設が不可となった。その後、鹿児島空港近くの旧溝辺町の最適の地に建った。 実はもう一つ、上野の像の10年前の明治22(1889)年に西郷と親交があった嵯峨実愛(さねなる)の弟の植田楽斎が発起人となり、清水寺参道広場(清水寺駐車場)に馬上姿の西郷像の建設を試みた。工学士河合浩蔵の西洋風設計で、樺山資紀(かばやますけのり)と九鬼隆一の呼びかけに西郷従道も賛同していたので、西郷の未亡人イトも軍服姿の西郷像の原図を見ていたことになる。ところが植田が死去したために実現せず、幻の西郷像となった。未亡人、『かり』の姿にあぜん そのイトが上野の銅像除幕式に参列して、銅像にあぜんとした。「あれは『かり』の姿で、本当は実に威儀を正した、何事にもきちんとした人だった」と思わず語った。従道が「みんなの浄財で建ったのだから、そういうことはいってはいけません」とイトをいさめた。銅像の西郷が明治六年の政変に敗れて下野し、普段着に愛犬を連れた隠居姿だったからだ。イトはおそらく、10年前に京都に建つはずだった、西郷の陸軍大将姿を思い浮かべていたのだろう。 銅像の建設には、西郷や犬の顔をどうするかの試行錯誤があったといわれ、西郷の顔は身内の顔を参考にしたエドワード・キヨソーネのコンテ画をもとに製作した。犬は薩摩犬の愛犬ツンというメス犬を基本にオスにしたという。しかも、上野の山に建てたのも、東北列藩にたいしてにらみを利かすためといわれるが、決してそうではない。西郷は会津藩家老西郷頼母と親交があり、会津戦争後に助命嘆願を求めた頼母に書面と見舞金を送っていた。薩摩の西郷のもとには庄内の青年たちが来て、西郷の精神を求めていた。その教えをもとに『西郷南洲翁遺訓』が刊行されたのである。鹿児島市の城山のふもとに建つ西郷隆盛像。観光客の絶好の記念撮影スポットになっている 西郷や大久保利通をはじめとする薩摩出身の明治維新の指導者たちは、青少年の教育制度「郷中教育」で育った。郷中教育はよくボーイスカウト活動に似ているといわれている。先生が生徒を教えるのではなく、地域の年長者が年少者を指導するところからイギリスの軍人ベーデン・パウエル卿が1908年、イタリアの教育者モンテッソーリの教育法を取り入れ、創設されたのがボーイスカウトである。 郷中教育とボーイスカウトとは一般的には無関係といわれるが、1929年、イギリス国王ジョージ5世の戴冠(たいかん)式に明治天皇の名代として東伏見宮依仁(よりひと)親王が出られ、乃木希典が随行した。乃木の日記には、パウエル卿の案内でボーイスカウトを視察し、乃木がその素晴らしさに感激し「どのようにして、このような訓練を考えられたのか」と尋ねると、パウエル卿は「日本の薩摩の健児の舎、つまり郷中教育を知り、よいところを取り入れ組織化しました」と答えたという。パウエル卿が実際にボーイスカウトに郷中教育を取り入れたかは別として、郷中教育を高く評価していたのである。パウエル卿は、生麦事件や薩英戦争の教訓として調べていたのだろう。 西郷は郷中教育の他に、17歳から28歳まで毎日、薩摩誓光寺で参禅を欠かさず、無参和尚から禅問答で「活きた実物をみるべき」と諭された。禅の「即今」は「過去は変えられないし、未来は現実でない。ただひたすらに今を生き切る」ことを言う。西郷はその後の人生で困難に遭遇すると、「即今」の信念をもって貫徹した。西郷に仰天した斉彬 その後、西郷は藩主島津斉彬(なりあきら)に見いだされるが、斉彬の目にとまった一言がおもしろい。斉彬が江戸で土佐藩主の山内容堂に会ったとき「『お前のところには西郷という偉い家来がいるそうだが』との言葉に、西郷を知らなかった斉彬は仰天した」(孫の西郷吉之助談)。斉彬は下級藩士を一気に登用するわけにもいかず御庭番にした。日々西郷を身近に置きたかったのである。 安政元(1854)年4月、西郷は28歳のとき、藩主斉彬の江戸参勤に従い御庭番方役と鳥預となり、役料米二十四俵一斗で江戸勤務となった。藩主のそばで御庭番と小鳥の餌すりをしながら藩主の考えを聞くことができた。斉彬は「蘭癖大名」と周りから呼ばれるほど、常に世界地図を頭に描きながら、薩摩の近代化を目指して取り組んでいた。西郷は斉彬の開明的な発想にすっかり感心させられた。幕末の薩摩藩主、島津斉彬 斉彬は日本を刷新するには、英明な人材を将軍職につかせることが必要だと考え、開明派の越前藩主松平春嶽らと将軍継嗣問題で一橋慶喜を推していた。これに対し、大老井伊直弼は紀州藩主の徳川慶福(のち家茂)を推した。英明の一橋派、将軍の血脈の南紀派と分かれた。西郷は斉彬の密命を受け東奔西走し、江戸では有能の人物と親交を結んだ。樺山三円の紹介で水戸藩士の藤田東湖と会い、水戸学の尊王攘夷思想の影響を受けた。将軍継嗣問題で会った越前の橋本左内は年少であったが、開明的な考えに会うたびに感銘し、「わが師は東湖、わが友は左内」と称したという。 西郷は篤姫が将軍徳川家定に嫁ぐ際、京都などで婚礼調度を買い入れし、斉彬から大奥での一橋派への尽力を求められていたという。結局、井伊大老は14代将軍を家茂に決めた。さらに西郷は斉彬の急死を京都で聞き「もはや生きていても仕方がない」と悲嘆にくれ、後追い自殺を考えた。だが、清水寺僧月照から「生きて斉彬の遺志を継ぎ国事に尽くせなければいけない」と諭された。 安政の大獄で京都を追われた月照が薩摩に逃れてきた。ところが藩が月照の薩摩入りを拒否したため、西郷は錦江湾に漕ぎ出た屋形船から月照を抱えて入水自殺した。ふたりは海面に浮かんできたが、西郷は蘇生(そせい)し、月照は亡くなった。藩では葬ることはできず、薩摩藩御用商人の波江野休右衛門が西郷家墓地の近くに葬った。薩摩藩庁は西郷も死んだこととし、菊池源吾と改名させ、奄美大島に潜居させた。西郷の第二の人生はここで始まり、島の有力者の娘の愛加那(あいかな)と結ばれ、菊次郎と菊子が生まれた。成長した菊次郎は西南戦争で足を失いながらも外務省に入り、京都市長になっている。 大島から呼び戻された西郷だったが、お由羅騒動で起きた斉彬の腹違いの弟、「国父」島津久光との確執は上京計画の反対や、寺田屋騒動への連座で溝が深まるばかりであった。久光は西郷を徳之島さらに沖永良部島へ流罪した。西郷は久光を「じごろ(田舎者)」とよび蔑視したという。結局、西郷は元治元(1864)年2月、38歳で赦免されることが決まった。苦々しく思った久光がくわえていた銀のキセルには歯型がくっきりついたという。公議政体への道を歩み出す 赦免された西郷を待ち受けていたのは禁門の変であった。西郷は「会津と長州の私闘である」と判断していた。斉彬の遺志は勤王主義であった。大久保利通宛の書状にも「今度の戦争は、まったくの長・会の私斗に御座候間、無名の軍を動かし候場合にこれ無く、誠に御遺策の通り、禁闕守護一筋に相守り候」と記し、薩摩は幕府の出兵命令をためらった。しかし、長州が禁闕、つまり御所蛤御門を突破したため、西郷は薩摩藩として亡き斉彬の遺策に従い、御所を守る出兵に踏み切った。幕末の動乱期、禁門の変(蛤御門の変)の舞台となったことで有名な蛤御門=京都市上京区の京都御苑 西郷は以来天皇寄りの考えになり、公武合体から公議政体への道を歩み出した。 西郷と勝海舟の初対面はその年の9月のことであった。当時、西郷は京都留守居格、勝は軍艦奉行と神戸海軍操練所頭取を兼務する幕府の高官であった。西郷と対面した勝は「おれは今までに天下で恐ろしいものを二人みたよ。それは横井小楠と西郷南洲だ」と評した。また西郷も勝の人物評を大久保宛の書状で「勝氏に面会したが、実に驚くべき人物である。はじめは打ち負かすつもりだったが、こちらの頭が下がるような状態であった。どれだけ知略があるかわからない英雄肌の人物である」と伝えた。 二人は禁門の変で朝敵となった長州藩の戦後処理について話し合った。勝は幕臣でありながら幕府内部の腐敗ぶりを明らかにし、これからは雄藩が協力して国難に当たるべきと力説した。西郷は、この会談を契機に長州藩に対する処罰を穏便に済ませようと今までの強硬路線を転換させた。薩長同盟の尽力は坂本龍馬の独り舞台のように語られるが、このころに西郷の心づもりはできていたのである。 西郷は、近代国家の樹立が国際情勢からみて急務であり、西南雄藩連合によるべきと痛感していた。大政奉還から王政復古での人選をみても、近代国家にかける意気込みが感じられる。西郷は鳥羽伏見の戦いに天皇のシンボルである錦の御旗を掲げて勝利し、勢いづいていた。一方、最後の将軍慶喜は恭順を表し謹慎中であったが、勝は江戸百万都市をどう守るか思案していた。 慶応4(1868)年正月21日、徳川宗家の寛大な処分には孝明天皇の妹和宮しかないと周りは期待をかけ、和宮は嘆願書を東征軍鎮撫(ちんぶ)使橋本実梁(さねやな)へ届けた。「慶喜一身は如何様にも仰せられ、何卒家名立ち行き候様幾重にも願い度候」と、慶喜の処分を受ける代わりに、徳川宗家の存続を望んだのである。慶喜の処分については、厳罰派の西郷と寛大派の岩倉具視で対立していた。西郷は大久保宛の書状に「慶喜隠退の嘆願、甚だ以て不届千万、ぜひ切腹迄には参り申さず候はでは相済まず、必ず越前、土佐などより寛論起り候わん。然らば静寛院(和宮)と申しても、矢張り賊の一味と成りて、隠退位にて相済み候事と思しめされ候はば、致し方なく候に付、断然追討在らせられ度事と存じ奉り候」(2月2日)と腹の虫が収まらない様子だった。 朝廷から和宮への返答は「この度の事は、実に容易ならざる義に候へ共、条理明白」で、門前払いであった。篤姫から西郷にも「徳川家無事に相続相い叶い候様御取り扱いの偏に偏に御頼り申し候」と嘆願書を届けた。西郷は篤姫に薩摩に戻ってほしかったという。 明治新政府は西郷の描く国家にあらず 勝は西郷の真意を探るため、幕臣山岡鉄舟と大久保一翁に会った。初めて山岡に会った勝は、見識があり、剣と禅で精神を練っただけあって肝が据わった人物とみた。禅をしていた西郷と交渉するため、山岡を使者にたてることにした。ちょうどこの日の3月6日、駿府では軍事会議が開かれ、大総督府は、15日に江戸城総攻撃を決定した。3月9日、駿府で山岡と西郷は会談を持った。このとき勝は山岡に書状を託していた。「主義主張が変われども天皇を抱く国民であり、徳川の臣も天皇の民であることに変わりない。戦いになればその責任はあなた方でとってもらう。戦禍になれば江戸百万都市は二度と戻らない」 西郷は心が揺らいだ。斉彬の遺志は、勤王主義による共存共栄が国家をよりよくすることだったからである。山岡は毅然(きぜん)とした態度で西郷に英断を迫った。現実をみて判断すること、まさに生き切る禅の「即今」の考えを求めたのである。西郷のそばに控えていた桐野利秋は山岡を斬ろうしたが、寸分の隙がなかったと回想している。 ついに3月13日、14日、西郷と勝は江戸で会談し、西郷は総督府と協議し、江戸無血開城が決まった。その裏で勝は英国公使パークスと相談した上で、新政府軍の江戸城攻撃に正当性はないと西郷にクギを刺していた。両雄の英断が江戸を守ったのである。東京・上野公園の西郷隆盛銅像で、西郷が連れているオス犬(大井田裕撮影) しかし、明治新政府は西郷の描いた国家ではなく藩閥政治であり、中央官僚がすべてを牛耳っていた。岩倉遣欧使節団の外遊組が台頭して西郷の留守政府派と対立、明治六年の政変に敗れた西郷は下野し郷里へ帰り、愛犬を伴い野山をかけめぐりウサギ狩りを楽しんだ。 各地で不平士族の反乱が相次ぐ中で、西郷の私学校党の生徒が決起した。世にいう西南戦争である。西郷軍と新政府軍は激しく戦った。このとき西郷軍は賊軍の汚名を着せられることとなった。新政府軍は、川路利良の警察抜刀隊を投入した。明治10(1877)年9月24日、西郷は城山で自刃した。行年(ぎょうねん)51歳だった。 西南戦争で西郷に従った旧中津藩士の増田宋太郎は「吾此処に来り、始めて親しく西郷先生に接することを得たり。一日先生に接すれば一日の愛生ず。三日先生に接すれば三日の愛生ず。親愛日に加はり、去るべくもあらず。今は、善も悪も死生を共にせんのみ」と評し、西郷の度量の大きさと人間としての資質の魅力を物語っている。 西郷は西南戦争で愛犬を連れていた。9月30日、新政府軍の近衛兵が船で神戸に着いたが、戦利品として西郷の愛犬を連れていた。 三十日、汽船にて西京(京都)へ通行の近衛隊内に、西郷隆盛が常に愛せし犬三頭を戦地に於いて分捕せし由ひき連れられたりと云う。その一疋は栗毛、至て巨大なりしと、そのほか二疋は黒犬にて、もっとも洋銀の鎖を以てこれをつなぎ有し由。(大坂日報) 西郷の真心をいちばんよくわかっていたのは愛犬だったかもしれない。

  • Thumbnail

    記事

    知られざる「江戸無血開城」 勝海舟を凌ぐ幕末ヒーローはこの人だ!

    わち鳥羽伏見の戦いを悔い改めるということを政治基調としたのである。徳川幕府最後の将軍、徳川慶喜(霊山歴史館提供) その恭順を陰で支えたのが、槍の達人で、慶喜を近くで守衛する遊撃隊頭の高橋泥舟だったのである(拙著『高邁なる幕臣 高橋泥舟』)。主戦派である小栗上野介忠順(ただまさ)を退けた慶喜は、泥舟をそばに置いて諸事相談した。これまで、輪王寺宮公現法親王(りんのうじのみや・こうげんほつしんのう)や御三卿の一橋茂徳、静寛院宮(和宮)、天璋院(篤姫)などの使者が大総督府や京都に達したが、和宮の使者以外は、いずれも新政府側から何らかの確約・確証を得られてはいない。 ただし、和宮の使者も具体的な降伏条件を示されたわけではなく、恭順・謹慎の実効が立てば寛大な処置の可能性があるとの方針を伝えられただけである。それが江戸の徳川方に伝えられたのは、江戸城総攻撃予定日の7日前、すなわち3月8日のこと、西郷と鉄舟の静岡会談のまさに前日であった(原口清「江戸城明渡の一考察」)。 こうした厳しい状況下から、慶喜は自分の恭順の衷心を大総督府に伝達してはもらえないかと泥舟に依頼した。そのため、最初は泥舟が大総督府に出向き、直接掛け合うことになっていたのである。ところが、すぐに慶喜は心変わりをした。もし泥舟が自分の近くを離れたら、自分を本当に守ってくれる人間がいなくなってしまうのではないか。慶喜は代わりの人間を派遣するように泥舟に命じた。 しかし、泥舟は「至誠」の人である。この仕事は、そのような簡単で間接的な命令で務まるようなたぐいのものではない。それでは上様の恭順・謹慎は大総督府には貫徹しない、上様直々にお命じならなければ難しいと答えた。では推薦せよ、とのことで、泥舟の義弟、すなわち泥舟の実妹、英の夫である山岡鉄舟が、慶喜の御前(ごぜん)に呼ばれたのであった。 それは慶応4年3月5日のことであった。鉄舟も慶喜の覚悟のほどを知り、死地をかいくぐって大総督府に向かうことを約束した。かくして鉄舟はその足で、勝海舟の家に初めて上がった。海舟に会うのも初めてである。尊王攘夷(じょうい)派の鉄舟は、それまで海舟を毛嫌いしていたほうである。海舟の方も鉄舟のような男はそりが「合わない」だから「会わない」と思っていたが、上様の使いで大総督府に行くといわれれば会わないわけにもいかない。ところが、会って話してみるとなかなかの人物であった。これはひょっとするとひょっとするかもしれない、海舟の中で不審が確信に変わった。西郷宛の自身の手紙を鉄舟に持たせることにした。会談前日、鉄舟の手紙 そのため、よく鉄舟は海舟から派遣されたと思っている人がいるが、それは大きな間違いである。今見たように、泥舟の推薦で慶喜が派遣した、まさに上様の使者、徳川家の代表者である。海舟は紹介状を書いたにすぎない。鉄舟が自宅に帰ったころ、海舟の所に保護されていた薩摩藩士、益満休之助(江戸の薩摩藩邸で対幕府工作活動に従事していたが、幕府側に捕縛されていた)が鉄舟の家にひょっこりあらわれて、鉄舟に同行することになった。海舟が気を利かせたのである。かくして、翌6日、鉄舟は静岡の大総督府に向けて出立することになった。 鉄舟が静岡に向けて出発したのが、慶応4年3月6日。途中いくたびかの苦労を重ねて、静岡に到着したのが8日であった。翌9日には西郷との会談があり、10日には江戸に戻り復命している。剣客は「健脚」なのである。 ここに会談前日の3月8日に鉄舟が、のちに慶喜側近となる白井音次郎に宛てた手紙がある。当時は、まだ外国人を警備するために外国奉行のもとに設置された別手組の組士にすぎなかったが、鉄舟の信頼が厚かったものと見える。手紙の初出は、田口英爾氏の『清水次郎長と明治維新』に詳述されているが、若杉昌敬氏の『山岡鉄舟 空白の二日間』には写真コピーが収録されているので、そこから釈文を作成することとした。駿府中ニ西郷氏出張ニ付、夫迄罷越候間、益満兄ヨリ篠原氏迄、貴兄御繰込之一書、相頼候間、都合宜敷出来候ハバ大急ギ御出張奉願候、怱々 三月八日白井音次郎様 急用 山岡鉄太郎 田口氏も若杉氏も述べていないが、本状は包み紙がない形式の簡易的な書状である。すなわち最後の「白井音次郎様 急用 山岡鉄太郎」の部分が、「駿府中ニ西郷氏」の頭の部分から手紙を畳んでいくと最も外側になり、あて名と差出人をおのずと示すことになる。 相手が、つまりこの場合は白井音次郎が最初に手にしたとき見たのが、「白井音次郎様 急用 山岡鉄太郎」の部分である。したがって、この部分の面全体が、経年のあとが最も著しく、汚れているのがコピーからもよくわかる。本状が、確かに当時の書状であった重要な外的証拠である。鉄舟は、よほど急いでいたのだろう。実際「急用」と書いている。 そして最初に「府中」以下を一気に書いた。意味は「府中に西郷隆盛氏が出張してきていることから、そこまで行くことになっている。したがって、益満休之助から篠原国幹(くにもと)まで、貴兄(白井)を派遣するための一書を頼んだので、都合がよく準備ができたら大急ぎでこちらに出張してきていただきたいとお願いする次第。早々」。 この書状によれば、鉄舟はまだ西郷に会っていない。その前に何らかの理由があって白井を呼び寄せるため、薩摩藩兵を率いる篠原に対して、鉄舟の従者になっている益満から紹介状を出したので、薩摩藩兵が守るところは無事通れるから、準備ができ次第、静岡まで出張して来るようにと白井に依頼したものである。駿府会談を前に有能な人員の確保を目指したものであろう。駿府会談前後における白井の動向はいまひとつ明らかではないが、鉄舟から何らかの役割を期待され、果たしたであろうことが推測される。今後は鉄舟だけではなく白井の動向も考慮に入れる必要があろう。実際には確かにある役割を与えられたと考えられる。それは後述する。 さて、先の書状を大急ぎで認めた鉄舟は、翌9日、駿府伝馬町の松崎屋に西郷を訪ねた。松崎屋源兵衛方を西郷は宿所にしていたのである。益満が直接仲介し、海舟の手紙も渡したと思われる。あるいは、鉄舟が後で直接渡したかである。「天皇の軍隊」とは何か 西郷は益満や海舟の紹介があり、かつ、文久期には幕府内部の尊攘・勤王の中心人物と目され、岩倉具視の人事情報網にも引っかかっていた高橋泥舟の義弟である鉄舟が、薩摩などの官軍が充満する東海道を駿府まで通過してきたことに内心驚いたと思われる(『高邁なる幕臣 高橋泥舟』)。しかし、新政府の方針が、大総督府に交渉権を委ねていたことから、会見してみないわけにはいかなかった。もちろんそのようなことは鉄舟には一切知らせていない。かくして、西郷と鉄舟による、世にいう駿府会談が始まった。 会談の具体的な模様は、明治15(1882)年に岩倉具視に提出した、鉄舟筆の「慶応戊辰三月駿府大総督府ニ於テ西郷隆盛氏ト談判筆記」(圓山・平井『最後のサムライ 山岡鉄舟』所収、以下「談判筆記」)から再現するのが最も正確である。西郷側の記録がほとんどないのに対して、談判の最初から最後まで実によくまとまっている。論文としてはイレギュラーながら、「談判筆記」に基づき会談内容を再現してみたいと思う。しばしお付き合い願いたい。幕臣として江戸城無血開城に尽力した山岡鉄舟(国立国会図書館蔵) 鉄舟は、西郷の名前を以前から聞いていたが一面識もなかった。しかし、鉄舟は臆することなく西郷に問うた。「西郷先生、今回の朝敵を征討するというご趣意は、良いも悪いもなく進撃するというものでしょうか。わが徳川家にも多数の兵士がおります。是非に関わらず進軍されるならば、主人徳川慶喜は確かに、東叡山寛永寺に恭順謹慎しておりまして、兵士たちに何度も説諭しておりますが、最終的に鎮撫(ちんぶ)が行き届かないこともございます。あるいは朝廷の御趣旨に背き、脱走し歯向かう者もいるかもしれません。そうなると主人慶喜は、公正無私の赤心で、君臣の大儀を重んじておりますが、朝廷に対してそれを貫き通すことができないことになります。私はそのことを嘆き、大総督宮にこのことを言上し、慶喜の赤心を達するためにここに参りました」 西郷は答える。「もはや、甲州において戦端が開かれているとの連絡が入っている。山岡先生の言われること(慶喜が赤心から恭順謹慎していること)と相違しているではないか」。 鉄舟は「それは脱走兵のなしたことで、たとえ戦端が開かれたとしても、勝手にしたことで、慶喜の赤心には変わりがありません」と毅然(きぜん)と答えた。それを聞いた西郷は「それならばよい」として、それ以上追及しなかった。鉄舟は「先生におかれてはどこまでも戦いを望まれ、人、すなわち慶喜を殺すことを第一とされているのでしょうか。それでは天皇の軍隊とはいえないのではないでしょうか。天皇は庶民の父母のような存在です。非理を明らかにするのが天皇の軍隊であるはずです」と問題の核心に迫る。 鉄舟は、天皇と天皇の軍隊の大義名分に結び付けて、慶喜の助命と戦争回避を迫ったといえよう。鉄舟の赤心からの発言に、西郷は「ただ進撃を好んでいるわけではない。慶喜の恭順の実効さえ立てば、寛大なご処分もあろうと思う」と言わざるを得なかった。そのことは、すでに和宮の使者に対して言質を与えていたことでもあり、ここでは鉄舟に言うタイミングをはかっていたのだと思われる。 鉄舟は畳みかける。「その実効とはいかなることを言うのでしょうか。もちろん慶喜においては朝命に背くことは決してございません」。それを聞いて西郷が言うには「先日、静寛院宮(和宮)・天璋院殿の使者が来て、慶喜殿の恭順・謹慎をもって嘆願しに来たが、ただただ恐れおののいて、一向に条理がわからなかったのです。それでむなしく帰ったのです。先生がここまで来てお話をいただいたおかげで、江戸の事情も判然とし、大いに都合がよかったと思います。先生のお話を大総督府宮(有栖川宮熾仁親王)に言上しますので、ここで待っていてください」とまでなったのである。ただし、やはり和宮の使者への件を西郷は鉄舟に話していない。鉄舟が書き残さなかった西郷の問い ところで実際には、もう少し細かく西郷が慶喜の具体的な恭順・謹慎の様子や江戸の旗本・御家人などの動向、また、江戸に凱旋(がいせん)する際の障害になりそうな問題など鉄舟に訪ねたものと思われる。しかし、鉄舟は「談判筆記」にまったく書いていない。実は、西郷という男は細かいことまで気にする人間で、第1次長州征伐では、長州に潜伏させる斥候に対して収集すべき24項目の細部にわたって情報を求めている(町田「幕末薩摩外交-情報収集からみた薩長同盟」)。例えば、人数や武備のみならず士気、金穀、浪士への給金や飯の量、浪士頭目の名前など戦争遂行上必要な情報を求めているのである。 要するに、西郷の問いかけに鉄舟はきちんと答え、それで西郷は納得して、駿府城の大総督宮に言上したのであろう。鉄舟の待ち時間がどのくらいの時間だったかは不明であるが、帰ってきた西郷から五箇条の宮の御書が下げ渡された。錦の御旗 その箇条は、①江戸城を明け渡すこと、②江戸城内の兵員を隅田川対岸の向島に移すこと、③江戸城内の武器を引き渡すこと、④徳川海軍の軍艦を引き渡すこと、⑤慶喜の身柄を備前池田家に預けることであった。すでに慶喜の助命を前提として、そのための条件が初めて具体的に徳川方に示された瞬間である。 実際、大総督府から提示されたときには七箇条だった(前掲原口論文)。しかし後述するように、厳しい内容だったため、鉄舟が江戸に復命するとき簡略に五箇条にしたものと思われる。あるいは、鉄舟の記憶違いとも考えられ、かつまた明治15年に筆記を執筆するときに簡略化したという可能性もある。現時点では、いずれもありうるとしておく。 ちなみに西郷から示された七箇条は、①慶喜は謹慎恭順しているので、備前池田家にお預けとする、②江戸城を明け渡すこと、③軍艦を残らず引き渡すこと、④武器一切を引き渡すこと、⑤城内に住居している家臣は向島に移り謹慎すること、⑥慶喜の妄挙(鳥羽伏見の戦い)を幇助(ほうじょ)した者を厳重に取り調べ、謝罪の道が立つようにすること、⑦何が何でも打ち砕くようなことはないので、鎮定の道が立つようにせよ。もし暴挙をするような者がいれば官軍をもって鎮めることとする、これら七箇条が速やかに実行されれば、徳川氏の家名存続には寛大な御処置が命ぜられると結んでいる。やはり七箇条のほうが、断然厳しい言い方になっている。 特に⑥と⑦は旧幕臣たちを刺激する条項であるので、鉄舟が意図的に五箇条にして復命したとも思うが、七箇条は『復古記』第二巻、『徳川慶喜公伝』巻七(東洋文庫版では4)、『大西郷全集』第二巻などに収録されており、それらの出典は、西四辻公業私記、海舟日記などである。朝廷側・徳川方双方に残っていることから、鉄舟に示されたのは七箇条がもとであったとしたほうが、納得がいくと思われる。 「談判筆記」にもどろう。西郷が言うには「右の五箇条(実際には七箇条)の実効が行われるならば、徳川家寛典(かんてん)の御処置もあろう」。鉄舟は「謹んで承ります。しかし五箇条のうち一箇条だけは、どうしても私には請け負えないことがございます」。「それはどの箇条ですか」と西郷。「主人慶喜を備前池田家に預けるという箇条です。これは決してできないことです。それでなければだめだというのであれば、徳川恩顧の家臣たちが決して承知しないでしょう。結局のところ戦端を開くことになり、むなしく多くの命が奪われることになりましょう。これが天皇の軍隊のすることでしょうか。さしずめ西郷先生はただの人殺しです。ですので私はこの箇条は決して肯定できないのです」。西郷は「朝命です」と一言。西郷の正義に君臣の情はないのか 鉄舟はなおも食い下がる。「たとえ朝命といわれても、私は決して承服できないと断言します」。すると西郷は「朝命です」とまた強調した。鉄舟は「そうであるならば、先生と私とその立場を交換してしばらく論じましょう。すなわち先生の主人である島津茂久公が、万が一朝敵の汚名を受けて、官軍に征討される日になり、恭順謹慎を言上するために、先生が今の私の任を行うにあたって、主家のために尽力することになり、私の主人慶喜に対するような朝命、つまり岡山池田家など他家お預けという朝命があった場合、先生はその朝命を奉じて、すみやかに主人を差し出し安閑として傍観することができますか。先生の正義のなかには君臣の情というのは、ないのでしょうか。この点において私は決して耐えることができないのです」と激論した。西郷はしばらく黙然として「確かにその通りです。それならば慶喜殿のことは、この西郷がきっと引き受けて取り計らいましょう。先生が決して心配することがないようにお誓い申し上げます」と誓約したのである。 鉄舟の論は、実に正論である。あなたが私の立場ならそれができるかと迫ったのである。これには西郷は困ったであろう。権謀術数渦巻く京都政局において、さまざまな仕事、汚れ仕事も含めさまざまな仕事をしてきた西郷にとって、赤心をもって誠意をもって事に当たる純粋な鉄舟の前に、その要望を受け入れざるを得なかったのである。 その後、鉄舟は、西郷と酒を酌み交わし、西郷から陣営通行許可証をもらって江戸城に向かった。途中、神奈川宿で伊豆韮山の江川代官が大総督府に献上した馬を借り、品川宿では薩摩藩兵に発砲されたが空砲で助かり、江戸城で大久保忠寛、勝海舟らに報告した。もちろん慶喜は大変喜んだ。なお、8日に帰城した和宮の使者が、恭順・謹慎の実効が立てば寛大な処置があるかもしれないとの可能性を伝えていたこともあずかって力があったであろう。この点からしても、海舟の独り舞台は全くおかしな話である。鹿児島県霧島市の西郷公園にある西郷隆盛像(竹川禎一郎撮影) そこで徳川家は「大総督府参謀西郷吉之助殿への応接が済んだ。恭順・謹慎の実効が立てば、寛大な御処置があるので、江戸市中の一同は動揺せず、家業を全うするようにすべし」との高札を江戸のいたるところに立てたのである。こうして江戸の庶民は幾分安堵(あんど)の色をなしたのであった。 西郷・鉄舟の静岡会談の後、西郷は10日に静岡で軍議を開き、翌11日早朝に出発し、13日高輪の薩摩藩邸に入った。この西郷の動向および再会談の日程を鉄舟および徳川方に伝えたのが、前述の3月8日付鉄舟書簡のあて先、別手組白井音次郎とであると推測する。白井は9日の会談中に静岡に到着し、鉄舟と西郷に面会し10日の軍議後か、11日早朝に西郷に先立って静岡を出発したのだろうと思う。西郷は鉄舟の依頼により白井に通行手形と鉄舟・海舟に宛てた手紙を持たせたと思われる。 さて従来の見解では、江戸での再会談初日が儀礼的、2日目が実質的な話し合いだったとしたが、原口氏は、初日・2日とも実質的な話し合いで、初日が徳川方からの正式嘆願書提出前のすり合わせ、2日目が正式嘆願書提出とする(前掲原口論文)。その通りであろう。そして忘れてはならないのは、両日ともに鉄舟が海舟とともに参加し、特に両日ともにふたりを警護しながら、会談の行方をしっかり見守っていた。鉄舟は、海舟の目付的な役割を果たしていたのである。静岡会談での鉄舟が一部保留にしてまでも決めてきた交渉条件がおかしな方向に行かなかったのは、両日ともに鉄舟の存在があったからである。ただし、2日目の正式嘆願書の目付は桜井庄兵衛で鉄舟ではない。桜井が本来の役職者としての目付だったからである。西郷が感服した鉄舟の論理 西郷は3月16日、江戸を出発し、20日には京都で朝廷会議がもたれ、慶喜の死罪を免じ、徳川の家名存続、移封および70万石か50万石位の石高、城・軍艦・武器などの全引き渡しなどが決定された。西郷は25日に静岡に至り、大総督宮らに報告、具体的な江戸城受け取りなどの協議を行い、正式通達文が作成され、4月4日の勅使が江戸入城を果たし、通達文の伝達を行った。すなわち「江戸無血開城」が、ここになったのである。 なお、静岡会談で、鉄舟が展開したのは「王師」論であった。すなわち天皇の軍隊は非理を正す軍隊であり、やみくもに同じ国民を弑逆(しいぎゃく)するものではないという論である。「天皇の軍隊、かくあるべし」という確固たる鉄舟の論理に、西郷は感服したのである。それが徳川家の運命を決めたと言っても過言ではない。それゆえ、明治5(1872)年、鉄舟が西郷らの推薦で明治天皇の侍講に任命されたのであろうと思われる。 4月11日早朝、慶喜は上野・寛永寺を水戸に向けて出発した。ついに前将軍が江戸を離れるときが来たのである。12日、大総督宮が江戸に入城、新しい主人が江戸城に座った。しかし軍艦の引き渡しは榎本武揚らの消極的抵抗で完全引き渡しには至っていない。また、5月15日には寛永寺において彰義隊戦争が勃発している。この戦争では、長州藩大村益次郎の指揮下に、本郷台縁(べり)に配置された佐賀藩のアームストロング砲の威力で、彰義隊を鎮めた。そしてそののち5月26日に徳川家存続が正式に新政府から発表されたのである。戊辰戦争で威力を発揮した佐賀藩のアームストロング砲(復元、佐賀城本丸歴史館蔵) 上野戦争以後、関東各地や北越・会津、箱館が主戦場となり、明治2年5月に榎本が降伏して、鳥羽伏見の戦いから始まった戊辰戦争は終結した。しかし、鳥羽伏見の戦いの戦後処理の実際は、3月9日の西郷・鉄舟による静岡会談で実質的に終わっていた。形式的には「江戸無血開城」により戊辰戦争の敗戦側戦争最高責任者慶喜は、寛大ながら処罰され、実質的な処理は終わったと見るべきである。 関東各地や北越・会津、箱館で戦い、亡くなった死者にむち打つつもりはないが、「江戸無血開城」以降は新政府による領土拡張の侵略戦争といった様相を呈したと思われる。これなどは、不本意に終わった「江戸無血開城」の腹いせとも言えないこともない。 だからこそ、イギリス人医師ウィリアム・ウイリスは、新政府軍による悲惨な侵略戦争を見聞しに会津入りを断行したのである(拙著『病とむきあう江戸時代』)。会津でウイリスが見たものは、悲劇的な会津武士の死にざまと、それに同情しようともしない農民の姿だった。 また、新政府は榎本の「北門の守りを分担したい」という願いを踏みにじり押しつぶした。さらにそれはアイヌ民族への同化政策ともなっていった。こうして、明治近代国家における東北・蝦夷地(北海道)への差別的な待遇が始まった。またそれは、明治5年の琉球県設置、同10年の沖縄県設置、翌年の分島問題にわたる、いわゆる「琉球処分」も戊辰戦争後半の侵略戦争の延長上にあった。 さらに各地の士族反乱鎮圧や西南戦争、朝鮮侵略、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、シベリア出兵、満州事変、日中戦争、アジア・太平洋戦争敗北への道でもあった。そのような直線的な理解は一面的との批判もあろうが、戊辰戦争が「江戸無血開城」以前と以後で、その様相が一変することは十分に認められよう。剣の達人山岡鉄舟が、槍の達人高橋泥舟とともに成し遂げたのが平和的な「江戸無血開城」である。それ以降、実際の戦争は凄惨(せいさん)なものになっていった。まさに歴史の皮肉というべきであろう。西郷と海舟の功績になった一枚の絵 明治神宮外苑(がいえん)の聖徳記念絵画館に「江戸開城談判」という大きな絵がある。だれもが知っているあの絵である。西郷と海舟しか描かれていないが、実際はあの場に鉄舟もいた。ところがある事情で鉄舟が書かれなかったため、「江戸無血開城」は西郷と海舟の功績になってしまったと考えられる(拙著『江戸無血開城の真実(仮称)』)。あの絵は鉄舟の目線で見た西郷と海舟である。立役者はあくまでも西郷と鉄舟なのである。 絵は罪作りである。インパクトがあるから記憶に残りやすい。描かれなかった者は忘れ去られていく。加えて、鉄舟死後、海舟側の資料が多く出版され、注目され、読まれたことから、鉄舟・泥舟の功績がまったく忘れ去られてしまったのである。 しかし、鉄舟・泥舟は、「上様さえわかってくれればそれでよい」と考えていたと思われる。それでも鉄舟が「談判筆記」(『最後のサムライ 山岡鉄舟』)を残し、泥舟が「高橋泥舟翁事歴」(『高邁なる幕臣 高橋泥舟』)を語って残してくれたことで、真実が後世に辛うじて伝わることになった。 なお、「江戸無血開城」前夜の4月10日、慶喜は主だった幕臣を集めて別れを惜しんだ。その時、鉄舟に自らの助命と徳川家の存続、すなわち「江戸無血開城」に果たした役割は、鉄舟が「一番槍」であると称賛して愛刀を与えた(全生庵所蔵の断簡史料)。鉄舟・泥舟の苦労が報われた瞬間である。 「上様はわかってくださっている」。それを支えに、鉄舟は西郷の推薦で明治天皇の侍講となり、幕臣として培った武士道を天皇に一生懸命に教授した。泥舟は、明治政府に一切仕えずに槍を筆に持ち替えて、請われるままに揮毫(きごう)して糊口(ここう)をしのいだ。鉄舟は、倒れていった仲間たちのために全生庵を開基し、泥舟は鉄舟亡きあと静岡清水の久能寺を鉄舟寺として再興した。 鉄舟は、仲間たちと全生庵に「全生庵殿鉄舟高歩大居士」として眠り、泥舟は、高橋家の墓所大雄寺に「執中庵精一貫道大居士」として、家族とともに葬られている。ともかく鉄舟の命日7月19日と泥舟の命日2月13日は、江戸を救った英雄の命日として記憶されるべきである。 あえて言う。「江戸無血開城」の新政府側の功労者は確かに「西郷どん」である。徳川方の功労者は、鉄舟・泥舟・海舟・和宮の使者である。これまたあえて比率でいえば、西郷:鉄舟:泥舟:海舟:和宮の使者=3・5:3・5:2:0・5:0・5であろう。その根拠は本論を読まれた読者はよくお分かりであろう。さらに拙著を読んでいただければ、より明らかになるであろう。 最後に、今年の大河ドラマ「西郷どん」の時代考証は、『武士の家計簿』で著名な歴史家の磯田道史氏である。氏がメーンキャスターを務めるNHK歴史教養番組「英雄たちの選択」で何度もご一緒させていただいた。11月27日にスタジオ収録された中でも鉄舟・泥舟の「江戸無血開城」に果たした役割を語らせていただいた(1月3日放送『新春スペシャル「幕末ヒーロー列伝 これが薩摩藩の底力だ!」』)。 この文章を書いている時点で、その部分が放映されるかどうかはわからないが、ぜひ、いずれ放映される「西郷どん」の「江戸無血開城」の回では、鉄舟・泥舟の活躍をきちんと描いていただきたいと切に願う。今まで大河ドラマはフィクションだからとあきらめてきたが、「江戸無血開城」は「首都」東京の成立にかかわる最重要事件だけに、現時点で確実なこと、すなわち、幕府側の貢献者は鉄舟と泥舟であると、きちんと描いていただきたいものである。全国の鉄舟ファン、泥舟ファンが固唾をのんで見守っていると思う。

  • Thumbnail

    記事

    西郷隆盛と大久保利通、それぞれのリーダーシップ

    童門冬二(作家) 好敵手(ライバル)という言葉がある。ライバルとは敵であると同時に、かけがえのない味方でもある。西郷隆盛にとっての最大のライバルは、もちろん大久保利通である。西郷は、大久保を最高責任者とする明治新政府軍に敗れたわけだから、敗者の西郷にとってみれば、大久保は、まさに「敵」そのものである。 西郷と大久保の朋友関係は、明治維新を実現するためには、なくてはならぬ存在であった。互いに信頼のできる最大の同志であった。わかりやすくいえば、この両者は、いわばピッチャー(西郷)とキャッチャー(大久保)の関係に似ていた。そして、この関係は、明治維新を迎えるまでは、実に絶妙なコンビネーションを誇っていた。 しかし、この両雄のコンビネーションも、新しい時代の潮の中では、いつしか別々の路線をたどる運命にあった。そして、気がついたときには、大久保のリーダーシップの前に、西郷は「明治の賊徒」の汚名を着せられていた。 いま、西郷隆盛と大久保利通が現代企業社会に生きたとすれば、リーダーとしてどう違うのか。西郷隆盛が、自分でこんなことを語っている。東京・上野の西郷隆盛像=2007年2月5日(栫井千春撮影)「俺と大久保の差は、たとえば俺は、古い大きな家を壊し、新しい家をつくるのが得意だ。しかし、つくるのは本体だけで、内部の細々したことは苦手だ。そこへいくと、大久保は内部のどんな細々したことでも、着実に、丹念につくり出す。その才能には、到底俺はかなわない。しかし、またこの家を壊すことになると、俺の独壇場だ」 西郷は、徳川幕府という古い大きな家を壊した。そして、明治国家という新しい日本の家をつくり出した。が、その後を引き受けて、家の内部を整備し、明治国家として、日本を「ヨーロッパに追いつけ、追い越せ」という発展をさせたのは大久保利通である。その意味では、西郷が語ったといわれるこの言葉は2人の特性の差をよく言い表している。西郷は3通りの人間を重視した 西郷が語った言葉は、「情」と「知」の関係でいえば、西郷は類まれなる破壊者であるということだ。そして大久保は建設者だった。壊すには、確かに感情を動機にしたほうがパワーが大きい。しかし、建設は感情一辺倒では駄目だ。現実をよく見極めて、着実に、一歩一歩事を為していかなければならない。その意味では、西郷はどちらかといえば、遠くのほうを見るロマンチストであり、いってみれば、詩人的な要素があった。だから、時には大きく挫折する。あるいはせっかく積み上げた石の山を、自分から全部崩してしまうこともある。つまり、ゼロに戻ってしまう。しかし西郷の場合は、だからといって落ち込むこともなく、人を恨むこともなく、「すべて、天の命ずるところなのだ。まだ、俺は人事を尽くしていないのかもしれない」と反省して、新しい勇気を湧き起こした。大久保はそこへいくと、一歩一歩現実を見ながら着実に歩いていくタイプだ。明治維新後、大久保を知る多くの人たちがこういうことを言っている。「西郷さんには、遠大なロマンがあったが、大久保さんにはそれがない。西郷さんは大きな夢を示す。大久保さんは、今日一日か、せいぜい明日あたりを目標にして、事を考える。決定的に違った」 もう一つの違いは、組織に生きる人間は、大きく分けて「組織を重視する人間」と「人間関係を重視する人間」とに分かれる。 つまり、難しい言葉を使えば「組織の論理を重視する」か、「人間の論理を重視する」かに分かれる。西郷隆盛は人間を重視した。そこへいくと大久保利通は、組織を重視した。特に組織の持つパワー、すなわち権力を重視した。西郷の場合は、「組織の論理も、人間の論理によって突破することができる」と考えた。大久保は反対に、「組織の論理は強固で、個人の力では突破できない」と考えた。このあたりが、決定的に違う。鹿児島 大久保利通像=2011年1月14日(岡田亮二撮影) たとえば、西郷隆盛が仕事を進めるうえで、最も有力な方法として展開したのは、人間のネットワークをつくることである。それは、普通にいう閥のことではない。もっと、高い志によって、薩摩藩だけでなく、多くの藩や、場合によっては徳川家内部にも、自分と共鳴し、一緒に事を進めていく仲間づくりに勤んだことである。また、彼は世の中に、3とおりの人間をしつらえた。3とおりの人間とは、・学べる人間(師)・語れる人間(友)・学ばせる人間(後輩・部下)のことである。西郷が「理想的なリーダー」と言われる理由 西郷隆盛が、最初に師として仰いだのは薩摩藩主、島津斉彬であった。斉彬は、当時としてはたいへん開明的な大名で、ヨーロッパの知識も多く持っていた。いまの言葉を使えば、国際化、情報化に十分に対応していける力を持っていた。 だから、彼は薩摩藩主でありながら、常に、「国際社会の中で、日本はどうあるべきか。その中で、薩摩藩は何をすべきか」ということを念頭に置いていた。そこで、薩摩藩という小さな井戸の中の蛙のように、薩摩藩内のゴタゴタで終始、怒ったり悲しんだりしている西郷を、手元に引きつけて指導した。島津斉彬(薩摩藩藩主)=三浦寅吉氏提供 斉彬が西郷を発見したのは、たとえ井の中の蛙であっても、西郷が類まれな純真な青年であったからである。また、胸に秘めた情熱が、桜島の噴煙のように熱かったからだ。つまり、斉彬は西郷を「オクタン価の高い人間だ」と見たのだ。西郷は、斉彬によってしだいに目覚めた。斉彬は、単なる主人ではなかった。完全に師であった。また斉彬を通じて、さらに新しい師である水戸の藤田東湖や、藤田のところに学びにきていた橋本左内をはじめ、多くの友人を得た。こういう多面的な他人との交流が、西郷隆盛に蜘蛛の巣のような拡がりを持った人間関係のネットワークをつくらせていく。そして、これがのちにどれほど役に立つかわからない。 西郷は鹿児島でも、若い連中とグループをつくった。『近思録』という書物を読み合う会だったが、これはやがて「精忠組」という政治グループに発展していく。西郷は、終始一貫この近思録派、あるいは精忠組のリーダーだった。 彼が、自分からリーダーを買って出たわけではない。後輩たちが、「西郷さん、リーダーになってください」とせがむのである。そういう、黙っていても、自然にリーダーの座に押し上げられてしまうような人徳と魅力が西郷にはあった。それは、西郷が、常にどんな人間に対しても温かかったからだろう。 彼は、後輩や部下についてこう言っている。「世の中には、能力だけをモノサシにして人間を推しはかるリーダーがいるが、これは間違いだ。というのは、この世の中では、人間は、10人のうち、8人か9人まで大体が凡人だ。小人といってもいい。すぐれた能力を持つのは、ほんの1人か2人にすぎない。それなのに、能力のある1人か2人だけを見出して、後を石ころのように捨ててしまえば、この世の中は成り立たなくなってしまう。私は、そういう考えが嫌いだ。それよりむしろ、小人とか凡人とかいわれる8人や9人の人間の中に、その長所を発見して、それを育てることが大切なのだ。小人の中に、長所を発見できないようなリーダーは、本当に優れたリーダーではない」大久保の能力主義が西南戦争を引き起こした? フツーの組織人が聞いたら、飛び上がって喜ぶ言葉である。特に、能力主義が前面に出ている現在、「西郷さんのようなリーダーが、いま、職場にいたらなあ」と思うビジネスマンは多かろう。大久保利通(幕末の鹿児島藩主・明治の政治家) そこへいくと、大久保は違った。彼は、あくまでも能力主義である。西郷の、いわば、「どんな人間にも長所はある。それを発見して、手をつなぎ合って生きていこう」という考えは人間重視主義だ。したがって、そういう心と心で結びついた1つの輪ができる。見方によっては、派閥だ。大久保は、そう見た。そして、「組織内に、そういう閥をつくってはいけない。組織で必要なのは、あくまでも組織の目的を達成する能力なのだ。それを重視すべきだ」と主張した。したがって、明治政府の高級官僚になっても、大久保は、比較的派閥意識のない人間だったといわれている。よく明治政府を、「薩長閥」というが、大久保自身にはそんな考えはなかった。彼は、能力さえあれば、よその藩の人間でも、どんどん登用した。たとえば、伊藤博文とか大隈重信である。伊藤は長州の人間だし、大隈は佐賀の人間だった。が、大久保は、「われわれは、すでに日本という国家に所属しているのであって、薩摩藩や長州藩や佐賀藩に属しているわけではない。もっと、広い視野に立って、昔のことなど忘れるべきだ」と言っていた。これが、鹿児島の人間を怒らせた。特に士族を怒らせた。西南戦争の遠因にもなっていく。 だから、西郷隆盛があらゆる職場で、「どんないやな職場にも、必ず学べる人、語れる人、学ばせる人がいる。そういう発見に努めれば、辛い職場もけっして辛くはない」と言った。それに対し、大久保は、「いや、そんなことはない。組織の目的を達成するためには、人間対人間のうじうじした関係に沈み込んでいてはいけない。そういうものを振りきって、あくまでも前へ進むべきだ」と言い返す。これが、組織人としての西郷と大久保の決定的な差になる。つまり、はっきりいえば大久保自身は西郷の言うように、職場の中で積極的に、師や、友や、あるいは後輩を発見しようとは思わなかったのである。 「黙って、俺についてこい」という気持ちだったかもしれない。というのは、西郷がつくった明治国家という新しい家の中で、大久保は事実上その家の主人となって、常に先頭を切っていたからである。大久保にすれば、自分が師であり、友であり、あるいは後輩であったのだろう。 ※本記事は童門冬二著『西郷隆盛 人を魅きつける力』(PHP文庫)より一部を抜粋編集したものです。関連記事■中間管理職こそ西郷に学べ!~作家・童門冬二が西郷隆盛を書いた理由■西郷隆盛はなぜ西南戦争を戦ったのか■大久保利通 公平無私の精神

  • Thumbnail

    記事

    松平定知氏が解説 「西郷どん」が今の時代に求められる理由

    ん』(鈴木亮平主演)だ。維新回天の英傑・西郷がどのような環境で育ち、人生の最期をどう迎えたのか──。歴史通で知られる元NHKアナウンサー・松平定知氏が、西郷の故郷・鹿児島を訪ね、激動の時代を駆け抜けた彼の人生をたどった。 * * * 私は西郷隆盛の故郷薩摩の地を歩くたびに、その人気がいかに飛び抜けているかを実感する。 銅像ひとつとっても、鹿児島市立美術館そばの、県のシンボルと言われる軍服姿の立像、空港近くの西郷公園にある、実在の人物としては高さ10.5メートルという日本一の大きさを誇る立像など、いくつもの「西郷どん」が立っている。その他、誕生の地、終焉の地などに設けられた石碑から、若き日に座禅を組んだ石、晩年に自ら作った手水鉢に至るまで、実に多くの史跡がある。その数は薩摩の他の志士とは比べ物にならないほど多く、こと地元に限れば高知における坂本龍馬をも凌ぐ。そして、西郷を愛する人は日本中にいるのだ。◆自殺未遂に二度の遠島……維新までの歩みは波瀾万丈 なぜ西郷はかくも人々に愛され続けるのか? その理由を、薩摩を訪ね、生涯を辿ることで探ってみたい。NHKキャスター(当時)、松平定知氏=2002年7月30日、大阪市(朝田康嗣撮影) 文政10(1827)年、西郷は鹿児島城下の下加治屋町(現・加治屋町)で下級藩士の長男として生まれた。ちなみに、下加治屋町は西郷を始め、大久保利通、山本権兵衛、大山巌、東郷平八郎など明治政府の要人を数多く輩出し、司馬遼太郎氏は「明治維新から日露戦争までを一町内でやったようなもの」と評した。 17歳で島津藩に出仕し、やがて江戸に出府する藩主斉彬から「庭方役」に抜擢される。身分の低い藩士が庭先などで藩主らと接触できる役職で、西郷は斉彬から諜報を命じられた。これが西郷の「全国区デビュー」となり、その後の人生を決めた。黒船来航以降の動乱の中、他藩の実力者と交わるうちに最終的に倒幕の中心人物となり、明治政府樹立直後の戊辰戦争では、政府軍を指揮し、江戸城の無血開城を実現させるなど比類なき政治力も発揮した。西郷はこうして明治維新の大功労者となった。 だが、そこに至る道は波瀾そのものであり、私に言わせれば、実は失敗の連続である。 斉彬の命を受けて一橋慶喜を第14代将軍に擁立すべく工作に奔走したが、実現しなかった。大恩ある斉彬が急死し、諫められて思いとどまったが、一時は殉死を考えた。その後、大老井伊直弼が反幕派を弾圧する「安政の大獄」が始まり、西郷が敬愛する尊皇攘夷の僧月照にも身の危険が迫った。西郷は月照を薩摩に匿うが、追い詰められて絶望し、桜島を望む錦江湾に2人で飛び込み、入水自殺を図る。助けられ、西郷だけが命を取り留めた。だが、藩命によって奄美大島に潜居させられ、さらに斉彬の異母弟、久光の命に従わなかったため、徳之島、次いで沖永良部島への流刑に処せられたのだ。西郷と対極の生き方が当たり前の現代◆命もいらず、名もいらず──野に下り、故郷に散った巨星 維新後、西郷は新政府から再三請われ、明治5(1872)年、参議兼陸軍元帥・近衛都督となる。だが、明治6(1873)年、関係が断絶していた朝鮮への対応を巡って政府内が対立し、敗れた西郷はすべての職を辞し、野に下る。最後にして最大の波瀾が起こるのはこの後だ。 帰郷した西郷が、士族に求められて設立したのが銃隊学校、砲隊学校などからなる「私学校」だ。「私」とつくが事実上の公立で、県内各地に130以上の分校ができ、1万人以上の若者が集まった。 時あたかも、佐賀の乱に始まり、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱と、維新によって特権を剥奪された士族が各地で反乱を起こしていた。明治政府が勢力を増大させた私学校を警戒し、動向を探ろうとすると、私学校の急進的な若者らが激昂し、政府側の火薬庫を襲った。それを知った西郷は「おはんら(お前ら)何たることをしでかしたか」と漏らしたという。私の想像だが、西郷は、挙兵しても政府軍に勝てるとは思っていなかったのではないか。だが、若者らの思いを考えると、引くに引けず、行動を起こさざるを得なかったのだろう。明治10(1877)年2月、こうして西南戦争の火蓋が切られた。 西郷軍は3万余り。北上して熊本鎮台(軍政機関)のある熊本城を攻めるが落とせず、田原坂での激戦の末、敗走を余儀なくされ、鹿児島城下を見晴らす城山に籠もる。囲む政府軍は5万人、籠もる西郷軍は300人。西郷は故郷に死に場所を求めたに違いない。9月24日、猛攻撃を受けて腰に2発の銃弾を浴びた西郷は「もうここらでよか」と配下の者に声を掛け、介錯を命じて49歳の生涯を閉じた。西郷らしい最期だと思う。西郷隆盛銅像=2006年6月14日、東京都台東区の上野公園(撮影者:大井田裕) 西郷は維新の大立者でありながら、新政府内に自ら地位を求めず、請われて要職についても恋々とせず、野に下った。死を前にしてもあがかず、運命を受け入れた。大人を思わせる風貌と相まって、そうした潔さが西郷の魅力のひとつである。「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るもの也」 西郷が残した有名な言葉だ。そういう人物こそが人の上に立ち、大きな仕事を成し遂げられる、という意味が込められている。西郷は失敗というか、思うようには結果が出ないことが多い人だった。でも、誠実に生きた。そのことが人々の心の琴線に触れるのだと私は思う。西郷と対極の生き方が当たり前になってしまった今の時代にこそ、西郷は求められるのではないだろうか。(松平氏・談)【プロフィール】まつだいら・さだとも/1944年生まれ。早稲田大学卒業後、NHK入局。『NHKニュース7』『その時歴史が動いた』など数々の看板番組を担当。2007年にNHKを退局し、現在は京都造形芸術大学教授などを務める。武将の智略について考察した『謀る力』(小学館新書)など歴史についての著書多数。関連記事■ 西郷隆盛はお腹が弱くトイレに50回も駆け込んだ■ 西郷隆盛のストレスや下痢が明治維新後の日本を変えたか■ 2018大河『西郷どん』 鈴木亮平主役抜擢までのドタバタ劇■ 西郷隆盛は西南戦争の主体でもない上に本意ではなかった■ 西郷隆盛がいま我々に語りかける「最後の武士」の名言

  • Thumbnail

    記事

    西郷隆盛のストレスや下痢が明治維新後の日本を変えたか

    ければ、この政変は起きなかったはずだ。となれば、「西郷どんのストレス」がなければ、明治維新後の日本の歴史は変わっていたかもしれないのである。【PROFILE】家近良樹●1950年、大分県生まれ。同志社大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学。中央大学博士。著書に『ミネルヴァ日本評伝選  西郷隆盛』『西郷隆盛と幕末維新の政局 体調不良問題から見た薩長同盟・征韓論政変』(ともにミネルヴァ書房)など他多数。関連記事■ 「征韓論」の真実は「西郷が自ら外交問題を解決したかった」■ 西郷隆盛は西南戦争の主体でもない上に本意ではなかった■ 西郷隆盛「大の写真嫌い」はウソ 「顔が違う」伝説の真相■ 西郷隆盛の肖像画、どれが最も似ているか論争に決着■ 西郷隆盛はお腹が弱くトイレに50回も駆け込んだ

  • Thumbnail

    記事

    蛇神のためなら「たとえ火の中水の中」信長の脳内が分かる3つの逸話

    橋場日月(歴史研究家、歴史作家) 弘治3(1557)年11月2日、干ばつと凶作の結果、信長は必死に雨乞いをおこなった。そして飢饉(ききん)のなかで食糧を確保するため穀倉地帯の篠木を信長と争った弟の信勝は、兄の仮病にだまされ清洲城へおもむき、斬殺された。 それにしても、当時の人々にとって雨乞いは、生命を維持するための作物を得ることができるかどうか、生死に関わる重大事である。竜や大蛇に、ゆかりの場所とゆかりの器具を用いて必死に祈るのもよいけれど、それで実際に効果があがるかどうかは蓋を開けてみなければわからない。せっかちな信長はこれをどう思うだろうか? 「まだるっこしい!」となるのではないか? どうもそれが、その通りだったらしい。 信長が津島で雨乞いの踊りをおこなった前後、おそらくは明くる弘治4(=永禄元、1558)年のことだと思う。清洲城から5・5キロほどをほぼ真東に進むと、庄内川の河畔の長大な堤防にぶつかるのだが、信長の時代にもこの場所に堤防が存在したらしく、『信長公記』に「北・南に長き堤これあり」と出ている。 この堤防の内側には「あまが池」という名の池があるのだが、これが古くから「蛇池」とも呼ばれてきた。その怪しげな池に大蛇が出た、と大騒ぎになったのだ。雨のなか、日暮れ時に目撃した者の話によると、大蛇の胴体は堤の向こうにあり、首があまが池の手前にまで伸びていた。その太さはひと抱えほどもあったというから、周囲170センチとすると直径は50センチ以上と計算できる。化け物の目は星のように光り、舌も紅色に輝いていた。現在の蛇池 この噂は、たちまち信長の耳に入る。自らの生い立ちと深く関わってきた蛇、しかも大蛇が出現したというのだから、信長もひどく興奮したらしい。目撃者を呼び出して話を詳しく聞くと、「明日、池の水を掻い出して大蛇を見つける!」と言い出した。ここでもせっかちな一面が顔を出している。 そして翌日、彼は周辺9カ郷村の農民たちを動員した。農民たちは釣瓶(つるべ)・鋤(すき)・くわを持って池を取り巻き、一斉に水の掻い出しにかかる。最近「池の水ぜんぶ抜きます」というテレビ番組が高視聴率というが、それを約460年前に信長がやろうとしていたというわけだ。 ところがこれが結構大変だった。4時間ぶっ通しで作業を続けても池の水は7割程度にしか減らないのである。この池はその場所からいって、庄内川の調整池の役割を果たしていたのではないかと思われるが、一方で川と地下水脈でつながっていたのかもしれない。とすればいくら水を掻い出しても池が枯れるはずがないのだ。蛇池の逸話に隠された信長の真意 しびれを切らした信長は、とうとう着物を脱いで脇差しを口にくわえ、自ら水中に入っていった。しばらく潜ったあとあがってきた信長は、「なかなかに大蛇らしき物はおらぬわ」と言うと、さらに念のため泳ぎの達人(この男の名、鵜左衛門という。いかにも水泳名人らしい)にも潜って探させたが発見できず、清洲城へと引き揚げていった。蛇池の記述(『尾張名所図会』後編巻三より、国立国会図書館近代デジタルライブラリー) 単純なバカ騒ぎのようではあるが、これが正月下旬の、池の水も凍るような厳寒のなかでおこなわれているのだから尋常ではない。下手をすると死者まで出るのではと思われるほどで、しかも信長自身が命の危険をかえりみずに池水に潜っているのだ。 さてこの一件、果たして信長は好奇心だけで命知らずなおこないをしでかしたのだろうか?答えはNOだろう。 蛇池の正式名称である「あまが池」は「雨が池」と考えてよい。調整池として庄内川が大雨で氾濫すればその水を受け止めて周囲の損害を防ぎ、渇水時にはこの池で雨乞いをおこなったと思われる。雨といえば前回紹介した蛇体の「宇賀神」は水の神である弁才天女とセットにされていたが、本来は穀霊(こくれい)神だったという。穀物の豊穣(ほうじょう)には水のコントロールが欠かせない。そして、『常陸国風土記』に記されている夜刀神(やとのかみ)を代表的な例として、愛知県より東では古くから蛇神は稲作に欠かせない潅漑(かんがい)・水利の無事を守るものとして信仰されてきた。 つまり、信長が傾倒していた蛇・龍、雨乞いがセットになっていた場所こそが「あまが池」なのである。           本連載第2回では幼い信長が那古野城内の天王坊安養寺に通い「祭神の素戔嗚尊(スサノオノミコト)がヤマタノオロチを倒しその体内から草薙剣(クサナギノツルギ)を得た=オロチの力をわが物とした」という神話に親しく触れていた、と紹介したが、その信長が実際に大蛇(オロチ)が身近にいるかもしれない、と思ったとき、素戔嗚尊の故事にもとづき自分も大蛇の力を獲得して水を支配する力を得られるではないか、という考えに至ったのは自然な流れだったろう。ところが実際の信長は池の水の掻い出しすら思った通りにできない素の人間のままで終わってしまった、というオチでこの話は終わるのであるが。信長が家臣につけた名前の意味 これで信長がいかに大蛇に執心していたかがおわかりいただけたと思うが、ところで、読者の皆さまは何かに熱中したときにどういう行動をとるだろうか。信長のようにそれを手に入れて一体となりたいと思えば、品物であれば高額でもかまわずそれを買い求め、山野を探して回り、自分で造りだそうと寝る間も惜しんで製作にいそしむだろう。人物であれば、その人の髪形・衣装・話し方をまね、メイクも似せようとするだろう。SNSなどのハンドルネームもその人物の名を使ったりする人は多いだろう。 信長の場合はどうしたか。身につけるもの(三五縄)の話は以前にしたが、それだけではない。そのこだわりは、家臣の名前にも残っているのだ。 その家臣の名は、佐久間信盛。信長の重臣であり、他の家老たちがことごとく信長の敵にまわったときでも信長に従い、支え続けた筆頭格の家来で、忠義厚い武士だ。のちには「退(の)き佐久間」とあだ名されるほど、退却戦の殿軍をつとめさせれば抜群の粘りをみせた。これも主君・信長への信頼と忠誠心がなければできることではない。織田信長像(東京大学史料編纂所所蔵の模写) そんな信盛が、若い頃に発給した文書がある。天文年間(この時期から4年以上前)に熱田社の関係者に出したものなのだが、そこに記された彼の署名は「佐久間半羽介」というものだった。  筆者は以前、この「半羽介(はばのすけ)」というのは現在の名古屋弁にある「ハバ」と同じものかと考えていた。「ハバ」は仲間はずれ、という意味であり、信長とその近習たちが傾奇者の格好で人も無げに振る舞うのは、自分たちを世間の除(の)け者と規定し、家臣にもそのものズバリの名を使わせていたのではないか、というわけだ。「珍走族」の若者たちが奇抜なグループ名を名乗るのと似通っている。 だが、どうやらそれだけではなかったようだ。実は、「半羽介」のハバは、大蛇の代名詞でもあるのだ。『古事記』などを見ると、ヤマタノオロチを退治した素戔嗚尊の剣の名は「アメノハバキリ(天羽々斬)」なのだが、これはハバを斬るための天剣という意味である。つまり、ハバ=大蛇なのだ。 信長は、信頼する信盛に大蛇と名乗らせて、名前の上からも身の回りを蛇で固めていたということになる。信盛もまた信長の思想に賛同し大蛇の名を喜んでわが身に承(う)けた。そして家来たちはみな信長の大蛇信仰に同調し、集団でその力を追い求めていく。自分の手を焼いてでも信長が許せなかったこと 『信長公記』には、この蛇池のエピソードに続いてもう一つ、興味深い話が収録されている。それは、信長の身内と言ってもよい、乳兄弟(信長の乳母の子)にあたる池田恒興(つねおき)に関するものだ。信長の家臣・織田信房の家来と、同じく家臣・恒興の家来とが刃傷沙汰を起こし、裁判に持ち込まれる。ここで信長が命じたのは、「火起請(ひぎしょう)にせよ」ということだった。 火起請とは当時しばしばおこなわれた判定方法で、炎にくべ真っ赤に熱した手斧などの鉄製品を握らせて所定の場所に置くことができればその者は正しい、あるいは勝ち、ということになる。信長はこれを「三王社の前」でやらせたのだが、これは山王社=日吉神社の前だろう。清洲城跡の南、800メートルほどのところに三王日吉神社が鎮座しているのがおそらくそれだと思われ、この神社の由来にもこの話は自社でおこなわれたとされている。 かつて清洲の総氏神=名古屋の中心的神として大切にされていた神社。その社域の前ということではなく、当然火起請は神前でおこなわれた。つまり神の判断を仰ぐという意味である。 その場で、恒興の家来は焼けた手斧をつかむことができなかった。ところが、恒興は信長の乳兄弟という立場を利用して家来をかばい、命を助けようとしたのである。 これを聞いた信長は、怒った。現地におもむいて関係者全員を前に「どの程度まで手斧を焼いたのか、見せよ」と命じると、再び真っ赤に焼かれた手斧をわが手で受け取り、スタスタと3歩歩いて棚に置き、「見たか」と周囲を見渡し、恒興の家来を成敗させた。信長が火起承を行った日吉神社の境内にある申の像(中田真弥撮影) なんともすさまじい話であるが、重要なのはこれが日吉神社の神前だったという点だろう。日吉神社は津島の牛頭(ごず)天王信仰とも関係が深いといわれる。この神社の祭神・大山昨神(おおやまぐいしん。五穀豊穣、植物の成長を司る)はその本家・比叡山の日吉神社が猿を神の使いとし、「真猿」=魔が去る=厄除けの利益をもたらしてくれる神であり、魔除けに余念がなかった信長には大切な神だった。さらにそれだけではなく、厚く尊崇する素戔嗚尊も祀られていたから、その神慮を無視して私欲を優先しようとする恒興を許すことができなかったのだ。 灼熱(しゃくねつ)した鉄で自らの手の肉を焼くというすさまじいやり方をとってまで神意をはばかった信長。その姿は、無宗教主義者というレッテルからかけはなれたものというほかないではないか。 

  • Thumbnail

    記事

    イエズス会が信長を暗殺? 本能寺の変、3つの黒幕説のウソ、ホント

    渡邊大門(歴史学者) 本能寺の変に関しては、朝廷や室町将軍が黒幕だったという説のほかに、いくつもの黒幕説が提起されている。それらの説を確認しておこう。 本願寺教如(きょうにょ)が本能寺の変の首謀者であった、という説がある。大坂本願寺は、長らく織田信長と抗争を繰り広げたことで知られている。天正8(1580)年閏(うるう)3月、正親町天皇の仲介により、両者は和睦を結んだ。大坂本願寺の顕如(けんにょ)は無念の思いを抱きつつ、紀州の鷺森別院へと向かった。 教如は顕如の長男であり、信長との徹底抗戦を主張していた。親子は路線が対立してしまい、顕如は教如と親子の縁を切った。したがって、「信長憎し」の思いを持つ教如ならば、立派な黒幕の候補と言えるのかもしれない。  黒幕説の概要は、以下の通りである。教如上人像(和歌山県立博物館所蔵) 丹羽長秀の率いる織田軍は、紀州雑賀の顕如を攻撃しようとしていた。その一報は、播磨英賀(あが)にいた教如のもとにもたらされたという。縁を切ったとはいえ、2人は親子であり、教如は居ても立ってもいられなかったかもしれない。 一方、正親町天皇は本願寺の滅亡を阻止するため、教如の意向に基づき、光秀に信長討伐を命じた。吉田兼和(兼見)と近衛前久(さきひさ)の2人が仲介役となり、教如、正親町、光秀の間を取り持ったという。教如は朝廷を動かすことにより、光秀に信長を討たせたということになろう。 織田軍が顕如を攻撃することを示した『大谷本願寺由緒通鑑』は、基本的な誤りが多い俗書と評価されており、そのほかの関連史料の解釈も全般的に誤っている。したがって、根本となる史料の問題があり、この時点で教如の黒幕説は成り立ちにくい。 また、本能寺の変の直前、教如が備中高松城にいた秀吉に対し、光秀謀反の情報をリークしたという。事前に光秀の謀反を秀吉に知らせることにより、毛利氏との講和を促し、上洛(じょうらく)しやすい状態に持ち込んだということになろう。イエズス会が黒幕という説も そして、この中国大返しの途中の姫路城で、秀吉は教如と面会し、互いに交誼(こうぎ)を結んだというのである。ところが、こちらも関連史料の年次比定を誤っており、中国大返しの行軍日程も従来の誤った説によっている。 非常に劇的な興味深い説であるが、根本的に史料解釈の誤りや曲解があり、本願寺教如首謀者説は成り立たないといえよう。 イエズス会が信長の暗殺に関わったというのが、「南欧勢力黒幕説」である。この説は、イエズス会による壮大な戦略の一環として位置付けられている。国の重要文化財に指定されている「絵本著色フランシスコ・ザビエル像」(神戸市立博物館所蔵) 次に、南欧勢力黒幕説の概要を確認しよう。  イエズス会はもっとも頼りにしていたのは、キリシタン大名で最大の庇護(ひご)者である豊後の大友宗麟だった。そして、信長は大友氏を通して、イエズス会から鉄炮を提供されていた。つまり、信長にとってイエズス会は不可欠な存在だった。 南欧勢力はイエズス会を通して信長に資金援助等を行い、信長はその資金で天下統一に邁進(まいしん)した。南欧勢力の最終目標は、信長を使って中国を征服することで、信長はイエズス会の手駒にすぎなかったという。そして、イエズス会を支えていたのは、堺の商人、朝廷の廷臣、幕府の幕臣らであった。 ところが、途中から信長は独自の路線を走り、イエズス会にとって厄介な存在になっていった。信長はイエズス会に対して、武器と資金を提供してくれる便利な存在にすぎず、キリスト教の教えに関心はなかったという。周知の通り、信長がキリスト教と距離を置いたのは、確かなことである。 そのような事情から、イエズス会が信長を操ることは困難になっていった。逆に、イエズス会にとっても信長が邪魔な存在になり、暗殺を計画。これが本能寺の変の発端になった、というものである。 結果、イエズス会は、光秀に信長を討つよう命じて成功した。秀吉が光秀を討伐したのも、シナリオ通りだった。本能寺の変は、朝廷がイエズス会の意向を受け、光秀に信長討伐の命を下したものであったというのが結論である。 その背後では、津田宗及らが暗躍したという。単に信長や本能寺の変だけの問題ではなく、世界的な規模の非常に壮大な説である。 ところが、そもそもイエズス会には、上記に示したような人脈や資金力がなかったと指摘されており、根本的に実証的な裏付けがほとんどない。おまけに史料の誤読と曲解、そして論理の飛躍によって論が構成されており、全体として破綻している。到底、首肯できない説といえよう。光秀が壮大なことを目論んでいた? 南欧勢力黒幕説と並んで、壮大な説となっているのが「明智光秀制度防衛説」である。以下、この説の概要に触れておこう。 天正元(1573)年、信長は、足利義昭を追放し、「信長政権」を樹立した。しかし、京都には幕府奉公衆と奉行人で構成される「室町幕府」は存続し、その中心になっていたのが明智光秀だったという。 信長は自身が太政大臣になり、家康を征夷大将軍とし、「室町幕府」を滅ぼそうとした。「室町幕府」の重大な危機である。光秀らはその動きを阻止すべく、信長らを討とうとしたという。幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師、月岡芳年が描いた本能寺の変での織田信長=明治11年(静岡県立中央図書館蔵) 光秀は本能寺の変で信長の討伐に成功したが、家康を逃がしてしまった。原因は、細川幽斎の裏切りである。その後、幽斎は備中高松城の秀吉に本能寺の変の情報を伝え、すぐに帰京するよう依頼した。 こうして山崎の戦いで光秀は敗れ、「室町幕府」は滅亡したのである。つまり、光秀は「室町幕府」を存続させるため、信長に反旗を翻したということになろう。これが明智光秀制度防衛説の概要である この説は近年の室町幕府などの研究成果を無視しており、おまけに憶測と論理の飛躍と史料の誤読と曲解を重ねただけで、まったく説得性に欠けている。 例えば、信長が太政大臣になり、家康を征夷大将軍になろうとしたことは、まったく史料的な根拠がない。また、細川幽斎が光秀を裏切ったとか、秀吉に本能寺の変の情報を伝えたなども、単なる憶測にすぎない。 したがって、この説の可否については、否定的な見解が多数を占めているといえる。つまり、成り立たないのだ。 今回取り上げた説については、これまでと同様に次のような共通点がある。 ①信頼できる史料に基づいていない。 ②史料の誤読や曲解などに基づいている。 ③著しい論理の飛躍。 本能寺の変については虚心坦懐(たんかい)に史料を読み解き、冷静になって考えるべきかもしれない。壮大な説ほど注意が必要である。【主要参考文献】鈴木眞哉・藤本正行『信長は謀略で殺されたのか』(洋泉社新書y、2006年)谷口克広『検証 本能寺の変』(吉川弘文館、2007年)渡邊大門『信長政権 本能寺の変にその正体を見る』(河出ブックス、2013年)

  • Thumbnail

    記事

    信長「天女のコスプレ」に隠された弟殺しの真相

    橋場日月(歴史研究家、歴史作家) 織田信長にとって、弘治(こうじ)2(1556)年は父、信秀の死以来積もり積もった家中の矛盾を解決する重要な年となった。稲生の戦いで弟の信勝を支持する家老、林秀貞と柴田勝家らの軍勢を破り、庶兄の信広が美濃の斎藤義龍とむすんで敵対して来たのを数回にわたる戦闘で降参させたのだ。 『信長公記』には「御迷惑なる時、見次者(みつぐもの)は稀なり」と記されているが、これは信長が困っている時に協力してくれる者はほとんどいなかった、という意味だ。ではなぜそこまで孤立していた信長が勝てたかというと、その後に同書は「屈強で武功を重ねた侍衆7~800人が部下として揃っていたからだ」と説明している。つまり、親族や重臣が「見次いで」くれなくても、彼には子飼いの直属武士がいて、団結し機動的に合戦をおこない勝利をつかんだ、というわけだ。 この部下というのが、かつて傾奇ファッションに魔除けアイテムをたくさん提げて町を闊歩(かっぽ)していた信長の供、前田利家や佐々成政らだった。彼らは有力国人の次男や三男が多く、家のことは父や兄に任せて信長と四六時中行動をともにして来た「子飼い」の家来たちだった。信頼もおけるし、合戦でも信長とあうんの呼吸で命がけの働きを示し、烏合(うごう)の衆を負かすことができたのだ。尾山神社の前田利家の像=金沢市尾山神社 しかし、果たして信長は利家たちの忠誠心だけを頼りにしていたのだろうか?翌弘治3(1557)年の彼の動きを見ると、どうもそれだけではなかったようだ。この年はめぼしい合戦が見当たらず、正月に嫡男の信忠が生まれるなど信長にとってはつかの間の憩いのようなひとときだった。 そんな平穏の中で夏を迎えた7月18日、津島に彼はその姿を現した。 「上総介(かずさのすけ)殿(=信長)は天人の御仕立(おしたて)に御成候(おなりそうらい)て、小鼓をあそばし、女踊りをなされ候。津島にては堀田道空の庭にてひと踊りあそばし、それより清須へ御かえりなり」 当時の7月18日は現在の8月22日。つまりお盆の時期だ。信長は「天女のコスプレ」で小鼓を打ち、女舞いを踊ったのである。 そして、その場所は前回触れた、この4年前の斎藤道三との会見をセッティングした人物の屋敷の庭だった。彼の名は堀田道空という。信長の敵に仕えていた道空の正体 道空は通称を孫右衛門、諱(いみな)が正定(正貞)で、のちに道悦と入道名を改めたか、あるいは道悦という兄弟がいるらしい。彼は木曽三川で尾張と美濃を結ぶ舟運業を背景にした財力とネットワークで道三の家老にまでなった津島の有力者だ。道三と信長の会見場を木曽川に近い富田の聖徳寺に用意し、信長に「この方こそ道三様でございますぞ」と紹介した、織田・斎藤両家の取り持ち役である。堀田一族からは津島神社の神官も出ていたというから、その末社で那古野城内にあった亀尾天王社に通い学問をした信長にもゆかり深い。津島の全景=国立国会図書館近代デジタルライブラリー『尾張名所図会』 この道空、前年に道三が討ち死にした後はその子の義龍に仕えたという。義龍は道三を討った張本人で信長にも敵対していたから、道空は信長にとって「敵側」の人物なのだが、それにもかかわらず信長は彼の屋敷で踊ったのだ。果たしてそこに危険はなかったのだろうか? 津島は織田家の支配下にあり、道空も尾張と美濃の流通で儲けている以上、信長とも良好な関係を築いていた。事実、『尾張群書系図部集』の堀田系図にはこの道空が「織田信長に仕う」と記されており、彼は尾張織田家・美濃斎藤家に両属する形をとっていたと思われる。津島の富を背景にすれば、そんなことも可能だったのだ。 そんな道空だから、この時期、彼としても義龍と信長、どちらが勝っても良いように一段と両面外交に徹し、信長の機嫌もとっておこうと考えていたのだろう。 だが、信長の側には、道空以上に関係を良好にしたい事情があった。信長を評価し期待していた道三が生きているうちは良かったが、義龍の指示で道空が信長と疎遠になり津島衆がそれにならうようなことがあれば、信長は津島という経済基盤を失ってしまうからだ。そして、信長の踊りは、そのためのパフォーマンスだった。 といっても、信長は道空の前で道化を演じ、媚びを売ろうとしたわけではない。この踊りには重要な意味があった。それをひもとくために、まず信長の踊りは何だったのかを確認してみよう。 『尾張名所図会』によれば、この信長のパフォーマンス以後、津島では「津島踊り」が大流行し、貴賤(きせん)上下を問わず皆が踊り楽しんだ、とある。ということは、信長の踊りは流行する以前からおこなわれていた「津島踊り」と解釈できる。 同書にはまた、「道悦(道空)の屋敷で津島踊りという「古雅な戯れ」がおこなわれていた」とあるから、信長の女舞い以前から、堀田屋敷で限定的に津島踊りは開催されていたのだろう。信長の女舞いと「蛇志向」 この津島踊りの流れをひくとされる「くつわ踊り」は傘役、くつわ役などそれぞれ4人がひと組となって踊るが、信長も家来たち4人を「鬼と地蔵」組(地蔵は地獄界や餓鬼界、修羅など六道をめぐり、鬼の責め苦を人々に代わって受ける存在と考えられていた)、同じく4人を「武蔵坊弁慶」組にしていたから、根本は同じと考えて良い。 このくつわ踊りは雨乞いの踊りといわれる。つまり、信長の女舞いは堀田屋敷の雨乞い儀式である津島踊りの一バリエーションだったのだ。しかも信長が演じた天人の女性、つまり天女の代表的な存在である弁才天女は、水の神として祀られていることから、信長自身も雨乞いを強く意識していたと推し量ることができる。 さらに興味深いことに、日本の弁才天女は頭上に宇賀神像を乗せる形でその像が多く造られているのだ。この宇賀神、日本特有の神で、頭は翁、胴体は蛇。これで豊穣をもたらす御利益があるという。本体の弁才天女同様、水の恵みに関連づいているのだろう。 最後尾、扇を持つ天女姿が信長=国立国会図書館近代デジタルライブラリー『尾張名所図会』 前回のテーマだった信長の「蛇志向」が、こんなところでもチラリと顔を出してきた。 雨乞いと蛇というのは密接な関係を持っており、京の朝廷が雨乞いをする際にも竜や蛇の姿を写した器具を用い、竜や蛇が住むとされる神泉苑や大和の室生山で祈祷がおこなわれた。津島の天王社は前回紹介したようにヤマタノオロチの力を手に入れた素戔嗚尊(スサノオノミコト)を祀る神社なので、その近くの堀田屋敷で雨乞いの踊りがおこなわれるというのも、これに準じた発想だったのだろう。 実は、このとき尾張の人々は深刻な悩みを抱えていた。正確には尾張だけではなく、日本の多くの国々が同様に苦しんでいた。それは、「旱(ひでり)」である。  「5月26日から8月9日まで、雨1度も降らず、大炎天。諸国の田畑はすべて干上がってダメになってしまった」(『足利季世記』) 「近年にない大飢饉となった」(『重編応仁記』) 各種の記録が示すようにこの年の夏は大干害が発生し、秋には大飢饉(ききん)となる。飢餓の恐怖が迫る中、当時の劣悪な灌漑(かんがい)技術では、人々にできることは神に降雨を祈るよりほかには無かった。尾張の人々も雨を渇望し、天を仰いでいたことだろう。信長の弟殺しは家督争いではなかった? そんな中、津島の雨乞い踊りに信長が参加した。領民の願いを代表して踊る信長に、領民は歓呼する。『信長公記』には、このあと津島の5ヶ村の長老たちが清洲へおもむき、信長の御前でお礼の踊りを披露したと書かれている。これはただ単に信長が自分たちとともに楽しんでくれたことに対する感謝を示したわけではなく、雨を願う気持ちを共有し、ともに神に祈ってくれたことを謝したのだ。清洲城跡の復興模擬天守 長老たちは信長から一人一人言葉をかけられ、団扇であおいでもらったり茶を出されたりして感激し「炎天の辛労を忘れ」るのだが、この辛労というのも津島から清洲におもむく道すがらが暑かったというのんきな話ではなく、この夏の渇水への恐怖と苦労を指していた。 このあと信長の女舞いの効果があって多少なりとも雨が降ったかどうかは別として、少なくとも道空以下、津島衆の気持ちをグッとつかむことはできたはずだ。 さて、今書いたように、信長の雨乞いが功を奏したかについて直接天候を記録した史料は存在しないのだが、降雨の有無はさておき、やはり恐れていた通り凶作、飢饉は発生したようだ。それは、この年の11月2日に彼の弟、信勝(信行)が死亡したことでわかる。 この事件は、信長を排除して織田家当主に就くことをあきらめない信勝を、信長が仮病を構えて清洲城へおびき出し暗殺したというものなのだが、これにこの年の信長の雨乞いを重ね合わせて考えると事件の全貌がはっきり見えてくる。 「信勝は、信長の御台所入りの篠木三郷という収穫高の良い土地を押領しようとした」 これは事件の直前のこととして『信長公記』が記すところなのだが、つまり渇水・干害による凶作で尾張国内は食糧危機に陥り、信勝は実入りが見込める信長の直轄領を奪おうとしていたということになる。篠木荘は那古野城の北東、現在の春日井市にあり、庄内川によって豊かな土壌が形成された水田地帯である。清洲城よりも信勝の本拠の末盛城に近いから、信勝としては何としても支配下に収めて飢饉に苦しむ家来や領民たちを救済する必要があったのだろう。 しかし、雨乞いまでして飢饉回避を願った信長にとっても、篠木荘の収穫は生命線だから譲るわけにはいかない。これが、信長による弟殺しの直接の原因である。織田家家督をめぐる争いの果てというよりも、より動物的で本能的な食糧闘争の結果だったのだ。

  • Thumbnail

    記事

    信長に感謝した正親町天皇が「暗殺の黒幕」など有り得ない

    渡邊大門(歴史学者) 本連載の第1回で取り上げた「朝廷黒幕説」について、今度は別の角度から考察してみよう。まず、織田信長が勧めたという正親町(おおぎまち)天皇の譲位の問題に関しては、その意味をめぐって議論となっており、真っ向から対立する二つの見解に分かれている。① 正親町天皇に譲位を迫り朝廷を圧迫した② 譲位の申し出を受け正親町天皇は感謝の気持ちを持った正親町天皇肖像画(泉涌寺所蔵) 朝廷黒幕説の根拠は①の立場である。信長は嫌がる正親町天皇に譲位を迫り、窮地に追い込み、「打倒信長」をたくらむ朝廷は裏で明智光秀を操って本能寺の変を引き起こさせたというのである。最初に、正親町天皇の譲位問題の経過を確認しよう。 天正元(1573)年12月3日、信長は正親町天皇に対し、譲位を執り行うように申し入れた(『孝親公記』)。正親町天皇は信長の申し出を受け、譲位の時期について関白の二条晴良(はれよし)に勅書を遣わしている。正親町天皇は快諾したのであろう。晴良は勅書を受け取ると、すぐに信長の宿所を訪れ、正親町天皇が譲位の意向を示している旨を家臣の林秀貞に申し伝えた。 すると、秀貞は「今年はすでに日も残り少ないので、来春早々には沙汰いたしましょう」と回答した。晴良は「御譲位・御即位等次第」について、余すところなく伝えたという。「御譲位・御即位等次第」の内容は詳しく伝わっていないが、日程や費用の問題について協議が行われたと推測される。 戦国期には経費負担が問題となり、天皇が即位式を行えない状態が続いた。実際に譲位を行うと、単に天皇位を譲るだけで済まなかった。即位式やその後の大嘗祭(だいじょうさい)などを挙行するのに、かなりの費用が必要であった。それゆえ、信長の譲位の勧めは、誠にありがたい申し出だったといえる。また、ありがたいのは、財政支援だけではなかった。 院政期以後、一般的に天皇は譲位して上皇となり、上皇が「治天(ちてん)の君」として政務の実権を握るようになった。しかし、戦国期に至ると、そうした状況は大きく変化を遂げる。例えば、後土御門(ごつちみかど)、後柏原、後奈良の三天皇は、生存中に譲位することがなかった。彼らが亡くなってから、天皇位は後継者の皇太子に譲られており、それは不本意なことだった。 むろん、そうした事態は、彼らが望んだものではない。即位の儀式や大嘗祭などには莫大(ばくだい)な費用がかかるため、譲位をしたくてもできなかったというのが実情であった。彼らは、費用負担を各地の戦国大名に依頼するなどの努力を惜しまなかったが、ついに希望をかなえることができなかったのだ。正親町天皇の反応は ところで、正親町天皇は信長の譲位の勧めに対して、「後土御門天皇以来の願望であったが、なかなか実現に至らなかった。譲位が実現すれば、朝家再興のときが到来したと思う」と感想を述べている(「東山御文庫所蔵文書」)。文字通り、正親町天皇は大変喜んでいるのだ。結論をいうと、正親町天皇は信長の申し出に対して、いたく感激したのである。東山天皇御即位図(東京大学史料編纂所所蔵) 早速、朝廷では譲位に備えて、即位の道具や礼服の風干(ふうかん。衣装を風に晒(さら)すこと)を行った(『御湯殿上日記』)。しかし、ついに信長の存命中に譲位は挙行されなかった。信長は将軍・足利義昭との関係が破綻してから、その対応に苦慮しており、多忙を極めていた。また、各地の大名との戦いも負担になっていた。譲位が執り行われなかったのは、信長側の事情が大きかったと推察される。 一連の経過を見る限り、信長が譲位を通して天皇を圧迫したという考えは、正しいとは言えない。したがって、従来の説で指摘されたように、信長と朝廷との間に対立があったという考え方は、改めて見直す必要があろう。逆に、正親町天皇は信長の提案を受け、喜んで譲位を受け入れたと解釈すべきなのである。 また、信長が朝廷を圧迫した例として、京都で挙行された馬揃えの件がよく挙げられる。「馬揃え」とは、信長軍団の軍事パレードのようなものである。次は、この馬揃えについて考えてみよう。 天正9(1581)年1月15日、信長は馬廻(うままわり)衆を安土城に招き、左義長(さぎちょう)を催した。左義長では爆竹が鳴らされ、見物人がどっとはやし立てたという。同時に織田家の一門がほぼ勢ぞろいし、信長自らが豪華な衣装を身にまとって登場するという派手なパフォーマンスぶりだった。 とりわけ騎馬行列は多くの見物人の目を引き、皆一同に感嘆の声をあげた。このイベントの話が正親町天皇の耳に入り、強い関心を寄せていたようである。こうして正親町天皇の要望に応え、京都においても馬揃えが挙行されることになった。 同年1月23日、京都における馬揃えの準備は明智光秀に任された。馬揃えの規模は壮大で、参加者の人数も多く、見学者も多数やって来ると予想された。駿馬(しゅんめ)を準備するための努力も最大限に行われ、徳川家康も鹿毛の駿馬を1匹贈っている。馬揃え当日には、正親町天皇のために禁裏(きんり)の東門付近に行宮(あんぐう)が設けられた。 同年2月28日、信長は正親町天皇を招き、禁裏の東門外で壮大な馬揃えを行った(『御湯殿上日記』など)。会場の大きさは、諸説あるものの、長さは南北に約436m~872m、幅は、東西に109m~163mもあったという。馬揃えの狙いとは 参加した武将は約700名であり、見物人は約20万人にのぼったといわれている。騎馬武者の衣装もきらびやかで、公家衆も数多く見学に訪れた。参加した誰もが壮大な馬揃えを見て、信長の威勢に圧倒されたはずである。(iStock) ところで、信長が馬揃えを行った本心は、一体どこにあったのであろうか。朝廷黒幕説の主張によると、信長は正親町天皇に壮麗なる馬揃えを見せ、その軍事力を顕示し、正親町を威圧して譲位を迫ろうとしたという見解だ。ところが、先例にならって正親町天皇は譲位を望んでいたので、こうした見解は妥当ではない。では、信長は何を考え、正親町天皇はどう受け止めていたのだろうか。 信長の目的は、天下(=畿内)が治まりつつある中で、正親町天皇と誠仁(さねひと)親王の奉公すべきものと考えていた。信長の考えは、「天下(=畿内)において馬揃えを執り行い、聖王への御叡覧に備える」と記されている(『信長公記』)。 これは、信長の畿内近国制覇を誇示し、信長軍団の威勢の顕示と士気高揚を目的としたものと指摘されている。結果、「このようにおもしろい遊興を正親町天皇がご覧になり、喜びもひとしおで綸言(りんげん)を賜った」とある(『信長公記』)。つまり、正親町天皇は威圧されたのではなく、大喜びだったのだ。 おそらく信長は天皇の権威を熟知し、利用しながら天下(=畿内)統一を進めようとしたのだろう。したがって、自らの軍事力を正親町天皇に誇示し、威圧するという考えは当たらないと考えられる。威圧するならば、ほかに方法はいくらでもあったはずで、あまりに回りくどい方法といわざるをえない。 馬揃えの意義に関しては、天下(=畿内)統一をもくろむ信長が、畿内周辺の諸勢力を集めて自らの力を顕示した点にある。正親町天皇を招き、その面前で馬揃えを執り行ったことに大きな意味があった。別に、正親町天皇を窮地に追い込み、譲位を迫ろうとした意図はない。繰り返しになるが、正親町天皇は譲位に賛成だったのである。 馬揃えは天皇を推戴し、自らの権威を高めようとした信長の思惑である。馬揃えという一大イベントは京都だけでなく、全国各地に情報が伝わったに違いない。そうであるならば、信長の本懐は十分に達せられたことになる。【主要参考文献】・桐野作人『だれが信長を殺したのか 本能寺の変・新たな視点』(PHP新書、2007年)・谷口克広『検証 本能寺の変』(吉川弘文館、2007年)・渡邊大門『信長政権 本能寺の変にその正体を見る』(河出ブックス、2013年)

  • Thumbnail

    記事

    貧乏だった幼少期、信長の心の隙間を埋めた「大蛇信仰」

    橋場日月(歴史研究家、歴史作家) 父、信秀から那古野城を与えられた信長。それがいつだったかは諸説あるが、いずれにしてもまだ児童から少年にかけての不安定な時期だったことに違いはない。なにしろ、信長が3歳の時に「大御ち(おおおち)」(大御乳、のちに信長の部将となる池田恒興の母)が乳母の役に就くまでは、次々と乳母の乳をかみ切るほど癇(かん)の強い子供だったというのだから。 癇、すなわち「かんしゃく」は、親の愛情を独占したい、注目を集めたい、という欲求不満が原因らしいけれども、そんな子供が両親から引き離されて那古野城に置いていかれ、いきなり城主となって周囲には林秀貞、平手政秀、青山与三右衛門、内藤勝介の4家老以下、大人たちに囲まれて暮らすようになったのだ。精神的に不安定になるのは自然の成り行きである。 その上、まだ年端もいかない信長にはもうひとつ困った問題があった。『信長公記』によると、この頃の信長の生活は「御不弁かぎりなく」というものだったという。どうしようもなく不弁=経済的に困窮していた、という意味だ。第二家老の平手政秀は、公家の山科言継が「目を驚かされた」と書き記すほど豪華な屋敷を持つ裕福な武将だったが、それでも貧乏だったとはどういうことだろう。 実はこの時期、信長の父・信秀はさかんに隣の美濃・三河に遠征を繰り返しており、その戦費として膨大な金を投入していた。おそらく信秀は那古野城の経費などもほとんどかえりみることなく軍事に有り金をはたいてしまったのだろうが、信長にとっては「城付きの捨て子」のようなものである。物心がついていくなかでこの境遇が彼の精神形成に及ぼした影響の大きさは容易に想像がつくではないか。 そんな中、『信長公記』は彼の日常について、こう言及している。「天王坊と申す寺へ御登山なされ」――。 お寺に参ることを登山するという。寺院の名称は○○山××寺という形で山号と寺号がセットになっているからだ。 この天王坊は、織田家に関わりの深い津島の牛頭(ごず)天王社(現在の津島神社)だともいわれているけれども、それは誤りで、実は那古野城の三の丸にあった亀尾天王社を指している。神社だから登山ではないじゃないか、と思われるかもしれないが、「坊」と付くのは、当時は神仏習合で神社を管理する寺=別当寺というものがセットになっていて、天王社の寺ということなのだ。これは亀尾山安養寺華王院という名称で、明治の廃仏毀釈(きしゃく)によって廃寺となっている。名古屋城二の丸庭園に遺る那古野城跡の碑 つまり、信長は城内の天王社の中にある安養寺に通っていたのである。それはそうだ、いくら昔の人が健脚でも、そう何度も那古野城から津島まで、約18kmもある道のりを通えるものではなかろう。信長が畏れ憧れた神の正体 現在は名古屋市中区丸の内、名古屋城の南方に移され「那古野神社」となった亀尾天王社は、津島牛頭天王社の末社。神仏の方が出張して来てくれているのだから、何も徒歩なら片道3時間以上、騎馬なら2時間(?)もかけて津島まで通う必要もない。「信長公蛇石曳之図」(伊藤龍涯作、摠見寺所蔵) それに、信長は何も仏様に詣でるために天王坊へ通っていたわけではなかった。では何のためかというと、それは学問修業のためだ。当時の有力武士の子弟は必ず寺院で勉強し、学問と教養を身につけるのがならわしだった。上杉謙信は林泉寺、武田信玄は古長禅寺、今川義元は善得寺、徳川家康は臨済寺と、それぞれ寺院で教育を受けている。当時は僧侶が学問のエキスパートであり、京の上流階級や他の大名とまじわるための嗜(たしな)みを広め伝える文化の担い手でもあったのだ。というわけで、信長も貧乏ながら那古野城の若殿様である以上、日々天王坊に通って学ばなければならないのである。 そしてこの天王坊安養寺が守る、つまり本社の津島牛頭天王社の祭神でもある主祭神に注目しておきたい。それは、素戔嗚尊(スサノオノミコト)だ(ちなみに、安養寺のご本尊はごく普通に阿弥陀如来だったらしい)。 スサノオの物語は皆さんよくご存じだろう。『古事記』に登場するこの荒ぶる神は、出雲で八俣の遠呂智(ヤマタノオロチ。『日本書紀』では八岐大蛇)を退治しその体内から草薙剣(サクサナギノツルギ)を得た。神話の時代の話ではあるが、オロチを斃(たお)してその「本体」とも考えられる草薙剣を手に入れたということは、オロチの力をわが物としたと解釈できるだろう。 ちなみにこの説話は、スサノオに象徴される大和王権が、すぐれた鋼(はがね)を生み出す出雲に進攻し、製鉄技術を獲得したことを象徴するともいわれている。スサノオはまさにオロチの力を獲得した神なのだ。スサノオは後にこの剣を姉の天照大神(アマテラスオオミカミ)に献上したが、本人は出雲に新居を構えた。その子孫には大国主命がいる。オロチ=出雲の鋼鉄はスサノオが支配し続けたのだから、オロチの力は草薙剣を手放しても彼の手に残ったといえる。 信長からだいぶ話が離れてしまった感があるが、ここで前回の話を思い出していただきたい。信長が刀の柄に巻いていた三五縄の話である。この魔除けの縄が表していたのが蛇。そしてオロチは、蛇、大蛇そのものである。頼る肉親もいない寂しい生活の中、信長は日々天王坊でスサノオの説話に触れて育ったのだから、スサノオが得たオロチの力への畏れ、憧れは深層心理に知らず知らず沈殿していったはずなのだ。もっとも、ここまで話が飛躍すると「なんだ、所詮はこじつけじゃないか。信長は蛇の力なんかに頼らない、自分の力しか信じないタイプの男だろう」と仰せの向きもあるだろう。そういう方は、ぜひもう少し我慢していただきたい。斎藤道元はなぜ信長に入れ込んだのか 孤児のように那古野城で成長した癇癖(かんぺき)の強い信長が傾(かぶ)いたスタイルで往来を闊歩(かっぽ)し、離れて暮らす両親の注目を集めるためか奇矯な振る舞いをくりかえすようになって何年かがたち、天文21年(1552年 異説あり)3月、父・信秀が病のために世を去る。第1回で紹介したように、信長が例の魔除けアイテムづくしのまま葬儀にやって来たのは、このときの話だ。このありさまに心を痛めた平手政秀は、息子が愛馬をめぐって信長とケンカしたこともあって絶望し、信長をいさめるために切腹して果てている。この件については持論があるのだが、テーマから逸(そ)れるので割愛することにしておこう。 その翌年、信長は那古野城から北西、木曽川沿いの富田(とんだ。現在の一宮市の富田=とみた)に向かった。そこで待つのは、信長が5年前に娶(めと)った濃姫(帰蝶)の父親である美濃の大名・斎藤道三だ。道三は、前年の信秀の死の直後、信長の大叔父・玄審允秀敏にこう手紙を書き送っている。「御家中の状態は外聞が悪く、私も困惑している。あまり期待をかけず放置してみて、どうにもならないようなら相談してくれ。三郎殿様は若いので、苦労するのは仕方がない」名古屋市内・大須万松寺にある信秀の墓 三郎殿様というのは信長を指し、その家中が主君の信長にふりまわされて分裂状態になってしまっていたことが分かる。家中の長老として信長を後見する立場の秀敏は、信長の舅(しゅうと)で信秀の同盟者だった道三に事態の深刻さを相談したのだろう。これに対し、道三はさすがにあれこれ周囲が干渉すればかえって信長が反発し収拾がつかなくなる、と見定め、しばらく様子を見るように、とアドバイスし、信長が若いのだから皆の我慢が肝心だ、と諭しているのだ。富田で信長と初めて会おうと彼が申し入れたのは、信長の器量を見定め、今後も同盟関係を続けるかどうかの判断を下すためだったと思われる。信長は魔除けと蛇志向から解放されたのか? 結果として信長はこの会見で長柄の槍や鉄砲を道三に見せつけ、その度肝を抜いた。そのうえ、例の傾奇ファッションで富田にやって来た彼は、会見の席には長袴を着け髪もキチンと結い上げて登場する。これで道三は完全にやられた。帰路、彼は家臣に「わしの子たちは信長の家来となるだろう」と予言し、以後は信長を熱心にバックアップし始める。翌天文23年(1554)、村木砦というところへ出陣する信長のために那古野城へ留守番兵を送り込んだほどで、隙あらば他者の城を奪い取ろうという戦国時代にあって「梟雄(きょうゆう)」と呼ばれた道三が、信長が凱旋(がいせん)してくると那古野城を素直に返しているのだから、その入れ込みっぷりは類を見ない。彼は信長の人間力を見て、その将来性を高く評価したのだ。斎藤道三(東京大学史料編纂所所蔵の模写) では傾奇ファッションを捨ててノーマルないでたちへと大変身を遂げた信長は、これでそれまでの魔除けアイテムへの執着や深層心理にひそむ蛇志向から解放されたのだろうか? それがどうも、そうではないようなのだ。 例えば、この村木砦合戦に際して彼が乗った馬の名は「ものかは(わ)」。「嵐もものかは、外出する」などの用例で分かるように、「問題にしない」という意味の言葉だ。この場合は大敵も物の数ではない、という縁起担ぎを目的としたネーミングだったのだろう。 さらに、後年信長が羽柴秀吉(のち豊臣秀吉)に下賜したという伝承を持つ大阪城天守閣所蔵の信長遺品「緋羅紗地木瓜桐文陣羽織(ひらしゃじもっこうきりもんじんばおり)」。緋(ひ)色の羅紗(らしゃ)というものは当時猩々(しょうじょう。猿のような怪物)の血で染めると考えられており、それは鉄砲の弾を除ける効果を持つとありがたがられたらしい。まさに魔除けのアイテムということになる。これなども信長が呪術的部分を持っていた傍証かもしれない。 この後、尾張統一戦―今川義元との桶狭間の戦い―美濃併合―上洛(じょうらく)と勢力を拡大していく中でその傾向はたびたび顕(あらわ)れる。次回はその最初にして決定的な例を紹介しよう。 

  • Thumbnail

    記事

    足利義昭「将軍黒幕説」が成り立たないこれだけの理由

    渡邊大門(歴史学者) 前回は、本能寺の変における「朝廷黒幕説」の一つの原因とされる「暦問題」を取り上げ、その説が成り立たないと結論付けた。 ほかにも重要な黒幕説としては、将軍・足利義昭が黒幕だったという「将軍黒幕説」がある。この説が有力視されるのは、義昭が織田信長と決裂して信長包囲網を形成し、中国の毛利輝元や大坂本願寺(石山本願寺)などと結託し、信長を討とうとしていたからだろう。そのためには、明智光秀の助力が必要だった。以下、最初に当時の政治情勢を簡単に取り上げ、次に将軍黒幕説の当否を考えることにしたい。室町幕府を開いた足利氏ゆかりの鑁阿寺本堂。国宝に指定された=2013年5月11日、栃木県足利市 永禄11(1568)年9月、義昭は信長に推戴(すいたい)されて、念願の上洛(じょうらく)を果たした。しかし、両者は政治志向の相違などもあり、天正元(1573)年に関係が破綻した。義昭は信長の圧倒的な軍事力に敗北を喫し、紆余曲折を経て、天正4年に備後国鞆(広島県福山市)を訪れた。こうして義昭は、毛利輝元の庇護を受け、各地に「打倒信長」の檄(げき)を飛ばしたのである。 しかし、ことは義昭の思い通りに進まなかった。天正5年以降、信長の命により羽柴(豊臣)秀吉が中国経略に出陣すると、たちまち毛利氏は劣勢に追い込まれた。天正10年3月以降、毛利方の備中高松城(岡山市北区)は包囲され、秀吉の水攻めによって苦境に立たされたのである。 そして、同年6月2日に本能寺の変が勃発した。変は偶然起こったのではなく、義昭が光秀と連絡を取り合って、計画的に起こしたというのが将軍黒幕説の主張である。義昭は積極的に有力な諸大名と関わりを持って来たので、光秀と関係していたとしても不思議ではない。しかし、本能寺の変の前に義昭と光秀が結託していたことを示す決定的な根拠史料を欠くのは大きな問題で、批判も数多くある。以下、将軍黒幕説の根拠を確認することにしよう。 大村由己(ゆうこ)の手になる『惟任(これとう)謀反記』には、「光秀は公儀を奉じて2万余の兵を揃えたが、備中に下ることなく密かに謀反を企てた(現代語訳)」という記述がある。本能寺の変の直前の記述である。本来、光秀は本能寺を襲撃するのではなく、備中高松城を攻める秀吉の救援に向かう予定だった。資料をどう解釈するか 将軍黒幕説の主張者の指摘の通り、文中の「公儀」を義昭と考えると、「光秀は義昭を擁立して謀反を起こした」という解釈になり、将軍黒幕説が成立する。しかし、この「公儀」の語については、すでに指摘があるように、義昭ではなく信長を意味する。 改めて先の史料を解釈すれば、「光秀は信長の意を奉じて2万余の兵を揃えたが、備中に下ることなく、密かに謀反を企てた(現代語訳)」ということになる。2万騎の兵を集めたのは義昭のためではなく、信長の命令を受け、備中高松城に向かう予定だったのだ。 二つ目は、『本法寺文書』の乃美兵部丞(ひょうぶのじょう)宛て天正10年6月13日付足利義昭御内書をめぐる解釈である。この御内書は「信長を討ち果たしたうえは、上洛の件を進めるよう毛利輝元、小早川隆景に命じたので、いよいよ忠功に励むことが肝要である…」と解釈された。 冒頭で示した「信長討果上者(原文)」を「信長を討ち果たしたうえは」と解釈することにより、義昭が光秀に命じて信長を討ち果たしたと理解するのがポイントである。 しかし、こちらも「信長討ち果つる」と読み、「信長が討ち果たされたうえは」と解釈すべきと指摘されている。つまり、義昭が光秀に命じて討たせたというよりも、信長が本能寺の変で横死したという解釈になる。そうなると、やはり義昭と光秀との共謀という説は、成り立ちにくいと考えられる。 最後は、『森文書』の土橋平尉(つちはしへいのじょう・紀州雑賀の土豪)宛て天正10年6月12日付明智光秀書状の解釈である。最近になって美濃加茂市民ミュージアムに原本で公開されたが、もともと『森文書』の写しが知られていた。明智光秀が天正10年6月12日に土橋重治に宛てた書状の原本と確認された「土橋重治宛光秀書状」(美濃加茂市民ミュージアム所蔵) 土橋氏は紀州にあって反信長の行動を取っており、毛利氏や義昭とも連絡を取り合っていた。土橋氏はこれ以前に光秀に書状を送っており、この光秀書状はその返事なのである。つまり、この書状は義昭と光秀を結ぶ接点となろう。 もともと同史料の冒頭部分は「なお、受衆が上洛するならば、協力することが肝要である(現代語訳)」と解釈されてきた。文中の「受衆」は、義昭の謀反に応じた者たちと理解され、首尾よく信長を果たした光秀と義昭が事前に連絡を取り合ってきたと考えられたのである。「受衆」とは何を示すのか しかし、現在は「受衆」の崩し字を「急度」と読むべきであり、先の解釈は成り立たないと指摘されている。そのほうが妥当な解釈であり、光秀と義昭が事前に通じていたとの証左にはならないと考えられており、今では「受衆」説は撤回されている。 何より重要なのは、あくまで光秀が義昭の支援を表明したのは、6月12日でのことであって、それ以前に両者が打倒信長を画策した史料は残っていない。つまり、将軍黒幕説の主張者は、この時点で両者は協力関係にあったのだから、それ以前に遡及(そきゅう)することができると考えているのだろう。 そのような論法が通用するとは、とても思えない。変以前に光秀と義昭が結託した確かな史料を挙げるか、納得しうる状況証拠を示すよりほかはないと考える。現状の説明では、とても将軍黒幕説が受け入れられる余地はない。 変後の光秀は、丹後の細川藤孝(幽斎)・忠興父子や大和の筒井順慶らに味方になってくれるよう要請していたが、色よい返事をもらえなかった。したがって、光秀が味方を募るべく、変後に目的を同じくする義昭と結託したことは、特段不思議なことではない。現状の史料残存状況では、そのように考えるのが妥当だろう。 実は、本能寺の変を4日経過しても、毛利氏は正しい状況をつかんでいなかったと指摘されている。6月6日付の小早川隆景の書状によると、「京都のこと、去る1日に信長・(長男の)信忠父子が討ち果て、同じく2日に大坂で(三男の)信孝が殺害されました。津田信澄、明智光秀、柴田勝家が策略により討ち果たしたとのことです」とある(『萩藩閥閲録』)。信長時代の本能寺跡=2011年5月18日、京都市中京区(木戸照博撮影) 信長が殺されたのは未明なので1日でよいとしても、信孝が殺害されたというのは明らかに誤報である。光秀の勢力に津田信澄や柴田勝家が加わっているのもおかしい。義昭が光秀と結託していたならば、もっと正確な情報を得られるはずではないか。 そもそも義昭だけが正しい情報をつかんで光秀とともに打倒信長を果たし、毛利氏には適切な情報を与えないというのは不可解である。苦戦していた信長に挑むならば、義昭は光秀だけでなく、毛利氏を交えて計画を練るべきだろう。単純に考えてみても、現状では将軍黒幕説は成り立たないのである。 将軍黒幕説を成り立たせるには、より合理的な史料解釈を示すか、本能寺の変の前に義昭と光秀が結託していたことを示す決定的な根拠史料を挙げるしかないだろう。【主要参考文献】・谷口克広『検証本能寺の変』(吉川弘文館、2007年)・渡邊大門『信長政権 本能寺の変にその正体を見る』(河出ブックス、2013年)

  • Thumbnail

    記事

    信長のヤンキーファッションに隠された「3つの魔除けアイテム」

    橋場日月(歴史研究家、歴史作家) 前回の最後で、若き日の信長の風変わりないでたちについて触れた。 浴衣の原型になる袖を外した湯帷子(かたびら)、半袴(足首までの長さの袴)、朱鞘の太刀、紅と萌黄(もえぎ)の2色の糸でハデに結い上げた髷(まげ)までは当時、傾奇者(かぶきもの)と呼ばれた不良少年、青年にありがちな風体ということで理解できるのだが、問題はそれ以外に身につけていたモノだ。太刀と脇差しの柄は三五縄(みごなわ)で巻かれ、腰回りには火燧袋(ひうちぶくろ)と7、8個のひょうたんをぶら下げていたというところに妖しい臭いがプンプン漂っているのである。 まず三五縄だが、これは三五七縄とも書き、どちらも「しめなわ」とも読む。つまりしめ繩だ。もうお分かりかと思うが、神社、神木、神岩などに張られるしめ繩は「ハレとケ(晴れと汚れ)」との境界を示し、ケから清浄なものを守る結界の役割を果たす。家庭で正月飾りに用いるしめ飾りも同様で、家の中にケ(厄)が入ってこないように祓うという意味があるのだ。これを鞘(さや)に巻いたということは、信長がその魔除け効果を期待した、あるいは信長自身が神聖な存在というアピールだったと考えられないだろうか。 無論、「いやいや、合理主義者の信長は戦闘のとき、敵の血でぬれた柄が滑って刀を取り落とさないよう、縄で巻いただけだろう」という解釈も可能だろうが、それなら荒縄で良いではないか。筆者は単なる縄ではなく、しめ繩だったというところに信長の意図を感じるのだ。そして、これは後々、重要な意味を持ってくるので留意しておいていただきたいのだが、しめ繩は「蛇」と密接な関係を持っている。口縄坂、西側の案内碑と説明板 少し話がそれるが、大阪の天王寺(大阪市天王寺区)近く、夕陽丘は活断層によって形作られた上町台地の上にあり、西の市街地とは「天王寺七坂」ほか、多くの急坂で結ばれている。その一つが「口縄(くちなわ)坂」だ。「口縄」は大阪の古語といわれるが、戦国時代の日本ですでに広く使われていた。当時の『日葡辞書』(ポルトガル語を日本語に訳した辞書)にも収録されている日常語で、蛇を意味する。「朽ち縄=古びて切れた縄」が蛇を思わせるところからこの言葉が生まれたことは容易に想像がつくけれども、この坂も起伏が蛇に似ているところから名付けられたという。つまり、緩やかな傾斜が途中から急になるため、蛇が鎌首をもたげて前進する形を連想したのだろう。 「三五縄=しめ繩」もまた、蛇を表す。『蛇 日本の蛇信仰』(講談社学術文庫)の中で著者の吉野裕子氏は、しめ繩の形が蛇の交尾に由来していると説く。確かに雄と雌の蛇は体を互いに巻き付かせて交尾し、しめ繩の形にそっくりだ。古代から日本にはヤマタノオロチ伝説や奈良・三輪山の大神神社(奈良県桜井市)の祭神として信仰をあつめる蛇神・大物主(大国主神)などの蛇信仰があった。信長が火打ち石を携帯していた謎 ちなみに江戸時代、摂津国嶋上郡(現在の大阪府三島郡島本町ほか)の原村では、毎年2月8日の天王祭で縄を蛇の形にしてその目を射るという儀式が行われた(『諸国年中行事』)。これは破魔とともに「目当てに的中する」、つまり願い事成就も意味する。蛇自体はケの象徴だが、同時に願い事=ハレをも体現するという面白い位置づけだ。口縄坂、奥で急に斜度があがる 閑話休題。ともあれ、信長が刀の柄に巻いた三五縄は「魔除け、厄除け」の意味を持ち、同時に蛇を表現するものでもあった、ということだ。 次に火燧袋だが、これは火打ち石を入れる袋。ライターもマッチもない当時、どこでも手軽に火を起こせる道具は火打ち石しかない。野遊びが大好きだった信長としては、ぜひ身につけておきたいところだろう…と思うのだが、よく考えてみると信長は腐っても織田家の若様。『信長公記』を見ても、常に従者(小姓衆)を連れ、彼らによりかかったり背中にぶら下がったりして歩いていた、とある。そんな身分の信長が自ら火を起こす必要なんかないではないか。まだ犬千代と言った前田利家ら小姓衆の仕事を取り上げてしまっては「主君失格」なのである。 では信長はなぜ火打ち石を携えていたのか。実は、これもまた魔除けアイテムだったのだ。時代劇オールドファンには、大川橋蔵の「銭形平次」で、出掛ける平次の背に妻のお静が火打ち石と火打ち金(かね)をカチッと打ち合わせるシーンはおなじみだろう。あれは「切火(きりび)を切る」といって、火花を起こすことがおはらい、厄除けになるという民俗信仰から来ている。 少なくとも江戸時代にはこの風習はあったというが、仮に信長の時代にはまだ火打ち石で厄を除けるという考えはなかったとしても、火打ち石が生み出す火や炎は古代神話の時代から清めの効果を持つと考えられてきた。『古事記』では伊弉諾(いざなぎ)神が、死んだ妻、伊弉冉(いざなみ)神の真実の姿を見るときに火を用い、あやうく難を逃れている。京をはじめ各地の神社では毎年11月に「清めの御火焚」が行われるが、これも火の持つ破魔の効用だ(「十二ヶ月風俗図」)。信長の大マナー違反 また、『古事記』には火燧袋自体も登場している。日本武尊(やまとたけるのみこと)も天皇から東国平定を命じられ、倭比売命(やまとひめのみこと)に草薙剣と袋をもらって出発。敵に火を付けられたときに袋を開けると火打ち石が入っていたので、剣で草をなぎ、それに火を付けて向かい火にし、難を逃れた。火燧袋はいわば「ラッキーアイテム」であり、火が厄を祓ったのである。 古事記の時代から200年近くたった平安時代、歌人、源公忠の『公忠朝臣集』には、田舎に下る人に火打ち袋を贈った際の作として 《うち見ても 思ひ出でよと 我が宿の しのぶ草にて すれるなりけり》と詠んだものが収められている。この場合、火打ち石は餞別(せんべつ)として喜ばれる旅の必需品であり、安全祈願のアイテムでもあったということなのだろう。 つまり、信長の時代には切火という魔除けのまじない自体が仮にまだ存在しなかったとしても、火打ち石は魔を祓い厄を除けるための火を生み出す重要な道具と見なされていた、というわけだ。 信長の時代より少しだけ前、享禄元(1528)年に伊勢貞頼が著した武士のマナー指南書『宗五大草紙』などには「火燧袋は40歳以後に提げるべし。それも晴れの時や主君の御前では提げてはいけない。火打ち袋は刀に提げる」と記されているから、通常火燧袋は老境に差し掛かってから非公式の場合のみ、刀に結びつけて提げるものだったようだ。すると、まだ若い内から火燧袋を提げていた信長は大マナー違反をやらかしていたことになる。このあたりも「大うつけ」と呼ばれた信長らしいといえばらしいのだが、マナーを無視してまで魔除けの効用にすがりたい―そんな思いが信長の胸の中にあったのかもしれない。「信長公出陣の像」=愛知県清須市の清洲公園(関厚夫撮影) 最後に、ひょうたんについて触れておこう。ひょうたんが古くからお守り、縁起物、魔除けとして喜ばれたのはかなり知られている。信長の覇業を継いで日本統一を達成した豊臣秀吉の馬印「千成瓢箪」が好例だが、それ以外でも九州福岡の太宰府天満宮では厄除けのためにひょうたんに詰めた酒を飲む風習があって今でも「厄晴れひょうたん」が参拝者に授与されているし、島根の出雲大社の爪剥(つまむぎ)祭でも洞切にした生のひょうたんに柄を付けた柄杓(ひしゃく)でご神水を供えるときに使用している。信長が魔除けグッズに頼った理由 古来、作物の種の入れ物として使われたひょうたんは豊穣(ほうじょう)を意味した。豊穣はすなわち凶作を封じる、厄をけるという意味につながり、またひょうたん固有の機能として酒の入れ物に用いられたことで清めの象徴ともなる。酒が神への供物であり、また外傷の消毒用に使われたことも大きかっただろう。豊臣秀吉の馬印だった瓢箪=2012年2月8日、京都府(安元雄太撮影) その結果、ひょうたんは縁起物として絵や着物の柄などに採用され、家紋にも無数のバリエーションが存在する。日本人の「ひょうたん頼み」は尋常ではないのだ。信長が腰からぶら提げていた7、8個のひょうたんというのも、実用オンリーであればひとつは水、ひとつは酒、ひとつは灯油(当時は荏胡麻油)などフィールドワークで必要ないくつかと、あとは信長が大好きな火縄銃を撃つ際の火薬、弾丸ぐらいは思い浮かぶが、あと2つ3つが何か、思い浮かばない。 砂でも詰めておけば、他のひょうたんと合わせて結構な重量になるから鍛錬にはなるだろうが、よもや「大リーグボール養成ギプス」でもあるまいし、それなら日頃から甲冑をつけるなり、大太刀でも提げておけばよい。何より家来に持ち運ばせるという主人としての「義務」を無視することにもなるから、やはりこれも魔除け効果を期待した「必携グッズ」だったのだろう。 当時、信長はその異様な形(なり)や粗暴なふるまいによって織田家の重臣連から疎まれ、弟の信勝に期待が集まる中、いつ誰から暗殺されるかも分からない日常を送っていた。常に命の危険にさいなまれる中で精神を正常に保つためにはこれらの魔除けグッズに頼るしかなかったのではないだろうか。そして、その魔除けグッズの一つ、三五縄に潜む蛇のイメージ。それを求めた信長の心の源流をこれから探ってみよう。 天文3年5月12日(1534年6月23日)、織田信長は父、信秀と土田御前の次男として生まれた。庶腹の兄、信広がいたものの、正室の土田御前を母に持つ信長は嫡子である。その生地は、現在の名古屋城二の丸辺りにあったとされる那古野城が、当時まだ信秀の支配下となっていなかったということで、勝幡城(現在の愛知県の愛西市勝幡町から稲沢市平和町六輪にかけての一帯)説が有力となっている。その後、那古野城を手に入れた信秀は、まだ「吉法師」と呼ばれていた信長にこの城を与える。そこで信長はある経験をするのだが、その話はまた次回に。

  • Thumbnail

    記事

    本能寺の変、朝廷黒幕説を覆すキーワードは「日食」だった

    渡邊大門(歴史学者) 天正10年(1582)6月2日、京都の本能寺において、織田信長は明智光秀に襲撃され自害した。光秀が謀反を起こした原因については現在までにさまざまな指摘がなされており、いまだに注目を浴びるのは、光秀の背後に黒幕がいたという説だ。最近では、「土橋重治宛 明智光秀書状」(美濃加茂市民ミュージアム所蔵史料)の原本が発見され、光秀が室町幕府の再興を狙ったのではないかという議論が活発になっている。この件については後日詳述する「将軍黒幕説」の中で取り上げたい。 さらに他にも、朝廷が光秀の黒幕であったという説がこれまでも有力視されていた。つまり、信長が朝廷を圧迫あるいは蔑(ないがし)ろにしたため、反発した朝廷が光秀を背後から操り、信長を討伐させたというのである。では、信長が朝廷を圧迫あるいは蔑ろにした事実というのはあったのだろうか。その一つ一つを確認することにしよう。「宣明暦」吉田光由著 寛永21年(1644)(国立天文台所蔵) 最初に取り上げるのは、暦の問題である。信長はこれまで朝廷が採用していた宣明暦を止めるよう要望し、地方で使用されていた三島暦の採用を強要したといわれている。暦といっても大した問題でないように思われるが、実際は時間の支配に関わるもので大きな意味があった。暦の採用は朝廷の権限に属するものであり、他者が口出しすべき問題ではないということだ。 信長が三島暦を強要した理由については、これまでどのように考えられてきたのか。一説によると、本来は朝廷の掌中にあった「時の支配」を信長が掌握し、正確な暦法の確立を目指したという指摘がなされている。これを平たくいえば、信長が朝廷の権限の一つを奪取しようと考えたということになる。以下、経緯を見ることにしよう。 天正10年1月、信長は陰陽頭・土御門久脩(つちみかど ひさなが)が作成した宣明暦を取り止め、尾張国など関東方面で使用していた三島暦の採用を要望した(『晴豊記』など)。こうした要望は異例でもあり、信長が朝廷を圧迫したものの一つと解釈されてきた。 宣明暦とは中国から伝来した暦法のことで、日本には貞観(じょうがん)元年(859)に伝来した。以来、宣明暦は江戸時代の貞享(じょうきょう)元年(1684)までの約800年間も利用される。しかし、宣明暦には日食や月食の記載があっても、実際には起こらなかったことがたびたびあり、不正確であるという大きな問題があった。そのような事情も加味され、貞享元年以降は渋川春海(しぶかわ はるみ)が作成した貞享暦が用いられるようになる。三島歴を推した理由とは? 信長が要望したのは、以下の内容である。宣明暦では天正11年正月が閏(うるう)月に設定されていたが、三島暦では天正10年12月が閏月だった。信長は三島暦に合わせて、天正10年12月を閏月にするよう要望したのである。検討された結果、信長の意に反して、朝廷は宣明暦の天正11年正月に閏月を定めた(『天正十年夏記』)。この時点で、信長は強硬な姿勢や態度をとったわけではなく、いったんは納得したのである。信長が採用するよう要望した「三島暦」(国立天文台所蔵) 暦問題はこれで終息せず、信長は再びこの問題を蒸し返す。事態が急展開を遂げたのは、本能寺の変の前日の天正10年6月1日のことだった。この日、公家衆は信長の滞在する本能寺を訪れた。そのとき信長は公家衆に対して、再び宣明暦から三島暦に変更するよう迫ったのである。これは、いったいどういうことなのだろうか? 最近の研究によると、信長が変更を迫った理由は宣明暦が同年6月1日の日食を予測できなかったからであると指摘されている。先述のとおり、宣明暦は日食や月食の予測が正確にできなかった。では、信長はどのような理由で、日食が把握できなったことを問題視したのだろうか。 当時は現在のように科学が十分に発達しておらず、日食や月食は不吉なものと捉えられていた。日食や月食が起こると、朝廷では天皇を不吉な光から守るため、御所を筵(むしろ)で覆うようにしていたのだ。今となっては迷信であるが、当時の人々は天皇の身の安全を守ろうと真剣に考えていたのである。 同年6月1日、信長は自身で日食を確認し、宣明暦の不正確さを再認識した。宣明暦では不十分であり、三島暦の方が正確であると、信長は改めて認識した。つまり、信長が暦の変更を強く迫ったのは、天皇を不吉な光から守るためであり、そのことを公家衆に伝えたかったのだ。信長は自身が慣れ親しんだ三島暦を用いるようゴリ押ししたのではなく、あくまで天皇の身を守ろうとしたのである。 これまでの流れを見る限り、信長が三島暦の採用を提案した理由は、天皇の身を案じたと見る方が自然なようである。信長は「天皇を守りたい」という親切心で、三島暦の採用を進言したと考えられる。少なくともこの一件については、信長が朝廷を圧迫あるいは蔑ろにした事例とはいえず、逆に感謝される出来事だったといえる。よって、暦の問題は朝廷黒幕説の適切な理由の一つと言えないようだ。【主要参考文献】・桐野作人『だれが信長を殺したのか 本能寺の変・新たな視点』(PHP新書、2007年)・渡邊大門『信長政権 本能寺の変にその正体を見る』(河出ブックス、2013年)

  • Thumbnail

    記事

    神仏を恐れぬ織田信長の「悪魔信仰」を示唆する2つの記述

    橋場日月(歴史研究家、歴史作家) 2017年。織田信長が天下統一を前に本能寺の変で非業の死を遂げてから435年になる。この間、信長はどういう性格の男と考えられてきただろうか。 同時代の公家、山科言継(やましな ときつぐ)は永禄12年(1569)1月に信長が将軍・足利義昭のために造営を開始した京・二条第の工事現場で何度も接触をはかったが、信長は「機嫌が悪いとして対面しない」ときもあり、また「寒いから」と会わずに済ませることもあったという(『言継卿記』)。 そのほかにも、信長が公家たちと立ち話だけで大事な用件を片付けた例は多い。仮にも当時の上級貴族、朝廷の洗練された礼儀作法や圧倒的な教養、全国へ伝わる情報の発信源ともなる公家に対するこの人もなげなふるまい。体面を気にせず、無駄な礼儀作法や時間の浪費をとことん嫌う彼の性格が表れている。 一方、キリスト教布教のためにはるばる日本へやって来たポルトガル宣教師ルイス・フロイスは、信長に関する多くの感想を書き遺(のこ)した。彼も「信長はだらだらした長話や無駄な前置きを嫌った」と表現し、言継と同じ二条第工事現場での信長についても「虎皮を腰に巻き、どこでも座れるようにした粗末な身なりをしていた」と記録している。 さらに「地球儀によって地球が丸いことを説明された信長は『理にかなっている』と即座に理解した」とも説いており、当時ヨーロッパでもまだまだ地球が球体であることを納得していない人が多かったことを考えると驚くべき頭脳の柔らかさではないか。 フロイスが見た信長も、時間を有効に使い、人目を気にせず行動するだけでなく、筋道が立った理論であれば先入観無く受け入れる人物だったのだ。横瀬浦公園のルイス・フロイス像(長崎県観光連盟提供) 以上のような同時代人の証言から浮かび上がる信長の姿は、一言でいえば「合理主義者」。だが、こんなものはまだまだ序の口にすぎない。フロイスがこう続けた。 「信長は神と仏に対する祭式と信心をいっさい無視した」 「彼は良い理性と明晰(めいせき)な判断力の持ち主で、神および仏のいっさいの礼拝、尊崇、ならびにあらゆる異教(非キリスト教)の占いや迷信的慣習を軽蔑していた。(中略)霊魂の不滅、来世の賞罰などはないと見なした」(以上フロイス『日本史』)。 日本人のほぼすべてが神々を敬い仏教をありがたがる中で、彼はそれを明確に否定していたというのだ。信長のこの思想については、「日本では自分自身が生きた神・仏になり、石や木で出来たものは神ではない、と言った」と、強敵・武田信玄が死去した直後の天正元年(1573)4月20日のフロイス書簡(『耶蘇会士日本通信』)に顕(あらわ)れたのが一番早い例だ。どうしても気になる2つの文章 しかし、信長はその3年前の元亀元年(1570)には浄土真宗の本願寺との戦争状態に入り、翌元亀2年(1571)には有名な比叡山延暦寺(えんりゃくじ)(天台宗)の焼き討ちもおこなっている。そして何よりも、天文21年(1552)に父の信秀が亡くなった際に信長は葬儀の場で焼香に立つと、「抹香をくわっとつかんで仏前に投げかけて帰った」という若き日の強烈なエピソードもある(『信長公記』)。 無駄な時間と虚礼を嫌う合理主義者であり、神仏を無視した信長。これがあいまって、「彼は無宗教だった」と言われるようになった。そこからさらに進んで、彼が特定の神社や寺を保護した実例もあるから、宗教すべてを完全に否定していたのではない、という論議も出ている。「信長は自分に従わない宗教を敵としただけだ」というわけだ。 だが、全国制覇をめざす信長としてみれば、すべての宗教を敵にまわすなど「時間と労力の無駄」の最たるものだったのではないだろうか? 従来の信仰生活の中で暮らしている家臣たちにも動揺が広がる。信長は、計算ずくで宗教に理解を示すポーズをとることがあった、とも解釈できるのではないか。 これも有名な話だが、先に紹介したフロイスの書簡には、信長は「第六天の魔王」と自称したとも書かれている。第六天魔王というのは仏教の修行を妨げる存在なのだが、これについては後で詳述することにしよう。字面に忠実ならば、これは信長自身が無宗教どころか反宗教であることを公言していたとしか説明できない。安土駅の織田信長像 いずれにしても、現在の一般的な信長像は「科学的な思考法を持つ徹底した合理主義者であり、神仏を否定する無宗教論者」といったところだろう。妥当な信長観であり、筆者自身も、一応それに納得し賛同するひとりである。 ところが、だ。もうひとり、心の奥の方にいる別の私がどうしても異議を唱えたくてうずうずしているのだ。筆者には、以前からどうしても気になって仕様が無い文章が2つある。まずその一つ目を紹介しよう。 皆さんは『甫庵(ほあん)信長記』という信長伝記をご存じだろうか。小瀬甫庵(おぜ ほあん)という人物が、信長の近侍だった太田牛一の『信長公記』を底本としてそれに脚色を加え読み物として整えたもので、大坂冬の陣の3年前、慶長16年(1611)に刊行されたものである。信長は「鬼神を敬った」 その性格上、信頼性という点では割り引いて考える必要があるのだが、その中に信長について、「鬼神を敬い、社稷(しゃしょく)の神を祭らなかった」という一節があるのだ。これは信長が志なかばで死を迎えなければならなかった理由のひとつとして書かれている。 社稷の神というのは土地の神、すなわち氏神のことなのだが、それは取りあえず置いておこう。ここで問題なのは、「鬼神を敬った」という部分だ。当時の日本語を採録した『日葡(にっぽ)辞書』をひいても、「鬼神」は「悪魔」という意味でしかない。信長が鬼、悪魔を信仰していたとしか解釈不能なのだ。 「史料的に信頼性が低い本なのだから、気に留める必要もないのではないか」とも思うのだが、それでは『甫庵信長記』とは比較にならないほど史料価値の高さを認められ、学者や研究家がこぞって参照している『信長公記』はどうだろうか。 同書には、先述したように信長が父の葬儀で抹香を投げつけた逸話以外にも、ハッとする記述が多くある。中でも、永禄3年(1560)桶狭間の戦いの直前、前哨戦の勝利に喜んだ信長の敵・駿河遠江三河3カ国の大大名、今川義元がこう述べたというのは興味深いところだ。 「義元の矛先には、天魔鬼神も対抗できない」。討ち果たすべき相手の信長を魔神に例え、今川軍はそれを上回る強さなのだ、と誇っている。まぁ、敵を「天魔」と呼ぶのは日蓮や上杉謙信など他にも多くの例が見られるからあえてあげつらう必要は無いのかもしれないが、「鬼神を敬った」と考え合わせると、妙に不気味ではないか。そう思うと、どうにも好奇心がとまらなくなって来る。好奇心は、「信長は鬼神に代表されるオカルト信仰に凝っていたのではないか」と筆者にささやきかけるのだ。夕闇迫る桶狭間古戦場公園に立つ織田信長像(左)と今川義元像=2016年12月9日、名古屋市緑区(関厚夫撮影) そこで『信長公記』から順を追って信長の生活、行状を見ていこう。抹香を投げつける前の年から、それは始まる。なお、これ以降は意訳だけでなく原文も併記するので、若干お読みいただく手間は増えるかもしれないが、細かいニュアンスを感じていただきたいケースもあると思うので、ご寛恕(かんじょ)願いたい。若き日の異様な服装 天文20年(1551)、信長は数えで18歳だった。この頃までの彼の風体はこう描写されている。 「明衣(ゆかたびら)の袖をはづし、半袴、ひうち袋、色々余多(あまた)付けさせられ、御髪(おぐし)はちやせんに、くれなゐ糸・もゑぎ糸にて巻立てゆわせられ、太刀朱ざや」(袖無しの湯帷子を着て半袴をはき、火打ち石の入った袋など色々身につけ、髪は紅や萌黄(黄色っぽい緑色)の糸で巻き茶筅曲げに結い上げ、朱色の鞘の太刀を佩いた) 湯帷子(かたびら)というのは現在の浴衣の原型で、それに半袴(長袴ではなく、足首までの長さ)を履き、火打ち石の袋などを腰から下げ、カラフルな糸で髷を結う。朱色の鞘(さや)の太刀は、傾奇者の象徴でもあり、絵に描いたような不良少年の姿なのだが、翌年の信秀の葬儀の場ではどうだろうか? 「長つかの大刀・わきざしを三五なわにてまかせられ、髪はちやせんに巻立、袴もめし候はで」(長い柄の太刀と脇差しを差しているのだが、その柄を三五縄で巻き、茶筅(ちゃせん)曲げの髪型で袴も穿かず) おやおや、このときには袴すら履かない着流しスタイルだったようだ。岐阜公園の入り口に立つ「若き日の織田信長像」奇矯ないでたちをしていた頃の信長を想像させる この葬儀の翌年、信長はしゅうとで美濃の大名である斎藤道三と面会する(信長の正室は道三の娘、帰蝶だった)。ここでも信長の格好は変わりない。いや、ひとつ異なるところがあった。 「御腰のまはりには猿つかひの様に火燧袋・ひようたん七つ・八つ付けさせられ」(腰のまわりに猿使いの様に火打ち石袋・7~8個のひょうたんを付けていた) ひょうたんが何個も腰にぶら下がっていたという。 道三との会見の場で信長は礼式にのっとった正装へと鮮やかな変身を遂げ、以降はまともな身なりをするようになるのだが、それまではこの異様な装いを通していたのだ。 次回はここで問題となる若き日の信長スタイルのアイテムについて、掘り下げていきたいと思う。

  • Thumbnail

    記事

    天皇家への挑戦状、井沢元彦が読み解く天才信長の「自己神格化計画」

    うルールが古代に定まってしまったからだ。関白あるいは将軍も、その天皇の代理であるからこそ権威がある。<権力の源を根本から覆すには金色に輝く織田信長像=JR岐阜駅前(関厚夫撮影) 逆に言えば全くゼロから権威を作るためには、神の子孫である天皇家の権威を超えなければならない。だから、結局「神の子孫」ではなく自ら「神」になるしかない。織田信長は論理的に考えれば当然の結論の実現を目指したのである。 信長が自分を神として礼拝するように命じたということは、彼を近くでよく観察していた宣教師ルイス・フロイスなども記録していることなのだが、一昔前は「信長シンポジウム」などで「信長は神になろうとしていたんです」と言ったら専門の歴史学者の人々に笑いものにされた。そんなことがあるわけないじゃないかとおっしゃるのである。そういう人々に私が言いたいのは信長の後継者が、神になっているということである。 言うまでもなく徳川家康のことだ。日光東照宮の御祭神は東照大権現、すなわち家康である。信長は神になれず、秀吉は死後1度は神になったが(豊国大明神)家康にそれを取り消され(後に明治に復活)、家康だけが完全な神になることに成功した。 確かに日本とは人間が神になれる国である。しかし、それは菅原道真のように死後周囲の人間がその霊威を畏れ神として祀(まつ)り上げた場合だ。生前自ら宣言して神になろうとしたのは織田信長が最初なのである。ただし、どんなことでもそうだが開拓者は最初必ず挫折する。なぜなら誰もやったことのない行為を成功させるためには試行錯誤を重ねなければいけないからだ。フロイスが記しているように信長は自分の誕生日を聖日として、自分を御神体とする宗教施設に礼拝するように命じた。いきなり自分が神だと宣言し「オレを礼拝せよ」と命じたのである。 このころ信長が造った安土城には奇妙な「装置」がある。地下1階に石造りの宝塔があるのだ。大乗仏教最高の経典とされる法華経には釈迦が最高の真理を説いたときに、地下からそれを祝福するために宝塔が出現したという名場面がある。要するに「信長=釈迦」ということである。また、その「信長神殿」である安土城から「上から目線」で見下ろす本丸部分に、最近の発掘調査で天皇の御所とよく似た構造の建物跡が発見された。信長はここに天皇を動座させ、自分が天皇より上の「神」であることを天下に知らしめるつもりでいたのだろう。しかし、本能寺の変ですべての目算は狂い信長は神にはなれなかった。引き継がれた信長の構想 その失敗を近くでつぶさに見ていたのが家康である。まず、この「自己神格化」プロジェクトのために専門家を雇った。天海僧正だ。このブレーンの言うことをよく聞いて、彼は東照大権現の「神学」つまりなぜ家康が神なのかという説明を作らせた。ライトアップされ、宵闇に浮かぶ日光東照宮の国宝「陽明門」。約40年ぶりの大規模な修復作業を終え、金箔や極彩色がひときわ輝く=4月29日、栃木県日光市(飯田英男撮影) 権現とは、そもそも神がこの世を救うために人間の姿を取ってこの世に下りてくるものである。長い乱世で多くの人が苦しんでいるのを見た「神家康」は、その苦しみから人々を救うため人間の姿でこの世に生まれ、苦心の末に天下を統一するという大偉業を成し遂げ役目を果たしたので天に戻られた、今はそこにおられる。というのが東照大権現の神学である。しかも「東照」は大和言葉で読めば「アズマテラス」と読める。つまりこれまでの日本はアマテラスの子孫である天皇家が治めていたが、これからはアズマテラスの子孫である将軍家が治めるという形を作ったのだ。だから徳川の天下は約300年も続いた。 逆に言えば、最初に信長が神になり天皇を超えようと志したからこそ、家康は成功したわけで、それが歴史の連続性ということだ。この点から見ても、信長が本気で神になり天皇を超えようとしていたことはまぎれもない歴史上の事実なのである。 しかし信長の視点から見れば、「家康神学」には大きな弱点があった。それはほかならぬ東照大権現という神号を朝廷に奏請して、つまり天皇からもらってしまったということだ。天皇からもらったのならば、天皇家と徳川家は対等とはいえず、天皇家の権威の方が上であることを認めてしまったことになる。この弱点が幕末に「天皇家の方が尊いのだから将軍家よりも天皇家に忠を尽くすべきだ。つまり討幕は悪ではなく正しいことだ」という勤皇思想の隆盛を生みだすことになり幕府は滅んだ。 家康ですら天才信長の「自己神格化計画」を完全に達成することはできなかったのである。

  • Thumbnail

    テーマ

    天皇になろうとした日本人

    皇位簒奪や天皇を超越した存在になろうとした例もしばしばあった。彼らはなぜ「治天の君」を目指したのか。歴史を通して万世一系の意味を改めて考えたい。

  • Thumbnail

    記事

    異例の大出世、平清盛の出生に隠された「天皇のDNA」

    渡邊大門(歴史学者) 平清盛(1118-1181)といえば、武家政権を自らの手で樹立し、栄耀(えいよう)栄華を極めた人物として知られる。清盛が強い存在感を示したのは、保元元(1156)年に勃発した保元の乱のときである。清盛は後白河天皇の勝利に貢献し、その軍事力を大いに誇示した。 平治元(1159)年の平治の乱では、ライバルの源義朝を討ち破り、武家政権樹立の布石を築いた。その後の清盛の昇進は目覚ましく、永暦元(1160)年に参議正三位に叙され、武士として初めて公卿(くぎょう)となった。その7年後には、従一位太政大臣にまで上り詰める。その理由はどこにあったのか。 清盛が台頭した背景には、摂関家や天皇家と積極的に婚姻関係を結んだことにあった。関白・藤原(近衛)基実には、娘の盛子を嫁がせた。基実が亡くなると、その遺領は盛子が引き継いだ。基実の子息・基通には、娘の寛子を嫁がせている。こうして清盛は、全国で500余の荘園を手にすることに成功したという。戦前、いかつく狡猾なイメージで描かれた平清盛。『国史画帖大和桜』(昭和10年刊) また、後白河上皇には、妻・時子の妹・滋子を入れ、上皇の皇子の高倉天皇には娘の徳子を入内(じゅだい)させた。治承4(1180)年には、高倉天皇と徳子の間に安徳天皇が誕生する。こうして清盛は外祖父の地位を獲得し、政治権力を掌中に収めた。天皇すらコントロール下に置いたのである。 平氏一門は隆盛を極めた理由として、日宋貿易で巨万の富を築いたことも挙げられる。また、平氏一門は高い官職を得て、「平氏政権」と称される権力体になった。時子の弟、平時忠が「平氏にあらずんば人にあらず」と豪語したのは、その自信の裏付けであろう。 この段階で、清盛は天皇に近づいたと言っても過言ではないであろう。 このようにわが世の春を謳歌(おうか)した清盛であったが、その異常なまでのスピード出世には秘密があるとされてきた。それは、清盛の出生にまつわる理由にあった。 清盛が異例の出世を遂げたのには、その出自にあったという説がある。元永元(1118)年、清盛は平忠盛の長男として誕生した。このことは系譜上明らかなことなのであるが、清盛の出生にはいくつもの謎がある。その一つが白河法皇の御落胤(らくいん)であったという説である。 今の教科書には取り上げられていないが、明治時代の小学校の教科書には、清盛の後白河法皇の御落胤説が堂々と記されていた。これは江戸時代に伝わった説を引き継ぐもので、世の人々に広く伝播(でんぱ)するきっかけにもなった。 実際、忠盛には何人もの妻がいた。その事実は、系図集の『尊卑分脈』で確認することができる。妻の名を列挙すると、藤原宗兼の娘(池禅尼)、源信雅の娘、藤原家隆の娘、藤原為忠の娘であり、彼女たちは子に恵まれた。側室が多数いること自体は、特に珍しいことではない。平清盛の母は誰なのか? 清盛の母について記しているのは、源氏と平氏の攻防を描いた『平家物語』である。『平家物語』は大きく分けて、(1)語り系の諸本(一方(いちかた)流、八坂流など)、(2)読み本系の諸本(延慶本、長門本など)になる。そして、それぞれが清盛の母として記している女性は異なっている。『源平盛衰記』の説も合わせて、次に分類して掲出しておこう。(1)白河法皇の寵愛(ちょうあい)した祇園女御(ぎおんにょうご)であったとするもの。(2)祇園辺りにいたある女房とするもの。(3)祇園女御に仕えた中臈(ちゅうろう)女房とするもの。(4)祇園女御と中臈女房の区別が明確でないもの。(5)宮人である兵衛佐局とするもの。 このように、同じ『平家物語』であっても、それぞれの記載している内容に大きな差異を認めることができる。ところで、白河法皇の寵妃である祇園女御については、ほとんど知られていないが、いかなる人物なのであろうか。 祇園女御は、両親や生没年が不明である。その出自に関しても、源仲宗の妻またはその子・惟清の妻であるとか、宮廷に仕えた女房との説がある。女御とは天皇の寝所に仕える職であるが、祇園女御は正式にその職に任じられておらず、居住した祇園にちなんで名乗っていたといわれている。 このほかの史料では、平安末期の歴史書の一つ『今鏡』が清盛を白河法皇の御落胤とする説を繰り返し述べている。では、ほかに清盛出生の謎を探る史料はないのであろうか。次に、その点をもう少し掘り下げてみよう。 明治26(1893)年、東京帝国大学文科大学(今の東京大学文学部)の教授を務めていた星野恒が、『仏舎利相承系図』を学界に初めて紹介している。そこには清盛の出生について、驚くべき内容が記されていた。ちなみに『仏舎利相承系図』とは、滋賀県多賀町の胡宮(このみや)神社が旧蔵していた史料である。 『仏舎利相承系図』には、清盛の母という女房は、祇園女御の妹であったと記されている。そして、女房のことを説明する注記の個所では、「女房が白河法皇に召されて懐妊し、そのまま忠盛に嫁いで清盛を出生した」と書かれている。 白河法皇は崩御の際に、釈迦の遺骨という仏舎利を祇園女御に譲った。譲りを受けた女御は女房の産んだ清盛を自分の猶子(ゆうし、養子)とし、さらに仏舎利を譲ったという。猶子とは、相続を目的としない親子関係のことである。『仏舎利相承系図』は文暦2(1235)年7月の段階で成立しており、この頃から清盛の御落胤説が流れていたのだ。 『仏舎利相承系図』の記述は、根も葉もないことなのであろうか。これを補強する材料として、当時の公家日記である『中右記(ちゅうゆうき)』の記述が重要視されている。『中右記』は平安時代の公家・藤原宗忠(1062-1141)の日記で、当時の世相を知るうえで極めて重要な日記である。御落胤説を裏付ける証拠とは? では、『中右記』には、いかなることが記されているのであろうか。『中右記』保安元年7月12日条には、忠盛の妻が亡くなったとの記事がある。宗忠はこの妻について、「これ仙院の辺りなり」と説明を施している。 仙院とは、上皇・法皇の御所または上皇・法皇のことを意味する。つまり、当時でいえば、白河法皇を意味するのは間違いない。その点を考慮すると、忠盛の妻が白河法皇に繋がる女性であった可能性が俄然(がぜん)高くなる。 保安元年の時点において、忠盛は25歳で、清盛は3歳の幼子であった。決して年代的にも矛盾しない。また、『平家物語』の語り系の諸本では、忠盛が御所の女房と通じていたことが記されている。そのような理由から、清盛の母が白河法皇に仕えたことは、ほぼ間違いないと考えられる。 このように、長らく清盛は白河法皇の落胤であり、皇胤であるとの説が流布してきた。明治以降、『仏舎利相承系図』という新たな史料の出現もあって、清盛御落胤説=皇胤説は補強され、揺るがぬものとなった感がある。では、星野恒以降、この説はいかに継承されたのであろうか。まずは、清盛御落胤説=皇胤説を肯定する立場から確認しよう。 大正時代に入ると、東京帝国大学史料編纂(へんさん)所の和田英松は『仏舎利相承系図』を史実として受け入れ、さらに先の『中右記』を裏付けの証拠とした、さらに、当時、白河法皇の御落胤が実際に存在した事実、そして清盛が幼い頃から破格の待遇を受けていたことも理由とした。『仏舎利相承系図』の史料的価値を重視したのが特長である。平清盛像(重文、六波羅蜜寺蔵)  和田英松が見解を述べて以降、歴史家を中心として、清盛御落胤説=皇胤説が受け入れられるようになった。特に、戦後になると、日本史の通史が数多く刊行されたが、肯定する説が大勢を占めたのである。むろん、全面的にというわけではないが、若干の疑問を呈しつつも肯定に傾いていったというのが近いであろう。 清盛御落胤説=皇胤説が受け入れられる中で、これを疑問視する考え方も登場した。その中心となったのは、特に『平家物語』を研究する国文学者たちであった。彼らは、どのように考えていたのであろうか。 清盛御落胤説=皇胤説を否定する人々の論拠とは、どのようなものだったのであろうか。代表的なものをいくつか紹介しておきたい。 先述のとおり、『平家物語』(延慶本)は、清盛の母を祇園女御に仕えた中臈女房としている。この延慶本は『平家物語』の諸本の中で、もっとも古い形態を残すものである。したがって、より信憑(しんぴょう)性が高いのではないかと考えられている。未だに解明されない謎 また、別の見解では、『仏舎利相承系図』に記されていた清盛御落胤説=皇胤説が13世紀初頭に広まっていたとし、それが『平家物語』が成立する際に強く影響を受けたと指摘する。清盛在世中は御落胤説=皇胤説の広まりを確認できないが、12世紀末頃から13世紀初頭にかけて流布したのであろう。 『平家物語』(延慶本)は、清盛御落胤説=皇胤説の記事の最後の部分で「この事、信用に足らずという人もあるらしい」と記している。つまり、言外に清盛御落胤説=皇胤説は史実として認められず、作者による創作であることを匂わせているのである。こうして清盛御落胤説=皇胤説を否定したのである。 ところが、近年では『仏舎利相承系図』の史料価値を疑問視し、当該期の史料から裏付けが得られないので、事実として疑わしいと断言する歴史家もあらわれた。同時に、清盛が御落胤であることは、将来の皇統を受け継ぐ可能性があることから、かえって反対勢力の監視にあって不利であったと指摘している。 清盛が破格扱いを受けていたかという点についても、『今鏡』の記事をもとに疑問視している。白河法皇は清盛を昇殿可能な蔵人(くろうど、秘書役)にも任じることなく、これまでいわれたほど厚遇していないのである。ただし、平氏一門が白河法皇から厚遇され、清盛の出世が早かったのは事実である。そうでなければ、異例なまでの大出世はしなかったはずだ。 以上のように、清盛が天皇の御落胤であるか否かについては、古くから歴史学者や国文学者によって論じられてきた。日宋貿易で輸入された青磁の皿や壺が並ぶ特別展「清盛と日宋貿易」=播磨町の県立考古博物館 結論からいえば、清盛の母は祇園女御の妹であった可能性が高いとされている。忠盛の父である正盛は、早くから祇園女御に仕えており、それは忠盛も同じであった。祇園女御に仕える中で、忠盛はその妹と結ばれ、清盛を産んだのである。ただ、清盛が御落胤であるか否かについては、まだ検討の余地があろう。 清盛の御落胤説については決め手となる史料が乏しく、十分に確証を得られたわけではない。通常、歴史研究では同時代の古文書や日記などの一次史料が用いられ、後世に編纂された二次史料は価値が劣るので、証拠としての価値が劣る。ただ今後、清盛の出生にまつわる一次史料が出てくるとは、到底考えにくい。 今後、状況証拠的な史料を収集・検討し、さらに議論を深める必要がある。清盛御落胤説は、いまだ謎といえるであろう。 清盛は出自の問題もさることながらも、天皇家や摂関家と積極的に姻戚関係を結び、天皇を凌駕(りょうが)する権力を保持したのは確かなことである。

  • Thumbnail

    記事

    「日本国王」足利義満の危険思想はこのとき生まれた

    今谷明(帝京大特任教授) 天皇にならんとした人物に、奈良時代称徳朝に弓削道鏡がいる。これに対し、義満は厳密には自ら天皇たらんとしたのではなく、次男義嗣を天皇に、自らは太上天皇として朝廷に臨もうとしたわけである。 このような義満の意図は、当時天皇家において「院政」というスタイルが常態であって、直接天皇の地位を目指すよりも、上皇に収まる方が、ある意味自然な手法であるという事情があった。以下、義満の狙いと意図、その背景について概観する。 1379年の「康暦の政変」によって管領の細川頼之が失脚し、将軍義満の親政が始まるが、まだ二十歳そこそこの若さであり、有力守護大名を統制するのは容易ではなかった。この時にあたって事実上義満の家庭教師の役割を果たし、その政権構想に多大の影響を与えた人物こそ、鎌倉五山から移って建仁寺住職となっていた義堂周信である。  義堂は病により中華留学を果たさなかったが、宋学の意図や四書の新注もよく理解し、当時日本における最高の儒学者であった。1380年8月、紀伝博士の菅原秀長は義満に八朔(はっさく)の祝儀として『孟子』の写本を献じたが、義満は関心すら示さなかった。 それを伝え聞いた義堂は、同年11月、義満に「儒書中、宜く孟子を読むべし」と勧めたので、義満は目が覚めたように孟子に熱中した。孟子は元来、「民を以て重しと為す」とする民本主義を含み、また禅譲放伐を是認するという朝廷にとっては危険思想の面を持つ。公家界の最高権力者になった足利義満(Wikimedia Commons) 理解力の早い義満が孟子に傾倒することを危ぶんだ義堂は、義満を禅宗へ誘導せんとしたものの、時すでに遅し、義満は放伐是認にはまり込み、「力のある者が位も上にあるべきだ」という、歴代武家中にも例がない考えを抱くようになった。 歴代武家で、太政大臣となった清盛を除き、執権北条氏や義満以前の足利二代は、官位が大納言止まりであった。ところが、義満は位階昇進を踏んで清盛も実朝も経験しなかった大臣に昇り、公家界の最高権力者になった。 このような義満の破格は、摂政二条良基はじめ、有力公卿が義満に迎合した故であり、重臣たちに裏切られたかたちとなった後円融上皇の焦慮は深く、一時は自殺を企てるなど、義満との溝は深まった。 一方、幕府の首長としての義満は、美濃の乱、明徳の乱、応永の乱と、次々に有力守護を挑発しては謀叛に追い込ませ、ことごとくこれを弾圧した。このような義満の強勢を見ては、斯波・畠山らの宿老も義満に批判はあっても諫言すらできず、後円融上皇が崩じ、南北朝が合一して以降は、義満の専制権力が確立した。故義満への尊号を拒否した幕府 義満は長子の義持に将軍職を譲り、太政大臣も辞して出家したが、これは天皇の陪臣である限り、明(中国)が入貢を認めないためであり、入道出家後も室町第、のちに北山第において政務を握り続けた。 かくて明国皇帝から「日本国王」に冊封された義満は、公卿界から太上天皇の礼遇を受け、従来宸筆(しんぴつ、天皇の直筆)であった「除目の小折紙」(人事異動の原案)を自ら書き出し、寺社への参詣は後白河上皇や亀山上皇の儀礼にのっとるなど、形式的な人事権を獲得した。 しかし、朝廷には権力・権威とも失ったとはいえ、後円融の皇子であった後小松天皇が在位しており、この天皇を廃立して足利義嗣を皇位に据えるというのは、さすがの義満を以ってしても容易なことではなかった。 1406年末、天皇生母の通陽門院が逝去し、義満の正妻日野康子が「准母」に冊立された。次いで1408年2月、14歳の義嗣が参内して親王元服の準拠として従五位下に叙位された。 同月3月、天皇は北山第に行幸し、義満は繧繝縁(うんげんべり)の畳に座して迎え、天皇が父なる上皇を訪問する朝覲(ちょうきん)行幸の儀礼にならうといわれた。しかし、同年5月、義嗣が参議従三位に叙位されて三日後、義満はにわかに発病し、死亡した。義満が出家後に政務の拠点とした北山第(現鹿苑寺)=京都市北区 義満急死後、朝廷では関白・伝奏(てんそう)らが協議して故義満に「太上天皇」の尊号を宣下し、幕府に伝えた。ところが、案に相違して幕府は尊号を辞退し、朝廷に突き返してきた。これは宿老の斯波義将の主導であったという。 尊号を拒否した幕閣の思惑は、彼ら(有力守護)が尊王思想に傾いていたわけでは決してなく、禁裏仙洞領(上皇の領地)を各地で押領するなど、むしろその逆であった。彼らの本音は、足利氏が天皇と将軍を独占し、しかも国際的に「日本国王」として足利氏が絶対王制となることへの本能的な嫌悪感であったとみられる。 守護家の志向は彼らが封建権力として家職化、すなわち世襲分国を形成することであり、それには足利家が強大すぎるのは望ましくない。そのためには、微弱なりとはいえ伝統のある「天皇家」が存続していた方が、彼らには都合がよいという考え方である。 要するに幕府を支える勢力の政治的思惑から、天皇家は空前の危機を回避することができたといえよう。

  • Thumbnail

    記事

    正親町天皇と織田信長が対立した「蘭奢待切り取り事件」

     天皇と為政者のすれ違いは、時に激しい衝突に発展することもあった。歴代天皇と時の権力者の対立の歴史から、正親町天皇と織田信長が、蘭奢待(らんじゃたい)切り取りで対立した事件について、歴史家の八柏龍紀氏が解説する。* * * 戦国時代、彗星の如く台頭した織田信長は、天皇の権威を利用して勢力拡大を図ろうとしていた。 一方、応仁の乱以降、長びく朝廷財政の悪化のなか即位した正親町天皇は、信長の台頭に「ご褒美」の綸旨(りんじ、天皇の意を伝える奉書)や官職を与えて、引き換えに様々な財政援助を引き出そうとした。 その意味で両者は一見、“持ちつ持たれつ”の関係であったが、信長は正親町天皇からの度重なる無心に業を煮やし、東宮である誠仁親王の元服費用を求められた際は、質の悪い悪銭を進上し抗議の意を示したというエピソードもある。 そんな両者の争いが鮮明になったのが、天正2年(1574年)に起きた「蘭奢待切り取り事件」だ。蘭奢待は聖武天皇の遺宝とされる香木で、東大寺正倉院に収蔵される。「天下第一の名香」と謳われ権力者に重宝された。信長は、自身の権力を誇示すべく、この蘭奢待を切り取る勅許を正親町天皇に求めたのである。2016年10月4日、奈良の正倉院で行われた、年に1度、宝物の点検などのため宝庫の扉を開ける「開封の儀」 正親町天皇は、「そんなことをすれば聖武天皇の怒りが天道にまで響く」と怒りを顕わにしたが、最終的には許さざるをえなかった。 大名間の抗争が激化する戦国時代にあって、朝廷の役割には、それらの抗争を鎮め「和睦」を促す、いまで言う「バチカン」的な役割があった。正親町天皇もまた、時の権力者である有力武将や寺社と円満な関係を築くため、全方位に配慮せざるを得なかったのだ。■取材・構成/池田道大●やがしわ・たつのり/秋田県生まれ。慶應義塾大学法学部・文学部卒業。高校教師、大手予備校講師などを経て、現在、淑徳大学エクステンションセンター講師、京都商工会議所主催「京都検定講座」講師。日本近現代史、日本文化精神史、社会哲学など幅広いテーマで執筆、論評、講演を行う。『戦後史を歩く』(情況出版刊)、『日本の歴史ニュースが面白いほどわかる本』(中経出版刊)など著書多数。近著に『日本人が知らない「天皇と生前退位」』(双葉社刊)がある。関連記事■ 後陽成天皇、朝鮮出兵を巡る豊臣秀吉との確執は死後も続いた■ 陛下の過去のお言葉から平和を求めるメッセージを読み解く本■ あなたの知らない「天皇家」の謎 皇室の祖先にワニがいた!?■ 全国で最も多く祀られる八幡神は実在濃厚な最古の天皇御神霊■ 名刀コレクター徳川家康 信長や秀吉保有の名刀群も収集

  • Thumbnail

    記事

    天皇の子孫だった平将門が自称した「新皇」の謎

    007年。野口実『列島を翔ける平安武士 九州・京都・東国』吉川弘文館、2017年樋口州男『将門伝説の歴史』吉川弘文館、2015年元木泰雄『武士の成立』吉川弘文館、1994年。森公章『古代豪族と武士の誕生』吉川弘文館、2012年。

  • Thumbnail

    記事

    織田信長と比叡山延暦寺 420年の恩讐を越えた和解

    仏を供養する際に花を散布すること)した。 その後、延暦寺執行・小堀光実氏はこう語った。「9月12日は歴史上、『法難』。比叡山のみならず比叡山を取り囲む地元、裾野の方々に対しても、大変な災難を迎えた日です。いまから450年も前とは申せ、後世に伝えていかねばならぬことだと思います」 いまから445年前、延暦寺では忌々しい悲劇が起こった。それは織田信長による焼き討ちだ──。2016年から始まった「平成の大改修」が行われる前の比叡山延暦寺の根本中堂=2014年2月22日、大津市坂本本町 法要が営まれた「元亀(げんき)の兵乱殉難者鎮魂塚」は、この犠牲者を慰霊するために建てられたもの。この日は焼き討ち犠牲者を供養したのだが、それと同時に“加害者”である信長の供養までもが行なわれていたのだ。“怨み”を持っていたはずの延暦寺が信長を鎮魂するに至るまでには、一体何があったのだろうか──。 信長が天下布武を唱え、日本統一を進めていく中で、最も残虐な行為と伝えられるのが元亀2年(1571年)の比叡山焼き討ちだ。 元亀元年からの3年間は、信長にとって苦難の時期だった。1568年、信長は室町幕府15代将軍・足利義昭を奉じて上洛した。だが傀儡将軍であることを嫌った義昭は、密かに敵対勢力である越前の朝倉義景、北近江の浅井長政、大阪・石山本願寺、伊勢長島の一向一揆の衆らと通じ、“信長包囲網”を敷いた。 この四面楚歌の状態を打ち破るべく、信長は反目する延暦寺の焼き討ちを企てたのだった。作家で日本史研究家の高野澄氏が解説する。「延暦寺が信長の仇敵である朝倉・浅井連合を領地に匿い、肩入れしたということが表向きの理由ですが、信長は当時の寺社仏閣の宗教勢力が武器を持って『僧兵』となり、大きな力を持ち始めていたことに強い危機感を覚えていた。 特に比叡山は広大な寺社領地や豊富な財力を持っており、琵琶湖の湖上運輸の実権も握っていた。また開山以来、朝廷と近い関係を結んでいたのも気に入らなかった。そのため朝倉・浅井を口実に焼き討ちを決行したのです。言い換えれば、信長は“政教分離”を求めた史上初の人物だったともいえます」信長を「比叡山の恩人」と言い出した大僧正 これには家臣の佐久間信盛や武井夕庵らが「鎮守の王城を焼くとは前代未聞」と忠諫(ちゅうかん)したが、信長が聞き入れることはなかった。そして「比叡山延暦寺焼き討ち」を行ない、泣いて命乞いする僧俗3000人を殺戮したと伝えられている。以来、信長は比叡山のみならず、天台宗信徒から「仏敵」と見なされてきた。だが、冒頭で述べた通り、現在延暦寺では信長の鎮魂のために回向法要を行なっている。 その背景には、これまで「仏敵」だった信長を「比叡山の恩人」と言い出した人物の登場があった。天台宗大僧正・比叡山長臈(ちょうろう)の小林隆彰氏である。 1970年、延暦寺副執行だった小林氏は比叡山発行の『比叡山時報』で、「新生比叡は信長に功あり」と信長仏敵論に異を唱えた。著書『比叡の心』には、こう記されている。〈信長にも焼くべき理屈があっただろうし、比叡山側にも焼かれる原因があった。いたずらに信長を憎むのは仏の道に反する〉 小林氏が主張する延暦寺側の焼かれる原因について、前出の高野氏が解説する。「最澄が開山した当初の比叡山は『人はみな仏になる』という法華経の教えを広めるべく人材育成に力を入れ、親鸞、日蓮など、多くの名僧を輩出した。 しかし、平安中期以降、僧たちは権益を要求し、通らなければ日吉神社の神輿を京都にかつぎおろして強訴するなど、その振る舞いは尊大になっていった。朝廷も手を出せず、白河法皇にして『鴨川の流れと山法師、双六の賽は意のままにならず』と嘆かせた」 戦国時代に入ると比叡山の腐敗は更なるものとなる。「衆徒たちが領地からの年貢を元手に近隣の村人や農民たちに高利貸しを行なったり、足利将軍家の不安に付け込み、幕府を脅かして銭を出させるなど、守銭奴に成り下がった。金を得た僧たちは山を降り、坂本の町で魚鳥を食し、酒を呑み、遊女を買った。 その状況にあっても、延暦寺の宗教的権威は少しも衰えず、日本仏教界の頂点に位置していた」(同前) 続けて前出の『比叡の心』で、こう触れている。〈天下が乱れ切り、その一翼を担った比叡山は結局は、焼かれる運命にあったように思うのである。叡山僧が開祖大師のお心を踏みにじって来た仏罰に素直に頭を下げねばならぬ〉 だが、小林氏が「信長恩人論」を掲げると、当然のように天台宗の学者や信徒からは反発の声が相次いだ。「比叡山が生き返ったのは、信長が焼いたお陰だとは何事か」「これを書いた者は即刻比叡山から追放せよ」「信長に焼かれなければ、日本史にとって学界の定説が覆るほどの資料が残っていたはず」 その声は様々だったが、小林氏に賛同する声は圧倒的に少なかった。信長を祭神とする建勲神社(京都市北区)の松原宏宮司も当時を振り返る。「昔は『うちは信長に焼かれた』と嘆くお坊さんもいました。その中で、あのような発言をされたからにはご苦労もあったと思う」「延暦寺が信長を『仏敵』というのは誤解」 逆風の中でも、小林氏は長年にわたり「恩人論」を唱え続けた。〈若(も)し、信長の鉄槌がなかったにしても必ず仏の戒めを受けていたはずである。焼き討ちは、叡山僧の心を入れ替えた。物に酔い、権勢におもねていた僧は去り、再び開祖のお心をこの比叡山にとり戻そうとした僧が獅子奮迅に働いた。山の規則を改め、修学に精進したのである(中略)信長は後世の僧達にとって間違いなく一大善智識の一人であったと思うべき〉(前述『比叡の心』より) 1991年、延暦寺執行に就任した小林氏(大僧正就任は1994年)は、翌年、「怨みの心は濯ぎ、信長とは和睦したい」と慰霊の法要を発願し、犠牲者と信長を合同で供養する前述の鎮魂塚が建立された。420年の恩讐を越えた「和解」が行なわれた瞬間だった。 以来、冒頭のように、毎年9月12日になると追善回向の法要がひっそりと営まれているのだ。 信長と延暦寺の「和解」を示す催しは法要だけではない。2011年5月、信長を主人公とした甲冑能が延暦寺で上演された。この能のテーマは「怨親平等」。 かつての信長の家臣が出家し、主君に縁の地を訪ね歩くうち、いつしか比叡山にたどり着く。そこで休んでいると、夜更けに信長の亡霊が現われ、焼き討ちの模様などを語り始める。僧兵の霊との立ち回りを交えながらも、やがて闘いの虚しさを覚え、供養を頼み消えていく、という内容だ。 まさに小林氏の思いと一致する内容の作品だった。比叡山延暦寺の副執行・水尾寂芳氏が続ける。「そもそも比叡山延暦寺が信長を『仏敵』としていると思われていること自体、誤解されている部分がある。 確かに信長と比叡山は戦争をしており、敵同士でした。だが、伝教大師(最澄)の『怨みをもって怨みに報ゆれば怨み尽きず、徳をもって怨みに報ゆれば怨みは即ち尽く』という言葉があるように、怨みをずっと持っていたら平和に繋がらない。怨親ともに仏縁であるということです」 焼かれた側はすっかり許しているようだが、一方の焼いた側の織田家は「信長恩人論」をどう受け取っているのか。信長の直系の子孫・織田信孝氏に聞いた。信孝氏は小学生の頃、歴史の授業で習う信長の比叡山焼き討ちをはじめとする大虐殺の影響で、いじめられた過去を持つ。「私は織田家の血を引く子孫であるだけで、織田家の代表という立場ではありませんが、私個人としては小林氏の考えは宗教家として素晴らしいと思います。 単に『時が経ったから水に流そう』ではなく比叡山の非も認めて、そこを起点に更なる上を目指そうとしている。日本人の気高さを感じることができた。 例えば、中国なら南京大虐殺を外交カードに使ったりしてくる。でも日本人はオバマ大統領が広島を訪問したときも過去を非難するのではなく、温かく出迎えた。それと同様の精神を感じます」 延暦寺の思いは法灯とともに後世へと引き継がれるだろう。関連記事■ 凶が多いといわれる浅草寺のおみくじ 古来からの割合を厳守■ 一周忌の高倉健さん 養女以外の遺族は遺骨の場所を知らない■ 織田信長は論理的思考と解析に優れた“システマイザー脳”■ 武将が敵味方なく供養される高野山 織田信長と明智光秀も■ 織田信長作品が注目を集める背景に強いリーダーを求める傾向

  • Thumbnail

    記事

    北朝鮮と同じ「世界の三流国化」を受け入れた江戸幕府の大誤算

    (かち、いわゆる下級武士)とは行き来もあったが、上級武士に下級武士が昇格できたのは、中津藩200年の歴史でも数例だけだといっている。 殿様が自分の家臣と意識しているのも、上士だけだった。もっとも、身分制度は藩によってかなり違いがあるのだが、明治になって士族と位置づけられた階級の中でも、馬に乗れて袴(はかま)を履く「上士」、袴は履くが馬に乗れない「徒士」「足軽」、武家奉公人たる「中間(ちゅうげん)」などに分かれていた。 侍というのは上士の中でも上層部を指すことが多かったし、足軽以下は武士ではなかった。したがって、足軽が先祖だったら、「私の祖先は明治時代に士族になりました」とは言えるが、「武士でした」とか「侍の子孫です」「藩士でした」といえば詐称だ。 それでも、科挙があるから無教養ではダメな中国や朝鮮の政府の役人に比べて、旗本や大名の家来はあまり学問を要求されなかったし、出来が悪くても育ちだけで役職に就けた。といっても、当然実務などできるはずがない。そこで勘定方や儒者、藩医、砲術型、剣道師範などといったグループが別にいて、それぞれ世襲で技能を磨いて実務を担当した。福沢諭吉の家系は勘定方だし、久坂玄瑞は藩医、吉田松陰は兵法家の出身だ。 さらに、幕府や藩の財政の仕組みもじり貧にならざるを得ないものだった。戦国大名や信長、秀吉は、米の年貢を基本としたが、ほかの収入も重視した。商工業の発展を図り、鉱山開発を盛んに行ったうえに、貿易から上がる利益も大きかった。 しかし、儒教的な農本主義にたった江戸幕府は、米に対する年貢に頼った極端な税収構造にした。それが差し当たって可能だったのは、徳川将軍家が俗に天領といわれた幕府直轄領を400万石にし、旗本知行地の300万石と合わせて700万石と広く取ったからだ。豊臣家の直轄地が200万石くらいだったからかなり多い。しかも江戸時代の前半には、戦国時代に発達した土木、治水技術の応用で容易に新田開発も可能だった。米偏重で財政は火の車 さらに外政では、朝鮮への再出兵も行わず、外国からの侵略に備えることもせず、琉球を薩摩藩の支配下に置いた。内政ではキリシタンを弾圧し、檀家(だんか)制度で仏教を骨抜きする宗教政策を進め、大名の領地を取り上げて将来の不安を解消することもしなかったので、軍事費が減り、築城や大砲の進歩に対応した城の増強もしなかった。だから、鎖国して貿易利益が縮小しても、当面は大丈夫だったのだ。 ところが、この米中心の財政構造は無理があった。今でいう国内総生産(GDP)に対する租税負担率が徐々に下がることが避けられなかったからである。 まず、米の需要には限りがある。ところが、米以外からでは年貢が取れないので、各藩は米を増産する。そうすると当然過剰生産になり米価が下がってしまった。なにしろ、江戸時代後期には全国の人口が3千万人に対し、米の生産量を示す石高は3千万石だった。 つまり1人あたり1石の消費だが、これは1日換算では5合にもなる。つまり、江戸時代の日本人は無理な税収構造の果てに、過剰生産により安かった米のご飯を、みそだ、漬物だ、小魚だといった貧弱なおかずでひたすらかき込んでいたのである。 また、天変地異に弱い米に偏った作付けは、冷害や干魃(かんばつ)による飢饉(ききん)を何度も引き起こし、そのたびに現代の北朝鮮のように膨大な餓死者を出した。しかも、貿易をしないから輸入ができない上、民政を各藩に任せたために、気の利いた「名君」だけがあらかじめ米を買い占めて自藩の領民を救ったので、特定の藩では生き地獄の事態を招いたのである。 飢饉のときには、餓死までいかなくとも栄養不足により人口減が見られた。現代の北朝鮮でも文字通りの餓死以外に同様の事態がしばしば起こっているのである。 また、年貢の取り方としては、当初は検見(けみ)法といって作柄を役人が調査して税額を決めていた。しかし、これでは収入が不安定だし、検査に経費がかかるし、不正の温床となった。 そこで定免(じょうめん)法という定額制に移行していった。これは、導入当初は税収の安定をもたらし、行政経費の削減にもなって領主にとっては有利だった。しかし、時間がたつと、農民は工夫して増産をしても年貢は変わらなかったので、実質的に税率の低下をもたらした。 さらに、鎖国といえども新しい技術や作物がわずかながら導入され、独自の技術発展もあったので、さまざまな商品作物が栽培され、工業製品も考案されたので、米の年貢から上がる税収の対GDP比率はますます下がった。そこで、西日本の雄藩などは商品作物の作付け奨励や、専売制の実施といった政策で、新しい税収の確保に努めたのだが、幕府や東日本の藩は全般的に、税収確保の流れを「体制の危機」ととらえて抑制した。 その結果、幕府は松平定信の寛政の改革(1790年前後)に代表される贅沢禁止などにより、税収が増えないならGDPを減らせば租税負担率は低下しないというとんでもない政策に走った。また、貨幣改鋳は幕府にとって最大の収入増になるはずだったが、道義的に好ましくないと考えられ、実施されるのはいつも時期外れで、しかも稚拙だった。貿易嫌いの江戸幕府 貿易も、鎖国当初は長崎を通じてかなりの規模で行われていた。そのころは金銀の生産が多かったので輸入が容易だったのである。しかし、鉱山開発の最新技術導入ができないまま、生産はどんどん低下し競争力も失われた。主力品だった陶磁器も明の滅亡前後の混乱による景徳鎮の衰退に乗じて、一時的に市場が拡大したが、中国王朝の復活とヨーロッパでのマイセン焼の発展で全盛期は長く続かなかった。19世紀の長崎 そこで、本来であれば幕府が率先して大々的に輸出産業の振興を図らねばならない。実際、江戸中期に田沼意次が「乾隆帝バブル」の清王朝にナマコやアワビ、フカヒレなどを俵に詰めた俵物(たわらもの)を積極的に輸出して莫大な利益を得た。ところが、田沼失脚後の松平定信は、できればオランダとの貿易もやめたいくらいという貿易に後ろ向きの態度に終始して事態を悪化させた。 当たり前のことだが、鎖国して技術交流もせず、まったく代わり映えのしない製品を国内でつくり、変わらぬ生活をしていれば、産業の国際競争力が落ちる。そうすれば、細々と行っていた貿易でも輸入品に対する国産品の格差が大きくなるのは当然だ。 そのツケは、鎖国期も払っていたが、開国したら、長く職場を離れていた病み上がりの人が新しい仕事に適応できないのと同じことになったのである。そして、特に武器の分野では、火縄銃で最新のライフル銃と対峙(たいじ)する羽目になるほど、ひどい目にあったのである。 先に書いたように、江戸幕府や多くの藩は、生活や経済構造をなんとか変えないようにした。しかし、新しい商品が生産されるのを完全に封じるわけにはいかないので、租税負担率が低下し、その結果、武士の生活は惨めになった。 農民は、商品作物のおかげで豊かになることもあったが、主力作物の米に重税を課された上に米価も低迷したので苦しい生活が続いた。それに対して、町民は税金もあまり取られないため豊かになった。だから農民は逃散して都市に出たがる。実際、飢饉などによる人口低迷もあって、耕作する農民がいない田地が続出したのである。そこで、農民の移住はもちろん、旅行すら原則禁止する藩も多かった。 こういう状態を「農奴に近い」と表現しても何もおかしくあるまい。 一方、町民は自由だったし、武士や農民より良い生活ができた。とくに江戸はインフラもしっかりしているのでなおさらだった。時代劇に出てくる江戸の町民が幸せそうなのは、実際に豊かなわけではないが、地方の農民に比べて格段に恵まれていたのだから当たり前で、それは平壌の市民が体制を熱烈に支持しているのと同じような状態だったのである。 また、藩が農民の逃亡を恐れて縛り付けても、江戸や大坂の周辺には、小領地が錯綜(さくそう)していたので統制のしようがなかったし、都市でアルバイトをするチャンスもあったのは事実だ。 いずれにしても、このように、幕府や東国の各藩が財政破綻、農民の不足、武士の窮乏化に悩んでいるときに、西南雄藩では税収も人口も増え、農民も相対的に豊かになっていった。「東西格差」が明治維新の伏線に また、薩摩藩は琉球を支配していた上に、江戸中期以降は、徳川家との縁組を強化し、ついには、11代将軍徳川家斉と13代将軍徳川家定の御台所を出すまでになり、御三家に劣らない治外法権的な地位を確立した。この地位を利用して密貿易や、大坂商人から強引な借金棒引きにも成功した。 言ってみれば、北朝鮮と韓国の国力差が西日本と東日本でも生じたようなもので、その格差が倒幕と明治維新の伏線になったわけである。 最後に、江戸時代の技術や教育水準について簡単に書いておく。鎖国期には独自の工夫で砂糖や綿花に代表される日本の気候に向かない産物を生産したり、ガラパゴスな技術で工業を発展させた。 しかし、そうした製品は、開国した途端に輸入品に駆逐された。それは東西冷戦時代に、西側から揶揄(やゆ)された東ドイツの「段ボール製自動車」や、ポーランドで温室に石炭をたいて生産していたバナナと同じようなものだ。 江戸時代のそうした工夫を褒める人もいるが、ポーランド産のバナナと同様に、鎖国というバカげた政策のあだ花に過ぎなかった。そして何より問題だったのは、軍事技術で大きな遅れを生じさせ、19世紀を迎えても火縄銃とライフル銃で列強と対峙する羽目になり、日本は危うく植民地にされかかったことである。 「鎖国していなければ植民地にされた」などと愚かなことを言う人がいるが、17世紀のスペインやポルトガルは、インドのゴアのような貿易拠点や、フィリピンのように国家が成立していなかった地域を占領したり、金属製の武器を持たなかった南米を征服したわけで、日本のような国を植民地支配することは不可能だった。 また、日本の教育が先進的だったというのも大嘘だ。よく言われる識字率の高さについては、日本では仮名が読み書きできるかどうかだが、中国では数千字の漢字の読み書きで判断していたのだから、そもそも比較基準が大きく違う。 また、寺子屋の普及も藩校がでそろったのも天保年間(1830-44年)のころで、西洋では既に近代的な学校制度ができ上がっていた。しかも、藩校では算術を教えなかったので、武士たちは軍人としても官僚としても役立たずで、戦国時代の先祖の功績による「年金生活者」に過ぎなかったのである。

  • Thumbnail

    テーマ

    江戸時代はなぜ260年も続いたのか

    「江戸時代の日本に戻れ」。月刊誌『文藝春秋』の最新号に、人口減少社会を迎えた現代日本が目指すべき「国のかたち」を提唱する細川護熙元首相の論考があった。中身はともかく、近世史研究が進んだ今、江戸時代を再評価する言説が流行りである。とはいえ、ホントに良い時代だったのか?

  • Thumbnail

    記事

    徳川幕府の危機を何度も救った江戸時代版「3本の矢」の真実

    岡田晃(大阪経済大客員教授、経済評論家) 江戸時代は徳川幕府による長期政権が続いたが、決して平穏だったわけではなく、実は何度か幕府存続の危機に見舞われていた。それを乗り切り長期政権を築くことができた理由を経済的な側面から見てみると、①時代の変化に合わせた戦略転換②徹底した危機管理③幕府財政と国民生活を豊かにする成長戦略――の3つが浮かび上がってくる。いわば「江戸時代版・3本の矢」だ。 家康が幕府を開いて以後、最初に危機が訪れたのは、第3代将軍・家光が死去した1651年だ。周知のように家光は祖父の家康と父の秀忠が築き上げた徳川幕藩体制を完成させ、世の中も安定したかに見えていた。しかし、その家光が48歳の働き盛りで亡くなり、4代将軍となった家綱はまだ11歳だった。今日の企業経営になぞらえれば、代々の創業家社長が強いリーダーシップで「徳川株式会社」を大きくしてきただけに、前途に暗雲が立ちこめる事態となったのだ。皇居・東御苑にある旧江戸城の櫓「富士見櫓」=東京都千代田区 しかもそのころ、幕府に対する反感がひそかに広がっていた。関ヶ原の戦い以後、幕府が大名を次々と取り潰した結果、浪人があふれていたためだ。彼らの一部は、大坂の陣や島原の乱などに加わるといった、すでに社会の不安定要因となっていた。 家光の死去直後には、浪人グループが幕府転覆を企てたとされる由井正雪の乱(慶安の変)が起き、その翌年にも浪人が老中を暗殺しようとする事件が起きている。これら二つの事件は未然に弾圧されたが、幕府にとって重大な危機だった。 そこで幕府は、家光の異母弟である保科正之(会津藩主)が幼い将軍、家綱の後見役となり、その下で老中が幕政を執行するという集団指導体制に移行して、この危機を乗り切った。 政策転換も図られた。それまでのように大名を容赦なく取り潰す武断政治から、大名への統制を緩和し一定の配慮をする文治政治に転換した。戦国時代以来、当たり前とされてきた殉死の禁止にも踏み切った。 武断政治から文治政治への転換は、幕府の基本戦略そのものを転換したことを意味する。今日で言えば、時代の変化に合わせて企業がビジネスモデルを変えていったようなものだ。これがあったからこそ、徳川幕府がその後、長期間にわたって続くことができたのである。 2度目の危機は、1712~16年にやって来た。6代将軍・家宣が病死し(1712年)、唯一の後継ぎだった家継が5歳で7代将軍に就任した。しかし、その家継もわずか8歳で病死したのである(16年)。これで家康―秀忠―家光の子孫の男子は事実上だれもいなくなってしまった。 そこで、紀州藩主だった徳川吉宗が8代将軍に就任したのだった。吉宗は徳川家康の十男、頼宣の孫にあたるが、いわば徳川の分家の子孫という存在であり、普通なら将軍になれる立場ではなかった。しかし、家康が構築していた危機管理策のおかげで将軍に就任することができた。御三家体制の確立 では、家康はどのような手を打っていたのか。家康は長年苦労に苦労を重ね、60歳を過ぎてようやく天下統一を果たしたことから、徳川政権が未来永劫に続くことを願い、徳川政権を脅かす芽を徹底的に摘み取った。 大名の容赦ない取り潰しをはじめ、大名の妻子を人質として江戸に住まわせる、参勤交代や普請(現在の公共事業)などで経済力を弱める、外様大名を遠隔地に移封して幕政に参加させない代わりに石高は多くするなど、謀反を起こさせないように何重にも対策を張り巡らせた。 しかし、肝心の徳川家の血筋が絶えてしまっては元も子もない。そこで家康と、その遺志を受け継いだ秀忠が作ったのが御三家の体制だった。家康の11人の息子のうち、九男を尾張、十男を紀伊、十一男を水戸の藩主とした。もし将来、秀忠の子孫の血筋が絶えた場合に備えて、この御三家の中から誰かが将軍を継ぐことができるようにしたのだ。究極の危機管理策である。静岡市にある徳川家康公之像 吉宗の8代将軍就任は、その危機管理策が約100年後に効力を発揮したことを示している。吉宗が将軍になるにあたっては、次期将軍の座をめぐって尾張藩との争いがあったと言われているが、それも幕府存続を大前提とした中でのことであり、それほど御三家という危機管理策が浸透していたことがうかがえる。 吉宗が享保の改革などで幕府を立て直したことは良く知られるとおりで、それが徳川政権のさらなる長期化につながったことは明らかである。血筋の面でも14代将軍まで代々、吉宗の子孫が将軍となっている。もし御三家という危機管理策がなかったなら、名君・吉宗の登場と徳川の長期政権はなかったかもしれない。 第3は、成長戦略である。江戸時代の経済は成長と低迷を繰り返してきたが、大きな経済成長の波は3度あった。最初の経済成長は元禄時代(1688~1704年)、5代将軍・綱吉の時代である。 これは前述の武断政治から文治政治への路線転換がきっかけとなっている。世の中が安定して各藩主は領国経営に力を注げるようになり、農業生産が上昇した。人々の生活が向上すると余裕が生まれ、その中から文化や学問も発展した。いわゆる元禄文化である。今日で言えば高度経済成長、あるいはバブル経済といったところだろうか。 実は、元禄時代より少し前の時代、江戸は未曽有の大災害に見舞われた。1657年の明暦の大火(振袖火事)で、江戸の大半が焼け野原となり江戸城内にも燃え移り天守閣が焼失した。死者は10万人に及ぶと言われる。 幕府は前述の保科正之を中心に、江戸の復興に取り組んだ。延焼を食い止めるため各地の道路を拡幅し広小路を作った。現在も地名を残す上野広小路はこの時に作られたものだ。また、それまで幕府は江戸防衛の観点から隅田川にはほとんど橋を架けていなかったが、そのために大火の際に多くの人が川を渡って逃げることができず焼死したことから、現在のように川に多くの橋を架けた。 江戸はこうしてインフラ再整備と再開発が進み、復興を成し遂げることができた。これが元禄時代の江戸の繁栄につながったのである。しかし、元禄以後、経済は下降し始める。現代風に言えばバブル崩壊だ。 これには、綱吉の後を継いだ6代将軍の家宣と7代の家継時代の政策も影響している。家宣は生類憐みの令を廃止するなど、綱吉政治を否定する政策をとったが、その一環として貨幣の改鋳を行った。元禄時代に発行された貨幣は金銀の含有率を低下させていたため、将軍のブレーンだった朱子学者の新井白石は「公儀(幕府)の威厳を低下させるもの」と非難し、金銀の含有率を幕府開びゃく当初の慶長金貨並みに引き上げることを提言し実行した。アベノミクスの原点 しかし、それは時代に逆行するものだった。金銀の含有率を引き上げ、新貨幣の価値を保つため貨幣発行量を減少させた。いわばデフレ政策で、景気を冷え込ませる結果となった。 そうした中で登場したのが8代将軍・吉宗だ。吉宗の享保の改革は当初は、質素倹約、年貢の強化などで幕府財政の立て直しを図ろうとしており、いわばデフレ政策の継続が中心だった。 しかし、注目すべきなのは、途中から貨幣の金含有率を再び引き下げて貨幣の発行量を増やすインフレ政策に転換したことだ。デフレから脱却して緩やかなインフレをめざす――今日のリフレ政策、アベノミクスの“原点”とも言えるものだ。 吉宗はまた新田開墾、産業振興を奨励した。成長戦略の導入である。その結果、経済は再び上向き幕府財政も好転する。弱っていた幕府の政治的経済的基盤は強化された。これが江戸時代の経済成長第2の波だ。 吉宗の政策は、次の9代・家重と10代・家治にも引き継がれたが、その時代に実権を握ったのが田沼意次だ。田沼は印旛沼開拓や鉱山開発、蝦夷地開発などを進めるとともに、商業の振興や貨幣経済の発展を図った。長崎貿易を奨励して貿易による収入を増やす方針も打ち出した。田沼の政策は当時としてはかなり先進的で、成長戦略のメニューがそろっていたと言える。その結果、幕府の備蓄金は元禄時代並みの水準まで回復する成果をあげた。 田沼意次は「賄賂政治家」と言われるが、それは当時の反田沼派の批判キャンペーンによって過大に作り上げられたイメージだとの指摘が少なくない。結局、将軍・家治の死去とともに田沼は失脚し、成長戦略は頓挫する。 その後を継いだ11代将軍・家斉の下で老中に就任した松平定信は、田沼政治をことごとく否定し、経済政策においてもデフレ政策に逆戻りさせた。松平定信が行った寛政の改革は、3大改革の一つとして必ず教科書に出てくるが、実際には経済を停滞させる結果となったのである。 その松平定信もまた厳しすぎた政策が原因で失脚し、そのあとに3度目の経済成長の時代を迎えることになる。文化・文政年間(1804~30年)のことだ。元禄、吉宗・田沼時代、そして文化・文政の3度の経済成長期を経て、全国の農業生産は着実に増加していた。 ある推計によれば、全国のコメの生産量は元禄時代の2900万石から、1840年ごろには3400万石へと増加している。年率わずか0.1%余りの低成長だが、技術革新などがほとんどなかったこの時代に生産力向上が持続していたことは特筆に値する。このことが徳川長期政権を支える役割を果たしたことは間違いない。 江戸時代の経済繁栄は文化・文政時代が最後となった。文政の次の天保年間に幕府は老中・水野忠邦の下で天保の改革を行うが失敗に終わり、その後は幕末に向かって崩壊の道を歩むこととなる。幕府とは対照的に、同じ天保年間以後に薩摩や長州などの雄藩は藩政改革に取り組んで自力で経済力を向上させることに成功した。それがやがて明治維新につながったのだ。 「江戸時代版・3本の矢」によって長期政権を築いた徳川幕府だったが、最後の最後で、ペリー来航など時代の変化に合わせて戦略を転換することに失敗し、危機管理の効果も発揮できず、成長戦略も挫折してしまったのだった。逆に言えば、その「3本の矢」がいかに重要な役割を果たしていたかを物語っている。 

  • Thumbnail

    記事

    江戸時代が「パクス・トクガワーナ」と世界から称賛される理由

    大石学(東京学芸大学教授) 来年2018年は「明治維新150年」にあたり、さまざまなイベントが企画されている。政府による「明治の日」制定も議論になっている。「維新元勲」西郷隆盛を主役とするNHK大河ドラマ「西郷(せご)どん」も発表された。 私も、原作・脚本の時代考証にかかわっている。この機会に、あらためて「明治維新」の今日的意義を考えてみたい。 近年、「江戸イメージ」が変わりつつある。かつて江戸時代は、近代化・民主化を阻む「悪しき封建制」の時代として、抑圧・搾取・差別など負の側面が強調されてきた。しかし、昨今は、100年間の「戦国時代」を克服し、250年以上に及ぶ世界史でもまれな「平和=徳川の平和(パクス・トクガワーナ)」の時代として、あるいは現代日本につらなる国家・社会のさまざまな制度やシステムが形成・発展した「文明化」「初期近代(アーリーモダン)」の時代として語られている。画像はイメージです 江戸時代の武士イメージも、戦国時代までの主体性・自立性の強い戦闘者から、勝手な武力行使を禁じられたサラリーマン武士=「官僚」へと変わり、庶民イメージもお上(かみ)頼みの悲惨(ミゼラブル)な被治者から、地域や集団の自治的運営の担い手へと変化しつつある。この結果、「時代劇」もまた、ヒーローや英雄が主役の「勧善懲悪」主義のチャンバラから、善悪・正否の判断や生き方に悩む一般の武士や庶民の生活・感情を、史実、史料、時代考証をもとに、リアルに描く新たな時代劇へとシフトしたのである。 これら「江戸イメージ」の変化は、「平和」「文明化」のもとでの国民的読み書き能力(リテラシー)の向上や、地域・身分を越えた生活・文化の共通化・普及が基礎にあることが指摘されている。これは、同時に今日和風、和式、日本型などとよばれる日本的な文化や習慣が国民規模で成立・浸透する過程でもあった。江戸社会は、明治の「文明開化」以前の、近現代とは大きく異なる、私たちが理解不可能な「前近代」社会から、近現代と連続・地続きの、私たちが理解可能な「初期近代」へと、その枠組みを変えたのである。 この変化は、そのまま「明治維新」評価の転換につながる。それは、従来の薩摩・長州など倒幕派による「江戸の否定(リストラ)」=「維新(これあらたなり、すべて新しくすること)史観」とは異なる、「江戸の達成」という新たな評価である。すなわち、明治維新は、幕府や藩の中下級官僚が政治の主導権を握り、国内の地域や身分など幕藩体制の「壁」を低くし、列島社会の均質化・同質化を進める一方、「開国」により鎖国体制の「壁」を取り払うという国家改造事業と位置づけられるのである。明治維新の今日的意義 列島社会の均質化・同質化に基礎づけられる「江戸の達成」は、明治初年の戊辰戦争(ぼしんせんそう)を、従来の倒幕派=開明的=近代的軍隊と、佐幕派=保守的=封建的軍隊の戦闘ととらえる「西高東低」維新観とは異なる、近代的装備を備えた軍隊同士の戦争と見ることを要請する。戊辰戦争は、同レベルの武器を使って戦われたヨーロッパのクリミア戦争(1853~56、約90万人死傷)や、アメリカの南北戦争(1861~65、約62万人戦病死)に比して、はるかに少ない死傷者(1万3550人)で終わった。江戸城の桜田巽櫓 明治元年(1868)の大政奉還、同2年の版籍奉還、同4年の廃藩置県、という一連の国家制度改革も、武力抵抗なく平和裡かつ短期間に達成され、明治政府は、倒幕派・佐幕派の「壁」をこえたオールジャパンの官僚制による統治機構を構築した。これは、将軍を代表として、譜代大名や上級旗本など幕府上級官僚が主導する幕藩レジームから、朝廷官僚や藩官僚など中下級官僚を加えた「新政府官僚」主導の維新レジームへの移行が、最小のリスクと犠牲(省エネ、省ロス)のもとで実現されたことを意味する。 さて、「江戸の達成」としての「明治維新」から150年を迎えようとする今日、世界ではイギリスのEU離脱、トランプ大統領の「アメリカ・ファースト」、各地での保護主義・排他主義の台頭が見られる。国内でも、貧困・格差・差別問題など社会の分断が深刻化し、新たな「壁」が作られつつある。しかし、グローバリズムの影響のもと、地球の一地域から起こる戦争、疫病、環境破壊、経済混乱、サイバー攻撃などは、ただちに全世界へと拡大する。一国のみの「壁」に守られた安全・安定・繁栄は、すでに不可能になっているのである。 250年の「徳川の平和」の達成として、「幕藩体制」「鎖国体制」という内外の「壁」を、省エネ・低リスク・短期間のもとで取り払い、近代世界の一員となった体験をもつ日本の国家と社会は、今日、さまざまな「壁」を取り払う意義と役割を自覚し、その重要性を世界に発信する必要がある。「明治維新」の今日的意義は、ここにあるといえるのである。

  • Thumbnail

    記事

    江戸時代の長屋の大家 住人の糞尿で儲け低家賃が可能に

    記事■ 【書評】日本が400年前に確立した「糞尿商品」流通システム■ 「徳川家康は教育パパだった」等歴史上人物の逸話満載した本■ 荒俣宏が慣れ親しんだ東京の遺物を思い出も含めて語った大書■ 江戸時代 「夜這い」は強姦ではなくノーマルなプレイだった■ 納豆、ねぎま鍋、イカの塩辛を食べると絶倫になると専門家

  • Thumbnail

    記事

    江戸を守る親分「鬼平」は財テクの鬼でもあった

    時代は放蕩無頼の風来坊で、「本所の銕」と呼ばれて恐れられた。池波正太郎『鬼平犯科帳』の主人公について歴史家・安藤優一郎氏が明らかにする「まさかの素顔」とは。* * *〈「こやつどもを生かしておいてはためにならぬ。刃向かう者は斬れ!!」 と、平蔵は抜き打ちに浪人くずれ二人を、水もたまらず斬って捨てたものである〉(『鬼平犯科帳』より) 罪人たちを厳しく取り締まることで「鬼平」と称される長谷川平蔵。実在した江戸時代中期の旗本で、鬼平は放火犯や盗賊を取り締まる火付盗賊改方の頭(長官)だった。厳しさの反面、囚人と酒を酌み交わすなど人情にあふれ、「御頭」と多くの部下や市井の人々に愛された人物である──。フジテレビ系ドラマ「鬼平犯科帳」の一場面。平成17年放送の「山吹屋お勝」から。十手を構える長谷川平蔵(中村吉右衛門、中央) 豪腕で悪人を討ち、江戸の治安を守る現場主義の頼もしい親分が我々が思い描く鬼平像だろう。 だがこれは池波正太郎の『鬼平犯科帳』で描かれた鬼平であり、作品には描かれていない意外な素顔が多く存在する。 無骨で物々しい捕り物現場が似合いそうだが、一方で平蔵は幕府の行政マンとしても立派な業績を残している。寛政の改革の目玉事業として教科書にも登場する石川島の人足寄場の生みの親は平蔵だ。 人足寄場は、主に無宿と呼ばれる仕事にあぶれた無戸籍の人たちを対象にした職業訓練所のようなところだ。当時、生活に窮した無宿者たちの犯罪が問題になっていたため、平蔵が時の老中松平定信に具申し設立され、自ら運営にもあたっていた。 しかし資金不足の人足寄場の運営に持ち出しを余儀なくされるなど平蔵の家計は借金まみれだった。そこで平蔵はもうひとつの顔を覗かせる。それは財テク投資家としての鬼平だ。 平蔵は銭相場に手を出した。幕府から金3000両(現在の貨幣価値で約3億円)を借り受け、銭貨を買い上げた。これにより、銭相場が高騰するとすぐさま売り払い、得た利ザヤを寄場の運営資金に充てることに成功した。 当時の銭相場は低迷しており、銭相場を引き上げたい幕府の思惑もあった。今で言えばインサイダー取引の疑いが強く、平蔵は仕手筋だったとも言える。 また自分の広大な旗本屋敷の土地を商人などに賃貸し人足寄場の運営資金に充当した姿は、さながらマンション経営者だ。ファンドマネージャーとしての平蔵は非常に有能だったのだ。 こうしたノウハウは、火付盗賊改方として裏社会に精通していたことなどで培われたのだろう。 しかし平蔵の財テクや能力は、実績に対して周囲からは白眼視されていた。平蔵は出世に縁のないまま、いち中間管理職のまま生涯を終える。 小説の世界では「御頭」と呼ばれていた鬼平だが、その素顔は役人として突出した能力を持ちつつも組織に認められぬ悲哀の人物でもあった。【PROFILE】安藤優一郎/1965年、千葉県生まれ。文学博士。日本近世政治史・経済史専攻。近年は武士の生活文化の諸相について研究を進める。著書に『鬼平の給与明細』(ベスト新書)、『大奥の女たちの明治維新』(朝日新書)など。関連記事■ 橋爪功 ラジオドラマ『三国志』で登場人物を一人で演じ分け■ 九星占い師 「九紫火星」である日本円の円高来年も続くと占う■ 2002年に誕生した海老蔵の娘の近況 母「今が一番いい関係」■ アメリカンショートヘアー ダーツ状の模様入ると値段も高騰■ 下手な役者がやる芝居は興奮したものばかりと綿引勝彦が解説

  • Thumbnail

    記事

    「徳川カンパニー」はホワイト企業? 家康の意外な遺産

    のではありません。変革への強烈な意志が大失敗をもたらすときもある。日本は世襲の原理が強く働く国柄で、歴史の推移がおとなしいというか、おだやかです。そのために血で血を洗う凄惨(せいさん)な抗争劇や、町がまるごと地上から消えてしまうような大虐殺は起きていない。でもやはり過度な世襲は、全て「前例の通り」に、という事なかれ主義につながりやすい。若いときに辛酸をなめた人物の方が、社会の不備や欠陥を端的に見抜くことができるのかもしれない。群馬県館林市の善導寺に伝わる徳川家康の肖像(模本、東大史料編纂所蔵) ぼくは徳川家康という人こそ、苦労が人間を大きくした典型ではないか、と思っています。信長のようなある種の天才ではない。秀吉のようなカンの冴(さ)えもない。だが地道に努力し、倦(う)まずに勉強する。子供の頃に生母と引き離されて人質生活を余儀なくされ、父も暗殺された。今川義元が桶狭間で倒れた後にやっと独立したけれど、周囲はよく知らぬ家臣が固めていて、自分の思いは通らない。 後世では忠節無比の三河武士、なんて言われていますが、あれは物語にすぎないんじゃないかな。地元第一で凝り固まった家臣の統制に、駿府という都会育ちの青年・家康は困り果てたんだろうと想像します。だってその証拠に、初代将軍の座を退いてから、家康は岡崎に帰っていませんもの。故郷というのは、「志を果たしていつの日にか帰る」憧憬(しょうけい)の地。でも家康にとって、それは駿府であって、岡崎ではなかった。 ともかく耐える。耐え忍ぶ。信長と攻守同盟を結んだら、それを絶対に破らない。武田信玄が攻めてきても、信長はまともに援軍なんか送ってきません。おかげで三方ケ原の戦い(1573年)ではあわや戦死しそうになって、怖くて大便を漏らして逃げた。愛する妻の築山殿と跡取り息子の信康も、信長の命で殺害した。それでも決して背かない。律義者の仮面をかぶり通したわけです。 徳川家は清和源氏の名門、新田家の子孫を称しています。ところが若き日の家康は「藤原家康」なんて堂々と署名している。おそらく「源平藤橘」の姓と、「新田・織田・徳川」などの家名との関係がよく分かっていなかったのでしょう。でも、そこから彼は歴史を学んで、わが家は源氏であって、だから征夷大将軍になるんだ、という論理を展開するまでになる。彼の好学の気風は九男の義直(尾張藩の始祖)、さらに水戸の光圀に受け継がれていきます。 さて、ここで問題です。家康の学問への真摯(しんし)な姿勢は、私たち中世史研究者(とくに政治史)に具体的な恩恵を与えてくれています。それはいったいどういうことでしょう? ヒントは、彼の本拠地選び、つまり江戸の開発です。「ホワイト企業」徳川の文化貢献 いま学界の主流は「織田信長は、特別な戦国大名では『ない』」という評価です。それはおかしい、信長が特別じゃなければ「天下統一」はないでしょ? と反論すると、いや、彼にとっての「天下」とは近畿地方を意味するんだ、とくる。いやいや、天下が日本全体を指している用例は鎌倉時代から普通にあるじゃないか、と反論しても、戦国時代に限れば、天下=畿内ですよ、と返される。まあ、信長株はどう見ても下落しているわけですね。 学界のつまはじきであるぼくは、それはおかしいでしょう、と言い続けています。分裂していた日本が一つにまとまる、という大きな変化に、ともかくも注目しようよ。その動きの中心にいた信長が、「特別でない」はずはないでしょ? と。 ぼくはかくのごとく信長を高く評価しているわけですが、でも、彼のような人が現実にいたとしたら、災厄以外の何ものでもないですよね。絶対に関わり合いになりたくない。働く先としても、信長カンパニーには就職したくない。徹底した能力主義で、小さなミスが左遷に直結する。ヘタをすると首がとぶ。小心者のぼくは、怖くて仕事に集中できない。 その点、家康カンパニーは平和です。オーナー=家康は「ケチ」。これはもう疑いようがなく、よその会社なら余裕で昇進だろう、という顕著な実績が、なかなか認めてもらえない。そのかわり、オーナーの気まぐれ人事はほぼない(ウマが合うから、みたいな理由で出世できたのは藤堂高虎くんくらい?)。昇給のスピードは遅いけれど、一度上がった給料は、保証してもらえる。これなら安心して仕事ができる。 さて、ここで先週の問題です。家康の学問への真摯(しんし)な姿勢が、中世史研究者に具体的な恩恵を与えてくれている。それはいったいどういうことでしょうか? というものでした。答えは古代・中世の書物、すなわちぼくたちにとってこの上なく大切なテキストを保存し、伝えてくれた、です。その代表が『吾妻鏡』なのです。 勉強家で好学の家康は数多くの書物を収集し、後世に残してくれました。徳川将軍家の蔵書は江戸城内の紅葉山文庫として知られ(といっても、この呼称は明治時代になってから用いられたもので、江戸時代はもっぱら「御文庫」と呼ばれた)、明治維新後は太政官の管轄となりました。のちに内閣文庫に継承され、昭和46年に国立公文書館が設置されると、他の内閣文庫本とともに移管。一般に公開されたのです。国立公文書館が所蔵する北条本『吾妻鏡』(同館ウェブサイトから) 『吾妻鏡』は鎌倉幕府が編纂(へんさん)した正式な歴史書で、これをなくしては鎌倉時代の政治史は研究することができません。通常、私たちが『吾妻鏡』を読むときに用いているのは『国史大系』(吉川弘文館)の中に収録されたもので、これは『北条本』と呼ばれています。 なぜ『北条本』と呼ばれたかというと、戦国大名である後北条氏が収集し保管していたから。豊臣秀吉の小田原攻めの際、戦いの終結に尽力したのが黒田官兵衛。北条家はその労を多として、秘蔵していた『吾妻鏡』を官兵衛に贈った。のちに官兵衛の息子の長政はこれを江戸幕府に献上。かくて『北条本・吾妻鏡』が紅葉山文庫に所蔵された。歴史研究者はそういうふうに認識してきました。 ところが、これは全くの誤りらしい。東大史料編纂所の所長を務めた益田宗(たかし)さん(故人)、それに同じく編纂所で活躍している井上聡さんの研究によると、幕府を開く以前に徳川家康は全国に人を派遣し、時間とカネを使って、今あるかたちに復元した。それが『北条本・吾妻鏡』なのだそうです。これを北条家が所持していた明証は実はない。だから『北条本』は、『徳川本』とか『家康本』と呼ばれるべきものなのです。 源頼朝はご存じのように、鎌倉に幕府を開きました。その物語を熟読しながら、家康は京や大坂の繁栄に背を向け、当時は「ど田舎」といっても過言ではなかった江戸に、幕府を開く方策を練っていたのかもしれません。

  • Thumbnail

    記事

    江戸時代の湯屋 混浴禁止令出ても守られなかった

    った大書■ 親孝行サービス 寿司職人デリバリーは2時間10万5千円■ 「徳川家康は教育パパだった」等歴史上人物の逸話満載した本■ 江戸時代の長屋の大家 住人の糞尿で儲け低家賃が可能に

  • Thumbnail

    テーマ

    今川義元を知らずして、井伊直虎を語るなかれ

    大河ドラマの主人公、井伊直虎の半生に絶大な影響を与えた人物といえば、駿遠三の太守、今川義元であろう。歴史の教科書では桶狭間の敗死ぐらいしか記憶にないかもしれないが、実は当代一の戦国大名だったことはあまり知られていない。本日は「海道一の弓取り」義元の人生を再評価してみたい。

  • Thumbnail

    テーマ

    坂本龍馬が「新国家」に託したもの

    幕末の志士、坂本龍馬はどんな「日本の夜明け」を夢見ていたのか。暗殺される5日前に記した書簡は、この謎に迫る第一級の発見である。あの時代に、幕府や公儀という言葉ではなく、なぜ「国家」という新しい政体を意味する二文字を使ったのか。龍馬が専心した新政府樹立の意義を考えてみたい。