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    日本人が知らない改元の意味

    改元とは何か。この意味をきちんと説明できる人は恐らく日本人でも少ないだろう。大化以降の歴史をひも解くと、江戸時代まで天皇の在位中に慶事や大災害があれば頻繁に改元が行われた。天皇一代限りの一世一元が原則になったのは明治以降である。平成の終わりに、改元の意味を考えたい。

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    幕末幻の元号「令徳」が示す改元のインパクト

    後藤致人(愛知学院大文学部歴史学科教授) 元号とは、漢字と数字を組み合わせて、天皇の在位期間を基準にした政治的紀年法の一つである。ただ、明治に一世一元制を採用する以前は、災異や大変革が起こるといわれる年「辛酉(しんゆう)革命・甲子(かっし)革令」に基づく改元があった。 現在、元号は日本にしか存在しない。元号は、漢字と数字の単純な組み合わせではなく、そこに皇帝・天皇・国王の在位期間という要素が必要条件となる。元号とは、君主が時を支配するという思想に基づいた暦年法なのである。現在、漢字文化圏で君主制の残っている国は日本しかないため、元号もまた日本にしか存在していない。 中華人民共和国では公暦を使っており、これは西暦と同じである。台湾では、民国何年という数え方をしている。漢字+数字なので、一見元号のようであるが、これは元号ではない。1911年の辛亥革命で清朝が滅び、中華民国政府成立した1912年から数え始めた年の数え方であり、君主制とは関係がないので、元号とはいえない。 元号は、中国の漢代から始まっている。それが漢字文化圏に広がっていくのだが、日本では大化の改新で有名な「大化」から始まる。ただ、途中元号が建てられなかった時期があり、今日まで連続して元号が建てられるようになったのは、大宝律令で有名な701年の「大宝」が最初となる。律令体制は文書主義であり、文書に記述するため、より正確に時を記述する必要があったのであろう。 朝鮮では、日本の大化の改新より約100年前から新羅(しらぎ)暦が存在していた。ところが、その後独自の元号は持たず、中国暦を使用している。これは、新羅は中国唐の力を借りて、悲願の朝鮮半島統一を成し遂げたことに由来している。 唐を宗主国として立てる必要があり、そこから独自の元号である新羅暦を廃止したのである。以後、高麗(こうらい)王朝も朝鮮王朝も一時期を除いて独自の元号を持たず、中国暦を使用した。「大化の改新」の孝徳天皇をまつる豊崎神社=大阪市北区(木戸照博撮影) ところが、19世紀末に突如朝鮮暦は復活する。これには当時の国際状況の激変が背景としてある。19世紀後半、東アジア的な国際秩序が揺らぐ中で、ヨーロッパ的な国境概念が入ってきた。 日本は明治維新後、ヨーロッパ的国境概念に転換するが、中国の清は伝統的な中華思想を維持し、内国とは別に、朝鮮やインドシナ、チベットは属国(朝貢国・藩部)として位置づけていた。 この清による属国概念に、まずフランスが挑戦した。インドシナを舞台に清仏戦争でフランスが勝利すると、清による属国を否定した上で、インドシナを植民地とした。 朝鮮半島では、日本がこの属国概念に挑戦し、1894~95年の日清戦争で勝利すると、下関条約で朝鮮の独立を清に認めさせた。その結果、1897年に清の属国ではない大韓帝国が成立し、元号も建てられたのである。満州にも独自の元号 1896年、太陰太陽暦からグレゴリオ暦に転換するときに元号「建陽(けんよう)」が建てられ、清の元号から独立し、1897年大韓帝国成立とともに、「光武」に改元している。しかし、この大韓帝国の元号は1910年韓国併合によって消滅した。 「満州事変」後に成立した満州国でも独立した元号が建てられている。1932年3月、満州国が建国され、清朝最後の皇帝、溥儀(ふぎ)を「執政」の地位につけ、元号を「大同」とした。そして、1934年3月、溥儀が満州国皇帝に即位し、これをきっかけに元号を「康徳」に改元している。 満州国は事実上日本が実権を握っている国ではあったが、植民地ではなく、君主制を敷いていたため、元号が時を数える暦年として存在していたのである。「康徳」は、満州国滅亡まで続いた。 元号に使われる漢字には、時にメッセージが込められている。室町幕府15代将軍、足利義昭は、室町幕府の復興を祈念して「元亀」という元号を天皇に奏請している。 しかし、織田信長はこの元号を嫌い、1573年義昭を畿内から追放し、事実上室町幕府を滅ぼすと、改元を促した。そして、信長の旗印「天下布武」にちなみ、「天正」としたのであった。 幕末の元号にも、メッセージ性の強いものがある。ペリー来航以降の元号を並べてみよう。「嘉永(かえい)」・「安政」・「万延」・「文久」・「元治」・「慶応」・「明治」・「大正」・「昭和」・「平成」。どれが最もメッセージ性の強い元号か、分かるだろうか。満州国建国 満州国皇帝・愛新覚羅溥儀(左)と乾杯する武藤元帥(右) 「明治」は、その改元手続きが画期的であったことが知られている。明治天皇が東京へ行幸するのを前に、天皇代替わりに基づく改元を行うこととなった。このとき岩倉具視は一世一元を主張、あわせてそれまで行われていた公卿(くぎょう)による議論を繰り返す難陳(なんちん)という手続きの廃止を求めた。 この提言に基づいて、文学・史学の漢籍を専門とする「文章(もんじょう)博士家」である菅原氏らの勘文(かんぶん)の中から、議定の松平慶永が2、3の良案を選定して上奏した。 そして天皇は宮中の賢所(かしこどころ)でそれをくじで選び、明治の改元を行ったのである。天皇がくじで決めた元号というのは、このときをおいて他にない。ただ、「明治」という元号自体は、メッセージ性の強いものではない。 元号に使う字は、何でもいいわけではない。もちろん縁起の良くない字は不可であるし、国や時代によっても使う漢字の傾向は異なっている。近世以降の日本では「長く、平和で、安定した世の中が続きますように」というニュアンスの文字が並ぶことが多い。幻となった「令徳」 「嘉永」は、「嘉(よろこ)ばしく、永遠に」というニュアンスであるし、「安政」も「安定した政治」と解される。「万延」も「万のように永遠に」など、「平和で安定した政治」という意味合いのものばかりである。 ところが、「元治」は違う。「元」も「治」も元号ではよく使われる漢字ではあるが、これを組み合わせると、「元(はじま)りの政治」となり、新政府を宣言するメッセージが現れるのである。 この元号は、実は第2候補であった。本当はもっとメッセージ性の強い元号になるはずだったのだ。それは「令徳」である。この元号の衝撃度は、お分かりだろうか。レ点を付けて読めば、「徳川に命令する」となり、これからは朝廷が幕府よりも上位の世の中となる、ということを露骨に世間に宣言している。 江戸時代、改元手続きの主導は事実上幕府にあったが、この元号を主導したのは朝廷であった。1862年勅使関東下向によって文久の幕政改革が進み、その後1863年、将軍・諸大名が上洛(じょうらく)した。 幕府は安政の大獄の失政を謝罪した上で孝明天皇に忠誠を誓い、天皇・公家に対する武家側の儀礼が朝廷を上位として改善された。改元に関しても、幕府側の露骨な介入がはばかられたのだ。 1864年、甲子革令に基づく改元を行うとき、朝廷では「令徳」と「元治」が候補に挙がり、「令徳」が第1候補だとして、関白から幕府に内談があった。二条城二の丸御殿で再現された大政奉還のようす=2017年10月、京都市中京区(寺口純平撮影) 老中らは、「徳川に命令する」意味に解されるとして難色を示したが、老中からの申し立てはできかねる、と松平慶永に関白らへのあっせんを求め、第2候補の「元治」に決定したのであった。江戸幕府が相当苦慮していたことがうかがえよう。江戸幕府にしてみれば、「元治」もメッセージ性を含んではいるが、「令徳」だけは避けたかったのである。 こうして元号の歴史を考察してみると、「文久」と「元治」の間に、大きな政治的な変化があったことが分かる。1863年に将軍諸大名が上洛して以降、武士の間では「皇国帝都」という言葉が流行していた。つまり、日本は天皇を頂く国であり、帝のいるところが首都であるという考え方が広まっていたのである。 近代天皇制国家の出発は、必ずしも明治維新ではないのではないか。元号の歴史は、そのことを暗示している。■こうして元号は「時代を映す鏡」になった■67年前、日本は「元号」を奪われる最大の危機にあった■新元号をめぐる「タブーなき議論」こそ平成と昭和の差である

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    天皇大権を蔑ろにする「元号の事前公表」黒幕は誰か

    倉山満(憲政史家) 安倍晋三首相は今年4月1日に新元号を公表する意向を明らかにしたが、元号を御世代わりの前に公表したい勢力があるようだ。その勢力の筆頭として、報道されるたびに名前が挙がるのが杉田和博官房事務副長官だ。 官房事務副長官とは、各官庁の調整を行う職だ。杉田副長官は警察庁出身で、内閣人事局長も兼ねる。霞が関に睨(にら)みを利かせ、「安倍一強」「官邸主導」の立役者として政官界では知られる。 だが、あえて言おう。杉田副長官とて、黒幕の走狗(そうく)にすぎない。黒幕を叩かずして、走狗を攻撃しても意味がない。 その黒幕が誰かはさておき、そもそも元号の事前公表とは、どういう問題なのか。明治維新に際して一世一元の制が定められ、皇室典範で成文法化された(旧典範第12条)。だが、敗戦の際に旧典範は廃止され、その後は慣習法が元号の法的根拠となった。 やがて学界と言論界を中心に元号廃止運動が盛り上がり、対抗する形で保守陣営が元号法制化運動を進め、法制化された。成文法でも根拠を持った形になる。現行の元号法は2条しかない、短い法律だ。【元号法】第一条 元号は、政令で定める。第二条 元号は、皇位の継承があつた場合に限り改める。【附 則】 第一項 この法律は、公布の日から施行する。第二項 昭和の元号は、本則第一項の規定に基づき定められたものとする。 最初の元号である「大化」以来、元号が事前に公表された先例はない。皇室を論じる場合に最も大事なのは、先例である。皇室において、新儀は不吉である。新儀はやむ得ない場合に行うものであり、自ら行うものではない。 そうした日本国憲法どころか帝国憲法よりも以前から存在する皇室の慣習法を知らずとも、現行元号法のどこをどう読めば、元号を事前公表できるのか。 昭和から平成への御世代わりを思い出してみよ。1年間、昭和天皇のご病状は悪く、政府は「その日」に備えて新たな元号を用意していた。しかし、昭和64年1月7日の崩御まで公表は差し控えられた。同日、当時の小渕恵三官房長官が「平成」の元号を公表したのを昨日のごとく思い出す方も多いだろう。システム上の問題など、特になかった。 当時の竹下登内閣は、日本人としての道理を知っていた。竹下登と言えば中国に日本を売り飛ばした極悪人であり、闇将軍として次々と傀儡(かいらい)の総理大臣を挿げ替え平成の最初の10年を汚してくれた大悪党である。その竹下ですら、元号の事前公表などという暴挙は行わなかった。その暴挙を、保守を自任する安倍内閣が行おうとしている。 一世一元の制においては、元号は新帝の贈り名となる。だから、新帝の名で公表されるのだ。現行憲法では使われない用語だが、改元は天皇の大権なのである。一世一元の制において新帝践祚(せんそ)に際してのみ元号が公表されることにより、現行憲法改元大権は健在なのである。元号法第2条こそ、改元大権の規定なのだ。全国障害者スポーツ大会の開会式に出席された皇太子さま=2018年10月、福井市 どうしても事前公表したいのなら、元号法を改めるなり、一世一元の制をやめるなりすればよい。正当な手続きである、新規立法により行うべきだ。 わが国の国体とは、皇室と国民の絆である。その国民による選挙で選ばれた国会議員が法律を変えたいと言い出した時、止める方法はない。仮に元号の事前公表のために元号法を変えるなら、一世一元の制を廃することとなる。蔑ろにされた天皇大権 一世一元の制など150年の伝統しかないのだから、それ以前の先例に従い、天皇崩御に際して贈り名を熟議すればよい。結果として新帝の贈り名が先帝の御世に公表された元号であっても、この方法なら天皇の改元大権を傷つけない。今回で言えば、平成の間に元号を公表し、その元号が新帝の贈り名となっても、たまたま新帝が改元をしなかったというだけの話になるので。 今上陛下の御譲位が決まってから、1年もあった。新規立法の時間など、十二分にあった。政府が新元号を早めに公表したいのなら、国会に元号法の改正案を提出すればよかったのだ。ところが、何を今さら?安倍内閣は解釈により「事前公表は可能」との立場を採る。 なぜ、国会による立法ではなく、政府による解釈で乗り切ろうとするのか。これは安倍内閣の不手際のように見えるが、違う。陰謀である。改元大権を干犯しようとする黒幕の。 この場合の政府とは、安倍晋三でも杉田和博でもない。法律の解釈権を握る者だ。ここまで書けば、賢明なる読者諸氏には黒幕が誰か明らかだろう。  内閣法制局長官、横畠裕介である。  内閣法制局とは、憲法を頂点とする日本国の法令のすべてに対する解釈権を持つ。政府が国会に提出する法律は、法制局の審査(つまり許可)がなければ、閣議決定されない。今の日本国に、法制局の見解に逆らえる政治家と官僚は、一人もいない。その法制局は「天皇ロボット説」に固執し続けている。今上陛下の譲位に際しても徹底的に抗い続け、「天皇の意思による譲位はさせない」との立場を貫いた。衆院憲法審査会の参考人発言に対する政府見解について説明に臨む横畠裕介内閣法制局長官(手前)=2015年6月、国会内(酒巻俊介撮影) 今回、法解釈による元号の事前変更を安倍内閣にさせようとしている。安倍内閣の意思だけで、そんな大それたことができるわけがない。法制局の見解がお墨付きを与えていないはずがない。もしかしたら、安倍内閣の閣僚は、誰も事の重大性を分かっていないのではないか。改元大権を干犯しようとしていること、大化以来の先例を蹂躙(じゅうりん)しようとしていることの重大性を。 立法ではなく法解釈により改元前に事前公表すると、天皇の元号ではなく、政府の元号となる。新たな元号の下で、皇室も、政治家も、政治家を選んだ国民も、法制局の権威の下で生きていくということだ。 安倍内閣に申し上げたい。今からでも遅くはない。元号の事前公表など、はっきりやらないと宣言すべきだ。 確かに元号は常に時の権力者に左右されてきた。その意味で、改元大権は最も蔑(ないがし)ろにされた天皇大権の一つである。それでも、皇室は今まで生き残ってきた。だから、今回も改元大権が蔑ろにされたところで、天皇にも皇室にも傷はつかない。 しかし、これだけは言っておく。蔑ろにした者は、逆賊だ。(文中一部敬称略)■67年前、日本は「元号」を奪われる最大の危機にあった■日本人に覚悟を問う「皇室は民主主義のロボットではない」■皇室の未来と「象徴」の地位を縛りかねない陛下のお言葉

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    信長でも苦慮した改元「元亀から天正」暗闘の歴史

    小和田哲男(静岡大名誉教授) 改元は、古代から基本的に天皇の権限に属していた。ところが、鎌倉時代の後半から幕府が干渉するようになり、室町時代にはさらに幕府のトップである将軍の力が強くなった。そのため、江戸時代も年号は将軍が内定し、天皇がそれを認可する形をとっていたのである。 将軍の力が強いときは、それで問題はなかったが、将軍の力が弱体化したときは問題が生じている。ここでは、室町時代末期、戦国時代に発生した改元にまつわるトラブルについて見ておきたい。 足利15代将軍となった足利義昭は、周知のように、織田信長に擁立され、将軍の位に就くことができた。13代将軍だった足利義輝が松永久秀らによって殺された後、弟だった義昭が各地を流浪した末、信長の援助によって上洛(じょうらく)を果たし、永禄(えいろく)11(1568)年10月18日、征夷大将軍に任命されている。 はじめのうち、義昭も自分を将軍にしてくれた信長に感謝の念を抱いていたが、やがて翌12年正月16日、信長が「室町幕府殿中御掟(でんちゅうおんおきて)」を制定した辺りから、信長と義昭の不和が表面化し始めている。義昭が信長の傀儡(かいらい)将軍となりつつあることに不満を持ち始めたからである。 そして信長は、さらに翌元亀元(1570)年正月23日、五カ条の「条々」を義昭に認めさせ、将軍義昭の行動に縛りを掛けている。例えば、その第一条では、諸国へ御内書を遣わすときには、信長の書状を添えることが決められている。 しかし、注目されるのは、信長によって将軍義昭の行動に縛りが掛けられたにもかかわらず、改元の権限は義昭が握っていた点である。具体例を挙げておこう。元亀3(1572)年3月29日、改元について、幕府と信長に勅命があった。ところが、このとき、義昭が改元の費用を出さなかったため、改元は実行されなかったのである。 このことについて、信長は同年9月、義昭を批判して「異見十七カ条」を義昭につきつけているが、そこには、元亀の年号不吉に候間(そうろうあいだ)、改元然(しか)るべきの由、天下の沙汰に付いて申上候。禁中にも御催の由候処 に、聊(いささか)の雑用仰付けられず、今に遅々候。是は天下の御為に候処、御油断然るべからず存候事(『信長公記』)。織田一族発祥の地に立つ織田信長像=福井県越前町織田   と記されている。これだけでは、信長がなぜ元亀という年号を不吉だと考えたのか分からないが、信長は永禄から元亀への改元に反対の意向を持っていたことが分かる。 おそらく、そうした意向を朝廷にも伝え、朝廷から正親町天皇の勅令という形で幕府に改元を促したものと思われる。増幅した不協和音 ところが、このときは義昭が改元にかかわる費用を出し渋ったため、改元はされず、そのまま元亀の年号が使われているのである。信長が費用を出せば改元できたのではないかと考えたくなるが、当時はそうもいかなかったらしい。 信長がなぜ元亀の年号を不吉と判断したのか、義昭がそれにもかかわらず元亀の年号に固執したのかは分からない。だが、少なくともこのことによって、改元の権限が実力者信長ではなく、傀儡である将軍義昭の手に握られていたことが伺われる。 こうしたこともあり、当然のことながら、信長と義昭の2人の間に不協和音が増幅されることになり、ついに決定的な時を迎える。 義昭は信長の傀儡将軍であることを潔しとせず、ついに密かに武田信玄や朝倉義景、浅井長政らと手を結び、「反信長包囲網」を築き上げた。元亀3(1572)年10月には、信玄が甲斐から駿河・遠江に出陣し、12月22日の遠江三方原の戦いで信長の同盟者、徳川家康を破っている。 この信玄の破竹の進軍ぶりに義昭は強気になり、とうとう翌年3月、信長と戦うことになった。しかし、その頼みの信玄が4月12日、病気で急逝してしまい、義昭は宇治の槇島城に籠城したものの、7月18日、信長に降伏しているのである。 義昭は追放される形で、この後毛利輝元に保護され、備後の鞆(とも)に居住することとなる。征夷大将軍の職を解任されたわけではないが、この槇島城退去の日をもって室町幕府は滅亡という形となる。宇治川右岸から槇島城があった京都府宇治市槇島町方向を望む。槇島城があった場所は特定されていない=2007年8月(撮影・加藤孝規) そこからの信長の動きは素早い。それだけ、永禄から元亀へ改元されたときのことを根に持っていたことを物語る。 実は、永禄から元亀へ改元されるとき、元亀と天正の二つが候補に挙がり、義昭が元亀を推し、信長が天正を推した。結局、将軍義昭の推す元亀に決まるといういきさつがあり、信長はずっとそのことに不満を持っていたのである。信長としては、義昭を追放したことで、ようやく改元の権限を握ることができたわけである。 元亀から天正への改元は、義昭追放後わずか10日で、7月28日のことであった。天正という元号は、その意味で信長がかかわった唯一の元号ということになる。■ 信長に感謝した正親町天皇が「暗殺の黒幕」など有り得ない■ 神仏を恐れぬ織田信長の「悪魔信仰」を示唆する2つの記述■ 信長が戦った最大の敵は、戦国時代の「デフレ経済」だった!

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    安土城の謎をオカルトで解く

    1575年、長篠に続き越前の一向一揆も天運を味方につけて殲滅した信長。織田家における信長の神格化が一層進む中、次なるプロジェクトは岐阜に替わる本拠地、安土城と京屋敷の同時普請だった。空前絶後の幻の城の建造にも、やはり信長のオカルト信仰とは無縁ではなかったようである。

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    またも龍パワー? 安土城と京屋敷、信長が同時普請にこだわったワケ

    橋場日月(歴史研究家、歴史作家) 天正3(1575)年8月12日、織田信長は岐阜城を発して越前国に向かった。朝倉義景滅亡後、いったんは織田家の支配下にあった越前は一向一揆によって奪われており、それを再び自分の手に取り戻すための作戦が発動されたのだ。 15日、大良越(だいらごえ、現在の福井県南条郡河野あたり。敦賀湾に近く、海沿いで越前北部に通じる口)から越前府中(現在の福井県越前市のうち)へ柴田勝家以下、羽柴秀吉・明智光秀ら先鋒(せんぽう)3万人が殺到した。 「以外(もってのほか)風雨候」と『信長公記』は記しており、信長が大風雨を冒して進撃命令を下したことが分かる。風が吹き付けようが、バケツをひっくり返したような雨が降ろうが、お構いなし。いかにも信長らしい激烈ぶりではないか。 いや、激烈というのは少し違うかもしれない。陸路を征(い)く柴田勝家たちはまだマシだった。同じ日、信長は水軍にも出動を命じていたのである。「海上を働く人数、(中略)数百艘(そう)催し」(同書) 数百艘の軍船が、越前府中の沿岸に兵をあげて、焼き討ちを行った。 陸の兵たちはまだしも、水軍にとって大風雨は命の危険さえあるハイリスクな天候条件だ。その中でも出動を命じた信長は、かつて村木砦の戦いで自ら「以外(もってのほか)大風」と記された強風をついて伊勢湾を強行渡海したように、部下たちにも命がけの働きを要求したのだ。 村木砦の戦いでの信長の兵数は1000人程度と考えられるが、今回は数百艘の軍船でおそらく1万人程度。10倍の兵数である。それだけに事故が起こる確率も高い。長篠の戦いで天候を味方につけた信長は、気象は常に自分の味方であり、大風雨も自分の軍に仇を成すことはない、と楽観視していたのだろうか。新清洲駅前に並ぶ織田信長像=愛知県名古屋市(中田真弥撮影) ここで気になるのが、大風雨の中で出動した織田水軍の兵たちが、越前府中の沿岸に上陸すると焼き討ちを行った、という事実である。「所々(ところどころ)に烟(けむり)を挙(あ)げられ候」(同書)とあるから、焼き討ちは行われただけではなく実際に成功し、各所で炎と煙が上がっている。ということは、この時点では大風雨、少なくとも雨はすでに止み、焼き討ちが可能な天候に変わっていたはずだ。 大風雨の中、水軍を無事目的地に到達させ、折よく雨もあがって焼き討ちも成果を上げる。こんな都合の良い話があるだろうか。だが、本当なのだから仕方がない。あるいは、ここでもまた「六芒星(ろくぼうせい)メンズ」が信長に「この大風雨は間もなく収まります」とアドバイスしたかもしれない。 気象データを読み尽くし、天候を操る大蛇・龍の妖しいパワーにますますのめり込んでいく信長の姿が浮かび上がってくるようだ。秀吉がパクった決めセリフ 翌16日、敦賀に本陣を置き先鋒の働きを見守っていた信長も、府中に進む。各地の一揆の拠点となっていた城はしらみつぶしに攻め落とされ、2000人以上が斬り殺され、生け捕りにされた3、4万人のうち1万2250人余りが処刑された。「数多首をきり、気を散じ候(多くの者の首を切り、心の憂さを晴らした)」「府中の町は、死がい計にて一円あき所なく候(府中の町は死骸で埋まり、全域すき間もない)」「山々谷々残る所なく捜し出し(山々谷々まで分け入って残らず一揆勢を捜し出し)」「くひ(中略)一向数を知らず候(切った首はまったく数え切れない)」「くれぐれ此国には敵一人もなく候(念には念を入れ、この越前国にはもはや敵は一人も残っていない」 信長自身が記した書状の行間には、長島に続いて越前と、長年悩まされ、黄金のドクロに討滅を誓った一向一揆を壊滅させた満足感、さらに一人も逃さず殲滅(せんめつ)するという意気込みがあふれている。 スーパーナチュラル(神懸かり的な)信長のパワーに影響されたか、加賀国まで進んだ羽柴秀吉も一揆勢が出撃してくると「天ノ与フル所」と叫んで迎え撃ち、大勝利を収めている。長篠の戦いでも使われた信長の決めセリフを拝借してあやかろうというわけだ。ここに来て、織田家は完全に「信長教」の集団となっていた。 9月に入り、越前国内の8郡49万石を柴田勝家に、府中10万石を前田利家・佐々成政・不破光治の三人衆に、それぞれ与える。 勝家に下した「掟 条々」にいわく。「とにもかくにも自分を崇敬して、影後ろでも反抗心など持つな。自分の方へは足も向けぬ気持ちが大切だ」 常に自分を尊敬して崇め奉り、信長の目の届かないところに居ても忠誠心を保って寝るときも足を向けないようにせよ。日本の神々というよりも、キリスト教の唯一絶対神のような信仰を自分に向けるように家臣に訓示する信長。彼は次の大蛇・龍パワーのプロジェクトを胸に岐阜へと凱旋(がいせん)していったのだった。 そして明くる天正4(1576)年、新年の行事も一段落した1月中旬にそのプロジェクトは動き始める。近江国(現在の滋賀県)の蒲生郡安土山に、信長の新しい本拠地とするべく安土城の建造工事が開始されたのだ。重臣の丹羽長秀が普請(ふしん)奉行を命じられ、工事は織田家の全力を投入して進み、2月23日には早くも山麓の家臣団屋敷群が完成。信長も岐阜城から仮御殿に移転した。城郭資料館に20分の1のスケールで再現された安土城=2010年1月、滋賀県(北村博子撮影) 4月1日には本丸石垣の普請も開始されている。そして、おそらく同じ月、京においては二条屋敷の築造も始められている。この二条屋敷は、後に正親町天皇の第一皇子である誠仁(さねひと)親王に献上され、「二条新御所」と呼ばれるのだが、実はこれ以前、信長は京に屋敷を持っていた。 「え? 信長って京に本拠地がなくて本能寺や妙覚寺に泊まっていたのでは?」と思われる向きもあるかもしれないが、正確には、この京屋敷は完成していない。まだ建設途中だった元亀4(1573)年3月7日、将軍・足利義昭によって取り壊されてしまった。信長を狙った呪詛 その場所は、上京武者小路。現在の上京区武者小路町あたりで、前年に義昭が公家の権大納言・徳大寺公維(とくだいじきんふさ)の屋敷地だったものを収公し、信長に与えたものだった。 信長はこの土地に築地(瓦屋根付きの土塀)をめぐらし、門までは造ったのだが、そこで義昭と決裂したために破棄され、ついに日の目を見ることはなかった。 この武者小路屋敷について考えてみたい。 場所は前述の通り、現在の烏丸今出川の交差点のすぐ南西。御所からは戌亥=北西方向きだ。この方位は「天門(てんもん)」と呼ばれ、鬼門同様に怨霊や魔物が出入りする方角と考えられている。信長との関係が悪化していた義昭は、親切ごかしにこの土地を与えて災いが信長に降りかかるよう仕組んだのだろう。 この呪詛(じゅそ)のおかげか、この元亀3(1572)年12月には甲斐の武田信玄が遠江国(現在の静岡県西部)へ兵を動かし、徳川家康と信長からの援軍(佐久間信盛ほか)との連合軍を三方原で完膚なきまでにたたき潰している。だが、その後の事態は義昭が思うようには進まない。越前国(現在の福井県北部)の朝倉義景は近江から兵を退(ひ)き、信玄は発病によって進撃を停止してしまったのだ。 こうなると、義昭にとって武者小路屋敷の地を信長に与えたことはもろ刃の剣と化す。戌亥=天門は災いを招く方角であると同時に、それを乗り越える、つまり鎮めることができれば末代まで家運が隆盛する上々大吉に転じる方角でもあるのだ。「いかん、このままでは信長の運気がますます上昇してしまうではないか」 慌てた義昭がとった対応が、翌年3月7日の工事現場の破壊だった。 しかし、工事現場を取り壊してはみたものの、信玄は病死し、義昭は京を追われてしまう。そして、安土築城と並行し信長は改めて京に新屋敷を築き始めたのである。その場所がまた武者小路だったかというと、そうではない。信長は破棄された武者小路の屋敷地を放置し、今度は二条の関白・二条晴良の屋敷(現在の烏丸御池交差点南西)を接収して新たな屋敷地とした。 二条屋敷は「龍躍池」という名物の小池があり「小池の御所」と呼ばれたが、戦火に焼かれ晴良はその一隅にささやかな仮屋を建てて住んでいた。信長はその晴良に報恩寺(御所の東北、一条)を屋敷として提供し、明智光秀にその建築工事を奉行させ、二条を京における織田家の本拠地として整備したのだ。現二条城に復元された二条御所(信長二条新屋敷)の石垣=筆者提供 ここで地図を眺めてみると、面白いことに気付く。内裏から見て義昭の二条城の延長線上に信長の二条新屋敷の地があり、その隣には西福寺がある。西福寺は浄土宗の寺院で、この場合内裏の裏鬼門である未申(ひつじさる=坤)を鎮める位置取りだ。後の江戸城に対する、浄土宗の芝増上寺のような関係と考えればよいだろう。 義昭の二条城もその内側にあって御所の裏鬼門を固めていたのだが、その建造を進めたのは信長だった。その信長が、義昭追放後の内裏の裏鬼門に、二条新屋敷を築く。当然、それは「これからは義昭に代わって自分が天皇を守る」という宣言に他ならない。 ただ、彼の言う「守る」の意味が、奉仕者としてのものなのか、保護者としてのものなのか、という重大な問題が残る。それについては、姿を現しつつある安土城によって答えを見いだすことができるだろう。■ 天皇家への挑戦状、井沢元彦が読み解く天才信長の「自己神格化計画」■ 寺社ファシズムと戦った信長、日本経済に必要な「自由化」の荒療治■ 「優れた経済人」織田信長だったらデフレ脱却にどう挑むか

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    百田尚樹『日本国紀』をコンナヒトタチに批判されたくない

    久野潤(大阪観光大学講師) 近年、改めて歴史ブームと言うべき現象が起きているのかもしれない。歴史好きの女性「歴女」や歴史アイドル「歴ドル」の存在をはじめ、歴史に詳しいことが一つのステータスとなるような時代となっている。呉座勇一著『応仁の乱』(中公新書)のような一見カタそうな書籍がベストセラーになるのも、そうした風潮と無縁ではなかろう。 一方、近隣諸国とのいわゆる歴史認識問題についても、かつてのように一部で激しく議論されつつも結局相手国やその主張に同調する勢力に押し切られるというようなことはなくなり、かつてないほどに日本人が自国の歴史に目覚め、主張できる時代となってきている。 筆者が小学生であった平成の初め頃には想像もつかないであろうこの状況を鑑みれば、平成という御代は、後世から見て戦後日本が自らの国史を取り戻す重要なステップとなった時代だと評価されるかもしれない。 その平成最後の年(改元前の最後の年)となった昨年、百田尚樹著『日本国紀』(幻冬舎)がベストセラーとなり、筆者もかかわらせて頂くことになったのは何かの御縁であろう。『日本国紀』の監修依頼を受けたのは、昨年9月半ばのことである。その2日後に幻冬舎より500ページ超のゲラを受け取り、その重厚さに改めて驚くことになる。 著者の百田尚樹氏には拙著『帝国海軍の航跡』(青林堂)に帯文を頂いたことがあり、編集の有本香氏とは何度かお目にかかったことがあったが、仕事で御一緒させていただいたことはなかった。それを今回、大御所ではなくこのような若手の歴史学者に機会をくださったことには本当に感謝している。 ゲラを受け取った筆者は、本能的にワクワクした。念のために言うと、「売れそうな本だから乗っかっとこう」などといったものではない。日本を代表する作家である百田氏には百田氏なりの重厚な歴史観があり、それに沿った著作となろう。ただそこで、いわゆる大御所の学者が形だけの「監修」として名を貸すようなものではなく、発売前の大著に目を通したうえで意見を具申し、完成までの議論に参画できる(そうすることを求められている)という期待があった。 そして、2週間かけてゲラをチェックしていった。筆者の専門は昭和戦前期の政治外交だが、他の時代も合わせて、ほぼ全ページに赤(実際のペンの色は、他の編集工程をはばかって青であったが)を入れさせていただいた。幻冬舎側のチェックも、相当細かいところまで行われていたことを付記しておく。※画像は本文と関係ありません(GettyImages) 自分の研究室での作業だけでなく、移動中も膨大なゲラを持ち歩いてチェックしたものである。そしてその後のやり取りも経て、校了となった。筆者は、奥付などの書誌情報上は「監修」としてクレジットされていない。ただ、自分のかかわり方として「監修」たることを、校了後の編集側とのやり取りや、本書末尾〈謝辞〉での記載も含め、改めて確認した。それで『日本国紀』について発信する際、折に触れて「監修」と称しているわけである。 フェイスブックでは10月28日、ツイッターではその翌日、自分が監修させていただいた『日本国紀』が翌月12日の発売前からネット通販大手のアマゾンにおいて2週間連続でベストセラー1位であることを書いた。フェイスブックでは「いいね!」が500以上つき、多数のコメントと共にシェアも100を超えた。また、かなり久々にメッセージをくれる方もいた(笑)。ツイッター上の罵詈雑言 ところがネット上で使う名前(ハンドルネーム)が常用されるツイッターでは、フェイスブック同様の「買います」「楽しみです」といったコメント以外に、特定アカウントからネガティブなコメントが寄せられるようになった。 筆者は自分の著書や自分のかかわった書籍を機会あるごとにゆかりの神社へ奉納することにしているのだが、ある神社に『日本国紀』を奉納した記事に対しては「バチ当たるぞ」「トンデモ本奉納されて神様も困るだろ」「今時がどんど焼きの時期なのでしょうか」「穢れるやんけ」などというコメントが立て続けに書き込まれた。 文筆家の古谷経衡氏が言う「道徳自警団」の中でも質が悪い層であろうか。さらには坊主憎けりゃ袈裟(けさ)まで憎いとばかりに、「既に目が逝ってるね、こいつ」「大阪観光大学ってナニ?」などと、批判勢力の品性を疑わせるものもあった。 そうしたツイッターアカウントの中で、『日本国紀』の皇室についての記述などについて「あなたも同じ主張か」とばかりに詰め寄ってくる方もいた。そこで筆者は、フェイスブックで次のように公開投稿を行った。『日本国紀』へのインターネット上の一部匿名者による批判(とさえ言えぬような罵詈雑言)について御心配の声を頂きますので、念のために書きます。当然ですが当方は一切、「監修」にあたって後ろめたいことなどありません。私は500ページ超のゲラ全ページに目を通し、2週間かけてほぼ全ページにわたって歴史的な事実関係確認をはじめ意見具申をしました。もちろん容れられたところもそうでないところもあり、監修者や協力者はそれを甘受するものです。そのうえで、百田先生の著作として『日本国紀』を多くの方に読んでいただきたいと思っています。書籍の内容についての諸々の御指摘によって建設的な歴史論議が深まることは、著者にとっても望むところではないでしょうか。 ところが残念なことに、本名も名乗らず氏素性も告げず、揚げ足とる気満々の文脈で「質問に答えろ」とか言ってくるツイッターユーザーがいたりするわけです。いちおう日々の仕事や原稿そして(有益な)情報収集に勤しんでいる研究者をつかまえて、コンナヒトタチに(←安倍首相調)時間をかけて対応せよと言うつもりでしょうか。万一「返信がないということは・・・」などと連鎖的に妄想してる方々がいるとすれば、歴史談議の前にまず頭を現実社会に戻していただければと思います。 仮に所属・姓名を明示したうえで問い合わせがあれば、私個人の歴史観や史実認識についてお答えすることもあるでしょう。でも悪意あるコンナヒトタチが答えさせようとしているのは、明らかにそういうのではありませんよね? 中には自分のオピニオンサイトらしきものを展開しているユーザーもいるのだが、少なくとも同様の絡み方をしてくる際に本名を名乗る人はそれ以降も現れていない。もちろん仮に匿名でなくとも、『日本国紀』の「間違い」を指摘しながら「あなたは本当にチェックしたんですか?」などと下衆の勘繰りを展開する手合いには付き合えるはずもないが。 さて一方、『日本国紀』の内容についての実名による批判も出ている。ただ、同書の批判を含むものとしては最初に書籍化されたものと思(おぼ)しき『「アベ友」トンデモ列伝』(宝島社)も、「アベ友」作家だと決めつける基本コンセプトのもと、「百田尚樹『日本国紀』パクリ大検証!」と銘打っていながら、その検証素材は上記ツイッターユーザーのオピニオンサイトらしきものという点で問題にもならない。秦郁彦氏の批判 なお『日本国紀』の「パクリ」事案については、例えば、決して思想的に百田氏と近い母体ではなかろう「弁護士ドットコム」の11月27日付記事でも「出所の明示だけでなく、それぞれの部分について、明瞭区別性や主従関係などの要件に合致するのか、引用先(『日本国紀』)の歴史書としての特性や引用元の特性なども考慮にいれる必要がある」「偶然類似してしまった可能性もあるので、『依拠』の要件を満たしているのかという議論もある」と述べられている。つまり、最初から批判ありきで類似性をあげつらうだけでは話にならないのである。 もし議論に付き合う価値があるとすれば、実名による論点明瞭な批判である。12月26日付毎日新聞「売り上げ好調百田氏「日本国紀」に「コピペ」騒動 専門家の評価は?」では、秦郁彦氏(現代史家)と辻田真佐憲氏(近現代史研究者)のコメントが寄せられている。 辻田氏は現状での『日本国紀』批判が「このままでは単なるネット上の"百田たたき祭り"で終わってしまい、結果的には社会の分断を広げるだけで終わってしまう」といった作法(?)についてのものだが、秦氏は『日本国紀』の連合国軍総司令部(GHQ)やウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)に関する記述を「陰謀史観的だ」と批判し、「WGIPに言及した部分は元々、(文芸評論家の)江藤淳が提唱したものです。そこから取ったのでしょうが、これまで広がらなかったのは、その論に説得力がなかったから。WGIPがそこまで大それたものだったかという点で疑問があります」としている。 いわゆる慰安婦問題についての秦氏の研究には、戦前日本が軍、政府命令で強制連行したわけではないことを明らかにした点で大いに敬意を表したい。しかし秦氏の研究をもってしても、いまだ「日本は慰安婦に無理やり悪いことをしたんじゃないか」と思っている日本人も大勢いる。 これも、まさに江藤淳著『閉された言語空間』(文藝春秋)で指摘されたような自虐史観を自己増殖させるメカニズムによるものではないのか。戦争に負けたことを知っていてもWGIPの存在自体を知らない日本人がまだまだ圧倒的に多い現在、こうした議論自体が『日本国紀』によって知らしめられることを、日本人は歓迎できないのであろうか。呉座勇一さん=2018年3月14日、京都市西京区(寺口純平撮影)  朝日新聞では12月4日より毎週火曜に、冒頭で挙げた『応仁の乱』の著者でもある呉座勇一氏による「呉座勇一の歴史家雑記」で『日本国紀』批評が展開されている。その初回では「さぞかし過激な内容だろうと予想していた私は正直、拍子抜けした」とあるが、はて一体どのような内容を「予想」したのであろうか。監修者の意見が通った部分 百田氏は12月18日発売の『FLASH』でも述べている通り、「日本人が自分の国や祖先に誇りを持てる歴史書」を書こうとしたのであって、別に過激な(特異な?)歴史観で衆目を集めようとしているわけではない。12月11日付でも呉座氏は「私の見る限り、古代・中世史に関しては作家の井沢元彦氏の著作に多くを負っている」と指摘するが、すでに校正段階で筆者もその件で百田氏に直接尋ねたところである。自らの知見に基づいて部分的に井沢説を採りつつ論を展開するのは、百田氏の著作である以上自由であろう。 「学界の通説と作家の思いつきを同列に並べるのはやめてほしい」とのことだが、戦前日本が他国を一方的に侵略していたかのように断ずるかつての「学界の通説」がいかに実情を無視したものであるか。あるいは呉座氏の主張と違うところが多い、戦前の「学界の通説」についてはどう捉えているのか。 『日本国紀』は百田史観が色濃く出ている一方で、表記や語法のミスなど以外でも、監修者の具申が受け入れられた個所も多い。例えば織田信長については、初稿では「今でいう無神論者に近い」となっていた。これは例えば、メディアでも人気の歴史学者である本郷和人氏の近刊『東大教授がおしえるやばい日本史』(監修)『戦国武将の精神分析』(対談)でも描かれている歴史観なので、少なくとも学者からも袋叩きに遭うことはない。 しかし、筆者は自らの史料調査や寺社取材により、信長が無神論者どころか神仏を篤(あつ)く崇敬し、天皇を支える勤皇の武将であったと相応の根拠をもって確信している。「革命児」「無神論者」「天皇や将軍を蔑(ないがし)ろにした」と評価されるようになったのは戦後のことであり、この点筆者も呉座氏の「日本人の歴史観は歴史学界での議論ではなく有名作家による歴史本によって形成されてきた」(12月18日付朝日新聞)という主張に同意である。 とりあえず伊勢の神宮はじめ、さまざまな神社仏閣を復興したことなどを具体的に指摘したところ、発刊時には修正されていた。要するに、歴史学者諸氏が指摘したいような論点のうち主要なものは、すでに校正段階において監修者との間で議論が行われ、また著者の頭の中でもさまざまに検討されてきたということである。筆者自身、「諸説の存在を分かったうえでお書きとは思いますが…」と前置きしながら種々の指摘を行ったものである。 「百田氏は知らないだろうから教えてあげよう」という類いの論評の多くが、これまでに蓄積された膨大な教養を駆使して歴史を叙述する百田氏への真摯な忠告ではなく、『日本国紀』50万部の読者を利用した自己アピールに見えてしまうのは筆者だけであろうか。講演する百田尚樹氏=2018年3月2日、大阪市中央区の松下IMPホール(永田直也撮影) ともかく『日本国紀』とは、著者―編集者―監修者の間でかなりの議論を経て生み出されたのである。各分野の研究史を踏まえた歴史のプロである監修者の指摘を受け入れず、百田史観を貫いた部分については、読者も百田氏のそれなりのこだわりを感じて読むことになろう。「学界の通説」にかなっているか否かの判断だけでなく、こうした歴史書の著者が掲げた問題意識や仮説に応えられているかを自省できる歴史学界であってほしいと、学界の末席から願う次第である。■ 【百田尚樹独占手記】私を「差別扇動者」とレッテル貼りした人たちへ■ 百田氏の講演中止問題で剥がれ落ちた「護憲リベラル派」の化けの皮■ 百田尚樹に嫌われる私でも、一橋大「講演中止」の判断は残念に思う

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    百田尚樹『日本国紀』を読んで「がっかりした」理由

    を、私は発売当初から読みたいと思ってきた。ただ話題になっているからではない。編集者の一人として、また歴史に関する著作のあるジャーナリストとして、一個人の手になる日本通史の描き方に大いに関心を持っていたからである。 私が青春を過ごした1970年代は、マルクス主義と史的唯物論の影響を受けた「戦後歴史学」が影響力を持っていた時代である。日本通史についても、井上清の『日本の歴史』(上中下巻・岩波新書)などが幅を利かしていた。それは誤解を恐れずに言えば、国家権力に対する民衆の闘いが歴史を変革してきたという立場のものであり、現在の資本主義社会も永遠ではないことを教えようとするものであった。 そのような「歴史観」が全面に出る歴史学のあり方には、内外から批判と反省もあり、歴史の描き方を巡る模索があった。しかし、ソ連の崩壊により、資本主義が社会主義に変わるという史的唯物論の根幹が挑戦を受けたことをきっかけとして、戦後歴史学は衰退していく。 それでも、90年代半ばまでは、網野善彦『日本社会の歴史』(上中下巻・岩波新書)に見られるように、一人が日本通史を描く試みは続いていたのである。この本は「奴隷制社会、封建社会、資本主義社会などの(中略)社会構成の概念だけで、人類社会のきわめて多様なあり方をとらえうるかが、事実そのものの力によって問われている」(下巻「あとがき」)として、史的唯物論をそのまま日本社会に適用する態度に対して、批判する立場を明確にしている。それでも、史的唯物論に代わって、「事実そのものの力」を持って通史を描こうという問題意識が貫かれていた。 しかし、その後の歴史学は、網野の問いかけを受け止め、発展させるようなことがなかったように思う。歴史観や歴史の全体像にも関心を持っていた歴史学者も少なくないであろう。だが、発表された著作を見れば分かるように、自分の専門分野を深く掘り下げる仕事に集中していった。 こうして、歴史は「暗記物」となって、若者の関心も薄れていくことになる。「歴史観」が表れていたのは、明治以降の日本の戦争をどう捉えるかの分野に限られ、侵略と植民地支配の責任に関する歴史観も一定の方向性に保たれていた。 そこに現れたのが、99年に刊行された西尾幹二氏の『国民の歴史』に代表される、戦後初めて登場した右派による通史であった。もともと、ドイツの文学・思想の研究者である西尾氏の著作であったから、日本史学の到達を踏まえたものではなく、学問的には大きな批判を浴びたが、国民の間では一定の支持を集める。歴史学者の網野善彦=1998年11月撮影 歴史学の全体が日本の戦争責任の解明に集まる中で、「日本の歴史は誇っていいものだ」という呼びかけには、それなりに国民の心に響くところがあったのであろう。その後も、学問の世界においては引き続き真面目な成果が出ているが、国民の間ではいわゆる「歴史修正主義」が跋扈(ばっこ)する状況が続いてきた。 そのころから、私は編集者として、ある歴史観を持って日本の通史を描く著作を刊行したいと考え、多数の歴史学者に接近していった。それを通じていくつかの著作が生まれたが、どれも複数の著者によるものだ。 特定の強烈な歴史観で日本通史を描くとなると、やはり一人で挑戦することが不可欠だと考えて働きかけてもいるが、まだ実ってはいない。いっそのこと、学者ではない人に依頼するしかないかとも悩んでいる。違和感を覚えた「万世一系」 百田氏の『日本国紀』は、そういう私の模索の過程で登場したものだ。もちろん、西尾氏から続く右派の通史であり、立場が異なることは承知している。 しかし、歴史の「素人」であっても通史を書こうとするわけだから、歴史学の成果をわが物にしようと努力したであろう。そして、それがどんな影響を百田氏に与えたかについては、同じく学者ではない人による通史の刊行も考えている私には関心がある。また、通史を書こうとするなら不可欠な問題意識というか、国民に何を問いかけようとするのかは、左右の立場の違いを超えて学ぶものがあるのではないかとも感じた。 『日本国紀』を真剣に読んだのは、これらの理由からである。だから、正直に告白しておくと、読み進めてしばらくの間、『日本国紀』にある程度の期待を抱いていた。その結果はどうだっただろうか。 最初に目に付いたのが、本の帯だった。「私たちは何者なのか─。」と大きく書かれていて、『日本国紀』全体を貫くテーマなのだと分かるが、その問題意識は悪くない。「2000年以上にわたる国民の歴史と激動にみちた国家の変遷を『一本の線』でつないだ、壮大なる叙事詩」(帯文)とあって、立場は違っても、日本人というものを「一本の線」で描くという百田氏の意欲が伝わってくる。 そして早速、弥生時代の記述の個所で、「私たちは何者なのか─。」の萌芽(ほうが)が出ている。『魏志』の記述を引用する形で、「私たちの祖先が、他人のものを盗んだり、他人と争ったりしない民族であったということを、心から嬉しく思うのである」と書かれているのだ。 常日頃、百田氏がインターネット上で、立場の違う人に対する激しい批判を見ているだけに、この記述について言葉は悪いが「お前が言うか」と思わざるを得ない。しかし、もしかしたら、百田氏はこの本の執筆を機に「他人と争ったりしない」方向に転換を試みているのかもしれない。また、「他人と争った」日本の近現代史に新たな見方が提示されている可能性もあるので、この時点で突っ込むことはせずに読み進めた。 また、古代の話を読んでいると、歴史学の成果と無縁に書かれているというのでもないことが分かる。ただ、最初に違和感を覚えたのは「万世一系」の問題である。日本の皇室は神武天皇以来、同じ系統で面々と続いてきたという問題だ。 たとえ後に「神武東征」に喩(たと)えられるような事実があったとしても、神武天皇が現実の存在ではなかったことも、現在の天皇家が神武天皇の系列ではないことも、歴史学の世界では常識に属することである。太田茶臼山古墳とも呼ばれる継体天皇陵。後方に見える今城塚古墳が「真の陵」とする説が有力になっている(産経新聞社ヘリから、宮沢宗士郎撮影) 百田氏も、『日本国紀』を執筆するにあたって、歴史学の成果をそれなりに渉猟したのであろうから、そこには気づくことになる。継体天皇のことを記述する際、「歴史を見る際にはそうしたイデオロギーや情緒に囚(とら)われることは避けなければならない」として、次のように述べるのである。 「だが、継体天皇の代で王朝が入れ替わったとするなら、むしろ納得がいく。(中略)現在、多くの学者が継体天皇の時に、皇位簒奪(本来、地位の継承資格がない者が、その地位を簒奪すること)が行われたのではないかと考えている。私も十中八九そうであろうと思う。つまり現皇室は継体天皇から始まった王朝ではないかと想像できるのだ」 これは誰が見ても、日本の皇室は「万世一系」ではないということを意味している。百田氏の言葉を引用すると、現在の天皇家というのは「本来、地位の継承資格がない者が、その地位を簒奪」して誕生したということになる。ところが、百田氏はこの本の最後の最後まで、「日本は神話とともに誕生した国であり、万世一系の天皇を中心に成長した国であった」(「終章 平成」の冒頭部分)と、「万世一系」に固執しているのである。テーゼに縛られて消える真実 百田氏も、ただ無邪気に「万世一系」を唱えているわけではない。継体天皇が神武天皇の系列にないことを前提とした「万世一系」論を構築しているのである。 継体天皇が新しい王朝を打ち立てたと宣言しなかったのは、その当時から「『天皇は万世一系でなければならない』という不文律があったから」だというのだ。つまり、神武天皇に値するような人がいたとして、別の実力者がその系列の王朝を打倒したとしても、「自分はその跡継ぎだ」と宣言するような思想があったから、「万世一系」であることに変わりはないというのが、百田氏の考え方なのである。 そういう思想が当時に存在していたかは、素人の私には分からない。しかし、歴史の現実は「万世一系」ではないことを認めておきながら、なおかつ「万世一系」と言い張るのでは、少なくとも「歴史書の名に値するか」という問題が生じてくることは避けられない。百田氏は、神武天皇の系統は継体天皇で途絶えたこと、現在の天皇家は資格のなかったものが実力で地位を簒奪(さんだつ)したものであることを、堂々と明言すべきではなかろうか。 『日本国紀』では、その後も日本人の素晴らしさについての記述が多い。しかも、百田氏の日本史の捉え方は、世界との対比で日本を際立たせようとするものだ。「世界的にも珍しい」「ヨーロッパや中国では」「世界に類を見ない」「世界を見渡しても」とあるように、「世界は劣っているが、日本は優れている」という論法なのである。 それらの指摘の中には、事実が含まれるのかもしれない。しかし、世界190カ国の歴史を調べたことのない私には分からないし、百田氏が比較の基とした資料などが提示されるわけでもない。歴史をただ光に満ちたものとして描くことは、逆に現実から遊離することにならないだろうか。そういう制約があっては、歴史学の成果を踏まえた論考というより、政治的なテーゼ(命題)が提示されているだけと言われても仕方がない。 テーゼは大事だが、それに縛られると真実が見えなくなってしまう。明治以降の日本の歴史の描き方についても、同様の感想を抱く。日本の優れた点がいろいろと書かれているが、「光だけでなく陰も合わせて見ようよ」と感じてしまう。この時代の戦争体験は、現在の日本と日本人、日本と周辺国の関係を直接にも規定するものだけに、リアルさが求められるのである。 論点はたくさんあるが、一つに限る。百田氏の言う「大東亜戦争」のことである。百田氏は「日本が戦争への道を進まずに済む方法はなかったのか─。私たちが歴史を学ぶ理由は実はここにある」と述べているから、どんなことを学んだのかと思って読んだのだが、残念ながら、どこにもそれらしい記述は見当たらなかった。 満州事変について言えば、「満州は古来、漢民族が実効支配したことは一度もない」と強調され、国際連盟が日本の撤退を求めたことを批判する。それに続く中国との全面戦争は「確固たる目的がないままに行われた戦争」とされている。「気がつけば全面的な戦いになっていた」というのである。 他方、太平洋戦争のきっかけとなった「ハル・ノート」を論じる個所では、満州は当然のごとく中国の一部だと日本政府も考えており(満州事変の時は中国の一部でなかったはずなのに)、だから「日本が(中略)中国から全面撤退する」という要求が飲めなかったと指摘している。戦争に踏み切ったのは「ハル・ノート」を受け入れると、「欧米の植民地にされてしまうという恐怖」が生み出したもの、ということらしい。東京・荻窪にあった近衛文麿の別邸「荻外荘」。現在は一部が公園として整備されている(松本健吾撮影) これでは「日本が戦争への道を進まずに済む方法」への示唆がどこにもない。唯一、それらしい個所があるとすると、それ以前の日清戦争を論じた次の記述であろう。 「清から多額の賠償を得たことで、国民の間に『戦争は金になる』という間違った認識が広がった。その誤解と驕りが『日露戦争』以後の日本を誤った方向へと進ませた」叙述視点が変わった「時代」 「国民の間違った認識」が日本を誤らせたという論理である。そう言われると、太平洋戦争を論じた個所でも「日本はそれでもアメリカとの戦争を何とか回避しようと画策した」と、その「努力」のあれこれを列挙した上で、ここでも「国民の誤り」に言及する。 「日本の新聞各紙は政府の弱腰を激しく非難した。満州事変以来、新聞では戦争を煽る記事や社説、あるいは兵士の勇ましい戦いぶりを報じる記事が紙面を賑わせていた。(中略)『日独伊三国同盟』を積極的に推したのも新聞社だった」 国民や新聞社の戦争責任がないとは言わない。しかし、政府は戦争を回避しようとしたが、国民が煽ったから戦争になったというのでは「日本が戦争への道を進まずに済む方法」は見えてこないのではなかろうか。ただ、今の日本が戦争に突き進むことのないよう、百田氏も含む一部の保守論客や国民への自戒と捉えれば、意味のある指摘かもしれない。 以上、『日本国紀』の問題点をあれこれ指摘してきた。それでも、ここまでは「当代一のストーリーテラー」(帯文)の面目躍如という要素もあったから、それなりに楽しく読み進むことができた。 政治的立場やイデオロギーは違うことは分かっていたし、それでも百田氏がいろいろと努力して学んだ成果もうかがえ、もっと肯定的な論評にするはずだった。しかし、先の大戦後の叙述を読んだ後は「これは歴史書ではない。日本通史はこのように描かれてはならない」と結論づけるに至った。なぜか。 『日本国紀』のそれまでの叙述では、日本人の素晴らしさが強調されてきた。これまで述べてきたように、そこには光だけを取り上げる行き過ぎもあり、他国を貶(おとし)める問題もあるのだが、立場の違いとして見過ごせる要素もあった。 ところが、戦後の話になると、叙述の視点そのものが変わってくる。百田氏は「これほど書くのが辛い章はない」と述べるが、「読むのも辛い」ものとなっていく。作家の百田尚樹氏(志儀駒貴撮影) どう変わるかと言えば、突然日本人が批判の対象とされるのだ。それまで日本の素晴らしさが強調されたのは、現在の日本人のあり方を糾弾するためにあったのだと、ここに来てようやく気づくことになる。百田氏の言葉を引用すると、戦後の日本と日本人というのは、次のようなものであった。 「『敗戦』と、『GHQの政策』と、『WGIP洗脳者』と、『戦後利得者』たちによって、『日本人の精神』は、70年にわたって踏みつぶされ、歪められ、刈り取られ、ほとんど絶滅状態に追い込まれた」 WGIPは「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」の略語ことであり、戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けるため、連合国軍総司令部(GHQ)による洗脳計画とされるものだ。要するに、米国の占領政策によって、戦前の日本の伝統が根こそぎ崩壊したという主張である。その象徴が日本国憲法であり、「日本らしさを感じさせる条文はほぼない」と百田氏は指摘する。そして、失われた伝統、日本の素晴らしさを取り戻すのが現在の課題であるというのが本書の結論であった。 この結論を導くためには、日本人全体がWGIPに犯されていると主張する必要がある。そのため、百田氏は「共産主義的な思想は日本社会のいたるところに深く根を下ろしている」と指摘した。日本人が先の大戦を侵略戦争だとみなし、周辺国に謝罪したのも、その影響からなのだそうだ。政治的主張を散りばめた「作品」 百田氏が、先の大戦を侵略戦争と考えていないのは理解しているつもりだし、そう考える人を糾弾するのも自由である。迷わずにやればいい。けれども、そういう思想を「共産主義」だと位置づけ、それが日本全体を覆っているかのような見方は、事実として成り立たないだろう。 戦後の日本では、共産主義と対峙(たいじ)した自民党政権が長らく続いており、他方で共産党は少数のままであり続けた。その自民党政権が、先の大戦を侵略とみなすことを拒否し続けてきた一事をもってしても、それは明らかである。証明すら不要なことだろう。 つまり、百田氏がそういう結論を導こうとして戦後史を眺めたために、本書ではいろいろな場面で矛盾に直面する。いくつか例を挙げよう。 独立後すぐに戦犯を赦免するための署名運動が起こり、4千万人が署名したのだが、これはWGIPによる洗脳説では説明できない。すると、百田氏は「洗脳の効果が現れるのは、実はこの後なのだった」と、論理の破綻を糊塗(こと)しようとする。 60年安保闘争を批判し、それに参加した人が少数であったことを強調するため、直後の総選挙で自民党が圧勝したことを指摘するのだが、それは選挙時の有権者が全て素晴らしい伝統を持っていた戦前生まれだったからだというのだ。では、素晴らしい日本の伝統を受け継がない戦後生まれ(共産主義に洗脳もされている)が多数になっても、自民党が選挙で勝ち続けている事実を一体どのように説明するのか。60年安保闘争(全学連)で、警視庁前から国会に向かう学生や労働組合員のデモ隊=1960年6月 要するに、『日本国紀』というのは、歴史を叙述した著書ではないということだ。歴史に名を借りて、百田氏の政治的な主張を散りばめた作品なのである。 冒頭から書いているように、歴史を描くのに政治的・イデオロギー的な中立性は必ずしも必要ではない、というのが私の考えである。しかし、そうであっても、自分の政治的・イデオロギー的な立場が矛盾する事実に直面したとき、それを隠さないで、あるいは歪めないで、どう対応するかが学問に求められる最小限の節度ではないだろうか。 ある場合は、さらなる探求の結果、元の立場に矛盾しない説明方法が見つかるかもしれない。別の場合、自分の立場を修正する必要性が生まれてくるかもしれない。それが学問というものである。『日本国紀』はその節度から外れているというだけでなく、最後の結論部分に至っては、政治的主張のために学問を歪めるものである。 もし私であれば、誰かに日本通史の執筆を依頼する時は、この節度を何よりも求めるだろう。『日本国紀』は、その重要性を私に自覚させてくれた点で、それなりの存在意義を持っていると付記しておく。(一部敬称略)■ 安保闘争 過剰な「連帯感」は民主主義なのか■ ポスト60年安保と革新幻想■ ピンク大前へ! 学生運動も学歴社会

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    日本人はなぜ自国の歴史を教わらないのか

    士)呉善花(拓殖大学教授)ケント 日本人が他国によるプロパガンダに弱い原因は、学校教育のなかで自国の歴史や文化をきちんと教えていないことが大きい。自虐史観を植え付け、自尊心を奪うような教育ばかりを日本ではしていますからね。 こうした現状をなんとかしたいと思った私は、日本人に日本とは何かを改めて知ってもらう必要があると考え、『ついに「愛国心」のタブーから解き放たれる日本人』(PHP新書)を書きました。 じつは本書では「愛国心」ではなく、「母国愛」という言葉を使いたかったんです。というのも、日本では「愛国心」というと、その言葉だけで右寄りというか、ネガティブな印象があるからです。ただ、「母国愛」という言葉はそこまで一般的ではないので、「愛国心」としました。 どちらの言葉を使うにせよ、国を愛するのは、母を愛するのと同じように普遍的な行為だと、この本で知ってもらいたかったのです。呉 私が日本に来たのは34年前ですが、「愛国」や「愛国心」という言葉が何か怖い印象で捉えられていたことには驚きました。韓国ではそれらの言葉は当り前のように使われていたからです。 当時の韓国で「愛国」というと、ほぼ自動的に「反北朝鮮」「反日」の感情が浮かんでくるところがありました。そして現在では「反北朝鮮」の感情がなくなって、「反日感情」だけが残っている。韓国の「愛国」は日本という憎む対象がまずあって、それによって支えられているといっても過言ではありません。 一方、日本人はあまり愛国心を表現しませんが、故郷のお国自慢は大好きですね。日本の地方に講演にいきますと、「こんなにお酒がある」「こんなに景色のすばらしいところはほかにありません」などと、一生懸命に「お国」自慢をしてくれます。日本人はつねに忘れ難きふるさとを心に抱いて生きている、愛郷心ですね。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) じつは愛郷心こそが愛国心のベースをなすものです。この古くからあるベースだけは失われていない。韓国人の愛国心にはこうしたベースがないんです。宙に浮いている。 また、「ふるさと」という言葉を聞いて日本人が思い出すのは、いつも母のことではないでしょうか。その点、ケントさんが「愛国心」とは「母国愛」のことだというのは、なるほどと思いました。「愛国心」とは「母国愛」のことケント ありがとうございます。前掲の拙著を読んで、30代の男性から6回も泣きました、という手紙ももらいました。本書では日本の歴史や伝統について、私がいちばん述べたいことを書いたつもりです。 他方、私たちアメリカ人は、世界中のあらゆる国から集まった国民です。これをどうやってまとめているかというと、星条旗です。幼稚園のときから、学校でいちばんの行事は、胸に右手を置いて起立し、アメリカ合衆国の象徴である星条旗に忠誠を誓うことです。I pledge allegiance to the Flag of the United States of America, and to the Republic for which it stands, one Nation under God, indivisible, with liberty and justice for all.(私はアメリカ合衆国国旗と、それが象徴する、万民のための自由と正義を備えた、神の下の分割すべからざる一国家である共和国に、忠誠を誓います) 私はこれを死んでも忘れません。幼稚園のときから毎朝、唱えていましたからね(笑)。 では、日本の学校で何をしているか。歴史の時間になると先生から「君たちのお父さん、おじいさんたちは、中国や韓国に対して非常に悪いことをした。いつまで反省し、謝らなければならない」と教えられる。アメリカで教師がこんな教育を続けていれば、すぐにクビですよ。 日本の教師の中には、日の丸を戦前日本の軍国主義の象徴とみなす人もいるでしょう。それは一つの意見かもしれませんが、なぜ特定の個人思想を子供たちに押し付けるのか。それは国の方針ではありません。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) 君が代を歌いたくないという教師もいるかもしれない。だからといって、子供たちに教えないというのは論外です。指導要領に反していますからね。 私が日本の親たちに提案したいのは、一度子供たちの学校の授業を見学し、もし反日的な教育が行なわれていたならば、大問題として世に提起すべきだということです。そうやって親たちが自ら積極的に動かなければ、日本の自虐的な偏向教育はけっして是正されないと思います。祖国を愛せない人間は不幸ケント ご存じのとおり、日本では学校だけでなく、マスコミも反日思想を熱心に植え付ける元凶になっています。国旗や国歌に敬意を示すのは、とんでもないという発想です。 私がそれを再認識したのは、2016年8月9日のことでした。この日は前夜からリオ五輪をテレビ観戦していたのですが、男子体操の団体総合決勝で日本のチームが3大会ぶりの金メダルを見事に取った。朝4時を回っていましたが、眠たいのを堪えて観戦していてよかった(笑)。表彰式のあと、表彰台で「君が代」がどんなふうに聞こえたか、という記者の質問に対し、内村航平選手はこんなふうに答えていました。「声が裏返るまで歌ってやろうと、みんなで言って、すごくゆっくり流れたので、ちょっと歌いづらかったですけれど、すごくみんな大きな声で歌えてよかったと思います」 もし私が新聞記者だったら、これを記事の見出しにしましたよ。ところが、内村選手の君が代に関する発言を取り上げたのは、新聞では『産経新聞』だけでした。NHKは生放送時には当然放映しましたが、その後、このシーンを二度と流さなかった。他の民放も同様です。五輪で優勝した彼らが、一生懸命に君が代を歌ったというのは、普通の日本人なら誰もが感動するいい話じゃないですか。その部分をあえて無視するなんて、日本のメディアはほんとうにおかしい。異常だと思います。呉 日本の学校では日の丸や君が代の意味や成り立ちを教えていませんからね。それどころか、日本の歴史や文化に関する基礎的なことすら教えていない。現在、私は拓殖大学の国際学部で日本の歴史と文化を教えています。学生の受講者がいちばん多い選択科目となっていますが、講義を重ねるうち、だんだん学生が引き込まれていくのを感じます。目がキラキラして、私語一つ聞こえない。毎回、レポートを書かせるのですが、A4用紙の裏までびっしりと感想を書いてくれる学生もいます。 とても興味深かったレポートがあります。ある学生は親の勧めで高校時代に英語の勉強のためにカナダに留学していたのですが、日本人としての迷いが生じると同時に、生きる自信をなくしてしまった。大学入学後、今度は宗教的体験を求めてインドまで行ったそうですが、ますます自分がわからなくなり、ついに鬱病を発症してしまった。 しかし、その学生はなんとか大学に戻り、私の講義に出ているうちに気分が明るくなってきて、自分はやはり日本人だったんだ、これからどう生きればいいのかわかりました、とレポートに書いてくれたんです。 このようなレポートを読んで感じたのは、日本人がいかに高校まで日本のことを学んでいないか、またいわゆる自虐的な教育が子供たちをいかに傷つけているかです。まさにケントさんがいわれるとおりです。ケント 祖国を愛せない人間は、祖国を愛している人間に比べたら、間違いなく不幸でしょう。それは、自分の親を愛したり、尊敬できない子供が、それを当たり前にできている子供と比べると、間違いなく不幸であることと同じです。 間もなく総選挙が行なわれます。北朝鮮によるミサイル危機が本格化するなか、「愛国心」を基準に行動している政治家、政党を見極めることが、日本にとっていまほど問われている時期はないかもしれません。関連記事■ 日本は素晴らしい歴史のある国なのにどこかヘン■ 呉善花 北朝鮮問題で韓国の出る幕はない■ ケント・ギルバート 日本は自主憲法を制定すべきである

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    作家・百田尚樹氏「戦後の日本人は軍人への敬意を失くした」

     戦後70年を過ぎ、戦争の記憶はますます遠ざかる。『永遠の0』で知られる作家・百田尚樹氏は、元日本軍エースパイロットたちの証言を集めた戦記ノンフィクション『撃墜王は生きている!』(井上和彦著、小学館文庫)の解説で、日本人の戦争観に疑問を呈している。* * * 著者の井上氏も書かれていますが、戦後の日本人は軍人に対するリスペクトというものを失くしてしまいました。 軍人というだけで、まるで犯罪者のように見る「進歩的文化人」や「左翼ジャーナリスト」が戦後のマスメディアを支配していたからです。今も、野党の国会議員の中には、自衛隊員を「人殺し」とか「暴力装置」と表現する人がいます。こんな国は他にありません。 他国においては、市民はおしなべて軍人に対する敬意を持っています。それは当然のことです。もし戦争となれば、彼らが命を懸けて自分たちを守ってくれるのですから。 たしかに「戦争」はよくない。それは当たり前のことです。しかし戦争を憎むことと、軍人を憎むことは全然違います。軍人の究極の目的は国を守ること、そして国民の命を守ることです。 この本には五人の元帝国陸海軍の戦闘機搭乗員の話が語られています。そのほとんどが本土防空戦の話です。第一章に登場する元陸軍の板垣政雄軍曹の言葉がいきなり私たちの胸を打ちます。彼はむざむざと東京空襲を許してしまった後に、こう言います。「そりゃもう、ただ東京都民に申し訳がなくてね」 板垣氏は「空の要塞」と言われたB29に、戦闘機「飛燕」で二度も体当たりを敢行して、これを撃墜した搭乗員です。これはまさしく「対空特攻」です。幸いにして板垣氏は二度ともパラシュート脱出に成功しましたが、これは体当たりの衝撃で操縦席から投げ出された結果です。おそらく体当たりした時は死ぬ覚悟であったに違いありません。爆撃機B29による本土空襲から市民の命を守りたい、その一心からの行動です。 この本に登場する搭乗員たちは、ヒーローアニメに出てくるような架空の人物ではありません。彼らは実在の男たちです。そして日本の軍人です。七十数年前は、こうした男たちが、日本のために命を懸けて戦っていたのです。そして靖國神社にはそうして命を失った二百三十万人にものぼる御霊が祀られているのです。靖国神社(ゲッティイメージズ) 現在の私たちは戦争のない平和な国に育ちました。私も含めてほとんどの国民が戦争の記憶がありません。しかしこの平和は何百万もの兵士たちの犠牲の上にあるということを忘れてはならないと思います。 井上氏が書かれたこの本はあらためてそのことを私たちに気付かせてくれます。※井上和彦氏・著/『撃墜王は生きている!』(文庫版)より関連記事■ 元日本軍戦闘機パイロット「B29へ体当たり攻撃」生還を語る■ ケント氏「韓国には嘘が恥ずかしいという概念がないのか」■ 「船越別宅周りを徘徊」松居一代が動画で激怒の記事全文公開■ ケント氏「韓国はベトナム女性に謝罪する像を建てるべき」■ 元日本軍の撃墜王 8対1の空中戦でも「絶対の自信あった」

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    戦艦「大和」元乗組員が見た当時の南京「虐殺は絶対にない」

    った“世界最大の戦艦”大和は戦後、無謀な特攻との批判を受け、無用の長物とまで揶揄された。このままその歴史観が定着することは耐えられない──声を上げたのは、他ならぬ大和の元乗組員、現在104歳である。「長いこと生きているが、台風が東から西に来たなんていうことは1回もなかった。船乗りだったから、天候は気になります」(深井氏、以下「」内同) 取材日は東京都内を台風が直撃した日だった。深井俊之助氏は、大正3年生まれの104歳。部屋の中を杖もつかずに歩き、座る姿勢は背筋がピンと伸び、驚くべき記憶力で理路整然と語る。 深井氏は戦前、海軍の通信技術者だった父親の影響から海軍兵学校に入り、終戦まで戦艦乗組員として活動した。世界最大と謳われた戦艦「大和」の副砲長まで務め、日本海軍の最前線の戦いを語ることができる最後の人物だ。その証言は、大東亜戦争を検証するうえで貴重な資料である。「海軍に入ってすぐ、私が練習艦『比叡』に乗っていた頃、昭和10年4月に満州国皇帝・溥儀(ふぎ)が来日することになり、比叡が御召艦として溥儀さんを迎えに行くことになった。そこで、一番若い士官の私が溥儀さんの世話係になりました。 ところが、大連から横浜までの間、低気圧が襲来して船は大揺れ。溥儀さんは船酔いしてげえげえ吐いた。私は洗面器を差し出し、背中をさすってあげて、汚物の後始末をしました。 言葉は通じなかったんですが、溥儀さんは頭を下げて、ジェスチャーで『ありがとう、ありがとう』と言っていました。すごく優しい人でした」 昭和12年7月7日、盧溝橋事件で日支事変が始まると、深井氏は水雷艇「雁」に転勤。南京攻略を支援するため、揚子江をさかのぼる遡行作戦に参加した。呉軍港で建造中の戦艦大和(共同通信社)「南京攻略で陸軍が進軍していくのを、揚子江をのぼりながら防備するのが我々の任務でした。『雁』は小さい船でしたが、支那軍の砲台を大砲で撃破し、それで陸軍が上陸できるようになった。その功章として金850円もらいました。 11月下旬には陸軍は南京を完全攻略し、1週間もしたら南京の町は平和になった。私らが南京に入ったら、中国人の子供たちが日章旗を振って歓迎してくれましたよ。激戦の跡も虐殺の跡もない。南京で虐殺があったと言われていますが、ないない。絶対にない。 支那軍というのは『三十六計逃げるに如かず』で、攻めていくと逃げる、追うと逃げるで、どんどん奥に引きずり込んでいくんです。だから、案内をしてくれた陸軍少尉も『激しい市街戦なんてまったくなかった』と話していました」●聞き手/井上和彦(ジャーナリスト)関連記事■ 中国「日本軍が女性200人要求」と嘘をバチカンに告発■ ケント氏「韓国には嘘が恥ずかしいという概念がないのか」■ 中国の新たな対日歴史戦 「南京慰安婦博物館」に初潜入■ 南京大虐殺記念館の池で子供が大騒ぎ 注意しない親巡り物議■ 村上春樹が南京事件「40万人説」言及で中国のネット民絶賛

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    武田信玄も容赦なし、戦国「乱取り」列伝

    川中島の戦いと言えば、かの武田信玄と上杉謙信の両雄が激突した、あまりに有名な合戦である。ところが、史料を深読みすると戦の目的が実は略奪だった、という意外な事実も浮かび上がる。むろん当時は略奪以外に生き残る術はなかったのである。戦国時代の常識「乱取り」の真実に迫る。

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    川中島の戦いは略奪が目的だった? 信玄も黙認した「乱取り」の真実

    渡邊大門(歴史学者) 前回の倭寇による人の略奪を踏まえて、日本国内に目を向けてみよう。戦国時代は、人身売買も含めて、人の略奪が盛んに行われた時代だった。それは、まさしく「生きるため」だったといっても過言ではない。それは、天候不順による食糧不足とも連動していたと言える。 現代は便利な時代であり、暑いと言えば冷房をつければよいし、寒いと言えば暖房をつければよい。食料もビニールハウスどころか、今や工場で作るありさまである。最近の自然災害はひどい状況だが、鉄筋コンクリートの建物は、昔の木造建築に比べると非常に頑強である。むろん戦国時代の家は、粗末な木造だった。 また、今は道を歩いていれば、スーパーやコンビニがあるので、お金さえあれば食料を手に入れることができる。病気になっても、病院に駆け込めば何とかなることも多い。すべてが便利であるし、さまざまな点で不便な戦国時代とは比較にならない。 戦国時代に目を転じると、主力となる農業や漁業は自然が相手の仕事であり、ひとたび自然災害に見舞われると、農業用の機械があるわけでもないので、農地の復旧には多大な時間を要した。おまけに天候不順に陥ると、たちまち作物の収穫量はガタ落ちし、人々は飢えに苦しむありさまである。 保存食があるとはいえ、今のように冷凍食品があったわけではない。ひどい状況が続けば、やがて人々の体力を奪い、病気になることもあった。病気になると特効薬があったわけでもないので、疫病の蔓延(まんえん)は深刻な事態を招いた。 寛喜2(1230)年から翌年まで人々を苦しめた寛喜の大飢饉(ききん)では、食糧難が深刻になったので、子供を売ってでも生活の費用を捻出する必要が生じた。とにかく、戦国時代の人々は生きるために必死だったのである。 村で生活する人々はときに戦争に参加し、戦場で相手から略奪した金目のものや食料などを自分のものにした。戦場で人を捕らえた場合も、自分のものになり、捕らえた人を売ることもあった。つまり、戦争に行くこと自体が、自らの生死をかけた戦いであり、略奪が生きるために必要だったのである。 こうした戦場における人の略奪は、必然的に人身売買の温床となった。以下、戦場における人の略奪を中心にして、さまざまな事例を取り上げることにしたい。最初は、武田氏の事例である。JR甲府駅前の武田信玄像 甲斐国の武田氏や小山田氏をはじめ、当時の生活や世相を記録した史料として、『妙法寺記』(『勝山記』とも)という史料がある。そこには、数多くの人の略奪の記録が残されている。 天文5(1536)年、相模国青根郷(相模原区緑区青根)に武田氏の軍勢が攻め込み、「足弱」を100人ばかり獲っていったという。この前年、武田信虎は今川氏輝、北条氏綱の連合軍と甲斐・駿河の国境付近で戦い(万沢口合戦)、敗北を喫していた。武田氏は両者に対して、大きな恨みを抱いていたといえる。 史料中の「足弱」とは、「足が弱い人」「歩行能力が弱い人」という意味がある。転じて、女性、老人、子供を意味するようになった(足軽を意味することもある)。つまり、武田氏の軍勢は戦争のどさくさに紛れ、戦利品として「足弱」を強奪して国へ戻ったということになろう。時代を問わず、女性、老人、子供は常に「弱者」であった。川中島でもあった「乱取り」 そして、天文15(1546)年には甲斐国で飢饉があり、餓死する者が続出したという。そうした状況下、武田氏の軍勢は男女を生け捕りにして、ことごとく甲斐国へと連れ去った。生け捕られた人々は、親類が買い取りに応じることがあれば、2貫、3貫、5貫、10貫で買い戻されていった。 現在の貨幣価値に換算すると、一貫=約10万円になる。生け捕られた人々は約20万~100万円で買い戻された。身分あるいは性別や年齢で値段が決まったのであろうか。 『妙法寺記』を一覧すると、武田氏の軍勢が行くところでは、多くの敵方の首が取られたことが記述されており、同時に多くの「足弱」が生け捕りにされたことも記されている。「足弱」は売買されるとともに、農業などの貴重な労働力になったのであろう。 このように、戦場で人あるいは物資を強奪することを「乱取り」という。戦場で分捕ったものは当然、自分のものなった。ある意味で戦争に参加するのは、乱取りが目的とも思えるほどである。その姿は、『甲陽軍鑑』にも生き生きと描かれている。 『甲陽軍鑑』とは、江戸時代初期に集成された軍書であり、武田氏を研究する上で重要な史料の一つである。武田信玄・勝頼父子の治績、合戦、戦術、刑法などが記述され、20巻59品から構成されている。その成立過程は、武田氏の家臣、高坂昌信の遺記をベースにして、春日惣二郎、小幡下野らが書き継ぎ、最終的に小幡景憲が集大成したとされている。 『甲陽軍鑑』は、まさしく乱取りの事例の宝庫であるといえる。以下、いくつかの例を挙げることにしよう。 武田信玄の戦いで最もよく知られているのは、越後の上杉謙信と死闘を演じた川中島(長野市)の戦いであろう。天文22(1553)年、初めて2人が刃を交えて以来、計5回にわたって雌雄を決している(4回説もあり)。ここでは2人の名勝負ではなく「乱取り」だけを見ることにする。 川中島の戦いに際して、甲斐国から信濃国へ侵攻した武田軍は、そのままの勢いで越後国関山(新潟県妙高市)に火を放つと、人々は散り散りに逃げ出した。そして、謙信の居城である春日山城(新潟県上越市)へ迫ったのである。武田軍は越後に入ると、次々と人々を乱取りし、自分の奴隷として召抱えたという。その大半は、女や子供であった。川中島の合戦の両雄、武田信玄と上杉謙信の銅像=長野市 『甲陽軍鑑』には、兵卒が男女や子供のほか、馬や刀・脇差(わきざし)を戦場で得ることによって、経済的に豊かになったと記されている。女性に限って言えば、家事労働に従事させたり、あるいは性的な対象として扱われたりしたのであろう。場合によっては、売却して金銭に替えることも可能であったと推測される。戦争に行くことはまさしく生活がかかっており、さらに運がよければ「うまみ」があったといえよう。 こうなると、戦争に行った者たちの関心は、極端に言えば戦いの勝敗よりも、乱取りでどれだけ略奪できたかに移っていたようである。『甲陽軍鑑』の一節には次のように記されている個所がある(現代語訳)。乱取りばかりに気持ちが動いて、敵の勝利にも気付かなかった。乱取りばかりにふけっており、人を討つという気持ちがまったくない。 乱取りに熱中する人々は、「後さき踏まえぬ意地汚き人々」と評価されるところとなった。要するに「何も考えていない意地汚い連中」ということになろう。こうなると、彼らが戦争に来たのか、乱取りに来たのか目的すら判然としなくなる。忠誠より略奪 たとえば、武田軍が信濃国に侵攻した際、大門峠(長野県茅野市)を越えた付近で、兵たちに7日間の休暇が与えられた。しかし、兵たちは休むことなく、鬨(とき)の声を上げて付近の民家を襲撃した。目的は略奪行為であり、田畠の作物すら奪い取った。わずか3日間で村々から略奪を終えると、まだ余力が残っていたのか、翌日からはさらに遠方の村々まで出張って行って、略奪を繰り返すありさまだったのである。 それだけではなく、戦争が終結し、敵の城を落しても乱取りだけは続けられた。それが、兵たちの「褒美」になった。永禄9(1566)年、小幡業盛の籠る上野国箕輪城(群馬県高崎市)が信玄により落されると、雑兵は箕輪城を本拠として、敵兵を次々と捕らえ、乱取りを行ったのである。彼らにとっては、戦いよりも乱取りが本番であったと言えるかもしれない。 現代では、国家からの強制的な動員、あるいはほとばしるような愛国心に突き動かされ、人々は戦争に行くのであろう。しかし、戦国時代の戦争は収入を得る手段の一つであり、言うなれば「出稼ぎ」のようなものだったのかもしれない。動員する戦国大名にとっても、彼らを従軍させる理由やモチベーションが必要である。それが乱取りであり、彼らの貴重な収入源となった。まさしく生きるための戦争だったのである。 こうして人や物資を略奪すると、雑兵たちの生活は豊かになった。『甲陽軍鑑』には、その姿が次のように描かれている(現代語訳)。分捕った刀・脇差・目貫・こうがい・はばきを外して(売って)、豊かになった。馬・女を奪い取り、これで豊かになったので、国々の民百姓までみんな富貴になり安泰になったので、国で騒ぎが起こることがなかった。 われわれの常識では、戦国大名が産業や農業振興に腐心し、それにより国が豊かになると考えていた節がある。むろん、それも事実として正しいのであるが、実際には他国へ侵攻して戦争を仕掛け、それにより国が富むという現実を認識すべきだろう。戦争に行く人々には、愛国心や忠誠心はほとんどなかったのかもしれない。 こうした乱取りという現象は、何も武田氏の専売特許ではない。次に、肥後国の大名・相良氏の事例を取り上げてみよう。相良氏は遠江国佐野郡相良荘の出身であるが、鎌倉時代に肥後国人吉荘に本拠を移し、以後大名化を遂げた。※写真はイメージ(ゲッティイメージズ) 乱取りの様子は『八代日記』に描かれている(天文~永禄年間)。その記述によると、戦場においては、牛馬とともに人々も略奪の対象となった。ときに夜襲を仕掛けて、人を奪い去った様子がうかがえる。また、数千人が生け捕りにされており、その規模の大きさには、目を見張るものがある。 同じことは、伊達政宗が南奥羽で展開した戦いにおいても確認することができる。その状況を伝えているのが、『天正日記』である(天正16・17年)。 『天正日記』によると、戦場において数多くの人々が生け捕りにされ、敵兵の首や鼻を切り取ったという。敵兵を倒した場合、その証として首を切り取った。首の数によって、与えられる恩賞が決まったからである。 鼻が切り取られた理由は、首を腰まわりにぶら下げていると、重いうえに身動きが取りにくい。そこで、代わりに鼻を削(そ)ぎ落として、敵を討ち果たした証拠にしたのである。鼻から上唇まで切り取ると、髭(ひげ)によって男であると分かる。売り飛ばされた女たち 人が略奪された例は、薩摩・島津氏の関係者の日記でも確認できる(『北郷忠相日記』など)。『北郷時久日記』によると、人が3人誘拐されたと記されている。強引に連れ去るだけでなく、騙して連れ去ることもあったようである。 永禄9(1566)年2月、長尾景虎(上杉謙信)の攻撃によって、小田氏治の籠(こも)る常陸・小田城(茨城県つくば市)が落城した。落城の直後、城下はたちまち人身売買の市場になったという。その様子は、『別本和光院和漢合運』に次のように記されている。小田城が開城すると、景虎の意向によって、春の間、人が二十銭・三十銭で売買されることになった。 この一文を読む限り、人身売買は景虎の公認だったのかもしれない。20銭といえば、現在の貨幣価値に換算して、約2千円ということになる。おそらく、雑兵たちはかなりの数の女や子供を生け捕りにし、これを売ることにより、生活の糧にしていたと考えられる。まさしく戦争に出陣する「うまみ」であった。 数が多いので、薄利多売になったのであろうか。売られた者は、家事労働などに使役されるか、あるいはさらに転売されたことがあったかもしれない。 連れ去られた人々は、買い戻されることもあった。その際、金銭が必要なのは言うまでもないが、仲介役として商人や海賊が関与していたと指摘されている。むろん無料で引き受けるのではなく、仲介料を取っていた。つまり、戦場における人の連れ去りは、大げさに言えば、一種の商行為として彼ら商人の懐を潤わせていたのである。 人身売買の厳しい実態は、後になっても確認できる。 『信長公記』によると、天正3(1575)年に織田信長が越前国の一向一揆を討伐した際、殺された人間と生け捕りにされた人間の数が、3~4万人に及んだと伝えている。これには、兵はもちろんのこと民や百姓も含まれていた。殺された数も多かったようであるが、生け捕り分(民と百姓)は、戦利品として扱われたと推測される。 同様の事例は、大坂の陣でも確認できる。『義演准后日記』によると、大坂の陣で勝利を得た徳川軍の兵は、女や子供を次々と捕らえて、凱旋(がいせん)したことを伝えている。徳川方の蜂須賀軍は、約170人の男女を捕らえたと言われているが、そのうち女が68人、子供が64人とその多くを女や子供が占めている。弱者である女や子供が生け捕りにされるのは、共通した普遍性であった。大阪城(ゲッティイメージズ) 大坂の陣を描いた「大坂夏の陣屏風」には、逃げ惑う戦争難民の姿が活写されているが、とりわけ兵に捕まった女性たちの姿が目を引く。兵たちは戦争そっちのけで強奪に熱中しており、それがある意味で彼らの稼ぎとなっていたようなのである。そして、女性たちは売り飛ばされたと考えられる。 人身売買や人の略奪という地獄絵図は、戦国時代を経て織豊政権期に至っても続き、さらに最後の大戦争となった大坂の陣まで脈々と続けられたのである。主要参考文献渡邊大門『人身売買・奴隷・拉致の日本史』(柏書房)■「倭寇の人身売買は貴重な労働力」日中朝を席巻した海賊集団の謎■「強欲でケチ」秀吉はいかにして巨万の富を築いたか■「キリシタンへの見せしめ」秀吉が黒田官兵衛を疎んじた理由

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    西郷隆盛「征韓論」のウソ、ホント

    NHK大河ドラマ『西郷どん』が最終回を迎えた。維新の立役者、西郷隆盛が下野するきっかけになった「征韓論」をどう描くのか、それも見どころの一つだった。ドラマでは描き切れなかったであろう、日本近代史最大の謎、征韓論の真実にiRONNAが迫る。(写真は国立国会図書館デジタルコレクションより)

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    井沢元彦が説き明かす「西郷隆盛は征韓論者」の大きな誤解

    、ということだ。もちろん事実ではない。 しかし、あの海軍きっての頭脳といわれた秋山少佐ですら、それが歴史的事実だと思っていたということだ。明治のダークサイドといってもいい部分だが、幕末欧米列強の植民地にされることを恐れた日本人は、天皇を神聖化しその下に一致団結することによって、見事富国強兵を成し遂げた。 しかし、その神聖化のために、歴史的事実と必ずしも一致しない神話も「すべて真実」ということになってしまったのである。これを、そのまま読んだということはもちろん東郷平八郎も、いやそれどころか、岩倉も大久保も木戸もすべてこの神話を事実だと思っており、だからこそすべて征韓論者であった。西郷の「真意」 ちなみに当時の半島国家は朝鮮国であるのに、なぜ征朝論と言わずに征韓論と言ったのかは、これが理由だ。実際、西郷を政府から追い出した後に、大久保は江華島事件を起こし、朝鮮国を武力で叩く方針を実行している。 しかし、西郷はそうではなかった。最も肝胆相照らした勝海舟と同じく日本、中国、朝鮮が固く団結して欧米列強と闘うべきだと考えていた、そのように私は理解している。その場合、最も障害となるのは中華思想(華夷秩序)と呼ばれるもので、中国の支配者「皇帝」が周辺国家の首長を「国王」に任命し、中国が「主人」周辺国家が「家来」という形で秩序を維持していくというものだ。 つまり、中国は自国と対等な国家を認めないのである。それでも中国は強大であったので、朝鮮も琉球も国王の座に甘んじた、しかし日本は中国と対等であると考え、皇帝に対して天皇という称号を用いて一歩も譲らなかった。 そして明治になって、天皇中心の国家に生まれ変わった日本は、朝鮮に対して天皇の名をもって外交関係樹立を申し入れた。しかし朝鮮は断固拒否した。中国皇帝しか使えないはずの「皇」の字を使った「ニセモノ」からの国書など受け取れないという態度である。 日本は逆に、国書を受け取れないとは何事か、「無礼千万」ではないか、と世論が激高した。この辺りはよく知られていることなのだが、私に言わせれば、肝心のことが多くの人に忘れられている。 実は、明治6年に日本が粘り強く交渉を続けていた中国との対等な条約「日清修好条規」が、留守政府の外務卿で佐賀出身の副島種臣の尽力によって発効しているのだ。つまり、中国は有史以来、初めて「天皇」を認めたのである。 「親分」の中国が天皇を認めた以上、次は「子分」の番だから、朝鮮使節の派遣というのは強硬姿勢でも何でもなく順番通りのプログラムなのである。ただ、政府内には朝鮮の頑(かたく)なさを危ぶむ声もあったので、西郷はそうした連中を説得するために「もし自分が殺されるようなことがあったなら、その時は武力に訴えればいいではないか」と強硬派を説得したのである。東京・芝にあった薩摩藩上屋敷跡、西郷隆盛・勝海舟会見の地の碑。台座には2人のレリーフもある=2018年6月 裏を返せば、説得できると考えていた、と私は思う。それに、万一説得できなかった場合はそれでもいい、そのようにも考えていた。それが冒頭述べた「重大な目的」でる。 西郷は、あまりにも有名な僧月照との「心中」事件以来、死処(しにどころ)を求めていたのだ。自分だけ生き残ったのは申し訳ない、死ぬべき時が来たら死ぬということだ。西郷「妨害」のために天皇を説得 この「死処説」は、残念ながら私のオリジナルではないが、まさに明治6年ごろに西郷は体調の不良に悩まされていた。このまま畳の上で死ぬのは嫌だ、と考えた西郷は、交渉が不調に終わった場合は殺されるか、あるいは殺されなくても恥辱を受けたといって朝鮮国で自害をすれば、お国のためになると考えていたということだ。 一方、帰国した大久保らは、留守政府があまりに見事な仕事をしているのに危機感を持った。このままでは薩長から土佐、肥前(佐賀)に政権を奪われてしまう。特に長州は、井上馨の大汚職を佐賀出身の司法卿江藤新平に追及されれば、天皇の信頼を全く失ってしまうところまで追いつめられていた。 そこで陰謀に長じた大久保や岩倉は長州の支持を取り付け、西郷の渡韓を何とか阻止しようとした。なぜなら、これは閣議決定事項で、あとは天皇の裁可を頂くだけになっており、逆に天皇の裁可が下りなければ、天皇による「内閣不信任」と同じで、参議は全員辞職しなければならなくなる。 おそらく大久保や岩倉は「西郷ファン」の天皇を「西郷は死ぬつもりですぞ」と説得し、裁可をさせなかったのだろう。それは全くのウソではないので天皇も騙された、ということだ。 西郷および留守政府の面々は憤激し、野に下った。まさに大久保らの思うつぼで、元司法卿江藤新平に反乱を起こさせ、死刑に処することもできた。逆に井上馨はまんまと逃げおおせた。そのこともあって西郷の怒りは頂点に達し、西南戦争へとつながったのだろう。 ただし、西郷は勝つつもりはなかった。勝つつもりがあれば、熊本城を攻めたりはしない。真っすぐ東京を目指すはずだ。そうすれば各地で不平士族が合流し大変な勢力となったはずである。 しかし、それではせっかく築き上げた明治政府を潰してしまうことになる。だからこそ、わざと負ける道を選んだ。諫死(かんし)である。これで死処も得られる。自分たちの死をもって、中央で驕り高ぶっている人々を反省させようとしたのだと思う。 だが、彼らは反省などしなかった。むしろ欧米列強と同じやり方で朝鮮を屈服させる道を選んだ。そして、それを成功させるために、国民に絶大な人気のあった西郷を利用しようとした。つまり、「あの西郷もわれわれと同じ征韓論者だったのだ」と国民に思い込ませようとしたのだ。岩倉具視が肖像画の五百円札(ゲッティイメージズ) では、明治六年の政変が起こったとき、「西郷が征韓論を唱えたからだ」と最初に言い出したのは一体誰か? 私の知る限り、それは岩倉具視である。

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    西郷隆盛が唱えた「征韓論」真の目的は何だったか

    原口泉(歴史学者、志學館大教授) 「征韓論」とは文字通り読めば「韓国を征伐する」であり、武力で朝鮮を支配しようとする主張のことである。この論を唱えた主役は、西郷隆盛とされている。そしてこの征韓論で引き起こされた一連の政治騒動を「征韓論政変(または明治6年の政変)」と呼ぶ。 この政変は、辞書や教科書では「明治初期、内政優先派に敗れた西郷ら多くの征韓派が下野した一大政変で、これを発端に不平士族の反乱や自由民権運動が起こった」といった書き方がされている。 しかし一方で、このころの文献、史料のどこにも、西郷がこれほどはっきり「征韓」を唱えたという記録はない、と指摘する研究者が少なくない。では、西郷の考える「征韓論」とはどのようなものだったのだろうか。 当時の朝鮮は鎖国政策をとっていた。それまで日本とは江戸時代から国交があり、両国の交渉は、すべて対馬藩を介して行われた。徳川将軍の代替わりごとに朝鮮国王の国書を持った通信使が派遣され、江戸時代を通じてその回数は12回にも及んでいる。 ところが、江戸幕府はアメリカやロシアなどの欧米列強諸国と通商条約を結んでしまった。鎖国政策をとっている朝鮮としては「夷狄(いてき)」(欧米列強のこと)と付き合うような日本と交際するわけにはいかないと国交を断絶してしまったのである。 明治政府が次第に形づくられる中、日本の統治者が将軍から天皇に代わったことで、日朝関係を正常化させようという動きが起こった。初めは、日本の王政復古を通知する外交文書を朝鮮政府が受け取りを拒否するという行為に端を発した。雲揚号兵士朝鮮江華戦之図(木版画 想像図) 日本が幾度となく派遣した使節も甲斐なく、朝鮮側は国交断絶の強い姿勢を見せた。明治政府の国書には「皇上」や「奉勅」という言葉があり、朝鮮側にとって、そのような言葉を使うのは宗主国である清国の皇帝だけだという認識があった。 明治3(1870)年4月、外交官の佐田白茅(はくぼう)が森山茂とともに、朝鮮に使節として釜山の草梁倭館に派遣されたが、朝鮮側の態度に憤慨し、佐田は帰国後激しい征韓論を唱え始めた。 この佐田の征韓論に当初賛成したのが、後に大反対の姿勢をとった木戸孝允であった。佐田の熱心な遊説は次第に他の多くの政府高官たちを洗脳していき、征韓論は明治政府内で非常に熱を帯びたものとなった。 閣議では、板垣退助が「朝鮮即時出兵」を主張したのに対し、西郷は軍隊を使わず、しかるべき位の大官が正装で赴き、礼を尽くした交渉をすべきであると反論した。そしてその朝鮮への全権大使を自分に任命してもらいたいと主張した。 日本政府の筆頭参議・陸軍大将という重責を担う自分が、非武装のほとんど裸同然で「烏帽子直垂(えぼしひたたれ)」に身を正し、単身で乗りこめば、朝鮮も話を聞いてくれるだろうという自信があったのだ。戦争は最悪の場合であり、そこに至らせないための外交交渉を西郷は考えていた。「征韓論」ではなく「遣韓論」 このように、西郷が主張したのは、実は「征韓論」ではなく「遣韓論」もしくは「朝鮮使節派遣論」だったと考える方が、史料などからは自然である。そして、西郷は自分の主張通りに正式に朝鮮使節に任命される。 ところが、洋行から帰ってきた岩倉具視、大久保利通らが、西郷の朝鮮派遣に反対した。大久保はかつての盟友である西郷と決定的な対立関係になる。そこでも議決自体は、西郷の進退を賭けた主張の通りになった。 しかし、最終的には岩倉が天皇に上奏する時、反対論を個人的に主張してどんでん返しが起き、西郷の使節派遣論は潰されることになった。 まず、そもそも西郷が朝鮮問題に熱心になった背景とは何なのか。一般論としては、それが解決しなければならない当面の重要外交課題であったことは間違いない。だが、西郷が懸念する外交問題は朝鮮だけにとどまらず、ロシア対策が念頭にあったということは特筆すべきであろう。 19世紀初頭より、樺太や千島をめぐって断続的に日露間の紛争が発生していた。ロシアは清国への影響を強めると同時に樺太へもその力を及ぼし始めた。西郷が、ロシアのみならず、アメリカとの対比で、イギリス、ドイツなどの列強の形勢に注目していたことは、アメリカ滞在中の大久保利通に宛てた書簡の一節からもうかがい知ることができる。大久保利通像(ゲッティイメージズ) 「独と魯との間には、弥(いよいよ)隔意を生じ候趣(そうろうおもむき)、追々(おいおい)申し来(きた)り」と、ドイツとロシアをめぐる国際関係にも強い関心を寄せている。つまり、朝鮮問題の解決を急いだ西郷の念頭には、迫りくるロシアの脅威に、いかに対抗するべきかという切実な課題があったことは疑う余地はない。  また、歴史作家の海音寺潮五郎氏は、西郷が朝鮮派遣にこだわった理由を勝海舟の影響があったのではないかという。勝はかねてから、日本と中国、朝鮮が同盟を結んで、列強の侵略に対抗すべきであるという説を持っていた。江戸無血開城の交渉を持ち出すまでもなく、西郷と勝は肝胆相照らす仲だった上に、明治政府で西郷は陸軍、勝は海軍の重鎮である。その二人が話し合わないはずがない。 筆者も同様、日本、中国、朝鮮の三国が連携するという「三国連携論」が、西郷の頭の中にはあったのだろうと考える。

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    西郷隆盛「征韓論」を善悪二元論で語ってどうする

    蓮の5人である。代表的日本人の筆頭に置かれた西郷隆盛を扱った部分には面白い一節がある。 もしわが国の歴史から、もっとも偉大な人物を二人あげるとするならば、私は、ためらわずに太閤と西郷との名を挙げます。二人とも大陸方面に野望をもち、世界を活動の舞台とみていました。 太閤とは、いうまでもなく豊臣秀吉のことを指す。内村は豊臣秀吉と西郷隆盛こそが日本史上もっとも偉大な二人であったというのだ。私が大変興味深く思うのは、両者がともに大陸方面に野望をもっていたことを含めて、内村が両者を偉大であると説いている点だ。 昨今では、豊臣秀吉、西郷隆盛を語る際、どこかに贖罪意識を持たねばならないという雰囲気がある。要するに、秀吉であれば朝鮮出兵、西郷であれば「征韓論」に関して「反省」の意識がなければならないとされている。そうした空気からまるで自由な内村の発想を興味深いと思うのだ。 西郷隆盛を讃える内村の文章は熱烈な尊敬と愛情に満ちている。西郷隆盛がなければ明治維新は成し得なかったと説き、明治維新とは「西郷の革命であった」という。そして西南戦争の中、城山で没した西郷は「最後のサムライ」であったとすら評している。西郷隆盛の後にサムライなしとは、最大限の賛辞といってよいのではないだろうか。 内村が西郷を尊敬してやまなかったのは、西郷の道義を重んずる態度に感銘を受けていたからであろう。西郷に関する文章の最後は次のように締めくくられている。 西郷には、純粋の意志力との関係が深く、道徳的な偉大さがあります。それは最高の偉大さであります。西郷は、自国を健全な道徳的基盤の上に築こうとし、その試みは一部成功をみたのであります。 内村が極めて道徳的であったと崇め立てる西郷隆盛だが、誰もが内村のごとき評価を下しているわけではない。征韓論の主唱者であり、近代日本の大陸侵略の嚆矢(こうし)となった軍国主義者とみなす人々も少なくない。彼らにとって、西郷とは非人道的な侵略者であり、西郷を道徳的であったとは決して見なさないだろう。鹿児島県霧島市の西郷公園に立つ西郷隆盛像(竹川禎一郎撮影) 西郷隆盛を道徳的であったとみなす内村は、この征韓論の問題をどのように捉えていたのだろうか。内村鑑三が崇拝した理由 征韓論については諸説が存在しており、西郷隆盛には「征韓」の意図はなかったと西郷を擁護する人々も存在する。西郷は朝鮮を侵略する意図はなく、平和裏に国交を結ぶことができると考えていたのではないかと説くのだ。こうした立場に立てば、西郷は侵略戦争を鼓吹(こすい)した野蛮な人物ではなく、道徳的に指弾する必要はなくなる。だが、内村はこうした立場には立たない。内村の「征韓論」に関する議論は次のようなものだ。 日本からの派遣した使者に対して、朝鮮は無礼な態度をとった。さらに、朝鮮に住む日本国民に対して、敵意を向け、日本の名誉を傷つけるような布告を発した。西郷隆盛は、朝鮮が無礼な態度をとっただけで戦争を仕掛けろと主張したのではない。いきなり武力を行使するのではなく、少数の使節を派遣し、無礼に対する責任を問うべきと説いたのだ。そして、仮に新しい使節団に対して侮辱を加えたり、身体を傷つけた場合には、軍隊を派遣し、征服せよと主張した。さらに、その危険を伴う使者は西郷自身が引き受けたいと申し出たのである。 内村の説明する征韓論の細部に誤りがあるのか、否かをここで問うつもりはない。ここでは、西郷隆盛が場合によっては朝鮮を征服せよと主張したことを内村が十分に認識した上で、西郷を尊崇(そんすう)していることを確認しておきたい。 さらに内村は、西郷の唱えた「征韓論」が退けられたことを悔やむかのように次のように述べている。 岩倉とその一派、『内治派』の思惑どおり、国はいわゆる文明開化一色となりました。それとともに、真のサムライの嘆く状況、すなわち、手のつけられない柔弱、優柔不断、明らかな正義をも犠牲にして恥じない平和への執着、などがもたらされました。 現在のわれわれの感覚とは全く異なる価値観がここに表明されているといってよいだろう。「正義をも犠牲にして恥じない平和への執着」は、けしからぬことだと説く内村は、平和を何よりも重んずべきだと主張する戦後日本の風潮とはまるで異なる価値観を有していた。 誤解されたくないので強調しておくが、現在において、正義を貫徹するために速やかに戦争を遂行せよなどと主張するつもりはない。ただ、価値観は時代によって大いに変化するものであり、その当時の価値観を無視して現在の価値観を押し付けて歴史を解釈してみても始まらないということを指摘したいのだ。 西郷隆盛は「征韓論」を唱えた人間だから悪人であった。 西郷隆盛は実際には武力で朝鮮半島を支配する意図を持っていなかったので善人であった。 どちらも、「武力を行使して他国を侵略することは悪である」との価値観から歴史を裁こうとする態度であるという点に径庭(けいてい)はない。どちらの評価もあまりにばかばかしい評価なのだ。内村鑑三『代表的日本人』(鈴木範久訳、岩波文庫) もちろん、ナチス・ドイツのジェノサイド、ソ連におけるウクライナ飢饉(ききん)の問題など、いかなる時代においても許されざる蛮行というものが存在することも事実だ。こうした大量虐殺を単に時代の趨勢(すうせい)の結果とすることがあってはならないのは当然のことだ。 われわれが歴史を振り返る際、重要なのは歴史を裁くことではなく、先人たちの胸中を去来した想いを想像してみることだ。 何故、西郷隆盛は征韓論を唱えたのか。 何故、西郷隆盛は政府を去ったのか。 何故、西郷隆盛は挙兵し、城山に散ったのか。 単純な善悪二元論に陥るのではなく、史料をもとに想像してみることこそが歴史を学ぶということだろう。

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    西郷隆盛と大久保利通 「征韓論」で決別した本当の意味

    家近良樹(歴史学者、大阪経済大特別招聘教授) 西郷隆盛の朝鮮への使節としての派遣が阻止される上で、最大の役割を演じたのは、言うまでもなく大久保利通であった。むろん、事の重大性からいって、大久保がおいそれと自ら手を挙げて、こうした役割を積極的に果たそうとしたわけではなかった。あくまで、きっかけを作ったのは伊藤博文ら長州藩出身の政府要人であった。 伊藤らから執拗に参議への就任を要請され、苦渋の末に承諾を与えてから以後の大久保は、文字通り決死の覚悟をもって西郷の朝鮮使節を葬(ほうむ)る活動に従事する。彼が、この問題に生命を賭けたことは、息子に宛てた「遺書」の内容によって容易にうかがわれる。 さて、続いて大問題となるのが、大久保が西郷の派遣を断固阻止しようとした理由である。これに関しては、公的な(表向きの)理由と、私的な(個人的)理由の双方が挙げられる。 前者は、やはりなんと言っても、彼が欧米諸国を模擬した近代国家を建設しようとしたことに関係した。大久保は、これより前の1年半余、日本を不在にした。言うまでもなく、欧米に渡航した「岩倉使節団」への参加のためである。 そして、この過程で、絶望感に時に激しく襲われながらも、欧米諸国をモデルとする国家建設のプランを抱いて日本に帰ってくる。これに次いで、参議に就任した後の明治6(1873)年10月14日の閣議の席で、真正面から西郷の朝鮮への即時派遣に異議を唱えた。 残念ながら、この日、大久保が閣議の席でどのような主張をしたのかは不明である。具体的な発言内容を記した史料が一切存在しないからである。ただ、この日の大久保の発言内容は、ほぼ推測しうる。 先述の「遺書」とこの頃に記されたと思われる彼の「意見書」が存在するからである。そこから浮かび上がってくるのは、大久保が西郷の派遣が朝鮮との戦争に直結することを危惧し、かつ財政、内政、外交上の困難をもたらすので、反対しただろうというものだ。 大久保の主張で特に留意すべき点が二つある。第一点は、西郷の即時遣使は「深謀遠慮」に欠けるとしたことだ。大久保によれば、国家を運営し、かつ国土と国民を守るためには、「時勢」を考慮し、そのうえ国家や国民の将来を見据えて決断を重ねなければならないものであった。すなわち、そうした点で、西郷の派遣はあまりにも「深謀遠慮」を欠く性急な決定の上になされたと批判したのである。大久保利通像(ゲッティイメージズ) 第二点は、朝鮮が、慶応2(1866)年と明治4(1871)年に、それぞれ軍事挑発を仕掛けてきたフランスとアメリカ両国の艦隊と戦い、撃退することに成功した例をもって、西郷の派遣は同国との開戦に繋がりかねないとみたことだ。 さらに大久保は、朝鮮と戦端を開くようになった場合、極東地域に領土的野心を持つロシアに「漁夫の利」を得られかねないとも考えた。その上で大久保は、もし朝鮮との戦争になれば、膨大な額にのぼる軍事費が深刻な財政危機を招来し、その後士族反乱や民衆騒擾といった困難な国内状況を招きかねないと冷静に判断し、西郷の派遣をあくまで阻止しようとしたのである。如実に出た大久保の性分 次いで、大久保が西郷の即時派遣に反対せざるを得なかった私的な理由に筆を及ぼすことにしたい。そして、ここに大久保の政治家としての本質も、彼が本来有した陰湿な性分も、ともに如実にあらわれる。 大久保が西郷の派遣に反対した私的な理由(むろん、それは半ば公的な理由でもあったが)の最たるものとしては、彼が欧米流の近代国家を建設する上で、大きな障害となると判断した勢力を至急排除しようとしたことが挙げられる。 排除の対象となったのは、征韓を希求する西郷とその配下であった。具体的には、廃藩置県後も鹿児島にあって、政府の推し進めようとする近代化路線に抵抗し続けていた島津家武士、および東京で征韓の実行を求める軍人、兵士であった。 それと、岩倉使節団派遣中の留守政府内にあって台頭してきた土佐(高知)、肥前(佐賀)出身の政府高官であった。板垣退助や江藤新平、後藤象二郎といった面々がそれに該当した。 彼らは筆頭参議であった西郷の承認の下、それぞれが主導して、銘々が信じる近代化政策を推進していた。そして、長州派を含む大久保らの目にはおそらく、それは薩長出身者が主流の座を占めてきた新政府のこれまでのあり方を改変しようとする、真にけしからぬ動向と映ったに違いない。 そういう意味では、大久保や伊藤らは、早急に土佐、肥前出身の新任参議らの政府内からの追放と、自分たちの主導権の奪回(回復)を図らねばならなかったのである。そして、その対象には、新たに参議職に就くことになった肥前出身の副島種臣も含まれたと考えられる。 副島は元来、大久保にとっては貴重な囲碁仲間であったが、当時西郷の朝鮮への派遣に積極的な賛意を表するようになっていたからである。また、大久保にとって、外務卿でもあった副島の主導する外交路線は古臭く、到底近代国家のそれにふさわしいものではなかった。西郷隆盛像(ゲッティイメージズ) 以上、大久保が西郷の派遣を阻止するに至った背景をごく簡単に振り返ったが、もし彼がこうした行動に出なかったら、近代日本の進路は、われわれの知るそれとは大きく異なるものとなった可能性は大であろう。 そういう点で、大久保個人の果たした役割は非常に大きなものがあった。朝鮮使節を志願し、そのことで政局に大混乱をもたらした西郷とともに、維新が「西郷と大久保の時代」でもあったと、しばしば見なされるのは、こうした歴史的経緯があったからなのである。

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    「征韓論」の真実は「西郷が自ら外交問題を解決したかった」

    すため、武力をもって朝鮮に国交を開かせるものだったと言われている。『西郷隆盛伝説の虚実』の著書がある歴史家の安藤優一郎氏が語る。 「西郷が朝鮮へ行きたがっていたことは間違いないでしょう。しかし、巷間言われるように、武力で威嚇し、自分が殺されることで戦争のきっかけを作ろうとしたわけではない」 それを裏付けるのが明治6(1873)年10月、西郷が提出した「朝鮮派遣使節決定始末」である。その中で西郷は「護兵の儀は決して宜しからず」と、兵隊を引き連れない平和的な使節を派遣することが先決であると述べているのだ。 「当時、西郷は明治天皇から医師を派遣されるほど体調が悪く、自身最後の仕事としてあくまでも平和的に外交問題を解決しようとしていたのです。しかし、留守政府において影響力と存在感を増していた西郷を、大久保利通や岩倉具視らは面白く思っていなかった。鹿児島市城山にある西郷隆盛の銅像(ゲッティイメージズ) 彼らの強硬な反対に遭った西郷は、身体的・精神的に不安定だったこともあり、生来の血気盛んな性格が前面に出てしまい、西郷をはじめとする参議5人らが下野する政変へと追い込まれたのでしょう」(安藤氏)◆取材・構成/浅野修三(HEW)関連記事■ 西郷隆盛 敗北見えていたにも関わらず西南戦争起こした理由■ 新発見の直筆手紙で判明 「西郷は龍馬暗殺の黒幕説」の真実■ 西郷隆盛の肖像画、どれが最も似ているか論争に決着■ 「開明派」の福沢諭吉はなぜ「反乱者」西郷隆盛を擁護した?■ 西郷隆盛「大の写真嫌い」はウソ 「顔が違う」伝説の真相

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    西郷隆盛は西南戦争の主体でもない上に本意ではなかった

    つ士族たちを集め、明治7年に私学校と総称される軍事学校を設立した。『西郷隆盛伝説の虚実』の著書がある歴史家の安藤優一郎氏が語る。 「西郷の設立した私学校は、郷里に帰ってもすることがなく、士風が退廃し始めた兵士を統率するためのものでした。政府側からすると旧薩摩藩の軍事力を西郷が掌握したように見えたのでしょう」 その後、廃刀令などに不満を持つ士族たちの反乱が各地で連鎖し、頻発していった。そして明治10(1877)年2月、遂に西郷は挙兵。日本史上最後の内戦となる西南戦争が勃発した。 「西郷挙兵の引き金となったのは、捕えられた政府派遣の警察官が供述した西郷暗殺の密命です。この供述は西郷を慕う士族を激昂させるには十分でした。遂に西郷の抑えもきかなくなり、担ぎ出されてしまう。 西郷は自らクーデターを起こそうとしたわけではなかったが、西郷軍は朝敵となった。政府軍の総攻撃目前に、西郷麾下の河野主一郎と山野田一輔が政府軍総司令官の一人、川村純義に面会を求め、西郷の助命を嘆願しています。部下に慕われた西郷ならではの逸話でしょう」(安藤氏)鹿児島のシンボル、桜島。手前は鹿児島市街(ゲッティイメージズ) 助命嘆願は叶わず、西郷は「晋どん。もうここらでよか」と別府晋介に介錯を頼み、西南戦争が終結する。 その12年後、明治22年、西郷は大日本帝国憲法発布の大赦により正三位が贈られ、名誉が回復されている。◆取材・構成/浅野修三(HEW)関連記事■ 西郷隆盛 敗北見えていたにも関わらず西南戦争起こした理由■ 2018大河『西郷どん』 鈴木亮平主役抜擢までのドタバタ劇■ 橋爪大三郎氏「西郷隆盛は日本右翼の原型である」■ 『西郷どん』 斉藤由貴の不倫降板でNHKは代役探しに奔走■ ジャズピアニスト・山下洋輔が語る西郷隆盛との奇縁

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    長篠合戦図屏風に描かれた「六芒星メンズ」の謎を解く

    橋場日月(歴史研究家、歴史作家) 長篠の戦いでも天候に恵まれた信長。もっとも、彼のために弁明すると、彼が長篠の戦いで武田軍を「必ず皆殺しにしてやる」と宣言した背景にあったのは、龍の力の盲信だけではなかった。鉄砲や弾薬を西からはるか長篠まで大量に集めてくる資金は尋常ではない。 3000挺の鉄砲が投入されたと仮定すると、その銃の費用は現代の価値で20億円。1挺あたり300発分の火薬(長篠の戦い直後に武田家が制定した分量)は18億円、それに鉛の弾丸が1億4000万円で、トータルすると40億円近くが投入された計算になる。未明から昼過ぎまでの7~8時間で、40億円が戦場の煙と化したのだ。 当然、信長としてはそれだけの投資を無駄にしないためにも、梅雨どきなのに鉄砲で勝つ=梅雨にもかかわらず雨が降らない条件を整えなければならない。 そしてそれは、神頼みだけではなかった。 ここで大阪城天守閣に所蔵されている「長篠合戦図屏風」を見てみよう。信長の本陣は六曲一隻のうちの第六扇(左端)の上部に描かれている。永楽通宝の旗印や南蛮兜(かぶと)などを奉じて控える家来たちの奥で、白馬にまたがった信長が正面の戦場を見つめているのだが、その足元に注目していただきたい。 背中を朱の星で大きく染め抜いた白羽織の男が3人、侍(はべ)っているのがわかるだろう。 この星印は「六芒(ろくぼう)星」という。有名な星印は安倍晴明の「五芒(ごぼう)星」だが、こちらはひとつ角が多いものの、陰陽師(おんみょうじ)の象徴として知られる晴明の五芒星(晴明桔梗)同様、陰陽師のシンボルだ。白馬にまたがる信長=長篠合戦図屏風(大阪城天守閣蔵) では、その違いは何か。安倍晴明の血統を継ぐ土御門家が朝廷の陰陽師であるのに対し、六芒星は晴明に敵対した蘆屋道満(あしやどうまん)のマークだ。元々は播磨の陰陽師だったと伝わる道満は、藤原道長に仕える晴明の力を封じるべくライバルの藤原伊周(これちか)に召し出されたという。 妖術合戦に敗れる姿は多くの作品に描かれているが、現実の道満は伊周が道長との政争に敗れたことで元の民間陰陽師に戻ったのではないか。彼に連なるという陰陽道の系譜は、道満の子孫という土師(はじ)氏の他にも多く残っている。 図屏風は、信長がこの道満流の民間陰陽師を戦場に伴った可能性を示唆しているのだ。ここで注意しなければならないのは、この大阪城天守閣蔵の図屏風には原本がある点だ。成瀬家本と呼ばれるもので、17世紀半ば、長篠の戦いから100年経った頃の制作と考えられている。犬山城主の成瀬家の先祖・正一は長篠の戦いに参加しているので、子孫が家の言い伝えや『甫庵信長記』などの軍記物を参照して顕彰のために描かせたのだろう。2つの図屏風のナゾ この成瀬家本では、信長の本陣にいる3人の男の背に六芒星はなく、濃緑の地に赤く「十六葉菊」が描かれているが、これは信長が朝廷から許された菊紋というにすぎない。 これでは、「一番古いオリジナルの絵がそうなら、信長が陰陽師を使ったという推測は無理じゃないか」と言われそうだが、これがそうでもないのだ。 成瀬家本の図屏風には、家康本陣に六芒星の男が2人いる。その装束は大阪城天守閣本の信長本陣の3人とまったく同じだが、その手には槍や薙刀を持つという違いがある。これは陰陽師としての職掌からはまったく外れている。 この六芒星組が大阪城天守閣本では信長本陣に移動し、手には何も持たない陰陽師本来のいでたちに描き換えられたのは、なぜか。 もう少しこの大阪城天守閣本を観察してみよう。 と、さらにひとつ違うところがあった。第五扇目(左から2番目)の上、ここには羽柴秀吉の部隊が布陣している。金のひょうたんの馬印が高く掲げられ、秀吉も最前線を凝視中だ。 問題なのはその前方に白く細長く湾曲した川が描きこまれている点だ。設楽原では、武田軍と織田・徳川連合軍の間に連吾川が南へ流れていたが、それと平行して、連合軍の布陣している丘の背後(西側)にも平行して流れる大宮川(宮川)という川がある。金のひょうたんの馬印を掲げた秀吉(左上)=長篠合戦図屏風(大阪城天守閣蔵) 成瀬家本では、この大宮川が秀吉隊のところには流れは無く、家康のすぐ後ろから流れが始まっているのだ。 大阪城天守閣本がもっと上流から描き始めているのは、こちらの方が正しい。(ただし実際の大宮川は信長本陣よりも西なので、少しおかしいのだが) この川の加筆は、成瀬家本の成立から間もなくそれを模写することとなった大阪城天守閣本の制作者が、現地の地形や合戦の様子について詳しい者から修正を指示された、ということなのだろう。細部にこだわってよりリアルを追求していこうというのは、いつの時代もオタクを突き動かす本能的な欲求なのだ(笑)。 ということは、六芒星メンズたちの移動も、信長の本陣に居るのが正しい、と考えてのことだったのではないか。 そもそも、この六芒星を背負った男たちは戦場で何をしていたのか。陰陽師だからといって、怨敵調伏の祈祷をしたり、式神を使って敵を討とうとしていたと考えるのは早計だ。彼らは、天気予報士だったのである。六芒星メンズの活躍 朝廷における陰陽師の配属部署「陰陽寮」は、星の動きを観察し、天文の計算によって日食を予測するなどして暦を作成し、風雲(気象)を監視して天気を予報する、専門家集団だった。 民間の陰陽師たちも同様に、それぞれの地域で暦を作り天気を予報する。農耕には気象の予測が何よりも大事なのだ。関東の三島暦・大宮暦、伊勢の丹生暦はその代表的なもので、特に三島暦は朝廷の陰陽暦と絡んで信長も関係する大騒動を呼ぶのだが、それはもう少し後の話である。 六芒星の陰陽師たちは、気象を観測し戦闘に適した日程を大将にアドバイスする。 彼らは「軍配者(軍師)」とも呼ばれた。第7回の桶狭間の戦いのくだりでも紹介した軍配者は、占いや敵味方の「気」を観察することで戦機をはかったと言われているが、一方で常日頃膨大な気象データを蓄積し、体験的な予報を下す科学者たちでもあった。 桶狭間の戦いで奇跡的な勝利を信長にもたらしたのも、大蛇(龍)への祈りと彼ら軍配者の正確な気象予報だったが、長篠の戦いのときに彼らが信長の側に待機していなかったと考える方が不自然だ。これは何も信長に限ったことではなく、当時の大将たちは皆軍配者=陰陽師を戦場にともなった。陰陽道の祖として知られる安倍晴明が祀られる晴明神社=2007年1月、京都市上京区(撮影・門井聡) その意味で、成瀬家本が家康本陣に六芒星メンズを描きこんだのも間違いではないのだが、大阪城天守閣本を描かせた人物は大宮川の流れのように「信長の軍配者こそが勝利の立役者だった」という伝承に触れていた可能性が高い。信長は、大蛇(龍)の力をあてにするだけではなく、最大限合理的で有利な条件で戦えるよう、手を打っていたのだ。 信長のブレーンというのは、まさにこの軍配者たちだった。「おみゃーら、どうだて、お天道様はしばらくの間は出ておりゃあすか」「いーーっ、ここ2、3日は雨は降らずと勘考しとりますで、お戦にかかられませ!」「であるか!もし外れたらワヤだで、間違いありゃせんか。そんなら始めよまいか!」この主従が尾張弁でこんな会話を交わしていたかと想像するのも一興だろう。信長とユダヤの関係 実はこの六芒星メンズについては、もう一つ信長との深い関係性をうかがわせる事実がある。信長の織田氏は通常平氏の流れを自称していたが、本当のところは忌部(いんべ)氏だったという。 忌部氏というのは朝廷の祭祀行事を担当した一族で、その末裔(まつえい)である織田氏は越前の織田劔(つるぎ)神社の神官だった。古代の祭祀は、あたりまえだが農耕と密接に関係しているため、暦とは切っても切れない関係がある。これだけでも陰陽師とは近しいのだが、それだけではなく忌部氏自体がユダヤ人を祖とするとも言われているのだ。 そしてユダヤ人のシンボルは、「ダビデの星」すなわち六芒星。魔除けにも「籠目」という文様がある。竹編みの籠の編み目を図案化したもので、これも六芒星そのものだ。 魔除けグッズ好きの信長にとって、六芒星メンズは実用的にも趣味的にも手放せない存在だっただろう。信長と陰陽師は幾重もの縁で結ばれていたのかもしれない。 「長篠合戦図屏風」には、もう一つ、まったく系統の違う一隻がある。名古屋市博物館蔵のもので、これが一番制作年代が古い。こちらは至ってシンプルな内容だが、描かれている武者の多くが扇を使っているのが目につく。面白いではないか。最古の長篠戦図だけに、当日は暑かったという記憶がまだ残っていたのだろう。 晴れ渡った空の下、長篠の戦いは始まり、信長は一方的な勝利を手に入れた。武田軍が突破できなかった三重の馬防柵と堀 「あっという間に切り崩し、数万人を討ち果たした。最近たまっていた鬱憤(うっぷん)を晴らしてやった」 細川藤孝(幽斎)宛てで誇らかに書き送った信長。そこには、呪術と科学というまったく相反する二つの力で大敵・武田軍を撃破した自信があふれている。 そしてこの頃から、信長は「天の与え」という言葉をしばしば使い始める。これは敵がわざわざ出て来てくれたことを指すのだが、「天がチャンスを与えてくれている」と、ラッキーボーイぶりを口頭でも書状でもアピールするようになったのは、おのれが「神に守られた存在」であることを自分自身が最も強く信じ始めた証拠だったのではないだろうか。 そしてこのあと、彼は越前へ兵を向けるのだった。

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    「倭寇の人身売買は貴重な労働力」日中朝を席巻した海賊集団の謎

    渡邊大門(歴史学者) 前近代(特に中世)において、人身売買が行われていたことはご存じだろうか。それは決して公に認められたものではないが、公然の秘密だったといえる。今回はその源流を探るべく、室町時代の人身売買の例を取り上げることにしよう。 鎌倉幕府滅亡後の1336年、足利尊氏が室町幕府を開くと、鎌倉幕府と同様に指針となる法令を制定した。これが『建武式目』であり、中原是円、真恵兄弟らが足利尊氏の諮問に答えた形式を採っている。 『建武式目』は『御成敗式目』のような裁判規範でなく、むしろ政治的な方針を示したものといわれている。その点は性格が異なっているが、以後は鎌倉幕府と同様に多くの追加法が制定された。 ただし、『建武式目』をはじめとする室町幕府の法令においては、人身売買を禁止した規定を見いだすことはできない。しかし、人身売買が行われていなかったわけではなく、関係した史料(人身売買の売券など)は残っている。 当時、人身売買や人の略奪という行為は、よりワールドワイドな方向で展開した。奴隷は世界的に存在しており、常に売買の対象となり流通していた。イスラム世界では高度に洗練された奴隷の流通システムが構築されており、中央アジア、ロシア草原、バルカン半島、ヨーロッパ北部、アフリカ大陸北部などに広がっていたという。そして、それを媒介していたのが、イスラム商人だった。 日本は島国であったが、海で広く世界につながっていた。そして、日本人の略奪や人身売買も東アジア社会で展開することになる。とりわけ中国や朝鮮との関係が重要である。その契機となったのが、14世紀半ば頃から猛威を振るった「倭寇(わこう)」の存在である。 倭寇には、「日本の侵寇」あるいは「日本人の賊」という意味があり、盗賊団のようなものになろう。倭寇という文字そのものは、404年の「高句麗広開土王碑文」に初めて確認できる。その活動は、おおむね14世紀半ば頃から15世紀初頭にかけて見られるようになった。倭寇図巻(東京大学史料編纂所提供の模写) 彼らの活動範囲は、朝鮮半島、中国大陸の沿岸や内陸および南洋方面の海域と非常に広範囲に及んでいる。当時の朝鮮人・中国人たちは、こうした日本人を含む海賊的集団を「倭寇」と呼んだのである。 倭寇の意味するところは、時代や地域によって異なっており、その定義を厳密に行うことは難しい。ちなみに、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)や20世紀における日中戦争も倭寇という言葉で表現された。そうなると、倭寇は賊に加えて、侵略者としての意味も持つことになる。 倭寇は食料などの物資に限らず、人間までも略奪行為の対象とした。朝鮮半島や中国大陸では、倭寇により人がさらわれ、そのまま日本に連行された。こうして日本に連行された人々を被虜人(ひりょにん)と称する。以下、倭寇による人の略奪を取り上げることにしよう。倭寇に悩まされた「明」 高麗王朝史の正史『高麗史』によると、1388年6月に倭寇が朝鮮半島の全羅・慶尚・揚広の三道に進攻し、多くの人々が略奪されるという甚大な被害を受けたと記す。『高麗史』の別の個所では、倭寇の船団は50艘あまりもあり、千余人を連れ去ったというのである。まさしく国家存亡の危機だったといえよう。 事情は中国においても同じであった。『皇明太祖実録』の1373年5月の記録によると、倭寇による人の殺戮(さつりく)などが問題となっており、翌年には対策が練られている。倭寇対策として水軍を充実させ、周辺海域をパトロールさせることになったのである。当時の「大明国」が倭寇の被害に頭を悩ませている様子がうかがえる。 『老松堂日本行録』という史料には、倭寇が日本海域を席巻し、朝鮮半島や中国で人をさらっていたことが記されている。『老松堂日本行録』は応永27(1420)年に足利義持の派遣使節の回礼使として日本を訪れた、朝鮮の官僚、宋希璟(そうきけい)の日本紀行文集で、当時の西日本の社会や風俗および海賊衆を記す貴重な史料である。次に、その中の一節を挙げることにしよう。  一人の日本人がいて、小船に乗って魚を捕まえていた。私(宋希璟)の船を見ると近づいてきて、魚を売ろうとした。私(宋希璟)が船の中を見ると、一人の僧が跪いて食料を乞うた。私(宋希璟)は食料を与えて、この僧に質問をした。僧は「私は江南台州(中国浙江省臨海市)の小旗(10名の兵を率いる下級軍人)です。一昨年、捕虜としてここに来て、剃髪して奴隷になりました。辛苦に耐えられないので、あなた(宋希璟)に従ってこの地を去ることを願います」と言うと、ぽろぽろと涙を流した。(この僧の主人である)日本人は「米をいただけるなら、すぐにでもこの僧を売りますが、あなた(宋希璟)は買いますか」と言った。私(宋希璟)は僧に「あなたはが住んでいる島の地名は何と言いますか」と質問した。僧は「私は転売されて、この日本人に従って2年になります。このように海に浮かんで住んでいるので、地名はわかりません」と答えた。 この男は「僧」と称されているが、「剃髪して奴隷になった」とあるので、頭を剃(そ)る行為が奴隷を意味していたと考えられる。あえて剃髪して異形にすることにより、普通の人と違うことを際立たせ、奴隷であることを視覚化させたのである。要するに剃髪した風貌が僧に似ていたので、仮に宋希璟は僧と呼んだのであろう。この男は連れ去られたのちも、転売されて今の主人に従ったらしい。 この男は故郷の中国にいたときに倭寇によって連れ去られ、売買されたのであろう。場所は、対馬と推定されている。男は慣れない漁業に従事し、食料にも事欠くありさまだったようだ。遠い異国のことでもあり、心情を察するところである。では、なぜ倭寇は中国や朝鮮から人々を連れ去ったのだろうか。 日本において南北朝の乱が始まると、それが約半世紀という極めて長期間に及んだ。とりわけ九州においても各地で戦いが繰り広げられ、著しい内乱状態に陥った。当然、農地は荒れ果て収穫が困難となり、食料が不足したに違いない。戦争時における、食料などの略奪も問題になったと考えられる。 そうなると田畑を耕作する人間は国内で調達することが困難になるので、必然的に国外に求めざるを得なくなった。九州では農業従事者の慢性的な不足があったため、捕らえた朝鮮人や中国人を売却し、農作業に従事させていたのである。対馬は朝鮮半島に近いこともあり、人身売買が盛んに行われていたという。こうして日本国内における労働力の不足は、中国や朝鮮の人々によって補われた。転売もあった人身売買 もちろん、彼らが従事したのは農業だけでない。それらを挙げると、牧畜、漁業、材木の運搬などが主たる業種である。いずれも過酷な肉体労働であり、まさしく奴隷が家畜同様に使役された物悲しさを語ることである。 しかし、近年では以上のような肉体労働だけでなく、さまざまな職種に就いていたことが指摘されている。 一つは通訳である。当時の公用語が中国語とみなされていたことから、通訳はほぼ中国人に限定されていた。中国語の読み書きがある程度できる者は、奴隷として日本に連れ去られ、日本語も堪能になると通訳を任された。通訳になると、先述した厳しい肉体労働から解放された。なお、対馬、壱岐、北九州では、日本人でも朝鮮語に通じた者がいたと推測されており、朝鮮語の通訳は必要でなかったと考えられている。 もう一つは、中国や朝鮮などの案内人として従事させることである。倭寇が中国や朝鮮に上陸する際、地理に不案内なため、どうしても土地に詳しい者が必要であった。いうなれば、倭寇の手先ということだ。皮肉にも被虜人が、倭寇の手助けをし、新たな被虜人を生み出すことになった。案内人としての職務については、中国人、朝鮮人とも行っていたようである。 謡曲に『唐船』というものがある。九州・箱崎の某(なにがし)なる者が、唐土との船争いの際、官人の祖慶(そけい)を捕らえた。祖慶は13年もの間、牛馬の飼育に使役され、肉体労働を強要されたのである。祖慶は、唐土に2人の子供を残していた。2人は父を慕い、連れ帰ろうとして日本に渡海した。祖慶は日本で結婚し2人の子供がいたが、実子との再会に大いに喜んだ。 2人の子供は箱崎の某の許可を得て、父を連れて帰ろうとしたが、日本の子供が別れを悲しんで引き留める。思い余った祖慶は海に身を投げようとするが、箱崎の某は日本の子供も唐土へ連れて帰ることを許した。 ここで重要なのは、祖慶が自由の身になっても、その子供たちは主人の奴隷ということに変わりなかったことである。父子5人は、船中で喜びの楽を奏でながら、帰国の途につくのである。この話は決して架空のものでなく、悲しい実態を反映した作品なのだろう。 このように被虜人は、国内における貴重な労働力であるとともに、倭寇の活動を支える存在であったといえるのである。当時、人身売買は各国で行われており、それは日本でも同じだったのだ。※画像はイメージ(ゲッティイメージズ) そして中国人や朝鮮人の売買は1回で完結するのではなく、さらに転売が伴った。転売された人物としては、魏天(ぎてん)なる者が存在する(以下『老松堂日本行録』)。魏天の生没年は不明であるが、中国の明で誕生し、のちに倭寇によって捕らえられ、被虜人として日本に連行された。その後、魏天は転売を繰り返され、朝鮮→日本→明→日本と移動した。最後は明への帰国を成し遂げ、洪武帝によって日本に派遣された。立場上は日本語を理解していたので、通訳ということになろう。牛馬より安価 再度訪れた日本では、室町幕府の三代将軍・足利義満の寵(ちょう)を受け、京都に居を構えたという。応永27(1420)年には、宋希璟と四代将軍・義持との会見の実現に大いに貢献した。皮肉にも魏天は、被虜人としての生活や日本語の取得が役立ったということになる。魏天は幼少時は被虜人となり、不幸であったかもしれないが、晩年は恵まれており幸運な部類に属するであろう。 被虜人は、遠く当時の琉球にも転売されたようである。14世紀の終わり頃、琉球の中山王察度は4回に渡り朝鮮に被虜人を送還している。1416年、朝鮮国王・太宗も使節を琉球に派遣して、被虜人を帰国させた。おおむね被虜人は、九州を中心にして、東は京都、南は琉球まで転売され、存在したようだ。15世紀後半の京都・建仁寺の禅居庵には、浙江省温州で被虜人になった人物が住んでいた。 女性の被虜人の場合は、日本人男性の妻になった例もあるという。また、中には性的な労働に従事させられた者もあったと推測されている。 以上のように、朝鮮や中国から連行された被虜人は、西日本を中心にして繰り返し転売されることになった。しかし、14世紀の終わり頃になると、朝鮮は日本との通交を積極的に推し進め、被虜人の送還を歓迎した。朝鮮との通交を希望する者は、被虜人の送還を進めた。この動きは15世紀初頭まで続くが、朝鮮の倭寇懐柔策により被虜人の供給が激減したため、以後はあまり見られなくなったという。 倭寇が朝鮮・中国で猛威を振るい、人々を略奪したことを述べてきたが、逆のパターンがあったことにも注意すべきである。朝鮮では報復措置として、日本人を捕らえて奴隷とし、使役あるいは売買したことが知られている。 そもそも李氏朝鮮には、法律上で奴隷の売買が許されており、世襲的な奴婢(ぬひ)が存在していた。14世紀の終わり頃、奴婢の売買は盛んに行われていたが、その価値は牛馬よりも劣っていたといわれている。日本よりも悲惨な現状にあった。しかし、次第に奴婢の売買は制限が加えられるようになり、15世紀の終わり頃には事実上の禁止となったという。 『李朝世宗実録』によると、1429年に朴瑞生(ぼくずいせい)が日本通信使として来日し、帰国後に倭寇に拉致された被虜人のこと、そして日本における人身売買について報告を行っている。その中で注目すべきは、日本人が朝鮮人や中国人を奴隷として売買していたことに加え、朝鮮人も捕らえた日本人を奴隷として売買していた事実が報告されていることだ。 朝鮮人が日本人奴隷を使役していた事実は、1408年の『李朝太宗実録』で確認することができる。この記録によると、日本国王・足利義持が派遣した船の中に、当時、朝鮮人のもとで労働に従事していた日本人女性が逃げ込んだという。この日本人女性が、いかなる経緯で朝鮮人に捕らえられたのかは明らかでない。これにより、朝鮮人のもとで日本人奴隷が存在していたことが明白になった。倭寇図巻(東京大学史料編纂所提供の模写) その後の顛末(てんまつ)はどうなったのであろうか。朝鮮サイドでは府使を遣わし、日本の船に逃亡した日本人女性を返還するよう求めた。奴隷は主人の所有物なので、ある意味で当然の要求といえるかもしれない。しかし、日本サイドの使者は、「日本に私賤はいない」と突っぱねて返還を拒否した。そのような経緯を踏まえて、太宗は日本人奴隷の売買を禁止する法令を発布したのである。 一説によると、当時の朝鮮における奴隷の割合は、相当に高かったという。太宗がいかなる理由で、日本人奴隷の売買を禁止したのかは不明であるが、仮に朝鮮で普通の人の売買を禁止しているならば、日本の「私賤はいない」という主張に従って、措置をしたのかもしれない。日本人女性が奴隷でないならば、返還するのが筋だからである。 このように、15世紀の日本において人身売買が国の枠を超えて行われたことは、非常に興味深いところである。次回以降は、さらに人身売買や奴隷の詳細を明らかにしていこう。《主要参考文献 渡邊大門『人身売買・奴隷・拉致の日本史』(柏書房)》■「強欲でケチ」秀吉はいかにして巨万の富を築いたか■「キリシタンへの見せしめ」秀吉が黒田官兵衛を疎んじた理由■「極悪の欲情」女好き秀吉、フロイスの目にはどう映ったか

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    旗印への執着と日照りが生んだ長篠の大勝利

    橋場日月(歴史研究家、歴史作家) 長島一向一揆が壊滅して8カ月近くが過ぎた天正3(1575)年4月(天正2年には閏11月があった)。信長はある人物にその姿を目撃されている。男の名は、島津家久。南九州の大名、島津義久の末弟だ。 家久は兄、義久による薩摩・大隅・日向平定のお礼参りに伊勢神宮などを巡るため上洛したのだが、同月21日、京で織田軍の行列を見たのだ。6日から10万にのぼる大軍を率いて大坂本願寺勢力との戦いに出陣し各地に転戦していた信長は、この日ようやく京に引き揚げてきた。 家久は、信長の前にまず9本の幟(のぼり)が通るのを、「黄礼薬と呼ばれる銭の形を紋にしている」と記録している。「礼薬」は「永楽」の聞き間違いだろう。つまり、これは信長の旗印としてよく知られている黄色の地に永楽通宝の図案を染め抜いた「永楽銭の旗」だったわけだ。 本稿のテーマ的には、この旗を見過ごして先に進むわけには行きそうもない。 黄色に永楽銭の旗印については、第8回ですでに触れた。自らの手で京を安定へ導くため、龍だけでなく麒麟(きりん)のパワーをも取り込もうと考えてそれを象徴する黄色を使ったという内容だったが、ここでもう少し深く考えてみたい。 そもそも、大将格の人物の黄色い旗印というもの自体が珍しい。ざっと戦国合戦の模様を描いた図屏風を見渡してみても、「湊川合戦図屏風」(京都市個人蔵)での新田義貞(黄色地に七曜紋)と「長篠・小牧長久手合戦図屏風」(松浦史料博物館蔵)の織田信長(黄色地に永楽戦)が挙げられるだけだ。後は、「関ヶ原合戦図屏風」(垂井町個人蔵)の徳川家康本陣を守る重臣のものと思われる黄色地三つ巴の旗印ぐらいか。 おっと、有名なところで「地黄八幡」の旗印で知られる北条家の猛将・北条綱成がいるのを忘れていた。この「地黄」は「北条五色備(ごしきぞなえ)」と呼ばれる赤=北条綱高、青=富永直勝、白=笠原康勝、黒=多目元忠の筆頭としての黄=綱成だった。 綱成が筆頭であるのは異論がないところだが、なぜそれが黄色なのか。 これは、古代中国の「陰陽五行」という思想からきている。すべてが木・火・土・金・水の五大要素からできていると考え、木=青、火=赤、土=黄、金=白、水=黒、と五色を割り当てたのだ。これが神にもあてはめられ、木=青龍、火=朱雀、土=麒麟、金=白虎、水=玄武となる。そのうち、大地を表す土、つまり黄色こそが筆頭とされた。武勇ナンバーワンの綱成がその色を使うのは当然だろう。 だが、ここで疑問が出てくる。なぜそんな最強の色が、他の武将たちにはなかなか用いられなかったのか。織田信長像(東京大学資料編纂所所蔵模写) それには立派な理由がある。黄色は、特別な色、高貴な色だったからだ。中国では宋の時代(10世紀末~)から黄は皇帝を象徴する色だった。広大な中国の大地=土は黄であり、同時に皇帝の「皇」と黄は拼音(ぴんいん)が同じ(huáng)であるところからそうなったのだろうが、近代までの中国において黄色は皇帝以外の使用が許されなかったのだ。 そんな色だから、中国の文化を最高のものと尊ぶ当時の日本の上層階級でも黄色はみだりに用いてよい色ではなかった。僧侶の着る法衣(褊衫、へんざん)は黄色に見えるが、それより少し赤みを加えて濁らせた壊色(えしき)と呼ばれる色になっている。旗印は永楽銭 信長は、それほど高貴な色とされた黄色を臆面もなく自分の旗印のテーマカラーとしていた。しかも、1世紀半前の中国「明」の皇帝、永楽帝の時代の銅貨である永楽通宝を意匠として。 信長のために弁護するならば、一時は織田氏と並ぶ存在だった尾張緒川~三河刈谷の大勢力だった水野氏も永楽銭(白地)を旗印としていた。 それは永享7(1435)年に関東公方の足利持氏が京の幕府に近い長倉義成の討伐に失敗する経緯を記した『長倉追罰記』(合戦後まもなく書かれたという)で参陣した水野氏について「永楽の銭は三河国水野が紋」と紹介されていることからも、信長よりかなり早い時代に織田氏が永楽銭をなんらかのモチーフに採用していた可能性もかなり高いと思う。 その一方で『旗指物』(高橋賢一著、新人物往来社)を見ると、馬印そのものが元亀の頃から使われ始め、信長が金(黄)に永楽銭の紋様を旗印とした、と説明されているので、第6回で紹介したように、銭まじないの効果を信じていた信長としては、先祖が採用した永楽銭の紋様が、偶然にも自分の好みに合っていたために旗印にも取り入れたということだろうか。 しかし、その旗印を掲げて上洛し畿内を支配するということになると、話は変わってくる。ただでさえ使用を遠慮すべき尊貴の色である黄を使うだけでなく、その中に俗なものの代名詞とも言える銭の紋様を配した旗を京にひるがえす信長に対して、中国的教養に富んだ公家や仏教勢力は「なんだ、この田舎者の物知らずめ」と鼻で笑い、織田軍を蔑(さげす)みや嫌悪の目で見ただろう。 それでも信長は意に介さなかった。この日も、黄色地に永楽銭の旗印を掲げて都に戻ってきたのだ。その次には彼の親衛隊である母衣衆(ほろしゅう)20人が通り、さらに護衛役の馬廻衆100人が露払いとなって、いよいよ信長自身が見物の群衆の前を通った。 「上総殿(信長)支度皮衣なり、眠り候て通られ候」 信長は毛皮勢の衣を着て、馬上居眠りをしたまま通り過ぎていったのである。まさに絵に描いたような田舎者の姿、だった。 いくら反発を受けても暖簾(のれん)に腕押しとばかりの態度で押し通す信長。銭の呪力を信奉していたとしても、無用な反発を生むのは得策ではないとも思われるのだが、彼の真意はやがて明らかになっていく。 居眠りをしてしまうほど本願寺との戦いに全精力をつぎこんだ信長。しかし、彼は休む間もなく次の戦場へと向かって行く。それがこの直後の、「長篠の戦い」だった。武田勝頼画像(東京大学資料編纂所所蔵模写) 実は、信長は三河・遠江の同盟者、徳川家康の使者から東三河に武田勝頼の軍勢が侵入してきたと知らされ、本願寺との戦いを切り上げて京に戻ったのだ。馬の上でも寸暇を惜しんで睡眠をとっておこうとするのも無理はない。 4月27日に京を出発、28日に岐阜城帰着。5月13日に3万8000の軍勢を率いて岐阜を出陣、18日に武田軍によって包囲攻撃されていた長篠城の西方、設楽原(したらがばら)極楽寺山に着陣する。勝因となった日照り よく知られているように、このとき信長は諸方面から鉄砲とその射撃手を引き抜き、設楽原に集結させている。戦場に投入された鉄砲の数は一般に3000挺。彼は設楽原を流れる連吾川の西に連なる山地をすべて陣地化し、前面に柵と空堀を設け、そこへ武田軍を誘い込んで銃撃戦で撃滅しようと考えていたのだ。 だが、信長着陣の5月18日は、現在の暦に直すと7月6日。まだ梅雨が明けない時期だ。戦国時代も同様で、この前後の4月25日、5月2日・11日・18日・21日・23日・27日と雨が降っている(『多聞院日記』)。 しかし、合戦当日の21日、設楽原には雨は降らなかった。多くある長篠の戦いの画(え)の中で最も年代が古く、合戦から30年ほど後の制作と考えられる「長篠合戦図屏風」(名古屋市博物館蔵)には、扇を広げて用いている武者が何人も描き込まれている。当日は暑かったという記憶が、まだ関係者に残っていたのだろう。実はこの年も「日照り」が発生し、奈良でも「近頃炎天」が続き、雨乞いの祈祷も行われるほどだったのだ。 雨さえ降らなければ、鉄砲はその威力を十二分に発揮できる。未明、ひそかに長篠城を包囲する武田軍別動隊の背後に迂回した酒井忠次らは信長から与えられた500挺の鉄砲を一斉に放って敵を撃破。長篠城は解放された。 こうなると、設楽原方面に移動して信長本陣をにらむ態勢をとっていた武田軍は、撤退しようとしても背後を織田・徳川連合軍から追撃される上、長篠城の鉄砲500挺が脅威となって身動きできない。正面の織田・徳川連合軍は「兵たちを配置につけた様子を隠蔽した」(『信長公記』の記述を口語訳)ため、勝頼は正面突破を狙って攻撃をしかけた。 だが、隠蔽された無数の鉄砲がその武田軍に向かって火を噴いたのだ。 武田軍は織田・徳川連合軍が放つ銃弾を浴び、なんとか柵まで取り付いた者も次々と敵兵の刃に倒れていった。『信長公記』によれば、一斉射撃によって武田軍の攻撃部隊はその過半数が戦闘不能になったという。長篠古戦場に再現された柵と堀(愛知県新城市) こうして山県昌景、土屋昌次、真田信綱・昌輝兄弟と、武田家自慢の猛将・勇将たちも鉄砲で撃たれて戦場に屍(しかばね)をさらし、武田軍は壊滅的な損害を受けて一敗地にまみれた。 実は、合戦前の15日、信長は部下にこう書き送っている。 「天の与えるところであるから、皆殺しにしてやる」(信長書状を口語訳) 「天の与え」という言葉は『信長公記』でも使われているから、信長は設楽原に移動してきた武田軍と決戦する絶好の機会をとらえ、殲滅(せんめつ)の意気込みを周囲にも公言していたのだろう。 だが、もし雨が降り続いていたなら。 当然鉄砲の力は半減、それ以下となり、長篠城を解放することもできないし、柵と堀に頼った白兵戦しか行えない。それでは敵を殲滅することもできず、武田軍は最悪の場合でも余力を残したまま悠々と退却することができただろう。 梅雨時にもかかわらず、前年の長島一向一揆攻めと同じく日照りによって大勝利をつかんだ信長。まさに、水を操る大蛇や龍の力を遺憾なく発揮した合戦だった。これによって、彼の自信はますます深まったのだった。

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    「強欲でケチ」秀吉はいかにして巨万の富を築いたか

    渡邊大門(歴史学者) 秀吉が大坂城を築城し、多くの女性を囲ってきたこと、室内に豪華な装飾品を置いたことなどは、以前に取り上げた。中でも大坂城や黄金の茶室は、秀吉の富の象徴であり、すべての人々が圧倒されたに違いない。 1586年10月17日、ポルトガル人宣教師、ルイス・フロイスはイエズス会東インド管区長のヴァリニャーノに宛てて、「富みにおいては、日本の金銀及び貴重なる者は皆(秀吉の)掌中にあり、彼(秀吉)は非常に畏敬せられ、諸侯(大名)の服従を受けている」という内容の報告書を送っている。 続けて秀吉が大変傲慢(ごうまん)で、諸大名と面会するときは蔑視(べっし)していたと述べている。秀吉は盤石な財政基盤を背景にして、諸大名を侮(あなど)っていたのだろうか。少なくともフロイスは、秀吉が巨万の富を掌中に収めていることを知っていた。 この頃、秀吉はすでに関白の地位にあり、欲しいものは何でも手に入っていた。特に、女性に目はなかったようで、1588年2月20日のフロイスの報告書には、秀吉が全国の美しい女性を求め、無理やり連行していたと記している。「無理やり」とはいえ、相手の親や夫にはいくらかの金を与えたのだろう。 江戸時代になると、秀吉の富裕ぶりは、どのように伝わったのだろうか。『信長公記』の著者、太田牛一が慶長15(1610)年に執筆した秀吉の一代記『大かうさまぐんきのうち』には、次のように書かれている(現代語訳)。 秀吉公が出世されて以来、日本国中から金銀が山野から湧き出て、そのうえ高麗、琉球、南蛮の綾羅錦繍(りょうらきんしゅう、美しく気品のある衣服のこと)、金襴(きんらん、金切箔)、錦紗(きんしゃ、絹織物の一種)、ありとあらゆる唐土(中国)、天竺(インド)の名物や珍しいものが多数、秀吉のもとに集まった。それは、宝の山を積むようだった。 この続きでは、農民や田舎者すらも黄金を多数所持し、路頭には乞食(こじき)が1人もいなかったという。秀吉の慈悲により、貧民には何らかの施しがなされたということになろう。ところが、これはあまりに大げさに書かれているのは事実で、さすがに乞食がいないなどはありえない。ただ、秀吉が金持ちだったのは事実である。牛一の秀吉に対する評価は、高かったといえるのかもしれない。 これとは、正反対の見解もある。小瀬甫庵が執筆した『太閤記』には、ユニークな見解を載せている。同書の巻頭において、甫庵は問答形式で秀吉の金配りが道(人の道)に近いのか否かを問い、次のように回答している(現代語訳)。 秀吉は富める者を優先し、貧しき者を削った。どうして道(人の道)に近いといえようか。百姓から税を搾り取って、金銀の分銅にして我がものにし、余った金銀は諸大名に配った。下の者(庶民)に配ることはなった。 つまり、秀吉は強欲だったというのである。ただ、この話も決して真に受けてはならない。ときは寛永年間で、3代将軍・徳川家光の治世だった。この後に続けて、甫庵は家光が万民に施しを行ったので、人々は大いに喜んだと記している。つまり、現政権を褒めたたえているのだ。豊臣秀吉木像(大阪城天守閣蔵) また、秀吉は刑罰を厳しくしたが、犯罪はなくならず、逆に家光の治世では、さほど法律を厳しくしなかったが、犯罪は多発しなかったと書いている。家光の政治手腕は優れているが、秀吉は無能だったと言いたいのであろう。つまり、甫庵は為政者におもねった論法を用いていたのである。 甫庵はさらに、「秀吉は何事にもぜいたくであり、倹約ということを知らなかった」とまで述べている。贅(ぜい)を尽くした茶室、趣味の能楽に多大な費用をかけるなど、秀吉はたしかに金遣いが荒かった。甫庵がどこまで事実を書いているか不審であるが、秀吉は贅沢(ぜいたく)で倹約知らず、おまけに貧民を助けない人物と評価している。秀吉「直轄領」の実態 このように、金銭的評価が二分される秀吉であるが、豊臣政権を支えた財政基盤は、どのように形成されたのだろうか。 豊臣政権の財政基盤を物語る史料は乏しく、慶長3(1598)年に成った『豊臣家蔵入目録』がまとまったほぼ唯一のものである。作者は不明であり、豊臣家の奉行の手になるものと考えられている。しかし、必ずしも完璧な内容のものではなく、九州の蔵入地が少し抜けているなど、若干の不備が認められる。 この場合の蔵入地とは、豊臣家の直轄領を意味する。『豊臣家蔵入目録』によると、豊臣家の蔵入地は約200万石あったという(多少の漏れはあるが)。当時、江戸に本拠を置いた徳川家康は、関東周辺に約240万石を領していた。近世中期になると、江戸幕府の直轄領は約700万石に上ったという。ちなみに、家康の次に多いのは、前田利家の約102万石である。 豊臣家の蔵入地(以下、蔵入地で統一)が多いか少ないかといえば、議論の余地がある。その秘密については、のちほど触れることにしよう。 蔵入地は、北は津軽から南は薩摩に及んでおり、大名領内にも置かれていた。地域的には五畿内(山城・大和・河内・和泉・摂津)が約64万石と最大で、全国36カ国に所在した。ただし、徳川領や毛利領には蔵入地が存在せず、それは互いの力関係が考慮されたと考えられる。また、経済的にうまみのない地域には置かれなかった。 筑前の博多(福岡市博多区)も蔵入地だった。博多は国内・海外に通じる一大貿易拠点で、経済的に発展した都市でもある。加えて、文禄元(1592)年に始まる文禄の役では、兵站(へいたん)基地として多くの物資を賄う拠点となった。秀吉は軍事拠点であった肥前・名護屋城と連携しつつ、戦いを有利に進めようとしたのだ。 諸大名の領内に置かれた蔵入地も、同じ観点から経済的に有利な場所に置かれた。 薩摩・島津氏は薩摩、大隅、日向に57万8733石を領していたが、うち1万石が蔵入地だった。問題は場所である。蔵入地が置かれたのは、薩摩湾の奥の加治木(鹿児島県姶良市)だった。加治木は島津領内で最大の収穫があった場所で、中国の貨幣「洪武通宝」が鋳造されていた(通称「加治木銭」)。※画像はイメージ(ゲッティ・イメージズ) それは、常陸・佐竹氏の場合でも同じである。佐竹氏の領内にも1万石の蔵入地が設定されたが、その場所は那珂湊(茨城県ひたちなか市)だった。那珂湊も港湾として栄えており、佐竹領内の一大経済拠点だったといえる。秀吉は経済的に恵まれた地に目を付け、積極的に蔵入地に編入したのである。 ところで、各大名の領内に蔵入地を置いたことは、いったい何を意味するのだろうか。それは、各大名の領内に豊臣家の出張所があり、諸大名が監視を受けている状況を意味した。豊臣政権は中央集権を進めるため、諸大名に政治的、経済的な影響を強めるべく、要衝地に蔵入地を設置したと考えられる。 そして蔵入地を活用して、秀吉は積極的に経済活動を行った。伏見城を築城する際、秋田杉を建築材として伐採し、運送の費用は蔵入地からの年貢米を充当した。そして、一定の利益を運送業者に保証した。 当時、秋田から小浜・敦賀までの運賃は、米100石につき50石だったという。500~700石積の船ならば、250~350石が運送業者の利益になった。秋田杉の運搬の事例では、敦賀の豪商・道川兵次郎が400間の杉の運送を担当し、約384石の利益を上げたという。秀吉が重視した鉱山 また、津軽地方の蔵入地の年貢として2400石の米が納められた際、豊臣政権の奉行を務めた浅野長政は、南部の金山にその一部を販売した。その際、浅野氏は南部氏に対して、ほかの米商人の関与を否定した。つまり、秀吉は米の販売権を独占することで、高値での米取引を実現したのである。秀吉が豪商を活用した点は、後に詳しく触れよう。 蔵入地が1カ所に集中するのではなく、全国各地に点在していることには、大きなメリットがあった。それは、先に記した諸大名の監視のほかに、諸大名の経済拠点を蔵入地にすることにより、効率よく収益を上げることができ、なおかつ米などを独占的に販売することで、多大な利益を確保できた点である。 直轄領として、秀吉に多大な利益をもたらしたのは鉱山だった。秀吉は越後、佐渡、陸奥、出羽などの主要な金山を掌握するだけにとどまらず、石見銀山(島根県大田市)、生野銀山(兵庫県朝来市)などの銀の産出地も配下に収めた。そこに関与したのは、豪商たちだった。 実際の運営は豊臣政権の直轄でなく諸大名が関与し、実質的には商人などに代官を任せて、金銀を運上(上納)させていた。つまり、諸大名に命じて鉱山の開発を進めさせ、鉱山経営には商人たちがかかわったのだ。たとえば、平野郷の豪商・末吉次郎兵衛は越前・北袋銀山の経営を秀吉に願い出、通常なら上納金が銀30枚のところだが、70枚にすると申し出て、見事に経営権を獲得した。豪商にとって、利権が大きかったのだろう。 そのほか、秀吉はさまざまな名目で、運上の徴収を行った。 金座の後藤氏は、金貨を鋳造しており、その品質を保証するため書判(サイン)を記していた。また、銀座の大黒常是(じょうぜ)という堺の商人も、銀貨の鋳造を行っていた。秀吉は彼らに金貨や銀貨の鋳造権を認める代わりに、上納金を徴収していた。 このほか、大津から京都への陸運、琵琶湖や淀川の水運についても、それらの権益を独占する業者に上納金を納めさせていた。古来から琵琶湖の交通権は堅田衆が握っており、往来する船から交通料を徴収していた。交通料を徴収した堅田衆は、船が安全に往来できるよう、取り計らっていたのである。これも一種の特権だった。織田信長が楽座を発布すると、堅田衆の特権は失われたが、秀吉は天正15(1587)年に堅田・大津の船を集め、「大津百艘仲間」を作った。ある意味で信長の路線から後退する流れである。現在も残る生野銀山の入り口=兵庫県朝来市 そのルールとは、琵琶湖北部方面の公定運賃を定め、その上納金として、秀吉に年間銀700枚を差し出すというものだった。また、特権の見返りとして、蔵米や御用材などについては、無料で運送を命じたのである。 京都から大坂を結ぶ淀川と神崎川の水運は、過所(書)船(関所通行証を持った船)が業務を独占していた。信長の時代でさえも、御用商人の今井宗久は過所(書)船を利用しなくてはならなかった。大津から京都を結ぶ陸運については、大津駄所という馬借(運送業)が古くから特権を保持していた。秀吉は彼らの特権を認めて、上納金を納めさせることにより、財政を豊かにしたのである。「算勘にしわき男」 ほかにも、堺諸座役料なるものがあった。戦国期の堺には同業組合としての座は知られておらず、なぜ座が残っていたのか不明である。平野郷(大阪市平野区)の豪商・末吉氏に対しては、信長が堺南北馬座を認めた例が唯一である。 今井宗久は信長に対して、塩合物(塩で処理した魚・干魚の総称)の過料銭の徴収の許可を求めている。おそらく宗久は、以前から塩合物についての特権を保持していたと考えられる。千利休も、和泉国内や泉佐野の塩魚座から何らかの収入を得ている。秀吉は盛んな経済力に目を付け、商工業の団体からさまざまな形で上納金を得ていたようだ。 さらに、秀吉は商人を積極的に活用することにより、戦争の準備を円滑に進めようとした。文禄・慶長の役の際には、兵糧の米を大量に集めるため、博多で銀10枚で80石という米相場にもかかわらず、秀吉は銀10枚で77石あるいは70石(本営のある名護屋)という高値で買い上げると言った。こうして米を買い占めた。 博多では500石積の船の運送料が銀で約60枚だったが、名護屋では銀で約70枚となった。つまり、名護屋では銀10枚程度の儲けになるので、豪商たちにとって大きな利益となった。豪商は運送だけでなく、蔵入米や各種物産の管理もしていた。 ところが、やがて秀吉の時代は終焉する。 慶長3(1598)年8月に秀吉が亡くなると、その莫大な遺産は子息の秀頼に継承された。残念ながら総額は不明であるが、相当な額だったのはたしかであるといえよう。しかし、慶長5年9月の関ヶ原合戦において、秀頼はほとんどの蔵入地を失った。それでも、豊臣家の財政は豊かだった。 秀頼は慶長19年に方広寺(京都市東山区)の大仏の造営に着手したが、それは秀吉の豊かな遺産があったからだった。ところが、皮肉なことに方広寺の梵鐘(ぼんしょう)に刻まれた「国家安康」の文字が徳川家康を呪ったものと解釈され、同年から大坂冬の陣が開始する。 豊臣方には1人として大名が味方をしなかったが、代わりに馳せ参じたのは、各地で失業生活を送っていた牢人(主人を失い秩禄のなくなった武士)たちだった。むろん、彼らの目当ては戦後の恩賞だけでなく、当座の生活資金として支給された金銀だった。豊臣家は秀吉の遺産を元手にして牢人をかき集め、徳川との戦争に踏み切ったのである。兵糧や武器・弾薬の購入にも、秀吉の遺産がつぎ込まれた。大坂城(ゲッティ・イメージズ) 慶長20年5月の大坂夏の陣で、豊臣家は滅亡した。いち早く家康は金座の後藤庄兵衛に命じて、大坂城内に残る金銀の調査を命じた。結果、城内から金2万8060枚、銀2万4000枚を見つけ出して没収した。当時の庶民の間では、金が2、3枚もあれば金持ちだとされていたので、膨大な額である。 秀吉は「算勘にしわき男(そろばん勘定にやかましい男。ケチ)」と称されたが、その経済感覚は優れたものがあった。それだけの才覚がなければ、とても天下統一などはできなかっただろう。そこには意外にも、幼少時から青年期に至るまでの「金の苦労」が少なからず影響しているのかもしれない。主要参考文献脇田修『秀吉の経済感覚』(中公新書)

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    「ドクロの盃」に誓った信長、仏教根絶と第六天魔王の深すぎる因縁

    橋場日月(歴史研究家、歴史作家) 天正2(1574)年、浅井久政・長政父子と朝倉義景の首を薄濃(はくだみ)にして正月の酒席に供するという、現代人にとっては衝撃的な演出をしてみせた信長。 だが、それは価値観が違うわれわれだからそう感じるだけで、人の首を見るなど日常茶飯事の戦国時代はまた話が違う。なにせ、当時の女性の覚書『おあむ物語』には、合戦で味方が獲ってきた生首に女性たちがお歯黒をほどこすシーンまであるぐらいなのだから。 『信長公記』でこの3人の「首」が出された場面は前回にも紹介したが、「それぞれが謡い遊興し、なんともめでたい結果になったと喜んだ」とある。これをアレンジした『甫庵信長記』でも、「この肴(さかな)で下戸も上戸もみな飲もう、とそれぞれが歌い、舞って、酒宴はしばらく終わらなかった」「信長公は皆が数年にわたって苦労して功績を重ねてくれたおかげだ、こんな肴で酒宴を開けることになったのは本当にめでたいことだ、と仰(おっしゃ)った」と、一同は浮き立つように酒宴を楽しむ情景が描かれている。 「みんな、信長が怖くて楽しんでいるふりをしたのだろう」と思うところだが、『おあむ物語』など見る限り、どうやら酒席の人々はまんざらお芝居ではしゃぐふりをしてみせたわけではなく、案外本気で喜んでいたのかもしれない。 『信長公記』にも『甫庵信長記』にも、「薄濃」にされたのは「首(こうべ、くび)」だと書かれている。これだと生首かともとられそうだが、いくら秋から冬にかけてとはいえ、生首を3カ月あまりもそのまま保存しておけるものだろうか? 塩漬けや酒漬けにしたところで、そうそう長くはもたないだろう。 肴にされた浅井長政側の史料『浅井三代記』は100年近く後に成立したもので信頼性はとても低いのだが、「肉を取り去って(漆で)朱塗りにした」と書かれている。 つまりドクロにされていたということだ。この部分に限っては、それが合理的ではないか。織田家の正月の宴に出された3人の首は、ドクロだった。※画像はイメージです(GettyImages) ちなみに、この3人のドクロの頭頂部が切り分けられて盃(さかずき)にされ、信長の家臣たちが回し飲みさせられたなどというエピソードを聞いたことがある方がおられるかもしれないが、それはこの『浅井三代記』が「盃の上に御肴にぞ出しにける」と書いてあるところから誰かが想像を働かせた創作―と言いたいところなのだが、それがどうもそうとばかりも言い切れない節がある。第六天魔王とドクロの関係 『今昔物語集』という平安時代の物語集の名前を、読者の方々も一度は聞かれたことがあると思う。その巻第一の第六話は「天魔、菩薩の成道(じょうどう)を妨げんとすること」なるタイトルだが、これは菩薩=釈迦の仏教修行を、天魔(第六天魔王)が邪魔しようとした、という意味だ。 その中で、弥伽(ミカ)と迦利(カリ)という天魔の姉妹がそれぞれ手に「髑髏(どくろ)の器」を持って釈迦の前に現れ、いろいろ妖しいポーズをとってみせた、という一節がある。この髑髏の器というのが、そのままドクロの盃のことなのだ。 第六天魔王とドクロの盃。二つをつなぐ元ネタがある以上、第六天魔王を名乗った信長が3人の首をドクロの盃に仕立てたとしても、不思議はない。仏教に対する外法(げほう。魔法、魔術、妖術なども含む)に使われる髑髏は、外法頭(げほうあたま、げほうがしら)と呼ばれることからも、ドクロの盃は「仏教の敵対者」としての象徴を意味する。 前年に第二次長島一向一揆攻めで失敗し、この正月の宴の直後には越前一向一揆に蜂起されることになる信長にとっては、「今年は刃向かってくる仏教勢力との戦いの正念場だ」という宣言でもあったのかもしれない。実際、この数カ月後に長島一向一揆は皆殺しにされ、さらに翌年には越前一向一揆も殲滅(せんめつ)される運命をたどっている。 箔濃(はくだみ=薄濃)については中国の『史記』に記述があり、台湾の故宮博物院には祭儀に用いられた箔濃が収蔵されているという。 こうして浅井久政・長政父子と朝倉義景のドクロは第六天魔王の象徴的アイテムとして漆塗りにされ諸将の前に飾られた。戦国武将の浅井長政らを描いた絵画=和歌山県高野町(山田淳史撮影) だが、どうも信長はそれだけのためにドクロを見せ物にしたわけではなさそうだ。 漢字研究の大家である白川静氏によれば、古代中国では偉大な指導者の「髑髏」が大切にされて魔除けのために祀られ、その色が「白」という漢字の起源になったという(『漢字百話』(中央公論新社)ほか)。 野ざらしで白くなった英雄のドクロ。それをたたくことでドクロの生前の霊を迎え、まじないの効果をあげようとされていたというのだから、この点でも魔除け好きな信長との接点が出てくる。浅井父子と朝倉義景は4年間にわたって信長を苦しめ続け、あわや破滅かというところまで追い詰めたほどの武将だったから、その呪霊の力も相当なものに違いない。信長の怪しいブレーン ひょっとすると、信長の側にはこういうオカルト的な知識に詳しいブレーンがいたのではないか。20世紀最悪といわれる独裁者、ヒトラーの場合、カール・エルンスト・クラフトという大物占星術師がナチスドイツの躍進に貢献したというが、実は信長にもそういうスタッフがいたと考えられる節もある。それについては近々触れることになるだろう。 さぁ、それでは話を進めて、信長がドクロを飾ってその意気込みを表現した第三次長島一向一揆攻めについて語ることにしよう。 この年の7月は、雨が極端に少なかった。徳川家康の史料『当代記』に「この夏秋、旱天(かんてん)」とあるように、旱(ひでり)が起こったのだ。奈良でもこの月「近般もってのほか炎天」と嘆かれ(『多聞院日記』)、島根でも4月からこの月にかけて干ばつとなる(気象研究所『日本旱魃霖雨史料』)など、広い範囲が水枯れで干上がった。 信長が行動を起こしたのは、ちょうどそのタイミングだった。13日に7万とも8万ともいう軍勢を率いて岐阜城から出陣した信長は、翌日戦闘を開始。海も陸も隙間なく長島を包囲した織田軍は次々に一向一揆の支城を打ち破り、一揆勢を切り捨てていく。大鳥居城と篠橋城の一揆勢は耐えきれなくなって降伏を申し入れるのだが、信長はこれを拒否した。「いろいろと一揆の者どもが懇願して来るが、この期に根切りすると決意している」と書状にも記しているように、彼は「根切り」=殲滅、皆殺し以外は考えていなかった。 8月2日、夜陰にまぎれて大鳥居城から脱出しようとした一揆勢1000人あまりが切り捨てられてしまう。雨雲がまったくない夜空は月明かりも十分に明るく、織田軍にとって一揆勢を捕捉するのは造作もなかっただろう。伊勢長島一向一揆(歌川芳員、『太平記長嶋合戦』) それより何より、河川の水位が下がっていたことが信長の強い味方となっていた。木曽川・揖斐川・長良川の「木曽三川」の流れの中にある「輪中」を城塞(じょうさい)化した長島城などは、川の水が少なくなればそれだけ防御力を喪失するためだ。 信長は大鳥居城の虐殺について、「男女ことごとくなで切りにさせた。身投げして死んだ者も多かったようだ」と自慢してみせ、「長島の願証寺がいろいろとわび言を申し入れてきているようだが、一切取り上げるなと命じてある」と改めて殲滅の実行を確認している。正月に三つのドクロを前に立てた反織田の仏教勢力の根絶の堅い誓いは、小揺るぎもしなかった。「自分は神」と確信 残る屋長島・中江の二城と本拠の長島は希望のない籠城に突入したが、特に篠橋城から多くの者たちが逃げ込んだ長島は兵糧の準備も乏しく、地獄の飢餓状態に陥っていく。「城中の男女に餓死者が殊の外多く出ているようだ」と信長はその陥落も間近いことを予期し、9月29日に一揆勢が長島から退去しようとするのを認めるふりをした上で、船で城内からこぎ出してきたところを鉄砲で一斉に撃ち倒させた。みるみる殺されていく仲間たちの姿に、死に物狂いになった一揆勢は織田軍の手薄なところに突撃をかけ、生き残った少数だけが大坂まで逃げていったという。 敵の意外な抵抗に怒り狂った信長は、その日のうちに屋長島・中江の二城に四方から火をかけた。渇水により陸の上はすっかり乾燥しきっていたこともあり、火はあっという間に回って2万人という籠城者をすべて焼き殺してしまったという。まさに地獄の業火をこの世に出現させたようなありさまだっただろう。 この日、彼は陣を払い、岐阜城へと凱旋(がいせん)の途につく。 ドクロの誓い通りにまず長島一向一揆を殲滅した信長。彼は滞陣中に「大坂を皆殺しにする準備を最優先にせよ」と細川藤孝に書き送っている。一向一揆の本尊、大坂本願寺に総力戦を挑もうというのだ。武田勝頼の銅像=山梨県甲州市 干ばつがもたらした渇水により長島一向一揆攻めを成功させた信長。彼は、桶狭間の戦い以来続いている龍・大蛇の神通力による「水」の制御がここでも自分に味方したことに気をよくしていたことだろう。   それは、彼が龍そのもの、つまり自らが神の力を備える存在だと信じる方向へと彼を導いていくきっかけとなったようだ。 そして、彼の自信を絶対の確信へと変える大作戦が、この後に待っている。明くる天正3(1575)年4月21日、甲斐の武田勝頼が1万5000の兵を率いて徳川家康領の三河国の東部へ侵入し、各地を脅かした後、5月11日に長篠城を包囲したのである。 これに対し、信長は徳川家康からの応援要請を受けて2日後の13日に岐阜城を出陣する。信長一世一代の大合戦、「長篠の戦い」の火蓋が切られたのである。

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    「キリシタンへの見せしめ」秀吉が黒田官兵衛を疎んじた理由

    渡邊大門(歴史学者) これまで見てきた通り、豊臣秀吉は決してイメージ通りの明るさがある人物ではなかった。秀吉はときに諸大名や家臣の行動に逆上し、厳しい処分を下すことがあった。秀吉の逆鱗(げきりん)に触れ、「臭い飯」を食うことになった武将も少なくない。ただ、秀吉の部下への厳しい対応は、冷徹な性格だけが理由ではなく、期待を含めた「愛のムチ」という側面もあったのだろう。 その被害者の一人として、黒田官兵衛孝高がいる。官兵衛といえば、「偉大なナンバー2」と称され、秀吉がその存在を恐れたといわれている。しかし、それは真っ赤な嘘で、わずか約13万石の小大名の官兵衛が秀吉に敵(かな)うわけもなく、いいかげんな史料に基づいた、後世の人々による過大評価に過ぎない。 結論を言うと、官兵衛が秀吉から悲惨な目に遭わされたのは、彼がクリスチャンだからだった。官兵衛がクリスチャンだったことは、福岡藩の正史『黒田家譜』には書かれていないが、フロイスの『日本史』の記述により明らかになっている。『黒田家譜』に書かれていないのは、近世になってキリスト教の禁止が本格化し、中興の祖・官兵衛がクリスチャンでは都合が悪かったからだ。 官兵衛がキリシタンに関心を抱くようになったのは、小西行長の勧誘によるものであった。次いで、官兵衛を蒲生氏郷と高山右近が受洗へと導き、「小寺シメアン官兵衛」と称したという。天正13(1585)年のことである。ただ、実際に官兵衛の洗礼名は「シメオン」なので、標記が異なるのは発音上の問題であると考えられる。実際、官兵衛は花押の代わりにローマ字印を使うこともあったので、キリシタンだったのは確実である。 官兵衛は秀吉の側近として重要な任務に従事していたので、デウス(神)のことを知る時間が甚(はなは)だ乏しかったと伝える。したがって、キリスト教に関する基礎知識には欠けていたようだ。にもかかわらず、イエズス会では官兵衛に大きな期待を抱いた。官兵衛が教えを聞く機会を持てば、その信仰は堅固になり、「デウスの奉仕」に役立つと述べている。 官兵衛が豊臣秀吉のもとで毛利氏と国境策定をめぐり、毛利輝元と交渉を行った際、イエズス会のコエリュ副管区長の要請に応じて、山口でキリシタンがもとのように居住できるよう働きかけることを応諾した。官兵衛はキリスト教の熱心な信者であり、布教の手助けを行っていたことが明らかである。黒田如水居士画像=祟福寺(福岡市)所蔵 これまで豊臣秀吉はキリスト教に一定の理解を示していたが、天正15(1587)年6月に博多でバテレン追放令を発令し(「松浦史料博物館所蔵文書」)、キリスト教の信仰は事実上禁止された。早速、秀吉はキリシタン大名・高山右近に棄教を強制し、右近がこれを拒否すると改易という厳罰に処したのである。 その矛先は、官兵衛にも向けられた。『日本史』には、秀吉がキリスト教を激しく憎悪して、19にわたる決定事項を下したと記されている。そこには、官兵衛について、次のように書かれている。 過ぐる戦争(九州征伐)において輝かしい武勲をたてた官兵衛殿に対しては、豊前の国を約束していたが、彼(官兵衛)がキリシタンであり、貴人(諸大名)たちに、我らの教え(キリスト教)を聞いて受洗するように説得しているとの理由から、後刻、(秀吉は)大いに(官兵衛)を叱責し、厳しい(仕打ちに)より彼からそれ(豊前国)を没収した。その後、(官兵衛への厳しい処分を)保持しきれなくなって、彼にふたたび(豊前国)を与えることになったが、かなりの部分をだまし取った。 キリシタンの官兵衛が受洗を諸大名に熱心に勧めたことから、秀吉は激しく官兵衛を叱責し、いったん恩賞として与える予定だった豊前を取り上げた。ところが後日、秀吉は官兵衛に厳しい態度で接し続けるのが困難であると悟り、大幅に削減したうえで、改めて官兵衛に豊前・中津を与えたというのである。秀吉が再び与えた理由は判然としないが、2人の関係に亀裂が入っていたのは明らかである。秀吉の禁教に反した官兵衛 その後、官兵衛が豊前を領したとき、短期間で多くの者たちの改宗に成功したという。その中には、自身の子息、長政や筑後の毛利秀包(ひでかね)も含まれている。これだけでなく、多くの武将に改宗を持ちかけ成功した(『日本史』)。それゆえ官兵衛は、イエズス会から大いに頼りにされたのである。これは、禁教を推進する秀吉の悩みのタネでもあり、方針に反する行為だった。 秀吉が大活躍した官兵衛に対して、わずか豊前・中津しか与えなかった理由は、これまで俗説がまかり通っていた。「官兵衛を恐れた秀吉は、九州の僻地(へきち)に押し込め、石高も最小限に抑えた」というのはその代表的な見解だろう。官兵衛を過大評価した、典型的な解釈である。実際は官兵衛がキリシタンであり、熱心に信仰を周囲に勧めることが気に入らなかったのだ。 秀吉は官兵衛に対し、豊前国を与える件について、次のように罵倒した(『日本史』)。 「汝(官兵衛)はそれ(豊前国を支配すること)に価せぬ。(豊前を)統治する能力もない。汝(官兵衛)はキリシタンになっただけでは満足せず、諸国の君侯(大名)や他の貴人たちに対して、キリシタンの教えを聞いて洗礼を受け、当初抱いていた神々(仏教、神道)への信仰を捨てるように盛んに説教し、説得し続けてきたのであるから、汝(官兵衛)に国(豊前)を与えるわけにはいかぬ」と(秀吉は)言い、さらに彼(官兵衛)に対して幾多の罵詈雑言(ばりぞうごん)を浴びせかけた。 秀吉は官兵衛に豊前を治める器量がないと、面前で言い切っているのだから、もはや両者の関係は決裂状態だろう。官兵衛がキリスト教の信仰を周囲に勧めるのも気に入らなかったらしい。おまけに、詳しくは書かれていないが、秀吉は続けて官兵衛に幾多の罵詈雑言を浴びせかけたという。それでも秀吉が官兵衛を起用し続けたのは、彼の能力が高かったからと推測される。 次の記述を見る限り、秀吉は官兵衛を高く評価しており、実は3カ国を与えようとしていたことがわかる(『日本史』)。 その後、(秀吉は)彼(官兵衛)に3カ国を授けるような期待を抱かせておきながら、豊前国しか与えず、しかもなおその(豊前国の)の一部を接収して(毛利)壱岐守に授け、汝(官兵衛)がキリシタンゆえにこれを没収したのだ、と(秀吉は)言った。 このように、秀吉は官兵衛を高く評価しており、最初は内々に3カ国を与えると約束をしていた。それは、キリスト教の棄教との交換条件だったのだろうか、結局は3カ国どころか、豊前・中津だけになったのは、先述の通りである。ただし、3カ国というのは、具体的にどの国なのかは不明である。伝黒田如水肖像(滋賀県長浜市の樹徳寺所蔵) ところが、この話はまだ終わっていない。官兵衛は相変わらずイエズス会の肩を持ち、秀吉に種々交渉を行った。官兵衛がイエズス会の側に立って発言した際、秀吉は次のように激高したという(『日本史』)。 「汝(官兵衛)はまだバテレンどものことを話すのか。汝(官兵衛)がバテレンに愛情を抱いており、また汝(官兵衛)がキリシタンであるために、汝(官兵衛)に与えるつもりでいたもの(領地)の(うち)、多くを取り上げたことを心得ぬか」と(秀吉は)答えた。 秀吉は官兵衛がキリスト教の信仰を止めず、それどころかイエズス会に寄り添った態度を取るのが気に入らなかった。官兵衛が本来与えられる領地を取り上げられたのは、彼がキリシタンだからだ、と秀吉は明快に答えている。『日本史』の別の記述によると、官兵衛が多くの人々をキリスト教に改宗させたので、秀吉は官兵衛に数カ月間会わなかったと記す。2人の関係は、険悪だった。秀吉の死を願うほどの憎悪 このように関係が悪化したのだから、官兵衛は秀吉に対し、強い憎悪の念を抱くのはやむ得ないところである。キリスト教に迫害を加える秀吉について、官兵衛は次のような感想を持っていた(『日本史』)。 拙者(官兵衛)はこのたびの悪魔的な動揺と変化(秀吉による官兵衛への罵倒)を、この上なく憂慮している。だが我らの主(デウス)が(秀吉を)かく許し給うからには、そこには極めて正当な理由が存するはずである。(中略)だがデウスは、かかる極悪人(秀吉)を罰さずにはおかれぬから、拙者(官兵衛)が思うには、(秀吉はこれ以上)長くは生き得ないだろう。 官兵衛はデウスの意志としながらも、秀吉はそんなに長生きをしないと断じている。主君の死を願っているのだから、秀吉への憎悪の念を推し量ることができる。ただ、官兵衛は秀吉と口論におよぶことはなく、一方的に罵詈雑言を浴びせ掛けられるだけだった。それは、秀吉が主君だったからで、決して口ごたえできなかったからだろう。しかし、キリスト教関係者には、秀吉への不満を正直に吐露していたのである。 こうして秀吉と官兵衛の距離は着かず離れずのまま保たれるが、文禄・慶長の役により決定的に破綻する。 文禄元(1592)年3月から、秀吉は全国の大名たちに朝鮮半島への出兵を指示した。当初、日本軍は破竹の勢いで進軍し、朝鮮半島全土を占領する勢いだった。しかし、義兵が日本軍への抵抗を活発化させ、李舜臣(り・しゅんしん)率いる水軍が日本軍を打ち破ると、とたんに情勢は不利になった。苦境に追い込まれた日本軍は、新たに手を打たねばならなかった。以下『日本史』により、秀吉と官兵衛との間にいかなることがあったのか確認しておこう。 文禄2年6月、秀吉は明に対して和平の条件を伝えたが、一方で、秀吉は朝鮮半島の海辺に12の城郭を作るため、官兵衛を派遣して現地の武将に命じるように手配した。手順は、まず官兵衛が全軍の指揮を執り、現地の武将を率いて全羅道を攻略し、その後、12の城を築くというものであった。ちなみに、秀吉の命令は絶対であり、決して逆らったり、意見したりすることはできなかった。光化門近くの広場に建つ李舜臣の像=韓国・ソウル(鴨川一也撮影) しかし、現地の武将たちの間では、まず12の城を築き、その後、全羅道を攻略すべきであるとの見解が大勢を占めた。防御施設をしっかり作った方が安心できるからであろう。秀吉の命令とは、手順がまったく逆である。そこで、官兵衛は彼らの意向を踏まえ、他の重臣とともに秀吉のもとを訪れ、現地の方針を伝えた。このことが、官兵衛に最悪の事態をもたらすことになる。 朝鮮に駐屯した武将たちは、現地の情勢を踏まえて、秀吉の作戦について変更を「お願い」するつもりだった。しかし、この頃の秀吉は度重なる敗戦に神経質になっており、自身に反対意見を述べることを許さなかった。秀吉に面会しようとした官兵衛は、次に示す通り、想定外の悲惨な目に遭ってしまう。 朝鮮にいる武将たちのこの回答と意見は、大いに関白(秀吉)の不興を買った。彼(秀吉)は、少なくとも(朝鮮全羅道)を一度攻撃した後に使者を寄こすべきであったと言い、彼ら(朝鮮に駐屯中の武将)を卑怯者と呼んだ。なおまた官兵衛に対して激高し、彼(官兵衛)を引見しようとせず、その封禄と屋敷を没収した。 秀吉からすれば、一度は命令を聞いて朝鮮全羅道を攻撃し、その後に相談に来るべきであって、自分の命令を最初から無視するのはけしからん、ということになろう。その交渉の使者が官兵衛だったが、秀吉と官兵衛はキリスト教をめぐって対立する状態にあった。秀吉の怒りは激しく増幅し、官兵衛に封禄と屋敷の没収という厳しい処分を科した。これは「見懲(こ)り」といい、諸大名に対する見せしめの一つだった。謎多き官兵衛の引退 この話がまんざら嘘でないということは、文禄2年5月25日付前田玄以書状(駒井重勝宛)により明らかである(「益田孝氏所蔵文書」)。この書状によると、官兵衛は文禄2年5月21日に名護屋城の秀吉のもとを訪れ面会を求めたが、追い返された事実が判明する。官兵衛は秀吉の指示通りの作戦を実行しなかったので、不興をこうむったのである。もう一度、官兵衛は秀吉を訪ねたが、結果は同じことだった。 秀吉の逆鱗に触れたため、官兵衛は次の通り出家に追い込まれた(『日本史』)。 官兵衛は剃髪(ていはつ)し、権力、武勲、領地、および多年にわたって戦争で獲得した功績、それらすべては今や水泡が消え去るように去っていったと言いながら、如水、すなわち水の如しと自ら名乗った。かくて彼(官兵衛)は息子(長政)がいる朝鮮に戻るのが最良の道であると考え、その地に帰っていった。彼(官兵衛)は関白(秀吉)に謁し得ることを望んでいたが、それはなんら彼(秀吉)からの寵愛を得んとしたからではなかった。なぜなら彼(官兵衛)は、もはやすでに年老い、長政の所領である豊前に隠居し、救霊のことに専念したいと願っていたのである。 官兵衛は天正17(1589)年に家督を子息、長政に譲っていたので、実害はなかったといえるのかもしれない。 これまで官兵衛引退の件に関しては、病気によるものであるという説が主流だった(秀吉を恐れて早い引退を決断したとも)。若い頃の官兵衛は、荒木村重が籠(こ)もる有岡城で、1年余にわたる幽閉生活を余儀なくされた。それにより頭髪が抜け落ち、膝にも傷病を負ったという。また、朝鮮出兵後、病により帰国したこともあった。黒田官兵衛の顕彰碑=兵庫県姫路市  ところが、『日本史』で経緯を読む限り、官兵衛が出家をしたのは、朝鮮半島における作戦をめぐり、秀吉から勘気をこうむったというのが事実らしい。官兵衛が病気などの理由により引退したという通説とは、大きく異なっている。 ただ、こうした史実について、裏付けとなる日本側の史料が乏しいのは、誠に残念であると言わざるをない。また、フロイス『日本史』の史料的な評価も十分ではなく、今後の課題である。たとえば、禁教を推進した秀吉の評価が辛く、キリシタン大名には甘いというのは一例である。しかしながら、『黒田家譜』のように官兵衛を顕彰することに一色になっておらず、ある意味でリアルな姿を伝えていることは誠に興味深い。 このように、官兵衛は秀吉から厳しい制裁を受けたのだが、後年は秀吉に対して憎悪の念がなかったような感想を漏らしている(「吉川家文書」)。そのような心境の変化がなぜ生じたのかは不明である。主要参考文献渡邊大門『秀吉の出自と出世伝説』(洋泉社・歴史新書y)

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    「卑弥呼の謎」を解くカギはある

    邪馬台国の謎解きに迫るニュースが久しぶりにあった。有力候補地の一つ、奈良県・纏向遺跡から出土したモモの種を放射性炭素年代測定したところ、女王卑弥呼が在位した年代と重なることが分かったという。畿内説を補強する新しい材料だが、とまれ九州説も黙っちゃいない。再び邪馬台国論争を追う。

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    「卑弥呼の宮殿は吉野ヶ里」この仮説を覆す発掘成果はあるか

    七田忠昭(佐賀県立佐賀城本丸歴史館長) 邪馬台国(やまたいこく)の所在地が盛んに論議されるのは、言うまでもなく『三国志』魏書東夷(とうい)伝の中の「倭人伝(わじんでん)」に「…南至邪馬台国、女王之所都(…南には邪馬台国があり、そこは女王が都をおいているところ)」と記されているからだ。つまり、邪馬台国は倭国の都の所在地であり、倭国王卑弥呼の宮殿が置かれた国だからである。 その議論は江戸時代から本格化する。邪馬台国への行程記事と、記紀など日本の古記録に記された人物や地名からの推察が主流を占めた。本格的な議論は江戸時代の儒学者、新井白石や国学者の本居宣長、明治時代末期の東京帝大教授の白鳥庫吉(くらきち)と京都帝大教授の内藤湖南による論争以降、九州地方と近畿地方が二大候補地として定着した感があった。 考古学からのアプローチも大正末期に始まる。東京帝室博物館の高橋健自は、邪馬台国は「当時の政治・文化の中心であり、中国文化の影響が大きかった場所」に違いないと考え、中国漢・三国時代の銅鏡やその模造品が畿内で多く出土することなどから、邪馬台国は畿内にあったと主張した。 京大教授の小林行雄は、近畿地方を中心に古墳から出土する三角縁神獣鏡に代表される同笵鏡(どうはんきょう、同鋳型で鋳出された鏡)とその地方への分布関係などから近畿・大和説を唱え、三角縁神獣鏡を魏皇帝から卑弥呼やその宗女台与(とよ、壱与(いよ)とも)に下賜された「銅鏡百枚」とみた。 しかし、江戸時代以来、現在に至るまで、300年弱の年月をかけての議論は実らず、近畿(大和奈良)説と九州(九州北部有明海沿岸)説を筆頭に、混迷を極めている。文献の解釈や考古学的成果に決定打が現れないからであった。そのような中、1986年から始まった佐賀県吉野ケ里遺跡の発掘調査は、邪馬台国所在地の議論に多くの有意義な情報を提供することになった。 弥生時代の終わりころ、倭国の都があったとされる邪馬台国の位置については、後の大和王権の成り立ちや、日本の古代国家成立と関連して重要な意味を持っている。邪馬台国の位置を確定することは、歴史学・考古学の重要な課題である。 邪馬台国問題は、大和王権の成立など古墳時代以降の政治情勢、ひいては古代国家成立と深く関わる問題として重要である。奈良・大和地方で生まれた大和王権が広く列島に波及するという後の時代像に影響されることなく、まず倭人伝の記事と考古学のこれまでの成果を比較検討することから始めなければならない。 倭国は、倭人伝が伝えるように、魏と正式な外交を保ち、相互に往来もしていた。つまり、倭人伝の記述と、発掘によって明らかにされた同時期の考古学や関連諸科学の研究成果とを対比し、中国王朝との外交の成果に視点を置いて、邪馬台国の中心集落の様相について考えなければならない。邪馬台国や卑弥呼の居所のありようを知る記述が倭人伝の中にいくつか存在するが、それらは考古学でしか解釈できないからである。 ここでは、倭人伝の記述から想起される、邪馬台国と呼ばれる集落群やその中心集落の構造、中心集落の中に存在した卑弥呼の宮殿の構造を、考古学の発掘成果と照合してみると、おのずと九州北部地方だと言わざるを得なくなる。邪馬台国中枢の姿 まず、邪馬台国の所在地や様相を考える上で、参考となるべき倭人伝の記事と、考古学の発掘成果を比較してみよう。「倭国乱れ相攻伐すること暦年、すなわち共に一女子を立てて王とした。名を卑弥呼という」 彼女が共立された地域、つまり、倭国の領域内は戦争状態であったとみてよい。弥生時代中期以降、終末期まで大型化した銅矛などの青銅製武器形祭器による祭祀(さいし)が行われていた地域、つまり、九州北部こそが、戦乱など緊張状態が長く続いた地域と考えるべきである。邪馬台国と平城宮「南、邪馬台国に至り、女王の都する所にして…。官に伊支馬(いきま)有り、次を弥馬升(みましょう)と曰い、次を弥馬獲支(みまかくき)と曰い、次を奴佳鞮(なかてい)と曰う」 この記事からは、倭王卑弥呼の都が邪馬台国に置かれたが、邪馬台国にはその長官伊支馬や弥馬升以下の次官たちも存在していたことを示している。すなわち、倭国の都が置かれた邪馬台国には、卑弥呼が居住し祭事の場であり、極めて閉鎖的な倭国の宮殿空間と、伊支馬など邪馬台国の長官や次官が居住し、政事を行う邪馬台国の宮殿空間の二つの特別区画が近接して存在していたと考えられるのである。奈良時代の大和国の中に平城宮と大和国の国庁とが共存することと同様である。「景初2年(3年=239年の誤りとされる)の6月、倭の女王が大夫難升米(なしめ)等を派遣し帯方郡にまいり、魏皇帝少帝に朝貢したいと申し出てきた。帯方郡(たいほうぐん)太守劉夏は、文官と武官をつけて魏の都である洛陽に送った」 上記をはじめとする外交記録からうかがえるのは、これらの外交を通じて、倭国の要人たちが帯方郡や中国本土の都城や城郭、市井のたたずまいを観察・見聞し、祭祀(さいし)儀礼や迎賓儀礼など中国の世界観を経験したはずであろうことだ。また、その成果を東アジアの最強国中国との「外交の証し」として、倭国の都や拠点集落の中国化に努めたと考えるべきである。 有明海北岸地域では、中国城郭の城壁や入り口に付属する突出部(馬面・角楼)のように、環壕を外側へ突出させた部分をもつ環壕集落跡が集中しているが、他の地域では見られない。佐賀平野(吉野ケ里遺跡など11遺跡16環壕)、久留米市、八女市、日田市に、中国の城郭構造が反映されたと考えられる環壕集落が分布している。ただし、突出部の内側に物見櫓を設けたのは吉野ケ里遺跡のみである。 これらの環壕突出部を設けた集落が分布する地域が、文化的なまとまりが認められるが、政治的なまとまりと考えることも可能ではないかと考えている。これら集落の中で、すべての突出部に物見櫓を伴ったのは吉野ケ里遺跡だけであり、集落間の階層性が認められる。「その国もとまた男子を以って王となす、とどまること7~80年、倭国乱れ相攻伐すること暦年」 卑弥呼が共立される直前までの間は、歴代男王が存在していたことが記されている。吉野ケ里遺跡周辺(吉野ケ里のクニ)には、中期前半~後期後半の男王を埋葬した墳墓が多数存在していたことが明らかになっている。吉野ヶ里遺跡の発掘が進み、高床倉庫跡や竪穴住居跡など、弥生時代の重要な遺物が出土した=1989月3月撮影 中期中ごろまでの首長たちは大規模な吉野ケ里遺跡の墳丘墓に順次葬られたが、中期後半から後期後半にかけての首長たちは、中国製銅鏡(漢鏡)を添えて、吉野ケ里町・上峰町の二塚山遺跡から、吉野ケ里町の三津永田遺跡、二塚山遺跡、吉野ケ里町横田(松原)遺跡や東脊振村松葉遺跡、二塚山遺跡や三津永田遺跡・上峰町坊所一本谷遺跡へと順次埋葬される。首長墳墓が各所の墓地間を移動し続けるのである。 大きな漢鏡や鉄製素環頭大刀(そかんとうたち)は中国国家の権威を帯びた下賜品であり、外交の賜物(たまもの)であった。吉野ケ里遺跡一帯での出土状況は、当地が長期間にわたり、たゆまなく対中国外交に深く関わっていたことを示すものである。「カリスマ女王」住居の謎 福岡や糸島など玄界灘沿岸地域では、一つの墳墓に多数の銅鏡などを副葬する、いわゆる「王墓」が存在する。だが、これらは各地域内で断続的に出現するもので、首長の系譜が継続的ではないことを示している。 中国後漢代の高官を埋葬した洛陽焼溝漢墓では、一人を埋葬した墳墓40例のうち、銅鏡1面を副葬したものが36例、2面が3例、3面が1例となっており、銅鏡1面を副葬するのが通例であった。つまり、1面の鏡を副葬する墳墓が継続して営まれる佐賀地方は、多数の鏡を副葬する墳墓が突発的に現れる福岡・糸島地方とは、異質な社会であり、最も中国的であったことを示しているのである。 周辺の有力集落から共立され、クニの王として吉野ケ里集落に君臨し、役割を終えるか死亡したら、出身集落の墓地に中国王朝の権威を帯びた大きな銅鏡や鉄製素環頭大刀を添えて葬られたものと考えられる。吉野ケ里遺跡周辺での漢鏡・鉄製武器の副葬 素環頭大刀は二塚山・三津永田・横田遺跡などから出土している。これらのうち、人骨が出土するなどして性別が判明しているものはすべて男性であり、弥生時代後期全般にわたってクニの男王が有力集落の中から順次共立されていた土地柄であったことが分かる。 次に、邪馬台国にあった卑弥呼の宮殿の様相を考える上で、参考となるべき倭人伝の記事と、考古学の成果を比較してみよう。「すなわち一女子を共立して王となす。名を卑弥呼と曰う。鬼道(きどう)を事とし、よく衆を惑わす。…王となりてより以来、見ることある者少なし」 倭国が戦乱状態の中で、諸国から共立された卑弥呼は、「鬼道」によって民の上に君臨していたことや、めったに人前には姿を見せないカリスマ性を備えた女王であることが記されている。邪馬台国時代の吉野ヶ里遺跡の構造 吉野ケ里遺跡の北内郭は、吉野ケ里集落の中で弥生時代中期初頭から後期終末、さらには古墳時代前期まで集落が一貫して継続した唯一の空間で、墳墓が一度も立ち入らない聖域であった。中期のおびただしい祭祀土器群や、後期後半に墳丘墓に切っ先を向けて埋納された青銅製武器形祭器(中広銅戈)の出土からも、祭祀と関わりの深い空間と考えられる。 北内郭内の祭殿と目される大型建物の南北中軸線の北への延長上約190メートルの位置に、銅剣やガラス管玉が副葬された歴代の首長を葬った中期の墳丘墓の中心がある。また、南約650メートルの延長上には中期に築かれた祭壇と考えられる径40メートル超と推定される盛土遺構の中心が存在している。 このことは、中期初めに設定された墳丘墓と祭壇とを結ぶ線上に、約400年後にわざわざ大型建物を配置したことを示している。さらにこの線を南へ約60キロ延長したところには雲仙岳が存在する。北内郭の祭殿で行われた祭祀が、墳丘墓に葬られた過去の首長を対象とした祭祀であり、それは火山である雲仙岳を背景とした壮大なものであったことを示している。 また、北内郭の平面形は円形と方形を合体したような幾何学的な形である。卑弥呼の「鬼道」というものが、中国の同時代古典からみると道教とみる研究が多い。道教の「天円地方(天は丸く、地は四角)」という基本理念と吉野ケ里遺跡北内郭の平面形との関係に興味がもたれる。中国城郭を意識した吉野ケ里 この北内郭の北東―南西の中軸線の延長が夏至の日の出と冬至の日の入りの方向を向いていることも、暦など、中国の世界観をも手に入れ始めていたとも考えられるのである。「宮室・楼観・城柵を厳かに設け、常に人有りて兵(兵器)を持して守衛」 卑弥呼が居住する宮殿区画には宮室(大型建物)や楼観(物見櫓)、城柵(環壕を掘削して盛り上げた土塁の上に柵を並べた施設)が備わっていたことを示している。宮室と推定される建物跡は、北内郭跡の発掘調査で発見されたもので、4本柱からなる一辺が4列に並ぶ16本の柱からなる建物で、その平面規模は約12・5メートル四方と、国内の弥生時代建物の中でも屈指の規模を誇る。 柱穴内部の柱痕跡から柱の直径は50センチであったことが判明し、非常に大規模な高層建物であったことが推定された。この建物の線が、地形的に最高所ではなく、墳丘墓と南の祭壇を結ぶ南北中軸線上に乗せるため、東へ傾斜する位置に建設されている。 つまり、巨大な環壕集落である吉野ケ里集落内部の最重要空間である北内郭は、特に墳丘墓に眠る祖霊に対する祭祀の場で、二重の環壕(外環壕を加えると三重)と、内部を直視できない鍵形の出入口、4カ所の物見櫓を持つ非常に閉鎖された空間である。倭人伝が「自為王以来、少有見者(王となって以来、見たことがあるものは少ない)」と記した倭王卑弥呼の居館のありようと符号する。 南の祭壇や火山である雲仙岳を背景にしながら、北の墳丘墓に眠る過去の首長(英雄)の霊を祀(まつ)るための施設と考えられるのである。物見櫓跡は、南内郭跡でも旧環壕で2カ所、新環壕で4カ所発見されているが、いずれも環壕の付属施設として国内では例がないものとして注目される。 吉野ケ里遺跡は、現時点では宮室(大型建物)、楼観(物見櫓)、城柵(環壕と土塁痕跡)がそろった国内唯一の弥生時代終末期(邪馬台国時代)の集落である。しかも、国内で他に例を見ない鍵形の厳重な出入口をもつなど、中国城郭を非常に意識した集落構造となっている。魏書『東夷伝』の各国・各地域の集落構造に関する記事を見ても、倭国には中国のそれと似たような施設がそろっていることが記されている。祭事と政事の象徴、そして戦略拠点の象徴としての装置を備えた吉野ケ里集落の最重要空間である北内郭は、まさに「宮室・楼観・城柵」を備えていたのである。中国の城郭(城壁)構造と、それを模倣した吉野ヶ里北内郭 ここで、『漢書』地理志や『後漢書』東夷伝、『三国志』魏書東夷伝の外交記録を確認してみよう。記録に残る遣使は、以下のとおりである。倭国王の遣使と貢納品・下賜品 前漢の武帝により108年に朝鮮半島に楽浪郡など4郡が設置されたのち、『漢書』が「…故に孔子、道の行われざるを悼み、もし海に浮かばば、九夷に居らんと欲す。ゆえ有るかな。夫れ楽浪(らくろう)海中、倭人有り。分かれて百余国を為す。歳時を以て来たり献見すと云う」と記している。このように、倭諸国の王たちが朝貢外交を開始したことや、朝貢し礼を尽くしている、と中国に認識されていたことが理解できる。これ以後、九州北部の福岡・佐賀地方では多数の漢鏡が首長たちの威信財として所持され副葬される。 『後漢書』には「建武中元二年(57年)、倭奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武、賜ふに印綬を以てす。安帝の永初元年(107年)、倭の国王帥升等、生口百六十人を献じ、請見を願ふ」とある。57年の遣使での貢納品は記されないが、福岡市志賀島から出土した金印によって「漢委(倭)奴国王」に叙せられたことが分かる。 近年、「漢の倭の奴国」と呼んでいたものを、後漢代には後の倭国を「倭奴国」と呼んでいたとする考えも増えてきた。つまり、倭国全体の王は、倭奴国王(名は不明)、後に述べる倭国王帥升、倭国王卑弥呼、倭国王台与と推移していくことになる。「吉野ケ里」以外有り得ない 107年に160人の生口(せいこう)を貢納し遣使した「倭国王帥升(すいしょう)」は、後漢書を引用した中国の古代の事典『翰苑(かんえん)』には「倭面上国王帥升」(上は土の誤記と考えられる)とある。また、唐類函・変塞部倭国の条所引の『通典』には「倭面土地王帥升」、北宋版『通典』には「倭面土王帥升」とされる。 面土は、「上峰町米多(めた)」や「吉野ケ里町目達原(めたばる)」などの地名として吉野ケ里遺跡の近辺に残り、古墳時代には、応神天皇の曾孫が初代とされる「筑紫米多国造」の本拠地となった地域である。つまり、倭面土王は当時、国内最大級の環壕集落である吉野ケ里集落を拠点としていた可能性が大なのである。 吉野ケ里遺跡を中心とする佐賀平野では、福岡や糸島などの玄界灘沿岸地域と同じく、57年の遣使以降、後漢の銅鏡が出土し始め、107年の遣使以降はその数を増す。しかし、注目すべきは、吉野ケ里遺跡では、集落の大型化が進み、107年の遣使とほぼ同時期の後期中ごろ以降に、環壕突出部や望楼、鍵形の門などを設け、集落景観の中国化に努力した跡がうかがえることである。福岡や糸島地方など九州北部のほかの地域や、近畿地方など本州では見られない現象である。 この遣使で貢納された生口については、従来、奴隷とか技術者といった解釈がなされてきた。しかし、近年、徳を守り続けている人々ではないか、とも考えられているが、私も全く同感である。 このことは、先に示した『漢書』の記事で理解できる。「夫れ楽浪海中、倭人有り…」の前の文には『論語』にも登場する孔子の思いが述べられており、後漢末といわれる論語の成立より以前、107年の遣使の少し前に成立したとされる『漢書』の中の徳をもった倭人の記事が、後漢皇帝安帝に徳を守る倭人を求めさせたのであろう。中国皇帝は、臣民に徳を授けるために徳を積む必要があったからである。この求めに即座に応じたのが倭面土国王帥升であったと考えられる。 『三国志』にも「景初三年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む。…汝献ずる所の男生口四人・女生口六人…正始四年、倭王、また使を遣わし、生口を献ずる」とあり、引き続き中国皇帝が倭王である卑弥呼や台与に求めたのが生口であったことが分かる。 57年、倭国からの後漢に対する初回の遣使は「朝賀」とあり、元旦の行事に合わせたものであり、107年の遣使は安帝が即位した時期と推定される。まさに、国際政治的な動きであり、日本が東アジアの秩序の中に組み込まれていく過程であった。 吉野ケ里遺跡の集落構造の変革が、単なる自然的な変化ではなく、外交によってもたらされたものであった。集落景観を中国的な城郭の景観に近づけることが、国内外に対する政治的威厳の表現であったと考える。 倭人伝の記述と結びつく発掘成果は、有明海北岸の佐賀平野東部地域を除いて、ほとんど見当たらない。近畿説のよりどころとされる三角縁神獣鏡についても、魏から贈られた鏡かどうかの議論もあり、これを含めても中国系の文物が出土するのは古墳時代の古墳からであり、弥生時代終末期(邪馬台国時代)の遺跡からもほとんど出土しない。佐賀県・吉野ケ里遺跡の甕棺がのぞく墳丘墓。城柵の向こうに祭殿などが建っている ましてや、遺跡や遺構、建物配置や構造にも中国文化の流入を確認することができないのが現状である。近畿説の有力集落とされる奈良県纒向(まきむく)遺跡の、大型建物を含む建物群を貫く軸線は東西方向であり、前漢と後漢を境に君子と臣下の配置関係が「座西朝東」から「座北朝南」へ変化する中国礼制に対応していない。吉野ケ里遺跡では、墳丘墓と北内郭の祭殿が南北方向に配置され、最重要空間である北内郭と大人層の空間である南内郭についても、南北の位置関係である。 以上から、考古学の成果によって邪馬台国の所在地を考えるならば、現状では九州北部地方の佐賀平野を中心とした有明海北岸一帯であったと考えざるを得ない。弥生時代において、高橋健自が述べた「中国文化の影響が大きかった場所」は、おのずと理解いただけるのではないかと思う。【関連文献】・中国社会科学院考古研究所編『洛陽焼溝漢墓』科学出版社・七田忠昭「拠点集落の首長とその墳墓―弥生時代中期から後期の地域集落群の動向の一例」『日韓集落研究の新たな視角を求めてⅡ』日韓集落研究会・七田忠昭「倭女王卑弥呼の宮殿 倭人伝が記す邪馬台国中心集落の構造と発掘成果」佐賀大学・地域学創出プロジェクト編『佐賀学 佐賀の歴史・文化・環境』岩田書院・七田忠昭『邪馬台国時代のクニの都 吉野ヶ里遺跡』シリーズ「遺跡を学ぶ115」新泉社・七田忠昭「佐賀の弥生文化にみる中国の文化要素」安田喜憲・七田忠昭編『東シナ海と弥生文化』環太平洋文明叢書6 雄山閣・常松幹雄「奴国(玄界灘沿岸)と東アジア」『東シナ海と弥生文化』環太平洋文明叢書6 雄山閣・岡村秀典「漢帝国の世界戦略と武器輸出」『戦いの進化と国家の生成 人類にとって戦いとは1』東洋書林

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    「邪馬台国は熊本にあった」魏の使者のルートが示す決定的根拠

    伊藤雅文(歴史研究家) 邪馬台国(やまたいこく)を論ずるにあたって、まず考えなければならないのは、「邪馬台国は文献上の存在である」ということである。空想上の存在という意味ではない。『三国志』の「魏書烏丸鮮卑東夷伝倭人条」、いわゆる『魏志倭人伝』に、「倭の地に女王卑弥呼の都する邪馬台国がある」と記されていなければ、現代の私たちは「邪馬台国」「卑弥呼」の存在自体を知ることはなかった、という意味である。 そして、『三国志』の著者である陳寿(ちんじゅ)は、邪馬台国に至る行程まで書き残してくれている。だから、私たちは邪馬台国の位置について考えることができるのだ。 昨今、邪馬台国畿内説を報ずる記事を目にする機会が増えた。特に、2009年の纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)における大型掘立柱建物跡の発掘により、その傾向が加速したと思われる。 「卑弥呼の宮殿か?」とセンセーショナルな発表、報道がなされたからである。そして、纒向の遺構・遺物の年代は邪馬台国の時代である3世紀初頭から中頃に比定されるようになる。従来は4世紀半ばであるとされていた古墳の発生時期も、今では3世紀半ばにまで遡(さかのぼ)り、箸墓古墳(奈良県桜井市)は卑弥呼の墓であるという見解まで現れた。「邪馬台国は畿内、纒向で決まり!」とばかりに、地元桜井市は毎年東京で邪馬台国、卑弥呼に関するフォーラムまで開催している。 しかし、筆者には、邪馬台国「畿内説」は考古学的成果ばかりが前面に打ち出されているように見えて仕方がない。冒頭に述べたように、邪馬台国は文献上の存在であり、行程も書き記されている。畿内の纒向を邪馬台国と断定するには、行程記述をどのように読み解けば、纒向にたどり着くかを明らかにする必要がある。しかし、この文献学的な検証が十分になされていないように思われるのだ。 3世紀前半、全国に多くの「クニ」が成立していたことは間違いない。各地で発掘される大規模な環濠集落などを見ると、邪馬台国に匹敵する強力な国が存在していた可能性も否定できない。 しかし、それらの国々は文献に書かれたり、伝承を経たりして後世に名を残すことはなかった。纒向もそういう国の一つではないのか。もし、纒向遺跡の年代が3世紀だとしても、『魏志倭人伝』の行程が纒向に行き着かないのであれば、そう考えるのが妥当ではないだろうか。 『魏志倭人伝』には倭の地のあり方に触れた三つの記述がある。 (1)帯方郡から邪馬台国への、様々な国々を経由していく行程記述である。連続説や放射説など様々な解釈法が存在するが、邪馬台国に至るまでの国と国との間の道里(および日数)が記されている(図1)。図1:邪馬台国への行程記述(連続説と放射説) (2)帯方郡から邪馬台国までの総距離に関する記述である。「自郡至女王国万二千余里」(帯方郡から女王国〈邪馬台国〉へは一万二千余里である)として「一万二千里余里」が明記されている。 (3)倭の地誌に関する記述のまとめとして表れる次の文章である。「参問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千余里」。一般的には次のように訳されることが多い。「倭の地を参問するに、海中州島の上に遠くはなれて存在し、あるいは絶えあるいは連なり、一周五千余里ばかりである」(石原道博編訳『新訂 魏志倭人伝 後漢書倭伝 宋書倭国伝 隋書倭国伝』岩波文庫より)「周旋」が本当に意味するもの さて、前段の記述のうち(3)についてここで考えてみたい。一般的な解釈によれば、倭地は「一周五千余里」だとされる。しかし、『魏志倭人伝』が語るように、狗邪韓国から倭の地が始まるとするとおかしなことになる。図1で明らかなように、狗邪韓国から対馬国、一大国経由で末盧国に渡るだけで「三千余里」を要する。ということは、この間を往復するだけでも「六千余里」が必要になる。つまり、倭地を「五千余里」でぐるっと囲むことなど不可能なのである。 そこで、ここの解釈として、九州説では九州島の任意の一地域、あるいは九州島全体を囲ってみたり、畿内説ではここは一里(435メートル)の尺度(いわゆる長里)が用いられているとして、近畿地方から九州地方をぐるっと囲んでしまったりという論がみられるのが現状である(図2)。図2:「周旋可五千余里」の適用例 しかし、この記述の解釈には明らかな誤りがあったのである。それは「周旋」を「一周」や「周囲」など閉じた円のイメージでとらえたことによる。 筆者は著書『邪馬台国は熊本にあった!』(扶桑社新書)の中で、「周旋」について再検討を試みた。『三国志』で使用されているすべての「周旋」を検証した結果、「周旋」は主に「めぐり歩く」という意味で用いられており、「ぐるっと一周する」という意味で用いられている箇所は一つもないことが明らかになった。つまり、「周旋可五千余里」は、「一周すると五千余里ばかり」と読んではいけないということである。 では、「めぐり歩く」という曲がりくねった一本の線のイメージで解釈するとどうなるだろうか。一言でいうと、「倭地の訪問で五千余里をめぐり歩いた」と記しているのである。実に明快な記述である。 『魏志倭人伝』の記述が、来倭した郡使の報告書を基に書かれたとしたら、帯方郡を出た郡使の一行は、まず狗邪韓国に到着する。狗邪韓国は倭地であるとされる。つまり、ここが参問のスタート地点である。ここから最終目的地である邪馬台国までの行程が「五千余里」であると述べていたのだ。 では、その「五千余里」について見ていこう。図1の連続説に従って確認していくと、狗邪韓国から対馬国、一大国を経て末盧国に上陸するまでが「三千余里」、末盧国から伊都国、奴国経由で不彌国までが「七百里」。ここまでの合計が「三千七百余里」である。 ここから先、不彌国から投馬国へは「水行二十日」、投馬国から邪馬台国へは「水行十日陸行一月」と、里数表記ではなく日数表記となっている。しかし、帯方郡から邪馬台国への総距離が「一万二千余里」であり、帯方郡から不彌国までの合計距離が「一万七百余里」であるとすると、不彌国から邪馬台国までは「千三百余里」と考えられ、狗邪韓国から邪馬台国までは「五千余里」であるという答えが導き出される。 この「千三百余里」については様々な見解があると思われるので、ここでは断言を差し控える。しかし、帯方郡から邪馬台国への「一万二千余里」から、帯方郡から韓国を経て狗邪韓国に至るまでの「七千余里」を引いた「五千余里」を、倭地参問に要した里数であるとすることには、かなりの客観的合理性が認められると思われる。 そう考えると、この「五千余里」は、帯方郡から邪馬台国までの「一万二千余里」の行程に含まれるものであり、狗邪韓国を始点とするものであることは明白である。従来、「周旋」が「ぐるっと周囲を一周する」という概念で用いられていた場合の、倭の地を任意の地域に設定するやり方はもはや成り立たなくなる。解釈を妨げた「日数」表記 また、帯方郡から狗邪韓国への「七千余里」と狗邪韓国から邪馬台国への「五千余里」は、当然同じ尺度で表されていると考えなければならない。すると、「五千余里」のみが長里に基づくものであるという強引な解釈も必然的に排除されることになる。そして、この「周旋可五千余里」を図示したものが図3である。図3:正しい「周旋可五千余里」 邪馬台国の位置は狗邪韓国を始点として、帯方郡から狗邪韓国までの距離(道里)の7分の5を進んだ地点ということになる。具体的には一里(70メートル)とすると、狗邪韓国があったとされる朝鮮半島南部の金海市から、道のりで350キロメートル強を超えない地点となる。 当然のことながら、北九州地域を経由しない直線距離でも600キロメートル以上離れている畿内に邪馬台国を設定するのは、まったく不可能であることが一目瞭然である。 図1で例示した『魏志倭人伝』の行程記述については、様々な解釈が存在し、それによって全国各地に邪馬台国比定地が存在することは承知している。しかし、「周旋」の解釈から邪馬台国の位置を求めるならば、「文献解釈上、邪馬台国畿内説は成立しない」と言わざるをえない。 では、『魏志倭人伝』の記述から求められる邪馬台国の位置はどこだろうか。筆者の唱える『魏志倭人伝』後世改ざん説(陳寿の撰述した原本では、不彌国→投馬国→邪馬台国の行程は「日数」ではなく、具体的な「里数」で記されていたと考える説)では、現在の博多駅南(福岡市博多区)に広がる比恵・那珂遺跡群に比定する不彌国から、南へ「千三百里」のところであると想定する。 この「千三百里」は、帯方郡から邪馬台国への総距離「一万二千余里」から、不彌国までの「一万七百里」を引いて求められる数字であり、周旋「五千余里」の場合でも狗邪韓国から不彌国までの「三千七百余里」を引いた数字である。 特に目新しい数字ではなく、近代の邪馬台国論争に火をつけた東京帝国大学(当時)の白鳥庫吉教授も、明治時代にこの数字を用いて熊本県の「菊池郡山門説」を唱えている。他にも、筑紫平野の各地比定説や宇佐説などでも根拠とされる場合が多い。 現在では、不彌国から投馬国への「水行二十日」、投馬国から邪馬台国への「水行十日」「陸行一月」という合計2カ月におよぶ日数表記との整合性をとるのが難しいためそれほど重要視されなくなっているが、文献に従えば至極妥当な数字なのである。つまり、『魏志倭人伝』の記述は「里数」上は破綻をきたしていない。「日数」表記が解釈を妨げているだけなのである。 また、『魏志倭人伝』は邪馬台国について「七万余戸」あったと述べる。奴国の「二万余戸」、投馬国の「五万余戸」と比べても相当に大きな大国である。この戸数の真偽については諸説あるが、国の官・副官体制を比べても、他国が官1人、副官1人体制(伊都国は副官2人)であるのに対し、邪馬台国には官および副官が4人もいる。 相応の大国であったことは間違いないだろう。すると、投馬国、邪馬台国の二国が山間の狭い地域にあったなどということは想定しがたい。必然的に連続する広い地域に存在したと考えざるをえない。 ここでは、「千三百里」を不彌国から投馬国、投馬国から邪馬台国への行程にどのように割り振るのが適当か、その具体的な里数については触れない。しかし、福岡平野の大部分を「二万余戸」の奴国と想定して、御笠川下流域にあった不彌国から南に水行(御笠川を遡上後、宝満川、筑後川を下る)するとたどり着くのは広大な筑紫平野である。邪馬台国時代は縄文海進の影響で多くの面積が有明海の干潟であったと考えられているが、それでも「五万余戸」を擁する投馬国にふさわしい広がりを備えていたはずだ。「熊本説」の根拠 そして、そこから南へ水行、陸行すれば…。邪馬台国の「七万余戸」を養える地域は、熊本平野以外にあり得ないように思われる(図4:行程は筆者の見解による)。図4:邪馬台国熊本説のイメージ しかし、熊本は従来から邪馬台国の南にあった狗奴国であると比定されることが多い。それは、狗奴国の官である狗古智卑狗を「くこちひく」と読み、「菊池彦」に通じるとして菊池郡のある熊本と関連づけたことによる。それが定着したことにより、熊本平野を邪馬台国だと素直に認められない状況に陥っていると思われる。 だが、このように『魏志倭人伝』の記述をたどると、最も可能性が高いのは邪馬台国「熊本説」だと思うのだが、いかがだろうか。 実際、熊本平野では邪馬台国の時代とされる弥生時代後期から終末期にかけての遺跡が数多く発掘されている。最も注目されるのは熊本平野北部、菊池川流域に営まれた方保田東原遺跡である。佐賀県の吉野ケ里遺跡に匹敵する規模の環濠集落であり、まだ一割程度の発掘にもかかわらず豊富な遺構・遺物が出土している。 ほかにも菊池川流域には、うてな遺跡、小野崎遺跡、諏訪原遺跡といった大規模な遺跡がある。また、白川流域には西弥護免遺跡、五丁中原遺跡、八島町遺跡、緑川流域には二子塚遺跡といった大規模な環濠集落が存在する。 そして、これら熊本平野の遺跡からは『魏志倭人伝』に書かれた「鉄鏃」(てつぞく)をはじめとする様々な鉄器や、「朱丹」と思われる赤色顔料(主にベンガラ)も出土する。倭の産物に触れた部分で「其山有丹(その山には丹〈ベンガラ〉があった)」というのは、阿蘇山のことであろうか。カルデラ内の遺跡からは大量のベンガラが出土している。 加えて、この地域一帯では独特のジョッキ型土器や免田式土器の普及・流行がみられる。さらに、遺跡間で同范鏡(どうはんきょう)の存在も指摘されるなど、熊本平野に拠点集落のネットワークが構築されていた可能性は大きい。まさにこの集合体こそが「七万余戸」を擁する邪馬台国だったのではないだろうか。 以上、文献解釈上、邪馬台国畿内説は成り立たず、熊本説を採るのが妥当なのではないかということについて考察してきた。だが、もし纒向が邪馬台国ではないとしても、筆者は纒向遺跡の存在価値は非常に大きいと考えている。 古墳時代の幕開けはまぎれもなくこの地であるし、ヤマト王権誕生の解明につながる多くのことを秘めた遺跡であることは間違いない。『日本書紀』でも、纒向の地に第十一代垂仁天皇の珠城宮、第十二代景行天皇の日代宮が築かれたとされている。 だからこそ余計に、日々地道に続けられている考古学の発掘・研究の成果を、邪馬台国との関連性を前提とすることなく、客観的に発表、報道してほしいと願っている。

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    邪馬台国畿内説の決定打は「卑弥呼の系図」にあった

    桂川光和(日本古代史研究家) かけがえのない歴史遺構がその重要性に気付かれず消滅した。奈良県を南北に縦貫する自動車道が建設されている。京奈和自動車道である。この建設工事に伴う事前調査で、奈良県御所(ごせ)市室(むろ)の地から特異な建物遺構が出土した。しかし、その重要性を認識できないまま、その遺構は自動車道のインターチェンジの下に消え去ったのだ。 事前調査を担当した奈良県立橿原考古学研究所(橿原市)は、この遺構の重要性をまったく認識できていない。大和朝廷が営んだ祭祀(さいし)遺跡などと結論付けている。だが、このインターチェンジが造られた御所市室の地は、六代孝安天皇室秋津嶋宮(むろのあきつしまのみや)があったとされる場所だ。そこから堅固な塀に囲まれる高床式掘立建物群が出土し、これまでに類を見ない大規模な遺構、秋津嶋宮の一部が出土したのだ。発掘調査が行われた秋津遺跡=奈良県御所市 にもかかわらず、残念なことに、今日の研究者の多くは『日本書紀』の古い時代の記述は歴史的事実ではないとする。したがって六代孝安天皇など実在しないとする。そもそも、出土した遺構が、すべてが保存できるわけではない。単に古い時代の天皇の宮というだけなら、詳細な記録を残し、道路下に消滅したとしてもやむを得ない。 だが、ここは秋津嶋宮であり、それは卑弥呼の王宮なのだ。その重要性は日本という国の成り立ちを明らかにするうえで、かけがえのない重要な歴史遺構なのである。もはや自動車道の下に消えた部分は仕方ないが、卑弥呼の王宮は「奴婢千人が侍る」王宮である。遺構の広がりは、発掘調査された範囲よりさらに広がると予想され、早急に遺構の範囲を確定する調査と、保存のための対策を立てるべきである。 まず、なぜ秋津嶋宮が、卑弥呼の王宮であるかを説明しなければならない。そのためには卑弥呼が、どこの誰であるかを明らかにする必要がある。私がここを卑弥呼の王宮跡と主張する理由は次のようなものである。 京都府宮津市に籠(この)神社という古い神社がある。この神社の宮司家、海部(あまべ)氏に最奥之秘記として隠し続けられてきた系図がある。『勘注系図(かんちゅうけいず)』である。これは国宝に指定されている。 その系図の六世孫に、宇那比姫命(うなびひめのみこと)という名前を見る。この宇那比姫命の別名が、とんでもない名前なのだ。その別名とは、大倭姫命(おおやまとひめのみこと)、天造日女命(あまつくるひめみこと)、大海靈姫命(おおあまひるめひめのみこと)、日女命(ひめみこと)。いずれも一人の女性の名である。 大倭(おおやまと)とは古い時代の日本の国名だ。この女性は「おおやまと」という国名を負う。大倭の姫君、すなわち女王なのだ。また、天造とは天下を支配するという意味で、天下人を意味する。 さらに、大海靈姫命の靈姫とは、巫女姫(みこひめ)のことで、『魏志倭人伝』は卑弥呼について「鬼道を事とし良く衆を惑わす」とする。このイメージに重なる。最後は日女命だが、日女(ひめ)とは高貴な女性の呼び名で、これに命(みこと)という尊称を付けたものだ。読みは「ひめみこと」。これを魏の使者が「卑弥呼」と書き表したとしても不思議はない。宇那比姫命こそ『魏志倭人伝』が伝える邪馬台国(やまたいこく)の女王卑弥呼なのだ。 また、『勘注系図』は、八世孫に天豊姫命(あまとよひめのみこと)という名を記す。この人のまたの名が大倭姫命で、天豊姫命もまた「おおやまと」の女王だ。『魏志倭人伝』は、卑弥呼の後、「歳一三歳」で邪馬台国の女王に擁立された台与(とよ)という女性を記す。この女性の名は豊(とよ)である。これは『魏志倭人伝』の台与と音が同じだ。 しかも、『魏志倭人伝』は、台与を卑弥呼の宗女、すなわち同族の女とする。天豊姫命は、私が卑弥呼とする宇那比姫命と、同一系図の中にその名を見る同族の女性である。 だが、この『勘注系図』だけでは、宇那比姫命という女性が系図の上でどのようにつながるのか不明だ。それを明らかにする系譜がある。「先代旧事本紀」の尾張氏系譜だ。その系譜によれば、宇那比姫命は、尾張氏の建斗米命(たけとめのみこと)の子供で、7人兄妹の末の娘にあたる。卑弥呼は尾張氏の女性であり、尾張氏といえば私たちは東海地方の尾張氏を思い起こすが、この尾張氏も、古くは現在の奈良県御所市を本拠地とする葛木高尾張の出身だ。同じく台与も、父親は尾張氏の建諸隅命(たけもろずみのみこと)で、いずれも現在の奈良県御所市あたりの出身となっている。卑弥呼の政治を補佐した弟 さらにもう一つ、宇那比姫が登場する系譜がある。静岡県磐田市の国魂(くにたま)神社の宮司家に伝わる『大久保系図』である。この系図に宇那比姫命が登場する。この大久保系図は古代有力豪族、和邇(わに)氏に始まる系図だ。 この大久保氏系図によると、「押媛命(おしひめのみこと)の母親は建田背命(たけだせのみこと)の妹宇那比姫命なり」とする。この系譜でも『日本書紀』でも、押媛の父親を天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)とする。したがって、宇那比姫命は天足彦国押人命の妻なのだ。そして、天足彦国押人命には、倭足彦国押人命(やまとたらしひこくにおしひとのみこと)、すなわち六代孝安天皇という弟がいる。 『魏志倭人伝』は、卑弥呼には「男弟ありて佐(たすけ)て国を治む」として「男弟」がいたとする。宇那比姫命には6人の男の兄弟があるが、すべて兄である。弟は義理の弟となる孝安しかない。「男弟」とは六代孝安天皇に他ならない。『記紀』によれば孝安天皇の宮は、室秋津嶋宮(むろあきつしまのみや)だ。まさに秋津嶋宮こそ卑弥呼の王宮なのである。 とはいえ、宇那比姫命が卑弥呼であると結論付けるには、確たる物証がほしい。私が卑弥呼の遺品と考える遺物がある。それは東大寺山古墳(奈良県天理市)から出土した中平銘の鉄刀だ。 中平とは後漢の年号で184年から189年の間とされる。卑弥呼が王位に就いて間もない頃であろう。私はこの鉄刀は、卑弥呼が公孫度(こうそんたく)に朝貢し、公孫度から受け取った刀と推測する。公孫度は、遼東太守(りょうとうたいしゅ)という後漢王朝の地方官であった。 だが、2世紀後半世になると、後漢王朝の支配力が衰退する。この後漢王朝の衰退に乗じ、公孫度は遼東王を名乗り、この地域に半独立国を樹立する。189年の事とされ、この事によって朝鮮半島を含む極東の政治情勢が大きく変化する。大和朝廷すなわち邪馬台国は、この極東の政治情勢に敏感に反応し、公孫度への朝貢が行われたと推測する。この鉄刀はその時、卑弥呼に贈られた物であろう。それではこの鉄刀がなぜ東大寺山古墳から出土したのかである。 私が卑弥呼とする宇那比姫命の夫は、天足彦国押人命で、天足彦国押人命は、和邇氏の祖とされる人物だ。したがってその妻、宇那比姫命もまた和邇氏の祖と言える。 和邇氏の系譜である大久保氏系譜は、宇那比姫命の子供、和邇彦押人(わにひこおしと)は和邇の里にいるとする。和爾の里とは、現在の天理市櫟本(いちのもと)である。東大寺山古墳はこの櫟本に近く、和邇氏の墓域だ。その和邇氏の墓から、卑弥呼が受け取ったと推測される鉄刀が出土したのだ。和邇氏の祖でもある宇那比姫命が、卑弥呼であることの傍証となる。 そもそも、御所市室から出土したこの遺跡は、秋津遺跡と名付けられた。秋津遺跡は縄文末から、弥生中期、そして古墳時代前期とされる複数の年代の遺構だ。問題はその古墳時代前期とされる、高床式掘立建物を堅固な塀が取り囲む遺構の年代だろう。4世紀の竪穴住居群が発見された秋津遺跡。右奥は、工事中の京奈和自動車道の橋脚=良県御所市(門井聡撮影) もし、出土した遺構が卑弥呼の王宮であれば、それは2世紀末頃から3世紀中ごろの遺構でなければならない。ところが、発掘調査に当たった橿原考古学研究所は、この遺構の年代を古墳時代前期とする。すなわち3世紀中ごろから4世紀前半の遺構とする。 その根拠は大量に出土した布留(ふる)式土器の年代による。布留式土器は古墳時代前期の土器とされる。布留式土器の前の時代とされる庄内式土器は、ほとんど出土していないとされる。また、須恵器が見られないことからこの遺構は4世紀末には終わるとする。 確かに数多く出土している竪穴住居などは、古墳時代前期の物だ。しかしながら、橿原考古学研究所が方形区画施設と名付ける、堅固な塀に囲まれた掘立建物遺構は、古墳時代前期より古くなると私は考える。掘立柱建物は卑弥呼時代の遺構 方形区画施設の内部は清浄に保たれていたらしく、年代を推定する遺物はほとんど見つかっていない。そのため、方形区画施設の年代を周辺の竪穴住居との関係でその年代を推測する。だが、その推論に矛盾がある。私は、方形区画施設は布留式土器を伴う竪穴住居より一時代前の遺構と考える。 そのことを伺わせる理化学的測定値がある。炭素年代測定値である。橿原考古学研究所は、この遺構から出土した木材などの炭素年代測定を行っている。その中で方形区画施設内部にあった掘立建物の年代は、古墳時代前期に収まるようなものではない。卑弥呼が在位した2世紀末から3世紀前半としておかしくない測定値である。 しかしながら、調査報告書では、炭素年代測定値から暦年代(実年代)を推定する、北半球の標準校正曲線は、この2世紀代から3世紀代に於いて実際より古い値が出るとして、炭素年代測定による暦年代の推定を行わない。確かに北半球の標準とされる校正曲線で推定すると、このあたりの年代では実際より古くなることが知られている。だが、この測定値はそれを勘案しても、相当古い年代であることが予想される。 そこで、この炭素年代測定値を基に、私が年代を推定したのが次のグラフである。残念ながら日本列島の炭素年代測定値を較正できる信頼できる校正曲線は、まだ開発途上であると聞く。したがって次のような方法で炭素年代測定値の校正を行った。 年代が分かっている、日本列島産のヒノキの炭素年代測定値がある。そのグラフと北半球、南半球の校正曲線と重ね合わせたのがグラフである。 そのグラフ上に、最も古い値を示した3点の掘立建物の測定値を書き加えた。炭素年代測定値には±20年の誤差があると見込まれるから、40年の幅で炭素年代測定値を書き込んだ。北半球、南半球の校正曲線を勘案しながら、日本産ヒノキのグラフとの交点を求めた。 グラフとの交点をどのあたりとするか、多分に恣意的な部分は含まれるが、古墳時代前期に収まるような年代ではあり得ない。少なくとも最も古い年代を示した「方形区画施設5内掘立柱建物SB0040」と、「方形区画施設2内掘立建物SB0030b」は、西暦250年より新しくなることはない。 もちろん、この炭素年代測定値は資料の年代であって、建物が存続した年代を表すものではない。だが、卑弥呼の在位した2世紀後半から3世紀前半の建物とすることに矛盾はない。古墳時代前期より確実に古いのである。橿原考古学研究所はこれら方形区画施設の年代を見誤っている。もう一つこの遺構が古い時代の物であるとする具体例を挙げる。 この遺跡から多孔銅鏃(たこうどうぞく)が一点出土している。多孔銅鏃の研究に詳しい研究者によると、多孔銅鏃は、東海地方を中心に2世紀代から3世紀の前半にかけて周辺地域に広がるとする。2世紀から3世紀前半の遺物とされる多孔銅鏃一点のみなら、たまたま古い物がまぎれ込んでいるという推測もありえる。しかし、先の研究者の見解によれば、この多孔銅鏃と同時代の東海系の土器も複数見られ、この遺構が多孔銅鏃の年代まで古くなることを示唆する。橿原考古学研究所が古墳時代前期より古くならないとする見解には疑問がある。 また、秋津嶋宮が卑弥呼の王宮であることを物語る古墳も存在する。卑弥呼は「径百余歩」の墓に葬られたとされている。一歩は1・44メートルとされ、したがって径百余歩とは、おおよそ150メートル位の円墳であろう。これまで直径150メートルの円墳は日本列島では知られていない。もちろん前方後円墳の後円部などには、これより大きなものも存在する。 だが、円墳としては埼玉稲荷山古墳の丸墓古墳が直径105メートルで最大とされる。ところが、この秋津遺跡の1キロ北東、玉手山に直径150メートルの尾根が存在する。その尾根上に古墳が存在し、次に示す航空写真で「No1」(次ページの写真参照)とする尾根である。 当初地元教育委員会は、そこは自然の尾根で古墳ではないとしていた。だが、そこから遺物が出土したことにより古墳と認定した。尾根上に盛り土を行って墳丘をなす。墳丘の盛り土は尾根の中腹に及び、尾根裾は円形に整形されている。尾根全体を墓域とすれば、わが国最大規模の円墳である。私は、これこそ卑弥呼の墓と確信する。卑弥呼没年代と矛盾なし この玉手山という場所が重要だ。『日本書紀』によれば、孝安は玉手山に葬られたとする。孝安は卑弥呼の政治を補佐した男弟である。孝安が葬られたとする玉手山に卑弥呼も葬られたとしても不思議はない。秋津遺跡周辺の古墳群  現在宮内庁は、この尾根の北側200メートルの所にある直径13メートル位の円墳を孝安陵とする。しかし、私はこれは本当の孝安陵ではないと考える。 なぜなら、玉手山には、これよりはるかに大きな円墳が複数存在するからだ。私が直径150メートルとする尾根の南東、写真の「No2」は、長径160メートルの楕円の尾根だ。この尾根上に長径90メートル程の盛り土を持つ、楕円墳が存在する。私はこれこそ、本物の孝安陵と考える。 卑弥呼は西暦248年か259年頃没したとされる。卑弥呼の墓であれば3世紀中ごろの築造でなければならない。当初「No1」の古墳から出土した遺物は、5世紀末の物であった。だが、後にこの墳丘の盛り土の中から2つの土器片を採取した。いずれも3世紀中頃とできる年代の物である。この古墳の築造年代を卑弥呼の没した3世紀中ごろとして矛盾はない。 また、「No2」の墳丘盛り土の中からも土器片が出土した。明らかに弥生末、あるいは古墳時代前期の物であり、この古墳も同時代の築造であろう。 この2つの尾根は自然の地形で、その尾根の上に盛り土を成して墳丘を築く。尾根裾は整った弧を描いており、私は尾根裾に人為的な人の手が加わっていると推測する。 最初私が、この2つの尾根を古墳であろうとしたのは、航空写真で見た尾根裾の形状による。けっして航空写真で墳丘が、確認できたわけではない。その後の発掘調査でそこが古墳であることが確定した。尾根裾の形状と、墳丘とは密接に関係するのである。 私は尾根全体を墓域とする墳丘であると考えており、樹木がなければまさに「径百余歩」の円墳である。しかもこの2つの尾根は、私が秋津嶋宮跡とする秋津遺跡の方角から見たとき、整ったお椀(わん)を伏せたような形に見える。秋津嶋宮から望み見ることを意図して、ここに築かれたと考えるのが妥当だろう。 もし、私が卑弥呼の王宮とする秋津嶋宮の近辺以外の山で、円形の尾根を見たとしても、これを「径百余歩」の円墳などと言い出すことはない。そこが秋津嶋宮から1キロほどの所であり、孝安が葬られた山という事が、これを「径百余歩」の卑弥呼の墓と確信するゆえんである。 ここまで様々検証してきたが、残念ながら今日の研究者の多くが秋津嶋宮の実在を信じていない。ましてや、そこが卑弥呼の王宮などという説を取り上げることはない。かくして秋津遺跡はその重要性を認識されることなく、自動車道の下に消え去ってしまった。もはや如何(いかん)ともし難いが、卑弥呼の王宮は「奴婢千人が侍る」王宮である。 私は、秋津遺跡はこれまで出土した範囲以上に広がり、この遺構は西側に広がると考える。西側には小学校や、工場が存在し、発掘可能な場所は限られるが、小規模な発掘なら可能な場所も若干存在する。ゆえに、さらなる発掘調査を行い、この遺構の範囲を確定し、このかけがえのない歴史遺産を保存すべきである。そのために私は、玉手山の尾根が日本最大の円墳であり、「径百余歩」の卑弥呼の墓であることを実証したい。そのことが実証できれば、秋津遺跡の重要性を認識してもらえると考えるからである。

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    天皇の起源は卑弥呼だった!? 「卑弥呼=天照大神」説が浮上

     日本の古代史において、大きな謎となっているのが邪馬台国の女王・卑弥呼。そもそも卑弥呼とは、いったい何者だったのか。 日本史の教科書に描かれる卑弥呼は、魏志倭人伝の記述を基に、〈神に仕える巫女で、宗教的権威を持つ女王〉とされるのが一般的だ。元佐賀女子短期大学学長の高島忠平氏は、こう指摘する。「九州北部にある弥生前半の古墳の埋葬様式から、巫女が社会的に高い地位を持ち始め、次第に国を統治できるような巫女が出現した経緯が読み取れる」 こうした見解がある一方で、実は卑弥呼には、「古事記」や「日本書紀」で天皇の祖神とされている天照大神だとする説もある。 実在が確実とされる天皇の在位年数から、日本神話に登場する天皇の在位年数を推測すると卑弥呼と天照大神は年代が丁度重なるとし、天照大神は卑弥呼を神格化したものであるとする説だ。専門家はどう見ているのだろうか。「確かに古くから天照大神説や日本書紀の記述から神功皇后だとする説がある。しかし、魏志倭人伝によれば、当時はまだ邪馬台国と対立する狗奴国が激しく争っている時代で、卑弥呼は日本全国を統一した倭国の女王という立場にない。天照大神のイラスト だからこそ、卑弥呼も後ろ盾を求めて魏と通交し、皇帝から『親魏倭王』の称号を得ている。やはり、巫女として邪馬台国という小国連合を治めた女性首長と考えるのが素直な見方だろう」(高島氏) 卑弥呼も天照大神も女性で生涯夫を持たなかったと伝えられるなど共通項も多いだけに、卑弥呼を天皇の起源とする説にも一応の説得力はあるのだ。関連記事■ 「卑弥呼の再来」といわれる占い師 近所の神社初詣を推奨■ 福岡で卑弥呼の墓?発見か それでも調査の予定ない理由■ 韓国の学者による「○○の起源は韓国」発言は評価されるため■ 「寿司、醤油、味噌、うどんの起源は韓国」と一部韓国人主張■ 「鏡餅」「柏手」の起源は? 古事記由来の正月用語を解説

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    福岡で卑弥呼の墓?発見か それでも調査の予定ない理由

    墳だということになれば、再び九州説の可能性が高まることになり、古代史ファンとしては夢のある話です」(歴史研究家の河合敦氏) ところが、高まる期待とは裏腹に発掘調査が始まる見通しは立っていない。「豊の国古代史研究会」の一人が事情を打ち明ける。奈良桜井市・箸墓古墳(最古の前方後円墳)「発掘には文化庁に届け出た上で厳しい審査が必要とされる。丘陵地の地権者の方で発掘に反対している方もおり、現状としては本格的な調査に取り掛かることができないでいる。たまたま遺物が出てきた、といったことでもあれば調査のきっかけになるのですが……」 調査には自治体の協力が欠かせないが、赤村役場の文化財担当者は「丘陵は自然の地形で前方後円墳である確証がないため発掘調査の予定は現在ない」と否定的で、調査実施のハードルは高そうだ。“巨大な謎”のまま封印されてしまうのか。関連記事■ 天皇の起源は卑弥呼だった!? 「卑弥呼=天照大神」説が浮上■ 畿内説vs九州説の邪馬台国 カギを握るは「贈答品の封」の発見■ 「卑弥呼の再来」といわれる占い師 近所の神社初詣を推奨■ 福岡で鉄砲扱う店の一角の「当たる」と評判の宝くじ売り場■ 三国志・曹操の墓と遺骨発見か 曹丕がかなり配慮した跡も

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    「極悪の欲情」女好き秀吉、フロイスの目にはどう映ったか

    渡邊大門(歴史学者) 天正10(1582)年6月の織田信長の横死後、豊臣秀吉は着実に自らの基盤を固めた。関白になったのは、天正13年のことである。ポルトガル人宣教師、ルイス・フロイスの『日本史』は、秀吉のむき出しの権力欲について、次のように表現している。こうして(秀吉は)地歩を固め企図したことが成就したと見るやいなや、彼はがぜん過去の仮面を捨て、爾後は信長のことはなんら構わぬのみか、為し得ること万事において(信長)を凌(しの)ぎ、彼より秀でた人物になろうと不断の努力をした。 政治的な権力を保持した秀吉は、自己の権威を高めようとした。その一つが、天正11年から開始された、大坂城の築城である。大坂城築城の意図や工事の様子については、『十六・七世紀イエズス会日本年報』に次のように記されている。(秀吉は)己が地位をさらに高め、名を不滅なものとし、格においてもその他何事につけても信長に勝ろうと諸国を治め、領主としての権勢を振うに意を決し、その傲慢さをいっそう誇示するため、堺から三里の、都への途上にある大坂と称する所に新しい宮殿と城、ならびに都市を建て、建築の規模と壮麗さにおいて信長が安土山に築いたものを大いに凌ぐものにしようとした。 秀吉は信長に並々ならぬ対抗意識を燃やしており、安土城を凌ぐような城郭を欲していた。フロイスの『日本史』でも、ほぼ同様の記述がなされている。 『十六・七世紀イエズス会日本年報』では続けて、大坂城築城の意図を秀吉の意図を「己の名と記憶を残す」ところにあったと指摘する。信長亡き後、秀吉は畏敬(いけい)されるとともに、一度決めたことは成し遂げる人物であると評されていた。大坂城の工事では何万もの人夫が動員されたが、それを拒否することは死を意味したとまで記されている。 大坂城の豪華さに訪問者は驚嘆し、言葉が出ないほどであった。『十六・七世紀イエズス会日本年報』には、城郭が大小の鉄の扉を備えていること、多くの財宝を蓄え、武器・弾薬や食糧の倉庫を備え付けていること、などが記されている。 さらに、城には美しい庭園や茶室が設けられ、室内は絵画で彩られていたという。一言で言うならば、贅(ぜい)が尽くされたということになろう。 フロイスの『日本史』によると、大坂城が豪華絢爛(けんらん)だったことについては、秀吉が高い出自でないものの、信長の後継者になったことで天下を掌握したと指摘したうえで、秀吉が「皆の者の心を自分に向けるため、あらゆる方法で自分を権威付けて飾る」と述べている。信長がかつて豪華壮麗な安土城を作ったように、秀吉もそれをまねて、かつ超えようと努力したのである。現在の大阪城=大阪市(産経新聞社ヘリから) 大坂城と巨万の富を得た秀吉にとって、次なる必須アイテムは女性であった。秀吉の女好きという一面は、よく語られるところであり、大坂城には女性を囲う施設が必要だった。 江戸時代には「大奥」なるものがあった。実は、秀吉も大奥と類似した「御奥」(おおく)なるものを大坂城に持っていた。室町将軍や戦国大名も御奥を持っていたと考えられるが、その史料は乏しい。例外的に大坂城の御奥だけが、史料的に豊富なのである。 大坂城の御奥に関する史料としては、天正14(1586)年4月6日付の豊後のキリシタン大名、大友宗麟の書状がある(『大友家文書録』)。宗麟は薩摩島津氏が豊後へ侵入したため劣勢に陥り、秀吉に助力を乞うため大坂城へやって来ていた。300人以上の美少女 宗麟は秀吉への援軍要請に来たのであるが、この書状は大坂城の見聞録としての価値が極めて高い。巨大な大坂城の天守、黄金の茶室、名物の茶器の記述も重要であるが、注目すべきは御奥の見学である。宗麟は御奥を実見した数少ない一人だった。 大坂城の御奥の存在に関しては、フロイスの書簡や『顕如上人(けんにょしょうにん)貝塚御座所日記』に、その一端が記されている。特に、フロイスの書簡では、秀吉と同じく織田信長がすでに御奥と同じような制度を持っていたこと、そして御奥の女性の身分が高かったことを述べている。 御奥に在籍した女性の数は、約120人といわれている。人数的に江戸時代の大奥には劣るが、それなりの規模であった。後には城内に豪華絢爛な装飾が施され、300人以上の美少女が召使いとして雇われていたという。 宗麟が案内されたのは、御寝所であった。御寝所は9間(約16・2メートル)四方の広さがあり、長さ4尺(1・2メートル)の御寝台がある。褥(しとね、敷物)は猩々緋(しょうじょうひ、黒味を帯びた深紅色)で、枕の方には黄金の彫り物があった。そのさらに奥には6間(10・8メートル)四方の御寝所があり、唐織物の夜着がたたんであった。いずれも高級な寝具である。 次に案内されたのが御奥で、最初に通されたのは御衣裳所だった。そこには、女房衆の色とりどりな小袖が掛けられていた。納戸の内には小遣銭と称して、金子が30貫目(約300万円)ほど入っていた。その後、宗麟は茶の接待を受けたが、12、3才の少女がお茶や菓子を運んできた。さらに奥の間には、女房衆が控えていた。 御奥には、数々の掟が制定されていた。特に、女中衆に対する制限は大変厳しく、外出は当日の午後6時から翌日の午前8時まで禁止されていた。これは、無用な男性との接触を避けるためだろう。 女中に対して手紙が夜中に届けられた場合は、その性質を十分に見極めたうえで、手渡しで女中に届けられた。検閲ではないが、男性からの恋文に対する警戒心ではなかったか。そして、最も重要なのは、門番衆の男を除いては、他に一切御奥に寝泊りさせてはいけないという規則である。 このように御奥は、非常に充実したものであったが、秀吉の女好きに関しては、次の通りフロイスの『日本史』が貴重な報告を行っている。(秀吉は)齢すでに50を過ぎていながら、肉欲と不品行においてきわめて放縦に振舞い、野望と肉欲が、彼から正常な判断力を奪い取ったかに思われた。この極悪の欲情は、彼においては止まるところを知らず、その全身を支配していた。彼は政庁内に大身たちの若い娘を300名も留めているのみならず、訪れて行く種々の城に、また多数の娘たちを置いていた。 今とは違い、当時の50代は相当な老人である。フロイスは、秀吉の精力に驚いたのであろう。当時のヨーロッパでは、一夫一婦制が基本であり、御奥のようなところに女性を囲っている例はなかった。したがって、キリスト教の教えと相まって、フロイスの目には秀吉が不純で肉欲に溺れた野蛮人のように映ったのである。豊臣秀吉像 では、秀吉が囲った女性たちは、どのように集められたのであろうか。続きを見ることにしよう。 彼(秀吉)がそうしたすべての諸国を訪れる際に、主な目的の一つとしたのは見目麗しい乙女を探し出すことであった。彼の権力は絶大であったから、その意に逆らう者とてはなく、彼は、国主や君侯、貴族、平民たちの娘たちをば、なんら恥じることも恐れることもなく、またその親たちが流す多くの涙を完全に無視した上で収奪した。 このようにフロイスは記したうえで、秀吉の性格が尊大であり、この悪癖が度を過ぎていること、そして「彼(秀吉)は自分の行為がいかに賤しく不正で卑劣であるかにぜんぜん気付かぬばかりか、これを自慢し、誇りとし、その残忍きわまる悪癖が満悦し命令するままに振舞って楽しんでいた」と手厳しい意見で結んでいる。劣等感に満ちた秀吉 秀吉には「おね」という正室がいたが、淀殿をはじめ多くの側室がいたのは事実である。しかし、当時において側室を迎えるということは、生き残りの問題と絡んでいた。それは後継者を生むことである。特に、秀吉の場合は子に恵まれなかったので、女性には性的な快楽を求める以上の意味、つまり後継者をもうけるという意味があった。 天正19(1591)年12月、秀吉は養子となった秀次に訓戒状を与えている。その中の一つに「女性は屋敷に置き、それは五人でも十人でも構わない」と記しており、外で乱れた女狂いになってはいけないという項目がある(「本願寺文書」など)。 誠に興味深い一節であるが、これは単に一般的な話をしていると解せられる。それなりの身分になれば、女遊びもわきまえよということになろう。この書状もまた、秀吉の女好きの史料として取り上げられることが多い。 秀吉がこだわったのは、単に女性だけではない。それは、栄達願望だった。秀吉が足利義昭の養子となって、将軍職を得ようとしたことが、『義昭興廃記』に記されている。次に、その内容を記しておこう。天正13年、秀吉は足利義昭の養子となって、征夷大将軍の職に就こうと望みましたが、義昭の許しを得られませんでした。それどころか義昭は、卑賤の者を子とすることは、後代の嘲(あざけ)りとなるので叶えることができないといいました。秀吉は激しく立腹し、結局、関白の職に就いたのです。 秀吉が義昭の養子を希望したのは、征夷大将軍になるためであった。最も手っ取り早い方法であろう。義昭は天正16(1588)年に出家して昌山と号し、朝廷から准后に遇せられていた。しかし、『義昭興廃記』によると、義昭は秀吉の出自が賤(いや)しいという理由により、その願いを一蹴したのである。やむなく秀吉は征夷大将軍の夢をあきらめ、関白に就任したという。足利義昭像 同様の話は、『後鑑(のちかがみ)』や林羅山(江戸時代初期の儒学者)の『豊臣秀吉譜』にも載せられている。秀吉が義昭の養子になろうとして拒否されたことは、長く事実であると信じられた。しかし、現在では関係する一次史料を欠いていることから、虚構であると指摘されている。こうした説が流布したのも、秀吉の身分が低いというコンプレックスが大いに反映されているように思える。 次に、秀吉が狙ったのは、関白だった。天皇が幼少のときには摂政を、成長してからは関白をそれぞれ置くことが慣例だった。摂政と関白との違いは、摂政が天皇の代理人的な意味合いがあるのに対し、関白は天皇を補佐する地位に止まるとされている点にある。しかし、実質的には、両職に大きな差はないといえよう。 鎌倉時代以後は、五摂家と称せられる近衛、九条、二条、一条、鷹司の各家が、交代で摂政・関白の職を務めるようになった。そして、秀吉は関白相論という、二条昭実と近衛信輔が関白職をめぐる争いに乗じて、関白に就任したのである。 次に、関白相論の経緯化について触れておこう。天正13年5月の段階において、関白以下の任官状況は次のようになっており、以後の予定はカッコ内のようになっていた。① 関 白・二条昭実(一年程度の在職ののちに辞任)② 左大臣・近衛信輔(関白〔左大臣兼務〕)③ 右大臣・菊亭晴季(辞任)④ 内大臣・羽柴秀吉(右大臣) この人事計画に反対したのが、秀吉だった。秀吉が仕えた織田信長は、右大臣を極官(きょっかん、最高の位)として、天正10(1582)年に本能寺の変で横死した。この事実が縁起が悪いと指摘した。秀吉は信長の「凶例」を避けるため、右大臣でなく左大臣就任を要望した(右大臣よりも左大臣の方が高位)。 秀吉の申し出に対して、朝廷は大いに困惑した。天皇・朝廷は、信長の横死後に台頭した秀吉に対して、相当な配慮をしなくてはならなかった。その理由は、秀吉が御所造営にも援助を惜しまないなど、決してなおざりにできない存在だったからである。 ところが、秀吉の要望を受け入れると、事態は複雑化するのが目に見えていた。内大臣の秀吉が左大臣に昇進すると、いったん信輔は任官のない状態を経て、昭実の辞任後に関白職に就く。こうした手順は今までになかったことで、極めて面倒だった。秀吉が見せた「親心」 信輔は左大臣を秀吉に譲らざるを得なくなったため、「近衛家では元大臣という(無官)状態から、関白になったことは今までなかった」と主張し、即刻昭実に辞任を迫り、関白職を譲るよう要求したのである。これに対して、昭実にも言い分がある。昭実は関白に就任してわずか一年足らずでもあり、「二条家では関白に就任して、一年以内に辞任した者はいない」と主張し、関白辞任を拒否したのであった。 2人の争いは朝廷に持ち込まれたが、解決の糸口は見えなかった。結局、この争いは秀吉に持ち込まれ、円滑な解決が図られることになった。早速、秀吉は配下の前田玄以と右大臣の菊亭晴季の2人に相談を持ちかけ、穏便な解決策を検討した。 ここで、晴季から「秀吉を関白職に就ける」という奇想天外な提案が提出された。そして、秀吉自身は「いずれを非と決しても一家の破滅となるので、朝家(朝廷)のためにならない」ともっともらしい理由付けをして、関白就任の意向を示したのである。 しかし、秀吉が関白に就任するには、秀吉の出自という大きなハードルがあった。関白に就任するには、五摂家の出身者に限られている。結局、すでに引退していた信輔の父、前久(さきひさ)は秀吉を猶子(ゆうし)として迎えることと引き換えに、将来、信輔を関白職に就けることを約束させた。まさしく苦渋の決断だった。 猶子とは仮の親子関係のことで、相続を目的とせずに結ぶものである。前久も信輔も、秀吉の関白職就任はあくまで一時的なものであり、後には五摂家のところに戻ってくると信じていた。このようなプロセスを踏まえて、秀吉は天正13年7月、晴れて関白に就任したのである。 しかし、秀吉が一連のプロセスを計画的に仕組んで、関白に就任したという疑惑を拭い去ることはできない。この約束は、結局守られなかったからである。後に秀吉は関白職を養子の秀次に譲り、約束をほごにしたのである。 その後の秀吉は、快進撃を続けた。翌天正14年9月、秀吉は京都の大内裏跡に聚楽第(じゅらくてい)を築き、大坂城から移ってきた。正親町天皇は後陽成天皇に位を譲り、秀吉の造営した新御所に入っている。また、秀吉は太政大臣に就任し、新たに「豊臣」姓を下賜(かし)された。 さらに、秀吉は近衛前久の娘、前子を猶子とし、後陽成天皇に入内させた。こうして秀吉は天皇の外戚となり、天正16年に後陽成天皇が聚楽第に行幸した際には、諸大名に対して天皇と秀吉に忠誠・臣従することを誓約させている(『聚楽行幸記』)。このように秀吉は、一気呵成(いっきかせい)に朝廷を取り込んだのである。 秀吉は栄耀栄華を極めたが、やがては死ぬ運命になった。晩年の秀吉は五大老の面々に対し、秀頼を支えるように遺言状を残した(「毛利家文書」)。秀吉は五大老に対し、秀頼が一人前に成長するまで、しっかり支えてほしいと懇願し、これ以外に思い残すことはないとまで書き記している。さらに、追って書き(追伸)の部分では、配下の五奉行たちにも、申し付けてあるとまで述べている。「人間秀吉」の真の姿であった。 『甫庵太閤記』によると、秀吉は自身が所有していた茶器、名画、名刀そして黄金を多くの人々に与えたという。とりわけ家康や利家には厚く、下々の者にまで贈られた。しかし、晩年の秀吉は病気に悩まされ、失禁したことが当時の記録に見えている。 晩年の秀吉の臨終に関しては、フランシスコ・パシオ師の貴重な報告が残っている。その記録によると、秀吉は臨終間際になっても息を吹き返し、狂乱状態になって愚かしいことをしゃべったと伝える。もはや往時の権力者の姿はなかった。 秀吉が最期まで心配したのは、秀頼の行く末だった。秀吉が最も恐れていたのは、五大老の一人である家康であった。その死の瞬間まで、家康を支えにして、秀頼を盛り立ててほしいと願ったのである。玉造稲荷神社に建つ豊臣秀頼像(大阪市中央区) 死に向かう秀吉は孤独であった。もはや頼るべき親類などはおらず、まったくのアカの他人に秀頼の将来を委ねざるを得なかった。しかし、これまで秀吉自身が行った所業を考えてみると、誠に都合のよい話かもしれない。それでも繰り返し、五大老に秀頼の将来を頼み込む姿は、親としてできる最後のことだった。 慶長3(1598)年8月18日に秀吉は亡くなった。それから2年後に関ヶ原合戦が勃発し、豊臣家の勢力は大きく殺(そ)がれた。そして、慶長20(1615)年5月の大坂の陣で、豊臣家は滅亡した。秀吉の願いは、結局通じなかったのである。※主要参考文献渡邊大門『秀吉の出自と出世伝説』(洋泉社・歴史新書y)

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    信長がどうしても許せなかった足利義昭の「不遜な亀」

    橋場日月(歴史研究家、歴史作家) 第六天魔王を自称したか、あるいは少なくともそう呼ばれた形跡がある信長。ここでその意味を確認しておこう。 第六天魔王は、信仰によらない喜びを人々に与えてそれを自分の喜びとする。だから、僧侶や一般の篤(とく)信者に煩悩と欲望を与え、修行の邪魔をすることが自分の幸福となるのである。 逆に考えてみよう。信長が一向一揆の大元である大坂本願寺と開戦(石山合戦の始まり)したのが元亀元(1570)年9月。浅井・朝倉連合軍が比叡山と連携して織田軍と戦い、信長の部将、森可成や坂井政尚らが討ち死にするなど甚大な損害が発生したのも同じ9月から11月にかけてのことだった。伊勢長島の一向一揆に対して第一次侵攻作戦を実行したのはその翌年の5月。 「進者往生極楽 退者無間地獄(進まば往生極楽、退かば無間地獄)」。これは本願寺の安芸門徒が大坂へ上り、石山合戦で信長と戦った際に掲げたという、旗に墨で大書されたスローガンだ。「敵に向かって進めば極楽往生できる。逆に退却すれば無間地獄に落ちる」という教えを胸に、後生大事と命を捨てて織田軍に攻めかかる狂気のような一揆勢。 これに対する信長は僧侶を「欺瞞(ぎまん)者」と呼び、「仏僧がなすべきは武器をとることにあらず」と言い放った男だ(フロイス『日本史』)。民衆を救済するというなら現世でこそ実現させるべきで、己の欲望のために民衆を扇動し命を捨てさせるのが僧侶なら、そんなものは地上から抹殺してやる。そして自分が民衆に現世で幸福を与えてやろう。龍の力、大蛇のパワーはそのために使うのだ、と「第六天魔王」の異名を甘受し、敵対する仏教勢力との戦いに臨む。織田信長肖像画(大本山本能寺所蔵)=撮影・中田真弥 さて、その魔王・信長が上京焼き討ちの際に、奈良の焼き討ち・比叡山焼き討ちがセットになったときには天皇に災いが降りかかるという伝承を神経質に気にしたことも前回で述べた。 この伝承については、公家の山科言継も比叡山焼き討ちのときすでに「仏法破滅、説くべからず説くべからず。王法如何有るべきことか」と日記にコメントをつけている。この時点で後に天皇と京へ災いが降りかかることが予見されていたということだ。王法とは天皇の「まつりごと」を意味するから、伝承は吉田兼右だけでなく、公家社会全体の共通認識だったことが分かる。信長もこの時点で伝承を把握していただろうことは明らかである。 比叡山焼き討ち以来抱え続けてきた信長の不安。しかし、彼は上京焼き討ちにあたって御所の警護を厳重にし、内裏(だいり)に延焼することがないように万全の態勢をとることで「天皇への災い」を回避した。 その一方で、無数の人々が避難する途中の路上で殺され、あるいは桂川の上流(大堰川)や下流で溺れ死んだという記録もある(『東寺光明講過去帳』)。4月4日は現在の暦で5月15日。梅雨入りにはやや早いが、たまたま雨で増水していたのかもしれない。 仏教に対抗し現世で民衆を救うと豪語する信長にとって、これは想定の範囲内のできごとだったのだろうか。信長が嫌った「亀の呪縛」 とにもかくにも、上京の焼き討ちを強行したことによって伝承の呪縛から逃れた信長は、いよいよ本領を発揮し始める。 4月15日、百済寺炎上。聖徳太子建立という近江きっての古刹(こさつ)は延暦寺と同じく天台宗に属するが、信長に敵対し続ける六角義治(六角義賢の子)が近くの鯰江(なまずえ)城に籠城していた。城代の森某の子がこの寺に出家していて、城内に兵糧を送り届けるなどしたために、信長から六角氏の同類と断じられ、焼き討ちをかけられたのだ(『百済寺古記』)。第六天魔王の面目躍如である。 続いて7月18日には、再び反信長の兵を挙げた将軍・足利義昭も信長によって京を追放される。かつて義昭から「御父」と頼られた信長は、逆に「ほしいままの悪逆」と罵倒されたが、そんなことは彼にとってもはや大した意味はない。 7月28日、元号が元亀から天正へ改められる。義昭追放からわずか3日後に信長が改元を奏請したのだ。これについては朝廷も、「俄(にわか)」な申し入れだったと驚いている(『御湯殿上日記』)。信長は前年に「元亀の年号不吉」と義昭にも改元を求めており、早く新しい元号にしたかったらしい。これが信長と義昭が決裂する原因の一つともなったのだが、それはどうしてだったのか。 もともと「元亀」への改元は義昭が推進した。「与風(ふと=急いで)」改元を行うようにと朝廷に申し入れた結果、永禄から改められたものだ(同)。 では、この元号がどういう意味のものだったのかを考えてみよう。 「元亀」には、そのものズバリ「亀」の文字が入っている。古代中国では、亀は龍の子と考えられていたし、亀をかたどった霊獣・玄武は蛇を体に巻き付けた水の神とされていた。奈良・キトラ古墳にある玄武の壁画(代表撮影) 水神であり、龍や蛇とも関わりの深い亀。信長なら喜びそうなものなのだが、彼はなぜこのめでたい元号を忌避したのだろう? 皮肉にも、元亀の年間は信長にとって本願寺と一向一揆の蜂起、浅井・朝倉の敵対、武田信玄の侵攻と、立て続けに逆風が吹き荒れた最悪の時代だった。厄除けにうるさい信長としては、気分一新ケチのついた元号を改めることによって、ツキを変えたいという思いもあったのだろう。 そしてさらに大きな鍵は、この元号の出典とされる文章にありそうだ。 『詩経』と『文選』という古代中国の文集から採られた「元亀」。『詩経』からは「毛詩」の「元亀象歯犬賂南金」という文言、『文選』からは「元亀水処、潜龍蟠於沮沢、応鳴鼓而興雨」という文言が、それぞれ用いられたという。 問題になるのは、後者の「元亀水処~」だ。「亀は水場に君臨し、龍は湿地帯に潜み、呼応して雨を呼ぶ」とでも読み下せばよいか。 一見して思うのは、亀が水場の支配者であるのに対し、龍は単に沼沢に潜んでいるだけの従の存在にしか位置づけられていないという点なのだが、どうだろう。亀が主、龍が従。信長はこれに我慢できなかったのかもしれない。そういえば、玄武も亀が主、蛇はそれに巻き付くだけの存在ともいえる。信長の「酒の肴」 大蛇・龍を信奉する信長としては、義昭=亀が信長=龍を従える構図を否定したかったのではないか。亀が龍の子というのも、義昭から「御父」と呼ばれた信長にとっては、まさに義昭と自分の関係ではないかと「義昭の面当てぶり」を不愉快に思ったに違いない。逆に、義昭はその意味を知っていたからこそ「元亀」への改元を積極的に行ったとも考えられる。 当時は「言霊(ことだま)」の力が普通に信じられていた時代であった。義昭を追放した今、龍=信長は亀の呪縛からも逃れた。改元はその事実を確認する重要なイベントでもあったのだ。 8月20日、朝倉義景滅亡、9月1日、浅井長政滅亡。長政は自害の直前の8月29日に家臣の片桐直貞に対して、  「このたびは思いがけない成り行きで(小谷城のうち)本丸だけが残るのみとなったが、多くが脱出するなかで籠城し忠節を抽(ぬき)んでるその方には感謝している」という内容の感状を発給するのだが、そこには「元亀四(年)」の文字が書き入れられていた。長政は改元を無視し、「信長が義昭に従う」元亀の元号を最期まで用い続けたのだ。それによって信長こそが逆賊であると主張したのだろう。 11月16日には河内若江城の三好義継が佐久間信盛以下に攻められ自害。京を追放された義昭を保護したことが責められての不幸な最期だった。これで信長にとって畿内の敵対勢力は本願寺を残すのみとなる。 明けて天正2(1574)年。前年12月に岐阜城に凱旋(がいせん)し、久々にゆったりとした時を過ごしていた信長は、そのまま正月を迎える。 京や周辺諸国から家臣たちが年賀に伺候(しこう)し、式三献(しきさんごん。礼法にのっとった盃事で、一の膳・二の膳・三の膳のそれぞれで大中小の盃を酌み交わす。現代の三三九度につながっている)の宴席にお呼ばれした後、外様衆は退席した。残ったのは馬廻衆(側近衆、親衛隊)のみ。宴席が行われたと思われる岐阜城の信長居館跡 ここで『信長公記』はこう記している。  「古今承り及ばざる珍奇の御肴出で候て、又御酒あり」   昔も今も聞いたことがないような珍しい酒の肴(さかな)が出され、また酒が振る舞われた、というのだ。 一体どんな肴が供されたのだろう?  それは、現代のわれわれから見れば世にも恐ろしい代物だった。「去年北国(ほっこく)にて討とらせられ候、一、朝倉左京大夫義景首(こうべ)一、浅井下野    首一、浅井備前    首  已上、三ツ薄濃(はくだみ)にして公卿に居ゑ(すえ)置き」   朝倉義景、浅井久政、浅井長政の3人の首が、漆で塗り固めた上から金泥を薄く施された状態で食台に載せられ、披露されたのである。 『甫庵信長記』では黒漆の箱に入って出され、柴田勝家が酒を飲んでいるときにふたが開けられたと記されている。本当なら、勝家は口に含んだ酒を吹き出したかと想像するのがわれわれ現代人の感覚なのだが、臨席の人々はてんでに歌い踊り、宴は大いに盛り上がったらしい。

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    串刺し、磔、干殺し… 戦国史上類なき秀吉の残虐性、ここに極まれり

    渡邊大門(歴史学者) これまでの連載で触れた通り、豊臣秀吉は出自に謎が多く、まったく得体の知れない人物だった。ポルトガルの宣教師らが口々に述べている通り、その性格には異常性すら見られた。秀吉の残酷な性格については、数々の合戦における残酷な行為でも確認できる。今回は、上月(こうづき)城の戦い、三木城の戦い、鳥取城の戦いを取り上げて考えてみよう。 秀吉の残酷な性格が表れた戦いには、天正5(1577)年12月に決着した上月城の戦いがある。上月城の戦いとは、織田信長と毛利輝元との全面戦争の緒戦だった。信長が西国方面の攻略を託したのは、頭角を現していた秀吉である。命を受けた秀吉は同年10月、播磨に向けて出発した。 秀吉は竹田城(兵庫県朝来市)に弟の秀長を入れ置くと、いよいよ赤松七条家の一党が籠る上月城(兵庫県佐用町)へと兵を進めた。赤松七条家は毛利氏に味方をし、織田方に抵抗したのである。 同年11月27日には上月城近くの福原城を陥落させ、秀吉の軍勢はいよいよ上月城に迫った。このとき、毛利方の宇喜多直家は、秀吉の軍勢と交戦して散々に打ち負かされ、敗走中に自軍の兵の首が619も取られたという。 宇喜多勢を散々に打ち破った秀吉は、その余勢を駆って上月城に迫った。そして、上月城に激しい攻撃を行ったのである。その戦いの状況は、秀吉自身の言葉で次のように記されている(「下村文書」)。(宇喜多氏との)合戦場から引き返し、いよいよ七条城(=上月城)を取り詰めた。水の手を奪ったこともあって、上月城の籠城者からいろいろと詫びを入れてきたが、(秀吉は)受け入れなかった。そして、返り猪垣を三重にして城外への逃亡を防ぎ、諸口から攻撃を仕掛け、十二月三日に城を落とした。敵兵の首を悉(ことごと)く刎(は)ね、その上に敵方への見せしめとして、女・子供二百人余を播磨・美作・備前の境目において、子供を串刺しにして、女を磔にして並べ置いた。 秀吉の態度は強硬であった。城兵たちの命乞いを受け入れることなく、逆に逃げられないように柵を巡らすと、次々と敵兵の首をはねた。さらに見せしめとして、女、子供をそれぞれ串刺しにし、磔(はりつけ)にして晒(さら)し者にするなど残虐の限りを尽くしたのである。非戦闘員が残酷なかたちで処刑された例は、そう多くはない。織田軍と毛利軍の攻防戦の地として知られる上月城跡=兵庫県佐用町  ところが、『信長公記』(巻十)には、一連の事実について少し違った表現で記されている。該当部分を次に示すことにしよう。(宇喜多氏との交戦後)秀吉は、引き返して上月城を取り巻き攻めこんだ。七日目(十二月三日)に上月城中の者が大将の首を切って秀吉のもとに持参し、「残党の命を救って欲しい」と懇願した。秀吉は上月城主の首を安土城の信長に進上し、お目に懸けた。すると、秀吉は上月城に立て籠もる残党を悉く引き出し、備前・美作の両国の境目に磔にして、悉く懸け置いた。 ここで注意しなくてはいけないのは、秀吉が上月城を落としたのではなく、上月城内部の者が城主を裏切って首を獲り、それを秀吉のもとに持参したということである。先の書状では、あたかも秀吉の攻撃によって落城させた感がある。敗戦間近と見た上月城内の武将らは、城主を差し出すまでに追い詰められていた。 城主の首を差し出した交換条件は、城内の者の命を救って欲しいというものであった。彼らが生き残るために、一縷(いちる)の望みを託したことは想像に余りある。しかし、秀吉は大将の首を安土城の信長のもとに届けると、約束を反故(ほご)にした。上月城内の残党を引き出し、備前・美作両国の国境に磔にしたのである。残酷であることには、何ら変わりがない。「三木の干殺し」 秀吉の書状には記されていないが、『信長公記』が記すように、実際は城兵が大将の首を持参して降参したのであろう。しかし、秀吉はそれを許さなかった。『信長公記』に記されている残党とは、兵卒のほかにも城内に逃げ込んだ女、子供も含まれていたと考えられる。当時、戦争が起こると、城は周囲の非戦闘員が逃げ込む場でもあった。秀吉は容赦することなく、彼らを串刺し、磔にしたのである。 女、子供を串刺し、磔にするという措置は、秀吉の考えに基づくものだった。すると、秀吉の容赦のない苛烈な性格が浮かび上がってくることになろう。秀吉も武将として成果を挙げない以上、厳しい立場に追い込まれるのは当然である。『信長公記』では、西国方面で奮闘する秀吉の活躍ぶりを次のように記述している。(秀吉が)西国でしかるべき働きをして、(中略)夜を日に継いで駆け回り、秀吉の粉骨の働きは比べようもないものである。 秀吉は昼夜を忘れ、信長のために軍功を挙げたゆえに、高い評価が与えられたのである。元の身分が低い秀吉にとっては、信長から目をかけられることが、もっとも重要なことだった。上月城の戦いで見せた秀吉の残虐性というべきものは、続く三木城攻めでも姿を現すことになる。 秀吉の合戦における高い能力が発揮されたのは、天正6(1578)年3月から始まった三木合戦である。三木合戦は「三木の干殺し」と称され、長期にわたる兵糧攻めで知られる。以下、その流れを確認することにしよう。 秀吉が中国計略を進める上で、最も頼りにした武将が別所長治である。別所氏は播磨国守護赤松氏の流れを汲む名族で、15世紀後半から三木城に本拠を置いていた。しかし、事態は思わぬ方向に展開する。同年2月、にわかに三木城主の別所長治は秀吉に叛旗を翻し、毛利方に寝返ったのである。三木城跡の別所長治像(兵庫県三木市) ここから戦国史上に例を見ないほど凄惨な兵糧攻めとして有名な、「三木の干殺し」が展開される。では、当初信長に与することを約束した別所長治は、いかなる理由によって寝返ることになったのだろうか。 別所氏が寝返った理由については諸説あり、中でも注目されるのは、別所氏が出自の卑しい秀吉を愚弄(ぐろう)していたという説である。三木城の戦いの顛末(てんまつ)について記した、『三木合戦軍図縁起』には次の注目すべき一節がある。別所長治公がおっしゃるには「だんだん昨日や今日の侍の真似をする秀吉。卑しくも村上天皇の苗裔・赤松円心の末葉たる別所家に対して、誠に無礼である。毛利家を滅ぼしたあと、秀吉が播州一国を支配しようとしていることは明らかである。敵の謀を知りながら、その謀に乗るのは智将の行うことではない。そのように秀吉に返答せよ」ということである。 この台本は後世になったものであり「卑しくも…」以下が付加されたのは、あくまでフィクションと考えてよい。村上天皇、赤松氏の流れを汲む別所氏と秀吉を対比させることにより、物語をおもしろくしようとしているのである。つまり、別所氏は名門意識があり、秀吉を見下していたということになる。生き地獄の兵糧攻め 別所氏が信長に叛旗を翻した理由の一つとして、「名門・別所氏が出自すら判然としない秀吉には従えなかった」ということが挙げられる。それは、ここに示した絵解きの説明が広く流布したものと考えられる。実際に別所氏が寝返った理由は、足利義昭や毛利輝元らが熱心に引き入れたからだった。 当初、別所方は優勢に戦いを進めたが、それは長く続かず、たちまち劣勢に追い込まれた。秀吉は三木城の周囲に付城を築くと、毛利方の兵糧ルートを完全に遮断した。こうして「三木の干殺し」と称された、生き地獄のような兵糧攻めが展開される。 三木城付近に築城された付城は、実に堅固なものだったといわれている。二重にした塀には石を投げ入れて、重ねて柵を設けた。また、川面には簗杭(やなぐい)を打ち込んで籠を伏せて置き、橋の上には見張りを置いている。単にそれだけではない。城戸を設けた辻々には、秀吉の近習(きんじゅ)が交代で見張りをした。 人の出入りも厳しく規制された。付城の守将が発行する通行手形がなければ、一切通過を認めないという徹底ぶりであった。夜は篝火(かがりび)を煌々と焚き、まるで昼間のようであったといわれている。もし油断する者があれば、上下を問わず処罰し、重い場合は磔という決まりが定められた。 三木城の周囲はアリの入り込む隙間のないほどの厳重な完全封鎖がされており、当然一粒の米も入らなかった。兵糧がなければ戦う気力が喪失し、城内の兵卒の士気が上がらないのも止むを得ない。時間の進行とともに、三木城には飢餓をめぐる惨劇が見られるようになる。 『播州御征伐之事』にも記されているとおり、城内の食糧が底を尽くと、餓死者が数千人に及んだという。はじめ兵卒は糠(ぬか)や飼葉(馬の餌)を食していたが、それが尽きると牛、馬、鶏、犬を食べるようになった。当時、あまり口にされなかった肉食類にも手が及んだのである。もはやぜいたくは言っていられなかった。 糠や飼葉、肉で飢えを凌げなくなると、ついには人を刺し殺し、その肉を食らったと伝えている。さすがに死肉は食しにくいので、衰弱した兵を殺したと考えられる。その空腹感は、想像を絶するものがあった。「本朝(日本)では前代未聞のこと」と記録されており、城内の厳しい兵糧事情を端的に物語っている。 天正8(1580)年1月、秀吉は三木城内の長治、吉親、友之に切腹を促し、引き換えに城兵を助命すると伝え、秀吉もこの条件を了承した。 別所一族の切腹の現場は、実に凄惨なものであった。長治は3歳の子息を膝の上で刺し殺し、女房も自らの手で殺害した。友之も同じような手順を踏んだ。そして、長治は改めて城兵の助命嘆願を願うと、腹を掻(か)き切ったという。介錯は三宅治職が務めた。腹は十文字に引き裂かれ、内臓が露出していたと伝える。友之以下、その女房、吉親の女房らも自ら命を断った。 秀吉の蛮行は、これだけで終わらなかった。続く鳥取城の戦いでも、激しい兵糧攻めを展開した。石垣が構成美を見せる鳥取城跡。地形をうまく生かして築かれている(鳥取市) 三木城の平定を終えた秀吉は、信長の命を受けて、すぐさま但馬・因幡の平定に向かった。因幡平定は以前から始まっており、天正8(1578)年5月の時点で、城主である山名豊国は降伏していた。しかし、降伏を潔(いさぎよ)しとしなかった豊国は、密かに吉川元春と通じて応援を依頼したという。この時、派遣されたのが、石見吉川家の当主で吉川経安の子、経家である。 籠城直後、豊国はにわかに秀吉に投降し、その軍門に降った。この理由に関しては、毛利方が豊国を暗愚とみなし追放したなど、多くの説がある。そして、秀吉は降伏した豊国などを引き連れ、鳥取城攻略に乗り出した。取った作戦は兵糧攻めであったが、その準備には余念がなかった。「人肉食い」の惨劇 秀吉は鳥取城を兵糧攻めにすると決するや、鳥取城の西北に付城として丸山・雁金の二つの城を築いた。付城の構築は秀吉の十八番であり、三木城の戦いでも効果を発揮した作戦でもある。しかも築城のスピードは、群を抜く速さであった。そして、鳥取城を完全に包囲し、アリの這い出る隙間も与えなかったという。 加えて、秀吉は米などを通常よりも高い値段で購入し、吉川氏の先手を打った。もともと鳥取城は兵糧が乏しかったといわれているが、これにより窮地に陥ったのである。また、鳥取城には多くの農民らが入城したという。それは、秀吉が城内に追い込んだといわれており、食糧の浪費を促すためであった。 秀吉の兵糧攻めは、同年の6月下旬から付城の構築と同時並行で進められた。徐々に鳥取城の食糧が尽きていったことは、『石見吉川家文書』中の吉川経家の書状で随所に触れられている。その言葉からは、城内の食糧事情の厳しさが伝わってくるが、あまり具体的な記述ではない。 むしろ、阿鼻叫喚(あびきょうかん)ともいえる描写を行っているのは、『信長公記』や『甫庵太閤記』といった史料である。次に、その凄惨な内容を掲出しておこう(内容的には似た部分が多いので、『信長公記』を掲出する)。因幡国鳥取郡の一郡の男女は、ことごとく鳥取城中へ逃げ入って立て籠もった。下々の百姓以下は、長期戦の心構えがなかったので、即時に餓死してしまった。はじめは五日に一度か三日に一度鐘を衝くと、それを合図に雑兵が城柵まで出てきて、木や草の葉を取り、中には稲の根っこを上々の食糧とした。 鳥取一郡の男女という表現は大げさであるが、それほど多数の人間が入城した表現と捉えてよいであろう。百姓たちは心構えがなかったため、すぐに飢え死にしたとあるが、実際には非戦闘員に食糧が回らなかった可能性もある。雑兵が城柵近くの葉などを食していたということは、城内の食糧が尽きていたことを示している。具体的な時期は示されていないが、籠城が始まってから、さほど経過していない頃と考えられる。豊臣秀吉木像(大阪城天守閣蔵) 時間の経過とともに食糧事情が悪化すると、惨劇はさらに深まった。のちになると、これ(草の葉など)も尽き果てて、牛馬を食らっていたが、露や霜に打たれて餓死する者は際限なかった。餓鬼のように痩せ衰えた男女は、柵際へ寄ってもだえ苦しみ、「ここから助けてくれ」と叫んだ。叫喚(大声を上げて叫ぶこと)の悲しみ、哀れなる様子は、目も当てられなかった。 この描写から明らかなように、すでに見てきた三木合戦と同じ様子であった。しかし、悲劇はこれだけに止まらなかった。ついにカニバリズム(人肉を食うこと)が行われたのである。次に、さらに激しい惨劇を確認しておこう。(秀吉軍が)鉄砲で城内の者を打ち倒すと、虫の息になった者に人が集まり、刃物を手にして関節を切り離し、肉を切り取った。(人肉の)身の中でも、とりわけ頭は味がよいらしいとみえて、首はあっちこっちで奪い取られていた。 食糧不足が極限に達すると、人々の理性は完全に失われた。しかし、死んだ人間の肉はまずかったようで、たとえ虫の息であっても、生きた人間が食に供されたようである。中でも「頭がうまい」というのは初耳であるが、脳みそのことであろうか。いずれにしても、惨劇がここに極まったのは、いうまでもないであろう。 このような事態を受けて、同年10月25日、城主の吉川経家は城兵を助けることを条件に切腹したのである。人が人を食らうことを知った秀吉には、どのような気持ちが生じたのであろうか。もはや知る由もない。 このように秀吉が残酷の限りを尽くしたのには、いくつか理由があろう。本来、卑しい出自の秀吉は、信長に認められるべく必死だった。そのためには自らの武威を示すべく、戦いに勝っても残酷な措置をして、敵対勢力を委縮させる必要があった。その点で女、子供の磔刑、苛烈なまでの兵糧攻めは、絶大な効果があったのである。※主要参考文献渡邊大門『秀吉の出自と出世伝説』(洋泉社・歴史新書y、2013年)

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    比叡山の祟りにビビった信長 「第六天魔王」はこうして誕生した

    橋場日月(歴史研究家、歴史作家) 天下統一への志は込められていなかった「岐阜」。では、信長はその二文字の何を喜んで、新しい本拠地の名称に選んだのだろうか。この二つの漢字を分析してみよう。 まずは「岐」だ。この字は「ふなど」、「ちまた」を意味するという。これは本道から枝分かれした道、行く先が幾筋にも分かれている状態を指す。 『古事記』に登場する「岐の神(ふなどのかみ。久那斗神と書いてくなどのかみとも)」は、黄泉(よみ)の国の亡者と化したイザナミの追っ手から逃れるために、イザナギが投げた杖(つえ)が化身したものだ。 追っ手を遮る=来てはいけない場所を守る、ということから、町や村に通じる道や辻の境で悪神・悪霊や災厄、疫病の侵入を防ぐ「塞(さえ)の神」=道祖神(さいのかみ、どうそじん)となった。 つまり、「岐」は魔除け・厄除けという意味を持っているのだ。厄除け志向の強い信長のパーソナリティーが、こんなところにも顔をのぞかせている。 その上、古代出雲ではこの岐の神は龍蛇神の本体として尊ばれていたという。つまり、信長が求めてやまない龍神・蛇神の化身でもあるのだ。信長の本拠として、これほどふさわしい名前もないだろう。織田信長の角凧=2016年9月13 日(大河内弥美撮影) さらに付け加えると、「幾筋にも分かれる道、流れ」という「岐」は、細かく分流して伊勢湾に注ぐ木曽川・揖斐(いび)川・長良川の木曽三川を表すともいい、その分流の形状は出雲神話の八岐大蛇(ヤマタノオロチ)にも通じるではないか。「岐」の字もそこには含まれている。 そして「阜」の字は、通常「大きな陸(おか)」=「丘」を示しているというが、実はそうではなく、「神が降臨するための神梯(はしご)の象徴」だということだ(白川静『漢字百話』)。 つまり、「岐阜」は龍・大蛇の力を備え、瑞龍寺山を包含し、魔除け・厄除けの結界として機能し、神が降臨するハシゴということになる。信長が降臨させたい神は、むろん龍神・蛇神だ。 本連載の第8回で、信長は小牧山を「飛車山(ひくまやま)」から成らせて「龍王山」とし、龍神の磐(いわ)座にしようと考えたのかもしれない、と述べたが、この岐阜命名こそがそれを裏付ける傍証になるのではないか。 ともかく、信長はこうして稲葉山城とその城下・井口(いのくち)を、大蛇(竜)を迎える聖地「岐阜」とその中心の「岐阜城」に改めたのである。ちなみに、信長に岐阜の名称を提案したのは、沢彦宗恩(たくげんそうおん)ではなく、後に瑞龍寺の住職を務める栢堂景森(はくどうけいしん)だったという説もあるそうだ。(―岐阜市歴史博物館「Gifu信長展」解説より)「天下布武」印の意味 ちょうど同じ時期、彼はもう一つ、自身の新たな象徴となるアイテムを用い始める。「天下布武」の印判である。 長く「わが武力で全国を統一する」というスローガンを打ち出したものと言われていたこの印判も、最近では「天下=畿内を将軍が治める理想の推進役となる」という宣言に過ぎないという説が有力となっている。むろん、他にもいろいろと解釈があるようだが、ここで注目したいのは印判の紋様のバリエーションについてだ。 永禄10(1567)年11月から使い始められた「天下布武」印は、当初は一重の楕円(だえん)形の中に天下布武の4文字が配されたものだった。これが、後年改定されて重要な意味を持つことになるので、ぜひ心にとどめておいていただきたい。 岐阜で竜のパワーを最大限までチャージできたのか、信長は翌永禄11(1568)年8月7日に足利義昭を美濃立政寺に迎えると、9月7日岐阜城を出陣する。2年前に失敗した上洛(じょうらく)戦のリベンジというわけだ。 破竹の勢いで進撃した織田軍総勢5万(『細川両家記』『フロイス日本史』)はあっという間に京を制圧。義昭は室町幕府15代将軍の座に就き、信長は事実上「天下」に号令する政権主宰者となった。織田信長が使用した「天下布武」の印 しかしその後しばらくの間、信長にとっては逆境の時間が続く。元亀元(1570)年には、北近江の浅井長政の造反によって越前の朝倉義景討伐が失敗し、姉川の戦いでは浅井・朝倉連合軍を撃破したものの、大坂本願寺の挙兵によって摂津から退却することとなった。さらに本願寺の指示を受ける一向一揆と合流した浅井・朝倉が守山の戦い(志賀の陣)で信長の重臣、森可成を討ち取るなど、まさに四面楚歌(そか)状態に陥ったのである。 そんな中、信長は一つの手を打った。浅井・朝倉を支援する比叡山延暦寺(えんりゃくじ)に「味方できないならせめて中立せよ」と最後通告を送りつけたのだ。これが拒否されると、信長は延暦寺総攻撃を命じる。 元亀2(1571)年9月12日、比叡山を包囲していた織田軍3万は一斉に山上を攻め登った。信長は比叡山焼き討ちを躊躇した? 「根本中堂・山王二十一社を初め奉り、霊仏・霊社、僧坊・経巻一宇も残さず、一時に雲霞(うんか)のごとく焼き払い、灰燼(かいじん)の地となるこそ哀れなれ。山下の男女老若、右往・左往に廃忘(はいもう。狼狽(ろうばい)の意)を致し、取る物も取りあえず、悉(ことごと)くかちはだしにして八王子山へ逃げ上り、社内へ逃げこみ、諸卒四方よりときの声を上げて攻め上る。僧俗・児童(にどう)・智者・上人一々に首をきり、信長公の御目にかけ、これは山頭(比叡山上)においてその隠れなき高僧・貴僧・有智(うち)の僧と申し、そのほか美女・小童そのかずを知らず召捕り、召しつれ、御前(おんまえ)へ参り、悪僧の儀は是非に及ばず、これはおたすけなされ候えと声々に申し上げ候といえども、中々御許容なく、一々に首を打ち落とされ、目も当てられぬありさまなり。数千の屍算を乱し、哀れなる仕合わせ(状態)なり」『信長公記』 『信長公記』に記された比叡山焼き討ちの様子は、あくまでも凄惨(せいさん)で信長の一方的な残虐性が際立っている。 他にもこの戦いでの延暦寺側の死者は「数千人」(同書)とも「男女三、四千人」(『言継卿記』)とも「約千五百人」(『耶蘇会士日本通信』)とも「1120人」(『フロイス日本史』)ともいわれているが、信長は本当にこの虐殺(ジェノサイド)を積極的に行ったのだろうか。 実は、信長が攻撃を躊躇(ちゅうちょ)したのではないかと思われる節があるのだ。この一件から2年後の元亀4(1573)年に、彼が上京(かみぎょう)を焼き討ちする際に神道家の公家、吉田兼見に問い合わせをしている。比叡山延暦寺。阿弥陀堂(右)と法華総持院東塔(左)=滋賀県大津市(産経新聞社ヘリから、門井聡撮影) 「南都(奈良)が相果てれば(松永久秀による焼き討ちでの東大寺焼亡)、北嶺(ほくれい、比叡山)も滅亡する。そうなれば王城(京の御所)にも災いが及ぶ、と兼見の父・兼右が説いたが、本当にそういうことになるのか」というものだ。これに対して兼見は「昔からそう言われていますが、典拠となるような文書はありません」と答えている(『兼見卿記』)。 この言い伝えは当時の知識人には知れ渡っていたようで、比叡山焼き討ちの際に公家の山科言継も「仏法破滅」「王法いかがあるべきことか」と、両者の因果関係を意識したコメントを残している(『言継卿記』)。第六天魔王・信長の誕生 信長もこの言い伝えを知っており、2年後になって「比叡山を焼き討ちした自分が今回上京にも放火すれば、それはそのまま天皇に災いをもたらすことになるのか」と心配していたのである。比叡山焼き討ち当時、すでに信長が後々、天皇へ祟(たた)ることを恐れ、不安を感じていたとしてもおかしくない。迷信に対する興味が過剰で、かつて池に潜って大蛇を探したこともあるほどの信長だからなおさらだ。 特に、比叡山には都の表鬼門を守る日吉大社も鎮座する。かつて、赤熱した鉄片を握らせ、手がただれたら有罪とする火起請(ひぎしょう)で日吉神社の神意を問うた信長には、これもプレッシャーだった。 延暦寺焼き討ちは、信長の意志というよりも延暦寺を監視する宇佐山城を預けられていた強硬派の明智光秀に主導されて発生した可能性が高いのだ。 京の鬼門を守る日吉大社と、国家鎮護の道場、延暦寺。その焼き討ちは、当時の日本人に一大衝撃を与えた。 上京焼き討ちの1カ月前、元亀4(1573)年3月19日付で、宣教師ルイス・フロイスは書簡にこう記した。 「信長はみずから悪魔の王・諸宗の敵であると称し、『ドイロクテンノ・マオウ・ノブナガ』と名乗った」(『耶蘇会士日本通信』)信長の焼き討ちを免れた瑠璃堂の薬師如来坐像=2018年7月31日、比叡山延暦寺 ドイロクテンノ・マオウ、すなわち有名な「第六天魔王・信長」の誕生である。 第六天というのは、人間界の上にある天上界のうち、最下部の六欲天の中で1番上の「他化自在天」を指す。この天は天魔破旬(てんまはじゅん)といわれ、魔王が住み、仏道修行を邪魔するという。かつて今川義元から天魔破旬になぞらえられた信長は、ついに自らその呼称を用いるようになったのだ。 神仏に頼らない幸福を人々に与え、その幸せを自らの幸せとする魔王。既存の神仏関係者に金品を貢がなくとも、信長に従えば幸福になる。つまり信長自身が神となる、という意思表示である。延暦寺を破滅させ本願寺と争う信長にはふさわしい肩書といえるだろう。 このフロイスの記録は、他に信長が「第六天魔王」を名乗った書状などが存在しないためにやや疑問が残っていた。しかし2017年、愛知県豊橋市の金西寺に伝わる開山記『當寺御開山御真筆』の中で、京都・東福寺の住持をつとめた集雲守藤(しゅううんしゅとう)が、本能寺の変直後に書いたと思われる詩文が発見されたことによって、少なくとも周囲にそう呼んだ人がいたことは証明された。 そこには信長についてこう記されていた。 「六天ノ魔王現形ヲ現ルヤ否ヤ」(信長とは第六天魔王がこの世に現れたものか)

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    「悪魔の手先」「実に悪賢い」外国人が見た豊臣秀吉の裏面

    渡邊大門(歴史学者) 容貌の醜くかった秀吉は次々と主君を変え、最後は信長に仕えた。秀吉が栄達の道を歩んだバイタリティーの源泉は、どこにあったのだろうか。秀吉は遍歴する商人的(連雀商人)な活動をしており、そこから得られる人的ネットワークの活用などに理由が求められてきたが、それは正しいのだろうか。 秀吉が出世を望んだ背景には、貧しさから這い出そうとする、仕事に対するひたむきさや創意工夫があったと考えられないだろうか。以下、外国の史料を用い、そこから明らかになる秀吉の姿を通して考えてみよう。 『一六〇〇年及び一六〇一年の耶蘇会の日本年報』には、秀吉が貧しい出自であったこと、金持の農夫に仕えて薪拾いをしていたことに続けて、次のように記している。  このころ彼は藤吉郎と呼ばれていた。その主人の仕事をたいそう熱心に、忠実につとめた。主人は少しも彼を重んじなかったので、いつも森から薪を背負って彼にいいつけることしか考えなかった。彼は長い間その仕事に従事していた。 秀吉は貧しい生活から抜け出すため、熱心な仕事ぶりを見せていた。同様の記述は、16世紀末に来日したスペイン人の貿易商人、アビラ・ヒロンの『日本王国記』にも書かれている。『日本王国記』は、アビラ・ヒロンが執筆した日本の記録である。アビラ・ヒロンは長崎を中心に東南アジア方面で活躍し、元和5(1619)年頃まで日本に滞在した。 特に、最初の3章の部分は日本社会をよく見聞し、当時の状況をよく伝えていると指摘されている。同書には秀吉について、次のように記している。その頃美濃の国の辺境には、さる裕福な百姓がいたが、他の大勢の下男にまじって、中背の、おそろしく勤勉で、また実にものわかりのよい、藤吉郎(秀吉)という若者がいた。しかし、なにしろこの家では、他の仲間といっしょに山から燃料のたきぎを担いで持ってくるというのが仕事だったのだから、さして重要な召使いではなかったに違いない。 秀吉が富農のもとで下男として薪拾いをしていたこと、また大変勤勉で聡明であったことが記されている。しかし、所詮秀吉は下賤の出身でもあり、大した地位や役割が与えられることはなかったという。それでも秀吉は辛抱して熱心に働いたのだから、その粘り強い性格には驚嘆せざるを得ない。 秀吉に関する『日本王国記』の記述はこれだけに留まらず、秀吉が酒造りに従事していたことも書いている。内容を要約すると、次のようになろう。木下藤吉郎秀吉の像と墨俣城=岐阜県大垣市墨俣町 ある日、秀吉は同僚たちと言い争いになった。主人が理由を尋ねると、揉めている原因は、同僚たちが多量の薪を消費していることだった。秀吉は、少量の薪で十分であると考えたのである。訴えを聞いた主人は、すぐさま秀吉を酒造りの役人に抜擢した。酒造りは、薪拾いよりも重要な役目だった。 秀吉は酒造りの指導者的な立場につくと、的確な指示を作業従事者に与えたという。主人は秀吉に特別な恩賞を与えることもなかったが、二度も同じ指示を与える必要もなかった。秀吉は、図抜けた優秀さを備えていた。やがて、秀吉は下賤の出身ではなく、身分ある人の子息であるとの噂が広がったのである。 秀吉の能力の源泉については、非農業民的な性格から理解されてきた節がある。しかしながら、こうした一面を見る限り、秀吉の高い能力は生来のものであり、ことさら卑しい身分や出自にこだわる必要はないと思う。秀吉に惚れ込んだ信長 言うまでもなく、連雀商人がすべて情報収集能力に長けていたわけではない。ルーチン業務に疑問を抱き、常に改善を意識する秀吉の姿勢は、卓越した天性の能力であり、後天的には身に付かなかったのではないか。 秀吉は各地を遍歴する中で、ついに信長に仕えた。秀吉の聡明さに惚れ込んだ信長の姿は、多くの書物に逸話が記されている。李朝の姜沆(カンハン)の『看羊録』は、日本の内情を秘密裏に本国政府に報告したものである。そこには、秀吉が富農の下を出奔して、信長に仕えた頃の話を次のように記している。 (秀吉は)壮年になってから自分から奮発し、信長の奴隷となったが、これといってとくにぬきんでるところもないまま、関東に逃走して数年を過ごし、また戻って(信長のもとに)自首した。信長はその罪を許し、もとどおりに使った。秀吉は一心に奉公し、風雨、昼夜もいとわなかった。 秀吉が松下加兵衛の下を飛び出したのは、天文23(1554)年だといわれているが、定かでない。ただし、この話は強ち嘘と否定できないようである。 『太閤素性記』によると、若き秀吉は幼友達の一若を頼って、信長への仕官を乞うたという。一若は実在の人物であり、当時信長の小人頭を務めていた。秀吉がいったん関東に逃走したとの記述はほかにないので、単に出奔したということになろう。 『看羊録』の記述には、興味深い続きのエピソードがある。次に示しておこう。 信長はいつも、多くの僕らに市中で物を買わせるのに、必ず高価なものを求めさせたが、その値段が少しでも合わないと、買わずにもどらせた。秀吉にやらせるようになってからは、廉価で貴重なものを買い、それも手早くやってのけたので、信長は大変ふしぎがった。 秀吉の才能が遺憾なく発揮されたと逸話であるが、この記述には注記が施されており、「実際は、秀吉が、信長の恩遇をねらって、自分の金銭の一半を加えたのであった。しかし、他の僕(しもべ)らが知らなかったのである」と記されている。織田信長像 秀吉が代金を補填したという、話の裏があった。しかし、自身の金銭を割いてまでも信長の寵遇を得ようとした秀吉の発想は、ほかの者にはなかったと考えられる。 信長が秀吉を重用したのは、その勤勉実直な姿だった。『信長公記』巻十には、信長のために中国方面で奔走する秀吉を評して「これは見上げるべきであると信長は評価した。夜を昼に継いで駆け回り、秀吉の働きは比類なきことである」と記している。逆に、そこまでしなければ、秀吉は信長から認められなかったに違いない。秀吉の裏の顔 信長の周辺には、実に多彩な人材が仕えていた。その中で秀吉の優れた経済感覚、そして勤勉な姿は他の追随を許さなかった。秀吉が薪奉行をした際、従来の3分の1の量で済む提案をした例を挙げたが、その仕事ぶりを示しており興味深い。 秀吉が従来の職務内容に飽き足らず、革新性を示したエピソードには事欠かない。すべての面において、秀吉は信長の「かゆいところに手が届く」存在だった。秀吉は貧しい出自ながらも、鋭く問題点を見抜き、改革を行う姿勢が信長から高い評価を得た。それだけではない。命じられたことに従い、東奔西走し信長に尽くした。そうでなければ、並み居る諸大名たちと肩を並べることはできなかったに違いない。しかし、勉励刻苦で改革提案型の秀吉には、裏の顔があった。 秀吉の醜悪な姿を告発しているのが、フロイス『日本史』16章の記述である。フロイスは秀吉が「抜け目なき策略家」であったと指摘した上で、次のように述べている。彼(秀吉)は自らの権力、領地、財産が増して行くにつれ、それとは比べものにならぬほど多くの悪癖と意地悪さを加えて行った。家臣のみならず外部の者に対しても極度に傲慢で、嫌われ者でもあり、彼に対して憎悪の念を抱かぬ者とてはいないほどであった。 この記述は、秀吉が信長の死後に天下人となり、天正13(1585)年に関白に就任して以後の内容である。しかも、秀吉はキリスト教に理解を示さなかったので、その点で厳しい評価となっている点は認めざるを得ない。この前段においてフロイスは、秀吉を「悪魔の手先」と評価した。フロイスにとって、秀吉は神をも恐れない悪魔だった。長浜城天守閣跡と秀吉像=滋賀県長浜市 この後フロイスは、秀吉が人の意見を聞き入れず、常に独断専行であり、誰も彼に意見しなかったことを挙げている。さらに、秀吉が恩知らずであり、最大の功績者を追放したり、不名誉に扱ったり、恥辱で報いた事実を告発している。そして、次のように、秀吉の性質を断言した。 彼(秀吉)は尋常ならぬ野心家であり、その(野望)が諸悪の根源となって、彼をして、残酷で嫉妬深く、不誠実な人物、また欺瞞者、虚言者、横着者たらしめたのである。彼は日々数々の不義、横暴をほしいままにし、万人を驚愕せしめた。彼は本心を明かさず、偽ることが巧みで、悪知恵に長け、人を欺くことに長じているのを自慢としていた。 人間の感性や性質は、今も昔もさほど変わらないと思う。現代社会においても、こうした人物は少なからずいるだろう。出世の階段を駆け上る中で、秀吉の人格は以前からすっかり変わり果ててしまった。『日本史』では、秀吉にありとあらゆる罵詈雑言を浴びせ掛けているが、フロイスは秀吉の抜け目ない醜悪な性格を鋭く見抜いていたのである。 こうした秀吉の変わり果てた酷い人格は、別のところでも語られている。姜沆の『看羊録』では、慶長3(1598)年における日本と朝鮮との講和に際し、秀吉が諸将を厳しく叱責している姿について、「(秀吉の)容貌や言辞の、思い上がった傲慢さは、想見するに思わず心が痛み、骨が削られるようである」と評価している。敵方でありながらも、気分が不快になるほどの言葉を秀吉は吐いていたのである。奇異な秀吉の性癖 続けて姜沆が指摘するのは、家臣らを翻弄する秀吉の姿であった。次に、関係部分を掲出することにしよう。(秀吉の)性質は、実に悪賢い。専ら下らぬおどけごとで部下をもてあそび、家康らを侮弄するのは、まるで赤子を弄ぶような具合であった。また、喜んで水売りや餅売りのまねをし、家康らを通行人に仕立てて何か買わせる様子をさせたり、一文一鐺の下らないいたずらごときの腕くらべをさせたりした。 秀吉は自らが権力あるのをよいことに、家康ら名だたる武将をコケにして、「○○ごっこ」のような遊びに興じていた。また、自らも商売人を演じて見せ、諸大名に客を演じさせていた。残念ながら、「一文一鐺」の意味は不明である。こうした下らない遊びに付き合わされた諸大名は、相当な迷惑であったに違いない。 このように秀吉が自身の遊びや趣味に諸大名を巻き込んだ例は、いくつか知られている。たとえば、秀吉が能に狂っていたことは、よく知られた事実である。秀吉自身の生涯をたどった演目を作らせたほどだ。彼は能を鑑賞するだけに止まらず、諸大名に命じて演じさせていた。お茶も同じである。 お茶といい、能といい、秀吉は自身の趣味を諸大名に押し付ける性癖があった。それもこれも、抑圧された厳しい幼年時代の経験が大きく影響しているのではないだろうか。 秀吉の変わった行動は、次第にエスカレートしていった。姜沆の『看羊録』の言葉を借りるならば、「専ら権謀術数で諸将を制御する」というやり方である。次に、その具体的な例を挙げておこう。ある時などは、「(秀吉が)今夜は東に泊まる」などと命令を出しておいて、夕方には西にいたりした。まるで曹操の疑塚の亜流である。ある時は、猟に出て、(秀吉が)死んだふりをしばらく続けた。従者らは、あわてふためき、なすすべを知らなかった。その大臣(大名)らは、平然としたままで動きもしなかった。すでに、それが偽りであることを知っていたのである。 秀吉は死んだふりをした後、生き返った所作をしたという。秀吉は家臣をからかった意識しかなかったかもしれないが、当の家臣――特に事情を知らない者――にとっては、心臓が止まるような思いをしたであろう。しかし、現実に秀吉のイタズラは世に知られており、むしろ上層に位置する家臣らは慣れっこになっていた。 ちなみに「曹操の疑塚」とは、三国志の英雄、曹操があらかじめ72基の墓を作り、死後埋葬しても、どれが本当の墓かわからないようにしたという故事である。 秀吉自身にとっては単なる悪ふざけであったかもしれないが、姜沆から見れば諸将を愚弄(ぐろう)する行為にしか見えなかった。そうした意識の差異には、注意すべきかもしれない。秀吉も天下人である以上、常軌を逸脱した行為は、常識的に考えて慎まねばならないだろう。豊臣秀吉画像(佐賀県立名護屋城博物館蔵) 秀吉は家臣を弄(もてあそ)ぶことを常としていたが、それは少なからず彼の出自と関係したと考えられる。自分より高い出自の大名らをからかうことに、大きな快感を得ていたのではないだろうか。 秀吉は一介の百姓から天下人に上り詰めた苦労人であり、テレビの時代劇などでは、明るくひょうきんなイメージがある。しかし、それは小説家などが作り上げた偽りの姿に過ぎない。自らの出自に強いコンプレックスを抱いた秀吉は、貧しさを克服し出世する過程において、かなり嫌な性格の人間になったのではないだろうか。※主要参考文献 渡邊大門『秀吉の出自と出世伝説』(洋泉社・歴史新書、2013年)

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    ローマ帝国はなぜ移民で滅んだのか

    ても移民政策への布石だが、労働力不足という大義名分だけで安易に進めて大丈夫なのか。いま一度、ローマの歴史をひもとき、この議論を冷静に考えてみたい。

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    「日本の中に別の国」安倍政権はローマの失敗を直視せよ

    三橋貴明(経世論研究所所長) ローマ帝国は元々、一都市国家であったが、領域国家として勢力範囲を拡大していった。そして最盛期には地中海沿岸の全域に加え、ガリア(現フランス)、ブリタニア、ダキア(現ルーマニア)、アルメニア、メソポタミアにまたがる大帝国を築き上げた。ローマ帝国が繁栄したのは、軍事力やインフラ整備(道路や水道など)に関する突出した技術力に加え、「ローマ市民権」を慎重に、同時に着実に拡大していったためである。市民権は、支配下に置いた部族や民族はもちろん、解放奴隷にまで与えられた。 ローマに征服された属州民であっても、補助兵に志願し、ローマ「国家」のために尽くすことで、世襲のローマ市民権を手に入れることができた。当然ながら、ローマ軍には各属州からも優秀な人材が集まり、軍事力が強化されていく。ちなみに、五賢帝の一人として名高く、ダキアを征服したトラヤヌス帝はスペイン属州の出身である。 ローマ帝国は、支配する領域を拡大し、被支配地の人々をすら「ローマ国家の一員」として育成することで繁栄した。ローマ軍に屈した地域では、族長の子弟がローマに留学し(人質という意味合いもあったのだろうが)、完全にローマ化された上で故郷へ戻された。いわゆるソフトパワーをも活用し、帝国の「統合」が推進されたのである。 そういう意味で、ローマ帝国は最近までのアメリカに似ている。アメリカは「移民国家」ではあるものの、アメリカ国籍を取得したい移民は、アメリカ合衆国憲法への「忠誠の誓い」を果たさなければならない。あるいは、法律が定めた場合に「兵役」に従事することも求められる。さらには、「言語」についてもアメリカ英語が強制された(現在は、かなり緩んでしまっているが)。 ローマ帝国の場合、支配領域が拡大したがゆえに「外国人」を「ローマに忠誠を誓う」ローマ市民に育成する必要があった。アメリカは、膨大な外国人が移民として流入するがゆえに、国籍取得に際し「アメリカ国家への忠誠」を求めたわけである。 ローマ帝国にせよ、アメリカ合衆国にせよ「ナショナリズム(国民意識)」を重視し、国家として繁栄した、あるいは繁栄しているわけである。 世界最古の自然国家「日本国」の国民である我々にはピンとこないかもしれないが、外国人を自国に受け入れる場合、ナショナリズムを重視した同化政策が必須なのである。ローマの場合、ゲルマン系民族を受け入れる際など、複数の小規模なグループに分け、帝国各地に分散して住まわせるなどの工夫もなされた。「帝国の中に別の国」が出現し、ナショナリズムが壊れることを、可能な限り回避しようとしたのだ。画像:Getty Images さて、西暦375年、ユーラシア・ステップの遊牧民フン族の脅威を受けたゲルマン系の西ゴート族約20万人が、ドナウ川の対岸からローマ帝国への亡命を求めてきた。当時のヴァレンス帝は、西ゴート族が好みの場所にまとまって居住することを許可してしまった。ローマ帝国の中に「別の国」ができてしまったわけである。 さらに、当時のローマ帝国はドナウ川を越えてきた難民たちを杜撰(ずさん)に扱い、食料すら十分に供給されなかった。結果、ゴート族の難民が蜂起し、同族を次々にドナウ川の向こうから呼び寄せ、ゴート系のローマ軍の兵士たちまでが呼応し、大反乱に至ってしまった。 鎮圧に向かったヴァレンス帝は、378年にアドリアノープルにおけるゴート反乱軍との決戦で戦死してしまう。その後、ゴート族はローマ帝国内部における「自治権」を確立。ローマ市民ではない人々の「別の国」を認めた結果、ローマ帝国(厳密には西ローマ帝国)は滅亡への道を歩んでいくことになる。安倍政権は「亡国政権」 さて、2018年。日本は少子高齢化に端を発する生産年齢人口対総人口比率の低下を受け、人手不足が深刻化していっている。何しろ、人口の瘤(こぶ)の世代が続々と現役を退いている反対側で、彼らを埋めるだけの若者は労働市場に入ってこない。現在の日本の人手不足は必然であり、しかも長期に継続する。 日本の人手不足を受け、経済界を中心に、「人手不足を外国人労働者で埋めよう」という、国民国家、あるいは資本主義国として明らかに間違った声があふれ、安倍政権が続々と日本の労働市場を外国人に「開放」していっている。2017年時点で日本における外国人雇用者数は130万人に迫った。外国人雇用者数(左軸)と増加率(右軸)の推移 出典:厚生労働省 驚かれる読者が多いだろうが、データがそろっている2015年時点で、我が国はドイツ、アメリカ、イギリスに次ぐ、世界第4位の移民受入大国なのである。216年以降、ブレグジットの影響で、イギリスへの移民流入が減少している。2016年、あるいは2017年には、我が国が世界第3位の移民受け入れ大国になっている可能性が高い。 人手不足ならば、生産性を高める。具体的には、設備や技術に投資し、「今いる従業員」一人当たりの生産量を高め、人手不足を解消しなければならない。生産性向上で経済を成長させるモデルこそが、資本主義なのだ。 すなわち、現在の日本の人手不足は、まさに経済成長の絶好のチャンスなのである。逆に、人手不足を「外国人労働者」で埋めてしまうと、生産性向上の必要性がなくなってしまう。安倍政権の移民受入政策は、日本の経済成長の芽を潰す。 その上、安倍政権は2025年までに外国人労働者50万人増を目指す方針を示しているわけだから、あきれ返るしかない。 経済成長に対するネガティブなインパクトに加え、安倍政権の移民受入政策は、日本国民の「ナショナリズム」を破壊することになる。例えば、日本で暮らす外国人が、我々と同じように「皇統」に対する畏敬の念を持ち得るだろうか。ありえない。 日本国は、世界屈指の自然災害大国である。自然災害が発生した際には、国民同士で助け合うという意味におけるナショナリズムが必須だ。被災者を助けてくれるのは、別の地域に暮らす日本国民だ。 「困ったときはお互い様」という「ナショナリズム」なしでは、人間は日本列島で生きていくことはできない。2011年3月、東日本大震災が発生し、福島第一原発の事故が起きた際、東京のコンビニから外国人店員が消えた。多くの外国人が、原発事故を受けて帰国したようだ。筆者にしても、例えば韓国で働いていたとして、原発事故が起きたならば即刻、帰国するだろう。筆者の心の中に「韓国と心中する」などという気持ちは皆無だ。 日本にいる、あるいは「移民」として来日する外国人たちも同じなのである。我々は外国人と「日本国のナショナリズム」を共有することはできない。ローマ帝国は「国の中の別の国」を認め、「市民権」というナショナリズムが崩れたと同時に、亡国に向かい始めた。 そして現代、安倍政権は移民受入により、「安く働く労働者」と引き換えに、日本の経済成長を妨害し、かつ自然災害大国である日本には不可欠なナショナリズムを壊そうとしている。移民受入を推進する以上、安倍政権は「亡国の政権」以外のなにものでもないのだ。

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    ローマ帝国の滅亡は「難民キャンプ」から始まった

    について書かせていただきたい。 まず、先に結論だけいえば、移民や難民の受け入れが成功するかどうかは、歴史的に見ても「価値観や生活レベル、それに文化の違う人々をどこまで社会に溶け込ませることができるか」という点にかかっているということだ。 「グローバル化」とは、国境を越えた「ヒト・モノ・カネ」の動きの活発化であるといわれている。「モノ」と「カネ」の動きは、自由貿易の促進という形で比較的受け入れやすいものと考えられているが、最も厄介なものが、「ヒト」の移動に関する移民や難民の問題である。 本稿では、古代ローマ帝国と、その末裔(まつえい)である現代のドイツが直面している深刻な問題を振り返ることで、この厄介な移民・難民問題の核心を考えるための、いくつかのヒントを提供していきたい。 古代ローマ帝国の崩壊というのは英国の歴史家、エドワード・ギボンの『ローマ帝国衰亡史』をはじめとして、近代の欧州では実にさまざまな知識人たちが論じてきたテーマの一つである。その最大の要因の一つとして、次々に侵入してきた難民の処理を誤ったことにあるのは間違いない。 もちろんローマ帝国自体は、当時から世界最大の多民族・多文化社会である。無数の移民を同化したり、他民族のいる場所を占領したりすることによって数世紀にわたって発展してきた国であった。端的にいえば、当時のローマは現在の欧米のように、移民や難民に寛大だったのである。画像:Getty Images だが、今から1700年ほど前の西暦300年ごろから、状況がおかしくなる。ユーラシア大陸の内部、中央アジアから移動してきたフン族の侵入により、東欧を支配していたゴート族をはじめとする部族たちが追い出され、「難民」としてローマ帝国との国境沿いに大量に集結したからである。その数は、当時としても驚異的な20万人にのぼるといわれている。 それまでのローマ帝国であれば、異文化の「野蛮人たち」を同化させるために、その部族をまとまらせず、小集団に分割して抵抗してこないようにしてきた。いわゆる「分断統治」である。誕生した「難民キャンプ」 ところが、当時のローマ帝国皇帝のフラウィウス・ユリウス・ウァレンス(在位364-378年)に、このゴート族の一部であるテルヴィンギ族を分断するだけの兵力がなかった。しかも、皇帝ウァレンスには労働力や兵隊としてすぐにでも活用したいという意図があったことから、分断せずにまとまって住むことを許可したのである。ここで誕生したのが、いわゆる「難民キャンプ」である。 しかし、ローマ帝国は、難民状態の「野蛮人」であるテルヴィンギ族に対し、食料の中抜きのような腐敗や汚職のせいで、保護が十分に行き渡らず、難民キャンプで暴動が発生する。この暴動を契機として、テルヴィンギ族は本格的な反乱を起こし、国境の外にいた西ゴート族たちと呼応しながら、ローマ帝国の内部で自治権を確立させることに成功した。 そしてゴート族たちは、ついにローマ軍と現在のトルコ領内で行われた「ハドリアノポリスの戦い」(378年)に勝って、皇帝ウァレンスを殺害した。さらに、410年には「ローマ略奪」により、ローマはゴート族の手に落ちた。その後も東欧からやってくる部族たちの侵入が続き、ついに、ローマ帝国は決定的な崩壊を迎えることになる。 この歴史から得られる教訓は、流入し続ける難民の扱いを間違えて同化に失敗すれば、それが確実に国家の生存に直結するような大きな政治問題へと発展する、ということである。 もちろん、スケールの大きさは違えども、現代のローマ帝国の末裔であるドイツ連邦が、同じような形で移民・難民問題に悩まされ始めていることは、実に興味深い。例えば、最近のドイツで注目されているのは、移民・難民による女性暴行事件である。画像:Getty Images 特に象徴的だったのが、6月6日に南西部のヴィースバーデンという都市で14歳の少女が暴行された上、殺害された事件である。難民申請中だったイラク人の容疑者は、事件2日後に高飛びしていた先の同国のクルド自治区で身柄を拘束された。 その他にも、ここ1、2年で亡命希望者(asylum seekers)による性的犯罪が目立つ。実際のドイツ国内の犯罪率は全体的に減少しているのにもかかわらず、増加しているのである。とりわけ、このような難民や亡命希望者の男性による性的犯罪は、ドイツ国内で「中東系の男性に襲われるドイツの白人女性」というバイアス(偏り)の構図に拍車をかけ、実に悩ましい問題となっている。 また、宗教的にも「イスラム教徒がキリスト教徒を襲う」という構図があるだけではない。欧州のリベラルな人々に対しても、「寛大な多元主義」を守るか、それとも「女性の人権」を守るかを迫っているという点で、強烈なジレンマを突きつけているともいえる。 この問題に関しては、ドイツ与党でメルケル首相が率いるキリスト教民主同盟(CDU)の幹部、クレックナー食糧・農業相も、政府に対して、移民・難民の受け入れについて慎重にすべきだというトーンに変わってきている。メルケル氏の後継者の一人といわれるクレックナー氏ですら、有権者たちが直面する異文化との摩擦を目の当たりにして、政策転換を視野に入れ始めているのである。生かすべきはドイツの教訓 彼女が最近出版した本の中では、実際問題として、娘を遠足に行かせなかった移民や難民の両親や、女性教師と握手しなかった男親の存在などを挙げている。 また、全体的に犯罪率は減っているとはいえ、バイエルン州では、2017年前期だけで性犯罪が50%上昇した。しかも、そのうち18%が移民や難民によるものという統計結果も出ている。ドイツは、全体的には「安全」になっているのかもしれないが、それがドイツ国民全体の「安心」にはつながっていないことがうかがえる。 ここで、今ドイツで迫られている移民・難民に関する論点を整理すると、大きく二つの議論に分かれる。一つが「移民は国力になるし、難民受け入れは義務である」というものである。ドイツをはじめとする欧米の先進国による議論のエッセンスは、まさにこの言葉に集約されている。つまり、「経済」と「倫理・道徳」というリベラル的な観点から積極的に受け入れるべきだというものである。 もう一つが「国境を開放してしまえば、ますます社会問題が深刻になる」という反対意見である。要するに「すでに生活している国民の安全を優先せよ」ということだ。だが、この主張をする人々は、とりわけ倫理・道徳面での話を無視していると感じられ、あまりいいイメージを持たれにくい。 確かに、移民や難民問題において、日本とドイツ、さらにはローマ帝国までも比較することは無理な話である。だが、それでも、冒頭で記したように「価値観や生活レベル、それに文化の違う人々を、どこまで社会に溶け込ませることができるか」を真剣に考えなければならないのである。独総選挙で躍進した反移民政党「ドイツのための選択肢」(AfD)に抗議する人々=2017年9月、独ベルリン 果たして、われわれはゴート族が侵入してくるまでのローマ帝国のように、外国から来る人々を上手に同化させることができるのだろうか。それとも、ドイツのように、移民や難民が増えて悩むことになるのだろうか。 移民や難民の適応や同化を間違えれば、いったいどうなるのか。グローバル化している現代だからこそ、われわれも真剣に考えざるを得ないのかもしれない。

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    ローマ帝国は「武装難民」に自由を与え、そして自壊した

    から1500年前、陽光輝く北アフリカの地にゲルマン民族の一派、ヴァンダル人の王国があった。この王国の歴史は一見、歴史ロマン以外のなにものでもない。 ゲルマニア地方の薄暗い森の中から出てきた金髪碧眼(へきがん)のヴァンダル人が長い流浪の末、「英雄王」ガイセリックに率いられてイベリア半島から北アフリカへ渡り、自らの王国を建設した。この王の下でヴァンダル人は強勢を誇り、地中海沿岸各地を海賊のように荒らし回り、455年には「永遠の都」ローマを攻略する。 だが、その後、王国は100年ほどの命脈を保つが、最後はビザンツ皇帝ユスティニアヌスの送り込んだ遠征軍によってあっけなく滅ぼされ、地上から跡形もなく消え去ったのである。しかし、この興亡が歴史ロマンに感じられるのは、われわれがあくまでもヴァンダル人の側に立っているからである。 ヴァンダル人が王国を建てた土地は、ローマ帝国の領土の一部であったのであり、ローマ帝国の住人にとっては、彼らは侵入者であり、征服者であった。ローマ帝国は、なぜ彼らの北アフリカ征服を許してしまったのだろうか。 ヴァンダル人がライン川を渡って、ローマ帝国領に侵入したのは、406年の大みそかの日であった。アラン人とスエビ人もヴァンダル人と行動をともにした。彼らは、女子供を伴っており、何らかの事情で元の居住地を追われた人たちであったのであり、今日の言葉で言えば「武装難民」であった。 ヴァンダル人たちは3年間、ガリア(現フランス)の地を荒らしまわった後、409年にはピレネー山脈を越えて、イベリア半島に入り、その地にいったん住み着いた。ヴァンダル人はハスディングとシリングという二つの部族から成っていた。 ハスディング系ヴァンダル人はガラエキア(スペイン北西部)を、シリング系ヴァンダル人はバエティカ(スペイン南西部)を、アラン人はルシタニア(ポルトガル)とカルタギニエンシス(スペイン中南部)を、スエビ人はガラエキアの北西部を、それぞれ分捕った。 このようなヴァンダル人らの動きに対して、ローマ帝国政府は即座に反応することができなかった。当時、本国のイタリア自体が、バルカン半島のゴート人によって脅かされていたからである。イタリア半島に侵入した、ガイセリックに率いられたヴァンダル人たち(ゲッティイメージズ) そもそも、ヴァンダル人たちがライン川の国境を突破できたのも、イタリア防衛のためにライン川の国境からローマ軍が大幅に引き上げられていたからであった。イタリアのためにガリアは犠牲になったのである。この処置を取ったのは、当時、政府の実権を握っていた将軍のスティリコであったが、スティリコの父親はヴァンダル人であった。 ガリアに入ったヴァンダル人たちにさらに幸いしたのは、407年にブリテン島でコンスタンティヌス(3世)なる軍人が反乱を起こし、皇帝を称して、ガリアに乗り込んできたことであった。このためスティリコは、ヴァンダル人たちよりも、まずは簒奪(さんだつ)帝コンスタンティヌス3世を相手にしなければならない状況になったからである。裏目に出るローマの「温存政策」 結局、ローマ帝国の内乱は、彼らに大きく利することになったのである。結局、ヴァンダル人追討は遅れに遅れて、ローマ帝国政府が動き出すのは、416年になってからであった。 スティリコに代わる実力者として411年に姿を現したコンスタンティウスは、簒奪者のコンスタンティヌス3世を倒すと、続いて先にガリアに入っていたゴート人に命じて、イベリア半島のヴァンダル人らを攻撃させたのである。ゴート人は、瞬く間にシリング系ヴァンダル人とアラン人に壊滅的打撃を与えた。ローマは、「夷を以て夷を制す」ことに成功した。 しかし、ハスディング系のヴァンダル人は見逃された。コンスタンティウスは、ゴート人が圧勝することで彼らが過度に強大化するのを恐れていたのであろう。また同時に、ヴァンダル人に利用価値を見いだしていたのかもしれない。 もともとローマ帝国は、帝国領内の異民族を兵力の供給源とみなし、その力を利用する政策を長年取ってきていたのである。しかし、この政策は裏目に出ることが多く、今回もヴァンダル人の勢力を温存させたことは、帝国にとって大きな災いの種となった。 案の定、生き残ったハスディング系のヴァンダル人が、やがて南下を開始し、その王ガイセリックに率いられて、429年にジブラルタル海峡を渡ることになったからである。北アフリカに渡ったヴァンダル人の総数は8万人であったと伝えられる。 ヴァンダル人が北アフリカに渡ることができたのも、ローマ帝国が内紛を起こしていたからであった。当時、北アフリカの支配権を握っていたのは将軍のボニファティウスであったが、ボニファティウスは、中央政府で実権を握る将軍アエティウスと対立していた。一説によれば、このボニファティウス自身が自らの勢力強化のためにヴァンダル人を呼び寄せたとされているのである。 真相は定かではないが、いずれにしても、上陸したヴァンダル人は、アフリカの都カルタゴを目指して東進を開始した。ボニファティウスも遅まきながら攻撃を試みるが、敗退してイタリアに逃げ戻り、やがて439年にはカルタゴがヴァンダル人の手に落ちたのである。 彼らが占拠した北アフリカは、ローマ帝国で最も豊かな地方であったのであり、この地方を奪われたことはローマ帝国にとって致命的な打撃となった。そして、ローマ帝国はその後40年もたたずに滅ぶことになる。古代のカルタゴ(ゲッティイメージズ) ローマ帝国の滅亡の原因については、さまざまな説が出されているが、以上の事実から明らかなように、それにはローマ帝国の内紛が深く関わっていたのである。ガリアに入ったヴァンダル人が直ちに殲滅(せんめつ)されなかったのは、同じ時期にスティリコとコンスタンティヌス3世との対立があったからである。 また、ヴァンダル人の北アフリカ渡航を許したのも、ボニファティウスとアエティウスの政争の故であった。結局、肝心なところで、ヴァンダル人に行動の自由を与えたのは、ローマ帝国自身であったのであり、この意味ではローマ帝国は自壊したといえるのである。

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    「天下統一の心願成就」はウソ? 信長、岐阜改称の真実に迫る

    橋場日月(歴史研究家、歴史作家) 斎藤龍興に上洛(じょうらく)の野望を妨害され、あまつさえ「河野島の戦い」(1566年)では、いつも味方してくれる雨までが作戦の邪魔をしたために赤っ恥をかかされた信長。復讐(ふくしゅう)の念に燃える彼は、明くる永禄10(1567)年8月、斎藤家重臣の「西美濃三人衆」こと稲葉良通(一鉄)・安藤守就・氏家直元(卜全)の3人を寝返らせると同時に、龍興の本拠、美濃・稲葉山へ攻めかけた。 皆さんよくご存じのように、稲葉山城=後の岐阜城がある金華山は、標高329メートルの非常に高く険しい山だ。しかし、この山は小牧山のように平地に独立しているわけではなく、長良川南岸沿いに広がる山塊の中で一番北にある高い山、という形となっている。 これに対し、信長が攻撃のために布陣したのは、その南西に連なる尾根伝い、158メートルの山だった。 むろん、東の尾根伝いにある西山、南東の洞山、さらにその東の三峰山、その北の舟伏山など、占拠できる山にはすべて織田軍が布陣し、占拠できない山には麓に抑えの兵が展開しただろう。そんな中で信長自身が南西の山を本陣としたという事実は、とても興味深い。 彼は本拠の小牧山城、そして最前線の犬山城から美濃に侵攻するわけだから、南東の洞山に本陣を置いた方が、後方との連絡や退却路の確保など、何かと都合が良いはずなのだ。 ここで『信長公記』の記述から、その作戦の様子を紹介してみよう。「急に出陣し、稲葉山の尾根続きの瑞龍寺山へ登った。斎藤勢が『これはどうしたことか、敵か味方か』と言い合っている間に、素早く城下の町に放火し、あっという間に裸城にしてしまった」金華山(稲葉山)山頂にある岐阜城=4月23日、岐阜県岐阜市(産経新聞社ヘリから、門井聡撮影) その日は強風が吹いていたということで、それを利用して城下の井ノ口を焼き払って稲葉山城の麓を無防備にした。その上で城の周囲に柵を結いめぐらせて完全に包囲を完了した、という流れだ。 いや、ちょっと待ってほしい。うっかり読み流してしまったが、ここで信長が本陣を置いた稲葉山の南西の名前に注目してみよう。「瑞龍寺山(ずいりょうじやま)」である。 この山は全体が瑞龍寺という大きな寺域で、南麓に伽藍(がらん)が建ち並ぶ。山の最頂部には瑞龍寺山頂古墳群があり、岩をくりぬいた前方後方墳が残されている。 確かに信長が本陣を置くには格好の場所だが、それよりも何よりもやはりその名前が「瑞龍寺山」だったことに、大蛇=龍を信奉しその力を自身のものにしようと努める信長は惹かれたのではないか。信長「瑞龍寺を焼いた」のウソ いや、それだけではない。山の北側に続く伊奈波山に鎮座する伊奈波神社という古社には、その名も「黒龍神社」と呼ばれる龍神が祀られているのだ。この社の黒龍大神は、伊奈波神社がこの地に勧請(かんじょう)される以前から山の守り神として信仰を集めていたといい、さらに瑞龍寺の南向かいには「金竜」という町名もある。 「金」は陰陽五行の思想では「水」を制する力を持ち、稲葉山が「金華山」、瑞龍寺山が「金宝山」、他にも周辺に「金」が付く地名が多いのも、一帯が長良川の水を支配する結界となっていたことを示している。信長がこの地を本陣に最適だと選んだのも無理はない。 そう、熱田社が「大蛇=龍」を祀る社であり、小牧山が飛車山(ひくまやま)と呼ばれ、龍音寺の境内だったのと同じだ。龍の力を以て仇敵を制する。桶狭間の戦い以来続けてきた信長は、この稲葉山城攻めでもその信念を貫いて戦いを勝利に導いたのだ。 ここで「いや、ちょっと待てよ」とおっしゃる向きがいらっしゃるかもしれない。「信長はこのとき、瑞龍寺を焼いているじゃないか。龍を尊重するなら、そんなことはしないだろう」と。 確かに、瑞龍寺はこの戦いで織田軍に焼き討ちされ、伽藍はすべて烏有(うゆう)に帰したと伝えられている。しかし、それは本当なのだろうか。 この戦いからちょうど1年後の永禄11(1568)年8月、信長は瑞龍寺に禁制を与えているのだが、その中にこうある。本朝智仁英勇鑑 織田上総介信長(都立中央図書館特別文庫室所蔵)※無断複製、二次使用禁止 「当寺ならび門前の竹木を伐採してはいけない。寺や門前町に課税・布陣・宿営するな。外山で刈り取りするな。先の規定の通りとする」 焼き討ちされ全焼した寺の境内に、1年後にもう実用に耐えるような太い竹や木が生えているわけがないではないか。また、いくら復興が早く行われたとしても、軍勢が陣を置いたり宿泊したりできるような大規模な伽藍や町家がもうできあがっているものだろうか。 外山(伽藍の背後にある瑞龍寺山)の芝などを刈り取るなというのも、寺院が全焼するほどなら当日の強風下、方角からして火攻めで丸焼けとなった稲葉山麓同様に炎上し、はげ山と化して信長が本陣を置くどころではなかったはずだ。なぜ「岐阜」と名付けたか 『増訂 織田信長文書の研究』(吉川弘文館)では焼失にともない、寺は1年遅れで禁制をもらったと説明する。また、天正8(1580)年9月に信長の嫡男、信忠が長良川の水運を利用して瑞龍寺へ運搬する木材について免税していることを挙げて、焼失した瑞龍寺の再建のためのものだとしている。 だが、これはどちらもおかしい。それでは「先の取り決め」は斎藤氏時代のものとなってしまうし、稲葉山城攻めから13年もたったこの時期まで、復興作業は放置されていたというのだろうか。 天正4(1576)年に岐阜城を信長から譲られていた信忠は、この天正8(1580)年に長良川の河原に高さ8尺(2・5メートルほど)の築地(塀)を築いて馬場にし、家中の士の馬術訓練に供するなど、城下の整備を行っている。瑞龍寺の資材運搬についての免税証文にも「再建」ではなく「建立」の文字が使われており、これも市街整備の一環としての新築・造替事業だったのだろう。 瑞龍寺は信長の稲葉山城攻めの際にすでに禁制を授けられていた。そして寺は翌永禄11(1568)年9月7日に上洛作戦を行う前に、大軍の集結によって荒らされるのを防ぐために再度信長の禁制を手に入れたものと考えられる。 戦国時代、瑞龍寺山には砦があったというから、稲葉山城攻め当時、斉藤氏の支城として機能していたはずだ。そのため、信長が本陣を置く際の急襲を最小規模の戦闘に抑えたとしても、瑞龍寺の伽藍が若干の戦禍を受けたとは考えられる。しかしそれはあくまで限定的で、信長はその保護を優先したといえる。織田信長公像=崇福寺所蔵(中田真弥撮影) ともあれ、稲葉山城は瑞龍寺山の信長以下、周囲を厳重に包囲され、援軍の見通しもなく孤立した斎藤龍興は降伏して城を明け渡し、伊勢へと落ち延びていった。この後、龍興は朝倉義景に保護され、最後まで信長に敵対し続けることとなるのだが、その話はまた別の機会に。ここでは、信長が占拠した稲葉山城をどう扱ったか、という話をしたい。 『信長公記』いわく、「小牧山から稲葉山へ移転し、井ノ口という地名を改めて岐阜と名付けた」。清洲から小牧山、さらに稲葉山と本拠を前進させ、稲葉山の城から山下の町までを岐阜と改名したのだ。現在の「岐阜県」「岐阜市」につながる、岐阜の誕生である。「岐阜」に込められた本当の意味 この改名について考えてみよう。一般的には、信長の重臣、平手政秀の菩提(ぼだい)寺の開山も務めた沢彦宗恩(たくげんそうおん)が信長からネーミングを依頼されて、「岐山」「岐陽」「岐阜」の3案を提示し、その中から信長が「岐阜」を選んだ、とされている。典拠となった『安土創業録』(江戸時代中期成立、名古屋市逢左文庫蔵)の該当箇所は、「沢彦和尚へ使者を以て爰(ここ)に来り給へと宣(のたま)う」「信長、沢彦に対面せられ井ノ口は城の名悪し、名を易(かえ)給へと(言った)。沢彦老師、岐山・岐陽・岐阜、此(この)内御好(このみ)次第に然るべしと。信長曰(いわく)、諸人云(いい)良き岐阜然るべしと」「沢彦曰、周文王岐山に起こり天下を定むるとの語あり。此(これ)を以て岐阜と名付候。程なく天下を知ろし召し候はん」となっている。皆が言いやすい「岐阜」が最適だと決めた信長に対し、沢彦は「古代中国の文王は岐山の麓の出身で周王朝を建てました(実際は子の武王の代)。それを参考にしてご提案した名称の一つなので、信長様は間もなく天下をしろしめす(治める)でしょう」と説明したため、信長はひどく喜んだという。 ところが、「岐阜」の名称については諸説あって、『土岐累代記』には「岐阜と号する事は、往古よりの称号にて、明応より永正迄の旧記に多く載する」と書かれている。 実際、その時代の美濃国守護、土岐成頼の画像賛には「岐阜」の名称が使われ、それどころか、さらに時代をさかのぼった『梅花無尽蔵』『仁岫語録』などの応仁頃の史料にも、「岐陽」「岐阜陽」といった名称が登場している。織田家の家紋などを描いた「城御朱印」 さらに、信長の時代にも、永禄4(1561)年の斎藤義龍の葬儀の際に捧げられた偈(げ・仏徳をたたえ、または教理を説く詩)に「岐阜稲葉城主一色左京太夫義龍公」と書かれているし、土岐一族とされる高僧、快川紹喜(かいせんじょうき)が永禄7(1564)年に美濃から甲斐恵林寺へ戻るまで、しばしば「護阜快川」と署名した。 これらを見ると、確かに「岐阜」は信長以前から稲葉山周辺の別の名称として使われており、沢彦が発案したわけではなく、その別名を知っていただけということになるだろう。しかも、信長は何も天下統一を心願として「岐阜」の名称を選んだわけではなく、後からその意味を知らされただけだったというのは『安土創業録』も証言している。 つまり、「岐阜」には、周王朝の故事にならっての天下統一の意味は込められていなかったのである。

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    「木下藤吉郎」も創作だった? 怪しすぎる秀吉のルーツをたどる

    渡邊大門(歴史学者) 豊臣秀吉の出自は、これまで単に百姓ということになっていた。しかし、実際はかなり複雑で、さまざまな説が残っており、本稿ではそれらの説を検討してみようと思う。 最初に、秀吉の生誕年について触れておこう。かつて秀吉の生年月日は、天文5(1536)年1月1日と考えられてきた(『太閤素性記』)。しかし、歴史学者の桑田忠親氏は秀吉の生年について、『豊臣秀吉研究』(角川書店)で、次のように指摘している。・「関白任官記」(『天正記』所収)の中に「誕生の年月を年ふるに、丁酉二月六日吉辰なり。周易の本卦復の六十四に当れり」とある。丁酉の年は天文6(1537)年であり、秀吉の誕生日は2月6日になる。・天正18(1590)年12月吉日白山御立願状之事(「桜井文書」)には、「関白様 酉之御年 御年五十四歳」とある。天正18年に54歳であると、誕生年は天文6(1537)年になる。 以上の点から、従来説の天文5(1536)年1月1日説は否定され、現在、秀吉の生誕年は天文6(1537)年2月6日説が定説となっている。 次に秀吉の出自について考えてみよう。最初に検討する史料は、17世紀後半に成立した土屋知貞の『太閤素性記』である。同書は、秀吉の御伽衆(おとぎしゅう)であった知貞の父、円都や母からの聞き書きがベースとなっている。次に、秀吉の出生に関係する部分を掲出する。「父は木下弥右衛門という中々村の人で、信長の父・信秀の鉄砲足軽を務めていた。多くの戦場で手柄を挙げたが、それがもとで怪我をしたので、中々村に引っ込んで百姓となった。秀吉と「とも」を子に持ったが、秀吉が八歳のときに亡くなった」(現代語訳) 鉄砲伝来は諸説あるが、一般的に天文12(1543)年とされている。弥右衛門が活躍した時代(天文年間初頭)を考慮すると、さほど鉄砲が盛んに用いられたとは考えがたく、「鉄砲足軽」というのは知貞の勘違いなのかもしれない。木下藤吉郎秀吉像=滋賀県 また、木下という姓を名乗っているならば、秀吉の父は有力名主や土豪クラスと考えなくてはならない。しかし、秀吉自身の述懐するところでは、少年期の暮らしぶりは非常に貧しく、百姓身分だったと考えた方が自然で、木下姓は不審であるといえる。 以上の点は、先学が指摘するように、おおむね次のように整理できると思う。(1)土屋知貞には秀吉が「木下」姓を名乗っていた先入観があり、父にも「木下」姓を付けてしまった(小和田哲男『豊臣秀吉』中公新書)(2)朝廷から秀吉が豊臣姓を賜った際、『豊臣系図』を作成したときの工作である。本来は、姓氏などなかった(桑田忠親『豊臣秀吉研究』角川書店) つまり、弥右衛門は「木下」姓を名乗っていなかった可能性が高い。秀吉は正親町天皇の子? 次に取り上げるのは、17世紀初頭に成立した小瀬甫庵の『甫庵太閤記』である。甫庵は秀吉などに仕えた儒学者であるが、同書の内容は誤りが少なくなく、信が置けないと評価されている。同書が記す秀吉出生の経緯は、次のものである。「父は尾張国愛智(知)郡中村の住人で、名を筑阿弥という。あるとき母の懐に日輪が入る夢を見るとすでに懐妊しており、こうして秀吉が誕生したので童名を「日吉丸」とした」(現代語訳) この史料では、父が筑阿弥となっており、弥右衛門の名は出てこない。ちなみに筑阿弥は、織田信秀(信長の父)のもとで御伽衆を務めていたという。おまけに母の胎内に日輪が入った夢を見て妊娠し、やがて秀吉が生まれたというのは荒唐無稽すぎる。 『甫庵太閤記』では筑阿弥を秀吉の実父としているが、他の史料では(木下)弥右衛門を実父とするものが多い。秀吉の父を一百姓ではなく、信秀配下の御伽衆にしたいと考えたのであろうか。 そして次は、秀吉の御伽衆・大村由己の『関白任官記』である。同書は、秀吉の意向に即して執筆された史料になろう。以下に、その関係部分を記す。「その(秀吉の)素性を尋ねてみると。祖父母は朝廷に仕えていたという。仕えていたのは萩の中納言という。今の大政所(秀吉の母)が三歳のとき、ある人の讒言によって遠流になり、尾張国飛保村雲というところで日々を過ごした(中略、ある都人から大政所に歌が贈られる)。かの中納言の歌である。大政所殿は幼年にして上洛し、朝廷に三年にわたって仕え、程なく一子が誕生した。今の殿下(秀吉)である」(現代語訳) 秀吉の祖父母は、荻の中納言なる人物に仕えていた。秀吉の母は3歳のときに尾張国に流されたが、荻の中納言に呼び戻され、落胤(らくいん)として誕生したのが秀吉なのである。つまり、秀吉は正親町(おおぎまち)天皇の子ということになる。 荻の中納言なる人物は史料で確認できず、話の筋もまったく荒唐無稽な内容となっている。由己は、何とかして秀吉を天皇の血統である皇胤(こういん)に結び付けようと考えたのであろう。あるいは、秀吉から指示があったのかもしれない。この説は完全に否定されている。 竹中半兵衛重治の子息、竹中重門の『豊鑑』(17世紀初頭成立)には、秀吉の父祖について2カ所にわたり、気になる記述が見られる。次に、その部分を掲出しておこう。「(秀吉は)尾張国に生まれ、「あやし」の民であったが…」「(秀吉は)郷の「あやし」の民の子であったので、父母の名も誰かわからない。一族についても、同じである」(現代語訳) 歴史学者の服部英雄氏は「あやし」の語に「賤」という字を当て、秀吉が卑賤の出自であったと指摘し、秀吉の賤民出自説の一端へと繋げている(『河原ノ者・非人・秀吉』山川出版社)。 しかし、「賤(いやしい)」には「あやし」という読み方はなく、「怪し」つまり「得たいが知れない」と考えるべきだろう。それが、イコール卑賤(ひせん)を意味したと解釈したほうが自然である。この点をもう少し詳しく検討してみよう。豊臣秀吉を祀る豊国神社=京都市東山区 秀吉が「あやし」の民であったことについては、興味深い史料が残っている。天正18(1590)年、名胡桃城(群馬県沼田市)をめぐる後北条氏と真田氏との争いが端緒となり、秀吉は介入せざるを得なくなった。その際、秀吉は北条氏に直接宛てた宣戦布告状の中で、次のように記している。「秀吉、若輩(若い頃)に孤(一人)と成て(以下略)」(『言経卿記』) この後、若き頃の秀吉が信長に従った過去の出来事などが綴られている。わずか1行にも満たない文章であるが、秀吉自身の言葉でもあり、かつ自分の存在を誇張するものでもない。そう考えると、『豊鑑』の「父母の名前もわからない」という記述は、まんざら嘘でもなさそうだ。秀吉は幼くして、孤児になった可能性がある。秀吉に面従腹背だった諸大名 『豊鑑』のように、秀吉が孤児であったと記したものは乏しいが、この秀吉の書状はその事実を裏付けている。父母の名も分からないとなると、秀吉の母、大政所ですら実母だったのか疑わしい。 もう少し、秀吉の出自について探索してみるが、以降は後世に成った史料(編纂物)から離れ、同時代の一次史料によって秀吉の出自を確認する。 最初に取り上げるのは、毛利氏の外交僧として活躍した、安国寺恵瓊(あんこくじえけい)の書状である。恵瓊は天正10(1582)年6月の備中高松城の攻防後、領土割譲をめぐって秀吉との交渉に臨んだ交渉人である。恵瓊は交渉能力に長けているだけでなく、信長の失脚と秀吉の将来の成長を予言するなど、洞察力が非常に優れた人物だった。 恵瓊が秀吉との領土割譲を交渉する天正12(1584)年1月、秀吉を評して記したのが、次の有名な一文である。「若い頃は一欠片の小者(下っ端の取るに足りない者)に過ぎず、乞食をしたこともある人物であった」(『毛利家文書』) 恵瓊は外交僧を務めており、幅広い情報ルートを保持していたと考えられる。そうなると、若い頃の秀吉が乞食同然の生活を送っていたということは、あながち否定できないだろう。恵瓊は情勢分析にも優れており、非常に信ぴょう性が高い情報であると考えてよい。 そうなると、若い頃の秀吉が乞食同然の生活を送っていたことは、有力な大名間において共通に認識されていた事実だったといえよう。それは、薩摩の島津氏も知っていた。 秀吉の卑しい身分については、遠く九州・薩摩国までも伝わっていた。天正14(1586)年1月、大友宗麟は島津義久の攻撃を受け、窮地に陥った。そこで、宗麟は秀吉に泣きつき、停戦に持ち込もうとした。宗麟の要請を受けた秀吉は義久に停戦を命じ、応じなければ、成敗に及ぶという厳しい通達をした。 停戦を突きつけられた島津氏は、家中で種々議論を重ねるが、その中で秀吉に関する次の記述が見られる。「羽柴(秀吉)は、誠に由来(由緒)なき人物であると世の中でいわれている。当家(島津家)は頼朝以来変わることがない家柄である。しかるに羽柴(秀吉)へ関白とみなした返書を送ることは、笑止なことである。また、右のように由緒のない人物を関白を許すとは、何と綸言(天皇のおっしゃること)の軽いことであろうか」(『上井覚兼日記』現代語訳) この前年(天正13年)、秀吉は「関白相論」に乗じて、摂関家以外で初めて関白に任じられた。あわせて、「豊臣」姓も朝廷から与えられた。島津氏は秀吉を由緒なき人物としたうえで、関白に任じられること事態が「笑止千万」という感想を持ったのである。秀吉の出自が低いということは、遠く薩摩まで知られていたのだ。豊国神社の豊臣秀吉像=京都市東山区 鎌倉時代以来の名門である島津氏にとって、秀吉は「どこの馬の骨」か分からない存在だった。率直に言えば、「名門・島津家が秀吉ごときにとやかく言われる筋合いはない」というのが本音であろう。結局、島津氏は秀吉の停戦命令を無視したが、最終的に島津氏は秀吉に屈し、ミジメな思いをするのは周知のところである。 島津氏内部における秀吉の評価は、ある意味で諸大名の心情を代弁したものであった。ポルトガルの宣教師が作成した「一五八五年の日本年報追加」には、次のような一文がある。「羽柴筑前殿(秀吉)は甚だ微賤に身を起こし、富貴・名誉及び現世の光栄に達したが、多数の競争者は彼が日本の習慣により、車の速に廻る如く没落に近づくことを期待している。日本の諸国は四百五十年来絶えざる変革に動かされていたのである」 1行目の秀吉が貧しい出自であることはこれまで通りだが、2行目の「日本の習慣」が問題となろう。「日本の習慣」の意味することは、3行目の「四百五十年来絶えざる変革」とある武家政権の激しい移ろいであった。 つまり、諸大名は「卑しい身分」だった秀吉の没落を願っていた。面従腹背だったのだ。先の島津氏の秀吉に対する認識は、ある意味で諸大名の言葉を代弁したものであったといえるであろう。 以上のように、秀吉の出自を物語る同時代史料は乏しいかもしれない。しかし、すでに秀吉が生きた時代においても、秀吉の出自がわからなかったこと(あるいは貧しかったこと)が共通認識であったことが判明する。恵瓊に至っては、「乞食」とまで記しており、誠に興味深いところである。 次回は、外国の史料を用いて、秀吉がどのように認識されていたのかを考えることにしよう。主要参考文献渡邊大門『秀吉の出自と出世伝説』(洋泉社・歴史新書、2013年)

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    上洛失敗は祟りのせい? 信長「麒麟」の花押が招いた大蛇の呪い

    橋場日月(歴史研究家、歴史作家) 龍の力を手に入れるべく本拠地を小牧山に移転すると決定した信長。その工事は、永禄6(1563)年2月に開始された。その城は「火車輪城(かしゃりんじょう)」と名付けられる(『定光寺年代記』)。火の車輪の城とはなんともビジュアル的な想像を刺激されるネーミングだが、一体この名前はどういう由来によるものなのだろうか。 「火車」「火車輪」という言葉は、仏教で地獄に落ちた罪人を縛り付けて拷問する、火のついた車輪を意味し、それがのちに地獄から罪人を迎えにくる車輪に転じた。『宇治拾遺物語』にも、昔、寺の米を5斗(1/2石)ほど借りたままにしていた老僧の臨終に際し、地獄の鬼が炎をあげて燃える火車をひいて連れ去りに来るというエピソードが納められており、あまりにも恐ろしいそのイメージは妖怪としての存在に変容していく。 つまり、信長は小牧山城とその主である自身を「正義の象徴」と規定し、逆らう者は悪であり火車輪=織田軍が出動し地獄へ送ってやるぞ、とアピールしたのではないか。昼には日の光を反射してキラキラと輝く石垣が、夜には無数のかがり火が常に敵の視界に入り、いつ何時地獄の使者として織田軍が攻め寄せて来るかと神経をさいなみ続けるのだ。実によくできた演出方法というほかはない。 彼はその後永禄8(1565)年(永禄7年説もあり)に犬山城を包囲して陥落させるのだが、それ以前、犬山城を防衛する支城だった黒田城の和田新助と小口城の中島豊後守が、丹羽長秀の調略によって信長に寝返っている。 特に小口城は小牧山城と犬山城のちょうど中間に位置しており、連日「火車輪」のプレッシャーにさらされ続けたあげく、信清の家老である中島豊後守は降伏の道を選んだのだろう。 身を守る盾を失った格好の犬山城は文字通り「生(はだ)か城」(=裸城)となり(『信長公記』)、二重三重の柵の中に閉じ込められて抵抗のすべもなく開城するのである。小牧山城跡模擬天守 ところで。 先に紹介した『宇治拾遺物語』の火車の話だが、これは非常に興味深い内容を含んでいるので、ここで取り上げておこう。巻第四ノ三「薬師寺別当の事」という項がそれである。 かつて米を少し流用したばかりに地獄に召されかけた老僧は「そんなことで火車に乗せられてはたまらぬ」と慌てて弟子たちに贖罪(しょくざい)の経を唱えさせ、なんとか極楽からのお迎えを受けることができた。 話は「さばかり程の物遣ひたるにだに火の車迎へに来たる、況(ま)して寺物を心のままに遣ひたる諸寺の別当の地獄の迎ひこそ思ひやらるれ」で終わる。この程度の着服ですら火車が迎えに来るのだから、いわんや寺の資財を自儘に使っている今の寺々の寺務長の高僧たちは、皆火車が地獄からお迎えに来ないわけがないだろうよ、というわけだ。「麟」花押のナゾ 信長は、この6年後に比叡山延暦寺を焼き討ちする。彼が『宇治拾遺物語』の火車のくだりを知っていたとすれば、「火車輪城」命名の時点で、すでに焼き討ちについての理論武装ができていたことになる。その理由についてはのちに詳しく紹介するので、ここではそのことを記憶にとどめておいていただきたい。 木曽川をはさんだ対岸すぐにある宇留間城(鵜沼城)、その上流の猿啄城(さるばみじょう)、北方の加治田城・堂洞城(どうほらじょう)は前後して調略や攻撃で織田方の拠点となっていった。稲葉山城の近くにも付城を築いて、斎藤家を牽制(けんせい)する。そして目の前に立ちふさがっていた障害物・犬山城も取り除かれたことで、信長は「いよいよ美濃へ本格進出する時機が到来した」と考えた。 ところがその直前、信長の下には京から意外な知らせが届いていた。5月19日、室町幕府将軍、足利義輝が三好三人衆(三好長慶の死後、三好党を牛耳っていた三好長逸、三好政康、岩成友通)や松永久通に攻め殺されてしまったのだ。永禄2(1559)年に上洛(じょうらく)して義輝に拝謁(はいえつ)した経験がある信長にとって、これは極めてショッキングな出来事だった。 だが、それは信長にとって次の飛躍のチャンスでもあった。義輝の死の直後、6月24日に安見(やすみ)宗房という人物が越後の上杉謙信の重臣・河田長親と直江景綱に宛ててこんな書状を送っている。 「上洛して天下を再興してほしい。尾張などにも要請が行われている」 宗房は義輝の弟、義昭(当時は出家して一乗院覚慶)を担いで天下(幕府)を再興しようと動いていたのだが、この書状の日付以前に、その関係者が信長にも協力を求めていたことがわかる。 そして、この直後から信長は新たな花押(サイン)を使い始めた。有名な「麟」字のものだ。これは伝説の霊獣、麒麟(きりん)からとったといわれるのだが、信長の時代から2世紀さかのぼった頃の臨済宗の学僧・義堂周信は『空華集』という著作のなかでこう述べている。「麟は常の獣とは異なる。麟が姿を現すのは嘉瑞(かずい)であり、至治の世にしか出現しない」。 嘉瑞は吉兆のことで、至治の世は統一された平和な世の中を意味するから、信長は自らの手で義昭を将軍の座につけ安定へ導いてみせる、という誓いを花押に込めたのだろう。同じく神獣である龍の力を恃(たの)む信長が、麒麟のパワーをも取り込もうと考えたのだ。織田信長「麟」の花押 ちなみに、風水の観点から言うと龍は青竜であり、東の守護神にあたる。これに対して麒麟は中央をつかさどり、黄色が象徴色となっているのだが、よく知られた信長の木瓜(もっこう)紋の幟(のぼり)が地黄(黄色く染められた布地)であるのは、麒麟の霊力を期待したものと考えてもあながち的外れではないかもしれない。なにせ、オカルトグッズマニアの信長のことだ。逆にそうしないのが不思議なぐらいなのである。 話はそれるが、「麟」花押の件に触れたところで、信長がそれまでに使っていた花押についても述べておこう。永禄元(1558)年頃からの彼の花押は徐々にアレンジされながら使われたようだが、永禄5(1562)年に見られるものはなんとも独特なもので、研究者の間でも何が元になっているのかは不詳のままだ。しかし、この花押が桶狭間合戦以降に使われていることを念頭に置いてこの図柄をジーーっと見つめていると、筆者にはあるイメージが浮かんだ。 中心の「ロ」部分から周囲に伸びる点は一番外側が大きい。大きな雨粒にも見えてくる。これは、桶狭間で織田軍に勝利をもたらしたダウンバーストの形だ。上空の一点から強烈に放射線状に吹き下ろす風雨。信長はこの「大蛇(龍)の力による熱田の神軍(かみいくさ)」をそのまま花押に取り入れた可能性が高いと思う。その花押を、麒麟に切り替えることによって、さらに一段高く、尾張から天下にはばたく気概を示したのだろう。美濃は武力で制圧せねば 閑話休題。義昭に頼られ、「麟」花押で応える信長。だが道のりは厳しかった。義昭を将軍に就けるためには軍勢を率いて上洛しなければならないが、その道筋の美濃には敵の斎藤龍興が勢力を維持している。信長が犬山城を落とし、美濃中部の諸城を奪ったのは、そんな状況の下だったのである。 信長は12月5日に「ご命令をいただき次第、その日のうちにでも上洛のお供を致しましょう」と義昭の側近、細川藤孝(のちの幽斎)に書き送っている。 ただ、そのためには前提条件が一つあった。上洛の道筋にあたる美濃の斎藤龍興である。この織田家にとっての強敵を説得して織田軍を無事に近江から京へと通過できるようにし、留守中の尾張の安全も確保しなければならない。義昭側は龍興にも働きかけて信長と講和休戦するよう求めた。「尾濃和睦」である。龍興もこれに応じる姿勢を見せた。 この結果、義昭側は永禄9(1566)年7月に奈良で「信長と尾張・三河・美濃・伊勢の軍勢が来月出陣する」と触れ回るなど、すでに上洛が実現間近と喜んだ。しかし、どうも龍興は裏で反織田の策謀を続けていたらしく、信長はやがて上洛を断念してしまう。それどころか、8月29日には美濃の河野島(こうのしま)に攻め込むという挙に出た。 せっかく上洛戦を敢行し、「麟」花押の目指すところを実現するまであと一歩だったのに、龍興の不穏な動きに邪魔されてあきらめなくてはならなくなったのが悔しくてたまらなかったのだろう。 「やはり美濃は武力で制圧しなければ、京への道は開くことができぬ」 信長の美濃侵入はそう思い直した結果であり、また上洛挫折の鬱憤(うっぷん)晴らしでもあったに違いない。岐阜市歴史博物館内にある織田信長像 ところが、である。この作戦は失敗に終わる。折からの大雨で木曽川が洪水を起こし、一帯が水浸しとなったために織田・斎藤の両軍ともに身動きできなくなり、やっと水がひいたのは10日後になってのことだった。川を越えて侵入している織田軍は思いも寄らない長陣に兵糧も乏しくなり、疲れきっていたことだろう。結局信長は退却するのだが、増水した川で少しばかり兵が流される損害を受けたらしい。 こういう場合、敵は「相手は数知れないほど多くの者が川で溺れ死んだ」と宣伝するものだ。斎藤家も、当然そのように世間に吹聴して、信長は義昭の講和斡旋(あっせん)を反故(ほご)にした上に美濃で惨敗を喫したとして「天下の嘲弄これに過ぎず」と信長を笑いものにした(「中島文書」)。 もっとも、信長にとってそんなことよりも無念だったのは、大蛇(龍)の力によって水を味方にすることを心がけてきたにもかかわらず、この一戦では木曽川の水に邪魔をされたことだったろう。

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    大和は超高速戦艦だった? 「世界一の戦艦」建造秘話

    (デアゴスティーニ『週刊 栄光の日本海軍パーフェクトファイル』より) 世界最大を誇った大和型戦艦は、軍縮条約を挟み、実に20年ぶりに建造された戦艦であった。その間の技術的進歩を取り込みながら進められた「新時代の戦艦」の模索は、並大抵のものではなかった。大和型戦艦の計画完成までを追う! 太平洋戦争開戦と前後して竣工し、終戦を前に失われた「大和」型戦艦は、現存する写真や図面が少ないこともあり、しばしば「謎の戦艦」と呼ばれる。だが実際、その建造経緯や設計の変遷については、比較的史料に恵まれている。 「大和」型戦艦の設計が公式に開始されたのは、日本海軍がワシントン海軍軍縮条約からの脱退を決めた昭和8(1933)年頃のことである。主力艦建造を縛るこの条約からの脱退によって、日本海軍は制約を受けることなく自由に戦艦建造ができるようになった。 しかし新型戦艦の建造をにらんだ検討はそれ以前から開始されていた。次期主力艦の主砲を46センチ(18インチ)以上とすることも、パナマ運河の幅の制約により米海軍が46センチ砲戦艦を建造することは困難であるという推測から決定されたものである。 昭和8年に艦政本部四部部長、藤本喜久雄少将が次期主力艦として提案した戦艦案は、排水量5万トン、50センチ(20インチ)3連装砲塔4基、艦載機12機、速力30ノット以上の高速戦艦であった。この設計は技術的に現実味の薄いものだったが、軍令部が空母や巡洋艦部隊と共働可能な高速力を、新戦艦に要求していたことがわかる。 しかし、藤本案は短命に終わる。発表と前後して発生した水雷艇「友鶴」の転覆事故によって、藤本設計に潜む動的復元性不足という欠陥が明らかになったからである。 藤本のもとで設計に従事していた江崎岩吉造船官により再検討された案では、主砲を46センチ砲9門に縮小する一方で、船体規模を拡大し、復元性向上に配慮がなされている。 江崎案から、新型戦艦が誕生することになる。福田啓二造船官をトップに、「軍艦設計の神様」といわれた平賀譲予備役造船中将を顧問として再編成された新型戦艦設計チームの最初の提案は、全長294メートル、排水量6万9500トン、46センチ砲9門、速力31ノットのA140であった。20案から選ばれたのは このA140は、主砲の前部集中配置や機関のディーゼル化など、特色を多く持つ設計だったが、船体規模が大きすぎることを理由に却下された。 艦政本部は、新たにA140のダウンサイジング案を提案。これがA140A〜Dの4案であり、特に有力視されたのが高速戦艦であるA140A(277メートル、6万8000トン、30ノット)と、速力を抑え船体規模も抑制したA140B(247メートル、6万トン、28ノット)である。 艦政本部は船体規模の小さいA140Bを本命視していたともいわれるが、機関をオールディーゼルとするものの、砲塔動力には蒸気を使用するため専用ボイラーが必要となるなどの問題があった。 だがいずれの案でも、軍令部と艦政本部は合意に至らなかった。さらなる検討の過程で、軍令部は当初要求していた30ノット以上の速力を28ノットまで妥協して、攻守のバランスがとれた46センチ砲戦艦を要求した。 一方、艦政本部は、速力のさらなる引下げか、主砲を41センチ(16インチ)砲としてでも建造の容易な5万トン級の戦艦を模索。新型戦艦の検討は長期間におよび、その間に20種を超える設計案が提出された。 長い検討過程で、A140初期案に見られた主砲の前部集中は見直され、機関構成はディーゼルと蒸気タービン半々となり、主砲動力などの問題も回避された。 最終的な決定は、速力を軍令部の要求から一段引き下げた27ノットとする一方、排水量を基準6万トン台にまで引き上げたA140F5(253メートル、6万5200トン、27ノット)となった。A140F5は全体として常識的なデザインであったが、機関構成は依然としてディーゼルと蒸気タービンの混載だった。A-140計画艦そろいぶみの想像図。左からA-140A、B、そしてF6こと大和型戦艦  だがこの機関構成は、潜水母艦「大鯨」におけるディーゼルエンジンの運用実績不良から変更された。機関をすべて蒸気タービンとして燃料搭載量を増やし、全長と排水量をやや拡大したA140F6案(256メートル、6万8200トン、27ノット)が、昭和12年3月に採用された。これこそが、我々の知る「大和」の設計である。戦艦「大和」は、この時ようやく姿をあらわしたのである。(株式会社デアゴスティーニ・ジャパン発行『週刊 栄光の日本海軍パーフェクトファイル』創刊号、写真彩色:山下敦史、CG:松野正樹)

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    「死神」と呼ばれソロモンの激闘を戦い抜いた駆逐艦雪風の真実

    (デアゴスティーニ『週刊 栄光の日本海軍パーフェクトファイル』より) 「雪風」は太平洋戦争を生き残った唯一の艦隊型駆逐艦だ。ソロモンの死線をかいくぐり、数々の海戦に参加し、そして戦艦「大和」の最期も見届けた「幸運艦」とも「死神」とも呼ばれた雪風の真実とは。 日本海軍随一の幸運艦として名高い「雪風」は、「陽炎」型駆逐艦の八番艦として昭和15(1940)年1月20日に竣工し、翌年の昭和16年12月8日の太平洋戦争開戦時は姉妹艦4隻で第十六駆逐隊(十六駆)を編成してフィリピン攻略作戦に参加している。 雪風によって初陣となる最初の氷上戦は、インドネシア攻略に伴うスラバヤ沖海戦(昭和17年2月27日から3月1日)である。だが、この海戦では雪風に戦果はなく、同年6月5日に起きたミッドウェー海戦も空母機動部隊同士の対決で勝敗が決したため、活躍の機会はなかった。 そんな雪風の活躍が始まるのは、ガダルカナル島争奪戦の開始に伴い、ソロモン方面に進出した後からである。米空母「ホーネット」を撃沈してミッドウェー海戦の仇をとった昭和17年10月26日の南太平洋海戦における雪風は、空母「瑞鶴」の護衛として対空戦闘に奮戦し、不時着搭乗員の救助活動も行い、これにより連合艦隊司令長官山本五十六大将から感状を受けている。 ガダルカナル島の米軍飛行場砲撃にともなって発生した第三次ソロモン海戦(第一夜戦、昭和17年11月12日)は、日米両軍の船艇が入り乱れる大混戦となった。その中で奮闘していた雪風は、さらに行動不能となった戦艦「比叡」の援護にあたったが、比叡は自沈し、雪風は他艦と共に比叡艦長西田正雄大佐ら乗員を収用して帰投した。 雪風は昭和18年2月のガダルカナル島撤退作戦にも参加。小舟艇による撤退に方向転換しようとした第八艦隊司令部と陸軍が対立するが、雪風の管間艦長は「濱風」艦長と共に駆逐艦による撤退作戦の継続を主張、作戦を成功に導いた。なおガダルカナル撤退戦について、米太平洋艦隊司令長官ニミッツ大将は「見事な手腕であった」と賞賛している。ソロモンの激闘を戦い抜いた駆逐艦「雪風」 だがすべてが上手くいったわけではない。同年3月2日から3日にかけてのニューギニア輸送作戦(81号作戦)では水面近くで爆弾を投下、跳ねさせて敵に命中させる米陸軍航空隊の新戦術、反跳爆撃(スキップボミング)によって輸送船団は壊滅、護衛の駆逐艦も雪風の姉妹艦「時津風」を含む4隻が撃沈される敗北を味わう。 苦闘の続くソロモン・ニューギニア戦線だが、昭和18年7月12日のコロンバンガラ島沖海戦は、日本水雷戦隊が夜間戦闘において、なお恐るべき存在であることを証明した。 この海戦で日本海軍は二水戦旗艦「神通」を失うが、雪風ら駆逐艦は最初の雷撃の後も魚雷を再装填し反撃、最終的に米駆逐艦1隻を撃沈、軽巡2隻、駆逐艦2隻を撃破すると同時に、輸送作戦も成功させる勝利をおさめた。「大和」の最期を見届け台湾へ 昭和18年末に日本本土に帰還した雪風は二番砲塔を撤去して対空火器や電探(レーダー)の増備を実施して前線に復帰、第十七駆逐隊(十七駆)に所属を変えているが、この頃、すでに雪風には、幾多の激戦を生き残った「幸(強)運艦」という見方がある一方、僚艦が沈没する傍ら生還していることから「死神」と呼ぶ者もおり、十七駆の将兵には雪風を歓迎しない雰囲気もあったという。 第二補給部隊の護衛としてマリアナ沖海戦に参加した雪風は、海戦後に内地でさらなる対空火器の増備を実施して、昭和19年10月のレイテ沖海戦に参加した。 戦艦「大和」らと進撃を続けた雪風は、レイテ湾目前のサマール沖で米護衛空母群と遭遇(サマール沖海戦 昭和19年10月25日)、大和らと共同で米駆逐艦「ホーエル」を撃沈する戦果をあげたが、追撃とレイテ湾への突入は栗田艦長の“謎の反転”によって中止されてしまう。 レイテ沖戦後、内地に帰投した「雪風」は横須賀から呉に移動する大型空母「信濃」の護衛にあたった。雪風の寺内艦長は強く沿岸航路を主張したが、夜間外洋航路をとった信濃は、米潜水艦「アーチャーフィッシュ」の雷撃によって昭和19年11月29日に沈没した。 失意の雪風ら十七駆は、軽巡「矢矧」を旗艦とする二水戦の下で大和の沖縄特攻、天一号作戦に参加することになる。海軍の面子のために立案された作戦に対して、雪風の寺内艦長ほか二水戦各艦の艦長はみな反対したが、「一億総特攻の魁」として作戦は決行された。昭和16年10月、高知県の宿毛湾沖を航走する戦艦「大和」 その行動は、出撃直後から米軍に行動を察知されていた。昭和20年4月7日の米機動部隊による空襲によって第二艦隊旗艦大和以下、矢矧ほか3隻が沈没、第二艦隊司令長官伊藤中将の命令によって作戦は中止された。参加艦艇の半数が沈没した連合艦隊最後の海戦でも雪風は大きな損傷を受けず沈没艦の乗員を救助して内地に帰投した。その後は対空戦闘を行いつつ、人間魚雷「回天」の搭載設備を追加する工事中に終戦を迎えた。 終戦後は復員輸送に活躍した後、昭和22年に中華民国海軍に引き渡され、「丹陽」と改名され国内戦で活躍している。昭和45(1970)年に解体後には蛇輪と錨が日本に返還され、その武勲を今に伝えている。雪風が“幸運艦”か“死神”かはわからないが、武勲艦であることは確かである。(株式会社デアゴスティーニ・ジャパン発行『週刊 栄光の日本海軍パーフェクトファイル』創刊号)

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    バルチック艦隊を撃破した日本海軍「猛訓練」の秘密

    は、戦争の趨勢を決めた戦いであるとともに、その後の日本海軍の運命をも左右することりになり、文字通り「歴史に残る戦い」であった。 日本陸軍が多大な犠牲を代償としつつも、明治38(1905)年1月1日に旅順を占領した時点で、日露戦争で日本海軍の当初の敵であったロシア太平洋艦隊の撃滅は完了した。 しかし、これに先立つ明治37年10月、ロシア本国の主力艦隊たるバルト海艦隊(日本側呼称・バルチック艦隊)の艦で構成されるロシア第二太平洋艦隊が、第一太平洋艦隊の苦境を救うために極東に向けて進発していた。同艦隊は第一太平洋艦隊潰滅後も、極東水域の制海権奪還、それによる満州方面での陸戦の戦局の好転を図らんとして、極東へと進み続けた。 このため連合艦隊は、旅順封鎖終了後に予定通りバルチック艦隊迎撃態勢を整え始める。約3カ月間に渡って猛訓練に励み、艦隊各艦の砲戦及び水雷戦の技量を大きく向上させて、バルチック艦隊を迎え撃つこととなる。 極東地区に唯一残ったロシアの艦隊根拠地だったウラジオストクを目指すロシア艦隊の航路は、対馬海峡から日本海を北上するか、太平洋へ廻って津軽海峡か宗谷海峡を経由する三つの航路が予測されていた。連合艦隊司令部はこの中で対馬海峡経由が一番公算が高いと判断していたが、対馬海峡への到達予測日になってもロシア艦隊は現れなかった。 このため一時は基地としていた鎮海湾(一部は対馬)から、津軽・宗谷の両海峡突破を考慮した地点への移動も考えられた。しかし東郷平八郎司令長官の決断により、連合艦隊はロシア艦隊を現地点で待ち続けた。 明治38年5月27日払暁、済州島付近の哨区を哨戒中だった仮装巡洋艦「信濃丸」がバルチック艦隊を発見、「敵艦隊見ユ 二〇三地点 信濃丸」との報を発したのは午前4時45分のことだった。 「敵艦隊(対馬海峡)東水道ヲ通過セントスルモノノ如く見ユ」との信濃丸からの続報が着伝した5分後の午前6時、旗艦「三笠」より全艦隊に出撃命令が出され、連合艦隊は、日露戦争の行く末を決する艦隊決戦に向かって、勇躍出動していった。連合艦隊がバルチック艦隊を視界に捉えたのは、午後1時39分のことだった(この時の敵艦隊との距離は約13キロ)。神奈川県横須賀市に保存、展示されている戦艦三笠 「皇国ノ興廃ハコノ一戦ニ在リ各員一層奮励努力セヨ」を意味するZ旗が旗艦三笠に掲げられた7分後の午後2時には、ロシア艦隊の北方にあった日本艦隊は西南西に、ロシア艦隊は日本艦隊に反航する形で北東に向かいつつあった。損失は水雷艇3隻のみ このまま進めば日本艦隊は短時間の反航戦の後、長い追撃戦を行うことになったはずだが、午後2時5分、日本艦隊は舵を大きく左に切る、いわゆる“東郷ターン”を開始。ロシア艦隊との並行針路に入った。数分後、ロシア艦隊は距離7~8キロに接近した日本艦隊への発砲を開始する。日本側も午後2時10分に戦闘開始命令が下り、旗艦三笠の発砲開始を皮切りに、戦闘へと突入していった。 午後3時10分まで続いた日露艦隊第一合戦では、ロシア艦隊より優速な日本艦隊は、徐々にロシア艦隊の頭を迎える形で戦闘を行い、主導権を完全に握る。この後日没まで、断続的に戦闘が進み、昼戦終了までにさらに戦果を拡大。また夜明け前までに実施された駆逐隊と水雷艇隊の夜間襲撃により、ロシア艦隊にさらに大きな被害を与える。そして28日午前10時34分以降、残存ロシア艦隊は日本艦隊主力と短時間の交戦の後、降伏した。 日本、ロシア両軍、ほぼ同等の主力艦戦力をもっての艦隊決戦となった日本海海戦。ロシア側は戦闘により自沈含め21隻沈没、降伏時の6隻を加えた計27隻を喪失するという大損害を被っていた。また中立港へ脱出して抑留された艦艇が6隻あり、ロシア勢力下の港湾にたどり着けたのは巡洋艦1と駆逐艦2、特務艦2の5隻のみだった。 これに対して日本側では、損傷艦は少なくなかったものの、損失は水雷艇3隻に過ぎない。両軍の数的損害が示すように、日本海海戦は日本海軍の完勝といえるものであり、ロシア側に戦争継続を断念させて戦争を終結させる大きな要因ともなったのである。(株式会社デアゴスティーニ・ジャパン発行『週刊 栄光の日本海軍パーフェクトファイル』創刊号)

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    信長が日銀総裁なら必ず強行する現代版「土地より茶器」大作戦

    橋場日月(歴史研究家、歴史作家) 織田信長が日銀総裁になったら、というお題を頂戴した。「歴史にifは禁物」というが、魅力的な仮定でもある。さまざまな経済政策を実行した信長だけに、彼が現代日本の貨幣流通・金融管理の元締めをどうリードするのか、考えてみるのも面白いだろう。 史実の信長と経済との関わりでまず挙げられるのは「楽市楽座」だ。「楽」は自由、フリーという意味で、誰でも自由に商売ができ、免税され、領主の権力も介入しないという政策だ。信長はこれを美濃征服の翌永禄11(1568)年9月に、岐阜城下の加納(現在の岐阜県岐阜市加納)で実施した。 合戦で荒れた町を復興させるために手っ取り早く商人を集める手段だったのだが、この政策自体は南近江の六角氏による石寺新市(現在の滋賀県近江八幡市安土町石寺)や、駿河の今川氏による富士大宮(現在の静岡県富士宮市大宮町)の楽市指定など、先例がある。 それにこれはどちらかといえば経産省のテリトリーだろう。問題なのは、信長が加納市に宣言した「楽市」が、「借銭・借米・さかり銭」も免除した点だ。これは「楽市」に「徳政」を組み合わせたものといえる。借銭・借米はそのまま借金を指す。さかり銭は「下がり銭」、下がるは「後になる・後にする」という意味があるから、これは後払い=掛け売りに伴う手数料を指すらしい。 ということは、日銀の業務に例えれば、彼は割り引いた手形をそのまま発行元に返し、割引の手数料や利息分もタダにしたという形になるのではないか。あくまで特例的措置とはいえ、劇薬と言ってもいい金融政策だ。「何がなんでも町を立て直す」。信長の決意の固さが、ここに表れている(彼の懐は痛まず貸主が損をするだけの話だが)。「木造織田信長坐像」=大徳寺総見院所蔵(中田真弥撮影) 「現代の徳政」といわれる日本航空やりそな銀行などに対する公的資金注入にも似ているが、これは金融庁マターだから、日銀の関わりはとりあえず国庫金を払い出す業務のみだろう。 税を免除し、借金を棒引きにすれば、当然ながら短期的に市場の貨幣は増える。その分物価は上昇し、経済活動は活発化するだろう。大幅な金融緩和でデフレ脱却を目指す現在の日銀総裁と、ある意味共通した思想かもしれない。 ただ注意しておきたいのは、日銀総裁と違って信長は経済政策のすべてを総覧する立場だったことだ。彼は流通ルートの開発に励んだし、道路や橋の整備をおこない、舟運の保護にも熱心だった。市場は取引される商品がなければ成り立たないわけだが、その商品の生産についても、地元特産の瀬戸物を保護奨励し、後に志野焼や織部焼が生まれる基礎を作るなど、差別化や増産に努めたことを忘れてはいけない。信長の「新しい手法」 この年に上洛を果たした信長は、明くる永禄12(1569)年、京や奈良に「撰銭(えりぜに)令」を発する。撰銭とは、良質な貨幣とびた銭(劣化したもの、私鋳銭など)を選別して、その扱いに差をつける行為をいう。偽札が厳禁され、劣化した貨幣は回収される現代ではピンと来ないが、当時はそれが当たり前だった。信長は当初この行為を禁止したのだが、少しでも有利な貨幣をと考える人々には受け入れられなかった。 そこで彼は交換レートを定めて、撰銭も決済手段として安定的に用いられるようにし、売買取引がスムーズに行われるよう誘導したのだ。 これは必ずしもうまくはいかなかったが、銭が不足したり、撰銭のせいで流通が円滑に行われず、手っ取り早く米を代価にしたりするなど混乱した当時の状況の中で、信長がなんとか銭を基軸通貨にしようと努力したことは間違いない。それは、有名な「永楽通宝」の銭紋の旗印を掲げた信長にふさわしい政策だった。 おそらく彼が本能寺の変で死なずに天下を統一していれば、徳川家康のように貨幣鋳造事業に乗り出していただろう。この撰銭令も日本銀行の業務でいえば貨幣流通と為替の管理に相当するのではないか。 また、こうして金融政策を駆使して天下統一の歩みを進めていった信長は、「茶湯御政道」と呼ばれる新しい手法も生み出した。大金を投じて名物茶道具を集め、それを手柄のあった部下へ土地の代わりに恩賞として与えるというやり方だ。 信長から茶会を開くことを許され、茶湯に精通した文化人たちからもうらやまれるという名誉に、家臣たちは熱狂した。滝川一益など、「上野国(現在の群馬県)を賜るより茶器が欲しかった」と愚痴ったほどである。信長が新しい価値を創造し、土地に命をかける武士の価値観をガラリと変えてみせたのだ。そんな信長が日銀総裁ならば、おそらく仮想通貨を公認し、よりスピーディーな流通取引を目指すだろう。画像はイメージです(iStock) 以上を総合すると、「日銀総裁」織田信長は貨幣を増産して市場流通量を上昇させインフレに誘導し、金融緩和によって経済活動を活発化させた上に、仮想通貨という新たな基軸通貨を積極的に支持し、全く今までにない国内外の決済システムの構築に向けた取り組みを行っていたことだろう。

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    もし信長が「日銀総裁」だったら

    歴史に「もし」は禁物だが、この人が今の日銀総裁だったらと思わずにはいられない。戦国大名、織田信長である。信長と言えば、型破りの発想で次々と難敵を打ち破ったことで知られるが、実は傑出した経済人でもあった。デフレ脱却が至上命題の現代ニッポン。「戦国の革命児」信長ならどう挑むか。

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    「優れた経済人」織田信長だったらデフレ脱却にどう挑むか

    活性化策を実施し、領国内の経済力強化を実現してきたからでもある。なお、前述の方面軍の話も含め、本稿は歴史的検証が主眼ではないので、歴史的事実については大ざっぱな話をしている点はご了承願いたい。 さて、現代のわが国の経済について、信長ならどう取り組むかということが本稿の主題である。そのために、わが国の経済の現状を簡単に振り返りたい。 2012年12月に安倍晋三首相が政権に返り咲いて以降、わが国の経済がそれ以前に比べれば良好な状態にあることは多くの経済指標が示している。民主党政権時の3年第1四半期間(2009年9月~2012年12月)における2011年基準の実質国内総生産(GDP)の単純平均は約493兆円(年率換算、以下同)だが、直近3年第1四半期間の実質GDPの単純平均は約523兆円と約6・0%増加している。2018年4月、首相官邸で安倍晋三首相(右)と会談する日銀の黒田東彦総裁(春名中撮影) また、民主党政権時の完全失業率の単純平均は約4・7%、直近3年第1四半期間の単純平均は約3・1%と1・6%ポイント改善している。なお、2017年第4四半期の実質GDPは約535兆円、2018年3月の完全失業率は2・5%である。 しかし、デフレからの完全脱却については、まだ道半ばであろう。安倍首相が任命した黒田東彦日銀総裁は2013年4月にいわゆる「異次元緩和」を掲げ、大胆な金融政策を実施してきた。 株式市場をはじめとする金融市場からは、一時期の暗い雰囲気が払拭(ふっしょく)されたといえるが、「物価上昇率2%」という目標は達成できていない。こうした数値目標にこだわり過ぎる必要はないと思うが、わが国が再びデフレ状態に陥る懸念は完全に過去のものになったと断言できないというのが現状であろう。「新人類」だからこそ デフレとは、世の中のモノやサービスの価格(物価)が全体的に継続して下落することである。ただし、わが国の経済がデフレ状況にあるかどうかの定義についてはさまざまな議論があった。 インフレはデフレの逆で物価が全体的に継続して上昇することを指す。細かな定義の議論は別にして、デフレ下では、価格低下→企業収益減少→賃金減少→節約志向→価格低下、といった経済の縮小サイクルが継続することになる。 デフレの原因を極めて単純に説明すると、需要<供給、つまり供給過剰需要不足ということである。インフレはその逆で、需要>供給、需要過剰供給不足となる。いわゆる「失われた20年」とはデフレ的な経済が続いていたことの比喩的な表現であり、少なくとも経済的な活力は感じにくい状況であった。 一方、信長が活躍した戦国時代後期から安土桃山時代というのは、経済的には高度成長時代であり、活力に満ちていた。各地の戦国大名が領国の維持や拡張のために、富国強兵策を展開していた。軍備充実や軍隊動員には多くの需要が発生する。また戦国時代は、従来の価値体系が崩れ去っていく中で、新しい価値の探求が行われていた時代であり、軍事面のみならず農工業分野でも技術革新が進み、農工業の生産性が上昇した。 農村での余剰人口は、商人や職人になるなどして経済全体の供給力拡大に寄与した。戦国大名が公募する足軽に応募して、需要拡大に寄与した側面もあろう。需要が拡大しているだけでなく、供給力も伸長していたのである。折からのキリスト教宣教師をはじめとする南蛮人(当初の主力はポルトガル人とスペイン人)の渡来も技術革新や文化生成に大きな刺激となっている。文化生成は新たな需要と供給を生み出すことにもつながる。 つまり、当時は旺盛な需要によるインフレ的な傾向があるものの、供給力も拡大しており、需給も相まって成長していたのが戦国から安土桃山にかけての時代である。信長はそうした傾向をさらに促進するようなさまざまな施策を実践していたといえる。 さらに、「天下人」としての信長は、こうした施策の実践を、自身の決裁でなし得ていく。いくら「天下人」とはいえ、民衆の支持を失ってしまえば持続性はないが、民衆の支持は施策を実践した結果に対する評価であり、実践段階では信長の自由度は高かった。もちろん、朝廷や家臣などの関係者と全く調整しないでも良いということではない。 翻って現代は、人口減少・少子高齢化が進行している。人口減少は基本的には需要減少要因である。今、わが国が直面しているデフレへの懸念の根本は、中長期的な需要減少が想像されることにあると考える。 こうした事態に対し、当面の対応として、第二次安倍政権発足当初に掲げられた「三本の矢」、すなわち「大胆な金融政策」「機動的な財政政策」「民間投資を喚起する成長戦略」は方針としては正しい処方箋を打ち出していたと考える。「三本の矢の教え」で有名な毛利元就が生涯を過ごした広島県安芸高田市から「三本の矢」を贈られた安倍晋三首相=2013年2月(酒巻俊介撮影) さらに2015年9月には「新・三本の矢」として、「希望を生み出す強い経済」「夢をつむぐ子育て支援」「安心につながる社会保障」を打ち出している。このうち「希望を生み出す強い経済」は従来の三本の矢を強化するということだが、「夢をつむぐ子育て支援」、「安心につながる社会保障」は、人口減少・少子高齢化というわが国の中長期的な需要減少に立ち向かうための政策とも言える。 しかし、「大胆な金融政策」は黒田日銀総裁が先頭に立って実施してきたが、デフレは金融的現象であると同時に実物経済的現象でもあり、金融政策のみで解決できるものではない。他の矢との相乗効果が求められるのだ。 一方、他の矢はさまざまな関係者が関わる政策であり、当初期待したほどに徹底して実施できたとは言いにくいのではないか。例えば「機動的な財政政策」は、首相が積極的であったとしても、国会や財務省の協力なしには進められない。 「民間投資を喚起する成長戦略」も国会や財務省に加え、関係省庁や地方自治体の協力が必要である。「民間投資を喚起する成長戦略」は、行政側の協力が得られたとしても、民間側の意欲が湧くようなものになっていなければ、前には進まない。 前述したように、信長も朝廷や家臣団、あるいは宗教勢力や町衆などとの調整を全くせずに政策を実施できたわけではないだろう。 しかし、各施策についての最終決裁者であるという強力な立場、直属の実戦部隊を持っていること、さらに彼自身が当時の言葉では傾奇者(かぶきもの)や婆娑羅(ばさら)といった「新人類」であったこともあって、これからを担う世代の民衆や家臣の強力な支持があり、多くの施策を積極的に進めることができたのだと推測される。信長ならデフレ脱却を成し遂げる 信長の凄(すご)みは徹底したリアリズムと愚直な実践にあると考える。与件の中でいかに効果を最大化するか、さらに与件をどう変えるか、を徹底的に追及し、できる所から愚直に実践し続けるのが彼の生涯であった。その際、民(たみ)のために天下を静謐(せいひつ)にするという明確な将来への意志があったからこそ、たゆまず努力を続けられ、人もついてきたのであろう。 与件の中でいかに効果を最大化するかの例としては、1578(天正6)年の御所周辺の築地塀の修理が挙げられよう。信長自身が全面的に請け負うこともできたが、京都の町人が請け負う方式が良いのではと、京都の町々に持ちかけた。 町ごとに組を編成させ、区分された築地塀の修理を担当させ、競争の原理を持ち込んだ。さらに当時は「風流踊り」という群衆音楽舞踊パフォーマンスの全盛期だったそうで、町々は自慢の歌手や踊り子を繰り出し、自分の街の分担区域の修理人員の士気を上げたそうである。 「即時にできた」といった内容が『信長公記』(太田牛一著)に記されているそうだが、最初から信長自身が全面的に請け負っていたら、そこまで早くはできなかったであろう。天皇や宮廷の女性たちも見物に来て楽しんだというから、単なる修理が明るい雰囲気の中で進んだことになる。 近年の日本経済では、安倍政権発足当初の「三本の矢」を打ち出し、実践に移していったことが、株式市場をはじめとする日本経済の雰囲気を明るく転換させたことが該当するであろう。 与件をどう変えるかの例としては、地味ではあるが長きにわたって継続してきた朝廷工作が挙げられよう。朝廷を味方につけることができれば、戦国大名の一人に過ぎない状況(実力はあるが公的な存在とは認められていない)から、国家の承認を得た立場となる。福井県越前町織田の「一族発祥の地」に立つ織田信長像(関厚夫撮影) 信長の父、織田信秀は、信長がまだ少年であった1543(天文12)年に朝廷の内裏の修理費用を献納している。信長も朝廷との交渉を早いうちから始めており、1568(永禄11)年の足利義昭を奉じての入京は、既に朝廷との間の了解事項であった。 朝廷から御所の建物の修理を要請されているという形で、信長が入京する手はずは整っていたのである。そこにたまたま足利義昭が頼ってきたタイミングが重なった。近年の日本経済で考えれば、今まさに取り組んでいる「夢をつむぐ子育て支援」などが与件を変えようとすることに該当するであろう。しかし、こうした与件を変えようとすることは地道な努力を長期にわたって続けることが必要であり、すぐに効果が出るものでもない。 信長が現代日本のデフレ脱却という課題にどう立ち向かうかということでは、大きな方針としては、現政権が打ち出している方向とあまり変わらないであろうと想像される。それを民衆の支持を維持しつつ、具体的に何をやるべきかを徹底的に追求し、愚直に実践し続けるということになろう。 ただし、当時のように「天下人」というポジションは存在しない以上、関係者の調整に多くの労力を費やすことになる。信長は理想を掲げて努力を惜しまないであろうから、不慮の死や失脚などがない限り、デフレ脱却をやり遂げるのではないだろうか。