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    長篠の戦い、信長を勝利に導いた大蛇の力

    長島一向一揆を制圧した信長は、家康との連合軍で武田軍を迎え討った「長篠の戦い」で大勝利を収めた。戦勝の背景には、黄色地に永楽通宝を染め抜いた「銭旗印」と雨に弱い鉄砲隊に有利となった「日照り」だった。信長を勢いづかせた銭旗印の意味と日照りをもたらした大蛇信仰の効果とは如何なるものだったのか。

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    旗印への執着と日照りが生んだ長篠の大勝利

    橋場日月(歴史研究家、歴史作家) 長島一向一揆が壊滅して8カ月近くが過ぎた天正3(1575)年4月(天正2年には閏11月があった)。信長はある人物にその姿を目撃されている。男の名は、島津家久。南九州の大名、島津義久の末弟だ。 家久は兄、義久による薩摩・大隅・日向平定のお礼参りに伊勢神宮などを巡るため上洛したのだが、同月21日、京で織田軍の行列を見たのだ。6日から10万にのぼる大軍を率いて大坂本願寺勢力との戦いに出陣し各地に転戦していた信長は、この日ようやく京に引き揚げてきた。 家久は、信長の前にまず9本の幟(のぼり)が通るのを、「黄礼薬と呼ばれる銭の形を紋にしている」と記録している。「礼薬」は「永楽」の聞き間違いだろう。つまり、これは信長の旗印としてよく知られている黄色の地に永楽通宝の図案を染め抜いた「永楽銭の旗」だったわけだ。 本稿のテーマ的には、この旗を見過ごして先に進むわけには行きそうもない。 黄色に永楽銭の旗印については、第8回ですでに触れた。自らの手で京を安定へ導くため、龍だけでなく麒麟(きりん)のパワーをも取り込もうと考えてそれを象徴する黄色を使ったという内容だったが、ここでもう少し深く考えてみたい。 そもそも、大将格の人物の黄色い旗印というもの自体が珍しい。ざっと戦国合戦の模様を描いた図屏風を見渡してみても、「湊川合戦図屏風」(京都市個人蔵)での新田義貞(黄色地に七曜紋)と「長篠・小牧長久手合戦図屏風」(松浦史料博物館蔵)の織田信長(黄色地に永楽戦)が挙げられるだけだ。後は、「関ヶ原合戦図屏風」(垂井町個人蔵)の徳川家康本陣を守る重臣のものと思われる黄色地三つ巴の旗印ぐらいか。 おっと、有名なところで「地黄八幡」の旗印で知られる北条家の猛将・北条綱成がいるのを忘れていた。この「地黄」は「北条五色備(ごしきぞなえ)」と呼ばれる赤=北条綱高、青=富永直勝、白=笠原康勝、黒=多目元忠の筆頭としての黄=綱成だった。 綱成が筆頭であるのは異論がないところだが、なぜそれが黄色なのか。 これは、古代中国の「陰陽五行」という思想からきている。すべてが木・火・土・金・水の五大要素からできていると考え、木=青、火=赤、土=黄、金=白、水=黒、と五色を割り当てたのだ。これが神にもあてはめられ、木=青龍、火=朱雀、土=麒麟、金=白虎、水=玄武となる。そのうち、大地を表す土、つまり黄色こそが筆頭とされた。武勇ナンバーワンの綱成がその色を使うのは当然だろう。 だが、ここで疑問が出てくる。なぜそんな最強の色が、他の武将たちにはなかなか用いられなかったのか。織田信長像(東京大学資料編纂所所蔵模写) それには立派な理由がある。黄色は、特別な色、高貴な色だったからだ。中国では宋の時代(10世紀末~)から黄は皇帝を象徴する色だった。広大な中国の大地=土は黄であり、同時に皇帝の「皇」と黄は拼音(ぴんいん)が同じ(huáng)であるところからそうなったのだろうが、近代までの中国において黄色は皇帝以外の使用が許されなかったのだ。 そんな色だから、中国の文化を最高のものと尊ぶ当時の日本の上層階級でも黄色はみだりに用いてよい色ではなかった。僧侶の着る法衣(褊衫、へんざん)は黄色に見えるが、それより少し赤みを加えて濁らせた壊色(えしき)と呼ばれる色になっている。旗印は永楽銭 信長は、それほど高貴な色とされた黄色を臆面もなく自分の旗印のテーマカラーとしていた。しかも、1世紀半前の中国「明」の皇帝、永楽帝の時代の銅貨である永楽通宝を意匠として。 信長のために弁護するならば、一時は織田氏と並ぶ存在だった尾張緒川~三河刈谷の大勢力だった水野氏も永楽銭(白地)を旗印としていた。 それは永享7(1435)年に関東公方の足利持氏が京の幕府に近い長倉義成の討伐に失敗する経緯を記した『長倉追罰記』(合戦後まもなく書かれたという)で参陣した水野氏について「永楽の銭は三河国水野が紋」と紹介されていることからも、信長よりかなり早い時代に織田氏が永楽銭をなんらかのモチーフに採用していた可能性もかなり高いと思う。 その一方で『旗指物』(高橋賢一著、新人物往来社)を見ると、馬印そのものが元亀の頃から使われ始め、信長が金(黄)に永楽銭の紋様を旗印とした、と説明されているので、第6回で紹介したように、銭まじないの効果を信じていた信長としては、先祖が採用した永楽銭の紋様が、偶然にも自分の好みに合っていたために旗印にも取り入れたということだろうか。 しかし、その旗印を掲げて上洛し畿内を支配するということになると、話は変わってくる。ただでさえ使用を遠慮すべき尊貴の色である黄を使うだけでなく、その中に俗なものの代名詞とも言える銭の紋様を配した旗を京にひるがえす信長に対して、中国的教養に富んだ公家や仏教勢力は「なんだ、この田舎者の物知らずめ」と鼻で笑い、織田軍を蔑(さげす)みや嫌悪の目で見ただろう。 それでも信長は意に介さなかった。この日も、黄色地に永楽銭の旗印を掲げて都に戻ってきたのだ。その次には彼の親衛隊である母衣衆(ほろしゅう)20人が通り、さらに護衛役の馬廻衆100人が露払いとなって、いよいよ信長自身が見物の群衆の前を通った。 「上総殿(信長)支度皮衣なり、眠り候て通られ候」 信長は毛皮勢の衣を着て、馬上居眠りをしたまま通り過ぎていったのである。まさに絵に描いたような田舎者の姿、だった。 いくら反発を受けても暖簾(のれん)に腕押しとばかりの態度で押し通す信長。銭の呪力を信奉していたとしても、無用な反発を生むのは得策ではないとも思われるのだが、彼の真意はやがて明らかになっていく。 居眠りをしてしまうほど本願寺との戦いに全精力をつぎこんだ信長。しかし、彼は休む間もなく次の戦場へと向かって行く。それがこの直後の、「長篠の戦い」だった。武田勝頼画像(東京大学資料編纂所所蔵模写) 実は、信長は三河・遠江の同盟者、徳川家康の使者から東三河に武田勝頼の軍勢が侵入してきたと知らされ、本願寺との戦いを切り上げて京に戻ったのだ。馬の上でも寸暇を惜しんで睡眠をとっておこうとするのも無理はない。 4月27日に京を出発、28日に岐阜城帰着。5月13日に3万8000の軍勢を率いて岐阜を出陣、18日に武田軍によって包囲攻撃されていた長篠城の西方、設楽原(したらがばら)極楽寺山に着陣する。勝因となった日照り よく知られているように、このとき信長は諸方面から鉄砲とその射撃手を引き抜き、設楽原に集結させている。戦場に投入された鉄砲の数は一般に3000挺。彼は設楽原を流れる連吾川の西に連なる山地をすべて陣地化し、前面に柵と空堀を設け、そこへ武田軍を誘い込んで銃撃戦で撃滅しようと考えていたのだ。 だが、信長着陣の5月18日は、現在の暦に直すと7月6日。まだ梅雨が明けない時期だ。戦国時代も同様で、この前後の4月25日、5月2日・11日・18日・21日・23日・27日と雨が降っている(『多聞院日記』)。 しかし、合戦当日の21日、設楽原には雨は降らなかった。多くある長篠の戦いの画(え)の中で最も年代が古く、合戦から30年ほど後の制作と考えられる「長篠合戦図屏風」(名古屋市博物館蔵)には、扇を広げて用いている武者が何人も描き込まれている。当日は暑かったという記憶が、まだ関係者に残っていたのだろう。実はこの年も「日照り」が発生し、奈良でも「近頃炎天」が続き、雨乞いの祈祷も行われるほどだったのだ。 雨さえ降らなければ、鉄砲はその威力を十二分に発揮できる。未明、ひそかに長篠城を包囲する武田軍別動隊の背後に迂回した酒井忠次らは信長から与えられた500挺の鉄砲を一斉に放って敵を撃破。長篠城は解放された。 こうなると、設楽原方面に移動して信長本陣をにらむ態勢をとっていた武田軍は、撤退しようとしても背後を織田・徳川連合軍から追撃される上、長篠城の鉄砲500挺が脅威となって身動きできない。正面の織田・徳川連合軍は「兵たちを配置につけた様子を隠蔽した」(『信長公記』の記述を口語訳)ため、勝頼は正面突破を狙って攻撃をしかけた。 だが、隠蔽された無数の鉄砲がその武田軍に向かって火を噴いたのだ。 武田軍は織田・徳川連合軍が放つ銃弾を浴び、なんとか柵まで取り付いた者も次々と敵兵の刃に倒れていった。『信長公記』によれば、一斉射撃によって武田軍の攻撃部隊はその過半数が戦闘不能になったという。長篠古戦場に再現された柵と堀(愛知県新城市) こうして山県昌景、土屋昌次、真田信綱・昌輝兄弟と、武田家自慢の猛将・勇将たちも鉄砲で撃たれて戦場に屍(しかばね)をさらし、武田軍は壊滅的な損害を受けて一敗地にまみれた。 実は、合戦前の15日、信長は部下にこう書き送っている。 「天の与えるところであるから、皆殺しにしてやる」(信長書状を口語訳) 「天の与え」という言葉は『信長公記』でも使われているから、信長は設楽原に移動してきた武田軍と決戦する絶好の機会をとらえ、殲滅(せんめつ)の意気込みを周囲にも公言していたのだろう。 だが、もし雨が降り続いていたなら。 当然鉄砲の力は半減、それ以下となり、長篠城を解放することもできないし、柵と堀に頼った白兵戦しか行えない。それでは敵を殲滅することもできず、武田軍は最悪の場合でも余力を残したまま悠々と退却することができただろう。 梅雨時にもかかわらず、前年の長島一向一揆攻めと同じく日照りによって大勝利をつかんだ信長。まさに、水を操る大蛇や龍の力を遺憾なく発揮した合戦だった。これによって、彼の自信はますます深まったのだった。

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    秀吉の巨万の富はこうして築かれた

    豊臣秀吉と言えば、「人たらしの天才」というイメージが強いが、実は経済政策でも傑出した才能の持ち主だった。豊家滅亡後の大坂城からはおびただしい量の金銀が見つかったが、この史実からも当時の懐事情が伺える。貧しい出自でありながら、秀吉はいかにして巨万の富を手にしたのか。

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    「強欲でケチ」秀吉はいかにして巨万の富を築いたか

    渡邊大門(歴史学者) 秀吉が大坂城を築城し、多くの女性を囲ってきたこと、室内に豪華な装飾品を置いたことなどは、以前に取り上げた。中でも大坂城や黄金の茶室は、秀吉の富の象徴であり、すべての人々が圧倒されたに違いない。 1586年10月17日、ポルトガル人宣教師、ルイス・フロイスはイエズス会東インド管区長のヴァリニャーノに宛てて、「富みにおいては、日本の金銀及び貴重なる者は皆(秀吉の)掌中にあり、彼(秀吉)は非常に畏敬せられ、諸侯(大名)の服従を受けている」という内容の報告書を送っている。 続けて秀吉が大変傲慢(ごうまん)で、諸大名と面会するときは蔑視(べっし)していたと述べている。秀吉は盤石な財政基盤を背景にして、諸大名を侮(あなど)っていたのだろうか。少なくともフロイスは、秀吉が巨万の富を掌中に収めていることを知っていた。 この頃、秀吉はすでに関白の地位にあり、欲しいものは何でも手に入っていた。特に、女性に目はなかったようで、1588年2月20日のフロイスの報告書には、秀吉が全国の美しい女性を求め、無理やり連行していたと記している。「無理やり」とはいえ、相手の親や夫にはいくらかの金を与えたのだろう。 江戸時代になると、秀吉の富裕ぶりは、どのように伝わったのだろうか。『信長公記』の著者、太田牛一が慶長15(1610)年に執筆した秀吉の一代記『大かうさまぐんきのうち』には、次のように書かれている(現代語訳)。 秀吉公が出世されて以来、日本国中から金銀が山野から湧き出て、そのうえ高麗、琉球、南蛮の綾羅錦繍(りょうらきんしゅう、美しく気品のある衣服のこと)、金襴(きんらん、金切箔)、錦紗(きんしゃ、絹織物の一種)、ありとあらゆる唐土(中国)、天竺(インド)の名物や珍しいものが多数、秀吉のもとに集まった。それは、宝の山を積むようだった。 この続きでは、農民や田舎者すらも黄金を多数所持し、路頭には乞食(こじき)が1人もいなかったという。秀吉の慈悲により、貧民には何らかの施しがなされたということになろう。ところが、これはあまりに大げさに書かれているのは事実で、さすがに乞食がいないなどはありえない。ただ、秀吉が金持ちだったのは事実である。牛一の秀吉に対する評価は、高かったといえるのかもしれない。 これとは、正反対の見解もある。小瀬甫庵が執筆した『太閤記』には、ユニークな見解を載せている。同書の巻頭において、甫庵は問答形式で秀吉の金配りが道(人の道)に近いのか否かを問い、次のように回答している(現代語訳)。 秀吉は富める者を優先し、貧しき者を削った。どうして道(人の道)に近いといえようか。百姓から税を搾り取って、金銀の分銅にして我がものにし、余った金銀は諸大名に配った。下の者(庶民)に配ることはなった。 つまり、秀吉は強欲だったというのである。ただ、この話も決して真に受けてはならない。ときは寛永年間で、3代将軍・徳川家光の治世だった。この後に続けて、甫庵は家光が万民に施しを行ったので、人々は大いに喜んだと記している。つまり、現政権を褒めたたえているのだ。豊臣秀吉木像(大阪城天守閣蔵) また、秀吉は刑罰を厳しくしたが、犯罪はなくならず、逆に家光の治世では、さほど法律を厳しくしなかったが、犯罪は多発しなかったと書いている。家光の政治手腕は優れているが、秀吉は無能だったと言いたいのであろう。つまり、甫庵は為政者におもねった論法を用いていたのである。 甫庵はさらに、「秀吉は何事にもぜいたくであり、倹約ということを知らなかった」とまで述べている。贅(ぜい)を尽くした茶室、趣味の能楽に多大な費用をかけるなど、秀吉はたしかに金遣いが荒かった。甫庵がどこまで事実を書いているか不審であるが、秀吉は贅沢(ぜいたく)で倹約知らず、おまけに貧民を助けない人物と評価している。秀吉「直轄領」の実態 このように、金銭的評価が二分される秀吉であるが、豊臣政権を支えた財政基盤は、どのように形成されたのだろうか。 豊臣政権の財政基盤を物語る史料は乏しく、慶長3(1598)年に成った『豊臣家蔵入目録』がまとまったほぼ唯一のものである。作者は不明であり、豊臣家の奉行の手になるものと考えられている。しかし、必ずしも完璧な内容のものではなく、九州の蔵入地が少し抜けているなど、若干の不備が認められる。 この場合の蔵入地とは、豊臣家の直轄領を意味する。『豊臣家蔵入目録』によると、豊臣家の蔵入地は約200万石あったという(多少の漏れはあるが)。当時、江戸に本拠を置いた徳川家康は、関東周辺に約240万石を領していた。近世中期になると、江戸幕府の直轄領は約700万石に上ったという。ちなみに、家康の次に多いのは、前田利家の約102万石である。 豊臣家の蔵入地(以下、蔵入地で統一)が多いか少ないかといえば、議論の余地がある。その秘密については、のちほど触れることにしよう。 蔵入地は、北は津軽から南は薩摩に及んでおり、大名領内にも置かれていた。地域的には五畿内(山城・大和・河内・和泉・摂津)が約64万石と最大で、全国36カ国に所在した。ただし、徳川領や毛利領には蔵入地が存在せず、それは互いの力関係が考慮されたと考えられる。また、経済的にうまみのない地域には置かれなかった。 筑前の博多(福岡市博多区)も蔵入地だった。博多は国内・海外に通じる一大貿易拠点で、経済的に発展した都市でもある。加えて、文禄元(1592)年に始まる文禄の役では、兵站(へいたん)基地として多くの物資を賄う拠点となった。秀吉は軍事拠点であった肥前・名護屋城と連携しつつ、戦いを有利に進めようとしたのだ。 諸大名の領内に置かれた蔵入地も、同じ観点から経済的に有利な場所に置かれた。 薩摩・島津氏は薩摩、大隅、日向に57万8733石を領していたが、うち1万石が蔵入地だった。問題は場所である。蔵入地が置かれたのは、薩摩湾の奥の加治木(鹿児島県姶良市)だった。加治木は島津領内で最大の収穫があった場所で、中国の貨幣「洪武通宝」が鋳造されていた(通称「加治木銭」)。※画像はイメージ(ゲッティ・イメージズ) それは、常陸・佐竹氏の場合でも同じである。佐竹氏の領内にも1万石の蔵入地が設定されたが、その場所は那珂湊(茨城県ひたちなか市)だった。那珂湊も港湾として栄えており、佐竹領内の一大経済拠点だったといえる。秀吉は経済的に恵まれた地に目を付け、積極的に蔵入地に編入したのである。 ところで、各大名の領内に蔵入地を置いたことは、いったい何を意味するのだろうか。それは、各大名の領内に豊臣家の出張所があり、諸大名が監視を受けている状況を意味した。豊臣政権は中央集権を進めるため、諸大名に政治的、経済的な影響を強めるべく、要衝地に蔵入地を設置したと考えられる。 そして蔵入地を活用して、秀吉は積極的に経済活動を行った。伏見城を築城する際、秋田杉を建築材として伐採し、運送の費用は蔵入地からの年貢米を充当した。そして、一定の利益を運送業者に保証した。 当時、秋田から小浜・敦賀までの運賃は、米100石につき50石だったという。500~700石積の船ならば、250~350石が運送業者の利益になった。秋田杉の運搬の事例では、敦賀の豪商・道川兵次郎が400間の杉の運送を担当し、約384石の利益を上げたという。秀吉が重視した鉱山 また、津軽地方の蔵入地の年貢として2400石の米が納められた際、豊臣政権の奉行を務めた浅野長政は、南部の金山にその一部を販売した。その際、浅野氏は南部氏に対して、ほかの米商人の関与を否定した。つまり、秀吉は米の販売権を独占することで、高値での米取引を実現したのである。秀吉が豪商を活用した点は、後に詳しく触れよう。 蔵入地が1カ所に集中するのではなく、全国各地に点在していることには、大きなメリットがあった。それは、先に記した諸大名の監視のほかに、諸大名の経済拠点を蔵入地にすることにより、効率よく収益を上げることができ、なおかつ米などを独占的に販売することで、多大な利益を確保できた点である。 直轄領として、秀吉に多大な利益をもたらしたのは鉱山だった。秀吉は越後、佐渡、陸奥、出羽などの主要な金山を掌握するだけにとどまらず、石見銀山(島根県大田市)、生野銀山(兵庫県朝来市)などの銀の産出地も配下に収めた。そこに関与したのは、豪商たちだった。 実際の運営は豊臣政権の直轄でなく諸大名が関与し、実質的には商人などに代官を任せて、金銀を運上(上納)させていた。つまり、諸大名に命じて鉱山の開発を進めさせ、鉱山経営には商人たちがかかわったのだ。たとえば、平野郷の豪商・末吉次郎兵衛は越前・北袋銀山の経営を秀吉に願い出、通常なら上納金が銀30枚のところだが、70枚にすると申し出て、見事に経営権を獲得した。豪商にとって、利権が大きかったのだろう。 そのほか、秀吉はさまざまな名目で、運上の徴収を行った。 金座の後藤氏は、金貨を鋳造しており、その品質を保証するため書判(サイン)を記していた。また、銀座の大黒常是(じょうぜ)という堺の商人も、銀貨の鋳造を行っていた。秀吉は彼らに金貨や銀貨の鋳造権を認める代わりに、上納金を徴収していた。 このほか、大津から京都への陸運、琵琶湖や淀川の水運についても、それらの権益を独占する業者に上納金を納めさせていた。古来から琵琶湖の交通権は堅田衆が握っており、往来する船から交通料を徴収していた。交通料を徴収した堅田衆は、船が安全に往来できるよう、取り計らっていたのである。これも一種の特権だった。織田信長が楽座を発布すると、堅田衆の特権は失われたが、秀吉は天正15(1587)年に堅田・大津の船を集め、「大津百艘仲間」を作った。ある意味で信長の路線から後退する流れである。現在も残る生野銀山の入り口=兵庫県朝来市 そのルールとは、琵琶湖北部方面の公定運賃を定め、その上納金として、秀吉に年間銀700枚を差し出すというものだった。また、特権の見返りとして、蔵米や御用材などについては、無料で運送を命じたのである。 京都から大坂を結ぶ淀川と神崎川の水運は、過所(書)船(関所通行証を持った船)が業務を独占していた。信長の時代でさえも、御用商人の今井宗久は過所(書)船を利用しなくてはならなかった。大津から京都を結ぶ陸運については、大津駄所という馬借(運送業)が古くから特権を保持していた。秀吉は彼らの特権を認めて、上納金を納めさせることにより、財政を豊かにしたのである。「算勘にしわき男」 ほかにも、堺諸座役料なるものがあった。戦国期の堺には同業組合としての座は知られておらず、なぜ座が残っていたのか不明である。平野郷(大阪市平野区)の豪商・末吉氏に対しては、信長が堺南北馬座を認めた例が唯一である。 今井宗久は信長に対して、塩合物(塩で処理した魚・干魚の総称)の過料銭の徴収の許可を求めている。おそらく宗久は、以前から塩合物についての特権を保持していたと考えられる。千利休も、和泉国内や泉佐野の塩魚座から何らかの収入を得ている。秀吉は盛んな経済力に目を付け、商工業の団体からさまざまな形で上納金を得ていたようだ。 さらに、秀吉は商人を積極的に活用することにより、戦争の準備を円滑に進めようとした。文禄・慶長の役の際には、兵糧の米を大量に集めるため、博多で銀10枚で80石という米相場にもかかわらず、秀吉は銀10枚で77石あるいは70石(本営のある名護屋)という高値で買い上げると言った。こうして米を買い占めた。 博多では500石積の船の運送料が銀で約60枚だったが、名護屋では銀で約70枚となった。つまり、名護屋では銀10枚程度の儲けになるので、豪商たちにとって大きな利益となった。豪商は運送だけでなく、蔵入米や各種物産の管理もしていた。 ところが、やがて秀吉の時代は終焉する。 慶長3(1598)年8月に秀吉が亡くなると、その莫大な遺産は子息の秀頼に継承された。残念ながら総額は不明であるが、相当な額だったのはたしかであるといえよう。しかし、慶長5年9月の関ヶ原合戦において、秀頼はほとんどの蔵入地を失った。それでも、豊臣家の財政は豊かだった。 秀頼は慶長19年に方広寺(京都市東山区)の大仏の造営に着手したが、それは秀吉の豊かな遺産があったからだった。ところが、皮肉なことに方広寺の梵鐘(ぼんしょう)に刻まれた「国家安康」の文字が徳川家康を呪ったものと解釈され、同年から大坂冬の陣が開始する。 豊臣方には1人として大名が味方をしなかったが、代わりに馳せ参じたのは、各地で失業生活を送っていた牢人(主人を失い秩禄のなくなった武士)たちだった。むろん、彼らの目当ては戦後の恩賞だけでなく、当座の生活資金として支給された金銀だった。豊臣家は秀吉の遺産を元手にして牢人をかき集め、徳川との戦争に踏み切ったのである。兵糧や武器・弾薬の購入にも、秀吉の遺産がつぎ込まれた。大坂城(ゲッティ・イメージズ) 慶長20年5月の大坂夏の陣で、豊臣家は滅亡した。いち早く家康は金座の後藤庄兵衛に命じて、大坂城内に残る金銀の調査を命じた。結果、城内から金2万8060枚、銀2万4000枚を見つけ出して没収した。当時の庶民の間では、金が2、3枚もあれば金持ちだとされていたので、膨大な額である。 秀吉は「算勘にしわき男(そろばん勘定にやかましい男。ケチ)」と称されたが、その経済感覚は優れたものがあった。それだけの才覚がなければ、とても天下統一などはできなかっただろう。そこには意外にも、幼少時から青年期に至るまでの「金の苦労」が少なからず影響しているのかもしれない。主要参考文献脇田修『秀吉の経済感覚』(中公新書)

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    「ドクロの盃」に誓った信長、仏教根絶と第六天魔王の深すぎる因縁

    橋場日月(歴史研究家、歴史作家) 天正2(1574)年、浅井久政・長政父子と朝倉義景の首を薄濃(はくだみ)にして正月の酒席に供するという、現代人にとっては衝撃的な演出をしてみせた信長。 だが、それは価値観が違うわれわれだからそう感じるだけで、人の首を見るなど日常茶飯事の戦国時代はまた話が違う。なにせ、当時の女性の覚書『おあむ物語』には、合戦で味方が獲ってきた生首に女性たちがお歯黒をほどこすシーンまであるぐらいなのだから。 『信長公記』でこの3人の「首」が出された場面は前回にも紹介したが、「それぞれが謡い遊興し、なんともめでたい結果になったと喜んだ」とある。これをアレンジした『甫庵信長記』でも、「この肴(さかな)で下戸も上戸もみな飲もう、とそれぞれが歌い、舞って、酒宴はしばらく終わらなかった」「信長公は皆が数年にわたって苦労して功績を重ねてくれたおかげだ、こんな肴で酒宴を開けることになったのは本当にめでたいことだ、と仰(おっしゃ)った」と、一同は浮き立つように酒宴を楽しむ情景が描かれている。 「みんな、信長が怖くて楽しんでいるふりをしたのだろう」と思うところだが、『おあむ物語』など見る限り、どうやら酒席の人々はまんざらお芝居ではしゃぐふりをしてみせたわけではなく、案外本気で喜んでいたのかもしれない。 『信長公記』にも『甫庵信長記』にも、「薄濃」にされたのは「首(こうべ、くび)」だと書かれている。これだと生首かともとられそうだが、いくら秋から冬にかけてとはいえ、生首を3カ月あまりもそのまま保存しておけるものだろうか? 塩漬けや酒漬けにしたところで、そうそう長くはもたないだろう。 肴にされた浅井長政側の史料『浅井三代記』は100年近く後に成立したもので信頼性はとても低いのだが、「肉を取り去って(漆で)朱塗りにした」と書かれている。 つまりドクロにされていたということだ。この部分に限っては、それが合理的ではないか。織田家の正月の宴に出された3人の首は、ドクロだった。※画像はイメージです(GettyImages) ちなみに、この3人のドクロの頭頂部が切り分けられて盃(さかずき)にされ、信長の家臣たちが回し飲みさせられたなどというエピソードを聞いたことがある方がおられるかもしれないが、それはこの『浅井三代記』が「盃の上に御肴にぞ出しにける」と書いてあるところから誰かが想像を働かせた創作―と言いたいところなのだが、それがどうもそうとばかりも言い切れない節がある。第六天魔王とドクロの関係 『今昔物語集』という平安時代の物語集の名前を、読者の方々も一度は聞かれたことがあると思う。その巻第一の第六話は「天魔、菩薩の成道(じょうどう)を妨げんとすること」なるタイトルだが、これは菩薩=釈迦の仏教修行を、天魔(第六天魔王)が邪魔しようとした、という意味だ。 その中で、弥伽(ミカ)と迦利(カリ)という天魔の姉妹がそれぞれ手に「髑髏(どくろ)の器」を持って釈迦の前に現れ、いろいろ妖しいポーズをとってみせた、という一節がある。この髑髏の器というのが、そのままドクロの盃のことなのだ。 第六天魔王とドクロの盃。二つをつなぐ元ネタがある以上、第六天魔王を名乗った信長が3人の首をドクロの盃に仕立てたとしても、不思議はない。仏教に対する外法(げほう。魔法、魔術、妖術なども含む)に使われる髑髏は、外法頭(げほうあたま、げほうがしら)と呼ばれることからも、ドクロの盃は「仏教の敵対者」としての象徴を意味する。 前年に第二次長島一向一揆攻めで失敗し、この正月の宴の直後には越前一向一揆に蜂起されることになる信長にとっては、「今年は刃向かってくる仏教勢力との戦いの正念場だ」という宣言でもあったのかもしれない。実際、この数カ月後に長島一向一揆は皆殺しにされ、さらに翌年には越前一向一揆も殲滅(せんめつ)される運命をたどっている。 箔濃(はくだみ=薄濃)については中国の『史記』に記述があり、台湾の故宮博物院には祭儀に用いられた箔濃が収蔵されているという。 こうして浅井久政・長政父子と朝倉義景のドクロは第六天魔王の象徴的アイテムとして漆塗りにされ諸将の前に飾られた。戦国武将の浅井長政らを描いた絵画=和歌山県高野町(山田淳史撮影) だが、どうも信長はそれだけのためにドクロを見せ物にしたわけではなさそうだ。 漢字研究の大家である白川静氏によれば、古代中国では偉大な指導者の「髑髏」が大切にされて魔除けのために祀られ、その色が「白」という漢字の起源になったという(『漢字百話』(中央公論新社)ほか)。 野ざらしで白くなった英雄のドクロ。それをたたくことでドクロの生前の霊を迎え、まじないの効果をあげようとされていたというのだから、この点でも魔除け好きな信長との接点が出てくる。浅井父子と朝倉義景は4年間にわたって信長を苦しめ続け、あわや破滅かというところまで追い詰めたほどの武将だったから、その呪霊の力も相当なものに違いない。信長の怪しいブレーン ひょっとすると、信長の側にはこういうオカルト的な知識に詳しいブレーンがいたのではないか。20世紀最悪といわれる独裁者、ヒトラーの場合、カール・エルンスト・クラフトという大物占星術師がナチスドイツの躍進に貢献したというが、実は信長にもそういうスタッフがいたと考えられる節もある。それについては近々触れることになるだろう。 さぁ、それでは話を進めて、信長がドクロを飾ってその意気込みを表現した第三次長島一向一揆攻めについて語ることにしよう。 この年の7月は、雨が極端に少なかった。徳川家康の史料『当代記』に「この夏秋、旱天(かんてん)」とあるように、旱(ひでり)が起こったのだ。奈良でもこの月「近般もってのほか炎天」と嘆かれ(『多聞院日記』)、島根でも4月からこの月にかけて干ばつとなる(気象研究所『日本旱魃霖雨史料』)など、広い範囲が水枯れで干上がった。 信長が行動を起こしたのは、ちょうどそのタイミングだった。13日に7万とも8万ともいう軍勢を率いて岐阜城から出陣した信長は、翌日戦闘を開始。海も陸も隙間なく長島を包囲した織田軍は次々に一向一揆の支城を打ち破り、一揆勢を切り捨てていく。大鳥居城と篠橋城の一揆勢は耐えきれなくなって降伏を申し入れるのだが、信長はこれを拒否した。「いろいろと一揆の者どもが懇願して来るが、この期に根切りすると決意している」と書状にも記しているように、彼は「根切り」=殲滅、皆殺し以外は考えていなかった。 8月2日、夜陰にまぎれて大鳥居城から脱出しようとした一揆勢1000人あまりが切り捨てられてしまう。雨雲がまったくない夜空は月明かりも十分に明るく、織田軍にとって一揆勢を捕捉するのは造作もなかっただろう。伊勢長島一向一揆(歌川芳員、『太平記長嶋合戦』) それより何より、河川の水位が下がっていたことが信長の強い味方となっていた。木曽川・揖斐川・長良川の「木曽三川」の流れの中にある「輪中」を城塞(じょうさい)化した長島城などは、川の水が少なくなればそれだけ防御力を喪失するためだ。 信長は大鳥居城の虐殺について、「男女ことごとくなで切りにさせた。身投げして死んだ者も多かったようだ」と自慢してみせ、「長島の願証寺がいろいろとわび言を申し入れてきているようだが、一切取り上げるなと命じてある」と改めて殲滅の実行を確認している。正月に三つのドクロを前に立てた反織田の仏教勢力の根絶の堅い誓いは、小揺るぎもしなかった。「自分は神」と確信 残る屋長島・中江の二城と本拠の長島は希望のない籠城に突入したが、特に篠橋城から多くの者たちが逃げ込んだ長島は兵糧の準備も乏しく、地獄の飢餓状態に陥っていく。「城中の男女に餓死者が殊の外多く出ているようだ」と信長はその陥落も間近いことを予期し、9月29日に一揆勢が長島から退去しようとするのを認めるふりをした上で、船で城内からこぎ出してきたところを鉄砲で一斉に撃ち倒させた。みるみる殺されていく仲間たちの姿に、死に物狂いになった一揆勢は織田軍の手薄なところに突撃をかけ、生き残った少数だけが大坂まで逃げていったという。 敵の意外な抵抗に怒り狂った信長は、その日のうちに屋長島・中江の二城に四方から火をかけた。渇水により陸の上はすっかり乾燥しきっていたこともあり、火はあっという間に回って2万人という籠城者をすべて焼き殺してしまったという。まさに地獄の業火をこの世に出現させたようなありさまだっただろう。 この日、彼は陣を払い、岐阜城へと凱旋(がいせん)の途につく。 ドクロの誓い通りにまず長島一向一揆を殲滅した信長。彼は滞陣中に「大坂を皆殺しにする準備を最優先にせよ」と細川藤孝に書き送っている。一向一揆の本尊、大坂本願寺に総力戦を挑もうというのだ。武田勝頼の銅像=山梨県甲州市 干ばつがもたらした渇水により長島一向一揆攻めを成功させた信長。彼は、桶狭間の戦い以来続いている龍・大蛇の神通力による「水」の制御がここでも自分に味方したことに気をよくしていたことだろう。   それは、彼が龍そのもの、つまり自らが神の力を備える存在だと信じる方向へと彼を導いていくきっかけとなったようだ。 そして、彼の自信を絶対の確信へと変える大作戦が、この後に待っている。明くる天正3(1575)年4月21日、甲斐の武田勝頼が1万5000の兵を率いて徳川家康領の三河国の東部へ侵入し、各地を脅かした後、5月11日に長篠城を包囲したのである。 これに対し、信長は徳川家康からの応援要請を受けて2日後の13日に岐阜城を出陣する。信長一世一代の大合戦、「長篠の戦い」の火蓋が切られたのである。

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    「キリシタンへの見せしめ」秀吉が黒田官兵衛を疎んじた理由

    渡邊大門(歴史学者) これまで見てきた通り、豊臣秀吉は決してイメージ通りの明るさがある人物ではなかった。秀吉はときに諸大名や家臣の行動に逆上し、厳しい処分を下すことがあった。秀吉の逆鱗(げきりん)に触れ、「臭い飯」を食うことになった武将も少なくない。ただ、秀吉の部下への厳しい対応は、冷徹な性格だけが理由ではなく、期待を含めた「愛のムチ」という側面もあったのだろう。 その被害者の一人として、黒田官兵衛孝高がいる。官兵衛といえば、「偉大なナンバー2」と称され、秀吉がその存在を恐れたといわれている。しかし、それは真っ赤な嘘で、わずか約13万石の小大名の官兵衛が秀吉に敵(かな)うわけもなく、いいかげんな史料に基づいた、後世の人々による過大評価に過ぎない。 結論を言うと、官兵衛が秀吉から悲惨な目に遭わされたのは、彼がクリスチャンだからだった。官兵衛がクリスチャンだったことは、福岡藩の正史『黒田家譜』には書かれていないが、フロイスの『日本史』の記述により明らかになっている。『黒田家譜』に書かれていないのは、近世になってキリスト教の禁止が本格化し、中興の祖・官兵衛がクリスチャンでは都合が悪かったからだ。 官兵衛がキリシタンに関心を抱くようになったのは、小西行長の勧誘によるものであった。次いで、官兵衛を蒲生氏郷と高山右近が受洗へと導き、「小寺シメアン官兵衛」と称したという。天正13(1585)年のことである。ただ、実際に官兵衛の洗礼名は「シメオン」なので、標記が異なるのは発音上の問題であると考えられる。実際、官兵衛は花押の代わりにローマ字印を使うこともあったので、キリシタンだったのは確実である。 官兵衛は秀吉の側近として重要な任務に従事していたので、デウス(神)のことを知る時間が甚(はなは)だ乏しかったと伝える。したがって、キリスト教に関する基礎知識には欠けていたようだ。にもかかわらず、イエズス会では官兵衛に大きな期待を抱いた。官兵衛が教えを聞く機会を持てば、その信仰は堅固になり、「デウスの奉仕」に役立つと述べている。 官兵衛が豊臣秀吉のもとで毛利氏と国境策定をめぐり、毛利輝元と交渉を行った際、イエズス会のコエリュ副管区長の要請に応じて、山口でキリシタンがもとのように居住できるよう働きかけることを応諾した。官兵衛はキリスト教の熱心な信者であり、布教の手助けを行っていたことが明らかである。黒田如水居士画像=祟福寺(福岡市)所蔵 これまで豊臣秀吉はキリスト教に一定の理解を示していたが、天正15(1587)年6月に博多でバテレン追放令を発令し(「松浦史料博物館所蔵文書」)、キリスト教の信仰は事実上禁止された。早速、秀吉はキリシタン大名・高山右近に棄教を強制し、右近がこれを拒否すると改易という厳罰に処したのである。 その矛先は、官兵衛にも向けられた。『日本史』には、秀吉がキリスト教を激しく憎悪して、19にわたる決定事項を下したと記されている。そこには、官兵衛について、次のように書かれている。 過ぐる戦争(九州征伐)において輝かしい武勲をたてた官兵衛殿に対しては、豊前の国を約束していたが、彼(官兵衛)がキリシタンであり、貴人(諸大名)たちに、我らの教え(キリスト教)を聞いて受洗するように説得しているとの理由から、後刻、(秀吉は)大いに(官兵衛)を叱責し、厳しい(仕打ちに)より彼からそれ(豊前国)を没収した。その後、(官兵衛への厳しい処分を)保持しきれなくなって、彼にふたたび(豊前国)を与えることになったが、かなりの部分をだまし取った。 キリシタンの官兵衛が受洗を諸大名に熱心に勧めたことから、秀吉は激しく官兵衛を叱責し、いったん恩賞として与える予定だった豊前を取り上げた。ところが後日、秀吉は官兵衛に厳しい態度で接し続けるのが困難であると悟り、大幅に削減したうえで、改めて官兵衛に豊前・中津を与えたというのである。秀吉が再び与えた理由は判然としないが、2人の関係に亀裂が入っていたのは明らかである。秀吉の禁教に反した官兵衛 その後、官兵衛が豊前を領したとき、短期間で多くの者たちの改宗に成功したという。その中には、自身の子息、長政や筑後の毛利秀包(ひでかね)も含まれている。これだけでなく、多くの武将に改宗を持ちかけ成功した(『日本史』)。それゆえ官兵衛は、イエズス会から大いに頼りにされたのである。これは、禁教を推進する秀吉の悩みのタネでもあり、方針に反する行為だった。 秀吉が大活躍した官兵衛に対して、わずか豊前・中津しか与えなかった理由は、これまで俗説がまかり通っていた。「官兵衛を恐れた秀吉は、九州の僻地(へきち)に押し込め、石高も最小限に抑えた」というのはその代表的な見解だろう。官兵衛を過大評価した、典型的な解釈である。実際は官兵衛がキリシタンであり、熱心に信仰を周囲に勧めることが気に入らなかったのだ。 秀吉は官兵衛に対し、豊前国を与える件について、次のように罵倒した(『日本史』)。 「汝(官兵衛)はそれ(豊前国を支配すること)に価せぬ。(豊前を)統治する能力もない。汝(官兵衛)はキリシタンになっただけでは満足せず、諸国の君侯(大名)や他の貴人たちに対して、キリシタンの教えを聞いて洗礼を受け、当初抱いていた神々(仏教、神道)への信仰を捨てるように盛んに説教し、説得し続けてきたのであるから、汝(官兵衛)に国(豊前)を与えるわけにはいかぬ」と(秀吉は)言い、さらに彼(官兵衛)に対して幾多の罵詈雑言(ばりぞうごん)を浴びせかけた。 秀吉は官兵衛に豊前を治める器量がないと、面前で言い切っているのだから、もはや両者の関係は決裂状態だろう。官兵衛がキリスト教の信仰を周囲に勧めるのも気に入らなかったらしい。おまけに、詳しくは書かれていないが、秀吉は続けて官兵衛に幾多の罵詈雑言を浴びせかけたという。それでも秀吉が官兵衛を起用し続けたのは、彼の能力が高かったからと推測される。 次の記述を見る限り、秀吉は官兵衛を高く評価しており、実は3カ国を与えようとしていたことがわかる(『日本史』)。 その後、(秀吉は)彼(官兵衛)に3カ国を授けるような期待を抱かせておきながら、豊前国しか与えず、しかもなおその(豊前国の)の一部を接収して(毛利)壱岐守に授け、汝(官兵衛)がキリシタンゆえにこれを没収したのだ、と(秀吉は)言った。 このように、秀吉は官兵衛を高く評価しており、最初は内々に3カ国を与えると約束をしていた。それは、キリスト教の棄教との交換条件だったのだろうか、結局は3カ国どころか、豊前・中津だけになったのは、先述の通りである。ただし、3カ国というのは、具体的にどの国なのかは不明である。伝黒田如水肖像(滋賀県長浜市の樹徳寺所蔵) ところが、この話はまだ終わっていない。官兵衛は相変わらずイエズス会の肩を持ち、秀吉に種々交渉を行った。官兵衛がイエズス会の側に立って発言した際、秀吉は次のように激高したという(『日本史』)。 「汝(官兵衛)はまだバテレンどものことを話すのか。汝(官兵衛)がバテレンに愛情を抱いており、また汝(官兵衛)がキリシタンであるために、汝(官兵衛)に与えるつもりでいたもの(領地)の(うち)、多くを取り上げたことを心得ぬか」と(秀吉は)答えた。 秀吉は官兵衛がキリスト教の信仰を止めず、それどころかイエズス会に寄り添った態度を取るのが気に入らなかった。官兵衛が本来与えられる領地を取り上げられたのは、彼がキリシタンだからだ、と秀吉は明快に答えている。『日本史』の別の記述によると、官兵衛が多くの人々をキリスト教に改宗させたので、秀吉は官兵衛に数カ月間会わなかったと記す。2人の関係は、険悪だった。秀吉の死を願うほどの憎悪 このように関係が悪化したのだから、官兵衛は秀吉に対し、強い憎悪の念を抱くのはやむ得ないところである。キリスト教に迫害を加える秀吉について、官兵衛は次のような感想を持っていた(『日本史』)。 拙者(官兵衛)はこのたびの悪魔的な動揺と変化(秀吉による官兵衛への罵倒)を、この上なく憂慮している。だが我らの主(デウス)が(秀吉を)かく許し給うからには、そこには極めて正当な理由が存するはずである。(中略)だがデウスは、かかる極悪人(秀吉)を罰さずにはおかれぬから、拙者(官兵衛)が思うには、(秀吉はこれ以上)長くは生き得ないだろう。 官兵衛はデウスの意志としながらも、秀吉はそんなに長生きをしないと断じている。主君の死を願っているのだから、秀吉への憎悪の念を推し量ることができる。ただ、官兵衛は秀吉と口論におよぶことはなく、一方的に罵詈雑言を浴びせ掛けられるだけだった。それは、秀吉が主君だったからで、決して口ごたえできなかったからだろう。しかし、キリスト教関係者には、秀吉への不満を正直に吐露していたのである。 こうして秀吉と官兵衛の距離は着かず離れずのまま保たれるが、文禄・慶長の役により決定的に破綻する。 文禄元(1592)年3月から、秀吉は全国の大名たちに朝鮮半島への出兵を指示した。当初、日本軍は破竹の勢いで進軍し、朝鮮半島全土を占領する勢いだった。しかし、義兵が日本軍への抵抗を活発化させ、李舜臣(り・しゅんしん)率いる水軍が日本軍を打ち破ると、とたんに情勢は不利になった。苦境に追い込まれた日本軍は、新たに手を打たねばならなかった。以下『日本史』により、秀吉と官兵衛との間にいかなることがあったのか確認しておこう。 文禄2年6月、秀吉は明に対して和平の条件を伝えたが、一方で、秀吉は朝鮮半島の海辺に12の城郭を作るため、官兵衛を派遣して現地の武将に命じるように手配した。手順は、まず官兵衛が全軍の指揮を執り、現地の武将を率いて全羅道を攻略し、その後、12の城を築くというものであった。ちなみに、秀吉の命令は絶対であり、決して逆らったり、意見したりすることはできなかった。光化門近くの広場に建つ李舜臣の像=韓国・ソウル(鴨川一也撮影) しかし、現地の武将たちの間では、まず12の城を築き、その後、全羅道を攻略すべきであるとの見解が大勢を占めた。防御施設をしっかり作った方が安心できるからであろう。秀吉の命令とは、手順がまったく逆である。そこで、官兵衛は彼らの意向を踏まえ、他の重臣とともに秀吉のもとを訪れ、現地の方針を伝えた。このことが、官兵衛に最悪の事態をもたらすことになる。 朝鮮に駐屯した武将たちは、現地の情勢を踏まえて、秀吉の作戦について変更を「お願い」するつもりだった。しかし、この頃の秀吉は度重なる敗戦に神経質になっており、自身に反対意見を述べることを許さなかった。秀吉に面会しようとした官兵衛は、次に示す通り、想定外の悲惨な目に遭ってしまう。 朝鮮にいる武将たちのこの回答と意見は、大いに関白(秀吉)の不興を買った。彼(秀吉)は、少なくとも(朝鮮全羅道)を一度攻撃した後に使者を寄こすべきであったと言い、彼ら(朝鮮に駐屯中の武将)を卑怯者と呼んだ。なおまた官兵衛に対して激高し、彼(官兵衛)を引見しようとせず、その封禄と屋敷を没収した。 秀吉からすれば、一度は命令を聞いて朝鮮全羅道を攻撃し、その後に相談に来るべきであって、自分の命令を最初から無視するのはけしからん、ということになろう。その交渉の使者が官兵衛だったが、秀吉と官兵衛はキリスト教をめぐって対立する状態にあった。秀吉の怒りは激しく増幅し、官兵衛に封禄と屋敷の没収という厳しい処分を科した。これは「見懲(こ)り」といい、諸大名に対する見せしめの一つだった。謎多き官兵衛の引退 この話がまんざら嘘でないということは、文禄2年5月25日付前田玄以書状(駒井重勝宛)により明らかである(「益田孝氏所蔵文書」)。この書状によると、官兵衛は文禄2年5月21日に名護屋城の秀吉のもとを訪れ面会を求めたが、追い返された事実が判明する。官兵衛は秀吉の指示通りの作戦を実行しなかったので、不興をこうむったのである。もう一度、官兵衛は秀吉を訪ねたが、結果は同じことだった。 秀吉の逆鱗に触れたため、官兵衛は次の通り出家に追い込まれた(『日本史』)。 官兵衛は剃髪(ていはつ)し、権力、武勲、領地、および多年にわたって戦争で獲得した功績、それらすべては今や水泡が消え去るように去っていったと言いながら、如水、すなわち水の如しと自ら名乗った。かくて彼(官兵衛)は息子(長政)がいる朝鮮に戻るのが最良の道であると考え、その地に帰っていった。彼(官兵衛)は関白(秀吉)に謁し得ることを望んでいたが、それはなんら彼(秀吉)からの寵愛を得んとしたからではなかった。なぜなら彼(官兵衛)は、もはやすでに年老い、長政の所領である豊前に隠居し、救霊のことに専念したいと願っていたのである。 官兵衛は天正17(1589)年に家督を子息、長政に譲っていたので、実害はなかったといえるのかもしれない。 これまで官兵衛引退の件に関しては、病気によるものであるという説が主流だった(秀吉を恐れて早い引退を決断したとも)。若い頃の官兵衛は、荒木村重が籠(こ)もる有岡城で、1年余にわたる幽閉生活を余儀なくされた。それにより頭髪が抜け落ち、膝にも傷病を負ったという。また、朝鮮出兵後、病により帰国したこともあった。黒田官兵衛の顕彰碑=兵庫県姫路市  ところが、『日本史』で経緯を読む限り、官兵衛が出家をしたのは、朝鮮半島における作戦をめぐり、秀吉から勘気をこうむったというのが事実らしい。官兵衛が病気などの理由により引退したという通説とは、大きく異なっている。 ただ、こうした史実について、裏付けとなる日本側の史料が乏しいのは、誠に残念であると言わざるをない。また、フロイス『日本史』の史料的な評価も十分ではなく、今後の課題である。たとえば、禁教を推進した秀吉の評価が辛く、キリシタン大名には甘いというのは一例である。しかしながら、『黒田家譜』のように官兵衛を顕彰することに一色になっておらず、ある意味でリアルな姿を伝えていることは誠に興味深い。 このように、官兵衛は秀吉から厳しい制裁を受けたのだが、後年は秀吉に対して憎悪の念がなかったような感想を漏らしている(「吉川家文書」)。そのような心境の変化がなぜ生じたのかは不明である。主要参考文献渡邊大門『秀吉の出自と出世伝説』(洋泉社・歴史新書y)

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    「卑弥呼の謎」を解くカギはある

    邪馬台国の謎解きに迫るニュースが久しぶりにあった。有力候補地の一つ、奈良県・纏向遺跡から出土したモモの種を放射性炭素年代測定したところ、女王卑弥呼が在位した年代と重なることが分かったという。畿内説を補強する新しい材料だが、とまれ九州説も黙っちゃいない。再び邪馬台国論争を追う。

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    「卑弥呼の宮殿は吉野ヶ里」この仮説を覆す発掘成果はあるか

    七田忠昭(佐賀県立佐賀城本丸歴史館長) 邪馬台国(やまたいこく)の所在地が盛んに論議されるのは、言うまでもなく『三国志』魏書東夷(とうい)伝の中の「倭人伝(わじんでん)」に「…南至邪馬台国、女王之所都(…南には邪馬台国があり、そこは女王が都をおいているところ)」と記されているからだ。つまり、邪馬台国は倭国の都の所在地であり、倭国王卑弥呼の宮殿が置かれた国だからである。 その議論は江戸時代から本格化する。邪馬台国への行程記事と、記紀など日本の古記録に記された人物や地名からの推察が主流を占めた。本格的な議論は江戸時代の儒学者、新井白石や国学者の本居宣長、明治時代末期の東京帝大教授の白鳥庫吉(くらきち)と京都帝大教授の内藤湖南による論争以降、九州地方と近畿地方が二大候補地として定着した感があった。 考古学からのアプローチも大正末期に始まる。東京帝室博物館の高橋健自は、邪馬台国は「当時の政治・文化の中心であり、中国文化の影響が大きかった場所」に違いないと考え、中国漢・三国時代の銅鏡やその模造品が畿内で多く出土することなどから、邪馬台国は畿内にあったと主張した。 京大教授の小林行雄は、近畿地方を中心に古墳から出土する三角縁神獣鏡に代表される同笵鏡(どうはんきょう、同鋳型で鋳出された鏡)とその地方への分布関係などから近畿・大和説を唱え、三角縁神獣鏡を魏皇帝から卑弥呼やその宗女台与(とよ、壱与(いよ)とも)に下賜された「銅鏡百枚」とみた。 しかし、江戸時代以来、現在に至るまで、300年弱の年月をかけての議論は実らず、近畿(大和奈良)説と九州(九州北部有明海沿岸)説を筆頭に、混迷を極めている。文献の解釈や考古学的成果に決定打が現れないからであった。そのような中、1986年から始まった佐賀県吉野ケ里遺跡の発掘調査は、邪馬台国所在地の議論に多くの有意義な情報を提供することになった。 弥生時代の終わりころ、倭国の都があったとされる邪馬台国の位置については、後の大和王権の成り立ちや、日本の古代国家成立と関連して重要な意味を持っている。邪馬台国の位置を確定することは、歴史学・考古学の重要な課題である。 邪馬台国問題は、大和王権の成立など古墳時代以降の政治情勢、ひいては古代国家成立と深く関わる問題として重要である。奈良・大和地方で生まれた大和王権が広く列島に波及するという後の時代像に影響されることなく、まず倭人伝の記事と考古学のこれまでの成果を比較検討することから始めなければならない。 倭国は、倭人伝が伝えるように、魏と正式な外交を保ち、相互に往来もしていた。つまり、倭人伝の記述と、発掘によって明らかにされた同時期の考古学や関連諸科学の研究成果とを対比し、中国王朝との外交の成果に視点を置いて、邪馬台国の中心集落の様相について考えなければならない。邪馬台国や卑弥呼の居所のありようを知る記述が倭人伝の中にいくつか存在するが、それらは考古学でしか解釈できないからである。 ここでは、倭人伝の記述から想起される、邪馬台国と呼ばれる集落群やその中心集落の構造、中心集落の中に存在した卑弥呼の宮殿の構造を、考古学の発掘成果と照合してみると、おのずと九州北部地方だと言わざるを得なくなる。邪馬台国中枢の姿 まず、邪馬台国の所在地や様相を考える上で、参考となるべき倭人伝の記事と、考古学の発掘成果を比較してみよう。「倭国乱れ相攻伐すること暦年、すなわち共に一女子を立てて王とした。名を卑弥呼という」 彼女が共立された地域、つまり、倭国の領域内は戦争状態であったとみてよい。弥生時代中期以降、終末期まで大型化した銅矛などの青銅製武器形祭器による祭祀(さいし)が行われていた地域、つまり、九州北部こそが、戦乱など緊張状態が長く続いた地域と考えるべきである。邪馬台国と平城宮「南、邪馬台国に至り、女王の都する所にして…。官に伊支馬(いきま)有り、次を弥馬升(みましょう)と曰い、次を弥馬獲支(みまかくき)と曰い、次を奴佳鞮(なかてい)と曰う」 この記事からは、倭王卑弥呼の都が邪馬台国に置かれたが、邪馬台国にはその長官伊支馬や弥馬升以下の次官たちも存在していたことを示している。すなわち、倭国の都が置かれた邪馬台国には、卑弥呼が居住し祭事の場であり、極めて閉鎖的な倭国の宮殿空間と、伊支馬など邪馬台国の長官や次官が居住し、政事を行う邪馬台国の宮殿空間の二つの特別区画が近接して存在していたと考えられるのである。奈良時代の大和国の中に平城宮と大和国の国庁とが共存することと同様である。「景初2年(3年=239年の誤りとされる)の6月、倭の女王が大夫難升米(なしめ)等を派遣し帯方郡にまいり、魏皇帝少帝に朝貢したいと申し出てきた。帯方郡(たいほうぐん)太守劉夏は、文官と武官をつけて魏の都である洛陽に送った」 上記をはじめとする外交記録からうかがえるのは、これらの外交を通じて、倭国の要人たちが帯方郡や中国本土の都城や城郭、市井のたたずまいを観察・見聞し、祭祀(さいし)儀礼や迎賓儀礼など中国の世界観を経験したはずであろうことだ。また、その成果を東アジアの最強国中国との「外交の証し」として、倭国の都や拠点集落の中国化に努めたと考えるべきである。 有明海北岸地域では、中国城郭の城壁や入り口に付属する突出部(馬面・角楼)のように、環壕を外側へ突出させた部分をもつ環壕集落跡が集中しているが、他の地域では見られない。佐賀平野(吉野ケ里遺跡など11遺跡16環壕)、久留米市、八女市、日田市に、中国の城郭構造が反映されたと考えられる環壕集落が分布している。ただし、突出部の内側に物見櫓を設けたのは吉野ケ里遺跡のみである。 これらの環壕突出部を設けた集落が分布する地域が、文化的なまとまりが認められるが、政治的なまとまりと考えることも可能ではないかと考えている。これら集落の中で、すべての突出部に物見櫓を伴ったのは吉野ケ里遺跡だけであり、集落間の階層性が認められる。「その国もとまた男子を以って王となす、とどまること7~80年、倭国乱れ相攻伐すること暦年」 卑弥呼が共立される直前までの間は、歴代男王が存在していたことが記されている。吉野ケ里遺跡周辺(吉野ケ里のクニ)には、中期前半~後期後半の男王を埋葬した墳墓が多数存在していたことが明らかになっている。吉野ヶ里遺跡の発掘が進み、高床倉庫跡や竪穴住居跡など、弥生時代の重要な遺物が出土した=1989月3月撮影 中期中ごろまでの首長たちは大規模な吉野ケ里遺跡の墳丘墓に順次葬られたが、中期後半から後期後半にかけての首長たちは、中国製銅鏡(漢鏡)を添えて、吉野ケ里町・上峰町の二塚山遺跡から、吉野ケ里町の三津永田遺跡、二塚山遺跡、吉野ケ里町横田(松原)遺跡や東脊振村松葉遺跡、二塚山遺跡や三津永田遺跡・上峰町坊所一本谷遺跡へと順次埋葬される。首長墳墓が各所の墓地間を移動し続けるのである。 大きな漢鏡や鉄製素環頭大刀(そかんとうたち)は中国国家の権威を帯びた下賜品であり、外交の賜物(たまもの)であった。吉野ケ里遺跡一帯での出土状況は、当地が長期間にわたり、たゆまなく対中国外交に深く関わっていたことを示すものである。「カリスマ女王」住居の謎 福岡や糸島など玄界灘沿岸地域では、一つの墳墓に多数の銅鏡などを副葬する、いわゆる「王墓」が存在する。だが、これらは各地域内で断続的に出現するもので、首長の系譜が継続的ではないことを示している。 中国後漢代の高官を埋葬した洛陽焼溝漢墓では、一人を埋葬した墳墓40例のうち、銅鏡1面を副葬したものが36例、2面が3例、3面が1例となっており、銅鏡1面を副葬するのが通例であった。つまり、1面の鏡を副葬する墳墓が継続して営まれる佐賀地方は、多数の鏡を副葬する墳墓が突発的に現れる福岡・糸島地方とは、異質な社会であり、最も中国的であったことを示しているのである。 周辺の有力集落から共立され、クニの王として吉野ケ里集落に君臨し、役割を終えるか死亡したら、出身集落の墓地に中国王朝の権威を帯びた大きな銅鏡や鉄製素環頭大刀を添えて葬られたものと考えられる。吉野ケ里遺跡周辺での漢鏡・鉄製武器の副葬 素環頭大刀は二塚山・三津永田・横田遺跡などから出土している。これらのうち、人骨が出土するなどして性別が判明しているものはすべて男性であり、弥生時代後期全般にわたってクニの男王が有力集落の中から順次共立されていた土地柄であったことが分かる。 次に、邪馬台国にあった卑弥呼の宮殿の様相を考える上で、参考となるべき倭人伝の記事と、考古学の成果を比較してみよう。「すなわち一女子を共立して王となす。名を卑弥呼と曰う。鬼道(きどう)を事とし、よく衆を惑わす。…王となりてより以来、見ることある者少なし」 倭国が戦乱状態の中で、諸国から共立された卑弥呼は、「鬼道」によって民の上に君臨していたことや、めったに人前には姿を見せないカリスマ性を備えた女王であることが記されている。邪馬台国時代の吉野ヶ里遺跡の構造 吉野ケ里遺跡の北内郭は、吉野ケ里集落の中で弥生時代中期初頭から後期終末、さらには古墳時代前期まで集落が一貫して継続した唯一の空間で、墳墓が一度も立ち入らない聖域であった。中期のおびただしい祭祀土器群や、後期後半に墳丘墓に切っ先を向けて埋納された青銅製武器形祭器(中広銅戈)の出土からも、祭祀と関わりの深い空間と考えられる。 北内郭内の祭殿と目される大型建物の南北中軸線の北への延長上約190メートルの位置に、銅剣やガラス管玉が副葬された歴代の首長を葬った中期の墳丘墓の中心がある。また、南約650メートルの延長上には中期に築かれた祭壇と考えられる径40メートル超と推定される盛土遺構の中心が存在している。 このことは、中期初めに設定された墳丘墓と祭壇とを結ぶ線上に、約400年後にわざわざ大型建物を配置したことを示している。さらにこの線を南へ約60キロ延長したところには雲仙岳が存在する。北内郭の祭殿で行われた祭祀が、墳丘墓に葬られた過去の首長を対象とした祭祀であり、それは火山である雲仙岳を背景とした壮大なものであったことを示している。 また、北内郭の平面形は円形と方形を合体したような幾何学的な形である。卑弥呼の「鬼道」というものが、中国の同時代古典からみると道教とみる研究が多い。道教の「天円地方(天は丸く、地は四角)」という基本理念と吉野ケ里遺跡北内郭の平面形との関係に興味がもたれる。中国城郭を意識した吉野ケ里 この北内郭の北東―南西の中軸線の延長が夏至の日の出と冬至の日の入りの方向を向いていることも、暦など、中国の世界観をも手に入れ始めていたとも考えられるのである。「宮室・楼観・城柵を厳かに設け、常に人有りて兵(兵器)を持して守衛」 卑弥呼が居住する宮殿区画には宮室(大型建物)や楼観(物見櫓)、城柵(環壕を掘削して盛り上げた土塁の上に柵を並べた施設)が備わっていたことを示している。宮室と推定される建物跡は、北内郭跡の発掘調査で発見されたもので、4本柱からなる一辺が4列に並ぶ16本の柱からなる建物で、その平面規模は約12・5メートル四方と、国内の弥生時代建物の中でも屈指の規模を誇る。 柱穴内部の柱痕跡から柱の直径は50センチであったことが判明し、非常に大規模な高層建物であったことが推定された。この建物の線が、地形的に最高所ではなく、墳丘墓と南の祭壇を結ぶ南北中軸線上に乗せるため、東へ傾斜する位置に建設されている。 つまり、巨大な環壕集落である吉野ケ里集落内部の最重要空間である北内郭は、特に墳丘墓に眠る祖霊に対する祭祀の場で、二重の環壕(外環壕を加えると三重)と、内部を直視できない鍵形の出入口、4カ所の物見櫓を持つ非常に閉鎖された空間である。倭人伝が「自為王以来、少有見者(王となって以来、見たことがあるものは少ない)」と記した倭王卑弥呼の居館のありようと符号する。 南の祭壇や火山である雲仙岳を背景にしながら、北の墳丘墓に眠る過去の首長(英雄)の霊を祀(まつ)るための施設と考えられるのである。物見櫓跡は、南内郭跡でも旧環壕で2カ所、新環壕で4カ所発見されているが、いずれも環壕の付属施設として国内では例がないものとして注目される。 吉野ケ里遺跡は、現時点では宮室(大型建物)、楼観(物見櫓)、城柵(環壕と土塁痕跡)がそろった国内唯一の弥生時代終末期(邪馬台国時代)の集落である。しかも、国内で他に例を見ない鍵形の厳重な出入口をもつなど、中国城郭を非常に意識した集落構造となっている。魏書『東夷伝』の各国・各地域の集落構造に関する記事を見ても、倭国には中国のそれと似たような施設がそろっていることが記されている。祭事と政事の象徴、そして戦略拠点の象徴としての装置を備えた吉野ケ里集落の最重要空間である北内郭は、まさに「宮室・楼観・城柵」を備えていたのである。中国の城郭(城壁)構造と、それを模倣した吉野ヶ里北内郭 ここで、『漢書』地理志や『後漢書』東夷伝、『三国志』魏書東夷伝の外交記録を確認してみよう。記録に残る遣使は、以下のとおりである。倭国王の遣使と貢納品・下賜品 前漢の武帝により108年に朝鮮半島に楽浪郡など4郡が設置されたのち、『漢書』が「…故に孔子、道の行われざるを悼み、もし海に浮かばば、九夷に居らんと欲す。ゆえ有るかな。夫れ楽浪(らくろう)海中、倭人有り。分かれて百余国を為す。歳時を以て来たり献見すと云う」と記している。このように、倭諸国の王たちが朝貢外交を開始したことや、朝貢し礼を尽くしている、と中国に認識されていたことが理解できる。これ以後、九州北部の福岡・佐賀地方では多数の漢鏡が首長たちの威信財として所持され副葬される。 『後漢書』には「建武中元二年(57年)、倭奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武、賜ふに印綬を以てす。安帝の永初元年(107年)、倭の国王帥升等、生口百六十人を献じ、請見を願ふ」とある。57年の遣使での貢納品は記されないが、福岡市志賀島から出土した金印によって「漢委(倭)奴国王」に叙せられたことが分かる。 近年、「漢の倭の奴国」と呼んでいたものを、後漢代には後の倭国を「倭奴国」と呼んでいたとする考えも増えてきた。つまり、倭国全体の王は、倭奴国王(名は不明)、後に述べる倭国王帥升、倭国王卑弥呼、倭国王台与と推移していくことになる。「吉野ケ里」以外有り得ない 107年に160人の生口(せいこう)を貢納し遣使した「倭国王帥升(すいしょう)」は、後漢書を引用した中国の古代の事典『翰苑(かんえん)』には「倭面上国王帥升」(上は土の誤記と考えられる)とある。また、唐類函・変塞部倭国の条所引の『通典』には「倭面土地王帥升」、北宋版『通典』には「倭面土王帥升」とされる。 面土は、「上峰町米多(めた)」や「吉野ケ里町目達原(めたばる)」などの地名として吉野ケ里遺跡の近辺に残り、古墳時代には、応神天皇の曾孫が初代とされる「筑紫米多国造」の本拠地となった地域である。つまり、倭面土王は当時、国内最大級の環壕集落である吉野ケ里集落を拠点としていた可能性が大なのである。 吉野ケ里遺跡を中心とする佐賀平野では、福岡や糸島などの玄界灘沿岸地域と同じく、57年の遣使以降、後漢の銅鏡が出土し始め、107年の遣使以降はその数を増す。しかし、注目すべきは、吉野ケ里遺跡では、集落の大型化が進み、107年の遣使とほぼ同時期の後期中ごろ以降に、環壕突出部や望楼、鍵形の門などを設け、集落景観の中国化に努力した跡がうかがえることである。福岡や糸島地方など九州北部のほかの地域や、近畿地方など本州では見られない現象である。 この遣使で貢納された生口については、従来、奴隷とか技術者といった解釈がなされてきた。しかし、近年、徳を守り続けている人々ではないか、とも考えられているが、私も全く同感である。 このことは、先に示した『漢書』の記事で理解できる。「夫れ楽浪海中、倭人有り…」の前の文には『論語』にも登場する孔子の思いが述べられており、後漢末といわれる論語の成立より以前、107年の遣使の少し前に成立したとされる『漢書』の中の徳をもった倭人の記事が、後漢皇帝安帝に徳を守る倭人を求めさせたのであろう。中国皇帝は、臣民に徳を授けるために徳を積む必要があったからである。この求めに即座に応じたのが倭面土国王帥升であったと考えられる。 『三国志』にも「景初三年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む。…汝献ずる所の男生口四人・女生口六人…正始四年、倭王、また使を遣わし、生口を献ずる」とあり、引き続き中国皇帝が倭王である卑弥呼や台与に求めたのが生口であったことが分かる。 57年、倭国からの後漢に対する初回の遣使は「朝賀」とあり、元旦の行事に合わせたものであり、107年の遣使は安帝が即位した時期と推定される。まさに、国際政治的な動きであり、日本が東アジアの秩序の中に組み込まれていく過程であった。 吉野ケ里遺跡の集落構造の変革が、単なる自然的な変化ではなく、外交によってもたらされたものであった。集落景観を中国的な城郭の景観に近づけることが、国内外に対する政治的威厳の表現であったと考える。 倭人伝の記述と結びつく発掘成果は、有明海北岸の佐賀平野東部地域を除いて、ほとんど見当たらない。近畿説のよりどころとされる三角縁神獣鏡についても、魏から贈られた鏡かどうかの議論もあり、これを含めても中国系の文物が出土するのは古墳時代の古墳からであり、弥生時代終末期(邪馬台国時代)の遺跡からもほとんど出土しない。佐賀県・吉野ケ里遺跡の甕棺がのぞく墳丘墓。城柵の向こうに祭殿などが建っている ましてや、遺跡や遺構、建物配置や構造にも中国文化の流入を確認することができないのが現状である。近畿説の有力集落とされる奈良県纒向(まきむく)遺跡の、大型建物を含む建物群を貫く軸線は東西方向であり、前漢と後漢を境に君子と臣下の配置関係が「座西朝東」から「座北朝南」へ変化する中国礼制に対応していない。吉野ケ里遺跡では、墳丘墓と北内郭の祭殿が南北方向に配置され、最重要空間である北内郭と大人層の空間である南内郭についても、南北の位置関係である。 以上から、考古学の成果によって邪馬台国の所在地を考えるならば、現状では九州北部地方の佐賀平野を中心とした有明海北岸一帯であったと考えざるを得ない。弥生時代において、高橋健自が述べた「中国文化の影響が大きかった場所」は、おのずと理解いただけるのではないかと思う。【関連文献】・中国社会科学院考古研究所編『洛陽焼溝漢墓』科学出版社・七田忠昭「拠点集落の首長とその墳墓―弥生時代中期から後期の地域集落群の動向の一例」『日韓集落研究の新たな視角を求めてⅡ』日韓集落研究会・七田忠昭「倭女王卑弥呼の宮殿 倭人伝が記す邪馬台国中心集落の構造と発掘成果」佐賀大学・地域学創出プロジェクト編『佐賀学 佐賀の歴史・文化・環境』岩田書院・七田忠昭『邪馬台国時代のクニの都 吉野ヶ里遺跡』シリーズ「遺跡を学ぶ115」新泉社・七田忠昭「佐賀の弥生文化にみる中国の文化要素」安田喜憲・七田忠昭編『東シナ海と弥生文化』環太平洋文明叢書6 雄山閣・常松幹雄「奴国(玄界灘沿岸)と東アジア」『東シナ海と弥生文化』環太平洋文明叢書6 雄山閣・岡村秀典「漢帝国の世界戦略と武器輸出」『戦いの進化と国家の生成 人類にとって戦いとは1』東洋書林

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    「邪馬台国は熊本にあった」魏の使者のルートが示す決定的根拠

    伊藤雅文(歴史研究家) 邪馬台国(やまたいこく)を論ずるにあたって、まず考えなければならないのは、「邪馬台国は文献上の存在である」ということである。空想上の存在という意味ではない。『三国志』の「魏書烏丸鮮卑東夷伝倭人条」、いわゆる『魏志倭人伝』に、「倭の地に女王卑弥呼の都する邪馬台国がある」と記されていなければ、現代の私たちは「邪馬台国」「卑弥呼」の存在自体を知ることはなかった、という意味である。 そして、『三国志』の著者である陳寿(ちんじゅ)は、邪馬台国に至る行程まで書き残してくれている。だから、私たちは邪馬台国の位置について考えることができるのだ。 昨今、邪馬台国畿内説を報ずる記事を目にする機会が増えた。特に、2009年の纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)における大型掘立柱建物跡の発掘により、その傾向が加速したと思われる。 「卑弥呼の宮殿か?」とセンセーショナルな発表、報道がなされたからである。そして、纒向の遺構・遺物の年代は邪馬台国の時代である3世紀初頭から中頃に比定されるようになる。従来は4世紀半ばであるとされていた古墳の発生時期も、今では3世紀半ばにまで遡(さかのぼ)り、箸墓古墳(奈良県桜井市)は卑弥呼の墓であるという見解まで現れた。「邪馬台国は畿内、纒向で決まり!」とばかりに、地元桜井市は毎年東京で邪馬台国、卑弥呼に関するフォーラムまで開催している。 しかし、筆者には、邪馬台国「畿内説」は考古学的成果ばかりが前面に打ち出されているように見えて仕方がない。冒頭に述べたように、邪馬台国は文献上の存在であり、行程も書き記されている。畿内の纒向を邪馬台国と断定するには、行程記述をどのように読み解けば、纒向にたどり着くかを明らかにする必要がある。しかし、この文献学的な検証が十分になされていないように思われるのだ。 3世紀前半、全国に多くの「クニ」が成立していたことは間違いない。各地で発掘される大規模な環濠集落などを見ると、邪馬台国に匹敵する強力な国が存在していた可能性も否定できない。 しかし、それらの国々は文献に書かれたり、伝承を経たりして後世に名を残すことはなかった。纒向もそういう国の一つではないのか。もし、纒向遺跡の年代が3世紀だとしても、『魏志倭人伝』の行程が纒向に行き着かないのであれば、そう考えるのが妥当ではないだろうか。 『魏志倭人伝』には倭の地のあり方に触れた三つの記述がある。 (1)帯方郡から邪馬台国への、様々な国々を経由していく行程記述である。連続説や放射説など様々な解釈法が存在するが、邪馬台国に至るまでの国と国との間の道里(および日数)が記されている(図1)。図1:邪馬台国への行程記述(連続説と放射説) (2)帯方郡から邪馬台国までの総距離に関する記述である。「自郡至女王国万二千余里」(帯方郡から女王国〈邪馬台国〉へは一万二千余里である)として「一万二千里余里」が明記されている。 (3)倭の地誌に関する記述のまとめとして表れる次の文章である。「参問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千余里」。一般的には次のように訳されることが多い。「倭の地を参問するに、海中州島の上に遠くはなれて存在し、あるいは絶えあるいは連なり、一周五千余里ばかりである」(石原道博編訳『新訂 魏志倭人伝 後漢書倭伝 宋書倭国伝 隋書倭国伝』岩波文庫より)「周旋」が本当に意味するもの さて、前段の記述のうち(3)についてここで考えてみたい。一般的な解釈によれば、倭地は「一周五千余里」だとされる。しかし、『魏志倭人伝』が語るように、狗邪韓国から倭の地が始まるとするとおかしなことになる。図1で明らかなように、狗邪韓国から対馬国、一大国経由で末盧国に渡るだけで「三千余里」を要する。ということは、この間を往復するだけでも「六千余里」が必要になる。つまり、倭地を「五千余里」でぐるっと囲むことなど不可能なのである。 そこで、ここの解釈として、九州説では九州島の任意の一地域、あるいは九州島全体を囲ってみたり、畿内説ではここは一里(435メートル)の尺度(いわゆる長里)が用いられているとして、近畿地方から九州地方をぐるっと囲んでしまったりという論がみられるのが現状である(図2)。図2:「周旋可五千余里」の適用例 しかし、この記述の解釈には明らかな誤りがあったのである。それは「周旋」を「一周」や「周囲」など閉じた円のイメージでとらえたことによる。 筆者は著書『邪馬台国は熊本にあった!』(扶桑社新書)の中で、「周旋」について再検討を試みた。『三国志』で使用されているすべての「周旋」を検証した結果、「周旋」は主に「めぐり歩く」という意味で用いられており、「ぐるっと一周する」という意味で用いられている箇所は一つもないことが明らかになった。つまり、「周旋可五千余里」は、「一周すると五千余里ばかり」と読んではいけないということである。 では、「めぐり歩く」という曲がりくねった一本の線のイメージで解釈するとどうなるだろうか。一言でいうと、「倭地の訪問で五千余里をめぐり歩いた」と記しているのである。実に明快な記述である。 『魏志倭人伝』の記述が、来倭した郡使の報告書を基に書かれたとしたら、帯方郡を出た郡使の一行は、まず狗邪韓国に到着する。狗邪韓国は倭地であるとされる。つまり、ここが参問のスタート地点である。ここから最終目的地である邪馬台国までの行程が「五千余里」であると述べていたのだ。 では、その「五千余里」について見ていこう。図1の連続説に従って確認していくと、狗邪韓国から対馬国、一大国を経て末盧国に上陸するまでが「三千余里」、末盧国から伊都国、奴国経由で不彌国までが「七百里」。ここまでの合計が「三千七百余里」である。 ここから先、不彌国から投馬国へは「水行二十日」、投馬国から邪馬台国へは「水行十日陸行一月」と、里数表記ではなく日数表記となっている。しかし、帯方郡から邪馬台国への総距離が「一万二千余里」であり、帯方郡から不彌国までの合計距離が「一万七百余里」であるとすると、不彌国から邪馬台国までは「千三百余里」と考えられ、狗邪韓国から邪馬台国までは「五千余里」であるという答えが導き出される。 この「千三百余里」については様々な見解があると思われるので、ここでは断言を差し控える。しかし、帯方郡から邪馬台国への「一万二千余里」から、帯方郡から韓国を経て狗邪韓国に至るまでの「七千余里」を引いた「五千余里」を、倭地参問に要した里数であるとすることには、かなりの客観的合理性が認められると思われる。 そう考えると、この「五千余里」は、帯方郡から邪馬台国までの「一万二千余里」の行程に含まれるものであり、狗邪韓国を始点とするものであることは明白である。従来、「周旋」が「ぐるっと周囲を一周する」という概念で用いられていた場合の、倭の地を任意の地域に設定するやり方はもはや成り立たなくなる。解釈を妨げた「日数」表記 また、帯方郡から狗邪韓国への「七千余里」と狗邪韓国から邪馬台国への「五千余里」は、当然同じ尺度で表されていると考えなければならない。すると、「五千余里」のみが長里に基づくものであるという強引な解釈も必然的に排除されることになる。そして、この「周旋可五千余里」を図示したものが図3である。図3:正しい「周旋可五千余里」 邪馬台国の位置は狗邪韓国を始点として、帯方郡から狗邪韓国までの距離(道里)の7分の5を進んだ地点ということになる。具体的には一里(70メートル)とすると、狗邪韓国があったとされる朝鮮半島南部の金海市から、道のりで350キロメートル強を超えない地点となる。 当然のことながら、北九州地域を経由しない直線距離でも600キロメートル以上離れている畿内に邪馬台国を設定するのは、まったく不可能であることが一目瞭然である。 図1で例示した『魏志倭人伝』の行程記述については、様々な解釈が存在し、それによって全国各地に邪馬台国比定地が存在することは承知している。しかし、「周旋」の解釈から邪馬台国の位置を求めるならば、「文献解釈上、邪馬台国畿内説は成立しない」と言わざるをえない。 では、『魏志倭人伝』の記述から求められる邪馬台国の位置はどこだろうか。筆者の唱える『魏志倭人伝』後世改ざん説(陳寿の撰述した原本では、不彌国→投馬国→邪馬台国の行程は「日数」ではなく、具体的な「里数」で記されていたと考える説)では、現在の博多駅南(福岡市博多区)に広がる比恵・那珂遺跡群に比定する不彌国から、南へ「千三百里」のところであると想定する。 この「千三百里」は、帯方郡から邪馬台国への総距離「一万二千余里」から、不彌国までの「一万七百里」を引いて求められる数字であり、周旋「五千余里」の場合でも狗邪韓国から不彌国までの「三千七百余里」を引いた数字である。 特に目新しい数字ではなく、近代の邪馬台国論争に火をつけた東京帝国大学(当時)の白鳥庫吉教授も、明治時代にこの数字を用いて熊本県の「菊池郡山門説」を唱えている。他にも、筑紫平野の各地比定説や宇佐説などでも根拠とされる場合が多い。 現在では、不彌国から投馬国への「水行二十日」、投馬国から邪馬台国への「水行十日」「陸行一月」という合計2カ月におよぶ日数表記との整合性をとるのが難しいためそれほど重要視されなくなっているが、文献に従えば至極妥当な数字なのである。つまり、『魏志倭人伝』の記述は「里数」上は破綻をきたしていない。「日数」表記が解釈を妨げているだけなのである。 また、『魏志倭人伝』は邪馬台国について「七万余戸」あったと述べる。奴国の「二万余戸」、投馬国の「五万余戸」と比べても相当に大きな大国である。この戸数の真偽については諸説あるが、国の官・副官体制を比べても、他国が官1人、副官1人体制(伊都国は副官2人)であるのに対し、邪馬台国には官および副官が4人もいる。 相応の大国であったことは間違いないだろう。すると、投馬国、邪馬台国の二国が山間の狭い地域にあったなどということは想定しがたい。必然的に連続する広い地域に存在したと考えざるをえない。 ここでは、「千三百里」を不彌国から投馬国、投馬国から邪馬台国への行程にどのように割り振るのが適当か、その具体的な里数については触れない。しかし、福岡平野の大部分を「二万余戸」の奴国と想定して、御笠川下流域にあった不彌国から南に水行(御笠川を遡上後、宝満川、筑後川を下る)するとたどり着くのは広大な筑紫平野である。邪馬台国時代は縄文海進の影響で多くの面積が有明海の干潟であったと考えられているが、それでも「五万余戸」を擁する投馬国にふさわしい広がりを備えていたはずだ。「熊本説」の根拠 そして、そこから南へ水行、陸行すれば…。邪馬台国の「七万余戸」を養える地域は、熊本平野以外にあり得ないように思われる(図4:行程は筆者の見解による)。図4:邪馬台国熊本説のイメージ しかし、熊本は従来から邪馬台国の南にあった狗奴国であると比定されることが多い。それは、狗奴国の官である狗古智卑狗を「くこちひく」と読み、「菊池彦」に通じるとして菊池郡のある熊本と関連づけたことによる。それが定着したことにより、熊本平野を邪馬台国だと素直に認められない状況に陥っていると思われる。 だが、このように『魏志倭人伝』の記述をたどると、最も可能性が高いのは邪馬台国「熊本説」だと思うのだが、いかがだろうか。 実際、熊本平野では邪馬台国の時代とされる弥生時代後期から終末期にかけての遺跡が数多く発掘されている。最も注目されるのは熊本平野北部、菊池川流域に営まれた方保田東原遺跡である。佐賀県の吉野ケ里遺跡に匹敵する規模の環濠集落であり、まだ一割程度の発掘にもかかわらず豊富な遺構・遺物が出土している。 ほかにも菊池川流域には、うてな遺跡、小野崎遺跡、諏訪原遺跡といった大規模な遺跡がある。また、白川流域には西弥護免遺跡、五丁中原遺跡、八島町遺跡、緑川流域には二子塚遺跡といった大規模な環濠集落が存在する。 そして、これら熊本平野の遺跡からは『魏志倭人伝』に書かれた「鉄鏃」(てつぞく)をはじめとする様々な鉄器や、「朱丹」と思われる赤色顔料(主にベンガラ)も出土する。倭の産物に触れた部分で「其山有丹(その山には丹〈ベンガラ〉があった)」というのは、阿蘇山のことであろうか。カルデラ内の遺跡からは大量のベンガラが出土している。 加えて、この地域一帯では独特のジョッキ型土器や免田式土器の普及・流行がみられる。さらに、遺跡間で同范鏡(どうはんきょう)の存在も指摘されるなど、熊本平野に拠点集落のネットワークが構築されていた可能性は大きい。まさにこの集合体こそが「七万余戸」を擁する邪馬台国だったのではないだろうか。 以上、文献解釈上、邪馬台国畿内説は成り立たず、熊本説を採るのが妥当なのではないかということについて考察してきた。だが、もし纒向が邪馬台国ではないとしても、筆者は纒向遺跡の存在価値は非常に大きいと考えている。 古墳時代の幕開けはまぎれもなくこの地であるし、ヤマト王権誕生の解明につながる多くのことを秘めた遺跡であることは間違いない。『日本書紀』でも、纒向の地に第十一代垂仁天皇の珠城宮、第十二代景行天皇の日代宮が築かれたとされている。 だからこそ余計に、日々地道に続けられている考古学の発掘・研究の成果を、邪馬台国との関連性を前提とすることなく、客観的に発表、報道してほしいと願っている。

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    天皇の起源は卑弥呼だった!? 「卑弥呼=天照大神」説が浮上

     日本の古代史において、大きな謎となっているのが邪馬台国の女王・卑弥呼。そもそも卑弥呼とは、いったい何者だったのか。 日本史の教科書に描かれる卑弥呼は、魏志倭人伝の記述を基に、〈神に仕える巫女で、宗教的権威を持つ女王〉とされるのが一般的だ。元佐賀女子短期大学学長の高島忠平氏は、こう指摘する。「九州北部にある弥生前半の古墳の埋葬様式から、巫女が社会的に高い地位を持ち始め、次第に国を統治できるような巫女が出現した経緯が読み取れる」 こうした見解がある一方で、実は卑弥呼には、「古事記」や「日本書紀」で天皇の祖神とされている天照大神だとする説もある。 実在が確実とされる天皇の在位年数から、日本神話に登場する天皇の在位年数を推測すると卑弥呼と天照大神は年代が丁度重なるとし、天照大神は卑弥呼を神格化したものであるとする説だ。専門家はどう見ているのだろうか。「確かに古くから天照大神説や日本書紀の記述から神功皇后だとする説がある。しかし、魏志倭人伝によれば、当時はまだ邪馬台国と対立する狗奴国が激しく争っている時代で、卑弥呼は日本全国を統一した倭国の女王という立場にない。天照大神のイラスト だからこそ、卑弥呼も後ろ盾を求めて魏と通交し、皇帝から『親魏倭王』の称号を得ている。やはり、巫女として邪馬台国という小国連合を治めた女性首長と考えるのが素直な見方だろう」(高島氏) 卑弥呼も天照大神も女性で生涯夫を持たなかったと伝えられるなど共通項も多いだけに、卑弥呼を天皇の起源とする説にも一応の説得力はあるのだ。関連記事■ 「卑弥呼の再来」といわれる占い師 近所の神社初詣を推奨■ 福岡で卑弥呼の墓?発見か それでも調査の予定ない理由■ 韓国の学者による「○○の起源は韓国」発言は評価されるため■ 「寿司、醤油、味噌、うどんの起源は韓国」と一部韓国人主張■ 「鏡餅」「柏手」の起源は? 古事記由来の正月用語を解説

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    邪馬台国畿内説の決定打は「卑弥呼の系図」にあった

    桂川光和(日本古代史研究家) かけがえのない歴史遺構がその重要性に気付かれず消滅した。奈良県を南北に縦貫する自動車道が建設されている。京奈和自動車道である。この建設工事に伴う事前調査で、奈良県御所(ごせ)市室(むろ)の地から特異な建物遺構が出土した。しかし、その重要性を認識できないまま、その遺構は自動車道のインターチェンジの下に消え去ったのだ。 事前調査を担当した奈良県立橿原考古学研究所(橿原市)は、この遺構の重要性をまったく認識できていない。大和朝廷が営んだ祭祀(さいし)遺跡などと結論付けている。だが、このインターチェンジが造られた御所市室の地は、六代孝安天皇室秋津嶋宮(むろのあきつしまのみや)があったとされる場所だ。そこから堅固な塀に囲まれる高床式掘立建物群が出土し、これまでに類を見ない大規模な遺構、秋津嶋宮の一部が出土したのだ。発掘調査が行われた秋津遺跡=奈良県御所市 にもかかわらず、残念なことに、今日の研究者の多くは『日本書紀』の古い時代の記述は歴史的事実ではないとする。したがって六代孝安天皇など実在しないとする。そもそも、出土した遺構が、すべてが保存できるわけではない。単に古い時代の天皇の宮というだけなら、詳細な記録を残し、道路下に消滅したとしてもやむを得ない。 だが、ここは秋津嶋宮であり、それは卑弥呼の王宮なのだ。その重要性は日本という国の成り立ちを明らかにするうえで、かけがえのない重要な歴史遺構なのである。もはや自動車道の下に消えた部分は仕方ないが、卑弥呼の王宮は「奴婢千人が侍る」王宮である。遺構の広がりは、発掘調査された範囲よりさらに広がると予想され、早急に遺構の範囲を確定する調査と、保存のための対策を立てるべきである。 まず、なぜ秋津嶋宮が、卑弥呼の王宮であるかを説明しなければならない。そのためには卑弥呼が、どこの誰であるかを明らかにする必要がある。私がここを卑弥呼の王宮跡と主張する理由は次のようなものである。 京都府宮津市に籠(この)神社という古い神社がある。この神社の宮司家、海部(あまべ)氏に最奥之秘記として隠し続けられてきた系図がある。『勘注系図(かんちゅうけいず)』である。これは国宝に指定されている。 その系図の六世孫に、宇那比姫命(うなびひめのみこと)という名前を見る。この宇那比姫命の別名が、とんでもない名前なのだ。その別名とは、大倭姫命(おおやまとひめのみこと)、天造日女命(あまつくるひめみこと)、大海靈姫命(おおあまひるめひめのみこと)、日女命(ひめみこと)。いずれも一人の女性の名である。 大倭(おおやまと)とは古い時代の日本の国名だ。この女性は「おおやまと」という国名を負う。大倭の姫君、すなわち女王なのだ。また、天造とは天下を支配するという意味で、天下人を意味する。 さらに、大海靈姫命の靈姫とは、巫女姫(みこひめ)のことで、『魏志倭人伝』は卑弥呼について「鬼道を事とし良く衆を惑わす」とする。このイメージに重なる。最後は日女命だが、日女(ひめ)とは高貴な女性の呼び名で、これに命(みこと)という尊称を付けたものだ。読みは「ひめみこと」。これを魏の使者が「卑弥呼」と書き表したとしても不思議はない。宇那比姫命こそ『魏志倭人伝』が伝える邪馬台国(やまたいこく)の女王卑弥呼なのだ。 また、『勘注系図』は、八世孫に天豊姫命(あまとよひめのみこと)という名を記す。この人のまたの名が大倭姫命で、天豊姫命もまた「おおやまと」の女王だ。『魏志倭人伝』は、卑弥呼の後、「歳一三歳」で邪馬台国の女王に擁立された台与(とよ)という女性を記す。この女性の名は豊(とよ)である。これは『魏志倭人伝』の台与と音が同じだ。 しかも、『魏志倭人伝』は、台与を卑弥呼の宗女、すなわち同族の女とする。天豊姫命は、私が卑弥呼とする宇那比姫命と、同一系図の中にその名を見る同族の女性である。 だが、この『勘注系図』だけでは、宇那比姫命という女性が系図の上でどのようにつながるのか不明だ。それを明らかにする系譜がある。「先代旧事本紀」の尾張氏系譜だ。その系譜によれば、宇那比姫命は、尾張氏の建斗米命(たけとめのみこと)の子供で、7人兄妹の末の娘にあたる。卑弥呼は尾張氏の女性であり、尾張氏といえば私たちは東海地方の尾張氏を思い起こすが、この尾張氏も、古くは現在の奈良県御所市を本拠地とする葛木高尾張の出身だ。同じく台与も、父親は尾張氏の建諸隅命(たけもろずみのみこと)で、いずれも現在の奈良県御所市あたりの出身となっている。卑弥呼の政治を補佐した弟 さらにもう一つ、宇那比姫が登場する系譜がある。静岡県磐田市の国魂(くにたま)神社の宮司家に伝わる『大久保系図』である。この系図に宇那比姫命が登場する。この大久保系図は古代有力豪族、和邇(わに)氏に始まる系図だ。 この大久保氏系図によると、「押媛命(おしひめのみこと)の母親は建田背命(たけだせのみこと)の妹宇那比姫命なり」とする。この系譜でも『日本書紀』でも、押媛の父親を天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)とする。したがって、宇那比姫命は天足彦国押人命の妻なのだ。そして、天足彦国押人命には、倭足彦国押人命(やまとたらしひこくにおしひとのみこと)、すなわち六代孝安天皇という弟がいる。 『魏志倭人伝』は、卑弥呼には「男弟ありて佐(たすけ)て国を治む」として「男弟」がいたとする。宇那比姫命には6人の男の兄弟があるが、すべて兄である。弟は義理の弟となる孝安しかない。「男弟」とは六代孝安天皇に他ならない。『記紀』によれば孝安天皇の宮は、室秋津嶋宮(むろあきつしまのみや)だ。まさに秋津嶋宮こそ卑弥呼の王宮なのである。 とはいえ、宇那比姫命が卑弥呼であると結論付けるには、確たる物証がほしい。私が卑弥呼の遺品と考える遺物がある。それは東大寺山古墳(奈良県天理市)から出土した中平銘の鉄刀だ。 中平とは後漢の年号で184年から189年の間とされる。卑弥呼が王位に就いて間もない頃であろう。私はこの鉄刀は、卑弥呼が公孫度(こうそんたく)に朝貢し、公孫度から受け取った刀と推測する。公孫度は、遼東太守(りょうとうたいしゅ)という後漢王朝の地方官であった。 だが、2世紀後半世になると、後漢王朝の支配力が衰退する。この後漢王朝の衰退に乗じ、公孫度は遼東王を名乗り、この地域に半独立国を樹立する。189年の事とされ、この事によって朝鮮半島を含む極東の政治情勢が大きく変化する。大和朝廷すなわち邪馬台国は、この極東の政治情勢に敏感に反応し、公孫度への朝貢が行われたと推測する。この鉄刀はその時、卑弥呼に贈られた物であろう。それではこの鉄刀がなぜ東大寺山古墳から出土したのかである。 私が卑弥呼とする宇那比姫命の夫は、天足彦国押人命で、天足彦国押人命は、和邇氏の祖とされる人物だ。したがってその妻、宇那比姫命もまた和邇氏の祖と言える。 和邇氏の系譜である大久保氏系譜は、宇那比姫命の子供、和邇彦押人(わにひこおしと)は和邇の里にいるとする。和爾の里とは、現在の天理市櫟本(いちのもと)である。東大寺山古墳はこの櫟本に近く、和邇氏の墓域だ。その和邇氏の墓から、卑弥呼が受け取ったと推測される鉄刀が出土したのだ。和邇氏の祖でもある宇那比姫命が、卑弥呼であることの傍証となる。 そもそも、御所市室から出土したこの遺跡は、秋津遺跡と名付けられた。秋津遺跡は縄文末から、弥生中期、そして古墳時代前期とされる複数の年代の遺構だ。問題はその古墳時代前期とされる、高床式掘立建物を堅固な塀が取り囲む遺構の年代だろう。4世紀の竪穴住居群が発見された秋津遺跡。右奥は、工事中の京奈和自動車道の橋脚=良県御所市(門井聡撮影) もし、出土した遺構が卑弥呼の王宮であれば、それは2世紀末頃から3世紀中ごろの遺構でなければならない。ところが、発掘調査に当たった橿原考古学研究所は、この遺構の年代を古墳時代前期とする。すなわち3世紀中ごろから4世紀前半の遺構とする。 その根拠は大量に出土した布留(ふる)式土器の年代による。布留式土器は古墳時代前期の土器とされる。布留式土器の前の時代とされる庄内式土器は、ほとんど出土していないとされる。また、須恵器が見られないことからこの遺構は4世紀末には終わるとする。 確かに数多く出土している竪穴住居などは、古墳時代前期の物だ。しかしながら、橿原考古学研究所が方形区画施設と名付ける、堅固な塀に囲まれた掘立建物遺構は、古墳時代前期より古くなると私は考える。掘立柱建物は卑弥呼時代の遺構 方形区画施設の内部は清浄に保たれていたらしく、年代を推定する遺物はほとんど見つかっていない。そのため、方形区画施設の年代を周辺の竪穴住居との関係でその年代を推測する。だが、その推論に矛盾がある。私は、方形区画施設は布留式土器を伴う竪穴住居より一時代前の遺構と考える。 そのことを伺わせる理化学的測定値がある。炭素年代測定値である。橿原考古学研究所は、この遺構から出土した木材などの炭素年代測定を行っている。その中で方形区画施設内部にあった掘立建物の年代は、古墳時代前期に収まるようなものではない。卑弥呼が在位した2世紀末から3世紀前半としておかしくない測定値である。 しかしながら、調査報告書では、炭素年代測定値から暦年代(実年代)を推定する、北半球の標準校正曲線は、この2世紀代から3世紀代に於いて実際より古い値が出るとして、炭素年代測定による暦年代の推定を行わない。確かに北半球の標準とされる校正曲線で推定すると、このあたりの年代では実際より古くなることが知られている。だが、この測定値はそれを勘案しても、相当古い年代であることが予想される。 そこで、この炭素年代測定値を基に、私が年代を推定したのが次のグラフである。残念ながら日本列島の炭素年代測定値を較正できる信頼できる校正曲線は、まだ開発途上であると聞く。したがって次のような方法で炭素年代測定値の校正を行った。 年代が分かっている、日本列島産のヒノキの炭素年代測定値がある。そのグラフと北半球、南半球の校正曲線と重ね合わせたのがグラフである。 そのグラフ上に、最も古い値を示した3点の掘立建物の測定値を書き加えた。炭素年代測定値には±20年の誤差があると見込まれるから、40年の幅で炭素年代測定値を書き込んだ。北半球、南半球の校正曲線を勘案しながら、日本産ヒノキのグラフとの交点を求めた。 グラフとの交点をどのあたりとするか、多分に恣意的な部分は含まれるが、古墳時代前期に収まるような年代ではあり得ない。少なくとも最も古い年代を示した「方形区画施設5内掘立柱建物SB0040」と、「方形区画施設2内掘立建物SB0030b」は、西暦250年より新しくなることはない。 もちろん、この炭素年代測定値は資料の年代であって、建物が存続した年代を表すものではない。だが、卑弥呼の在位した2世紀後半から3世紀前半の建物とすることに矛盾はない。古墳時代前期より確実に古いのである。橿原考古学研究所はこれら方形区画施設の年代を見誤っている。もう一つこの遺構が古い時代の物であるとする具体例を挙げる。 この遺跡から多孔銅鏃(たこうどうぞく)が一点出土している。多孔銅鏃の研究に詳しい研究者によると、多孔銅鏃は、東海地方を中心に2世紀代から3世紀の前半にかけて周辺地域に広がるとする。2世紀から3世紀前半の遺物とされる多孔銅鏃一点のみなら、たまたま古い物がまぎれ込んでいるという推測もありえる。しかし、先の研究者の見解によれば、この多孔銅鏃と同時代の東海系の土器も複数見られ、この遺構が多孔銅鏃の年代まで古くなることを示唆する。橿原考古学研究所が古墳時代前期より古くならないとする見解には疑問がある。 また、秋津嶋宮が卑弥呼の王宮であることを物語る古墳も存在する。卑弥呼は「径百余歩」の墓に葬られたとされている。一歩は1・44メートルとされ、したがって径百余歩とは、おおよそ150メートル位の円墳であろう。これまで直径150メートルの円墳は日本列島では知られていない。もちろん前方後円墳の後円部などには、これより大きなものも存在する。 だが、円墳としては埼玉稲荷山古墳の丸墓古墳が直径105メートルで最大とされる。ところが、この秋津遺跡の1キロ北東、玉手山に直径150メートルの尾根が存在する。その尾根上に古墳が存在し、次に示す航空写真で「No1」(次ページの写真参照)とする尾根である。 当初地元教育委員会は、そこは自然の尾根で古墳ではないとしていた。だが、そこから遺物が出土したことにより古墳と認定した。尾根上に盛り土を行って墳丘をなす。墳丘の盛り土は尾根の中腹に及び、尾根裾は円形に整形されている。尾根全体を墓域とすれば、わが国最大規模の円墳である。私は、これこそ卑弥呼の墓と確信する。卑弥呼没年代と矛盾なし この玉手山という場所が重要だ。『日本書紀』によれば、孝安は玉手山に葬られたとする。孝安は卑弥呼の政治を補佐した男弟である。孝安が葬られたとする玉手山に卑弥呼も葬られたとしても不思議はない。秋津遺跡周辺の古墳群  現在宮内庁は、この尾根の北側200メートルの所にある直径13メートル位の円墳を孝安陵とする。しかし、私はこれは本当の孝安陵ではないと考える。 なぜなら、玉手山には、これよりはるかに大きな円墳が複数存在するからだ。私が直径150メートルとする尾根の南東、写真の「No2」は、長径160メートルの楕円の尾根だ。この尾根上に長径90メートル程の盛り土を持つ、楕円墳が存在する。私はこれこそ、本物の孝安陵と考える。 卑弥呼は西暦248年か259年頃没したとされる。卑弥呼の墓であれば3世紀中ごろの築造でなければならない。当初「No1」の古墳から出土した遺物は、5世紀末の物であった。だが、後にこの墳丘の盛り土の中から2つの土器片を採取した。いずれも3世紀中頃とできる年代の物である。この古墳の築造年代を卑弥呼の没した3世紀中ごろとして矛盾はない。 また、「No2」の墳丘盛り土の中からも土器片が出土した。明らかに弥生末、あるいは古墳時代前期の物であり、この古墳も同時代の築造であろう。 この2つの尾根は自然の地形で、その尾根の上に盛り土を成して墳丘を築く。尾根裾は整った弧を描いており、私は尾根裾に人為的な人の手が加わっていると推測する。 最初私が、この2つの尾根を古墳であろうとしたのは、航空写真で見た尾根裾の形状による。けっして航空写真で墳丘が、確認できたわけではない。その後の発掘調査でそこが古墳であることが確定した。尾根裾の形状と、墳丘とは密接に関係するのである。 私は尾根全体を墓域とする墳丘であると考えており、樹木がなければまさに「径百余歩」の円墳である。しかもこの2つの尾根は、私が秋津嶋宮跡とする秋津遺跡の方角から見たとき、整ったお椀(わん)を伏せたような形に見える。秋津嶋宮から望み見ることを意図して、ここに築かれたと考えるのが妥当だろう。 もし、私が卑弥呼の王宮とする秋津嶋宮の近辺以外の山で、円形の尾根を見たとしても、これを「径百余歩」の円墳などと言い出すことはない。そこが秋津嶋宮から1キロほどの所であり、孝安が葬られた山という事が、これを「径百余歩」の卑弥呼の墓と確信するゆえんである。 ここまで様々検証してきたが、残念ながら今日の研究者の多くが秋津嶋宮の実在を信じていない。ましてや、そこが卑弥呼の王宮などという説を取り上げることはない。かくして秋津遺跡はその重要性を認識されることなく、自動車道の下に消え去ってしまった。もはや如何(いかん)ともし難いが、卑弥呼の王宮は「奴婢千人が侍る」王宮である。 私は、秋津遺跡はこれまで出土した範囲以上に広がり、この遺構は西側に広がると考える。西側には小学校や、工場が存在し、発掘可能な場所は限られるが、小規模な発掘なら可能な場所も若干存在する。ゆえに、さらなる発掘調査を行い、この遺構の範囲を確定し、このかけがえのない歴史遺産を保存すべきである。そのために私は、玉手山の尾根が日本最大の円墳であり、「径百余歩」の卑弥呼の墓であることを実証したい。そのことが実証できれば、秋津遺跡の重要性を認識してもらえると考えるからである。

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    福岡で卑弥呼の墓?発見か それでも調査の予定ない理由

    墳だということになれば、再び九州説の可能性が高まることになり、古代史ファンとしては夢のある話です」(歴史研究家の河合敦氏) ところが、高まる期待とは裏腹に発掘調査が始まる見通しは立っていない。「豊の国古代史研究会」の一人が事情を打ち明ける。奈良桜井市・箸墓古墳(最古の前方後円墳)「発掘には文化庁に届け出た上で厳しい審査が必要とされる。丘陵地の地権者の方で発掘に反対している方もおり、現状としては本格的な調査に取り掛かることができないでいる。たまたま遺物が出てきた、といったことでもあれば調査のきっかけになるのですが……」 調査には自治体の協力が欠かせないが、赤村役場の文化財担当者は「丘陵は自然の地形で前方後円墳である確証がないため発掘調査の予定は現在ない」と否定的で、調査実施のハードルは高そうだ。“巨大な謎”のまま封印されてしまうのか。関連記事■ 天皇の起源は卑弥呼だった!? 「卑弥呼=天照大神」説が浮上■ 畿内説vs九州説の邪馬台国 カギを握るは「贈答品の封」の発見■ 「卑弥呼の再来」といわれる占い師 近所の神社初詣を推奨■ 福岡で鉄砲扱う店の一角の「当たる」と評判の宝くじ売り場■ 三国志・曹操の墓と遺骨発見か 曹丕がかなり配慮した跡も

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    「極悪の欲情」女好き秀吉、フロイスの目にはどう映ったか

    渡邊大門(歴史学者) 天正10(1582)年6月の織田信長の横死後、豊臣秀吉は着実に自らの基盤を固めた。関白になったのは、天正13年のことである。ポルトガル人宣教師、ルイス・フロイスの『日本史』は、秀吉のむき出しの権力欲について、次のように表現している。こうして(秀吉は)地歩を固め企図したことが成就したと見るやいなや、彼はがぜん過去の仮面を捨て、爾後は信長のことはなんら構わぬのみか、為し得ること万事において(信長)を凌(しの)ぎ、彼より秀でた人物になろうと不断の努力をした。 政治的な権力を保持した秀吉は、自己の権威を高めようとした。その一つが、天正11年から開始された、大坂城の築城である。大坂城築城の意図や工事の様子については、『十六・七世紀イエズス会日本年報』に次のように記されている。(秀吉は)己が地位をさらに高め、名を不滅なものとし、格においてもその他何事につけても信長に勝ろうと諸国を治め、領主としての権勢を振うに意を決し、その傲慢さをいっそう誇示するため、堺から三里の、都への途上にある大坂と称する所に新しい宮殿と城、ならびに都市を建て、建築の規模と壮麗さにおいて信長が安土山に築いたものを大いに凌ぐものにしようとした。 秀吉は信長に並々ならぬ対抗意識を燃やしており、安土城を凌ぐような城郭を欲していた。フロイスの『日本史』でも、ほぼ同様の記述がなされている。 『十六・七世紀イエズス会日本年報』では続けて、大坂城築城の意図を秀吉の意図を「己の名と記憶を残す」ところにあったと指摘する。信長亡き後、秀吉は畏敬(いけい)されるとともに、一度決めたことは成し遂げる人物であると評されていた。大坂城の工事では何万もの人夫が動員されたが、それを拒否することは死を意味したとまで記されている。 大坂城の豪華さに訪問者は驚嘆し、言葉が出ないほどであった。『十六・七世紀イエズス会日本年報』には、城郭が大小の鉄の扉を備えていること、多くの財宝を蓄え、武器・弾薬や食糧の倉庫を備え付けていること、などが記されている。 さらに、城には美しい庭園や茶室が設けられ、室内は絵画で彩られていたという。一言で言うならば、贅(ぜい)が尽くされたということになろう。 フロイスの『日本史』によると、大坂城が豪華絢爛(けんらん)だったことについては、秀吉が高い出自でないものの、信長の後継者になったことで天下を掌握したと指摘したうえで、秀吉が「皆の者の心を自分に向けるため、あらゆる方法で自分を権威付けて飾る」と述べている。信長がかつて豪華壮麗な安土城を作ったように、秀吉もそれをまねて、かつ超えようと努力したのである。現在の大阪城=大阪市(産経新聞社ヘリから) 大坂城と巨万の富を得た秀吉にとって、次なる必須アイテムは女性であった。秀吉の女好きという一面は、よく語られるところであり、大坂城には女性を囲う施設が必要だった。 江戸時代には「大奥」なるものがあった。実は、秀吉も大奥と類似した「御奥」(おおく)なるものを大坂城に持っていた。室町将軍や戦国大名も御奥を持っていたと考えられるが、その史料は乏しい。例外的に大坂城の御奥だけが、史料的に豊富なのである。 大坂城の御奥に関する史料としては、天正14(1586)年4月6日付の豊後のキリシタン大名、大友宗麟の書状がある(『大友家文書録』)。宗麟は薩摩島津氏が豊後へ侵入したため劣勢に陥り、秀吉に助力を乞うため大坂城へやって来ていた。300人以上の美少女 宗麟は秀吉への援軍要請に来たのであるが、この書状は大坂城の見聞録としての価値が極めて高い。巨大な大坂城の天守、黄金の茶室、名物の茶器の記述も重要であるが、注目すべきは御奥の見学である。宗麟は御奥を実見した数少ない一人だった。 大坂城の御奥の存在に関しては、フロイスの書簡や『顕如上人(けんにょしょうにん)貝塚御座所日記』に、その一端が記されている。特に、フロイスの書簡では、秀吉と同じく織田信長がすでに御奥と同じような制度を持っていたこと、そして御奥の女性の身分が高かったことを述べている。 御奥に在籍した女性の数は、約120人といわれている。人数的に江戸時代の大奥には劣るが、それなりの規模であった。後には城内に豪華絢爛な装飾が施され、300人以上の美少女が召使いとして雇われていたという。 宗麟が案内されたのは、御寝所であった。御寝所は9間(約16・2メートル)四方の広さがあり、長さ4尺(1・2メートル)の御寝台がある。褥(しとね、敷物)は猩々緋(しょうじょうひ、黒味を帯びた深紅色)で、枕の方には黄金の彫り物があった。そのさらに奥には6間(10・8メートル)四方の御寝所があり、唐織物の夜着がたたんであった。いずれも高級な寝具である。 次に案内されたのが御奥で、最初に通されたのは御衣裳所だった。そこには、女房衆の色とりどりな小袖が掛けられていた。納戸の内には小遣銭と称して、金子が30貫目(約300万円)ほど入っていた。その後、宗麟は茶の接待を受けたが、12、3才の少女がお茶や菓子を運んできた。さらに奥の間には、女房衆が控えていた。 御奥には、数々の掟が制定されていた。特に、女中衆に対する制限は大変厳しく、外出は当日の午後6時から翌日の午前8時まで禁止されていた。これは、無用な男性との接触を避けるためだろう。 女中に対して手紙が夜中に届けられた場合は、その性質を十分に見極めたうえで、手渡しで女中に届けられた。検閲ではないが、男性からの恋文に対する警戒心ではなかったか。そして、最も重要なのは、門番衆の男を除いては、他に一切御奥に寝泊りさせてはいけないという規則である。 このように御奥は、非常に充実したものであったが、秀吉の女好きに関しては、次の通りフロイスの『日本史』が貴重な報告を行っている。(秀吉は)齢すでに50を過ぎていながら、肉欲と不品行においてきわめて放縦に振舞い、野望と肉欲が、彼から正常な判断力を奪い取ったかに思われた。この極悪の欲情は、彼においては止まるところを知らず、その全身を支配していた。彼は政庁内に大身たちの若い娘を300名も留めているのみならず、訪れて行く種々の城に、また多数の娘たちを置いていた。 今とは違い、当時の50代は相当な老人である。フロイスは、秀吉の精力に驚いたのであろう。当時のヨーロッパでは、一夫一婦制が基本であり、御奥のようなところに女性を囲っている例はなかった。したがって、キリスト教の教えと相まって、フロイスの目には秀吉が不純で肉欲に溺れた野蛮人のように映ったのである。豊臣秀吉像 では、秀吉が囲った女性たちは、どのように集められたのであろうか。続きを見ることにしよう。 彼(秀吉)がそうしたすべての諸国を訪れる際に、主な目的の一つとしたのは見目麗しい乙女を探し出すことであった。彼の権力は絶大であったから、その意に逆らう者とてはなく、彼は、国主や君侯、貴族、平民たちの娘たちをば、なんら恥じることも恐れることもなく、またその親たちが流す多くの涙を完全に無視した上で収奪した。 このようにフロイスは記したうえで、秀吉の性格が尊大であり、この悪癖が度を過ぎていること、そして「彼(秀吉)は自分の行為がいかに賤しく不正で卑劣であるかにぜんぜん気付かぬばかりか、これを自慢し、誇りとし、その残忍きわまる悪癖が満悦し命令するままに振舞って楽しんでいた」と手厳しい意見で結んでいる。劣等感に満ちた秀吉 秀吉には「おね」という正室がいたが、淀殿をはじめ多くの側室がいたのは事実である。しかし、当時において側室を迎えるということは、生き残りの問題と絡んでいた。それは後継者を生むことである。特に、秀吉の場合は子に恵まれなかったので、女性には性的な快楽を求める以上の意味、つまり後継者をもうけるという意味があった。 天正19(1591)年12月、秀吉は養子となった秀次に訓戒状を与えている。その中の一つに「女性は屋敷に置き、それは五人でも十人でも構わない」と記しており、外で乱れた女狂いになってはいけないという項目がある(「本願寺文書」など)。 誠に興味深い一節であるが、これは単に一般的な話をしていると解せられる。それなりの身分になれば、女遊びもわきまえよということになろう。この書状もまた、秀吉の女好きの史料として取り上げられることが多い。 秀吉がこだわったのは、単に女性だけではない。それは、栄達願望だった。秀吉が足利義昭の養子となって、将軍職を得ようとしたことが、『義昭興廃記』に記されている。次に、その内容を記しておこう。天正13年、秀吉は足利義昭の養子となって、征夷大将軍の職に就こうと望みましたが、義昭の許しを得られませんでした。それどころか義昭は、卑賤の者を子とすることは、後代の嘲(あざけ)りとなるので叶えることができないといいました。秀吉は激しく立腹し、結局、関白の職に就いたのです。 秀吉が義昭の養子を希望したのは、征夷大将軍になるためであった。最も手っ取り早い方法であろう。義昭は天正16(1588)年に出家して昌山と号し、朝廷から准后に遇せられていた。しかし、『義昭興廃記』によると、義昭は秀吉の出自が賤(いや)しいという理由により、その願いを一蹴したのである。やむなく秀吉は征夷大将軍の夢をあきらめ、関白に就任したという。足利義昭像 同様の話は、『後鑑(のちかがみ)』や林羅山(江戸時代初期の儒学者)の『豊臣秀吉譜』にも載せられている。秀吉が義昭の養子になろうとして拒否されたことは、長く事実であると信じられた。しかし、現在では関係する一次史料を欠いていることから、虚構であると指摘されている。こうした説が流布したのも、秀吉の身分が低いというコンプレックスが大いに反映されているように思える。 次に、秀吉が狙ったのは、関白だった。天皇が幼少のときには摂政を、成長してからは関白をそれぞれ置くことが慣例だった。摂政と関白との違いは、摂政が天皇の代理人的な意味合いがあるのに対し、関白は天皇を補佐する地位に止まるとされている点にある。しかし、実質的には、両職に大きな差はないといえよう。 鎌倉時代以後は、五摂家と称せられる近衛、九条、二条、一条、鷹司の各家が、交代で摂政・関白の職を務めるようになった。そして、秀吉は関白相論という、二条昭実と近衛信輔が関白職をめぐる争いに乗じて、関白に就任したのである。 次に、関白相論の経緯化について触れておこう。天正13年5月の段階において、関白以下の任官状況は次のようになっており、以後の予定はカッコ内のようになっていた。① 関 白・二条昭実(一年程度の在職ののちに辞任)② 左大臣・近衛信輔(関白〔左大臣兼務〕)③ 右大臣・菊亭晴季(辞任)④ 内大臣・羽柴秀吉(右大臣) この人事計画に反対したのが、秀吉だった。秀吉が仕えた織田信長は、右大臣を極官(きょっかん、最高の位)として、天正10(1582)年に本能寺の変で横死した。この事実が縁起が悪いと指摘した。秀吉は信長の「凶例」を避けるため、右大臣でなく左大臣就任を要望した(右大臣よりも左大臣の方が高位)。 秀吉の申し出に対して、朝廷は大いに困惑した。天皇・朝廷は、信長の横死後に台頭した秀吉に対して、相当な配慮をしなくてはならなかった。その理由は、秀吉が御所造営にも援助を惜しまないなど、決してなおざりにできない存在だったからである。 ところが、秀吉の要望を受け入れると、事態は複雑化するのが目に見えていた。内大臣の秀吉が左大臣に昇進すると、いったん信輔は任官のない状態を経て、昭実の辞任後に関白職に就く。こうした手順は今までになかったことで、極めて面倒だった。秀吉が見せた「親心」 信輔は左大臣を秀吉に譲らざるを得なくなったため、「近衛家では元大臣という(無官)状態から、関白になったことは今までなかった」と主張し、即刻昭実に辞任を迫り、関白職を譲るよう要求したのである。これに対して、昭実にも言い分がある。昭実は関白に就任してわずか一年足らずでもあり、「二条家では関白に就任して、一年以内に辞任した者はいない」と主張し、関白辞任を拒否したのであった。 2人の争いは朝廷に持ち込まれたが、解決の糸口は見えなかった。結局、この争いは秀吉に持ち込まれ、円滑な解決が図られることになった。早速、秀吉は配下の前田玄以と右大臣の菊亭晴季の2人に相談を持ちかけ、穏便な解決策を検討した。 ここで、晴季から「秀吉を関白職に就ける」という奇想天外な提案が提出された。そして、秀吉自身は「いずれを非と決しても一家の破滅となるので、朝家(朝廷)のためにならない」ともっともらしい理由付けをして、関白就任の意向を示したのである。 しかし、秀吉が関白に就任するには、秀吉の出自という大きなハードルがあった。関白に就任するには、五摂家の出身者に限られている。結局、すでに引退していた信輔の父、前久(さきひさ)は秀吉を猶子(ゆうし)として迎えることと引き換えに、将来、信輔を関白職に就けることを約束させた。まさしく苦渋の決断だった。 猶子とは仮の親子関係のことで、相続を目的とせずに結ぶものである。前久も信輔も、秀吉の関白職就任はあくまで一時的なものであり、後には五摂家のところに戻ってくると信じていた。このようなプロセスを踏まえて、秀吉は天正13年7月、晴れて関白に就任したのである。 しかし、秀吉が一連のプロセスを計画的に仕組んで、関白に就任したという疑惑を拭い去ることはできない。この約束は、結局守られなかったからである。後に秀吉は関白職を養子の秀次に譲り、約束をほごにしたのである。 その後の秀吉は、快進撃を続けた。翌天正14年9月、秀吉は京都の大内裏跡に聚楽第(じゅらくてい)を築き、大坂城から移ってきた。正親町天皇は後陽成天皇に位を譲り、秀吉の造営した新御所に入っている。また、秀吉は太政大臣に就任し、新たに「豊臣」姓を下賜(かし)された。 さらに、秀吉は近衛前久の娘、前子を猶子とし、後陽成天皇に入内させた。こうして秀吉は天皇の外戚となり、天正16年に後陽成天皇が聚楽第に行幸した際には、諸大名に対して天皇と秀吉に忠誠・臣従することを誓約させている(『聚楽行幸記』)。このように秀吉は、一気呵成(いっきかせい)に朝廷を取り込んだのである。 秀吉は栄耀栄華を極めたが、やがては死ぬ運命になった。晩年の秀吉は五大老の面々に対し、秀頼を支えるように遺言状を残した(「毛利家文書」)。秀吉は五大老に対し、秀頼が一人前に成長するまで、しっかり支えてほしいと懇願し、これ以外に思い残すことはないとまで書き記している。さらに、追って書き(追伸)の部分では、配下の五奉行たちにも、申し付けてあるとまで述べている。「人間秀吉」の真の姿であった。 『甫庵太閤記』によると、秀吉は自身が所有していた茶器、名画、名刀そして黄金を多くの人々に与えたという。とりわけ家康や利家には厚く、下々の者にまで贈られた。しかし、晩年の秀吉は病気に悩まされ、失禁したことが当時の記録に見えている。 晩年の秀吉の臨終に関しては、フランシスコ・パシオ師の貴重な報告が残っている。その記録によると、秀吉は臨終間際になっても息を吹き返し、狂乱状態になって愚かしいことをしゃべったと伝える。もはや往時の権力者の姿はなかった。 秀吉が最期まで心配したのは、秀頼の行く末だった。秀吉が最も恐れていたのは、五大老の一人である家康であった。その死の瞬間まで、家康を支えにして、秀頼を盛り立ててほしいと願ったのである。玉造稲荷神社に建つ豊臣秀頼像(大阪市中央区) 死に向かう秀吉は孤独であった。もはや頼るべき親類などはおらず、まったくのアカの他人に秀頼の将来を委ねざるを得なかった。しかし、これまで秀吉自身が行った所業を考えてみると、誠に都合のよい話かもしれない。それでも繰り返し、五大老に秀頼の将来を頼み込む姿は、親としてできる最後のことだった。 慶長3(1598)年8月18日に秀吉は亡くなった。それから2年後に関ヶ原合戦が勃発し、豊臣家の勢力は大きく殺(そ)がれた。そして、慶長20(1615)年5月の大坂の陣で、豊臣家は滅亡した。秀吉の願いは、結局通じなかったのである。※主要参考文献渡邊大門『秀吉の出自と出世伝説』(洋泉社・歴史新書y)

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    信長がどうしても許せなかった足利義昭の「不遜な亀」

    橋場日月(歴史研究家、歴史作家) 第六天魔王を自称したか、あるいは少なくともそう呼ばれた形跡がある信長。ここでその意味を確認しておこう。 第六天魔王は、信仰によらない喜びを人々に与えてそれを自分の喜びとする。だから、僧侶や一般の篤(とく)信者に煩悩と欲望を与え、修行の邪魔をすることが自分の幸福となるのである。 逆に考えてみよう。信長が一向一揆の大元である大坂本願寺と開戦(石山合戦の始まり)したのが元亀元(1570)年9月。浅井・朝倉連合軍が比叡山と連携して織田軍と戦い、信長の部将、森可成や坂井政尚らが討ち死にするなど甚大な損害が発生したのも同じ9月から11月にかけてのことだった。伊勢長島の一向一揆に対して第一次侵攻作戦を実行したのはその翌年の5月。 「進者往生極楽 退者無間地獄(進まば往生極楽、退かば無間地獄)」。これは本願寺の安芸門徒が大坂へ上り、石山合戦で信長と戦った際に掲げたという、旗に墨で大書されたスローガンだ。「敵に向かって進めば極楽往生できる。逆に退却すれば無間地獄に落ちる」という教えを胸に、後生大事と命を捨てて織田軍に攻めかかる狂気のような一揆勢。 これに対する信長は僧侶を「欺瞞(ぎまん)者」と呼び、「仏僧がなすべきは武器をとることにあらず」と言い放った男だ(フロイス『日本史』)。民衆を救済するというなら現世でこそ実現させるべきで、己の欲望のために民衆を扇動し命を捨てさせるのが僧侶なら、そんなものは地上から抹殺してやる。そして自分が民衆に現世で幸福を与えてやろう。龍の力、大蛇のパワーはそのために使うのだ、と「第六天魔王」の異名を甘受し、敵対する仏教勢力との戦いに臨む。織田信長肖像画(大本山本能寺所蔵)=撮影・中田真弥 さて、その魔王・信長が上京焼き討ちの際に、奈良の焼き討ち・比叡山焼き討ちがセットになったときには天皇に災いが降りかかるという伝承を神経質に気にしたことも前回で述べた。 この伝承については、公家の山科言継も比叡山焼き討ちのときすでに「仏法破滅、説くべからず説くべからず。王法如何有るべきことか」と日記にコメントをつけている。この時点で後に天皇と京へ災いが降りかかることが予見されていたということだ。王法とは天皇の「まつりごと」を意味するから、伝承は吉田兼右だけでなく、公家社会全体の共通認識だったことが分かる。信長もこの時点で伝承を把握していただろうことは明らかである。 比叡山焼き討ち以来抱え続けてきた信長の不安。しかし、彼は上京焼き討ちにあたって御所の警護を厳重にし、内裏(だいり)に延焼することがないように万全の態勢をとることで「天皇への災い」を回避した。 その一方で、無数の人々が避難する途中の路上で殺され、あるいは桂川の上流(大堰川)や下流で溺れ死んだという記録もある(『東寺光明講過去帳』)。4月4日は現在の暦で5月15日。梅雨入りにはやや早いが、たまたま雨で増水していたのかもしれない。 仏教に対抗し現世で民衆を救うと豪語する信長にとって、これは想定の範囲内のできごとだったのだろうか。信長が嫌った「亀の呪縛」 とにもかくにも、上京の焼き討ちを強行したことによって伝承の呪縛から逃れた信長は、いよいよ本領を発揮し始める。 4月15日、百済寺炎上。聖徳太子建立という近江きっての古刹(こさつ)は延暦寺と同じく天台宗に属するが、信長に敵対し続ける六角義治(六角義賢の子)が近くの鯰江(なまずえ)城に籠城していた。城代の森某の子がこの寺に出家していて、城内に兵糧を送り届けるなどしたために、信長から六角氏の同類と断じられ、焼き討ちをかけられたのだ(『百済寺古記』)。第六天魔王の面目躍如である。 続いて7月18日には、再び反信長の兵を挙げた将軍・足利義昭も信長によって京を追放される。かつて義昭から「御父」と頼られた信長は、逆に「ほしいままの悪逆」と罵倒されたが、そんなことは彼にとってもはや大した意味はない。 7月28日、元号が元亀から天正へ改められる。義昭追放からわずか3日後に信長が改元を奏請したのだ。これについては朝廷も、「俄(にわか)」な申し入れだったと驚いている(『御湯殿上日記』)。信長は前年に「元亀の年号不吉」と義昭にも改元を求めており、早く新しい元号にしたかったらしい。これが信長と義昭が決裂する原因の一つともなったのだが、それはどうしてだったのか。 もともと「元亀」への改元は義昭が推進した。「与風(ふと=急いで)」改元を行うようにと朝廷に申し入れた結果、永禄から改められたものだ(同)。 では、この元号がどういう意味のものだったのかを考えてみよう。 「元亀」には、そのものズバリ「亀」の文字が入っている。古代中国では、亀は龍の子と考えられていたし、亀をかたどった霊獣・玄武は蛇を体に巻き付けた水の神とされていた。奈良・キトラ古墳にある玄武の壁画(代表撮影) 水神であり、龍や蛇とも関わりの深い亀。信長なら喜びそうなものなのだが、彼はなぜこのめでたい元号を忌避したのだろう? 皮肉にも、元亀の年間は信長にとって本願寺と一向一揆の蜂起、浅井・朝倉の敵対、武田信玄の侵攻と、立て続けに逆風が吹き荒れた最悪の時代だった。厄除けにうるさい信長としては、気分一新ケチのついた元号を改めることによって、ツキを変えたいという思いもあったのだろう。 そしてさらに大きな鍵は、この元号の出典とされる文章にありそうだ。 『詩経』と『文選』という古代中国の文集から採られた「元亀」。『詩経』からは「毛詩」の「元亀象歯犬賂南金」という文言、『文選』からは「元亀水処、潜龍蟠於沮沢、応鳴鼓而興雨」という文言が、それぞれ用いられたという。 問題になるのは、後者の「元亀水処~」だ。「亀は水場に君臨し、龍は湿地帯に潜み、呼応して雨を呼ぶ」とでも読み下せばよいか。 一見して思うのは、亀が水場の支配者であるのに対し、龍は単に沼沢に潜んでいるだけの従の存在にしか位置づけられていないという点なのだが、どうだろう。亀が主、龍が従。信長はこれに我慢できなかったのかもしれない。そういえば、玄武も亀が主、蛇はそれに巻き付くだけの存在ともいえる。信長の「酒の肴」 大蛇・龍を信奉する信長としては、義昭=亀が信長=龍を従える構図を否定したかったのではないか。亀が龍の子というのも、義昭から「御父」と呼ばれた信長にとっては、まさに義昭と自分の関係ではないかと「義昭の面当てぶり」を不愉快に思ったに違いない。逆に、義昭はその意味を知っていたからこそ「元亀」への改元を積極的に行ったとも考えられる。 当時は「言霊(ことだま)」の力が普通に信じられていた時代であった。義昭を追放した今、龍=信長は亀の呪縛からも逃れた。改元はその事実を確認する重要なイベントでもあったのだ。 8月20日、朝倉義景滅亡、9月1日、浅井長政滅亡。長政は自害の直前の8月29日に家臣の片桐直貞に対して、  「このたびは思いがけない成り行きで(小谷城のうち)本丸だけが残るのみとなったが、多くが脱出するなかで籠城し忠節を抽(ぬき)んでるその方には感謝している」という内容の感状を発給するのだが、そこには「元亀四(年)」の文字が書き入れられていた。長政は改元を無視し、「信長が義昭に従う」元亀の元号を最期まで用い続けたのだ。それによって信長こそが逆賊であると主張したのだろう。 11月16日には河内若江城の三好義継が佐久間信盛以下に攻められ自害。京を追放された義昭を保護したことが責められての不幸な最期だった。これで信長にとって畿内の敵対勢力は本願寺を残すのみとなる。 明けて天正2(1574)年。前年12月に岐阜城に凱旋(がいせん)し、久々にゆったりとした時を過ごしていた信長は、そのまま正月を迎える。 京や周辺諸国から家臣たちが年賀に伺候(しこう)し、式三献(しきさんごん。礼法にのっとった盃事で、一の膳・二の膳・三の膳のそれぞれで大中小の盃を酌み交わす。現代の三三九度につながっている)の宴席にお呼ばれした後、外様衆は退席した。残ったのは馬廻衆(側近衆、親衛隊)のみ。宴席が行われたと思われる岐阜城の信長居館跡 ここで『信長公記』はこう記している。  「古今承り及ばざる珍奇の御肴出で候て、又御酒あり」   昔も今も聞いたことがないような珍しい酒の肴(さかな)が出され、また酒が振る舞われた、というのだ。 一体どんな肴が供されたのだろう?  それは、現代のわれわれから見れば世にも恐ろしい代物だった。「去年北国(ほっこく)にて討とらせられ候、一、朝倉左京大夫義景首(こうべ)一、浅井下野    首一、浅井備前    首  已上、三ツ薄濃(はくだみ)にして公卿に居ゑ(すえ)置き」   朝倉義景、浅井久政、浅井長政の3人の首が、漆で塗り固めた上から金泥を薄く施された状態で食台に載せられ、披露されたのである。 『甫庵信長記』では黒漆の箱に入って出され、柴田勝家が酒を飲んでいるときにふたが開けられたと記されている。本当なら、勝家は口に含んだ酒を吹き出したかと想像するのがわれわれ現代人の感覚なのだが、臨席の人々はてんでに歌い踊り、宴は大いに盛り上がったらしい。

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    串刺し、磔、干殺し… 戦国史上類なき秀吉の残虐性、ここに極まれり

    渡邊大門(歴史学者) これまでの連載で触れた通り、豊臣秀吉は出自に謎が多く、まったく得体の知れない人物だった。ポルトガルの宣教師らが口々に述べている通り、その性格には異常性すら見られた。秀吉の残酷な性格については、数々の合戦における残酷な行為でも確認できる。今回は、上月(こうづき)城の戦い、三木城の戦い、鳥取城の戦いを取り上げて考えてみよう。 秀吉の残酷な性格が表れた戦いには、天正5(1577)年12月に決着した上月城の戦いがある。上月城の戦いとは、織田信長と毛利輝元との全面戦争の緒戦だった。信長が西国方面の攻略を託したのは、頭角を現していた秀吉である。命を受けた秀吉は同年10月、播磨に向けて出発した。 秀吉は竹田城(兵庫県朝来市)に弟の秀長を入れ置くと、いよいよ赤松七条家の一党が籠る上月城(兵庫県佐用町)へと兵を進めた。赤松七条家は毛利氏に味方をし、織田方に抵抗したのである。 同年11月27日には上月城近くの福原城を陥落させ、秀吉の軍勢はいよいよ上月城に迫った。このとき、毛利方の宇喜多直家は、秀吉の軍勢と交戦して散々に打ち負かされ、敗走中に自軍の兵の首が619も取られたという。 宇喜多勢を散々に打ち破った秀吉は、その余勢を駆って上月城に迫った。そして、上月城に激しい攻撃を行ったのである。その戦いの状況は、秀吉自身の言葉で次のように記されている(「下村文書」)。(宇喜多氏との)合戦場から引き返し、いよいよ七条城(=上月城)を取り詰めた。水の手を奪ったこともあって、上月城の籠城者からいろいろと詫びを入れてきたが、(秀吉は)受け入れなかった。そして、返り猪垣を三重にして城外への逃亡を防ぎ、諸口から攻撃を仕掛け、十二月三日に城を落とした。敵兵の首を悉(ことごと)く刎(は)ね、その上に敵方への見せしめとして、女・子供二百人余を播磨・美作・備前の境目において、子供を串刺しにして、女を磔にして並べ置いた。 秀吉の態度は強硬であった。城兵たちの命乞いを受け入れることなく、逆に逃げられないように柵を巡らすと、次々と敵兵の首をはねた。さらに見せしめとして、女、子供をそれぞれ串刺しにし、磔(はりつけ)にして晒(さら)し者にするなど残虐の限りを尽くしたのである。非戦闘員が残酷なかたちで処刑された例は、そう多くはない。織田軍と毛利軍の攻防戦の地として知られる上月城跡=兵庫県佐用町  ところが、『信長公記』(巻十)には、一連の事実について少し違った表現で記されている。該当部分を次に示すことにしよう。(宇喜多氏との交戦後)秀吉は、引き返して上月城を取り巻き攻めこんだ。七日目(十二月三日)に上月城中の者が大将の首を切って秀吉のもとに持参し、「残党の命を救って欲しい」と懇願した。秀吉は上月城主の首を安土城の信長に進上し、お目に懸けた。すると、秀吉は上月城に立て籠もる残党を悉く引き出し、備前・美作の両国の境目に磔にして、悉く懸け置いた。 ここで注意しなくてはいけないのは、秀吉が上月城を落としたのではなく、上月城内部の者が城主を裏切って首を獲り、それを秀吉のもとに持参したということである。先の書状では、あたかも秀吉の攻撃によって落城させた感がある。敗戦間近と見た上月城内の武将らは、城主を差し出すまでに追い詰められていた。 城主の首を差し出した交換条件は、城内の者の命を救って欲しいというものであった。彼らが生き残るために、一縷(いちる)の望みを託したことは想像に余りある。しかし、秀吉は大将の首を安土城の信長のもとに届けると、約束を反故(ほご)にした。上月城内の残党を引き出し、備前・美作両国の国境に磔にしたのである。残酷であることには、何ら変わりがない。「三木の干殺し」 秀吉の書状には記されていないが、『信長公記』が記すように、実際は城兵が大将の首を持参して降参したのであろう。しかし、秀吉はそれを許さなかった。『信長公記』に記されている残党とは、兵卒のほかにも城内に逃げ込んだ女、子供も含まれていたと考えられる。当時、戦争が起こると、城は周囲の非戦闘員が逃げ込む場でもあった。秀吉は容赦することなく、彼らを串刺し、磔にしたのである。 女、子供を串刺し、磔にするという措置は、秀吉の考えに基づくものだった。すると、秀吉の容赦のない苛烈な性格が浮かび上がってくることになろう。秀吉も武将として成果を挙げない以上、厳しい立場に追い込まれるのは当然である。『信長公記』では、西国方面で奮闘する秀吉の活躍ぶりを次のように記述している。(秀吉が)西国でしかるべき働きをして、(中略)夜を日に継いで駆け回り、秀吉の粉骨の働きは比べようもないものである。 秀吉は昼夜を忘れ、信長のために軍功を挙げたゆえに、高い評価が与えられたのである。元の身分が低い秀吉にとっては、信長から目をかけられることが、もっとも重要なことだった。上月城の戦いで見せた秀吉の残虐性というべきものは、続く三木城攻めでも姿を現すことになる。 秀吉の合戦における高い能力が発揮されたのは、天正6(1578)年3月から始まった三木合戦である。三木合戦は「三木の干殺し」と称され、長期にわたる兵糧攻めで知られる。以下、その流れを確認することにしよう。 秀吉が中国計略を進める上で、最も頼りにした武将が別所長治である。別所氏は播磨国守護赤松氏の流れを汲む名族で、15世紀後半から三木城に本拠を置いていた。しかし、事態は思わぬ方向に展開する。同年2月、にわかに三木城主の別所長治は秀吉に叛旗を翻し、毛利方に寝返ったのである。三木城跡の別所長治像(兵庫県三木市) ここから戦国史上に例を見ないほど凄惨な兵糧攻めとして有名な、「三木の干殺し」が展開される。では、当初信長に与することを約束した別所長治は、いかなる理由によって寝返ることになったのだろうか。 別所氏が寝返った理由については諸説あり、中でも注目されるのは、別所氏が出自の卑しい秀吉を愚弄(ぐろう)していたという説である。三木城の戦いの顛末(てんまつ)について記した、『三木合戦軍図縁起』には次の注目すべき一節がある。別所長治公がおっしゃるには「だんだん昨日や今日の侍の真似をする秀吉。卑しくも村上天皇の苗裔・赤松円心の末葉たる別所家に対して、誠に無礼である。毛利家を滅ぼしたあと、秀吉が播州一国を支配しようとしていることは明らかである。敵の謀を知りながら、その謀に乗るのは智将の行うことではない。そのように秀吉に返答せよ」ということである。 この台本は後世になったものであり「卑しくも…」以下が付加されたのは、あくまでフィクションと考えてよい。村上天皇、赤松氏の流れを汲む別所氏と秀吉を対比させることにより、物語をおもしろくしようとしているのである。つまり、別所氏は名門意識があり、秀吉を見下していたということになる。生き地獄の兵糧攻め 別所氏が信長に叛旗を翻した理由の一つとして、「名門・別所氏が出自すら判然としない秀吉には従えなかった」ということが挙げられる。それは、ここに示した絵解きの説明が広く流布したものと考えられる。実際に別所氏が寝返った理由は、足利義昭や毛利輝元らが熱心に引き入れたからだった。 当初、別所方は優勢に戦いを進めたが、それは長く続かず、たちまち劣勢に追い込まれた。秀吉は三木城の周囲に付城を築くと、毛利方の兵糧ルートを完全に遮断した。こうして「三木の干殺し」と称された、生き地獄のような兵糧攻めが展開される。 三木城付近に築城された付城は、実に堅固なものだったといわれている。二重にした塀には石を投げ入れて、重ねて柵を設けた。また、川面には簗杭(やなぐい)を打ち込んで籠を伏せて置き、橋の上には見張りを置いている。単にそれだけではない。城戸を設けた辻々には、秀吉の近習(きんじゅ)が交代で見張りをした。 人の出入りも厳しく規制された。付城の守将が発行する通行手形がなければ、一切通過を認めないという徹底ぶりであった。夜は篝火(かがりび)を煌々と焚き、まるで昼間のようであったといわれている。もし油断する者があれば、上下を問わず処罰し、重い場合は磔という決まりが定められた。 三木城の周囲はアリの入り込む隙間のないほどの厳重な完全封鎖がされており、当然一粒の米も入らなかった。兵糧がなければ戦う気力が喪失し、城内の兵卒の士気が上がらないのも止むを得ない。時間の進行とともに、三木城には飢餓をめぐる惨劇が見られるようになる。 『播州御征伐之事』にも記されているとおり、城内の食糧が底を尽くと、餓死者が数千人に及んだという。はじめ兵卒は糠(ぬか)や飼葉(馬の餌)を食していたが、それが尽きると牛、馬、鶏、犬を食べるようになった。当時、あまり口にされなかった肉食類にも手が及んだのである。もはやぜいたくは言っていられなかった。 糠や飼葉、肉で飢えを凌げなくなると、ついには人を刺し殺し、その肉を食らったと伝えている。さすがに死肉は食しにくいので、衰弱した兵を殺したと考えられる。その空腹感は、想像を絶するものがあった。「本朝(日本)では前代未聞のこと」と記録されており、城内の厳しい兵糧事情を端的に物語っている。 天正8(1580)年1月、秀吉は三木城内の長治、吉親、友之に切腹を促し、引き換えに城兵を助命すると伝え、秀吉もこの条件を了承した。 別所一族の切腹の現場は、実に凄惨なものであった。長治は3歳の子息を膝の上で刺し殺し、女房も自らの手で殺害した。友之も同じような手順を踏んだ。そして、長治は改めて城兵の助命嘆願を願うと、腹を掻(か)き切ったという。介錯は三宅治職が務めた。腹は十文字に引き裂かれ、内臓が露出していたと伝える。友之以下、その女房、吉親の女房らも自ら命を断った。 秀吉の蛮行は、これだけで終わらなかった。続く鳥取城の戦いでも、激しい兵糧攻めを展開した。石垣が構成美を見せる鳥取城跡。地形をうまく生かして築かれている(鳥取市) 三木城の平定を終えた秀吉は、信長の命を受けて、すぐさま但馬・因幡の平定に向かった。因幡平定は以前から始まっており、天正8(1578)年5月の時点で、城主である山名豊国は降伏していた。しかし、降伏を潔(いさぎよ)しとしなかった豊国は、密かに吉川元春と通じて応援を依頼したという。この時、派遣されたのが、石見吉川家の当主で吉川経安の子、経家である。 籠城直後、豊国はにわかに秀吉に投降し、その軍門に降った。この理由に関しては、毛利方が豊国を暗愚とみなし追放したなど、多くの説がある。そして、秀吉は降伏した豊国などを引き連れ、鳥取城攻略に乗り出した。取った作戦は兵糧攻めであったが、その準備には余念がなかった。「人肉食い」の惨劇 秀吉は鳥取城を兵糧攻めにすると決するや、鳥取城の西北に付城として丸山・雁金の二つの城を築いた。付城の構築は秀吉の十八番であり、三木城の戦いでも効果を発揮した作戦でもある。しかも築城のスピードは、群を抜く速さであった。そして、鳥取城を完全に包囲し、アリの這い出る隙間も与えなかったという。 加えて、秀吉は米などを通常よりも高い値段で購入し、吉川氏の先手を打った。もともと鳥取城は兵糧が乏しかったといわれているが、これにより窮地に陥ったのである。また、鳥取城には多くの農民らが入城したという。それは、秀吉が城内に追い込んだといわれており、食糧の浪費を促すためであった。 秀吉の兵糧攻めは、同年の6月下旬から付城の構築と同時並行で進められた。徐々に鳥取城の食糧が尽きていったことは、『石見吉川家文書』中の吉川経家の書状で随所に触れられている。その言葉からは、城内の食糧事情の厳しさが伝わってくるが、あまり具体的な記述ではない。 むしろ、阿鼻叫喚(あびきょうかん)ともいえる描写を行っているのは、『信長公記』や『甫庵太閤記』といった史料である。次に、その凄惨な内容を掲出しておこう(内容的には似た部分が多いので、『信長公記』を掲出する)。因幡国鳥取郡の一郡の男女は、ことごとく鳥取城中へ逃げ入って立て籠もった。下々の百姓以下は、長期戦の心構えがなかったので、即時に餓死してしまった。はじめは五日に一度か三日に一度鐘を衝くと、それを合図に雑兵が城柵まで出てきて、木や草の葉を取り、中には稲の根っこを上々の食糧とした。 鳥取一郡の男女という表現は大げさであるが、それほど多数の人間が入城した表現と捉えてよいであろう。百姓たちは心構えがなかったため、すぐに飢え死にしたとあるが、実際には非戦闘員に食糧が回らなかった可能性もある。雑兵が城柵近くの葉などを食していたということは、城内の食糧が尽きていたことを示している。具体的な時期は示されていないが、籠城が始まってから、さほど経過していない頃と考えられる。豊臣秀吉木像(大阪城天守閣蔵) 時間の経過とともに食糧事情が悪化すると、惨劇はさらに深まった。のちになると、これ(草の葉など)も尽き果てて、牛馬を食らっていたが、露や霜に打たれて餓死する者は際限なかった。餓鬼のように痩せ衰えた男女は、柵際へ寄ってもだえ苦しみ、「ここから助けてくれ」と叫んだ。叫喚(大声を上げて叫ぶこと)の悲しみ、哀れなる様子は、目も当てられなかった。 この描写から明らかなように、すでに見てきた三木合戦と同じ様子であった。しかし、悲劇はこれだけに止まらなかった。ついにカニバリズム(人肉を食うこと)が行われたのである。次に、さらに激しい惨劇を確認しておこう。(秀吉軍が)鉄砲で城内の者を打ち倒すと、虫の息になった者に人が集まり、刃物を手にして関節を切り離し、肉を切り取った。(人肉の)身の中でも、とりわけ頭は味がよいらしいとみえて、首はあっちこっちで奪い取られていた。 食糧不足が極限に達すると、人々の理性は完全に失われた。しかし、死んだ人間の肉はまずかったようで、たとえ虫の息であっても、生きた人間が食に供されたようである。中でも「頭がうまい」というのは初耳であるが、脳みそのことであろうか。いずれにしても、惨劇がここに極まったのは、いうまでもないであろう。 このような事態を受けて、同年10月25日、城主の吉川経家は城兵を助けることを条件に切腹したのである。人が人を食らうことを知った秀吉には、どのような気持ちが生じたのであろうか。もはや知る由もない。 このように秀吉が残酷の限りを尽くしたのには、いくつか理由があろう。本来、卑しい出自の秀吉は、信長に認められるべく必死だった。そのためには自らの武威を示すべく、戦いに勝っても残酷な措置をして、敵対勢力を委縮させる必要があった。その点で女、子供の磔刑、苛烈なまでの兵糧攻めは、絶大な効果があったのである。※主要参考文献渡邊大門『秀吉の出自と出世伝説』(洋泉社・歴史新書y、2013年)

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    比叡山の祟りにビビった信長 「第六天魔王」はこうして誕生した

    橋場日月(歴史研究家、歴史作家) 天下統一への志は込められていなかった「岐阜」。では、信長はその二文字の何を喜んで、新しい本拠地の名称に選んだのだろうか。この二つの漢字を分析してみよう。 まずは「岐」だ。この字は「ふなど」、「ちまた」を意味するという。これは本道から枝分かれした道、行く先が幾筋にも分かれている状態を指す。 『古事記』に登場する「岐の神(ふなどのかみ。久那斗神と書いてくなどのかみとも)」は、黄泉(よみ)の国の亡者と化したイザナミの追っ手から逃れるために、イザナギが投げた杖(つえ)が化身したものだ。 追っ手を遮る=来てはいけない場所を守る、ということから、町や村に通じる道や辻の境で悪神・悪霊や災厄、疫病の侵入を防ぐ「塞(さえ)の神」=道祖神(さいのかみ、どうそじん)となった。 つまり、「岐」は魔除け・厄除けという意味を持っているのだ。厄除け志向の強い信長のパーソナリティーが、こんなところにも顔をのぞかせている。 その上、古代出雲ではこの岐の神は龍蛇神の本体として尊ばれていたという。つまり、信長が求めてやまない龍神・蛇神の化身でもあるのだ。信長の本拠として、これほどふさわしい名前もないだろう。織田信長の角凧=2016年9月13 日(大河内弥美撮影) さらに付け加えると、「幾筋にも分かれる道、流れ」という「岐」は、細かく分流して伊勢湾に注ぐ木曽川・揖斐(いび)川・長良川の木曽三川を表すともいい、その分流の形状は出雲神話の八岐大蛇(ヤマタノオロチ)にも通じるではないか。「岐」の字もそこには含まれている。 そして「阜」の字は、通常「大きな陸(おか)」=「丘」を示しているというが、実はそうではなく、「神が降臨するための神梯(はしご)の象徴」だということだ(白川静『漢字百話』)。 つまり、「岐阜」は龍・大蛇の力を備え、瑞龍寺山を包含し、魔除け・厄除けの結界として機能し、神が降臨するハシゴということになる。信長が降臨させたい神は、むろん龍神・蛇神だ。 本連載の第8回で、信長は小牧山を「飛車山(ひくまやま)」から成らせて「龍王山」とし、龍神の磐(いわ)座にしようと考えたのかもしれない、と述べたが、この岐阜命名こそがそれを裏付ける傍証になるのではないか。 ともかく、信長はこうして稲葉山城とその城下・井口(いのくち)を、大蛇(竜)を迎える聖地「岐阜」とその中心の「岐阜城」に改めたのである。ちなみに、信長に岐阜の名称を提案したのは、沢彦宗恩(たくげんそうおん)ではなく、後に瑞龍寺の住職を務める栢堂景森(はくどうけいしん)だったという説もあるそうだ。(―岐阜市歴史博物館「Gifu信長展」解説より)「天下布武」印の意味 ちょうど同じ時期、彼はもう一つ、自身の新たな象徴となるアイテムを用い始める。「天下布武」の印判である。 長く「わが武力で全国を統一する」というスローガンを打ち出したものと言われていたこの印判も、最近では「天下=畿内を将軍が治める理想の推進役となる」という宣言に過ぎないという説が有力となっている。むろん、他にもいろいろと解釈があるようだが、ここで注目したいのは印判の紋様のバリエーションについてだ。 永禄10(1567)年11月から使い始められた「天下布武」印は、当初は一重の楕円(だえん)形の中に天下布武の4文字が配されたものだった。これが、後年改定されて重要な意味を持つことになるので、ぜひ心にとどめておいていただきたい。 岐阜で竜のパワーを最大限までチャージできたのか、信長は翌永禄11(1568)年8月7日に足利義昭を美濃立政寺に迎えると、9月7日岐阜城を出陣する。2年前に失敗した上洛(じょうらく)戦のリベンジというわけだ。 破竹の勢いで進撃した織田軍総勢5万(『細川両家記』『フロイス日本史』)はあっという間に京を制圧。義昭は室町幕府15代将軍の座に就き、信長は事実上「天下」に号令する政権主宰者となった。織田信長が使用した「天下布武」の印 しかしその後しばらくの間、信長にとっては逆境の時間が続く。元亀元(1570)年には、北近江の浅井長政の造反によって越前の朝倉義景討伐が失敗し、姉川の戦いでは浅井・朝倉連合軍を撃破したものの、大坂本願寺の挙兵によって摂津から退却することとなった。さらに本願寺の指示を受ける一向一揆と合流した浅井・朝倉が守山の戦い(志賀の陣)で信長の重臣、森可成を討ち取るなど、まさに四面楚歌(そか)状態に陥ったのである。 そんな中、信長は一つの手を打った。浅井・朝倉を支援する比叡山延暦寺(えんりゃくじ)に「味方できないならせめて中立せよ」と最後通告を送りつけたのだ。これが拒否されると、信長は延暦寺総攻撃を命じる。 元亀2(1571)年9月12日、比叡山を包囲していた織田軍3万は一斉に山上を攻め登った。信長は比叡山焼き討ちを躊躇した? 「根本中堂・山王二十一社を初め奉り、霊仏・霊社、僧坊・経巻一宇も残さず、一時に雲霞(うんか)のごとく焼き払い、灰燼(かいじん)の地となるこそ哀れなれ。山下の男女老若、右往・左往に廃忘(はいもう。狼狽(ろうばい)の意)を致し、取る物も取りあえず、悉(ことごと)くかちはだしにして八王子山へ逃げ上り、社内へ逃げこみ、諸卒四方よりときの声を上げて攻め上る。僧俗・児童(にどう)・智者・上人一々に首をきり、信長公の御目にかけ、これは山頭(比叡山上)においてその隠れなき高僧・貴僧・有智(うち)の僧と申し、そのほか美女・小童そのかずを知らず召捕り、召しつれ、御前(おんまえ)へ参り、悪僧の儀は是非に及ばず、これはおたすけなされ候えと声々に申し上げ候といえども、中々御許容なく、一々に首を打ち落とされ、目も当てられぬありさまなり。数千の屍算を乱し、哀れなる仕合わせ(状態)なり」『信長公記』 『信長公記』に記された比叡山焼き討ちの様子は、あくまでも凄惨(せいさん)で信長の一方的な残虐性が際立っている。 他にもこの戦いでの延暦寺側の死者は「数千人」(同書)とも「男女三、四千人」(『言継卿記』)とも「約千五百人」(『耶蘇会士日本通信』)とも「1120人」(『フロイス日本史』)ともいわれているが、信長は本当にこの虐殺(ジェノサイド)を積極的に行ったのだろうか。 実は、信長が攻撃を躊躇(ちゅうちょ)したのではないかと思われる節があるのだ。この一件から2年後の元亀4(1573)年に、彼が上京(かみぎょう)を焼き討ちする際に神道家の公家、吉田兼見に問い合わせをしている。比叡山延暦寺。阿弥陀堂(右)と法華総持院東塔(左)=滋賀県大津市(産経新聞社ヘリから、門井聡撮影) 「南都(奈良)が相果てれば(松永久秀による焼き討ちでの東大寺焼亡)、北嶺(ほくれい、比叡山)も滅亡する。そうなれば王城(京の御所)にも災いが及ぶ、と兼見の父・兼右が説いたが、本当にそういうことになるのか」というものだ。これに対して兼見は「昔からそう言われていますが、典拠となるような文書はありません」と答えている(『兼見卿記』)。 この言い伝えは当時の知識人には知れ渡っていたようで、比叡山焼き討ちの際に公家の山科言継も「仏法破滅」「王法いかがあるべきことか」と、両者の因果関係を意識したコメントを残している(『言継卿記』)。第六天魔王・信長の誕生 信長もこの言い伝えを知っており、2年後になって「比叡山を焼き討ちした自分が今回上京にも放火すれば、それはそのまま天皇に災いをもたらすことになるのか」と心配していたのである。比叡山焼き討ち当時、すでに信長が後々、天皇へ祟(たた)ることを恐れ、不安を感じていたとしてもおかしくない。迷信に対する興味が過剰で、かつて池に潜って大蛇を探したこともあるほどの信長だからなおさらだ。 特に、比叡山には都の表鬼門を守る日吉大社も鎮座する。かつて、赤熱した鉄片を握らせ、手がただれたら有罪とする火起請(ひぎしょう)で日吉神社の神意を問うた信長には、これもプレッシャーだった。 延暦寺焼き討ちは、信長の意志というよりも延暦寺を監視する宇佐山城を預けられていた強硬派の明智光秀に主導されて発生した可能性が高いのだ。 京の鬼門を守る日吉大社と、国家鎮護の道場、延暦寺。その焼き討ちは、当時の日本人に一大衝撃を与えた。 上京焼き討ちの1カ月前、元亀4(1573)年3月19日付で、宣教師ルイス・フロイスは書簡にこう記した。 「信長はみずから悪魔の王・諸宗の敵であると称し、『ドイロクテンノ・マオウ・ノブナガ』と名乗った」(『耶蘇会士日本通信』)信長の焼き討ちを免れた瑠璃堂の薬師如来坐像=2018年7月31日、比叡山延暦寺 ドイロクテンノ・マオウ、すなわち有名な「第六天魔王・信長」の誕生である。 第六天というのは、人間界の上にある天上界のうち、最下部の六欲天の中で1番上の「他化自在天」を指す。この天は天魔破旬(てんまはじゅん)といわれ、魔王が住み、仏道修行を邪魔するという。かつて今川義元から天魔破旬になぞらえられた信長は、ついに自らその呼称を用いるようになったのだ。 神仏に頼らない幸福を人々に与え、その幸せを自らの幸せとする魔王。既存の神仏関係者に金品を貢がなくとも、信長に従えば幸福になる。つまり信長自身が神となる、という意思表示である。延暦寺を破滅させ本願寺と争う信長にはふさわしい肩書といえるだろう。 このフロイスの記録は、他に信長が「第六天魔王」を名乗った書状などが存在しないためにやや疑問が残っていた。しかし2017年、愛知県豊橋市の金西寺に伝わる開山記『當寺御開山御真筆』の中で、京都・東福寺の住持をつとめた集雲守藤(しゅううんしゅとう)が、本能寺の変直後に書いたと思われる詩文が発見されたことによって、少なくとも周囲にそう呼んだ人がいたことは証明された。 そこには信長についてこう記されていた。 「六天ノ魔王現形ヲ現ルヤ否ヤ」(信長とは第六天魔王がこの世に現れたものか)

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    「悪魔の手先」「実に悪賢い」外国人が見た豊臣秀吉の裏面

    渡邊大門(歴史学者) 容貌の醜くかった秀吉は次々と主君を変え、最後は信長に仕えた。秀吉が栄達の道を歩んだバイタリティーの源泉は、どこにあったのだろうか。秀吉は遍歴する商人的(連雀商人)な活動をしており、そこから得られる人的ネットワークの活用などに理由が求められてきたが、それは正しいのだろうか。 秀吉が出世を望んだ背景には、貧しさから這い出そうとする、仕事に対するひたむきさや創意工夫があったと考えられないだろうか。以下、外国の史料を用い、そこから明らかになる秀吉の姿を通して考えてみよう。 『一六〇〇年及び一六〇一年の耶蘇会の日本年報』には、秀吉が貧しい出自であったこと、金持の農夫に仕えて薪拾いをしていたことに続けて、次のように記している。  このころ彼は藤吉郎と呼ばれていた。その主人の仕事をたいそう熱心に、忠実につとめた。主人は少しも彼を重んじなかったので、いつも森から薪を背負って彼にいいつけることしか考えなかった。彼は長い間その仕事に従事していた。 秀吉は貧しい生活から抜け出すため、熱心な仕事ぶりを見せていた。同様の記述は、16世紀末に来日したスペイン人の貿易商人、アビラ・ヒロンの『日本王国記』にも書かれている。『日本王国記』は、アビラ・ヒロンが執筆した日本の記録である。アビラ・ヒロンは長崎を中心に東南アジア方面で活躍し、元和5(1619)年頃まで日本に滞在した。 特に、最初の3章の部分は日本社会をよく見聞し、当時の状況をよく伝えていると指摘されている。同書には秀吉について、次のように記している。その頃美濃の国の辺境には、さる裕福な百姓がいたが、他の大勢の下男にまじって、中背の、おそろしく勤勉で、また実にものわかりのよい、藤吉郎(秀吉)という若者がいた。しかし、なにしろこの家では、他の仲間といっしょに山から燃料のたきぎを担いで持ってくるというのが仕事だったのだから、さして重要な召使いではなかったに違いない。 秀吉が富農のもとで下男として薪拾いをしていたこと、また大変勤勉で聡明であったことが記されている。しかし、所詮秀吉は下賤の出身でもあり、大した地位や役割が与えられることはなかったという。それでも秀吉は辛抱して熱心に働いたのだから、その粘り強い性格には驚嘆せざるを得ない。 秀吉に関する『日本王国記』の記述はこれだけに留まらず、秀吉が酒造りに従事していたことも書いている。内容を要約すると、次のようになろう。木下藤吉郎秀吉の像と墨俣城=岐阜県大垣市墨俣町 ある日、秀吉は同僚たちと言い争いになった。主人が理由を尋ねると、揉めている原因は、同僚たちが多量の薪を消費していることだった。秀吉は、少量の薪で十分であると考えたのである。訴えを聞いた主人は、すぐさま秀吉を酒造りの役人に抜擢した。酒造りは、薪拾いよりも重要な役目だった。 秀吉は酒造りの指導者的な立場につくと、的確な指示を作業従事者に与えたという。主人は秀吉に特別な恩賞を与えることもなかったが、二度も同じ指示を与える必要もなかった。秀吉は、図抜けた優秀さを備えていた。やがて、秀吉は下賤の出身ではなく、身分ある人の子息であるとの噂が広がったのである。 秀吉の能力の源泉については、非農業民的な性格から理解されてきた節がある。しかしながら、こうした一面を見る限り、秀吉の高い能力は生来のものであり、ことさら卑しい身分や出自にこだわる必要はないと思う。秀吉に惚れ込んだ信長 言うまでもなく、連雀商人がすべて情報収集能力に長けていたわけではない。ルーチン業務に疑問を抱き、常に改善を意識する秀吉の姿勢は、卓越した天性の能力であり、後天的には身に付かなかったのではないか。 秀吉は各地を遍歴する中で、ついに信長に仕えた。秀吉の聡明さに惚れ込んだ信長の姿は、多くの書物に逸話が記されている。李朝の姜沆(カンハン)の『看羊録』は、日本の内情を秘密裏に本国政府に報告したものである。そこには、秀吉が富農の下を出奔して、信長に仕えた頃の話を次のように記している。 (秀吉は)壮年になってから自分から奮発し、信長の奴隷となったが、これといってとくにぬきんでるところもないまま、関東に逃走して数年を過ごし、また戻って(信長のもとに)自首した。信長はその罪を許し、もとどおりに使った。秀吉は一心に奉公し、風雨、昼夜もいとわなかった。 秀吉が松下加兵衛の下を飛び出したのは、天文23(1554)年だといわれているが、定かでない。ただし、この話は強ち嘘と否定できないようである。 『太閤素性記』によると、若き秀吉は幼友達の一若を頼って、信長への仕官を乞うたという。一若は実在の人物であり、当時信長の小人頭を務めていた。秀吉がいったん関東に逃走したとの記述はほかにないので、単に出奔したということになろう。 『看羊録』の記述には、興味深い続きのエピソードがある。次に示しておこう。 信長はいつも、多くの僕らに市中で物を買わせるのに、必ず高価なものを求めさせたが、その値段が少しでも合わないと、買わずにもどらせた。秀吉にやらせるようになってからは、廉価で貴重なものを買い、それも手早くやってのけたので、信長は大変ふしぎがった。 秀吉の才能が遺憾なく発揮されたと逸話であるが、この記述には注記が施されており、「実際は、秀吉が、信長の恩遇をねらって、自分の金銭の一半を加えたのであった。しかし、他の僕(しもべ)らが知らなかったのである」と記されている。織田信長像 秀吉が代金を補填したという、話の裏があった。しかし、自身の金銭を割いてまでも信長の寵遇を得ようとした秀吉の発想は、ほかの者にはなかったと考えられる。 信長が秀吉を重用したのは、その勤勉実直な姿だった。『信長公記』巻十には、信長のために中国方面で奔走する秀吉を評して「これは見上げるべきであると信長は評価した。夜を昼に継いで駆け回り、秀吉の働きは比類なきことである」と記している。逆に、そこまでしなければ、秀吉は信長から認められなかったに違いない。秀吉の裏の顔 信長の周辺には、実に多彩な人材が仕えていた。その中で秀吉の優れた経済感覚、そして勤勉な姿は他の追随を許さなかった。秀吉が薪奉行をした際、従来の3分の1の量で済む提案をした例を挙げたが、その仕事ぶりを示しており興味深い。 秀吉が従来の職務内容に飽き足らず、革新性を示したエピソードには事欠かない。すべての面において、秀吉は信長の「かゆいところに手が届く」存在だった。秀吉は貧しい出自ながらも、鋭く問題点を見抜き、改革を行う姿勢が信長から高い評価を得た。それだけではない。命じられたことに従い、東奔西走し信長に尽くした。そうでなければ、並み居る諸大名たちと肩を並べることはできなかったに違いない。しかし、勉励刻苦で改革提案型の秀吉には、裏の顔があった。 秀吉の醜悪な姿を告発しているのが、フロイス『日本史』16章の記述である。フロイスは秀吉が「抜け目なき策略家」であったと指摘した上で、次のように述べている。彼(秀吉)は自らの権力、領地、財産が増して行くにつれ、それとは比べものにならぬほど多くの悪癖と意地悪さを加えて行った。家臣のみならず外部の者に対しても極度に傲慢で、嫌われ者でもあり、彼に対して憎悪の念を抱かぬ者とてはいないほどであった。 この記述は、秀吉が信長の死後に天下人となり、天正13(1585)年に関白に就任して以後の内容である。しかも、秀吉はキリスト教に理解を示さなかったので、その点で厳しい評価となっている点は認めざるを得ない。この前段においてフロイスは、秀吉を「悪魔の手先」と評価した。フロイスにとって、秀吉は神をも恐れない悪魔だった。長浜城天守閣跡と秀吉像=滋賀県長浜市 この後フロイスは、秀吉が人の意見を聞き入れず、常に独断専行であり、誰も彼に意見しなかったことを挙げている。さらに、秀吉が恩知らずであり、最大の功績者を追放したり、不名誉に扱ったり、恥辱で報いた事実を告発している。そして、次のように、秀吉の性質を断言した。 彼(秀吉)は尋常ならぬ野心家であり、その(野望)が諸悪の根源となって、彼をして、残酷で嫉妬深く、不誠実な人物、また欺瞞者、虚言者、横着者たらしめたのである。彼は日々数々の不義、横暴をほしいままにし、万人を驚愕せしめた。彼は本心を明かさず、偽ることが巧みで、悪知恵に長け、人を欺くことに長じているのを自慢としていた。 人間の感性や性質は、今も昔もさほど変わらないと思う。現代社会においても、こうした人物は少なからずいるだろう。出世の階段を駆け上る中で、秀吉の人格は以前からすっかり変わり果ててしまった。『日本史』では、秀吉にありとあらゆる罵詈雑言を浴びせ掛けているが、フロイスは秀吉の抜け目ない醜悪な性格を鋭く見抜いていたのである。 こうした秀吉の変わり果てた酷い人格は、別のところでも語られている。姜沆の『看羊録』では、慶長3(1598)年における日本と朝鮮との講和に際し、秀吉が諸将を厳しく叱責している姿について、「(秀吉の)容貌や言辞の、思い上がった傲慢さは、想見するに思わず心が痛み、骨が削られるようである」と評価している。敵方でありながらも、気分が不快になるほどの言葉を秀吉は吐いていたのである。奇異な秀吉の性癖 続けて姜沆が指摘するのは、家臣らを翻弄する秀吉の姿であった。次に、関係部分を掲出することにしよう。(秀吉の)性質は、実に悪賢い。専ら下らぬおどけごとで部下をもてあそび、家康らを侮弄するのは、まるで赤子を弄ぶような具合であった。また、喜んで水売りや餅売りのまねをし、家康らを通行人に仕立てて何か買わせる様子をさせたり、一文一鐺の下らないいたずらごときの腕くらべをさせたりした。 秀吉は自らが権力あるのをよいことに、家康ら名だたる武将をコケにして、「○○ごっこ」のような遊びに興じていた。また、自らも商売人を演じて見せ、諸大名に客を演じさせていた。残念ながら、「一文一鐺」の意味は不明である。こうした下らない遊びに付き合わされた諸大名は、相当な迷惑であったに違いない。 このように秀吉が自身の遊びや趣味に諸大名を巻き込んだ例は、いくつか知られている。たとえば、秀吉が能に狂っていたことは、よく知られた事実である。秀吉自身の生涯をたどった演目を作らせたほどだ。彼は能を鑑賞するだけに止まらず、諸大名に命じて演じさせていた。お茶も同じである。 お茶といい、能といい、秀吉は自身の趣味を諸大名に押し付ける性癖があった。それもこれも、抑圧された厳しい幼年時代の経験が大きく影響しているのではないだろうか。 秀吉の変わった行動は、次第にエスカレートしていった。姜沆の『看羊録』の言葉を借りるならば、「専ら権謀術数で諸将を制御する」というやり方である。次に、その具体的な例を挙げておこう。ある時などは、「(秀吉が)今夜は東に泊まる」などと命令を出しておいて、夕方には西にいたりした。まるで曹操の疑塚の亜流である。ある時は、猟に出て、(秀吉が)死んだふりをしばらく続けた。従者らは、あわてふためき、なすすべを知らなかった。その大臣(大名)らは、平然としたままで動きもしなかった。すでに、それが偽りであることを知っていたのである。 秀吉は死んだふりをした後、生き返った所作をしたという。秀吉は家臣をからかった意識しかなかったかもしれないが、当の家臣――特に事情を知らない者――にとっては、心臓が止まるような思いをしたであろう。しかし、現実に秀吉のイタズラは世に知られており、むしろ上層に位置する家臣らは慣れっこになっていた。 ちなみに「曹操の疑塚」とは、三国志の英雄、曹操があらかじめ72基の墓を作り、死後埋葬しても、どれが本当の墓かわからないようにしたという故事である。 秀吉自身にとっては単なる悪ふざけであったかもしれないが、姜沆から見れば諸将を愚弄(ぐろう)する行為にしか見えなかった。そうした意識の差異には、注意すべきかもしれない。秀吉も天下人である以上、常軌を逸脱した行為は、常識的に考えて慎まねばならないだろう。豊臣秀吉画像(佐賀県立名護屋城博物館蔵) 秀吉は家臣を弄(もてあそ)ぶことを常としていたが、それは少なからず彼の出自と関係したと考えられる。自分より高い出自の大名らをからかうことに、大きな快感を得ていたのではないだろうか。 秀吉は一介の百姓から天下人に上り詰めた苦労人であり、テレビの時代劇などでは、明るくひょうきんなイメージがある。しかし、それは小説家などが作り上げた偽りの姿に過ぎない。自らの出自に強いコンプレックスを抱いた秀吉は、貧しさを克服し出世する過程において、かなり嫌な性格の人間になったのではないだろうか。※主要参考文献 渡邊大門『秀吉の出自と出世伝説』(洋泉社・歴史新書、2013年)

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    ローマ帝国はなぜ移民で滅んだのか

    ても移民政策への布石だが、労働力不足という大義名分だけで安易に進めて大丈夫なのか。いま一度、ローマの歴史をひもとき、この議論を冷静に考えてみたい。

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    「日本の中に別の国」安倍政権はローマの失敗を直視せよ

    三橋貴明(経世論研究所所長) ローマ帝国は元々、一都市国家であったが、領域国家として勢力範囲を拡大していった。そして最盛期には地中海沿岸の全域に加え、ガリア(現フランス)、ブリタニア、ダキア(現ルーマニア)、アルメニア、メソポタミアにまたがる大帝国を築き上げた。ローマ帝国が繁栄したのは、軍事力やインフラ整備(道路や水道など)に関する突出した技術力に加え、「ローマ市民権」を慎重に、同時に着実に拡大していったためである。市民権は、支配下に置いた部族や民族はもちろん、解放奴隷にまで与えられた。 ローマに征服された属州民であっても、補助兵に志願し、ローマ「国家」のために尽くすことで、世襲のローマ市民権を手に入れることができた。当然ながら、ローマ軍には各属州からも優秀な人材が集まり、軍事力が強化されていく。ちなみに、五賢帝の一人として名高く、ダキアを征服したトラヤヌス帝はスペイン属州の出身である。 ローマ帝国は、支配する領域を拡大し、被支配地の人々をすら「ローマ国家の一員」として育成することで繁栄した。ローマ軍に屈した地域では、族長の子弟がローマに留学し(人質という意味合いもあったのだろうが)、完全にローマ化された上で故郷へ戻された。いわゆるソフトパワーをも活用し、帝国の「統合」が推進されたのである。 そういう意味で、ローマ帝国は最近までのアメリカに似ている。アメリカは「移民国家」ではあるものの、アメリカ国籍を取得したい移民は、アメリカ合衆国憲法への「忠誠の誓い」を果たさなければならない。あるいは、法律が定めた場合に「兵役」に従事することも求められる。さらには、「言語」についてもアメリカ英語が強制された(現在は、かなり緩んでしまっているが)。 ローマ帝国の場合、支配領域が拡大したがゆえに「外国人」を「ローマに忠誠を誓う」ローマ市民に育成する必要があった。アメリカは、膨大な外国人が移民として流入するがゆえに、国籍取得に際し「アメリカ国家への忠誠」を求めたわけである。 ローマ帝国にせよ、アメリカ合衆国にせよ「ナショナリズム(国民意識)」を重視し、国家として繁栄した、あるいは繁栄しているわけである。 世界最古の自然国家「日本国」の国民である我々にはピンとこないかもしれないが、外国人を自国に受け入れる場合、ナショナリズムを重視した同化政策が必須なのである。ローマの場合、ゲルマン系民族を受け入れる際など、複数の小規模なグループに分け、帝国各地に分散して住まわせるなどの工夫もなされた。「帝国の中に別の国」が出現し、ナショナリズムが壊れることを、可能な限り回避しようとしたのだ。画像:Getty Images さて、西暦375年、ユーラシア・ステップの遊牧民フン族の脅威を受けたゲルマン系の西ゴート族約20万人が、ドナウ川の対岸からローマ帝国への亡命を求めてきた。当時のヴァレンス帝は、西ゴート族が好みの場所にまとまって居住することを許可してしまった。ローマ帝国の中に「別の国」ができてしまったわけである。 さらに、当時のローマ帝国はドナウ川を越えてきた難民たちを杜撰(ずさん)に扱い、食料すら十分に供給されなかった。結果、ゴート族の難民が蜂起し、同族を次々にドナウ川の向こうから呼び寄せ、ゴート系のローマ軍の兵士たちまでが呼応し、大反乱に至ってしまった。 鎮圧に向かったヴァレンス帝は、378年にアドリアノープルにおけるゴート反乱軍との決戦で戦死してしまう。その後、ゴート族はローマ帝国内部における「自治権」を確立。ローマ市民ではない人々の「別の国」を認めた結果、ローマ帝国(厳密には西ローマ帝国)は滅亡への道を歩んでいくことになる。安倍政権は「亡国政権」 さて、2018年。日本は少子高齢化に端を発する生産年齢人口対総人口比率の低下を受け、人手不足が深刻化していっている。何しろ、人口の瘤(こぶ)の世代が続々と現役を退いている反対側で、彼らを埋めるだけの若者は労働市場に入ってこない。現在の日本の人手不足は必然であり、しかも長期に継続する。 日本の人手不足を受け、経済界を中心に、「人手不足を外国人労働者で埋めよう」という、国民国家、あるいは資本主義国として明らかに間違った声があふれ、安倍政権が続々と日本の労働市場を外国人に「開放」していっている。2017年時点で日本における外国人雇用者数は130万人に迫った。外国人雇用者数(左軸)と増加率(右軸)の推移 出典:厚生労働省 驚かれる読者が多いだろうが、データがそろっている2015年時点で、我が国はドイツ、アメリカ、イギリスに次ぐ、世界第4位の移民受入大国なのである。216年以降、ブレグジットの影響で、イギリスへの移民流入が減少している。2016年、あるいは2017年には、我が国が世界第3位の移民受け入れ大国になっている可能性が高い。 人手不足ならば、生産性を高める。具体的には、設備や技術に投資し、「今いる従業員」一人当たりの生産量を高め、人手不足を解消しなければならない。生産性向上で経済を成長させるモデルこそが、資本主義なのだ。 すなわち、現在の日本の人手不足は、まさに経済成長の絶好のチャンスなのである。逆に、人手不足を「外国人労働者」で埋めてしまうと、生産性向上の必要性がなくなってしまう。安倍政権の移民受入政策は、日本の経済成長の芽を潰す。 その上、安倍政権は2025年までに外国人労働者50万人増を目指す方針を示しているわけだから、あきれ返るしかない。 経済成長に対するネガティブなインパクトに加え、安倍政権の移民受入政策は、日本国民の「ナショナリズム」を破壊することになる。例えば、日本で暮らす外国人が、我々と同じように「皇統」に対する畏敬の念を持ち得るだろうか。ありえない。 日本国は、世界屈指の自然災害大国である。自然災害が発生した際には、国民同士で助け合うという意味におけるナショナリズムが必須だ。被災者を助けてくれるのは、別の地域に暮らす日本国民だ。 「困ったときはお互い様」という「ナショナリズム」なしでは、人間は日本列島で生きていくことはできない。2011年3月、東日本大震災が発生し、福島第一原発の事故が起きた際、東京のコンビニから外国人店員が消えた。多くの外国人が、原発事故を受けて帰国したようだ。筆者にしても、例えば韓国で働いていたとして、原発事故が起きたならば即刻、帰国するだろう。筆者の心の中に「韓国と心中する」などという気持ちは皆無だ。 日本にいる、あるいは「移民」として来日する外国人たちも同じなのである。我々は外国人と「日本国のナショナリズム」を共有することはできない。ローマ帝国は「国の中の別の国」を認め、「市民権」というナショナリズムが崩れたと同時に、亡国に向かい始めた。 そして現代、安倍政権は移民受入により、「安く働く労働者」と引き換えに、日本の経済成長を妨害し、かつ自然災害大国である日本には不可欠なナショナリズムを壊そうとしている。移民受入を推進する以上、安倍政権は「亡国の政権」以外のなにものでもないのだ。

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    ローマ帝国の滅亡は「難民キャンプ」から始まった

    について書かせていただきたい。 まず、先に結論だけいえば、移民や難民の受け入れが成功するかどうかは、歴史的に見ても「価値観や生活レベル、それに文化の違う人々をどこまで社会に溶け込ませることができるか」という点にかかっているということだ。 「グローバル化」とは、国境を越えた「ヒト・モノ・カネ」の動きの活発化であるといわれている。「モノ」と「カネ」の動きは、自由貿易の促進という形で比較的受け入れやすいものと考えられているが、最も厄介なものが、「ヒト」の移動に関する移民や難民の問題である。 本稿では、古代ローマ帝国と、その末裔(まつえい)である現代のドイツが直面している深刻な問題を振り返ることで、この厄介な移民・難民問題の核心を考えるための、いくつかのヒントを提供していきたい。 古代ローマ帝国の崩壊というのは英国の歴史家、エドワード・ギボンの『ローマ帝国衰亡史』をはじめとして、近代の欧州では実にさまざまな知識人たちが論じてきたテーマの一つである。その最大の要因の一つとして、次々に侵入してきた難民の処理を誤ったことにあるのは間違いない。 もちろんローマ帝国自体は、当時から世界最大の多民族・多文化社会である。無数の移民を同化したり、他民族のいる場所を占領したりすることによって数世紀にわたって発展してきた国であった。端的にいえば、当時のローマは現在の欧米のように、移民や難民に寛大だったのである。画像:Getty Images だが、今から1700年ほど前の西暦300年ごろから、状況がおかしくなる。ユーラシア大陸の内部、中央アジアから移動してきたフン族の侵入により、東欧を支配していたゴート族をはじめとする部族たちが追い出され、「難民」としてローマ帝国との国境沿いに大量に集結したからである。その数は、当時としても驚異的な20万人にのぼるといわれている。 それまでのローマ帝国であれば、異文化の「野蛮人たち」を同化させるために、その部族をまとまらせず、小集団に分割して抵抗してこないようにしてきた。いわゆる「分断統治」である。誕生した「難民キャンプ」 ところが、当時のローマ帝国皇帝のフラウィウス・ユリウス・ウァレンス(在位364-378年)に、このゴート族の一部であるテルヴィンギ族を分断するだけの兵力がなかった。しかも、皇帝ウァレンスには労働力や兵隊としてすぐにでも活用したいという意図があったことから、分断せずにまとまって住むことを許可したのである。ここで誕生したのが、いわゆる「難民キャンプ」である。 しかし、ローマ帝国は、難民状態の「野蛮人」であるテルヴィンギ族に対し、食料の中抜きのような腐敗や汚職のせいで、保護が十分に行き渡らず、難民キャンプで暴動が発生する。この暴動を契機として、テルヴィンギ族は本格的な反乱を起こし、国境の外にいた西ゴート族たちと呼応しながら、ローマ帝国の内部で自治権を確立させることに成功した。 そしてゴート族たちは、ついにローマ軍と現在のトルコ領内で行われた「ハドリアノポリスの戦い」(378年)に勝って、皇帝ウァレンスを殺害した。さらに、410年には「ローマ略奪」により、ローマはゴート族の手に落ちた。その後も東欧からやってくる部族たちの侵入が続き、ついに、ローマ帝国は決定的な崩壊を迎えることになる。 この歴史から得られる教訓は、流入し続ける難民の扱いを間違えて同化に失敗すれば、それが確実に国家の生存に直結するような大きな政治問題へと発展する、ということである。 もちろん、スケールの大きさは違えども、現代のローマ帝国の末裔であるドイツ連邦が、同じような形で移民・難民問題に悩まされ始めていることは、実に興味深い。例えば、最近のドイツで注目されているのは、移民・難民による女性暴行事件である。画像:Getty Images 特に象徴的だったのが、6月6日に南西部のヴィースバーデンという都市で14歳の少女が暴行された上、殺害された事件である。難民申請中だったイラク人の容疑者は、事件2日後に高飛びしていた先の同国のクルド自治区で身柄を拘束された。 その他にも、ここ1、2年で亡命希望者(asylum seekers)による性的犯罪が目立つ。実際のドイツ国内の犯罪率は全体的に減少しているのにもかかわらず、増加しているのである。とりわけ、このような難民や亡命希望者の男性による性的犯罪は、ドイツ国内で「中東系の男性に襲われるドイツの白人女性」というバイアス(偏り)の構図に拍車をかけ、実に悩ましい問題となっている。 また、宗教的にも「イスラム教徒がキリスト教徒を襲う」という構図があるだけではない。欧州のリベラルな人々に対しても、「寛大な多元主義」を守るか、それとも「女性の人権」を守るかを迫っているという点で、強烈なジレンマを突きつけているともいえる。 この問題に関しては、ドイツ与党でメルケル首相が率いるキリスト教民主同盟(CDU)の幹部、クレックナー食糧・農業相も、政府に対して、移民・難民の受け入れについて慎重にすべきだというトーンに変わってきている。メルケル氏の後継者の一人といわれるクレックナー氏ですら、有権者たちが直面する異文化との摩擦を目の当たりにして、政策転換を視野に入れ始めているのである。生かすべきはドイツの教訓 彼女が最近出版した本の中では、実際問題として、娘を遠足に行かせなかった移民や難民の両親や、女性教師と握手しなかった男親の存在などを挙げている。 また、全体的に犯罪率は減っているとはいえ、バイエルン州では、2017年前期だけで性犯罪が50%上昇した。しかも、そのうち18%が移民や難民によるものという統計結果も出ている。ドイツは、全体的には「安全」になっているのかもしれないが、それがドイツ国民全体の「安心」にはつながっていないことがうかがえる。 ここで、今ドイツで迫られている移民・難民に関する論点を整理すると、大きく二つの議論に分かれる。一つが「移民は国力になるし、難民受け入れは義務である」というものである。ドイツをはじめとする欧米の先進国による議論のエッセンスは、まさにこの言葉に集約されている。つまり、「経済」と「倫理・道徳」というリベラル的な観点から積極的に受け入れるべきだというものである。 もう一つが「国境を開放してしまえば、ますます社会問題が深刻になる」という反対意見である。要するに「すでに生活している国民の安全を優先せよ」ということだ。だが、この主張をする人々は、とりわけ倫理・道徳面での話を無視していると感じられ、あまりいいイメージを持たれにくい。 確かに、移民や難民問題において、日本とドイツ、さらにはローマ帝国までも比較することは無理な話である。だが、それでも、冒頭で記したように「価値観や生活レベル、それに文化の違う人々を、どこまで社会に溶け込ませることができるか」を真剣に考えなければならないのである。独総選挙で躍進した反移民政党「ドイツのための選択肢」(AfD)に抗議する人々=2017年9月、独ベルリン 果たして、われわれはゴート族が侵入してくるまでのローマ帝国のように、外国から来る人々を上手に同化させることができるのだろうか。それとも、ドイツのように、移民や難民が増えて悩むことになるのだろうか。 移民や難民の適応や同化を間違えれば、いったいどうなるのか。グローバル化している現代だからこそ、われわれも真剣に考えざるを得ないのかもしれない。

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    ローマ帝国は「武装難民」に自由を与え、そして自壊した

    から1500年前、陽光輝く北アフリカの地にゲルマン民族の一派、ヴァンダル人の王国があった。この王国の歴史は一見、歴史ロマン以外のなにものでもない。 ゲルマニア地方の薄暗い森の中から出てきた金髪碧眼(へきがん)のヴァンダル人が長い流浪の末、「英雄王」ガイセリックに率いられてイベリア半島から北アフリカへ渡り、自らの王国を建設した。この王の下でヴァンダル人は強勢を誇り、地中海沿岸各地を海賊のように荒らし回り、455年には「永遠の都」ローマを攻略する。 だが、その後、王国は100年ほどの命脈を保つが、最後はビザンツ皇帝ユスティニアヌスの送り込んだ遠征軍によってあっけなく滅ぼされ、地上から跡形もなく消え去ったのである。しかし、この興亡が歴史ロマンに感じられるのは、われわれがあくまでもヴァンダル人の側に立っているからである。 ヴァンダル人が王国を建てた土地は、ローマ帝国の領土の一部であったのであり、ローマ帝国の住人にとっては、彼らは侵入者であり、征服者であった。ローマ帝国は、なぜ彼らの北アフリカ征服を許してしまったのだろうか。 ヴァンダル人がライン川を渡って、ローマ帝国領に侵入したのは、406年の大みそかの日であった。アラン人とスエビ人もヴァンダル人と行動をともにした。彼らは、女子供を伴っており、何らかの事情で元の居住地を追われた人たちであったのであり、今日の言葉で言えば「武装難民」であった。 ヴァンダル人たちは3年間、ガリア(現フランス)の地を荒らしまわった後、409年にはピレネー山脈を越えて、イベリア半島に入り、その地にいったん住み着いた。ヴァンダル人はハスディングとシリングという二つの部族から成っていた。 ハスディング系ヴァンダル人はガラエキア(スペイン北西部)を、シリング系ヴァンダル人はバエティカ(スペイン南西部)を、アラン人はルシタニア(ポルトガル)とカルタギニエンシス(スペイン中南部)を、スエビ人はガラエキアの北西部を、それぞれ分捕った。 このようなヴァンダル人らの動きに対して、ローマ帝国政府は即座に反応することができなかった。当時、本国のイタリア自体が、バルカン半島のゴート人によって脅かされていたからである。イタリア半島に侵入した、ガイセリックに率いられたヴァンダル人たち(ゲッティイメージズ) そもそも、ヴァンダル人たちがライン川の国境を突破できたのも、イタリア防衛のためにライン川の国境からローマ軍が大幅に引き上げられていたからであった。イタリアのためにガリアは犠牲になったのである。この処置を取ったのは、当時、政府の実権を握っていた将軍のスティリコであったが、スティリコの父親はヴァンダル人であった。 ガリアに入ったヴァンダル人たちにさらに幸いしたのは、407年にブリテン島でコンスタンティヌス(3世)なる軍人が反乱を起こし、皇帝を称して、ガリアに乗り込んできたことであった。このためスティリコは、ヴァンダル人たちよりも、まずは簒奪(さんだつ)帝コンスタンティヌス3世を相手にしなければならない状況になったからである。裏目に出るローマの「温存政策」 結局、ローマ帝国の内乱は、彼らに大きく利することになったのである。結局、ヴァンダル人追討は遅れに遅れて、ローマ帝国政府が動き出すのは、416年になってからであった。 スティリコに代わる実力者として411年に姿を現したコンスタンティウスは、簒奪者のコンスタンティヌス3世を倒すと、続いて先にガリアに入っていたゴート人に命じて、イベリア半島のヴァンダル人らを攻撃させたのである。ゴート人は、瞬く間にシリング系ヴァンダル人とアラン人に壊滅的打撃を与えた。ローマは、「夷を以て夷を制す」ことに成功した。 しかし、ハスディング系のヴァンダル人は見逃された。コンスタンティウスは、ゴート人が圧勝することで彼らが過度に強大化するのを恐れていたのであろう。また同時に、ヴァンダル人に利用価値を見いだしていたのかもしれない。 もともとローマ帝国は、帝国領内の異民族を兵力の供給源とみなし、その力を利用する政策を長年取ってきていたのである。しかし、この政策は裏目に出ることが多く、今回もヴァンダル人の勢力を温存させたことは、帝国にとって大きな災いの種となった。 案の定、生き残ったハスディング系のヴァンダル人が、やがて南下を開始し、その王ガイセリックに率いられて、429年にジブラルタル海峡を渡ることになったからである。北アフリカに渡ったヴァンダル人の総数は8万人であったと伝えられる。 ヴァンダル人が北アフリカに渡ることができたのも、ローマ帝国が内紛を起こしていたからであった。当時、北アフリカの支配権を握っていたのは将軍のボニファティウスであったが、ボニファティウスは、中央政府で実権を握る将軍アエティウスと対立していた。一説によれば、このボニファティウス自身が自らの勢力強化のためにヴァンダル人を呼び寄せたとされているのである。 真相は定かではないが、いずれにしても、上陸したヴァンダル人は、アフリカの都カルタゴを目指して東進を開始した。ボニファティウスも遅まきながら攻撃を試みるが、敗退してイタリアに逃げ戻り、やがて439年にはカルタゴがヴァンダル人の手に落ちたのである。 彼らが占拠した北アフリカは、ローマ帝国で最も豊かな地方であったのであり、この地方を奪われたことはローマ帝国にとって致命的な打撃となった。そして、ローマ帝国はその後40年もたたずに滅ぶことになる。古代のカルタゴ(ゲッティイメージズ) ローマ帝国の滅亡の原因については、さまざまな説が出されているが、以上の事実から明らかなように、それにはローマ帝国の内紛が深く関わっていたのである。ガリアに入ったヴァンダル人が直ちに殲滅(せんめつ)されなかったのは、同じ時期にスティリコとコンスタンティヌス3世との対立があったからである。 また、ヴァンダル人の北アフリカ渡航を許したのも、ボニファティウスとアエティウスの政争の故であった。結局、肝心なところで、ヴァンダル人に行動の自由を与えたのは、ローマ帝国自身であったのであり、この意味ではローマ帝国は自壊したといえるのである。

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    「天下統一の心願成就」はウソ? 信長、岐阜改称の真実に迫る

    橋場日月(歴史研究家、歴史作家) 斎藤龍興に上洛(じょうらく)の野望を妨害され、あまつさえ「河野島の戦い」(1566年)では、いつも味方してくれる雨までが作戦の邪魔をしたために赤っ恥をかかされた信長。復讐(ふくしゅう)の念に燃える彼は、明くる永禄10(1567)年8月、斎藤家重臣の「西美濃三人衆」こと稲葉良通(一鉄)・安藤守就・氏家直元(卜全)の3人を寝返らせると同時に、龍興の本拠、美濃・稲葉山へ攻めかけた。 皆さんよくご存じのように、稲葉山城=後の岐阜城がある金華山は、標高329メートルの非常に高く険しい山だ。しかし、この山は小牧山のように平地に独立しているわけではなく、長良川南岸沿いに広がる山塊の中で一番北にある高い山、という形となっている。 これに対し、信長が攻撃のために布陣したのは、その南西に連なる尾根伝い、158メートルの山だった。 むろん、東の尾根伝いにある西山、南東の洞山、さらにその東の三峰山、その北の舟伏山など、占拠できる山にはすべて織田軍が布陣し、占拠できない山には麓に抑えの兵が展開しただろう。そんな中で信長自身が南西の山を本陣としたという事実は、とても興味深い。 彼は本拠の小牧山城、そして最前線の犬山城から美濃に侵攻するわけだから、南東の洞山に本陣を置いた方が、後方との連絡や退却路の確保など、何かと都合が良いはずなのだ。 ここで『信長公記』の記述から、その作戦の様子を紹介してみよう。「急に出陣し、稲葉山の尾根続きの瑞龍寺山へ登った。斎藤勢が『これはどうしたことか、敵か味方か』と言い合っている間に、素早く城下の町に放火し、あっという間に裸城にしてしまった」金華山(稲葉山)山頂にある岐阜城=4月23日、岐阜県岐阜市(産経新聞社ヘリから、門井聡撮影) その日は強風が吹いていたということで、それを利用して城下の井ノ口を焼き払って稲葉山城の麓を無防備にした。その上で城の周囲に柵を結いめぐらせて完全に包囲を完了した、という流れだ。 いや、ちょっと待ってほしい。うっかり読み流してしまったが、ここで信長が本陣を置いた稲葉山の南西の名前に注目してみよう。「瑞龍寺山(ずいりょうじやま)」である。 この山は全体が瑞龍寺という大きな寺域で、南麓に伽藍(がらん)が建ち並ぶ。山の最頂部には瑞龍寺山頂古墳群があり、岩をくりぬいた前方後方墳が残されている。 確かに信長が本陣を置くには格好の場所だが、それよりも何よりもやはりその名前が「瑞龍寺山」だったことに、大蛇=龍を信奉しその力を自身のものにしようと努める信長は惹かれたのではないか。信長「瑞龍寺を焼いた」のウソ いや、それだけではない。山の北側に続く伊奈波山に鎮座する伊奈波神社という古社には、その名も「黒龍神社」と呼ばれる龍神が祀られているのだ。この社の黒龍大神は、伊奈波神社がこの地に勧請(かんじょう)される以前から山の守り神として信仰を集めていたといい、さらに瑞龍寺の南向かいには「金竜」という町名もある。 「金」は陰陽五行の思想では「水」を制する力を持ち、稲葉山が「金華山」、瑞龍寺山が「金宝山」、他にも周辺に「金」が付く地名が多いのも、一帯が長良川の水を支配する結界となっていたことを示している。信長がこの地を本陣に最適だと選んだのも無理はない。 そう、熱田社が「大蛇=龍」を祀る社であり、小牧山が飛車山(ひくまやま)と呼ばれ、龍音寺の境内だったのと同じだ。龍の力を以て仇敵を制する。桶狭間の戦い以来続けてきた信長は、この稲葉山城攻めでもその信念を貫いて戦いを勝利に導いたのだ。 ここで「いや、ちょっと待てよ」とおっしゃる向きがいらっしゃるかもしれない。「信長はこのとき、瑞龍寺を焼いているじゃないか。龍を尊重するなら、そんなことはしないだろう」と。 確かに、瑞龍寺はこの戦いで織田軍に焼き討ちされ、伽藍はすべて烏有(うゆう)に帰したと伝えられている。しかし、それは本当なのだろうか。 この戦いからちょうど1年後の永禄11(1568)年8月、信長は瑞龍寺に禁制を与えているのだが、その中にこうある。本朝智仁英勇鑑 織田上総介信長(都立中央図書館特別文庫室所蔵)※無断複製、二次使用禁止 「当寺ならび門前の竹木を伐採してはいけない。寺や門前町に課税・布陣・宿営するな。外山で刈り取りするな。先の規定の通りとする」 焼き討ちされ全焼した寺の境内に、1年後にもう実用に耐えるような太い竹や木が生えているわけがないではないか。また、いくら復興が早く行われたとしても、軍勢が陣を置いたり宿泊したりできるような大規模な伽藍や町家がもうできあがっているものだろうか。 外山(伽藍の背後にある瑞龍寺山)の芝などを刈り取るなというのも、寺院が全焼するほどなら当日の強風下、方角からして火攻めで丸焼けとなった稲葉山麓同様に炎上し、はげ山と化して信長が本陣を置くどころではなかったはずだ。なぜ「岐阜」と名付けたか 『増訂 織田信長文書の研究』(吉川弘文館)では焼失にともない、寺は1年遅れで禁制をもらったと説明する。また、天正8(1580)年9月に信長の嫡男、信忠が長良川の水運を利用して瑞龍寺へ運搬する木材について免税していることを挙げて、焼失した瑞龍寺の再建のためのものだとしている。 だが、これはどちらもおかしい。それでは「先の取り決め」は斎藤氏時代のものとなってしまうし、稲葉山城攻めから13年もたったこの時期まで、復興作業は放置されていたというのだろうか。 天正4(1576)年に岐阜城を信長から譲られていた信忠は、この天正8(1580)年に長良川の河原に高さ8尺(2・5メートルほど)の築地(塀)を築いて馬場にし、家中の士の馬術訓練に供するなど、城下の整備を行っている。瑞龍寺の資材運搬についての免税証文にも「再建」ではなく「建立」の文字が使われており、これも市街整備の一環としての新築・造替事業だったのだろう。 瑞龍寺は信長の稲葉山城攻めの際にすでに禁制を授けられていた。そして寺は翌永禄11(1568)年9月7日に上洛作戦を行う前に、大軍の集結によって荒らされるのを防ぐために再度信長の禁制を手に入れたものと考えられる。 戦国時代、瑞龍寺山には砦があったというから、稲葉山城攻め当時、斉藤氏の支城として機能していたはずだ。そのため、信長が本陣を置く際の急襲を最小規模の戦闘に抑えたとしても、瑞龍寺の伽藍が若干の戦禍を受けたとは考えられる。しかしそれはあくまで限定的で、信長はその保護を優先したといえる。織田信長公像=崇福寺所蔵(中田真弥撮影) ともあれ、稲葉山城は瑞龍寺山の信長以下、周囲を厳重に包囲され、援軍の見通しもなく孤立した斎藤龍興は降伏して城を明け渡し、伊勢へと落ち延びていった。この後、龍興は朝倉義景に保護され、最後まで信長に敵対し続けることとなるのだが、その話はまた別の機会に。ここでは、信長が占拠した稲葉山城をどう扱ったか、という話をしたい。 『信長公記』いわく、「小牧山から稲葉山へ移転し、井ノ口という地名を改めて岐阜と名付けた」。清洲から小牧山、さらに稲葉山と本拠を前進させ、稲葉山の城から山下の町までを岐阜と改名したのだ。現在の「岐阜県」「岐阜市」につながる、岐阜の誕生である。「岐阜」に込められた本当の意味 この改名について考えてみよう。一般的には、信長の重臣、平手政秀の菩提(ぼだい)寺の開山も務めた沢彦宗恩(たくげんそうおん)が信長からネーミングを依頼されて、「岐山」「岐陽」「岐阜」の3案を提示し、その中から信長が「岐阜」を選んだ、とされている。典拠となった『安土創業録』(江戸時代中期成立、名古屋市逢左文庫蔵)の該当箇所は、「沢彦和尚へ使者を以て爰(ここ)に来り給へと宣(のたま)う」「信長、沢彦に対面せられ井ノ口は城の名悪し、名を易(かえ)給へと(言った)。沢彦老師、岐山・岐陽・岐阜、此(この)内御好(このみ)次第に然るべしと。信長曰(いわく)、諸人云(いい)良き岐阜然るべしと」「沢彦曰、周文王岐山に起こり天下を定むるとの語あり。此(これ)を以て岐阜と名付候。程なく天下を知ろし召し候はん」となっている。皆が言いやすい「岐阜」が最適だと決めた信長に対し、沢彦は「古代中国の文王は岐山の麓の出身で周王朝を建てました(実際は子の武王の代)。それを参考にしてご提案した名称の一つなので、信長様は間もなく天下をしろしめす(治める)でしょう」と説明したため、信長はひどく喜んだという。 ところが、「岐阜」の名称については諸説あって、『土岐累代記』には「岐阜と号する事は、往古よりの称号にて、明応より永正迄の旧記に多く載する」と書かれている。 実際、その時代の美濃国守護、土岐成頼の画像賛には「岐阜」の名称が使われ、それどころか、さらに時代をさかのぼった『梅花無尽蔵』『仁岫語録』などの応仁頃の史料にも、「岐陽」「岐阜陽」といった名称が登場している。織田家の家紋などを描いた「城御朱印」 さらに、信長の時代にも、永禄4(1561)年の斎藤義龍の葬儀の際に捧げられた偈(げ・仏徳をたたえ、または教理を説く詩)に「岐阜稲葉城主一色左京太夫義龍公」と書かれているし、土岐一族とされる高僧、快川紹喜(かいせんじょうき)が永禄7(1564)年に美濃から甲斐恵林寺へ戻るまで、しばしば「護阜快川」と署名した。 これらを見ると、確かに「岐阜」は信長以前から稲葉山周辺の別の名称として使われており、沢彦が発案したわけではなく、その別名を知っていただけということになるだろう。しかも、信長は何も天下統一を心願として「岐阜」の名称を選んだわけではなく、後からその意味を知らされただけだったというのは『安土創業録』も証言している。 つまり、「岐阜」には、周王朝の故事にならっての天下統一の意味は込められていなかったのである。

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    「木下藤吉郎」も創作だった? 怪しすぎる秀吉のルーツをたどる

    渡邊大門(歴史学者) 豊臣秀吉の出自は、これまで単に百姓ということになっていた。しかし、実際はかなり複雑で、さまざまな説が残っており、本稿ではそれらの説を検討してみようと思う。 最初に、秀吉の生誕年について触れておこう。かつて秀吉の生年月日は、天文5(1536)年1月1日と考えられてきた(『太閤素性記』)。しかし、歴史学者の桑田忠親氏は秀吉の生年について、『豊臣秀吉研究』(角川書店)で、次のように指摘している。・「関白任官記」(『天正記』所収)の中に「誕生の年月を年ふるに、丁酉二月六日吉辰なり。周易の本卦復の六十四に当れり」とある。丁酉の年は天文6(1537)年であり、秀吉の誕生日は2月6日になる。・天正18(1590)年12月吉日白山御立願状之事(「桜井文書」)には、「関白様 酉之御年 御年五十四歳」とある。天正18年に54歳であると、誕生年は天文6(1537)年になる。 以上の点から、従来説の天文5(1536)年1月1日説は否定され、現在、秀吉の生誕年は天文6(1537)年2月6日説が定説となっている。 次に秀吉の出自について考えてみよう。最初に検討する史料は、17世紀後半に成立した土屋知貞の『太閤素性記』である。同書は、秀吉の御伽衆(おとぎしゅう)であった知貞の父、円都や母からの聞き書きがベースとなっている。次に、秀吉の出生に関係する部分を掲出する。「父は木下弥右衛門という中々村の人で、信長の父・信秀の鉄砲足軽を務めていた。多くの戦場で手柄を挙げたが、それがもとで怪我をしたので、中々村に引っ込んで百姓となった。秀吉と「とも」を子に持ったが、秀吉が八歳のときに亡くなった」(現代語訳) 鉄砲伝来は諸説あるが、一般的に天文12(1543)年とされている。弥右衛門が活躍した時代(天文年間初頭)を考慮すると、さほど鉄砲が盛んに用いられたとは考えがたく、「鉄砲足軽」というのは知貞の勘違いなのかもしれない。木下藤吉郎秀吉像=滋賀県 また、木下という姓を名乗っているならば、秀吉の父は有力名主や土豪クラスと考えなくてはならない。しかし、秀吉自身の述懐するところでは、少年期の暮らしぶりは非常に貧しく、百姓身分だったと考えた方が自然で、木下姓は不審であるといえる。 以上の点は、先学が指摘するように、おおむね次のように整理できると思う。(1)土屋知貞には秀吉が「木下」姓を名乗っていた先入観があり、父にも「木下」姓を付けてしまった(小和田哲男『豊臣秀吉』中公新書)(2)朝廷から秀吉が豊臣姓を賜った際、『豊臣系図』を作成したときの工作である。本来は、姓氏などなかった(桑田忠親『豊臣秀吉研究』角川書店) つまり、弥右衛門は「木下」姓を名乗っていなかった可能性が高い。秀吉は正親町天皇の子? 次に取り上げるのは、17世紀初頭に成立した小瀬甫庵の『甫庵太閤記』である。甫庵は秀吉などに仕えた儒学者であるが、同書の内容は誤りが少なくなく、信が置けないと評価されている。同書が記す秀吉出生の経緯は、次のものである。「父は尾張国愛智(知)郡中村の住人で、名を筑阿弥という。あるとき母の懐に日輪が入る夢を見るとすでに懐妊しており、こうして秀吉が誕生したので童名を「日吉丸」とした」(現代語訳) この史料では、父が筑阿弥となっており、弥右衛門の名は出てこない。ちなみに筑阿弥は、織田信秀(信長の父)のもとで御伽衆を務めていたという。おまけに母の胎内に日輪が入った夢を見て妊娠し、やがて秀吉が生まれたというのは荒唐無稽すぎる。 『甫庵太閤記』では筑阿弥を秀吉の実父としているが、他の史料では(木下)弥右衛門を実父とするものが多い。秀吉の父を一百姓ではなく、信秀配下の御伽衆にしたいと考えたのであろうか。 そして次は、秀吉の御伽衆・大村由己の『関白任官記』である。同書は、秀吉の意向に即して執筆された史料になろう。以下に、その関係部分を記す。「その(秀吉の)素性を尋ねてみると。祖父母は朝廷に仕えていたという。仕えていたのは萩の中納言という。今の大政所(秀吉の母)が三歳のとき、ある人の讒言によって遠流になり、尾張国飛保村雲というところで日々を過ごした(中略、ある都人から大政所に歌が贈られる)。かの中納言の歌である。大政所殿は幼年にして上洛し、朝廷に三年にわたって仕え、程なく一子が誕生した。今の殿下(秀吉)である」(現代語訳) 秀吉の祖父母は、荻の中納言なる人物に仕えていた。秀吉の母は3歳のときに尾張国に流されたが、荻の中納言に呼び戻され、落胤(らくいん)として誕生したのが秀吉なのである。つまり、秀吉は正親町(おおぎまち)天皇の子ということになる。 荻の中納言なる人物は史料で確認できず、話の筋もまったく荒唐無稽な内容となっている。由己は、何とかして秀吉を天皇の血統である皇胤(こういん)に結び付けようと考えたのであろう。あるいは、秀吉から指示があったのかもしれない。この説は完全に否定されている。 竹中半兵衛重治の子息、竹中重門の『豊鑑』(17世紀初頭成立)には、秀吉の父祖について2カ所にわたり、気になる記述が見られる。次に、その部分を掲出しておこう。「(秀吉は)尾張国に生まれ、「あやし」の民であったが…」「(秀吉は)郷の「あやし」の民の子であったので、父母の名も誰かわからない。一族についても、同じである」(現代語訳) 歴史学者の服部英雄氏は「あやし」の語に「賤」という字を当て、秀吉が卑賤の出自であったと指摘し、秀吉の賤民出自説の一端へと繋げている(『河原ノ者・非人・秀吉』山川出版社)。 しかし、「賤(いやしい)」には「あやし」という読み方はなく、「怪し」つまり「得たいが知れない」と考えるべきだろう。それが、イコール卑賤(ひせん)を意味したと解釈したほうが自然である。この点をもう少し詳しく検討してみよう。豊臣秀吉を祀る豊国神社=京都市東山区 秀吉が「あやし」の民であったことについては、興味深い史料が残っている。天正18(1590)年、名胡桃城(群馬県沼田市)をめぐる後北条氏と真田氏との争いが端緒となり、秀吉は介入せざるを得なくなった。その際、秀吉は北条氏に直接宛てた宣戦布告状の中で、次のように記している。「秀吉、若輩(若い頃)に孤(一人)と成て(以下略)」(『言経卿記』) この後、若き頃の秀吉が信長に従った過去の出来事などが綴られている。わずか1行にも満たない文章であるが、秀吉自身の言葉でもあり、かつ自分の存在を誇張するものでもない。そう考えると、『豊鑑』の「父母の名前もわからない」という記述は、まんざら嘘でもなさそうだ。秀吉は幼くして、孤児になった可能性がある。秀吉に面従腹背だった諸大名 『豊鑑』のように、秀吉が孤児であったと記したものは乏しいが、この秀吉の書状はその事実を裏付けている。父母の名も分からないとなると、秀吉の母、大政所ですら実母だったのか疑わしい。 もう少し、秀吉の出自について探索してみるが、以降は後世に成った史料(編纂物)から離れ、同時代の一次史料によって秀吉の出自を確認する。 最初に取り上げるのは、毛利氏の外交僧として活躍した、安国寺恵瓊(あんこくじえけい)の書状である。恵瓊は天正10(1582)年6月の備中高松城の攻防後、領土割譲をめぐって秀吉との交渉に臨んだ交渉人である。恵瓊は交渉能力に長けているだけでなく、信長の失脚と秀吉の将来の成長を予言するなど、洞察力が非常に優れた人物だった。 恵瓊が秀吉との領土割譲を交渉する天正12(1584)年1月、秀吉を評して記したのが、次の有名な一文である。「若い頃は一欠片の小者(下っ端の取るに足りない者)に過ぎず、乞食をしたこともある人物であった」(『毛利家文書』) 恵瓊は外交僧を務めており、幅広い情報ルートを保持していたと考えられる。そうなると、若い頃の秀吉が乞食同然の生活を送っていたということは、あながち否定できないだろう。恵瓊は情勢分析にも優れており、非常に信ぴょう性が高い情報であると考えてよい。 そうなると、若い頃の秀吉が乞食同然の生活を送っていたことは、有力な大名間において共通に認識されていた事実だったといえよう。それは、薩摩の島津氏も知っていた。 秀吉の卑しい身分については、遠く九州・薩摩国までも伝わっていた。天正14(1586)年1月、大友宗麟は島津義久の攻撃を受け、窮地に陥った。そこで、宗麟は秀吉に泣きつき、停戦に持ち込もうとした。宗麟の要請を受けた秀吉は義久に停戦を命じ、応じなければ、成敗に及ぶという厳しい通達をした。 停戦を突きつけられた島津氏は、家中で種々議論を重ねるが、その中で秀吉に関する次の記述が見られる。「羽柴(秀吉)は、誠に由来(由緒)なき人物であると世の中でいわれている。当家(島津家)は頼朝以来変わることがない家柄である。しかるに羽柴(秀吉)へ関白とみなした返書を送ることは、笑止なことである。また、右のように由緒のない人物を関白を許すとは、何と綸言(天皇のおっしゃること)の軽いことであろうか」(『上井覚兼日記』現代語訳) この前年(天正13年)、秀吉は「関白相論」に乗じて、摂関家以外で初めて関白に任じられた。あわせて、「豊臣」姓も朝廷から与えられた。島津氏は秀吉を由緒なき人物としたうえで、関白に任じられること事態が「笑止千万」という感想を持ったのである。秀吉の出自が低いということは、遠く薩摩まで知られていたのだ。豊国神社の豊臣秀吉像=京都市東山区 鎌倉時代以来の名門である島津氏にとって、秀吉は「どこの馬の骨」か分からない存在だった。率直に言えば、「名門・島津家が秀吉ごときにとやかく言われる筋合いはない」というのが本音であろう。結局、島津氏は秀吉の停戦命令を無視したが、最終的に島津氏は秀吉に屈し、ミジメな思いをするのは周知のところである。 島津氏内部における秀吉の評価は、ある意味で諸大名の心情を代弁したものであった。ポルトガルの宣教師が作成した「一五八五年の日本年報追加」には、次のような一文がある。「羽柴筑前殿(秀吉)は甚だ微賤に身を起こし、富貴・名誉及び現世の光栄に達したが、多数の競争者は彼が日本の習慣により、車の速に廻る如く没落に近づくことを期待している。日本の諸国は四百五十年来絶えざる変革に動かされていたのである」 1行目の秀吉が貧しい出自であることはこれまで通りだが、2行目の「日本の習慣」が問題となろう。「日本の習慣」の意味することは、3行目の「四百五十年来絶えざる変革」とある武家政権の激しい移ろいであった。 つまり、諸大名は「卑しい身分」だった秀吉の没落を願っていた。面従腹背だったのだ。先の島津氏の秀吉に対する認識は、ある意味で諸大名の言葉を代弁したものであったといえるであろう。 以上のように、秀吉の出自を物語る同時代史料は乏しいかもしれない。しかし、すでに秀吉が生きた時代においても、秀吉の出自がわからなかったこと(あるいは貧しかったこと)が共通認識であったことが判明する。恵瓊に至っては、「乞食」とまで記しており、誠に興味深いところである。 次回は、外国の史料を用いて、秀吉がどのように認識されていたのかを考えることにしよう。主要参考文献渡邊大門『秀吉の出自と出世伝説』(洋泉社・歴史新書、2013年)

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    上洛失敗は祟りのせい? 信長「麒麟」の花押が招いた大蛇の呪い

    橋場日月(歴史研究家、歴史作家) 龍の力を手に入れるべく本拠地を小牧山に移転すると決定した信長。その工事は、永禄6(1563)年2月に開始された。その城は「火車輪城(かしゃりんじょう)」と名付けられる(『定光寺年代記』)。火の車輪の城とはなんともビジュアル的な想像を刺激されるネーミングだが、一体この名前はどういう由来によるものなのだろうか。 「火車」「火車輪」という言葉は、仏教で地獄に落ちた罪人を縛り付けて拷問する、火のついた車輪を意味し、それがのちに地獄から罪人を迎えにくる車輪に転じた。『宇治拾遺物語』にも、昔、寺の米を5斗(1/2石)ほど借りたままにしていた老僧の臨終に際し、地獄の鬼が炎をあげて燃える火車をひいて連れ去りに来るというエピソードが納められており、あまりにも恐ろしいそのイメージは妖怪としての存在に変容していく。 つまり、信長は小牧山城とその主である自身を「正義の象徴」と規定し、逆らう者は悪であり火車輪=織田軍が出動し地獄へ送ってやるぞ、とアピールしたのではないか。昼には日の光を反射してキラキラと輝く石垣が、夜には無数のかがり火が常に敵の視界に入り、いつ何時地獄の使者として織田軍が攻め寄せて来るかと神経をさいなみ続けるのだ。実によくできた演出方法というほかはない。 彼はその後永禄8(1565)年(永禄7年説もあり)に犬山城を包囲して陥落させるのだが、それ以前、犬山城を防衛する支城だった黒田城の和田新助と小口城の中島豊後守が、丹羽長秀の調略によって信長に寝返っている。 特に小口城は小牧山城と犬山城のちょうど中間に位置しており、連日「火車輪」のプレッシャーにさらされ続けたあげく、信清の家老である中島豊後守は降伏の道を選んだのだろう。 身を守る盾を失った格好の犬山城は文字通り「生(はだ)か城」(=裸城)となり(『信長公記』)、二重三重の柵の中に閉じ込められて抵抗のすべもなく開城するのである。小牧山城跡模擬天守 ところで。 先に紹介した『宇治拾遺物語』の火車の話だが、これは非常に興味深い内容を含んでいるので、ここで取り上げておこう。巻第四ノ三「薬師寺別当の事」という項がそれである。 かつて米を少し流用したばかりに地獄に召されかけた老僧は「そんなことで火車に乗せられてはたまらぬ」と慌てて弟子たちに贖罪(しょくざい)の経を唱えさせ、なんとか極楽からのお迎えを受けることができた。 話は「さばかり程の物遣ひたるにだに火の車迎へに来たる、況(ま)して寺物を心のままに遣ひたる諸寺の別当の地獄の迎ひこそ思ひやらるれ」で終わる。この程度の着服ですら火車が迎えに来るのだから、いわんや寺の資財を自儘に使っている今の寺々の寺務長の高僧たちは、皆火車が地獄からお迎えに来ないわけがないだろうよ、というわけだ。「麟」花押のナゾ 信長は、この6年後に比叡山延暦寺を焼き討ちする。彼が『宇治拾遺物語』の火車のくだりを知っていたとすれば、「火車輪城」命名の時点で、すでに焼き討ちについての理論武装ができていたことになる。その理由についてはのちに詳しく紹介するので、ここではそのことを記憶にとどめておいていただきたい。 木曽川をはさんだ対岸すぐにある宇留間城(鵜沼城)、その上流の猿啄城(さるばみじょう)、北方の加治田城・堂洞城(どうほらじょう)は前後して調略や攻撃で織田方の拠点となっていった。稲葉山城の近くにも付城を築いて、斎藤家を牽制(けんせい)する。そして目の前に立ちふさがっていた障害物・犬山城も取り除かれたことで、信長は「いよいよ美濃へ本格進出する時機が到来した」と考えた。 ところがその直前、信長の下には京から意外な知らせが届いていた。5月19日、室町幕府将軍、足利義輝が三好三人衆(三好長慶の死後、三好党を牛耳っていた三好長逸、三好政康、岩成友通)や松永久通に攻め殺されてしまったのだ。永禄2(1559)年に上洛(じょうらく)して義輝に拝謁(はいえつ)した経験がある信長にとって、これは極めてショッキングな出来事だった。 だが、それは信長にとって次の飛躍のチャンスでもあった。義輝の死の直後、6月24日に安見(やすみ)宗房という人物が越後の上杉謙信の重臣・河田長親と直江景綱に宛ててこんな書状を送っている。 「上洛して天下を再興してほしい。尾張などにも要請が行われている」 宗房は義輝の弟、義昭(当時は出家して一乗院覚慶)を担いで天下(幕府)を再興しようと動いていたのだが、この書状の日付以前に、その関係者が信長にも協力を求めていたことがわかる。 そして、この直後から信長は新たな花押(サイン)を使い始めた。有名な「麟」字のものだ。これは伝説の霊獣、麒麟(きりん)からとったといわれるのだが、信長の時代から2世紀さかのぼった頃の臨済宗の学僧・義堂周信は『空華集』という著作のなかでこう述べている。「麟は常の獣とは異なる。麟が姿を現すのは嘉瑞(かずい)であり、至治の世にしか出現しない」。 嘉瑞は吉兆のことで、至治の世は統一された平和な世の中を意味するから、信長は自らの手で義昭を将軍の座につけ安定へ導いてみせる、という誓いを花押に込めたのだろう。同じく神獣である龍の力を恃(たの)む信長が、麒麟のパワーをも取り込もうと考えたのだ。織田信長「麟」の花押 ちなみに、風水の観点から言うと龍は青竜であり、東の守護神にあたる。これに対して麒麟は中央をつかさどり、黄色が象徴色となっているのだが、よく知られた信長の木瓜(もっこう)紋の幟(のぼり)が地黄(黄色く染められた布地)であるのは、麒麟の霊力を期待したものと考えてもあながち的外れではないかもしれない。なにせ、オカルトグッズマニアの信長のことだ。逆にそうしないのが不思議なぐらいなのである。 話はそれるが、「麟」花押の件に触れたところで、信長がそれまでに使っていた花押についても述べておこう。永禄元(1558)年頃からの彼の花押は徐々にアレンジされながら使われたようだが、永禄5(1562)年に見られるものはなんとも独特なもので、研究者の間でも何が元になっているのかは不詳のままだ。しかし、この花押が桶狭間合戦以降に使われていることを念頭に置いてこの図柄をジーーっと見つめていると、筆者にはあるイメージが浮かんだ。 中心の「ロ」部分から周囲に伸びる点は一番外側が大きい。大きな雨粒にも見えてくる。これは、桶狭間で織田軍に勝利をもたらしたダウンバーストの形だ。上空の一点から強烈に放射線状に吹き下ろす風雨。信長はこの「大蛇(龍)の力による熱田の神軍(かみいくさ)」をそのまま花押に取り入れた可能性が高いと思う。その花押を、麒麟に切り替えることによって、さらに一段高く、尾張から天下にはばたく気概を示したのだろう。美濃は武力で制圧せねば 閑話休題。義昭に頼られ、「麟」花押で応える信長。だが道のりは厳しかった。義昭を将軍に就けるためには軍勢を率いて上洛しなければならないが、その道筋の美濃には敵の斎藤龍興が勢力を維持している。信長が犬山城を落とし、美濃中部の諸城を奪ったのは、そんな状況の下だったのである。 信長は12月5日に「ご命令をいただき次第、その日のうちにでも上洛のお供を致しましょう」と義昭の側近、細川藤孝(のちの幽斎)に書き送っている。 ただ、そのためには前提条件が一つあった。上洛の道筋にあたる美濃の斎藤龍興である。この織田家にとっての強敵を説得して織田軍を無事に近江から京へと通過できるようにし、留守中の尾張の安全も確保しなければならない。義昭側は龍興にも働きかけて信長と講和休戦するよう求めた。「尾濃和睦」である。龍興もこれに応じる姿勢を見せた。 この結果、義昭側は永禄9(1566)年7月に奈良で「信長と尾張・三河・美濃・伊勢の軍勢が来月出陣する」と触れ回るなど、すでに上洛が実現間近と喜んだ。しかし、どうも龍興は裏で反織田の策謀を続けていたらしく、信長はやがて上洛を断念してしまう。それどころか、8月29日には美濃の河野島(こうのしま)に攻め込むという挙に出た。 せっかく上洛戦を敢行し、「麟」花押の目指すところを実現するまであと一歩だったのに、龍興の不穏な動きに邪魔されてあきらめなくてはならなくなったのが悔しくてたまらなかったのだろう。 「やはり美濃は武力で制圧しなければ、京への道は開くことができぬ」 信長の美濃侵入はそう思い直した結果であり、また上洛挫折の鬱憤(うっぷん)晴らしでもあったに違いない。岐阜市歴史博物館内にある織田信長像 ところが、である。この作戦は失敗に終わる。折からの大雨で木曽川が洪水を起こし、一帯が水浸しとなったために織田・斎藤の両軍ともに身動きできなくなり、やっと水がひいたのは10日後になってのことだった。川を越えて侵入している織田軍は思いも寄らない長陣に兵糧も乏しくなり、疲れきっていたことだろう。結局信長は退却するのだが、増水した川で少しばかり兵が流される損害を受けたらしい。 こういう場合、敵は「相手は数知れないほど多くの者が川で溺れ死んだ」と宣伝するものだ。斎藤家も、当然そのように世間に吹聴して、信長は義昭の講和斡旋(あっせん)を反故(ほご)にした上に美濃で惨敗を喫したとして「天下の嘲弄これに過ぎず」と信長を笑いものにした(「中島文書」)。 もっとも、信長にとってそんなことよりも無念だったのは、大蛇(龍)の力によって水を味方にすることを心がけてきたにもかかわらず、この一戦では木曽川の水に邪魔をされたことだったろう。

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    大和は超高速戦艦だった? 「世界一の戦艦」建造秘話

    (デアゴスティーニ『週刊 栄光の日本海軍パーフェクトファイル』より) 世界最大を誇った大和型戦艦は、軍縮条約を挟み、実に20年ぶりに建造された戦艦であった。その間の技術的進歩を取り込みながら進められた「新時代の戦艦」の模索は、並大抵のものではなかった。大和型戦艦の計画完成までを追う! 太平洋戦争開戦と前後して竣工し、終戦を前に失われた「大和」型戦艦は、現存する写真や図面が少ないこともあり、しばしば「謎の戦艦」と呼ばれる。だが実際、その建造経緯や設計の変遷については、比較的史料に恵まれている。 「大和」型戦艦の設計が公式に開始されたのは、日本海軍がワシントン海軍軍縮条約からの脱退を決めた昭和8(1933)年頃のことである。主力艦建造を縛るこの条約からの脱退によって、日本海軍は制約を受けることなく自由に戦艦建造ができるようになった。 しかし新型戦艦の建造をにらんだ検討はそれ以前から開始されていた。次期主力艦の主砲を46センチ(18インチ)以上とすることも、パナマ運河の幅の制約により米海軍が46センチ砲戦艦を建造することは困難であるという推測から決定されたものである。 昭和8年に艦政本部四部部長、藤本喜久雄少将が次期主力艦として提案した戦艦案は、排水量5万トン、50センチ(20インチ)3連装砲塔4基、艦載機12機、速力30ノット以上の高速戦艦であった。この設計は技術的に現実味の薄いものだったが、軍令部が空母や巡洋艦部隊と共働可能な高速力を、新戦艦に要求していたことがわかる。 しかし、藤本案は短命に終わる。発表と前後して発生した水雷艇「友鶴」の転覆事故によって、藤本設計に潜む動的復元性不足という欠陥が明らかになったからである。 藤本のもとで設計に従事していた江崎岩吉造船官により再検討された案では、主砲を46センチ砲9門に縮小する一方で、船体規模を拡大し、復元性向上に配慮がなされている。 江崎案から、新型戦艦が誕生することになる。福田啓二造船官をトップに、「軍艦設計の神様」といわれた平賀譲予備役造船中将を顧問として再編成された新型戦艦設計チームの最初の提案は、全長294メートル、排水量6万9500トン、46センチ砲9門、速力31ノットのA140であった。20案から選ばれたのは このA140は、主砲の前部集中配置や機関のディーゼル化など、特色を多く持つ設計だったが、船体規模が大きすぎることを理由に却下された。 艦政本部は、新たにA140のダウンサイジング案を提案。これがA140A〜Dの4案であり、特に有力視されたのが高速戦艦であるA140A(277メートル、6万8000トン、30ノット)と、速力を抑え船体規模も抑制したA140B(247メートル、6万トン、28ノット)である。 艦政本部は船体規模の小さいA140Bを本命視していたともいわれるが、機関をオールディーゼルとするものの、砲塔動力には蒸気を使用するため専用ボイラーが必要となるなどの問題があった。 だがいずれの案でも、軍令部と艦政本部は合意に至らなかった。さらなる検討の過程で、軍令部は当初要求していた30ノット以上の速力を28ノットまで妥協して、攻守のバランスがとれた46センチ砲戦艦を要求した。 一方、艦政本部は、速力のさらなる引下げか、主砲を41センチ(16インチ)砲としてでも建造の容易な5万トン級の戦艦を模索。新型戦艦の検討は長期間におよび、その間に20種を超える設計案が提出された。 長い検討過程で、A140初期案に見られた主砲の前部集中は見直され、機関構成はディーゼルと蒸気タービン半々となり、主砲動力などの問題も回避された。 最終的な決定は、速力を軍令部の要求から一段引き下げた27ノットとする一方、排水量を基準6万トン台にまで引き上げたA140F5(253メートル、6万5200トン、27ノット)となった。A140F5は全体として常識的なデザインであったが、機関構成は依然としてディーゼルと蒸気タービンの混載だった。A-140計画艦そろいぶみの想像図。左からA-140A、B、そしてF6こと大和型戦艦  だがこの機関構成は、潜水母艦「大鯨」におけるディーゼルエンジンの運用実績不良から変更された。機関をすべて蒸気タービンとして燃料搭載量を増やし、全長と排水量をやや拡大したA140F6案(256メートル、6万8200トン、27ノット)が、昭和12年3月に採用された。これこそが、我々の知る「大和」の設計である。戦艦「大和」は、この時ようやく姿をあらわしたのである。(株式会社デアゴスティーニ・ジャパン発行『週刊 栄光の日本海軍パーフェクトファイル』創刊号、写真彩色:山下敦史、CG:松野正樹)

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    「死神」と呼ばれソロモンの激闘を戦い抜いた駆逐艦雪風の真実

    (デアゴスティーニ『週刊 栄光の日本海軍パーフェクトファイル』より) 「雪風」は太平洋戦争を生き残った唯一の艦隊型駆逐艦だ。ソロモンの死線をかいくぐり、数々の海戦に参加し、そして戦艦「大和」の最期も見届けた「幸運艦」とも「死神」とも呼ばれた雪風の真実とは。 日本海軍随一の幸運艦として名高い「雪風」は、「陽炎」型駆逐艦の八番艦として昭和15(1940)年1月20日に竣工し、翌年の昭和16年12月8日の太平洋戦争開戦時は姉妹艦4隻で第十六駆逐隊(十六駆)を編成してフィリピン攻略作戦に参加している。 雪風によって初陣となる最初の氷上戦は、インドネシア攻略に伴うスラバヤ沖海戦(昭和17年2月27日から3月1日)である。だが、この海戦では雪風に戦果はなく、同年6月5日に起きたミッドウェー海戦も空母機動部隊同士の対決で勝敗が決したため、活躍の機会はなかった。 そんな雪風の活躍が始まるのは、ガダルカナル島争奪戦の開始に伴い、ソロモン方面に進出した後からである。米空母「ホーネット」を撃沈してミッドウェー海戦の仇をとった昭和17年10月26日の南太平洋海戦における雪風は、空母「瑞鶴」の護衛として対空戦闘に奮戦し、不時着搭乗員の救助活動も行い、これにより連合艦隊司令長官山本五十六大将から感状を受けている。 ガダルカナル島の米軍飛行場砲撃にともなって発生した第三次ソロモン海戦(第一夜戦、昭和17年11月12日)は、日米両軍の船艇が入り乱れる大混戦となった。その中で奮闘していた雪風は、さらに行動不能となった戦艦「比叡」の援護にあたったが、比叡は自沈し、雪風は他艦と共に比叡艦長西田正雄大佐ら乗員を収用して帰投した。 雪風は昭和18年2月のガダルカナル島撤退作戦にも参加。小舟艇による撤退に方向転換しようとした第八艦隊司令部と陸軍が対立するが、雪風の管間艦長は「濱風」艦長と共に駆逐艦による撤退作戦の継続を主張、作戦を成功に導いた。なおガダルカナル撤退戦について、米太平洋艦隊司令長官ニミッツ大将は「見事な手腕であった」と賞賛している。ソロモンの激闘を戦い抜いた駆逐艦「雪風」 だがすべてが上手くいったわけではない。同年3月2日から3日にかけてのニューギニア輸送作戦(81号作戦)では水面近くで爆弾を投下、跳ねさせて敵に命中させる米陸軍航空隊の新戦術、反跳爆撃(スキップボミング)によって輸送船団は壊滅、護衛の駆逐艦も雪風の姉妹艦「時津風」を含む4隻が撃沈される敗北を味わう。 苦闘の続くソロモン・ニューギニア戦線だが、昭和18年7月12日のコロンバンガラ島沖海戦は、日本水雷戦隊が夜間戦闘において、なお恐るべき存在であることを証明した。 この海戦で日本海軍は二水戦旗艦「神通」を失うが、雪風ら駆逐艦は最初の雷撃の後も魚雷を再装填し反撃、最終的に米駆逐艦1隻を撃沈、軽巡2隻、駆逐艦2隻を撃破すると同時に、輸送作戦も成功させる勝利をおさめた。「大和」の最期を見届け台湾へ 昭和18年末に日本本土に帰還した雪風は二番砲塔を撤去して対空火器や電探(レーダー)の増備を実施して前線に復帰、第十七駆逐隊(十七駆)に所属を変えているが、この頃、すでに雪風には、幾多の激戦を生き残った「幸(強)運艦」という見方がある一方、僚艦が沈没する傍ら生還していることから「死神」と呼ぶ者もおり、十七駆の将兵には雪風を歓迎しない雰囲気もあったという。 第二補給部隊の護衛としてマリアナ沖海戦に参加した雪風は、海戦後に内地でさらなる対空火器の増備を実施して、昭和19年10月のレイテ沖海戦に参加した。 戦艦「大和」らと進撃を続けた雪風は、レイテ湾目前のサマール沖で米護衛空母群と遭遇(サマール沖海戦 昭和19年10月25日)、大和らと共同で米駆逐艦「ホーエル」を撃沈する戦果をあげたが、追撃とレイテ湾への突入は栗田艦長の“謎の反転”によって中止されてしまう。 レイテ沖戦後、内地に帰投した「雪風」は横須賀から呉に移動する大型空母「信濃」の護衛にあたった。雪風の寺内艦長は強く沿岸航路を主張したが、夜間外洋航路をとった信濃は、米潜水艦「アーチャーフィッシュ」の雷撃によって昭和19年11月29日に沈没した。 失意の雪風ら十七駆は、軽巡「矢矧」を旗艦とする二水戦の下で大和の沖縄特攻、天一号作戦に参加することになる。海軍の面子のために立案された作戦に対して、雪風の寺内艦長ほか二水戦各艦の艦長はみな反対したが、「一億総特攻の魁」として作戦は決行された。昭和16年10月、高知県の宿毛湾沖を航走する戦艦「大和」 その行動は、出撃直後から米軍に行動を察知されていた。昭和20年4月7日の米機動部隊による空襲によって第二艦隊旗艦大和以下、矢矧ほか3隻が沈没、第二艦隊司令長官伊藤中将の命令によって作戦は中止された。参加艦艇の半数が沈没した連合艦隊最後の海戦でも雪風は大きな損傷を受けず沈没艦の乗員を救助して内地に帰投した。その後は対空戦闘を行いつつ、人間魚雷「回天」の搭載設備を追加する工事中に終戦を迎えた。 終戦後は復員輸送に活躍した後、昭和22年に中華民国海軍に引き渡され、「丹陽」と改名され国内戦で活躍している。昭和45(1970)年に解体後には蛇輪と錨が日本に返還され、その武勲を今に伝えている。雪風が“幸運艦”か“死神”かはわからないが、武勲艦であることは確かである。(株式会社デアゴスティーニ・ジャパン発行『週刊 栄光の日本海軍パーフェクトファイル』創刊号)

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    バルチック艦隊を撃破した日本海軍「猛訓練」の秘密

    は、戦争の趨勢を決めた戦いであるとともに、その後の日本海軍の運命をも左右することりになり、文字通り「歴史に残る戦い」であった。 日本陸軍が多大な犠牲を代償としつつも、明治38(1905)年1月1日に旅順を占領した時点で、日露戦争で日本海軍の当初の敵であったロシア太平洋艦隊の撃滅は完了した。 しかし、これに先立つ明治37年10月、ロシア本国の主力艦隊たるバルト海艦隊(日本側呼称・バルチック艦隊)の艦で構成されるロシア第二太平洋艦隊が、第一太平洋艦隊の苦境を救うために極東に向けて進発していた。同艦隊は第一太平洋艦隊潰滅後も、極東水域の制海権奪還、それによる満州方面での陸戦の戦局の好転を図らんとして、極東へと進み続けた。 このため連合艦隊は、旅順封鎖終了後に予定通りバルチック艦隊迎撃態勢を整え始める。約3カ月間に渡って猛訓練に励み、艦隊各艦の砲戦及び水雷戦の技量を大きく向上させて、バルチック艦隊を迎え撃つこととなる。 極東地区に唯一残ったロシアの艦隊根拠地だったウラジオストクを目指すロシア艦隊の航路は、対馬海峡から日本海を北上するか、太平洋へ廻って津軽海峡か宗谷海峡を経由する三つの航路が予測されていた。連合艦隊司令部はこの中で対馬海峡経由が一番公算が高いと判断していたが、対馬海峡への到達予測日になってもロシア艦隊は現れなかった。 このため一時は基地としていた鎮海湾(一部は対馬)から、津軽・宗谷の両海峡突破を考慮した地点への移動も考えられた。しかし東郷平八郎司令長官の決断により、連合艦隊はロシア艦隊を現地点で待ち続けた。 明治38年5月27日払暁、済州島付近の哨区を哨戒中だった仮装巡洋艦「信濃丸」がバルチック艦隊を発見、「敵艦隊見ユ 二〇三地点 信濃丸」との報を発したのは午前4時45分のことだった。 「敵艦隊(対馬海峡)東水道ヲ通過セントスルモノノ如く見ユ」との信濃丸からの続報が着伝した5分後の午前6時、旗艦「三笠」より全艦隊に出撃命令が出され、連合艦隊は、日露戦争の行く末を決する艦隊決戦に向かって、勇躍出動していった。連合艦隊がバルチック艦隊を視界に捉えたのは、午後1時39分のことだった(この時の敵艦隊との距離は約13キロ)。神奈川県横須賀市に保存、展示されている戦艦三笠 「皇国ノ興廃ハコノ一戦ニ在リ各員一層奮励努力セヨ」を意味するZ旗が旗艦三笠に掲げられた7分後の午後2時には、ロシア艦隊の北方にあった日本艦隊は西南西に、ロシア艦隊は日本艦隊に反航する形で北東に向かいつつあった。損失は水雷艇3隻のみ このまま進めば日本艦隊は短時間の反航戦の後、長い追撃戦を行うことになったはずだが、午後2時5分、日本艦隊は舵を大きく左に切る、いわゆる“東郷ターン”を開始。ロシア艦隊との並行針路に入った。数分後、ロシア艦隊は距離7~8キロに接近した日本艦隊への発砲を開始する。日本側も午後2時10分に戦闘開始命令が下り、旗艦三笠の発砲開始を皮切りに、戦闘へと突入していった。 午後3時10分まで続いた日露艦隊第一合戦では、ロシア艦隊より優速な日本艦隊は、徐々にロシア艦隊の頭を迎える形で戦闘を行い、主導権を完全に握る。この後日没まで、断続的に戦闘が進み、昼戦終了までにさらに戦果を拡大。また夜明け前までに実施された駆逐隊と水雷艇隊の夜間襲撃により、ロシア艦隊にさらに大きな被害を与える。そして28日午前10時34分以降、残存ロシア艦隊は日本艦隊主力と短時間の交戦の後、降伏した。 日本、ロシア両軍、ほぼ同等の主力艦戦力をもっての艦隊決戦となった日本海海戦。ロシア側は戦闘により自沈含め21隻沈没、降伏時の6隻を加えた計27隻を喪失するという大損害を被っていた。また中立港へ脱出して抑留された艦艇が6隻あり、ロシア勢力下の港湾にたどり着けたのは巡洋艦1と駆逐艦2、特務艦2の5隻のみだった。 これに対して日本側では、損傷艦は少なくなかったものの、損失は水雷艇3隻に過ぎない。両軍の数的損害が示すように、日本海海戦は日本海軍の完勝といえるものであり、ロシア側に戦争継続を断念させて戦争を終結させる大きな要因ともなったのである。(株式会社デアゴスティーニ・ジャパン発行『週刊 栄光の日本海軍パーフェクトファイル』創刊号)

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    信長が日銀総裁なら必ず強行する現代版「土地より茶器」大作戦

    橋場日月(歴史研究家、歴史作家) 織田信長が日銀総裁になったら、というお題を頂戴した。「歴史にifは禁物」というが、魅力的な仮定でもある。さまざまな経済政策を実行した信長だけに、彼が現代日本の貨幣流通・金融管理の元締めをどうリードするのか、考えてみるのも面白いだろう。 史実の信長と経済との関わりでまず挙げられるのは「楽市楽座」だ。「楽」は自由、フリーという意味で、誰でも自由に商売ができ、免税され、領主の権力も介入しないという政策だ。信長はこれを美濃征服の翌永禄11(1568)年9月に、岐阜城下の加納(現在の岐阜県岐阜市加納)で実施した。 合戦で荒れた町を復興させるために手っ取り早く商人を集める手段だったのだが、この政策自体は南近江の六角氏による石寺新市(現在の滋賀県近江八幡市安土町石寺)や、駿河の今川氏による富士大宮(現在の静岡県富士宮市大宮町)の楽市指定など、先例がある。 それにこれはどちらかといえば経産省のテリトリーだろう。問題なのは、信長が加納市に宣言した「楽市」が、「借銭・借米・さかり銭」も免除した点だ。これは「楽市」に「徳政」を組み合わせたものといえる。借銭・借米はそのまま借金を指す。さかり銭は「下がり銭」、下がるは「後になる・後にする」という意味があるから、これは後払い=掛け売りに伴う手数料を指すらしい。 ということは、日銀の業務に例えれば、彼は割り引いた手形をそのまま発行元に返し、割引の手数料や利息分もタダにしたという形になるのではないか。あくまで特例的措置とはいえ、劇薬と言ってもいい金融政策だ。「何がなんでも町を立て直す」。信長の決意の固さが、ここに表れている(彼の懐は痛まず貸主が損をするだけの話だが)。「木造織田信長坐像」=大徳寺総見院所蔵(中田真弥撮影) 「現代の徳政」といわれる日本航空やりそな銀行などに対する公的資金注入にも似ているが、これは金融庁マターだから、日銀の関わりはとりあえず国庫金を払い出す業務のみだろう。 税を免除し、借金を棒引きにすれば、当然ながら短期的に市場の貨幣は増える。その分物価は上昇し、経済活動は活発化するだろう。大幅な金融緩和でデフレ脱却を目指す現在の日銀総裁と、ある意味共通した思想かもしれない。 ただ注意しておきたいのは、日銀総裁と違って信長は経済政策のすべてを総覧する立場だったことだ。彼は流通ルートの開発に励んだし、道路や橋の整備をおこない、舟運の保護にも熱心だった。市場は取引される商品がなければ成り立たないわけだが、その商品の生産についても、地元特産の瀬戸物を保護奨励し、後に志野焼や織部焼が生まれる基礎を作るなど、差別化や増産に努めたことを忘れてはいけない。信長の「新しい手法」 この年に上洛を果たした信長は、明くる永禄12(1569)年、京や奈良に「撰銭(えりぜに)令」を発する。撰銭とは、良質な貨幣とびた銭(劣化したもの、私鋳銭など)を選別して、その扱いに差をつける行為をいう。偽札が厳禁され、劣化した貨幣は回収される現代ではピンと来ないが、当時はそれが当たり前だった。信長は当初この行為を禁止したのだが、少しでも有利な貨幣をと考える人々には受け入れられなかった。 そこで彼は交換レートを定めて、撰銭も決済手段として安定的に用いられるようにし、売買取引がスムーズに行われるよう誘導したのだ。 これは必ずしもうまくはいかなかったが、銭が不足したり、撰銭のせいで流通が円滑に行われず、手っ取り早く米を代価にしたりするなど混乱した当時の状況の中で、信長がなんとか銭を基軸通貨にしようと努力したことは間違いない。それは、有名な「永楽通宝」の銭紋の旗印を掲げた信長にふさわしい政策だった。 おそらく彼が本能寺の変で死なずに天下を統一していれば、徳川家康のように貨幣鋳造事業に乗り出していただろう。この撰銭令も日本銀行の業務でいえば貨幣流通と為替の管理に相当するのではないか。 また、こうして金融政策を駆使して天下統一の歩みを進めていった信長は、「茶湯御政道」と呼ばれる新しい手法も生み出した。大金を投じて名物茶道具を集め、それを手柄のあった部下へ土地の代わりに恩賞として与えるというやり方だ。 信長から茶会を開くことを許され、茶湯に精通した文化人たちからもうらやまれるという名誉に、家臣たちは熱狂した。滝川一益など、「上野国(現在の群馬県)を賜るより茶器が欲しかった」と愚痴ったほどである。信長が新しい価値を創造し、土地に命をかける武士の価値観をガラリと変えてみせたのだ。そんな信長が日銀総裁ならば、おそらく仮想通貨を公認し、よりスピーディーな流通取引を目指すだろう。画像はイメージです(iStock) 以上を総合すると、「日銀総裁」織田信長は貨幣を増産して市場流通量を上昇させインフレに誘導し、金融緩和によって経済活動を活発化させた上に、仮想通貨という新たな基軸通貨を積極的に支持し、全く今までにない国内外の決済システムの構築に向けた取り組みを行っていたことだろう。

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    もし信長が「日銀総裁」だったら

    歴史に「もし」は禁物だが、この人が今の日銀総裁だったらと思わずにはいられない。戦国大名、織田信長である。信長と言えば、型破りの発想で次々と難敵を打ち破ったことで知られるが、実は傑出した経済人でもあった。デフレ脱却が至上命題の現代ニッポン。「戦国の革命児」信長ならどう挑むか。

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    「優れた経済人」織田信長だったらデフレ脱却にどう挑むか

    活性化策を実施し、領国内の経済力強化を実現してきたからでもある。なお、前述の方面軍の話も含め、本稿は歴史的検証が主眼ではないので、歴史的事実については大ざっぱな話をしている点はご了承願いたい。 さて、現代のわが国の経済について、信長ならどう取り組むかということが本稿の主題である。そのために、わが国の経済の現状を簡単に振り返りたい。 2012年12月に安倍晋三首相が政権に返り咲いて以降、わが国の経済がそれ以前に比べれば良好な状態にあることは多くの経済指標が示している。民主党政権時の3年第1四半期間(2009年9月~2012年12月)における2011年基準の実質国内総生産(GDP)の単純平均は約493兆円(年率換算、以下同)だが、直近3年第1四半期間の実質GDPの単純平均は約523兆円と約6・0%増加している。2018年4月、首相官邸で安倍晋三首相(右)と会談する日銀の黒田東彦総裁(春名中撮影) また、民主党政権時の完全失業率の単純平均は約4・7%、直近3年第1四半期間の単純平均は約3・1%と1・6%ポイント改善している。なお、2017年第4四半期の実質GDPは約535兆円、2018年3月の完全失業率は2・5%である。 しかし、デフレからの完全脱却については、まだ道半ばであろう。安倍首相が任命した黒田東彦日銀総裁は2013年4月にいわゆる「異次元緩和」を掲げ、大胆な金融政策を実施してきた。 株式市場をはじめとする金融市場からは、一時期の暗い雰囲気が払拭(ふっしょく)されたといえるが、「物価上昇率2%」という目標は達成できていない。こうした数値目標にこだわり過ぎる必要はないと思うが、わが国が再びデフレ状態に陥る懸念は完全に過去のものになったと断言できないというのが現状であろう。「新人類」だからこそ デフレとは、世の中のモノやサービスの価格(物価)が全体的に継続して下落することである。ただし、わが国の経済がデフレ状況にあるかどうかの定義についてはさまざまな議論があった。 インフレはデフレの逆で物価が全体的に継続して上昇することを指す。細かな定義の議論は別にして、デフレ下では、価格低下→企業収益減少→賃金減少→節約志向→価格低下、といった経済の縮小サイクルが継続することになる。 デフレの原因を極めて単純に説明すると、需要<供給、つまり供給過剰需要不足ということである。インフレはその逆で、需要>供給、需要過剰供給不足となる。いわゆる「失われた20年」とはデフレ的な経済が続いていたことの比喩的な表現であり、少なくとも経済的な活力は感じにくい状況であった。 一方、信長が活躍した戦国時代後期から安土桃山時代というのは、経済的には高度成長時代であり、活力に満ちていた。各地の戦国大名が領国の維持や拡張のために、富国強兵策を展開していた。軍備充実や軍隊動員には多くの需要が発生する。また戦国時代は、従来の価値体系が崩れ去っていく中で、新しい価値の探求が行われていた時代であり、軍事面のみならず農工業分野でも技術革新が進み、農工業の生産性が上昇した。 農村での余剰人口は、商人や職人になるなどして経済全体の供給力拡大に寄与した。戦国大名が公募する足軽に応募して、需要拡大に寄与した側面もあろう。需要が拡大しているだけでなく、供給力も伸長していたのである。折からのキリスト教宣教師をはじめとする南蛮人(当初の主力はポルトガル人とスペイン人)の渡来も技術革新や文化生成に大きな刺激となっている。文化生成は新たな需要と供給を生み出すことにもつながる。 つまり、当時は旺盛な需要によるインフレ的な傾向があるものの、供給力も拡大しており、需給も相まって成長していたのが戦国から安土桃山にかけての時代である。信長はそうした傾向をさらに促進するようなさまざまな施策を実践していたといえる。 さらに、「天下人」としての信長は、こうした施策の実践を、自身の決裁でなし得ていく。いくら「天下人」とはいえ、民衆の支持を失ってしまえば持続性はないが、民衆の支持は施策を実践した結果に対する評価であり、実践段階では信長の自由度は高かった。もちろん、朝廷や家臣などの関係者と全く調整しないでも良いということではない。 翻って現代は、人口減少・少子高齢化が進行している。人口減少は基本的には需要減少要因である。今、わが国が直面しているデフレへの懸念の根本は、中長期的な需要減少が想像されることにあると考える。 こうした事態に対し、当面の対応として、第二次安倍政権発足当初に掲げられた「三本の矢」、すなわち「大胆な金融政策」「機動的な財政政策」「民間投資を喚起する成長戦略」は方針としては正しい処方箋を打ち出していたと考える。「三本の矢の教え」で有名な毛利元就が生涯を過ごした広島県安芸高田市から「三本の矢」を贈られた安倍晋三首相=2013年2月(酒巻俊介撮影) さらに2015年9月には「新・三本の矢」として、「希望を生み出す強い経済」「夢をつむぐ子育て支援」「安心につながる社会保障」を打ち出している。このうち「希望を生み出す強い経済」は従来の三本の矢を強化するということだが、「夢をつむぐ子育て支援」、「安心につながる社会保障」は、人口減少・少子高齢化というわが国の中長期的な需要減少に立ち向かうための政策とも言える。 しかし、「大胆な金融政策」は黒田日銀総裁が先頭に立って実施してきたが、デフレは金融的現象であると同時に実物経済的現象でもあり、金融政策のみで解決できるものではない。他の矢との相乗効果が求められるのだ。 一方、他の矢はさまざまな関係者が関わる政策であり、当初期待したほどに徹底して実施できたとは言いにくいのではないか。例えば「機動的な財政政策」は、首相が積極的であったとしても、国会や財務省の協力なしには進められない。 「民間投資を喚起する成長戦略」も国会や財務省に加え、関係省庁や地方自治体の協力が必要である。「民間投資を喚起する成長戦略」は、行政側の協力が得られたとしても、民間側の意欲が湧くようなものになっていなければ、前には進まない。 前述したように、信長も朝廷や家臣団、あるいは宗教勢力や町衆などとの調整を全くせずに政策を実施できたわけではないだろう。 しかし、各施策についての最終決裁者であるという強力な立場、直属の実戦部隊を持っていること、さらに彼自身が当時の言葉では傾奇者(かぶきもの)や婆娑羅(ばさら)といった「新人類」であったこともあって、これからを担う世代の民衆や家臣の強力な支持があり、多くの施策を積極的に進めることができたのだと推測される。信長ならデフレ脱却を成し遂げる 信長の凄(すご)みは徹底したリアリズムと愚直な実践にあると考える。与件の中でいかに効果を最大化するか、さらに与件をどう変えるか、を徹底的に追及し、できる所から愚直に実践し続けるのが彼の生涯であった。その際、民(たみ)のために天下を静謐(せいひつ)にするという明確な将来への意志があったからこそ、たゆまず努力を続けられ、人もついてきたのであろう。 与件の中でいかに効果を最大化するかの例としては、1578(天正6)年の御所周辺の築地塀の修理が挙げられよう。信長自身が全面的に請け負うこともできたが、京都の町人が請け負う方式が良いのではと、京都の町々に持ちかけた。 町ごとに組を編成させ、区分された築地塀の修理を担当させ、競争の原理を持ち込んだ。さらに当時は「風流踊り」という群衆音楽舞踊パフォーマンスの全盛期だったそうで、町々は自慢の歌手や踊り子を繰り出し、自分の街の分担区域の修理人員の士気を上げたそうである。 「即時にできた」といった内容が『信長公記』(太田牛一著)に記されているそうだが、最初から信長自身が全面的に請け負っていたら、そこまで早くはできなかったであろう。天皇や宮廷の女性たちも見物に来て楽しんだというから、単なる修理が明るい雰囲気の中で進んだことになる。 近年の日本経済では、安倍政権発足当初の「三本の矢」を打ち出し、実践に移していったことが、株式市場をはじめとする日本経済の雰囲気を明るく転換させたことが該当するであろう。 与件をどう変えるかの例としては、地味ではあるが長きにわたって継続してきた朝廷工作が挙げられよう。朝廷を味方につけることができれば、戦国大名の一人に過ぎない状況(実力はあるが公的な存在とは認められていない)から、国家の承認を得た立場となる。福井県越前町織田の「一族発祥の地」に立つ織田信長像(関厚夫撮影) 信長の父、織田信秀は、信長がまだ少年であった1543(天文12)年に朝廷の内裏の修理費用を献納している。信長も朝廷との交渉を早いうちから始めており、1568(永禄11)年の足利義昭を奉じての入京は、既に朝廷との間の了解事項であった。 朝廷から御所の建物の修理を要請されているという形で、信長が入京する手はずは整っていたのである。そこにたまたま足利義昭が頼ってきたタイミングが重なった。近年の日本経済で考えれば、今まさに取り組んでいる「夢をつむぐ子育て支援」などが与件を変えようとすることに該当するであろう。しかし、こうした与件を変えようとすることは地道な努力を長期にわたって続けることが必要であり、すぐに効果が出るものでもない。 信長が現代日本のデフレ脱却という課題にどう立ち向かうかということでは、大きな方針としては、現政権が打ち出している方向とあまり変わらないであろうと想像される。それを民衆の支持を維持しつつ、具体的に何をやるべきかを徹底的に追求し、愚直に実践し続けるということになろう。 ただし、当時のように「天下人」というポジションは存在しない以上、関係者の調整に多くの労力を費やすことになる。信長は理想を掲げて努力を惜しまないであろうから、不慮の死や失脚などがない限り、デフレ脱却をやり遂げるのではないだろうか。

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    信長もできなかった市場との対話、黒田日銀「物価2%」実現のヒント

    が近づくと、自分の田畑がどうしても気になる。他の大名は農閑期に戦を仕掛けるしかないのである。その後の歴史を知っているわれわれは「兵農分離」は当たり前のように思えるが、それを初めて実行した信長は時代を先取りした発想の持ち主だったといえる。 さらに、兵農分離政策は軍律改革や本拠地の移転、城下町の発展という効果ももたらした。信長は戦いに勝利して敵の領地に進軍した際の略奪を禁止した。戦国時代には略奪は一般的に行われており、普段は貧しい農民兵士にとって一種のご褒美のような感覚もあったようだ。ぶれない男、信長 しかし、信長は兵農分離によって兵士の経済的な待遇を確立する一方で、略奪を固く禁じていたのである。実際、信長は上洛(じょうらく)した際に、京の街中で略奪行為を働いた兵士を斬首している。現代の感覚では厳しすぎる処分だが、いかに略奪禁止を重視していたかが分かる。これも当時では常識を越える方針だったといえる。 また、信長は清洲から小牧山、岐阜、そして安土へと本拠地を移転させていったが、これも兵農分離していたから可能だったことだ。信長は数多くの兵士を城下に住まわせることで、城下町を発展させた。このことが経済活性化にもつながったのである。 信長の経済活性化では「楽市楽座」も有名だ。鎌倉時代以来、商工業者は座と呼ばれる同業組合的な組織が独占的に販売を営んでいたが、信長はこれを解散させ、城下では自由に商業販売をさせた。今日風に言えば、徹底的な規制緩和によって既得権益を排除し経済を活性化させるものだった。 また、楽市楽座と同じような趣旨で、信長は関所の撤廃も行っている。関所というと、現代に生きるわれわれは箱根の関所のような公的なものを思い浮かべる。だが、この時代は地域の豪族や寺社、商工業者などが各地で勝手に関所を設け、関銭(通行料)を徴収していたのである。 本来は安全確保のための警備目的だったものが、実態は金もうけと既得権益のようになっていたのだ。このため物資が移動する際、何カ所もの関所を通るごとに通行料を取られるため、円滑な流通が阻害されて物価は高騰し、経済を疲弊させていた。信長はこれを廃止するとともに、主要街道の整備も大規模に実施し、物流や人の往来を活発化させた。 これらの政策、略奪禁止、楽市楽座、関所廃止、街道整備などは、庶民から歓迎されたという。このように、信長は強力なリーダーシップを発揮して天下統一に突き進んでいった。信長の政策はどれをとっても既存の常識にとらわれないものばかりで、信長という人物は時代を超える発想の持ち主でもあった。 こんな話が残っている。日本にやってきたイエズス会の宣教師が地球儀や世界地図を献上した際、信長は宣教師の説明を聞いて、献上品の「正体」をすぐに理解したという。当時、地球が丸いことを知っている日本人が誰もいなかった時代である。その場にいた家臣はだれも理解できなかったのも当然だったであろうが、信長の理解力には驚かされる。 また、宣教師が連れていたアフリカ出身の黒人を大変気に入って譲り受け、家臣にしている。黒人は奴隷出身だったと思われるが、信長は「弥助」という名前をつけて自分の側近にした。弥助は本能寺の変の際に信長に同行しており、明智光秀軍を相手に戦ったという。その際、明智軍に捕らえられた後に解放されたというが、その後の消息は不明だ。 このようなところにも、信長が偏見や既成概念にとらわれない人物であったことがうかがえる。しかも常に天下統一という大目標が軸に据えられていた。その意志は、本拠地の名を稲葉山から岐阜に改めたときから使っていた「天下布武」という言葉に表れている。比較的早い時期からはっきりとした目標を掲げ、一貫してブレなかったのである。主導すべきは日銀総裁だ そのような信長がもし日銀総裁だったら、どのような政策を採るだろうか。おそらく、デフレ脱却・消費者物価上昇率2%という目標達成のために、現在のわれわれの常識を越えた発想で政策を具体化してくれるのではないかと思う。 いや、もっと大きい目標を掲げるかもしれない。日本経済全体の本格復活のために徹底した改革を推し進めるだろう。それはもう日銀の枠を超えるものになりそうだ。 そもそも黒田総裁が5年前に打ち出した異次元緩和自体、従来の日銀の常識を打ち破る政策だったわけで、少なくとも物価を下落から上昇基調に転換させた効果は上げている。 しかし、日銀の金融政策だけでは限界があるのも事実だ。物価目標を達成してデフレ脱却を確実なものにするには、金融緩和を継続しつつ、同時に日本経済の成長力を高める抜本的な政策が不可欠である。別の言い方をすれば、最大目的はデフレ脱却と日本経済再生であり、2%はそのための数値的目標ということだ。 ただ、その目的を実現するのは、日銀というより政府の仕事だ。現状ではその点はまだ不十分で、もっと徹底した改革が欠かせない。もし信長が日銀総裁なら、経済改革を政府に迫るなどしてリードしていくだろう。むしろ信長総裁が改革を主導して政府を引っ張っていく構図になりそうで、それを期待したい。むろん、あくまで現在の制度や権限を無視して言えば、の話だが…。 黒田総裁が目標を達成するには、こうした信長的要素を取り入れて政策を具体化できるかが、一つのカギとなりそうだ。 その場合、一つ注意点がある。信長が部下や世間とのコミュニケーションでは課題を残したようにみえることだ。前述のように、信長は「天下布武」という大目標を掲げて数々の常識破りの政策を採ったわけだが、彼の真意や狙いを配下の武将たちがどこまで理解していたかどうか。京都市中京区にある本能寺跡の石碑=2016年4月(門井聡撮影) また、信長と敵対する戦国大名や宗教勢力らが「反信長連合」を形成して最後まで信長を悩ませたことも、世論形成ではうまくいかなかったといえる。 これを現在の日銀になぞらえれば、市場との対話がより重要だということである。今後は、金融緩和政策のあり方や出口戦略をめぐる議論が従来にも増して活発化することが予想される。そうであればあるほど、日銀の政策や考え方をしっかり市場に説明して理解を広げる努力が必要になるのである。

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    歴史」を学べば、経済の仕組みが見えてくる

    んと理解している人はごくわずかだろう。なぜ、経済や金融の世界の話は難しく感じられるのか。その理由を「歴史を理解していないからだ」と説くのは、経済評論家の渡邉哲也氏。新著『「お金」と「経済」の法則は歴史から学べ!』を発刊した渡邉氏にお話を伺った。 至極当然のことですが、社会は巨大な仕組みで出来ています。それを仲介するのがお金です。そして、お金も仕組みで出来ています。その大きな変化が起きたのが明治維新であり、明治維新以降の歴史を知らなければ、お金のしくみも社会の仕組みも知ることが出来ません。 しかし、学校ではほとんど近代史を教えず、お金のしくみも教えてくれません。私はここに大きな問題があるのだと思います。 そして、そのための教科書を作るべきだと考えました。そして、出来上がったのが『「お金」と「経済」の法則は、歴史から学べ!』です。 すべての物事は、原因があり過程があって結果が生じます。日々接するニュースは所詮結果に過ぎず、結果だけを追いかけていても問題は解決しません。これを解決するには、原因と過程の分析が必要であり、それを行うためには仕組みを理解する事が大切なのです。 また、歴史は繰り返すというように、本質的な仕組みが変わらないかぎり、形を変えて同じような出来事が起きるわけです。これを理解することは未来予測にも非常に重要になります。 皆さんが日々当然のように使っているお金ですが、そのお金にも歴史歴史が作り上げた仕組みが存在します。 現在のお金のしくみは明治維新以降の金本位制による中央銀行と中央銀行が発行する紙幣の仕組みに依存しており、第二次世界大戦末期に作られブレトンウッズ体制と呼ばれる仕組みがそれを支えています。これは基軸通貨ドルを生み出し、ドルの世界的な金融支配を生み出しているわけです。東京都中央区の日銀本店(早坂洋祐撮影) そして、これが覇権国家アメリカの最も大きな核であり、現在も最大の力の源になるのです。これを理解すれば、今の世界情勢も見えてくるわけです。 また、現在の日本の経済の仕組みもこれに依存します。そして、バブル以降の経済の変化とグローバリズムの本質を理解するためには、「金融ビックバン」を知ることが大切になります。 かつて鎖国状態であった日本の金融ですが、金融ビッグバンと呼ばれる大規模な自由化により世界の金融システムの一部になり、日本の金融を日本だけで語ることが出来なくなったわけです。同時にそれは株や為替だけでなく、日本のアジア戦略や世界戦略にも直結するわけです。 そして、本書では、このような本質的仕組みとデフレやインフレといった具体的用語と事例を徹底解説しているのです。大英帝国の統治が生んだ「オフショア」 本書では直接的には触れませんでしたが「パナマ文書」も英国の金融の歴史を学ぶと理解できます。 問題の「オフショア」ですが、これは英国の大英帝国時代の植民地統治のための仕組みであり、これが英国の金融システムを支えてきたわけです。英国の首都ロンドン。実はロンドンには二人の市長が存在します。1人は大ロンドン市の市長であり、これは選挙で選ばれた市長です。 そして、もう一人の市長はロンドンの中の治外法権の自由都市「シティ・オブ・ロンドン」(通称シティ)の市長で、様々なギルドの重鎮から選ばれる一年任期の名誉職なのです。 もともと、英国は世界各国に植民地を持っていました。そして、その植民地には英国女王が任命した領主が存在し、領主が自由な自治を行っていたわけです。 今も大英連邦の諸国にはその歴史が息づいています。独立国となったオーストラリアやカナダですら、この片鱗が残っているわけです。 オーストラリアやカナダには地域の領主を意味する「総督」が存在し、外交儀礼上の地域の最高責任者は首相ではなく「総督」なのです。ですから、国家のトップはNO2を意味する首相なのです。そして、未だに他国の外交官が赴任した場合、総督に任命状をお届けするわけです。ロンドン証券取引所(iStock) そして、この仕組を利用したのが「オフショア」であり「タックス・ヘイブン」だったわけです。英国の自治領に、「匿名で取引でき税金がかからない地域」を作り、ロンドンのシティの金融機関が世界中から資金を集め巨大な手数料ビジネスを行ってきました。 また、このような地域は英国領の一部ですから、英国の金融ルールが適用される仕組みになっており、英国の金融機関にとっては安全な地域でもあったのです。もともとは英国の貴族のための仕組みを新興貴族ともいえる富裕層が利用したのが今回の問題の本質といえるわけです。 そして、今回のパナマ文書で中国人やその関係者が多い理由もここに起因します。 かつて、英国の植民地の一部であった自由都市香港も英国の金融とアジア戦略の要でありました。しかし、香港は返還期限のある租借地であり、期限到来に伴い中国に返還されました。この際、多くの香港人特に富裕層は、これを恐れ英国の他のタックス・ヘイブンに資産を移したわけです。 この手助けをしたのがHSBCを中心とした英国の銀行であり、この現地代理人が今回文書の流出したパナマの法律事務所だったわけです。そして、この時の記録(設立に関するパスポートデータや資金移動など)がパナマ文書ということなのです。このように歴史を学ぶと本質的なものが見えてくるわけです。わたなべ・てつや 経済評論家。1969年生まれ。日本大学法学部経営法学科卒業。貿易会社に勤務した後、独立。複数の企業運営などに携わる。内外の経済・政治情勢のリサーチ分析に定評があり、さまざまな政策立案の支援から、雑誌の企画・監修まで幅広く活動を行なう。著書に、『中国壊滅』『ヤバイ中国』(以上、徳間書店)、『「瑞穂の国」の資本主義』『世界の未来は日本次第(共著)』(以上.PHP研究所)など多数。近著に『日本人が知らない世界の「お金」の流れ』(PHP研究所)がある。関連記事■ 人気エコノミストが教える「マイナス金利」■ 藤巻健史 私が「今はドルを買え」という理由■ 将来が不安な人のための「不動産投資」入門

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    信長が「おっぱい観音」に引っ越しを決めた理由

    橋場日月(歴史研究家、歴史作家) 大阪城の東、大阪市城東区に鴫野(しぎの)という土地がある。かつて大坂冬の陣で幕府軍の上杉景勝勢と豊臣軍の井上頼次・大野治長らが激突した古戦場で、城東小学校と八劔(やつるぎ)神社のあたりが上杉勢の陣が置かれた場所といわれているが、この八劔神社には次のような伝承が残る。 応永年間―室町3代将軍・足利義満の頃、近辺の住民の夢枕に「熱田の神」が立ち、「民を救うためこの地に現れようと思うから、明日淀川の岸辺で待て」と告げた。翌日、川には蛇が現れて鴫野村に入ったため、人々はそこに祠(ほこら)を建てた。それが社の始まりである、という内容だ。 この縁起でもわかるように、熱田社の神は蛇の姿で現れる。八劔神社の副祭神としては素戔嗚尊とその妻・奇稲田媛命(クシナダヒメノミコト)、八頭大神(ヤスノオオカミ、ヤツガシラオオカミ)などがあるが、素戔嗚尊は熱田社の副祭神でもあり、また八頭大神というのはとりもなおさず八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を指すものだろう。ここでも熱田・八岐大蛇・蛇は密接に結びついている。 また、武蔵の国の一宮として知られる埼玉県さいたま市の氷川神社は、境内に残る「蛇池」が発祥とされているのだが、この蛇池は見沼田んぼに流れ込む水源のひとつで、ここでも蛇=水の神となっている。さらにこの神社の主祭神も須佐之男命=素戔嗚尊であり、水の神、嵐の神としての性格を持つとされ、素戔嗚尊=大蛇の力を得た神=蛇=水という関係性が成立している。 ここでもう一度桶狭間の戦いを振り返ってみよう。信長はダウンバーストの発生を予測し、熱田の神に祈り、桶狭間に向かった。やがて、計算通りにひょうまじりの激しい風雨が西からやってきた。それは桶狭間の北東・沓掛付近に生えていた直径1mも1・5mもある楠の大木までなぎ倒してしまうほど強烈なものだった、と『信長公記』は記録し、これには皆「熱田大明神の神いくさか」と驚き合った、と続けている。この場合のいくさは「戦」ではなく「軍」と書く。熱田神宮に遺る信長塀(著者撮影) 熱田大明神の神軍。風雨は熱田社の神の軍勢だ、という意味である。神軍が味方となってくれた、と信長方は狂喜し、勇みたった。何しろ、つい朝方に信長が熱田で必死の願いをささげていたばかり。信長も鳥肌を立てたオカルトグッズ 大敵を前にしてわらにもすがりたい思いの彼らが、「御大将には熱田の神、大蛇の神、雨ごいの神、水の神がついている、その証拠がこの大風雨だ!」と信じ込んだとしても何の不思議もない。『甫庵信長記』には、信長自身も熱田社から神宝のふたつの聖石――風を呼ぶ石と水を呼ぶ石を借り出してきていたとある。これが本当ならオカルトグッズの好きな信長らしい話で、その効き目の大きさに彼も鳥肌を立てていたのではないだろうか。 こうして神懸かりとなった織田軍は一丸となって今川軍に攻めかかっていき、信長は起死回生の勝利を得たのだ。桶狭間の長福寺には、この戦いで戦死した者の菩提(ぼだい)を弔う位牌(いはい)がある。それには、今川軍の死者2753人と記されている。 この戦いの経緯と結果は、のちに信長と家臣団に重大な影響を及ぼすこととなった。討ち死にした敵の総大将・今川義元は、緒戦で織田方の先鋒(せんぽう)隊を殲滅(せんめつ)したときに「義元の矛先には、天魔鬼神もたまるべからず」と豪語したが、図らずも彼は自分を天魔鬼神=魔神になぞらえた信長に敗れてしまった。 信長自身も、自分こそは蛇神と一体となり雨・水を自由にできる超越者、特別な存在――神であるという意識をこの時にハッキリと持ったことだろう。以降、信長はそれまで以上に大蛇・龍のパワーを意識してふるまうようになり、家臣たちは信長を神のようにあがめ始めたのだ。長福寺 この時期から数年の後、信長と面会したイエズス会宣教師のフロイスは報告書で、織田家の家臣たちが主君・信長を極めて凶暴な獅子のように恐れ畏(かしこ)む様子を描写し、「(信長は)尊大にすべての偶像を見下げ」ていたと記しているが、それも道理。信長自身が自分を霊験あらたかな大蛇神・龍神と一体化した存在と信じているのだから、他の神仏に頭を下げる必要はないではないか。 かつて信長に反抗した家臣たちも全員が神格化された信長にひれ伏し、織田家の人々は次の目標・美濃征服にベクトルを一致させたのだった。キモは「引っ越し」浅井長政像=滋賀県長浜市(関厚夫撮影) しゅうと・斎藤道三を討ったその息子・義龍は永禄4年(1561)に急死した。その死について、引導役の快川和尚(のちに甲斐の恵林寺で織田軍によって焼き殺されることになる人物)は「大地のすべてを呑み尽くす蒼龍」と評している。信長とともに龍に縁のあるあたり、いかにも好敵手としてふさわしい大人物だった。 これを好機と見た信長は、2日後に美濃へ侵入する。森部(現在の岐阜県安八郡安八町森部。岐阜羽島駅の長良川対岸)で斎藤軍と交戦した信長は、敵に「天の与える所だ」と挑みかかっていったという。仇敵の死はまさに彼にとって天の意志、神の意志なのだ。これ以降、「天ノ与フル所」というセリフは、信長の常套(じょうとう)句となっていく。 だが、義龍の跡を継いだ龍興を奉じる斎藤家臣団は手ごわかった。信長は数回にわたって美濃に手を出してははね返され、手詰まり状態となる。これを解決するために、外交と内政の両面で新たな手を打つ必要が出てきた。そこで信長が打った手とは何だろうか? ひとつは北近江の浅井長政との同盟。美濃を背後から牽制(けんせい)してもらうために、信長は長政に妹のお市をこし入れさせたのだ。 そしてもうひとつ。これが今回のキモ、永禄6年(1563)の本拠地移転である。この年、信長は清洲から小牧山へ居城を移したのだ。美濃国境に近い小牧山は、広々とした濃尾平野の中心にただひとつ、標高86mの独立峰となっており、美濃だけでなく尾張国内に残った敵、犬山城も見下ろすことができる。本拠を動かすというのは大変な事業だが、信長はそれだけの戦略と政略の価値があると信じたのだ。 ところが、この小牧山城移転には面白い話があって、信長はまず二の宮山という高山に引っ越すと家中に告知したという。発展して便利な生活を送っていた清洲から離れることを嫌った家臣たちは大ブーイングだったが、信長が「やはり二の宮山はやめて小牧山にする」と触れ出したため、「それなら河川が近くを流れているから引っ越し荷物の運漕(うんそう)ができて楽だ」と皆喜んだ。 これが信長の手で、最初から小牧山に移るというよりも、もっと不便な場所を提示しておいてから小牧山に変更した方が、家中の抵抗も少なくなるという計算だった、と『信長公記』は感心しているが、これはどうだろう?自らを神と信じる信長が、家来の反発や引っ越しの便宜を気にかけるものか?また信長を恐れ畏む家臣団が、表だって不満をぶつけるものか?決め手は「おっぱい観音」の正式名称 そこで、このフランチャイズ移転プロジェクトを詳しく検討してみよう。この話に出てくる二の宮山というのは、犬山城の南で小牧山からは北東方向、2カ所のほぼ中間点にあたる尾張国二ノ宮、大縣神社の山のことと考えられる。  この二の宮山も平野の中にポツンとある山で、しかも小牧山よりもさらに北に位置しており、とりでとして活用できる青塚古墳もあるため、拠点にはうってつけだ。それにも関わらず、信長は二の宮山でなく小牧山を選んだ。実は、そこにも信長の大蛇・龍への傾倒が影響しているのだ。 二の宮山に鎮まる大縣神社は尾張最古(つまり熱田社よりも古い)とされる由緒ある神社だが、女性を守る神として知られる。信長にはあまりひかれるところがない神というわけだ。これに対する小牧山だが、この山もどうやらかつては信仰の場所だったらしいのだ。 その寺院は、間々観音。現在は小牧山の北東隣にある寺で、伝承によれば「信長の命で小牧山から移転させられた」という。小牧山に移転し全体を城に造り替えるのに伴う措置だろう。この間々観音は間々乳観音ともいい、俗に「おっぱい観音」とも呼ばれる。文字通り健康な母乳をたくさん赤ん坊に与えられるよう祈りをささげる場所だ。 「なんだ、それでは大縣神社と変わらないじゃないか」と思われるかもしれないが、この寺、正式には「龍音寺」というのだ。龍。寺号にはしばしば使われる文字ではあるが、いかにも信長が飛びつきそうな名前である。 しかも、山号は「飛車山(ひくまやま)」。小牧山の古名が「飛車山」だったそうで、寺もそれを山号としていたのだ。 飛車は成ると「龍」「龍王」になる。信長は、龍の音にひかれ、どうせなら二の宮山よりも小牧山を選び、その別名・飛車山を自分の手で成らせて(造り替えて)龍王山にしようと考えた、とも想像できるではないか。信長が小牧山を選んだのは、意外にもそういう理由だったのかもしれない。彼は自分の手で龍王の城を築き、さらなるパワーを手に入れようとしたのだ。円頓寺商店街にある織田信長公像=愛知県名古屋市(中田真弥撮影) 現在、小牧山では小牧市による発掘作業が進められており、現地では信長による小牧山城跡のものと考えられる石垣の石材などが大量に積み上げられ調査を待っている。往時、これらの石材で固められ日の光を反射する小牧山城の主要部分は、遠く美濃からでも目に入り、信長の富と力の象徴として敵を威嚇するとともに、龍神の降り立つ「磐座(いわくら)」としても大いに存在感を発揮したことだろう。 次回はいよいよ、信長による稲葉山城攻めと龍・大蛇との関わりについて触れていこう。

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    本能寺の変と「中国大返し」の謎、秀吉共犯説はこれで論破できる

    渡邊大門(歴史学者) 天正10(1582)年6月2日に勃発した本能寺の変には、羽柴(豊臣)秀吉が関与していたとの説がある。周知の通り、秀吉は主君である織田信長の死を知ると、備中高松城(岡山市北区)で毛利方の部将、清水宗治と交戦中にもかかわらず、急いで毛利氏と和睦を締結した。 その直後、「中国大返し」と称される尋常ならざるスピードで備中高松城から上洛し、同年6月13日の山崎の戦いで明智光秀を討った。これだけのスピードで戻るのには、秀吉が事前に光秀の計画を知っていないと不可能だと指摘する論者がいる。 はたして秀吉は、事前に光秀の挙兵を察知していたのだろうか。以下、その論点を挙げて、一つ一つを検証することにしよう。 スペイン人の貿易商人、アビラ・ヒロンが執筆した『日本王国記』には、「家康をはじめ、まだ臣従していなかったその他の人々も、内密にではあったが明智の側に加わっていた」と書かれている。「その他の人々」のなかには、秀吉も含まれていたと考えているようだ。つまり、秀吉は光秀に与していたという解釈である。木下藤吉郎秀吉像=滋賀県・JR長浜駅前 ヒロンは生没年不詳。文禄元(1594)年に平戸へ来日し、以後は東南アジア方面を往来し、慶長12(1607)年に日本に戻った。少なくとも元和5(1619)年までは、日本に滞在していたという。 彼の手になる『日本王国記』は、当該期の日本の事情を知る上で、貴重な史料と評価されている。特に、商業や貿易関係の記述は、重要であるとの指摘がある。なお、残念ながら同書の原本はなく、写本だけが伝わっている。 ところが、ヒロンと同じく16世紀末頃から17世紀初頭に日本に滞在したスペイン人のイエズス会士であるペドロ・モレホンは、『日本王国記』の記述内容について「著者みずからは正確であるといっているにもかかわらず、彼の日本に関する知識の僅少の故に数多くの誤りがある」と述べている。つまり、『日本王国記』の記述を全面的に信用するのは、危険であることを示唆している。 本能寺の変が勃発したのは、ヒロンが来日する14年前の出来事で、彼自身がどうやって秀吉が光秀に与していたかという情報を知り得たのか判然としない。おまけに『日本王国記』の記述内容が不完全な可能性が高いとするならば、秀吉と光秀が結託していたという説を素直に受け入れるわけにはいかない。よって、『日本王国記』の秀吉が光秀に与していたという記述には、いささか疑念を持たざるを得ないのである。 ほかにも、秀吉が本能寺の変に関与したと主張するユニークな説明がある。秀吉は毛利氏の政僧だった安国寺恵瓊(あんこくじえけい)と謀り、備中高松城の攻防中に毛利氏といつでも和睦を結べるようタイミングを調整し、信長横死の一報が届けられるとともに「中国大返し」で上洛したという説明がそれだ。はたして、これは事実と考えてよいのだろうか。秀吉と安国寺恵瓊の関係 ここでは和睦と書いたが、実質は一時的な停戦である。山崎の戦い後、毛利氏と秀吉は領土確定をめぐって、協議を進めることになる。つまり、詳細を後日詰めることを前提とした和睦であり、秀吉が信長の仇を取るべく急いでいたのは事実であろう。 この説の前提として重要なのは、織田氏の取次の秀吉と毛利氏の取次の恵瓊は互いに旧知の間柄であり、決して備中高松城の現場では一触即発の事態ではなかったという。織田氏と毛利氏との全面戦争にもかかわらずである。つまり、表面的には戦っているふりをしているが、秀吉と恵瓊はグルだったということになろう。 秀吉と恵瓊はたしかに旧知の間柄で、恵瓊は秀吉の台頭を予言し、その優れた手腕を評価した人物である。しかし、旧知であるなどの理由だけで、2人が共謀していたというのは、まったく話にならない説明である。2人が共謀していたという、たしかな証拠を提示しなくてはならないだろう。 信長の横死後、恵瓊は主導的な立場で、秀吉との和睦を独断で結んだといわれている。しかし、それは信頼できる史料に書かれているものではなく、関ヶ原合戦後の恵瓊の評価を考慮する必要がある。 慶長5(1600)年の関ヶ原合戦後、毛利氏は120万石から30万石の大名へと転落した。その際、毛利氏や吉川氏は恵瓊に責任を転嫁すべく史料を改竄(かいざん)するなど、さまざまなアリバイ工作を行い、恵瓊の独断専行ぶりを特に強調した。『陰徳太平記』は、その代表的書物だ。同書ではことさら恵瓊を論難している。重要文化財「関ケ原合戦図屏風」(右隻、大阪歴史博物館蔵) したがって、恵瓊の独断により秀吉と和睦を結んだというのは明確な根拠がなく、後世のでっち上げとすべきものである。 補足しておくと、恵瓊は毛利氏のみならず、秀吉にも仕えるという身分だった。このこと自体は、さほど珍しいことではない。秀吉と恵瓊がグルだったと主張する論者は、恵瓊が毛利氏に滅ぼされた安芸武田氏の子孫であることから、毛利氏に対して忠誠心がなく、いつかは毛利氏の足元をすくってやろうとしていたと指摘する。 しかし、恵瓊が毛利氏の足元をすくおうとしたという説はまったくの思い込みによる根拠の薄弱なもので、信用に足りない説である。というのも、関ヶ原合戦前の恵瓊は、毛利氏(あるいは豊臣家)を勝利に導くため、必死になって行動していた。それは、一連の史料を見れば明らかである。この説も根拠薄弱な思い込みである。 結果的に関ヶ原の戦いは西軍の敗北に終わり、恵瓊は非業の死を遂げるが、むしろ恵瓊を裏切ったのは毛利氏の側なのは明らかなのだ。毛利氏は恵瓊に黙ったままで、合戦前日に徳川家康と和睦を結んでいた。恵瓊を見殺しにしたのである。「夜久文書」が伝える真相 秀吉と恵瓊との関係について、もう1点補足しておこう。先に触れた通り、天正元(1575)年12月、恵瓊は信長がやがて滅亡するであろうことを予言し、同時に秀吉が台頭することを予言した。この点について、秀吉関与説を唱える論者は、以下のとおり奇妙な説明をする。 それは、恵瓊が予言をしたのは、秀吉から信長が数年のうちに破滅する可能性が高いと説明を受けていたからだという。秀吉の説明とは、信長は実力主義で家臣を登用したが、やがて家臣間の軋轢(あつれき)を生みだすとともに、忠誠心のない家臣の台頭を招き、謀反へつながるという内容である。実際に荒木村重、松永久秀らが謀反を起こした。こちらも、秀吉が恵瓊に説明したという史料はない。 秀吉が恵瓊に説明したというのは、後世を知る論者が勝手に想像しただけであって、まったく史料的な根拠はない。そもそも恵瓊の予言を過大に評価するが、あくまでそれはそのときに抱いた感想に過ぎない。したがって、秀吉や恵瓊を予言者と持ち上げるのは、いささか見当違いだろう。 結論を言えば、秀吉が恵瓊と結託し、和睦のタイミングを見計らい、信長の横死とともに「中国大返し」で上洛したという説は、確かな根拠がなく成り立たないといえる。 秀吉関与説にまつわるユニークな説明は他にもある。「中国大返し」を実現させた理由の一つとしては、秀吉が独自の情報ルートを持っていたとの説が提起されている。そうでなければ、ただちに信長横死の情報を入手できなかったと指摘する。 秀吉は丹波の夜久氏という領主の協力を得て、京都から備中高松城までの情報伝達ルートを確保していたという(年未詳6月5日羽柴秀長書状「夜久文書」)。そのルートは、備中高松城から姫路に向かい、姫路から一気に北上して羽柴秀長(秀吉の弟)の但馬竹田城に至り、竹田から和田山、丹波の夜久、福知山、亀山を経て京都に至るルートである。とりわけ夜久付近では、夜久氏の協力を得たということになろう。備中高松城址=岡山市 この説については、大いに疑問がある。以下、検討しておこう。 該当する「夜久文書」を素直に読むと、近江国から夜久方面の往来について、夜久氏の協力を得たとしか書かれておらず、先述した情報ルート云々の話は出てこない。秀長は路次確保の協力に対して、夜久氏にお礼を申し述べているだけである。 つまり、上記の「備中高松城から姫路に向かい、姫路から一気に北上して羽柴秀長(秀吉の弟)の但馬竹田城に至り、竹田から和田山、丹波の夜久、福知山、亀山を経て京都に至るルート」というのは、単なる想像に過ぎない。ちなみに、同史料の年次は、天正6年と考えられる。少なくとも天正10年ではない。史料の内容の解釈も、年次比定も誤っているといえよう。 史料解釈や年次比定のほかに、もっと大きな疑問がある。牽強付会な関与説 京都から備中高松城に向かうには、丹波や但馬を通り抜けると、かなりの遠回りになる。やはり、摂津、播磨を通って行くのが近道である。言うまでもないが、当時は電車や自動車があるわけでもない(仮にあったとしても遠回りはしないだろう)。常識で考えると、信長横死の情報を早く伝える必要があるのに、わざわざ但馬や丹波を通り抜けて、遠回りする必要はないのではないか。 したがって、秀吉が京都から丹波、但馬を経て、独自のルートを保持していたという見解は、到底受け入れることはできないのである。 秀吉関与説の他の理由としては、秀吉自身が信長の政権構想を考えるなかで、将来に悲観したという説がある。つまり、秀吉は信長の息子たちに仕えることを余儀なくされ、やがては近江長浜城を取り上げられ、さらに明に派遣される可能性があり、将来に危機感を抱いたという。秀吉は、信長を全面的信頼していなかったというのだ。果たして、それは事実なのか。 信長には、長期にわたる政権構想があったという。それは、信長の子息の信忠、信雄、信孝に領土と重要な地位を与え、実力のある家臣を各方面軍の司令官とし、やがては彼ら実力派家臣の領土を再集約しようとしたというのである。しかし、それは断片的な史料をもとにした憶測であり、実質的には何の根拠もないといえる。従うことはできない。では、信長の「唐入り構想」については、どう考えるべきか? 信長の「唐入り構想」については、フロイスの『日本史』『一五八二年日本年報追加』に「(信長が)日本六十六ヵ国の絶対君主となった暁には、一大艦隊を編成してシナを武力で平定し、諸国を自らの子息たちに分かち与える考えであった」との記述がある。これが事実ならば、信長の構想は壮大だったといえる。 話を別の観点から考えてみよう。天正13(1585)年以来、秀吉は「唐入り構想」を盛んに口にしており、それは信長の遺志を引き継ぐものとされてきた。しかし、近年の研究によると、秀吉が「唐入り」を言明したものではないと指摘されている。それは、九州平定を矮小化するためのレトリックであり、「唐入り」の表明と考えるのは早計ということである。単なる口実に過ぎなかったのだ。豊臣秀吉像(模本、東大史料編纂所蔵) フロイスには誇張癖があり、しかも『日本史』『一五八二年日本年報追加』には意図的に改竄した個所が多数あるという。史料的に全面的に信を寄せるのは、極めて危険である。『日本史』などの史料性の問題に加え、ほかに信長の「唐入り」の表明を記した史料がないのには難がある。 そのような点を考慮すると、信長の「唐入り」表明の事実には慎重になる必要があるのではないか。もし、信長の「唐入り」の構想が家臣らに伝わっていないならば、別に秀吉が明へ移されることを恐れる必要はない。 結論としては、秀吉が信長政権における自らの地位を悲観したというが、根拠が薄弱であると言わざるを得ないのである。むしろ、中国方面の司令官を任されたのであるから、前途洋々だったといえる。 ここまで秀吉が光秀と結託し、本能寺の変に関与していたとの説を取り上げ、とても受け入れられない説であることを指摘した。この説の弱点は、以下のようになろう。①信頼度の低い史料の記述を鵜呑みにしていること。②史料的な根拠がない憶測を展開していること。③著しい論理の飛躍がみられること。④史料の年次比定や解釈が誤っていること。 いずれにしても、秀吉関与説は牽強付会(けんきょうふかい)と言わざるを得ない。秀吉が本能寺の変に関与したと主張するならば、良質な一次史料で事実を指摘する必要があろう。※主要参考文献鴨川達夫「秀吉は『唐入り』を言明したか」(『日本史の森を行く』中公新書、2014年)谷口克広『検証本能寺の変』(吉川弘文館、2007年)渡邊大門『信長政権 本能寺の変にその正体を見る』(河出ブックス、2013年)

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    桶狭間にゲリラ豪雨を降らせた信長の「ガチ祈り」

    橋場日月(歴史研究家、歴史作家) 永禄3(1560)年、織田信長はついにその前半生で最大の敵との対決のときを迎える。駿河・遠江・三河の3カ国を支配する今川義元との戦い―「桶狭間の戦い」だ。 尾張東部の今川方の拠点を奪おうと圧力を強めていた信長に対し、義元は5月10日に駿河の駿府を出陣する。彼が率いる軍勢は公称4万5000、実数は2万5000だったというが、それが藤枝を通過するとき、輿(こし)に乗っていた義元はやにわに刀に手をかけたという。彼はかつて今川家の家督を争って異腹の兄・玄広恵探(げんこうえたん)を攻め殺した過去があるのだが、その恵探その人が街頭にたたずんでいるのを目撃したというのだ。 ほかの誰ひとりそれを見た者はいなかったのだが、出陣前から義元の夢枕にはこの兄が立ち、尾張への侵攻をとりやめるよう義元をいさめていたという。「あなたはわが敵ではないか」と義元が拒むと、恵探は「今川家が滅亡するのを見たくないのだ」と嘆いた(『当代記』)。この合戦は、その幕開けからオカルティックな雰囲気が漂っていたようだ。桶狭間古戦場公園 三河から尾張に入った義元は沓掛城に着陣した。17日のことである。翌18日夕方、清洲城の信長のもとにも「今川軍接近!」の報が届いたが、彼は軍議すら開かず世間話をするだけで、夜が更けてくると「遅くなったから、皆もう帰れ」と言い出す始末。これには家老たちも「進退きわまると知恵の鏡もくもるとはこのことだ」とあきれ、苦笑しながら帰っていった(『信長公記』)。 桶狭間の戦いについては信長が動かせた兵力2000余りに対し、今川軍は前述の通り、2万5000といわれている。とはいってもそのうち2万数千までが強制動員された農民であったため、純粋な戦闘力ではほぼ対等だった、などという主張が近年有力となってきているが、これはおかしい。当時の農民は江戸時代のそれと違い兵農分離が未発達で、農民たちが農閑期ごとに金銭や米穀目当てで合戦に従っていた例は多い。彼らは半農半兵でそれなりに戦場に慣れた手だれだったのである。一方の織田軍はかつての御供衆(「チンピラ仲間」ともいう)で親衛隊メンバーの佐々成政・前田利家らが中心となる精鋭集団が中心とはいうものの、正攻法で来られれば数において圧倒的に劣る信長に打つ手はない。作戦の立てようもなく、ふてくされたように世間話にふけるのも当然だったのだ。「敦盛」を舞った信長の賭け しかし、そのまま何もしないでいれば、前線の織田方拠点は次々と攻め落とされ、信長を見限った家来たちから、今川軍に寝返る者も出てくる。やがては清洲城も内部から崩壊し、尾張は義元に蹂躙(じゅうりん)され、伊勢湾の支配権も今川家の手に落ちるだろう。 なんとしても生き残りたい! 信長は押し殺した表情でのんきに振る舞いながら、若いころ肌身離さず身につけていたひょうたんや火燧(ひうち)袋、三五縄などの魔除けグッズを出してひそかに祈りをささげていたのではないだろうか。 そんな信長のもとへ、19日未明になってまた前線からの使者が飛び込んできた。「今川軍が鷲津砦・丸根砦に攻め掛かりました!」 ふたつの砦は今川方の鳴海城と大高城を監視するためのものだったが、義元はこの目障りな砦を手始めに陥れようというのだ。 これを聞いた信長は、前回紹介した「敦盛」の幸若舞を舞った。「人間(じんかん)50年、下天(げてん)の内をくらぶれば、夢幻(ゆめまぼろし)のごとくなり。一度(ひとたび)生(しょう)を得て滅せぬ者のあるべきか」。桶狭間古戦場公園に立つ織田信長像=名古屋市緑区 勝算はなくとも、今このとき抵抗する姿勢を示さなければどのみち部下たちから見放されて滅びてしまう。ましてや相手も人間。天の味方を得ることができれば、逆に滅ぼすことも可能だろう。短い舞の中で、信長は一か八かの賭けに出ることを決意したのだ。 舞い終わった信長は、「ホラ貝を吹け! 甲冑(かっちゅう)を持ってこい!」と叫び、立ちながら腹ごしらえを済ませると、出された昆布と勝栗を口にした(『道家祖看記』)。これはこの時代に広くおこなわれていた必勝のまじないで、「勝ってよろこぶ」というものだ。ここでもやはり、信長は迷信に忠実である。 そして彼は5人の小姓を従えただけで城を飛び出し、熱田まで3里(12キロあまり)の道のりを馬で一気に駆ける。時刻は辰の刻(午前8時ごろ)。今の熱田神宮は当時熱田社と呼ばれていたが、彼がその摂社の源大夫殿宮(現在の上知我麻(かみちかま)神社)の前から東方を遠望すると、すでに鷲津・丸根両砦が攻め落とされたとみえ、煙が立ち上っている。このころには、後から慌てて信長の跡を追いかけた一行の数は200ほどに増えていた。なぜ熱田神宮じゃなければならなかったのか ここで信長はある行動に出るのだが、それが本稿のテーマに大きく関係するものなので注目していただきたい。「熱田社に参詣し、謹んで伏し拝んだ」。 これが熱田で信長がとった行動だ。記されているのは『甫庵信長記』という、やや信憑(しんぴょう)性に欠ける部分がある史料だ。ところが、現在の熱田神宮にも、信長がこのとき戦勝祈願をおこない、めでたく勝利をおさめた後で寄進したと伝わる「信長塀」が現存している。信長がここで参拝したというのは事実と考えてよいだろう。兵が集まって来るのを待つついでに参拝したと解釈しても良いが、実はここに深い意味があったのだ。熱田神宮 信長が祈りをささげた熱田社の神とは、いったい何か。それは「熱田大神」と呼ばれる。これは天照大神を意味するといわれているのだが、そのご神体が問題だ。「草薙剣(クサナギノツルギ)」。 第3回で紹介したように草薙剣は天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)とも呼ばれ、神話時代に素戔嗚尊(スサノオノミコト)が八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を斃(たお)してその体内(尻尾)から得た剣、すなわち大蛇(オロチ)の力そのものといえる聖剣である。素戔嗚尊はこれを姉の天照大神に献上し、彼自身も熱田社の副祭神とされた。 早い時期から蛇信仰に傾倒してきた信長は、人生の大一番に臨んで熱田社の大蛇(オロチ)に祈りをささげたことになる。当然、それはついでなどというものではなく、全身全霊をかけた真剣なものだったはずだ。 とはいえ、彼が大蛇(オロチ)に祈ったものは、ただ単に「我に勝利を与え給え」という、単純な、そして曖昧模糊(もこ)としたものでもなかっただろう。大蛇(オロチ)が何の神か、ということをもう一度思い出していただきたい。そう、水の神、雨の神である。これが今回のキーとなる。 熱田社で必死の祈りを終えた信長が拝殿から出てきたとき、その傘下の軍勢は1000とも2000ともいう数に膨らんでいた。前線に貼り付いている兵を合わせると、2500という全体の数に限りなく近くなるから、おおよそそれぐらいの兵が熱田にそろったのは確かだ。 そして、信長は正午過ぎには桶狭間の近くの善照寺砦まで軍勢を進めた。さらに家老衆の制止を振り切って中島砦に入り、義元が本陣を構えた「おけはざま山」(『信長公記』)と指呼の間に自身を置く。そして、ついには中島砦さえも出て、おけはざま山に連なる一帯の小丘陵の際まで接近したのだ。義元討ち取りを可能にした「情報」 と、ここで状況に変化が生じる。にわかに空がかき曇ったかと思うと、大雨が降り始めたのだ。雨は「石氷を投げ打つ様に」(『信長公記』)敵の正面に降りかかった。雹(ひょう)をともなった西向きの強い雨風の強さはすさまじく、沓掛のあたりにあった直径1~1・5メートルもあるようなクスの大木2、3本が東へ吹き倒されてしまうありさまだったという。 時期は現在の暦で6月12日。現代でいう「ゲリラ豪雨」だが、筆者は以前からこの気象現象を「ダウンバースト」だろうと指摘してきた。これは積雲や積乱雲(入道雲)からの冷たい下降気流が地面にぶつかって猛烈な突風を起こすもので、雹や霰(あられ)を伴うことが多い。その局地的なものはマイクロバーストと呼ばれ、一層破壊的な風雨をもたらすのだ。当然、この大風雨が起こる以前、西の空には入道雲が現れ、東に向けて動いていただろう。幕末の浮世絵師、月岡芳年が描いた今川義元の最期(静岡県立中央図書館蔵) 信長が桶狭間に向かう道すがら、それを目撃していたことは間違いない。当時、武将には必ず「軍配者(軍師)」と呼ばれる専門技術者が仕えていた。彼らは常に気象状況をチェックし、雲の色形や流れなどで合戦の吉凶を占う。つまり、これから天候がどう変わるかは、地元の利もあってこの軍配者がかなりの正確さで判断し、信長に上申していたはずだ。 その情報を得た信長は、雲に合わせて東に進み、ちょうどバーストが始まる直前に戦闘態勢を整えたというわけだ。  そして、大風雨が一帯を襲う。信長は、それが自分の頭上から東へ進むのを確かめると大音声をあげる。午後2時ごろのことだった。「空が晴れるのをご覧になって、すわかかれ、かかれ!と突撃命令を下された」。 ちょうどバーストに襲われたばかりの義元本陣は、信長勢の姿すら見ることができない。桶狭間一帯は、小丘陵群とその合間の「深田足入れ」と表現される低湿地が広がっている。本陣の前の山々に布陣していた先鋒(せんぽう)部隊は、通過した風雨の影響で「深田」がさらにたちの悪い泥沼と化してしまったため、本陣の急を知っても駆け付けることすらできない。 こうして、信長と義元の戦いはほぼ同数の一騎打ちとなった。敵へろくに顔も向けられず目も開けられない義元本陣の将兵は、またたくうちに信長勢に切り立てられてしまう。義元の300人ほどの旗本も中心の義元を守って円陣を組み戦っていたが、これも次第に討ち減らされていく。義元が討ち取られたのは、それから間もなくのことだった。

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    「前代未聞の大将」明智光秀の謎多きルーツをたどる

    渡邊大門(歴史学者) 明智光秀が経歴という点において、信長のほかの家臣と大きく異なっている点は、どことなく漂うインテリの香りである。光秀は美濃国の出身として知られ、名門・土岐氏(美濃国などの守護)の支族・土岐明智氏を出自とするといわれている。のちに光秀のライバルとなり天下を獲った豊臣秀吉は、一般的に農民の倅(せがれ)であったといわれており、その差は歴然としている。 そして、光秀は豊かな教養を持っていたといわれている。彼が本能寺の変の直前に詠んだ発句「時は今 雨が下しる(あるいは『下なる』)五月哉」は、通常「土岐氏の子孫である自分が天下を獲る五月である」と訳されているが、さらに深い読み込みがなされ、多くの解釈が生み出されている。この技巧が優れているがゆえに、その教養が高く評価されているといえよう。同時に光秀の教養が深いゆえに、武人としての線の細さや弱々しさもイメージとして残っている。 では、本当に光秀は美濃・土岐氏の一族である土岐明智氏の出身なのだろうか。以下、具体的に検証を試みることにしよう。 光秀の経歴については、その前半生には実に不明な点が多い。その先祖についても不明な点が多い。光秀が史上に登場するのは、永禄12(1569)年1月のことであり(『信長公記』)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛した翌年にあたる。それ以前については、後世の編纂物(二次史料)などによって、ようやく動向をうかがうことができる程度である。光秀の前半生に関連する一次史料は、圧倒的に不足している。京都・小栗栖で落ち武者狩りにあう明智光秀 =『国史画帖大和桜』(昭和10年刊)より しかも、二次史料に基づいた光秀の前半生については、不確かなものが多い。光秀の事績を記す二次史料は、史料の性質が劣るため、疑問に感じる点が多いのである。明らかな間違いも多々ある。『明智軍記』などは、その代表的な質の劣る史料である。 次に、光秀の事績に関する通説を確認しておこう。 明智氏は、美濃国の名門で守護を務めた土岐氏の支族である。土岐明智氏という。土岐氏は清和源氏の末裔(まつえい)であり、美濃国に本拠を置く名族である。南北朝期以降の土岐氏は、室町幕府から美濃国などに守護職を与えられた名族である。 土岐明智氏の出身地については、二つの説が有力視されている。一つは岐阜県恵那市明智町であり、もう一つは岐阜県可児市広見・瀬田である。前者には明知城址があり、光秀にまつわる史跡があることから、現在も「光秀祭り」が催されている。 後者にはかつて明智荘という荘園があり、今は明智城址が残っている。互いに「明智」の名を冠していることから、土岐明智氏の出身地と考えられており、非常にややこしいことになっている。室町幕府に仕えた土岐明智氏 戦国時代研究の第一人者の小和田哲男氏によると、恵那市明智町は遠山明智氏ゆかりの地であって、光秀の出身である土岐明智氏に結びつけるのは難しいと指摘している(『明智光秀―つくられた「謀反人」―』PHP新書)。むしろ、可児市広見・瀬田のほうが、可能性が高いというのが結論である。遠山明智氏は藤原北家利仁流の流れを汲み、現在の恵那市明智町に本拠を築いた。 土岐明智氏が室町幕府に仕えていたことは、事実である。奉公衆(室町幕府の直臣)の名簿である『文安年中御番帳(ぶんあんねんちゅうごばんちょう)』には外様衆として「土岐明智中務少輔」の名を、『東山殿時代大名外様附(ひがしやまじだいだいみょうとざまふ)』にも同じく外様衆として「同(土岐)中務少輔」の名を、三番衆として「土岐明智兵庫助」の名を確認することができる。『常徳院御動座当時在陣衆着到(じょうとくいんごどうざとうじざいじんしゅうちゃくとう)』にも「土岐明智兵庫助」と書かれている。 外様衆の役割については不明な点が多いものの、有力守護の支族が名を連ねている点を考慮すれば、相当な格式と地位があったといえる。何といっても、外様衆は将軍の直臣でもある。土岐明智氏もまた土岐氏の支族であるがゆえに、外様衆に加えられたのであろう。そして、土岐明智氏の名は、おおむね14世紀半ばから15世紀の終わりにかけて、多くの一次史料で確認することができる。その本拠地は、やはり美濃国だった。 次に、光秀の年齢について触れておこう。従来、光秀の年齢は『明智軍記』や明智氏の系図類に基づき、多少のばらつきがあるものの、天正10(1582)年に55~57歳の間に亡くなったと考えられてきた。つまり、光秀の誕生年は、大永6(1526)年から同8(1528)年の間になる。 信長研究の第一人者である谷口克広氏は『当代記』(織豊政権期から江戸幕府の成立期にかけての歴史を記した編纂物)という史料に基づき、67歳で亡くなったと指摘した(『検証 本能寺の変』)。つまり、永正13(1516)年の誕生となり、従来よりも年長になっている。史料の質からいえば、『明智軍記』などよりも断然『当代記』のほうが高く、後者の可能性が極めて高い。明智光秀像(本徳寺所蔵) 光秀の父については、諸説あって定まらないところである。現在、知られている系図類では、光綱とするもの、光隆とするもの、光国とするものに分かれており一致しない。整理すると、次のようになろう。 ①光綱――「明智系図」(『系図纂要』所収)、「明智氏一族宮城家相伝系図書」(『大日本史料』11―1所収)。②光隆――「明智系図」(『続群書類従』所収)、「明智系図」(『鈴木叢書』所収)。③光国――「土岐系図」(『続群書類従』所収)。 残念なことに、光秀の父について語る史料は皆無といわざるを得ない。光秀のように史上に突如としてあらわれた人物の場合、意外と父祖の名前さえ判然としないケースが多い。系図によってこれだけ名前が違い、史料的な裏付けが取れないのであるから、これらの系図の記載を詮索してもほとんど意味がない。光秀の父については、不詳といわざるを得ないのが現状だ。 では、光秀の来歴を物語る史料はないのか。信長に与えられた「惟任」姓 光秀を語るうえで重要な史料として、『立入左京亮入道隆佐記(たてりさきょうのすけにゅうどうりゅうさき)』がある。この史料は、禁裏御倉職(きんりみくらしき)の立入宗継が見聞した出来事などの覚書を集成したもので、七世の孫・中務大丞経徳が書写したものである。ただ、後世に成った史料なので、内容にいささか注意する必要がある。 同史料には、天正7(1579)年に光秀が丹波を平定した際、信長から丹波一国を与えられたことを記し、光秀について「美濃国住人とき(土岐)の随分衆也」と記録している。そして、信長によって「惟任」姓を与えられ、惟任日向守を名乗るようになったと記す。光秀の栄達ぶりを示すものである。 随分衆とは、土岐氏の中にあって、相当な地位にあったことを示している。随分には、身分が高いという意味が含まれている。残念ながら、隆佐が光秀の経歴をどこまで知っていたかは不明である。「美濃国住人とき(土岐)」というのも、確証を得ないのではないか。ところで、『立入左京亮入道隆佐記』のこの記述には、前段に次の興味深い一節がある(現代語訳)。 惟任日向守(明智光秀)が信長の御朱印によって丹波一国を与えられた。時に理運によって申し付けられた。前代未聞の大将である。 理運にはさまざまな意味があるが、この場合は「良い巡り合わせ、幸運」くらいの意味と考えてよい。理運によって、光秀は丹波一国を与えられたので、前代未聞の大将だったのである。立入宗継にとっては、光秀が名門土岐氏の相当な地位にあったと想像していたとはいえ、丹波一国を授けられたことは驚倒すべき印象を持ったと推測される。となると、隆佐は光秀を「随分衆」とは言っても、実際には光秀の経歴を詳しく知らず、風聞に拠って知った可能性が高い。天正10年1月11日付斎藤利三の書状。明智光秀を示す「惟任」の字が見える(松永渉平撮影) 光秀の父以前や自身の前半生がほとんど不明であること、また周囲の評価において「理運」「前代未聞」とあるところを見ると、光秀は土岐氏支族の土岐明智氏を本当に継いだのか再検討する必要がある。裏付けが非常に乏しいのである。 つまり、幕府外様衆の系譜を引く土岐明智氏ではなく、まったくの傍系の明智氏である可能性や、土岐氏配下の某氏が明智氏の名跡を継いだ可能性も否定できない。光秀が本当に土岐明智氏の系譜を引いているのかについては、未だ疑問が多い。それゆえに、父の名前さえ系図によって、異なっているのであろう。 たとえば、幕府の奉公衆などの名簿の『永禄六年諸役人附』には足軽衆として、「明智」の姓が記されている。従来説では、この明智が光秀であると考えられてきた。ただ、肝心の名前が記されていないので、この「明智」が光秀である確証はない。足軽衆とは単なる兵卒ではなく、将軍を警護する実働部隊と考えてよいであろう。 『永禄六年諸役人附』に記載された足軽衆は、名字のみしか記されていない者も多く、メンバーはおおむね無名の存在ばかりである。奉公衆クラスを出自とする者は存在しない。そうなると、逆に土岐氏の支族で「名門」の土岐明智氏が、なぜ足軽という地位に止まったのか不思議である。かつて土岐明智氏は、外様衆という高い身分にあったからである。 つまり、これまでの光秀は、外様衆・明智氏を出自とすると考えられてきたが、誠に程遠い存在といえよう。『永禄六年諸役人附』の明智が光秀と同一人物であるか否かは不明であるが、いずれにしても当時の明智氏(あるいは光秀)は、まったくの無名の存在であったと考えるのが妥当ではないか。『永禄六年諸役人附』の記述をもって、光秀を名門の土岐明智氏に繋げるには、あまりに材料不足である。「よそ者」だった光秀 信長に仕えて以後の光秀は、無名のところからはい上がり必死であった。信長は能力主義者であり、名門の出自であることなどほとんど考慮しなかったであろう。ゆえに、信長の重臣の多くは、ほとんど無名の立場から這い上がった者が大半であった。したがって、光秀が名門土岐氏の支族である土岐明智氏の出自であることについては、頭から信用するのは危険であると考えなくてはならないと指摘できよう。 もう少し、光秀の出自について考えてみよう。 光秀の前半生を語るうえで、重要視すべきなのは二つの史料である。その二つとは、光秀が家中に発した「家中軍法」が一つであり、もう一つはフロイスによる光秀の評価である。この二つの史料について、これから考えてみよう。 天正9(1581)年6月、光秀は家中に「家中軍法」を発した(「御霊神社文書」)。その内容は18カ条から成り、戦場や行軍中に守るべきことや、与えられた石高に対して負担する軍備などが列挙されている。これ自体が珍しいものであるが、注目すべきは結びの言葉である。次に、示すことにしよう。 すでに瓦礫のごとく沈んでいた私を(信長が)召し出され、さらに多くの軍勢を預けてくださった。 この言葉は、実に重みのある内容を含んでいる。少なくとも光秀が苦しい前半生を送っていたことは間違いなかったと考えられるが、何らかの契機に信長に仕官することによって、この段階で大きく出世を遂げたのである。 注意しなくてはならないのは、豊臣秀吉が農民の倅(せがれ)を出自としながらも、信長の配下で大出世を遂げたことである。前半生が不明であることも含めて、信長に登用されたことが二人の共通点である。この史料の一節は、光秀の前半生が不遇であったことを伝えるものである。裏返して言えば、名門・土岐明智氏の出身でない可能性をうかがわせる。明智城址=岐阜県可児市 もう一つの史料がフロイスの手になる『日本史』である。同書には、光秀の立場について「殿内にあって彼はよそ者であり、外来の身であったので、ほとんど全ての者から快く思われていなかった」と記している。この史料もまた、光秀が信長に仕えるまで、さほど活躍していなかったことをうかがわせるものがある。さらに「よそ者」という言葉は、光秀の外様としての立場を如実にあらわしている。 これまでの光秀は、美濃国土岐氏の支族・明智氏の系譜を引く名門と考えられてきた。ところが、その可能性は低いのではないだろうか。そもそも父祖の記録がないことが気にかかる。光秀が土岐明智氏の名を勝手に名乗っているか、名跡を継いだという可能性も残されている。 『立入左京亮入道隆佐記』では、その辺りの事情を十分に把握していないので、本人の言葉を信じて記録したことも考えられよう。いずれにしても、確証を得ることができず、光秀の前半生は名門・土岐明智氏を出自とする点が疑問であり、あまりに謎が多すぎる。 つまり、光秀が美濃国土岐氏の支族・明智氏の系譜を引く名門という説は、再検討の余地が十二分にあり、現段階では何の証拠もないのだ。※主要参考文献 谷口研語『明智光秀 浪人出身の外様大名の実像』(洋泉社歴史新書、2014年) 渡邊大門『信長政権 本能寺の変にその正体を見る』(河出ブックス、2013年)

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    道三を見捨てた信長の「銭まじないと下天の決意」

    橋場日月(歴史研究家、歴史作家) 信長が干ばつをきっかけとして弟の信勝を謀殺する以前、信長は妻の父を喪っている。美濃の斎藤道三だ。信長が道三の娘を正室に迎え、舅(しゅうと)の道三を後ろ盾にしたことについては第3回で述べた。その道三が、弘治2(1556)年4月、長男の義龍に討たれたのである。道三が義龍を嫌い、次男、三男をえこひいきしたことが直接の原因で、その背景には尾張に対してなどの外交方針をめぐる対立があったようだ。道三のバックアップによってようやく尾張での主導権を維持していた信長のこと、当然ながら窮地に立たされた道三を援護すべく美濃に出陣する。 自分をかわいがり、信長が合戦におもむく際には美濃の兵を清洲城の留守番に貸してくれるなど、何かと便宜を図ってくれた舅。それを救うべく美濃におもむくなど、何とも絵にもドラマにもなる話ではないか。 ところが、である。信長の人生を脚色しながら面白おかしく伝えた『甫庵信長記』はじめ、後世の軍記物はこのときの彼の行動にまったく触れていない。『武将感状記』では出陣そのものも道三戦死の後のこととし、「弔い合戦に出陣した信長は義龍が手ぐすねひいて待っているのを知ると気をのまれたのか、途中で引き返してしまった」などと記しているのが唯一の例で、その話自体もまったくさまにならないのだ。 では、実際彼はどのように行動したのだろうか。『信長公記』によると、信長は道三救援のために一応出陣はしている。木曽川、飛騨川を渡って大良(現・岐阜県羽島市正木町の大浦あたり)の南辺りまで進んだ信長だが、彼はここで進軍をストップした。戸嶋東蔵坊という寺の敷地がその本陣とされたのだが、この本陣でちょっとした騒ぎが起こる。 「境内のあちこち、堀や垣根からも銭が詰まった瓶が掘り出され、どこも銭を敷いたような具合だった」(同書、『太田牛一雑記』) 当時、有力な寺は高利貸で莫大(ばくだい)な財産をため込んでおり、東蔵坊もそういう「財テク」で稼いだ金銭を地面に埋めて保管していたのだろう。今でも、中世にそうして埋められたまま忘れ去られた銭の瓶が、たまに発掘されている。金華山(稲葉山)山頂にある岐阜城=4月23日、岐阜県岐阜市(本社ヘリから、門井聡撮影) 問題は、なぜ信長が堀や垣根まですべて掘り返していたのか、ということなのだが、考えるまでもなく、本陣を堅固な要害に大改修し陣城に造り替えるためである。道三が布陣している稲葉山城北西の鷺山までは約14km。「こんなところで城作りにかまけ、油を売っている場合ではないぞ!」と誰もが余計な心配をしてしまう呑気(のんき)さではないか。 そして、案の定、その間に道三は義龍との決戦に敗れ、首を取られてしまった。信長の「銭まじない」 どうも、信長は「美濃の国の領地持ちの武士たちは、みな義龍方となった」(『太田牛一雑記』)という情勢に勝ち目なしとみて、戦意を喪失してしまったらしい。そしてサボタージュをごまかすために築城工事にかかり、その工程で無数の銭を掘り出してしまったわけだ。 さて「地中から銭が出てきました」と報告を受けた信長は、その後どうしたのだろうか。同書はいう。 「銭をつながせ御覧候」  銭をひもでつながせて、それを見物したのだ。銭をひもでつなぐというのには、2つのケースが考えられる。1つは100文単位、1000文単位などで銭の穴に縄を通してまとめる「鎈(ぜにさし)」を行ったケース。 当時、銭を保管したり取引に用いたりする際、まとまった単位の鎈がよく用いられたから、それを行わせたのだろうか。 しかし、境内の至るところから出てきた無数の銭を、いちいち計数して単位ごとにつながせ、それを検分するなど、自分の戦意のなさを部下の兵たちや敵のスパイにも見透かされてしまうような振る舞いを信長がするだろうか。 そこで、もう1つのケースが有力となってくる。今でも名古屋とその周辺では5円玉12枚に麻ひもを通し、それを赤ちゃんの産着に結びつける風習が残っている。これは「紐銭(ひもせん)」「帯銭(おびせん)」の一種と考えられ、関西で祝儀袋を結びつけるのと同様、お金に困らないようにというまじないの意味を持つ。信長もこのまじないを実行したのではないか。 かつて中国には「厭勝銭」(えんしょうせん、あっしょうせん)というまじない用の非流通銭があり、日本でも室町時代から盛んに行われた。銭の形には呪術(じゅじゅつ)的な力があると信じられていたのだ。信長も銭の霊験を信じ、地元に伝わる紐銭のまじないを実行して幸運を祈念したのではないだろうか。それならば、部下たちの士気も下げず、敵にも足元を見られずに済むというものだ。名古屋市の万松寺にある幸若舞『敦盛』を舞うからくり人形の信長(中田真弥撮影) このようにして信長が模様眺めをしながら、まじないにふけっているうちに道三を破った義龍の軍勢が大良にも攻め寄せてきた。信長はこれにひと当てした後、自ら木曽川の舟の上で殿軍(しんがり)を務めて配下の兵たちを尾張へと引き揚げさせる。後には、信長の援軍をあてにしていた道三がその交換条件として出した「美濃一国の譲り状」が残った。「(美濃国は)織田上総介信長存分に任すべき」という、有名な内容の書状だ(『妙覚寺文書』)。 信長のまじないは、義龍との不利な戦いを避けるために役立ち、後に彼が美濃に侵攻する際の大義名分までもたらしてくれたのだった。世話になった舅をあっさりと見捨てた信長だが、乱世を生き抜くためには舅でも利用し、都合が悪くなれば見切ることを躊躇(ちゅうちょ)しないという合理主義は、彼の中で厄除けや蛇神にさえ頼るという思想と矛盾しないのだろう。武田信玄の嫌な予感 その翌年、信勝を排除した信長は、永禄2(1559)年に尾張上四郡守護代家、岩倉城の織田信賢を下して国内をほぼ平定する。明くる年にはいよいよ彼の一世一代の大勝負、「桶狭間の戦い」へと突入していくのだが、その前にこの頃の彼の日常に触れておこう。 天永寺というのは清洲城から前回紹介した蛇池を越えてさらに東に進んだ味鋺(名古屋市北区楠味鋺)の寺で、現在も天永寺護国院という名で同地にある。その寺の天沢(てんたく)という学識豊かな僧侶が、関東に下る途中で甲斐を通り、武田信玄に招かれて信長について述べている。 その中でよく知られているのが、 「幸若舞の『敦盛』がお好きで、『人間50年、下天(げてん)の内をくらぶれば、夢幻(ゆめまぼろし)のごとくなり』と口ずさまれながら舞われます。舞はこの一曲のみです。また、小唄では『死のうは一定(いちじょう)、忍び草には何をしよぞ、一定かたり起こすよの』をよく唄われます」という部分だ。信長を描くドラマでもしばしば紹介されているので、ご存じの方は多いだろう。建勲神社にある「敦盛」の句が刻まれた石碑=2017年12月1日、京都(中田真弥撮影) この幸若舞『敦盛』に出てくる「下天」というのは何かというと、天上界(天界)の最下層の「他化自在天」を意味する。その下天でさえ、時の流れは一日一夜が人間界(俗界)の1600年にあたるという気の遠くなるような長いものであり、人間界に生きるわれわれの50年の人生など一瞬にすぎない、と喝破しているのだ。 信長はこの舞で限られた時間を自覚し、続いて小唄で「短い人生、人はどうせ必ず死ぬのだから、必ずや何事かを仕遂げ、後世の語り草にしてやる」と意欲を燃やす。人生のクライマックスを間近に控え、何が何でも運命を切り開いていこうという決意がうかがえるではないか。 このほかにも信長のやり方を根掘り葉掘り天沢からヒアリングした信玄は「信長が軍事にたけているのも無理はないな」とつぶやき、苦虫をかみつぶしたような顔をしていたという。恐るべき奴が尾張に出てきた、と恐れを抱いたのだ。そして、彼のこの嫌な予感は、この時期から20年あまり後に武田家が信長に滅ぼされることによって的中する。 ところで、この「下天=他化自在天」、もうひとつ別の呼び方を「第六天」という。天上界の下部に位置し、上から四大王衆天、忉利天、夜摩天、兜率天、化楽天と続く最後、6番目の天だから第六天、というわけだ。この第六天は今後のキーワードとなるので、心に留めておいていただきたい。 この甲斐での出来事は、その後帰国した天沢によって織田家に伝えられたらしく、太田牛一は『信長公記』に収めた。言うまでもなく、信長の耳にも入っただろう。信長はこれを強烈に覚えていたものと見えて、後に信玄との外交的なやりとりの中でもこの話を伏線として文言に含ませるのだが、それはまたいずれ解説しよう。 次回はいよいよ、桶狭間の戦いで信長のオカルト趣味が炸裂(さくれつ)する。

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    功臣か賊臣か、西郷どんの実像

    明治維新150年の節目、2018年のNHK大河ドラマは『西郷どん』である。主人公、西郷隆盛は木戸孝允、大久保利通とともに維新三傑に挙げられる英雄だが、その波乱な人生から「幕末の功臣にして明治の賊臣」との評価もある。西郷隆盛とはどんな人物だったのか。知られざる実像に迫る。

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    なぜ西郷隆盛は「幕末維新の立役者」になれたのか

    木村幸比古(霊山歴史館副館長) 薩摩が動けば日本が変わる。その中心的存在が西郷隆盛であろう。上野の西郷像に示されるように、その熱いまなざしで世界を見つめている。身長は五尺九寸(178センチ)体重は三十二貫(120キロ)。首まわりは19インチで、洋行帰りの友人からの土産のワイシャツをよく着ていたという。血液型はB型で繊細な性格である。頭を丸めたきっかけは、かわいがっていた弟の吉二郎が戊辰戦争で戦死を知り、深く嘆きまげを切った。 明治22(1889)年2月11日、大日本帝国憲法公布の恩赦で、西郷の西南戦争の「逆臣」の汚名がそそがれ、正三位を受けた。東京都台東区の上野公園にある西郷隆盛の銅像(大井田裕撮影) 西郷の銅像といえば、三銅像が有名である。明治31年(1898)に建立された上野の像は高村光雲作で、犬は後藤貞行が手がけた。銅像は吉井友実らが発起人となり、宮内省から500円、全国2万5千人から寄付金が寄せられた。 鹿児島・城山のふもとにある陸軍大将姿の西郷像は昭和12(1937)年に完成、鹿児島出身の安藤照の作品である。安藤は渋谷の初代忠犬ハチ公も作っている。銅像建設計画があがるや、銅像の築山づくりに延べ3万4千人の県民が奉仕作業を行い、対岸の大隅半島から花崗(かこう)岩550個を運び入れた。2キログラムほどの小石は海岸から築山までの6キロの距離を、小中学生が横一列に並んで手渡しで運んだという。そして8年の歳月をかけ、県民総出で作りあげた軍服姿の西郷像は、歴史家の海音寺潮五郎も絶賛するほどの出来映えであった。 近年では、鹿児島県霧島市溝辺町に建つ「現代を見つめる西郷隆盛像」がある。昭和52年(1977)に完成した像は古賀忠雄の作品である。関西鹿児島県人会の有志が発注したが、発起人の死去により10年近く富山県高岡の鋳造所で眠っていた。当時、鹿児島選出の迫水久常参院議員(元書記官長)の関係者から私に建設所の相談を受けた。はじめは西郷のゆかりの地の京都清水寺と協議したが、本堂の屋根より高かったため景観問題で断念した。そこで、私の勤務する霊山歴史館の裏山に設置する案が浮上したが、銅像を設置した場合の公園の広さ不足と、地震帯が走る地質のせいで、建設が不可となった。その後、鹿児島空港近くの旧溝辺町の最適の地に建った。 実はもう一つ、上野の像の10年前の明治22(1889)年に西郷と親交があった嵯峨実愛(さねなる)の弟の植田楽斎が発起人となり、清水寺参道広場(清水寺駐車場)に馬上姿の西郷像の建設を試みた。工学士河合浩蔵の西洋風設計で、樺山資紀(かばやますけのり)と九鬼隆一の呼びかけに西郷従道も賛同していたので、西郷の未亡人イトも軍服姿の西郷像の原図を見ていたことになる。ところが植田が死去したために実現せず、幻の西郷像となった。未亡人、『かり』の姿にあぜん そのイトが上野の銅像除幕式に参列して、銅像にあぜんとした。「あれは『かり』の姿で、本当は実に威儀を正した、何事にもきちんとした人だった」と思わず語った。従道が「みんなの浄財で建ったのだから、そういうことはいってはいけません」とイトをいさめた。銅像の西郷が明治六年の政変に敗れて下野し、普段着に愛犬を連れた隠居姿だったからだ。イトはおそらく、10年前に京都に建つはずだった、西郷の陸軍大将姿を思い浮かべていたのだろう。 銅像の建設には、西郷や犬の顔をどうするかの試行錯誤があったといわれ、西郷の顔は身内の顔を参考にしたエドワード・キヨソーネのコンテ画をもとに製作した。犬は薩摩犬の愛犬ツンというメス犬を基本にオスにしたという。しかも、上野の山に建てたのも、東北列藩にたいしてにらみを利かすためといわれるが、決してそうではない。西郷は会津藩家老西郷頼母と親交があり、会津戦争後に助命嘆願を求めた頼母に書面と見舞金を送っていた。薩摩の西郷のもとには庄内の青年たちが来て、西郷の精神を求めていた。その教えをもとに『西郷南洲翁遺訓』が刊行されたのである。鹿児島市の城山のふもとに建つ西郷隆盛像。観光客の絶好の記念撮影スポットになっている 西郷や大久保利通をはじめとする薩摩出身の明治維新の指導者たちは、青少年の教育制度「郷中教育」で育った。郷中教育はよくボーイスカウト活動に似ているといわれている。先生が生徒を教えるのではなく、地域の年長者が年少者を指導するところからイギリスの軍人ベーデン・パウエル卿が1908年、イタリアの教育者モンテッソーリの教育法を取り入れ、創設されたのがボーイスカウトである。 郷中教育とボーイスカウトとは一般的には無関係といわれるが、1929年、イギリス国王ジョージ5世の戴冠(たいかん)式に明治天皇の名代として東伏見宮依仁(よりひと)親王が出られ、乃木希典が随行した。乃木の日記には、パウエル卿の案内でボーイスカウトを視察し、乃木がその素晴らしさに感激し「どのようにして、このような訓練を考えられたのか」と尋ねると、パウエル卿は「日本の薩摩の健児の舎、つまり郷中教育を知り、よいところを取り入れ組織化しました」と答えたという。パウエル卿が実際にボーイスカウトに郷中教育を取り入れたかは別として、郷中教育を高く評価していたのである。パウエル卿は、生麦事件や薩英戦争の教訓として調べていたのだろう。 西郷は郷中教育の他に、17歳から28歳まで毎日、薩摩誓光寺で参禅を欠かさず、無参和尚から禅問答で「活きた実物をみるべき」と諭された。禅の「即今」は「過去は変えられないし、未来は現実でない。ただひたすらに今を生き切る」ことを言う。西郷はその後の人生で困難に遭遇すると、「即今」の信念をもって貫徹した。西郷に仰天した斉彬 その後、西郷は藩主島津斉彬(なりあきら)に見いだされるが、斉彬の目にとまった一言がおもしろい。斉彬が江戸で土佐藩主の山内容堂に会ったとき「『お前のところには西郷という偉い家来がいるそうだが』との言葉に、西郷を知らなかった斉彬は仰天した」(孫の西郷吉之助談)。斉彬は下級藩士を一気に登用するわけにもいかず御庭番にした。日々西郷を身近に置きたかったのである。 安政元(1854)年4月、西郷は28歳のとき、藩主斉彬の江戸参勤に従い御庭番方役と鳥預となり、役料米二十四俵一斗で江戸勤務となった。藩主のそばで御庭番と小鳥の餌すりをしながら藩主の考えを聞くことができた。斉彬は「蘭癖大名」と周りから呼ばれるほど、常に世界地図を頭に描きながら、薩摩の近代化を目指して取り組んでいた。西郷は斉彬の開明的な発想にすっかり感心させられた。幕末の薩摩藩主、島津斉彬 斉彬は日本を刷新するには、英明な人材を将軍職につかせることが必要だと考え、開明派の越前藩主松平春嶽らと将軍継嗣問題で一橋慶喜を推していた。これに対し、大老井伊直弼は紀州藩主の徳川慶福(のち家茂)を推した。英明の一橋派、将軍の血脈の南紀派と分かれた。西郷は斉彬の密命を受け東奔西走し、江戸では有能の人物と親交を結んだ。樺山三円の紹介で水戸藩士の藤田東湖と会い、水戸学の尊王攘夷思想の影響を受けた。将軍継嗣問題で会った越前の橋本左内は年少であったが、開明的な考えに会うたびに感銘し、「わが師は東湖、わが友は左内」と称したという。 西郷は篤姫が将軍徳川家定に嫁ぐ際、京都などで婚礼調度を買い入れし、斉彬から大奥での一橋派への尽力を求められていたという。結局、井伊大老は14代将軍を家茂に決めた。さらに西郷は斉彬の急死を京都で聞き「もはや生きていても仕方がない」と悲嘆にくれ、後追い自殺を考えた。だが、清水寺僧月照から「生きて斉彬の遺志を継ぎ国事に尽くせなければいけない」と諭された。 安政の大獄で京都を追われた月照が薩摩に逃れてきた。ところが藩が月照の薩摩入りを拒否したため、西郷は錦江湾に漕ぎ出た屋形船から月照を抱えて入水自殺した。ふたりは海面に浮かんできたが、西郷は蘇生(そせい)し、月照は亡くなった。藩では葬ることはできず、薩摩藩御用商人の波江野休右衛門が西郷家墓地の近くに葬った。薩摩藩庁は西郷も死んだこととし、菊池源吾と改名させ、奄美大島に潜居させた。西郷の第二の人生はここで始まり、島の有力者の娘の愛加那(あいかな)と結ばれ、菊次郎と菊子が生まれた。成長した菊次郎は西南戦争で足を失いながらも外務省に入り、京都市長になっている。 大島から呼び戻された西郷だったが、お由羅騒動で起きた斉彬の腹違いの弟、「国父」島津久光との確執は上京計画の反対や、寺田屋騒動への連座で溝が深まるばかりであった。久光は西郷を徳之島さらに沖永良部島へ流罪した。西郷は久光を「じごろ(田舎者)」とよび蔑視したという。結局、西郷は元治元(1864)年2月、38歳で赦免されることが決まった。苦々しく思った久光がくわえていた銀のキセルには歯型がくっきりついたという。公議政体への道を歩み出す 赦免された西郷を待ち受けていたのは禁門の変であった。西郷は「会津と長州の私闘である」と判断していた。斉彬の遺志は勤王主義であった。大久保利通宛の書状にも「今度の戦争は、まったくの長・会の私斗に御座候間、無名の軍を動かし候場合にこれ無く、誠に御遺策の通り、禁闕守護一筋に相守り候」と記し、薩摩は幕府の出兵命令をためらった。しかし、長州が禁闕、つまり御所蛤御門を突破したため、西郷は薩摩藩として亡き斉彬の遺策に従い、御所を守る出兵に踏み切った。幕末の動乱期、禁門の変(蛤御門の変)の舞台となったことで有名な蛤御門=京都市上京区の京都御苑 西郷は以来天皇寄りの考えになり、公武合体から公議政体への道を歩み出した。 西郷と勝海舟の初対面はその年の9月のことであった。当時、西郷は京都留守居格、勝は軍艦奉行と神戸海軍操練所頭取を兼務する幕府の高官であった。西郷と対面した勝は「おれは今までに天下で恐ろしいものを二人みたよ。それは横井小楠と西郷南洲だ」と評した。また西郷も勝の人物評を大久保宛の書状で「勝氏に面会したが、実に驚くべき人物である。はじめは打ち負かすつもりだったが、こちらの頭が下がるような状態であった。どれだけ知略があるかわからない英雄肌の人物である」と伝えた。 二人は禁門の変で朝敵となった長州藩の戦後処理について話し合った。勝は幕臣でありながら幕府内部の腐敗ぶりを明らかにし、これからは雄藩が協力して国難に当たるべきと力説した。西郷は、この会談を契機に長州藩に対する処罰を穏便に済ませようと今までの強硬路線を転換させた。薩長同盟の尽力は坂本龍馬の独り舞台のように語られるが、このころに西郷の心づもりはできていたのである。 西郷は、近代国家の樹立が国際情勢からみて急務であり、西南雄藩連合によるべきと痛感していた。大政奉還から王政復古での人選をみても、近代国家にかける意気込みが感じられる。西郷は鳥羽伏見の戦いに天皇のシンボルである錦の御旗を掲げて勝利し、勢いづいていた。一方、最後の将軍慶喜は恭順を表し謹慎中であったが、勝は江戸百万都市をどう守るか思案していた。 慶応4(1868)年正月21日、徳川宗家の寛大な処分には孝明天皇の妹和宮しかないと周りは期待をかけ、和宮は嘆願書を東征軍鎮撫(ちんぶ)使橋本実梁(さねやな)へ届けた。「慶喜一身は如何様にも仰せられ、何卒家名立ち行き候様幾重にも願い度候」と、慶喜の処分を受ける代わりに、徳川宗家の存続を望んだのである。慶喜の処分については、厳罰派の西郷と寛大派の岩倉具視で対立していた。西郷は大久保宛の書状に「慶喜隠退の嘆願、甚だ以て不届千万、ぜひ切腹迄には参り申さず候はでは相済まず、必ず越前、土佐などより寛論起り候わん。然らば静寛院(和宮)と申しても、矢張り賊の一味と成りて、隠退位にて相済み候事と思しめされ候はば、致し方なく候に付、断然追討在らせられ度事と存じ奉り候」(2月2日)と腹の虫が収まらない様子だった。 朝廷から和宮への返答は「この度の事は、実に容易ならざる義に候へ共、条理明白」で、門前払いであった。篤姫から西郷にも「徳川家無事に相続相い叶い候様御取り扱いの偏に偏に御頼り申し候」と嘆願書を届けた。西郷は篤姫に薩摩に戻ってほしかったという。 明治新政府は西郷の描く国家にあらず 勝は西郷の真意を探るため、幕臣山岡鉄舟と大久保一翁に会った。初めて山岡に会った勝は、見識があり、剣と禅で精神を練っただけあって肝が据わった人物とみた。禅をしていた西郷と交渉するため、山岡を使者にたてることにした。ちょうどこの日の3月6日、駿府では軍事会議が開かれ、大総督府は、15日に江戸城総攻撃を決定した。3月9日、駿府で山岡と西郷は会談を持った。このとき勝は山岡に書状を託していた。「主義主張が変われども天皇を抱く国民であり、徳川の臣も天皇の民であることに変わりない。戦いになればその責任はあなた方でとってもらう。戦禍になれば江戸百万都市は二度と戻らない」 西郷は心が揺らいだ。斉彬の遺志は、勤王主義による共存共栄が国家をよりよくすることだったからである。山岡は毅然(きぜん)とした態度で西郷に英断を迫った。現実をみて判断すること、まさに生き切る禅の「即今」の考えを求めたのである。西郷のそばに控えていた桐野利秋は山岡を斬ろうしたが、寸分の隙がなかったと回想している。 ついに3月13日、14日、西郷と勝は江戸で会談し、西郷は総督府と協議し、江戸無血開城が決まった。その裏で勝は英国公使パークスと相談した上で、新政府軍の江戸城攻撃に正当性はないと西郷にクギを刺していた。両雄の英断が江戸を守ったのである。東京・上野公園の西郷隆盛銅像で、西郷が連れているオス犬(大井田裕撮影) しかし、明治新政府は西郷の描いた国家ではなく藩閥政治であり、中央官僚がすべてを牛耳っていた。岩倉遣欧使節団の外遊組が台頭して西郷の留守政府派と対立、明治六年の政変に敗れた西郷は下野し郷里へ帰り、愛犬を伴い野山をかけめぐりウサギ狩りを楽しんだ。 各地で不平士族の反乱が相次ぐ中で、西郷の私学校党の生徒が決起した。世にいう西南戦争である。西郷軍と新政府軍は激しく戦った。このとき西郷軍は賊軍の汚名を着せられることとなった。新政府軍は、川路利良の警察抜刀隊を投入した。明治10(1877)年9月24日、西郷は城山で自刃した。行年(ぎょうねん)51歳だった。 西南戦争で西郷に従った旧中津藩士の増田宋太郎は「吾此処に来り、始めて親しく西郷先生に接することを得たり。一日先生に接すれば一日の愛生ず。三日先生に接すれば三日の愛生ず。親愛日に加はり、去るべくもあらず。今は、善も悪も死生を共にせんのみ」と評し、西郷の度量の大きさと人間としての資質の魅力を物語っている。 西郷は西南戦争で愛犬を連れていた。9月30日、新政府軍の近衛兵が船で神戸に着いたが、戦利品として西郷の愛犬を連れていた。 三十日、汽船にて西京(京都)へ通行の近衛隊内に、西郷隆盛が常に愛せし犬三頭を戦地に於いて分捕せし由ひき連れられたりと云う。その一疋は栗毛、至て巨大なりしと、そのほか二疋は黒犬にて、もっとも洋銀の鎖を以てこれをつなぎ有し由。(大坂日報) 西郷の真心をいちばんよくわかっていたのは愛犬だったかもしれない。

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    知られざる「江戸無血開城」 勝海舟を凌ぐ幕末ヒーローはこの人だ!

    わち鳥羽伏見の戦いを悔い改めるということを政治基調としたのである。徳川幕府最後の将軍、徳川慶喜(霊山歴史館提供) その恭順を陰で支えたのが、槍の達人で、慶喜を近くで守衛する遊撃隊頭の高橋泥舟だったのである(拙著『高邁なる幕臣 高橋泥舟』)。主戦派である小栗上野介忠順(ただまさ)を退けた慶喜は、泥舟をそばに置いて諸事相談した。これまで、輪王寺宮公現法親王(りんのうじのみや・こうげんほつしんのう)や御三卿の一橋茂徳、静寛院宮(和宮)、天璋院(篤姫)などの使者が大総督府や京都に達したが、和宮の使者以外は、いずれも新政府側から何らかの確約・確証を得られてはいない。 ただし、和宮の使者も具体的な降伏条件を示されたわけではなく、恭順・謹慎の実効が立てば寛大な処置の可能性があるとの方針を伝えられただけである。それが江戸の徳川方に伝えられたのは、江戸城総攻撃予定日の7日前、すなわち3月8日のこと、西郷と鉄舟の静岡会談のまさに前日であった(原口清「江戸城明渡の一考察」)。 こうした厳しい状況下から、慶喜は自分の恭順の衷心を大総督府に伝達してはもらえないかと泥舟に依頼した。そのため、最初は泥舟が大総督府に出向き、直接掛け合うことになっていたのである。ところが、すぐに慶喜は心変わりをした。もし泥舟が自分の近くを離れたら、自分を本当に守ってくれる人間がいなくなってしまうのではないか。慶喜は代わりの人間を派遣するように泥舟に命じた。 しかし、泥舟は「至誠」の人である。この仕事は、そのような簡単で間接的な命令で務まるようなたぐいのものではない。それでは上様の恭順・謹慎は大総督府には貫徹しない、上様直々にお命じならなければ難しいと答えた。では推薦せよ、とのことで、泥舟の義弟、すなわち泥舟の実妹、英の夫である山岡鉄舟が、慶喜の御前(ごぜん)に呼ばれたのであった。 それは慶応4年3月5日のことであった。鉄舟も慶喜の覚悟のほどを知り、死地をかいくぐって大総督府に向かうことを約束した。かくして鉄舟はその足で、勝海舟の家に初めて上がった。海舟に会うのも初めてである。尊王攘夷(じょうい)派の鉄舟は、それまで海舟を毛嫌いしていたほうである。海舟の方も鉄舟のような男はそりが「合わない」だから「会わない」と思っていたが、上様の使いで大総督府に行くといわれれば会わないわけにもいかない。ところが、会って話してみるとなかなかの人物であった。これはひょっとするとひょっとするかもしれない、海舟の中で不審が確信に変わった。西郷宛の自身の手紙を鉄舟に持たせることにした。会談前日、鉄舟の手紙 そのため、よく鉄舟は海舟から派遣されたと思っている人がいるが、それは大きな間違いである。今見たように、泥舟の推薦で慶喜が派遣した、まさに上様の使者、徳川家の代表者である。海舟は紹介状を書いたにすぎない。鉄舟が自宅に帰ったころ、海舟の所に保護されていた薩摩藩士、益満休之助(江戸の薩摩藩邸で対幕府工作活動に従事していたが、幕府側に捕縛されていた)が鉄舟の家にひょっこりあらわれて、鉄舟に同行することになった。海舟が気を利かせたのである。かくして、翌6日、鉄舟は静岡の大総督府に向けて出立することになった。 鉄舟が静岡に向けて出発したのが、慶応4年3月6日。途中いくたびかの苦労を重ねて、静岡に到着したのが8日であった。翌9日には西郷との会談があり、10日には江戸に戻り復命している。剣客は「健脚」なのである。 ここに会談前日の3月8日に鉄舟が、のちに慶喜側近となる白井音次郎に宛てた手紙がある。当時は、まだ外国人を警備するために外国奉行のもとに設置された別手組の組士にすぎなかったが、鉄舟の信頼が厚かったものと見える。手紙の初出は、田口英爾氏の『清水次郎長と明治維新』に詳述されているが、若杉昌敬氏の『山岡鉄舟 空白の二日間』には写真コピーが収録されているので、そこから釈文を作成することとした。駿府中ニ西郷氏出張ニ付、夫迄罷越候間、益満兄ヨリ篠原氏迄、貴兄御繰込之一書、相頼候間、都合宜敷出来候ハバ大急ギ御出張奉願候、怱々 三月八日白井音次郎様 急用 山岡鉄太郎 田口氏も若杉氏も述べていないが、本状は包み紙がない形式の簡易的な書状である。すなわち最後の「白井音次郎様 急用 山岡鉄太郎」の部分が、「駿府中ニ西郷氏」の頭の部分から手紙を畳んでいくと最も外側になり、あて名と差出人をおのずと示すことになる。 相手が、つまりこの場合は白井音次郎が最初に手にしたとき見たのが、「白井音次郎様 急用 山岡鉄太郎」の部分である。したがって、この部分の面全体が、経年のあとが最も著しく、汚れているのがコピーからもよくわかる。本状が、確かに当時の書状であった重要な外的証拠である。鉄舟は、よほど急いでいたのだろう。実際「急用」と書いている。 そして最初に「府中」以下を一気に書いた。意味は「府中に西郷隆盛氏が出張してきていることから、そこまで行くことになっている。したがって、益満休之助から篠原国幹(くにもと)まで、貴兄(白井)を派遣するための一書を頼んだので、都合がよく準備ができたら大急ぎでこちらに出張してきていただきたいとお願いする次第。早々」。 この書状によれば、鉄舟はまだ西郷に会っていない。その前に何らかの理由があって白井を呼び寄せるため、薩摩藩兵を率いる篠原に対して、鉄舟の従者になっている益満から紹介状を出したので、薩摩藩兵が守るところは無事通れるから、準備ができ次第、静岡まで出張して来るようにと白井に依頼したものである。駿府会談を前に有能な人員の確保を目指したものであろう。駿府会談前後における白井の動向はいまひとつ明らかではないが、鉄舟から何らかの役割を期待され、果たしたであろうことが推測される。今後は鉄舟だけではなく白井の動向も考慮に入れる必要があろう。実際には確かにある役割を与えられたと考えられる。それは後述する。 さて、先の書状を大急ぎで認めた鉄舟は、翌9日、駿府伝馬町の松崎屋に西郷を訪ねた。松崎屋源兵衛方を西郷は宿所にしていたのである。益満が直接仲介し、海舟の手紙も渡したと思われる。あるいは、鉄舟が後で直接渡したかである。「天皇の軍隊」とは何か 西郷は益満や海舟の紹介があり、かつ、文久期には幕府内部の尊攘・勤王の中心人物と目され、岩倉具視の人事情報網にも引っかかっていた高橋泥舟の義弟である鉄舟が、薩摩などの官軍が充満する東海道を駿府まで通過してきたことに内心驚いたと思われる(『高邁なる幕臣 高橋泥舟』)。しかし、新政府の方針が、大総督府に交渉権を委ねていたことから、会見してみないわけにはいかなかった。もちろんそのようなことは鉄舟には一切知らせていない。かくして、西郷と鉄舟による、世にいう駿府会談が始まった。 会談の具体的な模様は、明治15(1882)年に岩倉具視に提出した、鉄舟筆の「慶応戊辰三月駿府大総督府ニ於テ西郷隆盛氏ト談判筆記」(圓山・平井『最後のサムライ 山岡鉄舟』所収、以下「談判筆記」)から再現するのが最も正確である。西郷側の記録がほとんどないのに対して、談判の最初から最後まで実によくまとまっている。論文としてはイレギュラーながら、「談判筆記」に基づき会談内容を再現してみたいと思う。しばしお付き合い願いたい。幕臣として江戸城無血開城に尽力した山岡鉄舟(国立国会図書館蔵) 鉄舟は、西郷の名前を以前から聞いていたが一面識もなかった。しかし、鉄舟は臆することなく西郷に問うた。「西郷先生、今回の朝敵を征討するというご趣意は、良いも悪いもなく進撃するというものでしょうか。わが徳川家にも多数の兵士がおります。是非に関わらず進軍されるならば、主人徳川慶喜は確かに、東叡山寛永寺に恭順謹慎しておりまして、兵士たちに何度も説諭しておりますが、最終的に鎮撫(ちんぶ)が行き届かないこともございます。あるいは朝廷の御趣旨に背き、脱走し歯向かう者もいるかもしれません。そうなると主人慶喜は、公正無私の赤心で、君臣の大儀を重んじておりますが、朝廷に対してそれを貫き通すことができないことになります。私はそのことを嘆き、大総督宮にこのことを言上し、慶喜の赤心を達するためにここに参りました」 西郷は答える。「もはや、甲州において戦端が開かれているとの連絡が入っている。山岡先生の言われること(慶喜が赤心から恭順謹慎していること)と相違しているではないか」。 鉄舟は「それは脱走兵のなしたことで、たとえ戦端が開かれたとしても、勝手にしたことで、慶喜の赤心には変わりがありません」と毅然(きぜん)と答えた。それを聞いた西郷は「それならばよい」として、それ以上追及しなかった。鉄舟は「先生におかれてはどこまでも戦いを望まれ、人、すなわち慶喜を殺すことを第一とされているのでしょうか。それでは天皇の軍隊とはいえないのではないでしょうか。天皇は庶民の父母のような存在です。非理を明らかにするのが天皇の軍隊であるはずです」と問題の核心に迫る。 鉄舟は、天皇と天皇の軍隊の大義名分に結び付けて、慶喜の助命と戦争回避を迫ったといえよう。鉄舟の赤心からの発言に、西郷は「ただ進撃を好んでいるわけではない。慶喜の恭順の実効さえ立てば、寛大なご処分もあろうと思う」と言わざるを得なかった。そのことは、すでに和宮の使者に対して言質を与えていたことでもあり、ここでは鉄舟に言うタイミングをはかっていたのだと思われる。 鉄舟は畳みかける。「その実効とはいかなることを言うのでしょうか。もちろん慶喜においては朝命に背くことは決してございません」。それを聞いて西郷が言うには「先日、静寛院宮(和宮)・天璋院殿の使者が来て、慶喜殿の恭順・謹慎をもって嘆願しに来たが、ただただ恐れおののいて、一向に条理がわからなかったのです。それでむなしく帰ったのです。先生がここまで来てお話をいただいたおかげで、江戸の事情も判然とし、大いに都合がよかったと思います。先生のお話を大総督府宮(有栖川宮熾仁親王)に言上しますので、ここで待っていてください」とまでなったのである。ただし、やはり和宮の使者への件を西郷は鉄舟に話していない。鉄舟が書き残さなかった西郷の問い ところで実際には、もう少し細かく西郷が慶喜の具体的な恭順・謹慎の様子や江戸の旗本・御家人などの動向、また、江戸に凱旋(がいせん)する際の障害になりそうな問題など鉄舟に訪ねたものと思われる。しかし、鉄舟は「談判筆記」にまったく書いていない。実は、西郷という男は細かいことまで気にする人間で、第1次長州征伐では、長州に潜伏させる斥候に対して収集すべき24項目の細部にわたって情報を求めている(町田「幕末薩摩外交-情報収集からみた薩長同盟」)。例えば、人数や武備のみならず士気、金穀、浪士への給金や飯の量、浪士頭目の名前など戦争遂行上必要な情報を求めているのである。 要するに、西郷の問いかけに鉄舟はきちんと答え、それで西郷は納得して、駿府城の大総督宮に言上したのであろう。鉄舟の待ち時間がどのくらいの時間だったかは不明であるが、帰ってきた西郷から五箇条の宮の御書が下げ渡された。錦の御旗 その箇条は、①江戸城を明け渡すこと、②江戸城内の兵員を隅田川対岸の向島に移すこと、③江戸城内の武器を引き渡すこと、④徳川海軍の軍艦を引き渡すこと、⑤慶喜の身柄を備前池田家に預けることであった。すでに慶喜の助命を前提として、そのための条件が初めて具体的に徳川方に示された瞬間である。 実際、大総督府から提示されたときには七箇条だった(前掲原口論文)。しかし後述するように、厳しい内容だったため、鉄舟が江戸に復命するとき簡略に五箇条にしたものと思われる。あるいは、鉄舟の記憶違いとも考えられ、かつまた明治15年に筆記を執筆するときに簡略化したという可能性もある。現時点では、いずれもありうるとしておく。 ちなみに西郷から示された七箇条は、①慶喜は謹慎恭順しているので、備前池田家にお預けとする、②江戸城を明け渡すこと、③軍艦を残らず引き渡すこと、④武器一切を引き渡すこと、⑤城内に住居している家臣は向島に移り謹慎すること、⑥慶喜の妄挙(鳥羽伏見の戦い)を幇助(ほうじょ)した者を厳重に取り調べ、謝罪の道が立つようにすること、⑦何が何でも打ち砕くようなことはないので、鎮定の道が立つようにせよ。もし暴挙をするような者がいれば官軍をもって鎮めることとする、これら七箇条が速やかに実行されれば、徳川氏の家名存続には寛大な御処置が命ぜられると結んでいる。やはり七箇条のほうが、断然厳しい言い方になっている。 特に⑥と⑦は旧幕臣たちを刺激する条項であるので、鉄舟が意図的に五箇条にして復命したとも思うが、七箇条は『復古記』第二巻、『徳川慶喜公伝』巻七(東洋文庫版では4)、『大西郷全集』第二巻などに収録されており、それらの出典は、西四辻公業私記、海舟日記などである。朝廷側・徳川方双方に残っていることから、鉄舟に示されたのは七箇条がもとであったとしたほうが、納得がいくと思われる。 「談判筆記」にもどろう。西郷が言うには「右の五箇条(実際には七箇条)の実効が行われるならば、徳川家寛典(かんてん)の御処置もあろう」。鉄舟は「謹んで承ります。しかし五箇条のうち一箇条だけは、どうしても私には請け負えないことがございます」。「それはどの箇条ですか」と西郷。「主人慶喜を備前池田家に預けるという箇条です。これは決してできないことです。それでなければだめだというのであれば、徳川恩顧の家臣たちが決して承知しないでしょう。結局のところ戦端を開くことになり、むなしく多くの命が奪われることになりましょう。これが天皇の軍隊のすることでしょうか。さしずめ西郷先生はただの人殺しです。ですので私はこの箇条は決して肯定できないのです」。西郷は「朝命です」と一言。西郷の正義に君臣の情はないのか 鉄舟はなおも食い下がる。「たとえ朝命といわれても、私は決して承服できないと断言します」。すると西郷は「朝命です」とまた強調した。鉄舟は「そうであるならば、先生と私とその立場を交換してしばらく論じましょう。すなわち先生の主人である島津茂久公が、万が一朝敵の汚名を受けて、官軍に征討される日になり、恭順謹慎を言上するために、先生が今の私の任を行うにあたって、主家のために尽力することになり、私の主人慶喜に対するような朝命、つまり岡山池田家など他家お預けという朝命があった場合、先生はその朝命を奉じて、すみやかに主人を差し出し安閑として傍観することができますか。先生の正義のなかには君臣の情というのは、ないのでしょうか。この点において私は決して耐えることができないのです」と激論した。西郷はしばらく黙然として「確かにその通りです。それならば慶喜殿のことは、この西郷がきっと引き受けて取り計らいましょう。先生が決して心配することがないようにお誓い申し上げます」と誓約したのである。 鉄舟の論は、実に正論である。あなたが私の立場ならそれができるかと迫ったのである。これには西郷は困ったであろう。権謀術数渦巻く京都政局において、さまざまな仕事、汚れ仕事も含めさまざまな仕事をしてきた西郷にとって、赤心をもって誠意をもって事に当たる純粋な鉄舟の前に、その要望を受け入れざるを得なかったのである。 その後、鉄舟は、西郷と酒を酌み交わし、西郷から陣営通行許可証をもらって江戸城に向かった。途中、神奈川宿で伊豆韮山の江川代官が大総督府に献上した馬を借り、品川宿では薩摩藩兵に発砲されたが空砲で助かり、江戸城で大久保忠寛、勝海舟らに報告した。もちろん慶喜は大変喜んだ。なお、8日に帰城した和宮の使者が、恭順・謹慎の実効が立てば寛大な処置があるかもしれないとの可能性を伝えていたこともあずかって力があったであろう。この点からしても、海舟の独り舞台は全くおかしな話である。鹿児島県霧島市の西郷公園にある西郷隆盛像(竹川禎一郎撮影) そこで徳川家は「大総督府参謀西郷吉之助殿への応接が済んだ。恭順・謹慎の実効が立てば、寛大な御処置があるので、江戸市中の一同は動揺せず、家業を全うするようにすべし」との高札を江戸のいたるところに立てたのである。こうして江戸の庶民は幾分安堵(あんど)の色をなしたのであった。 西郷・鉄舟の静岡会談の後、西郷は10日に静岡で軍議を開き、翌11日早朝に出発し、13日高輪の薩摩藩邸に入った。この西郷の動向および再会談の日程を鉄舟および徳川方に伝えたのが、前述の3月8日付鉄舟書簡のあて先、別手組白井音次郎とであると推測する。白井は9日の会談中に静岡に到着し、鉄舟と西郷に面会し10日の軍議後か、11日早朝に西郷に先立って静岡を出発したのだろうと思う。西郷は鉄舟の依頼により白井に通行手形と鉄舟・海舟に宛てた手紙を持たせたと思われる。 さて従来の見解では、江戸での再会談初日が儀礼的、2日目が実質的な話し合いだったとしたが、原口氏は、初日・2日とも実質的な話し合いで、初日が徳川方からの正式嘆願書提出前のすり合わせ、2日目が正式嘆願書提出とする(前掲原口論文)。その通りであろう。そして忘れてはならないのは、両日ともに鉄舟が海舟とともに参加し、特に両日ともにふたりを警護しながら、会談の行方をしっかり見守っていた。鉄舟は、海舟の目付的な役割を果たしていたのである。静岡会談での鉄舟が一部保留にしてまでも決めてきた交渉条件がおかしな方向に行かなかったのは、両日ともに鉄舟の存在があったからである。ただし、2日目の正式嘆願書の目付は桜井庄兵衛で鉄舟ではない。桜井が本来の役職者としての目付だったからである。西郷が感服した鉄舟の論理 西郷は3月16日、江戸を出発し、20日には京都で朝廷会議がもたれ、慶喜の死罪を免じ、徳川の家名存続、移封および70万石か50万石位の石高、城・軍艦・武器などの全引き渡しなどが決定された。西郷は25日に静岡に至り、大総督宮らに報告、具体的な江戸城受け取りなどの協議を行い、正式通達文が作成され、4月4日の勅使が江戸入城を果たし、通達文の伝達を行った。すなわち「江戸無血開城」が、ここになったのである。 なお、静岡会談で、鉄舟が展開したのは「王師」論であった。すなわち天皇の軍隊は非理を正す軍隊であり、やみくもに同じ国民を弑逆(しいぎゃく)するものではないという論である。「天皇の軍隊、かくあるべし」という確固たる鉄舟の論理に、西郷は感服したのである。それが徳川家の運命を決めたと言っても過言ではない。それゆえ、明治5(1872)年、鉄舟が西郷らの推薦で明治天皇の侍講に任命されたのであろうと思われる。 4月11日早朝、慶喜は上野・寛永寺を水戸に向けて出発した。ついに前将軍が江戸を離れるときが来たのである。12日、大総督宮が江戸に入城、新しい主人が江戸城に座った。しかし軍艦の引き渡しは榎本武揚らの消極的抵抗で完全引き渡しには至っていない。また、5月15日には寛永寺において彰義隊戦争が勃発している。この戦争では、長州藩大村益次郎の指揮下に、本郷台縁(べり)に配置された佐賀藩のアームストロング砲の威力で、彰義隊を鎮めた。そしてそののち5月26日に徳川家存続が正式に新政府から発表されたのである。戊辰戦争で威力を発揮した佐賀藩のアームストロング砲(復元、佐賀城本丸歴史館蔵) 上野戦争以後、関東各地や北越・会津、箱館が主戦場となり、明治2年5月に榎本が降伏して、鳥羽伏見の戦いから始まった戊辰戦争は終結した。しかし、鳥羽伏見の戦いの戦後処理の実際は、3月9日の西郷・鉄舟による静岡会談で実質的に終わっていた。形式的には「江戸無血開城」により戊辰戦争の敗戦側戦争最高責任者慶喜は、寛大ながら処罰され、実質的な処理は終わったと見るべきである。 関東各地や北越・会津、箱館で戦い、亡くなった死者にむち打つつもりはないが、「江戸無血開城」以降は新政府による領土拡張の侵略戦争といった様相を呈したと思われる。これなどは、不本意に終わった「江戸無血開城」の腹いせとも言えないこともない。 だからこそ、イギリス人医師ウィリアム・ウイリスは、新政府軍による悲惨な侵略戦争を見聞しに会津入りを断行したのである(拙著『病とむきあう江戸時代』)。会津でウイリスが見たものは、悲劇的な会津武士の死にざまと、それに同情しようともしない農民の姿だった。 また、新政府は榎本の「北門の守りを分担したい」という願いを踏みにじり押しつぶした。さらにそれはアイヌ民族への同化政策ともなっていった。こうして、明治近代国家における東北・蝦夷地(北海道)への差別的な待遇が始まった。またそれは、明治5年の琉球県設置、同10年の沖縄県設置、翌年の分島問題にわたる、いわゆる「琉球処分」も戊辰戦争後半の侵略戦争の延長上にあった。 さらに各地の士族反乱鎮圧や西南戦争、朝鮮侵略、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、シベリア出兵、満州事変、日中戦争、アジア・太平洋戦争敗北への道でもあった。そのような直線的な理解は一面的との批判もあろうが、戊辰戦争が「江戸無血開城」以前と以後で、その様相が一変することは十分に認められよう。剣の達人山岡鉄舟が、槍の達人高橋泥舟とともに成し遂げたのが平和的な「江戸無血開城」である。それ以降、実際の戦争は凄惨(せいさん)なものになっていった。まさに歴史の皮肉というべきであろう。西郷と海舟の功績になった一枚の絵 明治神宮外苑(がいえん)の聖徳記念絵画館に「江戸開城談判」という大きな絵がある。だれもが知っているあの絵である。西郷と海舟しか描かれていないが、実際はあの場に鉄舟もいた。ところがある事情で鉄舟が書かれなかったため、「江戸無血開城」は西郷と海舟の功績になってしまったと考えられる(拙著『江戸無血開城の真実(仮称)』)。あの絵は鉄舟の目線で見た西郷と海舟である。立役者はあくまでも西郷と鉄舟なのである。 絵は罪作りである。インパクトがあるから記憶に残りやすい。描かれなかった者は忘れ去られていく。加えて、鉄舟死後、海舟側の資料が多く出版され、注目され、読まれたことから、鉄舟・泥舟の功績がまったく忘れ去られてしまったのである。 しかし、鉄舟・泥舟は、「上様さえわかってくれればそれでよい」と考えていたと思われる。それでも鉄舟が「談判筆記」(『最後のサムライ 山岡鉄舟』)を残し、泥舟が「高橋泥舟翁事歴」(『高邁なる幕臣 高橋泥舟』)を語って残してくれたことで、真実が後世に辛うじて伝わることになった。 なお、「江戸無血開城」前夜の4月10日、慶喜は主だった幕臣を集めて別れを惜しんだ。その時、鉄舟に自らの助命と徳川家の存続、すなわち「江戸無血開城」に果たした役割は、鉄舟が「一番槍」であると称賛して愛刀を与えた(全生庵所蔵の断簡史料)。鉄舟・泥舟の苦労が報われた瞬間である。 「上様はわかってくださっている」。それを支えに、鉄舟は西郷の推薦で明治天皇の侍講となり、幕臣として培った武士道を天皇に一生懸命に教授した。泥舟は、明治政府に一切仕えずに槍を筆に持ち替えて、請われるままに揮毫(きごう)して糊口(ここう)をしのいだ。鉄舟は、倒れていった仲間たちのために全生庵を開基し、泥舟は鉄舟亡きあと静岡清水の久能寺を鉄舟寺として再興した。 鉄舟は、仲間たちと全生庵に「全生庵殿鉄舟高歩大居士」として眠り、泥舟は、高橋家の墓所大雄寺に「執中庵精一貫道大居士」として、家族とともに葬られている。ともかく鉄舟の命日7月19日と泥舟の命日2月13日は、江戸を救った英雄の命日として記憶されるべきである。 あえて言う。「江戸無血開城」の新政府側の功労者は確かに「西郷どん」である。徳川方の功労者は、鉄舟・泥舟・海舟・和宮の使者である。これまたあえて比率でいえば、西郷:鉄舟:泥舟:海舟:和宮の使者=3・5:3・5:2:0・5:0・5であろう。その根拠は本論を読まれた読者はよくお分かりであろう。さらに拙著を読んでいただければ、より明らかになるであろう。 最後に、今年の大河ドラマ「西郷どん」の時代考証は、『武士の家計簿』で著名な歴史家の磯田道史氏である。氏がメーンキャスターを務めるNHK歴史教養番組「英雄たちの選択」で何度もご一緒させていただいた。11月27日にスタジオ収録された中でも鉄舟・泥舟の「江戸無血開城」に果たした役割を語らせていただいた(1月3日放送『新春スペシャル「幕末ヒーロー列伝 これが薩摩藩の底力だ!」』)。 この文章を書いている時点で、その部分が放映されるかどうかはわからないが、ぜひ、いずれ放映される「西郷どん」の「江戸無血開城」の回では、鉄舟・泥舟の活躍をきちんと描いていただきたいと切に願う。今まで大河ドラマはフィクションだからとあきらめてきたが、「江戸無血開城」は「首都」東京の成立にかかわる最重要事件だけに、現時点で確実なこと、すなわち、幕府側の貢献者は鉄舟と泥舟であると、きちんと描いていただきたいものである。全国の鉄舟ファン、泥舟ファンが固唾をのんで見守っていると思う。

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    西郷隆盛のストレスや下痢が明治維新後の日本を変えたか

    ければ、この政変は起きなかったはずだ。となれば、「西郷どんのストレス」がなければ、明治維新後の日本の歴史は変わっていたかもしれないのである。【PROFILE】家近良樹●1950年、大分県生まれ。同志社大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学。中央大学博士。著書に『ミネルヴァ日本評伝選  西郷隆盛』『西郷隆盛と幕末維新の政局 体調不良問題から見た薩長同盟・征韓論政変』(ともにミネルヴァ書房)など他多数。関連記事■ 「征韓論」の真実は「西郷が自ら外交問題を解決したかった」■ 西郷隆盛は西南戦争の主体でもない上に本意ではなかった■ 西郷隆盛「大の写真嫌い」はウソ 「顔が違う」伝説の真相■ 西郷隆盛の肖像画、どれが最も似ているか論争に決着■ 西郷隆盛はお腹が弱くトイレに50回も駆け込んだ

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    松平定知氏が解説 「西郷どん」が今の時代に求められる理由

    ん』(鈴木亮平主演)だ。維新回天の英傑・西郷がどのような環境で育ち、人生の最期をどう迎えたのか──。歴史通で知られる元NHKアナウンサー・松平定知氏が、西郷の故郷・鹿児島を訪ね、激動の時代を駆け抜けた彼の人生をたどった。 * * * 私は西郷隆盛の故郷薩摩の地を歩くたびに、その人気がいかに飛び抜けているかを実感する。 銅像ひとつとっても、鹿児島市立美術館そばの、県のシンボルと言われる軍服姿の立像、空港近くの西郷公園にある、実在の人物としては高さ10.5メートルという日本一の大きさを誇る立像など、いくつもの「西郷どん」が立っている。その他、誕生の地、終焉の地などに設けられた石碑から、若き日に座禅を組んだ石、晩年に自ら作った手水鉢に至るまで、実に多くの史跡がある。その数は薩摩の他の志士とは比べ物にならないほど多く、こと地元に限れば高知における坂本龍馬をも凌ぐ。そして、西郷を愛する人は日本中にいるのだ。◆自殺未遂に二度の遠島……維新までの歩みは波瀾万丈 なぜ西郷はかくも人々に愛され続けるのか? その理由を、薩摩を訪ね、生涯を辿ることで探ってみたい。NHKキャスター(当時)、松平定知氏=2002年7月30日、大阪市(朝田康嗣撮影) 文政10(1827)年、西郷は鹿児島城下の下加治屋町(現・加治屋町)で下級藩士の長男として生まれた。ちなみに、下加治屋町は西郷を始め、大久保利通、山本権兵衛、大山巌、東郷平八郎など明治政府の要人を数多く輩出し、司馬遼太郎氏は「明治維新から日露戦争までを一町内でやったようなもの」と評した。 17歳で島津藩に出仕し、やがて江戸に出府する藩主斉彬から「庭方役」に抜擢される。身分の低い藩士が庭先などで藩主らと接触できる役職で、西郷は斉彬から諜報を命じられた。これが西郷の「全国区デビュー」となり、その後の人生を決めた。黒船来航以降の動乱の中、他藩の実力者と交わるうちに最終的に倒幕の中心人物となり、明治政府樹立直後の戊辰戦争では、政府軍を指揮し、江戸城の無血開城を実現させるなど比類なき政治力も発揮した。西郷はこうして明治維新の大功労者となった。 だが、そこに至る道は波瀾そのものであり、私に言わせれば、実は失敗の連続である。 斉彬の命を受けて一橋慶喜を第14代将軍に擁立すべく工作に奔走したが、実現しなかった。大恩ある斉彬が急死し、諫められて思いとどまったが、一時は殉死を考えた。その後、大老井伊直弼が反幕派を弾圧する「安政の大獄」が始まり、西郷が敬愛する尊皇攘夷の僧月照にも身の危険が迫った。西郷は月照を薩摩に匿うが、追い詰められて絶望し、桜島を望む錦江湾に2人で飛び込み、入水自殺を図る。助けられ、西郷だけが命を取り留めた。だが、藩命によって奄美大島に潜居させられ、さらに斉彬の異母弟、久光の命に従わなかったため、徳之島、次いで沖永良部島への流刑に処せられたのだ。西郷と対極の生き方が当たり前の現代◆命もいらず、名もいらず──野に下り、故郷に散った巨星 維新後、西郷は新政府から再三請われ、明治5(1872)年、参議兼陸軍元帥・近衛都督となる。だが、明治6(1873)年、関係が断絶していた朝鮮への対応を巡って政府内が対立し、敗れた西郷はすべての職を辞し、野に下る。最後にして最大の波瀾が起こるのはこの後だ。 帰郷した西郷が、士族に求められて設立したのが銃隊学校、砲隊学校などからなる「私学校」だ。「私」とつくが事実上の公立で、県内各地に130以上の分校ができ、1万人以上の若者が集まった。 時あたかも、佐賀の乱に始まり、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱と、維新によって特権を剥奪された士族が各地で反乱を起こしていた。明治政府が勢力を増大させた私学校を警戒し、動向を探ろうとすると、私学校の急進的な若者らが激昂し、政府側の火薬庫を襲った。それを知った西郷は「おはんら(お前ら)何たることをしでかしたか」と漏らしたという。私の想像だが、西郷は、挙兵しても政府軍に勝てるとは思っていなかったのではないか。だが、若者らの思いを考えると、引くに引けず、行動を起こさざるを得なかったのだろう。明治10(1877)年2月、こうして西南戦争の火蓋が切られた。 西郷軍は3万余り。北上して熊本鎮台(軍政機関)のある熊本城を攻めるが落とせず、田原坂での激戦の末、敗走を余儀なくされ、鹿児島城下を見晴らす城山に籠もる。囲む政府軍は5万人、籠もる西郷軍は300人。西郷は故郷に死に場所を求めたに違いない。9月24日、猛攻撃を受けて腰に2発の銃弾を浴びた西郷は「もうここらでよか」と配下の者に声を掛け、介錯を命じて49歳の生涯を閉じた。西郷らしい最期だと思う。西郷隆盛銅像=2006年6月14日、東京都台東区の上野公園(撮影者:大井田裕) 西郷は維新の大立者でありながら、新政府内に自ら地位を求めず、請われて要職についても恋々とせず、野に下った。死を前にしてもあがかず、運命を受け入れた。大人を思わせる風貌と相まって、そうした潔さが西郷の魅力のひとつである。「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るもの也」 西郷が残した有名な言葉だ。そういう人物こそが人の上に立ち、大きな仕事を成し遂げられる、という意味が込められている。西郷は失敗というか、思うようには結果が出ないことが多い人だった。でも、誠実に生きた。そのことが人々の心の琴線に触れるのだと私は思う。西郷と対極の生き方が当たり前になってしまった今の時代にこそ、西郷は求められるのではないだろうか。(松平氏・談)【プロフィール】まつだいら・さだとも/1944年生まれ。早稲田大学卒業後、NHK入局。『NHKニュース7』『その時歴史が動いた』など数々の看板番組を担当。2007年にNHKを退局し、現在は京都造形芸術大学教授などを務める。武将の智略について考察した『謀る力』(小学館新書)など歴史についての著書多数。関連記事■ 西郷隆盛はお腹が弱くトイレに50回も駆け込んだ■ 西郷隆盛のストレスや下痢が明治維新後の日本を変えたか■ 2018大河『西郷どん』 鈴木亮平主役抜擢までのドタバタ劇■ 西郷隆盛は西南戦争の主体でもない上に本意ではなかった■ 西郷隆盛がいま我々に語りかける「最後の武士」の名言

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    西郷隆盛と大久保利通、それぞれのリーダーシップ

    童門冬二(作家) 好敵手(ライバル)という言葉がある。ライバルとは敵であると同時に、かけがえのない味方でもある。西郷隆盛にとっての最大のライバルは、もちろん大久保利通である。西郷は、大久保を最高責任者とする明治新政府軍に敗れたわけだから、敗者の西郷にとってみれば、大久保は、まさに「敵」そのものである。 西郷と大久保の朋友関係は、明治維新を実現するためには、なくてはならぬ存在であった。互いに信頼のできる最大の同志であった。わかりやすくいえば、この両者は、いわばピッチャー(西郷)とキャッチャー(大久保)の関係に似ていた。そして、この関係は、明治維新を迎えるまでは、実に絶妙なコンビネーションを誇っていた。 しかし、この両雄のコンビネーションも、新しい時代の潮の中では、いつしか別々の路線をたどる運命にあった。そして、気がついたときには、大久保のリーダーシップの前に、西郷は「明治の賊徒」の汚名を着せられていた。 いま、西郷隆盛と大久保利通が現代企業社会に生きたとすれば、リーダーとしてどう違うのか。西郷隆盛が、自分でこんなことを語っている。東京・上野の西郷隆盛像=2007年2月5日(栫井千春撮影)「俺と大久保の差は、たとえば俺は、古い大きな家を壊し、新しい家をつくるのが得意だ。しかし、つくるのは本体だけで、内部の細々したことは苦手だ。そこへいくと、大久保は内部のどんな細々したことでも、着実に、丹念につくり出す。その才能には、到底俺はかなわない。しかし、またこの家を壊すことになると、俺の独壇場だ」 西郷は、徳川幕府という古い大きな家を壊した。そして、明治国家という新しい日本の家をつくり出した。が、その後を引き受けて、家の内部を整備し、明治国家として、日本を「ヨーロッパに追いつけ、追い越せ」という発展をさせたのは大久保利通である。その意味では、西郷が語ったといわれるこの言葉は2人の特性の差をよく言い表している。西郷は3通りの人間を重視した 西郷が語った言葉は、「情」と「知」の関係でいえば、西郷は類まれなる破壊者であるということだ。そして大久保は建設者だった。壊すには、確かに感情を動機にしたほうがパワーが大きい。しかし、建設は感情一辺倒では駄目だ。現実をよく見極めて、着実に、一歩一歩事を為していかなければならない。その意味では、西郷はどちらかといえば、遠くのほうを見るロマンチストであり、いってみれば、詩人的な要素があった。だから、時には大きく挫折する。あるいはせっかく積み上げた石の山を、自分から全部崩してしまうこともある。つまり、ゼロに戻ってしまう。しかし西郷の場合は、だからといって落ち込むこともなく、人を恨むこともなく、「すべて、天の命ずるところなのだ。まだ、俺は人事を尽くしていないのかもしれない」と反省して、新しい勇気を湧き起こした。大久保はそこへいくと、一歩一歩現実を見ながら着実に歩いていくタイプだ。明治維新後、大久保を知る多くの人たちがこういうことを言っている。「西郷さんには、遠大なロマンがあったが、大久保さんにはそれがない。西郷さんは大きな夢を示す。大久保さんは、今日一日か、せいぜい明日あたりを目標にして、事を考える。決定的に違った」 もう一つの違いは、組織に生きる人間は、大きく分けて「組織を重視する人間」と「人間関係を重視する人間」とに分かれる。 つまり、難しい言葉を使えば「組織の論理を重視する」か、「人間の論理を重視する」かに分かれる。西郷隆盛は人間を重視した。そこへいくと大久保利通は、組織を重視した。特に組織の持つパワー、すなわち権力を重視した。西郷の場合は、「組織の論理も、人間の論理によって突破することができる」と考えた。大久保は反対に、「組織の論理は強固で、個人の力では突破できない」と考えた。このあたりが、決定的に違う。鹿児島 大久保利通像=2011年1月14日(岡田亮二撮影) たとえば、西郷隆盛が仕事を進めるうえで、最も有力な方法として展開したのは、人間のネットワークをつくることである。それは、普通にいう閥のことではない。もっと、高い志によって、薩摩藩だけでなく、多くの藩や、場合によっては徳川家内部にも、自分と共鳴し、一緒に事を進めていく仲間づくりに勤んだことである。また、彼は世の中に、3とおりの人間をしつらえた。3とおりの人間とは、・学べる人間(師)・語れる人間(友)・学ばせる人間(後輩・部下)のことである。西郷が「理想的なリーダー」と言われる理由 西郷隆盛が、最初に師として仰いだのは薩摩藩主、島津斉彬であった。斉彬は、当時としてはたいへん開明的な大名で、ヨーロッパの知識も多く持っていた。いまの言葉を使えば、国際化、情報化に十分に対応していける力を持っていた。 だから、彼は薩摩藩主でありながら、常に、「国際社会の中で、日本はどうあるべきか。その中で、薩摩藩は何をすべきか」ということを念頭に置いていた。そこで、薩摩藩という小さな井戸の中の蛙のように、薩摩藩内のゴタゴタで終始、怒ったり悲しんだりしている西郷を、手元に引きつけて指導した。島津斉彬(薩摩藩藩主)=三浦寅吉氏提供 斉彬が西郷を発見したのは、たとえ井の中の蛙であっても、西郷が類まれな純真な青年であったからである。また、胸に秘めた情熱が、桜島の噴煙のように熱かったからだ。つまり、斉彬は西郷を「オクタン価の高い人間だ」と見たのだ。西郷は、斉彬によってしだいに目覚めた。斉彬は、単なる主人ではなかった。完全に師であった。また斉彬を通じて、さらに新しい師である水戸の藤田東湖や、藤田のところに学びにきていた橋本左内をはじめ、多くの友人を得た。こういう多面的な他人との交流が、西郷隆盛に蜘蛛の巣のような拡がりを持った人間関係のネットワークをつくらせていく。そして、これがのちにどれほど役に立つかわからない。 西郷は鹿児島でも、若い連中とグループをつくった。『近思録』という書物を読み合う会だったが、これはやがて「精忠組」という政治グループに発展していく。西郷は、終始一貫この近思録派、あるいは精忠組のリーダーだった。 彼が、自分からリーダーを買って出たわけではない。後輩たちが、「西郷さん、リーダーになってください」とせがむのである。そういう、黙っていても、自然にリーダーの座に押し上げられてしまうような人徳と魅力が西郷にはあった。それは、西郷が、常にどんな人間に対しても温かかったからだろう。 彼は、後輩や部下についてこう言っている。「世の中には、能力だけをモノサシにして人間を推しはかるリーダーがいるが、これは間違いだ。というのは、この世の中では、人間は、10人のうち、8人か9人まで大体が凡人だ。小人といってもいい。すぐれた能力を持つのは、ほんの1人か2人にすぎない。それなのに、能力のある1人か2人だけを見出して、後を石ころのように捨ててしまえば、この世の中は成り立たなくなってしまう。私は、そういう考えが嫌いだ。それよりむしろ、小人とか凡人とかいわれる8人や9人の人間の中に、その長所を発見して、それを育てることが大切なのだ。小人の中に、長所を発見できないようなリーダーは、本当に優れたリーダーではない」大久保の能力主義が西南戦争を引き起こした? フツーの組織人が聞いたら、飛び上がって喜ぶ言葉である。特に、能力主義が前面に出ている現在、「西郷さんのようなリーダーが、いま、職場にいたらなあ」と思うビジネスマンは多かろう。大久保利通(幕末の鹿児島藩主・明治の政治家) そこへいくと、大久保は違った。彼は、あくまでも能力主義である。西郷の、いわば、「どんな人間にも長所はある。それを発見して、手をつなぎ合って生きていこう」という考えは人間重視主義だ。したがって、そういう心と心で結びついた1つの輪ができる。見方によっては、派閥だ。大久保は、そう見た。そして、「組織内に、そういう閥をつくってはいけない。組織で必要なのは、あくまでも組織の目的を達成する能力なのだ。それを重視すべきだ」と主張した。したがって、明治政府の高級官僚になっても、大久保は、比較的派閥意識のない人間だったといわれている。よく明治政府を、「薩長閥」というが、大久保自身にはそんな考えはなかった。彼は、能力さえあれば、よその藩の人間でも、どんどん登用した。たとえば、伊藤博文とか大隈重信である。伊藤は長州の人間だし、大隈は佐賀の人間だった。が、大久保は、「われわれは、すでに日本という国家に所属しているのであって、薩摩藩や長州藩や佐賀藩に属しているわけではない。もっと、広い視野に立って、昔のことなど忘れるべきだ」と言っていた。これが、鹿児島の人間を怒らせた。特に士族を怒らせた。西南戦争の遠因にもなっていく。 だから、西郷隆盛があらゆる職場で、「どんないやな職場にも、必ず学べる人、語れる人、学ばせる人がいる。そういう発見に努めれば、辛い職場もけっして辛くはない」と言った。それに対し、大久保は、「いや、そんなことはない。組織の目的を達成するためには、人間対人間のうじうじした関係に沈み込んでいてはいけない。そういうものを振りきって、あくまでも前へ進むべきだ」と言い返す。これが、組織人としての西郷と大久保の決定的な差になる。つまり、はっきりいえば大久保自身は西郷の言うように、職場の中で積極的に、師や、友や、あるいは後輩を発見しようとは思わなかったのである。 「黙って、俺についてこい」という気持ちだったかもしれない。というのは、西郷がつくった明治国家という新しい家の中で、大久保は事実上その家の主人となって、常に先頭を切っていたからである。大久保にすれば、自分が師であり、友であり、あるいは後輩であったのだろう。 ※本記事は童門冬二著『西郷隆盛 人を魅きつける力』(PHP文庫)より一部を抜粋編集したものです。関連記事■中間管理職こそ西郷に学べ!~作家・童門冬二が西郷隆盛を書いた理由■西郷隆盛はなぜ西南戦争を戦ったのか■大久保利通 公平無私の精神

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    蛇神のためなら「たとえ火の中水の中」信長の脳内が分かる3つの逸話

    橋場日月(歴史研究家、歴史作家) 弘治3(1557)年11月2日、干ばつと凶作の結果、信長は必死に雨乞いをおこなった。そして飢饉(ききん)のなかで食糧を確保するため穀倉地帯の篠木を信長と争った弟の信勝は、兄の仮病にだまされ清洲城へおもむき、斬殺された。 それにしても、当時の人々にとって雨乞いは、生命を維持するための作物を得ることができるかどうか、生死に関わる重大事である。竜や大蛇に、ゆかりの場所とゆかりの器具を用いて必死に祈るのもよいけれど、それで実際に効果があがるかどうかは蓋を開けてみなければわからない。せっかちな信長はこれをどう思うだろうか? 「まだるっこしい!」となるのではないか? どうもそれが、その通りだったらしい。 信長が津島で雨乞いの踊りをおこなった前後、おそらくは明くる弘治4(=永禄元、1558)年のことだと思う。清洲城から5・5キロほどをほぼ真東に進むと、庄内川の河畔の長大な堤防にぶつかるのだが、信長の時代にもこの場所に堤防が存在したらしく、『信長公記』に「北・南に長き堤これあり」と出ている。 この堤防の内側には「あまが池」という名の池があるのだが、これが古くから「蛇池」とも呼ばれてきた。その怪しげな池に大蛇が出た、と大騒ぎになったのだ。雨のなか、日暮れ時に目撃した者の話によると、大蛇の胴体は堤の向こうにあり、首があまが池の手前にまで伸びていた。その太さはひと抱えほどもあったというから、周囲170センチとすると直径は50センチ以上と計算できる。化け物の目は星のように光り、舌も紅色に輝いていた。現在の蛇池 この噂は、たちまち信長の耳に入る。自らの生い立ちと深く関わってきた蛇、しかも大蛇が出現したというのだから、信長もひどく興奮したらしい。目撃者を呼び出して話を詳しく聞くと、「明日、池の水を掻い出して大蛇を見つける!」と言い出した。ここでもせっかちな一面が顔を出している。 そして翌日、彼は周辺9カ郷村の農民たちを動員した。農民たちは釣瓶(つるべ)・鋤(すき)・くわを持って池を取り巻き、一斉に水の掻い出しにかかる。最近「池の水ぜんぶ抜きます」というテレビ番組が高視聴率というが、それを約460年前に信長がやろうとしていたというわけだ。 ところがこれが結構大変だった。4時間ぶっ通しで作業を続けても池の水は7割程度にしか減らないのである。この池はその場所からいって、庄内川の調整池の役割を果たしていたのではないかと思われるが、一方で川と地下水脈でつながっていたのかもしれない。とすればいくら水を掻い出しても池が枯れるはずがないのだ。蛇池の逸話に隠された信長の真意 しびれを切らした信長は、とうとう着物を脱いで脇差しを口にくわえ、自ら水中に入っていった。しばらく潜ったあとあがってきた信長は、「なかなかに大蛇らしき物はおらぬわ」と言うと、さらに念のため泳ぎの達人(この男の名、鵜左衛門という。いかにも水泳名人らしい)にも潜って探させたが発見できず、清洲城へと引き揚げていった。蛇池の記述(『尾張名所図会』後編巻三より、国立国会図書館近代デジタルライブラリー) 単純なバカ騒ぎのようではあるが、これが正月下旬の、池の水も凍るような厳寒のなかでおこなわれているのだから尋常ではない。下手をすると死者まで出るのではと思われるほどで、しかも信長自身が命の危険をかえりみずに池水に潜っているのだ。 さてこの一件、果たして信長は好奇心だけで命知らずなおこないをしでかしたのだろうか?答えはNOだろう。 蛇池の正式名称である「あまが池」は「雨が池」と考えてよい。調整池として庄内川が大雨で氾濫すればその水を受け止めて周囲の損害を防ぎ、渇水時にはこの池で雨乞いをおこなったと思われる。雨といえば前回紹介した蛇体の「宇賀神」は水の神である弁才天女とセットにされていたが、本来は穀霊(こくれい)神だったという。穀物の豊穣(ほうじょう)には水のコントロールが欠かせない。そして、『常陸国風土記』に記されている夜刀神(やとのかみ)を代表的な例として、愛知県より東では古くから蛇神は稲作に欠かせない潅漑(かんがい)・水利の無事を守るものとして信仰されてきた。 つまり、信長が傾倒していた蛇・龍、雨乞いがセットになっていた場所こそが「あまが池」なのである。           本連載第2回では幼い信長が那古野城内の天王坊安養寺に通い「祭神の素戔嗚尊(スサノオノミコト)がヤマタノオロチを倒しその体内から草薙剣(クサナギノツルギ)を得た=オロチの力をわが物とした」という神話に親しく触れていた、と紹介したが、その信長が実際に大蛇(オロチ)が身近にいるかもしれない、と思ったとき、素戔嗚尊の故事にもとづき自分も大蛇の力を獲得して水を支配する力を得られるではないか、という考えに至ったのは自然な流れだったろう。ところが実際の信長は池の水の掻い出しすら思った通りにできない素の人間のままで終わってしまった、というオチでこの話は終わるのであるが。信長が家臣につけた名前の意味 これで信長がいかに大蛇に執心していたかがおわかりいただけたと思うが、ところで、読者の皆さまは何かに熱中したときにどういう行動をとるだろうか。信長のようにそれを手に入れて一体となりたいと思えば、品物であれば高額でもかまわずそれを買い求め、山野を探して回り、自分で造りだそうと寝る間も惜しんで製作にいそしむだろう。人物であれば、その人の髪形・衣装・話し方をまね、メイクも似せようとするだろう。SNSなどのハンドルネームもその人物の名を使ったりする人は多いだろう。 信長の場合はどうしたか。身につけるもの(三五縄)の話は以前にしたが、それだけではない。そのこだわりは、家臣の名前にも残っているのだ。 その家臣の名は、佐久間信盛。信長の重臣であり、他の家老たちがことごとく信長の敵にまわったときでも信長に従い、支え続けた筆頭格の家来で、忠義厚い武士だ。のちには「退(の)き佐久間」とあだ名されるほど、退却戦の殿軍をつとめさせれば抜群の粘りをみせた。これも主君・信長への信頼と忠誠心がなければできることではない。織田信長像(東京大学史料編纂所所蔵の模写) そんな信盛が、若い頃に発給した文書がある。天文年間(この時期から4年以上前)に熱田社の関係者に出したものなのだが、そこに記された彼の署名は「佐久間半羽介」というものだった。  筆者は以前、この「半羽介(はばのすけ)」というのは現在の名古屋弁にある「ハバ」と同じものかと考えていた。「ハバ」は仲間はずれ、という意味であり、信長とその近習たちが傾奇者の格好で人も無げに振る舞うのは、自分たちを世間の除(の)け者と規定し、家臣にもそのものズバリの名を使わせていたのではないか、というわけだ。「珍走族」の若者たちが奇抜なグループ名を名乗るのと似通っている。 だが、どうやらそれだけではなかったようだ。実は、「半羽介」のハバは、大蛇の代名詞でもあるのだ。『古事記』などを見ると、ヤマタノオロチを退治した素戔嗚尊の剣の名は「アメノハバキリ(天羽々斬)」なのだが、これはハバを斬るための天剣という意味である。つまり、ハバ=大蛇なのだ。 信長は、信頼する信盛に大蛇と名乗らせて、名前の上からも身の回りを蛇で固めていたということになる。信盛もまた信長の思想に賛同し大蛇の名を喜んでわが身に承(う)けた。そして家来たちはみな信長の大蛇信仰に同調し、集団でその力を追い求めていく。自分の手を焼いてでも信長が許せなかったこと 『信長公記』には、この蛇池のエピソードに続いてもう一つ、興味深い話が収録されている。それは、信長の身内と言ってもよい、乳兄弟(信長の乳母の子)にあたる池田恒興(つねおき)に関するものだ。信長の家臣・織田信房の家来と、同じく家臣・恒興の家来とが刃傷沙汰を起こし、裁判に持ち込まれる。ここで信長が命じたのは、「火起請(ひぎしょう)にせよ」ということだった。 火起請とは当時しばしばおこなわれた判定方法で、炎にくべ真っ赤に熱した手斧などの鉄製品を握らせて所定の場所に置くことができればその者は正しい、あるいは勝ち、ということになる。信長はこれを「三王社の前」でやらせたのだが、これは山王社=日吉神社の前だろう。清洲城跡の南、800メートルほどのところに三王日吉神社が鎮座しているのがおそらくそれだと思われ、この神社の由来にもこの話は自社でおこなわれたとされている。 かつて清洲の総氏神=名古屋の中心的神として大切にされていた神社。その社域の前ということではなく、当然火起請は神前でおこなわれた。つまり神の判断を仰ぐという意味である。 その場で、恒興の家来は焼けた手斧をつかむことができなかった。ところが、恒興は信長の乳兄弟という立場を利用して家来をかばい、命を助けようとしたのである。 これを聞いた信長は、怒った。現地におもむいて関係者全員を前に「どの程度まで手斧を焼いたのか、見せよ」と命じると、再び真っ赤に焼かれた手斧をわが手で受け取り、スタスタと3歩歩いて棚に置き、「見たか」と周囲を見渡し、恒興の家来を成敗させた。信長が火起承を行った日吉神社の境内にある申の像(中田真弥撮影) なんともすさまじい話であるが、重要なのはこれが日吉神社の神前だったという点だろう。日吉神社は津島の牛頭(ごず)天王信仰とも関係が深いといわれる。この神社の祭神・大山昨神(おおやまぐいしん。五穀豊穣、植物の成長を司る)はその本家・比叡山の日吉神社が猿を神の使いとし、「真猿」=魔が去る=厄除けの利益をもたらしてくれる神であり、魔除けに余念がなかった信長には大切な神だった。さらにそれだけではなく、厚く尊崇する素戔嗚尊も祀られていたから、その神慮を無視して私欲を優先しようとする恒興を許すことができなかったのだ。 灼熱(しゃくねつ)した鉄で自らの手の肉を焼くというすさまじいやり方をとってまで神意をはばかった信長。その姿は、無宗教主義者というレッテルからかけはなれたものというほかないではないか。 

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    イエズス会が信長を暗殺? 本能寺の変、3つの黒幕説のウソ、ホント

    渡邊大門(歴史学者) 本能寺の変に関しては、朝廷や室町将軍が黒幕だったという説のほかに、いくつもの黒幕説が提起されている。それらの説を確認しておこう。 本願寺教如(きょうにょ)が本能寺の変の首謀者であった、という説がある。大坂本願寺は、長らく織田信長と抗争を繰り広げたことで知られている。天正8(1580)年閏(うるう)3月、正親町天皇の仲介により、両者は和睦を結んだ。大坂本願寺の顕如(けんにょ)は無念の思いを抱きつつ、紀州の鷺森別院へと向かった。 教如は顕如の長男であり、信長との徹底抗戦を主張していた。親子は路線が対立してしまい、顕如は教如と親子の縁を切った。したがって、「信長憎し」の思いを持つ教如ならば、立派な黒幕の候補と言えるのかもしれない。  黒幕説の概要は、以下の通りである。教如上人像(和歌山県立博物館所蔵) 丹羽長秀の率いる織田軍は、紀州雑賀の顕如を攻撃しようとしていた。その一報は、播磨英賀(あが)にいた教如のもとにもたらされたという。縁を切ったとはいえ、2人は親子であり、教如は居ても立ってもいられなかったかもしれない。 一方、正親町天皇は本願寺の滅亡を阻止するため、教如の意向に基づき、光秀に信長討伐を命じた。吉田兼和(兼見)と近衛前久(さきひさ)の2人が仲介役となり、教如、正親町、光秀の間を取り持ったという。教如は朝廷を動かすことにより、光秀に信長を討たせたということになろう。 織田軍が顕如を攻撃することを示した『大谷本願寺由緒通鑑』は、基本的な誤りが多い俗書と評価されており、そのほかの関連史料の解釈も全般的に誤っている。したがって、根本となる史料の問題があり、この時点で教如の黒幕説は成り立ちにくい。 また、本能寺の変の直前、教如が備中高松城にいた秀吉に対し、光秀謀反の情報をリークしたという。事前に光秀の謀反を秀吉に知らせることにより、毛利氏との講和を促し、上洛(じょうらく)しやすい状態に持ち込んだということになろう。イエズス会が黒幕という説も そして、この中国大返しの途中の姫路城で、秀吉は教如と面会し、互いに交誼(こうぎ)を結んだというのである。ところが、こちらも関連史料の年次比定を誤っており、中国大返しの行軍日程も従来の誤った説によっている。 非常に劇的な興味深い説であるが、根本的に史料解釈の誤りや曲解があり、本願寺教如首謀者説は成り立たないといえよう。 イエズス会が信長の暗殺に関わったというのが、「南欧勢力黒幕説」である。この説は、イエズス会による壮大な戦略の一環として位置付けられている。国の重要文化財に指定されている「絵本著色フランシスコ・ザビエル像」(神戸市立博物館所蔵) 次に、南欧勢力黒幕説の概要を確認しよう。  イエズス会はもっとも頼りにしていたのは、キリシタン大名で最大の庇護(ひご)者である豊後の大友宗麟だった。そして、信長は大友氏を通して、イエズス会から鉄炮を提供されていた。つまり、信長にとってイエズス会は不可欠な存在だった。 南欧勢力はイエズス会を通して信長に資金援助等を行い、信長はその資金で天下統一に邁進(まいしん)した。南欧勢力の最終目標は、信長を使って中国を征服することで、信長はイエズス会の手駒にすぎなかったという。そして、イエズス会を支えていたのは、堺の商人、朝廷の廷臣、幕府の幕臣らであった。 ところが、途中から信長は独自の路線を走り、イエズス会にとって厄介な存在になっていった。信長はイエズス会に対して、武器と資金を提供してくれる便利な存在にすぎず、キリスト教の教えに関心はなかったという。周知の通り、信長がキリスト教と距離を置いたのは、確かなことである。 そのような事情から、イエズス会が信長を操ることは困難になっていった。逆に、イエズス会にとっても信長が邪魔な存在になり、暗殺を計画。これが本能寺の変の発端になった、というものである。 結果、イエズス会は、光秀に信長を討つよう命じて成功した。秀吉が光秀を討伐したのも、シナリオ通りだった。本能寺の変は、朝廷がイエズス会の意向を受け、光秀に信長討伐の命を下したものであったというのが結論である。 その背後では、津田宗及らが暗躍したという。単に信長や本能寺の変だけの問題ではなく、世界的な規模の非常に壮大な説である。 ところが、そもそもイエズス会には、上記に示したような人脈や資金力がなかったと指摘されており、根本的に実証的な裏付けがほとんどない。おまけに史料の誤読と曲解、そして論理の飛躍によって論が構成されており、全体として破綻している。到底、首肯できない説といえよう。光秀が壮大なことを目論んでいた? 南欧勢力黒幕説と並んで、壮大な説となっているのが「明智光秀制度防衛説」である。以下、この説の概要に触れておこう。 天正元(1573)年、信長は、足利義昭を追放し、「信長政権」を樹立した。しかし、京都には幕府奉公衆と奉行人で構成される「室町幕府」は存続し、その中心になっていたのが明智光秀だったという。 信長は自身が太政大臣になり、家康を征夷大将軍とし、「室町幕府」を滅ぼそうとした。「室町幕府」の重大な危機である。光秀らはその動きを阻止すべく、信長らを討とうとしたという。幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師、月岡芳年が描いた本能寺の変での織田信長=明治11年(静岡県立中央図書館蔵) 光秀は本能寺の変で信長の討伐に成功したが、家康を逃がしてしまった。原因は、細川幽斎の裏切りである。その後、幽斎は備中高松城の秀吉に本能寺の変の情報を伝え、すぐに帰京するよう依頼した。 こうして山崎の戦いで光秀は敗れ、「室町幕府」は滅亡したのである。つまり、光秀は「室町幕府」を存続させるため、信長に反旗を翻したということになろう。これが明智光秀制度防衛説の概要である この説は近年の室町幕府などの研究成果を無視しており、おまけに憶測と論理の飛躍と史料の誤読と曲解を重ねただけで、まったく説得性に欠けている。 例えば、信長が太政大臣になり、家康を征夷大将軍になろうとしたことは、まったく史料的な根拠がない。また、細川幽斎が光秀を裏切ったとか、秀吉に本能寺の変の情報を伝えたなども、単なる憶測にすぎない。 したがって、この説の可否については、否定的な見解が多数を占めているといえる。つまり、成り立たないのだ。 今回取り上げた説については、これまでと同様に次のような共通点がある。 ①信頼できる史料に基づいていない。 ②史料の誤読や曲解などに基づいている。 ③著しい論理の飛躍。 本能寺の変については虚心坦懐(たんかい)に史料を読み解き、冷静になって考えるべきかもしれない。壮大な説ほど注意が必要である。【主要参考文献】鈴木眞哉・藤本正行『信長は謀略で殺されたのか』(洋泉社新書y、2006年)谷口克広『検証 本能寺の変』(吉川弘文館、2007年)渡邊大門『信長政権 本能寺の変にその正体を見る』(河出ブックス、2013年)

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    信長「天女のコスプレ」に隠された弟殺しの真相

    橋場日月(歴史研究家、歴史作家) 織田信長にとって、弘治(こうじ)2(1556)年は父、信秀の死以来積もり積もった家中の矛盾を解決する重要な年となった。稲生の戦いで弟の信勝を支持する家老、林秀貞と柴田勝家らの軍勢を破り、庶兄の信広が美濃の斎藤義龍とむすんで敵対して来たのを数回にわたる戦闘で降参させたのだ。 『信長公記』には「御迷惑なる時、見次者(みつぐもの)は稀なり」と記されているが、これは信長が困っている時に協力してくれる者はほとんどいなかった、という意味だ。ではなぜそこまで孤立していた信長が勝てたかというと、その後に同書は「屈強で武功を重ねた侍衆7~800人が部下として揃っていたからだ」と説明している。つまり、親族や重臣が「見次いで」くれなくても、彼には子飼いの直属武士がいて、団結し機動的に合戦をおこない勝利をつかんだ、というわけだ。 この部下というのが、かつて傾奇ファッションに魔除けアイテムをたくさん提げて町を闊歩(かっぽ)していた信長の供、前田利家や佐々成政らだった。彼らは有力国人の次男や三男が多く、家のことは父や兄に任せて信長と四六時中行動をともにして来た「子飼い」の家来たちだった。信頼もおけるし、合戦でも信長とあうんの呼吸で命がけの働きを示し、烏合(うごう)の衆を負かすことができたのだ。尾山神社の前田利家の像=金沢市尾山神社 しかし、果たして信長は利家たちの忠誠心だけを頼りにしていたのだろうか?翌弘治3(1557)年の彼の動きを見ると、どうもそれだけではなかったようだ。この年はめぼしい合戦が見当たらず、正月に嫡男の信忠が生まれるなど信長にとってはつかの間の憩いのようなひとときだった。 そんな平穏の中で夏を迎えた7月18日、津島に彼はその姿を現した。 「上総介(かずさのすけ)殿(=信長)は天人の御仕立(おしたて)に御成候(おなりそうらい)て、小鼓をあそばし、女踊りをなされ候。津島にては堀田道空の庭にてひと踊りあそばし、それより清須へ御かえりなり」 当時の7月18日は現在の8月22日。つまりお盆の時期だ。信長は「天女のコスプレ」で小鼓を打ち、女舞いを踊ったのである。 そして、その場所は前回触れた、この4年前の斎藤道三との会見をセッティングした人物の屋敷の庭だった。彼の名は堀田道空という。信長の敵に仕えていた道空の正体 道空は通称を孫右衛門、諱(いみな)が正定(正貞)で、のちに道悦と入道名を改めたか、あるいは道悦という兄弟がいるらしい。彼は木曽三川で尾張と美濃を結ぶ舟運業を背景にした財力とネットワークで道三の家老にまでなった津島の有力者だ。道三と信長の会見場を木曽川に近い富田の聖徳寺に用意し、信長に「この方こそ道三様でございますぞ」と紹介した、織田・斎藤両家の取り持ち役である。堀田一族からは津島神社の神官も出ていたというから、その末社で那古野城内にあった亀尾天王社に通い学問をした信長にもゆかり深い。津島の全景=国立国会図書館近代デジタルライブラリー『尾張名所図会』 この道空、前年に道三が討ち死にした後はその子の義龍に仕えたという。義龍は道三を討った張本人で信長にも敵対していたから、道空は信長にとって「敵側」の人物なのだが、それにもかかわらず信長は彼の屋敷で踊ったのだ。果たしてそこに危険はなかったのだろうか? 津島は織田家の支配下にあり、道空も尾張と美濃の流通で儲けている以上、信長とも良好な関係を築いていた。事実、『尾張群書系図部集』の堀田系図にはこの道空が「織田信長に仕う」と記されており、彼は尾張織田家・美濃斎藤家に両属する形をとっていたと思われる。津島の富を背景にすれば、そんなことも可能だったのだ。 そんな道空だから、この時期、彼としても義龍と信長、どちらが勝っても良いように一段と両面外交に徹し、信長の機嫌もとっておこうと考えていたのだろう。 だが、信長の側には、道空以上に関係を良好にしたい事情があった。信長を評価し期待していた道三が生きているうちは良かったが、義龍の指示で道空が信長と疎遠になり津島衆がそれにならうようなことがあれば、信長は津島という経済基盤を失ってしまうからだ。そして、信長の踊りは、そのためのパフォーマンスだった。 といっても、信長は道空の前で道化を演じ、媚びを売ろうとしたわけではない。この踊りには重要な意味があった。それをひもとくために、まず信長の踊りは何だったのかを確認してみよう。 『尾張名所図会』によれば、この信長のパフォーマンス以後、津島では「津島踊り」が大流行し、貴賤(きせん)上下を問わず皆が踊り楽しんだ、とある。ということは、信長の踊りは流行する以前からおこなわれていた「津島踊り」と解釈できる。 同書にはまた、「道悦(道空)の屋敷で津島踊りという「古雅な戯れ」がおこなわれていた」とあるから、信長の女舞い以前から、堀田屋敷で限定的に津島踊りは開催されていたのだろう。信長の女舞いと「蛇志向」 この津島踊りの流れをひくとされる「くつわ踊り」は傘役、くつわ役などそれぞれ4人がひと組となって踊るが、信長も家来たち4人を「鬼と地蔵」組(地蔵は地獄界や餓鬼界、修羅など六道をめぐり、鬼の責め苦を人々に代わって受ける存在と考えられていた)、同じく4人を「武蔵坊弁慶」組にしていたから、根本は同じと考えて良い。 このくつわ踊りは雨乞いの踊りといわれる。つまり、信長の女舞いは堀田屋敷の雨乞い儀式である津島踊りの一バリエーションだったのだ。しかも信長が演じた天人の女性、つまり天女の代表的な存在である弁才天女は、水の神として祀られていることから、信長自身も雨乞いを強く意識していたと推し量ることができる。 さらに興味深いことに、日本の弁才天女は頭上に宇賀神像を乗せる形でその像が多く造られているのだ。この宇賀神、日本特有の神で、頭は翁、胴体は蛇。これで豊穣をもたらす御利益があるという。本体の弁才天女同様、水の恵みに関連づいているのだろう。 最後尾、扇を持つ天女姿が信長=国立国会図書館近代デジタルライブラリー『尾張名所図会』 前回のテーマだった信長の「蛇志向」が、こんなところでもチラリと顔を出してきた。 雨乞いと蛇というのは密接な関係を持っており、京の朝廷が雨乞いをする際にも竜や蛇の姿を写した器具を用い、竜や蛇が住むとされる神泉苑や大和の室生山で祈祷がおこなわれた。津島の天王社は前回紹介したようにヤマタノオロチの力を手に入れた素戔嗚尊(スサノオノミコト)を祀る神社なので、その近くの堀田屋敷で雨乞いの踊りがおこなわれるというのも、これに準じた発想だったのだろう。 実は、このとき尾張の人々は深刻な悩みを抱えていた。正確には尾張だけではなく、日本の多くの国々が同様に苦しんでいた。それは、「旱(ひでり)」である。  「5月26日から8月9日まで、雨1度も降らず、大炎天。諸国の田畑はすべて干上がってダメになってしまった」(『足利季世記』) 「近年にない大飢饉となった」(『重編応仁記』) 各種の記録が示すようにこの年の夏は大干害が発生し、秋には大飢饉(ききん)となる。飢餓の恐怖が迫る中、当時の劣悪な灌漑(かんがい)技術では、人々にできることは神に降雨を祈るよりほかには無かった。尾張の人々も雨を渇望し、天を仰いでいたことだろう。信長の弟殺しは家督争いではなかった? そんな中、津島の雨乞い踊りに信長が参加した。領民の願いを代表して踊る信長に、領民は歓呼する。『信長公記』には、このあと津島の5ヶ村の長老たちが清洲へおもむき、信長の御前でお礼の踊りを披露したと書かれている。これはただ単に信長が自分たちとともに楽しんでくれたことに対する感謝を示したわけではなく、雨を願う気持ちを共有し、ともに神に祈ってくれたことを謝したのだ。清洲城跡の復興模擬天守 長老たちは信長から一人一人言葉をかけられ、団扇であおいでもらったり茶を出されたりして感激し「炎天の辛労を忘れ」るのだが、この辛労というのも津島から清洲におもむく道すがらが暑かったというのんきな話ではなく、この夏の渇水への恐怖と苦労を指していた。 このあと信長の女舞いの効果があって多少なりとも雨が降ったかどうかは別として、少なくとも道空以下、津島衆の気持ちをグッとつかむことはできたはずだ。 さて、今書いたように、信長の雨乞いが功を奏したかについて直接天候を記録した史料は存在しないのだが、降雨の有無はさておき、やはり恐れていた通り凶作、飢饉は発生したようだ。それは、この年の11月2日に彼の弟、信勝(信行)が死亡したことでわかる。 この事件は、信長を排除して織田家当主に就くことをあきらめない信勝を、信長が仮病を構えて清洲城へおびき出し暗殺したというものなのだが、これにこの年の信長の雨乞いを重ね合わせて考えると事件の全貌がはっきり見えてくる。 「信勝は、信長の御台所入りの篠木三郷という収穫高の良い土地を押領しようとした」 これは事件の直前のこととして『信長公記』が記すところなのだが、つまり渇水・干害による凶作で尾張国内は食糧危機に陥り、信勝は実入りが見込める信長の直轄領を奪おうとしていたということになる。篠木荘は那古野城の北東、現在の春日井市にあり、庄内川によって豊かな土壌が形成された水田地帯である。清洲城よりも信勝の本拠の末盛城に近いから、信勝としては何としても支配下に収めて飢饉に苦しむ家来や領民たちを救済する必要があったのだろう。 しかし、雨乞いまでして飢饉回避を願った信長にとっても、篠木荘の収穫は生命線だから譲るわけにはいかない。これが、信長による弟殺しの直接の原因である。織田家家督をめぐる争いの果てというよりも、より動物的で本能的な食糧闘争の結果だったのだ。

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    信長に感謝した正親町天皇が「暗殺の黒幕」など有り得ない

    渡邊大門(歴史学者) 本連載の第1回で取り上げた「朝廷黒幕説」について、今度は別の角度から考察してみよう。まず、織田信長が勧めたという正親町(おおぎまち)天皇の譲位の問題に関しては、その意味をめぐって議論となっており、真っ向から対立する二つの見解に分かれている。① 正親町天皇に譲位を迫り朝廷を圧迫した② 譲位の申し出を受け正親町天皇は感謝の気持ちを持った正親町天皇肖像画(泉涌寺所蔵) 朝廷黒幕説の根拠は①の立場である。信長は嫌がる正親町天皇に譲位を迫り、窮地に追い込み、「打倒信長」をたくらむ朝廷は裏で明智光秀を操って本能寺の変を引き起こさせたというのである。最初に、正親町天皇の譲位問題の経過を確認しよう。 天正元(1573)年12月3日、信長は正親町天皇に対し、譲位を執り行うように申し入れた(『孝親公記』)。正親町天皇は信長の申し出を受け、譲位の時期について関白の二条晴良(はれよし)に勅書を遣わしている。正親町天皇は快諾したのであろう。晴良は勅書を受け取ると、すぐに信長の宿所を訪れ、正親町天皇が譲位の意向を示している旨を家臣の林秀貞に申し伝えた。 すると、秀貞は「今年はすでに日も残り少ないので、来春早々には沙汰いたしましょう」と回答した。晴良は「御譲位・御即位等次第」について、余すところなく伝えたという。「御譲位・御即位等次第」の内容は詳しく伝わっていないが、日程や費用の問題について協議が行われたと推測される。 戦国期には経費負担が問題となり、天皇が即位式を行えない状態が続いた。実際に譲位を行うと、単に天皇位を譲るだけで済まなかった。即位式やその後の大嘗祭(だいじょうさい)などを挙行するのに、かなりの費用が必要であった。それゆえ、信長の譲位の勧めは、誠にありがたい申し出だったといえる。また、ありがたいのは、財政支援だけではなかった。 院政期以後、一般的に天皇は譲位して上皇となり、上皇が「治天(ちてん)の君」として政務の実権を握るようになった。しかし、戦国期に至ると、そうした状況は大きく変化を遂げる。例えば、後土御門(ごつちみかど)、後柏原、後奈良の三天皇は、生存中に譲位することがなかった。彼らが亡くなってから、天皇位は後継者の皇太子に譲られており、それは不本意なことだった。 むろん、そうした事態は、彼らが望んだものではない。即位の儀式や大嘗祭などには莫大(ばくだい)な費用がかかるため、譲位をしたくてもできなかったというのが実情であった。彼らは、費用負担を各地の戦国大名に依頼するなどの努力を惜しまなかったが、ついに希望をかなえることができなかったのだ。正親町天皇の反応は ところで、正親町天皇は信長の譲位の勧めに対して、「後土御門天皇以来の願望であったが、なかなか実現に至らなかった。譲位が実現すれば、朝家再興のときが到来したと思う」と感想を述べている(「東山御文庫所蔵文書」)。文字通り、正親町天皇は大変喜んでいるのだ。結論をいうと、正親町天皇は信長の申し出に対して、いたく感激したのである。東山天皇御即位図(東京大学史料編纂所所蔵) 早速、朝廷では譲位に備えて、即位の道具や礼服の風干(ふうかん。衣装を風に晒(さら)すこと)を行った(『御湯殿上日記』)。しかし、ついに信長の存命中に譲位は挙行されなかった。信長は将軍・足利義昭との関係が破綻してから、その対応に苦慮しており、多忙を極めていた。また、各地の大名との戦いも負担になっていた。譲位が執り行われなかったのは、信長側の事情が大きかったと推察される。 一連の経過を見る限り、信長が譲位を通して天皇を圧迫したという考えは、正しいとは言えない。したがって、従来の説で指摘されたように、信長と朝廷との間に対立があったという考え方は、改めて見直す必要があろう。逆に、正親町天皇は信長の提案を受け、喜んで譲位を受け入れたと解釈すべきなのである。 また、信長が朝廷を圧迫した例として、京都で挙行された馬揃えの件がよく挙げられる。「馬揃え」とは、信長軍団の軍事パレードのようなものである。次は、この馬揃えについて考えてみよう。 天正9(1581)年1月15日、信長は馬廻(うままわり)衆を安土城に招き、左義長(さぎちょう)を催した。左義長では爆竹が鳴らされ、見物人がどっとはやし立てたという。同時に織田家の一門がほぼ勢ぞろいし、信長自らが豪華な衣装を身にまとって登場するという派手なパフォーマンスぶりだった。 とりわけ騎馬行列は多くの見物人の目を引き、皆一同に感嘆の声をあげた。このイベントの話が正親町天皇の耳に入り、強い関心を寄せていたようである。こうして正親町天皇の要望に応え、京都においても馬揃えが挙行されることになった。 同年1月23日、京都における馬揃えの準備は明智光秀に任された。馬揃えの規模は壮大で、参加者の人数も多く、見学者も多数やって来ると予想された。駿馬(しゅんめ)を準備するための努力も最大限に行われ、徳川家康も鹿毛の駿馬を1匹贈っている。馬揃え当日には、正親町天皇のために禁裏(きんり)の東門付近に行宮(あんぐう)が設けられた。 同年2月28日、信長は正親町天皇を招き、禁裏の東門外で壮大な馬揃えを行った(『御湯殿上日記』など)。会場の大きさは、諸説あるものの、長さは南北に約436m~872m、幅は、東西に109m~163mもあったという。馬揃えの狙いとは 参加した武将は約700名であり、見物人は約20万人にのぼったといわれている。騎馬武者の衣装もきらびやかで、公家衆も数多く見学に訪れた。参加した誰もが壮大な馬揃えを見て、信長の威勢に圧倒されたはずである。(iStock) ところで、信長が馬揃えを行った本心は、一体どこにあったのであろうか。朝廷黒幕説の主張によると、信長は正親町天皇に壮麗なる馬揃えを見せ、その軍事力を顕示し、正親町を威圧して譲位を迫ろうとしたという見解だ。ところが、先例にならって正親町天皇は譲位を望んでいたので、こうした見解は妥当ではない。では、信長は何を考え、正親町天皇はどう受け止めていたのだろうか。 信長の目的は、天下(=畿内)が治まりつつある中で、正親町天皇と誠仁(さねひと)親王の奉公すべきものと考えていた。信長の考えは、「天下(=畿内)において馬揃えを執り行い、聖王への御叡覧に備える」と記されている(『信長公記』)。 これは、信長の畿内近国制覇を誇示し、信長軍団の威勢の顕示と士気高揚を目的としたものと指摘されている。結果、「このようにおもしろい遊興を正親町天皇がご覧になり、喜びもひとしおで綸言(りんげん)を賜った」とある(『信長公記』)。つまり、正親町天皇は威圧されたのではなく、大喜びだったのだ。 おそらく信長は天皇の権威を熟知し、利用しながら天下(=畿内)統一を進めようとしたのだろう。したがって、自らの軍事力を正親町天皇に誇示し、威圧するという考えは当たらないと考えられる。威圧するならば、ほかに方法はいくらでもあったはずで、あまりに回りくどい方法といわざるをえない。 馬揃えの意義に関しては、天下(=畿内)統一をもくろむ信長が、畿内周辺の諸勢力を集めて自らの力を顕示した点にある。正親町天皇を招き、その面前で馬揃えを執り行ったことに大きな意味があった。別に、正親町天皇を窮地に追い込み、譲位を迫ろうとした意図はない。繰り返しになるが、正親町天皇は譲位に賛成だったのである。 馬揃えは天皇を推戴し、自らの権威を高めようとした信長の思惑である。馬揃えという一大イベントは京都だけでなく、全国各地に情報が伝わったに違いない。そうであるならば、信長の本懐は十分に達せられたことになる。【主要参考文献】・桐野作人『だれが信長を殺したのか 本能寺の変・新たな視点』(PHP新書、2007年)・谷口克広『検証 本能寺の変』(吉川弘文館、2007年)・渡邊大門『信長政権 本能寺の変にその正体を見る』(河出ブックス、2013年)

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    貧乏だった幼少期、信長の心の隙間を埋めた「大蛇信仰」

    橋場日月(歴史研究家、歴史作家) 父、信秀から那古野城を与えられた信長。それがいつだったかは諸説あるが、いずれにしてもまだ児童から少年にかけての不安定な時期だったことに違いはない。なにしろ、信長が3歳の時に「大御ち(おおおち)」(大御乳、のちに信長の部将となる池田恒興の母)が乳母の役に就くまでは、次々と乳母の乳をかみ切るほど癇(かん)の強い子供だったというのだから。 癇、すなわち「かんしゃく」は、親の愛情を独占したい、注目を集めたい、という欲求不満が原因らしいけれども、そんな子供が両親から引き離されて那古野城に置いていかれ、いきなり城主となって周囲には林秀貞、平手政秀、青山与三右衛門、内藤勝介の4家老以下、大人たちに囲まれて暮らすようになったのだ。精神的に不安定になるのは自然の成り行きである。 その上、まだ年端もいかない信長にはもうひとつ困った問題があった。『信長公記』によると、この頃の信長の生活は「御不弁かぎりなく」というものだったという。どうしようもなく不弁=経済的に困窮していた、という意味だ。第二家老の平手政秀は、公家の山科言継が「目を驚かされた」と書き記すほど豪華な屋敷を持つ裕福な武将だったが、それでも貧乏だったとはどういうことだろう。 実はこの時期、信長の父・信秀はさかんに隣の美濃・三河に遠征を繰り返しており、その戦費として膨大な金を投入していた。おそらく信秀は那古野城の経費などもほとんどかえりみることなく軍事に有り金をはたいてしまったのだろうが、信長にとっては「城付きの捨て子」のようなものである。物心がついていくなかでこの境遇が彼の精神形成に及ぼした影響の大きさは容易に想像がつくではないか。 そんな中、『信長公記』は彼の日常について、こう言及している。「天王坊と申す寺へ御登山なされ」――。 お寺に参ることを登山するという。寺院の名称は○○山××寺という形で山号と寺号がセットになっているからだ。 この天王坊は、織田家に関わりの深い津島の牛頭(ごず)天王社(現在の津島神社)だともいわれているけれども、それは誤りで、実は那古野城の三の丸にあった亀尾天王社を指している。神社だから登山ではないじゃないか、と思われるかもしれないが、「坊」と付くのは、当時は神仏習合で神社を管理する寺=別当寺というものがセットになっていて、天王社の寺ということなのだ。これは亀尾山安養寺華王院という名称で、明治の廃仏毀釈(きしゃく)によって廃寺となっている。名古屋城二の丸庭園に遺る那古野城跡の碑 つまり、信長は城内の天王社の中にある安養寺に通っていたのである。それはそうだ、いくら昔の人が健脚でも、そう何度も那古野城から津島まで、約18kmもある道のりを通えるものではなかろう。信長が畏れ憧れた神の正体 現在は名古屋市中区丸の内、名古屋城の南方に移され「那古野神社」となった亀尾天王社は、津島牛頭天王社の末社。神仏の方が出張して来てくれているのだから、何も徒歩なら片道3時間以上、騎馬なら2時間(?)もかけて津島まで通う必要もない。「信長公蛇石曳之図」(伊藤龍涯作、摠見寺所蔵) それに、信長は何も仏様に詣でるために天王坊へ通っていたわけではなかった。では何のためかというと、それは学問修業のためだ。当時の有力武士の子弟は必ず寺院で勉強し、学問と教養を身につけるのがならわしだった。上杉謙信は林泉寺、武田信玄は古長禅寺、今川義元は善得寺、徳川家康は臨済寺と、それぞれ寺院で教育を受けている。当時は僧侶が学問のエキスパートであり、京の上流階級や他の大名とまじわるための嗜(たしな)みを広め伝える文化の担い手でもあったのだ。というわけで、信長も貧乏ながら那古野城の若殿様である以上、日々天王坊に通って学ばなければならないのである。 そしてこの天王坊安養寺が守る、つまり本社の津島牛頭天王社の祭神でもある主祭神に注目しておきたい。それは、素戔嗚尊(スサノオノミコト)だ(ちなみに、安養寺のご本尊はごく普通に阿弥陀如来だったらしい)。 スサノオの物語は皆さんよくご存じだろう。『古事記』に登場するこの荒ぶる神は、出雲で八俣の遠呂智(ヤマタノオロチ。『日本書紀』では八岐大蛇)を退治しその体内から草薙剣(サクサナギノツルギ)を得た。神話の時代の話ではあるが、オロチを斃(たお)してその「本体」とも考えられる草薙剣を手に入れたということは、オロチの力をわが物としたと解釈できるだろう。 ちなみにこの説話は、スサノオに象徴される大和王権が、すぐれた鋼(はがね)を生み出す出雲に進攻し、製鉄技術を獲得したことを象徴するともいわれている。スサノオはまさにオロチの力を獲得した神なのだ。スサノオは後にこの剣を姉の天照大神(アマテラスオオミカミ)に献上したが、本人は出雲に新居を構えた。その子孫には大国主命がいる。オロチ=出雲の鋼鉄はスサノオが支配し続けたのだから、オロチの力は草薙剣を手放しても彼の手に残ったといえる。 信長からだいぶ話が離れてしまった感があるが、ここで前回の話を思い出していただきたい。信長が刀の柄に巻いていた三五縄の話である。この魔除けの縄が表していたのが蛇。そしてオロチは、蛇、大蛇そのものである。頼る肉親もいない寂しい生活の中、信長は日々天王坊でスサノオの説話に触れて育ったのだから、スサノオが得たオロチの力への畏れ、憧れは深層心理に知らず知らず沈殿していったはずなのだ。もっとも、ここまで話が飛躍すると「なんだ、所詮はこじつけじゃないか。信長は蛇の力なんかに頼らない、自分の力しか信じないタイプの男だろう」と仰せの向きもあるだろう。そういう方は、ぜひもう少し我慢していただきたい。斎藤道元はなぜ信長に入れ込んだのか 孤児のように那古野城で成長した癇癖(かんぺき)の強い信長が傾(かぶ)いたスタイルで往来を闊歩(かっぽ)し、離れて暮らす両親の注目を集めるためか奇矯な振る舞いをくりかえすようになって何年かがたち、天文21年(1552年 異説あり)3月、父・信秀が病のために世を去る。第1回で紹介したように、信長が例の魔除けアイテムづくしのまま葬儀にやって来たのは、このときの話だ。このありさまに心を痛めた平手政秀は、息子が愛馬をめぐって信長とケンカしたこともあって絶望し、信長をいさめるために切腹して果てている。この件については持論があるのだが、テーマから逸(そ)れるので割愛することにしておこう。 その翌年、信長は那古野城から北西、木曽川沿いの富田(とんだ。現在の一宮市の富田=とみた)に向かった。そこで待つのは、信長が5年前に娶(めと)った濃姫(帰蝶)の父親である美濃の大名・斎藤道三だ。道三は、前年の信秀の死の直後、信長の大叔父・玄審允秀敏にこう手紙を書き送っている。「御家中の状態は外聞が悪く、私も困惑している。あまり期待をかけず放置してみて、どうにもならないようなら相談してくれ。三郎殿様は若いので、苦労するのは仕方がない」名古屋市内・大須万松寺にある信秀の墓 三郎殿様というのは信長を指し、その家中が主君の信長にふりまわされて分裂状態になってしまっていたことが分かる。家中の長老として信長を後見する立場の秀敏は、信長の舅(しゅうと)で信秀の同盟者だった道三に事態の深刻さを相談したのだろう。これに対し、道三はさすがにあれこれ周囲が干渉すればかえって信長が反発し収拾がつかなくなる、と見定め、しばらく様子を見るように、とアドバイスし、信長が若いのだから皆の我慢が肝心だ、と諭しているのだ。富田で信長と初めて会おうと彼が申し入れたのは、信長の器量を見定め、今後も同盟関係を続けるかどうかの判断を下すためだったと思われる。信長は魔除けと蛇志向から解放されたのか? 結果として信長はこの会見で長柄の槍や鉄砲を道三に見せつけ、その度肝を抜いた。そのうえ、例の傾奇ファッションで富田にやって来た彼は、会見の席には長袴を着け髪もキチンと結い上げて登場する。これで道三は完全にやられた。帰路、彼は家臣に「わしの子たちは信長の家来となるだろう」と予言し、以後は信長を熱心にバックアップし始める。翌天文23年(1554)、村木砦というところへ出陣する信長のために那古野城へ留守番兵を送り込んだほどで、隙あらば他者の城を奪い取ろうという戦国時代にあって「梟雄(きょうゆう)」と呼ばれた道三が、信長が凱旋(がいせん)してくると那古野城を素直に返しているのだから、その入れ込みっぷりは類を見ない。彼は信長の人間力を見て、その将来性を高く評価したのだ。斎藤道三(東京大学史料編纂所所蔵の模写) では傾奇ファッションを捨ててノーマルないでたちへと大変身を遂げた信長は、これでそれまでの魔除けアイテムへの執着や深層心理にひそむ蛇志向から解放されたのだろうか? それがどうも、そうではないようなのだ。 例えば、この村木砦合戦に際して彼が乗った馬の名は「ものかは(わ)」。「嵐もものかは、外出する」などの用例で分かるように、「問題にしない」という意味の言葉だ。この場合は大敵も物の数ではない、という縁起担ぎを目的としたネーミングだったのだろう。 さらに、後年信長が羽柴秀吉(のち豊臣秀吉)に下賜したという伝承を持つ大阪城天守閣所蔵の信長遺品「緋羅紗地木瓜桐文陣羽織(ひらしゃじもっこうきりもんじんばおり)」。緋(ひ)色の羅紗(らしゃ)というものは当時猩々(しょうじょう。猿のような怪物)の血で染めると考えられており、それは鉄砲の弾を除ける効果を持つとありがたがられたらしい。まさに魔除けのアイテムということになる。これなども信長が呪術的部分を持っていた傍証かもしれない。 この後、尾張統一戦―今川義元との桶狭間の戦い―美濃併合―上洛(じょうらく)と勢力を拡大していく中でその傾向はたびたび顕(あらわ)れる。次回はその最初にして決定的な例を紹介しよう。 

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    足利義昭「将軍黒幕説」が成り立たないこれだけの理由

    渡邊大門(歴史学者) 前回は、本能寺の変における「朝廷黒幕説」の一つの原因とされる「暦問題」を取り上げ、その説が成り立たないと結論付けた。 ほかにも重要な黒幕説としては、将軍・足利義昭が黒幕だったという「将軍黒幕説」がある。この説が有力視されるのは、義昭が織田信長と決裂して信長包囲網を形成し、中国の毛利輝元や大坂本願寺(石山本願寺)などと結託し、信長を討とうとしていたからだろう。そのためには、明智光秀の助力が必要だった。以下、最初に当時の政治情勢を簡単に取り上げ、次に将軍黒幕説の当否を考えることにしたい。室町幕府を開いた足利氏ゆかりの鑁阿寺本堂。国宝に指定された=2013年5月11日、栃木県足利市 永禄11(1568)年9月、義昭は信長に推戴(すいたい)されて、念願の上洛(じょうらく)を果たした。しかし、両者は政治志向の相違などもあり、天正元(1573)年に関係が破綻した。義昭は信長の圧倒的な軍事力に敗北を喫し、紆余曲折を経て、天正4年に備後国鞆(広島県福山市)を訪れた。こうして義昭は、毛利輝元の庇護を受け、各地に「打倒信長」の檄(げき)を飛ばしたのである。 しかし、ことは義昭の思い通りに進まなかった。天正5年以降、信長の命により羽柴(豊臣)秀吉が中国経略に出陣すると、たちまち毛利氏は劣勢に追い込まれた。天正10年3月以降、毛利方の備中高松城(岡山市北区)は包囲され、秀吉の水攻めによって苦境に立たされたのである。 そして、同年6月2日に本能寺の変が勃発した。変は偶然起こったのではなく、義昭が光秀と連絡を取り合って、計画的に起こしたというのが将軍黒幕説の主張である。義昭は積極的に有力な諸大名と関わりを持って来たので、光秀と関係していたとしても不思議ではない。しかし、本能寺の変の前に義昭と光秀が結託していたことを示す決定的な根拠史料を欠くのは大きな問題で、批判も数多くある。以下、将軍黒幕説の根拠を確認することにしよう。 大村由己(ゆうこ)の手になる『惟任(これとう)謀反記』には、「光秀は公儀を奉じて2万余の兵を揃えたが、備中に下ることなく密かに謀反を企てた(現代語訳)」という記述がある。本能寺の変の直前の記述である。本来、光秀は本能寺を襲撃するのではなく、備中高松城を攻める秀吉の救援に向かう予定だった。資料をどう解釈するか 将軍黒幕説の主張者の指摘の通り、文中の「公儀」を義昭と考えると、「光秀は義昭を擁立して謀反を起こした」という解釈になり、将軍黒幕説が成立する。しかし、この「公儀」の語については、すでに指摘があるように、義昭ではなく信長を意味する。 改めて先の史料を解釈すれば、「光秀は信長の意を奉じて2万余の兵を揃えたが、備中に下ることなく、密かに謀反を企てた(現代語訳)」ということになる。2万騎の兵を集めたのは義昭のためではなく、信長の命令を受け、備中高松城に向かう予定だったのだ。 二つ目は、『本法寺文書』の乃美兵部丞(ひょうぶのじょう)宛て天正10年6月13日付足利義昭御内書をめぐる解釈である。この御内書は「信長を討ち果たしたうえは、上洛の件を進めるよう毛利輝元、小早川隆景に命じたので、いよいよ忠功に励むことが肝要である…」と解釈された。 冒頭で示した「信長討果上者(原文)」を「信長を討ち果たしたうえは」と解釈することにより、義昭が光秀に命じて信長を討ち果たしたと理解するのがポイントである。 しかし、こちらも「信長討ち果つる」と読み、「信長が討ち果たされたうえは」と解釈すべきと指摘されている。つまり、義昭が光秀に命じて討たせたというよりも、信長が本能寺の変で横死したという解釈になる。そうなると、やはり義昭と光秀との共謀という説は、成り立ちにくいと考えられる。 最後は、『森文書』の土橋平尉(つちはしへいのじょう・紀州雑賀の土豪)宛て天正10年6月12日付明智光秀書状の解釈である。最近になって美濃加茂市民ミュージアムに原本で公開されたが、もともと『森文書』の写しが知られていた。明智光秀が天正10年6月12日に土橋重治に宛てた書状の原本と確認された「土橋重治宛光秀書状」(美濃加茂市民ミュージアム所蔵) 土橋氏は紀州にあって反信長の行動を取っており、毛利氏や義昭とも連絡を取り合っていた。土橋氏はこれ以前に光秀に書状を送っており、この光秀書状はその返事なのである。つまり、この書状は義昭と光秀を結ぶ接点となろう。 もともと同史料の冒頭部分は「なお、受衆が上洛するならば、協力することが肝要である(現代語訳)」と解釈されてきた。文中の「受衆」は、義昭の謀反に応じた者たちと理解され、首尾よく信長を果たした光秀と義昭が事前に連絡を取り合ってきたと考えられたのである。「受衆」とは何を示すのか しかし、現在は「受衆」の崩し字を「急度」と読むべきであり、先の解釈は成り立たないと指摘されている。そのほうが妥当な解釈であり、光秀と義昭が事前に通じていたとの証左にはならないと考えられており、今では「受衆」説は撤回されている。 何より重要なのは、あくまで光秀が義昭の支援を表明したのは、6月12日でのことであって、それ以前に両者が打倒信長を画策した史料は残っていない。つまり、将軍黒幕説の主張者は、この時点で両者は協力関係にあったのだから、それ以前に遡及(そきゅう)することができると考えているのだろう。 そのような論法が通用するとは、とても思えない。変以前に光秀と義昭が結託した確かな史料を挙げるか、納得しうる状況証拠を示すよりほかはないと考える。現状の説明では、とても将軍黒幕説が受け入れられる余地はない。 変後の光秀は、丹後の細川藤孝(幽斎)・忠興父子や大和の筒井順慶らに味方になってくれるよう要請していたが、色よい返事をもらえなかった。したがって、光秀が味方を募るべく、変後に目的を同じくする義昭と結託したことは、特段不思議なことではない。現状の史料残存状況では、そのように考えるのが妥当だろう。 実は、本能寺の変を4日経過しても、毛利氏は正しい状況をつかんでいなかったと指摘されている。6月6日付の小早川隆景の書状によると、「京都のこと、去る1日に信長・(長男の)信忠父子が討ち果て、同じく2日に大坂で(三男の)信孝が殺害されました。津田信澄、明智光秀、柴田勝家が策略により討ち果たしたとのことです」とある(『萩藩閥閲録』)。信長時代の本能寺跡=2011年5月18日、京都市中京区(木戸照博撮影) 信長が殺されたのは未明なので1日でよいとしても、信孝が殺害されたというのは明らかに誤報である。光秀の勢力に津田信澄や柴田勝家が加わっているのもおかしい。義昭が光秀と結託していたならば、もっと正確な情報を得られるはずではないか。 そもそも義昭だけが正しい情報をつかんで光秀とともに打倒信長を果たし、毛利氏には適切な情報を与えないというのは不可解である。苦戦していた信長に挑むならば、義昭は光秀だけでなく、毛利氏を交えて計画を練るべきだろう。単純に考えてみても、現状では将軍黒幕説は成り立たないのである。 将軍黒幕説を成り立たせるには、より合理的な史料解釈を示すか、本能寺の変の前に義昭と光秀が結託していたことを示す決定的な根拠史料を挙げるしかないだろう。【主要参考文献】・谷口克広『検証本能寺の変』(吉川弘文館、2007年)・渡邊大門『信長政権 本能寺の変にその正体を見る』(河出ブックス、2013年)

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    信長のヤンキーファッションに隠された「3つの魔除けアイテム」

    橋場日月(歴史研究家、歴史作家) 前回の最後で、若き日の信長の風変わりないでたちについて触れた。 浴衣の原型になる袖を外した湯帷子(かたびら)、半袴(足首までの長さの袴)、朱鞘の太刀、紅と萌黄(もえぎ)の2色の糸でハデに結い上げた髷(まげ)までは当時、傾奇者(かぶきもの)と呼ばれた不良少年、青年にありがちな風体ということで理解できるのだが、問題はそれ以外に身につけていたモノだ。太刀と脇差しの柄は三五縄(みごなわ)で巻かれ、腰回りには火燧袋(ひうちぶくろ)と7、8個のひょうたんをぶら下げていたというところに妖しい臭いがプンプン漂っているのである。 まず三五縄だが、これは三五七縄とも書き、どちらも「しめなわ」とも読む。つまりしめ繩だ。もうお分かりかと思うが、神社、神木、神岩などに張られるしめ繩は「ハレとケ(晴れと汚れ)」との境界を示し、ケから清浄なものを守る結界の役割を果たす。家庭で正月飾りに用いるしめ飾りも同様で、家の中にケ(厄)が入ってこないように祓うという意味があるのだ。これを鞘(さや)に巻いたということは、信長がその魔除け効果を期待した、あるいは信長自身が神聖な存在というアピールだったと考えられないだろうか。 無論、「いやいや、合理主義者の信長は戦闘のとき、敵の血でぬれた柄が滑って刀を取り落とさないよう、縄で巻いただけだろう」という解釈も可能だろうが、それなら荒縄で良いではないか。筆者は単なる縄ではなく、しめ繩だったというところに信長の意図を感じるのだ。そして、これは後々、重要な意味を持ってくるので留意しておいていただきたいのだが、しめ繩は「蛇」と密接な関係を持っている。口縄坂、西側の案内碑と説明板 少し話がそれるが、大阪の天王寺(大阪市天王寺区)近く、夕陽丘は活断層によって形作られた上町台地の上にあり、西の市街地とは「天王寺七坂」ほか、多くの急坂で結ばれている。その一つが「口縄(くちなわ)坂」だ。「口縄」は大阪の古語といわれるが、戦国時代の日本ですでに広く使われていた。当時の『日葡辞書』(ポルトガル語を日本語に訳した辞書)にも収録されている日常語で、蛇を意味する。「朽ち縄=古びて切れた縄」が蛇を思わせるところからこの言葉が生まれたことは容易に想像がつくけれども、この坂も起伏が蛇に似ているところから名付けられたという。つまり、緩やかな傾斜が途中から急になるため、蛇が鎌首をもたげて前進する形を連想したのだろう。 「三五縄=しめ繩」もまた、蛇を表す。『蛇 日本の蛇信仰』(講談社学術文庫)の中で著者の吉野裕子氏は、しめ繩の形が蛇の交尾に由来していると説く。確かに雄と雌の蛇は体を互いに巻き付かせて交尾し、しめ繩の形にそっくりだ。古代から日本にはヤマタノオロチ伝説や奈良・三輪山の大神神社(奈良県桜井市)の祭神として信仰をあつめる蛇神・大物主(大国主神)などの蛇信仰があった。信長が火打ち石を携帯していた謎 ちなみに江戸時代、摂津国嶋上郡(現在の大阪府三島郡島本町ほか)の原村では、毎年2月8日の天王祭で縄を蛇の形にしてその目を射るという儀式が行われた(『諸国年中行事』)。これは破魔とともに「目当てに的中する」、つまり願い事成就も意味する。蛇自体はケの象徴だが、同時に願い事=ハレをも体現するという面白い位置づけだ。口縄坂、奥で急に斜度があがる 閑話休題。ともあれ、信長が刀の柄に巻いた三五縄は「魔除け、厄除け」の意味を持ち、同時に蛇を表現するものでもあった、ということだ。 次に火燧袋だが、これは火打ち石を入れる袋。ライターもマッチもない当時、どこでも手軽に火を起こせる道具は火打ち石しかない。野遊びが大好きだった信長としては、ぜひ身につけておきたいところだろう…と思うのだが、よく考えてみると信長は腐っても織田家の若様。『信長公記』を見ても、常に従者(小姓衆)を連れ、彼らによりかかったり背中にぶら下がったりして歩いていた、とある。そんな身分の信長が自ら火を起こす必要なんかないではないか。まだ犬千代と言った前田利家ら小姓衆の仕事を取り上げてしまっては「主君失格」なのである。 では信長はなぜ火打ち石を携えていたのか。実は、これもまた魔除けアイテムだったのだ。時代劇オールドファンには、大川橋蔵の「銭形平次」で、出掛ける平次の背に妻のお静が火打ち石と火打ち金(かね)をカチッと打ち合わせるシーンはおなじみだろう。あれは「切火(きりび)を切る」といって、火花を起こすことがおはらい、厄除けになるという民俗信仰から来ている。 少なくとも江戸時代にはこの風習はあったというが、仮に信長の時代にはまだ火打ち石で厄を除けるという考えはなかったとしても、火打ち石が生み出す火や炎は古代神話の時代から清めの効果を持つと考えられてきた。『古事記』では伊弉諾(いざなぎ)神が、死んだ妻、伊弉冉(いざなみ)神の真実の姿を見るときに火を用い、あやうく難を逃れている。京をはじめ各地の神社では毎年11月に「清めの御火焚」が行われるが、これも火の持つ破魔の効用だ(「十二ヶ月風俗図」)。信長の大マナー違反 また、『古事記』には火燧袋自体も登場している。日本武尊(やまとたけるのみこと)も天皇から東国平定を命じられ、倭比売命(やまとひめのみこと)に草薙剣と袋をもらって出発。敵に火を付けられたときに袋を開けると火打ち石が入っていたので、剣で草をなぎ、それに火を付けて向かい火にし、難を逃れた。火燧袋はいわば「ラッキーアイテム」であり、火が厄を祓ったのである。 古事記の時代から200年近くたった平安時代、歌人、源公忠の『公忠朝臣集』には、田舎に下る人に火打ち袋を贈った際の作として 《うち見ても 思ひ出でよと 我が宿の しのぶ草にて すれるなりけり》と詠んだものが収められている。この場合、火打ち石は餞別(せんべつ)として喜ばれる旅の必需品であり、安全祈願のアイテムでもあったということなのだろう。 つまり、信長の時代には切火という魔除けのまじない自体が仮にまだ存在しなかったとしても、火打ち石は魔を祓い厄を除けるための火を生み出す重要な道具と見なされていた、というわけだ。 信長の時代より少しだけ前、享禄元(1528)年に伊勢貞頼が著した武士のマナー指南書『宗五大草紙』などには「火燧袋は40歳以後に提げるべし。それも晴れの時や主君の御前では提げてはいけない。火打ち袋は刀に提げる」と記されているから、通常火燧袋は老境に差し掛かってから非公式の場合のみ、刀に結びつけて提げるものだったようだ。すると、まだ若い内から火燧袋を提げていた信長は大マナー違反をやらかしていたことになる。このあたりも「大うつけ」と呼ばれた信長らしいといえばらしいのだが、マナーを無視してまで魔除けの効用にすがりたい―そんな思いが信長の胸の中にあったのかもしれない。「信長公出陣の像」=愛知県清須市の清洲公園(関厚夫撮影) 最後に、ひょうたんについて触れておこう。ひょうたんが古くからお守り、縁起物、魔除けとして喜ばれたのはかなり知られている。信長の覇業を継いで日本統一を達成した豊臣秀吉の馬印「千成瓢箪」が好例だが、それ以外でも九州福岡の太宰府天満宮では厄除けのためにひょうたんに詰めた酒を飲む風習があって今でも「厄晴れひょうたん」が参拝者に授与されているし、島根の出雲大社の爪剥(つまむぎ)祭でも洞切にした生のひょうたんに柄を付けた柄杓(ひしゃく)でご神水を供えるときに使用している。信長が魔除けグッズに頼った理由 古来、作物の種の入れ物として使われたひょうたんは豊穣(ほうじょう)を意味した。豊穣はすなわち凶作を封じる、厄をけるという意味につながり、またひょうたん固有の機能として酒の入れ物に用いられたことで清めの象徴ともなる。酒が神への供物であり、また外傷の消毒用に使われたことも大きかっただろう。豊臣秀吉の馬印だった瓢箪=2012年2月8日、京都府(安元雄太撮影) その結果、ひょうたんは縁起物として絵や着物の柄などに採用され、家紋にも無数のバリエーションが存在する。日本人の「ひょうたん頼み」は尋常ではないのだ。信長が腰からぶら提げていた7、8個のひょうたんというのも、実用オンリーであればひとつは水、ひとつは酒、ひとつは灯油(当時は荏胡麻油)などフィールドワークで必要ないくつかと、あとは信長が大好きな火縄銃を撃つ際の火薬、弾丸ぐらいは思い浮かぶが、あと2つ3つが何か、思い浮かばない。 砂でも詰めておけば、他のひょうたんと合わせて結構な重量になるから鍛錬にはなるだろうが、よもや「大リーグボール養成ギプス」でもあるまいし、それなら日頃から甲冑をつけるなり、大太刀でも提げておけばよい。何より家来に持ち運ばせるという主人としての「義務」を無視することにもなるから、やはりこれも魔除け効果を期待した「必携グッズ」だったのだろう。 当時、信長はその異様な形(なり)や粗暴なふるまいによって織田家の重臣連から疎まれ、弟の信勝に期待が集まる中、いつ誰から暗殺されるかも分からない日常を送っていた。常に命の危険にさいなまれる中で精神を正常に保つためにはこれらの魔除けグッズに頼るしかなかったのではないだろうか。そして、その魔除けグッズの一つ、三五縄に潜む蛇のイメージ。それを求めた信長の心の源流をこれから探ってみよう。 天文3年5月12日(1534年6月23日)、織田信長は父、信秀と土田御前の次男として生まれた。庶腹の兄、信広がいたものの、正室の土田御前を母に持つ信長は嫡子である。その生地は、現在の名古屋城二の丸辺りにあったとされる那古野城が、当時まだ信秀の支配下となっていなかったということで、勝幡城(現在の愛知県の愛西市勝幡町から稲沢市平和町六輪にかけての一帯)説が有力となっている。その後、那古野城を手に入れた信秀は、まだ「吉法師」と呼ばれていた信長にこの城を与える。そこで信長はある経験をするのだが、その話はまた次回に。