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    かくして、信長は「唯一神」となった

    信長は安土城という「テーマパーク」を築くことで、自らの世界観を表現してみせた。しかも、聖なる山のしきたりを破ってまで、城の守護に神の力を借りるべく奔走したのが、オカルト頼みの信長らしい。こうした数々の演出も加わり、「第六天魔王」から全てを超越する「唯一神」の高みに昇っていくのであった。

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    安土を「四神相応の都」に仕立て上げた信長流オカルト演出

    橋場日月(歴史研究家、歴史作家) 天正元(1573)年3月19日、宣教師ルイス・フロイスは信長が自らを「ドイロクテンノマオウ(第六天魔王)」(フロイス書簡)と称したと報告した(『耶蘇(やそ)会士日本通信』)。それから6年後、安土山に出現した信長の世界は、仏教の敵である第六天魔王から一歩進んで、仏教のみならず儒教の世界も中国古代神話をも足元に従える「超越した存在」を示すものだった。 その存在こそが信長であり、安土城とその城下町が出来上がったのを見たフロイスはこう記録している。 「(信長は)途方もない狂気と盲目に陥り、自らに優る宇宙の主なる造物主は存在しないと述べ、彼の家臣らが明言していたように、彼自身が地上で礼拝されることを望み、彼、すなわち信長以外に礼拝に価(あたい)する者は誰もいないと言うに至った」。 まさに「言行一致」。信長は目で見える形で自己を頂点とする世界観を造り上げ、同時に言葉によってもそれをダイレクトに発信したわけである。 「我こそは礼拝の対象となる唯一神なり」 天下統一を目指す信長にとって、天皇・将軍はおろか仏や神さえも己(おのれ)の下にひれ伏す存在であり、みな等しく信長だけを敬仰せよ、という恐るべき傲慢さ。これは来たるべき将来の支配体制のための壮大なる基本理念だった。 実は、この支配理論は何も安土城の完成後から説かれ始めたわけではない。それどころか、築城開始1年前の天正3(1575)年9月のことだが、当時信長によって越前国(現在の福井県北部)のうち八郡の主に任じられた宿老、柴田勝家はこういう教訓状を授かっている。 「事新しき子細候(そうろう)といえども、何事においても信長申し次第に覚悟肝要に候。さ候とて無理非法の儀を心に思いながら巧言申し出だすべからず候。その段も何とぞかまいこれあらば、理(ことわり)に及ぶべし。聞き届けそれに随(したが)うべく候。とにもかくにも我々を崇敬して、影後(かげうしろ)にてもあだに思うべからず。我々ある方へは足をも指さざる様に心持ち簡要に候。その分に候えば侍の冥加(みょうが)ありて長久たるべく候」 どうだろうか。以下口語訳しておこう。「殿様御氏神」と書かれた柴田勝家が出した諸役免許状(複製)。劒神社を織田信長の氏神としている=2020年7月、福井県越前町の織田歴史文化館 「新しい事態が起こっても、何事も信長の指示次第にしなければならない。だからといって、それは信長の指示に無理や非法があるのを知っていながら、おべっかを使いおもねってもいけない。その件で支障があるということならば、ちゃんと説明せよ。確かめて道理があれば聞き入れてやる。とにかく信長を崇敬して、裏でも粗略に思うな。信長がいる方角へは足を向けないよう心がけることが大事だ。そうしていれば、武士としての利運にも恵まれて末永く栄えることができるぞ」 まさに信長を神と崇め、心の奥でもおろそかにするなという思想統制である。しかも、それを順守すれば武士としても幸運に恵まれるというアメまで付けたムチだ。計算づくの「繰り返し」効果 安土城は、これを発展させ可視化した「信長流ユートピア」だった。山内の摠見寺(そうけんじ)には本丸天主と同じく盆山が置かれたが、これも磐座(いわくら)であり、唯一神たる信長=龍が降り立つ場所となる。それは寺の最高所にあり、階下の仏像群を足元にひれ伏させる形となっている。  信長は繰り返しによって、より一層その世界観を浸透させようと計算したのだ。前回紹介した琵琶湖の竹生島の件も、この繰り返し効果の計算によって演出されたものと言えるだろう。 さらに彼の計算は、安土城というテーマパークの内側と琵琶湖北部にとどまらなかった。 城の南西方向には中山道より琵琶湖寄りに「安土街道」「上洛街道」と呼ばれるバイパスを開いたが(のち江戸時代には「朝鮮人街道」の一部となる)、信長の目的はこの道路によって商人や物資を安土城下に集めて町を発展させることにとどまるものではなかった。 その目的というものが明らかになったのも、この年、天正7(1579)年12月のことだ。このころ、信長の命令によって大和国の三輪山から材木が切り出されて、西の摂津国大物(だいもつ、現在の尼崎の物流拠点)まで運ばれ、そこから淀川の舟運によって宇治に搬送されて橋の建築に投入されていた。 奈良・興福寺の僧は『多聞院日記』で「三輪山の木、宇治橋の用七百本程切る取り、毎日大物に引く。国の悩み沈思、沈思。さりながら橋は万民上下の忝事なり」と記録している。 4年前の勢田の唐橋の再建着工に加えて、宇治橋も再架されれば、京と北陸・東国への往来は各段に便利になる。三輪山の木が700本も切り出されるのは国の悩みだが、橋は天下万民が喜ぶ恐れ多きことでもあると二つの感情の間で揺れ動く様子が興味深い。2015年に行われた安土城跡の発掘調査(筆者撮影) そう、大和国の住人である彼にとって(大和に限った話ではないのだが)三輪山は神聖なる山。大神(おおみわ)神社のご神体として山自体が信仰の対象とされる存在だった。 ここで注目したいのは、大神神社の祭神が大物主神(おおものぬしのかみ)、つまり大国主神であることだ。復習しておくと何度も登場したこの神は、信長が信奉する素戔嗚尊(スサノオノミコト)の子であり、蛇神、水神でもある。まだあったご神木の「受難」 神社の拝殿の前にそびえる「巳の神杉(みのかみすぎ)」と呼ばれるご神木の根元の祠(ほこら)には、大物主神が姿を変えた白蛇が棲むとされる。そしてご神体である三輪山全山の木もまた、すべてご神木だった。 本来は木一本はおろか、ひとつかみの草すらも取ってはならない。それが古来のしきたりである。日記の筆者である僧は、そのご神木が大量に伐採されることに強い抵抗感を抱いたのだ。 だが、三輪山のご神木の受難はそれだけでは済まない。数日後、京の南・山崎の宝寺(宝積寺、ほうしゃくじ)に逗留していた信長が「石清水八幡宮の内陣、外陣の屋根の間に架けられている木樋(もくひ)が傷んでいるので、架け替えるぞ」と言い出したのだ。 石清水八幡宮は宝寺と宇治川を挟む向かい側にあるから、神官らが信長に拝謁して援助を願ったものだろうか。信長はこのとき「末代までのために候」として樋本体を銅で鋳造させることとした。当時の銅はとても貴重で高価だったが、雨水で腐り朽ちるようなことを繰り返さず、永きにわたって使えるようにということだ。 この工事は樋そのものだけでなく屋根そのものの修理なども「込み込み」だった。信長はこうも命じている。 「大和国の三輪山から材木を採取し、吉日を選んで斧始めをおこなえ」(『信長公記』) 結局、朝廷から選んでもらった12月16日を吉日として着工式が行われている。そう、彼は三輪山のご神木を宇治橋だけでなく、石清水八幡宮の修理事業にも投入したのだ。 信長と石清水八幡宮との関係は、永禄13(元亀元、1570)年4月28日に戦勝祈願の法楽(雅楽を神に奉納すること)を行ったところから始まる。この日、越前の朝倉義景攻めに向かった信長に対して、北近江の浅井長政が兵を挙げたという噂が京にも届き、「信長が窮地に陥った」と慌てた朝廷が八幡宮に祈願を命じたのだ。 そのご利益があったか、信長はまさにこの日「金ヶ崎の退き口」と呼ばれる退却を開始。2日後、無事に京へたどり着いている。「石清水」に手厚くした理由 これに感謝したものだろうか、翌元亀2(1571)年から同3(1572)年にかけて、違乱された八幡宮領の山城国狭山郷を返還するよう命じている。違乱とはかき乱す、不都合を行うという意味であり、正当な権利もなく占有し、課税したりしたのだろう。 ちなみに違乱の張本人は御牧(みまき)摂津守というが、この御牧一門は室町幕府奉公衆を出し、一員の御牧景重(兼重)は、のちに明智光秀に従って山崎の戦いで討ち死にしている。 その後も信長はこの件を気にかけ、天正3年には狭山郷を八幡宮領として保証する「安堵状」も出した。彼はあちこちの社寺に戦勝祈願を依頼しており(「ルイス・フロイスの描く織田信長像について」神田千里、『東洋大学文学部紀要 史学科篇 41号』)、石清水八幡宮にも期待するところは大きかったのだろう。一般的には意外と思われるかもしれないが、この連載の読者の方には信長の験担ぎは事新しいことではない。 さらに言えば、信長が石清水八幡宮に期待し保護した理由は、戦勝祈願のご利益だけではなかった。京の裏鬼門(南西)にあって王城を守る「国家鎮護」の神として尊崇され、平清盛や源頼朝、足利尊氏ら武家の棟梁からも篤く敬われた重要な祭祀(さいし)の場だ。 信長はこの前年に三河国岡崎を訪れたが、その際「御家門様」と呼ばれている。名家の一員を指す言葉であり、同時代では関東公方の足利義氏も「御家門方」と呼ばれた。 つまり、信長は将軍に準じる立場として目され、石清水八幡宮の修理事業を主導する「天下人」と認められていたわけだ。彼の言う「末代まで」は、どうやらその名誉も永久に残るように、という意味もあったらしい。修理を終えた孔雀の欄間彫刻を幣殿に設置した石清水八幡宮=京都府八幡市 三輪山のご神木は、こうして宇治橋と石清水八幡宮へと運ばれていった。おそらく大木は根こそぎ切り出されただろう。蛇=龍のパワーを持つご神木によって、安土城の裏鬼門(南西)の方角は強化されたことになる。 北の守護は、前回も書いたように水神の弁財天が坐す竹生島(ちくぶじま)。そのラインをさらに延長すると、信長の織田家の氏神である越前国織田の劔(つるぎ)神社が鎮座している。 東は無論、津島の天王社から信長の少年時代を形成した那古野城内のの亀尾天王社(現・那古野神社)が守り、西は大国主命を祭神とする大嶋神社・奥津嶋社(おきつしま)神社・日牟禮(ひむれ)八幡宮がガッチリと固める。王城にふさわしいのは「四神相応(しじんそうおう)の地」というが、安土城の三つの方角も裏鬼門と同様に、信長ワールドの守護を担ったのだ。

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    面白いゆえに危ない戦国デタラメ説

    戦国史の中で注目度の高い合戦の一つに桶狭間の戦いがある。少数の信長軍が、大軍の今川義元を討ち破っただけに、多くの研究者らが諸説唱えている。ただ、これまでにも指摘したように、面白くするために根拠のない説が真実かのように流布されているのが現状だ。今回は、桶狭間での信長軍の戦術論争を中心に、その危うさを検証する。

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    迂回か正面か、桶狭間の信長軍「奇襲戦術」論争に打てない終止符

    渡邊大門(歴史学者) 新型コロナウイルスの猛威が止まらない。以前から、私の今夏の講演会は全滅したとお伝えしていたが、実は秋以降もかなりヤバい。中止になった分を秋以降に振り替えるケースもあるが、東京都内でのコロナ感染者の増加を受けて、「やっぱり止めます!」というところも増えてきた。だんだん開催するのか開催しないのか、わけが分からなくなっている状況である。 前回も少々触れたが、講演と言えば、参加者からの質問である。困った質問もあるが、中には核心をつくような鋭い質問もある。「ムムッ!」と怯(ひる)むときがあるが、結論を言えば「今残っている史料だけでは、分かりません」と答えざるを得ないこともままある。諦める方もいれば、「何や知らんのか!」と悪態をつかれることも…。 しかし、歴史研究(いや、ほかの学問分野でも!)においては、分からないことが多すぎるのが実情だ。極端に言えば、分かっていることの方が少ないのかもしれない。たとえば、そこそこ名の知れた戦国武将であっても、生没年や前半生が不明な人も少なくない。ましてや、合戦の具体的な中身は余計に分からない。 そこで今回は、織田信長が今川義元を打ち破った桶狭間の戦いの具体例を挙げて、考えてみることにしよう。問題になっているのは、信長が仕掛けたのは奇襲攻撃(「迂回奇襲説」)か正面攻撃(「正面攻撃説」)かということである。 永禄2(1559)年、尾張国内をほぼ統一した信長は、いまだ今川氏方の勢力下にあった鳴海城(名古屋市緑区)、大高城(同上)の奪還を目論んだ。信長は鳴海城に丹下・善照寺・中島の三砦、大高城に鷲津・丸根の2つの砦を付城として築き、今川氏に対して積極的な軍事行動を展開する。 信長の動きに対して、翌永禄3年5月12日、今川義元は信長を討つべく駿府(静岡市葵区)を発った。そして、義元は三河を通過して、同月18日に尾張沓掛城(愛知県豊明市)に入ったのである。なお、義元が出陣した理由については、上洛を目指したとの説もあるが、明らかにするのは難しい。 今川氏が率いた軍勢は、『信長公記』では4万5千人と書かれている。しかし、そのほかの二次史料では2万~6万人と書かれており、大きな幅がある。正確な数は分からないが、この場合は良質な『信長公記』の数をとるべきだろう。とはいえ、それでも今川軍は多すぎるのではないだろうか。 慶長期の段階で、今川領国の駿河・遠江の石高は約40万石である。これを基準にして、100石に3人の軍役ならば1万2千人になる。100石に4人の軍役ならば1万6千人、100石に5人の軍役ならば2万である。つまり、『信長公記』に書かれた4万5千人という数字は、通常の約3・7倍から約2・2倍になる。常識外れだ。 むろん、『信長公記』を書いた太田牛一が数えたわけではないだろうから、少数で大軍を破ったことを誇張して書いたか、感覚的にそう書いたのかのどちらかだろう。ただ非常に考えにくいが、今川方が総力戦で臨んだとするならば、4万5千人というのもありえたかもしれない。桶狭間古戦場公園にある信長と義元の銅像=名古屋市緑区 義元が沓掛城に到着した日、松平元康(のちの徳川家康)に命じて、大高城に兵糧を搬入させた。大高城は信長軍によって、長期にわたって兵糧の補給路を断たれていたからである。翌5月19日、義元は配下の武将に命じて、鷲津・丸根両砦を攻撃させた。そして、桶狭間まで進み、今川氏は本陣を置いた。桶狭間は、名古屋市緑区と愛知県豊明市にまたがる広範な地域である。一時通説となった「迂回」説 次に、信長の動きを『信長公記』で確認しておこう。5月18日夜、信長は今川軍が翌朝に織田方の付城を攻撃する予定であるとの報告を家臣から受けた。しかし、信長はまったく意に介する様子もなく、家臣と今川軍への対抗策について協議しようとはしなかった。逆に信長は、終始雑談に興じていたと伝わっている。 5月19日の明け方、鷲津・丸根両砦が今川軍に攻撃されているとの一報が信長にもたらされた。すると、信長はにわかに幸若舞の「敦盛」を舞うと、その直後に騎馬6騎・雑兵200人を率いて出陣した。やがて、信長は鳴海城の付城・善照寺砦に入ると、後続の軍勢約2千~3千人がやって来るのを待ったという。 その一方で、信長家臣の佐々隼人正、千秋四郎が率いる300余の軍勢は、今川軍へ攻撃を仕掛けた。しかし、佐々らの軍勢は奮戦虚しく敗北を喫し、佐々、千秋らを含めて50騎ほどが討ち死にする。戦況は、信長にとって不利に傾いていた。 ここから、信長は一計を案じ、今川軍への奇襲攻撃を敢行する。以下、小瀬甫庵の『信長記』(以下、太田牛一の『信長公記』と区別するため、『甫庵信長記』で表記を統一)により、奇襲攻撃の経過を確認しておこう。 善照寺砦を出た信長は、今川義元の本隊が窪地になっている桶狭間で休息をとっていることを知った。信長は前田利家が敵の首を持参したので、これは幸先がよいと大いに喜んだ。利家は信長から出仕の停止を受けていたが、独断で行動していたようだ。 そして、信長は味方の軍勢に敵、つまり今川氏本陣の後ろの山に移動するよう命令した。この移動が奇襲戦の端緒になった。さらに、信長は山の近くまでは旗を巻いて忍び寄り、義元がいる今川本陣に攻撃するよう命じたのである。旗を巻いたというのは、目立たないようにするためだ。桶狭間古戦場内にある今川義元の墓=愛知県豊明市 信長が密かに軍事行動を起こした頃、急に大雨が降りだし、その後は霧が深くなっていたという。義元の方も、このような悪天候の日にまさか信長軍が攻めて来ないだろうと油断していた。信長の作戦は、天候も運も作用した。そうした状況をも信長は味方にし、今川氏の本陣を密かに迂回。気付かれぬように背後の高台から奇襲攻撃を仕掛け、今川軍が大混乱に陥るなか、義元の首を獲ったのである。 以上の流れが通説となった「迂回奇襲説」である。 「迂回奇襲説」が通説となり、長らく信じられてきたのには、もちろん理由がある。近世になると、『甫庵信長記』は太田牛一の『信長公記』よりも広く知られるようになり、強い影響力を持つようになったからだ。 日本陸軍参謀本部が明治32(1899)年に『日本戦史・桶狭間役』を編纂すると、『甫庵信長記』の説を採用した。結果、日本陸軍参謀本部が信長の奇襲攻撃にお墨付きを与えたことになり、権威を持って世間に広く受け入れられたのである。では、『甫庵信長記』はどういう書物なのか。「迂回」説を批判した藤本氏 『甫庵信長記』は元和8(1622)年に成立したといわれてきたが、今では慶長16・17(1611・12)年説が有力である。江戸時代に広く読まれたが、創作なども含まれ儒教の影響も強い。 そもそも『甫庵信長記』は、太田牛一の『信長公記』を下敷きとして書いたものである。しかも、『信長公記』が客観性と正確性を重んじているのに対し、甫庵は自身の仕官を目的として、かなりの創作を施したといわれている。それゆえ、内容は小説さながらの面白さで、江戸時代には刊本として公刊され、『信長公記』よりも広く読まれた。しかし、現在では、歴史史料として適さないと評価されている。 「迂回奇襲説」は通説となったが、果敢に批判を試みたのが歴史研究者の藤本正行氏である。藤本氏は『甫庵信長記』と『信長公記』の記述内容を比較検討し、両者の記述に食い違いがあることを問題とした。詳細に分析した藤本氏は、『信長公記』を根拠にした「正面攻撃説」を提唱したのである。 改めて『信長公記』の記述内容により、戦闘の経過と「正面攻撃説」を検証しよう。 信長は佐々らの敗北を知った後、家臣の制止を振り切って出陣した。そして、信長率いる軍勢は、中島砦へ向け進軍していた今川軍の前軍へ正面から軍を進めたのである。前軍は先陣、先鋒、先手ともいい、前方の軍隊や先頭に立つ軍隊のことを意味する。信長軍が山の裾野まで来ると大雨が降ったものの、信長は雨が止むと即座に今川軍への攻撃命令を下した。 信長軍が怒涛の勢いで攻め込んできたので、今川軍の前軍は総崩れになった。信長はそのまま勢いに乗じて今川軍の前軍を押し込めると、義元の本陣までどっと雪崩れ込んだのである。信長軍の攻撃を受けた義元は、約300騎の将兵に守られつつ本陣を退いた。その後も今川軍は信長軍と交戦したが、将兵は次々と討ちとられ、ついに義元は毛利新介(良勝)に首を獲られたのである。 「正面攻撃説」の根拠となった『信長公記』は、信長の家臣で執筆者の太田牛一が、日頃からメモを残しており、慶長8年頃には『信長公記』を完成させたという。牛一の執筆態度は、事実に即して書いていると指摘されており、一次史料と照合しても正確な点が多い。そうした理由から『信長公記』は二次史料とはいえ、信長研究で必要不可欠な史料であり、おおむね記事の内容は信頼できると高く評価されている。 現時点において、「正面攻撃説」は信憑性の高い『信長公記』に書かれているので、史料的な質が劣る『甫庵信長記』に書かれた「迂回奇襲説」より有力な説となっている。とはいえ、『信長公記』は二次史料であることを忘れてはならず、一つの有力な説にすぎないと考えるべきだろう。 その後、桶狭間の戦いについては、なぜ少数の信長軍が、大軍の今川氏を打ち破ることができたのかについて、種々新説が提起された。たとえば、信長軍の将兵はよく訓練された少数精鋭だったので、今川氏の大軍を打ち破ることができたという説もその一つだ。この説は正しいのだろうか?「竹千代君像」(左)と並んで設置されている今川義元の銅像=JR静岡駅前 信長配下の兵卒は、兵農分離を遂げた職業軍人だったとの説がある。信長が兵農分離を行ったという根拠は、『信長公記』天正6(1578)年1月29日条の記事である。信長は天正4年から安土城(滋賀県近江八幡市)築城を開始し、3年後の天正7年に完成させると、徐々に配下の者を城下に住まわせていた。信長が近世の先駆けといわれるゆえんである。ところが、天正6年1月、安土城下に住む弓衆の福田与一の家が失火した。誠実な歴史家の在り方とは 与一は一人で居宅に住んでおり、そのことを信長が問題視した。家族がいれば、火事の被害を抑えることができたと考えたのだろう。調べると、120人もの馬廻衆・弓衆は、尾張に家族を残しており、今でいう「単身赴任」であることが発覚した。怒った信長は、尾張支配を任せていた長男の信忠に命じ、彼らの尾張国内の家を焼き払った。こうして家を失った廻衆・弓衆の家族は、安土城下に住むことを余儀なくされたのである。 この事例から明らかなように、信長は馬廻衆・弓衆を城下に集住させ、兵農分離策をすでに行ったと指摘されている。近世に入ると、城下町に武士を住まわせ、身分に応じて居住区を定めたのは周知のことだろう。その先駆を成し遂げたのが、信長であると指摘され、その兆候は安土城に移る以前から確認できるという。 考古学の発掘調査によると、信長が永禄6(1563)年から4年間にわたり居城とした小牧山城(愛知県小牧市)には、武家屋敷の跡が残っているとの指摘がある。また、永禄10年から使用した稲葉山城(岐阜城、岐阜市)のふもとには信長の居館があったが、その周辺には重臣らの館があったという。つまり、信長は城下に兵を集住させるという、兵農分離を早い段階から実行していたということになろう。 もう少しほかの例を確認しておこう。 信長の配下の兼松氏は、天正4年に近江国に所領を与えられた(「兼松文書」)。兼松氏は尾張国葉栗郡島村(愛知県一宮市)を本拠とする武将で、もとの所領は尾張国内にあった。本来、武士と土地とが分離不可分な関係だったことを考慮すると、これも武士の安土城下への集住つまり兵農分離策の第一歩と認識されている。信長は兼松氏を安土城下に強制移住させる代償として、近江国内に所領を与えた。 信長は槍や鉄砲などを効果的に用いた作戦を行ったので、兵農分離を遂げた配下の将兵は軍事的な専門訓練を受けたと考えられてきた。特に、鉄砲のような新兵器は、専門的な軍事教練なしにして、実戦で用いるのは困難であると考えたのだろう。 一方で、ここまでの事例だけでは、信長により兵農分離が実施されたとは言い難いという、慎重な意見がある。当時、戦国大名の直臣(馬廻衆など)が城下町に住むことは、決して珍しいことではなかった。したがって、政策的に家臣を城下町に住まわせた兵農分離と、信長の事例を同列に考えてはいけないという指摘がある。つまり、兼松氏の場合は、兵農分離に該当するか否か検討が必要である。 戦国最強と言われる信長の軍隊は、兵農分離を成し遂げた専門的軍事集団だったとのイメージがあるが、現存する史料だけでは必ずしもそうとは言えないようだ。いまだに十分な分析が必要であることを述べておきたい。したがって、「信長軍の将兵はよく訓練された少数精鋭だった」ということは証明できない。清洲公園にある織田信長公像=愛知県清須市 ほかにも信長勝利を収めた理由を挙げている研究者がいるが、もはや確かめようがない。それらの新説は、おおむね信頼度の低い二次史料に基づく憶測や想像のようなもので、納得できるものではない。一方で、それらの説がたとえ常識はずれなデタラメであっても、一般の人は面白ければ受け入れるという嘆かわしい現状がある。 あれこれ諸説を披露しても、結論として「分からないことは分からない」と正直に言うのが誠実な歴史家の姿である。分からないことを分かろうとするのは無理なのだ。しかし、現状ではマスコミ受けを狙ったり、人気者になるために平気で嘘やデマを垂れ流す面々もいるので、注意が必要である。【主要参考文献】藤本正行『信長の戦争 『信長公記』に見る戦国軍事学』(講談社学術文庫)

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    戦後75年、追憶の「大東亜戦争」

    戦後75年の節目は、コロナ禍の中で迎えることとなった。コロナ禍も戦後最大の国難とされるものの、やはり先の大戦とは比較にならない。そして戦争そのものは過ちだが、個々人の思いは別だ。75回目の終戦の日。改めて、計り知れない犠牲や苦悩を経て今の日本があることをかみしめたい。

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    大本営と作戦相反、激闘の沖縄で苦悩した陸軍高級参謀の慧眼

    戸部良一(防衛大名誉教授) 日本の敗戦が濃厚となった大東亜戦争末期、米軍からその戦術を称賛された陸軍将校がいた。 彼の名を、八原(やはら)博通。沖縄戦で戦った第32軍の高級参謀だ。その沖縄戦にて八原は戦略持久を図る作戦計画を立てるも、大本営による「ばかげた攻撃要求」の結果、自身の計画が一貫して実行されず、その目的を十分に達成することができなかったと自らの手記で批判している。作戦計画がそのまま実行されていれば、第32軍は相当の戦力を保持したまま終戦を迎えることができただろう。八原博通『沖縄決戦ー高級参謀の手記』 もし自らの作戦が実行できたなら、軍人・軍属合わせて約10万人の戦死者と、その戦闘に巻き込まれた沖縄住民の死者約9万人という、悲劇的かつ甚大な被害も少なくとも一部は避けられたのではないかと、八原は言いたかったのだろう。 南西諸島の防衛を任務とする第32軍は、当初飛行場の建設ぐらいしか期待されていない小規模の兵団だった。しかし1944年7月のサイパン島の失陥以後、フィリピンや台湾とともに沖縄も米軍の上陸攻撃対象の一つと予想されるようになると、決戦のために兵力を大きく増強されることになった。 これに応じて作戦主任であった八原は、攻勢主義を基本とする次のような作戦計画を立てた。 米軍は敵前上陸時に必ず海軍による激しい艦砲射撃と空軍による猛爆撃を行うが、第32軍は築城作業によって強化された洞窟陣地にこもって敵の砲爆撃をしのぎ、狭い上陸地区にひしめいて混乱状態にある米軍を、強力な砲兵と充実した歩兵戦力の機動によって叩く。 これが八原の計画であった。この計画に基づき、第32軍は洞窟陣地の築城と歩兵部隊の機動訓練に全力を注いだ。 ところが、44年10月に米軍がフィリピンに上陸すると、その危急に対処するため大本営は第32軍に対し、沖縄本島から1個師団抽出を命じる。第32軍はこれに抵抗したが、結局押し切られてしまう。 さらに大本営は抽出した兵力の補塡(ほてん)に本土から1個師団を派遣すると内示したにもかかわらず、それをすぐ撤回する。輸送中の増援師団が敵の潜水艦や爆撃機に襲われることを危惧したためである。大本営の措置は場当たり主義で、第32軍は不信感をますます強めた。第32軍の高級参謀を務めた八原博道(Wikimedia Commons) 沖縄本島の基幹兵力はそれまで3個師団および1個独立混成旅団だったが、そこから1個師団を引き抜かれたため八原は作戦方針の根本的な転換を図る。従来の計画では米軍の上陸地として3方面を想定し、それぞれ攻勢による決戦を構想していたが、兵力不足によりこの計画は成り立たなくなった。 八原は沖縄本島の南部、島尻地区に主力を置き、この地区の海岸に米軍が上陸すれば、これまで通り攻勢作戦によって決戦を行うことを想定した。だが、もしその北の中頭(なかがみ)地区の嘉手納に敵が上陸した場合攻勢の成功を期しにくいため、首里を中心とする南部に築いた堅固な要塞地帯に立てこもって戦う戦略持久に転換したのである。 そして45年4月1日、ついに米軍は嘉手納に上陸する。しかし第32軍は動かなかった。 八原は大本営が本土決戦の方針を示したころから、米軍との「決戦」よりも「戦略持久」を望んでいたようだ。米上陸部隊は海軍と空軍の支援を受け、強力な戦力を有しており、たとえ戦っても勝ち目はなかった。 そのため決戦を挑んで敗北を早めるよりも、できるだけ長く沖縄で米軍に対し多くの出血を強要し、本土決戦準備の時間稼ぎをしようと考えたのであった。その点で、敵の嘉手納上陸は八原の思うつぼであった。戦略持久に我慢できなかった陸軍 だが、動かない第32軍に対して、大本営と上級司令部である台湾の第10方面軍は攻撃を督促する。対立の焦点となったのは、中頭地区の2つの飛行場であった。大本営としては、沖縄で特攻を主体とした大規模な航空作戦を展開しようとし、そのため二つの飛行場確保を重視した。 一方、八原にとっては戦略持久を徹底させるため、二つの飛行場を放棄することもやむを得なかった。そして案の定、米軍の上陸後まもなく飛行場は敵の手に落ちてしまった。 大本営と第10方面軍は、第32軍に対して再三にわたって飛行場奪回を要請したが、それは八原からすれば戦略持久の意味を理解していないに等しかった。しかし、戦地から遠く離れた東京では、昭和天皇さえも「現地軍ハ何故攻勢ニ出ヌカ」と疑念を表明した。 「攻勢に出ないのは、消極的で臆病だ」との非難に耐えられなくなった第32軍司令部は、八原の反対を押し切り、4月8日を期して飛行場奪回のために攻勢に出ることを決めた。ところが、その直後に新たな米軍船団の接近が伝えられ、主力陣地の側背を脅かされる危険性が生まれたため、攻勢作戦は中止となった。この攻勢作戦の中止により、第32軍は再度腰抜けだと言わんばかりの批判を受けることになる。 なお、第32軍参謀長であった長(ちょう)勇中将は、少佐時代に陸軍の未発のクーデター計画である十月事件へ関与するなど、乱暴かつ豪快な軍人として有名であった。第32軍の攻勢中止を聞いた参謀本部作戦部長の宮崎周一中将は、長について次のように日誌に書いている。長中将モ真ニ攻撃精神旺盛ナル軍人トハ申シ難シ、余リ口ニ強キハ実ハ必スシモ然ラストノ原理ヲ実証ス。『宮崎周一中将日誌』 長は八原の反対を排して、4月12日に夜戦攻撃を試みた。攻撃は失敗したが、中止の決断が早かったため損害は大事に至らなかった。その後、首里城の洞窟陣地に司令部を置いた第32軍は戦略持久に徹し、敵の攻撃に抗しつつ主力を保持したまま1カ月も持ちこたえた。 八原は戦略持久という戦術に自信を持ち始めていた。しかし、軍司令部では、司令官である牛島満中将や長参謀長をはじめ、八原以外の参謀たちの大半が再び攻勢に傾いていった。 そもそも、戦略持久では米軍には勝てなかった。いずれは負けることが明らかだった。そのため司令部内では「どうせやられるなら力のあるうちに攻撃に出よう。このまま消極受動に立って、敗北と死を待つのは耐え切れぬ」という心理が膨らんでくることは避けられなかった。八原が主張する「攻勢はたとえ一時的・局部的な勝利を得られるとしても、結果的には敗北を早めるだけだ」という考えは受け入れられなかった。沖縄戦で日本のトーチカを攻撃する米軍 八原は日本軍の将校について、次のように述べている。高級将校:感情的・衝動的勇気はあるが、冷静な打算や意志力に欠ける幕僚:    主観が勝って、客観が弱い。戦術が形式的技巧に走って、本質を逸する。     技巧は良いがデザインは下手。     感情に走って大局を逸し、本来の目的や本質を忘れる。 まさに、彼の体験に基づく述懐と言えよう。 そして5月4日早朝、第32軍は攻撃を開始する。だが八原の予想通り、作戦は失敗に終わり、翌日夜には中止となった。やがて首里の戦線は崩壊し、戦力を大きく減らした第32軍は5月下旬に喜屋武(きゃん)半島を目指して後退する。巻き込まれた住民の被害が急増するのはこのころからである。理解されなかった八原 そのころ、航空参謀の神(じん)直道少佐が連絡のため大本営に派遣されることになった。東京に戻った神の報告では、八原について次のように記されている。軍参謀長ト参謀間ニ作戦思想ノ不一致 消極的性格ノ暴露 八原ノ不忠 一切ハ智ニアラス人格ナリ もちろん、長と八原との間に作戦思想の食い違いが見られたことは事実である。だが八原は、参謀長の意見に基づいて司令官が攻勢作戦を決断したとき、それに反対でも(その不満を顔に出すことはあっても)決定には従った。 神が報告した「不忠」というのは中傷に近いであろう。八原は軍司令官や参謀長の判断の誤りに批判の目を向けることはあっても、牛島や長の人間性、2人の軍人としての姿勢に対する敬意は変わらなかった。 彼は自分の戦略判断に強い自信を持ち、論理を突き詰めて作戦計画を立てた。それを「智」が勝っているというならば、そうだったかもしれない。だが、たとえ人格者ではなかったにしても、彼の人格に欠陥があって、それが「消極的」な戦略持久につながったというのは不当と言うべきである。 しかし、戦略持久が消極的であるという見方は、大本営の中に浸透していた。『大本営陸軍部戦争指導班 機密戦争日誌』によると、5月末、戦争指導を担当していた参謀本部第12課は第10方面軍の状況報告を聞いて「兵力温存絶対持久主義」が沖縄作戦を害したと批判し、それが本土作戦をむしばみつつあると憂慮している。ついぞ、八原の戦略持久は理解されなかったのである。 そして6月23日早朝、牛島と長の自決をもって第32軍の組織的な軍事行動は終わる。八原は2人の自決を見届けた後、事前の命令に基づいて沖縄戦の実態を報告し、本土決戦に参加するため東京を目指した。しかし、彼は沖縄を離れる前に米軍に捕まり捕虜となる。当時42歳であった。沖縄の慶良間諸島阿嘉島海岸に初めて掲げられた星条旗=1945年3月 八原によれば、沖縄の戦いは「決戦か持久か」という点で、作戦目的が「混迷」したとされる。大本営は航空決戦を言うばかりで、それが成り立たない場合、どのように地上戦を戦うかを明示しなかった。 さらに、事前に通知されたはずの第32軍の作戦計画について諾否を言わず、作戦方針を協議しようともしなかった。連絡あるいは協議のために現地沖縄に誰も送り込んではこなかった。攻勢を要請しながら、援軍を送ろうともしなかった。大本営としては、送れば途中で海没することを恐れたためである。 英国の軍事史家、H・P・ウィルモットは「沖縄における日本軍の損害は敵に与えた損害と釣り合わず、損害に見合う時間を稼ぐこともできなかった」と論じつつも、次のような点を指摘している。 5月4日の「思慮に欠ける攻勢」を除けば、第32軍は戦いを長引かせ米軍にできるかぎりの出血を強いるため防御戦闘に徹した。島尻地区の日本軍の拠点が除去されるまで、米軍は沖縄の飛行場の安全を確保できなかったので、空母艦隊を沖縄海域にとどめなければならなかった。そのため、日本軍特攻機の絶え間ない攻撃に曝(さら)されることになった。『大いなる聖戦―第二次世界大戦全史』 八原の戦略持久は、大本営の無理解と現場無視の干渉にもかかわらず、少なくとも一部はその目的が達成されたと見るべきだろう。 沖縄戦、そして戦後から75年がたった今、八原が残した教訓からわれわれは何を学ぶべきであろうか。

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    樋口季一郎の埋もれた功績、ユダヤ人を救ったもう一つの「命のビザ」

    であろう。 戦後日本に定着した「日本軍=悪」という偏向した前提の中で、樋口の功績は埋没した。しかし、歴史的評価というのは、あくまでも史実に基づきながら、是々非々で捉えていくべきであろう。ソ連の侵攻に「徹底抗戦」 樋口の功績はそれだけにとどまらない。むしろ以下に語る史実こそ、樋口が真に語り継がれるべき最大の要因とも言える。 終戦後、旧ソ連軍が千島列島に侵攻。旧ソ連の最高指導者であるスターリンは、千島列島から一気に北海道まで軍を南下させ、釧路と留萌を結んだ北海道の北半分を占領する考えを持っていた。 このとき、「北の備え」である第5方面軍司令官だったのが樋口その人であった。日本はすでに国家として降伏を受け入れていたが、樋口は旧ソ連軍の侵攻に対する戦いを「自衛戦争」と断定した。 そして、千島列島北東端に位置する占守島(しゅむしゅとう)の守備隊に「徹底抗戦」を命じた。一時は終戦の報を聞いて、「故郷に帰ったら何をしようか」などと笑みを見せながら話し合っていた兵士たちが、再び銃を取った。 結果、占守島の守備隊は多くの犠牲者を出しながらも、旧ソ連軍の侵攻を見事に食い止めた。この戦いにおける日本側の死傷者は600~1千人。対する旧ソ連側の死傷者は1500~4千人に及んだ。占守島で旧ソ連軍が足止めされている間に、米軍が北海道に進駐。スターリンの野望はこうしてくじかれた。 この占守島の戦いがなければ、北海道は旧ソ連によって分断統治されていた。日本がドイツや朝鮮半島のような分断国家となる道から救ったのだ。小さな孤島での戦いであったが、日本という国家にとっては極めて大きな意味を持つ戦闘であった。 にもかかわらず、現在の日本においてその存在は北海道民でさえも十分に認知しているとは言い難い状況にある。このような歴史教育で本当によいのだろうか。占守島に打ち捨てられた残骸=2017年7月(第11戦車隊士魂協力会提供) 占守島の戦いを指揮した樋口に対しては戦後、旧ソ連から「戦犯引き渡し要求」がなされた。これをロビー活動によって防いだのは、かつて「ヒグチ・ビザ」によって救われたユダヤ人たちであった。

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    エース最後に集いし航空隊「撃墜王」に今も残る悔恨

    井上和彦(ジャーナリスト) 先の大戦の制空権を米軍に奪われ、もはや敗色濃厚となった昭和19年12月、日本海軍は起死回生の策として、各地で戦う腕利きのエースパイロットをかき集めた精鋭部隊の創設に踏み切った。こうして愛媛県の松山基地に誕生したのが第343航空隊、通称「剣(つるぎ)部隊」だった。 真珠湾攻撃時の航空参謀だった源田実大佐が司令を務め、飛行長には、真珠湾・ミッドウェー海戦を経験してきた歴戦の勇士・志賀淑雄少佐が就いた。そしてその隷下部隊には、ラバウル・フィリピンの激戦で大活躍した鴛淵(おしぶち)孝大尉率いる「維新隊」第701飛行隊、同じくラバウルの勇士・林喜重(よししげ)大尉の「天誅隊」第407飛行隊、さらに、南方戦線のエース・菅野直(かんの・なおし)大尉率いる「新選組」第301飛行隊の3個戦闘飛行隊が置かれた。 加えてパイロット育成の練成飛行隊として浅川正明大尉の「極天隊」第401飛行隊と、偵察を担任する橋本敏男大尉の「奇兵隊」偵察第4飛行隊があった。 さらに、この第343航空隊には、120機撃墜のスーパーエース・杉田庄一上等飛行兵曹をはじめ、「空の宮本武蔵」こと武藤金義少尉、ラバウル航空隊で大活躍した宮崎勇飛行兵曹長、松場秋夫少尉、坂井三郎少尉、本田稔飛曹長など日本海軍が誇る撃墜王が集められたのだった。 そしてこの部隊の主力機は、当時最新鋭にして最強の戦闘機「紫電改」(紫電21型)だった。 「紫電改」は、20ミリ機関砲4門、零戦のおよそ2倍となる2千馬力エンジンを搭載し、パイロットを守る防弾板や、高い運動性を生み出す自動空戦フラップを備えた当時の日本海軍の最強戦闘機だったのである。まさしく「鬼に金棒」だった。旧日本海軍航空参謀で第343航空隊(通称・剣部隊)司令の源田実大佐 昭和20年3月19日、偵察機から「敵大編隊、四国南岸北上中!」の一報を受け取るや、源田司令はただちに各隊に発進を命じた。 「サクラ、サクラ、ニイタカヤマノボレ」。開戦劈頭(へきとう)の真珠湾攻撃時に用いられた「ニイタカヤマノボレ」の暗号電文が再び使われたのである。迎撃に上がった「剣部隊」は、上空約5千メートルで態勢を整えて敵機を待ち構えた。 敵編隊は、約1千メートル下方に位置しており絶対優位のポジションだった。そして54機の「紫電改」が敵大編隊に襲いかかったのである。敵をめった打ちにした紫電改 かくして激しい空中戦が本土上空で繰り広げられ、その結果、「剣部隊」は実に57機もの敵機を撃墜するという驚くべき大戦果を収めたのであった。わが方の損害は13機だった。 この戦闘で、「剣部隊」と激突した空母「ベニントン」の艦載機のパイロットであるモブリー少佐は、その戦闘報告書で次のように記している。 彼らの射撃と操縦技倆は、我が飛行隊のパイロットがこれまで見た最高の技倆と同程度に優れていた。対戦したパイロットは、明らかに日本軍航空部隊の精鋭であった。ヘンリー境田・高木晃治『源田の剣』双葉社 また、空母「ホーネット」の第2小隊長ワイス大尉はこう回想している。 日本機の編隊に突っ込まれ一撃をかけられると、味方のおよそ半数が撃墜されるか、戦闘不能になっていた。我が機の胴体落下タンクは燃えており、胴体と翼には穴が幾つかあいていた。ぼくはタンクを捨て、火を消すために急降下した。『源田の剣』 敵戦闘機隊は「紫電改」にめった打ちにされたのである。 昭和20年3月時点でのこの大戦果は、相次ぐ玉砕と本土空襲などで意気消沈していた大本営を歓喜させた。そして、この武勲は直ちに上聞に達し、「剣部隊」に対して連合艦隊司令長官・豊田副武(そえむ)大将から感状が授与されたのである。局地戦闘機「紫電改」 こうして「剣部隊」はその後も来襲する米軍戦闘機相手に勇戦敢闘した。すると、その精強さは海軍内でも注目され、鹿屋基地(鹿児島県)に前進して特攻機の護衛任務も任された。加えて対戦闘機戦闘だけでなく、大型のB29爆撃機に対する迎撃戦闘も行ったのである。 航空隊は、敵機を効果的に迎え撃つため、第一国分基地から長崎県の大村基地に移動して戦い続けた。 そして「剣部隊」は、B29爆撃機に対する迎撃戦でも大戦果を挙げている。5月11日には北九州上空で9機のB29を撃墜したのだった。5カ月で驚異の戦果 これは終戦まで3カ月の出来事である。そして、終戦までおよそ2カ月となった昭和20年6月2日にも驚くべき大戦果を挙げている。 敵は、空母「シャングリラ」の戦闘機F4Uコルセア隊で、九州南部の知覧・出水の特攻基地を攻撃に来たときの空戦だった。このとき「剣部隊」は、あっという間に敵機18機を撃墜し、わが方の損害は2機という圧勝だったのである。 総撃墜数43機を数える元407飛行隊のエース本田稔少尉は、このときの様子をこう記している。 各小隊は格好の目標を定め、高度千、五百、百と近づき、いっせいに二十ミリ機銃を発射して完全な奇襲をかけ、F4Uを片っ端から撃墜してしまった。この時三〇一飛行隊は上空警戒に当たっており、我々の攻撃を見ていたが、その前方にさらにF4U八機がゆうゆうと飛行しているのを発見してこれを奇襲し、その五機を墜としたのである。この日、わが方は二機の未帰還機があったが、十八機にのぼる敵艦載機を撃墜した。岡野充俊『本田稔空戦記』潮書房光人新社 6月2日の空戦は「剣部隊」の大勝利だった。 では、米軍はどのように見ていたのだろうか。米海軍第38機動部隊指揮官ジョン・S・マッケーン中将から各空母航空隊司令宛てに機密の電信通達が発信された。 全搭乗員に徹底せよ。最近九州南部上空において、経験を積み熟練した敵戦闘機隊に遭遇した。ジョージ、零戦、疾風、雷電あるいはトニー(飛燕または五式戦)とも識別される最新型の高性能機を装備し、とくに対空母機戦闘の訓練を積み、疑いなくレーダー官制下の迎撃態勢にある。この型の飛行機は、場合によりコルセアに匹敵する高速の上昇力を持つと認められる。この戦闘機隊は、緊密な二機および四機編隊、果敢な攻撃性、連携のとれた攻撃性を特徴とする。この練度の高いアクロバットチームと交戦した我が軍パイロット、殊に特攻機あるいは爆撃機を相手に容易な撃墜に慣れ、自信過剰となり警戒心をおろそかにした搭乗員はショックを受けている。『源田の剣』93式中間練習機の前で記念撮影する海軍の練習生たち。後列中央が第343海軍航空隊(通称・剣部隊)の一員だった本田稔元少尉 こうして昭和20年3月19日の初陣から終戦までに343航空隊「剣部隊」が挙げた撃墜戦果は、B29爆撃機を含む170機にも上ったのである。 かつて本田稔氏に、最も印象に残る戦いについて聞いてみたところ、本田氏は目を瞑りながらこう言うのだった。 「…あれだけは忘れられんのです。攻撃を終えて帰っていく敵機を後ろから撃って撃墜してしまったんですよ…」「撃墜王」空戦の極意 本田氏は続けた。 「敵機のパイロットは、全く私に気づいていませんでした。そんな無防備な敵機を、背後から撃つことになったんですよ。敵機に近づきながら『早く気づかんか!』と念じたのですが、最後までそのパイロットは気づかなかった。でも私は機銃を浴びせて撃墜してしまったんです。可哀想なことをしました。今もあのときのことだけは悔やまれてならんのです。なんで撃ってしまったんだと…」 本田氏は、剣道の試合のごとく敵機と一騎打ちしたかったのである。そこで私が、空戦の極意を尋ねると、本田氏は間髪入れずに答えた。 「『侍』ですね。つまり『武士道』―」 この言葉を聞いて、思わず背筋が伸びたことを思い出す。 「剣部隊」は、編成から終戦までの半年で実に170機もの米軍機を撃墜し、多数を撃破して米軍パイロット達の心胆を寒からしめた。 だが、この大戦果の裏で、搭乗員88人を含む161人の戦死があることも忘れてはならない。その英霊161柱が祀られる靖国神社について、元301飛行隊のエース・笠井智一氏(総撃墜数10機)はこう語ってくれた。第343航空隊(通称・剣部隊)に所属した元海軍少尉、本田稔氏=2015年7月(奈須稔撮影) 「靖国神社参拝をめぐる問題で、いつも政治家やマスコミが大騒ぎしておりますが、こういう人たちは全く分かっていないですね。靖国神社というところは絶対になくてはならない追悼の場所なんです。宗教がどうだとか、そういうことは問題じゃないんです。 われわれが『今度会う日は、靖国の桜のこずえで咲いて会おう』と歌ったのは、伊達や酔狂じゃないんです。われわれは、そう思って国のために戦ったんです。われわれ兵隊が国の指導者に騙された、なんていう人もいますが、それは全く違います。国のために、この祖国を守るために一生懸命に戦って亡くなった人々は、永遠に靖国神社に祀られねばならないと私は思っています。 零戦の会の慰霊祭にしても、亡くなった人と話ができるわけではありませんが、やはり靖国神社に行って頭を下げれば、何か言い知れぬ感慨が沸いてくるんです」 そして、今年もまた75回目の終戦の日がやってきた。

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    「不死身の分隊長」こと船坂弘軍曹 激戦の敵と“戦友”に

     終戦から70有余年。旧日本軍人は連合国から「戦犯」として裁かれた。しかし──そのなかには、敵国からも尊敬の念を抱かれた男たちがいた。立場を超えて「畏怖」の対象となった軍人たちの誇り高き足跡を辿る(記事中の肩書きは最終階級)。 戦後ではなく、戦中から友情を育んでいた日米の軍人もいた。太平洋戦争最大の激戦地の一つといわれ、約1200人のうちわずか50人ほどしか生還しなかったパラオ諸島・アンガウル島がその舞台である。 米軍の猛攻撃で瀕死の重傷を負った“不死身の分隊長”こと舩坂弘軍曹は左手に拳銃、右手に手榴弾、さらに全身に5発の手榴弾をくくり付けて、米軍司令部に突撃したが、左頸部を撃ち抜かれて昏倒。米軍に“救出”されるも、意識は丸二日戻らなかった。にもかかわらず、意識を取り戻した後には監視兵の襲撃や、飛行場の爆破を試みたのであった。 この舩坂軍曹の執念を、デービッド・オズボーン元米国大使館・代理大使は「勇敢な活躍」と称賛し、米軍将校としてアンガウル島で戦ったロバート・E・テイラー(マサチューセッツ大学教授)は舩坂軍曹に宛てた手紙で「日本人全体のプライドとして残ること」と評した。そして当時、捕虜の舩坂軍曹を監視し、幾度も脱出を試みる彼を取り押さえながらも決して銃殺はせず、「命を粗末にしてはいけません」と諭したのが、米軍通訳兵のフォレスト・バーノン・クレンショーだった。「不死身の分隊長」こと舩坂弘軍曹とクレンショー氏(舩坂良雄氏提供) 戦後、復員した舩坂軍曹はクレンショーを探し回り、全米各地へ手紙を送った。その手紙が110通目に達したとき、ようやく所在がつかめたのである。舩坂軍曹の長男・舩坂良雄氏はこう語る。 「父とクレンショーさんが再会を果たしたのは、戦後20年が過ぎた1966年でした。2人の友情は亡くなるまで続き、私自身も米国滞在の際には、クレンショーさんの自宅で数か月間、生活を共にしました」関連記事■元日本軍の撃墜王「はみ出た腸を手で押し込んで操縦した」■【動画】韓国軍の蛮行伝えるライダイハン像、英国で公開■9回出撃で9回生きて帰った特攻兵「生還の秘密」■徴用工の“証拠写真” 韓国は間違い発覚しても訂正しない■中国で恩赦計画、しかし「抗日戦争参戦」など要件厳しすぎ

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    米本土を唯一空襲した日本兵がレーガン大統領から讃辞受けた訳

    米本土に侵入し、大森林に計120kgの焼夷弾を投下したのである。実はこの攻撃こそ、現在にいたる米国の歴史の中で、ただ一度の本土空襲だった。 1962年、藤田中尉はオレゴン州ブルッキングス市のアゼリア祭りに招待され、初めて米国の地を踏んだ。 〈米国は開国以来、未だかつて外敵の侵入を許したことがありません。太平洋戦争において貴殿は、この歴史的な記録を破って単機でよく、米軍の厳重なレーダー網をかいくぐり、米本土に侵入し、爆弾を投下致しました。貴殿のこの勇気ある行動は敵ながら実に天晴れであると思います〉今も米国民から尊敬される藤田信雄中尉 藤田中尉の評伝『アメリカ本土を爆撃した男』(倉田耕一・著、毎日ワンズ刊)に掲載されたブルッキングス市・青年会議所からの手紙の一節である。 また、後にレーガン大統領から讃辞を受けたのは、その戦果のためだけではなかった。アゼリア祭りでの歓迎に応えるため、藤田は電線会社の工場で働きながらコツコツと貯金し、ブルッキングス市の高校生たちを日本へ招待したのだ。レーガン大統領の讃辞は、藤田の高潔な人柄と誠実さを称えるものであった。関連記事■元日本軍の撃墜王「はみ出た腸を手で押し込んで操縦した」■B29に2度体当たりして生還、日本人軍曹への米兵から手紙■韓国で慰安婦扱う反日映画続々、日本人の未来志向裏切る内容■韓国・中国・北朝鮮以外は「世界中ほぼ親日国家」である理由■9回出撃で9回生きて帰った特攻兵「生還の秘密」

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    治水に人知を尽くした武田信玄が刻む「戦国最強」への第一歩

    小和田哲男(静岡大名誉教授) 戦国武将で、後世、「治水名人」として知られたのが武田信玄と加藤清正である。2人とも「土木の神様」などと呼ばれ、「信玄堤」「清正堤」として、その治水事業が語り伝えられている。本稿では、武田信玄の治水について見ていくことにしたい。 信玄の領国である甲斐国には笛吹(ふえふき)川と釜無(かまなし)川が流れ、それが合流して富士川となって、駿河湾に流れ込んでいる。ところが、この二つの川は、源流から盆地部分までの距離が短いこともあって、少しまとまった雨が降るとすぐ洪水を引き起こしていたのである。 信玄の父、信虎の時代は、そうした自然条件を克服することができず、水害被害で国が疲弊していったのである。結局、そうした信虎に代わり、いわゆる「信玄のクーデター」によって父を駿河に追放し、武田家の家督を継いだ信玄は、国内の安定のため、本格的な治水工事に取り組むことになった。むしろ、取り組まざるをえなかった、と言うべきかもしれない。 現在、信玄堤の名で知られている堤防は、笛吹川の万力堤と近津(ちかづ)堤、釜無川の竜王堤などがある。もっとも、実際には信玄が直接手がけたものではないが、いわゆる「信玄流法」になる堤防も合わせれば、かなりの数になる。 では、信玄が得意とした「信玄流川除法(かわよけほう)」とはどのようなものだったのだろうか。ここでは、最も分かりやすい釜無川の竜王堤を具体例として取り上げ、信玄の治水の実際を追いかけてみたい。 竜王堤は釜無川の東岸に築かれた。今でも堤防はあるが、信玄の時代から何度も改修されているので、当時のままでないことはいうまでもない。ただ、場所そのものには変化がなく、技術的な特徴を追いかけることは可能である。JR甲府駅前の武田信玄像=2008年12月(吉沢良太撮影) 釜無川の水源地は鋸岳(のこぎりだけ)で、甲信国境から南に流れ、いくつかの支流を合わせて次第に水量を増し、甲府盆地へ流れ込んでいる。その支流の一つが御勅使(みだい)川だった。 この御勅使川、現在はこの字が書かれているが、本来は、「みだれがわ」あるいは「みだしがわ」だったのではないかといわれている。「みだれがわ」だと乱川、「みだしがわ」だと水出川で、いずれにしても洪水の元凶といったイメージがあり、御勅使川という字にしたという。実際、釜無川本流と御勅使川の合流地点が洪水常襲地帯となっていたのである。 信玄の治水術で特筆されることの一つは、この御勅使川の流路変更だ。御勅使川が釜無川に合流する少し手前で、川を二つに分流させているのである。堤で見せた信玄の治水思想 「将棋頭」という石堤を築き、水流を南北二つに分け、新御勅使川という流れを作り、その新御勅使川を釜無川に合流させているわけであるが、そこは高岩と呼ばれる崖が連続するところで、そのまま洪水になるようなところではなかった。しかも、そこに「十六石」という巨石を置き、御勅使川の流れを弱める工夫もなされていた。 そしてもう一つ、信玄の工夫として特筆されるのが堤防部分だった。普通、堤防というと、川の水が土手を越えないように高さを保ちながら連続して築かれる。水量が多く、水が堤防の高さを越えそうになれば、堤防をますます高くするというのが一般的である。2019年の台風19号で石積みの一部が陥没した国指定史跡の御勅使川旧堤防=山梨県南アルプス市有野(市教委提供)  ところが、信玄堤は原理からいって違っていた。堤防を一直線ではなく、断続的に築いていったのである。 こうすることによって、大水のときには堤防と堤防の間からあふれた水が堤防背後の遊水地に流れ込む仕組み流れになっていた。つまり、川の水を押さえ込むのではなく、爆発的にあふれ出るのを緩和しようというのが、そもそもの発想だったのである。 こうして、新しい御勅使川と釜無川が合流する高岩付近から下流にかけて、およそ1800メートルの長さの断続的な堤防を築いた。その堤防には竹木を植え、簡単には崩れないようにしていた。 しかも、注目されるのは、堤防上のところどころに神社を祀っているのである。村人たちが神社に参詣することを計算し、人々が土手の上を歩くことによって、堤防そのものが踏み固められるという効果も狙っていたことになる。 この不連続の断続的な堤防を「霞堤(かすみてい)」といっている。これが「信玄流川除法」の特徴で、適当な角度をつけて雁行状に築かれ、これによって水勢を弱める効果もあった。信玄堤(竜王堤)概念図 信玄が父、信虎を駿河に逐(お)って家督を継いだのが、天文10(1541)年6月のことだが、竜王堤の工事に取りかかったのが翌11年のことといわれている。信玄にとって、治水は喫緊の課題だったことが窺(うかが)われる。 そして、竜王堤の場合、完成したのは弘治年間(1555~58)といわれている。いかに大規模な工事だったかが分かる。 こうした大規模工事は、小規模な国人領主や土豪の力では無理である。武田家のような大きな力を持った戦国大名権力の登場によって初めて可能となったわけで、信玄堤はそのことを端的に示したといえる。

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    偉人像も歴史の一端、破壊相次ぐ米人種差別抗議デモの深層

    きないし、またするつもりもない。ゆえに、本稿では、原則としての私見を述べるにとどめる。 まず、過去の歴史自体は変えられない。ただしこれは、現在知られている歴史が唯一絶対だということとは違う。新資料の発見や遺跡の発掘によって、歴史事実とその解釈は修正され得るし、現にされてもきた。 言いたいのは、ある人物や事件についての当時の評価と現在の評価は違ってきているとしても、「当時の」評価で作られた顕彰物などを、「現在の」評価から破壊することには、慎重であるべきだ。 歴史の証拠を、物理的に改ざんしてはならない。古代エジプト第18王朝のファラオ、ホルエムヘブが、石碑から先王「トゥト・アンク・アメン」(英語ではツタンカーメン)ら4代のファラオの名前を削らせたのは象徴的だ。 また、たとえいかなる人物といえども、歴史からその存在を消してはならない。歴史書から、毛沢東、スターリン、ヒトラーについての記述をなくせば、彼らのしでかした大虐殺が、無かったことになるわけではないからだ。 確かに、南部連合関連の人物像には、公園に建てるより、博物館に所蔵することが適切と思われる物もある。しかし、その多くの記念碑が、19世紀末~20世紀に建立されたことの意味を考えるべきであろう。※ゲッティイメージズ 南北戦争は、米国人を分断し、後々まで、ある意味では現在まで尾を引く深い傷跡を残した。内乱と位置付けることはできるものの、南部連合国は、合法的に成立した独立国なのだという主張は、奴隷制の是非とは別の問題なのである。 すなわち、州(State)とは、本来国家であり、州が集まった連邦国家が「アメリカ合衆国」なのだ。そして、各州は、任意に合衆国を離脱できるとする考え方は、南北戦争までかなり有力に唱えられた。重なるかつての日本 事実、合衆国憲法をそう解釈する余地はある。南北戦争は、州の連邦離脱の権利をめぐる戦いでもあった。むろん、南部諸州の連邦離脱と「独立」は、奴隷制維持が目的であったから、州権と奴隷制が無関係の独立した問題であったとまでは言えない。 とはいえ、南北戦争は、奴隷制を廃止した自由州対奴隷州の戦いという単純な図式では捉え難い面がある。南部連合の構成州は、全て奴隷州であった。しかし、自由州ではあっても、奴隷州との境界付近には、奴隷を所有していた者が存在した。 そして、ミズーリ、ケンタッキー、デラウェア、メリーランドの4州は、奴隷州でありながら、連邦にとどまったのである。また、これらの4州以外にも、境界州と呼ばれた地域では、州内が連邦離脱か残留かをめぐって分裂し、家族や隣人を引き裂く、時として流血の対立を生んだ。内戦とは悲惨なものである。 今日、喧(かまびす)しい米国の分断などとは、およそ比較を絶している。何しろ、双方に61万8千人もの死者を生じたのである。第二次世界大戦の戦死者約32万人と比べて、絶対数で、またそれ以上に対人口比で、米国が経験した最大の「戦争」であった。 当時の米国の総人口は、約3100万人と見積もられている。現在の日本で、5年にわたる250万人の戦死者を出す内戦が起こったようなものなのだ。戦争終結後、この深く開いた傷口を癒すこと、南北の和解が求められたことは怪しむに足りない。 だが、自分たちの生活様式、価値観を武力によって変更させられたという恨みは、南部の大農園主に限らず、広く零細農民も含む南部白人に抱かれていた。その恨みには、北部軍のシャーマン将軍のとった焦土戦術のように、かなり残忍で非人道的な連邦軍の行為も寄与している。 傷口の癒しが、南部では、自らの勇戦敢闘の歴史を顕彰し、南部独立、彼らに言わせれば祖国の防衛に一命を捧げた犠牲者を讃えるという形で現われたのは、やはり不幸なことであった。 とはいえ、そのことを一概に非難すべきなのか。南部連合軍の兵士の大半を占めたのは、南北戦争を描いた小説『風と共に去りぬ』(1939年に映画化)に描かれたような貴族的大農園主ではなかった。彼らの多くは、奴隷などほとんど所有していなかった零細農民、その他の庶民たちだった。映画『風と共に去りぬ』の一場面 そして、史上初の軍需生産が戦争の帰趨を決した戦争でもあった南北戦争において、当初より産業基盤を欠く南部で、女性を含む多くの労働者が戦争に貢献して働いた。それは、かつての日本にどこか重なりはしないだろうか。 今日、米国との戦争に敗れた結果として日本に民主政治がもたらされ、多くの改革が可能になったと認める人も、そのためには、都市無差別爆撃、原爆使用は必要であったと言われれば、素直に同意はしまい。真珠湾攻撃や緒戦の勝利、その後の日本軍の奮戦を今なお語り継ぐことには、心情の深いひだに刻まれたある種の日本人の意地があるように思う。複雑なジェファーソンの評価 かつて名門イェール大には、ジョン・カルフーンの名称を冠したカレッジが存在した。そのカルフーンとは、奴隷制擁護論者の先鋒として隠れもなかった人物である。2018年になって、それを改称したこと自体は適切でも、彼が、イェールの卒業生であり、2期にわたって合衆国副大統領であったという事実は変わらない。 そして、かかる「歴史の清算?」をどこまで徹底するのかについて、いずれ米国人も立ち止まり、議論が生じるのではないか。 3年前の17年8月には、私が思い出多い研究生活を、1年8カ月近く過ごした典型的な田舎の大学町、バージニア州シャーロッツビルが、一躍有名になる事件が起こった。市中心部の公園にあった南部連合軍総司令官、リー将軍の騎馬像撤去をめぐって、賛成反対両派が衝突し、死者まで出す惨事となったのである。 その騒動の音が聞こえていたであろう、そこから歩いてほんの数分のバージニア大構内には、創立者にして第3代大統領、トーマス・ジェファーソンの銅像が佇立していた。彼が、起草に深く関与したとされる「独立宣言」は、冒頭に「All men are created equal」(すべての人間は平等につくられた)と謳う。 その彼は、しかし生涯奴隷を手放さなかった南部の大農園主であった。所有していた奴隷は600人にも及んだという。後に駐仏大使に任じられたとき、妻と死別していた彼は、パリに赴任後、13か14歳であった黒人の少女奴隷、サリー・ヘミングスを呼び寄せる。 彼女の肖像の類は残っていない。肌の色は黒くなく、一見黒人には見えなかったという。実は、死別したジェファーソンの妻の異母姉妹に当たるとも言われ、であれば父親は白人であったことになる。 ジェファーソンの所有物であり、30歳年下のサリーとの関係が、いかに始まったか、それが合意の上であったのかは分からない。とにかく、愛人となったサリーとの間に子供をもうけていたことは、ほぼ確認された事実だ。 子供の子孫が、ジェファーソンとの血縁確認を求めて訴訟を起こし、裁判所命令で墓が開けられて、遺体のDNA鑑定が行なわれたからである。クレーンで重い墓石を動かし、石棺を釣り上げたのだ。 では、第3代大統領としての彼の彫像、肖像は、すべて公共の空間から撤去して博物館に収納すべきなのだろうか。彼の肖像が刷られた3ドル札(日本の2千円札並みに珍しいものだが)は、すべて回収溶解すべきなのか。ワシントンDCにあるトーマス・ジェファーソン像(ゲッティイメージズ) 今日彼を、偽善者と謗(そし)ることはたやすい。しかし、一方で、彼の著作、書簡は、民主政治理論上重要な位置を占めているし、政治家としても非凡の才を発揮したと、私は考えている。そもそも、独立宣言に署名した56人のうち40人、さらに第12代までの大統領のうち、ジョージ・ワシントンを含む10人が奴隷の所有者であったのだ。評価は総合的に 歴代大統領や各国首脳が詣でるアーリントン国立墓地の一角には、482柱の南部連合軍兵士と軍属が眠っていることは、米国人にも、あまり知られていない。彼らが個人として奴隷制に賛成していたかどうかはともかく、まさか奴隷解放のために戦ったとだけは言えないだろう。 そこで、彼らの墓をあばいて、どこか他の墓地に移設せよということになれば、さすがにどこまでやれば収まるのかという話になろうかと思う。先に挙げたイェール大では、そもそも大学名の由来するイライヒュー・イェール(Elihu Yale)が、東インド会社で奴隷貿易に関わっていたとも言われている。 ウィキペディアに、はっきりと「slave trader」(奴隷商人)と記してあるのは事実だ。とすれば、単に一カレッジどころか、大学の名前を変えろという話になってしまう。どこでどう線引きをするかを、冷静かつ真摯に議論しなければならない。 こうしたモニュメントの扱いを判断するにおいて、いくつかの考慮すべき点を挙げてみたい。まず、人物像、肖像画の場合、当然ながらその人物の経歴、何を語り、何を為したかが問われなければならない。 その場合、評価は多面的総合的であるべきだ。バージニア大構内のジェファーソン像は、何よりも同大学の創立者の一人としての彼を、記念顕彰することが目的であると認めてよい。彼が、私生活で何をしたかは、無関係とまでは言えぬにせよ、像を撤去する理由にはしにくいと思う。 だが、最近では撤去すべきとの声もあるようだ。また、大学構内の別の場所にある彼の座像が、人種差別主義者と強姦犯を表す「racist+rapist」(おそらくはヘミングスに対して)と落書きされたと伝えられる。今後のことは、分からない。 例えが適切かどうかは自信がないが、早稲田大構内にある大隈重信像を、「対華21カ条要求」問題当時の総理大臣であったからという理由で撤去せよという主張にどう対応すべきであろうか。 また、名門プリンストン大は、研究機関や学生寮の名称から、かつて総長を務め後に28代大統領となったウッドロウ・ウィルソンの名前を廃止したと発表した。彼が、人種差別に加担していたとの理由である。彼が、総長として、プリンストンへの黒人の入学を認めなかったことは事実であろう。此度の大学自身の決定は、尊重されなければならない。 しかし、個人がどのような人物であったかに加えて、その表現のされ方も問われるべきであろう。セオドア・ルーズベルトは、第26代大統領として、独占禁止政策を推進し、富の公正な分配への関心を示したし、野生動物・自然保護に一定の業績を残した。セオドア・ルーズベルト元大統領(ゲッティイメージズ) だが、その外交政策、白人優位の人種観に批判があったことも事実であり、評価は難しい。とはいえ、このたびニューヨーク博物館の正面から、彼の騎馬像の撤去が決定されたことには、納得できる。なぜなら、この像は、馬上のルーズベルトの両脇に、黒人と先住民の男性が徒歩で付き従っているものであり、ルーズベルト自身の評価とは別に、白人優位と植民地主義を連想させるからだ。的外れなピラミッド批判 一方、首都ワシントンにある奴隷解放記念碑には、微妙な点がある。確かに、第16代大統領、エイブラハム・リンカーンが、足元の半裸の黒人男性を見下ろしているように見える。いかにも尊大な奴隷解放者のごとくである。  しかし、この像は、元来解放された奴隷たちの募金で建立されたことを忘れてはならない。足元の元奴隷は、リンカーンに跪(ひざまず)いているのではなく、軛(くびき)を脱して自由な人間として、今まさに立ち上がろうとしている瞬間なのだと解釈することもできるのだ。こうした像をどうするかは、冷静な議論が必要であり、決して実力による破壊に委ねてはならない。 全米で、既に多くの像が実力で引き倒された。復元されることもあってよいし、博物館に収納する措置もとられよう。その場合には、事なかれと死蔵するのではなく、均衡のとれた解説を付して展示するべきだ。 加えてそのいくつかは、復元せずに、引き倒され破壊された状態で展示し、何が起こったかを解説する措置がとられるべきである。ある時期に顕彰して建立され、後に評価を異にする人々によって破壊されたという「歴史」を後世に伝えるためにだ。 先に記したが、実際イェール大のジョン・カルフーン・カレッジは改名された。しかし、建物の門に刻まれた、ジョン・カルフーンの文字と、扉の上の彼の正面レリーフは残された。1933~2018年まで、この人物の名前を冠していたという「事実」を、消去せずに残したのである。 さすがに、逸脱事例であろうとは思うものの、今年6月7日、英国ブリストル市で、奴隷商人の像を引き倒して海中に投棄した活動家たちは、その後、ギザのピラミッドの破壊をエジプト政府に要請したという。 奴隷によって建造された遺跡だからという理由らしい。あまり真面目に反応するのも躊躇(ためら)われるものの、二点指摘しておきたい。 第一に、奴隷制の糾弾は、普遍的な価値の追求であり、国境を超える内容であるとは認めるとしても、外国にある遺跡について口出しすることは、無条件には許されるべきではない。エジプト人には、「大きなお世話だ」と言う権利がある。 第二に、最近では、ピラミッドの建設は、奴隷ではなく賃金労働者によって担われたという説が有力なのであり、奴隷制批判は的を外している。 とはいえ、このような議論は、まずそれぞれの国の国民がすべきである。要するに、南部連合と奴隷制に関連する像、記念碑、名称に関する議論は、何よりもまず米国人がすべきだ。当然だが、米国の歴史は、基本的に米国人のものだからだ。米バージニア州知事が撤去を表明した南軍司令官像。土台部分に多数落書きされている=2020年6月、バージニア州リッチモンド(ゲッティ=共同) このことについて、外国人であるわれわれは、安直に口出しすべきではない。人種差別は悪だ、奴隷制は悪だという一般論を語ることと、ある特定の人物の彫像や、ましてや墓をどうするかなどについて語ることは、全く別のことであると、よくよく肝に銘じるべきであろう。

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    歴史学者はつらいよ、戦国ファン多きゆえに寄せては返す喜びと悲しみ

    渡邊大門(歴史学者) 新型コロナウイルスがいまだ終息しない。私は生涯学習講座の講師もしているが、受講者に高齢者の方が多いため、開講するのが難しい。会場は基本、夏は冷房、冬は暖房で、窓は締め切りのため、何かあったら大変だ。当面、歴史講座の開講は絶望に近いだろう。 ところで、歴史講座の講師を務めていると面白い。面白いといえば語弊があるが、いつも珍妙な出来事があるので、困惑するというのが本音だろうか。 講座の多くは、終了後、講師に対する質問の時間が設けられている。質問がないときもあるが、張り切って質問される受講者も少なくない。その中で多いのは、「司馬遼太郎先生の説とは違うようですが…」「先日見たテレビ番組とは違うようですが…」という質問だ。こういう質問に答えるのは、なかなか難しい。 司馬遼太郎は歴史小説家である。小説というのは、フィクション(創作)である。司馬作品はおおむね史実に沿って書かれているが、歴史研究ではない。私も好きで若い頃に読んでいたが、自分が歴史研究をするようになると、司馬作品の間違いに気づく。いや、間違いというのは変である。創作物なのだから。 戦国時代を扱った司馬作品を読むと、根拠はおおむね後世に成った二次史料(軍記物語、家譜など)である。司馬は二次史料のユニークな逸話を素材としつつ、登場する人物の豊かな人間像を描いた。それは天才的で、ほかの小説家も真似ができないだろう。つまり、司馬作品は歴史小説なのだから、歴史研究を忠実に反映させていないのは当然なのだ。 司馬作品に絡んだ質問が出た場合は、上記のように歴史小説と歴史研究の違いについて説明し、現在の研究で正しいとされる根拠や説などを説明する。こうすると、たいていの人にはご納得いただけるようだ(中には食い下がってくる人もいるが)。 念のために申し添えると、歴史小説がダメだということではない。そもそも目的(創作と研究)が違うものなのだから、比較して優劣を論じても意味がないのだ。文化勲章を受賞し、記者会見する司馬遼太郎氏=1993年10月、京都市下京区(山下香撮影) 問題なのは、テレビの方だ。こちらは創作なのか、研究を反映させているのか分からない場合もあり、ときに大学教授が出演するから面倒である。 その前に余談になるが、筆者とテレビとの関わりついて、少しだけ述べておこう。実は、私もテレビに協力することがある。以前、協力した番組では「中国大返し」を取り扱った。 「中国大返し」とは、天正10(1582)年6月の本能寺の変後、羽柴秀吉が備中高松城から山崎まで信じがたいスピードで帰還を果たしたことである。その際、スタッフの方がよく勉強されていた。諸説を取り上げて比較検討し、良い番組になったと思う。 しかし、それがすべてではない。嫌な思い、不愉快な思いをしたことも少なくない。非常識なテレビ制作も たとえば、あるとき番組の制作会社からメールが送られてきた。企画書が添付されてあった。メールの本文を読むと、「歴史のクイズを50問作ってください。ただ、当番組では予算がないので、謝金は払えません」というものだった。もちろん、メールを即削除。でも、応募する人が成り立つのだろう。 ほかにも番組の制作会社からのメールで、質問事項を10個ほど並べてきて、「答えてください」というものもある。私が返信メールで「謝金は出ますか?」と尋ねると、返事は帰ってこない。予算を準備していないのだろう。 番組の制作会社が電話をかけてきて「ちょっと教えてほしいことが…」とか、「今は予算がないのですが、相談だけでも…」というのも珍しくない。一度、付き合ったら最後、何度でも電話をかけてきて、質問責めにあうのですべて無視している。 また、ある番組の制作会社からは、まったくの根拠がないことを言ってほしいという依頼もあった。それは食の番組で「戦国武将の〇〇は、××が大好物だった」ことについて、「渡邊先生のお墨付きがほしい(テレビで発言してほしい)」と言われた(しかも謝金はない)。もちろん断った。 おそらく番組の制作会社の中には、タダで答えてくれる人を探して、あっちこっちにメールを送っているのだろう。酷い話である。 「それくらいタダで教えたら」と、思うかもしれないが、それは違う。私の場合は会社を設けており、歴史に関することで収入を得ている。しかも、質問にきちんと答えようとするならば、念のために調べなくてはいけない。 そういう労力なり時間なりが必要なことを理解していないのだから、実に非常識である(別に、法外な額を要求しているわけではない)。ただ、お付き合いのあるテレビ局や番組の制作会社はきちんと謝金を支払ってくれるので、ご安心を。 つまり、すべてではないが、テレビ番組の中には予算を組んで、しかるべき監修者を立てず、可能であればタダで情報を得ようとするケースがあるように思える。仮に監修者を立てようとして、まっとうな研究をしている大学教授に依頼しても、断られることがあるだろう(現にテレビには絶対に出ないという大学教授を知っている)。したがって、どういう調べ方をしているのか疑問である。 私はテレビの歴史番組を意識して見ていないが、食事中などにテレビをつけると、ふと目に留まることがある。そして、卒倒することも多い。 ある歴史番組では、「合戦が起こると、誰が戦功(合戦における貢献度合い)を認定するのか?」というクイズがあった。出演者が首を捻りながら考えていたが、解答が浮かばない。すると、歴史研究家なる方が「軍(いくさ)目付です」と答えた。軍目付が合戦の様子を見て、誰が戦功を挙げたのか確認しているというのだ。これには驚倒し、思わず箸を落とした。※写真はイメージ(ゲッティイメージズ) 常識で考えてほしい。数千、数万の軍勢が入り乱れる中、どうやって軍目付が自軍の将兵の活躍を一人ひとり確認できるのか! 不可能である。そもそも軍目付は、合戦の状況を監察する役割をしており、将兵の個別の戦功を認定するものではない。歴史バラエティー番組は要注意 一般的にいうと、各将兵は敵の首(あるいは鼻など)を獲り、首実検によって戦功を認定された。首が大将格の首ならば、恩賞は多くなる。慶長19、20(1614、15)年の大坂の陣になると、将兵は複数で行動するようになり、互いに戦功をチェックして、戦功を挙げた証人になってもらうことがあった。 数え上げたらキリがないが、こういう酷い例は枚挙に暇がない。そもそも出演する歴史研究家には、前回指摘したトンデモ歴史家が出演することがあるので、大いに注意が必要である。「テレビで言っているのだから大丈夫。正しいはず」というわけにはいかない。 「大学教授が言っているから大丈夫!」という人がいるかもしれないが、それは正しくない。私もたまたま見たテレビで、卒倒するような説をたびたび目にした。自分の専門外にもかかわらず、積極的に間違いを発信するので注意が必要である。 なぜこういうことになるのかと言えば、歴史を取り上げる際はバラエティー番組になっていることが多いからだ。むろん研究会や学会ではないので、「常に真剣勝負でやれ!」と言わない。結局、「お遊び」の要素が多くなり、しかるべき歴史研究者が適切な解説をしないので、おかしな「トンデモ説」が独り歩きするのである。 歴史がバラエティー番組になってしまうと、まず期待しない方がいい。中には意図的なのか、学界では見捨てられたような酷いトンデモ説を取り上げて、あたかも正しいかのように放送することも珍しくない。それを見た視聴者が講演会で「この前見たテレビ番組では…」と質問するのだから始末に負えないのである。 では、「テレビはともかくとして、行政(教育委員会や博物館の職員)の言うことなら大丈夫なはず!」と思うかもしれない。しかし、こちらも実に微妙なところがあって、決してそうとは言えないのである。 自治体では、コロナ以前から観光客を呼び込むことに力を入れている。そこで、注目されるのは歴史である。歴史を目玉にして、観光客を呼び込もうというのだ。たとえば、世界文化遺産は代表的なものであるし、NHKの大河ドラマも1年間限定ながら、非常に効果がある。 とはいえ、みなさんもご存じの通り、実際はそうはいかない。世界文化遺産も長く安定的に人気スポットになるところがあるが、ブームは認定直後だけで、あとは訪れる人の数が急減することも多い。「一度、行けば十分」ということだろう。世界文化遺産になることが、訪れる人の安定供給を保証するわけではないようだ。 おまけに新しい史料が見つかった際、教育委員会などが新聞やテレビにニュースリリースをするが、紛らわしい発表をすることが少なくない。遺跡が見つかったら「邪馬台国発見か!」、後世に成った二次史料に書かれたことなのに「新事実が発見される!」などは一例である。注目を集めるため、誤解を受ける表現がなされているのだ。 私も自治体などが主催する講演会などで講師を務めることがあるが、悲劇的な例を幾度が見たことがある。※写真はイメージ(ゲッティイメージズ) まずは講師の選定である。せっかく歴史の話を聞くのならば、しかるべき専門家に依頼すべきと思うが、すべてがそうではない。集客を見込んで、「テレビでおなじみの…」といったトンデモ歴史家に依頼することはままある。 自治体としては人がたくさんくればよいので、世に知られていない専門家を呼ぶよりも、テレビでおなじみのトンデモ歴史家を呼んだ方が効果があると考えたのだろう。実際に人はたくさん来る。時には自治体も また、稀にあるのが主催者から講師に対する要望である。むろん、テーマについては要望があってしかるべきだが、具体的な中身に踏み込まれると問題が多い。 たとえば、「戦国武将の〇〇とその妻の××は深い愛情で結ばれていた」ことを言ってほしいという要望があった。これには困惑した。一般論としては離婚してないのだから仲は悪くなかったのだろうが、深い愛情で結ばれていたことを示す一次史料はない。というか、そんなことをわざわざ言う必要はないように思えた。どうもそれが「売り」なようだったので、積極的なコメントがほしかったのだろう。 別の講演でも困ったことがあった。私は自著の中で、ある戦国武将の有名な逸話(美談が多い)は後世に成った二次史料に拠るもので、疑わしいと書いたことがあった。拙著を読んだ自治体の職員から連絡があり、「ぜひ講演を」という話になった。むろん応じたのであるが、そこで不愉快なことが起きた。 講演の直前、自治体の担当者から連絡があり、「本で書いているような手厳しいことは言わないでほしい」と要請された。逆に、「通説による美談でお話しいただけないか」と懇請された。その自治体では会議の中で「これから観光客を呼ぼうと必死なのに、厳しいことを書く人(渡邊)に講演をさせると水を差す」という意見が出たようだった。 それならば、トンデモ説を唱える人はいくらでもいるのだから、そういう人にお願いしていただき、私は辞退すると言うと「それでは困る」という。もうすべて準備が整ったので、今さら変更できないのだ。私としては、本に書いていることと逆のことを言うわけにいかず、大いに困ったが、結局は逸話の真偽を問うテーマを避けることにした。 つまり、自治体にはさまざまな事情があるので、こちらもくそマジメに講演するのではなく、大人の対応を迫られるわけである。 以上の通り、歴史に関する小説、テレビ、講演のことを考えてみると、歴史研究の未来は暗いと言わざるを得ない。 その背景には、明らかに歴史教育の問題がある。荒っぽく言えば、歴史の勉強は有名な事件と人物の暗記だった。何年に何が起こったのか、あるいは固有名詞をひたすらおぼえる無味乾燥なものだった。面白味に欠けるのである。 しかし、そう感じている人が魅了されてしまうのがトンデモ歴史本である。トンデモ歴史本は、あたかも合理的に歴史的な事件の真相を説明する。ロマンもある。専門家の説明は慎重で、奥歯にものが挟まったようなもどかしさがあるが、トンデモ歴史本は明解である。これに引っかかってしまうのだ。 念のために申し添えておくと、先述の通り歴史小説が悪いわけではない。トンデモ歴史本だって、それが「お遊び」であることを理解して読むのならば、娯楽の一種として認めてもいいだろう。それは、テレビの歴史バラエティー番組だって同じである。 現状では歴史小説のように「小説」つまり「フィクション」と銘打っているものはともかくとして、それが「お遊び」なのか「研究」なのか、境界線が不明瞭である。特に、自治体主催の講演会やテレビ番組は、「嘘を言わないはず」と思っている人が多いに違いない。もとより一般の人には、真偽を判定することが難しいのだ。※写真はイメージ(ゲッティイメージズ) 嘘を信じてトンデモ歴史本を買い漁っている人や、間違えた情報を垂れ流しにする講演を聞いたり、歴史番組を見ている人のことを考えると悲しくなる。あまりに悲惨すぎるので、そこではた少しは考えてほしい問題である。

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    「香港人」は漢民族にあらず、蘇生するには真の独立しかない

    和国などが誕生した。香港警察がフェイスブックに掲載した「香港独立」と書かれた旗(共同) 以上のような歴史から、イギリス人と満洲人が自分たちの意思を無視して裏取引を繰り返して、勝手に「租借」したり、「返還」されたりした、と香港人は理解している。だから、香港の識者たちは「香港民族」という概念を醸成し、都市国家としての独立を夢見ているのである。 一度は殺害された香港は必ずや、独立という形で復活するに違いない。

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    香港国安法、今こそ日本は中国のお家芸「内政干渉」で毅然と非難せよ

    するとは考えがたい。 「中国」とはいかなる存在であるかを理解せずに、歩むべき道は見えない。それには、歴史的・思想的な考察が不可欠だ。 香港が現在の状態になったのは、言わずもがな1840年のアヘン戦争による植民地化が原因である。これは問答無用の侵略行為であり、麻薬を利用した手法は弁護の余地がないほど悪辣だ。したがって、香港の統治権がいまだ中共政府と分離しているということ自体、中国人の民族感情として、国恥であるとするのも何ら不思議ではない。 ことに1997年の香港返還時において、英・チャールズ皇太子は香港統治が民主主義を香港人にもたらしたと演説し、パッテン総督はアヘン戦争について何らの言及もしなかった。香港返還の記念式典に出席した中国の江沢民国家主席(左)と英国のチャールズ皇太子=1997年7月 例えば、沖縄返還が、米国との一国二制度の下で実現したとして、米国大統領が、大東亜戦争で沖縄は日本帝国主義から解放され民主主義がもたらされた、などと演説したら、われわれはどのように感じるか。本質は覇権主義国家 もちろん戦後民主主義の観点からすれば納得するのかもしれない。しかし、大東亜戦争の大義を謳う「保守派」が納得するとすれば、それは大いなる矛盾である。 そもそも、中国の民族自決を楯に、戦前の日本が保有する特殊権益をさんざん非難した米国が、台湾(中華民国)はともかく、香港に肩入れするのは盗人猛々しいとも言える。 一国二制度などという制度そのものが、西欧列強による植民地化の恥辱を象徴するものである。「中国」がいかなる体制であれ、これを一刻も早く消滅させたいと考えることは、なんら不正義ではない。 しかし、だからといって「中国」を弁護するのではない。振り返れば、漢民族王朝が「夷狄」との約束を一方的に破棄することはお家芸であった。例えば、北宋がツングース系の遼を攻める際、将来の領土割譲を約し、女真族の金と同盟した。 だが、遼の滅亡後、北宋はこれをほごにした。近代中国も、中華民国政府は「革命外交」と称し、欧米列強との不平等条約をことごとく一方的に破棄。奇襲的な武力行動に訴えてきた。 これは、明治以降、日本政府が列強との不平等条約を、「不当に締結させられた」との認識を有しながらも基本的には忍従し、国際協調を遵守した上で、改正の努力を重ねてきたことと対照的である。 戦後も、「中国」のこのようなスタンスは変わらない。日本と中共政府は1972年の日中共同声明で和解した。それにもかかわらず、事あるたびに中共政府は「歴史認識問題」を蒸し返し、中国式の歴史観を強要する。「軍国主義」という合言葉で反論を封じ、政治的・経済的・文化的要求を繰り返す。 中共政府の手口は、歴史的事実の評価だけでなく、それを通じた日本人の人生観や国家観に対する歴然たる干渉だろう。尖閣諸島への度重なる侵犯や、「北海道一千万人計画」など、政治・経済・軍事にわたる侵犯工作は依然、進行中である。尖閣諸島周辺海域で入り乱れる中国公船「海警」(中央)と日本の巡視船=2019年5月(仲間均市議提供) そもそも、古代の経典『春秋公羊伝』では、中国の支配領域は全て中国文化に同化されるべきだという思想「大一統」が示された。そして、それは習近平体制が唱える『中国夢』にまでつながる覇権主義の温床となっている。明確な国家意思を持て 1973年8月、十全大会(中国共産党第十回全国代表大会)で周恩来は、「米ソ両超大国の覇権主義に反対しなければならない」と報告した。また、75年1月の新憲法にも「超大国の覇権主義に反対しなければならない」とある。 このように強調する当の「中国」自身が、歴史的・思想的に覇権主義的傾向を有しているではないか。チベットやウイグルで進む民族浄化じみた振る舞いも、まさにそうした傾向に基づく行動と言えよう。これもまた、盗人猛々しいと評するほかない。 このような「中国」が、中英共同声明(1984年)について、期限を待たず、2014年に一方的に破棄したことはもちろん、今回の国安法制定も、ある意味で当然である。 とはいえ、「中国」を邪悪な国だと二元論的に論じるのも軽率な態度だろう。なぜなら、「中国」もまた、フランスのシャルル・ド・ゴールが批判したように、英米と同様の「大国のエゴイスム」で動いているにすぎないからだ。日本は、東西を「エゴイスム」に囲まれているのだ。 このような認識の下で、日本は、特に「保守派」は、今回の香港問題にどう対処すべきか。 基本的に、日本は戦前の「大東亜各国をして各々その所を得しむ」(東条英機首相施政方針演説)から始まり、戦後もアジア諸国の経済的自立と協調とを支援してきた。このような日本が「中国」と相容れないことは明らかだ。 それゆえ、香港問題を奇貨として積極的に非難を表明するべきである。ただ、それは日本政府が現在唱えるような人権上の問題としての指摘ではない。非難の目的は、日本に対する内政干渉や権益侵害を即時に停止しなければ、日本もまた中共政府への干渉に吝(やぶさ)かでない態度を示すことだ。中国の習近平国家主席を映す北京市内の大型ビジョン=2020年5月(共同) 重要なのは、歴史的・思想的に本質が異なる大国に対し、日本はどうするのか、という明確な国家意思なのだ。 つまり、単純に中共政府を悪玉視するような議論は、ピント外れ極まりない。そのような視点では、かつて中国近代化の可能性に淡い夢を抱いた結果、世界からハシゴを外されて痛い目にあった歴史を繰り返すばかりである。

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    信長ワールドを世に知らしめた安土城と「テーマパーク寺院」

    橋場日月(歴史研究家、歴史作家) 前回で安土城天主の最上階までについての説明をざっと終えたわけだが、ここで最上階の装飾について少し補足しておこう。 まず、御座敷に描かれた絵の筆頭テーマである「三皇五帝」についてだが、これは古代中国の神話に登場する聖なる王たちで、特に三皇の伏羲(ふくぎ)、女媧(じょか)、神農(しんのう)がキモとなる。この伝説トリオのうち、伏羲と女媧は兄妹だったが、大洪水で人間が滅亡したとき、2人だけ大きな瓢箪(ひょうたん)の中に逃れたため助かったという。これが現存人類の始祖とされているのだが、面白いのは彼らにまつわるエピソードだ。 この両名のうち、伏羲については魚鳥を獲る網を発明したとされ、魚釣りも彼が始めたということになっている。海や川の恵みを司る存在だ。 そして女媧。こちらは、火の神と水の神が喧嘩(けんか)して、天を支える不周山が崩れてしまい、天の四本の柱がずれて地が割れてしまったとき、大亀の足を四柱の代わりに使い、黒龍の体を用いて大地を補修したという。 こうして見てみると、伏羲は水を制し、女媧は古代中国における瑞兆の動物「四霊」の鳳、麒麟、亀、龍のうち、亀と龍を支配している。それだけではない。2人の姿は、人間の上半身(というより、頭と胸から伸びる腕だけが人間)に蛇の下半身となっている。 そして残る神農だが、こちらは農業、医薬の神として日本でも大切に信仰されている。江戸時代から続く大阪の薬種商の町、道修町(どしょうまち)に鎮まる少彦名(すくなひこな)神社の祭神が、この神様であるのは有名だ。 ところがこの神農様、頭に2本の角を持つ姿で描かれる牛頭人身の神なのだ。牛頭人身。皆さんはここで何かを連想しないだろうか。そう、牛頭天王(ごずてんのう)だ。マスクが取り付けられたJR岐阜駅北口駅前広場の織田信長公像=2020年4月 牛頭天王といえば、信長にもゆかりの深い津島牛頭天王社(現・津島神社)と、その末社である信長が幼時から少年時代に通った那古野城内の亀尾天王社(現・那古野神社)については同連載の第3、4回で触れた。この牛頭天王が神農の正体だという説がある。平安時代末期に成立した関白、藤原忠実の筆録集『中外抄(ちゅうがいしょう)』がその最初だ。 そして鎌倉時代初期、天台密教(台密)に対して「東密」と呼ばれた真言密教の図像を抄録した『覚禅鈔(かくぜんしょう)』でも言及されている。牛頭の神農が牛頭天王と同一視されるのは自然な流れだったのだろうが、以前にも触れたように牛頭天王は素戔嗚尊(スサノオノミコト)の本地となったとされている。本地とは、外来の仏教神が日本の神の姿をとって降臨することだ。もう一つ張られた「結界」 宗教的な正否は別として、ここでポイントとなるのは信長の当時、「神農=牛頭天王=素戔嗚尊」という認識があったということだ。 八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治して、その体内から草薙剣(くさなぎのつるぎ)を得て、オロチの力をわが物としたスサノオ。 信長が龍・大蛇に傾倒する入り口となった神のもう一つの姿という神農が、三皇のトリを飾る。水を支配し、龍と大蛇に深い関わりを持つこの三皇が天主最上階の座敷、信長の居所を飾る世界。それは、東洋画古来の画題という以上に、信長の精神世界を表したものだったのだ。 それを守護するのが四方の内柱に描かれた上り龍、下り龍というわけなのだが、実はさらにもう一つ、信長の「結界」を守るものがあった。座敷の絵画の紹介が終わった後、『信長公記』はこう続ける。ひうち・ほうちゃく数十二つらせられ 「ほうちゃく」は「宝鐸」と書く。寺のお堂の軒下を見ると、よく四隅に吊ってある装飾用の鈴(風鈴)で、「風鐸(ふうたく)」とも呼ぶ。 信長がこれとセットで座敷の周囲に吊り下げた「ひうち」は、「火打鉄(ひうちがね)」だろう。火打鉄は、火打石に打ち付けて火花を発し種火をつけるための鉄鋼片だ。安土城跡の摠見寺三重塔=滋賀県近江八幡市(関厚夫撮影) 宝鐸は鈴(風鈴)と説明したが、風鈴である以上、内部には紐でぶら下がった「舌(ぜつ)」というパーツがある。それが風に揺られて外側の本体に当たり、音を発するわけだ。 この舌が、火打鉄と誤認されたケースが考古学の世界ではある。双方の形状が似ていたためだが、『信長公記』の場合はわざわざ宝鐸と舌を別々にカウントする必要もなく、また舌と火打鉄を混同することも考えられない。 まさに火打鉄そのものが、宝鐸とは別に吊り下げられていたのだろう。座敷の天井に宝鐸6個、火打鉄6個。安土城に示した信長の「宣言」 問題は、この火打鉄だ。火打鉄といえば、第1回で紹介した若き日の信長の姿がすぐに思い起こされる。ひうち袋、色々余多(あまた)付けさせられ(火打ち石の入った袋など色々身につけ)御腰のまはりには猿つかひの様に火燧袋・ひようたん七つ・八つ付けさせられ(腰のまわりに猿使いの様に火打ち石袋・7~8個の瓢箪を付けていた) という、燧袋(ひうちぶくろ)を腰から提げたスタイルだ。これが魔除けのアイテムだったことは第2回で説明した通りだ。 この燧袋の中には火打ち石だけでなく、火打鉄もセットで入っていたのだろう。天主最上階の座敷の天井から提げられた火打鉄も、魔除けの役割を与えられたのは間違いない。 天文22(1553)年から26年。信長は己が拠って立って来たものをこの天下布武の城に詰め込み、可視化したのだ。 足元を琵琶湖の内湖である大中湖(だいなかのこ。戦後の干拓事業により、現在は陸地となっている)が洗い、水上交通の安全を守り長寿をもたらす蛇石を運び上げ、山麓の石部神社、尾根続きの繖山(きぬがさやま)とともに龍の結界を張り、天主には龍と蛇、それに魔除けを仕込む。 龍と蛇、水のパワーを最大限に取り込んで、小牧山城を大きくしのぐ空前絶後の「磐座(いわくら)の城」は、信長自身が天主に入り、住まいとすることで名実ともに完成した。言わば、信長自身が彼の世界の最後のパーツだったのだ。 そしてこの城はまた、近い将来の日本統一を視野に入れた信長の、来るべき政権の在り方を表すものでもあった。本丸には天皇の清涼殿と将軍の御殿をしつらえ、公武の双方を天主の足元に見下ろす。それは、信長自身が天皇も将軍も超越した存在になろうという高らかな宣言だ。 その本丸から南西に延びる尾根上には、仏教寺院が建立された。摠見寺(そうけんじ)である。安土城跡にある摠見寺の二王門。楼門と門内の木造金剛二力士立像は重要文化財に指定されている(筆者撮影) 摠見寺の建築物は、近江各地から集められた「押収物」であったらしい。現存する三重塔は甲賀・石部の長寿寺から移築され、同じく二王門(仁王門)も甲賀の柏木神社から移されたものだ。「テーマパーク寺院」 前者については「天正年間、信長の甲賀攻めで寺水口の柏木神社の旧楼門が接収されて摠見寺に移築された」という社伝が残っている。甲賀衆が信長に敵対したのは、元亀元(1570)年5月19日の杉谷善住坊(ぜんじゅうぼう)による千草越での狙撃事件(失敗)、信長は出馬せず、柴田勝家と佐久間信盛が甲賀衆も加わった六角勢を撃破した同6月4日の野洲河原の戦いが最後であった。 それ以降は信長に協力しているから、天正年間に攻められて奪われたとするのは難しい。長寿寺と対を成していた常楽寺の三重塔は現在国宝指定されているくらいだから、長寿寺のそれも出来の良さを気に入った信長が普通に接収を申し渡したのだろう。 他の建造物は嘉永7(1854)年に火災で失われて石段と削平地が残るばかりだが、往時はこうしてあちらこちらから集められた名建築の寄せ集めだったのだろう。言うならば、近江の「ランドマーク」を一堂に集めた「テーマパーク」だ。 このテーマパーク寺院については後にその重要な役割が明らかになるのだが、ここでは安土城内にリアルな仏教施設が作られたということだけに注目しておこう。それは、天主5層目の八角構造の座敷の中に描かれた仏教をテーマとした世界が、6層目の三皇以下古代中国の神話世界の下に位置しているのに呼応する。 天主から見下ろされるという点では、清涼殿や将軍館と同じく仏教も信長の足元にひれ伏すべき存在と宣言されたことになる。逆に言えば、天主は中華世界を至高の存在と既定して、公家、武家、出家(仏教)から超越した信長自身の象徴でもあった。 さらに驚くべきことには、信長はこの天主内外の「信長ワールド」を安土山の外にも広げようとしていたらしい。『信長公記』は天主の描写を終えた後「抑(そもそ)も当城は」から始めて周囲の情景を描写している。その一節を抜き出してみよう。西より北は、湖水漫々として、舟の出入りみち/\て、遠浦帰帆(えんぽきはん)・漁村夕照 「遠浦帰帆」「漁村夕照」は既に出た天主1階の「遠寺晩鐘(えんじばんしょう)」と同じく「瀟湘(しょうしょう)八景」の画題だ。ということは、琵琶湖を湘江が流れ込む中国の洞庭湖(どうていこ)に見立て、水の神・湘君を降臨させようとの意図が隠されているのだろう。ここでも、天主内外の相似が隠されている。安土山から西の琵琶湖方面を望む。信長が居を構えた当時は足元に大中湖の水が満ち、山の南に入り江が回り込んでいた(筆者撮影) ちょっと待った、湘君を呼び寄せるのならば君山に相当する島が必要ではないか。「プリンセスの島」を意味する君山こそが、女神・湘君の拠る場所だからである。 そう思って『信長公記』を見ると、文章は「湖の中に竹生島(ちくぶじま)とて名高き嶋あり」と続いている。そう、安土山の真北の湖上に浮かぶ竹生島。水の神でもある弁才天を祀るこの島こそが、琵琶湖における君山だったのだ。

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    読んではいけない、トンデモ戦国歴史本はこうしてつくられる

    渡邊大門(歴史学者) 新型コロナウイルス感染拡大に伴う緊急事態宣言だけでなく、都道府県の移動自粛要請も解除され、日常が戻りつつある。だが、第2波の恐れもあるだけに、イベントなどの中止が相次ぎ、自宅にいることも多いだろう。せっかくなので、読者の皆さんには、ぜひこの機会に歴史の本をひも解いていただきたいと思う。 私は日本史(主に中世史)の本を書いたり、講演したりすることで生活の糧を得ているが、受講生(主にご老人)と接していつも気になることがある。 講演の終了後、ときどき聴講したご老人が声をかけてくださる。しかし、その手にはしっかりトンデモ戦国歴史本(以下「トンデモ本」と省略)が手に握られており、「先生!この本を読まれましたか!目から鱗です!勉強になりました!」と同意を求めてくる。私は顔面を硬直させて、「へえー!そうですか!」と言葉を濁しつつ、会場をあとにする。こういうことが、いったい何回あっただろうか…。 そもそもトンデモ本とは、いったいどんな本なのだろうか。私なりに定義すると、次のようになろう。①歴史研究を本格的にしたことがない人が書いた、戦国時代に関するデタラメな本②先行研究や史料に基づき実証的に書いていない、戦国時代に関するデタラメな本③根拠もないのに意図的におもしろおかしく書いた、戦国時代に関するデタラメな本 ただし、これでは説明が荒っぽいので、もう少し補足が必要だろう。順に説明することにしよう。 ①については、大学や大学院で歴史を勉強することが最もオーソドックスだが、なにも限定する必要はないだろう。大学や大学院で歴史を学ばずとも、独学あるいは私淑する歴史家から指導を受け、優れた研究業績を残した人は多い。したがって、学歴で判断するのではなく、正しい方法で歴史研究を行った経験があるかないかが問題となる。 ②は①と関連するが、歴史研究の方法を取得しているかが問題である。歴史研究の手法としては、少なくとも実証主義が求められる。実証主義では先行研究を整理してプライオリティーを確認し、自分が証明したいことを史料に拠って裏付ける。むろん、史料ならば何でもいいというわけではなく、用いる史料の批判を十分に行い、その史料が証拠としての価値を持つのか確認することが必要だ。※写真はイメージ(ゲッティイメージズ) つまり、歴史研究とは学歴を別として、少なくとも正しい研究方法を身に付けていることが指標となる。とはいえ、歴史研究は人間のすることなので、さまざまなミスが生じるのは仕方がない。一流と言われる歴史家でも、史料の誤読やケアレスミスなどをしてしまう。そういうミスは、トンデモ本ではないことを付記しておきたい。代表例は「本能寺の変」 一方で、「大学の先生が書いた本だから大丈夫だろう」というのは、早計に過ぎる。一部の大学の先生は、先行研究の確認や史料に拠って裏付ける作業を放擲(ほうてき)し、実証主義と決別した方もいる。当然、書かれた本の中身は、まったく信用に値しないが、「大学の先生が書いた本だから」という理由だけで、広く読まれているトンデモ本もめずらしくない。 ③は①と②と深く関係しており、正しい歴史研究の方法を身に付けていない人が、先行研究も史料もろくに確認をせず、意図的にデタラメなことを書いた本である。もはや小説なのか、なんなのか分からない。③はかなり極端な例で、実際にはさまざまなパターンがあるので、追々紹介していくことにしよう。 そもそも歴史研究の現場では、泉が湧くように「あっ!」と驚くような新説が次々と発見されるわけではない。また、新しい史料が発見されることで、「あっ!」と驚くような事実が判明することは少ない。これまでの通説がひっくり返ることなどは、そう多くはないといえる。 もちろん、これまでの研究を前進させることはあるが、それは少し前に進んだ程度にすぎないことが多い。せっかく新説や新史料が公表されても、史料の解釈や位置付けをめぐって論争になったりして、なかなか確定しないこともめずらしくないのである。そういうプロセスを経て、新説は定説として定着する。 歴史研究のトレーニングを積んだことのない人が、「新説だ!」と言って次々と目新しい説を連発できるはずがない。そもそも学界で精査されたわけではないのだ。常識で考えれば分かるはずである。 ついでに申し上げると、トンデモ戦国研究家の中には「歴史家は根拠となる史料がないと口を閉ざすが、私は史料がなくても極限まで考え抜いて…」などと発言する向きもあるが、実におかしな話である。簡単に言えば、裏付けとなる証拠の史料がないのに、なぜ史実を確定できるのかという話である。 警察官が犯人を逮捕する場合、「動かぬ証拠」が必要だろう。たとえば、スーパーで万引き犯を捕まえるときは、犯人が盗品を持っていたり、防犯カメラに犯行の模様が映っていたり、目撃者が複数いるなど、さまざまな証拠が必要なはずだ。証拠もないのにいきなりある人を捕まえて、「お前は目つきが悪いから、きっと犯人だ!」などと決めつけることなどあろうはずがない。 証拠のない説の代表としては、「本能寺の変」の黒幕が南欧勢力だったという説がある。それは、ポルトガルがイエズス会を窓口にして、織田信長に武器を供給していたが、やがてコントロールが効かなくなったので、明智光秀に命じて殺させたという説である。しかし、南欧黒幕説を裏付ける史料は皆無である。現在の本能寺。信長時代とは場所が異なる では、なぜ史料がないのに、南欧黒幕説を提起できるのか。この説を提唱した方は、「関係する史料は機密情報で、秘中の秘だった。だから、現存していない」という趣旨のことを述べている。これでは、まったく理由にならず、ご都合主義だと言われても仕方がないだろう。二次資料では意味がない あるいは、織田信長がキリスト教を保護したのは、南蛮貿易で利益を上げていたからだという説がある。当該分野の専門家に話をうかがうと、「聞いたことがない」という。私も聞いたことがない。実は、提唱者も裏付ける史料がないことを認めていて、理由は「大友宗麟がそうだったから」だという。困った話である。 たとえば、ある高校の野球部の部員の何人かがタバコを吸って、捕まったとしよう。しかし、野球部の部員全員がタバコを吸っていたとは言えない。「何人かの部員がタバコを吸っていたのだから、部員全員がタバコを吸っていたはず」とはならないはずだ。きちんと調査をして、喫煙の有無を確定する必要があるのは言うまでもない。 このようにトンデモ戦国史研究家は、何の根拠もないのに思い込みと妄想だけで新説を提唱することは決してめずらしくないから、注意が必要である。 ここまで述べたように、根拠となる史料もないのに「新説だ!」と大騒ぎするのは、デタラメとしか言いようがない。しかし、ときにトンデモ戦国史研究家は史料を提示することがある。それが二次史料である。では、二次史料とは何なのか? 史料には大別すると、一次史料と二次史料がある。一次史料は、同時代に発給された書状などを意味する。たとえば、博物館に織田信長の朱印が押された手紙が展示されることがあるが、具体的にはそういうものを指す。現代で言えば、市長などが公印を押した文書などが該当するだろう。 一方の二次史料は、後世になって作成された軍記物語、家譜などを指す。織田信長の伝記史料の『信長公記』のような良質なものもあるが、そうでないものの方が多い。家譜などは家の顕彰が目的で作成されるので、よいことしか書かない。※写真はイメージ(ゲッティイメージズ) ほかにも、根拠がない単なる武将の逸話集もある。幕末に作成された『名将言行録』は、小説や映画などの格好のネタ集であるが、ほぼ根拠がない逸話にすぎない。一般的に二次史料は、信頼度が落ちるのだ。 結局、史料と一口に行ってもさまざまで、信頼度の低い二次史料を使ったところで意味がない。多くのトンデモ本は、何の疑いもなく二次史料を用いていることが多いが、普通の人はそこまで分からないのが実情だろう。 加えて言うと、二次史料の史料批判は難しい。とりあえず「名家に伝わるから」「成立年が早いから」なという人もいるが、その史料が良質であることを必ずしも意味しない。そもそも二次史料には編纂の目的があり、先祖を顕彰しがちである。成立年が早くても、デタラメを書いている史料はいくらでもある。名家に伝わろうが、成立年が早かろうが、ダメな二次史料はダメである。巧妙なトリック なぜ、二次史料を使いたがるのか。これはトンデモ本を書く人だけでなく、そこそこの研究業績を残した歴史家でも使いがちである。 小瀬甫庵が書いた『信長記』という織田信長の一代記がある。『信長記』は良質と評価される太田牛一の『信長公記』を下敷きにしているが、内容は脚色やデタラメな記事も少なからずあり、似ても似つかぬ愚劣な編纂物である。普通は歴史研究で使わない。 ところが、自説が有利になるなら、話は別である。そこそこの歴史家でも「この史料は質が低いと評価されているが、この部分だけは真実を書いているのはないか」「誠に興味深い記事であり、捨てるには忍び難いところがある」などと安易に認めてしまう。なぜそうなってしまうのか、私にはさっぱり理解できない。 仮に、一次史料を読むにしても、これは敷居が高い。戦国時代の書状などは漢文で書かれており、慣れないとかなり難解で文意を取りづらい。言葉も現代で使わないものも多く、意味が分かりづらいものもめずらしくない。主語がなかったりは当たり前で、内容も抽象的だ。読みこなすのは大変なのである。トンデモ戦国史研究家は、漢文を読まないし、そもそも読めない。 また、トンデモ本を書く人の巧妙なトリックとしては、史料に書いていないことを「書いてある」といい、史料から読み取れないことを「読み取れる」とすることだ。これは誤読以前の問題であるが、やはり一般の人には分からない。 最近のトンデモ本の場合は、ほかにも手口がある。最近は現代語訳した史料もあるので、そういうものを活用して「史料に独自の解釈を施した」と豪語する。常識的に考えると、「独自」もへったくれもない。史料は、書いてあることをそのまま素直に読まなくてはならないのだ。裏の裏をかいて珍妙な解釈をすることなど、言語道断である。「雲烟林」に収められている織田信長の書状(右)と、豊臣秀吉の書状(左上)など=2020年3月、東京都千代田区 トンデモ本は、論法も独特である。歴史はおおむね結果が分かっているが、それを逆手にとって珍説を披露する。「大胆な仮説」と「論理の飛躍」は、常にセットである。 天正10(1582)年6月の本能寺の変は、その好例だ。そこで、トンデモ戦国研究家は「大胆な仮説」と称して「トンデモ説」の結論をあらかじめ設定し、あらゆる現象を自身の「トンデモ説」の結論に結びつけて考える。むろん、信頼度の落ちる二次史料も平気で組み込んでいく。 たとえば、「豊臣秀吉が黒幕だ」と「大胆な仮説」いや「トンデモ説」を設定したら、あらゆる出来事を秀吉が黒幕であるとの結論に結び付けて論を進めていく。口がうまい人もいるので、読者は矛盾や「論理の飛躍」に気付かず、コロリと騙される。デタラメだけに面白い つまり、トンデモ本の特長は、①史料の性質を理解せず、②しかも満足に史料が読めず、③そのうえ自分の都合のよいように史料を勝手に解釈し、④最初に結論ありきでデタラメな説(結論)をあらかじめ「大胆な仮説」として設定し、⑤自説に合わせて矛盾や論理の飛躍を重ねたものといえよう。最初からデタラメなのだ。 では、なぜ専門家でなくても、トンデモ本は書けるのか。最大の理由は、歴史は敷居が低く馴染みやすいからだろう。たとえば、皆さんの周囲に「歴史好き」という人は少なからずいると思う。しかし、「物理が好きだ」という人は圧倒的に少ないはずだ。つまり、歴史というのは非常に馴染みやすく、本を読めばおおむね理解できる。 おまけに本能寺の変のように、今残っている一次史料から光秀が信長を襲撃した動機を探ることが困難な場合、彼らが言うところの「想像の翼を広げて」推理をすることができる。史料は読めなくてもOKだ。しかも、その推理はデタラメであればあるほどおもしろく、人々が飛びつく。最初からデタラメだと気付いていて、それを楽しむなら話は別だが。心の底から信じていたら、誠に不幸である。 そうなると、読者は歴史家が黙っているはずがない、反論あるいは批判して然るべきだろうと思うはずだ。しかし、それは難しい問題である。 第一に、トンデモ本を読もうとする気が起こらない。自分の勉強にもならないし、はっきり言って時間の無駄である。 第二に、トンデモ本を批判するのは、「労多くして益少なし」いや「労多くして益なし」である。本来、研究上での論争は、一歩でも真理に近づこうとする営みである。論争を通して真理に近づくなら、当該研究に貢献したことになる。しかし、トンデモ本を批判しても、間違いを一方的に指摘するだけでオシマイである。真理に近づくわけではない。 第三に、仮にトンデモ本を批判しても、本を書いた相手には伝わらない。そもそも歴史研究の手法をマスターしておらず、史料も読めないのだから、批判してもまったく意味がないのである。議論は常に平行線で、何ら理解されることはない。結局、批判は徒労に終わる。※写真はイメージ(ゲッティイメージズ) いずれにしても、トンデモ本は読まない方がいいだろう。教科書や通史の類は劇的なことが書かれておらず、つまらないかもしれないが、まずは読んでみることだ。

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    変わる価値観、コロナ不安で人々が見るナショナリズムの奇妙な夢

    うな自由と民主主義の国となったのは、敗戦によってアメリカに与えられたもの」という理解は、事あるごとに歴史認識で見解をぶつけ合う左右両派でも異論はないはずである。 シュミットは、原初的で無秩序な例外状態から独裁的な権力が「決断」をして法が成立すると考えた。戦後日本にとって、この独裁的な権力とはアメリカであった。 そこでは、過去の戦争体験は破棄すべき思想とされた。一方で韓国や台湾には、現在でも身近に迫る「分断国家」の危機を背景に、国民に広く同意されたナショナリズムがある。ナショナリズムの夢 最近、世界では「アフターコロナ」という今後の政治や経済の変動が予測されているが、間違いなく行き過ぎた「新自由主義」的な価値観が是正されるだろう。日本では小泉政権から急加速した「市場に委ねることが善であり万能である」という価値観が、時に悲劇を招くのはもう誰が言わなくとも分かることだ。 無駄と言われ、病床や保健所を削減されてきた現在の医療現場の現状が全てを語っている。今後間違いなく、社会民主主義的な価値観が再び浮上するに違いない。 それと同時に、日本でも「韓国や台湾のようなリベラルなナショナリズムにたどり着くには、どのようにしたらよいか」という命題が問われることになる。特に、これは日本のリベラルの課題であろう。 ともすれば、偏狭さと排外性に堕したナショナリズムの「悪の面」に、どう世界が触れていくかは、予想が難しい。 伝染病は国境をいくら厳格に管理してもやってくる。だからこそ、未開社会の部族は伝染病を恐れ、部族間の交流を拒否し孤立して生きている。 だが、伝染病の猛威から隔絶されてきたアメリカ大陸の文明や原住民たちは、むしろそれがために滅亡していった。猛威を振るう天然痘やペスト、インフルエンザなどの疫病に対する免疫をもっていたスペイン人は、伝染病にかからないということが軍事力以上に決定的な優位性であったのだ。 「無菌の世界を想定することは、危険思想であると同時に愚人の戯言(たわごと)だ」とは、フランス出身の細菌学者であるルネ・デュポスの言葉である。人間が生物である以上、その食物連鎖のエコシステムから逃れることはできない。 この新型コロナウイルスをきっかけに、グローバルな存在である伝染病に対抗するためナショナリズムの在り方に再考のときが訪れているように思える。私たちは、むしろナショナリズムの向こうに、今一度「国際協調」と「万民の平和」を構想できないだろうか。※写真はイメージ(GettyImages) もしそうしなければ、人類はこの古くて新しい敵には勝つことができないであろう。 イマヌエル・カントは「永遠の平和というものを構想するとすれば、国家が廃絶して世界共和国のようなものができるよりも先に、まずは個別の国家を最善に近づけることが現実的には必要だ」と説いた。まずもって純粋実践理性の国とその正義を求めて努力せよ。そうすれば汝(なんじ)の目的はおのずからかなえられるであろう。『永遠平和のために』 なおシュミットはカントの批判者である。カントの平和主義的リベラルを偽善的として退け、政治とは「敵と味方」が発生することから始まるとした。しかしそれならば、伝染病を世界の新たな共通の敵として位置づけることはできないか。 私は最近、そのような奇妙なナショナリズムを夢見ている。みなさんは果たして、どのような夢を見るだろうか。

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    「本能寺」直前、明智光秀の発句は信長殺しの決意だったのか

    渡邊大門(歴史学者) 新型コロナウイルス禍が止まらない。当方も講演会が消滅し、窮地に立たされている。NHK大河ドラマ『麒麟がくる』の方も撮影が延期になり、せっかくの盛り上がりに水を差すような状況だ。一刻も早く終息し、通常の生活に戻ってほしい。私も講演が再開されたら、光秀にまつわるトンデモ学説を打倒したいと思う。 光秀のトンデモ説の一つには、『愛宕百韻』(あたごひゃくいん)の発句「ときは今 あめが下知る 五月哉」がある。抽象的な内容だけに、後世になって都合のよいように解釈がねじ曲げられた。中には、常識的に考えても首を傾げざるを得ない解釈すらある。光秀の発句は、いったいどのように解釈したらよいのだろうか。 『愛宕百韻』は、天正10(1582)年5月28日(諸説あり)に愛宕山威徳院(京都市右京区)で興行された。 このとき、光秀は連歌で名高い里村紹巴(じょうは)、里村昌叱(しょうしつ)、猪苗代兼如、里村心前、宥源、威徳院行祐らに交じって、先に記した「ときは今 あめが下知る 五月哉」という発句を詠んだ。 この発句は「とき=土岐」と解釈され、土岐氏の支族である明智氏が「あめが下」つまり天下を獲ることを織り込んでいると解釈されてきた。本能寺の変が勃発したのは、同年6月2日のことなので、数日前に意思表示をしていたとされた。 この解釈は、当時の人々も受け入れていたようだ。豊臣秀吉の御伽衆・大村由己(ゆうこ)の『惟任謀叛記』には、光秀が5月28日に「ときは今 あめが下知る 五月哉」という発句を詠んだことを記し、「今になって考えてみると、これ(光秀の発句)は誠に謀反の前触れであった。いったいどれだけの人が、このことを理解していたのだろうか」と感想を漏らしている。おそらく「あめが知る」を普通に「天下を獲る=信長への謀反」と捉えたのだろう。 『愛宕百韻』は原本が残っておらず、写本しか伝わっていない。開催された日はもちろんのこと、光秀の発句の文言にも異同があり、「時は今 天下(あめがした)なる 五月かな」となっている。「天下なる」では、光秀が天下獲りを目論んだことを証明したことにはならないだろう。 しかし、仮に「ときは今 天が下しる 五月哉」であったとしても、それは光秀による天下獲りの意思表明ではなく、毛利氏を征伐して天下を治めるという連歌研究者の考え方がある。また、連歌師と武将の関係はあくまで文芸の枠組みだけであり、公私にわたる濃密な関係ではないという指摘もある。 そのうえで、紹巴が天正6年に羽柴(豊臣)秀吉の西国出陣の戦勝を祈願し、「羽柴千句」を張行したことを挙げ、あえて光秀が紹巴の前で謀反を吐露しないと考えるのが常識という。つまり、謀反の情報が秀吉に流れることを危惧していたのだ。豊臣秀吉木像(大阪城天守閣蔵) 光秀の発句については、湯浅常山の『常山紀談』(明和7〈1770〉年頃成立)に有名な逸話が残っている。 本能寺の変後、秀吉は『愛宕百韻』に参加した紹巴を呼び出し、光秀の発句の意図について知っていたのではないかと詰問した。紹巴は慌てて、「光秀の発句は「天が下知る」ではなく、「天が下なる」だったはず」と弁解した。「天が下なる」ならば、単に五月雨が空の下に降っているだけの意味なので、光秀の天下獲りの意思には解せない。「天下獲り」の意志はなし? ところが、秀吉は紹巴の説明に納得せず、『愛宕百韻』の懐紙を取り寄せて確認した。すると、懐紙には「天が下なる」でなく、「天が下知る」と書いてあった。驚いた紹巴は秀吉によく見てほしいと懇願し、自分が知らないところで、「天が下なる」の部分が「天が下知る」に訂正されたと主張した。秀吉は紹巴の説明に納得し、紹巴を許したという。 この話には、続きがある。実は、もともと「天が下知る」と書いていたのだが、光秀が討たれたのち、紹巴が西坊と秘かに結託して「天が下知る」の部分を削り、また同じ「天が下知る」と書いた。つまり、最初から「天が下知る」と書いていたが、わざわざその部分を削ることによって、あたかも訂正したかのように見せかけたというのだ。 『常山紀談』は、戦国の世を生きた武将の逸話集に過ぎず、明確な根拠に基づいて書いたものではない。この逸話に関しても裏付け史料があるわけではなく、史実か否かは不明である。ただ、「天が下なる」であれ、「天が下知る」であれ、連歌研究者は光秀の天下獲りの意思表明と考えていないのは、先述の通りである。 光秀の発句に独自の解釈を施した作家、津田三郎氏は、この発句に中国や日本の古典の知識がいかんなく発揮されているとし、光秀が朝廷の意向を受けた源氏(=光秀。土岐氏は清和源氏)が平氏(=信長)を討つことを表明したと指摘する。 たとえば、「ときは今…」の箇所は、諸葛亮(孔明)の『出師表』(出陣に際して将軍が志を上表する文)の「今は…危急存亡の秋(とき)なり」を踏まえており、『太平記』の土岐頼貞の挙兵した記事を挙げ、「とき(時)」に「土岐」が掛詞として重ねられていることは首肯できるとする。ただし、この連載でも以前触れた通り、光秀が土岐氏の流れを汲むという説には、明確な根拠がなく疑問が残る。 さらに「天が下しる(知る、治る)」に「天下を治める」という語義を認めながらも、主語は「土岐」でなく「天皇」と主張する。理由は、「中世には天皇を指して、『治天の君』といった」からであるという。津田氏は天皇を「天が下しる(知る、治る)」の主語とする理由について、下句の「五月哉」を踏まえて、次の通り主張する。①源頼政が以仁(もちひと)王を奉じて挙兵したのは、5月である(『平家物語』)②足利高氏(尊氏)、新田義貞が挙兵して北条氏を滅ぼしたのは、5月である(『太平記』) 古典に通じた光秀は、それらの流れを想起し、自身も源氏の末裔(まつえい)として「横暴」な平氏(織田信長)を討とうとした。それは、幕末に討幕を掲げた長州藩の人々が、楠木正成の討幕活動になぞらえて「正成をする」と称したように、さしづめ光秀は「高氏をした」ことになると解釈する。つまり、「五月」というタイミングは、先人に倣(なら)ったということになろう。こうして津田氏は、「五月哉」に重い意味があると考える。 一見すると説得力があるが、こじつけと考えざるを得ない。光秀には連歌の素養があったし、『源氏物語』に親しんでいたことは明らかである。しかし、中国の古典はもとより、『平家物語』や『太平記』を細部にわたって覚えていたのかは、別途証明が必要であろう。ましてや、信長を討つという難題について、古典になぞらえて決意をしたというのも不可解な解釈である。タイミングは、政治情勢を見極めたうえでのことだろう。清洲公園にある信長像=愛知県清須市 津田氏の解釈は、付句の「水上まさる 庭の夏山」にも及ぶ。付句の解釈は、『平家物語』の「橋合戦」を踏まえた句であるという。先述した頼政は、平家方の上総介忠清と宇治川を挟んで戦いに及んだ。忠清は頼政の善戦に焦りつつも川を渡る際に、「いまは河をわたすべく候が、おりふし五月雨のころで、水まさッて候」と述べた。こじつけは可能 現代語訳すれば、「今、川を渡ろうとしたのだが、おりふし五月雨の頃なので、川が増水している(ので渡河できない)」という意になろう。そして、上総介忠清の本姓は「藤原」で、「上総介」も信長の官途だった。こうした点から、付句の「水上まさる 庭の夏山」を評価する。 三句目の紹巴の「花落つる 流れの末を せき止めて」は、『源氏物語』の「花散里」が原型になっているという。光源氏は、政敵の右大臣と娘によって官位を剥奪され、都から追放された。光源氏は失脚を予見して、愛人の花散里のもとに別れを告げるために訪れる。それが五月雨のときだった。 また、津田氏は右大臣が信長の官職だったことにも注目すべきという。光源氏の危機は王権の危機であり、それを今の朝廷の危機になぞらえたとし、紹巴は朝廷から光秀のもとに送り込まれたと述べる。 それは、同じく紹巴の「一筋白し 月の川水」という句でも裏付けられると指摘する。中国の伝説によると、月には桂の大樹があり、その根元から清流が湧いて川になるといわれ、王朝の和歌でも好まれたという。 津田氏は「月の川水」こそが、光秀が渡河した「桂川」であることが決定的であると論じる。つまり、紹巴は光秀に対し、桂川を渡って、京都攻めを促しているというのである。それは、朝廷の使者として信長討ちを促したということになろう。 しかし、連歌は場の文学である。連衆が心を合わせて、一つの作品を作らなくてはならない。その場で、一瞬のうちに古典のさまざまな場面が脳裏を駆け巡り、そうした意思表明ができるのか。極めて疑問である。結論から言うと、この段階で光秀が信長討伐を意識していたかどうかは別として、わざわざそのようなことを連歌会で表明しないだろう。 いずれにしても、津田氏の解釈は思い込みによる部分や無理をして数々の古典から解釈を導き出している点が多々あり、にわかに賛同することはできない。光秀の発句に織り込まれた語句を古典に求めるならば、同じ語句を用いたものはたくさんあり、いくらでもこじつけることが可能だからである。 根本的なことを言えば、津田氏が支持する「朝廷黒幕説」は、すでに成り立たないことが明らかとなっている。むしろ、津田氏は「朝廷黒幕説」を成り立たせるため、『愛宕百韻』を主張したことにならないだろうか。愛宕神社の石段=京都市右京区. また、『愛宕百韻』について、ユニークな解釈を示したのが、作家で歴史研究家の明智憲三郎氏である。明智氏の主張の一つには、光秀の出自とされる土岐氏の再興がある。長らく、光秀は土岐明智氏の流れを汲むといわれてきたが、それは繰り返しになるが立証が困難である。「信長討伐」予告は不自然 光秀の出自が土岐明智氏でないとするならば、明智氏が提示した『愛宕百韻』の解釈にも疑問が生じよう。改めて『愛宕百韻』の冒頭の三句は、以下の通りである。 発句 ときは今 あめが下なる 五月かな(光秀) 脇句 水上まさる 庭の夏山(行祐) 第三 花落つる 池の流を せきとめて(紹巴) 上の3句は、一般的に次のように解されている。発句 時は今、雨の下にいる五月だ脇句 折しも五月雨が降りしきり、川上から流れてくる水音が高く聞こえる夏の築山第三 花が散っている池の流れを堰き止めて しかし、明智氏は土岐氏の歴史の理解を前提として、次のように読めるという。発句 時は今、五月雨にたたかれているような苦境にある五月である(6月になれば、この苦境から脱したいという祈願)脇句 土岐氏の先祖(水上)よりも勢いの盛んな(夏山のような)光秀様(そうであるから祈願は叶うという激励)第三 美濃守護職を失った(花落つる)池田氏の系統(池の流れ)をせきとめて(明智氏が代わって土岐氏棟梁を引き継げばよいという激励) こう解釈したうえで、『愛宕百韻』が毛利氏討伐の出陣連歌であると同時に、土岐氏の栄枯盛衰を重ねたもので、土岐氏再興への激励でもあったという。本能寺の変における光秀の動機の一つとして、明智氏は土岐氏の再興を挙げている。つまり、『愛宕百韻』とは、光秀による信長討伐の意思表明であり、紹巴らはそれを激励したということになろう。 光秀の出自が土岐明智氏であるか否かを差し置いたとしても、この解釈には疑問が残る。そもそも連歌の読み方で、それぞれの句に暗号のようなメッセージを託すようなことがあったのだろうか。いずれの解釈とも、それぞれの語句に強引に自説の解釈を当てはめただけで、とても納得できるようなものではない。 加えて言うならば、紹巴らが光秀を激励することについて、何かメリットがあったのかという疑問だ。紹巴は光秀と昵懇(じっこん)であったに違いないが、秀吉らほかの武将とも連歌を通じて、親しく交流していた。 連歌師は生活を支えるため、多くの武将と交わったが、それはあくまで連歌という文芸の場に限られた。ましてや、紹巴が秀吉らほかの武将に通報する可能性もあるのだから、光秀が不注意にも自らの謀反を予告することはないだろう。 先述の通り、連歌とは一座した作者たちが共同で制作する座の文芸である。それは、句と句の付け方や場面の展開のおもしろさ(付合)を味わうことにあり、暗号のようなものを託して詠むものではないだろう。そうなると、平凡ではあるかもしれないが、連歌研究者による通説の解釈に従うべきだろう。 結論を言えば、『愛宕百韻』の光秀の発句については、次のように考えるべきだ。 ①光秀が愛宕山に参詣した理由は、愛宕山にまつられている勝軍地蔵菩薩に毛利征伐の無事遂行を祈願するためである。 ②その翌日に行われたのが、戦勝祈願の一環の『愛宕百韻』である。 ③当然、発句を詠むのは総大将の光秀であり、毛利を征伐すれば、天下が治まるという趣旨を詠まなくてはならない。 ④「天が下知る」とは毛利征伐で天下を治める意であり、「ときは今」はこの一戦に賭けるという光秀の祈願成就の意気込みである。坂本城跡に建つ明智光秀像=大津市 史料の裏の裏を読み、新たな解釈を示した例は、『愛宕百韻』にもたくさんある。史料の読み方を追究することは大切だが、無理をして読んでも仕方ない。そこから導き出された読みが平凡であっても、それが正しいのならば、よしとしなくてはならないと考える。 結局、『愛宕百韻』の解釈をめぐっては、まず自説ありきで話が進められ、そこに向かって発句などが解釈される。歴史研究では、最もまずいパターンである。いずれにしても『愛宕百韻』の解釈は、まず自説から切り離し、改めて虚心坦懐に読解を進める必要がある。※主要参考文献明智憲三郎『本能寺の変 四三一年目の真実』(文芸社文庫)島津忠夫校注『新潮日本古典集成 連歌集(第三三回)』(新潮社)田中隆裕「愛宕百韻は本当に「光秀の暗号」か? ―連歌に透ける光秀の腹のうち―」(『歴史読本』45-12)津田勇「〔コラム〕『愛宕百韻』を読む ―本能寺の変をめぐって―」(安部龍太郎ほか編『真説 本能寺の変』集英社。廣木一人「連歌の方法 ―「愛宕百韻」を手がかりに―」(同『連歌の心と会席』風間書房)渡邊大門『明智光秀と本能寺の変』(ちくま新書)渡邊大門『光秀と信長 本能寺の変に黒幕はいたのか』(草思社文庫)渡邊大門『本能寺の変に謎はあるのか? 史料から読み解く、光秀・謀反の真相』(晶文社)

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    100年前「防疫先進国」に後藤新平が導いた日台の明暗

    物館で後藤の顔写真や銅像と共に、これらの功績を容易に知ることができるし、一般の書店には並べられている歴史書等の記述にもお目にかかることができる。 ひるがえって、感染が拡大している新型コロナウイルスへの対策は世界中で急務だ。中でも、台湾が実施した中国に対する入境禁止やクルーズ船の寄港禁止といった水際対策、学校の休校措置のような国内の蔓延対策が早かったこと、マスクの流通管理などIT活用をはじめとした情報管理の優秀さが、日本でも報じられている。各国政府の対策を評価するのは尚早だが、台湾の防疫政策が進化していることだけは間違いない。 後藤の防疫対策は、初期における防疫対策としての水際作戦、そしてその前段階におけるインフラ整備の両面において優れていて、今日の防疫対策の基本を押さえているといってよい。 これに対して、日本では、感染が蔓延している地域からの入国を本格的に制限する措置が3月に入ってからと大幅に遅れてしまった。他にも、陽性・陰性を判定する検査態勢整備の遅れ、感染症指定医療機関の病床確保の遅れ、さらにはマスクや消毒用アルコールなどの買い占め対策の遅れなど後手に回った感が否めない。このような現状に接すると、100年以上前の日本の防疫対策に比べて退歩している印象が強い。長野県松本市の松商学園高校で発見された後藤新平直筆の扁額 防疫対策は、一般的に政治家には向いていない。国民に不人気な対策や、他国に厳しく外交上マイナスに働く対策が中心を占めるからである。今からでも遅くない。現場を知る専門家と実務家を登用し、判断・実施させ、責任は政治家がとるといった姿勢を明確にした方がいい。危機管理に必要な「謙虚」 今は、水際作戦よりもウイルスの感染拡大を防ぐ封じ込め作戦の成否が鍵となる。防疫は、病気治療や公衆衛生の範囲を超えて、国家的危機管理の範疇である。このままでは、生活も経済も政治も「一時停止」しかねない。 2001年の米同時多発テロでは、ニューヨークの世界貿易センター(WTC)ビルがハイジャック機2機の衝突で崩壊したが、ビルの地下にある駅は犠牲者を出さなかった。何かあったときには駅にいる人を避難させて無人にするというシンプルなマニュアルが早期に発動されたからである。想定外の事態に陥ったとき、人々をいかに安全な場所に避難させるかが危機管理の基本である。 世の中では、想定を超える事象や自然の猛威に対し、われわれの文明はまだ不十分なものであるという認識のもと、危機管理という方法が発達した。危機管理では、「実社会では予測しづらい事故や事件が発生する」という謙虚な姿勢が前提にある。だから、それに備えるため、過去の失敗を教訓として蓄積するところから出発する。この原点に返ることが大切だと思う。 クルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」が横浜に入港したとき、かつて東京都副知事として危機管理を担当した私がイメージした感染対策は次の通りだ。まず、自衛隊が埠頭にテントを張り、そこを専門家や実務家の防疫拠点とする。 そして、船内の乗客乗員を分類し、一定の人をテントに隔離したり、各地の隔離可能な施設や感染症対策病棟を有する病院に搬送するといったプロジェクトがスタートする。このような場合に対応するためのテントや防護服などの資材は、自衛隊や大規模自治体に相当程度の備蓄があったはずだ。 マスクについても、国が買い上げてどこかに配布するという報道があったが、いまさら買い上げても、流通に支障が出るだけだ。自治体によっては、相当大量の備蓄があることも、一方では報じられている。横浜港に停泊するクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」に横付けされたバス。防護服姿の人が見える=2020年2月22日 国に備蓄がなかったとすれば、そもそもパンデミック(大規模感染)に対する危機感が欠如している。政府と関係者は100年以上前の日本の為政者に学ぶ必要がある。

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    「信長殺し」後の明智光秀、家康側近「天海」説はなぜ流布した?

    渡邊大門(歴史学者) それにしても、新型コロナウイルスには困ってしまった。個人的には、3月に予定していた大学や自治体が主催する講演会がすべてキャンセルになってしまった。大弱りだ。もちろん、大河ドラマの関係で観光客を呼び込もうとしていた、明智光秀ゆかりの地の皆さんもお困りだろう。観光客が来ないと死活問題である。 新型コロナウイルスの一刻も早い終息を願うばかりであるが、講演などの依頼も大歓迎なので、ぜひ声をかけていただけるとありがたい限りだ。 ところで、大河ドラマが近づくと、明智光秀にまつわるさまざまな珍説、奇説が突如としてクローズアップされることは、本連載でもたびたび触れてきた。それだけでなく、根拠不詳な「光秀ゆかりの地」なるものも次々と現れる。 それらの根拠は、当時の一次史料(古文書や古記録)に記されているものではなく、二次史料(のちになって編纂された史料。地誌、軍記物語、系図など)や伝承の類であることが大半だ。二次史料単独の記述や伝承はアテにならないことが多く、検証が不可能である。おおむね「眉唾(まゆつば)もの」と考えてよいだろう。 しかし、そういう「眉唾もの」の話であっても、気が付くと大学教授や教育委員会職員、博物館学芸員の「お墨付き」をもらって、「本当」になってしまうことも珍しくない。それを聞いた住民の中には、心の底から信じてしまうことも! そうなると悲劇だ。 二次史料や伝承がダメだとは言わない。それがたとえ「ウソ」であっても、なぜそういうことが語り継がれたのかを考えるのは重要だ。光秀ゆかりの地に住む皆さんには、ウソか本当かをよく知ったうえで、後世に語り継ぐことを切にお願いしたい。 以下、そうした光秀にまつわる「アテにならない」伝承問題を考えてみよう。 京都府福知山市には「明智藪」(あけちやぶ)なるものがあり、よく知られている。光秀の終焉地とは、まったくの別物だ。天正7(1579)年に丹波を平定した光秀は、福知山城を築城した。その際、たびたび氾濫を起こした由良川と土師川の合流地点で治水工事を行い、「明智藪」という堤防を作ったというのだ。福知山城天守閣=京都府福知山市 「明智藪」は音無瀬橋のやや上流にある雑木林に築かれたが、戦後の堤防改修工事によって、今では北端部分だけしか残っていない。この堤防によって、由良川、土師川の氾濫が収まった。光秀は福知山城下を整備し、税の免除なども行ったので「名君」と称えられるが、そこには「明智藪」の業績も含まれている。 しかし、実際には江戸時代から明治・大正時代にかけて、その堤防は「蛇ケ端御藪」(じゃがはなおやぶ)と呼ばれていた。では、光秀が本当に堤防を築いたのだろうか? 光秀が堤防を築いた根拠は、寛政年間に福知山藩の古川茂正と篠山藩の永戸貞が編纂した『丹波志』だ。同書は光秀が没してから、約100年後に成立した編纂物である。 とはいえ、『丹波志』には「明智藪」とは書かれていない。おまけに、光秀が堤防を築いたことを示す一次史料はない。「明智藪」と書いているのは、昭和59(1984)年に刊行された『福知山市史』第3巻だ。以降、地元の人は「明智藪」と呼ぶようになったという。 つまり、「明智藪」には明確な史料的根拠がないのだ。しかし、私は別に目くじらを立てて怒っているわけではない。「明智藪」には「明確な史料的根拠がない」という認識のうえで、顕彰活動を行ってほしいと思うだけである。 ほかにも、光秀にまつわる妙な伝承がある。光秀はその後生き延びた? 明智光秀は本能寺の変から11日後の天正10(1582)年6月13日、土民によって討たれた。わずか11日で討たれたので、光秀は「三日天下」などと揶揄(やゆ)された。光秀の首が晒(さら)し首にされ、今も各地に墓や供養塔が残っている。光秀が亡くなったことは、当時の公家日記にも書かれており、動かしがたい事実である。 ところが、実は光秀は殺されることなく生き延び、何と徳川家康の側近として活躍した天台宗の僧侶「天海」になったという説がある。この説は、すでに大正5(1916)年の須藤光輝著『大僧正天海』(冨山房)で指摘されていたが、長らく取り沙汰されることはなかった。 須藤氏の研究によると、「光秀が天海となり、豊臣氏を滅ぼして恨みを晴らした」という「奇説」を唱える者がいる、と記されている。つまり、いつの頃からか、光秀は天海になったと言われ、大正期には一部で広まっていたようだ。 一見するとバカバカしい話ではあるが、以前からテレビなどで取り上げられ、俄然注目されている。これは、史実として認めてよいのだろうか。 天海の生年は天文5(1536)年説が有力で、亡くなったのは寛永20(1643)年と100歳を超える長命であった。ちなみに光秀の生年は享禄元(1526)年など諸説あるが、十数歳ほどの開きがある。同時代の人物といえば、たしかにそうかもしれない。 では、なぜ光秀=天海説が唱えられたのであろうか。いくつか根拠となる説を取り上げて、考えることにしよう。 そもそも、光秀は本能寺の変の後、死ななかったという言い伝えが残っている。たとえば、宇治市の専修院と神明神社には、山崎の戦いの後に光秀を匿(かくま)ったという伝承がある。 また、山崎の戦いの後、光秀が妙心寺(京都市右京区)に姿を現し、その後和泉に向かったといわれているが、確かな根拠がなく非常に疑わしい。 光秀の画像を所蔵する大阪府岸和田市の本徳寺には、光秀が潜伏していたといわれており、「鳥羽へやるまい女の命、妻の髪売る十兵衛が住みやる、三日天下の侘び住居」という俗謡すらあるほどだ。ただ、こちらも伝承の域を出ない。大阪府岸和田市の本徳寺に所蔵されている明智光秀像 ほかにも、生き残ったという伝承があるが、明確な史料的根拠がない。しつこいようだが、光秀が殺されたのは動かしがたい事実だ。 江戸幕府の二代将軍である徳川秀忠の「秀」字は光秀の「秀」字を採用したという。この話を勧めたのが、天海だというのだ。しかし、一般的に秀忠の「秀」字は、豊臣秀吉の偏諱(へんき)を受けたといわれているので、この説はまったく当たらない。 同じく三代将軍・家光の諱(いみな)も金地院崇伝が選んだもので、光秀の「光」字を採ったものではないだろう。いずれも、光秀=天海が関与したものではない。こじつけの域を出ない説 徳川家光の乳母は、明智光秀の重臣・斎藤利三の娘・春日局だった。また、家光の子の徳川家綱の乳母は、光秀の重臣・溝尾茂朝の孫娘・三沢局が担当していた。この事実をもって、天海=光秀と指摘されているが、説得力が弱い。 日光東照宮陽明門(栃木県日光市)の随身像の袴などには、明智家の家紋である桔梗(ききょう)が用いられているというが、これは織田家の家紋である木瓜(もっこう)紋が正しい。単なる見間違いである。やはり、光秀=天海は関係ないようだ。 また、天台宗の比叡山松禅寺(大津市)に「慶長二十年二月十七日 奉寄進願主光秀」と刻まれた石灯籠があることから、この「光秀」が明智光秀であり、天台宗の僧侶、天海が関わっていたのではという説がある。しかし、光秀という名だけで、明智光秀と同一人物であると即断できないだろう。 さらに比叡山の叡山文庫には、俗名を光秀といった僧の記録があるという。しかし、「光秀」はありふれた名前であり、必ずしも明智光秀と同一人物であるとは言えないようだ。いずれの説も、単なるこじつけに過ぎないだろう。 栃木県日光市には、明智平という場所があり、今も観光地として人気のスポットである。明智平の命名者は、天海であるとの伝承がある。ゆえに天海は光秀だったと指摘するが、命名も単なる伝承であり、本当に天海が名付けたとは言えないようだ。 関ヶ原町歴史民俗資料館所蔵の「関ヶ原合戦図屏風」には、鎧(よろい)で身を固めた天海の姿が描かれている。軍師的な役割ならば、戦闘の経験のある光秀にほかならないという。ゆえに光秀=天海との指摘がある。 天海が関ヶ原合戦に出陣したか確証を得ないが、安国寺恵瓊(えけい)のように戦場に赴いた僧侶は存在するのは事実だ。しかし、後世に成った合戦屏風にどこまで信憑性があるのか疑問である。やはり、根拠は薄弱であり、とうてい信を置けない。徳川家康の側近として知られる僧侶「天海」の銅像=栃木県日光市 ほかにも光秀=天海説の根拠は提示されているが、いずれもこじつけの域を出ないもので、証拠になりえないものばかりである。したがって、光秀=天海説はまったくの想像の産物で、成り立たないのである。 ところで、光秀に埋蔵金伝説があるのはご存じだろうか。 兵庫県の丹波地方には、光秀が天正6(1578)年に多紀郡と氷上郡の境界に位置する金山に金山城(兵庫県丹波市)を築き、埋蔵金を埋めたとの言い伝えがある。光秀は宿屋の主人に歌を書き与えたが、その内容は金山城付近に埋蔵金を埋めたことをうかがわせたという。 また、本能寺の変後、光秀は家臣の進士恒興に対し、安土城内の財宝を京都に運ぶよう命じたという。しかし、運搬の途中で、光秀の死の一報が伝えられた。恒興は予定を変更し、丹波国周山(京都市右京区)の慈眼寺近くに財宝を埋めた。そして、運搬に関わった者を皆殺しにしたと伝わっている。 光秀の埋蔵金は、先述の兵庫県の丹波地方、京都市右京区だけでなく、光秀の家臣が琵琶湖に沈めたという説のほか、光秀の居城である亀山城(京都府亀岡市)にもある。光秀の埋蔵金の話は、信じていいものなのだろうか。地元への「忖度」は不要 光秀の埋蔵金伝説は、光秀が生き延びたという説とも密接に関わっている。 山崎の戦いに敗れた光秀は逃亡中に殺害されたが、それは光秀の影武者(あるいは身代わり)であって、実際に光秀は生き延びていたと伝わる。徳川家康が亡くなった元和2(1616)年、埋蔵金は明智家再興のために掘り出されたが、「護法救民」のために埋め戻されたという。ただ、真相は闇の中だ。 埋蔵金と言えば、徳川埋蔵金伝説などが有名であるが、実際に埋蔵金が出てきた例は乏しい。光秀の埋蔵金についても、単なる伝承に過ぎないと考えられる。 次に、光秀の墓(供養塔)について考えてみよう。 先述の通り、天正10(1582)年6月13日に落命した。その首は本能寺に晒され、同月24日に京都・粟田口(京都市東山区・左京区)に首塚が築かれたという(『兼見卿記』)。実は、光秀の墓(供養塔)は複数あることが知られている。 一つ目は、亀岡市にある真言宗寺院・谷性寺(こくしょうじ)である。光秀の家臣・溝尾庄兵衛が光秀の首を隠しておき、のちに谷性寺に懇(ねんご)ろに葬ったという。そこに建立されたのが、「光秀公首塚」という供養塔だ。 この首塚をよく確認すると、安政2(1855)年に建立されたと書かれている。光秀の死後から、約270年も経過している。となると、実際に庄兵衛が首を埋めたというよりも、のちに光秀の菩提を弔うため建立されたと考えられないか。 二つ目は、大津市にある天台宗寺院・西教寺である。同寺は、光秀が近江を支配した際、総門や庫裏(くり)を寄進した。そうした関係から、光秀だけではなく、妻の熙子や明智一族の供養塔が建立された。明智の菩提寺である。 ほかにも、光秀の墓は高野山(和歌山県高野町)にもある。いずれが本物かと問われれば答えに窮するが、それぞれの所縁の地で、光秀を慕う人々が菩提を弔いたいと願い、供養塔を建立したというのが事実であろう。2019年5月に建立された明智光秀公像=京都府亀岡市古世町(同市提供) また、京都府宮津市の盛林寺には、娘ガラシャのもとへ光秀の首が運ばれ、首が埋葬されて首塚が建立されたと伝わる。そのほか岐阜県恵那市明智町の龍護寺、同山県市の桔梗塚、京都市東山区の尊勝院、京都市山科区の胴塚を含めて、光秀の墓(供養塔)などは多数存在する。 以上のように、光秀にまつわる伝承は非常に多い。学識ある研究者は、それらが伝承の類であることを明確にしたうえで、なぜそのような伝承がその土地に伝わったのかを真摯に考え、地元住民に伝えるべきだろう。地元住民に対する妙な忖度は不要である。主要参考文献渡邊大門『明智光秀と本能寺の変』(ちくま新書)渡邊大門『光秀と信長 本能寺の変に黒幕はいたのか』(草思社文庫)渡邊大門『本能寺の変に謎はあるのか? 史料から読み解く、光秀・謀反の真相』(晶文社)

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    ペスト、赤痢菌… 北里柴三郎ら日本人研究者の戦いの歴史

    熱病に感染して命を落とした野口の生き様は、伝記として読み継がれ、多くの後継者を生んだ。『まんが医学の歴史』の著者で、いばらきレディースクリニック院長の茨木保氏は、日本人研究者の貢献をこう評価する。「感染症の新しい治療法を確立したという意味では、『血清療法』を開発した北里柴三郎、病原体を直接叩く『化学療法』で梅毒の特効薬サルバルサンを発見した秦佐八郎の業績が光ります」 感染症の医学史に名を刻んだ日本人研究者の志は、いま最前線で戦う者にも時を超えて受け継がれる。関連記事■努力の人・野口英世は遊郭入り浸り 留学費用で放蕩三昧■ノーベル賞で万能薬イメージ、がん免疫治療薬の注意点■中国で豚コレラ蔓延、マフィアが感染豚を転売し荒稼ぎ■東京五輪 マラソン以外でも「開催地変更」を要求される懸念■新型肺炎でマスク「転売ヤー」が出現 定価の3倍で取引も

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    「本能寺の変」明智光秀の目的は信長の非道阻止だったのか

    渡邊大門(歴史学者) まだ始まったばかりだが、NHK大河ドラマ『麒麟がくる』がそこそこ好調のようだ。視聴率は下降傾向にあるものの、昨年の『いだてん』をかなり上回っているという。これは非常に結構なことである。とはいえ、大河ドラマはあくまでフィクションである。史実を忠実に再現したものではない。 たとえば、この連載でこれまでにも指摘したが、明智光秀が土岐明智氏の末裔(まつえい)であるという確固たる証拠はない。証拠として残っているのは、系図などの二次史料(系図、軍記物語など後世に編纂された史料)に過ぎない。また、前回の連載でも指摘したように、光秀が越前や近江にいたという確証もない。この点には、注意をすべきであろう。 ところで、「本能寺の変」の要因に関しては、かつて「朝廷黒幕説」「足利義昭黒幕説」などが提唱された。熱狂的に支持された時期もあったが、今ではいずれも誤りであるとされている。それらの説は、史料の誤読や曲解などに基づいているからだ。もはや消え去ったと言ってもよいだろう。 近年では「朝廷黒幕説」と他の諸説をミックスしたような説として、「信長非道阻止説」がある。 この説を簡単に言えば、信長が朝廷などに対して非道なことを行うので、光秀は自らそれを阻止しようと立ち上がったという説である。それを端的に表現すれば、「信長の悪政・横暴を阻止しようとした」ということである。別に黒幕はいないが、光秀が自主的に謀叛を起こしたということになろう。 従来説と異なるのは、光秀には信長に対する個人的な恨みがなかったとする点である。したがって、怨恨説、不安説、野望説などとは一線を画する。従来とは、完全に視点が異なった見解である。 この説のポイントは、次の五つの点に集約されている。 ①正親町(おおぎまち)天皇への譲位強要、皇位簒奪(さんだつ)計画 ②京暦(宣明暦)への口出し ③平姓将軍への任官 ④現職太政大臣の近衛前久への暴言 ⑤正親町天皇から国師号をもらった快川紹喜を焼き殺したこと はたして、信長非道阻止説とは妥当性のある説なのだろうか。現在の本能寺。信長時代とは場所が異なる ①②はすでにこの連載でも検討したところであるが、改めて確認しておこう。正親町天皇の譲位については、信長から強要されたのではなく、提案されたといってよいだろう。しかも、正親町天皇は信長の提案に大喜びし、早速、準備を進めようとしたのである。結果として譲位は実現しなかったが、信長から強要されたものでないことは明らかである。重ねた論理の飛躍 当時、天皇は早々に子に譲位して、上皇になるのが当たり前だった。戦国時代の3人の天皇(後土御門、後柏原、後奈良)は、現役の天皇のまま亡くなった。当時の公家日記などを読むと、それがあまりに気の毒であると記されている。正親町天皇は信長から譲位を勧められ、逆に大いに感激したのである。 そうなると、①の説は成り立たない。 皇位簒奪計画についても同様で、正親町天皇への譲位の強要や信長の神格化の延長線上にある説である。正親町天皇への譲位の強要や信長の神格化には否定的な見解が多く、ましてやたしかな史料で信長による皇位簒奪計画を確認することはできない。したがって、現在では支持されていない。 この説の解説によると、信長は正親町天皇から子の誠仁親王に譲位させようとした。そして、信長は新天皇になった誠仁から「准三宮」の待遇を受け、さらに誠仁には子の五宮に譲位をさせるというプロセスである。 五宮は、信長の猶子(ゆうし)だった。五宮が天皇になると、義父である信長は「治天の君」になるというのである。これにより、間接的ながらも、信長の皇位簒奪計画が完成する。それが、信長の目論見だったという。 しかし、信長の皇位簒奪計画を明確に記した史料はない。五宮が信長の猶子だったという事実から、皇位簒奪の意図があったと、論理の飛躍を重ねただけに過ぎない。このように、明確な根拠がないのに、憶測だけで決めつけるのはいかがなものか。 そもそも信長は天皇家の一族でも何でもないので、仮に正親町天皇から皇位を奪取したところで、治天の君たる上皇になれるのか疑問である。他の研究者も信長の特殊性をことさら強調するため皇位簒奪計画を主張していたが、それは誤りである。 したがって、やはり①の説は成り立たない。 京暦(宣明暦)への口出し(尾張で使われていた暦への変更)については、かつて信長が天皇家から「時の支配者」たる権利を奪おうとしたと言われてきた。これもまた事実ならば、正親町天皇を窮地に追い込むようなことである。 この説は京暦(宣明暦)が日食を予測できなかったためであり、信長は尾張の暦を採用することで日食を正しく予測し、正親町天皇を不吉な日食の光から守ろうとしただけと考えられた。つまり、信長は天皇家から「時の支配者」たる権利を奪おうとしたわけではなかったのである。明智光秀像(本徳寺所蔵) しかし、その後の研究によって、京暦(宣明暦)が日食を正しく予測したと指摘され、話は振り出しに戻った。暦の問題は当時の戦国大名が領内の暦を統一した経緯を踏まえ、ことさら信長が天皇家から「時の支配者」たる権利を奪うことに結び付ける必要はないと指摘されている。そもそも信長は朝廷への奉仕に力を入れていたのだから、そう考えるのが妥当だろう。 よって、②についても成り立たない。①および②については、信長の非道でないことが明らかである。根拠のない憶測 ③については、朝廷は信長に征夷大将軍を与える意向だったかもしれないが、これも将軍の足利義昭のことを考えると、決して容易ではなかった。いったん義昭の職を解く必要があるからである。 また、この説の主張では信長が、歴史的に前例がない平姓の将軍に就任することが許せなかったという。その根拠として、光秀は美濃源氏の土岐氏の一族である明智の一族だったからだと指摘する。源氏である光秀は平姓の将軍の出現が歴史の秩序を乱すと考え、信長に謀反を起こしたというのである。 すでに触れた通り、光秀が美濃源氏の土岐氏の一族である明智の一族であったことは確証がない。また、平姓の信長が将軍になることについては、朝廷が三職(関白、太政大臣、征夷大将軍)のうちのいずれかを提案しているのだから、特に障害がなかったことが指摘されている。 その背景には、源平交代説なるものがあった。これは、支配者が平清盛(平氏)→源頼朝(源氏)→北条氏(平氏)→足利尊氏(源氏)と交代し、源氏と平氏が交代で政権を担ったので、生じた説と言われている。しかし、戦国時代に源平交代説が広まっていたのかは、疑問視されている。 ましてや光秀が平姓の将軍の出現が歴史の秩序を乱すと考えたというのは、根拠のない憶測に過ぎない。繰り返しになるが、もし源氏だった光秀が平姓の征夷大将軍を阻止しようとしたというならば、光秀が土岐明智氏だった事実を確固たる史料で論証する必要があるだろう。 ゆえに③もまた成り立たないといえる。 ④については、信長が天正10(1582)年3月に武田氏が滅亡した後の論功行賞後の逸話である。信長が帰還する際、当時、太政大臣だった近衛前久が馬を降りて「私も駿河からまわってよいでしょうか」と尋ねたところ、信長は馬上から「近衛、お前なんかは木曽路を上ったらよい」と言い放ったというのである。 いかに信長が権力者とはいえ、太政大臣に対する言葉としてはあまりの暴言である。光秀は、それを許せなかったということになろう。これが信長による前久への暴言で、出典は武田氏の戦略・戦術などを記した軍学書『甲陽軍鑑』である。大津市の坂本城跡にある明智光秀像=2007年9月、滋賀県大津市(安元雄太撮影) かつて、『甲陽軍鑑』の史料性は疑問視されてきたが、最近では史料性を高く評価する向きもある。しかし、信長の暴言は他の史料には書かれておらず、あまりに荒唐無稽である。いかに『甲陽軍鑑』の価値が高まったとはいえ、あくまで史料の吟味が必要であり、この件はとても史実として認めがたいところである。 よって、④についても成り立たないといえる。 ⑤は、天正10年4月3日に織田信忠の軍勢が恵林寺(山梨県塩山市)を焼き払い、高僧の快川紹喜が焼死したことである。このとき快川紹喜は、「安禅不必須山水 心頭滅却火自涼」(安禅必ずしも山水を須=もち=ひず 心頭滅却せば火も自づと涼し)の辞世を詠んだという。『武家事紀』には偽文書も 快川紹喜は、正親町天皇から大通智勝国師なる国師号を授けられていた。しかも、快川紹喜は美濃土岐氏の出身と言われ、光秀と同族だったと指摘し、光秀は内心穏やかではなかったのではないかという。しかし、快川紹喜は美濃出身であったと言われているが、その出自については諸説ある。 とはいえ、その点にも明確な根拠が提示されておらず、光秀が土岐氏の庶流・明智氏だったことは、先述の通り確証を得ない。したがって、土岐氏の一族たる快川紹喜が焼き殺されたことに怒りを感じたというのは、検討の余地があるといえよう。 したがって、⑤も成り立たないと考える。 ところで、光秀が天正10年6月2日に美濃野口城(岐阜県大垣市)の西尾光教に対して、書状を送っている(『武家事紀』所収文書)。本能寺の変の直後である。その書状の冒頭には、「信長父子の悪虐は天下の妨げ、討ち果たし候」と書かれている。つまり、信長、信忠父子は悪虐で天下の妨げなので、光秀が討ったというのである。これも、「信長非道阻止説」の一つの根拠になっている。 「信長非道阻止説」の説の主張では、「信長父子の悪虐」とは、先述した①正親町天皇への譲位強要、皇位簒奪計画、⑤正親町天皇から国師号をもらった快川紹喜を焼き殺したこと、を意味していると解釈する。文面には「信長父子の悪虐」が明確に書かれていないので、やはり単なる憶測であろう。 とはいえ、この光秀の書状は原本がなく、写しが残っているに過ぎない。冒頭の「信長父子の悪虐」という文言のうち、「悪虐」という言葉は当時見ることができない。『武家事紀』所収文書には偽文書と思しき文書をも収録されているので、これも偽文書ではないかと考えられる。 以上の通り、「信長非道阻止説」は、すでに誤りと指摘されていることが根拠となっているか、根拠史料の性質が悪いか、または根拠のない憶測が多いので、成り立ち難いといえるだろう。本能寺跡を示す石碑=京都市中京区(恵守乾撮影) そもそも光秀が義憤に駆られて、信長を討ったところで、その先には何があったのだろうか? 世直しや鬼退治をしたあと、光秀には何か将来的な展望や構想があったのだろうか? 光秀には何もメリットがなさそうなので、到底受け入れることはできない。※主要参考文献渡邊大門『明智光秀と本能寺の変』(ちくま新書)渡邊大門『光秀と信長 本能寺の変に黒幕はいたのか』(草思社文庫)渡邊大門『本能寺の変に謎はあるのか? 史料から読み解く、光秀・謀反の真相』(晶文社)

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    信長はこうして「7階建て」安土城にオカルトパワーを詰め込んだ

    橋場日月(歴史研究家、歴史作家) 『信長公記』の「安土山御天守の次第」で説明されている安土城天主の地下1階(実際には地上だが、基底の石垣部分の内側なのでこう表現しておく)と1階について注目すべきなのは、まず全ての座敷の内が全面に布を貼り付けられ黒漆で固められていることだろう。 これは本文にもあるように「布張(ぬのばり)」と呼ばれる技法で、壁・天井・梁(はり)から建て付け、調度に至るまで、全ての素地に麻や木綿などの布を漆で張り付けることをいう。本来は木製品の強度を高め、保ちをよくするための技法なのだが、信長はそれを座敷全体に施させた。しかも用いた漆は黒。 すべて黒漆で固められた漆黒の部屋が出現したのだ。これはいったい何を意味するのだろうか。そこには、これまでの本連載で紹介してきた信長の思想が込められていた。 陰陽五行(いんようごぎょう)の思想では、黒は水を表す。それを象徴する霊獣は玄武だ。この架空の生物については第12回でも触れたが、亀と蛇が一体化した水の神だ。 龍・大蛇のパワーによって水を制御し、戦いに勝ち抜いてきた信長にとっては本来欠かせない存在のはずだ。しかし、将軍足利義昭が「元亀」の元号によって亀が主、蛇が従と規定したことを忌避して、信長は義昭追放と同時に「天正」への改元を実行している。 それから6年、彼は義昭から取りあげた玄武をようやく完全に自分のものとしたことになる。そして、「玄武=黒=水」が象徴する自分の精神の根底を具現化してみせたのだ。 ちなみに、『信長公記』の作者、太田牛一による『安土日記』には「御殿(天)守は七重、悉(ことごと)く黒漆なり」と書かれているので、これは地上1階だけでなく6層すべてが同じ世界観で統一されていたと考えられる。ちなみに、座敷内だけでなく外に面する柱や狭間戸(窓の扉)なども同様の技法で真っ黒にされていた。 さて、その黒い世界の内、1階西側の12畳敷き座敷には、狩野永徳により梅の墨絵が描かれていた。「下から上までことごとく金」とあるのが墨絵と矛盾するとの説もあるが、「御絵所」という説明がついているので、これは漆黒の部屋の中で障壁画が飾られる場所、つまり絵のある襖(ふすま)や屏風、壁の一角だけが上下金箔(きんぱく)貼りで、その上から墨絵が描かれていたと考えるべきだろう。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) その隣の部屋は書院で、ここには「遠寺晩鐘(えんじばんしょう)」の絵があり、その前に「ぼんさん」が置かれている。ぼんさんは「盆山」と書く。庭園に人工的にこしらえた盛り土・石積みの築山(つきやま)を指すこともあるが、ここでは水面に見立てたお盆の上に石を置き、それに苔や小さい木を植え付けることによって、島を表現したものをそう呼んでいる。「遠寺晩鐘」に浮かぶ仮説 遠寺晩鐘は「瀟湘(しょうしょう)八景」と言われる中国の山水画のテーマの一つで、「烟寺晩鐘」「煙寺晩鐘」とも書く。夕刻、遠くおぼろに浮かぶ清涼寺から響いてくる鐘の音を聞くというテーマで描かれたものだ。 問題は、これが湘江(しょうこう)という大河の沿岸の風景であるということだ。湘江には伝説がある。神話時代の中国の聖帝に舜(しゅん)がいるが、この舜は治水に努めたとされる。 その2人の娘、娥皇(がこう)と女英は、父が亡くなると悲しみのあまり、湘江に身を投げて死に、「湘君」と呼ばれる川の神になったという。この湘江が流れ込む洞庭湖(どうていこ)には君山と呼ばれる島(今は砂の堆積によって岸とつながっている)があり、湘君が遊んだとされている。 つまり、盆山は背景の遠寺晩鐘の湘江から下った洞庭湖の君山を表しているのではないかという仮説が成り立つわけだ。川の神・水神の世界が、「黒=水」の結界の中に出現する。 そしてもう一つ、別の見方をしてみよう。湘君の棲む湘江の風景画の前に置かれた盆山。これは湘君を呼び寄せるための「磐座(いわくら。神が坐(ざ)す岩であり、ご神体そのものでもある)」とも考えられる。水のパワーを招くための仕掛けという解釈も可能だ。 1階の他の場所を見てみよう。書院の次には鵞鳥(がちょう)の絵の十二畳座敷、鳩・雉の親子の絵がほどこされた部屋が並ぶ。画題として鳥はポピュラーだが、一応チェックしておこう。 鵞鳥には、大国主神(おおくにぬしのかみ)の義兄弟として国造りを手伝った少彦名命(すくなひこなのみこと)が、鵞鳥の皮の服を着ていたという謂(い)われがある。今まで何度も引き合いに出してきた大国主神(大物主神)絡みの画題だ。 そして、鳩は武家にとって大切な武神、八幡神の使い。雉についてはさらに面白い。中国では、雌の雉が蛇の精を受けて産んだ卵が蛟(みずち)という怪獣になり、洪水を引き起こすという言い伝えがある。日本でも、雉は災害を予知し吉祥として尊ばれ、「白雉(はくち)」という元号も使用されたほどだ。滋賀県のJR安土駅前にある織田信長像 以上のように、1階の鳥の絵はすべて瑞兆(ずいちょう)を表している。 それに続く座敷には、中国の儒者たちの絵。儒者は儒教を研究・信奉・実践する者たちで、古くから内裏の障壁画として採り上げられていたものだが、この場合の具体的な内容はわからない。2階にたたずむ「仙女」 とにもかくにも、水神・瑞祥(ずいしょう)の鳥たちに続いて、中国古来の儒教をモチーフとした部屋があったことだけは確かだ。このあとにも、さらに部屋や納戸が連なって1階部分が構成されている。 続いて2階へ上がってみよう。花と鳥が描かれた「花鳥の間」。中国の伯夷と叔斉が描かれた「賢人の間」。伯夷と叔斉は儒教の聖人だ。 この賢人の間には、「ひょうたんから駒」の絵も描かれている。これは中国の方士(仙人)・張果老が、白いロバを白紙に変えてひょうたんの中にしまい、移動のときはその紙をひょうたんから出し、元の白ロバに戻して乗ったという伝説にもとづくもので、若いころは魔除けのひょうたんを腰から吊していた信長としては好みの題材だろう。 ここで儒教と神仙という中国本来の宗教世界(仏教は外来宗教)が同居している。この他にも仙人の呂洞賓(りょどうひん)、西王母(せいおうぼ。『西遊記』にも登場する天界の仙女王)が描かれた部屋がそれぞれある。 このように書くと、いかにも詩的な世界観だが、一つ注意しなければならないのが西王母の部屋だ。 この仙女の王は、後世になって絶世の美女の姿で描かれるようになったが、原初の風体は、牙を剥いた鬼女そのもの。おまけに、その下半身には蛇(豹とも)の尾が生えている(『山海経』)。漢の時代の中国の絵に残されている西王母は龍も従えており、両脇の侍臣の下半身は蛇で、互いに絡み合う。 この安土城天主の2階に描かれた西王母が美女の像か、あるいは古代の鬼女の像だったかは不明だが、西王母が龍や蛇に密接な関係がある存在だったのは確かで、これも信長の世界観にはピッタリだ。この他さらに数室が続いて、3階へ。 3階では龍虎が争う様子を描いた部屋、それに鳳凰(ほうおう)を描いた部屋が目立つ。それぞれ画題としてはメジャーで、それに松、竹の絵の部屋もあり瑞祥の連続だ。天主跡まで急な石段が長々と続く安土城=2015年3月、滋賀県近江八幡市 許由(きょゆう)と巣父(そうほ)という古代中国の隠遁者たちを描いた部屋もある。これも障壁画の題材としては一般的なものだが、俗権力を徹底的に避けたふたりを描かせた信長には他に何らかの意図があったのだろうか。 4階に絵は無く、5階は八角形。これは法隆寺の八角円堂として有名な夢殿と同じ構造だ。実際、その内部は釈迦(しゃか)の十大弟子や釈迦が悟りを開き説法をおこなうまでの物語が描かれており、外周の縁側には餓鬼・鬼という仏教上の「餓鬼道」が配され、内部の人間道・天道との対比を成して、仏教の世界観を完成させている。「八角形」もう一つの謎 そしてもう一つ。八角形というと八卦鏡(はっけきょう)が連想される。 「当たるも八卦、当たらぬも八卦」などというが、これは中国の八方位陰陽説に基づいた風水占術を表している。八卦鏡は風水上、玄関や水回りに配すると凶を防ぎ、そのパワーが八方から吉を呼び寄せるという。ちなみに元伊勢籠神社神宝となっている天照大神ゆかりの辺津鏡(へつかがみ)・息津鏡(おきつかがみ)も八芒星(あるいは太陽の象徴だろうか)があしらわれている。 また、キリスト教では八角の星(八芒星)を「ベツレヘムの星」と呼ぶ。自然界の八つの要素がエネルギーの流れを支配し、力、権力を生むという星だ。以前長篠の戦いの際に触れた五芒星や六芒星より能動的にパワーを高めるという点では最強といえる。 信長が宣教師からその知識を得ていたかどうかはさだかではないが、結果としてその形状を天主5階に導入していたことになる。魔除けアイテム・パワーグッズに凝った信長がそれを知っていれば、さぞや得意満面の表情を浮かべただろう。 その八角堂の外周、縁側の欄干には擬宝珠(ぎぼし)が付けられている。これは信長の権力の高さ、大きさを表す。本来擬宝珠は朝廷や将軍の特権だからだ。 その縁側の端戸(はたいた。縁側の行き止まりにはめられる板)には龍と鯱(しゃち)が描かれていた。鯱も龍と同じく水を制する霊獣であり、いかにも信長らしい。 いよいよ、最上階の6階にたどり着いた。内・外ともに金貼りされた座敷の四方の内柱には、昇り龍・下り龍があしらわれている。2年前、「天下布武」印に取り入れた下り龍の意匠に昇り龍も組み合わされた。安土城天主跡からの展望、現在田畑が広がる場所は当時琵琶湖の内湖であったという=2010年1月撮影 信長はその座敷の中央に座し、龍のパワーの降臨を仰ぎ、その力で運気上昇する態勢を整えたのだ。壁には三皇五帝や孔門十哲などといった古代中国の聖帝・儒教の名士たち、中国文明の粋といえる要素で埋め尽くされていた。 最後に、この天主を含む安土城の主郭部の跡からは、鬼瓦には宝珠などの招福アイテムをモチーフとしたものが出土している(『安土城1999』安土城考古博物館)。これも信長の縁起担ぎ好きの一面をよく示しているものだろう。

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    『麒麟がくる』主人公、明智光秀のトンデモ俗説を論破する

    渡邊大門(歴史学者) NHK大河ドラマ『麒麟がくる』は、当初の予定から延期され、1月19日が初回放送になった。「ゆかりの地」とされる地域では、一日千秋の思いでお待ちのはずである。自治体関係者の方などは、観光客がどれだけ来るのか心配される向きもあろう。 とはいえ、前回の連載で、光秀が土岐明智氏の出自であることは、残っている史料では成り立ちがたいと指摘した。質の悪い史料を並べて論じたところで、まったく意味がないのである。実は、ほかにも光秀の出身地とされる場所が各地にある。 たとえば、『淡海温故秘録(おうみおんこひろく)』という17世紀後半に成立した史料がある。そこには美濃出身の明智氏が土岐氏に逆らって牢人となり、近江の六角氏を頼って佐目(滋賀県多賀町佐目)に逃げてきたと書かれている。それから2、3代後になって、光秀が佐目の地で生まれたというのである。 事実ならば、光秀の誕生地は滋賀県多賀町佐目ということになる。ちなみに、佐目の地には、「十兵衛屋敷の跡地」などの関連史跡があり、光秀に関する逸話・伝承の類が残っているという。「光秀佐目出身説」は、事実と考えてよいのだろうか。 結論を言えば、この説もまったく信憑性に欠けるといえよう。光秀の出身地については、この例に限らず、質の劣る後世の編纂物や系図などに書かれている。『淡海温故秘録』は、良質な史料とは言えない。地元に伝わる伝承の類などもあてにならない。 光秀の出身地であると胸を張って言いたいのであれば、一次史料(古文書や古記録の類)で立証すべきである。質の悪い二次史料を持ち出して言い出し始めると、キリがないのである。以下、似たような説を考えてみよう。 光秀が滋賀県にゆかりがあったという説は、ほかにもある。永禄9年10月20日の奥書を持つ『針薬方』(医薬書)には、光秀が田中城(滋賀県高島市安曇川町)に籠城していたとの記述がある。この一節を根拠にして、光秀が琵琶湖西岸部を本拠にしていたとの指摘もあるほどだ。はたして、それは本当なのか? 以下、この件については、土山公仁氏(「光秀を追う7」岐阜新聞2019年7月2日付)や太田浩司氏(『明智光秀ゆかりの地を歩く』サンライズ出版)の諸説をもとにして考えることにしよう。 『針薬方』とは、光秀が田中城に籠城していた際、沼田勘解由左衛門尉に口伝され、米田貞能が近江坂本(大津市)で写した。室町幕府15代将軍、足利義昭は国人衆に味方になるよう呼び掛けた手紙を書いたが、結局、出すことがなかった。『針薬方』は、その手紙の裏に書かれたものである。つまり、反古紙を利用したものだった。 沼田勘解由左衛門尉は熊川城(福井県若狭市)に本拠を置き、義昭に仕えていた。米田貞能は医術によって、足利義輝・義昭に仕え、のちに肥後細川氏の家老になった。貞能は永禄9年に義昭が越前に逃避行する際、同行した人物である。つまり、実在の人物が書写したことが明らかなので、良質な史料と言えるのかもしれない。昨年5月に建立された明智光秀公像=京都府亀岡市古世町(同市提供) しかし、疑問がないわけではない。永禄9年8月29日、逃避行中の義昭は矢島(滋賀県守山市)を出発し、9月7日に敦賀(福井県敦賀市)に移動した。10月になると、義昭は朝倉氏を頼るべく交渉を開始していた。そのような緊迫した情勢の中で、米田貞能がわざわざ敦賀から坂本へ移動し、医薬書を写す必然性があるのかということである。 加えて、光秀が田中城に籠城していたという史実を裏付ける史料は、ほかには存在しない。ましてや、琵琶湖西部を本拠にしたという指摘があるが、当該地域に光秀が発給した文書は1点も見いだせない。太田氏は、『針薬方』の記述内容が当時の近江の状況とかけ離れていると指摘する。一次資料に登場しない光秀 したがって、現在では『針薬方』の記述には疑問点が多く、史料性に疑問があると指摘されている。筆者も同意見で、光秀が田中城に籠城したというのは、まったく根拠に欠けていると言わざるを得ない。光秀が籠城したという事実は、そもそもなかったのではないか? 籠城したというならば、信頼できる史料で裏付ける必要がある。 ほかにも、光秀が越前に長らく滞在していた、あるいは越前朝倉氏に仕官していたという説がクローズアップされている。光秀が朝倉氏に仕えたとされる根拠史料は、後世の編纂物『明智軍記』『綿考輯録』である。以上の史料に基づき、ごく簡単に光秀が朝倉氏に仕えた経緯などを触れておこう。 光秀は父を失ってからのち、各地を遍歴していたという。そして、弘治2(1556)年に訪れたのが越前国であった。光秀は越前国に留まり、朝倉義景から500貫文(現在の貨幣価値で、約5千万円)の知行で召し抱えられたといわれている。これは、かなりの破格の待遇である。 光秀は義景から命じられるままに鉄砲の演習を行い、その見事な腕前から鉄砲寄子を100人も預けられたという。光秀の軍事に対する高い才覚は、義景に評価されたのだ。大抜擢といえよう。以上が、光秀が義昭に仕えるまでの流れである。 ただ、問題なのは、光秀がそれだけの人物でありながらも、朝倉方の一次史料や記録類に一切登場しないことである。上述したことが事実ならば、朝倉氏の重臣と言ってもいいくらいなので、非常に不審な点である。さらに、根拠となる『明智軍記』や『綿考輯録』は、史料としての問題点が非常に多い。それは、前回指摘した通りである。 とは言いながらも、光秀が越前と深い関係を有していたとの指摘もある。『武家事紀』所収の天正元年8月22日付の光秀書状(服部七兵衛宛)に基づき、一時期、光秀が越前で生活していた根拠とされている。 書状の内容を確認しておくと、「この度、『竹』の身上について世話をいただいたこと、うれしく思っております。恩賞として100石を支給します。知行を全うしてください」というものである(現代語訳)。平たく言うと、知行宛行状(ちぎょうあてがいじょう)である。 この史料からは、残念ながら光秀が越前にいたことを示す内容とは読めない。この史料は、単に光秀が「竹」なる人物の世話をしてくれた恩賞として、服部七兵衛に100石を与えたものである。光秀がかつて越前に滞在していたとは、一言も書いていない。 そもそも「竹」なる人物は不詳であり、光秀との関係も分からない。この史料は越前朝倉氏を討伐した関係で服部七兵衛に発給されただけで、少なくとも光秀が越前にいたという証拠にはならないだろう。なぜ、この史料が、光秀が越前にいたことを示す証拠になるのか、さっぱり理解できない。 ほかに光秀が越前にいたことを示す史料としては、『遊行三十一組 京畿御修行記』天正8年1月24日条に光秀の記述がある。 この史料は、天正8(1580)年7、8月に同念が東海から京都・大和を遊行(修行僧が説法教化と自己修行を目的とし、諸国を遍歴し修行すること)したとき、随行者が記録した道中記で、信頼できる史料であると評価されている。確かに、同史料は一次史料である。※写真はイメージ(ゲッティイメージズ) そこには光秀について「惟任方(明智光秀)はもと明智十兵衛尉といい、濃州土岐一家の牢人だったが、越前の朝倉義景を頼みとされ、長崎称念寺(福井県坂井市)の門前に10年間住んでいた」と書かれている(現代語訳)。極めて少ない一次資料 この史料を読む限り、光秀が美濃の土岐氏の一族で牢人だったこと、朝倉義景を頼って越前を訪れ、長崎称念寺の門前に十年間住んでいたことが判明する。長崎称念寺は福井県坂井市に所在する時宗(じしゅう)の寺院で、数多くの武将が帰依したという。 実のところ、光秀と長崎称念寺との伝承は、ほかにもいくつか残っている。『明智軍記』には、光秀が美濃から越前を訪れた際、妻子を長崎称念寺の所縁の僧侶に預けたと記している。所縁というほどだから、光秀は以前から越前と何らかの関りがあったのだろうか。その間、光秀は諸国をめぐり、政治情勢を分析したというのである。廻った国は50余国に及んだというが、怪しげな話である。 光秀が長崎称念寺の近くで寺子屋を開き、糊口を凌いでいたとの伝承すらある。牢人が寺子屋を開いた逸話としては、長宗我部盛親の例がある。慶長5(1600)年の関ヶ原合戦で敗北した盛親は、京都で寺子屋を開いた。 ただし、ほかにも挙げるとキリがないが、光秀と長崎称念寺の逸話を載せる地誌類は多いものの、いずれも裏付けとなる一次史料がない。また、越前における光秀関係の史跡もあるが、同様である。あくまで、伝承や口伝の類に過ぎない。 『遊行三十一組 京畿御修行記』における、光秀が長崎称念寺にいたという点は、地元の口伝などに基づいた記録と考えられる。同念は、直接光秀から聞いたのではなく、噂を書き留めたのである。記述内容が聞き書きなのは、確かである。したがって、同史料に基づき、光秀が越前にいたことの証左とするには疑問が残る。 そもそも朝倉氏の家臣であるならば、なぜ本拠の一乗谷ではなく、長崎称念寺の門前に住んでいたのか。根本的な疑問である。後述するが、先に取り上げた『針薬方』には、朝倉氏が用いた薬の記述があるので、光秀は朝倉氏の上級家臣だったという説すらある。※写真はイメージ(ゲッティイメージズ) 光秀の居住場所は、もう一つの説がある。一乗谷から峠を一つ越えた福井市東大味には、明智神社がある。神社は光秀を祭神として祀っており、光秀の屋敷址も残っているが、実際は小さな祠(ほこら)に過ぎない。 ここは一乗谷に近いが、朝倉氏の家臣は一乗谷に集住していたのだから、単なる伝承ではないのかと疑問が残る。朝倉家において、光秀の処遇はよくなかったから一乗谷に住んでいなかったのか。 ちなみに、朝倉氏に関する一次史料で、光秀のことを記した史料は1点もない。光秀が上級家臣ならば、なんで関連する一次史料が残っていないのか。光秀が朝倉氏の家臣だったという説を唱える人は、そうした疑問には答えていない。越前だけでもさまざまな伝承や口伝があるのだから、どれが正しいのか判然としない。 ところで、『明智軍記』巻一の成立には、時宗関係者の関わりがあったと指摘されている。この指摘を考慮すれば、すでに天正8年の段階において、時宗関係者の間で光秀が越前に在国していたという説が流布していたのかもしれない。 あるいは、光秀は長崎称念寺と何らかの深い関係があったのだろうが、その可能性があるとするならば、天正元年の朝倉氏滅亡後のことである。その際、光秀が越前支配の一端を担っていたのは確かである。光秀と時宗の関係は、さらに追究する必要がある。 もう少し、朝倉氏と光秀について考えてみよう。「光秀は医者だった」の疑問 先述した医学書『針薬方』には、「セイソ散」が「越州朝倉家之薬」と書いてある。「セイソ散」とは「生蘇散」のことと考えられ、中世後期に成立した医学書『金瘡秘伝下』には「深傷ニヨシ」と書かれている。合戦などで傷を負った武将が用いていたのだろう。 問題なのは「セイソ散」を「朝倉氏の秘薬」などと紹介していることだ。セイソ散は一般的に知られていた薬であり、特別なものではなかったのではないか。「越州朝倉家之薬」は、「朝倉氏が持っていた薬(=セイソ散)」程度の意味だろう。「セイソ散」が「朝倉家の秘薬だった」という指摘には、首を傾げざるを得ない。 当時、一乗谷には医師が滞在していた。これは事実である。しかし、それをもって、朝倉氏が薬剤を独自に開発しており、医学がかなり普及していたとは、大きな論理の飛躍があろう。これでは、まるで現代の製薬会社であり、病院みたいなものである。当時、そうしたことがあったのか、極めて疑問である。 当時の医学は今のように外科、内科などに分かれていたわけではない。それらはおおむね民間療法レベルで、薬草などを調合して服用するのが一般的だった。戦国武将の場合は合戦に出陣し、ケガを負うリスクが高いのだから、民間療法レベルの医学知識は普及していたはずである。庶民も同じだろう。 『針薬方』の記述をもって、「光秀は医者だった」「光秀は越前で医学を学んでいた」「光秀は朝倉氏の上級家臣だった」などの見解があるが、いずれも根拠薄弱である。一次史料で裏付けられない。単に『針薬方』にあらわれたキーワードを拡大解釈したに過ぎない。しかも、すでに触れた通り、『針薬方』は疑問が多い史料である。 したがって、光秀が朝倉義景に仕えたという説には大きな疑問があり、この点を信頼できない史料に拠って鵜呑みにすると極めて危険である。仮に百歩譲って、光秀が越前に在国していたにしても、朝倉氏に本当に仕えていたのかは極めて疑わしい。 「光秀の出自が近江だった」「光秀は越前朝倉氏に仕えていた」「光秀は医者だった」といった説は、①信頼性に乏しい二次史料に依拠した説②疑わしい史料記述を拡大解釈し、論理の飛躍をした説、と指摘することができよう。あるいは、自説を有利にするための「結論ありき」といえるかもしれない。大津市の坂本城跡に立つ明智光秀像=2007年9月(安元雄太撮影) 今後も光秀の出自や前半生、あるいはその他のことについて、さまざまな説が出るだろう。それらは、注目を浴びたいがための俗説に過ぎないのではないか。そうした説に接した際には、根拠となる史料の性質、そして史料の拡大解釈や論理の飛躍がないのか、注意を払いたい。新説は、泉が湧くように出てこないものである。※主要参考文献渡邊大門『明智光秀と本能寺の変』(ちくま新書)渡邊大門『光秀と信長 本能寺の変に黒幕はいたのか』(草思社文庫)渡邊大門『本能寺の変に謎はあるのか? 史料から読み解く、光秀・謀反の真相』(晶文社)

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    安土城完成、ベールを脱いだ信長の「決意表明」

    橋場日月(歴史研究家、歴史作家) 豪雨と相撲で明け暮れた信長の天正6(1578)年は、第2次木津川口の戦いで鉄砲や大筒で武装した織田水軍の鉄甲船が毛利水軍を撃破し、本願寺・毛利に寝返った摂津の荒木村重の有岡城(伊丹城)攻撃開始で終わった。 年が改まって天正7(1579)年。正月8日、安土城の信長小姓衆・馬廻衆・弓衆は6キロほど南の馬淵へ駆り出された。現在は滋賀県近江八幡市馬淵町となっている馬淵庄は、古来石工集団が活動していた。彼らは天正4(1576)年の着工以来、安土城築城にも穴太(あのう)の石工集団とともに従事している。のちには豊臣秀吉の命で京・三条大橋の架け替え橋脚工事や徳川家康の命で江戸城の改修工事にも携わった職人たちだった。 織田家臣たちは正月早々ご苦労なことだが、その石工のところから切石350個余りを安土まで運ぶために動員されたのだ。言うまでもなく、城の工事に使うための石材だったのだろう。信長は相撲で地鎮するだけでなく、大量の石材を投入して城の地盤固めを続けていた。 翌日、石材運搬作業を行った家臣たちには信長の趣味の鷹狩りの獲物である鶴や雁(かり)が下げ渡されている。重労働にしてはささやかな賞与だが、信長としては「これで鍋でも作って食べて、石運びで消耗したスタミナを回復しろ」という程度の気持ちだったのだろう。 続いて11日には、堺の豪商・天王寺屋宗及(津田宗及)が安土城を訪れた。明智光秀、松井夕閑と信長重臣の元を正月のあいさつ回りを兼ねた茶会で巡ったあと、信長に招かれたのだ。 宗及はその茶会記に「御殿守拝見仕(つかまつ)り候。上様直に御案内なさるものに候。御殿守七重、其外(そのほか)様躰(ようだい)中/\(なかなか)筆にのべ難き也」と書いている。彼は信長に直接案内されて、安土城天主を見学し、その規模と豪華さが「なかなか筆舌に尽くし難い」ものだったと驚き入った。 この段階で、安土城天主がほぼ完成していたことはこの記事で分かる。 だが、信長はまだ城内の屋敷からこの天主に移ろうとはしなかった。3月30日、鷹狩りの途中、箕面の滝を見物。江戸時代の観光案内『摂津名所図会(ずえ)』はこの滝を天下で2番目の滝と紹介している。ちなみに天下第一はというと、これは熊野那智大社のご神体、那智の滝だ。名古屋市緑区の「桶狭間古戦場公園」にある織田信長の銅像 同書は「瀧の上に碧潭(へきたん)あり。これを龍穴(りゅうけつ)といふ。村民旱天(かんてん)に遇う時。ここに祷(いの)れば忽(たちまち)膏雨(ごうう)降るなりとぞ」と続ける。「滝の上(の岩窟)に青い澱み(よどみ)がある。これを龍穴と呼び、近在の村民たちが日照りのとき、この龍穴に祈りを捧げれば、即座に恵みの雨が降るということだ」という意味だ。水を支配する龍の聖地。まさに信長好みの場所ではないか。 滝の手前には滝安寺(りょうあんじ)があるが、これは修験道の開祖とされる役小角(えんの・おづぬ)が日本最古の弁天様(弁才天女)を祀(まつ)ったという伝承を持つ寺で、江ノ島、竹生島、厳島と並ぶ日本四弁天の一つでもある。これも元々は水の神であることは以前にも述べた。天主に続く「異様」な石段 前年、豪雨の被害で散々な目にあった信長としては、ぜひとも訪れておかなければならないところで、言うまでもなく彼は恵みの雨ではなく「今年は大雨を降らすな」と龍神と弁天にくぎを刺しに行ったというところだろう。ほぼ完成した安土城天主に何か被害があってはたまらないからだ。間もなく梅雨の時期が来ようとしている。 こうして5月11日、信長は満を持して安土城天主に移る。新暦で言えば6月15日。まさに梅雨入りのタイミングだが、京では前日まで4日連続、奈良でも前々日まで3日連続で降っていた雨は、この日はやんでいたらしい(『兼見卿記』『多聞院日記』『言経卿記』)。 翌12日には再び降雨となるので、信長の箕面滝参詣は効果てきめんだったというわけだ。正月早々にではなく、4カ月後のこの日を「吉日につき」と『信長公記』が記しているように縁起を考慮して実行された移徙(わたまし)は、無事に終わった。 さて、それではめでたく信長の住まいとなった安土城の天主と城内の造りについて述べていこう。 大手口を入ると、真っすぐに伸びた幅広い石段がある。現在でも復元された石段で複数見ることができるのが「転用石」だ。石仏を石材の代わりに流用したもので、信長はかつて足利義昭の二条御所修築でも石仏を流用したが、石段への流用が確認できるのは安土城のみとなっている。この石仏転用の石段はなかなか異様な光景だ。 いや、石仏が異様なのではない。明智光秀が築いた福知山城の天主台の石積みには墓石(五輪塔)が転用され、大和郡山城のそれには天地逆さにされたお地蔵さんがはめ込まれている。 他にも姫路城や有岡城など、例を挙げればキリがない。一般に石垣や石積みに使われた転用石には、城を呪力で防御するまじないの意味があったと言われている。安土城大手道の石材として使われた石仏=滋賀県近江八幡市安土町(筆者撮影) これに対して、安土城では人が足で踏みつける石段に流用されている点が特殊なのだ。他の武将が頼みにする仏教のアイテムである石仏・墓石の魔力。信長はそれに一切期待せず、足元に敷いて踏みつけるという手段を選んだ。それは、比叡山延暦寺(えんりゃくじ)の焼き討ちや本願寺との泥沼の戦争で彼が一貫してアピールして来たことなのだ。 「自分に従わない者は、仏であっても討つ。自分にひれ伏す存在であることを思い知れ」 信長は天主に登っていく石段で、まずその思想を具現化して見せたと解釈すべきだろう。城に込めた信長の「支配論理」 石段を登り本丸へと行き着くと、そこには唐様の御殿と将軍館がある。「玉石を研(みが)き、瑠璃(るり)を延べ、百官快く貴美を尽くし、花洛を移させられ、御威光・御手柄あげてかぞう(数える)べからず」 唐様の御殿というのは、おそらく天主の一段下に礎石群が残る「清涼殿」だろう。礎石の配置が線対称で左右逆転してみると京・内裏の清涼殿のそれと相似しているため、信長が安土城内に同じ物を造ったと考えられているものだ。詳細は「iRONNA」に前編集長による非常に興味深い論考があるため、ご参照いただくとよいだろう。これは天皇の政務・儀式の場になる。 そして、将軍館は武家の棟梁(とうりょう)の政務の屋形だ。 清涼殿と将軍館。公武の対になった政治のベースに百官(朝廷の文武百官)ら京をそのまま移す構想が高らかに宣言された。これは第18回で触れた「安土へ内裏様行幸申され候わん」という皇室行幸計画とリンクしている。将軍館は、当面信長の政務の場となり、やがては嫡男の信忠に引き継がれる構想だったと想定できる。 つまり、前述の大手道の石仏は、天皇も踏むことが前提となっていた。これは、国家鎮護の仏教を保護し皇族を寺院の門跡として送り込んで来た朝廷の歴史を真っ向から否定するロジックの象徴だっただろう。「仏教国家・日本」からの脱却宣言である。信長は朝廷と仏教の関係をもいったんリセットし、自分の支配論理の中でそれを再構築しようと考えていたのだ。 「天皇(みかど)と言えども、余の政策の下に御座す(おわす)」 その思考を、さらに具体的に形にしたのが、天主だ。後の時代になると天守、天守閣と呼ばれる城郭中の最高建築物、城郭の象徴として扱われ城主の居住空間ではなくなった天主だが、信長はこれを居住空間とした。その字も「天の主」が住まうプライベート空間が、清涼殿と将軍館を上から見下ろす形になる。信長は天皇と将軍、公武のツートップを足元に従えて天下に君臨する自分の姿を思い描いた。安土城「清涼殿」跡=滋賀県近江八幡市安土町(筆者撮影) それでは、天主の中に入ってみよう。これについては、『信長公記』の中に「安土山御天主の次第」という詳細な記録がある。石くらの高さ十二間余りなり。一、石くらの内を一重土蔵に御用い、是より七重なり。二重石くらの上、広さ北南へ廿間、西東へ十七間、高さ十六間。ま中に有る柱数二百四本立つ。本柱長さ八間、ふとさ一尺五寸、六寸四方、一尺三寸四方木。御座敷の内、悉(ことごと)く布を着せ黒漆なり。西十二畳敷、墨絵に梅の御絵を狩野永徳に仰付けられ、かゝせられ、何れも下より上迄、御座敷の内御絵所悉く金なり。同間の内御書院あり。是には遠寺晩鐘の景気かゝせられ、其前に、ぼんさんををかせられ、次四でう敷、御棚に鳩の御絵をかゝせられ、又十二畳敷、鵝(がちょう)をかゝせられ、則鵝の間と申すなり。又其の次八畳敷、奥四てう敷に雉の子を愛する所あり。南又十二畳布、唐の儒者達をかゝせられ、又八でう敷あり。東十二畳敷、次三でう布、其次、八でう敷、御膳拵(こしら)へ申す所なり。又其次八畳敷、是又御膳拵へ申す所なり。六でう敷、御南戸、又六畳敷、何れも御絵所金なり。北ノ方御土蔵あり。其次御座敷、廿六でう敷の御南戸なり。西は六でう敷、次十でう敷、叉其次十でう敷、同十二畳敷、御南戸の数七つあり、此下に、金燈炉をかせられたり。 ここまでが天主地下1階と地上1階の様子だ。ひとまずこの部分について解説しようと思うが、紙数の関係で次回に続く。

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    首里城の守護者たちが教えてくれる「正しい再建」

    、前回の論考で記した通りだ。その際、識者たちが「所有権の沖縄県への移管」を主張する根底に、「首里城は歴史的に沖縄のものだ」という認識があるが、首里城は本当に沖縄の人々だけの力で築かれ、守られてきたのだろうか。 前回は首里城問題の深層を指摘したが、本稿では首里城の「歴史」について明らかにしていきたい。まずは、戦後の再建をさかのぼって確認してみよう。 首里城は1945年の米軍による艦砲射撃により焼失し、琉球列島米国民政府時代の50年、城跡に琉球大が設置された。72年5月15日の祖国復帰とともに国史跡に指定され、77年からの琉球大の移転開始に伴い、80年代に入って、県と国による首里城復元に関する計画が策定された。 本格的な復元へと動き出す際に最も大きな働きをしたのが、元通産相の山中貞則である。「沖縄県民斯(か)ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜(たまわ)ランコトヲ」。山中の沖縄への特別な思いは、戦後に友人から教えられた沖縄特別根拠地隊司令官、大田実の決別電文から始まっている。 64年、第1次佐藤栄作内閣が発足すると、山中は佐藤に沖縄訪問を求め、膝詰めで談じ込んだという。山中は「県民が祖国に復帰できるかどうかに、内閣の命運をかける価値がある」と佐藤に断言した。 その結果、65年8月19日、現職首相として戦後初の沖縄訪問が実現する。それ以降本格化する沖縄返還交渉に山中も携わり、72年の祖国復帰につながっていった。返還後に設置された沖縄開発庁の初代長官に就き、沖縄経済の振興に尽力する。 沖縄復帰を2年後に控えた70年には、琉球政府から国費による首里城復元の要請を受ける。「沖縄は日本のために尊い犠牲になったのだから、日本国民、日本政府として復元に力を貸すのは当然だ」。総理府総務長官だった山中は難色を示す大蔵省を説得し、政府も第1次沖縄復帰対策要綱を決定したことで、復元の道筋をつけた。沖縄で開催された復帰記念式典であいさつをする山中貞則沖縄開発庁長官(右端)=1972年5月15日、那覇市民会館 その結果、89年に首里城正殿の復元工事に着手し、祖国復帰20周年にあたる92年に首里城公園が国営沖縄記念公園として一部開園した。その後も復元作業は続けられ、今年2月に全ての復元プロジェクトが完了したばかりだった。 さて、戦後の復元を開始するにあたって、首里城は既に灰となってしまい、現場には何も残っていない。それでも、復元に役立てられた写真や図面といったデータの蓄積があったのは、昭和の首里城大修理を担った先人たちの残したきめ細やかな努力によるものだった。保存に奔走した2人の男 1879年に沖縄県が設置されると、最後の琉球国王だった尚泰は、他の藩主と同じように首里城を明け渡した。その後、09年に首里区(当時)の所有物となっても世間から見向きもされず、11年6月には地震や暴風が相次ぎ、正殿2階の天井が墜落するなど、廃虚にも等しい悲惨な状態をさらした。 1923年9月、沖縄県は首里城正殿を取り壊すことを決定し、取り壊し式を24年4月7日に実施することになった。跡地に沖縄県社(沖縄神社)を建立する計画も立案された。 さかのぼること2年半前の21年4月、香川県出身の鎌倉芳太郎が沖縄女子師範学校の美術教師として赴任した。鎌倉は豊かな沖縄文化に惹かれ、2年の滞在で沖縄本島や宮古、八重山をくまなく歩く。そして、沖縄の芸術や文化、宗教に関する写真やスケッチなど大量な記録を残し、沖縄文化研究の第一人者と呼ばれるようになる。 東京に戻った鎌倉は23年3月、小石川にある沖縄県出身者の寮、明正塾を訪れた際、沖縄地元紙の「首里城取り壊し」の記事を見つける。取り壊し式が10日後に迫っていることを知った鎌倉はすぐさま明正塾を飛び出し、本郷の東京帝大に向かった。同大教授で建築家の伊東忠太に面会して、首里城の危機を訴えるためだ。 伊東は日本最初の建築史家といわれ、神社建築の第一人者であり、古社寺保存の権威としてその名を轟(とどろ)かせていた。鎌倉の要請を受けた伊東はすぐに内務省神社局長の大海原(おおみはら)重義に中止を要請する。 大海原も伊東の働きかけには逆らえず、沖縄県庁に「首里城並びにその建造物は史跡名勝天然記念物に該当するので取り壊しならぬ」と中止命令を打電した。実際には、取り壊し式を待たずに作業が開始されており、既に瓦が外され始めたところだった。しかし、鎌倉と伊東の情熱と行動に支えられて、首里城は奇跡的にその命を守られたのだ。 1925年、首里城正殿は特別保護建造物、次いで旧国宝に指定され、沖縄神社拝殿として存続する。その後、修繕計画が立てられ、28年2月には昭和の大修理が始まった。建築家・伊東忠太の胸像(東京大学工学研究科建築学専攻所蔵)=2009年7月撮影 しかし、早くも30年ごろに工程2割で工事資金が底をついてしまい、手詰まり状態に陥った。7月には観測史上3位(当時)の台風が沖縄を襲い、那覇市では最大風速47メートルを記録する。首里城も大きな被害を免れず、工事も中止状態となった。 再び危機に陥った首里城を救ったのが、文部省宗教局の阪谷良之進と同省建築技師の柳田菊蔵である。阪谷から沖縄への派遣の命を受けた柳田は現地到着後、被害状況の調査に入った。法隆寺や姫路城よりも優先 そこで柳田が目にしたのは、屋根が台風で剝がれ、柱もシロアリの餌食にされた悲惨な首里城の姿だった。柳田は状況を手紙で報告するととともに、阪谷に素屋根(すやね)設置の必要性を訴えた。 素屋根とは、建物をすっぽり覆う仮設物で、台風による再度の被害を避けられるだけでなく、木材を風雨に晒(さら)すこともないため、劣化や損失を防ぐことができる。最大のメリットは、工事が天候に左右されなくなるため、計画通りに工事を進められることだ。ただその分、高額な予算を必要とする。 阪谷も2月には自ら沖縄まで足を運び、滞在を延長して丹念に視察した。その結果、柳田の主張通り、素屋根を用いた工法でなければ、工事は完成できないと確信する。 東京に戻った阪谷はすぐさま、工事費増額のために粉骨砕身の努力を始める。それからわずか数日後、柳田に打った電文には「工費は九八九〇〇円以内に収ること」とあり、ただし書きに「貴族院議員控室にて決定す」とあった。 この予算は当時の首里市にほぼ匹敵する規模であり、文部省が行ったどの修理工事も超える額だった。しかも、台風が首里城を襲う前年の29年3月に国宝保存法が制定されたばかりで、文部省にとっては、この法律に基づいて修理しなければならない文化財が山積みだった。 その中には、伊東により世界最古の木造建築物であると確認された法隆寺や、西の丸の櫓(やぐら)の一部が大雨で崩壊して早急な修理が必要だった姫路城があった。文部省は、これらの文化財より首里城の大修理を優先して予算をつけたのだ。 昭和の大修理では、各部材を実測し記録を取った上で解体し、修復してから組み立てるという気の遠くなる作業を繰り返した。それでも現場監督の柳田と文部省で監督指揮した阪谷のもとで、素屋根がかけられた正殿の修復は迅速に進んでいった。そして、再開からわずか1年9カ月後の33年9月23日、幾多の困難を乗り越えながらも、一人のけが人を出すことなく完成した。激しく燃え上がる首里城の正殿=2019年10月31日午前4時ごろ、那覇市(近隣住民撮影) さて、鎌倉や伊東が取り壊しを阻止し、阪谷や柳田により見事、昭和の大修理を成し遂げた首里城は、いつ建築されたものなのだろうか。1709年の琉球は国難ともいえる不幸の連続だった。病床にあった尚貞王のために壇を設けて、除厄祈福のために経を七昼夜唱えたが、7月13日に亡くなり、在位41年の長期政権が終わりを告げた。 その夏、相次いで台風が襲い、作物を吹き飛ばしたかと思えば、そのあとは雨が一滴も振らない干ばつに見舞われてしまう。18世紀に編纂(へんさん)された琉球王国の正史「球陽」には、次のような記述が残っている。薩州の太守、白銀を発賜して饑ゑたる民人を済ふ。旧年の夏秋、颱颶七次あり。十月に至りて、颱風最も暴し、国、大いに饑饉を致す。王、即ち倉廩を発し、周く人民を済ふ。然れども、春に入り、饑甚だしく、民已に餓殍す。遂に其の事、薩州に聞ゆ。是れに由りて、薩州太守吉貴公、白銀二万両を寄賜して、以て本国の餓□を賑済せしむ。(意訳)夏から秋にかけて台風が7度にわたりやってきた。特に10月の台風は激しかった。国を飢饉が襲ったのだ。そのような中、11月25日午前2時。首里城が紅蓮(ぐれん)の炎に包まれた。この火災で南殿、北殿ともに跡形もなく灰になってしまったのだ。王は人民を救済するために蔵の米を放出するが、それでも足りず、3200人の餓死者を出してしまった。王府は薩摩の在番奉行の協力を得て、救援米の支援を要請するため飛船を出した。薩摩藩主島津吉貴が琉球に救援米3千石を貸与。続いて銀200貫を送り、続いて白銀2万両を送った。「正しい復元」に必要なこと 1710年10月、首里王府は再建責任者として、向鳳彩(しょうほうさい、今帰仁按司(あじ)朝季)を総奉行に任命し、着工した。しかし、木材が不足しているため再建がままならない。球陽にはこのように記述されている。薩州太守、材木を寄賜して、以て宮殿の修造を補ふ。先年、王城回禄し、将に宮殿を修造せんとす。而して材木欠乏す。今、疏文を具し、薩州に求買す。是れに由りて、薩州太守吉貴公、材木壱万九千五百二十五本を寄賜して、以て禁城宮殿の修造を補ふ。(意訳)去年、王城が火災で消失し、まさに宮殿を修繕しようとするが、材木が足りない。薩摩に買い求める。これにより薩摩藩主、吉貴公は、材木1万9525本を琉球国に寄賜し、宮殿修繕の助けとした。 蒸気船もない時代に約2万本の木材を沖縄まで贈ることは、当時の薩摩にとっても国をあげた大事業だったのではないだろうか。このような薩摩の多大な援助により、首里城の再建を行うことができたのである。  琉球については、よく「1879年の琉球処分まで独立国だった」といわれるが、江戸時代は薩摩の支配下にあって、決して独立していたわけではない。また、災害や飢饉に襲われたとき、救援の手を差し伸べたのは、明(みん)や清(しん)ではなく、薩摩であり、中国の属国だったわけでもない。 そして、本稿のテーマである首里城再建を支援してくれたのも、やはり薩摩だったのだ。首里城のような巨大に建築物を建てるには、沖縄ではとても木材が足らないことは、今も昔も変わらない。 これまで、首里城の歴史を振り返って分かるように、少なくとも江戸時代中期以降、建設においても復元においても、沖縄だけで成し遂げることができたケースは一つも見当たらない。首里城の復元は、沖縄県外の人々の多大な尽力により成し遂げられたものである。その背景には、戦前の国宝保存法や戦後の文化財保護法といった国の法律と、それを適用した国の補助金の投入なくしては不可能だったのだ。 最後に沖縄県出身者として、首里城復元に関わっている人に伝えておきたいことがある。復元を語るとき、前述した伊東、鎌倉、阪谷、柳田4人の功績を伝えることを決して忘れてはならない。沖縄県立博物館・美術館で公開される、沖縄戦で焼失した首里城の正殿を再現した模型(同館提供) 彼らへの感謝を忘れたままで、正しい復元など不可能だ。ましてや、その恩を忘れ、沖縄という小さな島だけで、首里城の建設や復元を成し遂げたと勘違いし、所有権の移管を主張したら、どうなるであろうか。 沖縄県は恩知らずの県民性を育む結果となり、将来に修復不可能な大きな禍根を残してしまうだろう。首里城に息づく伝統芸術は沖縄の誇りであることは間違いないが、歴史的に見れば、明らかな「国宝」であり、日本国全体で守り伝えていくものなのだ。(文中敬称略)

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    美濃土岐氏の末裔か?極限まで迫る「明智光秀」出自のナゾ

    渡邊大門(歴史学者) 女優の薬物事件による降板でスタートが延期されたが、来年1月から、明智光秀を主人公としたNHK大河ドラマ『麒麟(きりん)がくる』が放映される。大河ドラマが放映されると、主人公のゆかりの地には観光客が押し寄せ、経済的に潤う。それは結構なことである。しかし一方で、観光客を呼び込むため、根拠のない俗説を強調することも珍しくない。こちらは、悲劇である。 もう一つの悲劇は、本能寺の変の関連本である。プロ・アマ入り混じって関連書籍を刊行しているが、デタラメな内容のものも少なくない。すでに否定された説を壊れたカセットデッキのように、何度も繰り返し刊行されている例も見受けられる。現在、残っている史料からは、すべての黒幕説は否定されている。 光秀を語るうえで、重要なポイントは出自の問題である。光秀が土岐明智氏の流れを汲むことは、所与の前提とされている。はたして、それは正しいのだろうか? 一般的に光秀は、美濃の名門一族である土岐氏の流れを汲む、土岐明智氏の出身といわれている。土岐氏は清和源氏・源光衡(みつひら)の末裔(まつえい)であり、鎌倉時代に美濃国土岐郡に本拠を構えた。以降、土岐氏は美濃に勢力を拡大し、室町幕府が成立すると美濃国に守護職を与えられ、三管四職家(管領または侍所の所司になれる家柄)に準じる扱いを受けた。 実際に土岐氏は、侍所の所司を務めたこともある。14世紀中後半の土岐頼康の代には、尾張・美濃の守護も兼ねた。ところが、天文11(1542)年に当主の頼芸(よりなり)は、配下の斎藤道三によって美濃から追放された。これにより事実上は滅亡したものの、土岐氏は名族にふさわしい家柄である。 土岐明智氏は美濃国の名門で守護を務めた土岐氏の支族で、室町幕府の奉公衆の一員でもあった。奉公衆は室町幕府における御目見以上の直勤御家人で、五番(五つの部隊)に編成されていた。 日常の奉公衆は番の隊長である番頭のもとで、御所内の諸役や将軍御出の供奉などを務め、戦時には将軍の親衛隊として出陣する直属の軍事力でもあった。後年、信長に仕え重用された光秀にとっては、相応な出自といえるのかもしれない。大阪府岸和田市の本徳寺に明智光秀像として伝わる肖像画(模本、東大史料編纂所蔵) では、光秀の父はどのような人なのだろうか。その点は、数多くの明智氏の系図に触れられている。次に、代表的な系図を挙げることにしよう。 ①光綱――『明智系図』(『系図纂要』所収)、『明智氏一族宮城家相伝系図書』(『大日本史料』一一―一所収) ②光隆――『明智系図』(『続群書類従』所収)、『明智系図』(『鈴木叢書』所収) ③光国――「土岐系図」(『続群書類従』所収) これらの系図によると、光秀の父の名は、①光綱とするもの、②光隆とするもの、③光国とするもの、の3つに分かれており確定していない。そうなると、光秀の父の名前が一次史料に登場するかがカギとなる。 しかし、彼ら3人のうち1人でも登場する一次史料は、管見の限り見当たらなかった。裏付けとなる一次史料がない以上、3人のうち誰が光秀の父であるかを考えても、正確な結論に至るとは思えないので、あまり意味のある作業とはいえないかもしれない。前半生の解明は不可能 史上に突如としてあらわれた人物の場合、意外に父祖の名前が判然としないケースが多い。系図によってこれだけ光秀の父の名前が違うのだから、その背景を改めて検証する必要がある。『明智系図』のうち、『続群書類従』所収の『明智系図』については、上野沼田藩の土岐氏に伝わる「土岐文書」の写しが書き写されている。 『明智系図』のように系図や家譜類に古文書が記載されていることは珍しくなく、系図の信憑性を高めることになる。『明智系図』と「土岐文書」などを照合すると、光秀の祖父にあたる頼典とその弟の頼明までは存在を確認できるが、光秀の父の光隆は一次史料で確認することができない。 この点は、不審と言わざるを得ず、『明智系図』がいかに「土岐文書」を写し取っているとはいえ、光秀の父を安易に光隆とすべきではないだろう。光隆以前の系譜は、不明と言わざるを得ないのである。 これまでの研究では、上記の二次史料を駆使して、光秀が土岐明智氏の流れを汲むと指摘してきた。しかし、光秀の前半生を一次史料で解き明かすことは不可能で、二次史料に書かれた光秀に関する史実は分からないといえよう。 これまでの研究の中には、信頼できない二次史料を「信頼できる」として強引に使用しているか、大きな論理の飛躍によって、もたらされた結論である。したがって、現時点では、光秀が土岐明智氏の出自であるか否かは、不明であるといわざるを得ない。もちろん、父が誰であるのかも分からないのである。 このように父の名さえ分からない光秀に関しては、生年や出生地についても、実に謎が多いといえる。 これまで、光秀が土岐明智氏の流れを汲むことが所与の前提になっていた。土岐明智氏の出身地については、二つの説が有力視されている。一つは岐阜県恵那市明智町であり、もう一つは岐阜県可児市広見・瀬田(明智城址がある)だ。互いに「明智」の名を冠していることから、非常にややこしいことになっている。坂本城跡にある明智光秀の石像(大津市) 岐阜県恵那市明智町には明知城址があり、城内には光秀学問所の跡に建てられた天神神社、あるいは光秀産湯の井戸の跡が残っている。近隣の龍護寺に伝来する光秀の直垂(ひたたれ)など、光秀にまつわる史跡や遺物があることから、現在も「光秀祭り」が催されている。 ただし、光秀の先祖が岐阜県恵那市明智町の出身とするのには、難があると指摘されている。実際、恵那市明智町は、遠山明智氏の出身地といわれている。したがって、土岐明智氏の出身地として正しいのは、岐阜県可児市広見・瀬田であるとされている。 ところで、光秀は、いつどこで誕生したのだろうか。光秀の誕生年についても、諸説あって定まらない。『続群書類従』所収の『明智系図』には、享禄元(1528)年3月10日に美濃の多羅城(岐阜県大垣市)で誕生したとある。母は若狭守護の武田義統(よしむね)の妹とあり、名族にふさわしい母の家柄となっており、内容がかなり具体的であるといえよう。 とはいえ、光秀は土岐明智氏の本拠である岐阜県可児市広見・瀬田で生まれたのではなく、多羅城で生まれたのだから、疑念を感じる。誤り多い『明智軍記』 『明智氏一族宮城家相伝系図書』には、光秀が享禄元年8月17日に誕生し、石津郡の多羅で誕生したと記す。ただ、父は進士信周(しんし・のぶちか)、母は光秀の父・光綱の妹だったと記す。病弱だった光綱は、40歳を過ぎても子に恵まれなかった。そこで、光綱の父・光継(光秀の祖父)は光秀を光綱の養子とすることを決意し、家督の後継者にしたという。 こちらでは、光秀が養子だったとする。進士信周については不明であるが、奉公衆の出身であり、幕府との関係を示唆する。また、光秀の譜代の家臣には進士貞連(さだつら)がおり、光秀の死後は肥後藩の細川興秋(忠興の次男)に仕えた。 誕生した日付を除けば合致しており、ほかの系図もおおむね享禄元年誕生説を唱えている。後述する『明智軍記』も、享禄元年誕生説である(天正10年に55歳で没したと記す)。ただ、上記の諸系図の記載には、いささか疑問が残る。 たとえば、光秀の母の兄とされる武田義統の誕生年は、大永6(1526)年である。義統の妹はさらに若いはずなので、明らかに年代的に矛盾している。光秀が享禄元(1528)年生まれであるならば、義統の妹は光秀の母であるはずがない。 なぜこうなったのか理由は不明であるが、義統の子息・元明は天正10(1582)年6月の本能寺の変で光秀に与した。もしかしたら、そういう縁から光秀と武田氏を結び付けようとしたのかもしれない。 実は、享禄元年生誕説を唱える編纂物は、ほかにもある。それは、『明智軍記』である。すでに半世紀以上も前、古典的名著『明智光秀』(吉川弘文館)の著者として知られる高柳光壽(みつとし)氏は、『明智軍記』を信頼できない悪書(「誤謬充満の悪書」と記す)と指摘した編纂物である。たしかに『明智軍記』は誤りが多いので、歴史史料として用いるのには躊躇(ちゅうちょ)する史料である。 『明智軍記』は元禄6(1693)年から同15年の間に成立したとされ、作者は不詳である。光秀が亡くなってから、おおむね100年以上を経過している。光秀を中心に取り上げた軍記物語はほかになく、そういう意味では貴重な史料といえるのかもしれない。 ただし、『明智軍記』が拠った史料には、『江源武鑑(こうげんぶかん)』のようなひどい代物がある。何より同書にはユニークな話が多々書かれているが、それらは一次史料で裏付けられず、また、ほかの記述内容も誤りが非常に多い。 『当代記』には、光秀の没年齢を67歳であると記している。つまり、永正13(1516)年の誕生となる。『当代記』は著者が不明(松平忠明?)で、寛永年間(1624~44)頃に成立したと考えられている。京都・小栗栖で落ち武者狩りにあう明智光秀=『国史画帖大和桜』(昭和10年刊)より 当時の政治情勢や大名の動向などを詳しく記しており、時代が新しくなるほど史料の性質は良くなっていくが、残念ながら信長の時代については、史料的な価値が劣る儒学者の小瀬甫庵『信長記』に拠っている記事が多い。したがって、そのような性質は考慮しなくてはならないだろう。比較のうえでは、先の系図類よりも『当代記』が良質であるが、正しいという保証はない。 小瀬甫庵『信長記』は元和8(1622)年に成立したといわれてきたが、今では慶長16、17(1611、12)年説が有力である。『信長記』の成立が10年ほど古いことが立証され、これにより『信長記』の史料性を担保する論者もいるが、成立年の早い遅いは史料の内容を担保するものではない。玉石混交の史料 同書は広く読まれたが、創作なども含まれており、儒教の影響も強い。太田牛一の『信長公記』と区別するため、あえて『甫庵信長記』と称することもある。そもそも『信長記』は、太田牛一の『信長公記』を下敷きとして書いたものである。 しかも、『信長公記』が客観性と正確性を重んじているのに対し、甫庵は自身の仕官を目的として、かなりの創作を施したといわれている。それゆえ、『信長記』の内容は小説さながらのおもしろさで、江戸時代には刊本として公刊され、『信長公記』よりも広く読まれた。現在、『信長記』は創作性が高く、史料としての価値は劣ると評価されている。 『綿考輯録』(めんこうしゅうろく)では、光秀が57歳で没したという。したがって、誕生年は大永4(1524)年になろう。『綿考輯録』には若き頃の光秀の姿がたびたび描かれているが、信頼に足る史料なのだろうか。 『綿考輯録』は安永年間(1772~81)に完成した、細川藤孝(幽斎)、忠興、忠利、光尚の四代の記録である。編者は、小野武次郎である。熊本藩・細川家の正史と言っても過言ではない。これまでの研究によると、忠利、光尚の代は時代が下るので信憑性が高いかもしれないが、藤孝(幽斎)あるいは忠興くらいの時代になると問題になる箇所が少なくないと指摘されている。それは、なぜだろうか。 その理由は、『綿考輯録』を編纂するに際しておびただしい量の文献を参照しているが、巷間(こうかん)に流布する軍記物語なども材料として用いられているからだ。 たとえば、先に取り上げた『明智軍記』は、その代表だろう。『総見記』などの信頼度の低い史料も多々含まれている。『綿考輯録』の参考書目を見ると、多くの史料類や編纂物が挙がっているが、玉石混交なのは明らかである。 『総見記』は『織田軍記』などともいい、遠山信春の著作である。貞享2(1685)年頃に成立したという。甫庵の『信長記』をもとに、増補・考証したものである。史料性の低い甫庵の『信長記』を下敷きにしているので、非常に誤りが多く、史料的な価値はかなり低い。今では顧みられない史料である。 加えて、『綿考輯録』は細川家の先祖の顕彰を目的としていることから、編纂時にバイアスがかかっているのは明らかである。この点は、大名の家譜類では避けられない現象である。つまり、『綿考輯録』は扱いが難しい書物であり、光秀の記述については慎重になるべきだろう。細川家の正史だから、正しいという保証はないのである。 結論を言えば、光秀の誕生年については、おおむね永正13(1516)年から享禄元(1528)年の間とくらいしかいえない。しかも、「二次史料に拠る限り」という留保付きであり、今後、光秀の誕生年をうかがい知る一次史料の出現を待つしかないだろう。 これまでの光秀の先祖や生年については、さまざまな二次史料が使われてきた。それぞれの史料には難があり、にわかに信を置くことはできない。裏付ける一次史料がない以上、光秀の先祖や生年は不明とせざるを得ないのである。主要参考文献渡邊大門『明智光秀と本能寺の変』(ちくま新書)渡邊大門『光秀と信長 本能寺の変に黒幕はいたのか』(草思社文庫)

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    「なんもしない人」安倍晋三、史上最長政権に押される烙印

    い。第1次内閣で日英同盟と日露戦争の勝利、第2次内閣で日韓併合と条約改正の達成である。どれか一つでも歴史に残る偉業だが、桂その人は「第2次内閣の実績は第1次に劣る」と、厳しく自己評価していたほどだ。 戦前の偉大な政治家と比較するのは、安倍に酷だとしよう。では、戦後の首相と比べるとどうか。◎吉田 茂…サンフランシスコ条約。占領下にあった状態から、独立を回復◎鳩山一郎…日ソ共同宣言。シベリアに抑留されていた50万人の日本人を奪還◎岸 信介…日米安保条約。完全な軍事的従属関係を脱却◎池田勇人…高度経済成長。日本国の指針を確立◎佐藤栄作…小笠原、沖縄返還。戦争で奪われた領土を奪還 いずれも、教科書に残る事績と評価してよい。 さて、安倍内閣には何が残るか? 景気は緩やかな回復軌道にあった。オバマ民主党だろうがトランプ共和党だろうが、アメリカとの友好関係を維持している。 だから、どうした? 安倍も気にしているのか、ときどき思い出づくりを試みる。憲法改正、北朝鮮拉致被害者奪還、北方領土交渉。だが、いずれも官僚が敷いたレールの上を走る行政ではなく、道なき道に自ら道を作るべき政治課題だ。官僚が差し出す時刻表、しかも絶対に目的地に着かない時刻表を眺めているだけの総理大臣に何ができるか。 安倍内閣は、「野党」よりマシなだけだと自白している。よりマシな政治家を選べば、安倍自民党内閣にならざるをえなかった。 だが、「野党」が本当に野党だったのか。 再び問う。海江田、岡田、蓮舫、枝野が一度でも安倍内閣を潰しにいったのか? むしろ最初から政権を担う気などなく、無責任な立場で言いたい放題を言える野党第一党の維持こそが目的だったのではないか。 この人たちは野党ではなく、体制補完勢力、すなわち体制の一部ではなかったのか。さも選挙を行い、「安倍か野党か」と選択肢が二つあるように思わせる。しかし、実際は一択だ。消費増税の問題一つとっても、野党も増税賛成だ。 かつても長期政権で腐敗した時代があった。官僚を従える桂が、衆議院で万年第一党の立憲政友会と談合して、政権を独占していた。しかし、桂は政争に敗れて憤死、政友会の増長が甚だしかった。これに、引退していた元老の井上馨が激昂、鉄槌を下して政友会を結党以来初の第二党に叩き落したことがある。国民は熱狂的に支持した。首相時代の桂太郎 史上最長政権となった以上、安倍は歴史の法廷で被告人となる覚悟をした方がよいだろう。(文中一部敬称略)

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    知られざる一世一代の儀「大嘗祭」とは何か

    の一層の発展、そして世界の平和を切に希望します」という即位後朝見の儀での天皇陛下のおことばは、まさに歴史と伝統に基づく天皇のご存在のあり方を表している。天皇の行いとは、宮中祭祀から全国各地へのご訪問などのご公務まですべてが国家の繁栄と国民の幸せを願う祈りなのだ。 また、元旦の四方拝(しほうはい)に始まる宮中祭祀の中で、最も重要な祈りの儀式となるのが毎年11月23日に行われる新嘗祭(にいなめさい)である。天皇が五穀の新穀(しんこく)を皇祖神・天照大神(あまてらすおおみかみ)及び天神地祇(てんじんちぎ)に供え、自らもこれを食べ、その年の収穫に感謝する。古来、一般庶民も新嘗祭までは新米を口にしない風習があったが、現代にいたるも天皇陛下は新嘗祭を終えるまで新米を食されないと言われている。 天皇が即位後に初めて行う新嘗祭が大嘗祭である。即位の礼で皇位の継承を内外に宣明した天皇が、日本国の祭り主の地位として初めてその年の収穫を神に報告し感謝する一代一度限りの儀式だ。 毎年の新嘗祭は常設の建造物である神嘉殿(しんかでん)で行われるのに対して、大嘗祭は仮設・新造の新宮を皇居・東御苑に建てて執り行う。柴垣で外部と区画し、中心線に回廊を設けて、大嘗祭の神事が斎行される正殿として、東に悠紀殿(ゆきでん)、西に主基殿(すきでん)の二殿を配置し、神聖な食前を調理する膳屋(かしわや)、祭祀に先立ち天皇が沐浴(もくよく)を行う廻立殿(かいりゅうでん)などが設けられる。これらの諸殿舎を総称して大嘗宮(だいじょうきゅう)と呼ぶ。 令和の大嘗祭は11月14日午後6時半から「悠紀殿供饌(ゆきでんきょうせん)の儀」、同15日午前零時半から「主基殿供饌(すきでんきょうせん)の儀」が執り行われる。1990(平成2)年に使用された大嘗宮=皇居・東御苑 悠紀殿と主基殿のそれぞれで、大嘗祭のたびに選ばれる斎田でとれた稲の初穂でご飯が炊かれ、正殿の神座(しんざ)に天照大神及び天神地祇をお迎えし、天皇が神膳を捧げて共食される。古事記にある「大嘗」 斎田の選定では、47都道府県を東西に分け、亀の甲羅で占う「斎田点定の儀」によって、それぞれから「悠紀国(地方)」「主基国(地方)」がまず選ばれる。その地の水田から斎田が決められ、「斎田抜穂(ぬきほ)の儀」で収穫された稲の新米が皇居へと運ばれる。今回の斎田は栃木県高根沢町大谷下原と京都府南丹市八木町氷所新東畑の水田が選ばれた。 大嘗宮は伝統的に木造建築で統一されてきたが、今回は神前に供える食事を調理する膳屋と、新穀を保管する斎庫(さいこ)をプレハブ(鉄骨造)としたこと、さらには、正殿の屋根を茅葺きから板葺きへと変更したことが物議を醸している。 こうした経費節減でも人件費、資材価格の上昇を吸収しきれず、建設費は前回の14億円を超える見通しだというのが宮内庁の見解だ。 古来、大嘗宮は大嘗祭に先立つ1週間前から悠紀・主基国の人々の手によって5日間で完成させる黒木造りの簡素な形式だった。大正天皇の大嘗祭にかかわった民俗学者、柳田國男は古くからの伝統に近代的な要素が入り込んでいることも指摘しており、伝統と新儀の調和が歴史と文化をつくるともいえるので、何が正解であるかは時代とともに常に論じられることでもある。 今回プレハブとする膳屋と斎庫も、他の木造殿舎との違和感で儀式の雰囲気を損なうことがないよう、外装をむしろ張り、白帆布張りとするという。ただ、直接神事とは関係しない膳屋や斎庫と違い、正殿の造りは五穀豊穣を祈願する大嘗祭の意義にも関係する。伝統儀礼の破壊ではないかという疑問はやはり残る。 〝大嘗〟(おおにえ)という言葉が最初に出てくるのは「古事記」に登場する「天の石屋戸(あめのいわやど)」神話である。スサノヲが、天照大神の水田を壊し、天照大神が大嘗を召し上がる神殿も穢(けが)すなどの悪行を続けたため、怒った天照大神が石屋戸の中に入って出てこられず、この世は真っ暗闇になってしまったという有名な話である。ここにある大嘗とは、「日本書紀」には新嘗と記されていることからも新嘗祭の意味であることがうかがえる。 その後も、「日本書紀」には幾度か大嘗や新嘗の文言が登場するが、大嘗祭が一代一度のものとして確認できるのは持統(じとう)天皇からだといえる。持統天皇の夫であった前代の天武(てんむ)天皇が即位したあとの初めての秋に播磨・丹波の二国の人たちが参加する大嘗祭を行っていたという記載があるものの、翌年以降にも二度同じような記述が見られ、一代一度の大嘗祭とは考えにくい。 天武天皇の御代に大嘗祭の原型が形成され、持統天皇の御代から天皇一代一度の大祭となったと考えるのが妥当であろう。古代国家から律令国家へと移行していく過程で大嘗祭が確立されていくことになったと考えれば納得できる。当時の律令国家とは今で言うところの近代国家であり、天皇即位において初めての新嘗祭を国家祭祀として盛大に執り行うようになっていったのだろう。皇室祭祀にとって一つの転換期であったことがうかがえる。 一連の皇位継承儀礼を締めくくる最も重要な祭祀儀礼とされる大嘗祭であるが、「天皇は大嘗祭を終えてから正式な天皇になる」という見解をしばしば目にする。すなわち大嘗祭を終えていない天皇は「半帝」であり完全な天皇とはいえない、大嘗祭は真に天皇としての資格を獲得する儀式であるという。皇位継承に伴う重要祭祀「大嘗祭」で使われる新米を納める「新穀供納」の行事=2019(令和元)年10月15日、皇居・東御苑(代表撮影) その根拠の一つとされているのが、天皇在位期間が即位からわずか78日間と歴代最短で、即位式も大嘗祭も行われなかった仲恭(ちゅうきょう)天皇(1218~1234年)である。明治3年に諡号(しごう)されるまで「半帝」などと呼ばれることもあった。仲恭天皇は4歳で父の順徳(じゅんとく)天皇から皇位を継承したが、直後に順徳帝らが承久(じょうきゅう)の変を起こし、鎌倉幕府の意向で譲位して母の実家である九条家で過ごして17歳で崩御された。 ただ、この一例だけで、大嘗祭が完全なる天皇となる儀式という説が広まったわけではない。前述の通り、天皇一代一度の祭礼として大嘗祭が執り行われたのは天武天皇から持統天皇の頃であるし、応仁の乱(1467~1478年)後は221年間も大嘗祭が行われていなかった。政教分離に反しない 「大嘗祭で完全な天皇になる」という説が学術の分野にまで広まる原動力となったのは、柳田とならぶ民俗学の巨頭、折口信夫(しのぶ)が昭和3年に世に問うた「真床襲衾」(まどこおふすま)論であろう(「襲衾」は「追衾」「覆衾」との表記もある)。折口の『大嘗祭の本義』などによれば、「日本書紀」には天照大神の孫ニニギノミコトが真床追衾にくるまれて天孫降臨したと記されおり、大嘗祭では正殿の神座に設けられる寝具(御衾、おふすま)に新帝がお入りになることで、歴代不変の天皇霊をお身体に入れられて完全な天皇位を得るという秘儀が行われるという。 また、ニニギノミコトの子で、山幸彦(やまさちひこ)として知られる彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)と豊玉姫(とよたまひめ)の間に子(神武天皇の父親)が生まれたときにも真床追衾で包んだと伝えられている。真床追衾が天津神(あまつかみ、天照大神をはじめ高天原にいた神々)直系の象徴とされることも折口の〝仮説〟を補強し、折口説は大嘗祭研究に相当な影響力をもったようだ。 しかし、神道学者であり國學院大學神道文化学部名誉教授の岡田莊司氏が、折口説を明確に否定している通り、真床覆衾にかかわる神座での所作が記された文献史料は皆無である。折口自身も言明していたように、あくまで〝仮説〟だと言うほかない。 やはり大嘗祭の本旨は、天皇自らの親祭(しんさい)で、神膳(しんぜん)の御供進(ごきょうしん)と共食が行われることにあるだろう。大嘗祭で完全な天皇となるのではなく、即位の礼で皇位を継承したことを内外に宣明した正式な天皇が執り行う最も重要な祭礼ということである。 剣璽等承継の儀や即位礼正殿の儀が国事行為とされているのに対し、大嘗祭は皇室行事として扱われる。「皇室の私的な行事」ということではなく、「皇室の公的な行事」という位置づけである。憲法に定められる国事行為とは内閣の助言と承認を要するが、皇室の伝統祭祀である大嘗祭はその性質上、内閣が関与するものではないからだ。 大嘗祭への国費支出について日本国憲法の政教分離原則の観点から違憲であるという意見もある。秋篠宮殿下も昨年のお誕生日に際してのおことばで、憲法との関係で宗教色の強い大嘗祭は天皇及び皇族の日常の費用などに充当する内廷費で行うべきではないかというご意見を示された。平成の大嘗祭をめぐって憲法訴訟が起こされたことに配慮なされたのかもしれない。 しかし、大嘗祭に関する違憲訴訟はすべて退けられ、政教分離には反しないというのが司法の確定判断である。その判断基準となったのが昭和52年の津地鎮祭(つじちんさい)訴訟だ。最高裁判所は「政教分離原則は、国家が宗教的に中立であることを要求するものではあるが、国家が宗教とのかかわり合いをもつことを全く許さないとするものではなく、宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的及び効果にかんがみ」て政教分離原則との適合性が判断されるとしている。いわゆる「目的効果基準」である。そして地鎮祭については「社会の一般的慣習に従つた儀礼を行うという専ら世俗的なもの」という判断を示した。 最高裁の「国家が宗教とのかかわり合いをもつことを全く許さないとするものではない」との解釈は重要だ。国際常識でも政教分離原則とは、国家(政府)と教会(宗教団体)の分離の原則のことをいう。国家が特定の宗教団体に利するようなこと、あるいは圧力をかけるようなことを禁じることが目的にある。平成の大嘗祭に臨まれる上皇さま=1990(平成2)年11月22日、皇居・東御苑 例えば宗教法人はお布施など宗教活動にともなう収入や境内建物などに関して非課税とされているが、言い方を変えれば本来政府に入るべき収入を宗教法人に供与していることになる。特定の宗教に対して利益を供与すれば問題だが、公平の観点に基づく関与であれば政教分離の規定に反することはないということだ。 大嘗祭を国費で斎行しても、特定の宗教団体を利することもなければ、不利益を与えることにもならない。天皇が国家や民のために祈る祭祀は、およそ2千年前から続くわが国の伝統儀礼そのものであり、憲法上の政教分離に反することにはならないという認識を、大嘗祭を前に国民全体で共有しておきたい。※主な参考文献『大嘗祭と古代の祭祀』(岡田荘司著)『古事記(上)全訳注』(次田真幸著)『日本書記(一)・(五)』(坂本太郎/井上光貞/家永三郎/大野晋校注)

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    今こそ文化の日を「明治の日」に制定すべきである

    神を見出している。戦前のわが国を全否定しようとする「文化の日」擁護の言説よりもバランスの取れた公正な歴史観に基づくものだ。 去る10月30日、請願署名が100万筆を突破したことを報告すると共に、法案の早期提案・早期可決を求める集会が、衆議院第二会館において開催された。集会には、自民党のみならず国民民主党と日本維新の会からも国会議員が出席し、超党派の有志による法案提出という道筋が見えてきた。東京・永田町の憲政記念館で開かれた「明治の日」への名称変更を目指す総決起集会 =2019年1月29日 令和の御代を迎えた今、温故知新の精神でグローバル化した世界の中におけるわが国のあり方を問い直すためにも、明治以来の近代史を振り返る「明治の日」が持つ意味は極めて大きい。

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    陶工、文官、性奴隷…生け捕り朝鮮人たちの天国と地獄

    渡邊大門(歴史学者) 前回に引き続き、日本に連行された朝鮮人の話である。おたあ・ジュリア以外にも、朝鮮人キリシタンは日本に存在した。朝鮮人キリシタンというよりも、日本に連行されてから入信したというのが正確である。 その一人にコスモ竹屋という朝鮮人がいる。その生涯はほとんど分からないが、尾張国の武具師で宣教師の通訳を務めていたという(『日本基督教史』)。慶長19(1614)年に修道士やキリシタンが国外に追放されて以降、突如としてコスモ竹屋は史上に登場する。 江戸時代になるとキリスト教信者は国外に追放されたが、元和4(1618)年の夏、彼らの中に密かに日本へ潜入する者があり、それは組織的なものであったという。同年10月、イエズス会のイタリア人宣教師、カルロ・スピノラが、ポルトガル人のドミンゴ・ジョルジの家で捕らえられた。同じ頃、朝鮮人のコスモ竹屋の家においても、日本に潜入していたオルスチとほか1人が捕縛された(『切支丹伝道の興廃』)。 その後、スピノラは大村(長崎県大村市)に移送され、元和8(1622)年に西坂(長崎市)で殉教した。これが「元和の大殉教」といわれるものである。 もう一人は、嘉兵衛つまりビセンテ嘉運である。嘉運は文禄・慶長の役の際、わずか13歳で朝鮮から日本に連行された、連行したのは、小西行長である。嘉運は行長のもとでキリスト教の教えを受け、慶長年間には北京や朝鮮にも滞在した。特に、北京での滞在期間は、4年にも及んでいる。その後、嘉運は日本に帰国し、イルマン(司祭職にあるパードレを補佐する役)として活動した。 元和5年に禁教令が発布されると、状況は大きく変化した。日本に帰国した嘉運は、寛永2(1625)年に宣教師のゾラとともに捕らえられた。そして、火炙りの刑に処せられたという(『切支丹伝道の興廃』)。元和年間以降、キリシタンの処刑がたびたび行われていたが、その流れを受けるものであろう。※写真はイメージ(ゲッティイメージズ) 最後に、カイなる人物を取り上げておこう。その来歴は、『日本西教史』に記載されているので、次に掲出しておく。 カイは文禄・慶長の役で捕虜となって、日本にやって来た。仏門に入ったが、精神の安定を得られなかった。のちに教会の師父に奉仕し、第一の祈念としてライ病を患っている者の完治とした。宣教師が日本を追われると、ジュード右近(高山右近)にしたがってフィリピンに行ったものの、右近の死後は日本に潜入し、長崎に居住した。子供をキリスト教に導き、異教徒をキリスト教の信者となし、貧しい人を救ったが捕らえられ、1625年に処刑された。 もちろん日本に連行された朝鮮人の中には、ほかにもキリスト教に入信した者が存在したであろう。したがって、ここに挙げた3人は、記録に残った幸運な部類に属するといえるのかもしれない。伊万里焼に一役 日本に連行された朝鮮人のうち、技術者として尊重されたのが陶工たちである。とりわけ九州各地には、朝鮮人陶工が足跡を残している。以下、そうした陶工たちのルーツをたどることにしよう。 日本を代表する陶磁器の一つとして、伊万里焼がある。有田焼とも称されている通り、佐賀県有田市の特産品である。伊万里港から輸出されたので、伊万里焼と呼ばれることもある。寛永15(1638)年に松江重頼が著した『毛吹草』という俳諧論書の中で、「今利(伊万里)ノ焼物」と記されている。初期の伊万里染付や古伊万里錦手などの色絵の中には、優れた作品が多く、現在も高値で取引がなされている。この伊万里焼に一役買ったのが、日本に連行された朝鮮人であった。 その朝鮮人の名は李参平といい、朝鮮の忠清道金江の出身だった。文禄の役の際、参平は出陣していた鍋島直茂の家臣・多久長門守安順に生け捕りにされた。多久氏は小城郡多久(佐賀県多久市)を本拠としているので、参平は同地に居住させられた。やがて、参平は磁器を製作できる場所を探し、鍋島領内を探し求めたという。そして、白磁鉱を発見した地が、有田町の東北部に位置する松浦郡泉山であった。 時期的には1610年代のことといわれており、それは考古学的な発掘調査によっても裏付けられる。参平は上白川山に移り、天狗谷窯を開いた。そして、日本で初めて白磁を焼いたのである。この功績は鍋島氏によって評価され、参平の子孫には陶器を製造する際の税が免除されたという。こうして参平のもとには、伊万里焼の製造を希望する者が集まり、やがて一大集落になったというのである。 参平は出身が忠清道金江であったので、地名にちなんで姓を「金江」と称した。亡くなったのは、明暦元(1655)年であるが、その墓は長らく行方知れずになっていた。しかし、現在では発見され、有田町の指定史跡となっている。また、現地で参平は「陶祖」として崇められ、陶山神社では鍋島直茂とともに祭神として祀られている。日本に連行されたのは不本意であったかもしれないが、伊万里焼の発展に貢献した人物として知られている。 隣の長崎県では平戸焼(三川内焼)が有名であるが、こちらも日本に連行された朝鮮人の貢献があったという。平戸焼は佐世保市三川内で生産されたので、三川内焼というが、もとは平戸島中野村(平戸市)の窯で製作されていた。白磁の染付けや色焼が美しく、今も人気の高い陶磁器の一つである。 平戸に本拠を置く松浦鎮信が慶長の役に出陣した際、やはり多くの朝鮮人を日本に連行した。その中の一人に巨関なる人物がいた。巨関は1556年の生まれで、慶尚道熊川の出身であるという。巨関は松浦氏の命により、平戸島中野村に窯を開き、陶器を焼いていたという。やがて、巨関は日本人女性と結ばれ、今村氏を姓として、今村弥次兵衛と名乗ったのである(以下、巨関で統一)。※伊万里焼の器(ゲッティイメージズ) その後、巨関は子に恵まれ、その子は今村三ノ丞と名乗った。父子は良質の土を求めて、平戸の領内を探し求めた。そこで出会ったのが、三川内の白磁鉱(網代陶石)であった。寛永10(1633)年のことである。三ノ丞は窯場の棟梁に任じられ、慶安3(1650)年には中野村から三川内に陶工たちは移住させられた。こうして平戸焼は御用窯として庇護され、朝廷や諸大名への献上品など高級な器を焼いた。しかし、その間は苦労が絶えず、何度も失敗することがあったと伝える。 以後、今村家は平戸焼の生産で多大な貢献をした。巨関は寛永20(1643)年に亡くなった。巨関もまた、日本の陶磁器産業の発展に尽くしたのである。重職への登用も 朝鮮から連行した陶工によって発展した窯は、以上のものだけではない。たとえば、筑前高取焼は黒田氏が朝鮮から連行した陶工により始まったが、製作者の具体的な人名は分かっていない。また、長門萩焼は、毛利氏が朝鮮から連行した陶工・李敬が創始者であった。このように、今も脈々と受け継がれる伝統的な日本の窯業は、朝鮮から連れて来られた陶工たちによって、その礎が築かれたといえよう。 日本に連行された朝鮮人の中には、近世以降、藩体制の中で重要な役職に登用される者もあった。金如鉄(のちの脇田直賢)がその人である。如鉄については、鶴園裕氏らの研究グループによりすでに多くの事実が掘り起こされているので、以下、それらの成果から紹介することにしよう(『日本近世初期における渡来朝鮮人の研究―加賀藩を中心に―』)。 万暦14(1686)年、如鉄は翰林(かんりん)学士・金時省の子として、朝鮮帝都(漢城)で誕生した。翰林学士とは天子の秘書的な役割を果たし、また政治顧問の性格を有していた。如鉄がいかに恵まれた環境に誕生したかが分かるであろう。しかし、そんな如鉄を悲劇が襲う。文禄元(1592)年から始まった文禄の役によって、父・時省が戦死してしまうのである。悲劇はそれだけに止まらなかった。 同年5月、如鉄自身は戦いの最中に宇喜多秀家の兵に捕らえられ、捕虜となったのである。秀家は朝鮮で多くの子供を生け捕りにしたといわれ、如鉄もその一人であり、まだわずか7歳の少年だった。同年12月、如鉄は日本の岡山へと連れて来られた。父を失い孤児になった如鉄は、いかなる心境だったのであろうか。 翌年、如鉄は金沢の前田利家の妻・芳春院のもとに送られた。秀家の妻・豪姫は利家の娘だったが、いったん豊臣秀吉の養女となり、そして秀家の妻になった。やがて如鉄は、利家の長男・利長のもとに預けられ、名も日本風に九兵衛と改められると、慶長10(1605)年頃には230石の俸禄で近習奉公するようになった。 前田家に仕えた如鉄にも、やがて転機が訪れる。同年、脇田重之(重俊)の姪と結婚し、脇田姓を名乗るようになった。そして、脇田直賢として一家を構えたのである(以下、如鉄で統一)。ところが、この頃讒言(ざんげん)によって、1年もの間、閉居を命じられた。ようやく許されたのは翌年のことである。芳春院の口添えによるものであった。 以降、如鉄は子供にも恵まれ、一見して幸せそうに見えたが、正当な評価がなされなかった感もあり、悶々とした日々を送っていた。慶長19年に長年仕えた利長が亡くなると、引き続き養子の利常に仕えた。その直後、大坂の陣に参陣し大いに武功を挙げるが、その評価は必ずしも正しいものではなかった。大阪城(ゲッティイメージズ) その後、何度も藩に対して、武功を書き連ねた書上げを提出するが、わずかな恩賞が下付されるに過ぎなかった。ところが、寛永8(1631)年に大坂の陣における戦功について再検討が開始されると、如鉄の評価は大きく修正された。結果、如鉄は1000石を与えられ(570石の加増)、御鉄砲頭、御使番に命じられた。さらに、その後は算用場奉行などを経て、ついに金沢町奉行に任じられたのである。正保2(1645)年のことで、如鉄はすでに60歳という高齢に達していた。 万治2(1659)年、如鉄は74歳で家督を嫡男・平丞に譲ると、直後に出家し、翌年に75歳で亡くなった。分かれた朝鮮人奴隷の明暗 如鉄は朝鮮の上流階級の家柄に誕生したことから、官僚としての能力も高く、また文芸に秀でていたという。慶長19年、江戸にあった芳春院は、山田如見を伴って金沢に帰ってきた。その際、如鉄は如見から、「源氏物語切紙伝授」と「古今伝授」を授けられたという。これは日本人でもなかなか叶わないことであった。また、発句をたびたび詠んだことが知られている。いかに如鉄が聡明に人物であったかを示していよう。 如鉄のように技術者としてではなく、文官として如何なく能力を発揮した人物も記憶に留めておく必要がある。 ここまでは、朝鮮人の男性を取り上げてきた。男性の方が、その履歴などが判明しているからである。以下、目を転じて女性に注目することとしたい。この分野では、金文子氏の研究を参照しながら、その実態を取り上げることにしよう(「文禄・慶長の役における朝鮮被虜人の帰還」「秀吉の朝鮮侵略と女性被虜」)。 ここまで述べてきたように、捕らわれの身になった朝鮮人の身分は、実にさまざまである。官僚や学者もいれば、陶工などの技術者なども存在した。しかし、圧倒的に多かったのは、老若男女・子供を含めた農民ということになろう。彼らは戦闘員でないにもかかわらず、見境なく捕らえられ、日本に連行された。彼らのその後の生涯については、次のように分類されている。A奴隷に売られ、もっとも悲惨な生涯を送った人B幸いに生き長らえて、朝鮮に帰還を果たした人C帰還のチャンスを逃し、日本社会に適応しながら、生活をせざるを得なかった人 Cが最も多かったのではないかと考えられるが、Aも多かったと推測され、Bは最後に触れるが、必ずしも幸いとはいえなかったようである。 強制連行された朝鮮人女性は、いかなる運命をたどったのか。その特徴については、次の5つのケースに分類されている。①容貌や才能が優れていたため連行された女性②戦争中に日本人と結婚したため来日した女性③日本兵の性的欲求を満たすために連行された女性④日本国内で労働に従事させるために連行された女性⑤奴隷売買のため連行された女性 ①については、豊臣秀吉が縫工などを要求していたという事実がある。才能に加えて美しい容貌であれば、高値で取引されたという。いずれにしても、売買の対象であったのには変わりがない。④は、男性ともども農作業などに従事させられた。①と④は、⑤との関連性が強いであろう。③については、可能性は否定できないが、史料的な裏付けが困難である。あるいは②との関係性があるかもしれない。 Bについては、いくつかの例が知られているので挙げることにしよう。平戸の松浦鎮信は、朝鮮出兵時に釜山の京城を攻撃した。その際、小麦畑に美しい姫が潜んでおり、彼女らを捕らえて平戸に連れ帰ったという。彼女の本名は廟清姫といったが、のちに小麦姫と称された。そして、帰国後に鎮信と小麦姫との間に誕生したのが、のちに壱岐島主になった松浦信政である。「壬辰倭乱図」(和歌山県立博物館提供) 同じような例は、ほかにもある。対馬・宗氏の家臣の一人に橘智正なる者があった。智正は、のちに文禄・慶長の役で朝鮮から連行した人々を送還する役割を担ったことで知られる。そもそも宗氏は朝鮮との関係が深く、橘氏もその配下にあって、朝鮮との親和性が強かったのかもしれない。彼の妻もまた、朝鮮の女性だった。 朝鮮に出兵した吉川広家は、朴佑の娘を連れ帰り、侍女にしたという。こうした例は、ほかにもたくさんあるであろう。 では、どのくらいの女性が日本へ連行されたのであろうか。朝鮮から連行された人々の数は実にさまざまであり、2、3万人から10万人以上まで開きが大きい。概して、日本側の見積もりは低く、朝鮮側は高い。『月峯海上録』という史料によると、日本に連行された男性は3、4万人とされ、女性はその倍になるという。フロイスの『日本史』を参考にすると、5万人程度になると推測されている。※主要参考文献 渡邊大門『人身売買・奴隷・拉致の日本史』(柏書房)

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    幕末維新の情熱はいずこへ? いつから日本人の頭は悪くなったのか

    最新の技術の輸入が、喫緊の課題であった。極端に言えば、何も考えずに、技術だけ覚えればよい。 しかし、歴史や政治のような、極めて人文科学的要素が強い学問でも、「ではのかみ」が幅を利かせる。明治に輸入された実証主義歴史学はドイツから輸入された。明治時代に日本の大学の多くは、ドイツを模範とした。ところが、少しでもドイツの大学を知る者は、「どこをどう真似したら、これがドイツ風なのだ?」と仰天する。少なくとも、「誰も気づかなかった一次史料を探してきて翻刻し、読書感想文を並べると論文が出来上がる」など、ドイツで実証主義と呼ぶ者はいない。 地域研究にしても、そうだ。たとえば、タイの研究をタイ語で始めたのは戦後だ。それまでつまり戦前世代は、英語など洋書のタイ研究をありがたがるだけだった。現地語を読まないのが当然視された。舶来崇拝を通り越して、植民地根性である。こうした欧米の学問を翻訳するだけの学問モドキを、「横のものを縦のものにする」と称した。 政治など、自分が生き残る術である。情報がすべて開示されるなどありえない。現実政治は試験問題とは違うのだ。限られた情報の中で自ら知見を見つけ出さねばならない。 明治の指導者が国の進路を誤らなかったのは、江戸の教育を受けていたからである。明治以降の教育を受けていた昭和世代は、現実には有害無益だった。自分の頭で考えることを放棄した、末路だ。  その起源を求めるなら、岩倉使節団だろう。明治6年から既に、日本人の頭は悪くなっていたとも言える。さて、この病理。今はどうなっているであろうか。岩倉具視 これだから日本人は…。が、ようやく100年を超えた。だが、2600年の歴史の中で、たかが100年、誤差の範囲である。 幕末に戻ったつもりで真剣に学ぶべきではないだろうか。

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    信長を必死の「丸腰祈願」に走らせた祇園祭との深い因縁

    橋場日月(歴史研究家、歴史作家) 天正6(1578)年5月13日までの豪雨は近畿に甚大な被害をもたらした。京では16日になっても雨がやまず、雨乞いならぬ雨止めの祈祷(きとう)が行われている。 播磨(現在の兵庫県南西部)出陣準備のため京に滞在していた信長も、親征をあきらめなければならなくなっただけでなく、その後も降り続く雨で足止めされて身動きできなかった。 播磨への道だけでなく、安土でも洪水が発生したうえ(『増補筒井家記』)京から安土への道も川の増水や氾濫で寸断されてしまったのだ。こうなると、「水の神」龍・大蛇のパワーを看板にする信長としてもどうしようもない。 ようやく豪雨が治まると27日未明、待ちかねたように安土へ戻り、本拠の被災状況を検分してまわった。これについては後で検討してみよう。 さて、その後信長は半月ほど安土の災害復興などの処理を指示していたのだろう。取りあえず、それが一段落した6月10日、再び京へ向かうと、14日にあるイベントに参加した。「祇園会(ぎおんえ)、右府より早天に御見物」 公家の吉田兼見(かねみ)は日記にこう書いている。祇園会というのは祇園祭のことだが、信長は朝早くからこの祭礼の見物に出たのだ。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) 『信長公記』はさらに詳しい。「祇園会。信長御見物。御馬廻(おうままわり)・御小姓衆いずれも弓・やり・なぎなた・持ち道具無用のよし御諚(ごじょう)にて、持たれ候わず」 見物とはいっても、信長は供の家来たちに武器を持たせず、丸腰で参加させたのだ。今も祇園祭の人出と混雑は半端ではないが、当時も時には雑踏の中でケンカが起きることがあった(『実隆公記』)。信長と祇園祭の「証」 コンコンチキチン、コンチキチンと鐘の音を響かせながら優雅にゆったりと練り歩く祇園祭にはふさわしくない光景だが、大勢の人間が集まるとそういう不慮の事故が発生する可能性も高まる。 そんな中に無防備で出るのだから、信長の肝っ玉も相当なものだ。もっとも、この大胆さが最後の最後に彼の命運を制してしまうのだが…。 だが、この信長の丸腰での祭礼見物、実はもう一つ、切実な思いが秘められていたのかもしれない。町中で祭りを見物するだけなら武器を携行していても問題はないはずだからだ。 建保(けんぽう)7(1219)年1月27日、鎌倉幕府3代将軍・源実朝は鶴岡八幡宮(はちまんぐう)参拝を狙われて暗殺されるのだが、このとき彼は本殿の手前の中門に太刀持ちの北条義時を留まらせた丸腰の状態だった(『愚管抄』)。普通に考えても、神様に参詣する際に刀を帯びたままというのは不適切だろう。時代が下って江戸時代になっても、日光東照宮では陽明門で刀を預けることが決まりだった。 その意味では信長の行為も、祭りの見物というよりも、その祭りが捧げられる神への敬意と祈りがメインだったと言ってもよいだろう。 実は、信長と祇園祭には、密接なつながりがある。祇園祭といえば山鉾(やまほこ)巡行、山鉾巡行といえば、鉾の中で最も古い歴史を持ち、先陣切って練り歩く「長刀鉾(なぎなたほこ)」だ。 現代でも、鉾の竿(さお)の頂きには疫病や災厄をはらう大長刀(なぎなた)が立ち、多くの提灯(ちょうちん)がさげられて華やかな雰囲気を醸し出しているが、その提灯をよくご覧いただきたい。「五つ木瓜(もっこう)」の紋が入っている。これは信長の家紋、「織田木瓜」と呼ばれるものと同じだ。 祇園祭は山鉾町と八坂神社の行事だが、その紋が五つ木瓜なのだ。当時、八坂神社の主祭神は牛頭天王(ごずてんのう)で、素戔嗚尊(スサノオノミコト)と同一神とされていた。 信長の先祖が神主を務めていた越前の織田劔(つるぎ)神社の主祭神も素戔嗚尊。素戔嗚尊を祭祀(さいし)する者が共有するのが、五つ木瓜というわけだ。「五つ木瓜」の紋が入った祇園祭の提灯(左と右)=2019年7月、京都市中京区(永田直也撮影) そのうえ、この連載で何度も紹介したように信長自身も牛頭天王や素戔嗚尊に幼いころから親しみ、深い執着を持っている。那古野城の天王坊で学び、津島天王社の財力を背景とした信長だから、牛頭天王・素戔嗚尊というパワーワードに共鳴する。 八岐大蛇(ヤマタノオロチ)の力をわが物とした神、水を支配する神。信長はこの祭礼と八坂神社を尊崇していた。長刀鉾の紋である「長」の一字も、信長が長刀鉾町内に与えた自筆書状の中にある「長」を用いたという伝承も残っている。「丸腰」信長の切実な祈り さらには、同じく33基の山鉾の一つ、芦刈山(あしかりやま)のご神体の翁(おきな)の衣装「重要文化財 小袖・綾地締切蝶牡丹文様片身替(あやじしめきりちょうぼたんもんようかたみがわり)」(現在は後世のものを用い、この小袖は保存されている)についても、芦刈山町が信長から拝領したものと言い伝えられている。 それほどに、祇園祭・八坂神社と信長との関わりは強く深いのだ。 では、その信長が刀を脱して何を祈ったのか。彼の胸中を推し量ってみると、水害からの復興と雨止めは当然大きなウエートを占めていただろう。この日も、京ではけっこうな量の夕立が降ったという。 そして、それ以上に圧倒的で、必死の思いで祈ったのは、おそらく疫病除けだった。祇園祭の起源をたどると、疫病の犠牲者を弔う御霊会(ごりょうえ)が始まりであり、疫病が流行したときにその収拾を祈る儀式だった。 水害の後には疫病が大流行するのがお決まり。水害で大打撃をこうむっただけでなく、疫病まで発生したとなれば、信長の顔は完全に潰れる。 それはなぜか。彼がかつて元亀2(1571)年に比叡山を焼き討ちし、延暦寺(えんりゃくじ)だけでなく日吉大社をも灰燼(かいじん)にしてしまったからだ。王城の地・京を守護する日吉大社が存在しない状況で疫病発生となれば、人々の恨みと怒りは信長に向けられることになる。 いまだ大敵・本願寺が大坂に盤踞(ばんきょ)し、将軍・足利義昭が中国の毛利氏に保護されている状況のなか、京の民衆の支持を失うことはなんとしても避けなければならなかった。今年の祇園祭の長刀鉾。雨天待機中のため、一部白布でカバーされている(筆者撮影) 対毛利水軍用の鉄甲巨艦を建造しそれを紀伊半島沖から北上させ、羽柴秀吉には毛利軍に包囲されている上月(こうづき)城の救援をあきらめて三木城に全力を注ぐよう指示を与えるなど、信長の日常はあわただしい。そんななか、21日未明に京を発った信長は安土に戻る。 このあとしばらくは、播磨方面での戦況をにらみながら、安土での水害復興を陣頭指揮していたのであろう。そして、前回紹介したように、8月15日の安土城大相撲大会を迎える。さらに9月9日にもまた相撲大会が行われた。 この相撲の意味は何だったのか。「目前で身分の高いものも低いものも裸体で相撲をとらせることをはなはだ好んだ」(フロイス『日本史』)と評されたほどの相撲ファンだから、災害で疲れた自分と人々の心を鼓舞しようとしたということもあるだろう。 しかし、ここでこんな逸話を紹介しておこう。この時期から28年後の慶長11(1606)年のことだろうか、江戸城の天下普請(幕府の命による土木工事)に他の大名たちともども、加藤清正も駆り出されたときの話だ。マニアで済まない大会へのこだわり 彼の家来で石垣工事の名人として知られた森本儀太夫は、日比谷入江を埋め立てたあとの軟弱な地盤に石垣を積み上げるという課題を与えられ、茅(かや)を一面に敷き詰めた上で何日も子供に遊ばせたり、大人に相撲をとらせた。おかげで加藤家の工事現場は進行が大幅に遅くなったが、他の大名が分担した箇所の石垣が大雨で崩れてしまったのに対し、儀太夫が指揮を執った加藤家担当の石垣はビクともしなかったという(『明良洪範』ほか)。 このエピソードを一見すると、相撲は単なる地固め・地盤強化の目的で行われているようで、もちろんそういう実用的な効果を期待されていたことは間違いないが、これは少し慎重に考えなければならない。 相撲は古く神事だった。朝廷では毎年盛夏の7月に相撲節会(すまいのせちえ)が催されたが、これは野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹶速(たいまのけはや)の相撲に端を発するもので、神事としての側面を持っていた。現代の大相撲における横綱(原型は注連縄)や土俵の四隅に下げられる青・赤・白・黒の房(青竜・朱雀・白虎・玄武の四方位神)はその名残だ。 そして信長の当時、相撲が今より強く神事としての性格を帯びていたことは言うまでもない。神社の祭礼では奉納の相撲が行われていた。 四股(しこ)は大地を踏み鳴らすことによって地固めを象徴し、地面の悪霊を追い払う。つまり「地鎮」だ。 地鎮によって、土地は安定し、田畑は豊かな実りを生む。森本儀太夫も実用だけではなく、相撲の神的パワーを意識する部分もあったのではないか。 この推論は、どうやら信長にも適用できそうだ。洪水が安土でも発生していたことは既に述べたが、安土山下町が琵琶湖の増水に襲われただけでなく、大雨が安土城そのものにも損害をもたらした可能性がある。「アツチ之城天主タヲレ畢(安土の城、天主倒れおわんぬ)」という記録が残されているのだ(『松雲公採集遺編類纂』所収「東大寺大仏殿尺寸方并牒状奥ニ私之日記在之」、和田裕弘「安土城“初代”天主は倒壊していた!」『歴史読本』2007.11)。 とはいえ、本当に安土城天主が倒壊したとすれば、その直後に1500人規模の相撲大会など開催することなど不可能だ。廃材の搬出や、天主台の地盤強化、天主再建工事に伴う人と資材の搬入で山上山下は大混雑し、とてもイベントスペースなど確保できない。 倒壊とリアルタイムで日記に書いたのが奈良の人間というのも、実際には伝聞にすぎなかったのではないかという疑いを捨てきれない。この手のうわさは、悪い方にどんどん大きく広がって伝わるものだ。織田信長が居城の安土城を建てたとされる安土山一帯=2019年1月、近江八幡市安土町下豊浦 ただ、伝聞だったとしてもそこにはある程度元になる出来事があったはずで、安土城の一部が大雨によって損壊した可能性は高い。なにしろこの4年後になっても、安土山内の摠見寺(そうけんじ)では正月おびただしい数の登城者の重みで石垣が崩れ、多数の死傷者を出しているぐらいだ。 大雨によって安土城の地盤の不安定さを認識した信長が、相撲によって地を鎮め、地固めをしようと考えたとすれば、最大規模の相撲大会をこのタイミングで実施したことの説明がつく。

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    家康に翻弄された李氏朝鮮の女捕虜「おたあ・ジュリア」の運命

    渡邊大門(歴史学者) 前回、取り上げた通り、多くの朝鮮人が文禄・慶長の役において、日本に連行された。彼らは日本に連行されると、朝鮮人町と称されるようになった地域に居住する。今回は、その経緯や実態などをもう少し詳しく取り上げることにしよう。 朝鮮人町を記録した史料として、『土佐物語』という編纂物がある。これは紀貫之の『土佐日記』と類似したタイトルであるが、まったくの別物で、土佐国の戦国大名、長宗我部氏の興亡を描いた軍記物である。『土佐物語』は宝永5(1708)年に成立し、著者は吉田孝世である。 孝世の父祖は、代々、土佐の戦国大名の長宗我部氏に仕えていた。したがって、同書は少しばかり長宗我部氏贔屓(びいき)のところがあるかもしれない。『土佐物語』には、連行された朝鮮人の名医である経東について書かれている。内容は、次の通りである。 生け捕った朝鮮人80余人を土佐国に連行し、不便ながらも町屋を立て置いて、唐人町と称した。朝鮮人は豆腐というものを調理して売買し、1日の糧として年月を過ごした。その中に吉田市左衛門が朝鮮で組み伏し、生け捕りにした朴好仁は、名のある軍将だったので、賓客のように丁寧に饗応していた。情けのほどがありがたい。朴好仁の子孫は、いかなる理由か不明であるが、今は秋月氏というそうだ。 経東は文禄の役において、長宗我部氏によって土佐に連行された人物である。彼は現在の土佐市内に居を構え、病に効く薬草を採集し、その名医ぶりを発揮した。長宗我部氏の厚い信頼も得ていたが、経東に嫉妬心を抱いた医師によって毒を盛られ、悲惨な死を迎えたといわれている(『土佐国人物誌』)。同じく、朴好仁も普州の戦いにおいて、吉田市左衛門政重に捕らえられた人物である(『土佐物語』)。 この記事には唐人町の具体的な位置が示されていないが、慶長6(1601)年に山内一豊が高知城を築城後、その城下に形成されたといわれている。おそらく朝鮮人は、特定の場所に集住を命じられたのだろう。 そして、何よりも問題になるのが豆腐であり、朝鮮から伝わったことが判明する。豆腐は純粋な日本の食べ物と考えられているが、この記事やその他の史料類を参照すると、必ずしもそうとは言えないようである。 天保5(1834)年に成立した『虚南留別志(うそなるべし)』という料理書には、豆腐の起源について、次のように記している。 豆腐は豊臣秀吉公の文禄・慶長の役のとき、兵粮奉行の岡部治郎右衛門という者がおり、のちに豆腐の製法を朝鮮の人から学んできた。日本で初めて豆腐を作った。 この記述を見る限り、現在のわれわれの食卓に並ぶ豆腐は、朝鮮が起源だったことが分かる。ちなみに『広文庫』によると、豆腐は文禄・慶長の役の際、生け捕りした朝鮮人によって伝わったと記されている。高知城の天守=高知市(門井聡撮影) 土佐国では、高知城の城下において唐人町が形成され、豆腐職人が集住するようになった。やがて、彼らは日本人と混じることにより、姓名も日本のものに改めたのであろう。こうして代数を重ねて、日本人になっていった。国籍より能力重視 生け捕られた朝鮮人の中には、召抱えられて学者になった者もあった。彼らの多くは両班(やんばん)という、朝鮮の特権支配階級だったと考えられる。その点については、『細川家記』という史料に記されている。 同書は、全73巻から成る肥後熊本藩主、細川氏の家史であり、編者による書名は『綿考輯録(しゅうろく)』という。『綿考輯録』には、「連綿と考え輯(あつ)める」との意味がある。細川家では、単に『御家譜』と呼んでいる。そして、同書には、学者になった朝鮮人について、次のように記している。 南条元宅のもとに生け捕られた李宗果という者が日本に残り、のちに豊前へ行って、細川忠利と懇意になり、たびたび御前に召し出された。李宗果の子息の慶宅は8歳であったが、忠利が貰い受け、高本の名字と御紋を与えた。のちに知行を与えられ、医師となった。今の高本慶蔵の先祖である。慶蔵の本知行は200石、足高300石。学校教授職を仰せ付けられた。 冒頭の南条元宅(姓は小鴨とも)は、もと伯耆国の武将であったが、羽柴(豊臣)秀吉の中国計略に屈し、以後はその配下に収まった。天正10(1582)年6月に本能寺の変が勃発すると、その2年後には伯耆東部に所領を得て、晴れて大名として復帰した。以後、秀吉に従って各地を転戦し、文禄・慶長の役にも出陣した。そのとき、李宗果を生け捕ったのである。 その後、元宅は主家筋に当たる南条元忠と確執が生じ、肥後の小西行長のもとに預けられた。慶長5(1600)年9月の関ヶ原合戦後は、肥後の加藤清正の家臣となった。慶長19(1614)年の大坂冬の陣において、元宅は豊臣方に与するため大坂城に向かうが、その船中で病に伏し、帰らぬ人となった。李宗果が豊前に行った時期は不明であるが、タイミング的に関ヶ原合戦後だった可能性が高い。 宗果の子は慶宅と名乗ったが、おそらく元宅の「宅」の字を与えられたのであろう。肥後藩主の細川忠利はその利発さを見抜き、貰い受けて高本姓などを与えたと考えられる。能力が優先され、国籍は関係なかった。 高本慶蔵は、肥後藩の藩校「時習館」の第4代教授を務めた人物である。その子で5代目の慶蔵は、明和8(1771)年に時習館訓導(教師)に任じられ、天明8(1788)年に教授に就任した。彼は、時習館で国学の指導を行った。 このように肥後藩では、のちに朝鮮から連行された者の子孫が学者となり、指導的な立場に立った。彼らは並々ならぬ努力をし、その結果、才能が花開いたのであろう。『壬辰倭乱図』(和歌山県立博物館提供) 儒学者といえば、文禄の役で浅野長政の軍に捕らえられ、日本に連行された李真栄(李一恕とも)も有名な人物である。 李真栄は、朝鮮慶尚道霊山の貴族の家に誕生したという。文禄2(1593)年に捕らえられた時点で22歳か23歳だったので、誕生は1571年か72年ということになろう。身分も高貴であり、前途ある青年だった。 同年、生け捕りにされた真栄は、羽根田長門守により肥前・名護屋(佐賀県唐津市)に送られた。その後、真栄は大坂で過ごすこともあったが、そのときに紀州名草郡西松江(和歌山市)の西右衛門なる人物に出会い、同地に赴いた。儒学で藩政に貢献 やがて真栄は、和歌山城下の海善寺の僧である中岸松院西養にその境遇を哀れに思われ、引き取られることになった。真栄は寺に住むことになったが、仏門での生活が肌に合わなかったらしい。しばらくすると、真栄は海善寺をあとにして、再び大坂へと向かった。そして、程なくして大坂冬の陣が勃発したのである。 慶長19(1614)年に大坂の陣が始まると、真栄は戦火を避けて、再び紀州へと戻った。真栄は有田郡で土豪の末裔と称する宮崎三郎右衛門の娘を娶(めと)り、久保町(和歌山市)に居を構えた。 2人の間に誕生したのが、梅渓と立卓という2人の男子である。そして、真栄は卜筮(ぼくぜい、占い)により生活を支え、合わせて儒学を講じて糊口を凌いでいた。このとき、すでに真栄は多くの弟子を抱えていたようである。 元和5(1619)年、徳川頼宣が紀州藩主として入部すると、真栄は儒学者として召抱えられることになった。南麻主計尉なる人物の推薦があったという。真栄は毎晩、頼宣に講義を実施し、元和8年に切米30石を与えられた。 寛永3(1626)年、朝鮮の物産が必要になったため、真栄は御金奉行である羽賀三郎兵衛、堀部佐右衛門らとともに対馬に赴いた。そこで、朝鮮人と交渉し、無事に役目を終えたのである。その功績により、真栄は被服と白銀300枚を与えられたという。真栄が亡くなったのは、寛永10(1633)年のことである。 真栄の子息の梅渓は、父以上に知られる存在であった。梅渓は、真栄の嫡男として元和9(1623)年に誕生した。幼い頃から詩文に秀でており、豊かな才能を持っていたようである。父が亡くなった翌年の寛永11(1634)年に家督を相続し、儒者として切米30石を与えられた。 のちに頼宣の儒者、永田善斎のもとで学び、京都に留学する機会を得た。その間に切米は、80石にまで加増された。梅渓は、藩主徳川頼宣の子である光貞にも学問を教授した。また、朝鮮通信使が来航したときには、通訳を務めるなどし、大いに貢献したことが知られている。 万治3(1660)年以降、梅渓は農民に対する教育も行い、また家臣に対して儒学を講釈している。さらに、徳川家の「年譜」の編纂で中心的な役割を果たし、30年もの年月を経て『徳川創業記』などを完成し、江戸幕府に献上することができた。梅渓はその功を称えられ、寛文12(1672)年には知行を300石に加増された。 その後も梅渓は儒学を講じ、また熊野で古跡の調査を行うなどした。書画に優れていたことから、ときに友ヶ島の額や和歌浦の碑文を揮毫(きごう)したこともある。亡くなったのは天和2(1682)年で、66歳であった。このように、親子2代にわたって紀州藩に貢献したことは、特筆に価するであろう。 また、文禄・慶長の役の際、日本に連行された女性に「おたあ・ジュリア」という女性がいる。ジュリアは、朝鮮出兵のときに最前線で戦った小西行長とともに来日したといわれている。ジュリアは李氏朝鮮の貴族の娘だったとされるが、その根拠は次の史料である(『日本西教史』)。東京都神津島村にある「おたあ・ジュリア」の石碑(写真は同村提供) この婦人(=ジュリア)は高麗の貴族で、かつて秀吉が朝鮮に出兵したとき、ドム・オーギュスタン(アウグスティヌス、小西行長)によって捕虜になり、幼くして日本にやって来た。容貌や才気ともに人より優れた婦人になる素質があった。 『日本西教史』はイエズス会の宣教師、クラッセの手になるもので、1689年に刊行された。ポルトガル人宣教師、フロイスの『日本史』や『イエズス会日本年報』をもとに叙述されているが、史料的な価値は低いと指摘されている。韓国では「聖女」のジュリア しかし、同書はジュリアの出自を記す数少ない史料である。周知の通り、小西行長はキリシタン大名であり、その縁でジュリアもキリスト教の洗礼を受けたといわれている。ジュリアとは、そのときに授けられた洗礼名である。行長は同じクリスチャンであるジュリアに対して、何らかの感情を抱いていたのかもしれない。 ところが、その後、ジュリアの運命に暗い影が差す。慶長5(1600)年9月に関ヶ原合戦が勃発すると、小西行長は西軍に与して出陣し、あっけなく東軍の徳川家康に敗れ去った。やがて行長が斬首されると、ジュリアは家康に連行され、「奥方ノ御物仕」として仕えた。奥座敷の女官のような役割であったと推測される。 時を同じくして禁教令が徹底され、キリスト教への風当たりが徐々に強くなってきた。ジュリアはキリスト教を捨てることなく、伏見城、駿府城にあったときも宣教師との接触を続けた。特に、駿府城内では礼拝堂を設け、厳しい弾圧の中にあっても、他の女官たちにもキリスト教への入信を薦めている。 『ビスカイノ金銀探検報告』には、次のような記述がある。 私が旅館に帰ったところ、そこに皇帝の宮中の女性の奴隷、いや女官と称したほうがよいであろう。ジュリアという女性が大使を訪問し、ミサ聖堂に参列するため待っていた。この婦人(=ジュリア)を歓待し、ガラス細工やそのほかのものを与えると、影像や数珠など信心を示す品々に心を寄せていた。彼女は良いキリシタンといわれているが、その態度はそのことを示すと思われた。 慶長17(1612)年にキリシタン禁教令が発布されると、ジュリアは棄教を迫られた。しかし、ジュリアは棄教を拒否したため、伊豆大島、新島そして神津島へと流された。その7年後には島を脱し、長崎に滞在したようで、さらに大坂に逃れたことがわかる。各地を転々として、追及から逃れたのである。※写真はイメージ(ゲッティイメージズ) 大坂では、パシェコ神父の経済的支援を受けた。その後の様子は明らかではないが、神津島の流人墓地にはジュリアの墓と称するものがある。韓国では「聖女」として崇められており、現在も敬愛されている。 このように、日本には多くの朝鮮人が連行されたが、それぞれの分野で大いに貢献したことが知られている。次回は、日本に定住した朝鮮人をさらに紹介することにしよう。※主要参考文献 渡邊大門『人身売買・奴隷・拉致の日本史』(柏書房)■「朝鮮出兵」波乱に満ちた生け捕り奴隷の人生■南蛮人が大いに利用した「武勇の民」日本人奴隷の戦闘力■「奴隷を売る日本人が悪い」天正遣欧使節、千々石ミゲルのモヤモヤ

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    昭和天皇はなぜ開戦に同意せざるを得なかったのか

    、国際的にも国内的にも天皇の戦争責任を問う声は多かった。天皇自身、自らが責任を負うことで、長い伝統と歴史のある天皇家と日本国家が存続するのであれば、それも受け入れる覚悟はあった。 しかし、敗戦後の状況の中で、日本再建の現実的な原動力となるのは、天皇による国民の統合と国家復興の道であることを、連合国軍総司令部(GHQ)最高司令官のダグラス・マッカーサーはじめ、占領軍の中枢部も理解するようになり、天皇を中心とした日本再建のレールが敷かれていった。 それでも、世界を戦乱に巻き込んだ日本国家の責任は不問にできず、以後の世界平和のため、日本の戦争放棄と民主主義社会の実現を世界に誓うことを条件として、天皇と天皇を象徴とする国家の再建が容認されたのであった。そのため憲法も大きく変わり、天皇も、現人神(あらひとがみ)から象徴天皇となり、大元帥でも国家元首でもなくなった。 日本国憲法にある戦争放棄と象徴天皇制は、昭和天皇にとって日本が戦後の国際社会と交わした重要な約束であり、好むと好まざるとにかかわらず、その改正や廃棄は、国際的な信義に反するものであった。昭和天皇は世界を戦場とし、日本国家を滅亡寸前まで導いた自らの道義的責任を、立場上公言することはできなかったが、深く自覚していた。その自覚が、戦後の世界平和と国内の民主化実現への懸命の努力となって現れた。 そして、戦後の日本は見事に経済成長を遂げ、国際社会に復帰したのだった。平成の天皇も、こうした昭和天皇の胸中を知るゆえに、平和と民主主義を重視して、象徴天皇としての道を歩み、さらに令和の天皇にもそうした流れを踏襲してほしいと願った。1945年9月27日、連合国軍総司令部のマッカーサー元帥と会見する昭和天皇=東京・赤坂の米国大使館 戦後、半世紀をはるかに過ぎ、かつての戦争を知らない世代も増えた。しかし、皇室は、その信義上、天皇家と日本国家の壊滅を救うために世界と結んだ約束を反故(ほご)にすることはできない。もし反故にすれば、天皇家は身の保全のために、一時的な口約束として戦争放棄と民主社会実現を述べたのだと、その不誠実さを世界に示すことになるからである。 少なくとも、昭和天皇とその直系にある皇統のものが皇室を支えている間は、皇室は戦争放棄と民主主義社会の実現を求め続けるだろう。昭和天皇が世界平和を願いながらも太平洋戦争を引き起こしてしまったことで得た大きな教訓であり、後世に残した大きな遺産だからである。 今後、再び天皇の名の下で戦争が起きてしまうことがあれば、平和を願う天皇をそこまで追い込んでしまったわれわれ国民と、国民が支持する政治家たちの姿勢に大きな責任があることになろう。■ 67年前、日本は「元号」を奪われる最大の危機にあった■ 実は「天皇の靖国参拝」に道を開くカギがあった■ 御聖断のインテリジェンス

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    天皇と大東亜戦争

    御代替わりとともに皇位継承問題が深刻化し、天皇や皇室のあり方が問われている。そして迎えた終戦記念日は74回目。記憶が薄れゆく先の大戦だが、やはり切り離すことができないのは天皇との関りではないだろうか。令和最初の終戦記念日を機に、改めて考えたい。

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    「天皇なき日本」の統治を恐れたマッカーサーの極秘電報

    重要文書すべてが保管してある。公文書館の建物はほれぼれするほど見事。これは国力か、富の深さか。いや、歴史を大切にする心意気であろう。 「国務省の1945年度のファイルを見たい」と申し出た。すると、礼儀正しい、度の強いメガネをかけた係員の一人が、私を迷路のように入り組んだ地下に連れて行き、四方に頑丈な金網が張られた小さな部屋に案内してくれた。金網は濃い緑に塗ってあった。 「しばらく待っていてください」と言う。 この部屋には灰色の金属性の長方形テーブルが1台、鉄製の椅子が1脚。床はコンクリートで灰色に塗ってあった。身の引き締まる思いがした。15分ほどして、この係員が手押し車に灰色の箱を20ほど積み、ゆっくりと部屋に入って来た。「入って来た」といっても、外からも内からも、係員の動作も私も丸見えだ。 これらの箱の上には、うっすらと埃(ほこり)が積もっており、それに指紋がついていない。どの箱にもついていない。箱は両手を使わねば開けられないもので、30年間たった後、極秘文書の扉を開けるのは私が初めてかと、興奮した。あの感情の高ぶりは、生き埋めにされている日本の歴史に対する畏敬の念であった。 公開されたばかりの極秘文書から、当時、日本では知られていない驚愕(きょうがく)する史料が山ほど出てきた。 ハリー・トルーマン大統領(1884〜1972)は、1945年10月18日の記者会見で、「日本国民が自由な選挙で天皇の運命を決定する機会を与えられるのは良いことだと思う」と発言。ソ連、中国、英国、オーストラリアでは、昭和天皇を戦犯として裁く世論が沸騰しており、米国内でも天皇を戦犯として裁いたほうが良いという意見が強くなっていた。トルーマン米大統領 東京裁判のため、米国からジョセフ・キーナン首席検察官(1888〜1954)が、1945年12月6日午後7時、38名の部下を引き連れて厚木に降りたった。キーナンは、シカゴの大物マフィアであるアル・カポネ(1899〜1947)を告発し、全米で最も悪名高いギャング王を牢(ろう)に放り込んだ敏腕検事だ。 キーナンは検事総長の補佐官として、全米のギャングや誘拐事件を担当し、才能を発揮した。彼は、暴力団専門であった。日本の「A級戦犯」はギャング集団と見られていたのだろう。  翌12月7日、キーナンは帝国ホテルで記者会見をした。12月7日は「真珠湾攻撃」の日(アメリカ時間)。その日を選んだのは、もちろん偶然ではない。 問:「天皇陛下をどうか」 答:「自分の口からは何ともいえない」 問:「戦争犯罪人の追及はいつまでさかのぼるのか」 答:「1937(昭和12)年7月である(筆者注・近衛文麿が首相のとき起こった盧溝橋事件にまでさかのぼる)」 問:「真珠湾攻撃の責任は」 答:「真珠湾攻撃の責任は爆弾を投下したその人ではなく攻撃計画を立案、実施した人である、自分は日本の侵略戦争、宣戦布告なき戦争を挑発したその罪科を指摘したいと思う」(『朝日新聞』1945年12月8日) 東京裁判の首席検察官キーナンは、「卑怯者」を死刑にするために来たのだ。ところが、キーナンの態度を急変される事態が起きた。「憎悪は未来永劫に続く」 ダグラス・マッカーサー元帥(1880〜1964)は、日本に上陸してわずか5カ月後、日本国民の日常生活の中で、その精神文化の中で、天皇がいかに重要な存在であるかを完全に把握した。天皇を死刑にすれば、日本は崩壊し、マッカーサーの統治は不可能となる。天皇は生かしておかなければならなかった。 天皇の権威を理解したマッカーサーは、米国の対日占領には天皇の温存、利用が必要だと判断。1946(昭和21)年1月25日、マッカーサーは、陸軍省宛てに3ページにびっしりと文が詰まっている極秘電報を打った。この電報が天皇の命を救う。1975(昭和50)年4月24日に公開された(西鋭夫『國破れてマッカーサー』中央公論社、1998年)。内容の要点は以下の通りである。 「天皇を告発すれば、日本国民の間に想像もつかないほどの動揺が引き起こされるだろう。その結果もたらされる事態を鎮めるのは不可能である」「天皇を葬れば、日本国家は分解する」 連合国が天皇を裁判にかければ「(日本国民の)憎悪と憤激は、間違いなく未来永劫に続くであろう。復讐のための復讐は、天皇を裁判にかけることで誘発され、もしそのような事態になれば、その悪循環は何世紀にもわたって途切れることなく続く恐れがある」 「政府の諸機構は崩壊し、文化活動は停止し、混沌無秩序はさらに悪化し、山岳地域や地方でゲリラ戦が発生する」「私の考えるところ、近代的な民主主義を導入するという希望は悉く消え去り、引き裂かれた国民の中から共産主義路線に沿った強固な政府が生まれるだろう」 「(そのような事態が勃発した場合)最低100万人の軍隊が必要であり、軍隊は永久的に駐留し続けなければならない。さらに行政を遂行するためには、公務員を日本に送り込まなければならない。その人員だけでも数10万人にのぼることになろう」  そして、陸軍省をこれだけ脅かした後、「天皇が戦犯として裁かれるべきかどうかは、極めて高度の政策決定に属し、私が勧告することは適切ではないと思う」と外交辞令で長い電報を締めくくった。 マッカーサーの描いた「天皇なき日本」の悪夢に満ちた絵は、彼の期待どおりの奇跡をもたらした。この電報を受け取った陸軍省は、すぐさま国務省(バーンズ長官とアチソン次官)との会議を持つ。国務省と陸軍省は、天皇には手をつけないでおくことに合意したのだ。第二次世界大戦終戦直後、厚木飛行場に降立つマッカーサー元帥 マッカーサーにとって、日本占領を円滑に行うには天皇が必要だった。天皇が退位する可能性もあったので、マッカーサーは、天皇に思いとどまらせるため全力を挙げていた。天皇が退位すれば、日本の共産主義者たちが有頂天になり、大混乱をもたらし、己の政治生命が危ういと恐怖を感じていたのだ。 マッカーサーが陸軍省に打電した長い極秘電報は、天皇を救った「蜘蛛の糸」だったのか。いやそうではない。今にも切れそうな細い「糸」にぶら下がっていたのは、マッカーサー自身だった。極秘文書の英文※参考のため英文の極秘文書を紹介するTOP SECRET25 January 1946From: CINCAFPAC(Commander in Chief, American Forces, Pacific)MacArthurTo: War Department, WARCOS (War Department, Chief of Staff), Joint Chiefs of Staff“... investigation has been conducted here under the limitations set forth with reference to possible criminal actions against the emperor. No specific and tangible evidence has been uncovered with regard to his exact activities which might connect him in varying degree with the political decisions of the Japanese Empire during the last decade. I have gained the definite impression from as complete a research as was possible to me that his connection with affairs of state up to the time of the end of the war was largely ministerial and automatically responsive to the advice of his counselors. There are those who believe that even had he positive ideas it would have been quite possible that any effort on his part to thwart the current of public opinion controlled and represented by the dominant military clique would have placed him in actual jeopardy.“If he is to be tried great changes must be made in occupational plans and due preparation therefore should be accomplished in preparedness before actual action is initiated. His indictment will unquestionably cause a tremendous convulsion among the Japanese people, the repercussions of which cannot be overestimated. He is a symbol which unites all Japanese. Destroy him and the nation will disintegrate. Practically all Japanese venerate him as the social head of the state and believe rightly or wrongly that the Potsdam Agreements were intended to maintain him as the Emperor of Japan. They will regard allied action ***** betrayal in their history and the hatreds and resentments engendered by this thought will unquestionably last for all measurable time. A Vendetta for revenge will thereby be initiated whose cycle may well not be complete for centuries if ever.“The whole of Japan can be expected, in my opinion, to resist the action either by passive or semiactive means. They are disarmed and therefore represent no special menace to trained and equipped troops but it is not inconceivable that all government agencies will break down, the civilized practices will largely cease, and a condition of underground chaos and disorder amounting to guerrilla warfare in the mountainous and outlying regions result.”“I believe all hope of introducing modern democratic methods would disappear and that when military control finally ceased some form of intense regimentation probably along communistic line would arise from the mutilated masses. This would represent an entirely different problem of occupation from those not prevalent. It would be absolutely essential to greatly increase the occupational forces. It is quite possible that a minimum of a million troops would be required which would have to be maintained for an indefinite number of years. In addition a complete civil service might have to be recruited and imported, possibly running into a size of several hundred thousand.”“An overseas supply service under such conditions would have to be set up on practically a war basis embracing an indigent civil population of many millions. Many other most drastic results which I will not attempt to discuss should be anticipated and complete new plans should be carefully prepared by the Allied powers along all lines to meet the new eventualities. Most careful consideration as to the national forces composing the occupation force is essential. Certainly the US should not be called upon to bear unilaterally the terrific burden of man power, economics, and other resultant responsibilities.”“The decision as to whether the emperor should be tried as a war criminal involves a policy determination upon such a high level that I would not feel it appropriate for me to make a recommendation but if the decision by the heads of states is in the affirmative, I recommend the above measures as imperative.”■ 「あれは日本の自衛戦争だった」 敵将マッカーサー証言は重い ■ 「国民を見捨てない」陛下の覚悟さえも貶めた裏切り者の日本人■ 御聖断のインテリジェンス

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    日本のシンドラー、杉原千畝「美談」に隠された真実

    のうちユダヤ教文化の固守がキリスト教に嫌われ欧州各国で暴行、略奪、殺害などの民族迫害を受けてきた。 歴史上日本とユダヤの関係は明治から始まった。明治のお雇い外国人の多くがユダヤ系だったという。それは優秀だが、人種差別で出世できないので好待遇もあり日本に来たのである。日露戦争では、米国のユダヤ金融家のシフ氏が音頭を取って資金不足の日本の戦時外債を購入してくれた。『高橋是清自伝』にあるので若い人はぜひ読んでほしい。シフ氏の日本債権の購入動機は帝政ロシアが日本にてこずることにより、ロシアのユダヤ人弾圧が緩和されることを望んだという。シフ氏は戦後来日し明治天皇の昼食会に招かれている。このため日本軍部はユダヤ人に深く恩義を感じていたという。母校の愛知県立瑞陵高校にある「杉原千畝広場センポ・スギハラ・メモリアル」。右が杉原千畝の銅像=2018年10月、名古屋市 1917年にロシアで共産革命が起こると共産軍に対抗してウラジオストックに各国軍隊が集結した。日本軍参謀本部はユダヤ民族がロシアの共産党、反革命軍、諸外国の軍隊に広く分布していることに気付き専門家を任命し研究を始めた。それが安江大佐と犬塚大佐である。このとき、ロシア共産党の支配を逃れて約5千人のユダヤ人が満洲に逃亡し、極東ユダヤ人協会を設立した。1931年の満州事変で日本は全満洲を支配したが、ユダヤ人の保護は続けたのだ。ユダヤ難民を受け入れた「犬塚機関」 そして1933年、ドイツでヒトラーが政権を取ると、ユダヤ人迫害が始まった。ユダヤ系ドイツ人は海外脱出を望んだが、米英は長年の偏見で受け入れを拒否した。このため、ユダヤ人は当時唯一上陸可能な支那事変中の上海租界(外国人居留地)への移住を考えた。そこで彼らはベルリンとウィーンの日本領事館から日本通過ビザを取得し、欧州発シベリア鉄道でソ連ウラジオ港へ到達し、敦賀、神戸経由で上海到着を計画したのである。 しかし、1938年3月8日、幼児を含むユダヤ人旅客が満洲ソ連国境のオトポール駅に到着すると、突然ソ連国家保安委員会(KGB)に極寒の中、全員下車を命じられた。ソ連は彼らを近くのユダヤ人居留区に収容しようとしたという。しかし、ユダヤ人は、断固拒否し、満州国内の極東ユダヤ人協会経由で満洲国政府に通過の許可を嘆願した。これを樋口中将と安江大佐が上申し、東條英機関東軍参謀長が決裁したので満洲通過が許可された。 これによりユダヤ人は満州を南下し大連、敦賀、神戸経由で上海に到達することができた。樋口中将は欧州駐在経験から残酷なユダヤ人迫害の事情をよく知っていた。上海では日本海軍のユダヤ人問題対策機関「犬塚機関」(犬塚大佐が機関長)が専門にユダヤ人難民を受け入れ、支那事変の物資不足の中でユダヤ教会建設に貴重なセメントを提供し、生徒が帰国した日本人学校の空き校舎を貸与するなど支援した。ユダヤ人の多くは、日本海軍の管理する共同租界の虹口地区に多く住んだが、ほかにフランス租界、米英租界にも居住した。彼らは欧州と違い、収容所(ゲットー)が決められていなかったので自由に生活することができた。 なお、上海のナチスドイツの総領事はユダヤ系ドイツ人をB級ドイツ人と見なし、日本の管理で手間が省けるとして帰国を要求しなかった。また、イタリア船でもユダヤ難民が多数上陸してきた。 もっとも、戦時下の日本のユダヤ人救済は人道問題ではあるが、政治的な狙いがあった。それは米F・ルーズベルト政権の厳しい反日敵視政策の緩和だった。というのは、ルーズベルト政権にはユダヤ人高官が非常に多かったからである。財務長官のモルゲンソーは100%ユダヤ人、ハル国務長官は、母親と夫人がユダヤ人、そして政府の部長クラス以上のユダヤ系は250人以上に上ったという。そこで日本はユダヤ協会ルートで米政府の対日方針の緩和を狙ったのである。斎藤博駐米大使もルーズベルトの反日に万策尽き、ユダヤ人の助けを借りるしかないという考えだった。 しかし、上海のユダヤ人の努力は成功しなかった。それは、米国はキリスト教の国であり、ユダヤ人に対する強い反感があったからである。戦前米国の反ユダヤ団体は400組織、200万人に上り、自動車王フォードまで反ユダヤ雑誌「国際ユダヤ人」を発行していた。このためユダヤ系高官は保身のためルーズベルトの方針に従い外国のユダヤ人同胞の保護ができなかった。ルーズベルト元大統領 この悲惨な例として1939年のセントルイス号事件がある。これはドイツから船を仕立てて米国に逃げてきたユダヤ系ドイツ人を、ルーズベルトの命令でハル長官がニューヨーク港で追い返した事件である。この結果ユダヤ人船客はドイツに戻されナチスに処刑された。日本のユダヤ工作は失敗したが、敗戦まで上海や満洲におけるユダヤ人難民の保護は続けた。これは人道政策と言ってよいだろう。 そして同年9月、上海ユダヤ人協会は犬塚大佐に対し難民救済金が限界(月額27万ドル)に達したので、ビザの発行停止を要望し、日本外務省は了解した。このときまでの上海のユダヤ人人口は1万9千人に達していた。杉原の発行した1500通の十倍以上である。これは重要な数字である。同年12月、日本政府の最高決定機関である五相会議は、ユダヤ人の公平待遇を決定した。追い詰められていた日本にとって、米国の対日政策の緩和は最優先課題であった。処罰されなかった杉原 当時の情勢を時系列で確認しておくと、1939年9月のノモンハン事件講和直後、独ソのポーランド侵略と分割が発生した。独ソの秘密警察は、ポーランドのユダヤ人を迫害した。ユダヤ教の教会や学校を破壊し教師、生徒たちを捕らえ処刑した。このため神学生数百人が緩衝地帯であった隣国のリトアニアに逃亡し隠れた。 そして1940年7月26日、上海のブロードウェイマンションにあった犬塚機関事務所を上海ユダヤ人協会の会長が来訪した。彼は犬塚大佐にユダヤ教の伝統を守るためリトアニアの神学生をぜひ救いたいと伝え、日本通過ビザの再発行を嘆願した。 そこで犬塚大佐が黙考の後承諾すると、会長は感謝のあまり涙を流さんばかりに喜んだという。犬塚大佐が上海総領事経由で外務省に問い合わせたところすぐに許可された。この知らせが上海のユダヤ協会から現地に急報され、その結果ユダヤ人がリトアニアの日本領事館に押し寄せたのである。 7月28日朝、これを見て驚いた杉原は外務省に訓令を仰いだところ、外務省はすぐに発給を許可した。この訓令は日本の外務省に記録が残っている。そこで7月29日から、杉原はビザ給付を開始した。これはソ連のリトアニア占領により杉原が9月上旬に領事館を退去するまで続き、発行記録によれば約1500通のビザを給付している。 この結果、ユダヤ人は、今度は満洲を通らずソ連経由で日本の敦賀に上陸し、神戸経由で上海へ移住した。しかし、1941年6月22日の独ソ戦の勃発によりソ連経由の脱出は終わった。敗戦時の1945年には上海のユダヤ人口は2万5千人になっていた。第一次との差は6千人となる。このため杉原ビザにより6千人が助けられたという意見があるが、実態はソ連の満洲侵略を逃れて在満ユダヤ人5千人の相当数が上海に脱出していたと考えられる。 さらに、杉原はリトアニア退去後昇格し、1944年には勲五等に叙せられた。だからビザの給付で処罰などまったく受けていないことが分かる。 樋口中将については、終戦直後千島防衛司令官として来襲してきたソ連軍に大打撃を与えて撃退したため、戦後ソ連は連合国軍総司令部(GHQ)に戦犯として身柄引渡を要求した。しかし、GHQは拒否した。これをGHQ内のユダヤ系高官の保護とみる人もいる。在リトアニア領事代理だった杉原千畝の陶版肖像画 また、安江大佐は、ソ連軍の大連収容所で虐待され死亡した。1954年に東京の安江家をユダヤ人が訪ね、葬儀が未完と知ると青山斎場で平凡社社長を葬儀委員長として、盛大な葬儀を行った。 犬塚大佐は戦争末期フィリピンで警備司令官をしていたので戦犯容疑者として収監された。しかし、米軍裁判長と弁護士がユダヤ系と分かったため、上海時代米国ユダヤ協会から贈られた銀のシガレットケースの写真を提示すると、本国に照会し1週間で釈放された。なお、この記念のシガレットケースは犬塚きよ子夫人の寄贈により現在イスラエルの民族博物館に収蔵されている。杉原はソ連のスパイ? 一方、杉原夫妻は1944年、ブルガリアでソ連軍に逮捕された。しかし、杉原夫婦は異例にも2年で帰国し、杉原は1947年に外務省に復職している。ソ連のシベリア捕囚ではロシア語が話せるだけでスパイとされ懲役15年または25年を科せられており、虐待により強制収容所で多くの日本人が殺されている。杉原の満洲国外務部時代の上司の下村信貞氏も虐待され殺された。なお、戦後シベリア抑留から早期帰国したドイツ人やイタリア人、日本人の捕虜にはソ連に脅迫されて屈服したソ連スパイが多かったという。 1947年、GHQは外交機能喪失により外務省の職員700人を、杉原を含めて解雇した。杉原は正規の退職金、年金をもらっているから処罰による退職ではない。大体GHQ占領下でユダヤ人救済行為が罰せられるわけがない。 杉原はその後65~75歳までソ連KGB管理下のモスクワに単身赴任し日本商社の駐在所長を務めた。彼の元同僚によると、ユダヤ人救出の話は一切せず、口の堅い人だったという。 イスラエルの研究者によると、杉原は満洲時代セルゲイ・パブロビッチというロシア名を持ち10年間もロシア系の女性クラウディアと結婚していた。そして外務省に入る前に離婚しているため、幸子夫人は後妻である。 イスラエルの歴史学者、ベン=アミー・シロニー氏(勲二等瑞宝章受章)は杉原が戦前からのソ連のスパイであった可能性を示唆している。もしそうなら戦前のソ連側による異例の杉原のモスクワ日本大使館勤務拒否もあり得る。戦後の杉原はモスクワでソ連に監視されていた可能性がある。なおユダヤ人側としては、同胞が助かったことが重要なので、杉原がソ連のスパイであったかは関係がないという。 現代の日本では政府が杉原を顕彰しているが、それなら他の功労者、樋口中将、安江大佐、犬塚大佐も顕彰すべきだろう。最近の杉原の映画は日本と日本軍を誹謗中傷するものであり、まったく受け入れられない。 産経新聞に掲載された袴田茂樹新潟県立大教授の寄稿によると、かつての満洲とソ連の国境の駅であるオトポール駅にはなぜか直接関係のない杉原の展示館があり、オトポールという駅名を変える動きがあるという。樋口中将、安江大佐による第一次ユダヤ人救出の事績の隠蔽工作なのだろうか。戦時下のユダヤ人救出は国際的な史実なので日本政府はこの重要な歴史的事件の内容をイスラエル側の協力を得てはっきりさせることが必要だ。※参考資料・『黒幕はスターリンだった』(落合道夫著 ハート出版)・『ユダヤ人救済にあたった日本人』(犬塚きよ子著 学研)・『ユダヤ問題と日本の工作』(犬塚きよ子著 日本工業新聞社)・『六千人の命のビザ』(杉原幸子著)・『日本の強さの秘密』(ベン=アミー・シロニー著)■「日本を降伏させるな」米機密文書が暴いたスターリンの陰謀■ 理不尽すぎる南雲忠一「愚将論」を徹底論破する■「日米を戦わせよ」1920年のレーニン演説とスターリンの謀略

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    「朝鮮出兵」波乱に満ちた生け捕り奴隷の人生

    渡邊大門(歴史学者) 文禄・慶長の役では、多数の朝鮮人が日本に連行あるいは売買された。その事実は、数多くの史料で確認することができる。以下、さまざまな事例を挙げておこう。 朝鮮人が売買された状況は、『朝鮮日々記』という史料で確認できる。『朝鮮日々記』を書いたのは、臼杵城主の太田一吉に仕える医僧で、臼杵・安養寺の僧、慶念である。慶念は慶長の役に従軍し、戦争を記録するとともに、望郷の念などをときに狂歌を交えながら書き綴った。 同史料には慶長2(1597)年6月から同3年2月までが記録されており、朝鮮出兵における悲惨な状況を記した貴重な史料である。豊臣秀吉や諸大名などの権力者でなく、市井の人が朝鮮出兵をどう捉えていたかを示す珍しい内容を含んでいる。 慶長2年11月、日本軍は攻防の拠点とするため、蔚山(ウルサン)に城を築くことになった。このとき大量に動員されたのが、日本から徴発された人々であった。彼らは昼夜を問わず、築城工事に動員され、その疲労は極限に達していた。 動員された日本人は、ときに朝鮮人ゲリラから襲撃を受けることもあり、心休まることがなかったであろう。また、労働をさぼったり、持ち場を逃げ出した者は、首を斬られ辻に晒されたり、首枷(くびかせ)をかけられて焼印をされることもあった。動員された日本人にとっても、朝鮮出兵は悲劇だったのである。 こうした状況下、ついに人買商人の姿が『朝鮮日々記』にあらわれる。次に、書かれている内容を示すことにしよう。 日本からさまざまな商人たちが朝鮮にやって来たが、その中に人商いをする者も来ていた。奥陣のあとをついて歩いて、老若男女を買うと、首に縄を括りつけて一ヵ所に集めた。人買商人は買った朝鮮人を先に追い立て、歩けなくなると後から杖で追い立てて走らせる様子は、さながら阿防羅刹(地獄の鬼)が罪人を攻める様子を思い浮かべる。 人買商人は、常に軍勢の後ろからついていって、日本軍の雑兵から生け捕りにした朝鮮人を二束三文で買いたたいたのであろう。買った朝鮮人には、逃亡しないように首に縄を括りつけ、後ろから追い立てるようにして、彼らを誘導したのである。 その後、朝鮮人奴隷は、港から船で日本へ運ばれ、ある者は日本で転売され、またある者はポルトガルの商人らに転売されたと考えられる。それは、単なる商品にすぎなかった。さながら慶念が言うように、地獄絵図であった。「壬辰倭乱図」(和歌山県立博物館提供) 同様の記述は、『朝鮮日々記』の別の箇所にも見ることができる。慶念は朝鮮人の女性たちが集められ、人買商人に引き渡している様子を狂歌にし、次のように文章を継いでいる。 人買商人はかくの如く奴隷を買い集め、たとえば猿の首に縄を括って歩くように、奴隷に牛馬を引かせたり、荷物を持たせたりして責める様子は、実に痛ましい光景である。 彼ら奴隷は牛馬のように、さまざまな肉体労働に従事させられた。それは、男女の区別もなかったようである。また、『延陵世鑑』という書物がある。同書は延岡藩の侍医を務めた白瀬永年の手になるもので、19世紀に成立したものである。そこにもほぼ同様の記述がある。朝鮮人奴隷は「土産」 高橋勢が往来するごとに、朝鮮から老若男女を問わず、生け捕られて奴隷となった。その数は、何百人いたかわからない。そのような中にも、幸運な女性は妻妾となり、男は主人から許可を得て妻子をもうけ、生活する者があった。長生きした者は、慶安(1648~1652年)、承応(1652~1655年)まで存命で、その子孫は今も多い。 この記録は文禄・慶長の役から300年近く経過して成立したが、内容はおおむね史実として認めてよいであろう。生け捕りされた男女のうち、結婚して家族を持つことができた者は、極めて幸運だったようである。なぜなら、奴隷は家畜に等しい存在だったからである。 朝鮮半島から奴隷を連行したのは、人買商人の専売特許ではない。それは、現地で戦った日本の武将も同じであった。 戦国史家の藤木久志氏は、そうした例の一つとして、薩摩の武将・大島忠泰を取り上げている(『雑兵たちの戦場―中世の傭兵と奴隷狩り―』朝日新聞社)。大島氏は薩摩の名門・高城氏の流れをくむ東郷氏の庶流で、島津氏に従って朝鮮出兵に従軍した。 そのときの様子は、『高麗御供船中日記』、『大嶋久左衛門忠泰高麗道記』、『大嶋久左衛門忠泰従高麗之文写』といった史料に記されている。その中には、忠泰が国許の妻に送った書状がある。以下、内容を解説しておこう。 慶長の役に出陣した忠泰は、約30万という朝鮮軍を相手にして、相当な苦戦を強いられたようである。それでも島津軍は、3万余の敵の首を討ち取った。問題はここからである。忠泰の仲間たちは、殺害した敵の懐から金品を奪ったというのである。まさしく戦利品であった。 しかし、忠泰には恥ずかしさもあったのか、馬を失ったにもかかわらず、敵の死骸から古着すら剥ぎ取れなかったという。それでも武功の証として、倒した敵の鼻を削ぐことは忘れなかったようである。当時、首は持ち運ぶのに不便だったので、代わりに鼻を削いで軍功の証としていた。 問題はそれだけに止まらなかった。忠泰には、角右衛門という家来がいた。ちょうど彼が日本に帰国するので、国許に朝鮮人奴隷を「お土産」として届けたと書状に書いている。奴隷は複数いたようで、そのうちの一人を娘に与えるように、と書状にある。 ちなみに忠泰も子供を召し使っていたが、病気で困っていたようである。また、別の家来に対しても、下女を買い求めて送ると記している。ただし、忠泰は食料に事欠くほど金がなかったので、この場合は「下女を買った」のではなく、生け捕りにしたと考えられる。 このように朝鮮に出兵した武将たちの中には、「お土産」として朝鮮人奴隷を日本の家族に贈っていたことが分かるのである。普通に書いているところを見ると、それは戦場でごく自然なことであったかのような印象を受ける。※写真はイメージ(ゲッティイメージズ) ここまで捕らえられた朝鮮人奴隷について述べてきたが、言うまでもなく日本人も朝鮮軍に生け捕りにされていた。歴史学者の中村栄孝氏は、その中で福田勘介の供述を取り上げて、興味深い分析を加えている(「朝鮮軍の捕虜になった福田勘介の供述」『日本史の研究』61輯)。以下、中村氏の研究に基づき、勘介の供述を確認しておこう。 慶長2年10月、一人の日本人が朝鮮軍の捕虜となったことが報告されている(『宣祖実録』)。その人物こそが、勘介その人である。では、勘介はいかなる人物なのであろうか。勘介自身の供述によると、勘介は加藤清正配下の部将であり、百余人の兵を率いて、全羅道に向かっていたという。 朝鮮出兵中の同年7月に忠清道で捕虜となり、尋問を受けたのである。しかし、別の史料によって、清正軍に勘介が加わっていたというものが見受けられないので、供述が嘘である可能性があると指摘されている。奴隷は耕作要員 このように朝鮮軍の捕虜となった者(部隊長クラスの者)は、「降倭将」と呼ばれた。「降倭将」は、鳥銃(=火縄銃)の使用法を朝鮮人に教授していたようである。のちに触れるが、沙也可もその一人である。勘介は自ら火縄銃の操作に秀でていることをアピールしているので、ほかの「降倭将」と同様の地位を得ようとしたのであろう。 中村氏が指摘するように、勘介の供述は的確に重要なことを述べており、内容も十分に信用できるという。その重要な供述として、日本軍がどのような理由によって、朝鮮人を日本に連行したかが記されている。 普通に考えると、日本軍による朝鮮出兵は、占領を目的としたと考えるべきであろう。当初、秀吉が構想した通り、やがては天皇、公家、大名らを移す計画もあった。しかし、慶長の役での目的は、決して占領だけにあるとは言えなかったようである。 基本的に老若男女にかかわらず、歩くことができる朝鮮人は日本に連行した。生け捕りされた朝鮮人の中には、貴族や官僚クラスの者もいたという。逆に、歩けない者はお荷物になり、また役に立たないことが想定されたのか、殺害される者が多かった。 生け捕りにされた者が、人買商人によって船に乗せられ、日本に送られたことはこれまで述べた通りである。勘介はその目的を明確に述べている。その供述内容を箇条書きに整理すると、次のようになろう。 ①朝鮮人奴隷に日本の農地を耕作させる。 ②日本の農民は、朝鮮出兵に徴用する。 ③①②を繰り返すことにより、最終的に明への攻撃態勢を整える。 つまり、日本の農地耕作は朝鮮人にやらせて、朝鮮での戦争には日本の農民を従軍させるということになろう。生け捕った朝鮮人を日本軍に編入するのは、常識的に考えてかなりの困難が伴う。それならば生け捕った朝鮮人には耕作をさせ、日本人を兵として徴用した方が合理的である。こうしたことを繰り返し、やがて日本人の多くが朝鮮に出兵し、農村での労働不足を解消するとともに、「明」への臨戦態勢が整うことになる。 ここまで合理的に説明すると、いささかの不信感が拭えないところもある。しかし、周知の通り、文禄・慶長の役の軍役などの多くの負担は、各大名に押し付けられることになり、さらにそれは農民へと転嫁された事実がある。※写真はイメージ(ゲッティイメージズ) それゆえ年貢や徴兵などの負担に耐え切れない農民は、耕作地を放棄して逃亡した。そうなると、必然的に耕作地は荒れ果て、農作物の収穫量が著しく減少することになる。朝鮮人の生け捕りと日本への連行は、単に奴隷売買として金銭的なものを得るだけではなく、現実的な目的があったのである。 日本に連行された朝鮮人は、何も普通の人ばかりではない。教養や学識の豊かな士大夫なども日本に連行されており、彼らの中には儒学などの学問により、のちに大名に仕えてそれなりの地位を築いた人もいる。また、官僚クラスの両班(ヤンバン)の中にも、大名の家臣として抜擢された者が存在する。ほかには陶工が有名であり、そうした特殊技能によって、一定の地位を築いた者もあった。 日本に連行された朝鮮人といえば、悲惨な人々が多かったのかもしれないが、まさしくその人生は実にさまざまであった。次に、いくつかの事例を取り上げることにしよう。奴隷でも子孫繁栄 日本で農業に貢献した朝鮮人は、美作国東南条郡東一宮村(岡山県津山市東一宮)に存在した。『史学雑誌』8編11号には、同村の中島氏所蔵文書が紹介されている。年次の付されていない書状であるが、中島家譜代の家来と称する弥三郎、弥吉、伊助、重兵衛が連署して、中島弥生左衛門、三郎左衛門に宛てたものである。次に、その内容を示しておこう。 私の五代前の先祖は、朝鮮国松村の出身でございます。文禄年中に日本が朝鮮に攻め込んだ際、先祖は中島孫左衛門様の陣中に人質となり、二十四歳にして日本に渡海した。助命のことを孫左衛門が仰せになり、先祖は弥三郎と名を改め、中島家譜代の家来になりました。生涯にわたり養育してくださり、妻子なども扶助していただき、嫡子・彦兵衛と私に至るまで四代にわたり相続し、一類や分家も家が繁盛していることは、すべて中島家の御恩であることを今もって忘れることはできません。私の子孫代々まで申し伝え、決して忘れることはございません。 中島孫左衛門は、備前・美作の大名、宇喜多秀家の配下の者である。文禄・慶長の役のとき、孫左衛門尉は秀家に従って朝鮮に渡海した。その際、弥三郎らの先祖は、孫左衛門に生け捕りにされ、日本に連行されたのである。 『美作一宮郷土の歩み』によると、慶長3年、中島孫左衛門尉は松県城で劉安、劉秘父子を捕らえ、日本に連行したという。ここでは、慶長の役のことになっており、先祖の名前もはっきりと書かれている。 先の書状の続きを読むと、弥三郎らが中島家に宛てた理由が分かってくる。その後、彼らは百姓になって、中島家に献身的に仕えた。また、年末年始やお盆などの行事にも、挨拶を欠かさなかったようである。 以下の内容は省略するが、結論を端的に言えば、以後、彼らは中島家を疎略にすることなく、奉仕し続けることを誓約したということになろう。万が一、中島家に背くようなことがあれば、どのような処罰を受けても恨むことはない、と最後に締め括られている。 『美作一宮郷土の歩み』によると、捕虜の中には朝鮮に帰国する者もあったが、劉秘は日本に残って中島氏の家来になったという。そして、彼ら連行された朝鮮人が、一宮村で荒地を開墾したと記されている。それは、今も「唐人開き」と呼ばれているとのことである。 その後、その子孫は大いに繁栄し、松県にちなんで松村を姓としたというのである。その中には津山藩主・森氏に仕えた者もあった。寛政年間に至ると、松村氏は持高が十石の本百姓高持に加えられ、子孫も繁栄したという。 以上の記述によると、朝鮮から連行された弥三郎の子孫は高い農業技術を持ち、地域の発展に貢献したといえよう。はっきりとは書かれていないが、東一宮村には多くの朝鮮人が入植し、集住していた可能性が高いといえる。 次回は、日本に定住した朝鮮人をもう少し紹介することにしよう。※主要参考文献 渡邊大門『人身売買・奴隷・拉致の日本史』(柏書房)■秀吉禁止令も頬被り、朝鮮出兵で横行した理性なき「奴隷狩り」■南蛮人が大いに利用した「武勇の民」日本人奴隷の戦闘力■「日本人奴隷は家畜同然」バテレン追放令に秘めた秀吉の執念

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    信長が恐れた「凶星」本能寺の変はここから始まっていた

    橋場日月(歴史研究家、歴史作家) 『信長公記』の「客星」というのは、ほうき星を「普段の空では見かけないよそから来た不審な星」と表現する言葉だ。当時の公家、吉田兼見はこれを現代同様「彗星(すいせい)」と10月11日付けの日記に記した。そして「御祈一七ヶ日也(なり)」と続けている。『信長公記』は9月29日にほうき星出現としているが、実際にはそれより早く9月25日頃から観測されたのだろう。朝廷では彗星出現当初から連日祈祷をおこなわせ、17日に及んだということだ。 ではなぜ、朝廷は祈祷を続けさせたのか。 当時、彗星は洋の東西を問わず「災いをもたらす魔物の使い」と信じられ、恐れられていたのだ。例えば、鎌倉時代に法華宗を興した日蓮は文永元(1264)年の彗星出現を未曾有(みぞう)の国難がやってくる「大凶兆」とし、4年後に蒙古から脅迫めいた国書が届いたことでその予言が当たったと自負している。 そんな次第だから、朝廷は日食などと同様に彗星を「ケガレ」として忌んだ。特に、彗星の尾の部分が天空から朝廷の方向へと垂れるのを凶兆とし、祈祷によって彗星がもたらす災厄から逃れようとした。 これに対して、面白い逸話が残っている。彗星出現のひと月あまり前に、松永久秀が信長から離反して天王寺砦を勝手に退去し、居城の大和・信貴山城にこもってしまった話は前回に紹介した。安土城天主跡。彗星はこの方角の上空に見えたと考えられる(筆者提供) 久秀は越後の上杉謙信が上洛(じょうらく)戦を開始するから、信長の命運も尽きたと考えて反旗をひるがえしたのだが、肝心の謙信は9月23日に加賀・手取川の戦いで柴田勝家らの織田軍を簡単に撃破はしたものの、そこで引き返してしまったあげく翌年3月に急死し、上洛戦は永遠に実行されることはなかった。久秀の決断は早すぎたのだ。 10月3日、織田信忠(信長の嫡男)が率いる4万の大軍が信貴山城を包囲すると、さすがの峻険(しゅんけん)な山城も10日には最後の時を迎える。城内の味方が寝返ったとも、本願寺の援軍と偽って城に入った佐久間信盛(織田家重臣)の兵が内から攻撃したともいうが、いずれにしても城は天守を除いてすべて織田軍に制圧されてしまった。信長が引きこもったワケ 信貴山の頂きからも、夜空に輝く彗星はクッキリと見えたという。久秀の家来が、彗星を見上げて主人にこう話しかけた。「京の卑しい者たちがあの星を『弾正星』などと呼んで殿の滅亡を天が告げているなどと申しておりましたが、その予言が当たってしまいましたな」 久秀の官途名は「弾正少弼(だんじょうしょうひつ)」。しかし、久秀は西の空に輝く彗星をチラリと眺めると大笑いしてこう言い放ったという。「ばかな。彗星が現れるのは天文自然の理に従っているからに過ぎぬ。わしも信長も、天の摂理には何の関係もない。わしが死のうと生きようと、彗星の運行に影響などあるものかよ」 直後に天守も陥落、久秀は炎の中で自刃して果てたが、当時の一般人のレベルからはかけ離れた合理主義、科学的思考法には感心するほかない。 では、対する信長はどうだっただろうか。合理主義の代表のように言われる信長のこと、さぞや彗星など一顧だにしなかったかと思われるのだが、実はそうでもなさそうだ。京都市妙恵会墓地の松永久秀・久通父子墓(筆者提供) 彗星出現の期間中、信長は安土から出ていない。いや、9月28日と29日の2日間だけ出るには出たが、それは安土の内の丹羽長秀の屋敷だった。安土の山頂に近い御殿から長秀屋敷に移ったのは、実はこういうことではないだろうか。 朝廷は日食のケガレを避けるために御所をムシロで包んだり、祈祷をさせたりする。そして、この彗星出現に際しても祈祷をおこなわせた。信長も、彗星をケガレとして避けるため、自分の御殿より低いところにある長秀の家に逃げ込んだのだ。その上で、彼は自分が大和国におもむいて軍勢を指揮することもなく、信忠に久秀退治を任せてしまった。ようやく彼が安土を出、京に向かったのは11月になってからのことだ。 『信長公記』は久秀滅亡について「10年前の10月10日夜に東大寺の大仏殿を焼き討ちした久秀が同じ10月10日夜に死んだのは、因果応報だ。客星が出て来たのも、春日大社のおぼしめしか」と論評している。前半はどうも久秀の最期をリアルタイムに記録した『多聞院日記』を参考にしているようだが、それに織田方の都合の良いように彗星の件をプラスしているあたり、その親分の信長本人が彗星を怖がっていたとすればちょっと笑える話ではある。信長の死は彗星から始まった ところで、この彗星は信長と朝廷の関係にある影響を及ぼした可能性もある、と言ったら皆さんはどう思われるだろうか。日本では古代から現代に至るまで、おおよそ75年前後の周期で彗星が観測されている。これがハレー彗星だ。 周期を持つ彗星があるという認識が、久秀の「彗星は天文自然の理で動くのだ」というセリフにも結びつくわけだが、周期があるものなら予測ができる。予測ができれば、それが暦にも反映できたはずだ。 ところが残念ながら、この天正5(1577)年の彗星はハレー彗星ではなく、突発的に起こった非周期のものだったようで、当然ながら朝廷の天文方はその予測ができなかった。彗星を恐れた信長としてはこれに納得しなかったのだろう。5年後、朝廷の天文方が日食の予測も外すともう許せないとばかりに改暦を朝廷に申し入れることになる。同年に発生する本能寺の変の一因にもなったのではないかといわれる改暦問題が、この彗星一件に端を発していると考えるのは、決して無理な話ではない。 こうして二条新屋敷の竣工と彗星のショックで天正5年は終わった。明けて天正6(1578)年。2月29日の安土山は人々の喚声にあふれていた。「近江の国中から300人の相撲取りを呼び集め、安土山で相撲をとらせてそれを見物された」のだ(『信長公記』)。信長の御前で相撲をとるとあって、力自慢の相撲巧者たちはこぞって張り切り、勝負は熱を帯び、信長以下の見物者たちも大いに盛り上がった。 ちなみにこの日の行司は木瀬蔵春庵(きのせ・ぞうしゅんあん)と、その子だろうか、木瀬太郎大夫(きのせ・たろうだゆう)の二人だった。蔵春庵はこの8年前、安土山下町の常楽寺で行われた相撲大会でも行司を務めている。ちなみに、現代の大相撲の行司、木村家は木瀬太郎大夫の孫を初代とするといわれているから、信長以来の相撲行司の系譜は540年続いているわけだ。 まぁ、これだけなら信長は相撲好きだった、だけで終わる話なのだが、この半年後の8月15日、彼はさらに輪を掛けた大きな規模で相撲大会を再度挙行している。今度は近江だけでなく京などからも都合1500人にのぼる力持ちと技自慢がわれこそはと集まり、辰刻から酉刻まで(午前8時~午後6時)熱戦がくりひろげられた。織田信長の上覧相撲(相撲協会提供) 永田景弘と阿閉貞大(あつじ・さだひろ)という国人領主・城主クラスの外様家臣同士も取り組み、堀秀政、蒲生氏郷ら信長気鋭の側近衆も参戦。安土山は1日中喚声に包まれていた。その音は、おそらく遠く街道を行く人々にも聞こえたことだろう。特に見事な相撲を披露した14人の者は信長の前に召し出され、褒美を与えられ家臣として取り立てられたという。このときも行司は木瀬蔵春庵、太郎大夫の二人だった。相撲大会「本当の狙い」 2度にわたる大規模な相撲大会。300人、1500人と部外者を城内に入れてしまえば、セキュリティーの維持も難しいし、何より城の構造がダダ漏れになってしまう。戦国の常識ではおよそ考えられないイベントではあったが、信長はあえてそれを強行した。 信長自身が相撲好きだったのは間違いない。江戸時代の書物には土俵を考え出したのも信長だとあるほどだ。完成に近づきつつある安土城に多くの人々を集めて一大スポーツイベントを打てば、城の威容を見せて信長の威信を高めるとともに、急速にふくらんで一体感を失った家臣間の交流が進み織田家への従属意識も強くなる。これはリスクを差し引いてあまりある効果だろう。 だが、信長が狙ったのは果たしてそれだけだったか、というとこれがどうもまだ理由がありそうだ。 この前後2回の相撲大会のちょうど真ん中の時期、近畿から東海地方が災害に見舞われている。5月11日から大雨が降りはじめ、13日の昼まで激しく降り続いたために各所で洪水が発生した。賀茂川・白川・桂川が氾濫し、上京の舟橋町では濁流に流されて死者が多数出た。京都所司代の村井貞勝が新しく架けた四条の橋も流されてしまった『信長公記』 この豪雨は、織田軍の作戦計画にも重大な影響を及ぼした。信長は毛利の大軍に包囲された播磨の上月城を救援すべく武将たちに出動の号令をかけ、自身も5月13日に出陣する予定だったのだが、ちょうどその13日が水害のピークとなってしまったのだ。 信長の親征となればその兵数は大きいものになる。複数の道路を使い整然と行軍する必要があるが、その道筋はことごとく雨によって分断されていたから、どうにもならない。海上を移動しようにも、大坂湾に出るのも困難な状況だ。結局信長は出陣をあきらめ、上月城にこもった尼子勝久ら3000は孤立したまま降伏、勝久は切腹して果てることになる。「木造織田信長坐像」=大徳寺総見院所蔵(中田真弥撮影) 水を利し、雨を制して過去の合戦を勝ち抜いてきた信長が、ここにきて水に妨げられて大きな失点を喫してしまった。これには、信長もショックを受けたに違いない。「先日の相撲大会ではまだ足りなかったか。もう一度行うべし」 豪雨災害を挟んでの2度の相撲大会に潜んだ信長の目的とは、何だったのか。■信長を「天下人」に導いたオカルト朱印■安土城「蛇の巨石」に隠された信長の仰天プラン■「龍宮に続く橋」信長のオカルト願望を叶えた御用建築家

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    DNA分析で縄文人と弥生人の混血が進んでいたことが判明

     われわれの祖先はどのように日本に渡り、どのように変貌したのか。最先端のDNA分析により得られた新事実を、ヒトゲノムによって日本人の起源を探る研究の第一人者、国立遺伝学研究所の斎藤成也教授が明かす。* * * DNA分析という手法の開発により、分子生物学によって日本人のルーツを探る研究は劇的に進歩した。 DNAは「たんぱく質の設計図」とされる物質で、親から子に遺伝情報を継承する。 人体を構成する約60兆個の細胞は、すべて最初の1個の受精卵が起源であり、細胞増殖によって体が作られる。この増殖でDNAが複製されるとき、稀にDNAが部分的な突然変異を起こすことがある。変異が精子や卵子などの生殖細胞で起きると、部分的に変異したDNAはそのまま子や孫へと引き継がれていく。 アフリカで誕生した人類は7万年前から世界に拡散していったが、特定の集団のなかで誰かの生殖細胞に変異が起き、集団内でそれが広まり蓄積することがあった。また、別の集団との交流により、混血で変異が共有されることもあった。 つまり、現代人と遺跡から出土する人骨のDNAを分析し変異の痕跡を比較すれば、どこで変異が発生し、どう受け継がれてきたかが分かり、人類がアフリカからどのようなルートを辿って拡散したかが見えてくるのだ。 では、日本人はどこからやってきたのか。若干の想像を交えて、最新のDNA分析の結果から推定されるルートを提示してみよう。 およそ7万年前に我々の祖先がアフリカを出たことはすでに判明している。数度に亘る「出アフリカ」の何回目かにアフリカを出た人々がアラビア半島を渡り、ユーラシア大陸の南側に進出。5万年ほど前に台湾や琉球諸島を経て、日本列島の地を踏んだと考えられる。これがいわゆる「縄文人」だ。1万年前までは最終氷河期で、海面は今より70m低かった。氷河にも覆われていたので、台湾、琉球からの渡来はそう難しくはなかっただろう。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) 一方、7万年前にアフリカを出て東アジアに渡った人々は、小麦農耕の技術を身に付け、今でいう中国の中原と呼ばれる地域で人口を爆発的に増やした。そこからあふれ出た人々が稲作の技術を携えて移動し、およそ3000年前に朝鮮半島を経て、北九州に渡った。それが「渡来系弥生人」と考えられる。 実はこの説は、DNA分析が行なわれる前からあったが、従来は、農耕民の弥生人により狩猟採集民の縄文人が駆逐され、北海道に追いやられたのが「アイヌ人」、南に追いやられたのが「沖縄人」と考えられていた。しかし、現代日本人のDNA分析によって縄文人と弥生人の混血が進んでいたことが判明し、両者の間で交流があったことが認められた。関連記事■終の棲家探し どこで生きるかより、どう生きるかが重要■ボーっと運転しているクルマが渋滞を拡大させている根拠■認知症の予防には10~15才の記憶を意識的に思い出すと良い■セウォル号事故「空白の7時間」を現地取材 口をつぐむ人々■中国がAI活用のテロ対策 6兆8000億円投入の狙い

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    秀吉禁止令も頬被り、朝鮮出兵で横行した理性なき「奴隷狩り」

    渡邊大門(歴史学者) ここまで、豊臣秀吉の人身売買に関する政策、そしてポルトガル商人によって日本人奴隷が海外に輸出された状況を確認してきた。日本と海外との通交が盛んになるに連れ、人身売買の規模もよりワールドワイドに展開したことが分かる。次に、状況が変化したのは、文禄・慶長の役だった。 天正18(1590)年に小田原征伐により北条氏が滅亡すると、国内における大戦争は終結し、平和な時代を迎えた。秀吉の支配欲は海外へと向けられ、それが現実のものとなる。秀吉は中国や朝鮮へ侵攻し、そこに天皇を移して、諸大名に領土を分け与える構想を持っていた。その戦争こそが、文禄・慶長の役なのである。 文禄・慶長の役とは、豊臣秀吉が文禄元(1592)年から自身が亡くなる慶長3(1598)年にかけて、中国の「明」征服を目指し、朝鮮半島に出兵した一連の戦争である。当時の日本では、「唐入り」または「高麗陣」と呼ばれていた(朝鮮側では「壬辰・丁酉の倭乱」と呼んだ)。 秀吉は関白に就任した天正13(1585)年ごろから、明の征服構想を持っていたといわれている。その構想が具体化したのは、天正15年における薩摩・島津氏征伐直後のことである。秀吉は対馬の宗義智(そう・よしとし)が朝鮮と交流があったことから、対朝鮮交渉を命じた。その内容とは、第一に朝鮮が日本に服属すること、第二に日本が明を征服するに際して、その先導役を務めさせるというものだった。 日ごろ、朝鮮と通交のある義智にとって、秀吉の命令は実に大きな難題であった。以後、義智はこの問題をめぐって、苦悩することになった。 朝鮮との関係を憂慮した義智は、秀吉の意向をそのまま伝えなかった。義智は家臣を日本国王使に仕立て上げ、第一に秀吉が日本国王に就任したこと、第二にその祝賀のため通信使を派遣するよう朝鮮サイドに依頼した。義智の考え抜いた対応が、のちに大きな誤解を生んだのである。 朝鮮サイドはこの申し出を断ったが、強硬な態度で臨んだ秀吉は、決して納得しなかった。そこで義智は、改めて博多の豪商・島井宗室らと朝鮮に渡航し、再び通信使の派遣を要請したのである。 天正18年、再び要請を受けた朝鮮側は、通信使を派遣し秀吉との謁見に臨み、事態の収拾を図ろうとした。交渉の席には、秀吉をはじめ菊亭晴季(きくてい・はれすえ)らの公家も参列した(『晴豊記』)。朝鮮側の意向にかかわらず、秀吉が通信使に改めて命じたのは、明征服のための先導役だったが、それを知らない朝鮮通信使は秀吉の祝賀のため来日したのである。豊臣秀吉像 秀吉の明征服の先導役を命じるという要求は、通信使から朝鮮国王にも伝えられた。同時に翌天正19年、秀吉は明征服のための拠点を作るため、肥前名護屋(佐賀県唐津市)に城郭を築城した。一方、朝鮮との交渉は難航を極め、交渉役の宗義智と小西行長は対応をめぐって頭を抱えていた。 2人は考え抜いた揚げ句、朝鮮に明攻略の先導役を務めるのではなく、明征服のために道を貸して(開けて)欲しい、と交渉内容をすり替えた。しかし、最終的に両者の交渉は決裂し、日本は朝鮮半島に侵攻する。禁止された「乱取り」 文禄・慶長の役においては、日本の戦国大名がこぞって参加し、朝鮮半島へ侵略行為を行い、いわゆる乱取り=奴隷狩りが行われていた。 日本軍は朝鮮半島での戦争の際、日本での慣例に習い、多くの女や子供を連行した。その様子は、奈良・興福寺の多聞院主が書き継いだ日記『多聞院日記』に描かれており、奈良に連行したことが知られている。 島津軍などは、朝鮮から薩摩へ帰る際、奴隷を連行するための手形を船頭に与えている。のちに、日本と朝鮮が和平を行ったとき、日本の奴隷連行が大きな障害となったほどである。以下、人身売買や拉致などの問題を中心に述べることにしよう。 日本国内の戦場において、人や物資が略奪(乱取り)されたことはここまでに触れた通りである。乱取りは雑兵たちの戦利品となり、彼らの懐を潤した。あるいは、戦争に出陣する目的が乱取りにあったのではないかと思うほどである。 秀吉が朝鮮出兵の際に出した方針は、次に掲げるものだった(「毛利家文書」)。天正20年4月26日付のものである(主要なものを抜粋)。 ①還住した百姓や町人に米銭金銀を課してはならない。 ②飢餓に苦しむ百姓を助けること。 ③あちこちで放火をしてはならない。(以下、補足として)今度の朝鮮出兵で人を捕らえた場合は、男女によらず、それぞれのもといた居住地に返すこと。 ④法令順守の徹底。 主に現地支配にかかわるものを抜粋してみた。まず①について。秀吉は同じような趣旨の命令を日本国内でも発している。たとえば、織田重臣時代の天正8(1580)年1月に三木合戦で別所氏が滅亡すると、荒廃した三木(兵庫県三木市)に百姓や町人の還住を促した(「三木町有古文書」)。戦争で荒廃した村や町を復興するための政策である。 ②についても、同様の趣旨と捉えてよいであろう。せっかく占領しても、百姓が飢えてしまい、占領地が荒れ果てていると意味がない。そう秀吉は考えていたのだろう。 注目すべきは、③である。冒頭の放火の禁止は、町や村の荒廃を避けるための方策である。重要なのは補足として、男女にかかわりなく生け捕りにした場合は、それぞれのもとの居住地に返すことが規定されている点である。 つまり、秀吉は戦場における乱取りを禁止していたことになろう。④における法令順守は、その延長線上にあり、数多くの禁制が発給されていた(「鍋島家文書」など)。秀吉は、朝鮮の百姓に危害を加えないように配慮していた。無視された秀吉命令 しかし、日本を遠く離れて朝鮮半島に出陣した雑兵に対して、秀吉の意図が十分伝わったのか大いに疑問である。雑兵の戦場における目的は、やはり「乱取り」にあり、それが第一義にあった。案の定、秀吉の方針は無視され、朝鮮半島の各地で「乱取り」が行われた。次に、その実態を概観することにしよう。 戦場において、人間はなかなか理性をコントロールできないものである。いざ朝鮮半島で戦いが始まると、秀吉の命令は無視され、雑兵は「乱取り」に夢中になった。 文禄元(1592)年、日本軍が朝鮮半島に上陸すると、佐竹氏の家臣・平塚滝俊が肥前名護屋城で留守を務める小野田備前守に宛てて書状を送っている。滝俊の生没年や出身地は不明であるが、佐竹氏家臣団の中では、中級クラス以上の地位にあったと考えられている。この書状は、歴史学者の岩沢愿彦(いわさわ・よしひこ)氏が紹介したものである(「肥前名護屋城図屏風について」)。書状の概要を次に示しておきたい。高麗で二・三の城を攻め落とし、男女を生け捕りにして、日々を送ってきた。(朝鮮人の)首を積んだ船があるようだが、私は見たことがない。男女を積んだ船は見た。 日本軍は朝鮮の城を攻め落とすと、戦利品とばかりに男女を生け捕りにし、船に積んで日本へ送った。また、討ち取った朝鮮人の首も運ばれていた。 朝鮮人の首が秀吉のいる肥前・名護屋城に送られたのは、出陣した武将が軍功を認めてもらうためである。いわゆる「首実検」のためだった。おそらく船が満杯の状態で運ばれたのであろうが、実におびただしい分量になったと思われる。「名護屋城」城跡の石垣。秀吉の朝鮮出兵の兵站基地だった=佐賀県唐津市 これだけの分量になると、本当に正しい検分ができたのかどうか、非常に疑問である。参考までにいうと、首は非常に重量があるので、のちに首でなく耳や鼻が持ち帰られた。それを供養したのが耳塚(鼻塚)であり、京都市東山区の豊国神社前にある。 耳や鼻を削いで持ち帰る際、日本軍により残酷な行為が行われていた。慶長3(1598)年10月に泗川(サチョン)新城で戦いが行われると、島津軍が明・朝鮮の連合軍の兵3万3700人を討ち取り、城の外に大きな穴を掘って埋めたという。そして、その遺体から鼻を削ぎ取り、塩漬けにして日本に送ったのである(『島津家記』)。 加藤清正の武将・本山豊前守の手になる『本山豊前守安政父子戦功覚書』には、男女や生まれたばかりの赤ん坊も残らず撫で切りにし、鼻を削いで毎日塩漬けにした、と記されている。塩漬けにしたのは、腐敗を避けるためだろう。もはや戦闘員・非戦闘員を問わず、鼻をどれだけ獲ることができたのか競った感がある。その数は、一度に2、3万に及んだこともあった。 問題になるのが、朝鮮半島で生け捕った男女も船で肥前・名護屋城に送られたことである。これは、先に示した秀吉の方針と相反する行為である。秀吉の意向とは裏腹に、現地では日本の慣習にならって、「乱取り」が行われた。崩壊した秩序 実のところ、各大名にとって朝鮮への出兵は、多大な経済的な負担であった。第一に、多くの軍兵が動員されたうえに、半農半兵の土豪たちも出陣を余儀なくされた。出陣は長期間にわたったので、必然的に農業の担い手を失うことになる。同時に、農地が放棄される状態にあった。薩摩の島津氏は、戦費の捻出に苦労したという。 とりわけ捕らえられた人々は、老人、女、子供が多かったといわれている。彼らは屈強な男性とは異なり、反抗することが少なかったと考えられ、奴隷としては最適であったからだろう。 雑兵たちにとっての戦争は、極端に言えば勝ち負けが問題ではなく、いかに戦利品を得るかが重要であった。そうなると、秀吉の指示をまともに聞いていれば、何ら見返りのない「ボランティア」になってしまう。実際、略奪は多くの大名が黙認し、幅広く行われていた。 文禄2年に推測される8月23日付の「石田三成覚書」によると、三成は薩摩・島津氏に対して種々の命令を伝えているが、その中に船を使って乱妨・狼藉を働かないように指示を行っている(「島津家文書」)。 こうした指示が与えられるところを見ると、実際に乱取りが行われており、島津氏は黙認していたのであろう。同様の事例は、普州(チンジュ)城で戦っていた加藤清正軍にも見られる。この場合は、清正に知られないようにして、配下の武将が雑兵たちに略奪行為をさせたという。もはや秩序は、完全に崩壊していた。 こうした状況が秀吉の耳に入ったのか、あるいは別の事情があったのか、秀吉自身も人身売買や生け捕りについて容認したと受け取られかねない命令を発する。その命令こそが、次に示すものである(「島津家文書」ほか)。急ぎ仰せを伝えます。捕らえた朝鮮人の中で、細工のできる者、縫官、手先の器用な女性がいれば、進上すること。召し使うようにする。家中を改めて、こちらに遣すこと。 この秀吉の朱印状は島津家だけでなく、多くの大名家に伝わっている。つまり、秀吉は自身が召し使うため、さまざまな技量を持つ女性を集めていたことになる。ただし、この史料はいずれも年次を欠いており、文禄2年あるいは慶長2年のいずれかが該当すると考えられている。前者なら出兵直後、後者なら二度目の出兵の時期となる。「壬辰倭乱図」(和歌山県立博物館提供) 当初と異なり、秀吉は大きく方針を転換したが、各大名たちが朝鮮から人々を連れ去った事実は当然把握していたことであろう。むしろ、そうした事実を知っていたので、優秀な人材を確保しようと考えたのかもしれない。 文禄・慶長の役において、多くの朝鮮人が日本に連れ去られ、売買されることになった。それらの経緯を確認しよう。転売された朝鮮人奴隷 東洋史家の内藤雋輔(ないとう・しゅんぽ)氏が紹介した『月峯海上録(げっぽうかいじょうろく)』には、朝鮮人奴隷の様子が詳細に記述されている(翻刻は『文禄・慶長役における被擄人の研究』)。内藤氏の研究成果を交えつつ述べておくと、文禄の役と慶長の役とでは、後者の奴隷狩りが圧倒的に多かったという。 しかも、その被害は圧倒的に朝鮮半島南部に集中していた。文禄の役では朝鮮半島の奥地まで侵攻したが、慶長の役ではそこまで侵攻できなかったのが要因であろう。慶長の役は長期化したものの、勝利の可能性が乏しかったため、奴隷狩りに注力したと考えられる。 強制的に奴隷として日本に連行された朝鮮人は、主に九州各地に住んでいたが、薩摩・島津氏の領内では、その数が3万7千人にも及んだという。彼らは苗代川(鹿児島県日置市)に集住し、陶工・朴平意(ぼく・へいい)らを中心にして、陶磁器の製造を行った。苗代川窯は白釉と黒釉を用いて、日常的に使用する陶器を製造した。技能集団が日本に根付いた一例である。 この頃、平戸や長崎は朝鮮半島から連行した朝鮮人を売買するなど、世界でも有数の奴隷市場として知られていた。 日本人の人買商人のうち、ある者は自ら朝鮮半島に渡海して奴隷を買い漁り、またある者は日本国内でポルトガル商人に転売して巨万の富を得た。彼らはポルトガル商人が持っていた鉄砲や白糸の代価としていたのである。 ほとんどの奴隷は捨値で売られたというので、薄利多売の様子がうかがえる。日本を窓口にして、多くの奴隷が世界に渡っていったのである。それは朝鮮人だけではなく、多くの日本人が含まれていたことが指摘されている。 日本人が朝鮮半島で行った奴隷狩りは、どのような形で行われたのであろうか。その点は、次回に触れることにしよう。主要参考文献渡邊大門『人身売買・奴隷・拉致の日本史』(柏書房)■「倭寇の人身売買は貴重な労働力」日中朝を席巻した海賊集団の謎■川中島の戦いは略奪が目的だった? 信玄も黙認した「乱取り」の真実■「極悪の欲情」女好き秀吉、フロイスの目にはどう映ったか

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    信長を「天下人」に導いたオカルト朱印

    橋場日月(歴史研究家、歴史作家) 第一次木津川口の戦いは、戦歴で圧倒する精鋭・毛利水軍が質量ともに劣る織田水軍を完璧に撃ち破って終わった。3カ月前から大坂に7カ所の付城(つけじろ。敵の城を監視するとともに攻撃の拠点になる)を作り、本願寺を包囲して兵糧攻めにしようとしていた信長の計画は、毛利水軍が海上から本願寺に兵糧を運び入れたことで絵に描いた餅となって終わったのだ。 そのことに落胆したかどうかは別にして、この年、天正4(1556)年の信長はその後目立った行動を起こしていない。秀吉に中国地方の攻略担当を命令したぐらいで、オカルトマニアらしく11月に内大臣に昇任した際に真言密教の道場として知られる大津の石山寺で2日間を過ごしたこと、その後に安土城へ戻り、元伊勢国司だった北畠具教(とものり)を殺させたことしか見るべきものがない。ただ、石山寺で信長を接待したのが瀬田城の山岡景隆・景猶(かげなお)兄弟だったことは心にとどめておこう。そう、龍の橋、瀬田橋の架設工事を担当した山岡さんだ。 明けて天正5(1577)年。2月から3月まで紀州雑賀攻めを行った後の信長は、こんな書状を発行している。「上山城の当尾には、去年実施した指出以外にも隠し田があるとのことなので、代官として早々赴任して処理せよ」 上山城の当尾(とうの)というのは現在の京都府木津川市加茂町の内で、京都市の南、奈良県との国境近くの郷村だった。指出(さしだし)は指出検地、自己申告制の検地なのだが、のちの太閤(たいこう)検地のような強制的に官吏が測量する検地と違い、いくらでもごまかしが効く。特に当尾は入り組んだ山谷が続く地形だから、多くの田畑を申告せず隠しておける。信長はそれを摘発しろ、と代官に任命した家来に命じているのだ。 というのは余談で、本テーマにはまったく関係ない(笑)。肝心なのは、この命令文の最後に捺(お)された印判だ。天下布武龍章御朱印=建勲神社(中田真弥撮影) 第11回で紹介した「天下布武」の朱印が、この命令書から新しいバージョンになったのだ。第11回ではこの印判について「後年改定されて重要な意味を持つことになるので、ぜひ心にとどめておいていただきたい」と述べたが、ここでいよいよその重要な意味というものを考えてみよう。「天下布武」印の意味 まずは「天下布武」印を少し整理しておく。①第1バージョン 永禄10(1567)年11月から使用開始。一重の楕円(だえん)形の中に天下布武の文字②第2バージョン 永禄13(1570、4月に元亀へ改元)年3月から使用開始。一重の楕円形の外周に馬蹄(てい)形の太線が加わる③第3バージョン 天正5年から使用開始。「双竜形天下布武印判」と呼ばれ、文字通り2頭の龍が「天下布武」の刻文を囲む ②の馬蹄形というのは、文字通り馬のひづめの形だ。日本では近世まで馬のひづめに蹄鉄(ていてつ)をつけることは九州の一部を除いてほぼ無く、馬沓(うまぐつ)・馬わらじと呼ばれる皮革や藁(わら)で作った馬用のわらじをはかせた。欧米では馬のひづめに装着する蹄鉄=ホースシューには魔除けのパワーがあると考えられている。東京ディズニーランドにあるショーレストラン、「ザ・ダイヤモンドホースシュー」の正面入り口の上に掲げられている看板の大きい蹄鉄がまさにそれで、蹄鉄を魔除けのお守りとしてU字形に扉へ打ち付けるという慣習に基づいた演出だ。 一方の日本では、馬沓には病気や悪霊を退散させ、雷を封じる効力があると信じられてきた。道ばたに履き捨てられた古い馬沓は、拾って家の軒下に下げておけば魔除けや招福のお守りになる、というものだ。この迷信は現在でも各地に残っている。織田信長が使用した「天下布武」の印 また、山梨県の小室浅間(おむろせんげん)神社では流鏑馬(やぶさめ)の儀式でついたひづめの跡で地元の吉凶を占う風習が残っている。 「天下布武」を包み込む馬蹄形。信長がこの印判にバージョンアップした永禄13年3月といえば、越前朝倉義景攻めに出陣する直前だ。傀儡の将軍・足利義昭を戴きながらも、自身が天下(将軍の支配域)への号令を開始するというターニング・ポイントにあたる。このタイミングでの馬蹄形印判は、まさに信長の信長による「天下布武」に幸運を呼び込む仕掛けだった。 そして、今回の「双竜形天下布武印判」だが、2頭の龍は下を向いている。つまり下り龍なのだが、例えば上野東照宮の唐門の彫刻「昇り龍」「降り龍」がセットであること、富塚鳥見神社などの龍柱も「昇り龍」「降り龍」が対になっていること、沖縄の首里城の正殿の妻飾にいたっては「降龍」のみの対であることで分かるように、「昇り」「降り」には上下の差はない。「下り龍」の意味 では、下り龍は聖域を守るという以外にどんな意味があるのだろうか。 龍で思い浮かぶのは、四神の一、青龍。東の方位を守る神獣だが、これとは別に、北を守る聖獣としての下り龍がある。 本来、北を守るのは玄武だ。ところが、亀と蛇の融合体であるこの神獣については、足利義昭が積極的に改元を進めた「元亀」の元号にその意味が込められ、信長がそれを嫌ったことはすでに述べた。 古来、聖なる都は風水によって「四神相応の地」といい、北・東・西を山に囲まれ、南だけが開けた土地を選んで造営された。平城京しかり、平安京しかり、である。 特に北に山があることが肝心で、そこから「気」(エネルギー)が取り込まれて都に流れ込み、開けた南へ流れていく。京で言えば鞍馬山以北の山並みが「気」の入り口、すなわち「龍脈」にあたる。そして、鴨川・桂川がそれを南へと流していく。 だが、すべての場合にそういう地形、そういう土地が選べるわけではないから、風水はそれをカバーする方法も提案している。それが「下り龍」というわけだ。彫刻の置物でも絵でも良いから、下り龍をモチーフにしたものを北方位に備え付けることで、「気」を呼び込む。これで龍脈の代わりとなる。 義昭の「元亀」を否定した=玄武を避けた信長にとっては、下り龍はまさにうってつけのモチーフではないか! 「天下布武」の四文字を2頭の下り龍で囲んだバージョン③には、誰の代理でもない、信長自身の天下布武に龍のパワー(「気」)を導き入れる意図が隠されていた。 さらにいえば、黄龍というものもある。『芸文類聚(げいもんるいじゅう)』という中国の古書に「黄龍者(は)四龍之(の)長」と記されているなど、東西南北の中央に位置し四方向それぞれの龍神の長たる存在だ。ゆえに、中国では皇帝の象徴となる。信長の旗印。黄色地に永楽通宝の文字が書かれている=清州城(中田真弥撮影) そこで問題。信長の旗印は何だったか? これについても以前に触れたが、皆さまよくご存じの「黄色地に永楽通宝」。彼が天皇に遠慮せずその色を使った件も第14回で触れたが、信長が早くから黄龍の神通力を意識していたとすれば、旗印の件も一層説得力が増す。ちなみに、織田家の陣幕も黄色地に木瓜紋だ。天下布武「最後の鍵」 それだけではない。中国において、黄龍はのち麒麟(きりん)に置き換えられた。龍、黄、麒麟。すべてのキーワードがここで揃ったではないか。 こうなると信長が花押(サイン)に麒麟の形象を取り入れたことも含めて、すべてが龍中心思想の世界にあることがハッキリしてくる。 信長は内大臣に昇進した直後から、家臣に「上様」と呼ばれるようになっている。内大臣は左右大臣の代理を務めることができ、朝議を主宰する者の代理という役職だが、それだけでは「上様」と呼ぶのははばかられるかもしれない。 当時大名のことは「殿様」と呼び、「上様」と呼ばれるのは国王(天皇)や公方(将軍)ら「最上の主君」だけ(『日葡辞書』)。信長がそれに匹敵する立場にあることが周囲にも認識され、呼称になって表れていた。公家の山科言継の娘が父に手紙で「明年は安土へ内裏様行幸申され候わん」と書き送った「明年」の天正5年、実際に信長が天皇の象徴である龍を完全に乗っ取り、天下の主として振る舞い始めたことがわかる。信長は正親町天皇の嫡男である誠仁(さねひと)親王に譲位させたうえで、新天皇となった誠仁親王を安土城に迎えようと考えていたという。 そして閏(うるう)7月6日(当時の陰暦ではうるう月があった)、信長は「龍躍池」を取り込んで、内裏の裏鬼門を守る京の新屋敷へ移徙(わたまし)した。天王寺にある茶臼山古墳。筆者はこのあたりが信長の天王寺砦だったと考える(筆者提供) この屋敷が完全に竣工するのは9月末なのだが、せっかちな信長としては、安土城建築開始早々に移り住んだように、のんびりと完成を待つ気はまるで無かったようだ。12日にこの新屋敷で前関白・近衛前久の子、信基(のぶもと。のち改名して信尹、のぶただ)の元服式を執り行うと、翌13日、また瀬田で山岡景隆の城に泊まり、安土へ帰っていった。 そして8月17日になると、本願寺攻めのため天王寺砦(とりで)に詰めていた松永久秀が突然砦を引き払い、居城の大和信貴山(しぎさん)城に立てこもる。信長への敵対を表明していた越後の上杉謙信が、いよいよ西に出陣する動きを開始しようとしていた。久秀はそれに呼応して信長に奪われた城や権利を回復しようと考えたわけだが、信長が久秀を攻めようと準備を進めるなかの9月29日、『信長公記』に面白いことが書かれている。「戌刻、西に当って希(まれ)にこれある客星ほうき星出来(夜8時、西の方角にまれに現れる彗星が出現した)」■安土城「蛇の巨石」に隠された信長の仰天プラン■「龍宮に続く橋」信長のオカルト願望を叶えた御用建築家■またも龍パワー? 安土城と京屋敷、信長が同時普請にこだわったワケ

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    「愛子天皇」待望論者たちよ 、もう一度壬申の乱を起こしたいのか

    例を貴ぶ世界だということである。わが国は初代神武天皇の伝説以来、2679年の一度も途切れたことがない歴史を誇る。風の日も雨の日もあったが、昨日と同じ今日をこれまで続けてきた。幸いなことにわれわれの日本は、この幸せが明日も続きますように、と言える国なのである。 皇室の祖先である神々を祀っている最も格式の高い神社は、伊勢神宮である。正式名称は神宮。ユーラシア大陸でイスラム教が勃興した西暦7世紀には既に、「いつの時代からあったか分からないほど古い時代からあった」とされる。神宮では毎日、日別朝夕御饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい)という神事が行われている。毎日、同じ御食事を神様に捧げる。昨日と同じ今日が続いてきた証として。そして今日と同じ明日が続きますようにと祈りを込めて。 京都御所の鬼門を守るのは、比叡山延暦寺だ。その根本中堂には、伝教大師最澄が灯した不滅の法灯が今も光を放っている。叡山は三度の焼き討ちにあったが、そのたびに他の地に分灯していた火を戻し、1300年前に伝教大師が灯した光が消えることはない。毎朝、たった一筋の油を差す。その行為自体に何の意味もない。 しかし、毎朝油を差し続けているから、不滅の法灯が消えることはない。いかなる権力があろうと、武力や財力があろうと、今から神宮や不滅の法灯を超える歴史を作ることはできない。不滅の法灯は個人ではなし得ない。歴史を受け継いだからこそ存在しているのだ。 歴史に価値を認めない人間にとっては、何の意味もないだろう。そもそも不滅の法灯など、物理的には一吹きの息で消え去る。いくら言葉を尽くしても、「不滅の法灯などという面倒なものはやめてしまって、電球に取り換えればいいではないか」という人間を説得することなどできまい。そのような人間には、歴史を理解することができないからだ。先例など、何の意味も持つまい。 そういう人間は日本にもいた。それなのに、なぜ皇室は続いてきたのか。変えてはならない皇室のかたちを守ろうとした日本人が続けてきたからだ。もし、日本人が「皇室などやめてしまえ」「これまでの歴史を変えてしまえ」と思うなら、先例など無視すればよい。ただし、それはこれまで先人たちが守ってきた、皇室を語る態度ではない。 古来、皇室では「新儀は不吉」だとされてきた。これは、時の天皇の意向であっても変えることができない、皇室の慣習法である。貫史憲法とも呼ばれる。かの後醍醐天皇は、「朕が新儀は後世の先例たり」と宣言し、公家の支持を失った。歴史を無視し、時流にだけ阿(おもね)れば良いのなら、歴史はいらない。ついでに言うと後醍醐天皇の言う通りにすれば、当時の公家の存在価値などないから、あきれられるのも当然だろう。 もちろん、先例であれば何も考えずに従えばよいのではない。先例にも、吉例と悪例がある。歴史の中から、どの先例に従うのが適切かを探し、「発見」するのである。法は発明するものではなく発見するものであるとは、西欧人の自然法の発想である。日本人は西欧人が自然法を発見する千年前から、その知恵を実践していた。譲位を報告するため伊勢神宮外宮を参拝、板垣南御門に到着された天皇陛下(当時)=2019年4月、三重県伊勢市(彦野公太朗撮影) 幕末維新で国の存亡が問われたとき、御一新が求められた。古いやり方では西洋の侵略に対抗できない。元勲たちは必死の改革を行い、生き残った。その改革の最初が王政復古の大号令である。ここでは「神武創業の精神」が先例とされた。皇室とは、これほどまでに先例を貴ぶ世界なのである。 どうしても新儀を行わねばならないような非常事態はある。たとえば、大化の改新(645年)、承久の乱(1221年)、大東亜戦争敗戦のような場合である。大化の改新は、宮中の天皇陛下の御前で殺人事件が起きた。しかも犯人は天皇の実子である皇子である。殺された蘇我入鹿の専横に中大兄皇子が怒り、事に及んだのだ。そして多くの改革を始めていく。元号が制定されたのもこのときである。実の息子が起こした殺人事件に際し母親の皇極天皇は驚愕し、史上初の譲位を行った。悠仁親王につながる糸 承久の乱は、「主上御謀反」である。鎌倉幕府は、乱を起こした後鳥羽上皇らを島流しにし、時の九条帝を廃位した。九条帝は、践祚(せんそ、天皇の地位を受け継ぐこと)はしたが、即位していなかったので「半帝」呼ばわりされた。「九条廃帝」である。「仲恭天皇」の名が贈られるのは、明治3年。実に600年後である。なお、乱後に治天の君として院政をしいたのは守貞親王だ。後に後高倉上皇の名が贈られた。史上初の「天皇になっていない上皇」となった。 敗戦は、国土を外国に占領されるという未曽有の不吉だった。その際、昭和天皇が自らラジオで国民に語りかけ、結束を訴えた。玉音放送である。 いずれも、血なまぐさい不吉な事件により、新儀が行われている。もちろん、ここで挙げた例でも、元号、譲位、玉音放送(なぜかビデオメッセージと呼ばれる)は現代でも行われ先例となっているので、それ自体は悪いことではない。一方で、廃位や上皇の島流しなどは何度も行われているが、言うのも憚(はばか)るような悪例である。皇室において、新儀とは無理やり行うものなどではないのである。 二つ目の原則は、皇位の男系継承である。今上天皇まで126代、一度の例外もない。八方十代の女帝は存在するが、すべて男系女子である。男系継承をやめるとは、皇室を亡ぼすのと同じである。 現在、悠仁親王殿下まで、一本の糸でつながっている。その今、男系をやめる議論をすること自体が、皇室に対する反逆だ。いかに、これまでの歴史をつないでいくか、たった一本の小さな糸を守るべきかを考えなければならない。それをやめる前提の議論など、不滅の法灯をLED電球に変えようとするのと同じである。 蘇我入鹿も、道鏡も、藤原道長も、平清盛も、足利義満も、徳川家康も、皇室に不敬を働いた権力者は数あれど、誰一人として皇室に入り込むことができなかった。この中で陛下と呼ばれた者は一人もいないし、息子を天皇にした者はいない。せいぜい、自分の娘を宮中に送り込み、娘が生んだ孫を天皇にするのが、限界だった。男系の原則が絶対だからだ。それを今さら男系継承をやめるとは、今までの日本の歴史は何だったのか。男系継承は、皇室が皇室であり続ける、日本が今までの日本であり続ける原則なのである。 三つ目の原則は、直系継承である。間違ってもらっては困るが、「男系継承の上での直系継承」だ。二者択一ではない。世の中には、勉強のしすぎで肝心な原則を忘れ、女系論を振り回す論者がいる。この人たちの言い分は、直系継承である。三分の理はある。しかし、肝心な原則である男系継承を無視して女系論を振り回すから、世の常識人に鼻をつままれるのだ。皇后さまのお誕生日を祝うため、皇居に入られる皇太子ご一家(当時)=2018年10月(代表撮影) 不吉なたとえだが、単なるフリーターが内親王殿下と結婚して男の子が生まれたら天皇になれるのか? そんな簡単なことが許されるなら、なぜ藤原氏は摂関政治などという面倒くさいやり方を何百年も続けたのか。 平民の男子は陛下になれない。内親王殿下と結婚しても、平民は平民である。これがわが皇室の絶対の掟である。わが国は一君万民であり、君臣の別がある。皇室から見れば、藤原も平も源も、皆、等しく平民である。皇室から見れば、貴族と平民に差はない。あるのは皇族と貴族・平民の差だけである。 ただ、私は男系絶対派の中で、最も女系論者に理解を示してきたつもりだ。理由を一言でまとめると、「一部の男系論者の頭が悪すぎるから」となる。女系論者の中には、「あんな連中と一緒にされたくない」「あのような連中が言っているのだから、たぶん逆が正しいのだろう」と考えたくなる気持ちはわかる。その愚かな主張から、代表的な二つを取り上げよう。一つは、「皇室のY染色体遺伝子が尊い」である。不敬な論理 いつから皇室の歴史を遺伝子で語るようになったのだ? ちなみに、この理屈、高校生物の知識としても間違っているのだが、それは本筋ではないので無視する。言うまでもないが、遺伝子どころか、アルファベットが生まれる前から、わが皇室には歴史がある。「Y染色体遺伝子」などで皇室を語るなど、児戯(じぎ)に等しい。なお当たり前だが、皇極天皇から後桜町天皇の歴代女帝のすべての方は、「Y染色体遺伝子」を有していない。こうした議論は今や見向きもされなくなったが、高校生物程度の知識で皇室を語る輩(やから)が後を絶たない。 最近よく聞く風説は、「皇太子より血が濃い男系男子が存在する」である。皇太子殿下は本日、めでたく践祚された。さて、この風説を流す者は、今の陛下の正統を疑う気か? 最初にこの失礼極まりない言説を聞いたとき、「それは今の殿下(今上陛下)が(上皇)陛下の実子ではないと言いたいのか?」と訝(いぶか)ったが、そうではないらしい。先般、お亡くなりになられた東久邇信彦氏とその御子孫の方を仰(おっしゃ)りたいらしい。 小泉純一郎内閣で女系論が話題になったとき、占領期に皇籍離脱を迫られた旧皇族の方々のことが話題になった。特に信彦氏は、両親と4人の祖父母が全員皇族(母方の祖父は昭和天皇)、さらに母方の曽祖父が明治天皇である。 しかし、皇室の歴史では、高校生物の理屈など持ち込まない。今の皇室の直系は今上陛下である。今上陛下は、上皇陛下と太后陛下の紛れもない嫡子であらせられる。この論点に争いはない、などと言わされるだけ愚かしい。皇室の直系を継いだ今上陛下より血が濃い方など、いらっしゃらないのである。 ご本人たちに迷惑な書き方だが、一部の風説に従い東久邇信彦氏の方が今の陛下よりも血が濃いとしよう。その根拠は、太后陛下が皇族の出身ではないからになるではないか。実に不敬である。 そもそも、男系が絶対ならば、天皇陛下のお母上は誰でも良いではないか。「皇太子より血が濃い」などと主張する論者は人として失礼なだけでない。男系絶対を言いながら自説の根拠が女系である。論理も破綻している。この論者の言う通りにすれば、古代国家のような近親結婚を永遠に繰り返さなければならない。皇居と宮内庁=東京都千代田区(産経新聞チャーターヘリから) 一部の男系絶対主義者のおかしな主張への反発で女系論に走った論者も、女系論の悪口さえ言っていれば、いかなるでたらめな男系論でも構わないとする論者も、何が大事か分かっていない。 男系継承は絶対である。しかし、直系継承もまた重要である。そもそも、わが国の歴史は皇室の歴史であり、皇位継承とは誰の系統が直系になるのかの歴史なのだから。今上陛下の父親の父親の…と男系でたどっていけば、江戸時代の第119代光格天皇にたどり着く。当時の第114代中御門天皇の直系が第118代後桃園天皇で途絶えたので、閑院宮家から即位された。「傍系継承」である。 しかし、後桃園天皇から父親の父親の…と男系でたどっていくと、第113代東山天皇にたどり着く。東山天皇から見れば、後桃園天皇は玄孫、光格天皇は曾孫である。東山天皇まで継承されてきた直系は、光格天皇から今上陛下まで継承されてきているのである。「五世の孫」の原則 ちなみに私はこの前、「光格天皇六世の孫」の方に会った。由緒正しき、光格天皇の男系子孫の男子である。血は完全だ。しかし、この方に皇位継承資格はもちろん、皇族復帰資格もない。「五世の孫」の原則があるからだ。 皇族は臣籍降下したら、皇族に戻れないのが原則である。もちろん、例外はある。定省王が臣籍降下して源定省となったが、皇籍復帰して定省親王となり、践祚した。第59代、宇多天皇である。元皇族から天皇になった、唯一の例である。 宇多天皇が源定省であったときに生まれたのが源維城(これざね)であり、後の第60代醍醐天皇である。生まれたときは臣下だったが、本来の皇族の地位を回復し、天皇になった、唯一の例である。元皇族と区別して、旧皇族と呼ぶ。いずれも当時の藤原氏の横暴により、皇位継承が危機に陥ったが故の、例外的措置である。決して吉例とは言えない。 ただ、明らかに現在は、醍醐天皇の先例に習うべき危機的状況だろう。かたくなに「君臣の別」を唱え、「生まれたときから民間人として過ごし、何世代も経っている」という理由で元皇族男子の皇籍復帰に反対する女系論者がいる。 では、誰ならば皇族にふさわしいと考えているのか。どこぞの仕事もしていないフリーターならば、よいのか。身分は民間人に落とされても皇族としての責任感を継承して生きてこられた方たちよりもふさわしい人がいるのか。女系論者は「実際に、そんな男系男子はいるのか」と主張し続けていたが、東久邇家の方々よりふさわしい方はおるまい。むしろ、女系論を主張するならば、東久邇宮家の皇籍復帰こそ命がけで訴えるべきだろう。 東久邇家の方々に限らず、占領期に臣籍降下された11宮家の方々は、父親の父親の…と男系でたどっていくと、北朝第3代崇光天皇にたどり着く。「五世の孫」の例外とされた伏見宮家の末裔の方々だ。男系では、直系からは遠すぎる。しかし、女系では近い。 本来、女系とは男系を補完する原理なのである。分かりやすい一例をあげよう。古代において、当時の直系は第25代武烈天皇で絶えた。そこで、第15代応神天皇の五世の孫である男大迹王(をほどのおおきみ)が推戴された。継体天皇である。神武天皇以来の直系は継体天皇の系統が継承し、今に至っている。なお、五世の孫からの即位は唯一であり、この先例が、直系ではない皇族は五世までに臣籍降下する原則の根拠となっている。 ちなみに、継体天皇と武烈天皇は十親等離れている。それこそ血の濃さを持ち出すなら、「ほぼ他人」である。継体天皇から光格天皇まで、傍系継承は何度かある。むしろ古代や中世においては、誰の系統が直系を継承するのかで、皇位継承が争われてきた。新年一般参賀に訪れた人たちを前にお言葉を述べられる天皇陛下と皇后さま(当時)=2019年1月、皇居(佐藤徳昭撮影) その最たる例が、壬申の乱(672年)だ。その壬申の乱は「天智天皇が勝った」と言えば驚かれるだろうか。第38代天智天皇の崩御後、息子の大友皇子(明治3年に弘文天皇の名が贈られた)と弟の大海人皇子(天武天皇)が皇位を争った。践祚した大友皇子に対し大海人皇子が兵を挙げ、自害に追い込み自らが即位する。その後、皇位は天武天皇の系統が継承した。天皇の崩御後は皇后が持統天皇として即位したが、以後の奈良時代の天皇はすべて天武天皇の男系子孫である。天武朝とも呼ばれる。奈良時代は女帝が多いが、天武天皇の直系を守ろうとしたからである。 ところが、健康な男子に恵まれず、称徳天皇の代で途絶えた。この女帝のときに道鏡事件が起きるのだが、「皇位を天智系に渡すくらいなら」との執念すら感じられる。もちろん、民間人の天皇など認められず、皇位は天智天皇の孫(施基親王の皇子なので男系男子)の光仁天皇が継承した。ここに天武朝は途絶え、直系は天智天皇の系統に移った。これが「壬申の乱は天智天皇が勝った」と評するゆえんである。臣民の責務とは ちなみに、女系を持ち出すなら、第43代元明天皇は天智天皇の娘である。第44代元正天皇は、元明天皇と草壁皇子の娘で、天智天皇の孫娘だ。よって、女系では天智天皇の子孫である。しかし、当時は早逝した草壁皇子の系統にいかに直系を継承するかが、天武朝の悲願だった。草壁皇子は天武天皇の息子である。女系でよいなら、天智系と天武系の血で血を洗う抗争は何だったのかと、古代史の門外漢の私ですら思う。皇室が女系で構わないと主張したいなら、古代史を書き換えてからにしていただきたい。 そして、天智朝にしても天武朝にしても、第34代舒明天皇の男系子孫であることには変わりないが、いずれが直系かをめぐり、100年の抗争を繰り返したのだ。それほどの抗争を繰り広げながらも、男系継承の原理を守ってきたので、皇室は続いてきたのだ。 このように、どの天皇の系統が直系を継承するかをめぐり争った歴史は何度かある。第63代冷泉天皇と第64代円融天皇の系統は、交互に天皇を出し合っている。この「両統迭立」は、円融天皇の孫の第69代後朱雀天皇の系統が直系を継承する形が成立するまで続いている。 自分の子供に継がせたいとする感情は、皇室でも同じなのだ。院政期の抗争もそうだ。それは保元の乱で爆発したが、院政期は常に抗争が繰り広げられた。鎌倉時代の両統迭立は南北朝の動乱にまで発展した。そして、大覚寺統(南朝)の中でも、持明院統(北朝)の中でも、直系をめぐる争いはあった。 北朝第3代崇光天皇は動乱の中で南朝に拉致され、そのまま廃位された。皇位は弟の後光厳天皇が継ぎ、直系はその系統に移った。しかし、後光厳天皇の直系が絶えたとき、崇光天皇の曽孫の彦仁(ひこひと)親王が即位された。後花園天皇である。崇光天皇が皇位を奪われてから、77年ぶりの奪還である。 戦国時代以降は、ここまでの激しい皇位継承争いはない。むしろ、皇統保守のために、宮家の方々は天皇陛下をお守りしてきた。江戸時代、幕府の圧力から朝廷を守った後水尾天皇にも、皇室の権威を回復した光格天皇にも、優れた皇族の側近がいた。後水尾帝を支えた近衛信尋は臣籍降下した天皇の実弟であるし、光格天皇は自身が閑院宮家において直系断絶に備えていつでも皇位継承できるよう準備をされていた。陛下御一人では、皇室は守れない。皇族の方々の御役割とは、かくも大きいのだ。 先帝陛下には先の美智子陛下がいらっしゃった。今上陛下を支える筆頭は、東宮となられた秋篠宮殿下である。将来、悠仁親王殿下が皇位を継がれ、日本国は守り継がれていく。お茶の水女子大学附属小の卒業式を終えられた悠仁さまと秋篠宮ご夫妻=2019年3月、東京都文京区(代表撮影) さて、ここまで皇室の歴史を簡単に振り返ったが、「愛子天皇」待望論を唱える者たちは、今の皇室の直系をなんと心得るか。いずれ皇統の直系が悠仁殿下の系統に移られたとき、愛子内親王殿下も陛下をお支えする立場にある。 それを、畏(おそれ)れ多くも悠仁親王殿下がおわすのに、どういう了見か。直系を悠仁親王殿下から取り上げようと言うのか。 もう一度、壬申の乱を起こしたいのか。それとも保元の乱か。はたまた、南北朝の動乱を再現したいのか。 今この状況で、「愛子天皇」待望論を唱える者たちよ。貴様たちは自分の言っていることが分かっているのか。 悠仁親王殿下につながる直系をお守りする。これが、臣民の責務である。■ 「眞子さまへの純真は本物か」小室圭氏よ、試練を歩み解を出せ■ 女性宮家の創設とは「制度化された道鏡」に他ならない■ 女性宮家以外にも「皇統の断絶」を防ぐ手立てはある

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    皇室の危機は一目瞭然、「愛子天皇」待望論の答えは一つしかない

    天皇であるべきことが確定している「皇太子(または皇太孫)」とは立場が異なる。 天皇の弟で皇嗣の場合は歴史上、「皇太弟」という立場があった。このたびの皇室典範特例法でも、秋篠宮殿下の皇位継承上の地位を固めるためには、そうした称号を新しく設けるべきだった。だが、秋篠宮殿下ご本人が辞退されたと伝えられる。「皇太子になるための教育は受けてこなかったから」と。 常識的に考えて、秋篠宮殿下を単に「皇嗣」として、特段の称号を用意しないという法律の作り方は、かなり非礼な扱い方と言える。当事者のご意向を前提としなければ、こうしたやり方は一般的に想定しづらい。だから、そこに秋篠宮殿下のお考えが反映されている、と推測するのが自然だろう。 それが事実だとすれば、重大事だ。言うまでもなく、「天皇」という地位は皇太子(皇太弟)などより遥かに重い。ならば、皇太弟すら辞退された方が、そのまま天皇に即位されるというシナリオは、いささか考えにくいのではあるまいか。 その上、皇太子殿下と秋篠宮殿下はご兄弟で、ご年齢が近い。皇太子殿下が今上陛下と同じ85歳まで在位された場合、秋篠宮殿下は79歳または80歳でのご即位となる。さすがにそれは現実的には想定しにくいだろう。 そうかといって、皇太子殿下がまだまだご活躍いただける年齢で、早めに皇位を譲られるというのも、今回のご譲位の趣旨から外れてしまう。平成最後の「歌会始の儀」を終えて退席される天皇、皇后両陛下と皇太子さま、秋篠宮さま=2019年1月16日、皇居・宮殿「松の間」(代表撮影) 皇室典範には、「皇嗣」に「重大な事故」がある場合は「皇室会議の議により」「皇位継承の順序を変えることができる」という規定がある(第3条)。したがって、今の制度のままでも、秋篠宮殿下がご即位を辞退されるという場面は、十分にあり得る。と言うより、先の年齢的な条件を考慮すれば、その可能性はかなり高いだろう(朝日新聞4月21日付1面に、こうした見方を補強するような秋篠宮殿下のご発言が紹介された)。そのようであれば、愛子内親王殿下への注目はより高まるはずだ。「属人主義」に陥るな ただし、くれぐれも誤解してはならないのは、皇太子殿下の「次の」天皇については、具体的な誰それがよりふさわしい、といった「属人」主義的な発想に陥ってはならないということだ。 そうした発想では、尊厳であるべき皇位の継承に、軽薄なポピュリズムが混入しかねない。そうではなくて、皇位の安定的な継承を目指す上で、どのような継承ルールがより望ましいか、という普遍的な問いに立ち返って考えなければならない。 そもそも、皇位継承資格を「男系の男子」に限定したのは明治の皇室典範が初めてだった。しかも、明治典範の制定過程を見ると、2つの選択肢があった。 ①側室制度を前提とせず、非嫡出の皇位継承を認めないで、「男系の男子」という制約は設けない。 ②側室制度を前提とし、非嫡出にも皇位継承資格を認めて、「男系の男子」という制約を設ける。 これらのうち、①は明治天皇にいまだ男子がお生まれになっていない時点でのプランだった。しかし、その後、側室から嘉仁親王(のちの大正天皇)の誕生を見たため、①が採用される余地はなくなった。 ところが、今の皇室典範はどうか。 ②の「男系の男子」という制約は明治典範から引き継いだ。一方、それを可能にする前提条件だった側室制度プラス非嫡出の皇位継承は認めていない。つまり、①の前段と②の後段が結合した、ねじれた形になってしまっている。 ③側室制度を前提とせず、非嫡出の皇位継承を認めないで、しかも「男系の男子」という制約を設ける。 率直に言って、このようなルールでは皇位の安定的な継承はとても確保できない。 過去の歴代天皇の約半数は側室の出(非嫡出)であり、平均して天皇の正妻にあたる女性の4代に1人は男子を生んでいなかった。傍系の宮家も同様に側室によって支えられていた。 したがって、③をこのまま維持すると、皇室が行き詰まるのは避けられない。もし皇室の存続を望むならば、明治典範制定時の①と②からどちらを選ぶか、改めて問い直さなければならない。 しかし、いまさら②が前提とした側室制度を復活し、非嫡出による皇位継承を認めることができないのは、もちろんだ。何より皇室ご自身がお認めにならず、国民の圧倒的多数も受け入れないだろう。側室になろうとする女性が将来にわたって継続的に現れ続けるとは想像できないし、逆に側室制度を復活した皇室には嫁ごうとする女性がほとんどいなくなるだろう。 そのように考えると、答えは自(おの)ずと明らかではあるまいか。皇太子さまと資料を見ながら修学旅行について話をされる皇太子ご夫妻の長女、敬宮愛子さま=2018年11月25日、東京・元赤坂の東宮御所(宮内庁提供) 「愛子天皇」待望論についても、目先の週刊誌ネタなどによって短絡的に判断するのではなく、持続可能な皇位継承のルールはいかにあるべきかという、広い視点から慎重に評価されるべきだろう。■ 「眞子さまへの純真は本物か」小室圭氏よ、試練を歩み解を出せ■ 女性宮家の創設とは「制度化された道鏡」に他ならない■ 女性宮家以外にも「皇統の断絶」を防ぐ手立てはある

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    「愛子天皇」を実現させる令和おじさんの布陣

    年11月、東京・首相官邸(門井聡撮影) われわれ日本人にとって皇室とは何か。天皇や皇族からなる皇室の歴史を振り返れば、日本が危急存亡の秋(とき)にわが国を守ったのが天皇や皇室の統合力であったことに気づかされる。かつて福沢諭吉は『帝室論』の中で「帝室は政治社外のものなり」とし、政治が皇室の尊厳やその神聖さを侵すことがあってはならないと警鐘を鳴らした。新天皇の課題 皇室の存在意義は、政治を超越した立場から社会秩序の維持に寄与することにある。戦後、福沢の描いた皇室像は、現行憲法の定める象徴天皇制度としっかりと結びついた。こうした福沢の思想を継承したのは、慶應義塾長(現慶応大)の小泉信三である。小泉は東宮御教育常時参与として、皇太子時代の上皇さまとともに福沢の『帝室論』を音読し、帝王学を施した。福沢の皇室像は戦後の象徴天皇を先取りしていたといえよう。 象徴天皇制度の下での帝王学は、天皇と国民との相互作用から天皇ご自身で体得されてゆく側面が大きい。すなわち、象徴天皇のあり方は、天皇自らが国民とのふれあいを通じて模索されるべきものである。上皇さまはいみじくも、「天皇像を模索する道は果てしなく遠く」と述べられた。その時代時代に合った象徴のあり方が模索されねばならないということであろう。 よって、いかに国民との関係を構築してゆくかは、陛下の最大の課題といっても過言ではない。同時に、日本国憲法1条は、天皇は「日本国と日本国民統合の象徴」であり、「この地位は、主権の存する日本国民の総意」に基づくと規定されており、われわれ国民もしっかりと主権者の自覚を持ちその責任を果たさなくてはならない。 現在の皇室は大きな不安を抱えている。いうまでもなく、それは皇統断絶の危機にほかならない。今世紀に入り、愛子さま、悠仁さまが生誕したとはいえ、若い世代の皇族方の多くは皇位継承権を有しない内親王や女王であり、年配の皇族方の薨去(こうきょ)や女性皇族の婚姻に伴う皇籍離脱により皇族の減少に歯止めがかからない。 皇族減少への対応の必要性については、小泉内閣、野田佳彦内閣、安倍晋三内閣の共通認識となっている。それぞれの内閣において、女系拡大論や女性宮家の創設などによる皇位継承の安定化や天皇の公務の負担軽減が議論されてきた。しかし、いざ皇位の安定継承策を議論すると、イデオロギー対立の先鋭化とともに国論がなかなかまとまらない。日本の大切な宝であり、国家・国民統合の象徴である皇室を守るためには、養子の解禁と一代限りの女性宮家の創設を組み合わせるなど思い切った皇室制度の改革が求められよう。慶応大学三田キャンパス内にある福沢諭吉の胸像=2008年10月、港区三田の慶應義塾大学内(大山実撮影) 3月18日の参議院予算委員会で、菅義偉官房長官は5月1日の陛下即位後、速やかに皇位の安定継承策について検討に入る意向を表明した。その後、メディアはさまざまな憶測記事やうがった見方を報じているが、あの菅氏が何の根拠もなくああした踏み込んだ発言をするはずがない。 2016年から翌17年にかけての「退位特例法」成立に向けた菅氏の手綱さばきは実に見事であった。これまでの経験を踏まえれば、皇位継承問題を前進させるには、長期安定政権でしかも内閣官房が指導力を発揮しないと成果をあげることは難しい。鍵は「旧自治省シフト」 皇位継承安定化策の立案をめぐっては、内閣官房のうち、とりわけ重要なのが内閣総務官室である。そのトップである内閣総務官(かつての首席内閣参事官)は次官級コースとされ、現に野田内閣の二人の内閣総務官はそれぞれ厚生労働審議官、内閣府事務次官に栄進した。現職の宮内庁長官も内閣府事務次官からのぼりつめた旧自治官僚であり、安倍内閣で辣腕(らつわん)をふるい「退位特例法」を成就させた内閣総務官と内閣審議官もまた旧自治省出身で、おのおの内閣府事務次官や内閣法制局の主要ポストに異動している。 菅氏の強力なリーダーシップの下に上記のような「旧自治省シフト」を動員し、大島理森衆議院議長を中心に国会とも緊密に連携すれば、事態は大きく動くと筆者は期待する。もはや「旧自治省シフト」は内閣官房のみならず、宮内庁や宮内庁が設置されている内閣府、さらには内閣法制局をも席巻している。これを警察庁OBがバックアップする格好だ。 そもそもこの問題は政治家にとって「リスクが大きい割に票にならない」ため、これまで率先して問題解決に取り組もうという内閣は少なかった。しかし、政府が手をこまねいているうちに、若い世代の女性皇族の婚姻に伴う皇族の減少はさらに深刻化していった。もはや待ったなしといっても過言ではあるまい。安倍内閣が同問題を先送りすれば、将来皇統断絶の危機に直面したとき、同内閣の不作為はまちがいなくやり玉にあげられよう。 もはや水面下では皇位継承安定策がかなり具体化しているはずである。確かにかつての民主党や民進党が熱心に取り組み、「退位特例法」の付帯決議にまで盛り込んだ女性宮家の創設は将来、女系拡大につながる可能性がある。よって、少なくとも「一代限り」といった条件付けが必要となろう。 一方、皇室典範9条が禁じる養子を解禁する方策はどうであろうか。養子といってもさまざまな形態があり、女性皇族との婚姻を前提とした婿養子には、婚姻を「両性の合意のみ」と規定する憲法24条が適用されることになる。現在のままではいずれ絶家となる運命の三笠宮家や高円宮家が養子をとることの方が現実的かもしれない。その場合、緊急避難的措置として特例法を用いることも選択肢の一つであろう。静養のため、JR長野駅に到着された皇太子ご一家=2019年3月、長野市(代表撮影) ここのところ、秋篠宮家をめぐる報道や愛子さまの高評価を伝える記事が散見される。しかし、これらは事実上の問題であって、制度上の問題ではない。もちろん象徴天皇制度を念頭に置けば、世論の動向は無視しえないが、やはり制度設計にあたってはいったん両者を切り離した上で冷静な議論が求められる。いずれにせよ、事の成否は安倍総理の決断と「令和の顔」となった菅氏の手腕にかかっているといえよう。■語り継がれる「天皇の旅」 批判はあっても膝をつかれた陛下のスタイル■新元号「令和」公表にチラつく支配欲と主導権争い■「天皇はかくあるべし」上から目線の知識人が錯覚した陛下のお気持ち

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    秋篠宮家の評判に関係なく「愛子天皇」を真剣に議論すべきである

    会に出演した愛子さま その他にも、男性優位は日本の固有の慣習、女性が天皇になれば夫に政治関与される、歴史上の女性天皇は「中継ぎ」であったので例外、などの理由を説明している。 この男系男子に天皇を限定する仕組みは、家制度が崩壊した敗戦後に変化させるべきであった。日本国憲法では第14条で「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」とあり、女性が天皇になれないことはそれに反する可能性があるからである。 明治期の「男性優位は日本の固有の慣習である」という説明が正しいかどうかは別として、そうした陋習(ろうしゅう)はここで断ち切られたはずであった。ただし当時は、民法が改正され家制度がなくなったとはいえ、その慣習が社会にまだ残っていた。女性天皇は「中継ぎ」にあらず そして、男性皇族もまだ多く、切迫した状況ではなかったかもしれない。そのため、女性天皇は考慮されず、旧皇室典範が廃止され、法律として新たに制定されたものの、明治期に形成された制度がそのまま継続した。 現在の日本社会は、国連の女子差別撤廃条約の批准、いわゆる男女雇用機会均等法の制定と改正などが行われ、敗戦直後以上に性別による差をなくす方向性に進んでいる。社会が、男女が平等になるようにさまざまな努力がなされている中で、なぜ天皇だけが男性に限定されるのだろうか。女性が天皇になれば夫に政治関与されるという明治期になされた説明も、天皇が政治に関わることがなくなった象徴天皇制においては意味をなさない。 そもそも、なぜ男性天皇は妻に政治関与されないという前提があるのだろうか。それこそ、女性ならば人の意見に左右されやすいという、女性への差別的な考え方が根本にあるのであり、現在では相いれない思考だろう。 歴史上の女性天皇は「中継ぎ」であったという説明も、現在の日本古代史の研究によって、それは否定されている。その時期の皇族の中で政治的に優れた年長の女性が天皇に即位しており、ならば現在でも人物的に優れた人物であれば男性でも女性でも関係なく天皇に即位することが、「伝統」的な考え方に合致しているのではないか。 むしろ、現在の象徴天皇制は、その人物がいかなる考えを持ち、行動をするかがマスメディアを通じて伝えられ、それによって人々から支持されている。「平成流」への評価はその最たるものだろう。性別に関係なく「人物本位」というのは、現在の流れとも合致する。 ここ最近、週刊誌やインターネット上で、「愛子天皇」待望論が出ている。しかしこれは、これまで述べてきた理由で提起されたものではない。従来、秋篠宮家の世間の評判は高かった。病気を抱える雅子皇后が皇太子妃時代、公務をこなす量が少ないことから、批判が出て、相対的に秋篠宮家への評価は高くなっていた。 しかし、この状況が変化するのが、眞子内親王と小室圭さんの問題である。小室さんの実家の金銭問題が浮上、それへの適切な説明がないと見られ、批判が噴出している。 妹の佳子内親王が国際基督教大(ICU)卒業に際して発表した文書の中で、自らの意思を強く示し、「姉の一個人としての希望がかなう形になってほしいと思っています」と姉を擁護したことも、批判が高まる要因となった。これらから、秋篠宮家に対する評価が下がり、今度は逆に相対的に皇太子一家への評価が上がり、「愛子天皇」待望論へと向かっているのである。2019年3月、「千葉県少年少女オーケストラ」の東京公演を鑑賞するため、会場に到着された秋篠宮家の長女眞子さまと次女佳子さま(代表撮影) これは、いい意味での女性天皇誕生ではない。秋篠宮家の評判が落ちているから、またその評判をより落とすために、たまたま女性である愛子内親王を天皇にしようとする動きが出ているに過ぎない。 求められているのはそうした動きではなく、現在の社会に合致した象徴天皇制のあり方である。国民の生活と遊離したもの、世間の風に影響されすぎるものではない。愛子内親王が天皇になることは、皇室典範を改正し、今後も女性天皇・女系天皇を安定的に認めていく制度にすることである。■ 「眞子さまへの純真は本物か」小室圭氏よ、試練を歩み解を出せ■ 女性宮家の創設とは「制度化された道鏡」に他ならない■ 女性宮家以外にも「皇統の断絶」を防ぐ手立てはある

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    女帝、斉明天皇はなぜ皇位を譲り、再び即位したのか

    吉村武彦(明治大学名誉教授) 飛鳥〈あすか〉時代前後から奈良時代にかけて(七~八世紀)、推古〈すいこ〉天皇から称徳〈しょうとく〉天皇まで、六人の女性天皇が即位しました。そのうち皇極〈こうぎょく〉天皇と孝謙〈こうけん〉天皇は二度即位していますので、六人で八代の天皇が存在したことになります。この時代が「女帝の世紀」と呼ばれる所以〈ゆえん〉です。 そして、女性天皇だけに見られる特徴がいくつか存在しました。とりわけ注目されるのが、天皇史において画期的な出来事とされる「譲位〈じょうい〉」及び「重祚〈ちょうそ〉」が、皇極天皇によって初めてなされたという事実です。なぜ皇極天皇は譲位し、また重祚して斉明〈さいめい〉天皇となったのか。時代背景も踏まえながら、斉明天皇はどんな存在であったのかを考えてみましょう。 皇極天皇は即位する前、寶皇女〈たからのひめみこ〉と呼ばれていました。父は茅渟王〈ちぬのみこ〉、母は吉備姫王〈きびつひめのみこ〉。同母弟に軽皇子〈かるのみこ〉(孝徳〈こうとく〉天皇)がいます。『日本書紀』の斉明即位前紀には、「初め用明〈ようめい〉天皇の孫高向王〈たかむくのみこ〉と結婚し」「後に舒明〈じょめい〉天皇と結婚して二男一女を生む」(現代語訳)とあります。 二男一女とは、中大兄〈なかのおおえ〉皇子(天智〈てんち〉天皇)、間人皇女〈はしひとのひめみこ〉、大海人〈おおあま〉皇子(天武〈てんむ〉天皇)のことでした。 さて舒明天皇十三年(六四一)に舒明天皇が崩御〈ほうぎょ〉すると、皇后の寶皇女が即位して、皇極天皇となります。この時、舒明天皇の第一皇子である古人大兄〈ふるひとおおえ〉皇子や、厩戸〈うまやと〉皇子の子である山背大兄王〈やましろおおえのおう〉らをさし措〈お〉いて、皇極が即位したのはなぜなのか。 最近の研究では、当時の即位には適齢期があったと考えられており、一つの基準を三十五歳と見ています。その点、古人はまだ二十歳前後、山背大兄も年齢的に達しておらず、適齢の皇子がいないということで、四十九歳の皇極が推古天皇に倣〈なら〉って即位したのでしょう。 かつては皇位継承で競合する候補が複数いる場合、争いを避ける意味で女帝を立てたと考えられました。その可能性も否定はできませんが、最近はむしろ適齢か否〈いな〉かが問題であったと見ています。飛鳥宮跡(伝飛鳥板蓋宮跡、明日香村提供) ところで女性天皇について、男性と変わりはなく「中継ぎ」ではないとする説があります。しかし、皇極は女性天皇として史上初の譲位を行ない、また史上初の重祚も行ないました。 一方、男性天皇の譲位は八世紀に下って、聖武〈しょうむ〉天皇が初めてです。こうした点からも、私は女性天皇と男性天皇は同じではないと考えています。たとえば持統〈じとう〉天皇も、明白に「中継ぎ」として即位していました。「乙巳の変」と史上初の譲位 「八月一日、天皇は南淵〈みなぶち〉の川上においでになり、跪〈ひざまづ〉いて四方〈よも〉を拝し、天を仰〈あお〉いで祈られると、雷鳴がして大雨が降った。雨は五日間続き、天下はあまねくうるおった。国中の百姓は皆喜んで、『この上もない徳をお持ちの天皇である』といった」(現代語訳)。 『日本書紀』には、日照〈ひで〉りに民や蘇我〈そが〉氏が雨乞いしてもほとんど降雨が得られなかったところ、皇極が祈るとたちどころに大雨になったと記され、皇極が巫女〈ふじょ〉的な要素を具〈そな〉えていたのではとする見方もあります。 もちろんそうした側面があってもよいのかもしれませんが、そもそも雨乞いは中国的な風俗で行なわれたもので、必ずしも土着の、日本の巫女的なものではありません。従ってこの記述は、皇極の巫女性というよりも、天皇の霊験〈れいげん〉があらたかであることを表現したものととらえるべきでしょう。 さて、皇極朝の頃、中国大陸では唐〈とう〉が膨張〈ぼうちょう〉し、朝鮮半島諸国にも政治的影響が及ぶ中、半島で政変が起こりました。高句麗〈こうくり〉では六四二年(皇極元)、大臣が国王を殺害し、政権を握るクーデターが勃発〈ぼっぱつ〉。また百済〈くだら〉では六四三年に国王の母が没すると、国王の弟や子どもが島に追放される事件が起こります。 こうした半島での政変の情報は、倭国にさまざまな波紋を投げかけました。貴族が実権を奪った高句麗型の政変と、国王が権力を集中した百済型の政変です。当時、政治の実権を握る蘇我本宗家〈ほんそうけ〉にすれば、飛鳥でも何か不測のことが起きるかもしれないと感じたことでしょう。邸宅の門周辺に武器を備えたり、火災除〈よ〉けの水桶を置いたりしたといわれます。 緊張感に包まれた六四五年六月、皇極の息子・中大兄皇子と、中臣鎌足〈なかとみのかまたり〉が謀〈はか〉り、板蓋宮〈いたぶきのみや〉で「三韓の調〈みつち〉」を献上する儀式の最中、権力を一手に握る蘇我入鹿〈いるか〉を暗殺しました。皇極天皇が臨席し、群臣が居並ぶ場においてです。 入鹿の死に、父・蘇我蝦夷〈えみし〉も自尽〈じじん〉し、蘇我本宗家は滅亡。「乙巳〈いっし〉の変」と呼ばれるこの政変は、大化〈たいか〉の改新〈かいしん〉の始まりとして知られます。 乙巳の変は単に権力を握る蘇我本宗家を倒しただけでなく、蘇我氏を代表とする貴族政権に、王家が鉄槌〈てっつい〉を下すという意味を持っていました。そしてこの時、皇極が譲位します。当時は「終身王位制」ですが、皇極が譲位に踏み切ったのは、女性ということもあったのでしょう。そして、貴族は介在せず、王家の意思で新帝を決め、皇極の弟・軽皇子が即位することになりました。孝徳天皇です。 乙巳の変を機に行なわれたのは、いわば天皇側の権力の奪還と集中であり、また皇極の生前譲位は、王家の自律的意思によって皇位継承がなされることを内外に示したものといえるでしょう。酒船石(明日香村提供) 皇極の譲位後、軽皇子が即位したのは、やはり適齢の問題と考えられます。かつては実質的トップが中大兄で、孝徳天皇はロボットだったという説が有力でした。しかし、実際は天皇が認めなければ詔〈みことのり〉は出ませんので、最近は孝徳を評価する動きがあります。 では、譲位後の皇極の政治的影響力はどうであったのでしょうか。皇極は「皇祖母尊〈すめみおやのみこと〉」と呼ばれることになり、天皇、皇祖母尊、太子(中大兄)の三人が群臣を招集して誓約を行なって、政治的意思統一を図りました。重祚と「時に興事を好む」 その後、孝徳天皇は難波〈なにわ〉に遷都しますが、白雉〈はくち〉四年(六五三)、事件が起こりました。中大兄が難波から大和〈やまと〉への遷都を進言し、孝徳が拒〈こば〉むと、中大兄は皇極と間人皇后〈はしひとのきさき〉を連れて、飛鳥へ戻ってしまうのです。 難波に残った孝徳はほどなく、失意のうちに崩御しますが、中大兄が皇極と同意の上でこうした挙に出たことを見れば、前天皇の皇極が一定の影響力を持っていたことは明らかでしょう。 孝徳崩御後、皇極は再び即位し、斉明天皇となります。史上初の「重祚」でした。斉明が重祚を選んだのは、終身王位制の影響が強かったのかもしれません。この時、孝徳の子・有間〈ありま〉皇子は十六歳前後、中大兄は三十歳前後ですので即位の適齢に達しておらず、中大兄が引き続き太子として政務を執〈と〉りました。 さて、『日本書紀』には斉明について「時に興事〈こうじ〉を好む」「溝を掘らせ、香久山〈かぐやま〉の西から石上山〈いそのかみのやま〉にまで及んだ」と大工事を行ない、「狂心〈たぶれごころ〉の渠〈みぞ〉の工事。むだな人夫を三万余り。垣〈かき〉を造るむだな人夫は七万余り」と人々から謗〈そし〉られたとあります。 他にも多武峰〈とうのみね〉に観〈たかつき〉と両槻宮〈ふたつきのみや〉を建てたり、苑池〈えんち〉などの土木工事も行なったとされ、実際にそれらしき遺跡も出土しているので、事実なのでしょう。 観や両槻宮は道教の影響も考えられますが(遺跡は未発見)、苑池工事は都づくりの一環〈いっかん〉と捉えることができます。この頃になると、来朝した外国人使節に見せるために盛んに造られていた巨大古墳は影を潜〈ひそ〉め、代わって王宮〈おうきゅう〉に付随した苑池や石敷き庭園などの充実が図られていくのです。 大化改新以降も、唐の膨張と朝鮮半島の動揺は続き、日本は東アジアの外交問題に巻き込まれざるを得ませんでした。一方、国内では領土拡張(=王権拡大)を狙〈ねら〉って、阿倍比羅夫〈あべのひらふ〉の北征が始まります。特に朝鮮半島と大陸に面する日本海側では、蝦夷を制圧して体制を整えておく必要があったと考えられます。 斉明六年(六六〇)、百済の使者が、百済が新羅・唐連合軍に降伏したことを伝え、さらに百済の遺臣が、日本にいる百済王子・余豊璋〈よほうしょう〉の帰国と援軍の派遣を求めました。 斉明天皇はこれを了承し、余豊璋を王位に就〈つ〉けて帰します。大和王権の百済王権への干渉であり、日本による冊封〈さくほう〉でした。一種の帝国意識の高まりをここに見出すことができるでしょう。 そして百済救援のため、斉明は自ら筑紫〈つくし〉に赴〈おもむ〉き、朝倉宮〈あさくらのみや〉で崩御しました。天皇自ら前線に赴いたところからも、百済滅亡への日本の危機感がいかに強かったかがわかります。白村江〈はくそんこう〉の戦いが起きるのは、直後のことでした。 乙巳の変に直面した皇極天皇時代、朝鮮半島の動乱に直接関わった斉明天皇時代。それはまさに半島情勢の急変が日本を直撃し、王家が政治の実権を奪還して、王権の拡大に乗り出した時期でした。その難しい舵取〈かじと〉りを二度即位した女帝が担〈にな〉ったという点は、実に興味深いといえるのかもしれません。関連記事■ 毘沙門天の化身・上杉謙信、その実像に迫る3月号■ 大坂の陣、参陣するなら、徳川方? 豊臣方?■ キリシタン武将・明石掃部の実像

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    元宮内庁長官、羽毛田信吾手記「今上陛下に象徴天皇の極致を見た」

    羽毛田信吾(元宮内庁長官) 「平成」から「令和」へ、御代替わりの時を迎える。平成の後半、11年間を天皇陛下のお側近くで勤務した者としては、さまざまな困難を乗り越えてご在位の最後まで誠心誠意を貫き通されたお歩みを思い、感慨ひとしおである。 平成は、世界的にはベルリンの壁の崩壊とともに明けたが、その後の展開は必ずしも協調と平和には向かわず、民族、宗教などの対立が支配する複雑な様相を呈している。 わが国も、少子高齢化が進む中、バブル経済がはじけて「平成不況」に見舞われ、さらに地震、豪雨など大規模な自然災害が多発した時代でもあった。平成もまた平坦(へいたん)ならざる苦難の時代だったと言えよう。この苦難の時代にあって、陛下は象徴としての望ましい在り方を常に自らに問いつつ、務めに身をささげてこられた。また、陛下のお考えの最も良き理解者として一心に支えてこられたのが皇后陛下であった。 陛下がどのような思いと覚悟で務めを果たしてこられたかは、平成28年8月8日のビデオメッセージ「象徴としてのお務めについてのお言葉」に凝縮されているように思う。「日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごして来ました」その模索の中から、象徴天皇の道を、国民の幸せや平和を祈ると同時に、積極的に人々の傍らに身を置き喜び苦しみに心を寄せることにあると思い定め、全身全霊を傾けてその実践に努めてこられたのである。 私が宮内庁在勤中、最も印象深かったことを二つあげるとすれば、一つは、平成23年の東日本大震災における両陛下のなさり様であり、いま一つはサイパンへの慰霊の旅である。いずれについても私は、平成における象徴天皇の道の極致のように思った。山田町役場に到着し、出迎えた人たちに声をかけられる天皇、皇后両陛下=2016年9月、岩手県山田町(代表撮影) 平成23年3月11日に東日本を襲った未曾有(みぞう)の大災害に際して、両陛下は7週間連続して自衛隊機とヘリコプターを乗り継いでのお見舞い行脚を続けられた。避難所で、膝をついて一人一人丁寧に見舞われる姿、がれきの山と化した街並みに黙祷(もくとう)される姿、ヘリコプターから眼下に広がる無残な津波の傷跡を悲痛な面持ちで見入られる姿、実に気の重い随行であった。同時に、人々の身の上を案じられる両陛下と、立ち直ろうという気持ちでそれに応える被災者との心の交流を間近に見る感銘深い随行でもあった。 被災者のお見舞いに限らず、陛下と国民の関係は、一人一人の喜び悲しみに心を通わされ、その積み重ねの先に国民全体がある、そういう有り様ではないかと思う。個を通じて全体を見ると言ったらよいのだろうか。衝撃を受けた陛下のお考え 陛下が心をこめてなさってきたことのもう一つの柱が、平和への願いである。在任中の代表例としてサイパンへの随行を印象深く記憶する。陛下は、戦争の惨禍を繰り返してはならない、平和を守らねばいけないという願いを強く持ち、戦後生まれが80%を占める今、戦争の記憶が風化することへの心配を繰り返し述べておられる。 国の内外を通じて戦争犠牲者に対する慰霊の旅を重ねてこられたが、平成17年、6万人近くが犠牲になったサイパンに赴かれた際には私もお供をした。多くの人が身を投げたバンザイクリフやスーサイドクリフで海に向かって黙祷される姿を拝しながら、これは慰霊の旅であると同時に、激戦の地に身を置くことによって自らの姿で平和の尊さを訴えておられるのだと思った。 在位中では最後となった昨年の全国戦没者追悼式にて、陛下は「戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ」というくだりを加えられた。昨年は明治維新150年、同時に先の大戦までが73年、4年の大戦をはさんで戦後が同じく73年という節目でもあった。戦前の73年が何度かの戦争を経たのに対し、戦後の73年は戦なき世であった。さらに言えば、平成時代は明治以降、日本が干戈(かんか)を交えなかった唯一の時代として記憶されることになるだろう。戦後そして平成の平和を後の世にもしっかりと引き継いでほしいという、万感の思いをこめたお言葉だったように思う。 私事だが、今、昭和館という展示館の館長として、戦争により、庶民がどう苦しみ悲しみ、どんな生活を強いられたか、戦争の狂気にどう巻き込まれていったかといったことを後世に伝える仕事に携わっている。陛下の戦争と平和に関するお考えを日々思い起こしながら、若い世代にいかに実感を持ってこれを伝えるかに腐心する毎日である。 ご譲位は、突き詰めていえば、全身全霊を傾けてお務めを果たすという象徴天皇の在り方と、ご高齢に伴う体力面などの避けられない制約の二つを前提に、いかに円滑に皇位を引き継いでいくかという命題だと思う。それを考え抜かれての平成28年のお言葉だったのではあるまいか。在任中、最初に陛下のお考えをうかがったときは、正直言って強い衝撃を受けた。しかし、陛下の深い考えを理解するにつれ、これは陛下お一人のことではなく将来の天皇にも通ずる普遍的課題だと思うに至った。 85歳の誕生日を前に、涙で声を詰まらせながら記者会見で話される天皇陛下=2018年12月、皇居・宮殿「石橋の間」(代表撮影) 令和の時代を迎え、改めて将来にわたって国民から敬愛される皇室、国民の心の支えとなる皇室であり続けてほしいと願う。民主主義はともすると「自分さえ良ければ」「自分の国さえ良ければ」という思考に堕する危うさを内包していることを考えると、政治的な思惑や利害を超えて人々のために祈り活動される公平無私な存在が、一層重要に思えるのである。■釜石市長手記「被災地を照らし続けた両陛下のお姿」■語り継がれる「天皇の旅」 批判はあっても膝をつかれた陛下のスタイル■所功手記「新元号『令和』は想定外なれど、感服するほかない」