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    「戦犯企業ステッカー」韓国人も冷めた行き過ぎた民族主義

    今も(日本が)公式的な謝罪や賠償どころか歴史を否定し、美化しているのは深刻な問題」「学生たちに正しい歴史認識を確立させ、教職員に警戒心を抱かせるため、戦犯企業が生産した製品であることを明確に表示しなければならない」という内容が記されていた。 「対日抗争期」とは耳慣れない言葉であるが、要するに日本の植民地期ということである。最近、韓国では歴史を美化し脚色するための「言い換え」が行われているが、この用語もその一つである。その一方で、「日本は反省も謝罪も補償も一切していない」という事実無根の定番フレーズが用いられている。 自分が愛国者であることをアピールするために、韓国人が日本製品の不買や排斥を呼びかけるのはよくあることで、特段珍しいことではない。現に、この京畿道の条例案に先立ってソウル市議会にも日本製品の排斥を行おうとする条例案が発議されそうになった前例がある(市議会に上程されず常任委員会で否決)。ただし今回の京畿道の条例案は日本製品の排斥を公式的に行おうとするもので、過去に例がなかったものである。2019年3月1日、ソウル市内で開かれた「三・一独立運動」100年の式典に参加した市民(共同) 条例案の発議を主導した黄大虎(ファン・デホ)議員は「日本の『戦犯企業』は太平洋戦争当時、日本帝国主義のためにわが国民を強制徴用する反倫理的行為を犯し、またこれを通じて莫大(ばくだい)な利益創出と人類史に罪悪を及ぼしたにもかかわらず、何の反省も補償もなかった」「ドイツの戦犯企業は反省し、ナチスの犠牲者に対して補償を行ったので、戦犯企業だとしても例外」「日本の『戦犯企業』が過去を反省せず美化する行為をやめない以上、消費者は戦犯企業を記憶しなければならない」などと述べている(「日刊京畿」)。ここでも「ドイツは反省したが、日本は反省していない」というお決まりのフレーズが登場している。ドイツがアフリカの植民地支配に対して謝罪したことなどないのだが。自国民から非難殺到 京畿道議会の開会に先立ち、条例案のこうした内容が明らかになると、京畿道のみならず韓国政府関係者からも憂慮の声が上がった。3月20日、日本の教育委員会に当たる京畿道教育庁は「戦犯企業」に関する明確な定義がなく、混乱をもたらす恐れがあるなどとして「受け入れ難い」とする意見書を道議会に送った。また、京畿道教育庁の李在禎 (イ・ジェジョン)教育監も同日、「韓日外交に大きな影響を与えかねないため、まず政府側が立場を決めなければならない」と述べた。また、同月21日には康京和(カン・ギョンファ)外交部長官が「政府として具体的な評価をすることは適切ではない」「自治体議会の審議過程で慎重に検討される必要がある」と述べている。 そもそも、この条例案を発議した黄大虎議員とは何者なのか。公開されているプロフィールによると、1986年6月、京畿道水原(スウォン)市生まれ、当年32歳。明知(ミョンジ)大学校体育学科卒業後、成均館(ソンギュングァン)大学や崇実(スンシル)大学校の大学院を修了している。昨年6月の地方選挙で現政権と同じ「共に民主党」所属候補として出馬し、初当選。議会では「第2教育委員会」に所属している。1年生議員ゆえに現在まで特に注目すべき実績もない。今回の条例案にしても、特に緊急性や必要性を持つものではなく、強いて言えば、有権者の反日感情に訴える点数稼ぎに見えないこともない。 実は、こうした指摘や批判は韓国国内でも提起された。黄議員のフェイスブックには「(戦犯企業の)ステッカーをお作りになるついでに、朝鮮戦争の戦犯である中国製品と北朝鮮製品に貼るステッカーをお作りになれば公平ですね」とか「私も外国生活を10年してみたが、このような軽率な行動をすれば、その被害はすべて在外韓国人が受けます。本心から国民のために働く政治家になりたいなら、深く考えて慎重に行動してください」などという、かなり痛烈な批判も書き込まれていた。さらに京畿道議会のホームページの自由掲示板に書き込まれた意見も辛辣(しんらつ)なものばかり。そのうちのいくつかを紹介しよう。 「やい、京畿道議会の民主党議員の大馬鹿野郎ども。一体、お前らは幼稚園児なのか、何なのか。発想が幼稚すぎて話にならない。今、国を滅ぼそうとしているのか、何なのか。(中略)どうすればこんな発想ができるのか。いま、激変している国際情勢の中では、世界的なマインドを持たねばならない。もちろん、過去に日本が過ちを犯したのは言うまでもないが。昔の植民地時代の考え方にとどまっているお前らが哀れだ。(中略)もし、条例案が通過したらどうなるのか。韓国人であるわれわれも理解できない条例案なのに、外国ではどう見るか。(外国企業は)不安で韓国などと商取引などできないだろう」 「このような行き過ぎた民族主義は恥ずかしくて情けないです。子供たちの前で恥ずかしくないのですか。大人たちが率先して、このような振る舞いをすれば、それを見て育つはずです。このような条例案を発議する議員も議員ですが、賛成する人も人です。こんなくだらない条例案を作るよりも、国民に役立つことからやってください。(中略)『戦犯ステッカー』? 本当に幼稚で、恥ずかしさで顔が赤くなります。こんな発想は小学生でもやらないはずです。京畿道議員のレベルを表していると思います」 「過去は過去、歴史は流れて行くものだ。日本の植民地期にあったすべてのことを清算するというのはたやすいことではない。それならば、清平ダム(京畿道加坪郡所在、1944年完成※引用者注)も、京畿道にある数十カ所の貯水池も、京釜線の鉄道もすべて爆破しなればならないだろう。(中略)京畿道民の日本旅行も禁止すべきだ。まったく、道議員という方々の意識水準を疑うほかはない」 この他にも「教育を政治扇動に利用するな」とか、「(黄議員は)若いからちょっとましだと思っていたが失望した」とか「中国や北朝鮮には何も言えないくせに、国民の反日感情を煽りたてるのはやめろ」とか、条例案の内容を非難する内容がほとんどで、賛成する書き込みは皆無だ。「本製品は日本の戦犯企業が生産した製品です」と書かれたステッカー(韓国・京畿道議会ホームページから・共同) 3月19日には「韓国大学生フォーラム」という保守系の学生団体が、この条例案を批判する論評を発表。論評では条例案の内容を「100年前と現在を区別できない安物民族主義」「グローバルな市民としての教育を受けて育った現代の世代に対するとんでもない民族主義注入」「こうした民族主義は、大和民族論、ナチの優生学、北朝鮮の太陽民族論などと同様のもので、その弊害は深刻」と激しく批判した上で、「教育委員会の場にふさわしくない非哲学的な思考しかできない黄大虎道議員は辞職せよ」とまで述べている。自爆した「反日扇動」 さらに、条例案の内容が日本でも報道され、国際問題にまで発展する様相を呈してくると、さすがに黄議員も危機感を覚えたらしい。自分のフェイスブックに弁明とも反論ともつかない長大な文章を掲載したのが、そこではまず、国内外の批判や反論を「愚かな反対」と一蹴。その上で条例案に対する自分の愛国的な心情を長々と吐露した。「学校現場で学生が直接戦犯業ステッカーの付着を行うのか、それとも他の方法で実現するのかを学生自治会で討論する最小限の制度を用意しようと思う」などと中途半端な妥協案を示した上で、「条例案に対する道民の皆さんのご意見を熟慮します」などと謙虚な姿勢を見せた。 ところが、条例案を報じる日本のマスコミ(「情報ライブ ミヤネ屋」)に触れると文体が一変。「だが、皆さん、これだけは必ず覚えていてください! あの日本の放送に出演している、歴史を否定する極右勢力と同じ認識を持っている勢力が、いまだ韓国の国会と社会指導層に存在するということです!!」と煽って文章を締めくくっている。 どう見ても、「ミヤネ屋」のレギュラー出演陣が「極右勢力」とは思えないのだが、韓国では自分が気に入らない意見を述べる日本人を「極右勢力」呼ばわりするのはよくあること。まさに「反日扇動」の典型である。これに感動して黄議員を熱烈に支持する書き込みを行っている韓国人(おそらく支持者)も多いのだが、ところどころに冷めた書き込みも散見されるのは前述の通りである。 さて、この条例案によって、地方議会の一年生議員にすぎなかった黄議員は一躍時の人になったのであるが、ちまたの耳目が集中したあまり、黄議員自身も「戦犯企業」の製品を使っているという非難を浴びることになった。 ことの発端は黄議員のフェイスブック。黄議員は昨年3月17日、フェイスブックに「地域商店街連合会の方々と対話の時間を持ちました」という書き込みとともに、ボールペンが差し込まれたシステム手帳の写真を公開した。このボールペンは三菱鉛筆の「ユニ・ジェットストリーム」。 黄議員はかねてから公の場で「新日鉄住金、三菱、ニコン、パナソニックなどは戦犯企業」などと発言しており、「自分も『戦犯企業』の製品を使っていながら、戦犯企業ステッカー条例案を推進している」という手厳しい非難を受けることになった。 黄議員もこれを明らかに意識したと見られ、問題となった書き込みと写真を削除している。ただし、問題となった「三菱鉛筆」はスリーダイヤのマークこそ同じであるが「戦犯企業」とされている「三菱」とはまったく関係がない企業である。黄議員が三菱鉛筆について正確な知識を持っていたならば、書き込みと写真を削除したりせずに、堂々と反論すれば済むだけのことだ。それをしなかったということは、おそらく黄議員自身も「戦犯企業」に対して明確な知識がないのだろう。「戦犯企業」に対する定義があやふやのまま、条例案を提出したのではないか、という疑いを持たせるのに十分である。2019年4月1日、本社受付に掲げた新社名の看板前で会見を行う日本製鉄の橋本英二社長 条例案の発議に加わった議員は「共に民主党」25人、自由韓国党1人、正義党1人。京畿道議会は142議席だから、発議に加わった議員は決して多い数ではない。ただし楽観は許されない。「共に民主党」は議会で135議席を占めており、圧倒的な勢力を保っている。さらに現京畿道知事の李在明氏は「共に民主党」所属で、「日本は仮想敵国」などという放言歴もある。条例案の行方は予断を許さない状況であった。 条例案の審議は3月29日に行われる予定だったが、なぜか審議が「留保」されてしまう。条例案を発議した黄議員自身が「検討過程が十分ではなかった」「公論化を通して社会的な合意を経た後で、条例の審議を準備する」と述べ、条例案の上程を取り下げたためである。予想外に韓国内で厳しい批判を浴びたのがこたえたと思われる。 今回の事例で見られたように、韓国では、日本をダシに使えば、手っ取り早く愛国者ぶることができ、巷間の注目を集め、手軽に名を売ることができる。こうした「愛国者コスプレ」に対しては表立った批判もしにくいため、その行為はどんどんエスカレートし、常軌を逸した奇行にまで行き着くことが多い。 今回は条例案の中身があまりに突拍子もなかったため、韓国国内からも批判の声が上がったが、今後も第二、第三の黄議員が現れることは容易に想像がつく。すでに「最悪の状態」にまで行き着いたとされる日韓関係であるが、こうした扇動者の軽挙妄動によって、さらなる関係悪化もありえるということは覚悟しておくべきだろう。■ 漂流する日韓関係 「ニッポン軽視」文在寅が抱えた政治リスク■ 元徴用工裁判、日韓「解釈の違い」をどう埋めるべきか■ 「武士の情は通用しない」韓国との情報戦はこう戦え!

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    韓国人の反日感情はこうして増幅されていく

    杉山崇(神奈川大人間科学部教授) 韓国における反日感情は長く日韓関係の懸念材料になっています。一般的に、心理学者は政治や外交の問題を語らないものです。ただ、時には反日姿勢の背景に心理学要因が垣間見えることもあります。 特に、韓国の地方議会で提出された、「日本の戦犯企業が生産した製品です」と明示したステッカーの添付を学校に義務付ける案には、心理学的な要因を強く感じてしまいます。本稿では、心理学者としてはちょっとした冒険をするつもりで、「戦犯企業ステッカー」問題を考えてみたいと思います。 最初に、何が起こったのか整理をしてみましょう。ことの舞台はソウル近郊の京畿道(キョンギド)議会で、道内の小中、高校に置かれている「メイド・イン・ジャパン」の備品に上記のステッカーを張り付けさせるという条例が議論されています。背景にある、いわゆる「徴用工問題」などについては今回割愛しますが、この条例案には韓国国内からも慎重論や批判の声が上がっています。 韓国の康京和(カン・ギョンファ)外相は慎重派です。韓国の主要紙の社説でも批判論調が目立っており、東亜日報は「時代錯誤的な発想と言わざるを得ない」との見解を発表しています。どうやら、韓国の識者も行き過ぎた姿勢だと感じたようです。 「思わぬ」反響のせいか、審議が保留となりましたが、同様の提案は他でもあり、ソウル市議会でも「日本製品不買条例」が発議されそうになりました。何が地方議会を行き過ぎた案に導いたのでしょうか。筆者には「コーシャスシフト」と「リスキーシフト」、そして人のある本能が影響しているように見えました。 まず、コーシャスシフトとリスキーシフトについてご紹介しましょう。どちらも会議で見られやすい現象で、両現象を合わせて「集団極性化」とも呼ばれています。 突然ですが、あなたは一人で考えるときとみんなで考えるときと、どちらがより良い案を見いだせると思いますか。ことわざでは「三人寄れば文殊の知恵」といわれています。 「みんなで考えると妙案が出てくる」と思う方も多いかもしれません。しかし、実際の会議では「どうしてこうなった?」と思ってしまうような奇想天外な案が出てきたこと、あなたの身の回りにもないでしょうか。2019年1月、河野外相(手前)と会談する韓国の康京和外相=スイス・ダボス(共同) 実は、会議とは集団の力学によって「行き過ぎた意見」に集約しやすい場なのです。会議には「社会的促進」と言われる効果があり、社会的刺激への感度がいい個人を高揚させて張り切らせることがあります。 政治家は公人であり、選挙という社会的競争で選ばれています。感度のベクトルや種類に個人差がありますが、社会に対する感度は相対的に高い方が多いことでしょう。議会は社会的促進が起こりやすい場であり、言い換えれば「インパクトのある意見を言わなければ」と個人を駆り立てやすい場だと言えるでしょう。通った意見に潜む人間の「本能」 しかし、斬新さでインパクトがある意見は周りのリアクションがわかりません。そこで、会議の冒頭ではもう一つのインパクトを狙った意見が出ることがあります。それは「みんなが共感する」というインパクトです。 「反日姿勢なら皆が共感する」と思っているかどうかわかりませんが、まずは徴用工問題を契機とした反日姿勢の意見から会議が始まったものと考えられます。誰かが多くのメンバーに共感される意見を出すと、それに被せた意見が多く続きます。 発言はしないまでも、うなずくなどで共感の意志を示すメンバーも多いことでしょう。他の意見が言えない雰囲気、つまり同調圧力が作られます。こうして、極端にこれまで通りの案に集約する現象がコーシャスシフト(用心深い体制変化)です。 ただ、コーシャスシフトで会議が終わるのも、物足りないことがあります。何も変わらないからです。 社会的促進で高揚しているメンバーが多いとなおさら物足りないことでしょう。こうなると大胆な案が提案されることになります。コーシャスな結論に沿っていれば共感される可能性が高いので、発想は次々と冒険的になります。 その中で「誰も考えたことがない案」が光り輝いて見えることがあります。高揚した雰囲気だと人は大胆になるので、物珍しいものに惹かれやすいのです。 こうして慎重さに欠ける案が採用されてしまうことがあります。これがリスキーシフト(冒険的な体制変化)です。この会議でも「反日姿勢の斬新なアクションを!」と展開したのかもしれません。 今回は韓国国内で徴用工問題による反日姿勢が強まっている中だったので、工業製品と絡ませれば広く共感されると考えたのでしょう。法案の発議を主導した京畿道議会の黄大虎(ファン・デホ)議員は「私は全国的に国民が共感する事案だと考える」とコメントしています。このコメントから察するに、議会は反日姿勢に共感する雰囲気の中で展開し、反日姿勢を象徴するステッカーの添付を義務付ける形になったものと思われます。 このように会議とは極端に中庸か、極端に大胆な案が出やすいものですが、最後に人が持つある一つの本能が関わっていた可能性を考えてみたいと思います。それは「仲良くしたい、でも優位に立ちたい」という本能です。ソウル市内に掲げられた独立運動家の安重根を題材としたミュージカルのポスター=2019年1月(共同) 本当に嫌いなら、その相手を徹底的に無視すればいいわけです。無視できずに「優位に立とう、優位に立とう」とあの手この手になるときは、気になって仕方がないから…ということが多いようです。無視できないのであれば仲良く協力し合えないものか…と思ってしまいます。 おっと、心理学者としてはちょっと踏み込んだことを書いてしまったかもしれません。私にも何らかのリスキーシフトが発生しているようですので、今回の論考はここまでにさせてもらいます。■ 米朝に「田舎芝居」を打つ文在寅の安倍コンプレックス■ 米朝決裂もアベガー 「日本軽視」韓国より重視すべき隣人■ BTS「原爆Tシャツ」に通底する韓国社会のホンネ

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    日本は韓国より立場が弱くなったのか

    澤田克己 (毎日新聞記者、元ソウル支局長) 日韓関係がここまで悪化している背景には、冷戦終結の時期を前後して起きた両国関係の構造的変化がある。そうした認識からこれまで、主として韓国側の事情に焦点を当てたコラムを3本書いてきた。簡単に振り返ってみると、▽現在の韓国では「反日」は重要なイシューとなっていない(第1回 韓国国会議長による「天皇謝罪」発言の裏側)▽冷戦終結によって韓国は自由に行動できるようになったし、経済成長にも成功したので日本への依存度が低くなった(第2回 「日本は韓国にとって”特別な国“」は冷戦終結で終わった)▽1987年の民主化によって歴史上の不正義を正そうとする「過去の清算」という動きが表面化するようになった(第3回 韓国の民主化の「副作用」、日本への配慮を忘れていった社会)——ということである。「日韓関係の構造的変化を考える」と題したシリーズの最後となる今回は、日本側の事情について考えてみたい。 まずは政治について考えてみよう。日本は冷戦時代、共産主義勢力に対する盾として韓国を見ていた。韓国では1960年に李承晩が退陣に追い込まれた内政混乱の後、朴正煕がクーデターを起こした。この時に首相を退いて間もない岸信介は「釜山まで共産主義が浸透してきたときの日本の地位を考えるとき、ことに近接した中国地方の山口県などからみると、非常に治安上、重大な問題だと思う」と語った。そして、「革命を起こした朴正煕その他の連中がやっていることは、ある意味からいって《自由韓国》を守る“最後の切り札だ”」と、朴正煕政権を支える必要を力説して回った。(大岡越平「『自由韓国』を守る」、中央公論1962年1月号) 韓国が北朝鮮とにらみ合ってくれているおかげで、日本は軽武装の経済重視路線を突き進むことができた。クーデターの大義名分を経済再建に求めた朴正煕は日本の資金と技術を必要としたが、安定した韓国の政権を作ることは日本の国益にもかなっていたのだ。そして日韓を協力させることは、互いの同盟国である米国からの強い要求でもあった。 こうした考え方は、1969年の日米首脳会談での共同声明に「朝鮮半島に依然として緊張状態が存在することに注目。韓国の安全は日本自身の安全にとって緊要」と盛り込まれた。これは「韓国条項」といわれ、その後の日米首脳会談や日韓首脳会談で踏襲された。 そして全斗煥政権は1981年、安全保障と経済協力を直接関連させて60億ドルの借款を日本に求めた。「韓国の立場から見て、冷戦の前哨で戦っている韓国に自らの安全保障の多くを依存している日本は、韓国が果たしている戦争抑止の努力に対して応分の支払いをしなければならないと考えられた」(南基正「戦後日韓関係の展開 —冷戦、ナショナリズム、リーダーシップの相互作用—」『GEMC Journal』No.7、2012年3月、69ページ)ということだ。日韓両国は1983年、40億ドルの借款を日本が韓国に提供することで合意した。 冷戦終結によって、この構図は激変した。韓国にとっては総じて前向きな変化だったと言えるだろうが、日本には違う光景が見える。北朝鮮が核・ミサイル開発を進めて日本にとって直接の脅威となったのは冷戦終結を受けてのことだし、中国も冷戦後のグローバリゼーションの中で急速に台頭して覇権主義的な行動を取るようになってきた。どちらも日本の安全保障にとってマイナスの動きである。 朝鮮半島情勢に詳しい日本の外交官は「冷戦時代の韓国にとって、日本は(1)経済協力の提供者(2)軍事政権にとっての米国への影響の経路(3)未だ国交を有していない中国への経路といった戦略的な位置付けを持っていた。一方で日本にとっての韓国は、北朝鮮及び北朝鮮を通じてのソ連の脅威への防波堤だった。ところが、冷戦構造の崩壊と韓国の民主化、日本のバブル崩壊などがあって、韓国にとっての日本の戦略的な位置付けは3つとも失われた。ところが、日本にとっての韓国の位置付けは『ソ連』を『中国』に置き換えれば、現在もそのまま変わらない」と話す。※画像はイメージです(ゲッティイメージズ) 問題はそれだけではない。日本にとっての直接的な脅威となった北朝鮮の問題に対処するためにも、韓国の協力を取り付けるかどうかは大きい。韓国の協力など不要だと切り捨てるなら、日本の負う政治・経済的コストは増大する。米中の対立激化という状況についても、韓国がどのような態度を取るかは日本に大きな影響を与える要素となった。在韓米軍の撤退などという事態になれば、日本の安保政策は根本的な見直しを迫られる。日本の財政がその負担に耐えられるかは疑問である。 基本的な要素として韓国の国力伸長も見逃せない。冷戦時代の韓国は弱小国だったから国際社会での影響力は極めて小さかった。ところが現在はG20(主要20カ国・地域)のメンバーであり、世界10位前後の経済力を持つ。国際政治というゲームの中で簡単に無視できる相手ではない。経済でも大きな変化 経済面でも大きな変化が起きた。財務省が公開している「貿易相手国上位10カ国の推移(輸出入総額、1995〜2017年)」を見ると、韓国の定位置は米中に次ぐ3位、シェアは6%前後で安定している。冷戦終結を前後して貿易相手国の多角化が一気に進み、日米のシェアが急落していった韓国とは様相が異なる。日本はそれ以前から経済大国として世界中の国々と貿易をしていたから、韓国ほど急激な変化がないのは当然だろう。 サムスン電子やLG、現代自動車といった韓国企業が世界市場で広く認知されるようになったのも冷戦終結後のことだ。米インターブランド社が2000年から算出している世界ブランド価値ランキングでは、2000年に上位75社に入ったのは43位のサムスンだけ。2005年に現代が84位、LGが97位と初めて上位100社の仲間入りをした。2018年のランキングで上位100社に入ったのはサムスン6位、現代36位、起亜71位だ。ちなみに同年の上位3社は、アップル、グーグル、アマゾンの順で、日本企業トップはトヨタの7位だった。 日経新聞は3月14日付朝刊で「韓国、日本の経済制裁警戒」という記事を国際面トップに載せたが、これは「韓国側が身構えている」というだけの内容ではない。サブ見出しにある「水平分業 双方に打撃」という点を無視しては語れないのが現在の状況だ。サムスン電子など韓国を代表する企業が日本の部品・素材に依存しているのは事実だが、逆もまた真なりであって、日本の部品・素材メーカーにとって韓国企業は大切な大口顧客になっている。近年は東レなどが先端工場を韓国に建設しているが、大きな理由のひとつは納入先企業との協業体制を築くことだ。 韓国の部品メーカーが力を付けてきている点も無視はできない。統計分類コードの種類によって若干のずれはあるが、日韓間の自動車部品貿易に関しては2014年ごろに収支が逆転した。ずっと日本の黒字だったのが、韓国の黒字に変わったのだ。東日本大震災の際に日本製部品の供給中断に見舞われた韓国の完成車メーカーが日本製部品への依存度を下げたことや、韓国製部品の性能向上を受けて日本の完成車メーカーが韓国からの部品輸入を増やしたことが背景にあるという(韓成一「日本の対韓国自動車部品貿易の赤字転換と九州自動車産業への影響」『東アジアへの視点』2015年12月号)。 韓国における日本の存在感は、政治(安全保障)と経済の両面で1980年代後半から一本調子で低くなってきた。これに対して日本にとっての韓国の存在感というのは、それほど単純ではない。冷戦時代に弱小国だった韓国が国力を付けたことによって、むしろ存在感は高まったといえる。中国の台頭という冷戦後の地域情勢は、韓国においては単純に日本の存在感低下を招いたが、日本の受け止め方は全く違う。そういった違いがあまりにも軽い韓国の対日外交を生むと同時に、日本側の対応を極めて難しいものにしている。そう考えると、日本の方がある意味で弱い立場に立たされていると言えそうだ。 最近の日韓関係に憤り、1993年に韓国でベストセラーになった本『日本はない』(田麗玉著)を引き合いに出して、「小欄も『韓国はない』と思うことにしようか。」と結ぶ新聞コラムがあった(「産経抄」『産経新聞』2019年3月2日)。 そう言いたくなる気分がわからないでもないが、この本を引き合いに出すのは注意すべきだ。この本は、さまざまな事例を挙げながら「日本なんてたいしたことない」「日本はひどい国で、手本にするようなことは何もない」と声高に主張するのだが、それは実は「そう思いたい」という韓国人の願望を代弁するものだったからだ。著者はこの本のあとがきで、日本式経営や社員教育などを追い求める当時の韓国の風潮を「しかたのない面もありますが、これはむりやり我々に日本式の方法を強要しているにすぎません」と強く主張した。この訴えは、バブル経済に浮かれて絶好調だった日本に押しつぶされるのではないかと恐れる韓国人の悲鳴のようだった。ソウル中心部にあるサムスンのオフィス(ゲッティイメージズ) 興味深いのは、この著者が10年後の2003年に再び日本をテーマに書いた本だ。著者はこの本の前書きで、日本での楽しい思い出がたくさんあるけれど、今まで書いたことはないと告白する。そして、こう続けたのだ。 私が暮らした1990年代初め——スーパーパワーになろうという野望を持ち、貪欲でギラギラすることをやめようとしなかった(あの時の)「日本はない」。今の日本は「かつての日本」ではない。だから、穏やかな気持ちで、日本について軽く書くことができた。(田麗玉『札幌でビールを飲む』、カッコ内は筆者注) 日本と韓国が互いを見つめる視線の変化は、こうした言葉によく表れているのだろう。さわだ・かつみ 毎日新聞記者、元ソウル支局長。1967年埼玉県生まれ。慶応義塾大法学部卒、91年毎日新聞入社。99~04年ソウル、05~09年ジュネーブに勤務し、11~15年ソウル支局。15~18年論説委員(朝鮮半島担当)。18年4月から外信部長。著書に『「脱日」する韓国』(06年、ユビキタスタジオ)、『韓国「反日」の真相』(15年、文春新書、アジア・太平洋賞特別賞)、『韓国新大統領 文在寅とは何者か』(17年、祥伝社)、『新版 北朝鮮入門』(17年、東洋経済新報社、礒﨑敦仁慶応義塾大准教授との共著)など。訳書に『天国の国境を越える』(13年、東洋経済新報社)。

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    韓国人はなぜ今「日本叩き」に躍起になっているのか

     北朝鮮との融和ムードが高まる韓国だが、日本との関係は最悪だ。ほとんど言いがかりのような内容も含み、日韓関係を壊しかねない勢いで反日が盛り上がっている。これまでに200回以上韓国を訪れている経営コンサルタントの大前研一氏が、なぜ今、「日本叩き」がいつになく盛り上がっているのか、その背景を分析する。* * * 日韓関係は日増しに冷え込み、改善の兆しが全く見えない。韓国大法院(最高裁)が日本企業に賠償を命じた「元徴用工」訴訟問題や日韓合意に基づく元慰安婦のための財団の解散、海上自衛隊P-1哨戒機に対する韓国海軍駆逐艦の火器管制レーダー照射問題に加え、文喜相国会議長が元慰安婦への謝罪は「天皇が望ましい」「その方は戦争犯罪の主犯の息子」などと発言したことで、日本の対韓世論は悪化の一途をたどっている。 韓国の反日運動は今に始まったわけではないが、このところ立て続けに日本に難癖や言いがかりをつけているのは、歴史教科書問題や竹島問題のような日本側の動きに対する反発というよりも、「韓国発」の盛り上がりである。 たとえば、慶尚南道教育庁は庁舎前にあった日本の学名がついたヒノキ科の常緑針葉樹「カイヅカイブキ」を別の場所に移し、その跡地に韓国固有の松を植えた。「カイヅカイブキは日帝時代の残滓」と指摘する韓国メディアの報道が続いたからだという。 また、忠清南道教育庁は道内の小中学校・高校29校に掲示されていた日本人校長の写真や日章旗、刀を差した日本人教師の写真を撤去する、と報じられた。こちらも理由は「日帝残滓の清算」である。2019年3月1日、ソウル市内で開かれた「三・一独立運動」100年の式典に出席した文在寅大統領夫妻(共同) なぜ、いま韓国でこれほど反日運動が激しくなっているのか? その背景には、北朝鮮との南北統一に向けた文大統領をはじめとする韓国人の高揚感がある。戦後一番の高揚感戦後一番の高揚感 文大統領は今回の米朝首脳会談を前にしたトランプ大統領との電話会談で、南北の鉄道・道路連結や経済協力事業の活用を申し出た、と報じられている。事実上の制裁緩和につながることを米朝首脳会談の議題にするよう提案したのである。 もし、文大統領の思惑通りに南北統一へと進んだら「ユナイテッド・コリア」として南北連合政府を作ることになるだろう。だが、今のところ、その統治機構がどのような形になるのか、という絵は全く描けない。北朝鮮でも民主的な選挙でユナイテッド・コリアのトップを選ぶことになり、南北の鉄道・道路が連結されて人や情報の交流が進めば、いずれ国民の本音が出てくるはずだ。となると“暴君”の金委員長が北の代表に選ばれることはないだろう。 金委員長もそれが分かっているから、アメリカに対して「体制の保障」を要求し、かつてのカンボジアのシアヌーク国王のような中国亡命の道を模索しているのではないかと思う。 そして、そうなれば、韓国に“核付き・金正恩抜きの労働植民地”が転がり込むことになる。言い換えれば、核武装した人口7700万人の南北統一国家が誕生するわけで、その高揚感が現在の「日本恐るるに足らず」という気運の高まりにつながっているのだ。 私はこれまで仕事や講演などで韓国を200回以上訪れているが、韓国の友人たちと酒を飲むと、酔っ払った彼らは必ず「南北統一が実現すれば、核戦力と安い労働力が自分たちのものになる」というシナリオを口にしていた。それが目の前に見えてきたから、いま韓国で急に反日運動が盛り上がっているのである。 私は以前、韓国で起きている問題については「放っておいても日本にとって実害はほとんどないし、日本に年間754万人も来てくれるありがたいお客さんなのだから、静観するのが最も賢明な選択だ」と述べた。この主張は、韓国の『中央日報』日本語版(2月11日配信)でも紹介された。 だが、それは現実を無視すればよいということではない。日本が過剰に反応して非難の応酬を繰り返したり、ビザなし渡航の制限や国交断絶などを叫んだりして火に油を注ぐべきではない、という意味だ。やはりこれも以前、指摘したように、韓国人は自分の国が大嫌いだ。そういう歪んだ劣等感を持つ彼らがこれからどう動くか、冷静に注視すべきなのである。 なぜなら、統一コリアにとっての“仮想敵”は日本だからだ。核保有国の中国やロシアと喧嘩するはずがないし、統一後に在韓米軍が撤退したら、反米感情も下火になるだろう。となれば、核ミサイルのターゲットは日本しかない。核保有国になることで日本の優位に立ち、いつでも寝首をかくことができるわけだ。その“妄想”があるから、韓国人は戦後70年で最も気分よく高揚しているのだ。 この現実に日本は危機感を持ち、アメリカはもとより台湾や東南アジア、オーストラリアなどと連携・結束して統一コリアの誕生に備えるべきである。関連記事■もし日韓戦わば… 軍事力の差は歴然だった■ソウル 日本製品不買条例案に日本好き韓国人「恥ずかしい」■「慰安所で欲望ぎらつかせる韓国兵に恐怖感も」とベトナム人■ケント氏「韓国には嘘が恥ずかしいという概念がないのか」■文在寅氏に大ブーメラン 徴用工被害者1386人が韓国政府訴えた

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    『日本国紀』論争、久野潤「呉座氏は私の問いに真摯に答えよ」

    重ねて表白した通り私個人の歴史観や史実認識についてお答えするつもりである。 議論の錯綜を避けるため、歴史認識の議論については別項を期したい。■百田尚樹『日本国紀』を読んで「がっかりした」理由■百田尚樹『日本国紀』はなぜ支持されるのか■【百田尚樹独占手記】私を「差別扇動者」とレッテル貼りした人たちへ

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    百田尚樹『日本国紀』をどう読むか

    作家、百田尚樹氏の新刊『日本国紀』の売り上げが好調だ。同書の副読本も発売されるなど話題は尽きないが、その一方でSNSではコピペ騒動などが持ち上がり、批判も渦巻いた。強烈キャラで知られる百田氏だけに好き嫌いが分かれるとはいえ、『日本国紀』をどう読むべきか、改めて考えたい。

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    百田尚樹『日本国紀』をコンナヒトタチに批判されたくない

    カタそうな書籍がベストセラーになるのも、そうした風潮と無縁ではなかろう。 一方、近隣諸国とのいわゆる歴史認識問題についても、かつてのように一部で激しく議論されつつも結局相手国やその主張に同調する勢力に押し切られるというようなことはなくなり、かつてないほどに日本人が自国の歴史に目覚め、主張できる時代となってきている。 筆者が小学生であった平成の初め頃には想像もつかないであろうこの状況を鑑みれば、平成という御代は、後世から見て戦後日本が自らの国史を取り戻す重要なステップとなった時代だと評価されるかもしれない。 その平成最後の年(改元前の最後の年)となった昨年、百田尚樹著『日本国紀』(幻冬舎)がベストセラーとなり、筆者もかかわらせて頂くことになったのは何かの御縁であろう。『日本国紀』の監修依頼を受けたのは、昨年9月半ばのことである。その2日後に幻冬舎より500ページ超のゲラを受け取り、その重厚さに改めて驚くことになる。 著者の百田尚樹氏には拙著『帝国海軍の航跡』(青林堂)に帯文を頂いたことがあり、編集の有本香氏とは何度かお目にかかったことがあったが、仕事で御一緒させていただいたことはなかった。それを今回、大御所ではなくこのような若手の歴史学者に機会をくださったことには本当に感謝している。 ゲラを受け取った筆者は、本能的にワクワクした。念のために言うと、「売れそうな本だから乗っかっとこう」などといったものではない。日本を代表する作家である百田氏には百田氏なりの重厚な歴史観があり、それに沿った著作となろう。ただそこで、いわゆる大御所の学者が形だけの「監修」として名を貸すようなものではなく、発売前の大著に目を通したうえで意見を具申し、完成までの議論に参画できる(そうすることを求められている)という期待があった。 そして、2週間かけてゲラをチェックしていった。筆者の専門は昭和戦前期の政治外交だが、他の時代も合わせて、ほぼ全ページに赤(実際のペンの色は、他の編集工程をはばかって青であったが)を入れさせていただいた。幻冬舎側のチェックも、相当細かいところまで行われていたことを付記しておく。※画像は本文と関係ありません(GettyImages) 自分の研究室での作業だけでなく、移動中も膨大なゲラを持ち歩いてチェックしたものである。そしてその後のやり取りも経て、校了となった。筆者は、奥付などの書誌情報上は「監修」としてクレジットされていない。ただ、自分のかかわり方として「監修」たることを、校了後の編集側とのやり取りや、本書末尾〈謝辞〉での記載も含め、改めて確認した。それで『日本国紀』について発信する際、折に触れて「監修」と称しているわけである。 フェイスブックでは10月28日、ツイッターではその翌日、自分が監修させていただいた『日本国紀』が翌月12日の発売前からネット通販大手のアマゾンにおいて2週間連続でベストセラー1位であることを書いた。フェイスブックでは「いいね!」が500以上つき、多数のコメントと共にシェアも100を超えた。また、かなり久々にメッセージをくれる方もいた(笑)。ツイッター上の罵詈雑言 ところがネット上で使う名前(ハンドルネーム)が常用されるツイッターでは、フェイスブック同様の「買います」「楽しみです」といったコメント以外に、特定アカウントからネガティブなコメントが寄せられるようになった。 筆者は自分の著書や自分のかかわった書籍を機会あるごとにゆかりの神社へ奉納することにしているのだが、ある神社に『日本国紀』を奉納した記事に対しては「バチ当たるぞ」「トンデモ本奉納されて神様も困るだろ」「今時がどんど焼きの時期なのでしょうか」「穢れるやんけ」などというコメントが立て続けに書き込まれた。 文筆家の古谷経衡氏が言う「道徳自警団」の中でも質が悪い層であろうか。さらには坊主憎けりゃ袈裟(けさ)まで憎いとばかりに、「既に目が逝ってるね、こいつ」「大阪観光大学ってナニ?」などと、批判勢力の品性を疑わせるものもあった。 そうしたツイッターアカウントの中で、『日本国紀』の皇室についての記述などについて「あなたも同じ主張か」とばかりに詰め寄ってくる方もいた。そこで筆者は、フェイスブックで次のように公開投稿を行った。『日本国紀』へのインターネット上の一部匿名者による批判(とさえ言えぬような罵詈雑言)について御心配の声を頂きますので、念のために書きます。当然ですが当方は一切、「監修」にあたって後ろめたいことなどありません。私は500ページ超のゲラ全ページに目を通し、2週間かけてほぼ全ページにわたって歴史的な事実関係確認をはじめ意見具申をしました。もちろん容れられたところもそうでないところもあり、監修者や協力者はそれを甘受するものです。そのうえで、百田先生の著作として『日本国紀』を多くの方に読んでいただきたいと思っています。書籍の内容についての諸々の御指摘によって建設的な歴史論議が深まることは、著者にとっても望むところではないでしょうか。 ところが残念なことに、本名も名乗らず氏素性も告げず、揚げ足とる気満々の文脈で「質問に答えろ」とか言ってくるツイッターユーザーがいたりするわけです。いちおう日々の仕事や原稿そして(有益な)情報収集に勤しんでいる研究者をつかまえて、コンナヒトタチに(←安倍首相調)時間をかけて対応せよと言うつもりでしょうか。万一「返信がないということは・・・」などと連鎖的に妄想してる方々がいるとすれば、歴史談議の前にまず頭を現実社会に戻していただければと思います。 仮に所属・姓名を明示したうえで問い合わせがあれば、私個人の歴史観や史実認識についてお答えすることもあるでしょう。でも悪意あるコンナヒトタチが答えさせようとしているのは、明らかにそういうのではありませんよね? 中には自分のオピニオンサイトらしきものを展開しているユーザーもいるのだが、少なくとも同様の絡み方をしてくる際に本名を名乗る人はそれ以降も現れていない。もちろん仮に匿名でなくとも、『日本国紀』の「間違い」を指摘しながら「あなたは本当にチェックしたんですか?」などと下衆の勘繰りを展開する手合いには付き合えるはずもないが。 さて一方、『日本国紀』の内容についての実名による批判も出ている。ただ、同書の批判を含むものとしては最初に書籍化されたものと思(おぼ)しき『「アベ友」トンデモ列伝』(宝島社)も、「アベ友」作家だと決めつける基本コンセプトのもと、「百田尚樹『日本国紀』パクリ大検証!」と銘打っていながら、その検証素材は上記ツイッターユーザーのオピニオンサイトらしきものという点で問題にもならない。秦郁彦氏の批判 なお『日本国紀』の「パクリ」事案については、例えば、決して思想的に百田氏と近い母体ではなかろう「弁護士ドットコム」の11月27日付記事でも「出所の明示だけでなく、それぞれの部分について、明瞭区別性や主従関係などの要件に合致するのか、引用先(『日本国紀』)の歴史書としての特性や引用元の特性なども考慮にいれる必要がある」「偶然類似してしまった可能性もあるので、『依拠』の要件を満たしているのかという議論もある」と述べられている。つまり、最初から批判ありきで類似性をあげつらうだけでは話にならないのである。 もし議論に付き合う価値があるとすれば、実名による論点明瞭な批判である。12月26日付毎日新聞「売り上げ好調百田氏「日本国紀」に「コピペ」騒動 専門家の評価は?」では、秦郁彦氏(現代史家)と辻田真佐憲氏(近現代史研究者)のコメントが寄せられている。 辻田氏は現状での『日本国紀』批判が「このままでは単なるネット上の"百田たたき祭り"で終わってしまい、結果的には社会の分断を広げるだけで終わってしまう」といった作法(?)についてのものだが、秦氏は『日本国紀』の連合国軍総司令部(GHQ)やウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)に関する記述を「陰謀史観的だ」と批判し、「WGIPに言及した部分は元々、(文芸評論家の)江藤淳が提唱したものです。そこから取ったのでしょうが、これまで広がらなかったのは、その論に説得力がなかったから。WGIPがそこまで大それたものだったかという点で疑問があります」としている。 いわゆる慰安婦問題についての秦氏の研究には、戦前日本が軍、政府命令で強制連行したわけではないことを明らかにした点で大いに敬意を表したい。しかし秦氏の研究をもってしても、いまだ「日本は慰安婦に無理やり悪いことをしたんじゃないか」と思っている日本人も大勢いる。 これも、まさに江藤淳著『閉された言語空間』(文藝春秋)で指摘されたような自虐史観を自己増殖させるメカニズムによるものではないのか。戦争に負けたことを知っていてもWGIPの存在自体を知らない日本人がまだまだ圧倒的に多い現在、こうした議論自体が『日本国紀』によって知らしめられることを、日本人は歓迎できないのであろうか。呉座勇一さん=2018年3月14日、京都市西京区(寺口純平撮影)  朝日新聞では12月4日より毎週火曜に、冒頭で挙げた『応仁の乱』の著者でもある呉座勇一氏による「呉座勇一の歴史家雑記」で『日本国紀』批評が展開されている。その初回では「さぞかし過激な内容だろうと予想していた私は正直、拍子抜けした」とあるが、はて一体どのような内容を「予想」したのであろうか。監修者の意見が通った部分 百田氏は12月18日発売の『FLASH』でも述べている通り、「日本人が自分の国や祖先に誇りを持てる歴史書」を書こうとしたのであって、別に過激な(特異な?)歴史観で衆目を集めようとしているわけではない。12月11日付でも呉座氏は「私の見る限り、古代・中世史に関しては作家の井沢元彦氏の著作に多くを負っている」と指摘するが、すでに校正段階で筆者もその件で百田氏に直接尋ねたところである。自らの知見に基づいて部分的に井沢説を採りつつ論を展開するのは、百田氏の著作である以上自由であろう。 「学界の通説と作家の思いつきを同列に並べるのはやめてほしい」とのことだが、戦前日本が他国を一方的に侵略していたかのように断ずるかつての「学界の通説」がいかに実情を無視したものであるか。あるいは呉座氏の主張と違うところが多い、戦前の「学界の通説」についてはどう捉えているのか。 『日本国紀』は百田史観が色濃く出ている一方で、表記や語法のミスなど以外でも、監修者の具申が受け入れられた個所も多い。例えば織田信長については、初稿では「今でいう無神論者に近い」となっていた。これは例えば、メディアでも人気の歴史学者である本郷和人氏の近刊『東大教授がおしえるやばい日本史』(監修)『戦国武将の精神分析』(対談)でも描かれている歴史観なので、少なくとも学者からも袋叩きに遭うことはない。 しかし、筆者は自らの史料調査や寺社取材により、信長が無神論者どころか神仏を篤(あつ)く崇敬し、天皇を支える勤皇の武将であったと相応の根拠をもって確信している。「革命児」「無神論者」「天皇や将軍を蔑(ないがし)ろにした」と評価されるようになったのは戦後のことであり、この点筆者も呉座氏の「日本人の歴史観は歴史学界での議論ではなく有名作家による歴史本によって形成されてきた」(12月18日付朝日新聞)という主張に同意である。 とりあえず伊勢の神宮はじめ、さまざまな神社仏閣を復興したことなどを具体的に指摘したところ、発刊時には修正されていた。要するに、歴史学者諸氏が指摘したいような論点のうち主要なものは、すでに校正段階において監修者との間で議論が行われ、また著者の頭の中でもさまざまに検討されてきたということである。筆者自身、「諸説の存在を分かったうえでお書きとは思いますが…」と前置きしながら種々の指摘を行ったものである。 「百田氏は知らないだろうから教えてあげよう」という類いの論評の多くが、これまでに蓄積された膨大な教養を駆使して歴史を叙述する百田氏への真摯な忠告ではなく、『日本国紀』50万部の読者を利用した自己アピールに見えてしまうのは筆者だけであろうか。講演する百田尚樹氏=2018年3月2日、大阪市中央区の松下IMPホール(永田直也撮影) ともかく『日本国紀』とは、著者―編集者―監修者の間でかなりの議論を経て生み出されたのである。各分野の研究史を踏まえた歴史のプロである監修者の指摘を受け入れず、百田史観を貫いた部分については、読者も百田氏のそれなりのこだわりを感じて読むことになろう。「学界の通説」にかなっているか否かの判断だけでなく、こうした歴史書の著者が掲げた問題意識や仮説に応えられているかを自省できる歴史学界であってほしいと、学界の末席から願う次第である。■ 【百田尚樹独占手記】私を「差別扇動者」とレッテル貼りした人たちへ■ 百田氏の講演中止問題で剥がれ落ちた「護憲リベラル派」の化けの皮■ 百田尚樹に嫌われる私でも、一橋大「講演中止」の判断は残念に思う

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    百田尚樹『日本国紀』を読んで「がっかりした」理由

    松竹伸幸(ジャーナリスト、編集者) 百田尚樹氏の新著『日本国紀』を、私は発売当初から読みたいと思ってきた。ただ話題になっているからではない。編集者の一人として、また歴史に関する著作のあるジャーナリストとして、一個人の手になる日本通史の描き方に大いに関心を持っていたからである。 私が青春を過ごした1970年代は、マルクス主義と史的唯物論の影響を受けた「戦後歴史学」が影響力を持っていた時代である。日本通史についても、井上清の『日本の歴史』(上中下巻・岩波新書)などが幅を利かしていた。それは誤解を恐れずに言えば、国家権力に対する民衆の闘いが歴史を変革してきたという立場のものであり、現在の資本主義社会も永遠ではないことを教えようとするものであった。 そのような「歴史観」が全面に出る歴史学のあり方には、内外から批判と反省もあり、歴史の描き方を巡る模索があった。しかし、ソ連の崩壊により、資本主義が社会主義に変わるという史的唯物論の根幹が挑戦を受けたことをきっかけとして、戦後歴史学は衰退していく。 それでも、90年代半ばまでは、網野善彦『日本社会の歴史』(上中下巻・岩波新書)に見られるように、一人が日本通史を描く試みは続いていたのである。この本は「奴隷制社会、封建社会、資本主義社会などの(中略)社会構成の概念だけで、人類社会のきわめて多様なあり方をとらえうるかが、事実そのものの力によって問われている」(下巻「あとがき」)として、史的唯物論をそのまま日本社会に適用する態度に対して、批判する立場を明確にしている。それでも、史的唯物論に代わって、「事実そのものの力」を持って通史を描こうという問題意識が貫かれていた。 しかし、その後の歴史学は、網野の問いかけを受け止め、発展させるようなことがなかったように思う。歴史観や歴史の全体像にも関心を持っていた歴史学者も少なくないであろう。だが、発表された著作を見れば分かるように、自分の専門分野を深く掘り下げる仕事に集中していった。 こうして、歴史は「暗記物」となって、若者の関心も薄れていくことになる。「歴史観」が表れていたのは、明治以降の日本の戦争をどう捉えるかの分野に限られ、侵略と植民地支配の責任に関する歴史観も一定の方向性に保たれていた。 そこに現れたのが、99年に刊行された西尾幹二氏の『国民の歴史』に代表される、戦後初めて登場した右派による通史であった。もともと、ドイツの文学・思想の研究者である西尾氏の著作であったから、日本史学の到達を踏まえたものではなく、学問的には大きな批判を浴びたが、国民の間では一定の支持を集める。歴史学者の網野善彦=1998年11月撮影 歴史学の全体が日本の戦争責任の解明に集まる中で、「日本の歴史は誇っていいものだ」という呼びかけには、それなりに国民の心に響くところがあったのであろう。その後も、学問の世界においては引き続き真面目な成果が出ているが、国民の間ではいわゆる「歴史修正主義」が跋扈(ばっこ)する状況が続いてきた。 そのころから、私は編集者として、ある歴史観を持って日本の通史を描く著作を刊行したいと考え、多数の歴史学者に接近していった。それを通じていくつかの著作が生まれたが、どれも複数の著者によるものだ。 特定の強烈な歴史観で日本通史を描くとなると、やはり一人で挑戦することが不可欠だと考えて働きかけてもいるが、まだ実ってはいない。いっそのこと、学者ではない人に依頼するしかないかとも悩んでいる。違和感を覚えた「万世一系」 百田氏の『日本国紀』は、そういう私の模索の過程で登場したものだ。もちろん、西尾氏から続く右派の通史であり、立場が異なることは承知している。 しかし、歴史の「素人」であっても通史を書こうとするわけだから、歴史学の成果をわが物にしようと努力したであろう。そして、それがどんな影響を百田氏に与えたかについては、同じく学者ではない人による通史の刊行も考えている私には関心がある。また、通史を書こうとするなら不可欠な問題意識というか、国民に何を問いかけようとするのかは、左右の立場の違いを超えて学ぶものがあるのではないかとも感じた。 『日本国紀』を真剣に読んだのは、これらの理由からである。だから、正直に告白しておくと、読み進めてしばらくの間、『日本国紀』にある程度の期待を抱いていた。その結果はどうだっただろうか。 最初に目に付いたのが、本の帯だった。「私たちは何者なのか─。」と大きく書かれていて、『日本国紀』全体を貫くテーマなのだと分かるが、その問題意識は悪くない。「2000年以上にわたる国民の歴史と激動にみちた国家の変遷を『一本の線』でつないだ、壮大なる叙事詩」(帯文)とあって、立場は違っても、日本人というものを「一本の線」で描くという百田氏の意欲が伝わってくる。 そして早速、弥生時代の記述の個所で、「私たちは何者なのか─。」の萌芽(ほうが)が出ている。『魏志』の記述を引用する形で、「私たちの祖先が、他人のものを盗んだり、他人と争ったりしない民族であったということを、心から嬉しく思うのである」と書かれているのだ。 常日頃、百田氏がインターネット上で、立場の違う人に対する激しい批判を見ているだけに、この記述について言葉は悪いが「お前が言うか」と思わざるを得ない。しかし、もしかしたら、百田氏はこの本の執筆を機に「他人と争ったりしない」方向に転換を試みているのかもしれない。また、「他人と争った」日本の近現代史に新たな見方が提示されている可能性もあるので、この時点で突っ込むことはせずに読み進めた。 また、古代の話を読んでいると、歴史学の成果と無縁に書かれているというのでもないことが分かる。ただ、最初に違和感を覚えたのは「万世一系」の問題である。日本の皇室は神武天皇以来、同じ系統で面々と続いてきたという問題だ。 たとえ後に「神武東征」に喩(たと)えられるような事実があったとしても、神武天皇が現実の存在ではなかったことも、現在の天皇家が神武天皇の系列ではないことも、歴史学の世界では常識に属することである。太田茶臼山古墳とも呼ばれる継体天皇陵。後方に見える今城塚古墳が「真の陵」とする説が有力になっている(産経新聞社ヘリから、宮沢宗士郎撮影) 百田氏も、『日本国紀』を執筆するにあたって、歴史学の成果をそれなりに渉猟したのであろうから、そこには気づくことになる。継体天皇のことを記述する際、「歴史を見る際にはそうしたイデオロギーや情緒に囚(とら)われることは避けなければならない」として、次のように述べるのである。 「だが、継体天皇の代で王朝が入れ替わったとするなら、むしろ納得がいく。(中略)現在、多くの学者が継体天皇の時に、皇位簒奪(本来、地位の継承資格がない者が、その地位を簒奪すること)が行われたのではないかと考えている。私も十中八九そうであろうと思う。つまり現皇室は継体天皇から始まった王朝ではないかと想像できるのだ」 これは誰が見ても、日本の皇室は「万世一系」ではないということを意味している。百田氏の言葉を引用すると、現在の天皇家というのは「本来、地位の継承資格がない者が、その地位を簒奪」して誕生したということになる。ところが、百田氏はこの本の最後の最後まで、「日本は神話とともに誕生した国であり、万世一系の天皇を中心に成長した国であった」(「終章 平成」の冒頭部分)と、「万世一系」に固執しているのである。テーゼに縛られて消える真実 百田氏も、ただ無邪気に「万世一系」を唱えているわけではない。継体天皇が神武天皇の系列にないことを前提とした「万世一系」論を構築しているのである。 継体天皇が新しい王朝を打ち立てたと宣言しなかったのは、その当時から「『天皇は万世一系でなければならない』という不文律があったから」だというのだ。つまり、神武天皇に値するような人がいたとして、別の実力者がその系列の王朝を打倒したとしても、「自分はその跡継ぎだ」と宣言するような思想があったから、「万世一系」であることに変わりはないというのが、百田氏の考え方なのである。 そういう思想が当時に存在していたかは、素人の私には分からない。しかし、歴史の現実は「万世一系」ではないことを認めておきながら、なおかつ「万世一系」と言い張るのでは、少なくとも「歴史書の名に値するか」という問題が生じてくることは避けられない。百田氏は、神武天皇の系統は継体天皇で途絶えたこと、現在の天皇家は資格のなかったものが実力で地位を簒奪(さんだつ)したものであることを、堂々と明言すべきではなかろうか。 『日本国紀』では、その後も日本人の素晴らしさについての記述が多い。しかも、百田氏の日本史の捉え方は、世界との対比で日本を際立たせようとするものだ。「世界的にも珍しい」「ヨーロッパや中国では」「世界に類を見ない」「世界を見渡しても」とあるように、「世界は劣っているが、日本は優れている」という論法なのである。 それらの指摘の中には、事実が含まれるのかもしれない。しかし、世界190カ国の歴史を調べたことのない私には分からないし、百田氏が比較の基とした資料などが提示されるわけでもない。歴史をただ光に満ちたものとして描くことは、逆に現実から遊離することにならないだろうか。そういう制約があっては、歴史学の成果を踏まえた論考というより、政治的なテーゼ(命題)が提示されているだけと言われても仕方がない。 テーゼは大事だが、それに縛られると真実が見えなくなってしまう。明治以降の日本の歴史の描き方についても、同様の感想を抱く。日本の優れた点がいろいろと書かれているが、「光だけでなく陰も合わせて見ようよ」と感じてしまう。この時代の戦争体験は、現在の日本と日本人、日本と周辺国の関係を直接にも規定するものだけに、リアルさが求められるのである。 論点はたくさんあるが、一つに限る。百田氏の言う「大東亜戦争」のことである。百田氏は「日本が戦争への道を進まずに済む方法はなかったのか─。私たちが歴史を学ぶ理由は実はここにある」と述べているから、どんなことを学んだのかと思って読んだのだが、残念ながら、どこにもそれらしい記述は見当たらなかった。 満州事変について言えば、「満州は古来、漢民族が実効支配したことは一度もない」と強調され、国際連盟が日本の撤退を求めたことを批判する。それに続く中国との全面戦争は「確固たる目的がないままに行われた戦争」とされている。「気がつけば全面的な戦いになっていた」というのである。 他方、太平洋戦争のきっかけとなった「ハル・ノート」を論じる個所では、満州は当然のごとく中国の一部だと日本政府も考えており(満州事変の時は中国の一部でなかったはずなのに)、だから「日本が(中略)中国から全面撤退する」という要求が飲めなかったと指摘している。戦争に踏み切ったのは「ハル・ノート」を受け入れると、「欧米の植民地にされてしまうという恐怖」が生み出したもの、ということらしい。東京・荻窪にあった近衛文麿の別邸「荻外荘」。現在は一部が公園として整備されている(松本健吾撮影) これでは「日本が戦争への道を進まずに済む方法」への示唆がどこにもない。唯一、それらしい個所があるとすると、それ以前の日清戦争を論じた次の記述であろう。 「清から多額の賠償を得たことで、国民の間に『戦争は金になる』という間違った認識が広がった。その誤解と驕りが『日露戦争』以後の日本を誤った方向へと進ませた」叙述視点が変わった「時代」 「国民の間違った認識」が日本を誤らせたという論理である。そう言われると、太平洋戦争を論じた個所でも「日本はそれでもアメリカとの戦争を何とか回避しようと画策した」と、その「努力」のあれこれを列挙した上で、ここでも「国民の誤り」に言及する。 「日本の新聞各紙は政府の弱腰を激しく非難した。満州事変以来、新聞では戦争を煽る記事や社説、あるいは兵士の勇ましい戦いぶりを報じる記事が紙面を賑わせていた。(中略)『日独伊三国同盟』を積極的に推したのも新聞社だった」 国民や新聞社の戦争責任がないとは言わない。しかし、政府は戦争を回避しようとしたが、国民が煽ったから戦争になったというのでは「日本が戦争への道を進まずに済む方法」は見えてこないのではなかろうか。ただ、今の日本が戦争に突き進むことのないよう、百田氏も含む一部の保守論客や国民への自戒と捉えれば、意味のある指摘かもしれない。 以上、『日本国紀』の問題点をあれこれ指摘してきた。それでも、ここまでは「当代一のストーリーテラー」(帯文)の面目躍如という要素もあったから、それなりに楽しく読み進むことができた。 政治的立場やイデオロギーは違うことは分かっていたし、それでも百田氏がいろいろと努力して学んだ成果もうかがえ、もっと肯定的な論評にするはずだった。しかし、先の大戦後の叙述を読んだ後は「これは歴史書ではない。日本通史はこのように描かれてはならない」と結論づけるに至った。なぜか。 『日本国紀』のそれまでの叙述では、日本人の素晴らしさが強調されてきた。これまで述べてきたように、そこには光だけを取り上げる行き過ぎもあり、他国を貶(おとし)める問題もあるのだが、立場の違いとして見過ごせる要素もあった。 ところが、戦後の話になると、叙述の視点そのものが変わってくる。百田氏は「これほど書くのが辛い章はない」と述べるが、「読むのも辛い」ものとなっていく。作家の百田尚樹氏(志儀駒貴撮影) どう変わるかと言えば、突然日本人が批判の対象とされるのだ。それまで日本の素晴らしさが強調されたのは、現在の日本人のあり方を糾弾するためにあったのだと、ここに来てようやく気づくことになる。百田氏の言葉を引用すると、戦後の日本と日本人というのは、次のようなものであった。 「『敗戦』と、『GHQの政策』と、『WGIP洗脳者』と、『戦後利得者』たちによって、『日本人の精神』は、70年にわたって踏みつぶされ、歪められ、刈り取られ、ほとんど絶滅状態に追い込まれた」 WGIPは「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」の略語ことであり、戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けるため、連合国軍総司令部(GHQ)による洗脳計画とされるものだ。要するに、米国の占領政策によって、戦前の日本の伝統が根こそぎ崩壊したという主張である。その象徴が日本国憲法であり、「日本らしさを感じさせる条文はほぼない」と百田氏は指摘する。そして、失われた伝統、日本の素晴らしさを取り戻すのが現在の課題であるというのが本書の結論であった。 この結論を導くためには、日本人全体がWGIPに犯されていると主張する必要がある。そのため、百田氏は「共産主義的な思想は日本社会のいたるところに深く根を下ろしている」と指摘した。日本人が先の大戦を侵略戦争だとみなし、周辺国に謝罪したのも、その影響からなのだそうだ。政治的主張を散りばめた「作品」 百田氏が、先の大戦を侵略戦争と考えていないのは理解しているつもりだし、そう考える人を糾弾するのも自由である。迷わずにやればいい。けれども、そういう思想を「共産主義」だと位置づけ、それが日本全体を覆っているかのような見方は、事実として成り立たないだろう。 戦後の日本では、共産主義と対峙(たいじ)した自民党政権が長らく続いており、他方で共産党は少数のままであり続けた。その自民党政権が、先の大戦を侵略とみなすことを拒否し続けてきた一事をもってしても、それは明らかである。証明すら不要なことだろう。 つまり、百田氏がそういう結論を導こうとして戦後史を眺めたために、本書ではいろいろな場面で矛盾に直面する。いくつか例を挙げよう。 独立後すぐに戦犯を赦免するための署名運動が起こり、4千万人が署名したのだが、これはWGIPによる洗脳説では説明できない。すると、百田氏は「洗脳の効果が現れるのは、実はこの後なのだった」と、論理の破綻を糊塗(こと)しようとする。 60年安保闘争を批判し、それに参加した人が少数であったことを強調するため、直後の総選挙で自民党が圧勝したことを指摘するのだが、それは選挙時の有権者が全て素晴らしい伝統を持っていた戦前生まれだったからだというのだ。では、素晴らしい日本の伝統を受け継がない戦後生まれ(共産主義に洗脳もされている)が多数になっても、自民党が選挙で勝ち続けている事実を一体どのように説明するのか。60年安保闘争(全学連)で、警視庁前から国会に向かう学生や労働組合員のデモ隊=1960年6月 要するに、『日本国紀』というのは、歴史を叙述した著書ではないということだ。歴史に名を借りて、百田氏の政治的な主張を散りばめた作品なのである。 冒頭から書いているように、歴史を描くのに政治的・イデオロギー的な中立性は必ずしも必要ではない、というのが私の考えである。しかし、そうであっても、自分の政治的・イデオロギー的な立場が矛盾する事実に直面したとき、それを隠さないで、あるいは歪めないで、どう対応するかが学問に求められる最小限の節度ではないだろうか。 ある場合は、さらなる探求の結果、元の立場に矛盾しない説明方法が見つかるかもしれない。別の場合、自分の立場を修正する必要性が生まれてくるかもしれない。それが学問というものである。『日本国紀』はその節度から外れているというだけでなく、最後の結論部分に至っては、政治的主張のために学問を歪めるものである。 もし私であれば、誰かに日本通史の執筆を依頼する時は、この節度を何よりも求めるだろう。『日本国紀』は、その重要性を私に自覚させてくれた点で、それなりの存在意義を持っていると付記しておく。(一部敬称略)■ 安保闘争 過剰な「連帯感」は民主主義なのか■ ポスト60年安保と革新幻想■ ピンク大前へ! 学生運動も学歴社会

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    百田尚樹『日本国紀』はなぜ支持されるのか

    宇山卓栄(著述家) 「これは日本人の良心の反乱だ!」。私は百田尚樹氏の『日本国紀』大ヒット現象をこのように捉えている。 日本人は今、歴史の真実に飢えている。我々がかつて、学校で習った歴史は信用できない。戦後、わが国の歴史教育は日本人を精神的に去勢するために、一貫して誇るべき歴史を意図的に教えずにきた。教えないだけならば、まだマシである。日教組など一方的な思想に偏った教師は「日本はろくでもない歴史を抱えた国」だとあえて「自虐史観」を教える。それは今も昔も変わらない。 メディアや出版物など、日常で手にすることのできる情報は、何らかの色を付けられ操作されていることが多い。これらが信用できないとなれば、自分たちが受けてきた教育も何らかの色が付いているのではないかと疑うのも自然な流れだろう。そして真っ先に「おかしい」と疑われたのが、歴史教育なのである。こうした時代の空気の中で、良心のある日本人は百田氏の『日本国紀』を手に取り、真実が何かを確かめ、追求しようとしている。 『日本国紀』について、「自分の考えと通説を混同するな」「史料や学術的な裏付けがない」などという批判もある。しかし、これらは批判のための批判である。百田氏は自分の考えや推論・仮説を提示する際には、文脈上それと分かるように明確に書き分けている。その区別が付かないという批判者は、よほど読解力がないと言わざるを得ない。 また、『日本国紀』は学術論文ではなく、日本史を俯瞰(ふかん)した概説書である。史料の裏付けがなければ著者の考えを述べることができない、などという制約はない。大いに考えを述べればよい。些細なことをあげつらって、鬼の首を取ったかのように言い散らすのは批判者の常である。講演する原作者で作家、百田尚樹氏=2018年10月、東京都港区(佐藤徳昭撮影) 私が見る限り、『日本国紀』における百田氏の考えは実にバランスの取れたものであり、一部の人が批判するような「偏り」などほとんどない。例えば、先の戦争における日本の過ちについて、反省すべきところは反省している。『日本国紀』には以下のようにある。アメリカがいつから日本を仮想敵国としたのかは、判然としないが、(中略)ワシントン会議の席で、強引に日英同盟を破棄させた頃には、いずれ日本と戦うことを想定していたと考えられる。それを見抜けず、日英同盟を破棄して、お飾りだけの平和を謳った「四ヵ国条約」を締結してよしとした日本政府の行動は、国際感覚が欠如しているとしかいいようがない。(『日本国紀』382ページ) この一文を見ても、百田氏の見解は非常にフェアなものであり、「軍国主義思想に凝り固まっている」などという批判が当たらないことが分かるだろう。『日本国紀』では、当時の軍部や政府、官僚たちの誤りについて、しっかりと批判検証がなされている。これに関する百田氏の批評は、保守論壇にとって頭が痛くなるほど手厳しい。教科書に載らない歴史 『日本国紀』は現代版『日本書紀』たらんとする気概を持って書かれた。その気概にふさわしい重要な指摘がいくつかある。『日本書紀』が編さんされた目的の一つに、日本が朝鮮半島を支配した証拠や根拠となる史実を論証するという狙いがあった。『日本国紀』もまた、三韓時代の朝鮮半島と日本との関係について述べている。 『日本国紀』の22~24ページには、日本が朝鮮半島南部に兵を進め、任那(みまな)や百済(くだら)を服属させていたことが書かれている。とんでもないことに、学校の歴史教科書ではこの辺の話を意図的に外しており、教えない。 「広開土王碑(こうかいどおうのひ)」によると、日本は391年、百済(くだら)を服属させた。新羅(しらぎ)と百済は王子を日本に人質に差し出していた。日本は任那や百済を足場として、約200年以上、朝鮮半島へ大きな影響力を行使する。 663年の白村江の戦いの敗北によって、日本は朝鮮半島の支配権を奪われた。それまでは、われわれが想像する以上に、日本は朝鮮半島と密接な関係にあったのだ。『日本国紀』には「同じ一族が住んでいた可能性もある」(22ページ)と書かれ、その密接ぶりが強調されている。 『日本書紀』の雄略紀や欽明紀では、日本が任那(みまな)をはじめ、伽耶(かや)を統治していたことが記されている。ここで言う伽耶は朝鮮南部の広域を指す呼び名である。 中国の史書『宋書(そうしょ)』の中の「夷蛮伝(いばんでん)」では、倭の五王の朝鮮半島への進出について記述されている。中国によって付けられた「倭国」という名称が、辺境の野蛮な弱小国家というイメージを強く与えるが、日本は中国も一目置く、強国であった。広開土王(好太王)碑=2008年9月、中国・集安(黒田勝弘撮影) 学校の歴史授業では「渡来人が朝鮮半島から日本にやって来て、高度な文明を伝えた」と習う。我々はこのことから、何となく古代において「朝鮮=高」、「日本=低」というイメージを持っている。しかし、このイメージは完全に間違っていることを『日本国紀』は教える。 古墳時代(4~7世紀)における前方後円墳などの陵墓の建設も、渡来人から伝わった文化という俗説があるが、実はそうではない。仁徳天皇陵をはじめとする前方後円墳は日本の文化で、それが逆に朝鮮半島へ伝わった。朝鮮半島西南部の全羅南道・全羅北道に十数基の前方後円墳が分布している。これらの古墳には、日本伝来の埴輪(はにわ)や銅器も埋蔵されていたことが確認されている。今日の調査で、古墳の建設時期が明らかになり、日本から朝鮮に伝わったことが判明している。違和感のある表記 『日本国紀』にも「百済があった地では、日本式の前方後円墳に近い古墳がいくつも発見されている」(23ページ)とある。百済だけでなく、任那があった地にも、これらの前方後円墳が発見されており、日本の朝鮮南部統治の証拠と見ることができる。 日本の歴史教育では、こうした日本の朝鮮統治の実態をほとんど教えない。『日本国紀』はそこにスバリ斬り込んでいる。素晴らしいことだ。『日本国紀』を読めば、日本が古代ー中世において、後進的であったという通俗イメージを一度、リセットしなければならないことがよく分かるだろう。 このように「歴史の隠蔽(いんぺい)」に斬り込む百田氏の姿勢を、良心的な日本人は正当に評価し、『日本国紀』を支持する最大の理由としている。 しかし、上記のテーマに関して、『日本国紀』には、以下のような少々、違和感のある表記もある。そこで私は大胆な仮説を述べたい。百済は日本の植民地に近い存在であった、と。(『日本国紀』46ページ) 百済は日本の「植民地」というよりもむしろ、「日本の一部」だった。日本と百済の関係は例えるならば、かつてのイギリスとアイルランドとの関係に近い。かつて、イギリスにとって、インドは植民地だった。しかし、アイルランドは植民地ではなく、「イギリスの一部」であった。これと同じことが日本と百済との関係についても言える。 この関係は1910年の日韓併合以降の状況にも当てはまる。当時の朝鮮は「日本の一部」であり、国際法上も日本の連邦を構成していた地域の一つという位置付けである。この視点は、昨今の徴用工訴訟で、韓国大法院が判決文で「日本の植民地統治が不法であった」と指摘した奇怪な論理に対抗するために、欠かせない視点である。 日本の朝鮮統治はその実態からして、韓国や北朝鮮が主張する「不法な植民地支配」などでは決してない。極貧状態であった現地に、日本は道路・鉄道・学校・病院・下水道などを建設した。特に、ソウルでは、劣悪な衛生状態でさまざまな感染症がまん延していたため、日本は病院の建設など医療体制の整備に最も力を入れた。日本にとっては支出が超過するばかりで、何のもうけにもならなかったのである。日本の国家意識の原型 実際に、百田氏も「日本は欧米諸国のような収奪型の植民地政策を行うつもりはなく」(『日本国紀』326ページ)と書いている。それならば、やはり百済に関しても「植民地」という表現ではなく、「日本の一部」と表現した方が実態に即したものとなるはずだ。 ただし、百田氏も『日本国紀』で、百済を「日本の一部」という文脈で書いているので、方向性自体は問題ないように思う。何度も強調されているように、日本にとって「百済は重要な意味を持っていた」のであり、白村江の戦いで「大和朝廷が百済のために総力を挙げて戦った」(『日本国紀』46ページ)という記述からも、百済が「日本の一部だった」ということを結果的に教えることになっている。 百済の防衛は日本にとって、遠い外国の話ではなく、事実上の自国の領土を侵犯されたという当事者意識と、その国辱に対する憤激が日本を突き動かし、当時の天皇(斉明天皇)自らが外征する「総力戦」となったのだ。 白村江の戦いで、唐・新羅連合軍の大軍に敗北し、日本は朝鮮半島の支配権を奪われ、古来より続いていた半島との接合性を失った。しかし、それとともに日本列島の領域枠の意識が強く共有されて、国や民族のカタチが明確になった。ここに、日本という国家意識の原形が誕生する。『日本国紀』は日本国の理念がどのように生まれたのかということについて、明確に示している。 平成の終わりに、日本人が自らの歴史を振り返るため、多くの人々が『日本国紀』を手に取った。これは非常に意義のあることだ。我々の歴史を隠蔽し、捏造(ねつぞう)しようとする得体の知れない勢力が、日本の中でものさばってきた。『日本国紀』はそのような勢力と戦う真の日本人にとって、重要な指標になる。育鵬社版の教科書 百田氏は『日本書紀』をはじめとする史書の数々に触れながら、「日本」という国号の由来を説明し、以下のように述べている。「太陽が昇る国」---これほど美しく堂々とした国名があろうか。しかもその名を千三百年も大切に使い続けてきた。それが私たちの国なのである。(『日本国紀』55ページ)■ 【百田尚樹独占手記】私を「差別扇動者」とレッテル貼りした人たちへ■ 百田氏の講演中止問題で剥がれ落ちた「護憲リベラル派」の化けの皮■ 百田尚樹に嫌われる私でも、一橋大「講演中止」の判断は残念に思う

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    日韓関係はこの先どうあるべきか

    元徴用工の戦時労働をめぐり、韓国最高裁が三菱重工業に対して賠償を命じた。先の新日鉄住金への賠償命令もしかり、日韓慰安婦合意に基づく財団の解散もしかり。このところ、日韓関係をめぐる両国の動きはマイナス思考ばかりである。さて、どうしたものか。(写真は共同)

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    元徴用工裁判、日韓「解釈の違い」をどう埋めるべきか

    中田光信(日本製鉄元徴用工裁判を支援する会関西事務局員)「若い時、日本製鉄で仕事した経験は、それが苦しいものであれ、楽しいものであれ、私の人生の一部であり、人生に大きな影響を及ぼしました。ですから、私はその時期、汗を流しながら一所懸命に仕事をした代価を必ず認めてほしいです。日本製鉄は、法とか外交協定のような政治的な決定の後ろに隠れずに、堂々と前に出て、この問題について、責任をとってください」「私が日本製鉄と日本政府に要求しているのは、戦争中に血と汗で儲けた労働の代価を返してほしいということです。私は道義的な同情を受けたいわけではありません。当然受けとるべき労働の代価を要求しているのです。戦争が終わってすでに65年になりました。もう90歳になるから、あとどれぐらい生きるかわかりません。真の韓日関係の発展のため、日本製鉄会社が何をすべきか真剣に悩んで、被害者との対話に出るべき時だと考えます」 これは1997年に日鉄(現新日鐵住金)大阪工場に強制動員させられた元徴用工の呂運澤(ヨ・ウンテク)さんと申千洙(シン・チョンス)さんが、大阪地裁に提訴してから15年後の2012年、当時新日鉄会長だった三村明夫氏(現日本商工会議所会頭)と同社社長、宗岡正二氏(現代表取締役会長)へ出した手紙です。呂さんと申さんは高齢のために体力が衰え日本を訪れることはできませんでしたが、恐らく新日鉄のお2人もこの手紙を読まれたことと思います。 提訴当時、元徴用工の彼らの口癖は「会社のために尽くした元社員である私たちに、なぜ会社はこんなひどい仕打ちができるのか」という嘆きでした。 2人は「大阪工場で2年間働けば技術が習得でき、韓国に戻って技術者として就職できる」という募集広告に応じて大阪に連れて来られました。ところが、大阪では鉄格子のはまった寮に収監され、自由も与えらない状況だったといいます。このとき初めて「だまされた」と思ったそうです。 「賃金を全額支給すれば浪費する」という理由で月2、3円程度の小遣いを支給されただけで残りは強制的に貯金させられました。そして十分な食事も与えられないまま技術習得とはほど遠い過酷な労働に従事させられました。警察官がしばしば立ち寄ることもあり、「逃げてもすぐに捕まえられる」と言って彼らを監視していたといいます。朝鮮半島でも徴兵制が実施されることになり、申千洙さんは徴兵検査を受け、その後徴兵が決まったために寮から逃げようとしたところ、舎監による凄まじいリンチを受けて後遺症が残ったといいます。 そして1944年、彼らは突然「君たちは徴用された」「お前たちの体はもはやお前たちのものではなく自由はない」と言われました。日鉄は軍需工場の指定を受けたので、そこで働く従業員は募集で来た朝鮮人労働者も含めて全員「現地徴用」されたのです。2018年10月30日、判決が言い渡される前に韓国最高裁前で集会を開く原告側の支援者ら。前列中央は原告の李春植さん(著者撮影) 2人が求めた「代価」には、あまりの苦しさから逃げ出した時に受けたリンチの痛みや、「当時のお金で牛6頭が買えた。あのお金が貰えていれば私の人生は変わっていた」という言葉に込められた思いが詰まっています。日本での強制労働の記憶が、彼らの心の傷(トラウマ)となって人生を送ったことを私たちは忘れてはならないと思います。盧武鉉政権の政策 その後、2人以外に日鉄の八幡製鉄所や釜石製鉄所で強制労働させられた被害者が183人(うち生存者48人)いたことが判明し、彼ら全員の救済を求めて日鉄と交渉も続けましたが、2003年に日本の最高裁が請求を棄却したため、会社側との交渉も途絶えてしまいました。納得できない被害者側は、全員が一斉に提訴すると審理に膨大な時間がかかるため2005年に5人の被害者に絞ってソウルの裁判所に訴えを起こしました。 その間、2002年に誕生した盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権は、日本の植民地支配や朝鮮戦争での民間人虐殺、独裁政権下での弾圧事件など過去の政権によって行われた不正をただし、損害を受けた人たちの人権回復の取り組みを進めることで、より良い韓国社会を目指そうという政策を推し進めていました。 そのような流れの中で日韓条約に関する公文書が公開され、日韓両政府が植民地支配責任の問題を曖昧にしたまま条約を締結したことが暴露されました。また、条約締結後の韓国政府の被害者への施策についても不十分であったことが明らかとなりました。これを機に韓国政府は日本に強制動員されて亡くなった被害者一人当たり2000万ウォンの支給や生存者への医療援助などの施策を実施しました。 日韓条約・請求権協定は締結まで14年もかかりました。日本が過去の植民地支配は合法であったと主張したのに対し、1910年以降の植民地支配は違法であったと主張する韓国と根本的な対立があったからです。最終的に「もはや」無効であるという文言でどちらにも解釈できるよう政治決着し、ようやく締結にこぎつけたのです。 このため「有償・無償5億ドル」についても、日本政府は「独立祝い金」=経済援助であり、植民地支配への賠償ではないと明言しています。そして、無償援助の3億ドルですが、実際は当時の韓国政府が日本に負っていた「借金」4573万ドル分を差し引いた金額が援助されています。また、有償援助と合わせた5億ドルも一括して渡されたのではありません。請求権協定の条文に書かれている通り、10年間の年賦で支払われました。 しかもこれは「現金」ではなく、日本製の工業製品や建設資材などの現物支給によるものでした。つまり、日本政府が日本企業から製品を買い上げたり「役務」を韓国に提供することによって、両国の経済発展に貢献したのです。それ以外にもさまざまな借款・供与がなされました。韓国はこれらの援助も活用して「漢江の奇跡」と呼ばれた経済発展を遂げ、日本企業も利益を得て「高度経済成長」を支えることにもなりました。2018年10月30日、日本企業に賠償を命じた判決が確定し、記者会見する原告の李春植さん(中央)と支援者ら(著者撮影) 現在、日韓の経済関係は貿易総額7・74兆円(2016年)、投資残高で言えば日本から韓国への投資3兆7695億円(2015年)、韓国から日本へは3843億円の残高があります。16年には韓国からの来日者数が500万人を突破するなど、インバウンド(訪日外国人)効果をみればおよそ3億ドル(現在のレートなら330億円余り)を韓国から返してもらった計算になります。もし、日本が韓国と「国交断絶」すれば、日本経済への打撃は計り知れないものがあります。どこにも国際法違反はない 2012年5月、韓国大法院は「1965年の日韓請求権協定は一般的な財産権処理の協定であり、植民地支配下の強制労働は韓国の憲法に違反し無効」「日本の国家権力が関与した反人道的不法行為や、植民地支配に直結した不法行為による損害賠償請求権が、請求権協定の適用対象に含まれたと見るのは難しい」として、同じく三菱重工を訴えた事件と合わせて審理を高裁に差し戻しました。 この時も日本政府は請求権協定ですべて解決済みであるとして、判決を非難しました。この判決に基づいて2013年7月の差し戻し審で被害者一人当たり1億ウォンの損害賠償が認められると、これを不服として新日鐵住金が上告したため、再び大法院で審理される運びとなり、今回の判決を迎えました。 個人請求権が条約などによって消滅するかについて、原爆訴訟やシベリア抑留訴訟で日本人被害者から訴えられた日本政府は「消滅したのは外交保護権で個人請求権は消滅していないので、アメリカやソ連を相手に訴えればよい」と主張したのです。その手前、日韓請求権協定によって韓国人の個人請求権が消滅したとは言えず、個人請求権の存在を認めています。 今回の判決は、日本政府も認めている個人請求権を韓国人が行使して日本企業を相手に韓国の民事訴訟で判決が確定したということです。どこにも国際法違反はありません。あるのは「請求権」の解釈の問題です。 日本政府は請求権協定の第2条3項で「いかなる主張もすることができないものとする」という条文を盾に「全て」の請求権が消滅したと主張していますが、請求権協定第3条には協定の解釈や実施に当たって紛争が生じた場合は、まず外交交渉で解決を目指し、それで解決しなければ仲裁委員会を設置するとあります。韓国の司法から請求権の解釈について「疑義」が提起されたのですから、行政府としての韓国政府は三権分立の原則から司法判断を尊重して日本政府と外交交渉を始めるべきです。 また、日本政府もICJ(国際司法裁判所)への提訴ではなく、まず外交交渉による解決を目指し、まとまらなければ協定に定められた仲裁委員会を設置して解決するのがまさに「国際法」に基づく解決方法ではないでしょうか。2018年11月、遺影を手に新日鉄住金本社を訪れる原告の弁護士ら(著者撮影) 日本で2人の元徴用工が裁判に訴えてから21年が経ってしまいました。差戻審直後の2013年12月に呂運澤さん、翌年2014年10月に申千洙さん、今回の大法院の判決直前に金圭洙(キム・ギュス)さんの3人が相次いで亡くなり、今回判決を迎えることができた原告は李春植(イ・チュンシク)さん一人でした。 6年前の大法院判決のときに、今回の判決は予測できたはずです。韓国政府はすでに2005年時点で被害者への追加の支援策を行いました。日本政府も遅くとも2012年の大法院判決のときにこれに応えて植民地支配に対する責任をきっちり果たすべきであったと思います。被害者に残された時間は少ない そもそも新日鐵住金は、被害者の要求には応じなかったものの、訴えられた当初は彼らが同社を訪問した際には社内に招いて話に耳を傾けていました。しかし、2003年の日本の最高裁による請求棄却の前後から、同社は高齢の被害者を社内にも入れず門前払いを続けました。会社の前で彼らを3時間も立たせる同社に対し「せめて座る椅子でもお願いできないか」という支援者のお願いさえも耳を貸しませんでした。その態度は、今回の韓国大法院の判決を受けても変わっていません。 判決直後の11月12日に原告代理人の弁護士が「損害賠償義務の履行方法」「賠償金の伝達式を含む被害者の権利回復のための後続措置」について話し合いたいと要請書を持参しました。 しかし、社員は一切顔を見せることなく面会を拒否し、要請書についても「預かる」とガードマンを通じて回答するだけで、要請書を受け取るのかどうかの意思すら確認することができず、仕方なく弁護士も引き上げざるを得ませんでした。新日鐵住金は「各国・地域の法律を遵守し、各種の国際規範、文化、慣習等を尊重して事業を行います」という企業行動規範を掲げていますが、韓国の法律や判決には従わないということなのでしょうか。日本を代表するグローバル企業として恥ずかしいことだと思います。 今、私たちが忘れてはならないのは、彼らは日本の侵略戦争・植民地支配の犠牲者であるということです。何百万人もの日本人を兵士として戦争に借り出したことから、極端な労働力不足に陥った日本がその労働力を補うために「募集」にしろ「官斡旋」にしろ「徴用」にしろ、手段は別として意に反した「過酷な労働=強制労働」をさせたのです。 これは、最近の研究で明らかになった80万人とも推定される人たちを朝鮮半島から無理やり連れて来た、という動かし難い歴史的事実です。韓国は「ゴールポスト」を動かすので信用できないという人もいますが、歴史的事実は動かせません。2018年11月、新日鉄住金本社を訪れ、取材に応じる原告側の弁護士ら(著者撮影) 2000年に三菱重工の広島工場で被爆した元徴用工が釜山の裁判所に訴えた裁判の大法院判決が11月29日に出されます。この裁判の原告らはすでに全員が亡くなっています。もう被害者に残された時間はありません。 被害者の声に耳を傾けて納得できる解決を日本と韓国の両政府、そして強制連行・強制労働にかかわった企業が一緒になって図ることが、本当の意味で未来志向の日韓関係を築いていくことになるのではないでしょうか。53年前に結ばれた条約に不十分なところがあったのであれば、それを正すのが現在に生きる私たちの責任でもあるのです。

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    韓国が封印する不都合な史実「自国青年1700人を強制労働」

     韓国の元徴用工をめぐる賠償訴訟問題は、かつてないほど日韓関係を危機に追い込んでいる。新日鐵住金に賠償金支払いを命じる判決に続き、今月29日にも三菱重工業を相手取った訴訟で韓国最高裁の判決が言い渡される。その後も総額2兆円にも及ぶ賠償請求への判決が続々と下される。 この問題が1965年の国交正常化の際に結ばれた日韓請求権協定で解決済みなのは繰り返すまでもない。が、そもそも韓国政府は、日本に矛先を向ける前に自国の歴史に向き合うべきではないか。 自国の若者たちを強制動員して働かせるということを、韓国政府自身がやっていたのだ。しかも、その対価として支払うべきカネを外国から調達しながら、それは政府が使い込んでいた──。 1961年、朴正熙政権は、「国家再建と浮浪児の取り締まり」を理由に、「大韓青少年開拓団」を設立し、戦災孤児など1700人にも及ぶ青少年を忠清南道・瑞山の干拓事業に強制動員し、無賃金で働かせたという知られざる史実がある。 動員の対象は男性だけではない。「工場で働ける」と女性を誘って連れてきて、開拓団の男性と強制的に結婚させた。「255組 合同結婚式」は、当時、政府広報として韓国メディアで大々的に取り上げられた。 拉致同然に集められた若者たちは、「干拓した土地を1人3000坪ずつ分け与える」という政府の約束を信じ、管理者からの暴力や飢餓に耐えながら働いた。過酷な労働により、死者数は実に119人にのぼったとの記録が残る。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) しかし、干拓後に土地は国有地に編入され、土地を与える約束は反故にされたばかりか、逆に農地の使用料まで請求されたという。驚くべきことに、この問題は今年に入るまで、韓国国内でほとんど知られることがなかった。「漢江の奇跡」の犠牲者 今年5月、被害者たちの証言記録をまとめたドキュメンタリー映画『瑞山開拓団』が韓国で公開され、真相を知った観客に衝撃を与えた。監督を務めたイ・ジョフン氏(45)は、映画制作のきっかけをこう語る。 「5年ほど前に、大学の後輩でKBSテレビ(公共放送)のプロデューサーをしている友人から瑞山開拓団の話を聞き、大変驚きました。彼の故郷が瑞山で、父親が開拓団解散のあと、干拓地を開拓した農民の一人だったのです。最初は彼自身がKBSでドキュメンタリーにしようとした。が、当時は朴正煕の娘の朴槿恵政権下だったので“到底できない”と企画は却下され、独立系の映画を制作している私に託してきたのです」 “漢江の奇跡”と呼ばれる経済成長を成し遂げた朴正熙大統領の人気は娘が失脚した今も絶大で、それゆえに取材は難航したという。 「取材の過程で、米下院国際関係委員会が1978年に出した報告書から、朴正熙が干拓事業などのためにアメリカからもらった援助金を自分の政治資金に不正流用していたという事実を突き止めた。それを元開拓団のお年寄りたちに伝えると、初めて自らに降りかかった災難が、朴正煕政権の企みのせいだと気づいて証言に応じてくれました」(イ監督)それでも黙殺された なぜ昔の話をするのを拒んできたのかと問われた証言者たちは、「なぜかって?あまりにもみじめだから」 「この話をするとあまりにも悔しくて……」と漏らし、ある証言者は「朴正煕大統領は、国は生かしたかもしれないが、人間は限りなく殺した」と叫びながら慟哭した。その様子は映画の中で生々しく映し出されている。イ監督は言う。 「文在寅政権はこの事件を再調査し、適切な措置を取るべき。国の命令に基づいて干拓事業に携わり、若さと労働を捧げたのに、国家が信頼を裏切ったという点を認めて謝罪し、正当な補償をすべきです」それでも黙殺された この問題は、元慰安婦や元徴用工の賠償問題と構図がよく似ている。日本は韓国との間で結んだ日韓請求権協定で、韓国の国家予算の2倍以上に相当する無償3億ドル、有償2億ドルの援助金を供与するかわりに、慰安婦や徴用工に関する請求権の問題は「完全かつ最終的に解決された」と確認し合った。 だが、朴正熙政権は援助金を個人への賠償には回さず、インフラ投資などに使ってしまい、賠償の原資がなくなってしまったのだ。韓国を取材するジャーナリストの前川惠司氏が言う。 「韓国政府がカネを使い込んでツケが回ってくるという構図は、慰安婦問題や徴用工問題と全く同じ。韓国は日本が支出した慰安婦財団を解散しましたが、金泳三政権の時には韓国政府が慰安婦にカネを出すと言っていたんです。今になって慰安婦や徴用工では日本の責任を追及するのに、開拓団の問題は放置するというのはダブルスタンダードが過ぎる。しかし、日本人がそう感じても、韓国では日本を攻撃する材料にならないこの手の問題は関心を持たれにくいんです」韓国の青瓦台(ゲッティイメージズ) 事実、映画公開で一時話題となったものの、世論は盛り上がらず政府も黙殺した。検証作業や補償の動きは全く見えない。在日韓国人ジャーナリストの河鐘基氏はこう見る。 「韓国政府が恐れるのは、戦前の日本に対するのと同じように、戦後の“漢江の奇跡”の犠牲にされたという告発が相次ぐことでしょう。そういう声を抑えるためにも、ますます日本の賠償問題に目を向けさせようとするのではないか」 自国の「不都合な史実」さえ日本批判の動機にされてはたまったものではない。関連記事■ ケント氏「韓国には嘘が恥ずかしいという概念がないのか」■ 韓国政府がひた隠す「元慰安婦の9割が日韓合意に納得」■ 韓国徴用工判決 事実上の国交断絶を突きつけたに等しい■ 徴用工判決で日本企業から「韓国撤退」思わせる動きも発生■ 韓国 英文表記を削除し、国籍不明女性の写真を慰安婦と報道

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    敗訴の徴用工問題、「中国からの訴訟」への波及も警戒すべき

     いわゆる韓国での「徴用工判決」で日本企業への賠償問題が取り沙汰されているが、これは韓国に留まる話ではないという懸念が出てきている。 見逃せないのが、中国での元徴用工訴訟への波及だ。外交評論家の加瀬英明氏が警鐘を鳴らす。 「韓国の徴用工判決は、過去、お詫びを多用してきた日本政府の対応の結果です。その意味では中国も同じ。中国でも強制連行で企業への訴訟が相次いでいる。現時点では、米国との関係が悪化している中国政府は日本との関係改善に動いているから訴訟の進行を抑えているが、状況が変われば、間違いなく韓国同様の判決が出る。日本企業にとって中国への投資額や経済関係は韓国と比較にならないくらい大きいだけに、そうなるとインパクトは計り知れない」 日本企業は中国で痛い目に遭った過去がある。 日中戦争中に船を徴用された中国企業の経営者の親族が商船三井に「未払いの賃料を払え」と起こした訴訟で上海海事法院(裁判所)は29億円の支払いを命じる判決を出し、同裁判所は和解交渉中の2014年に商船三井の鉄鉱石運搬船を差し押さえた。慌てた同社は供託金40億円を払って差し押さえを解除するしかなかった。 本来、中国は1972年の日中共同声明で日本に対する戦争賠償請求権を放棄し、民間企業や個人の請求権はなくなった。しかし、中国側は「戦争賠償とは関係ない商取引をめぐる訴訟だ」と主張し、それが認められた。「友は無罪」の国だけに韓国同様、外交的決着などいかようにも覆せると思う姿勢なのだ。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) 元外交官で作家の佐藤優氏は、こう指摘する。 「韓国がやっているのは、“国と国とで約束をしたけど、国内の情勢が変わったからそれは放棄する”ということです。こうした『国内法優位の一元論』で自国の主張を通そうとする国が出てくると、国際秩序は安定しない。要は無理筋な話をしているんです」 同様に、中国も「国内法一元論」で国際秩序を踏み潰すことを厭わない。両国が手を組んで資産差し押さえにかかってくれば、いよいよ日本企業から「撤退」の決断が相次ぐことは避けられない。日本企業は米国に多くの資産を持っているから、それが狙われると大きなダメージとなる」(同前)関連記事■ 韓国作成「徴用工企業299社リスト」に日本企業の担当者絶句■ 韓国政府がひた隠す「元慰安婦の9割が日韓合意に納得」■ ケント氏「韓国には嘘が恥ずかしいという概念がないのか」■ 徴用工判決で日本企業から「韓国撤退」思わせる動きも発生■ 韓国徴用工判決 事実上の国交断絶を突きつけたに等しい

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    BTS「原爆Tシャツ」に通底する韓国社会のホンネ

    コラムを掲載した。「安倍、マルタの復讐(ふくしゅう)を忘れたのか」と題するコラムには、安倍晋三首相の歴史認識を批判しつつ、「神は人間の手を借りて悪行に懲罰を加えてきた。最も過酷な刑罰が大規模な空襲だ。第2次大戦末期、ドイツのドレスデンが焼かれ、広島と長崎に原子爆弾が落とされた」とし、これらを「神の懲罰であり人間の復讐」などと指摘する内容だった。2018年5月、日韓首脳会談に向かう安倍首相(右)と韓国の文在寅大統領=首相官邸 このコラムをめぐっては、在韓日本大使館が中央日報に抗議したほか、広島や長崎など日本国内でも批判が起き、このコラムを執筆した同紙論説委員は「(自分が本来伝えようとした)趣旨と異なり、日本の原爆犠牲者と遺族を含め、心に傷を負われた方々に遺憾の意を表します」と謝罪。安倍首相らの歴史認識を批判する以前に、自分自身のトンデモ歴史観を猛省すべき事案である。 2014年8月には韓国の女性グループ「Red Velvet」がデビュー曲を発表したが、そのミュージックビデオの一場面に広島への原爆投下の記事や「JAP」などという差別表現が用いられた英字新聞の記事画像が使われていたことが判明。後日、このシーンは別カットに差し替えられた。罪深きは擁護した日本人 所属事務所は「ミュージックビデオの監督に確認した結果、『単純にコラージュの技法を使っただけで、特定の意図はなかった』と聞いた」「誤解の余地をなくすため修正した」とコメント。重ねて言うまでもないが、釈明まで今回のBTS騒動とそっくりである。 以上、韓国での原爆に対する認識の表出事例をいくつか見渡した。彼らの原爆投下に対する認識の水準がいかなるものか、お分かりいただけたと思う。今回のBTSの原爆Tシャツの事例でも「深い意図はなかった」と擁護する向きもあるが、Tシャツを製作した業者にまで「深い意図はなかった」とは言えまい。 件(くだん)のTシャツをデザインしたのは、韓国の「LJカンパニー」という会社だが、この会社は過去にも竹島や日本の敗戦をモチーフにした商品を製作している。ともあれ、今回の騒動に関して同社のイ・グァンジェ代表は、韓国マスコミの取材に対し「反日感情と日本に対する報復などの意図があるわけではなかった」「反日感情を助長しようとする意図はなく、その点でもBTSに対して申し訳ない」とコメントした。 またしても「悪意はなかったが、結果が悪かった。だから申し訳ない」という釈明である。悪意はなかったとしても、原爆を自分の商売に利用している点で、より狡猾(こうかつ)だと言える。もっと言えば、BTSに対しては「申し訳ない」が、被爆者に対しては何も感じていないらしい。 ちなみに、原爆Tシャツは注文が殺到し、品切れ状態にあるという。こんな有り様だから、原爆投下絡みの騒動は今後いくらでも再発するだろう。 今回の騒動に関して、SWCは「長崎の原爆被害者をあざけるTシャツを着ていたことは、過去をあざけるこのグループの最新の事例にすぎない」「国連での講演に招かれたこのグループは、日本の人々とナチズムの犠牲者たちに謝罪する義務を負っていることは言うまでもない」と述べている。長崎市の原子爆弾落下中心地碑(ゲッティイメージズ) 本来ならば、これは日本政府、いや日本人が声を大にして言うべきことである。筆者が今回の騒動で最も嫌悪を感じたのは、原爆投下について無知なBTSのメンバーや原爆投下をあざける韓国人、そして原爆投下をネタにして金もうけをたくらむ韓国人についてではない。 原爆投下について確たる認識を持たず、「政治と文化を一緒にしてはいけないよね」「騒動に巻き込まれたBTSがかわいそう」などと擁護した一部の日本人についてである。彼らは、日本人のグループが他国を愚弄(ぐろう)する衣装をまとって海外公演を行ったとしても、本当に同じように擁護するのだろうか。 「歴史の真実」「国家の品格」、そして「普遍の真理」というものは、確固たる信念と断固たる覚悟がなければ守り抜けない。それは、趣味と商売にすぎない韓流(はんりゅう)アイドルのコンサートなどとは全く別次元のものである。前述のSWCの声明はそれを痛感させるものだ。果たして、日本人にそうした「信念」はあるのだろうか。今回の騒動は、改めて日本人にその「覚悟」の程を問いかける事象だったと思えてならない。

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    BTS「原爆Tシャツ」騒動から日本人が学ぶべきこと

    山岡鉄秀(AJCN代表) 朝鮮半島出身の「出稼ぎ労働者」に対する韓国大法院(最高裁)判決には、さしもの日本政府も激怒したようだ。「国民情緒が憲法より上位にある国に謝罪して金を払って丸く収めようとする」ことが、いかにバカげたことか、理解してくれただろうか。 そこへきて、今度は韓国の7人組男性音楽グループ「BTS(防弾少年団)」の騒ぎである。もちろん私も心底あきれたが、日本人にとってはこの機会に十分学べるか否かが「運命の分かれ道」となる。この厄介な隣国は、今後も必ず日本に厄災をもたらすからだ。しかも今回、原爆Tシャツ騒動が「ナチス帽」に移るに至って、なんと傍観していた私まで巻き込まれてしまった。 BTSメンバーの一人が、ナチス帽をかぶってポーズを取ったことに、米ユダヤ系団体「サイモン・ウィーゼンタール・センター(SWC)」から非難声明が出された。だが、こともあろうにツイッター上では、日本を罵倒する韓国人のツイートであふれた。「韓国人に戦争犯罪を押し付けたい日本人がフォトショップで鍵十字(ハーケンクロイツ)に見えるように細工した」などと主張したのである。 さらに「鍵十字が張り付いた帽子はウェブ上にしか存在しない、だからそれ自体がフェイク」という言説まで飛び出した。とにかく、全て「日本人が悪い」の大合唱だ。そこで、私は韓国に詳しい友人に依頼して調査した。 すぐに、問題の画像が2014年に発行された『CeCi(セッシ)』という雑誌の20周年記念号に収録されていることが分かり、1冊取り寄せることにした。インターネットオークションでは、すでに6千円以上のプレミアム価格がついているものもあった。 また、韓国人ファンが雑誌をめくっている写真がネットにアップされていたので、確認してみると、問題の帽子には確かに鍵十字とドクロが付いている。スタイリストの所蔵であることも書いてある。 こんなことは今時、1時間もあれば分かることだ。それをすごい剣幕(けんまく)で、SWCに「日本人のねつ造だ」と告げ口し、「日本人が戦争犯罪をBTSに擦(なす)り付けようとする謀略」だの、「旭日旗こそがハーケンクロイツだ」だの、彼らは次から次へと嘘をついたのである。2018年9月、米ニューヨークの国連本部のイベントで話す韓国の男性音楽グループ「BTS」のメンバー(聯合=共同) しかし、SWCの声明を読み解くと、彼らが問題にしているのはむしろ、鍵十字の下にあるドクロであることが分かる。このドクロは、まさにユダヤ人殲滅(せんめつ)を任務としたナチス親衛隊(SS)のシンボルであり、ユダヤ人には当然忌み嫌われている。 そのことに気が付かない韓国人たちは、鍵十字はフォトショップで細工されたものだと説得しようと文字通り必死になっていた。墓穴を掘っているようなものだ。「戦争犯罪国の分際で…」 とはいえ、筆者が仕方なくそれらの事実をツイートすると、案の定反発する韓国人から反応があった。 「これはフォトショップで加工されている!」「戦争犯罪国の分際で、なぜ堂々と意見しているのか! 反省しろ!」 さらには、もっともらしく「シンボルの不適切な使用は世界中で見られるものだ。それをヘイトに転換すべきではない」などと英語でツイートしてくる人までいた。要するに、その場で出任せの嘘をついて、通じないと分かると論点のすり替えを始める。それでも通用しないと分かると、急にハングルで書いてきたりする。わざわざ訳して読むとでも思っているのか。 そうこうしているうちに、BTSの所属事務所が原爆Tシャツもナチス帽も不適切だったと認めて、謝罪を表明してしまった。すべて嘘だと決着したので反発も収まり、静かになった。しかし、目の前で噂に聞く「火病(ファビョン)」を見せつけられた。本当に恥も外聞もない。なるほど、慰安婦問題の狂乱もこれと同じなのだ。事実など関係ない。ひたすら憤怒を吐き出し、まことしやかにどんな嘘でもつく。 ここで、日本人が学ぶべき大事なことが二つある。このような韓国人への対処法と、現代韓国人のメンタリティーの理解だ。 別の機会に詳述するが、日本は世界でも稀有な、道徳と性善説を基盤とする国なので、このような相手に出くわすと大概面食らって「相手にしても無駄だから放っておけ」という対応を取りがちだが、それは間違いだ。殴り返してこないと分かると、どこまでもエスカレートしてしまう。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) そもそも、モラルや論理ではなく、感情を最優先して行動している。もっと言えば、積年の民族的鬱憤(うっぷん)を晴らす機会を常に求めている人たちだから、大人の対応は逆効果になる。まず、普段は極力かかわらないようにし、それでもちょっかいを出してきたら、何倍にもなって返ってくると分からせてあげなければならない。 そして、韓国がいかに理不尽で不誠実であるかを繰り返し世界にアピールする。それでようやく正常な関係が築けるだろう。すぐに激高する相手だから冷静な対処が必要だという人もいるが、今回のように思い通りにならなければ、いずれにしても「火病」を発症するのだから、たとえ目の前で半狂乱になられても、動ぜずに間違いを追及し続ける冷徹さこそが必要だ。 何度でも繰り返すが、「日本人の常識」は国際社会では何の役にも立たない。まず「人間関係ありき」ではないのである。一般の人間関係と外交は全くの別物であることを、いい加減に学ばなくてはならない。 次に、この「壊れてしまったような」韓国人の性格は、今後もますます酷くなることはあっても、良くなることはないということを理解しておく必要がある。なぜならば、これこそ長年の教育(洗脳)の成果だからだ。この隣人とのベストな付き合い方 韓国では、若い世代ほどゆがめられた歴史を教え込まれている。朴槿恵(パク・クネ)前大統領はそれを是正しようとしたが、文在寅(ムン・ジェイン)政権になってからは再び左傾化した。 原爆Tシャツには「Liberation(解放)」と書かれている。つまり、韓国は健全で美しく文化的な独立国だったが、悪辣(あくらつ)な日本帝国に自由を奪われて抑圧され、原子爆弾による日本の敗戦で解放された、という作り話を信じ込まされている。 その背景の下、彼らはこのような教育を受けている。男は奴隷にされて軍艦島のようなところで搾取され、女は慰安婦という名の性奴隷にされた。朝鮮民族は「光復軍」を組織してよく戦い、ついに日本を追い出したが、親日派から親米派に寝返った売国朝鮮人による支配は続いた。 その点、早くから日帝も米帝もソ連も追い出し、朝鮮民族によって「主体思想」を貫く北朝鮮はより高潔で正当性を持った国家だ。「できるだけ早く一緒になって、核兵器を共有してアジアの強国となり、日本を屈服させて積年の鬱憤を晴らすべきだ」と。しかも、若い世代ほどそう信じ込んでいるのである。 韓国人の古老が教えてくれた。彼らは、勝手に歴史を歪曲(わいきょく)し、自らを復讐(ふくしゅう)の権利を持った被害者に仕立て上げ、恨みつらみを糧にして生きている。もとより、他人の不幸を喜ぶことに恥を感じない。私は、その民族的幻想を「恨(ハン)タジー」と名付けた。 このやっかいな隣人とは「ヒット&ステイアウェー」、すなわち「おとなしくさせたら、可能な限り距離を置く」のがベストである。ところが、まずいことに「極左活動家」文大統領の下で、韓国は自らを北の独裁者に捧げようとしている。 在日米軍が、韓国人の基地への立ち入りを一時厳格化したと報じられた。今後、半島有事の作戦統制権が米軍から韓国軍に移行すれば、米国は韓国を見捨てる可能性がある。朝鮮戦争以来、再び大勢の韓国人が命を落とし、日本へ難民として押し寄せる事態が現実味を帯びてきた。「歴史を忘れた民族に未来はない」はまさに韓国人のための言葉であり、それゆえに自滅の途上にあるのだが、巻き添えを食らって日本が甚大な被害をこうむる可能性がある。 「出稼ぎ労働者判決」の非道に際し、日韓議連が苦心しているとの報道もあった。「平和ボケ」もここに極まれり、だ。いったい何を苦心する必要があるというのか。2018年10月30日、韓国「徴用工訴訟」で日本企業に賠償を命じた判決が確定し、記者会見する原告の李春植さん(中央)と支援者ら(共同) 出稼ぎ労働者判決も、原爆Tシャツも、ナチス帽も、通底する問題は同じだ。韓国とは距離を置き、かつ来るべきカタストロフィー(大災難)に備える。そのリアリズムを持てずに、偽りの「日韓友好」を夢想すれば、滅びるのは日本の方なのである。

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    韓国の歴史改竄 日本統治で搾取……本当はハングルを広めた

    あらゆる時代に同様の改竄が行われている。 しかし、問題は韓国側だけでなく、日本側にもある。我々自身が歴史認識を整理できていないのだ。たとえば任那が日本領であったことをどの程度、理論武装しているだろうか。中国は高句麗をかつて中国東北部の少数民族が作った国家だとし、継承国家は中国であると理論武装をしきりにやっている。 また、百済の位置づけをどうするのか。百済からの文化流入に対する公式見解がない。長年、韓国の世話になったなどとは誰も考えてこなかったのだが、それが忘れられている。 我々の見解、立ち位置が明確になっていないから、隣人の嘘がまかり通り、時にそれに引きずられるのだ。【PROFILE】八幡和郎●1951年滋賀県生まれ。東京大学法学部卒業後、通商産業省入省。北西アジア課長(南北朝鮮も担当)、大臣官房情報管理課長、国土庁長官官房参事官などを歴任。現在、徳島文理大学教授。近著に『消えた江戸300藩の謎』がある。関連記事■ 韓国の歴史改竄 韓国人が日本に文化を伝えた……本当は漢族■ 軍艦島朝鮮人強制労働の写真、まったく別の場所の写真だった■ 朝鮮半島での中国人虐殺を関東大震災朝鮮人虐殺に改ざん過去■ 韓国の歴史改竄 建国は4000年前、日本領・任那はなかった等■ 韓国公共放送 旭日旗と竹島を合成し「日本軍侵攻」を捏造

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    徴用工判決は文在寅「歴史見直し」3点セットの一環だ

    重村智計(東京通信大教授) 「元徴用工に賠償判決」。10月末、日本のメディアが一斉に報じた。韓国最高裁(大法院)の判決は「徴用工ではない」と言っているのに、「徴用工」と勝手に断定し、そのうえ「賠償」と誤報したのである。 筆者は30年の新聞記者生活を経て、大学教授を16年務めた。学生には、80%以上が同じ見解のニュースと世論は「危険だ、裏がある」と疑問を持って、違う記事を書く記者を探せ、と教えてきた。記者時代の先輩には、他紙と同じ記事を書くな、と教えられた。そうして、日本国中が「北朝鮮が戦争する」と騒いだ1995年に「北朝鮮は石油がなく、戦争できない」と『中央公論』に執筆し、世論を変えることができた。 大法院は10月30日、韓国人元工員に1人当たり1億ウォン(約1千万円)の支払いを新日鉄住金(旧新日本製鉄)に命じた。判決では、原告を「強制動員の被害者」と述べ、「徴用工」とは認定しなかった。また、「原告は未払い賃金や補償金を求めていない」と述べて「賠償」を否定し、「慰謝料請求権」を認めた。 原告側は「未払い賃金」と「補償金」賠償では勝てないと考えて、「慰謝料」を請求した。大法院は、これを認めたわけである。 巧妙な訴訟戦術だ。司法関係者や政府、団体関係者が知恵を絞ったのだろう。賃金の支払いや賠償金と違い、精神的苦痛などの慰謝料なら、労働の実態などの事実関係は争点にならない。判決では、根拠を示さず「強制連行の被害者」と認定した。これにより、植民地時代の強制連行被害者なら誰でも請求できる、との判例が生まれた。 「朝鮮人強制連行はなかった」。韓国を代表する経済史学者、ソウル大の李栄薫(イ・ヨンフン)名誉教授はこの事実を明らかにしている(拙著『日韓友好の罪びとたち』を参照)。日本の代表的な研究者も今では「強制連行」の言葉を使わない。ソウルにある韓国最高裁(共同) 戦前の朝鮮半島は、労働者の自由な渡日が制限されていた。民間企業は当局の許可を得て、「募集広告」を出した。「募集」は自発的な応募であって、強制連行ではない。 1942年からは「官斡旋(あっせん)」が実施された。村などの地方の行政単位に人数が割り当てられ、職員が住民を説得した。「徴用」は、1944年8月の「徴用令」では日本人が対象だったが、労働者不足により45年から朝鮮人にも拡大された。「徴用」は朝鮮人だけが対象ではなかったのである。なぜ無理な判決を下したのか 判決は、原告が「募集」に応じた労働者であると知っていたので、「強制労働の被害者」と認定した。なぜこのような無理な判決を下したのか。 第一の理由は、文在寅(ムン・ジェイン)政権の支持率アップだ。文政権は、南北首脳会談が実現したのに、支持率低下を止められない苦境に直面している。経済状況が悪いからだ。もし「強制連行犠牲者」を敗訴にしたら、国民の怒りを買って、支持率はさらに下がるだけだ。 判決の背後には、文大統領をはじめとする左派勢力の思いと戦略があった。判決が日韓関係に衝撃を与えることは当初から予想していたはずで、大統領府や政府、そして司法部は日本への対応を練ったはずだ。そうでなければ、韓国の官僚は無能としか言いようがない。 判決は何を狙ったのか。「大統領支持率アップ」に加え、「日韓併合無効の確定」「日朝正常化の遅延」「日韓基本条約再交渉」「文大統領再選」―と見ていいだろう。一言で言うと、65年日韓基本条約の「ちゃぶ台返し」と、文大統領再選という二つの悪巧みだ。韓国大統領は、現憲法下では再選できないが、憲法改正すれば可能になる。 それを裏付けるのが、李洛淵(イ・ナギョン)首相の発言と、韓国外務省の「日韓両国が知恵を出し合う」との、おためごかしのコメントだ。李首相は「司法府の判断を尊重する」と述べただけで、「司法の独立」とは言わなかった。 韓国語で「司法の独立」と言うと、多くの韓国人がシラけ、鼻で笑われる経験を何度もした。司法が独立しているとは、韓国民は決して思っていないのだ。筆者もソウル特派員時代に、大統領府に判決内容を相談に来た裁判所長を目撃した。 韓国民は、昔から「司法は権力の僕(しもべ)」と語ってきた。それでも今回の判決に、多数の国民が「スカッとした」思いを感じたのは間違いない。国民は「強制労働」「不法な植民地支配」「反人道的な不法行為」の言葉に満足する。大統領の意向が判決に反映されたと一般庶民は思うだろう。2018年10月30日、韓国徴用工訴訟で新日鉄住金の上告を棄却した韓国最高裁大法廷(共同) 司法が独立していないと断じる根拠は大法院長官の経歴にある。金命洙(キム・ミョンス)長官の前職は、春川地方裁判所長であった。地裁の一所長が最高裁のトップに抜擢されたわけで、本来ありえない人事だ。金長官は、以前から「徴用工個人の請求権は消滅していない」との立場で知られていた。文大統領が同じ考えの裁判官を抜擢した、と考えるのが常識だろう。加えて、最高裁判事13人のうち7人が文大統領に任命されている。 判決は「植民地支配の不法性」を強調した。日韓併合を「国際法違反で無効」とする主張を、最高裁が公式に認めたのである。日韓併合「違法」主張のワケ 日韓併合はなぜ違法だというのか。韓国の主張は、1905年の第2次日韓協約を違法とし、それを前提にした1910年の日韓併合条約も違法としている。「日本軍の脅迫で成立したから無効である」との主張だ。判決は、この主張を確定した効果がある。 文政権は、この判決が日本と北朝鮮の国交正常化交渉に大きな影響を与えるとわかっていた。日朝国交正常化交渉で、「違法な植民地支配」「徴用工への慰謝料請求」を北朝鮮に要求させる計算だ。日朝交渉が紛糾するのは確実だ。韓国は日本の北朝鮮進出を望まないからだ。また、日本が「不法な植民地支配」と「慰謝料請求」を受け入れれば、日韓基本条約の再交渉を要求できる。 ところが、北朝鮮は韓国の「悪巧み」に気がついたのか、判決に沈黙を続けた。「歓迎」の立場を直ちに表明しなかったのは、韓国の「悪意」を見極めるのに時間がかかったからである。北朝鮮は、金日成(キム・イルソン)主席が日本帝国主義に勝利した歴史を「正統性」の根拠にしており、韓国のように「歴史の立て直し」を必要としていない。 一方、韓国は日本と戦争し、勝利したわけではないので、「国家の正統性」にコンプレックスを抱いている。この心理克服のために「歴史立て直し」や「日本への勝利」を必要とする。だから、文在寅政権の「歴史見直し」戦略は今後も続く。「慰安婦財団解散」や自衛隊艦船の旭日旗掲揚拒否は、左派勢力が目指した「歴史立て直し」の3点セットであり、「対日勝利」のシンボルだ。 日本政府や企業も記録や資料を隠すのに懸命で、戦う意欲がなかった。日本的な対応は韓国文化に通用しない。植民地支配への反省から、日韓友好のために経済協力や韓国支援を進めた日本の好意は無駄だったわけである。2018年11月、シンガポールでASEAN加盟国の首脳と会談する韓国の文在寅大統領(聯合=共同) 韓国政府は日本と元工員に和解を呼びかけるだろう。和解文書に「判決を尊重する」との文章を入れさせ、「日韓併合違法」を日本が受け入れた、と主張する「悪巧み」を考えているだろう。 隣国との関係悪化は望ましくない。歴史を振り返ると、およそ1300年前の白村江の戦い以来、日本は朝鮮半島に関与しては敗北の連続だった。ようやく朝鮮戦争になって、関与しないことで「経済特需」を得たことが、歴史の教訓となった。 それまでは、中国が必ず介入する「半島の国際政治」を知らずに軍事介入し、儒教文化も無視してきた。だが、お節介と日本人の善意は押し付けでしかない。韓国大法院の判決は「歴史の教訓に学べ」と改めて日本人に教えている。朝鮮半島に深く関わると敗北し、裏切られることを忘れてはならない。

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    徴用工判決「国交断絶」は韓国に言わせるのが筋である

    宇山卓栄(著作家) 10月30日、韓国の大法院(最高裁判所)は元徴用工4人に対する賠償金を支払うよう判決を下した。大法院は新日鉄住金に対し、元徴用工1人当たり1億ウォン(約1000万円)を支払うよう命じている。 これに対し、文在寅(ムン・ジェイン)大統領は様子見をしている。しかし大統領秘書室長の任鍾晳(イム・ジョンソク)氏は6日の韓国国会で、安倍首相や河野外相の発言を念頭に「最近、一連の日本の政治的な行動は非常に不適切で遺憾」と答弁した。 さらに韓国外交省は「節度ない過剰な反応」とのコメントを出した。李洛淵(イ・ナギョン)首相は「日本当局者たちは外交摩擦を引き起こしている」と会見で発言している。 これらが韓国政府の「正式な見解」である。さらに、任大統領秘書室長は「今後、日韓関係をそのまま維持すべきかどうか、検討している」と答弁している。「維持」などしてもらう必要はない。「検討」の上、日韓関係を破棄して、断交するなり断絶するなりしてもらいたいものだ。 日本から断交・断絶せよという声も国内にあるが、日本のような法治国家が韓国の稚拙な言動に対し、断交・断絶で報いるというのは国際社会に対し恥ずかしい。むしろ、韓国側にそれを言わせるべきだ。 韓国は1965年の日韓基本条約の国交正常化交渉が間違った不当な交渉だったと主張している。そうであるならば、韓国は正式に「日韓基本条約を破棄する」と言えばよい。それで、かつての国交正常化は白紙撤回となり、晴れて国交断絶となる。われわれの側から言うべき筋合いのものではない。 文在寅政権は革命政権である。今回の徴用工裁判判決をはじめ、彼らのやっていることは韓国版「文化大革命」である。合法的に当選し、政権を運営しているところは、1930年代のヒトラー政権にも似ている。韓国の文在寅大統領=2018年11月、済州島(聯合=共同) 例えば、文大統領支持者がセウォル号のマーク(2014年のセウォル号沈没事故犠牲者をしのぶマーク)を保守派勢力の家や店に貼る事件があった。朴槿恵(パク・クネ)前政権はセウォル号沈没の対応に失敗し、国民の支持を失った。そのため、セウォル号のマークは保守派を攻撃するために使われる。セウォル号のマークを貼る行為は、ナチスの突撃隊がユダヤ人の家や店に「ダヴィデの星」のマークを付けて襲撃した「水晶の夜」をほうふつとさせる。 また、朴前大統領の秘書室長であった金淇春(キム・ギチュン)氏が8月6日に仮釈放されたときには、左派団体のデモ隊が彼に一斉に、「恥を知れ!」などと罵声を浴びせた。金淇春氏は車に乗り込んだが、左派団体は車を取り囲み、興奮した者が車を蹴り上げ、モノを投げつけ、ついにフロントガラスを割った。 周囲に100人を超える警察官がいたが、警察官は左派団体の暴力・暴行を遠巻きに眺めるだけで、取り締まらなかった。今や文大統領を支持する左派勢力は文政権の「紅衛兵」みたいなものだ。もし、警察が彼らに手出しをして傷付けようものならば、警察も無事ではいられない。見てみぬフリをするしかない。文在寅の恐怖政治 文政権ににらまれているのは、政界関係者だけではない。崔順実(チェ・スンシル)ゲート事件で、汚職疑惑を追求されている財閥企業重役たちがいる。彼らは李明博(イ・ミョンバク)政権・朴槿恵政権の2代に渡り、保守政権を支えてきた。たたけばいくらでもホコリは出る。彼らを生かすも殺すも、現在の当局次第だ。 10月5日には、収賄罪などで李明博元大統領に懲役15年の実刑判決が出た。これは財界に対する脅しである。財閥企業はこぞって、文政権にスリ寄っている。そして、財閥をスポンサーとしているテレビ局もまた、財閥を忖度(そんたく)して文政権を持ち上げる一方で、保守派をおとしめる情報操作に余念がない。 このように、文大統領のあの温和な顔からはなかなか想像できないが、彼は恐怖政治によって徹底的に反対勢力を締め上げて、従北・左派の革命政権の基盤を築き上げようとしている。今回の徴用工裁判判決も、革命へ邁進(まいしん)する文政権にとっては「当然の使命」の一つなのだ。 文大統領は今までとまったく違う新しい革命政権を打ち出すために、過去を完全否定する。朴正熙政権が残した1965年の日韓基本条約のような「負のレガシー」は、真っ先に否定すべきものなのだ。国際法を順守しようとするわれわれの常識は彼らに通用しない。 徴用工裁判の判決が出る3日前の10月27日、韓国大法院(最高裁)付属機関、法院行政庁の林鍾憲(イム・ジョンホン)前次長が逮捕された。朴前政権の意向を受けて、徴用工裁判の判決を先送りした容疑を掛けられている。朴政権は判決が出ることで、日韓関係が悪化することを懸念していたのだ。 そして、11月6日、このことを裏付ける当時の対外秘文書「将来シナリオ縮約」が公開された。この文書は前述の金淇春大統領秘書室長(当時)が、裁判を遅延させ、消滅時効(3年)を過ぎさせるよう、司法に圧力をかけたという内容のものである。 今回、この文書の公開は決定打として利用された。元徴用工に対する日本の賠償責任を「認める者は善」、「認めない者は悪」という図式が見事に作り出され、韓国国民もこの図式にまんまと乗せられて、まともな判断ができなくなっている。文政権が用意周到に、徴用工裁判の判決を打ち出す計画を練っていたことがよくわかる。韓国・釜山の日本総領事館付近で、徴用工像をめぐり警官隊ともみ合う労働団体メンバーら=2018年5月(共同) 現在、検察は当時の大法院長(最高裁長官)らの関与についても捜査を進めており、新たな逮捕者が出る可能性もある。 文政権は「積弊」という言葉を使っている。これは「保守政権時代に積み重なった弊害」を意味している。「積弊」を清算するという大義名分の下、保守派や反対勢力を葬り去ろうという革命が進行中なのだ。今回の徴用工裁判判決は革命という歴史の大転換において現れた「現象の一コマ」にすぎない。 この左派革命の流れは最終的に、北朝鮮主導の赤化統一へと行き着く。それは、われわれにとって「荒唐無稽」なことであるが、彼らにとっては「遠大で偉大な目標」なのである。実際に、それへと向かう布石が今、一つ一つ着実に打たれている。

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    韓国徴用工判決 事実上の国交断絶を突きつけたに等しい

     「嫌韓」だの「反日」だのといった好き嫌いの話ではない。日韓関係を根底から覆す国際常識外れの歴史修正というしかない。「国交正常化の前提となっていた合意を反故にするのですから、事実上の“国交断絶”を突きつけたに等しい」 朝日新聞元ソウル特派員でジャーナリストの前川惠司氏は、韓国の大法院(最高裁)が10月30日に下した判決について、そう呆れた。 韓国人の元徴用工4人が、日本による朝鮮半島統治時代に「強制労働させられた」として、新日鉄住金に損害賠償を求めていた裁判の差し戻し上告審で、大法院は被告側の上告を棄却し、原告の元徴用工に対して1人あたり1億ウォン(約1000万円)の賠償を命じた。「徴用工」とは、戦時中に日本政府が軍需工場などに動員した労働者のことで、日本統治下の朝鮮半島でも動員がかけられた。まず、はっきりさせておかなければならないのは、元徴用工に対する補償については、すでに日韓両政府の合意のもと解決済みであるということだ。 日韓国交正常化が実現した1965年に、「日韓請求権協定」が結ばれた。協定によって、日本政府は韓国に対して「3億ドルの無償経済支援」を行ない、その代わりに韓国は「個人・法人の請求権を放棄」すると決まった。協定には請求権に関する問題が「完全かつ最終的に解決された」と明記されているのだ。日韓問題に詳しい麗澤大学客員教授の西岡力氏が解説する。「日韓国交正常化交渉の際に、日本政府は韓国人の元徴用工に対して、個人に直接支払うかたちでの補償を提案していました。しかし、韓国側はそれを拒否。政府に一括して支払うことを求めたため、日本がそれに応じた経緯がある」 つまり、元徴用工に補償しなければいけないのは、日本政府でも新日鉄住金などの日本企業でもなく、補償金を“預かっている”韓国政府なのだ。ソウル市街。手前を流れるのは漢江(ゲッティイメージズ) だが、韓国政府は日本からの経済支援金を元徴用工たちに渡さなかった。1965年当時の韓国の国家予算は約3億5000万ドルであり、それに匹敵する額の日本からの経済支援は、インフラ整備などに充てられた。その結果として、韓国は「漢江の奇跡」と呼ばれる経済成長を遂げたわけである。 そうした経緯を踏まえれば、「日本企業が元徴用工に補償しろ」という判決が、国際法はもちろん、物事の筋を大きく違えたものであることがよくわかる。関連記事■ 韓国政府がひた隠す「元慰安婦の9割が日韓合意に納得」■ 慰安婦像、徴用工像を作り世界に拡散させるキム夫妻を直撃■ 韓国人がおかしなことを鵜呑みにするのは漢字廃止が影響か■ ケント氏「韓国には嘘が恥ずかしいという概念がないのか」■ 韓国の若者たちはなぜ国を出て働こうとするのか

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    日韓基本条約 公開資料から読み取れる日本の真摯な交渉

     約束を守らない、法律より感情を優先する、歴史を捏造する──そんな韓国のやり方に日本は振り回されてきた。厄介極まりない隣人に我々はどう接すべきか。ジャーナリストの櫻井よしこ氏が提言する。* * * 今年1月、慰安婦日韓合意を再検証した文在寅大統領は、「日本が真摯に謝罪すれば元慰安婦のお婆さんたちの納得が得られる」と語り、事実上、日本側に重ねての謝罪を要求しました。 2月に平昌五輪開会式に出席するため韓国入りした安倍晋三首相は文大統領と会談し、合意の履行をあらためて求めましたが、文氏は「合意は破棄しない」と述べる一方で、朴槿恵政権の手続きに問題があったと主張するなど、日本側の疑念は払われていません。 慰安婦合意は米国が仲介して岸田文雄外相と尹炳世外交部長官が記者会見で「最終的かつ不可逆的に解決」したことを公式に宣言したものであり、約束を違えているのは韓国です。 そもそも戦後補償問題は1965年の日韓基本条約と同時に締結された日韓請求権協定で完全に解決しています。 反日色が強かった盧武鉉大統領は2005年、日韓基本条約締結にいたる交渉の議事録を公開させました。交渉の不備を指摘したうえで、補償問題は未解決だと主張して日本に元徴用工への賠償金を支払わせる意図があったのは明らかです。 韓国が公開した議事録は3万5000ページ超。当初、日本政府は公開を控えていましたが、韓国の動きに合わせて6万ページを超える資料を公開しました。それらから読み取れたのは、日本がいかに真摯に交渉していたかでした。 日本側は元徴用工への謝罪の意を表明し、被害者へ直接補償する意向を伝えましたが、韓国側は元徴用工への補償を含む賠償金をまとめて政府に払ってほしいとの要望を繰り返しています。韓国政府が賠償金を受け取った後に元徴用工たちに個別支給するという方式です。 その主張を受け入れた日本政府は韓国に5億ドルを供与しました。まだ日本は貧しかったため、その額は外貨準備高の3分の1近くに達し、10年年賦で支払いました。その資金で韓国はインフラを整備して、「漢江の奇跡」を成し遂げたのです。日本側の誠意が巧まずして交渉の議事録から明らかになった結果、あの反日の盧武鉉大統領でさえ、賠償金請求を諦めざるを得ませんでした。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) しかし、そもそも慰安婦の「強制連行」も徴用工の「強制動員」も事実ではありません。実際、朝鮮総督府で官吏を務めた西川清氏の証言が収録された『朝鮮総督府官吏 最後の証言』や、ビルマやシンガポールで慰安所の帳場人をしていた朝鮮人の日記を読めば、韓国側の主張がいかに荒唐無稽かわかります。●さくらい・よしこ/新潟県長岡市出身。ハワイ州立大学卒業。元日本テレビ「きょうの出来事」キャスター。1995年、『エイズ犯罪 血友病患者の悲劇』で大宅賞受賞。執筆・講演活動を続ける一方、インターネット放送「言論テレビ」を運営中。関連記事■ 朴前大統領の弾劾訴追を見れば韓国立法・司法の歪み分かる■ ホッケー南北合同チームに文在寅氏支持派若者からも批判の声■ 韓国が公開した慰安婦虐殺映像を朝日も産経もスルーした理由■ ケント氏「議論すら許さない日本のリベラル派は全体主義者」■ 金正恩と中国共産党に味方する文在寅政権は自由民主体制の敵

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    日本人も知らない靖国神社「A級戦犯」合祀のウソ

    一色正春(元海上保安官) 靖国神社を敵視する人たちによる「靖国神社に戦争犯罪人が祀られている」という理屈ですが、実はこれも根拠がありません。特にA級戦犯が合祀されたからうんぬんと言うのは全く理屈になっていません。2016年8月15日、71回目の「終戦の日」を迎えた靖国神社には、祈りをささげるため早朝から参拝者が訪れた そもそも戦争犯罪が国家間で議論されるようになったのは18世紀後半からです。それまでは、そういう概念自体がなく、相次ぐ戦争で疲弊したヨーロッパ諸国の間で何とか戦争を防ごうという動きに伴い、戦争自体を禁止できないのであればせめて一定のルールを課そうと「非戦闘員に対する攻撃や捕虜虐待の禁止」「非人道兵器の使用禁止」などの決まりを定め、それを破ったものを戦争犯罪と呼ぶようになったのです。 逆に言えば、それ以前は、やりたい放題だったということで、戦争犯罪の定義は時代とともに変わってきており、重要なのは問題とされる行為が、その時代に禁止されていたのかどうかということです。その大前提を踏まえず、過去の行いを現在の基準で裁けば、ナポレオンなど祖国で英雄と讃えられている王や将軍のほとんどが「戦争犯罪人」になってしまいます。 これがいかにむちゃくちゃなことか。身近な例で表現するならば、時速60キロ制限の道路に対して、ある日突然「この道を30キロ以上で走った者は懲役刑に科す」という法律をつくり、過去その道を30キロ以上で走った人々を次々と捕まえていけば、車を運転するほとんどの人を刑務所に送ることが可能になってしまいます。 ですから、普通の法治国家では、刑を定めてから罰する「罪刑法定主義」を原則としており、その法を遡(さかのぼ)って適用すれば不利益を被る人間がいる場合、法の遡及(そきゅう)を禁じているのです(ただし、有利になる場合は認められる)。 そこで、彼らが特に問題視している、いわゆる「A級戦犯」が行ったとされる行為が、その時代に禁止されていたのかどうかということを見てみようと思いますが、その前にA級戦犯とは何なのかという話をしておきます。戦勝国が定義した戦争犯罪 順を追って説明しますと、第二次世界大戦の戦勝国がドイツに対して懲罰を加えるために協議した結果、米英仏ソの4カ国が1945年8月8日にロンドンで国際軍事裁判所憲章(ニュルンベルク憲章)に調印し、その中で以下のように戦争犯罪を定義しました。第6条a項-平和に対する罪侵略戦争あるいは国際条約、協定、誓約に違反する戦争の計画、準備、開始、あるいは遂行、またこれらの各行為のいずれかの達成を目的とする共通の計画あるいは共同謀議への関与。b項-戦争犯罪戦争の法規または慣例の違反。この違反は、占領地所属あるいは占領地内の一般人民の殺害、虐待、奴隷労働その他の目的のための移送、俘虜(ふりょ)または海上における人民の殺害あるいは虐待、人質の殺害、公私の財産の略奪、都市町村の恣意(しい)的な破壊または軍事的必要により正当化されない荒廃化を含む。ただし、これらは限定されない。c項-人道に対する罪犯行地の国内法の違反であると否とを問わず、裁判所の管轄に属する犯罪の遂行として、あるいはこれに関連して行われた、戦争前あるいは戦争中にすべての一般人民に対して行われた殺害、せん滅、奴隷化、移送およびその他の非人道的行為、もしくは政治的、人種的または宗教的理由にもとづく迫害行為。 これが、そのまま極東軍事裁判に適用され、マスコミなどが「項」を「級」に代えて用いるようになったといわれています。つまり、戦勝国がつくった罪の定義をマスコミが呼びやすいように作り出した造語でA、B、Cというのは罪の重さをランク付けしたものではなく、簡単に言えばA級 侵略戦争を始める罪B級 従来定義されていた戦争犯罪C級 ホロコーストなどの非人道的な罪という区分けにすぎません。 しかもc項に関しては、第一次世界大戦終了後に適用が検討されましたが、国際裁判自体が否定され、ドイツ国内で形式的な裁判が行われただけで、第二次世界大戦が終わるまで厳罰に処された人間はいませんでした。a項に至っては、この時初めて定義されたものであり「いわゆるA級戦犯」の方々が罪として裁かれた行為を行った時点では違法行為でも何でもなかったのです。極東国際軍事裁判が東條英機元首相以下、25被告に判決を下す日の法廷全景=昭和23年11月4日 そもそも戦争を始めることが罪になるのであれば、ドイツに対して一方的に宣戦布告し第二次世界大戦を始めたイギリスとフランス、日本に対して先に宣戦布告したオランダは、なぜ罰せられないのでしょうか。曖昧すぎる「侵略」の定義米バージニア州ノーフォーク市役所の旧庁舎を改装したマッカーサー記念館前に立つマッカーサーの銅像 こう言うと日本が起こした戦争は「侵略戦争」だからだと反論する人がいると思われますが、ではいったい何をもって「侵略戦争」と「そうでない戦争」とを分けるのでしょうか。 おそらくそういう人たちは、国連が1974年の国連総会で決議した「国連決議3314」(侵略の定義に関する国連決議)をもって「侵略」を定義しているではないかと主張されるのでしょうが、確かにそこには一応「侵略」の定義らしいことは書かれていますが、よく読むと机上の空論でしかありません。 事実、湾岸戦争のきっかけとなったイラクによるクウェート侵攻でさえも「侵略」と認定されておらず、現在の日本政府の見解も「侵略」の定義は定まっていないとしています。仮に国連が明確な定義を定めたとしても、当時に遡って適用できないことは言うまでもありません。 実際のところ、いまの時代でも、アメリカのような力のある国がアフガンやイラクへ侵攻しても「自衛戦争だ」と強弁すれば罷り通り、ロシアがクリミヤに侵攻すれば経済制裁を受ける現実を見れば、侵略戦争か否かということは国の力関係によって決まるのが実情です。そんな中でも、盧溝橋事件は極東軍事裁判においてさえ侵略戦争と断定できなかったという事実は重く受け止めるべきです。 当時、日本は開戦以来、終始一貫して大東亜戦争は自衛戦争であると主張していました。アメリカ極東軍司令官として日本と戦い、戦後はGHQの総司令官として約6年間日本に滞在したマッカーサー元帥は、朝鮮戦争で日本が感じていた共産主義の脅威を肌で感じ、戦前の日本の立場を理解するようになりました。そして、退任後にアメリカ上院議会で「日本が戦争を始めたのは経済封鎖に対する自衛のため」と証言しました。実際に戦った敵国の大将でさえ認めた日本の主張の正当性は明白であり、日本は決して侵略戦争など行っていないのです。 日本が米英蘭相手に戦争を始めた1941年当時には、自衛戦争を認めた不戦条約しかなかったので、日本は当時の国際法には一切違反していないのです(詳しい日本の戦争目的に関しては、米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書《開戦の詔勅》と帝国政府声明をお読みください)。 さらに言えば、ドイツと同時期にポーランドに侵攻し、その後、1939年11月と1941年6月にフィンランド、1945年8月に日本へと国際法に違反して一方的に攻め込んだソ連はニュルンベルク裁判、極東軍事裁判のいずれにおいても被告席に座ることはありませんでした。つまり「いわゆるA級戦犯」とよばれる人たちは、戦勝国が後から自分たちの都合のいいように作った法令(事後法)と裁判により敗戦国の人間であるという理由で裁かれた人たちで、裁判の名を借りた復讐(ふくしゅう)劇の被害者なのです。 これに対しても「日本は戦争に負けて無条件降伏したのだから仕方がない」「誰かが責任をとらなければいけない」「ドイツを見習え」「サンフランシスコ平和条約で極東軍事裁判を認めた」などと反論される方がいますが、それは日本の立場を無視した戦勝国の言い分です。 まず、多くの日本人がいまだに日本が「無条件降伏」したと誤解していますが、戦争末期に政府が崩壊したドイツとは違い日本は終戦時にも政府機関が機能しており、その日本政府がポツダム宣言という連合国が提示した条件を受け入れたのであって、その条件は後に連合国によって破られましたが、日本の降伏は条件つきだったのです。詳しくはポツダム宣言をお読みください。「ドイツを見習え」なんて見当違い 確かに日本は戦争に負けたのですから、一定のペナルティーを受けるのは仕方がないのかもしれませんが、法治国家において犯罪者にも人権があるように、国際社会も法による支配を目指すのであれば戦争に負けたからといって何をされても仕方がないということはありません。誰かが責任をとるべきであるというのは、その通りなのですが、それは当時の政府首脳が対外的にではなく日本国内に対して「負けた責任」や「多くの命や領土を失った責任」をとるべきで、本来であれば戦後、日本人による日本人のための東京裁判を行わなければならなかったのかもしれません。 「ドイツを見習え」というのは全くの見当違いで、ドイツは戦争を始めたことに対して謝罪しているのではなく、ナチス党員などの一部のドイツ人がホロコーストなどの人道に対する罪を行ったことは同じドイツ人として申し訳ない、とその人たちに罪をかぶせているだけのことです。 そもそも日本は、特定の民族に対して国家単位で迫害を行ったことはなく、むしろ当時、世界で一番多くユダヤ人を助けた国で、そのことに対してナチスドイツが日本に猛抗議してきましたが、いわゆるA級戦犯の代表格である東條英機大将は毅然とした態度でそれを一蹴しました。おそらく、日本も「軍部などの一部の人間が勝手に戦争を始めた」「その人間だけが悪い」と一部の人間に罪をかぶせれば当面の非難を避けることはできるかと思いますが、そういう卑劣な行いは人間として正しくありません。 日本もドイツもマスコミに煽られたとはいえ国民の大半が戦争を望んだという側面もあり、それを今になって一部の人間だけの責任にしようとする行為は卑怯(ひきょう)としか言いようがなく、命を懸けて祖国のために戦った先人に対する冒涜(ぼうとく)に他なりません。 また、日本は下記の「日本国との平和条約」(サンフランシスコ平和条約)第11条で「裁判を受諾」しているではないかと言う人もいますが、それは誤解(誤訳)です。 日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。(後略) そもそもこの条約は当時の公用語である英仏西の三カ国語で作られており、日本語で書かれているものはそれを訳したものでしかなく、意味が微妙に異なる場合は英仏西語の正文の方が正しいとするのが道理です。 そこで問題の部分の英文を見ると「accepts the judgments」(判決を受諾する)となっています。「裁判を受諾する」と「判決を受諾する」は一見同じように思えるかもしれませんが似て非なるものです。裁判の名に値しない「東京裁判」 「裁判を受諾する」というのは裁判そのものを認めることですが、それに対して「判決を受諾する」というのは裁判全体を認めることではなく判決のみを認めるということで、たとえ身に覚えのない犯罪容疑でも有罪判決が下され、それが確定してしまえば法治国家に住む以上、判決に不服だとしてもそれに従わねばなりませんが「冤罪(えんざい)だ。自分は無実だ」と訴えるのは自由だということです。 だいたい「いわゆるA級戦犯」を裁いた極東軍事裁判は・裁判の根拠法令が極東国際軍事裁判所条例という国際法を無視したマッカーサーの命令・恣意(しい)的な被告の選定(満州事変の首謀者石原莞爾は逮捕すらされていない)・事後法による法の不遡及(ふそきゅう)の原則に反している(前述)・法の公平性に反している(戦勝国の原爆投下や無差別爆撃などの民間人大量虐殺は不問)・裁判官11人全員が戦勝国の出身(中立国出身の人すらいなかった)・裁判官の出身国、英仏蘭は裁判中もアジアを再侵略していた・同じくソ連は国際法に違反して多くの日本人をシベリアなどに強制連行強制労働・11人のうち法律家は2人(国際法の専門家はインドのパール判事のみ)・裁判長が事件の告発に関与(ウェッブ裁判長は日本軍の不法行為を自国に報告)・ポツダム宣言違反(宣言の範囲外の行為を裁いた)・被告側の証拠のほとんどを採用しない一方で、検察側のでっち上げの証拠を採用・結果、ありもしなかった共同謀議や南京大虐殺という虚構を認定 というようなもので、とても裁判の名に値するものではありませんでしたが、当時の日本は敗戦国ゆえに抗弁することができなかったのです。 仮に彼らが本当の戦争犯罪人だったとしても、従来の国際法に従えば戦争犯罪というのは講和条約発効時に無効になり、獄中にいる戦争犯罪人は釈放されるのですが、サンフランシスコ平和条約発効時に限り、そうさせないように作られたのが、この11条の条文なのです。 つまり、この条文は連合国の復讐(ふくしゅう)心を満たすため、あえて従来の国際法の趣旨に反して懲罰的な意味を込め、講和条約発効後も日本独自の判断で受刑者を放免してはならないという趣旨を盛り込んだもので、軍事裁判を認めるとか認めないとかという意味合いのもではないのです。極東国際軍事裁判の際、戦犯容疑者が多数勾留された巣鴨拘置所(巣鴨プリズン)=昭和27年8月2日(産経新聞社機から撮影) 連合国が、それほどまでして許さなかった、いわゆる戦争犯罪人ですが、当時、大多数の日本人は彼らのことを犯罪者であると思っていませんでした。まず日本が主権を回復したサンフランシスコ平和条約発効直後の1952年5月1日、当時の木村篤太郎法務総裁により戦争犯罪人の国内法上の解釈についての変更通達が出されました。 そして、戦争犯罪人として拘禁されていた間に亡くなられた方々すべてが公務死として扱われるようになったことを皮切りに、全国各地で戦争犯罪人として扱われている人たちの助命、減刑、内地送還を嘆願する署名運動が始まりました。日本に戦争犯罪人と呼ばれる人は一人もいない 日本弁護士連合会も「戦犯の赦免勧告に関する意見書」を政府に提出するなど、運動は盛り上がりを見せ、それに呼応して国会でも次々と社会党や共産党を含む全会一致で戦犯受刑者の釈放に関する決議などがなされ、1953年には遺族援護法が改正され拘禁中に亡くなられた方々の遺族に弔慰金と年金が支給されるようになりました。 つまり、彼らの死は戦死であると国権の最高機関である国会が正式に認めたのです。署名は最終的に当時の全人口8千万人の半数である4千万人に達し、これに後押しされた日本政府はサンフランシスコ平和条約第11条にもとづき関係11カ国に働きかけ、その結果、1958年には戦争犯罪人として勾留されていた、すべての方々が赦免されたのです。 このような当時の日本人の戦争犯罪人と呼ばれた人たちへの熱い思いを知らない世代の日本人が、今になって「A級戦犯が~」と息巻いているのを見ると、日韓併合時代を直接知っている人間より知らない世代の方が、反日感情が強い韓国と重なり、情けない思いになります。 近代法では刑罰の終了をもって受刑者の罪は消滅するというのが理念ですから、百歩譲って仮に彼らが本当の戦争犯罪人であったとしても、この時点から日本には死者を含めて戦争犯罪人と呼ばれる人は一人もいないのです。それは、以下のいわゆるA級戦犯のリストを見ていただければ、よくわかるかと思います。 ほかにも、下記のように逮捕勾留されたものの不起訴になった、戦後の日本を牽引してきた方々もおられます。帝国石油社長 鮎川義介首相 岸信介日本船舶振興会会長 笹川良一読売新聞社社長 正力松太郎朝日新聞社副社長 緒方竹虎 そして、この流れの延長線上で1959年に「いわゆるBC級戦犯」が、1966年に「いわゆるA級戦犯」が靖国神社に合祀されたのであり、それをもって軍国主義復活などとは誤解曲解も甚だしい話なのです。

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    中国が仕掛けるオンナの「歴史戦」に断固対抗せよ

    杉田水脈(前衆議院議員)×河添恵子(ノンフィクション作家)宋美齢、アイリス・チャン、クマラスワミ……。米中を舞台とするオンナたちの策動で、日本は不当なレッテルを貼られてきた。私たちは同じオンナとして、日本人として、もう黙ってはいられない!!天安門事件(1989年6月)以前からの中国社会を熟知するノンフィクション作家の河添恵子氏と、国連へ乗り込み、慰安婦問題の嘘に果敢に斬り込んだ前衆議院議員・杉田水脈氏。保守の女性論客2人が世界での見聞・体験をまじえながら、日本は「歴史戦」にいかに臨むべきかを徹底討論した『「歴史戦」はオンナの闘い』が、PHP研究所より発売された。そこで今回は「中国が仕掛けるオンナの歴史戦」について、本書よりその一部を抜粋して紹介する。戦後70年の8月15日にオープンした「抗日戦争記念館」 河添 中国は上海閥のドン、江沢民が国家主席だった1990年代より、「愛国主義教育模範基地」と称した「反日拠点」を国内に設け、アメリカなどの華僑・華人団体とも密接につながり、韓国系とも連携し、アメリカを主舞台に「南京大虐殺」「従軍慰安婦」など、捏造の史実の拡散と戦争責任の追及に心血を注ぐ活動を展開しています。 現在、その中心的な海外拠点と言えるのが米カリフォルニア州サンフランシスコ市です。私は同市を基点にカリフォルニア州の広範囲を取材し、書籍や雑誌などで記事を発表しながら定点観測も続けてきました。そして恐れていたというか、やっぱりそうなったかという事態が2015年8月に報じられました。 杉田 サンフランシスコ市のチャイナタウンにできた、「抗日戦争記念館」の件ですね。 河添 そうです。中国国外で初となる抗日戦争記念館が、終戦70年の8月15日にオープンしました。中国語の表記は「海外抗日戦争紀念館」で、財団創設者で名誉館長は在米女性実業家で社会活動家の方李邦琴(フローレンス・ファン、Florence Fang)。海外初の抗日戦争記念館=2015年8月15日、米カリフォルニア州サンフランシスコの中華街 中国語と英語で併記されたA4のパンフレットの挨拶文には、「第二次世界大戦のあいだ、ナチス・ドイツに約600万人のユダヤ人が虐殺され、全世界に167カ所のユダヤ記念館や記念碑がある。一方、日本軍国主義により3500万人以上の中国人が抹殺されたが、海外に記念館は一つもない。これではこの悲惨な歴史を世界が理解できない」などと記されています。新たな「歴史戦」への宣戦布告 杉田 中国人だけで3500万人! ありえない数字です。 河添 「中国人同士で殺し合った死傷者数ですか?」ってね。「展示コーナー」の盧溝橋事件(1937年7月7日)から始まる展示パネルに何らリアリティはないのですが、記念館は将来的に地下階までフロアを広げる予定で、パンフレットには「戦争の遺産は世界各所にまだある。同館は現物の日本語の資料の収集も広く行っている。是非とも提供をお願いしたい」との呼びかけまで記されています。 開館にあたってはチャイナタウンの街頭で開幕セレモニーを催していますが、戦後70年を区切りに、新たな「歴史戦」への宣戦布告をしたのだなと私は受け取りました。 杉田 同感です。まさに新たな「歴史戦」が火蓋を切っていますね。カリフォルニア州ロサンゼルス郡グレンデール市に行った際、ユダヤのホロコースト記念館や博物館に慰安婦の展示コーナーを設けるといった話が進んでいると聞きました。「日本軍の侵略、さらには慰安婦の強制連行、性奴隷はユダヤのホロコーストに匹敵する、酷い戦争犯罪だ」と印象づけるためにね。 抗日戦争記念館の関係者には、日系三世のマイク・ホンダ下院議員の名前も含まれていますよね。 河添 そろそろ用なしかと思っていたのに、しぶとくて困ったジイさんです。その他、抗日戦争記念館の創設に関係した人物として、戦後に台湾へ逃げた中華民国陸軍上将で1919年生まれの郝柏村の名前もありますし、フライング・タイガー・ヒストリカル・オーガニゼーションのチェアマンの名前も記されています。郝柏村の息子、郝龍斌は台北市長や中国国民党副主席を務めるなど台湾政界のエリートです。 名前こそ記されていませんが、超大物の陳香梅女史、英語名ではアンナ・チェン・シェンノートも関わったようです。「海外抗日記念館の名誉議長」との記述もあります。 1930年代、日本軍と戦争状態にあった中国国民党政府を支援し、日本軍を攻撃するためのアメリカ空軍兵らによる義勇兵組織、フライング・タイガー(飛虎隊)を指揮したクレア・L・シェンノート将軍の妻だった女性です。すでに九十歳をすぎていますが、創設者の方李邦琴女史とのツーショットの近影も確認しました。 陳香梅女史は、私の見立てでは戦後の米中台関係、丁寧に表現しなおすと、アメリカの共和党と民主党、そして中華民国の中国国民党、そして中華人民共和国の中国共産党の関係構築に表で裏で奔走してきたナンバーワン・ロビイストです。 彼女の母方の家系は孫文側近の廖仲凱です。その息子で、共産党政権で華僑工作を一手に取り仕切った廖承志ともつながるわけです。中国の政治工作はオンナの使い方が巧み!中国の政治工作はオンナの使い方が巧み! 杉田 抗日戦争記念館は、「世界抗日戦争史実維護連合会」のサンフランシスコ支部が置かれていた建物ですよね。 河添 そうです。「世界抗日戦争史実維護連合会」の本部はカリフォルニア州クパチーノ市にありますが、サンフランシスコ支部が置かれていた建物をリフォームして、抗日戦争記念館としてリニューアルしました。建物の所有者は方李邦琴女史です。 1994年前後に発足した世界抗日連合会の英語名は、Global Alliance for Preserving the History of WWII in Asiaですから、中国名とはまったく違いますよね!  杉田 中国名と英語名の違いについて、私も以前、訪米した際に在住邦人の方からお話を伺いました。中国名には「抗日」とあるのに英語名にはその表現が含まれていないので、日本バッシングが目的だとわかっていないアメリカ人がほとんどだと。 河添 ホント巧妙というか、我々日本人にはわかりやすいウソ(苦笑)。アメリカ、カナダ、香港を中心とする世界中の30歳前後の中国系、韓国系、日系団体を結集させて世界抗日連合会を結成させた、といった内容を読んだことがありますが、結成の目的は、「日本政府に正式に謝罪させること」「人民はじめアジアの被害者すべてに補償を実施させる」「日本の歴史教科書の誤りを正す」「日本が再び不当な侵略行為を開始することを阻止するため、アメリカ、中国、日本および他の諸国で、過去の日本の侵略に対する批判が高まるよう、国際世論を喚起する」などです。 そして1997年、手始めに中国系アメリカ人のアイリス・チャンに『ザ・レイプ・オブ・南京』を書かせて、大々的に宣伝し、2005年には日本の国連安保理常任理事国入りに反対する署名を全世界規模で数千万人集めたり、2012年9月には、日本政府による尖閣諸島の国有化に抗議する反日デモをサンフランシスコで指揮するなど、これまで数々の「実績」があります。米カリフォルニア州サンフランシスコ近郊のロスアルトス市の小高い丘の上にある中国系米国人ジャーナリスト、アイリス・チャンの墓。「最愛の妻で母、作家、歴史家、人権活動家」。墓碑にはそう刻まれている=2014年11月 杉田 アイリス・チャンも世界抗日連合会のメンバーだったようですが、若くして亡くなりましたよね。 河添 公には自殺ですが、「他殺では?」との声もずっとくすぶっています。しかもサンフランシスコの抗日戦争記念館に、アイリス・チャンの足跡や彼女の著書の展示コーナーはあるのですが、中2階をさらに進み、「プライベート」と書かれたドアを開けて、階段を上った場所、つまり通常の参観コースから外れた、お蔵入り寸前のエリアにひっそりと─なんですよね。 杉田 すでに用済みってことでしょうね。「女子力」こそが鍵 河添 使い倒されて、おしまいってことかな。ここで注目しておきたいのはアイリス・チャンが中国系アメリカ人だったことのみならず、大学院卒の若き才媛だった点です。中国の政治工作は、オンナの使い方が実に巧みなのです。アピール度の高い美女がリクルーティングされ、適材適所で操られます。チャン女史は、自らの意志というより誰かに指図されてチャイナドレスを着たのではないかと思います。勝負服というか演技服ってことでしょうかね。 もしベテランのおじいちゃん学者や歴史作家が、『ザ・レイプ・オブ・南京』を発表していたら、いくらヤラセ本だったとはいえ、『ニューヨーク・タイムズ』紙のベストセラーリストに10週間も掲載されることはなかったはずです。 アメリカ社会から「中国人女性は、日本軍に酷い目に遭ったのね」的な同情をマックスで盛り上げるためには、「女子力」こそが鍵ってことなんです。 杉田 なるほど! 私も慰安婦問題に取り組むなか、「この問題は女性がやったほうがいい」とよく言われます。性の問題はどうしても「男が強者で女が弱者」というイメージがあり、広める側がそれを巧みに使っていることは徐々に気づいていましたが、「女子力」という視点は斬新です。国連も、私が奮闘している部署は左派女子の世界ですからね! 河添 これからも要所、要所、キーパーソンとして女性が登場しますよ! これが、我々の「女子会」ならぬ「女子対談」の肝になりそうです。 日本人男性は、とくに中国の政治や戦史を考察する際、妻やら愛人やらオンナが何をしていたのかがよくわかっていないというか、その視点が抜け落ちているように感じます。現代のハニー・トラップもそうですが、中国社会はいつの時代もオンナが実に上手く立ち回っている、表に裏に暗躍している社会なのですけれどね。 抗日戦争記念館にしても、いま申し上げたとおり、在米女性実業家で社会活動家の方李邦琴……まぁ、この方は現在すでに十分ご年配で80歳を超えたようですが、若き時代もあったわけですし、長年、サンフランシスコの反日活動のキーパーソンでありつづけているのです。 方は夫の名字で李が彼女の名字ですが、フローレンス・ファンがクリスチャンネームですし、「ファン女史」と呼ばせてもらいます。 ファン女史は若い頃から眼鏡がトレードマークのようですが、知的でスラッとしたなかなかの美女で、ここ一番のときに体の線にピッタリのチャイナドレスを身にまとい、中華民族を全面にアピールしています。胸に詰め物でも入れているかなと疑いたくなるほど、お年の割には胸の形もお美しい。アメリカ社会は、老婆でも「強姦されました」なんて自慢する社会ですしね。 杉田 男性の意識もですが、女性の意識も日本人とはかなり違いますね(笑)。 河添 日本は「カワイイ文化」、西洋社会は「セクシー文化」です(笑)。かわそえ・けいこ ノンフィクション作家。1963 年、千葉県松戸市生まれ。名古屋市立女子短期大学卒業後、1986 年より北京外国語学院、1987 年より遼寧師範大学(大連)へ留学。1994年に作家活動をスタート。2010年に上梓した『中国人の世界乗っ取り計画』(産経新聞出版)は、ネット書店Amazon〈中国〉〈社会学概論〉の2部門で半年以上、1位を記録するベストセラー。主な著書は『世界はこれほど日本が好き №1親日国・ポーランドが教えてくれた「美しい日本人」』(祥伝社)、『だから中国は日本の農地を買いにやって来る TPPのためのレポート』『豹変した中国人がアメリカをボロボロにした』(共に産経新聞出版)、『国防女子が行く』(共著、ビジネス社)など。世界の学校・教育関連の取材・著作物として図鑑(47冊)他、『エリートの条件――世界の学校・教育最新事情』(全て学研)などがある。『産経新聞』や『正論』『WiLL』『週刊文春』『新潮45』『テーミス』などで執筆。NHK、フジテレビ、テレビ朝日ほか、TVコメンテーターとしての出演も多数。ネットTV(チャンネルAJER、チャンネルくらら)にレギュラー出演中。40 カ国以上を取材。すぎた・みお 前衆議院議員。1967 年、兵庫県神戸市生まれ。前衆議院議員(1 期)。日本のこころを大切にする党(旧:次世代の党)所属。鳥取大学農学部を卒業後、住宅メーカー勤務を経て、兵庫県西宮市役所に勤める。2010 年に退職し、2012 年、日本維新の会から出馬し、衆議院議員初当選。従軍慰安婦問題など数々のタブーに切り込み一躍注目を浴びる。他にも子育てや歴史外交問題に積極的に取り組む。充電中の現在も、国際NGOの一員として国連の「女子差別撤廃委員会」「人権基本理事会」などで日本の真実を国際的に発信するなど、東奔西走の日々を送る。国家基本問題研究所客員研究員、チャンネル桜、チャンネルくらら、チャンネルAJERのキャスターを務める。先の著書に『なでしこ復活――女性政治家ができること』(青林堂)、『みんなで学ぼう日本の軍閥』(共著、青林堂)、『胸を張って子ども世代に引き継ぎたい:日本人が誇るべき〈日本の近現代史〉』(共著、ヒカルランド)。現在、『産経新聞Web』に「杉田水脈のなでしこレポート」を連載中。関連記事■ 日本の底なしの「性善説」が自ら招く罠■ 慰安婦問題に対するアメリカ人の対日批判が後退している実態!■ 政治家の世代交代が進めば日韓関係は改善するか

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    日本は今もGHQの占領下 共産党がいまだ党勢拡大できる理由

    ケント・ギルバート(米カリフォルニア州弁護士)どの局も同じような報道 40年以上前に初めて日本にやって来て、徐々に日本語がわかりはじめるようになったころ、最初に不思議だなと感じたことの一つが、日本のメディアがあまりにも共産党や社会党を持ち上げ、あるいはソ連や共産中国(PRC)を賛美していることでした。 アメリカでは、共産主義活動が連邦法で禁止されていますからね。日本は自由主義と民主主義を採用した西側諸国の一員であり、政府自体も安定した自民党政権なのに、なぜテレビや新聞は左翼ばかりを賛美しているのか、理由がわからなかったのです。 実際、テレビ放送でも、圧倒的多数の支持を誇っていた自民党の発言機会は少なく、社会党の主張に多くの放送時間が割かれており、自民党が何か一言発すると、社会党には反論をする時間が10倍ぐらい与えられている感じがしましたし、新聞媒体なども大半が左翼的な意見で埋まっていました。メディアはあからさまな意図をもって左翼思想を喧伝していました。その結果、日本人の多くは保守政権を支持しながらも、自由主義と民主主義の解体を目論む社会党・共産党に対して、それほど警戒感をもたなくなったのではないかと思います。強大な権力を背景に、戦後の日本の民主化政策を推し進めた連合軍総指令部(GHQ) その主な原因は、戦後、GHQ(連合国軍総司令部)がWGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)を通じて、日本人に「自虐史観」と「東京裁判史観」を効率よく刷り込んだことでした。左翼人士は大手メディアや教育界、法曹界を通じて日本人全般を洗脳し弱体化させることで、わが世の春を謳歌することができたのでしょう。 他方、アメリカではメディアが非常に発達しています。ユタ州にある拙宅では、ケーブルテレビの基本契約をしただけで400チャンネルくらいの視聴が可能です。だからこそ、メディアに対して疑問を抱く習慣も発達しています。政治的見解などは、放送局によっていうことがバラバラなので、疑問をもたざるをえないという側面もあります。たとえば、CNNとFOXニュースを見比べたら、「どっちの話が本当なの?」と誰でも考えます。 一方の日本では、NHKとTBSがまったく違う見解を報じたりはしません。私にいわせれば、どの局も気持ち悪いくらい同じような報道ばかり行なっています。世の中ではもっとさまざまな出来事が起きているはずなのに、報じられるニュース内容はどの局も不思議なほど同じで、放送の順番までそっくりです。長いものには巻かれる日本人の感覚 日本人は、とにかくお人好しで騙されやすいのが最大の弱点です。「オレオレ詐欺」などという犯罪は日本人の「人の好さ」に付け込んだ犯罪で、日本特有のものといっても過言ではないでしょう。物事を疑う習慣のない人がパニック状態に追い込まれると、簡単に騙されます。これは日本人が、政治的プロパガンダに乗せられやすいことを意味します。 日本人のもう一つの弱点は、とにかく権威ある職業や組織(学者、医師、弁護士、大企業、大手マスコミなど)から発せられる情報であれば、ほとんど疑うことなく、すべてを信じる傾向があるということです。 このような、「お上」には逆らわず、「長いものには巻かれろ」という感覚は、決して日本人が、純粋無垢で従属的だったからではないと私は考えています。むしろ、かつての日本の権力者や大商人というものが、伝統的に庶民の信頼を勝ち得ていたからではないでしょうか。庶民は、権力者を信じて付いていけば決して悪いようにはならない、と感じていたのです。『古事記』の「因幡の白兎」、あるいは「海幸彦・山幸彦」などの神話、仁徳天皇の「民のかまど」の逸話、数多くある「恩返し」の昔話などから、日本という国は太古の昔から、「正直で誠実に、そして慈悲深く仲良く暮らしていれば、きっと良いことがある」と教えられ、それを信じることのできる社会が、現実に存在したのです。 このようななかで、歴代天皇はもちろんのこと、将軍や大名、あるいは武士にせよ、大商人にせよ、農村の長にせよ、世の中のリーダーは民の信頼を決して裏切ってはならないと考え、逆に民は、権威あるリーダーに全幅の信頼を寄せて精進しさえすれば、いつか必ず報われるというコンセンサスがあったのではないでしょうか。 こうした日本人の特性は、GHQにとって、占領政策を実行するうえで予想以上に好都合であったことでしょう。GHQにしてみれば、彼らがやるべき最初の仕事は、自らが「権威」になることでした。その結果、マッカーサーを頂点とするGHQは、天皇陛下に代わって新たな「神」となったのです。 戦後すぐに撮影された、昭和天皇とマッカーサーが一緒に並んで写った写真は、まさに「神の交代」という意味を無意識のうちに日本国民に植え付けたはずです。そして、新しい神であるGHQによる、邪悪で巧妙な日本解体作戦が、あまりにも功を奏した結果、戦後の日本は71年間も自虐史観に苦しめられ、汚名を着せられ、国家は計り知れないほどの損失に苦しんできたのです。なぜ左翼思想が広まったかなぜ左翼思想が広まったか 最近、日本共産党がなぜか人気だそうです。先の参議院議員選挙でも、民進党などの野党が軒並み議席数を減らすなかで、共産党だけは比例区5議席と選挙区1議席の計6議席を獲得。改選前の3議席から倍増を果たしました。共産党本部で開かれた中央委員会総会=9月20日午前、東京都渋谷区 これは、マスメディアが共産党を含む反・安倍政権的な野党連合を擁護するかのような報道スタンスを取ってきたことも影響していると思います。新刊の『いよいよ歴史戦のカラクリを発信する日本人』(PHP研究所)にも詳しく書きましたが、日本の戦後の思想状況を一言で表すと、「GHQが残した負の遺産を左翼が徹底的に利用して、日本人を洗脳してきた」ということに尽きます。 左翼の人々は、日本の過去をすべて否定し、文化や伝統を軽視し、歴史を捏造し、社会のなかの価値観を徹底的に破壊することに専念したのですが、このことを今日になってもまだ、それほど実感していない日本人が多いことに驚かされます。 共産党を支持している人たちのなかには、性格も本当に穏やかで人間的な方もいます。物事の考え方が良心的なのです。そんな人たちと接していると、「まあ、共産党とはいっても、旧ソ連やPRCなんかとは違うのだろうし、この人たちはいい人だから、少しは応援してもいいかな」という気になるわけです。 共産党をそうやって支持する人たちは、非常に良心的であり、また、あまりに純粋無垢であるがゆえに、一部の確信犯的共産主義者(国家解体を目論む者たち)に騙され、利用されているのです。 つまり、良心的な左翼人士の大半は、共産党の正体がわかっていないのです。 良識ある日本人を無意識的で無自覚な左翼思想へと洗脳したのは、戦後のメディアです。GHQがつくり上げた「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)」を、占領中は全面的に受け入れるしかありませんでした。しかし、GHQの占領が終わったあとも左翼思想を日本に蔓延させたのは、メディアの大罪です。 たとえば、大手メディアは今日も、60万人もの日本人が違法に拘留され、塗炭の苦しみを味わったシベリア抑留や、満洲におけるソ連軍の鬼畜のごとき行動について、ほとんど報道しません。占領時代に報道を禁止されていた事項だからです。それにもかかわらず、やってもいない慰安婦強制連行や、嘘にまみれた南京大虐殺なる問題については、徹底的なキャンペーンを張るのです。 こんなマスコミに71年間も毎日洗脳されつづければ、良心的な人が祖国を愛さず、左翼的になってしまうのは致し方ないことです。そしてじつは、WGIPの実施者たちそのものが共産党と同根なのだ、という点を認識する必要があります。 日本弱体化をめざしたWGIPは、GHQの民政局に入り込み、日本を骨抜きにする日本国憲法をつくった共産主義者たち(ニューディーラーたちを含む)が実施したものです。だからこそ、共産党が狙っていた日本の「国体」の破壊、すなわち皇室制度とそれに由来する日本人の古き良き国民性の破壊と、完全に合致していたのです。 日本国憲法の原案は、昭和21(1946)年2月13日に、松本烝治国務大臣が外相官邸において、GHQ民政局のホイットニー准将らから「マッカーサー憲法草案」として渡されたものが最初ですが、松本はその幼稚な内容に驚愕。さっそく幣原喜重郎首相にその内容を報告し、「総理、じつに途方もない文書です。まるで共産主義者の作文ですよ」 と伝えています。娯楽化した報道番組娯楽化した報道番組 共産主義とか左翼思想とかいわれても、今日のほとんどの日本人は、その実態に対しては無頓着です。そもそも「外来種」である共産主義の思想に日本人の考え方が合致するわけがないのですが、なぜこんな思想が今日もまだ日本国内に残っているのかということを、考えなければなりません。 その最大の原因の一つは、繰り返しますが、マスメディアです。「慰安婦強制連行誤報問題」を引き起こした『朝日新聞』をはじめ、日本の新聞がそうとうに偏向している事実は、ようやく国民の常識となってきましたが、日本人洗脳工作においてメディアを最大の道具として活用したのがGHQでした。NHKを使って『眞相はかうだ』など一連の戦争プロパガンダ放送を流し、その方針をほとんどの民放各局や新聞などのメディアが今日まで維持してきました。そんな71年間の洗脳工作は、GHQが予想した以上の効果を発揮しましたが、そこは共産主義者や、それに影響を受けた左翼人士が跋扈する世界でした。 本来、メディアの最大の役割は、事実を事実として、余計な色を付けずに報道することですが、戦後のメディアの多くはGHQの影響を受けたせいで、そんな基本的な事さえできなくなってしまいました。その理由の一つは、これまで述べてきたようにメディアを左翼人士が牛耳ったからにほかなりませんが、それ以上に報道番組が「娯楽化」したということもあると思います。 報道番組を最初に本格的な娯楽に変えたのは、おそらくは久米宏氏だったと思います。久米氏は1982年から始まった日本テレビ系列の『久米宏のTVスクランブル』で、日本国内のさまざまなニュースを取り上げ、それに笑いを交えることで大きな視聴率を得ました。私もかつて、TBSの『サンデーモーニング』に放送開始から10年間レギュラー出演していました。その当時は、みんなでかなり自由かつ真面目に議論をしていたことは間違いありません。 これはある意味で、テレビ界の革命だったのかもしれません。時代の風雲児のような久米宏さんは、少しでもニュースを面白くさせ、視聴者を楽しませようとしたのでしょう。結果として視聴率が良かったせいもあり、それが同時に、日本の報道番組全体が徐々に娯楽化するきっかけになったのだと思います。 一方、アメリカの主要な報道番組では今日でも、コメンテーターが意見を述べるのは、特定の問題に限ったコーナーの中だけで、基本的にはキャスターだけが粛々とニュースを伝える形態を崩していません。求められる自浄作用 私自身がTBSの『NEWS23』への出演を依頼され、インタビューに応じたのですが、信じられないほど不快な思いをさせられました。詳しくは新刊の『いよいよ歴史戦のカラクリを発信する日本人』を参照していただきたいのですが、この事件をきっかけとして、私は任意団体である「放送法遵守を求める視聴者の会」の呼びかけ人の一人として名前を連ねることになりました。 この団体は、国民主権に基づく民主主義の下、政治について国民が正しく判断できるよう、公平公正な報道を放送局に対して求め、国民の「知る権利」を守る活動を行なう、というのが主な趣旨です。 間違いのないように付け加えますが、この団体には特定の政治的思想はありません。たとえば共産党支持者のように、私や他のメンバーと異なる政治的主張をもつ人であったとしても、フェアに情報が出されることに賛同されるのであれば大歓迎です。 TBSのみならず、日本のマスコミの多くはあまりに偏向しているので、「放送法遵守を求める視聴者の会」の活動はむしろ、いまの日本社会には絶対に必要だと私は信じています。求められる自浄作用 マスコミは「第4の権力」ともいわれるほどの影響力をもっています。だからこそ、反省すべきはきっちりと反省するという自浄作用がなければ、やがてテレビそのものが、その傲岸不遜さゆえに社会から置き去りにされる日がやがて来るだろうと思います。 インターネットとともに、ツイッター、フェイスブックを含むソーシャルメディアの発達で、かつてマスコミが謳歌した言論統制社会は、急速に過去の遺物になっています。いまではもはや、嘘や隠し事が通用しない社会になっているのです。 人間というものは、限られた、一方的な情報にだけ触れていると、結局、それを信じて流されてしまう生き物です。全体主義とは、そういった大衆の無知を利用し、さらなる愚民化政策で社会を牛耳ろうとする考え方です。最近のテレビ番組はあまりにもバカらしく、低俗なものが増えており、日本国民をターゲットとした愚民化政策がますます強化されているような気がしてなりません。 大手テレビ局は視聴率主義に走るのではなくフェアで公正な番組づくりや、教養度の高い内容を日々追い求めてほしいものです。 マスコミが、自らのあり方に大きな疑問をもち、少しでもそれを是正して、もっと真面目に戦えるコンテンツをつくろうということになれば、日本のマスコミの質はもっと上がるでしょう。その結果として、日本国民はソフト面でもっと強い社会をつくることができるはずです。『眞相はかうだ』の検証を『眞相はかうだ』の検証を 私が最初にやってほしいと願っているのは、NHK自身によって行なわれた、『眞相はかうだ』に関する検証ドキュメンタリー番組です。GHQが台本を書き、NHKが流した『眞相はかうだ』の内実をすべて検証してほしいのです。題名は「『眞相はかうだ』の真相」というのが面白いですね。 NHKは台本などの1次資料をすべてもっているわけですし、当時はGHQの命令に抗することができなかったという視点でもまったく構いません。それが事実だったのですから、そういう方向で検証すればよいのです。 しかしその一方で、『眞相はかうだ』が戦後日本人の歴史観に多大な影響を与えたという事実を、しっかりと指摘してほしいのです。『眞相はかうだ』はのちに書籍化されています。それはいま、国立国会図書館「近代デジタルライブラリー」のデジタルデータになっており、ネットでも内容を読むことができます。本の制作者として、日本放送協会ではなく、「連合軍総司令部民間情報教育局編」ときっちりと書かれていて、誰でも無料で閲覧が可能です。 もし、NHK自身がそんな検証番組などつくれないというのであれば、民放でも構いません。NHKが映像や資料協力をするというかたちでもよいのです。 これができれば、「メディアにおける戦後」は初めて終わりを告げると思います。逆にいうならば、こういったものをつくれないうちは、日本のメディアはまだGHQの占領下にあるのに等しいのです。 まともなメディア人であれば、自分たちがまだ71年前の占領軍に思想を支配されているということに気付くはずです。自分の祖国である日本や、それを命懸けで守ってくれたご先祖様を貶める行為を無自覚のまま続けている事実に愕然とし、それを悔しいと感じるはずです。 WGIPは、メディアが国民に対して平気で嘘を語ることを覚えさせ、またそれを継続させてきました。いまこそ、高い意識をもつメディア人が立ち上がり、自らの意識がいまだにGHQに占領されている事実を悟り、それを克服していただきたいのです。若いプロデューサーのなかには優秀な人も多いのですから、ぜひ、それらをやっていただきたいと思います。ケント・ギルバート(Kent Sidney Gilbert) 米カリフォルニア州弁護士、タレント。1952年、米アイダホ生まれ。1971年に初来日。1980年、国際法律事務所に就職して東京に赴任。TV番組『世界まるごとHOWマッチ』に出演し、一躍人気タレントへ。最新刊は『不死鳥の国・日本』(日新報道)。公式ブログ「ケント・ギルバートの知ってるつもり?」で論陣を張る。関連記事■ 【危ない!韓国】日韓合意というデタラメ■ 韓国は日本のストーカーだ!■ 中国のチベット人虐殺こそ世界記憶遺産に登録せよ!

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    GHQの思想改造から日本を「解放」できるのは安倍首相しかいない

    した。 安倍談話は「歴史総括として、極めて不十分」で、「多くの国民と国際社会が共有している当たり前の歴史認識を覆す無理」(『朝日新聞』)を通そうとしたもので、「すでに定着した歴史の解釈に異を唱え、ストーリーを組み替えようとする歴史修正主義からきっぱりと決別」(『毎日新聞』)すべきだというのは、日本は自らの歴史の解釈権を放棄したまま戦勝国の歴史解釈に従う「敗者の戦後」を今後もずっと歩き続けよ、といっているに等しい。 日下 「すでに定着した歴史の解釈」とは何だと(苦笑)。 上島 これらの社説に共通するのは、戦前日本の歩みと大東亜戦争の評価を「すでに定着した歴史の解釈」に委ね、それに従うことでしか日本は国際社会に生きられないという現状追認で、GHQの検閲に従って生き残った新聞社の自己肯定と重なっています。『産経新聞』だけが「謝罪外交の連鎖を断ち切れ」と主張しましたが、いったい日本人はいつまで「敗者の戦後」を引きずるのか。 日下 たしかに東京裁判の「諸判決」を日本は敗戦の結果として受け入れましたが、裁判を主宰した戦勝国の歴史観を是としたわけではない。「すでに定着した歴史の解釈」とは、戦勝国がその利益と優位を永続させるために自己都合丸出しでこね上げた歴史の解釈でしかない。 上島 その無理を彼らも承知しているから、折あるごとに敗者にそれを認めさせる政治的な作業を行なう。歴史修正主義というレッテル貼りがその1つですが、日本人はいい加減、「平和を愛する諸国民」の存在という幻想を捨て、国際社会では実際に銃砲弾が飛び交わなくとも、自国優位を確保するために熾烈な情報戦や宣伝戦が繰り広げられているという認識をもたなければいけない。 日下 彼らの解釈の範囲でしか物を見たり考えたりできないとすれば、それは歴史のイフを禁ずることで、歴史について「イフを許さない」というのでは、歴史から教訓を導き出すことがあってはならないといっているのと同じです。そして、このとき大切になるのが、拡散思考なのです。「優位戦思考」といってもよい。 優位戦は、攻めることも守ることも自在。戦いのルールから、勝敗や和平の定義まで決められる立場から仕掛ける戦いです。一方、劣位戦はそれらのイニシアティブがない立場からの戦いです。「日本は悪かった」「日本は間違っていた」というのは劣位戦思考から出てくる答えでしかなく、優位戦思考から歴史のイフを考えると別の答えが出てくる。そして、未来の日本に必要なのは、日本人の可能性を広げる別の答えなのです。 日本人は歴史の解釈においても、優位戦思考を取り戻さなければならない。仮に侵略戦争をしたというのなら、それは日本だけではない。人類の歴史を見れば、強国はみんなした。問題は強いか弱いかだけで、強国で自分より力の劣る国に手出しをしなかった国は、1つとしてないといってもよい。 かつてある機会にそう話したら、同席していた当時の大来佐武郎外相が、「君のいうとおりだが、日本は直近にやったから最も罪が重い」といったのですが、これは、まったくの間違いなのです。 たとえば、日本が大東亜戦争後ベトナムから撤兵すると、宗主国だったフランスはまた軍隊を送って植民地支配を継続しようとした。すでに独立を宣言していたホー・チ・ミンが抵抗し、ディエンビエンフーでフランス軍を破って独立を果たすのですが、フランスの侵略は日本のあとです。日本がインドネシアから引き揚げたあとにも、オランダが軍隊を送って独立宣言していたスカルノ大統領と戦っています。オランダのほうが新しい侵略者です。 アメリカも日本が去ったあとフィリピンに入っています。フィリピンはすでに1943(昭和18)年に日本が解放を手助けして独立国となり、「われわれは独立国家である」と主張しました。ところがアメリカは「日本による独立は承認しない」といって再びフィリピンを植民地にし、翌年アメリカの手で独立を与えるという手段を取りました。アメリカはこの経緯のなかで、ルーズベルトが署名した「大西洋憲章」に謳う民族自決の尊重や領土不拡大を自ら無視したわけで、その意味では日本より新しい侵略者であるといえる。 ビルマとイギリスの関係も同じで、こういうことは「日本は侵略戦争をした」と一方的に非難されたときには、ぜひ思い出さなければいけない。それをいっても国際社会に通用するのか、というのは、日本が現に国際社会の有力な一員であることを忘れ、劣位戦思考に陥っている表れでしかない。物事を相対化し、自らの立場を少しでも優位に置こうとするのは、国家の振る舞いとして当然です。 上島 いかにも日本は大東亜戦争でビルマやマレー、インドシナ、フィリピンなどで戦い、そこで現地の人びとを戦火の巻き添えにしたことは否めませんが、日本はけっして現地の人びとを敵としたわけではない。そこに居座っていたヨーロッパと、アメリカと戦った。「アジア諸国に迷惑をかけた」という場合にも、その具体的な意味を踏まえる必要があります。 安倍談話に関する政府の有識者会議「21世紀構想懇談会」で座長代理を務めた北岡伸一国際大学長は、「日本は侵略戦争をした」「安倍首相に『日本が侵略した』といってほしい」「日本は侵略して、悪い戦争をした」といった発言を重ねましたが、東大名誉教授の伊藤隆氏が、ゼミの教え子でもあった北岡氏に向け、こう述べています。「歴史上『侵略国』という烙印を押されたのは『敗戦国』ドイツと日本だけです。(略)侵略の定義というものはない。だから、唯一成り立ちうる定義があるとしたら、『侵略国とは戦争に負けた国である』。それしかない。侵略国イコール敗戦国。また、『侵略』を定義するなら、『侵略とは敗戦国が行った武力行使である』。それ以外に言い様がない」(『歴史通』2015年5月号「北岡君の『オウンゴール発言』を叱る」) 私もまた、「敗者の弁明は通らない」という「引かれ者史観」で日本全体を染め上げてくれるなといいたい。 戦後の日本人がそうした歴史観に立つかぎり、大東亜戦争は、「悪が正義に勝てるはずもない。無謀で、愚かな戦争だった」と断じざるをえないことになります。なぜ父祖たちは戦わざるをえないと考えたのか。さらに、戦う決断をした以上、そこに勝機を見出すことは本当に不可能だったのか。こんな問題意識から対談をお願いし、1冊にまとまったのが『優位戦思考に学ぶ―大東亜戦争「失敗の本質」』(PHP研究所)ですが、視点を変え、発想を広げて「劣位戦思考」ではなく「優位戦思考」から日本の戦争目的や戦争設計を考えてみると、あの戦争にいったいどんな可能性と意味が浮かび上がってくるか。これを日本人自身が知ることなく戦後を生きてきたという気がします。戦争目的に照らして大東亜戦争を考察する戦争目的に照らして大東亜戦争を考察する  日下 戦後の日本人の多くは、戦争を「道徳」や「個人の良心」の範囲で考えています。戦争について論じること自体をタブー視し、ただただ平和を希求し、呪文か念仏のように「戦争反対」と唱えていれば、戦争は起きないと思い込んでいる。GHQの思想改造の影響といえますが、これを目の当たりにしたのが先ごろの安保関連法制をめぐる“騒動”で、戦争の歴史を考えるときに「史実」を離れ、たんなる“道徳の教科書”になってしまっていること。安保法制を「戦争法案」と言い換え、中身の吟味もせずに非難するほうがかえって危険だと感じられないこと等々、今日の日本人には戦争について考える予備知識がまったくない。国会議事堂前で、安保法案反対を訴える人々=2015年7月15日 戦争と軍事を知らずして外交は語れず、平和がいかなる状態を指すのかもわからない。戦争の歴史を知らずして、未来の日本の設計はできない。大東亜戦争の教訓はそこに繋がらなければならないのですが、先に述べたように「すでに定着した歴史の解釈」などというものに拠っていては、戦勝国に隷従し続ける「反省」と「謝罪」、自らの独立意志の放棄につながる「不戦の決意」がその疑いようのない結論となってしまう。そうではなくて、次なる戦いに勝つための教訓を私たちは導き出す必要があります。 実際に銃砲弾が飛び交う戦争であれ、相手の心理や感情に働きかける情報戦、宣伝戦であれ、戦争は設計して行なうものです。戦争は外交の失敗から起きるとは一概にいえません。クラウゼウィッツは『戦争論』で「戦争は他の手段をもってする政治の継続にほかならない」と述べましたが、戦争の開始から終わりまで政治はずっと機能していなければならない。戦争目的を決定するのは政治であり、政治の都合によって戦争は中止になったり、続いたりする。 上島 「戦争は他の手段をもってする政治の継続」と考えるかぎり、戦いのための戦いはあってはならない。戦争はただの大量殺戮、大量破壊であってはならず、政治目的を達成するための手段である。したがって戦争の勝敗は武力の優劣だけでは決まらないこともある。軍事的に負けても、政治的な目的を達すれば戦争に勝ったことになる。こうした視点から大東亜戦争を見ると、勝つ見込みのない無謀で愚かな戦争だったと結論づけるのは単純にすぎ、戦争目的に照らしての考察がなければならない。 日下 大東亜戦争で最大の問題は、政治が機能しなかったことです。詳しくは単行本全編を読んでいただきたいが、開戦の詔書に記された戦争目的は「自存自衛」でした。当時の日本は、繊維製品を輸出して稼いだお金で原材料と機械を買っていた。ところが、関税障壁でアメリカ、カナダ、それから南米までが日本製品に高い関税をかけた。 政治的、軍事的に支配しなければ商品の輸出もできないと日本人に思わせたのは、アメリカの保護貿易が原因で、自由貿易をアメリカが維持するといえば、日本は戦う必要がなかった。 上島 日本に開戦を決意させたのは、1941(昭和16)年11月に米国務長官コーデル・ハルが突き付けた「ハル・ノート」にあるというのが一般的な受け止め方です。 日下 あまりに挑発的、非妥協的な内容から、大本営政府連絡会議で「日本が臥薪嘗胆で行く場合、米国が攻撃してくるとは思われぬ」と訴えた東郷茂徳外相ですら「米国政府に対日交渉への熱意なし。唯日本に全面的屈服を強要するもので、(これを受け入れることは)日本の自殺に等しい」と憤慨した。日本を戦争に引きずり込みたいと企図するアメリカにまんまと嵌められたという話にもなってくるわけです。 上島 同年8月1日、アメリカが主導してイギリス、オランダも加わっての対日全面禁輸措置がありました。石油をはじめ資源が入ってこない。このままではジリ貧で、戦うならいましかないと日本は追い詰められた精神状態で、とうとう堪忍袋の緒を切った。 日下 たしかに「満洲国と汪兆銘政権の否認」「支那や仏印からの即時全面的無条件撤兵」「日独伊三国同盟の廃棄」などを要求したハル・ノートについては、東京裁判でパール判事が「こんなものを突き付けられたらモナコやルクセンブルクといえども銃を持って立ち上がるだろう」といったあるアメリカ人の言葉を引いて、その非を指摘したほど特異な外交文書でしたが、もはや妥協の余地なしと開戦に踏み切ったのは、心情的には理解しても反撃の手段としては単細胞だったと思います。 日本には、その時点でもいくつもの選択肢がありました。追い詰められた戦争というのは気分の問題であって、冷静に現状と彼我の国力を考えたうえで、軍事力行使の目的とその設計さえすれば、米英相手ではなくオランダ相手の限定戦争で「自存自衛」は可能だった。それがなぜできなかったのかという反省は不可欠です。 上島 政治と軍事の問題ですね。戦前は軍部が暴走したというのは簡単ですが、ではその暴走の中身は何か。日清、日露戦争を経て、当時、世界の大国になった日本がその国家運営を誤ったとするならば、それは政府や軍において具体的にどんな誤りであったか。明治国家の対外戦争は戦う相手を選べませんでした。日露戦争は大東亜戦争よりもっと無謀だったと思いますが、日本人が「奴隷の平和」を拒否するかぎり避けえぬ戦争でした。しかし大東亜戦争は、対日禁輸措置で経済的に締め上げられていても、米英相手の一大戦争を起こさずに、限定的な戦争で生存を確保することは、不可能ではなかった。 開戦の詔書に明らかなように、大東亜共栄圏の確立は当初の戦争目的とは直接結び付いていません。第一義は日本の「自存自衛」で、そこに公明正大な理念を掲げようと努めたのは重光葵でした。彼は「日本の戦争目的は、東亜の解放、アジアの復興であって、東亜民族が植民地的地位を脱して、各国平等の地位に立つことが、世界平和の基礎であり、その実現がすなわち戦争目的であり、この目的を達成することをもって日本は完全に満足する」と訴えた。これは大西洋憲章に対抗する意味もありました。 重光はもともと「日本自身の破綻になることがあまりに明瞭である戦争への突入を、最後の場面においても阻止する努力をしなければならぬ」と考え行動した外交官ですが、戦うことに決した以上、今度は「堂々たる主張がなければならぬ」と覚悟を固め、さらには、この戦いに敗れた場合、日本の戦争には「アジアの解放と独立」という歴史的意味のあったことを戦勝国の掲げる正義に対置する必要があると考えた。これはこれでギリギリ1つの戦争設計で、日本の名誉のための布石だったと思います。組織の利益あって日本国家なし 組織の利益あって日本国家なし  日下 日本の戦争目的を第1に「自存自衛」、次いで「東亜の解放」の2つと考えると、軍人・民間人合わせて約310万の死にどんな意味があるか。たしかに大東亜戦争には数々の過誤や失敗がありましたが、1943(昭和18)年11月に開かれた大東亜会議で発せられた大東亜共同宣言に謳われた「共存共栄」「互助敦睦」「伝統尊重」「経済発展」「人種差別の撤廃」の精神はいまや世界に伝播し、現実の国際社会に公然と人種差別のできない時代を到来させた。これは物理的な勝敗を超えた日本の勝利です。戦勝国が何といおうとも、人種差別が公然とできなくなった新しい世界をもたらしたのは、その引き金を引いたのは、この世界にあって日本という国です。 もう少し厳密に、国内における反省を込めていえば、その勝利は、政治の機能不全、陸海軍の「軍益」あって国家なしといった当時の状況のなかで、「必死」の特攻作戦にまで殉じて究極の奮闘をした日本の庶民の力だと私は思っています。 上島 大雑把な物言いになってしまいますが、指導者の不作為や過怠をそれぞれ現場の庶民が救ったと私も思います。本来、国家運営に献身することが求められた政官軍の秀才エリートが、どれほど私欲や保身に走ったか。卑怯な振る舞いをしたか。大東亜戦争について、日本の庶民の命と力を活かし切れなかった指導者の過誤は不問にしてはならず、将軍・参謀たちの責任論は、同胞相食むなどということではなく、けじめをつけなければならないと思います。 日下 昭和の陸海軍や官僚機構の問題は、今日の組織論にも通じます。国家として制度が整うにつれ学歴による選別、エリート養成コースが敷かれ、それ以外の脇道からは入れず登用されない硬直性と横並び意識が確立されていった。当然ながらエリートにも能力差はある。しかし「もう上り詰めたのだから、そこでさらに競争はしたくない」という馴れ合い、庇い合いが常態化すると、組織はそれ自体の温存を第1に考え、何のための組織かという目的が形骸化し、まさに「組織(軍や官僚機構)の利益あって日本国家なし」になってしまう。 また、そうした組織における秀才は、一定の手順にそった課題はソツなくこなしますが、未知の事態には対応できない。わが国の歴史でその未知は何かといえば日露戦争後にわが国が到達した国力に見合う優位戦思考であり、劣位から優位になったときにどうすべきかの学習と経験が不足した。日本が不幸だったのは、学歴がなくとも、また学習しなくとも対応できる直感力や「暗黙知」をもった人間(庶民)を見出し、登用することに意を注がなかったことです。安倍首相には優位戦思考がある 安倍首相には優位戦思考がある  上島 その意味で跳躍して現在を見ると、安倍首相はまさに学歴エリートではない強みと個性をもっていますね。 日下 東大卒のエリートは安倍さんを見下しているところがあるかもしれませんが、安倍さんには優位戦思考があります。その実践を一例だけ挙げておきましょう。 2007年6月、ドイツのハイリゲンダムで開催された主要国首脳会議で、安倍首相は中国に胡錦濤主席との会談を申し入れた。元台湾総統の李登輝氏が来日する予定を知っていた中国側の返事は、「李登輝が来日するのなら首脳会談の雰囲気は醸成されていない」というものでした。安倍首相は「雰囲気が醸成されていないことが、首脳会談ができないという意味ならば、李登輝さんの来日は変えられませんから、また別の機会にしましょう」と投げ返した。すると「いや、こちらは会談をやらないといっているわけではない」、次いで「李登輝が公開の場で講演するのは止めさせてほしい。その場に報道陣を入れないでもらいたい」という条件を出してきた。安倍さんは、「日本には言論の自由も報道の自由もあるから、それはできない。会談はまたの機会で結構です」と答えた。そうすると、最終的に彼らは何事もなかったかのように首脳会談の受け入れを伝えてきた。 これについて私は、ある雑誌の対談で直接、安倍さんに確かめたのですが、安倍さんは「経緯はともかく」と断りながら、こう語りました。「胡錦濤主席との会談が予定されていた朝、李登輝さんは靖国神社に参拝された。今度はわが外務省がびっくりして、これは会談がキャンセルになるかもしれないといってきた。しかし、胡錦濤主席も私も、何事もなかったかのように会談を行ない、李登輝さんに触れることなく相互に必要な話をした。そのとき私の秘書官が嘆息しながら口にしたのは、“ああ、こうやってこれまでは中国の要求に膝を屈してきたんだなあ”という言葉だった。偽りない彼の実感だったろうが、いってみればこれはゲームなのです」 昔もいまも国際政治はある種のゲームです。そうしたゲーム感覚が、劣位戦の経験しかない人間にはわからない。彼らには教科書にない戦争や紛争処理のための設計(ゲームプラン)はできない。 上島 大東亜戦争の教訓は、明治開国以後、劣位戦を勝ち抜いてきた日本が、今度はいかに優位戦思考をもつかということですね。 日下 そうです。優位戦思考による国家運営です。関連記事■ 優位戦思考に学ぶ 戦後70年と大東亜戦争■ 「優位戦思考」で強い日本を取り戻せ■ 沈む欧州、崖っぷちの米国、そして日本が“独り勝ち”?

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    日本の左翼が国連という権威をバックにした反日活動強化中

     何だか最近、国連がいやに日本に厳しい。たとえば昨年10月、ユネスコの世界記憶遺産に中国の申請によって、いわゆる「南京大虐殺」が登録された。そこでどれくらいの人が死んだのかといった議論は未決着のまま、「世界の重要な記憶遺産の保護と振興を目的に」(文部科学省ホームページより)運営されている世界記憶遺産が“お墨付き”を与えたのだ。中国・南京市内の「南京虐殺記念館」で行われた「南京事件」の追悼式典 同じく昨年10月、国連の「児童売買、児童買春及び児童ポルノ」特別報告者のマオド・ド・ブーア=ブキッキオ氏が来日。記者会見で「日本の女子学生の30%は援助交際を経験している」と発言し、物議をかもした(後に「13%」と訂正)。 極めつけは今年3月、国連女子差別撤廃委員会が、皇位継承権を男系男子に限定する日本の皇室典範について「男女差別である」とする勧告書を出そうとした問題だろう(これは日本の国会でも「おかしい」といった声があがり、同委員会の最終見解には盛り込まれなかった)。 ほかにも同委員会は、いわゆる「従軍慰安婦」問題で元慰安婦への金銭賠償や公式謝罪などの「完全かつ効果的な賠償」を行うことも要求している。 これら国連の見解は著しく公平性を欠いているようにしか見えない。しかしなぜ、国連はここまで日本に厳しいのか。「南京や慰安婦の問題がここまで大きくなったのと、構造はほとんど同じです。日本の左派的な活動家が足しげく国連諸機関に通い、そこで日本のネガティブなイメージを拡散している事実があるのです」 そう語るのは、前衆議院議員の杉田水脈氏である。“意図ある日本人の巣”で広められる悪印象 国連では加盟各国のNGOなどを集めたセッションを定期的に開催。そこから世界の“市民の声”を吸い上げる形で、さまざまな報告書を作成している。以前から、国連の“反日的”な姿勢に疑問を感じていた杉田氏は、昨年7月と今年2月にスイスのジュネーブで行われた国連女子差別撤廃委員会のセッションに参加。 しかしそこで杉田氏が見たものとは、日本から遠く離れたジュネーブの地に詰めかける、大勢の日本人の姿だった。「100人はいたでしょうか。そしてその日本人たちのほとんどは、左派系の市民団体のメンバーでした。セッションでは参加者によるスピーチも許されたのですが、彼らは口々に『旧日本軍に強制連行された性奴隷の従軍慰安婦』といった話をする。 私が登壇して『慰安婦の強制連行はありません』と話したら、国連のスタッフの方々が『初めて聞く話だが、本当なのか』と驚いていたのがとても印象的でした」(杉田氏) つまりこれまで、国連とはこうした“意図ある日本人の巣”のようになっていて、そこで日本に対する一方的な悪印象が広められ続けていたのだ。ただ杉田氏は自らが参加した女子差別撤廃委員会の場で、皇室典範に関する議論は一度も耳にしなかったという。「おそらくそれは非公開協議の場で話し合われたことだと思うんです。そこには国連の認定NGOとして一定期間の活動実績があり、特別な認証を受けた団体の関係者しか加わることができません。日本の保守派はほぼこの認証を持っていません」(同前) もちろん、国連に伝えられる情報が客観的なデータに裏付けされたものであれば、話は別だ。しかし、前述の「女子学生の30%が援交経験者」のような歪んだ数字が伝達されているとしたら、見過ごすことはできない。 この問題の構造を指摘するのが、国連の問題に詳しい外交問題アナリストの藤木俊一氏だ。「そもそも国連は第2次世界大戦の“連合国”。旧敵国・日本への批判は通りやすい組織風土があります。そこに日本の左派団体が行って反日的なスピーチなどをすれば非常に歓迎されて、それに基づいた勧告などがつくられてしまう流れがある。日本の左翼はそれを利用し、いま国連という権威をバックにした反日活動を強化させているのです。 ただ問題は、日本の保守派は今まで国連をあまりに軽視していて、認定NGOを育てる努力もしないなど、欠席裁判状態を放置してきたこと。この現状は左派、保守の双方に責任がある」 慰安婦問題を例にとると、朝日新聞の「吉田証言」取り消し以降、国内の左派団体の主張は軒並み力を失った。その挽回のため、劣勢の国内を避け、保守言論の力が及ばない国連の場が選ばれているということなのか。 ちなみに杉田氏がジュネーブで見た左派系団体で「目立つ存在だった」という国連認定NGO「新日本婦人の会」に取材を申し込むと、「貴誌の取材は受けられない」との答え。同じく国連認定NGO「ヒューマンライツ・ナウ」事務局長で「女子学生の30%は援助交際経験者」発言の国連ブキッキオ氏と事前接触をしていたと一部報道があった弁護士の伊藤和子氏にも取材を申し込んだが、締め切りまでに回答はなかった。 国連と左派の“密会現場”は、左派の思惑と保守の無策でつくられたカーテンで、覆われているのだ。●文/小川寛大(ジャーナリスト)/1979年、熊本県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。宗教業界紙「中外日報」記者を経て、現在「宗教問題」編集長。関連記事■ 韓国紙 外相が国連総会で安倍首相の足引っ張るかで沸き立つ■ 中国は自国の地図で「尖閣諸島は日本領土」と明記していた■ 韓国 対馬を自国領とし、沖縄にも権利が及ぶと主張している■ 女三四郎・山口香が不祥事続く柔道界の問題点を鋭く突いた本■ 日本に厳しい国連 日本のリベラル系団体の溜まり場に

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    日本軍「残虐行為」はどう創作されたか? 中国に洗脳された日本人

    別冊正論26号「『南京』斬り」(日工ムック) より田辺敏雄(昭和史研究家)「中国の旅」で集団ヒステリーに わが国をめぐって中国が喧伝する「歴史問題」をつきつめれば、日本軍による残虐行為、残虐事件の存否と程度の問題に帰着すると思う。となれば、これらを乗り越えないかぎり問題の好転は期待できない。 中国における残虐行為は二つの経路でわれわれ国民にとどいた。一つは朝日新聞を筆頭とするメディアによる現地ルポであり、一つは終戦後、中国に囚われた日本人いわゆる中国戦犯の「証言」であった。昭和四十年代後半、両経路による日本軍断罪が同時にはじまった。朝日の本多勝一記者による「中国の旅」と「天皇の軍隊」である。著者自ら中国の言いなりの内容を検証もせず書いたことを認めた『中国の旅』 昭和四十六年八月から十二月まで、朝日は本多記者の「中国の旅」を約四十日間にわたって連載。「アサヒグラフ」「週刊朝日」「朝日ジャーナル」など手持ちの媒体も総動員して、日本軍断罪の一大キャンペーンを開始したのである。いずれも読んでいて気持が悪くなったという人もいるほど、日本軍および民間人が行った残虐非道な行為であふれかえっていた。 連載は平頂山(へいちようざん)事件にはじまり、万人坑(まんにんこう)、南京事件、三光政策とつづいた。このルポは日本側の裏づけ取材がなく、中国の説明を鵜呑みにしたものにもかかわらず、いずれも事実とされ高校用歴史教科書(一部は中学校用も)、百科事典に採用された。 連載は単行本、文庫本となり、さらに『中国の旅』の写真版という『中国の日本軍』(創樹社)が出版された。人骨累々の写真が教育に有効として『中国の日本軍』を「必読文献」に推薦した高校用教科書もある。連載に触発されたのだろう、メディアは競うように中国に出かけては日本軍の悪行を聞き出して報じた。 山本七平は「『中国の旅』がまき起こした集団ヒステリー状態は、満州事変直前の『中村震太郎事件』や日華事変直前の『通州事件』の報道がまき起した状態と非常によく似ているのである」とし、日本人の受けた衝撃の大きさを記している(『日本はなぜ敗れるのか』 角川書店)。「中国の旅」連載とほぼ同時期、月刊誌「現代の眼」に「天皇の軍隊」と題した取材報告が連載された。著者名は熊沢京次郎とあるが、筆者は本多勝一と長沼節夫(時事通信記者)である。連載は同名の単行本(現代評論社)となり、後に二人の実名をもって朝日文庫に加えられた。発行当初は話題になったが現在では「悪書」の一言で片づけられる『天皇の軍隊』 内容はといえば、中国山東省に駐留した第五十九師団による数々の残虐事件、残虐行為を「日本兵の証言」をもって糾弾したものである。軍紀は死語同然、やりたい放題の日本兵の姿があった。討伐作戦とは「女あさりにカッパライ」、女と見れば強姦は日常茶飯事、あげくに異様な手段での殺害も珍しくない。男の方は拷問、菜切り庖丁で胸から腹まで断ち割るといった凄まじさである。『中国の旅』に加えて『天皇の軍隊』を読めば、国民はかつての日本軍に嫌悪感をつのらせ、同師団にとどまらず日本軍全体が同様であったと考えるだろう。ところが「日本兵の証言」というのが曲者で、登場人物を調べたところ予想どおり、残虐行為の証言者はことごとく中国戦犯だったのである。「中国戦犯」と「洗脳」について「中国戦犯」と「洗脳」について 六十万人といわれるソ連抑留者のうち九百六十九人が選別されて中国に送られ、撫順(ぶじゆん)戦犯管理所という名の監獄に収容された。昭和二十五年七月のことであった。引き渡しはスターリンと毛沢東の合意という見方がある。 一方、中国山西省では日本降伏後も国民党系の閻(えん)錫山(しやくざん)軍と共産八路(はちろ)軍とが戦闘状態にあった。閻は「日本人居留民を帰国させる」などの条件で、日本軍(第一軍)に残留を要請、受け入れた日本軍は閻とともに八路軍と戦うことになった。結果は八路軍の勝利に終わり日本軍は投降、第一軍関係者ら百四十人が太原(たいげん)戦犯管理所に収容された。撫順組と太原組を合わせた千百九人が中国戦犯といわれる人たちである。 軍関係では師団長四人(いずれも中将)、内訳は藤田茂師団長以下二百六十人という最多の第五十九師団、佐々眞之助師団長以下二百人の三十九師団、ほかに鈴木啓久(ひらく)第百十七師団長、岸川健一第六十三師団長(抑留中死亡)であった。文官の方は満州国高官・古海忠之らが含まれた。 六年後の中国共産党の軍事法廷で、軍上層部を中心に四十五人が有罪(有期の禁固刑)となり、残る約千人は起訴免除となって昭和三十一年に帰国した。したがって、ソ連の分と合わせれば十年以上も捕虜の身となった人が大部分だったのである。 この六年の間に彼らは洗脳されたのではないかと帰国当時から言われた。帰国時の発言と中国に書き残した手記を集めた『三光』(カッパブックス、昭和三十二)の出版が影響したものと思われる。描かれた行為が異様なほど残忍だったからである。 撫順戦犯管理所に日本語通訳として勤務、日本人の指導・監督にあたった金源所長は、総括とも呼べる日本兵の残虐ぶりを次のように記している。「あるひどい者は、吸血鬼のように、中国人を撲殺した後、その肝と脳味噌を食べたのである。このような人間性の一かけらもないような野獣のごとき実例は、枚挙にいとまがない」と。 彼らは帰国後に「中帰連」 (中国帰還者連絡会)を組織し、初代会長に藤田茂第五十九師団長が就任した。藤田は「自筆供述書」の最後に「私は私に斯かる罪行を犯さしめたる裕(ひろ)仁(ひと)に対し、心よりの憎恨と斗争を宣言するものであります」と書いている。呼び捨てにされた「裕仁」は昭和天皇のことである。 心理学が専門の小田晋・元帝塚山学院大学教授は、洗脳について以下のように説明している。 〈広い意味での「洗脳」は、他人の意思を屈従変更させるための精神操作の手法をいいます。つまり、宗教的、政治的、商業的(販売の手段としてのコマーシャル)、犯罪的な手法を総称して「洗脳」といいます。(略)狭い意味での「洗脳」は、旧共産圏の秘密警察や特務機関が捕虜または政治犯を告白させたり転向させたりするためにもちいた手段を指します。〉(「歴史と教育」平成十五年三月号) 「中国側は洗脳なんて言葉の存在も知らないと否定する」(小田氏)が、「洗脳」は中国の造語である。「ブレイン・ウォッシング」は洗脳の英訳であり、洗脳の技術を中国が保有していたことに間違いなかろう。米ジャーナリストのエドワード・ハンター著『洗脳 中共の心理戦争を解剖する』(法政大学出版局、昭和二十八)は、このことを含め、説得力のある説明が実例をもって示されている。収容所の思想改造過程とは…収容所の思想改造過程とは… 撫順戦犯管理所に収容された日本人は三カ月後の昭和二十五年十月、朝鮮戦争の激化に伴いハルビンと呼蘭の両収容所に移動、前者は佐官級以上、後者は尉官級以下が入所した。そして六カ月後、少尉以下六百六十九人が撫順に復帰し、残りは二十八年十月までハルビンにとどまった。〝日本人を使った中国の宣伝書〟であった『三光』。中帰連自らが新編や完全版も出している 呼蘭収容所で思想改造のための基礎づくりが進行していた。思想改造は「坦(たん)白(ぱい)(自白)」を促す前の過程である。尉官以下七百余人の思想改造教育にあたった呉浩然によると、まず学習を望んだ八十余人で六つの学習組を作り、国友俊太郎、大河原孝一、小山一郎ら六人を学習組長に選び先行教育を行ったという。六人はソ連時代、捕虜の上に君臨したアクチーブ(積極活動分子)で、撫順でも思想改造の推進役となった。 一方、ハルビンに残った組からも尉官十四人が選ばれ、先行教育が行われた。彼らの大部分もまたアクチーブであり、帰国後は「中帰連」で中心的役割を担ったのである。 まず学習。教材はレーニンの『帝国主義論』や日本共産党編纂の資料などが選ばれた。狙いは階級闘争理論の習得で「その基本精神をのみこんでから、実際と結び付けて討論」するのだという。討論は週一回、当初の議題は朝鮮戦争関連が多かったようだ。学習者たちは「資本主義帝国主義の反動的本質をある程度認識し始め」ると、なかの一人は討論中「日本の社会は、資本主義から帝国主義社会に到達したので、国外にむけての拡張となり、中国に対する侵略戦争を引き起こした。この歴史発展の過程は、レーニンの本と同じだ」と述べたという。 もどった撫順戦犯管理所は収容棟が七棟、尉官以下を収容する棟は十五程度の小部屋からなり、十七人が一組になって収容された。呼蘭で先行学習した八十人を意識的に各部屋に配置したと呉浩然は書く。以下、学習、坦白、認罪と進むが、重要と思われる事項に触れておきたい。 ①強調された「二つの態度と二つの道」 「罪を認めれば寛大な処置が受けられ、罪を認めなければ厳しい処置を受けなければならない」と絶えず強調された。同時に、罪の大小で処分が決まるのではなく、「罪行は重くとも完全に共産主義思想になった者は許す。罪行は軽微でも、思想を改造できない者は重く処分する」と強調されつづけた。 恐ろしい論法と思う。身に覚えのないことでも、取り調べる側が「事実」だという心証を持つなり、あるいは何らかの意図を持てば「自白」を引き出すことが可能だからである。死刑になるかもしれない恐怖、故国へ帰りたいという熱望、これらを背景に「二つの態度と二つの道」が使い分けられれば、どのような結果を生むかおおよその見当はつく。 ②「自白」中心の取り調べ 取り調べにあたって、検察側が具体的な犯罪事実を提示することはなく、ほとんどが「自白」といってよい。有罪者の一人、横山光彦・元ハルビン高等法院次長の記述からもうかがえる(『望郷』 サイマル出版会)。〈「お調べがついているでしょうから、それをお示しください。そうすれば私も思い出せることもあるでしょう」というのだが検察員は聞き入れない。「中国は、お前が自らの記憶に基づいて述べることを要求する。誠実な態度であれば思い出せるはずである。今日は監房へ帰れ」となんべん言われたことか〉 ③下を落としてから上位者へ 取り調べは階級の低い方を先に、上位者は後からが原則であった。下位者の「罪行」を得ることによって、上位者の「罪行」を追及しやすくなるからである。相互批判と誘導「告白」で総崩れ相互批判と誘導「告白」で総崩れ 星野幸作軍曹(六十三師団独立歩兵第八十七大隊)の記録が残る。軍曹は同大隊の戦友会によくでていたというが、私が参加したときは体調不良とのことで会えなかった。 呼蘭収容所の生活は不潔の一言で「水の不便と南京虫には泣かされ」、皮膚病に手を焼いたという。これといった取り調べもなく、退屈な日々を手製の麻雀などで過ごす。撫順にもどって嬉しかったのは一年ぶりの風呂だった(以降、入浴は週一度)。最初のうちは高粱(コーリヤン)と粟、二年目頃より米の飯が与えられた。ソ連時代のように「空腹を抱えて」といったことはなく、腹一杯食べられたのは嬉しいことだったと記している。かわら生産など軽作業(佐官級以上は免除)と学習をしながら過ごしていく。現在も建物が保存、一般公開されて反日プロパガンダの舞台になっている旧「撫順戦犯管理所」 二年余が経過したある日、全員が屋外に集められた。壇上に上がった所長から、中国人民を何人殺し、どんな被害を与えたのか、「即ち、『焼く』『殺す』『犯す』等々を何処でどうして行ったか」を書いて出すよう指示がでた。「やっぱりくるときがきた」と思ったものの、所長の態度から深刻に考えなかったという。 昭和二十八年九月中旬、再び全員が集められ所長が壇上に立った。いやな予感がしたという。「中国人民は君達のような帝国主義思想の持ち主は絶対に許さない。(略)中国人民は君達を招待したのではい。勝手に中国に乱入したのだ。そして我々の同胞を殺し、極悪非道の犯行を平気でやってきた。(略)その重大な犯罪を中国人民は許すと思うか。お前達を殺すも生かすも中国人民の権利であり、自由意志である」。 話し終わった所長の顔は真っ赤だったと星野軍曹は記している。先々を思うと目の前が真っ暗になる。無言のまま部屋にもどると集会が開かれ「民生委員」が選出される。そこで、「認罪運動」を秘めた学習方法が提唱されたというのである。ソ連抑留と違って、見たこと聞いたことなど「事実の晒しあい」で、いつ自分が槍玉にあがるかわからないため命の縮まる思いをしたという。「学習」「討論」「認罪」の繰り返し、これが自分の運命を決する問題と知りながらも、その心境をどう表したらいいか「言葉さえ見つからない」と書いている。数カ月後、再び「供述書」の提出を命ぜられ、紙切れ一枚残さず提出した。 二十九年四月、抑留者にとって忘れられない日が訪れた。その日の所長は「今日の私が閻魔様に見えるか、それとも仏様に見えるかは、君たち自身が決めること」だといい、真面目に学習し思想改造している者には仏様に見えるはずだと話す。 また、認罪とは素直に自分の罪行を認め、「焼く」「殺す」「犯す」の重大犯行を具体的に書き出すことだというのである。そして、真面目に学習したという数人が壇上に立ち、みずからの「犯行」を告白した。 初めに立ったのは宮崎弘中尉(三十九師団二百三十二連隊、機関銃中隊長)。ハルビンで先行教育をうけた十四人の一人でアクチーブであった。宮崎は全身を震わせ、涙とともに自らの残虐行為を告白する。内容は、部落襲撃のとき、老人子供を銃剣で刺殺、逃げ遅れた妊婦を裸にして皆の前で刺殺したというのであった。 呉浩然は、認罪態度のよい宮崎弘に「全所の戦犯の前で、認罪・告白・摘発の模範的発表をさせた」とし、「身をもって説く典型的な発言は、強烈な影響力があり、その他の戦犯認罪にしっかりした推進作用を引き起こした」と書いている。 この告白は他の日本人にとって衝撃であった。宮崎の告白は機関銃中隊長のできる所業ではないという醒めた見方もあったが、大勢は一気に「認罪」へと向かったのである。二カ月後、「徹底した綿密な工作によって」、尉官級以下四千余件の摘発資料、上司や他者の罪行一万四千余項目を摘発したと呉は記している。 こうして上官や他者の犯罪資料をも獲得し、個人の認罪から「グループ認罪」へと進めていった。二十九年五月頃のことである。グループ認罪は同じ部隊の者十余人一組となって行う。各自が順に「坦白」を行い、「自己批判」と「相互批判」を通じて共通の「認罪」に到達させるものであった。こうしてグループに共有された罪行をもって佐官、将官級に認罪を迫るのである。 この過程を富永正三中尉(二百三十二連隊第十中隊長、元中帰連会長)は次のように説明している。 仲間から「まだ隠している」「殺される被害者の無念の思いがわかっていない」等の声があがり、食事もノドを通らぬ状況も出、自殺者まででた。「この深刻な命がけの自己批判と相互批判の学習が数か月」つづき、将官、佐官の場合はさらに長くつづいたという。そして「内容が検察官の資料と一致し、改悛の情が認められてやっとパスする」のだといい、この命がけの学習を経て「鬼から人間に立ち帰った」と強調する。こうして告白したものを「ウソ」とは何事かと言うのである。「自筆供述書」「手記」の内実「自筆供述書」「手記」の内実 こうした経過の後、彼らが残した「証言」を三分類するとわかりやすいかもしれない。 第一は、検察官による取り調べの末に書いた「自筆供述書」である。供述書は中国と折り合いのいい新聞社や学者らを通して散発的に日本で紹介されてきた。 平成十年四月、有罪となった四十五人分の「自筆供述書」を、中帰連とつながりの深い報道写真家・新井利男が中国から入手、朝日新聞社と共同通信社に持ち込んだ。新井の目論見どおりだったろう、朝日を含めた四十五紙が報じ、十七紙が一面トップ扱いの報道だったという。 この時点における生存者はわずか四人と朝日は報じている。わけても、すでに他界していた鈴木啓久中将の供述書に、「慰安婦強制連行」の記述があったため注目を集めた。 そして十六年経過した平成二十六年七月、中国中央公文書館はネット上に四十五人全員の「自筆供述書」を全ページ写真版で公開した。さらに二十七年八月、金子安次(五十九師団機関銃中隊、伍長)ら三十一人の供述書(一部)を公表した。 三十一人は女性を見ると見境なく強姦、輪姦し、多くの兵士が彼女らを殺害する残忍さだ。この供述書公開は韓国との共闘が視野にあってのことだろう。また世界記憶遺産登録の狙いもあるだろう、八百余人分、百二十冊、二万六千㌻の『供述書選集』を発行すると中国メディアは報じた。撫順戦犯管理所で有罪とされた日本軍将兵45人の「供述書」について、3面にわたり大々的に報じる平成10年4月5日付朝日新聞。共同通信も「供述書」の内容をそのまま報じ、地方紙などに大きな影響を与えた 二番目は「手記」である。手記は取り調べが終了し、判決を待つ間に「有志」が書いたとされ、昭和三十一年に十五人の手記を編んだ『三光』が発行された。三光とは殺光、焼光、奪光(搶光)を指す中国語で、「殺しつくし、焼きつくし、奪いつくす」の意である。「生体解剖」「細菌作戦」「毒ガス攻撃」「労工狩り」などあらゆる犯罪行為を当事者として語っていた。編者の神吉(かんき)晴夫は想像を絶する行為だと言い、「いくら戦争といっても、私たちの同胞が、こんなことまではたしてできるのだろうか。しかし、残念ながらこれが事実なのです」と書き、疑う様子はない。 だが、書名となった手記「三光」からして、部下が読めば「作り話」とわかるように書いた小田二郎少佐の苦心作なのである。「問題の手記『三光』の隠されたシグナル」(月刊「正論」平成十年十一月号)に報告してある。 時をおいた昭和五十七年、中帰連は現状を「急激な右傾の道をたどる情勢」と認識、自らの手で『新編三光 第一集』(カッパブックス)を発行した。前回の『三光』と同様、十五人の手記を掲載したもので、銃剣で妊婦の腹を裂く「胎児」、農民の生き胆を取り出して食う「群鬼」など、相変わらずのものであった。本多勝一が「まえがき」を書き、作家の野間宏は「胎児」を信じ込み、井上ひさしも「日本民族を鍛え直す研(と)石(いし)である」とする推薦文を寄せている。 この年は「教科書誤報問題」が起こり、文部省の教科書検定の是非などをめぐって騒がしかった。前後して吉田清治の『私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行』、ベストセラーとなった森村誠一の『悪魔の飽食』も発行され、この後も手記集の出版はつづいた。 帰国後の「証言」と同調する学者帰国後の「証言」と同調する学者 三番目は帰国後の「証言」である。平成元年八月、NHKは「撫順・太原戦犯管理所 1062人の手記」を放送した。中帰連の知名度は一気にあがり、取材やら学校からの講演依頼やらが舞い込んだ。「アサヒグラフ」も取材のうえ「いま戦争を問い直す」とした特集を組んだが、相変わらず彼らの言を鵜のみにし、裏づけをとった様子は見えない。 中帰連は「反戦平和部」を強化、番組に出演した小島隆男中尉(五十九師団機関銃中隊長)が部長に就任、とくにマスコミの取材に積極的に応じる一方、出版活動も強化していった。中帰連はメディアの有力な情報源の地位を確立したのである。 小島中尉は自ら範を示そうとしたのか、後述の「八千人強制連行」、七三一部隊「コレラ作戦」などを積極的に証言する。また、中国に出かけては聴衆の前で強制連行を告白・謝罪する。それを朝日新聞が写真入りで「元機関銃中隊長、しょく罪、告白の行脚」(平成五年七月十五日付)などと大きく報じた。中帰連が組織された当初は、抑留中の補償を日本政府に求めるなど経済問題が中心であったが、この時点では「日本の右傾化を阻止する」ため、天皇の戦争責任追及を含めた政治活動へと変質していたのである。 四十五人の供述書が朝日と共同通信社に持ち込まれたことは既述したが、月刊誌「世界」に三人の師団長を含む八人の供述書が公開された。藤原彰・元一橋大学名誉教授が冒頭「史料の意義について 『三光政策』の実態」とした解説を加えている。藤原教授といえば、南京事件による犠牲者二十万人以上を主張した大虐殺派の大御所であった。 まず供述内容について「本人が事実をすべて認めているだけでなく、その内容がきわめて詳細でかつ正確なのである」と総括。日本側の「戦闘詳報」などの史料と照合しても明らかだとも言い、手放しの傾倒ぶりである。そして、抗日根拠地に対する燼滅(じんめつ)掃討作戦、遮断壕の構築、無人地帯などをあげて「三光政策そのもの」だとし、さらに「慰安所の設置と『慰安婦』の強制連行などが、軍による組織的行為として行われていたことも明らかにされている」など、供述書を全面肯定した。 これらは『侵略の証言』(岩波書店、平成十一)になった。藤原は解説「『三光政策』の実態」を書いているが、「史料の意義について」という表題は消え、おかしなことに右に引用した部分がことごとく消えているのである。批判の前に「うまくない」とでも思ったのだろう。中帰連は「すべて事実だ」とし、少なくない学者が藤原同様の見方をしている。 となれば、多くの虚偽例を示すことこそが、藤原らの主張が見当違いだと言うために必要であろう。以下、「中国の旅」の検証結果と中国戦犯証言の信憑性について略記する。「中国の旅」の検証結果は…「中国の旅」の検証結果は… 連載で最初に報じられた「平頂山事件」は昭和七年九月、撫順炭鉱が襲撃されたことに端を発した日本軍による住民殺害事件である。中国のいう犠牲者三千人が、検証抜きで教科書、百科事典などに載った。だが、資料、証言はことごとく六百人前後を示している。事件は軍の蛮行で非難は免れない。ただし、中国の報告書『平頂山大屠殺惨案始末』は創作部分が多く信頼性は低い。「平頂山事件」が捏造であることを田辺氏が検証し、著書としてまとめた『追跡 平頂山事件』(図書出版社、昭和63) 「万人坑」とは、主に満州の日本経営の鉱山や大規模な工事現場で、労働者にろくな食事も与えず過酷な労働を強要、ケガや病気などで使いものにならなくなると、生きながらも捨てた「ヒト捨て場」だと説明されている。犠牲者二十五万―三十万人の撫順炭鉱、一万七千人の南満鉱業が取りあげられた。後者は人骨発掘現場に記念館が建つ。 本多はアウシュビッツ収容所を見たことはなく、「だからこの万人坑のような恐ろしい光景は、生涯で初めてであった」とし、その衝撃は「脳裏に終生消えることのないであろう擦痕を残した」と書いている。 中国は大同炭鉱、豊満ダムなど二十カ所近く、人骨の展示館を開設している。だがこれらは中国のでっち上げである。証明はそれほど難しくない。「万人坑」と検索のうえ、大量の写真を集めたサイトを見てほしい。もしこのでっち上げが事実とされたら、日本の異議など世界は相手にしなくなるだろう。「南京事件」については、「百人斬り競争」を蒸し返し、「三十万人大虐殺」を流布したとだけ記しておく。田辺氏㊥の質問に「慰安婦狩りなどなかった」ときっぱり否定した炭江秀郎㊨、森友衛㊧の両副官=平成10年10月「三光政策」について、本多は「南京大虐殺」は市民や捕虜多数を無差別に殺害したが、それでも「軍の最高方針による計画的虐殺ではなかった」とし、八路軍の活躍が目立ちはじめた昭和十五年頃から「三光作戦」としての皆殺し、「三光政策」としての計画的虐殺が本格化したというのである。根拠のあやふやなこの解釈が幅を利かした。 だが、「三光作戦」という作戦名はもちろん、「三光」という言葉さえ前線の日本兵は聞いたことがないのである。ただ、「三光政策の村」として取りあげられた「潘家峪(はんかよく)」の出来事は存在する。例によって死者数など違いは大きいが、現場にいた下士官(複数)から話は聞き取ってある。慰安婦強制連行と人肉食のデタラメ慰安婦強制連行と人肉食のデタラメ  中国は鈴木啓久中将の強制連行を認める供述を「決め球」としているようだ。中将は帰国後、『中北支における剿共(そうきょう)戦の実態と教訓』『第百十七師団長の回想』という長文の手記を残している。この二編は供述書の検証に貴重な資料となる。「強制連行」は二カ所でてくるが、ほぼ同一内容なので第二十七歩兵団長時代(少将)の方を紹介しよう。「私は各所(豊潤、砂河鎮其の他二、三)に慰安所を設置することを命令し、中国人民婦女を誘拐して慰安婦となしたのであります。其の婦女の数は約六〇名であります」 二十七歩兵団は支那駐屯歩兵一―三連隊を主力に構成された。第一連隊の戦友会会長・内海通勝は「軍が慰安婦狩りなどやるわけがないよ」といって戦友会ともども調査に協力してくれた。当時、鈴木少将の副官であった炭江秀郎は、慰安婦狩りを行ったとする冀(き)東(とう)作戦の作戦命令すべてに目を通してきたとし、「歩兵団長の意向を受けて作戦命令を起案、裁可を得る。副官の側印がなければ作戦命令は出せない。だから、慰安婦狩りが事実なら知らないわけがない」と否定する。「冀」は河北省の別称である。炭江の次に副官をつとめた森友衛も「その事実はない」と否定し、他の十九人も結論は同じであった。 鈴木中将は「謹厳実直」「古武士風」であったと森副官は形容し、酒、タバコとは無縁、夜の食事前に謡をうたうのが常だったという。また、習字や読書で過ごすことが多かったと炭江は百十七師団史『大黄河』に思い出を寄せている。撫順戦犯管理所で撮影されたとみられる鈴木啓久中将 中将は会津若松出身、義和団事件(北清事変)で連合国から賞賛された柴五郎中佐(後に大将)と同県人であり私淑していたようだ。二編の手記に慰安婦記述はない。 平成二十七年八月、中国国家档案局は特集「慰安婦 日本軍性奴隷文書選」をネット上に公開した。その一つに文献テレフィルム「『慰安婦』 日本軍の性奴隷」と題した十五分ほどの動画がある。英語のナレーションと字幕がついているから、アメリカなど英語圏で流すのが目的だろう。ここに「強制連行の証人」二人が登場する。鈴木中将と絵鳩毅軍曹(五十九師団独立歩兵四十四大隊)で、中将は供述書、絵鳩は本人の録画証言である。絵鳩は語る。 「それは捕虜の中の一名の女性が、ある下士官の慰安婦に連れていた。それが索格荘の駐在が長くなって、食べ物に若干苦しむようになったとき、彼はその女性を殺害しその肉を食べ、自分で食べたばかりでなく中隊に、今日は大隊本部から肉がわたったから(と)ごまかして、それを中隊の全兵隊に食べさせたという噂をききました」 この証言は、噂話を聞いたものだが字幕に訳されていない。中国はこうした尉官、下士官級の証言を丹念に記録していて、絵鳩証言は他の七人とともに最近公開された。「ある下士官」というのは榎本正代曹長(旧姓新井、同師団百十大隊)である。 この話は『天皇の軍隊』(朝日文庫)と『私たちは中国でなにをしたか』(中帰連編、新風書房)の双方にでてくる。榎本は『天皇の軍隊』の主要な証言者で、強姦など当たり前、満期除隊になる兵士の土産話にと農夫を捕まえ「野菜包丁で胸から腹まで絶ち割って見せた」といった猟奇的告白が目立つ。証言の真偽は両者の記述の違いから与太話と見当がつく。およそ、実体験では起こりえない相違があるからである。 ―終戦も近い昭和二十年四月の秀嶺作戦中、伊藤誠少尉の率いる第二中隊はある山村に宿営する。宿営三日目、指揮班長の榎本曹長は誰にともなく「今日はもう肉類が全然なくなっちゃったんでどうするかなあ」というと、伊藤少尉は「そうだなあ、オイ、ひとつやっちゃうか」と榎本をのぞき込むようにいう。少尉は宿営中の部落から娘を連れてきた。少尉が後ろから娘を「突き飛ばすのと、曹長の短剣が娘の胸を刺すのと、ほとんど同時だった」と本多勝一は書く。二人は短時間で処理できる太ももを切り取り、スライスして油で炒めると全隊員七十人に配った―以上が『天皇の軍隊』の記述である。人民日報ネット版の絵鳩毅軍曹の記事を2015年8月15日に転載した香港・蘋果(りんご)日報系ニュースサイト。「1956年に中国が釈放した日本戦犯の絵鳩毅は、2013(平成25)年に訪ねた中国の研究員に対し『山東である下士官が一人の少女を無理やり自分の慰安婦にし、後に殺してその肉を食べた。大隊本部から肉が支給されたと言って中隊の全員に食べさせた』と語った」などとある。 後者になると話が違ってくる。まず、娘は榎本が二日前から慰み者に連れていたのだが、何とか処置しなければと思っていた。「このまま殺してはつまらない」と思い娘を裸にして強姦、包丁で刺し殺すと手早く肉を切り取る。それを動物の肉のように見せかけて盛り上げ、指揮班を通じて全員に配る。兵隊は人間の肉とも知らず久しぶりの配給に喜び、携行していた油で揚げたり焼いたりして食べた―というのである。 伊藤中隊長の姿が、後者にはでてこない。二人で密かに殺害、料理をしたというのにである。短剣と包丁の違い、娘についての違いも明らかだから説明は省く。大体、中隊長が隊員の副食をつくるなど、軍隊経験者なら信じやしない。 念のため百十大隊の隊員にあたった。秀嶺作戦に参加した工兵の萩原広松は「娘を食ったなどとんでもない。『天皇の軍隊』など誰も信用していない。自分たちが一番よく知っている」と歯切れよく話す。伊藤中隊に所属したことのある第三中隊小隊長・都筑健一は「無辜の人間を食用にすることは如何に隠密裡に処理しても必ずわかります」とし、噂にも人肉食の話は聞いていないという。 ばかばかしい話と一笑に付してはいけない。ある著名な精神科医は「信じ難い残酷さだ」としながらもこの話を信じてしまい、日本人の「罪の意識」を感じる能力の乏しさを嘆く例もみられるのである。米欧人が信じないわけがない。創作「労工狩り」「うさぎ狩り」創作「労工狩り」「うさぎ狩り」 平成五年五月、NHKは行方不明だった「外務省報告書」発見とトップニュースで報じた。つづく八月十四日、NHKスペシャル「幻の外務省報告書─中国人強制連行の記録」を放送し、同名の本を出版している。いわゆる「河野談話」が八月四日で、新聞もテレビも「慰安婦強制連行」であふれた時期である。国民はまたかと思ったことだろう。もっともこの報告書は知られていたもので、例えば『草の墓標─中国人強制連行の記録』(新日本出版社、昭和三十九)などで取り上げられていた。 昭和十七年十一月、東條内閣は国内の労働力不足を補うため中国人労働者の移入方針を閣議決定した。これにより「約三万九千人が日本国内に連行され、炭鉱などで過酷な労働を強いられるなど約六千八百人が死亡、連行の際に強制半強制という事実が浮かび上がった」という。歴史教科書の「四万人強制連行」はこうした記述に基づいたものである。『中国人強制連行』(西成田豊、東京大学出版会)はこの報告書を含め多角的に言及した分厚な研究書である。まず、強制連行の証言者として大木仲治、大野貞美、榎本正代(前出)の三人が登場し、「労工狩り」「うさぎ狩り」などと呼ぶ日本軍の悪逆な作戦が語られる。この「労工狩り作戦」は労働力調達のほかに目的があったとし、「作戦展開地区を無人地帯に近い状態につくりあげ」ることによって、抗戦主力である華北民衆の力を根こそぎ奪うことだったと著者は断定する。「無人地帯」は三光政策の一環で、「中国人皆殺し作戦」だと主張する日本人学者もいる。三人の証言は多くの本に引用される。だが、三人が中国戦犯であった事実を書かない本があり、この書もその例にもれない。私の知るかぎり「うさぎ狩り作戦」の証言者は十四人を数えるが、ことごとく中国戦犯であった。 大野貞美曹長(六十三師団)の証言を見ると、昭和十七年十月頃、北支部隊の一万人以上が山東省の一角に集まって包囲網を作り、部落に放火し「十八才から四十五才ぐらいまでの男という男を」全部ひっくくったのだという。 ところがである。「私は中隊にいて実際作戦に参加していなかったが」と大野は証言しているにもかかわらず、肝心のこの部分が引用されてないのである。「うさぎ狩り作戦」が事実かどうか、小島隆男中尉(五十九師団独歩四十四大隊、機関銃中隊長)の「八千人強制連行」が創作と証明された例をあげれば、あとは見当がつく。「私はね、この強制連行では実際に中隊長として山東省で作戦をやったんです。この作戦では八千名の方を捕まえたんです」とし、意の向くまま虫けらのように捕らえては殺したと証言する。秋田放送「風の叫び─中国人強制連行のいま」の一コマで、平成六年一月末に日本テレビ系列で全国放送された。NHK「〝戦犯〟たちの告白 撫順・太原戦犯管理所1062人の手記」(平成元年8月15日放送)で「日本軍の悪事」をかたる小島隆男中尉。NHKもこうした話を事実であるかのように垂れ流した 小島によれば、「うさぎ狩り作戦」は総勢数万、一個中隊が四㌔横隊になり、直径三十二㌔の包囲網を作る。機関銃や大砲を撃って包囲を縮め、各隊の進み具合を調整するために飛行機を飛ばす根こそぎ作戦という。 これに反発したのは四十四大隊の戦友会である。会長の千葉信一中尉(第四中隊長)は小島と盛岡予備士官学校の同期で戦後も行き来があったが、そのような命令を受けたことも作戦に参加したこともないと明言する。千葉が小島と連絡をとり、小島側三人と千葉側七人が面談した。小島側から大河原孝一(元中帰連副会長)、千葉側からは小島が中隊長であった全期間部下だった内田行男軍曹も同席した。「八千人の強制連行が中隊長のときとあるが、そのようなことを私は知らないが」と千葉が問うと、小島は「それは四十四大隊のときではなく、第十二軍予備隊付きのときである」とアッサリ証言を翻す。「それではウソではないか」と糺(ただ)すが答えはない。「八十人の間違いではないか」と言う千葉に対して、八千人は第十二軍が流したものだと小島は説明した。 八千人という数は、おそらく第三次魯東作戦(昭和十七年末)の戦果「遺棄死体千百八十三、俘虜八千六百七十五」(防衛庁戦史室、『北支の治安戦2』)から得た知識だと推測するが、これは武器を持つ兵と兵との戦いであった。包囲作戦は日本軍がよく使った戦法で、証言者が農民狩りに作り替えたのだろうと思う。 大木仲治軍曹については、抑留中に「労工狩り」と題した手記を書き、手記集『三光』に収められた。このため引用される頻度が高い。昭和十七年の博西作戦で、大木軍曹が所属する池田第三中隊長の「土百姓(どんびやくしよう)どもを一人も残さず全部捕まえる」の怒号のもと百五十人の農民を、大隊で二千人を捕らえ日本や満州に送った―というのである。 大木証言に対して、同じ千葉県出身で同年兵の染谷鷹治は「我々は承知しているからいいが、一般人が読めば真実と受け取ります。正すべきです」と調査に協力してくれた。染谷は平成二十六年八月放送のNHKスペシャル「いつまでも夢を」に出演、シベリア抑留で苦労を共にした作曲家、吉田正の想い出を語っている。染谷は中国送りを免れ帰国した。「強制連行や万人坑問題は、華北や『満州国』に関して論じられることが多いが、華中にも視野を広げることが求められている」(杉原達『中国人強制連行』 岩波新書)とあるように、強制連行は万人坑と結びつけられる危険性が大きい。中国は満州への強制連行数を三百万人とも四百万人とも言っている。「三光政策」と城野宏の〝詐話〟「三光政策」と城野宏の〝詐話〟 「中国の旅」が報じた三光政策(作戦)は歴史教科書に早速反映された。〈中国共産党の指導する軍民の抵抗に悩まされた日本軍は、一九四〇~一九四三年にかけて、華北の抗日根拠地に対する攻撃のなかで、「焼きつくし、殺しつくし、奪いつくす」いわゆる「三光作戦」をおこなった〉(実教出版「高校日本史」)に見られるように、内容は本多解釈と瓜二つである。「三光」は中国語なのだから、日本軍が「三光作戦」という名称を使うわけがないくらい誰にでもわかる。それに、同作戦に参加したはずの華北駐留の将兵に確かめたが、三光作戦という作戦名を誰一人として知らなかった。その場にいた将兵の知らない作戦が後の世代に教えられるのは異常である。 念のために記しておこう。一九三一(昭和六)年十一月、江西省と福建省の境、瑞金に毛沢東を主席とする中華ソビエト政府が成立、敵対する蒋介石軍はソビエト地区を数次にわたって攻撃する。形勢不利となった共産軍は瑞金を脱出、「長征」がはじまる。この攻撃を指して共産党は「三光政策」と非難した。 ほかにも例がある。アメリカに亡命した中国社会科学院政治学研究所の厳家其と夫人の共著『中国文化大革命』に、林彪(りんぴよう)一味は「意見を異にする幹部に対して、『三光政策』(殺しつくし、焼きつくし、奪いつくす政策)に近い中傷迫害を実行した」とする記述がある。要するに、三光政策とは相手を非難するための用語であって、それを真に受ける日本の学者らがおかしいのである。 城野(じようの)宏は終戦後も山西省に残留した「太原組」の一人で、帰国がもっとも遅かったために「最後の戦犯」といわれた。城野は証言する。戦犯管理所で日本から面会に訪れた妻子と面会する城野宏中尉 昭和十五年、北京で開かれた北支那方面軍の兵団長会議で決定された晋西北作戦の記録に、敵地区に侵入したさい食料は輸送か焼却、家屋も破壊または焼却、また人を残すななどと記してあったとし、「男は見つけしだい殺す。命令には女は殺せとは書いてないが、これはわざわざ書くまでもないというだけのこと」で、慰みものに使ったあとは殺してしまうのが普通だった―というのである。  そして具体的な残虐行為の証言に移る。一例をあげると、独立混成第三旅団のある部隊が山西省楼煩鎮(ろうはんちん)で酷いことをしたと話す。 ―ある民家に踏みこむと妊娠中の若妻がいた。裸にして椅子に縛りつける。好奇心にかられた一人が陰部に唐辛子を突っこむ。女は痛さに泣き叫ぶ。ある下士官が腹の中はどうなっているかとばかり「銃剣を陰部にさしこんで、下から徐々に裂いていったんですな」とその場面を説明。そして、腹から胎児を取り出すとしばらく観察し「〝あっ汚い〟とばかりに庭の石にたたきつけて殺してしまったというんです」―というのである。目撃したものか伝聞なのかはっきりしない。 この「証言」は月刊誌「潮」に「日本人と三光作戦」として掲載され、加筆の上『日本人は中国でなにをしたか』(潮出版社、昭和四十七)と題し出版された。単行本『中国の旅』と同時期で、内容は城野証言で占められている。 この話、多くの人が信じたことだろう。城野の肩書きが高級軍人を思わせる「山西野戦軍副司令官」であり、東京帝大法学部(政治学科)の卒業者だからだ。だが、「副司令官」は正規の日本軍の階級とは無縁である。終戦後、日本軍に山西残留を要請した閻錫山が見返りに三階級特進などを提示した結果、あらたにできた職位、階級だからである。 城野は昭和十三年十二月、東京目黒の輜重(しちょう)(輸送)兵第一連隊入隊、幹部候補生となって十五年十一月少尉に任官、十六年一月、山西省運上の輜重兵三十七連隊に転任する。最終階級は陸軍中尉であった。この間、運上特務機関(政治班長)、第一軍参謀部(政治課)ほかに勤務している。 となれば、階級と時期から彼が証言する昭和十五年の北京における兵団長会議の資料を見る機会はありえない。独立混成第三旅団の戦友会(福島)に出席するなどして、楼煩鎮での残虐行為を当地に駐留経験のある下士官などに確かめたところ、「聞いたことはない」「ありえない話だ」など反発の声があがった。戦犯法廷に立つ城野中尉。中国当局が2014年7月明らかにした自筆供述書によると、昭和18年から4度にわたり1500人の機動兵力を派遣して食料15万㌧、鉄20万㌧を日本軍のものとした。21~24年には閻錫山の反共作戦に加わり、人民解放軍に2千数百人の損害を与えるなどしたとあるだけで、「三光作戦」など一言も触れていない 公表された自筆供述書は百二十枚の長文で読むのも一苦労だが、前半が戦中の、後半が山西省残留後の記録である。問題の前半を見ると、三光作戦はもとより「三光」という言葉がどこにもない。自ら最前線で戦った記録もなければ、強制連行や残虐行為の記述もないのである。すると城野の「罪行」とは何なのだろう。それは保安隊の組織化に力を入れたことであり、地下組織の活動を鎮圧するために住民戸籍簿をつくったことなどである。要するに、最前線の戦闘とは関係ないのである。城野証言には首をひねらざるをえない。 最後のページに「自分の敵は裕仁等の戦争販売人であり」、吉田茂売国政府を打倒、美帝を追い出し、中国やソ連の道を歩むべしとある。三光作戦と鈴木中将の「ためらい」三光作戦と鈴木中将の「ためらい」 鈴木中将は二編の手記のほか、母校の仙台陸軍幼年学校の会報「山紫に水清き」のインタビューに昭和五十四年六月応じた。「どんな裁判だったのですか」の質問に、「軍事裁判で一審だけですからな。(略)そして、ありもしないことを住民がなんだかんだと言いますからね〝鈴木部隊が、ここにこういう風に入って来た〟と住民がいうので〝そんな所に私の兵隊を配置したことはありませんよ〟といったって〝住民のいうことに間違いはない〟と言うんだから(略)罪を犯した本人が居らなければ、そこにおった司令官が罪にされるのは当然だと思って〝ああ、そうですか〟って」と発言している。 鈴木啓久中将が帰国後に防衛庁戦史室(当時)の依頼で書いた回顧録「中北支における剿共戦の実態と教訓」 三個連隊を率いて河北省東部と中部の警備に当たった第二十七歩兵団長時代の二年三カ月間が、鈴木中将のもっとも苦労した時代であった。蒋介石軍の大部分は重慶にあったが、傍系軍は多く徹底抗日を叫ぶ。日本軍が彼らを駆逐するとかならずそこには共産軍が進出したという。 密偵などから敵集結の報を受けて出動してもほとんどが空振りに終わる。中将の表現である「空撃」が手記に頻繁に顔を出す。戦闘の実態はゲリラ戦であって、相手が知悉(ちしつ)した土地での闘いに翻弄される日本軍の様が詳細に記述されている。 南京、河南省を含む在中五年間で、唯一の成功例が魯家峪(ろかよく)の闘いであったと書いている。その戦果は「約三百殲滅(せんめつ)」。「魯家峪で殲滅したような成果を挙げたのは全く例外」で、ほかはほとんど空撃であったと説明している。供述書を見ると「魯家峪部落付近の山地に避難せる中国人民の農民二三五名を、中にも妊婦の腹を割り等の野蛮なる方法を用いて惨殺し、(略)尚且つ婦女の強姦百名にも達したのであります」とある。帰国した鈴木中将の歓迎会の様子 この作戦に参加した数人から話を聞きとっている。部落付近は荒涼とした地帯で、日本軍がしばしば伏撃に遭い、ときには大打撃をこうむる。追尾してこの付近にくると足跡を見失う不思議な所とされていた。ここに秘匿陣地のあることがわかり討伐が行われる。 洞窟内に逃げこんで頑強に抵抗する八路軍との戦いであった。後にわかったことだが、洞窟内には機関銃、地雷はもちろん山砲、迫撃砲まで備えていたという。鈴木中将は「逮捕者中、八路軍兵士は捕虜として後送せしめ、他は釈放することを命じて成功を賞して戦斗司令所に帰った」と手記に書いている。 NHKのETV特集「日本人 中国抑留の日々」(平成十一年十二月七日)は、未公開フィルムとして昭和三十一年六月に開かれた軍事法廷の模様を報じた。大物戦犯がぞくぞく登場、自らの罪状を「告白」し謝罪する。「鈴木啓久中将はいわゆる三光作戦を中心になって指揮した将軍です」と断定するナレーションにつづいて中将の告白場面に移る。一部を再現すると、「申しあげますれば、母の所にあった赤ん坊をもぎとって、地べたに叩きつける(と)、妊婦の腹を裂く(と)、生き埋づめを果たす、その上に芝草をかけて焼き殺す。あるいは、銃剣、機関銃あらゆる武器を以って、一時にして、(略)千二百八十余名という大勢の平和人民を三光政策の犠牲としたのであります」 「申しあげますれば」と言ったまま一瞬、中将は間を置く。躊躇しているように見える。さらにナレーションは、「三光作戦が徹底して行われたのは、かつての満州と中国の境界線付近でした」として「無人地帯」をあげる。無人地帯を「住民抹殺作戦」というのである。 結論だけ記すと、日本側の呼称「無住地帯」は部落に敵が紛れこみ、武器など物資の保管場所になるのを防ぐために取った住民の強制移住策である。でなければ、中将が記すように二十日間の猶予を与え、運べるかぎりのものを持って立ち退くよう命じるわけがない。以降いかなる理由があっても帰住は認めないとし、家屋は焼却した。だが、追い払っても追い払っても舞いもどる住民が少なくなかったという。鈴木中将は「之等の処置を中国は『三光政策』と呼んだ」と記しているだけである。強いられた偽証「コレラ作戦」強いられた偽証「コレラ作戦」 各人の「認罪」がおおむね終った後、「グループ認罪」へと移る。グループ全員が認めた事件がまったくの虚偽と証明されたら、多数の証言は何を物語るのだろうか。 ―昭和十八年九月、五十九師団独歩四十四大隊が駐留する山東省の臨清(りんせい)一帯は連日の雨つづきであった。八路軍に手を焼く日本軍は絶好のチャンスと捉え、「衛河(えいが)」と呼ぶ幅数十㍍の運河を決壊させ、農民を根こそぎ抹殺しようと企てた。これに先立ち、日本軍はコレラ菌を付近一帯に散布した。狙いどおりコレラが流行すると大部隊を動員し「コレラ作戦」を開始した。村に行ってはコレラ患者を追いたて、コレラが発生していない村に患者を追い込む作戦である。そうすればコレラが蔓延し農民を根こそぎ絶やせるからであった。衛河決壊作戦とコレラ作戦の結果、犠牲者は二万人とも二十万人ともいう膨大な数に上った― 以上は『三光』所収の難波博少尉の「手記」と『天皇の軍隊』が描く事件の骨格である。数人の部下とともに、哀願する農民の目の前でみずから円(えん)匙(ぴ)(小型シャベル)をもって堤防を決壊させたと証言するのは小島隆男少尉(機関銃小隊長)で、「八千人強制連行」を証言した小島中尉と同一人物である。この出来事の証言者として、少なくとも十四人が供述書に書き残している。 この話はでっち上げである。衛河が決壊したのは事実で、コレラ発生も事実である。だが、決壊は増水による自然決壊で、それどころか日本軍は決壊を防ごうと奮闘したのである。この年はコレラが大流行、山東省各地から満州に向かった労働者を通して、撫順や他地区に飛び火した。 矢崎賢三見習士官(歩兵砲中隊)の供述書で、大隊長から決壊命令を受けたと書かれた蓮尾又一第二中隊長は「全く噴飯もので天地神明に誓って『ノー』である。そのような話は聞いたこともない。命令を受けたことは絶対にない」と否定、同じように名指しされた中村隆次第五中隊長も「とんでもない嘘で笑止千万である」とし、望楼付近の水漏れを発見したため兵士が防ごうとしたのだという。日本軍が衛河を決壊させたなどとする偽証を「噴飯ものだ。そんな命令はなかった」と証言する蓮尾又一第2中隊長(右から2人目)ら独歩44大隊のOB。左端は田辺氏=平成10年4月 決壊を防ごうとしたことは、小島少尉の部下である金子安次(兵長)が『天皇の軍隊』ではからずも証言しているのである。金子ら二十人は望楼の周囲に掘った壕を補強するため、土嚢(どのう)を作り、飯も食わずにフンドシ一つで作業をする。三時間の後、「川が切れたぞ」という日本兵の叫び声を聞き、「やっぱりカーブに当たるところがやられたんだな」と金子の脇でだれかが言ったというのである。だが、機関銃隊員の金子は大隊長の命令で「破壊活動に参加し、円匙で五十㌢堤防を切り崩した」と書き、「コレラ菌を散布せよとの命令を受けた」とも供述書に書いている。 小島の長年の部下で、「八千人強制連行」に関わる両者会談に同席した内田行男軍曹(前出)は、『天皇の軍隊』の小島証言に対し「なぜ、そんな証言をするのか」と電話で抗議した経験を持つ。話が全然違うからだという。「いくらなんでもそんなことやりませんよ」と同様に否定するのは、同じ中国戦犯だった新村隆一兵長(大隊本部)である。何度か会って直接話を聞いた。このほか作り話とする根拠は数多くある。 だが、小島中尉は「私たちは七三一部隊とも協力しました。コレラ菌を対象地域にまきました」と茨城県つくば市で講演するなど、とどまることがなかった。その要旨が『証言・731部隊の真相』(ハル・ゴールド、廣済堂出版)に取り上げられ、世界に拡散していくのである。虚偽を逆手に歴史イメージ回復を虚偽を逆手に歴史イメージ回復を 南京事件に簡単に触れると、中国戦犯の関係者は三人と思われる。 佐々木到一旅団長(十六師団)は昭和三十年獄死、認罪を拒否したのか供述書の類は残っていないようだ。太田寿男少佐については平成二年十二月、〈「南京虐殺」の供述書入手 「十五万体処理」克明に〉と毎日新聞が一面トップで報じたが、見つかった梶谷健郎軍曹の日記により供述書の信頼性は崩壊した。 もう一人は東口義一一等兵で秦郁彦論考「『撫順戦犯裁判』認罪書の読みかた」にでてくる。東口は難民区で六百人殺害と「上官罪行検挙書」に書いたが、佐々木旅団長を「告発」する材料だったようだと秦は推測している。 事実とかけ離れた残虐行為がわれわれ日本人の歴史イメージを決定づけたばかりでなく、世界にまで拡散し浸透している。さらに、中国と韓国の攻勢に事態は深刻度を増す。中国との人口比を考えれば、将来の日本人の安全にとって由々しい問題と思う。この窮地を脱出するために、究明された事実を内外に発信すべしとよくいわれる。 では、具体的にどうする。 以前から考えていたことを記しておきたい。 まず、メディアを通して知ったであろう日本軍の残虐イメージは、虚偽あるいは極端に誇大化されたものかもしれないと、米欧人に疑問を起こさせるわかりやすい事実の提示からはじめる。イメージ回復作戦である。その先陣となりうる打ってつけの材料がある。万人坑である。 なぜ中国が大々的にとりあげ、日本を非難しないのか不思議に思っていた。理由があるはずである。 まず、主だった展示館と内部の人骨を写真と動画に撮り、それらが「真っ赤なウソ」であることの説明をつけ、ネット上に乗せる。視覚に訴えるだけにわかりやすくインパクトもある。米欧人に理解するための証明も可能である。中国では古代からの戦争、そして国共内戦でも大量殺戮・餓死が繰り返され、そのたびに人棄て穴が形成された。それを日本軍民の仕業に仕立てるなどしている。写真は大同炭鉱の万人坑記念館 その上で南京問題等を加えるのがいいのではないか。「五万七千四百十八人」の殺害を目撃した魯甦証言、また「二千八百七十三人」がいつのまにか「二万八千七百三十人」に増えた上新河の殺害、むろん崇善堂の十一万余体の処理も加える。『THE RAPE OF NANKING』に掲載された女性の陰部に棒を突き刺した写真を、通州事件と関連づければ説得力があるだろうし、慰安婦連行写真も候補になる。 これらの組み合わせ方一つで、中国の主張に疑問を持ち、虚偽を見抜く人もでるはずだ。希望的と思わぬでもないが、真面目にそう考えている。 万人坑を事実とする日本人学者(ほとんど大虐殺派)、また炭鉱職員の抗議に対し、中国の代弁をしただけだから「抗議をするのであれば、中国側に直接やって」と言い放った本多勝一、それに口先だけで行動しない朝日新聞に対して、改めて責任を問う契機にもなるのではないか。  たなべ・としお 昭和十三年東京生まれ。東京理科大学中退。会社勤務を経て五十一年に企業の業務改善を進める経営コンサルタントとして独立。一方で支那事変などでの日本軍をめぐる「残虐行為」記述・報道に疑問を抱き、独自に調査を始める。特に中帰連の「証言」宣伝については、該当する部隊などの生存者を一人一人尋ねては真正証言を集め、デタラメであることを実証し続けた。著書に『「朝日」に貶められた現代史―万人坑は中国の作り話だ』(全貌社)、『追跡 平頂山事件 満洲撫順虐殺事件』(図書出版社)、『検証 旧日本軍の「悪行」 歪められた歴史像を見直す』(自由社)。平成十七年からネット上に「脱・洗脳史講座」を開設し、中共による反日洗脳工作や日本での同調組織・人物の実態を究明し、逐一そのプロパガンダを検証し、虚偽であることを実証している。

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    メディア報道は、もう少し両論併記できないか?

    長谷川豊(フリーアナウンサー) メディアは「情報」を操作します。そこに「ある」ものを「なかった」ことにすることも、いとも容易くできます。私自身もやってきたことです。 例えば、終戦直前、南海トラフと想定できる地震が…実は発生していたことって…皆さん、ご存知ですか? 一昨日、建設大臣も務められた大阪の自民党重鎮・中山正暉(まさあき)氏とお話ししたのですが、その時に教えてくれました。終戦直前の時期、毎日のように空襲が行われていたその時。奈良の生駒に疎開していた中山氏が目にしたのは、地震で壊滅状態になった和歌山から立ち上る7本の煙。昭和19年の末か20年の前半。南海トラフと想定出来る巨大レベルの地震が、和歌山を襲っていたのです。実はこの話は、私も昔、祖母から聞いた思い出があります。和歌山辺りにお住まいの方、80代以上の方が近くにいらっしゃったら聞いてみたらいいと思います。覚えている方もいるでしょう。 しかし、混乱を招く、と考えたのか、もしくは戦後日本を占領統治したGHQにとって「不都合な情報」だったのか、その「和歌山巨大地震」のデータは日本全国、完全に抹殺されているのです。どうか日本人には分かってほしい。戦争の終わり前後には… 明らかに多数の「消された・変革された歴史」が存在する。 本当に日本人が愚かだったのか?バカでアホで暴走してアメリカに竹やりで挑んでいただけなのか?もちろん、全部ウソとは思わないのですが…私には、少し疑問に感じる部分があるのです。中国で出版された「南京大虐殺辞典」第1巻(新華社=共同) 有名なのが「南京大虐殺」の話。こちらのデータを見てください。◆広島原爆投下による死亡者数→297,684名(H27原爆死没者名簿登録) ◆長崎原爆投下による死亡者数→168,767名(H27原爆死没者名簿登録) ◆太平洋戦争全体でのアメリカ合衆国民間人死亡者数→1,704名  (英タイムズ・アトラス『第二次世界大戦歴史地図 コンパクト版』/2001年発行)  これは正式に発行されている資料のデータをハンドルネーム「お節介オヤジ」さんが送ってくれたものです。広島における原爆投下による「民間人」の大量虐殺。この犠牲者の数が30万人近かったことから、東京裁判において、アメリカが数値を改ざんして「南京での大虐殺というストーリー」をでっち上げたことはあまりに有名です。日本が「最低のクソ国家」というストーリーを作り上げたアメリカ 『人類に対する罪』という名目で、終戦後に戦勝国たちの手で一方的な裁判(東京裁判)を始めるわけですが、東京大空襲でも10万人の女性や子供を焼き尽くしたアメリカは、それまで全くニュースにすらなったことのなかった南京大虐殺という話を作り上げました。ご丁寧に、日本の朝日新聞はそれをでかでかと宣伝して、売り上げを伸ばすことに成功しました。 1937年12月。南京を日本軍が占領しました。その直前に公式に行われた南京政府の手による人口調査が20万人。日本軍の占領直後…1か月後に行われた人口調査の結果が25万人。 戦争中なので、何らかの犯罪行為はあった可能性がは否定しません。全く物的証拠もないですが、そこは戦争中ですしね。しかし、30万人はないわ。いまだに朝日新聞が必死になって宣伝した「南京大虐殺」を信じている人の脳ってどうなっているのか逆に興味がある。 アメリカは戦争に勝ったことをいいことに、日本を「最低のクソ国家」だというストーリーを作り上げました。クソ国家だったから我々は大量虐殺をしてもよかったのだ、と。自分たちの戦争犯罪をごまかす為に。ま、パフォーマンスです。偉そうに言ってますけど、我々メディアもよくやる手口なんですけど。 私は、第2次世界大戦におけるアメリカの「民間人の大量虐殺行為」は許されるべきではない「非人道的行為」だと思っています。私は「一人の日本人」としてアメリカの大統領が来るのであれば、それは「謝罪」はしなくていいけれど、「間違いは認めるべき」だと考えていました。民間人の大量虐殺は戦争犯罪だ。アメリカは間違いなく、戦争における大犯罪者だと思うのです。 補足しますが、私は、日本の総理も真珠湾に行くべきだと思っています。そして「宣戦布告もせずに不意打ちで基地を破壊した行為」を間違いだったと認めるべきだと考えています。こちらも「謝罪」は必要ないと思っています。でも両者ともに、ナァナァにせずに「認めるべきは認めるべき」だと考えていました。 何か違う、と思う点があるなら…誰か『論理的』に「物証」とともに反論してもらえるかな?出来るなら。 今回の広島訪問。癒された人々もいるのでしょう。それは悪くはなかったと思いますし、その救いはきっと必要だったのでしょう。でも、冷静に冷たくてもジャッジする必要もあると思うのです。 本当に評価するだけでいいのか? あんなレームダックにナァナァにされただけの訪問を、そんなべた褒めだけでいいのか? 頼むからメディアにいる正常な人間は、もうちょっとだけでいいので深く掘り下げる報道もしてくれ。突き放さなくていい。両論の併記をお願いしたいのです。(2016年05月29日 長谷川豊公式ブログ「本気論 本音論」より転載)

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    大虐殺は「中華のファンタジー」  娘と見続けた南京の虚像と現実

    や資料にあたり、「南京大虐殺は幻だ」と言ってもみても、なんの効果もないからだ。なぜなら、南京大虐殺は歴史認識問題ではなく政治問題だからだ。日本軍攻略で敗残国民党軍が街を破壊し尽くした南京にも、今や中心地の新街口周辺には摩天楼が林立する 政治問題であるなら、いまさら論争する必要はなく、単にその現場を見ればいいだけだ。娘の留学先だったナンチン これまで私は何度も南京に行っている。ただ、記念館に足を運んだのは一度だけで、その時は家内を連れて、当時、南京で暮らしていた娘に案内してもらった。 二〇〇六(平成十八)年の初夏、南京の中心街、新街口(シンチエコウ)から記念館までタクシーに乗った。タクシーに乗り込む前から、娘は「日本語を使わないほうがいい」と、家内と私に釘を刺した。 中国では二〇〇五年に最初の大規模な反日デモが起こっていて、南京はとくに反日感情が強いと言われていた。当時、娘はジョンズ・ホプキンス南京センター(中国名・中美文化研究中心=ジョンズホプキンス大学SAIS大学院が南京大学と提携して開設した中国研究所)に留学していて、すでに何度か記念館に行っていた。 南京に留学した当初、「大学の中はいいけど、街に出たら日本人とわからないようにしている」と言っていたので心配していた。しかし、その心配はいらなかった。というのは、娘はいっさい日本語を使わなかったからだ。南京大学と提携して開設しジョンズ・ホプキンス南京センターには英語圏からの留学生も多い ジョンズホプキンス南京センターは、アメリカからの留学生と地元の中国人学生が半々で、一緒に中国経済、文化、歴史について学ぶ。一九八七年に設立されており、アメリカの大学のアジアでの提携プラグラムとしては、もっとも古いものの一つだ。 アジアでの進出先として、最初は日本を考えたというが、日本の大学から断られ、南京大学になったという。南京大学(ナンチンターシュエ)は、中国では、北京大学、清華大学、中国科学技術大学、復旦大学に次ぐ五番手の大学だ。 娘のルームメートは南京大学の職員の一人娘で、日本への留学経験があり日本語も話せた。それで、ただ一人の日本人留学生である娘のルームメイトになったが、二人は常に英語か中国語で話していた。ほかのアメリカ人留学生も同じだった。中国語で話していれば、娘は中国人に見られる。また、英語で話していれば、今度はアジア系アメリカ人に見られる。 中国人はとくにアメリカ人には弱い。これは、アジア人ならみな持っている抜きがたい白人コンプレックスで、中国に行くたびに私は、「この点だけは日本人と同じだ」と思ってきた。 たとえば、留学中のアメリカ人学生は街に出ると、中国語ができても英語で通す。そうすると、買い物でも飲食でも中国人はじつに親切に応対してくれる。彼らが中国語を使うのは、なにかトラブルが起こった時だけだ。そうすると、中国人は「中国語が話せるのか」と驚き、それ以上文句を言わなくなる。日本で常識の捏造写真を堂々展示日本で常識の捏造写真を堂々展示 記念館のチケット売り場で、娘は英語でチケットを買った。そうして、中に入っていきなり目についたのが、「犠牲者30万人」の掲示だった。これには、正直驚いた。 記念館は二〇〇七年に大幅リニューアルされているので、ここからの記述は現在とは異なっているかもしれないが、資料館に入ると、まずガラス張りの「万人坑」遺祉の遺骨の展示があった。これは、大虐殺で殺された人々の遺骨ということだが、全部レプリカだった。そして、延々と日本軍の残虐行為や抗日戦争に関するパネルと資料の展示が続いていた。 日本人なら誰もが知っている〝捏造写真〟も堂々と飾られていた。百人斬りの展示もあった。そういう展示を見ながら、娘は英語で「ウソばっかりでしょ」と言った。私は、気分が沈み、返す言葉も失っていた。建物の外側だけでなく内部にも「これでもか」と「300000」の数字が迫りくる=「南京大虐殺記念館」 記念館には、大勢の観光客にまじって、近所の小学生の一団が、教師に連れられて見学に来ていた。展示物の前で、教師が子供たちに何か説明している。 それで、娘に何を言っているのか聞くと、「あなたたちのおじいさん、おばあさんの中には、このように日本軍に殺された人もいますと言っている」と言う。さらに、見学者が記帳するノートに何か書いていたので、あとからそれを見ると、「日本人は鬼だ」「日本人は皆殺しにせよ」と書いてあると娘が教えてくれた。「こんなのもう見慣れているから、驚かない」と、娘は続けたが、私はますます落ち込んだ。 その後、資料館を出て広場に出ると、先ほどの小学生たちが、お弁当を食べたり記念写真を撮ったりしてはしゃいでいた。遠足といえばそれまでだが、少なくともワシントンDCにある米国国立ホロコースト記念博物館では、こんな光景は見たことがなかった。「大虐殺」「靖國」絡めた朝日 南京大虐殺記念館が建てられたのは、一九八五(昭和六十)年の夏である。それまで、南京市がある江蘇省の小中学生たちは、春の清明節(日本のお盆にあたる)に、国民党との内戦で死亡した共産党員を祀る「烈士霊園」を訪れていたという。 つまり、あの戦争が終わって四十年間、南京大虐殺という歴史認識問題は、日中間には存在しなかったのである。毛沢東は「共産党が国民党に勝てたのは日本軍のおかげ」と言っていたし、彼の記録を読む限り南京大虐殺に関する記述は一行もない。 八五年の夏といえば、私がまず思い出すのは、御巣鷹山に墜落して死者五百二十人を出した日航機事故である。当時、私は週刊誌の編集部にいて、この事故の取材に忙殺されていたので、南京に記念館ができたことなどまったく知らなかった。 これを知らせてくれたのは朝日新聞で、しかも朝日新聞は、突如として総理大臣の靖國神社参拝を批判する論陣を張った。それまで、日本の首相は計五十八回も参拝しているというのに、なぜかこの年から靖國参拝は問題化し、南京大虐殺と併せて日中間の歴史認識問題になってしまった。 ついでに書くと、従軍慰安婦問題にしても平成四(一九九二)年に朝日新聞が捏造記事を書くまでは存在しなかった。つまり、歴史認識問題というのは、ほぼ日本側がつくり出したもので、それに乗って対日批判、反日政策を取る中国・韓国に「歴史の誤解だ」と反論しても意味がない。 私は四十年ほどメディアの仕事をしてきたが、自国民をこれほどまでに貶(おとし)め、しかも捏造を平気で行う大メディアがある国を知らない。これをやるから、外国メディアも興味津々で取り上げる。プロパガンダに踊らされる欧米プロパガンダに踊らされる欧米 私は、日本にいる欧米メディアの記者の何人かと親交があるので、彼らがどのような経緯で日本の記事を書くのか知っている。簡単な話、彼らは日本語があまり得意でない。そこで日英バイリンガルの日本人アシスタントを使い、日本の報道をリサーチさせる。 そうして、その中でいかにも日本的、東洋的なトピックで本国の編集者や読者に受けそうな部分を強調して伝える。要するに、日本の報道をコピーするわけで、これをやると論調まで同じになることが多い。 日中、日韓の歴史認識問題は、こうした記者たちの格好のテキストになる。欧米にとって日本は異質の国であり、「日本異質論」は欧米読者が好むからだ。しかも、問題は時代錯誤の「大虐殺」「靖國」「慰安婦」である。日本女性を妻にしたり恋人にしたりしていない限り、彼らの日本史理解は浅薄だ。 そのため、南京大虐殺は史実の検証などされずに、ナチスのホロコースト(ユダヤ人大虐殺)と同じ扱いにされ、英語でそのまま「Nanjing Massacre」(南京大虐殺)となる。靖國神社は一般の欧米人に「Yasukuni」と言ってもわからないうえ、神社などに興味はないから「war shrine」(戦争神社)となる。従軍慰安婦も同じで、これは単純に「sex slave」(セックス奴隷)と書かれる。 このような英語で表現されると、日本のイメージは抜きがたく悪化する。日本軍は戦争神社にお参りし、戦地ではセックス奴隷を使い、住民を虐殺したということになってしまう。日本の研究で捏造と実証されている多くの写真が堂々と展示される館内。若者や家族連れが見入っている=同 いったんこうしたイメージができてしまうと、もはやひっくり返すことは難しい。ただ、記者なら、私が次のようなことを言えば耳を傾ける。「当時、日本軍は中国の目ぼしい都市のほとんどを占領した。それなのに、なぜ南京でだけで虐殺を行ったのか、誰も合理的に説明できないし、ナチスのような記録も残っていない」「当時、南京には海外メディアの人間も多くいた。その誰もが虐殺の目撃記事を書いていない。南京陥落を伝えたNYタイムズの記者も書いていない。また、陥落と同時に日本人記者も百人以上入ったが、戦後、誰も虐殺を証言していない」「中国政府は虐殺で三十万人が殺されたと言っている。しかし、当時の南京市の人口は二十万人ほどだ」先入観で事実歪曲した米映画 欧米人の南京に対するイメージが、いかに単純かということを、さらに書き留めておきたい。 私が南京虐殺記念館に行った翌年の二〇〇七年は、「大虐殺七十周年」にあたった。日本軍が南京に入城したのは昭和十二(一九三七)年十二月十三日。それから約一カ月間にわたって虐殺が繰り返されたことになっている。ならば、この壮絶な〝史実〟をドキュメンタリー映画にしようと、あるアメリカ人が考えた。その人間は、AOLのテッド・レオンシス副会長。彼がスポンサーになり、昔の資料や証人を当たり、史実を忠実に再構成するというのだ。 この報道を最初に耳にした時、これはもしかしたら、本当のことが描かれるかもしれないと、私は思った。しかし、レオンシス氏がこの映画を思いついたのはアイリス・チャンの自殺を知ったからだと聞いて、自分の考えが間違っていることがわかった。アイリス・チャンの『レイプ・オブ・南京』を下敷きにしているのは明白だからだ。 実際、日本軍が進駐した南京市内に安全区を設立して、住民を虐殺から保護したという欧米人たち、とくにドイツ人のジョン・ラーべを〝中国のシンドラー〟と位置づけていた。つまり、ユダヤ人をホロコーストから救ったオスカー・シンドラーが、南京にもいたというわけだ。 実は、この映画を制作することになったハリウッドのパープルマウンテン・プロダクションは、二〇〇六年の春、ロケ隊を組んで南京を訪れた。南京には虐殺記念館の他に、虐殺を記録する記念碑がいくつも建っている。南京大学は、当時、安全区になっていて、避難民が何千人も収容されていた。そして、ここでも虐殺が行われたとされ、記念碑が建っている。 そんなこともあり、娘は英語と日本語、中国語ができるということで、ロケ隊のアシスタントとして駆り出された。   娘によると、ロケ隊は、当時の日本の資料(雑誌や新聞など)を持ってきて、「この記事の内容は?」「この写真は?」と聞いてきたという。 そこで、娘は正確に訳して伝えたが、「そんなはずはない」と取り合ってもらえなかったという。彼らが持ってきたのは、たとえば、ほかの中国戦線で撮られた写真のキャプションを捏造して南京大虐殺の写真としているというような、日本人なら〝やらせ〟とわかるものばかりだったという。「企画書の導入部に〝日本軍は二十万人以上を虐殺して、何万人もの中国女性をレイプしました〟とあったので、本当に嫌な気分になった」と、娘は言ってきた。 ロケ隊が帰った後、娘は、ルームメートの中国人学生と、南京大虐殺記念館の訪問記と意見を、南京のタウン誌『城市指南』に寄稿し、素直な感想を述べて、日中友好を訴えた。 映画『南京(NANKING)』は、二〇〇七年一月にアメリカのサンダンス映画祭(インディーズ映画の世界最大の映画祭)で初上映された。その後、中国全土でも封切られた。しかし、大した反響を呼ばなかった。まだ現代中国人監督の方が柔軟まだ現代中国人監督の方が柔軟 この話にはまだ続きがある。 平成十九(二〇〇七)年九月、友人の国際政治学者の藤井巌喜(げんき)氏が、こう言ってきた。「チャンネル桜の水島総社長が、映画『南京』を見て憤っている。それで、『向こうがそうならこっちは〝南京大虐殺は幻だ〟という映画をつくろう』と言っている。そのために、南京関連の一次資料を徹底的に当たりたいという。ついては、娘さんにアメリカに行ってもらえないか?」「アメリカのどこに?」「米国国立公文書館(ナショナルアーカイブス)だ」 米国国立公文書館(新館)はメリーランド州カレッジパークにある。ここには、アメリカの歴史・政治などに関するあらゆる資料が保存されている。東京裁判や南京に関連する資料も、実はすべてここにそろっている。 娘にこの話をすると、バイト代をくれるなら行くというので話は決まった。こうして〇七年十月、娘はカレッジパークに行き、モーテルに泊まりながら毎日、米国国立公文書館に通った。そうして、資料フィルムの概要が書かれたインデックスカードを一枚一枚検索し、松井石根、マギー牧師など、関連人物のカードを片っ端から探し出し、そのカードに記載されているフィルムのコピーを下請け業者に発注した。 帰国後、娘が言うには、資料の量は膨大で、最初はいつ終わるかわからないと思ったという。娘は、この作業を一週間以上繰り返し、ほぼすべての資料のコピーを日本に持ち帰った。しかし、この映画はまだ制作されていない。 ところで、南京大虐殺は、その後も映画になったり、テレビ向けのドキュメンタリーになったりしている。最近では、二〇一五年十二月に、江蘇省ラジオ・テレビ総局が製作したドキュメンタリー『外国人から見た南京大虐殺』が、中国中央テレビ(CCTV)と江蘇衛星テレビで放映された。映画「南京!南京!」を制作した陸川監督 これは、中国政府が十二月十三日を「南京大虐殺犠牲者の国家哀悼日」にしてしまい、中国全土で式典が開かれるようになったこと、世界記憶遺産になったことを記念してつくられたもので、中国政府のプロパガンダである。だから、見る意味はない。 見る意味があるとしたら、二〇〇九年に封切られた映画『南京!南京!』(City of Life and Death)である。これは、中国の第六世代、陸(ルー)川(チユアン)監督の作品でドキュメンタリーではないが、はるかに史実に忠実で、真実が描かれている。 モノクロ映画で、南京戦が日本兵の視点から描かれていて、そこには日本兵の人間としての苦悩も中国側の葛藤も織り込まれている。陸川監督は、この映画の制作にあたり「日本軍兵士の日記など資料を徹底的に読んだ」と語っているが、ステレオタイプのアメリカ人より中国人の若手・中堅のほうが、より柔軟に歴史をとらえているのだから、本当に皮肉だ。外に出れば、より強く日本を意識外に出れば、より強く日本を意識 実は私の娘は、幼稚園から高校まで日本のインターナショナルスクールに通ったため、一度も日本の学校教育を受けていない。高校卒業後はアメリカ東部メーン州のべイツカレッジに進学し、その後、ジョンズホプキンズ大学のSAIS大学院で学んだ。そして、前記したように約二年を南京ですごしたので、この間、友人知己によく聞かれたことがある。「それでは日本人として育たないのではないか?」 これに対する私の答えは、こうだ。「日本の中で日本人だけに囲まれて育つより、よほど日本人らしい日本人になる。それは外側から日本と日本人を見られるからだ」「東は東、西は西」(East is East, West is West)という有名な言葉を残した『ジャングル・ブック』の作者、作家ラドヤード・キップリングは、こういう言葉も残している。「イングランドしか知らない人に、イングランドの何がわかるか」 キップリングはインド生まれの英国人だった。それゆえに、もっとも英国人らしい英国人となり、英国のことをこよなく愛した。 一般的に、インターのような国際学校に通うと、日本人としてのアイデンティティーは希薄になると思われがちだ。しかし実際は逆で、インターに通ったり、海外留学をしたりしたほうが、日本人としてのアイデンティティーは強化される。 とはいえ、日本の学校教育を受けないのだから、日本の歴史や伝統文化に関して学ぶ機会は少ない。とくに歴史は、親が教えなければならない。 私が学校で学んだ歴史は、ただの詰め込み式の暗記教育だった。極論すれば、たとえば「いい国つくろう鎌倉幕府」というように、年時とイベントをセットで暗記するだけ。しかも、たいていは明治で終わってしまった。三学期はテストが多くて現代まで行かない。行ってもせいぜい昭和の初めぐらい終わっていたので、あの戦争から現代までの事がすっぽりと抜け落ちている。 それで私は、自分が受けた歴史教育の反省もあって、娘には、とくに現代史を中心に教えた。そのなかに「日中戦争」も「南京大虐殺」もあったのはいうまでもない。また、現代史ということは、家族が歩んだ歴史でもある。家族の歴史こそが、日本の現代史だからだ。 小さいころから私が娘に言ってきたのは、私の父と母が、あの戦争のとき何をしていたかである。 戦争の悲劇に国境はなし戦争の悲劇に国境はなし 私の父は昭和十九(一九四四)年、十九歳で招集され、北支那(きたしな)派遣軍第五十九師団に配属され満洲で戦った。そして、終戦時、侵攻してきたソ連軍に捕まり、シベリアに輸送されることになった。ところが、発疹チフスに罹(かか)り、チチハルで輸送列車から放り出された。その後、満人に助けられて新京(長春)まで下り、その後、復員船に乗って帰還した。 「もしあのとき、発疹チフスに罹らなかったら、シベリアへ行って死んでいただろう」と、父はよく言っていた。 また、私の母は昭和二十年五月二十九日の横浜大空襲の時、当時暮らしていた南区通町の家から近所の防空壕に逃げた。このとき、火の手が迫っていたので大岡川に逃げた家族もあったが、B29の次に来たP51の機銃掃射でみな死んだという。 「あとから行ってみると、川が真っ赤に染まっていた。あのとき川に逃げたら、私も死んでいた」 と、母はよく言っていた。  だから私は、娘にこう言った。「おじいちゃんもおばあちゃんも、いま生きているのは偶然だよ。おじいちゃんとおばあちゃんが生きていなければパパも生まれなかったし、お前もいないんだよ」  娘はジョンズホプキンス南京センターを修了した後、アメリカ人の親友と満洲の旅に出た。 私がいつかは行こうと思っていて行けなかったハルピン、チチハルに行き、満洲を一周して帰ってきた。長春では旧満鉄の大和ホテルに泊まり、瀋陽や大連の日本軍の史跡を訪ね歩いた。  このとき娘は、私の父が書いた小説を手にしていた。私の父は作家で、満洲での体験を『日本工作人』(現代社、昭和三十三=第三十九、四十回直木賞候補作)という長編小説に書き残している。 「死ぬまでにもう一度、満洲を見たい」と言っていたが、五十八歳の若さで心筋梗塞で逝ってしまった。  今日まで、娘も私も、多くの中国人と付き合ってきた。とくに娘が南京にいた時は、ルームメートの両親によくしてもらった。彼らは私たち夫婦と同年代で、聞いてみると両親は戦争中相当苦労したと言う。また、戦後も「大躍進」「文化大革命」と苦労続きだったと言う。 ただ、日本に対しては何の恨みも持っていなかった。北京政府と、一般の中国人との間には大きな温度差があることを私は知った。 それでも、時として、中国人と戦争の話になることがある。私は極力そういう話題を避けているが、たまたま向こうが同年輩で、酒が入ると「じつは、私の叔父は杭州で日本軍に殺された」というようなことを言われることがある。そう言われると戸惑うが、それならと私も父の話をすると、不思議と話は収まる。 国家や政治という大きな枠組みを離れれば、結局は、日本人も中国人も、歴史の流れに翻弄されて生きてきたのである。反日で「中華帝国復興」狙う習近平反日で「中華帝国復興」狙う習近平 二〇〇七年七月、娘は再び南京に行った。 南京大学とジョンズホプキンス大学の提携が二十周年を迎え、記念式典が開かれることになったからだ。 来賓にはアメリカからヘンリー・キッシンジャー元国務長官が招かれた。この式典は、南京市長から共産党幹部まで、南京市の有力者がすべて出席し、彼のスピーチに盛大な拍手を送った。 キッシンジャー氏は、日本より中国が好きで、とくに周恩来を高く評価していた。米中国交樹立の立役者だから、中国にとっては大恩人である。だから、彼が市内を移動するときは厳重警備態勢が敷かれた。新街口の道路の両側には公安がずらっと並び、道路は封鎖された。キッシンジャー氏の南京訪問は、翌日の新聞もテレビニュースもトップ扱いだったという。見学の小学生はニセモノ展示を信じ込まされて熱心にメモを取る。シナ数千年の愚民政策は今も続く そうした厳戒態勢の中、式典後、彼のクルマが向った先は宴会場。そこには、ジョンズホプキンス南京センターの卒業生が出迎え、南京料理が並び、名物の餃子が山盛りになっていた。 そうした様子を見ていた娘は「こんなに中国とアメリカが仲良くなったら、日本は困る」と思ったという。それで、アメリカ人学生にそれを伝えると、こう言われた。「実は、キッシンジャーは中国は好きだけど、中華料理は嫌いだ。見ろよ、餃子をひとつも食べていないだろ」 一時あれだけ接近した米中は、いまは対立姿勢を取るようになった。 習近平は「中国の夢」を唱え、二〇四九年、つまり中華人民共和国の建国百年までに民族の偉大なる復興を成し遂げようとしている。アヘン戦争で英国に負け、列強の半植民地となり、日本に侵略されて戦い続けた一九四九(昭和二十四)年までを「屈辱の百年」、その後の百年は「復興の百年」と定義している。 このように定義するのは勝手だが、「復興の百年」に反日政策を使うのは、迷惑このうえない。汚濁と混沌の現実汚濁と混沌の現実 いまの私は、中国に対する興味をすっかり失っている。娘が中国にいた頃までは、プライベートや取材で度々行ったが、ここ四年はまったく行っていない。 なぜなら、「この国では人間らしい生活はできない」と結論したからだ。空気、水、油、この三つが徹底的に汚染されているのだから、とてもではないが、まともに暮らせない。最近、北京のPM2・5汚染が大きく報道されるようになったが、もう何年も前から冬の北京はマスクなしに歩けなかった。こうしたことは拙著の『「中国の夢」は100年たっても実現しない』(PHP研究所、平成二十六)に書いたので、興味のある方は是非読んでいただきたい。 汚染と言えば、南京でも進んでいる。南京市の北西側を悠久の大河・長江が流れている。この長江の風景は、たとえば、李白が七言絶句「黄鶴樓送孟浩然之廣陵」(黄鶴楼(こうかくろう)にて孟(もう)浩然(こうねん)の広陵に之(い)くを送る)で描いた「孤帆遠影碧空盡 唯見長江天際流」(孤帆(こはん)の遠影碧空(へきくう)に尽き 唯(ただ)見る長江の天際(てんさい)に流るるを)になっていない。「遠ざかる帆影はやがて碧空の彼方に消え、そこには、長江の碧水と碧空が溶け込んだ世界がある」などと思って行ってみると、完全に裏切られる。 長江には「南京長江大橋」という、一九六八年に完成した道路と鉄道が両方通る橋としては当時世界一の長さを誇った橋が架かっている。観光スポットで展望塔もあるので行ってみたが、長江の水は「碧水」ではなかった。赤茶けた土色で、よく見ると、表面にはゴミなどの浮遊物が山のように浮いていた。まさに、長江は巨大すぎるドブ川と化していた。 長江大橋は、北岸にある浦口区(プーコウチユ)と南岸の南京城側にある下関区(シアクアンチユ)とを結んでいる。この下関には、南京陥落時、かなり大規模な停車場と波止場があり、ここで「中国兵の処刑が行われ、その遺体は長江に流された」という。それが本当なら、長江は真っ赤に染まっただろう。 ところで、この長江大橋は、中国一の「自殺スポット」としても有名だ。一九六八年の完成から現在まで、なんと約二千人がここから長江に飛び込んで死んでいる。中国人にとって長江は母なる大河で、母の元に帰ろうと身を投げるのだという。  自殺者の多くは若い農民工(農村出身の労働者)で、都市に出て懸命に働いても将来が開けず、絶望すると、長江大橋にふらりとやってくる。そして、身を投げる。まさに、経済成長、経済成長だけで拡大してきた中国の〝負の側面〟である。虐殺記念館は幻想のテーマパーク これからも、南京大虐殺に対する歴史認識問題は、日中間でもめ続けるだろう。いくら論争しても埒(らち)が明かないだろう。それなら、いっそのこと沈黙してしまえばいいと私は思っている。政治問題なのだから、相手を言い負かしてもけっして解決しない。 それに、これに火を点けたのは、元を正せば日本側である。洗脳でなければ幼稚な正義感なのか、それに染まったメディアのせいで、私たちは背負いきれない重荷を背負わされてしまった。 しかも、日本政府の公式な立場も最悪である。「日本軍による民間人(非戦闘員)の殺害または略奪行為があったことは否定できない。しかし、その人数はわからない」「孤帆の遠影碧空に尽き…」は今やファンタジー。空は汚れ河は濁り、人々は絶望して濁流に身を投げる…それが中華の現実 これでは、曖昧すぎてどうしていいかわからない。 否定するか肯定するか、それとも沈黙するかの三通りのどれかに絞るべきだった。「殺害または略奪行為があったことは否定できない」では、あったと認めたのと同じである。 つまり、いまさらこれをひっくり返せない。 たとえば、英国は植民地支配時代にあらゆる搾取、略奪を繰り返した。しかし、彼らはそれを認めず、けっして謝らなかった。だから、時を経てそれを問題にする国はなくなってしまった。 要するに、歴史は常に書き換えられることができる。中国の王朝の歴史を見れば、勝者になった者は必ず自分に都合のいい見方で歴史を書き換えてきた。現在の北京も同じである。彼らは日本に勝ったわけでもないのに、勝ったとして「抗日戦争勝利記念式典」を毎年行っている。 ただし、この問題が解決する時は必ずやってくる。それは、何十年、何百年先になるかわからないが、人類がタイムマシンを発明した時だ。タイムマシンに乗って、一九三七年の南京を訪れれば、そこで何があったかは誰の目にも明らかになる。 そうなると、南京虐殺記念館は、実はテーマパークで、ディズニーランドと同じような〝ファンタジーの世界〟であることがわかるだろう。 それで、最後にこう言いたい。《さあ、南京に行こう! 行って世界記憶遺産として登録された素晴らしいテーマパーク「南京大虐殺記念館」を見てみよう!成田空港と関西空港からたった二時間半で着きますよ》やまだ・じゅん 昭和二十七年横浜市生まれ。立教大学卒業後の五十一年光文社入社。週刊誌『女性自身』や新書「カッパブックス」の編集部を経て平成十四年「光文社ペーパーバックス」初代編集長。二十二年から独立し編集プロデューサーも務める。経済・ビジネス分野の取材・執筆の一方、近年は日本の近現代史について、歪曲を排した事実の発掘に心血を注ぐ。主な著書に『出版大崩壊 電子書籍の罠』『資産フライト「増税日本」から脱出する方法』『円安亡国 ドルで見る日本経済の真実』(いずれも文春新書)、『永久円安 頭のいい投資家の資産運用法』(ビジネス社)、『本当は怖いソーシャルメディア』(小学館新書)などのほか、『中国の夢は100年たっても実現しない』(PHP研究所)、『日本が2度勝っていた大東亜・太平洋戦争』(ヒカルランド)など。父親は作家の津田信。

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    記憶遺産に「南京虐殺」?ヘタ外交はどうすればよいか!

    中田宏(元横浜市長) 今回はニュースになっているユネスコの世界記憶遺産についてです。まず、日本から申請した『シベリア抑留者の引き上げ記録「舞鶴への生還」』と京都市の東寺に伝わる国宝「東寺百合文書」の登録が決定し、喜ばしい限りです。しかし今回、問題になっているのは、ユネスコが中国が申請していた「南京大虐殺文書」の登録をも認めたことです。 そもそも南京大虐殺についてはその人数も諸説紛々ありますが、中国の申請内容である30万人以上は事実ではありません。当時の南京の人口は最大で約20万人で、仮に「全員」としても30万人はありえません。この一点でも、間違った数字の申請をユネスコがやすやすと認めるのは大問題と言わざるを得ません。「南京大虐殺記念館」を訪れる人たち(共同) ユネスコそのものですが、予算分担率と順位は、1位のアメリカ22%に次いで日本は11%・2位です。金額は分担金と任意拠出金を合わせて4494万8000ドル(日本円で54億円)にもなりユネスコに大変貢献しているわけです。こうした予算でユネスコは職員約2200人を雇用し運営しているのです。 今回、ユネスコに対する日本の措置を見直すべきという意見が出ていますが、私は賛成です。ユネスコはそもそも政治的な場ではないと前提にされつつも中国は明らかに政治利用して歴史的根拠が不明なものを申請しました。これをユネスコがやすやすと認めるのであれば、政治の場として活用してよいとユネスコ自体が認めるようなものです。 アメリカの分担率は22%だと前述しましたが、実はここ2年、アメリカは拠出を見合わせています。理由は、パレスチナがユネスコに加入したことにアメリカは反対をしているからで、極めて政治的な理由でアメリカは分担金・拠出金の支払いを停止しています。 日本もユネスコのあり方に問題提起をするために、そして南京大虐殺のように事実でない申請は認めさせないためにも、拠出金支払いを見合わせることには賛成です。すでに自民党の二階総務会長や菅官房長官も同様に言及しています。ただ今回も教訓とすべきは、こうした事案の結果が出てから事後に分担金をやめるのではなく、起こる前に見合わせておくべきだったということではないでしょうか。事の後で分担金を見合わせるぞ・止めるぞというのは圧力としては弱いですし、しかも一国の官房長官まで言及してしまうと、今度は本当に見合わせなければそのことそのものが今後のマイナスになってきてしまいます。 横浜市長時代、国から羽田空港の再整備に協力を求められ、横浜市は6年間かけて計100億円の無利子貸付けを行いました。しかし貸付けが始まると横浜市が条件にしていた羽田空港の「国際化」について国は明言しなくなり、単なる「再拡張」だと言い出したことがあります。 横浜市は約束を違えるのであればお金を出せないとして、予定していた年度の24億5千万円の貸付けを実際に停止させました。その後、政権が変わったこともあり羽田空港は国際化路線に戻り、今の羽田があります。 このように結果に実を結ぶためには、先に見合わせるなどより効果的な方法やタイミングがあるはずです。国内と国際問題でも、根本的な違いはないでしょう。日本の国際政治の立ち振舞いとして支払い停止に賛成ですし、そもそもユネスコへの供出金54億円は全て国民の税金です。国はしっかりと主張してください。(2015年10月14日「中田宏公式ブログ」より転載)

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    原爆投下は「不幸だが必要」だったのか ボストン大教授が日米の認識を比較

    (THE PAGEより転載) 「原爆投下は不幸だが必要なこと」だったーー。これがアメリカ社会の世間一般の通念だが、果たして本当なのだろうか。学者の間では議論がある。 「カリフォルニア大学の長谷川毅教授は、日本の戦争遂行能力は、当時いずれにせよ崩壊しつつあり、特に1945年8月にソ連が侵攻してからは、日本が降伏するまでは時間の問題だったと主張している。また、原爆を1個ではなく2個落としたことは、妥当だったのかどうかという議論もある」 9日、長崎に原爆が落とされてから70年を迎えた。70年前の8月に原爆が広島と長崎に投下されたことを今、日本や世界中の人々が思い出している。その原爆の記憶は、当事者のアメリカではどのように認識されてきたのだろうか。ボストン大学で国際関係学の教授を務めるトーマス・バーガー教授に、アメリカ国内での原爆に対する認識について話を聞いた。「ヒロシマとナガサキの記憶は、いまもアメリカで生き続けている」 原爆投下前、アメリカのニュース映画が原爆の破壊力と人的影響は小さいと強調していたにも関わらず、原爆によってもたらされた被害は甚大なものだった。この見方は、戦後数年でアメリカ社会へと広がっていった。取材に応じたボストン大のトーマス・バーガー教授 「1950年代には既に、アメリカ人を含む広い国際社会で、原爆はひどい出来事だという認識があった。私はこの理解は、今もアメリカ人の中に残っていると考える。ヒロシマの記憶は、アメリカ国内で何十年にもわたり、映画や英訳された『はだしのゲン』といった漫画などで語られてきた。戦後70年を経て、直接関わった世代がほとんどいない中、ヒロシマとナガサキの記憶がアメリカ社会で現在も生き続けていることは、とても注目に値する」とバーガー教授は語る。原爆投下は「不幸だが必要」だったが支配的 バーガー教授は、原爆投下の是非について知識人の間では大きな議論となってきた一方で、政治的なレベルでは議論にならなかったと指摘する。 「原爆投下について、アメリカ人と日本人の考え方には大きな違いがある。日本は、原爆投下をほとんど『許し難い残虐行為』だと、ずっと考え続けている。アメリカにおいて支配的な見方は、『原爆投下は不幸だが必要なこと』というままだ」 「原爆投下は不幸だが必要」とは、どういうことか。バーガー教授は続ける。 「もし原爆を広島と長崎に落とさなければ、戦争が続き、多くのアメリカ人の命が失われたという考えだ。アメリカ側の予想では、沖縄や硫黄島を含む太平洋の島々で日本が示した頑強な抵抗を思えば、アメリカが本土に侵攻した場合、多くの犠牲者が出るというものだった。さらに、本格的に日本に侵攻したならば、膨大な数の日本人の命も失われるのではないかという懸念があった。スティムソン陸軍長官は、東京を含む日本の大都市に対して行われた、通常の空襲が残した甚大な被害の写真を見た際にショックを受けた」。ゆえに、「アメリカ国内の支配的な見方は、『原爆投下は不幸だが必要なこと』であり、『原爆投下が終戦を早めた』という考え方であったし、今もそうであり続けている」原爆投下の妥当性は「生きた争点」になっていない原爆投下の妥当性は「生きた争点」になっていない 「原爆投下は不幸だが必要なこと」だったーー。これがアメリカ社会の世間一般の通念だが、果たして本当なのだろうか。学者の間では議論がある。 「カリフォルニア大学の長谷川毅教授は、日本の戦争遂行能力は、当時いずれにせよ崩壊しつつあり、特に1945年8月にソ連が侵攻してからは、日本が降伏するまでは時間の問題だったと主張している。また、原爆を1個ではなく2個落としたことは、妥当だったのかどうかという議論もある」 しかし、ほとんどのアメリカ人は、その点について全くといっていいほど考えていないとバーガー教授は指摘する。「アメリカは原爆を1個だけ落とすべきだったのかや、原爆の破壊力を見せつけるだけで良かったのではないかという点は、今日『生きた争点』になっていない。そのような点は、アメリカ人の原爆の記憶の中軸になっていない」「大統領による謝罪」も検討されていた ただ驚くべきことに、「アメリカ政府内において、大統領によるハイレベルな意思表示をすべきかどうかについて、多くの議論がなされてきた」とバーガー教授は話す。意思表示とは例えば、大統領が広島平和記念公園を訪れるなどして、原爆は私達アメリカ人が後悔すべき事柄だということを示し、何らかの形で謝罪するということだ。 アメリカ国内にはこれに賛成する意見もある。核兵器不拡散を推進するために、原爆について謝罪をするのも選択肢の一つだという意見だ。北朝鮮やインド、パキスタンなどといった国々が次々核を開発し「核不拡散体制」がもはや危機に瀕している中、大統領が核兵器の恐ろしさを伝える象徴的な意思表示をすることは、核の不拡散に役立つかもしれない。 しかしそのような動きは、すさまじい国内の政治的抵抗に遭う。大統領にとってこの選択を追求することは政治的なコストとなる。よって、大統領による謝罪はいまだに実現していない。「本当に日本の人々に共感と理解を示し、核兵器に関する国際社会の議論に影響を与えたいのであれば、駐日大使レベルではなく、大統領レベルで広島に行きたいと思うはず」とバーガー教授は語る。 原爆投下という1945年の出来事は、世界が原爆を思い出し、安倍首相とオバマ大統領が核兵器不拡散の推進を試みるたびに表面化する。核のない世界を願う被爆者の思いは、いまだに実現していない。■トーマス・バーガー ボストン大学教授(国際関係学)。マサチューセッツ工科大Ph.D、ジョンズ・ホプキンス大准教授を経て現職。学生時代に東京大で佐藤誠三郎教授に学ぶ。特に日本及びドイツの安全保障論、政治文化論が専門。主な著書は「反軍国主義の文化―ドイツと日本の安全保障」「戦争と罪、第二次世界大戦後の世界政治」(聞き手・文:Matthew Kolasa、撮影協力:Wenlin Fei(NewTV)、翻訳・構成:THE EAST TIMES)

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    日本を歴史問題で貶め続ける中韓の「戦勝国包囲網」に気をつけよ!

    大問題です(笑)。スパイ活動はともかく、日本は海外向けの宣伝活動にもっとお金を使うべきですよ。日本の歴史認識や政策を広めるためには当然のことでしょう。経済規模からいっても、日本は十分に「大国」です。しかし、自国の正義なり、政策を外国に説明するような体制をもたない大国なんていうものが世界にありますか。さらにいえば、自分の防衛をすべてヨソの国に委ねている大国がありますか。アメリカ頼みの時代はもう終わったのですから、取るべき政策を早く取ってほしいですね。小浜 自国の基地に外国の軍隊がこれほど駐留している国は大国どころか、そもそも独立国家の名に値しません。日本に課せられた役割は、名実ともに大国となり、アジアの平和を守る盟主として台湾やフィリピン、ベトナム、インドネシア、オーストラリア、インドなど利害の一致する友好国をまとめ上げ、中共や北朝鮮に対抗する集団安全保障体制を築くことなのです。Kent Sidney Gilbert 米カリフォルニア州弁護士、タレント。1952年、米アイダホ生まれ。1971年に初来日。1980年、国際法律事務所に就職して東京に赴任。TV番組『世界まるごとHOWマッチ』に出演し、一躍人気タレントへ。最新刊は『不死鳥の国・日本』(日新報道)。公式ブログ「ケント・ギルバートの知ってるつもり?」で論陣を張る。こはま・いつお 批評家。1947年、横浜市生まれ。横浜国立大学工学部卒業。2001年より連続講座「人間学アカデミー」を主宰。家族論、教育論、思想、哲学など幅広く批評活動を展開。現在、批評家。国士舘大学客員教授。著書に、『日本の七大思想家』(幻冬舎新書)、『なぜ人を殺してはいけないのか』(PHP文庫)など多数。関連記事■ 少年法は改正すべきか■ 中国のチベット人虐殺こそ世界記憶遺産に登録せよ!■ 韓国は日本のストーカーだ!■ 五輪エンブレム問題から学ぶ――現代人が守るべき表現倫理とは

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    田母神閣下、あなたの持論だけは正しかった

    元航空幕僚長、田母神俊雄容疑者が公職選挙法違反容疑で逮捕された。在職中に発表した「田母神論文」で更迭された後も過激な持論を曲げず、「閣下」のあだ名で熱狂的なファンがいたことでも知られる。政治とカネが仇となり、足元をすくわれた田母神閣下。あなたの「野望」もこれで終わりですか?

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    【載録】日本は侵略国家であったのか

    田母神俊雄(防衛省航空幕僚長 空将) 民間の懸賞論文に応募する形で、先の大戦を日本の侵略とする見方に疑問を呈し、集団的自衛権行使容認を求める論文を公表した防衛省の田母神俊雄航空幕僚長が、先の大戦を「侵略」とした村山富市首相談話を踏襲する麻生内閣の゛政府見解″に反するとして、更迭された。空自トップである現職の幕僚長が先の大戦を侵略戦争と決めつける見方に異論を唱えるのは極めて異例。政府、野党、マスコミは一斉に田母神氏を非難したが、国民の論議を喚起すべく、非難の的となった論文をここに載録する。◇    ◇ アメリカ合衆国軍隊は日米安全保障条約により日本国内に駐留している。これをアメリカによる日本侵略とは言わない。二国間で合意された条約に基づいているからである。我が国は戦前中国大陸や朝鮮半島を侵略したと言われるが、実は日本軍のこれらの国に対する駐留も条約に基づいたものであることは意外に知られていない。日本は十九世紀の後半以降、朝鮮半島や中国大陸に軍を進めることになるが相手国の了承を得ないで一方的に軍を進めたことはない。現在の中国政府から「日本の侵略」を執拗に追求されるが、我が国は日清戦争、日露戦争などによって国際法上合法的に中国大陸に権益を得て、これを守るために条約等に基づいて軍を配置したのである。これに対し、圧力をかけて条約を無理矢理締結させたのだから条約そのものが無効だという人もいるが、昔も今も多少の圧力を伴わない条約など存在したことがない。国民大会開会式で演説する蒋介石 この日本軍に対し蒋介石国民党は頻繁にテロ行為を繰り返す。邦人に対する大規模な暴行、惨殺事件も繰り返し発生する。これは現在日本に存在する米軍の横田基地や横須賀基地などに自衛隊が攻撃を仕掛け、米国軍人及びその家族などを暴行、惨殺するようものであり、とても許容できるものではない。これに対し日本政府は辛抱強く和平を追求するが、その都度蒋介石に裏切られるのである。実は蒋介石はコミンテルンに動かされていた。一九三六年の第二次国共合作によりコミンテルンの手先である毛沢東共産党のゲリラが国民党内に多数入り込んでいた。コミンテルンの目的は日本軍と国民党を戦わせ、両者を疲弊させ、最終的に毛沢東共産党に中国大陸を支配させることであった。 我が国は国民党の度重なる挑発に遂に我慢しきれなくなって一九三七年二月十五日、日本の近衛文麿内閣は「支那軍の暴戻(乱暴で道理がない)を膺懲(こらしめる)し以って南京政府の反省を促す為、今や断乎たる措置をとる」と言う声明を発表した。我が国は蒋介石により日中戦争に引きずり込まれた被害者なのである。日本だけが植民地の内地化を図った 一九二八年の張作霖列車爆破事件も関東軍の仕業であると長い間言われてきたが、近年ではソ連情報機関の資料が発掘され、少なくとも日本軍がやったとは断定できなくなった。『マオ(誰も知らなかった毛沢東)』(ユン・チアン、講談社)、『黄文雄の大東亜戦争肯定論』(黄文雄、ワック出版)及び『日本よ、「歴史力」を磨け』(櫻井よしこ編、文藝春秋)などによると、最近ではコミンテルンの仕業という説が極めて有力になってきている。日中戦争の開始直前の一九三七年七月七日の廬溝橋事件についても、これまで日本の中国侵略の証みたいに言われてきた。しかし今では、東京裁判の最中に中国共産党の劉少奇が西側の記者との記者会見で「廬溝橋の仕掛け人は中国共産党で、現地指揮官はこの俺だった」と証言していたことがわかっている「『大東亜解放戦争』(岩間弘、岩間書店)」。もし日本が侵略国家であったというのならば、当時の列強といわれる国で侵略国家でなかった国はどこかと問いたい。よその国がやったから日本もやっていいということにはならないが、日本だけが侵略国家だといわれる筋合いもない。 我が国は満州も朝鮮半島も台湾も日本本土と同じように開発しようとした。当時列強といわれる国の中で植民地の内地化を図ろうとした国は日本のみである。我が国は他国との比較で言えば極めて穏健な植民地統治をしたのである。満州帝國は、成立当初の一九三二年一月には三千万人の人口であったが、毎年百万人以上も人口が増え続け、一九四五年の終戦時には五千万人に増加していたのである。満州の人口は何故爆発的に増えたのか。それは満州が豊かで治安が良かったからである。侵略といわれるような行為が行われるところに人が集まるわけがない。農業以外にほとんど産業がなかった満州の荒野は、わずか十五年の間に日本政府によって活力ある工業国家に生まれ変わった。朝鮮半島も日本統治下の三十五年間で一千三百万人の人口が二千五百万人と約二倍に増えている(「朝鮮総督府統計年鑑」)。日本統治下の朝鮮も豊かで治安が良かった証拠である。戦後の日本においては、満州や朝鮮半島の平和な暮らしが、日本軍によって破壊されたかのように言われている。しかし実際には日本政府と日本軍の努力によって、現地の人々はそれまでの圧政から解放され、また生活水準も格段に向上したのである。かつての満鉄線を走る列車=中国・瀋陽(喜多由浩撮影) 我が国は満州や朝鮮半島や台湾に学校を多く造り現地人の教育に力を入れた。道路、発電所、水道など生活のインフラも数多く残している。また一九二四年には朝鮮に京城帝国大学、一九二八年には台湾に台北帝国大学を設立した。日本政府は明治維新以降九つの帝国大学を設立したが、京城帝国大学は六番目、台北帝国大学は七番目に造られた。 その後八番目が一九三一年の大阪帝国大学、九番目が一九三九年の名古屋帝国大学という順である。なんと日本政府は大阪や名古屋よりも先に朝鮮や台湾に帝国大学を造っているのだ。また日本政府は朝鮮人も中国人も陸軍士官学校への入校を認めた。戦後マニラの軍事裁判で死刑になった朝鮮出身の洪思翊(ホンサイク)という陸軍中将がいる。この人は陸軍士官学校二十六期生で、硫黄島で勇名をはせた栗林忠道中将と同期生である。先んじて人種差別撤廃に動いた日本 朝鮮名のままで帝国陸軍の中将に栄進した人である。またその一期後輩に金錫源(キンソグオン)大佐がいる。日中戦争の時、中国で大隊長であった。日本兵約一千名を率いて何百年も虐められ続けた元宗主国の中国軍を蹴散らした。その軍功著しいことにより天皇陛下の金賜(ママ)勲章を頂いている。もちろん創氏改名などしていない。中国では蒋介石も日本の陸軍士官学校を卒業し新潟の高田の連隊で隊付き教育を受けている。一期後輩で蒋介石の参謀で何応欽(カオウキン)もいる。 李王朝の最後の殿下である李垠(イウン)殿下も陸軍士官学校の二十九期の卒業生である。李垠殿下は日本に対する人質のような形で十歳の時に日本に来られることになった。しかし日本政府は殿下を王族として丁重に遇し、殿下は学習院で学んだあと陸軍士官学校をご卒業になった。大砲を量産し列強に対抗した韮山反射炉=静岡県伊豆の国市 陸軍では陸軍中将に栄進されご活躍された。この李垠殿下のお妃となられたのが日本の梨本宮方子妃殿下である。この方は昭和天皇のお妃候補であった高貴なお方である。もし日本政府が李王朝を潰すつもりならこのような高貴な方を李垠殿下のもとに嫁がせることはなかったであろう。因みに宮内省はお二人のために一九三〇年に新居を建設した。 現在の赤坂プリンスホテル別館である。また清朝最後の皇帝また満州帝国皇帝であった溥儀(フギ)殿下の弟君である溥傑(フケツ)殿下のもとに嫁がれたのは、日本の華族嵯峨家の嵯峨浩妃殿下である。 これを当時の列強といわれる国々との比較で考えてみると日本の満州や朝鮮や台湾に対する思い入れは、列強の植民地統治とは全く違っていることに気がつくであろう。イギリスがインドを占領したがインド人のために教育を与えることはなかった。インド人をイギリスの士官学校に入れることもなかった。もちろんイギリスの王室からインドに嫁がせることなど考えられない。これはオランダ、フランス、アメリカなどの国々でも同じことである。一方日本は第二次大戦前から五族協和を唱え、大和、朝鮮、漢、満州、蒙古の各民族が入り交じって仲良く暮らすことを夢に描いていた。人種差別が当然と考えられていた当時にあって画期的なことである。第一次大戦後のパリ講和会議において、日本が人種差別撤廃を条約に書き込むことを主張した際、イギリスやアメリカから一笑に付されたのである。現在の世界を見れば当時日本が主張していたとおりの世界になっている。 時間は遡るが、清国は一九〇〇年の義和団事件の事後処理を迫られ一九〇一年に我が国を含む十一カ国との間で義和団最終議定書を締結した。アメリカの罠で日本は戦争に引きずりこまれた その結果として我が国は清国に駐兵権を獲得し当初二千六百名の兵を置いた「廬溝橋事件の研究(秦郁彦、東京大学出版会)」。また一九一五年には袁世凱政府との四カ月にわたる交渉の末、中国の言い分も入れて、いわゆる対華二十一箇条の要求について合意した。これを日本の中国侵略の始まりとか言う人がいるが、この要求が、列強の植民地支配が一般的な当時の国際常識に照らして、それほどおかしなものとは思わない。 中国も一度は完全に承諾し批准した。しかし四年後の一九一九年、パリ講和会議に列席を許された中国が、アメリカの後押しで対華二十一箇条の要求に対する不満を述べることになる。それでもイギリスやフランスなどは日本の言い分を支持してくれたのである「『日本史から見た日本人・昭和編』(渡部昇一、祥伝社)」。また我が国は蒋介石国民党との間でも合意を得ずして軍を進めたことはない。常に中国側の承認の下に軍を進めている。一九〇一年から置かれることになった北京の日本軍は、三十六年後の廬溝橋事件の時でさえ五千六百名にしかなっていない「『廬溝橋事件の研究』(秦郁彦、東京大学出版会)」。このとき北京周辺には数十万の国民党軍が展開しており、形の上でも侵略にはほど遠い。幣原喜重郎外務大臣に象徴される対中融和外交こそが我が国の基本方針であり、それは今も昔も変わらない。 さて日本が中国大陸や朝鮮半島を侵略したために、遂に日米戦争に突入し三百万人もの犠牲者を出して敗戦を迎えることになった、日本は取り返しの付かない過ちを犯したという人がいる。しかしこれも今では、日本を戦争に引きずり込むために、アメリカによって慎重に仕掛けられた罠であったことが判明している。実はアメリカもコミンテルンに動かされていた。ヴェノナファイルというアメリカの公式文書がある。米国国家安全保障局(NSA)のホームページに載っている。膨大な文書であるが、月刊正論平成十八年五月号に青山学院大学の福井助教授(当時)が内容をかいつまんで紹介してくれている。ヴェノナファイルとは、コミンテルンとアメリカにいたエージェントとの交信記録をまとめたものである。アメリカは一九四〇年から一九四八年までの八年間これをモニターしていた。当時ソ連は一回限りの暗号書を使用していたためアメリカはこれを解読できなかった。そこでアメリカは、日米戦争の最中である一九四三年から解読作業を開始した。そしてなんと三十七年もかかって、レーガン政権が出来る直前の一九八〇年に至って解読作業を終えたというから驚きである。 しかし当時は冷戦の真っ只中であったためにアメリカはこれを機密文書とした。その後冷戦が終了し一九九五年に機密が解除され一般に公開されることになった。これによれば一九三三年に生まれたアメリカのフランクリン・ルーズベルト政権の中には三百人のコミンテルンのスパイがいたという。その中で昇りつめたのは財務省ナンバー2の財務次官ハリー・ホワイトであった。戦わない者は支配されることに甘んじなければならない ハリー・ホワイトは日本に対する最後通牒ハル・ノートを書いた張本人であると言われている。彼はルーズベルト大統領の親友であるモーゲンソー財務長官を通じてルーズベルト大統領を動かし、我が国を日米戦争に追い込んでいく。当時ルーズベルトは共産主義の恐ろしさを認識していなかった。彼はハリー・ホワイトらを通じてコミンテルンの工作を受け、戦闘機百機からなるフライングタイガースを派遣するなど、日本と戦う蒋介石を、陰で強力に支援していた。真珠湾攻撃に先立つ一カ月半も前から中国大陸においてアメリカは日本に対し、隠密に航空攻撃を開始していたのである。 ルーズベルトは戦争をしないという公約で大統領になったため、日米戦争を開始するにはどうしても見かけ上日本に第一撃を引かせる必要があった。日本はルーズベルトの仕掛けた罠にはまり真珠湾攻撃を決行することになる。さて日米戦争は避けることが出来たのだろうか。ルーズベルト米大統領(左)とコーデル・ハル国務長官=「昭和」(講談社) 日本がアメリカの要求するハル・ノートを受け入れれば一時的にせよ日米戦争を避けることは出来たかもしれない。しかし一時的に戦争を避けることが出来たとしても、当時の弱肉強食の国際情勢を考えれば、アメリカから第二、第三の要求が出てきたであろうことは容易に想像がつく。結果として現在に生きる私たちは白人国家の植民地である日本で生活していた可能性が大である。文明の利器である自動車や洗濯機やパソコンなどは放っておけばいつかは誰かが造る。しかし人類の歴史の中で支配、被支配の関係は戦争によってのみ解決されてきた。 強者が自ら譲歩することなどあり得ない。戦わない者は支配されることに甘んじなければならない。 さて大東亜戦争の後、多くのアジア、アフリカ諸国が白人国家の支配から解放されることになった。人種平等の世界が到来し国家間の問題も話し合いによって解決されるようになった。それは日露戦争、そして大東亜戦争を戦った日本の力によるものである。もし日本があの時大東亜戦争を戦わなければ、現在のような人種平等の世界が来るのがあと百年、二百年遅れていたかもしれない。そういう意味で私たちは日本の国のために戦った先人、そして国のために尊い命を捧げた英霊に対し感謝しなければならない。そのお陰で今日私たちは平和で豊かな生活を営むことが出来るのだ。 一方で大東亜戦争を「あの愚劣な戦争」などという人がいる。戦争などしなくても今日の平和で豊かな社会が実現できたと思っているのであろう。当時の我が国の指導者はみんな馬鹿だったと言わんばかりである。やらなくてもいい戦争をやって多くの日本国民の命を奪った。亡くなった人はみんな犬死にだったと言っているようなものである。 しかし人類の歴史を振り返ればことはそう簡単ではないことが解る。東京裁判のマインドコントロールが今も日本人を惑わせている 現在においてさえ一度決定された国際関係を覆すことは極めて困難である。日米安保条約に基づきアメリカは日本の首都圏にも立派な基地を保有している。これを日本が返してくれと言ってもそう簡単には返ってこない。ロシアとの関係でも北方四島は六十年以上不法に占拠されたままである。竹島も韓国の実効支配が続いている。 東京裁判はあの戦争の責任を全て日本に押し付けようとしたものである。そしてそのマインドコントロールは戦後六十三年を経てもなお日本人を惑わせている。日本の軍は強くなると必ず暴走し他国を侵略する、だから自衛隊は出来るだけ動きにくいようにしておこうというものである。自衛隊は領域の警備も出来ない、集団的自衛権も行使出来ない、武器の使用も極めて制約が多い、また攻撃的兵器の保有も禁止されている。諸外国の軍と比べれば自衛隊は雁字搦めで身動きできないようになっている。このマインドコントロールから解放されない限り我が国を自らの力で守る体制がいつになっても完成しない。アメリカに守ってもらうしかない。アメリカに守ってもらえば日本のアメリカ化が加速する。日本の経済も、金融も、商慣行も、雇用も、司法もアメリカのシステムに近づいていく。改革のオンパレードで我が国の伝統文化が壊されていく。日本ではいま文化大革命が進行中なのではないか。日本国民は二十年前と今とではどちらが心安らかに暮らしているのだろうか。日本は良い国に向かっているのだろうか。私は日米同盟を否定しているわけではない。アジア地域の安定のためには良好な日米関係が必須である。但し日米関係は必要なときに助け合う良好な親子関係のようなものであることが望ましい。子供がいつまでも親に頼りきっているような関係は改善の必要があると思っている。東京裁判の際、戦犯容疑者が多数勾留された巣鴨拘置所(巣鴨プリズン)=昭和27年8月2日、東京都豊島区(産経新聞社機から撮影) 自分の国を自分で守る体制を整えることは、我が国に対する侵略を未然に抑止するとともに外交交渉の後ろ盾になる。諸外国では、ごく普通に理解されているこのことが我が国においては国民に理解が行き届かない。今なお大東亜戦争で我が国の侵略がアジア諸国に耐えがたい苦しみを与えたと思っている人が多い。しかし私たちは多くのアジア諸国が大東亜戦争を肯定的に評価していることを認識しておく必要がある。タイで、ビルマで、インドで、シンガポールで、インドネシアで、大東亜戦争を戦った日本の評価は高いのだ。そして日本軍に直接接していた人たちの多くは日本軍に高い評価を与え、日本軍を直接見ていない人たちが日本軍の残虐行為を吹聴している場合が多いことも知っておかなければならない。日本軍の軍紀が他国に比較して如何に厳正であったか多くの外国人の証言もある。我が国が侵略国家だったなどというのは正に濡れ衣である。 日本というのは古い歴史と優れた伝統を持つ素晴らしい国なのだ。 私たちは日本人として我が国の歴史について誇りを持たなければならない。人は特別な思想を注入されない限りは自分の生まれた故郷や自分の生まれた国を自然に愛するものである。日本の場合は歴史的事実を丹念に見ていくだけでこの国が実施してきたことが素晴らしいことであることがわかる。嘘やねつ造は全く必要がない。個別事象に目を向ければ悪行と言われるものもあるだろう。それは現在の先進国の中でも暴行や殺人が起こるのと同じことである。私たちは輝かしい日本の歴史を取り戻さなければならない。歴史を抹殺された国家は衰退の一途を辿るのみである。(※iRONNA編集部注:肩書き等は『月刊正論』掲載当時のものです)

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    田母神論文の意味するところ

    他人の論評の中から都合の良いところを引用して、バランスに欠ける論旨を展開している点である。あの程度の歴史認識では、複雑な国際環境下での国家防衛を全うできない。 大戦に至る歴史の中で日本が道を誤る転換点となった張作霖爆破事件は、満州権益の保護拡大のため関東軍が独断専行の結果引きおこしたものであることは各種証拠からほとんど間違いない。このときの処置のあいまいさや満州での激しい抗日運動、関東軍の独断がその後の満州事変の引き金になり、満州国建国、上海事変、シナ事変へと続いていったのである。この歴史的事実をもって日本は侵略国家でないというのはあまりに偏った見方である。 我々が心得べきことは、大戦に至る数十年、日清・日露戦争で勝利した奢(おご)りから軍の独善が進み、国家は「軍の使用」を誤ってアジア諸国に軍を進め、多くの尊い人命を失い、国益を損なったことである。これは日本が近代国家を建設する過程での重大な過誤であり、責任は軍人はもとより国家・国民が等しく負うべきである。この過誤を決して繰り返してはならない。政治感覚の著しい欠如 ところで、田母神氏は自衛隊員として論文の部外発表手続きを踏んでいない。それを十分承知の上で、日常の不満・鬱憤(うっぷん)をこういう形で、一石を投じる目的をもって公表したのであれば、それによってもたらされる影響についても責任を有する。政府の村山談話がおかしいと思うなら防衛省内で大臣相手に堂々と議論すべきであり、懸賞論文に出すなどと言う行為は政府高官のすべきことではない。 さらにこれによって防衛省改革や防衛大綱の見直し、防衛費や自衛隊の海外派遣問題などにマイナス影響を与えかねない。それが分かっていて発表したというなら政治的な背信行為であり、分からなかったというなら、幕僚長がその程度の政治感覚もなかったのかと言うことになる。防衛省の対応には疑問 自衛隊員は呼称は何であれ、武力行使できる実行組織を指揮するのであるから、いわゆる「軍人」である。一般市民が自衛隊員をどう見ているかを、高官になれば分かっていなければならない。田母神氏は、日本の自衛隊はいかなる国より文民統制がしっかりしていると国会答弁しているが、自衛隊員がこれを言っても説得力はない。 国民には、文民統制は自衛隊員に意図があれば機能しなくなると考えている人がいる。しかし戦後半世紀、文民統制に大きな疑惑が起きなかったのは、この間の先人の自己抑制努力によるものである。今回の論文によって文民統制への信頼性を失ったとすればその責任は大きい。防衛省の対応には疑問 他方、防衛省の対応措置には納得がいかない。田母神氏を懲戒処分にする手続きをとらずに解任し、空幕付きにして退職させた。懲戒にしなかった理由を防衛省は、審理に通常10カ月近くかかり、その間に本人が定年を迎えるので、と説明した。懲戒処分といっても実際には、個人の表現の自由が認められている限り、懲戒免職にはできず、それより軽い処分ですむ。1日も早く防衛省から辞めさせてしまいたい、審理に入ることにより省内で歴史論争がおこるのを防ぎたいという事情が合わさったのであろう。 幕僚長という地位にあるのであるから、大臣は本人に面談のうえ身の処し方を協議すべきであった。国会も参考人質疑で歴史認識論議を避けたが、立法府こそ堂々と歴史認識を論議すべきである。 今後、部外発表をチェックする制度を強化すると、自衛隊員は部外に個人の思想・信条を吐露しなくなる。何を考えているか分からない23万人もの実力部隊が存在することの方が不健全である。文民統制の本義を履き違えた議論は戒めるべきであり、自衛隊員の部外発表を規制することは論外である。 一方で、自衛隊も人材育成や教育を見直す必要がある。自衛官が政治の場を体験する機会を増やすことも考えるべきだ。幕僚長以上を国会の同意人事にすることは違和感があるが、そうするのであれば、彼らを国会審議に引き出す制度を作る必要があろう。 今回は国内世論が左右にはっきり分かれた。これは歴史認識が確立していないからであり、近代史に関する歴史教育の重要性を痛感させられる。(もりもと さとし)(※iRONNA編集部注:肩書き等は産経新聞掲載当時のものです)

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    田母神戦争大学の白熱講義「レッテル貼りに負けるな!」

    日本真正保守党を設立します! 「中国が軍事的に強いという認識は間違いだ!」と言い切る著書『田母神戦争大学』(産経新聞出版)を刊行した田母神俊雄元航空幕僚長が都内で講演した。田母神氏といえば今年2月の都知事選でスクランブル(緊急発進)し、61万票を集めたことが記憶に新しい。この日の講演では「いったん政治の世界に足を踏み入れた以上、カタギの世界には戻れない」と、新たに「日本真正保守党」を立ち上げることまで宣言したのだった。(溝上健良)『田母神戦争大学 心配しなくても中国と戦争にはなりません』(田母神俊雄、石井義哲著、産経新聞出版) 6月2日に東京・潮見のホテルで開かれたのは、アパグループの元谷外志雄代表による著書『誇れる祖国 日本復活への提言II』の出版発表会。同書は元谷氏(ペンネーム・藤誠志)の最近1年間の社会時評エッセー12本をまとめたもので、すべて英訳付きとなっている。「憲法を改正して独立した軍を持てる国家を目指せ」といった主張を、英訳することで海外にも発信することは非常に意義のあることだといえる。 かくいう小紙も5月1日、「国民の憲法」要綱の主要部分を英訳して紙面に掲載し、本MSN産経ニュースを通じて世界に発信した。筆者もこの企画の末端に携わったのだが、いかんせん英検3級の英語力のため、さほど戦力にはなれなかった。 いざ「国民の憲法」英訳版を発表してみると、海外からも英語での感想が寄せられてきた。この反響をまとめるため筆者も和訳の作業に携わったのだが、小紙の取り組みを「Great attempt」と評価してくださった方がいた。ちょっとうれしくなって「偉大なる挑戦」と訳していると、後ろからのぞきこんだ大先輩記者に「そこは『素晴らしい試み』くらいの訳が妥当なんじゃない~」と注意されてしまった。うーむ、やはり英検3級の身にはこの仕事は厳しいか…。 そんなことがあってから数日後、目の前が真っ暗になる記事が小紙に掲載された。いわく「英検、幼児のお受験過熱 10年で5倍の2500人」。何と小学校入学前に準2級や2級といった高校レベルの検定に合格している子供が増えてきているとのこと。もう穴があったら入りたくなってくる。とはいえいまさら英語を勉強する気分にもなれないし、それくらいなら「ネルフ」とか「ゼーレ」や「パンツァー・フォー」とか、ドイツ語を学んだほうが楽しいし。河合栄治郎も不朽の名著『学生に与う』で「Leben ist Kampf(人生は戦いだ)!」と喝破している。ちなみに、小紙の科学担当論説委員によると、ドイツ人が話す英語は聞き取りやすく、海外出張の際にはドイツ人と親しくなるのがスムーズな取材活動の秘訣(ひけつ)なんだとか。「次は××××抜きでやろうぜ!」の一言で仲良くなれるのだという(推奨はしません。あくまで自己責任でどうぞ)。 さて『誇れる祖国 日本復活への提言II』は5万部を発行し、アパホテルの各部屋に配備して、海外からの宿泊客の目にとまるようにするのだという。なるほどその手があったか。日本発の声を海外にどう伝えていくか、新聞社としてもいろいろ考えていく必要がありそうだ。 続いて開かれた出版記念パーティーには29カ国の在日大使館関係者をはじめ約千人の招待客が詰めかける中、藍より青き(「空の神兵」)ネクタイをビシッと締めた田母神元空幕長が登壇した。レッテル貼りに負けるな!講演する田母神俊雄氏=2014年8月6日※今回の講演ではありませんレッテル貼りに負けるな! 冒頭、田母神氏は「危険人物の田母神でございます」とお約束のあいさつで場を和ませ、聴衆の関心を一気に引きつけた。かつての石原慎太郎元都知事の「暴走老人の石原であります」の名文句が想起される。これは某元女性国会議員によるレッテル貼りを逆手に取ったものだったが、この手法はいろいろと使えそうだ。 レッテル貼りといえば左翼・リベラル勢力の専売特許といえる。その点、朝日新聞は見事なもので、『空飛ぶ広報室』『碧空のカノン』『永遠の0』といった作品が注目されるとすかさず「愛国エンタメ」とレッテルを貼り、『悪韓論』『呆韓論』『日本人が知っておくべき嘘つき韓国の正体』『どの面下げての韓国人』『韓国人による恥韓論』『虚言と虚飾の国・韓国』『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』『朝鮮崩壊』『中国という蟻地獄に落ちた韓国』『ニッポンの懸案 韓・中との衝突にどう対処するか』『中国崩壊前夜』『嘘だらけの日中近現代史』『面白いけど笑えない中国の話』…といった書籍がヒットすれば「嫌中憎韓本」が流行していると警鐘を鳴らしてみせる(毎日新聞はさすがに「憎韓」は乱暴だと考えたのか「嫌韓嫌中」本と報じていましたね)。こうしたレッテル貼りをどう切り返すべきか、田母神氏のあいさつは一つのヒントを与えてくれているように思われる。 そういえば最近は集団的自衛権をめぐる議論で「行使を認めれば『戦争できる国』になる」とのレッテル貼りも目立つ。これを田母神氏がどうひっくり返すのかも、今回の講演の聞きどころといえそうだ。 気分がのって参りましたので、さらにもう一つ。朝日新聞は5月20日の朝刊1面で、東京電力福島第1原発の所員の9割が大震災4日後の朝、吉田昌郎所長(当時)の命令に反して10キロ離れた福島第2原発まで撤退していたと報じた。本当ならとんでもないニュースである。これについては『死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日』(PHP研究所)の著者、門田隆将氏が言論サイト・ブロゴスの「お粗末な朝日新聞『吉田調書』のキャンペーン記事」と題する長文の記事で、朝日記事の核心部分が「誤報」だと解説している。生前の吉田氏に長時間取材を敢行した作家による分析だけに重いものがあり、「おすすめ」が軽く1万を突破する注目度の高さである。日本国民必読の記事といえるだろう。 おっと朝日新聞並みに暴走してしまった。そういえばかつて「命がけで暴走します」という名言もあったような…。ま、時には小紙あたりが僭越(せんえつ)ながらA紙のブレーキ役を果たさねばならないのかもしれない。 なお田母神氏の講演中、演壇の脇では『田母神戦争大学』の共著者、石井義哲元空将補がSPのように目を光らせていたのが印象的だった。今回の著書は田母神氏にとっては記念すべき50作目の、石井氏にとっては初の著作とのこと。小柄な田母神氏と長身の石井氏が編隊飛行のように対になって行動するさまは、プラウダ高校の隊長・カチューシャと副隊長・ノンナの絆を想起させるものがあった(突然の戦車道ネタで済みません。詳しくは「ガールズ&パンツァー」をごらんください)。私も空軍ですから私も空軍ですから さて本題の講演に話を戻すと、田母神氏はブラジルへの講演旅行から帰国したばかりとのことだった。 「(5月)23日から31日までブラジル日本会議から講演依頼を受けまして、2カ所で講演をしてきました。ブラジルはちょうど日本とは地球の反対側にあって、時差がちょうど12時間なんで時計の針を直す必要がまったくないんですね…」画像はイメージです そしてブラジルの日系人が中韓などにいじめられている日本の現状を心配していることに触れ、話題は日本の政治に移っていった。 「いま、日本の政治状況をみますと、自民党が公明党の支援を受けている今の体制では安倍総理がなんぼ頑張っても『日本を取り戻す』のは無理なんではないかと思います。私は、自民党と公明党が離れなければならないと思うんですね。安倍総理が何かやろうとすれば必ず野党が足を引っ張る。公明党は“与党内野党”で足を引っ張る。そこで日本維新の会の一部議員の方々が中心となって、自民党の右側にしっかりとした柱を立てていただいて『自民党よもっとしっかりしろ』という健全野党ができないといけないと思います。そしてその健全野党がある程度の力を持って、自公を分裂させて、健全野党と自民党との連立ができるということが必要なのではないか、そうしなければ『日本を取り戻す』ことは無理なんではないか、というふうに思います(拍手)」 「私も都知事選に出てしまいましたので、私も空軍ですから、いっぺん飛び上がったら敵空母を撃沈するまで戦うしかない(拍手)。政治の世界に足を踏み入れたら、もうカタギの世界には戻れないんじゃないかと思います(会場爆笑)」 「それでどうするか。まあ状況をみながらですけれど、私はでかいことを言うのが好きですから『政党をつくる』ということを一昨日、ツイッターで流してしまったんです。『議員でもないお前が何を言っているんだ』『そんなことできっこないじゃないか』と言われますが、私はでかいことを言うのが好きなんです。でかいことを言って自分を追い込んでしまう、そうすれば後はやるしかない、ということで、名前まで決めてしまおうかということで『日本真正保守党』という名前にしたいと。略称は『真保党(しんほとう)』にするかな、ということなんですけれど、名前だけ決まってスタッフも何も決まっていないけれども『やりますよ』という宣言だけさせていただきました(拍手)。たぶん、多くの政治家の先生方は『何を言っているんだ、政治のことも分からないのに』と思っておられるであろうことは分かりますが、とにかく頑張ろうと思っております」(中略) 「戦後の日本は、ものすごい勢いで日本社会がぶち壊されてきたと思います。いま、年金問題が起きています。少子化問題が起きています。老人の孤独死の問題が起きています。こうしたことは戦後、日本の家督相続制度や大家族制度が壊されたことが大きな原因ではないかと思うんですよね。戦争が終わって2DKの住宅がいっぱい作られた。『戦争が終わって住むところがないから、とりあえず小さな家でもいい』というのが主たる狙いではなかったんです。これはアメリカ占領軍が、日本の大家族制度をぶち壊すことを狙いに、2DK住宅がいっぱい作られたんです」 「公民館が全国津々浦々に作られましたが、何のために作ったんですか。昔は地域共同体の中心に神社がありました。集会は神社で行われていたんです。みんな何かあると神社に集まっていたんです。日本国民と神社とを切り離すために、公民館が全国津々浦々にいっぱい作られたんです。巧妙にやられていますから、多くの日本国民はその狙いに気がつかないんです」総理の靖国参拝も毎月やったらどうか 「いま、東京には1人暮らしのおじいちゃんおばあちゃんが70万人もいるそうですが、これがあと20年もすると100万人を超えるだろうという予測があるんですね。死んでも1、2週間、気づかれないという例も多い。『なんか2週間前に死んでいたらしいぞ』と、なんぼ都会であってもこういう街でいいはずがない。やっぱり隣近所がある程度のつき合いをもって生きていくような日本でなければならないんじゃないかと思います」 「日本は戦後、経済復興に全力を尽くして、世界第2の経済大国といわれるまでになりましたが、その陰で壊されてきたものも多い。日本はいまだに自分の国を自分で守る態勢ができていません。世界第2の経済大国といわれながら。まあ中国が日本を抜いたといわれていますが、あれは粉飾決算の最たるものですから…(会場爆笑)。自分の国を自分で守れない先進国など、他にありません」航空自衛隊の主力戦闘機F15(空自提供) 「日本はアメリカ製の戦闘機を使っている。ミサイルもアメリカ製。これらは自動車とは違うんです。自動車ならアメリカから買ってきて、アメリカと手を切っても日本で整備して動かすことができます。しかし戦闘機やミサイルはそうはいかない。これは製造国が継続的に技術支援をしてくれないと動かないわけです」 「近年の兵器はソフトウエアがその能力の半分以上を決めますから、アメリカの兵器を使っているということは、外交交渉をアメリカとやっていると、『日本はいうことを聞かないのか、それならいつでも自衛隊(の機能)を止めるぞ』と、そんなことは口に出しては言いませんが、無言の圧力がかかるわけです。で、日本は武器は買ってくるのはいいけれど売ってはいけない、となっているわけですよね。これは自ら自分の首を絞めているようなものだと思います」 「よその国で普通にできることが日本では普通にできない。例えば総理大臣の靖国参拝。これは外国では、総理大臣や大統領が戦没者のところにお参りするのはごく普通のことですよね。このごく普通のことが、日本では大問題になるわけです。集団的自衛権も問題になっていますけれど、日本以外の国は普通に行使するわけです。こうした、他国で普通に行われていることが日本だけはできない、ということに問題を感じていない政治家の先生方がいっぱいおられるわけですよ。よその国でできることが日本でだけはできない、という状態である限り、日本は圧力をかければ最後は必ず要求をのむ、と外国には思われるし、日本から中国・韓国・アメリカに対して、『どうぞ圧力をかけてください』というシグナルを常時、発信しているようなものです」 付け加えれば憲法が時代に合わなくなってくれば改正するのは諸外国ではごく普通のことだが、日本の場合は天地をひっくり返すような大騒ぎになってしまう。この拒絶反応もどうにかしたいものだ。毎度のことながら長くなりそうなので以下、解説抜きで講演の再現を続けたい。 「靖国神社の首相参拝も慰安婦の問題も、集団的自衛権の行使の議論にしても『ちょっと今は時期が悪いんじゃないか』という人がいます。ではいつ、いい時期が来るのかという話ですよね。来ないですよ。どんどん状況は悪くなるだけですよ。だから戦うしかない。大騒ぎになるかもしれませんが、それを乗り越えて戦うという政治の意思がなければ、『日本を取り戻す』のは無理なんではないかと私は思います(拍手)」 「総理の靖国参拝も、私は毎月やったらどうかと思うんです。そのうち中国も韓国もくたびれて何も言わなくなりますよ。(参拝は)特別のことではないんです。よその国では普通にやっていることを、日本もやりますよというだけのことです。しかしこれの足を引っ張るのがマスコミなんですね。占領下では検閲がありましたが、マスコミはまだ当時の『プレスコード』にしばられているんです。これは簡単にいえば、アメリカや連合国はみんないい国ですよ、日本は悪い国ですよ、という30項目の規定があって、これに抵触することは報道できなかったわけです。そして『日本はいい国だ』という報道はいまなおできていない、だから日本のマスコミは反日なんだと思います。いったいどこの国のマスコミなんだ、と思う場面がありますが、いまなおこのプレスコードに支配されているということなんです」プロレスラーは襲われないプロレスラーは襲われない 「やはり『プレスコードに支配されるな』という運動を、保守派の国民が騒いでいかなければならないのではないか(拍手)。私は『頑張れ日本!全国行動委員会』という団体の会長をしているんですけれど、日本では保守系の人というのはおとなしいんですね。『そのうちわかる』『いずれ彼らも理解する』と、主張はしますがデモ行進や集会を保守系の人はあんまりやらない。しかしその間に、左巻きの人は一生懸命頑張るわけなんですね。私も最近、左翼の人には出会っただけでわかります。だいたいみんな、体が左に傾いているんですね。でも彼らは戦後、ものすごく頑張ってきたんです。その努力の方向はホレボレするくらい間違っていますが(会場爆笑)、努力の量はすごい。それで日本は左に傾いてきたわけです」 「そこで私はそうかと、左翼をまねて運動もするしデモ行進もしようと、あちこちで保守派としては珍しく集会やデモをやっているんです。それで私は『危険人物』とかいわれていますけれど、私は本当にいい人なんです。5分~10分、私と話をしてもらえば『本当に穏やかでいい人なんだな』とすぐわかるはずです。だけれどもマスコミなんかでは危険人物ということになっているんですけれど、日本という国を私は大好きなんですね。自分の国を悪くいいたい、そういう人はいったい何なんだと私は思うんです。『そんなに日本が嫌いなら、どうぞ中国にでも韓国にでも行ってください』と、私は本当にいいたいですね(拍手)」試作機「先進技術実証機」の地上滑走試験を視察する中谷防衛相(左から2人目) =2月24日午前、愛知県小牧市の航空自衛隊小牧基地(代表撮影) 「よその国は、軍隊を自国の財産として使うんですね。ところが日本は自衛隊を使うとロクなことにならないから、法律でがんじがらめにしばっておけ、ということになっているんですね。ですから世界の国の軍隊は国際法で動きます。国際法というのは条約と慣習法の集合体で、主に禁止規定なんですね。『これとこれとこれはやってはいけません、あとは何でもやります』というのがよその国の軍隊です。日本の自衛隊は根拠規定、ポジティブリストで動きます。自衛隊法とか、イラク特措法とかで任務か決められていて、あらかじめ『やれ』といわれたことだけやっていい、ということになっています。インド洋に『外国の艦艇に給油をしなさい』という目的で派遣された自衛隊の艦船が、目の前で海賊に襲われている商船を見たとします。助けていいのか。助けられないんです、これは。やってはいけないといわれているんです。よその国の軍隊だったらすぐに助けるのに」 「日本は集団的自衛権についても行使できないという状態のままですが、よく考えてみると『オレがやられたときは助けてくれよな。でもお前がやられたときは、オレは助けられないから、逃げるから』というわけです。こんな非道徳的な状態を国家が放置していていいのかと思います。集団的自衛権を行使できるようになると『戦争ばかりする国になる』のではないかと、社民党の党首だった福島瑞穂さんなんかは『戦争できる国』にするんですかというわけですが、福島さん、実はその通りなんです。『戦争できる国』のほうが、戦争に巻き込まれないんです。これは歴史をみれば分かります。プロレスラーに飛びかかるバカはいないんです、強いから。飛びかかられるのは弱い人ばかりですよ。軍事力が強くて、仲間がいっぱいいるほど、攻撃を受ける可能性は低くなるんです」 「だから集団的自衛権の行使のように、よその国がやっているようなことを普通にできるということは、抑止力を高めることになるんです。(どこかの国が)『日本をぶん殴ろうか』と思ったときに(抑止力が高ければ)『いやちょっと、これは反撃されるからマズイ』と思うわけですよね」 「だけど今の日本は反撃しないわけですね。反撃能力もない。アメリカに反撃してもらうことになっているんですけれど、これも危ういものですね。(日本は)ボクシングのトレーナーがミットを持って、中国や韓国が殴ってくるのをミットで受けているだけのようなものです。私は攻撃をしなければダメだと思いますね。『1発殴られたら3発殴って返すぞ』ということが抑止力になるわけです。けれども、日本ではこの抑止力という考え方がなかなか伝わりにくく、いまの日本は攻撃力を持てていないという状態なんですね」田母神氏は続けた。「やはり自衛隊が米軍を離れて独自に軍事力・防衛力を発揮できるような態勢にならないといけない。いまの自衛隊は残念ながら、米軍が協力をしないと実力を発揮できない。戦闘機もミサイルシステムも、米国の暗号を、米国の敵味方識別装置を使っています。だから残念ながら、米国が協力してくれなければ自衛隊は動けないという状態にあります。ですから、現状の日米安保条約を維持しながら、一歩ずつ『自分の国は自分で守れる』という態勢にしていくべきだと思います。そのためには主要兵器はやはり国産にしなければダメです」 そういえば最近、話題になった小説『尖閣喪失』(大石英司著/中公文庫)では、米国の協力が得られずに自衛隊が尖閣諸島を守りきれないという非情な事態が描かれていた。そうした想定が現実化しないように、自衛隊の装備も「自分の国は自分で守れる」ものへと整えていく必要がありそうだ。 「米国も日本も同じF15という戦闘機を使っていますけれど、米国によって日本のソフトウエアは2ランク、能力が下げられたものになっているわけです。ですから日本と米国のF15同士が空対空戦闘をすれば必ず米国が勝つようになっています。これは米国に限らず、兵器輸出の原則です。イギリスもフランスもロシアも、他国に兵器を輸出する際にはその国に負けないように、能力を下げたものを輸出するわけです。ロシアなんかはご丁寧に、中国に輸出するものは3ランクくらい能力を下げています。インドに輸出する場合は2ランクくらい下げている。もしインドと中国が戦えばインドが勝つ形になっています(会場爆笑)。これが国際社会の現実です」日本はどう生き残っていくべきなのか こうした国際社会の中で日本はどう生き残っていくべきなのか。田母神氏は国家として自立することの必要性を訴えかけた。「日本というのは本当にいい国なんですよね。『日本列島は日本国民だけのものではない』と話すほど立派な総理大臣が出るのが日本なんですね。それを言うのなら鳩山さん、『音羽御殿は鳩山家だけのものではない』と言ってからにしてください、と思いますけれど。日本が自分の国を自分で守るためには、自衛隊が自立しないとダメですよね。国家の自立は、軍の自立と同義語なんです」 「軍が自立していなければ国家政策の自立はありえない。圧力をかけてくれば、守ってくれるアメリカのいうことを聞かなければならないということになる。私は別に、米国とケンカしろと言っているわけではないんですね。米国とうまくやりながら、やはり独立国としては自分の国は自分で守りたいというのは当然でしょう。だから日本はその方向へ行くことを、米国と調整しながら進めるべきだと思います。もちろん米国は全力をもって妨害するでしょう。米国の対日戦略としては日本を絶対に軍事的に自立させない、そして経済的に支配するということだと思います。ですから米国は米国製の戦闘機やミサイルシステムをどんどん日本に売るわけですよね」 「日本ではF35という戦闘機を航空自衛隊が導入することがついに決まってしまいましたが、米国としては開発する必要のなかった戦闘機です。米国はすでにF22というステルス(レーダーに映らない)戦闘機を持っている。F35は何のために開発したかというと、9カ国共同開発で、基本ソフトウエアは米国がつくり、これをよその国に使わせるので、よその国の戦闘機の能力を米国が全部、コントロールできるんですね。そこへ日本は10カ国目として入っていきますので、すでに製造分担が決まった後なので、日本は米国が作る分の一部を作らせてもらって後は組み立てるだけで、日本の戦闘機製造・開発技術はこれで失われてしまう。これが米国の真の狙いなんですね」 「(米国が)北朝鮮のミサイルの脅威をあおるのは、守りにもっとお金をかけさせて、日本に攻撃力を持たせないための、米国の情報戦ですよ。『北朝鮮がミサイルを撃つかもしれない』と年に2回くらい大騒ぎをしますけれど、北朝鮮がある日突然、日本にミサイルを撃ってくることなんてないんですよ。自衛隊が動く必要はまったくありません。まあ(北ミサイルに備えて)自衛隊が動くことで、国民の軍事アレルギーが少しは減るか、という思いで動いているかと思いますが」 「日本が自立するためには武器輸出を解禁しなければダメですよと、私は何度も政府には申し上げているんですけれど、武器輸出を解禁すれば日本はやがていいものを作ります。そして今ある米国製の戦闘機やミサイルシステムが逐次、日本製に置き換わって、初めて自衛隊が自立し国家の自立ができる、ということになると思います」(中略) 「日本の核武装についても『核武装なんて考えているのか、あいつ頭がおかしいんじゃないか』といわれます。5年前、私がそう主張したときにはそんな感じでしたが、最近は少し変わってきました。国際社会に出て『核武装するよりも、核武装しないほうが国は安全ですよ』といった意見が通るか、といえばまったく通りません。日本でだけ通る意見です。私は(現役当時)世界の空軍参謀総長会議に2回出ましたけれど、インドの空軍参謀総長が『おい田母神、日本は核武装をしないのか』と聞くものですから、『いやオレはその気があるんだけれど、日本政府にその気がないから』と応えると、インドネシアの参謀長が言いました。『そうだ、アジアではやっぱり日本が核武装すべきだ』と。まあリップサービスもあったのかもしれませんが。隣で米国の参謀長がニコニコ笑いながら聞いていました。これが国際社会の常識だと思います。しかし日本では、軍事のことについては常識が通らない。そうしてがんじがらめにされている。私は憲法もそうだと思うんですよね…」 ここで、日本が核武装することは日本国憲法に照らしてどうなのか、みておく必要があるだろう。憲法9条があるから日本は核武装できないのか。いやいや、できるのだ。昭和34年3月の参議院予算委員会で、岸信介首相は「政策として核兵器は保有しないが、憲法としては自衛のための最小限の核兵器を持つことは差し支えない」と答弁している。半世紀以上も前にこうした検討が行われているのだ。 もっとも核兵器があっても、相手国まで運ぶ手段がなければ抑止力の意味がない。普通に考えてミサイルや爆撃機が必要となるが、こちらは憲法上、問題が生じてくる可能性がある。ただし警世の書『東京に核兵器テロ!』(高田純著/講談社)に示されたように、マンパワーで小型の核兵器を相手国に持ち込むのであれば、この限りではないだろう。なお夕刊紙「日刊ゲンダイ」で現在、スバリ「日本核武装」という小説が連載されている。ご参考まで。 さて日本国憲法について。「(前文に)『諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した』と書いてありますけれど、これは平たく言えば、日本は悪い国だ、ということですよね。この憲法にはあちこちに『日本は悪い国だ』ということがちりばめられていて、どこをどう直してもなかなかまともな憲法にはならないと思います。だから新しい憲法を作って、日本国憲法と置き換えていかないと私はダメだと思うんですよね」 「憲法に日本の国は悪い国だと書いてあるから、日教組なんかは憲法に忠実に『日本は悪い国だ』と学校で教えるわけです。そう教えているので、出来上がった総理大臣候補にしてもロクな人間がいないんですね。その欠陥製品が鳩山由紀夫氏や菅直人氏だと私は思うんですが、日本は悪い国だと教え込む歴史教育は本当におかしい、直していかなければならないものだと思います」真正保守が目指すもの真正保守が目指すもの 講演では中国の核の脅威はどの程度のものかにも言及してほしかったが、時間の都合もあってか触れられなかった。詳しくは『田母神戦争大学』で、ということだろう。そして日本の政治に話が及んでいった。 「日本という国は長い歴史の中で、国家の最適化が図られてきたと思うんですね。社長と新入社員の給料の差は日本の場合、10倍くらいしかない。アメリカでは500倍くらいだとか、よその国ではもっと大きいものなんです。日本という国は安心して暮らせるいい国だったのが、だんだん日本の政治も経済も金融も雇用もシステムが壊されて、だんだん不安な国になってきているんですよね。終身雇用や年功序列、これ自体にいろいろ欠陥はありますけれど、これがあって皆、安心して暮らしていたと思います。『頑張れば何とかなる』んだと。今は頑張ってもどうにもならない。それは結局、日本が米国に守ってもらっている状況下で、日米構造協議とか、年次改革要望書とかで、米国のいうことを飲まされてきた結果だと思います」 「この20年、『改革、改革』といっていろんな法律を変えてきました。その結果『あの改革で本当に良くなったね』といえるものが皆さん、一つでもありますか。まったくないと思いますよ私は。みんな悪くなっているだけ。結局、日本政府が先頭に立って日本のぶち壊しをやってきたのがこの20年ではないかと思うんですよ。その結果、世界での経済競争にも敗れ、世界のGDPが2倍になる中で日本は20年前よりもGDPが減っているという状況です。GDPが緩やかに伸びるというのは政治に課せられた最低限の使命でしょう。GDPが20年前より減っている政治は、どれほど言い訳をしても正しい政治とはいえないと思います」 「自由と繁栄が人間を幸福にする基本的要件だと思いますが、そういう意味ではこの20年の政治は間違いだったといえるでしょう。今、安倍総理が誕生して、緊縮財政は間違いだった、として積極財政に打って出たわけですよね。これで私は景気が良くなっていくのではないかと思っています。人類の歴史をみれば、緊縮財政で国が立ち直ったということは一例もありません。ちなみに、地方分権で国が立ち直ったという例もありません。緊縮財政とか地方分権ということは、国を弱体化させるための情報戦みたいなものです」 だんだん「日本真正保守党」の目指す方向がみえてきたように思う。 「いま世界では、軍事力では富や資源を分捕りには行かないんです。情報によって富や資源が分捕られる時代になっている。TPPにしても米国は自国がもうかるシステムしか提案しません。外交とはそういうものです」 「北方領土にしても米国やドイツが四島一括返還を支持しており、日本国民は『米独が日本の味方をしてくれている』と思うかもしれませんが、ロシアは核抑止上、国後、択捉両島を日本に返すわけにはいかないでしょう。ですから四島一括返還と言っている限り、日露の問題は解決しない。日露が永久に仲良くなれない、ということを米独両国が狙っている可能性が大であると私は思っています。国際政治というのは本当に腹黒なんです。日本だけが腹の中が真っ白ですから簡単にだまされる。国際社会では『信じる者はだまされる』のです。外国は自国を強くし日本を弱体化させるためにいろいろ言いますが、靖国参拝や集団的自衛権の行使のようによその国が普通にやっていることは、どれほどいっとき問題があろうとも乗り越える必要があるでしょう。そういう意味で、安倍首相がやることの砕氷船的な役割を果たす政党が必要だろうという思いで、自民党の右側に柱を立てて安倍首相が仕事をやりやすくなるような政党を作りたいと思って宣言をしてしまいました。もう殺されてもやるつもりで頑張ります。どうもありがとうございました」 万雷の拍手を受けて講演を終えると、田母神氏と石井義哲元空将補は“一撃離脱”でサッと会場を後にした。意外に俊敏な月刊『正論』編集部のA氏と一緒にあわてて後を追い、ぶら下がり取材に入った。 メモを取れる状況でもなかったので正確な再現はできないが、田母神氏は「都知事選で応援してくれた人たちの思いに応えないわけにはいかない」「石原慎太郎氏の新党とは将来的に政策協議や、あるいは合流といったことはあるかもしれないが、当面は別々でやっていきたい」「党として衆参両院に候補者を立てる方向で、自分自身の立候補も視野に入れている」といった趣旨のことを話していた。国政への進出を断言したわけではないので、今秋の福島県知事選への出馬もあるかもしれないが、そこはあえて聞かなかった。もう一度、スクランブル(緊急発進)をみてみたい気もするし。 それでも「もし国会議員になったら、首相を目指します。それは国会議員として当然のことでしょう」と話していた。これは大変なことになりそうだ。自衛隊出身の首相はまだいない(旧軍出身者はいるが)。田母神氏が首相になる可能性が出てくれば、憲法の「文民条項」に照らしてどうなのかという議論が起こるだろう。そうなれば「文民」とは何かが議論され、この条項の不可解さ、さらには日本国憲法の成立過程のいかがわしさにも議論が及ぶことは必至だ。「首相公選制」の導入論議にも一石を投じることになるだろう。…気分がのって参りましたので、歌を歌います! ♪雲に波に 敵を破り 轟くその名 ラバウル航空隊~ 「敵空母撃沈」を期して発進した“田母神航空隊”の行方から当分、目が離せそうにない。

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    将軍の気づき

    「軍人は戦争なんかしたくないんですよ」田母神(元航空幕僚長)さんからよく聞かされたセリフがこれ──大なるもののために生命を投げ出す覚悟はあるものの、フツーの人が思うほど軍人は戦争好きではないのだ。

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    吉田茂はどうやって気難しいマッカーサーの信頼を勝ち得たのか

     連合国軍総司令部(GHQ)の占領統治が始まった昭和20年9月。全国の都市部は焼け野原が広がり、バラック建ての闇市が点在した。東京では、新宿、新橋、上野、池袋などに闇市ができた。 江戸東京博物館館長の竹内誠(82)は毎日のように上野の闇市を通って旧制上野中学に通った。 饅頭(まんじゅう)、クジラベーコン、ピーナツ、タワシ、茶碗(ちゃわん)-。食料や生活用品が所狭しと並び、「これを足して、さらにおまけで」と威勢のよい声が響いた。飲み屋のバラック街もあり、夜になると「カストリ」と呼ばれる密造焼酎を求め、男たちが集まった。21年に入ると瓦礫(がれき)は次第に撤去され、並木路子の「リンゴの唄(うた)」があちこちで流れるようになった。 上野駅前には小箱を脇に抱えた子供たちが進駐軍相手の靴磨きをしていた。上野山の坂道には米兵相手の娼婦(しょうふ)「パンパンガール」が並び、理由は分からないが、頻繁に髪の毛をつかみ合ってけんかしていた。 竹内と母親が上野公園で弁当を開いたら、後ろから子供の手がニュッと伸びて握り飯をつかんだ。戦災孤児だった。仕方なしに「どうぞ」と渡すとニヤッと笑って走り去った。竹内は懐かしそうにこう振り返る。 「戦争で敗れてどん底だったが、みんなは意外と明るく活気があった。今日より明日、明日よりあさってと世の中がよくなっていくイメージをみんな持っていたんだな…」■  連合国軍最高司令官、ダグラス・マッカーサーの主要な任務は、戦争犯罪人の処罰▽非軍事化▽民主化-の3つだった。そこでマニラの極東司令官時代からの部下「バターン・ボーイズ」をGHQの要所に配し、権力をより固めた。占領下の日本で長く首相を務めた吉田茂。茶目っ気のある皮肉でマッカーサーとの信頼関係を築き上げた 中でも信頼を寄せたのが、弁護士出身の将校である民政局(GS)局長、コートニー・ホイットニーだった。GHQ内で唯一マッカーサーとアポなしで面会でき、ほぼ毎夕1時間ほど面談した。これにより、ホイットニー率いるGSはGHQ内で覇権を握り、主要な占領政策をほぼ独占して推し進めることになった。 だが、GSの「民主化」は急進的かつ社会主義的だった。戦前の政府要人や大物議員、財界人は「反動的」とみなして次々に公職追放し、日本社会党に露骨に肩入れしたため、政界は混乱が続いた。 GSは、外相を経て首相となる吉田茂も敵視した。吉田の孫で、現副総理兼財務相の麻生太郎(75)はこう語る。 「祖父はマッカーサーとの信頼関係を醸成することでGSの介入を排除しようとしたんだな。ホイットニーに呼ばれても『わしはトップとしか会わんよ』と無視を決め込んでいたよ」 では、どうやって吉田は、気難しいマッカーサーの信頼を勝ち得たのか-。                    ◇ マッカーサーは執務中ほとんど席に着かず、室内を歩き回るのが癖だった。しかも軍人らしく7歩歩くと回れ右、また7歩歩くと回れ右-。これを見た吉田はちゃめっ気たっぷりにつぶやいた。 「まるで檻(おり)の中のライオンだな…」 マッカーサーは一瞬ムッとした後、ニヤリと笑った。マッカーサーがフィリピン製の葉巻を勧めると、吉田は「私はキューバ製しか吸わないんだ」と懐から葉巻を取り出した。 誰もが恐れる最高権力者に対して不遜極まりない態度だが、マッカーサーは「面白いやつだ」と思ったらしく、吉田との面会には応じるようになったという。 ある日、吉田は「食糧難がひどく、このままでは大量に餓死者が出る。至急食糧支援をお願いしたい」と申し出た。マッカーサーは「では必要量を統計からはじいてくれ」と即答し、米国から大量の小麦粉や脱脂粉乳などを送らせた。 ところが大量の在庫が出た。マッカーサーが吉田に「一体どんな統計データを基に必要量をはじいたんだ」と迫ると、吉田は平然とこう言ってのけた。 「日本がきちんと統計をできるなら米国と戦争なんてしていない」■ 果たしてGHQの「民主化」は成功といえるのか。 マッカーサーのせっかちな性格を反映し、その動きは確かに素早い。昭和20年10月4日には内相の山崎巌と特高警察の警官ら約4千人を罷免、政治犯の即時釈放を命じた。11日には婦人解放や労組活動の奨励などの5大改革指令を出した。 12月には日本政府に農地改革を命じ、国家神道を禁じる神道指令を発した。国会では婦人参政権を付与する衆院議員選挙法を改正・公布。その後も警察や内務省の解体などを着々と進めた。 翌21年2月3日、マッカーサーは「戦争の放棄」など3原則を示し、GSに憲法草案の作成を命じ、憲法草案はわずか1週間ほどで完成した。4月には戦後初の衆院選を実施、11月に新憲法の公布にこぎ着けた。 農地改革は全国の小作農の喝采を浴び、GHQの求心力を高めた。だが、あまりに農地を細分化したため、専業農家はその後減り続けた。後継者不足で耕作放棄地ばかりとなった農業の現状を見ると手放しでほめることはできない。 20万人超の公職追放は政財界に大混乱をもたらし、社会党や労組への肩入れは労働運動の先鋭化を招き、社会不安が深刻化した。財閥解体も産業界の復興を遅らせただけ。鉄道や道路などインフラ整備などにはほぼ無関心で、激しいインフレが人々を苦しめた。■ GHQの占領政策の当初目標は、日本が二度と米国に歯向かわないよう、その潜在力をたたきのめすことにあった。「平和憲法」制定を含め、その目的は達成したといえる。 だが、国際情勢がそれを許さなかった。欧州で米ソの対立が深刻化し、米政府内で「反共」の防波堤としての日本の重要性が再認識され始めたからだ。これに伴い戦前に駐日米大使を務めたジョセフ・グルーら知日派の「ジャパン・ロビー」が復権した。GHQ内ではGSと他部局の覇権争いがあり、23年10月の第2次吉田内閣発足時にはGSは力を失っていた。 占領政策は「民主化」から「経済復興」に大きくかじが切られた。だが、超緊縮財政を強いるドッジ・ラインで大不況となり、日本の本格的な復興が始まったのは、皮肉にも25年6月に勃発した朝鮮戦争により特需が起きたからだった。■ GHQの「非軍事化」「民主化」の切り札はもう一つあった。民間情報教育局(CIE)が担った「ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)」だった。 これは徹底的な言論統制とプロパガンダ(政治宣伝)で日本人に贖罪(しょくざい)意識を植え付けるという非民主的な策謀だった。 言論統制の象徴である「新聞報道取締方針」は戦艦ミズーリでの降伏調印式から8日後の20年9月10日に発せられた。GHQへの批判はもとより、進駐軍の犯罪・性行為、闇市、飢餓-など30項目が削除・発禁対象として列挙された。 GHQは手始めに9月14日に同盟通信社(共同、時事両通信社の前身)を翌15日正午まで配信停止とし、事前検閲を始めた。9月18日には朝日新聞を2日間の発禁処分にした。原爆投下を批判する鳩山一郎(後の首相)の談話を掲載したためだった。これ以降、各紙はGHQの礼賛記事を競って掲載するようになった。 「日本軍=悪」「米軍=正義」という歴史観を刷り込む宣伝工作も着実に進められた。 20年12月8日、日米開戦の日に合わせて新聞連載「太平洋戦争史」(計10回)が全国の日刊紙で始まった。中国やフィリピンで行った日本軍の残虐行為を断罪する内容で、GHQは連載終了後、文部省に対して太平洋戦争史を教科書として買い取るよう命じた。 12月9日にはNHKラジオ番組で「真相はこうだ」の放送を始めた。反軍国主義の文筆家が少年の問いかけに答える形で戦争中の政治・外交を解説するこのシリーズは2年間も続いた。 CIEの手口は巧妙だった。「誰が日本を戦争に引きずり込んだのか」という問いには「人物を突き止めるのは不可能。責任者は日本人自身だ」と答えて「一億総懺悔(ざんげ)」を促した。自らの言論統制は巧みに隠しながら、戦時中の検閲や言論弾圧を糾弾し、開戦時の首相、東條英機に怒りの矛先が向くよう仕向けた。 放送当初は懐疑的・批判的な日本人も多かったが、情報に飢えた時代だけに聴取率は高く、次第に贖罪意識は浸透していった。 ところが、23年に入るとCIEは方針をジワリと転換させた。2つの懸念が出てきたからだ。1つは広島、長崎への原爆投下への憎悪。もう1つは、東條英機が東京裁判で主張した「自衛戦争論」だった。この2つに共感が広がると日本人の怒りは再び米国に向きかねない。 こう考えたCIEは「侵略戦争を遂行した軍国主義の指導者層」と「戦争に巻き込まれた一般国民」という構図を作り出し、批判をかわすようになった。宣伝工作や検閲も日本政府に代行させるようになった。 GHQの洗脳工作は見事に成功した。26年9月8日のサンフランシスコ講和条約を経て独立を回復した後も、GHQの占領政策は肯定され、戦前は負の側面ばかりが強調された。 文芸評論家の江藤淳が『閉(とざ)された言語空間』でGHQの言論統制を暴いたのは戦後30年以上たった50年代後半。ジャーナリストの櫻井よしこが『真相箱の呪縛を解く』でさらに詳しく告発したのは21世紀に入ってからだ。WGIPは戦後70年を経た今もなお日本人の歴史観を束縛し、精神を蝕(むしば)んでいる。(敬称略)

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    マッカーサーの密命を受け朝鮮戦争に「参戦」した日本男児

     朝鮮戦争は、東アジアの秩序を決める転換点である。この戦いに、「参戦」した日本人がいた。米国の要請を受けた吉田茂首相の密命によって結成された日本特別掃海隊。国会で議論されているペルシャ湾での掃海作業は、今から半世紀前、彼らによって原型が作られていた。ジャーナリスト・城内康伸氏が65年前に朝鮮半島沖で繰り広げられた掃海の実態をレポートする。 * * * 1950年10月2日、大久保武雄・海上保安庁長官は、米極東海軍司令部参謀副長のアーレイ・バーク少将から、海上保安庁の掃海部隊を朝鮮半島沖に派遣するよう突然、要請された。 その年6月、北朝鮮軍の南侵で朝鮮戦争が勃発している。米軍は9月15日、仁川(インチョン)への奇襲上陸に成功し、マッカーサー連合国軍最高司令官は北朝鮮への突入を計画する。補給線確保のため、北朝鮮東岸に揚陸港が必要となり、元山(ウォンサン)が選ばれたのだった。 元山沖は、北朝鮮が敷設した3000個に及ぶ機雷の海だった。しかし、朝鮮水域を管轄する米海軍第7艦隊に配備された掃海艇はわずか14隻しかなく、圧倒的に不足していた。このため米軍は戦前からの技術と経験が豊富な日本の掃海部隊に応援を求めた。  3年前に施行されていた日本国憲法は、戦争放棄を定めている。戦時下にある朝鮮水域での掃海は、明らかに戦闘行為に当たる。 しかし、対日講和を前にした日本に、米国の要請を断る選択肢はなかった。大久保長官が指示を仰ぐと、吉田茂首相は言った。「極秘でやってくれ」 海上保安庁は10月4日、各地の掃海隊に下関・唐戸基地に集結するよう指示。6日の指揮官会議は「憲法違反ではないか」と紛糾したが、田村久三総指揮官が「北緯38度線を越えることはない」と約束することで何とか収束した。  8日未明、掃海母船「ゆうちどり」を先頭に、掃海艇4隻、巡視船3隻の日本特別掃海隊第2掃海隊が行き先を知らされぬまま、出港する。隊員は計207人。極秘行動のため、海上保安庁のマークや船名を塗りつぶし、日の丸の掲揚は禁止。無線は封鎖、各艇の連絡は手旗信号と発光に制限された。 2015年9月10日、軍の記念イベントで朝鮮戦争時の戦いを再現する韓国軍兵士ら(AP) 彼らは同日夕、対馬東方海上で、米掃海部隊と合流した。米側の「我々の左側に縦列になって同行せよ」との指示に従って、朝鮮半島の東側を北上し続ける。  下関を出て一昼夜が過ぎた9日夕。第2掃海隊の能勢省吾指揮官の手記によると、彼が乗る掃海艇MS03号で、乗組員が声を上げた。「北緯38度線を突破したぞ。大変なことになるぞ!」 総指揮官の約束はあっさりと、反故にされたのだ。10日未明、元山沖に着いた。海上には、戦艦や空母、巡洋艦など多数の米軍艦が浮かんでいた。元山前に広がる永興(ヨンフン)湾の湾口付近で、米駆逐艦が陸上に向けて砲撃を繰り返していた。能勢指揮官は手記に「とうとう戦場に来た」と当時の心境を記している。当初の日本の掃海作業は、米軍ヘリコプターの銃撃によって掃海を終えた後、残存機雷を処分する比較的、危険度の低いものだった。だが、米軍の掃海艇が相次いで触雷したことによって、未掃海面を直接掃海するよう求められた。 触雷の危険は格段に高まる。そして、日本の掃海隊は17日、運命の時を迎えた。 指定された掃海海域は旧日本海軍の飛行場があった沖合で、付近の海岸は砂地。上陸に都合が良いだけに、その阻止のため、多数の機雷が敷設されていることが予想された。  ドーン!  午後3時21分、鼓膜が破れそうな大音響が響いた。元山沖に浮かぶ麗島の南西4.5kmの海上で、MS14号が触雷したのだ。  巨大な水柱が天を突き上げた。MS14号の前を航行していたMS03号に乗っていた能勢指揮官は、こうふり返る。 「低い轟音と共に私がハッと思って振り向いた時には、煙とも水煙ともわからない薄黒いものが瞬間的に広がり、辺り一面の海面上を覆って何も見えない。その煙がようやく消えて付近が少し見えるようになった時には、既にMS14の姿はなかった。遠くから見ると、木片か人の頭か分からない黒い物が点々として海面に浮かんでいるだけであった」 MS14号は一瞬にして飛び散った。ほとんどの乗組員が、重油で表面が覆われた海に投げ出された。全23人のうち米軍艇などに引き上げられたのは22人。うち18人が負傷。ただ1人、烹炊(ほうすい)員として乗り組んでいた21歳の中谷坂太郎氏は発見されなかった。  それでも、元山の掃海は続いた。第2掃海隊に代わり、第3掃海隊が作業を引き継ぎ、10月25日には、上陸海岸までの水路掃海を終えた。  このほか、日本特別掃海隊の掃海は12月初旬まで、朝鮮半島の各地で行われ、延べ1200人の隊員が極秘の掃海活動に参加している。特別掃海隊は約2か月間の任務を終え、12月15日に解散した。  日本政府は長い間、特別掃海隊出動の事実を隠そうとした。1954年1月の衆議院本会議。特別掃海隊出動について野党議員から追及を受けた吉田首相は「私には、現在記憶がない」と、すっとぼけてみせた。 彼らの活動が公式に明らかにされたのは1978年のことだ。関連記事■ 旧帝国海軍の系譜は海上自衛隊より海上保安庁が継承と識者■ 北朝鮮軍 韓国に「ワタリガニ合戦」の軍事挑発仕掛ける恐れ■ 拉致命じられ日本に潜入した韓国秘密工作隊の悲劇を描いた本■ 北朝鮮と韓国との全面戦争はあるか? 専門家はないと説明■ 「互いの違い知り相手を尊重」日中韓友好のヒント与える新書

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    マッカーサーが日本で晴らした「私怨」

     本時事通信が間遠になっているので、本年に入り、空いた時間に何に取り組んでいるかをお伝えする意味で、去る、二月二十一日、難波神社で行われた「大和心のつどひ」で話したことがらのなかから、以下、東京裁判と日本国憲法の関連について述べておきたい。 我が国の戦後を考える場合、まず第一に念頭に置いておくべきことは、我が国を軍事占領した占領軍のトップである連合国最高司令官マッカーサーというやつが、非常に嫌な、歪な性格の人物だったということである。 もともとマッカーサーは、卑劣な復讐心と自己正当化の衝動が非常に強いのだが、こういう性格の男が、我が国の第十四軍によってフィリピンのバターン半島に追い詰められ、昭和十七年四月、コレヒドール島から部下を見捨てて自分だけ命からがらオーストラリアに逃げた。連合国軍最高司令官を解任されたマッカーサーだが、米国での人気は絶大で、ニューヨークやシカゴなどで行われたパレードには総勢数百万人が集まった。写真は1951年4月20日(ゲッティ=共同) これで、さらにどれだけ、性格が歪になるか。日本軍によって、軍人として世界に恥を晒すことになった。このマッカーサーが、こともあろうに、我が国を占領する連合国最高司令官になって昭和二十年九月、コレヒドール島から乗って逃げたB17、その名も「バターン号」に乗ってきて厚木に降り立ったのだ。 このマッカーサーが、日本に来て為そうとしたことは、「復讐を実行しつつアメリカは正義で日本は不義だと世界と日本人に刷り込むこと」である。その為に、彼が実施したのが東京裁判と他の多くの戦犯裁判だ。そこで、これらの裁判では、起訴状は連合国側つまりマッカーサー側が提出するのであるが、日本側からもその起訴状を補強し裏付ける文書が必要だと彼とその幕僚(コミンテルンのフロント達)は考えた。そして、その為の文書として日本国憲法がつくられた。 彼は自分が屈辱を受けたフィリピンの二人の将軍に対して、襲いかかるように復讐する。かつて緒戦でシンガポールを陥落させたマレーの虎といわれた猛将の山下奉文大将は、フィリピンで投降したが、この山下大将に対して、マッカーサーは、日本に来た翌月の昭和二十年十月二十九日に裁判を開始し、同十二月七日判決で翌昭和二十一年二月二十三日に軍服も着せずに絞首して殺している。 次は、マッカーサーをコレヒドール島から追い出した昭和十七年の第十四軍司令官本間雅晴中将に対して、昭和二十年十二月十九日に裁判を開始し、翌二十一年二月十一日判決、同四月三日午前0時五十三分死刑執行。この本間中将に対する判決日は紀元節二月十一日である。そして、死刑執行の日と時間は何か。四年前のその日、その時間、即ち、本間雅晴第十四軍司令官は、バターン半島に立て籠もって頑強に抵抗するマッカーサーを司令官とするアメリカ軍にたいし、昭和十七年四月三日午前0時五十三分、総攻撃を下命した。マッカーサーは、その日のその時刻に、本間雅晴中将を殺害したのだ。つまり、私怨を晴らした。私が、冒頭に、マッカーサーは実に嫌な奴だと書いた理由がお分かりいただけたと思う。それともう一つ、マッカーサーの癖が既に顕れている。それは、日付けにこだわる、ということだ。本間裁判の判決日、死刑執行日がそれだ。 この山下、本間両将軍が死刑になるなら、日本軍と戦ったアメリカ軍の全ての将軍も死刑でなければならない。アメリカ軍は日本の民間人を殺す目的で軍事行動をしていたからである(サイパン、沖縄はおろか東京、大阪、広島、長崎を見られよ)。更に、ベトナム戦争におけるウェストモーランド統合幕僚長も間違いなく絞首刑だ。にもかかわらず、マッカーサーが後に書いた「回顧録」には、自分が行った裁判は完全に正義に基づくものだったと強弁している。特に、本間中将の妻が、東京でマッカーサーに、「夫の助命嘆願をしているのではない、裁判記録に自ら目を通してほしい、そうすれば何を為すべきかお分かりいただけると信じている」と願い出たことに関しても、よくもまあぬけぬけと嘘がつけるなあ、と思うほど誤魔化している。 以上の通り、マッカーサーの、恨みのフィリピンにおける二人の日本軍の将軍に対する措置とその時の癖を述べた。このことを念頭に置いて、次の日付けを見ていただきたい。 東京裁判に関して 起訴、昭和二十一年四月二十九日(天皇誕生日) 審理開始、同五月三日 判決、同二十三年十一月十二日 死刑執行、同十二月二十三日(皇太子誕生日) 日本国憲法に関して 公布、昭和二十一年十一月三日(明治節、明治天皇誕生日) 施行、同二十二年五月三日(東京裁判審理開始日) フィリピンの本間中将裁判であれ、東京裁判であれ、精根尽きた敗戦後に日本国民が初めて迎える紀元節と天長節(天皇誕生日)にそれぞれ判決をなし審理を開始している。そして、連合国最高司令官司令部(SCAP)において、東京裁判と日本国憲法制定が、ばらばらに進行していたのではなく、両者は不可分のものとして同時並行させていたことは、日付けから見ても明らかである。東京裁判の審理開始の日から一周年の同じ日が、日本国憲法施行日とされている。さらに、その内容は、先に述べたように、東京裁判の起訴状を日本国憲法が補強し裏付ける関係に立つ。日本国憲法の特に「前文」を読まれたし。前文は、日本を戦前と戦後に分断し、戦前は「人類普遍の原理に反する」と宣言している。 このことを更に裏付ける文書がある。それは、GHQの30項目にわたる検閲指針である。この検閲の根拠は、GHQの発した放送遵則と新聞遵則であるが、驚くべきはその遵則の内容だ。それは、冒頭、「連合国最高司令官(マッカーサー)は、日本に言論の自由を確立せんが為に・・・」とその目的を掲げ、第一として「報道は厳に真実に即する旨とすべし」と定めていることである。連合国最高司令官は、日本に言論の自由を確立するためと厳かに宣言しながら、日本の言論の自由を根絶やしにする完璧な検閲を密かに実施していたのだ。何度でも言うが、マッカーサーほど嫌な奴はいない。そして、彼に率いられた幕僚達、彼等の本国に帰ってからの「生き方」を知る必要がある。如何なる人間であったのかが分かるからである。鼻持ちならん奴であったことは推測できる。 次に、この検閲指針を三十項目全て掲げておく。その理由は、未だに我が国の言論は、この検閲指針通りに自己規制しているからである。従って、今こそ、この検閲指針を熟読吟味する必要がある!  そもそも、現在に至るまで、学校で、日本人が日本国憲法を書いたと教えているのは、この検閲指針が今も生きて機能しているからである。安倍元総理が、菅直人のアホに質問されて、「宣戦の詔書」に祖父の岸信介国務大臣が副署したことは過ちであったと答弁してしまったのは、この検閲指針が未だに生きているからだ。以前私がテレビで、日本を何時までも朝から晩まで非難し続け、時に日の丸を焼いて気勢をあげる朝鮮人や韓国人を日本人は到底好きになれない、と当然のことを言っただけで、スタジオの皆から「レッドカード!」と非難されたのも、この検閲指針が生きているからだ。本稿の主題である東京裁判と日本国憲法の関連については、検閲指針の①、②、③、④を見られたし。語るに落ちるとはこのことである。まことに、無念ではないか。 検閲指針①連合国最高司令官司令部(SCAP)に対する批判、②極東軍事裁判批判、③SCAPが日本国憲法を起草したことに対する批判、④検閲制度への言及、⑤合衆国に対する批判、⑥ロシアに対する批判、⑦英国に対する批判、⑧朝鮮人に対する批判、⑨中国人に対する批判、⑩他の連合国に対する批判、⑪連合国一般に対する批判、⑫満州における日本人の取り扱いに付いての批判、⑬連合国の戦前の政策に対する批判、⑭第三次世界大戦への言及、⑮ソ連対西側諸国の冷戦に関する言及、⑯戦争擁護の宣伝、⑰神国日本の宣伝、⑱軍国主義の宣伝、⑲ナショナリズムの宣伝、⑳大東亜共栄圏の宣伝、21その他の宣伝、22戦争犯罪人の正当性及び擁護、23占領軍兵士と日本女性の交際、24闇市の状況、25占領軍軍隊に対する批判、26飢餓の誇張、27暴力と不穏の行動の扇動、28虚偽の報道、29SCAPまたは地方軍政部に対する不適切な言及、30解禁されていない報道の公表

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    従順で素直な日本人よ! もっと現実を直視せよ

    ケント・ギルバート(米加州弁護士・タレント)米中の軍事衝突はない アメリカのイージス艦「ラッセン」が、南沙諸島を航行しました。これは「航行の自由(Freedom of Naviga-tion)」作戦と呼ばれ、アメリカはこのような作戦を数週間から数カ月続けるそうです。 対して中国外務省は「中国の主権と安全保障上の利益を脅かす」として、抗議声明を出し、米艦監視のために中国艦を追尾させました。 しかし、非があるのは明らかに中国であり、アメリカの行為は極めて真っ当です。南シナ海を中国に領有させる理由は全くありません。この海域を中国が支配しても、中国を利するだけで、国際的にはマイナスでしかない。 それに米艦が航行しても、国際法上問題がありません。国連海洋法によれば、島は「自然に形成された陸地であって、水に囲まれ、満潮時においても水面上にあるもの」(百二十一条)で、島であれば領海などの主張が認められます。ところが、暗礁となると、岩が海中に完全に隠れてしまい、同条文は適用されません。 また、同法には「人工島、施設及び構築物は、島の地位を有しない」(第六十条)とありますから、中国が暗礁に人工島を作っても、その周囲に領海など存在しないのです。ですから、アメリカの船が公海であるこの付近を航行しても、何ら問題はない。米海軍横須賀基地を出港するイージス駆逐艦ラッセン%u30022015年10月に、南シナ海で中国が「領海」と主張する人工島周辺の12カイリ(約22キロ)内を航行した=1月6日午前、神奈川県横須賀市(米海軍提供) 今回の事態について、日本のメディアは「米中間の緊張が高まっている」とし、あたかも戦争前夜かのような報道をしています。軍事のことがまるでわかっていない。現実的に考えて、両国の武力衝突が起こるわけがありません。 アメリカが艦を派遣したのは、あくまでも現状の把握です。偵察衛星で人工島の状況はわかっていますが、それだけでは捉えられない内容もあります。それを調べるためでしょう。加えて、実際に〝押して〟みたら、どう反応してくるかを確かめる意図もあったのでしょう。いずれにせよ、今は様子見、下調べの段階です。 アメリカが派遣したイージス艦には、高度な情報収集能力や索敵能力が備わっています。ですから、もし中国が不穏な動きを見せれば、何もかもがアメリカに筒抜けになります。通信の内容が分析され、どういう設備が付近にあり、それがどの程度の性能かといったことが、アメリカにすべて知られるのです。まさに、真珠湾攻撃の前に、アメリカが日本の動きを完全にキャッチしていたのと同じです。 となると、中国はバレるのを覚悟で行動に出るか、黙っているしかない。もし行動に出たら、「張子の虎」の中国軍の完敗は確実です。中国軍もバカではないでしょうから、仕掛けませんよ。せいぜい抗議して、中国艦に追尾させるだけで終わるでしょう。 アメリカはそれをわかった上で、イージス艦を選んだと思います。本当にアメリカはこういう悪知恵がよく働きます。異常な九条崇拝 日本国民が軍事オンチなのは、憲法や戦後教育の影響が否めません。ご承知の通り、戦後、GHQは現行憲法がどのような過程で制定されたのか論じることを禁じました。それに加えて、ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムによって、現行憲法がいいものだという洗脳が日本人に施されました。 近年になって、改憲の議論が盛り上がっていますが、実を言うと、日本国憲法の大部分は普通です。世界各国の憲法にも似たような条文がありますし、いくつかの条文間の矛盾に目をつぶれば、致命的な不備はそれほどありません。 しかし、二つだけ、世界のどこへ行っても見当たらない異常な箇所があります。 一つ目は第九条です。この条文が入ったのは、アメリカの誤解によります。 当時のアメリカには、「日本人は赤ん坊から年寄りまで、軍国主義に染まっていて取り返しがつかない」「みんなが残虐で、精神が完全に狂っている」という思い込みがありました。日本人全員を殺さないといけないと本気で考えていたアメリカの議員もいたほどです。 なぜそう思ったか。日本が強かったからです。本当に恐ろしかったのです。ですから、本土決戦になれば、アメリカ軍に百万人もの犠牲者が出るとアメリカは試算していたと言います。だから、日本から戦争ができる能力を徹底的に奪う必要があると思ったのです。 ところが、GHQが来日してみると、日本人は従順で優しく、素直な民族でした。冷戦の激化で、九条を入れたのは大失敗だったと気付くのですが、今さら取り下げられない。それで、ずるずると引きずったまま現在に至るわけです。 九条は憲法内に矛盾を生じさせています。九条二項には「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」とあり、日本は軍隊を持っていないことになっています。 自衛隊はどう考えても軍隊ですが、軍隊ではないとしておきましょう。軍隊がなければ、文民と軍人の区別は不要なはずですし、自衛隊員は文民のはずです。それなのに、なぜ「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」(第六十六条第二項)と書かれているのでしょうか。結局、〝切り貼り〟で作られたから、こうした矛盾があるのです。〝憲法九条信者〟は、九条が世界でも類を見ない理想的な思想を表わすと信じ、崇拝しています。ところが実情は、単なるアメリカによる「罰」なのです。 また、〝信者〟のみなさんは平和憲法と言いますね。あの憲法があったから、七十年間平和だったと思っています。ですが、日本が平和でいられたのは、アメリカに軍事的に依存していたからです。憲法のおかげではない。 そもそも、戦後の日本は本当に平和だったのでしょうか。竹島が奪われ、北方領土は戻らず、拉致被害者も取り返せず、沖縄は危うい。日本人はこの現実を直視すべきです。今こそ変革のとき もう一つおかしいのは、天皇が元首ではないという点です。元首が定められていないのは、世界中の憲法と比べて異常なことです。 天皇の扱いについては、終戦後、天皇の戦争責任を問う声が大きく、簡単に事は進まなかったようです。「東京裁判をする以上は、天皇も被告として出廷させるべき」、「天皇が存在したままでは、日本は軍国主義から脱しない」という意見もありました。 しかし、知日派から「天皇がいなければ、日本はまとまらない」という助言があり、最終的には天皇を象徴として残すことで決着したのです。 この判断は正解でした。天皇という日本人の精神を取りまとめる強い〝指導者〟がいたおかげで、GHQは終戦後に、あれだけ大幅な改革を断行できました。これは世界の歴史を見ても、日本が唯一の成功例でしょう。象徴としてでも天皇を残したことは、GHQの功績と言っていいでしょう。 改革の実務はマッカーサーが担当しました。彼については賛否両論ありますが、少なくとも指導力はありました。例えば、民主化の名目で共産党を残しましたが、併せて反共政策も実行しています。これは日本がソ連の影響下に入り、共産化することを阻止するためです。ソ連も連合国の一つでしたから、その恐れは十分にあったのです。 農地改革は、反共政策の一環です。一九四七年から、GHQの指示の下で日本政府が安値で強制的に土地を買い上げ、小作人に分け与えました。この政策で自作農が増えたため、共産主義者は「地主が小作人を搾取している」と訴えられなくなりました。 また、ソ連兵を含む進駐軍が、赴任地から二十五マイル以上離れることを禁止した。共産主義者は全国各地を飛び回って革命運動の拠点を作りますが、それが不可能になりました。 大戦から七十年経って、日本国民の目は憲法に向きつつあります。しかし、それでも改憲の議論が進まないのは、多くの日本人はこのままでいいと思っているからです。 先日、私が読売テレビの『そこまで言って委員会NP』に出演したとき、「日本はこのままでいい」と言った出演者がいました。桂ざこばさんと八田亜矢子さんの二人です。何も不都合を感じていないと言っていました。日本人はもともと変化をあまり好みません。安定を求めます。現状に著しい不都合が生じたときのみ、変化を求めます。 でも実は今、安全保障問題を筆頭に、「著しい不都合」が生じています。日本人が気付いていないだけです。戦後、憲法に関する議論を禁じられ、日教組の洗脳によって自虐史観を植えつけられ、報道も偏向している。そのツケが今になって回ってきているのです。デモ隊こそ民主主義を否定 平和安全法制の議論では、マスコミも反対の論調が目立ち、反対デモが日本各地で行なわれました。デモ隊は決まって「民主主義を取り戻せ!」と声高に叫びます。でも、少し考えてみて下さい。世界のどこにデモ隊の意見を聞く民主主義国家があるのでしょうか。 民主主義とは何かと言えば、日本の場合、国民の代表である議員を選挙で選んで、国政を任せるということです。これが日本の民主主義です。デモ隊はそれを否定しています。 自分の意見を政治に反映させたいのなら、選挙権を行使するのが第一です。テレビ朝日の『朝まで生テレビ』に出演したときも、「投票に行きなさい。それが自分の声を聞いてもらう一番の方法だよ」と繰り返し言いました。自ら選挙権を放棄するのも結構ですが、それは発言権を放棄したことと同義です。民主主義の主柱は、デモはなく選挙です。 国会での議論で、安倍総理は非常に上手な答弁をしていました。総理は「明白な危険が『ない』と確認できない場合に、行使に踏み切る可能性」を示唆し、野党に危険が「ない」ことの証明を迫った。これは「悪魔の証明」とも呼ばれ、証明するのが非常に難しい。 そして、野党はしきりに「何が脅威か」を総理に言わせようとしていましたが、総理は決して明確には答えなかった。「中国か」「海峡のためか」と問われても、総理は、衆議院での審議の間は、決して明言しませんでした。安保関連法案に反対する大規模集会で、手を取り合い野党共闘をアピールする党首。(左から)生活の党の小沢共同代表、民主党の岡田代表、共産党の志位委員長ら=2015年8月30日午後、国会前 もちろん、野党は脅威があることを承知で総理に質問しています。ですが、総理は「違う」と言う。であれば、現状に著しい不都合もなく、変化を求める必要はありません。野党はこういう論理構成で主張すればよかったのですが、しなかった。 何より野党の一番の失敗は、対案を出さなかったことです。維新の党が辛うじて提出しましたが、党内分裂のせいか遅すぎた。民主党の中には、安保法制に賛成の議員もいたはずです。しかし、党議拘束があって結局は全員が反対に回りました。 アメリカの場合、所属する党の主張がどうであれ、議会内での投票は各議員の判断に委ねられます。造反という概念が無いのです。一応、議長や院内総務は全会一致を目指して取りまとめますが、強制力はありません。二大政党には罰則も党議拘束もありません。各議員が選挙を意識して、あくまでも選挙民の意向に沿った行動を取るのです。 共産党は「徴兵制になる」と騒いでいましたが、なるわけがありません。今の時代、一般人を自衛隊に雇っても役に立ちません。「戦争になる」という煽りも全く根拠がない。 最近、共産党に票を投じる人が増えていると聞きます。人気が出てきたのではなく、仕方なく共産党に入れているようです。知り合いにも共産党に投票した人がいました。驚いて「共産主義者になったのか」と聞いたところ、「他に入れるところがなかった」と言いました。「共産党の歴史や綱領を知っているのか?」と言いたい。以前、瀬戸内寂聴さんが「共産党はブレない」と発言しましたが、確かに日本を壊そうとする意志が決してブレない。まともに反論しない反対派 集団的自衛権については、私はフェイスブックでも意見を書いており、読者と議論をしています。コメントを見ていると、どうしても納得しない人がいます。納得しないのですが、反論もしない。挙句の果てに、誹謗中傷や、私がモルモン教徒だからとか、神様の意志がどうのとか、関係のない話に持って行こうとする。まともな反論は、ほぼ皆無です。「あちら側」には、論点をずらすテクニックを持った人はたくさんいても、真正面から堂々と議論する知識や気概を持った人は滅多にいないようです。 大げさに言えば、私は日本人の〝覚醒〟のために投稿しています。現実を無視して目を閉じたままの人が、論点ずらしで他の人を誘導するのでは、投稿が無意味になります。 ですから、無関係な書き込みをする人には、まず注意します。それでも改めない人のコメントは削除します。最悪の場合、相手をブロックすることにしています。 どうも日本人は自己主張や議論が下手で困ります。それは穏やかな性格や争いの少なさの表れでもあるでしょう。ただ、その代償として、日本人はストレスを溜めこみます。 日本のテレビドラマを見ると、それがよくわかります。日本のドラマでは、主人公が言いたいことを言えずにストレスを抱え、最終回でようやく自分の思いをぶつける、という展開が多い。そうやって一クール(十二週)持たせるわけですね。アメリカ人の私からすれば、「言いたいことがあるなら、さっさと言えよ!」と思わずにはいられません。 アメリカ人は強く自己主張をします。日本人には、意見を戦わせることでストレスが溜まるように見えるようですが、問題が解決するので議論の後はお互いスッキリします。反日の源泉 これまで朴槿惠大統領は日本の呼びかけにも頑なに応じませんでしたが、十一月二日、三年半ぶりに日韓首脳会談が開かれました。十月中旬の米韓首脳会談の際に日本との関係修復をアメリカから求められ、安倍総理をソウルに招いた。アメリカの知識層も「告げ口外交」にはウンザリしています。「〝夫婦喧嘩〟に巻き込むな。面倒だから当事者で話し合え」というのが、オバマ大統領の本音だと思います。 会談にあたっては、相変わらず韓国は慰安婦への謝罪を条件に出してきましたが、日本政府は拒否しました。当然です。韓国には「七十年談話を読みなさい」と言ってやればいい。安倍談話は、これまで謝罪してきたのだから、これ以上謝らないと言っています。その意味では、韓国の主張を無視した談話です。 韓国が慰安婦問題について騒ぎ続けるのは、一体何のためか。実は中国のためなのです。日米の信頼関係が弱くなり、最終的に日米安保体制が崩壊すれば、米軍は日本から引き揚げる。そうなると、日本は中国の傘下に入るはず……このシナリオが実現したときのために、韓国は中国に協調して反日路線をとり、慰安婦問題をしつこく追及するのです。 そもそも韓国は反日の源泉とも言うべき、ある心情を抱いています。それは嫉妬心です。かつて、日本へは中国から朝鮮半島経由で文明がもたらされました。もちろん、日本はそのまま使ったわけではなく、日本流にアレンジしたわけですが、韓国は日本の兄だという優越感を勝手に持っている。 ところが、弟であるはずの日本のほうが韓国よりも豊かな国になってしまった。だから、悔しいのと同時に、日本が羨ましくて仕方ないのです。 それでも、一般の韓国人は反日教育を受けていても、実は根っから日本嫌いだという人は少ない。なぜかと言うと、日本は憧れの存在だからです。 しかしこれが政府レベルになると、看過できない反日に変貌します。とにかく相手を貶めることだけが目的で、見苦しい〝告げ口〟や〝嫌がらせ〟をしています。 韓国政府が反日を煽る背景には、国を一つにまとめるものが、それしかないという事情があります。幸いなことに日本には天皇という精神的支柱があります。しかし、民主主義体制になって間もない韓国には、国民の心の支えがない。韓国には儒教が根付いていますが、階級社会を肯定する権力と統治の教えは、民主化の役に立ちません。 韓国は国内情勢が行き詰っているのも、全て日本のせいにしています。財閥がいまだに経済の大部分を支配し、貿易は中国に過度に依存しています。自分らが改革を怠ってきたせいなのに、なぜか日本が悪いと言う。韓国は〝ストーカー〟 歴史を繙いてみると、韓国は日本に助けられてばかりです。上下水道、道路、鉄道、教育、社会制度……日本はどれだけ朝鮮半島に投資し、その発展に貢献したことか。ですが、韓国には感謝の気持ちが全くありません。感謝の気持ちを忘れた国が栄えるはずがない。これは人間社会の摂理です。 台湾の馬英九総統は本土寄りですが、その彼でさえ、日本が主導した嘉南大圳や烏山頭ダムなどの水利事業によって台湾に恩恵がもたらされたと認めました。そして、「日本統治時代には悪いこともあったが、良いことを記憶しておくことも重要だ」と述べたのです。本来なら、韓国も同じように日本を評価してもいいはずです。 日韓併合時代、アジア唯一の先進国だった日本の国籍を得た朝鮮人は、喜びました。「将来有望なイケメン実業家と結婚できた」と思ったのです。ところが日本は事業に失敗(敗戦)して無一文になる。強制的に離婚させられた後、「ろくでもない男と無理やり結婚させられた上にDV(ドメスティック・バイオレンス)を受けていた」と噓を言い始める。ところが日本は驚異的な戦後復興で、すぐ先進国に舞い戻った。嫉妬に狂った元妻は「あんただけ幸せになるのはズルい」と、離婚慰謝料を求めます。一九六五年の「日韓基本条約」で全て支払いました。でも、元妻は経済が傾いたらお金をせびればいいと思うようになった。もはや〝ストーカー〟状態です。 こういう国に正面から対応してはいけません。どんな要求も無視して応じなければいいのです。毅然としていればいい。 誠実、規律正しい、おもてなしの心がある、時間を守る……日本人にはいい面がたくさんあります。しかし、このような心構えで外交に臨んだら負けが見えている。日本人の良い面が裏目に出ているのです。このことは、アパ日本再興財団が主催している「第八回『真の近現代史』懸賞論文」の応募論文でも指摘したところです(最優秀藤誠志賞受賞)。 ですから、韓国との付き合い方も含め、日本的感覚で世界を相手にしてはいけない。これを肝に銘じなければ、歴史戦には絶対に勝てません。けんと ぎるばーと 1952年、アメリカ、アイダホ州生まれ。70年にブリガムヤング大学に入学し、71年にモルモン宣教師として初来日。80年、同大学大学院を修了し、法学博士号・経営学修士号を取得。その後、国際法律事務所に就職し、法律コンサルタントとして再び来日。タレント業にも携わり、『世界まるごとHOWマッチ』などの番組に出演する。著書に『まだGHQの洗脳に縛られている日本人』(PHP研究所)など多数。

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    「あれは日本の自衛戦争だった」 敵将マッカーサー証言は重い

    渡部昇一(上智大学名誉教授) 第二次政権における安倍総理の大きな特徴の一つは、第一次政権時のスローガンであった「戦後レジームからの脱却」という言葉を使わなくなり、まず、アベノミクスと呼ばれるデフレ克服の経済政策を優先したことである。2015年1月19日、エルサレムのホロコースト記念館で 平和貢献への決意を述べる安倍首相 これは、安倍総理が戦後体制の変革や憲法改正に消極的になったわけではなく、野に下っている間にじっくり考えた結果であると思う。戦後の国際秩序はアメリカ主導で行われたものであるから、「戦後レジームからの脱却」を性急に推し進めると、アメリカの反発を招くことに気がついたのだろう。現に、アメリカ政府のなかには安倍総理を「リビジョニスト(歴史修正主義者)」と呼んで批判する者もいる。 村山談話などを言下に否定すると中国と韓国が大騒ぎするが、現在のオバマ政権下のアメリカは中国に対して非常に弱腰で、とにかく事を荒立てたくない、問題を起こしたくないという臆病さが顕著に見られる。尖閣問題にしても、「尖閣列島は日本の施政権下にあり、安保条約の範囲内にある」とまでは言うものの、日本領であるとまでは決して言わない。 そういうオバマの臆病さを安倍総理は見てとったのだと思う。それでも、アメリカの大統領であるオバマの言うことには応じなければならない。しかし一方で、米軍関係者たちはオバマとは考え方が違うことも十分に観察してわかっているようだ。オバマが大統領になってから軍の最高司令官が数人退任しているのも、オバマと軍とが相容れない関係にあるからだろう。それで安倍総理は軍との話を重要視しながら政策を進めているような気がする。 だから、もどかしく思う人もいるかもしれないが、それは戦後レジームから脱し、日本のあるべき姿を取り戻したいけれども、それに対してアメリカがどう反応するかということを慎重に見きわめているからだと考えなければいけない。 こうした対米関係のジレンマを解決する手がかりが一つあると思う。それは、終戦からまだ間もない時期に行われたマッカーサーの証言である。 その証言内容は、まさにマッカーサーこそリビジョニストであったことを明確に示しているのだ。「リビジョニスト」の意味「リビジョニスト」の意味 リビジョニスト(歴史修正主義者)という呼び名は現在、批判的に使われているが、本来はとくに悪い意味ではない。もともと十九世紀の後半にイギリスにおける教会の論争で使われていた言葉であった。 それがマルクス主義者の間で使われるようになり、古典的マルクス主義を批判したドイツ社会民主党のベルンシュタインを、頑迷なスターリン主義者たちが「修正主義者」と呼んで大論争になった。戦後の日本では、暴力革命に消極的な日本共産党の一派を武力闘争派が「修正主義者」として糾弾した。つまり、マルクス主義の原理に変更を加えようとするのを異端視して「修正主義」と呼んだのである。 ところが、アメリカではまったく別の使い方をしている。 アメリカはこれという理由もなく第一次世界大戦に参加した。ウィルソンという大統領は理想主義者ではあるが、国際連盟の創設に意欲を燃やしながら、結局米上院議会の反対でアメリカが参加できなくなるなど、現実にそぐわない理想を語るところがあった。そのせいもあり、ドイツは悪であると信じて、アメリカは戦争も末期になってから大戦に参加した。しかし、アメリカは近代戦争に慣れていなかったものだから、予想外の死傷者を出してしまった。銀行や大企業の経営者は大いに潤ったが、その反動で大不況も起こった。一般の国民からすれば、これほど多くの犠牲を払ってまで、いったい何のために戦争をしたのかと納得がいかなかった。 そこでもう一度、歴史を見直してみようというリビジョニストが現れたのである。すると第一次大戦はドイツが始めたものではない、必ずしもドイツが「悪」であるわけではないことがわかった。ドイツが軍事動員令を出したのはフランスやロシアよりも遅かったのだから、これではドイツが戦争を起こしたとは言えないではないか。 だから、アメリカのリビジョニストたちは非常に意義のある歴史の見直しを行ったわけである。ところが不幸なことに、それと時を同じくしてヒトラーが登場した。そのため、リビジョニストが弁護したのは第一次大戦時のドイツ政府であったのに、ヒトラーを弁護したかのようにとらえられた。それ以来、アメリカでは「リビジョニスト」といえばヒトラーの支持者ということになってしまった。いまでいえばネオナチの信奉者である。 しかし、歴史を見直すという作業はいつの時代でも当然行われるべきことである。そして、大東亜戦争を見直した最大のリビジョニストが、実はマッカーサーだった。マッカーサーの重大証言 マッカーサーは朝鮮戦争で核攻撃を主張して、昭和二十六年(一九五一)四月、戦争のさなかに更迭された。そして五月にアメリカ上院軍事外交合同委員会で、当時の日本の状況を述べたあと、「したがって日本人が戦争に入った目的は、主として自衛のためであった(Their purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security.)」と重要な証言を行ったのである。1951年4月19日、米議会上下両院合同会議で 退任演説をするマッカーサー これは彼の独白でも、プライベートな席で友人に語ったものでもない。民間人を前にして演説したのでもない。上院軍事外交合同委員会という、これ以上ない公の場で証言したのである。これは一点の曇りもない決定的な歴史的事実である。だから、マッカーサーこそ最高のリビジョニストだということができる。 この証言について私が初めて耳にしたのは、松井石根大将の秘書だった田中正明氏の「マッカーサーも日本の侵略戦争を否定している」という話だった。しかし、どこで読んだのかは覚えていないというので、調べたところ、機密文書でも何でもない、『ニューヨーク・タイムズ』に証言の全文が掲載されているというのである。ところが私は専門家ではないから、わざわざアメリカまで探しに行くわけにもいかない。そこで、東京大学には新聞研究所もあることだから、東大教授の小堀桂一郎氏に頼んで探してもらった。小堀氏はさっそく記事を見つけ出し、コピーを送ってくれた。 私はその原文を雑誌『Voice』(PHP刊)で発表した。これが広く日本人の目に触れた最初のケースであった。専門家である外務省情報調査局局長だった故岡崎久彦氏ですら、マッカーサーがこんな証言をしていたことを知らず、驚いて私に資料提供を依頼してきたほどである。外務省が知らなかったくらいだから、他の官僚や政治家が知るわけがなかった。 その重要な部分の日本語訳は以下のとおりである。〈日本は絹産業〔蚕〕以外には、固有の産物はほとんど何も無いのです。彼らは綿が無い、石油の産出が無い、錫が無い、ゴムが無い。その他実に多くの原料が欠如してゐる。そしてそれらの一切のものがアジアの海上には存在してゐたのです。 もしこれらの原料の供給を断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が発生するであろうことを彼らは恐れてゐました。したがつて彼らが戦争に飛び込んでいつた動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだつたのです。〉(小堀桂一郎編『東京裁判 日本の弁明』講談社学術文庫564、565ページ) この内容は東條英機首相の東京裁判における主張と一致する。東條首相は、宣誓供述書のなかで「日本は侵略戦争をやったのではない。常に受身で、自存自衛のために戦ったのである」と語っている。 東京裁判は、連合国がナチスを裁いたニュールンベルグ裁判と同様に日本を裁こうとしたものだが、その全権を連合国から委譲されたのがマッカーサーであった。だからマッカーサーは国際法によらず、マッカーサー条例で裁いた。言い換えれば、東京裁判とはマッカーサーそのものである。 東京裁判で日本を侵略国であると決めつけたのが公式的な世界の見方になっているのだが、その首唱者であるマッカーサー自身が、東條首相の死刑執行(昭和二十三年)から三年後に、まるで弁護人のように東條と同じ主旨の証言を行っているのである。ニュールンベルグ裁判でナチスを裁いた人間が、後にヒトラーやゲーリングの弁護をするなどということがあっただろうか。「東條・マッカーサー史観」への転換「東條・マッカーサー史観」への転換 にもかかわらず、マッカーサーのこの発言は当時の日本の大新聞で報道されたことがなく、今日に至るまでマスメディアで報道されたという話を聞いたことがない。 このマッカーサー発言が行われた当時の日本はまだ米軍の占領下にあったから、報道できなかったのかもしれない。しかし、翌年の独立回復を待って「それっ!」とばかりに書き立てればよかった。昭和二十六、七年といえば、まだ戦争の記憶も生々しかったが、占領軍が教科書の都合の悪い部分を墨で塗りつぶさせ、日本が一方的に悪かったという宣伝を大々的に行っていた時代だったから、その効果は絶大だったろう。七十年後の今日もなお日本が東京裁判史観に呪縛されているようなことなどなかったかもしれない。 浮かばれなかったのは戦死者の遺族である。私はいまでもある未亡人の「かくばかり卑しき国となりたれば 捧げし人のただに惜しまる」という和歌を覚えている。夫を戦争に出したくはなかったが、お国のためだからと捧げたのに、戦後は犬死にのように言われるのが、「ただただ惜しい」と悲嘆にくれているのである。 息子を捧げた親もいるし、兄を捧げた弟妹も大勢いた。このマッカーサー証言が大々的に報道されていれば、そうした遺族たちはどれだけ救われた気持ちになったことだろう。この事実はすべての日本人が知るべきであり、世界中の人に知らせるべきものである。 私自身も機会あるごとにマッカーサー証言について語ってきたが、私の読者は知っていても、なかなか世に広まっていかない。「チャンネル桜」でも何カ月間か毎日放送してくれたのだが、地上波ではないし、やはりすでに知っている保守系の人ばかりが観るので、なかなか広がらない。しかし、この事実を利用できないのは何としても惜しい。 いまだに世界と日本の戦後史観を支配している、いわゆる「東京裁判史観」は、「東條・マッカーサー史観」に換えられるべきであろう。「リビジョニスト」マッカーサーの証言を、世界に対して恒久的に発信し続けることが、第二次安倍政権の重要な使命の一つであると思う。 政治の場であまり性急にやると反動が大きすぎるかもしれないから、すべての日本人が、「マッカーサーは、大東亜戦争は侵略戦争ではなく、自衛戦争だったと証言している」と、ことあるごとに言い続けるべきであろう。何しろ、「開けゴマ」の呪文のようなもので、日本を侵略国家だと騒ぎ立てる相手にそのことを言うと黙ってしまうのだから。誰もそれを否定できないのだから当然である。 マッカーサーがリビジョニストだったことは、アメリカでは一時よく知られていた。だから、そのころのアメリカは、日本人に友好的だった。一九六〇年代に二度ほどアメリカの空港で「日本人か?」と話しかけられ、そうだと答えるとコーヒーを奢ってもらうようなことがあった。しかし、いまではアメリカ人もそんなことは忘れてしまっている。日本が知ろうとしないことを向こうがいつまでも覚えているわけがない。 だから、われわれ日本国民がそのことをまず十分に知らねばならない。そうして民間から徐々に世界に広げていく必要があるのだ。中国に対する日米の軍事協力 安倍総理が対米関係を慎重に進めている理由の一つに中国の問題がある。 中国は猛烈な勢いで軍拡を続けている。十数年前くらいまでは、自衛隊の軍事力のほうがずっと上だと言われていた。しかし現在では、日本独力で中国と戦うことは不可能だ。アメリカ軍だけでも難しいのではないか。 平成八年(一九九六)、台湾の李登輝元総統が初の総統直接選挙を行ったとき、中国は台湾に向けてミサイル発射実験を行って威嚇した。そこでアメリカが台湾海峡に航空母艦二隻を派遣して牽制すると、とてもかなわないというので中国は矛を収めた。いまでは、そんな脅しがきくかどうか疑問である。 ところが、安倍総理は集団的自衛権を行使できるようにした。これは非常に重要なことで、集団的自衛権の行使によって日本とアメリカが軍事的に手を握れば、さしもの中国も手が出せなくなる。 考えてみればわかることだが、七十年前の戦争で機動部隊を持っていたのは日本とアメリカだけである。ドイツにもソ連にも航空母艦はなかった。イギリスには航空母艦はあったが、機動部隊はつくれなかったのである。日米の海軍力は圧倒的だった。その日米が手を組んだら、いかに中国が軍拡に血眼になろうとかなわない。そうやって戦争を回避し、にらみをきかせてジッと待っていればいい。そのうち中国共産党が崩壊するか、うまくいけば総選挙をするような国になるかもしれない。どこの国でも、総選挙があれば現段階で戦争などできはしない。 たしかに、現在の米中関係は経済的利害で結びついている。米ソ冷戦時代は、アメリカとソ連のあいだに経済関係も貿易関係もなかったから、図式としては非常にわかりやすかった。外交官のジョージ・ケナンがソ連と共産主義の「封じ込め作戦」を主導し、米ソは軍拡競争をエスカレートさせていった。そのうちにソ連がついていけなくなって崩壊した。 中国にはアメリカ資本も深く入り込んでいるから冷戦時代のようには簡単にはいかないが、発想としてはケナンと同じでいい。中国の民度が上がり、総選挙が行われる時代が来るまで、日本は必要とあれば軍事費を増やし、武力を増強して、日米が手を携えて中国を封じ込めながら待つしかない。そのためにも、日米関係を良好に保つ必要がある。日本の今後は対米外交と自衛力増強にかかっていると言える。 これまで経済政策を優先させてきた安倍総理だが、戦後七十年を迎え、この四月には米国連邦議会の上下両院合同会議で四十五分にわたる演説を行った。いよいよ本腰を入れて日米関係を含む戦後体制の改革に取り組むことであろう。AIIBは危険なバスAIIBは危険なバス 最後に、中国が主導するAIIB(アジアインフラ投資銀行)についても触れておこう。AIIBには創設メンバー国として世界五十七カ国が参加した。主要国で参加を見送っているのは、日本とアメリカだけである。これに対して民主党などは、外交上の誤りであるとか日本が孤立したとか批判している。もしも民主党政権であったら真っ先に参加しただろうと思うと、背筋が寒くなる。 中国の習近平は「大中華帝国の復興」などと誇大妄想的な発言をしている。しかし、「大中華帝国」などあったためしがない。かつて広大な領土を支配した清朝は満洲族の国であり、シナは征服された植民地にすぎなかった。元朝は蒙古人の大モンゴル帝国の一部であった。 しかも、レアアースなどの資源を生産しているのはモンゴルやウイグルやチベットなどの周辺地域であって、シナ人(漢民族)がもともと住んでいた地域には、天然資源などもはやなきに等しい。近衛(文麿)内閣と東條内閣で大蔵大臣を務め、北支那開発総裁であった賀屋興宣が、「シナというのはなんにもない国だなあ」と言ったことがある。 だから中国政府は、インフラ整備の名目でアフリカや東南アジアに進出し、現地で資源開発を行うなど、狂ったような資源外交に乗り出したのである。ところが、その大半が失敗だったことが明らかになっている。中国人がつくった道路や橋の質の問題は別として、何かといえば中国から労働者を連れてきて資源開発を行い、現地人を雇わないばかりか、中国から来た連中は帰らずに現地に居坐る。初めは中国のインフラを歓迎していた国々も、いいことは何もない、まるで植民地だというわけで、ミャンマーもカンボジアもスリランカも完全に離反してしまった。 しかたがないので、インフラ銀行をつくろうというのが中国の目論見である。ところが、先立つものがない。三兆ドルの外貨があるから、そのうちの五百億を使うとか言っているが、中国は世界銀行などから借りている金をまだ返してもいないのに、三兆ドルもあるはずがない。そもそも、そんな国が自分たちの主導で国際金融機関をつくろうなどというのは図々しいにも程がある。 では、イギリスやドイツ、フランスはなぜ参加したのかといえば、理由は極めて単純明快で、輸出先がなくて困っているからである。 これまでは、たとえばギリシャやスペイン、ポルトガルのような技術的後進国は、優秀な技術や機械をどんどんドイツから買っていた。普通ならば関税がかかるが、EU(欧州連合)になったものだから、それもかからない。丸儲けである。ところが最近では、EUの各国とも破産寸前でモノが売れなくなってきた。イギリスもフランスも同じようなものである。 それでロシアに目を向けて販売拠点をつくったところが、ロシアの外貨収入のほとんどは石油や天然ガスだけだから、原油の突然の暴落とウクライナ問題で経済制裁を受けてロシアに購買力がなくなってしまった。 そんなときに、自分たちの国のものを買ってくれる唯一の可能性のある中国に誘われたら渡りに船である。欧州の国にとってどうせ出す金はわずかなものだし、アジアの軍事的脅威など彼らには興味がないから、とりあえず入っておこうというさもしさから参加しただけのことだ。中国の機嫌を損ねない程度にお付き合いして、市場を確保しておこうというわけである。 ところが日本とアメリカはほかの国とは立場が違う。まず軍事問題が無視できない。それに日本とアメリカはIMF(国際通貨基金)とADB(アジア開発銀行)の最大の出資国である。そこから金を借りて返さない国が新しくつくる金融機関など話にならない。だから、いかにも日本とアメリカが金融界で孤立したようなことを言うメディアがあるが、あの傲慢な中国が、ことAIIBに関しては実に腰が低い。安倍総理との会談の席でも、習近平は以前の仏頂面とはうってかわってつくり笑いを浮かべていた。日本が参加しなければ動きがとれないからである。 さらに、中国の元は国際通貨ではない。国際通貨は現在ドル・ポンド・ユーロ・円の四種類で、スイスフランも通用するかもしれないが、規模が小さいから、国際的に決済できるのはこの四つだけである。習近平は「大中華帝国」の夢のために「元通貨圏」をつくりたいのだろうが、そもそも元を国際通貨にするには固定相場制を廃して自由にしなければならないが、そうしたら中国経済は大変なことになる。  決済能力のない通貨を持ち、国際的な融資をした経験もない国が国際銀行をつくるというのは滑稽でしかない。だから、日本は名誉ある孤立を守り、これについてもジッと見守っていればいいのである。このバスには乗り遅れてもよいのだ。中国共産党がハンドルを握っている危険な金融バスなのである。わたなべ しょういち 上智大学名誉教授。英語学者。文明批評家。一九三〇年、山形県鶴岡市生まれ。上智大学大学院修士課程修了後、独ミュンスター大学、英オクスフォード大学に留学。Dr.phil.,Dr.phil.h.c.(英語学)。第24回エッセイストクラブ賞、第1回正論大賞受賞。著書に『英文法史』などの専門書のほか、『知的生活の方法』『日本興国論』などの話題作やベストセラー多数。小社より、『渡部昇一 青春の読書』絶賛発売中。【キャプション】

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    厚木の凱旋将軍 「マッカーサーは失禁していた」

    髙山正之(ジャーナリスト) 自慢にもならないがナマのマッカーサーを間近で見たことがある。 トルーマンに首にされて帰国した昭和二十六年四月十六日、こちらが麻布小学校の三年生だったころの話だ。以下記憶のまま書く。 月曜の朝、登校すると先生に下履きのまま校庭に集まれと言われた。 校長がいつものように朝礼台に立って話し始めた。いつもと違う改まった口調だった。 「マッカーサーさんが都合あってお国、アメリカに帰ることになりました。お世話になった人です。これからみなさんでアメリカ大使館に行き、元帥をお見送りします」 そのころGHQのレッドパージが結構賑やかにやられていた。いい気になっていた共産党員がどんどん捕まり、職場から追われた。赤い教員も教壇を去った。 そういうとき朝礼で校長が「なんとか先生は都合があってお国に帰ります」というのが形だった。 だから校長の話を聞いて児童たちは「マッカーサーもアカだったんだ」と驚いた。ませた子が「真っ赤ーサーっていうぐらいだもの」と言ってみんなを笑わせた。マッカーサー元帥解任発表翌日の総司令部前(1951年4月12日)  アメリカ大使館は学校から子供の足で十五分くらいか。高松小とかほかの学校の児童も来ていて、こちらは大倉集古館、今のホテルオークラの側に並んだ。マッカーサーの住む大使公邸の前、黒い鍛鉄製の門をやや右手に見る位置だった。 いきなりその門から黒塗りのでかいアメ車が飛び出してきてあっという間に走り去った。フェンダーに五つ星が並んだ細長い元帥旗がぴんと張っていたのと、後部座席に大きな男の影があったのを覚えている。 「ナマのマッカーサーを一瞬、見た」に近いが子供たちは結構、腹を立てていた。わざわざ見送りに来て旗も振ってやったのに挨拶するでなし、手を振るでなし。その怒りは間もなくもっと膨らんだ。 学校に戻って一時間の授業が終わると教頭が「屋上に上がれ。さっき振った旗をもってこい」という。一年生から六年生まで屋上に並ぶと「今から空に向かって旗を振れ」で、かなり長い間振らされた。 これは一体なんなのか。子供たちは意味不明の振りつけを問うた。教頭はマッカーサーがこの時間、東京上空を一周するからどの学校の生徒も校庭や屋上で見送るように指示されていると言った。 彼の乗機はバターン号と言った。ロッキード社製の垂直尾翼が三枚あるスーパーコンステレーションというタイプだ。 羽田にはこの独裁者の専用機格納庫が整備場地区に長らく残っていて、進駐軍が帰ったあとは確か「日ペリ」こと全日空が使っていたはずだ。 そのバターン号が羽田を飛び立って東京の上空を一周している。はっきり言ってそんな機影は見たかどうか覚えがない。 多分、機内のマッカーサーも「おお麻布小学校も南山小学校も旗を振っている」なんて見ているわけもない。有色人種が懸命にご主人様のために舞う。それを尊大に無視するのが白人の偉大さだと思っている。子供心にも忘れがたい屈辱だった。 だいたい彼の回顧録『Reminiscenc-es』にも学校の児童生徒を校庭なり屋上に立たせて旗を振らせたとかの言及はない。 それどころか彼は「私を慕う日本人が二百万人、大使館から厚木までの沿道を埋めた。泣いている者もいた」と書く。 お前が向かったのは羽田だ。それに日本側の資料では二十万人だ。それも大半がいやいや動員された児童生徒だった。一ケタ増やしたうえに飛行場の名も場所も違う。泣いたのもその理不尽への抗議の涙のはずだ。「狡猾で利己的で高慢で」「狡猾で利己的で高慢で」 もう一つ。彼は「daybreak(夜明け)に帰った」とある。不思議なことに袖井林二郎『マッカーサーの二千日』にも「午前七時二十三分、バターン号は滑走を始めた」と。 それは間違いだ。こっちはいつも通りの時間に登校した。同級生に麻布の水橋酒店の若旦那もいた。彼はマッカーサーの側近たちが出入りした外人専用の「麻布ホテル」に配達していた。ホテル支配人は解放同盟の松本治一郎だ。彼が用意した女をケーディスとかが部屋に連れ込んでいた。 その若旦那も朝礼後にアメリカ大使館まで歩かされ、屋上に立たされたことを覚えている。それからマッカーサーは第一京浜を下って出発式典をやって「羽田発七時何分」とかはあり得ない。だいたい午前五時、六時台に二十万人もが沿道で見送るわけもなかろう。 いずれにせよ、マッカーサーは強権を振って児童を動員しておいて、かくも尊大な偽りを書く。子供の気持ちをここまで踏み躙った外国人を他に知らない。 その腹立ちもあってその後、マッカーサーの話は嫌いなもの見たさでついつい気になって結構、目を通してきた。 面白いもので例えば英戦史家のクリストファー・ソーンは彼を本当に嫌っているし、チャーチルと彼との連絡をしていたジェラルド・ウイルキンソン中佐も「マッカーサーは狡猾で利己的で高慢で、道義心に欠けて」とこっちの睨んだ通りに語る。 米国人も同じ。アリゾナ大教授マイケル・シャラーも彼が閉所恐怖症で、臆病者で、戦略も展望も持たない、実にくだらない男だと彼の著書『マッカーサーの時代』で仄めかせている。 日米開戦の日、マニラで見せた狼狽ぶりにもそれは窺えるし、朝鮮動乱の始まったときにもこの東京で頓珍漢ぶりを発揮している。 そのくせ彼は実に無慈悲で、白人優越主義を振りまき、日本人を本気で滅ぼそうとしてきた。 あの醜悪な憲法がその一端を示すが、それなのに日本人の評価はシャラーらとまったく違う。 彼がクビになったときの朝日新聞は社説で「われわれに民主主義、平和主義のよさを教え、日本国民をこの明るい道へ親切に導いてくれたのはマ元帥であった」(五一年四月十二日)と書く。論説主幹の笠信太郎が書いたのだろうが、この当時から朝日新聞は何にも見えていなかった。 朝日だけでなく、国会も「マッカーサー元帥に感謝する」決議をし、終身国賓待遇まで付与している。ちなみにマッカーサーは昭和三十六年七月、フィリピンにいくために日本の米軍基地に立ち寄ったが、基地の外には出なかった。よほど日本人が嫌いだったのか、自分の薄汚さに比べ、日本人の天真爛漫さが耐えられなかったのか。 民間有志もマッカーサー神社を建てようと言い出し、彼への感謝を伝える国民の手紙五十万通が米国に送られ、それは今もバージニア州ノーフォークのマッカーサー記念館に陳列されている。 しかし彼が帰国して二週間後に始まった軍事・外交委員会の聴聞会で彼が「日本人は十二歳」と発言したことが分かり、彼の別の一面に気付いたのか、マッカーサー神社建立話は急速にしぼんでいった。 それでもマッカーサーに対する思いはヘンなところに残っていて、例えば九〇年代末に新潟の中小企業主がマッカーサーのブロンズ像を寄贈し、今はゆかりの厚木飛行場に置かれている。米通信社の写真米通信社の写真 こういう善意の人までまだ騙し続けるマッカーサー神話が許せないが、彼が狡猾でケチな男だというはっきり目に見える証拠はなかなか見つからないものだ。 偉大なマッカーサーが歴史に定着するのかと思っていたところに新聞記者時代、警察庁の記者クラブで世話になった共同通信の井内康文氏から『写真で綴る戦後日本史』が送られてきた。「中におもしろい写真があったので」と。公益財団法人・新聞通信調査会発行『写真でつづる戦後日本史』(2014年1月24日発行)に掲載されたマッカーサーの写真(ACME)には、ズボンの股間にはっきりとした染みが写っている それが一九四五年八月三十日、二代目バターン号C54輸送機で厚木に降り立ったマッカーサーの写真だった。例のコーンパイプを咥え、レイバンのサングラスをかけて自信満々にタラップを降りてくる図柄だ。 彼がここに来るわずか四週間前まで米艦船に向けてそれこそ死にもの狂いの特攻機が突っ込んでいた。 二週間前にも降伏を潔しとしない青年将校が決起して、皇居に殴り込み、上官を射殺もしている。そうした恐れを知らない精鋭の将兵が関東一円だけで二十二個師団三十万人もいた。 そのただ中をマッカーサーは丸腰で、コーンパイプを片手に悠然と降り立った。強い米国、「I shall return(必ず帰ってくる)」の言葉を守り、今メルボルンからここに来た。自信と誇りに満ち溢れた威厳ある姿。そういう図。「でもよく見てほしい」と井内氏の手紙は続く。「タラップを降りた彼の股間部を」。 見てちょっと固まった。マッカーサーのズボンの前立ての左側部分にはっきり濡れ滲みが見える。光の加減ではない。 彼の厚木到着の写真は各国記者団に交じって同盟通信の武田明と宮谷長吉が撮っている。武田は「マッカーサーは顔に化粧を施していた」というコメントを残している。ファンデーションにドーランを塗っていたと。 宮谷はタラップから日本の大地に一歩を下した瞬間を狙ったという。恐らくこの写真のことだろうが、ただ、股間の濡れ染みについては語っていない。武士の情けなのだろう。 ほぼ同じアングルで米通信社ACMEの写真がある。別に「米海兵隊撮影」もある。光文社の『米軍カメラマンの秘蔵写真・東京占領1945』も念のため見た。 その表紙の写真は彼を出迎えたアイケルバーガーと語りながら、という図柄だが、それもマッカーサーのズボンの左側部分が変色しているのをはっきり示していた。 彼は強がっていた。誰よりも先にタラップに出た。しかし、心の底ではいつ襲われるか、いつスナイパーの一発が彼の額を撃ちぬくか、不安に打ち震えていたのだろう。 一歩、二歩、降りるごとにその恐怖がいや増していった。いくら強がったって体も交感神経もついていけなかったのか。 これが失禁のシミだと見るべきだと、彼の過去のいくつかのエピソードが語っている。以下、その状況証拠を挙げてみる。 彼が日本軍とまみえることになったフィリピンは、実は彼の父アーサーの代から馴染んできたところだ。 アーサーは米国がここを植民地にした一八九八年当時の陸軍司令官で、独立を目指すアギナルド将軍以下の現地人抵抗者やその家族四十万人を虐殺している。後に息子ダグラスが上陸するレイテ島もそのときに一歳の幼児まで全島民が殺されている。 マッカーサーは父の後を追って駐屯米軍の指揮官として赴任し、民からは「虐殺者の息子」として恐れられた。彼の現地広報官カルロス・ロムロも、自分の見ている前で父を水責めの拷問で殺されている。 彼は三度、ここにきて四度目のマニラ赴任が米陸軍退官後の一九三七年(昭和十二年)だった。米傀儡政権ケソンの軍事顧問がその肩書きだった。表向きは独立を前にしたフィリピンの国軍づくりだが、実際は近く始まる対日戦争用の戦力に仕立てることだった。英軍には弾よけにインド兵がいる。白人米兵にはフィリピン兵というわけだ。 で、その日米戦はいつか。「早ければ四二年春とルーズベルトは読んでいた」(M・シャラー『マッカーサーの時代』)。 日本にどこで戦端を開かせるか。本来は、そして今現在もカリフォルニア州サンディエゴにある米太平洋艦隊基地を、大統領はそれでこの時期に日本軍の手の届く真珠湾に移している。少なくとも四〇年(昭和十五年)春の艦隊訓練が終わったあと、空母を除く主力戦艦を真珠湾に密集して置きっ放しにした。 明らかに日本に襲わせるための囮だった。海軍側がそれを指摘したが、大統領は取り合わなかった。そして一年半後に日本軍はここを襲った。 この米太平洋艦隊の真珠湾足止めと同じ時期に米国は日本への鉄の禁輸を決めた。経済封鎖で苛立たせ、戦争に誘う最終段階がこのときに始まった。日本の攻撃に呆然自失日本の攻撃に呆然自失 一方で、ルーズベルトはフィリピンの軍備に力を入れた。追い詰められた日本が資源豊かな南方に出る。その入り口にあるのがフィリピンだ。だから必ず日本軍はここに来る。現地兵の養成を急ぐ一方で、大統領は米地上部隊と空軍の増強を急いだ。 後にバターン死の行進の被害者と吹聴するレスター・テニーもこのころ戦車隊の一兵員としてマニラに送られてきた。 空軍増強の中心は四発重爆撃機B17。これを四一年秋までに三十五機、送り込んだ。 「空飛ぶ要塞」の異名をとるB17は本当に無敵だった。戦闘機に劣らない機速と厚い防護と十丁の十二ミリ機銃は逆に戦闘機を撃ち落とし、過去に一機も撃墜されたことがなかった。 B17の一機は高速巡洋艦一隻なみの破壊力を持つと評価され、スチムソンは「B17は日米の力のバランスを変えた」と言い、ルーズベルトも日本が対米戦争突入を諦めはしないか、本気で心配したほどだった。 英国も米国に倣う。四〇年に入ると、九龍国境を要塞化し、マレーにもジットラ・ラインを築いた。そして想定開戦に間に合わせるように戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスをシンガポールに送ってきた。 この二艦が入港してすぐ日本軍は真珠湾と香港を襲い、マレー半島に大部隊が上陸した。そしてフィリピンも当然標的になった。 マッカーサーは午前三時過ぎ、側近からの電話で真珠湾攻撃を知った。彼は宿舎のマニラホテルから米極東軍司令部に出向いたが、その時点から丸半日、沈黙する。 午前五時、航空部司令官ルイス・ブレアトン准将が先手を打って台湾の基地奇襲を提案したが、返事なし。准将は夜明け後、再度申し出るが、許可が出たのは昼前だった。空中退避していたB17以下がクラーク基地に降りて出撃準備中に日本軍機が襲来した。 被害は同基地にあった二十一機のB17のうちブレアトンが偵察に出した三機を除く十八機すべてとP40戦闘機五十三機など計百四機が破壊された。施設は焼かれ、整備員の多くが死傷し、フィリピン空軍は事実上壊滅した。 真珠湾から半日たった午後三時五十分、マッカーサーの執務室をセイヤー高等弁務官が訪ねたが、「彼は部屋の中を行ったり来たり」(増田弘『マッカーサー』)ただ狼狽えるだけだった。半日間、彼は何を下命すべきか何も分からずに過ごしたのだ。 しかし回顧録では「真珠湾攻撃があったと聞いたが、もちろん米側が反攻して勝ったと思い込んでいた」と言い訳し、クラーク基地の全滅も「敵軍は七百五十一機の大勢力で攻撃してきた。貧弱な装備のわが軍の二倍以上の兵力だった」から負けたと書いている。実際の日本軍機は百九十一機。対するフィリピン空軍機はB17を含め二百四十機にも上る。この男は平気で噓をつく。リンガエン湾に上陸する本間雅晴中将 おまけに彼の不始末をよく知るブレアトン准将はマッカーサーからジャワに行くように命ぜられ、以後、英空軍に配属され、セイロン、ニューデリー、カイロと回される。 マッカーサーはその後、バターン半島の先、コレヒドール島に逃げ込む。フィリピンが攻められたときの手筈「レインボー5」によればフィリピン軍十個師団と在比米軍三万、B17以下の空軍力で上陸日本軍を水際で抑える。破られればバターンに退き、六カ月間こもる間に太平洋艦隊が救援にくる予定だった。 しかしマッカーサーはただおろおろし、虎の子のB17を失い、なお日本軍主力部隊のリンガエン湾上陸の阻止もできなかった。米国の対日作戦はこの男一人によって崩れた。 尤も、英米側も誤算があった。日本が強すぎた。日本を震え上がらせると思ったプリンス・オブ・ウェールズは開戦二日目に沈められた。チャーチルが震えた。 B17も然り。欧州戦域では最強の機も開戦二日目に日本の零戦に会って即座に落とされ、まさかと思ったらその数日後、ボルネオで二機まとめて落とされた。そして半年後、ニューギニア・ラエ上空で五機のB17の編隊と零戦九機が遭遇し、B17は全機落とされた。 日本相手では「空飛ぶ要塞」もセスナと変わらなかった。若い猛者でも震えた若い猛者でも震えた さてコレヒドールには彼が作らせたマリンタ要塞がある。要塞と言っても高さ六メートルの大きなトンネルで、内部の左右の壁に横穴があって、そこが隠れ場所になる。なぜ頑強な地下要塞にしなかったか。答えは彼の閉所恐怖症のせいだ。 彼はそのトンネルの入り口で半日を過ごし、目の前のバターン半島で戦う部下をよそに毎日、新聞発表を送信していた。まるで米軍が勝ち続けているみたいな内容だった。 三カ月後、バターンの陥落が見えてくると、彼は「I shall return」の一言とすべての将兵を残して魚雷艇で逃亡した。 魚雷艇とはなんと勇気ある行動だと評価されるが、どうして、これも潜水艦が怖くて乗れなかったからだ。 彼はそのマリンタのトンネルでもう一つ悪さをしている。彼は傀儡政権のケソン大統領も連れてきた。 ケソンはこの土壇場でフィリピン人の魂を見せる。「戦争しているのは日本と米国だ。フィリピンは関係ない。私は日本に対して中立を宣したい。米国は出て行って別の場所で戦ってほしい」と。 マッカーサーはそれを無視した。有色人種が生意気を言うな。代わりにケソンに軍事顧問としてフィリピン軍を育ててやった謝礼をよこせと要求した。「ケソンは米国にあるフィリピン政府の口座からニューヨーク・ケミカル銀行のマッカーサーの口座に50万ドルを振り込んだ」(『マッカーサーの時代』)。 彼は「入金を確かめたうえでケソンが日本側の手に落ちないよう潜水艦でオーストラリアに送り出した」(同)。ケソンは二度と祖国に戻ることなく、そしてマッカーサーの恐喝について、祖国のあり方について語る機会をもてずに死んだ。 マッカーサーが敵前逃亡できた最大の理由は英軍司令官パーシバルがシンガポールで日本軍の捕虜となったからだ。これで米軍司令官まで捕虜ではさすがの白人連合も恰好がつかない。ルーズベルトにすればB17を潰され、対日戦の手順もすべて彼によって狂わされてしまった。腹立たしい思いは「それでも彼に勲章を出そう」(C・ソーン『米英にとっての太平洋戦争』)という言葉に表れる。 大統領は彼に脱出を命じ、以後、彼はメルボルンのビクトリア・バラックに一室を与えられ、そこで例のバターン死の行進の噓っぱちを捏ね上げた。半島から収容所まで百二十キロ。半分は貨車で行く。残り六十キロをコーヒーブレイク、海水浴つきで二泊していく。バターン半島を制圧した日本軍 前述のレスター・テニーはそれを「地獄の兵役」の題で書いたが、六十キロは六十キロだ。すぐ歩き終わってしまうから、収容所で「日本軍に水責めの拷問を受けた」という。 水責めは「板の上に大の地に寝かされ、足の方を十インチ上げる。それで汚水を漏斗で無理やり四ガロンも呑ませる」と。それは米国がフィリピンを植民地化するとき、抵抗する者をそうやって拷問した。米上院公聴会には「最後は土人の膨れ上がった腹の上に米兵が飛び降りる。土人は口から六フィートも水を噴き上げて絶命した」とある。 日本人はそんな拷問は知らない。テニーの噓がそれでばれる。こういうのを蛇足という。 マッカーサーの臆病で嫌な性格がこれで十分窺えると思うが、失禁につながるもっと強力な傍証もある。 彼が厚木に降り立つ二日前、先遣隊百五十人がC46輸送機などでここに飛来した。彼らはつい昨日まで最前線で日本軍と渡り合ってきた猛者たちだが、着陸を前に「我々はひどく興奮し、怯えていた」(週刊新潮編集部編『マッカーサーの日本』)と、一番機に搭乗していたフォービアン・パワーズ少佐が語っている。 いかに怯えていたか。同機のラッキー操縦士は南風の吹く厚木に南側から追い風に乗って進入した。 操縦要員は必ず滑走路わきの吹き流しを見る。南の風なら北から向かい風で降りる。機速を絞りながらなお揚力を得るためだ。 そのイロハのイを操縦室にいた全員が失念していた。「機は(失速気味に)六回バウンドしてやっと止まった」とパワーズは言う。脚を折って暴走したか、オーバーランしたか、大事故になるところだった。 若手の猛者でもここまで震えていた。マッカーサーがいくら気張ろうが、彼の生理は正直に作動し、ちびりは止まらず、濡れジミをあそこまで大きくした。 最後にマニラに戻ったばかりのマッカーサーと会ったカメラマン、カール・マイダンスの話を披露したい。彼は朝鮮戦争に戦場カメラマンとして参加し、ライカもなにも凍りつく中で日本のニコンの優秀性を広く知らしめた人だ。 「マッカーサーに会うと本間雅晴へのあてつけにリンガエン湾から上陸してやったと語る。ただ残念なのはその場にカメラマンがいなかった。再現するから撮ってくれという」 マッカーサーは一週間後に本当に部下と何百人もの兵隊まで連れてリンガエン湾再上陸を再現してみせた。  「あの男は自分を美しく飾ることに何のためらいももたない」と。同盟通信カメラマンが「化粧していた」というのも真実味がある。 そんな男が失禁と受け取られかねないシミをつけたままタラップを降りるだろうか。 そんなシミのついた男が書いた憲法を日本はまだ大事に抱えている。もういい加減日本人も目覚めていいころと思うが。たかやま・まさゆき 一九四二年生まれ。六五年、東京都立大学卒業後、産経新聞社入社。社会部デスクを経て、テヘラン、ロサンゼルス各支局長を歴任。九八年より三年間、産経新聞夕刊の辛口時事コラム「異見自在」担当。著書に『「モンスター新聞」が日本を滅ぼす』(PHP研究所)、『変見自在 オバマ大統領は黒人か』(新潮社)、『白い人が仕掛けた黒い罠』(ワック)などがある。

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    満州の歴史に見る「破壊者」支那の流儀

    小名木善行(日本の心をつたえる会代表) もともと「清」という国は、現在の支那の東北省、昔の満洲国のあたりに住んでいた女真族の王のヌルハチ(努爾哈赤、太祖)が、1616年に明から独立して建国した「後金国」が前身です。ヌルハチは満洲文字(無圏点文字)を制定し、八旗制を創始する等、満洲人が発展する為の基礎を築き、1619年にサルフの戦いで明軍を破りました。 1636年、女真族、モンゴル族、漢人の代表が瀋陽に集まって大会議を開き、そこで元の末裔であるモンゴルのリンダン・ハーンの遺子から元の玉璽を譲られて、ヌルハチが大清皇帝として即位して「清」は建国されました。そして女真の民族名を「満洲」に改めました。 「満洲」という民族名は“文殊菩薩(もんじゅぼさつ)”に由来たと言われています。文殊菩薩というのは、梵名をマンジュシュリー (मञ्जुश्री [maJjuzrii])といいます。智慧を司る仏で、武力ではなく「智慧」で国を治めようとした建国の理念が、そうした名称にも表れているといえます。 もっとも清王朝で独自に考えたわけではなくて、どうやらチベットから、いわゆる「よいしょ」された文殊菩薩から、満洲の名が生まれているようです。 清を支那全土の王朝にしたのは第四代皇帝である康熙帝(こうきてい:在位1661年~1722年)です。康熙帝は、清代のみならず、唐の太宗とともに、中国歴代最高の名君とされいます。自ら倹約に努め、明代の1日分の経費を1年分の宮廷費用として遣ったり、使用人の数を1万人以上から数百人にまで減らすなど国費の無駄遣いを抑え、さらに治安の維持を図って、支那全土の物流を盛んにし、内需を拡大し、民の生活の向上を図ったとされています。 また「康熙字典」、「大清会典」、「歴代題画」、「全唐詩」、「佩文韻府」などを編纂し、「古今図書集成」の編纂を命じて文学の興隆を図り、また朱子学を尊重し、自ら儒学者から熱心に教えを受けて血を吐くまで読書を止めなかったともいわれています。「朱子全書」、「性理大全」など、朱子に関する著作をまとめ、明史を編纂し、イエズス会宣教師ジョアシャン・ブーヴェらを用いて、支那で初の実測による支那全土の地図「皇輿全覧図」を作成させたりもしています。 要するに、歳費の無駄を省き、自ら質素倹約を旨とするとともに、国内経済の振興を図り、民を豊かにし、文化の興隆を図った立派な皇帝だったわけです。 康熙帝が行った重要な命令に「封禁令」というものがあります。どういう命令かといいますと、「漢人は清国皇帝の聖地である満洲国に入るべからず」としたのです。 要するに康熙帝は、自らの出身地である満州地方を聖地とし、漢人の立ち入りを禁じたのです。これが今日のお話の最大のポイントです。清の第四代康熙帝 康熙帝は、漢人(支那人)の立ち入りを禁じただけでなく、支那と満洲の国境である山海関に、関所を設け、支那人の入国を規制しました。 要するに明代末期に支那の治世が乱れ、漢人に平和と安定を脅かされた女真族が、ついには漢人の本拠地を占領して皇帝となり、自らの出身地である満州を聖地化して、漢人の立ち入りを禁じて、故郷の平和と安定を図ったわけです。 逆にいえば、女真族(満洲人)が、自国の平和と安定を図るためには、暴虐極まりない支那(漢人)たちの本拠地を制圧し、そこに首都を移転して漢人たちに君臨し、自国(満洲)の平和と安寧を図るしかなかったということです。ロシアの南下と蛮行 万里の長城の出発点には「山海関」という城門があります。康熙帝は、封禁令によって、満洲国と支那との間の交通は、この関所以外、一切認めませんでした。立ち入れば、即、死刑です。おかげで、満洲地方は、この後約二百年にわたり、平和と安定を得ています。 ところが、清の治世が乱れ、欧米列強が支那の大地への浸食を始めると、満洲地方の安定が損ねられてしまうようになりました。何が起きたかというと、ロシアの南下です。 義和団事件(1894~1901)の後、乱の当時はろくな働きをしなかったロシアが、勝手に南下をはじめ、ついには大連のあたりまで浸食してしまうのです。 ロシア人も漢人と同じです。武力を用いて一般人を脅し、富と女を収奪します。 ロシア人たちが南下したとき、どれだけヒドイ仕打ちを現地の人にするかは、戦後、満洲から引き揚げようとする日本人達に、彼らがどのような振舞をしたかを見ても明らかだし、カザフやその他、何何スタンと名のつく国々が、ロシアや旧ソ連によってどれだけ酷い仕打ちを受けてきたかの歴史をみれば、なお一層明らかです。 ベラ・ルーシー(白ロシア)という名称があります。これはモンゴルの騎馬軍団がモスクワからポーランドへと侵攻していくとき、湖沼が多い白ロシアの地を避けて通った。だから「レイプがなかったルーシー(ロシア)」という意味で「ベラ(白、純潔)」ルーシーと呼ばれています。 どういうことかというと、13世紀のモンゴル軍というのは、支配地における強姦が将兵の職務となっていた。だからモンゴルの正統な継承国であるロシアは、それが現在にいたるまで不変の文化として残っていて、そうした文化は、そのまま旧ソ連に引き継がれた。ソ連軍による無制限の強姦については、数限りないほどの証言が残っています。 「ドイツ人の女性は老女から4歳の女児に至るまで、エルベ川の東方(ソ連占領地区)で暴行されずに残ったものはいなかった。あるロシア人将校は、一週間のうち少なくとも250人に暴行された少女に出会った」(「スターリン」ニコライ・トルストイ著) 「ベルリンの二つの主要病院によるレイプ犠牲者の推定数は9万5千ないし13万人。ある医師の推定では、ベルリンでレイプされた十万の女性のうち、その結果死亡した人が1万人前後、その多くは自殺だった」 「東プロイセン、ポンメルン、シュレージェンでは、すくなくとも2百万人のドイツ女性がレイプされ、繰り返し被害を受けた人も、過半数とまでいかなくても、かなりの数にのぽる」(「ベルリン陥落1945」アントニー・ビーヴァー著自水杜) こうしたロシア兵が、満洲に南下し、さらに朝鮮半島を経由して日本に襲いかかろうとした、というのが明治の中頃の日本の持っていた危機感です。日本は、国を守るために、朝鮮北部から満洲にかけて(当時は朝鮮は日本の一部です)南下するロシア軍との戦いに臨みました。これが日露戦争(1904~1905)です。 日露戦争が終わると、日本は、ロシアが満洲に持っていた権益を合法的に手に入れました。ところが当時の満州は、「馬賊と阿片は満洲の花」といわれるくらいの、盗賊王国、麻薬王国です。 そりゃあそうです。清の国力が弱まり、ロシアが南下して暴行のし放題。田畑は荒らされ、仕事はなく、飯も食えない。女房や娘は強姦され、子供たちは虐殺されたのです。 ある程度元気の良いものは、馬賊になって徒党を組んで強盗団にでもならなければ生きていけなかったし、馬賊となった人々を食わせるためには、馬賊の頭領は、アヘンを売り捌くのがいちばん手っ取り早かったのです。リットン調査団ですら日本を賞賛 日本は、混迷を続ける満洲で、きわめて生真面目に馬賊を退治し、法を定めて治安を保ち、産業を興し、農業を活性化し、道路や街を作り、あのリットン調査団ですら賞賛せざるを得なかった街づくり、国づくりを行いました。 下の図は、全満洲の発電量のグラフです。当時の満州は、発電機、変圧器、送電線など、世界水準を超えるものとなっていた。 これだけではありません。日本は、満洲に「国道建設10か年計画」を策定し、道路や橋梁を築いた。昭和12(1937)年頃には、全満洲の全国道は、1万キロを超え、四季を通じて自動車の運行が可能にしています。 なにもない荒野に、新京(長春)、奉天(瀋陽)、ハルピン、吉林、チチハル、承徳、営口、錦洲、牡丹江といった近代都市を次々建設しました。鞍山製鉄所では、年間20万トンもの鉄鋼資源が製造され、大連発電所、豊満ダム他、数々の近代工業設備投資が行なわれました。 満州人、朝鮮人、支那人にわけへだてなく諸学校を作り、近代的医療を施し、司法・行政機関を作り、支那大陸の歴史始まって以来、初の法治が行われました。近代的警察制度を行い、軍閥や匪賊を討伐し、街を整備してアジアの奇跡と呼ばれるほどの近代化を促進したのです。要するに、日本が行ったことは、現地人を教育し、彼らの生活水準を日本の内地と同じ水準に引き上げるというものです。これは、欧米列強による植民地化・・・富の収奪を目的とするものと、その心得がまるで違うものです。 このため当時の満州は、治安は日本の軍が守り、街は建設の息吹に燃えました。そこには旺盛な労働需要が発生し、農業も振興され、日本の指導によって、きちんと灌漑が行われて土地が肥沃になりました。 つまり満洲は、食えて、働けて、安心して住むことができる土地になったのです。 断っておきますが、ここまでの満洲の国家的インフラ整備は、満洲事変前、つまり、満洲国が起こる前の出来事です。いまでもそうだけれど、支那人という人種は、そこが食えて、働けて、住めるということがわかると、大挙して押し寄せます。 マンションの一室に、ある日、支那人が住み始める。気がつくと、その支那人の親戚やら友人といった連中が、次々と支那からやってきて、そのマンションに住み始める。気がつくとそのマンションは、ほぼ全棟、支那人ばかりという情況になる。こうした行動パターンは、古来、支那人(漢人)の特徴です。 当時の満州は、日本が介入して後、わずか20年ほどの間に、もとは満蒙人しか住んでいなかったのに、なんと9人中8人までもが漢人(支那人)になってしまいました。【昭和5年当時の満洲の人口】満蒙人   300万人支那人  2600万人朝鮮人   100万人日本人    23万人 このことを、左翼系に偏向した歴史教科書などは「清王朝の政策によって支那人の満洲地方への入植が行われた」などと書いていますが、とんでもない大嘘で、当時の清朝政府には、それだけの指導力も資金力もありません。要するに、南京において、日本が統治を始めたわずか2ヶ月後には、南京の人口20万が、25万人に増えたのと同様、民衆は、治安が保たれ、仕事があり、食えるところに人が集まったのです。毎年100万人規模で支那人達が満洲へ 支那全土が軍閥や共産主義者、窃盗団等によって、好き放題荒らされ、農地が荒廃し、建物が破壊され、惚れた女房は強姦され、旦那や息子が虐殺されるという無法地帯と化した中にあって、多くの人々が、治安が良くて仕事があり、安心して暮らせる土地を目指したというのは、ごく自然な行動です。 その結果、昭和になると、なんと毎年100万人規模で、支那人達が満洲に流入しました。満州事変勃発前の昭和5(1930)年には、ついに全人口の9割が支那人になりました。支那人が増えるとどうなるか。これも昨今の日本の各所でみることができるけれど、彼らは彼らだけのコミュニティを作り、平気で暴行を働き、治安を乱します。そしてついに、満洲国内で、支那人たちによる主権をも主張するようになりました。 これは支那人のいわば習い性のようなもので、彼らの行動は、時代が変わってもまるで変化しない。いまでも支那共産党が、チベット、東トルキスタン、南モンゴルなどで異民族を統治するに至る方程式は、まるで同じです。これからはアメリカが危ないかもです。1 まず漢人が入植する。はじめは少数で。次第に大人数になる。2 漢民族との混血化を進めようとする。はじめは現地の人との婚姻で。次第に大胆になり、果ては異民族の若い女性を数万人規模で拉致し、妊娠を強要する。3 現地の文化財を破壊する。4 天然資源を盗掘し、収奪する。5 漢人だけの自治を要求し、国家を乗っ取る。 昭和のはじめの満洲がそうでした。人口の9割が漢人になると、自分たちで軍閥を営み、満洲の自治を奪いました。これをやったのが、張作霖(ちょうさくりん)です。 張作霖は、もともと匪賊(ひぞく・盗賊集団)の頭で、勢力を伸ばして軍閥となり、ついには、満洲国に軍事独裁政権を打ち立てました。昭和4年、全満洲の歳入は、1億2千万元だった。そのうち、1億2百万元を、張作霖は自己の利益と軍事費に遣っています。なんと歳入の8割を軍事費にしたのです。 いまで言ったら、汚沢一郎が支那の人民解放軍を率いて日本の政府を乗っ取り、95兆円の歳費の8割にあたる76兆円を軍事費に振り向けた、というに等しいことです。しかもその軍事力の矛先は、なんと自国に住む満州人です。ありえないお馬鹿な話です。 要するに、せっかく都市インフラが進み、みんなが豊かに生活できるようになったと思ったら、その富を横から出てきた漢人で、まるごと横取りしたのです。         張作霖 張作霖が、実質的な満洲の支配者となって行った政策の、一端が、次に示すものです。1 財産家の誘拐、処刑2 過酷な課税  なんと5年先の税金まで徴収した。農作物や家畜にまで課税し、収税の名目はなんと130種類。3 通貨の乱発  各省が勝手に紙幣を乱発。当然通貨は大暴落した。4 請負徴収制度  税吏は、税額を超えて集金した分は、奨励金として自分の収入になった。 いま日本では、友愛などというゴタクを並べる総理がいたり、大喜びで支那に朝貢する売国議員などがいて、支那人達に労働力1000万人受け入れを約束したり、彼らの最低時給を1000円にしようだとか、ついでに参政権まで与えようなどと言い出す、ボンクラがいるけれど、そういう行動がもたらした結果がどうなるかが、当時の満洲に見て取れるわけです。支那人の「人治主義」 日本人は、道義主義の国家です。だから規則があればそれに従います。日本人のマインドは、常に相互信頼が基本にあるから、信頼に応えるためには、リーダーであっても規則があればそれに従うのが常識です。 ところが支那人は、人治主義です。法より人が偉い社会です。法をどれだけ無視することができるかが、大人(だいじん)の風格として尊ばれます。先日来日した習近平の行動もその典型で、日本に1ヶ月ルールを破らせることが、大物としての風格(あるいは貫禄)の証明とされています。法よりも人が偉いから、権力を持った人間は、なんでもかんでも好き放題できるし、それをすることが偉い人を偉い人たらしめる理由となります。 張作霖は、満洲国を軍事制圧すると、国民から税金として金銭をむしりとり、自身は老虎庁と呼ばれる豪邸に住み、贅沢の限りを尽くしました。そしてついに張作霖は、日本を追い出して満州を完全に自己の支配下に置こうとしたのみならず、支那までも征服し、支那皇帝にまでのぼりつめようと画策しました。張作霖の公邸「老虎庁」 そんな折に起こったのが、張作霖の爆殺です。この張作霖爆殺は、長く日本の河本大佐の仕業と言われ続けていたけれど、公開された旧ソ連の外交文書には、ソ連の陰謀であったと書かれているともいいます。 すなわち、張作霖を爆死させ、それを日本軍のせいにすることによって、日本を糾弾し、さらに日本と支那最大の軍閥である蒋介石を戦わせることで、両国を疲弊させ、最後にソ連が、支那と日本の両方をいただく・・・というシナリオであったという説ですが、実態は藪の中です。 張作霖が爆死したとき、満洲の一般市民がどういう反応を示したかというと、これが拍手喝采して喜んでいます。当然です。むごい税金の取り立てで、国内を泥沼のような混乱に陥れたのです。その張本人がいなくなれば、みんな大喜びになる。ごく自然なことです。 張作霖が死ぬと、その息子の張学良が後継者として奉天軍閥を掌握し、蒋介石を頼って反日政策を進めました。ところが張学良は、満州事変で満洲から追い出されます。すると支那共産党と結び、蒋介石との国共合作に引き入れる西安事件を起こしています。 朝鮮半島でも、支那、満洲でも同じなのだけれど、いわゆる反日・侮日政策を採った者たちには、「民衆の幸せ」という観念がないという共通点があります。。どこの国にも、多くの民衆がいて、誰もが家族の幸せ、生活の安定を求めて生きているのです。それは昔も今もなんら変わることのない、人々のごく普通な、普遍的な思いです。 日本が統治した国は、いずこもそこに平和と安定と建設の息吹が芽生えています。台湾、朝鮮半島はいうにおよばず、インドネシア、パラオ、タイ、ビルマ、シンガポール、マレーシア、カンボジア等々。満洲人の不幸は、内乱が続く支那と陸続きでかつては同一行政単位の国だったということです。 満洲の政治が安定し、工業や農業が盛んになり、学校や医療設備ができ、治安が良くなると、そこに内乱が続く支那から、こぞって漢人たちがやってきた。そしてこの漢人という種族は、大量にやってくるだけでなく、放置しておけば、その国の国民の数をはるかに凌駕するだけの人を呼び込む。そして自分たちだけの自治を要求する。その国のや文化や伝統を破壊する。そしてひとたび政権を取るや否や、権力を利用して、普通の神経では考えられないような暴政をひき、逆らう者、邪魔になるものは、かつての恩人であれ、平気で奪い、殺し、足蹴にする。 これが過去の歴史が証明している支那・漢人の流儀です。いま日本は、きわめて親支那寄りの政権が誕生し、実際にあった過去の真実の歴史を踏みにじり、日本の庶民が築いてきたありとあらゆる文化・伝統を破壊し、企業活動を損ね、経済を壊そうとしています。そして支那から1000万人の労働力を呼び寄せ・・・1千万人で終わるはずがない・・・彼らに最低時給1000円を保障し、日本の戸籍を与え、ついでに参政権まで与えようとしています。その先にあるものは、どのような日本なのでしょう。 京都に青蓮院というお寺があります。このたび青蓮院は、1200年ぶりにはじめてのご本仏、青不動尊の御開帳を行いました。しかも京都近郊の不動尊を一堂に集めての御開帳でした。 なぜそのようなことをしたのかというと、我が国の道徳心の荒廃があまりに顕著であり、まさにいま、「1200年来最大の国難のときにある」からだからなのだそうです。辛い事件があまりにも多すぎます。「この混迷の世の中で、青不動の強いお力をいただいて、いろいろな問題を少しでも良い方向に導いていただきたいと考え、ご開帳を行うことにいたしました」のだそうです。 日本を護るということは「庶民の幸せこそ国家の幸せである」という人類共通の理念を護るということなのではないかと、思います。 その日本がいま、貶められ、解体されようとしています。私たちは、わたしたちの手で、この日本を護りぬかなければならない。 そうしなければ、この国を、そして「民の幸せ」を希求して亡くなっていかれた英霊たちに申し訳ない。そのように思います。(「小名木善行 ねずさんの ひとりごと」 2011年2月2日より転載)おなぎ・ぜんこう 1956年生まれ。大手信販会社にて債権管理、法務を担当し、本社経営企画部のあと、営業店支店長として全国一の成績を連続して達成。その後独立して食品会社経営者となり、2009年より保守系徳育団体「日本の心をつたえる会」を主催、代表を勤める。ブログ「ねずさんのひとりごと」は、政治部門で常に全国ベスト10に入る人気ブログとなっている。

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    今や「戦国時代」の様相 中国の目先の利益に乗るな

    石平(評論家) 今月(編集部注:2015年11月)に入って中国は、アジア太平洋地域において一連の慌ただしい近隣外交を展開してきた。 1日、韓国のソウルで李克強首相は3年半ぶりの日中韓首脳会談に参加し、日本の安倍晋三首相との初の公式首脳会談を行った。5日には、今度は習近平国家主席が就任後初めてベトナムを訪問し「関係の改善」を図った。10日、王毅外相はマニラを訪れてフィリピンの大統領、外相と相次いで会談した。 この一連の外交活動の対象となった3カ国が抱えている共通問題といえば、やはり南シナ海だ。同海での中国の拡張戦略に対し、当事者として激しく反発しているのはベトナムとフィリピンの両国である。一方の日本もまた、自国のシーレーンとなる南シナ海の「航海の自由」を守るべく、中国の戦略に強く反対する立場を取っている。こうした中で中国がこの3カ国に急接近してきた意図がはっきりと見えてくる。 10月末の米海軍による南シナ海哨戒活動の展開によって米中対立が一気に高まった中、中国政府は南シナ海問題の当事者諸国との緊張を緩和させることによって、中国批判を強める米国を牽制(けんせい)するつもりであろう。当事者同士が話し合いで問題解決に向かうのなら「部外者」のアメリカは口出しが難しくなる計算である。 さらにAPECの前に、関係諸国を取り込んだ上でアメリカの攻勢を封じ込めておくのが一連の中国外交の狙いだったろう。 要するに、アメリカを中心とした「有志連合」が中国の拡張戦略に立ち向かおうとするとき、「有志連合」の参加国と個別に関係改善を図ることによって「連合」の無力化を図る策略なのだ。それは中国で古来使われてきた伝統的得意技である。 中国では紀元前8世紀から同3世紀まで戦国という時代があった。秦国をはじめとする「戦国七雄」の7カ国が国の存亡をかけて戦った時代だったが、7カ国の中で一番問題となったのが軍事強国で侵略国家の秦であった。 いかにして秦国の拡張戦略を食い止めるかは当然他の6カ国の共通した関心事であったが、その際、対策として採用されたのが、6カ国が連合して「秦国包囲網」を作るという「合従策」である。 6カ国が一致団結して「合従」を固めておけば、秦国の勢いが大きくそがれることになるが、一方の秦国が6カ国の「合従」を破るために進めたのが「連衡策」である。6カ国の一部の国々と個別的に良い関係をつくることによって「合従連衡」を離反させ、各個撃破する戦略だ。 この策で秦国は敵対する国々を次から次へと滅ぼしていったが、最終的には当然、秦国との「連衡」に応じたはずの「友好国」をも容赦なく滅ぼしてしまった。秦国の連衡策は完全な勝利を収めたわけである。 それから二千数百年がたった今、アジア太平洋地域もまさに「戦国時代」さながらの様相を呈している。中国の拡張戦略を封じ込めるために米国や日本を中心にした現代版の「合従連衡」が出来上がりつつある一方、それに対し、中国の方はかつての秦国の「連衡策」に学ぶべく、「対中国合従連衡」の諸参加国を個別的に取り込もうとする戦略に打って出たのである。 その際、日本もベトナムもフィリピンも、目先の「経済利益」に惑わされて中国の策に簡単に乗ってしまってはダメだ。あるいは、中国と良い関係さえ作っておけば自分たちの国だけが安泰であるとの幻想を抱いてもいけない。 秦国によって滅ぼされた戦国6カ国の悲惨な運命は、まさにアジア諸国にとっての「前車の轍(てつ)」となるのではないか。

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    日本を無謀な戦争に巻き込んだ「戦犯」は朝日と毎日との指摘

     1941年9月、日本は日中戦争を行ないつつ対米戦争に踏み切るという、勝ち目のない二方面作戦を選択した。これは陸軍の強硬派だけが主張し、実行したためであると多くの日本人が考えている。しかし、事実は違うと作家・井沢元彦氏は言う。週刊ポストの連載「逆説の日本史」から、日本を戦争に引きずり込んだ「戦犯」の正体を解き明かす井沢氏の解説をお届けする。* * * 戦後日本ではしばらくそういう教育をしていた。つまり多くの国民は戦争に反対していたが、軍部の強硬派が満州事変など次々に既成事実を作って日本を戦争に引きずり込んだ、というストーリーを歴史上の事実として教えていたのである。有楽町にあった朝日新聞社旧社屋(1979年1月撮影) そうした側面もまったくなかったとは言わないが、もし日本を無謀な戦争に引きずり込んだ人間を「戦犯」あるいは「戦争犯罪人」と呼ぶならば、陸軍の強硬派に匹敵する、いやある意味でそれ以上の「戦犯」がいる。朝日新聞あるいは毎日新聞(東京日日新聞)といった戦前からある新聞社である。  戦前はテレビは無く、雑誌とラジオはあったがマスコミといえば新聞が中心であった。マスコミ=新聞と言っても過言ではない。その新聞社がいかに日本を戦争の方向に誘導したか、日本人がとにかく戦争で物事を解決するように煽動したか。 私や私よりは少し年上の団塊の世代の人々は、いわゆる戦後教育において、戦前の新聞社は軍部の弾圧を受けた被害者だと教えられてきた。学校で近代近現代史の授業は受けられなくても小説や映画やテレビドラマを通じて、戦前の新聞社はいかに軍部の弾圧に対して抵抗したかという英雄的ストーリーを叩きこまれてきた。それは大嘘である。 確かに昭和十八年以降敗戦が決定的になった頃、その事実を隠した大本営発表を強要する軍部に対し一部抵抗した記者がいたのは事実だ。だが、抵抗の事実はほとんどそれだけである。それ以前まさに、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、満州事変からの一連の日中戦争そして日米開戦まで、「日本は戦争すべきだ」と常に国民を煽り続けたのが新聞社であった。これが歴史上の真実である。 特に朝日新聞社は、満州事変が始まると戦争推進派の評論家などを動員し全国で講演会や戦地報告会を多数開催した。またテレビ以前の映像メディアとして「ニュース映画」というものがあったが、朝日のカメラマンが現地で撮影してきた事変のニュース映画も全国で多数公開された。 昔は普通の映画館に隣接して全国各地に「ニュース映画専門館」があったことを、団塊の世代ならかろうじて覚えているだろう。もちろん、これらの朝日のキャンペーンは、この戦争が正義の戦いであるから、国民は軍部の方針を支持するように訴えたものである。  それだけではまだ不充分だと朝日は戦意高揚のための「国民歌謡」の歌詞を全国から公募した。しかし応募作の中には朝日の意に沿うような作品がなかったのだろう。結局朝日新聞記者の作品を当選作としプロの作曲家に作曲を依頼し完成したのが『満州行進曲』である。これは大ヒットし親しみやすい曲調からお座敷などでも盛んに歌われた(戦後作られた「反戦映画」にはこうしたシーンはほとんど出てこない)。 世の中には新聞を読まない人、ニュース映画を見ることができない人もたくさんいたが、そういう人々にこの歌は「戦争することが正しい」と教えた。その結果日本に「満州を維持することが絶対の正義である」という強固な世論が形成された。 軍部がいかに宣伝に努めたところでそんなことは不可能である。やはり、「広報のプロ」である朝日が徹底的なキャンペーンを行なったからこそ、そうした世論が結成された。それゆえ軍部は議会を無視して突っ走るなどの「横暴」を貫くことができたし、東條(英機)首相も「英霊に申し訳ないから撤兵できない」と、天皇を頂点とする和平派の理性的な判断を突っぱねることができた。  新聞が、特に朝日が軍部以上の「戦犯」であるという意味がこれでおわかりだろう。 朝日新聞社にとって極めて幸いなことに、戦後の極東軍事裁判(東京裁判)によって東條らは「A級戦犯」とされたが朝日にはそれほどの「お咎め」はなかった。そこで朝日は「A級戦犯である極悪人東條英機らに弾圧されたわれわれも被害者である」という世論作りをこっそりと始めた。 たとえばその手口として「反戦映画」に「新聞社も被害者」というニュアンスを盛り込むというのがある。「よく言うよ」とはこのことだが、特に団塊の世代の読者たちはずっと騙され続けてきた。いやひょっとして、今も騙されている人がいるのではないか。身近にそういう人がいたら、是非この一文を読ませてあげてください(笑)。関連記事■ 日本の新聞 戦意高揚させて日露開戦を煽って部数を伸ばした■ 朝日新聞発の自分史出版事業 粗利高くOB再雇用の一石二鳥■ 野坂昭如が体罰問題や農業政策などを独自視点で記した時評集■ 2000件超問い合わせの朝日新聞発自分史事業 30部111万円も■ 朝日の視線の先にあるのは権力者の顔色や大新聞仲間との関係

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    女優「李香蘭」は日中にとってどんな存在だったのか

     (THE PAGEより転載) 「李香蘭」の名で広く知られ、戦後は参院議員もつとめた女優・歌手の山口淑子(やまぐちよしこ)氏が2014年9月7日、94歳で亡くなりました。若い世代の人は、李香蘭という名前を知らないかもしれませんが、かつて日本が満州を支配していた時代には、日中両国において、知らぬ人がいないほどの有名人でした。李香蘭とはどのような人だったのでしょうか。 李香蘭は、女優です。美しい容姿とネイティブ並みの中国語能力を持っていた山口氏は、李香蘭の名前で中国人女優としてデビューしたのです(山口氏の父親は満鉄で社員に中国語を教えていた)。 山口氏が李香蘭としてデビューした背景には、大陸に進出しようとしていた当時の日本の国策がありました。日本は満州事変をきっかけに、清朝最後の皇帝溥儀を迎え、満州国を設立しました。日本は軍事力で大陸を支配しようとする一方、文化的な支配も実現しようと試みており、そのために設立されたのが満映という会社でした。「李香蘭」の名で知られた山口淑子さん(1959年1月撮影) 当時の満映理事長には、元陸軍憲兵で、無政府主義者殺害の容疑で服役したこともある甘粕正彦氏が就任していました。日本側は日中の架け橋となるような大女優を求めており、白羽の矢が立ったのが山口氏だったわけです。少し古い映画ですが、溥儀の生涯を描いた「ラストエンペラー」では、音楽家の坂本龍一氏が、音楽を担当すると同時に、甘粕氏の役で出演しています。 軍部の狙い通り、李香蘭は日中で大変な人気となり、次々と映画に出演し、歌も大ヒットします。しかし中国の人は、李香蘭が本当に中国人だと思っていました。このため、日本が無条件降伏を受け入れた際には、日本軍に協力した罪(漢奸罪=国家反逆罪)で起訴されてしまいます。 その後、日本人であることが法廷で証明され、ようやく日本に帰国することができます。帰国後は、日本での芸能活動を経て、自民党から参院選に出馬し、参議院議員を3期つとめています。 山口氏は女優としてデビューすることにあまり乗り気ではありませんでしたが、父親が満鉄の関係者だったこともあり「お国のため」と仕事を引き受けたそうです。しかし、日本人であるにもかかわらず、それを隠して中国人女優として活動してきたことについて、山口氏には相当な葛藤があったといわれています。 女優として有名になり、日本公演のために一時帰国した際には、日本の入国係官から「おい!」と呼び止められ「一等国民である日本人が三等国民である中国人の服など着て恥ずかしくないのか。それでも日本人か」と罵声を浴びせられたと自著に記しています。 日本は大陸進出にあたり「五族協和」というスローガンを掲げ、アジア人が団結して欧米に対抗すべきだと主張していました。しかし、現実は相当かけ離れていたようです。

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    「中国侵略」の肝といわれる満州事変はなぜ起きたのか

    筒井清忠 帝京大学教授北村稔 立命館大学名誉教授等松春夫 防衛大学校教授実証的昭和史として筒井 間違いの多い不正確な昭和史の本が広く読まれているという困った状況のなか、きょうは、実証的で正確な昭和史を広めたいという私の主張をよく知ってもらうよい機会になりそうですので、やってまいりました。さて、さっそく主題の満洲事変のことですが、どういう経緯で満洲事変が起こったかについては、さまざまに語られてきました。が、いま一つわかりにくいのは、日本側の軍事行動の当事者の石原莞爾らだけから事変を見たり、リットン調査団の報告書の一面的理解だけで片づけてしまったりしているからだと思います。軍隊が実際に動くに至るまでには、もっと複雑で色々な事情が交錯しているはずです。筒井清忠『満州事変はなぜ起きたのか』 (中公選書) そこで自分自身で調べてみると、「満洲事変で軍の暴走が始まった」というような単純な話ではなく、それ以前にいろいろな経緯があり、その結果として満洲事変が起きていることがよくわかりました。「満洲事変─日中戦争─日米戦争」という以後の流れだけから説明できるほど事態は簡単なものではありません。日露戦争が終わった明治末期から満洲事変が起こった昭和初期までのほぼ四半世紀にわたる出来事をよく理解する必要がある。それらをまとめたのが『満州事変はなぜ起きたのか』(中公選書)です。   この時代、各国から不平等条約を押しつけられていた中国には大きな不満がたまっていた。一方、日本の側には、当時の国際法によって認められた範囲で当然のことをしているという思いがある。そこに両者の根本的な見解の相違がありました。そういう日中関係にアメリカ、イギリス、それにドイツ、ソ連などの思惑が絡んで、非常に複雑な国際関係が展開していた。最終的には、中国はターゲットを日本一国に絞って欧米諸国とうまく関係を取り結び、対日包囲網を形成しました。そうしたなか、日本の行動は色々な意味で単純に過ぎたと言わざるをえません。 これは現代にも通じるところがあって、イギリスは最近中国中心のアジアインフラ投資銀行AIIBに突然入って驚かされましたし、訪英した習近平国家主席を「大歓迎」しましたが、イギリスが中国に対して抜け駆け的行動をとる傾向があるのは、一九二六年に「十二月メモランダム」という中英提携を突然発表して日本から「ワシントン条約の精神を無視し」たと強硬に抗議された時と変わっていません。 また、中国と最初に平等な条約を結び、日中戦争時に蔣介石を軍事支援していたドイツは、現在のメルケル首相に至るまで非常に親中的です。 こうした大国間の複雑な関係の中でワシントン条約体制という国際協調関係に一番忠実だったつもりの日本は気が付いたら孤立していた。日本が国際社会において失敗を繰り返さないようにするためには、こうした孤立に陥らないようにすることが大事ではないかと思います。「国際中間地帯」等松 日本の近現代史を国際的文脈の中に置いてケース・スタディとして見ると、国際連盟を脱退した日本が、なぜそれ以降も国際連盟規約で規定されていた委任統治を南洋群島において続けられたのかという疑問がわきます。一九三〇年代には満洲問題と南洋群島の問題がパラレルで出てくる。英仏豪のような国際連盟の委任統治に関わっている国々、あるいは米ソ独のような南洋群島に関心のある国々はそれをどう見ていたのか。満洲事変は日中間の問題であると同時に、誰が実効支配しているかよくわからない曖昧な地域を巡る紛争、つまり世界的に存在していた問題の一つでもあったのです。 そのことに一部の先覚者は当時から気づいていて、たとえば神川彦松という著名な国際政治学者は、複数の国家が権利を主張する地域を「国際中間地帯」と呼んでいました。ヨーロッパでいえばバルカン半島やクリミア半島やシレジア地方がそれにあたり、帝国主義の時代には列強のせめぎ合いの場になっていた。のみならず現地のローカルな勢力もそれぞれの思惑のもとに蠢いている。ご承知のように第一次世界大戦はバルカン半島というヨーロッパの国際中間地帯を巡る争いから始まりました。いま現在でもクリミア半島では同様のことが生じています。これは普遍的な、現在でも解決されていない問題です。東アジアにおいては満洲がまさに「国際中間地帯」でした。満洲は日中間だけの問題ではなかった。 第一次世界大戦後に国際連盟が作られ、委任統治制度が設けられた目的の一つも、国際中間地帯における武力紛争を避けるためでした。そういう観点から満洲事変を見ると、帝国主義批判、あるいは日中関係のみで見るのとはずいぶん違う景色が見えてきます。 一九三二年秋に発表された「リットン報告書」を読み直してみると、満洲をどのようなかたちで国際管理下におくか、治安をどう維持するかに関して、公表されていない部分では、連盟主導の暫定統治であるとか、現在で言う多国籍の平和維持軍のようなものまで、複数の構想があったことがわかります。ところが日本がリットン報告書を不服として早々と国際連盟からの脱退を通告してしまったため、そこから先の議論が進まなかったのですが、蔣介石は中国の権利さえ保障してもらえれば満洲をしばらくのあいだ国際管理下におくことに基本的に賛成でした。 実は日本でも、「リットン報告書」が発表されたときには、外務省や陸軍の一部には国際連盟の提案を受け入れて考え直そうという意見があった。しかし、満洲国に対する世論の熱狂的な支持があったり、満鉄や関東軍が権益を手放そうとしなかったりで、「リットン報告書」の構想は幻に終わりますが、実は国際的な正統性を獲得できれば満洲国も生き延びることができたのかもしれないのです。安易に使われすぎる「侵略」安易に使われすぎる「侵略」北村 「満洲事変」は満鉄の線路が爆破された昭和六年(一九三一)の柳条湖事件に端を発し、日本の〝侵略戦争〟の出発点とされるわけですが、「侵略」というのは、単純に考えれば他人が住んでいるところへ一方的に攻め込んでいって勢力下におくようなものでしょう。しかし、日本にそんなつもりはなくて、むしろ中国人のほうが戦争をする気満々だった。そもそも「侵略戦争」というのは“aggressive war”の訳語ですが、東京裁判で道義的、犯罪的な意味で使われるまでは、「先に攻撃を仕掛けた」という戦争の開始状態を示すだけで特別なニュアンスはなかった言葉だから、安易に使うべきではありません。 もともと日露戦争に勝った日本はロシアから賠償金を取れずに、遼東半島の旅順・大連(関東州)と東清鉄道南部支線の一部(後の南満洲鉄道)および附属地を譲り受けることで講和しました。しかし、これはもちろん領土の割譲ではなく、期限付きの借地のまた貸しみたいなもので、主権は〝地主〟の清にある。だから、十年後の「対華二十一カ条」(一九一五)で租借権の期限延長をめぐって揉めますね。しかも、「対華二十一カ条」要求に怒った中国人がやがては日本人を襲い、現地の日本人居留民は中国人にたびたび暴力をふるわれ、ひどい目にあわされることになる。日本人は最近ようやく中国人の乱暴さや無法さを知ったようですが(笑)、それは昔から変わらない。 だから、満洲国をつくったのは、ある意味しかたのないことだったのかもしれませんね。いつまでも近代化しないし、法の支配が及ぶ国にならない。しかし満洲には日露戦争後の一九〇七年に清朝が省制度を導入し行政区画を万里の長城の内外で一体化していた。また二千万人といわれた住民の九割は漢人種です。清朝が倒れそのあと国民党による国民革命が唱えられて久しい一九三〇年代に、旧満洲人皇帝の権威で新国家を作る建国理念は、五族協和(満、日、漢、蒙、朝鮮の各民族の協調)を唱えても説得力に欠けます。張作霖も張学良も、みな漢人種です。満洲国とイラク等松 仮に日本人が中国に居留するとしたら、どうやってガバナンスを確立するか、どうやって安定した状態を保つかというのが大きな課題でした。清朝末期から民国初期の中国は混乱状態で、軍閥が割拠する力の世界だから法の支配さえ怪しい。匪賊とさして変わらないような軍閥が勝手に税金を取ったり住民を酷使したりする。 そういう状況を安定させるには、帝国主義の全盛期ならば武力で支配すればよかったのですが、第一次世界大戦を境にして、ベルサイユ会議以降、植民地主義への反省から「民族自決主義」という潮流が生まれました。そのあたり、イギリスなどは新しい時代の流れの中でうまく立ち回っています。狡猾というか賢明というか、逆に自国の行動を〝合法化〟していくのです。日本の場合には旧式の外交から新時代の外交、つまり帝国主義から反帝国主義への切り替えがうまくいかず、中国だけでなく中国に利権を持つ列強と衝突してしまう。イギリスなどと比べて明らかに日本は立ち回りが下手だったと言えます。 実は満洲事変とほぼ同じ時期にイギリスはイラクの問題を抱えていました。第一次世界大戦中にイギリス軍はオスマン=トルコ軍をメソポタミアから追い出してイラクを占領した。満洲以上に治安が悪い地域で、北部にはクルド人がいるし、アラブ人もスンナ派とシーア派に分かれて争っているから、イギリスは強権で支配した。しかし、第一次大戦後の潮流のなかでは、そのまま植民地にしてしまうと帝国主義であるとの批判を浴びますから、それはできない。とはいえイラクは石油も出るし中東支配の要だから、ぜひとも確保したい。そこでイラクを国際連盟のA式委任統治領にして自らが受任国となるのです。こうして事実上イラクはイギリスの保護国となったのですが、国際連盟のお墨付きですから、合法性があります。将来は独立させて有利な条約を結ぶ。いわば「名を捨てて実をとる」戦略です。 奇しくも満洲国建国と同じ一九三二年にイラクは独立して国際連盟に加盟し、そして独立国としてイギリスと条約を結びます。しかし、独立国とは名ばかりの虚構の国家で、イギリス人顧問があちこちにいて、英国軍の駐留も認め、イギリスに最恵国待遇を与えるなど、その内容は日満議定書と大差ないものでした。ただ国際連盟の委任統治制度を経ての「独立」ですから、合法性・正統性という点ではまったく問題がない。 日本の場合は、出発点であからさまな軍事力の行使という形で国際連盟規約を破っていますから、イラクにおけるイギリスと同様のことをしていても国際的に非難され、国家としての実態はイラクとさして変わりなかったのに、満洲国はついに広範な承認を得られませんでした。既存の制度や国際秩序を巧みに利用したイギリスに比べ、われわれには関係ないとそれを頭から否定してしまった日本は率直と言えば率直ですが、早まったとしか言いようがありません。このように、満洲国もイラクも、まさに国際中間地帯の管理をめぐるテーマだったわけです。「幣原外交」と「田中外交」「幣原外交」と「田中外交」幣原喜重郎北村 満洲事変が起こった頃、雑誌『文藝春秋』に掲載された世論調査をみると、ほとんどの人が軍の行動を全面的に支持しています。協調外交、いわゆる「幣原外交」でいくべきだと言っている人はほんのわずかで、「満蒙は日本の生命線である。弱い女子供まで襲う憎き中国人を懲らしめるのは当然だ」という意見が圧倒的多数を占めている。筒井 再検討しなければいけない史実の一つは、加藤高明・若槻禮次郎内閣の外務大臣、幣原喜重郎の国際協調外交、いまおっしゃったいわゆる「幣原外交」ですね。 中国人労働者の大規模なデモと発砲が起きた五・三〇事件(一九二五)ではイギリスの再三の日本軍出兵要請にも幣原外相はなかなか動かず、第二次南京事件、漢口事件でも「不干渉政策」の方針に基づいてイギリスの共同軍事行動の呼びかけを拒絶し、日本だけが砲撃に加わらなかった。イギリスも怒りましたが、日本人居留民の出兵要請にも応えなかったから、国内でも幣原外交に批判が集まった。田中義一 若槻内閣に代わって組閣した田中義一首相は、居留民保護のため第一次山東出兵を行います。これはイギリスとアメリカに大歓迎され、とくにイギリスは田中外交に大きな期待を寄せました。戦後、田中メモランダムがあったせいもあり田中外交は強く批判されていましたが、これが偽書であったこともはっきりしています。 そうすると幣原外交と田中外交をどう見直すかという問題が出てくる。ただし、幣原外交であまりに隠忍自重しすぎた結果、不満がたまって関東軍や世論が暴発したように見えるのですが、それなら、一々小刻みに反撃していたら、そうはならなかったのかというと、一概にはそうとも言えないような気がします。そのあたりは難しいところですね。等松 当時の国民感情がそれだけ反中的になってしまった理由の一つには、日本も不平等条約に苦しめられた過去があったからではないでしょうか。日本の場合は徳川幕府という前政権が安政年間に結んだ不平等条約を、明治新政府が鹿鳴館の舞踏会のような涙ぐましい努力までしながら徐々に改正し、五十年以上かけて明治時代末期の一九一一年にようやくすべて改正することができた。 ずっと屈辱に耐えてきた日本人の国民感情からすれば、蔣介石が「革命外交」と称して実力行使に訴えることに反発する気持ちはわかります。石橋湛山は、「われわれにもかつては欧米列強の横暴に対して激昂した尊皇攘夷の時代があった。いまの支那はそれと同じなのだから、もう少し静観すべきだ」と言っていました。結果的には正論だったと思うのですが、「そんな甘いことを言っていられるか」というのが自然な国民感情だったという気はします。東京・日比谷公園で講和条約反対を訴える民衆によって開かれた 決起集会を発端に日比谷焼打ち事件が起こった(1905年9月5日)筒井 明治の末期から、群衆・大衆というものが日本の政治に大きな影響力を持つようになります。その最初の事件が「日比谷焼打ち事件」(一九〇五)でした。新聞は連日「日本の大勝利」という報道をしていたのに、国民から見ると賠償はほんのわずかだったから、国民の不満が爆発して暴動が起こった。日本で最初の戒厳令が敷かれ、死者十七名、負傷者約二千名、検挙者約二千名を出す大事件になりました。 その後、桂太郎内閣を倒した護憲運動(一九一一)、日本最大の民衆反乱だった米騒動(一九一八)、反排日移民法運動(一九二四)など、群衆騒擾事件が相次ぎます。統治する方から見れば、恐るべきことだったでしょう。米騒動以降、元老の山縣有朋は米相場の指数を毎日見ていたといいます。反排日移民法運動では反米の歌までつくられ、アメリカ大使館の前で切腹する人が出たり、幕末の攘夷運動のように横浜でアメリカ人が襲撃されたりした。この運動はなぜかよく研究されていませんけれど。北村 「排日移民法」以後、アメリカは日本をどんどん追い詰めていった。一九三二年の満洲事変直後には、米国務長官のスティムソンが、日本の大陸における領土拡張はいっさい認めないという声明を出している。いわゆる「スティムソン・ドクトリン」です。筒井 日中関係と日米関係はつねにリンクしています。日露戦争の直後、アメリカの鉄道王ハリマンが南満洲鉄道の共同開発をもちかけたときから、アメリカは日中間の問題に関わってくる。日露戦争で疲弊したいま、米国資本を満洲に導入したほうが国益にかなうと判断した時の桂太郎首相はこの提案を受け入れ、覚書が交わされます。 ところが、ポーツマス講和条約を終えて帰国した外務大臣の小村寿太郎が共同開発に猛反対し、白紙撤回させる。異説もありますが、国民が日露戦争の賠償が少なすぎると騒いでいるところへ、さらに満洲の権益をアメリカと分け合うようなことをしたら国民は絶対に納得しないだろうというのが小村の考え方だと見られています。ここにも世論がはたらいているのです。「日比谷焼打ち事件」で日本の政治シーンに初めて「大衆」が登場し、デモや暴力によって世論が表明されるようになった。以後、湧き上がる大衆世論の支持なしには政治や外交の方向が決められなくなった。そして、そうした世論とそれを煽動するマスメディアとが、大正から昭和初期に中国との関係を悪化させる一つの大きな要因になったのです。国際連盟脱退北村 国際連盟総会に日本主席全権として派遣された松岡洋右は、西園寺公望に「連盟を脱退するつもりはない」と言っていたようですね。にもかかわらず、松岡は「欧米諸国は日本を十字架上で磔刑に処そうとしているが、キリストが後世において理解されたように、日本の正当性も後々必ず明らかになるだろう」という有名な大演説をして国内で喝采され、「リットン報告書」が圧倒的多数で採択されると、脱退を宣言して退場してしまいました。その要因も大衆世論と国民感情でしょうか。等松 大衆社会的な現象が現れ、日本の政党政治がまだ十分に成熟していなかったこともあって政府が世論に振り回されてしまった。正統的なエリートではなかった松岡は世論を味方につける必要もあり、ポピュリストにならざるを得ないところもありました。筒井 罰則規定はないのだから、日本は脱退する必要はなかった。リットン調査団の勧告が出たと言われたら、「そうですか」と受け流しておけばよいと東大国際法の立作太郎教授なども言っており、そうするはずだった。日本は時間を稼いで情勢の変化を待つべきだったのです。 その後、イタリアがエチオピアに侵攻し、ソ連はフィンランドを侵略して国際連盟を除名されている。国際情勢はつねに流動的で、国際連盟をめぐっていろいろな問題が起こり、日本の位置も変わっていくのですから脱退しなければよかったのです。そうすればまた国際社会に復帰できた。が、「ゆきつくところ戦争も辞さない」(朝日新聞)などという圧倒的な世論の脱退論に松岡らは迎合してしまったのです。等松 これは意外に忘れられがちですが、一九三三年三月の時点で日本は連盟脱退を通告しただけで、実は通告から二年後まで発効しないという規定がある。言い換えれば通告後も二年間は加盟国としての義務を果たさなければならないのです。だからその間に脱退通告を取り下げることもあり得た。英米仏などの列強が日本に対する道徳的な非難以上のことはせずに事態を静観していたのは、「満洲国」という新国家の建設は容易なことではないし、いずれ頓挫するだろうと考えていたからです。そうなると連盟に戻って「リットン報告書」を基に満洲の国際管理を認めるかもしれないから、あまり日本を刺激せずにしばらく様子を見ようとしていた。すなわち、一九三三年から三五年という二年間は、実はいろいろな可能性があった時期だったのです。 逆に言えば、列強が強硬な態度をとらず、対日経済制裁も行わなかったために満洲国建国が順調に軌道に乗り、日本もこれで行けるぞと思ってしまったのではないか。筒井 私は、松岡は後藤新平的大風呂敷ラインにつながっていると思います。後藤新平という人は何かといえば大風呂敷を広げるから、マスメディアには人気があった。 アメリカに対抗するための「ユーラシア大陸ブロック連合」構想のような後藤の大風呂敷に影響を受けた松岡は、日本・中国・満洲を中核とした「大東亜共栄圏」をつくるなどと言ってマスメディアと大衆を喜ばせました。世界を四つのブロック(アメリカ、ロシア、西欧、大東亜)に分けるというのです。当時日本のやるべきことは泥沼に陥った日中戦争を解決することに専心するしかなかったはずです。そういう地に足が着いていない大風呂敷が亡国につながったと私は思いますね。 日露戦争の終結後も陸軍が満洲に留まって「軍政」を敷き続けたため英米が強硬に抗議してくるという国際的紛議が起こったときの当事者の中にも後藤がいました。児玉源太郎参謀総長とその配下だった後藤は、軍政を長期化させ、そのまま統合的植民地支配にもっていこうと考えていたようです。児玉・後藤コンビは一九〇〇年にも、義和団事件に際して厦門占領を企てて英米列強の批判を浴びています。 この厦門事件は伊藤博文がことを収めたのですが、在満陸軍に対する英米の抗議を受けて開かれた政府首脳会議でも、当時は韓国統監だった伊藤博文がリーダーシップを発揮して、満洲の軍政を排し、日本の権益の明確化、限定化を行ってことなきを得ました。この会議で伊藤は、「満洲における日本の権利は、講和条約によってロシアから譲られた遼東半島租借地と(南満洲)鉄道のほかには何もない。満洲はわが国の属地ではない。純然たる清国領土の一部である」と発言しています。この伊藤の見識は何度でも見直されるべきでしょう。重光葵の言葉重光葵の言葉等松 わが国は国際社会の中でどの程度の国なのかという明治以降の日本人の自己イメージの問題もあったのではないでしょうか。何も明治が素晴らしくて昭和がダメだったという司馬史観のような単純なことを言うつもりはありませんが、明治維新の第一世代、第二世代までは弱小国日本が欧米列強による植民地化の危機にさらされ、不平等条約を押しつけられたことを実体験していますから、慎重な人たちが多かった。ただ、その次の次の世代ぐらいになると、日本の国力増進と自らの精神形成期がほとんど重なっていますから、実力以上に国力を過信したところがあるような気がします。 これは単なる「if」ですが、もし日本が第一次世界大戦に本格的に参加して悲惨な目に遭っていれば、もう少し堅実な帝国になったかもしれません。実際には第一次世界大戦のとき、日本陸軍は非常に熱心に戦争を研究しているのです。調査員を何百人も欧州の戦場に派遣して研究させ綿密な報告書を大量につくっている。しかし、堅実な道を選ぶのではなく、将来の国家総力戦に備えなければならないという結論になった。場合によっては米中ソと同時に戦争になるかもしれないから、資源を押さえて防衛線をなるべく外側へ延ばしておきたい、それには満洲を確保する必要がある。そういう思考をたどったと思います。そういう意味では、満洲事変は第一次大戦の結果の一つだったと言えるかもしれません。重光葵筒井 この時期の日本は世界の五大国、三大国のひとつとまで言われるようになっていましたが、重光葵は、「日本の地位は躍進したが、日本は個人も国家も謙譲なる態度と努力によってのみ大成するものであるという極めて見やすい道理を忘却してしまった」と言い、結局、日本はまだ大国として成長していなかったと結論づけています。等松 江戸時代まで三千万人足らずだった日本の人口が、医学の進歩や産業の発達によってどんどん増えていって、先の大戦のころには本土だけで八千万人ぐらいになった。戦時中のスローガン「進め一億火の玉だ」というのは植民地朝鮮・台湾の人口を含めての数字でした。農業中心の自給自足で養える本土の人口は三千万ぐらいが限度であるにもかかわらず、幕末からたかだか七十年で二倍半になってしまった。そこで、人口爆発に対処するために朝鮮や台湾、さらには満洲に出て行こうということになるのです。北村 ただ満洲移民は二十三万人くらいだからそんなに大きな数ではありませんね。実際問題としては国内で人が余ってどうしようもないという状況ではなかったのに、数字に惑わされてしまったということでしょうか。「のらくろ」開拓団等松 たしかに宣伝されたほどには移民していない。メディアが発達した弊害かもしれませんが、人口問題について人々が情報を鵜呑みにしてしまう、あるいは何らかの意図があって国民に信じさせたところがあると思います。工夫すれば国内産業だけでも十分食べていけると冷静な主張をする人が多ければ、安易な移民政策は取らなかったかもしれませんし、ましてや悲惨な結末に終わった満洲への武装開拓移民などせずに済んだと思います。昭和37年(1962)に復刻された普通社版『のらくろ二等兵』。後ろはブル連隊長 ところで、戦前に大人気を博した「のらくろ」という田河水泡作の漫画がありますね。野良犬の黒吉が「猛犬連隊」という軍隊に入って活躍し、二等兵から徐々に出世していく話ですが、日本の世論のバロメーターの一つとして見るとおもしろい。昭和六年、ちょうど満洲事変勃発の年に『少年俱楽部』で連載が始まるのですが、実は同年の年末号が「満洲事変特別号」で、子供向けにわかりやすく書かれた「満洲事変はなぜ起こったのでしょうか」というイラスト入り記事が掲載されています。「日本は合法的に権利を持っているのに、暴虐なシナ人が日本を貶めようとしているから、ついに正義の日本は立ち上がって、国際社会での孤立も恐れずに悪いシナ人を懲らしめているのだ」というような内容です。 一方、「のらくろ」はその後大尉で退役して大陸に渡り、歓迎してくれた朝鮮半島出身の白犬「金剛くん」を従え、大陸のブタ、羊、ヤギとともに開拓団をつくって資源を開発するという展開になる。そうして見つけた金鉱や炭坑を現地の動物たちに譲ってしまって、さらに奥地の開拓に旅立つところで終わります。 そういうものを読んで育った子供は、昭和六年の連載開始当時十歳くらいとすると、ちょうど昭和十六年の日米開戦のころは軍隊へ行く年齢になっています。『少年俱楽部』や「のらくろ」はメディアとして子供たちに大きな影響を与えたのではないでしょうか。さきほどの「大衆とメディア」の話につながる気がします。ソ連への警戒心ソ連への警戒心北村 満洲事変の二年前に、ソ連が持っていた権益を国民政府が回収しようとして中ソ戦争が起こっていますね。ソ連も同じことをしていたからといって、日本の行動をすべて正当化するつもりはありませんが、やはり満洲を侵略したというより日本は面倒に引きずり込まれたという印象を受けます。等松 中ソ戦争といっても、その実態は張学良軍と極東ソ連軍との戦いでしたが、北満洲でソ連に対してさまざまな嫌がらせをしていた張学良の軍隊はさんざんにやられて惨敗を喫し、利権回収はできませんでした。 これは関東軍にとって、いろいろな意味で教訓になったと思います。ソ連のように強権を発動し、軍事力で断固として利権を守るべきだ。極東ソ連軍は、およそ三十万人の張学良軍を約三万の兵力で破っていますから、一万程度の関東軍でも装備と戦略次第では烏合の衆の張学良軍には勝てるだろう。同時に、極東ソ連軍の脅威に対処するため、いまのうちに南満洲をしっかり固めておかなければいけないという発想にもなったはずです。 それから、一九二四年に外モンゴル、いわゆる外蒙がモンゴル人民共和国となります。一九二一年にモンゴル人民の要請を受けたと称してソ連が軍事介入し、やがてモンゴル人民革命党による一党独裁の傀儡政権をつくった。一九七九年のアフガン侵攻と同じ論理です。 満洲事変に先立ってソ連がまさに満洲国建国と類似のことをしていたと言えるわけで、関東軍は、同じことが南満州でできないかと考えたと思います。これも満洲事変の伏線となりました。 ですから中ソ戦争やモンゴル人民共和国の成立は、満洲事変の前史としてきちんと位置づけなければならない。愛新覚羅溥儀北村 モンゴル人民共和国ができるまで、清朝最後の皇帝だった愛新覚羅溥儀は一九一二年に清朝が滅んで退位したあとも、ラストエンペラーとして袁世凱政府から歳費をもらって紫禁城に住んでいました。清の皇帝はモンゴル人にとっては大ハーンだったし、チベット人にとってはチベット仏教の大施主だったから、モンゴルやチベットを自分たちの側につなぎ止めておくためでした。 ところがモンゴル人民共和国ができてしまうと、モンゴルと歴史的に深いつながりのある溥儀が邪魔になる。それで、ソ連から援助を受けていた、いわばソ連の手先である馮玉祥が紫禁城に乗り込んで溥儀を追い出してしまった。それがまさにモンゴル人民共和国が誕生した一九二四年のことです。 その溥儀を日本人が担ぎ出して満洲国の皇帝にした。もともと満洲は愛新覚羅氏の故地で、溥儀は満洲人の皇帝だったわけですから、それなりの筋は通っています。等松 先ほどのイラクの話ですが、実はイギリスも、日本が溥儀を連れてきたのとまったく同じことをしている。外部から王朝を移植しているのです。愛新覚羅氏とハーシム家北村 ほかの国から王様を連れてきたのですか。ハーシム家のファイサル一世等松 第一次世界大戦、例の「アラビアのロレンス」の時代ですが、聖地マッカやマディーナなどアラビア半島の西岸を支配していた名門のハーシム家をイギリスは支援して中東に介入していった。ところが、ハーシム家は大戦後の勢力争いでサウド家という新興勢力に敗れ、アラビア半島がサウジアラビアという別の国になってしまったため、イギリスは手が出せなくなった。 そこでイギリスはハーシム家の人々を強引にイラクとトランスヨルダン(現在のヨルダン)の王として連れてきたのです。 イスラーム世界では預言者ムハンマドの子孫であるハーシム家は大変な名門で権威もあるのですが、しかし、イラクやヨルダンの地元にもそれなりの有力者たちがいるわけで、両地域の住民にとって所詮はよそ者ですから、大きな反発を買いました。それをイギリスは軍事力で抑え込み、イラク国王にファイサル一世、トランスヨルダン国王にアブドゥラー一世を据えたのです。 満洲事変を正当化するための議論と思われては困るのですが、イギリスも、アラビア半島の西岸、紅海の近くにあった王朝の一族をメソポタミアやパレスチナに連れてくるなどという強引なことを実はしているのです。北村 天津の日本租界にいた溥儀を連れてきて、もともと満洲人の皇帝だった人間を元首にした日本はまだかわいげがあった。筒井 当時の日本政府・外務省には多様な意見があったこともよく理解しておく必要がありますね。 代理駐華公使だった重光葵は、中国の激しい利権回収・排日運動は「民族解放主義思想」に基づくもので、人為で阻止することは不可能だから、日本は不平等条約の根本的な改定に先鞭をつけて好意を示すべきだとして、蘇州・杭州の居留地の返還を提議しています。そうすれば決してどこまでも帝国主義的ではない日本の立場を明示することにもなり、列国の理解が得られるだろうと重光は考えたのです。 しかし、幣原は、いまの政府にその力はなく、とうてい実現不可能だと重光の提案を受け入れなかった。そこで重光が主張したのは、軍部に慎重な態度をとらせて衝突を起こさないように努め、そうした方向で日本の世論を導くとともに、国際連盟のような国際的な場所に出ても外国を納得させられるよう公明正大なものに日本の立場をはっきりとさせておくべきだということでした。つまり、日本の方から暴発しないようにしつつ中国の条約上の違法行為については英米などが納得するようにあらかじめ理解させておく必要があるというわけです。 そのために重光は国民政府の要人と通じ事態の解決に勤しんでいたのですが、その努力が実を結ぶ前に、残念ながら満洲事変が勃発してしまった。だから、中国と協調関係を確立することに力を尽くした重光葵のような人間がいたことにも目を向け、尊重するようにしなければいけませんね。 冒頭でも言いましたが、満洲事変に限らず、この時期の歴史について先進国で日本ぐらい不正確で実証的でない歴史がまかり通っている国はありません。その点でマスメディアの責任は大きいと思います。清沢洌が言っていますが、昭和の前期もそうでした。これでは敗戦から何も学んでいないことになります。最近『昭和史講義』(筒井清忠編・ちくま新書)という正確な歴史研究の成果に基づく研究者・一般向けの昭和史書を出しましたが、これを第一弾にして、こうした努力を続けていき、二、三年中には、不正確なものはなくなるというようにしていきたいと思っています。みなさんのご協力をお願いしたいですね。 不正確なものを見つけたらどんどん声を上げて行きましょう。つつい・きよただ 1948年大分県生まれ。帝京大学文学部日本文化学科教授・文学部長。東京財団上席研究員。専門は日本近現代史、歴史社会学。著書に『昭和戦前期の政党政治』『二・二六事件とその時代』『近衛文麿』『二・二六事件と青年将校』『西條八十』『満州事変はなぜ起きたのか』など。きたむら・みのる 1948年、京都府生まれ。京都大学文学部卒業。同大学院博士課程中退。三重大学助教授を経て、立命館大学教授。法学博士。著書に『第一次国共合作の研究』(岩波書店)、『「南京事件」の探求』(文春新書)、『中国は社会主義で幸せになったのか』(PHP新書)、共著『日中戦争』(PHP研究所)など。とうまつ・はるお 1962年、米カリフォルニア州生まれ。防衛大学校人文社会科学群国際関係学科教授。オックスフォード大学大学院国際関係学研究科博士課程修了。博士(政治学)。専門は政治外交史、比較戦争史。著書に『日本帝国と委任統治』、共著に『日中戦争の軍事的展開』『日英交流史1600-2000 3 軍事』『昭和史講義―最新研究で見る戦争への道』など。

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    五十六神話を捨てるとき

    「真珠湾奇襲」は戦術・戦略において本当に効果的だったのか。ニイタカヤマノボレ、トラトラトラ……と聞くと我々はつい興奮してしまう。まるで赤穂浪士たちが憎っくき吉良邸に討入りを果たした元禄の大事件が語り草になったように。

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    山本五十六の長男 「父は『騙し打ち』を最も嫌っていた」

    その夜、ちゃぶ台の上に20センチほどの小さな鯛が置かれていたという。一家そろっての最後の夕餉。翌朝、学校へ行く息子を父は珍しく玄関まで見送った。「行ってまいります」「行ってきなさい」。この短い会話が父・山本五十六と長男・義正氏が交わした最後の言葉だった。 「私と父は、互いにもう二度と生きて会えないことを知っていました。私は父の視線を背中に感じながら玄関を出たんです。けっして振り向くまいと自分に言い聞かせながら…」(義正氏) 山本五十六・連合艦隊司令長官率いる日本海軍が、ハワイの真珠湾で米太平洋艦隊を攻撃するのはその3日後、昭和18年12月8日のことである。瀬戸内海に停泊中の旗艦長門で「攻撃成功」の第一電を受けた山本は、その戦果を祝して次のような和歌を詠んだ。 《突撃の 電波は耳を 劈きぬ 三千浬外 布哇の空より》ラバウル基地で兵士を見送る連合艦隊司令長官、山本五十六。生前最後の写真=「昭和」(講談社)より 成功を喜び祝う五十六だが、じつはこのとき一つの心配事があった。攻撃前に対米最後通告が確実に届いているのかどうか。このことは開戦前から何度も確認したが、結局、開戦通告は真珠湾攻撃の後になり、日本は「騙し討ち」の汚名を着せられることになる。 「長岡藩の武士として育った父にとって『騙し討ち』という評価は最も嫌なものだったはずです」(義正氏) しかし、アメリカは開戦前に真珠湾攻撃を察知していたという説が根強くある。ルーズベルト大統領はそれを知りながら日本を戦争に誘い込んだというアメリカ陰謀論だ。陰謀の真偽はともかく、少なくとも、アメリカは真珠湾攻撃前に日本の暗号電報を傍受・解読していた…こう断言するのは戦史研究家の原勝洋氏である。 「真珠湾攻撃の1週間前、日本の外務省は『暗号機の破壊およびコード表の焼却』という内容の外交電報を在米大使館に打電しています。暗号の焼却という指令は、開戦が間近に迫っていることを示しているわけですが、じつはこの暗号電報さえ、アメリカは解読していたんです。米軍は日本外務省の暗号機を模造した『パープル』を使って暗号を傍受・解読していたのです」 原氏がアメリカの公文書館で調査したところ、米議会の『真珠湾調査合同委員会記録』には、7月1日から開戦までに227通の日本の機密電報が傍受・解読されていたことが記録されているという。 「それだけではありません。外交電報だけでなく、より重要な日本海軍の暗号まで真珠湾攻撃前にアメリカは解読していたんです」 その証拠文書を、このたび原氏がアメリカで発見した。これは終戦後に米海軍通信機密保全課が作成した文書で、そこには「真珠湾攻撃前に旧日本海軍の暗号を解読した」という一文が明記されていたのだ。 「文書には’39年(昭和14年)夏から解読開始とあります。アメリカは開戦の1年3カ月前から日本海軍の暗号を断片的に解読していたわけです」(原氏) となると、やはりアメリカは真珠湾攻撃を事前に察知しながら、知らないふりをして日本を戦争に誘い込んだ可能性が出てくるのだ。関連記事戦争映画No.3・真珠湾攻撃を描いた作品を小池百合子氏が語る日本人スパイ 真珠湾偵察のために女性とドライブをしていた真珠湾攻撃の総隊長 キリスト教洗礼受け全米で伝道活動した真珠湾から生還パイロット証言 奇襲攻撃は失敗から始まった92歳の元海軍空母「加賀」乗組員 真珠湾攻撃当日を振り返る

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    元ゼロ戦パイロット・原田要さん「戦争の罪悪で世界一、非人道的な人間に」

    (THE PAGEより転載) 私ほど人の命をあやめた人間はいない――。元ゼロ戦パイロットで戦争反対を訴え続けている原田要さんは、14日に長野市内で開かれた講演会でこう告白した。「お国のために」と命を投げ出す覚悟で海軍に入ったが、気がついたら「世界一、非人道的な人間になってしまった」と悔いる。折しも国会で安保関連法制の審議が熱を帯びる中、集まった300人の市民を前に、「戦争という苦しいことがもうない世の中に」と語りかけた。現在98歳と高齢のため、今回が「最後の講演」になるという。<原田要さんの講演要旨> 8月で99歳になる老兵、原田要です。戦闘機の実戦の体験者ですが、70年も前のことで記憶も薄れがちです。 17歳のときに一生をお国のために海軍の一兵卒として使ってもらおうと考えました。それから12年余、いろいろなことがありましたが、私は世界一、非人道的な人間になってしまったのです。その間約10年の航空生活を通じ8000時間余の飛行時間、その私ほど人の命をあやめた人間はいないのです。ソロモン諸島上空を飛行するゼロ戦(Wikimedia Commonsより) 結局は戦争という罪悪のために、こうしたみじめな人間が生まれてくるのです。だから戦争をなくしてほしいと感じるわけです。もうだめだと思ったことが4回ありました。それを皆さんに伝えて、こうした苦しいことがもうない世の中になるようにと最後のお願いにあがりました。 昭和11年にパイロットになり、さっそく中国の南京陥落に関係する作戦で戦闘機に乗りました、ところが中国船に交じっていた米英の船舶を攻撃したことが国際問題になり、下士官にまで及ぶ処分が行われて、私も内地に戻って操縦の指導に当たっていました。 そのうち日米の関係が悪化し昭和16年の秋、海軍の大艦隊はひそかに移動を開始。北に向かうのでいぶかしく思っていましたが数日後の朝、気がつくと周りが雪に覆われた湾に入っていました。エトロフ島でした。赤城、加賀、蒼龍、飛龍、瑞鶴、翔鶴の航空母艦、潜水艦などの大艦隊が集結したのです。戦争を憎み、なくしていくために そして12月8日の真珠湾攻撃に向け艦隊の幹部が作戦室に集められ、「日米交渉が駄目になったら宣戦布告の上、ハワイを攻撃する」と説明があり、艦隊には「いよいよか」の空気が広がりました。真珠湾攻撃の際、私は攻撃隊の小隊長になるつもりでしたが、艦隊の警護に回されたのです。 私は攻撃隊への参加を主張したのですが、「艦隊を守るのも大事だ。これは命令だ」と言われて、380機を超える攻撃機を見送りました。 攻撃から帰ってきたパイロットたちは戦果を語り、戦勝気分で「バンザイ」まで出ていました。ただ、彼らに「真珠湾に空母は何隻いたのか」と聞くと「1隻もいなかった」という返事で、心配でした。結果的にアメリカの空母艦隊は温存されていたわけで、それが戦争の結末につながってしまった。 その後、インドの南、セイロン島ではイギリスの戦闘機ホーカーハリケーンと戦い、私の小隊で5機、全体では100機近い敵機を落としたこともあります。追われた敵機のパイロットは手で「もうやめてくれ」というそぶりをするのですが、それを見逃すと自分がやられる。それが戦争なのです。 オランダの植民地だったスラバヤでも戦闘がありました。ゼロ戦は脅威だったため敵は2~3機で1機のゼロ戦と戦う作戦に出てきました。7・7ミリ機銃と破壊力の大きい20ミリ機銃を使い分けたり、相手がまぶしくなるように太陽を背に攻撃に出るなどさまざまな戦法を駆使しました。ミッドウエー海戦で日本は空母と多くの優秀なパイロットを失いました。そしてガダルカナルで私はアメリカのF4F戦闘機との戦いで左腕に被弾、ヤシ林に突っ込み気を失いました。2日間ほど山中をさまよっていたら、墜落した艦上攻撃機の乗員の佐藤さんという人が顔を血だらけにして歩いて来ました。 一緒にさまよっていると向こうに米兵らしい姿があるので、2人で拳銃を出し構えて行こうとしたら、負傷で左腕の不自由な私が拳銃を右手で用意しているうちにうっかり引き金を踏み、暴発してしまった。その音を聞いた人影が「日本人か」と声をかけてきて、助かりました。海軍の基地だったんです。15~16歳の少年兵たちがいました。  私はその後デング熱にかかったりして40度の高熱を出し、気が付いたらきれいなベッドの上にいた。これは捕虜になったに違いないと思って、ベッドから逃げようとしたら、「兵隊さんどうしました」と声がかかった。日本の看護婦さんでした。 何回も命拾いをしてきました。私は戦争を憎み、なくしていくために語ってきましたが、次の世代の人たちにもそれをお願いしたいのです。(高越良一/ライター)