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    元ゼロ戦パイロット・原田要さん「戦争の罪悪で世界一、非人道的な人間に」

    (THE PAGEより転載) 私ほど人の命をあやめた人間はいない――。元ゼロ戦パイロットで戦争反対を訴え続けている原田要さんは、14日に長野市内で開かれた講演会でこう告白した。「お国のために」と命を投げ出す覚悟で海軍に入ったが、気がついたら「世界一、非人道的な人間になってしまった」と悔いる。折しも国会で安保関連法制の審議が熱を帯びる中、集まった300人の市民を前に、「戦争という苦しいことがもうない世の中に」と語りかけた。現在98歳と高齢のため、今回が「最後の講演」になるという。<原田要さんの講演要旨> 8月で99歳になる老兵、原田要です。戦闘機の実戦の体験者ですが、70年も前のことで記憶も薄れがちです。 17歳のときに一生をお国のために海軍の一兵卒として使ってもらおうと考えました。それから12年余、いろいろなことがありましたが、私は世界一、非人道的な人間になってしまったのです。その間約10年の航空生活を通じ8000時間余の飛行時間、その私ほど人の命をあやめた人間はいないのです。ソロモン諸島上空を飛行するゼロ戦(Wikimedia Commonsより) 結局は戦争という罪悪のために、こうしたみじめな人間が生まれてくるのです。だから戦争をなくしてほしいと感じるわけです。もうだめだと思ったことが4回ありました。それを皆さんに伝えて、こうした苦しいことがもうない世の中になるようにと最後のお願いにあがりました。 昭和11年にパイロットになり、さっそく中国の南京陥落に関係する作戦で戦闘機に乗りました、ところが中国船に交じっていた米英の船舶を攻撃したことが国際問題になり、下士官にまで及ぶ処分が行われて、私も内地に戻って操縦の指導に当たっていました。 そのうち日米の関係が悪化し昭和16年の秋、海軍の大艦隊はひそかに移動を開始。北に向かうのでいぶかしく思っていましたが数日後の朝、気がつくと周りが雪に覆われた湾に入っていました。エトロフ島でした。赤城、加賀、蒼龍、飛龍、瑞鶴、翔鶴の航空母艦、潜水艦などの大艦隊が集結したのです。戦争を憎み、なくしていくために そして12月8日の真珠湾攻撃に向け艦隊の幹部が作戦室に集められ、「日米交渉が駄目になったら宣戦布告の上、ハワイを攻撃する」と説明があり、艦隊には「いよいよか」の空気が広がりました。真珠湾攻撃の際、私は攻撃隊の小隊長になるつもりでしたが、艦隊の警護に回されたのです。 私は攻撃隊への参加を主張したのですが、「艦隊を守るのも大事だ。これは命令だ」と言われて、380機を超える攻撃機を見送りました。 攻撃から帰ってきたパイロットたちは戦果を語り、戦勝気分で「バンザイ」まで出ていました。ただ、彼らに「真珠湾に空母は何隻いたのか」と聞くと「1隻もいなかった」という返事で、心配でした。結果的にアメリカの空母艦隊は温存されていたわけで、それが戦争の結末につながってしまった。 その後、インドの南、セイロン島ではイギリスの戦闘機ホーカーハリケーンと戦い、私の小隊で5機、全体では100機近い敵機を落としたこともあります。追われた敵機のパイロットは手で「もうやめてくれ」というそぶりをするのですが、それを見逃すと自分がやられる。それが戦争なのです。 オランダの植民地だったスラバヤでも戦闘がありました。ゼロ戦は脅威だったため敵は2~3機で1機のゼロ戦と戦う作戦に出てきました。7・7ミリ機銃と破壊力の大きい20ミリ機銃を使い分けたり、相手がまぶしくなるように太陽を背に攻撃に出るなどさまざまな戦法を駆使しました。ミッドウエー海戦で日本は空母と多くの優秀なパイロットを失いました。そしてガダルカナルで私はアメリカのF4F戦闘機との戦いで左腕に被弾、ヤシ林に突っ込み気を失いました。2日間ほど山中をさまよっていたら、墜落した艦上攻撃機の乗員の佐藤さんという人が顔を血だらけにして歩いて来ました。 一緒にさまよっていると向こうに米兵らしい姿があるので、2人で拳銃を出し構えて行こうとしたら、負傷で左腕の不自由な私が拳銃を右手で用意しているうちにうっかり引き金を踏み、暴発してしまった。その音を聞いた人影が「日本人か」と声をかけてきて、助かりました。海軍の基地だったんです。15~16歳の少年兵たちがいました。  私はその後デング熱にかかったりして40度の高熱を出し、気が付いたらきれいなベッドの上にいた。これは捕虜になったに違いないと思って、ベッドから逃げようとしたら、「兵隊さんどうしました」と声がかかった。日本の看護婦さんでした。 何回も命拾いをしてきました。私は戦争を憎み、なくしていくために語ってきましたが、次の世代の人たちにもそれをお願いしたいのです。(高越良一/ライター)

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    中国は山本五十六の苦悩を知っているか? 真珠湾攻撃とその教訓

    小谷哲男 (日本国際問題研究所 主任研究員) 真珠湾攻撃から74年が過ぎた。筆者は、2年前の12月7日にパールハーバーで開かれた真珠湾攻撃記念式典に出席する機会に恵まれた。第二次世界大戦中のプロペラ機の上空飛行、軍艦の閲覧航行が行われたのに続き、日本人僧侶が「平和の祈り」を捧げるなど、かつての敵意を感じさせることなく厳かな雰囲気の中で式は進んでいった。式典を通じて、「PHS(Pearl Harbor Survivors:真珠湾攻撃の生存者)」への賞賛、犠牲者への哀悼、そして日米の和解が強調されていると感じた。 日本による「だまし討ち」が批判されることもなかった。式典で海軍を代表して演説をした日系のハリー・ハリス米太平洋艦隊司令官(現・米太平洋軍司令官)は、父が真珠湾攻撃の生存者で、母の神戸の実家が米軍の空襲に焼かれたという複雑な事情を語るとともに、真珠湾を忘れず、いつでも警戒を怠らず、戦えば勝つという強いメッセージを送った。ハリス司令官の念頭にあったのは、日本との過去の戦争ではなく、中国との将来の対立だったはずだ。接近阻止(A2)、敵を殲滅(AD) 近年、米軍は中国のアクセス(接近)阻止・領域拒否(A2/AD)戦略に警戒を高めている。A2とはある場所に敵が接近することを阻止することで、ADとはある場所にいる敵を殲滅することだ。中国は主に潜水艦と精密誘導ミサイル、そしてサイバー攻撃と衛星攻撃によって、沖縄や東シナ海・南シナ海にいる米軍の排除を目指すとともに、グアムやハワイ、アメリカ本土からやってくる米軍の来援部隊の接近を西太平洋上で阻止しようとしている。 その背景には、アヘン戦争以来中国が海から列強の侵略を受けてきた「屈辱」を繰り返さないという決意がある。より直接的には、1996年の台湾海峡危機で米国が空母2隻を派遣し、手も足も出なかったことをきっかけに、中国はA2/ADに本格的に力を入れ始めた。なお、中国ではA2/ADではなく「介入阻止」戦略と呼ばれる。 米軍はこの中国のA2/ADに対抗するため、エアシーバトル(ASB)という海空戦力のより効率的な一体化を目指す作戦概念の検討を始めた。その後、ASBは陸上戦力の役割が不明確と批判されたため、「グローバルコモンズへのアクセスおよび運用のための統合概念(Joint Concept for Access and Maneuver in the Global Commons(JAM-GC))」へと変更された。このJAM-GCの下で、米軍は陸海空という従来の戦闘空間に加え、サイバー・宇宙空間における行動の自由を確保し、A2/ADを克服することを目指している。A2/ADだった第3次「帝国国防方針」 米軍がA2/ADの挑戦に直面するのはこれが初めてではない。アジア太平洋戦争で日本が取った要撃作戦は、まさに今でいうA2/ADだった。1936年に改定された第3次「帝国国防方針」は、日本が対米開戦に踏み切ったときに作戦計画の元となった。その中では、「東洋に在る敵を撃滅しその活動の根拠を覆し、かつ本国方面より来航する敵艦隊の主力を撃滅すること」が初期の目的となっていた。具体的には、海軍は作戦当初東アジアにいる敵艦隊を排除し、陸軍と協力してフィリピンとグアムを攻略することが想定されていた。日本に接近してくるアメリカの主力艦隊に対しては、潜水艦と南太平洋の南洋群島に展開する航空機で奇襲攻撃を繰り返して、消耗しきった敵艦隊を日本近海で迎撃するとされた、先制と奇襲を前提とする短期決戦の発想で、ADの後にA2が想定されていた。対米A2/ADが不可能と知っていた連合艦隊司令長官 しかし、山本五十六連合艦隊司令長官は、このようなAD重視の作戦がアメリカに通じないことを誰よりも理解していた。ADである南方作戦が成功しても、帝国海軍が相当の損害を被ることは不可避で、そのような状態でA2としての対米要撃作戦は不可能だった。当初南方作戦を重視していた海軍は南方作戦と対米作戦は切り離せると考えていたが、それは三国同盟で日本がドイツと手を結んだ後では不可能だった。山本はアメリカの総合的な国力を目の当たりにし、対米戦争に勝ち目がないことを十分認識していた。海軍次官として、山本は大局的観点から三国同盟に強く反対した。しかし、連合艦隊司令長官という立場に立った山本には、勝てない戦争に勝つことが求められた。このため、山本は職を賭してまで捨て身の真珠湾攻撃を立案することになった。山本は不決断のハムレットではなかった 1940年5月、アメリカは太平洋艦隊の主力を真珠湾に常駐させるようになった。日本の南進を牽制するためだった。しかし、日本にこれを奇襲できる航空戦力さえあれば、アメリカの出鼻をくじき、日本が圧倒的に不利な消耗戦を回避し、より有利な条件で早期対米講和に持ち込めるかもしれないと山本は考えた。山本はかねてから航空戦力の重要性を見抜き、帝国海軍の航空戦力を世界レベルにまで引き上げていた。当時の技術では、水深の浅い真珠湾で攻撃力の高い魚雷攻撃を行うことも不可能と考えられていたが、山本はこれを高度の技術開発と激しい訓練によって可能とした。 真珠湾攻撃は正攻法では勝てないが故の奇襲作戦だった。日米交渉が決裂し、12月2日の御前会議で開戦決定がなされた時、連合艦隊はすでにハワイに向けて北太平洋を進んでいた。山本は奇襲作戦を成功させるため、徹底した情報統制を行った。北太平洋を航行中に商船とすれ違うこともなく、天候にも見舞われた。米側の警戒に緩みがあるなど幸運が続き、真珠湾攻撃は大きな抵抗もなく実行に移された。結果は、戦艦5隻の撃沈を含む日本側の一方的な勝利に終わった。ただ、主目標だった米空母は真珠湾にいなかった。 昭和16年12月8日のハワイ真珠湾攻撃に参戦した航空母艦「加賀」の元乗組員(写真班長)、藤井保雄さん=徳島県阿波郡市場町=が公開した「炎上する米軍施設」の写真。「加賀」は17年6月、ミッドウェー海戦で米海軍に撃沈されたため、大半の写真は兵士とともに海に沈んだという。(共同)  日本は南方作戦でも攻勢を続け、短期間で広大な勢力圏を築いた。しかし、アメリカの空母機動部隊が無傷だったため、アメリカは爆撃機を空母から飛ばして日本本土を空爆し、そのまま中国大陸に着陸させたため(ドーリットル空襲)、アメリカの空母機動部隊を叩き、更なる空爆を防ぐためミッドウェー海戦が急がれた。だが、結果としてミッドウェー海戦で日本は虎の子の空母と艦載機、そして何より熟練パイロットの多くを失い、以後守勢に転じることになった。 真珠湾攻撃は戦術的には成功だったが、A2としては失敗だった。戦略としては致命的だった。結果としてアメリカは第二次世界大戦に参戦し、ドイツを降伏に追いやった後は総力を挙げて日本との戦いに力を注いだからだ。アメリカはA2には屈せず、むしろアジアへのアクセスを確保していった。1度はフィリピンを放棄したが、南太平洋の島々を1つまた1つと日本から奪い、それらを拠点とする航空機と潜水艦で日本と南方の資源地帯を結ぶ補給線を断ち、日本への通商破壊を行った。マリアナが陥落して日本本土への空爆が始まり、レイテ沖海戦で帝国海軍が事実上消滅した時に、日本は敗北した。ただし、敗北という軍事的現実を降伏という政治的決断に移すには、2度の原爆投下とソ連の参戦という外圧が必要だった。山本は不決断のハムレットではなかった 国家の下した決断が誤っている時に、われわれはどう対応すればいいのだろうか。国家の決定に従うのか、それとも抵抗するのか。そのジレンマに引き裂かれながらも、山本は不決断のハムレットではなかった、と歴史家の五百旗頭真教授は指摘する。皮肉なことに、対米戦に最も反対していた山本は、軍人として無謀ともいえる奇襲作戦を成功させ、その火ぶたを切ることになった。そして、結果として国家は滅亡の手前まで追い込まれた。山本がいなければ、真珠湾攻撃は成立せず、日米間の戦争はもっと違ったものになっていただろう。 国家は判断を誤る。それは人類の歴史を通じて繰り返されてきたことだ。中国が軍拡を続け、A2/AD能力を高めても、東シナ海や南シナ海の緊張が高まっても、経済的相互依存のため中国との戦争は起こらないという楽観的な議論が一部で横行している。しかし、戦前の日米間には深い経済関係があったにも関わらず戦争は避けられなかった。われわれは、国家が合理的ではない判断を下す可能性があることを常に念頭に置いておかなければならない。 戦後70年を迎え、日米は強固な同盟関係を維持し、中国のA2/ADの挑戦に立ち向かおうとしている。今後の日米同盟の課題は、中国への建設的な関与を続けながらも、有事に備え、米軍のJAM-GCと自衛隊の統合機動防衛力を融合してすべての戦闘領域で行動の自由とアクセスを確保していくことだ。JAM-GCは、緒戦の段階では米軍を前線から一定の距離まで下げ、長距離攻撃を行うことを想定している。その後アクセスを確保しつつ前線に戻ることになる。しかし、自衛隊には後方に下がる余裕はない。日本の防衛のため自衛隊は前線に留まり、米軍の前線へのアクセスを確保しなければならない。この現実をわれわれは直視した上で、現実的な安全保障の議論を積み重ねて行く必要がある。

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    日本の真珠湾攻撃情報は 「007」から「FBI」に伝えられていた

    岡部伸(産経新聞ロンドン支局長)攻撃を示唆する「質問表」 日本が真珠湾を攻撃して日米が開戦してから十二月八日で七十四年になる。 真珠湾攻撃の報を聞いた英国の首相、チャーチルは日記に、「これで我が国は救われた気分になり、感謝に満ちた心でグッスリ眠った」と書いている。〈十七カ月の孤独の戦いと恐るべき緊張の後、真珠湾攻撃によって我々は勝ったのだ。イギリス連邦とイギリス帝国は生き残るだろう。我々英国の歴史が終わりはしない。ヒトラーの運命は決まった。日本人に至っては微塵に打ち砕かれるであろう〉 米国の本格参戦で勝利を確信したチャーチルが驚きよりも感謝して安眠したのは、まるで日本の真珠湾攻撃を察知していたかの如き反応だった。日本の最高機密だった真珠湾攻撃情報をチャーチルは知っていた──。そんな疑念が戦後七十年を経過した今日、広がっている。日本軍の“奇襲”に炎上する真珠湾の米軍基地 ロンドン郊外キューガーデンにある英国立公文書館には英国が真珠湾攻撃の兆しをんでいたと推察される機密文書があった。英国内での外国スパイや共産主義者らの摘発などカウンター・インテリジェンス(防諜)を行う内務省管轄の情報機関、MI5(情報局保安部)の防諜担当部署、セクションBのトップ、ガイ・リッデル副長官が著した日記に大戦中、暗躍した英独の二重スパイが日本軍による真珠湾攻撃の可能性を事前に察知し、MI5が把握していたと見られる記述があったからだ。 真珠湾攻撃から九日後の日記に、二重スパイが奇襲四カ月前にドイツ側から真珠湾と米艦隊などを偵察するように指示された「質問表」(調査リスト)を「われわれ(MI5)は所有している」と記していた。これはMI5が日本軍による真珠湾攻撃の可能性を示唆する秘密情報を得ていたと解釈できる。二重スパイは回顧録で、米FBIにも真珠湾奇襲情報を伝えたが、ジョン・フーバー長官が握り潰したと告白している。五人の二重スパイ まずは連合国を勝利に導いた英国の「ダブル・クロス」(二重スパイ)制度について紹介したい。 第二次大戦の帰趨を決した連合国軍の「ノルマンディー上陸作戦」成功の背後には「フォーティチュード作戦」と名付けられた史上最大の欺瞞作戦があったことはあまり知られていない。ドイツのスパイを二重スパイに変える「ダブル・クロス・システム」で英国のスパイになった五人の二重スパイが上陸目標地点を英本土から最も近いパ・ド・カレー地方との偽情報をベルリンに送り、ドイツ軍をカレー地方に足止めさせる策略だった。 英国のインテリジェンスに通暁した元タイムズ紙コラムニストでノンフィクション作家のベン・マッキンタイアーによると、英国に存在した全てのドイツのスパイ(約三十九人)を二重スパイに仕立て上げ、ドイツに対して戦略的に欺瞞情報を送り続ける作戦は、MI5(情報局保安部)の防諜部門、セクションBの将校・通称「ター」ことトミー・アーガイル・ロバートソンが発案し、彼をリーダーにスタートした。第二次大戦でナチス・ドイツが初めて大敗を喫する「バトル・オブ・ブリテン」が始まった一九四〇年九月ごろのことである。 そして翌四一年一月には、その活動を監督、調整する極秘組織として二十(XX)委員会が設立され、委員長にはオックスフォード大学の歴史家、ジョン・マスターマン卿が就任する。委員会は陸、海、空軍の各情報部の部長と、MI5、英外務省管轄の通称「MI6」、秘密情報部(SIS)、本国部隊及び本土防衛隊の各代表で構成され、毎週木曜日にMI5本部で会合を開き、二重スパイを活用する戦略や敵側に与える餌(少しだけの無害で真実を確認できない偽情報)を、総力をあげて練り上げた。「チキン・フィード」と呼ばれた敵に流す偽情報の「餌」を国家総出で考案して諜報戦に臨んだところにインテリジェンス大国の真髄がみてとれる。それは大戦の勃興期から始まり、終戦まで続けられた。ボンドのモデル「トライシクル」「エニグマ」解読 英国の「ダブル・クロス・システム」が奏功した要因の一つに、バッキンガムシャーにあるイギリスの暗号解読センター(政府暗号学校)、ブレッチリ―・パークの暗号分析官たちがドイツなど敵側のスパイの無線通信を傍受、暗号を解読して敵スパイの動向をつぶさに把握したことがあった。難攻不落と言われたドイツの暗号機「エニグマ」を数学者のアラン・チューリングらによって解読に成功したことは、第二次大戦だけではなく、あらゆる情報戦において最大の勝利を導いた。ベルリンと各地のアプヴェール(国防軍情報部)支部との無線通信を傍受出来るようになり、イギリス軍は一九四〇年末からドイツが無条件降伏するまでドイツ軍の情報作戦を最初から最後まで追跡し、情報に基づき計画を立てることが出来た。つまり英国にとって敵側スパイはブレッチリー・パークの解読班によって「丸裸」にされていたのだ。このため英国に送り込まれた敵側スパイの多くは身柄を拘束され、尋問の末に二重スパイとなったという。 史上最大の欺瞞作戦の中核となった二重スパイは、遊び好きで両性愛者のペルー人女性「ブロンクス」、ポーランド軍の小柄な戦闘機パイロット「ブルータス」、移り気なフランス人女性「トレジャー」、養鶏学の学位を持つ変わり者のスペイン人「ガルボ」、そしてセルビア人のプレイボーイ「トライシクル」(三輪車)の五人だった。ボンドのモデル「トライシクル」 しかし、「トライシクル」ことポポフほどキャラが立つ傑出したスパイはいなかった。映画「007」の原作者であるイアン・フレミングが華麗なるスパイ、ジェームズ・ボンドのモデルとしてイメージを膨らませた人物である。実際に英国海軍情報部に勤務したフレミングはポポフの監視役で、リスボンのカジノで大金をかけて大立ち回りをしたポポフの「活躍」を処女作、『カジノ・ロワイヤル』で活写している。 金銭と女性と車とパーティ、ギャンブルを一度に楽しむ長身でハンサムなプレイボーイ。「トライシクル」(三輪車)のコードネームがついたのは大きな車輪(ポポフ)と小さな車輪二つ(二人の工作員)で活動、「部下二人雇って三人で情報収集した」からとも、「ベッドで女性二人を侍らせる」精力絶倫からとも言われている。ちなみにドイツ側では「イヴァン」の暗号で呼ばれていた。トライシクルことポポフ バルカン半島のドブロブニクの裕福な実業家に生まれたポポフは、ドイツ南部のフライスブルグ大学を卒業後、弁護士となった。ところがドイツがポーランドに電撃侵攻して第二次大戦が勃発すると、一九四〇年初め、大学の親友だった大きな海運会社の跡取り息子に勧誘され、中立国ポルトガルのリスボンでドイツのアプヴェール(国防軍情報部)のスパイとなった。 アプヴェールの一員となれば、兵役を免除されることも大きかった。表向きはロンドンとリスボンを往復するセルビア人貿易商として情報活動を始める。しかし、ポポフはナチズムに強い嫌悪感を持っていた。そこで、そのことをユーゴスラビアのMI6責任者に打ち明け、ロンドンの高級ホテル「サボイ」でMI5のロバートソンに会い、彼が率いるセクションB1A所属のスパイになる。ドイツのスパイをやりながら、イギリスに情報を流す二重スパイである。ドイツの空襲が激しかった四〇年十二月のことであった。 『英国二重スパイ・システム』(ベン・マッキンタイアー)によると、尋問に包み隠さず真実を答えたポポフの反ナチの信念と冒険を求める強い想いに感激したロバートソンは、知り合って四日後に、「のんきな態度のセルビア人青年は二心がなく、命を懸ける覚悟が出来ている」と確信し、「我々は掘り出し物を見つけたのだと強く感じている」と書き記している。また前出・二十委員会委員長のジョン・マスターマン卿は、ポポフに、「ダブル・クロス」(二重スパイ)の選手の中でも非凡な才能を持つ(クリケットの)一番打者になれる可能性を見出したと思っていたという。 四一年一月にリスボンにポポフを送りだしたロバートソンは、「彼(ポポフ)は、高い資質を持った新たな工作員になれる素質があると思う」と報告し、ポポフは人間的魅力だけで身を守れるだろうと確信していた。MI5副長官の悔恨 ポポフは、当初からイギリス当局に人間的に信用され、有益な情報をもたらす優秀な二重スパイとみなされたことがうかがえる。MI5が終戦までポポフの英国への忠誠心とインテリジェンス内容に信を置いていたことは間違いない。いかにポポフに浪費癖があってもMI5はその莫大な経費を工面した。後に米国で娯楽や社交に使った総額八万六千ドルもの借金も肩代わりしている。インテリジェンスの世界では、現場で情報を集めることと同時に前線から送られてくる情報の価値を正しく判断する中枢の分析が肝要である。MI5では信頼したポポフ情報を最大限に評価して国策に生かしたのである。 その最大の功績がノルマンディー上陸作戦を支えた欺瞞作戦であった。ダブル・クロス委員会では大戦中にドイツ側スパイ三十九人を「転向」させてイギリス側の二重スパイとして戦略的にドイツに偽情報を送り、ドイツ軍を混乱させたが、中でも最も優秀な五人がDデイ作戦を成功させ連合軍の勝利に導いた。とりわけ傑出していたのがポポフだった。 このほかポポフは①ドイツのロケット開発と攻撃状況をイギリスに伝えた、②ドイツが超高細密の印刷技術を使って開発した極秘連絡手段「マイクロドット」を英米両国にいち早く知らせた──などの功績があった。このためポポフは大戦終了時に英国国籍を得たほか、戦後、秘かに名門ホテル「リッツ」でイギリス王室から叙勲の栄誉に浴している。英国に忠誠を尽くした見返りだった。ドイツから七億円 ドイツから活動資金を引き出し、MI5の資金とする「ミダス計画」は二重スパイとしてポポフが英国に貢献した真骨頂であった。ミダスとは、ギリシャ神話に登場する王で、手に触れるものすべてが金に変わったといわれる。この神話を参考にして、ポポフはドイツ側からの信用を背景に英国内でのエージェントへの活動資金を名目に大量の資金をドイツ側から調達してMI5に提供したものだった。 英国のインテリジェンス研究家、マッキンタイヤーは「ミダス計画は、大戦中で最も利益を上げながら最も知られていない作戦の一つになった。ポポフは手数料として一〇%を取って英国での諜報活動に資金提供されることにドイツ側は大喜びした」と『英国二重スパイ・システム』で書いている。これで「ダブル・クロス・システム」は資金調達の心配がなくなり、利益があがるようになった。二十委員会委員長のジョン・マスターマン卿は、「ドイツ側が、彼らの組織であり我々の組織でもある集団に一九四〇年から一九四五年の間に供給した資金は、当時の額で八万五千ポンドほどであった」と述べている。これは現在の価値で四百五十万ポンド以上(日本円で約七億円)に当たる。MI5副長官の悔恨 日本にとって最も重要なのは、ポポフが真珠湾攻撃情報を得て報告していたことだ。ポポフは真珠湾攻撃の四カ月前の一九四一年八月、ドイツのスパイとして米国に派遣される際、ドイツから渡された「質問表」の中で、枢軸側が真珠湾に大きな関心を持っていることを把握し、親友のイプセンから得た情報と重ね合わせ、日本軍が真珠湾攻撃に踏み切る可能性があることをんだ。これを米FBI(連邦捜査局)に伝えたものの、フーバー長官は信用せず、個人的に握りつぶしたと回想録『スパイ/カウンタースパイ』に著している。ところが、報告を受けたMI5は逆にポポフ情報を信用していたことをうかがわせる秘密文書が英国立公文書館にあった。 MI5の防諜担当部署、セクションBのトップ、ガイ・リッデル副長官は内気で、チェロを弾くのが趣味の「スパイ・ハンター」だった。リッデル副長官は大戦前から膨大な日記を残しており、そこには秘密機関MI5が大戦中に展開した情報活動の実態が赤裸々に描かれている。その原文が英国立公文書館で秘密解除されている。リッデル副長官は、真珠湾攻撃から九日後の一九四一年十二月十七日の日記(KV4/189)に『トライシクルの質問表』という形で「真珠湾情報」について記していた。トライシクルの質問票〈『トライシクルの質問表』は今、われわれ(MI5)の手元にある。これは八月にドイツ人たちが真珠湾について特別に関心を示し、可能な限りのあらゆる情報を入手したがっていたことを極めて明瞭に示している〉 ポポフがドイツの情報機関から米国に派遣される際、渡された「トライシクルの質問表」(調査リスト)には真珠湾の軍施設、米艦隊の状況を偵察する指示があった。それが真珠湾攻撃九日後、「今、われわれ(MI5)の手元にある」と書いているのだ。回顧録『スパイ/カウンタースパイ』でポポフは英国側に質問表を渡し、ドイツ(日本)による真珠湾奇襲の警告を発したと書いている。 リッデル副長官が真珠湾攻撃から九日後の日記に「トライシクルの質問表」を持っていると書いたのは、ポポフの証言通り、警告の意を含んだ「質問表」がMI5に伝えられて組織内で情報共有されていたことを示している。「われわれの手元にある」というのは、MI5が国家の命運を左右する貴重なインテリジェンスとして評価していたことを意味している。 では、「質問表」とは一体何であろうか。『スパイ/カウンタースパイ』によると、「トライシクルの質問表」は、ポポフが四一年七月、ポルトガルのリスボンでドイツ側のコントローラーであるアプヴェール(国防軍情報部)のリスボン支部長、フォン・カルストホーフから「米国でスパイ網を組織せよ」との指令を受け、渡された調査リストだった。三つの質問項目三つの質問項目 大戦中、中立を守り通したポルトガルの首都リスボンは、連合国、枢軸国両陣営のスパイが入り乱れ、諜報戦のメッカだった。貿易商として頻繁にリスボンとロンドンを往復したポポフは、リスボンではカルストホーフの指示を受けていた。 ユーゴスラビア情報省代表として渡米するため、飛行機の空席待ちで待機していた四一年七月のことである。別荘でカルストホーフからマニラ紙で出来た何枚かの書類を見せられた。それが、「質問表」で、最初の一節は〈海軍情報〉という見出しで始まり、アメリカとカナダが海外へ派遣する部隊に関する質問だった。そして二番目の見出しが〈ハワイ〉で、真珠湾のあるオアフ島の弾薬庫と機雷貯蔵庫を始め米軍施設や米艦隊など真珠湾に関する詳細な質問項目が記されていた。 英国立公文書館には、ポポフの個人ファイル(KV2/849)の中に四一年八月二十三日付で、MI5でポポフの上司、ロバートソンがイギリス陸軍総司令部のホッグ大佐あてに「パールハーバー 質問表」と題して送った「質問表」のドイツ語原文と英訳した機密文書の原本が保存されている。これは少なくとも八月二十三日の段階でMI5は「質問表」にある調査事項からドイツ(日本を含む枢軸側)が真珠湾に関心を持っていたことを察知していた事実を示している。 最初は「海軍情報」で二番目から真珠湾関連の質問項目が記されている。五つある質問項目のうち真珠湾に関する質問項目は「ハワイ」「飛行場」「海軍基地パールハーバー」の三つで、次の通りだ。 ●ハワイ:弾薬集積場、機雷貯蔵所一、 海軍の弾薬集積場と機雷貯蔵所、パールハーバーのクシュア島にあり、その詳細。できればスケッチせよ。二、 ルアルレイの海軍弾薬集積場の正確な位置、鉄道の有無。三、 陸軍の主弾薬集積場はクレーター・アリアマスの岩場にあると思われるが、その位置は。四、 クレーター・パンチボールは、弾薬集積場として使われているか、もしそうでなければ、陸軍の集積場はどこか。●飛行場:一、ルケフィールド飛行場──詳細(できればスケッチを)、格納庫の状況と数、作業所、爆弾貯蔵所、燃料貯蔵所に関して、地下燃料施設はあるか。水上機基地の正確な位置。二、 海軍航空基地カネオヘ(前項とほぼ同じ)三、 陸軍ウイッカム飛行場とホイーラー飛行場(前項とほぼ同じ)四、 ロジャー空港─戦時、陸軍か海軍によって使用されるのか、いかなる準備がされつつあるか。格納庫の数、水上機の着陸の可能性について?五、 パンアメリカン航空の空港─正確な位置(可能ならばスケッチ)、ここは、ロジャー空港と同一のところか、それともその一部か(パンアメリカン航空の無線基地はモハブウ岬にあるが)●海軍基地パールハーバー:一、大埠頭、桟橋の施設、作業場、燃料施設の状況、第一乾ドックと新しく建設中の乾ドックの状況、それぞれの詳細とスケッチ二、潜水艦基地の詳細、どんな地上施設があるか三、機雷探知機の基地はどこか。入口と東部および南東部の水門の浚渫作業はどのくらい進んでいるか。水深はどのくらいか四、投錨地の数は五、パールハーバーに浮きドックはあるか、浮きドックを移動する計画はあるか「質問表」は真珠湾の米軍施設を詳細に調査する内容だが、空襲が計画されたり、日本軍の奇襲が迫っていたりすることも示唆していない。日本から依頼されたことも明記されていない。ただ単にドイツ側が真珠湾に強い関心を示していたことを示すだけで、米太平洋艦隊の司令部があったハワイの真珠湾に枢軸側が興味を持ったとしても不自然ではなく、「質問表」が真珠湾攻撃の兆しとして日本の奇襲計画情報を米国に伝えたというポポフの主張は信頼性に欠けるとの見方もあった。 しかし、二十委員会でポポフら二重スパイを統括したジョン・マスターマン卿は、回顧録『二重スパイ化作戦』の中で、こう記している。〈トライシクルのアメリカへの質問表には……その後起こった真珠湾奇襲に対する、地味だが見過ごされた警告があった。(中略)彼は(ドイツ側に)非常に信頼されていたので、彼らのために大規模なスパイ網を張るべく、渡米することになった。(中略)やっと八月十日に、一連のピリオド(マイクロドット)に隠された質問表を携えてアメリカに向かった。八月十九日、われわれはMI6から質問表のコピーを受け取ったが、この質問表は、二十委員会の席上で読まれ、その英文に直したものは国家機関の職員たちに送られた。ピリオドは写真に撮られ、米FBIの手によって拡大されたことは記憶にとどめられよう。したがって、FBIは、質問表にあった情報はすべて所持していたのである〉 マスターマン卿も、ポポフの「質問表」情報を「警告」と評価し、それがFBIに渡されていたことを認めていた。英海軍のタラント奇襲英海軍のタラント奇襲 ポポフが日本の真珠湾攻撃の可能性を確信したのは「質問表」に加えてアプヴェールの同僚、イプセンからの情報があった。イプセンから四〇年十一月、イギリス海軍が航空機でイタリア南部の軍港タラントを奇襲した攻撃手法に日本が関心を持ち、日本の依頼でイプセンがタラントを現地調査したことを聞いていた。またドイツの日本専門家で東京駐在の空軍武官だったグロノー男爵もタラントを訪れ、日本は石油備蓄量の関係から、四一年末までには米国と戦争状態になる、と予想したことをイブセンから聞いていた。 さらにポポフは「オアフ島に関することは、ドイツのアジアの同盟国(日本)のためのものに違いありませんね」と尋ねると、ドイツのフォン・カルストホーフは、「誰でもそう思うだろうな」と答えたと回想録に記している。 こうしたことからポポフは日本がタラント海戦に倣って真珠湾を攻撃すると推測した。そこで、この情報をロンドンに送り、渡米して自らの見解を添えて伝えることになった。 アメリカは一日、ドイツ、日本など侵略国とみなす国への石油輸出を全面禁止し、七月二十五日には在米の日本資産を凍結していた。着々と開戦準備を進め始めていたのだ。二重スパイ嫌いのFBI長官 八月十日、渡米したポポフには試練が待っていた。独断的で強引なフーバー長官の下、FBIは防諜活動に全く異なる対応をしていたからだ。歓迎ではなく「二重スパイ」に対する不信と嫌悪の眼だった。FBIのニューヨーク支部長、フォックスワースと面会し、「質問表」にイプセンの情報を交えて「日本が今年末までに真珠湾を奇襲する可能性がある」と報告したが、FBIのニューヨーク支部長は、「あまりにも正確すぎて、すぐ信じるわけにはいかない。フーバー長官の特別指示を仰がねばならない」とだけ答えた。一方、「質問表」は書類のほかドイツが超高細密の印刷技術を使って開発した極秘の連絡手段「マイクロドット」として手渡された。高倍率の顕微鏡で覗いたFBIの係官らは驚いた。見ると、微細な文字が判明する仕組みだった。ポポフは連合国のスパイとして初めてドイツの革命的なスパイ技術を知り、英米に伝えた。シモーヌ・シモン しかし、フーバー長官は、ポポフに冷淡だった。面談を拒否したあげくポポフに終始、尾行をつけ、真珠湾を調査するためのハワイ行きも認めなかった。FBIから疎んじられ、積極的な諜報活動も一切出来なかったので、ポポフは後世語り継がれる『グレート・ギャツビー』を想起させる豪勢な「どんちゃん騒ぎ」を全米で行った。 英国人女優とフロリダを旅行。高級ホテル「ウォルドーフ・アストリアホテル」からパーク・アヴェニューの高級アパートのペントハウスに居を構え、ロング・アイランドの高級住宅地に夏の別荘を持ち、ビュイックの赤のコンヴァーチブルを乗り回し、旧知のフランス人のハリウッド女優、シモーヌ・シモンと同棲する豪奢な生活を送った。度が過ぎた出費を注意されてもポポフは「私には裕福な道楽者という仮面を維持する必要がある」と馬耳東風だった。このことがフーバー長官には気に入らなかった。 九月半ば、フーバー長官は、ニューヨーク支部にポポフを呼んで、「どこかから来て六週間もたたないうちに、パーク・アヴェニューのペントハウスに住みつき、映画スターを追いかけまわし、重大な法律を破った。もう我慢がならん」と罵声を浴びせた。ポポフが「私は、いつ、どこで、どのように、誰があなたの国を攻撃するかについて、正確で重大な警告を持って来ました」と反論したが、フーバー長官は、「君ら二重スパイはみな同じだ。ドイツの仲間に売る情報が欲しいだけだろう。それで大金を稼いで、プレイボーイになる」と一喝し、ポポフの「真珠湾」情報を一顧だにしなかった。「開戦前夜」日本を把握「開戦前夜」日本を把握 渡米するためポポフがリスボンに渡ったのは四一年六月。この頃、イギリスでは極東の植民地を脅かす仮想敵国、日本の動向に警戒を強めていた。リッデル日記(KV4/188)にもそのことが記載されている。 ドイツがソ連に侵攻したのは六月二十二日だが、その約二週間前の六月六日付で、「ドイツはロシア国境に軍を集中させ、侵攻の準備を進めている。日本も、それに続く兆候がある。イギリス国内でほぼ全ての日本の企業が国外退去を始めている」と記載し、MI5がドイツのソ連侵攻と共に同盟国日本が戦争に加わる兆候を嗅ぎ取っている。 さらに六月九日付では、英国のアジア植民地を脅かす日本の行動も記している。〈シンガポール支部から(マレー作戦に向けて活発化させている)日本の(諜報)活動を十分カバーできないとの不満が寄せられている。急遽、オフィサーを派遣する指示を出した〉 日本がマレー半島で侵攻作戦に向けたインテリジェンス活動を積極的に進めていることを把握しながら、対処できないもどかしさを吐露している。 さらに七月二十八日、日本が日米関係に決定的な亀裂をもたらし、開戦不可避となる南部仏印進駐を始めると、七月二十五日付で「日本はインドシナの占領を始める」と書いている。翌二十六日には、「リスボンのエージェントは日本の公使から、『日本が(石油を狙って)オランダ領東インド(現在のインドネシア)侵攻を検討している』ことを聞きだした」と記しており、日本が資源確保のため東南アジアに進攻する計画を英国が早い段階でんでいたことがわかる。 十二月に入ると、一日付で、「日本は領事館の電話線を切った。一般市民を含む日本人を抑留する協議をした」「もしも日本が宣戦布告すれば、東京から各国大使館に暗号無線で知らせるだろう。BBCが注視している」「在ロンドン日本大使館は暗号機の解体を指示した」などと記している。経済制裁などで追い込んだ日本が宣戦布告せざるを得ないことを予測していたとも受け取れる。MI5は対日戦が間近に迫っていることを明確にんでいたことは間違いないだろう。 六日付では、「アメリカは日本がタイを攻略(マレー作戦)すれば、完全にサポートすることに同意した。日本の軍艦に護送された輸送船がタイに向かっている。侵攻(マレー作戦)は差し迫っている」と記している。二日後に控えたマレー作戦開始の動きをリアルタイムで捉えていた。MI5は日本が「開戦前夜」にあることを掌握していた。とすれば、マレー作戦のみならず対米戦の端を開く真珠湾攻撃も相当の情報を得ていたと考えられる。英国は日本の対米英開戦への動きを正確に捉えていた。その中でポポフから寄せられた「質問表」による真珠湾情報が情勢判断の中心にあったことは想像に難くない。 ポポフは「自分とイプセンは、この『質問表』が日本軍による真珠湾攻撃の可能性を示唆していることに最初から気づいていた」と語っている。 リッデル副長官は毀誉褒貶が激しい二重スパイのエース、ポポフに信を置いていた。「質問表」が届いた四一年八月十四日付の日記(KV4/188)に、こう書いている。〈部内でトライシクルの扱いにねじれがある。彼が海外で入手する情報は私たちには死活的に重要だ。トライシクルと私たちの目的は同じだから彼を自由に行動させ、海外で得る情報をもっと注意深くカードとして利用すべきだ〉 ポポフが渡米して四カ月後に日本軍は真珠湾を攻撃し、米国が参戦した。連合国は歴史を変えたかもしれない重要な秘密情報を見逃してしまったのだろうか。 ベン・マッキンタイアーによると、ポポフの上司のター・ロバートソンは、「私たちが犯したミスとは、真珠湾情報を取り出して別個にルーズベルトへ送らなかったことではない。フーバーがこれほど救いようがないバカだとは誰一人思わなかったのだ」とFBIを非難している。1941年10月の真珠湾「ワレ遂に勝利セリ」 ポポフを統括した二十委員会のマスターマン卿は『二重スパイ化作戦』で、自責の念を込め、「重要性」を強調すべきだったと書いている。〈(日本と)アメリカが戦争になったとき、真珠湾が最初に攻撃されること、そしてその攻撃の計画が一九四一年八月までにかなり進んでいたことをこの(ポポフの)質問表が極めて明確に示唆していた。明らかに質問表を正しく評価して、そこから推論するのはわれわれではなく当然アメリカの仕事だった。とはいえ、われわれの方がその事情とこの人物(ポポフ)をよく知っていたのだから、もっとその重要性を強調すべきだった。さらに数年の歳月を重ね、経験を積んでいたら、きっとわれわれは肘鉄砲をくらう危険を冒しても、アメリカの友人たちにその書類の重要性を指摘出来たに違いない〉 副長官のリッデルの日記に記されていたことで、ポポフの「質問表」の真珠湾情報は、少なくともMI5では、国家の命運を決する最重要情報として位置付けられていたに違いない。そして、そのインテリジェンスは米国FBIのフーバー長官にもみ消されたものの、英国の最高責任者のチャーチル首相に伝えられていたと考えるのが自然だろう。チャーチルは日本が真珠湾攻撃することを事前に察知していたからこそ「奇襲」の一報に接して、「ワレ遂に勝利セリ」と叫んだのではないだろうか。おかべ・のぶる 一九五九年生まれ。産経新聞ロンドン支局長。八一年、立教大学社会学部社会学科を卒業後、産経新聞社に入社。社会部で警視庁、国税庁などを担当後、米デューク大学、コロンビア大学東アジア研究所に客員研究員として留学。外信部を経て九七年から二〇〇〇年までモスクワ支局長。『消えたヤルタ密約緊急電──情報士官・小野寺信の孤独な戦い』(新潮選書)で第二十二回山本七平賞を受賞。ほかに『「諜報の神様」と呼ばれた男』(PHP研究所)などの著書がある。

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    米軍事アナリストが徹底分析 「五十六神話」完全崩壊

    アラン・D・ジム(軍事アナリスト)翻訳・浦辺忠德(翻訳家) 「帝国陸海軍は本八日未明西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」──赤城、加賀、蒼龍、飛龍……単冠湾を出撃した空母機動部隊、ト連送による突撃命令、赫々たる戦果──真珠湾奇襲は今なお語り草となっている。だが、冷静な目でみるとこの作戦は穴だらけ。米軍事アナリストの徹底分析をみれば、もはや「山本五十六」は神話でしかない……。戦略の現実妥当性 日本海軍は宣戦布告なしに攻撃の火ぶたを切る伝統があり日米戦争の劈頭に真珠湾攻撃をすることは異例な考えではない。 一九二九年には海軍大学で二隻の空母による真珠湾攻撃の図上演習が行われた。翌年には山本五十六大佐は海軍水雷学校で真珠湾攻撃の必要を説いた。山本は徹底して真珠湾攻撃に固執した。 ハワイはサンフランシスコ、サンディエゴ、フィリピン、東京の中間に位置しその致命的重要性は理解されていた。一九四〇年に太平洋艦隊の根拠地になり修繕施設や補給施設が整備され日本への反撃拠点であるとともに米本土の最後の防御線になった。 ワシントン海軍軍縮条約において戦艦の対英米比を六割に抑えられた日本海軍にとってそのハンディの克服が最大の課題であった。 海軍の伝統的な戦略は、開戦となればマーシャル、マリアナ諸島など委任統治領を根拠に潜水艦と航空機により米艦隊を攻撃して漸減させ日本艦隊と対に持ち込み日本近海で決戦するという漸減作戦であった。軍令部としては開戦になっても早期に米国との講和を図る腹積もりであった。山本五十六は連合艦隊司令長官の辞職をほのめかし真珠湾攻撃を押し通したが、これにより軍令部の短期戦戦略は排除された。 山本は米海軍と米国民の士気を阻喪させるべく開戦劈頭で米国の主力艦隊を撃破すべきと信じていた。開戦第一日目にして戦争の帰趨を決するというものだ。 山本は何を達成しようとし対価は何だったのか。  山本は海軍航空の父とされ戦艦無用論者とされるが、米国民には戦艦はシーパワーと同義語であり、象徴的な戦艦を沈めることで士気を阻喪させる甚大な効果があるとみて戦艦の撃沈に集中した。そのためには魚雷が必須であり計画の過程で真珠湾が浅く魚雷を使用できなければ攻撃を断念する考えであった。空母であれば急降下爆撃機によって破壊できるので、あくまでも戦艦が目的であったということだ。Attack on Pearl Harbor by Alan D. Zimm Copyright 2011 © Alan D. Zimm Japanese reprint arranged with Casemate Publishers, Havertown, PA through Tuttle-Mori Agency, Inc., Tokyo 実は、山本は徹底した空母主義者ではなく、やはり戦艦を艦隊の華とみていた節がある。〝隠れ戦艦派〟だったのだ。山本は真珠湾攻撃のリスク、とくに陸上基地からの爆撃機による機動部隊攻撃の脅威を懸念していた。さらに日本の空母が米空母による攻撃から無傷で生き残れるか。実際には米空母が出払って洋上にあるとの報告を受けても攻撃を続行させた。山本の狙いは米戦艦でありその対価は日本空母であった。 奇襲の二十四時間前に艦隊が捕捉されても攻撃を強行せよという作戦指令はそれを裏付けている。 第二の目的は日本が南方資源地帯を攻略する際の妨害を排除するために米太平洋艦隊を六カ月釘づけすることである。日本は作戦の策定において米国のロジスティックスを無視したが、これは自己の認識を相手に投影(mirror image)する自己投影に過ぎず、日本軍の作戦の随所にみられる。米海軍においてロジスティックスは艦隊行動の大前提であり、大艦隊を出動させるには各種補給、支援体制など全て整えるには六カ月を要する。この意味で真珠湾攻撃は必要がなかったといえる。 山本の構想で仮に太平洋艦隊の侵攻を六カ月遅らせることに成功しても、新造艦計画による米国の物的優位を妨げられるものではない。真珠湾攻撃により全米国人の憤激は頂点に達し、官民あげて戦争目的の完遂に邁進することになった。実際、米国が真珠湾、フィリピンの敗戦によって戦意を喪失して講和するなど論外である。山本は根本的なことを大きく読み違えている。結局、真珠湾が成功しても講和にならなければ、必然的に日本が勝利する見込みのない米国との長期戦となる。 真珠湾攻撃は米国との長期戦を誘発するものであり、その他のありえた日本の可能性のすべてを放棄させた。仮に最後通牒が間に合ったとしても、これは形式要件を有しないものであり事態に影響はない。日本政府の最後通牒は宣戦布告ではない!翔鶴から発進準備中の零戦(21型)最後通牒の要件 日本政府が最後通牒をワシントン時間午後一時に米国政府に手渡すことが遅れたことは書籍や映画で何度も取り上げられており、開戦にいたる重要なエピソードになっている。しかしこの時手渡された覚書は宣戦布告とみなされるものではない。「よって帝国政府はここに合衆国政府の態度に鑑み今後交渉を継続するも妥結に達するを得ずと認むるの外なき旨を合衆国政府に通告するを遺憾とするものなり」と結ばれている。交渉が妥協点を見いだせなかったとは振り出しに戻ることであり、次のステップが戦争であると伺わせる言葉は全くない。外交関係の断絶や外交団の召喚にも触れていない。 ルーズベルト大統領も十二月八日の有名な「屈辱の日」のスピーチにおいて、十四部の覚書につき、「この回答は現在の外交交渉を続けることが無用であると思われると述べているが、戦争もしくは武力攻撃の脅しやそれを伺わせるものは何も含まれていない」と述べている。野村、来栖大使も覚書を手渡し戦争勃発と知り驚いたとされる。枢密院の会議を経て帝国政府による英米に対する正式な宣戦布告がされたのは東京時間の十時四十五分(真珠湾時間十五時十五分)であり攻撃開始の七時間後である。最後通牒手渡し遅延のエピソードが定着しているが、ことの本質を惑わすものである。 山本は最後通牒が予定通り通告されたか最後まで気にしていたというが、その指揮下の潜水艦はその前日に米国領海内においてラハイナ泊地の偵察を行い、特殊潜航艇は前夜に領海侵犯し、水上偵察機による領空侵犯が一時間前になされている。主要な攻撃目標 山本は真珠湾攻撃の実行可能性について大西瀧治郎少将に意見を求めたが当初の結論は非常に困難で全滅の恐れもあるというものであった。大西は第一航空艦隊の航空参謀源田実に検討させ「困難ではあるが不可能ではない」との感触をえた。源田は奇襲が肝要と考えていた。主な目標は敵主力艦で陸上の飛行機にも高い優先度を与えた。真珠湾は獲物が豊富であり魚雷、爆弾、戦闘機を用いたバランスの取れた攻撃を勧告した。多くの目標に軽い損傷を与えるより、主要目標に大きな被害を与えるべきと主張した。 主要目標としては第一に主力艦、第二に日本の攻撃機及び軍艦の安全を確保するための目標、第三に基地インフラ及び補給施設である。大西は修正の上、源田案を採用、山本に提出、真剣な実行計画の検討が開始された。目的は米艦隊を六カ月釘付けにする被害を与えることである。修繕施設がフルに稼働しても魚雷、爆弾により達成可能とされた。97式艦上攻撃機99式艦上爆撃機一列縦隊の攻撃は見事な選択だった兵器と目標の組み合わせ 格闘戦闘機であるゼロ戦はその前の世代より重装備で七・七㎜機銃と二十㎜機関砲を備えた。ゼロ戦の他に空母搭載機としては三人乗りで高高度水平爆撃機としても雷撃機としても使え二百五十㎏の通常爆弾及び通常六十㎏爆弾六発もしくは二百五十㎏爆弾二発搭載可能な九七式艦上攻撃機がある。さらにドイツのユンカースJu-87と同類の二人乗り二百五十㎏爆弾を搭載する九九式急降下爆撃機がある。 兵器目標テーブルは各目標の種類に応じてどの兵器を使用するのが適切であるか示すものでXはおよその対応を示すが必ずしも最適な対応を示すものではない。その兵器システムが目標に対する妥当な能力を有することを示すに過ぎない。SEAD(Suppression of Enemy Defenses)は敵の防空の制圧を意味しており機上掃射または爆撃で達成する。 真珠湾作戦には六隻の空母が作戦に割り当てられた。追加の翔鶴、瑞鶴の完成は出発日の数週間前に過ぎず飛行甲板要員の訓練には不十分だった。練度に応じて両艦の搭乗員の攻撃目標としては敵航空基地が指定された。六隻の空母が提供するのは四百十七機の航空機で機種はほぼバランスがとれていた。攻撃直前の99式艦爆。後ろは空母蒼龍 雷撃機は目標の指定に優先方式を採用していた。作戦上の優先順位は戦艦と空母で、優秀な諜報により各戦艦の位置を把握しており、一から八まで順位をつけていた。九七式艦上爆撃機は最初の戦艦四隻を攻撃して空母が停泊中であれば空母を狙うとされた。空母が居なければ、残り五〜八の戦艦を攻撃。九九式急降下爆撃機は巡洋艦を担当する。 但し、この説明は作戦命令とは合致しない。空母攻撃隊作戦命令三号では、「第一波の目標は四隻の戦艦と四隻の空母に限定され、順序は戦艦、そして空母」とされている。 戦後、雷撃機搭乗員の多くは第一優先順位として空母を攻撃するよう指定されたと述べている。明らかに公式の優先順位は最高指揮官の意図を意識したものだ。山本には戦艦が最優先であると報告された。先端の技術に通じた源田と淵田美津雄は雷撃機の四〇%は空母を目標にすることを考えていた。 雷撃隊は淵田の決定によって一列縦隊で攻撃したがこれは見事な選択だった。戦艦に対しては何本もの魚雷を回避できないように並列が常道であるが、真珠湾は入り江が狭く妨害物が多いので長い列が最適と考えた。 次の図から問題なのは十八攻撃ルートのうち十一ルートが交差しており、相互に干渉しかねない。良好な通信と緊密な指揮があればよいが、各指揮官は最良とみなすルートを選ぶ権限を有しており、各機は指揮官との通信ができない状況であった。さらに異なる攻撃隊との攻撃ルートとも交差していた。これでは空中衝突、ニアミスが起こりうる。雷撃機は一列縦隊で攻撃することになっていたが、違う空母から発進した雷撃機の場合、調整はできない。戦闘が開始された後の指揮は指揮官にとって悪夢であった。 日本海軍の通癖であるが計画通りに行くことを想定して、うまく行かなかった場合の是正がなされない傾向がある。優秀な諜報を受けながら十分いかしきれなかった計画の全体的印象 日本軍は非常に早い段階で魚雷と水平爆撃機の配分を決めていた。艦上攻撃機の殆どは最初雷撃訓練を受けるべきだった。その間に爆撃の指揮官を十分訓練しておく。結果として雷撃隊はより少なくてよいとなったら雷撃要員を爆撃にふりむけることは容易だ。爆撃は指揮官に続けばよいので雷撃ほどの技術は要しないからである。日本軍は優秀な諜報を受けながら十分いかしきれなかった。もし搭乗員が雷撃も高高度爆撃もできるように訓練しておけば出撃直前の水雷防御網、停泊戦艦、空母数、並列停泊戦艦数の諜報に基づいて最も適切な割り振りが出来たはずである。この柔軟性の欠如によって計画が達成できたであろう戦果が制限された。 計画はその時点における最先端の利用できる戦術と技術を使ってはおらず、明らかな問題を予測できなかった。戦艦を対象に海上で演習した兵器を結び付けたアプローチをしなかった。計画も計画者自体も著しく柔軟性を欠いており変化する条件や諜報に対応する決定プロセスが組み込まれていなかった。予行演習によって明らかになった問題に対しても計画は対応していなかった。三種類の飛行機全てについて割り当ての決定も目標の優先順位も疑問であった。日本軍は攻撃前日に艦隊が停泊中でマウイ沖にはおらず、空母は不在で水雷防御網は敷設されていないとの正確な情報を得ていた。攻撃発進前に当然計画を大幅修正すべき重要情報であったが適切な変更はされなかった。もし米軍が通常の警備態勢で対応していたら雷撃は完全な失敗であった可能性が極めて高い。攻撃の評価(1)淵田の照明弾の致命的な不手際 照明弾を使って伝達する方法は考え抜かれていなかった。照明弾一発は奇襲成功、二発は奇襲不成功、即ち強襲と決められていた。淵田は奇襲成功と判断して照明弾を一発発射したが、戦闘機隊が反応しないように見えたので、見過ごしたと思いさらに一発発射した。雷撃機は奇襲成功と理解して直ちに降下して攻撃態勢に入ったが、一方急降下爆撃機は奇襲不成功(強襲)とみて攻撃を開始したために、同時に攻撃をかける結果となり混乱が生じた。 雷撃機は低空を低速で接近するため敵が射撃態勢に入る前に攻撃することが絶対条件とされた。当日、真珠湾の軍艦はコンディション3の状態にあった。対空火器の二五%に臨戦態勢をとらせるものだったがロックされていた。淵田のミスにより発射ができるまでの時間が稼げた。警戒が殆ど解除状態に関わらず対空火器が応戦できるまでの時間は戦艦が五分、巡洋艦が四分、駆逐艦が七分で日本側の予想よりはるかに早い。最初の爆弾は最初の魚雷がユタに命中する二分前に着地したが、その数分前に戦艦群への攻撃は始まっていた。 戦艦群を攻撃する雷撃機は砲火をもろに受けた。奇襲にも関わらず魚雷を発射する前から機関銃の弾雨を受けたと雷撃隊指揮官が述べている。時宜を得ない警告を米側に与えてしまったばかりに五機の雷撃機が失われ、発射する前に貴重な魚雷が無駄になり、十二機は効果的な攻撃ができなかった。雷撃機が起こした心理的、物理的エラー(2)雷撃の無駄 源田の計画の原則は多くの戦艦にほどほどの損害を与えるより一隻に致命傷を負わせる方がよいというもので、山本も戦艦が使用不能になるか沈められることを望んだ。米国の海軍大学の試算では条約型戦艦を日本軍の航空魚雷で沈めるのには六、七本必要とし、命中が十五分以内に集中する場合は反対注水が間に合わないので四、五本で転覆するとみていた。米国の戦艦は速度を犠牲にして重装甲や魚雷防御を強化していた。戦艦が海上にあるときは水密措置が徹底されるので港にあるより強靭であることを日本は知っていた。 戦闘においては拙劣な目標設定や発射など決断ミス、心理的エラーや物理的エラーが起こりがちであるが雷撃機はこの両方のエラーをおかした。 最初の大きなエラーは空母泊地攻撃を命ぜられた雷撃隊がおかした。停泊していたのは老齢で除籍されて標的艦になっていたユタと二十㎝砲の初期型巡洋艦ラレイとデトロイト及び貨物船改造の水上機母艦タンジールであった。時代遅れの巡洋艦は一応優先リストで認められた目標であったが、ユタは明らかに貴重な兵器の無駄遣いだった。 飛龍の攻撃隊長松村大尉は伝声管を通して「空母を探せ」と見張りに伝えたが、フォード島の北西にそれらしき巨艦が見えたが上部構造を取り外し板張りの甲板だけになった艦齢三十年の廃艦に近い標的艦ユタであった。発艦前に隊員にはこの艦はほうっておけと命じられていた。長井大尉指揮下の森二飛曹はこの攻撃を目撃して「奴らは停泊艦の二隻は巡洋艦だと分からないのか。少し離れたところに戦艦が居るのに魚雷を無駄遣いするのは犯罪的だ」と思った。警告にも関わらず、雷撃機六機がユタを攻撃した。この魚雷の無駄遣いは空母不在との重要情報にもかかわらず、空母に固執する余り戻っているかもしれないとの全く根拠がない期待から、当初予定通り空母泊地の攻撃を命じたことによる。攻撃隊員を惑わせ遠路日本から運んだ貴重な六本の魚雷を無駄にした全責任は参謀にある。在ハワイの海軍予備士官吉川猛夫が届けた最後の情報は活かされなかった。日本軍機から撮影された、魚雷攻撃を受けるアメリカ戦艦(3)攻撃ルートと衝突回避 秩序立った攻撃はされなかった。投下後に前機が左旋回して衝突を回避する基本的手順は常に実行されたわけではない。飛行経路は対空砲火と煙で妨げられ編隊は入り乱れた。戦後のインタビューでは搭乗員は目標の優先順位よりも予想外に熾烈な対空砲火や目標を見分ける難しさ、どれであれ戦艦を攻撃したかったことなど話した。最も歴戦の搭乗員だけが攻撃の分散について語った。計画者は単純な任務とみていたが実際の戦闘はそうならなかった。計画では攻撃に二分と見ていたのが、実際は十一〜十五分かかったことがこのことを物語っている。(4)過剰破壊 淵田は天皇に説明するための一九四一年十二月二十七日の地図では三十六本の魚雷が命中と示している。二十一本がオクラホマとウェスト・バージニアで、必要量の二倍である。ヘレナには五本で一〇〇%以上の過剰破壊であり、ユタへの六本はすべて無駄であった。 淵田の報告からは三十六本の魚雷の内十九本(五三%)は過剰破壊か無駄であった。雷撃機のパイロットからすると二十〜三十秒間隔の攻撃では、その前の魚雷の上げる水柱を目撃するのみで自分の前にどれだけ目標に命中したか判別が難しい。オクラホマに上がる水柱を見て次のより狙いやすい目標としてウェスト・バージニアに移る。何発かウェスト・バージニアに当たる間にオクラホマの水柱は収まっているので、追加の魚雷がオクラホマに向けられる。赤城と加賀の攻撃機で七十秒のギャップがあることも問題を難しくした。優先方法の下で魚雷を適切に振り分けるためには自分の目で確かめる以上に情報が必要であった。さもなければ容易な目標に命中が繰り返されることになる。このことは予行演習でも起こっていたが是正されなかった。 さらには優先方法自体が日本人の心情に反していた。武士道精神に満ちた日本の戦士が二千六百年の日本の歴史で最も重要な戦闘において二次的な目標を攻撃して、凱旋して「二次的な目標を攻撃しました」と報告できるだろうか。二次的目標と思って魚雷を投下したパイロットはいなかった。(5)総括 戦記の常識とは裏腹に真珠湾攻撃の作戦自体も実行も不完全であり、多くの側面において必ずしも当時の世界の最先端をいくものではなかった。・計画は基本的に柔軟性を欠いていた。戦艦攻撃兵器九七式艦上攻撃機は徹甲爆弾も魚雷も搭載可能であるが兵器の配分は計画初期に行われており、この配分は訓練、テストさらには真珠湾に魚雷防御網が敷設されていないとの最終情報によっても変更、調整されることはなかった。魚雷についての最大の課題は浅海面雷撃ができるかだが、これはぎりぎり出撃二週間前に解決された。・計画者は浅海での魚雷攻撃の問題、魚雷防御網の有無に関わらず戦艦攻撃をすると決めていたので、このことが九七式艦上攻撃に高高度爆撃をさせるための爆弾を過剰配分する結果になった。攻撃隊全体としての最適成果をあげるための配慮はなされず、潜在攻撃能力は十分発揮されなかった。・徹甲爆弾の多くは正しく炸裂しなかった。・訓練の段階から戦闘機、水平爆撃機、急降下爆撃機の連携、調整が欠けていた。・日本軍は攻撃二十四時間前に詳細な諜報情報を得ていたにも関わらず計画の修正をしなかった。参謀たちは空母不在の情報を受けていながら当初の計画に固執して予定通り不在の空母泊地を攻撃させた。この硬直性はあらゆる局面にみられた。・日本海軍はとくに在ハワイの予備士官吉川猛夫が長期にわたり極めて優秀な諜報活動をしたが必ずしも有効に活用されなかった。・九七式艦上攻撃機へより多く魚雷を配分していたら米側の被害ははるかに大きかったであろう。このため破壊可能な魚雷目標八隻のうち三隻は被雷を免れた。・計画は奇襲成功をすべての前提としており強襲になる可能性も高いに関わらず対応は一切とられなかった。当然二次攻撃以降は一〇〇%強襲である。従って雷撃機への戦闘機による対空砲火制圧による支援は考慮外であった。雷撃機は攻撃の瞬間まで一切援護を受けず砲火に晒された。・雷撃機の為の計画は杜撰で攻撃ルートの交通整理は全くされておらず互いに干渉しあうことになり目標照準、攻撃を大きく阻害した。・日本軍の目標についての優先スキームは実行しがたいものであった。その責任は搭乗員に任されたが彼らには十分な情報がなく、相互の通信手段もなかった。・淵田が攻撃信号の不手際で二発発射したことで攻撃順序に大きな混乱が生じ攻撃機の間の緩衝、攻撃の不正確さや犠牲の原因となった。・日本軍の空中通信は極めて非効率であった。とくに淵田の初動の不手際によって後続の指揮官は効果的な指揮ができなくなった。雷撃機の場合は指揮官機に続いて十二機の爆撃機が五百ヤード以上の間隔で一直線に突っ込む戦法なので初動の混乱の影響は大きい。・急降下爆撃機のネバダへの攻撃は兵器の不適切な使用であった。攻撃の目的達成には何の寄与もなかった。・水道で戦艦を沈めて軍港を封鎖する考えは中途半端で極めて拙劣な決断であった。・艦隊目標に振り当てられた急降下爆撃機は殆ど貢献しなかった。この任務に充てられた八十一機のうち主目標である巡洋艦に命中させえたのは二機にすぎない。八隻いた巡洋艦のうち六隻は大きな被害を免れた。・急降下爆撃機の二百五十㎏爆弾の相当数は欠陥品であった。・急降下爆撃機の目標の特定は余りに拙劣であった。補給船を戦艦、駆逐艦を巡洋艦、乾ドックを戦艦と錯覚するなどひどいものだった。・戦闘機の用法についての計画も拙劣だった。第一波の戦闘機による援護も攻撃における重要性にそったものではなく、雷撃隊も全くエスコートされず上空援護もなかった。真珠湾攻撃に関わる通説の殆どは間違っている 真珠湾攻撃に関わる従来の通説の殆どは間違っている。・日本軍はスーパー搭乗員の部隊を使わなかった。翔鶴、瑞鶴などの搭乗員は極めて経験が浅く地上攻撃にむけられた。日本海軍の搭乗員が急速に練度をあげてピークに達するのはインド洋作戦の頃であろう。・第三波の攻撃をしたとしても真珠湾全体の修理能力にさしたる影響はでなかった。被害が出ても短期間に回復可能であった。戦争日程には大きく影響はなかったとみられる。・燃料タンクは日本軍の攻撃で殆ど破壊されたかもしれないが回復可能である。それにより太平洋艦隊が真珠湾を放棄することはありえず戦争日程にも重大な影響はでない。・日本の十四部の外交文書は宣戦布告とはみなされず、仮に間に合ったとしても、卑怯な奇襲であるとして米国民が激怒したことに変わりはない。・五番目の特殊潜航艇が潜入してオクラホマやアリゾナへの雷撃に成功した可能性は極めて小さい。さらに駆逐艦ウォードが攻撃より一時間以上前に他の特殊潜航艇を撃沈している。これは通常であれば真珠湾全体が直ちに緊急態勢に入る事件である。レーダー探知された未明の水上偵察機の偵察機の動きと言い日本海軍の奇襲の可能性は完全に消滅していた筈である。 真珠湾攻撃についての従来の解釈は歴史的事実を大きく歪曲しており、権威ある戦闘指揮官の言葉であっても額面通り受け入れるのは危険である。的確な南雲長官の判断 第三次攻撃をしなかったことで南雲忠一長官は臆病な提督との不当な烙印を押されてきた。評論家の多くが海軍工廠、修理施設、潜水艦基地さらに燃料タンク群を攻撃しなかったことで日本が大きな機会喪失をしたと指摘している。『真珠湾は眠っていた』の共同著者であるゴールドスタインおよびデイロンに至っては、個々の艦船を破壊するよりも太平洋艦隊をより効果的に無力化できたであろうとさえ述べている。米国海軍は「日本軍は真珠湾海軍基地の陸上施設を攻撃しなかったが、これらは第二次大戦における連合軍の勝利に重要な貢献をした」との公式見解を出した。これらの評価は他ならぬ太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツの「戦争を二年長引かせたであろう」とのコメントに由来するとみられる。しかし第三次攻撃につき淵田から南雲長官に強い進言があったともいわれるが、それを裏付ける証言は全くない。現実には筆者の分析によっても、第三次攻撃によって得られる施設、燃料タンク群の破壊効果は限定的である。 南雲はもともとこの作戦の成功の可能性には懐疑的であり、潜水艦のミスで奇襲の前提が崩れることを恐れていた。参謀長の草鹿龍之介も攻撃により仮に目先の優位が得られても長期的成果の保証はないと冷めた見方をしていた。味方機の犠牲は第一次攻撃の九機から第二次攻撃は二十機と急増しており、米軍の迎撃態勢も出来ていることは間違いなく、何よりも二隻の航空母艦の行方が不明である。所在不明の空母がいかに潜在的脅威であるかはミッドウェーで証明される。南雲は攻撃重視の連合艦隊に危惧を持ち、空母の喪失は日本の攻撃能力を削いで敗戦に繫がりかねないとして提言したが殆ど退けられた。 筆者の分析においても第三次攻撃は僅かな追加的な戦果のためにすべてをリスクに晒すことになったであろう。この上ない責任と重圧のもとで南雲は最少の損失で自己の使命を完全に全うした。第三次攻撃についての南雲の名誉は回復されるべきである。燃料タンクへの攻撃効果燃料タンクへの攻撃効果 海軍工廠や燃料タンク群への攻撃の提言については触れていない。計画者の間で幾らか考慮されたことはあるが、源田は兵器の分散使用は対効果で無駄になるとして、限られた兵器を向けることに反対した。数千マイル離れた連合艦隊司令部においても山本五十六、宇垣纏参謀長始め、太平洋艦隊のより完璧な殲滅を望んだようであるが、インフラは考慮外であった。 現実に限られた兵器で海軍工廠や修理施設に決定的打撃を与えることはできなかったであろう。一部が破壊されてもハワイには陸上、海上に軍および民間を含めて優秀な工員を抱え極めて大きい修復能力を有していたので被害があっても短期間で回復可能であった。珊瑚海海戦で大損傷を受け修理に数カ月かかるとされた空母ヨークタウンを僅か三日で戦列に復帰させたことは好例である。 燃料タンク群を破壊、炎上させる手段としては機銃掃射と爆弾がある。燃料タンクは燃料と屋根の間に蒸発した燃料が溜まり爆発する危険を避けるために屋根が燃料レベルまで下がる構造になっている。燃料タンクの外板は〇・七五インチから一・五インチの厚さで下にいくほど厚くなっている。日本の軍用機の標準装備は七・七㎜機銃である。零戦は二十㎜機関砲を二門、弾丸各六十発装備しているが飛行機のアルミ製の軽い外板で破裂するように設定されており燃料タンクの外板は貫徹できない。屋根に当たれば破裂して穴が開くだろうが、破片が貫いても燃料が発火するだけのエネルギーと酸素は供給されない。 爆弾の場合、二百八十発の二百五十㎏爆弾ですべての爆弾がタンク群のエリア内に落下したとする。タンク外板の厚さを一インチとしてコンピュータシミュレーションすると一千回のトライアルで、九〇%のケースで二十二〜三十五タンクが直撃を受けて三タンクに破片が及ぶ。これは燃料タンクの四六%〜六九%、二十五万九千〜三十八万九千メータートンに相当する。各燃料タンクは全容量を受けられる土手で囲まれている。輻射熱が隣接するタンクに及ぶのは少なくとも一時間かかる。タンク群には火の拡散を防ぐため放水パイプが巡らされており、各タンクには防火泡沫システムが内蔵されている。燃えているタンクや土手内の燃料はポンプにより安全なタンクに移し替えることができた。攻撃時点では十〜十五ノットの風が吹いており風上のタンクが燃えればその煙で爆撃は困難になる。実際にはタンクに着火させるのは思うほど簡単ではない。湾岸戦争においてもミサイルの熱い破片がタンク内に入ったが発火しなかった。 タンクの構造は簡単であり、破損したタンクの再建に必要な鉄鋼は約五千トンである。喪失した燃料補充に必要なタンカーは一カ月であれば十三〜二十隻、二カ月であれば七〜十隻、三カ月であれば五〜七隻である。これは調達可能でありニミッツの判断は間違っていることになる。キンメル大将とショート中将の失態キンメル大将とショート中将の失態 米国太平洋艦隊司令長官ハズバンド・E・キンメル大将は不当な扱いを受けスケープゴートにされたと見る向きが多い。キンメルはワシントンが必要な情報を伝えなかったと主張。さらに三百六十度の哨戒に必要な飛行機が不足していたと訴えたが、ハイリスク期間の短期哨戒は可能だった。キンメルは十二月七日以前にワシントンから極めて高度の「戦争警告」を受けている。さらに東南アジア侵攻のための日本の大船団が移動中との情報を得ており、実際十二月六日に日本海軍の九〇%は出動していた。当然哨戒をさせるべきだった。「外方哨戒線」への哨戒を実施していれば日本の空襲部隊の接近を発見して攻撃四十分前に警告できたはずである。四十分あれば地上の飛行機を分散配置して、準備できた飛行機を離陸させ、対空射撃態勢を十分整えられたはずである。 最も不足していたのは航空情報センター(AIC)が機能していなかったことである。機能していれば四十分の事前警告は可能で艦隊および陸軍の対空防衛体制をとらせるのに十分であった。AICの運用テスト成功後も機能させる措置をとらなかった責任の一端がある。キンメルは攻撃七週間前の十月十四日に以下の永続命令を発令している。 「宣戦布告に先立ち(1)真珠湾内の艦船への奇襲、(2)運用エリアにおける艦船への潜水艦攻撃、または(2)両方の組合せの可能性がある」 軍事基地としての真珠湾の防衛責任者がウォルター・ショート中将だった。ショートは攻撃前夜まで高度の警戒レベルを維持していたが、不可解なことに「戦争警告」を受けるとショートは弾薬を弾火薬庫に戻し、移動高射砲を倉庫に移し戦闘機パイロットに基地を離れることを許可し、戦闘機を整備に回したその弾薬を格納庫にしまわせた。ショートは事実上、防空体制の武装解除をした。日系人のサボタージュを警戒して飛行機の翼がつくように付けて並べた。これらのすべては戦争が切迫しており、日本船隊が移動中との情報を得た後である。ショート中将は職務を果たすのに十分な人と装備を有していた。AICが機能して適切な警告がされていれば陸軍の防空部隊が日本軍に痛打を与えていたはずである。四十分の明暗 十二月七日の陸軍の防空は完全な停止状態だった。前週までは高度警戒の防衛でパイロットは自分の飛行機で待機、日の出とともに哨戒に飛び立ち高角砲は実弾を装塡し待機していたのと対照的である。 攻撃数カ月前に陸軍では英国のバトル・オブ・ブリテンで使われた航空警戒サービス・システムに倣ったレーダーと観測員からなるAICを構築した。AICは空襲の二カ月以上前、一九四一年の九月二十一日に試験が成功していた。艦載機を使ったテストではオアフから八十四マイルで捕捉、防衛側に四十分の余裕を与えた。このシステムは敵味方の識別はまだできなかったが、空母発進の大編隊は十分識別できた。但し、ショートとキンメルは将校を配備しての運用開始を開戦後としていた。 十二月七日、AICのレーダーサイトの一つがオアフ島北方百三十六マイルに攻撃隊を補足した。その前には二機の水上偵察機を追跡している。AICが動いていれば太平洋艦隊と陸軍は警戒態勢をとるほぼ五十分の時間があった。米軍が事前警報を受けていたら米軍が事前警報を受けていたら・艦隊:艦隊はコンデイション3だった。戦艦は高角砲の四分の一に兵員が配備され砲一門当たり十五発、〇・五〇口径機関銃二門で各三百発。訓練した兵員であれば一分で二十発発射可能である。土曜日は上陸日であるが宿泊施設があまりないので下士官兵の殆どは艦に戻っていた。士官クラスは結婚している者も多く艦によっては五〇%位が不在だった。・陸軍:陸軍はオアフ島に大きな対空能力を有していた。防空担当の沿岸砲兵部隊が三インチ固定高角砲二十六門、三インチ移動高角砲六十門、三十七㎜一機関砲二十門、〇・五〇インチ口径機関銃百七門。その他。・陸軍航空隊:陸軍航空隊はP-40、六十四機、P-36、二十機、P-26、百機が稼働可能だった。他に整備中が九十機。十一月二十八日までは警戒2であったがショート中将がサボタージュ対策を意味する警戒1にした。十二月六日に制約が外れた当番将校以外週末休暇が認められ、平時に従い弾薬は飛行機から外されて倉庫にしまわれた。・艦隊への四十分前の警告:空襲四十分前に総司令部(GH)が全艦隊向けに設置されるが、設置に必要な時間は最大二十分である。高角砲、電力供給、高角砲用高圧空気、消火用水圧担当が戦闘配備につく。日曜朝は士官の六五%、乗員の九五%が乗艦しており十分対応できた。当時米国海軍は世界最先端の方位盤と、世界最高の高角砲5/38を備え、前年から訓練を重ね高い練度と士気を保っていた。七時五十分から八時五分にかけ約三十二機を撃墜した可能性がある。第一次攻撃隊の撃墜の推定は下限で四十一機、上限で五十二機である。珊瑚海海戦やミッドウェーでは五〇%以上、場合によっては七五%の飛行機が喪失したことから、真珠湾には艦載の高角砲よりも多くの砲を導入できるのでこの被害推定はむしろ低めである。さらに雷撃機二十〜三十四機が魚雷投下前に撃墜されると見られ、残るのは二十〜二十八機となる。英国の地中海戦闘の調査でも防空体制をとる艦船への命中率は六〇%下がるとされる。・米陸軍飛行隊(AAC)への四十分前の警告:十一月二十八日までのコンディション2においては常に待機状態でパイロットは飛行機についていた。日本海軍は当初この警戒期間中の攻撃を計画していた。十二月七日に稼働可能な飛行機は九十四機で通常より少ない。機銃整備中のものを加えると使用可能な機体は百六機であり、十一月二十八日機の防空戦闘機による撃墜数は推定の下限で六十一機、上限で八十三機である。・陸軍の全面防空警戒:陸軍は真珠湾攻撃の直前に七日間の演習を実施した。全ての高角砲が動員され実弾装塡された。然るに十二月六日に武装を取り外す指示がでた。警戒期間中に日本軍の攻撃があったとすれば、移動三インチ砲七十六門が防衛に加わり十二機から四十八機が更に撃墜され陸軍の三インチ高角砲と併せて十八機から七十八機撃墜できたとみられる。 全ての防空体制を加えると以下の推定下限および上限となる。 もっとも有りうるのは攻撃隊の五〇%台とみられる。これは一九四二年から四三年にかけての海戦における喪失機数に沿っている。珊瑚海海戦における日本側の喪失数は三〇%、飛龍の米空母への攻撃による喪失は六三%で、ミッドウェーにおける米国の雷撃機は八六%である。真珠湾における日本機の喪失も同様に恐ろしい数字になった可能性がある。 以下の表は搭載機の喪失により稼働不能となる空母である。 日本空母は搭載機数の三分の一から三分の二を喪失することになり、実質的に残る二隻が稼働して残りは一九四二年後半ごろまで回復しなかったかもしれない。・結論:日本の攻撃が一、二日早く警戒2であったら空母の三分の一から三分の二が稼働できなくなるだけの機数を喪失したであろう。熟練した搭乗員の半分以上を失った可能性が強く太平洋戦争の帰趨に大きく影響したとみられる。 現代の海軍では戦闘作戦の後には、“Hot Wash-Up(直後の洗い出し)”と呼ばれるプロセスで参加者が実際の経緯、決定、エラーを徹底的に洗い出して教訓を記録に残す。批判を封じることは禁じられており、そのデータはしばしばオペレーション・リサーチのアナリストによりさらに詳しく分析される。仮に真珠湾攻撃の直後にHot Wash-Upが実施されていたら日本側の計画、実行、リスクについての評価は相当異なるものになっていた可能性がある。アラン・D・ジム ジョンズホプキンズ大学応用物理学研究所の航空システム及び先端コンセプト部門のヘッド。元米国海軍の指揮官で物理学、OR及び行政学の学位を有し政策分析及び戦略策定のプロ。著作、論文も多く第二次大戦の海上戦闘のコンピューター分析で受賞。また一九九九年には米国海軍協会からアーレイ・バーク賞を受賞している。うらべ・ただのり 一九四五年、長崎県生まれ。東京外国語大学スペイン科卒業。スタンフォード・ビジネススクール留学。大和証券サンパウロ駐在員事務所長。アメリカ大和証券日本企業部長。スペイン大和証券社長。国際協力事業団パラグアイ国経済開発調査副総括。長年国際金融業務に従事。著書に『世界の資本市場スイス』(共著、教育社)、訳書に『For that One Day』(原題『真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝』講談社)。

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    歴史の大転換「戦後70年」から「100年冷戦」へ

    西岡力(東京基督教大学教授)島田洋一(福井県立大学教授)江崎道朗(評論家)中国共産党の「冷戦」「悪しき所業」隠し西岡 戦後70年を迎えて第二次世界大戦についての日本の謝罪をめぐる議論が再び盛んになっています。私は、このこと自体に強い疑問をもっています。なぜ70年も経っていまだに議論せねばならないのか。第二次世界大戦で負けてから50年、60年、そして今年の70年と、10年ごとにわが国の敗北を記念して議論することが妥当なのか。 しかも、その後に第三次世界大戦と位置づけられるべき東西冷戦があり、そこで日本は勝利した自由主義陣営に属していた。にもかかわらず日本は謝罪し続けなくてはならないという議論に巻き込まれている。私には理解できません。 二つの勢力が日本の過去を糾弾しています。一つは中国共産党です。もう一つは朝日新聞に代表されるような、自国の過去の悪だけを強調する国内勢力です。私は後者を反日日本人、反日勢力と呼んでいます。 今年2月に国連安保理で創設70周年の記念討論会が開かれ、中国の王毅外相が「過去の侵略の罪を糊塗しようとするものがいる」と婉曲表現ながら日本や安倍首相をあてこすった演説をしたことが話題になりました。ただ、この演説の最大の問題点は、「戦後70年間、国連の創設メンバーで、安保理の常任理事国の中国は、常に国連憲章の精神に従い、国連の役割を支え、平和と安定を守ることに尽くしてきた。今日の開かれた討論会が、反ファシスト戦争勝利と国連創設70年の記念の序幕になることを望む」(2月25日付読売新聞朝刊)という箇所です。 まさに虚偽だらけの内容です。中国共産党政権の中華人民共和国は、国共内戦に国民党が敗れて1949年に成立したのであって、1945年に国連が創設された当時のメンバーは中華民国でした。中華人民共和国の国連加盟は1971年です。 朝鮮戦争(1950年~)を考えると、演説の嘘はより明らかです。金日成の北朝鮮が韓国を武力侵略したとき、国連の安全保障理事会は国連軍を組織して侵略者を撃退すべきだと決議しました。国連史上、国連軍での戦いを決議した唯一のケースですが、その侵略者・北朝鮮の側に立って国連軍と戦ったのが中国共産党であり、中華人民共和国です。国連と戦った中華人民共和国が国連創設メンバーであるとか、国連の役割を支えて平和と安定を守ってきたなどと、よくも言えたものだと開いた口が塞がりません。 これは冷戦を無視、隠蔽する議論であり、こうした欺瞞が日本をいまだに第二次大戦に縛り付けているのではないか。そんなことを話し合いたいと思います。江崎 中国共産党は近年、尖閣諸島問題にからめて日本が「戦後国際秩序に挑戦している」と盛んに批判しています。しかし中国共産党の所業を考えると、「戦後国際秩序に挑戦」してきたのはまさしく彼らです。 中国共産党は1950年代から60年代、アジア各国に「革命の輸出」を試み、騒乱を起こした加害者です。インドネシアはその最たるもので、中国の周恩来から支援を受けていたインドネシア共産党が1965年に起こした軍事クーデター「9・30」事件では、約80万人が死んだと言われています。カンボジアでは、数百万人を大虐殺したクメール・ルージュのポル・ポト派を支援し、1979年にはポル・ポト政権を崩壊させたベトナムを「懲罰する」といって中越戦争を起こした。日本に対しても、60年安保や赤軍派の一連の事件などを引き起こすに至った新左翼過激派の活動、成田闘争に手を突っ込んでいました。西岡 1958年~60年の「大躍進政策」では、2000万~3000万人ともいわれる自国民を餓死させ、60年代後半からは文化大革命と称して知識人を弾圧して国内に大動乱を引き起こし、やはり数百万から1000万人以上の死者が出たといわれています。歴史も民族も異なるチベットに軍事侵略をして帝国主義的植民地統治をし、ウイグルや内モンゴルでも、同じことをしている。近年は異常な規模の軍拡を続け、周辺諸国に侵略的行為を繰り返しています。そして何より、民主化を求める学生たちを、軍を出動させて虐殺した天安門事件(1989年)です。江崎 中国共産党が自らの悪しき所業を隠すために、「反ファシズム戦争勝利」を言い立てているのが見え見えです。島田 「反ファシズム戦争」という言葉ですが、そもそも第二次大戦の構図は、戦勝国の英・米・仏・中・ソが自由・民主主義の「陣営」を組んで、日・独・伊の「ファシズム陣営」と戦ったといった単純なものではありません。その始まりは、ナチスのヒトラーとソ連のスターリンが「同盟」を組み、1939年9月に東西からポーランドに侵攻したことです。独ソは同年8月に結んだ不可侵条約の秘密議定書で、東ヨーロッパを両国の勢力範囲に分割することを約束していました。 そもそもソ連は共産党一党独裁で、しかもスターリンは20世紀でも指折りの人権弾圧者です。経済は市場メカニズムを排除する点でファシズム以上に抑圧的で、政治的な自由度も当時の日独伊を遙かに下回っています。この点だけでも、「第二次大戦は反ファシスト陣営が勝利した戦争だ」という議論のおかしさは明らかです。西岡 中国共産党はトウ小平の改革開放のかけ声で、経済における社会主義理論を捨て、計画経済をやめて生産手段の私有を解禁してマルクスの言うところの「搾取」を認め、市場経済を導入しました。しかし、社会主義市場経済など理論的にあり得ない。マルクス・レーニン主義は下部構造の経済が上部構造である政治を規定するとしています。下部構造で社会主義をやめて資本主義を復活させたのに、上部構造では、社会主義のための人民民主主義、プロレタリアート独裁を続けるという理論は矛盾しています。共産党独裁統治の根拠はすでに崩壊したんです。そのために、自分たちは反ファシズム戦争を戦って勝利したという歴史を必要としている。 簡潔にいえば、労働者を搾取する資本家を絶滅させたことが正統性の根拠だったのに、敵である資本家を復活させた。だから、日本軍国主義ファシズムと戦って中国を勝利させた歴史を捏造したうえ、軍国主義が復活しようとしているというフィクションで現在の日本を敵に仕立て上げ、それと中国共産党は戦うのだという虚構を独裁統治の正統性の根拠に利用している。 しかし、実際に日本と戦ったのは中国国民党であって、中国共産党ではない。八路軍や新四軍とよばれた中国共産党軍は日本とは戦闘らしい戦闘をせず、専ら自らの勢力拡大に勤しんでいました。 だから「戦後」という枠組みで歴史を議論すること自体、中国共産党の欺瞞統治戦略の土俵に乗ることになってしまう。中国共産党の罠に陥るのです。中国は帝国主義的ファシズム国家北京郊外にある盧溝橋近くの中国人民抗日戦争記念館で各国大使らに公開された抗日戦争70年に関する展覧会島田 概念的に整理しましょう。ファシズムという用語の起源ともなった象徴的人物は、第二次大戦中のイタリアの指導者ベニト・ムッソリーニです。彼は若いころは純粋社会主義者で、レーニンから「イタリア唯一の真の革命家」、欧州共産主義の次代を担う存在とまで評価されていました。ところが第一次大戦中に、労働者階級の国際連帯など幻想に過ぎず、また生産手段のあくなき国有化は国力の衰退を招くと痛感し、資本主義のエネルギーも利用した国家主義的独裁を打ち立てるべきだと考えた。西岡 ムッソリーニはトウ小平だったということ?島田 そう。ファシズムの最大公約数的な定義は、資本主義のエネルギーを抑圧体制活性化のため利用する、ということです。もちろん自由な言論や議会制民主主義を否定し、ある国家宗教的理念を体現した指導者に束(イタリア語で「ファッショ」)になって付き従うべきだという原理もファシズムの特徴の一つです。 ちなみにアメリカのルーズベルト政権も、ブレーンのほとんどがムッソリーニに畏敬の念を抱いていました。当時のアメリカもファシズム的傾向と無縁ではなく、ソ連と抵抗なく手を結んだのは、側近にコミンテルンのスパイが多かったせいだけではありません。なお、優越人種主義や領土拡張主義はファシズムの本来的属性とは言えません。ムッソリーニのファシスタ党にはユダヤ人の幹部が少なからずいましたし、スペインのフランコ政権は、ヒトラーの再三の圧力にも拘わらず枢軸側で参戦せず、内にこもる傾向が顕著でした。ナチスにも、ナンバー2のゲーリンクなど、破滅を危惧し領土拡張に慎重だった幹部がいます。すなわち、ファシズムに偏執的人種主義が加わったのがナチズム、さらに際限なき拡張主義が加わったのがヒトラリズムと言えるでしょう。なお、自集団を頭部と位置づけ有機的な支配圏拡張を図るのが帝国主義ですが、ヒトラリズムは帝国主義の破滅的形態とも言えます。 中国はトウ小平時代に改革開放の名で、原始共産主義を捨てファシズムに転換しました。その後の中国は政治・経済体制として典型的なファシズムであり、少数民族弾圧政策をとっている点ではナチズムの要素もある。ではヒトラリズムに該当するかどうか。現在、いわゆるサラミスライス戦術でじわじわと無法に領土を拡張しており、ヒトラーほど無謀ではないけれども、有機的拡張主義という点では同類です。一言で表せば、現在の中国は「帝国主義的ファシズム」と言えるでしょう。ファシズムに加えて、ナチズムの要素を持ち、ヒトラリズムの傾向をも見せている中国が、反ファシズム戦争の勝利を祝うのは倒錯の極みです。西岡 直感的に言えば、日本は確かにナチスと組んだけれども、アメリカもルーズベルト大統領がスターリンと組んだ。そして戦後に冷戦が始まり、スターリンがナチスと同じような「悪」だということに気づいた。中国大陸を共産党にとられ、朝鮮戦争も始まった。そこで日本に憲法第9条を押しつけたり社会主義的政策を行ったりしたことが失敗だったと悟り、いわゆる「逆コース」政策をとるようになった。再軍備を迫って朝鮮戦争勃発直後の1950年8月に警察予備隊がつくられ、その後の自衛隊創設につながったわけですね。江崎 それでも中華人民共和国は国連常任理事国になっている。これは、アメリカがソ連との冷戦を有利に戦うため、あるいはベトナム戦争停戦のために1972年、ニクソン大統領が訪中して、中国と組んだからです。アメリカが理念的には敵であるはずの北京と組んでソ連と戦おうとしたため、中国共産党の本質に目をつぶってしまった。その結果、今日まで中国共産党の犯罪的行為が厳しく問われてこなかったのが残念です。左派リベラルも同罪左派リベラルも同罪西岡 生き残るために戦前日本を問題視し続けているのは、朝日新聞など国内のリベラルや左派勢力も同じです。敗戦後米軍に占領されていた日本がアメリカなどと講和条約を結んで独立を回復したとき、全面講和か片面講和かという国内を二分する大議論が起きました。そこで自由主義陣営とだけではなく、冷戦の敵であったソ連中心の共産主義陣営とも講和し、日本は非武装中立国となるべきだという全面講和論を叫んだのが、その左派リベラル勢力です。 彼らはそれ以降、日米安保条約に反対し、日韓国交正常化に反対し、ベトナム戦争もアメリカの侵略だとして反戦運動をし、西側陣営の一員としての日本、日本に軍を駐留させているアメリカの足を引っ張り、両国の同盟関係を破壊しようとしてきました。 「資本主義の総本山アメリカが戦争を引き起こす」というのが彼らの世界観です。それは誤りであったことが、今では証明されています。ベトナム戦争でアメリカが撤退したらベトナムはカンボジアと戦争をし、中国とベトナムも戦争した。そしてカンボジアでは大虐殺があったということが明らかになった。 そうした過ちを認めたくないから、過去の日本を糾弾する枠組みに逃げ込んで、戦前の日本を糾弾し続けている。そして、冷戦で彼らと戦って勝った保守勢力に対して、「過去の日本を復活させようとしている歴史修正主義者だ」という濡れ衣を着せようとしている。江崎 いまの日本を国際社会の敵に仕立てようとする中国共産党の対日戦略のお先棒を担いでいるのが、左派リベラル勢力ということです。 マイケル・シャラーという歴史学者によると、実はニクソン大統領は、アジアでは日本と組んで共産陣営と戦いたいと考えていて、憲法改正や核武装を含む本格的な再軍備をしてほしいと日本に繰り返し打診していた。ところが、日本側が色よい返事をしなかったために、「アジアを守るために日本が戦わないのであれば、北京と組むしかない」と対中接近を決断したというのです(『「日米関係」とは何だったのか』邦訳・草思社)。 日本はなぜニクソンの打診を拒否したのか。60年安保もそうですし全面講和論もそうでしたが、背景には北京の対日工作がある。左派リベラル、社会党や労組が北京と一緒になって「反戦平和」という名の反日・反米闘争を繰り広げて、自民党政権がそれに屈してしまったわけです。自由・民主主義陣営の勝利を妨げるもの江崎 ベルリンの壁崩壊から25年経った昨年2014年、アメリカの共産主義犠牲者財団が記念ビデオを作製しました。ベルリンの壁の崩壊によってソ連共産主義との戦いに勝利したことを振り返ると共に、「アジアでは、核開発を強行する北朝鮮と、天安門事件を引き起こした中国がいまなお人権弾圧を繰り返しており、アジアでの共産主義との戦いはまだ続いている」というキャンペーンを繰り広げています。 アメリカの保守派の中には、戦後70年ではなく、アジアの冷戦という現在進行形の課題に強い問題意識を持つ人たちがいるのです。そうしたアメリカの議論がほとんど日本で紹介されてないというのも、やはりおかしい。島田 冷戦を、自由民主主義とそれに対抗する全体主義抑圧体制との理念闘争だと捉えれば、終わったのはヨーロッパにおいてだけで、アジアでは終わっていませんね。西岡 ベルリンの壁崩壊と同じ1989年に自由・民主を求める学生を虐殺した天安門事件で、中国共産党はファシズムを続ける選択をした。アジアでは、自由・民主主義陣営対ファシズム中国という構図を中心にした冷戦は終わっていないという評価は理論的に正しい。 一方で、日本が冷戦で自由主義陣営の一員として戦い、ソ連との勝利に貢献したことは、現在も続く冷戦を戦うためにも評価すべきだと思います。 日本は講和条約締結にあたって、全面講和論を退けて自由・民主主義陣営に入る決断をした。そして日米安保条約を結んで相応の役割も果たしてきた。最近、米軍関係者から、日米の軍事協力が実際に成功した例があると聞きました。米海軍と海上自衛隊がソ連潜水艦の太平洋進出を完全に阻止したことが、冷戦勝利に重大な貢献をしたというのです。海自のP3C機による対潜哨戒能力をアメリカは高く評価しています。そんな目には見えない戦いが世界中で繰り広げられた結果、91年にソ連が崩壊したのです。 モスクワでは5月、北京では9月に「反ファシズム戦争勝利70年」の記念行事が行われるんですよね。江崎 ええ。西岡 モスクワでの「反ファシズム」を冠した行事に、北朝鮮の金正恩まで参加するという話もあって、もうお笑いのレベルだけど。彼らの歴史の誤魔化しを暴く意味でも、今年から来年にかけ、1991年の冷戦勝利25周年を記念する行事を日米が中心となって開催すべきです。そのことによって、自由主義陣営は冷戦で共産党一党独裁のソ連を倒し、アジアにおける戦いで日本も貢献したけれども、現在も全体主義抑圧体制との戦いは続いているという歴史を明確にすることができる。江崎 ASEAN創設に寄与して国連のハマーショルド賞を受賞したマレーシアのガザリー・シャフェー元外務大臣が1993年に来日したときに話をする機会がありました。彼は「ソビエトに自由主義陣営が勝利できたのは、経済力を持つ日本とドイツがアメリカに味方したからだ。戦争に勝つには経済力が重要な要素であり、冷戦勝利に対する日独の貢献は莫大だ」と言っていました。日本は戦後、自由主義陣営の一員であることを選択し、アメリカと共にソ連と戦い、勝利した戦勝国であることを誇るべきであったのです。 ところが当時の日本は、慰安婦問題で河野談話が出た直後で、「次は戦後50年だ」、「中国など“近隣諸国”に謝罪すべきだ」という議論に明け暮れ、「敗者としての日本」にこだわらざるを得なかった。西岡 島田先生に教えていただいた話で、自由・民主主義陣営に冷戦勝利をもたらしたアメリカのロナルド・レーガン元大統領は1992年の共和党大統領候補指命大会の演説で、「われわれは冷戦に勝った。しかし私はときに疑いを持つ。この『われわれ』とは誰か」と問いかけました。参加者たちは「あなたが勝利者だ」「共和党が勝ったのだ」「民主党は違う」などの答えを叫んだといいます。アメリカは勝ったけれども、アメリカ人全員が勝者なのではなく、対ソ融和論を主張していた人々は本当の勝者ではないということです。 日本も自由・民主を選択して冷戦に勝ったけれども、違う選択をせよと主張し、冷戦終結後の大切な時期に過去にばかり目を向けるよう仕向けた左派リベラルは、負けた側ではなかったか。我々もレーガンと同じ問いかけをして、彼らの責任を追及すべきだと思う。島田 レーガンの問いは、民主党や主流派メディアに対してだけではなく、共和党内のデタント派、すなわち対ソ宥和的な平和共存主義をとった勢力にも向けられていました。デタントは、実は極めて今日的課題でもあります。中国がアメリカに向けて「新型大国関係」を持ちかけ、オバマ政権は同意したのかしていないのか曖昧な態度をとっている。お互いが勢力圏を認めあって共存しようというのが新型大国関係で、まさにデタントの発想です。 レーガンがデタント派を厳しく批判したのは、冷戦は理念の闘争であるという信条からでした。ソ連を「悪の帝国」と呼んだ有名な演説がありますが、「悪の帝国」の存続を認めていてはこちらの理念を捨てたことになる。ソ連の体制は倒すしかないと考えたのです。 天安門事件当時の大統領は、レーガンの後任のジョージ・ブッシュです。父ブッシュはデタント派でした。彼は天安門事件後間もなく、世界が中国に経済制裁をかけている中で、側近のブレント・スコウクロフト(国家安全保障担当大統領補佐官)やローレンス・イーグルバーガー(国務副長官、九二年から国務長官)を密かに北京に送り、「議会の圧力で制裁をしているが、できるだけ早く制裁を解除したいと思っている。日本にもそう働きかけている」といった宥和的メッセージを送っていました。それでトウ小平も安心して抑圧政策を維持できた。 日本でもアメリカでも、対中政策に関してデタント派がいまだ主流である状況は大きな問題です。西岡 われわれは拉致問題や慰安婦問題で外務省を再三批判してきました。まさにデタント思考だからです。ところが、朝鮮戦争勃発直後の1950年8月に外務省が公表した「朝鮮の動乱とわれらの立場」と題するパンフレットをみると、まったく異なる印象を持ちます。レーガン路線そのものです。「民主主義と共産主義という、とうてい相容れない二つの勢力が全世界にわたって拮抗している情勢のもとでは、いかにわれわれが『不介入』や『中立』を唱えてもそれはとうていできない相談である。共産主義は全世界にわたる民主主義の絶滅を終局の目標としているから、共産主義に全面的に屈服しないかぎり、その国はすべて共産主義の『敵』であり、共産主義国の辞典には『中立』や『不介入』などという言葉はあり得ないのである」 理念の戦いに相当する「思想戦」という言葉も使っています。「思想戦の見地から見て、すでに戦場にあるともいうべきわれわれがあいまいな態度を取ることは、実戦における敵前逃亡と同じ結果をもたらし、われわれの希望にもかかわらずかえって自由と平和を破壊せんとする勢力に利益を提供することとなり、真の意味における自主独立の回復にはなんら役立たないのである」 その思想戦において、共産主義を武器にしていた陣営は、いまや歴史、捏造の歴史を武器にして自由主義陣営に戦いを挑んできているわけです。島田 レーガンは大統領就任前にこんなことも言っています。「私の対ソ戦略はシンプルだ。われわれが勝つ。彼らは負ける(We win and they lose)」。明確で力強い。デタント派のように共産党独裁体制が永続すると考えること自体がインテリの弱さであって、とにかく倒すというレーガン的発想を思想戦において持たねばならないと思いますね。そこには歴史戦、歴史情報戦も含まれます。西岡 イスラエルの政治家で、かつてソ連で人権活動をしていたナタン・シャランスキーという人物は、レーガン大統領の「悪の帝国」演説を批判するソ連共産党の機関紙プラウダの記事を収容所で読んだそうです。独房同士、便器を通じて話ができたため、「レーガンがソ連を『悪』だと言ってくれている」という話が収容所内に広がって勇気づけられたと言っています。 「悪」を否定する価値観は国境を超えて大きな力になります。ところがデタント派は、相手が力を持っていることは認め、足して二で割って物事を進めようとする。相手を不倶戴天の「悪」だと考えるのか、「悪」でも力を持っているから存在を認め妥協すべきだと考えるのか、大きな違いです。 さきほど私は朝鮮戦争時の外務省を評価しましたが、30年後の1980年には同じ外務省とは思えないほど理念的に堕落していました。当時の全斗煥政権が日本に対し、共産主義陣営の軍事的脅威と戦うため60億ドルの経済支援を申し込んだ際、外務省はこんな驚くべき内部文書を作って、ともに共産主義と戦うことを拒絶したのです。 (1)全斗煥体制は、軍事ファッショ政権であり、これに対して日本が財政的てこ入れをすることは、韓国の民主化の流れと逆行するのではないか(略)。(2)韓国への経済協力は、韓国への軍事的協力のいわば肩代わりであり、日・韓・米軍事同盟(強化)の一環として極東における緊張を激化させる。(3)南北間の緊張が未だ激しく、南北対話の糸口さえ見出しえない現在、その一方の当事者である韓国のみに多額の経済協力を行うことは朝鮮(半島)政策として理解しがたい―。 当時の鈴木善幸首相も「日米同盟は軍事同盟ではない」と発言して物議をかもしましたが、外務省は北朝鮮と韓国のどちらが味方なのかさえ分からなくなっていたんですね。経済支援を拒絶したツケを、日本は教科書誤報事件で払うことになります。82年に日本メディアが、「文部省が高校日本史教科書の検定で、華北に対する『侵略』を『進出』と書き換えさせた」と誤報したときに、全斗煥政権は中国共産党や日本の反日左派勢力と組んでこれを外交問題化し、経済支援を改めて迫ったのです。 この問題をきっかけに日本の教科書検定に近隣諸国条項ができ、その後の歴史教科書の自虐化を招きましたが、韓国にも大きな禍根を残しました。日本の歴史問題で中国共産党と共闘する先例をつくってしまったことが一つ。もう一つは、左傾反韓史観が韓国内に蔓延する素地をつくってしまったことです。全斗煥政権が日韓基本条約締結時に解決した歴史問題を外交に持ち出すという禁じ手を使ったことで、「反日」の価値観が高まった。その結果、日本の陸軍士官学校を卒業した朴正熙大統領らによる韓国の発展を否定し、一方で「抗日の英雄」金日成を戴いた北朝鮮は民族的正統性が高いと評価する北朝鮮発の謀略的「反韓自虐史観」が広まった。この反韓史観によって韓国では80年代から従北派が勢力を急速に拡大したのです。 全斗煥大統領が日本に経済支援を求めたのは冷戦のためでした。アメリカは当時、ソ連と軍拡競争を行っていました。ソ連はそれに耐えられずに崩壊したわけですが、日本にも韓国にも軍拡が求められていました。アメリカの庇護のもと共産独裁全体主義のソ連、ファシズムに変質しつつあった中国共産党の全体主義の脅威と正面から向き合わずにすむ日本が、その武力侵略に直面してやむなく自由・民主主義の一部を制限した全斗煥政権をファシズムだと考えた。まさにデタント派、リベラル左派のバランスを欠いた思考が、現在の東アジアの安保環境の悪化を招いたのです。1955年の外務省が「思想戦であいまいな態度を取ることは…自由と平和を破壊せんとする勢力に利益を提供する」と指摘した通りです。人権を取り戻して武器とせよ人権を取り戻して武器とせよ島田 全体主義体制や専制抑圧国家と戦ううえで大切なのは、人権です。物理学者でソ連の反体制人権活動家として有名だったアンドレイ・サハロフに「人権問題は国内問題ではなく国際問題でもある。自国民の人権を尊重しない体制が他国の権利を尊重するはずがないからだ」という言葉があります。中国のような人権抑圧体制を放置することは、日本やベトナム、フィリピンに対する権益侵害、つまりは侵略を許すことになる。その意味でも中国は自由・民主化あるいは分割民営化ならぬ地域の文化や自律性をも重んじた民主化をさせるべきであり、それは可能なのだという発想を持たねばなりません。西岡 新たなデタント派は、中国は共産主義を捨てて市場経済を導入したのだから民主化するはずだ、賃金の安い労働力も利用できるし市場としても魅力があるのだから共存すべきだと言い続けてきました。トウ小平の微笑路線に騙されてきたわけです。 しかし、ファシズム人権抑圧体制下の市場経済では、国民は実質的奴隷労働を強いられることになる。実際に中国はたいへんな格差社会になって国民全体の福祉向上にはつながっていません。アパルトヘイト政策を採っていたかつての南アフリカの奴隷労働によって製造された安い製品と同様、普遍的人権の観点から、経済に短期的にマイナスになっても中国と距離を置くという議論をするべきです。日本の長期不況の一つの要因は中国に生産施設をどんどん移転したことですから、その点でも中国との関係を見直すべきなのです。島田 中国は市場経済化したのではなくて、ファシズム体制下で市場経済の要素を導入しただけです。いわゆるクローニーキャピタリズム、縁故資本主義に過ぎない。だから共産党幹部ら一部に富が集中して激烈な格差が生じている。自由公正な競争がないから、イノベーションも中途半端で技術力が高まらず、最新のイノベーションはアメリカや日本から盗む。かつてソ連がある程度経済を維持できたのも、最新テクノロジーを産業スパイで盗んでいたからです。つまり資本主義のエネルギーを産業スパイという形で不正導入することで生き残りを図ってきた。この体制はやはり潰さないといけない。江崎 それはアジア全体の利益でもあります。平成8年ごろ、インドネシア陸軍大学の元学長と話していて、「日本はアジアのために何をしたらいいですか」と尋ねると、「中国に対する援助をやめてくれ。中国の拡張主義を日本が応援することで、東南アジアは中国の支配下に陥る。それだけはやめてくれ。余計なことしてくれるな」と厳しい口調で即答されたのを覚えています。 実際に日本は中国を経済的に肥大化させることで、結果的に東南アジアの産業を潰してきました。インドネシアやベトナムの靴、衣料産業がそうです。日本には現在のような歪んだアジアの経済状況を是正する責任があります。 オバマ政権で親中姿勢が顕著なアメリカですが、その内情は一枚岩ではありません。レーガン大統領の流れを汲んだ安倍首相のような考え方の政治家が確かにいる。アメリカ軍、特に太平洋軍の中にも、中国の拡張主義と戦おうと考えている人たちがいる。しかし肝心の日本がこれまでデタント思考で旗幟鮮明にしないできたために、慰安婦問題も含めて本当の意味でのアメリカの味方を引き込むことができていない。 安倍首相が今年、談話を出すのであれば、中国の拡張主義に警戒心を持っているアメリカの保守派やアジア太平洋諸国を味方にするようなメッセージこそ必要です。具体的には、「我々日本は人権、自由、民主主義という価値を守るため、アメリカやASEAN諸国と共に、共産主義陣営あるいは全体主義抑圧体制と戦ってきた」という冷戦を見据えた談話を出すべきです。その上で同時に日本はアメリカやASEAN諸国だけでなく、インドやオーストラリアなどとも連携して今後ともアジアの自由と民主主義と人権を守る責任を果たすことも打ち出すべきです。西岡 70年談話で第二次世界大戦について触れるのであれば、現在も続く自由・民主主義の戦いという観点で、スターリンとヒトラーという二つの「悪」にアメリカと日本が分かれて同盟し、お互いに戦ってしまったという悲劇的が過去にあったという点で、日本の誤りや敗北を認めてもいいかもしれません。 一方、安倍首相が内外の反日勢力から継承を迫られている村山談話には、自由・民主主義の戦いについて何も書かれていません。村山談話は、自分たち社会党が、日米安保に反対したり自衛隊が憲法違反だと言っていたりしたことや、ベトナム戦争でアメリカは侵略者だと言っていたことをごまかすために、過去の日本の「悪」を意図的にフレームアップしたのではないか。 人権で言うと、安倍外交によって国連人権理事会に北朝鮮の人権問題や拉致問題の調査委員会ができ、北朝鮮の人権抑圧は人道に対する罪だという報告書が出され、金正恩の国際司法裁判所(IOC)での訴追をも可能にする「北朝鮮人権決議」が昨年12月に国連総会で採択されました。土壇場の安保理でIOC付託に反対したのが、まさに今年、「反ファシズム戦争勝利70年」記念行事を開く中国とロシアです。 人権理事会は反日勢力、左翼の独壇場で、毎年のように日本が慰安婦問題で北朝鮮や韓国から非難されてきました。これは歴史問題の縮図であって、70年前の話をするなら70年間全体を取り上げるべきなのに、日本は70年前を謝ることで蓋をしようとして、誹謗中傷され続けてきたわけです。 だからこそ、70年前だけをいう歴史の枠組みに与してはならない。戦後70年間、どちらの側が収容所をつくって人権を抑圧し、いまも抑圧しているのかを問うべきです。江崎 人権の理念を左派リベラルから取り戻さねばならない。冷戦の敗北で日本社会党も大きなダメージを受けましたが、そこで彼らは党内に「国際人権研究会」という組織をつくり、弁護士の戸塚悦朗氏らと共に国連人権委員会で慰安婦問題などを提起したのです。日本の「戦争犯罪」をでっち上げ、人権問題と結び付けて政治問題化することで、ソ連や中国、北朝鮮の深刻な人権弾圧を隠蔽した。日本の過去の問題で騒いで現在の問題を隠蔽するという手法で彼らは一貫しています。島田 左派リベラルには知的羞恥心というものがありませんからね。レーガン大統領を「戦争屋」だの、すぐに拳銃の引き金を引く「トリガー・ハッピー」だ、核のボタンを押したがる「ボタン・プッシャー」だのと非難していた勢力が、今やしばしばレーガンを「一発も撃たずにソ連を巧みに崩壊させた」と評価する。狙いは、テロとの戦いを進めたブッシュ・ジュニア共和党政権を「トリガー・ハッピー」だと非難することにあるわけですが、レーガンを引き合いに出すあたり実に厚顔です。 定見のない左派リベラルの誹謗中傷など気にせず「ソ連は悪の帝国だ」と力強く打ち出し、抑圧体制の被害者を鼓舞したレーガン大統領のように、安倍首相には「中華人民共和国こそファシズムの典型だ」と大いに口にしてもらいたい。これは知的に正しい議論です。「反ファシズム戦争勝利」を言い立てる中国共産党の欺瞞に反論する国家リーダーがいないような国際社会にしてはなりません。西岡 議論をまとめます。ソ連崩壊で終わった冷戦第一期においては、勝利した自由・民主主義の陣営で日本も戦った。しかしアジアの冷戦はいまも続いている。中国ファシズムに対する自由・民主主義の戦いというこの第二期冷戦の主軸は日本であるべきだが、冷戦を隠蔽して日本だけを「悪」とする戦後七十年史観の罠にはまっていては正しく戦えない。冷戦を見据えた新たな歴史観の枠組みを提示すべきだ、ということですね。江崎 今日は話題にできませんでしたが、私は、日本にとっての冷戦はわが国に共産主義思想が押し寄せてきた大正期に始まり、大東亜戦争に影響を与えて現在も続いていると考えます。2017年はロシア革命100年、2019年は世界革命を目指した国際組織コミンテルン創設百年です。戦前・戦中も含めてこの100年を見通した「100年冷戦史観」とでも言うべき歴史観の確立に向けて、今後も議論させていただきたいと思います。

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    捻じ曲げられたポツダム宣言

    日本に戦争終結を促したポツダム宣言は全13カ条から成る。日本がこの宣言を受諾し、第二次世界大戦は終結した。しかし、その裏側には大国の駆け引きやトルーマン大統領の思惑も交錯する。アメリカの戦争犯罪の側面も見え隠れするのだが……。

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    河野洋平と村山富市

    先月、河野洋平元官房長官と村山富市元首相がそろって公の場で安倍批判を繰り広げました。もう随分とお歳を召され、好々爺らしくなっていましたが、この時ばかりは相変わらずの上から目線の発言が目立っていました。それにしても、お二人とも「老害」という言葉まですっかりお似合いになられたようで……

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    村山談話、削られなかった“4文字”の文言 元「参院のドン」村上正邦氏が激白

    安積明子(ジャーナリスト) 村山富市元首相が1995年8月15日、戦後50年の節目に発表した「村山談話」に対して、「謝罪ありき」「秘密裏につくられた」といった批判が広まるなか、自社さ3党が同年6月、衆院で強行した「戦後50年決議」が改めて注目されている。参院での決議を踏みとどまらせた、かつての「参院のドン」こと、村上正邦・元参院自民党議員会長に聞いた。 「参院での決議は絶対に認められなかった」 村上氏はこう語った。 戦後50年決議は、正式には「歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議」という。内容は「植民地支配」と「侵略」を認めて謝罪した村山談話とほぼ同様だ。国会決議は全会一致が原則だが、反対が多く、与野党から欠席者が続出するなか、衆院では強行採決され、参院に回ってきた。 村上氏は「(参院での)決議が予定されていた前日、私は衆院側の自民党役員室で執行役員ら、なかでも、当時の加藤紘一政調会長と主に話し合った。決議案を見せられた私は『この4文字を削ってくれ』と言った」と振り返る。 削除を求めたのは、決議案の「世界の近代史上における数々の植民地支配や侵略的行為に思いをいたし、我が国が過去に行ったこうした行為…」の中の、「こうした」という4文字だ。村上正邦氏 「これでは日本が『植民地支配や侵略的行為』を行ったことになってしまうが、事実はそうではない。東京裁判で、インドのパール博士が主張したように『日本が戦争を起こしたのは、侵略のためではなく、西洋諸国によって挑発されたため』なのだ。戦禍に倒れた幾多の人々は、自立自尊の日本国をただひたすら守り続けようとされた、その思いをくみ上げることこそが、決議の意義であると」と村上氏。 話し合いは深夜11時まで続き、最終的に「文言を削る」ということで決着した。ところが、村上氏が「印刷した修正文案がほしい」というと、自民党幹部は「それはできない」という。 それでも、同じ政党の仲間だからダマすことはしないだろうと、村上氏が参院側にある幹事長応接室に戻ると、大勢の人々が詰めかけて「何も変わっていないじゃないか!」と憤っていた。 直前に正式発表された決議案には、削ることで合意したはずの「こうした」の4文字が入っていたのだ。 驚いた村上氏が衆院側の役員室に戻ると、すでに誰もいなかった。 「私をペテンにかけたのか! そんなことをするのなら、参院では決議しない!」 こうして、参院では決議案の提出自体が見送られた。 「村山談話」については最近、「謝罪ありきで、言葉の定義はあいまい、理論的裏付けもなく、秘密裏につくられた」という批判も多く、作成経緯を検証するプロジェクトチームが始動している。その過程で、不可解な「戦後50年決議」も検証されそうだ。

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    「謝るほどに悪くなる日韓関係」ついに終止符を打つ時が来た

    黒田勝弘(産経新聞ソウル駐在客員論説委員) 戦後70年(韓国では解放・光復70年)、日韓国交正常化50年を迎えた今年、韓国のメディアでは予想通り年初から“反日報道”が荒れ狂っている。2015年日韓歴史戦争の幕開けである。 直近でいえば、ISIL(イスラム国)による日本人殺害事件に関連し、韓国政府は朴槿恵大統領が安倍晋三首相に哀悼の書簡を送るなど対日姿勢を軟化(?)させているが、メディアは一斉に「安倍、自衛隊の海外武力行使拡大へ」(2月2日、東亜日報)など逆に“安倍叩き”に熱を上げている。 あるいは定番の慰安婦問題では、日本政府が米国の学校教科書の誤った記述に是正を求めている話にかみつき、米国の学者・研究者19人(!)が日本非難の声明を出したといって、何日かにわたって大々的に持ち上げている。 きわめつきは安倍談話問題。安倍首相がNHK「日曜討論」(1月25日)やその後、国会答弁などで「歴代首相の談話と同じ表現を必ず使うとはいわなかった」として、早くも「反省無き終戦70年談話」「中身の抜けた談話はコメディ」などと非難キャンペーンを展開している。東京都内で開かれた日韓国交正常化50年の韓国側記念行事であいさつする安倍晋三(しんぞう)首相(右)と、韓国・首都ソウル市内の日本側記念行事で演説する韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領=2015年6月22日(共同) そんな中で発刊された前大統領・李明博の回顧録『大統領の時間 2008―2013』には2010年、菅直人首相によって出された「日韓併合100年」の「談話」の経緯が記されている。 回顧録は、菅首相から談話内容については事前に電話で知らされたとし、過去の謝罪と反省が今回は韓国に特定されたことに加え、李王朝文書返還など「自分が求めてきた(謝罪と反省の)具体的行動」が込められていたとし「村山談話を越えて韓日関係を進展させる歴史的措置だった」とべたぼめしている。 しかし戦後50年の村山談話や慰安婦問題の河野談話(1993年)もそうだが、韓国が守れ、守れと日本にしきりに要求して騒ぎ立てる、韓国にとってそんなに好ましい素晴らしい内容だったのなら、そこで「納得」となって過去は終わりとなっていたはずではなかったのか。 それが終わらず蒸し返されてきた。1998年、「日韓共同宣言」と銘打って文書で完璧に「謝罪と反省」を明記し、これを取り付けた金大中大統領など「これで過去は清算された」と言ったのに、韓国側はその後も過去を蒸し返し続けている。 安倍政権に対してはスタート以来、右傾化とか軍国主義復活、歴史歪曲……などと非難の大合唱を続けてきた韓国では、どんな内容になろうが「安倍談話」は認めず叩きまくろうと手ぐすね引いている。ということは、韓国相手にはもはや「謝罪と反省」は何の意味も効果も持たないということだ。「謝るほど悪くなる日韓関係」に終止符を打つ時である。 その意味で「戦後70年安倍談話」は韓国にこだわる必要はない。そして70年前いや1945年以前にこだわることもない。むしろ1945年以降、これまでの70年間の歴史をしっかり振り返った方がいい。日本は過去の反省、教訓の上でいかに国際社会に貢献したかを語ることだ。 そして韓国、中国を含むアジアに対しては、過去の反省に立った日本の支援がアジア諸国の発展に寄与できたことをうれしく思うと、堂々と述べればいい。戦後70年とは別に「日韓50年談話」も必要なら出していい。その際も併合や日本統治時代の話などではなく、新しい日韓協力の50年間が韓国の現在のめざましい発展につながったことに感謝(!)し、共に喜びたいと語ればいいのだ。“歴史戦争”は相手にこちらの主張をいくら認めろといっても耳は貸さない。狙いはむしろ外野というか国際社会だ。韓国、中国を含む戦後アジアの発展への日本の寄与これこそが“過去イメージ”を乗り越え、国際的共感を得るものであり、歴史戦争に勝てるキーワードなのだ。関連記事■ 李明博前大統領の回顧録 竹島上陸を自画自賛する記述が並ぶ■ 朴槿恵大統領の言論抑圧 ISや北朝鮮テロに免罪符与えかねず■ サムスン 栄華の象徴だった六本木自社ビルから飯田橋に移転■ 事故続発の韓国・第2ロッテワールド 扉はドイツ関連と説明■ 韓国人作家「蔑称『チョッパリ』はただの哀れな呻き」と指摘

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    あっけにとられた村山氏の「善意」と河野氏の「真実」

    阿比留瑠比(産経新聞政治部編集委員)  村山富市元首相と河野洋平元官房長官が9日、日本記者クラブで行った対談と質疑応答にはあっけにとられた。日本記者クラブから色紙への揮毫(きごう)を求められた河野氏は、あろうことかこう書いたのである。 「真実」 平成5年8月、証拠資料も信頼に足る証言もないまま、慰安婦募集の強制性を認める「河野談話」を発表した当人が河野氏だ。 河野氏はメディアのインタビューなどで、河野談話の根拠は韓国人元慰安婦16人への聞き取り調査だと強調していたが、実は聞き取り調査の前に談話の原案が作成されていたことが判明している。しかも、聞き取り調査の実態はアリバイづくりのための「儀式」(外務省内部文書)だった。6月9日、日本記者クラブで対談する河野洋平元衆院議長(左)と村山富市元首相=(栗橋隆悦撮影) 河野氏はまた、河野談話の趣旨・文言をめぐって韓国政府との間で事前にすり合わせが行われたことを否定し続けていた。だが、実際のところ談話は、大幅に韓国側の要求を取り入れた合作であったことも明らかになっている。 にもかかわらず、河野氏は色紙に「真実」と記し、その理由について「ジャーナリストの仕事は真実を追究すること」と前置きした上でこう説明した。 「とにかくまず最初は事実を認めることが大事。真実、事実を認めることからやらなきゃダメだ。一つ細かいことを持ってきて、だからなかったんじゃないかと言って否定する。よそでもやっているからいいじゃないか、と言わんばかりの言い方をする。こんなことが、どのくらい日本人の名誉を傷つけているか。私は非常に怒っている」「中国の本心は『軽蔑』」 ほとんど悪い冗談のようなセリフだ。事実関係を軽視し、旧日本軍や官憲がやってもいないことを浅薄な政治判断で認め、現在まで日本人の名誉をおとしめ続けてきた河野談話の当事者が河野氏なのである。天につばするとはこのことだ。 自国民より特定近隣国の要望を優先させてきたかのようにみえる河野氏は、自らの独善的で軽薄な言動にどれだけ多くの日本人が非常に怒っているか、まだ分からないのだろうか。 小泉純一郎政権当時、外務省チャイナスクール(中国語研修組)のある幹部から聞いた次のような河野氏の評価を思い出す。 「河野さんと加藤紘一さん(河野氏の前任の官房長官)はライバルであり、どちらがより親中派かでも競い合っている。だから、加藤さんが訪中すると、すぐに河野さんも訪中して、ともに靖国神社参拝などで小泉政権を批判する。中国は便利だから彼らを厚遇するけど、本心ではわざわざ外国に来て自国をけなす彼らのことを軽蔑している」「政治の未熟児」 一方、村山氏は対談後、色紙に「思いに邪(よこしま)なし」としたため、こう語った。 「私の気持ちに邪なものはありません。まっすぐです。(河野氏の)『真実』と同じですよ、表現が違うだけで」 両氏とも、自身を「善意の人」と認識しているのだろう。とはいえ、ドイツの政治家で社会学者のマックス・ウェーバーは有名な講演録『職業としての政治』の中でこう語っている。 「善からは善のみが、悪からは悪のみが生まれるというのは、人間の行為にとって決して真実ではなく、しばしばその逆が真実であること。(中略)これが見抜けないような人間は、政治のイロハもわきまえない未熟児である」 両氏には、もう少し年齢相応に振る舞ってほしいと願う。

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    河野洋平氏の「歴史的大罪」、そして国会招致についての必要性

     みなさんの記憶に新しいと思いますが、米カリフォルニア州グレンデール市に設置された「慰安婦」像の撤去を求め、日系人や在米日本人らが連邦裁判所に訴訟を起こしました。 昨年3月、原告であるNPO法人「歴史の真実を求める世界連合会(GAHT)」は国会内で帰国報告会を開きました。 その中で私は、歴史の真実を求める世界連合会代表の目良浩一元米ハーバード大助教授に対し、このような問いかけをしました。 「皆さんはアメリカで孤軍奮闘、本当によく頑張ってくださっている。日本にいる私たちができることはなんですか?もし我々が、『河野談話』を撤回することができれば皆さんの力になりますか?」 目良氏は大きくうなづいてくださいました。 この裁判は被告グレンデール市の請求にこたえ、裁判所が今回の訴訟をSLAPP(strategic lawsuit against public participation 直訳すると「市民参加を妨害するための戦略的訴訟」)と認定。結果、今年に入って早々に、昨年一審判決があった連邦裁判所と同じく州裁判所も原告の訴えを棄却しました。 そして国内でも我々は未だ河野談話を撤回するどころか、河野洋平元官房長官の国会招致すら実現できていません。 目良氏をはじめとする在米日本人の方々との出会いは、一昨年12月にさかのぼります。 臨時国会終了後、実際に慰安婦像が建立されたアメリカカリフォルニア州グレンデール市を訪問しました。 これまで日本国内では忘れられていた慰安婦問題でしたが、この年5月の橋下徹日本維新の会共同代表の発言を始め、産経新聞の検証記事、NHK会長に就任した籾井勝人氏の就任会見での発言など、国内外でにわかに注目を集め始めていました。 私たちの前にグレンデール市を訪問した国会議員はいません。今回の訪問が日本国、韓国、そしてアメリカに及ぼす影響を考えてやめた方がいいという意見が多くありました。 でも、現場主義を自認している私は何としても実際に何が起こっているかを知りたかったのです。この時背中を押してくださったのは、中山成彬先生、山田宏先生でした。 特に中山先生は、現地で慰安婦像撤去の運動に携わっていらっしゃる方を何人か紹介してくださいました。そのうちの一人が目良浩一氏で、滞在中の我々のガイド役も買って出てくださいました。2月20日、提訴後に会見する「歴史の真実を求める世界連合会」の目良浩一・元ハーバード大助教授(右)。左は原告代理人の弁護士ら(中村将撮影) 2泊4日の強行軍でしたが、とても充実した視察となりました。 実際にアメリカに行ってみて、「中韓の国家を挙げての情報戦に大きく差をつけられて負けている日本」を思い知らされました。目良さんたちのような有志の一般人のみの活動ではとてもじゃありませんが勝てません。 でも、河野談話を撤回すれば、日本に一筋の光が見えてくると思います。河野談話がある限り、中韓に何を言われても反論できないし、外務省も動き難い。いくら、日本が真実を叫んでも「河野談話」がある限り「日本政府が認めているではないか」と世界中から反論されます。 アメリカから帰国した私に、予算委員会での質問のチャンスが巡ってきます。NHKの中継入りの委員会において一年生議員が質問に立てるのは異例です。私に与えられた20分をすべて慰安婦問題でやりきろうと思いました。海外で頑張っている人の力になりたい。なんといっても先人に着せられた汚名を晴らしたい。 念入りに原稿を用意し、練習し、本番に臨みました。 はじめに、対外広報予算がどうなっているのか?を質問。中韓の海外での展開している情報戦において、日本が国家として対応すべきだということを主張しました。 続いてグレンデール市をはじめとするアメリカ本土での慰安婦像建立の実態について、実際に取材してきた現地の状況を話しました。 そして最後に、河野洋平元官房長官の参考人招致を要求、予算委員会の理事会での検討をお願いしました。時間はぎりぎりでしたが、二階俊博予算委員会委員長から「検討します。」という発言を引き出すことができました。 このあと、中山成彬先生が再度河野元官房長官と当時官房副長官だった石原伸雄氏の参考人招致を要求した結果、なんと石原氏の予算委員会招致が実現しました。(「血圧が上がるような質問をしないこと」という条件付きでした。) そしてこの歴史的質疑を行ったのは、山田宏先生。石原氏の口から、談話作成時に韓国とのすり合わせがあったこと、強制連行の証拠が見つからない為、元慰安婦の証言を基に談話が作成されたこと、また、その証言の裏付け調査を行っていないこと等の真実が明らかになりました。 これを受け、政府は河野談話の検証を行うことを約束。直ちにその作業に着手しました。 一方、日本維新の会(当時)が行った河野談話撤廃を求める国民運動は、1ヶ月あまりの間に14万筆を超える署名を集めました。中山先生、田沼隆志先生とともに官邸に署名を届けに行った時、受け取ってくださった菅官房長官が、「私も気持ちはみなさんと一緒です。」と、おっしゃってくださったことが今でも印象に残っています。  さて、現状の話をします。 政府は河野談話の検証は行いましたが、それだけで、談話の見直しや撤廃にはつながっていません。 昨年末の選挙で次世代の党は大敗を期しました。現在国会で、慰安婦問題を口にする議員は存在せず、河野洋平元官房長官の招致も実現する機運がありません。 朝日新聞が慰安婦問題の捏造を32年間の長きにわたり行っていたことを認め、訂正記事を出したにもかかわらず、日本国民はこのことにほとんど関心がありません。また、海外に対して全く発信されていません。大きな手ごたえがあったと思った「慰安婦問題」ですが、現状は何ら変化がないと言わざるを得ません。 一年前の雑誌のインタビュー記事の中で私は、 「今は河野談話の見直しに向けた動きが注目されています。これをブームで終わらせるつもりはありません。もっと言うなら“河野談話を見直し、撤回若しくは新しい菅談話、安倍談話を作成することでブームを終わらせる”、そんな覚悟で挑んでいきたい。」 と、発言しています。昨年のような盛り上がりはなく、ブームは去ったとみられているかもしれません。 でも、我々の戦いは続いています。 慰安婦問題をこのまま放置してしまうと、私たちの子どもや孫世代も中韓の嘘に謝り続けなくてはならない。そのような事態を避けるためにも、この問題は私たちの世代で解決しなくてはなりません。 先日、村山富市元首相と河野洋平元官房長官が対談し、お互いの談話をたたえ合ったという報道に驚きました。元社会党と元自民党の要職であった二人が一緒に記者会見をする。国内外のマスコミが押し掛け、主要紙やテレビがそれを報じ、海外にも発信されました。 反日勢力は必死です。政党の枠を超えて、大きな一つの塊になろうとしています。一方の保守勢力はいつまでたっても一つになれない。目的が一緒でも政党が違えば手を組むことを阻まれます。そればかりか、経済政策や外交手段等の意見の違いで、分裂し、お互いを攻撃し合っています。 私はそのような状態を憂いでいますが、ただ嘆いていても始まりません。今は国会議員ではないので、活動も限られますが、自分がやれることからやっていかなければいけないと思っています。 7月下旬にスイスジュネーブで開かれる女子差別撤廃委員会に合わせて、慰安婦問題について日本の真実を訴えるため、ジュネーブ入りをしたいと考えています。 また後日、その報告をさせていただける機会があれば、うれしいです。

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    河野洋平氏はなぜ「上から目線」でモノを言えるのか

    「河野談話」で日韓関係は良くならなかった 河野洋平元官房長官、村山富市元首相の「上から目線」の発言が止まらない。安保法制について、三人の憲法学者が集団的自衛権の行使について、「違憲」だと発言したことに勢いを得ているかのようだ。6月9日の日本記者クラブでの対談では、平成5(1993)年の「河野談話」、平成7(1995)年の「村山談話」を互いにたたえあってみせた。 この中で村山氏は、「河野談話発表後、日韓関係は前進していたのに、現政権が寝た子(韓国)を起こした」と発言したという。事実誤認も甚だしい。民主党政権の首相だった野田佳彦氏は、平成26(2014)年8月に自身のブログである「かわら版」でそのことをはっきり証言している。 野田氏が平成23(2011)年12月に李明博当時大統領と会談した際、李大統領は時間の大半を費やして慰安婦問題の解決を求めてきたそうである。これに対して野田氏は、昭和40(1965)年の日韓請求権協定によって法的には完全に決着しているという態度を貫いたという。その上で野田氏は「両国関係の悪化は残念ながら野田政権の時から始まっていました。その時、日本は右傾化していたのでしょうか。むしろナショナリズムとポピュリズム(大衆迎合主義)を連動させる動きが韓国側から始まったと見るべきでしょう」と言うのだ。 野田氏の見立ては正しい。そもそも「河野談話」によって日韓関係が改善した事実があるのだろうか。韓国の要求に屈した「河野談話」6月2日、共同通信加盟社論説研究会で講演する河野洋平元衆院議長 「河野談話」は、表向きには日本政府が自主的に、独自の判断で作成されたものとなっている。だが実際には、「河野談話」の文言について、韓国側との緊密な協議が行われていたことが、明らかになっている。内閣官房と外務省によって設置された河野談話作成過程等に関する検討チームの報告書「慰安婦問題を巡る日韓間のやりとりの経緯~河野談話からアジア女性基金まで~」(平成26年6月20日)によれば、「韓国側との調整の際に、主な論点となったのは、(1)慰安所設置に関する軍の関与、(2)慰安婦募集の際の軍の関与、(3)慰安婦募集に際しての『強制性』の3点であった」ということである。 報告書によれば、この協議で韓国側は、(1)の慰安所の設置については、日本側は軍当局の「意向」という表現を提示したのに対して、韓国側は軍当局の「指示」という表現を求めてきたという。これに対して、日本側は「軍の『指示』は確認できないとしてこれを受け入れず、『要望』との表現を提案」しているが、最終的には「要請」になっている。 (2)の慰安婦募集の際の軍の関与については、「韓国側は『軍又は軍の指示を受けた業者』がこれに当たったとの文言を提案」してきたが、「日本側は、募集は、軍ではなく、軍の意向を受けた業者が主としてこれを行ったことであるので、「軍」の募集を主体とすることは受け入れられない、また、業者に対する「指示」は確認できない」として、「軍の『要望』を受けた業者との表現」を提案している。これに対して韓国側は、「改めて軍の『指図(さしず)』という表現を求めてきたが、最終的には「軍の『要請』を受けた業者」ということで決着している。 (3)の慰安婦募集に際しての「強制性」については、強制連行を裏づける資料は発見されなかったにもかかわらず、韓国側の意向を受け入れ、「甘言、強圧による等本人の意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担」という表現が盛り込まれることとなった。 このように韓国側の意向を大きく取り入れて、軍による強制を強く示唆する内容で作成されたのが、「河野談話」であった。論点となった三点を見れば明白なように、韓国側がこの問題で最も重視してきたのが、「軍による強制」ということであった。「河野談話」は、この核心部分で韓国側に譲歩を行うことにより、慰安婦問題での政治決着を図ろうとしたものである。 河野氏は、談話を発表した際の記者会見で、強制連行を裏付ける資料がなかったことに関連して、「強制ということの中には、物理的な強制もあるし、精神的な強制もある」。精神的な強制というのは、「官憲の記録に残るというものではない部分が多い」などと述べ、強制性に駄目押しする発言までして韓国側を喜ばせた。だが政治決着には至らなかった。 「補償は要求しない」の約束は破られた この際、韓国側の“殺し文句”が、「元慰安婦への補償を要求しない」ということであった。93年3月13日の金泳三大統領は、「(慰安婦問題で)日本政府に物質的補償を要求しない方針であり、補償は来年から韓国政府の予算で行う」と表明している。その後も韓国側は、金銭的な補償は求めない方針であることを再三説明してきた。 ところが韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)などが、日本の国家補償を求めてきたために、韓国政府の方針も覆ってしまうことになる。日本側では、「女性のためのアジア平和国民基金」(「アジア女性基金」)を立ち上げ、民間からの募金による「償い」をすることになったが、韓国との関係では何の解決策にもならなかった。 要するに「河野談話」は、日韓関係の改善どころか「反日」の機運に火をつけただけのことなのである。韓国の日本大使館前やアメリカ各地には慰安婦像が建てられているが、これは未来永劫、日本を貶めようとするものである。河野氏はこれをどう思うのか。河野氏の自宅前に慰安婦像を建てても結構だとでも言うのだろうか。

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    米国の日本悪玉論

    「日本には行き過ぎた愛国主義者が存在している」─米歴史学会の重鎮ジョン・ダワー先生の「ご託宣」です。それゆえに「日本悪玉論」を展開されておられる…。

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    「日本悪玉論」を拡散するジョン・ダワー

    岡部伸(産経新聞編集委員)米国の反日研究者 連休の最中の5月2日、天皇制を批判し、日米同盟の強化も危険と論じる米国の日本研究家がまた「日本悪玉論」を説教めいて語った。TBSの「報道特集」に「戦後70年 歴史家からの警告」と題して登場した『敗北を抱きしめて』の著者、マサチューセッツ工科大学のジョン・ダワー名誉教授である。 「日本には行き過ぎた愛国主義者が存在しているので、戦争が日本にもたらした結果や日本人がアジアで行ってきたことに真摯に向き合えなかった。未だに向き合えていない。『あれはひどい戦争だった』という声にもう一度耳を傾けるべき」 行き過ぎた愛国主義者のせいで反省が出来ないと叱った。いつもの自虐史観の押しつけである。「アジアへの加害者責任」と謝罪を唱えるのは、まるで従軍慰安婦や南京虐殺などで反日プロパガンダを繰り返す中国と韓国の代弁者のようだ。同じ頃に慰安婦問題などを取り上げて安倍政権に「侵略の過ちを清算せよ」と叱責する米国の日本研究者ら「187人(さらに賛同者が増え5月末までに457人)の声明」にも名前を連ねたダワー教授が日本に「過去への反省」を訴えるのは初めてではない。『朝日新聞』2008年12月22日付朝刊には「田母神論文『国を常に支持』が愛国か」と題して寄稿している。〈アジア太平洋戦争について、帝国主義や植民地主義、世界大恐慌、アジア(とくに中国)でわき起こった反帝国主義ナショナリズムといった広い文脈で論議することは妥当だし、重要でもある。(中略)しかし、一九三〇年代および四〇年代前半には、日本も植民地帝国主義勢力として軍国主義に陥り、侵攻し、占領し、ひどい残虐行為をおこなった。それを否定するのは歴史を根底から歪曲するものだ〉 日本が「悪者」で、「南京大虐殺」「従軍慰安婦」を事実と決めつけ、「帝国主義」国家が「侵略」し、人民は抑圧されたとみなす。それ以外の史観を、「歴史修正主義」と排外視するのはなぜだろうか──。E・H・ノーマン ダワー教授が日本研究家として大先輩であるハーバート・ノーマンを敬愛し、日本を「解体すべき危険なファシズム国家」と位置づけるノーマン理論を引き継いでいるからだ。英国立公文書館所蔵の秘密文書でMI5(英情報局保安部)が共産主義者と断定したノーマンの歴史観は自虐史観というよりマルクス主義史観である。 ダワー教授の著作を見れば明らかだ。2002年に加藤周一編『ハーバート・ノーマン 人と業績』で、「この領域(近代日本史研究)の欧米の学者として、ずば抜けて鋭く最も影響力ある地位を確立した。実際、彼以前にそのような偉業をなし得た人物はいなかった。他に誰がなし得ただろうか」とノーマンを絶賛し、2013年に上梓された『忘却のしかた、記憶のしかた』では、第一章を「ノーマン再評価」にあて、「戦後や占領後の学界の傾向は、『明治国家の権威主義的な遺産』というノーマンの考えにたいし、根源的な敬意をもっていた」と指摘した上で、「(ノーマンは)一九三一年以降の日本の侵略が、(中略)日本という国家の性格がまねいた結末でもあった(と解釈して)(中略)、明治維新の不完全な性格や、軍国主義的な政策、権威主義的な構造から生まれた問題こそが、彼(ノーマン)の近代日本分析の核心だった」と深い敬意を持って論評している。「未完の占領政策」 「戦前まで封建社会にあった日本は専制的な軍国主義国家がすべて悪い。容赦なく国家体制を解体し人民を解放すべし」というノーマンの「暗黒史観」は日本を弱体化させる占領政策を進めていたGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)のニューディーラーたちに重宝された。ところが冷戦が始まり、米ソ対立が激化すると、マルクス色が強い赤い「民主化」政策が変わる。いわゆる「逆コース」である。 1949年に共産中国が誕生し、翌50年に朝鮮戦争が勃発し、米国は日本を東アジアの共産主義の防波堤に活用した。懲罰的な占領政策は取りやめて日米安保条約を結んで日本を同盟国に格上げしてサンフランシスコ講和条約発効とともに西側自由主義陣営の一員として経済復興を支援するようになる。この政策転換を支えたのが駐日米国大使となったエドウィン・ライシャワーの理論だった。「戦犯裁判や公職追放を通じて一部の軍国主義者たちを排除した結果、日本は再び民主主義国家として再出発できる」と対米従属の日米安保条約のもとで、日本を同盟国として扱うことを正当化した。蜜月だった日本共産党は非合法化され、徳田球一も野坂参三も中国に逃亡する。公職追放が解除されて旧政財界人等の復帰がはじまり、レッドパージにより、保守勢力の勢いが増した。マッカーサー命令による警察予備隊の編成が再軍備の端緒ともなった。 米国内でノーマンが共産主義者でソ連のスパイではないかとの疑惑が広がるのは、ちょうどその頃である。50年にカナダ外務省は46年8月から駐日カナダ代表部主席を務めていたノーマンを解任する。カナダ外務省本省からカナダの国連代表となったノーマンに対して米上院司法委員会国内治安小委員会が共産主義との関連を追及するのは51年8月からだ。ここに来てようやく米国ではノーマンは「アジアの共産化を企てる共産主義者」と批判されるようになり、学問的影響力を失う。カナダ政府は、ノーマンは共産党員でもソ連のスパイでもないとして、ニュージーランド高等弁務官、エジプト大使に昇進させたが、1957年4月、ノーマンはカイロで生命を絶った。 その後、「忘れられていた歴史家」ノーマンが米国で再び注目を集めるのはベトナム戦争が終結した1975年ごろからである。前述のダワー教授が同年に『近代日本国家の起源─ノーマン選集』の形で99ページに及ぶ解説をつけて『日本における近代国家の成立』(1940)と『日本政治の封建的背景』(1944)を再刊行して、ノーマンの歴史観の再評価を訴えたからだ。 評論家の江崎道朗氏によると、ノーマン復権を唱えたダワー教授の理論の下敷きになったのが米国でベトナム反戦運動を展開したニュー・レフト(新左翼)だった。彼らは、ソ連の支援を受けた北ベトナムが勝利し、共産政権ができれば、東南アジアにも共産主義政権が誕生し、世界共産化が進むと考えた。ところが1965年のインドネシア共産クーデターが阻止され、反共を掲げる東南アジア諸国連合(ASEAN)が創設された。そこでニュー・レフトの理論的指導者、カリフォルニア大学のヘルベルト・マルクーゼ教授が1969年、『解放論の試み』を出版し、アジア・アフリカ諸国で共産革命が進まないのは、革命闘争を欧米の資本主義国が豊富な資金と武器援助によって抑圧するためと分析し、アジア・アフリカの解放には、共産勢力の強化より、資本主義国の弱体化が必要と訴えた。皇室解体と加害責任追及 このマルクーゼ理論を基にダワー教授は、ベトナム、ひいてはアジアの民主化を阻害する米国の帝国主義者たちがアジアで影響力を保持するのは、日米同盟と日本の経済力があるからだとして、日米同盟を解体し日本を弱体化することが、アジアの民主化につながると考えた。そしてダワー教授らは次のように訴えた。 「占領政策で日本の民主化は進んだものの、日本の官僚制を活用する間接統治と『逆コース』で占領政策が骨抜きとなり、『天皇制』など戦前の専制体制が温存された。さらに昭和天皇の戦争責任を不問にするなど東京裁判が不徹底に終わったため、日本は『過去の侵略を反省できない、アジアから信頼されない国家』になった。そこでもう一度、徹底した民主化(憲法の国民主権に基づく皇室解体)と東京裁判のやり直し、アジア諸国への加害責任の追及を行うべきだ。そのため民主化と加害責任の追及を行う日本の民主勢力(例えば、家永三郎氏のような『勇気』ある歴史家たち)を支援するべきだ(ダワー教授は1999年、後述する『抗日連合会』や土井たか子元社民党党首らと連携して、家永三郎氏にノーベル平和賞を授賞させる運動を展開している)」 「暗黒史観」であるノーマン理論を引き継いで「未完の占領改革」を徹底せよというのである。こうして日本の加害責任を改めて追及して日本を弱体化させ、アジアの民主化を促すという世界戦略が米国のニュー・レフトの間で確立されたのである。米の再評価で日本で復権するノーマン理論ノーマン理論復権 米国でのダワー教授のノーマン再評価を受けて日本でもノーマン理論が復権する。没後20年を期して77年に全集が刊行され、87年には全集の増補が刊行される。さらに左派リベラル勢力が「一般国民もアジア侵略の加害者である」と戦争責任を問い始めた。 その理論を支えた一人となった一橋大学の油井大三郎名誉教授は1989年にノーマンを再評価する『未完の占領改革─米国知識人と捨てられた日本民主化構想』を上梓し、「武装解除されても、天皇制が残るならば、日本は他の世界にとって未解決な危険な問題であり続ける」とのノーマンの発言を引用して、アジアから信頼を得るには、日本人自身が天皇制解体や加害責任追及を完遂するべきだと唱えた。言い換えれば東京裁判をやり直し、日本の加害責任を徹底追及しなければ、「占領改革」が完了しない、と訴えかけた。 こうしてノーマンが説いた「アジアへの加害者責任」の自虐史観は日本に浸透し、日本で謝罪外交の必要性が理論化された。日本国内で運動の中心的役割を果たすのが家永教科書検定訴訟支援運動だった。この結果、1980年代後半ごろから日本を始め世界各地に日本に謝罪と補償をさせる「反日」組織が誕生する。 東南アジアなどの戦争の被害地を訪問して加害者としての日本の歴史を確認する「ピース・ボート」運動が83年に辻元清美衆院議員が発起人となって始まる。84年には家永教科書訴訟を支援する形で「南京事件調査研究会」が発足され、84、87年に中国を訪問し、中国側の主張に沿って『侵華日軍南京大屠殺資料専輯』を翻訳して出版するなど「南京大虐殺」キャンペーンを始めている。また八六年には、中国、韓国などの反日活動家を訪日させ、日本の加害責任を追及する国際ネットワーク構築が始まった。 韓国で親北系のハンギョレ新聞で「『挺身隊』怨念の足跡取材記」の慰安婦キャンペーンが始まるのは90年1月だった。翌2月17日、戸塚悦朗弁護士が国連人権委員会で「従軍慰安婦・強制連行」を取り上げている。 在米中国人が日本の戦争責任を蒸し返して米国や国連を舞台に日本に謝罪と補償を求めて反日宣伝を行う「対日索賠中華同胞会」が出来るのは87年だ。狙いを「南京大虐殺」に絞った「紀念南京大屠殺受難同胞連合会」を結成、翌92年にはカリフォルニアで「抗日戦争史実維護会」が組織される。 米国での中国系反日運動に連動して88年に香港で「香港紀念抗日受難同胞聯會」が結成されたのを皮切りにカナダなど世界各地で同趣旨の組織が結成され、94年12月、30を超える中国系反日組織を結集させる連合体として「世界抗日戦争史実維護連合会」(抗日連合会)が結成される。中国政府と連携した中国系米人たちが「日本に戦争での残虐行為を謝罪させ、賠償させる」ことを主目的に設立した「抗日連合会」が、「歴史戦」の主役として北米で日本の戦争責任を追及する苛烈な反日プロパガンダを20年にわたって繰り返している。南京事件のほかに捕虜虐待、七三一部隊、慰安婦を挙げてきた。戦犯裁判や対日講和条約での日本の責任受け入れを一切、認めない点で明白な反日組織だ。昨年、カリフォルニア州グレンデール市やニュージャージー州で慰安婦像を設置したのは記憶に新しい。「南京大虐殺」を目撃したとするドイツ人のジョン・ラーベの日記を発掘し、ドイツを「南京大虐殺」キャンペーンに捲き込んだり、反日集会に参加したアイリス・チャンに『ザ・レイプ・オブ・南京』を執筆させたりしたのも「抗日連合会」だった。 21世紀になると、ノーマンの再評価が広がる。ライシャワーの駐日大使時代の特別補佐官で、ジョンズ・ホプキンス大学高等国際問題研究大学院の学院長を務めたジョージ・パッカード氏も2001年に東京・六本木の国際文化会館で、「ライシャワーの日本近代史観は楽観主義が強すぎて軽視される一方、ダワーの『敗北を抱きしめて』やハーバート・ビックスの『昭和天皇』などの著作にみられるように、ライシャワーと対照的なノーマンの史観に評価が高まっている」とライシャワーを批判し、ノーマンを持ち上げた。 こうしたノーマン再評価を背景に中国、韓国はじめ、米国やカナダ、香港でも「日本の加害者責任」と人権を結びつけ、日本を弱体化させる反日国際ネットワークが次々と構築され、反日プロパガンダは現在も世界で広がっている。中国が仕掛ける「歴史戦」の活断層はこのあたりにあるともいえる。中国人スパイが指南役 では、英国立公文書館所蔵の秘密文書で、MI5がケンブリッジ大学留学時代に共産主義者であったことを断定したノーマンがいつ、どのような経緯で、ソ連諜報部のスパイ・工作員(GHQ参謀第二部G2のチャールズ・ウィロビー部長)となったのだろうか。 MI5の秘密文書によると、神戸のカナディアン・スクールを経てカナダのトロント大学に入学してマルクス主義に傾倒したノーマンは1933年ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに進学すると、極秘にイギリス共産党に入党してインド人留学生をコミンテルン秘密工作組織へリクルートする非公然活動を行っている。欧州からアジアでの共産革命に路線変更したコミンテルンはインドで共産主義によって独立運動を進めることは最重要課題であった。当然ながらインドを植民地とする宗主国の英国にとって、独立を通じてインドを共産化するコミンテルンの非公然活動は最も危険な脅威だった。日本生まれで日本語に堪能なアジア通の白人留学生だったノーマンは、この工作に最適任で、ソ連諜報機関から高い評価を受けたとみられる。 奨学金の期限が切れたため1935年にケンブリッジ大からカナダに帰国したノーマンは翌年にハーバード大学大学院に入学して博士号をめざすまでの約一年間、カナダ国内で共産党活動に関わっている。「カナダ中国人民友の会」の書記となり、中国革命運動との繋がりができるのだ。これは日本の侵略に抵抗して中国の左翼革命を支援する団体でカナダ共産党の下部組織に位置づけられていた。ここで初めてノーマンは「反日」思想に目覚め、突然ハーバード大やコロンビア大で「日本研究」を志す。そこに導いたのが中国共産党の大物工作員で米国共産党の秘密党員だった冀朝鼎だった。 その後、冀朝鼎は、ノーマンがハーバード大学大学院留学やカナダ外務省入省、戦後の東京での占領政策など人生の節目で必ず顔を出して、ノーマンのキャリア形成や工作活動に影響を与えた形跡が窺え、指南役「コントローラー」だった可能性が高い。 第二次世界大戦前後に米国内のソ連のスパイたちがモスクワの諜報本部とやり取りした秘密通信を、米陸軍情報部が傍受し解読した記録「ヴェノナ文書」を1995年、米国家安全保障局(NSA)が公開し、第二次世界大戦前後に、米政府内に約300人のソ連のスパイが潜入し、ルーズべルト政権はソ連や中国共産党と通じていたことが確定しているが、冀朝鼎もその一人だった。 冀朝鼎は中国共産党の要職を担いながら、そのことを秘して1941年から重慶の国民政府の財務部長(大臣)アドバイザー(秘書官)を務める大物工作員だった。中国の山西省に1903年に生まれ、北京の清華学校に学んだ後、シカゴ大とコロンビア大で学位を取る。1920年代にはソ連にわたり国際共産主義運動の総本山であるコミンテルン本部に務め、28年のコミンテルン第六回大会では、中国共産党代表団の一員として参加。30年代は米国に渡り、米国共産党の秘密党員として北米各地で情報工作を仕掛ける一方、ノーマンらと共にマルクス主義の研究組織、太平洋問題調査会(IPR)米国支部に研究員として参加し、偽名で執筆活動も行っている。ルーズベルト政権中枢にも人脈を広げ、蔣介石国民政府の財政部長のアドバイザーに就任したのも、やはりヴェノナ文書でソ連のスパイと判明した米財務省の財務次官補だったハリー・デスクスター・ホワイトの推薦だった。冀朝鼎を通じてノーマンがソ連のスパイにして日米開戦に関係する「ハル・ノート」を起草したホワイトと繋がりがあったことは歴史の偶然ではないだろう。ちなみに冀朝鼎は大戦中に財政部長アドバイザーのポストを利用して国民党が支配する地域の経済を意図的に悪化させて戦後の国共内戦で中共側の勝利に貢献したと言われている。共産革命が成功するや冀朝鼎は北京に戻り、対外投資を統括する中共政府の要職に就任。1927年のニクソン米大統領訪中の際に通訳を務めた弟の冀朝鋳は、駐英大使を経て国連事務次長まで上り詰めた。冀兄弟は中国共産党の「ノーメンクラツーラ」であった。 ノーマンは、冀朝鼎の紹介から蔣介石政権の「特別顧問」を務め、「天皇制廃止」を唱えた米国有数の中国研究家、オーエン・ラティモアや1945年の「アメラジア事件」でソ連スパイとしてFBIに逮捕され、ヴェノナ文書でもソ連のスパイとされたフィリップ・ジャッフェと関係を深め、「反日」日本研究を始める。ケンブリッジ大で欧州中世史を学んだノーマンが冀朝鼎との出会いから、それまで興味が無かった「日本」研究に関心を持つのは、対日情報活動を意識してのものではなかったか。日本に生まれ育ち、家族が日本に住んでいれば、日本に興味を持ち、日本に出入国するのは不自然ではない。そこに冀朝鼎らコミンテルン、中国共産党が目を付けて「日本専門家」の肩書をもつ「スパイ・工作員」に仕立てあげ、外務省に就職させたのだろう。ノーマン理論による「ジャパン・ディスカウント」運動が世界で展開される現在、最初にノーマンを操ったのが冀朝鼎だった事実は、中国が仕掛ける「歴史戦」の奥深さを浮き彫りにして、背筋が凍る気がする。亡命KGB高官の証言同性愛関係 カナダ外務省の外交官だったノーマンがいかなる理由でソ連諜報部のスパイ・工作員とみなされたのだろうか。ケンブリッジ時代に共産主義者であったことは英国立公文書館が公開したMI5の機密文書で判明したが、ケンブリッジ卒業後も共産主義から離れずソ連のスパイとして働いていたとMI5が疑念を抱いたのはノーマンと同時代にケンブリッジ大トリニティ・カレッジで学び、重要なエリート・スパイとなってGRU(ソ連軍参謀本部情報総局)とKGB(ソ連国家保安委員会)から「マグニフィセント・ファイブ(素晴らしき五人組)」と呼ばれた「ケンブリッジ・スパイ・リング」との接点だった。 五人組とは英外務省やMI6(英秘密情報局)に侵入したキム・フィルビー、ガイ・バージェス、ドナルド・マクリーン、MI5に侵入したアンソニー・ブラント、外務省から大蔵省に転じたジョン・ケアンクロスだが、ソ連諜報機関からリクルートされた彼らは、いずれも最高度の二重スパイとしてソ連のために働いた。バージェスとマクリーンは1951年5月にスターリンの「モグラ」であることが発覚、ソ連に逃亡するが、ガイ・リッデルMI5副長官は同年10月1日の日記に、「ノーマンが1934年から36年に『ケンブリッジ・グループ』の一員で、初期の左翼主義が今まさに深刻」と記して、ケンブリッジで共産党活動歴があったノーマンが失踪した2人らと関係があったことを指摘している。 コロンビア大学で博士号を取得したカナダ在住のトロント大学のジェームズ・バロス教授がカナダや米国などの情報機関の機密文書を渉猟歩して著した『全くの悪気もなく─ハーバート・ノーマンのスパイ事件』(James Barros, No Sense of Evil:The Espionage Case of E. Harbert Norman, Ivy Books)によると、ノーマンはケンブリッジに着いて6週間後の1933年11月にキャンパス内でバージェスが組織した「反戦デモ」に参加して以来、バージェスと親しくなり、卒業後も連絡を取り続けた。ノーマンを高く評価したバージェスは終始仲間に引き込もうとしていた。イギリス王室の美術顧問として「英美術界の重鎮」となったブラントは、スパイ疑惑発覚後、バージェスやフィルビーらのようにソ連に逃亡せず、英国に留まり、古巣のMI5などに秘密情報を暴露したが、バロス教授は、MI5高官からの情報として、ブラントが1964年にMI5に対して、「ノーマンは我々(五人組)の仲間だった」と告白したと記している。またノーマンと面識や交流がなかったブラントがノーマンの秘密(ソ連スパイ)を知り得た理由として、「ブラントはノーマンを良く知るバージェスと同性愛関係にあったため、バージェスから寝物語として聞いたのだろう」と書いている。亡命KGB高官の証言 もう一つ根拠がある。ソ連から亡命したKGB高官の内部告白である。バロス教授によると、1961年12月、フィンランドの首都ヘルシンキにあるCIA(米中央情報局)支部に妻子を連れてモスクワから駆け込んだKGB幹部、アナトリー・ゴリツィンが「ノーマンは(ケンブリッジ卒業後、カナダ外務省入省後も)長期間、共産主義者でKGBのエージェントだった」と証言していた。ゴリツィンはKGB第一総局に属して米国、カナダ、英国における諜報活動を統括し、NATO(北大西洋条約機構)内のソ連スパイから報告を受ける要職に就いていて、ノーマンに関する秘密情報も知り得る立場にあったという。 このほかにもバロス教授は、ノーマンがGHQの対敵諜報部を経て駐日カナダ代表部主席として戦後日本に滞在した占領期に、朝鮮戦争が勃発する1950年まで、本省に報告することなく夜間に開催されていたマルクス主義を研究する勉強会に参加し続けていたことは看過できないと書いている。 また濱田康史著『カナダの対日インテリジェンス、一九四二年-一九四五年』(「ジェンダーの国際政治」日本国際政治学会編)によると、日米開戦となり、42年9月にカナダに帰国したノーマンはオタワにあったカナダ外務省の対外情報機関である調査部特別情報課で対日インテリジェンスの責任者となり、英米が傍受した日本の外交電報などを元に日本情報の収集や分析、情勢判断を行った。この中でノーマンは44年2月以降、同年6月にノルマンジー上陸作戦が始まる前、佐藤尚武駐ソ連大使の電報に着目し、「北樺太の権益をソ連に移譲し、日ソ関係を良好にすることで、(中略)英米とソ連を離間させることを東京に求めた」として「日ソ開戦ではなく日ソ接近こそが今後の日本の方針であり、したがって英米はソ連との結束を維持すべきで、これを補完することがカナダの役割である、と提言した」という。つまりノーマンは日本の対ソ接近を見抜いて米英の連合国がソ連と結束を継続してノルマンジー作戦を遂行するように働きかけていたのである。ソ連との結束維持 欧州でドイツと死闘を繰り広げていたスターリン首相は米英が第二戦線(西部戦線)を開き、反撃することを熱望していた。実際に43年11月、テヘラン会談の冒頭で、スターリンはルーズベルト米大統領とチャーチル英首相に「北フランスで第二戦線を形成すれば、対日参戦する」と約束している。一方で日本は重光葵外相らが44年前半から中立条約を結んでいたソ連を頼って独ソ和平を斡旋する形でソ連と交渉するため特使派遣を打診したがソ連から拒絶されている。こうした日本のソ連傾斜を把握して、大戦中にノーマンが「英米はソ連との結束を維持し、カナダが補完するべし」と、クレムリンの「国益」に合致する提言をしていたことは注目してもいいだろう。連合軍のノルマンジー作戦が成功してベルリン攻略は加速された。ノーマンがソ連のためにインテリジェンスを行ったとも解釈できそうだ。 こうしたノーマンのソ連や共産主義との「関係」についてカナダ政府は、90年に公文書(ライアン報告書)を出して「ひとかけらの証拠もない」とノーマンの忠誠を訴えている。しかし中西輝政京都大学名誉教授によると、これは専門外の学者に書かせたもので、客観性を欠き、彼と彼を引きたてたレスター・ピアソンに関する史料を公開していない。首相や国連総会議長を務め、ノーベル平和賞を受賞したピアソンは「カナダの偉人」であり、ノーマンがソ連のスパイであったことが確定すれば、「偉人」にも嫌疑が広がり、輝かしい業績に傷がつく。こうしたことからカナダ政府が情報公開を回避しているのであれば、世界で反日包囲網が広がり、ダワー教授らが「日本悪玉論」を発信する原点となった「日本の敵」ノーマンを取り巻く戦後日本の「本質」は永遠に明らかにならないだろう。おかべ・のぶる 1959年生まれ。産経新聞編集委員。81年、立教大学社会学部社会学科を卒業後、産経新聞社に入社。社会部で警視庁、国税庁などを担当後、米デューク大学、コロンビア大学東アジア研究所に客員研究員として留学。外信部を経て97年から2000年までモスクワ支局長。『消えたヤルタ密約緊急電──情報士官・小野寺信の孤独な戦い』(新潮選書)で第22回山本七平賞を受賞。ほかに『「諜報の神様」と呼ばれた男』(PHP研究所)などの著書がある。

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    なぜアメリカ離れできないのか

    松田武(大阪大学教授)北村稔(立命館大学教授) アメリカの対日占領政策については、これまで多くの研究がなされてきた。アメリカの本音は、日本が二度と再び武器をとって立ち上がることのないよう、その“背骨”をへし折ることだった「日本精神」の中枢は神道であり天皇にちがいない――。 目的を達成するためには手段を選ばない。私信の開封、メディアへの事前検閲、映画演劇への容喙など、あらゆる手法で戦後日本をマインドコントロールしようとした。 一方で冷戦がはじまっており、日本を弱体化するだけでは、まずい。西側の一員として対共産圏への防波堤にしなくてはならなくなった。そこに対日戦略のさまざまな相貌があらわれてくる。1 ジャパン・バッシング ――松田先生が書かれた『戦後日本におけるアメリカのソフト・パワー』を読むと、アメリカが戦後の日本に対し、何をどうコントロールしようとしたのか、そのプロセスがよくわかります。知識人へのアプローチや教育などの「文化戦略」によって、うまく統治をしていった。これを研究テーマに選ばれた動機は何だったのでしょうか。松田 1980年代、経済摩擦により発生した「ジャパン・バッシング」がきっかけです。ジャパン・バッシングがおこった際、日本のアメリカ研究者に、なぜかくも厳しいバッシングを日本が受けるのか、国内むけに説明してくれという社会的な要求があったのに、彼らは沈黙を保ったんですね。知識人として果たすべき本来の役割や義務に対して彼らは腰砕けだった。それは、「The Complicity of Silence=口をつぐむ事による知と権力との共犯関係」になるんです。 そのときに、「私たちは何のためにアメリカを研究しているんだろう」と、大変なショックをうけた。それが80年代に強烈にインプットされました。 私は、アメリカの研究生活をとおして〈研究者たるもの、今がたとえ望ましい状況であっても、よりよい状況を醸成しようとする精神を養成する必要がある〉と若いときから言われてきました。それを日本のアメリカ研究者たちは実践してないんですね。「なぜ口をつぐむのか?」と考えたときに、深い根があるように思えました。それを研究テーマにすえたとき、アメリカによる「ソフト・パワー」に屈し、また一方では、それに迎合してしまった日本の対米依存体質が見えてきました。 ――欧米のジャーナリストたちは、経済力ばかり巨大化して国際的な分野では積極的な発言をしない日本をとらえて、「口のしびれた巨人」なんて言っていました。松田 日本アメリカ学会の会長を務めた斎藤眞先生は『アメリカ史の文脈』(岩波書店)の中で、日本の姿をこのように指摘しています。〈日米関係の基底には、どうも日本のアメリカに対する甘えの姿勢が流れており、そのことが対米依存や、逆に対米反発を招いているように思われる。1970年代の後半より、日米関係史の文脈が現実に変わりつつあるのに、意識の構造はあまり変わりないようである〉 先輩の少数の先生方は、おかしいおかしいと感じていたわけです。私の本にこれまでになかった利点があるとするならば、それを実証的に裏付けたということですね。 ――「ソフト・パワー」とは何をさすのでしょうか?松田 もともとこの言葉は、さきごろ駐日米国大使候補にあげられていた、ハーバード大学の政治学者、ジョセフ・S・ナイ二世によって紹介されたものです。 「ソフト・パワー」という言葉は、「人や制度への敬愛=文化力」によって、相手に自分の望むような行動をとらせることです。しかし、文化力だけでは強制力がなく、たんなる説得にしかならない。ソフト・パワーだけでは人の行動を望む方向に変えることはできないのです。 パワーというのは、したくないことを相手にさせる能力です。ソフト・パワーの役割は、軍事・経済などのハード面を補完することですね。 軍事力、経済力は有無を言わさぬ強制力がある。しかし、それにつきものの抵抗を抑えるために、ソフト・パワーとしての文化力があるのです。 つまり、軍事力・経済力・文化力、この三つがそろって、はじめてパワーが機能するのです。 アメリカは覇権国家となるために、このソフト・パワーを利用して日本国内に親米派の知識人をつくり、彼らに一般国民に対しアメリカについて親和感を抱かせること、そして冷戦における支援者となってもらうことを目的としました。 日米文化交流事業として、日本の知識人によるアメリカ研究振興、フルブライト交流計画、国際文化会館の創設、東京大学とスタンフォード大学共催による『アメリカ研究セミナー』などが実施されました。アメリカ研究者にたいして、合衆国から潤沢な資金援助がされたのですが、それが後々大きな禍根を残すことになります。 ――戦後の対日ソフト・パワー戦略には、国務長官のジョン・フォスター・ダレスの存在が大きいと言われていますね。松田 戦後、対日講和条約の交渉担当官だったダレスは、20年代、30年代の対日戦略の失敗から、文化の力を大変重要視していました。ダレスは、第一次世界大戦のヴェルサイユ講和条約のときも、アメリカ講和使節団の一員として出席しています。それ以来、日米関係をずっと観察しているわけです。 51年のサンフランシスコ講和条約のときには、すでにそれを十分知っていたので、戦後日本に対して早速ソフト・パワーを使おうとしたわけです。 1920年初頭は、戦争の影響からたちあがった栄光の20年代と言われるだけあって、世界経済が浮揚していました。 その範囲において、日本とアメリカもワシントン体制という友好関係にあって、一緒に中国を開発しましょうということだった。 20年代前半の、アメリカによる日本の単独行動を抑制するメカニズムはなんだったかいうと、経済的なテコ、資本の輸出、そして技術導入であり、幣原喜重郎はじめとする日本の指導者とアメリカの指導者の世界観が一致していました。リベラル・インターナショナリズム(自由主義的国際主義)です。しかし、その後のウォール街の株価大暴落、それに続く1931年の満洲事変を皮切りに、日米関係は崩壊していきます。 この間の日米関係の成功と失敗、そしてその原因を考えた結果、第二次大戦後においては、1920年代にはあまり意識していなかった文化の力をフルに動員して、親米派をつくることを重要視しました。 そしてダレスは、「脱亜入欧」という明治維新以来の、西欧世界の仲間入りをしたいという日本国民の願望を見抜いていました。そこで「アングロ・サクソン民族のエリート・クラブ」の一員として、日本を平等に、正当に扱うことにすれば、日本を“抱き込む”ことができると考えていたのです。北村 ご本の中には、ダレスが頻繁に出てきますね。ダレスはこんなに日本人のことを知っていたのかと、びっくりしました。パリ講和会議のときから日本を見ていたからよく分かっていたんですね。ロックフェラー三世の役割 ――日米文化交流事業において、重要な役割を果たしてきた人物に、ジョン・D・ロックフェラー三世がいます。彼の思想と役割についてお聞きしたいのですが。ジョン・D・ロックフェラー3世松田 ロックフェラー三世がロックフェラー財団の理事をしているときに、理事長を務めたのがダレスでしたので、二人は非常に親しい間柄でした。ダレスは、これからの外交というのは政府対政府、官僚対官僚ではなくて、people-to-people diplomacy、すなわち民間外交が重要になると思っていました。民間の人の心をまないと、いくら経済力と軍事力を行使しても、日米の友好関係は長続きしないと考えたのです。そこで、文化の力が重要になった。文化交流を通して人々に影響を及ぼし、国民の政治的な行動を変えようとしたわけです。 そこで、東アジアに造詣が深く、教育・文化にも強い関心をもつ慈善家として広く知られていたロックフェラーに白羽の矢がたったのです。その意味でダレスとロックフェラーは同じ価値観を持っているんですね。 ダレスは51年、サンフランシスコ講和条約の締結のため来日する際、ロックフェラーを文化関係の責任者として「ダレス講和使節団」に入れています。 しかし、ロックフェラーは、国家戦略による文化交流がはらむ潜在的に危険な問題、「文化帝国主義」の危険性に気づき、慎重に行動をします。 その結果、文化交流の原則として、「双方向性」ということを唱えました。日本文化には他国に提供しうるものがあるのだから、「双方向性」の原則は「文化帝国主義」の批判からアメリカを守れるだろうとの思惑もありました。 また、彼は知識人へのアプローチというものを強調します。権威主義の強い日本において、一般国民へ影響を及ぼすには、指導者である知識人を通すことが効果的であるという理由からでした。北村 ダレスとロックフェラーのコンビが、対日ソフト・パワーの両輪だったということですね。2 アメリカ文化の強大な引力圏松田 自由主義的国際主義=リベラル・インターナショナリズムには、いい面もあるということを認めなければなりません。しかし一方で、「負の側面」もある。 私のこの本の英訳タイトルは「Soft Power and Its Perils(ソフト・パワーとその危険性)」なんです。落とし穴があるということですね。意図的にそうしているわけではなく、知らず知らずにアメリカ文化の強大な引力圏に引き寄せられてしまい、結果として依存体質に陥ってしまう。それに日本人もアメリカ人も気づいていなかった。 ソフト・パワー自体は意図的に日本人を骨抜きにしようとしたわけではありません。それはダレスもロックフェラーも同じです。というのも、アメリカ側が相手にしたのは、「親米派」であり、かつ「自らの価値体系や行動様式を自分の手で構築」できる知識人でした。 しかし、受け手側の日本の留学生たちが、アメリカのソフト・パワーとしての「資金や留学の機会」を、自分達の帰国後の社会的ポジション獲得や権威づけに使った。彼らは「親米派」であるけれども、「精神的に弱々しい、権力を受容する」タイプの日本人となっていった。それは資金提供者としてのアメリカが意図したものとは、微妙にズレがあります。 そして、親米派養成のため費やされた「カネ」は、日本の研究者のアメリカ批判の抑止につながり、それが冒頭にお話をした、ジャパン・バッシングの際のアメリカ研究者の態度にも伝統として表れてしまった。 それは、日本のアメリカ研究にゆがんだ影響を与えただけでなく、米国の権威・資金への依存体質を生み出してしまいました。 ――吉田茂をはじめ、戦後の日本の政治家がソフト・パワーをうまく利用した面もありますか?松田 日本の占領期、アメリカにはグローバルなインタレストと、日本の再建という二本立ての目標があった。そのためには、アメリの目指している国際秩序のもと、平和主義的で民主的な日本の再建を行うという枠組がもっとも望ましいわけです。 日本にとっても「寄らば大樹の陰」で、アメリカから甘い汁を吸って、そこで発展をしていくという方法は魅力的だったでしょう。北村 アメリカのソフト・パワーを上手に使っていけば、国を再建できるという思いが、日本の指導者たちには当然あったでしょう。冷戦の最中にあっても、中国・ソ連とは正面から向き合わずに経済発展だけ考えて、安全保障はアメリカに任せておけた。松田 そうです。また、アメリカにとっては日本を太平洋戦争の戦利品として自由主義世界に抱き込むことにより、ソ連側につかせないということ。そういう点で利害が一致したのでしょう。しかし、日本側の、ソフト・パワーとそれによる権威を甘受するという姿勢が、「対米半永久的依存体質」をつくった原因と言えるでしょう。日本人がいる「鉄の檻」北村 アメリカ研究をしている人たちで、アメリカに対しcritical(批判的)に冷静に、モノを言う人ってあまり見当たりませんね。それを言ってしまうと、自分の研究がアメリカにおいて取りあげてもらえなくなるからでしょうか。松田 彼らは慎重に内容を選んで、議論を展開していますね。アメリカの政治文脈の中でサバイブしようと思えば、思うとおりのことは言えない。これは難しい。批判するのはやさしいですが、きわどい路線を歩まなければ生き残れないですね。北村 「言論の自由の国」だといっても、アメリカには全体としてはまとまった路線というのがキチッとあって、それから外れると相手にしてもらえないでしょう。松田 アメリカのリベラリズムというのは思想の幅が広いんですが、そうかといって社会主義を目指す人達にはものすごく冷たい。対決姿勢をとります。社会主義者には教職もないし、村八分にされてしまう。 戦後の日米安保体制というのは、アメリカのヘゲモニーのもとで、アメリカのエリートの指導者と、吉田茂のようなエリートの指導者の間の共同作業によって築かれたわけです。戦後日本の政治、経済、社会、文化の幅広い領域に及んで、日本社会全体を支配する巨大な秩序界でありました。  言い換えれば、日本国民の圧倒的多数がそのもとに生まれ、その殆どが好むと好まざるとに関わらず、その中で生きていかなければならない、言わば、「鉄の檻」のようなものです。そして、アメリカを主たる権威の源とするこの巨大な秩序界は、国民の中から、日米安保に必要な人間をつくり育てます。 そのことは、知識人を例にとると分かりやすい。もし、ある知識人が、その規範に適応できない、あるいは適応しようとしない場合、さらにはそれに反して行動する場合は、その知識人は正当な思想領域から逸脱者と規定され、彼の政治的行動を極小化するために、知的共同体から追放されるか、あるいは知的集団の周辺に追いやられ、遅かれ早かれ淘汰されることになります。 この巨大な秩序界は、淘汰の過程を通して、国民の中から、日米安保体制維持に必要な人間をつくり育ててきただけでなく、多くの知識人はアメリカの権威に強く依存するようになった。これが私の基本的な視点なんです。北村 驚いたのは、本書の第八章「分権か対抗か—京都アメリカ研究セミナー」で詳しく述べられている、アメリカのソフト・パワーの受け入れ窓口になった日本知識人の代表である大学人のあいだで、当初セクト主義による凄まじい軋轢が発生し、アメリカ側が当惑していた事実です。 東大と京大を二大軸とする関東と関西の対立、さらには同じ関西軸の中の京大と同志社の対立、また京大と同志社双方による関西軸からの立命館大学の放逐など、大学間交流の進む現在の状況からは、考えられない事態が起こった。 このようなセクト主義は、積年の日本アカデミズムの学閥による閉鎖的人事が生み出したものですが、アメリカ側は資金援助を切り札にして、やがてこのセクト主義体制を新たに再編するかたちで、日本の大学の中に自らのソフト・パワーの受け入れ体制を作ってしまいますね。 ――要は助成金の“ぶんどり合戦”を演じたのですね。東大の南原繁など、京都勢を牽制して「特許の侵害行為」とまで言っている。日米関係を提示せよ北村 私も学生のとき、「安保粉砕」「闘争勝利」と騒いだことがありますが、しばらく考えたら、「安保条約があるから現体制がある」ということが分かりました。安保を粉砕するということは全部を変える、つまり「革命」をするということです。それは、どうやったって不可能だと思いました。そうなると、この状況の中で自分は保守的に生きていくのかと思い悩みました。七〇年代のことです。そしてそこから、自分の生存基盤と矛盾しない「良き保守の思想」とは何かを模索し始めたわけです。松田 日米関係を維持するというのと、日米安保体制というのは区別して考える必要があると思います。好むと好まざるとに関わらず、日本とアメリカは隣同士ですから、関係は保っていかないといけない。どのような関係を保っていくのか、ということが知識人に問われているのだと思います。 戦後の日米体制はベストなのか。日本が世界のなかで、尊敬され、かつ生きていくためには、どういう日米関係が望ましいのか。 これを知識人は100%の正確さではなくても、提示すべきだと思うんです。 日本の知識人が、構想力を発揮して提示するということと、それがアメリカに100%無修正で受け入れられるかは、別です。国対国の力関係がありますから。ものによってはアメリカはつぶしに来ると思います、あの国はそういう厳しい面をもった国です。 ――冷戦が崩壊して、日米同盟も大きく揺らいできました。日本の自立を確保しつつ、同盟を実のあるものにすることが求められているのでしょう。3 日本の知識人の怠慢北村 日本人が世界に誇れる「売り」、これだけは負けないぞというものを、もっとアピールするべきだと思いますね。例えば国民の知識レベルがおしなべて高いとか、国内が安定しているとか、危機に際しての団結力があるとか。そういうところをもっと発信して、アメリカへの従属的な立場に甘んじていてはならないのに、それを変えていこうという気概さえないですね。今でも、官僚はアメリカに留学する人が多い。 ――霞ヶ関の官僚をはじめとする、日本からのエリート留学生は指導教授から言われるそうです。「お前は日本という小さな窓でしか世界を見ていない。それが日本の研究者のウィークポイントだ」と。アメリカというグローバルな視野をもつ国と、日本という島国の視野をどう重ね合わせるか、ということでしょうか。松田 多くの血税を予算の形で計上して派遣しているわけですけど、彼らのいくところはアカデミックにみても質のいいところです。アイビーリーグのハーバード、プリンストン、イエール……。しかしそこに集中しますと、二つのことが起こります。 一つは、彼らはアメリカに行ったとしても、図書館にこもりきりになりますから、実際のアメリカは知らない。市井の人と交流せずに、担当教授とばかり交流する。そして二つ目、彼ら官僚をアメリカに呼ぶのは、日米関係を良好にしたいという人たちです。ということは、彼らアメリカ側と日本からの留学生である官僚が、権力を補強し合っているとも言える。そういう人たちが、アメリカの日本研究者であって、日本のアメリカ研究者だという事です。 だから、カリフォルニアなどの太平洋岸地域や中西部の人たちの気持ちっていうのは、日本にあまり伝わってこないし、日米関係に反映されないんです。「実際のアメリカと、伝わってくるアメリカが違う」というのは当然のことなんです。そういう非常に歪んだ研究なんですね。誇れるものがあるのに北村 確かにわれわれはアメリカのことを、実はあまりよく知らないんじゃないか。ハリウッド映画なんかで見るアメリカと、実際にいってみて見るアメリカはだいぶ違うと思いますね。アメリカも、東部と中西部では全く違う。皆が自動車に乗ってハデな生活をしていると思っているけれども、アメリカの実像が上手く日本に入ってきてませんね。松田 最近アメリカにいって、ワシントン、ウィスコンシン……と各地で知識人をはじめ、農民、大工などいろんな人たちと交流をしてきました。その方たちの中で日本でホームステイをしたり、軍人として駐留したり、留学したりと、何らかの形で日本と触れ合ったことのある人たちが、日本のことをどれだけほめることか。 彼らは、日本人の親切さ、きめ細かい配慮、清潔さ、組織力など、日本のよさを十分に、そして正確に把握して評価しています。 ところが日本の論壇の一部の人たちは、自国のことを叩くばっかりで、いい所に言及しない。マゾヒズムか知りませんけど。「いい所はいい」と言って我々は自信をつけるべきです。 それと、日本に来たことがある人は、日本の良さを十分にわかっているんですが、そういう人たちはアメリカの人口の1%にもなりません。そうではない99%の人たちは、日本のことを知りたいと思っている。敗戦後、なぜあんなに短期間で成功したのか、犯罪率がなぜあんなに低いのか、理由を知りたいと思っている。生活の背景にある日本人の考え方、価値を知りたいと思っています。日本の知識人はそのメッセージを伝えていません、怠慢と言えますね。 そして日本政府は、東部だけでなく、中西部や山岳部にも留学生を派遣して、日本のことをもっと知らしめれば、今のようなジャパン・パッシング、ジャパン・バッシングは起きないと思います。 私は世界中を見てまわりましたが、日本には誇れるものがたくさんあるんですよ。北村 日本人が世界に向かって、もっと自らのメッセージを伝えなければならない点については、私も同感です。日本人に何故それができないのか……。例えば、西洋人には宣教師の伝統がありますよね。外に向くベクトルが歴史的にある。 一方で日本人は、外にむかって文化を発信していこう、という姿勢ではなく、外からいろんな文化を吸収して自分たちで発展させよう、という内向きのベクトルです。しかしこれからは発信をしていかなければ。松田 日本人の中には、「わび」「さび」なんて外国人に説明しても分からないだろう、という思いがあると思います。しかし、現在はアニメに代表されるジャパン・ソフトパワーというものが世界的に認識されている。世界的に、老いも若きも熱中している。そしてそこから更に進んで、日本人の考え方、価値観を知りたいと思っているんですよ。 それにはアメリカ東部の大学だけに留学し、交流するだけでは不十分なんです。「ギアチェンジ」が必要ですね。無視された江藤論文 ――以前、江藤淳さんが『閉された言語空間』(文藝春秋)という本でアメリカによる検閲の実態を書かれましたが、このときの日本の論壇の反応は、非常にクールでした。むしろ「無視しよう」という空気だった。「アメリカの検閲によって、大した被害を受けていないのに、なぜ江藤はそんな本を出すのか?」と。占領期の問題について先取りしたような形でしたが、今日ようやくその当時のことが注目されるようになりました。松田先生の本の版元である岩波書店が『占領期雑誌資料体系』を刊行しているのも、そのいい例ですね。松田 1930年代後半から40年代にかけて、アメリカは第二次世界大戦に入りますね。戦時下において、アメリカの自由主義思想、言論の自由、良心の自由という建国以来の原則が、国家のサバイバルのために一時曲げられました。戦争遂行のために、プロパガンダ活動をしたわけです。 ドイツのゲッベルスに代表される、中南米における反米プロパガンダに対抗するという理由でした。それは真珠湾攻撃後の、対日プロパガンダでも同様です。 しかし、これは例外的な特別措置で、戦争が終われば解除するということだったのに、45年からアメリカとソ連との関係が険悪になってくると、ソ連が行った心理戦争に対抗するために、カウンター・プロパガンダとして、アメリカも文化政策というものを本格化してくるわけです。 少なくとも第二次世界大戦までは、政府主導の文化政策というのはなかったんです。それまでは、民間の宣教師や、医師、技師たちに任せていた。それを国務省が中心となって、民間の活動を補助するという形で政府が介入するようになりました。ジョン・F・ダレス 日本の場合、日本の1945年から46年にかけて、アメリカの国家目標と日本の国家目標が一致したんです。それは何かというと、「非軍事化」「民主化」ですね。二度と日本がアメリカの脅威とならないために、構造を変えていこう、心の中も変えていこうとした。そのためには、外から入ってくるアメリカやGHQに批判的なプロパガンダ、これをコントロールしようとした。民主化という大義のためにも、これは当然だとしました。そして第二に、冷戦が始まったことで、政府が情報をコントロールする責任があるとしました。 47年から48年、「逆コース」という言葉が出てきます。それまでは日本の民主化、社会構造の再構築化、という方向でやってきたけれども、四七年に入ると、冷戦という新しい世界戦略が出てきます。民主化がスローダウンして、それ以後はイデオロギー戦争に入っていくわけですね。そしてアメリカは二極化する世界で、日本の技術力と工業力を、絶対に失うことはできないと考えました。「世界の将来は、西ドイツと日本をその支配下に置けるかどうかにかかっている」というダレスの言葉も残っている通り、共産主義との戦いに勝つための鍵は、ドイツと日本にあると考えた。 そして、アメリカは日本に民主主義の思想を伝播させるために、「非民主的な」検閲でもってそれをコントロールしました。そこにアメリカの自己矛盾がある。しかし、第一の目標である非軍事化、民主化のために押し通したのだと考えています。 ――検閲の過程をみると、日本の伝統的なものの考え方を必要以上に壊してしまったんじゃないか。これはソフト・パワーの負の側面ではないでしょうか?「骨抜きにするつもりはなかった」かもしれないが、後遺症は残った。かなり民族的な損失を被ったんじゃないのでしょうか?北村 封書の開封を平気でやって、占領軍に対する批判的意見をチェックするのを手始めに、死者の霊魂とか、死にまつわる儀式などまでチェックしたようですね。精神面に立ち入っていますよね。松田 アメリカは日本に対して精神革命をもたらすという意識でしたからね。アメリカは徹底主義者で、根こそぎやろうと思っていたのは確かです。 ――神道に代表される伝統的なもの、イコール軍国主義という考えでした。北村 それはひどい誤解ですよ。あとで「しまった」と気づく松田 アメリカは分かっていなかったんですね。 ――忠臣蔵まで“仇討ちもの”として禁止したのは、狂信的すぎますね。松田 そうですね。そのために日本国民、あるいは知識人の間に「精神的な真空状態」を作ってしまった。日本の軍事的敗北、天皇の人間宣言によって、日本人にとって自らが拠り所にするもの、外部に対して抵抗する力がなくなってしまった。そこへ共産主義が入り込む危険性が出てきて、アメリカは「ああ、しまった」と思った。 それは後から気がつくんですね。北村 アメリカではフロイトが流行りましたけど、余りに明快な精神分析はヨーロッパでは流行らなかった。ちなみに「政治学」はアメリカでは「political science」です。あくまで科学なので、1+1=2という明快な答えが出なければならない。しかし、イギリスだと「political studies」。種々の要因が絡み合って存在するという基本認識があります。アメリカ人は単純な合理性がともなわないと政治ができない。 アメリカが日本と戦争するぞと政策転換をしたときも、日本が1938年の11月に、日・満・支(国民政府)による「東亜新秩序建設」というブロック経済圏構想を打ち出したら、中国での機会均等を補償する九ヵ国条約違反だと言い出したりして、相手がこう出れば自分はこう出る、といったように、ギアをガチャンと変えて、その後はずっとそのまま進んでいきます。 日本の占領政策の場合でも、日本をこう変えようと決めたら、そのようなギアをガチャンと入れてしまって、おし進める。 物事を非常に単純化して進めてしまう癖があるから、取り返しがつかないことになる。松田 占領当初は、日本にとってもいい効果はあったと思います。戦前・戦中に、日本国内で民主化の気配はあっても、実際はできませんでしたからね。戦後、アメリカの力を借りて達成したことを考えると、そうマイナスのことばかりではないと思います。アメリカは被害妄想の国まつだ・たけし 1945年生まれ。米国ウィスコンシン大学大学院歴史学研究科修了(Ph.D.)。現在、大阪大学大学院国際公共政策研究科教授。専攻はアメリカ史、アメリカ対外関係史、日米関係史。主な編著書に『ヘゲモニー国家と世界システム』(共編著・山川出版社)、『現代アメリカの外交』(編著・ミネルヴァ書房)などがある。松田 アメリカ人の考え方には、「good(善)」と「evil(悪)」、敵か味方か、という二項対立的なマニ教的思考があります。これは、近代の価値が持っている内面的な矛盾とも言えます。 「自由」という言葉には、活動の自由、労働の自由、財産形成の自由……と、よい面もありますが、一方で財産を手に入れた途端に他者に奪われてしまうのではないかという、不安感、他者への不信感など負の面も内包します。自由=略奪、自由=差別、自由=排除・武力行使……。これが近代の価値観には同居しているわけです。これをいかに超克するかというのが問題なわけです。 戦後、日本のアメリカ研究の主流は、日本の社会を民主化するというニーズから、アメリカの近代の価値がもっているいい面、明るいところを取り入れようとした。しかし、アメリカの価値というのは、いいとこ取りができない。善と悪、陰と陽、二つの側面をみながら、どうアメリカ像を構築して伝えるかが、我々の仕事なんです。 また、ピューリタンたちはイギリスからアメリカへ渡ってきて、丘の上に町をつくるわけです。そして「ユートピアをつくった」という思いをもった。でも、まわりにはインディアンもいるし、イギリス以外からも人が流入してくる。いつなんどき、油断をしたらこのユートピアを崩されてしまうかもしれないという「包囲心理」がありました。自由なんだけれど、敵が包囲している、だから常に軍事力でもって守るということになる。その近代の価値が持っている矛盾が、今もずっと続いています。 戦後から91年のソ連の崩壊までは、アメリカはコミュニズムという敵をつくりました。そして今度は、アルカイダというテロリストをつくった。そして次は……。そういう心理構造がアメリカにはある。 私は、あなたたちにはそういう心理構造がある、だからもっとリラックスをして自由になってほしい、ということを伝えたいんですね。それが研究テーマのひとつでもある。北村 アメリカ人は No. 1になるのが好きな国民性なのかと思っていましたが、いつなんどき襲われるのではないかという、被害妄想からきているんですね。日本は海に囲まれた島国で安全でしたから、国民性も能天気で危機感がない。全く違いますね。松田 彼らの考えの底にあるのは、自分たちは世界にはないユートピアをつくるんだという使命感で、実際にそれをつくり、豊かになりました。そして、その原点は間違っていないという信念があって、それを世界に広めたいんですよ。北村 ピューリタニズムはまだ生きているんですね。今の言葉でいう「グローバリゼーション」ですね。松田 このピューリタニズムの考え、そしてロックの自由主義、いわゆる資本主義の思想とが、あるときには手を携え、あるときには対立しながらアメリカを支えています。北村 アメリカの高等教育の中では、そういう伝統構造を変えることなく、教育しているのでしょうか?松田 大学に行くまでに、家庭、教会、それに学校で教え込まれます。北村 アメリカは自由主義だと言いますけれど、そういう確固たる信念を叩き込むわけですね。松田 それを「アメリカの信条」という言葉で表しているんですね。それに対して、異をはさまない。そこが大前提になっているんです。4 膨張とピューリタニズム松田 アメリカ人は「善意」を強調するんですけど、その善意には条件があるんです。ディーン・アチソン元国務長官いわく「私たちはあなたたちを助けたい。アメリカの歴史をみるとこれだけ成功してきた。助ける上の条件としては、アメリカ人がやった方法で助けたい」。つまり、自由市場経済制度を適用するということです。ウッドロー・ウィルソン大統領の有名な十四カ条の一つ、self determination(民族自決)はアメリカの方法を学べば認めましょうということ。リベラリズムの大きな「枠」「檻」の中にいるならば、アメリカは「善意・寛大」になるということです。北村 その「檻」を出ようとすると、叩いてくるわけですよね。松田 それは何故かというと、ウィリアムズの歴史哲学ですが「アメリカ国民の繁栄、福祉、民主主義の発展は膨張することで成り立っている」ということなんです。アメリカの膨張がストップする、あるいは抑制されると、国内で失業を生み、暴動を生み、社会不安になって、財産追求の自由も侵害される。 膨張がストップするというのは、世界中に社会主義、共産主義の国ができるということです。アメリカのカネ・モノ・サービスが自由に入っていける空間があるうちは、アメリカは助かるんですね。戦後の日本を西側に入れたのも、当然ですよね。北村 アメリカによる「人権外交」というのも、そういうことですよね。「内政干渉」という外交次元の論理を超越する「人権」という価値観を錦の御旗にして、他国へどんどん入っていく。アメリカは怖い国松田 political economyという言葉がありますが、政治と経済、アメリカの民主主義とfree market economyというのは、同じことなんです。分けることができない裏と表なんです。きたむら・みのる 1948年、京都府生まれ。京都大学文学部史学科卒業、同大学院博士課程中途退学。三重大学助教授を経て立命館大学文学部教授。法学博士。専門は中国近現代史。主な著書に『第一次国共合作の研究』(岩波書店)、『「南京事件」の探求』(文春新書)、『中国は社会主義で幸せになったのか』(PHP新書)など。北村 そうしてみると、アメリカというのは恐い、扱いにくい国ですね。 中国共産党も膨張していますが、基礎になっている経済発展は、共産党が外国企業に安い労働力と土地を提供するブローカー業の所産であり、内実は脆弱で、国内矛盾もいっぱい抱えています。 しかしアメリカの場合は、膨張主義の歴史が長いですね。バックボーンにはピューリタニズムという宗教的なものもありますし、確信的です。松田 アメリカの行動、世界観を変えるためには、やはり高等教育を変えないといけないと思います。外国のアメリカ研究者の役割は何かといったら、そこに入り込むことですよ。北村 批判的に分析をして教えてあげるということですね。松田 そういうことです。それをしなくてはいけない。北村 向こうの情報を入れるだけではダメですよね。こちらから発信し、批判して教えないと。でも、今の文科省の言っている英語教育では、単なるビジネス英語どまりですよ。まずは日本語の国語教育を徹底して、発信のための内面世界をつくり上げなくてはダメです。 日本人は戦後、アメリカの占領政策に対して、柔道ではありませんが、押したり引いたりしてうまく対応してきました。冷戦構造の中で、アメリカという支配者をうまく使ったといってよい。そして昨今では、アメリカの「枠」や「檻」が役に立たなくなってきて、どうしようかとは迷っているのだけれど、ズルズルと現在まで来てしまっている。 関係を再構築できていないから、アメリカの国債を買ってご機嫌を取り結んでいる。カネと技術に期待松田 決してアメリカの庇護はタダではないということです。アメリカの行動原理はギブ&テイク。たとえキリスト教関係の団体であっても、完全な持ち出しはないのです。 ――湾岸戦争のとき、日本の海上自衛隊の掃海艇をアメリカがとても評価しましたね。他の国はどこもできないきめ細かい技術を、日本の海上自衛隊は持っていますから。松田 アメリカが日本に求めているのは、カネと技術力ですね。それがアメリカのグローバル戦略を補強する形で使えればいいと考えている。民族自決の問題で言えば、日本人が独自の意思と考えで技術とカネを使った場合、アメリカから“注文”がくるでしょう。それとどう交渉していくかが、これからの世代の責任と義務、技量とセンスでしょう。北村 アメリカによる日本の位置付けをひと言で言うなら、「お金と技術を提供してくれて、アメリカの言うことについてきてくれればいい」ということなんでしょうか。松田 そうです。「アメリカ合衆国は日本を対等で重要なパートナーと見なしている」というセリフがアメリカ高官からよく発言される一方、日本は多少の不満があってもアメリカについてくるしかないので、日本の利益を無視しても大過なくやっていける、という考えをアメリカはもっています。しかし今後もそれで日本の国民が納得するかどうかでしょう。指導層とそれぞれの国民の間の考え方に、あまりにもギャップがあると思います。北村 しかし今、すでに冷戦構造が崩れてしまったために、日本はアメリカとだけ上手くやっていけばいい、という従来のやり方が通用しなくなりました。 今後どうやって独自の道を切り開いていくのか、喫緊の課題ですね。

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    日米戦争は「人種戦争」だった

    渡辺惣樹(日米近現代史研究家)アジア人種への恐怖 アジア人排斥連盟(the Asiatic Exclusion League)のカナダ・ブリティッシュ・コロンビア州支部が結成されたのは1907年のことです。メンバーの中心は労働組合員で、彼らの標的は国際貿易港バンクーバーに流れ込む支那人や日本人労働者でした。低賃金を厭わない支那や日本からやってきた「奴隷」労働者は、炭鉱や魚の缶詰工場あるいは港湾作業場に溢れていました。 カナダにやってきたアジア人労働者は1907年だけでも1万1千に及んでいます。経営者層には重宝なアジアからの低賃金労働者は、白人の労働組合にとっては黄色い悪魔でした。彼らの恐怖が怒りに変わり爆発したのは1907年9月7日のことです。「数千人の男たちがバンクーバーのダウンタウンにある市役所前に集まってきた。手に手に『カナダは白人の国(Keep Canada White)』、『カナダを黄色い人種から守れ(Stop the Yellow Peril)』と書いた横断幕を掲げ、鉱山王ダンズミュアの人形を焼いた。彼は支那人を積極的に雇っていた男だった」「群集をアジっていた男が近くにあるチャイナタウンに向かえと叫んだ。そこにはリトルトーキョーもあった。群集は支那人や日本人の暮らす町で四時間にもわたって破壊行為の限りを尽くした。店の窓ガラスを割り商品を掠奪した」「支那人たちは無抵抗であったが、日本人はこの暴徒に立ち向かった」(*1) 日本が日露戦争に勝利したことで、白人種のアジア人種への恐れはカナダ西海岸だけの現象ではなくなりました。この日にはワシントン州アベルディーンで、東インドからやってきたヒンズー教徒と白人労働者が衝突しています。似たような人種間衝突はサンフランシスコ(5月20、21日)、オレゴン州ボーリング(10月31日)、ワシントン州エヴェレット(11月2日)、カリフォルニア州ライブオーク(1908年1月27日)と連続しています。北米太平洋岸は反オリエンタルの憎悪に満ちていたのです。 ヨーロッパ諸国はアメリカと日本がもうすぐ戦争を始めると思っていました。余りの日本人排斥運動の過激さに、誇り高い民族の国日本が傍観するはずはないと考えたのです。 セオドア・ルーズベルト大統領が、万一日本との戦争が現実のものになった場合を想定し、メトカーフ海軍長官らと戦略会議を開いたのは、1907年6月27日。この会議でアメリカ大西洋艦隊を日本に派遣し、アメリカ海軍力を日本に誇示することを決めています。 10月には、日本との緊張関係を緩和するため、大統領はウィリアム・タフト陸軍長官を東京に派遣し、西園寺公望首相と会談させています。タフトの日本訪問は1905年に続いての訪問でした。アメリカは日本との衝突を回避する道を選択したのです。 1907年から08年は、日米の衝突は避けられないのではないかと思われていた時期でした。しかし戦後に教育を受けた者はこの時代の緊迫感を知りません。日米の緊張関係を学ぶのは1924年の排日移民法からです。 しかし日米の緊張はそのずっと以前から存在していたのでした。1907年当時、アメリカやカナダに移民した日本人は町を歩くことさえ怖かったに違いないし、日本は同胞がそうした扱いを受けることに我慢がならなかったのです。『日米開戦の人種的側面 アメリカの反省1944』(草思社) 本書の著者カレイ・マックウィリアムスは、カリフォルニア州の特異な歴史と人種観を分析し、1900年には既に、日本とカリフォルニアの間に人種戦争が勃発していたことを論じています。 太平洋がアジアとアメリカを分かつ障害物から、アジアとアメリカを繋ぐハイウェイとなったのは、太平洋汽船航路の開設(1867年)に続いて大陸横断鉄道が完成した1869年のことでした。爾来、カリフォルニアはアジア人やアジア文化と接する最前線となります。 しかし、カリフォルニアの白人種は黄色いアジア人種を受け入れるほどには成熟していなかった。異種のビールスを拒否するように、カリフォルニアはアジア人の排斥を始めたのです。 このカリフォルニアの人種偏見に、黒人隔離政策を墨守する南部諸州が加勢します。カリフォルニアでアジア人を平等に扱われたら、南部の黒人隔離政策に批判が及ぶのは避けられなかった。南部諸州にとってカリフォルニアにはアジア人を排斥し差別してもらわなければならなかったのです。WASPを脅かした日本 そこに東部のWASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)も加わってきます。WASPはアメリカ建国以来の支配民族でしたが、移民の流入で少数派に転落する恐怖感にさいなまれていました。ロシアに勝利した黄色人種日本人はWASPの人種的優秀さを脅かす象徴でした。 20世紀初頭のアメリカは、アジア人を受け入れるほどには成熟していなかったのです。マックウィリアムスはこの時代のアメリカを手厳しく自己批判しています。アメリカが人種偏見を止めない限りアメリカの将来は危ういと憂えるのです。 本書ではその多くのページが、真珠湾攻撃後に実施されていた日本人強制収容政策の批判に費やされています。しかしこの書の真骨頂は、カリフォルニアの歴史的な特異性を分析し、そこから不可避的に発生した人種偏見形成過程の考察(第一章 カリフォルニアの特異性及び第二章 カリフォルニア州の対日戦争一九〇〇年から一九四一年)です。 彼が本書を世に問うたのは、未だ日本との戦いが続いていた1944年のことです。読者は、この時期にこれほど日本人を好意的に、いやもっと正確に言えば公平な目で、分析する書物がアメリカ国内で出版されていることに驚きを覚えるに違いありません。 もちろん日本との戦いの進行中に出版されているだけに、著者はその表現に苦心しています。随所に日本の為政者を、そして日本人気質を批判する記述がありますが、それは日本や日本人を批判しながら、実はアメリカ本国の政治家に対する批判でもあることには注意しておく必要があるでしょう。1944年においてはやはり指桑罵槐による権力者批判が必要だったのです。 私たち日本人にとって、なぜあの戦争を戦わなければならなかったかを問い続ける作業はこれからも続くでしょう。あの時代をリードした政治家や軍人を批判するのはよい。しかし、私たち日本人同胞が、黄色い肌を忌み嫌う白人種の敵対の中で生きていた現実は忘れてはならないのです。 日本人の私がその恐怖を語る書を記すことはもちろんできるでしょう。しかし、日本人差別、アジア人差別が続いているその渦中にあった同時代人マックウィリアムスの語りには遠く及びはしないでしょう。 あの戦争以来、私たちの人種観は大きく変わりました。私はその変化の程度はアメリカにおいてこそ激しいものであったと信じています。多くの日本人は1861年から65年にかけて争われた南北戦争は奴隷解放の戦争であると教育されています。しかし当時の資料を丹念に読み解けば、南北戦争はけっして奴隷解放を目的としてはいないことがわかるのです。 南部諸州の離脱はリンカーンが大統領就任前に始まっていました。リンカーンが大統領選挙に当選しただけで南部諸州は連邦からの離脱を決めています。実はリンカーンは奴隷解放宣言(1863年)で示された過激な奴隷解放など考えてはいませんでした。大統領就任前のリンカーンの言葉は、彼自身も白人の優位性を疑ってはいなかったことや、彼の進めるだろう奴隷解放の政策は極めて緩やかなものになることを示唆していました。リンカーンの奴隷解放宣言の本質は、南部連合を支援するイギリスとフランスに軍事介入の口実を作らせない高等な外交政策と考えるのがより適切なのです。心にもない奴隷解放心にもない奴隷解放アメリカ第16代大統領エイブラハム・リンカーン。実は奴隷解放など心にもなかった!? イギリスにもフランスにも、アメリカが二つに割れることを望んでいる勢力がありました。大国となるポテンシャルを持つアメリカが二つになって欲しかったのです。軍事介入し、停戦を実現し、南部連合を国として承認したかったのです。奴隷制度を忌み嫌う英仏内の知識人リーダー層を刺激して、英仏両国に、奴隷制度維持の南部連合に軍事的肩入れをさせないことがリンカーン大統領とその右腕であったソワード国務長官の戦略でした。アメリカの政治家の本音は、黒人は白人と同等などと考えるものではなかったのです。 あの南北戦争は、保護貿易思想で国内産業を保護育成したい北部諸州と、イギリスとの自由貿易による利益を享受し続けたい南部諸州の関税政策を巡るいがみ合いがその根本原因であったことは、拙著『日米衝突の根源』(草思社)で詳述したからここでは語りません。心にもない奴隷解放を実施してしまったアメリカは、その後遺症に悩み続けるのです。 南部諸州を支持した民主党は南北戦争の敗北で壊滅的打撃を受けるのですが、戦後は一貫してかつての白人優位を回復する政策を標榜してその勢力の回復を図ってきました。彼らの進める「強固なる南部政策(Solid South)」では黒人隔離政策は当たり前でした。19世紀末から20世紀初頭のアメリカでは、南部民主党の勢いが盛んになってきた時期でした。その民主党にとって、1900年前後に始まったカリフォルニア州をはじめとする太平洋岸諸州の反日本人運動は、勢力拡大の絶好のチャンスだったのです。 19世紀後半のアメリカ知識人は概して日本に好意的でした。日本人は「アジアのヤンキー」であると本気で考え、日本の近代化を助けました。1901年にマッキンレー大統領の暗殺を受けて副大統領から大統領職についたセオドア・ルーズベルトはそうした知識人の一人でした。西海岸の日本人排斥の原因は日本人が帰化不可能人種であることだといち早く気づいたルーズベルトは、議会に日本人を帰化可能人種にすることを検討させました。しかしその提案は一蹴されてしまうのです。 1904年の大統領選挙でルーズベルトは勝利します。しかし南部諸州ではすべて敗北したのです。黒人隔離政策を推し進める民主党は、少なくとも南部諸州では復権したのです。民主党の真の復権は1912年の大統領選挙で達成されました。当選したのは民主党のウッドロウ・ウィルソンでした。彼は劣勢であったカリフォリニアの票を得るために、日本人排斥を主張する労働組合のリーダー連中にその支援を約束したのでした。 第一次大戦後の国際連盟設立にあたって、人種間の平等をその設立趣意に盛り込もうとする日本全権牧野伸顕の主張をウィルソンが一顧だにしなかったのは、彼の出身基盤である民主党の復権の歴史を顧みれば当然のことでした。 マックウィリアムスは日本人分析の中で日本人は粗末な衣服をまとい、わずかな所持金でやってきたが「日本文化という所持品」を持っていたことも日本人への差別の原因になったと述べています。またいつでもまとまって行動し、必要に応じて日本領事館に駆け込む態度があったことを日本人の負の特性として描写しています。 「彼らの文化が人々をあたかもモザイク画のようにしっかりと一体化したのだった。日本人移民にとっては仲間内の関係が極めて重要な意味を持っていた。彼らは家族そして共同体の価値観が個人のそれよりも重要と考えていた。伝統的な価値観に支えられた大きな擬似家族集団。カリフォルニアの地にあってはそれは特異な集団であった」張本人は新聞メディア そのことは確かに日本人集団を目立たせてはいましたが、そうした特異性も反日本人のプロが騒ぐまでは、ほとんど気にもならなかったことだったのです。すべての民族はそれぞれ一風変わった習慣や文化を持っています。アイルランド人もイタリア人もユダヤ人も、その意味では日本人と同じように特異な集団であることに変わりはありませんでした。 それにもかかわらずなぜ、日本人の特殊性だけが際立たせられることになったのか。マックウィリアムスは、反日本人勢力と結びついた新聞メディアがその張本人だとして厳しく断罪しています。 「一九四三年三月二十三日付けの『ロサンゼルス・イグザミナー』紙は『太平洋を巡る戦いは東洋人種と西洋人種の戦いである。どちらが世界の支配者になるかの戦いなのである』と主張していた」 カリフォルニアではメディアの世界でも反日本人の狂気が覆い尽くしていたのです。そんな病に侵された土地にあっては、日本人の一挙手一投足が嫌悪の対象に成り果てていったのです。 マンザナーの日系人強制収容所(撮影・東洋宮武) マックウィリアムスの著作の後半は日本人強制収容の実態の描写に費やされています。その描写で日本人移民が被った悲しみは十分すぎるほど伝わってきます。その事実を知ることは確かに重要ではありますが、私には彼が歴史的分析を通じて明らかにしたアメリカの人種差別の真因にこそ、この著作の本当の意義があると感じています。 マックウィリアムスが指摘する「カリフォルニアの対日戦争」は、もうひとつ重要な視点を提供してくれます。それは石油に象徴される日本のエネルギー供給元がカリフォルニアであったという事実と重ね合わせることでより明確になります。 1920年代にもロサンゼルス周辺に続々と大型油田が発見されていました。ハンティントン・ビーチ油田(1920年)、サンタフェ・スプリング油田(1920年)、シグナルヒル油田(1921年)。そして日本は次第にカリフォルニア産の石油に依存していくことになります。日本の石油の9割がアメリカからの輸入となり、その8割近くはカリフォルニアに産する石油だったのです。 反日本人のメッカである「カルフォルニア共和国」にエネルギーを極端なほどに依存していた戦前の日本人の恐怖を、私たちは忘れてならないでしょう。アメリカへのエネルギー依存度を何とかして下げたいと考えるのは、日本の安全保障を担う者にとっては当然の責務でした。 それにしても、アメリカは黒人差別に象徴される人種差別の呪縛からあの戦争を経ずして解放され得たのだろうかとつくづく思います。アメリカの最近の歴史研究では、なぜ日本は負けることがわかり切った戦争を決意したのかについての真摯な議論が出てきています。そうした研究では、日本の軍国主義化がその原因などとするような黴の生えた議論はありません。なぜ日本をそこまで追い込んだのかを自省的に分析する研究が増えているのです。人種差別問題もエネルギー問題もそうした研究に重要な材料を提供しています。 いつかそうした最新の研究を紹介することができたらとも考えています。*1:Anti-Asian riot in Vancouver : 1907 URL:http://marcialalonde.weebly.com/uploads/9/3/8/2/9382401/anti-asian_riots.pdfわたなべ・そうき 1954年、静岡県生まれ。77年東京大学経済学部卒業。日米近現代史研究家。米国・カナダで30年にわたりビジネスに従事。カナダ・バンクーバー在住。著書に『日本開国』『日米衝突の根源1858-1908』『TPP知財戦争の始まり』、訳書に『日本1852』『日米開戦の人種的側面 アメリカの反省1944』(以上、草思社)などがある。

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    「日本無罪論」パール博士の言葉

     京都・東山の霊山護国神社。幕末の志士、明治維新の元勲らの墓碑や先の大戦の慰霊碑が数多く並ぶ。そこにラダ・ビノード・パール博士の顕彰碑がある。 パール博士は、東京裁判(極東国際軍事裁判・昭和21~23年)で、戦犯として訴追された25被告に対して「全員無罪」を判事11人のうち唯一主張したインド代表判事として知られる。初秋の清明な空気が流れる今月20日、碑の建立17周年式典が行われた。ラダ・ビノード・パール博士 式典には、建立に尽力した近畿偕行会員、インドのアシーム・マハジャン駐大阪・神戸総領事、陸上自衛隊幹部ら約70人が参列した。東京裁判で死刑判決を受けた7被告の一人、木村兵太郎陸軍大将の長男、太郎氏(83)の姿もあった。碑はインド独立50周年記念で建立され、名だたる多くの協賛企業の社名が刻まれている。 博士はよく訪れた京都をこよなく愛したという。先月末から来日したインドのモディ首相は京都にまず入った。出迎えた安倍晋三首相とこの顕彰碑をもし訪れたとしたら、両国の絆を内外に示す絶好の機会となっただろう。東京・迎賓館でのスピーチで、モディ首相が「パール判事が東京裁判で果たした役割は忘れていない」とたたえた。留飲が下がる思いだった。 歴史家、田中正明氏の名著に『パール判事の日本無罪論』がある。法の支配と史実からの「無罪」の判示が明晰(めいせき)につづられる。 博士が判決後に案じ続けたのは、日本の断罪が判示されたいわゆる「東京裁判史観」が、影を投げ続けていくことだった。 博士は昭和27年10月の2度目の来日時に、羽田空港での記者会見で前年に調印されたサンフランシスコ平和条約と日本の独立について質問され、次のように答えた。 「日本は独立したといっているが、これは独立でも何でもない。しいて独立という言葉を使いたければ、半独立といったらいい。いまだにアメリカから与えられた憲法の許(もと)で、日米安保条約に依存し、東京裁判史観というゆがめられた自虐史観や、アメリカナイズされたものの見方や考え方が少しも直っていない。日本人よ、日本に帰れ、とわたくしはいいたい」(『パール博士のことば』田中正明著から抜粋) 博士は判決内容が国際的には法学者らの間で問題視されていたことを示し、来日時の大阪弁護士会での講演では次のように述べた。 「肝心の日本ではいっこうに問題視されないのはどうしたことか。これは敗戦の副産物ではないかと思う。すなわち一つに戦争の破壊があまりに悲惨で、打撃が大きかったために、生活そのものに追われて思考の余地を失ったこと、二つにはアメリカの巧妙なる占領政策と、戦時宣伝、心理作戦に災いされて、過去の一切があやまりであったという罪悪感に陥り、バックボーンを抜かれて無気力になってしまったことである」(『パール判事の日本無罪論』から抜粋) 「過去の一切があやまりという罪悪感」との至言は、戦後の日本の言論空間に靄(もや)のようにかかり続けるいわゆる「自虐的論調」にもつながる指摘だ。日本と中韓との間に漂い続ける歴史の澱(よど)み。集団的自衛権など国の守りに対する基本姿勢。ひいては「国家観なき国家」…。博士の言葉の数々を今こそかみしめる時ではなかろうか。(近藤豊和)

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    占領軍と癒着した「反日日本人」

    高橋史朗(明星大教授) 朝日新聞は2014年の8月5、6日付朝刊で、慰安婦問題をめぐる同紙の過去の報道に誤報があったことを認めたが、議論をすりかえ、国際広報もせず、自らの責任を明確にして謝罪することもしなかった。 盧泰愚大統領(当時)は、慰安婦問題は「日本の言論機関の方がこの問題を提起し、我が国の国民の反日感情を焚(た)きつけ、国民を憤激させてしまった」と指摘した。「従軍慰安婦」と「女子挺身(ていしん)隊」とを混同し、吉田清治氏のウソの証言を報道した朝日新聞が、日本は「性奴隷」国家であるという不当な国際誤解の元凶であったことが明白になった以上、言論機関としての社会的責任、国際的な説明責任が問われるのは当然である。 中韓との教科書騒動の元凶も日本の新聞報道であったが、このような「反日日本人」のルーツは、占領政策を継承し拡大再生産していく「友好的日本人」による「内的自己崩壊」を仕組んだ占領軍の「精神的武装解除」政策にあったことを見落としてはならない。 憲法をはじめとする占領政策をアメリカが押しつけたことのみを問題視する傾向があるが、そのような責任転嫁はもはや許されない。在米占領文書によれば、米軍は日本の歴史、文化、伝統に否定的な「友好的日本人」のリストを作成し、占領政策の協力者として「日本人検閲官」(約5千人)など民政官を含む各分野の人材とし高給を与え積極的に登用した。 これらの占領軍と癒着した「反日日本人」が戦後日本の言論界、学界、教育界などをリードしてきた事実を直視する必要がある。 ドイツと違って、軍国主義は日本人の道徳(精神的伝統)や国民性、神道に根差していると誤解した米軍の対日文化・心理戦略が、日本人の道徳、誇りとアイデンティティーを完全に破砕する「精神的武装解除」政策として実行され、「内的自己崩壊」をリードする「反日日本人」を活用して、背後から巧妙にコントロールした。 在英秘密文書で共産主義者が憲法制定や公職追放、戦犯調査などに深く関与し、米戦略諜報局の対日占領計画の背景に、英タヴィストック研究所の「洗脳計画」があったことが判明した。 伝統文化や男らしさ女らしさを否定する教育など、抵抗精神を弱体化する「洗脳計画」によって、占領軍の眼をはめこまれた「反日日本人」が日本の国際的信頼を自ら貶(おとし)めてきたのである。 昭和20年8月15日、朝日新聞は「玉砂利握りしめつつ宮城を拝しただ涙」との見出しで、「英霊よ許せ」「『天皇陛下に申し訳ありません…』それだけ叫んで声が出なかった」(一記者謹記)という記事を掲載している。 朝日が「反日」に転じた契機となったのは、占領政策に反するという理由で発行禁止になったことにあり、以来朝日は発行停止にならないように、占領軍の目で反日記事を書くようになった。 江藤淳はこの占領下の「閉ざされた言語空間」について鋭く指摘したが、「反日日本人」が戦後日本に与えた影響について歴史的に検証し総括する必要があろう。単純な米中韓との対立図式では捉えられない戦後の思想的混迷の原点がそこにあると思うからである。 中韓首脳会談で慰安婦問題の共同研究が合意されたが、河野談話の作成経緯に関する検証結果を踏まえた新談話を発表し、不当な国際誤解を払拭する必要がある。

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    秘密文書で判明した贖罪意識を植え付けるためのGHQ工作

     占領下の日本国民に戦争に対する贖罪(しょくざい)意識を植え付けるため連合国軍総司令部(GHQ)が、中国・延安で中国共産党が野坂参三元共産党議長を通じて日本軍捕虜に行った心理戦(洗脳工作)の手法を取り入れたことが英国立公文書館所蔵の秘密文書で判明した。GHQの工作は、「ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)」と呼ばれ、現在に至るまで日本人の歴史観に大きな影響を与えている。(編集委員 岡部伸)◇ 文書は、GHQでマッカーサーの政治顧問付補佐官だった米国の外交官、ジョン・エマーソンが、1957年3月12日、共産主義者との疑惑が浮上したカナダの外交官、ハーバート・ノーマンとの関連で米上院国内治安小委員会で証言した記録で、「ノーマン・ファイル」(KV2/3261)にあった。元米外交官、ジョン・エマーソンが米上院小委員会で証言した記録(英国立公文書館所蔵) 44年11月に米軍事視察団の戦時情報局(OWI)要員として延安を訪問したエマーソンは、中国共産党の支配下で野坂参三(延安では岡野進と称した)元議長が日本軍捕虜の思想改造に成功した、として「岡野と日本人民解放連盟が行った活動の経験と業績が、対日戦争(政策)に役立つと確信した」と証言。さらに「共産主義者の組織であったが、捕虜たちが反軍国主義や反戦活動に喜んで参加するまで吹き込み(洗脳)に成功したことから彼らの成果はわれわれ(米国)の対日政策に貢献できると思った」と述べている。 エマーソンは後に「(延安での収穫を元に)日本に降伏を勧告する宣伝と戦後に対する心理作戦を考えた」(大森実『戦後秘史4赤旗とGHQ』)と告白した。エマーソンが「対日政策に貢献できる」と証言した「心理戦」は、日本兵に侵略者としての罪悪感を植え付けるもので、軍国主義者と人民(国民)を区別し、軍国主義者への批判と人民への同情を兵士に呼びかける「二分法」によるプロパガンダ(宣伝)だった。 GHQは、終戦直後の昭和20年9月に「プレスコード」(新聞綱領)を定めて言論を統制し、一般人の私信まで検閲を実施。10月には、「日本人の各層に、敗北と戦争を起こした罪、現在と将来の日本の苦難と窮乏に対する軍国主義者の責任、連合国による軍事占領の理由と目的を周知徹底する」との一般命令第4号を出した。さらに、12月8日から全国の新聞に『太平洋戦史』を掲載、翌日からラジオ番組『真相はこうだ』を放送させ、戦勝国史観を浸透させた。 日本人にさきの戦争への罪悪感を植え付けた連合国軍総司令部(GHQ)の「ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)」。その原点は、大戦末期の中国・延安で中国共産党による日本軍捕虜に対する「心理戦」にあった。                   「日本の軍国主義者が国民に対して犯した罪は枚挙にいとまがない」 昭和20年12月8日、GHQの民間情報教育局(CIE)に強要され、新聞各紙が連載を始めた『太平洋戦史』では、「大東亜戦争」を公的に使用禁止し、冒頭から「真実を隠蔽(いんぺい)した軍国主義者」と「大本営発表にだまされた国民」を二分して対峙(たいじ)させ、日本が非道極まりない国だったと全国民にすり込んだ。それは現在も国民的な「神話」となっている。 文芸評論家の江藤淳は『閉された言語空間』で、WGIPと規定し、「日本と米国との戦いを、『軍国主義者』と『国民』との戦いにすり替えようとする」と指摘。『軍国主義者』と『国民』の架空の対立を導入して、「大都市の無差別爆撃も、広島・長崎への原爆投下も、『軍国主義者』が悪かったから起(おこ)った災厄」と米国の戦争責任を『軍国主義者』に押しつけたと指摘した。■   ■ 『軍国主義者』と『国民』の対立という「二分法」の「洗脳」を1944年11月、延安で学んだのがGHQでマッカーサーの政治顧問付補佐官を務めたジョン・エマーソンだった。 英国立公文書館所蔵の秘密文書によると、エマーソンは57年3月12日、米上院国内治安小委員会で、初期GHQが民主化のため日本共産党と手を握ったことを認めている。 エマーソンは戦前の36年から41年までと、終戦直後の45年から46年、さらに62年から66年まで3度日本に駐在した日本専門家。占領初期は政治顧問として対敵諜報部に所属した。エマーソンが『戦後秘史4』で大森実に語ったところによると、ルーズベルト大統領のニューディール支持者で大戦中は米戦時情報局(OWI)要員として中国・重慶に赴任し、中国共産党・八路軍の対日心理作戦の成功に注目し、戦後の占領政策を視野に経験に学ぼうとした。 エマーソンらOWIのスタッフが作成した『延安リポート』(山本武利編訳)によると、野坂らは、天皇批判を軍国主義者に置き換え、軍国主義者と人民(国民)を区別し、軍国主義者への批判と人民への同情を呼びかける心理工作を繰り返し、贖罪(しょくざい)意識を植え付けた日本軍捕虜を反戦兵士に「転向」させるまで洗脳した。野坂の日本人民解放連盟は八路軍敵軍工作部と表裏一体で、彼らの工作は中国共産党によるものだった。 中国共産党は、反戦日本兵の育成を通じて、徐々に厭戦(えんせん)感と贖罪意識を強め、やがて日本人全体を精神的捕虜にする狙いだった。 ■   ■ 中国軍が連合軍捕虜を外部隔離や尋問、集団・自己批判させて共産主義者に強制的思想改造したのは50年に勃発した朝鮮戦争が最初で、「洗脳」の新語が生まれたが、延安では集団批判で日本人捕虜に「洗脳」の原型といえる思想改造が行われた。 エマーソンらGHQの実務家にとって延安で学んだ「捕虜」洗脳は、占領政策を遂行するためのよき「先例」となった。 GHQは、「洗脳」手法を積極的に取り入れ、東京裁判などの節目で展開し、「悪い侵略戦争をした」と日本人に自虐史観を植え付けたといえる。 (敬称略) 二分法 「共通の敵を打倒するため連帯できる諸勢力と共闘する」との毛沢東の理論。中国共産党は、戦後一貫して少数の軍国主義者と大多数の日本人民を区分する対日外交政策を取っている。1972年の日中国交正常化の際、中国内の反日感情を抑制するための根拠として使われた。教科書問題や靖国問題でも同じ論法をとっている。(敬称略) ◇反日プロパガンダ招いた壮大な「歴史戦」 外交評論家・加瀬英明氏 「GHQは日本民族から独立心を奪い、精神を破壊して未来永劫(えいごう)にわたって属国とするためにWGIPを仕掛けた。軍国主義者と人民を区分する『二分法』は、毛沢東時代からの中国共産党の教化政策。米国は朝鮮戦争まで中国共産党と太いパイプがあり、エマーソンの証言通り、延安で成功した日本人捕虜に対する手法を占領政策で日本が二度と歯向かわないように利用したのだろう。その結果、自虐史観が蔓延(まんえん)し、『河野談話』『村山談話』のように日本人自身が過剰に自己否定し、中国、韓国の反日プロパガンダを招いた。壮大な『歴史戦』といえる」◇【用語解説】「ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)」 GHQが占領政策として戦争に対する罪悪感を日本人に植え付けるため行った宣伝計画。日本の歴史や文化・伝統を破壊し、日本人自身が日本人を否定して精神を改造するよう誘導、原爆投下や大都市の無差別爆撃などを行った米国の正当化を図った。新聞や雑誌、ラジオを検閲し、占領政策にあうよう書き直させたり、発禁処分にしたりした。検閲に協力した日本人は数千人といわれ、メディアや官界、大学などで活躍した。

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    あぐらをかく戦勝国と我慢する敗戦国…米国の傲慢な歴史修正

    阿比留瑠比(産経新聞政治部編集委員) 戦後70周年を迎える平成27年は、歴史認識をめぐる「歴史戦」の年になる。米紙ニューヨーク・タイムズなどは早速、日本の保守勢力に「歴史修正主義」のレッテルを貼ってきたが、戦勝国の立場にあぐらをかき、歴史を修正してきたのはどちらか-。 そんなことをぼんやり思いながら昨年末の休暇中、高校書道部を舞台にした漫画「とめはねっ!」(河合克敏著)を読んでいて、思わず息をのんだ。 作中、見開きで大きく紹介されていた昭和20年3月10日の東京大空襲を題材にした元教師の書家、井上有一氏の書「噫(ああ)横川国民学校」(群馬県立近代美術館所蔵)があまりに衝撃的だったからだ。 「アメリカB29夜間東京空襲 闇黒東都忽化火海 江東一帯焦熱地獄」「親は愛児を庇(かば)い子は親に縋(すが)る」「全員一千折り重なり 教室校庭に焼き殺さる」「噫呼何の故あってか無辜(むこ)を殺戮(さつりく)するのか」「倉庫内にて聞きし親子断末魔の声 終生忘るなし」 書幅いっぱいに埋め尽くすように書かれた文字は、積み重なり、苦しみながら焼き殺された人々に見える。自身は一命を取り留めたものの教え子を失った井上氏が、血涙で書いたかのような印象を受けた。 約10万人が死亡した東京大空襲は、非戦闘員の殺傷を目的としており、もとより国際法違反である。米田建三・元内閣府副大臣の調査によると、東京大空襲の「作戦任務」(同年3月9日付)の目標は、軍事施設ではなく「東京市街地」と明記されている。最初から一般住民を標的にしていたことは明らかなのだ。 また、東京大空襲・戦災資料センターが東京都から寄贈された被害者の名簿3万人分のうち、年齢が分かる人について調べた結果がこの空襲の性質を表している。 それによると、被害者の年齢層で最も多いのは0~9歳の20%で、次いで10~19歳の18%だった。実に4割近くが未成年だったのである。これは通常の戦争遂行行為ではなく、米軍による子供の大量虐殺(ジェノサイド)にほかならない。 しかも米国は戦後、こうした自らの罪を日本人の目から隠そうとした。明星大戦後教育史研究センターの勝岡寛次氏の著書「抹殺された大東亜戦争 米軍占領下の検閲が歪(ゆが)めたもの」(明成社)によると、連合国軍総司令部(GHQ)は検閲で、例えば米軍の東京大空襲での国際法違反行為を指摘したこんな文章を削除した。 「無辜の一般市民に対して行へる無差別的爆撃、都市村邑(そんゆう)の病院、学校、その他文化的保護建物の無斟酌(しんしゃく)の破壊、病院船に対する砲爆撃等、計(かぞ)へ来らば例を挙ぐるの煩に堪へぬほど多々あつた」(信夫淳平氏「我国に於(お)ける国際法の前途」) 「米国は原子爆弾と中小都市焼爆で日本全土を荒廃し数百万人の非戦闘員を殺傷せしめた」(石原莞爾氏・宋徳和氏対談「満州事変の真相」)米空軍のカーティス・ルメイ大将(後に空軍参謀総長) 米国は、自分に都合の悪い歴史は堂々と修正し、歴史から抹殺しようとしてきたのである。当時、日本に対する空襲について「史上最も冷酷、野蛮な非戦闘員殺戮の一つ」(ボナー・フェラーズ准将)と自覚していたのは間違いない。 焼夷(しょうい)弾を使用した夜間無差別爆撃に踏み切ったカーチス・ルメイ少将の下で、作戦計画作成に当たったロバート・マクナマラ元国防長官は記録映画「フォッグ・オブ・ウォー」(2003年公開)の中でこう赤裸々に証言している。 「ルメイも私も戦争犯罪を行ったのだ。もし、負けていればだ」 だが、戦勝国は全部を正当化し、敗戦国はすべてを我慢するなどという状態が70年以上ももつわけがない。米国は傲慢になりすぎない方がいい。

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    恥ずかしくなる米歴史学会の研究レベル

    モーガン・ジェイソン(フルブライト研究者) ──今は早稲田大学で研究されているんでしたね。モーガン 法制史をメインに研究しています。早稲田大学の中央図書館には歴史的に貴重な資料が豊富にありますので、毎日資料を探っています。最近は『法律時報』という雑誌のバックナンバーを延々とコピーしています。 ──どのような内容なのですか。モーガン この雑誌の編集長は末弘厳太郎でしたが、これを読めば法社会学の輪郭が見えてきます。 ──早大はいい資料を持っていると聞きましたが。モーガン 関東大震災で、東大などは資料が完全に全焼してしまいましたが、早稲田は奇跡的に被害が少なかったそうです。第二次世界大戦時もあまり被害がなかったので、古い本もたくさん残っているようです。 ──モーガンさんのお祖父様は大戦中に日本軍と戦われたそうですね。モーガン 祖父はプリンストンとボノム・リシャールという二つの空母に乗り、通信兵をしていました。毎日激しい戦闘の中で、パイロットの友人が出撃して戻らないこともあったと言っていました。毎日が死と隣り合わせで、いつ特攻機が襲って来るかわからないことが、一番恐ろしかったと話していました。日本本土に近付いたら、すぐに特攻攻撃に見舞われた。沖縄の上陸作戦には参加していませんが、近くの海域にいたのではないでしょうか。終戦後、数カ月して本州に上陸したときも、殺されるかもしれないという恐怖があったそうです。 ──日本本土にも上陸されたのですか。モーガン ええ、一年ほど滞在していたようです。上陸部隊の全員が殺されるかもしれないという恐怖を持っていたといいます。リンゴの中のムシ ──勝ったとはいえ、敵国ですからね。モーガン ただ祖父はそのときにとても驚いたと言っていました。“大歓迎”ではありませんが、日本人から温かい歓迎を受けたそうです。この国は普通の国じゃないと、そのときに気付いたと言っていました。 ──どこにおられたのでしょうか。モーガン おそらく横須賀じゃないかと思います。鎌倉の大仏と写っている写真が実家にありましたので。鎌倉では大仏さんの胎内に入ったと言っていましたよ(笑)。 ──モーガンさんが日本の歴史に興味を持たれたきっかけはありますか。モーガン やはり祖父の話を聞いたのが大きかったと思います。今もずっと自分の中で悩んでいることがあるんですよ。……原爆投下の件です。祖父は原爆投下を本当に非人道的な行為であると見ていました。兵士に対して使用したのであれば、話は別だったと思うのですが、一般市民を相手に、何十万人も殺傷したのはあまりにも残酷だと考えていたようです。私自身も初めて原爆の話を聞いたとき、自分の国がそのようなことを行ったことに、驚きと言いますか、信じられない気持ちがありました。そこからなんと言えばいいのか……。一匹の虫がリンゴの中身を食い荒らすのと同じように、原爆投下の事実が、私の心の中を食い荒らしているような感じがするのです。 ──その“虫”が動きはじめたのは何歳ころからですか。モーガン 確か7歳か8歳のころだったと思います。私は天皇陛下を大変尊敬しています。普通の人はもちろん、大統領であったとしても桁が違うほど、上の存在だと感じていました。その天皇が治める国に原爆を投下したことは、本当に正しいのか。そのことに私はずっと悩んでいたのです。 ──誠実なお人柄なんですね。モーガン 私の弟やいとこは祖父の戦争の話にあまり興味を持っていませんでしたが、私は気になって仕方がありませんでしたので、よく話してくれたのだと思います。万葉集に出会う ──お祖父様が亡くなられたのは……。米海軍記念碑の前に立つ祖父(左)。隣にいるのは弟モーガン 2010年ですね。4月の終わりでしたので、もう5年ですか。私はそのころ日本に住んでいましたが、入院したとの連絡がありましたが、わずか数日のうちに、亡くなってしまいました。急いで帰国してお葬式に参列しましたが、顔を合わせて「さよなら」と言えなかったのが心残りです。 ──お祖父様のお話があったからこそ、日本に興味を持たれたわけですね。ただ、日本で歴史を研究しようというのは別の問題だと思うのですが、それはどのようなきっかけですか。 モーガン 高校生のときに葛飾北斎や日本の浮世絵に興味があり、美術を勉強しようと思いましたが、大学に入ると、私には才能がないことに気付きました。それで専門をギリシャ語とラテン語に変えて勉強しましたが、ただこれらを学んでも果たして仕事になるのかどうかと疑問に思いはじめました。そのようなときに、日本の万葉集の英訳に出会い「美しいな、この世界は」と感じたのです。 ──万葉集ですか。モーガン 大学では日本についての講義がありましたので、受講したところ、日本人の留学生が4人いました。そこで会話の練習相手として、たどたどしい日本語を話しているうちに岐阜県出身の人と仲良くなり、彼が帰国したときに、1カ月ほどホームステイさせてもらいました。岐阜で日本の生活を体験することで、日本という国をもっと勉強したいという気持ちが強まりました。 ──なにか特別に面白いことがあったのですか。モーガン たとえばちゃぶ台で座って食事をするときに……。 ──まだちゃぶ台がありましたか。モーガン そうなんです。床に座ることもそうですが、人の作法やマナーなど、気になるポイントが自分の国とはまったく異なりますので、その差が面白いと感じましたね。なんというか……、日本はくつろげる国なんですよね。外国なのに。なんだか故郷に帰ったような気持ちになるんです。 ──日本の空気が合ったんでしょうね。モーガン そう、空気がいい。ピッタリです。今までに何度も文化の差で苦労をしましたが、一生この国を勉強したいと思いました。 ──でも、今は歴史ではなく……。モーガン はい、法社会学と言いますか、法制史ですね。法律制度に興味がありまして。 ──先ほども伺いましたが、末弘厳太郎さんの研究をされていらっしゃるんですよね。モーガン 労働法の元祖として知られていますが、関東大震災のあとに起きた隣保館(セツルメントハウス)のこととかに興味があります。 ──当時は、共産党系の人が多かったですね。そこを拠点にしてオルグ(オーガナイズ活動)をしていたんですね。モーガン そうですね。意外なことにそのことについて、英語ではほとんど論文がありません。日本帝国は正しかった日本帝国は正しかった ──共産主義と言えば、占領軍として日本に来た、いわゆるニューディーラーたちもその系統の人たちですよね。モーガン 私は祖父も含めて、アメリカ軍の全員がヒーローだと考えていました。勇敢に戦ったことは尊敬しております。しかし、今考えているのは、それとは正反対のことです。まだ心の整理ができておらず、矛盾しているのですが、日本側のほうが正しかったと思うことがあります。なぜアメリカがあの戦争に参加したのかを考えると、ニューディールの宣教師としての役割があったのではないかと思います。世界にそれを広めるために、言い換えればルーズベルト大統領の目的を達成するために、何十万人の犠牲者を出してまで日本と戦ったのは、本当にアメリカにとって正しい行動だったのか、深く疑問を抱いています。当時の米政府、特に連邦政府は共産党ばかりでしたね。共産党を敵にした日本帝国は間違いなく正しかったです。 ──左翼思想を持ったニューディーラーたちが、日本にもその思想を根付かせようとした、ということでしょうか。モーガン ルーズベルトには、もともとそうした考えがあったのかもしれませんね。 ──欧州の戦争に国民を参加させるために、裏側の太平洋(バックドアーズ)から戦いに行ったと言われていますが、いかがですか。モーガン それは一石二鳥ですからね。大西洋の戦争に参加できれば、ロシアの負担が軽くなり、日本と戦争を始めたら、ロシアの負担が半分軽くなるわけですからね。 ──当時のアメリカは、中国に対してはどのような認識を持っていたんでしょうか。ヨーロッパの帝国主義に支配されていたり、日本に痛めつけられているかわいそうな国としてのイメージが強かったのでしょうか。モーガン その通りだと思います。中国自身がもっとしっかりしていたら、というか、もっと為すべきことをしていれば、帝国主義の標的にはならなかったと思います。 ──日本はアヘン戦争を見て、一刻も早く近代化を成し遂げなければいけないと考え、富国強兵、殖産興業を目標にして、何とか植民地にならないで済みました。だから朝鮮半島と中国と手を携えて欧米列強に備えようとした。それぞれ有力なグループと手を組みましたが、うまくいかずに、かえっていろいろと恨まれることになってしまいました。モーガン 賛成です。日本にも日本の都合がありますが、ヨーロッパの帝国主義から朝鮮半島を守るために植民地にしたと考えると、朝鮮は日本に対して感謝するべきだと思います。朝鮮半島の半分が、現在の中国のような独裁社会にならなかったことだけでも、日本に感謝するべきだと思いますよ。まあ、事はそう簡単ではありませんが。 ──日本で気になる人はいますか。モーガン 田母神俊雄さんですね。以前、早稲田の講演会で話を聞いてとても面白かった。ユーモアのある方です。 ──何かにつけ率直な人ですよね。でも田母神さんが好きだとか、面白いと言うと、右翼のレッテルを貼られる風潮がありますけど。モーガン そうですね……日本の伝統に興味を持つと。もうすでに札付きの右派ですからね(笑)。あとは安倍晋三さん、石原慎太郎さんも気に入っています。日本に対して侮辱的 ──モーガンさんは、幕末の志士のような志を持っておられるのですね。ちなみに日本の歴史についてはどのような書物から学ばれたのですか。モーガン もともと天邪鬼なところがあって、アメリカで言われていることに対して反発したというのがあります。「これは全部違う。自分でゼロから学びはじめるぞ!」という下剋上の気持ちから始まったのかなと(笑)。ですから独学です。米国の学者のものも読みましたが、たとえばジョン・ダワーさんなどは、自分の思想に合う資料を集めて、そこから書くという手法を感じます。まずは政治的な解釈があり、そこから始まる。平川祐弘先生がダワーの『敗北を抱きしめて』という本について批評していますが、それは非常に面白いですよ。その論文を読んで初めてわかったんですけれども、『敗北を抱きしめて』というのは日本に対してあまりにも侮辱的だと思います。だって負けてよかったなんていう気持ちなど、あり得ないです。 ──ダワーさんの『容赦なき戦争』は、日米戦争は人種戦争という色合いが非常に強かったと指摘していて、大変面白かったんですけどね。モーガン 太平洋戦争は確かに人種戦争でしたね。米側のプロパガンダを見ると、日本人を猿にしたり、虫にしたり、そのようなものばかりでした。 ──あのイメージは、やはりルーズベルト大統領個人の中にもあったのでしょうか。モーガン そうだと思います。彼はアメリカで聖人扱いされていますが、人種差別感情は激しかったと思います。ルーズベルトは大変裕福な家庭で生まれ育っていましたので、周りの人に対して、特に黒人や貧しい人に対して侮蔑する気持ちがあったのではないかと考えています。貧しい人々のために働いているというイメージもありますが、それを鵜呑みにしてはいけないのではないかと。 ──日本に対する警戒心といいますか、我々の目から見ると「ええ、そんな風に見てるの」と驚くくらいに「過大評価」していますよね。世界征覇を夢見ているとか……。モーガン そうですね。さすが昭和天皇 ──それはやはり差別意識があるからこそ、逆に恐怖心が芽生えたのではないかと思います。いま『昭和天皇実録』が刊行されはじめましたが、昭和天皇は日米戦争の最大の理由は「排日移民法」だと述べられています。つまり日本人の移民を排斥する運動が、法律になったことが決め手だったと。アメリカに対して好意を持っていた日本人も、「なぜ日本人だけをそんなに差別するんだろう」という思いが募ってきたという背景があったのでしょうね。同じ時代を生きた人たちは、よく見ているものだと感じました。それと貿易戦争になってきますよね。ホーリー・スムート法ができてブロック経済に入っていく。モーガン さすが昭和天皇、よく見ていますね。ちなみに私が一番不満を持っている点は、昭和天皇に対する扱いです。アメリカでは、昭和天皇がヒトラーのように扱われていますが、とんでもない。陛下は非常に観察の鋭い、頭のよい、優しい、人間性にあふれた、本当に立派な天皇でいらっしゃったと私は思っています。しかし、現在はあまりにもアンフェアな解釈をしている学者が多いですね。陛下は、あの戦争を仕掛けたのではなく、戦争を回避するためにあらゆることを行なわれました。昭和天皇はもう一度、キチンと見直される必要があるのです。 ──日本のリベラルな人たちやジャーナリズムもひどいものです。「米国の教科書で慰安婦は天皇の贈りもの」なんて記述した“三文教授”がいましたが、これなんか日本の左翼の口移しなんでしょうね。モーガン はい、そもそも帝国主義を悪いものとして考えている学者がほとんどですが、それは果たして本当に正しいのか。たとえば慰安婦問題などに関する声明を発表した187人の研究者は〈民主主義のために歴史解釈を前向きにしましょう〉と述べていますが、民主主義はそれほどまでによいものなのか。民主主義は原爆を投下したんですよ。民主主義は東京を空襲したんですよ。その民主主義が無罪であり、理想のものだと考えている学者が多いのですが、帝国主義はそのようなことはしていません。だからこそ偏見を改めるべきだと言いたいですね。民主主義への過剰信仰 ──ヒトラーを生んだのも民主主義ですからね。モーガン まさにその通り、民主主義です。ヒトラーは逆に帝国主義者カイザーを裏切り、民主主義を主張して独裁者になったのです。スターリンもある意味では民主主義です。毛沢東も民主主義。あの北朝鮮も民主主義です。民主主義はそれほど理想的なものではないと思います。 ──「人民民主主義」「人民解放軍」……。モーガン 人民解放軍は矛盾していますよね。 ──米国が生んだアメリカンデモクラシーを大切にしたいというのはわかりますが、世界中にその考えを広げようとして……。モーガン どうしてイランやイラクで民主化ができないのか、そういうところから始めないといけませんね。傲慢にも日本を民主化したのはアメリカだと主張していますが、イラク戦争のときには民主化を止めようと言っていますので、どっちですかと。民主化が本当に理想であれば、イラクも民主主義化してもいいのではないかと言いたいですね。民主主義への過剰な信仰が昭和天皇のよさを隠しているのではないかと考えています。その偏見を捨てて、昭和天皇を見直すべきではないでしょうか。 ──少し話題を戻しますが、日本研究を行われているうちに法社会学に向かわれたとのことですが、それにはきっかけがあるのですか。ロースクールを卒業した頃の祖父モーガン そうですね。これもまた祖父の話ですが……祖父はニューオリンズの貧しい家庭に生まれました。子供の頃、曾祖父が第一次世界大戦に参加し、生きて帰ってきたのですが、いろいろあって、祖父と曾祖母の二人暮らしになったと聞いています。そこで祖父は学校を辞めて、食材の配達や、日雇い労働のような仕事をしていました。それからしばらくして、太平洋戦争が勃発し、海軍に入り、戦争が終わったらアメリカに戻って働いて、朝鮮戦争勃発とともに、また海軍に入って……。そして朝鮮戦争が終わったら、帰国して、中学校、高校、大学、ロースクールと進学し、12年かけて弁護士になりました。 ──すごい努力家ですね。モーガン 弁護士になってから、先ほどお話ししたことを私に聞かせてくれました。だから法律にも興味があるのでしょうね。あとは日本で翻訳の仕事をしていたときに、契約書の翻訳も行っていましたので、法律って面白いと感じたこともありますね。それで法律制度について勉強を始めたという次第です。 まず判例に興味がありましたので、末弘先生について勉強をしました。法社会学全般としては川島武宜先生なども研究しています。 ──最初に日本に来られたときは、どこの大学へいらっしゃったのですか。モーガン 最初は名古屋外国語大学ですね。そこで半年くらい日本語を勉強し、そこから名古屋大学に研究生として入り、明治維新や歴史について学びはじめました。 ──そのころから本格的に研究生活に入られたのですね。モーガン そうですね。15年くらい前の話ですね。 ──名古屋には何年ほどいらっしゃったのですか。モーガン 1年半弱ですね。 ──それからまたアメリカにお帰りになる。モーガン そうですね。帰国してからは、出来る限りアジアに近いところで、英語で勉強ができる大学を探していました。そこでハワイ大学か香港大学に行きたいと考えたのですが、ちょうどそのころにSARSが発生しましたので、香港大学ではなく、ハワイ大学へ行くことを決めました。ハワイ大学は二年ほどですかね。修士課程でしたので。“猫かぶり”はやめなさいハワイ県 ──どのようなことを学ばれたのですか。モーガン アジア研究です。そのときに中国の歴史として、張作霖の息子の張学良について学びました。中国に学問を切り替えたのは、名古屋大学で中国人と友達になり、「あ、そうか! 中国について何も知らないな」と思ったのがきっかけですね。そこから急いで勉強を始めて、中国の昆明で半年ほど中国語を学び、3年ほど中国史の勉強をしました。でも文化史は向いていないですね。 ──中国にいらっしゃったのは……。モーガン 半年くらいですね。中国からアメリカに戻って、さらに半年ほど勉強し、その後にハワイ大学で中国史を2年間学ぶというかたちで3年ですね。でもハワイ大学はあまりにも左傾化していて……。アメリカから独立したいということかもしれませんが。 ──ハワイが独立? ……今は世界的にそうした風潮がありますね。モーガン でも米海軍が去れば、中国の脅威を感じるのではないかと思います。ハワイに住んでいるときは、ハワイ県と呼んでいましたよ。日本からの観光客が非常に多かったので。アメリカというよりは、日本という雰囲気がありますね。 ──日本人には日本語が通じるという安心感がありますね。モーガン よいところです、ハワイは。大学はちょっと問題があるけれども(笑)。 ──ところで最近の日米の歴史論争というか、中国や韓国が政治的な理由で吹っ掛けている歴史問題についてはどのようにお考えですか。モーガン 最近187人がサインした声明を読みましたが、本当にびっくりしました。中国や韓国の内側は「ユアビジネス」というように批判されていますが、もう日ごとに意見がひっくり返っている。日替わりランチのように、毎日違っていますよね。 ──まったく。モーガン 自分の都合によって意見を変えるという点は、やはり問題でしょうね。しかし、中国や韓国が持ち出す歴史問題はどう見ても政治の動きとしか解釈できない。中国や韓国は安倍政権が大嫌い、もしくは安倍政権だけでなく日本が好きじゃないということが根底にあります。もし習近平がアメリカ議会で演説したとして、毛沢東の罪を認めろと言う人はいますか。いないでしょ。毛沢東の方が日本にとっても、アメリカにとっても、はるかに罪が大きいですが、そのようなことは起こらない。私は毛沢東が20世紀の中で最も悪い人間だったと思っているのですが、それでも起こらない。“猫かぶり”はやめなさい ──平川祐弘さんは、先ごろの産経新聞のコラム「正論」で、「スターリンは少数民族強制移住だけでも千数百万人、毛沢東は二千数百万人の死者を出した」と記述されていました。モーガン ヒトラーをはるかに超えていますね。毛沢東は本当に恐ろしい。しかし、今でも天安門に行くと、毛沢東の大きなポスターが掛けられています。それで本当に歴史の罪を認めているのかと聞きたいですね。そしてなぜ日本だけを批判しているのかとも。 彼らは誤魔化しているんですよね。中国の学者は政治と関わりたくないと言っていますが、植村隆氏が向こうに行けば大歓迎ですよ。植村氏はコロンビア大学で演説などをしているそうですが、なぜ植村氏だけを招いて、植村氏に反対している人、たとえば秦郁彦氏や藤岡信勝氏は招かれないのか。政治と関わりたくないと言っていますが、それは完全に違う。行動を見ればわかります。“猫かぶり”はやめなさいと言いたいですね。 向こうはご存じの通り、左翼ばかりです。しかも反対意見を主張すれば、自分の仕事が危なくなるという社会です。そういう面があるからこそ、187人が声明にサインをしたのではないかと思っています。反対すれば仕事が危ないよって。あとジグラーとベントリーの教科書の二段落については、ほとんど何も言っていないんですよね。慰安婦が天皇陛下からの贈りものとかそのような点について触れていません。それは謝るべきですね。日本政府に対して、侮辱してごめんなさいと。 ──あれは教科書の記述とは思えませんね。モーガン はい。 ──「天皇からの贈りもの」っていう発想からしてよく理解できない。モーガン それはフィクションで、且つ、侮辱が目的だからですよ。 ──ある種のブラックジョークですかね。モーガン そうですね。日本に対して説教するのではなく、まずは自分たちの歴史観をしっかりと整理してほしいです。そして、他の人の意見を受け入れようとしてほしいですね。あとアメリカ人は歴史観にあまり興味を示さない人が多いんです。若い人に「南北戦争はどっちが勝った?」と聞くと「フランス!」なんて答えが返ってくるほどですから(笑)。本当に恥ずかしい ──アメリカの歴史学会が、あれほどひどいものとは思わなかったですね。「勝者の歴史観」そのままで、東京裁判史観のまま時間が止まったままです。それでも学者で通るんですね、米国では。モーガン 私も敬意を失いました。まだ尊敬する人もいらっしゃいますが、全体的に腐敗していると言うか、そこまで傾いているのかという感じですね。 ──少なくとも彼らのレベルは、日本でいえば三流週刊誌なみです。ウラをとってないでしょ。モーガン 本当に恥ずかしい限りです。逆に日本の学者がアメリカに対してお説教をすればいいと思います。このように学者として周りの人の意見を聞き、じっくりと資料を見て安易に即断しない。それは歴史学の一番基本的なことです。彼らには改めてそのことを勉強してほしいですね。 ──米国の学者で日本語の文献を読める人はどれくらいいるんでしょうか。左翼学者の書いたものばかりが英訳されるから、そもそも参考文献の段階で偏向しているわけです。モーガン すると私の批判は、ほとんど日本語で書いていますので、向こう側が読んでいるかどうかということですね(笑)。 ──でも存在を知られると、けしからん奴がいるといって、とんでもないイジメに遭う可能性がありますね。モーガン 自信を持っていますよ。ぶつかって来いと思っています。正しいものは正しいと信じていますから。※注 フルブライト奨学金制度で来日しましたが、本稿の意見は個人のものであることをお断りしておきます。Jason Morgan Born: 1977, Metairie, Louisiana, USAAge: 37BA, History and International Studies, University of Tennessee, Chattanooga (2001) Kenkyuusei, Nagoya University (2001-2002) MA, Asian Studies (China focus), University of Hawai'i, Manoa (2005) MA, History, University of Wisconsin, Madison (2013)PhD candidate, University of Wisconsin, Madison (History)

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    史実に基づく修正までなぜためらうのか

    らせて米国を参戦させ、連合国を勝利に導いたルーズベルトは悪辣だが偉大な大統領であった、というのが私の歴史認識である。ユダヤ人の絶滅を企んだナチス・ドイツを破るためには米国の参戦は不可欠だったからである。 そしてかくいう私は、時に率直にアメリカ批判はするけれども、日米同盟の支持者である。私はまた現在の、国内的に格差大国と云う矛盾を孕む中国を盟主とする東アジア共同体に加わる気持はない。さらに付言すれば、今日の日本は鎖国して自活はできない。精神的鎖国ともいうべき一国ナショナリズムを説くのは不可であり一国平和主義は不可能である。第四問  2015年の「正論」とは第四問  2015年の「正論」とは ここで今日の日本の言論事情について考える。一、戦前の日本の正義を主張することは結構だが、戦前の日本がすべて正しかったように言い張る日本人は真に愛国者といえるか(ア  )。それとは逆に、日本の悪を指摘することは良心的だが、その悪を誇張して外国に向け宣伝する人は、へつらいを行なっている人ではないのか(イ   )。二、日本国内だけで「正論」を唱える人が多いが、それだけでよいのか(ウ  )。国内の反日気分の人たちだけでなく広く外国人をも説得することが大切なのではないのか(エ  )。三、しかし下手な外国語で抗議して誤解を招くよりは黙っている方がよい(オ  )。いや、下手でも抗議する方がよい(カ  )。日本に好意的な外国人に真意を伝えてその人に外国語で説明してもらう方がよい(キ   )。四、左翼系・右翼系を問わず、新聞や雑誌が、はじめから「結論ありき」の掛け声だけ大きな論客の文章をさかんに印刷するが、はたしてそれだけでよいのか(ク   )。結論 ナチス・ドイツと手を握った軍国主義日本が悪者扱いされたのはやむを得ない。しかし近衛文麿首相にせよ、東條英機首相にせよ、ヒトラー・ドイツによるユダヤ人虐待は知っていたとしてもユダヤ人絶滅計画の実行については、当時の日本人のほとんどすべてと同じく、なにも知らなかったのではないか。昭和日本ではまだ武士道という倫理が説かれ、人種絶滅を実行しようとする政策を容認するはずは全くなかった。しかし相手がいかなる独裁国家であろうとも、敵の敵は味方という論理で同盟は成立する。アメリカがソ連と手を握ったのはソ連が民主主義国であったからではなく、敵の敵は味方という論理によってであろう。 日米戦争直前の日本側の開戦回避の努力が空しかったのは、当時の米国国務省関係者に日本を蔑視し、日本を理解していない者がいたこととも関係があるのではないか。しかし日本についての情報を英語文献に頼る傾向はその後75年経っても必ずしも変わっているとは言えないようである。今回声明を発したようなself-righteous(独善的)な歴史家集団の日本認識は日本語文献にきちんと目を通しておらず判断は政治的先入主に基づくものであり、ほとんど人種差別的といえるものではないか。しかし声明に署名した人々もそのうちに「一抜けた、二抜けた」とマグローヒルの世界史教科書の出鱈目に頭のよい人ほどはやく気づいて声明支持を撤回するであろう。 なお彼らアメリカの史学者たちのために弁明すれば、このような歴史教科書を出まわらせたについては、責任の一半は、いままでの日本国内の『朝日新聞』をはじめとする意図的なミスリーディングの結果にある。しかし政治的情念にひきずられ、あまりにも大きなをふくむ日本批判のプロパガンダを繰り返すうちに『朝日新聞』は信用を失った。『朝日新聞』は誤報の蓄積の重みに耐えかねていわば自壊したのである。 またこの種のバランスを失した日本批判を繰り返すうちに韓国政府も信用を失うであろう。世界各地に慰安婦像を建てようとする人たちの主張は、女性の人権保護の名を借りた反日運動である。かれらの主張がもし普遍的に通用し得るものであるなら、その主張は日本でも歓迎されるはずである。その正義について確信があるならば朝日新聞社社員も少し募金をつのって、日本国内でも朝日新聞社の社屋の正面に慰安婦像と吉田清治像を建てるがいいだろう、そして「二度とこの過ちは繰り返しませんから」という碑銘をそれに添えるがよいだろう。 しかしそのように言われてもなんらの返答もできない大新聞社とは一体何であろうか。 また『朝日新聞社』の支持や庇護を得られなくなった「良心的」な学者や記者が、あたかも言論弾圧の犠牲者のごとく外国で振舞うのは苦々しいかぎりである。そうした人の家の前にも慰安婦像を建てたい気がするが、その人たちの子供や孫ははたしてそうした「良心的」なご先祖の行動を将来よしとするだろうか。そうした人たちこそ女性の人権を救うと称して日本と韓国の関係を深く傷つけた偽善的な人たちなのではあるまいか。その人たちの行動は当初は善意に始まったのかもしれない。しかし「地獄への道は善意で敷き詰められている」(The Road to Hell is paved with good intention)とはこのことであろう。 いまや問題の核心は日本国内でなく外国世界に移った。「二十万人の性奴隷という神話をいかにして打破するか」(How to Debunk the Myths of 200000 Sex Slaves)が肝心だ。それを上手にやらねばならない。アメリカの特派員の中には日本左翼の主張を繰り返して、安倍首相による言論弾圧と喧伝している者もいる。それならば野党代表が積極的に記者会見を開いてアメリカ歴史教科書についての意見をすなおに述べればよいのである。私は鳩山由紀夫、菅直人氏らを切り捨てた後の民主党が再生するには、日本に対する中傷を退ける主張を堂々と行えば内外の多くの人の共感を得るであろう。Honesty is the best policy(正直は最善の策)とはこのことである。(2015年4月14日)注1 それだから私はSukehiro Hirakawa, Japans Love-Hate Relationship with the West(Global Oriental)や『平和の海と戦いの海』でグルーと斎藤實夫妻や鈴木貫太郎について書いたのである。注2 Joseph Roggendorf, Between Different Cultures, a memoir, Global Oriental, 2004, p62. ヨゼフ・ロゲンドルフ『異文化のはざまで』(文藝春秋、一九八三、90頁)。なお日本訳には平川が修正をほどこした箇所がある。※シンポジウム「『歴史戦』をどう闘うか」(日本戦略研究フォーラム主催)基調講演に加筆したものです。ひらかわ・すけひろ 1931(昭和6)年東京都生まれ。1953(昭和28)年、東京大学教養学部教養学科卒業。フランス、ドイツ、イタリアに留学し、北米、中国、台湾などで教壇に立つ。平成4年、東京大学名誉教授。著書に『和魂洋才の系譜』(平凡社)、『アーサー・ウェイリー「源氏物語」の翻訳者』(白水社)、『ダンテ「神曲」講義』『西洋人の神道観』『日本の正論』(河出書房新社)、『竹山道雄と昭和の時代』(藤原書店)『市丸利之助伝』(肥前佐賀文庫)、『日本人に生まれて、まあよかった』(新潮新書)等多数。

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    米国の歴史認識の偏り

    「慰安婦は天皇の贈りもの」─米国の歴史教科書に、こんなイエローペーパーまがいの記述が堂々と。これだけみても米国の歴史学会ってナンボのもんじゃい、と誰だって思うでしょう…。

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    ご意見無用! 学問的事実で応えてくれ

    高橋史朗(明星大学教授)「訂正しない」と回答 「慰安婦は天皇からの贈り物」 こんな記述をした米マグロウヒル社の教科書に対する日本政府の訂正申し入れなどが契機となり、5月5日、欧米を中心とした日本研究者ら187人が「日本の歴史家を支持する声明」を発表し、大きな反響を呼んでいる。その後賛同者がさらに増え、5月19日現在、世界で457人が署名した。また、5月16日付け産経新聞によれば、マグロウヒル社は同紙の特派員に対し「訂正しない」と回答したという。「慰安婦は天皇からの贈り物」などと記した歴史教科書 さらに、5月25日に歴史学研究会(委員長は久保亨信州大教授)など国内の16団体が国会内で記者会見し、「旧日本軍の慰安婦問題に関する日本の歴史学会・歴史教育者団体声明」を発表した。同声明は「日本軍が関与した慰安婦強制連行の事例」について多くの資料と研究で実証されてきたと指摘し、「事実から目を逸らす無責任な態度を一部の政治家やメディアがとり続けるならば、それは日本が人権を尊重しないことを国際的に発信するに等しい」と強調した。 さらに、「朝日新聞の記事の取り消しをきっかけに、一部政治家やマスコミが従軍慰安婦の強制連行の根拠をなくしたような言動を見せていた」とし、「強制連行は単純に強制的に連れて行かれた事例に確定されてはならず、甘言及び詐欺、脅迫、人身売買を動員した本人の意志に反する連行事例も含めて強制連行と見なさなければならない」「最近の歴史研究においては動員過程の強制性だけでなく、動員された後の居住、外出、廃業に対する自由もなく、性の相手を拒否する自由もない、まさに“性奴隷”状態に置かれていた点が明らかになった。慰安婦動員過程の強制性も問題だが、性奴隷として人権を侵害された事実が問題だという点が、繰り返し強調されなければならない」と主張した。 同日付朝鮮日報・聯合ニュースが真っ先にこの声明について報道し、韓国外交部当局者は「安倍総理を初めとした日本政府関係者は、慰安婦に関する議論をする時に『歴史家に任せなければならない』と繰り返し主張してきた。日本政府が今回の声明で歴史家の見解を直視して、協議での誠意ある対応を期待する」とコメントした。 ところで、187人の声明がいかなる背景と経緯で何を目的として出されたかが注目されるが、5月16日付け「東洋経済オンライン」に掲載されている同声明の呼びかけ人となったジョージタウン大学のジョーダン・サンド教授とコネチカット大学のアレクシス・ダデン教授とのインタビューによって、以下の点が明らかになった。(1)昨年末に安倍政権の慰安婦問題に対する姿勢を強く批判した日本の「歴史学研究会」が発表した英文声明の影響を受けた(日本文は10月15日付け)。(2)声明は、一定のテーマに関する客観的・歴史研究がしづらくなりつつある日本の現在の状況に対する共同意見であった。米学者の多くが、ジャーナリストに対する脅迫が起きているとの報道に困惑し、日本にいる研究仲間は政府の財政援助を受けるために、ある種の問題を扱えなくなっていると聞いた。彼らが「慰安婦」問題への発言に強い締め付けを受けている。(3)声明は読売新聞に独占記事として提供したが、返事がなかったので、ダデン教授の机の上に名刺のあった10人ほどに送り、内閣府にも日英両語の声明を送付した。(4)声明の草案作成に深く関与したのは5~6人で、29人が核になってサンド教授に修正を求めて声明をまとめ、サンド・ダデン両名で声明の最終版を送付した。(5)日本で影響力を持っている著名な政治学者数人とも連絡を取り、「民族主義が放置されていることが日本にとってどれだけ有害かを日本政府に伝えてほしい」と頼まれた。(6)安倍首相が米連邦議会で何を述べるかを聞くまで声明は発表すべきではない、という意見があった。政府には、「慰安婦」問題を巡る日本の風潮に対して一定の責任がある。声明は、この憂慮すべき風潮に対する意見である。身勝手な「学問の自由」 サンド教授は「安倍首相に『ああしろ、こうしろ』と指図をする考えはありません」と述べているが、声明文には「首相の大胆な行動を求める」と明記し、「声明が伝えたかったことは、歴史を研究したり教えたりすることの倫理と、全ての政府は歴史家の研究を保護し、尊重する責任があるということです」と結論づけている。 だが、「学問の自由」に干渉するなと要求しながら、自分たちの見解を受け入れよと政府に干渉することは根本的な自己矛盾と言わざるをえない。 見落としてはならない問題の核心の一つは、声明が出された背景となった基本認識に問題があるということである。この点を明らかにするためには、187人の声明に至る経緯を振り返る必要がある。日本の歴史学者って誰? まず、3月17日に秦郁彦氏が日本外国人記者クラブで発表した米マグロウヒル社の慰安婦記述の訂正勧告(日本の大学教授19人による)に対して、コネチカット大学のダデン教授が『週刊金曜日』(4月10日)に「日本政府の歴史問題への介入に抗議する」と題した反論を寄稿し、次のように主張した。 「私たち歴史学者の意図は、……国家にとって都合のよい物語を広めようとする安倍政権の非倫理的行為に対し注意を喚起することだ。……日本の歴史学者たちは、証明された歴史を取捨選択された内容に取って代わらせようとする政府主導の動きのために、徐々に制約を加えられている。私たちは同じ歴史学者として、これら日本の歴史学者たちと団結している。……私たちが支持しているのは、多くの日本の歴史学者たちの、そして河野談話および国連の理解における核心部分である。それは、日本軍『慰安婦』の歴史とは、国家による性奴隷システムに他ならないということだ」 「日本の歴史学者」という文言が何度も繰り返される背景には、昨年10月15日に日本の「歴史学研究会」が出した声明「政府首脳と一部メディアによる日本軍『慰安婦』問題についての不当な見解を批判する」(12月5日に英語訳が公表され、この声明が直接的契機となったことがサンド教授のインタビューで明らかになった)があり、同声明は「『慰安婦』問題に関する政府・メディアの不当な見解」に対して、以下の五つの問題点を指摘した。 第一に、朝日新聞の「誤報」によって、「日本のイメージは大きく傷ついた。日本が国ぐるみで『性奴隷』にしたなどと、いわれなき中傷が世界で行われているのも事実だ」(10月3日の衆議院予算委員会)とする安倍首相の認識は、「慰安婦」の強制連行について、日本軍の関与を認めた河野談話を継承するという政策方針と矛盾している。河野談話を掲げつつ、その実質を骨抜きにしようとする行為は、国内外の人々を愚弄するものであり、加害の事実に真摯に向き合うことを求める東アジア諸国との緊張を、さらに高める。 第二に、吉田清治証言の内容の真偽に関わらず、日本軍が「慰安婦」の強制連行に深く関与し、実行したことは、揺るぎない事実である。吉田証言の内容については、1990年代の段階ですでに歴史研究者の間で矛盾が指摘されており、日本軍が関与した「慰安婦」の強制連行の事例については、同証言以外の史料に基づく研究が幅広く進められてきた。 第三に、近年の歴史研究では、動員過程の強制性のみならず、動員された後、居住・外出・廃業のいずれの自由も与えられず、性の相手を拒否する自由も与えられていない、まさしく性奴隷の状態に置かれていたことが明らかにされている。強制連行に関わる一証言の信憑性の否定によって、問題全体が否定されるようなことは断じてあってはならない。 第四に、近年の歴史研究で明らかになってきたのは、日本軍「慰安婦」に関する直接的な暴力だけでなく、「慰安婦」制度と日常的な植民地支配、差別構造との連関性である。日常的に階級差別や民族差別、ジェンダー不平等を再生産する政治的・社会的背景を抜きにして、直接的な暴力の有無のみに焦点を絞ることは、問題の全体像から目を背けることに他ならない。 第五に、一部のマスメディアによる朝日新聞記事の報じ方とその悪影響も看過できない。「慰安婦」問題と関わる大学教員にも不当な攻撃が及んでいる。北星学園大学や帝塚山学院大学の事例に見られるように、個人への誹謗中傷はもとより、所属機関を脅迫して解雇させようとする暴挙が発生している。これは明らかに学問の自由の侵害であり、断固として対抗すべきである。 最も注目すべきは、5番目の指摘内容が187人の声明に直結した点である。同声明のタイトル「日本の歴史家を支持する声明」で言う「歴史家」とは、実際には、北星学園大学非常勤講師の植村隆元朝日新聞記者や「歴史学研究会」に所属する特定の「歴史家」のことであり、これらの特定の「歴史家」の主張をうのみにして、あたかも日本政府が「学問の自由」を侵害し、歴史学者一般を弾圧しているかのように批判しているのは妥当性を欠いており、不当な言いがかりに過ぎない。この特定の「歴史家」たちが指摘してきた「従軍慰安婦」に関する見解が朝日新聞の誤報の検証によって、いかに間違っていたかが検証され明らかになったにもかかわらず、この検証結果を踏まえず、特定の「歴史家」の立場に立って、一方的に政府の言論弾圧、「学問の自由」の侵害を批判するのは、的外れも甚だしい。事実で応えよ ダデン教授は3月17日の秦郁彦教授の記者会見で発表した日本の大学教授19人の声明を受けて、前述した反論を書き、「直接的な暴力による脅しを含む激しい憎悪に満ちたメールの集中砲火を浴びた」点を強調した上で、次のように批判した。 「今回の私たちの投書はこの教科書の内容自体を議論するものではなく、それが扱う歴史について確定的な見方を唱えているのでもない。……私たちが主張しているのはこの歴史から学ぶにあたっての学問の自由である。その自由とは何かというと、国家の検閲から自由な環境で学問的な探求をし、教育を行い、出版活動を行うことである。私たちの投書に対して秦氏は記者会見の場を設置し、秦氏や彼の仲間たちが米国の歴史学者や出版社は無知だとしてマグロウヒル社に送った声明を開示した。……その失敗ぶりは奇妙であった。……この問題の本質である被害者の深刻な人権侵害から目を背ける混乱をもたらした。」 このダデン教授の反論と歴史学研究会の声明には、共通する論点のすり替えが2点ある。1982年9月2日付朝日新聞。朝日の誤報は日本の国際的な信用を著しく傷つけた 第一に、朝日新聞の誤報によって国内外に広がった「狭義の強制連行」はプロパガンダ(宣伝)にすぎないことが明らかになったため、甘言や詐欺、脅迫、人身売買を伴う、本人の意思に反した「広義の強制連行」にすり替えて、「性奴隷」に他ならないと決めつけたこと。 第二に、問題の本質を「学問の自由」と被害者の人権の侵害という問題にすり替えたことである。ダデン教授は「その失敗ぶりは奇妙」と批判したが、「教科書の内容自体」や「それが扱う歴史についての確定的な見方」に関する歴史的事実について研究し学問的に議論するのが歴史学者の本分ではないのか。その本分を否定する非学問的態度(=反知性主義)こそ「奇妙」ではないのか。 ダデン教授が指摘する「国家の検閲から自由な環境で学問的な探求をし、教育を行い、出版活動を行う」ことは尊重されるべきであるが、「慰安婦は天皇からの贈り物」などという教科書記述に日本政府が抗議するのは当然である。日本政府には米教科書を検閲する権力はなく、米政府を経た外交的圧力もかけてはいない。事実の誤りについて指摘すること自体を「学問の自由に対する脅威」と捉えるのは間違いであり、「学問の自由」をはき違えてはいけない。 「自由な環境で学問的な探求を」と主張するのであれば、事実についての客観的な再検証を行い、事実をめぐる学問的議論を尽くすべきであって、「教科書の内容自体を議論するものではなく」などと歴史の真実の解明から逃げるのは矛盾している。「米国歴史学会」なのだから、日本の大学教授19人が「訂正勧告」を行った事実の間違いに対して、論点をすり替えないで正々堂々と学問的に応えるべきである。私たちが問題にしているのは慰安婦に関する評価や論評、解釈ではなく、事実の間違いに限定しているからである。歴史の解釈を政治問題化せずに、第一次史料に基づいて事実の客観的検証を積み重ねることこそが大切であり、それを踏まえた議論を深めることが求められているのではないか。“変化球”だらけ“変化球”だらけ ところで、冒頭で紹介した5月16日付け「東洋経済オンライン」報道が行われた背景には、「日米歴史家、韓国メディアの“変化球”に困惑」と題した5月7日付け「東洋経済オンライン」報道(福田恵介記者)に対する強い反発があったからであると推察される。論争点は一体何か。7日付け記事では、韓国メディア(聯合ニュース)が187人の声明は「安倍批判ではないのに『安倍批判』と断定」して「歪曲報道」したと批判した。 ちなみに聯合ニュースは、「声明発表を主導した米コネチカット大学のアレクシス・ダデン教授が聯合ニュースとのインタビューに答えた」として、「安倍政権がかつての河野談話の時のように過去の過ちに対する責任を認め、歴史歪曲や政争に用いることをやめるよう訴えかけるもの」と声明の趣旨を説明したと報じている。 この報道に対して福田記者は、「ダデン教授は署名者の一人であるが、内容を主導してはいない」という早稲田大学政治経済学術院の浅野豊美教授のコメントを引用しつつ、「聯合ニュースが報道したダデン教授のコメントはあくまでも個人的見解であって、『このようなコメントは今回の声明に盛られた研究者の相違とは全く違う』(浅野教授)」と厳しく批判し、さらに、次のように指弾している。 「聯合ニュースの報道の中身は、日本たたきで終始する、いつもの韓国メディアの論調から外れていない。英文も日本文もどちらも十分に理解できない(と思われる)特派員が、都合の良い論調で、しかも原文の意味を歪曲して伝えているとしか言えないような内容だ。……この声明の中では、『この問題は、日本だけでなく、韓国と中国の民族主義的な暴言によっても、あまりに歪められてきました』と明記されている。この部分を、聯合ニュースは都合よく外して報道しているのは間違いない。同報道では『大勢の女性たちが自らの意思に反して捉えられ、むごい野蛮行為のいけにえにされた証拠は明らかだ』としている。だが、声明では『大勢の女性が自己の意思に反して拘束され、恐ろしい暴力に晒されたことは、既に史料と証言が明らかにしている通りです』とのみ記されており、どこにも『むごい野蛮行為』『いけにえ』といった言葉はない。」 これに対して、187人の声明の署名者の一人である小山エミ(インターセックス・イニシャティブ代表)は、「声明の呼びかけ人がサンド氏とダデン氏の二人であることは公開されている」として、「声明に署名すらしていない浅野氏一人を根拠として、韓国メディアの報道に『日米歴史家』が『困惑』しているというのは、明らかな捏造だ」と批判し、次のように指摘している。 「(今回の声明は)文脈やタイミングから、明らかに安倍首相と日本政府の姿勢を批判するものだ。わたしは、3月にシカゴで開かれたアジア研究学会において、この声明のもととなる議論が行われた会合に参加した。その中心メンバーは、2月の声明(20人の共同声明)にも参加した歴史学者たちだ。彼らは、日本政府によるメディアへの(特定の識者を起用するように、などの)干渉が続いているなど、歴史修正主義を事実上政府が後押ししていることを踏まえ、歴史学以外の日本研究者にも呼びかけ、より大きな声明を発表することを決めた。声明を発表する一番の目的は、歴史修正主義的な政府と世論の圧力にさらされ、自由な研究や報道を脅かされている日本の歴史学者やジャーナリストらを支援することだ。」 今回の187人の声明の中心メンバーは2月に共同声明を出した歴史学者だというが、20人の内、8人は今回の声明には署名していない。この中には、全米歴史学会の次期会長も含まれている。この事実は一体何を意味しているのか。8人が署名しなかった理由は一体何か、20人と197人の声明の違いは何か、を明らかにする必要があろう。傘連判のようだ そもそもこの声明には宛名も代表者や連絡先の住所も書かれておらず、公文書の形式にもなっていない。筆者が確認したところ、首相の下に正式に届けられていないという。藤岡信勝氏は「唐傘に円形に署名して首謀者を分からないようにした傘連判のようだ」と揶揄しておられるが、有力な常識派のジャパノロジストが多く含まれている声明にしては、杜撰さが目立つ。 筆者は5月20日から韓国で開催されたアジア版ダボス会議「チェジュ・フォーラム」に出席し、ドイツ、カナダ、オーストラリア、インドネシア、中国代表(元首相クラス)らの「世界リーダーセッション」で司会をした韓国紙の中央日報の代表者が、安倍総理の「美しい日本」のビジョンについて関心を持ち、パネリストの福田元首相に質問したことが強く印象に残ったが、5月12日付け朝鮮日報の「世界的な歴史学者187人が韓国に呈した苦言」と題するコラム(キム・テイク論説委員)も注目される。 このコラムは、「声明に盛り込まれた二つの文が引っかかる」として、「慰安婦問題は日本だけでなく韓国や中国の民族主義的攻撃によりあまりにも歪曲され、政治家やジャーナリストだけでなく研究者たちさえも歴史的探求の基本的な目的を失っている状態だ」「元慰安婦たちの苦痛を避け、国が民族主義的目的のために悪用することは国際的な問題解決を困難にし、被害女性の尊厳をさらに冒すること」という指摘は、「自己中心主義への警告」であり、「韓国人に対する彼らの苦言も『第三者のものだから価値がある』と受け止めなければ、成熟した姿勢だとは言えない」と主張している。 歪曲報道が目立つ韓国紙にもこのような冷静な指摘があることは注目に値するが、187人の声明に対する我が国の反応はどうか。民間人有志数人が連名で188人の内133人にメールで発信した「『日本の歴史家を支援するための公開書簡』に関する幾つかの考察」は、声明が「『慰安婦』制度はその規模の大きさと、軍隊による組織的な管理が行われたという点において、そして日本の植民地と占領地から、貧しく弱い立場にいた若い女性を搾取したという点において、特筆すべきもの」と指摘したことについて、「兵士の性衝動にどう対処するかという普遍的問題として議論しなくてはならない。何故アメリカ、ソ連、韓国などのケースに触れないのか」と抗議し、次の四点が欠落しており、「冷静で理性的な意見の表明」とは言えないと厳しく批判している。(1)彼らの意見の根拠になる証拠を検証しない。(2)異なる場所で起こった同様の事象との比較考証を行わず、問題を具体的に、普遍的に論じる正当性を失っている。(3)反証をチェックしない。(4)その時点で有効であった法律をチェックしない。事実無根の宣伝が流布 さらに、日本の大学教授有志で共同声明を出す準備をしているが、主な論点を例示として列挙し、本稿をしめくくりたい。(1)「日本の歴史家を支持する声明」という声明のタイトルの「日本の歴史家」とは誰を指すのか。(2)「慰安婦強制連行は事実であり、慰安婦は性奴隷であった」と主張する20人の声明(前述した歴史学研究会の声明も同趣旨)と197人の声明はどのような関係にあるのか。20人の内、8人が署名しなかった理由は一体何か。(3)日本に対して「歴史解釈」の一致を求めているのか。(4)米マグロウヒル社の歴史教科書記述や2007年の米下院決議、慰安婦碑文の事実誤認についても検証する必要があるのではないか。(5)「日本だけでなく、韓国と中国の民族主義的な暴言によっても、あまりにも歪められてきた」というが、米下院決議も「民族主義的な目的のための利用」に該当するのではないか。(6)満洲やドイツなどで敗戦国民の婦女子をレイプしたソ連軍、米兵向けの慰安施設をGHQの命令で作らせた米軍や、朝鮮戦争中に朴大統領の命令で作られた国連軍(米軍)向け基地村、ベトナム戦争中に韓国軍が自軍兵士用に運営したトルコ風呂などと比べて、日本の慰安婦制度が「特筆すべきもの」と断定する根拠は何か。(7)声明の言う「正しい歴史」とは何か。(8)「歴史家の中には、日本軍が直接関与していた度合いについて、女性が『強制的』に『慰安婦』になったのかどうかという問題について、異論を唱える方もいます」とあるが、異論とは誰の学説なのか。(9)事実無根のプロパガンダが国際社会に広がっていることは解決すべき課題であり、協力を期待したい。 なお、3月の「訂正勧告」に賛同した日本の大学教授の中には、187人の声明には傾聴に値する指摘が多く含まれており、「偏見なき清算を、共に残そう」という呼びかけに共鳴し、真摯に応える声明を出すべきであり、「私たちも過去の全ての痕跡を慎重に天秤にかけて、歴史的文脈の中でそれに評価を下すことのみが、公正な歴史を生むと信じています」という指摘には全く同感であり、「この最も重要で最も基本的なところで、日米の歴史研究者たちが完全な意見の一致を見たというのは素晴らしいことであり、この上なく喜ばしいことである」と宣言し、この核心部分以外の問題点には言及しないという基本姿勢を貫くべきであるという大所高所に立った有力な意見もあることを付記しておきたい。 大沼保昭・明治大特任教授は「お互いが共通の認識を持っているというポジティブな側面こそ大切に考えるべきだ」と指摘しているが、筆者も同感である。たかはし・しろう 1950年、兵庫県生まれ。早稲田大学大学院修了後、米国スタンフォード大学フーバー研究所客員研究員、政府臨時教育審議会専門委員、埼玉県教育委員長を経て、現在、明星大学教授。政府男女共同参画会議議員、一般財団法人親学推進協会会長。主な著書に『歴史の喪失』(総合法令出版)、『教科書検定』(中公新書)、『歴史教育はこれでよいのか』(東洋経済新報社)などがある。

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    歴史を知らない韓国

    「日本に正しい歴史認識を基にした誠意ある行動を期待する」―朴槿惠大統領はブラジル訪問の際、こう述べた。米国でも「韓国疲労症」が指摘されるほど執拗な反日の姿勢には嫌気がさす。しかし歴史を知らないのは韓国のほうではないのか。朴大統領にお父さんのことも含め、歴史認識を改めてもらいたいものだ。

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    朴槿恵大統領は父親を糾弾すべし

    にわたり行なわれた日韓歴史共同研究は残念ながら非公開でした。次は公開でやりましょう。 ――なぜ韓国の歴史認識がここまで歪んでしまったのでしょうか。2014年2月、ソウルの「朴正煕大統領記念図書館」を訪れた朴槿恵氏(共同)ケント 韓国は戦後一貫して自国を「戦勝国の一員」だと主張し、「連合国側だった」と自己洗脳する努力を重ねてきました。しかし1945年の大東亜戦争終結まで、朝鮮半島は「日本領土」でした。これは歴史的ファクトです。いま韓国人と呼ばれる人たちの先祖は「日本人」として連合国と戦い、敗戦の日を迎えました。戦後に建国された大韓民国の国民ではなかったのです。存在しなかった国がどうして「戦勝国」になれますか。 戦時賠償の件も同じです。いまになって韓国は慰安婦問題などで日本政府に対する個人補償を求めていますが、もともと日本は個人補償をするつもりでした。 1965年に日韓基本条約を結ぶとき、かつての朝鮮人の軍人や軍属、役人らの未払い給与や恩給などに対する補償を求めた韓国政府に対して、日本政府は、「韓国側からの徴用者名簿等の資料提出を条件に個別償還を行なう」と提案しました。日本は、韓国政府の提出資料を個別に検討し、個人に対する補償として支払うべきは支払って、将来の友好関係へ繋げようとしたのです。日本政府の対応は、法律に適合した真摯なものでした。 しかし韓国政府は日本の提案を拒絶しました。彼らの主張は、「個人への補償は韓国政府が行なう」ので、それらの補償金は「一括で韓国政府に支払ってほしい」というものでした。日本政府は相手の要求に従い、「独立祝賀金」という名目で、無償3億ドル、有償2億ドル、そして民間借款3億ドルの供与と融資を行なったのです。 ――日本が支払った金は、当時の韓国政府の国家予算の2倍以上だったといわれています。ケント 法律論でいえば、日本は韓国に対して、オランダがインドネシアに対して行なったように、過去に投じたインフラ整備費用を請求できましたが、当時の日本政府は請求権をすべて放棄したのです。日本は日韓基本条約において、当時の韓国政府の国家予算の2倍以上の金を支払ったばかりか、莫大な金を投じて朝鮮半島に整備した近代的インフラなどをすべて無償で贈与し、韓国の以後の飛躍的な発展を大いに助けたのです。 そればかりではありません。日本は日韓基本条約後も、韓国政府に大金を支払い続けています。1997年に発生した韓国通貨危機や、2006年のウォン高騰に対する経済支援、そして08年のリーマン・ショック後の混乱を軽減するための支援など、日本は毎回韓国に兆単位の資金を提供し続けてきました。02年の日韓ワールドカップのときはスタジアム建設費用も提供しています。 にもかかわらず、これまでに韓国に貸し付けたお金は、まだ一部しか返還されていませんし、日本人が本当に苦しんだ東日本大震災のあとには、サッカーの試合で「日本の大地震をお祝いします」という横断幕を掲げた韓国人サポーターまで出る始末です。 ――実際に韓国では日本に降りかかった不幸を喜ぶ声が多かったようですね。ケント 強い者には媚を売る事大主義。強い相手が複数だと二股三股。弱いとみた相手からは「ゆすり」「たかり」で金を巻き上げ、罵詈雑言を浴びせ、酷い仕打ちをする。それが伝統的な「両班」の精神です。大国に翻弄され続けた半島国家が身に付けた悲しきサバイバル術かもしれませんが、政府や国民が両班のような対応をしていたら、国際社会で評価や尊敬をされるはずがありません。良識ある韓国人は、声を上げるべきです。漢字の勉強をやり直せ漢字の勉強をやり直せ ――日本は正式に韓国や中国に謝罪していないと思っている欧米人も多いようです。ケント 先日、ジャーナリストの櫻井よしこさんの番組に出演した際に、「日本は合計で約60回も謝罪している」と櫻井さんがいわれたので、「もう謝罪しなくていいですよ」と答えました。謝罪するたびに金を要求される悪徳商法にいつまで付き合うつもりですか。 韓国人に対しては、ひたすら歴史的なファクトを出すだけでいい。謝罪はもう何度もしたし、日本国の見解はこれまでの謝罪で十分示せました。謝れば謝るほど、「もっと謝れ」「もっと金出せ」といわれるだけです。 ――今年は戦後70年です。忍耐強い日本人も、「そろそろいい加減にしろよ」という具合になってきました。ケント 日本人は忍耐強いですが、じつは戦いはもっと強い。いったん怒ると、一刀両断で一気にカタを付けるか、相討ち覚悟で徹底的にやる。高倉健さんが主演する任侠映画と同じです。ナメた態度で挑発して怒らせたほうが絶対に悪いんです。だから、誰か韓国人に教えたほうがいい。「いい加減にしないと、死ぬほど痛い目に遭うよ」と。 とにかく韓国人は、戦時中の慰安婦問題や日本軍の蛮行なるものを持ち出して日本の過去を責める権利も資格もいっさいありません。彼ら自身がかつて「日本人」であったという事実もさることながら、当時慰安婦を管理した大半は朝鮮人経営者でしたし、違法に若い娘たちを売り飛ばしていたのも朝鮮人でした。そんな悪い連中を、日本政府は取り締まる側でした。 一方で、大韓民国の独立後、外貨を稼ぐために在韓米軍を対象にした慰安所を多く整備したのは、韓国政府です。それをやったのは、現大統領(朴槿惠)のお父上である朴正熙です。朴槿惠大統領は、日本にとやかくいう前に、まずは自分の父親の行為を糾弾すべきです。 さらに、韓国軍はベトナム戦争で、韓国兵専用の慰安所を運営していましたし、ベトナムの民間人に対し、目を覆いたくなるような残虐行為を数多く働いています。ベトナム人女性をレイプした韓国兵が異常なほど多かったのに、その事実に対してまともに向き合っていません。 ――アメリカでは慰安婦像の設置が行なわれていますが、これも強い者や先生に「いいつけてやる」という事大主義の精神ですね。米グレンデール市の慰安婦像の横に座る元慰安婦のイ・ヨンスさん=5月6日(中村将撮影)ケント アメリカに住む韓国人は、もう収拾がつかなくなっています。慰安婦像の設置は、人種や宗教、国籍による差別を禁じたアメリカの公民権法違反の疑いがありますよ。ただ、大半のアメリカ人は日本人と韓国人の区別さえついていませんし、歴史問題などまったくわかっていません。慰安婦問題の認知度は10%程度だそうです。オバマ大統領もちゃんと理解していないと思います。面倒くさいけど、日本はアメリカに対してはっきり説明していかないといけない。 私は何度もいっていますが、誤報問題を引き起こした『朝日新聞』は、見開きで『ニューヨーク・タイムズ』や『ワシントン・ポスト』『ロサンゼルス・タイムズ』などに、自分たちの過ちを広告掲載すべきです。その上で、載せてくれないでしょうが、韓国の新聞にも掲載すれば、わかる人にはちゃんと伝わります。韓国にも、日本のことを理解して、敬意を抱く立派な人はいるはずです。日本も、そういった意識の高い親日派韓国人の味方になってあげて、何か支援ができればいいですね。 ――レベルの低い感情的な言い掛かりに対しては、まさにファクトを提示し、しっかりと議論で返すことが必要ですね。ケント 「韓国人こそ歴史を学べ」の一言に尽きるのですが、そのためには、ハングル文字だけの現代の資料では歴史的ファクトを見詰め直すことができません。要するに、漢字の勉強を一からやり直してもらいたい。韓国はそれだけで間違いなく国力が上がります。ちなみに私が漢字を学び始めたのは20歳ごろです。「自分たちのご先祖様が書いたものを自分の力でちゃんと読んでみろ」といいたい。議論はそれからですよ。 本当は放っておくのが一番です。日本は韓国と国交がなくなってもじつは何も困らない。日本に見捨てられたら生きていけないのは韓国のほうですが、引っ越し不能な隣人だからまったく付き合わないわけにもいきません。 一方、日本人の皆さんには、沈黙せずにはっきりと論理的に主張してほしいと思います。ただし、その反論の姿勢はあくまでも冷静かつ紳士的であるべきです。 ――品性を欠けば、たんなる罵り合いになり、みっともないですからね。ケント いろんなブログのコメントを見ていると、韓国人は酷い言葉を使って相手を罵るのが得意です。そんな韓国人に向かって、日本人が同じレベルに堕ちて、汚い言葉で感情的に罵れば、外国人の大半は、「ああ、日本も韓国もどっちもどっちだな」と思うでしょう。 とくに、一部のヘイトスピーチや、問題があると何でも「在日」のせいにする風潮などは、見ていて情けないし残念です。日本人には、そのような低い土俵に下りてほしくないし、下りる必要がない。その点には注意しつつ、韓国からの言い掛かりに対しては、歴史的ファクトを示し、大いに反撃してほしいと思っています。ケント・ギルバート 1952年、米アイダホ州生まれ、ユタ州育ち。71年に初来日。80年、国際法律事務所に就職して東京に赴任。83年、TV番組『世界まるごとHOWマッチ』に出演し、一躍人気タレントに。公式ブログ「ケント・ギルバートの知ってるつもり?」で論陣を張る。近著に『まだGHQの洗脳に縛られている日本人』(PHP研究所)がある。関連記事■ [日韓「歴史戦争」]日本がサンドバッグ状態を脱するとき■ <特別対談>慰安婦問題はフィクションだ■ トンチンカンな左派マスコミ

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    100回謝罪しても当たり前とは やっぱり韓国とは付き合いきれない

    室谷克実(評論家) 国を背負っている人間も、国を取り巻く状況が日に日に悪化して、個人的にも追いつめられると、突如として(俗な言葉でいうと『切れて』だろうか)思い詰めていた本音を吐く。韓国外交省「高官」の「加害者というものは謝罪を100回しても当たり前ではないか」との発言は、朴槿恵(パク・クネ)大統領の「恨み1000年」発言以来の“ヒット作”だ。日本国は、この本音発言を100年は忘れてはなるまい。 重大人物の重大発言も、記憶そのものの脳内劣化や、自己都合的な短縮化、さらには、ネットメディアの拡大に伴う「情報取り扱い」の粗雑さが重なり、変容していく。 最近、「田中角栄(元首相)が“刎頚(ふんけい)の友”と呼んだ小佐野賢治(=国際興業グループ創業者)は…」との文章を読んで、そう思った。田中が“刎頚の友”と呼んだのは入内島金一(=角栄が上京し勤め始めたときの会社の先輩)であり、小佐野ではなかった。 ある新聞には「朴大統領は『歴史を忘れた民族に未来はない』と言い…」との記述があった。「歴史を忘れた民族に…」は、そもそも独立運動家、申采浩(シン・チェホ)の言葉とされ、サッカー場の横断幕に登場して有名になった。朴大統領がそれを述べたとしても、引用発言だ。いや、引用して述べたこともないのではないか。 外国の重要人物の重要発言は、丁寧に取り扱われるべきだ。それを伝える1次マスコミは、特派員のコメントなどどうでもいいから、カギ括弧の中を丁寧に伝えるべきだと思う。会談を前に握手する岸田外相(左)と韓国の尹炳世外相=3月21日、ソウルの韓国外務省(共同) さて、問題の韓国外交省「高官」の発言だ。日本では共同、時事両通信社が、韓国の通信社である聯合ニュースの報道を引用して伝えたが、唯一のソースである聯合の原文を私が直訳すると、こうなる。 「加害者というものは謝罪を100回しても当たり前ではないのか、何回しても関係ない」(と強調した)。 私の韓国語理解では、後段の「何回しても関係ない」とは、「これまでに何回謝罪したかなんて問題ではない」というニュアンスであり、前段の「100回しても当たり前」を補っている。つまり、永遠に謝り続けろと言っているのだ。 つい最近までの流れを見れば、以下のようになる。 ▽韓国「謝罪しろ」 ▽日本「すでに謝罪した」 ▽韓国「していない。謝罪しろ」 ▽日本「国交交渉当時の椎名悦三郎外相も…全斗煥(チョン・ドゥファン)大統領に対しても…金泳三(キム・ヨンサム)大統領に対しても…村山談話でも…」 実際には、韓国人記者との懇談の席では「コウモリ外交=日和見外交」批判論議に続き、米国首脳部に台頭する「韓国疲労論」をめぐるやりとりがあったのだろう。ここで「何回しても関係ない」「加害者というものは…」が出たのだ。 「加害者と被害者という歴史的な立場は1000年の歴史が流れても変わらない」(朴大統領)、「加害者というものは謝罪を100回しても当たり前」(高官)-見事な対句をなすではないか。が、日本人からすると“もう付き合い切れない人たち”としかならないだろう。むろたに・かつみ 1949年、東京都生まれ。慶応大学法学部卒。時事通信入社、政治部記者、ソウル特派員、「時事解説」編集長、外交知識普及会常務理事などを経て、評論活動に。主な著書に「韓国人の経済学」(ダイヤモンド社)、「悪韓論」(新潮新書)、「呆韓論」(産経新聞出版)、「ディス・イズ・コリア」(同)などがある。関連記事■ 朴槿恵大統領の呆言、妄言、妄言録■ 呉善花「反日」という「バカの壁」からの脱出■ 一色正春が説く なぜ韓国は日本を許さないのか

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    なぜ韓国は日本を許さないのか

    るということです。 以上、韓国が自国の都合のいいように歴史を書き換える国であるという説明です。日韓の歴史認識の違い 次に、日本と韓国の歴史に対する認識の違いを整理しておきましょう。 日本において歴史というのは過去に起こった事実を客観的に検証し事実に迫ろうとするものですが、韓国においては事実とは関係なく「こうあってほしい」「こうあるべきだ」という結論をもとにストーリーを作ります。そして、その結論を決めるのは戦いの勝者、つまり時の権力者ですから、話がおかしいと思っても誰も文句は言いません。 彼らは往々にして、自分たちに都合の良い結論をもとに歴史をつくり、自分たちが政権の座から引き摺り下ろした過去の為政者を否定します。それは自分たちが新しく作った政権の正当性を担保するため、政権が交代する度に繰り返し行われる行為で、昔は一族皆殺しなどの残虐行為も珍しくありませんでした。民主化された今は、残虐行為こそ行われませんが、歴代大統領の末路を見れば、韓国の歴史に対する考え方が良くわかるかと思います。 ちなみに政権の正統性というのは、その政権が国を統治する根拠のことで、多くの国では国家設立の過程にその淵源を見ることができます。具体例を挙げると「アメリカ」は、植民地支配により自国を搾取していたイギリスに戦争で勝ち国民を救ったことを、「フランス」は、民を顧みない王家を革命によって倒し国民を救ったことを、根拠としています。 李氏朝鮮の場合は、高麗の将軍であった李成桂が、明との戦いのために集めた兵を己のために自国の王家に向け、いわゆる謀反により政権を簒奪したのですが、彼の国の歴史では高麗王朝は腐敗して民から見放されていたため、李成桂がやむなく高麗王家を討ったという筋書きになっています。 このように事実はともかく、新しく政権に就いたものにとっては、以前の政権が民を苦しめるダメな政権でなければならず、仮にそうでなければ現政権がおこなった行為(特に武力行使)が、君臣の秩序を乱した、ただの権力奪取になり、政権の正統性が疑われてしまいかねません。 大韓民国の場合はどうかというと、憲法前文で「三・一運動により建立された大韓民国臨時政府(後略)」と謳い、1919年に建国したことになっているので、現在の大韓民国にとっての前政権は日本であり、かつ彼の国の歴史では「光復軍」というものにより日本から武力で独立したという話になっていますから、先ほどの「政権の正当性」の話に当てはめれば、歴史の事実がどうであれ日本は民を苦しめる、倒されて然るべき政権であったという話でなければならないのです。 ですから日韓併合時代に朝鮮王国が近代化し、圧政に苦しんでいた民衆の生活が向上して民が暮らしやすい世の中になったという本当の歴史では、韓国政府としては非常に困るのです。まして大韓民国の建国後には国民の生活レベルが日韓併合時代より下がっているのですから、そんなことを認めれば日韓併合時代の方が良かったという話になりかねず、ひいては自分たちの政権の正当性が揺らぐため、何が何でも日本を悪者にしなければないのです。 そのため韓国政府は、歴史を書き換え、自国民を年端もいかない子供の頃から虚実交えて日本に反感を持つように教育しており、その成果とも言えるのが、平成25年にソウルで起きた「日本統治はよいことだった」と発言した老人が若者に殴り殺された事件です。 20代後半で終戦を迎えた日韓併合時代を実体験として良く知る95歳の老人が、自らの体験に基づいて述べた率直な感想に対して、それが真実か否かは関係なく、朴正煕政権末期に生まれた実際の日韓併合時代を直接知らない38歳の若者が日本をほめたという理由だけで殺意を抱くほどの怒りを覚え、それだけではなく、それを実行に移し、なおかつその行為を称賛する人が少なくないという事実は、実際の歴史である日本統治体験よりも、虚構をもとに行われている反日教育の方が、韓国人が日本を憎む原動力となっているという韓国社会の病根を如実に表していると言えるでしょう。 おまけに裁判所が、この若者に対して下した判決が懲役5年であるいうことと、韓国の裁判所が慰安婦訴訟やセウォル号事件で分かるように国民世論の影響を受けやすい体質であることを、重ね合わせて考えてみれば、韓国社会における、この反日無罪のような風潮は一部の人たちだけではなく広く世間一般の人々が容認しているという結論にならざるを得ません。まともな人もいたがまともな人もいたが では韓国人すべてが反日思想の持ち主かというと、そうではありません。このように日本人から見れば絶望的な韓国社会ですが、そんな中でも事実を捻じ曲げた一方的な日本悪玉論に異を唱える希望の光のような人がいるにはいました。 金完燮という作家は「親日派のための弁明」という日韓併合に肯定的な見解の書物を出版しましたが、その結果、本は事実上の発禁処分、本人は逮捕されました。(ちなみに日本ではベストセラーとなっています) また、韓国で国民的人気を誇った趙英男というタレントが「殴り殺される覚悟で書いた親日宣言」という本を出版しましたが、その後は親日派(=売国奴)として激しく糾弾され、芸能活動は休止に追い込まれました。 韓国社会において社会的地位の高い学者とて例外ではありませんでした。ソウル大学で韓国経済史を研究する李栄薫教授は「従軍慰安婦は売春業」と発言したため、元慰安婦らの前で土下座させられ、長時間にわたり罵倒を浴びせられ続けました。 このように韓国社会で日韓併合時代を良く言うことは自殺行為なのです。どんな人気者でも社会的地位の高い人でも、ひとたび日本寄りの発言をすればマスコミをはじめ司法に至るまで、ありとあらゆる方面から圧力を受け、集団リンチで社会的に抹殺されてしまうのです。韓国にも日本のことを正当に評価する人はいるのですが、怖くて声をあげられないというのが本当のところなのです。  このような社会に真の言論の自由などあるはずもなく、今この瞬間にも公教育により反日韓国人が生産され続けられているのです。彼ら韓国政府にとっては日韓併合時代こそが不都合な真実であり、特に日清戦争で日本が勝利したことによって初めて朝鮮が独立したことや、日本人として大東亜戦争を戦ったなどという歴史の事実は、彼らにとっては消し去りたい悪夢なのです。 ですから日韓併合時代に建設された建造物を「日本が建てた」という理由だけで取り壊し、日本に協力したとされる人たちを、親日(韓国では親日=売国)リストに載せ、子孫の財産を没収するなど、近代法の常識である「法の不遡及の原則」を捻じ曲げてまで、過去を消し去ろうとするのです。悲しいことに韓国は日韓併合時代を全否定しなければ国が成り立たないのです。反日の理由ソウルの在韓日本大使館前で慰安婦問題の解決を訴える抗議集会に参加した韓国の若者たち また、今なお戦争状態(南北間は休戦中であり、国際法上の戦争は終わっていません)にあり領土の北半分を占領しながら、韓国と朝鮮半島における政権の正当性を争っている北朝鮮の存在も見逃せません。北朝鮮建国の父である金日成は、日本軍と勇敢に戦い勝利した(事実かどうかは問題ではない)ことを政権の正当性としていますから、そのような歴史的事実がない韓国としては、何が何でも光復軍が日本軍に勝ったという話を創らなければならず、そのために日本人を殺した人物を英雄に祭り上げるなどして組織的な戦闘行為を行わなかった本当の歴史を、暗殺=戦争という歴史に書き換えるなどの作業を行っているのです。 つまり、国家として最も大事な政権の正当性のためには、彼らにとって事実がどうであれ日本が悪の帝国でなければならないのです。そのために彼らは、自分たちが一方的な被害者であると捏造した物語を武器に、国内では自国民に対して幼少期から徹底的に反日教育を行い、国外では諸外国(特にアメリカ)に対して、陰に陽に日本を非難し、日本が悪い国であるかのような印象を与えようとしているのです。 以上、ここまで述べてきたように韓国における反日の根本的な原因は、彼ら自身にあるのですが、それを大前提としたとしても、ここで忘れてはならないのが日本の責任です。言うまでもなく自己の保身のために歴史を書き換えて他国を非難する方が悪いのですが、それを助長してきたのが日本の政治家、官僚、マスコミ、学者、弁護士、市民活動家を名乗る人たちなどである事を忘れてはいけません。 政治家や官僚は保身のために目先のトラブルだけを回避しようとして、韓国の嘘を半ば認めるかのような対応を繰り返してきました。マスコミは日本が悪かったという話を捏造してまで日韓の両国民を洗脳し、時には日本の何気ない出来事を、悪意を持って韓国に伝え、反日感情を煽る一方、韓国の不都合な真実は日本で報道しません。学者は学問ではなく政治活動に走り日本を非難し、弁護士は海外に出かけ被害者を金で釣って集め、その人たちを自身の政治活動のために利用し、市民活動家を名乗る人たちはこれらの人たちの尻馬に乗って騒いでいます。 これでは韓国に対して「どうぞ日本を叩いてください」と言っているのと同じようなもので、実際に現在の日韓関係悪化の最大の原因と言われる慰安婦問題を創り出し育てたのも、これらの人たちです。この人たちは口先では「日韓友好」を唱えていますが、実際にやっていることといえば日韓両国民が互いに反発するようなことばかりで、結果的に日韓関係を悪くしているのです。 中でも日本政府は、今まで韓国の言いがかりを放置しただけではなく、さしたる根拠がないのにも関わらず、ただ単に日本が悪かったという内容の談話を発表するなど国家の責務を放棄したかのような振る舞いを続けてきました。 そのため「日本も自身の非を認めている」などと他国から誤解され、韓国には「日本は嘘でもなんでも大声を出せば、謝り金を出す」と馬鹿にされ、都合のいいように反日カードを使われてきたのです。いわば韓国を傍若無人な国に育てたあげた責任は日本にあるといっても過言ではありません。 そして、もう一つ忘れてはならないのが、日韓両国が友好な関係になれば困る国の工作活動です。典型的なのが、韓国でアジア女性基金を受け取ろうとした元慰安婦の老婆を脅迫して金を受け取らせず、問題の解決を妨げた親北団体の「韓国挺身隊問題対策協議会」(挺対協)で、彼らは事あるごとに「慰安婦」問題を持ち出し、無理難題な要求を突きつけて問題の解決を妨げてきました。 彼らのように表立って行動する人間は、まだ分かりやすくて良いのですが、本当に気を付けなければいけないのが、日韓の政府中枢やマスコミに深く潜り込んでいる人間です。スパイを取り締まる法令のない日本は言うまでもありませんが、金大中、廬武鉉と従北政権が10年も続き、国家の屋台骨であった国家安全企画部が縮小された韓国は昔では考えられないほど食い込まれています。日韓の主要なポストにいる人間の中にも、日々、日韓両国が離反するような活動を行っている人間がいる事を忘れてはいけません。 いずれにしても韓国は、国策として反日政策を行っているわけですから、そのような相手に対して共通の歴史認識など模索しても無意味な話です。あえて日韓共通の歴史認識を確立するとすれば、日本が韓国の言い分を丸呑みするしか方法がないでしょう。 また、単に嫌韓と言って感情論だけで対抗しようとしてもかなうはずがありません。日本も国家が中心となって戦略的に対抗しなければ、この先も彼らは日本に対しての謝罪や賠償を要求するだけではなく、執拗に反日工作を続けてくるでしょう。 この問題を解決するには彼らが言うように「日韓双方とも歴史を直視して、是は是、非は非と認めることから始めなければならないのです。ただし、それには長い長い時間が掛かるでしょう。※注韓国は1948年の憲法制定から現在に至るまで9回、改憲されています。上記は制定時のものですが、現在においても(中略)より前の文言はほとんど変わっていません。関連記事■呉善花 恨と火病と疑似イノセンスと― 異常な反日行為と心の病■韓国好きの私が韓国を批判するワケ■呉善花「反日」という「バカの壁」からの脱出■日韓併合を考えて脱韓論に至るの弁■「大韓ナチズム」に堕ちた韓国

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    韓国による濡れ衣「もう傍観できない」個人の挑戦

    して、初めて、有効な反撃作戦が可能になると思う。関連記事■合邦と植民地は大ちがい! 大人の国・英国の歴史認識■北岡君、日本を侵略国家にする気かね■日韓併合を考えて脱韓論に至るの弁

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    慰安婦強制連行は虚構…マイケル・ヨン氏「韓国は中国の操り人形」

    くことも、大切である。(大阪正論室長 河村直哉)関連記事■合邦と植民地は大ちがい! 大人の国・英国の歴史認識■北岡君、日本を侵略国家にする気かね■日韓併合を考えて脱韓論に至るの弁

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    「不遡及」覆し歴史清算に走る国

    国事と見違える国家にこそ、未来はないのであろう。関連記事■合邦と植民地は大ちがい! 大人の国・英国の歴史認識■北岡君、日本を侵略国家にする気かね■日韓併合を考えて脱韓論に至るの弁

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    本当は「日韓併合」が韓国を救った! 「七奪」はすべて捏造

    北の軍政下に置かれ、一九四八年にアメリカの軍政下から独立したのです。いわれなき非難に謝罪 韓国にいて歴史認識がおかしいと思い始めたのは、一九八二年の、日本の教科書が「侵略」を「進出」と書き換えたと騒がれたときです。事実ではなかったわけですが、韓国人が興奮状態で、新聞の一面に「日本の軍国主義がまた始まる」と書いて自衛隊観艦式の写真を載せたりした。実態を知らぬまま思い込みだけで非難するのかとびっくりしました。新聞は反日記事を書けば売れる。先日もハンギョレ新聞の論説委員が「日本の右翼勢力をただすには日本を韓国の植民地にするしかない」と書きました。 韓国の非難は的外れだと思って歴史の勉強を始めたのですが、日本では鈴木善幸、宮沢喜一の両元首相が韓国に謝罪してしまい、これでは歴史のウソを認めることになると切歯扼腕しました。 五十歳で会社を早期退職した理由の一つは、日本語教師になり、韓国人に日本語を教えながら日本の本当の姿を伝えて誤解を解きたいと思ったことでした。専門学校に通って教師の資格を取りました。韓国人が日本に来ても、一年ならいい印象を持つ。「韓国人はいじめられる」と聞かされていたがそんなことはなかったと。しかし二年目に文化の壁にぶつかります。友人の家に夜、突然遊びに行ったら嫌な顔をされた、差別じゃないかとか。学校や課外活動を通じて日韓の文化的な違いを教える必要がありますが、なかなか容易じゃない。教師の口が少なく、非常勤講師を二、三コマやっても週に一万円にしかならないなどということもあって、また商売を始めました。 それが可能だったのは、私が前の会社をやめても付き合いを続けてくれた韓国人の友人たちのおかげです。これは有難かった。今度はまず日本人の意識を変えようと、日本会議などに入って情報交換をしていました。 そこへ、ある老人が資料を見せてくれた。かつての朝鮮総督府の年鑑や日本統治下の朝鮮で使われた教科書など。「日本が朝鮮から強奪した」として韓国が主張するいわゆる「七奪」が捏造であることを示す一次資料で、私は目からうろこが落ちる思いでした。 この資料によれば「七奪」非難は完全に否定されます。 一、「韓国国王を奪った」…… 日本は李王家を日本の皇族の一員としてお迎えし、併合時の純宗皇帝は李王となられて日韓の皇室が融合したのです。日本は李王家を手厚く保護しました。朝鮮総督府『施政三十年史』(国立国会図書館蔵)には歳出項目の最上段に「李王家歳費」とあり、毎年百八十万円が計上されています。現在の価値で約二百億円になります。他の宮家の皇族費とは格段に差のある巨額です。さらに梨本宮方子女王が李王家の王世子・李垠殿下に嫁がれました。このこと一つをとっても、日本の「朝鮮統治」は、植民地の王室をことごとく廃止した欧米列強の「植民地支配」とは根本的に違っていることが明らかです。終戦時、李垠殿下は密航してでも朝鮮に帰ろうとされましたが、韓国の李承晩大統領が許さなかった。李王朝を復活させず、共和制国家をつくったのは韓国自身です。 二、「主権を奪った」…… 李氏朝鮮は清の属国であり、国家主権はもともとなかったのです。朝鮮が近代国家として独立し、共に欧米列強の侵略に対抗することを望んだのは日本であり、それを許さぬ清との間で戦争になったのです。日本が勝利し、清と結んだ講和条約(下関条約)第一条には「清国ハ朝鮮国ノ完全無欠ナル独立自主ノ国タルコトヲ確認ス因テ右独立自主ヲ損害スヘキ朝鮮国ヨリ清国ニ対スル貢献典礼等ハ将来全ク之ヲ廃止スヘシ」と朝鮮の独立が明確に謳われています。『日本之朝鮮』(1911)に掲載された「朝鮮人より日本国民に送れる合邦希望の電報」。日韓合邦を望む朝鮮人がいかに多かったかを物語る。水間政憲『ひと目でわかる「日韓併合」時代の真実』(PHP刊)より転載日韓合邦の嘆願書日韓合邦の嘆願書 ところが、ロシア、ドイツ、フランスの三国による干渉で日本が遼東半島の放棄を強いられると、国内改革によって専制権力を奪われつつあった国王・高宗はロシアと組んで巻き返しに出ました。国内の親日・改革派を葬り、ロシアに朝鮮の利権を売り渡し、馬山にはロシア海軍の基地が建設されて、日本の独立が脅かされる事態に至りました。そして日露開戦。大韓帝国内では李容九が「一進会」を結成し、日本との一体化こそが国を救う道であると朝鮮民衆に説きました。白人大国ロシアに対する日本の勝利はアジア・アフリカの有色人種を狂喜させた。戦後、李容九は一進会百万人会員の名前で全国民への合邦声明書を発表、さらに韓国皇帝、曾彌統監、李完用首相に対し「日韓合邦」の請願書を提出しました。日韓併合は日本が一方的に進めたのではなく、大韓帝国の中にも日本との合邦を推進した人々が多くいたのです。 一九一〇年に日韓は「韓国併合ニ関スル条約」を締結しました。このときの韓国皇帝の詔勅には、「韓日両国の親密なる関係をさらに進めて一家をなすことがお互いの幸福に通じる」として内閣総理大臣李完用に全権を委任し、大日本帝国統監寺内正毅との両国併合交渉に当らせると記されています。日韓併合条約は国家同士が当時の国際法や国内法に基づいて平和裏に締結した正式な条約なのです。日本が一方的に主権を奪ったのではありません。ヘレン・ミアーズの証言 『アメリカの鏡・日本』の著者ヘレン・ミアーズも「日本が韓国を併合したのは、新皇帝が懇願したからだ。日本は一つ一つ手続きを外交的に正しく積み上げていた、そして宣言ではなく条約で最終的な併合を達成した。列強の帝国建設はほとんどの場合、日本の韓国併合ほど合法な手続きを踏んでいなかった」と記しています。J・クロフォード英国ケンブリッジ大教授も、二〇〇一年の国際学術会議で「自分で生きて行けない国について、周辺の国が国際的秩序の観点からその国を取り込むというのは当時よくあったことであり、日韓併合条約は国際法上不法なものではなかった。強制されたから不法であるという議論は第一次大戦以降のもので、当時としては問題になるものではない」と述べて、韓国側の主張は完全に崩れました。イザベラ・バードも夙にこう書いていたのです。「わたしは朝鮮人の前途をまったく憂えてはいない。ただし、それには左に掲げたふたつの条件が不可欠である。Ⅰ 朝鮮にはその内部からみずからを改革する能力がないので、外部から改革されねばならない。Ⅱ 国王の権限は厳重かつ恒常的な憲法上の抑制を受けねばならない」三、「土地を奪った」…… 一九七四年以来、韓国の国定教科書には「全国農地の四〇%を日本人に収奪された」と記載されてきました。とんでもない。李氏朝鮮時代は所有権の概念があいまいなために、土地をめぐる争いが絶えませんでした。そこで朝鮮総督府は一九一〇年から八年かけ、近代的測量技術を使って土地調査を行いました。朝鮮総督府『施政二十五年史』(国立国会図書館蔵)には「抑々土地調査は地税の負担を公平にし、地籍を明らかにして其の所有権を確立し、その売買譲渡を簡確実にして以て土地の改良及び利用を自由にし、かつその生産力を増進せしめんとするものである」と目的がはっきり書いてあります。調査の結果、二百七十万町歩と言われていた耕地が、実際には四百八十七万町歩にも上ることが明らかになりました。耕地全体の四五%もが当時の貴族階級であった両班らによって隠匿されていたのです。 韓国では土地調査について「日本人が小高い丘に登ってあたりを見回し、土地を指さして手当り次第良田を奪った」と非難していますが、これは李氏朝鮮時代の話なのです。李朝末期にダレ神父は『朝鮮事情』(平凡社)の中でこう書いています。両班の暴君ぶり「両班は、いたるところで支配者か暴君のようにふるまっている。彼らが強奪に近い形で農民から田畑や家を買うときは、殆どの場合、支払なしですませてしまう。しかも、この強盗行為を阻止できる守令(現在の知事に相当)は一人もいない」。 実際に朝鮮総督府が接収した土地(李朝時代の国有地等)は耕地全体の三%でした。接収の過程で朝鮮人の私有地を奪った事実は全くありません。一九二二年時点で朝鮮半島における国有地及び日本の個人、法人が保有していた土地は合わせて二十五万五千町歩、全耕地面積の六%にすぎません(『朝鮮における内地人』朝鮮総督府、大正十三年発行)。農民たちは自分の土地が測量され地籍に上がるのを見て、測量事業に積極的に協調しました。しかし中には一時の利益に目がくらみ祖先伝来の土地を売ろうとするものもありました。一方、一攫千金を夢見る日本人が大挙、朝鮮にやってきました。当時の寺内総督は、一旗組によって朝鮮の土地が買いたたかれては百害あって一利なしとし、朝鮮農家が日本人に土地を売るとの情報をつかむと憲兵を派遣し、日本人には売らないよう説得させました。そこまで総督府は朝鮮人の利益を守ろうとしていたのです。 四、「国語を奪った」…… 韓国の国定中学校教科書には「我々の言葉を禁止し日本語だけを使うようにして、我々の歴史の教育も禁じた。ハングルで刊行された新聞も廃刊させ、我々の言葉と歴史に対する研究も禁止させた」と書いてあります。そもそもハングルは十五世紀に李朝四代世宗が学者を集めて作らせたと言われていますが、当初より諺文として忌み嫌われ、公文書では一切使われませんでした。イザベラ・バードも「諺文は軽蔑され、知識階級では書きことばとして使用しない」と記しています。そのハングルを再発見したのが日本人の福沢諭吉でした。「日本の漢字仮名まじり文同様、ハングルを駆使すれば難解な漢文を朝鮮語式に自由に読み下すことが可能となり、大衆啓発のために大いに役立つはずだ」 と考え、漢字ハングル混交文を提唱し、ハングル活字を私費で作りました。 朝鮮総督府は日本と朝鮮の学者を集めてハングルを近代的文字体系にまで高め「普通学校用諺文綴法」を決定して教科書に採用しました。さらにソウルとその近郊で話されている言葉を標準語と定め、学校教育を通し全土にこれを広めました。現在の韓国語は、このときに成立したのです。 一九二〇年には総督府によって初めて本格的朝鮮語辞典が完成、刊行され、一九二四年には京城帝国大学に朝鮮語・朝鮮文学の口座が開設されました。半島における日本語の普及にも力を入れましたが、これは共通語の普及が目的であり、朝鮮語廃止など毛頭考えていなかったのです。 日本が朝鮮を植民地と考えていたのなら日本語など教えないほうが支配しやすかったはずです。一九四一年からは朝鮮語の科目が廃止されましたが、これは戦争の激化によって朝鮮語教育に力を入れる余裕がなくなったためです。また科目が廃されたからと言って、朝鮮語の使用が禁止されたわけではありません。当時の日本人は半島の人口の二%程度であり、禁止など不可能です。朝鮮語の新聞も、京城では終戦まで二紙が発行されていました(中村粲『韓国併合とは何だったのか』)。むしろ朝鮮の知識人の中に朝鮮語廃止と日本語常用を唱える人々が大勢いたのです。ハングルを教えている朝鮮・水原郡松山面(村)の公立学校。1929年『生活状態調査』水原郡・第28号より。水間政憲『ひと目でわかる「日韓併合」時代の真実』(PHP刊)より転載朝鮮語廃止にストップ日本統治時代のハングル教科書。ハングルを禁止したことなど ないどころか、積極的に教えていた朝鮮語廃止にストップ 南次郎総督が「朝鮮語を廃止するのはよくない。国語(日本語)普及運動も朝鮮語廃止運動に誤解されることがあるくらいであるから、それはできない相談である」と拒否した経緯があります(杉本幹夫『「植民地朝鮮」の研究』)。日本が朝鮮語を奪ったのなら、当時の朝鮮人は全員日本語を話せたはずですが、『朝鮮総督府施政年報 昭和十六年版』には日本語を「やや解しうるもの」「普通会話に差し支えなき者」合わせて約三百九十万人、当時の朝鮮の人口の一六%に過ぎないと記載されています。同資料には「内地人職員に対する朝鮮語の奨励」なる項目があり、日本人官吏が朝鮮語を必死で学ぶ様子がうかがえます。 近代においては日本が西洋の用語を日本語に翻訳して新たな漢語を創造したのですが、朝鮮の人々は日本製の漢語を借用して今日の韓国語を形成しました。韓国語の名詞の七〇%程度が漢語であり、政治、経済、科学、哲学、医学分野はほぼ一〇〇%が日本語の借用です。「社長、副社長、専務、常務、部長、課長、係長」も、「株式会社」「合弁会社」「水素」「酸素」「電気」「手術」もみんな日本語の韓国読みです。日本は統治期間中に朝鮮語の標準語を定め、近代社会に必要な単語を提供しました。奪うどころか、まったく逆のことをやっているのです。 歴史教育についても、朝鮮総督府大正十三年発行『朝鮮語読本 巻五』には「(慶州為先陳列館では)この地方において発見された各種の遺物が保存されており、新羅文明の卓越した様子が明らかに分かる」「石窟庵に入れば穹窿たる石窟の中に二十九体の仏像を周壁に彫刻してあり、その彫刻の優美さは東洋芸術の誇りである」などの記述があり、朝鮮の卓越した歴史を学童たちに教えるべく努力していたことがよくわかります。五、「姓名を奪った」…… 一九三九年に朝鮮総督は朝鮮戸籍法を改正し、朝鮮人が日本名を名乗ることを可能としました。「創氏改名」と呼ばれるこの政策によって朝鮮人の姓名を奪われ、無理やり日本人に同化させられたとして韓国は日本を非難します。しかし、朝鮮人が日本名を名乗ることで日本人が何か得をしたでしょうか。実は、日韓併合直後の一九一一年に朝鮮総督府は総督府令第一二四号「朝鮮人の姓名改称に関する件」を施行し、朝鮮人が日本式姓名を名乗ることを禁止していたのです。朝鮮の伝統風俗を尊重すると同時に、日本人と朝鮮人を名前で区別できなくなることで発生するであろう不都合に配慮したものでした。ハングルで書かれた生徒作品も学校の書道展に並んでいる。日本人がハングルを奪ったという説が大噓であることがわかる。1938年『日本植民地教育政策史料集成』朝鮮篇所収、「渼洞公立普通学校創立30周年記念集」(1936)より。水間政憲『ひと目でわかる「日韓併合」時代の真実』(PHP刊)より転載日本名をくれないのは差別 それが変更されたきっかけは、朝鮮人満州開拓団からの強い要望です。朝鮮人に対する中国人や満州人の侮蔑意識が強く、朝鮮人の村々は略奪、放火、虐殺など甚大な被害を受けていた。日本名を名乗れば名実ともに日本臣民となり、侮蔑されなくなるというわけです。半島の朝鮮人の間でも「日本人になって三十年近く経っても日本式姓名を名乗れないのは朝鮮人への差別である」との不満が高まってきました。しかし朝鮮総督府警務部は日本への密航増加や治安上の問題を憂慮して反対し、内地人も朝鮮人も平等であるという「一視同仁」の考えから賛成する文部部とすったもんだの議論の末、ようやく一九三六年に戸籍法改正に至ったのです。 総督府では朝鮮の文化伝統を尊重する立場から「姓」を戸籍簿上に残し、新たにファミリーネームとしての「氏」を創設することにしました。これは朝鮮人が「姓」を変えることなく合法的に日本式の苗字を持てる妙案でした。さらに「せっかく日本人の苗字が名乗れるようになっても、下の名前が朝鮮式のままでは意味がない。名前も変えさせて欲しい」という要望が多く、これに応えるために、裁判所に申請し正当な事由があると認められた場合に限り、手数料を払って名前を変えることも可能としました。これによって「創氏改名」が実現したのです。 この法律が施行されるや町や村の議会で「全員日本名とする」ことを決議するケースも続出しました。朝鮮人官吏が点数稼ぎのために日本名を勧めたこともあったようです。日本名を名乗らないものが朝鮮人の間で非難されることもあったでしょう。改名を拒否して自殺したという話も残っています。しかしそれはあくまで朝鮮人社会内部での問題であり、日本側が強制したわけではありません。南総督は三度も「強制してはならない」という通達を出しています。 また、日本名を名乗らなくても不利益を被ることがなかった証拠に、軍人や政治家、スポーツ選手のなかに朝鮮名を通した人たちもかなりいました。結果的に八○%の朝鮮人が日本名の「氏」を選択したのは、当時世界五大強国の一つであった日本の臣民になることを望んだということです。朝鮮では本貫(一族始祖の発祥地)を同じくする同姓同士の結婚はできず、異姓を婿養子にすることもできない規定がありましたが、創氏改名に伴う民事令の改正で異姓の婿養子を迎えることができるようになり、喜ばれたという事実もありました。あまりの歴史歪曲六、「命を奪った」…… 日清戦争の原因となった東学党の乱から一九四五年までの五十年間、日韓は戦争状態にあり、この期間中に残虐な日本軍は朝鮮人数十万人を虐殺したと韓国では教えています。これが世界中で韓国だけに存在する「日韓五十年戦争」論です。この主張は、朴殷植が一九二〇年に書いた『朝鮮独立運動之血史』という本がベースになっています。朴は上海臨時政府の二代目〝大統領〟になった人物であり、この本は日本を攻撃するために悪意をもって著述したもので、日本の官憲や軍隊の蛮行がこれでもかとばかり書き連ねてあり、私もこれを読んであまりの偏見と事実歪曲、数字の誇張に絶句しました。しかし韓国ではこれが史実として教えられています。「東学党は、政府軍や日清軍と交戦すること九カ月以上にも及んだ。死者三十万人を数え、民族史の上に古今未曾有の惨状を極めた」というのですが、日本軍の本隊が朝鮮半島に上陸したのは東学党の乱が朝鮮政府軍や清国軍隊によって鎮圧されたあとで、それまでは二個小隊しかいませんでした。また、「わが民衆を日露戦争の軍用務労働者として徴用しはじめ、これを拒否したものはロシアの間諜として罪におとしいれ、あるいは拘束し、あるいは拷問を加え、甚だしくは斬殺した。」とあります。しかし日本で国民徴用令が制定されたのは一九三九年であり、一九〇四年に他国の国民を徴用できるはずがありません。 韓国の民族独立運動である「三一運動」を日本が残虐な手段で弾圧し、多くの朝鮮人を虐殺したと韓国は主張しています。一九一九年三月一日、京城(ソウル)の公園に宗教家三十三人が集まり、非暴力・無抵抗主義を標榜して「万歳デモ」に移ったのが始まりですが、これが瞬く間に全国的暴動に発展し、地方では農民たちが武装して村役場、警察・憲兵事務所、富裕地主等を襲撃する凶悪な行動へ転化しました。在朝鮮日本人に「日本へ帰れ」と投石して脅迫した事実はテロそのものであり、決して一般大衆から支持されたものではなかったのです。黄色人種間の分裂を図る欧米宣教師に煽られた朝鮮人キリスト教徒たちが暴徒と化し、これに近代化で特権を喪失した両班や旧軍人らの不満分子が乗っかって広がった破壊活動であり、警察や憲兵が鎮圧するのに武器を使用したのもやむをえざるところでした。『朝鮮独立運動血史』には日本官憲が各地で悪逆非道な弾圧を行ったと記されています。ところがそのほとんどは裏付けのない伝聞にすぎません。唯一、西洋人が視察して公に伝えたとする水原岩里事件では婦女子が犠牲になったとしていますが、英国紙「モーニング・アドバタイザ」の京城特派員は「殺害された三十七名全員が男性」と記述しており(木原悦子『万歳事件を知っていますか』)、朴の創作が明らかです。日本の裁判の公正に感激 実際の日本の対応は、金完燮『親日派のための弁明2』によれば送検された被疑者一万二千六百六十八人、六千四百十七人が起訴され、一審で三千九百六十七人が有罪判決を受けましたが、日本人憲兵六名と警官二名が虐殺され、多くの建物が放火されたにもかかわらず、死刑は一人もなく、十五年以上の実刑もなく、三年以上の懲役がわずか八十人で、しかも減刑と赦免で刑期が半分以下となりました。この時逮捕された三一運動の主要リーダー崔麟、李光洙、崔南善、朴煕道たちは日本の裁判のあまりの公正さに感激し、やがて強烈な日本ファンとなって、一九三〇年代の言論界をリードすることになります。 李朝末期における農民の生活は悲惨で、毎年多数の餓死者が出ていました。この改善が朝鮮総督府の最大の目標であり、一九二六年に「朝鮮産米増殖計画」が施行されました。併合当初、朝鮮の水田は八〇%が天水に依存していましたが、この計画により七〇%以上が天水依存から脱し、その他の改良と相まって朝鮮農業は飛躍的に発展しました。一九一〇年に朝鮮全土で約一千万石程度だった米の生産高は一九三〇年代には二千万石を越え、大豆と雑穀の生産高も併合時より六〇%増えました。一九三一年に朝鮮総督となった宇垣一成は「朝鮮農山漁村振興運動」を展開し、朝鮮農民の意識を近代化に向けて大きく前進させました。一九三三年から三八年にかけての農家収入は二倍に増えています。 李氏朝鮮時代は劣悪な衛生環境のなかでしばしば十万人以上の死者を出す疫病が流行していました。西洋医学が普及しておらず、東洋医学のみに頼る状態でした。本格的に近代医療システムの導入が始まったのは併合後、朝鮮総督府が改善に取り組んでからです。京城大学附属病院、各道の慈恵病院が作られ、一九一〇年には百二十万人に種痘が施されました。このような日本の努力の結果、朝鮮人の平均寿命は、一九一〇年の二十五歳から一九四四年には四十五歳まで伸びました。日本が朝鮮人の寿命を伸ばし、命を救ったのが歴史的事実だったのです。七、「資源を奪った」…… 韓国の中学校歴史教科書には「日帝は金、銀、タングステン、石炭など産業に必要な地下資源を略奪した」と書いてありますが、実際には朝鮮半島にそれほど魅力的な資源はありませんでした。石炭は無煙炭であり、オンドル部屋の暖房用練炭が主用途で、金、銀、タングステンなどは日本の会社が厖大な開発費を投じながら、結局大赤字でした。東南アジアから輸入したほうがよほど安上がりだったのです。収奪どころか、日本は逆に税金をつぎ込み、産業を育成しました。大韓帝国が一九〇六年に初めて作成した国家予算は七百四十八万円にすぎなかったのに対し、日本は一九〇七年から一九一〇年まで毎年二千万円から三千万円を補助しています。日本の国家予算の二〇%を越えたこともあります。併合後も毎年二千万円前後の資金を持ち出し、昭和十四年になっても日本からの補充金と公債を合わせると全予算額の四分の一を占めていました。日本統治期間を通して日本政府が朝鮮半島につぎ込んだ金額は、累計で二十億七千八百九十二万円、当時の一円が平均して現在の三万円とすると六十三兆円という天文学的な数字になります。また、大韓帝国時代から日本は鉄道建設に力を注ぎ、その総経費は現在の価値にして十兆円以上になります。民間資金もダム建設に投入され、有名な水豊ダムだけでもその額は現在の価値で三兆円近いものです。これによって生み出された豊富な電力を利用するために日本の多くの大企業が朝鮮北部に投資しました。それによって朝鮮人の雇用を創出するとともに、付加価値の高い製品を日本へ移出することで朝鮮経済を豊かにしたのです。*   *   * いまや韓国はG20に名を連ねる大国です。「日本への恨」を持ち続けて何の意味があるのでしょう。日本民族と韓民族が互いに誤解と偏見を克服し、それぞれの先人を誇りに思えるとき、初めて日韓間に互恵平等の関係が樹立できると思います。日の丸と太極旗が並び立ってアジアの繁栄と安定を築くことを願っています。松木國俊(まつき・くにとし) 一九五〇年、熊本県生まれ。七三年、慶応義塾大学法学部政治学科卒業。同年、豊田通商株式会社入社。八〇年~八四年、豊田通商ソウル事務所駐在。秘書室次長、機械部次長を経て二〇〇〇年、豊田通商退社。〇一年、松木商事株式会社設立、代表取締役。現在に至る。日本会議東京本部調布支部副支部長、新しい歴史教科書をつくる会三多摩支部副支部長も務める。関連記事■合邦と植民地は大ちがい! 大人の国・英国の歴史認識■北岡君、日本を侵略国家にする気かね■日韓併合を考えて脱韓論に至るの弁

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    ヤマトの痕跡を消せ! 前方後円墳まで「整形」 

    那(みまな)日本府』(PHP研究所)などがある。関連記事■合邦と植民地は大ちがい! 大人の国・英国の歴史認識■北岡君、日本を侵略国家にする気かね■日韓併合を考えて脱韓論に至るの弁

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    「侵略戦争」という言葉は歴史を見る目を歪める

    敗戦国だけに負わせる概念として登場したのがこの「侵略」という言葉だったのです。こんな言葉を使ったら、歴史認識などというものが正しく語れるはずはありません。 でも、それからすでに100年近くたっているではないか。こんなひどい概念がそのままということはあり得ない、と言う方もあるでしょう。確かに、第一次大戦と第二次大戦の間には不戦条約というものが成立して、それに違反した戦争は違法な侵略戦争である、という言い方ができるようになってはいました。 ところが不戦条約には米国の政府公文の形で、この条約は自衛権を制限するものではなく、各国とも「事態が自衛のための戦争に訴えることを必要とするか否かを独自に決定する権限をもつ」旨が記されています。現実に個々の戦争がこれに違反するか否かを判断するのは至難の業なのです。 第二次大戦後のロンドン会議において、米国代表のジャクソン判事はなんとか「侵略」を客観的に定義づけようとして、枢軸国のみを断罪しようとするソ連と激しく対立しますが、最終的にはその定義づけは断念され、侵略戦争の開始、遂行を犯罪行為とする、ということのみが定められました。しかも、それは枢軸国の側のみに適用されるということになったのです。そしてその後も、この定義を明確化する国際的合意は成り立っていません。 つまり、「侵略」という言葉は、戦争の勝者が敗者に対して自らの要求を正当化するために負わせる罪のレッテルとして登場し、今もその本質は変わっていないというわけなのです。この概念が今のまま通用しているかぎり、国際社会では、どんな無法な行為をしても、その戦争に勝って相手に「侵略」のレッテルを貼ってしまえばこちらのものだ、という思想が許容されることになるといえるでしょう。 こんな言葉を、安倍晋三首相の談話のうちに持ち込んだら大変なことになります。首相がしきりに強調する「未来志向」ということは、もちろん当然正しい歴史認識の上に立って、平和な未来を築いてゆくのに役立つ談話を出したい、ということに違いない。だとすれば、歴史を見る目を著しく歪(ゆが)めてしまうような言葉や、国際社会において、「法の支配」ではなく「力の支配」を肯定し、国家の敵対関係をいつまでも継続させるような概念は、決して使ってはならないのです。国際政治がご専門の北岡さんには改めて、本来の学識者としての良識を発揮していただきたいものです。関連記事■呉善花「反日」という「バカの壁」からの脱出■日韓併合を考えて脱韓論に至るの弁■併合朝鮮をめぐる国政参政権付与

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    「侵略」といえなかった朝鮮統治

    だから共同の意識が地縁にまで及ばない。物理的に一族のために蓄財し、精神的に宗族の歴史が一番大事なので歴史認識にこだわるのであろう。国は不運の歴史ではあっても、自家の歴史は立派だったと思いたい。後者の意識が前者を凌駕(りょうが)し、ついに国史まで偽造するに至った。これを国家的規模で行ったのが、北朝鮮の金家の「革命伝統」であり、韓国では金泳三大統領時代に始まる「歴史の立て直し」政策であった。 韓国では1990年代以降、テレビの時代劇では奴婢(ぬひ)まで色物を着るようになり、外出禁止だった李朝・京城の夜を提灯(ちょうちん)を持って出歩くようになった。不運だった「隠者の国」はケバケバしく彩られ「自尊者の国」へと変貌した。 以後、韓国人の現実像と歴史像は乖離(かいり)し、言うこととやることがちぐはぐになっていくのである。

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    村山談話は役に立ったのか

     4月22日付の産経新聞政治面を開くと、元首相の村山富市、鳩山由紀夫両氏が並んで講演している写真が目に飛び込んできた。後者についてはもう相手にしても仕方がないので触れないが、村山氏の発言は看過できないのでしつこく書く。 村山氏は、日本の「植民地支配」と「侵略」に「痛切な反省」と「心からのおわび」を表明した平成7年8月15日の村山談話について、こう述べた。 「安倍晋三首相の国会答弁は一貫していない。質問がいろいろあると、『侵略という言葉は国際的な定義はない』とかはぐらかす」 はて「はぐらかす」とは何を指しているのか。4月1日の参院予算委員会で、岸田文雄外相が7年10月の村山首相(当時)の答弁をこう紹介している。 「村山首相ご自身が『侵略という言葉の解釈にもいろいろな意見があるから、固定してこれが侵略だといった定義はないのではないか』と答弁している」 この件は以前も当欄で指摘した点だが、自身が述べたことを後の首相が踏襲したら「けしからん」というのは、わけが分からない。また、村山氏は講演でこんな自賛もしていた。東京都文京区の鳩山会館で第2回「さとやま・草莽の会」が開かれ、村山富市・元首相(手前)や鳩山由紀夫元首相らが70年談話やクリミア問題などを語った=4月21日午後、東京都文京区の鳩山会館(小野淳一撮影) 「村山談話が出てから今日まで、歴史問題で日韓・日中関係がいろいろガタガタすることはなかった」 これも明確に事実に反する。村山談話発表から3週間もたたない7年9月3日、中国の江沢民国家主席(当時)は演説で、次のように強調した。 「ここ数年、日本では侵略の歴史を否定し、侵略戦争と植民地支配を美化しようとする論調がしばしば出ている。日本は真剣に歴史の教訓をくみ取り、侵略の罪を深く悔い改めてこそ、アジアの人民と世界の理解と信頼が得られる」 この言葉から、村山談話による何かしらの効果が読み取れるだろうか。この年11月、江氏と韓国の金泳三大統領(当時)がソウルで会談し、共同記者会見を開いた際には、金氏は歴史問題に関してこう言い放った。 「この際、(日本の)態度を必ず改めさせる」 韓国は、中国との間にも朝鮮戦争の際の中国軍の大量介入など清算されていない歴史問題があるにもかかわらず、中国を表立って批判しようとはしない。中韓に利用された  いずれにしろ村山談話の発表後、日中・日韓間の歴史問題が収まったという客観的事実は見当たらない。日本のメディアが政治家の歴史をめぐる発言を問題視して中韓両国にご注進し、その結果、国際問題化するというパターンは現在まで何も変わっていない。 むしろ、村山談話は中韓による対日要求の根拠、外交カードとして利用されている。韓国にすり寄り、根拠もなく慰安婦募集の強制性を認めた5年8月の河野洋平官房長官談話もそうで、「性奴隷の国、日本」という誤ったイメージの拡散に使われる始末だ。 両談話により、中韓との関係改善が進んだとの見方はごく短期間のことしか見ていないか、あるいは幻想だったのではないか。 「歴史問題については政治家は謙虚でなければならず、歴史家や専門家に任せるべきだと考えている」 安倍首相は4月1日の参院予算委でこう述べた。一方、自身の社会党的で特殊、偏狭な政治信条を談話に反映させた村山氏も、宮沢喜一内閣の総辞職(河野談話発表の翌日)を前に政治決着を焦って事実関係をおろそかにした河野氏も、少なくとも歴史に謙虚ではない。(政治部編集委員・阿比留瑠比)関連記事■呉善花「反日」という「バカの壁」からの脱出■日韓併合を考えて脱韓論に至るの弁■併合朝鮮をめぐる国政参政権付与

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    北岡君、日本を侵略国家にする気かね

    国・韓国あたりが言ってきたら、「村山談話」を引き継いでいると言っているんだからそれでいいじゃないか。歴史認識云々に対する反論は別にやればいい。談話は戦後のアジアはじめ世界に対する日本の貢献と未来の話をするべきです。ぜひそういうものにしていただきたい。伊藤隆(いとう・たかし)一九三二年、東京都生まれ。東京大学文学部卒。同大学院人文科学研究科国史専攻修士課程修了。専攻は日本近現代政治史。東京大学教授、亜細亜大学教授、埼玉大学教授、政策研究大学院大学教授を歴任。現在、東京大学名誉教授。主な著書に『日本の内と外』(中公文庫)、『昭和史をさぐる』(吉川弘文館)、『評伝 笹川良一』(中央公論新社)などがある。関連記事■呉善花「反日」という「バカの壁」からの脱出■日韓併合を考えて脱韓論に至るの弁■併合朝鮮をめぐる国政参政権付与

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    韓国人はドイツ人を全く知らない

    長谷川良(ウィーン在住ジャーナリスト) 韓国では日本の「正しい歴史認識」不足を指摘する声が強い。その一方、日本と同じ第2次世界大戦の敗北国ドイツの戦後の償い方を称え、日本に対して「ドイツを見習え」といってきた。最近では、ナチス・ドイツのホロコーストなど過去の歴史について謝罪してきたドイツのアンゲラ・メルケル首相が第12回ソウル平和賞に選出されている、といった具合だ。 相手の「過去の歴史」への対処を称える以上、韓国はドイツの歴史、特に第2次大戦時とその戦後について学んできたことが前提となる。知らないのに相手を称賛できない、と通常は考えるからだ。特に、日本の過去の歴史対応と比較する以上、なおさらそうあるべきだ。ドイツのどこが優れ、どの点が日本の歴史清算には不足しているのか、といった一連の具体的な歴史認識が求められるからだ。 ところが、実際は、韓国人のドイツの歴史に対する学習はそれほどではないことが明らかになった。韓国の少女4人組ポップグループ「Pritz」がナチスを想起させる衣装を着て舞台で歌い、ドイツで大きな議論を呼んだばかりなのだ。 韓国の中央日報日本語版によると、「Pritzは11月2日に釜山で開かれた公演で、ナチスの象徴であるハーケンクロイツを思い起こさせる腕章をはめてステージに立ち議論を巻き起こした。メンバーが左腕に付けた赤い腕章には白い円が描かれ、その中にXの文字が書かれていた」と報じている。  同グループの衣装姿が国際メディアで報道されると、Pritzの所属事務所は「少女たちの衣服はナチスの紋章を彷彿させるというより、一種の交通信号のようなイメージを与えるだろう」と述べ、「話題作りのため意識的にナチス・ドイツ軍の衣服を真似たのではない」(ドイツ日刊紙ヴェルト)と弁明している。 中央日報はナチス議論に対する非難よりもグループを擁護するコメントを紹介し、「Pritz公式ユーチューブチャンネルのコメントを見ても、むしろ『70年過ぎたことだ。しかもナチスの紋章でもない』『韓国でなんのネオナチか』『めげずにがんばれ』などの反応も多かった」と報じている。日韓首脳会談を終えて帰国する韓国の金泳三大統領=1997年1月、大分空港 終戦から70年が経過する今日、ナチス・ドイツ軍の衣服に似ている云々の議論は意味がない、という論理は理解できる。しかし、日本の歴史認識問題ではあれほど詳細な点に拘り、批判し続ける韓国人、韓国メディアが日頃から称賛してきたドイツ国民の歴史への感情、繊細さに対して理解が不足していることに少々驚かざるを得ない。 そういえば、韓国の金泳三大統領(在位1993~98年)が海外訪問で飛行機のタラップから降り、歓迎する人々に手を挙げて挨拶する時、その手を挙げる姿がナチス式敬礼ハイル・ヒトラー(独語 Heil Hitler、ヒトラー万歳)を彷彿させるということで話題になった、そこで大統領側近が「タラップから手を振る際には決して腕を真っ直ぐに伸ばさず、手を左右に軽く振ってほしい」と助言したと聞く。韓国大統領となった人物が側近から助言を受けなければ、ドイツ人の歴史的感情、痛みに気が付かなかったのだ。 「ナチス制服姿の少女バンド」というタイトルの記事(11月24日)を書いた日刊紙ヴェルト紙のSoeren Kittel記者は、「ドイツと韓国間には8000キロの距離がある。ナチスの紋章に対する受け取り方はドイツ人と韓国人では違うのかもしれない」と、少女グループのナチス紋章に対して寛容な姿勢だが、「Pritzというグループ名は独語のBlitzを思い出すばかりか、Pretty Rangers in Terrible Zone (独語 Huebsches Ueberfallkommando in schlimmer Gegend )を想起させる呼称だ」と指摘することを忘れていない。すなわち、ドイツ人の耳には、4人組のポップグループ名はナチス・ドイツ軍を彷彿させるとはっきりと述べているのだ。 日本に「正しい歴史認識」を求め、ドイツの歴史認識を無条件で称賛してきた韓国国民、メディアは、ドイツの歴史を少しは学ぶべきだろう。相手の歴史を学んでこそ、批判し、称賛もできるからだ。(ブログ「ウィーン発 『コンフィデンシャル』」より)関連記事■ 戦争犯罪と歴史認識■ 日韓歴史問題 「ゴール」を動かす韓国■ 80年代に突然大衆化 「強制連行」という魔術語

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    反日と嫌韓の応酬─日韓関係を「精神分析」

    心的で無神経である点では、韓国人も決して日本人に負けてはいない。たとえば、朴槿恵大統領は、日本がその歴史認識を改めない限り日本を相手にできないと声明するが、自分の歴史認識は絶対正しいと思っているらしい。彼女が本当にそう思っているのか、国民の人気を維持するためにそう言っているだけなのかはわからないが、本当にそう思っているとすれば、愚かだとしか言いようがない。国民の人気を維持するためにそう言っているのだとすれば、国民を馬鹿にしている。 日本が朝鮮を統治したことに関して、さまざまな見解があり得ようが、いずれにせよ、常識的には、日本側にも朝鮮側にも責任があると考えるのが妥当なところであろう。日本側に大半の(かりに、80%とか)責任があるとしても、朝鮮側にも責任(事大主義とか、独立自尊の精神に欠け、自ら国を守る意志が弱いとか、現実認識が甘いとか)が全然ないわけではない(かりに、20%とか)。実際問題として、二者の関係でいろいろ問題があるとき、一方の責任が100%で、他方の責任が0%ということはまずあり得ない。朝鮮・韓国が自らの責任は0%だと考えているとすれば、「植民地化」という事態を招いた自国の構造的欠陥は決して改められず、永遠に温存され、もしまた別の軍国主義国がどこかに現れたら、再び簡単に「植民地化」されるであろう。 実際、朝鮮・韓国は独立自尊の精神に欠けるところがあるのではないか。たとえば、大東亜戦争は、戦争遂行に必要な資源を獲得することが主な目的であったことは確かであるが、欧米の植民地主義からのアジアの解放と独立のきっかけになったことも確かである。しかし、それはきっかけに過ぎず、基本的には、インドもインドネシアもベトナムも、自ら血を流し、壮絶な独立戦争を戦って自力で独立を獲得したのであるが、朝鮮・韓国の独立は、日本がアメリカに敗北した結果として、棚からぼた餅が落ちてきたように、何もしないでいると、向こうから勝手に舞い込んできたものである。日本からの独立のために日本軍と戦って戦死した朝鮮人・韓国人は一人もいない。このことは、朝鮮人・韓国人の劣等感を刺激するらしく、北朝鮮が金日成に率いられたパルティザンが日本軍を蹴散らして平壌に凱旋したとかのホラ話をデッチあげたり、朴槿恵大統領が日本の政治家を一人殺しただけの安重根を英雄に祭りあげてハルビンとかに銅像を建立しようとしたりするのは、劣等感を解消しようとしてのことであろう。近代の韓国には安重根以外に英雄はいないのであろうか。 インドもインドネシアもベトナムも、朝鮮と比べものにならないほど、旧宗主国に長年にわたってひどい目に遭わされているが、韓国ほどしつこく執念深く旧宗主国に文句を言い続けたりしないのは、勇猛果敢な独立戦争を通じて攻撃精神を発揮し、誇りを回復することができたからであると考えられるが、独立戦争をしていない朝鮮・韓国は、発散していない怒りが澱み、今なお疼き続ける敗北感と屈辱感に打ちのめされて、日本に文句を言い続ける以外に憂さの晴らしようがないのであろう。屈辱を否認する時 日本に対する朝鮮人・韓国人の屈辱感が根深いのには、そのほかにもっと深刻な理由がある。争いに敗れ、服従させられ、不本意なことを強いられるのは確かに屈辱であるが、それ以上の屈辱は屈辱を容認し、あえてわざわざ屈辱的なことを自ら進んですることである。このような卑屈なことは、平静な自覚意識に基づいて、屈辱を屈辱と認識し、自尊心を堅持している限り、できることではない。しかし、このような屈辱的状況において、平静な自覚意識をもち続けることは至難である。人間は、弱いものであって、このような状況では、あまりもの屈辱に耐えかねて、自己欺瞞に走りがちである。すると、屈辱は屈辱であることを否認され、主観的には屈辱は屈辱ではなくなるから、勝者から求められた屈辱的なことを、もともと自分がやりたかったことだとして、自ら進んでむしろ過剰に実行することになる。 日本に統治された朝鮮はまさにこのような自己欺瞞の状態にあったのではないかと思われる。ところが、日本が敗北した。朝鮮人・韓国人は自己欺瞞の必要がなくなった。自己欺瞞の箍が外れると、抑圧されていた怒りと恨みがマグマのように噴出してきた。同じく抑圧されていた自尊心も噴き上げてきて、いやが上にも過剰に高まった。高まった自尊心の視点から見ると、「植民地時代」の自国民は絶対に現実にやったとは認められない、とんでもない屈辱的で卑屈なことを無数にやらかしていた。独立後の、とくに経済復興後の韓国人としては、そのようなことを自ら進んでやったとは太陽が西から出ても容認できなかった。すべては日本人に暴力を振るわれ、拷問され、脅迫されて、最大限、抵抗したが、力が及ばず無理やり強制されて、やらざるを得なかったとしなければならなかった。それならまだしもいくらか自分を許せるのである。 しかし、実際には、いわゆる「従軍慰安婦」にしても、労務者にしても、日本側が経済的・状況的・情緒的に、あるいは甘言を弄して、そうせざるを得ないところに朝鮮・韓国の若い男女を追い詰めたということはあったにしても、暴力を振るって無理やり拉致したり強制したりしたことはなかったとのことである。もちろん、背後には日本人がいたのであろうが、慰安婦の募集は主として朝鮮人の業者が行ったとのことである。また、朝鮮人慰安婦も、嫌がって必死に抵抗したが押さえつけられて強姦されていたのではなく、ヨーロッパ戦線において白人のアメリカ兵より勇敢に戦って死傷率がはるかに高かった日系のアメリカ兵のように、朝鮮女性だって日本女性に魅力が劣るものではない、日本人慰安婦に負けてなるものかとまじめに仕事に励んだ者もいたと聞いている。戦況がますます不利になったとき、日本軍は、それまで控えていた朝鮮人の徴兵に踏み切ったが、予定していた人員の何十倍もの応募者がいたそうである。また、朝鮮人の特攻隊員もいた。朝鮮人は、けっこう、日本の戦争に自ら進んで協力していたのである。 しかし、今となっては、これらのことは、朝鮮人・韓国人にとっては、胸がキリキリ痛むような、はらわたが煮えくり返るような屈辱である。 それなのに、日本人は、朝鮮人・韓国人の恨みには、合理的とはいえないにせよ、それなりの深い特殊な理由があることを理解せず、日本は朝鮮に、イギリス、フランス、オランダ、アメリカなどがアジア諸国に加えたほどのひどい悪事はしておらず、それどころか、近代化を促進し、経済復興を助けて「やった」のに、何をいつまでもクドクド、ネチネチ文句を言っているのだと、憤懣やるかたない。韓国人は日本人が韓国人の恨みを理解しないどころか、嘲笑し軽蔑するのでますますイライラし、恨みを深くする。まさに日韓関係はこんがらがって、ほぐしようがないように見える。オールオアナッシングで解決するか A陣営とB陣営がいがみあい、争っているとき、最も絶望的事態は、両陣営がともに、さっき挙げた歴史認識に関する朴槿恵大統領の発言が典型的な例であるが、自分の見解は全面的に正しく、相手の見解は全面的に間違っており、相手が自分の見解を採用することが唯一の解決であると思っている事態である。これではどこにも出口がない。 朴槿恵大統領はまさにこの事態にあるようであるが、これは韓国国民の大勢の気分を代表しているのであろうか。もしそうだとすれば、問題の解決はきわめて困難であろう。歴史が示しているように、ある国がこのような気分に流れているとき、客観的証拠の提示や論理的説得はほとんど効果がない。日韓のあいだでは、謝罪・賠償・靖国神社などの問題で対立しているが、たとえば、謝罪に関して言えば、日本の首相がどれほど謝罪しようが、韓国が満足することはない。 以前、どこかで指摘したことがあるが、韓国の大統領は日本に謝罪させることを国民の人気を得るための業績としているらしく、したがって、ある大統領が日本からあるレベルの謝罪を獲得すれば、次の大統領はそのレベル以上の謝罪を獲得しようとするから(その流れで、李明博大統領は天皇の謝罪まで言い出した)、キリがない。また、賠償に関しても同じで、韓国は日本からこれこれの金額の損害を被ったからそれに相当する賠償を要求するという合理的なものではなくて、日本は韓国に賠償しなければならないほどの悪事を犯した悪の国であることを示し、日本を貶めるための賠償要求であり、韓国は日本を徹底的に貶めたいのだから、これまたキリがなく、莫大な賠償をすれば、それで済むというわけにはゆかない。賠償をすれば、さらなる賠償の呼び水になるだけである。 わたしは、中国が日本の首相の靖国神社参拝に抗議するのは、中国としてはそれなりの根拠がないでもないと思っているが(ここは日中関係を論じる場ではないので、ごく簡単に言うと、1972年の日中国交正常化の交渉の際の、日本軍国主義者と日本人民を区別した周恩来の発言)、韓国が抗議するのは何の根拠もなく、根も葉もない的外れのたわごとである。第一に、敗戦前は、韓国は日本だったのであって、日本は韓国と戦争したわけではなく、もし靖国神社の戦犯の合祀が問題であるとしても、日本には韓国に対する戦犯は存在しない。戦争中、日本は、日本人だった朝鮮人を兵士、軍属、労務者、慰安婦に使ったが、それは戦争犯罪ではない。戦争中、日本政府・日本軍部は、内地の田舎でのんびり田圃を耕していた農民を徴兵して危険な戦地に追いやって死なせたが、日本国民として当然の兵役の義務を課しただけであって、何の義務もない田舎の青年を何の権利もないのに拉致して不当な労役を強制して殺したわけではない。現在の韓国人・朝鮮人が、戦争中、日本人だった韓国人・朝鮮人に対する日本の好ましくない行動を、あたかも外国人に対する好ましくない行動のように見なし、問題にするのは見当違いも甚だしい。彼らの深い屈辱感を理解すべき このように、現在の韓国人は気でも狂ったのかと思われるような馬鹿げたとんでもないことばかり言ったりしたりしているように見えるが、では、われわれ日本人はどうなのであろうか。日韓関係の歴史と現状について、韓国人には見えていないが、日本人には明らかなことがあるが、しかしまた、日本人には見えていないが、韓国人には明らかなこともあるのではないか。もし、日本人が日本は全面的に正しく、韓国が全面的に間違っており、韓国が日本と同じ考え方をするようになれば、日韓関係はうまくゆくと考えるとすれば、それは、日本人が韓国人と同じレベルに堕ちているということであろう。近頃、東京の大久保あたりで、朝鮮人・韓国人を罵倒するヘイトスピーチなるものを叫びながらデモする連中がいるとのことであるが、彼らのことを考えると、朴槿恵を笑ってばかりはいられない。いずれにせよ、朝鮮人・韓国人の深い屈辱感を理解すべきである。朝鮮人・韓国人に日本人がどう見えているかを考慮すべきである。岸田秀氏(きしだ・しゅう) 昭和8(1933)年、香川県善通寺市に生まれる。早稲田大学大学院修士課程修了。和光大学名誉教授。昭和52年に刊行した『ものぐさ精神分析』(青土社)で「唯幻論」を唱え注目を集める。著書に『二十世紀を精神分析する』(文藝春秋)、『日本がアメリカを赦す日』(毎日新聞社)、『嘘だらけのヨーロッパ製世界史』『「哀しみ」という感情』(新書館)など。関連記事■ 異常国家、異常社会の実体を晒しつつある韓国■ 「反日」と「情緒」が支配する哀しき非民主国家■ 暴かれた「河野談話」の嘘

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    歴史認識で中韓に介入根拠を与えた朝日新聞

    渡辺利夫(拓殖大学総長) 中韓と日本の間では、歴史認識問題が戦後70年たってもなお解決されない課題として残っていると人はよくいう。誤解である。歴史問題をもって中韓が日本に鋭く迫るようになったのは1980年代に入ってからのことである。1980年といえば戦後はもう30年以上も経過していた時期である。その間、歴史問題は存在しておらず、もとより外交問題ではまったくなかった。中韓に介入根拠を与えた日本 今日、歴史認識問題といわれる慰安婦、首相の靖国参拝、歴史教科書などはすべて80年代に入ってから提起されたものである。しかも、これらを「問題」として提起したのは、中国でも韓国でもない。日本である。問題の提起者は、GHQ(連合国軍総司令部)の初期占領政策を増幅継承した日本の左翼リベラリスト集団であった。慰安婦問題を捏造(ねつぞう)して韓国の対日外交を硬化させ、米国のクオリティーペーパーに「歴史修正主義」日本のイメージを植えつけた報道の発信者が朝日新聞であったことは、今日もはや公然である。 日本が蒔(ま)いてくれたタネである。中韓の愛国的指導者にとってこんなありがたいタネはない。歴史認識という道義性を含ませた問題の提起を当の日本がやってくれたのである。この問題で日本を攻めれば外交的優位のみならず道義的優位をも掌中にできる。国益を明らかに毀損(きそん)するこのような問題提起をなぜ日本のジャーナリズムがこういう形でやってしまったのだろうか。 戦後日本の社会思潮の在処(ありか)を探る際の重要なポイントがここにあると私は考えるのだが、そのことを述べる紙幅が今はない。左翼思想の跳梁(ちょうりょう)、戦前期軍国主義からの反動、戦争への贖罪(しょくざい)意識、そういった情念の混淆(こんこう)であろうと一言を添えるにとどめる。慰安婦問題での朝日新聞の検証について同紙の紙面写真を掲載して報じる6日付の朝鮮日報や中央日報、東亜日報など韓国各大手紙 ※上が中央日報、真ん中が朝鮮日報、下が東亜日報(補正済み) 事実のみを述べれば、82年6月、旧文部省の教科書検定で「侵略」が「進出」に書き換えさせられたという日本の時のジャーナリズムの誤報に端を発し、その報道に中韓が猛烈に反発したことが出発であった。中韓の反発を受け、近現代史の記述において近隣アジア諸国への配慮を求める「近隣諸国条項」といわれる新検定基準が同年8月に内閣官房長官・宮沢喜一氏の談話として出され、日本の歴史教科書に対する中韓の介入に有力な根拠を与えてしまった。激しさ増したプロパガンダ つづいて起こったのが靖国参拝問題である。85年8月の中曽根康弘首相の参拝にいたるまで首相の靖国参拝は恒常的であったが、外国からの反発はなかった。A級戦犯合祀(ごうし)問題はどうか。合祀の事実が79年4月19日付の朝日新聞によって内外に知られるようになって以降も、中曽根参拝まで20回を超える首相参拝がなされたが、中韓の非難はなかった。非難が集中的に開始されたのは、それ以降のことであった。 現下の焦点は、慰安婦問題に関する朝日新聞の昨年8月5日、6日付の一連の検証報道である。ここでは、吉田清治証言には信憑(しんぴょう)性がなくこれに関する同紙記事を取り消すこと、女子挺身(ていしん)隊と慰安婦との混同についての検証が不十分であったことを認めた。朝日新聞の慰安婦問題報道はすでに82年から始まっていたが、これがプロパガンダの様相を呈したのは、特に91年に始まり翌年に激しさを増した一連の報道であった。 その後、秦郁彦氏をはじめとする専門家の精力的な検証により同紙記事が捏造を含む根拠不明なものであることが明らかになった。にもかかわらず、朝日新聞は記事取り消しや訂正は一切せず、逆に慰安婦問題の本質は広義の強制性、女性の人権問題にあるといった主張に転じ、何と問題のこの「すりかえ」は昨年8月の検証報道でも継承されている。 朝日新聞の最大の問題は、根拠に乏しい報道によって日本の名誉、威信、総じて国益がいかに貶(おとし)められたかにある。問題検証のために第三者委員会が設置されたが、この点に関する記述は不鮮明であった。「事実から目をそむけまい」 中西輝政氏を委員長とし、西岡力氏らの専門家を糾合した「独立検証委員会」の報告書がこの2月19日に公表された。本報告書は朝日新聞の慰安婦報道の原型が完成したのが92年1月12日付の社説「歴史から目をそむけまい」であるとし、前後する報道を「92年1月強制連行プロパガンダ」と名づけた。 注目すべきは、荒木信子氏が韓国の主要7紙、島田洋一氏が米国の主要3紙の徹底的な資料解析を通じて、韓国と米国のジャーナリズムが慰安婦問題を言い募るようになったのは「92年1月強制連行プロパガンダ」以降に集中しているという事実を、ほとんど反駁(はんばく)できない完璧さで論証したことにある。日本の国益の毀損をどう償うのか、重大な責任を朝日新聞は背負ってしまった。 朝日新聞にとって必要なのは、「歴史から目をそむけまい」ではなく「事実から目をそむけまい」という姿勢に他ならない。関連記事■ メディアの「中韓叩き記事バブル」 映し鏡としてのヘイトスピーチ■ 政治的過激主義としての韓国の反日主義■ 韓国の論理「日本にある物はすべて略奪された」

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    戦後70年 多様な中身持った「安倍談話」に

    。 本年の全国紙各紙の年頭社説には「戦後70年」の意義に着目する文言が踊った。本年には、例年以上に「歴史認識」に国際政治の焦点が当てられることになる。実際、中国政府は、露韓両国を巻き込む体裁で「歴史認識」を梃子(てこ)にした「反日」共闘を演出しようとしているもようである。日本では、20年前の「村山談話」や10年前の「小泉談話」に続く「安倍談話」が今夏に発出されると伝えられる。国際政治の世界での対外優位を確保するために、自らの「説得性」を賭した闘争が展開されているのである。緻密さが求められる評価 そもそも、「歴史認識」を軸とした国際政治の世界では、第二次世界大戦の敗戦国である日本は、常に「守勢」の立場に置かれてきた。そうした立場であればこそ、「村山談話」に象徴されるように、日本は、折に触れ「反省と謝罪」を要求されてきた。 しかしながら、明治以降の日本の対外進出は、一体、何れが「反省と謝罪」の対象になるのか。 たとえば、台湾、千島列島・南樺太、南洋諸島に対する進出は、その是非が議論されることは今では稀(まれ)であろう。朝鮮半島に対する進出は、帝国主義期の支配的な作法に則(のっと)ったものである以上、それ自体は「反省と謝罪」の対象にならない。朝鮮半島との関係で問われるのは、そこでの植民地統治が優秀であったか拙劣であったかということでしかない。 中国本土に関していえば、日清戦争や北清事変(義和団の乱)に代表される第一次世界大戦以前に行われた進出もまた「反省と謝罪」の対象にはならない。むしろ、第一次世界大戦以降、対華二十一カ条要求、満州事変を経て日中戦争勃発に至る過程での対中進出の有り様にこそ「反省と謝罪」の如何(いかん)を検証する材料はある。 一方、第二次世界大戦勃発前後の東南アジアへの進出は、それを「アジア解放」の文脈で評価する向きがあるけれども、そうした評価は客観的には無理の多いものである。それは、明白な「反省と謝罪」の対象になるのである。近代以降の対外進出の評価は、その「場所」と「時期」に即して緻密に行われるべきではないか。何が「批判」に値するか このように考えれば、近代以降の日本の対外進出における「反省と謝罪」の対象として、明白な検証の材料となるのは、第一次世界大戦後の対中進出であり、第二次世界大戦勃発前後の対東南アジア進出であるということになる。 第一次世界大戦以前の日本の対外進出は、帝国主義期の冷酷な国際「常識」に則った結果である。21世紀に至っても、英国がインドやエジプトのような国々に対して、さらにはフランスがアルジェリアや他のアフリカ諸国に対して、「反省と謝罪」を表明しているのでなければ、この件で日本が特段の非難を浴びる謂(いわ)れはないという弁明は十分に可能である。 しかし、その一方では、第一次世界大戦後、「民族自決」原則と「戦争違法化」思潮が擡頭(たいとう)し、それまでの国際「常識」が変わっていく中で、たとえば満州における「帝国主義」権益に固執し、そうした変化に適応できなかった往時の日本政府の対応は、批判に値しよう。 「過去の一時期、国策を誤り、…アジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた」という「村山談話」の認識は、その限りでは決して誤ってはいないのである。「村山談話」の最大の瑕疵 ただし、「村山談話」における曖昧さは残る。韓国では、現在は自衛隊旗として使用されている「旭日旗」を「戦犯旗」と呼んで、それをスポーツ・イベントを含む国際場裡から排除しようという動きがある。これは、日本が第二次世界大戦において敗北した事実に半ば便乗して、近代以降の日本の歩みのすべてを断罪しようという心理の反映であろう。 日本国内にも、第二次世界大戦という「近代以降に一度、敗けただけの対外戦争」の敗北に拠(よ)って、近代日本の歩みそれ自体が一つの「成功物語」である事実を否定しようとする論調がある。 しかしながら、既に述べたように、近代日本の対外進出が「場所」と「時期」によって多様な相貌を持つものである以上、こうした心理や論調に反映された「十把一絡げ」の評価は、却(かえ)って近代日本の歩みの意味に対する正確な理解を妨げる。「村山談話」における最大の瑕疵(かし)は、そうした「十把一絡げ」の評価を実質上、追認したことにあろう。 そうであるとすれば、今夏に発出されると伝えられる「安倍談話」は、「村山談話」のような単一の文書というよりは、米国、英蘭両国を含む欧州諸国、中国、朝鮮半島、東南アジア諸国、そして豪州を含む太平洋諸国との関係を扱った複数の文書の「総体」として策定されるのが、相応(ふさわ)しかろう。戦後70年に際して、各々の国々に対して日本が語るべき「談話」の中身は、決して同じではないのである。関連記事■ 暴かれた「河野談話」の嘘■ 安倍首相は「中興の祖」となるか ■ 慰安婦、吉田調書…消えぬ反日報道の大罪

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    「成熟民主国家」へ国策の共有を

    やすいからである。満州事変も日中全面戦争も勃発の直前の両国関係は修復に向かっていた。 領土・国境線や歴史認識の問題に対して、日本は従来の基本的な立場を堅持しつつ、より積極的な広報外交に努めるべきである。近隣諸国に対する影響は限定的であっても、欧米諸国や東南アジア諸国に対しては違う。日本の立場に理解を求める一方で、戦後70年を巡るこれらの国との和解を発信する必要がある。日本の自画像訴求した談話に 和解の発信は首相談話の形式を取ることになるかもしれない。戦後70年の首相談話は、戦後の70年間と戦前をつなぐ歴史観に基づくものにしたい。別の言い方をすれば、戦後70年の首相談話は、非西欧世界のなかでいち早く近代化に離陸し、曲折を経て、成熟した先進民主主義国をめざす日本の自画像を訴求しなくてはならない。 今年は国連創設70周年でもある。10年前は日本の国連安保理常任理事国入りの機運が高まった。今は針穴に糸を通すに等しい。国連改革は進まないだろう。それでも安保理非常任理事国のポストが確実な今年の日本は、国益と国際公共利益のバランスをとりながら実績を積み重ねることで、平和構築に責任を果たすべきだろう。 国連改革以上に進まない、あるいは逆行しかねないのが欧州統合である。昨年の欧州議会選挙で欧州統合を批判する極右勢力が議席数を伸ばした。今年5月のイギリスの総選挙は保守党の勝利が予想される。そうなれば2017年に欧州連合(EU)加盟継続の是非を巡る国民投票が実施されて、EU脱退が実現するかもしれない。 欧州統合はアジアにとって地域統合の模範だった。模範が失われていく一方で、今年東南アジア諸国連合(ASEAN)共同体が創設される。アジアのなかの日本が自立的な地域統合を主導できるか否か。試金石の年になるだろう。国民世論の分裂修復を期待 外交に関連する国内政治はどうなるか。先の総選挙を「アベノミクス選挙」と名づけて勝利した安倍晋三首相は、改めて憲法改正への意思を明確に示した。総選挙の結果は改憲よりも別の問題を巡る自民党の解決力に対する期待の表れではなかったか。別の問題とは景気対策や社会保障の問題のことを指す。別言すれば、国民が期待しているのは、穏健な保守政党による政権運営である。次世代の党の惨敗は自民党の穏健な保守政党化を促すだろう。それは経済重視の外交路線に軌道修正を図ることになる。 先の総選挙で国民は安倍内閣の継続を求めると同時に、野党第一党の民主党に議席数の増加をもたらした。大幅な議席減が避けがたかったにもかかわらず、このような結果になったのは、二大政党制に対する国民の期待が残存しているからだと解釈できる。民主党は解党的な出直しと野党の再編をとおして、責任政党としての信頼の回復に努めなくてはならない。 日本が二大政党制を前提とする成熟した先進民主主義国になるには、主要政党間で基本国策を共有することが重要である。領土・国境線や歴史認識の問題、安全保障政策で大きな違いがあってはならない。戦後70年をきっかけとして、これらの問題を巡る政党間対立と国民世論の分裂が修復に向かうことを強く願う。関連記事■ 河野洋平は戦後最も日本を貶めた政治家である■ 最新の脳科学[ダマシオ理論]で説く韓国・朝日の病理■ 慰安婦、吉田調書…消えぬ反日報道の大罪

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    クマラスワミ報告否定が河野談話見直しへの突破口だ

    西岡力(東京基督教大学教授) 私は月刊正論前月号(平成26年5月号)に掲載された山田宏衆議院議員との対談の中で、1996年に国連人権委員会に提出されたクマラスワミ報告が、慰安婦に関する不当な誤解を国際的に広めるのに大きな役割を果たしたが、当時、外務省は一度、事実関係に踏み込んだ反論文書を人権委員会に配布しながらそれを取り下げてしまった、この幻の反論文を探して、なぜ取り下げられたのか国会で検証して欲しいと発言した。 前月号の発売日である4月1日付産経新聞はまさに私が指摘した反論文書全文を入手し、1面トップで〈慰安婦問題 政府「国連報告は不当」 性奴隷認定、幻の反論文書〉という見出しをつけて大きく報道した。記事のリード部分は以下のように書かれていた。 慰安婦募集の強制性を認めた平成5(1993)年の河野洋平官房長官談話を引用し、慰安婦を強制連行された「性奴隷」と認定した96年2月の「クマラスワミ報告書」について産経新聞は[3月・西岡補]31日、日本政府がいったん国連人権委員会(現人権理事会)に提出しながらすぐに撤回した反論文書を入手した。文書は報告書を「極めて不当」「無責任で予断に満ち」「歴史の歪曲(わいきょく)に等しい」と厳しく批判したが、非公開のため「幻の反論文書」となっている。 私は2007年に出した拙著『よくわかる慰安婦問題』(草思社、その後の動きを加えた増補版を2012年に草思社文庫から出版)で、クマラスワミ報告の事実関係記述のでたらめさと外務省が当初事実関係に踏み込んだ反論文書を提出しながら、それを撤回したことを詳述して日本外交の失敗を批判した。ただ、同書執筆の時点では反論文書そのものは見ていなかった。 その後、その文書をあるところから入手した。事実関係と国際法の両面からクマラスワミ報告に全面的に反論する立派なものだった。だから対談で自信を持って文書はあると断言できたのだ。本誌今号と次号にに文書の全文が掲載されるので、ぜひ多くの方にそれを熟読していただきたい。河野談話「継承」でも出来た反論 先ず強調しておきたいことは、この文書は河野談話を継承する外務省によって書かれているという点だ。この文書が撤回されず、政府の見解として外務省のホームページなどに英文や他の外国語でアップされていれば、今われわれが直面している、慰安婦を巡る深刻な国際誤解の多くは解消されていたはずだ。 河野談話を継承するとしている現在の安倍政権も、この文書のレベルの反論はできるのだ。いま、急がれるのは政府としてこの文書のレベルの国際広報を早急に行うことだ。余りにもひどいウソが国際社会に広まっている。その大きな原因は政府が事実関係に踏み込んで反論しなかったからだ。 私は月刊正論前月号対談でも、河野談話の見直しをいますぐ行うことに懐疑的な意見を表明した。繰り返しになるが大事なことなので前月号で私が話した要点を書いておく。 河野談話も朝鮮での奴隷狩りのような慰安婦募集を認めていない。勤労動員のための公的制度であった女子挺身隊と慰安婦は全く関係ない。そのことは日本国内では90年代に行われた激しい論争の結果、慰安婦への国家賠償が必要だと考える陣営も含めて認めている共通認識だ。ところがクマラスワミ報告では吉田清治とヒックスの著書に全面的に依拠したため、あたかもそれらが事実であるかのように書かれている。 2007年の米議会慰安婦決議、2011年の韓国憲法裁判所における慰安婦への補償を日本に求めない韓国政府の外交は違憲とする判決も、すべてクマラスワミ報告を主要な根拠の一つとしている。この国際誤解の厚い壁を突破する作業が先ず必要なのだ。それなしに河野談話の見直し作業を現段階で進めると、米国を含む国際社会での誤解が深化してしまう恐れがある。 まず、英語などで国際社会に対して事実関係に踏み込んだ体系的な反論をすることが先行しなければならない。1996年に取り下げられた幻の反論文書と同趣旨の文書をまず、外務省のホームページに掲載し、各国語に翻訳して全世界に配布する作業が先行しなければならない。そのために、日本の外交官、公務員がその点をしっかり学んでどこに行ってもきちんと日本の立場を主張できるように訓練しなければならない。また、反論文書の根拠となる資料や研究論文などをやはり各国語に翻訳して公開する作業も必要だ。 それらをおこなうための司令塔を政府内に作らなければならない。これまで外務省が国際広報に失敗してきたのだから、拉致問題をモデルにして、外務省の外に担当大臣と専従事務局をおくのがよい。すでに領土問題に関しては内閣府に担当大臣と事務局が設置されている。研究と広報の実際の活動は大規模な基金をつくって政府の外に置く外郭団体に担当させるべきだ。韓国では盧武鉉政権時代、アジア歴史財団を作って精力的な研究と広報活動を展開している。《怪文書》呼ばわりした者たち 結論を先に書いたが、話を1996年の反論文書に戻そう。一体どの様な経緯で反論文書が取り下げられてしまったのだろうか。その点について産経新聞4月1日記事は、当時の外務省関係者に取材して、当時のジュネーブは日本政府が事実に基づく反論をすると逆効果が生まれる雰囲気だった、英文に翻訳されていたのは反日勢力の資料ばかりであった、などという言い訳を聞いている。 1996年3月、国連人権委員会でのクマラスワミの演説を現場で聞いた元在ジュネーブ国際機関代表部公使、美根慶樹はこう振り返る。「ものすごい力があり、彼女が舌鋒(ぜっぽう)鋭く『ワーッ』と説明すると、聴衆はスタンディングオベーション(立ち上がっての拍手喝采)だ。日本政府には答弁権を行使して反論することは制度上認められていたが、そうしたら大変なことになっていた」 クマラスワミは「かわいそうな元慰安婦のおばあさんたちのため一生懸命働いている」(外交筋)と評価されていた。個別の事実関係の誤りを指摘しても「日本が悪者になるばかりで逆効果だった」(同)というのだ。クマラスワミと面識のある当時の日本政府関係者もこう語る。 「慰安婦問題だけでなく歴史全般がそうだが、日本国内のまともな議論は英語になっていない。英語に訳されているのは左翼系メディアや学者の文章だけ。だから国連人権委にはもともと一定の方向性がある。報告書も相場からいえば『まあこんなもの』だった」 スタンディングオベーションをした聴衆の主力は1992年から国連を舞台に反日キャンペーンを展開してきた日本人、韓国人活動家たちだろう。彼ら、彼女らは日本政府の反論文書を「怪文書」と呼び、文書を提出した日本政府を激しく攻撃した。ジュネーブでロビー活動をしていた戸塚氏は反論文書が提出されたという情報に接して「これまで4年間積み上げてきた国連での成果は水泡に帰する」として知り合いの国会議員や記者らに文書の入手を依頼し、文書を受け取った各国政府代表部に日本政府の反論を受け入れないようにというロビー活動を行っている(戸塚悦郎『日本が知らない戦争責任』現代人文社、1999)。 クマラスワミ報告が出る1996年まで、日本政府は92年に宮沢首相が訪韓して8回謝罪し、93年に河野談話を出して謝罪し、95年にアジア女性基金を作り謝罪と償い金を元慰安婦に配る活動を行っていた。道義的責任を認め誠意ある活動をすることに専念し、事実関係に踏み込んだ反論を一切しなかった結果、事実無根の「奴隷狩り証言」などが根拠となり、慰安婦=性奴隷という重大な誤解が国連人権委員会から国際社会に強く発信されていった。遅ればせながら外務省が作った反論文書も「逆効果」と判断され取り下げられた。 国際社会では事実に基づく反論をしないと、ウソが拡散し、取り返しの付かない名誉毀損を受けるのだ。特に、日本人が先頭に立ち、韓国など関係国の反日勢力が悪意を持った反日キャンペーンを展開している状況の中では、英語の文書など国際社会に通じる方法での反論活動が絶対に必要なのだ。しかし、外務省はこの反論文書取り下げの後、日本は慰安婦問題で繰り返し謝罪をしており、アジア女性基金を通じて償い活動も行っているという趣旨の「反論」しかしなくなる。 2007年、第1次安倍政権時代、米議会が慰安婦決議を採択しようとしたとき、総理が国会などで権力による強制連行は証明されていないと事実に踏み込んだ反論を行ったが、在米大使館などはすでに謝罪して贖い事業も行っているという弁解をするのみで、総理を孤立させ、慰安婦を巡る事実誤認を米国にまで拡散させる一助となってしまったのだ。北朝鮮の伝聞「証言」も利用したクマラスワミ報告 この反論文書の持つ意味を知るために、クマラスワミ報告とそれが出された背景について整理しておこう。 前月号対談でも指摘したが、慰安婦問題を国連に持ち込んだのは日本人弁護士戸塚悦郎氏だった。私は本誌や拙著で戸塚氏の果たした役割について書いてきたが、ここで再度、取り上げておく。戸塚氏こそが「慰安婦=性奴隷」の発案者だった。ミニコミ雑誌『戦争と性』第25号(2006年5月「戦争と性」編集室発行)に寄稿した「日本軍性奴隷問題への国際社会と日本の対応を振り返る」の中で、戸塚氏は以下のように書いている。 筆者[戸塚のこと・西岡補]は、1992年2月国連人権委員会で、朝鮮・韓国人の戦時強制連行問題と「従軍慰安婦」問題をNGO(IED)の代表として初めて提起し、日本政府に責任を取るよう求め、国連の対応をも要請した。日本の国会審議で日本政府が無責任な発言をしたこと、韓国で金学順さんら被害者が名乗り出て、「人道に対する罪」を告発する訴訟を起こしたこと、吉見義明氏による公文書発見で軍の関与が証明されたこと、日本首相による一定の謝罪があったことからとった行動だった。 当時、韓国の教会女性連合会など諸団体は、この問題を「日本は多くの若い朝鮮女性たちを騙し強制して、兵士たちの性欲処理の道具にするという非人道的な行ないをして罪を作りました」と規定していた。 しかし、それまで「従軍慰安婦」問題に関する国際法上の検討がなされていなかったため、これをどのように評価するか新たに検討せざるをえなかった。結局、筆者は日本帝国軍の「性奴隷」(sex slave)と規定した。たぶんに直感的な評価だったが、被害者側の告発が筆者の問題意識にもパラダイムの転換を起こしていたのかもしれない。 この戸塚の直感が国際社会での「慰安婦=性奴隷」キャンペーンのスタートだったわけだ。日本人が国連まで行って、自国誹謗を続けるのだから、多くの国の外交官が謀略に巻き込まれるのは容易だった。戸塚の引用を続ける。 だが、国連内でこの法的評価が承認され、同様の転換が起きるまでには多くの障害があった。その後筆者らは、数多くの国連人権会議に参加して、この問題を提起し続けた。現代奴隷制作業部会、差別防止少数者保護委員会(人権小委員会)、人権委員会には毎年参加した。そのほか、ウィーン世界人権会議(1993年)とその準備会、北京世界女性会議とその準備会など参加した関係国際会議を数えるだけでも気が遠くなるほどの数になった。ラディカ・クマラスワミ氏(共同) 戸塚の著書『日本が知らない戦争責任 国連の人権活動と日本軍「慰安婦」問題』(現代人文社、1999)によると、国連人権委員会で彼が初めて「慰安婦=性奴隷」と問題提起した92年2月からクマラスワミ報告が公表された後の96年2月までの4年間で18回、すなわち2ヵ月半に1回もジュネーブなどを訪れ国連への働きかけ活動を行っている。 当時国連人権委員会は旧ユーゴやルワンダで起きた女性への暴行や家庭内での女性への暴力など現代における女性に対する暴力に関して人権侵害として関心を払っていた。スリランカ人であるクマラスワミ女史が1994年3月「女性への暴力、その原因と結果に関する特別報告者」に任命されたのも、そのためであった。 しかし、クマラスワミ女史は50年前の出来事である慰安婦問題も調査対象に加え、1995年7月韓国と日本を訪問し、北朝鮮政権から資料提供を受けた。それらをもとにして「女性に対する暴力とその原因及び結果」に関する本報告書とは別に付属文書として「女性に対する暴力──戦時における軍の性奴隷制度に関して、朝鮮民主主義人民共和国、大韓民国及び日本への訪問調査に基づく報告書」(いわゆるクマラスワミ報告)をまとめた。現在における女性への暴力を調査する任務を与えられた特別報告者が、過去に無数に存在した事件の中であえて慰安婦問題だけを調査対象に加えたのは、戸塚氏ら日本の運動体と韓国の運動体の強い働きかけの結果であるとともに、日本政府の外交の失敗とも言えよう。吉田清治の著書・証言を検証なく利用 クマラスワミ報告の内容とそれに対する反論文書の主張を紹介する。 クマラスワミ報告は第一章で報告書は慰安婦は性奴隷だと定義する。 特別報告者は、本件報告の冒頭において、戦時下に軍隊の使用のために性的奉仕を行うことを強制された女性の事例を、軍隊性奴隷制(military sexual slavery)の慣行と考えることを明確にしたい。(略) 特別報告者は、「慰安婦」という語句が、女性被害者は、戦時下に耐えなければならなかった、強制的売春ならびに性的服従と虐待のような、毎日行われる複数の強姦および過酷な肉体的虐待の苦痛を、少しも反映していないとの、現代的形態の奴隷に関する作業部会委員ならびに非政府機関代表および学者の意見に全面的に賛同する。したがって、特別報告者は、「軍隊性奴隷」という語句の方がより正確かつ適切な用語であると確信を持って考える。(外務省仮訳を一部補正した。以下同) ここで国連の文書で「性奴隷」説が採択されたのだ。奴隷とは所有関係をもとにする概念であり、労働に対して金銭の代価を得ることはない。反論文書は国際法上の奴隷の定義を挙げて、〈「従軍慰安婦」の制度を「奴隷制度」と定義することは法的観点から極めて不適当である〉と断言している。その精緻な論旨を反論文全文で確認して欲しい。 次に、クマラスワミ報告書が奴隷狩りのような慰安婦連行があったとする重大な事実関係の誤りを犯していることと、それを的確に指摘した反論文書の記述について見る。 「第二章 歴史的背景 B.徴集」でクマラスワミ報告書は奴隷狩りのような強制連行と勤労動員のための公的制度である女子挺身隊による慰安婦強制募集があったとして次のように記述した。 三通りの募集方法が確認されている。一つはすでに売春業に従事していた婦人や少女たちがみずから望んできたもの。二つめは軍の食堂料理人あるいは洗濯婦など高収入の仕事を提供するといって誘い出す方法。最後は日本が占領していた国で奴隷狩りのような大規模で強制・暴力的な連行を行うことだ。(註7 G. Hicks, "Comfort women, sex slaves of the Japanese Imperial Force", Heinemann Asia, Singapore, 1995 p. 25.) より多くの女性を求めるために、軍部のために働いていた民間業者は、日本に協力していた朝鮮警察といっしょに村にやってきて高収入の仕事を餌に少女たちを騙した。あるいは一九四二年に先立つ数年間には、朝鮮警察が「女子挺身隊」募集のために村にやって来た。 このことは、徴集が日本の当局に認められたもので、公的意味合いを持つことを意味し、また一定程度の強制性があったことを示している。もし「挺身隊」として推薦された少女が参加を拒否した場合、憲兵隊もしくは軍警察が彼女らを調査した。実際、「女子挺身隊」によって日本軍部は、このようにウソの口実で田舎の少女たちに「戦争に貢献する」ように圧力をかけるのに、地方の朝鮮人業者および警察を有効に利用できた。(註8 前同 その他「慰安婦」本人の証言) さらに多くの女性が必要とされる場合に、日本軍は暴力、露骨な強制、そして娘を守ろうとする家族の殺りくを含む人狩りという手段にに訴えた。これらの方法は、一九三八年に成立したが一九四二年以降にのみ朝鮮人の強制徴用に用いられた国家総動員法の強化により容易となった。(註9 前同)元軍隊性奴隷の証言は、徴集の過程で広範に暴力および強制的手段が使われたことを語っている。さらに吉田清治は戦時中の経験を記録した手記の中で、国家総動員法の労務報国会の下で千人におよぶ女性を「慰安婦」とするために行われた奴隷狩り、とりわけ朝鮮人に対するものに参加したことを認めた。(註10 吉田清治『私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行の記録』東京、1983年) なお、ここに引用しなかった部分を含む「第二章 歴史的背景」では11個の註が付いているが、そのうち10がヒックスの著書であり、1つが吉田清治の著書だった。そしてよく知られているようにヒックスの著書は、吉田清治証言を検証なしに事実として論を進めているなど日本国内での論争の結果を全く反映していない水準の低い本である。日本の的確かつ強力な反論 この点について反論文書は以下のように的確に指摘している。第3章 事実面に関する反論 日本政府は、以下の通り、付属文書がその立論の前提としている事実に関する記述は、信頼するに足りないものであると考える。 第1に、特別報告者の事実調査に対する姿勢は甚だ不誠実である。(略)第2章「歴史的背景」において、特別報告者は、旧日本軍の慰安所に関する歴史的経緯や、いわゆる従軍慰安婦の募集、慰安所における生活等について記述しているが、同章の記述は、実は、ほぼ全面的に、日本政府に批判的な立場のG.Hicks氏の著書から、特別報告者の結論を導くのに都合の良い部分のみを抜粋して引用しているに過ぎない。(略)Hicks氏の著述内容について、…検証が行われた形跡がない。その上、引用に際し、特別報告者は、随所に主観的な誇張を加えている。このような無責任かつ予断に満ちた本件付属文書は、調査と呼ぶに値しない。 第2に、本件付属文書は、本来依拠すべきでない資料を無批判に採用している点においても不当である。従軍慰安婦募集のためslave raidを行ったとする吉田清治氏の著書を引用している。しかし、同人の告白する事実については、これを実証的に否定する研究もあるなど(秦郁彦教授「昭和史の謎を追う(上)」p334、1993)、歴史研究者の間でもその信憑性については疑問が呈されている。特別報告者が何ら慎重な吟味を行うことなく吉田氏の「証言」を引用しているのは、軽率のそしりを免れない。(略)北朝鮮在住の女性の「証言」は、特別報告者が直接聴取していない「伝聞証言」である。特別報告者自ら問いただして確認するなどの努力もなしに、いかに供述の真実性を確認することができたのか、全く不明である。(略) この北朝鮮女性の「証言」とは、たとえば、日本軍人に連行され警察署でレイプされた上なぐられて片目を失明し、慰安所で日本軍人が仲間の慰安婦をリンチして首を切り落としてゆでて無理矢理食べさせられた、などというものだ。クマラスワミ報告はこれを勇気ある証言と称賛している。 反論文書は、右記の通り、検証されていない伝聞証言だと批判した後で、1944年に米陸軍がビルマで行った朝鮮人慰安婦調査には全く異なる慰安婦像が示されているが、クマラスワミ女史はそれを無視したと指摘して「偏見に基づく一般化は、歴史の歪曲に等しい」と辛辣に批判している。 反論文書の「第3章 事実面に関する反論」は以上のような議論を踏まえて次のように結論を書いている。結論 付属文書の事実関係は信頼するに足りないものであり、これを前提とした特別報告者の立論を、日本政府として受け入れる余地はない。特別報告者がこのように無責任かつ不適当な付属文書を人権委に提出したことを遺憾に思うとともに、人権委の取り扱い方によっては、特別報告者制度一般ひいては人権委そのものに対する国際社会の信頼を損なう結果となることを深く憂慮する。 理路整然とした反論である。これがしっかりとした英文になり、一度は国連人権委員会に提出されたのだ。当時は自民党、社会党、さきがけ3党連立政権だった。村山富市首相が1996年1月に辞任したことを受け、橋本龍太郎内閣が成立した直後だ。橋本首相の下、外務大臣は池田行彦、官房長官は梶山静六だった。3人ともすでに亡くなっているが、彼らの政治責任は極めて重い。 安倍政権は河野談話がどの様に作られたのか、韓国政府とのすりあわせがあったのかなどについて検証作業を行い結果を国会に報告すると約束した。ぜひ、検証作業の範囲を反論文書の作成と取り下げの経緯まで拡大して欲しい。反論文書が取り下げられたためにいまだに吉田清治証言に基づく慰安婦奴隷狩りという虚構が国際社会で日本を苦しめているからだ。反論しなければ、状況は悪化する クマラスワミ報告につづいて1998年8月国連人権委員会に提出されたマクドゥーガル報告では、よりひどく事実関係が曲げられ、慰安所は「レイプセンター」であり、慰安婦20万のうち14万人以上の朝鮮人慰安婦が死亡したと記述している。ここで慰安婦20万人という新たな虚構が国連文書に登場する。 アジア女性基金元専務理事の和田春樹東大名誉教授もさすがにこの事実誤認は見過ごせなかったのか、女性基金のウエブページでマクドゥーガルが根拠として挙げている荒舩清十郎代議士の発言、(報告では1975年となっているが、実際は1965年の発言)は全く根拠のない放言であり、「国連機関の委嘱を受けた責任ある特別報告者マクドゥーガル氏がこのような信頼できない資料に依拠したのは、はなはだ残念」と批判している。 しかし、このようなウソが国際社会に広まっていた根本原因は和田氏らが主導した事実反論抜きの謝罪事業だった。アジア女性基金に足りなかったのは国際的な事実わい曲に対する反論広報だった。 韓国の有力新聞朝鮮日報さえ、次のような社説を掲げて事実に基づかない日本批判を未だ行っている。朝鮮日報は保守有力紙で、北朝鮮政策などで韓米日の連繋の必要性を説いている。その読者たちの多くも奴隷狩りを事実と信じているのだ。 …日本は自分たちが侵略した韓国、中国、台湾、フィリピンの女性を強制的に戦場に連れ出し、日本軍の性のはけ口としてじゅうりんした。この性奴隷問題では被害者たちが日本に謝罪を求め、今なお日本の態度を見守っている。…90歳近くなった女性たちの中には、日本が自分たちの罪を自白、謝罪し、賠償するまでは絶対に死ねないと主張する人が多い。そのような意味でも、日本が侵略した国の女性を「性のはけ口」としたこの反人倫的犯罪は、歴史や過去の問題ではなく現在の問題だ。 日本は1940年代に自分たちが犯した罪を、93年の河野談話で認めるまで50年かかった。ところが国の指導者とされる政治家が、河野談話からわずか20年で「自分たちの発言を見直す」と述べ「談話の廃止」まで主張し始めた。つまり、かつて侵略の先頭に立ち、後にその事実を美化した集団が口裏を合わせているというのが、現在の日本の状況だ。… しかし河野談話が発表された後も、日本の歴代政権は性奴隷問題について謝罪や賠償は行わず、さまざまな理由を持ち出して責任を回避してきた。 1992年には日本の中央大学の吉見義明教授が『軍慰安所従業婦等募集に関する件』(1938年、陸軍省作成)を公表した。これには日本軍が慰安婦を募集する際、誘拐と同じような方法を取っていたとの内容が記載されている。[事実と反する。同文書は日本軍が業者が誘拐などをしないように取り締まりを求める内容だ。西岡補]さらにこれを裏付ける日本人の証言も相次いでいる。1942年から3年間、山口県労務報国会動員部長を務めた吉田清次は「朝鮮人女性を慰安婦として動員した」「1943年5月17日、下関を出発して済州島に到着し、女性狩りを行った」と証言している。吉田は「慰安婦に関する件は全て軍事機密に分類されていた」とも述べた。 世界が一つになろうとしている今、日本による性奴隷強制連行犯罪は、すでに現代史の最も醜悪な歴史的事実として公認されている。米下院や欧州議会は2007年、「日本は若い女性を日本軍の性的奴隷として利用するため、公式的に徴用した」と糾弾した。オランダ議会は「日本は強制的な性売買に日本軍が関与したことについて、全面的な責任を負うべきだ」とする決議を採択している。 国連では性奴隷犯罪に対する日本の責任を追及する報告書が、すでに10回以上提出されている。… 野田首相は日本による犯罪を証言、記録、追及、審判してきた世界の動きに対抗する自信があるのであれば、今年の国連総会に出席し「第2次大戦当時、日本軍には性奴隷などいなかった」と演説してほしい。それによって拍手が起こるのか、あるいは非難の声が出るのか実際に体験し、その結果を日本国民に率直に報告すべきだ。朝鮮日報2012年8月30日社説 この社説は当時の野田首相が「強制的に連行されたという事実は文書で確認されなかった」と第一次安倍政権以来の政府見解を述べたことに反発して書かれたものだが、国連など国際社会が吉田証言を信じていることを前提にしている。このような事実誤認に基づく日本誹謗を生んだ大きな原因は反論しないで謝り続けるこれまでの日本の外交姿勢である。このまま反論をしないで放置しておけば、問題は悪化するばかりだと強く警告したい。関連記事■ 河野洋平は戦後最も日本を貶めた政治家である■ 最新の脳科学[ダマシオ理論]で説く韓国・朝日の病理■ 秦郁彦×西岡力対談「朝日の誤報は日本の名誉毀損」

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    どうなる「安倍談話」

    安倍晋三首相は、戦後70年の今夏に出す「安倍談話」について、かつての日本の行為を「侵略」と認めた村山談話の表現を見直す可能性を示唆した。「反省」と「お詫び」を表明した過去の談話は継承されるのか。どうなる、安倍談話。

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    米知日派、首相のナショナリズムは外交的に非生産的

     2014年、安倍内閣は憲法解釈を変更し、集団的自衛権を行使できると閣議決定した。このことは同盟関係にあるアメリカ側からはどう評価されるのか、アメリカ民主党政権で安全保障関係の要職を務め、知日派としても知られるハーバード大学特別功労教授のジョセフ・ナイ氏に聞いた。* * * 安全保障という観点から見ると、日本は極めて危険な地域に位置している。最も顕著なのが、何をやるか予測し難い独裁国家・北朝鮮の存在だ。北朝鮮は貧しい国だが、その乏しい国家予算から核兵器とミサイル開発にカネを注ぎ込んでいる。 また、長期的にみれば、中国の台頭がある。尖閣諸島をめぐって日本の主権を認めず、紛争を起こしている人口13億の国家だ。北には日本固有の北方領土について未だに主権を主張するロシアがいる。さらに、日本は南シナ海のシーレーンを経由する貿易に頼っている。 そうした不安定なアジア地域で日本が集団的自衛権を行使すること(国連憲章は日本にその権利があることを認めている)は理に適ったことだ。 むしろ私が問題視するのは、この穏健な変更措置に纏わりつく日本のナショナリスト的なレトリックと言動だ。安倍晋三首相は、慰安婦問題に関する『河野談話』の見直しとか靖国神社参拝といった問題をナショナリズムという一つのパッケージに包み込んで、隣国や同盟国の不信感を増長させている。これが国内政治にどれほど役立つかどうかはともかくとして、外交という見地からすると非生産的である。 19世紀以降、日本はユニークな伝統文化の魅力を継承しつつ、グローバリゼーションを取り入れてきた。快適で、安全で、平和的な民主社会を創り上げてきた。日本人は自国を誇りに思うべきだし、世界により寄与することが出来る。 日本が再び経済成長力を取り戻し、女性の役割を増大させることで(男女雇用均等問題に)真正面から取り組み、国際的な役割を強化していただくよう祈念したい。●取材・構成/高濱賛(在米ジャーナリスト)関連記事■ 「戦争ができる国作り」が進む日本の現在の状況を分析した本■ 大前研一氏が貿易赤字国日本が世界で生き抜く術を指南した書■ NHKに対する政治支配問題や籾井会長の失言等に警鐘鳴らす本■ 安倍首相 ナショナリズム「健全」「偏狭」分けて考えるべき■ SMAP上海公演中止 中国政府に対し中国人ファン激怒

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    戦後処理の「知的欺瞞」をはぎ取れ

    である。平成25年6月3日付本欄で、櫻田淳氏はそう喝破しておられます。戦いに勝った者は、自分たちの「歴史認識」を掲げる権利をうる。それに不満があるなら次に勝てばよい。櫻田氏の提案は実に明快です。「勝てば官軍」超えた問題 もちろん櫻田氏は、だからすぐにも戦争をせよ、などと言っているのではありません。それは「経済、産業、技術上の優位の維持、さらには対外広報・文化・芸術・スポーツなどを通じた対外影響力の確保という意味の『競争』を含む」のだと氏は述べて、現在の安倍晋三政権が推し進めている「平成版『富国強兵』路線」は、そうした総合的な「勝ち」を目指すものであり、焦って〈歴史認識合戦〉などする必要はないのだ、と説いておられます。まことにもっともな見解といえるでしょう。 ただし問題は、それがいかに途方もなく難しいものであるか、ということなのです。 まず言うまでもなく、次に勝つための一番の柱となるのは軍事力であって、もし仮に世界最強の軍事力を持つ国になれば、実際に戦争をしなくても実質的に「勝つ」ことが可能となる、とさえ言えるわけですが、戦勝国が敗戦国にそんなことを許すはずがありません。わが国の憲法9条は、まさにそれを妨げるために占領者が与えたものであり、いまも日本はかつての戦勝国である米国に守ってもらって生き延びているのが現状です。最も肝心の軍事力という点で、わが国は「次に勝つ」どころのレベルではありません。 ならば経済という分野ではどうでしょうか。例えば、かつて日本が経済において「独り勝ち」と呼ばれるような好成績を挙げていた時期がありました。しかし、その時、それを本当の「勝ち」につなげて、われわれ日本人が次の世紀の世界のあるべき形を自ら設計すべきだ、などと主張した人間がどれだけいたか? むしろそんな人が出てくるたびに、まわりの人たちは「シーッ、そんな思い上がったことを言うものじゃない」と必死で押さえ込んでいたのではなかったでしょうか?敗戦国イコール戦争犯罪国 事実、米国の立場になってみれば、自分たちが守ってやっている国が自分たちの富を存分に吸い上げて経済大国となり、それを鼻にかけて俺様づらをするなど、許せることではありません。経済において「次に勝つ」などということは初めから不可能だったのです。 さらに対外広報ということになれば、わが国にはあらかじめ敗戦国としての地位にふさわしい広報しか許されていないという状況にある-これは昨今、イヤというほど思い知らされたところです。 ならばわれわれは未来永劫(えいごう)「賊軍」の汚名を背負ったまま生きなければならないのでしょうか? このような窮地に立たされたときに有効なのは、われわれを窮地に追い込んでいる、その考え方の枠組み自体を明るみに出し、検分する、ということです。ここでもそれを実践してみましょう。 実は、いまわが国を悩ませている〈敗戦国イコール戦争犯罪国〉という図式は、昔ながらの(ある意味では健全な常識とも言える)「勝てば官軍」とは次元の異なるものなのです。この図式は今から百年足らず前、第一次大戦の戦後処理において初めて登場してきたものなのですが、それは次のような論理で成り立っていました。ベルサイユ条約の条項が元凶 よく知られている通り、第一次大戦は、どうしてこんな大戦争になってしまったのか、歴史学者も首をひねっている戦争です。どこか一国のせいで起こったような戦争ではありません。ところが、戦勝国の英仏両国は、経済が疲弊していて莫大(ばくだい)な賠償金を欲していました。そこで、歴史上にも例(ため)しのない、自軍の戦費一切を支払わせる「全額賠償」を要求します。そして、その根拠として、敗戦国ドイツの侵略がこの戦争の原因だ、戦争責任はすべてドイツにあるのだ、と主張する。これがベルサイユ条約のいわゆる「戦争責任条項」(ウォー・ギルト・クローズ)として確定されるのです。 これはもはや「勝てば官軍」といった無邪気な自己主張ではありません。当時の日米両国はこの途方もない不公正と欺瞞(ぎまん)に反対を唱えたのですが、英仏に押し切られてしまいます。そして、この不公正な図式は、第二次大戦の戦後処理において、もう一度繰り返されることになるのです。 われわれは単に敗戦国として、このような不公正に異議を唱えているのではありません。これは人類史上の汚点であるばかりではなく、21世紀が引きずってはならぬ前世紀の遺物システムだ、というのが重要な点なのです。これは世界全体に根本的な知的欺瞞を強いるものであり、放置すれば、自らの不法な要求を「力」に任せて通そうとする国を防ぐことができなくなってしまうのです。 〈歴史認識合戦〉をする前にやるべきことは、世界の知的欺瞞のベールをはぎ取ることでしょう。

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    勝者の正義と偏見・無知

    日本の近現代史研究で知られるジョン・ダワー氏は日本の近代化への歩みを「急速・果敢・順調」とまずは肯定的にとらえながらも「最終的には狂気に駆られ、残忍となって自滅した」と結論づけています。ダワー氏の論にくみする日本の研究者も大勢いますが。

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    戦争の原因は伝統的子育てという幻想

    高橋史朗(明星大教授) 2012年12月、『菊と刀』の著者ルース・ベネディクトの文書を研究するため、米ニューヨーク州のヴァッサー大学を訪れた。英国の社会学者ゴーラーと米国の文化人類学者ミードが『菊と刀』に与えた影響について研究するためである。わが国の戦後の教育改革をリードしたGHQの民間情報教育局の幹部は、対日心理戦を主導し、「精神的武装解除」という目的を達成するために、日本人の「国民性」に起因する侵略戦争への「反省」を促すという宣伝戦略を立てた。 『菊と刀』と『新教育指針』(教師指導用マニュアル)とウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(戦争贖罪(しょくざい)情報宣伝計画)がこの戦略遂行上、大きな役割を果たした。 ベネディクトは戦時情報局の「国民性研究チーム」の一員として、「日本人の徹底抗戦の決意をくじく」ための対日宣伝のために、「菊と刀」に象徴される国民性の矛盾の解明を研究課題とした。日本人の国民性には「奇怪な矛盾」があると同チームは考えたが、その土台となり「バイブル」となったのが、ゴーラーの論文「日本人の性格構造とプロパガンダ」であった。 米国の対日占領政策の骨格を決定した太平洋問題調査会の昭和19年12月の「日本人の性格構造」をテーマとする会議(ミードが調整役)で指導的役割を果たしたゴーラーが『菊と刀』に決定的な影響を与えた。 家庭、学校、地域社会が教育の3本柱であったが、一体なぜ教育基本法から家庭教育が排除されてしまったのか。厳しい躾(しつけ)や罰を与える伝統的子育てによりトラウマが生じたという仮説に、フロイト理論に基づく強迫的な「神経症患者」(集団的な精神障害)という「劇的な概念」(ジョン・ダワー)が付け加えられ、それが「暴発」して侵略戦争になったという、とんでもない幻想が広がってしまったという背景があった。 前述した会議を主導したゴーラーやミード、精神分析学者らの主張が「日本人の精神年齢は12歳」というマッカーサーの理論的根拠となり、『菊と刀』にも大きな影響を与えた。 また、「新教育指針」は、戦争の原因は国民性、すなわち「日本人の物の考え方」の欠点にあったとして、封建的、非合理で独りよがりなどを強調し、このような「国民性」を「反省」して「改造」することを目指した。この「精神的武装解除」戦略はみごとに奏功し、日本人の美しい心、道徳の中核であった報恩感謝、義務、責任、名誉などの民族の価値観に巨大な疑問符が投げかけられ、自信と誇りを喪失し、「道義国家」日本は戦後、経済優先の「町人国家」になってしまった。 この戦後の呪縛からの脱却、国民精神の復興なくして「美しい国・日本」の再生はない。日本の家族制度を男が女を支配する階層制度として捉え、「結婚とは、子供をもうけて“孝”を果たすこと」と捉えたベネディクトの家族観、結婚観には「ジェンダー」研究の先駆者ミードとゴーラーの影響があったと思われる。 ベネディクト文書研究に加え、英サセックス大学のゴーラー・コレクション、米議会図書館にあるミード文書の研究、また、ベネディクトとは日米双方で対照的に評価されたヘレン・ミアーズの文書(米スワースモア大学所蔵)との比較研究調査のために数カ月渡英、渡米し、これらを集大成した第1次史料に基づく実証的研究の書を世に問いたい。

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    「敗北を抱きしめて」などいられない

    高山正之(ジャーナリスト) 1942年生まれ。65年、東京都立大学卒業後、産経新聞社入社。社会部デスクを経て、テヘラン、ロサンゼルス各支局長を歴任。98年より3年間、産経新聞夕刊の辛口時事コラム「異見自在」担当。著書に『「モンスター新聞」が日本を滅ぼす』(PHP研究所)、『変見自在 オバマ大統領は黒人か』(新潮社)、『白い人が仕掛けた黒い罠』(ワック)などがある。 敗戦から10年経った昭和31年、「もはや戦後ではない」と誰かが言い、日本人もおしなべて頷いた。1年もすればもうみんな水に流してしまう日本人が10年も敗戦を引きずっていられるわけもない。実際、そのころ世界一高い東京タワーが立ち上がり、テレビでは悪い白人シャープ兄弟を力道山が空手チョップでやっつけていた。のちに力道山が朝鮮人と聞いて少し残念に思ったけれど。 いずれにせよ、日本人はそのころあの戦争とは切れたつもりになっていたのに半世紀たった今も習近平は南京大虐殺がどうの、朴槿惠は慰安婦がこうの、駐日米大使まで靖國神社は建設的でないのと、まるでまだ終戦直後みたいな発言が繰り返される。先の戦争の日本を描いてピューリッツァー賞を取ったジョン・ダワーの著作になぞらえれば、日本は今も「敗北を抱かされたまま」に見える。おまけに支那人や朝鮮人の言う対日発言の貧しい文脈がまたダワーの著作に依拠している。今や日本を敗戦に縛りつける支柱となったダワー理論とは何か。戦後70年の節目に彼の意図を検証する必要がある。「発狂した日本」 マサチューセッツ工科大教授、日本史研究家の肩書を持つダワーは、その昔、金沢辺りで英語教師をやったりしていた。 白人であることしか取り柄のないアメリカ人の定番コースを歩み、秘かに森鴎外を研究したというが、彼の著作にはそうした知性は感じられない。早い話、彼の近代日本史観は次の数行ですべて言い尽くしている。日本が近代国家として興隆していった姿は目撃者を驚かせるものだった。それは誰が予測したよりも急速で、果敢で、順調であり、しかも最後には誰も予想しなかったような狂気に駆られ、残忍となり、自ら破滅していったのである (『敗北を抱きしめて』の序) 日本が急ぎ近代化する姿はエドワード・モースとかキプリングとか多くの白人目撃者が語っている。いずれも温和で礼儀正しく、その死生観に感動する者もいた。「黄禍論」のイメージを定着させた漫画の一つ。大男の胸には「ジャップの大群」と書かれている(1942年) そんな日本がある日突然、発狂した。まるで「八つ墓村」の多治見要蔵のように斧を振り回し、そろって残忍になり「アジア各地で殺戮を重ねて」自滅したという。 突拍子もない話だ。本当にそうなら集団発狂した理由を是非とも知りたい。しかしダワーの『人種偏見』は発狂最中の日本を描いている。『敗北を抱きしめて』では発狂の果て、自滅したあとの戦後から書き出している。この信じられない「国家発狂」の理由を彼はどこにも書いていない。 わずかに『敗北を……』の中で発狂の原因として「日本は一等国になることばかりを考え、それが拒絶されたから西側に戦争を吹きかけた」(同書)というのだ。 一等国とは白人キリスト教国家のことを指すようだが、日本人はそれほど白人にもキリスト教にも憧れてはいなかった。 どころか、むしろ軽蔑していたことを歴史は示している。16世紀、日本は初めてキリスト教を知るが、すぐ胡散臭さを感じた。秀吉はコエリヨら宣教師がよさそうな福音を説きながら日本人女を奴隷に売っているのを知って、売った女たちを連れ戻せ、さもなければ布教をやめろと迫った。世にバテレン追放令として知られる。 ローマを訪ねた少年使節団は、異国で裸にされ、売られる日本人女性の話を綴っている。だから家康も布教を禁じた。 切支丹禁令は明治政府にも引き継がれ、五榜(ごぼう)の高札に明記された。明治6年、これに米政府が邪宗扱い廃止を迫ったが、結局、明治憲法発布まで邪宗門の禁令は残った。 「白人」も日本人は嫌った。長崎の出島のオランダ人が黒人奴隷を酷使するのを見た日本人は「心から白人を嫌悪した」とスウェーデン人植物学者ツュンベリーが記録している。 江戸に参府する出島のオランダ人を詠んだ戯れ句がある。登城する紅毛に蠅のついてきて   風呂に入らない不潔な彼らに日本人が辟易していたことをよく示している。「戦時の嘘」とまったく同じ 19世紀初め、オランダと戦争中の英国の船フェートン号が長崎に来て暴れて行った。日本は英国人の危険さを察知し、対処するためにすぐ英国研究を始めた。日本初の英語辞書「諳厄利亜語林大成」はフェートン号事件の6年後の1814年に作られた。 当然、日本は阿片戦争の末も知っている。英国はそれを「貿易戦争」と呼ばせるが、日本人は明治このかたずっと阿片戦争と呼んできた。 長州藩は英仏と馬関で戦った。このとき軍艦がなかった米国は商船に小口径の砲をくくりつけて参加し、他国と同じに巨額の賠償金を取った。そういう狡く、さもしい白人国家の性格も知っていた。 白人たちの品格は、国を開いてからも例えばハワイ王国乗っ取りとか三国干渉とかでよく知っている。 日露戦争では大勝しながら賠償金ゼロという差別も受けた。そんな連中のクラブに入れないから日本は発狂したとダワーは言う。非白人の劣等民族ならきっとこう思った、それで発狂したに違いないと。 歴史家の思索というより「日本女の髪を掴み股間に押し付ければイチコロさ」という白人ナンパ師ジュリアン・ブランクの発想に近い。 彼は「日本人は残忍になった」という。なぜ日本人の性格がそろって残忍になったのかの病理解明もしていないが、いかに残忍だったかは『人種偏見』にやまと書いている。 いわく「日本が敵国に撒き散らしたのは死と憎悪の種だった。例えば日本の新聞が大きく報じた、どちらが先に日本刀で百五十人の支那人を叩き斬るかを賭けた二人の将校の腕比べだ」「マレーでは拷問した英国人の口に切り取った性器を咥えさせたとか、宣教師を水責めにしたとか。一体日本軍の残虐行為の犠牲になったものがどのくらいか、わからない」。 のっけは毎日新聞の浅海一男が書いた「百人斬り」の嘘だ。ダワーがきちんと取材していれば戦後の浅海一男の消息も知ることができただろう。彼は支那に招かれ、廖承志(りょうしょうし)に一家を面倒見るから北京に来いと誘われる。文化大革命の少し前のことだ。 廖は娘真理を北京大に入れて、今は北京市内に店1軒を与えている。その間、浅海は「日本軍は残虐だった」「向井、野田両少尉の百人斬り競争は事実だ」と北京政府のための発言を続けた。 一方の毎日新聞社は『昭和史全記録』の中で「百人斬りは事実無根」と否定している。ダワーは両者とも取材できたはずだが、それもしていない。 マレーでの英国人の話は知らない。だいたい日本軍はコタバルに上陸してシンガポールまで55日間の戦闘を続けたが、この間に戦ったのはインド兵とグルカ兵だった。 日本軍は彼らを蹴散らしてジョホール水道に迫る。英軍はそれでも自分は戦わず、インドから第12インド人旅団を送らせた。 彼らはスリムの丘に布陣し、その支援に初めて白人部隊がシンガポールから派遣されたが、着いたころにはもうインド旅団は粉砕されていた。白人たちは逃げ帰った。 つまり日本軍はマレーでは英人に遭遇もしなかった。ダワーはそんな戦争経緯も調べていない。 それに性器を切り取って口に咥えさせるのは支那人の十八番(おはこ)だ。本当の歴史学者ならそれくらいの知識は持っているだろうに。つまりこれも嘘だ。『ライフ』誌1902年5月22日号の表紙より。アメリカ軍兵士がフィリピン人に対して“水治療”の拷問をするイラストが掲載されている 「日本軍は水責めをした」とダワーは言う。彼の言う水責めは魔女狩りの審問から生まれた拷問だ。米軍がフィリピンを植民地にする戦いで抵抗するフィリピン人にそれをやった。 米上院公聴会の記録では板に大の字に縛りつけ、5ガロンの海水や汚水をじょうごで呑ませる。自白しないと「膨れた腹の上に巨漢の米兵が飛び降り、土人は口から六フィートも水を噴き上げて死んだ」とある。 日本人にそんな拷問方法の知識もそれを実行するほどの野蛮さも持ち合わせない。 ダワーはさらに「非戦闘員の大規模な虐殺は南京が契機だった」という。「南京陥落以降、六週間にわたって処刑強姦、男女を問わない無差別殺人を繰り広げ……その死者数は二十万と見られる」「日本兵が赤ん坊を投げあげ、落ちてくるところを銃剣で刺した」「この銃剣はシンガポールでは医師、看護婦、入院患者に向けられた」と続く。 のっけはお馴染みの南京大虐殺だ。彼の言が正しいとすれば日本軍は42日間、毎日休みなく5000人ずつ処刑したことになる。仮に10人一度に銃殺して、その遺体を運びだし……を1日に500回繰り返さねばならない。 それを42日間、休みなく続けたという。師団規模の人員でも大忙しだろうが、南京の留守部隊は輜重兵(しちょうへい)など2、300人もいなかった。 何より20万の死体はどこにあるのか。北京原人の骨だって出た。春秋時代の越王勾践の銅剣も湖北省で発掘されてニュースになった。しかし南京からは一体の遺骨も出ていないではないか。 それに「大虐殺があった」というのはマギーやベイツやフィッチらすべて米人宣教師だ。それを報じたのもニューヨークタイムズにシカゴトリビューン。日本を敵視する米国の連中ばかりだ。 彼らが「死屍累々の南京大路」と報じた同じ日付の日に日本軍が入城する写真があるが、そのどこにも死体は写っていない。それをダワーはどう説明するのか。 それに続く「日本軍の赤ん坊殺し」と「病院での狼藉」は注目すべきだ。実は第一次大戦さなか、英米紙がドイツ軍の残虐行為として報じた中に「ドイツ兵は赤ん坊を放り上げて……」とか「病院を襲って看護婦を犯し、医師や入院患者を殺した」というくだりがある。そっくり同じ。 米国はそれを口実に参戦した。大戦後、ドイツの批判材料として検証が行われた。その結果がアーサー・ポンソンビーの「戦時の嘘」にまとめられたが、すべてでっち上げの嘘だった。 それと寸分違わない話が出て来たら、まともな歴史学者だったら検証するだろう。 しかしダワーは検証もせずにこう続ける。 「実際に起きた一連の日本軍によるショッキングな事件はほとんど疑う余地はない。第一次大戦中に反ドイツ感情をあおるために流布された残虐行為の噂を想起した懐疑派でさえ、日本軍の残虐行為についてなされた戦時中の報道は事実通りと認めている」 誰が何を根拠に事実だとしたかを彼はここでも示していない。それで日本軍に関しての今度の「戦時の嘘」は「本当だ」という。 かくて「日本はあるとき突然発狂し、残忍になった」ことの証明はできたとして『敗戦を抱きしめて』は書き出される。転んだ朝日新聞 彼は終戦直後の日本に立つ。彼は自分の祖父の代までインディアンを無慈悲に殺しまくり、奴隷を酷使し、黒人女を慰み物にしてきたことも、歯の悪いジョージ・ワシントンが健康な黒人奴隷の歯を抜いて入れ歯をつくってきたこともきれいに忘れ、慈悲の心をもち、民主主義の何かを弁える知的な白人キリスト教徒になりきって日本人を観察する。 そこでまず「日本人は特別だ、ユニークだと言われるが、それは嘘だ」と断じる。 例えば3・11のおりに世界は略奪もない、助け合う日本人に感動した。 シアトルでWTO総会があったとき、デモった米国人は警備が手薄と見るとすぐ街中で略奪に走った。バグダードを攻略した米兵は博物館を荒らしシュメールの文化財を盗んだ。英軍が逃げた九龍は略奪する支那人で溢れ返った。 そんな略奪行為が日本にはなかった。ないどころか阪神淡路大震災ではヤクザが炊き出しをしたとロサンゼルスタイムズ紙のサム・ジェムスンが書いている。 それでもダワーは「日本人にユニークさはない」と断じ、その中に昭和天皇も入れる。「敗戦の詔勅は自分の戦争責任を免れるためだった。『五内為(ごないため)に裂く』と叫んで、国民の同情を買ったのは成功だった」と書く。 米国の植民地戦争時代、仏軍に捕まったジョージ・ワシントンは仏軍捕虜を殺した罪を部下に擦りつけて生き延びた。そのレベルでしか人の行動を測れないダワーの下品さにちょっとたじろがされる。 彼は天皇を軽んじた上で日本人も見下す。『敗北を……』では日本側が接待用に設けたRAA慰安婦施設の話や性病対策にペニシリンが持ち込まれた話やらを特筆する。 「除隊した兵士が手ぶらで郷里に帰ったと責められた」と皇軍の落ちぶれた様も描かれる。どこが高潔でユニークだと。 台湾の蔡焜燦(さいこんさん)『日本精神』に朝鮮人が軍の管理品を盗み出す描写がある。さもありなんとは思ったが、それを日本人の除隊兵がやった、そういう盗品を期待する郷里の家族がいたなどという話はあの時代を生きた者としてはっきり嘘だと言い切れる。 彼は敗戦の日、皇居前に額ずいた「そんなに多くはいなかった」人たちを論ずる。電車も満足に通わない焼け野原の東京で、確かにメーデーほどの人波はなかった。 それがどうしたと思うが、彼はこう続ける。「彼らがそこで流した涙は日本や天皇を想ってではない。不幸と死。騙されたという思いだった」「それは軍国主義者を憎み、戦争を嫌悪し、破壊された国土に呆然とたたずむ民衆の姿なのだ」とまた勝手に決めつける。 さあ哀れな民をどう救うか。これは尋常な手段では民主化は望めない。「病気の木を直すには根も枝も切り落とさねばならない」つまり日本人を枯死させる大手術が必要になる。 「戦争の勝者がそんな大胆な企てに乗りだすことは法的にも歴史的にも前例がなかった」が、マッカーサーは日本改造に乗りだしていく。 この文言には明らかな嘘があるが、まず彼の「大胆な企て」を追う。 彼はまずそれを言論の自由の封殺、検閲から始めた。民主主義がなぜ民主主義と一番遠い方法で行われたか、ダワーの説明はない。 最初の標的は朝日新聞だった。今では信じられないが、この新聞は当時、進駐軍の目に余る略奪や強姦を厳しく非難し、さらに原爆の非人道性を告発する一文(昭和20年9月15日)を鳩山一郎に書かせた。 GHQがバターン死の行進とか、無辜の民を焼き殺したとか、「赤ん坊を放り上げて銃剣で刺した」とか、フィリピンでの日本軍の残虐行為を新聞に書かせたときは「かかる暴虐は信じられぬ」「求めたい日本軍の釈明」(9月19日)とGHQにきちんとした検証を求めている。 マッカーサーはすぐ朝日を発禁にし、GHQの批判も米兵や朝鮮人の犯罪報道も禁じるプレスコードを出した。 朝日はこれを受けてすぐ転んだ。 検閲は手紙や電話まで広げられた。北朝鮮だってそこまでやるかというGHQの横暴をダワーは積極的に評価し、逆に「検閲で言論を封じた日本の軍事政権」の暗黒から日本人を救ったと強調する。 確かに戦前、検閲はあった。支那事変が続く中、軍の行動が分かる表記は墨が入った。当たり前だ。 石川達三の『蒼氓(そうぼう)』にも筆が入ったが、その気になれば消された部分は「乙種合格」とか理解はできた。 しかしGHQのそれは検閲の跡も残さなかった。だれも検閲されていることを知らなかった。 彼らは情報を完全に絶ったうえで日本人に勝手な情報をインプットした。その道具にされたのが「転んだ朝日新聞」だった。 朝日はGHQが望むまま、そしてダワーが書いたように「国民は軍事独裁主義者の犠牲にされ、無謀な戦争に投入された」という日本の中の対立構造を描き続けた。 同時にGHQは「悪い日本」に対する「民主主義でいい国の米国」を朝日に書かせた。発禁を受けた2カ月後の11月11日付紙面には「京都、奈良、無傷の裏」と題して京都や奈良が空襲の標的から外され「人類の宝」が守られたのは「ハーバード大のラングドン・ウォーナーの献身的な努力があった」という記事が載った。 ウォーナーのリストに載った文化財はおかげで守られたと。 真っ赤な嘘だ。京都は原爆投下候補地の筆頭で、原爆の正確な被害を測るため、通常爆弾による空襲を禁じてきた。米公文書には投下地点は京都駅近くの梅小路操車場で、その上空500メートルで原爆は炸裂する予定だった。それで京都市民50万が死に、八坂神社も二条城も西山の金閣寺も消滅していたはずだった。 広島、長崎に先に投下したのは、さすがに一瞬で古都を燃やし尽くし、50万も殺すのに躊躇(ためら)いがあったと想像できる。それが黄色い劣等人種だとしてでも、だ。 そんな恥ずべき大虐殺計画を美談に変える。しかも根拠のウォーナーリストには明治神宮も名古屋城も、原爆で消滅させた広島の太田城も入っている。みな爆撃で燃やした。 もっとましな嘘をつけと思うが、それでも日本人はころっと騙され、奈良には今もウォーナーに感謝する顕彰碑まで立った。徹底した検閲と忠臣、朝日新聞のおかげだ。GHQ(連合国軍総司令部)のダグラス・マッカーサー最高司令官 マッカーサーもそれで聖人になった。彼はそのころ米共和党の大統領候補になったことがある。朝日は彼の「高潔で気高い人柄」を褒め、彼の偉大さは米大統領の椅子が似合うと書き続けた。日本人は彼が大統領になると信じていた。だってそういう記事しかマッカーサーは許さなかったからだ。 しかし米国人は彼がフィリピンから敵前逃亡したことも、そのときに米傀儡政権のケソン大統領を脅して「五十万ドルもニューヨークケミカル銀行の自分の口座に振り込ませた」(マイケル・シャラー『マッカーサーの時代』)ことも知っていた。彼が大統領から最も遠い男だと知っていた。 実際、共和党大会で一千五百余人の代議員のうち彼は11票を取っただけだった。いかに情報から隔絶されていたにせよ、彼がこんな泡沫だったとは日本人は本当に驚いたと思う。 いま振り返ってみるとマッカーサーのやったことはジョージ・オーウェルの『1984年』の世界とほとんど相似と言っていい。歴史学者ダワーもそれに気づいているはずだが、彼は逆に賛歌を歌い続けた。 イラク戦争後、戦後処理をどうするかという時期、彼はニューヨークタイムズに「日本とイラクの違い」を寄稿した。その中で日本での成功は「マッカーサーのカリスマ性と米軍将兵の紳士的な振る舞いが日本統治を成功させた」と書いている。 調達庁の数字によれば、占領期、米兵によって10万人の女性が強姦され、2536人が殺された。沖縄では6歳の幼女が強姦の果て殺され、小倉市は朝鮮戦争時、一個中隊の黒人兵に占領され3日間、略奪と強姦に蹂躙された。今のイスラム国と似た状況だった。そのすべてが報道規制で闇に葬られた。そんな連中をダワーは紳士だったという。 マッカーサーはもっと悪質だった。終戦間際に米潜水艦が灯火(ともしび)をつけて航行中の阿波丸を緑十字船と知りつつ魚雷で沈めた。1人生き残った。 賠償を払う段になってカネを惜しんだマッカーサーは無償供与だったガリオアエロア援助を有償に切り替えてそのカネで阿波丸賠償を日本政府に出させた。 彼は自分の滞在費も含め駐留米軍の費用もすべて日本政府に出させた。あの東京裁判の費用も、キーナン検事の宿泊から遊興費まですべて日本に出させた。 ダワーの著作を通して感じるのは、ここまであくどいマッカーサーの戦後統治を何としてでも栄光のまま存続させたいという思いが滲み出ていることだ。「カルタゴの平和」 ダワーは歴史学者でなく、むしろ政治屋という印象が強いが、もう一つ、彼が歴史学者でない証拠がある。 日本大手術に当たって彼が「歴史的にも前例がない」と言ったことについて「それも嘘だ」と書いた。 ちゃんと前例がある。紀元前3世紀、世にポエニ戦役と呼ばれるローマとカルタゴの戦いがあった。 カルタゴのハンニバルは日本と同じに正々堂々、戦場で戦った。ローマのスキピオはその点、米国に似ていた。インディアンとの戦いでは戦場に戦士を誘い出し、その隙に銃後の集落を襲って戦士の妻と子を殺した。日本との戦いでもそう。戦場を飛び越して銃後の広島長崎に原爆を落とし、日本軍兵士の妻子を殺した。 スキピオはハンニバルがローマの南ブルティに布陣している間に今のリビアにあったカルタゴを攻めた。ハンニバルは急ぎ駆けつけたが、スキピオに敗れた。 勝ったローマはカルタゴに対し、・膨大な賠償金の支払い・カルタヘナなど植民地の没収・軍の解除と軍艦の焼却・交戦権の放棄 を要求した。 さらにその調印が行われるまで・ローマ軍の略奪、強姦を放置し・丸裸になった海の民カルタゴの交易船も燃やし、農業国化を強いた ローマはこの条件を呑んだカルタゴをその後もいびり続けた。 マルクス・ポルキウス・カトーこと大カトーは演説の最後に必ず「カルタゴを滅ぼさねばならない」と語り続けたのは知られる。 そして隣国ヌミビアが攻め込んだのに対してカルタゴが自衛の戦争を始めると交戦権放棄の違反としてローマが攻め込んで今度こそ攻め滅ぼした。王侯貴族はみな殺しにし、住民は奴隷に叩き売り、最後は塩を撒いて草木が生えることも認めなかった。世に言う「カルタゴの平和」だ。 蒋介石の顧問だったオーエン・ラティモアは日本の戦後処理についてこの「カルタゴの平和」を何度も口にしている。 マッカーサーのGHQの仕事を見ると、まず日本からその統治地域・台湾、朝鮮、南洋諸島を没収し、永世中立国のスイスまで膨大な賠償金を支払わせ、戦力不保持と交戦権放棄を明記したマッカーサー憲法を呑ませた。 カルタゴの交易船に相当する日本の工業力については鍋釜しかつくれないレベルまで落とし、農業国化することがエドウィン・ポーレーの賠償使節団によって計画された。 第1次で昭和初期まで工業力を落とし、重工業は解体され機械類は支那朝鮮などに運び出された。 第2次で明治時代まで落とす予定だったが、朝鮮戦争で中断された。 しかし農業国化はそのまま進められ、NHKは今も「農業の時間」とかあほな番組を作り続けている。 笑えるのはローマに略奪の自由を認めた項目までGHQは実施した。日本中の駅前一等地を不法占拠した在日朝鮮人支那人の跋扈がそれに当たる。 マッカーサー統治がカルタゴのモノマネだということは日本の戦後処理を研究する者にとっては常識だが、ダワーはそれも知らないで「歴史上初めて」と書いて憚らない。 かくも無知と偏見に満ちた『敗北を抱きしめて』はしかし世に出てすぐピューリッツァー賞を受賞し、さらに米国史に貢献した研究に出されるバンクロフト賞も取った。 歴史書の資質も品格もないのになぜ受賞したか。 それは彼が書いたように「日本が理由もなしに発狂し、残忍になり、アジアを血に染めたこと」にしておけば米国の残忍なフィリピン支配も東京大空襲も広島、長崎の原爆投下もすべて正当化される。 そして米国はダワーが書くマッカーサーのように「慈愛深く知的な白人キリスト教徒」でいられるからだ。それで彼に賞を出した。 授賞理由は米国の望む「戦後史観」の総カタログ集という位置づけだ。ここに書いてあることをこれからも真実として語り継ごうというわけだ。おかげで嘘つきダワーもまた形だけは「真実を語る歴史学者」になれた。 ただピューリッツァー賞だって万能じゃない。スターリンを褒め称え続けたニューヨークタイムズ紙のウォルター・デュランティ記者について、ウクライナ系米市民が「彼はウクライナの大虐殺もなかったとばかり書いてきた」と訴えた。今から十余年前のことだ。「こんな嘘つきにピューリッツァー賞は似合わない」と。 コロンビア大のフォン・ハーゲン教授が調査し、「ウクライナの惨劇まで否定して米国に誤ったスターリン像を植え付けた。記者の道を踏み外したことは明らか。賞の撤回がふさわしい」と断じられた。 人の道を踏み外したダワーが第二のデュランティになる日もそう遠くはないと思う。

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    世界が羨む「日本の力」

    40年のサンマリノ大使が語る「靖国の心」■ 忘れてはいけない歴史、知らねばならぬ国の姿■ 戦争犯罪と歴史認識