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    首里城の守護者たちが教えてくれる「正しい再建」

    仲村覚(日本沖縄政策研究フォーラム理事長) 10月31日に炎上・焼失した首里城の再建をめぐり、所有権や復元主体を沖縄県のものにしようとする動きが県内から出ていることは、前回の論考で記した通りだ。その際、識者たちが「所有権の沖縄県への移管」を主張する根底に、「首里城は歴史的に沖縄のものだ」という認識があるが、首里城は本当に沖縄の人々だけの力で築かれ、守られてきたのだろうか。 前回は首里城問題の深層を指摘したが、本稿では首里城の「歴史」について明らかにしていきたい。まずは、戦後の再建をさかのぼって確認してみよう。 首里城は1945年の米軍による艦砲射撃により焼失し、琉球列島米国民政府時代の50年、城跡に琉球大が設置された。72年5月15日の祖国復帰とともに国史跡に指定され、77年からの琉球大の移転開始に伴い、80年代に入って、県と国による首里城復元に関する計画が策定された。 本格的な復元へと動き出す際に最も大きな働きをしたのが、元通産相の山中貞則である。「沖縄県民斯(か)ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜(たまわ)ランコトヲ」。山中の沖縄への特別な思いは、戦後に友人から教えられた沖縄特別根拠地隊司令官、大田実の決別電文から始まっている。 64年、第1次佐藤栄作内閣が発足すると、山中は佐藤に沖縄訪問を求め、膝詰めで談じ込んだという。山中は「県民が祖国に復帰できるかどうかに、内閣の命運をかける価値がある」と佐藤に断言した。 その結果、65年8月19日、現職首相として戦後初の沖縄訪問が実現する。それ以降本格化する沖縄返還交渉に山中も携わり、72年の祖国復帰につながっていった。返還後に設置された沖縄開発庁の初代長官に就き、沖縄経済の振興に尽力する。 沖縄復帰を2年後に控えた70年には、琉球政府から国費による首里城復元の要請を受ける。「沖縄は日本のために尊い犠牲になったのだから、日本国民、日本政府として復元に力を貸すのは当然だ」。総理府総務長官だった山中は難色を示す大蔵省を説得し、政府も第1次沖縄復帰対策要綱を決定したことで、復元の道筋をつけた。沖縄で開催された復帰記念式典であいさつをする山中貞則沖縄開発庁長官(右端)=1972年5月15日、那覇市民会館 その結果、89年に首里城正殿の復元工事に着手し、祖国復帰20周年にあたる92年に首里城公園が国営沖縄記念公園として一部開園した。その後も復元作業は続けられ、今年2月に全ての復元プロジェクトが完了したばかりだった。 さて、戦後の復元を開始するにあたって、首里城は既に灰となってしまい、現場には何も残っていない。それでも、復元に役立てられた写真や図面といったデータの蓄積があったのは、昭和の首里城大修理を担った先人たちの残したきめ細やかな努力によるものだった。保存に奔走した2人の男 1879年に沖縄県が設置されると、最後の琉球国王だった尚泰は、他の藩主と同じように首里城を明け渡した。その後、09年に首里区(当時)の所有物となっても世間から見向きもされず、11年6月には地震や暴風が相次ぎ、正殿2階の天井が墜落するなど、廃虚にも等しい悲惨な状態をさらした。 1923年9月、沖縄県は首里城正殿を取り壊すことを決定し、取り壊し式を24年4月7日に実施することになった。跡地に沖縄県社(沖縄神社)を建立する計画も立案された。 さかのぼること2年半前の21年4月、香川県出身の鎌倉芳太郎が沖縄女子師範学校の美術教師として赴任した。鎌倉は豊かな沖縄文化に惹かれ、2年の滞在で沖縄本島や宮古、八重山をくまなく歩く。そして、沖縄の芸術や文化、宗教に関する写真やスケッチなど大量な記録を残し、沖縄文化研究の第一人者と呼ばれるようになる。 東京に戻った鎌倉は23年3月、小石川にある沖縄県出身者の寮、明正塾を訪れた際、沖縄地元紙の「首里城取り壊し」の記事を見つける。取り壊し式が10日後に迫っていることを知った鎌倉はすぐさま明正塾を飛び出し、本郷の東京帝大に向かった。同大教授で建築家の伊東忠太に面会して、首里城の危機を訴えるためだ。 伊東は日本最初の建築史家といわれ、神社建築の第一人者であり、古社寺保存の権威としてその名を轟(とどろ)かせていた。鎌倉の要請を受けた伊東はすぐに内務省神社局長の大海原(おおみはら)重義に中止を要請する。 大海原も伊東の働きかけには逆らえず、沖縄県庁に「首里城並びにその建造物は史跡名勝天然記念物に該当するので取り壊しならぬ」と中止命令を打電した。実際には、取り壊し式を待たずに作業が開始されており、既に瓦が外され始めたところだった。しかし、鎌倉と伊東の情熱と行動に支えられて、首里城は奇跡的にその命を守られたのだ。 1925年、首里城正殿は特別保護建造物、次いで旧国宝に指定され、沖縄神社拝殿として存続する。その後、修繕計画が立てられ、28年2月には昭和の大修理が始まった。建築家・伊東忠太の胸像(東京大学工学研究科建築学専攻所蔵)=2009年7月撮影 しかし、早くも30年ごろに工程2割で工事資金が底をついてしまい、手詰まり状態に陥った。7月には観測史上3位(当時)の台風が沖縄を襲い、那覇市では最大風速47メートルを記録する。首里城も大きな被害を免れず、工事も中止状態となった。 再び危機に陥った首里城を救ったのが、文部省宗教局の阪谷良之進と同省建築技師の柳田菊蔵である。阪谷から沖縄への派遣の命を受けた柳田は現地到着後、被害状況の調査に入った。法隆寺や姫路城よりも優先 そこで柳田が目にしたのは、屋根が台風で剝がれ、柱もシロアリの餌食にされた悲惨な首里城の姿だった。柳田は状況を手紙で報告するととともに、阪谷に素屋根(すやね)設置の必要性を訴えた。 素屋根とは、建物をすっぽり覆う仮設物で、台風による再度の被害を避けられるだけでなく、木材を風雨に晒(さら)すこともないため、劣化や損失を防ぐことができる。最大のメリットは、工事が天候に左右されなくなるため、計画通りに工事を進められることだ。ただその分、高額な予算を必要とする。 阪谷も2月には自ら沖縄まで足を運び、滞在を延長して丹念に視察した。その結果、柳田の主張通り、素屋根を用いた工法でなければ、工事は完成できないと確信する。 東京に戻った阪谷はすぐさま、工事費増額のために粉骨砕身の努力を始める。それからわずか数日後、柳田に打った電文には「工費は九八九〇〇円以内に収ること」とあり、ただし書きに「貴族院議員控室にて決定す」とあった。 この予算は当時の首里市にほぼ匹敵する規模であり、文部省が行ったどの修理工事も超える額だった。しかも、台風が首里城を襲う前年の29年3月に国宝保存法が制定されたばかりで、文部省にとっては、この法律に基づいて修理しなければならない文化財が山積みだった。 その中には、伊東により世界最古の木造建築物であると確認された法隆寺や、西の丸の櫓(やぐら)の一部が大雨で崩壊して早急な修理が必要だった姫路城があった。文部省は、これらの文化財より首里城の大修理を優先して予算をつけたのだ。 昭和の大修理では、各部材を実測し記録を取った上で解体し、修復してから組み立てるという気の遠くなる作業を繰り返した。それでも現場監督の柳田と文部省で監督指揮した阪谷のもとで、素屋根がかけられた正殿の修復は迅速に進んでいった。そして、再開からわずか1年9カ月後の33年9月23日、幾多の困難を乗り越えながらも、一人のけが人を出すことなく完成した。激しく燃え上がる首里城の正殿=2019年10月31日午前4時ごろ、那覇市(近隣住民撮影) さて、鎌倉や伊東が取り壊しを阻止し、阪谷や柳田により見事、昭和の大修理を成し遂げた首里城は、いつ建築されたものなのだろうか。1709年の琉球は国難ともいえる不幸の連続だった。病床にあった尚貞王のために壇を設けて、除厄祈福のために経を七昼夜唱えたが、7月13日に亡くなり、在位41年の長期政権が終わりを告げた。 その夏、相次いで台風が襲い、作物を吹き飛ばしたかと思えば、そのあとは雨が一滴も振らない干ばつに見舞われてしまう。18世紀に編纂(へんさん)された琉球王国の正史「球陽」には、次のような記述が残っている。薩州の太守、白銀を発賜して饑ゑたる民人を済ふ。旧年の夏秋、颱颶七次あり。十月に至りて、颱風最も暴し、国、大いに饑饉を致す。王、即ち倉廩を発し、周く人民を済ふ。然れども、春に入り、饑甚だしく、民已に餓殍す。遂に其の事、薩州に聞ゆ。是れに由りて、薩州太守吉貴公、白銀二万両を寄賜して、以て本国の餓□を賑済せしむ。(意訳)夏から秋にかけて台風が7度にわたりやってきた。特に10月の台風は激しかった。国を飢饉が襲ったのだ。そのような中、11月25日午前2時。首里城が紅蓮(ぐれん)の炎に包まれた。この火災で南殿、北殿ともに跡形もなく灰になってしまったのだ。王は人民を救済するために蔵の米を放出するが、それでも足りず、3200人の餓死者を出してしまった。王府は薩摩の在番奉行の協力を得て、救援米の支援を要請するため飛船を出した。薩摩藩主島津吉貴が琉球に救援米3千石を貸与。続いて銀200貫を送り、続いて白銀2万両を送った。「正しい復元」に必要なこと 1710年10月、首里王府は再建責任者として、向鳳彩(しょうほうさい、今帰仁按司(あじ)朝季)を総奉行に任命し、着工した。しかし、木材が不足しているため再建がままならない。球陽にはこのように記述されている。薩州太守、材木を寄賜して、以て宮殿の修造を補ふ。先年、王城回禄し、将に宮殿を修造せんとす。而して材木欠乏す。今、疏文を具し、薩州に求買す。是れに由りて、薩州太守吉貴公、材木壱万九千五百二十五本を寄賜して、以て禁城宮殿の修造を補ふ。(意訳)去年、王城が火災で消失し、まさに宮殿を修繕しようとするが、材木が足りない。薩摩に買い求める。これにより薩摩藩主、吉貴公は、材木1万9525本を琉球国に寄賜し、宮殿修繕の助けとした。 蒸気船もない時代に約2万本の木材を沖縄まで贈ることは、当時の薩摩にとっても国をあげた大事業だったのではないだろうか。このような薩摩の多大な援助により、首里城の再建を行うことができたのである。  琉球については、よく「1879年の琉球処分まで独立国だった」といわれるが、江戸時代は薩摩の支配下にあって、決して独立していたわけではない。また、災害や飢饉に襲われたとき、救援の手を差し伸べたのは、明(みん)や清(しん)ではなく、薩摩であり、中国の属国だったわけでもない。 そして、本稿のテーマである首里城再建を支援してくれたのも、やはり薩摩だったのだ。首里城のような巨大に建築物を建てるには、沖縄ではとても木材が足らないことは、今も昔も変わらない。 これまで、首里城の歴史を振り返って分かるように、少なくとも江戸時代中期以降、建設においても復元においても、沖縄だけで成し遂げることができたケースは一つも見当たらない。首里城の復元は、沖縄県外の人々の多大な尽力により成し遂げられたものである。その背景には、戦前の国宝保存法や戦後の文化財保護法といった国の法律と、それを適用した国の補助金の投入なくしては不可能だったのだ。 最後に沖縄県出身者として、首里城復元に関わっている人に伝えておきたいことがある。復元を語るとき、前述した伊東、鎌倉、阪谷、柳田4人の功績を伝えることを決して忘れてはならない。沖縄県立博物館・美術館で公開される、沖縄戦で焼失した首里城の正殿を再現した模型(同館提供) 彼らへの感謝を忘れたままで、正しい復元など不可能だ。ましてや、その恩を忘れ、沖縄という小さな島だけで、首里城の建設や復元を成し遂げたと勘違いし、所有権の移管を主張したら、どうなるであろうか。 沖縄県は恩知らずの県民性を育む結果となり、将来に修復不可能な大きな禍根を残してしまうだろう。首里城に息づく伝統芸術は沖縄の誇りであることは間違いないが、歴史的に見れば、明らかな「国宝」であり、日本国全体で守り伝えていくものなのだ。(文中敬称略)

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    首里城の復興に沖縄メディアがしのばせた「奪還の計」

    仲村覚(日本沖縄政策研究フォーラム理事長) 10月31日早朝、目を疑うような映像がテレビやインターネットで映し出された。激しく燃える首里城の姿は沖縄県民のみならず、全国民に大きな衝撃を与えた。 焼失を受けた政府の反応は異常なほど早かった。沖縄の経済振興政策を担当する衛藤晟一(せいいち)沖縄北方担当相は同日付で「首里城は沖縄のシンボルであり、内閣府として、沖縄県及び国土交通省、文部科学省等の関係省庁と密接な連携を取り、今般の火災の全貌の把握をするとともに、再建に向けて全力で取り組んでまいります」とのコメントを出した。 火災前日から2日間の日程で韓国の観光業界団体と意見交換のために訪韓していた沖縄県の玉城デニー知事も予定を切り上げて、31日午後に那覇に戻った。翌日の11月1日には首相官邸を訪れ、衛藤氏と菅義偉(よしひで)官房長官と続けて面談し、再建に向けて政府の支援を要請した。政府も必要な経費を含めて全面的に支援する方向で検討している。 また、再建を支援する寄付活動も迅速に動き始めた。那覇市は11月1日、ふるさと納税の制度を利用したクラウドファンディングによる再建支援プロジェクトを始めた。県内企業やマスコミも支援のための寄付を募り始め、スーパーなどで募金箱が置かれている。 そもそも、基地問題に代表されるように、沖縄県は何かと政府と対立することが多い。ただ、このように官民問わず早くから迅速に動き始めたことで、首里城再建では一致団結して進められるかのように見える。政府もそれを期待して、早々に支援表明しているのだろう。 しかし、沖縄問題をウオッチし続ける者として、再建に向けた国民の盛り上がりに水を差しかねないし、批判は承知の上で指摘したい。残念ながら、首里城は既に「第二の辺野古」になる方向で動き始めていると言わざるを得ない。炎上する首里城を見つめる市民ら=2019年10月31日午前6時、那覇市 その原因は政府の不作為のツケに尽きる。先の大戦後、「沖縄がいつから日本なのか」分からないあいまいな歴史観を放置し、他国からの思想侵略、歴史戦から国を守る体制を構築してこなかったからである。 これから起こる沖縄の身勝手に見える要求や反応の前に、政府側が理解できずパニックになったり、激高する恐れがある。そのようなことに陥らないよう、本稿では「首里城問題」の深層について指摘しておきたい。首里城を国から取り戻す? まず確認しておきたいが、これから始まるであろう首里城復元の事業主体は日本政府か、それとも沖縄県かご存じだろうか。首里城跡は国有財産であり、城のあった首里城公園を含む沖縄記念公園は国営で、内閣府沖縄総合事務局の管轄である。 そもそも、復元には多大な予算が必要であり、沖縄県単独の財政力では不可能である。そうであるなら、当然日本政府が事業主体になると考えるのが常識だ。 衛藤氏も、11月5日に「必要な財政支援を行うことも含め、国が責任を持って再建を進める」と改めて表明している。ところが10日後の15日、玉城氏が定例会見で「今後、所有権移転をどうするかということも議論していく必要があるだろうと思う」と突然言い出した。 そして、玉城氏は「わったー(私たちの)首里城として、多くの皆さんの魂を込めていく中に、県がどのように取り組んでいくかが一番大事だ」と続けたのだ。21日になって、玉城氏が「今の段階で、私の頭には想定も何もない」と所有権移転について発言を後退させたとはいえ、この言葉にこそ、首里城復元を第二の辺野古へと導く非常に大きな危険性が潜んでいるのだ。 首里城焼失以降、沖縄の二大紙は再建報道で埋め尽くされている。特に、琉球新報は連日の米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設に関するニュースが紙面から消え去ってしまったと感じるほどだ。 琉球新報はオピニオン連載「首里城再建・識者の見方」で、識者を次々と登場させた。ただ、この「識者」に注意を払う必要がある。 琉球大の比屋根(ひやね)照夫名誉教授は「民衆の城取り戻す事業に」の中で、国から首里城を取り戻そうと主張する。だが、再建資金は国からもらいたいから「国は戦争の贖罪(しょくざい)意識を持って再建に参加すべき」と注文を付けた。米軍普天間飛行場の移設先として、埋め立てが進む沖縄県名護市辺野古の沿岸部=2019年9月(小型無人機から) 要するに、首里城は大戦中に軍事要塞(ようさい)化して司令部を置いたために沖縄戦で燃えてしまった。だから琉球王国の城を焼失させた責任は国にある、という理論だ。 琉球民族独立総合研究学会の親川(おやかわ)志奈子共同代表は「『日本の中の沖縄』を懸念」の中で、玉城知事が政府への支援要請の際に示した、祖国復帰50周年事業として再建を進めたいとの姿勢を批判している。所属からもうかがえるように、親川氏は自身を日本人ではなく琉球人だと思っている人物だ。祖国復帰記念事業によって復元すると、琉球が日本のナショナリズムに取り込まれてしまうから、県民や県人が主体となって琉球のアイデンティティーの象徴として首里城を取り戻すべきだというのだ。それでも突き放しちゃいけない理由 連載では他にも、沖縄国際大の前泊博盛教授が「自己決定権」「自立経済」確立の観点で、琉球大の島袋純教授が国際連合の勧告を根拠として、それぞれ首里城の県への所有権移転を求めている。2人とも国有資産をいきなり県に譲り渡せというのだから、はなはだしく傲慢(ごうまん)な主張である。 このように、沖縄のマスコミは「県民主体」という自主自立の精神をもって取り組むかのような聞こえの良い言葉を多用している。報道が繰り返されるうちに、それが当然のことのように聞こえてくるのを狙っているのであろう。 こうして、政府にはカネを出させても、首里城を沖縄県に移管させて、復元事業の主体としてもらおうというわけだ。県と県内マスコミの目的が一致している以上、路線は決まったと認識して間違いないだろう。 すなわち、政府と対立の構図を生み出すレールが敷かれてしまった。首里城が第二の辺野古問題と化し、日本政府を振り回す頭痛の種となる日はそう遠くない。 沖縄県がワガママばかり振りかざすようになったら、「復元にもう1円の税金も使わないようにすればよいではないか」という声が聞こえてきそうである。常識で考えれば、「自分たちの城」というのなら、沖縄県外には寄付も求めず、県民や県人だけで復元すればよいではないか。通常ならそうあるべきだと筆者も思う。 しかし、絶対突き放してはならない大きな理由がある。それは、沖縄県人を先住民族とする国連の存在だ。 2008年以降、国連の自由権規約委員会や人種差別撤廃委員会から、日本政府に対し「琉球・沖縄の人々を先住民族と認め、その権利を保護するべきだ」という勧告が5回も出されている。国連では、沖縄県人は日本人ではなく、日本に滅ぼされた琉球王国の末裔(まつえい)であり、現在は日本政府の差別的支配を受けている先住民族と認識されてしまった。札幌市で講演する沖縄県の玉城デニー知事=2019年11月19日 気を付けなければならないのは、前述の琉球新報に掲載された識者もよく使う「沖縄の『自己決定権』回復」という言葉だ。辺野古移設阻止運動でも多用されてきたスローガンである。 沖縄のマスコミは、自治権の拡大というイメージで報じているが、実際の意味は全く異なる。この「自己決定権」とは、国連専門用語の「self-determination」を日本語に置き換えた言葉であり、正しくは「民族自決権」と訳すべきだ。ユネスコが「復元」に口挟むワケ つまり、沖縄の自己決定権の回復とは、日本政府に沖縄の人々を先住民族と認めさせて、その権利を回復する、ということだ。最終的には、琉球王国の復活を意味する。このように、語意をすり替えながら県民を扇動し、国連に沖縄の人々を先住民族だと認めさせてきたのだ。 また、首里城の復元だけでなく、世界遺産登録の観点からも大きな懸念がある。 ユネスコのメヒティルド・ロスラー世界遺産センター長は15日、上野通子文部科学副大臣と会談し、大規模火災で城の主要な建物が失われた首里城の跡地一帯について、世界遺産としての登録取り消しや見直しを行う考えがないことを表明しました。 その上でロスラー・センター長は、必要があればすぐにでも首里城を復元するために、ユネスコから専門家を派遣する意向も示したということです。「ユネスコ、首里城跡の世界遺産登録取り消す考えなし」MBSニュース、2019.11.16 国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)も手を差し伸べてくれるということで、良いニュースのように聞こえる。首里城跡を含む「琉球王国のグスク及び関連遺産群」は2000年にユネスコの世界文化遺産に登録された。 しかし、ユネスコは09年になって、沖縄の言葉が「日本の方言ではない独自の言語」だとして、消滅危機言語に指定している。つまり、世界遺産登録の際には、沖縄の人々を日本人だと見ていたユネスコが、この時点から「沖縄の人々は日本に滅ぼされた先住民族」と認識するようになった可能性が生じる。この大きな変化を見逃してはならない。 もし、ユネスコが国連勧告にのっとって首里城復元に口をはさむとしたら「先住民族の権利を保護するために、琉球・沖縄の人々の希望に応えて所有権を移管せよ」と言い出すことにもつながりかねない。応じてしまえば、日本政府が沖縄の人々を先住民族だと認めたことになってしまうのだ。首里城の復元に向けた初の関係閣僚会議であいさつする安倍首相(右)。その左隣は衛藤沖縄北方相=2019年11月6日、首相官邸 果たして、ユネスコは沖縄の人々を日本人と認識しているのか、それとも先住民族だと認識しているのか。大きなリスクを回避するため、日本政府は関与を受ける前に確認するべきだ。そして、日本人と認識しているとの公式回答がない限り、首里城の復元関連事業に関わらせてはならない。 そもそも、焼失した首里城は世界遺産の登録対象ではない復元建築物なので、世界遺産の登録の可否と全く関係性がない。それならば、なぜユネスコは「必要があれば、専門家を派遣する」というのだろうか。裏の目的があるのではないかと勘繰りたくなるのは、筆者だけだろうか。

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    首里城火災、玉城デニーはリーダーシップを果たせ

    ロバート・D・エルドリッヂ(エルドリッヂ研究所代表、元在沖縄米海兵隊政務外交部次長) 沖縄県民をはじめ、首里城を見学したことのある多くの国民や世界の観光客・来賓が、10月31日の火災で衝撃を受け、言葉を失っている。そして、再建に向けた動きが国内外から始まっている。 出火原因は現時点、調査中のため不明だが、火元は「正殿」とみられている。そこで、いくつかの課題が浮かび上がっている。 一つは、城内にスプリンクラーが設置されていなかったこと、そして、消防車や消防士が入りにくいレイアウトだったことだ。このような設備で、なぜ許可されたのかは不思議だが、最近言われがちな「想定外」という言葉で片づけてほしくない。 沖縄県で合計8年間生活し、そのうち6年間、在沖米海兵隊で勤務した経験がある筆者からすれば、沖縄県庁の危機管理体制は皆無に近い。理由はたくさんあるが、その一つは、左翼の「政治思想」が行政を不健全に支配し、まひしているからだ。全ての行動は「政治のレンズ」から見なされ、新しい対策や試みを採択するかどうかは、それによって決められる。 一例を挙げれば、東日本大震災のあった2011年に、トモダチ作戦の立案・実施に関わった筆者が、2006年当時、大阪大学助教授として発表したその起草の中で提唱した「震災前、顔の見える関係の構築に向けて」を盛り込んだ「防災協力プログラム」を転職後の米海兵隊幹部として全国で展開した。その秋に、将来発生すると言われている東海地震などの共同で対応するために、川勝平太知事のリーダーシップのもと、静岡県庁との事前連携を図り、防災訓練にも参加していた。 それは大きく報道されたが、沖縄に戻り、県庁を訪問して「静岡県との防災協力」というプログラムの趣旨を説明し、沖縄県も同じような関係を持ちたいと依頼したところ、無視された。筆者は非常にがっかりし、怒っていた。防災監のみならず、知事公室長にも抗議し、その良心に訴えた。(詳細は、拙著『トモダチ作戦』集英社および『次の大震災に備えるために』近代消防社を参照) 結局、災害協力ができるようになったのは、2014年9月の宮古島で実施した沖縄県防災訓練だった。つまり、3年間待たされた。もしその間、有人島が多く、離島との間で移動が難しい沖縄県で地震や津波などが発生したら、県と米軍の協力関係が薄いため、十分な対応はできない。激しく燃え上がる首里城の正殿=2019年10月31日、那覇市(近隣住民撮影) 今回の首里城の火災では、米軍のヘリによる消火活動の依頼がなかった。依頼があれば、被害はもう少し抑えられたのではないかと思う。いずれにしても、県の政治思想によって、沖縄県と在日米軍の協力関係があまり構築できず、県の生命と財産(この場合、国や世界の財産でもある)を守ることができなかった。協力どころか、深夜に発生した火災の消火活動に対応するための米軍による夜間訓練はいつも抗議を受け、反対されている。ノーとしか言わない沖縄 不思議なことに、これは米軍だけではなく、自衛隊にも要請しなかったようだ。実は、県庁と県内にある自衛隊、特に陸上自衛隊第15旅団は、期待するほどの関係ができていない。それは、『防衛白書』からも読み取ることができる。その中に「退職自衛官の地方公共団体防災関係部局における在職状況」という一覧がある。 全国でほとんどの都道府県や地方自治体で、元自衛官の幹部が防災の専門家として再就職するが、反軍、反基地、反自衛隊の思想を持つ沖縄県は、元自衛官を採用していない。県内で、今年6月30日の時点で退職自衛官を採用しているのは豊見城市のみだ。その結果、県は重要な情報共有、意思疎通ができないだけでなく、速やかに出動などの協力の依頼もできない。 今回の火災の拡大の背景には、こうした事情があると思われる。「危機管理」は、近年よく使用するようになっている4字熟語だが、行政をはじめ、組織や会社が最も重視すべき仕事だ。 これから、首里城の消防体制など多くの内部告発が出ると思う。なぜなら、沖縄県の政治・行政の改革だけではなく、国や他の都道府県などの文化財の保全のあり方の改善につながるからだ。 3年前に、拙著の『オキナワ論』(新潮新書)で、「NOKINAWA」という新しい言葉を発表した。「『ノー』としか言わない沖縄」を意味するが、主張主義によって国と対立やけんかをし、自衛隊や米軍と距離を置き、批判している沖縄県庁は果たして150万人の県民をはじめ、日本国民のことを考えているのか、常に疑問を持っている。 以前にも提案しているが、こうした状況を改善するために、在日米軍と県庁は、互いに連絡官(liaison officer)を置くべきだ。少なくとも、県庁の職員を、筆者が務めたキャンプフォスター(在沖海兵隊司令部)内にある、4軍調整官の事務所に派遣し、連絡・協力体制を強化すべきだと思っている。 今後も、緊急的に連絡を取る必要がある事案(事件・事故、災害など)が考えられるので、このような緊密関係を構築し、沖縄県の危機管理を向上することができれば、今回の火災という「不幸中の幸い」が生まれるかもしれない。 しっかりした体制に加え、リーダーシップが重要である。昨年8月の翁長雄志氏の突然の死去に伴う選挙で選ばれた玉城デニー沖縄県知事は、火災の1カ月前の9月30日に、就任1周年を迎えたが、県内では評判が高くない。 特に、日本本土をはじめ、国外の出張が多く、県知事の仕事が疎かになっているのではないかとの疑念もある。特に今年、台風などの被害が多く、災害における危機管理が既に問われ、「不在の知事」とまで言われている。首相官邸を訪れ菅官房長官(右)と握手する沖縄県の玉城デニー知事=2019年11月1 日 来月で23年も経過している普天間飛行場の県内移設で国との対立が続いている中、沖縄県は、10年おきに策定する政府による沖縄振興策に向けて40ページに及ぶ要望書を政府に提出しているが、その矛盾が県内外で指摘されている。 首里城の火災は行政の無策による「人災」と言っても過言ではない。この悲しい事件を乗り越え、再建することをはじめ、より長いスパンで政府との信頼ある関係をつくることも求められる。玉城知事にその力があるのかは、過去一年間を見る限り、疑わしい。しかし、国民をはじめ、在沖米軍など外国人の沖縄を愛する人たちは、首里城の再建と沖縄の再発展を応援しているに違いない。

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    江田憲司手記「普天間秘録」

    「普天間返還の原点、その真実を書き記すことが私の使命と考えた」。1996年、沖縄・普天間飛行場の返還をめぐり日米両政府が合意し、今に続く基地問題はここから始まった。当時、橋本龍太郎元首相の秘書官だった江田憲司衆院議員がiRONNAに独占手記を寄せた。普天間秘録。初めて明かされる「23年目の真実」とは。

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    沖縄の知事はそんなに甘くない

    沖縄県民の選択は4年前と同じ「辺野古反対」だった。急逝した翁長雄志前知事の遺志を継ぐ候補として出馬した玉城デニー氏が、安倍政権が支援した前宜野湾市長、佐喜真淳氏を大差で破った。「対立と分断」で揺れた民意をつかんだ玉城氏だが、とまれ沖縄の政治はそんなに甘くない。

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    「オール沖縄」ってなんだ!?

    翁長雄志前知事の急逝に伴う沖縄知事選がきょう投開票される。米軍普天間飛行場(同県宜野湾市)の辺野古移設の是非が最大の争点となった構図は前回と同じだが、そういえば4年前ほど「オール沖縄」の合言葉が聞こえてこない。そもそもオール沖縄とはどんな組織なのか。現地リポートも交え、実態に迫る。

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    「ポスト翁長」の現実味

    今年最大の政治決戦となる沖縄県知事選まで4カ月を切った。現職を支える「オール沖縄」と県政奪還を目指す自民党との一騎打ちの構図になりそうだが、翁長雄志知事は膵臓がん術後の健康問題に不安を抱える。「ポスト翁長」をめぐる沖縄政界の動向と秋決戦の行方を読む。

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    あの人に教えたい沖縄の正しい歴史

    また、この人である。「沖縄は中国から取ったんでしょ」発言で炎上したお笑いコンビ「ウーマンラッシュアワー」の村本大輔だが、当の沖縄では反基地派に担がれてブレイク中だという。あの発言以来、彼を無知と罵る声は絶えませんが、せっかくなのでiRONNAが「沖縄の正しい歴史」を教えたいと思います。

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    いま沖縄で起こっている「異変」

    沖縄は先の大戦の犠牲者を悼む「慰霊の日」を迎えた。戦後72年。米軍統治を経て本土復帰から45年の節目の年でもある。基地問題に揺れる民意は今も本土と大きく隔たり、中国がもくろむ「沖縄独立」の危機はいまだ燻り続ける。いま沖縄で何が起こっているのか。慰霊の日に考えたい。

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    あばよ米軍、トランプに媚売る翁長氏の下心

    沖縄の基地問題にどう対応するか、期待しつつ注視したい」。米軍普天間基地の名護市辺野古への移設に反対する沖縄県の翁長雄志知事が、トランプ氏との面会を求め来年2月にも訪米する意向を示した。トランプ政権で強まる米軍の「日本撤退論」に乗っかり、ここぞとばかりに媚を売る翁長知事の下心やいかに。

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    沖縄ヘイトの現実

    沖縄はゆすりの名人」。基地問題で揺れる沖縄だが、差別と偏見によるバッシングはいまだ後を絶たない。その一方で高江のヘリパッド建設をめぐり地元住民と機動隊が衝突を繰り返している事実を本土の人間はどれほど知っているだろうか。そう、この「温度差」こそが沖縄蔑視の現実なのである。

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    辺野古和解にみた翁長氏「敗北」への道

    米軍普天間飛行場の辺野古移設をめぐる訴訟で国と沖縄県の和解が成立した。ただ、安倍首相は「辺野古が唯一の選択肢」との姿勢を崩しておらず、双方がどこまで歩み寄れるのか不透明だ。政府側の「譲歩」に込められた思惑とは何だったのか。勘ぐれば勘繰るほど、翁長氏「敗北」のシナリオが見えてくる。

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    今井絵理子は翁長氏の「刺客」になれるか

    に関心が薄い若年層への浸透を狙うが、彼女にはもう一つ、大きな役割も期待されている。それは、翁長雄志・沖縄知事の「刺客」というミッションである。

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    「辺野古反対」の民意はどこへ

    米軍普天間飛行場を抱える沖縄県宜野湾市長選は、現職の佐喜真淳氏が再選を果たした。辺野古移設計画をめぐる安倍政権VS翁長知事の「代理戦争」となった選挙の結果に、安倍首相は「この勝利は大きいね」と胸をなで下ろした。翁長氏が掲げる「オール沖縄」の求心力、そして辺野古反対の民意はどこへ向かうのか。

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    沖縄の民意ってなんだ?

    手法を尽くして基地は造らせない」。米軍普天間飛行場の辺野古移設をめぐり、国に対する行政訴訟を起こした沖縄県の翁長雄志知事の言葉である。「民意」を盾に徹底抗戦の構えだが、そもそも沖縄の民意ってなんでしょうか? 捻じ曲げられた声ばかりではなく、たまには本当の声も聞いてみたい。

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    日米に「宣戦布告」した翁長知事

    米軍普天間飛行場の移設計画をめぐり、沖縄県の翁長雄志知事がジュネーブで開かれた国連人権理事会で演説し、「沖縄は人権をないがしろにされた」と日米両政府の対応を批判した。世界に向けて自らの正当性をアピールした翁長氏だが、独善的なパフォーマンスは日米に対する「宣戦布告」にも等しい。

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    翁長さんの言う沖縄の論理、間違ってますよ

    米軍普天間飛行場の移設計画をめぐり、沖縄県の翁長雄志知事が移設予定地の名護市辺野古の埋め立て承認を取り消すと表明し、県と国は全面対決に突入した。「本土の支援はいらないから、とにかく基地をどかせ!」という翁長氏の論理、はっきり言って間違ってますよ。

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    百田発言のどこが悪い

    沖縄二紙について、百田尚樹氏の「つぶさなあかん」発言が槍玉に上げられている。沖縄二紙は会見まで開き、被害者面して言論の自由を訴えた。ならば、これまでの沖縄二紙の報道を徹底検証してみようではないか。

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    崖っぷち「琉球王」翁長氏の独善

    沖縄は23日、太平洋戦争末期の沖縄戦の戦没者20万人以上を追悼する「慰霊の日」を迎えた。追悼式に出席した翁長雄志知事は、米軍普天間基地の辺野古移設中止を求める異例の主張を盛り込んだ。日本の安全保障や国益とかけ離れた発言を繰り返す、崖っぷちの「琉球王」はどこへ向かうのか。

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    駄々っ子より始末が悪い翁長知事

    翁長知事、沖縄のメディアは異常なほど基地反対、反米を煽る。しかし、戦後のアメリカ統治は、「生活環境向上」「人口増」「平均寿命伸長」などあらゆる恩恵を沖縄にもたらした。それを忘れて、恨み言を言うなど笑止千万だ。

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    沖縄の誇り」という民意はどこへ行く

    米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の名護市辺野古への移設問題が最大の争点となった沖縄県知事選が16日、投開票され、前那覇市長の翁長雄志氏が初当選した。県民は「移設阻止」を選択したのである。辺野古移設はどうなるのか。解散風が吹き荒れる本土にも衝撃を与えた沖縄の「民意」はどこへ行く。

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    沖縄独立という「自殺」を煽るのは誰か

    沖縄知事選(11月16日投開票)が10月30日、告示された。米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設問題が最大の争点だが、地元メディアを中心に過熱しているのが、「琉球=沖縄独立論」だ。この問題では、NHK番組がBPO(放送倫理・番組向上機構)に告発されてもいる。沖縄に何が起きているのか。

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    責任感なき独立論 スコットランドと沖縄

    ド独立は住民投票で否決されたが、一連の動きは世界に大きな波紋を広げた。 日本でも、ごく少数とはいえ沖縄の独立論者が存在することをどう考えるべきか。