検索ワード:渡邊大門の戦国ミステリー/26件ヒットしました

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    秀吉「朝鮮出兵」がもたらした光と影

    秀吉による「朝鮮出兵」では、多数の朝鮮人が生け捕りにされ、日本に連行された。女は性奴隷、男は過酷な労役など、多くは悲惨な人生を余儀なくされた。一方で、日本の伝統文化である伊万里焼の生みの親として名を残したほか、日本人との結婚で幸福な余生を送った者もいた。天と地ほど違った朝鮮人捕虜たちの記録を追う。

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    陶工、文官、性奴隷…生け捕り朝鮮人たちの天国と地獄

    渡邊大門(歴史学者) 前回に引き続き、日本に連行された朝鮮人の話である。おたあ・ジュリア以外にも、朝鮮人キリシタンは日本に存在した。朝鮮人キリシタンというよりも、日本に連行されてから入信したというのが正確である。 その一人にコスモ竹屋という朝鮮人がいる。その生涯はほとんど分からないが、尾張国の武具師で宣教師の通訳を務めていたという(『日本基督教史』)。慶長19(1614)年に修道士やキリシタンが国外に追放されて以降、突如としてコスモ竹屋は史上に登場する。 江戸時代になるとキリスト教信者は国外に追放されたが、元和4(1618)年の夏、彼らの中に密かに日本へ潜入する者があり、それは組織的なものであったという。同年10月、イエズス会のイタリア人宣教師、カルロ・スピノラが、ポルトガル人のドミンゴ・ジョルジの家で捕らえられた。同じ頃、朝鮮人のコスモ竹屋の家においても、日本に潜入していたオルスチとほか1人が捕縛された(『切支丹伝道の興廃』)。 その後、スピノラは大村(長崎県大村市)に移送され、元和8(1622)年に西坂(長崎市)で殉教した。これが「元和の大殉教」といわれるものである。 もう一人は、嘉兵衛つまりビセンテ嘉運である。嘉運は文禄・慶長の役の際、わずか13歳で朝鮮から日本に連行された、連行したのは、小西行長である。嘉運は行長のもとでキリスト教の教えを受け、慶長年間には北京や朝鮮にも滞在した。特に、北京での滞在期間は、4年にも及んでいる。その後、嘉運は日本に帰国し、イルマン(司祭職にあるパードレを補佐する役)として活動した。 元和5年に禁教令が発布されると、状況は大きく変化した。日本に帰国した嘉運は、寛永2(1625)年に宣教師のゾラとともに捕らえられた。そして、火炙りの刑に処せられたという(『切支丹伝道の興廃』)。元和年間以降、キリシタンの処刑がたびたび行われていたが、その流れを受けるものであろう。※写真はイメージ(ゲッティイメージズ) 最後に、カイなる人物を取り上げておこう。その来歴は、『日本西教史』に記載されているので、次に掲出しておく。 カイは文禄・慶長の役で捕虜となって、日本にやって来た。仏門に入ったが、精神の安定を得られなかった。のちに教会の師父に奉仕し、第一の祈念としてライ病を患っている者の完治とした。宣教師が日本を追われると、ジュード右近(高山右近)にしたがってフィリピンに行ったものの、右近の死後は日本に潜入し、長崎に居住した。子供をキリスト教に導き、異教徒をキリスト教の信者となし、貧しい人を救ったが捕らえられ、1625年に処刑された。 もちろん日本に連行された朝鮮人の中には、ほかにもキリスト教に入信した者が存在したであろう。したがって、ここに挙げた3人は、記録に残った幸運な部類に属するといえるのかもしれない。伊万里焼に一役 日本に連行された朝鮮人のうち、技術者として尊重されたのが陶工たちである。とりわけ九州各地には、朝鮮人陶工が足跡を残している。以下、そうした陶工たちのルーツをたどることにしよう。 日本を代表する陶磁器の一つとして、伊万里焼がある。有田焼とも称されている通り、佐賀県有田市の特産品である。伊万里港から輸出されたので、伊万里焼と呼ばれることもある。寛永15(1638)年に松江重頼が著した『毛吹草』という俳諧論書の中で、「今利(伊万里)ノ焼物」と記されている。初期の伊万里染付や古伊万里錦手などの色絵の中には、優れた作品が多く、現在も高値で取引がなされている。この伊万里焼に一役買ったのが、日本に連行された朝鮮人であった。 その朝鮮人の名は李参平といい、朝鮮の忠清道金江の出身だった。文禄の役の際、参平は出陣していた鍋島直茂の家臣・多久長門守安順に生け捕りにされた。多久氏は小城郡多久(佐賀県多久市)を本拠としているので、参平は同地に居住させられた。やがて、参平は磁器を製作できる場所を探し、鍋島領内を探し求めたという。そして、白磁鉱を発見した地が、有田町の東北部に位置する松浦郡泉山であった。 時期的には1610年代のことといわれており、それは考古学的な発掘調査によっても裏付けられる。参平は上白川山に移り、天狗谷窯を開いた。そして、日本で初めて白磁を焼いたのである。この功績は鍋島氏によって評価され、参平の子孫には陶器を製造する際の税が免除されたという。こうして参平のもとには、伊万里焼の製造を希望する者が集まり、やがて一大集落になったというのである。 参平は出身が忠清道金江であったので、地名にちなんで姓を「金江」と称した。亡くなったのは、明暦元(1655)年であるが、その墓は長らく行方知れずになっていた。しかし、現在では発見され、有田町の指定史跡となっている。また、現地で参平は「陶祖」として崇められ、陶山神社では鍋島直茂とともに祭神として祀られている。日本に連行されたのは不本意であったかもしれないが、伊万里焼の発展に貢献した人物として知られている。 隣の長崎県では平戸焼(三川内焼)が有名であるが、こちらも日本に連行された朝鮮人の貢献があったという。平戸焼は佐世保市三川内で生産されたので、三川内焼というが、もとは平戸島中野村(平戸市)の窯で製作されていた。白磁の染付けや色焼が美しく、今も人気の高い陶磁器の一つである。 平戸に本拠を置く松浦鎮信が慶長の役に出陣した際、やはり多くの朝鮮人を日本に連行した。その中の一人に巨関なる人物がいた。巨関は1556年の生まれで、慶尚道熊川の出身であるという。巨関は松浦氏の命により、平戸島中野村に窯を開き、陶器を焼いていたという。やがて、巨関は日本人女性と結ばれ、今村氏を姓として、今村弥次兵衛と名乗ったのである(以下、巨関で統一)。※伊万里焼の器(ゲッティイメージズ) その後、巨関は子に恵まれ、その子は今村三ノ丞と名乗った。父子は良質の土を求めて、平戸の領内を探し求めた。そこで出会ったのが、三川内の白磁鉱(網代陶石)であった。寛永10(1633)年のことである。三ノ丞は窯場の棟梁に任じられ、慶安3(1650)年には中野村から三川内に陶工たちは移住させられた。こうして平戸焼は御用窯として庇護され、朝廷や諸大名への献上品など高級な器を焼いた。しかし、その間は苦労が絶えず、何度も失敗することがあったと伝える。 以後、今村家は平戸焼の生産で多大な貢献をした。巨関は寛永20(1643)年に亡くなった。巨関もまた、日本の陶磁器産業の発展に尽くしたのである。重職への登用も 朝鮮から連行した陶工によって発展した窯は、以上のものだけではない。たとえば、筑前高取焼は黒田氏が朝鮮から連行した陶工により始まったが、製作者の具体的な人名は分かっていない。また、長門萩焼は、毛利氏が朝鮮から連行した陶工・李敬が創始者であった。このように、今も脈々と受け継がれる伝統的な日本の窯業は、朝鮮から連れて来られた陶工たちによって、その礎が築かれたといえよう。 日本に連行された朝鮮人の中には、近世以降、藩体制の中で重要な役職に登用される者もあった。金如鉄(のちの脇田直賢)がその人である。如鉄については、鶴園裕氏らの研究グループによりすでに多くの事実が掘り起こされているので、以下、それらの成果から紹介することにしよう(『日本近世初期における渡来朝鮮人の研究―加賀藩を中心に―』)。 万暦14(1686)年、如鉄は翰林(かんりん)学士・金時省の子として、朝鮮帝都(漢城)で誕生した。翰林学士とは天子の秘書的な役割を果たし、また政治顧問の性格を有していた。如鉄がいかに恵まれた環境に誕生したかが分かるであろう。しかし、そんな如鉄を悲劇が襲う。文禄元(1592)年から始まった文禄の役によって、父・時省が戦死してしまうのである。悲劇はそれだけに止まらなかった。 同年5月、如鉄自身は戦いの最中に宇喜多秀家の兵に捕らえられ、捕虜となったのである。秀家は朝鮮で多くの子供を生け捕りにしたといわれ、如鉄もその一人であり、まだわずか7歳の少年だった。同年12月、如鉄は日本の岡山へと連れて来られた。父を失い孤児になった如鉄は、いかなる心境だったのであろうか。 翌年、如鉄は金沢の前田利家の妻・芳春院のもとに送られた。秀家の妻・豪姫は利家の娘だったが、いったん豊臣秀吉の養女となり、そして秀家の妻になった。やがて如鉄は、利家の長男・利長のもとに預けられ、名も日本風に九兵衛と改められると、慶長10(1605)年頃には230石の俸禄で近習奉公するようになった。 前田家に仕えた如鉄にも、やがて転機が訪れる。同年、脇田重之(重俊)の姪と結婚し、脇田姓を名乗るようになった。そして、脇田直賢として一家を構えたのである(以下、如鉄で統一)。ところが、この頃讒言(ざんげん)によって、1年もの間、閉居を命じられた。ようやく許されたのは翌年のことである。芳春院の口添えによるものであった。 以降、如鉄は子供にも恵まれ、一見して幸せそうに見えたが、正当な評価がなされなかった感もあり、悶々とした日々を送っていた。慶長19年に長年仕えた利長が亡くなると、引き続き養子の利常に仕えた。その直後、大坂の陣に参陣し大いに武功を挙げるが、その評価は必ずしも正しいものではなかった。大阪城(ゲッティイメージズ) その後、何度も藩に対して、武功を書き連ねた書上げを提出するが、わずかな恩賞が下付されるに過ぎなかった。ところが、寛永8(1631)年に大坂の陣における戦功について再検討が開始されると、如鉄の評価は大きく修正された。結果、如鉄は1000石を与えられ(570石の加増)、御鉄砲頭、御使番に命じられた。さらに、その後は算用場奉行などを経て、ついに金沢町奉行に任じられたのである。正保2(1645)年のことで、如鉄はすでに60歳という高齢に達していた。 万治2(1659)年、如鉄は74歳で家督を嫡男・平丞に譲ると、直後に出家し、翌年に75歳で亡くなった。分かれた朝鮮人奴隷の明暗 如鉄は朝鮮の上流階級の家柄に誕生したことから、官僚としての能力も高く、また文芸に秀でていたという。慶長19年、江戸にあった芳春院は、山田如見を伴って金沢に帰ってきた。その際、如鉄は如見から、「源氏物語切紙伝授」と「古今伝授」を授けられたという。これは日本人でもなかなか叶わないことであった。また、発句をたびたび詠んだことが知られている。いかに如鉄が聡明に人物であったかを示していよう。 如鉄のように技術者としてではなく、文官として如何なく能力を発揮した人物も記憶に留めておく必要がある。 ここまでは、朝鮮人の男性を取り上げてきた。男性の方が、その履歴などが判明しているからである。以下、目を転じて女性に注目することとしたい。この分野では、金文子氏の研究を参照しながら、その実態を取り上げることにしよう(「文禄・慶長の役における朝鮮被虜人の帰還」「秀吉の朝鮮侵略と女性被虜」)。 ここまで述べてきたように、捕らわれの身になった朝鮮人の身分は、実にさまざまである。官僚や学者もいれば、陶工などの技術者なども存在した。しかし、圧倒的に多かったのは、老若男女・子供を含めた農民ということになろう。彼らは戦闘員でないにもかかわらず、見境なく捕らえられ、日本に連行された。彼らのその後の生涯については、次のように分類されている。A奴隷に売られ、もっとも悲惨な生涯を送った人B幸いに生き長らえて、朝鮮に帰還を果たした人C帰還のチャンスを逃し、日本社会に適応しながら、生活をせざるを得なかった人 Cが最も多かったのではないかと考えられるが、Aも多かったと推測され、Bは最後に触れるが、必ずしも幸いとはいえなかったようである。 強制連行された朝鮮人女性は、いかなる運命をたどったのか。その特徴については、次の5つのケースに分類されている。①容貌や才能が優れていたため連行された女性②戦争中に日本人と結婚したため来日した女性③日本兵の性的欲求を満たすために連行された女性④日本国内で労働に従事させるために連行された女性⑤奴隷売買のため連行された女性 ①については、豊臣秀吉が縫工などを要求していたという事実がある。才能に加えて美しい容貌であれば、高値で取引されたという。いずれにしても、売買の対象であったのには変わりがない。④は、男性ともども農作業などに従事させられた。①と④は、⑤との関連性が強いであろう。③については、可能性は否定できないが、史料的な裏付けが困難である。あるいは②との関係性があるかもしれない。 Bについては、いくつかの例が知られているので挙げることにしよう。平戸の松浦鎮信は、朝鮮出兵時に釜山の京城を攻撃した。その際、小麦畑に美しい姫が潜んでおり、彼女らを捕らえて平戸に連れ帰ったという。彼女の本名は廟清姫といったが、のちに小麦姫と称された。そして、帰国後に鎮信と小麦姫との間に誕生したのが、のちに壱岐島主になった松浦信政である。「壬辰倭乱図」(和歌山県立博物館提供) 同じような例は、ほかにもある。対馬・宗氏の家臣の一人に橘智正なる者があった。智正は、のちに文禄・慶長の役で朝鮮から連行した人々を送還する役割を担ったことで知られる。そもそも宗氏は朝鮮との関係が深く、橘氏もその配下にあって、朝鮮との親和性が強かったのかもしれない。彼の妻もまた、朝鮮の女性だった。 朝鮮に出兵した吉川広家は、朴佑の娘を連れ帰り、侍女にしたという。こうした例は、ほかにもたくさんあるであろう。 では、どのくらいの女性が日本へ連行されたのであろうか。朝鮮から連行された人々の数は実にさまざまであり、2、3万人から10万人以上まで開きが大きい。概して、日本側の見積もりは低く、朝鮮側は高い。『月峯海上録』という史料によると、日本に連行された男性は3、4万人とされ、女性はその倍になるという。フロイスの『日本史』を参考にすると、5万人程度になると推測されている。※主要参考文献 渡邊大門『人身売買・奴隷・拉致の日本史』(柏書房)

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    家康に翻弄された李氏朝鮮の女捕虜「おたあ・ジュリア」の運命

    渡邊大門(歴史学者) 前回、取り上げた通り、多くの朝鮮人が文禄・慶長の役において、日本に連行された。彼らは日本に連行されると、朝鮮人町と称されるようになった地域に居住する。今回は、その経緯や実態などをもう少し詳しく取り上げることにしよう。 朝鮮人町を記録した史料として、『土佐物語』という編纂物がある。これは紀貫之の『土佐日記』と類似したタイトルであるが、まったくの別物で、土佐国の戦国大名、長宗我部氏の興亡を描いた軍記物である。『土佐物語』は宝永5(1708)年に成立し、著者は吉田孝世である。 孝世の父祖は、代々、土佐の戦国大名の長宗我部氏に仕えていた。したがって、同書は少しばかり長宗我部氏贔屓(びいき)のところがあるかもしれない。『土佐物語』には、連行された朝鮮人の名医である経東について書かれている。内容は、次の通りである。 生け捕った朝鮮人80余人を土佐国に連行し、不便ながらも町屋を立て置いて、唐人町と称した。朝鮮人は豆腐というものを調理して売買し、1日の糧として年月を過ごした。その中に吉田市左衛門が朝鮮で組み伏し、生け捕りにした朴好仁は、名のある軍将だったので、賓客のように丁寧に饗応していた。情けのほどがありがたい。朴好仁の子孫は、いかなる理由か不明であるが、今は秋月氏というそうだ。 経東は文禄の役において、長宗我部氏によって土佐に連行された人物である。彼は現在の土佐市内に居を構え、病に効く薬草を採集し、その名医ぶりを発揮した。長宗我部氏の厚い信頼も得ていたが、経東に嫉妬心を抱いた医師によって毒を盛られ、悲惨な死を迎えたといわれている(『土佐国人物誌』)。同じく、朴好仁も普州の戦いにおいて、吉田市左衛門政重に捕らえられた人物である(『土佐物語』)。 この記事には唐人町の具体的な位置が示されていないが、慶長6(1601)年に山内一豊が高知城を築城後、その城下に形成されたといわれている。おそらく朝鮮人は、特定の場所に集住を命じられたのだろう。 そして、何よりも問題になるのが豆腐であり、朝鮮から伝わったことが判明する。豆腐は純粋な日本の食べ物と考えられているが、この記事やその他の史料類を参照すると、必ずしもそうとは言えないようである。 天保5(1834)年に成立した『虚南留別志(うそなるべし)』という料理書には、豆腐の起源について、次のように記している。 豆腐は豊臣秀吉公の文禄・慶長の役のとき、兵粮奉行の岡部治郎右衛門という者がおり、のちに豆腐の製法を朝鮮の人から学んできた。日本で初めて豆腐を作った。 この記述を見る限り、現在のわれわれの食卓に並ぶ豆腐は、朝鮮が起源だったことが分かる。ちなみに『広文庫』によると、豆腐は文禄・慶長の役の際、生け捕りした朝鮮人によって伝わったと記されている。高知城の天守=高知市(門井聡撮影) 土佐国では、高知城の城下において唐人町が形成され、豆腐職人が集住するようになった。やがて、彼らは日本人と混じることにより、姓名も日本のものに改めたのであろう。こうして代数を重ねて、日本人になっていった。国籍より能力重視 生け捕られた朝鮮人の中には、召抱えられて学者になった者もあった。彼らの多くは両班(やんばん)という、朝鮮の特権支配階級だったと考えられる。その点については、『細川家記』という史料に記されている。 同書は、全73巻から成る肥後熊本藩主、細川氏の家史であり、編者による書名は『綿考輯録(しゅうろく)』という。『綿考輯録』には、「連綿と考え輯(あつ)める」との意味がある。細川家では、単に『御家譜』と呼んでいる。そして、同書には、学者になった朝鮮人について、次のように記している。 南条元宅のもとに生け捕られた李宗果という者が日本に残り、のちに豊前へ行って、細川忠利と懇意になり、たびたび御前に召し出された。李宗果の子息の慶宅は8歳であったが、忠利が貰い受け、高本の名字と御紋を与えた。のちに知行を与えられ、医師となった。今の高本慶蔵の先祖である。慶蔵の本知行は200石、足高300石。学校教授職を仰せ付けられた。 冒頭の南条元宅(姓は小鴨とも)は、もと伯耆国の武将であったが、羽柴(豊臣)秀吉の中国計略に屈し、以後はその配下に収まった。天正10(1582)年6月に本能寺の変が勃発すると、その2年後には伯耆東部に所領を得て、晴れて大名として復帰した。以後、秀吉に従って各地を転戦し、文禄・慶長の役にも出陣した。そのとき、李宗果を生け捕ったのである。 その後、元宅は主家筋に当たる南条元忠と確執が生じ、肥後の小西行長のもとに預けられた。慶長5(1600)年9月の関ヶ原合戦後は、肥後の加藤清正の家臣となった。慶長19(1614)年の大坂冬の陣において、元宅は豊臣方に与するため大坂城に向かうが、その船中で病に伏し、帰らぬ人となった。李宗果が豊前に行った時期は不明であるが、タイミング的に関ヶ原合戦後だった可能性が高い。 宗果の子は慶宅と名乗ったが、おそらく元宅の「宅」の字を与えられたのであろう。肥後藩主の細川忠利はその利発さを見抜き、貰い受けて高本姓などを与えたと考えられる。能力が優先され、国籍は関係なかった。 高本慶蔵は、肥後藩の藩校「時習館」の第4代教授を務めた人物である。その子で5代目の慶蔵は、明和8(1771)年に時習館訓導(教師)に任じられ、天明8(1788)年に教授に就任した。彼は、時習館で国学の指導を行った。 このように肥後藩では、のちに朝鮮から連行された者の子孫が学者となり、指導的な立場に立った。彼らは並々ならぬ努力をし、その結果、才能が花開いたのであろう。『壬辰倭乱図』(和歌山県立博物館提供) 儒学者といえば、文禄の役で浅野長政の軍に捕らえられ、日本に連行された李真栄(李一恕とも)も有名な人物である。 李真栄は、朝鮮慶尚道霊山の貴族の家に誕生したという。文禄2(1593)年に捕らえられた時点で22歳か23歳だったので、誕生は1571年か72年ということになろう。身分も高貴であり、前途ある青年だった。 同年、生け捕りにされた真栄は、羽根田長門守により肥前・名護屋(佐賀県唐津市)に送られた。その後、真栄は大坂で過ごすこともあったが、そのときに紀州名草郡西松江(和歌山市)の西右衛門なる人物に出会い、同地に赴いた。儒学で藩政に貢献 やがて真栄は、和歌山城下の海善寺の僧である中岸松院西養にその境遇を哀れに思われ、引き取られることになった。真栄は寺に住むことになったが、仏門での生活が肌に合わなかったらしい。しばらくすると、真栄は海善寺をあとにして、再び大坂へと向かった。そして、程なくして大坂冬の陣が勃発したのである。 慶長19(1614)年に大坂の陣が始まると、真栄は戦火を避けて、再び紀州へと戻った。真栄は有田郡で土豪の末裔と称する宮崎三郎右衛門の娘を娶(めと)り、久保町(和歌山市)に居を構えた。 2人の間に誕生したのが、梅渓と立卓という2人の男子である。そして、真栄は卜筮(ぼくぜい、占い)により生活を支え、合わせて儒学を講じて糊口を凌いでいた。このとき、すでに真栄は多くの弟子を抱えていたようである。 元和5(1619)年、徳川頼宣が紀州藩主として入部すると、真栄は儒学者として召抱えられることになった。南麻主計尉なる人物の推薦があったという。真栄は毎晩、頼宣に講義を実施し、元和8年に切米30石を与えられた。 寛永3(1626)年、朝鮮の物産が必要になったため、真栄は御金奉行である羽賀三郎兵衛、堀部佐右衛門らとともに対馬に赴いた。そこで、朝鮮人と交渉し、無事に役目を終えたのである。その功績により、真栄は被服と白銀300枚を与えられたという。真栄が亡くなったのは、寛永10(1633)年のことである。 真栄の子息の梅渓は、父以上に知られる存在であった。梅渓は、真栄の嫡男として元和9(1623)年に誕生した。幼い頃から詩文に秀でており、豊かな才能を持っていたようである。父が亡くなった翌年の寛永11(1634)年に家督を相続し、儒者として切米30石を与えられた。 のちに頼宣の儒者、永田善斎のもとで学び、京都に留学する機会を得た。その間に切米は、80石にまで加増された。梅渓は、藩主徳川頼宣の子である光貞にも学問を教授した。また、朝鮮通信使が来航したときには、通訳を務めるなどし、大いに貢献したことが知られている。 万治3(1660)年以降、梅渓は農民に対する教育も行い、また家臣に対して儒学を講釈している。さらに、徳川家の「年譜」の編纂で中心的な役割を果たし、30年もの年月を経て『徳川創業記』などを完成し、江戸幕府に献上することができた。梅渓はその功を称えられ、寛文12(1672)年には知行を300石に加増された。 その後も梅渓は儒学を講じ、また熊野で古跡の調査を行うなどした。書画に優れていたことから、ときに友ヶ島の額や和歌浦の碑文を揮毫(きごう)したこともある。亡くなったのは天和2(1682)年で、66歳であった。このように、親子2代にわたって紀州藩に貢献したことは、特筆に価するであろう。 また、文禄・慶長の役の際、日本に連行された女性に「おたあ・ジュリア」という女性がいる。ジュリアは、朝鮮出兵のときに最前線で戦った小西行長とともに来日したといわれている。ジュリアは李氏朝鮮の貴族の娘だったとされるが、その根拠は次の史料である(『日本西教史』)。東京都神津島村にある「おたあ・ジュリア」の石碑(写真は同村提供) この婦人(=ジュリア)は高麗の貴族で、かつて秀吉が朝鮮に出兵したとき、ドム・オーギュスタン(アウグスティヌス、小西行長)によって捕虜になり、幼くして日本にやって来た。容貌や才気ともに人より優れた婦人になる素質があった。 『日本西教史』はイエズス会の宣教師、クラッセの手になるもので、1689年に刊行された。ポルトガル人宣教師、フロイスの『日本史』や『イエズス会日本年報』をもとに叙述されているが、史料的な価値は低いと指摘されている。韓国では「聖女」のジュリア しかし、同書はジュリアの出自を記す数少ない史料である。周知の通り、小西行長はキリシタン大名であり、その縁でジュリアもキリスト教の洗礼を受けたといわれている。ジュリアとは、そのときに授けられた洗礼名である。行長は同じクリスチャンであるジュリアに対して、何らかの感情を抱いていたのかもしれない。 ところが、その後、ジュリアの運命に暗い影が差す。慶長5(1600)年9月に関ヶ原合戦が勃発すると、小西行長は西軍に与して出陣し、あっけなく東軍の徳川家康に敗れ去った。やがて行長が斬首されると、ジュリアは家康に連行され、「奥方ノ御物仕」として仕えた。奥座敷の女官のような役割であったと推測される。 時を同じくして禁教令が徹底され、キリスト教への風当たりが徐々に強くなってきた。ジュリアはキリスト教を捨てることなく、伏見城、駿府城にあったときも宣教師との接触を続けた。特に、駿府城内では礼拝堂を設け、厳しい弾圧の中にあっても、他の女官たちにもキリスト教への入信を薦めている。 『ビスカイノ金銀探検報告』には、次のような記述がある。 私が旅館に帰ったところ、そこに皇帝の宮中の女性の奴隷、いや女官と称したほうがよいであろう。ジュリアという女性が大使を訪問し、ミサ聖堂に参列するため待っていた。この婦人(=ジュリア)を歓待し、ガラス細工やそのほかのものを与えると、影像や数珠など信心を示す品々に心を寄せていた。彼女は良いキリシタンといわれているが、その態度はそのことを示すと思われた。 慶長17(1612)年にキリシタン禁教令が発布されると、ジュリアは棄教を迫られた。しかし、ジュリアは棄教を拒否したため、伊豆大島、新島そして神津島へと流された。その7年後には島を脱し、長崎に滞在したようで、さらに大坂に逃れたことがわかる。各地を転々として、追及から逃れたのである。※写真はイメージ(ゲッティイメージズ) 大坂では、パシェコ神父の経済的支援を受けた。その後の様子は明らかではないが、神津島の流人墓地にはジュリアの墓と称するものがある。韓国では「聖女」として崇められており、現在も敬愛されている。 このように、日本には多くの朝鮮人が連行されたが、それぞれの分野で大いに貢献したことが知られている。次回は、日本に定住した朝鮮人をさらに紹介することにしよう。※主要参考文献 渡邊大門『人身売買・奴隷・拉致の日本史』(柏書房)■「朝鮮出兵」波乱に満ちた生け捕り奴隷の人生■南蛮人が大いに利用した「武勇の民」日本人奴隷の戦闘力■「奴隷を売る日本人が悪い」天正遣欧使節、千々石ミゲルのモヤモヤ

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    「朝鮮出兵」波乱に満ちた生け捕り奴隷の人生

    渡邊大門(歴史学者) 文禄・慶長の役では、多数の朝鮮人が日本に連行あるいは売買された。その事実は、数多くの史料で確認することができる。以下、さまざまな事例を挙げておこう。 朝鮮人が売買された状況は、『朝鮮日々記』という史料で確認できる。『朝鮮日々記』を書いたのは、臼杵城主の太田一吉に仕える医僧で、臼杵・安養寺の僧、慶念である。慶念は慶長の役に従軍し、戦争を記録するとともに、望郷の念などをときに狂歌を交えながら書き綴った。 同史料には慶長2(1597)年6月から同3年2月までが記録されており、朝鮮出兵における悲惨な状況を記した貴重な史料である。豊臣秀吉や諸大名などの権力者でなく、市井の人が朝鮮出兵をどう捉えていたかを示す珍しい内容を含んでいる。 慶長2年11月、日本軍は攻防の拠点とするため、蔚山(ウルサン)に城を築くことになった。このとき大量に動員されたのが、日本から徴発された人々であった。彼らは昼夜を問わず、築城工事に動員され、その疲労は極限に達していた。 動員された日本人は、ときに朝鮮人ゲリラから襲撃を受けることもあり、心休まることがなかったであろう。また、労働をさぼったり、持ち場を逃げ出した者は、首を斬られ辻に晒されたり、首枷(くびかせ)をかけられて焼印をされることもあった。動員された日本人にとっても、朝鮮出兵は悲劇だったのである。 こうした状況下、ついに人買商人の姿が『朝鮮日々記』にあらわれる。次に、書かれている内容を示すことにしよう。 日本からさまざまな商人たちが朝鮮にやって来たが、その中に人商いをする者も来ていた。奥陣のあとをついて歩いて、老若男女を買うと、首に縄を括りつけて一ヵ所に集めた。人買商人は買った朝鮮人を先に追い立て、歩けなくなると後から杖で追い立てて走らせる様子は、さながら阿防羅刹(地獄の鬼)が罪人を攻める様子を思い浮かべる。 人買商人は、常に軍勢の後ろからついていって、日本軍の雑兵から生け捕りにした朝鮮人を二束三文で買いたたいたのであろう。買った朝鮮人には、逃亡しないように首に縄を括りつけ、後ろから追い立てるようにして、彼らを誘導したのである。 その後、朝鮮人奴隷は、港から船で日本へ運ばれ、ある者は日本で転売され、またある者はポルトガルの商人らに転売されたと考えられる。それは、単なる商品にすぎなかった。さながら慶念が言うように、地獄絵図であった。「壬辰倭乱図」(和歌山県立博物館提供) 同様の記述は、『朝鮮日々記』の別の箇所にも見ることができる。慶念は朝鮮人の女性たちが集められ、人買商人に引き渡している様子を狂歌にし、次のように文章を継いでいる。 人買商人はかくの如く奴隷を買い集め、たとえば猿の首に縄を括って歩くように、奴隷に牛馬を引かせたり、荷物を持たせたりして責める様子は、実に痛ましい光景である。 彼ら奴隷は牛馬のように、さまざまな肉体労働に従事させられた。それは、男女の区別もなかったようである。また、『延陵世鑑』という書物がある。同書は延岡藩の侍医を務めた白瀬永年の手になるもので、19世紀に成立したものである。そこにもほぼ同様の記述がある。朝鮮人奴隷は「土産」 高橋勢が往来するごとに、朝鮮から老若男女を問わず、生け捕られて奴隷となった。その数は、何百人いたかわからない。そのような中にも、幸運な女性は妻妾となり、男は主人から許可を得て妻子をもうけ、生活する者があった。長生きした者は、慶安(1648~1652年)、承応(1652~1655年)まで存命で、その子孫は今も多い。 この記録は文禄・慶長の役から300年近く経過して成立したが、内容はおおむね史実として認めてよいであろう。生け捕りされた男女のうち、結婚して家族を持つことができた者は、極めて幸運だったようである。なぜなら、奴隷は家畜に等しい存在だったからである。 朝鮮半島から奴隷を連行したのは、人買商人の専売特許ではない。それは、現地で戦った日本の武将も同じであった。 戦国史家の藤木久志氏は、そうした例の一つとして、薩摩の武将・大島忠泰を取り上げている(『雑兵たちの戦場―中世の傭兵と奴隷狩り―』朝日新聞社)。大島氏は薩摩の名門・高城氏の流れをくむ東郷氏の庶流で、島津氏に従って朝鮮出兵に従軍した。 そのときの様子は、『高麗御供船中日記』、『大嶋久左衛門忠泰高麗道記』、『大嶋久左衛門忠泰従高麗之文写』といった史料に記されている。その中には、忠泰が国許の妻に送った書状がある。以下、内容を解説しておこう。 慶長の役に出陣した忠泰は、約30万という朝鮮軍を相手にして、相当な苦戦を強いられたようである。それでも島津軍は、3万余の敵の首を討ち取った。問題はここからである。忠泰の仲間たちは、殺害した敵の懐から金品を奪ったというのである。まさしく戦利品であった。 しかし、忠泰には恥ずかしさもあったのか、馬を失ったにもかかわらず、敵の死骸から古着すら剥ぎ取れなかったという。それでも武功の証として、倒した敵の鼻を削ぐことは忘れなかったようである。当時、首は持ち運ぶのに不便だったので、代わりに鼻を削いで軍功の証としていた。 問題はそれだけに止まらなかった。忠泰には、角右衛門という家来がいた。ちょうど彼が日本に帰国するので、国許に朝鮮人奴隷を「お土産」として届けたと書状に書いている。奴隷は複数いたようで、そのうちの一人を娘に与えるように、と書状にある。 ちなみに忠泰も子供を召し使っていたが、病気で困っていたようである。また、別の家来に対しても、下女を買い求めて送ると記している。ただし、忠泰は食料に事欠くほど金がなかったので、この場合は「下女を買った」のではなく、生け捕りにしたと考えられる。 このように朝鮮に出兵した武将たちの中には、「お土産」として朝鮮人奴隷を日本の家族に贈っていたことが分かるのである。普通に書いているところを見ると、それは戦場でごく自然なことであったかのような印象を受ける。※写真はイメージ(ゲッティイメージズ) ここまで捕らえられた朝鮮人奴隷について述べてきたが、言うまでもなく日本人も朝鮮軍に生け捕りにされていた。歴史学者の中村栄孝氏は、その中で福田勘介の供述を取り上げて、興味深い分析を加えている(「朝鮮軍の捕虜になった福田勘介の供述」『日本史の研究』61輯)。以下、中村氏の研究に基づき、勘介の供述を確認しておこう。 慶長2年10月、一人の日本人が朝鮮軍の捕虜となったことが報告されている(『宣祖実録』)。その人物こそが、勘介その人である。では、勘介はいかなる人物なのであろうか。勘介自身の供述によると、勘介は加藤清正配下の部将であり、百余人の兵を率いて、全羅道に向かっていたという。 朝鮮出兵中の同年7月に忠清道で捕虜となり、尋問を受けたのである。しかし、別の史料によって、清正軍に勘介が加わっていたというものが見受けられないので、供述が嘘である可能性があると指摘されている。奴隷は耕作要員 このように朝鮮軍の捕虜となった者(部隊長クラスの者)は、「降倭将」と呼ばれた。「降倭将」は、鳥銃(=火縄銃)の使用法を朝鮮人に教授していたようである。のちに触れるが、沙也可もその一人である。勘介は自ら火縄銃の操作に秀でていることをアピールしているので、ほかの「降倭将」と同様の地位を得ようとしたのであろう。 中村氏が指摘するように、勘介の供述は的確に重要なことを述べており、内容も十分に信用できるという。その重要な供述として、日本軍がどのような理由によって、朝鮮人を日本に連行したかが記されている。 普通に考えると、日本軍による朝鮮出兵は、占領を目的としたと考えるべきであろう。当初、秀吉が構想した通り、やがては天皇、公家、大名らを移す計画もあった。しかし、慶長の役での目的は、決して占領だけにあるとは言えなかったようである。 基本的に老若男女にかかわらず、歩くことができる朝鮮人は日本に連行した。生け捕りされた朝鮮人の中には、貴族や官僚クラスの者もいたという。逆に、歩けない者はお荷物になり、また役に立たないことが想定されたのか、殺害される者が多かった。 生け捕りにされた者が、人買商人によって船に乗せられ、日本に送られたことはこれまで述べた通りである。勘介はその目的を明確に述べている。その供述内容を箇条書きに整理すると、次のようになろう。 ①朝鮮人奴隷に日本の農地を耕作させる。 ②日本の農民は、朝鮮出兵に徴用する。 ③①②を繰り返すことにより、最終的に明への攻撃態勢を整える。 つまり、日本の農地耕作は朝鮮人にやらせて、朝鮮での戦争には日本の農民を従軍させるということになろう。生け捕った朝鮮人を日本軍に編入するのは、常識的に考えてかなりの困難が伴う。それならば生け捕った朝鮮人には耕作をさせ、日本人を兵として徴用した方が合理的である。こうしたことを繰り返し、やがて日本人の多くが朝鮮に出兵し、農村での労働不足を解消するとともに、「明」への臨戦態勢が整うことになる。 ここまで合理的に説明すると、いささかの不信感が拭えないところもある。しかし、周知の通り、文禄・慶長の役の軍役などの多くの負担は、各大名に押し付けられることになり、さらにそれは農民へと転嫁された事実がある。※写真はイメージ(ゲッティイメージズ) それゆえ年貢や徴兵などの負担に耐え切れない農民は、耕作地を放棄して逃亡した。そうなると、必然的に耕作地は荒れ果て、農作物の収穫量が著しく減少することになる。朝鮮人の生け捕りと日本への連行は、単に奴隷売買として金銭的なものを得るだけではなく、現実的な目的があったのである。 日本に連行された朝鮮人は、何も普通の人ばかりではない。教養や学識の豊かな士大夫なども日本に連行されており、彼らの中には儒学などの学問により、のちに大名に仕えてそれなりの地位を築いた人もいる。また、官僚クラスの両班(ヤンバン)の中にも、大名の家臣として抜擢された者が存在する。ほかには陶工が有名であり、そうした特殊技能によって、一定の地位を築いた者もあった。 日本に連行された朝鮮人といえば、悲惨な人々が多かったのかもしれないが、まさしくその人生は実にさまざまであった。次に、いくつかの事例を取り上げることにしよう。奴隷でも子孫繁栄 日本で農業に貢献した朝鮮人は、美作国東南条郡東一宮村(岡山県津山市東一宮)に存在した。『史学雑誌』8編11号には、同村の中島氏所蔵文書が紹介されている。年次の付されていない書状であるが、中島家譜代の家来と称する弥三郎、弥吉、伊助、重兵衛が連署して、中島弥生左衛門、三郎左衛門に宛てたものである。次に、その内容を示しておこう。 私の五代前の先祖は、朝鮮国松村の出身でございます。文禄年中に日本が朝鮮に攻め込んだ際、先祖は中島孫左衛門様の陣中に人質となり、二十四歳にして日本に渡海した。助命のことを孫左衛門が仰せになり、先祖は弥三郎と名を改め、中島家譜代の家来になりました。生涯にわたり養育してくださり、妻子なども扶助していただき、嫡子・彦兵衛と私に至るまで四代にわたり相続し、一類や分家も家が繁盛していることは、すべて中島家の御恩であることを今もって忘れることはできません。私の子孫代々まで申し伝え、決して忘れることはございません。 中島孫左衛門は、備前・美作の大名、宇喜多秀家の配下の者である。文禄・慶長の役のとき、孫左衛門尉は秀家に従って朝鮮に渡海した。その際、弥三郎らの先祖は、孫左衛門に生け捕りにされ、日本に連行されたのである。 『美作一宮郷土の歩み』によると、慶長3年、中島孫左衛門尉は松県城で劉安、劉秘父子を捕らえ、日本に連行したという。ここでは、慶長の役のことになっており、先祖の名前もはっきりと書かれている。 先の書状の続きを読むと、弥三郎らが中島家に宛てた理由が分かってくる。その後、彼らは百姓になって、中島家に献身的に仕えた。また、年末年始やお盆などの行事にも、挨拶を欠かさなかったようである。 以下の内容は省略するが、結論を端的に言えば、以後、彼らは中島家を疎略にすることなく、奉仕し続けることを誓約したということになろう。万が一、中島家に背くようなことがあれば、どのような処罰を受けても恨むことはない、と最後に締め括られている。 『美作一宮郷土の歩み』によると、捕虜の中には朝鮮に帰国する者もあったが、劉秘は日本に残って中島氏の家来になったという。そして、彼ら連行された朝鮮人が、一宮村で荒地を開墾したと記されている。それは、今も「唐人開き」と呼ばれているとのことである。 その後、その子孫は大いに繁栄し、松県にちなんで松村を姓としたというのである。その中には津山藩主・森氏に仕えた者もあった。寛政年間に至ると、松村氏は持高が十石の本百姓高持に加えられ、子孫も繁栄したという。 以上の記述によると、朝鮮から連行された弥三郎の子孫は高い農業技術を持ち、地域の発展に貢献したといえよう。はっきりとは書かれていないが、東一宮村には多くの朝鮮人が入植し、集住していた可能性が高いといえる。 次回は、日本に定住した朝鮮人をもう少し紹介することにしよう。※主要参考文献 渡邊大門『人身売買・奴隷・拉致の日本史』(柏書房)■秀吉禁止令も頬被り、朝鮮出兵で横行した理性なき「奴隷狩り」■南蛮人が大いに利用した「武勇の民」日本人奴隷の戦闘力■「日本人奴隷は家畜同然」バテレン追放令に秘めた秀吉の執念

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    秀吉禁止令も頬被り、朝鮮出兵で横行した理性なき「奴隷狩り」

    渡邊大門(歴史学者) ここまで、豊臣秀吉の人身売買に関する政策、そしてポルトガル商人によって日本人奴隷が海外に輸出された状況を確認してきた。日本と海外との通交が盛んになるに連れ、人身売買の規模もよりワールドワイドに展開したことが分かる。次に、状況が変化したのは、文禄・慶長の役だった。 天正18(1590)年に小田原征伐により北条氏が滅亡すると、国内における大戦争は終結し、平和な時代を迎えた。秀吉の支配欲は海外へと向けられ、それが現実のものとなる。秀吉は中国や朝鮮へ侵攻し、そこに天皇を移して、諸大名に領土を分け与える構想を持っていた。その戦争こそが、文禄・慶長の役なのである。 文禄・慶長の役とは、豊臣秀吉が文禄元(1592)年から自身が亡くなる慶長3(1598)年にかけて、中国の「明」征服を目指し、朝鮮半島に出兵した一連の戦争である。当時の日本では、「唐入り」または「高麗陣」と呼ばれていた(朝鮮側では「壬辰・丁酉の倭乱」と呼んだ)。 秀吉は関白に就任した天正13(1585)年ごろから、明の征服構想を持っていたといわれている。その構想が具体化したのは、天正15年における薩摩・島津氏征伐直後のことである。秀吉は対馬の宗義智(そう・よしとし)が朝鮮と交流があったことから、対朝鮮交渉を命じた。その内容とは、第一に朝鮮が日本に服属すること、第二に日本が明を征服するに際して、その先導役を務めさせるというものだった。 日ごろ、朝鮮と通交のある義智にとって、秀吉の命令は実に大きな難題であった。以後、義智はこの問題をめぐって、苦悩することになった。 朝鮮との関係を憂慮した義智は、秀吉の意向をそのまま伝えなかった。義智は家臣を日本国王使に仕立て上げ、第一に秀吉が日本国王に就任したこと、第二にその祝賀のため通信使を派遣するよう朝鮮サイドに依頼した。義智の考え抜いた対応が、のちに大きな誤解を生んだのである。 朝鮮サイドはこの申し出を断ったが、強硬な態度で臨んだ秀吉は、決して納得しなかった。そこで義智は、改めて博多の豪商・島井宗室らと朝鮮に渡航し、再び通信使の派遣を要請したのである。 天正18年、再び要請を受けた朝鮮側は、通信使を派遣し秀吉との謁見に臨み、事態の収拾を図ろうとした。交渉の席には、秀吉をはじめ菊亭晴季(きくてい・はれすえ)らの公家も参列した(『晴豊記』)。朝鮮側の意向にかかわらず、秀吉が通信使に改めて命じたのは、明征服のための先導役だったが、それを知らない朝鮮通信使は秀吉の祝賀のため来日したのである。豊臣秀吉像 秀吉の明征服の先導役を命じるという要求は、通信使から朝鮮国王にも伝えられた。同時に翌天正19年、秀吉は明征服のための拠点を作るため、肥前名護屋(佐賀県唐津市)に城郭を築城した。一方、朝鮮との交渉は難航を極め、交渉役の宗義智と小西行長は対応をめぐって頭を抱えていた。 2人は考え抜いた揚げ句、朝鮮に明攻略の先導役を務めるのではなく、明征服のために道を貸して(開けて)欲しい、と交渉内容をすり替えた。しかし、最終的に両者の交渉は決裂し、日本は朝鮮半島に侵攻する。禁止された「乱取り」 文禄・慶長の役においては、日本の戦国大名がこぞって参加し、朝鮮半島へ侵略行為を行い、いわゆる乱取り=奴隷狩りが行われていた。 日本軍は朝鮮半島での戦争の際、日本での慣例に習い、多くの女や子供を連行した。その様子は、奈良・興福寺の多聞院主が書き継いだ日記『多聞院日記』に描かれており、奈良に連行したことが知られている。 島津軍などは、朝鮮から薩摩へ帰る際、奴隷を連行するための手形を船頭に与えている。のちに、日本と朝鮮が和平を行ったとき、日本の奴隷連行が大きな障害となったほどである。以下、人身売買や拉致などの問題を中心に述べることにしよう。 日本国内の戦場において、人や物資が略奪(乱取り)されたことはここまでに触れた通りである。乱取りは雑兵たちの戦利品となり、彼らの懐を潤した。あるいは、戦争に出陣する目的が乱取りにあったのではないかと思うほどである。 秀吉が朝鮮出兵の際に出した方針は、次に掲げるものだった(「毛利家文書」)。天正20年4月26日付のものである(主要なものを抜粋)。 ①還住した百姓や町人に米銭金銀を課してはならない。 ②飢餓に苦しむ百姓を助けること。 ③あちこちで放火をしてはならない。(以下、補足として)今度の朝鮮出兵で人を捕らえた場合は、男女によらず、それぞれのもといた居住地に返すこと。 ④法令順守の徹底。 主に現地支配にかかわるものを抜粋してみた。まず①について。秀吉は同じような趣旨の命令を日本国内でも発している。たとえば、織田重臣時代の天正8(1580)年1月に三木合戦で別所氏が滅亡すると、荒廃した三木(兵庫県三木市)に百姓や町人の還住を促した(「三木町有古文書」)。戦争で荒廃した村や町を復興するための政策である。 ②についても、同様の趣旨と捉えてよいであろう。せっかく占領しても、百姓が飢えてしまい、占領地が荒れ果てていると意味がない。そう秀吉は考えていたのだろう。 注目すべきは、③である。冒頭の放火の禁止は、町や村の荒廃を避けるための方策である。重要なのは補足として、男女にかかわりなく生け捕りにした場合は、それぞれのもとの居住地に返すことが規定されている点である。 つまり、秀吉は戦場における乱取りを禁止していたことになろう。④における法令順守は、その延長線上にあり、数多くの禁制が発給されていた(「鍋島家文書」など)。秀吉は、朝鮮の百姓に危害を加えないように配慮していた。無視された秀吉命令 しかし、日本を遠く離れて朝鮮半島に出陣した雑兵に対して、秀吉の意図が十分伝わったのか大いに疑問である。雑兵の戦場における目的は、やはり「乱取り」にあり、それが第一義にあった。案の定、秀吉の方針は無視され、朝鮮半島の各地で「乱取り」が行われた。次に、その実態を概観することにしよう。 戦場において、人間はなかなか理性をコントロールできないものである。いざ朝鮮半島で戦いが始まると、秀吉の命令は無視され、雑兵は「乱取り」に夢中になった。 文禄元(1592)年、日本軍が朝鮮半島に上陸すると、佐竹氏の家臣・平塚滝俊が肥前名護屋城で留守を務める小野田備前守に宛てて書状を送っている。滝俊の生没年や出身地は不明であるが、佐竹氏家臣団の中では、中級クラス以上の地位にあったと考えられている。この書状は、歴史学者の岩沢愿彦(いわさわ・よしひこ)氏が紹介したものである(「肥前名護屋城図屏風について」)。書状の概要を次に示しておきたい。高麗で二・三の城を攻め落とし、男女を生け捕りにして、日々を送ってきた。(朝鮮人の)首を積んだ船があるようだが、私は見たことがない。男女を積んだ船は見た。 日本軍は朝鮮の城を攻め落とすと、戦利品とばかりに男女を生け捕りにし、船に積んで日本へ送った。また、討ち取った朝鮮人の首も運ばれていた。 朝鮮人の首が秀吉のいる肥前・名護屋城に送られたのは、出陣した武将が軍功を認めてもらうためである。いわゆる「首実検」のためだった。おそらく船が満杯の状態で運ばれたのであろうが、実におびただしい分量になったと思われる。「名護屋城」城跡の石垣。秀吉の朝鮮出兵の兵站基地だった=佐賀県唐津市 これだけの分量になると、本当に正しい検分ができたのかどうか、非常に疑問である。参考までにいうと、首は非常に重量があるので、のちに首でなく耳や鼻が持ち帰られた。それを供養したのが耳塚(鼻塚)であり、京都市東山区の豊国神社前にある。 耳や鼻を削いで持ち帰る際、日本軍により残酷な行為が行われていた。慶長3(1598)年10月に泗川(サチョン)新城で戦いが行われると、島津軍が明・朝鮮の連合軍の兵3万3700人を討ち取り、城の外に大きな穴を掘って埋めたという。そして、その遺体から鼻を削ぎ取り、塩漬けにして日本に送ったのである(『島津家記』)。 加藤清正の武将・本山豊前守の手になる『本山豊前守安政父子戦功覚書』には、男女や生まれたばかりの赤ん坊も残らず撫で切りにし、鼻を削いで毎日塩漬けにした、と記されている。塩漬けにしたのは、腐敗を避けるためだろう。もはや戦闘員・非戦闘員を問わず、鼻をどれだけ獲ることができたのか競った感がある。その数は、一度に2、3万に及んだこともあった。 問題になるのが、朝鮮半島で生け捕った男女も船で肥前・名護屋城に送られたことである。これは、先に示した秀吉の方針と相反する行為である。秀吉の意向とは裏腹に、現地では日本の慣習にならって、「乱取り」が行われた。崩壊した秩序 実のところ、各大名にとって朝鮮への出兵は、多大な経済的な負担であった。第一に、多くの軍兵が動員されたうえに、半農半兵の土豪たちも出陣を余儀なくされた。出陣は長期間にわたったので、必然的に農業の担い手を失うことになる。同時に、農地が放棄される状態にあった。薩摩の島津氏は、戦費の捻出に苦労したという。 とりわけ捕らえられた人々は、老人、女、子供が多かったといわれている。彼らは屈強な男性とは異なり、反抗することが少なかったと考えられ、奴隷としては最適であったからだろう。 雑兵たちにとっての戦争は、極端に言えば勝ち負けが問題ではなく、いかに戦利品を得るかが重要であった。そうなると、秀吉の指示をまともに聞いていれば、何ら見返りのない「ボランティア」になってしまう。実際、略奪は多くの大名が黙認し、幅広く行われていた。 文禄2年に推測される8月23日付の「石田三成覚書」によると、三成は薩摩・島津氏に対して種々の命令を伝えているが、その中に船を使って乱妨・狼藉を働かないように指示を行っている(「島津家文書」)。 こうした指示が与えられるところを見ると、実際に乱取りが行われており、島津氏は黙認していたのであろう。同様の事例は、普州(チンジュ)城で戦っていた加藤清正軍にも見られる。この場合は、清正に知られないようにして、配下の武将が雑兵たちに略奪行為をさせたという。もはや秩序は、完全に崩壊していた。 こうした状況が秀吉の耳に入ったのか、あるいは別の事情があったのか、秀吉自身も人身売買や生け捕りについて容認したと受け取られかねない命令を発する。その命令こそが、次に示すものである(「島津家文書」ほか)。急ぎ仰せを伝えます。捕らえた朝鮮人の中で、細工のできる者、縫官、手先の器用な女性がいれば、進上すること。召し使うようにする。家中を改めて、こちらに遣すこと。 この秀吉の朱印状は島津家だけでなく、多くの大名家に伝わっている。つまり、秀吉は自身が召し使うため、さまざまな技量を持つ女性を集めていたことになる。ただし、この史料はいずれも年次を欠いており、文禄2年あるいは慶長2年のいずれかが該当すると考えられている。前者なら出兵直後、後者なら二度目の出兵の時期となる。「壬辰倭乱図」(和歌山県立博物館提供) 当初と異なり、秀吉は大きく方針を転換したが、各大名たちが朝鮮から人々を連れ去った事実は当然把握していたことであろう。むしろ、そうした事実を知っていたので、優秀な人材を確保しようと考えたのかもしれない。 文禄・慶長の役において、多くの朝鮮人が日本に連れ去られ、売買されることになった。それらの経緯を確認しよう。転売された朝鮮人奴隷 東洋史家の内藤雋輔(ないとう・しゅんぽ)氏が紹介した『月峯海上録(げっぽうかいじょうろく)』には、朝鮮人奴隷の様子が詳細に記述されている(翻刻は『文禄・慶長役における被擄人の研究』)。内藤氏の研究成果を交えつつ述べておくと、文禄の役と慶長の役とでは、後者の奴隷狩りが圧倒的に多かったという。 しかも、その被害は圧倒的に朝鮮半島南部に集中していた。文禄の役では朝鮮半島の奥地まで侵攻したが、慶長の役ではそこまで侵攻できなかったのが要因であろう。慶長の役は長期化したものの、勝利の可能性が乏しかったため、奴隷狩りに注力したと考えられる。 強制的に奴隷として日本に連行された朝鮮人は、主に九州各地に住んでいたが、薩摩・島津氏の領内では、その数が3万7千人にも及んだという。彼らは苗代川(鹿児島県日置市)に集住し、陶工・朴平意(ぼく・へいい)らを中心にして、陶磁器の製造を行った。苗代川窯は白釉と黒釉を用いて、日常的に使用する陶器を製造した。技能集団が日本に根付いた一例である。 この頃、平戸や長崎は朝鮮半島から連行した朝鮮人を売買するなど、世界でも有数の奴隷市場として知られていた。 日本人の人買商人のうち、ある者は自ら朝鮮半島に渡海して奴隷を買い漁り、またある者は日本国内でポルトガル商人に転売して巨万の富を得た。彼らはポルトガル商人が持っていた鉄砲や白糸の代価としていたのである。 ほとんどの奴隷は捨値で売られたというので、薄利多売の様子がうかがえる。日本を窓口にして、多くの奴隷が世界に渡っていったのである。それは朝鮮人だけではなく、多くの日本人が含まれていたことが指摘されている。 日本人が朝鮮半島で行った奴隷狩りは、どのような形で行われたのであろうか。その点は、次回に触れることにしよう。主要参考文献渡邊大門『人身売買・奴隷・拉致の日本史』(柏書房)■「倭寇の人身売買は貴重な労働力」日中朝を席巻した海賊集団の謎■川中島の戦いは略奪が目的だった? 信玄も黙認した「乱取り」の真実■「極悪の欲情」女好き秀吉、フロイスの目にはどう映ったか

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    南蛮人が大いに利用した「武勇の民」日本人奴隷の戦闘力

    渡邊大門(歴史学者) 前回述べたように、多くの日本人は多くが東南アジア各地またはポルトガルに送り込まれ、さまざまな形で労働を強いられた。天正遣欧少年使節の面々は、ヨーロッパの人々が親切であるとか、日本人奴隷がキリスト教の教えを受けることをもって、自らを納得させていた感がある。 ところで、日本人奴隷たちの実態は、どのようなものだったのだろうか。以下、歴史学者、岡本良知氏の研究によって、確認することにしよう。1551年11月、ポルトガル人司教のカルネイロは、マカオから書状を送った。次に、岡本氏の『改訂増補 十六世紀日欧交通史の研究』からその内容を掲出する。 当地方(マカオ方面)に来るポルトガル人は、皆真理を忘却している。その理由の一つは、商売の欲望である。もう一つは、日本から来たポルトガル人が女奴隷のために罪に陥っていることだ。 キリスト教布教と相まって、ポルトガル商人が日本にやって来たのであるが、あまりに金もうけに熱中していることは非難されてしかるべきだったといえる。彼らは、完全にキリスト教の真理から逸脱していた。問題は、二つ目の理由である。 少し婉曲的な表現をしているが、これはポルトガル人が奴隷となった日本人女性と性的な関係を結んでいたと見て間違いない。これまで豊臣秀吉の時代の天正年間を中心に見てきたが、それより約三十数年前にポルトガル人が日本人奴隷を買っていたのは事実であろう。しかも、それは彼らが性的な欲求を満たすため、女性の日本人奴隷を買っていたとみてよい。 このようにポルトガル人がキリスト教の信仰を忘れ、女性との性的な快楽に溺れることは、決して許されることではなかった。岡本氏の指摘によると、こうした事象は散見されるとのことである。 1583年、マカオを出発しインドへ向ったポルトガル船は、マラッカに近いジョホール沖で座礁するに至った。それは、日本や中国で活動していたポルトガル商人の放逸な行為(性にまつわる逸脱行為)に原因があるとし、それゆえに神罰が下ったとされている。すっかり女性の虜(とりこ)になっていたのだ。※画像はイメージ(ゲッティ・イメージズ) その事実は、次のように詳しく記述されている。 神はポルトガル商人らが神を恐れることなく、色白く美しき捕らわれの少女らを伴い、多年その妻のように船室で妾として同棲した破廉恥な行為を罰したのである。この明らかな大罪は、神からも明白に大罰を加えられたのであった。それゆえ、彼らに神の厳しい力を恐れさせるため、中国・日本の航海中に多数の物資を積載した船を失わせ、もってこれを知らしめようとしたのだ。また、中国・日本方面では、ほかの国々よりもポルトガル人の淫靡な行為がはるかに多いので、神はそこに数度の台風によりそれらの者を威嚇・懲罰し、その恐ろしい悪天候により怒りを十分に示そうとしたことは疑いない。岡本良知『改訂増補 十六世紀日欧交通史の研究』より この記述を見ると、日本だけでなく中国からの女奴隷も餌食(えじき)になったようである。宣教師たちは、苦々しい思いで彼らの姿を見ていた。こうした原因の一つには、ポルトガル商人の多くが独身者であったという指摘がある。独身であるがゆえに女性を求め、それゆえに性的に乱れた生活をしていたのである。宣教師も悪行? 同趣旨のことは後年に至っても問題視され、ポルトガル人が購入した奴隷の少女と破廉恥(はれんち)な行為をし、また渡航中に彼女らを船室に連れ込むことは、決して止むことがなかったと言われている。 これまでは特に触れなかったが、実はこうした性的な不品行が豊臣秀吉の逆鱗に触れたようである。コエリョは、次のように報告している。秀吉の家臣が用務を帯びて長崎に来ると、ポルトガル商人の放縦な生活を目の当たりにした。秀吉が言うには、宣教師は聖教を布教するとはいえ、その教えをあからさまに実行するのは彼ら商人ではないか、と。商人は若い人妻を奪って妾とし…(以下略)。岡本良知『改訂増補 十六世紀日欧交通史の研究』より 宣教師は口でこそキリスト教の崇高な教えを説いているが、実態は大きく乖離していた。ポルトガル商人が囲っていた若い人妻とは、奴隷身分だったのだろうか。いずれにしても、キリスト教の教義に沿わない行為である。とにかく秀吉ら日本人は、ポルトガル商人の奔放な行動に手を焼いていたようである。 このように日本人奴隷でも特に女性は、通常の労働(農作業、家事労働など)にも駆り出されたが、ときに性的な対象として悲惨な処遇を受けることがあった。多くの日本人の女性奴隷は、性的な関係を望まなかったのではないだろうか。ただし、中には生活のためにやむを得ず、そうした道を選ばざるを得なかった女性がいたのかもしれない。女性が悲劇的な一面をもって奴隷となったことを見たが、奴隷となった男性はいかなる運命をたどったのだろうか。 1603年、ゴア市民からポルトガル国王に陳情書が提出された。次に示す通り、そこには興味深いことが記されている。少し長いが、引用しておこう。 日本人奴隷は近隣のイスラム教国へと公然と売られ、毎年船に積まれて、ついに彼らはイスラム教を信仰する。われら(=ゴア)のところに来るものは、すべてキリスト教徒になる。それは同時に、陛下(=ポルトガル国王)の臣民が増加する理由です。しかもパードレたちは、二年間のキリスト教の教化を彼らに行ってから解放しています。もし、都合が悪いようなら、彼らを甘んじてイスラム教徒たらしめるため、他国人に買わせることです。インドには日本人奴隷が数多くいて、その主を守護する任務に充てている。その理由は、ポルトガル人の数は最小の城を守る数にも足りず、有事の際にポルトガル人一人が鉄砲を携え、奴隷五・六人を率いれば、日本人は甚だ好戦的なので、その値打ちは少なからずある。それゆえ奴隷を解放したのち、我ら(=ポルトガル人)の敵と通謀して、反乱を起こす可能性もある。また、われらより数が多ければ、われらを殺戮する疑いも否定できない。岡本良知『改訂増補 十六世紀日欧交通史の研究』より 前半部分は奴隷解放に関わるもので、日本人奴隷を解放して、みすみすイスラム教徒に改宗させてはならないという見解である。当時、異教徒間では争いが絶えなかったので、理屈として持ち出したのだろう。この記述から分かるように、インドのゴアにはかなり多くの日本人奴隷が連行されていた。※画像はイメージ(ゲッティ・イメージズ) インドのゴアの近隣にはイスラム諸国があり、彼らは異教徒と認識されていた。臣民とある彼ら奴隷は、労務年限が来ると奴隷身分から解放され、ポルトガル国民として数えられたのである。彼らは順次、キリスト教に改宗すべく教えを受けた。奴隷を獲得することは、彼らを異教徒から守る側面があった。 問題は、日本人奴隷の職務である。彼らの職務は、主人を守ることであった。そして、万が一の時には主人に従って、敵と戦うこともあった。日本人は好戦的であったため、甚だ戦いでは活躍した様子がうかがえる。高い戦闘能力の日本人 それだけではなく、もし日本人を解放したならば、日本人が敵と通じて叛旗を翻す恐れがあるという。それほど日本人奴隷の戦闘能力は高かったようである。日本人が主力部隊を任されていたとは、大変意外な話である。 なぜ、日本人奴隷が必要なのか。それは、日本人の戦闘能力であって、ポルトガル人はそれを利用して植民地における兵力の不足を補おうとした。本国から兵を呼び寄せるよりも、安価で供給が可能という事情もあったであろう。 当時、ポルトガルはオランダと植民地支配をめぐって、戦いを繰り広げていた。その戦いに勝利を得るには、どうしても日本人の力が必要だったのである。この事実を裏付けるかのごとく、1604年にゴア市民からポルトガル国王に意見書が呈上されている。 日本人奴隷は労務年限が来ると、解放されて陛下(=ポルトガル国王)の臣民となる。彼らは、ゴアに多数存在する。武勇の民で、戦争で貢献した。最近、オランダとの戦いで見られたように、包囲戦や戦況が緊迫した状態になると、ポルトガル人一人が若者(日本人奴隷)七・八人を率い、鉄砲と槍を持ってあらわれる。インドにおいては、この日本の若者のみが軍役に耐えうる奴隷である。岡本良知『改訂増補 十六世紀日欧交通史の研究』より この史料を読むと、日本人奴隷には年季(雇用される期間)があり、一定の期間が過ぎると奴隷身分から解放されたようである。奴隷身分から解放されると、彼らはポルトガルの国民になった。ただ、日本に帰るのが困難だった理由もあってか、インドのゴアの地に止まらざるを得なかった。 オランダとポルトガルの戦いで、日本人が参戦したのは衝撃の事実である。しかも、その戦闘能力は非常に高く評価された。おそらくゴアには、中国、朝鮮そのほかの国々から奴隷が調達されたのだろう。ところが、軍役に耐えられるのは、好戦的と言われた日本人だけであった。 本来ならば、ポルトガル本国で若者に兵役を課し、連れて来るのがベストであったに違いない。ただ、それでは費用や時間があまりにかかりすぎる。そうなると、手っ取り早く質の高い兵卒を確保するには、日本人奴隷が最適であった。 実は、この意見書には「日本人奴隷の禁止をする前に、戦争における日本人奴隷の活躍という実態をお忘れにならないように」と締めくくられている。ポルトガルにとって、日本人奴隷は大きな魅力だったのだ。 近年、報告されているように、16、17世紀のヨーロッパや南米には日本人が数多く存在したようである。むろん、東南アジアもである。 そのなかでもっとも有名なのが、山田長政であろう。長政は駿河国に誕生し(生年不詳)、もともと沼津城主の駕籠(かご)かきを務めていたという。一大決心した長政は、慶長17(1612)年ごろ、朱印船に乗ってシャムに渡航した。山田長政像(模本、東大史料編纂所) やがて、長政は頭角をあらわすと、日本人町の頭領となり、国王ソンタムの信任を得た。しかし、ソンタム没後、王位を狙うオーヤ・カラホムによって毒殺されたという。亡くなったのは、寛永7(1630)年ごろとされている。傭兵としても活躍 また、最近の研究により、17世紀初頭の東アジアにおいて、日本人の多くが傭兵(ようへい)としてオランダなどで雇用されていたと指摘されている。先にも述べたが、日本人は好戦的な民族であり、戦いの能力に長けていた。 ヨーロッパの本国から兵士を呼び寄せるよりも、はるかに人件費などが安上がりである。実際、オランダでは日本人が良く訓練されており、しかも給与や食費が安く済む、と認識されていた。何よりも驚くのは、オランダが徳川家康と傭兵の供給について、合意に達していたことである。 同時に重要なのは、日本国内で製造された武器が、オランダなどに供給されていた事実である。つまり、日本は傭兵や武器を供給することにより、東アジアで展開されるヨーロッパ列強の戦争に関わっていたことになろう。 相当な数の日本人が、東南アジアにおけるヨーロッパ列強の戦争に駆り出されたが、やがてそれも認められなくなる。元和6(1620)年以降、江戸幕府は人身売買、武器輸出、海賊をついに停止した。これは、いわゆる鎖国(海禁)と連動した政策だったといえよう。 ここでは人身売買と記しているが、実際には雇用(=傭兵)も禁止されていた。これまで安く日本人の傭兵を雇用していたオランダなどは、大きな衝撃を受ける。傭兵ならずとも、武器を購入できないことも問題となった。彼は日本が傭兵などを禁止したため、新たな対応を迫られることになった。 その後も日本からの奴隷の輸出は問題視されるが、幕府による海禁によって、その数は減少の一途をたどった。それでも、日本人が海外に存在したことは、その後も確認できる。「ジャガタラお春」もその一人だ。 お春は、イタリア人航海士のニコラス・マリンと母マリアの間に生まれた女性である。お春は、混血児であるがゆえに、ジャカルタ(インドネシア)に追放された。ジャガタラとは、ジャカルタのことである。キリシタンであるお春は、やがてオランダ人のシモン・シモンセンと結婚し、貿易業を営んだ夫と裕福な生活を送ったという。※画像はイメージ(ゲッティ・イメージズ) それにしても、東南アジア、ヨーロッパあるいは南米へと渡った日本人は、いかなる気持ちだったのだろうか。現在は情報手段(テレビ、ラジオ、インターネットなど)が多岐にわたっているので、海外の情報は比較的得やすい。ところが、彼らはまったく何の予備知識もなく、突然異国の地に放り込まれたのである。 今回は、奴隷などとして海外に渡った日本人の実態について触れたが、次回は文禄・慶長の役における拉致、人身売買、奴隷の問題を取り上げることにしよう。主要参考文献渡邊大門『人身売買・奴隷・拉致の日本史』(柏書房)■ 「極悪の欲情」女好き秀吉、フロイスの目にはどう映ったか■ 百田尚樹『日本国紀』はなぜ支持されるのか■ 川中島の戦いは略奪が目的だった? 信玄も黙認した「乱取り」の真実

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    「日本人奴隷は家畜同然」バテレン追放令に秘めた秀吉の執念

    渡邊大門(歴史学者) 前回、天正遣欧少年使節が感じた奴隷貿易などについて述べた。日本人奴隷の売買については、宣教師たちからすれば、「日本人が売ってくるから奴隷として買う」という論理だった。しかし、豊臣秀吉にとって同胞の日本人が二束三文で叩き売られることは、実に耐え難いことであった。そこで、秀吉は対策を講じたのである。 前回触れた通り、秀吉がポルトガル出身のイエズス会宣教師、コエリョに厳しく問い質した後、天正15(1587)年6月18日に有名な「バテレン追放令」を制定している(神宮文庫蔵『御朱印師職古格』)。本稿では、その中の人身売買禁止の部分に絞って、話を進めることにしたい。バテレン追放令の第10条には、次の通り記されている。一、大唐・南蛮・高麗(こうらい)へ日本人を売り遣わし候こと、曲事(くせごと)たるべきこと。付けたり、日本において人の売り買い停止のこと。 この部分を現代語に直せば、「大唐・南蛮・高麗へ日本人を売り渡すことは違法行為であること。加えて、日本で人身売買は禁止すること」という意味になろう。実は、この「バテレン追放令」は原本が残っておらず、多くの写しがあるに過ぎない。豊臣秀吉画像 写しの間には文言の異同があり、これまでいくつかの解釈がなされてきた。例えば、提示した史料の「曲事たるべきこと」の箇所は、先に提示した史料の原文には「可為曲事事」とあるが、別の史料では単に「曲事」となっているものもある。それゆえ、読み方についても、研究者によって諸説ある。 立教大名誉教授の藤木久志氏は、本文の異同に注目して次のように読んだ(『新版 雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り』)。一、大唐・南蛮・高麗へ日本人を売り遣わし候こと曲事に付き、日本において人の売り買い停止のこと。 藤木氏はこのように、ポルトガル商人による日本人奴隷の売買は大前提であり、国内における人身売買こそが主文であると解釈する。秀吉が動かした「不退転の決意」 また、歴史学者の峯岸賢太郎氏は「付けたり」以降の文言が主文であると解釈した。つまり、秀吉がポルトガル人による日本人奴隷の売買という「民族問題」を契機にして、国内の人民支配を強化しようとした人身売買禁止令であると解釈している(「近世国家の人身売買禁令」)。藤木氏も峯岸氏も共通するのは、このバテレン追放令が国内に発布されたということになろう。 この見解に対しては、日本史学者の下重清氏の反論がある(『<身売り>の日本史―人身売買から年季奉公へ』)。下重氏は、18日付のバテレン追放令がコエリョらポルトガル人に通告したものであり、国内に発布されたものではないとする。 つまり、主文はポルトガル人による日本人奴隷の売買禁止であり、「付けたり」以下は禁則の法的根拠と解釈する。もともと日本では国内における人身売買を禁止していたことを根拠として、ポルトガル人の行為を禁止したことになろう。 確かに、日本では原則として人身売買は禁止されていたが、これまで見てきたようになし崩し的、あるいはしかるべき手続きにより、容認されていたという事実がある。これを改めて法的に確認したことになると考えられる。 いずれにしても、秀吉はポルトガル商人による日本人奴隷の売買を禁止した。同時に、国内における人身売買も禁止したのである。 秀吉の日本人奴隷売買禁止の執念は、9年後の慶長元(1596)年にようやく結実することになった。同年、イエズス会は奴隷売買をする者に対して、破門することを決議したのである。次に、その概要を示すことにしよう。 セルケイラの前任司教ペドロは、当初こそ長い年月の慣習により、ポルトガル商人が少年少女を購入し日本国外へ輸出する際、労務の契約に署名するなどして認可を与えた。しかし、日本の事情に精通すると、奴隷とその労務年限から生じる弊害を看取し、インドへ出発する前に破門令を定めた。その破門令は、長崎で公表された。当該法令は、その権を司教一人が保留し、その行為自体により受ける破門の罰をもって、およそポルトガル人が日本から少年少女を購入して舶載することを厳禁した。そして、その罰に加えて、買われた者の損害(購入代金は返金されない)以外に、各少年少女一人ごとに十クルザードの罰金を科した。岡本良知『改訂増補 十六世紀日欧交通史の研究』引用史料 こう記された後、「いかなる人物であれ、ただの一人でも奴隷購買に許可を与えないという宣告である」と明記されている。まさしく不退転の決意であった。 しかも、破門を命じる権限は、司祭がただ一人有するものである。解放された少年少女には、当座の生活資金として10クルザードが与えられた。 歴史学者の岡本良知氏らが指摘するように、秀吉の九州征伐に至るまで、イエズス会は日本人奴隷の売買や海外への輸出をやむを得ず容認する立場であった。しかし、秀吉からの強い禁止の要望により、これまでの方針を転換せざるを得なくなった。キリスト教「破門」の意味 日本人奴隷の売買禁止は、司祭の交代が良いタイミングになったのであろう。何よりも人身売買を継続することで、キリスト教の布教が困難になることが恐れられた。岡本氏が指摘するところの「自衛手段」である。 ところで、キリスト教における破門というのは、いかなる意味を持っていたのであろうか。なかなかキリシタン以外には分かりにくいかもしれない。 破門を命じることができるのは、教会の聖職者に限定されていた。破門の具体的な内容とは、キリスト教信者が持つ教会内における宗教的な権利を剥奪することである。加えて、破門された者は、キリスト教信者との交流を断たれた。 さらに、破門された者は世俗的な教会からの保護も受けられなくなり、教会の墓地への埋葬も許されなかった。欧州では、キリスト教信者が大半を占めるので、破門宣告は「死の宣告」と同義であったと言えよう。そうなると、宣教師の側も並大抵の覚悟ではなかったといえるかもしれない。 翌年の慶長2年、先の司教らの意向を受けて、インド副王がポルトガル国王の名において、次の通り勅令を発布した。それは、マカオ住民の安寧と同地で行われる紊乱(びんらん)非行を避けるなどの目的があった。 朕(=ポルトガル国王)は本勅令により、本勅令交付以後、いずれの地位にある日本人といえども、それをマカオに居住せしめたり連行されることなく、また他のいずれの国民であっても拘束・不拘束にかかわらず、奴隷として連れて来ることを禁止する。岡本良知『改訂増補 十六世紀日欧交通史の研究』引用史料 日本人だけではなく、その他の国の人々も対象となった。この後に続けて、刀を輸入することを禁止し、これを発見した場合には厳しい処罰が科された。 その罰とは、ガレー船に拘禁させられるというものであった。ガレー船とは軍船の一種で、映画『ベン・ハー』で奴隷に落ちぶれた主人公のベン・ハー役を演じた、チャールトン・へストンが漕いでいた船のことである。実に厳しい重労働であった。ブラジル・リオデジャネイロで見つかった、カトリックのイエズス会が17世紀初めに長崎で印刷した日本語とポルトガル語の対訳辞書の本文部。「Inori」などの見出し語がある(共同) ここには、特に人身売買に関する処罰が記されていない。しかし、先に見た通り、禁を犯したものは破門されるわけだから、それが最も重い罰といえよう。 ところが、この問題は一向に解決しなかったようである。秀吉が病没した翌年の慶長3年には、奴隷輸出をストップするための努力がさらに求められた。 そこで問題視されたのは、貪欲の虜(とりこ)になったポルトガル商人が日本人や朝鮮人をタダ同然で購入し、毎年のように輸出することが、キリスト教の悪評を高めることになっていたことである。この場合の「朝鮮人」とは、文禄・慶長の役で日本軍が朝鮮半島で拉致した朝鮮被虜人を意味している。ポルトガル人が考えた四つの理由 キリスト教からの破門という究極の罰をちらつかせながらも、奴隷の売買や輸出は止むことがなかったようである。 以上のような過程を経て、秀吉は人身売買を禁止した。では、なぜ日本人奴隷たちは、その身を落としたのであろうか。彼らが奴隷になった理由はさまざまであり、年端も行かない少年少女は、半ば騙されるようにしてポルトガル商人に買われたこともあったという。その際、仲介者である日本人には、謝礼が払われていた。 ポルトガル人が考えた、日本人が奴隷となりポルトガル商人に売られた理由は四つに大別されよう。 第一に挙げなくてならないのは、戦争を要因とするものである。大友氏領国の豊後(大分県)が戦場になった際、多くの百姓などが他の各国に連行された。連行された人々は、農作業などに使役されることもあったが、肥後(熊本県)では飢饉(ききん)という事情もあって、豊後から連れてきた人々を養うことができなかった。 そこで、彼らを連行した人は困り果て、暗躍するポルトガル商人に売ったのである。しかも、値切られたのか不明であるが、最終的には二束三文という値段にまでディスカウントされたという。 第二の理由は、日本の慣習によるものであった。日本人が奴隷に身を落とす例は、次のように分類されている。① 夫が犯罪により死刑になった際、その妻子は強制的に奴隷になる。② 夫と同居することを拒む妻、父を見捨てた子、主人を顧みない下僕らは、領主の家に逃れて奴隷となる。③ 債権者が債務者の子を担保として金銭を借り、支払いが滞った場合は、子は質流れとなり奴隷となる。 おおむね理由は、①が「犯罪絡み」、②が「家族関係の破綻」、③が「借金」の三つに分類される。ポルトガル商人は、こうして奴隷に身を落とした人々を仲介者から購入したようである。 第三の理由は、親が経済的に困窮したため、やむなくわが子を売るというものである。当時、貧しい百姓は領主から過大な年貢を要求され、自らの生活が成り立たないほどであったと宣教師は述べている。狩野内膳作『南蛮人渡来図』(神戸市立博物館所蔵 Photo : Kobe City Museum / DNPartcom) 貧しき百姓は、1年を通して野生の根葉により、何とか食いつないだ。それすらも困難になると、ポルトガル商人に子を売ることになる。 そしてポルトガル商人は、特段疑うことなく奴隷として購入した。宣教師は「彼らを救済する方法を調査しているのか」と疑問を投げ掛けるが、ポルトガル商人は考えもしなかったであろう。単に商売を目的として、彼らを買っただけである。志願して奴隷になった日本人 最後の理由は、これまでの貧困とは異なっており、自ら志願して「自分を売る」というスタイルであった。岡本氏が言うところでは、海外に雄飛すべく覇気に満ちた日本人といえよう。 しかし、「自分を売る」人々は、あまり歓迎されなかった。その理由は、おおむね次のようになる。 それらの者(=自分を売った者)の大半は承諾した奴隷の境遇に十分な覚悟を持っておらず、マカオから脱出して中国大陸に逃走し、そこで邪教徒になる意志を持っており、単にお金が目当てで自分を売っているに過ぎない。他の者の中には価格に関係なく、その代価を横領する第三者に威嚇されて売られた者もあった。また、ある者はマカオに渡航しようと欲したが、ポルトガル人の旅客として乗船を許可されないことを懸念し、ポルトガル商人の教唆により「自分を売る」者があった。しかし、実際にポルトガル商人は彼ら(=自分を売った者)の大部分が脱走することを恐れ、「自分を売る」という者には最小の対価しか払わなかった。岡本良知『改訂増補 十六世紀日欧交通史の研究』引用史料 意外なことではあるが、戦国時代には名もなき民が海外への雄飛を期して、自ら奴隷となる者がいたのである。それは、シャム(タイ)で活躍した山田長政の先駆け的な存在であった。 しかし、「自分を売る」という手段で奴隷になった者は、最初から奴隷の仕事に従事する気はなく、もらった金を懐にして、たちまち脱走するパターンが多かったようである。したがって、こうした人々は商品にならないので、ポルトガル商人から敬遠されたようである。 ただ、以上の見方は、ポルトガル商人側から見た一つの側面に過ぎない。一貫しているのは、「日本人が奴隷を売ってくるから」ということになろう。彼らは奴隷を売買して、儲けることができればいいのである。 宣教師たちには布教という最大の目的があり、同時に日本と関わりを持ったポルトガル商人たちは「金儲け」という目的があった。それぞれの目的が異なったために利害が対立したのは、これまで述べた通りである。したがって、宣教師の残した記録には、やや弁解じみているように感じてならない。※ゲッティ・イメージズ 余談ではあるが、当然ながら日本から連行された奴隷たちは、単なる一商品にしか過ぎなかった。その待遇は劣悪そのものであり、人間性を伴った配慮はなかった。奴隷は家畜と同等と言われているが、まさしくその通りなのである。 日本人奴隷は航海中に死ぬことも珍しくなかった。病気になっても世話をされることもなく、そのまま死に至ったという。船底は太陽の光すら当たらず、仮に伝染病にでもなれば、もはや死を覚悟するほかはなかったであろう。 次回は、海外に雄飛した日本人を取り上げることにしよう。主要参考文献渡邊大門『人身売買・奴隷・拉致の日本史』柏書房(2014)■ 後世の人間まで騙し続けた不徳の男、豊臣秀吉の「大魔術」■ 「日本人奴隷は神の恩寵」秀吉の逆鱗に触れたイエズス会の解釈■ 書状で鬱憤晴らすねちっこい男? 子飼いの重臣に見せた秀吉の小物ぶり

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    「奴隷を売る日本人が悪い」天正遣欧使節、千々石ミゲルのモヤモヤ

    渡邊大門(歴史学者) 前回、日本人奴隷の扱いについて、その経緯やイエズス会の対応を確認した。では、日本人のキリシタンは、ポルトガル商人による日本人奴隷の売買について、どのような感想を持っていたのであろうか。今回は一例として、天正遣欧少年使節の発言を素材にして考えてみよう。 キリスト教の布教と相俟(ま)って、日本からローマ教皇とイスパニア国王に使節を派遣することになった。イエズス会巡察使のヴァリニャーニョは、大友宗麟、有馬晴信、大村純忠らキリシタン大名に使節の派遣について提案を行った。これが、有名な天正遣欧少年使節である。こうして天正10(1582)年、伊東マンショと千々石(ちぢわ)ミゲルが正使に任じられ、原マルチノと中浦ジュリアンを副使として、同2月に長崎から出航したのである。 少年使節は長崎を出発すると、途中でゴア、リスボン、マドリードへと立ち寄った。天正12年11月、少年使節はイスパニア国王のフェリペ二世に謁見を果たした。この間、3年近くの時間がかかっている。今では考えられないほど時間を要した。 その翌年の天正13年3月になって、ようやく少年使節は念願であるローマ教皇、グレゴリウス十三世との面会を果たしたのである。ここまでの様子は、天正遣欧少年使節に関する多くの書籍で取り上げられている。 ところで、少年使節たちは旅の途中でさまざまな場所に寄港すると、日本人奴隷と遭遇することが度々あったという。こうした事態に接した彼らの心境は、いささか複雑なものだったようである。 日本人としてのアイデンティティーとキリスト教信仰との間で、随分と少年使節の心が揺れ動いた。その様子を少年使節の会話の中から確認しておこう(エドウアルド・サンデ『日本使節羅馬教皇廷派遣及欧羅巴及前歴程見聞対話録』より)。グレゴリウス十三世(ゲッティ・イメージズ) まず、問題になったのは、ヨーロッパの国家の間で戦争に至って捕虜になるか、降参した場合、それらの人々はいかなる扱いを受けるのかという疑問である。海外の日本人奴隷を思ってのことであろう。以下、少年使節の中での議論である。 少年使節は捕らえられた人が、死刑もしくは苦役に従事させられるのかを問うている。日本では、その扱いはさまざまだった。この疑問に答えたのは千々石ミゲルであり、その答えは次のように要約できる。 ①捕虜、降参人とも死刑や苦役に従事させられることはない。 ②捕虜は釈放、捕虜同士の交換または金銭の授受によって解放される。 この回答には理由があった。つまり、ヨーロッパでは古い慣習が法律的な効力を持つようになり、キリスト教徒が戦争で捕虜になっても、賤役(奴隷としての仕事)には就かないことになっているとのことであった。 ただし、キリスト教の敵である「野蛮人」の異教徒については別で、彼らは賤役に従わなければならなかった。これが法的な効力を持つようになったのである。この回答に対して、少年使節は改めてキリスト教徒が戦争中(対キリスト教国家)に捕虜になった場合、本当に賤役に従事させられないのか確認した。ミゲルが抱いた怒り これに対するミゲルの回答は、「イエス」である。一同はキリスト教徒が奴隷にならないと聞いて、「ほっ」としたかもしれない。しかし、その回答の後に続けて、ミゲルは日本人奴隷について次のように感想を述べている。 日本人は欲と金銭への執着が甚だしく、互いに身を売って日本の名に汚名を着せている。ポルトガル人やヨーロッパ人は、そのことを不思議に思っている。そのうえ、われわれが旅行先で奴隷に身を落とした日本人を見ると、道義を一切忘れて、血と言語を同じくする日本人を家畜や駄獣のように安い値で手放している。わが民族に激しい怒りを覚えざるを得なかった。 ミゲルにとっては、日本人の「守銭奴」ぶり、そして金のために日本人奴隷を売買する同胞が許せなかった。その強い憤りが伝わってくる。そのミゲルの言葉に同意したのが、伊東マンショである。 マンショはヨーロッパの人々が文明と人道を重んじるが、日本人には人道や高尚な文明について顧みないと指摘している。マンショが言うところの文明と人道とは、あくまでヨーロッパ諸国やキリスト教を基準としたものであろう。 マルチノもミゲルの言葉に同意しつつも、次のような興味深い指摘を行っている。 ただ日本人がポルトガル人に売られるだけではない。それだけならまだしも我慢できる。というのも、ポルトガル人は奴隷に対して慈悲深く親切であり、彼ら(=奴隷となった日本人)にキリスト教の戒律を教え込んでくれるからだ。しかし、日本人奴隷が偽の宗教を信奉する劣等な民族が住む国で、野蛮な色の黒い人間の間で奴隷の務めをするのはもとより、虚偽の迷妄を吹き込まれるのは忍びがたいものがある。 マルチノは、日本人がポルトガルに売られるだけなら我慢できるという。その理由とは、仮に日本人奴隷がポルトガル人のもとにいたならば、キリスト教の崇高な理念を教えてくれるからである。少年使節の考えは、あくまでキリスト教がすべてであった。 そして、現実には東南アジアで多くの日本人が奴隷として使役されており、そこで異教(キリスト教以外の宗教)を吹き込まれることが我慢ならないとする。同じ日本人奴隷であっても、キリスト教さえ信仰してくれたらよいという考えである。 つまり、日本人が奴隷として売られても、キリスト教を信じることになれば、最低限は許せるということになろう。この考え方は、ポルトガル商人がアフリカから奴隷を連行することを正当化する論理と同じである。千々石ミゲル像(雲仙市提供) この言葉には、少年使節の賛意が示されている。そして、まだまだ議論は続く。マルチノは、もともと日本では人身売買が不徳とされていたにもかかわらず、その罪をパードレ(司祭職にある者)やポルトガル商人になすりつけ、欲張りなポルトガル商人が日本人奴隷を買い、パードレはこれを止めようともしないと指摘した。 この指摘に反応したのがミゲルである。ミゲルは、次のような見解を示している。 ポルトガル人には、いささかの罪もない。彼は何と言っても商人である。利益を見込んで日本人奴隷を購入し、その後、インドやそのほかの国々で彼ら日本人奴隷を売って金儲けをするからといって、彼らを責めるのは当たらない。とすれば、罪は日本人の方にあるのであって、普通なら大事に育てなければならない子供が、わずかな対価で母の懐からひき離されていくのを、あれほどことなげに見ることができる人々なのだ。悪いのは日本人 ミゲルの見解は、ポルトガル人が悪いのではなく、売る方の日本人が悪いというものであった。当時の日本人は、ミゲルが指摘するように、わが子を売り飛ばすことにいささかの躊躇(ちゅうちょ)もなかったようである。 要するに、キリスト教国であるヨーロッパ諸国と比較すると、日本は人道的にも倫理的にもはるかに劣っていたということになろう。ミゲルの「奴隷を売る日本人が悪い」という考え方は、ポルトガル側の常套句に通じるところがある。ちなみに、彼らは当時、10代半ばの少年であった。 以上の会話のやりとりをまとめれば、次のように要約されよう。 ①日本人が奴隷として売られても、ポルトガルでキリスト教の正しい教えを受け、導かれるのならばそれでよい。しかし、日本人奴隷が異教徒の国で邪教を吹き込まれることは我慢ならない。 ②日本人が奴隷になるのは、人道的、倫理的に劣る日本人が悪い。ポルトガル商人は商売として人身売買に携わっているので、何ら非難されることはない。 天正遣欧少年使節の面々は日本人であったが、むしろ不道徳な日本人の考え方を嫌い、キリスト教の教えに即した、ポルトガル商人やイエズス会寄りの発言をしていることに気付くであろう。 余談ながら、天正遣欧少年使節の面々は、その後どうなったのだろうか。伊東マンショ、原マルチノ、中浦ジュリアンは、その後もキリスト教の勉強を続け、司祭の地位に就いた。しかし、キリスト教が禁止されると、厳しい立場に追い込まれ、マンショは慶長17(1612)年に逃亡先の長崎で病死した。 マルチノは海外に活路を見いだし、マカオへ向かった。そして、寛永6(1629)年に同地で死去している。ジュリアンは国外に逃亡せず、長崎で潜伏生活を送った。しかし、寛永9年に小倉で捕らえられ、翌年に激しい拷問を受けて亡くなった。ミゲルはただ1人棄教の道を選択し、後に大村藩の藩主に仕えた。 キリシタンである天正遣欧少年使節の面々は、ポルトガル人(あるいはヨーロッパの人々)やキリスト教に理解を示していたが、豊臣秀吉については決してそういう考えではなかったかもしれない。豊臣秀吉像(模本、東大史料編纂所蔵) 率直に言えば、秀吉はキリスト教の教義などに関心は持っていなかったが、自らの政治的な野心を満たすために認めていたに過ぎない。天正16年6月に秀吉はパードレたちに使者を送り、次の4カ条について質問を行っている。次に、要約しておこう。 ①なぜ日本人にキリスト教を熱心に勧めるのか(あるいは強制するのか)。 ②なぜ神仏を破壊したり、僧侶を迫害したりして融和しないのか。 ③牛馬は人間に仕える有益な動物なのに、なぜ食べるという道理に背く行為をするのか。 ④なぜポルトガル人が日本人を買い、奴隷として連れて行くのか。 キリスト教の伝来とともに、多くの文物が日本へもたらされた。秀吉は九州征伐直後、中国大陸への侵攻を構想していたという(最近は否定的な見解もある)。そのとき頼りになるのが、西欧からもたらされる強力な武器の数々である。 やや極論かもしれないが、西洋の文物や武器が入手できれば、キリスト教などどうでもよかったと考えられる。しかし、それも度が過ぎると、承服できない点があったに違いない。その代表的なものの一つが、人身売買であった。曖昧なイエズス会 もっとも、肝心なのは先の4カ条目の質問である。この点については前回も触れた通り、ポルトガル出身のイエズス会宣教師、コエリョは次のように述べている。 ポルトガル人が日本人を買うのは、日本人が売るからであって、パードレたちはこれを大いに悲しみ、防止するためにできるだけ尽力したが、力が及ばなかった。各地の領主その他の異教徒がこれを売るので、殿下(秀吉)が望まれるならば、領主に日本人を売ることをやめるように命じ、これに背く者を重刑に処すならば容易に停止することができるであろう。 コエリョの回答は天正遣欧少年使節と同じく、「売る方が悪い」という理屈である。このやり取りについては、ポルトガル人宣教師、ルイス・フロイスの『日本史』にも詳しく記載されている。次に、紹介しておこう。 私(=秀吉)は日本へ貿易のためにやってくるポルトガル人らが日本人を多数購入し、奴隷としてそれぞれの本国に連行すると聞いた。私にとっては、実に忍びがたいことである。そのようなことなので、パードレはこれまでインドそのほかの国々へ売られたすべての日本人を日本に連れ戻すようにせよ。もし遠い国々で距離的に不可能な場合は、少なくても現在ポルトガル人の購入した日本人奴隷を放免せよ。私(=秀吉)は、ポルトガル人が購入に要した費用をすべて負担する。 宣教師たちからすれば、日本人が売ってくるから奴隷として買うのだ、という論理であった。しかし、秀吉にとって同胞の日本人が二束三文で叩き売られることは、実に耐え難いことであった。購入にかかった費用を負担してまで買い戻すというのであるから、凄まじい執念といえよう。これに対する回答は、次の通りである。 この件は、殿下(=秀吉)に厳罰をもって禁止することを乞い、パードレが覚書に示した主要な事項の一つです。日本国内はもちろんのこと、海外諸国へ日本人が売られることは、日本人のように卓越し、自尊心の高い民にとって不名誉であり、価値を引き下げることです。この災難は九州のみで行われ、畿内や関東にまで広がっていません。われらパードレは、人身売買と彼らを奴隷にすることを妨害するため、少なからずつらい思いをしています。いずれにしても、それらを禁止する根本的な手段は、殿下(=秀吉)が外国船が寄港する港の領主に禁止を勧告することになりましょう。 この主張を信じるならば、当時、日本人奴隷の売買はポルトガル商人の寄港地である九州を中心にして行われていたことが分かる。いずれにしても宣教師たちの努力では奴隷売買をやめさせるのは難しいようで、秀吉自らが禁止命令を出すべきであるとする。常々、彼らは奴隷として売る日本人が悪いと言っているのであるから、取り締まるのなら日本の方で責任をもってやって欲しいということになろう。狩野内膳作『南蛮人渡来図』(右隻)神戸市立博物館所蔵(Photo : Kobe City Museum / DNPartcom) ところで、先行研究の指摘があるように、イエズス会は陰で日本人のキリシタンに寺社の破壊を命じたり、奴隷売買にもかかわっていた(高瀬弘一郎『キリシタンの世紀』)。それを隠蔽し、言い逃れをしていたのである。ところが、こうしたイエズス会の曖昧な態度は、秀吉に強い対応策を取らせることになった。 次回はもう少し奴隷売買に対する、秀吉の対応を考えてみよう。主要参考文献渡邊大門『人身売買・奴隷・拉致の日本史』(柏書房)■「日本人奴隷は神の恩寵」秀吉の逆鱗に触れたイエズス会の解釈■「人身売買」の戦国史、乱世の常識覆した秀吉の禁止令■「倭寇の人身売買は貴重な労働力」日中朝を席巻した海賊集団の謎

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    「日本人奴隷は神の恩寵」秀吉の逆鱗に触れたイエズス会の解釈

    渡邊大門(歴史学者) 前回、豊臣秀吉がいかにして、人身売買の対策を講じたのかを確認した。今回は、世界的な規模に達した奴隷貿易と日本との関係について触れておこう。 最初に、キリスト教の布教について説明しておく。船による長距離の移動が可能になり、ヨーロッパの人々がアジアに行き来することも可能になった。これが大航海時代である。商人たちが貿易のために各国を訪れ、同時にキリスト教の海外での布教も積極的に行われた。その中心的な役割を果たしたのが、イエズス会である。 1534年、スペインの修道士、イグナティウス・デ・ロヨラら6人は、パリのモンマルトルで宗教改革に対抗しイエズス会を結成した。彼らは清貧・貞潔・服従を誓約し、イエズス会がイエス・キリストの伴侶として神のために働く聖なる軍団となることを目標とした。 その中には、後に日本でキリスト教布教の中心的な役割を果たした、フランシスコ・ザビエルも含まれている。イエズス会は、1540年にローマ教皇の認可を受けた。以降、イエズス会の面々は、アジアや新大陸で熱心に布教活動を行った。 ザビエルとは、いかなる人物なのだろうか。ザビエルが誕生したのは1506年のことで、日本ではちょうど戦国時代が始まったころである。ザビエルは、ナバラ王国(ピレネー山脈西南部)出身のバスク人であった。 ザビエルは19歳でパリ大学の聖バルバラ学院で神学を学び、イエズス会の創設に加わった。1542年にはインドのゴアに派遣され、布教活動に従事した。その後、ザビエルはマラッカで布教中に、「アンジロー」という薩摩出身の日本人と会う。これが日本へ赴くきっかけとなった。 1549年4月、ゴアを出発したザビエルは、8月に薩摩に上陸した。ザビエルは島津貴久に面会を求めるなど精力的に活動し、周防の大内義隆や豊後の大友宗麟に布教への理解を求めた。ザビエルは2年余り伝道を行い、いったんインドに帰国し、さらに中国へと向かうが、1552年に中国の広東で病没した。ザビエルの布教活動により、キリスト教に理解を示した人々もいたので、大きな功績と言えるであろう。 ザビエルの後を受け継ぐかのごとく、登場したのがルイス・フロイスである。1532年、フロイスはポルトガルのリスボンに誕生した。16歳でイエズス会に入り、その後はインドに渡海した。フロイスが日本への渡海を果たしたのは、永禄6(1563)年のことである。 肥前横瀬浦(長崎県西海市)に上陸したフロイスは、スペイン出身の宣教師、フェルナンデスから日本語と日本の習俗について教えを受けた。その後、織田信長や豊臣秀吉に接近し、円滑に布教活動を行うべく奮闘した。これまでもたびたび引用した、フロイスの『日本史』は当時の日本を知る上で、貴重な史料である。 キリスト教の布教と同時に盛んになったのが、南蛮貿易である。天文12(1543)年にポルトガル商人から種子島へ火縄銃がもたらされて以降(年代は諸説あり)、日本はポルトガルやスペインとの貿易を行った。イグナティウス・デ・ロヨラ(ゲッティ・イメージズ) ポルトガルから日本へは、火縄銃をはじめ、生糸など多くの物資がもたらされた。逆に、日本からは、銀を中心に輸出を行った。こうして日本は、キリスト教や貿易を通して海外の物資や文物を知ることになる。 これより以前、ヨーロッパでは奴隷制度が影を潜めていたが、15世紀半ばを境にして、奴隷を海外から調達するようになった。そのきっかけになったのが、1442年にポルトガル人がアフリカの大西洋岸を探検し、ムーア人を捕らえたことであった。 ムーア人とは現在のモロッコやモーリタニアに居住するイスラム教徒のことである。キリシタンからすれば、異教徒だった。その後、ムーア人は現地に送還されたが、その際に砂金と黒人奴隷10人を受け取ったという。奴隷を正当化した宗教 このことをきっかけにして、ポルトガルは積極的にアフリカに侵攻し、黒人を捕らえて奴隷とした。同時に砂金をも略奪した。これまで法律上などから鳴りを潜めていた奴隷制度であったが、海外(主にアフリカ)から奴隷を調達することにより、復活を遂げたのである。では、奴隷制度は宗教的に問題はなかったのだろうか。 1454年、アフリカから奴隷を強制連行していたポルトガルは、ローマ教皇のニコラス五世からこの問題に関する勅書を得た。その内容は、次の通りである(牧英正『日本法史における人身売買の研究』引用史料より)。神の恩寵により、もしこの状態が続くならば、その国民はカトリックの信仰に入るであろうし、いずれにしても彼らの中の多くの塊はキリストの利益になるであろう。 文中の「その国民」と「彼らは」とは、アフリカから連行された奴隷たちを意味している。奴隷の多くは、イスラム教徒であった。つまり、彼らアフリカ人がポルトガルに連行されたのは「神の恩寵」であるとし、ポルトガルに長くいればキリスト教に改宗するであろうとしている。 そして、彼らの魂はキリストの利益になると強引に解釈し、アフリカ人を連行し奴隷とすることを正当化したのである。キリスト教徒にとって、イスラム教徒などの異教徒を改宗させることは、至上の命題だったのだろう。それゆえに正当化されたのである。 当初、アフリカがヨーロッパに近かったため、かなり遠い日本人は奴隷になるという被害を免れていた。しかし、海外との交易が盛んになり、その魔の手は着々と伸びていたのである。この問題に関しては、岡本良知『十六世紀日欧交通史の研究』(六甲書房)に詳しいので以下、同書を参照して考えてみたい。狩野内膳作『南蛮人渡来図』(右隻)神戸市立博物館所蔵(Photo : Kobe City Museum / DNPartcom) 日本でイエズス会が布教を始めて以後、すでにポルトガル商人による日本人奴隷の売買が問題となっていた。1570年3月12日、イエズス会の要請を受けたポルトガル国王は、日本人奴隷の取引禁止令を発布した。その骨子は、次の通りである。①ポルトガル人は日本人を捕らえたり、買ったりしてはならない。②買い取った日本人奴隷を解放すること。③禁止令に違反した場合は、全財産を没収する。 当時、ポルトガルは、マラッカやインドのゴアなどに多くの植民地を有していた。まさしく大航海時代の賜物であった。彼らが安価な労働力を海外に求めたのは、先にアフリカの例で見た通りである。ところが、この命令はことごとく無視された。その理由は、おおむね二つに集約することができよう。 一つは、日本人奴隷のほとんどが、ポルトガルではなくアジア諸国のポルトガル植民地で使役させられていたという事実である。植民地では手足となる、労働に従事する奴隷が必要であり、それを日本から調達していたのである。理由は、安価だからであった。植民地に住むポルトガルの人々は、人界の法則、正義、神の掟にも違反しないと主張し、王の命令を無視したのである。秀吉とコエリョの口論 もう一つの問題は、イエズス会とポルトガル商人にかかわるものであるが、こちらは後述することにしたい。 では、秀吉は日本人奴隷の問題にどう対処したのだろうか。天正14年から翌年にかけて九州征伐が行われ、秀吉の勝利に終わった。前回触れたが、戦場となった豊後では百姓らが捕らえられ、それぞれの大名の領国へと連れ去られた。 奴隷商人が関与していたのは疑いなく、秀吉によって人身売買は固く禁止された。実は、人身売買に関与していたのは、日本人の奴隷商人だけでなく、ポルトガル商人の姿もあったのである。 そのような事情を受けて、秀吉は強い決意をもって、人身売買の問題に取り組んだ。天正15年4月、島津氏を降伏に追い込んだ秀吉は、意気揚々と博多に凱旋した。そこで、ついに問題が発生する。 翌天正16年6月、秀吉とイエズス会の日本支部準管区長を務めるガスパール・コエリョは、日本人奴隷の売買をめぐって口論になったのである(『イエズス会日本年報』下)。次に、お互いの主張を挙げておこう。秀吉「ポルトガル人が多数の日本人を買い、その国(ポルトガル)に連れて行くのは何故であるか」コエリョ「ポルトガル人が日本人を買うのは、日本人が売るからであって、パードレ(司祭職にある者)たちはこれを大いに悲しみ、防止するためにできるだけ尽力したが、力が及ばなかった。各地の領主その他の異教徒がこれを売るので、殿下(秀吉)が望まれるならば、領主に日本人を売ることを止めるように命じ、これに背く者を重刑に処すならば容易に停止することができるであろう」 秀吉が見たのは、日本人が奴隷としてポルトガル商人に買われ、次々と船に載せられる光景であった。驚いた秀吉は、早速コエリョを詰問したのである。コエリョが実際にどう思ったのかは分からないが、答えは苦し紛れのものであった。※写真はイメージ(ゲッティ・イメージズ) しかも、奴隷売買の原因を異教徒の日本人に求めており、自分たちは悪くないとした上で、あくまで売る者が悪いと主張しているのである。もちろんキリスト教を信仰する日本人は、奴隷売買に関与しなかったということになろう。 日本人が売られる様子を生々しく記しているのが、秀吉の右筆、大村由己の手になる『九州御動座記』の次の記述である。日本人数百人男女を問わず南蛮船が買い取り、手足に鎖を付けて船底に追い入れた。地獄の呵責よりもひどい。そのうえ牛馬を買い取り、生きながら皮を剥ぎ、坊主も弟子も手を使って食し、親子兄弟も無礼の儀、畜生道の様子が眼前に広がっている。近くの日本人はいずれもその様子を学び、子を売り親を売り妻女を売るとのことを耳にした。キリスト教を許容すれば、たちまち日本が外道の法になってしまうことを心配する。 この前段において、秀吉はキリスト教が広まっていく様子や南蛮貿易の隆盛について感想を述べている。そして、人身売買の様相に危惧しているのである。秀吉は日本人が奴隷としてポルトガル商人により売買され、家畜のように扱われていることに激怒した。奴隷たちは、まったく人間扱いされていなかったのである。黙認したイエズス会 それどころか、近くの日本人はその様子を学んで、子、親、妻女すらも売りに来るありさまである。秀吉は、その大きな要因をキリスト教の布教に求めた。キリスト教自体が悪いというよりも、付随したポルトガル商人や西洋の習慣が問題だったということになろう。イエズス会関係者は、その対応に苦慮したのである。 理由がいかなるところにあれ、秀吉にとって日本人が奴隷として海外に輸出されることは、決して許されることではなかった。また、イエズス会にとっては、片方でキリスト教を布教しながら、一方で奴隷売買を黙認することは、伝道する上で大きな障壁となった。イエズス会は、苦境に立たされたと言えよう。そうした観点から、彼らはポルトガル国王に奴隷売買の禁止を要請していたのである。 しかし、日本に合法的な奴隷が存在すれば、話は別である。率直に言えば、当時の奴隷は家畜のように売買される存在であった。モノを売るのであれば、それはまったく問題ないと解釈することが可能である。 幸か不幸か、少なくとも奴隷売買商人は、日本には法律で認められた奴隷が存在すると考えていた。次の史料は、牧英正『日本法史における人身売買の研究』(有斐閣)に紹介された史料である。日本には奴隷が存在するか否か、また何ゆえに奴隷となるのか。また子供は、奴隷である父もしくは母の状態を継続するのか否か。彼ら(=奴隷売買商人)が答えて言うには、奴隷は存在する、と。奴隷は戦争中に発生する。また、貧しい親は自分の子供を売って、奴隷とする場合もある。(以下、二つ目の質問に関する回答)子供は次の方法によって、親の状態を受け継ぐ。つまり、父が奴隷で母が自由民の場合は、誕生した男子は奴隷で、女性は自由人である。父が自由人で母が奴隷の場合は、誕生した男子は自由人で、女性は奴隷である。両親とも奴隷の場合は、誕生した男女はともに奴隷である。 この問答の様子は、イエズス会が奴隷売買業者を破門にするか否かの尋問を記録したものである。牧氏が指摘するように、この回答は的を射たものである。たとえば、奴隷が戦争中に発生するというのも、これまで戦場での略奪行為「乱取り」で見てきた通りである。親が子を売る例も、たびたび見られた。 加えて、親の奴隷身分(あるいは自由民の身分)がどのような形で引き継がれるかも、日本の慣習に符合したものであった。当時における日本の情勢と比較して、彼らの言葉に特段の矛盾点は見られないようである。 このような解釈が存在したため、イエズス会では奴隷売買の商人による日本人奴隷の売買を黙認していた節がある。とはいうものの、こうしたデリケートな問題は、徐々にキリスト教の布教をやりにくくしていった。豊臣秀吉像(東大史料編纂所提供) 大きな問題だったのは、一部の宣教師たちが奴隷商人と結託して、日本人奴隷の売買に関与していたということである。そのような状況の中で出されたのが、先述したポルトガル国王の奴隷売買禁止の命令なのである。 ここで触れた、ポルトガル商人による奴隷売買については、次回も続けて取り上げることにしよう。主要参考文献渡邊大門『人身売買・奴隷・拉致の日本史』(柏書房)■「人身売買」の戦国史、乱世の常識覆した秀吉の禁止令■川中島の戦いは略奪が目的だった? 信玄も黙認した「乱取り」の真実■「倭寇の人身売買は貴重な労働力」日中朝を席巻した海賊集団の謎

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    「人身売買」の戦国史、乱世の常識覆した秀吉の禁止令

    渡邊大門(歴史学者) 前回、戦国時代における人身売買の実態について、武田氏などの例を見てきた。今回は、豊臣秀吉が織田信長に代わって天下取りに名乗りを上げて以降、人身売買にどのような対策を講じたのかを確認することにしよう。 秀吉の天下取りは、戦いの連続であった。信長が本能寺の変で横死した天正10(1582)年6月以降の主な戦いに限って列挙すると、次のようになる。 ①天正10年――明智光秀を滅亡に追い込む(山崎の戦い)。 ②天正11年――柴田勝家を滅亡に追い込む。 ③天正12年――徳川家康との戦い(小牧・長久手の戦い)。 ④天正13年――土佐の長宗我部氏を降伏に追い込む(四国征伐)。 ⑤天正14年――薩摩の島津氏を降伏に追い込む(九州征伐)。 ⑥天正18年――小田原北条氏を滅亡に追い込む。 この間にも小さな戦いはたくさんあり、秀吉は全国平定に向けて、着々と足元を固めていった。戦いでは雑兵による略奪行為の「乱取り」が行われ、それが人身売買の温床になったことは言うまでもない。秀吉は人身売買を禁止すべく熱心に対策を講じており、九州征伐や小田原征伐において関係史料を確認することができる。 天正14年の九州征伐の直前、薩摩の戦国大名・島津氏に対抗すべく、秀吉に助けを求めたのは豊後の戦国大名・大友宗麟である。かつて大友氏は九州北部を統一する勢いだったが、この頃には島津氏を相手に苦戦を強いられていた。 宗麟は日の出の勢いの秀吉に助力を求めたが、島津氏は秀吉の実力を侮っていた。そして、大友氏を血祭りに上げるべく、豊後に攻め込んだのである。戦乱の中で、乱取りや人身売買に苦しめられたのが、豊後に住む普通の人々であった。ポルトガル人宣教師のフロイスは著作『日本史』で、乱取りや人身売買の惨状を次のように記している。薩摩の兵が豊後で捕らえた人々の一部は、肥後へ売られていった。ところが、その年の肥後の住民は飢饉に苦しめられ、生活すらままならなかった。したがって、豊後の人々を買って養うことは、もちろん不可能であった。それゆえ買った豊後の人々を羊や牛のごとく、高来(長崎県諫早市)に運んで売った。このように三会・島原(以上、長崎県島原市)では、四十人くらいがまとめて売られることもあった。豊後の女・子供は、二束三文で売られ、しかもその数は実に多かった。 実に生々しい光景である。島津氏配下の雑兵は捕らえた豊後の人々を肥後で売ろうとしたが、飢饉により売買が困難と知るや、今度は現在の長崎県諫早市へ行って売買した。売られた人々は、かなりの数であったことが判明する。豊臣秀吉像(東大史料編纂所提供) いくら奴隷が安価な労働力とはいえ、二束三文とはあまりに安すぎる。この話が事実であったことは、島津氏の家臣、上井覚兼(うわい・かくけん)の日記『上井覚兼日記』天正14年7月12日条に次の通り記されている。路次すがら、疵(きず)を負った人に会った。そのほか濫妨人(らんぼうにん、乱暴狼藉を働く人)などが女・子供を数十人引き連れ帰ってくるので、道も混雑していた。 島津領内には、戦いで負傷した兵卒たちも帰還したが、濫妨人は戦利品として豊後から女や子供をたくさん引き連れ、道が混雑していたというのである。戦利品として人を略奪するのは、すでに当たり前になっていた。憂いた農村の荒廃 この惨劇を目の当たりにしたであろう秀吉は、いかなる対応をしたのであろうか。以下、確認しておこう。 先に掲出したフロイスや上井覚兼の記述は事実であり、秀吉はすぐに人身売買の対策を行った。天正16年8月になって、秀吉は人身売買の無効を宣言する朱印状を発給している(「下川文書」)。次に示しておく。豊後の百姓やそのほか上下の身分に限らず、男女・子供が近年売買され肥後にいるという。申し付けて、早く豊後に連れ戻すこと。とりわけ去年から買いとられた人は、買い損であることを申し伝えなさい。拒否することは、問題であることを申し触れること。 この文書は、加藤清正と小西行長に宛てられたものである。2人が肥後国に配置されたのは、天正16年閏5月15日のことである。したがって、2人の肥後入部直後には、秀吉から指示があったと考えられる。 この場合、人を買った者には、秀吉からの金銭的な補償はなく、「買い損」ということになっている。では、どのような理由があって、秀吉は買われた人々を豊後へ連れ戻す措置を指示したのだろうか。 戦場で雑兵が戦利品として人々を連れ去り、売買することは前回も述べた。しかし、戦争で田畑が荒れ果てたうえ、肝心の農民たちが他国に売買されたとなると、農村の復興が進まなくなる。それでは農作物の収穫がなくなるので、大名領国化の経済を揺るがす、非常に大きな問題だった。 逃散(ちょうさん)などによって農地が放棄されるがごとく、人身売買によって肝心の耕作者がいなくなってしまうことは、秀吉の本意ではなかった。秀吉はこれまでも、戦争後に還住令(逃げた農民が元の土地に戻るよう勧める法令)を発布するなどし、戦災後の復興に力を入れていた。そうでなければ、土地を奪い取った意味がなくなるからである。 同じような朱印状は、筑後の大名である立花宗茂と毛利秀包(ひでかね)にも発給された。やはり、対象となったのは、豊後から筑後へ売買された人々の扱いであった。大友氏の領国である豊後は戦場になったのであるが、年貢を納入する主体の農民が数多く連れ去られ、農村の荒廃が進んでいたのは疑いないところである。大分市にある大友宗麟像 秀吉の人身売買禁止という強い姿勢は、降伏に追い込んだ島津氏にも向けられた。次に、史料を掲出しておこう(「島津家文書」)。先年、豊後から連れ去った男女のことは、薩摩の領内を捜し出し、見付け次第に帰国させることを申し付ける。隠し置いた場合は、落ち度である。人の売買は一切禁止することは、先年定めたとはいえ、重ねて言うところである。 本文書の発給された年次は不詳であるが、天正16年ごろと見るのが妥当ではないだろうか。和睦したとはいえ、薩摩・島津氏は大身の大名である。それでも容赦せずに、薩摩領内にいる豊後の人々を帰還させるように命じた。2行目の後半部分にあるように、人身売買禁止はすでに決まっており、重ねての通知だったようだ。広がった禁止令 ところが、人身売買の禁止令は、戦場となった豊後だけが対象ではなかった。次に、秀吉が寺沢広高に宛てた朱印状を挙げておこう(「島津家文書」)。薩摩出水、肥後水俣の侍・百姓、男女に限らず、薩摩・大隅・日向そのほか隣国へ彼らが買い取られたことを聞いた。法度の旨に任せて、早々に召し返して帰還させるように申し付ける。もし違反する者があったら、すぐに報告すること。右の趣旨を堅く申し触れ、彼らを帰還させること。 薩摩出水(鹿児島県出水市)、肥後水俣(熊本県水俣市)では侍・百姓や男女を問わず、島津氏領国の薩摩・大隅・日向やその隣国で売買されていた。秀吉は、それらの人々を早急に帰還させよというのである。こちらも本文に記されているように、人身売買は違法行為であることが強調されている。 実は、薩摩出水、肥後水俣を治めていた島津忠辰(ただとき)は、秀吉にその領土を没収されていた。その後の措置にあたったのが肥前唐津(佐賀県唐津市)の寺沢広高であったが、混乱の中で領内の多くの人々は売り払われたのであろう。これでは、戦後の復興はままならない。秀吉は人身売買禁止という方針をもとに、その対策を広高に命じたのであった。 かつて、戦場における人の略奪は、当然の行為として認識されてきた印象がある。しかし、秀吉は人の略奪や人身売買禁止という政策を採った。その方針は、国内の大戦争である小田原北条氏との戦いでも受け継がれた。 天下取りを目指す豊臣秀吉にとって、最後の強敵は小田原北条氏を残すのみとなった。北条氏は関東一円を支配下に収め、その実力は侮れないものがあった。 天正17年11月の名胡桃(なぐるみ)城事件が秀吉の惣無事(私戦の禁止)の基調に違反したため、同年末に秀吉は北条氏に宣戦布告し、両者の戦いが始まった。名胡桃城事件とは、沼田城代の北条氏の家臣である猪俣邦憲(いのまた・くにのり)が、謀略によって真田昌幸の名胡桃城を占拠した事件である。戦いは関東各地で繰り広げられたが、北条氏は徐々に劣勢に追い込まれ、ついに天正18年6月に小田原開城となった。小田原城=神奈川県小田原市 この間、秀吉は諸大名に対して、人身売買を禁じる旨を申し伝えている。天正18年4月27日、秀吉は上杉景勝に宛てて朱印状を発給した。次に、内容を確認しておこう(「上杉家文書」)。国々の地下人・百姓などは、小田原町中の外で、ことごとく還住させることを申し付ける。そのような中で、人身売買を行う者があるという。言語道断で許しがたいことである。人を売る者も買う者も、ともに罪科は軽いものではない。人を買った者は、早々に彼らをもといた場所に返すこと。以後、人の売買は堅く禁止するので、下々まで厳重に申し付けること。 小田原城が戦場になったものの、戦いは関東各地で繰り広げられたので、人々は戦火を避けてあっちこっちに避難したのであろう。豊臣方は戦いを優勢に進める中で、未だに戦場である小田原町を除き、そのほかの場所については、百姓らを帰還させるように手配した。秀吉は戦争が終結した地域から順に、復興を進めたのである。目的は戦後復興 一連の措置には、人々が元にいた場所に帰還させることによって、できるだけ早く戦後復興を円滑に進めるという目的があった。しかし、戦争というどさくさの状況で、人身売買が横行したこともあり、秀吉はその禁止を命じた。それは人を買う者であっても、売る者であっても罪は等しく重かったのである。 上杉景勝が主戦場としていたのは、松井田城(群馬県安中市)であり、同年4月22日に城主である大道寺政繁(だいどうじ・まさしげ)は降伏していた。人身売買の禁止は、それから5日後の措置である。実は、ほぼ同内容の書状は、同年4月29日に秀吉から真田昌幸に送られている(「真田家文書」)。 つまり、戦いが終わった場所では、速やかに人を帰還させるように昌幸に命じ、その間の人身売買を無効としたうえで、人を売買する者の摘発を命じている。やはり小田原を除いているのは、まだ同地では戦争が継続していたからである。 秀吉の人身売買禁止令は、小田原北条氏の滅亡後も徹底していた。天正18年8月、秀吉は下野の宇都宮国綱に対して掟書の条々を送った。そのポイントは、次の2つになろう(「宇都宮家蔵文書」)。・百姓などを土地に縛りつけ、他領に出ている者は召し返すこと。・人身売買は、一切禁止すること。 重要なことは、百姓などが勝手に移住し、耕作地が荒れることを防ぐということになろう。同時に人身売買によって、貴重な労働力が移動することも危惧された。つまり、人身売買の禁止というのは、さまざまな目的があるものの、倫理的、人道的な問題というよりも、むしろ労働力の問題として重視されたと考えられる。 天正18年以降に秀吉が発給したと考えられる文書には、次のような規定がなされている(「紀伊続風土記」所収文書)。人の売買については、一切禁止する。天正十六年以降、人が売買された件は無効とする。今後、人を売る者はもちろんのこと、買う者についても罪とするので、噂を聞きつけて報告した者には褒美を遣わす。 このように見る限り、天正16年という年を一つの基点にしていることがわかる。また、これまで人を買った者は、未だに罪として認識していなかったようである。売る方は積極的であったが、買う方は受動的であったので罪が軽かったのだろうか。いずれにしても、人身売買は売るのも買うのも、罪は等しくされたのである。長浜城天守閣跡に建てられた豊臣秀吉像=滋賀県長浜市 そもそも人を略奪して人身売買をすることは、出陣した兵の給与の一部のようなものだった。しかし、戦後復興を考えたとき、人身売買によって人がいなくなり、耕作地が荒れると収穫が減るので大問題だった。それゆえ秀吉は倫理的、人道的というよりも、労働力の問題として、人身売買を禁止したのである。こうして経済基盤の安定化を図ったのである。 ところで、人身売買の問題を考えるには、キリスト教や南蛮貿易のこと、また、ポルトガル商人を通して日本人奴隷が海外に売りさばかれた例を検討する必要がある。秀吉は日本人奴隷が海外に輸出されることを懸念していた。この点に関しては、次回に取り上げることにしよう。主要参考文献渡邊大門『人身売買・奴隷・拉致の日本史』(柏書房)■「倭寇の人身売買は貴重な労働力」日中朝を席巻した海賊集団の謎■「強欲でケチ」秀吉はいかにして巨万の富を築いたか■「キリシタンへの見せしめ」秀吉が黒田官兵衛を疎んじた理由

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    川中島の戦いは略奪が目的だった? 信玄も黙認した「乱取り」の真実

    渡邊大門(歴史学者) 前回の倭寇による人の略奪を踏まえて、日本国内に目を向けてみよう。戦国時代は、人身売買も含めて、人の略奪が盛んに行われた時代だった。それは、まさしく「生きるため」だったといっても過言ではない。それは、天候不順による食糧不足とも連動していたと言える。 現代は便利な時代であり、暑いと言えば冷房をつければよいし、寒いと言えば暖房をつければよい。食料もビニールハウスどころか、今や工場で作るありさまである。最近の自然災害はひどい状況だが、鉄筋コンクリートの建物は、昔の木造建築に比べると非常に頑強である。むろん戦国時代の家は、粗末な木造だった。 また、今は道を歩いていれば、スーパーやコンビニがあるので、お金さえあれば食料を手に入れることができる。病気になっても、病院に駆け込めば何とかなることも多い。すべてが便利であるし、さまざまな点で不便な戦国時代とは比較にならない。 戦国時代に目を転じると、主力となる農業や漁業は自然が相手の仕事であり、ひとたび自然災害に見舞われると、農業用の機械があるわけでもないので、農地の復旧には多大な時間を要した。おまけに天候不順に陥ると、たちまち作物の収穫量はガタ落ちし、人々は飢えに苦しむありさまである。 保存食があるとはいえ、今のように冷凍食品があったわけではない。ひどい状況が続けば、やがて人々の体力を奪い、病気になることもあった。病気になると特効薬があったわけでもないので、疫病の蔓延(まんえん)は深刻な事態を招いた。 寛喜2(1230)年から翌年まで人々を苦しめた寛喜の大飢饉(ききん)では、食糧難が深刻になったので、子供を売ってでも生活の費用を捻出する必要が生じた。とにかく、戦国時代の人々は生きるために必死だったのである。 村で生活する人々はときに戦争に参加し、戦場で相手から略奪した金目のものや食料などを自分のものにした。戦場で人を捕らえた場合も、自分のものになり、捕らえた人を売ることもあった。つまり、戦争に行くこと自体が、自らの生死をかけた戦いであり、略奪が生きるために必要だったのである。 こうした戦場における人の略奪は、必然的に人身売買の温床となった。以下、戦場における人の略奪を中心にして、さまざまな事例を取り上げることにしたい。最初は、武田氏の事例である。JR甲府駅前の武田信玄像 甲斐国の武田氏や小山田氏をはじめ、当時の生活や世相を記録した史料として、『妙法寺記』(『勝山記』とも)という史料がある。そこには、数多くの人の略奪の記録が残されている。 天文5(1536)年、相模国青根郷(相模原区緑区青根)に武田氏の軍勢が攻め込み、「足弱」を100人ばかり獲っていったという。この前年、武田信虎は今川氏輝、北条氏綱の連合軍と甲斐・駿河の国境付近で戦い(万沢口合戦)、敗北を喫していた。武田氏は両者に対して、大きな恨みを抱いていたといえる。 史料中の「足弱」とは、「足が弱い人」「歩行能力が弱い人」という意味がある。転じて、女性、老人、子供を意味するようになった(足軽を意味することもある)。つまり、武田氏の軍勢は戦争のどさくさに紛れ、戦利品として「足弱」を強奪して国へ戻ったということになろう。時代を問わず、女性、老人、子供は常に「弱者」であった。川中島でもあった「乱取り」 そして、天文15(1546)年には甲斐国で飢饉があり、餓死する者が続出したという。そうした状況下、武田氏の軍勢は男女を生け捕りにして、ことごとく甲斐国へと連れ去った。生け捕られた人々は、親類が買い取りに応じることがあれば、2貫、3貫、5貫、10貫で買い戻されていった。 現在の貨幣価値に換算すると、一貫=約10万円になる。生け捕られた人々は約20万~100万円で買い戻された。身分あるいは性別や年齢で値段が決まったのであろうか。 『妙法寺記』を一覧すると、武田氏の軍勢が行くところでは、多くの敵方の首が取られたことが記述されており、同時に多くの「足弱」が生け捕りにされたことも記されている。「足弱」は売買されるとともに、農業などの貴重な労働力になったのであろう。 このように、戦場で人あるいは物資を強奪することを「乱取り」という。戦場で分捕ったものは当然、自分のものなった。ある意味で戦争に参加するのは、乱取りが目的とも思えるほどである。その姿は、『甲陽軍鑑』にも生き生きと描かれている。 『甲陽軍鑑』とは、江戸時代初期に集成された軍書であり、武田氏を研究する上で重要な史料の一つである。武田信玄・勝頼父子の治績、合戦、戦術、刑法などが記述され、20巻59品から構成されている。その成立過程は、武田氏の家臣、高坂昌信の遺記をベースにして、春日惣二郎、小幡下野らが書き継ぎ、最終的に小幡景憲が集大成したとされている。 『甲陽軍鑑』は、まさしく乱取りの事例の宝庫であるといえる。以下、いくつかの例を挙げることにしよう。 武田信玄の戦いで最もよく知られているのは、越後の上杉謙信と死闘を演じた川中島(長野市)の戦いであろう。天文22(1553)年、初めて2人が刃を交えて以来、計5回にわたって雌雄を決している(4回説もあり)。ここでは2人の名勝負ではなく「乱取り」だけを見ることにする。 川中島の戦いに際して、甲斐国から信濃国へ侵攻した武田軍は、そのままの勢いで越後国関山(新潟県妙高市)に火を放つと、人々は散り散りに逃げ出した。そして、謙信の居城である春日山城(新潟県上越市)へ迫ったのである。武田軍は越後に入ると、次々と人々を乱取りし、自分の奴隷として召抱えたという。その大半は、女や子供であった。川中島の合戦の両雄、武田信玄と上杉謙信の銅像=長野市 『甲陽軍鑑』には、兵卒が男女や子供のほか、馬や刀・脇差(わきざし)を戦場で得ることによって、経済的に豊かになったと記されている。女性に限って言えば、家事労働に従事させたり、あるいは性的な対象として扱われたりしたのであろう。場合によっては、売却して金銭に替えることも可能であったと推測される。戦争に行くことはまさしく生活がかかっており、さらに運がよければ「うまみ」があったといえよう。 こうなると、戦争に行った者たちの関心は、極端に言えば戦いの勝敗よりも、乱取りでどれだけ略奪できたかに移っていたようである。『甲陽軍鑑』の一節には次のように記されている個所がある(現代語訳)。乱取りばかりに気持ちが動いて、敵の勝利にも気付かなかった。乱取りばかりにふけっており、人を討つという気持ちがまったくない。 乱取りに熱中する人々は、「後さき踏まえぬ意地汚き人々」と評価されるところとなった。要するに「何も考えていない意地汚い連中」ということになろう。こうなると、彼らが戦争に来たのか、乱取りに来たのか目的すら判然としなくなる。忠誠より略奪 たとえば、武田軍が信濃国に侵攻した際、大門峠(長野県茅野市)を越えた付近で、兵たちに7日間の休暇が与えられた。しかし、兵たちは休むことなく、鬨(とき)の声を上げて付近の民家を襲撃した。目的は略奪行為であり、田畠の作物すら奪い取った。わずか3日間で村々から略奪を終えると、まだ余力が残っていたのか、翌日からはさらに遠方の村々まで出張って行って、略奪を繰り返すありさまだったのである。 それだけではなく、戦争が終結し、敵の城を落しても乱取りだけは続けられた。それが、兵たちの「褒美」になった。永禄9(1566)年、小幡業盛の籠る上野国箕輪城(群馬県高崎市)が信玄により落されると、雑兵は箕輪城を本拠として、敵兵を次々と捕らえ、乱取りを行ったのである。彼らにとっては、戦いよりも乱取りが本番であったと言えるかもしれない。 現代では、国家からの強制的な動員、あるいはほとばしるような愛国心に突き動かされ、人々は戦争に行くのであろう。しかし、戦国時代の戦争は収入を得る手段の一つであり、言うなれば「出稼ぎ」のようなものだったのかもしれない。動員する戦国大名にとっても、彼らを従軍させる理由やモチベーションが必要である。それが乱取りであり、彼らの貴重な収入源となった。まさしく生きるための戦争だったのである。 こうして人や物資を略奪すると、雑兵たちの生活は豊かになった。『甲陽軍鑑』には、その姿が次のように描かれている(現代語訳)。分捕った刀・脇差・目貫・こうがい・はばきを外して(売って)、豊かになった。馬・女を奪い取り、これで豊かになったので、国々の民百姓までみんな富貴になり安泰になったので、国で騒ぎが起こることがなかった。 われわれの常識では、戦国大名が産業や農業振興に腐心し、それにより国が豊かになると考えていた節がある。むろん、それも事実として正しいのであるが、実際には他国へ侵攻して戦争を仕掛け、それにより国が富むという現実を認識すべきだろう。戦争に行く人々には、愛国心や忠誠心はほとんどなかったのかもしれない。 こうした乱取りという現象は、何も武田氏の専売特許ではない。次に、肥後国の大名・相良氏の事例を取り上げてみよう。相良氏は遠江国佐野郡相良荘の出身であるが、鎌倉時代に肥後国人吉荘に本拠を移し、以後大名化を遂げた。※写真はイメージ(ゲッティイメージズ) 乱取りの様子は『八代日記』に描かれている(天文~永禄年間)。その記述によると、戦場においては、牛馬とともに人々も略奪の対象となった。ときに夜襲を仕掛けて、人を奪い去った様子がうかがえる。また、数千人が生け捕りにされており、その規模の大きさには、目を見張るものがある。 同じことは、伊達政宗が南奥羽で展開した戦いにおいても確認することができる。その状況を伝えているのが、『天正日記』である(天正16・17年)。 『天正日記』によると、戦場において数多くの人々が生け捕りにされ、敵兵の首や鼻を切り取ったという。敵兵を倒した場合、その証として首を切り取った。首の数によって、与えられる恩賞が決まったからである。 鼻が切り取られた理由は、首を腰まわりにぶら下げていると、重いうえに身動きが取りにくい。そこで、代わりに鼻を削(そ)ぎ落として、敵を討ち果たした証拠にしたのである。鼻から上唇まで切り取ると、髭(ひげ)によって男であると分かる。売り飛ばされた女たち 人が略奪された例は、薩摩・島津氏の関係者の日記でも確認できる(『北郷忠相日記』など)。『北郷時久日記』によると、人が3人誘拐されたと記されている。強引に連れ去るだけでなく、騙して連れ去ることもあったようである。 永禄9(1566)年2月、長尾景虎(上杉謙信)の攻撃によって、小田氏治の籠(こも)る常陸・小田城(茨城県つくば市)が落城した。落城の直後、城下はたちまち人身売買の市場になったという。その様子は、『別本和光院和漢合運』に次のように記されている。小田城が開城すると、景虎の意向によって、春の間、人が二十銭・三十銭で売買されることになった。 この一文を読む限り、人身売買は景虎の公認だったのかもしれない。20銭といえば、現在の貨幣価値に換算して、約2千円ということになる。おそらく、雑兵たちはかなりの数の女や子供を生け捕りにし、これを売ることにより、生活の糧にしていたと考えられる。まさしく戦争に出陣する「うまみ」であった。 数が多いので、薄利多売になったのであろうか。売られた者は、家事労働などに使役されるか、あるいはさらに転売されたことがあったかもしれない。 連れ去られた人々は、買い戻されることもあった。その際、金銭が必要なのは言うまでもないが、仲介役として商人や海賊が関与していたと指摘されている。むろん無料で引き受けるのではなく、仲介料を取っていた。つまり、戦場における人の連れ去りは、大げさに言えば、一種の商行為として彼ら商人の懐を潤わせていたのである。 人身売買の厳しい実態は、後になっても確認できる。 『信長公記』によると、天正3(1575)年に織田信長が越前国の一向一揆を討伐した際、殺された人間と生け捕りにされた人間の数が、3~4万人に及んだと伝えている。これには、兵はもちろんのこと民や百姓も含まれていた。殺された数も多かったようであるが、生け捕り分(民と百姓)は、戦利品として扱われたと推測される。 同様の事例は、大坂の陣でも確認できる。『義演准后日記』によると、大坂の陣で勝利を得た徳川軍の兵は、女や子供を次々と捕らえて、凱旋(がいせん)したことを伝えている。徳川方の蜂須賀軍は、約170人の男女を捕らえたと言われているが、そのうち女が68人、子供が64人とその多くを女や子供が占めている。弱者である女や子供が生け捕りにされるのは、共通した普遍性であった。大阪城(ゲッティイメージズ) 大坂の陣を描いた「大坂夏の陣屏風」には、逃げ惑う戦争難民の姿が活写されているが、とりわけ兵に捕まった女性たちの姿が目を引く。兵たちは戦争そっちのけで強奪に熱中しており、それがある意味で彼らの稼ぎとなっていたようなのである。そして、女性たちは売り飛ばされたと考えられる。 人身売買や人の略奪という地獄絵図は、戦国時代を経て織豊政権期に至っても続き、さらに最後の大戦争となった大坂の陣まで脈々と続けられたのである。主要参考文献渡邊大門『人身売買・奴隷・拉致の日本史』(柏書房)■「倭寇の人身売買は貴重な労働力」日中朝を席巻した海賊集団の謎■「強欲でケチ」秀吉はいかにして巨万の富を築いたか■「キリシタンへの見せしめ」秀吉が黒田官兵衛を疎んじた理由

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    「倭寇の人身売買は貴重な労働力」日中朝を席巻した海賊集団の謎

    渡邊大門(歴史学者) 前近代(特に中世)において、人身売買が行われていたことはご存じだろうか。それは決して公に認められたものではないが、公然の秘密だったといえる。今回はその源流を探るべく、室町時代の人身売買の例を取り上げることにしよう。 鎌倉幕府滅亡後の1336年、足利尊氏が室町幕府を開くと、鎌倉幕府と同様に指針となる法令を制定した。これが『建武式目』であり、中原是円、真恵兄弟らが足利尊氏の諮問に答えた形式を採っている。 『建武式目』は『御成敗式目』のような裁判規範でなく、むしろ政治的な方針を示したものといわれている。その点は性格が異なっているが、以後は鎌倉幕府と同様に多くの追加法が制定された。 ただし、『建武式目』をはじめとする室町幕府の法令においては、人身売買を禁止した規定を見いだすことはできない。しかし、人身売買が行われていなかったわけではなく、関係した史料(人身売買の売券など)は残っている。 当時、人身売買や人の略奪という行為は、よりワールドワイドな方向で展開した。奴隷は世界的に存在しており、常に売買の対象となり流通していた。イスラム世界では高度に洗練された奴隷の流通システムが構築されており、中央アジア、ロシア草原、バルカン半島、ヨーロッパ北部、アフリカ大陸北部などに広がっていたという。そして、それを媒介していたのが、イスラム商人だった。 日本は島国であったが、海で広く世界につながっていた。そして、日本人の略奪や人身売買も東アジア社会で展開することになる。とりわけ中国や朝鮮との関係が重要である。その契機となったのが、14世紀半ば頃から猛威を振るった「倭寇(わこう)」の存在である。 倭寇には、「日本の侵寇」あるいは「日本人の賊」という意味があり、盗賊団のようなものになろう。倭寇という文字そのものは、404年の「高句麗広開土王碑文」に初めて確認できる。その活動は、おおむね14世紀半ば頃から15世紀初頭にかけて見られるようになった。倭寇図巻(東京大学史料編纂所提供の模写) 彼らの活動範囲は、朝鮮半島、中国大陸の沿岸や内陸および南洋方面の海域と非常に広範囲に及んでいる。当時の朝鮮人・中国人たちは、こうした日本人を含む海賊的集団を「倭寇」と呼んだのである。 倭寇の意味するところは、時代や地域によって異なっており、その定義を厳密に行うことは難しい。ちなみに、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)や20世紀における日中戦争も倭寇という言葉で表現された。そうなると、倭寇は賊に加えて、侵略者としての意味も持つことになる。 倭寇は食料などの物資に限らず、人間までも略奪行為の対象とした。朝鮮半島や中国大陸では、倭寇により人がさらわれ、そのまま日本に連行された。こうして日本に連行された人々を被虜人(ひりょにん)と称する。以下、倭寇による人の略奪を取り上げることにしよう。倭寇に悩まされた「明」 高麗王朝史の正史『高麗史』によると、1388年6月に倭寇が朝鮮半島の全羅・慶尚・揚広の三道に進攻し、多くの人々が略奪されるという甚大な被害を受けたと記す。『高麗史』の別の個所では、倭寇の船団は50艘あまりもあり、千余人を連れ去ったというのである。まさしく国家存亡の危機だったといえよう。 事情は中国においても同じであった。『皇明太祖実録』の1373年5月の記録によると、倭寇による人の殺戮(さつりく)などが問題となっており、翌年には対策が練られている。倭寇対策として水軍を充実させ、周辺海域をパトロールさせることになったのである。当時の「大明国」が倭寇の被害に頭を悩ませている様子がうかがえる。 『老松堂日本行録』という史料には、倭寇が日本海域を席巻し、朝鮮半島や中国で人をさらっていたことが記されている。『老松堂日本行録』は応永27(1420)年に足利義持の派遣使節の回礼使として日本を訪れた、朝鮮の官僚、宋希璟(そうきけい)の日本紀行文集で、当時の西日本の社会や風俗および海賊衆を記す貴重な史料である。次に、その中の一節を挙げることにしよう。  一人の日本人がいて、小船に乗って魚を捕まえていた。私(宋希璟)の船を見ると近づいてきて、魚を売ろうとした。私(宋希璟)が船の中を見ると、一人の僧が跪いて食料を乞うた。私(宋希璟)は食料を与えて、この僧に質問をした。僧は「私は江南台州(中国浙江省臨海市)の小旗(10名の兵を率いる下級軍人)です。一昨年、捕虜としてここに来て、剃髪して奴隷になりました。辛苦に耐えられないので、あなた(宋希璟)に従ってこの地を去ることを願います」と言うと、ぽろぽろと涙を流した。(この僧の主人である)日本人は「米をいただけるなら、すぐにでもこの僧を売りますが、あなた(宋希璟)は買いますか」と言った。私(宋希璟)は僧に「あなたはが住んでいる島の地名は何と言いますか」と質問した。僧は「私は転売されて、この日本人に従って2年になります。このように海に浮かんで住んでいるので、地名はわかりません」と答えた。 この男は「僧」と称されているが、「剃髪して奴隷になった」とあるので、頭を剃(そ)る行為が奴隷を意味していたと考えられる。あえて剃髪して異形にすることにより、普通の人と違うことを際立たせ、奴隷であることを視覚化させたのである。要するに剃髪した風貌が僧に似ていたので、仮に宋希璟は僧と呼んだのであろう。この男は連れ去られたのちも、転売されて今の主人に従ったらしい。 この男は故郷の中国にいたときに倭寇によって連れ去られ、売買されたのであろう。場所は、対馬と推定されている。男は慣れない漁業に従事し、食料にも事欠くありさまだったようだ。遠い異国のことでもあり、心情を察するところである。では、なぜ倭寇は中国や朝鮮から人々を連れ去ったのだろうか。 日本において南北朝の乱が始まると、それが約半世紀という極めて長期間に及んだ。とりわけ九州においても各地で戦いが繰り広げられ、著しい内乱状態に陥った。当然、農地は荒れ果て収穫が困難となり、食料が不足したに違いない。戦争時における、食料などの略奪も問題になったと考えられる。 そうなると田畑を耕作する人間は国内で調達することが困難になるので、必然的に国外に求めざるを得なくなった。九州では農業従事者の慢性的な不足があったため、捕らえた朝鮮人や中国人を売却し、農作業に従事させていたのである。対馬は朝鮮半島に近いこともあり、人身売買が盛んに行われていたという。こうして日本国内における労働力の不足は、中国や朝鮮の人々によって補われた。転売もあった人身売買 もちろん、彼らが従事したのは農業だけでない。それらを挙げると、牧畜、漁業、材木の運搬などが主たる業種である。いずれも過酷な肉体労働であり、まさしく奴隷が家畜同様に使役された物悲しさを語ることである。 しかし、近年では以上のような肉体労働だけでなく、さまざまな職種に就いていたことが指摘されている。 一つは通訳である。当時の公用語が中国語とみなされていたことから、通訳はほぼ中国人に限定されていた。中国語の読み書きがある程度できる者は、奴隷として日本に連れ去られ、日本語も堪能になると通訳を任された。通訳になると、先述した厳しい肉体労働から解放された。なお、対馬、壱岐、北九州では、日本人でも朝鮮語に通じた者がいたと推測されており、朝鮮語の通訳は必要でなかったと考えられている。 もう一つは、中国や朝鮮などの案内人として従事させることである。倭寇が中国や朝鮮に上陸する際、地理に不案内なため、どうしても土地に詳しい者が必要であった。いうなれば、倭寇の手先ということだ。皮肉にも被虜人が、倭寇の手助けをし、新たな被虜人を生み出すことになった。案内人としての職務については、中国人、朝鮮人とも行っていたようである。 謡曲に『唐船』というものがある。九州・箱崎の某(なにがし)なる者が、唐土との船争いの際、官人の祖慶(そけい)を捕らえた。祖慶は13年もの間、牛馬の飼育に使役され、肉体労働を強要されたのである。祖慶は、唐土に2人の子供を残していた。2人は父を慕い、連れ帰ろうとして日本に渡海した。祖慶は日本で結婚し2人の子供がいたが、実子との再会に大いに喜んだ。 2人の子供は箱崎の某の許可を得て、父を連れて帰ろうとしたが、日本の子供が別れを悲しんで引き留める。思い余った祖慶は海に身を投げようとするが、箱崎の某は日本の子供も唐土へ連れて帰ることを許した。 ここで重要なのは、祖慶が自由の身になっても、その子供たちは主人の奴隷ということに変わりなかったことである。父子5人は、船中で喜びの楽を奏でながら、帰国の途につくのである。この話は決して架空のものでなく、悲しい実態を反映した作品なのだろう。 このように被虜人は、国内における貴重な労働力であるとともに、倭寇の活動を支える存在であったといえるのである。当時、人身売買は各国で行われており、それは日本でも同じだったのだ。※画像はイメージ(ゲッティイメージズ) そして中国人や朝鮮人の売買は1回で完結するのではなく、さらに転売が伴った。転売された人物としては、魏天(ぎてん)なる者が存在する(以下『老松堂日本行録』)。魏天の生没年は不明であるが、中国の明で誕生し、のちに倭寇によって捕らえられ、被虜人として日本に連行された。その後、魏天は転売を繰り返され、朝鮮→日本→明→日本と移動した。最後は明への帰国を成し遂げ、洪武帝によって日本に派遣された。立場上は日本語を理解していたので、通訳ということになろう。牛馬より安価 再度訪れた日本では、室町幕府の三代将軍・足利義満の寵(ちょう)を受け、京都に居を構えたという。応永27(1420)年には、宋希璟と四代将軍・義持との会見の実現に大いに貢献した。皮肉にも魏天は、被虜人としての生活や日本語の取得が役立ったということになる。魏天は幼少時は被虜人となり、不幸であったかもしれないが、晩年は恵まれており幸運な部類に属するであろう。 被虜人は、遠く当時の琉球にも転売されたようである。14世紀の終わり頃、琉球の中山王察度は4回に渡り朝鮮に被虜人を送還している。1416年、朝鮮国王・太宗も使節を琉球に派遣して、被虜人を帰国させた。おおむね被虜人は、九州を中心にして、東は京都、南は琉球まで転売され、存在したようだ。15世紀後半の京都・建仁寺の禅居庵には、浙江省温州で被虜人になった人物が住んでいた。 女性の被虜人の場合は、日本人男性の妻になった例もあるという。また、中には性的な労働に従事させられた者もあったと推測されている。 以上のように、朝鮮や中国から連行された被虜人は、西日本を中心にして繰り返し転売されることになった。しかし、14世紀の終わり頃になると、朝鮮は日本との通交を積極的に推し進め、被虜人の送還を歓迎した。朝鮮との通交を希望する者は、被虜人の送還を進めた。この動きは15世紀初頭まで続くが、朝鮮の倭寇懐柔策により被虜人の供給が激減したため、以後はあまり見られなくなったという。 倭寇が朝鮮・中国で猛威を振るい、人々を略奪したことを述べてきたが、逆のパターンがあったことにも注意すべきである。朝鮮では報復措置として、日本人を捕らえて奴隷とし、使役あるいは売買したことが知られている。 そもそも李氏朝鮮には、法律上で奴隷の売買が許されており、世襲的な奴婢(ぬひ)が存在していた。14世紀の終わり頃、奴婢の売買は盛んに行われていたが、その価値は牛馬よりも劣っていたといわれている。日本よりも悲惨な現状にあった。しかし、次第に奴婢の売買は制限が加えられるようになり、15世紀の終わり頃には事実上の禁止となったという。 『李朝世宗実録』によると、1429年に朴瑞生(ぼくずいせい)が日本通信使として来日し、帰国後に倭寇に拉致された被虜人のこと、そして日本における人身売買について報告を行っている。その中で注目すべきは、日本人が朝鮮人や中国人を奴隷として売買していたことに加え、朝鮮人も捕らえた日本人を奴隷として売買していた事実が報告されていることだ。 朝鮮人が日本人奴隷を使役していた事実は、1408年の『李朝太宗実録』で確認することができる。この記録によると、日本国王・足利義持が派遣した船の中に、当時、朝鮮人のもとで労働に従事していた日本人女性が逃げ込んだという。この日本人女性が、いかなる経緯で朝鮮人に捕らえられたのかは明らかでない。これにより、朝鮮人のもとで日本人奴隷が存在していたことが明白になった。倭寇図巻(東京大学史料編纂所提供の模写) その後の顛末(てんまつ)はどうなったのであろうか。朝鮮サイドでは府使を遣わし、日本の船に逃亡した日本人女性を返還するよう求めた。奴隷は主人の所有物なので、ある意味で当然の要求といえるかもしれない。しかし、日本サイドの使者は、「日本に私賤はいない」と突っぱねて返還を拒否した。そのような経緯を踏まえて、太宗は日本人奴隷の売買を禁止する法令を発布したのである。 一説によると、当時の朝鮮における奴隷の割合は、相当に高かったという。太宗がいかなる理由で、日本人奴隷の売買を禁止したのかは不明であるが、仮に朝鮮で普通の人の売買を禁止しているならば、日本の「私賤はいない」という主張に従って、措置をしたのかもしれない。日本人女性が奴隷でないならば、返還するのが筋だからである。 このように、15世紀の日本において人身売買が国の枠を超えて行われたことは、非常に興味深いところである。次回以降は、さらに人身売買や奴隷の詳細を明らかにしていこう。《主要参考文献 渡邊大門『人身売買・奴隷・拉致の日本史』(柏書房)》■「強欲でケチ」秀吉はいかにして巨万の富を築いたか■「キリシタンへの見せしめ」秀吉が黒田官兵衛を疎んじた理由■「極悪の欲情」女好き秀吉、フロイスの目にはどう映ったか

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    「強欲でケチ」秀吉はいかにして巨万の富を築いたか

    渡邊大門(歴史学者) 秀吉が大坂城を築城し、多くの女性を囲ってきたこと、室内に豪華な装飾品を置いたことなどは、以前に取り上げた。中でも大坂城や黄金の茶室は、秀吉の富の象徴であり、すべての人々が圧倒されたに違いない。 1586年10月17日、ポルトガル人宣教師、ルイス・フロイスはイエズス会東インド管区長のヴァリニャーノに宛てて、「富みにおいては、日本の金銀及び貴重なる者は皆(秀吉の)掌中にあり、彼(秀吉)は非常に畏敬せられ、諸侯(大名)の服従を受けている」という内容の報告書を送っている。 続けて秀吉が大変傲慢(ごうまん)で、諸大名と面会するときは蔑視(べっし)していたと述べている。秀吉は盤石な財政基盤を背景にして、諸大名を侮(あなど)っていたのだろうか。少なくともフロイスは、秀吉が巨万の富を掌中に収めていることを知っていた。 この頃、秀吉はすでに関白の地位にあり、欲しいものは何でも手に入っていた。特に、女性に目はなかったようで、1588年2月20日のフロイスの報告書には、秀吉が全国の美しい女性を求め、無理やり連行していたと記している。「無理やり」とはいえ、相手の親や夫にはいくらかの金を与えたのだろう。 江戸時代になると、秀吉の富裕ぶりは、どのように伝わったのだろうか。『信長公記』の著者、太田牛一が慶長15(1610)年に執筆した秀吉の一代記『大かうさまぐんきのうち』には、次のように書かれている(現代語訳)。 秀吉公が出世されて以来、日本国中から金銀が山野から湧き出て、そのうえ高麗、琉球、南蛮の綾羅錦繍(りょうらきんしゅう、美しく気品のある衣服のこと)、金襴(きんらん、金切箔)、錦紗(きんしゃ、絹織物の一種)、ありとあらゆる唐土(中国)、天竺(インド)の名物や珍しいものが多数、秀吉のもとに集まった。それは、宝の山を積むようだった。 この続きでは、農民や田舎者すらも黄金を多数所持し、路頭には乞食(こじき)が1人もいなかったという。秀吉の慈悲により、貧民には何らかの施しがなされたということになろう。ところが、これはあまりに大げさに書かれているのは事実で、さすがに乞食がいないなどはありえない。ただ、秀吉が金持ちだったのは事実である。牛一の秀吉に対する評価は、高かったといえるのかもしれない。 これとは、正反対の見解もある。小瀬甫庵が執筆した『太閤記』には、ユニークな見解を載せている。同書の巻頭において、甫庵は問答形式で秀吉の金配りが道(人の道)に近いのか否かを問い、次のように回答している(現代語訳)。 秀吉は富める者を優先し、貧しき者を削った。どうして道(人の道)に近いといえようか。百姓から税を搾り取って、金銀の分銅にして我がものにし、余った金銀は諸大名に配った。下の者(庶民)に配ることはなった。 つまり、秀吉は強欲だったというのである。ただ、この話も決して真に受けてはならない。ときは寛永年間で、3代将軍・徳川家光の治世だった。この後に続けて、甫庵は家光が万民に施しを行ったので、人々は大いに喜んだと記している。つまり、現政権を褒めたたえているのだ。豊臣秀吉木像(大阪城天守閣蔵) また、秀吉は刑罰を厳しくしたが、犯罪はなくならず、逆に家光の治世では、さほど法律を厳しくしなかったが、犯罪は多発しなかったと書いている。家光の政治手腕は優れているが、秀吉は無能だったと言いたいのであろう。つまり、甫庵は為政者におもねった論法を用いていたのである。 甫庵はさらに、「秀吉は何事にもぜいたくであり、倹約ということを知らなかった」とまで述べている。贅(ぜい)を尽くした茶室、趣味の能楽に多大な費用をかけるなど、秀吉はたしかに金遣いが荒かった。甫庵がどこまで事実を書いているか不審であるが、秀吉は贅沢(ぜいたく)で倹約知らず、おまけに貧民を助けない人物と評価している。秀吉「直轄領」の実態 このように、金銭的評価が二分される秀吉であるが、豊臣政権を支えた財政基盤は、どのように形成されたのだろうか。 豊臣政権の財政基盤を物語る史料は乏しく、慶長3(1598)年に成った『豊臣家蔵入目録』がまとまったほぼ唯一のものである。作者は不明であり、豊臣家の奉行の手になるものと考えられている。しかし、必ずしも完璧な内容のものではなく、九州の蔵入地が少し抜けているなど、若干の不備が認められる。 この場合の蔵入地とは、豊臣家の直轄領を意味する。『豊臣家蔵入目録』によると、豊臣家の蔵入地は約200万石あったという(多少の漏れはあるが)。当時、江戸に本拠を置いた徳川家康は、関東周辺に約240万石を領していた。近世中期になると、江戸幕府の直轄領は約700万石に上ったという。ちなみに、家康の次に多いのは、前田利家の約102万石である。 豊臣家の蔵入地(以下、蔵入地で統一)が多いか少ないかといえば、議論の余地がある。その秘密については、のちほど触れることにしよう。 蔵入地は、北は津軽から南は薩摩に及んでおり、大名領内にも置かれていた。地域的には五畿内(山城・大和・河内・和泉・摂津)が約64万石と最大で、全国36カ国に所在した。ただし、徳川領や毛利領には蔵入地が存在せず、それは互いの力関係が考慮されたと考えられる。また、経済的にうまみのない地域には置かれなかった。 筑前の博多(福岡市博多区)も蔵入地だった。博多は国内・海外に通じる一大貿易拠点で、経済的に発展した都市でもある。加えて、文禄元(1592)年に始まる文禄の役では、兵站(へいたん)基地として多くの物資を賄う拠点となった。秀吉は軍事拠点であった肥前・名護屋城と連携しつつ、戦いを有利に進めようとしたのだ。 諸大名の領内に置かれた蔵入地も、同じ観点から経済的に有利な場所に置かれた。 薩摩・島津氏は薩摩、大隅、日向に57万8733石を領していたが、うち1万石が蔵入地だった。問題は場所である。蔵入地が置かれたのは、薩摩湾の奥の加治木(鹿児島県姶良市)だった。加治木は島津領内で最大の収穫があった場所で、中国の貨幣「洪武通宝」が鋳造されていた(通称「加治木銭」)。※画像はイメージ(ゲッティ・イメージズ) それは、常陸・佐竹氏の場合でも同じである。佐竹氏の領内にも1万石の蔵入地が設定されたが、その場所は那珂湊(茨城県ひたちなか市)だった。那珂湊も港湾として栄えており、佐竹領内の一大経済拠点だったといえる。秀吉は経済的に恵まれた地に目を付け、積極的に蔵入地に編入したのである。 ところで、各大名の領内に蔵入地を置いたことは、いったい何を意味するのだろうか。それは、各大名の領内に豊臣家の出張所があり、諸大名が監視を受けている状況を意味した。豊臣政権は中央集権を進めるため、諸大名に政治的、経済的な影響を強めるべく、要衝地に蔵入地を設置したと考えられる。 そして蔵入地を活用して、秀吉は積極的に経済活動を行った。伏見城を築城する際、秋田杉を建築材として伐採し、運送の費用は蔵入地からの年貢米を充当した。そして、一定の利益を運送業者に保証した。 当時、秋田から小浜・敦賀までの運賃は、米100石につき50石だったという。500~700石積の船ならば、250~350石が運送業者の利益になった。秋田杉の運搬の事例では、敦賀の豪商・道川兵次郎が400間の杉の運送を担当し、約384石の利益を上げたという。秀吉が重視した鉱山 また、津軽地方の蔵入地の年貢として2400石の米が納められた際、豊臣政権の奉行を務めた浅野長政は、南部の金山にその一部を販売した。その際、浅野氏は南部氏に対して、ほかの米商人の関与を否定した。つまり、秀吉は米の販売権を独占することで、高値での米取引を実現したのである。秀吉が豪商を活用した点は、後に詳しく触れよう。 蔵入地が1カ所に集中するのではなく、全国各地に点在していることには、大きなメリットがあった。それは、先に記した諸大名の監視のほかに、諸大名の経済拠点を蔵入地にすることにより、効率よく収益を上げることができ、なおかつ米などを独占的に販売することで、多大な利益を確保できた点である。 直轄領として、秀吉に多大な利益をもたらしたのは鉱山だった。秀吉は越後、佐渡、陸奥、出羽などの主要な金山を掌握するだけにとどまらず、石見銀山(島根県大田市)、生野銀山(兵庫県朝来市)などの銀の産出地も配下に収めた。そこに関与したのは、豪商たちだった。 実際の運営は豊臣政権の直轄でなく諸大名が関与し、実質的には商人などに代官を任せて、金銀を運上(上納)させていた。つまり、諸大名に命じて鉱山の開発を進めさせ、鉱山経営には商人たちがかかわったのだ。たとえば、平野郷の豪商・末吉次郎兵衛は越前・北袋銀山の経営を秀吉に願い出、通常なら上納金が銀30枚のところだが、70枚にすると申し出て、見事に経営権を獲得した。豪商にとって、利権が大きかったのだろう。 そのほか、秀吉はさまざまな名目で、運上の徴収を行った。 金座の後藤氏は、金貨を鋳造しており、その品質を保証するため書判(サイン)を記していた。また、銀座の大黒常是(じょうぜ)という堺の商人も、銀貨の鋳造を行っていた。秀吉は彼らに金貨や銀貨の鋳造権を認める代わりに、上納金を徴収していた。 このほか、大津から京都への陸運、琵琶湖や淀川の水運についても、それらの権益を独占する業者に上納金を納めさせていた。古来から琵琶湖の交通権は堅田衆が握っており、往来する船から交通料を徴収していた。交通料を徴収した堅田衆は、船が安全に往来できるよう、取り計らっていたのである。これも一種の特権だった。織田信長が楽座を発布すると、堅田衆の特権は失われたが、秀吉は天正15(1587)年に堅田・大津の船を集め、「大津百艘仲間」を作った。ある意味で信長の路線から後退する流れである。現在も残る生野銀山の入り口=兵庫県朝来市 そのルールとは、琵琶湖北部方面の公定運賃を定め、その上納金として、秀吉に年間銀700枚を差し出すというものだった。また、特権の見返りとして、蔵米や御用材などについては、無料で運送を命じたのである。 京都から大坂を結ぶ淀川と神崎川の水運は、過所(書)船(関所通行証を持った船)が業務を独占していた。信長の時代でさえも、御用商人の今井宗久は過所(書)船を利用しなくてはならなかった。大津から京都を結ぶ陸運については、大津駄所という馬借(運送業)が古くから特権を保持していた。秀吉は彼らの特権を認めて、上納金を納めさせることにより、財政を豊かにしたのである。「算勘にしわき男」 ほかにも、堺諸座役料なるものがあった。戦国期の堺には同業組合としての座は知られておらず、なぜ座が残っていたのか不明である。平野郷(大阪市平野区)の豪商・末吉氏に対しては、信長が堺南北馬座を認めた例が唯一である。 今井宗久は信長に対して、塩合物(塩で処理した魚・干魚の総称)の過料銭の徴収の許可を求めている。おそらく宗久は、以前から塩合物についての特権を保持していたと考えられる。千利休も、和泉国内や泉佐野の塩魚座から何らかの収入を得ている。秀吉は盛んな経済力に目を付け、商工業の団体からさまざまな形で上納金を得ていたようだ。 さらに、秀吉は商人を積極的に活用することにより、戦争の準備を円滑に進めようとした。文禄・慶長の役の際には、兵糧の米を大量に集めるため、博多で銀10枚で80石という米相場にもかかわらず、秀吉は銀10枚で77石あるいは70石(本営のある名護屋)という高値で買い上げると言った。こうして米を買い占めた。 博多では500石積の船の運送料が銀で約60枚だったが、名護屋では銀で約70枚となった。つまり、名護屋では銀10枚程度の儲けになるので、豪商たちにとって大きな利益となった。豪商は運送だけでなく、蔵入米や各種物産の管理もしていた。 ところが、やがて秀吉の時代は終焉する。 慶長3(1598)年8月に秀吉が亡くなると、その莫大な遺産は子息の秀頼に継承された。残念ながら総額は不明であるが、相当な額だったのはたしかであるといえよう。しかし、慶長5年9月の関ヶ原合戦において、秀頼はほとんどの蔵入地を失った。それでも、豊臣家の財政は豊かだった。 秀頼は慶長19年に方広寺(京都市東山区)の大仏の造営に着手したが、それは秀吉の豊かな遺産があったからだった。ところが、皮肉なことに方広寺の梵鐘(ぼんしょう)に刻まれた「国家安康」の文字が徳川家康を呪ったものと解釈され、同年から大坂冬の陣が開始する。 豊臣方には1人として大名が味方をしなかったが、代わりに馳せ参じたのは、各地で失業生活を送っていた牢人(主人を失い秩禄のなくなった武士)たちだった。むろん、彼らの目当ては戦後の恩賞だけでなく、当座の生活資金として支給された金銀だった。豊臣家は秀吉の遺産を元手にして牢人をかき集め、徳川との戦争に踏み切ったのである。兵糧や武器・弾薬の購入にも、秀吉の遺産がつぎ込まれた。大坂城(ゲッティ・イメージズ) 慶長20年5月の大坂夏の陣で、豊臣家は滅亡した。いち早く家康は金座の後藤庄兵衛に命じて、大坂城内に残る金銀の調査を命じた。結果、城内から金2万8060枚、銀2万4000枚を見つけ出して没収した。当時の庶民の間では、金が2、3枚もあれば金持ちだとされていたので、膨大な額である。 秀吉は「算勘にしわき男(そろばん勘定にやかましい男。ケチ)」と称されたが、その経済感覚は優れたものがあった。それだけの才覚がなければ、とても天下統一などはできなかっただろう。そこには意外にも、幼少時から青年期に至るまでの「金の苦労」が少なからず影響しているのかもしれない。主要参考文献脇田修『秀吉の経済感覚』(中公新書)

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    「キリシタンへの見せしめ」秀吉が黒田官兵衛を疎んじた理由

    渡邊大門(歴史学者) これまで見てきた通り、豊臣秀吉は決してイメージ通りの明るさがある人物ではなかった。秀吉はときに諸大名や家臣の行動に逆上し、厳しい処分を下すことがあった。秀吉の逆鱗(げきりん)に触れ、「臭い飯」を食うことになった武将も少なくない。ただ、秀吉の部下への厳しい対応は、冷徹な性格だけが理由ではなく、期待を含めた「愛のムチ」という側面もあったのだろう。 その被害者の一人として、黒田官兵衛孝高がいる。官兵衛といえば、「偉大なナンバー2」と称され、秀吉がその存在を恐れたといわれている。しかし、それは真っ赤な嘘で、わずか約13万石の小大名の官兵衛が秀吉に敵(かな)うわけもなく、いいかげんな史料に基づいた、後世の人々による過大評価に過ぎない。 結論を言うと、官兵衛が秀吉から悲惨な目に遭わされたのは、彼がクリスチャンだからだった。官兵衛がクリスチャンだったことは、福岡藩の正史『黒田家譜』には書かれていないが、フロイスの『日本史』の記述により明らかになっている。『黒田家譜』に書かれていないのは、近世になってキリスト教の禁止が本格化し、中興の祖・官兵衛がクリスチャンでは都合が悪かったからだ。 官兵衛がキリシタンに関心を抱くようになったのは、小西行長の勧誘によるものであった。次いで、官兵衛を蒲生氏郷と高山右近が受洗へと導き、「小寺シメアン官兵衛」と称したという。天正13(1585)年のことである。ただ、実際に官兵衛の洗礼名は「シメオン」なので、標記が異なるのは発音上の問題であると考えられる。実際、官兵衛は花押の代わりにローマ字印を使うこともあったので、キリシタンだったのは確実である。 官兵衛は秀吉の側近として重要な任務に従事していたので、デウス(神)のことを知る時間が甚(はなは)だ乏しかったと伝える。したがって、キリスト教に関する基礎知識には欠けていたようだ。にもかかわらず、イエズス会では官兵衛に大きな期待を抱いた。官兵衛が教えを聞く機会を持てば、その信仰は堅固になり、「デウスの奉仕」に役立つと述べている。 官兵衛が豊臣秀吉のもとで毛利氏と国境策定をめぐり、毛利輝元と交渉を行った際、イエズス会のコエリュ副管区長の要請に応じて、山口でキリシタンがもとのように居住できるよう働きかけることを応諾した。官兵衛はキリスト教の熱心な信者であり、布教の手助けを行っていたことが明らかである。黒田如水居士画像=祟福寺(福岡市)所蔵 これまで豊臣秀吉はキリスト教に一定の理解を示していたが、天正15(1587)年6月に博多でバテレン追放令を発令し(「松浦史料博物館所蔵文書」)、キリスト教の信仰は事実上禁止された。早速、秀吉はキリシタン大名・高山右近に棄教を強制し、右近がこれを拒否すると改易という厳罰に処したのである。 その矛先は、官兵衛にも向けられた。『日本史』には、秀吉がキリスト教を激しく憎悪して、19にわたる決定事項を下したと記されている。そこには、官兵衛について、次のように書かれている。 過ぐる戦争(九州征伐)において輝かしい武勲をたてた官兵衛殿に対しては、豊前の国を約束していたが、彼(官兵衛)がキリシタンであり、貴人(諸大名)たちに、我らの教え(キリスト教)を聞いて受洗するように説得しているとの理由から、後刻、(秀吉は)大いに(官兵衛)を叱責し、厳しい(仕打ちに)より彼からそれ(豊前国)を没収した。その後、(官兵衛への厳しい処分を)保持しきれなくなって、彼にふたたび(豊前国)を与えることになったが、かなりの部分をだまし取った。 キリシタンの官兵衛が受洗を諸大名に熱心に勧めたことから、秀吉は激しく官兵衛を叱責し、いったん恩賞として与える予定だった豊前を取り上げた。ところが後日、秀吉は官兵衛に厳しい態度で接し続けるのが困難であると悟り、大幅に削減したうえで、改めて官兵衛に豊前・中津を与えたというのである。秀吉が再び与えた理由は判然としないが、2人の関係に亀裂が入っていたのは明らかである。秀吉の禁教に反した官兵衛 その後、官兵衛が豊前を領したとき、短期間で多くの者たちの改宗に成功したという。その中には、自身の子息、長政や筑後の毛利秀包(ひでかね)も含まれている。これだけでなく、多くの武将に改宗を持ちかけ成功した(『日本史』)。それゆえ官兵衛は、イエズス会から大いに頼りにされたのである。これは、禁教を推進する秀吉の悩みのタネでもあり、方針に反する行為だった。 秀吉が大活躍した官兵衛に対して、わずか豊前・中津しか与えなかった理由は、これまで俗説がまかり通っていた。「官兵衛を恐れた秀吉は、九州の僻地(へきち)に押し込め、石高も最小限に抑えた」というのはその代表的な見解だろう。官兵衛を過大評価した、典型的な解釈である。実際は官兵衛がキリシタンであり、熱心に信仰を周囲に勧めることが気に入らなかったのだ。 秀吉は官兵衛に対し、豊前国を与える件について、次のように罵倒した(『日本史』)。 「汝(官兵衛)はそれ(豊前国を支配すること)に価せぬ。(豊前を)統治する能力もない。汝(官兵衛)はキリシタンになっただけでは満足せず、諸国の君侯(大名)や他の貴人たちに対して、キリシタンの教えを聞いて洗礼を受け、当初抱いていた神々(仏教、神道)への信仰を捨てるように盛んに説教し、説得し続けてきたのであるから、汝(官兵衛)に国(豊前)を与えるわけにはいかぬ」と(秀吉は)言い、さらに彼(官兵衛)に対して幾多の罵詈雑言(ばりぞうごん)を浴びせかけた。 秀吉は官兵衛に豊前を治める器量がないと、面前で言い切っているのだから、もはや両者の関係は決裂状態だろう。官兵衛がキリスト教の信仰を周囲に勧めるのも気に入らなかったらしい。おまけに、詳しくは書かれていないが、秀吉は続けて官兵衛に幾多の罵詈雑言を浴びせかけたという。それでも秀吉が官兵衛を起用し続けたのは、彼の能力が高かったからと推測される。 次の記述を見る限り、秀吉は官兵衛を高く評価しており、実は3カ国を与えようとしていたことがわかる(『日本史』)。 その後、(秀吉は)彼(官兵衛)に3カ国を授けるような期待を抱かせておきながら、豊前国しか与えず、しかもなおその(豊前国の)の一部を接収して(毛利)壱岐守に授け、汝(官兵衛)がキリシタンゆえにこれを没収したのだ、と(秀吉は)言った。 このように、秀吉は官兵衛を高く評価しており、最初は内々に3カ国を与えると約束をしていた。それは、キリスト教の棄教との交換条件だったのだろうか、結局は3カ国どころか、豊前・中津だけになったのは、先述の通りである。ただし、3カ国というのは、具体的にどの国なのかは不明である。伝黒田如水肖像(滋賀県長浜市の樹徳寺所蔵) ところが、この話はまだ終わっていない。官兵衛は相変わらずイエズス会の肩を持ち、秀吉に種々交渉を行った。官兵衛がイエズス会の側に立って発言した際、秀吉は次のように激高したという(『日本史』)。 「汝(官兵衛)はまだバテレンどものことを話すのか。汝(官兵衛)がバテレンに愛情を抱いており、また汝(官兵衛)がキリシタンであるために、汝(官兵衛)に与えるつもりでいたもの(領地)の(うち)、多くを取り上げたことを心得ぬか」と(秀吉は)答えた。 秀吉は官兵衛がキリスト教の信仰を止めず、それどころかイエズス会に寄り添った態度を取るのが気に入らなかった。官兵衛が本来与えられる領地を取り上げられたのは、彼がキリシタンだからだ、と秀吉は明快に答えている。『日本史』の別の記述によると、官兵衛が多くの人々をキリスト教に改宗させたので、秀吉は官兵衛に数カ月間会わなかったと記す。2人の関係は、険悪だった。秀吉の死を願うほどの憎悪 このように関係が悪化したのだから、官兵衛は秀吉に対し、強い憎悪の念を抱くのはやむ得ないところである。キリスト教に迫害を加える秀吉について、官兵衛は次のような感想を持っていた(『日本史』)。 拙者(官兵衛)はこのたびの悪魔的な動揺と変化(秀吉による官兵衛への罵倒)を、この上なく憂慮している。だが我らの主(デウス)が(秀吉を)かく許し給うからには、そこには極めて正当な理由が存するはずである。(中略)だがデウスは、かかる極悪人(秀吉)を罰さずにはおかれぬから、拙者(官兵衛)が思うには、(秀吉はこれ以上)長くは生き得ないだろう。 官兵衛はデウスの意志としながらも、秀吉はそんなに長生きをしないと断じている。主君の死を願っているのだから、秀吉への憎悪の念を推し量ることができる。ただ、官兵衛は秀吉と口論におよぶことはなく、一方的に罵詈雑言を浴びせ掛けられるだけだった。それは、秀吉が主君だったからで、決して口ごたえできなかったからだろう。しかし、キリスト教関係者には、秀吉への不満を正直に吐露していたのである。 こうして秀吉と官兵衛の距離は着かず離れずのまま保たれるが、文禄・慶長の役により決定的に破綻する。 文禄元(1592)年3月から、秀吉は全国の大名たちに朝鮮半島への出兵を指示した。当初、日本軍は破竹の勢いで進軍し、朝鮮半島全土を占領する勢いだった。しかし、義兵が日本軍への抵抗を活発化させ、李舜臣(り・しゅんしん)率いる水軍が日本軍を打ち破ると、とたんに情勢は不利になった。苦境に追い込まれた日本軍は、新たに手を打たねばならなかった。以下『日本史』により、秀吉と官兵衛との間にいかなることがあったのか確認しておこう。 文禄2年6月、秀吉は明に対して和平の条件を伝えたが、一方で、秀吉は朝鮮半島の海辺に12の城郭を作るため、官兵衛を派遣して現地の武将に命じるように手配した。手順は、まず官兵衛が全軍の指揮を執り、現地の武将を率いて全羅道を攻略し、その後、12の城を築くというものであった。ちなみに、秀吉の命令は絶対であり、決して逆らったり、意見したりすることはできなかった。光化門近くの広場に建つ李舜臣の像=韓国・ソウル(鴨川一也撮影) しかし、現地の武将たちの間では、まず12の城を築き、その後、全羅道を攻略すべきであるとの見解が大勢を占めた。防御施設をしっかり作った方が安心できるからであろう。秀吉の命令とは、手順がまったく逆である。そこで、官兵衛は彼らの意向を踏まえ、他の重臣とともに秀吉のもとを訪れ、現地の方針を伝えた。このことが、官兵衛に最悪の事態をもたらすことになる。 朝鮮に駐屯した武将たちは、現地の情勢を踏まえて、秀吉の作戦について変更を「お願い」するつもりだった。しかし、この頃の秀吉は度重なる敗戦に神経質になっており、自身に反対意見を述べることを許さなかった。秀吉に面会しようとした官兵衛は、次に示す通り、想定外の悲惨な目に遭ってしまう。 朝鮮にいる武将たちのこの回答と意見は、大いに関白(秀吉)の不興を買った。彼(秀吉)は、少なくとも(朝鮮全羅道)を一度攻撃した後に使者を寄こすべきであったと言い、彼ら(朝鮮に駐屯中の武将)を卑怯者と呼んだ。なおまた官兵衛に対して激高し、彼(官兵衛)を引見しようとせず、その封禄と屋敷を没収した。 秀吉からすれば、一度は命令を聞いて朝鮮全羅道を攻撃し、その後に相談に来るべきであって、自分の命令を最初から無視するのはけしからん、ということになろう。その交渉の使者が官兵衛だったが、秀吉と官兵衛はキリスト教をめぐって対立する状態にあった。秀吉の怒りは激しく増幅し、官兵衛に封禄と屋敷の没収という厳しい処分を科した。これは「見懲(こ)り」といい、諸大名に対する見せしめの一つだった。謎多き官兵衛の引退 この話がまんざら嘘でないということは、文禄2年5月25日付前田玄以書状(駒井重勝宛)により明らかである(「益田孝氏所蔵文書」)。この書状によると、官兵衛は文禄2年5月21日に名護屋城の秀吉のもとを訪れ面会を求めたが、追い返された事実が判明する。官兵衛は秀吉の指示通りの作戦を実行しなかったので、不興をこうむったのである。もう一度、官兵衛は秀吉を訪ねたが、結果は同じことだった。 秀吉の逆鱗に触れたため、官兵衛は次の通り出家に追い込まれた(『日本史』)。 官兵衛は剃髪(ていはつ)し、権力、武勲、領地、および多年にわたって戦争で獲得した功績、それらすべては今や水泡が消え去るように去っていったと言いながら、如水、すなわち水の如しと自ら名乗った。かくて彼(官兵衛)は息子(長政)がいる朝鮮に戻るのが最良の道であると考え、その地に帰っていった。彼(官兵衛)は関白(秀吉)に謁し得ることを望んでいたが、それはなんら彼(秀吉)からの寵愛を得んとしたからではなかった。なぜなら彼(官兵衛)は、もはやすでに年老い、長政の所領である豊前に隠居し、救霊のことに専念したいと願っていたのである。 官兵衛は天正17(1589)年に家督を子息、長政に譲っていたので、実害はなかったといえるのかもしれない。 これまで官兵衛引退の件に関しては、病気によるものであるという説が主流だった(秀吉を恐れて早い引退を決断したとも)。若い頃の官兵衛は、荒木村重が籠(こ)もる有岡城で、1年余にわたる幽閉生活を余儀なくされた。それにより頭髪が抜け落ち、膝にも傷病を負ったという。また、朝鮮出兵後、病により帰国したこともあった。黒田官兵衛の顕彰碑=兵庫県姫路市  ところが、『日本史』で経緯を読む限り、官兵衛が出家をしたのは、朝鮮半島における作戦をめぐり、秀吉から勘気をこうむったというのが事実らしい。官兵衛が病気などの理由により引退したという通説とは、大きく異なっている。 ただ、こうした史実について、裏付けとなる日本側の史料が乏しいのは、誠に残念であると言わざるをない。また、フロイス『日本史』の史料的な評価も十分ではなく、今後の課題である。たとえば、禁教を推進した秀吉の評価が辛く、キリシタン大名には甘いというのは一例である。しかしながら、『黒田家譜』のように官兵衛を顕彰することに一色になっておらず、ある意味でリアルな姿を伝えていることは誠に興味深い。 このように、官兵衛は秀吉から厳しい制裁を受けたのだが、後年は秀吉に対して憎悪の念がなかったような感想を漏らしている(「吉川家文書」)。そのような心境の変化がなぜ生じたのかは不明である。主要参考文献渡邊大門『秀吉の出自と出世伝説』(洋泉社・歴史新書y)

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    「極悪の欲情」女好き秀吉、フロイスの目にはどう映ったか

    渡邊大門(歴史学者) 天正10(1582)年6月の織田信長の横死後、豊臣秀吉は着実に自らの基盤を固めた。関白になったのは、天正13年のことである。ポルトガル人宣教師、ルイス・フロイスの『日本史』は、秀吉のむき出しの権力欲について、次のように表現している。こうして(秀吉は)地歩を固め企図したことが成就したと見るやいなや、彼はがぜん過去の仮面を捨て、爾後は信長のことはなんら構わぬのみか、為し得ること万事において(信長)を凌(しの)ぎ、彼より秀でた人物になろうと不断の努力をした。 政治的な権力を保持した秀吉は、自己の権威を高めようとした。その一つが、天正11年から開始された、大坂城の築城である。大坂城築城の意図や工事の様子については、『十六・七世紀イエズス会日本年報』に次のように記されている。(秀吉は)己が地位をさらに高め、名を不滅なものとし、格においてもその他何事につけても信長に勝ろうと諸国を治め、領主としての権勢を振うに意を決し、その傲慢さをいっそう誇示するため、堺から三里の、都への途上にある大坂と称する所に新しい宮殿と城、ならびに都市を建て、建築の規模と壮麗さにおいて信長が安土山に築いたものを大いに凌ぐものにしようとした。 秀吉は信長に並々ならぬ対抗意識を燃やしており、安土城を凌ぐような城郭を欲していた。フロイスの『日本史』でも、ほぼ同様の記述がなされている。 『十六・七世紀イエズス会日本年報』では続けて、大坂城築城の意図を秀吉の意図を「己の名と記憶を残す」ところにあったと指摘する。信長亡き後、秀吉は畏敬(いけい)されるとともに、一度決めたことは成し遂げる人物であると評されていた。大坂城の工事では何万もの人夫が動員されたが、それを拒否することは死を意味したとまで記されている。 大坂城の豪華さに訪問者は驚嘆し、言葉が出ないほどであった。『十六・七世紀イエズス会日本年報』には、城郭が大小の鉄の扉を備えていること、多くの財宝を蓄え、武器・弾薬や食糧の倉庫を備え付けていること、などが記されている。 さらに、城には美しい庭園や茶室が設けられ、室内は絵画で彩られていたという。一言で言うならば、贅(ぜい)が尽くされたということになろう。 フロイスの『日本史』によると、大坂城が豪華絢爛(けんらん)だったことについては、秀吉が高い出自でないものの、信長の後継者になったことで天下を掌握したと指摘したうえで、秀吉が「皆の者の心を自分に向けるため、あらゆる方法で自分を権威付けて飾る」と述べている。信長がかつて豪華壮麗な安土城を作ったように、秀吉もそれをまねて、かつ超えようと努力したのである。現在の大阪城=大阪市(産経新聞社ヘリから) 大坂城と巨万の富を得た秀吉にとって、次なる必須アイテムは女性であった。秀吉の女好きという一面は、よく語られるところであり、大坂城には女性を囲う施設が必要だった。 江戸時代には「大奥」なるものがあった。実は、秀吉も大奥と類似した「御奥」(おおく)なるものを大坂城に持っていた。室町将軍や戦国大名も御奥を持っていたと考えられるが、その史料は乏しい。例外的に大坂城の御奥だけが、史料的に豊富なのである。 大坂城の御奥に関する史料としては、天正14(1586)年4月6日付の豊後のキリシタン大名、大友宗麟の書状がある(『大友家文書録』)。宗麟は薩摩島津氏が豊後へ侵入したため劣勢に陥り、秀吉に助力を乞うため大坂城へやって来ていた。300人以上の美少女 宗麟は秀吉への援軍要請に来たのであるが、この書状は大坂城の見聞録としての価値が極めて高い。巨大な大坂城の天守、黄金の茶室、名物の茶器の記述も重要であるが、注目すべきは御奥の見学である。宗麟は御奥を実見した数少ない一人だった。 大坂城の御奥の存在に関しては、フロイスの書簡や『顕如上人(けんにょしょうにん)貝塚御座所日記』に、その一端が記されている。特に、フロイスの書簡では、秀吉と同じく織田信長がすでに御奥と同じような制度を持っていたこと、そして御奥の女性の身分が高かったことを述べている。 御奥に在籍した女性の数は、約120人といわれている。人数的に江戸時代の大奥には劣るが、それなりの規模であった。後には城内に豪華絢爛な装飾が施され、300人以上の美少女が召使いとして雇われていたという。 宗麟が案内されたのは、御寝所であった。御寝所は9間(約16・2メートル)四方の広さがあり、長さ4尺(1・2メートル)の御寝台がある。褥(しとね、敷物)は猩々緋(しょうじょうひ、黒味を帯びた深紅色)で、枕の方には黄金の彫り物があった。そのさらに奥には6間(10・8メートル)四方の御寝所があり、唐織物の夜着がたたんであった。いずれも高級な寝具である。 次に案内されたのが御奥で、最初に通されたのは御衣裳所だった。そこには、女房衆の色とりどりな小袖が掛けられていた。納戸の内には小遣銭と称して、金子が30貫目(約300万円)ほど入っていた。その後、宗麟は茶の接待を受けたが、12、3才の少女がお茶や菓子を運んできた。さらに奥の間には、女房衆が控えていた。 御奥には、数々の掟が制定されていた。特に、女中衆に対する制限は大変厳しく、外出は当日の午後6時から翌日の午前8時まで禁止されていた。これは、無用な男性との接触を避けるためだろう。 女中に対して手紙が夜中に届けられた場合は、その性質を十分に見極めたうえで、手渡しで女中に届けられた。検閲ではないが、男性からの恋文に対する警戒心ではなかったか。そして、最も重要なのは、門番衆の男を除いては、他に一切御奥に寝泊りさせてはいけないという規則である。 このように御奥は、非常に充実したものであったが、秀吉の女好きに関しては、次の通りフロイスの『日本史』が貴重な報告を行っている。(秀吉は)齢すでに50を過ぎていながら、肉欲と不品行においてきわめて放縦に振舞い、野望と肉欲が、彼から正常な判断力を奪い取ったかに思われた。この極悪の欲情は、彼においては止まるところを知らず、その全身を支配していた。彼は政庁内に大身たちの若い娘を300名も留めているのみならず、訪れて行く種々の城に、また多数の娘たちを置いていた。 今とは違い、当時の50代は相当な老人である。フロイスは、秀吉の精力に驚いたのであろう。当時のヨーロッパでは、一夫一婦制が基本であり、御奥のようなところに女性を囲っている例はなかった。したがって、キリスト教の教えと相まって、フロイスの目には秀吉が不純で肉欲に溺れた野蛮人のように映ったのである。豊臣秀吉像 では、秀吉が囲った女性たちは、どのように集められたのであろうか。続きを見ることにしよう。 彼(秀吉)がそうしたすべての諸国を訪れる際に、主な目的の一つとしたのは見目麗しい乙女を探し出すことであった。彼の権力は絶大であったから、その意に逆らう者とてはなく、彼は、国主や君侯、貴族、平民たちの娘たちをば、なんら恥じることも恐れることもなく、またその親たちが流す多くの涙を完全に無視した上で収奪した。 このようにフロイスは記したうえで、秀吉の性格が尊大であり、この悪癖が度を過ぎていること、そして「彼(秀吉)は自分の行為がいかに賤しく不正で卑劣であるかにぜんぜん気付かぬばかりか、これを自慢し、誇りとし、その残忍きわまる悪癖が満悦し命令するままに振舞って楽しんでいた」と手厳しい意見で結んでいる。劣等感に満ちた秀吉 秀吉には「おね」という正室がいたが、淀殿をはじめ多くの側室がいたのは事実である。しかし、当時において側室を迎えるということは、生き残りの問題と絡んでいた。それは後継者を生むことである。特に、秀吉の場合は子に恵まれなかったので、女性には性的な快楽を求める以上の意味、つまり後継者をもうけるという意味があった。 天正19(1591)年12月、秀吉は養子となった秀次に訓戒状を与えている。その中の一つに「女性は屋敷に置き、それは五人でも十人でも構わない」と記しており、外で乱れた女狂いになってはいけないという項目がある(「本願寺文書」など)。 誠に興味深い一節であるが、これは単に一般的な話をしていると解せられる。それなりの身分になれば、女遊びもわきまえよということになろう。この書状もまた、秀吉の女好きの史料として取り上げられることが多い。 秀吉がこだわったのは、単に女性だけではない。それは、栄達願望だった。秀吉が足利義昭の養子となって、将軍職を得ようとしたことが、『義昭興廃記』に記されている。次に、その内容を記しておこう。天正13年、秀吉は足利義昭の養子となって、征夷大将軍の職に就こうと望みましたが、義昭の許しを得られませんでした。それどころか義昭は、卑賤の者を子とすることは、後代の嘲(あざけ)りとなるので叶えることができないといいました。秀吉は激しく立腹し、結局、関白の職に就いたのです。 秀吉が義昭の養子を希望したのは、征夷大将軍になるためであった。最も手っ取り早い方法であろう。義昭は天正16(1588)年に出家して昌山と号し、朝廷から准后に遇せられていた。しかし、『義昭興廃記』によると、義昭は秀吉の出自が賤(いや)しいという理由により、その願いを一蹴したのである。やむなく秀吉は征夷大将軍の夢をあきらめ、関白に就任したという。足利義昭像 同様の話は、『後鑑(のちかがみ)』や林羅山(江戸時代初期の儒学者)の『豊臣秀吉譜』にも載せられている。秀吉が義昭の養子になろうとして拒否されたことは、長く事実であると信じられた。しかし、現在では関係する一次史料を欠いていることから、虚構であると指摘されている。こうした説が流布したのも、秀吉の身分が低いというコンプレックスが大いに反映されているように思える。 次に、秀吉が狙ったのは、関白だった。天皇が幼少のときには摂政を、成長してからは関白をそれぞれ置くことが慣例だった。摂政と関白との違いは、摂政が天皇の代理人的な意味合いがあるのに対し、関白は天皇を補佐する地位に止まるとされている点にある。しかし、実質的には、両職に大きな差はないといえよう。 鎌倉時代以後は、五摂家と称せられる近衛、九条、二条、一条、鷹司の各家が、交代で摂政・関白の職を務めるようになった。そして、秀吉は関白相論という、二条昭実と近衛信輔が関白職をめぐる争いに乗じて、関白に就任したのである。 次に、関白相論の経緯化について触れておこう。天正13年5月の段階において、関白以下の任官状況は次のようになっており、以後の予定はカッコ内のようになっていた。① 関 白・二条昭実(一年程度の在職ののちに辞任)② 左大臣・近衛信輔(関白〔左大臣兼務〕)③ 右大臣・菊亭晴季(辞任)④ 内大臣・羽柴秀吉(右大臣) この人事計画に反対したのが、秀吉だった。秀吉が仕えた織田信長は、右大臣を極官(きょっかん、最高の位)として、天正10(1582)年に本能寺の変で横死した。この事実が縁起が悪いと指摘した。秀吉は信長の「凶例」を避けるため、右大臣でなく左大臣就任を要望した(右大臣よりも左大臣の方が高位)。 秀吉の申し出に対して、朝廷は大いに困惑した。天皇・朝廷は、信長の横死後に台頭した秀吉に対して、相当な配慮をしなくてはならなかった。その理由は、秀吉が御所造営にも援助を惜しまないなど、決してなおざりにできない存在だったからである。 ところが、秀吉の要望を受け入れると、事態は複雑化するのが目に見えていた。内大臣の秀吉が左大臣に昇進すると、いったん信輔は任官のない状態を経て、昭実の辞任後に関白職に就く。こうした手順は今までになかったことで、極めて面倒だった。秀吉が見せた「親心」 信輔は左大臣を秀吉に譲らざるを得なくなったため、「近衛家では元大臣という(無官)状態から、関白になったことは今までなかった」と主張し、即刻昭実に辞任を迫り、関白職を譲るよう要求したのである。これに対して、昭実にも言い分がある。昭実は関白に就任してわずか一年足らずでもあり、「二条家では関白に就任して、一年以内に辞任した者はいない」と主張し、関白辞任を拒否したのであった。 2人の争いは朝廷に持ち込まれたが、解決の糸口は見えなかった。結局、この争いは秀吉に持ち込まれ、円滑な解決が図られることになった。早速、秀吉は配下の前田玄以と右大臣の菊亭晴季の2人に相談を持ちかけ、穏便な解決策を検討した。 ここで、晴季から「秀吉を関白職に就ける」という奇想天外な提案が提出された。そして、秀吉自身は「いずれを非と決しても一家の破滅となるので、朝家(朝廷)のためにならない」ともっともらしい理由付けをして、関白就任の意向を示したのである。 しかし、秀吉が関白に就任するには、秀吉の出自という大きなハードルがあった。関白に就任するには、五摂家の出身者に限られている。結局、すでに引退していた信輔の父、前久(さきひさ)は秀吉を猶子(ゆうし)として迎えることと引き換えに、将来、信輔を関白職に就けることを約束させた。まさしく苦渋の決断だった。 猶子とは仮の親子関係のことで、相続を目的とせずに結ぶものである。前久も信輔も、秀吉の関白職就任はあくまで一時的なものであり、後には五摂家のところに戻ってくると信じていた。このようなプロセスを踏まえて、秀吉は天正13年7月、晴れて関白に就任したのである。 しかし、秀吉が一連のプロセスを計画的に仕組んで、関白に就任したという疑惑を拭い去ることはできない。この約束は、結局守られなかったからである。後に秀吉は関白職を養子の秀次に譲り、約束をほごにしたのである。 その後の秀吉は、快進撃を続けた。翌天正14年9月、秀吉は京都の大内裏跡に聚楽第(じゅらくてい)を築き、大坂城から移ってきた。正親町天皇は後陽成天皇に位を譲り、秀吉の造営した新御所に入っている。また、秀吉は太政大臣に就任し、新たに「豊臣」姓を下賜(かし)された。 さらに、秀吉は近衛前久の娘、前子を猶子とし、後陽成天皇に入内させた。こうして秀吉は天皇の外戚となり、天正16年に後陽成天皇が聚楽第に行幸した際には、諸大名に対して天皇と秀吉に忠誠・臣従することを誓約させている(『聚楽行幸記』)。このように秀吉は、一気呵成(いっきかせい)に朝廷を取り込んだのである。 秀吉は栄耀栄華を極めたが、やがては死ぬ運命になった。晩年の秀吉は五大老の面々に対し、秀頼を支えるように遺言状を残した(「毛利家文書」)。秀吉は五大老に対し、秀頼が一人前に成長するまで、しっかり支えてほしいと懇願し、これ以外に思い残すことはないとまで書き記している。さらに、追って書き(追伸)の部分では、配下の五奉行たちにも、申し付けてあるとまで述べている。「人間秀吉」の真の姿であった。 『甫庵太閤記』によると、秀吉は自身が所有していた茶器、名画、名刀そして黄金を多くの人々に与えたという。とりわけ家康や利家には厚く、下々の者にまで贈られた。しかし、晩年の秀吉は病気に悩まされ、失禁したことが当時の記録に見えている。 晩年の秀吉の臨終に関しては、フランシスコ・パシオ師の貴重な報告が残っている。その記録によると、秀吉は臨終間際になっても息を吹き返し、狂乱状態になって愚かしいことをしゃべったと伝える。もはや往時の権力者の姿はなかった。 秀吉が最期まで心配したのは、秀頼の行く末だった。秀吉が最も恐れていたのは、五大老の一人である家康であった。その死の瞬間まで、家康を支えにして、秀頼を盛り立ててほしいと願ったのである。玉造稲荷神社に建つ豊臣秀頼像(大阪市中央区) 死に向かう秀吉は孤独であった。もはや頼るべき親類などはおらず、まったくのアカの他人に秀頼の将来を委ねざるを得なかった。しかし、これまで秀吉自身が行った所業を考えてみると、誠に都合のよい話かもしれない。それでも繰り返し、五大老に秀頼の将来を頼み込む姿は、親としてできる最後のことだった。 慶長3(1598)年8月18日に秀吉は亡くなった。それから2年後に関ヶ原合戦が勃発し、豊臣家の勢力は大きく殺(そ)がれた。そして、慶長20(1615)年5月の大坂の陣で、豊臣家は滅亡した。秀吉の願いは、結局通じなかったのである。※主要参考文献渡邊大門『秀吉の出自と出世伝説』(洋泉社・歴史新書y)

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    串刺し、磔、干殺し… 戦国史上類なき秀吉の残虐性、ここに極まれり

    渡邊大門(歴史学者) これまでの連載で触れた通り、豊臣秀吉は出自に謎が多く、まったく得体の知れない人物だった。ポルトガルの宣教師らが口々に述べている通り、その性格には異常性すら見られた。秀吉の残酷な性格については、数々の合戦における残酷な行為でも確認できる。今回は、上月(こうづき)城の戦い、三木城の戦い、鳥取城の戦いを取り上げて考えてみよう。 秀吉の残酷な性格が表れた戦いには、天正5(1577)年12月に決着した上月城の戦いがある。上月城の戦いとは、織田信長と毛利輝元との全面戦争の緒戦だった。信長が西国方面の攻略を託したのは、頭角を現していた秀吉である。命を受けた秀吉は同年10月、播磨に向けて出発した。 秀吉は竹田城(兵庫県朝来市)に弟の秀長を入れ置くと、いよいよ赤松七条家の一党が籠る上月城(兵庫県佐用町)へと兵を進めた。赤松七条家は毛利氏に味方をし、織田方に抵抗したのである。 同年11月27日には上月城近くの福原城を陥落させ、秀吉の軍勢はいよいよ上月城に迫った。このとき、毛利方の宇喜多直家は、秀吉の軍勢と交戦して散々に打ち負かされ、敗走中に自軍の兵の首が619も取られたという。 宇喜多勢を散々に打ち破った秀吉は、その余勢を駆って上月城に迫った。そして、上月城に激しい攻撃を行ったのである。その戦いの状況は、秀吉自身の言葉で次のように記されている(「下村文書」)。(宇喜多氏との)合戦場から引き返し、いよいよ七条城(=上月城)を取り詰めた。水の手を奪ったこともあって、上月城の籠城者からいろいろと詫びを入れてきたが、(秀吉は)受け入れなかった。そして、返り猪垣を三重にして城外への逃亡を防ぎ、諸口から攻撃を仕掛け、十二月三日に城を落とした。敵兵の首を悉(ことごと)く刎(は)ね、その上に敵方への見せしめとして、女・子供二百人余を播磨・美作・備前の境目において、子供を串刺しにして、女を磔にして並べ置いた。 秀吉の態度は強硬であった。城兵たちの命乞いを受け入れることなく、逆に逃げられないように柵を巡らすと、次々と敵兵の首をはねた。さらに見せしめとして、女、子供をそれぞれ串刺しにし、磔(はりつけ)にして晒(さら)し者にするなど残虐の限りを尽くしたのである。非戦闘員が残酷なかたちで処刑された例は、そう多くはない。織田軍と毛利軍の攻防戦の地として知られる上月城跡=兵庫県佐用町  ところが、『信長公記』(巻十)には、一連の事実について少し違った表現で記されている。該当部分を次に示すことにしよう。(宇喜多氏との交戦後)秀吉は、引き返して上月城を取り巻き攻めこんだ。七日目(十二月三日)に上月城中の者が大将の首を切って秀吉のもとに持参し、「残党の命を救って欲しい」と懇願した。秀吉は上月城主の首を安土城の信長に進上し、お目に懸けた。すると、秀吉は上月城に立て籠もる残党を悉く引き出し、備前・美作の両国の境目に磔にして、悉く懸け置いた。 ここで注意しなくてはいけないのは、秀吉が上月城を落としたのではなく、上月城内部の者が城主を裏切って首を獲り、それを秀吉のもとに持参したということである。先の書状では、あたかも秀吉の攻撃によって落城させた感がある。敗戦間近と見た上月城内の武将らは、城主を差し出すまでに追い詰められていた。 城主の首を差し出した交換条件は、城内の者の命を救って欲しいというものであった。彼らが生き残るために、一縷(いちる)の望みを託したことは想像に余りある。しかし、秀吉は大将の首を安土城の信長のもとに届けると、約束を反故(ほご)にした。上月城内の残党を引き出し、備前・美作両国の国境に磔にしたのである。残酷であることには、何ら変わりがない。「三木の干殺し」 秀吉の書状には記されていないが、『信長公記』が記すように、実際は城兵が大将の首を持参して降参したのであろう。しかし、秀吉はそれを許さなかった。『信長公記』に記されている残党とは、兵卒のほかにも城内に逃げ込んだ女、子供も含まれていたと考えられる。当時、戦争が起こると、城は周囲の非戦闘員が逃げ込む場でもあった。秀吉は容赦することなく、彼らを串刺し、磔にしたのである。 女、子供を串刺し、磔にするという措置は、秀吉の考えに基づくものだった。すると、秀吉の容赦のない苛烈な性格が浮かび上がってくることになろう。秀吉も武将として成果を挙げない以上、厳しい立場に追い込まれるのは当然である。『信長公記』では、西国方面で奮闘する秀吉の活躍ぶりを次のように記述している。(秀吉が)西国でしかるべき働きをして、(中略)夜を日に継いで駆け回り、秀吉の粉骨の働きは比べようもないものである。 秀吉は昼夜を忘れ、信長のために軍功を挙げたゆえに、高い評価が与えられたのである。元の身分が低い秀吉にとっては、信長から目をかけられることが、もっとも重要なことだった。上月城の戦いで見せた秀吉の残虐性というべきものは、続く三木城攻めでも姿を現すことになる。 秀吉の合戦における高い能力が発揮されたのは、天正6(1578)年3月から始まった三木合戦である。三木合戦は「三木の干殺し」と称され、長期にわたる兵糧攻めで知られる。以下、その流れを確認することにしよう。 秀吉が中国計略を進める上で、最も頼りにした武将が別所長治である。別所氏は播磨国守護赤松氏の流れを汲む名族で、15世紀後半から三木城に本拠を置いていた。しかし、事態は思わぬ方向に展開する。同年2月、にわかに三木城主の別所長治は秀吉に叛旗を翻し、毛利方に寝返ったのである。三木城跡の別所長治像(兵庫県三木市) ここから戦国史上に例を見ないほど凄惨な兵糧攻めとして有名な、「三木の干殺し」が展開される。では、当初信長に与することを約束した別所長治は、いかなる理由によって寝返ることになったのだろうか。 別所氏が寝返った理由については諸説あり、中でも注目されるのは、別所氏が出自の卑しい秀吉を愚弄(ぐろう)していたという説である。三木城の戦いの顛末(てんまつ)について記した、『三木合戦軍図縁起』には次の注目すべき一節がある。別所長治公がおっしゃるには「だんだん昨日や今日の侍の真似をする秀吉。卑しくも村上天皇の苗裔・赤松円心の末葉たる別所家に対して、誠に無礼である。毛利家を滅ぼしたあと、秀吉が播州一国を支配しようとしていることは明らかである。敵の謀を知りながら、その謀に乗るのは智将の行うことではない。そのように秀吉に返答せよ」ということである。 この台本は後世になったものであり「卑しくも…」以下が付加されたのは、あくまでフィクションと考えてよい。村上天皇、赤松氏の流れを汲む別所氏と秀吉を対比させることにより、物語をおもしろくしようとしているのである。つまり、別所氏は名門意識があり、秀吉を見下していたということになる。生き地獄の兵糧攻め 別所氏が信長に叛旗を翻した理由の一つとして、「名門・別所氏が出自すら判然としない秀吉には従えなかった」ということが挙げられる。それは、ここに示した絵解きの説明が広く流布したものと考えられる。実際に別所氏が寝返った理由は、足利義昭や毛利輝元らが熱心に引き入れたからだった。 当初、別所方は優勢に戦いを進めたが、それは長く続かず、たちまち劣勢に追い込まれた。秀吉は三木城の周囲に付城を築くと、毛利方の兵糧ルートを完全に遮断した。こうして「三木の干殺し」と称された、生き地獄のような兵糧攻めが展開される。 三木城付近に築城された付城は、実に堅固なものだったといわれている。二重にした塀には石を投げ入れて、重ねて柵を設けた。また、川面には簗杭(やなぐい)を打ち込んで籠を伏せて置き、橋の上には見張りを置いている。単にそれだけではない。城戸を設けた辻々には、秀吉の近習(きんじゅ)が交代で見張りをした。 人の出入りも厳しく規制された。付城の守将が発行する通行手形がなければ、一切通過を認めないという徹底ぶりであった。夜は篝火(かがりび)を煌々と焚き、まるで昼間のようであったといわれている。もし油断する者があれば、上下を問わず処罰し、重い場合は磔という決まりが定められた。 三木城の周囲はアリの入り込む隙間のないほどの厳重な完全封鎖がされており、当然一粒の米も入らなかった。兵糧がなければ戦う気力が喪失し、城内の兵卒の士気が上がらないのも止むを得ない。時間の進行とともに、三木城には飢餓をめぐる惨劇が見られるようになる。 『播州御征伐之事』にも記されているとおり、城内の食糧が底を尽くと、餓死者が数千人に及んだという。はじめ兵卒は糠(ぬか)や飼葉(馬の餌)を食していたが、それが尽きると牛、馬、鶏、犬を食べるようになった。当時、あまり口にされなかった肉食類にも手が及んだのである。もはやぜいたくは言っていられなかった。 糠や飼葉、肉で飢えを凌げなくなると、ついには人を刺し殺し、その肉を食らったと伝えている。さすがに死肉は食しにくいので、衰弱した兵を殺したと考えられる。その空腹感は、想像を絶するものがあった。「本朝(日本)では前代未聞のこと」と記録されており、城内の厳しい兵糧事情を端的に物語っている。 天正8(1580)年1月、秀吉は三木城内の長治、吉親、友之に切腹を促し、引き換えに城兵を助命すると伝え、秀吉もこの条件を了承した。 別所一族の切腹の現場は、実に凄惨なものであった。長治は3歳の子息を膝の上で刺し殺し、女房も自らの手で殺害した。友之も同じような手順を踏んだ。そして、長治は改めて城兵の助命嘆願を願うと、腹を掻(か)き切ったという。介錯は三宅治職が務めた。腹は十文字に引き裂かれ、内臓が露出していたと伝える。友之以下、その女房、吉親の女房らも自ら命を断った。 秀吉の蛮行は、これだけで終わらなかった。続く鳥取城の戦いでも、激しい兵糧攻めを展開した。石垣が構成美を見せる鳥取城跡。地形をうまく生かして築かれている(鳥取市) 三木城の平定を終えた秀吉は、信長の命を受けて、すぐさま但馬・因幡の平定に向かった。因幡平定は以前から始まっており、天正8(1578)年5月の時点で、城主である山名豊国は降伏していた。しかし、降伏を潔(いさぎよ)しとしなかった豊国は、密かに吉川元春と通じて応援を依頼したという。この時、派遣されたのが、石見吉川家の当主で吉川経安の子、経家である。 籠城直後、豊国はにわかに秀吉に投降し、その軍門に降った。この理由に関しては、毛利方が豊国を暗愚とみなし追放したなど、多くの説がある。そして、秀吉は降伏した豊国などを引き連れ、鳥取城攻略に乗り出した。取った作戦は兵糧攻めであったが、その準備には余念がなかった。「人肉食い」の惨劇 秀吉は鳥取城を兵糧攻めにすると決するや、鳥取城の西北に付城として丸山・雁金の二つの城を築いた。付城の構築は秀吉の十八番であり、三木城の戦いでも効果を発揮した作戦でもある。しかも築城のスピードは、群を抜く速さであった。そして、鳥取城を完全に包囲し、アリの這い出る隙間も与えなかったという。 加えて、秀吉は米などを通常よりも高い値段で購入し、吉川氏の先手を打った。もともと鳥取城は兵糧が乏しかったといわれているが、これにより窮地に陥ったのである。また、鳥取城には多くの農民らが入城したという。それは、秀吉が城内に追い込んだといわれており、食糧の浪費を促すためであった。 秀吉の兵糧攻めは、同年の6月下旬から付城の構築と同時並行で進められた。徐々に鳥取城の食糧が尽きていったことは、『石見吉川家文書』中の吉川経家の書状で随所に触れられている。その言葉からは、城内の食糧事情の厳しさが伝わってくるが、あまり具体的な記述ではない。 むしろ、阿鼻叫喚(あびきょうかん)ともいえる描写を行っているのは、『信長公記』や『甫庵太閤記』といった史料である。次に、その凄惨な内容を掲出しておこう(内容的には似た部分が多いので、『信長公記』を掲出する)。因幡国鳥取郡の一郡の男女は、ことごとく鳥取城中へ逃げ入って立て籠もった。下々の百姓以下は、長期戦の心構えがなかったので、即時に餓死してしまった。はじめは五日に一度か三日に一度鐘を衝くと、それを合図に雑兵が城柵まで出てきて、木や草の葉を取り、中には稲の根っこを上々の食糧とした。 鳥取一郡の男女という表現は大げさであるが、それほど多数の人間が入城した表現と捉えてよいであろう。百姓たちは心構えがなかったため、すぐに飢え死にしたとあるが、実際には非戦闘員に食糧が回らなかった可能性もある。雑兵が城柵近くの葉などを食していたということは、城内の食糧が尽きていたことを示している。具体的な時期は示されていないが、籠城が始まってから、さほど経過していない頃と考えられる。豊臣秀吉木像(大阪城天守閣蔵) 時間の経過とともに食糧事情が悪化すると、惨劇はさらに深まった。のちになると、これ(草の葉など)も尽き果てて、牛馬を食らっていたが、露や霜に打たれて餓死する者は際限なかった。餓鬼のように痩せ衰えた男女は、柵際へ寄ってもだえ苦しみ、「ここから助けてくれ」と叫んだ。叫喚(大声を上げて叫ぶこと)の悲しみ、哀れなる様子は、目も当てられなかった。 この描写から明らかなように、すでに見てきた三木合戦と同じ様子であった。しかし、悲劇はこれだけに止まらなかった。ついにカニバリズム(人肉を食うこと)が行われたのである。次に、さらに激しい惨劇を確認しておこう。(秀吉軍が)鉄砲で城内の者を打ち倒すと、虫の息になった者に人が集まり、刃物を手にして関節を切り離し、肉を切り取った。(人肉の)身の中でも、とりわけ頭は味がよいらしいとみえて、首はあっちこっちで奪い取られていた。 食糧不足が極限に達すると、人々の理性は完全に失われた。しかし、死んだ人間の肉はまずかったようで、たとえ虫の息であっても、生きた人間が食に供されたようである。中でも「頭がうまい」というのは初耳であるが、脳みそのことであろうか。いずれにしても、惨劇がここに極まったのは、いうまでもないであろう。 このような事態を受けて、同年10月25日、城主の吉川経家は城兵を助けることを条件に切腹したのである。人が人を食らうことを知った秀吉には、どのような気持ちが生じたのであろうか。もはや知る由もない。 このように秀吉が残酷の限りを尽くしたのには、いくつか理由があろう。本来、卑しい出自の秀吉は、信長に認められるべく必死だった。そのためには自らの武威を示すべく、戦いに勝っても残酷な措置をして、敵対勢力を委縮させる必要があった。その点で女、子供の磔刑、苛烈なまでの兵糧攻めは、絶大な効果があったのである。※主要参考文献渡邊大門『秀吉の出自と出世伝説』(洋泉社・歴史新書y、2013年)

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    「悪魔の手先」「実に悪賢い」外国人が見た豊臣秀吉の裏面

    渡邊大門(歴史学者) 容貌の醜くかった秀吉は次々と主君を変え、最後は信長に仕えた。秀吉が栄達の道を歩んだバイタリティーの源泉は、どこにあったのだろうか。秀吉は遍歴する商人的(連雀商人)な活動をしており、そこから得られる人的ネットワークの活用などに理由が求められてきたが、それは正しいのだろうか。 秀吉が出世を望んだ背景には、貧しさから這い出そうとする、仕事に対するひたむきさや創意工夫があったと考えられないだろうか。以下、外国の史料を用い、そこから明らかになる秀吉の姿を通して考えてみよう。 『一六〇〇年及び一六〇一年の耶蘇会の日本年報』には、秀吉が貧しい出自であったこと、金持の農夫に仕えて薪拾いをしていたことに続けて、次のように記している。  このころ彼は藤吉郎と呼ばれていた。その主人の仕事をたいそう熱心に、忠実につとめた。主人は少しも彼を重んじなかったので、いつも森から薪を背負って彼にいいつけることしか考えなかった。彼は長い間その仕事に従事していた。 秀吉は貧しい生活から抜け出すため、熱心な仕事ぶりを見せていた。同様の記述は、16世紀末に来日したスペイン人の貿易商人、アビラ・ヒロンの『日本王国記』にも書かれている。『日本王国記』は、アビラ・ヒロンが執筆した日本の記録である。アビラ・ヒロンは長崎を中心に東南アジア方面で活躍し、元和5(1619)年頃まで日本に滞在した。 特に、最初の3章の部分は日本社会をよく見聞し、当時の状況をよく伝えていると指摘されている。同書には秀吉について、次のように記している。その頃美濃の国の辺境には、さる裕福な百姓がいたが、他の大勢の下男にまじって、中背の、おそろしく勤勉で、また実にものわかりのよい、藤吉郎(秀吉)という若者がいた。しかし、なにしろこの家では、他の仲間といっしょに山から燃料のたきぎを担いで持ってくるというのが仕事だったのだから、さして重要な召使いではなかったに違いない。 秀吉が富農のもとで下男として薪拾いをしていたこと、また大変勤勉で聡明であったことが記されている。しかし、所詮秀吉は下賤の出身でもあり、大した地位や役割が与えられることはなかったという。それでも秀吉は辛抱して熱心に働いたのだから、その粘り強い性格には驚嘆せざるを得ない。 秀吉に関する『日本王国記』の記述はこれだけに留まらず、秀吉が酒造りに従事していたことも書いている。内容を要約すると、次のようになろう。木下藤吉郎秀吉の像と墨俣城=岐阜県大垣市墨俣町 ある日、秀吉は同僚たちと言い争いになった。主人が理由を尋ねると、揉めている原因は、同僚たちが多量の薪を消費していることだった。秀吉は、少量の薪で十分であると考えたのである。訴えを聞いた主人は、すぐさま秀吉を酒造りの役人に抜擢した。酒造りは、薪拾いよりも重要な役目だった。 秀吉は酒造りの指導者的な立場につくと、的確な指示を作業従事者に与えたという。主人は秀吉に特別な恩賞を与えることもなかったが、二度も同じ指示を与える必要もなかった。秀吉は、図抜けた優秀さを備えていた。やがて、秀吉は下賤の出身ではなく、身分ある人の子息であるとの噂が広がったのである。 秀吉の能力の源泉については、非農業民的な性格から理解されてきた節がある。しかしながら、こうした一面を見る限り、秀吉の高い能力は生来のものであり、ことさら卑しい身分や出自にこだわる必要はないと思う。秀吉に惚れ込んだ信長 言うまでもなく、連雀商人がすべて情報収集能力に長けていたわけではない。ルーチン業務に疑問を抱き、常に改善を意識する秀吉の姿勢は、卓越した天性の能力であり、後天的には身に付かなかったのではないか。 秀吉は各地を遍歴する中で、ついに信長に仕えた。秀吉の聡明さに惚れ込んだ信長の姿は、多くの書物に逸話が記されている。李朝の姜沆(カンハン)の『看羊録』は、日本の内情を秘密裏に本国政府に報告したものである。そこには、秀吉が富農の下を出奔して、信長に仕えた頃の話を次のように記している。 (秀吉は)壮年になってから自分から奮発し、信長の奴隷となったが、これといってとくにぬきんでるところもないまま、関東に逃走して数年を過ごし、また戻って(信長のもとに)自首した。信長はその罪を許し、もとどおりに使った。秀吉は一心に奉公し、風雨、昼夜もいとわなかった。 秀吉が松下加兵衛の下を飛び出したのは、天文23(1554)年だといわれているが、定かでない。ただし、この話は強ち嘘と否定できないようである。 『太閤素性記』によると、若き秀吉は幼友達の一若を頼って、信長への仕官を乞うたという。一若は実在の人物であり、当時信長の小人頭を務めていた。秀吉がいったん関東に逃走したとの記述はほかにないので、単に出奔したということになろう。 『看羊録』の記述には、興味深い続きのエピソードがある。次に示しておこう。 信長はいつも、多くの僕らに市中で物を買わせるのに、必ず高価なものを求めさせたが、その値段が少しでも合わないと、買わずにもどらせた。秀吉にやらせるようになってからは、廉価で貴重なものを買い、それも手早くやってのけたので、信長は大変ふしぎがった。 秀吉の才能が遺憾なく発揮されたと逸話であるが、この記述には注記が施されており、「実際は、秀吉が、信長の恩遇をねらって、自分の金銭の一半を加えたのであった。しかし、他の僕(しもべ)らが知らなかったのである」と記されている。織田信長像 秀吉が代金を補填したという、話の裏があった。しかし、自身の金銭を割いてまでも信長の寵遇を得ようとした秀吉の発想は、ほかの者にはなかったと考えられる。 信長が秀吉を重用したのは、その勤勉実直な姿だった。『信長公記』巻十には、信長のために中国方面で奔走する秀吉を評して「これは見上げるべきであると信長は評価した。夜を昼に継いで駆け回り、秀吉の働きは比類なきことである」と記している。逆に、そこまでしなければ、秀吉は信長から認められなかったに違いない。秀吉の裏の顔 信長の周辺には、実に多彩な人材が仕えていた。その中で秀吉の優れた経済感覚、そして勤勉な姿は他の追随を許さなかった。秀吉が薪奉行をした際、従来の3分の1の量で済む提案をした例を挙げたが、その仕事ぶりを示しており興味深い。 秀吉が従来の職務内容に飽き足らず、革新性を示したエピソードには事欠かない。すべての面において、秀吉は信長の「かゆいところに手が届く」存在だった。秀吉は貧しい出自ながらも、鋭く問題点を見抜き、改革を行う姿勢が信長から高い評価を得た。それだけではない。命じられたことに従い、東奔西走し信長に尽くした。そうでなければ、並み居る諸大名たちと肩を並べることはできなかったに違いない。しかし、勉励刻苦で改革提案型の秀吉には、裏の顔があった。 秀吉の醜悪な姿を告発しているのが、フロイス『日本史』16章の記述である。フロイスは秀吉が「抜け目なき策略家」であったと指摘した上で、次のように述べている。彼(秀吉)は自らの権力、領地、財産が増して行くにつれ、それとは比べものにならぬほど多くの悪癖と意地悪さを加えて行った。家臣のみならず外部の者に対しても極度に傲慢で、嫌われ者でもあり、彼に対して憎悪の念を抱かぬ者とてはいないほどであった。 この記述は、秀吉が信長の死後に天下人となり、天正13(1585)年に関白に就任して以後の内容である。しかも、秀吉はキリスト教に理解を示さなかったので、その点で厳しい評価となっている点は認めざるを得ない。この前段においてフロイスは、秀吉を「悪魔の手先」と評価した。フロイスにとって、秀吉は神をも恐れない悪魔だった。長浜城天守閣跡と秀吉像=滋賀県長浜市 この後フロイスは、秀吉が人の意見を聞き入れず、常に独断専行であり、誰も彼に意見しなかったことを挙げている。さらに、秀吉が恩知らずであり、最大の功績者を追放したり、不名誉に扱ったり、恥辱で報いた事実を告発している。そして、次のように、秀吉の性質を断言した。 彼(秀吉)は尋常ならぬ野心家であり、その(野望)が諸悪の根源となって、彼をして、残酷で嫉妬深く、不誠実な人物、また欺瞞者、虚言者、横着者たらしめたのである。彼は日々数々の不義、横暴をほしいままにし、万人を驚愕せしめた。彼は本心を明かさず、偽ることが巧みで、悪知恵に長け、人を欺くことに長じているのを自慢としていた。 人間の感性や性質は、今も昔もさほど変わらないと思う。現代社会においても、こうした人物は少なからずいるだろう。出世の階段を駆け上る中で、秀吉の人格は以前からすっかり変わり果ててしまった。『日本史』では、秀吉にありとあらゆる罵詈雑言を浴びせ掛けているが、フロイスは秀吉の抜け目ない醜悪な性格を鋭く見抜いていたのである。 こうした秀吉の変わり果てた酷い人格は、別のところでも語られている。姜沆の『看羊録』では、慶長3(1598)年における日本と朝鮮との講和に際し、秀吉が諸将を厳しく叱責している姿について、「(秀吉の)容貌や言辞の、思い上がった傲慢さは、想見するに思わず心が痛み、骨が削られるようである」と評価している。敵方でありながらも、気分が不快になるほどの言葉を秀吉は吐いていたのである。奇異な秀吉の性癖 続けて姜沆が指摘するのは、家臣らを翻弄する秀吉の姿であった。次に、関係部分を掲出することにしよう。(秀吉の)性質は、実に悪賢い。専ら下らぬおどけごとで部下をもてあそび、家康らを侮弄するのは、まるで赤子を弄ぶような具合であった。また、喜んで水売りや餅売りのまねをし、家康らを通行人に仕立てて何か買わせる様子をさせたり、一文一鐺の下らないいたずらごときの腕くらべをさせたりした。 秀吉は自らが権力あるのをよいことに、家康ら名だたる武将をコケにして、「○○ごっこ」のような遊びに興じていた。また、自らも商売人を演じて見せ、諸大名に客を演じさせていた。残念ながら、「一文一鐺」の意味は不明である。こうした下らない遊びに付き合わされた諸大名は、相当な迷惑であったに違いない。 このように秀吉が自身の遊びや趣味に諸大名を巻き込んだ例は、いくつか知られている。たとえば、秀吉が能に狂っていたことは、よく知られた事実である。秀吉自身の生涯をたどった演目を作らせたほどだ。彼は能を鑑賞するだけに止まらず、諸大名に命じて演じさせていた。お茶も同じである。 お茶といい、能といい、秀吉は自身の趣味を諸大名に押し付ける性癖があった。それもこれも、抑圧された厳しい幼年時代の経験が大きく影響しているのではないだろうか。 秀吉の変わった行動は、次第にエスカレートしていった。姜沆の『看羊録』の言葉を借りるならば、「専ら権謀術数で諸将を制御する」というやり方である。次に、その具体的な例を挙げておこう。ある時などは、「(秀吉が)今夜は東に泊まる」などと命令を出しておいて、夕方には西にいたりした。まるで曹操の疑塚の亜流である。ある時は、猟に出て、(秀吉が)死んだふりをしばらく続けた。従者らは、あわてふためき、なすすべを知らなかった。その大臣(大名)らは、平然としたままで動きもしなかった。すでに、それが偽りであることを知っていたのである。 秀吉は死んだふりをした後、生き返った所作をしたという。秀吉は家臣をからかった意識しかなかったかもしれないが、当の家臣――特に事情を知らない者――にとっては、心臓が止まるような思いをしたであろう。しかし、現実に秀吉のイタズラは世に知られており、むしろ上層に位置する家臣らは慣れっこになっていた。 ちなみに「曹操の疑塚」とは、三国志の英雄、曹操があらかじめ72基の墓を作り、死後埋葬しても、どれが本当の墓かわからないようにしたという故事である。 秀吉自身にとっては単なる悪ふざけであったかもしれないが、姜沆から見れば諸将を愚弄(ぐろう)する行為にしか見えなかった。そうした意識の差異には、注意すべきかもしれない。秀吉も天下人である以上、常軌を逸脱した行為は、常識的に考えて慎まねばならないだろう。豊臣秀吉画像(佐賀県立名護屋城博物館蔵) 秀吉は家臣を弄(もてあそ)ぶことを常としていたが、それは少なからず彼の出自と関係したと考えられる。自分より高い出自の大名らをからかうことに、大きな快感を得ていたのではないだろうか。 秀吉は一介の百姓から天下人に上り詰めた苦労人であり、テレビの時代劇などでは、明るくひょうきんなイメージがある。しかし、それは小説家などが作り上げた偽りの姿に過ぎない。自らの出自に強いコンプレックスを抱いた秀吉は、貧しさを克服し出世する過程において、かなり嫌な性格の人間になったのではないだろうか。※主要参考文献 渡邊大門『秀吉の出自と出世伝説』(洋泉社・歴史新書、2013年)

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    「木下藤吉郎」も創作だった? 怪しすぎる秀吉のルーツをたどる

    渡邊大門(歴史学者) 豊臣秀吉の出自は、これまで単に百姓ということになっていた。しかし、実際はかなり複雑で、さまざまな説が残っており、本稿ではそれらの説を検討してみようと思う。 最初に、秀吉の生誕年について触れておこう。かつて秀吉の生年月日は、天文5(1536)年1月1日と考えられてきた(『太閤素性記』)。しかし、歴史学者の桑田忠親氏は秀吉の生年について、『豊臣秀吉研究』(角川書店)で、次のように指摘している。・「関白任官記」(『天正記』所収)の中に「誕生の年月を年ふるに、丁酉二月六日吉辰なり。周易の本卦復の六十四に当れり」とある。丁酉の年は天文6(1537)年であり、秀吉の誕生日は2月6日になる。・天正18(1590)年12月吉日白山御立願状之事(「桜井文書」)には、「関白様 酉之御年 御年五十四歳」とある。天正18年に54歳であると、誕生年は天文6(1537)年になる。 以上の点から、従来説の天文5(1536)年1月1日説は否定され、現在、秀吉の生誕年は天文6(1537)年2月6日説が定説となっている。 次に秀吉の出自について考えてみよう。最初に検討する史料は、17世紀後半に成立した土屋知貞の『太閤素性記』である。同書は、秀吉の御伽衆(おとぎしゅう)であった知貞の父、円都や母からの聞き書きがベースとなっている。次に、秀吉の出生に関係する部分を掲出する。「父は木下弥右衛門という中々村の人で、信長の父・信秀の鉄砲足軽を務めていた。多くの戦場で手柄を挙げたが、それがもとで怪我をしたので、中々村に引っ込んで百姓となった。秀吉と「とも」を子に持ったが、秀吉が八歳のときに亡くなった」(現代語訳) 鉄砲伝来は諸説あるが、一般的に天文12(1543)年とされている。弥右衛門が活躍した時代(天文年間初頭)を考慮すると、さほど鉄砲が盛んに用いられたとは考えがたく、「鉄砲足軽」というのは知貞の勘違いなのかもしれない。木下藤吉郎秀吉像=滋賀県 また、木下という姓を名乗っているならば、秀吉の父は有力名主や土豪クラスと考えなくてはならない。しかし、秀吉自身の述懐するところでは、少年期の暮らしぶりは非常に貧しく、百姓身分だったと考えた方が自然で、木下姓は不審であるといえる。 以上の点は、先学が指摘するように、おおむね次のように整理できると思う。(1)土屋知貞には秀吉が「木下」姓を名乗っていた先入観があり、父にも「木下」姓を付けてしまった(小和田哲男『豊臣秀吉』中公新書)(2)朝廷から秀吉が豊臣姓を賜った際、『豊臣系図』を作成したときの工作である。本来は、姓氏などなかった(桑田忠親『豊臣秀吉研究』角川書店) つまり、弥右衛門は「木下」姓を名乗っていなかった可能性が高い。秀吉は正親町天皇の子? 次に取り上げるのは、17世紀初頭に成立した小瀬甫庵の『甫庵太閤記』である。甫庵は秀吉などに仕えた儒学者であるが、同書の内容は誤りが少なくなく、信が置けないと評価されている。同書が記す秀吉出生の経緯は、次のものである。「父は尾張国愛智(知)郡中村の住人で、名を筑阿弥という。あるとき母の懐に日輪が入る夢を見るとすでに懐妊しており、こうして秀吉が誕生したので童名を「日吉丸」とした」(現代語訳) この史料では、父が筑阿弥となっており、弥右衛門の名は出てこない。ちなみに筑阿弥は、織田信秀(信長の父)のもとで御伽衆を務めていたという。おまけに母の胎内に日輪が入った夢を見て妊娠し、やがて秀吉が生まれたというのは荒唐無稽すぎる。 『甫庵太閤記』では筑阿弥を秀吉の実父としているが、他の史料では(木下)弥右衛門を実父とするものが多い。秀吉の父を一百姓ではなく、信秀配下の御伽衆にしたいと考えたのであろうか。 そして次は、秀吉の御伽衆・大村由己の『関白任官記』である。同書は、秀吉の意向に即して執筆された史料になろう。以下に、その関係部分を記す。「その(秀吉の)素性を尋ねてみると。祖父母は朝廷に仕えていたという。仕えていたのは萩の中納言という。今の大政所(秀吉の母)が三歳のとき、ある人の讒言によって遠流になり、尾張国飛保村雲というところで日々を過ごした(中略、ある都人から大政所に歌が贈られる)。かの中納言の歌である。大政所殿は幼年にして上洛し、朝廷に三年にわたって仕え、程なく一子が誕生した。今の殿下(秀吉)である」(現代語訳) 秀吉の祖父母は、荻の中納言なる人物に仕えていた。秀吉の母は3歳のときに尾張国に流されたが、荻の中納言に呼び戻され、落胤(らくいん)として誕生したのが秀吉なのである。つまり、秀吉は正親町(おおぎまち)天皇の子ということになる。 荻の中納言なる人物は史料で確認できず、話の筋もまったく荒唐無稽な内容となっている。由己は、何とかして秀吉を天皇の血統である皇胤(こういん)に結び付けようと考えたのであろう。あるいは、秀吉から指示があったのかもしれない。この説は完全に否定されている。 竹中半兵衛重治の子息、竹中重門の『豊鑑』(17世紀初頭成立)には、秀吉の父祖について2カ所にわたり、気になる記述が見られる。次に、その部分を掲出しておこう。「(秀吉は)尾張国に生まれ、「あやし」の民であったが…」「(秀吉は)郷の「あやし」の民の子であったので、父母の名も誰かわからない。一族についても、同じである」(現代語訳) 歴史学者の服部英雄氏は「あやし」の語に「賤」という字を当て、秀吉が卑賤の出自であったと指摘し、秀吉の賤民出自説の一端へと繋げている(『河原ノ者・非人・秀吉』山川出版社)。 しかし、「賤(いやしい)」には「あやし」という読み方はなく、「怪し」つまり「得たいが知れない」と考えるべきだろう。それが、イコール卑賤(ひせん)を意味したと解釈したほうが自然である。この点をもう少し詳しく検討してみよう。豊臣秀吉を祀る豊国神社=京都市東山区 秀吉が「あやし」の民であったことについては、興味深い史料が残っている。天正18(1590)年、名胡桃城(群馬県沼田市)をめぐる後北条氏と真田氏との争いが端緒となり、秀吉は介入せざるを得なくなった。その際、秀吉は北条氏に直接宛てた宣戦布告状の中で、次のように記している。「秀吉、若輩(若い頃)に孤(一人)と成て(以下略)」(『言経卿記』) この後、若き頃の秀吉が信長に従った過去の出来事などが綴られている。わずか1行にも満たない文章であるが、秀吉自身の言葉でもあり、かつ自分の存在を誇張するものでもない。そう考えると、『豊鑑』の「父母の名前もわからない」という記述は、まんざら嘘でもなさそうだ。秀吉は幼くして、孤児になった可能性がある。秀吉に面従腹背だった諸大名 『豊鑑』のように、秀吉が孤児であったと記したものは乏しいが、この秀吉の書状はその事実を裏付けている。父母の名も分からないとなると、秀吉の母、大政所ですら実母だったのか疑わしい。 もう少し、秀吉の出自について探索してみるが、以降は後世に成った史料(編纂物)から離れ、同時代の一次史料によって秀吉の出自を確認する。 最初に取り上げるのは、毛利氏の外交僧として活躍した、安国寺恵瓊(あんこくじえけい)の書状である。恵瓊は天正10(1582)年6月の備中高松城の攻防後、領土割譲をめぐって秀吉との交渉に臨んだ交渉人である。恵瓊は交渉能力に長けているだけでなく、信長の失脚と秀吉の将来の成長を予言するなど、洞察力が非常に優れた人物だった。 恵瓊が秀吉との領土割譲を交渉する天正12(1584)年1月、秀吉を評して記したのが、次の有名な一文である。「若い頃は一欠片の小者(下っ端の取るに足りない者)に過ぎず、乞食をしたこともある人物であった」(『毛利家文書』) 恵瓊は外交僧を務めており、幅広い情報ルートを保持していたと考えられる。そうなると、若い頃の秀吉が乞食同然の生活を送っていたということは、あながち否定できないだろう。恵瓊は情勢分析にも優れており、非常に信ぴょう性が高い情報であると考えてよい。 そうなると、若い頃の秀吉が乞食同然の生活を送っていたことは、有力な大名間において共通に認識されていた事実だったといえよう。それは、薩摩の島津氏も知っていた。 秀吉の卑しい身分については、遠く九州・薩摩国までも伝わっていた。天正14(1586)年1月、大友宗麟は島津義久の攻撃を受け、窮地に陥った。そこで、宗麟は秀吉に泣きつき、停戦に持ち込もうとした。宗麟の要請を受けた秀吉は義久に停戦を命じ、応じなければ、成敗に及ぶという厳しい通達をした。 停戦を突きつけられた島津氏は、家中で種々議論を重ねるが、その中で秀吉に関する次の記述が見られる。「羽柴(秀吉)は、誠に由来(由緒)なき人物であると世の中でいわれている。当家(島津家)は頼朝以来変わることがない家柄である。しかるに羽柴(秀吉)へ関白とみなした返書を送ることは、笑止なことである。また、右のように由緒のない人物を関白を許すとは、何と綸言(天皇のおっしゃること)の軽いことであろうか」(『上井覚兼日記』現代語訳) この前年(天正13年)、秀吉は「関白相論」に乗じて、摂関家以外で初めて関白に任じられた。あわせて、「豊臣」姓も朝廷から与えられた。島津氏は秀吉を由緒なき人物としたうえで、関白に任じられること事態が「笑止千万」という感想を持ったのである。秀吉の出自が低いということは、遠く薩摩まで知られていたのだ。豊国神社の豊臣秀吉像=京都市東山区 鎌倉時代以来の名門である島津氏にとって、秀吉は「どこの馬の骨」か分からない存在だった。率直に言えば、「名門・島津家が秀吉ごときにとやかく言われる筋合いはない」というのが本音であろう。結局、島津氏は秀吉の停戦命令を無視したが、最終的に島津氏は秀吉に屈し、ミジメな思いをするのは周知のところである。 島津氏内部における秀吉の評価は、ある意味で諸大名の心情を代弁したものであった。ポルトガルの宣教師が作成した「一五八五年の日本年報追加」には、次のような一文がある。「羽柴筑前殿(秀吉)は甚だ微賤に身を起こし、富貴・名誉及び現世の光栄に達したが、多数の競争者は彼が日本の習慣により、車の速に廻る如く没落に近づくことを期待している。日本の諸国は四百五十年来絶えざる変革に動かされていたのである」 1行目の秀吉が貧しい出自であることはこれまで通りだが、2行目の「日本の習慣」が問題となろう。「日本の習慣」の意味することは、3行目の「四百五十年来絶えざる変革」とある武家政権の激しい移ろいであった。 つまり、諸大名は「卑しい身分」だった秀吉の没落を願っていた。面従腹背だったのだ。先の島津氏の秀吉に対する認識は、ある意味で諸大名の言葉を代弁したものであったといえるであろう。 以上のように、秀吉の出自を物語る同時代史料は乏しいかもしれない。しかし、すでに秀吉が生きた時代においても、秀吉の出自がわからなかったこと(あるいは貧しかったこと)が共通認識であったことが判明する。恵瓊に至っては、「乞食」とまで記しており、誠に興味深いところである。 次回は、外国の史料を用いて、秀吉がどのように認識されていたのかを考えることにしよう。主要参考文献渡邊大門『秀吉の出自と出世伝説』(洋泉社・歴史新書、2013年)

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    「容姿は猿似」豊臣秀吉のウソ、ホント

    渡邊大門(歴史学者) 豊臣秀吉の容姿については、伝説を含めて多くの記録が残っている。秀吉の容姿に触れることは、権力者としての秀吉の側面などを考えるうえで、多くの示唆を与えてくれるように思う。 まず、秀吉には、指が6本あったといわれている。このことを指摘したのは、近世史家の三上参次氏である。根拠である前田利家の伝記『国祖遺言』(金沢市立図書館・加能越文庫)には、次のように記されている。「太閤様(秀吉)は、右手の親指が1つ多く6つもあった。あるとき蒲生氏郷、肥前、金森長近ら3人と聚楽第で、太閤様がいらっしゃる居間の側の四畳半の間で夜半まで話をしていた。そのとき秀吉様ほどの方が、3つの指(の1つ)を切り捨てなかったことをなんとも思っていらっしゃらないようだった。信長様は秀吉様の異名として『六ツめ』と呼んでいたことをお話された」(現代語訳) 秀吉は生まれたときから右手の親指が6本あり、それを切り捨てなかったことから、信長から「六ツめ」とあだ名がつけられていた。実は、この話に関しては、フロイスの『日本史』第16章にも「片手に6本の指があった」と記されている。では、ほかに秀吉の6本指を書き記した史料はないのであろうか。 秀吉に指が6本あったことは、朝鮮の儒学者、姜沆(カンハン)の著書『看羊録』(かんようろく)にも、次のように記されている。 「(秀吉は)生まれた時、右手が6本指であった。成長するに及び、『人はみな五本指である。6本目の指に何の必要があろう』と言って、刀で切り落としてしまった」 この記録で重要なのは、『国祖遺言』と同じく右手が6本指であると書かれているが、余分な1本を切り落としたと書かれていることだ。『国祖遺言』には、余分な指を切り落としたと書いていない。はたして切ったほうが正しいのか、切らなかったほうが正しいのか、どちらであろうか。 そもそも秀吉の右手が6本指であったというのは、現代の医学で言えば、先天性多指症という病気である。多指症とは通常より指が多い病状を示し、90%以上が親指であるという。発生比率は、男性が3に対して、女性が2であるといわれ、男性に多い病状であった。発生頻度は、2千人から3千人に1人であると指摘されている。 したがって、『国祖遺言』が「右手の親指が1つ多く6つもあった」と記しているのは、決して荒唐無稽(こうとうむけい)な話ではない。 多指症の原因は胎児が母親の胎内にあるとき、本来は1本の指になるところが、何らかの理由によって組織が分裂し、指が2本に分かれたものであるという。ちなみに、指は大小が生じ、大きい指は動かしやすく、小さい指は動かしにくいという。木下藤吉郎秀吉像=岐阜県大垣市墨俣町 面倒なのは、単に動かしにくい小さい指を切ればよいという問題ではないことで、指を再建する手術になる。これは、大手術になるといわれており、手術がうまくいかないと、再度指を再建することは困難になる。手術の難しさゆえに、ベテラン医師が手術を担当することが多い。一般的に手術は、おおむね1~2歳の間に行われる。 現代の医学水準においても非常に困難な手術であることを考慮すれば、当時の人々は経験的に指を切り落とすことのリスクを知っていた可能性がある。衛生面から言っても、指の切断後の措置がうまくいかなければ、細菌などによって死に至ることが考えられる。仮に切断後の措置がうまくいっても、残った指に障害が残る可能性も高い。 そのようなリスクを考慮すれば、秀吉は右手の親指の余分な1本を切らなかった可能性が高い。ただ、秀吉の指が6本あったということは、非常に好奇な目で見られたことであろう。そのことは、秀吉の性格にも大きな影響を与えたと考えられる。微調整された肖像画 では、秀吉の容姿は、どのように伝わっているのであろうか。フロイス『日本史』16章には、秀吉の容姿について次のとおり記されている。 「彼(秀吉)は身長が低く、また醜悪な容貌の持主で、片手には6本の指があった。目がとび出ており、シナ人のように髭が少なかった」 戦国時代といえば、現在のようにさほど栄養状態がよいわけではない。肉食を主とし体格のよい欧米人から見れば、さぞかし秀吉は小柄に見えたことであろう。おおむね身長は、150センチ台の半ば、あるいは140センチ台だったかもしれない。 実は、フロイス『日本史』16章は、秀吉がキリシタンに迫害を加えたことを非難する文面であふれている。そのような事情から、秀吉の容姿に関する記述を素直に受け取ることは危険なのかもしれない。「醜悪な容貌」というのは、多少はフロイスの悪意を感じなくもない。 戦国史家の桑田忠親氏は「秀吉の目が飛び出している」という点について、高野山蓮華定院、大阪の豊国神社など、秀吉と実見して描いたと考えられる肖像画は、「眼窩(がんか)がくぼんでいる」ことから事実に反していると指摘している。この見解については、いったいいかに考えるべきなのであろうか。 秀吉の肖像画は、秀吉が依頼して絵師に書かせたものである。その場合、秀吉は絵師に対して、さまざまな要望をしたに違いない。目がくぼんでいるとか、くぼんでいないかということよりも、全体が権力者としてふさわしい表情になっているかが重視されたはずである。そうなると、現在伝わっている秀吉の肖像画が、必ずしも正しい姿を伝えているとは限らず、秀吉好みに微調整された可能性が高い。豊臣秀吉像(京都・豊国神社) 秀吉の醜い容姿は、何もフロイスの『日本史』だけに書かれていることではない。後世の編纂物も含めて、実に多くの書物に書き残されている。 秀吉が「猿」と呼ばれたことは、よく知られている。もっともそれは、秀吉に多少の親しみを込めて呼ばれたようであるが。この点について、秀吉の容姿が醜く、背が低いという事実とあわせて、姜沆の『看羊録』には、次のように記されている。 「賊魁(ぞくかい。賊軍の長)秀吉は、尾張州中村郷の人である。嘉靖丙申(1536年)に生まれた。容貌が醜く、身体も短小で、容姿が猿のようであったので(「猿」を)結局幼名とした」 姜沆も文禄・慶長の役によって日本に無理やり連行されたので、秀吉にはよい印象を抱いていなかった。冒頭に秀吉を賊魁(賊軍の長)と記しているのは、そうした理由によると考えてよい。1行目の出生に関わる記述は、当時の情報を何らかの形で入手したと考えられる。いずれにしても、姜沆の目には秀吉の姿が醜く映っているのである。外国人から見た秀吉は、醜悪だったようだ。 毛利家の家臣・玉木吉保は、その著書『身自鏡(みじかがみ)』(1617年)の中で「秀吉は『赤ひげ』で『猿まなこ』で、空うそ吹く顔をしている」と書き残している。玉木吉保は秀吉の同時代の人物であり、伏見城築城にも従事した。「赤ひげ」とはひげが薄くて、赤っぽく見えたのであろう。「猿まなこ」とは、「猿の目のように、大きいくぼんだ目。きょろきょろと動くまるい目」という意味がある。 先に、秀吉の目がくぼんでいるか、飛び出しているかという点が問題になったが、「きょろきょろとした」点に重点を置くと、目が飛び出しているような印象を受ける。しかし、目の形状に関しては、いずれにしても年齢的なことも考慮しなくてはならないだろう。加齢とともに痩せ、目がくぼんでいったことも考慮する必要がある。髭が薄かったのは、別の史料もあり、事実のようである。「猿」と「はげ鼠」 同時代に近い史料として、李氏朝鮮側の記録『懲毖録(ちょうひろく)』(17世紀前後)があり、秀吉に謁見(えっけん)した朝鮮使節の感想を次の通り記されている。 「秀吉は、容貌は小さく卑しげで、顔色は黒っぽく、とくに変わった様子はないが、ただ眼光がいささか閃いて人を射るようであったという」 背が低く容貌が卑しいというのは、フロイスらの感想と一致しているところである。また、小さい頃から肉体労働に従事していた秀吉は、よく日に焼けていたと考えられる。眼光が鋭いというのは、権力者特有の趣が感じられたからであろう。秀吉は小柄ながらも、非常に野性味あふれていたに違いない。 若き秀吉と松下加兵衛との出会いの場面は、実に示唆深いものがある。秀吉と加兵衛は浜松の町外れで初めて出会っており、その様子は次のように記されている。 「加兵衛が久能から浜松に行く途中で猿(=秀吉)を見つけたという。異形の者で、猿かと思えば人に見えるし、人かと思えば猿に見える。どの国から来た何者かと尋ねると、猿は尾張から来たという。また加兵衛は、幼少の者が遠路をどのような用事で来たのか尋ねると、奉公を望んできたといった。加兵衛は笑いながら私に奉公するかと尋ねると、(秀吉は)了解したと述べた」 猿に見えたとは大袈裟な書き方ではあるが、秀吉の汚らしかったであろう服装と相まって、そう見えたのだろう。あとで加兵衛は主人である飯尾氏に秀吉を面会させると、秀吉は皮のついた栗を取り出し、口で栗の皮をむいた。その口元は、あたかも猿のようであったという。しかし、秀吉が沐浴を済ませ衣裳を改めると、姿かたちが清潔になり、はじめの容貌とは異なっていたという。秀吉が猿と称され、みんなから愛されたゆえんでもある。豊臣秀吉の像が立つ豊国神社=大阪市中央区 ただ、小和田哲男氏が指摘するように、松下氏に関する記述は事実誤認が多く、信の置けないところもある。秀吉が「猿」に似ていたというのは、むろん猿そのものの意味もあったであろうが、愛嬌のよさを含んだ意味もあったであろう。 秀吉の容姿は、「はげ鼠(ネズミ)」と称された例もあった。年未詳ながら、秀吉の妻・おね宛の織田信長の朱印状には、次のように記されている(「土橋嘉兵衛氏所蔵文書」)。 「お前さま程の細君は、あの『はげねずみ』には2度と求めることは出来まいから、お前さまも奥方らしく大様に構えて、軽々しく焼き餅など焼かぬように」 秀吉が妻・おねに対してたびたび不服をいうことについて、信長は手紙をしたためて、たしなめているのである。手紙の末尾には、「秀吉にこの手紙を見せるように」とあることから、信長と秀吉の強い結びつきや信頼感を感じ取ることができる。つまり、信長は親しみの意味を込めて、秀吉を「はげ鼠」と呼んだのかもしれない。抱き続けたコンプレックス ところで、ネズミといえば、朝鮮側の史料『宣祖修正実録』に大変興味深い記録が残されている。朝鮮から派遣された使者が戻ってくると、秀吉の容貌はいかなるものか質問した。その回答は「目が燦燦(あざやかで美しいさま。きらきらと輝いて美しいさま)としていて、これは胆智(肝がすわった知力ある)の人に似ている」であった。一方で、別の一人は「その目は鼠のようで、畏れるに足りない」と述べた。 前者は秀吉を侮(あなど)ってはいけないことを、暗に注意しているのだろう。そして、後者はそうであっても、畏れてはならないと考え、あえて「ネズミのような目」と形容したと推測される。したがって、秀吉の目がネズミのようであったというのは、当たらないと考えられる。とにかく秀吉は、見る人によって印象が異なったが、背が小さく醜い容姿であったことは、共通していることである。 一つ言えることは、少なくとも秀吉が美男子ではなかったということだ。その点に関して秀吉は、自らフロイスに次のように述べている(『日本史』14章)。 「皆が見るとおり、予(秀吉)は醜い顔をしており、五体も貧弱だが、予の日本における成功を忘れるでないぞ」 この一文を見れば明らかなとおり、秀吉は自身の容姿が良くないことを自覚しているのである。「五体も貧弱」というのは、体が普通の人より小柄であったことを示している。そのようなこともあって、わざわざ「私を侮ってはならない」ことを半ば恫喝(どうかつ)気味に伝えているのだ。外国人でなくても、同時代に秀吉と会った日本人の多くが、秀吉の容貌を醜かったと感じていたに違いない。 秀吉は子供の頃から貧しい生活を強いられており、服装も汚らしいもので、容姿もさえなかった。当時、指が6本あったことも、何かしら嘲笑されたことに違いない。身体は小柄で、日焼けして薄汚れた顔立ちは、さながら「猿」のようだったと考えられる。ときに「猿」のような顔立ちは愛嬌があったが、虐げられたキリシタンや朝鮮の人にとっては、憎らしさがあったと想像される。 長々と記したが、一言で言うならば、秀吉の容姿はさえなかった。秀吉は貧しい出自や指が6本あったこともあって、大きなコンプレックスを抱いていたと考えられ、その後の人生に大きく作用したのではないだろうか。 次回は、諸説ある秀吉の出自について考えてみたい。【主要参考文献】渡邊大門『秀吉の出自と出世伝説』(洋泉社・歴史新書、2013年)

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    本能寺の変と「中国大返し」の謎、秀吉共犯説はこれで論破できる

    渡邊大門(歴史学者) 天正10(1582)年6月2日に勃発した本能寺の変には、羽柴(豊臣)秀吉が関与していたとの説がある。周知の通り、秀吉は主君である織田信長の死を知ると、備中高松城(岡山市北区)で毛利方の部将、清水宗治と交戦中にもかかわらず、急いで毛利氏と和睦を締結した。 その直後、「中国大返し」と称される尋常ならざるスピードで備中高松城から上洛し、同年6月13日の山崎の戦いで明智光秀を討った。これだけのスピードで戻るのには、秀吉が事前に光秀の計画を知っていないと不可能だと指摘する論者がいる。 はたして秀吉は、事前に光秀の挙兵を察知していたのだろうか。以下、その論点を挙げて、一つ一つを検証することにしよう。 スペイン人の貿易商人、アビラ・ヒロンが執筆した『日本王国記』には、「家康をはじめ、まだ臣従していなかったその他の人々も、内密にではあったが明智の側に加わっていた」と書かれている。「その他の人々」のなかには、秀吉も含まれていたと考えているようだ。つまり、秀吉は光秀に与していたという解釈である。木下藤吉郎秀吉像=滋賀県・JR長浜駅前 ヒロンは生没年不詳。文禄元(1594)年に平戸へ来日し、以後は東南アジア方面を往来し、慶長12(1607)年に日本に戻った。少なくとも元和5(1619)年までは、日本に滞在していたという。 彼の手になる『日本王国記』は、当該期の日本の事情を知る上で、貴重な史料と評価されている。特に、商業や貿易関係の記述は、重要であるとの指摘がある。なお、残念ながら同書の原本はなく、写本だけが伝わっている。 ところが、ヒロンと同じく16世紀末頃から17世紀初頭に日本に滞在したスペイン人のイエズス会士であるペドロ・モレホンは、『日本王国記』の記述内容について「著者みずからは正確であるといっているにもかかわらず、彼の日本に関する知識の僅少の故に数多くの誤りがある」と述べている。つまり、『日本王国記』の記述を全面的に信用するのは、危険であることを示唆している。 本能寺の変が勃発したのは、ヒロンが来日する14年前の出来事で、彼自身がどうやって秀吉が光秀に与していたかという情報を知り得たのか判然としない。おまけに『日本王国記』の記述内容が不完全な可能性が高いとするならば、秀吉と光秀が結託していたという説を素直に受け入れるわけにはいかない。よって、『日本王国記』の秀吉が光秀に与していたという記述には、いささか疑念を持たざるを得ないのである。 ほかにも、秀吉が本能寺の変に関与したと主張するユニークな説明がある。秀吉は毛利氏の政僧だった安国寺恵瓊(あんこくじえけい)と謀り、備中高松城の攻防中に毛利氏といつでも和睦を結べるようタイミングを調整し、信長横死の一報が届けられるとともに「中国大返し」で上洛したという説明がそれだ。はたして、これは事実と考えてよいのだろうか。秀吉と安国寺恵瓊の関係 ここでは和睦と書いたが、実質は一時的な停戦である。山崎の戦い後、毛利氏と秀吉は領土確定をめぐって、協議を進めることになる。つまり、詳細を後日詰めることを前提とした和睦であり、秀吉が信長の仇を取るべく急いでいたのは事実であろう。 この説の前提として重要なのは、織田氏の取次の秀吉と毛利氏の取次の恵瓊は互いに旧知の間柄であり、決して備中高松城の現場では一触即発の事態ではなかったという。織田氏と毛利氏との全面戦争にもかかわらずである。つまり、表面的には戦っているふりをしているが、秀吉と恵瓊はグルだったということになろう。 秀吉と恵瓊はたしかに旧知の間柄で、恵瓊は秀吉の台頭を予言し、その優れた手腕を評価した人物である。しかし、旧知であるなどの理由だけで、2人が共謀していたというのは、まったく話にならない説明である。2人が共謀していたという、たしかな証拠を提示しなくてはならないだろう。 信長の横死後、恵瓊は主導的な立場で、秀吉との和睦を独断で結んだといわれている。しかし、それは信頼できる史料に書かれているものではなく、関ヶ原合戦後の恵瓊の評価を考慮する必要がある。 慶長5(1600)年の関ヶ原合戦後、毛利氏は120万石から30万石の大名へと転落した。その際、毛利氏や吉川氏は恵瓊に責任を転嫁すべく史料を改竄(かいざん)するなど、さまざまなアリバイ工作を行い、恵瓊の独断専行ぶりを特に強調した。『陰徳太平記』は、その代表的書物だ。同書ではことさら恵瓊を論難している。重要文化財「関ケ原合戦図屏風」(右隻、大阪歴史博物館蔵) したがって、恵瓊の独断により秀吉と和睦を結んだというのは明確な根拠がなく、後世のでっち上げとすべきものである。 補足しておくと、恵瓊は毛利氏のみならず、秀吉にも仕えるという身分だった。このこと自体は、さほど珍しいことではない。秀吉と恵瓊がグルだったと主張する論者は、恵瓊が毛利氏に滅ぼされた安芸武田氏の子孫であることから、毛利氏に対して忠誠心がなく、いつかは毛利氏の足元をすくってやろうとしていたと指摘する。 しかし、恵瓊が毛利氏の足元をすくおうとしたという説はまったくの思い込みによる根拠の薄弱なもので、信用に足りない説である。というのも、関ヶ原合戦前の恵瓊は、毛利氏(あるいは豊臣家)を勝利に導くため、必死になって行動していた。それは、一連の史料を見れば明らかである。この説も根拠薄弱な思い込みである。 結果的に関ヶ原の戦いは西軍の敗北に終わり、恵瓊は非業の死を遂げるが、むしろ恵瓊を裏切ったのは毛利氏の側なのは明らかなのだ。毛利氏は恵瓊に黙ったままで、合戦前日に徳川家康と和睦を結んでいた。恵瓊を見殺しにしたのである。「夜久文書」が伝える真相 秀吉と恵瓊との関係について、もう1点補足しておこう。先に触れた通り、天正元(1575)年12月、恵瓊は信長がやがて滅亡するであろうことを予言し、同時に秀吉が台頭することを予言した。この点について、秀吉関与説を唱える論者は、以下のとおり奇妙な説明をする。 それは、恵瓊が予言をしたのは、秀吉から信長が数年のうちに破滅する可能性が高いと説明を受けていたからだという。秀吉の説明とは、信長は実力主義で家臣を登用したが、やがて家臣間の軋轢(あつれき)を生みだすとともに、忠誠心のない家臣の台頭を招き、謀反へつながるという内容である。実際に荒木村重、松永久秀らが謀反を起こした。こちらも、秀吉が恵瓊に説明したという史料はない。 秀吉が恵瓊に説明したというのは、後世を知る論者が勝手に想像しただけであって、まったく史料的な根拠はない。そもそも恵瓊の予言を過大に評価するが、あくまでそれはそのときに抱いた感想に過ぎない。したがって、秀吉や恵瓊を予言者と持ち上げるのは、いささか見当違いだろう。 結論を言えば、秀吉が恵瓊と結託し、和睦のタイミングを見計らい、信長の横死とともに「中国大返し」で上洛したという説は、確かな根拠がなく成り立たないといえる。 秀吉関与説にまつわるユニークな説明は他にもある。「中国大返し」を実現させた理由の一つとしては、秀吉が独自の情報ルートを持っていたとの説が提起されている。そうでなければ、ただちに信長横死の情報を入手できなかったと指摘する。 秀吉は丹波の夜久氏という領主の協力を得て、京都から備中高松城までの情報伝達ルートを確保していたという(年未詳6月5日羽柴秀長書状「夜久文書」)。そのルートは、備中高松城から姫路に向かい、姫路から一気に北上して羽柴秀長(秀吉の弟)の但馬竹田城に至り、竹田から和田山、丹波の夜久、福知山、亀山を経て京都に至るルートである。とりわけ夜久付近では、夜久氏の協力を得たということになろう。備中高松城址=岡山市 この説については、大いに疑問がある。以下、検討しておこう。 該当する「夜久文書」を素直に読むと、近江国から夜久方面の往来について、夜久氏の協力を得たとしか書かれておらず、先述した情報ルート云々の話は出てこない。秀長は路次確保の協力に対して、夜久氏にお礼を申し述べているだけである。 つまり、上記の「備中高松城から姫路に向かい、姫路から一気に北上して羽柴秀長(秀吉の弟)の但馬竹田城に至り、竹田から和田山、丹波の夜久、福知山、亀山を経て京都に至るルート」というのは、単なる想像に過ぎない。ちなみに、同史料の年次は、天正6年と考えられる。少なくとも天正10年ではない。史料の内容の解釈も、年次比定も誤っているといえよう。 史料解釈や年次比定のほかに、もっと大きな疑問がある。牽強付会な関与説 京都から備中高松城に向かうには、丹波や但馬を通り抜けると、かなりの遠回りになる。やはり、摂津、播磨を通って行くのが近道である。言うまでもないが、当時は電車や自動車があるわけでもない(仮にあったとしても遠回りはしないだろう)。常識で考えると、信長横死の情報を早く伝える必要があるのに、わざわざ但馬や丹波を通り抜けて、遠回りする必要はないのではないか。 したがって、秀吉が京都から丹波、但馬を経て、独自のルートを保持していたという見解は、到底受け入れることはできないのである。 秀吉関与説の他の理由としては、秀吉自身が信長の政権構想を考えるなかで、将来に悲観したという説がある。つまり、秀吉は信長の息子たちに仕えることを余儀なくされ、やがては近江長浜城を取り上げられ、さらに明に派遣される可能性があり、将来に危機感を抱いたという。秀吉は、信長を全面的信頼していなかったというのだ。果たして、それは事実なのか。 信長には、長期にわたる政権構想があったという。それは、信長の子息の信忠、信雄、信孝に領土と重要な地位を与え、実力のある家臣を各方面軍の司令官とし、やがては彼ら実力派家臣の領土を再集約しようとしたというのである。しかし、それは断片的な史料をもとにした憶測であり、実質的には何の根拠もないといえる。従うことはできない。では、信長の「唐入り構想」については、どう考えるべきか? 信長の「唐入り構想」については、フロイスの『日本史』『一五八二年日本年報追加』に「(信長が)日本六十六ヵ国の絶対君主となった暁には、一大艦隊を編成してシナを武力で平定し、諸国を自らの子息たちに分かち与える考えであった」との記述がある。これが事実ならば、信長の構想は壮大だったといえる。 話を別の観点から考えてみよう。天正13(1585)年以来、秀吉は「唐入り構想」を盛んに口にしており、それは信長の遺志を引き継ぐものとされてきた。しかし、近年の研究によると、秀吉が「唐入り」を言明したものではないと指摘されている。それは、九州平定を矮小化するためのレトリックであり、「唐入り」の表明と考えるのは早計ということである。単なる口実に過ぎなかったのだ。豊臣秀吉像(模本、東大史料編纂所蔵) フロイスには誇張癖があり、しかも『日本史』『一五八二年日本年報追加』には意図的に改竄した個所が多数あるという。史料的に全面的に信を寄せるのは、極めて危険である。『日本史』などの史料性の問題に加え、ほかに信長の「唐入り」の表明を記した史料がないのには難がある。 そのような点を考慮すると、信長の「唐入り」表明の事実には慎重になる必要があるのではないか。もし、信長の「唐入り」の構想が家臣らに伝わっていないならば、別に秀吉が明へ移されることを恐れる必要はない。 結論としては、秀吉が信長政権における自らの地位を悲観したというが、根拠が薄弱であると言わざるを得ないのである。むしろ、中国方面の司令官を任されたのであるから、前途洋々だったといえる。 ここまで秀吉が光秀と結託し、本能寺の変に関与していたとの説を取り上げ、とても受け入れられない説であることを指摘した。この説の弱点は、以下のようになろう。①信頼度の低い史料の記述を鵜呑みにしていること。②史料的な根拠がない憶測を展開していること。③著しい論理の飛躍がみられること。④史料の年次比定や解釈が誤っていること。 いずれにしても、秀吉関与説は牽強付会(けんきょうふかい)と言わざるを得ない。秀吉が本能寺の変に関与したと主張するならば、良質な一次史料で事実を指摘する必要があろう。※主要参考文献鴨川達夫「秀吉は『唐入り』を言明したか」(『日本史の森を行く』中公新書、2014年)谷口克広『検証本能寺の変』(吉川弘文館、2007年)渡邊大門『信長政権 本能寺の変にその正体を見る』(河出ブックス、2013年)

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    「前代未聞の大将」明智光秀の謎多きルーツをたどる

    渡邊大門(歴史学者) 明智光秀が経歴という点において、信長のほかの家臣と大きく異なっている点は、どことなく漂うインテリの香りである。光秀は美濃国の出身として知られ、名門・土岐氏(美濃国などの守護)の支族・土岐明智氏を出自とするといわれている。のちに光秀のライバルとなり天下を獲った豊臣秀吉は、一般的に農民の倅(せがれ)であったといわれており、その差は歴然としている。 そして、光秀は豊かな教養を持っていたといわれている。彼が本能寺の変の直前に詠んだ発句「時は今 雨が下しる(あるいは『下なる』)五月哉」は、通常「土岐氏の子孫である自分が天下を獲る五月である」と訳されているが、さらに深い読み込みがなされ、多くの解釈が生み出されている。この技巧が優れているがゆえに、その教養が高く評価されているといえよう。同時に光秀の教養が深いゆえに、武人としての線の細さや弱々しさもイメージとして残っている。 では、本当に光秀は美濃・土岐氏の一族である土岐明智氏の出身なのだろうか。以下、具体的に検証を試みることにしよう。 光秀の経歴については、その前半生には実に不明な点が多い。その先祖についても不明な点が多い。光秀が史上に登場するのは、永禄12(1569)年1月のことであり(『信長公記』)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛した翌年にあたる。それ以前については、後世の編纂物(二次史料)などによって、ようやく動向をうかがうことができる程度である。光秀の前半生に関連する一次史料は、圧倒的に不足している。京都・小栗栖で落ち武者狩りにあう明智光秀 =『国史画帖大和桜』(昭和10年刊)より しかも、二次史料に基づいた光秀の前半生については、不確かなものが多い。光秀の事績を記す二次史料は、史料の性質が劣るため、疑問に感じる点が多いのである。明らかな間違いも多々ある。『明智軍記』などは、その代表的な質の劣る史料である。 次に、光秀の事績に関する通説を確認しておこう。 明智氏は、美濃国の名門で守護を務めた土岐氏の支族である。土岐明智氏という。土岐氏は清和源氏の末裔(まつえい)であり、美濃国に本拠を置く名族である。南北朝期以降の土岐氏は、室町幕府から美濃国などに守護職を与えられた名族である。 土岐明智氏の出身地については、二つの説が有力視されている。一つは岐阜県恵那市明智町であり、もう一つは岐阜県可児市広見・瀬田である。前者には明知城址があり、光秀にまつわる史跡があることから、現在も「光秀祭り」が催されている。 後者にはかつて明智荘という荘園があり、今は明智城址が残っている。互いに「明智」の名を冠していることから、土岐明智氏の出身地と考えられており、非常にややこしいことになっている。室町幕府に仕えた土岐明智氏 戦国時代研究の第一人者の小和田哲男氏によると、恵那市明智町は遠山明智氏ゆかりの地であって、光秀の出身である土岐明智氏に結びつけるのは難しいと指摘している(『明智光秀―つくられた「謀反人」―』PHP新書)。むしろ、可児市広見・瀬田のほうが、可能性が高いというのが結論である。遠山明智氏は藤原北家利仁流の流れを汲み、現在の恵那市明智町に本拠を築いた。 土岐明智氏が室町幕府に仕えていたことは、事実である。奉公衆(室町幕府の直臣)の名簿である『文安年中御番帳(ぶんあんねんちゅうごばんちょう)』には外様衆として「土岐明智中務少輔」の名を、『東山殿時代大名外様附(ひがしやまじだいだいみょうとざまふ)』にも同じく外様衆として「同(土岐)中務少輔」の名を、三番衆として「土岐明智兵庫助」の名を確認することができる。『常徳院御動座当時在陣衆着到(じょうとくいんごどうざとうじざいじんしゅうちゃくとう)』にも「土岐明智兵庫助」と書かれている。 外様衆の役割については不明な点が多いものの、有力守護の支族が名を連ねている点を考慮すれば、相当な格式と地位があったといえる。何といっても、外様衆は将軍の直臣でもある。土岐明智氏もまた土岐氏の支族であるがゆえに、外様衆に加えられたのであろう。そして、土岐明智氏の名は、おおむね14世紀半ばから15世紀の終わりにかけて、多くの一次史料で確認することができる。その本拠地は、やはり美濃国だった。 次に、光秀の年齢について触れておこう。従来、光秀の年齢は『明智軍記』や明智氏の系図類に基づき、多少のばらつきがあるものの、天正10(1582)年に55~57歳の間に亡くなったと考えられてきた。つまり、光秀の誕生年は、大永6(1526)年から同8(1528)年の間になる。 信長研究の第一人者である谷口克広氏は『当代記』(織豊政権期から江戸幕府の成立期にかけての歴史を記した編纂物)という史料に基づき、67歳で亡くなったと指摘した(『検証 本能寺の変』)。つまり、永正13(1516)年の誕生となり、従来よりも年長になっている。史料の質からいえば、『明智軍記』などよりも断然『当代記』のほうが高く、後者の可能性が極めて高い。明智光秀像(本徳寺所蔵) 光秀の父については、諸説あって定まらないところである。現在、知られている系図類では、光綱とするもの、光隆とするもの、光国とするものに分かれており一致しない。整理すると、次のようになろう。 ①光綱――「明智系図」(『系図纂要』所収)、「明智氏一族宮城家相伝系図書」(『大日本史料』11―1所収)。②光隆――「明智系図」(『続群書類従』所収)、「明智系図」(『鈴木叢書』所収)。③光国――「土岐系図」(『続群書類従』所収)。 残念なことに、光秀の父について語る史料は皆無といわざるを得ない。光秀のように史上に突如としてあらわれた人物の場合、意外と父祖の名前さえ判然としないケースが多い。系図によってこれだけ名前が違い、史料的な裏付けが取れないのであるから、これらの系図の記載を詮索してもほとんど意味がない。光秀の父については、不詳といわざるを得ないのが現状だ。 では、光秀の来歴を物語る史料はないのか。信長に与えられた「惟任」姓 光秀を語るうえで重要な史料として、『立入左京亮入道隆佐記(たてりさきょうのすけにゅうどうりゅうさき)』がある。この史料は、禁裏御倉職(きんりみくらしき)の立入宗継が見聞した出来事などの覚書を集成したもので、七世の孫・中務大丞経徳が書写したものである。ただ、後世に成った史料なので、内容にいささか注意する必要がある。 同史料には、天正7(1579)年に光秀が丹波を平定した際、信長から丹波一国を与えられたことを記し、光秀について「美濃国住人とき(土岐)の随分衆也」と記録している。そして、信長によって「惟任」姓を与えられ、惟任日向守を名乗るようになったと記す。光秀の栄達ぶりを示すものである。 随分衆とは、土岐氏の中にあって、相当な地位にあったことを示している。随分には、身分が高いという意味が含まれている。残念ながら、隆佐が光秀の経歴をどこまで知っていたかは不明である。「美濃国住人とき(土岐)」というのも、確証を得ないのではないか。ところで、『立入左京亮入道隆佐記』のこの記述には、前段に次の興味深い一節がある(現代語訳)。 惟任日向守(明智光秀)が信長の御朱印によって丹波一国を与えられた。時に理運によって申し付けられた。前代未聞の大将である。 理運にはさまざまな意味があるが、この場合は「良い巡り合わせ、幸運」くらいの意味と考えてよい。理運によって、光秀は丹波一国を与えられたので、前代未聞の大将だったのである。立入宗継にとっては、光秀が名門土岐氏の相当な地位にあったと想像していたとはいえ、丹波一国を授けられたことは驚倒すべき印象を持ったと推測される。となると、隆佐は光秀を「随分衆」とは言っても、実際には光秀の経歴を詳しく知らず、風聞に拠って知った可能性が高い。天正10年1月11日付斎藤利三の書状。明智光秀を示す「惟任」の字が見える(松永渉平撮影) 光秀の父以前や自身の前半生がほとんど不明であること、また周囲の評価において「理運」「前代未聞」とあるところを見ると、光秀は土岐氏支族の土岐明智氏を本当に継いだのか再検討する必要がある。裏付けが非常に乏しいのである。 つまり、幕府外様衆の系譜を引く土岐明智氏ではなく、まったくの傍系の明智氏である可能性や、土岐氏配下の某氏が明智氏の名跡を継いだ可能性も否定できない。光秀が本当に土岐明智氏の系譜を引いているのかについては、未だ疑問が多い。それゆえに、父の名前さえ系図によって、異なっているのであろう。 たとえば、幕府の奉公衆などの名簿の『永禄六年諸役人附』には足軽衆として、「明智」の姓が記されている。従来説では、この明智が光秀であると考えられてきた。ただ、肝心の名前が記されていないので、この「明智」が光秀である確証はない。足軽衆とは単なる兵卒ではなく、将軍を警護する実働部隊と考えてよいであろう。 『永禄六年諸役人附』に記載された足軽衆は、名字のみしか記されていない者も多く、メンバーはおおむね無名の存在ばかりである。奉公衆クラスを出自とする者は存在しない。そうなると、逆に土岐氏の支族で「名門」の土岐明智氏が、なぜ足軽という地位に止まったのか不思議である。かつて土岐明智氏は、外様衆という高い身分にあったからである。 つまり、これまでの光秀は、外様衆・明智氏を出自とすると考えられてきたが、誠に程遠い存在といえよう。『永禄六年諸役人附』の明智が光秀と同一人物であるか否かは不明であるが、いずれにしても当時の明智氏(あるいは光秀)は、まったくの無名の存在であったと考えるのが妥当ではないか。『永禄六年諸役人附』の記述をもって、光秀を名門の土岐明智氏に繋げるには、あまりに材料不足である。「よそ者」だった光秀 信長に仕えて以後の光秀は、無名のところからはい上がり必死であった。信長は能力主義者であり、名門の出自であることなどほとんど考慮しなかったであろう。ゆえに、信長の重臣の多くは、ほとんど無名の立場から這い上がった者が大半であった。したがって、光秀が名門土岐氏の支族である土岐明智氏の出自であることについては、頭から信用するのは危険であると考えなくてはならないと指摘できよう。 もう少し、光秀の出自について考えてみよう。 光秀の前半生を語るうえで、重要視すべきなのは二つの史料である。その二つとは、光秀が家中に発した「家中軍法」が一つであり、もう一つはフロイスによる光秀の評価である。この二つの史料について、これから考えてみよう。 天正9(1581)年6月、光秀は家中に「家中軍法」を発した(「御霊神社文書」)。その内容は18カ条から成り、戦場や行軍中に守るべきことや、与えられた石高に対して負担する軍備などが列挙されている。これ自体が珍しいものであるが、注目すべきは結びの言葉である。次に、示すことにしよう。 すでに瓦礫のごとく沈んでいた私を(信長が)召し出され、さらに多くの軍勢を預けてくださった。 この言葉は、実に重みのある内容を含んでいる。少なくとも光秀が苦しい前半生を送っていたことは間違いなかったと考えられるが、何らかの契機に信長に仕官することによって、この段階で大きく出世を遂げたのである。 注意しなくてはならないのは、豊臣秀吉が農民の倅(せがれ)を出自としながらも、信長の配下で大出世を遂げたことである。前半生が不明であることも含めて、信長に登用されたことが二人の共通点である。この史料の一節は、光秀の前半生が不遇であったことを伝えるものである。裏返して言えば、名門・土岐明智氏の出身でない可能性をうかがわせる。明智城址=岐阜県可児市 もう一つの史料がフロイスの手になる『日本史』である。同書には、光秀の立場について「殿内にあって彼はよそ者であり、外来の身であったので、ほとんど全ての者から快く思われていなかった」と記している。この史料もまた、光秀が信長に仕えるまで、さほど活躍していなかったことをうかがわせるものがある。さらに「よそ者」という言葉は、光秀の外様としての立場を如実にあらわしている。 これまでの光秀は、美濃国土岐氏の支族・明智氏の系譜を引く名門と考えられてきた。ところが、その可能性は低いのではないだろうか。そもそも父祖の記録がないことが気にかかる。光秀が土岐明智氏の名を勝手に名乗っているか、名跡を継いだという可能性も残されている。 『立入左京亮入道隆佐記』では、その辺りの事情を十分に把握していないので、本人の言葉を信じて記録したことも考えられよう。いずれにしても、確証を得ることができず、光秀の前半生は名門・土岐明智氏を出自とする点が疑問であり、あまりに謎が多すぎる。 つまり、光秀が美濃国土岐氏の支族・明智氏の系譜を引く名門という説は、再検討の余地が十二分にあり、現段階では何の証拠もないのだ。※主要参考文献 谷口研語『明智光秀 浪人出身の外様大名の実像』(洋泉社歴史新書、2014年) 渡邊大門『信長政権 本能寺の変にその正体を見る』(河出ブックス、2013年)

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    信長殺し将軍黒幕説に終止符を打つハリボテ「鞆幕府」の真相

    渡邊大門(歴史学者) 明智光秀が本能寺の変を起こした有力な説の一つとして、足利義昭黒幕説がある。しかし、以前検討したとおり、同説は史料的な根拠が薄弱で否定されている。足利義昭黒幕説が提起された背景の一つとしては、「鞆(とも)幕府」なるものが存在し、実態として強大な勢力を誇っていたからだといわれている。果たして、それは事実なのだろうか。 天正元(1573)年、足利義昭は織田信長に反旗を翻したが敗北。その後は室町幕府再興を悲願としながらも、流浪生活を余儀なくされた。やがて、紀伊国に滞在した義昭は「天下再興」を名目として上杉謙信に「打倒信長」を呼びかけたり、各地の大名間紛争の調停に乗り出したりするなど、その存在感を強くアピールした。 義昭は紀伊国の湯河氏のような中小領主クラスをはじめ、薩摩国の有力な戦国大名・島津氏まで声をかけていた。紀伊国に下向以後も、義昭は各地の大名に檄(げき)を飛ばし、室町幕府再興の夢を追い続けたのである。足利義昭像(Wikimedia Commons) そして天正4(1576)年2月、義昭は密かに紀伊国を船で出発すると、毛利氏領国である備後国鞆津(ともつ)に到着した。広島県福山市にある鞆津は、今も中世の趣(おもむき)を残す港町であり、ちょうど岡山県との県境に位置している。 当時、備後国は毛利氏の支配下にあったが、毛利氏領国の東端に位置していた。義昭は鞆に押しかけ、毛利氏に「信長が(毛利)輝元に逆意を持っていることは疑いない」と主張し、自らを擁立して信長と戦うよう求めた。毛利氏はまだ信長との関係が決裂していなかったので、あえて安芸の本国に義昭を迎えず、鞆にとどめたのかもしれない。 義昭の鞆への渡海は、毛利氏の頭痛の種となった。義昭がいることにより、毛利氏は信長との関係悪化を恐れたはずだ。したがって、義昭の強引な毛利氏に対する申し出は、困惑を持って迎えられたに違いない。しかし、畿内とその周辺の政治的な状況は、一刻の猶予を許さなかった。 天正3(1575)年11月、但馬国山名氏の重臣・八木豊信は吉川元春に宛てて書状を送った。その内容とは、明智光秀がかねてから丹波国に侵攻していたが、やがて抵抗する荻野氏らを攻め滅ぼし、丹波の大半を掌中に収めていたという事実である。つまり、畿内周辺で信長は確実に威勢を伸張しており、さらに西へと進出するのは明らかだったのだ。 播磨国の赤松氏、龍野赤松氏、小寺氏、別所氏そして浦上氏などは、すでに上洛して信長にあいさつをし、配下に収まっていた。各地域の有力な名族といえども、信長の軍門に降るか、攻め滅ぼされるか二者択一を迫られており、それは毛利氏も例外ではなかった。 毛利氏は政治的情勢を分析した結果、全面的な信長との対決は避けられないと結論付けた。天正4(1576)年5月、ついに毛利氏は義昭の受け入れを決断したのである。毛利氏に受け入れられた義昭は、早速「帰洛(=室町幕府再興)」に向けての援助を吉川元春、平賀氏、熊谷氏などに依頼した。副将軍の意義 鞆滞在中の義昭は、毛利氏と連絡するため外交を担っていた僧侶、恵瓊(えけい)との関係を密にした。相変わらず義昭は精力的に活動し、上杉氏、北条氏らの有力大名に援助を呼び掛け、打倒信長の檄を飛ばし続けたのである。 一方で、義昭が力を注いだのは、室町幕府再興の下地となる組織作りであり、手始めに毛利輝元に対して副将軍職を与えた。天正10(1582)年2月に書き残された吉川経安の置文(「石見吉川家文書」)には、「毛利右馬頭大江輝元朝臣副将軍を給り(以下略)」と記されている。 室町幕府再興を目指す義昭にとっては、将軍の存在をアピールする意味での副将軍であり、大きな意味があったのかもしれない。実は、副将軍については、この時代に実際に存在したのかしなかったのか、よくわからない職でもある。 室町時代の最盛期、将軍の配下に管領が存在し、将軍の意を守護らに伝え、逆に守護らの意見を取りまとめて将軍に伝達するなどしていた。しかし、享禄4(1521)年に細川高国が摂津国大物(尼崎市)で横死して以後、基本的に管領は設置されていない。毛利元就の孫、輝元像=山口県萩市・萩城跡 応仁・文明の乱以降、守護は自身の領国へ戻り、室町幕府の全国支配のコントロールはあまり効かなくなっていた。以後、将軍を支えたのは特定の大名たちで、義昭の場合でいえば、最初は織田信長であり、のちに毛利輝元になった。 この頃、将軍を支えるのは単独の大名であり、それはかつての「管領」ではなく「副将軍」と認識されたのだろうか。同じような例は、義昭以前に歴代将軍を支えた大内義興や六角定頼などの例で確認できる。ところが、大内義興らには「副将軍」が与えられておらず、輝元に与えられた「副将軍」の意義はやや疑問であるといえる。 自然に考えるならば、「副将軍」とは義昭が輝元に気を良くしてもらうために言い出したのかもしれない。しかし、注意すべきは輝元が副将軍に任じられたことを示す史料は、天正4年から6年後に成立した回顧談的なものに過ぎない。副将軍職を過大評価するのは、少々危険ではないだろうか。 そして義昭の執念は、やがて「鞆幕府」という形で結実した。いちおう現役の将軍である義昭は、鞆に御所を構えて幕府を再興し、かつてのように多くの奉行衆・奉公衆を擁した。いうなれば幕府の必要条件を整えており、まさしく「鞆幕府」と言うべき存在かもしれない。ところで、「副将軍」の輝元以外の「鞆幕府」の構成員は、どうなっていたのだろうか。 「鞆幕府」の構成員は、義昭の京都時代の幕府の奉行人・奉公衆、そして毛利氏の家臣、その他大名衆で占められていた。毛利氏のなかでは、輝元をはじめ吉川元春、小早川隆景、などが中心メンバーで、三沢、山内、熊谷などの毛利氏の有力な家臣も加わっていた。 ここで重要なことは、彼ら毛利氏家臣の多くが義昭から毛氈鞍覆(もうせんくらおおい)・白傘袋(しらかさぶくろ)の使用許可を得ていることである。そもそも毛氈鞍覆・白傘袋の使用は、守護や御供衆クラスにのみ許され、本来は守護配下の被官人には許可されなかった。本来、毛利氏の家臣が許されるようなものではなかったのである。形骸化した栄典授与 そうしたことから、将軍によって毛氈鞍覆・白傘袋の使用許可を得た守護配下の被官人らは、ごく一部に限られ、彼等は守護と同格とみなされた。つまり、毛利氏の家臣は、義昭から最高の栄誉を与えられたことになろう。 しかし、現実には室町幕府の衰えが目立ち始めてから(16世紀初頭以降)、金銭と引き換えに毛氈鞍覆・白傘袋の使用は許可されるようになった。栄典授与の形骸化であり、インフレでもある。ただし、本来の価値を失っていたとはいえ、与えられたほうは大変に喜んだと考えられる。それが、将軍の権威だったのだ。 さらに重要なのは、将軍直属の軍事基盤である奉公衆が存在したことだ。一般的に、明応2(1493)年に起こった明応の政変で将軍権力は大きく失墜し、奉公衆は解体したと考えられている。 ところが、義昭の登場以降、奉公衆は復活しているのである。たとえば、美作国東北部には草苅氏という有力な領主が存在し、当主である景継は義昭の兄・義輝の代から太刀や馬を贈っていた。つまり、景継は幕府との関係を重視していたのである。 景継は幕府との関係を義昭の代に至っても継続しており、奉公衆の「三番衆」に加えてもらうように依頼した。その結果、足利義昭の御内書と上野信恵の副状によって、景継は三番衆に加えられた。景継は奉公衆に加えられたので、その喜びは言葉に言い尽くせないものがあったと想像される。 毛氈鞍覆・白傘袋の使用許可にしても、奉公衆に加えるにしても、与えられた者にとって何か意味があったのであろうか。要するに、栄典授与などを得ることにより、他者に対して何らかの形で優位に立てるかということだ。 結論から言えば、支配領域での実効支配の強化や戦争などが有利に展開したとは考えられない。ただし、与えられた当人が喜び、権威的なものを手に入れたと感じたことが一番重要だったといえるだろう。実効性はあまり期待できなかったと考えられる。織田信長像(東京大学史料編纂所所蔵の模写) 義昭は信長に追放され、将軍としての実権を喪失していた。とはいえ、義昭は半ば「空名」に過ぎない栄典を諸大名に与えることにより、彼らを自らの存在基盤に組み入れる根拠としたのである。それは、実権を失った義昭にとって最後の大きな武器であり、現職の将軍であることの強みでもあった。 義昭は何とか奉公衆を組織し、配下には大名たちもが付き従った。では、義昭のもとに馳せ参じた大名には、どのような面々が揃ったのだろうか。その一員の中には、武田信景、六角義尭(よしたか)、北畠具親(ともちか)などの聞きなれない人物が存在するが、彼らはいかなる人物だったのだろうか。その経歴に触れておこう。 武田信景は若狭武田氏の出身で、父は信豊、兄は義統(よしむね)である。義統の跡を継いだ子息の元明は、越前国朝倉氏の勢力に押され、のちに支配下に収まった。朝倉氏が滅亡すると、織田信長の家臣・丹羽長秀が若狭国を支配した。「ハリボテ」のような幕府 結局、元明にはわずかな所領しか与えられず、若狭武田氏は滅びたのも同然であった。こうした事態を受けて、信景は義昭のもとに参上したといわれている。信長に対しては、良い感情を抱いていなかったはずだ。 六角義尭は近江国六角氏の流れを汲み、義秀の子であるといわれている。六角氏もまた永禄末年に織田信長の攻撃を受け、もはや往時の勢いはなかった。武田氏と同じく、信長には好感を持っていなかっただろう。義尭は義昭の配下にあって、重用されたと指摘されている。それは、かつて六角氏が歴代足利将軍を支えたからだろう。 北畠具親は伊勢国司北畠具教の弟で、当初は出家して興福寺東門院主を務めていた。ところが、天正4(1567)年に織田信長が兄・具教(とものり)を殺害すると、還俗して北畠家の復活を目指した。 南伊勢に入った具親は、翌年に北畠一族や旧臣とともに挙兵したが、具親は北畠信雄(信長の次男)の前に敗れ去り、北畠家の再興に失敗する。そのような事情から、鞆へ来て義昭につかえたのであり、やはり信長は不倶戴天の敵だった。 このように見ると、「鞆幕府」を構成する中心メンバーは、毛利輝元、小早川隆景、吉川元春の3人であり、頼りなるのは毛利氏の家臣だった。ただ幕府を構成するには、形式を整えるため、烏合の衆のような存在も必要であった。それゆえに義昭は、彼らに毛氈鞍覆・白傘袋の使用許可を与え、忠誠心を植えつけようとしたのであろう。広島県福山市の景勝地「鞆の浦」 「鞆幕府」に組み込まれた諸大名(武田、六角、北畠の諸氏ら)たちは、いささか頼りない連中ではないだろうか。一つのパターンは、奉公衆の看板に魅了されて従った領主層である。残りのパターンは、「信長憎し」で集まった落ちぶれた大名連中である。 幕府が全国政権を標榜する以上、多くの諸勢力を糾合する必要があったのかもしれないが、毛利氏を除くと烏合の衆と言わざるを得ない。幕臣も京都にいた頃と比較すると、随分少なくなったと指摘されている。「鞆幕府」と称しているが、実際には単なる「寄せ集め集団」としか言いようがない。 「ハリボテ」のような「鞆幕府」であったが、一定の権力とみなされたのは事実である。特に、中小領主が積極的に加わり、「反信長」の対立軸になったことは評価しうるところである。そう認識された理由は、義昭が将軍という権威的な存在であったという一点になろう。 しかし、義昭には政治的権力が乏しく、軍事力は毛利氏頼みであった。各地の有力大名にあれだけ檄を飛ばしながらも、誰もすぐに飛んでこないのは、その証左と言えるだろう。したがって、形式的には「鞆幕府」と称しうるかもしれないが、その存在自体を過大評価すべきではないと考える。※主要参考文献 谷口克広『検証本能寺の変』(吉川弘文館、2007年) 渡邊大門『信長政権 本能寺の変にその正体を見る』(河出ブックス、2013年)

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    イエズス会が信長を暗殺? 本能寺の変、3つの黒幕説のウソ、ホント

    渡邊大門(歴史学者) 本能寺の変に関しては、朝廷や室町将軍が黒幕だったという説のほかに、いくつもの黒幕説が提起されている。それらの説を確認しておこう。 本願寺教如(きょうにょ)が本能寺の変の首謀者であった、という説がある。大坂本願寺は、長らく織田信長と抗争を繰り広げたことで知られている。天正8(1580)年閏(うるう)3月、正親町天皇の仲介により、両者は和睦を結んだ。大坂本願寺の顕如(けんにょ)は無念の思いを抱きつつ、紀州の鷺森別院へと向かった。 教如は顕如の長男であり、信長との徹底抗戦を主張していた。親子は路線が対立してしまい、顕如は教如と親子の縁を切った。したがって、「信長憎し」の思いを持つ教如ならば、立派な黒幕の候補と言えるのかもしれない。  黒幕説の概要は、以下の通りである。教如上人像(和歌山県立博物館所蔵) 丹羽長秀の率いる織田軍は、紀州雑賀の顕如を攻撃しようとしていた。その一報は、播磨英賀(あが)にいた教如のもとにもたらされたという。縁を切ったとはいえ、2人は親子であり、教如は居ても立ってもいられなかったかもしれない。 一方、正親町天皇は本願寺の滅亡を阻止するため、教如の意向に基づき、光秀に信長討伐を命じた。吉田兼和(兼見)と近衛前久(さきひさ)の2人が仲介役となり、教如、正親町、光秀の間を取り持ったという。教如は朝廷を動かすことにより、光秀に信長を討たせたということになろう。 織田軍が顕如を攻撃することを示した『大谷本願寺由緒通鑑』は、基本的な誤りが多い俗書と評価されており、そのほかの関連史料の解釈も全般的に誤っている。したがって、根本となる史料の問題があり、この時点で教如の黒幕説は成り立ちにくい。 また、本能寺の変の直前、教如が備中高松城にいた秀吉に対し、光秀謀反の情報をリークしたという。事前に光秀の謀反を秀吉に知らせることにより、毛利氏との講和を促し、上洛(じょうらく)しやすい状態に持ち込んだということになろう。イエズス会が黒幕という説も そして、この中国大返しの途中の姫路城で、秀吉は教如と面会し、互いに交誼(こうぎ)を結んだというのである。ところが、こちらも関連史料の年次比定を誤っており、中国大返しの行軍日程も従来の誤った説によっている。 非常に劇的な興味深い説であるが、根本的に史料解釈の誤りや曲解があり、本願寺教如首謀者説は成り立たないといえよう。 イエズス会が信長の暗殺に関わったというのが、「南欧勢力黒幕説」である。この説は、イエズス会による壮大な戦略の一環として位置付けられている。国の重要文化財に指定されている「絵本著色フランシスコ・ザビエル像」(神戸市立博物館所蔵) 次に、南欧勢力黒幕説の概要を確認しよう。  イエズス会はもっとも頼りにしていたのは、キリシタン大名で最大の庇護(ひご)者である豊後の大友宗麟だった。そして、信長は大友氏を通して、イエズス会から鉄炮を提供されていた。つまり、信長にとってイエズス会は不可欠な存在だった。 南欧勢力はイエズス会を通して信長に資金援助等を行い、信長はその資金で天下統一に邁進(まいしん)した。南欧勢力の最終目標は、信長を使って中国を征服することで、信長はイエズス会の手駒にすぎなかったという。そして、イエズス会を支えていたのは、堺の商人、朝廷の廷臣、幕府の幕臣らであった。 ところが、途中から信長は独自の路線を走り、イエズス会にとって厄介な存在になっていった。信長はイエズス会に対して、武器と資金を提供してくれる便利な存在にすぎず、キリスト教の教えに関心はなかったという。周知の通り、信長がキリスト教と距離を置いたのは、確かなことである。 そのような事情から、イエズス会が信長を操ることは困難になっていった。逆に、イエズス会にとっても信長が邪魔な存在になり、暗殺を計画。これが本能寺の変の発端になった、というものである。 結果、イエズス会は、光秀に信長を討つよう命じて成功した。秀吉が光秀を討伐したのも、シナリオ通りだった。本能寺の変は、朝廷がイエズス会の意向を受け、光秀に信長討伐の命を下したものであったというのが結論である。 その背後では、津田宗及らが暗躍したという。単に信長や本能寺の変だけの問題ではなく、世界的な規模の非常に壮大な説である。 ところが、そもそもイエズス会には、上記に示したような人脈や資金力がなかったと指摘されており、根本的に実証的な裏付けがほとんどない。おまけに史料の誤読と曲解、そして論理の飛躍によって論が構成されており、全体として破綻している。到底、首肯できない説といえよう。光秀が壮大なことを目論んでいた? 南欧勢力黒幕説と並んで、壮大な説となっているのが「明智光秀制度防衛説」である。以下、この説の概要に触れておこう。 天正元(1573)年、信長は、足利義昭を追放し、「信長政権」を樹立した。しかし、京都には幕府奉公衆と奉行人で構成される「室町幕府」は存続し、その中心になっていたのが明智光秀だったという。 信長は自身が太政大臣になり、家康を征夷大将軍とし、「室町幕府」を滅ぼそうとした。「室町幕府」の重大な危機である。光秀らはその動きを阻止すべく、信長らを討とうとしたという。幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師、月岡芳年が描いた本能寺の変での織田信長=明治11年(静岡県立中央図書館蔵) 光秀は本能寺の変で信長の討伐に成功したが、家康を逃がしてしまった。原因は、細川幽斎の裏切りである。その後、幽斎は備中高松城の秀吉に本能寺の変の情報を伝え、すぐに帰京するよう依頼した。 こうして山崎の戦いで光秀は敗れ、「室町幕府」は滅亡したのである。つまり、光秀は「室町幕府」を存続させるため、信長に反旗を翻したということになろう。これが明智光秀制度防衛説の概要である この説は近年の室町幕府などの研究成果を無視しており、おまけに憶測と論理の飛躍と史料の誤読と曲解を重ねただけで、まったく説得性に欠けている。 例えば、信長が太政大臣になり、家康を征夷大将軍になろうとしたことは、まったく史料的な根拠がない。また、細川幽斎が光秀を裏切ったとか、秀吉に本能寺の変の情報を伝えたなども、単なる憶測にすぎない。 したがって、この説の可否については、否定的な見解が多数を占めているといえる。つまり、成り立たないのだ。 今回取り上げた説については、これまでと同様に次のような共通点がある。 ①信頼できる史料に基づいていない。 ②史料の誤読や曲解などに基づいている。 ③著しい論理の飛躍。 本能寺の変については虚心坦懐(たんかい)に史料を読み解き、冷静になって考えるべきかもしれない。壮大な説ほど注意が必要である。【主要参考文献】鈴木眞哉・藤本正行『信長は謀略で殺されたのか』(洋泉社新書y、2006年)谷口克広『検証 本能寺の変』(吉川弘文館、2007年)渡邊大門『信長政権 本能寺の変にその正体を見る』(河出ブックス、2013年)

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    信長に感謝した正親町天皇が「暗殺の黒幕」など有り得ない

    渡邊大門(歴史学者) 本連載の第1回で取り上げた「朝廷黒幕説」について、今度は別の角度から考察してみよう。まず、織田信長が勧めたという正親町(おおぎまち)天皇の譲位の問題に関しては、その意味をめぐって議論となっており、真っ向から対立する二つの見解に分かれている。① 正親町天皇に譲位を迫り朝廷を圧迫した② 譲位の申し出を受け正親町天皇は感謝の気持ちを持った正親町天皇肖像画(泉涌寺所蔵) 朝廷黒幕説の根拠は①の立場である。信長は嫌がる正親町天皇に譲位を迫り、窮地に追い込み、「打倒信長」をたくらむ朝廷は裏で明智光秀を操って本能寺の変を引き起こさせたというのである。最初に、正親町天皇の譲位問題の経過を確認しよう。 天正元(1573)年12月3日、信長は正親町天皇に対し、譲位を執り行うように申し入れた(『孝親公記』)。正親町天皇は信長の申し出を受け、譲位の時期について関白の二条晴良(はれよし)に勅書を遣わしている。正親町天皇は快諾したのであろう。晴良は勅書を受け取ると、すぐに信長の宿所を訪れ、正親町天皇が譲位の意向を示している旨を家臣の林秀貞に申し伝えた。 すると、秀貞は「今年はすでに日も残り少ないので、来春早々には沙汰いたしましょう」と回答した。晴良は「御譲位・御即位等次第」について、余すところなく伝えたという。「御譲位・御即位等次第」の内容は詳しく伝わっていないが、日程や費用の問題について協議が行われたと推測される。 戦国期には経費負担が問題となり、天皇が即位式を行えない状態が続いた。実際に譲位を行うと、単に天皇位を譲るだけで済まなかった。即位式やその後の大嘗祭(だいじょうさい)などを挙行するのに、かなりの費用が必要であった。それゆえ、信長の譲位の勧めは、誠にありがたい申し出だったといえる。また、ありがたいのは、財政支援だけではなかった。 院政期以後、一般的に天皇は譲位して上皇となり、上皇が「治天(ちてん)の君」として政務の実権を握るようになった。しかし、戦国期に至ると、そうした状況は大きく変化を遂げる。例えば、後土御門(ごつちみかど)、後柏原、後奈良の三天皇は、生存中に譲位することがなかった。彼らが亡くなってから、天皇位は後継者の皇太子に譲られており、それは不本意なことだった。 むろん、そうした事態は、彼らが望んだものではない。即位の儀式や大嘗祭などには莫大(ばくだい)な費用がかかるため、譲位をしたくてもできなかったというのが実情であった。彼らは、費用負担を各地の戦国大名に依頼するなどの努力を惜しまなかったが、ついに希望をかなえることができなかったのだ。正親町天皇の反応は ところで、正親町天皇は信長の譲位の勧めに対して、「後土御門天皇以来の願望であったが、なかなか実現に至らなかった。譲位が実現すれば、朝家再興のときが到来したと思う」と感想を述べている(「東山御文庫所蔵文書」)。文字通り、正親町天皇は大変喜んでいるのだ。結論をいうと、正親町天皇は信長の申し出に対して、いたく感激したのである。東山天皇御即位図(東京大学史料編纂所所蔵) 早速、朝廷では譲位に備えて、即位の道具や礼服の風干(ふうかん。衣装を風に晒(さら)すこと)を行った(『御湯殿上日記』)。しかし、ついに信長の存命中に譲位は挙行されなかった。信長は将軍・足利義昭との関係が破綻してから、その対応に苦慮しており、多忙を極めていた。また、各地の大名との戦いも負担になっていた。譲位が執り行われなかったのは、信長側の事情が大きかったと推察される。 一連の経過を見る限り、信長が譲位を通して天皇を圧迫したという考えは、正しいとは言えない。したがって、従来の説で指摘されたように、信長と朝廷との間に対立があったという考え方は、改めて見直す必要があろう。逆に、正親町天皇は信長の提案を受け、喜んで譲位を受け入れたと解釈すべきなのである。 また、信長が朝廷を圧迫した例として、京都で挙行された馬揃えの件がよく挙げられる。「馬揃え」とは、信長軍団の軍事パレードのようなものである。次は、この馬揃えについて考えてみよう。 天正9(1581)年1月15日、信長は馬廻(うままわり)衆を安土城に招き、左義長(さぎちょう)を催した。左義長では爆竹が鳴らされ、見物人がどっとはやし立てたという。同時に織田家の一門がほぼ勢ぞろいし、信長自らが豪華な衣装を身にまとって登場するという派手なパフォーマンスぶりだった。 とりわけ騎馬行列は多くの見物人の目を引き、皆一同に感嘆の声をあげた。このイベントの話が正親町天皇の耳に入り、強い関心を寄せていたようである。こうして正親町天皇の要望に応え、京都においても馬揃えが挙行されることになった。 同年1月23日、京都における馬揃えの準備は明智光秀に任された。馬揃えの規模は壮大で、参加者の人数も多く、見学者も多数やって来ると予想された。駿馬(しゅんめ)を準備するための努力も最大限に行われ、徳川家康も鹿毛の駿馬を1匹贈っている。馬揃え当日には、正親町天皇のために禁裏(きんり)の東門付近に行宮(あんぐう)が設けられた。 同年2月28日、信長は正親町天皇を招き、禁裏の東門外で壮大な馬揃えを行った(『御湯殿上日記』など)。会場の大きさは、諸説あるものの、長さは南北に約436m~872m、幅は、東西に109m~163mもあったという。馬揃えの狙いとは 参加した武将は約700名であり、見物人は約20万人にのぼったといわれている。騎馬武者の衣装もきらびやかで、公家衆も数多く見学に訪れた。参加した誰もが壮大な馬揃えを見て、信長の威勢に圧倒されたはずである。(iStock) ところで、信長が馬揃えを行った本心は、一体どこにあったのであろうか。朝廷黒幕説の主張によると、信長は正親町天皇に壮麗なる馬揃えを見せ、その軍事力を顕示し、正親町を威圧して譲位を迫ろうとしたという見解だ。ところが、先例にならって正親町天皇は譲位を望んでいたので、こうした見解は妥当ではない。では、信長は何を考え、正親町天皇はどう受け止めていたのだろうか。 信長の目的は、天下(=畿内)が治まりつつある中で、正親町天皇と誠仁(さねひと)親王の奉公すべきものと考えていた。信長の考えは、「天下(=畿内)において馬揃えを執り行い、聖王への御叡覧に備える」と記されている(『信長公記』)。 これは、信長の畿内近国制覇を誇示し、信長軍団の威勢の顕示と士気高揚を目的としたものと指摘されている。結果、「このようにおもしろい遊興を正親町天皇がご覧になり、喜びもひとしおで綸言(りんげん)を賜った」とある(『信長公記』)。つまり、正親町天皇は威圧されたのではなく、大喜びだったのだ。 おそらく信長は天皇の権威を熟知し、利用しながら天下(=畿内)統一を進めようとしたのだろう。したがって、自らの軍事力を正親町天皇に誇示し、威圧するという考えは当たらないと考えられる。威圧するならば、ほかに方法はいくらでもあったはずで、あまりに回りくどい方法といわざるをえない。 馬揃えの意義に関しては、天下(=畿内)統一をもくろむ信長が、畿内周辺の諸勢力を集めて自らの力を顕示した点にある。正親町天皇を招き、その面前で馬揃えを執り行ったことに大きな意味があった。別に、正親町天皇を窮地に追い込み、譲位を迫ろうとした意図はない。繰り返しになるが、正親町天皇は譲位に賛成だったのである。 馬揃えは天皇を推戴し、自らの権威を高めようとした信長の思惑である。馬揃えという一大イベントは京都だけでなく、全国各地に情報が伝わったに違いない。そうであるならば、信長の本懐は十分に達せられたことになる。【主要参考文献】・桐野作人『だれが信長を殺したのか 本能寺の変・新たな視点』(PHP新書、2007年)・谷口克広『検証 本能寺の変』(吉川弘文館、2007年)・渡邊大門『信長政権 本能寺の変にその正体を見る』(河出ブックス、2013年)

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    足利義昭「将軍黒幕説」が成り立たないこれだけの理由

    渡邊大門(歴史学者) 前回は、本能寺の変における「朝廷黒幕説」の一つの原因とされる「暦問題」を取り上げ、その説が成り立たないと結論付けた。 ほかにも重要な黒幕説としては、将軍・足利義昭が黒幕だったという「将軍黒幕説」がある。この説が有力視されるのは、義昭が織田信長と決裂して信長包囲網を形成し、中国の毛利輝元や大坂本願寺(石山本願寺)などと結託し、信長を討とうとしていたからだろう。そのためには、明智光秀の助力が必要だった。以下、最初に当時の政治情勢を簡単に取り上げ、次に将軍黒幕説の当否を考えることにしたい。室町幕府を開いた足利氏ゆかりの鑁阿寺本堂。国宝に指定された=2013年5月11日、栃木県足利市 永禄11(1568)年9月、義昭は信長に推戴(すいたい)されて、念願の上洛(じょうらく)を果たした。しかし、両者は政治志向の相違などもあり、天正元(1573)年に関係が破綻した。義昭は信長の圧倒的な軍事力に敗北を喫し、紆余曲折を経て、天正4年に備後国鞆(広島県福山市)を訪れた。こうして義昭は、毛利輝元の庇護を受け、各地に「打倒信長」の檄(げき)を飛ばしたのである。 しかし、ことは義昭の思い通りに進まなかった。天正5年以降、信長の命により羽柴(豊臣)秀吉が中国経略に出陣すると、たちまち毛利氏は劣勢に追い込まれた。天正10年3月以降、毛利方の備中高松城(岡山市北区)は包囲され、秀吉の水攻めによって苦境に立たされたのである。 そして、同年6月2日に本能寺の変が勃発した。変は偶然起こったのではなく、義昭が光秀と連絡を取り合って、計画的に起こしたというのが将軍黒幕説の主張である。義昭は積極的に有力な諸大名と関わりを持って来たので、光秀と関係していたとしても不思議ではない。しかし、本能寺の変の前に義昭と光秀が結託していたことを示す決定的な根拠史料を欠くのは大きな問題で、批判も数多くある。以下、将軍黒幕説の根拠を確認することにしよう。 大村由己(ゆうこ)の手になる『惟任(これとう)謀反記』には、「光秀は公儀を奉じて2万余の兵を揃えたが、備中に下ることなく密かに謀反を企てた(現代語訳)」という記述がある。本能寺の変の直前の記述である。本来、光秀は本能寺を襲撃するのではなく、備中高松城を攻める秀吉の救援に向かう予定だった。資料をどう解釈するか 将軍黒幕説の主張者の指摘の通り、文中の「公儀」を義昭と考えると、「光秀は義昭を擁立して謀反を起こした」という解釈になり、将軍黒幕説が成立する。しかし、この「公儀」の語については、すでに指摘があるように、義昭ではなく信長を意味する。 改めて先の史料を解釈すれば、「光秀は信長の意を奉じて2万余の兵を揃えたが、備中に下ることなく、密かに謀反を企てた(現代語訳)」ということになる。2万騎の兵を集めたのは義昭のためではなく、信長の命令を受け、備中高松城に向かう予定だったのだ。 二つ目は、『本法寺文書』の乃美兵部丞(ひょうぶのじょう)宛て天正10年6月13日付足利義昭御内書をめぐる解釈である。この御内書は「信長を討ち果たしたうえは、上洛の件を進めるよう毛利輝元、小早川隆景に命じたので、いよいよ忠功に励むことが肝要である…」と解釈された。 冒頭で示した「信長討果上者(原文)」を「信長を討ち果たしたうえは」と解釈することにより、義昭が光秀に命じて信長を討ち果たしたと理解するのがポイントである。 しかし、こちらも「信長討ち果つる」と読み、「信長が討ち果たされたうえは」と解釈すべきと指摘されている。つまり、義昭が光秀に命じて討たせたというよりも、信長が本能寺の変で横死したという解釈になる。そうなると、やはり義昭と光秀との共謀という説は、成り立ちにくいと考えられる。 最後は、『森文書』の土橋平尉(つちはしへいのじょう・紀州雑賀の土豪)宛て天正10年6月12日付明智光秀書状の解釈である。最近になって美濃加茂市民ミュージアムに原本で公開されたが、もともと『森文書』の写しが知られていた。明智光秀が天正10年6月12日に土橋重治に宛てた書状の原本と確認された「土橋重治宛光秀書状」(美濃加茂市民ミュージアム所蔵) 土橋氏は紀州にあって反信長の行動を取っており、毛利氏や義昭とも連絡を取り合っていた。土橋氏はこれ以前に光秀に書状を送っており、この光秀書状はその返事なのである。つまり、この書状は義昭と光秀を結ぶ接点となろう。 もともと同史料の冒頭部分は「なお、受衆が上洛するならば、協力することが肝要である(現代語訳)」と解釈されてきた。文中の「受衆」は、義昭の謀反に応じた者たちと理解され、首尾よく信長を果たした光秀と義昭が事前に連絡を取り合ってきたと考えられたのである。「受衆」とは何を示すのか しかし、現在は「受衆」の崩し字を「急度」と読むべきであり、先の解釈は成り立たないと指摘されている。そのほうが妥当な解釈であり、光秀と義昭が事前に通じていたとの証左にはならないと考えられており、今では「受衆」説は撤回されている。 何より重要なのは、あくまで光秀が義昭の支援を表明したのは、6月12日でのことであって、それ以前に両者が打倒信長を画策した史料は残っていない。つまり、将軍黒幕説の主張者は、この時点で両者は協力関係にあったのだから、それ以前に遡及(そきゅう)することができると考えているのだろう。 そのような論法が通用するとは、とても思えない。変以前に光秀と義昭が結託した確かな史料を挙げるか、納得しうる状況証拠を示すよりほかはないと考える。現状の説明では、とても将軍黒幕説が受け入れられる余地はない。 変後の光秀は、丹後の細川藤孝(幽斎)・忠興父子や大和の筒井順慶らに味方になってくれるよう要請していたが、色よい返事をもらえなかった。したがって、光秀が味方を募るべく、変後に目的を同じくする義昭と結託したことは、特段不思議なことではない。現状の史料残存状況では、そのように考えるのが妥当だろう。 実は、本能寺の変を4日経過しても、毛利氏は正しい状況をつかんでいなかったと指摘されている。6月6日付の小早川隆景の書状によると、「京都のこと、去る1日に信長・(長男の)信忠父子が討ち果て、同じく2日に大坂で(三男の)信孝が殺害されました。津田信澄、明智光秀、柴田勝家が策略により討ち果たしたとのことです」とある(『萩藩閥閲録』)。信長時代の本能寺跡=2011年5月18日、京都市中京区(木戸照博撮影) 信長が殺されたのは未明なので1日でよいとしても、信孝が殺害されたというのは明らかに誤報である。光秀の勢力に津田信澄や柴田勝家が加わっているのもおかしい。義昭が光秀と結託していたならば、もっと正確な情報を得られるはずではないか。 そもそも義昭だけが正しい情報をつかんで光秀とともに打倒信長を果たし、毛利氏には適切な情報を与えないというのは不可解である。苦戦していた信長に挑むならば、義昭は光秀だけでなく、毛利氏を交えて計画を練るべきだろう。単純に考えてみても、現状では将軍黒幕説は成り立たないのである。 将軍黒幕説を成り立たせるには、より合理的な史料解釈を示すか、本能寺の変の前に義昭と光秀が結託していたことを示す決定的な根拠史料を挙げるしかないだろう。【主要参考文献】・谷口克広『検証本能寺の変』(吉川弘文館、2007年)・渡邊大門『信長政権 本能寺の変にその正体を見る』(河出ブックス、2013年)

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    本能寺の変、朝廷黒幕説を覆すキーワードは「日食」だった

    渡邊大門(歴史学者) 天正10年(1582)6月2日、京都の本能寺において、織田信長は明智光秀に襲撃され自害した。光秀が謀反を起こした原因については現在までにさまざまな指摘がなされており、いまだに注目を浴びるのは、光秀の背後に黒幕がいたという説だ。最近では、「土橋重治宛 明智光秀書状」(美濃加茂市民ミュージアム所蔵史料)の原本が発見され、光秀が室町幕府の再興を狙ったのではないかという議論が活発になっている。この件については後日詳述する「将軍黒幕説」の中で取り上げたい。 さらに他にも、朝廷が光秀の黒幕であったという説がこれまでも有力視されていた。つまり、信長が朝廷を圧迫あるいは蔑(ないがし)ろにしたため、反発した朝廷が光秀を背後から操り、信長を討伐させたというのである。では、信長が朝廷を圧迫あるいは蔑ろにした事実というのはあったのだろうか。その一つ一つを確認することにしよう。「宣明暦」吉田光由著 寛永21年(1644)(国立天文台所蔵) 最初に取り上げるのは、暦の問題である。信長はこれまで朝廷が採用していた宣明暦を止めるよう要望し、地方で使用されていた三島暦の採用を強要したといわれている。暦といっても大した問題でないように思われるが、実際は時間の支配に関わるもので大きな意味があった。暦の採用は朝廷の権限に属するものであり、他者が口出しすべき問題ではないということだ。 信長が三島暦を強要した理由については、これまでどのように考えられてきたのか。一説によると、本来は朝廷の掌中にあった「時の支配」を信長が掌握し、正確な暦法の確立を目指したという指摘がなされている。これを平たくいえば、信長が朝廷の権限の一つを奪取しようと考えたということになる。以下、経緯を見ることにしよう。 天正10年1月、信長は陰陽頭・土御門久脩(つちみかど ひさなが)が作成した宣明暦を取り止め、尾張国など関東方面で使用していた三島暦の採用を要望した(『晴豊記』など)。こうした要望は異例でもあり、信長が朝廷を圧迫したものの一つと解釈されてきた。 宣明暦とは中国から伝来した暦法のことで、日本には貞観(じょうがん)元年(859)に伝来した。以来、宣明暦は江戸時代の貞享(じょうきょう)元年(1684)までの約800年間も利用される。しかし、宣明暦には日食や月食の記載があっても、実際には起こらなかったことがたびたびあり、不正確であるという大きな問題があった。そのような事情も加味され、貞享元年以降は渋川春海(しぶかわ はるみ)が作成した貞享暦が用いられるようになる。三島歴を推した理由とは? 信長が要望したのは、以下の内容である。宣明暦では天正11年正月が閏(うるう)月に設定されていたが、三島暦では天正10年12月が閏月だった。信長は三島暦に合わせて、天正10年12月を閏月にするよう要望したのである。検討された結果、信長の意に反して、朝廷は宣明暦の天正11年正月に閏月を定めた(『天正十年夏記』)。この時点で、信長は強硬な姿勢や態度をとったわけではなく、いったんは納得したのである。信長が採用するよう要望した「三島暦」(国立天文台所蔵) 暦問題はこれで終息せず、信長は再びこの問題を蒸し返す。事態が急展開を遂げたのは、本能寺の変の前日の天正10年6月1日のことだった。この日、公家衆は信長の滞在する本能寺を訪れた。そのとき信長は公家衆に対して、再び宣明暦から三島暦に変更するよう迫ったのである。これは、いったいどういうことなのだろうか? 最近の研究によると、信長が変更を迫った理由は宣明暦が同年6月1日の日食を予測できなかったからであると指摘されている。先述のとおり、宣明暦は日食や月食の予測が正確にできなかった。では、信長はどのような理由で、日食が把握できなったことを問題視したのだろうか。 当時は現在のように科学が十分に発達しておらず、日食や月食は不吉なものと捉えられていた。日食や月食が起こると、朝廷では天皇を不吉な光から守るため、御所を筵(むしろ)で覆うようにしていたのだ。今となっては迷信であるが、当時の人々は天皇の身の安全を守ろうと真剣に考えていたのである。 同年6月1日、信長は自身で日食を確認し、宣明暦の不正確さを再認識した。宣明暦では不十分であり、三島暦の方が正確であると、信長は改めて認識した。つまり、信長が暦の変更を強く迫ったのは、天皇を不吉な光から守るためであり、そのことを公家衆に伝えたかったのだ。信長は自身が慣れ親しんだ三島暦を用いるようゴリ押ししたのではなく、あくまで天皇の身を守ろうとしたのである。 これまでの流れを見る限り、信長が三島暦の採用を提案した理由は、天皇の身を案じたと見る方が自然なようである。信長は「天皇を守りたい」という親切心で、三島暦の採用を進言したと考えられる。少なくともこの一件については、信長が朝廷を圧迫あるいは蔑ろにした事例とはいえず、逆に感謝される出来事だったといえる。よって、暦の問題は朝廷黒幕説の適切な理由の一つと言えないようだ。【主要参考文献】・桐野作人『だれが信長を殺したのか 本能寺の変・新たな視点』(PHP新書、2007年)・渡邊大門『信長政権 本能寺の変にその正体を見る』(河出ブックス、2013年)