検索ワード:渡邊大門の戦国ミステリー/10件ヒットしました

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    秀吉は「どこの馬の骨」だったか

    豊臣(羽柴)秀吉の出自はいまだ謎が多い。父は足軽や農民といった諸説があるが、明確な身分は解明されていない。天下人となっただけに、史料の中には「皇統」を伝える荒唐無稽なものもある一方、賤民どころか「乞食」とする記述もある。ここは一度、史料を整理し、秀吉の出自を改めて検証してみよう。

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    「木下藤吉郎」も創作だった? 怪しすぎる秀吉のルーツをたどる

    渡邊大門(歴史学者) 豊臣秀吉の出自は、これまで単に百姓ということになっていた。しかし、実際はかなり複雑で、さまざまな説が残っており、本稿ではそれらの説を検討してみようと思う。 最初に、秀吉の生誕年について触れておこう。かつて秀吉の生年月日は、天文5(1536)年1月1日と考えられてきた(『太閤素性記』)。しかし、歴史学者の桑田忠親氏は秀吉の生年について、『豊臣秀吉研究』(角川書店)で、次のように指摘している。・「関白任官記」(『天正記』所収)の中に「誕生の年月を年ふるに、丁酉二月六日吉辰なり。周易の本卦復の六十四に当れり」とある。丁酉の年は天文6(1537)年であり、秀吉の誕生日は2月6日になる。・天正18(1590)年12月吉日白山御立願状之事(「桜井文書」)には、「関白様 酉之御年 御年五十四歳」とある。天正18年に54歳であると、誕生年は天文6(1537)年になる。 以上の点から、従来説の天文5(1536)年1月1日説は否定され、現在、秀吉の生誕年は天文6(1537)年2月6日説が定説となっている。 次に秀吉の出自について考えてみよう。最初に検討する史料は、17世紀後半に成立した土屋知貞の『太閤素性記』である。同書は、秀吉の御伽衆(おとぎしゅう)であった知貞の父、円都や母からの聞き書きがベースとなっている。次に、秀吉の出生に関係する部分を掲出する。「父は木下弥右衛門という中々村の人で、信長の父・信秀の鉄砲足軽を務めていた。多くの戦場で手柄を挙げたが、それがもとで怪我をしたので、中々村に引っ込んで百姓となった。秀吉と「とも」を子に持ったが、秀吉が八歳のときに亡くなった」(現代語訳) 鉄砲伝来は諸説あるが、一般的に天文12(1543)年とされている。弥右衛門が活躍した時代(天文年間初頭)を考慮すると、さほど鉄砲が盛んに用いられたとは考えがたく、「鉄砲足軽」というのは知貞の勘違いなのかもしれない。木下藤吉郎秀吉像=滋賀県 また、木下という姓を名乗っているならば、秀吉の父は有力名主や土豪クラスと考えなくてはならない。しかし、秀吉自身の述懐するところでは、少年期の暮らしぶりは非常に貧しく、百姓身分だったと考えた方が自然で、木下姓は不審であるといえる。 以上の点は、先学が指摘するように、おおむね次のように整理できると思う。(1)土屋知貞には秀吉が「木下」姓を名乗っていた先入観があり、父にも「木下」姓を付けてしまった(小和田哲男『豊臣秀吉』中公新書)(2)朝廷から秀吉が豊臣姓を賜った際、『豊臣系図』を作成したときの工作である。本来は、姓氏などなかった(桑田忠親『豊臣秀吉研究』角川書店) つまり、弥右衛門は「木下」姓を名乗っていなかった可能性が高い。秀吉は正親町天皇の子? 次に取り上げるのは、17世紀初頭に成立した小瀬甫庵の『甫庵太閤記』である。甫庵は秀吉などに仕えた儒学者であるが、同書の内容は誤りが少なくなく、信が置けないと評価されている。同書が記す秀吉出生の経緯は、次のものである。「父は尾張国愛智(知)郡中村の住人で、名を筑阿弥という。あるとき母の懐に日輪が入る夢を見るとすでに懐妊しており、こうして秀吉が誕生したので童名を「日吉丸」とした」(現代語訳) この史料では、父が筑阿弥となっており、弥右衛門の名は出てこない。ちなみに筑阿弥は、織田信秀(信長の父)のもとで御伽衆を務めていたという。おまけに母の胎内に日輪が入った夢を見て妊娠し、やがて秀吉が生まれたというのは荒唐無稽すぎる。 『甫庵太閤記』では筑阿弥を秀吉の実父としているが、他の史料では(木下)弥右衛門を実父とするものが多い。秀吉の父を一百姓ではなく、信秀配下の御伽衆にしたいと考えたのであろうか。 そして次は、秀吉の御伽衆・大村由己の『関白任官記』である。同書は、秀吉の意向に即して執筆された史料になろう。以下に、その関係部分を記す。「その(秀吉の)素性を尋ねてみると。祖父母は朝廷に仕えていたという。仕えていたのは萩の中納言という。今の大政所(秀吉の母)が三歳のとき、ある人の讒言によって遠流になり、尾張国飛保村雲というところで日々を過ごした(中略、ある都人から大政所に歌が贈られる)。かの中納言の歌である。大政所殿は幼年にして上洛し、朝廷に三年にわたって仕え、程なく一子が誕生した。今の殿下(秀吉)である」(現代語訳) 秀吉の祖父母は、荻の中納言なる人物に仕えていた。秀吉の母は3歳のときに尾張国に流されたが、荻の中納言に呼び戻され、落胤(らくいん)として誕生したのが秀吉なのである。つまり、秀吉は正親町(おおぎまち)天皇の子ということになる。 荻の中納言なる人物は史料で確認できず、話の筋もまったく荒唐無稽な内容となっている。由己は、何とかして秀吉を天皇の血統である皇胤(こういん)に結び付けようと考えたのであろう。あるいは、秀吉から指示があったのかもしれない。この説は完全に否定されている。 竹中半兵衛重治の子息、竹中重門の『豊鑑』(17世紀初頭成立)には、秀吉の父祖について2カ所にわたり、気になる記述が見られる。次に、その部分を掲出しておこう。「(秀吉は)尾張国に生まれ、「あやし」の民であったが…」「(秀吉は)郷の「あやし」の民の子であったので、父母の名も誰かわからない。一族についても、同じである」(現代語訳) 歴史学者の服部英雄氏は「あやし」の語に「賤」という字を当て、秀吉が卑賤の出自であったと指摘し、秀吉の賤民出自説の一端へと繋げている(『河原ノ者・非人・秀吉』山川出版社)。 しかし、「賤(いやしい)」には「あやし」という読み方はなく、「怪し」つまり「得たいが知れない」と考えるべきだろう。それが、イコール卑賤(ひせん)を意味したと解釈したほうが自然である。この点をもう少し詳しく検討してみよう。豊臣秀吉を祀る豊国神社=京都市東山区 秀吉が「あやし」の民であったことについては、興味深い史料が残っている。天正18(1590)年、名胡桃城(群馬県沼田市)をめぐる後北条氏と真田氏との争いが端緒となり、秀吉は介入せざるを得なくなった。その際、秀吉は北条氏に直接宛てた宣戦布告状の中で、次のように記している。「秀吉、若輩(若い頃)に孤(一人)と成て(以下略)」(『言経卿記』) この後、若き頃の秀吉が信長に従った過去の出来事などが綴られている。わずか1行にも満たない文章であるが、秀吉自身の言葉でもあり、かつ自分の存在を誇張するものでもない。そう考えると、『豊鑑』の「父母の名前もわからない」という記述は、まんざら嘘でもなさそうだ。秀吉は幼くして、孤児になった可能性がある。秀吉に面従腹背だった諸大名 『豊鑑』のように、秀吉が孤児であったと記したものは乏しいが、この秀吉の書状はその事実を裏付けている。父母の名も分からないとなると、秀吉の母、大政所ですら実母だったのか疑わしい。 もう少し、秀吉の出自について探索してみるが、以降は後世に成った史料(編纂物)から離れ、同時代の一次史料によって秀吉の出自を確認する。 最初に取り上げるのは、毛利氏の外交僧として活躍した、安国寺恵瓊(あんこくじえけい)の書状である。恵瓊は天正10(1582)年6月の備中高松城の攻防後、領土割譲をめぐって秀吉との交渉に臨んだ交渉人である。恵瓊は交渉能力に長けているだけでなく、信長の失脚と秀吉の将来の成長を予言するなど、洞察力が非常に優れた人物だった。 恵瓊が秀吉との領土割譲を交渉する天正12(1584)年1月、秀吉を評して記したのが、次の有名な一文である。「若い頃は一欠片の小者(下っ端の取るに足りない者)に過ぎず、乞食をしたこともある人物であった」(『毛利家文書』) 恵瓊は外交僧を務めており、幅広い情報ルートを保持していたと考えられる。そうなると、若い頃の秀吉が乞食同然の生活を送っていたということは、あながち否定できないだろう。恵瓊は情勢分析にも優れており、非常に信ぴょう性が高い情報であると考えてよい。 そうなると、若い頃の秀吉が乞食同然の生活を送っていたことは、有力な大名間において共通に認識されていた事実だったといえよう。それは、薩摩の島津氏も知っていた。 秀吉の卑しい身分については、遠く九州・薩摩国までも伝わっていた。天正14(1586)年1月、大友宗麟は島津義久の攻撃を受け、窮地に陥った。そこで、宗麟は秀吉に泣きつき、停戦に持ち込もうとした。宗麟の要請を受けた秀吉は義久に停戦を命じ、応じなければ、成敗に及ぶという厳しい通達をした。 停戦を突きつけられた島津氏は、家中で種々議論を重ねるが、その中で秀吉に関する次の記述が見られる。「羽柴(秀吉)は、誠に由来(由緒)なき人物であると世の中でいわれている。当家(島津家)は頼朝以来変わることがない家柄である。しかるに羽柴(秀吉)へ関白とみなした返書を送ることは、笑止なことである。また、右のように由緒のない人物を関白を許すとは、何と綸言(天皇のおっしゃること)の軽いことであろうか」(『上井覚兼日記』現代語訳) この前年(天正13年)、秀吉は「関白相論」に乗じて、摂関家以外で初めて関白に任じられた。あわせて、「豊臣」姓も朝廷から与えられた。島津氏は秀吉を由緒なき人物としたうえで、関白に任じられること事態が「笑止千万」という感想を持ったのである。秀吉の出自が低いということは、遠く薩摩まで知られていたのだ。豊国神社の豊臣秀吉像=京都市東山区 鎌倉時代以来の名門である島津氏にとって、秀吉は「どこの馬の骨」か分からない存在だった。率直に言えば、「名門・島津家が秀吉ごときにとやかく言われる筋合いはない」というのが本音であろう。結局、島津氏は秀吉の停戦命令を無視したが、最終的に島津氏は秀吉に屈し、ミジメな思いをするのは周知のところである。 島津氏内部における秀吉の評価は、ある意味で諸大名の心情を代弁したものであった。ポルトガルの宣教師が作成した「一五八五年の日本年報追加」には、次のような一文がある。「羽柴筑前殿(秀吉)は甚だ微賤に身を起こし、富貴・名誉及び現世の光栄に達したが、多数の競争者は彼が日本の習慣により、車の速に廻る如く没落に近づくことを期待している。日本の諸国は四百五十年来絶えざる変革に動かされていたのである」 1行目の秀吉が貧しい出自であることはこれまで通りだが、2行目の「日本の習慣」が問題となろう。「日本の習慣」の意味することは、3行目の「四百五十年来絶えざる変革」とある武家政権の激しい移ろいであった。 つまり、諸大名は「卑しい身分」だった秀吉の没落を願っていた。面従腹背だったのだ。先の島津氏の秀吉に対する認識は、ある意味で諸大名の言葉を代弁したものであったといえるであろう。 以上のように、秀吉の出自を物語る同時代史料は乏しいかもしれない。しかし、すでに秀吉が生きた時代においても、秀吉の出自がわからなかったこと(あるいは貧しかったこと)が共通認識であったことが判明する。恵瓊に至っては、「乞食」とまで記しており、誠に興味深いところである。 次回は、外国の史料を用いて、秀吉がどのように認識されていたのかを考えることにしよう。主要参考文献渡邊大門『秀吉の出自と出世伝説』(洋泉社・歴史新書、2013年)

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    「容姿は猿似」豊臣秀吉のウソ、ホント

    渡邊大門(歴史学者) 豊臣秀吉の容姿については、伝説を含めて多くの記録が残っている。秀吉の容姿に触れることは、権力者としての秀吉の側面などを考えるうえで、多くの示唆を与えてくれるように思う。 まず、秀吉には、指が6本あったといわれている。このことを指摘したのは、近世史家の三上参次氏である。根拠である前田利家の伝記『国祖遺言』(金沢市立図書館・加能越文庫)には、次のように記されている。「太閤様(秀吉)は、右手の親指が1つ多く6つもあった。あるとき蒲生氏郷、肥前、金森長近ら3人と聚楽第で、太閤様がいらっしゃる居間の側の四畳半の間で夜半まで話をしていた。そのとき秀吉様ほどの方が、3つの指(の1つ)を切り捨てなかったことをなんとも思っていらっしゃらないようだった。信長様は秀吉様の異名として『六ツめ』と呼んでいたことをお話された」(現代語訳) 秀吉は生まれたときから右手の親指が6本あり、それを切り捨てなかったことから、信長から「六ツめ」とあだ名がつけられていた。実は、この話に関しては、フロイスの『日本史』第16章にも「片手に6本の指があった」と記されている。では、ほかに秀吉の6本指を書き記した史料はないのであろうか。 秀吉に指が6本あったことは、朝鮮の儒学者、姜沆(カンハン)の著書『看羊録』(かんようろく)にも、次のように記されている。 「(秀吉は)生まれた時、右手が6本指であった。成長するに及び、『人はみな五本指である。6本目の指に何の必要があろう』と言って、刀で切り落としてしまった」 この記録で重要なのは、『国祖遺言』と同じく右手が6本指であると書かれているが、余分な1本を切り落としたと書かれていることだ。『国祖遺言』には、余分な指を切り落としたと書いていない。はたして切ったほうが正しいのか、切らなかったほうが正しいのか、どちらであろうか。 そもそも秀吉の右手が6本指であったというのは、現代の医学で言えば、先天性多指症という病気である。多指症とは通常より指が多い病状を示し、90%以上が親指であるという。発生比率は、男性が3に対して、女性が2であるといわれ、男性に多い病状であった。発生頻度は、2千人から3千人に1人であると指摘されている。 したがって、『国祖遺言』が「右手の親指が1つ多く6つもあった」と記しているのは、決して荒唐無稽(こうとうむけい)な話ではない。 多指症の原因は胎児が母親の胎内にあるとき、本来は1本の指になるところが、何らかの理由によって組織が分裂し、指が2本に分かれたものであるという。ちなみに、指は大小が生じ、大きい指は動かしやすく、小さい指は動かしにくいという。木下藤吉郎秀吉像=岐阜県大垣市墨俣町 面倒なのは、単に動かしにくい小さい指を切ればよいという問題ではないことで、指を再建する手術になる。これは、大手術になるといわれており、手術がうまくいかないと、再度指を再建することは困難になる。手術の難しさゆえに、ベテラン医師が手術を担当することが多い。一般的に手術は、おおむね1~2歳の間に行われる。 現代の医学水準においても非常に困難な手術であることを考慮すれば、当時の人々は経験的に指を切り落とすことのリスクを知っていた可能性がある。衛生面から言っても、指の切断後の措置がうまくいかなければ、細菌などによって死に至ることが考えられる。仮に切断後の措置がうまくいっても、残った指に障害が残る可能性も高い。 そのようなリスクを考慮すれば、秀吉は右手の親指の余分な1本を切らなかった可能性が高い。ただ、秀吉の指が6本あったということは、非常に好奇な目で見られたことであろう。そのことは、秀吉の性格にも大きな影響を与えたと考えられる。微調整された肖像画 では、秀吉の容姿は、どのように伝わっているのであろうか。フロイス『日本史』16章には、秀吉の容姿について次のとおり記されている。 「彼(秀吉)は身長が低く、また醜悪な容貌の持主で、片手には6本の指があった。目がとび出ており、シナ人のように髭が少なかった」 戦国時代といえば、現在のようにさほど栄養状態がよいわけではない。肉食を主とし体格のよい欧米人から見れば、さぞかし秀吉は小柄に見えたことであろう。おおむね身長は、150センチ台の半ば、あるいは140センチ台だったかもしれない。 実は、フロイス『日本史』16章は、秀吉がキリシタンに迫害を加えたことを非難する文面であふれている。そのような事情から、秀吉の容姿に関する記述を素直に受け取ることは危険なのかもしれない。「醜悪な容貌」というのは、多少はフロイスの悪意を感じなくもない。 戦国史家の桑田忠親氏は「秀吉の目が飛び出している」という点について、高野山蓮華定院、大阪の豊国神社など、秀吉と実見して描いたと考えられる肖像画は、「眼窩(がんか)がくぼんでいる」ことから事実に反していると指摘している。この見解については、いったいいかに考えるべきなのであろうか。 秀吉の肖像画は、秀吉が依頼して絵師に書かせたものである。その場合、秀吉は絵師に対して、さまざまな要望をしたに違いない。目がくぼんでいるとか、くぼんでいないかということよりも、全体が権力者としてふさわしい表情になっているかが重視されたはずである。そうなると、現在伝わっている秀吉の肖像画が、必ずしも正しい姿を伝えているとは限らず、秀吉好みに微調整された可能性が高い。豊臣秀吉像(京都・豊国神社) 秀吉の醜い容姿は、何もフロイスの『日本史』だけに書かれていることではない。後世の編纂物も含めて、実に多くの書物に書き残されている。 秀吉が「猿」と呼ばれたことは、よく知られている。もっともそれは、秀吉に多少の親しみを込めて呼ばれたようであるが。この点について、秀吉の容姿が醜く、背が低いという事実とあわせて、姜沆の『看羊録』には、次のように記されている。 「賊魁(ぞくかい。賊軍の長)秀吉は、尾張州中村郷の人である。嘉靖丙申(1536年)に生まれた。容貌が醜く、身体も短小で、容姿が猿のようであったので(「猿」を)結局幼名とした」 姜沆も文禄・慶長の役によって日本に無理やり連行されたので、秀吉にはよい印象を抱いていなかった。冒頭に秀吉を賊魁(賊軍の長)と記しているのは、そうした理由によると考えてよい。1行目の出生に関わる記述は、当時の情報を何らかの形で入手したと考えられる。いずれにしても、姜沆の目には秀吉の姿が醜く映っているのである。外国人から見た秀吉は、醜悪だったようだ。 毛利家の家臣・玉木吉保は、その著書『身自鏡(みじかがみ)』(1617年)の中で「秀吉は『赤ひげ』で『猿まなこ』で、空うそ吹く顔をしている」と書き残している。玉木吉保は秀吉の同時代の人物であり、伏見城築城にも従事した。「赤ひげ」とはひげが薄くて、赤っぽく見えたのであろう。「猿まなこ」とは、「猿の目のように、大きいくぼんだ目。きょろきょろと動くまるい目」という意味がある。 先に、秀吉の目がくぼんでいるか、飛び出しているかという点が問題になったが、「きょろきょろとした」点に重点を置くと、目が飛び出しているような印象を受ける。しかし、目の形状に関しては、いずれにしても年齢的なことも考慮しなくてはならないだろう。加齢とともに痩せ、目がくぼんでいったことも考慮する必要がある。髭が薄かったのは、別の史料もあり、事実のようである。「猿」と「はげ鼠」 同時代に近い史料として、李氏朝鮮側の記録『懲毖録(ちょうひろく)』(17世紀前後)があり、秀吉に謁見(えっけん)した朝鮮使節の感想を次の通り記されている。 「秀吉は、容貌は小さく卑しげで、顔色は黒っぽく、とくに変わった様子はないが、ただ眼光がいささか閃いて人を射るようであったという」 背が低く容貌が卑しいというのは、フロイスらの感想と一致しているところである。また、小さい頃から肉体労働に従事していた秀吉は、よく日に焼けていたと考えられる。眼光が鋭いというのは、権力者特有の趣が感じられたからであろう。秀吉は小柄ながらも、非常に野性味あふれていたに違いない。 若き秀吉と松下加兵衛との出会いの場面は、実に示唆深いものがある。秀吉と加兵衛は浜松の町外れで初めて出会っており、その様子は次のように記されている。 「加兵衛が久能から浜松に行く途中で猿(=秀吉)を見つけたという。異形の者で、猿かと思えば人に見えるし、人かと思えば猿に見える。どの国から来た何者かと尋ねると、猿は尾張から来たという。また加兵衛は、幼少の者が遠路をどのような用事で来たのか尋ねると、奉公を望んできたといった。加兵衛は笑いながら私に奉公するかと尋ねると、(秀吉は)了解したと述べた」 猿に見えたとは大袈裟な書き方ではあるが、秀吉の汚らしかったであろう服装と相まって、そう見えたのだろう。あとで加兵衛は主人である飯尾氏に秀吉を面会させると、秀吉は皮のついた栗を取り出し、口で栗の皮をむいた。その口元は、あたかも猿のようであったという。しかし、秀吉が沐浴を済ませ衣裳を改めると、姿かたちが清潔になり、はじめの容貌とは異なっていたという。秀吉が猿と称され、みんなから愛されたゆえんでもある。豊臣秀吉の像が立つ豊国神社=大阪市中央区 ただ、小和田哲男氏が指摘するように、松下氏に関する記述は事実誤認が多く、信の置けないところもある。秀吉が「猿」に似ていたというのは、むろん猿そのものの意味もあったであろうが、愛嬌のよさを含んだ意味もあったであろう。 秀吉の容姿は、「はげ鼠(ネズミ)」と称された例もあった。年未詳ながら、秀吉の妻・おね宛の織田信長の朱印状には、次のように記されている(「土橋嘉兵衛氏所蔵文書」)。 「お前さま程の細君は、あの『はげねずみ』には2度と求めることは出来まいから、お前さまも奥方らしく大様に構えて、軽々しく焼き餅など焼かぬように」 秀吉が妻・おねに対してたびたび不服をいうことについて、信長は手紙をしたためて、たしなめているのである。手紙の末尾には、「秀吉にこの手紙を見せるように」とあることから、信長と秀吉の強い結びつきや信頼感を感じ取ることができる。つまり、信長は親しみの意味を込めて、秀吉を「はげ鼠」と呼んだのかもしれない。抱き続けたコンプレックス ところで、ネズミといえば、朝鮮側の史料『宣祖修正実録』に大変興味深い記録が残されている。朝鮮から派遣された使者が戻ってくると、秀吉の容貌はいかなるものか質問した。その回答は「目が燦燦(あざやかで美しいさま。きらきらと輝いて美しいさま)としていて、これは胆智(肝がすわった知力ある)の人に似ている」であった。一方で、別の一人は「その目は鼠のようで、畏れるに足りない」と述べた。 前者は秀吉を侮(あなど)ってはいけないことを、暗に注意しているのだろう。そして、後者はそうであっても、畏れてはならないと考え、あえて「ネズミのような目」と形容したと推測される。したがって、秀吉の目がネズミのようであったというのは、当たらないと考えられる。とにかく秀吉は、見る人によって印象が異なったが、背が小さく醜い容姿であったことは、共通していることである。 一つ言えることは、少なくとも秀吉が美男子ではなかったということだ。その点に関して秀吉は、自らフロイスに次のように述べている(『日本史』14章)。 「皆が見るとおり、予(秀吉)は醜い顔をしており、五体も貧弱だが、予の日本における成功を忘れるでないぞ」 この一文を見れば明らかなとおり、秀吉は自身の容姿が良くないことを自覚しているのである。「五体も貧弱」というのは、体が普通の人より小柄であったことを示している。そのようなこともあって、わざわざ「私を侮ってはならない」ことを半ば恫喝(どうかつ)気味に伝えているのだ。外国人でなくても、同時代に秀吉と会った日本人の多くが、秀吉の容貌を醜かったと感じていたに違いない。 秀吉は子供の頃から貧しい生活を強いられており、服装も汚らしいもので、容姿もさえなかった。当時、指が6本あったことも、何かしら嘲笑されたことに違いない。身体は小柄で、日焼けして薄汚れた顔立ちは、さながら「猿」のようだったと考えられる。ときに「猿」のような顔立ちは愛嬌があったが、虐げられたキリシタンや朝鮮の人にとっては、憎らしさがあったと想像される。 長々と記したが、一言で言うならば、秀吉の容姿はさえなかった。秀吉は貧しい出自や指が6本あったこともあって、大きなコンプレックスを抱いていたと考えられ、その後の人生に大きく作用したのではないだろうか。 次回は、諸説ある秀吉の出自について考えてみたい。【主要参考文献】渡邊大門『秀吉の出自と出世伝説』(洋泉社・歴史新書、2013年)

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    本能寺の変と「中国大返し」の謎、秀吉共犯説はこれで論破できる

    渡邊大門(歴史学者) 天正10(1582)年6月2日に勃発した本能寺の変には、羽柴(豊臣)秀吉が関与していたとの説がある。周知の通り、秀吉は主君である織田信長の死を知ると、備中高松城(岡山市北区)で毛利方の部将、清水宗治と交戦中にもかかわらず、急いで毛利氏と和睦を締結した。 その直後、「中国大返し」と称される尋常ならざるスピードで備中高松城から上洛し、同年6月13日の山崎の戦いで明智光秀を討った。これだけのスピードで戻るのには、秀吉が事前に光秀の計画を知っていないと不可能だと指摘する論者がいる。 はたして秀吉は、事前に光秀の挙兵を察知していたのだろうか。以下、その論点を挙げて、一つ一つを検証することにしよう。 スペイン人の貿易商人、アビラ・ヒロンが執筆した『日本王国記』には、「家康をはじめ、まだ臣従していなかったその他の人々も、内密にではあったが明智の側に加わっていた」と書かれている。「その他の人々」のなかには、秀吉も含まれていたと考えているようだ。つまり、秀吉は光秀に与していたという解釈である。木下藤吉郎秀吉像=滋賀県・JR長浜駅前 ヒロンは生没年不詳。文禄元(1594)年に平戸へ来日し、以後は東南アジア方面を往来し、慶長12(1607)年に日本に戻った。少なくとも元和5(1619)年までは、日本に滞在していたという。 彼の手になる『日本王国記』は、当該期の日本の事情を知る上で、貴重な史料と評価されている。特に、商業や貿易関係の記述は、重要であるとの指摘がある。なお、残念ながら同書の原本はなく、写本だけが伝わっている。 ところが、ヒロンと同じく16世紀末頃から17世紀初頭に日本に滞在したスペイン人のイエズス会士であるペドロ・モレホンは、『日本王国記』の記述内容について「著者みずからは正確であるといっているにもかかわらず、彼の日本に関する知識の僅少の故に数多くの誤りがある」と述べている。つまり、『日本王国記』の記述を全面的に信用するのは、危険であることを示唆している。 本能寺の変が勃発したのは、ヒロンが来日する14年前の出来事で、彼自身がどうやって秀吉が光秀に与していたかという情報を知り得たのか判然としない。おまけに『日本王国記』の記述内容が不完全な可能性が高いとするならば、秀吉と光秀が結託していたという説を素直に受け入れるわけにはいかない。よって、『日本王国記』の秀吉が光秀に与していたという記述には、いささか疑念を持たざるを得ないのである。 ほかにも、秀吉が本能寺の変に関与したと主張するユニークな説明がある。秀吉は毛利氏の政僧だった安国寺恵瓊(あんこくじえけい)と謀り、備中高松城の攻防中に毛利氏といつでも和睦を結べるようタイミングを調整し、信長横死の一報が届けられるとともに「中国大返し」で上洛したという説明がそれだ。はたして、これは事実と考えてよいのだろうか。秀吉と安国寺恵瓊の関係 ここでは和睦と書いたが、実質は一時的な停戦である。山崎の戦い後、毛利氏と秀吉は領土確定をめぐって、協議を進めることになる。つまり、詳細を後日詰めることを前提とした和睦であり、秀吉が信長の仇を取るべく急いでいたのは事実であろう。 この説の前提として重要なのは、織田氏の取次の秀吉と毛利氏の取次の恵瓊は互いに旧知の間柄であり、決して備中高松城の現場では一触即発の事態ではなかったという。織田氏と毛利氏との全面戦争にもかかわらずである。つまり、表面的には戦っているふりをしているが、秀吉と恵瓊はグルだったということになろう。 秀吉と恵瓊はたしかに旧知の間柄で、恵瓊は秀吉の台頭を予言し、その優れた手腕を評価した人物である。しかし、旧知であるなどの理由だけで、2人が共謀していたというのは、まったく話にならない説明である。2人が共謀していたという、たしかな証拠を提示しなくてはならないだろう。 信長の横死後、恵瓊は主導的な立場で、秀吉との和睦を独断で結んだといわれている。しかし、それは信頼できる史料に書かれているものではなく、関ヶ原合戦後の恵瓊の評価を考慮する必要がある。 慶長5(1600)年の関ヶ原合戦後、毛利氏は120万石から30万石の大名へと転落した。その際、毛利氏や吉川氏は恵瓊に責任を転嫁すべく史料を改竄(かいざん)するなど、さまざまなアリバイ工作を行い、恵瓊の独断専行ぶりを特に強調した。『陰徳太平記』は、その代表的書物だ。同書ではことさら恵瓊を論難している。重要文化財「関ケ原合戦図屏風」(右隻、大阪歴史博物館蔵) したがって、恵瓊の独断により秀吉と和睦を結んだというのは明確な根拠がなく、後世のでっち上げとすべきものである。 補足しておくと、恵瓊は毛利氏のみならず、秀吉にも仕えるという身分だった。このこと自体は、さほど珍しいことではない。秀吉と恵瓊がグルだったと主張する論者は、恵瓊が毛利氏に滅ぼされた安芸武田氏の子孫であることから、毛利氏に対して忠誠心がなく、いつかは毛利氏の足元をすくってやろうとしていたと指摘する。 しかし、恵瓊が毛利氏の足元をすくおうとしたという説はまったくの思い込みによる根拠の薄弱なもので、信用に足りない説である。というのも、関ヶ原合戦前の恵瓊は、毛利氏(あるいは豊臣家)を勝利に導くため、必死になって行動していた。それは、一連の史料を見れば明らかである。この説も根拠薄弱な思い込みである。 結果的に関ヶ原の戦いは西軍の敗北に終わり、恵瓊は非業の死を遂げるが、むしろ恵瓊を裏切ったのは毛利氏の側なのは明らかなのだ。毛利氏は恵瓊に黙ったままで、合戦前日に徳川家康と和睦を結んでいた。恵瓊を見殺しにしたのである。「夜久文書」が伝える真相 秀吉と恵瓊との関係について、もう1点補足しておこう。先に触れた通り、天正元(1575)年12月、恵瓊は信長がやがて滅亡するであろうことを予言し、同時に秀吉が台頭することを予言した。この点について、秀吉関与説を唱える論者は、以下のとおり奇妙な説明をする。 それは、恵瓊が予言をしたのは、秀吉から信長が数年のうちに破滅する可能性が高いと説明を受けていたからだという。秀吉の説明とは、信長は実力主義で家臣を登用したが、やがて家臣間の軋轢(あつれき)を生みだすとともに、忠誠心のない家臣の台頭を招き、謀反へつながるという内容である。実際に荒木村重、松永久秀らが謀反を起こした。こちらも、秀吉が恵瓊に説明したという史料はない。 秀吉が恵瓊に説明したというのは、後世を知る論者が勝手に想像しただけであって、まったく史料的な根拠はない。そもそも恵瓊の予言を過大に評価するが、あくまでそれはそのときに抱いた感想に過ぎない。したがって、秀吉や恵瓊を予言者と持ち上げるのは、いささか見当違いだろう。 結論を言えば、秀吉が恵瓊と結託し、和睦のタイミングを見計らい、信長の横死とともに「中国大返し」で上洛したという説は、確かな根拠がなく成り立たないといえる。 秀吉関与説にまつわるユニークな説明は他にもある。「中国大返し」を実現させた理由の一つとしては、秀吉が独自の情報ルートを持っていたとの説が提起されている。そうでなければ、ただちに信長横死の情報を入手できなかったと指摘する。 秀吉は丹波の夜久氏という領主の協力を得て、京都から備中高松城までの情報伝達ルートを確保していたという(年未詳6月5日羽柴秀長書状「夜久文書」)。そのルートは、備中高松城から姫路に向かい、姫路から一気に北上して羽柴秀長(秀吉の弟)の但馬竹田城に至り、竹田から和田山、丹波の夜久、福知山、亀山を経て京都に至るルートである。とりわけ夜久付近では、夜久氏の協力を得たということになろう。備中高松城址=岡山市 この説については、大いに疑問がある。以下、検討しておこう。 該当する「夜久文書」を素直に読むと、近江国から夜久方面の往来について、夜久氏の協力を得たとしか書かれておらず、先述した情報ルート云々の話は出てこない。秀長は路次確保の協力に対して、夜久氏にお礼を申し述べているだけである。 つまり、上記の「備中高松城から姫路に向かい、姫路から一気に北上して羽柴秀長(秀吉の弟)の但馬竹田城に至り、竹田から和田山、丹波の夜久、福知山、亀山を経て京都に至るルート」というのは、単なる想像に過ぎない。ちなみに、同史料の年次は、天正6年と考えられる。少なくとも天正10年ではない。史料の内容の解釈も、年次比定も誤っているといえよう。 史料解釈や年次比定のほかに、もっと大きな疑問がある。牽強付会な関与説 京都から備中高松城に向かうには、丹波や但馬を通り抜けると、かなりの遠回りになる。やはり、摂津、播磨を通って行くのが近道である。言うまでもないが、当時は電車や自動車があるわけでもない(仮にあったとしても遠回りはしないだろう)。常識で考えると、信長横死の情報を早く伝える必要があるのに、わざわざ但馬や丹波を通り抜けて、遠回りする必要はないのではないか。 したがって、秀吉が京都から丹波、但馬を経て、独自のルートを保持していたという見解は、到底受け入れることはできないのである。 秀吉関与説の他の理由としては、秀吉自身が信長の政権構想を考えるなかで、将来に悲観したという説がある。つまり、秀吉は信長の息子たちに仕えることを余儀なくされ、やがては近江長浜城を取り上げられ、さらに明に派遣される可能性があり、将来に危機感を抱いたという。秀吉は、信長を全面的信頼していなかったというのだ。果たして、それは事実なのか。 信長には、長期にわたる政権構想があったという。それは、信長の子息の信忠、信雄、信孝に領土と重要な地位を与え、実力のある家臣を各方面軍の司令官とし、やがては彼ら実力派家臣の領土を再集約しようとしたというのである。しかし、それは断片的な史料をもとにした憶測であり、実質的には何の根拠もないといえる。従うことはできない。では、信長の「唐入り構想」については、どう考えるべきか? 信長の「唐入り構想」については、フロイスの『日本史』『一五八二年日本年報追加』に「(信長が)日本六十六ヵ国の絶対君主となった暁には、一大艦隊を編成してシナを武力で平定し、諸国を自らの子息たちに分かち与える考えであった」との記述がある。これが事実ならば、信長の構想は壮大だったといえる。 話を別の観点から考えてみよう。天正13(1585)年以来、秀吉は「唐入り構想」を盛んに口にしており、それは信長の遺志を引き継ぐものとされてきた。しかし、近年の研究によると、秀吉が「唐入り」を言明したものではないと指摘されている。それは、九州平定を矮小化するためのレトリックであり、「唐入り」の表明と考えるのは早計ということである。単なる口実に過ぎなかったのだ。豊臣秀吉像(模本、東大史料編纂所蔵) フロイスには誇張癖があり、しかも『日本史』『一五八二年日本年報追加』には意図的に改竄した個所が多数あるという。史料的に全面的に信を寄せるのは、極めて危険である。『日本史』などの史料性の問題に加え、ほかに信長の「唐入り」の表明を記した史料がないのには難がある。 そのような点を考慮すると、信長の「唐入り」表明の事実には慎重になる必要があるのではないか。もし、信長の「唐入り」の構想が家臣らに伝わっていないならば、別に秀吉が明へ移されることを恐れる必要はない。 結論としては、秀吉が信長政権における自らの地位を悲観したというが、根拠が薄弱であると言わざるを得ないのである。むしろ、中国方面の司令官を任されたのであるから、前途洋々だったといえる。 ここまで秀吉が光秀と結託し、本能寺の変に関与していたとの説を取り上げ、とても受け入れられない説であることを指摘した。この説の弱点は、以下のようになろう。①信頼度の低い史料の記述を鵜呑みにしていること。②史料的な根拠がない憶測を展開していること。③著しい論理の飛躍がみられること。④史料の年次比定や解釈が誤っていること。 いずれにしても、秀吉関与説は牽強付会(けんきょうふかい)と言わざるを得ない。秀吉が本能寺の変に関与したと主張するならば、良質な一次史料で事実を指摘する必要があろう。※主要参考文献鴨川達夫「秀吉は『唐入り』を言明したか」(『日本史の森を行く』中公新書、2014年)谷口克広『検証本能寺の変』(吉川弘文館、2007年)渡邊大門『信長政権 本能寺の変にその正体を見る』(河出ブックス、2013年)

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    「前代未聞の大将」明智光秀の謎多きルーツをたどる

    渡邊大門(歴史学者) 明智光秀が経歴という点において、信長のほかの家臣と大きく異なっている点は、どことなく漂うインテリの香りである。光秀は美濃国の出身として知られ、名門・土岐氏(美濃国などの守護)の支族・土岐明智氏を出自とするといわれている。のちに光秀のライバルとなり天下を獲った豊臣秀吉は、一般的に農民の倅(せがれ)であったといわれており、その差は歴然としている。 そして、光秀は豊かな教養を持っていたといわれている。彼が本能寺の変の直前に詠んだ発句「時は今 雨が下しる(あるいは『下なる』)五月哉」は、通常「土岐氏の子孫である自分が天下を獲る五月である」と訳されているが、さらに深い読み込みがなされ、多くの解釈が生み出されている。この技巧が優れているがゆえに、その教養が高く評価されているといえよう。同時に光秀の教養が深いゆえに、武人としての線の細さや弱々しさもイメージとして残っている。 では、本当に光秀は美濃・土岐氏の一族である土岐明智氏の出身なのだろうか。以下、具体的に検証を試みることにしよう。 光秀の経歴については、その前半生には実に不明な点が多い。その先祖についても不明な点が多い。光秀が史上に登場するのは、永禄12(1569)年1月のことであり(『信長公記』)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛した翌年にあたる。それ以前については、後世の編纂物(二次史料)などによって、ようやく動向をうかがうことができる程度である。光秀の前半生に関連する一次史料は、圧倒的に不足している。京都・小栗栖で落ち武者狩りにあう明智光秀 =『国史画帖大和桜』(昭和10年刊)より しかも、二次史料に基づいた光秀の前半生については、不確かなものが多い。光秀の事績を記す二次史料は、史料の性質が劣るため、疑問に感じる点が多いのである。明らかな間違いも多々ある。『明智軍記』などは、その代表的な質の劣る史料である。 次に、光秀の事績に関する通説を確認しておこう。 明智氏は、美濃国の名門で守護を務めた土岐氏の支族である。土岐明智氏という。土岐氏は清和源氏の末裔(まつえい)であり、美濃国に本拠を置く名族である。南北朝期以降の土岐氏は、室町幕府から美濃国などに守護職を与えられた名族である。 土岐明智氏の出身地については、二つの説が有力視されている。一つは岐阜県恵那市明智町であり、もう一つは岐阜県可児市広見・瀬田である。前者には明知城址があり、光秀にまつわる史跡があることから、現在も「光秀祭り」が催されている。 後者にはかつて明智荘という荘園があり、今は明智城址が残っている。互いに「明智」の名を冠していることから、土岐明智氏の出身地と考えられており、非常にややこしいことになっている。室町幕府に仕えた土岐明智氏 戦国時代研究の第一人者の小和田哲男氏によると、恵那市明智町は遠山明智氏ゆかりの地であって、光秀の出身である土岐明智氏に結びつけるのは難しいと指摘している(『明智光秀―つくられた「謀反人」―』PHP新書)。むしろ、可児市広見・瀬田のほうが、可能性が高いというのが結論である。遠山明智氏は藤原北家利仁流の流れを汲み、現在の恵那市明智町に本拠を築いた。 土岐明智氏が室町幕府に仕えていたことは、事実である。奉公衆(室町幕府の直臣)の名簿である『文安年中御番帳(ぶんあんねんちゅうごばんちょう)』には外様衆として「土岐明智中務少輔」の名を、『東山殿時代大名外様附(ひがしやまじだいだいみょうとざまふ)』にも同じく外様衆として「同(土岐)中務少輔」の名を、三番衆として「土岐明智兵庫助」の名を確認することができる。『常徳院御動座当時在陣衆着到(じょうとくいんごどうざとうじざいじんしゅうちゃくとう)』にも「土岐明智兵庫助」と書かれている。 外様衆の役割については不明な点が多いものの、有力守護の支族が名を連ねている点を考慮すれば、相当な格式と地位があったといえる。何といっても、外様衆は将軍の直臣でもある。土岐明智氏もまた土岐氏の支族であるがゆえに、外様衆に加えられたのであろう。そして、土岐明智氏の名は、おおむね14世紀半ばから15世紀の終わりにかけて、多くの一次史料で確認することができる。その本拠地は、やはり美濃国だった。 次に、光秀の年齢について触れておこう。従来、光秀の年齢は『明智軍記』や明智氏の系図類に基づき、多少のばらつきがあるものの、天正10(1582)年に55~57歳の間に亡くなったと考えられてきた。つまり、光秀の誕生年は、大永6(1526)年から同8(1528)年の間になる。 信長研究の第一人者である谷口克広氏は『当代記』(織豊政権期から江戸幕府の成立期にかけての歴史を記した編纂物)という史料に基づき、67歳で亡くなったと指摘した(『検証 本能寺の変』)。つまり、永正13(1516)年の誕生となり、従来よりも年長になっている。史料の質からいえば、『明智軍記』などよりも断然『当代記』のほうが高く、後者の可能性が極めて高い。明智光秀像(本徳寺所蔵) 光秀の父については、諸説あって定まらないところである。現在、知られている系図類では、光綱とするもの、光隆とするもの、光国とするものに分かれており一致しない。整理すると、次のようになろう。 ①光綱――「明智系図」(『系図纂要』所収)、「明智氏一族宮城家相伝系図書」(『大日本史料』11―1所収)。②光隆――「明智系図」(『続群書類従』所収)、「明智系図」(『鈴木叢書』所収)。③光国――「土岐系図」(『続群書類従』所収)。 残念なことに、光秀の父について語る史料は皆無といわざるを得ない。光秀のように史上に突如としてあらわれた人物の場合、意外と父祖の名前さえ判然としないケースが多い。系図によってこれだけ名前が違い、史料的な裏付けが取れないのであるから、これらの系図の記載を詮索してもほとんど意味がない。光秀の父については、不詳といわざるを得ないのが現状だ。 では、光秀の来歴を物語る史料はないのか。信長に与えられた「惟任」姓 光秀を語るうえで重要な史料として、『立入左京亮入道隆佐記(たてりさきょうのすけにゅうどうりゅうさき)』がある。この史料は、禁裏御倉職(きんりみくらしき)の立入宗継が見聞した出来事などの覚書を集成したもので、七世の孫・中務大丞経徳が書写したものである。ただ、後世に成った史料なので、内容にいささか注意する必要がある。 同史料には、天正7(1579)年に光秀が丹波を平定した際、信長から丹波一国を与えられたことを記し、光秀について「美濃国住人とき(土岐)の随分衆也」と記録している。そして、信長によって「惟任」姓を与えられ、惟任日向守を名乗るようになったと記す。光秀の栄達ぶりを示すものである。 随分衆とは、土岐氏の中にあって、相当な地位にあったことを示している。随分には、身分が高いという意味が含まれている。残念ながら、隆佐が光秀の経歴をどこまで知っていたかは不明である。「美濃国住人とき(土岐)」というのも、確証を得ないのではないか。ところで、『立入左京亮入道隆佐記』のこの記述には、前段に次の興味深い一節がある(現代語訳)。 惟任日向守(明智光秀)が信長の御朱印によって丹波一国を与えられた。時に理運によって申し付けられた。前代未聞の大将である。 理運にはさまざまな意味があるが、この場合は「良い巡り合わせ、幸運」くらいの意味と考えてよい。理運によって、光秀は丹波一国を与えられたので、前代未聞の大将だったのである。立入宗継にとっては、光秀が名門土岐氏の相当な地位にあったと想像していたとはいえ、丹波一国を授けられたことは驚倒すべき印象を持ったと推測される。となると、隆佐は光秀を「随分衆」とは言っても、実際には光秀の経歴を詳しく知らず、風聞に拠って知った可能性が高い。天正10年1月11日付斎藤利三の書状。明智光秀を示す「惟任」の字が見える(松永渉平撮影) 光秀の父以前や自身の前半生がほとんど不明であること、また周囲の評価において「理運」「前代未聞」とあるところを見ると、光秀は土岐氏支族の土岐明智氏を本当に継いだのか再検討する必要がある。裏付けが非常に乏しいのである。 つまり、幕府外様衆の系譜を引く土岐明智氏ではなく、まったくの傍系の明智氏である可能性や、土岐氏配下の某氏が明智氏の名跡を継いだ可能性も否定できない。光秀が本当に土岐明智氏の系譜を引いているのかについては、未だ疑問が多い。それゆえに、父の名前さえ系図によって、異なっているのであろう。 たとえば、幕府の奉公衆などの名簿の『永禄六年諸役人附』には足軽衆として、「明智」の姓が記されている。従来説では、この明智が光秀であると考えられてきた。ただ、肝心の名前が記されていないので、この「明智」が光秀である確証はない。足軽衆とは単なる兵卒ではなく、将軍を警護する実働部隊と考えてよいであろう。 『永禄六年諸役人附』に記載された足軽衆は、名字のみしか記されていない者も多く、メンバーはおおむね無名の存在ばかりである。奉公衆クラスを出自とする者は存在しない。そうなると、逆に土岐氏の支族で「名門」の土岐明智氏が、なぜ足軽という地位に止まったのか不思議である。かつて土岐明智氏は、外様衆という高い身分にあったからである。 つまり、これまでの光秀は、外様衆・明智氏を出自とすると考えられてきたが、誠に程遠い存在といえよう。『永禄六年諸役人附』の明智が光秀と同一人物であるか否かは不明であるが、いずれにしても当時の明智氏(あるいは光秀)は、まったくの無名の存在であったと考えるのが妥当ではないか。『永禄六年諸役人附』の記述をもって、光秀を名門の土岐明智氏に繋げるには、あまりに材料不足である。「よそ者」だった光秀 信長に仕えて以後の光秀は、無名のところからはい上がり必死であった。信長は能力主義者であり、名門の出自であることなどほとんど考慮しなかったであろう。ゆえに、信長の重臣の多くは、ほとんど無名の立場から這い上がった者が大半であった。したがって、光秀が名門土岐氏の支族である土岐明智氏の出自であることについては、頭から信用するのは危険であると考えなくてはならないと指摘できよう。 もう少し、光秀の出自について考えてみよう。 光秀の前半生を語るうえで、重要視すべきなのは二つの史料である。その二つとは、光秀が家中に発した「家中軍法」が一つであり、もう一つはフロイスによる光秀の評価である。この二つの史料について、これから考えてみよう。 天正9(1581)年6月、光秀は家中に「家中軍法」を発した(「御霊神社文書」)。その内容は18カ条から成り、戦場や行軍中に守るべきことや、与えられた石高に対して負担する軍備などが列挙されている。これ自体が珍しいものであるが、注目すべきは結びの言葉である。次に、示すことにしよう。 すでに瓦礫のごとく沈んでいた私を(信長が)召し出され、さらに多くの軍勢を預けてくださった。 この言葉は、実に重みのある内容を含んでいる。少なくとも光秀が苦しい前半生を送っていたことは間違いなかったと考えられるが、何らかの契機に信長に仕官することによって、この段階で大きく出世を遂げたのである。 注意しなくてはならないのは、豊臣秀吉が農民の倅(せがれ)を出自としながらも、信長の配下で大出世を遂げたことである。前半生が不明であることも含めて、信長に登用されたことが二人の共通点である。この史料の一節は、光秀の前半生が不遇であったことを伝えるものである。裏返して言えば、名門・土岐明智氏の出身でない可能性をうかがわせる。明智城址=岐阜県可児市 もう一つの史料がフロイスの手になる『日本史』である。同書には、光秀の立場について「殿内にあって彼はよそ者であり、外来の身であったので、ほとんど全ての者から快く思われていなかった」と記している。この史料もまた、光秀が信長に仕えるまで、さほど活躍していなかったことをうかがわせるものがある。さらに「よそ者」という言葉は、光秀の外様としての立場を如実にあらわしている。 これまでの光秀は、美濃国土岐氏の支族・明智氏の系譜を引く名門と考えられてきた。ところが、その可能性は低いのではないだろうか。そもそも父祖の記録がないことが気にかかる。光秀が土岐明智氏の名を勝手に名乗っているか、名跡を継いだという可能性も残されている。 『立入左京亮入道隆佐記』では、その辺りの事情を十分に把握していないので、本人の言葉を信じて記録したことも考えられよう。いずれにしても、確証を得ることができず、光秀の前半生は名門・土岐明智氏を出自とする点が疑問であり、あまりに謎が多すぎる。 つまり、光秀が美濃国土岐氏の支族・明智氏の系譜を引く名門という説は、再検討の余地が十二分にあり、現段階では何の証拠もないのだ。※主要参考文献 谷口研語『明智光秀 浪人出身の外様大名の実像』(洋泉社歴史新書、2014年) 渡邊大門『信長政権 本能寺の変にその正体を見る』(河出ブックス、2013年)

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    信長殺し将軍黒幕説に終止符を打つハリボテ「鞆幕府」の真相

    渡邊大門(歴史学者) 明智光秀が本能寺の変を起こした有力な説の一つとして、足利義昭黒幕説がある。しかし、以前検討したとおり、同説は史料的な根拠が薄弱で否定されている。足利義昭黒幕説が提起された背景の一つとしては、「鞆(とも)幕府」なるものが存在し、実態として強大な勢力を誇っていたからだといわれている。果たして、それは事実なのだろうか。 天正元(1573)年、足利義昭は織田信長に反旗を翻したが敗北。その後は室町幕府再興を悲願としながらも、流浪生活を余儀なくされた。やがて、紀伊国に滞在した義昭は「天下再興」を名目として上杉謙信に「打倒信長」を呼びかけたり、各地の大名間紛争の調停に乗り出したりするなど、その存在感を強くアピールした。 義昭は紀伊国の湯河氏のような中小領主クラスをはじめ、薩摩国の有力な戦国大名・島津氏まで声をかけていた。紀伊国に下向以後も、義昭は各地の大名に檄(げき)を飛ばし、室町幕府再興の夢を追い続けたのである。足利義昭像(Wikimedia Commons) そして天正4(1576)年2月、義昭は密かに紀伊国を船で出発すると、毛利氏領国である備後国鞆津(ともつ)に到着した。広島県福山市にある鞆津は、今も中世の趣(おもむき)を残す港町であり、ちょうど岡山県との県境に位置している。 当時、備後国は毛利氏の支配下にあったが、毛利氏領国の東端に位置していた。義昭は鞆に押しかけ、毛利氏に「信長が(毛利)輝元に逆意を持っていることは疑いない」と主張し、自らを擁立して信長と戦うよう求めた。毛利氏はまだ信長との関係が決裂していなかったので、あえて安芸の本国に義昭を迎えず、鞆にとどめたのかもしれない。 義昭の鞆への渡海は、毛利氏の頭痛の種となった。義昭がいることにより、毛利氏は信長との関係悪化を恐れたはずだ。したがって、義昭の強引な毛利氏に対する申し出は、困惑を持って迎えられたに違いない。しかし、畿内とその周辺の政治的な状況は、一刻の猶予を許さなかった。 天正3(1575)年11月、但馬国山名氏の重臣・八木豊信は吉川元春に宛てて書状を送った。その内容とは、明智光秀がかねてから丹波国に侵攻していたが、やがて抵抗する荻野氏らを攻め滅ぼし、丹波の大半を掌中に収めていたという事実である。つまり、畿内周辺で信長は確実に威勢を伸張しており、さらに西へと進出するのは明らかだったのだ。 播磨国の赤松氏、龍野赤松氏、小寺氏、別所氏そして浦上氏などは、すでに上洛して信長にあいさつをし、配下に収まっていた。各地域の有力な名族といえども、信長の軍門に降るか、攻め滅ぼされるか二者択一を迫られており、それは毛利氏も例外ではなかった。 毛利氏は政治的情勢を分析した結果、全面的な信長との対決は避けられないと結論付けた。天正4(1576)年5月、ついに毛利氏は義昭の受け入れを決断したのである。毛利氏に受け入れられた義昭は、早速「帰洛(=室町幕府再興)」に向けての援助を吉川元春、平賀氏、熊谷氏などに依頼した。副将軍の意義 鞆滞在中の義昭は、毛利氏と連絡するため外交を担っていた僧侶、恵瓊(えけい)との関係を密にした。相変わらず義昭は精力的に活動し、上杉氏、北条氏らの有力大名に援助を呼び掛け、打倒信長の檄を飛ばし続けたのである。 一方で、義昭が力を注いだのは、室町幕府再興の下地となる組織作りであり、手始めに毛利輝元に対して副将軍職を与えた。天正10(1582)年2月に書き残された吉川経安の置文(「石見吉川家文書」)には、「毛利右馬頭大江輝元朝臣副将軍を給り(以下略)」と記されている。 室町幕府再興を目指す義昭にとっては、将軍の存在をアピールする意味での副将軍であり、大きな意味があったのかもしれない。実は、副将軍については、この時代に実際に存在したのかしなかったのか、よくわからない職でもある。 室町時代の最盛期、将軍の配下に管領が存在し、将軍の意を守護らに伝え、逆に守護らの意見を取りまとめて将軍に伝達するなどしていた。しかし、享禄4(1521)年に細川高国が摂津国大物(尼崎市)で横死して以後、基本的に管領は設置されていない。毛利元就の孫、輝元像=山口県萩市・萩城跡 応仁・文明の乱以降、守護は自身の領国へ戻り、室町幕府の全国支配のコントロールはあまり効かなくなっていた。以後、将軍を支えたのは特定の大名たちで、義昭の場合でいえば、最初は織田信長であり、のちに毛利輝元になった。 この頃、将軍を支えるのは単独の大名であり、それはかつての「管領」ではなく「副将軍」と認識されたのだろうか。同じような例は、義昭以前に歴代将軍を支えた大内義興や六角定頼などの例で確認できる。ところが、大内義興らには「副将軍」が与えられておらず、輝元に与えられた「副将軍」の意義はやや疑問であるといえる。 自然に考えるならば、「副将軍」とは義昭が輝元に気を良くしてもらうために言い出したのかもしれない。しかし、注意すべきは輝元が副将軍に任じられたことを示す史料は、天正4年から6年後に成立した回顧談的なものに過ぎない。副将軍職を過大評価するのは、少々危険ではないだろうか。 そして義昭の執念は、やがて「鞆幕府」という形で結実した。いちおう現役の将軍である義昭は、鞆に御所を構えて幕府を再興し、かつてのように多くの奉行衆・奉公衆を擁した。いうなれば幕府の必要条件を整えており、まさしく「鞆幕府」と言うべき存在かもしれない。ところで、「副将軍」の輝元以外の「鞆幕府」の構成員は、どうなっていたのだろうか。 「鞆幕府」の構成員は、義昭の京都時代の幕府の奉行人・奉公衆、そして毛利氏の家臣、その他大名衆で占められていた。毛利氏のなかでは、輝元をはじめ吉川元春、小早川隆景、などが中心メンバーで、三沢、山内、熊谷などの毛利氏の有力な家臣も加わっていた。 ここで重要なことは、彼ら毛利氏家臣の多くが義昭から毛氈鞍覆(もうせんくらおおい)・白傘袋(しらかさぶくろ)の使用許可を得ていることである。そもそも毛氈鞍覆・白傘袋の使用は、守護や御供衆クラスにのみ許され、本来は守護配下の被官人には許可されなかった。本来、毛利氏の家臣が許されるようなものではなかったのである。形骸化した栄典授与 そうしたことから、将軍によって毛氈鞍覆・白傘袋の使用許可を得た守護配下の被官人らは、ごく一部に限られ、彼等は守護と同格とみなされた。つまり、毛利氏の家臣は、義昭から最高の栄誉を与えられたことになろう。 しかし、現実には室町幕府の衰えが目立ち始めてから(16世紀初頭以降)、金銭と引き換えに毛氈鞍覆・白傘袋の使用は許可されるようになった。栄典授与の形骸化であり、インフレでもある。ただし、本来の価値を失っていたとはいえ、与えられたほうは大変に喜んだと考えられる。それが、将軍の権威だったのだ。 さらに重要なのは、将軍直属の軍事基盤である奉公衆が存在したことだ。一般的に、明応2(1493)年に起こった明応の政変で将軍権力は大きく失墜し、奉公衆は解体したと考えられている。 ところが、義昭の登場以降、奉公衆は復活しているのである。たとえば、美作国東北部には草苅氏という有力な領主が存在し、当主である景継は義昭の兄・義輝の代から太刀や馬を贈っていた。つまり、景継は幕府との関係を重視していたのである。 景継は幕府との関係を義昭の代に至っても継続しており、奉公衆の「三番衆」に加えてもらうように依頼した。その結果、足利義昭の御内書と上野信恵の副状によって、景継は三番衆に加えられた。景継は奉公衆に加えられたので、その喜びは言葉に言い尽くせないものがあったと想像される。 毛氈鞍覆・白傘袋の使用許可にしても、奉公衆に加えるにしても、与えられた者にとって何か意味があったのであろうか。要するに、栄典授与などを得ることにより、他者に対して何らかの形で優位に立てるかということだ。 結論から言えば、支配領域での実効支配の強化や戦争などが有利に展開したとは考えられない。ただし、与えられた当人が喜び、権威的なものを手に入れたと感じたことが一番重要だったといえるだろう。実効性はあまり期待できなかったと考えられる。織田信長像(東京大学史料編纂所所蔵の模写) 義昭は信長に追放され、将軍としての実権を喪失していた。とはいえ、義昭は半ば「空名」に過ぎない栄典を諸大名に与えることにより、彼らを自らの存在基盤に組み入れる根拠としたのである。それは、実権を失った義昭にとって最後の大きな武器であり、現職の将軍であることの強みでもあった。 義昭は何とか奉公衆を組織し、配下には大名たちもが付き従った。では、義昭のもとに馳せ参じた大名には、どのような面々が揃ったのだろうか。その一員の中には、武田信景、六角義尭(よしたか)、北畠具親(ともちか)などの聞きなれない人物が存在するが、彼らはいかなる人物だったのだろうか。その経歴に触れておこう。 武田信景は若狭武田氏の出身で、父は信豊、兄は義統(よしむね)である。義統の跡を継いだ子息の元明は、越前国朝倉氏の勢力に押され、のちに支配下に収まった。朝倉氏が滅亡すると、織田信長の家臣・丹羽長秀が若狭国を支配した。「ハリボテ」のような幕府 結局、元明にはわずかな所領しか与えられず、若狭武田氏は滅びたのも同然であった。こうした事態を受けて、信景は義昭のもとに参上したといわれている。信長に対しては、良い感情を抱いていなかったはずだ。 六角義尭は近江国六角氏の流れを汲み、義秀の子であるといわれている。六角氏もまた永禄末年に織田信長の攻撃を受け、もはや往時の勢いはなかった。武田氏と同じく、信長には好感を持っていなかっただろう。義尭は義昭の配下にあって、重用されたと指摘されている。それは、かつて六角氏が歴代足利将軍を支えたからだろう。 北畠具親は伊勢国司北畠具教の弟で、当初は出家して興福寺東門院主を務めていた。ところが、天正4(1567)年に織田信長が兄・具教(とものり)を殺害すると、還俗して北畠家の復活を目指した。 南伊勢に入った具親は、翌年に北畠一族や旧臣とともに挙兵したが、具親は北畠信雄(信長の次男)の前に敗れ去り、北畠家の再興に失敗する。そのような事情から、鞆へ来て義昭につかえたのであり、やはり信長は不倶戴天の敵だった。 このように見ると、「鞆幕府」を構成する中心メンバーは、毛利輝元、小早川隆景、吉川元春の3人であり、頼りなるのは毛利氏の家臣だった。ただ幕府を構成するには、形式を整えるため、烏合の衆のような存在も必要であった。それゆえに義昭は、彼らに毛氈鞍覆・白傘袋の使用許可を与え、忠誠心を植えつけようとしたのであろう。広島県福山市の景勝地「鞆の浦」 「鞆幕府」に組み込まれた諸大名(武田、六角、北畠の諸氏ら)たちは、いささか頼りない連中ではないだろうか。一つのパターンは、奉公衆の看板に魅了されて従った領主層である。残りのパターンは、「信長憎し」で集まった落ちぶれた大名連中である。 幕府が全国政権を標榜する以上、多くの諸勢力を糾合する必要があったのかもしれないが、毛利氏を除くと烏合の衆と言わざるを得ない。幕臣も京都にいた頃と比較すると、随分少なくなったと指摘されている。「鞆幕府」と称しているが、実際には単なる「寄せ集め集団」としか言いようがない。 「ハリボテ」のような「鞆幕府」であったが、一定の権力とみなされたのは事実である。特に、中小領主が積極的に加わり、「反信長」の対立軸になったことは評価しうるところである。そう認識された理由は、義昭が将軍という権威的な存在であったという一点になろう。 しかし、義昭には政治的権力が乏しく、軍事力は毛利氏頼みであった。各地の有力大名にあれだけ檄を飛ばしながらも、誰もすぐに飛んでこないのは、その証左と言えるだろう。したがって、形式的には「鞆幕府」と称しうるかもしれないが、その存在自体を過大評価すべきではないと考える。※主要参考文献 谷口克広『検証本能寺の変』(吉川弘文館、2007年) 渡邊大門『信長政権 本能寺の変にその正体を見る』(河出ブックス、2013年)

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    イエズス会が信長を暗殺? 本能寺の変、3つの黒幕説のウソ、ホント

    渡邊大門(歴史学者) 本能寺の変に関しては、朝廷や室町将軍が黒幕だったという説のほかに、いくつもの黒幕説が提起されている。それらの説を確認しておこう。 本願寺教如(きょうにょ)が本能寺の変の首謀者であった、という説がある。大坂本願寺は、長らく織田信長と抗争を繰り広げたことで知られている。天正8(1580)年閏(うるう)3月、正親町天皇の仲介により、両者は和睦を結んだ。大坂本願寺の顕如(けんにょ)は無念の思いを抱きつつ、紀州の鷺森別院へと向かった。 教如は顕如の長男であり、信長との徹底抗戦を主張していた。親子は路線が対立してしまい、顕如は教如と親子の縁を切った。したがって、「信長憎し」の思いを持つ教如ならば、立派な黒幕の候補と言えるのかもしれない。  黒幕説の概要は、以下の通りである。教如上人像(和歌山県立博物館所蔵) 丹羽長秀の率いる織田軍は、紀州雑賀の顕如を攻撃しようとしていた。その一報は、播磨英賀(あが)にいた教如のもとにもたらされたという。縁を切ったとはいえ、2人は親子であり、教如は居ても立ってもいられなかったかもしれない。 一方、正親町天皇は本願寺の滅亡を阻止するため、教如の意向に基づき、光秀に信長討伐を命じた。吉田兼和(兼見)と近衛前久(さきひさ)の2人が仲介役となり、教如、正親町、光秀の間を取り持ったという。教如は朝廷を動かすことにより、光秀に信長を討たせたということになろう。 織田軍が顕如を攻撃することを示した『大谷本願寺由緒通鑑』は、基本的な誤りが多い俗書と評価されており、そのほかの関連史料の解釈も全般的に誤っている。したがって、根本となる史料の問題があり、この時点で教如の黒幕説は成り立ちにくい。 また、本能寺の変の直前、教如が備中高松城にいた秀吉に対し、光秀謀反の情報をリークしたという。事前に光秀の謀反を秀吉に知らせることにより、毛利氏との講和を促し、上洛(じょうらく)しやすい状態に持ち込んだということになろう。イエズス会が黒幕という説も そして、この中国大返しの途中の姫路城で、秀吉は教如と面会し、互いに交誼(こうぎ)を結んだというのである。ところが、こちらも関連史料の年次比定を誤っており、中国大返しの行軍日程も従来の誤った説によっている。 非常に劇的な興味深い説であるが、根本的に史料解釈の誤りや曲解があり、本願寺教如首謀者説は成り立たないといえよう。 イエズス会が信長の暗殺に関わったというのが、「南欧勢力黒幕説」である。この説は、イエズス会による壮大な戦略の一環として位置付けられている。国の重要文化財に指定されている「絵本著色フランシスコ・ザビエル像」(神戸市立博物館所蔵) 次に、南欧勢力黒幕説の概要を確認しよう。  イエズス会はもっとも頼りにしていたのは、キリシタン大名で最大の庇護(ひご)者である豊後の大友宗麟だった。そして、信長は大友氏を通して、イエズス会から鉄炮を提供されていた。つまり、信長にとってイエズス会は不可欠な存在だった。 南欧勢力はイエズス会を通して信長に資金援助等を行い、信長はその資金で天下統一に邁進(まいしん)した。南欧勢力の最終目標は、信長を使って中国を征服することで、信長はイエズス会の手駒にすぎなかったという。そして、イエズス会を支えていたのは、堺の商人、朝廷の廷臣、幕府の幕臣らであった。 ところが、途中から信長は独自の路線を走り、イエズス会にとって厄介な存在になっていった。信長はイエズス会に対して、武器と資金を提供してくれる便利な存在にすぎず、キリスト教の教えに関心はなかったという。周知の通り、信長がキリスト教と距離を置いたのは、確かなことである。 そのような事情から、イエズス会が信長を操ることは困難になっていった。逆に、イエズス会にとっても信長が邪魔な存在になり、暗殺を計画。これが本能寺の変の発端になった、というものである。 結果、イエズス会は、光秀に信長を討つよう命じて成功した。秀吉が光秀を討伐したのも、シナリオ通りだった。本能寺の変は、朝廷がイエズス会の意向を受け、光秀に信長討伐の命を下したものであったというのが結論である。 その背後では、津田宗及らが暗躍したという。単に信長や本能寺の変だけの問題ではなく、世界的な規模の非常に壮大な説である。 ところが、そもそもイエズス会には、上記に示したような人脈や資金力がなかったと指摘されており、根本的に実証的な裏付けがほとんどない。おまけに史料の誤読と曲解、そして論理の飛躍によって論が構成されており、全体として破綻している。到底、首肯できない説といえよう。光秀が壮大なことを目論んでいた? 南欧勢力黒幕説と並んで、壮大な説となっているのが「明智光秀制度防衛説」である。以下、この説の概要に触れておこう。 天正元(1573)年、信長は、足利義昭を追放し、「信長政権」を樹立した。しかし、京都には幕府奉公衆と奉行人で構成される「室町幕府」は存続し、その中心になっていたのが明智光秀だったという。 信長は自身が太政大臣になり、家康を征夷大将軍とし、「室町幕府」を滅ぼそうとした。「室町幕府」の重大な危機である。光秀らはその動きを阻止すべく、信長らを討とうとしたという。幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師、月岡芳年が描いた本能寺の変での織田信長=明治11年(静岡県立中央図書館蔵) 光秀は本能寺の変で信長の討伐に成功したが、家康を逃がしてしまった。原因は、細川幽斎の裏切りである。その後、幽斎は備中高松城の秀吉に本能寺の変の情報を伝え、すぐに帰京するよう依頼した。 こうして山崎の戦いで光秀は敗れ、「室町幕府」は滅亡したのである。つまり、光秀は「室町幕府」を存続させるため、信長に反旗を翻したということになろう。これが明智光秀制度防衛説の概要である この説は近年の室町幕府などの研究成果を無視しており、おまけに憶測と論理の飛躍と史料の誤読と曲解を重ねただけで、まったく説得性に欠けている。 例えば、信長が太政大臣になり、家康を征夷大将軍になろうとしたことは、まったく史料的な根拠がない。また、細川幽斎が光秀を裏切ったとか、秀吉に本能寺の変の情報を伝えたなども、単なる憶測にすぎない。 したがって、この説の可否については、否定的な見解が多数を占めているといえる。つまり、成り立たないのだ。 今回取り上げた説については、これまでと同様に次のような共通点がある。 ①信頼できる史料に基づいていない。 ②史料の誤読や曲解などに基づいている。 ③著しい論理の飛躍。 本能寺の変については虚心坦懐(たんかい)に史料を読み解き、冷静になって考えるべきかもしれない。壮大な説ほど注意が必要である。【主要参考文献】鈴木眞哉・藤本正行『信長は謀略で殺されたのか』(洋泉社新書y、2006年)谷口克広『検証 本能寺の変』(吉川弘文館、2007年)渡邊大門『信長政権 本能寺の変にその正体を見る』(河出ブックス、2013年)

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    信長に感謝した正親町天皇が「暗殺の黒幕」など有り得ない

    渡邊大門(歴史学者) 本連載の第1回で取り上げた「朝廷黒幕説」について、今度は別の角度から考察してみよう。まず、織田信長が勧めたという正親町(おおぎまち)天皇の譲位の問題に関しては、その意味をめぐって議論となっており、真っ向から対立する二つの見解に分かれている。① 正親町天皇に譲位を迫り朝廷を圧迫した② 譲位の申し出を受け正親町天皇は感謝の気持ちを持った正親町天皇肖像画(泉涌寺所蔵) 朝廷黒幕説の根拠は①の立場である。信長は嫌がる正親町天皇に譲位を迫り、窮地に追い込み、「打倒信長」をたくらむ朝廷は裏で明智光秀を操って本能寺の変を引き起こさせたというのである。最初に、正親町天皇の譲位問題の経過を確認しよう。 天正元(1573)年12月3日、信長は正親町天皇に対し、譲位を執り行うように申し入れた(『孝親公記』)。正親町天皇は信長の申し出を受け、譲位の時期について関白の二条晴良(はれよし)に勅書を遣わしている。正親町天皇は快諾したのであろう。晴良は勅書を受け取ると、すぐに信長の宿所を訪れ、正親町天皇が譲位の意向を示している旨を家臣の林秀貞に申し伝えた。 すると、秀貞は「今年はすでに日も残り少ないので、来春早々には沙汰いたしましょう」と回答した。晴良は「御譲位・御即位等次第」について、余すところなく伝えたという。「御譲位・御即位等次第」の内容は詳しく伝わっていないが、日程や費用の問題について協議が行われたと推測される。 戦国期には経費負担が問題となり、天皇が即位式を行えない状態が続いた。実際に譲位を行うと、単に天皇位を譲るだけで済まなかった。即位式やその後の大嘗祭(だいじょうさい)などを挙行するのに、かなりの費用が必要であった。それゆえ、信長の譲位の勧めは、誠にありがたい申し出だったといえる。また、ありがたいのは、財政支援だけではなかった。 院政期以後、一般的に天皇は譲位して上皇となり、上皇が「治天(ちてん)の君」として政務の実権を握るようになった。しかし、戦国期に至ると、そうした状況は大きく変化を遂げる。例えば、後土御門(ごつちみかど)、後柏原、後奈良の三天皇は、生存中に譲位することがなかった。彼らが亡くなってから、天皇位は後継者の皇太子に譲られており、それは不本意なことだった。 むろん、そうした事態は、彼らが望んだものではない。即位の儀式や大嘗祭などには莫大(ばくだい)な費用がかかるため、譲位をしたくてもできなかったというのが実情であった。彼らは、費用負担を各地の戦国大名に依頼するなどの努力を惜しまなかったが、ついに希望をかなえることができなかったのだ。正親町天皇の反応は ところで、正親町天皇は信長の譲位の勧めに対して、「後土御門天皇以来の願望であったが、なかなか実現に至らなかった。譲位が実現すれば、朝家再興のときが到来したと思う」と感想を述べている(「東山御文庫所蔵文書」)。文字通り、正親町天皇は大変喜んでいるのだ。結論をいうと、正親町天皇は信長の申し出に対して、いたく感激したのである。東山天皇御即位図(東京大学史料編纂所所蔵) 早速、朝廷では譲位に備えて、即位の道具や礼服の風干(ふうかん。衣装を風に晒(さら)すこと)を行った(『御湯殿上日記』)。しかし、ついに信長の存命中に譲位は挙行されなかった。信長は将軍・足利義昭との関係が破綻してから、その対応に苦慮しており、多忙を極めていた。また、各地の大名との戦いも負担になっていた。譲位が執り行われなかったのは、信長側の事情が大きかったと推察される。 一連の経過を見る限り、信長が譲位を通して天皇を圧迫したという考えは、正しいとは言えない。したがって、従来の説で指摘されたように、信長と朝廷との間に対立があったという考え方は、改めて見直す必要があろう。逆に、正親町天皇は信長の提案を受け、喜んで譲位を受け入れたと解釈すべきなのである。 また、信長が朝廷を圧迫した例として、京都で挙行された馬揃えの件がよく挙げられる。「馬揃え」とは、信長軍団の軍事パレードのようなものである。次は、この馬揃えについて考えてみよう。 天正9(1581)年1月15日、信長は馬廻(うままわり)衆を安土城に招き、左義長(さぎちょう)を催した。左義長では爆竹が鳴らされ、見物人がどっとはやし立てたという。同時に織田家の一門がほぼ勢ぞろいし、信長自らが豪華な衣装を身にまとって登場するという派手なパフォーマンスぶりだった。 とりわけ騎馬行列は多くの見物人の目を引き、皆一同に感嘆の声をあげた。このイベントの話が正親町天皇の耳に入り、強い関心を寄せていたようである。こうして正親町天皇の要望に応え、京都においても馬揃えが挙行されることになった。 同年1月23日、京都における馬揃えの準備は明智光秀に任された。馬揃えの規模は壮大で、参加者の人数も多く、見学者も多数やって来ると予想された。駿馬(しゅんめ)を準備するための努力も最大限に行われ、徳川家康も鹿毛の駿馬を1匹贈っている。馬揃え当日には、正親町天皇のために禁裏(きんり)の東門付近に行宮(あんぐう)が設けられた。 同年2月28日、信長は正親町天皇を招き、禁裏の東門外で壮大な馬揃えを行った(『御湯殿上日記』など)。会場の大きさは、諸説あるものの、長さは南北に約436m~872m、幅は、東西に109m~163mもあったという。馬揃えの狙いとは 参加した武将は約700名であり、見物人は約20万人にのぼったといわれている。騎馬武者の衣装もきらびやかで、公家衆も数多く見学に訪れた。参加した誰もが壮大な馬揃えを見て、信長の威勢に圧倒されたはずである。(iStock) ところで、信長が馬揃えを行った本心は、一体どこにあったのであろうか。朝廷黒幕説の主張によると、信長は正親町天皇に壮麗なる馬揃えを見せ、その軍事力を顕示し、正親町を威圧して譲位を迫ろうとしたという見解だ。ところが、先例にならって正親町天皇は譲位を望んでいたので、こうした見解は妥当ではない。では、信長は何を考え、正親町天皇はどう受け止めていたのだろうか。 信長の目的は、天下(=畿内)が治まりつつある中で、正親町天皇と誠仁(さねひと)親王の奉公すべきものと考えていた。信長の考えは、「天下(=畿内)において馬揃えを執り行い、聖王への御叡覧に備える」と記されている(『信長公記』)。 これは、信長の畿内近国制覇を誇示し、信長軍団の威勢の顕示と士気高揚を目的としたものと指摘されている。結果、「このようにおもしろい遊興を正親町天皇がご覧になり、喜びもひとしおで綸言(りんげん)を賜った」とある(『信長公記』)。つまり、正親町天皇は威圧されたのではなく、大喜びだったのだ。 おそらく信長は天皇の権威を熟知し、利用しながら天下(=畿内)統一を進めようとしたのだろう。したがって、自らの軍事力を正親町天皇に誇示し、威圧するという考えは当たらないと考えられる。威圧するならば、ほかに方法はいくらでもあったはずで、あまりに回りくどい方法といわざるをえない。 馬揃えの意義に関しては、天下(=畿内)統一をもくろむ信長が、畿内周辺の諸勢力を集めて自らの力を顕示した点にある。正親町天皇を招き、その面前で馬揃えを執り行ったことに大きな意味があった。別に、正親町天皇を窮地に追い込み、譲位を迫ろうとした意図はない。繰り返しになるが、正親町天皇は譲位に賛成だったのである。 馬揃えは天皇を推戴し、自らの権威を高めようとした信長の思惑である。馬揃えという一大イベントは京都だけでなく、全国各地に情報が伝わったに違いない。そうであるならば、信長の本懐は十分に達せられたことになる。【主要参考文献】・桐野作人『だれが信長を殺したのか 本能寺の変・新たな視点』(PHP新書、2007年)・谷口克広『検証 本能寺の変』(吉川弘文館、2007年)・渡邊大門『信長政権 本能寺の変にその正体を見る』(河出ブックス、2013年)

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    足利義昭「将軍黒幕説」が成り立たないこれだけの理由

    渡邊大門(歴史学者) 前回は、本能寺の変における「朝廷黒幕説」の一つの原因とされる「暦問題」を取り上げ、その説が成り立たないと結論付けた。 ほかにも重要な黒幕説としては、将軍・足利義昭が黒幕だったという「将軍黒幕説」がある。この説が有力視されるのは、義昭が織田信長と決裂して信長包囲網を形成し、中国の毛利輝元や大坂本願寺(石山本願寺)などと結託し、信長を討とうとしていたからだろう。そのためには、明智光秀の助力が必要だった。以下、最初に当時の政治情勢を簡単に取り上げ、次に将軍黒幕説の当否を考えることにしたい。室町幕府を開いた足利氏ゆかりの鑁阿寺本堂。国宝に指定された=2013年5月11日、栃木県足利市 永禄11(1568)年9月、義昭は信長に推戴(すいたい)されて、念願の上洛(じょうらく)を果たした。しかし、両者は政治志向の相違などもあり、天正元(1573)年に関係が破綻した。義昭は信長の圧倒的な軍事力に敗北を喫し、紆余曲折を経て、天正4年に備後国鞆(広島県福山市)を訪れた。こうして義昭は、毛利輝元の庇護を受け、各地に「打倒信長」の檄(げき)を飛ばしたのである。 しかし、ことは義昭の思い通りに進まなかった。天正5年以降、信長の命により羽柴(豊臣)秀吉が中国経略に出陣すると、たちまち毛利氏は劣勢に追い込まれた。天正10年3月以降、毛利方の備中高松城(岡山市北区)は包囲され、秀吉の水攻めによって苦境に立たされたのである。 そして、同年6月2日に本能寺の変が勃発した。変は偶然起こったのではなく、義昭が光秀と連絡を取り合って、計画的に起こしたというのが将軍黒幕説の主張である。義昭は積極的に有力な諸大名と関わりを持って来たので、光秀と関係していたとしても不思議ではない。しかし、本能寺の変の前に義昭と光秀が結託していたことを示す決定的な根拠史料を欠くのは大きな問題で、批判も数多くある。以下、将軍黒幕説の根拠を確認することにしよう。 大村由己(ゆうこ)の手になる『惟任(これとう)謀反記』には、「光秀は公儀を奉じて2万余の兵を揃えたが、備中に下ることなく密かに謀反を企てた(現代語訳)」という記述がある。本能寺の変の直前の記述である。本来、光秀は本能寺を襲撃するのではなく、備中高松城を攻める秀吉の救援に向かう予定だった。資料をどう解釈するか 将軍黒幕説の主張者の指摘の通り、文中の「公儀」を義昭と考えると、「光秀は義昭を擁立して謀反を起こした」という解釈になり、将軍黒幕説が成立する。しかし、この「公儀」の語については、すでに指摘があるように、義昭ではなく信長を意味する。 改めて先の史料を解釈すれば、「光秀は信長の意を奉じて2万余の兵を揃えたが、備中に下ることなく、密かに謀反を企てた(現代語訳)」ということになる。2万騎の兵を集めたのは義昭のためではなく、信長の命令を受け、備中高松城に向かう予定だったのだ。 二つ目は、『本法寺文書』の乃美兵部丞(ひょうぶのじょう)宛て天正10年6月13日付足利義昭御内書をめぐる解釈である。この御内書は「信長を討ち果たしたうえは、上洛の件を進めるよう毛利輝元、小早川隆景に命じたので、いよいよ忠功に励むことが肝要である…」と解釈された。 冒頭で示した「信長討果上者(原文)」を「信長を討ち果たしたうえは」と解釈することにより、義昭が光秀に命じて信長を討ち果たしたと理解するのがポイントである。 しかし、こちらも「信長討ち果つる」と読み、「信長が討ち果たされたうえは」と解釈すべきと指摘されている。つまり、義昭が光秀に命じて討たせたというよりも、信長が本能寺の変で横死したという解釈になる。そうなると、やはり義昭と光秀との共謀という説は、成り立ちにくいと考えられる。 最後は、『森文書』の土橋平尉(つちはしへいのじょう・紀州雑賀の土豪)宛て天正10年6月12日付明智光秀書状の解釈である。最近になって美濃加茂市民ミュージアムに原本で公開されたが、もともと『森文書』の写しが知られていた。明智光秀が天正10年6月12日に土橋重治に宛てた書状の原本と確認された「土橋重治宛光秀書状」(美濃加茂市民ミュージアム所蔵) 土橋氏は紀州にあって反信長の行動を取っており、毛利氏や義昭とも連絡を取り合っていた。土橋氏はこれ以前に光秀に書状を送っており、この光秀書状はその返事なのである。つまり、この書状は義昭と光秀を結ぶ接点となろう。 もともと同史料の冒頭部分は「なお、受衆が上洛するならば、協力することが肝要である(現代語訳)」と解釈されてきた。文中の「受衆」は、義昭の謀反に応じた者たちと理解され、首尾よく信長を果たした光秀と義昭が事前に連絡を取り合ってきたと考えられたのである。「受衆」とは何を示すのか しかし、現在は「受衆」の崩し字を「急度」と読むべきであり、先の解釈は成り立たないと指摘されている。そのほうが妥当な解釈であり、光秀と義昭が事前に通じていたとの証左にはならないと考えられており、今では「受衆」説は撤回されている。 何より重要なのは、あくまで光秀が義昭の支援を表明したのは、6月12日でのことであって、それ以前に両者が打倒信長を画策した史料は残っていない。つまり、将軍黒幕説の主張者は、この時点で両者は協力関係にあったのだから、それ以前に遡及(そきゅう)することができると考えているのだろう。 そのような論法が通用するとは、とても思えない。変以前に光秀と義昭が結託した確かな史料を挙げるか、納得しうる状況証拠を示すよりほかはないと考える。現状の説明では、とても将軍黒幕説が受け入れられる余地はない。 変後の光秀は、丹後の細川藤孝(幽斎)・忠興父子や大和の筒井順慶らに味方になってくれるよう要請していたが、色よい返事をもらえなかった。したがって、光秀が味方を募るべく、変後に目的を同じくする義昭と結託したことは、特段不思議なことではない。現状の史料残存状況では、そのように考えるのが妥当だろう。 実は、本能寺の変を4日経過しても、毛利氏は正しい状況をつかんでいなかったと指摘されている。6月6日付の小早川隆景の書状によると、「京都のこと、去る1日に信長・(長男の)信忠父子が討ち果て、同じく2日に大坂で(三男の)信孝が殺害されました。津田信澄、明智光秀、柴田勝家が策略により討ち果たしたとのことです」とある(『萩藩閥閲録』)。信長時代の本能寺跡=2011年5月18日、京都市中京区(木戸照博撮影) 信長が殺されたのは未明なので1日でよいとしても、信孝が殺害されたというのは明らかに誤報である。光秀の勢力に津田信澄や柴田勝家が加わっているのもおかしい。義昭が光秀と結託していたならば、もっと正確な情報を得られるはずではないか。 そもそも義昭だけが正しい情報をつかんで光秀とともに打倒信長を果たし、毛利氏には適切な情報を与えないというのは不可解である。苦戦していた信長に挑むならば、義昭は光秀だけでなく、毛利氏を交えて計画を練るべきだろう。単純に考えてみても、現状では将軍黒幕説は成り立たないのである。 将軍黒幕説を成り立たせるには、より合理的な史料解釈を示すか、本能寺の変の前に義昭と光秀が結託していたことを示す決定的な根拠史料を挙げるしかないだろう。【主要参考文献】・谷口克広『検証本能寺の変』(吉川弘文館、2007年)・渡邊大門『信長政権 本能寺の変にその正体を見る』(河出ブックス、2013年)

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    本能寺の変、朝廷黒幕説を覆すキーワードは「日食」だった

    渡邊大門(歴史学者) 天正10年(1582)6月2日、京都の本能寺において、織田信長は明智光秀に襲撃され自害した。光秀が謀反を起こした原因については現在までにさまざまな指摘がなされており、いまだに注目を浴びるのは、光秀の背後に黒幕がいたという説だ。最近では、「土橋重治宛 明智光秀書状」(美濃加茂市民ミュージアム所蔵史料)の原本が発見され、光秀が室町幕府の再興を狙ったのではないかという議論が活発になっている。この件については後日詳述する「将軍黒幕説」の中で取り上げたい。 さらに他にも、朝廷が光秀の黒幕であったという説がこれまでも有力視されていた。つまり、信長が朝廷を圧迫あるいは蔑(ないがし)ろにしたため、反発した朝廷が光秀を背後から操り、信長を討伐させたというのである。では、信長が朝廷を圧迫あるいは蔑ろにした事実というのはあったのだろうか。その一つ一つを確認することにしよう。「宣明暦」吉田光由著 寛永21年(1644)(国立天文台所蔵) 最初に取り上げるのは、暦の問題である。信長はこれまで朝廷が採用していた宣明暦を止めるよう要望し、地方で使用されていた三島暦の採用を強要したといわれている。暦といっても大した問題でないように思われるが、実際は時間の支配に関わるもので大きな意味があった。暦の採用は朝廷の権限に属するものであり、他者が口出しすべき問題ではないということだ。 信長が三島暦を強要した理由については、これまでどのように考えられてきたのか。一説によると、本来は朝廷の掌中にあった「時の支配」を信長が掌握し、正確な暦法の確立を目指したという指摘がなされている。これを平たくいえば、信長が朝廷の権限の一つを奪取しようと考えたということになる。以下、経緯を見ることにしよう。 天正10年1月、信長は陰陽頭・土御門久脩(つちみかど ひさなが)が作成した宣明暦を取り止め、尾張国など関東方面で使用していた三島暦の採用を要望した(『晴豊記』など)。こうした要望は異例でもあり、信長が朝廷を圧迫したものの一つと解釈されてきた。 宣明暦とは中国から伝来した暦法のことで、日本には貞観(じょうがん)元年(859)に伝来した。以来、宣明暦は江戸時代の貞享(じょうきょう)元年(1684)までの約800年間も利用される。しかし、宣明暦には日食や月食の記載があっても、実際には起こらなかったことがたびたびあり、不正確であるという大きな問題があった。そのような事情も加味され、貞享元年以降は渋川春海(しぶかわ はるみ)が作成した貞享暦が用いられるようになる。三島歴を推した理由とは? 信長が要望したのは、以下の内容である。宣明暦では天正11年正月が閏(うるう)月に設定されていたが、三島暦では天正10年12月が閏月だった。信長は三島暦に合わせて、天正10年12月を閏月にするよう要望したのである。検討された結果、信長の意に反して、朝廷は宣明暦の天正11年正月に閏月を定めた(『天正十年夏記』)。この時点で、信長は強硬な姿勢や態度をとったわけではなく、いったんは納得したのである。信長が採用するよう要望した「三島暦」(国立天文台所蔵) 暦問題はこれで終息せず、信長は再びこの問題を蒸し返す。事態が急展開を遂げたのは、本能寺の変の前日の天正10年6月1日のことだった。この日、公家衆は信長の滞在する本能寺を訪れた。そのとき信長は公家衆に対して、再び宣明暦から三島暦に変更するよう迫ったのである。これは、いったいどういうことなのだろうか? 最近の研究によると、信長が変更を迫った理由は宣明暦が同年6月1日の日食を予測できなかったからであると指摘されている。先述のとおり、宣明暦は日食や月食の予測が正確にできなかった。では、信長はどのような理由で、日食が把握できなったことを問題視したのだろうか。 当時は現在のように科学が十分に発達しておらず、日食や月食は不吉なものと捉えられていた。日食や月食が起こると、朝廷では天皇を不吉な光から守るため、御所を筵(むしろ)で覆うようにしていたのだ。今となっては迷信であるが、当時の人々は天皇の身の安全を守ろうと真剣に考えていたのである。 同年6月1日、信長は自身で日食を確認し、宣明暦の不正確さを再認識した。宣明暦では不十分であり、三島暦の方が正確であると、信長は改めて認識した。つまり、信長が暦の変更を強く迫ったのは、天皇を不吉な光から守るためであり、そのことを公家衆に伝えたかったのだ。信長は自身が慣れ親しんだ三島暦を用いるようゴリ押ししたのではなく、あくまで天皇の身を守ろうとしたのである。 これまでの流れを見る限り、信長が三島暦の採用を提案した理由は、天皇の身を案じたと見る方が自然なようである。信長は「天皇を守りたい」という親切心で、三島暦の採用を進言したと考えられる。少なくともこの一件については、信長が朝廷を圧迫あるいは蔑ろにした事例とはいえず、逆に感謝される出来事だったといえる。よって、暦の問題は朝廷黒幕説の適切な理由の一つと言えないようだ。【主要参考文献】・桐野作人『だれが信長を殺したのか 本能寺の変・新たな視点』(PHP新書、2007年)・渡邊大門『信長政権 本能寺の変にその正体を見る』(河出ブックス、2013年)