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    悠久の秘儀「大嘗祭」の真髄

    代の秘儀とされるだけに、その全容を知る人は少ない。新時代を迎え、費用やあり方をめぐる議論が渦巻く中、皇室評論家の谷田川惣氏が「大嘗祭」の歴史や本義をひも解く。

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    知られざる一世一代の儀「大嘗祭」とは何か

    谷田川惣(著述家、皇室評論家) 今年5月に今上天皇陛下が皇位を継承され、平成から令和への御代替わりが行われた。本稿を書いている10月から11月にかけては、まさに一連の皇位継承儀礼の真っただ中で、重要儀式も相次ぐ。 平安時代以降、皇嗣が皇位に就くことを践祚(せんそ)といい、皇位に就いたことを内外に示す儀礼を即位という。今回は5月1日の践祚直後にまず「剣璽等承継(けんじとうしょうけい)の儀」が行われた。皇位継承があったその日に剣璽(三種の神器のうちの天叢雲剣《あめのむらくものつるぎ》、八尺瓊勾玉《やさかにのまがたま》)と御璽(ぎょじ、天皇が公式に用いる印章)、国璽(こくじ、国家を代表する印章)を新帝が継承する儀式だ。そして、同日に新天皇が内閣総理大臣ら三権の長をはじめ国民の代表者と会見する「即位後朝見の儀(そくいごちょうけんのぎ)」が行われた。 少し時間を空けて10月22日には天皇が即位を国の内外に宣明する「即位礼正殿の儀(そくいれいせいでんのぎ)」が行われ、各国元首、首脳らや国内の代表が参列。さらに、一連の皇位継承儀礼のクライマックスにあたるのが11月14日の夕方から15日未明にかけて行われる大嘗祭(だいじょうさい)だ。 「歴代の天皇のなさりようを心にとどめ、自己の研鑽さんに励むとともに、常に国民を思い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、日本国及び日本国民統合の象徴としての責務を果たすことを誓い、国民の幸せと国の一層の発展、そして世界の平和を切に希望します」という即位後朝見の儀での天皇陛下のおことばは、まさに歴史と伝統に基づく天皇のご存在のあり方を表している。天皇の行いとは、宮中祭祀から全国各地へのご訪問などのご公務まですべてが国家の繁栄と国民の幸せを願う祈りなのだ。 また、元旦の四方拝(しほうはい)に始まる宮中祭祀の中で、最も重要な祈りの儀式となるのが毎年11月23日に行われる新嘗祭(にいなめさい)である。天皇が五穀の新穀(しんこく)を皇祖神・天照大神(あまてらすおおみかみ)及び天神地祇(てんじんちぎ)に供え、自らもこれを食べ、その年の収穫に感謝する。古来、一般庶民も新嘗祭までは新米を口にしない風習があったが、現代にいたるも天皇陛下は新嘗祭を終えるまで新米を食されないと言われている。 天皇が即位後に初めて行う新嘗祭が大嘗祭である。即位の礼で皇位の継承を内外に宣明した天皇が、日本国の祭り主の地位として初めてその年の収穫を神に報告し感謝する一代一度限りの儀式だ。 毎年の新嘗祭は常設の建造物である神嘉殿(しんかでん)で行われるのに対して、大嘗祭は仮設・新造の新宮を皇居・東御苑に建てて執り行う。柴垣で外部と区画し、中心線に回廊を設けて、大嘗祭の神事が斎行される正殿として、東に悠紀殿(ゆきでん)、西に主基殿(すきでん)の二殿を配置し、神聖な食前を調理する膳屋(かしわや)、祭祀に先立ち天皇が沐浴(もくよく)を行う廻立殿(かいりゅうでん)などが設けられる。これらの諸殿舎を総称して大嘗宮(だいじょうきゅう)と呼ぶ。 令和の大嘗祭は11月14日午後6時半から「悠紀殿供饌(ゆきでんきょうせん)の儀」、同15日午前零時半から「主基殿供饌(すきでんきょうせん)の儀」が執り行われる。1990(平成2)年に使用された大嘗宮=皇居・東御苑 悠紀殿と主基殿のそれぞれで、大嘗祭のたびに選ばれる斎田でとれた稲の初穂でご飯が炊かれ、正殿の神座(しんざ)に天照大神及び天神地祇をお迎えし、天皇が神膳を捧げて共食される。古事記にある「大嘗」 斎田の選定では、47都道府県を東西に分け、亀の甲羅で占う「斎田点定の儀」によって、それぞれから「悠紀国(地方)」「主基国(地方)」がまず選ばれる。その地の水田から斎田が決められ、「斎田抜穂(ぬきほ)の儀」で収穫された稲の新米が皇居へと運ばれる。今回の斎田は栃木県高根沢町大谷下原と京都府南丹市八木町氷所新東畑の水田が選ばれた。 大嘗宮は伝統的に木造建築で統一されてきたが、今回は神前に供える食事を調理する膳屋と、新穀を保管する斎庫(さいこ)をプレハブ(鉄骨造)としたこと、さらには、正殿の屋根を茅葺きから板葺きへと変更したことが物議を醸している。 こうした経費節減でも人件費、資材価格の上昇を吸収しきれず、建設費は前回の14億円を超える見通しだというのが宮内庁の見解だ。 古来、大嘗宮は大嘗祭に先立つ1週間前から悠紀・主基国の人々の手によって5日間で完成させる黒木造りの簡素な形式だった。大正天皇の大嘗祭にかかわった民俗学者、柳田國男は古くからの伝統に近代的な要素が入り込んでいることも指摘しており、伝統と新儀の調和が歴史と文化をつくるともいえるので、何が正解であるかは時代とともに常に論じられることでもある。 今回プレハブとする膳屋と斎庫も、他の木造殿舎との違和感で儀式の雰囲気を損なうことがないよう、外装をむしろ張り、白帆布張りとするという。ただ、直接神事とは関係しない膳屋や斎庫と違い、正殿の造りは五穀豊穣を祈願する大嘗祭の意義にも関係する。伝統儀礼の破壊ではないかという疑問はやはり残る。 〝大嘗〟(おおにえ)という言葉が最初に出てくるのは「古事記」に登場する「天の石屋戸(あめのいわやど)」神話である。スサノヲが、天照大神の水田を壊し、天照大神が大嘗を召し上がる神殿も穢(けが)すなどの悪行を続けたため、怒った天照大神が石屋戸の中に入って出てこられず、この世は真っ暗闇になってしまったという有名な話である。ここにある大嘗とは、「日本書紀」には新嘗と記されていることからも新嘗祭の意味であることがうかがえる。 その後も、「日本書紀」には幾度か大嘗や新嘗の文言が登場するが、大嘗祭が一代一度のものとして確認できるのは持統(じとう)天皇からだといえる。持統天皇の夫であった前代の天武(てんむ)天皇が即位したあとの初めての秋に播磨・丹波の二国の人たちが参加する大嘗祭を行っていたという記載があるものの、翌年以降にも二度同じような記述が見られ、一代一度の大嘗祭とは考えにくい。 天武天皇の御代に大嘗祭の原型が形成され、持統天皇の御代から天皇一代一度の大祭となったと考えるのが妥当であろう。古代国家から律令国家へと移行していく過程で大嘗祭が確立されていくことになったと考えれば納得できる。当時の律令国家とは今で言うところの近代国家であり、天皇即位において初めての新嘗祭を国家祭祀として盛大に執り行うようになっていったのだろう。皇室祭祀にとって一つの転換期であったことがうかがえる。 一連の皇位継承儀礼を締めくくる最も重要な祭祀儀礼とされる大嘗祭であるが、「天皇は大嘗祭を終えてから正式な天皇になる」という見解をしばしば目にする。すなわち大嘗祭を終えていない天皇は「半帝」であり完全な天皇とはいえない、大嘗祭は真に天皇としての資格を獲得する儀式であるという。皇位継承に伴う重要祭祀「大嘗祭」で使われる新米を納める「新穀供納」の行事=2019(令和元)年10月15日、皇居・東御苑(代表撮影) その根拠の一つとされているのが、天皇在位期間が即位からわずか78日間と歴代最短で、即位式も大嘗祭も行われなかった仲恭(ちゅうきょう)天皇(1218~1234年)である。明治3年に諡号(しごう)されるまで「半帝」などと呼ばれることもあった。仲恭天皇は4歳で父の順徳(じゅんとく)天皇から皇位を継承したが、直後に順徳帝らが承久(じょうきゅう)の変を起こし、鎌倉幕府の意向で譲位して母の実家である九条家で過ごして17歳で崩御された。 ただ、この一例だけで、大嘗祭が完全なる天皇となる儀式という説が広まったわけではない。前述の通り、天皇一代一度の祭礼として大嘗祭が執り行われたのは天武天皇から持統天皇の頃であるし、応仁の乱(1467~1478年)後は221年間も大嘗祭が行われていなかった。政教分離に反しない 「大嘗祭で完全な天皇になる」という説が学術の分野にまで広まる原動力となったのは、柳田とならぶ民俗学の巨頭、折口信夫(しのぶ)が昭和3年に世に問うた「真床襲衾」(まどこおふすま)論であろう(「襲衾」は「追衾」「覆衾」との表記もある)。折口の『大嘗祭の本義』などによれば、「日本書紀」には天照大神の孫ニニギノミコトが真床追衾にくるまれて天孫降臨したと記されおり、大嘗祭では正殿の神座に設けられる寝具(御衾、おふすま)に新帝がお入りになることで、歴代不変の天皇霊をお身体に入れられて完全な天皇位を得るという秘儀が行われるという。 また、ニニギノミコトの子で、山幸彦(やまさちひこ)として知られる彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)と豊玉姫(とよたまひめ)の間に子(神武天皇の父親)が生まれたときにも真床追衾で包んだと伝えられている。真床追衾が天津神(あまつかみ、天照大神をはじめ高天原にいた神々)直系の象徴とされることも折口の〝仮説〟を補強し、折口説は大嘗祭研究に相当な影響力をもったようだ。 しかし、神道学者であり國學院大學神道文化学部名誉教授の岡田莊司氏が、折口説を明確に否定している通り、真床覆衾にかかわる神座での所作が記された文献史料は皆無である。折口自身も言明していたように、あくまで〝仮説〟だと言うほかない。 やはり大嘗祭の本旨は、天皇自らの親祭(しんさい)で、神膳(しんぜん)の御供進(ごきょうしん)と共食が行われることにあるだろう。大嘗祭で完全な天皇となるのではなく、即位の礼で皇位を継承したことを内外に宣明した正式な天皇が執り行う最も重要な祭礼ということである。 剣璽等承継の儀や即位礼正殿の儀が国事行為とされているのに対し、大嘗祭は皇室行事として扱われる。「皇室の私的な行事」ということではなく、「皇室の公的な行事」という位置づけである。憲法に定められる国事行為とは内閣の助言と承認を要するが、皇室の伝統祭祀である大嘗祭はその性質上、内閣が関与するものではないからだ。 大嘗祭への国費支出について日本国憲法の政教分離原則の観点から違憲であるという意見もある。秋篠宮殿下も昨年のお誕生日に際してのおことばで、憲法との関係で宗教色の強い大嘗祭は天皇及び皇族の日常の費用などに充当する内廷費で行うべきではないかというご意見を示された。平成の大嘗祭をめぐって憲法訴訟が起こされたことに配慮なされたのかもしれない。 しかし、大嘗祭に関する違憲訴訟はすべて退けられ、政教分離には反しないというのが司法の確定判断である。その判断基準となったのが昭和52年の津地鎮祭(つじちんさい)訴訟だ。最高裁判所は「政教分離原則は、国家が宗教的に中立であることを要求するものではあるが、国家が宗教とのかかわり合いをもつことを全く許さないとするものではなく、宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的及び効果にかんがみ」て政教分離原則との適合性が判断されるとしている。いわゆる「目的効果基準」である。そして地鎮祭については「社会の一般的慣習に従つた儀礼を行うという専ら世俗的なもの」という判断を示した。 最高裁の「国家が宗教とのかかわり合いをもつことを全く許さないとするものではない」との解釈は重要だ。国際常識でも政教分離原則とは、国家(政府)と教会(宗教団体)の分離の原則のことをいう。国家が特定の宗教団体に利するようなこと、あるいは圧力をかけるようなことを禁じることが目的にある。平成の大嘗祭に臨まれる上皇さま=1990(平成2)年11月22日、皇居・東御苑 例えば宗教法人はお布施など宗教活動にともなう収入や境内建物などに関して非課税とされているが、言い方を変えれば本来政府に入るべき収入を宗教法人に供与していることになる。特定の宗教に対して利益を供与すれば問題だが、公平の観点に基づく関与であれば政教分離の規定に反することはないということだ。 大嘗祭を国費で斎行しても、特定の宗教団体を利することもなければ、不利益を与えることにもならない。天皇が国家や民のために祈る祭祀は、およそ2千年前から続くわが国の伝統儀礼そのものであり、憲法上の政教分離に反することにはならないという認識を、大嘗祭を前に国民全体で共有しておきたい。※主な参考文献『大嘗祭と古代の祭祀』(岡田荘司著)『古事記(上)全訳注』(次田真幸著)『日本書記(一)・(五)』(坂本太郎/井上光貞/家永三郎/大野晋校注)

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    今こそ文化の日を「明治の日」に制定すべきである

    」という名から分かるように、これらは祝賀の日であると同時に祭祀の日である。また、一見して分かる通り、皇室に関係するものが大半だ。明治天皇 この中で、「明治節」は他の祝祭日と少し異なる。先にも述べたように11月3日は明治天皇の御生誕日であり、その御在位中は「天長節」であった。明治天皇が崩御されて大正天皇が御即位されると、この日は祝日でなくなったけれども、明治天皇を仰慕(ぎょうぼ)し、明治の御代を追憶する契機となすべく「明治節」の制定を求める国民運動が展開され、それを受ける形で、昭和2年3月3日に勅旨(ちょくし)をもって「明治節」が定められた。すなわち、「明治節」は皇室に関係すると同時に国民の思いが具現化した希有(けう)な祝日なのだ。GHQが強い難色 日本国憲法が制定されたときの為政者は、こうした「明治節」を巡る経緯を知っている。だからこそ、どうしても大日本帝国憲法を改正せねばならぬなら、その公布日を「明治節」に合わせることで、過去との継続性を少しでも担保しようとしたのではないか。 明確な証拠がない以上、これは筆者の臆測に過ぎぬが、その後に祝日法が制定される過程で、「憲法記念日」として11月3日を祝日にしようとする日本側に対し、連合国軍総司令部(GHQ)は強い難色を示したと、作家で参議院文化委員長であった山本有三は振り返っている(「文化の日がきまるまで」)から、当たらずとも遠からずであろう。 そもそも、祝日法の第1条には「自由と平和を求めてやまない日本国民は、美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるために、ここに国民こぞつて祝い、感謝し、又は記念する日を定め、これを『国民の祝日』と名づける」とあり、日程や名称を定めるに際して日本国憲法の理念にのっとることが強く意識されていた。 そのため、理念に反するとされたものは、世論調査で上位を占めていても「国民の祝日」から除外された。その筆頭は神武(じんむ)建国に由来する「紀元節」であるが、明治の御代を回顧する「明治節」もまた排除された。つまり、「国民の祝日」とは言うものの、制定において国民の意志は必ずしも反映していなかったのである。 最終的には、「憲法記念日」が5月3日とされる一方、11月3日は「文化の日」と名付けられた。先に触れた山本は日本国憲法を象徴する語として「文化の日」という名称について過去との断絶を強調しているが、「明治節」との連続性を意識していた国民は少なくなかったようだ。 昭和26年3月9日、参議院予算委員会において吉田茂首相が紀元節の復活を明言した。同年9月8日にサンフランシスコ講和条約が調印されると、神社本庁などが中心となって「紀元節」復活の運動が進められる。 昭和32年2月、「建国記念日」の制定を目指す祝日法改正案が議員立法として自民党から提出され、衆議院で可決されたものの、参議院では審議未了のまま廃案となった。その後、日米安全保障条約改定を巡る混乱を挟み、7回にわたって提出されるも、野党は神武建国に由来する非科学的な祝日であるとして激しく抵抗し、成立に至らぬまま時だけが過ぎていく。 昭和40年3月、佐藤栄作内閣は祝日法改正案を提出する。「敬老の日」(9月15日)、「体育の日」(10月10日)と併せて「建国記念の日」の実現を目指すものであった。この案は会期終了により審議未了廃案となったが、翌年3月に再提出される。しかし、野党の反対は強く、「建国記念の日」の日付は政令で別に定めるとして与野党が妥協し、改正案は可決成立した。その後、建国記念日審議会の答申に従い、佐藤内閣は2月11日を「建国記念の日」と定める。明治天皇陵=2012年12月、京都市伏見区(志儀駒貴撮影) さて、次は「明治節」である。けれども、そこに至る道のりは遠い。そもそも、占領下に皇室典範が改定された結果、元号の法的根拠は失われており、「明治」という元号に関わる祝日の制定を云々する情況になかった。しかし、昭和54年6月12日に元号法が成立し、この問題はクリアされる。見えてきた法案提出 昭和64年1月7日に昭和天皇が崩御された後、「明治節」の例に倣って4月29日は「昭和」に関する祝日とすべきとの主張もあったが、竹下登内閣は野党に配慮して「みどりの日」とした。これに対し、「昭和の日」制定を目指す有志が平成5年に「『昭和の日』推進ネットワーク」を結成して祝日法改正の請願署名運動を展開する。 そして、平成10年4月に超党派の「『昭和の日』推進議員連盟」が結成される。その後、12年3月に議員立法として自民党・自由党・公明党から提出され、参議院では可決されるも、森喜朗首相の「神の国発言」の影響で衆議院における採決が見送られた挙げ句、解散により審議未了のまま廃案となった。続いて、14年7月に自民党と保守新党から再提出され、衆議院では可決されるものの、またもや解散により審議未了のまま廃案となった。そして、16年3月に自民党・公明党から提出されたものがようやく衆参両院で可決され、17年5月に「昭和の日」が実現した。 「昭和の日」の実現を受けて、「明治の日」制定運動がスタートしたのは平成20年11月のこと。筆者も当初から運動に携わってきたが、23年10月には「明治の日推進協議会」を結成し、祝日法改正の請願署名運動を展開するとともに、国会議員に対する働きかけを行ってきた(詳細は協議会のウェブサイトを御覧いただきたい)。その甲斐あって「明治150年」にあたる30年5月には「明治の日を実現するための議員連盟」の設立総会が設立された。 ここで強調したいのは、「明治の日」制定は明治時代を一方的に賛美しようというものではないということだ。 明治時代は、西洋列強によるアジア侵略に直面した島国が内乱を克服し、日清戦争や日露戦争という対外戦争に勝利した結果、不平等条約の改正を成し遂げて欧米列強と対等な関係を築き上げた輝かしい時代であるが、影の部分も少なくない。倒幕に伴って成立した新政府の要職は薩長土肥各藩の出身者によって占められる一方、奥羽越各藩の出身者は冷遇された。さらに、殖産興業政策を推進する中で、公害が発生したり、貧富の差が拡大したりする。ただ、様々な困難や軋轢(あつれき)はありながらも、明治天皇を中心として国民が団結し、民族としての自立を守った明治時代を虚心坦懐(たんかい)に振り返る契機としたいという思いから、私たちは活動してきた。 また、「文化の日」の趣旨を全否定しようとするものでもない。議員連盟が検討中の法案には、「近代化を果たした明治以降を顧み、自由と平和を愛し、文化をすすめ、未来を切り拓(ひら)く」(産経新聞 令和元年10月23日)とあり、明治から現代に至る近代日本の歩み全体を通じて「自由と平和を愛し、文化をすすめる」精神を見出している。戦前のわが国を全否定しようとする「文化の日」擁護の言説よりもバランスの取れた公正な歴史観に基づくものだ。 去る10月30日、請願署名が100万筆を突破したことを報告すると共に、法案の早期提案・早期可決を求める集会が、衆議院第二会館において開催された。集会には、自民党のみならず国民民主党と日本維新の会からも国会議員が出席し、超党派の有志による法案提出という道筋が見えてきた。東京・永田町の憲政記念館で開かれた「明治の日」への名称変更を目指す総決起集会 =2019年1月29日 令和の御代を迎えた今、温故知新の精神でグローバル化した世界の中におけるわが国のあり方を問い直すためにも、明治以来の近代史を振り返る「明治の日」が持つ意味は極めて大きい。

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    世界から見た天皇陛下

    わが国の歴史は天皇の存在抜きには語れない。「万世一系」「万邦無比」の言葉が象徴するように、古代から現代に至るまで天皇は決して途絶えることがなかった。それは国民の安寧と幸せを祈り続ける天皇の姿が、日本人の心に深く刻まれているからに他ならない。ならば、唯一無二たる天皇の存在は海外の目にはどう映るか。

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    ケント・ギルバート手記「悲惨な過去を超越した昭和天皇の大御心」

    危機に瀕(ひん)する自国を鑑み、「多数の餓死者を出すようなことはどうしても自分には耐え難い」と述べ、皇室の御物の目録を松村に差し出し、「これを代償として米国に渡し、食糧にかえて国民の飢餓を一日でもしのぐようにしたい」と伝えられたといいます。 これに対し、幣原喜重郎首相を介して目録を差し出された連合国軍総司令部(GHQ)のマッカーサー元帥は、それを受け取ることなく、「自分が現在の任務についている以上は、断じて日本の国民の中に餓死者を出すようなことはさせぬ。必ず食糧を本国から移入する方法を講ずる」と請け合ったといいます。 占領期の約6年間で日本が米国から受けた経済援助の総額は、約18億ドル(6480億円)に上り、この援助がなければ日本の復興は考えられなかったと言われています。その恩をいつまでも忘れることなく、感謝の意を述べられた天皇に米国民はいたく感動し、それ以降、天皇の訪米に否定的だったマスコミ報道も好意的に変わったといいます。 当時のニューヨーク・タイムズ紙は、社説の中で「30年前の仇敵(きゅうてき)、勝者と敗者はきょう、政治、経済上のパートナーとなった」と評しました。戦争という悲惨な過去をも超越し、まさに天皇の大御心に米国が包まれたことを象徴する報道でした。東京・有楽町で「即位礼正殿の儀」を報じるテレビ中継を見る人たち=2019年10月22日午後 2千年以上も万世一系の血を受け継ぎ、世俗の権力から一定の距離を置きつつ、ひたすら国民の安寧を祈り続ける天皇。敢えて使いますが、なぜこのようなシステムが生まれ、脈々と続いてきたのか、はっきり言って謎です。世界で一国だけ突出した長い歴史を有し、戦後のGHQ占領期以外には他国の支配を受けた歴史を持たない、日本という特殊な国だからこそ紡がれた「奇跡」としか言いようがありません。 22日の即位礼正殿の儀では、大勢の外国要人が出席することによって、少しでも外国人の天皇に対する理解が深まることを切望してやみません。

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    石平手記「天皇陛下は無私だからこそ無敵」

    滅して跡形もない。こうした光景を中国で見ることはもはや永遠にできないのだ。 これに対し、日本の天皇と皇室は、神武天皇以来、126代、2600年以上続いている。このような万世一系の日本の皇室と天皇は、長くても数百年で滅んでしまう中国の王朝といったいどこが違うのか。来日の翌年に日本の御代替りを拝見してから、留学生だった私はずっと、この大いなる問題意識を持っていた。 留学生活が長くなり、日本の歴史や文化に対する知識と理解が深まっていくにつれ、徐々に、この大いなる疑問を解いてきた気がするが、「日本の天皇の秘密」を自分なりに「分かった!」と思ったのは、来日の5年後に、一般公開された京都御所を訪れ、かつての皇居である施設を拝観したときだった。 京都御所の中を拝観して、まず驚いたのはその気品の高い質素さである。雄大さや豪華絢爛さにかけては、京都御所は当然、かつての中国皇帝の住まいである紫禁城の比ではない。中国人の目から見れば、京都御所は日本最高位の天皇の住まいにしては質素というよりもむしろ貧相というべきものだ。 もう一つ驚いたのは、京都御所の無防備さである。深い外堀と高い城壁に囲まれている中国の紫禁城がまさに難攻不落の要塞であるのに比べて、軍事的襲撃を防ぐ機能はほとんどない。軍事的襲撃を防ぐどころか、普通のコソ泥でもあの低い塀を乗り越えてこの「禁裡」(きんり)に簡単に入れるのであろう。小規模の軍勢でも攻めてきたら、御所はまさに裸同然の状態だ。 しかし、よく考えて見れば、日本の天皇はかつて500年以上にわたってこの京都御所に住んでいたはずだが、別にどこかの軍勢に襲撃されたわけではない。あの大乱世の戦国時代でさえ、どこかの軍事勢力が攻めてきたことは一度もない。 つまり、日本の天皇と御所は、軍事的に無防備であっても誰かに襲撃される心配はまずない、ということだ。すなわち、少なくとも日本国内においては天皇と皇室に「敵」はいない、だから襲われる心配もない、ということである。「即位礼正殿の儀」中庭の様子=2019年10月22日、皇居・宮殿(鳥越瑞絵撮影) 源頼朝であろうと足利尊氏であろうと、織田信長であろうと豊臣秀吉であろうと、圧倒的な軍事力を持っている時の権力者たちに、天皇と皇室を攻めようと考えた人は誰もいない。だからいつの時代でも、天皇と皇室は無防備でありながら常に安全なのだ。 それでは、どうして日本の天皇と皇室に「敵」はいないのか。実はそれは、中国の皇帝のあり方と比較してみればよく分かる。天皇と中国皇帝との違い 中国の皇帝には常に敵がいる。だからこそ、皇帝の住まいである紫禁城は軍事的要塞であり、紫禁城のある首都・北京自体も高くて分厚い城壁に囲まれている。そして皇帝は親衛隊だけでなく国の軍隊そのものを直轄下において自らの権力基盤にしている。しかし、それでも中国の皇帝は「万世一系」にはならない。一つの王朝が立つと長くて数百年、短くて十数年、必ずやどこかの地方勢力や民衆の反乱が起きて王朝と皇室が潰されてきた。 それはすなわち中国史上有名な「易姓革命」だが、皇帝の支配下で地方勢力や民衆の反乱が必ず起きる理由は、皇帝と皇室による天下国家の私物化であり、皇帝一族による民衆への抑圧と搾取である。 皇帝と皇室が天下国家を私物化してうまい汁を吸っていると、「次は俺たちの番だ」と取って代わろうとする勢力が必ず生まれ、天下の万民を長く抑圧して搾取していれば、我慢の限界を超え、民衆の反乱が必ず起きてくるのであろう。 だから、中国の皇帝と皇室はいくら防備を固めていてもいずれ反乱によって滅ぼされてしまい、皇帝の一族はたいていの場合、皆殺しにされるのだ。 結局、天下国家を私物化して民衆を抑圧・搾取の対象にしているからこそ、中国の歴代王朝と皇室は常に国内の敵によって滅ぼされる運命にあるが、これこそ、日本の天皇と中国皇帝との大いなる違いの一つだろう。  中国の皇帝とは違い、日本の天皇と皇室は天下国家を私物化していないし、民衆を抑圧と搾取の対象にしているわけでもない。搾取していないからこそ、皇室は常に財政難を抱え、天皇はあれほど質素な御所をお住まいにしていたのだろう。 ゆえに、日本の天皇には敵対勢力もいなければ民衆の反乱の標的になることもない。それどころか、最高祭司として常に日本国民全員の幸福をお祈りされ、国民全員にとって守り神であり、感謝と尊敬を捧げる至高の存在なのだ。 こうしてみると、日本の天皇と皇室は、まさに「無私」だからこそ「無敵」となっているが、「無敵」であるがゆえに、現在に至るまでの「万世一系」を保つことができるのであろう。「即位礼当日賢所大前の儀」に臨まれる天皇陛下=2019年10月22日、皇居・賢所(代表撮影) 重要なことは、まさにこのような無私の天皇と皇室が頂点に立っているからこそ、日本国民が多くの苦難を乗り越えて一つのまとまりとして存続を保ってきたということだ。そして万世一系の天皇と皇室がコアになっているからこそ、日本の伝統と文化が脈々と受け継がれてきているのであろう。 そういう意味では、日本国民にとって、天皇と皇室は最も大事にして有り難い存在であることがよく分かるが、再び御代替わりを迎えた今、われわれはもう一度、天皇と皇室の歴史とその有り難さに思いを寄せて、皇室の永続と弥栄(いやさか)を心からお祈りしたい。 

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    呉善花手記「皇室の永続性を支える日本文化の奥行き」

    呉善花(評論家、拓殖大教授) 御代替わりにあたり、皇室の持続について考えてみたい。 天皇が政治的な統治権力を行使できていたのは、長い歴史の中でわずかな期間でしかなかった。にもかかわらず、天皇は今日に至るまで、一貫して日本国の最高権威者としてあり続けてきた。なぜ、実質的な政治権力の掌握なしに、そのような権威の持続が可能となるのだろうか。 皇室の歴史的な持続について考えてみて、私の場合はまず、その時代感覚の鋭さに気づかされた。これは柔軟性といってもよいが、皇室は単に伝統を維持するだけではなく、国民生活の時代的な変化の相を巧みに掌握しながら、自らの装いを新たにしつつ推移してきたように思う。 時に臨み、成り行きの変化に応じ、どのように自らを処せばよいか、皇室はそこのところのセンスを何か本質的に抱え持っているように思える。 宗教の面でいえば、天皇はあるときは神道の国家祭主のようにあり、あるときは仏教王のようにあり、また神秘的な密教への傾斜を見せられた天皇もある。また、上皇陛下が皇太子時代に選ばれたお后(美智子上皇后陛下)は、キリスト教精神に基づく教育理念を持つ学校を出られていた。 時代感覚の鋭さでは、皇后についても天皇と同じことがいえる。国風(くにぶり)文化の隆盛とともに女性の手になる文学が登場するようになる平安中期の定子(ていし)皇后は、清少納言が一目置くほどのすぐれた知識と才能の持ち主で、ゆったりとした落ち着きを湛(たた)えた美人だったことが『枕草子』からうかがえる。美智子上皇后陛下のケースでも雅子皇后陛下のケースでも、それぞれの時代的な先端との絶妙な距離感を、皇室の「お后選び」の背景に感じとることができる。 中世の後醍醐(ごだいご)天皇は、当時流行の風俗や宗教を身近におかれていた。生け花の前身である立華(りっか)は、近世初期の上皇の御所(仙洞御所)で始められた。近代の明治天皇は軍服に身を包まれ、現代の上皇陛下は生物学の研究に熱心に取り組まれ、今上陛下は英国留学生時代より貧困問題や環境問題に連動する世界的な水問題に取り組まれてきた実績を持つ。いずれも、皇室の時代感覚の敏感さを物語るものといえるのではないだろうか。笠置寺の後醍醐天皇行在所跡に立つ歌碑=京都府笠置町(恵守乾撮影) ある時代の文化・社会・支配形態などに対応する皇室の臨機応変さは、長きにわたって天皇の権威を持続させてきた大きな要因として、けっして無視することはできないだろう。また、国民統合の象徴としての天皇が国民の圧倒的な支持を得ているのも、伝統の持続とともに、そうした時代に対する向き合い方の的確さがあってこそのことではないかと思う。 皇室の持続に時代感覚の鋭さが果たした役割は大きい。が、それ以上に、皇室は時代の異なりを超えていつの世にも日本人の心と共鳴する、ある種の決定的な精神性を抱え込んでいると思える。だからこそ、少なくとも千数百年にわたるだけの永続性を可能としてきたのではないか。たとえば『源氏物語』が、古代、中世、近世、近代、現代と、いつの世にも優れた文学として読み継がれてきたところにも、同様の要因が潜んでいるだろう。 そもそも民族(エスニシティ)の基本的な資質というものは、民族的な文化の統一性が形成された時点で形づくられ、以後の民族文化はそれを基盤にさまざまな展開を見せるようになっていったと理解される。それでは、日本の民族的な文化の統一性はいつ頃形成されたのか。マッカーサーの「大法螺」 日本では1万数千年前に始まる縄文時代において、日本列島のほぼ全域にわたって同質の文化(縄文文化)が形成されていた。それに対して、大陸に漢民族の統一文化が形成されたのは紀元前後のことである。 別の言い方をすれば、日本文化の統一性は、南太平洋諸島的な自然信仰を持つ母系制社会を軸に縄文時代になされた。それに対して大陸文化の統一性は、農耕文明下の儒教的な父系制社会成立以降になされた。 そのため、日本列島では、大陸から儒教的な制度や習俗が入ってきても、民族の基本的な資質としての自然観や文化習俗が消し去られることがなかったのである。皇室の永続性についても同じことがいえるだろう。 私が皇室の融通無碍(ゆうずうむげ)とも言うべき時代への柔軟な対応ぶりを、その持続の大きな要因ではないかと考えるようになったのは、小説家の林房雄氏が「戦後にもなお天皇制が残ったのはなぜか」に触れて書かれた次の文章を読んだことがきっかけだった。……日本人は天皇制の変形を気にしない。少なくとも二千年の長い歴史の各時代に天皇制は様々に変化し、しかも変わることなく存続したという事実を、日本人は知っている。マッカーサーは『回想録』の中で、『二千年の歴史と伝統と伝説の上に築かれた生活の倫理と慣習を、ほとんど一夜のうちにぶち砕いた』と自誇しているが、軍人ならでは口にできない単純言であり、大法螺である。『大東亜戦争肯定論』番町書房、1964年 下線は編集部による、原本は傍点 林氏は、敗戦は明治維新以降の「武装せる天皇制」を終結させたが、天皇制そのものは存続した、そして「戦争が終れば、天皇は平和な祭司または族長にかえる。現代ではおそらく日本天皇制のみの持つ土俗学的法則がここに現れた」(下線は編集部による、原本は傍点)と述べている。 林氏は、天皇制を廃止するといえば、大多数の日本人は「否!」と答える、だから連合国軍総司令部(GHQ)の最高司令官、マッカーサーはそこを避けて通り、「厄介な『アジア的伝統』の武装を解除し、神格を剥奪するだけにとどめて、その他の部分はそのままにしておいた」のだと言うのである。 以上のことから林氏は、天皇制を敗戦後の日本に残したのは占領軍なのではなく、「日本国民の『民俗』と『存在様式』であった」と述べている。1945年9月27日、連合国軍総司令部のマッカーサー最高司令官(左)と会見した昭和天皇=東京・赤坂の米国大使館 林氏が言う天皇制は明らかに政治的な権力支配のシステムとしての天皇制ではない。林氏は、天皇制の根本は政治的な権力や制度の思想にあるのではなく、日本人の伝統的な生活意識の基盤を形づくる民俗的な存在様式にあると考えている。そこに私は大きな共感を覚えた。 「日本人は天皇制の変形を気にしない」という言葉には大きなショックを受けたが、言われている意味はとてもよく理解できた。そして、この「日本人」を「皇室」に置き換えて読んでも、まったく差し支えないことを知ったのである。 林氏の言葉を借りれば、「天皇制は様々に変化し、しかも変わることなく存続した」が、その「変わることなく」というところが重要である。様々に変化してきたとはいえ、皇室は常に現在性(時代性)と歴史性(永続性)の二つが凝縮した場所としてあり続けてきた。だからこそ、時代を超えての存続を可能としたのだ。永続性を支えているもの では、皇室の永続性を支えているものは何か。 東洋の古代国家は農耕民を支配する国家だった。そのため、専制君主としての国王は農耕民共同体の首長的な性格を持っており、実際に国家的な農耕祭祀を執り行なう司祭の役割を果たしていた。しかし、日本の場合、天皇の性格はそれだけではない。天上の神々の子孫と伝えられる宗教的な性格を持っているのである。 天皇のような性格は、中国や朝鮮の専制君主にはないものだ。中国・朝鮮の専制君主は、あくまで天帝(天上の支配神)から地上の支配権を委任された人間であって、決して天上の神々の子孫とはみなされていなかった(天帝思想)。西洋の皇帝や王も同じことで、王権は神から授かったものとみなされていた(王権神授説)。古代朝鮮の高句麗・百済・新羅の三国時代には国王を日本のように「天孫」とする伝承があったが、その後は中国と同じ「天帝思想」へと変化していった。 天皇が天上の神々の子孫とされたことは、天皇が農耕司祭としての農耕王であるばかりでなく、同時に自然の山野河海を祀る司祭としての自然王でもあることを意味している。この点で天皇は、他国には例をみない特異な君主なのである。 私が思うには、自然王とともに山野河海を慕い思うところに、日本民族(エスニシティ)の基本的な資質があり、時代を超えて生き続ける皇室の永続的な性格もそこに発している。自然の恵みに依存して生きる人々が狩猟採集民だが、彼らは自然の恵みをそのまま得て生きているところから、今で言う感謝・報恩の証として、採集した植物や動物や魚介類の一部を神々に捧げた。これを贄(にえ)の進上という。 東洋の古代国家は、土地の産物・民の労力の一部を、各地の農耕民共同体の首長を通して、唯一の統治者(専制君主)へ貢納させた。これが事実上の税となる。 しかし、日本の古代国家ではそれだけではなく、海や山など(山野河海)に働く者たち(非農耕民共同体)が、贄を神々へ捧げるのと同じように、天皇に直接、食料となる山海の産物を贄・供物として進上したのである。これは農耕民に課された税とは別の性質のものである。 古くは日本国のことを、「天皇が統治される(しろしめす)国」という意味で「食(を)す国」といった。「食す」は「食う」の尊敬語で、同時に「治める」の尊敬語とされる。なぜ天皇が国を統治されることを「食す」といったのだろうか。伊勢神宮内宮前に設けられた記帳所で順番を待つ大勢の人たち=2019年10月22日午後 主に漁労で生活した古代の海人たちは、収穫物としての魚介類の一部を贄として自然の神々に(神社などに祀った神々に)進上し、神々に食していただき、これを神々に対する服属の証とするのが習わしだった。後には天皇に進上する食物も贄と称され、天皇に贄を進上することで天皇への服属(直属)を示したのである。言うまでもなく、天皇を天上の神々の子孫とする信仰(自然王とする信仰)があるためである。 こうした信仰習俗が、やがて古代国家の制度的な規範となり、天皇がその進上された土地の食物を「食される」(土地の魂を身に着けられる)ことによって、その土地を「統治される」とみなすようになったのだと考えられる。容易に変わることのない個性 古代律令制下では、租・庸・調の税が各国に課せられていたが、これとは別に貢として贄の納付が定められていた国があり、これを御食国(みけつくに)と呼んだ。御食国の全貌は明らかではないが、沿岸地帯の若狭国、志摩国、淡路国などのほか、内陸地帯の信濃国、下野国などにもあったことが知られている。 日本に来た当初の私は、天皇を神々の子孫とする心性をなかなか理解することができなかった。それがなんとか分かると思えるようになったのは、ある人が「神社にお参りするのと同じことです」といった言葉がきっかけだった。 なるほど、神社で土地の神々にささげ物を供える習慣は現在もなおあり、最も簡易なささげ物が「お賽銭」に違いない。このとき私は、日本人の自然(あるいは自然の神々)に対する向き合い方と天皇に対する向き合い方は、基本的に同じものだと理解した。 私は林房雄氏の示唆を受け、また私自身の日本体験を通して、天皇が国民統合の象徴であり得ているのは、何よりも皇室が、日本人の民俗的な生活のあり方の中にその根を持っているからだと感じてきた。 どんな国でも民衆の生活のあり方は、時代とともに変化していきながらも、古くから人々の間に伝わる風俗や習慣や信仰などを、つまり民俗を保存している。日本の皇室はその保存されていく部分に根を持ち、国民生活の時代的な変化の相を見事に映し出しながら、今日に至るまで持続してきたように思う。 民族も文明も時代の中でさまざまな変化をとげていくけれども、なお容易に変わることのない個性—お国柄とか国民性というものがある。それは、ある時代に統一体として形成された文化の基層に根ざしたものであり、それがそれぞれの民族の心のあり方や行動のあり方を大きく方向づけているのではないだろうか。日本の皇室はそうした日本文化の基層に根を持っていて、だからこそ、現在にあって国民統合の象徴であり得ているのではないかと私には思われる。 いずれにしても、日本の皇室は日本人が日本人としてあり続けてきたことの内部に根を持っていることは疑いない。 太古の昔から、農耕をする者は土地の神に五穀を捧げ、漁労をする者は海の神に魚介類を捧げ、山野に狩猟をする者は山の神に獲物の肉を捧げた。そのようにして、自然の恵みに感謝する生活が人類には長い間続いた。そこでは、世界とは「自然の神々がいます大地=山野河海」にほかならなかった。「即位礼正殿の儀」を終え、退出される天皇陛下。奥は皇嗣秋篠宮ご夫妻=2019年10月22日午後、宮殿・松の間(代表撮影) そのように人間が自然に溶け込んで生きていた時代、人間は山野河海と分かち難く結びついて生きる生命体であったし、山野河海もまた人間と同じに意志を持って生きる生命体であった。山野河海と人間は、切っても切り離すことのできない一個の身体であった。 皇室が根付く日本文化の基層は、実にそこまでの奥行きを持っている。

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    世界史の奇跡たる天皇が「エンペラー」と呼ばれる理由

    に果たした役割は極めて大きいと言えます。 これが3つの要素のうちの「政治」です。女系天皇に反対する「皇室の伝統を守る一万人大会」=2006年3月、東京・日本武道館 諸外国では、血で血を洗う宗教戦争が絶えませんでした。 日本で、大規模な宗教戦争が起こらなかったのは、天皇が大神主を務める神道が日本人の心に浸潤し、異端的な宗教が勃興したとしても、負の影響を最小限に食い止めることができたからです。 神道という大らかな精神文化を司る祭祀者としての天皇は抗争を調和へと導き、日本人は天皇の宗教的威厳を崇敬することにより、一体化できました。 これが3つの要素のうちの「文化」です。17世紀、既に「エンペラー」だった これら3つの要素のすべてを兼ね備えた君主が世界史の中に存在したでしょうか。世界史の奇跡とも言うべき天皇、それがわれわれ日本人の変わらぬ君主なのです。 多くの外国人が天皇について疑問に感じることは、なぜ天皇は「キング」ではなく「エンペラー」なのか、ということです。そもそも、欧米人は天皇をいつから「エンペラー」と呼びはじめていたのでしょうか。 現在、世界で「エンペラー(emperor:皇帝)」と呼ばれる人物はたった一人だけです。それは日本の天皇です。 世界に王は多くいるものの、皇帝は天皇を除いて、残っていません。 国際社会において、天皇のみが「キング(king:王)」よりも格上とされる「エンペラー」と見なされます。 「天皇」は中国の「皇帝」と対等の称号で、「キング」ではなく、「エンペラー」であるのは当然だと思われるかもしれません。 日本人にとって当たり前の話ですが、欧米人もこうした経緯を理解して、「エンペラー」と呼んでいたのでしょうか。 一般的な誤解として、天皇がかつての大日本帝国(the Japanese Empire)の君主であったことから、「エンペラー」と呼ばれたと思われていますが、そうではありません。 1889年(明治22年)の大日本帝国憲法発布時よりもずっと前に、天皇は欧米人に「エンペラー」と呼ばれていました。 江戸時代に来日した有名なシーボルトら3人の博物学者は、長崎の出島にちなんで「出島の三学者」と呼ばれます。 「出島の三学者」の1人で、シーボルトよりも約140年前に来日したドイツ人医師のエンゲルベルト・ケンペルという人物がいます。 ケンペルは1690年から2年間、日本に滞在して、帰国後、『日本誌』を著します。 『日本誌』の中で、ケンペルは「日本には2人の皇帝がおり、その2人とは聖職的皇帝の天皇と世俗的皇帝の将軍である」と書いています。 天皇とともに、将軍も「皇帝」とされています。 1693年頃に書かれたケンペルの『日本誌』が、天皇を「皇帝」とする最初の欧米文献史料と考えられています。関連記事■ 日本史において、天皇はいかなる存在だったか【古代~応仁の乱編】■ 皇室とは? 皇族とは? ~池上彰さんに、いまさら聞けない「天皇」の話を聞いてみた■ 日下公人 天皇はなぜありがたいか

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    なぜ皇室の方々は英語をマスターできるのか、その英語学習法

     諸外国の王族や要人と通訳を介さず談笑する皇族方は、いつも自信に満ちあふれている。“皇室外交”の担い手たちは高い語学力をどう身につけたのか。 立場上、自由に海外留学をしたり、英会話スクールに通い詰めることができるわけではない。それでも流暢に英語を操る理由は──。天皇陛下は“通訳要らず” 新天皇即位に関連する儀式は、今秋に山場を迎える。10月22日に「即位礼正殿の儀」があり、それに続く祝賀パーティ「饗宴の儀」には各国から賓客が招かれる。 御代がわりで日本の皇室に世界の注目が集まるなか気付かされるのは、皇族方が驚くほど流暢に英語を操り、外国の人々と積極的に交流していることだ。 まず、最も注目を集めたのは雅子皇后だ。即位後初の国賓であるアメリカのトランプ大統領夫妻を迎えた際は、その語学力が遺憾なく発揮された。皇室記者がいう。「宮中晩餐会ではトランプ大統領夫妻と通訳を介さず親しげに語り合っていた。ネイティブ顔負けの英語に、気難しいトランプ大統領の表情もいつしか柔和なものに変わり、メラニア夫人とは10代の子供を持つ母親同士の話題で盛り上がっていました。アメリカ側の関係者も“大変美しい英語だ”と感嘆していたようです」 雅子皇后は幼少から海外生活が長く、米ハーバード大学を卒業。東大を経て外務省に勤務した。英語のみならず、フランス語やドイツ語、ロシア語も堪能だ。 元外交官というキャリアを考えれば語学に長けているのは当然とはいえ、実はこのとき天皇もトランプ大統領とのやりとりで流暢な英語を披露した。会見ではこんな“ハプニング”があったという。皇室ジャーナリストの神田秀一氏がいう。「公式な会見では、会話の内容を記録する意味もあり、通訳を介すのが一般的です。しかし、この日の陛下はトランプ大統領と直接英語で話し込んでしまった。そのため、職員が途中で“通訳を通してくださいませんか”と願い出たのです。メラニア米大統領夫人と会見される皇后さま=2019年5月、皇居・宮殿「竹の間」(代表撮影) 陛下は通訳を通すよりも自ら直接語りかけたほうが、言葉に込めた真意や人柄が伝わりやすいとお考えになったのではないか。このハプニングは“もてなしの心”が現われたシーンでした」 通訳を介すことが“コミュニケーションの障壁”になると感じる──それほどの英語力は、一朝一夕に身につくものではないだろう。辞書は使用禁止 中学、高校、大学、さらに英会話学校に通っても結局英語をモノにできない日本人が多いなか、天皇を始め皇族方は「1人残らず」流暢に英語を話す。なぜ皇室の方々は英語をマスターできるのか。そこには皇室ならではの「英語学習法」があった。辞書は使用禁止 皇室という“菊のカーテン”の向こうで、皇族方は幼い頃から良質な英会話レッスンを受けている。 その源流は、1946年から4年間、幼少期の上皇(明仁親王)の家庭教師を務めたアメリカ人作家、エリザベス・ヴァイニング夫人の指導方針だ。「彼女は日本語を話さなかったため、授業は“英語のみ”で行なわれました。英和・和英辞典すら使用禁止で、時にジェスチュアを交えながら“伝わる英語”を学ばせることを徹底した。 スパルタのように聞こえますが、一方でその指導法は、英語への興味がかき立てられるような様々な工夫が凝らされていた。たとえば魚が好きな明仁親王のために魚類図鑑を英訳して説明したり、同年代の米国人の少年とモノポリーをすることもあったそうです」(別の皇室ジャーナリスト) ヴァイニング流の英会話レッスンは、現天皇への教育にも受け継がれ、表面に英単語、裏面に日本語が書かれたカードを使ったカルタ遊びが取り入れられた。「要人の出迎え」に同行「英語への関心を高める教育」は、愛子内親王にも幼少期から行なわれている。 天皇が御所で外国からの要人を出迎える際、非公式の引見の場では愛子内親王も同行し、片言の英語で挨拶していたという。「海外への訪問があるたび、陛下は愛子さまに『おはよう』『こんにちは』といった簡単な挨拶に加え、その国の歴史や文化を教えていました。『海外への興味』が語学習得の大きなカギになると知っていたからです。その教育が実を結んだのか、愛子さまは幼い頃から国旗の並んだ図鑑を好んで眺め、今では海外の要人とも英語でやりとりされています」(宮内庁関係者) わざわざ英会話スクールなどに出向かなくても、御所では「英語での話し相手」が大勢いるという。雅子皇后は「最高の家庭教師」「『女官』や『出仕』といったお世話係のほとんどは、英語を自在に操ります。語学ができることが必須条件ではありませんが、縁故での採用でいわゆる“良家のお嬢様”や帰国子女が就くことが多いため語学力が高い。そういった身の回りの女性を相手に英語のやりとりをすることが、愛子さまの日々のトレーニングになっている」(同前)雅子皇后は「最高の家庭教師」 愛子内親王にとって女官や出仕以上の「最高の家庭教師」──それは母である雅子皇后だ。「何時間も付きっきりで指導されることもある」(同前)という。 天皇にとっても雅子皇后は“先生”だ。それが現われたのが、皇太子時代の2015年11月、米ニューヨークの国連本部で行なわれた『水と災害に関する国際会議』での基調講演だった。「35分にわたるスピーチは非常に格調高く、かつ説得力に溢れたものでした。陛下はその原稿の添削を雅子さまに依頼し、自ら何度も練り直したそうです。イントネーションや間の置き方などについても積極的にアドバイスを求めていたようです。一番近くにいる“先生”の助けを借り、皇族としての品格や教養を感じさせる英語を使いこなそうとしている」(前出・皇室記者)「目標」ではなく「手段」 皇族方はほとんどが英語圏への海外留学を経験している。中学、高校時代に数週間~1か月のホームステイをし、その後、大学卒業までに長期留学を経験するというパターンが多い。皇族が選ぶホームステイ先には、ある共通の傾向がある。「1974年に当時中学3年だった天皇陛下がオーストラリアで11日間のホームステイをした際、上皇ご夫妻が出した受け入れ先の条件は『同じ年頃の子供がいる家庭』でした。同年代との交流が、国際的な視野を持つことに繋がるという考えです。2013年にアメリカで1か月ホームステイした佳子さまも、ステイ先には同世代の子女がいた」(同前)栃木県の那須塩原駅から静養先に向かわれる天皇、皇后両陛下と長女愛子さま=2019年8月(代表撮影) 天皇はある講演会での質疑応答でこのように語ったことがある。「各国の方とお友達になったとき、日本の文化、風習、伝統、“日本はこういう国なんだ”と海外の方に直接お伝えできます。自分の知識を深めるのと同時に、日本のいいところをどんどん世界に広めるためにも留学はいい機会だと思います」(2015年に学習院大学で行なわれた、三笠宮彬子女王の『オックスフォードに学んで』講演) 皇族方にとって、英語習得自体は「最終目標」ではない。日本の代表として世界と向き合うための「手段」なのだ。当然、英語への理解やモチベーションも高くなる。その自覚の強さこそが、高い語学力の礎なのかもしれない。関連記事■雅子さまとメラニア夫人の「チークキス」に見る高レベル外交■雅子妃のご体調が劇的回復、改めて振り返る「人格否定発言」■鮮烈デビューの皇后雅子さま 紀子さまと明暗分かれた■【動画】雅子さま外務省時代の逸話「スタミナは底知れない」■孤立する眞子さま 悠仁さまがよろしくない態度を取ることも

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    天皇皇后両陛下と謁見したい各国首脳続々、紛争回避の効果も

    アのムハンマド皇太子と会見し、来春には中国の習近平国家主席の接遇の調整が進んでいる。 元宮内庁職員で皇室ジャーナリストの山下晋司さんは次のように言う。7月、天皇、皇后両陛下と記念撮影するトルコのエルドアン大統領夫妻=皇居・宮殿「昨今のグローバル社会において、皇室の国際親善はますます重要度を増しています。象徴たるお立場の天皇陛下を中心とした皇室のご活動は、政治家とは違って“駆け引き”はありません。だからこそ、諸外国との関係が政治的に複雑化する国際社会の中にあっても、各国首脳と個人対個人の友人関係が築きやすいのです。各国首脳もそれがわかっているからこそ、両陛下との会見を望むのだと思います。そして、皇室がそうした国際親善を深めることで、日本国や日本国民の評価を高めることにも繋がります」日本にとっても良い影響 たとえば、今回のトルコも複雑な国際情勢の中にある。2017年、アメリカ総領事館に勤務する職員を、政府転覆の疑いでトルコ側が逮捕したことなどで、アメリカとの関係が悪化。また、少数民族ウイグル族に対する人権侵害問題を巡って、中国との関係も穏やかではない。米中という二大国家との“衝突”が危惧されている。皇室の国際親善の「力」「屈指の親日国として知られるトルコとしては、関係が悪化している米中と親密な日本に“緩衝材”になってもらいたいという希望があるのでしょう。とはいえ、安倍首相など有力政治家と関係を強化すれば、そこに政治的な思惑や駆け引きが発生しかねない。 そこで、まずは日本の皇室との関係を深めることで、両国の距離を縮めたいという狙いがあるのではないでしょうか」(政治ジャーナリスト) 今回の会見では、陛下が2009年、皇太子時代にトルコを訪問されたことにも話が及び、エルドアン大統領は「次はぜひ両陛下でトルコをご訪問いただきたい」と述べたという。 国際情勢には対立や紛争の火種が多いが、日本の皇室の国際親善には、それを穏やかにしたり、防いだりする力があるということだ。「雅子さまが外交官ご出身であり、各国情勢に通じられていることは世界的に話題になっているので、各国の首脳たちだけでなく日本政府としても国際親善の場でのご活躍に大きな期待を寄せています。特に、トランプ夫妻の接遇が大成功して以来、各国からの多くの申し出を容認し始めているそうです。雅子さまの父・小和田恆(ひさし)さんが、オランダ・ハーグの国際司法裁判所の裁判所長を務めたことのある、世界的に著名な外交官だということも大きいでしょう」(前出・政治ジャーナリスト) 雅子さまが国際的に活躍されることは、もちろん日本にとってもいい影響がある。「皇后陛下が外国の元首夫妻に対して堂々と対応されるお姿に、誇らしく思っている国民は多いでしょう。特に、令和の時代の働く日本人女性にとって、尊敬の対象であり、励まされるご存在になるのではないでしょうか。国際親善で本領を発揮され、自信を積み重ねることで、国内のご公務や宮中祭祀などにも繋がっていくと思います」(前出・山下さん) 皇室の国際親善は、雅子さまによって、新しいステージに入っているようだ。関連記事■鮮烈デビューの皇后雅子さま 紀子さまと明暗分かれた■雅子さまに辛辣だったネットの「風」、トランプ氏来日で一変■雅子さまとメラニア夫人の「チークキス」に見る高レベル外交■トランプ大統領も衝撃を受けた、天皇皇后両陛下の英語力■悠仁さま、眞子さまを「よからぬあだ名」で呼ばれることも

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    令和新時代、皇室への我が思い

    儀」が行われた。甚大な台風被害の中、祝福ムードとはいかないものの、2600年以上に及ぶ「万世一系」の皇室の伝統は脈々と継承されていく。この歴史的な日を迎え、4人の識者が手記を寄せた。令和新時代、改めて綴った皇室への思いとは。

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    苦しむ人々が口にした「天皇陛下万歳」に込めた本当の意味

    八木秀次(麗澤大教授) 天皇陛下が5月1日の即位後朝見の儀で「歴代の天皇のなさりようを心にとどめ」と述べられたことには極めて重い意味がある。陛下のご覚悟がうかがえるのだ。 「ここに、皇位を継承するに当たり、上皇陛下のこれまでの歩みに深く思いを致し、また、歴代の天皇のなさりようを心にとどめ、自己の研鑽(けんさん)に励むとともに、常に国民を思い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、日本国及び日本国民統合の象徴としての責務を果たすことを誓い、国民の幸せと国の一層の発展、そして世界の平和を切に希望します」との部分だ。極めてあっさりとした表現で、それゆえに多くの人はその意義に気付いていない。 平成29(2017)年2月、57歳のお誕生日を前になさったご会見で天皇陛下(当時皇太子)は同じような表現をなさった。ご会見の内容は次のようなものだ。 平成28年8月7日、陛下は、戦国時代の16世紀中ごろに後奈良天皇(第105代、在位:1526年6月9日〈大永6年4月29日〉~1557年9月27日〈弘治(こうじ)3年9月5日〉)が洪水や天候不順による飢饉(ききん)や疫病の流行に心を痛められ、苦しむ人々のために諸国の神社や寺に自ら写経した般若心経を奉納されたときの一巻を実際にご覧になった。 陛下は、学習院大で中世・瀬戸内海の水運史を卒業論文のテーマとされ、留学先の英国オックスフォード大大学院で17~18世紀の英国テムズ川の水上交通史を研究された。関心はやがて世界の水問題へと発展し、水に関することを自らのライフワークとされるようになった。 平成15(2003)年には第3回世界水フォーラムの名誉総裁を務められ、平成19(2007)年から平成27(2015)年までは、国連水と衛生に関する諮問委員会(UNSGAB)の名誉総裁も務められた。ご講演録『水運史から世界の水へ』(NHK出版)に詳しいが、水は少なすぎれば、干ばつや飢饉、水争い、戦争を引き起こす。 水くみのために時間を取られ、十分な教育を受けられない子供たちも世界中には多く存在する。また、近年の台風や豪雨による大洪水や水害、また地震の際の津波のように、水は多すぎても人々を苦しめ、命を奪う。最近の豪雨は、地球温暖化による気候変動によるものでもあり、国を超えたテーマにもなっている。陛下はこうした水への関心から、洪水に苦しむ民に心を痛められた後奈良天皇の御事績に思いを馳(は)せられたのであろうと拝察する。2015年11月、国連本部で開かれた「水と災害に関する特別会合」で、基調講演をされる皇太子さま(当時)=ニューヨーク(AP=共同) 陛下はこの57歳のお誕生日を前にしたご会見で、後奈良天皇が自ら写経された般若心経の奥書に「私は民の父母として、徳を行き渡らせることができず、心を痛めている」旨の思いが記されていたことを特に紹介された。 その上で「般若心経を写経して奉納された例は、平安時代に疫病の大流行があった折の嵯峨天皇を始め、鎌倉時代の後嵯峨天皇、伏見天皇、南北朝時代の北朝の後光厳天皇、室町時代の後花園天皇、後土御門天皇、後柏原天皇、そして、今お話しした後奈良天皇などが挙げられます」と歴代の天皇の名前を挙げられた。天皇とはどういう存在か そして、その次に「私自身、こうした先人のなさりようを心にとどめ、国民を思い、国民のために祈るとともに、両陛下がまさになさっておられるように、国民に常に寄り添い、人々と共に喜び、共に悲しむ、ということを続けていきたいと思います」と述べられた。 ここでは「こうした先人のなさりようを心にとどめ」という表現になっている。「こうした先人」とは、言うまでもなく、名前を挙げられた歴代の天皇を指す。即位後朝見の儀での「歴代の天皇のなさりようを心にとどめ」と同じ内容と考えてよいだろう。すなわち「歴代の天皇のなさりようを心にとどめ」とは、名前を挙げられた歴代の天皇と同じように、自らを「民の父母」と位置づけることを覚悟されたことを意味する。 「民の父母」とは文字通り、国民にとって父親や母親のような存在であることを意味する。親が子供を愛おしく思い、慈しむ、自分の存在に替えてでも守りたいと思う、そんな心情を持った存在ということだ。陛下はそのことを「国民を思い、国民のために祈るとともに、国民に常に寄り添い、人々と共に喜び、共に悲しむ」存在であると述べられている。 それをもう少しかみ砕いて言えばどんなことか。私が天皇という存在について考えるとき、必ず思い起こすのは、亡くなった作家、評論家の松本健一氏が書いた『昭和天皇伝説』(河出書房新社)という著作の最後の一節だ。次のようなものだ。 国民のすべてが(とくに戦後は)それぞれにじぶんのことを考え、じぶんの愛する人を想い、じぶんの家の永続性を祈り、じぶんの属する集団や共同体の利益を図るときでさえなお、一人でいいから、ほんとうにたった一人でいいから、国民のことを考え、想い、祈り、図ってくれる人がいてほしい。/そのような幻の人を思い描いて、この昭和という時代のなかで、二・二六事件の青年将校は『大御心にまつ』といい、戦争中の特攻隊員は『天皇陛下万歳!』と泣き苦しみながら死に、〔公害企業からはもちろん、内閣からも議会からも病院からも救ってもらえないと絶望した〕水俣病の患者は〔最後に、ほんとうに最後の光を求めるように、その自由にならない口で〕『て、ん、の、う、へい、か、ばんざい』と呻いたのではかったか。(〔 〕内は前の文章をもとに筆者が補った) 天皇とは何だろうか。どういう存在だろうか。 さまざまな議論が可能だが、多くの日本人にとって天皇とは、自分の心を救ってくれる「最後の人」なのだ。この世がどんなに苦しくても、最後は天皇が救ってくださるという思いで、日本人はこの国の歴史を歩んできた。 松本氏は「制度的な意味で権力から切れた戦後の昭和天皇は、…『民の心を抱きとめて、いつくしむ』ことこそが天皇政治の本質であるとおもい、つとめてそのように振る舞おうとした」とも述べている。松本氏はあえて「天皇政治」という言葉を遣っている。「即位後朝見の儀」でお言葉を述べられる天皇陛下と皇后さま=2019年5月1日、宮殿・松の間(代表撮影) ここでいう「政治」とは政治家が行使する権力行為ではない。それを超越した、いや、政治家にはできない、高次元での精神的な統治のことだ。権力政治では救われない「民の心を抱きとめて、いつくしむ」、「国民のことを考え、想い、祈り、図る」ことをいう。そのような「たった一人」の「幻の人」にしかできない高度の政治、これが「天皇政治」なのだ。 松本氏は「幻の人」と書いたが、私たちは現に「民の父母」であろうと覚悟を決められた天皇陛下をいただいている。「幻の人」ではない現実の天皇陛下が私たちの前にはいらっしゃる。その天皇陛下による「天皇政治」がこれから本格的に始まる。

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    天皇陛下に期待される「国民像」とは何か

    高森明勅(皇室研究家) いつ頃からだろうか。国民の一部が、皇室にあれこれ無遠慮に「注文」めいたことを、並べ立てるようになったのは。それでいて、既に皇室から与えられている恩恵に、国民として感謝するわけではない。まして、自分たちが皇室に対してどのように貢献できるかなどと、真面目に考える人は少ない。 例えば、保守系の人士(じんし)が皇室祭祀(さいし)の大切さを力説する論調は、もはや珍しくなくなった。しかし、その皇室祭祀を経済的に支える内廷費が平成8年以来、20年以上も同額のまま据え置かれた、異常な状態にある事実を知っている人は、どのくらいいるだろうか。その問題点を舌鋒鋭く追及する声を、ほとんど耳にしないのはなぜか。 そういう光景にうんざりした気分になるのは、恐らく私一人ではないだろう。 天皇陛下は先頃、ひたすら国民のために何のご躊躇(ちゅうちょ)もなく、最も制約が多くご不自由で孤独で、極めて責任の重い「日本国の象徴」「日本国民の象徴」としての「天皇」という地位についてくださった。その厳粛な事実だけで、私ども国民は心から感謝すべきではないか。 「期待」とは、望ましい状態や結果をあてにして、その実現を心待ちにすること(『明鏡国語辞典』)だ。それも形を変えた「注文」の一種ではあるまいか。ならば、天皇陛下「への」期待ではなく、皇室「から」国民はどのように期待されているか、ご期待にどのようにお応えすべきか、逆に胸に手を当てて反省してみるのも有益だろう。 例えば、天皇陛下は皇室祭祀に実にご熱心に取り組んでくださっている。歴代天皇の中でも、とりわけ祭祀にご熱心だったとされるのが上皇陛下。その上皇陛下に決して引けを取らないご精励ぶりだ。陛下は、国家の公的秩序の頂点に位置する、最も高いお立場にあられながら、祭祀に誠心誠意お取り組みになることで、常に自分より上位の存在を自覚され、へりくだった清らかなお心を、深く身に付けておられる。それは驕(おご)りや高ぶりや弛(ゆる)みとは正反対の精神だ。国民文化祭と全国障害者芸術・文化祭の開会式に臨席し、お言葉を述べられる天皇陛下と皇后さま=2019年9月16日、新潟市(佐藤徳昭撮影) そのようなご姿勢に、私ども国民も見習わなくてよいのか。もちろん、国民一人ひとりが直接、祭祀に携わることはできないし、その必要もない。しかし、心のありようは学ぶことはできるはずだ。陛下は精魂を込めて祭祀に打ち込んでください、われわれはそっぽを向いていますから、では話にならない。千分の一、万分の一でも、そのお心構えを見習おうとする態度があるか、ないかだ。 「天皇の祈り」についても誤解があるのではないか。天皇陛下はわれわれ国民のために祈ってくださっている。有り難い。そこにとどまっているのではないか。自分らが「皇室のために」お祈り申し上げる、という気持ちがわずかでもあるだろうか。「天皇の祈り」の誤解 天皇陛下が国民のために祈ってくださっているという場合、その内実はどのようなものか。以前、上皇后陛下が分かりやすく説明してくださっている。「陛下が…絶えずご自身の在り方を顧みられつつ、国民の叡知がよき判断を下し、国民の意志がよきことを志向するよう祈り続けていらっしゃることが、皇室存在の意義、役割を示しているのではないかと考えます」(平成7年、お誕生日の文書回答)と。これは、国民がどれだけ無知怠慢でも天皇陛下がお祈りくださっているから、もうそれだけで大丈夫、というような呪(まじな)い的な祈りではない。全く違う。「責任」は全て国民にある。ただ、その国民の「判断」「志向」がより善きものとなるように、祈ってくださっているのだ。そこを勘違いしてはならない。 天皇陛下は、皇太子として迎えられた最後のお誕生日の際の記者会見の中で、以下のようにお述べになった。 「平成は、人々の生活様式や価値観が多様化した時代とも言えると思います。…今後は、この多様性を、各々が寛容の精神をもって受け入れ、お互いを高め合い、さらに発展させていくことが大切になっていくものと思います」(同31年)と。これは、かなり明らかな表現で示された、国民へのご期待だろう。 現在、加速度的に進行しているグローバル化は、必ずしも社会にプラスの効果ばかりをもたらすとは限らない。むしろ、国内における経済格差の拡大や「移民」の増加によって、社会に深刻な分断を持ち込みかねない。そうなると、異質性を憎む非寛容な対立感情が激化する恐れがある。よほど有効な施策が講じられなければ、「国民統合」が不可逆的に困難になる可能性が見込まれる。 言うまでもなく、これは専ら国政上の重大課題である。だから、天皇陛下や皇室の方々は一切、関与できない。まさに、国民の「叡知」と「意志」が問われるテーマだ。それに無為無策のまま、「国民統合」の確保をひたすら天皇陛下や皇室の方々に求めるような、本末転倒に陥ってはならない。このような点でも、皇室から期待される国民像とは何かを、自省すべきだろう。 上皇陛下は「天皇陛下御在位三十年記念式典」のおことばの中で、次のように述べておられた。「象徴としての天皇像を模索する道は果てしなく遠く、これから先、私を継いでいく人たちが、次の時代、さらに次の時代と象徴のあるべき姿を求め、先立つこの時代の象徴像を補い続けていってくれることを願っています」と。誠に頭が下がる謙虚さだ。天皇陛下はこのおことばにお応えになるべく、早速、上皇陛下のお気持ちをくみ取りながら、新しいなさりようもお見せくださっている。天皇陛下の皇位継承に伴う重要祭祀「大嘗祭(だいじょうさい)」に使う新米を納める行事「新穀供納(しんこくきょうのう)」=2019年10月15日、皇居・東御苑(代表撮影) 天皇陛下は日本の歴史上、かつて例を見ないほど国際社会で目覚ましくご活躍いただける条件を備えておられる。特に、世界が直面する「水の問題」では既に国際的に高い評価を受けておられる。陛下の世界への偉大なご貢献を、国民は力を尽くしてお支えすべきだろう。 天皇陛下には、どうか上皇陛下がなさったように、ご自身のお考えの通りに、新しい時代にふさわしい「新しい風」を吹かせていただきたい。健全な庶民はこぞってそれを歓迎するだろう。

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    風雪をしのいだ2600年、昨今の危機説ごとき皇室はビクともせず

    倉山満(憲政史家、皇室史学者) 10月22日は新帝即位の日である。 今の法律用語では、「即位礼」が正式名称らしいが、私は即位と呼ばせてもらっている。なお、5月1日は、新帝践祚(せんそ)の日である。 今の法律用語では、「即位」が正式名称らしいが、私は践祚と呼ばせてもらっている。践祚を即位、即位を即位礼。皇室の伝統的用語は、敗戦により歪められた。だが、その程度では皇室は揺らがないと思っている。 そもそも、践祚とは天子が位に就くこと、即位とは天子が位に就いたことを広く知らしめること。だが、桓武天皇の頃までは特に区別がなかった。 皇室においては、先例が守られるべきである。しかし、あらゆることを先例主義で行う必要はないし、不合理だ。皇室の根幹に関わることだけ、新儀を行わせなければよいだけだ。根幹さえ守れば、皇室はビクともしない。 2679年の歴史には風雪に耐えた時期も長かったし、今もそうだ。だが、それでも皇室の未来は明るいと考えている。つまりは、日本の未来は明るい。 思えば、安倍内閣は多くの不敬をやらかしてくれた。 元号の事前公表は、天皇陛下の改元大権の簒奪(さんだつ)である。確かに実質的には、元号ほど時の権力者の意向に左右された大権もない。だが、それでも一度も事前公表はされたことがなかった。形式的には天皇大権は守られてきたのだ。たとえば元首相の竹下登といえば、日本を中国に売り飛ばした大売国奴として名高いが、最低限の皇室に対する尊崇の念は有していた。 昭和天皇の晩年は重病で、「Xデー」がいつかと1年以上も日本中が気をもんでいた。当然、次の元号は用意されていた。しかし、公表はされなかった。一方で、安倍内閣は竹下と違い、よく分からない理由で事前公表した。安倍内閣の擁護論者は、「あのときは、事前公表すれば重病の昭和天皇に失礼に当たるが、今回は上皇陛下が健在なので違う」と抗弁する。先例にない新儀を行う意味が、安倍内閣には分かっていないのだ。あなかま、あなかま。 そうして決められた元号が「令和」である。和に令す。日本国に命令する。安倍晋三首相は、うれし気に記者会見で「自分が決めた」「政府の元号だ」と力説していた。ならば責任を負うがよい。 「令」とは、皇太子に使う字である。天皇の場合は、特に「詔」「勅」「綸旨」などを使う。今回の譲位は、内閣法制局の反対を押し切って行われたが、意趣返しか。仮に「令和天皇」と贈り名されたとしよう。「命令された日本国の代表」「皇太子のような天皇」の意味である。即位の日を迎え、多数の人たちが集まった皇居の二重橋前=2019年5月1日、東京都千代田区(桐原正道撮影) 法制局は走狗(そうく)である安倍晋三を使って「お前は未来永劫、皇太子のような天皇だったのだ」と烙印を捺(お)す気なのだろう。院政期、実権を失った天皇は「今の帝は東宮の如し」と嘆かれた。東宮とは皇太子のことである。2600年の奥義 だが、皇室には2600年の奥義がある。今の一世一元の制においても、必ず在世中の元号を贈り名にしなければならない理由はない。たとえば、「後平成天皇」のような贈り名も考えられるのだ。 安倍内閣最大の新儀は、「上皇后」の尊号である。譲位がなされたとき、天皇陛下の尊号は上皇となる。「太上天皇」の略称だ。同じく、皇后陛下の尊号は皇太后。略称は太后である。ところが、安倍内閣は「皇太后には未亡人のイメージが付きまとう」などとわけの分からないことを言いながら、「上皇后」の新儀を押し付けた。 ちなみに法律上は、ご丁寧に「皇太后の例に倣(なら)う」と書いてある。ならば、なおさら太后で何が悪いのかと疑問だ。 私は一度も「上皇后」の用語を使ったことがない。必ず「太后」を使う。正式な法律用語など知ったことではない。長い皇室の歴史を無視した、無知な安倍内閣が決めた法律などに縛られる必要はない。法律は人の心までは縛れないし、縛ってはならない。 だから私は勝手に、「太后陛下」とお呼びしている。ついでに言うと、「玉音放送」を宮内庁は「ビデオメッセージ」などと呼んでいるが、知ったことではない。 さて、秋の臨時国会で政府は、皇室典範に手を付けると思われてきた。安倍内閣は11月に史上最長の内閣になろうとするが、絶望的なまでに何の実績もない。先の参院選で「民主党の悪夢」を絶叫し、国民を脅していた。それしか言うことがないほど、何もしていないと自白しているということだ。 拉致被害者は返ってくるどころか北朝鮮に相手にされていないし、北方領土問題では交渉すればするほど過去の言質までロシアにひっくり返されている惨状だ。憲法改正も、3年も衆参両院で3分の2の議席を持ちながら、「創価学会」を支持母体とする公明党が怖くて着手すらできなかった。 このように、「なんでもいいからレガシーがほしい」「何もしなかった首相と呼ばれたくない」という衝動に駆られている安倍首相ならば、皇室典範の改正―すなわち、旧皇族の皇籍復帰―を行うかと思ったが、ここでも腰砕けだった。 読者諸氏は、日本の状況が絶望的と思われただろうか。実は違う。ここまで並べた事実こそが、希望の根拠なのだ。 安倍首相が政権に返り咲いたとき、保守層は期待した。少なくとも皇室のことを理解しているだろうと。その安倍内閣でここまでやられた。皇室を蔑(ないがし)ろにする勢力と戦うのが怖く、その走狗と化している。だが、そこまでだ。 その証拠に、女性宮家や女帝容認論が阻止されている。女系論など、提案する余地がない。腐っても、現職総理大臣なのだ。拒否権はある。総理大臣が「絶対に嫌だ」と拒否すれば、女性宮家や女帝は通らない。 ここで考えよう。われわれのような皇室の伝統を守ろうとする勢力と破壊しようとする勢力、どちらが有利か。この問題では、われわれの方が有利なのである。「即位礼正殿の儀」で使われる「高御座」(左)と「御帳台」=2018年4月、京都御所・紫宸殿 思い出してもみよ、新帝践祚の前後から、猛烈な秋篠宮家バッシングが行われた。さらに、アンケートでは、「女帝」「女系」への賛成が圧倒的多数を占めた。もちろん、これは女帝と女系の区別もつかない人々へのアンケートであり、マスコミの誘導尋問である。何より、陛下のお言葉に基づいた議論ではない。望ましい旧皇族家の復帰 今回の御譲位は、先帝陛下が玉音放送で「皆で考えてほしい」とおっしゃられたので、実現した。国民の9割が賛成した。多くの国民は先帝陛下が何をおっしゃったかよく分からなかっただろうが、「陛下がおっしゃるならば」と賛成した。翻(ひるがえ)って、「女系」「女帝」のアンケートは何なのか。マスコミが勝手にやっているだけである。 そもそも今上陛下が、「愛子を天皇にしてくれ」と公に言ったのか? そうおっしゃったのを聞いた者がいるのか? 国民は知識こそないかもしれないが、まやかしで皇室を壊されるほど頭は悪くない。 現に、秋篠宮家バッシングも下火になりつつある。なぜか? 悠仁親王殿下がおわすからである。殿下が齢13歳にして初めての外国旅行に行かれるとのニュースが流れ、バッシングの勢いは止まった。秋篠宮家への誹謗(ひぼう)中傷は目に余るものがあったが、ところが、最初の訪問先が親日国で王制のブータンだと聞いて、安心した国民は多いのではないか。「なんだ、秋篠宮家の教育は、しっかりしているではないか」と。 このまま、旧宮家の皇籍復帰も、女系女帝女性宮家などの方策が行われなかった場合、つまり「引き分け」の場合、どうなるか? ここが形勢判断の急所だ。 悠仁親王殿下が無事に御成人なさる。ご結婚なさる。男の子が生まれる。その子がお継ぎになる。この時点で、皇室の伝統は完全に守られる。女系女帝女性宮家など、出る幕がない。 もちろん、ご結婚が遅れる、そもそもご公務が忙しくてお世継ぎづくりができない、男の子が生まれない、なども想定される。そうしたことがないようにしなければならない。また、悠仁殿下がご即位の折には、男性皇族が一人もいなくなる。宮家も絶えてしまう。由々しき事態だ。 もちろん、そのときに今から備えて旧皇族家の皇籍復帰が望ましい。今から旧皇族の方々に復帰していただければ、その方々のお子様方は、生まれたときから皇族だ。悠仁殿下をお支えする皇室の藩屏(はんぺい)となる。ブータンのワンチュク国王夫妻の長男で、3歳の王子と交流される秋篠宮ご夫妻の長男、悠仁さま=2019年8月、ブータン・ティンプー(ブータン王室広報局提供) 安倍首相に高望みしても無駄だが、仮にこれが通らなくても、邪悪な女系女帝女性宮家を阻止してくれれば及第点ではないだろうか。 もちろん、皇室の前途は何も考えなくても安泰というほどではない。しかし、「引き分け」イコール勝ちなのだ。少なくとも現時点では勝ちだし、その有利を将来の完勝につなげる余地は大いにある。 皇室はこうあってほしいなどと大それたことは言えない。ただ、昨日と同じ今日が、明日も続いてほしい。皇室は日本が変わらず存在する象徴なのだ。(文中一部敬称略)

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    両陛下の「心寄せ」は令和の国民の力となる

    ツを愛することを、異口同音に語っている。両陛下の「心寄せ」 両陛下の個人的な性格の明るさが、さらなる皇室支持者を増やしている。こうした前向きの個性が、結果として「ご公務」を充実させ、時に「ご公務」のあり方をも変えていくだろう。 そうした中で、今後一番懸念されるのが、増加する自然災害に対する慰問や激励のあり方である。先の平成の時代も火山噴火、地震や津波、台風による倒壊や水害など数多くの自然災害に見舞われ、上皇ご夫妻はそのつど慰問と激励のため全国を行幸啓した。その誠実で熱心な姿が多くの国民を魅了した。 そして、令和になっても、自然災害は減少するどころか、さらに大きく数も増えると予測されている。今上陛下は水の研究家でもあり、こうした自然災害への積極的な取り組みも国民から期待されよう。 反面、周知のように、両陛下は法令上、政治的発言や活動ができないので、世界や日本の諸問題についてさまざまに思うことはあっても、具体的な行動はとりにくい。世界や日本の一人一人の暮らしや苦悩へ心を寄せて、人々の支えになることで関わることになる。 そうした両陛下の「心寄せ」の姿勢が、多くの人々を励まし、人々自らが社会を良くし、政治を良くしていこうとする力となる。国家の象徴たる天皇の精神的支えによって、国家の主権者たる国民が、主体的に自らの国家の変革を進めていくという構図が、新時代の天皇と国民と政治のあり方の理想になるのだろう。 例えば、平成の時代がそうであったように、上皇ご夫妻が被災地慰問と激励を重ねたことによって、多くの国民が被災地や自然災害に関心を持ち、その解決に関わるようになった。令和の新時代も、両陛下が自然災害に強い関心を示し、自らは政治的な発言や活動は差し控えながらも、そうした両陛下の心寄せに共鳴した人々が主体となって、社会や政治が変わっていくのではないか。 ところで、今回の台風19号による被害は過去に例のない大きさであった。祝賀御列(おんれつ)の儀(パレード)は11月10日に延期されたとはいえ、その被害が復旧される前に即位の礼や大嘗祭が行われることになるだろう。 既に予算を組み、外国賓客も招待している儀式を、政府はどのように運営するのだろうか。祝典に臨む両陛下は、被災地からのメッセージをどう受けとめるのだろうか。 こうした一連の儀式の延期や中止は両陛下の意志で決められることではないだけに、その運営の難しさを感じる。適切な運営には政府や関係者の協力も必要であろう。即位後初の地方公務で愛知県を訪問された天皇、皇后両陛下を乗せた車両。沿道には大勢の人たちが集まり、手を振って出迎えた=2019年6月(代表撮影) 確かに、両陛下に対する国民の声は多様であり、今後さらなる「ご公務」の拡大を望む声も上がるかもしれない。また、平成の上皇ご夫妻と比較してその対応の優劣を問う声も出るかもしれない。 しかし、両陛下といえど、その体力や精神力には限界があり、最低限の基本的な「ご公務」までできなくなるほど無理をしてしまっては、本末転倒だろう。現状でさえ、多忙を極める「ご公務」をさらに難しいものとする必要はない。両陛下に対するさまざまな期待の、どれをどの順番で具現化するかの選別も大切なことだろう。

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    即位の礼の参加者は平成よりも30多い、増す皇室の存在感

    夫妻を出迎えられる天皇、皇后両陛下=皇居宮殿・南車寄 両陛下が緊張感の中で準備を進められるのは、令和皇室にとっての大舞台だから、という理由だけではない。日本国と国民の象徴としての「天皇」が世界から注目される「世紀の祝祭」でもあるからだ。「今回の儀式に参列するため、190以上の国や地域、国際機関の代表が訪日する予定です。その数は平成の即位礼より約30も多い。それは、上皇上皇后両陛下はじめ平成皇室の皇族方の精力的な活動を通じて、日本の皇室の存在感がさらに増しているということでしょう。 それだけの期待と注目を一身に浴びながら、両陛下は当日を過ごされることになります」(皇室ジャーナリスト)関連記事■皇室最大の式典「即位の礼」、その流れと平成との違い■小室圭さんの母 「監視されている」と所轄警察に相談か■新天皇8000万円「パレード車」巡る宮内庁と内閣府の綱引き■「即位の礼」の祝賀パレード 両陛下に会えるベストポイント■新天皇即位祭典、選ばれた嵐は「おれたちでいいの?」と興奮

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    皇室最大の式典「即位の礼」、その流れと平成との違い

    れます。これらは7世紀の天武・持統朝から、御代替わりの際の重要な儀式として踏襲されてきたものです」(皇室ジャーナリスト・山下晋司氏) 当日は、黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)という束帯をまとった天皇陛下が、玉座を意味する高御座(たかみくら)へ、十二単姿の皇后陛下が御帳台(みちょうだい)に上られる。陛下による即位のおことばの後、安倍首相がお祝いの寿詞(よごと)を述べて万歳三唱し、参列者が唱和する。 令和の即位礼は、平成と異なる点も見られる。最も大きな違いは、両陛下お出ましの経路変更だ。「平成のときは、参列者が直接お姿を拝見できるように、天皇皇后は中庭側廊下を通って松の間に入室されました。 今回は松の間の側扉から入室され、高御座と御帳台にお上りになります。京都で行なわれた昭和天皇のときの形に戻した訳ですが、帳が開いたときに初めて天皇皇后のお姿が現われるというのが、本来の形なのです」(山下氏) 190以上の国や国際機関の代表、約2500人が参列する予定だ。会場内には大小のモニターが複数設置され、離れた位置からでも御姿を見られるという。「即位礼正殿の儀」で天皇陛下が立たれる玉座「高御座」の組み立て作業。右は「御帳台」=2019年9月6日、宮殿・松の間 この日の両陛下は忙しい。午前9時(予定)に即位礼当日賢所大前の儀と即位礼当日皇霊殿奉告の儀があり、午後1時の即位礼正殿の儀が終わると、午後3時半から祝賀パレード「祝賀御列の儀」が始まる。夜7時20分からは参列者を招いて「饗宴の儀」を開催。祝宴はこの日を含めて、10月25日、29日、31日の計4回開かれる。関連記事■新天皇即位祭典 嵐の出演決定までの紆余曲折、候補は3組■悠仁さま、眞子さまを「よからぬあだ名」で呼ばれることも■【動画】嵐 天皇陛下即位祭典ライブ 観覧エリアマップを公開■なぜ皇室の方々は英語をマスターできるのか、その英語学習法■小室圭さん、成績優秀者ではないのに奨学金 母は車で夜の闇

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    昭和天皇はなぜ開戦に同意せざるを得なかったのか

    皇=東京・赤坂の米国大使館 戦後、半世紀をはるかに過ぎ、かつての戦争を知らない世代も増えた。しかし、皇室は、その信義上、天皇家と日本国家の壊滅を救うために世界と結んだ約束を反故(ほご)にすることはできない。もし反故にすれば、天皇家は身の保全のために、一時的な口約束として戦争放棄と民主社会実現を述べたのだと、その不誠実さを世界に示すことになるからである。 少なくとも、昭和天皇とその直系にある皇統のものが皇室を支えている間は、皇室は戦争放棄と民主主義社会の実現を求め続けるだろう。昭和天皇が世界平和を願いながらも太平洋戦争を引き起こしてしまったことで得た大きな教訓であり、後世に残した大きな遺産だからである。 今後、再び天皇の名の下で戦争が起きてしまうことがあれば、平和を願う天皇をそこまで追い込んでしまったわれわれ国民と、国民が支持する政治家たちの姿勢に大きな責任があることになろう。■ 67年前、日本は「元号」を奪われる最大の危機にあった■ 実は「天皇の靖国参拝」に道を開くカギがあった■ 御聖断のインテリジェンス

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    天皇と大東亜戦争

    御代替わりとともに皇位継承問題が深刻化し、天皇や皇室のあり方が問われている。そして迎えた終戦記念日は74回目。記憶が薄れゆく先の大戦だが、やはり切り離すことができないのは天皇との関りではないだろうか。令和最初の終戦記念日を機に、改めて考えたい。

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    「天皇なき日本」の統治を恐れたマッカーサーの極秘電報

    西鋭夫(スタンフォード大学フーヴァー研究所研究員) 米政府は外交文書を30年後に全面公開する。極秘文書であっても30年間で時効となるのだ。これは、米国が偉大な国であるという証しのひとつではなかろうか(日本には時効はない。極秘文書は永遠に極秘だ)。 1945年は昭和20年。米国の日本占領が始まった年だ。その30年後となる1975年、私はワシントン大学大学院の博士課程で研究をしていた。そのとき、日本占領の極秘文書が公開されることを知り、すぐさま首都ワシントンに飛び、米国立公文書館(National Archives)へ直行した。米国立公文書館には、独立宣言の原文があり、米国政府の重要文書すべてが保管してある。公文書館の建物はほれぼれするほど見事。これは国力か、富の深さか。いや、歴史を大切にする心意気であろう。 「国務省の1945年度のファイルを見たい」と申し出た。すると、礼儀正しい、度の強いメガネをかけた係員の一人が、私を迷路のように入り組んだ地下に連れて行き、四方に頑丈な金網が張られた小さな部屋に案内してくれた。金網は濃い緑に塗ってあった。 「しばらく待っていてください」と言う。 この部屋には灰色の金属性の長方形テーブルが1台、鉄製の椅子が1脚。床はコンクリートで灰色に塗ってあった。身の引き締まる思いがした。15分ほどして、この係員が手押し車に灰色の箱を20ほど積み、ゆっくりと部屋に入って来た。「入って来た」といっても、外からも内からも、係員の動作も私も丸見えだ。 これらの箱の上には、うっすらと埃(ほこり)が積もっており、それに指紋がついていない。どの箱にもついていない。箱は両手を使わねば開けられないもので、30年間たった後、極秘文書の扉を開けるのは私が初めてかと、興奮した。あの感情の高ぶりは、生き埋めにされている日本の歴史に対する畏敬の念であった。 公開されたばかりの極秘文書から、当時、日本では知られていない驚愕(きょうがく)する史料が山ほど出てきた。 ハリー・トルーマン大統領(1884〜1972)は、1945年10月18日の記者会見で、「日本国民が自由な選挙で天皇の運命を決定する機会を与えられるのは良いことだと思う」と発言。ソ連、中国、英国、オーストラリアでは、昭和天皇を戦犯として裁く世論が沸騰しており、米国内でも天皇を戦犯として裁いたほうが良いという意見が強くなっていた。トルーマン米大統領 東京裁判のため、米国からジョセフ・キーナン首席検察官(1888〜1954)が、1945年12月6日午後7時、38名の部下を引き連れて厚木に降りたった。キーナンは、シカゴの大物マフィアであるアル・カポネ(1899〜1947)を告発し、全米で最も悪名高いギャング王を牢(ろう)に放り込んだ敏腕検事だ。 キーナンは検事総長の補佐官として、全米のギャングや誘拐事件を担当し、才能を発揮した。彼は、暴力団専門であった。日本の「A級戦犯」はギャング集団と見られていたのだろう。  翌12月7日、キーナンは帝国ホテルで記者会見をした。12月7日は「真珠湾攻撃」の日(アメリカ時間)。その日を選んだのは、もちろん偶然ではない。 問:「天皇陛下をどうか」 答:「自分の口からは何ともいえない」 問:「戦争犯罪人の追及はいつまでさかのぼるのか」 答:「1937(昭和12)年7月である(筆者注・近衛文麿が首相のとき起こった盧溝橋事件にまでさかのぼる)」 問:「真珠湾攻撃の責任は」 答:「真珠湾攻撃の責任は爆弾を投下したその人ではなく攻撃計画を立案、実施した人である、自分は日本の侵略戦争、宣戦布告なき戦争を挑発したその罪科を指摘したいと思う」(『朝日新聞』1945年12月8日) 東京裁判の首席検察官キーナンは、「卑怯者」を死刑にするために来たのだ。ところが、キーナンの態度を急変される事態が起きた。「憎悪は未来永劫に続く」 ダグラス・マッカーサー元帥(1880〜1964)は、日本に上陸してわずか5カ月後、日本国民の日常生活の中で、その精神文化の中で、天皇がいかに重要な存在であるかを完全に把握した。天皇を死刑にすれば、日本は崩壊し、マッカーサーの統治は不可能となる。天皇は生かしておかなければならなかった。 天皇の権威を理解したマッカーサーは、米国の対日占領には天皇の温存、利用が必要だと判断。1946(昭和21)年1月25日、マッカーサーは、陸軍省宛てに3ページにびっしりと文が詰まっている極秘電報を打った。この電報が天皇の命を救う。1975(昭和50)年4月24日に公開された(西鋭夫『國破れてマッカーサー』中央公論社、1998年)。内容の要点は以下の通りである。 「天皇を告発すれば、日本国民の間に想像もつかないほどの動揺が引き起こされるだろう。その結果もたらされる事態を鎮めるのは不可能である」「天皇を葬れば、日本国家は分解する」 連合国が天皇を裁判にかければ「(日本国民の)憎悪と憤激は、間違いなく未来永劫に続くであろう。復讐のための復讐は、天皇を裁判にかけることで誘発され、もしそのような事態になれば、その悪循環は何世紀にもわたって途切れることなく続く恐れがある」 「政府の諸機構は崩壊し、文化活動は停止し、混沌無秩序はさらに悪化し、山岳地域や地方でゲリラ戦が発生する」「私の考えるところ、近代的な民主主義を導入するという希望は悉く消え去り、引き裂かれた国民の中から共産主義路線に沿った強固な政府が生まれるだろう」 「(そのような事態が勃発した場合)最低100万人の軍隊が必要であり、軍隊は永久的に駐留し続けなければならない。さらに行政を遂行するためには、公務員を日本に送り込まなければならない。その人員だけでも数10万人にのぼることになろう」  そして、陸軍省をこれだけ脅かした後、「天皇が戦犯として裁かれるべきかどうかは、極めて高度の政策決定に属し、私が勧告することは適切ではないと思う」と外交辞令で長い電報を締めくくった。 マッカーサーの描いた「天皇なき日本」の悪夢に満ちた絵は、彼の期待どおりの奇跡をもたらした。この電報を受け取った陸軍省は、すぐさま国務省(バーンズ長官とアチソン次官)との会議を持つ。国務省と陸軍省は、天皇には手をつけないでおくことに合意したのだ。第二次世界大戦終戦直後、厚木飛行場に降立つマッカーサー元帥 マッカーサーにとって、日本占領を円滑に行うには天皇が必要だった。天皇が退位する可能性もあったので、マッカーサーは、天皇に思いとどまらせるため全力を挙げていた。天皇が退位すれば、日本の共産主義者たちが有頂天になり、大混乱をもたらし、己の政治生命が危ういと恐怖を感じていたのだ。 マッカーサーが陸軍省に打電した長い極秘電報は、天皇を救った「蜘蛛の糸」だったのか。いやそうではない。今にも切れそうな細い「糸」にぶら下がっていたのは、マッカーサー自身だった。極秘文書の英文※参考のため英文の極秘文書を紹介するTOP SECRET25 January 1946From: CINCAFPAC(Commander in Chief, American Forces, Pacific)MacArthurTo: War Department, WARCOS (War Department, Chief of Staff), Joint Chiefs of Staff“... investigation has been conducted here under the limitations set forth with reference to possible criminal actions against the emperor. No specific and tangible evidence has been uncovered with regard to his exact activities which might connect him in varying degree with the political decisions of the Japanese Empire during the last decade. I have gained the definite impression from as complete a research as was possible to me that his connection with affairs of state up to the time of the end of the war was largely ministerial and automatically responsive to the advice of his counselors. There are those who believe that even had he positive ideas it would have been quite possible that any effort on his part to thwart the current of public opinion controlled and represented by the dominant military clique would have placed him in actual jeopardy.“If he is to be tried great changes must be made in occupational plans and due preparation therefore should be accomplished in preparedness before actual action is initiated. His indictment will unquestionably cause a tremendous convulsion among the Japanese people, the repercussions of which cannot be overestimated. He is a symbol which unites all Japanese. Destroy him and the nation will disintegrate. Practically all Japanese venerate him as the social head of the state and believe rightly or wrongly that the Potsdam Agreements were intended to maintain him as the Emperor of Japan. They will regard allied action ***** betrayal in their history and the hatreds and resentments engendered by this thought will unquestionably last for all measurable time. A Vendetta for revenge will thereby be initiated whose cycle may well not be complete for centuries if ever.“The whole of Japan can be expected, in my opinion, to resist the action either by passive or semiactive means. They are disarmed and therefore represent no special menace to trained and equipped troops but it is not inconceivable that all government agencies will break down, the civilized practices will largely cease, and a condition of underground chaos and disorder amounting to guerrilla warfare in the mountainous and outlying regions result.”“I believe all hope of introducing modern democratic methods would disappear and that when military control finally ceased some form of intense regimentation probably along communistic line would arise from the mutilated masses. This would represent an entirely different problem of occupation from those not prevalent. It would be absolutely essential to greatly increase the occupational forces. It is quite possible that a minimum of a million troops would be required which would have to be maintained for an indefinite number of years. In addition a complete civil service might have to be recruited and imported, possibly running into a size of several hundred thousand.”“An overseas supply service under such conditions would have to be set up on practically a war basis embracing an indigent civil population of many millions. Many other most drastic results which I will not attempt to discuss should be anticipated and complete new plans should be carefully prepared by the Allied powers along all lines to meet the new eventualities. Most careful consideration as to the national forces composing the occupation force is essential. Certainly the US should not be called upon to bear unilaterally the terrific burden of man power, economics, and other resultant responsibilities.”“The decision as to whether the emperor should be tried as a war criminal involves a policy determination upon such a high level that I would not feel it appropriate for me to make a recommendation but if the decision by the heads of states is in the affirmative, I recommend the above measures as imperative.”■ 「あれは日本の自衛戦争だった」 敵将マッカーサー証言は重い ■ 「国民を見捨てない」陛下の覚悟さえも貶めた裏切り者の日本人■ 御聖断のインテリジェンス

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    激動の昭和史を生きた昭和天皇の苦悩

    保阪正康(ノンフィクション作家)現在発売中の月刊誌『歴史街道』2019年5月号では、ノンフィクション作家の保阪正康氏が、昭和史を読み解くための方法について、様々な視点から語っている。そのうち、近代日本における昭和の歴史的意味、昭和史を読み解くための3つのキーワードについて、紹介しよう。 西暦でいうと、昭和は、1926年(元年)12月25日から1989年(64年)1月7日まで続きました。 正味の期間は62年と2週間。一世代を20年とするならば、三世代、四世代が体験していることになり、かなり長い時代です。 その間に、戦争、一時的な勝利、敗戦、占領、被占領、あるいはテロ、クーデター、それから貧困、欠食、経済発展、飽食等々、「人類史における、さまざまな体験が凝縮されている」といっていいほどの、人間の行為が繰り広げられています。 日本は幕末に鎖国を解き、明治以降は近代国家として国際社会に入っていきましたが、「明治という時代に、日本人はどう生きたのか」ということは、今でも重要なテーマです。 それと同じぐらい、いや、それ以上に「昭和という時代に、日本人はどう生きたのか」は重要なテーマであり、50年、100年の単位の中で、昭和史は歴史的に検証されるものだと思います。 後世の検証は後世の人に任せるとして、現時点で昭和の歴史的な意味を考えるならば、近代史の流れの中で捉えることができます。 近代日本の150年間は、明治、大正、昭和、平成と、四つの元号の時代があります。この四つを、物語の構成要素である「起承転結」にあてはめると、かなりわかりやすいのです。 明治は、いろいろなものが動き出す「起」。 日本は政治、軍、産業など、さまざまな分野で西洋の近代文明を導入しましたが、基本的には軍事主導体制を選び、日清・日露戦争を経て、西欧列強と肩を並べていきました。 大正は、だんだん動きが絞られてきて、衝突もありながら、発展する「承」。 明治の軍事主導体制を受け継いだ大正の日本は、第一次世界大戦という大きな戦争に参加したけれど、それは日英同盟によるもので、主体的に参加したのではありません。ある意味で、側面から大戦に参加することで、軍事大国、一等国への道を選んだともいえます。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) 昭和は、起と承を受けて、大きな出来事が起こる「転」。 明治、大正と続いてきた軍事主導体制がクライマックスに達し、昭和20年(1945)に瓦解した。そして、新しい民主主義体制下で、非軍事主導体制になっていきます。近代日本の「クライマックス」 平成は、大きな出来事がおさまっていく「結」。 昭和の後半に始まった非軍事主導体制が、一つの形として出来上がりました。 歴史を「起承転結」で語るのが良いかどうかは別にして、昭和は明治、大正と続いてきた流れに結果が出た、「近代日本がクライマックスを迎えた時代」といえます。 そして、そこには二つの側面があった。明治以来の軍事主導体制の清算と、その清算を元にした新体制の出発です。 これが現在の私たちに考えられる、「昭和の歴史的な意味」の一つだと思います。 視点をどこに置くかによって変わりますが、昭和という時代は三つに分けられます。 まず、昭和元年から20年8月までが昭和前期。この時期に、明治、大正から続いてきた軍事主導体制の流れが終わりました。 次に、アメリカの軍艦ミズーリで降伏文書に調印した昭和20年9月2日から、占領の終わる27年(1952)4月28日までが昭和中期。これは国家主権を失っていた時期です。 そして、サンフランシスコ講和条約が発効した昭和27年4月28日から、昭和天皇が崩御した64年1月7日までが昭和後期。独立を回復して、民主主義体制が築かれていく時期です。 昭和史で特徴的なのは、昭和前期とそれ以後で、日本の姿が大きく変わったことです。 歴史を理解するときに「その時代のキーワード」を見るとわかりやすいので、「違う顔の昭和」を示すキーワードとして、「天皇」「軍事」「国民」の三つを考えてみましょう。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) 昭和前期の天皇は軍事主導体制の神格化された存在でしたが、戦後は民主主義体制下で人間天皇、象徴天皇という存在になった。 昭和前期までの日本は軍事で一等国になり、戦後は戦争と距離の遠い所にある非軍事を追求する国になった。昭和天皇の「模範」 それから、天皇を主権者とする大日本帝国憲法では、国民は「臣民」という言葉で表現され、天皇の赤子という位置づけでしたが、戦後は国民が市民(シビリアン)という存在になった。 同じ時代に、これほど両極端な体験をした国は珍しく、「二重性」は昭和の特徴の一つなのです。 ところで、先に挙げた三つのキーワードのうちで、「天皇」は昭和史を理解するときに重要度が高いと思います。「天皇」を緻密に見ていくことによって、いろいろと見えてくるものがあるのです。 たとえば、昭和天皇には、明治天皇、大正天皇と違うところがいくつかありました。 その一つは教育です。昭和天皇は大正3年(1914)から10年(1921)まで、帝王学を、御学問所で学びました。明治天皇、大正天皇はともに、その場その場での教育しか受けていません。昭和天皇だけが、体系づくられた帝王学と軍事の知識を学んだのです。 また、「天皇」という立場との向き合い方が、昭和中期以降の昭和天皇は、明治天皇、大正天皇とまったく違っています。 戦後の記者会見で、昭和天皇は明治天皇のことは語ったけれど、大正天皇のことを語りませんでした。 明治天皇は、軍事主導体制で一等国になろうとする時代の天皇です。大正天皇はその体制を引き継ぎましたが、漢詩には天才的な能力があり、どちらかというと文化的な天皇でした。軍事は嫌で、陸軍の大演習にも行きたくなくてしようがなかったといわれます。 昭和天皇が模範としたのは、大正天皇ではなく、明治天皇だった。これは明治以来の軍事主導体制を引き継ぐことを、意識していたからだと思われます。 しかし、昭和20年の敗戦で、軍事主導体制が崩壊してしまった。そのとき、昭和天皇は新しい天皇像をつくらなければいけなくなり、それを模索したと思います。 天皇像を自らつくる。そこが、明治天皇、大正天皇との大きな違いですが、それは「13歳から19歳にかけて身につけた帝王学」をどう変えていくかということでもあり、昭和天皇の人生における大きな戦いだったと思います。ほさか・まさやす ノンフィクション作家。昭和14年(1939)生まれ、 北海道出身。同志社大学文学部卒。平成16年 (2004)、昭和史の研究により、菊池寛賞を受賞。 著書に『昭和史七つの謎』『昭和史のかたち』 『ナショナリズムの昭和』(和辻哲郎文化賞受賞)ほか。関連記事■ 永田鉄山、石原莞爾、武藤章…陸軍の戦略構想から見える「対米戦」への分岐点■ 海軍反省会ー当時の中堅幹部が語り合った400時間の記録■ マッカーサーを感動させた、昭和天皇のお覚悟と天真の流露■ 日米開戦を「近衛総理に一任」した及川古志郎海相を、元・海軍中堅幹部はどう評価するのか■ 明治天皇 自ら体現された「無私のまこと」

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    戦前のエリートは昭和天皇の言葉を都合よく使い分けていた

     暴走する軍部と対峙した昭和天皇。孤独な戦いのなか、お言葉は唯一の武器だった。現代史家の秦郁彦氏が解説する。* * * 明治憲法下の昭和天皇ができるかぎり「立憲君主」の立場を守りたいと望んでいたことは間違いない。皇太子時代に立憲君主制の英国を訪れて王室の「君臨すれども統治せず」というあり方に接したことや、元老の西園寺公望や側近の牧野伸顕らリベラルな人物に囲まれていたことなどの影響が、その背景にはある。 また、そもそも明治憲法も立憲君主制を念頭に置いて制定された。政治責任を負うのは臣下であって、天皇の裁可は一種の儀礼的な手続きにすぎない。 だが、立憲君主制の枠組みに収まらない例外的な事例もあった。昭和天皇ご自身も、昭和46年に外国人記者団にこう語っている。「自分は立憲君主たることを念願としてきたが、2回だけ非常に切迫した緊急事情のため直接行動をとった。そのひとつが二・二六事件であり、もうひとつが終戦のときである」 ただし実はその二例よりも前に、微妙なケースがあったことも忘れてはいけない。昭和3年に起きた張作霖爆殺事件の責任を取って、翌年に田中義一内閣が総辞職した一件だ。一度は関東軍の河本大作大佐の仕業だと伝えた田中首相が、その後「陸軍には犯人はないだろうと判明しました」などと食言したことに激怒した昭和天皇が、「辞表を出してはどうか」と田中に迫ったのである。 戦前・戦中の出来事に関して昭和21年に側近へ語った談話をまとめた『昭和天皇独白録』によれば、これについて天皇ご自身は「若気の至りである」と反省されていたようだ。 天皇がこのような行動を取ると、「君側の奸」として、側近たちが非難され、暗殺の対象にされてしまう。それに気づいた昭和天皇は、政治介入と疑われるような言動は自粛していた。昭和天皇実録の公刊本 しかし昭和11年の二・二六事件では岡田啓介首相が一時的に行方不明となり、内閣が機能不全に陥ってしまう。やむを得ず、宮中と陸軍のパイプ役である本庄繁侍従武官長に天皇が反乱軍の鎮圧を命じた。ところが、反乱を起こした陸軍の皇道派に近い本庄は動こうとしない。ついに「朕自ら近衛師団を率い、これが鎮定にあたらん」とまで極言するが、それでも本庄は従わなかった。 それでも陸軍に天皇の意向が伝わると、それまで勝ち馬に乗ろうと日和見を決め込んでいた面々が徐々に討伐へ傾く。それまで反乱軍に同調していた石原莞爾(戒厳司令部作戦課長)も、関係者を集めて反乱軍への武力行使を宣言し、「勝てば官軍、負ければ賊軍」としめくくった。「第2の例外」終戦の聖断 とはいえ、臣下たちがいつも天皇の意向にしたがったわけではない。たとえば対米戦争の方向を決した昭和16年9月6日の御前会議では、明らかに天皇の意向が無視されている。 外交による解決を望んでいた昭和天皇は、その席で「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ」(*)という明治天皇の御製を読み上げた。【*「四方の海にある国々は皆同胞と思っているのに なぜ波風が騒ぎ立てるのであろう(なぜ争わなくてはならないのか)」】 しかしこの発言は政策決定にまったく影響を与えず、単なる天皇の「ご感想」に終わってしまう。もっとも当時の御前会議は、天皇は臨席するが発言はしないのが慣例だった。立憲君主制の主旨からすれば、たとえ天皇の発言があっても、決定に影響を与えない「感想」として扱われたのである。 ところが同じ御前会議の発言でも、二・二六事件に次ぐ「第2の例外」となった終戦の聖断はどうだったか。ポツダム宣言の受諾について最高戦争指導会議のメンバー6人の意見が賛否半々に割れたとき、首相の鈴木貫太郎は「陛下のご意見をお聞かせください」と願いでた。 それに対して昭和天皇は「外務大臣の意見に賛成する」と答え、ポツダム宣言受諾を主張する東郷茂徳外相を支持したわけだが、これも法的にはやはり「感想」にすぎない。しかし日米開戦前の御前会議とは違い、こちらは政策決定に直接の影響を与えた。誰も異議は唱えず、結果的に「御聖断」となったのである。 開戦時も終戦時も、天皇の意向に不満を持つ者は少なからずいた。たとえば開戦前の御前会議で天皇が外交重視だとわかったときは、陸軍の強硬派だった作戦課長の服部卓四郎が「陛下のお気持ちを変えていただくために参謀総長は毎日でも参内すべき」などと言っている。 終戦の聖断に対しても、徹底抗戦を主張する若手の将校グループが宮中占拠事件を起こし、玉音放送の録音盤を奪取しようと試みた。「承詔必謹(しょうしょうひっきん。陛下の命令は必ず従え)」と建前を言いながら、本音では、自分の考えと違う天皇の言葉には従おうとしない。戦前のエリートたちは、天皇の言葉を都合よく使い分けていたのである。【PROFILE】秦郁彦●1932年、山口県生まれ。東京大学法学部卒業。現代史家として慰安婦強制連行説や南京事件20万人説などを調査により覆す。著作に『昭和天皇五つの決断』『慰安婦問題の決算』『実証史学への道』など。●取材・構成/岡田仁志(フリーライター)関連記事■昭和天皇、占領軍の言いなりにならぬ姿勢示した「人間宣言」■右も左も都合のよい天皇の発言は利用、気に入らぬ発言は無視■【書評】今の論客の不備を補う山本七平の史観と視野の広さ■慰安婦「記憶遺産」“落選”に韓国政府衝撃 実際は引き分け■韓国による「慰安婦」世界記憶遺産登録を完全阻止の秘策あり

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    昭和天皇、占領軍の言いなりにならぬ姿勢示した「人間宣言」

     皇太子時代に“君臨すれども統治せず”という在り方に接した昭和天皇は、明治憲法下で立憲君主であろうとした。だが、二度、切迫した事態により直接行動をとったことがあると戦後、語っている。それは二・二六事件で反乱軍の鎮圧を命じたことと、ポツダム宣言の受諾である。戦後、「象徴天皇」となってからも、昭和天皇はマッカーサーとのトップ会談に計11回も臨んだ。現代史家の秦郁彦氏が解説する。* * * 昭和天皇が自らの政治センスをフルに働かせたのは、終戦から6年9か月続いた占領期だった。新憲法が成立すると、天皇は「国民統合の象徴」となったが、占領軍の最高司令官マッカーサーと11回にわたるトップ会談をやるなど、先頭に立ってさまざまな交渉を行った。 ある意味で、敗戦は天皇を「解放」したとも言えるだろう。それまで自分の意向をないがしろにしてきた軍部首脳や重臣たちがいなくなり、昭和天皇はのびのびと外交手腕を発揮されたように見える。日本占領の成功を花道に大統領選挙に出馬する予定だったマッカーサーが望んだからでもある。 新憲法には抵触するかもしれないが、占領軍が全権を握る特殊な状況下では、憲法自体が効力を停止していたも同然だ。それに、天皇がリーダーシップを発揮したのは、国民の期待に応えるものでもあった。国民は、終戦の聖断によって一億玉砕を阻止してくれたのは昭和天皇だとわかっていた。その天皇が、こんどは占領軍を相手に日本の利益を守ってくれることを当時の日本人は望んでいたのである。占領軍側も、自分たちの目的を達成するには天皇の権威と政治力が不可欠だと考えていた。 昭和天皇が必ずしも占領軍の言いなりにはならない姿勢を最初に示したのは、昭和21年のいわゆる「人間宣言」だ。現人神であることを否定する原案を見た天皇は「自分が神だと思ったことは一度もないのに」と難色を示したが、首相の幣原喜重郎に海外諸国の誤認を正すためですと説得されて受け入れた。しかしその代わりに条件をつけた。宣言の冒頭に「五か条の御誓文」を入れることである。戦後、GHQ本部として接収された旧第一生命館(ゲッティイメージズ) 終戦と同時に、占領軍はアメリカ型の民主主義を日本に持ち込んだ。だが、それ以前の日本が民主主義を知らない野蛮な国だったわけではない。明治維新以降に日本型の民主主義があった。その基盤になったのが「万機公論に決すべし」とした五か条の御誓文にほかならない。昭和天皇はそれを示すことで、占領軍に毅然として立ち向かう姿勢を見せたのだろう。私には、それが一種のレジスタンスだったように見える。【PROFILE】1932年、山口県生まれ。東京大学法学部卒業。現代史家として慰安婦強制連行説や南京事件20万人説などを調査により覆す。著作に『昭和天皇五つの決断』『慰安婦問題の決算』『実証史学への道』など。●取材・構成/岡田仁志(フリーライター)関連記事■今上天皇のお言葉の意味 親子二代で「人間宣言」を完成した■右も左も都合のよい天皇の発言は利用、気に入らぬ発言は無視■天皇譲位論争の本質 「人間天皇」か或いは「現人神天皇」か■退位イヤーを前に池上彰氏が解説「天皇とはどんな存在か」■戦前のエリートは昭和天皇の言葉を都合よく使い分けていた

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    所功手記「皇位世襲の持続方法を考え直す」

    国家・国民統合の象徴と意義付ける。それとともに、第2条で「皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」と明示している。つまり、象徴天皇の地位は、古代以来の皇統血縁者によって世襲することが大原則である。 その世襲方法は、明治以来の皇室典範を受けて、昭和22(1947)年施行の皇室典範(法律)に定められた。とりわけ第1条に「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」と限定されている。つまり、「皇統に属する」血縁者であることが大前提であり、それには男系の男子、男系の女子、女系の男子、女系の女子も含む。ただ、歴史的に男系が長く続き、男子が多いことを重視して、「男系の男子」に絞ったのである。 しかし、戦後七十数年間に、連合国軍総司令部(GHQ)の皇室縮小(弱体)化政策や少子高齢化の進行などにより、皇室構成者が漸減してきた。側室庶子も養子縁組も認めない現行典範の制約などにより、令和元(2019)年現在、若い男系男子は悠仁親王お一人しかおられない。また、今は皇族の女子9名(内親王3名、女王6名)も、一般男性と結婚すれば皇籍を離れるほかない(皇室典範12条)から、やがて皆無となる恐れがある。 そこで、一昨年6月に成立した「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」は、特に付帯決議を加え、「安定的な皇位継承を確保するための諸課題、女性宮家の創設等」を、「皇族方の御年齢からしても先延ばしすることのできない重要な課題であることに鑑み、本法施行後速やかに、皇族方の御事情等を踏まえ、全体として整合性がとれるよう」、政府も国会も検討することを、与野党合意で明確に求めている。 これによって、平成17(2005)年の小泉純一郎内閣に始まり、同24(2012)年の野田佳彦内閣に受け継がれながら、ほとんど動かなかった「皇室典範改正準備」が、ようやく再開されることになる。ただ、この十数年間で事態は一層深刻化しており、今度こそ政府で実現可能な具体策を練り上げて、国会で与野党合意により改正法案を成立させてほしい。 この事態を建設的に前進させる一助として、ここでは甲案と乙案を分けて、各々に若干の具体案を提示するので、議論の叩き台にしていただきたい。まず甲案とは、現行典範の男系男子に限る継承原則を厳守する場合である。また乙案とは、その原則を残しながら、当代の特例として、男系女子の継承(女性天皇)も一代限りで可能とする場合である。 なお、歴史上に前例のない女系天皇は、当面現実にあり得ないことだから、議論を次世代に委ねて、当世代は対象としないことにすべきであろう。 甲案では、三つの具体案が考えられる。まず(イ)は、現行の典範と特例法にのっとって「男系の男子」のみで継承する場合である。「特例」男系女子の継承案 今上陛下が、やがて高齢を理由として上皇陛下と同様に退位される場合、仮に26年後ならば、85歳の今上陛下から79歳の皇嗣(こうし)、秋篠宮殿下に譲位される。ただ、その段階で、38歳の悠仁親王はようやく皇太子となられるが、そのころまでに結婚されるとしても、その妃(きさき)は必ず男子を産まなければ先が続かない、という重圧を背負うことになる。 ついで甲案の(ロ)だが、皇嗣の秋篠宮殿下ご自身が、およそ21年後、80歳の兄君が退位されても、74歳で即位して象徴天皇の役割を果たすことは現実的に難しい、と自ら語っておられると報じられている(「朝日新聞」4月21日朝刊)。もしそうであるならば、今上陛下の次は甥(おい)の悠仁親王が継がれることになるほかないから、例えば、6年後に18歳で父君から皇嗣の地位を譲り受けて成年式と立太子の礼を行い、およそ10年後の28歳ごろに結婚され、やがて33歳ほどで即位されるということになれば、世代交代としてはノーマルになる。 念のため、前近代には、当帝に皇子がない場合、その兄弟や宮家の王(親王の子)を養子、つまり猶子(ゆうし)に迎えて、親王に引き上げて後継者とした例が多い。また、宮家の後継王も当帝の仮養子として親王になるから宮家を相続することができた。 さらに、甲案の(ハ)は、一世代後の将来を考えてみると、(イ)でも(ロ)でも、皇位を継承される悠仁親王の後に必ず男子が生まれるとは限らない。とすれば、万一に備えて男系男子を確保しておくため、旧宮家子孫の中から適任者を選び出し、やがて皇族に迎える案も検討するような必要があろう。 ただ、旧11宮家でも男系男子の相続が原則のため、既に7家が若い男子の不在で続かず、これからも残るのは久邇(くに)、賀陽(かや)、東久邇、竹田の4家しかない。そのうち一般国民として生まれ育った当代の若い男子が、やがて皇族となれる要件を具備するのは相当難しいと思われる。2019年4月8日、お茶の水女子大付属中の入学式に臨まれる秋篠宮ご夫妻と長男悠仁さま 一方、乙案にも、三つの具体案が考えられる。前述の通り、男系男子の原則を残しながら、当代の特例として男系女子の継承を一代限りで容認する案である。ここでは失礼ながら、高齢の常陸宮殿下と、将来高齢になれば即位困難と自認されている秋篠宮殿下を議論の対象外として考察する。 まず、乙案の(a)は、男系の男子を優先するが、男系の女子も可能とするものである。仮に21年後を想定すれば、80歳の今上陛下から33歳の悠仁親王が即位され、その段階で悠仁親王に王子が誕生していれば、その男子を皇太子とする。 しかし、もし女子か無子であるならば、38歳の愛子内親王が皇嗣となり、それから仮に20年後か30年後、悠仁天皇(53歳か63歳)の後を、愛子内親王(58歳か68歳)自身が即位される。もしくは、それまでに結婚して王子をもうけておられたら、その男子が即位されるようなケースも考えられる。 ついで乙案の(b)は、男系の男子を優先するにしても、直系・長系の長子を優先する場合である。今上陛下の次は長女の愛子内親王であるから、その愛子内親王が早めに(成年となられる2022年)、皇嗣の地位を57歳の叔父、秋篠宮殿下から譲り受けて、皇太子となられる。若い適任者を探し出す やがて仮に18年後、80歳の父君の後を承(う)け、38歳で女性天皇となられ、33歳の従弟、悠仁親王を皇嗣とされる。それから、仮に20年後か30年後に愛子天皇(仮称)が譲位されたら、皇嗣の悠仁親王自身が即位されるか、またはそれまでに悠仁親王が結婚して王子をもうけておられたら、その男子が皇嗣を譲り受けて、即位されるようなケースも考えられる。 さらに乙案の(c)は、もし万々一、悠仁親王にも愛子内親王にも御子が生まれないような場合まで想定している。旧11宮家のうち、現存する前述の4家の中に、若い男子で将来皇室に迎えられるほどの若い適任者たちがいたとしよう。 その場合は例えば、専任でも臨時でもよいが、宮内庁職員として勤めながら現皇室との関係を深めることが望ましいと思われる。また、もしそのような適任者の中から、皇族女子と結婚されることが可能になるならば、その間に生まれる王子に皇位継承の資格を認められやすくなるとみられる。 なお、天皇と内廷皇族を支える宮家は、皇位に準じて男系男子が相続すべきものと考えられ、行われてきた。しかし、男系女子による相続を否定する明文は見当たらない。事実、近世の桂宮家は皇女が養子に入り当主となった。しかも、現在の宮家の実状を正視すれば、常陸宮家には御子がなく、また他の三家も女子しかない。 したがって、現存の宮家を残すには、少なくとも三笠宮家の彬子(あきこ)女王(37)か瑤子(ようこ)女王(35)、高円宮家の承子(つぐこ)女王(33)、及び秋篠宮家の眞子内親王(27)か佳子内親王(24)の各お一人は、一般男性と結婚しても当家を相続できるようにする必要があろう。 その場合、当主と同様に夫君も子供も皇族の身分とすべきであるが、その夫君は当然皇位継承の資格を持ち得ず、その子供も同様とする。皇族の身分とするのは、そうしなければ家族として一体になれないと考えるからである。ただ、万が一、内廷に皇子も皇女もいないような極限状態に至るなら、女子を当主とする宮家の子孫にも皇位継承の資格を認めることも検討しなければならないが、それは次世代に委ねるほかない。 以上、皇位の世襲継承を持続する現実的な方法についての管見を略述した。今必要なことは、従来の原理原則に固執することが無理な現状を直視して、何とか実現可能な具体案を出し合って総合的に検討を加え、多くの国民に理解と共感が得られる合意の形成に全力を尽くすことであろう。皇居に入られる天皇陛下と愛子さま=2019年5月11日、皇居・半蔵門(川口良介撮影) 長らく放置されてきた諸問題を一挙に解決することは難しい。それゆえ、当面(20~30年)の対応策を練り上げて実施し、その先で新たな問題が生じたら、改めて検討し、修正を加えていくような努力を着実に続けていくことが望ましい。 なお、議論を少しでもわかりやすくするため、皇族の実名も年齢も、20年、30年後の予想までもあげた。非礼にわたることと思われるが、あらかじめ平にお詫びしておきたい。■ 女性宮家以外にも「皇統の断絶」を防ぐ手立てはある■ 「愛子天皇」待望論者たちよ 、もう一度壬申の乱を起こしたいのか■ 元東宮侍従手記「秋篠宮殿下は皇室の意思を代弁するにふさわしい」

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    なぜ安倍総理は「皇室軽視」を繰り返すのか

    罪し、国民に対しても潔く説明をすべきではなかったか、と言いたいのである。 私は、安倍総理も天皇陛下や皇室に向き合うときは、軽々しい態度で向き合っていないと信じたい。むしろ、尊敬の念も強く感じられるとは思う。ただ、その一方で自らへの権威付けに皇室を利用しているようにも感じられるのだ。 5月14日には、安倍首相が天皇陛下に行った内外の情勢などを報告する「内奏」の様子を撮影した映像が公開された。宮内庁は「国事行為を広く知ってもらうため」と説明しているが、内奏は、内において行われるもので、無暗(むやみ)に公開するものではない。これこそ皇室を軽視した政治利用であり、「退位礼正殿の儀」での不敬を挽回したいという思いも感じられる。安倍晋三首相から「内奏」を受けられる天皇陛下=2019年5月14日、皇居・宮殿の「鳳凰の間」(宮内庁提供)  さらに、さかのぼること平成25年4月28日、憲政記念館で「主権回復の日」を記念する政府主催の式典が行われた。現行憲法は米軍占領下で作られた憲法であるが、本来ならば手続き上、占領下での憲法の制定は国際法違反に当たる。さらに、講和条約とともに締結された日米安保条約によりわが国には米軍基地が今なお存続できる権限を有し、この存在により日本の主権は制限されたままの状態である。 そんな状況下で、そもそも「主権回復」などという認識自体が間違っているわけだが、そこに天皇皇后両陛下の御臨席を賜り、記念式典を開催したのである。これは明らかに、安倍総理が自己の政治的主張に皇室という権威を付加するための行為であったと言わなければならない。トランプ会談の問題発言 先だっては、今上陛下と面会する最初の外国元首としてトランプ米大統領が5月下旬に来日することについて、同大統領は、安倍総理に「スーパーボウルと比べて、日本人にとってどれくらい重要なイベントか」と質問し、総理から「百倍重要」との説明を受け訪日を決断した、と明かした。 スーパーボウルというのは米プロフットボールの年間王者決定戦のことだが、いやはや、「スーパーボウルの百倍の価値」とは一体何なのか。 安倍総理としてはとっさに機転を利かせて数値化したのかもしれない。ディール(取引)の王様である米大統領にとっては分かりやすい返答だっただろう。だが、本来は日本人にとって皇室が何ものにも比較できない尊崇(そんすう)の対象であることをきちんと伝えるべきではなかったか。あえて数字を絡ませるなら、「プライスレスだ」ぐらいの発想がほしかったところである。 こうした事例から分かるのは、安倍総理の姿勢が場当たり主義で、「戦後レジームの脱却」「地球儀を俯瞰(ふかん)する外交」などというキャッチフレーズばかりが目立っているということである。 しっかりとした思想と哲学、使命感に裏打ちされた何かを成し遂げるというものではなく、昨今は自己保身のためのパフォーマンスに流れているといわざるを得ないのだ。 ところで、今回の一件で醜悪なのは、総理の「事前の準備」と「事後の対応」だけではない。この国の言論空間を見事に証明してしまっているマス・メディアの姿勢である。安倍総理の誤解を招く発言に、メディアがほとんど何も反応しないというのはいかがなものか。 それも、総理が「願っていません」と述べたとすれば、本人の意図ではないにせよ、本来、陛下にささげるべき内容と真逆の意味になってしまうにもかかわらず、一部夕刊紙がこれを指摘しただけで、大手メディアはほとんど沈黙の状態であった。米ワシントンのホワイトハウスで握手するドナルド・トランプ大統領(右)と安倍晋三首相=2019年4月26日、(共同) あるテレビ局などは「願ってやみません」と、わざわざご丁寧にテロップまでつけて安倍発言をフォローしていた。これは、明らかにマス・メディアの安倍総理への「忖度(そんたく)」であろう。疑問点を疑問点としてただしていく是々非々の姿勢がなくなったならば、それはメディアの自殺行為ではないのか。この点も一言付け加えておきたい。 ともあれ、私は皇室を尊崇し敬愛する一国民として、率直に今回の一件の疑問を問うとともに、頰かぶりを続け、政治課題に緊張感を欠く安倍総理の慢心に対して猛省を促したい。■新元号「令和」公表にチラつく支配欲と主導権争い■禍根を残す「やったふり外交」安倍首相の評価は65点止まり■日本人に覚悟を問う「皇室は民主主義のロボットではない」

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    愛子さまが天皇になる日

    「令和」が幕を開けた。列島は祝福ムード一色だが、新時代の皇室が抱える不安も少なからずある。平成の終わりに週刊誌上をにぎわせた「愛子天皇」待望論はその最たるものであろう。秋篠宮家を取り巻く最近の風評が多分に影響しているとはいえ、令和の次の時代に愛子天皇が誕生する日は本当に訪れるのか。

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    「愛子天皇」待望論者たちよ 、もう一度壬申の乱を起こしたいのか

    倉山満(憲政史家、皇室史学者) まず、皇室に関して最も大事な三つの原則を確認しておく。一つ目の原則は、皇室は先例を貴ぶ世界だということである。わが国は初代神武天皇の伝説以来、2679年の一度も途切れたことがない歴史を誇る。風の日も雨の日もあったが、昨日と同じ今日をこれまで続けてきた。幸いなことにわれわれの日本は、この幸せが明日も続きますように、と言える国なのである。 皇室の祖先である神々を祀っている最も格式の高い神社は、伊勢神宮である。正式名称は神宮。ユーラシア大陸でイスラム教が勃興した西暦7世紀には既に、「いつの時代からあったか分からないほど古い時代からあった」とされる。神宮では毎日、日別朝夕御饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい)という神事が行われている。毎日、同じ御食事を神様に捧げる。昨日と同じ今日が続いてきた証として。そして今日と同じ明日が続きますようにと祈りを込めて。 京都御所の鬼門を守るのは、比叡山延暦寺だ。その根本中堂には、伝教大師最澄が灯した不滅の法灯が今も光を放っている。叡山は三度の焼き討ちにあったが、そのたびに他の地に分灯していた火を戻し、1300年前に伝教大師が灯した光が消えることはない。毎朝、たった一筋の油を差す。その行為自体に何の意味もない。 しかし、毎朝油を差し続けているから、不滅の法灯が消えることはない。いかなる権力があろうと、武力や財力があろうと、今から神宮や不滅の法灯を超える歴史を作ることはできない。不滅の法灯は個人ではなし得ない。歴史を受け継いだからこそ存在しているのだ。 歴史に価値を認めない人間にとっては、何の意味もないだろう。そもそも不滅の法灯など、物理的には一吹きの息で消え去る。いくら言葉を尽くしても、「不滅の法灯などという面倒なものはやめてしまって、電球に取り換えればいいではないか」という人間を説得することなどできまい。そのような人間には、歴史を理解することができないからだ。先例など、何の意味も持つまい。 そういう人間は日本にもいた。それなのに、なぜ皇室は続いてきたのか。変えてはならない皇室のかたちを守ろうとした日本人が続けてきたからだ。もし、日本人が「皇室などやめてしまえ」「これまでの歴史を変えてしまえ」と思うなら、先例など無視すればよい。ただし、それはこれまで先人たちが守ってきた、皇室を語る態度ではない。 古来、皇室では「新儀は不吉」だとされてきた。これは、時の天皇の意向であっても変えることができない、皇室の慣習法である。貫史憲法とも呼ばれる。かの後醍醐天皇は、「朕が新儀は後世の先例たり」と宣言し、公家の支持を失った。歴史を無視し、時流にだけ阿(おもね)れば良いのなら、歴史はいらない。ついでに言うと後醍醐天皇の言う通りにすれば、当時の公家の存在価値などないから、あきれられるのも当然だろう。 もちろん、先例であれば何も考えずに従えばよいのではない。先例にも、吉例と悪例がある。歴史の中から、どの先例に従うのが適切かを探し、「発見」するのである。法は発明するものではなく発見するものであるとは、西欧人の自然法の発想である。日本人は西欧人が自然法を発見する千年前から、その知恵を実践していた。譲位を報告するため伊勢神宮外宮を参拝、板垣南御門に到着された天皇陛下(当時)=2019年4月、三重県伊勢市(彦野公太朗撮影) 幕末維新で国の存亡が問われたとき、御一新が求められた。古いやり方では西洋の侵略に対抗できない。元勲たちは必死の改革を行い、生き残った。その改革の最初が王政復古の大号令である。ここでは「神武創業の精神」が先例とされた。皇室とは、これほどまでに先例を貴ぶ世界なのである。 どうしても新儀を行わねばならないような非常事態はある。たとえば、大化の改新(645年)、承久の乱(1221年)、大東亜戦争敗戦のような場合である。大化の改新は、宮中の天皇陛下の御前で殺人事件が起きた。しかも犯人は天皇の実子である皇子である。殺された蘇我入鹿の専横に中大兄皇子が怒り、事に及んだのだ。そして多くの改革を始めていく。元号が制定されたのもこのときである。実の息子が起こした殺人事件に際し母親の皇極天皇は驚愕し、史上初の譲位を行った。悠仁親王につながる糸 承久の乱は、「主上御謀反」である。鎌倉幕府は、乱を起こした後鳥羽上皇らを島流しにし、時の九条帝を廃位した。九条帝は、践祚(せんそ、天皇の地位を受け継ぐこと)はしたが、即位していなかったので「半帝」呼ばわりされた。「九条廃帝」である。「仲恭天皇」の名が贈られるのは、明治3年。実に600年後である。なお、乱後に治天の君として院政をしいたのは守貞親王だ。後に後高倉上皇の名が贈られた。史上初の「天皇になっていない上皇」となった。 敗戦は、国土を外国に占領されるという未曽有の不吉だった。その際、昭和天皇が自らラジオで国民に語りかけ、結束を訴えた。玉音放送である。 いずれも、血なまぐさい不吉な事件により、新儀が行われている。もちろん、ここで挙げた例でも、元号、譲位、玉音放送(なぜかビデオメッセージと呼ばれる)は現代でも行われ先例となっているので、それ自体は悪いことではない。一方で、廃位や上皇の島流しなどは何度も行われているが、言うのも憚(はばか)るような悪例である。皇室において、新儀とは無理やり行うものなどではないのである。 二つ目の原則は、皇位の男系継承である。今上天皇まで126代、一度の例外もない。八方十代の女帝は存在するが、すべて男系女子である。男系継承をやめるとは、皇室を亡ぼすのと同じである。 現在、悠仁親王殿下まで、一本の糸でつながっている。その今、男系をやめる議論をすること自体が、皇室に対する反逆だ。いかに、これまでの歴史をつないでいくか、たった一本の小さな糸を守るべきかを考えなければならない。それをやめる前提の議論など、不滅の法灯をLED電球に変えようとするのと同じである。 蘇我入鹿も、道鏡も、藤原道長も、平清盛も、足利義満も、徳川家康も、皇室に不敬を働いた権力者は数あれど、誰一人として皇室に入り込むことができなかった。この中で陛下と呼ばれた者は一人もいないし、息子を天皇にした者はいない。せいぜい、自分の娘を宮中に送り込み、娘が生んだ孫を天皇にするのが、限界だった。男系の原則が絶対だからだ。それを今さら男系継承をやめるとは、今までの日本の歴史は何だったのか。男系継承は、皇室皇室であり続ける、日本が今までの日本であり続ける原則なのである。 三つ目の原則は、直系継承である。間違ってもらっては困るが、「男系継承の上での直系継承」だ。二者択一ではない。世の中には、勉強のしすぎで肝心な原則を忘れ、女系論を振り回す論者がいる。この人たちの言い分は、直系継承である。三分の理はある。しかし、肝心な原則である男系継承を無視して女系論を振り回すから、世の常識人に鼻をつままれるのだ。皇后さまのお誕生日を祝うため、皇居に入られる皇太子ご一家(当時)=2018年10月(代表撮影) 不吉なたとえだが、単なるフリーターが内親王殿下と結婚して男の子が生まれたら天皇になれるのか? そんな簡単なことが許されるなら、なぜ藤原氏は摂関政治などという面倒くさいやり方を何百年も続けたのか。 平民の男子は陛下になれない。内親王殿下と結婚しても、平民は平民である。これがわが皇室の絶対の掟である。わが国は一君万民であり、君臣の別がある。皇室から見れば、藤原も平も源も、皆、等しく平民である。皇室から見れば、貴族と平民に差はない。あるのは皇族と貴族・平民の差だけである。 ただ、私は男系絶対派の中で、最も女系論者に理解を示してきたつもりだ。理由を一言でまとめると、「一部の男系論者の頭が悪すぎるから」となる。女系論者の中には、「あんな連中と一緒にされたくない」「あのような連中が言っているのだから、たぶん逆が正しいのだろう」と考えたくなる気持ちはわかる。その愚かな主張から、代表的な二つを取り上げよう。一つは、「皇室のY染色体遺伝子が尊い」である。不敬な論理 いつから皇室の歴史を遺伝子で語るようになったのだ? ちなみに、この理屈、高校生物の知識としても間違っているのだが、それは本筋ではないので無視する。言うまでもないが、遺伝子どころか、アルファベットが生まれる前から、わが皇室には歴史がある。「Y染色体遺伝子」などで皇室を語るなど、児戯(じぎ)に等しい。なお当たり前だが、皇極天皇から後桜町天皇の歴代女帝のすべての方は、「Y染色体遺伝子」を有していない。こうした議論は今や見向きもされなくなったが、高校生物程度の知識で皇室を語る輩(やから)が後を絶たない。 最近よく聞く風説は、「皇太子より血が濃い男系男子が存在する」である。皇太子殿下は本日、めでたく践祚された。さて、この風説を流す者は、今の陛下の正統を疑う気か? 最初にこの失礼極まりない言説を聞いたとき、「それは今の殿下(今上陛下)が(上皇)陛下の実子ではないと言いたいのか?」と訝(いぶか)ったが、そうではないらしい。先般、お亡くなりになられた東久邇信彦氏とその御子孫の方を仰(おっしゃ)りたいらしい。 小泉純一郎内閣で女系論が話題になったとき、占領期に皇籍離脱を迫られた旧皇族の方々のことが話題になった。特に信彦氏は、両親と4人の祖父母が全員皇族(母方の祖父は昭和天皇)、さらに母方の曽祖父が明治天皇である。 しかし、皇室の歴史では、高校生物の理屈など持ち込まない。今の皇室の直系は今上陛下である。今上陛下は、上皇陛下と太后陛下の紛れもない嫡子であらせられる。この論点に争いはない、などと言わされるだけ愚かしい。皇室の直系を継いだ今上陛下より血が濃い方など、いらっしゃらないのである。 ご本人たちに迷惑な書き方だが、一部の風説に従い東久邇信彦氏の方が今の陛下よりも血が濃いとしよう。その根拠は、太后陛下が皇族の出身ではないからになるではないか。実に不敬である。 そもそも、男系が絶対ならば、天皇陛下のお母上は誰でも良いではないか。「皇太子より血が濃い」などと主張する論者は人として失礼なだけでない。男系絶対を言いながら自説の根拠が女系である。論理も破綻している。この論者の言う通りにすれば、古代国家のような近親結婚を永遠に繰り返さなければならない。皇居と宮内庁=東京都千代田区(産経新聞チャーターヘリから) 一部の男系絶対主義者のおかしな主張への反発で女系論に走った論者も、女系論の悪口さえ言っていれば、いかなるでたらめな男系論でも構わないとする論者も、何が大事か分かっていない。 男系継承は絶対である。しかし、直系継承もまた重要である。そもそも、わが国の歴史は皇室の歴史であり、皇位継承とは誰の系統が直系になるのかの歴史なのだから。今上陛下の父親の父親の…と男系でたどっていけば、江戸時代の第119代光格天皇にたどり着く。当時の第114代中御門天皇の直系が第118代後桃園天皇で途絶えたので、閑院宮家から即位された。「傍系継承」である。 しかし、後桃園天皇から父親の父親の…と男系でたどっていくと、第113代東山天皇にたどり着く。東山天皇から見れば、後桃園天皇は玄孫、光格天皇は曾孫である。東山天皇まで継承されてきた直系は、光格天皇から今上陛下まで継承されてきているのである。「五世の孫」の原則 ちなみに私はこの前、「光格天皇六世の孫」の方に会った。由緒正しき、光格天皇の男系子孫の男子である。血は完全だ。しかし、この方に皇位継承資格はもちろん、皇族復帰資格もない。「五世の孫」の原則があるからだ。 皇族は臣籍降下したら、皇族に戻れないのが原則である。もちろん、例外はある。定省王が臣籍降下して源定省となったが、皇籍復帰して定省親王となり、践祚した。第59代、宇多天皇である。元皇族から天皇になった、唯一の例である。 宇多天皇が源定省であったときに生まれたのが源維城(これざね)であり、後の第60代醍醐天皇である。生まれたときは臣下だったが、本来の皇族の地位を回復し、天皇になった、唯一の例である。元皇族と区別して、旧皇族と呼ぶ。いずれも当時の藤原氏の横暴により、皇位継承が危機に陥ったが故の、例外的措置である。決して吉例とは言えない。 ただ、明らかに現在は、醍醐天皇の先例に習うべき危機的状況だろう。かたくなに「君臣の別」を唱え、「生まれたときから民間人として過ごし、何世代も経っている」という理由で元皇族男子の皇籍復帰に反対する女系論者がいる。 では、誰ならば皇族にふさわしいと考えているのか。どこぞの仕事もしていないフリーターならば、よいのか。身分は民間人に落とされても皇族としての責任感を継承して生きてこられた方たちよりもふさわしい人がいるのか。女系論者は「実際に、そんな男系男子はいるのか」と主張し続けていたが、東久邇家の方々よりふさわしい方はおるまい。むしろ、女系論を主張するならば、東久邇宮家の皇籍復帰こそ命がけで訴えるべきだろう。 東久邇家の方々に限らず、占領期に臣籍降下された11宮家の方々は、父親の父親の…と男系でたどっていくと、北朝第3代崇光天皇にたどり着く。「五世の孫」の例外とされた伏見宮家の末裔の方々だ。男系では、直系からは遠すぎる。しかし、女系では近い。 本来、女系とは男系を補完する原理なのである。分かりやすい一例をあげよう。古代において、当時の直系は第25代武烈天皇で絶えた。そこで、第15代応神天皇の五世の孫である男大迹王(をほどのおおきみ)が推戴された。継体天皇である。神武天皇以来の直系は継体天皇の系統が継承し、今に至っている。なお、五世の孫からの即位は唯一であり、この先例が、直系ではない皇族は五世までに臣籍降下する原則の根拠となっている。 ちなみに、継体天皇と武烈天皇は十親等離れている。それこそ血の濃さを持ち出すなら、「ほぼ他人」である。継体天皇から光格天皇まで、傍系継承は何度かある。むしろ古代や中世においては、誰の系統が直系を継承するのかで、皇位継承が争われてきた。新年一般参賀に訪れた人たちを前にお言葉を述べられる天皇陛下と皇后さま(当時)=2019年1月、皇居(佐藤徳昭撮影) その最たる例が、壬申の乱(672年)だ。その壬申の乱は「天智天皇が勝った」と言えば驚かれるだろうか。第38代天智天皇の崩御後、息子の大友皇子(明治3年に弘文天皇の名が贈られた)と弟の大海人皇子(天武天皇)が皇位を争った。践祚した大友皇子に対し大海人皇子が兵を挙げ、自害に追い込み自らが即位する。その後、皇位は天武天皇の系統が継承した。天皇の崩御後は皇后が持統天皇として即位したが、以後の奈良時代の天皇はすべて天武天皇の男系子孫である。天武朝とも呼ばれる。奈良時代は女帝が多いが、天武天皇の直系を守ろうとしたからである。 ところが、健康な男子に恵まれず、称徳天皇の代で途絶えた。この女帝のときに道鏡事件が起きるのだが、「皇位を天智系に渡すくらいなら」との執念すら感じられる。もちろん、民間人の天皇など認められず、皇位は天智天皇の孫(施基親王の皇子なので男系男子)の光仁天皇が継承した。ここに天武朝は途絶え、直系は天智天皇の系統に移った。これが「壬申の乱は天智天皇が勝った」と評するゆえんである。臣民の責務とは ちなみに、女系を持ち出すなら、第43代元明天皇は天智天皇の娘である。第44代元正天皇は、元明天皇と草壁皇子の娘で、天智天皇の孫娘だ。よって、女系では天智天皇の子孫である。しかし、当時は早逝した草壁皇子の系統にいかに直系を継承するかが、天武朝の悲願だった。草壁皇子は天武天皇の息子である。女系でよいなら、天智系と天武系の血で血を洗う抗争は何だったのかと、古代史の門外漢の私ですら思う。皇室が女系で構わないと主張したいなら、古代史を書き換えてからにしていただきたい。 そして、天智朝にしても天武朝にしても、第34代舒明天皇の男系子孫であることには変わりないが、いずれが直系かをめぐり、100年の抗争を繰り返したのだ。それほどの抗争を繰り広げながらも、男系継承の原理を守ってきたので、皇室は続いてきたのだ。 このように、どの天皇の系統が直系を継承するかをめぐり争った歴史は何度かある。第63代冷泉天皇と第64代円融天皇の系統は、交互に天皇を出し合っている。この「両統迭立」は、円融天皇の孫の第69代後朱雀天皇の系統が直系を継承する形が成立するまで続いている。 自分の子供に継がせたいとする感情は、皇室でも同じなのだ。院政期の抗争もそうだ。それは保元の乱で爆発したが、院政期は常に抗争が繰り広げられた。鎌倉時代の両統迭立は南北朝の動乱にまで発展した。そして、大覚寺統(南朝)の中でも、持明院統(北朝)の中でも、直系をめぐる争いはあった。 北朝第3代崇光天皇は動乱の中で南朝に拉致され、そのまま廃位された。皇位は弟の後光厳天皇が継ぎ、直系はその系統に移った。しかし、後光厳天皇の直系が絶えたとき、崇光天皇の曽孫の彦仁(ひこひと)親王が即位された。後花園天皇である。崇光天皇が皇位を奪われてから、77年ぶりの奪還である。 戦国時代以降は、ここまでの激しい皇位継承争いはない。むしろ、皇統保守のために、宮家の方々は天皇陛下をお守りしてきた。江戸時代、幕府の圧力から朝廷を守った後水尾天皇にも、皇室の権威を回復した光格天皇にも、優れた皇族の側近がいた。後水尾帝を支えた近衛信尋は臣籍降下した天皇の実弟であるし、光格天皇は自身が閑院宮家において直系断絶に備えていつでも皇位継承できるよう準備をされていた。陛下御一人では、皇室は守れない。皇族の方々の御役割とは、かくも大きいのだ。 先帝陛下には先の美智子陛下がいらっしゃった。今上陛下を支える筆頭は、東宮となられた秋篠宮殿下である。将来、悠仁親王殿下が皇位を継がれ、日本国は守り継がれていく。お茶の水女子大学附属小の卒業式を終えられた悠仁さまと秋篠宮ご夫妻=2019年3月、東京都文京区(代表撮影) さて、ここまで皇室の歴史を簡単に振り返ったが、「愛子天皇」待望論を唱える者たちは、今の皇室の直系をなんと心得るか。いずれ皇統の直系が悠仁殿下の系統に移られたとき、愛子内親王殿下も陛下をお支えする立場にある。 それを、畏(おそれ)れ多くも悠仁親王殿下がおわすのに、どういう了見か。直系を悠仁親王殿下から取り上げようと言うのか。 もう一度、壬申の乱を起こしたいのか。それとも保元の乱か。はたまた、南北朝の動乱を再現したいのか。 今この状況で、「愛子天皇」待望論を唱える者たちよ。貴様たちは自分の言っていることが分かっているのか。 悠仁親王殿下につながる直系をお守りする。これが、臣民の責務である。■ 「眞子さまへの純真は本物か」小室圭氏よ、試練を歩み解を出せ■ 女性宮家の創設とは「制度化された道鏡」に他ならない■ 女性宮家以外にも「皇統の断絶」を防ぐ手立てはある

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    皇室の危機は一目瞭然、「愛子天皇」待望論の答えは一つしかない

    高森明勅(皇室研究家) このところ「愛子天皇」待望論が高まっているという。当然、予想できたことだ。 5月1日に皇太子殿下は即位されて126代の天皇になられた。新天皇にはご健康でご聡明(そうめい)なお子さまがいらっしゃる。ならば、そのお子さまに次の天皇になっていただきたいと願うのは、皇室を敬愛する国民の心情としてごく自然だろう。 そのお子さまが男子か女子かは、差し当たり二の次と考えられるはずだ。なぜなら、男女の区別よりも天皇との近さ、皇位との距離感こそが、優先されるからだ。 今の皇室典範も明治の皇室典範も、皇位継承の順序において、天皇の子(皇子)や孫(皇孫)を優先する「直系」主義を採用している。その理由は何か。1つには過去の伝統を尊重したため。もう1つは国民のそうした素直な感情に立脚したためである。 だから、「愛子天皇」待望論が浮かび上がってくるのは、決して不思議ではない。 それに加えて、秋篠宮殿下のご即位の先行きが不透明という事情がある。 皇太子殿下が即位されると、同じ瞬間に秋篠宮殿下は「皇嗣(こうし)」になられる。しかし、皇嗣というのは、ある時点でたまたま皇位継承順位が第1位である事実を示すにすぎない。次の天皇であるべきことが確定している「皇太子(または皇太孫)」とは立場が異なる。 天皇の弟で皇嗣の場合は歴史上、「皇太弟」という立場があった。このたびの皇室典範特例法でも、秋篠宮殿下の皇位継承上の地位を固めるためには、そうした称号を新しく設けるべきだった。だが、秋篠宮殿下ご本人が辞退されたと伝えられる。「皇太子になるための教育は受けてこなかったから」と。 常識的に考えて、秋篠宮殿下を単に「皇嗣」として、特段の称号を用意しないという法律の作り方は、かなり非礼な扱い方と言える。当事者のご意向を前提としなければ、こうしたやり方は一般的に想定しづらい。だから、そこに秋篠宮殿下のお考えが反映されている、と推測するのが自然だろう。 それが事実だとすれば、重大事だ。言うまでもなく、「天皇」という地位は皇太子(皇太弟)などより遥かに重い。ならば、皇太弟すら辞退された方が、そのまま天皇に即位されるというシナリオは、いささか考えにくいのではあるまいか。 その上、皇太子殿下と秋篠宮殿下はご兄弟で、ご年齢が近い。皇太子殿下が今上陛下と同じ85歳まで在位された場合、秋篠宮殿下は79歳または80歳でのご即位となる。さすがにそれは現実的には想定しにくいだろう。 そうかといって、皇太子殿下がまだまだご活躍いただける年齢で、早めに皇位を譲られるというのも、今回のご譲位の趣旨から外れてしまう。平成最後の「歌会始の儀」を終えて退席される天皇、皇后両陛下と皇太子さま、秋篠宮さま=2019年1月16日、皇居・宮殿「松の間」(代表撮影) 皇室典範には、「皇嗣」に「重大な事故」がある場合は「皇室会議の議により」「皇位継承の順序を変えることができる」という規定がある(第3条)。したがって、今の制度のままでも、秋篠宮殿下がご即位を辞退されるという場面は、十分にあり得る。と言うより、先の年齢的な条件を考慮すれば、その可能性はかなり高いだろう(朝日新聞4月21日付1面に、こうした見方を補強するような秋篠宮殿下のご発言が紹介された)。そのようであれば、愛子内親王殿下への注目はより高まるはずだ。「属人主義」に陥るな ただし、くれぐれも誤解してはならないのは、皇太子殿下の「次の」天皇については、具体的な誰それがよりふさわしい、といった「属人」主義的な発想に陥ってはならないということだ。 そうした発想では、尊厳であるべき皇位の継承に、軽薄なポピュリズムが混入しかねない。そうではなくて、皇位の安定的な継承を目指す上で、どのような継承ルールがより望ましいか、という普遍的な問いに立ち返って考えなければならない。 そもそも、皇位継承資格を「男系の男子」に限定したのは明治の皇室典範が初めてだった。しかも、明治典範の制定過程を見ると、2つの選択肢があった。 ①側室制度を前提とせず、非嫡出の皇位継承を認めないで、「男系の男子」という制約は設けない。 ②側室制度を前提とし、非嫡出にも皇位継承資格を認めて、「男系の男子」という制約を設ける。 これらのうち、①は明治天皇にいまだ男子がお生まれになっていない時点でのプランだった。しかし、その後、側室から嘉仁親王(のちの大正天皇)の誕生を見たため、①が採用される余地はなくなった。 ところが、今の皇室典範はどうか。 ②の「男系の男子」という制約は明治典範から引き継いだ。一方、それを可能にする前提条件だった側室制度プラス非嫡出の皇位継承は認めていない。つまり、①の前段と②の後段が結合した、ねじれた形になってしまっている。 ③側室制度を前提とせず、非嫡出の皇位継承を認めないで、しかも「男系の男子」という制約を設ける。 率直に言って、このようなルールでは皇位の安定的な継承はとても確保できない。 過去の歴代天皇の約半数は側室の出(非嫡出)であり、平均して天皇の正妻にあたる女性の4代に1人は男子を生んでいなかった。傍系の宮家も同様に側室によって支えられていた。 したがって、③をこのまま維持すると、皇室が行き詰まるのは避けられない。もし皇室の存続を望むならば、明治典範制定時の①と②からどちらを選ぶか、改めて問い直さなければならない。 しかし、いまさら②が前提とした側室制度を復活し、非嫡出による皇位継承を認めることができないのは、もちろんだ。何より皇室ご自身がお認めにならず、国民の圧倒的多数も受け入れないだろう。側室になろうとする女性が将来にわたって継続的に現れ続けるとは想像できないし、逆に側室制度を復活した皇室には嫁ごうとする女性がほとんどいなくなるだろう。 そのように考えると、答えは自(おの)ずと明らかではあるまいか。皇太子さまと資料を見ながら修学旅行について話をされる皇太子ご夫妻の長女、敬宮愛子さま=2018年11月25日、東京・元赤坂の東宮御所(宮内庁提供) 「愛子天皇」待望論についても、目先の週刊誌ネタなどによって短絡的に判断するのではなく、持続可能な皇位継承のルールはいかにあるべきかという、広い視点から慎重に評価されるべきだろう。■ 「眞子さまへの純真は本物か」小室圭氏よ、試練を歩み解を出せ■ 女性宮家の創設とは「制度化された道鏡」に他ならない■ 女性宮家以外にも「皇統の断絶」を防ぐ手立てはある

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    「愛子天皇」を実現させる令和おじさんの布陣

    治日程にのせたのは、2004年のことである。実はそれ以前の1997年、橋本龍太郎内閣の下でひそかに、皇室典範を所管する内閣官房を中心に、宮内庁と内閣法制局から有能なスタッフを集め、極秘の研究会を組織していた。 研究会は当時の古川貞二郎内閣官房副長官が故橋本首相の了解を得てスタートした。研究会のメンバーで研究の中心にあった宮内庁OBによると、研究会は2001年末の愛子さまご誕生により世論の動向を見極めるため一時中断され、2003年に再開、翌2004年に皇室典範の改正案を取りまとめた。その経緯についてはかつて毎日新聞が詳報したほか、本年3月下旬には政府の関係文書の存在が共同通信により明らかにされた。 2004年12月に発足した小泉首相の私的諮問機関「皇室典範に関する有識者会議」のたたき台となったこの改正案は大筋、有識者会議の最終報告書に反映され、女性・女系天皇を容認する方針が確定した。有識者会議では、すでに女性宮家の創設も検討され、女性天皇のみならず女性天皇の配偶者や皇室に将来、男子が誕生した場合についても織り込み済みとされた。しかし、男系維持を掲げる保守系の団体や国会議員が猛反発する中、2006年2月の秋篠宮妃紀子さまのご懐妊発表により、同改正案は棚上げされた。 すでにこの頃から、筆者は特定の皇族の即位を前提とした議論は危ういと考えるようになった。安定的な皇位継承のための制度設計には、冷静な判断と静かで落ち着いた議論の環境が必要である。こうした考えに今も変わりはない。そのため、率直に言って「愛子天皇」待望論に安易にくみすることはできない。何より皇位継承問題は国家の根幹にかかわる重大な課題だからである。皇后になられた雅子さまの心身のご健康などを考慮すれば、なおさらであろう。皇室典範に関する有識者会議で最終報告書を小泉純一郎首相(右)に手渡す吉川弘之座長=2005年11月、東京・首相官邸(門井聡撮影) われわれ日本人にとって皇室とは何か。天皇や皇族からなる皇室の歴史を振り返れば、日本が危急存亡の秋(とき)にわが国を守ったのが天皇や皇室の統合力であったことに気づかされる。かつて福沢諭吉は『帝室論』の中で「帝室は政治社外のものなり」とし、政治が皇室の尊厳やその神聖さを侵すことがあってはならないと警鐘を鳴らした。新天皇の課題 皇室の存在意義は、政治を超越した立場から社会秩序の維持に寄与することにある。戦後、福沢の描いた皇室像は、現行憲法の定める象徴天皇制度としっかりと結びついた。こうした福沢の思想を継承したのは、慶應義塾長(現慶応大)の小泉信三である。小泉は東宮御教育常時参与として、皇太子時代の上皇さまとともに福沢の『帝室論』を音読し、帝王学を施した。福沢の皇室像は戦後の象徴天皇を先取りしていたといえよう。 象徴天皇制度の下での帝王学は、天皇と国民との相互作用から天皇ご自身で体得されてゆく側面が大きい。すなわち、象徴天皇のあり方は、天皇自らが国民とのふれあいを通じて模索されるべきものである。上皇さまはいみじくも、「天皇像を模索する道は果てしなく遠く」と述べられた。その時代時代に合った象徴のあり方が模索されねばならないということであろう。 よって、いかに国民との関係を構築してゆくかは、陛下の最大の課題といっても過言ではない。同時に、日本国憲法1条は、天皇は「日本国と日本国民統合の象徴」であり、「この地位は、主権の存する日本国民の総意」に基づくと規定されており、われわれ国民もしっかりと主権者の自覚を持ちその責任を果たさなくてはならない。 現在の皇室は大きな不安を抱えている。いうまでもなく、それは皇統断絶の危機にほかならない。今世紀に入り、愛子さま、悠仁さまが生誕したとはいえ、若い世代の皇族方の多くは皇位継承権を有しない内親王や女王であり、年配の皇族方の薨去(こうきょ)や女性皇族の婚姻に伴う皇籍離脱により皇族の減少に歯止めがかからない。 皇族減少への対応の必要性については、小泉内閣、野田佳彦内閣、安倍晋三内閣の共通認識となっている。それぞれの内閣において、女系拡大論や女性宮家の創設などによる皇位継承の安定化や天皇の公務の負担軽減が議論されてきた。しかし、いざ皇位の安定継承策を議論すると、イデオロギー対立の先鋭化とともに国論がなかなかまとまらない。日本の大切な宝であり、国家・国民統合の象徴である皇室を守るためには、養子の解禁と一代限りの女性宮家の創設を組み合わせるなど思い切った皇室制度の改革が求められよう。慶応大学三田キャンパス内にある福沢諭吉の胸像=2008年10月、港区三田の慶應義塾大学内(大山実撮影) 3月18日の参議院予算委員会で、菅義偉官房長官は5月1日の陛下即位後、速やかに皇位の安定継承策について検討に入る意向を表明した。その後、メディアはさまざまな憶測記事やうがった見方を報じているが、あの菅氏が何の根拠もなくああした踏み込んだ発言をするはずがない。 2016年から翌17年にかけての「退位特例法」成立に向けた菅氏の手綱さばきは実に見事であった。これまでの経験を踏まえれば、皇位継承問題を前進させるには、長期安定政権でしかも内閣官房が指導力を発揮しないと成果をあげることは難しい。鍵は「旧自治省シフト」 皇位継承安定化策の立案をめぐっては、内閣官房のうち、とりわけ重要なのが内閣総務官室である。そのトップである内閣総務官(かつての首席内閣参事官)は次官級コースとされ、現に野田内閣の二人の内閣総務官はそれぞれ厚生労働審議官、内閣府事務次官に栄進した。現職の宮内庁長官も内閣府事務次官からのぼりつめた旧自治官僚であり、安倍内閣で辣腕(らつわん)をふるい「退位特例法」を成就させた内閣総務官と内閣審議官もまた旧自治省出身で、おのおの内閣府事務次官や内閣法制局の主要ポストに異動している。 菅氏の強力なリーダーシップの下に上記のような「旧自治省シフト」を動員し、大島理森衆議院議長を中心に国会とも緊密に連携すれば、事態は大きく動くと筆者は期待する。もはや「旧自治省シフト」は内閣官房のみならず、宮内庁や宮内庁が設置されている内閣府、さらには内閣法制局をも席巻している。これを警察庁OBがバックアップする格好だ。 そもそもこの問題は政治家にとって「リスクが大きい割に票にならない」ため、これまで率先して問題解決に取り組もうという内閣は少なかった。しかし、政府が手をこまねいているうちに、若い世代の女性皇族の婚姻に伴う皇族の減少はさらに深刻化していった。もはや待ったなしといっても過言ではあるまい。安倍内閣が同問題を先送りすれば、将来皇統断絶の危機に直面したとき、同内閣の不作為はまちがいなくやり玉にあげられよう。 もはや水面下では皇位継承安定策がかなり具体化しているはずである。確かにかつての民主党や民進党が熱心に取り組み、「退位特例法」の付帯決議にまで盛り込んだ女性宮家の創設は将来、女系拡大につながる可能性がある。よって、少なくとも「一代限り」といった条件付けが必要となろう。 一方、皇室典範9条が禁じる養子を解禁する方策はどうであろうか。養子といってもさまざまな形態があり、女性皇族との婚姻を前提とした婿養子には、婚姻を「両性の合意のみ」と規定する憲法24条が適用されることになる。現在のままではいずれ絶家となる運命の三笠宮家や高円宮家が養子をとることの方が現実的かもしれない。その場合、緊急避難的措置として特例法を用いることも選択肢の一つであろう。静養のため、JR長野駅に到着された皇太子ご一家=2019年3月、長野市(代表撮影) ここのところ、秋篠宮家をめぐる報道や愛子さまの高評価を伝える記事が散見される。しかし、これらは事実上の問題であって、制度上の問題ではない。もちろん象徴天皇制度を念頭に置けば、世論の動向は無視しえないが、やはり制度設計にあたってはいったん両者を切り離した上で冷静な議論が求められる。いずれにせよ、事の成否は安倍総理の決断と「令和の顔」となった菅氏の手腕にかかっているといえよう。■語り継がれる「天皇の旅」 批判はあっても膝をつかれた陛下のスタイル■新元号「令和」公表にチラつく支配欲と主導権争い■「天皇はかくあるべし」上から目線の知識人が錯覚した陛下のお気持ち

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    女帝、斉明天皇はなぜ皇位を譲り、再び即位したのか

    吉村武彦(明治大学名誉教授) 飛鳥〈あすか〉時代前後から奈良時代にかけて(七~八世紀)、推古〈すいこ〉天皇から称徳〈しょうとく〉天皇まで、六人の女性天皇が即位しました。そのうち皇極〈こうぎょく〉天皇と孝謙〈こうけん〉天皇は二度即位していますので、六人で八代の天皇が存在したことになります。この時代が「女帝の世紀」と呼ばれる所以〈ゆえん〉です。 そして、女性天皇だけに見られる特徴がいくつか存在しました。とりわけ注目されるのが、天皇史において画期的な出来事とされる「譲位〈じょうい〉」及び「重祚〈ちょうそ〉」が、皇極天皇によって初めてなされたという事実です。なぜ皇極天皇は譲位し、また重祚して斉明〈さいめい〉天皇となったのか。時代背景も踏まえながら、斉明天皇はどんな存在であったのかを考えてみましょう。 皇極天皇は即位する前、寶皇女〈たからのひめみこ〉と呼ばれていました。父は茅渟王〈ちぬのみこ〉、母は吉備姫王〈きびつひめのみこ〉。同母弟に軽皇子〈かるのみこ〉(孝徳〈こうとく〉天皇)がいます。『日本書紀』の斉明即位前紀には、「初め用明〈ようめい〉天皇の孫高向王〈たかむくのみこ〉と結婚し」「後に舒明〈じょめい〉天皇と結婚して二男一女を生む」(現代語訳)とあります。 二男一女とは、中大兄〈なかのおおえ〉皇子(天智〈てんち〉天皇)、間人皇女〈はしひとのひめみこ〉、大海人〈おおあま〉皇子(天武〈てんむ〉天皇)のことでした。 さて舒明天皇十三年(六四一)に舒明天皇が崩御〈ほうぎょ〉すると、皇后の寶皇女が即位して、皇極天皇となります。この時、舒明天皇の第一皇子である古人大兄〈ふるひとおおえ〉皇子や、厩戸〈うまやと〉皇子の子である山背大兄王〈やましろおおえのおう〉らをさし措〈お〉いて、皇極が即位したのはなぜなのか。 最近の研究では、当時の即位には適齢期があったと考えられており、一つの基準を三十五歳と見ています。その点、古人はまだ二十歳前後、山背大兄も年齢的に達しておらず、適齢の皇子がいないということで、四十九歳の皇極が推古天皇に倣〈なら〉って即位したのでしょう。 かつては皇位継承で競合する候補が複数いる場合、争いを避ける意味で女帝を立てたと考えられました。その可能性も否定はできませんが、最近はむしろ適齢か否〈いな〉かが問題であったと見ています。飛鳥宮跡(伝飛鳥板蓋宮跡、明日香村提供) ところで女性天皇について、男性と変わりはなく「中継ぎ」ではないとする説があります。しかし、皇極は女性天皇として史上初の譲位を行ない、また史上初の重祚も行ないました。 一方、男性天皇の譲位は八世紀に下って、聖武〈しょうむ〉天皇が初めてです。こうした点からも、私は女性天皇と男性天皇は同じではないと考えています。たとえば持統〈じとう〉天皇も、明白に「中継ぎ」として即位していました。「乙巳の変」と史上初の譲位 「八月一日、天皇は南淵〈みなぶち〉の川上においでになり、跪〈ひざまづ〉いて四方〈よも〉を拝し、天を仰〈あお〉いで祈られると、雷鳴がして大雨が降った。雨は五日間続き、天下はあまねくうるおった。国中の百姓は皆喜んで、『この上もない徳をお持ちの天皇である』といった」(現代語訳)。 『日本書紀』には、日照〈ひで〉りに民や蘇我〈そが〉氏が雨乞いしてもほとんど降雨が得られなかったところ、皇極が祈るとたちどころに大雨になったと記され、皇極が巫女〈ふじょ〉的な要素を具〈そな〉えていたのではとする見方もあります。 もちろんそうした側面があってもよいのかもしれませんが、そもそも雨乞いは中国的な風俗で行なわれたもので、必ずしも土着の、日本の巫女的なものではありません。従ってこの記述は、皇極の巫女性というよりも、天皇の霊験〈れいげん〉があらたかであることを表現したものととらえるべきでしょう。 さて、皇極朝の頃、中国大陸では唐〈とう〉が膨張〈ぼうちょう〉し、朝鮮半島諸国にも政治的影響が及ぶ中、半島で政変が起こりました。高句麗〈こうくり〉では六四二年(皇極元)、大臣が国王を殺害し、政権を握るクーデターが勃発〈ぼっぱつ〉。また百済〈くだら〉では六四三年に国王の母が没すると、国王の弟や子どもが島に追放される事件が起こります。 こうした半島での政変の情報は、倭国にさまざまな波紋を投げかけました。貴族が実権を奪った高句麗型の政変と、国王が権力を集中した百済型の政変です。当時、政治の実権を握る蘇我本宗家〈ほんそうけ〉にすれば、飛鳥でも何か不測のことが起きるかもしれないと感じたことでしょう。邸宅の門周辺に武器を備えたり、火災除〈よ〉けの水桶を置いたりしたといわれます。 緊張感に包まれた六四五年六月、皇極の息子・中大兄皇子と、中臣鎌足〈なかとみのかまたり〉が謀〈はか〉り、板蓋宮〈いたぶきのみや〉で「三韓の調〈みつち〉」を献上する儀式の最中、権力を一手に握る蘇我入鹿〈いるか〉を暗殺しました。皇極天皇が臨席し、群臣が居並ぶ場においてです。 入鹿の死に、父・蘇我蝦夷〈えみし〉も自尽〈じじん〉し、蘇我本宗家は滅亡。「乙巳〈いっし〉の変」と呼ばれるこの政変は、大化〈たいか〉の改新〈かいしん〉の始まりとして知られます。 乙巳の変は単に権力を握る蘇我本宗家を倒しただけでなく、蘇我氏を代表とする貴族政権に、王家が鉄槌〈てっつい〉を下すという意味を持っていました。そしてこの時、皇極が譲位します。当時は「終身王位制」ですが、皇極が譲位に踏み切ったのは、女性ということもあったのでしょう。そして、貴族は介在せず、王家の意思で新帝を決め、皇極の弟・軽皇子が即位することになりました。孝徳天皇です。 乙巳の変を機に行なわれたのは、いわば天皇側の権力の奪還と集中であり、また皇極の生前譲位は、王家の自律的意思によって皇位継承がなされることを内外に示したものといえるでしょう。酒船石(明日香村提供) 皇極の譲位後、軽皇子が即位したのは、やはり適齢の問題と考えられます。かつては実質的トップが中大兄で、孝徳天皇はロボットだったという説が有力でした。しかし、実際は天皇が認めなければ詔〈みことのり〉は出ませんので、最近は孝徳を評価する動きがあります。 では、譲位後の皇極の政治的影響力はどうであったのでしょうか。皇極は「皇祖母尊〈すめみおやのみこと〉」と呼ばれることになり、天皇、皇祖母尊、太子(中大兄)の三人が群臣を招集して誓約を行なって、政治的意思統一を図りました。重祚と「時に興事を好む」 その後、孝徳天皇は難波〈なにわ〉に遷都しますが、白雉〈はくち〉四年(六五三)、事件が起こりました。中大兄が難波から大和〈やまと〉への遷都を進言し、孝徳が拒〈こば〉むと、中大兄は皇極と間人皇后〈はしひとのきさき〉を連れて、飛鳥へ戻ってしまうのです。 難波に残った孝徳はほどなく、失意のうちに崩御しますが、中大兄が皇極と同意の上でこうした挙に出たことを見れば、前天皇の皇極が一定の影響力を持っていたことは明らかでしょう。 孝徳崩御後、皇極は再び即位し、斉明天皇となります。史上初の「重祚」でした。斉明が重祚を選んだのは、終身王位制の影響が強かったのかもしれません。この時、孝徳の子・有間〈ありま〉皇子は十六歳前後、中大兄は三十歳前後ですので即位の適齢に達しておらず、中大兄が引き続き太子として政務を執〈と〉りました。 さて、『日本書紀』には斉明について「時に興事〈こうじ〉を好む」「溝を掘らせ、香久山〈かぐやま〉の西から石上山〈いそのかみのやま〉にまで及んだ」と大工事を行ない、「狂心〈たぶれごころ〉の渠〈みぞ〉の工事。むだな人夫を三万余り。垣〈かき〉を造るむだな人夫は七万余り」と人々から謗〈そし〉られたとあります。 他にも多武峰〈とうのみね〉に観〈たかつき〉と両槻宮〈ふたつきのみや〉を建てたり、苑池〈えんち〉などの土木工事も行なったとされ、実際にそれらしき遺跡も出土しているので、事実なのでしょう。 観や両槻宮は道教の影響も考えられますが(遺跡は未発見)、苑池工事は都づくりの一環〈いっかん〉と捉えることができます。この頃になると、来朝した外国人使節に見せるために盛んに造られていた巨大古墳は影を潜〈ひそ〉め、代わって王宮〈おうきゅう〉に付随した苑池や石敷き庭園などの充実が図られていくのです。 大化改新以降も、唐の膨張と朝鮮半島の動揺は続き、日本は東アジアの外交問題に巻き込まれざるを得ませんでした。一方、国内では領土拡張(=王権拡大)を狙〈ねら〉って、阿倍比羅夫〈あべのひらふ〉の北征が始まります。特に朝鮮半島と大陸に面する日本海側では、蝦夷を制圧して体制を整えておく必要があったと考えられます。 斉明六年(六六〇)、百済の使者が、百済が新羅・唐連合軍に降伏したことを伝え、さらに百済の遺臣が、日本にいる百済王子・余豊璋〈よほうしょう〉の帰国と援軍の派遣を求めました。 斉明天皇はこれを了承し、余豊璋を王位に就〈つ〉けて帰します。大和王権の百済王権への干渉であり、日本による冊封〈さくほう〉でした。一種の帝国意識の高まりをここに見出すことができるでしょう。 そして百済救援のため、斉明は自ら筑紫〈つくし〉に赴〈おもむ〉き、朝倉宮〈あさくらのみや〉で崩御しました。天皇自ら前線に赴いたところからも、百済滅亡への日本の危機感がいかに強かったかがわかります。白村江〈はくそんこう〉の戦いが起きるのは、直後のことでした。 乙巳の変に直面した皇極天皇時代、朝鮮半島の動乱に直接関わった斉明天皇時代。それはまさに半島情勢の急変が日本を直撃し、王家が政治の実権を奪還して、王権の拡大に乗り出した時期でした。その難しい舵取〈かじと〉りを二度即位した女帝が担〈にな〉ったという点は、実に興味深いといえるのかもしれません。関連記事■ 毘沙門天の化身・上杉謙信、その実像に迫る3月号■ 大坂の陣、参陣するなら、徳川方? 豊臣方?■ キリシタン武将・明石掃部の実像

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    秋篠宮家の評判に関係なく「愛子天皇」を真剣に議論すべきである

    河西秀哉(名古屋大准教授) 愛子内親王が今後、天皇になるような方向性へ皇室典範を改正すべきではないか。 そもそも、日本には女性天皇が8人10代いた。現在のように、男性しか天皇になれないという規定は、明治時代に決められたものである。 明治の日本は、江戸期の「鎖国」によって、自らは欧州よりも遅れていると認識していた。欧州の植民地にならないため、そしてそれらに追いついて国際関係で肩を並べるため、国民を統一し、より強く国家をまとめ上げる必要があった。 そのための方策として、明治政府は国民に家制度を定着させようとする。それは家長である戸主を中心にした集合体で、戸主の統率によって家のまとまりを強固にし、それを国家のまとまりにつなげようとした。 そうした制度は、江戸時代の武士の家父長制的な伝統を引き継いでおり、基本的に戸主は男性とされる。こうして、明治期に制定された民法の中で、絶対的な権限を持つ戸主が規定され、家制度が出来上がった。 国民には、男性が家長であると言っているわけだから、国のトップが女性だと示しがつかなくなる。そこで、1889年に制定された旧皇室典範において、天皇を男性に限定した。2017年4月、「オール学習院の集い」の大合同演奏会に出演した愛子さま その他にも、男性優位は日本の固有の慣習、女性が天皇になれば夫に政治関与される、歴史上の女性天皇は「中継ぎ」であったので例外、などの理由を説明している。 この男系男子に天皇を限定する仕組みは、家制度が崩壊した敗戦後に変化させるべきであった。日本国憲法では第14条で「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」とあり、女性が天皇になれないことはそれに反する可能性があるからである。 明治期の「男性優位は日本の固有の慣習である」という説明が正しいかどうかは別として、そうした陋習(ろうしゅう)はここで断ち切られたはずであった。ただし当時は、民法が改正され家制度がなくなったとはいえ、その慣習が社会にまだ残っていた。女性天皇は「中継ぎ」にあらず そして、男性皇族もまだ多く、切迫した状況ではなかったかもしれない。そのため、女性天皇は考慮されず、旧皇室典範が廃止され、法律として新たに制定されたものの、明治期に形成された制度がそのまま継続した。 現在の日本社会は、国連の女子差別撤廃条約の批准、いわゆる男女雇用機会均等法の制定と改正などが行われ、敗戦直後以上に性別による差をなくす方向性に進んでいる。社会が、男女が平等になるようにさまざまな努力がなされている中で、なぜ天皇だけが男性に限定されるのだろうか。女性が天皇になれば夫に政治関与されるという明治期になされた説明も、天皇が政治に関わることがなくなった象徴天皇制においては意味をなさない。 そもそも、なぜ男性天皇は妻に政治関与されないという前提があるのだろうか。それこそ、女性ならば人の意見に左右されやすいという、女性への差別的な考え方が根本にあるのであり、現在では相いれない思考だろう。 歴史上の女性天皇は「中継ぎ」であったという説明も、現在の日本古代史の研究によって、それは否定されている。その時期の皇族の中で政治的に優れた年長の女性が天皇に即位しており、ならば現在でも人物的に優れた人物であれば男性でも女性でも関係なく天皇に即位することが、「伝統」的な考え方に合致しているのではないか。 むしろ、現在の象徴天皇制は、その人物がいかなる考えを持ち、行動をするかがマスメディアを通じて伝えられ、それによって人々から支持されている。「平成流」への評価はその最たるものだろう。性別に関係なく「人物本位」というのは、現在の流れとも合致する。 ここ最近、週刊誌やインターネット上で、「愛子天皇」待望論が出ている。しかしこれは、これまで述べてきた理由で提起されたものではない。従来、秋篠宮家の世間の評判は高かった。病気を抱える雅子皇后が皇太子妃時代、公務をこなす量が少ないことから、批判が出て、相対的に秋篠宮家への評価は高くなっていた。 しかし、この状況が変化するのが、眞子内親王と小室圭さんの問題である。小室さんの実家の金銭問題が浮上、それへの適切な説明がないと見られ、批判が噴出している。 妹の佳子内親王が国際基督教大(ICU)卒業に際して発表した文書の中で、自らの意思を強く示し、「姉の一個人としての希望がかなう形になってほしいと思っています」と姉を擁護したことも、批判が高まる要因となった。これらから、秋篠宮家に対する評価が下がり、今度は逆に相対的に皇太子一家への評価が上がり、「愛子天皇」待望論へと向かっているのである。2019年3月、「千葉県少年少女オーケストラ」の東京公演を鑑賞するため、会場に到着された秋篠宮家の長女眞子さまと次女佳子さま(代表撮影) これは、いい意味での女性天皇誕生ではない。秋篠宮家の評判が落ちているから、またその評判をより落とすために、たまたま女性である愛子内親王を天皇にしようとする動きが出ているに過ぎない。 求められているのはそうした動きではなく、現在の社会に合致した象徴天皇制のあり方である。国民の生活と遊離したもの、世間の風に影響されすぎるものではない。愛子内親王が天皇になることは、皇室典範を改正し、今後も女性天皇・女系天皇を安定的に認めていく制度にすることである。■ 「眞子さまへの純真は本物か」小室圭氏よ、試練を歩み解を出せ■ 女性宮家の創設とは「制度化された道鏡」に他ならない■ 女性宮家以外にも「皇統の断絶」を防ぐ手立てはある

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    愛子さまの目覚ましい成長、女性天皇容認の結論は令和3年か

    どうか極秘の検討会を開いていたことが分かった。(中略)2004年春の文書には、女性・女系天皇を認める皇室典範の早期改正方針が記されていた》 当時の小泉純一郎首相は、有識者会議を経て、典範改正に乗り出そうとしたが、2006年の悠仁さま誕生で断念したという驚きの内容だ。 なぜ改元直前のこのタイミングで報じられたのか。一部には、「新天皇の即位後、政府がすみやかに女性天皇を容認する典範改正議論を始めようとしていることへの布石」という見方が根強い。皇室ジャーナリストの神田秀一さんが指摘する。「天皇家にとって最大の使命は、皇統を途切れさせず、安定的に続かせることです。それは天皇陛下含め、皇族方が大切に考えていらっしゃることです。皇統の継承のために、女性天皇容認や女性宮家創設の可能性を含めた、さまざまな議論をすべきでしょう」 実際、皇太子さまは今年2月の誕生日会見で、「制度に関しての言及は控えたい」と付言しつつも、「女性皇族は結婚により皇籍を離脱しなければならないということは、将来の皇室の在り方とも関係する問題」と述べられている。 眞子さま(27才)や佳子さま(24才)の最近の振る舞いもあって、秋篠宮家の教育方針への疑問が少なからず浮かび上がっている。眞子さまは「結婚延期問題」が収束しておらず、佳子さまはICU卒業時に出した文書でご両親について《公的な仕事に関することや、意見を聞いたほうが良いと感じる事柄についてアドバイスを求めることがあります》と明かされた。静養先の長野県でスキーを楽しむ皇太子家の長女愛子さま=2019年3月(宮内庁提供) これに対しては皇室ジャーナリストから「両親とは仕事などの公的な会話にとどまり、“聞いた方がいいと判断したことだけ聞く”という宣言にも聞こえました。文書では同様の文言が繰り返され、佳子さまの強い意志を感じます」という声もある。 その一方で、皇太子ご一家への信頼感が増している。特に、高校生になられた愛子さまの成長ぶりには、周囲も目を見張るところがあるという。愛子さまへ高まる期待愛子さまへ高まる期待「愛子さまは幼い頃、“自分がなぜ注目されるのか”が理解できず、戸惑われることが多かった。学習院初等科時代には雅子さまに付き添われて登校されていたこともありました。ただ、幼い子供に“将来の天皇の一人っ子”であることの重責など理解できないのは当然のことです。 ところが、成長されるにつれ、ご両親の立場を理解し、ご自身の置かれた状況も深く自覚されるようになりました。愛子さまはもともと明るくて聡明な方です。それでも、自分が結婚して皇籍を離れるのか、天皇になる可能性があるのか、いまだに不安定な立場でおつらいにもかかわらず、ご自分の一挙手一投足が皇室全体に与えるイメージまでお考えになり、ふさわしい振る舞いをされることは、並大抵のことではありません。そうした愛子さまの健気な姿が今、メディアを通じて多くの国民に伝わっているのではないでしょうか」(宮内庁関係者) 3月下旬、長野でのご静養からの帰京時、東京駅日本橋口から姿を見せた皇太子ご一家を、何百人という人が出迎えた。「愛子さま!」と呼びかける声で溢れ、白いケープにラベンダー色のインナー、ベージュのワイドパンツにローファーを合わせた愛子さまは立ち止まって振り返られ、笑顔で手を振り会釈された。元宮内庁職員で、皇室ジャーナリストの山下晋司さんが語る。「最近の愛子内親王殿下は記者の質問に対して、少しはにかんだご様子ですが、笑顔で答えられ、その内容も高校生らしく親しみが持てます。立派に成長されているのは、皇太子殿下の影響が大きいでしょう。ご自身を厳しく律せられ、常に他人を気遣う皇太子殿下の振る舞いや考え方にお生まれになったときから接してこられたことで、自然に身につけられたものと思います。“愛子さまに天皇になっていただきたい”と期待する声の高まりも理解はできます」「女性天皇を容認するかどうか」の最新の世論調査(東京新聞1月3日付)の結果では、実に84.4%が「容認」と答えている。日本世論調査会によると、1975年には31.9%だった容認派が、2005年には83.5%、2016年には85%にまで達した。男女平等の理念は日本社会に浸透し、大多数の国民はすでに「天皇は男性でなければならない」というルールにこだわってはいないのだ。「皇統の安定的な継続のためだけでなく、秋篠宮家への不安も、女性天皇容認の声を後押ししていることは間違いありません。秋篠宮家に、天皇にふさわしい人格を育てる帝王教育ができるのか。将来、小室圭さん(27才)を義兄に持つ天皇が誕生して国民の信頼を得られるのか。そうした国民感情は、無視することはできません」(皇室ジャーナリスト) 菅義偉官房長官は3月18日、国会で「(新天皇の)即位後にすみやかに検討を始める」と、凍結されていた女性天皇や女性宮家についての議論を再開する意向を示した。 それでは、典範改正に向けた議論が一気に加速するのはいつだろうか。ある政府関係者は「今から2年後の『令和3年』だろう」と予測する。「2年後には小室さんが留学から帰国し、眞子さまとの縁談が進展する可能性が高い。また現在、お茶の水女子大学附属中学校に通われている悠仁さまは2年後、高校受験のシーズンを迎え、どのような進路を選ばれるかが注目される時期です。 さらに言えば、女性天皇に否定的な政治信条を持つ安倍首相は再来年の9月で任期が切れ、2年後の9月以降は首相ポストにいません。愛子さまが20才になられる『令和3年』に、何らかの結論が出そうです」 新時代の幕開けに、新しい皇室の在り方を模索する議論の号砲が鳴った。関連記事■佳子さま「恋愛についてご両親の言うことは聞かない」宣言か■孤立する眞子さま 悠仁さまがよろしくない態度を取ることも■秋篠宮家 お子さまの教育は結果的に「ほったらかし」か■愛子さま「激やせからの15キロ増」に周囲は心配の声■小室圭さんはなぜさっさと「400万円」返して解決しないのか

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    秋篠宮家 お子さまの教育は結果的に「ほったらかし」か

    後の対応の影響で、ご夫妻は結婚に対してかなり慎重です。しかし、眞子さまの結婚の意思は相変わらず固い。皇室全体に影響するので、早く結論を出すべきだという声は日増しに大きくなっているのですが、結婚についての親子の話し合いもままならない状況が続いているそうです」(秋篠宮家に近い関係者) 妹の佳子さま(24才)は3月22日、国際基督教大学(ICU)卒業にあたって文書を公表。ご両親について《公的な仕事に関することや、意見を聞いたほうが良いと感じる事柄についてアドバイスを求めることがあります》と明かされた。「両親とは仕事などの公的な会話にとどまり、“聞いた方がいいと判断したことだけ聞く”という宣言にも聞こえました。文書では同様の文言が繰り返され、佳子さまの強い意志を感じます」(皇室ジャーナリスト) さらに、眞子さまの結婚延期にも言及された。「佳子さまは《姉の一個人としての希望がかなう形になってほしい》と述べられ、『納采の儀は行えない』と発言された秋篠宮さまとの齟齬が鮮明になりました」(前出・皇室ジャーナリスト) そうした秋篠宮家の内親王姉妹の言動は、世間で大きな物議を醸している。ただし、ある宮内庁関係者は、「ご夫妻の教育方針に基づけば、仕方がないこと」だと言う。「ご夫妻は皇族としての『公』の部分と、プライベートの『私』の部分とを明確に分けることを徹底され、私的な部分では自主性を重んじる教育を施されてこられました。だからこそ、姉妹には“趣味や恋愛、結婚など私的なことは自由にしたい”というお気持ちが強い。 ただし、そうした姿勢は、“どのようなときにも立場としての義務が最優先であり、私事はそれに次ぐもの”という天皇皇后両陛下が貫かれた信念とは相いれないように思います。また、同じ人格の中の『公』と『私』に大きなギャップがあれば、国民も戸惑うでしょう」2019年3月、国際基督教大の卒業式を前に、写真撮影に応じられる秋篠宮家の次女佳子さま(代表撮影) 前出の秋篠宮家に近い関係者がご一家の内情を明かす。「皇室では、公務で多忙なご両親に代わり、ベテラン職員が自然に“お世話係”になってお子さま方の面倒を見ることが多い。しかし、紀子さまのあまりの“厳格さ”に対応できる職員が少なく、秋篠宮家の職員は短期間に交代してしまうので“お世話係”が育たず、お子さま方の教育やしつけに目が行き届かないんです。自主性を重んじると言えば聞こえがいいものの、結果的には“ほったらかし”の状態のようです」 秋篠宮家は、御代がわり後、皇太子家待遇の「皇嗣家」となり、秋篠宮さまが皇位継承順位1位、悠仁さまが同2位になられる。「秋篠宮家にその重責が担えるのか、ひいては、宮家からの天皇を国民が受け入れられるのか。宮家の現状に鑑みて、不安の声が高まっています」(前出・皇室ジャーナリスト)関連記事■佳子さま「恋愛についてご両親の言うことは聞かない」宣言か■孤立する眞子さま 悠仁さまがよろしくない態度を取ることも■小室圭さんはなぜさっさと「400万円」返して解決しないのか■秋篠宮さま、なぜ小室圭さん一家の詳細を知らなかったのか■小室圭さん母、夫と義父の死後遺産交渉 代理人の衝撃告白

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    平成最後の日に伝えたい「天皇の師」小泉信三の教え

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) 「平成」という時代が終わる。平成は経済が停滞したこと、そして日本が大規模な災害に直面したことでも記憶に残る時代となるだろう。個人的な思い出も含めて、一つの時代が終わることに、深い感慨を誰しも抱くに違いない。 平成の経済停滞と大規模災害を振り返るとき、参照すべき一人の人物を想起する。経済学者の小泉信三(1888~1966年)である。 小泉は、天皇陛下の皇太子時代に影響を与えた師として、今日では有名である。また、大正から昭和前半にかけて、経済学者だけではなく、文筆家としても著名であった。 慶応義塾大学では、教員として多くの逸材を育て、さらには塾長となって大学の発展に貢献した。昭和24(1949)年には東宮御教育常時参与を拝命し、皇太子の教育の責任を長く果たした。 小泉の貢献で注目すべきものは、「災害の経済学」という観点だ。日本でも、大規模災害に直面するごとに、経済活動が停滞し、人々の気持ちが沈み込むことなどで社会的にも「自粛」的な空気が流れることが多い。 もちろん、災害によって被災された方々に思いを寄せることは何よりも大切だ。同時に小泉は、大規模な災害のときこそ経済を回すことが重要であることを説いた。「みどりの式典」に出席された天皇、皇后両陛下=2019年4月26日、東京・永田町の憲政記念館(代表撮影) 小泉の直面した最初の国家的災害が、大正12(1923)年の関東大震災であった。死者・行方不明者10万5千人余り、日本の当時の国富の約6%を失い、また年々の国民所得でいえば約47%を失う大きな経済的被害も合わせてもたらした。 首都圏では多くの人たちが被災し、公園などで長期のバラック住まいを強いられた。また職を失い、生活の基盤を根こそぎにされた人も多かった。当時の政権の経済政策はデフレ志向の緊縮政策であり、そのことも災害の事後的な悪影響を人為的に拡大していくのに貢献した。「災害の経済学」は平時にあり 当時、小泉の自宅のあった鎌倉でも被害が広がっていた。辛うじて自宅の倒壊を免れた彼は、当時の復旧活動や鎌倉での罹災(りさい)共同避難所での活動を記録した。 小泉の記録では、官僚的で中央集権的ともいえる被災者へのずさんな対応に対する批判が記されている。一方で、現場の人たちのボランティア的活動を高く評価していた。 その中から、小泉が唱えたのが「災害の経済学」である。これは、直接には英経済学者アーサー・セシル・ピグーの経済学を応用し、それを小泉独自に発展させたものだ。特に、大規模な災害に直面した社会では、何よりも経済を回すことの重要性が唱えられていた。 被災地を支えるためには、災害の難を逃れた地域や人たちの経済活動が重要になる。もし被災しなかった人たちまでも経済活動が停滞してしまえば、それは被災地の支援にも大きなダメージを与える、というのが小泉の基本的な視座だった。 その上で、小泉は災害によってレジャーなど奢侈財(しゃしざい)への消費を自粛することもよくないと指摘した。これは、当時としてはかなり思い切った主張だろう。皇太子妃選びの中心的役割を担った小泉信三。若き日の皇太子さま(現在の天皇陛下)の「教育」に携わった 「自粛」という空気によって、スポーツや芸能、旅行などのレジャー消費が停滞することで、日本の経済全体を冷え込ませ、被災地を支えるべき経済まで損ねてしまう、というのが小泉の独創だった。それには、災害に遭った人たちに心を寄せることが大前提になることはいうまでもない。 また、小泉は関東大震災後、それまでにも増して文化的活動に傾斜していく。中でも、自らが名選手として知られたテニスをはじめ、スポーツに対する理解と賛助は大きかった。 小泉は、「災害の経済学」が、実は災害が起きていない「平時の経済学」でもあると説く。平和でも災害の下でも、人はスポーツなどのレジャーへの支出を重要視すべきだ、というのが小泉の主張である。「御成婚」へと至る道 一つの形として、テニスが文化的で創造的な消費だと、彼はとらえた。この小泉のテニスへの理解と啓蒙(けいもう)活動が、後に天皇、皇后両陛下が、軽井沢でのテニスを縁にした御成婚へと至る道を敷いたといえるのではないか。 小泉は陛下の皇太子時代にともに読書をし、さまざまな対話的教育の場を設けた。その貴重な記録は、『ジョオジ五世伝と帝室論』(1989年、文藝春秋)をはじめとする著作に残されている。 この著作には、陛下が理知的で、誠実で、およそ軽薄から遠い人物であることが、小泉の明晰(めいせき)な文章でつづられている。皇太子時代から今日まで、われわれ国民の広く知る人物像が、既にして若きころから育まれていたことがよく分かる。この本の中には、前述したテニスコート上の両陛下の出会いが描かれている。 昭和33年夏、軽井沢のテニスコートで、まだ独身であった両陛下が混合ダブルスで対戦し、皇后さまのチームが勝利したのを、小泉は目撃したという。このとき、陛下もまた小泉もその勝利した女性が、後に皇太子妃になることを想像もしていなかったと書いている。少し長いが、小泉の文章を引用しよう。 右のような次第から、このたびの御婚約を、テニスによって結ばれた御縁などといいそやすものがあれば、それはあまりに通俗的な想像であるが、しかし、何事にも慎重で、堅実な殿下が、その後も正田嬢をテニスコートで御覧になる機会を得られたことは、少なからず御判断を助けたことと思う。まことに幸せな次第である。『ジョオジ五世伝と帝室論』181ページ 小泉はお二人の今後の生活にも、その責務を担いながらも、どうかその間もお二人だけの楽しい時間をお持ちになるようにと、ここでも余暇(レジャー)の必要性を書いている。小泉の気持ちは若いお二人にも届く優しさであったろう。 御結婚の後は、義務の多い生活をお送りにならねばならず、お二人ともに十分にその御用意のあることを信ずるが、どうかその間にも、少しでも多くお二人だけの楽しい時をお持ちになっていただきたいと思う。お側(そば)の者も心しなければなるまい。『ジョオジ五世伝と帝室論』181ページ1958年12月、婚約内定後、東京都内でテニスを楽しまれる皇太子さまと正田美智子さん 「平成」から「令和(れいわ)」に元号が変わっても、われわれのさまざまなレジャーや文化活動をさらに発展させ、そしてさまざまな困難の前でも経済的に「自粛」することなく、経済活動をたくましくする。そして、困窮にある人たち、弱い立場に陥った人たちに、心でも経済でも寄り添うことが必要だろう。そのことを小泉の「災害の経済学」は教えてくれるのである。■新元号「令和」と「昭和」の知られざる共通点■「天皇はかくあるべし」上から目線の知識人が錯覚した陛下のお気持ち■もし父親なら小室圭さんに娘を託せるか、ましてや皇女である

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    元宮内庁長官、羽毛田信吾手記「今上陛下に象徴天皇の極致を見た」

    12月、皇居・宮殿「石橋の間」(代表撮影) 令和の時代を迎え、改めて将来にわたって国民から敬愛される皇室、国民の心の支えとなる皇室であり続けてほしいと願う。民主主義はともすると「自分さえ良ければ」「自分の国さえ良ければ」という思考に堕する危うさを内包していることを考えると、政治的な思惑や利害を超えて人々のために祈り活動される公平無私な存在が、一層重要に思えるのである。■釜石市長手記「被災地を照らし続けた両陛下のお姿」■語り継がれる「天皇の旅」 批判はあっても膝をつかれた陛下のスタイル■所功手記「新元号『令和』は想定外なれど、感服するほかない」

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    所功手記「新元号『令和』は想定外なれど、感服するほかない」

    今上陛下は「おことば」にこの御歌を引かれ、「このごろ(平成の初め)、全国各地より寄せられた『私たちも皇室とともに平和な日本をつくっていく』という静かな中にも決意に満ちた言葉を、私ども(両陛下)は今も大切に心にとどめています」と仰せられた。発表された新元号「令和」の書 言われてみれば、確かにその通りである。われわれ日本国民は、「平成」元号を使いながら、さまざまな形で「皇室とともに平和な日本をつくっていく」決意を持ち続けてきたことになろう。 もちろん、三十余年の現実は、理想どおりに進んでいないにせよ、それを共有理念としてきたことに意味があろう。しかも、これによって表意文字の良い漢字で年代を表示する元号の文化的意義が、広く理解されていることを知ることができる。「令和」の画期的意義 さて、この4月1日、今上陛下の「高齢譲位」による皇位継承に先立って、政府から公表された新しい元号は「令和」であり、その出典は『万葉集』である。これはまさに画期的な意義を有する。 まず「令和」という二文字は、共に漢音で「れいわ」(Reiwa)と読む(令は呉音なら「りょう」)。その和訓は人名で「よしかず」とも「のりやす」とも証する例がある。 確かに「令」という字は、「令息」とか「令嬢」のように「よい」とか「美しい」という意味もあり、また「法令」「訓令」のように「のり」(規範)の意味もある。 一方「和」はよく知られている通り、「和合」とか「平和」のように「やわらぐ」「なごむ」「仲良くする」という意味があり、古来「大和」(大いに和する)と称する日本の特性を最もよく表す語である。 それゆえ、日本の「大化」から「平成」に至る247の公年号では、「和」が19回も使われ(「和銅」~「昭和」)、「令和」で20回になる。それに対して「令」という字は、幕末の「文久」「元治」改元の際「令徳」という二文字で候補に上ったが採用されず、今回が初めてとなった。 だが、このような組み合わせは珍しくない。現に「昭和」「平成」の「和」や「平」は多く使われてきたが、「昭」「成」はこの時が初めてである。古来の用例を尊重しながら、新例も採り入れたことになる。足利学校で保管されている、江戸時代後期に木版印刷で作られた万葉集 この「令和」について、安倍晋三首相は正午の談話で「人々が美しく、心を寄せ合う文化が生まれ育つ」と説明した。確かに、現在も今後も「国民の理想としてふさわしい」在り方は、美しく穏やかな心を持ち、互いに助け合っていくことであろう。万葉歌人たちの梅花宴 その出典として、従来は専ら漢籍(中国の古典)が使用されてきたが、今回は初めて国書(日本の古典)が採用された。しかも、歴史書の『古事記』や『日本書紀』でなく、和歌(やまとうた)を集成した『万葉集』が典拠されたことは想定外ながら感服するほかない。 この『万葉集』巻五に、九州の大宰(だざい)府で、天平(てんぴょう)2(730)年正月13日に開かれた梅花を賞(め)でる宴会において、32人の官人たちが詠んだ和歌と、冒頭に序文が収められている。 その序文は、大宰帥(だざいのそち、長官)大伴旅人(たびと)か、筑前守(かみ、国守)山上憶良(おくら)の作とみられる。「時には初春(正月)の令月(よき月)にして、気淑く風和(やわら)ぎ(穏やかで)、梅は鏡前の粉を披(ひら)き(おしろいのように白く咲き)、蘭は珮後(はいご)の香(こう)を薫(かお)らす(匂い袋のように香っている)」などと、宴会の状況が的確に描かれている(括弧内の注釈は中西進氏『万葉集』全注釈)。 この文中にある「令」と「和」を組み合わせて「令和」という元号ができたのである。しかも、その背景として、唐風文化の開花期である天平時代に、大宰府という中国大陸や朝鮮半島との外交を統括する公館における梅花宴で、教養の高い官人たちが、漢詩でなく和歌を詠んでいることに思いを致すと、一層味わい深い。 梅というのは、中国伝来ながら、日本各地で旧暦1月の春先ごろに花が咲き、香りが芳(かぐわ)しい。わが国には「梅は寒苦を経て清香を発す」という名句がある。新元号「令和」の引用元の万葉集の歌が詠まれたとされる大宰府政庁跡にある坂本八幡宮=2019年4月1日 その句を加味すれば、天災などの苦難もみんなの助け合いで乗り越えてきた平成の日本人が、さらに今後も心を寄せ合って本当に美しい平和な日本を花咲かせよう、という理念を表明したことにもなろう。 今や国際化・グローバル化の加速する日本で必要なことは、日本人としてのアイデンティティーを再認識し、その上で可能な限り国内外のために貢献することではないかと思われる。そんな新時代への展望と期待をこめて、「令和」元号の誕生を言祝(ことほ)ぎたい。■ 呉智英が読む平成30年史「日本人はどう変わったか」■ 幕末幻の元号「令徳」が示す改元のインパクト■ 元号をめぐる「タブーなき議論」こそ平成と昭和の差である

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    新元号「令和」に言いたい

    平成の次の時代を表す新元号が「令和」に決まった。大化から数えて248番目となる元号は日本最古の歌集「万葉集」から引用されたが、「令」という漢字は初めて採用された。これまで元号で使われた漢字は、たった73文字しかないのも驚きだが、なぜ「令和」が選ばれたのか。その意味を考えたい。

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    新元号「令和」公表にチラつく支配欲と主導権争い

    終え引き揚げる安倍首相。奥左端は菅官房長官=2019年4月1日、首相官邸 明治22(1889)年に「皇室典範(旧)」ができ、一世一元が明文化されたが、第二次世界大戦後廃止される。以降、実は法的根拠もなく、なんとなく慣習で昭和を使っていた。 その後、昭和54(1979)年に「元号法」ができ、法的根拠が生まれた。この時、「元号法は、その使用を国民に義務付けるものではない」という政府答弁がある。 「『協力を求める』ことはあっても『強制するとか拘束する』ものではない」と繰り返し答弁している。これが公式見解だ。 ところが、平成6(1994)年に「公文書の年表記に関する規則」というものができて、「公文書の年の表記については、原則として元号を用いるものとする。ただし、西暦による表記を適当と認める場合は、西暦を併記するものとする」という「公文書の年表記に関する規則」ができた。 繰り返し述べてきた政府答弁との整合性が、よく分からない。現在、公式書類を書くときに「今は元号でいえば何年だ?」と困る理由は、ここにある。「令和」元ネタは中国? さてここでクイズです。平成 ・ 大正 ・ 昭和 ・ 明治 …と、ここに四つの元号がバラバラにあります。正しい順番に並べ、おおよその長さを答えなさい こんな問題は誰でも分かる。当たり前だ。しかしそれは、私たちが昭和や平成という時代を生きてきたからにすぎない。 ちなみに、そのわずか10年前にあった元号で同じクイズを作ってみた。慶応 ・ 文久 ・ 元治 ・ 万延 …と、ここに四つの元号がバラバラにあります。正しい順番に並べ、おおよその長さを答えなさい 即答できる人が、どれだけいるだろうか? 正解は、万延(1年)→文久(3年)→元治(1年1カ月)→慶応(3年6カ月)だ。慶応の次が明治になる。 ということはつまり、現代の私たちには自明の理である「明治(長い)→大正(短い)→昭和(とても長い)→平成(やや短い)」という流れも、今から100年後、200年後の人たちにとっては、「元号は、順番と長さが分からない」となるのだろう。 このように、元号には「イメージ把握力に優れている」が、「順番と長さに弱い」という欠点がある。紀年法として、これは大きな欠陥だ。人々の寿命が短く、ほぼ国内で完結していた昔は、それでも不都合はなかったのだろう(しかも、十干十二支の60年サイクルを併用していた)。 しかし現代、世界は狭くなって、ネットでも密接につながっている。世界共通の紀年法が必要であり、それが事実上西暦になっているのは理解できる。実は西暦だって、1年目から始まったわけではない。できた時は、いきなり525年! 一般化したのは十世紀と、意外に新しい。それを使うと便利だから各国が採用し、実質的な世界標準紀年法となっていった。 もっとも、民族、宗教、神話による独自の紀年法を持つ国も、珍しくはない。だがそれはそれとして、西暦を使っているのだ。 新元号は「令和」と発表があった。出典は『万葉集』で、「初春の令月にして、気淑く風やわらぎ…」からという。もっとも、発表後、中国の『文選』に元ネタとなる文章があるとも指摘された。『文選』は過去に元号の出典とされることが多い書物だし、一つの元号に出典が複数ある例だって珍しくはないから、別にそれでもいいとは思うが。街頭テレビに映し出された新元号発表の様子をカメラにおさめる人たち=2019年4月1日、東京都千代田区(早坂洋祐撮影)    「和」について違和感を持つ方は少ないだろう。「令」については、「命令」「辞令」という言葉や、幕末に不採用になった元号案「令徳」を思い出し、身構える方もいるかもしれない。あの時は「徳川に命令するという意味だ」と幕府側の一橋慶喜(後の徳川慶喜)が嫌い、「元治」になったのだ。 だが「令」には、「令嬢」「令息」のように、尊敬して使う意味もある。いい意味にとった方がいいし、元号とはしょせんそういうものだと思う。5月1日からは、この新元号「令和」になる。 元号は「明るい世の中になるように」という願いでつけられる。今回の改元報道の、ややお祭り騒ぎ的な取り上げ方を見ると、今後、元号は、紀年法としてよりも、縁起担ぎ・ムード作りという側面の方が強くなるのではないだろうか。■幕末幻の元号「令徳」が示す改元のインパクト■信長でも苦慮した改元「元亀から天正」暗闘の歴史■67年前、日本は「元号」を奪われる最大の危機にあった

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    新元号「令和」と「昭和」の知られざる共通点

    鈴木洋仁(社会学者) 新元号に決まった「令和(れいわ)」について、私はかなり意外な印象を持ちました。その理由は二つあります。 一つは、昭和の「和」と同じ文字が使われているからです。もう一つは、万葉集を出典としていることです。 すでに多くの解説で言われている通り、「令」という文字は、これまでの元号には使われていません。初出の文字です。「和」は、昭和をはじめとして、今回で20回目です。 昭和、平成がいずれも初出と頻出の文字の組み合わせでしたので、今回もこの傾向を続けています。 ただし、それ以上に私が注目したのが、この「令」という文字です。「令」という文字は、元号候補として、少なくとも一度挙がっているからです。幕末の西暦1864年に「元治」と改元されたときの最終候補といわれています。  このときの候補は、「令徳」でした。しかも、京都の朝廷からの候補とされています。 ところが、「令」は命令を、「徳」は徳川幕府をそれぞれ意味するといわれ、幕府側から難色を示されたと伝わっています。つまり、朝廷から徳川幕府への命令だと見なされたのです。 この経緯に鑑みると、今回の令和もまた、「令」を命令ととらえられなくもありません。もちろん、今回の令の出典は「令月」、つまり何をするにもよい、めでたい月ですから、「命令」とは違います。 ただ、「令」という文字から「令月」を連想できる人は、よほどの教養の持ち主ではないでしょうか。少なくとも私には、その教養はありません。 この点、すなわち漢字から意味をすぐには想像しづらい点からも「昭和」との共通点を感じさせます。「昭和」の「昭」という文字もまた、それだけでは意味や熟語をとっさには思いつくことができません。  さらに「令和」と「昭和」は、「和」が重なっているだけではなく、出典の意外性についても共通点があるように思えます。 そもそも、「昭和」は「明和」という元号と共通しています。この明和という元号は「明和9年」には、「迷惑年」と同じ音になり、不吉なことが起きると言われていたとされています。実際、この明和9年には、明和の大火と呼ばれる大火事が江戸で起き、安永に改元されています。  昭和の出典は『書経』の「百姓昭明、協和万邦」であり、明和と全く同じものです。つまり、よくないことが起きて改元した元号と出典を同じにしています。これは、良い意味を込める元号としては意外です。新元号「令和」が発表され、大型モニターに映し出された記者会見する安倍首相=2019年4月1日午後0時11分、東京都新宿区 一方、「令和」の意外性は改めて言うまでもなく、万葉集が日本古典として初めて元号の出典となったことにあります。 万葉集は、安倍首相の談話にもあったように日本語の根幹である、万葉仮名を生み出した古典中の古典です。また、出典の箇所ももちろん、とてもいい意味だとされています。 元号の歴史に照らし合わせた「伝統」という意味では、これまでがほぼすべて中国古典を出典としていますから、その流れに沿うべきだという考え方もあるでしょう。元号は誰のものか 他方で、日本固有の伝統としての「万葉集」を重視するという考え方もあり得ます。日本が生み出した文化が大事だと考える立場もあり得ます。今回、安倍政権は後者をとったと、私は見ています。 そうした昭和との共通性をふまえると、今回の新元号はいくつかの論点を示しています。一つは、元号は誰のものなのか、という論点です。 元号法は、元号は政令で定める、そして、元号は皇位の継承があった場合に限り改める、と定めています。この法律の主語は、誰でしょうか。政令は、政府が定めますので、手続きとしては、主語は政府です。すると、元号は政府のもの、ということになるのでしょうか。 あるいは、この政府を決めるのは国民だという立場に基づけば、元号は国民のものだ、ということになるのでしょうか。もしくは、皇位の継承が行われるのは、いうまでもなく天皇陛下によるので、すると主語は天皇陛下、ということになるのでしょうか。 少なくとも、法律の上からは、政府が主語だと考えざるを得ません。あくまでも、政府が元号を決めます。今回の新元号発表にあたっても、菅義偉官房長官が閣議決定事項として発表し、安倍晋三首相が談話として自ら述べました。  また、大化から昭和にいたる246の元号は、すべて最終的には天皇が決めてきましたが、元号法のもとでは平成も令和も内閣が決めています。こうした経緯をふまえて、それでもなお元号は誰のものなのか、という論点は残り得るのかもしれません。 また、次の論点として、元号は隠すべきものなのか、という点が挙げられます。今回、政府は元号に関する情報管理を徹底したと報じられています。新元号候補が、事前に報道された場合には、差し替えると語ったとも言われています。 ただ、そもそも、なぜ新元号を、ここまで隠す必要があるのでしょうか。もちろん、次の天皇陛下のおくり名(追号)として使われるのだから、国家の最重要機密なのだ、という理屈は、考えられます。新元号「令和」に関し記者会見で談話を発表する安倍首相=2019年4月1日午後0時21分、首相官邸 かといって、新元号候補や考案者を、かたくなに隠そうとするばかりです。少なくとも政府から公式には、上記の説明はありません。菅官房長官による公式の説明としては、3月29日の記者会見で「決定された新元号が、広く国民に受け入れられ、日本人の生活の中に深く根ざしていくものになること」と述べたところまでです。 「本当に」元号は「絶対に」隠さなければならないのか、という点については議論の余地があります。 他にも、元号予測が、ここまでイベント化してしまってよかったのかどうか。あるいは、保守派が主張するように、改元前の新元号公表は、そもそも是なのか、非なのか、といった論点が浮かびます。こうしたいくつかの論点をどのように受け止めるのか、ということが問われているのではないでしょうか。■ 信長でも苦慮した改元「元亀から天正」暗闘の歴史■ 67年前、日本は「元号」を奪われる最大の危機にあった■ 呉智英が読む平成30年史「日本人はどう変わったか」

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    新元号「令和」が持つ本当の意味を日本人はどれだけ理解しているか

    落合道夫(東京近代研究所代表) 新元号「令和(れいわ)」が発表された。これは万葉集が出典である。安倍晋三首相の解説によると、いろいろと慶ばしい意味を持っているという。あらゆる危機の中、ぜひ新しい天皇の下、良い時代になってほしいと願うばかりだ。 「令和」と聞いて私は、祝賀の歌として1270年前の天平21年に大仏建立にあたって大伴家持が詠じた「すめらぎ(天皇の意)の御世栄えむと東なるみちのく山に金花さく」を想起した。 しかし、同時に大東亜戦争後、敵に捕らわれ冤罪で処刑された坂本忠次郎中尉の詠んだ歌も忘れることはできない。「同胞(はらから)の犠牲(いけにえ)なればすめらぎの弥栄祈り我は散りゆく」。彼も歌心のある武人だった。 こうした長大な時代の積み重ねにより現代の日本がある。新しい「令和」の御世は新天皇の下で今後、無数の記録が書き込まれていく。そして全国民にとって各自の唯一無二の歴史となる。このように理解すると元号制度が極めて人間的で文化的なものであることが分かるだろう。 ところで新元号「令和」は、今上陛下のご譲位にあたり1カ月前に発表された。異例である。これは産業界の要請など政府にも事情があるのだろうが、伝統的権威は伝統によってのみ維持されるから天皇に関わる事柄は、すべて無条件で伝統に従うことが大原則だ。 今回の異例のご譲位と改元はご高齢であることが挙げられるが、本来摂政を立てられればよいことであり、これは日本が先の大戦を踏まえた講和条約を結んだにもかかわらず、いまだに占領で破壊された民族の大切な伝統が回復されていないことを示している。モニターに映し出された新元号「令和」の文字=2019年4月1日、東京都千代田区 したがって今回はやむを得ないとしても、なるべく早く「占領憲法」を改正し、次回からは伝統に戻すことが必要だ。これは政府だけでなくわれわれ国民の責務である。 そもそも日本民族における元号制度の機能は歴史に期間を設定し「時代」の概念を作ることである。これにより、元号制度が日本人にとって文化的、そして政治的、社会的に重要なものになってくるのである。 その一方で、元号反対論には誤解によるものと政治的な陰謀がある。誤解によるものは、暦は数えやすいようにキリスト歴一本にすべきという単純な意見である。しかし、これは短い人生を終える国民の歴史的感慨に配慮のない意見である。共産党の矛盾 結論としては、キリスト歴は巻尺であり、元号はもの差しに当たると考えて併用すればよい。換算が不便というが、たいした手間ではない。早見表を見れば良いだけの話で小学生でもできることだ。 共産党の志位和夫委員長はこれまで、元号制度は支配者が時を支配するものだから反対と述べたことがある。しかし、時というものは想像上のもので存在しないことは古代の龍樹、アウグスチヌス、道元などの先哲がすでに明らかにしている。 だから時は誰も支配などできない。そして共産党の代案がマルクス暦というのなら分かるが、キリスト歴というのでは驚いてしまう。共産党はいつからキリスト教徒になったのか。 そして唯物無神論ではなかったのか。あまりにも無原則で機会主義的だ。キリスト歴はあくまでも宗教暦であり、キリスト教徒の暦である。イスラム圏ではイスラム暦があり、中東の新聞ではキリスト歴はカッコ付きで付記されている。 そもそも元号問題は戦後2回、大きな政治問題になった。1回目は昭和25(1950)年に元号廃止が国会で検討されたことだ。これは戦後のドサクサを利用して日本の伝統文化を廃止しようとする左翼、キリスト教勢力の陰謀であったが、左翼の最優先課題がサンフランシスコ平和条約の反対運動にシフトしたため、幸い防ぐことができた。実に危なかった。 2回目は昭和53(1978)年で愛国的な国民が結集し元号法を制定した。この時は危機感の高まりで元号制度制定促進を求めて国民があの日本武道館いっぱいにあふれたのである。 また、元号制度は連続した歴史に期間を決めることにより「時代」の概念を作るが、これにより歴史はとりとめのない時点主義から人生の記録を示す人間の歴史になる。この中で各人は天皇の謚(おくりな)を通じて公の歴史につながることができる。新元号が「令和」に決まり、記者会見で談話を発表する安倍首相=2019年4月1日、首相官邸 私の場合、昭和に生まれ、平成を経験し、新しい元号の時代に死ぬことになるから三代の天皇を戴いて生きたということである。ささやかであるが、私の公的記録だ。また、歴史が時点主義から期間になることにより、共同体の成員にとって国家の歴史が成員の共有財産になる。 われわれ日本人は元号を介して歴史を共有する民族なのだ。これが、われわれが元号制度を守らなければならない大きな理由なのである。元号が持つ時代感覚 ところで、元号は日本の文化に多くの影響を与えているが、その一つとして俳句がある。有名な句に、俳人である中村草田男の「降る雪や明治は遠くなりにけり」がある。この句の感慨は明治だからこそであり、これがキリスト暦では俳句にならない。 そして明治という元号は明治天皇を戴き、全国民が心を一つにして大きな犠牲を払いながらも大敵を撃退した日本民族の苦しくも栄光の時代を意味している。この時代の国民の感動と感慨が夏目漱石の小説「こころ」、乃木希典将軍の殉死など、国民の深い感慨になっている。中村草田男もその一人だ。 また、明治の元号を冠する明治大学の校歌には明治時代の明るさと力強さを感じる。作家の戸川幸夫は、明治は日本人にとって特別の時代であったと記し、次のように述べている。 私は明治人間である。と言っても末年に生まれたので、大きな顔は出来ないが、それでも九州の片田舎で育ったので、当時はまだ明治の気風がそのまま色濃く残っていた。私は大東亜戦争に従軍し苦労を体験したので、戦後の平和な今を生きる若い人がうらやましいが、同時に不安も感じる。明治の人々やそれ以前の日本人が歩き残していったものを伝えるべきであった。その意味で今が明治の昔を振り返って学ぶべきことを学ぶ大切な時期と思う…(「明治の気概」抜粋要約) こうした時代の感動が元号による時代認識として共同体の成員に共有され、さらに若い世代に継承されるとしたら、これはすばらしいことである。時代機能のないキリスト歴では到底考えられない。元号はその共通の時代意識を通じて日本民族の伝統意識を作っている。これは日本社会の安定のために非常に重要だ。 フランスの社会心理学者、ル・ボンは19世紀欧州の革命暴乱をみて国民の精神的伝統の深層が破壊されると社会は流動的になり、それが強い刺激を受けると想定外の暴走を始め悲劇を生む、と民族の深層を守る伝統意識の重要性を記している。 彼によると、フランス革命前夜のフランス社会ではキリスト教の権威の衰退、地方から都市への移住、産業の変化などがそれまでのフランス人の深層意識を不安定化したため、パリの暴動事件が全国規模の革命の大乱に拡大したという。川越市立博物館蔵の五姓田芳柳筆「明治天皇肖像」 また、ロシア革命でも農奴解放や産業化による社会の変動が人心の流動化を招き、あの大規模な内戦と革命の悲劇を生んだ。ドストエフスキーは小説『悪霊』で19世紀中頃のロシア社会の深層の変化について、次のように記している。  それは一種特別な時代であった。以前の平穏さとは似ても似つかない何か新しい事態が始まりそれが至るところで実感されるのであった。その背後にそれらに付随する思想が生み出されていることは明らかであった。しかしそれがおびただしい数に上がるので突き止めようとしても不可能であった…的外れな元号非難 われわれ日本人は現在、幸い何となく安心して暮らしているが、その深層には同じ民族としての共通の信頼感があることは間違いない。その柱が天皇崇敬であり、それに伴う元号の作る共通の時代意識なのだ。 ル・ボンは社会の大乱を深海の大地震が起こす大津波に例えている。民族の深層が強固なら地震の揺れを吸収するが、そうでないと、大津波となって社会を崩壊させてしまうのだ。元号は天皇崇敬とともに、この大地震を吸収する有力な緩衝材の一つである。だからこそ元号制度は敵に狙われるのであり、われわれは意識してしっかり守らなければならない。 ただ、今上陛下の譲位を控えた本年の一般参賀にうかがった国民の数は15万人に上り、史上最多であった。また、先日の今上陛下の神武天皇陵参拝の関西行幸には異例の多くの国民がお迎えした。これは今上陛下への敬慕の思いと、自分の歴史としての平成の時代が過ぎていくことを実感し惜しんだからではないか。これはまさに平成という元号が国民各自の時代でもあったことを示している。 だから帝王が「元号によって時を支配する」などという非難が、全く的外れであることが分かる。これは同時に日本民族の深層が天皇崇敬と元号制度を通して、まだしっかり維持されていることを示しており心強い。 日本の元号制度とは、天皇の謚によって、長大でとりとめのない歴史を時代という概念で等身大に切り取り、それを保管、共有し、後世に伝えるという極めて高度で素晴らしい制度である。 ゆえに、新元号について、文字の善し悪しなどを論じるのは本筋から外れていると思う。時代は、元号の文字によるのではなく、その時代の歴史の評価で強く記憶されてきたからだ。それは現代ではわれわれが作るものであり、時代に生きるわれわれの力量を示すものである。帰京のためJR京都駅を出発される天皇、皇后両陛下=2019年3月、京都市下京区(代表撮影) 冒頭でも記したが、これが国家とともに自分個人の唯一無二の歴史を作ることにもなる。時代概念は時の容器である。新しい時代の始まりを見て期待とともに、ある種の畏(おそ)れの念を持つのは私だけではないだろう。 今われわれは過ぎ行く平成の御代を惜しみながらも、新しく始まる時代を迎える心の準備をしている。後世の日本人に感謝されるよう父祖にならって新しい天皇陛下の下で強く団結し、内外の危機を乗り切っていかなければならない。■ 呉智英が読む平成30年史「日本人はどう変わったか」■ 幕末幻の元号「令徳」が示す改元のインパクト■ 元号をめぐる「タブーなき議論」こそ平成と昭和の差である

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    新元号発表に「権力者は安易に元号にかかわるべきではない」

    )の会見は、時代を象徴する1ページとして、繰り返し目にしてきた。「元号について見識の深い人たち、特に皇室関係者の間では、“権力者が自らの権威づけのために、安易に元号にかかわることは避けるべき”と考えられています。 たとえば、明治天皇は15才という若さであったとはいえ、『明治』をくじ引きで決めたことは有名です。大正天皇も昭和天皇も、天皇の最高諮問機関『枢密院(すうみついん)』の判断に任せた上で、追認しました。『平成』も竹下登首相ではなく、小渕官房長官が発表した。 御代の名前の決定は、向こう何十年かの国の平安を左右するかもしれない責任重大な行為であって、過去の為政者たちでさえ慎重に距離を取った、畏れ多い行為なのです。私利私欲の道具にしていいものではありません」(宮内庁関係者)関連記事■新元号はもう決まっている! 立入禁止の秘密司令部に保管か■新元号の選び方に法則性 平成の次の頭文字はKか■「これ書いたらクビに…」安倍四選、新元号、石破除名の核心■「元号」と「年号」の違いと元号の6つの条件とは?■改元控え、皇太子さまと秋篠宮さまの「不穏な関係」に心配

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    新元号で「一世一元」に矛盾 急ごしらえ退位特例法に批判も

    呼ばれ、年に数回行われるが、皇太子さまへの報告は異例のことだ。実は、そこで驚きの会話がされたという。皇室ジャーナリストはこう語る。「首相から皇太子さまへ、来年に迫った東京オリンピックや天皇陛下の譲位に関連する儀式について報告するだけでなく、新元号についての説明もあったそうです。新元号の複数の案を示し、その中には(安倍首相の)『安』の文字もあったとされます。皇太子さまは穏やかに“みなさんでよくよく検討してください”といった対応をされたそうです。 また、首相は新元号の決定や公布の手続きを報告したようです。ただ、そのプロセスは皇太子さまのお立場を軽視したものではないかと波紋を呼んでいます」 そもそも、元号を最終決定するのは誰なのか。「昭和」までの246の元号は、天皇自らが決めてきた。元号は天皇の治世を表す名前であり、崩御されたあとは「おくり名」になる。天皇の意志が優先されるのは自然なことだ。 ところが、1979年に「元号法」が制定されると、内閣が新元号を決めることに変わる。具体的には、内閣から委嘱された専門家の提案の中から3案程度が絞り込まれ、有識者会議で検討されたのち、閣議にて改元政令が決定される。衆院議院運営委員会で天皇陛下の譲位を可能にする特例法案が可決され、佐藤勉委員長(左)と握手する大島理森衆院議長(中央)=2017年6月1日、衆院(斎藤良雄撮影) ただし、元号が天皇の御代に対応するものであることに変わりはなく、閣議決定後、天皇が政令に「署名」して初めて、新元号が公表される。前回の平成改元では、即位直後の天皇陛下が『明仁』とサインされた。「本来ならば、新天皇の即位後の最初の国事行為が、新元号の政令への署名になるべきです。次の元号は、皇太子さまの御代の名前なのだから、皇太子さまが『徳仁』とサインされるのが筋です。 しかし、4月1日の時点では、皇太子さまはまだ天皇ではないため、国事行為である署名を行うことはできません。つまり、今上天皇が『明仁』とサインされることになる。安倍首相は皇太子さまとの面会でそうしたプロセスを説明されたと考えられます」(前出・皇室ジャーナリスト) つまり、伝統的に続いてきた「一世一元」の原則が一時的に崩れ、皇太子さまは自分の治世の名を“自分で決める”ことができないということになるのだ。 生前退位という異例の御代がわりではあるが、「皇室の伝統を理解していない政治家や官僚が急ごしらえで退位特例法を作ったからこういう矛盾が出てくる」(別の皇室ジャーナリスト)という声も大きい。関連記事■新元号発表に「権力者は安易に元号にかかわるべきではない」■新元号発表日、ネットニュースがスクープ合戦の舞台に■新元号はもう決まっている! 立入禁止の秘密司令部に保管か■「これ書いたらクビに…」安倍四選、新元号、石破除名の核心■過去データを元に元号通が予想した新元号本命は何か?

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    新元号決定、不敬なプロセスが生む「第2の光文事件」

    るが、象徴天皇制にふさわしくないのではないか。 「即日改元」が定められたのは明治時代になってからで、皇室典範や登極令(旧皇室令)などによって、改元は新帝即位直後、文字案の審議は枢密院で行い、勅定するとした。明治天皇の病状が悪化すると、来るべき改元に備えて、西園寺公望(きんもち)首相が元号の内案作成を命じ、天皇崩御の後、新帝即位直後に元号案は枢密院で審議され、第1案であった「大正」が決定した。 改元詔書では明治45年7月30日以後を大正元年とすることが明記された。明治改元のときは慶応4年を明治元年に改元するとのみ書かれており、月日をはっきり明記するようになったのはこの大正改元からである。 大正天皇の病状悪化のときも、元号内案の作業に着手している。このときは宮中と内閣で別々に作業が始まっている。宮中では一木喜徳郎(いちききとくろう)宮内大臣が図書寮編修官に命じ、3案にまとめられ、牧野伸顕(のぶあき)内大臣と元老・西園寺公望の了解を得ている。大正天皇 一方、内閣の方では若槻礼次郎首相が着手を命じ、5案を得ている。この宮中3案と内閣5案をあわせて内閣書記官長が精査し、第1案を「昭和」、他2案に絞っている。この3案はすべて宮中案であった。 大正天皇が崩御し、新帝が即位すると、その直後に枢密院で元号案が審議され、第1案の「昭和」と決定した。このとき、毎日新聞の前身である『東京日日新聞』が、新元号は「光文」と誤報する。いわゆる「光文事件」だが、この「光文」は内閣から出された候補の一つで、最終候補にも入っていない。ふさわしい改元手続き 戦後新しい皇室典範からは元号規定が削除され、長らく元号は法的根拠を失った。元号法を模索する動きは水面下であったものの、革新陣営からは、天皇が時を支配するという考え方に抵抗感があり、成文化するには時間がかかった。 ようやく福田赳夫内閣で元号法制化による存続を明確化し、大平正芳内閣で元号法が公布された。ただ、元号存続の是非に関わる本質的な論戦を避けたため、非常に簡素な条文となっている。元号は政令で定めることと、皇位継承があった場合に限り改元する旨が書かれているだけである。しかし「即日改元」の原則は続けることになり、象徴天皇制下でもなお、天皇崩御を予期して、秘密裏に文字案の選定が進められることになった。 昭和天皇の病状が悪化すると、内閣の担当者で協議が始まり、新天皇が即位すると有識者による懇談会が開かれ、小渕恵三官房長官が三つの原案を示し、その後衆参両院の正副議長の意見を聞き、閣議を開いた上で「平成」を決定している。今回の選定過程もこの平成改元にならっている。 元号は天皇の在位期間を基本に数える政治的紀年法ではあるが、正確に天皇の即位と退位にあわせる必要はない。明治改元は明治天皇即位より1年9カ月後に行われている。前近代では先帝崩御の1年後、もしくは2年後に改元することの方が一般的であった。先帝に対する一定の服喪の期間を経て改元する方が、儀礼的にもふさわしい。例えば、崩御後翌年の1月1日をもって改元とすれば、このような綱渡りをしないで済むし、西暦との換算も楽になる。 元号は国民生活と密接な関係にあり、文字案の審議も原則公開で行った方がいいのではないか。天皇崩御を予期して改元手続きをしなければならないから、非公開にならざるを得ないのであり、翌年改元となれば、公開しても不都合はない。また秘密裏に進めれば、それを知りたくなるのが人情であり、マスコミによるスクープ合戦も起きる。ごく少数の人間で審議を進めると、元号の文字に致命的なミスが起きやすい。昭和天皇の霊柩を乗せた惣華輦(そうかれん)が、おごそかに、ゆっくりと葬場殿に向って進む=平成元年2月24日 今回の改元は、譲位によるものであり、崩御を予期しての改元手続きでないため、作成過程を公開しても問題はなかった。将来の課題として、象徴天皇制にふさわしい元号制定過程を検討した方がいいのではないか。■幕末幻の元号「令徳」が示す改元のインパクト■平成改元「運命の一日」官邸発表までの舞台裏■新元号をめぐる「タブーなき議論」こそ平成と昭和の差である

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    靖国神社「150年目の危機」

    靖国神社が揺れている。天皇代替わり後の今年6月に創建150年を迎えるが、平成の時代は陛下の御親拝が一度もないまま幕を閉じる可能性が高い。むろん靖国の存立に関わる危機である。いや、それだけではない。2代続けて宮司が任期途中で退任し、首相の参拝も見送られたままだ。いま靖国で何が起こっているのか。

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    元幹部告白手記「靖国神社150年目の危機」

    宮澤佳廣(靖国神社元総務部長) 筆者が靖国神社創建150年を極めて重く受け止めているのは、何も50年毎の節目だからというわけではない。靖国神社にとっての重大な岐路が、あたかもこの記念の年に符合して差し迫っているように思えてならないからである。 よくよく考えてみれば、150年という佳節を迎えたとき、靖国神社が国家の施設として維持されてきた戦前の歴史は約76年、他方、宗教法人として維持されてきた戦後の歴史は約74年になる。そして現状のまま推移すれば、宗教法人としての歴史が今後、一方的に積み重ねられて行くことになるのだ。 もとより靖国神社が私的な一宗教法人として存続することを余儀なくされたのは、連合国軍総司令部(GHQ)の強圧的な宗教政策によるもので、靖国神社が自主的に選択した途(みち)でも、国民の合意のもとに決せられた性格変更でもなかった。 しかも占領下にあっては護国神社とともに特別に危険視され、何時でも廃止・解散の対象とされ得る不安定な状況に置かれたのである。 さらに、占領解除後も昭和30年代には「祭神合祀と厚生省の事務協力」が、40年代には「靖国神社国家護持法案」が、50年代には「首相の靖国神社参拝」が国会論議の争点となり、60年8月15日に中曽根康弘首相が公式参拝を行って以降は、いわゆる「A級戦犯問題」が外交問題化して「天皇の靖国参拝」中止の直接的な原因と指摘されるまでに至っている。 今や靖国神社をめぐる諸問題は「A級戦犯問題」の解決によってそのすべてが解消されるかのような錯覚を与えているが、それはあまりに皮相的な見方である。戦後の靖国神社の歴史を振り返れば瞭然のように、それら問題はすべて、占領政策によって法制度上の地位が強制変更され「靖国の公共性」が不明瞭にされたことに起因するからだ。 つまり、占領政策の核心部に位置するこの問題を解消しない限り、すべての解決などは望むべくもないのである。 まして靖国神社は「特定の教義を信じる信者によって組織された私的な宗教団体」でもなく、靖国神社と国民とのつながりは、個人の信教の自由に基づいて信じる、あるいは信じないといった関係性にはない。さらに宗教法人法にいう宗教団体は社団的な性格が色濃く、宮司や少数の責任役員の意向で神社のあり様をいかようにも変質させることができ、場合によっては消滅することも起こり得る。 筆者が平成29年に『靖国神社が消える日』(小学館)を上梓して「国家護持」という言葉をあえて議論の俎上に乗せようとしたのは、このまま戦争の記憶が薄らぎ、靖国神社は宗教法人であって当然といった意識が支配的になれば、やがて「靖国の公共性」が喪失してしまうのではないかという危機感を抱いたからである。73回目の「終戦の日」を前に、靖国神社を訪れた参拝者=2018年8月14日、東京都千代田区(宮崎瑞穂撮影) そもそも神社が国家の宗祀とされた戦前は、神社の公共性は国の法律によって他律的に維持されていた。しかし、宗教法人となった戦後は、宮司と少数の責任役員の自覚と見識によって自律的に神社の公共性が維持されているに過ぎない。 そこに神社の「公共性」と宗教法人の「私事性」の相克が生じ、公共性が顕著な神社であればあるほど、その矛盾が大きな形となって表出する。靖国神社をめぐる諸問題はその最たる事例と言えるのだ。靖国の「公共性」 わけても靖国神社は、天皇の権威のもとに国民国家が形成されて行く明治維新の過程で創建された、嘉永6年以降の国事に殉じた人々の神霊を国家・国民の守護神たる「靖国の神」として祀る神社である。天皇・国家との密接不離な関係は言うまでもなく、その極めて顕著な公共性ゆえに「国家護持」が求められてきたのであった。 このように指摘すれば、靖国神社をめぐって論じられているさまざまな問題が、本源的には「靖国の公共性」に由来していることに理解が及ぶのではなかろうか。仮に「靖国の公共性」が喪失すれば、それら諸問題もその時点で終焉する。 国家が靖国の英霊に敬意を表する必然性がなくなれば、首相が靖国神社に参拝する意義など問われることもなく、「A級戦犯問題」も一宗教法人の私的信仰の問題となって外交上の懸案事項から外されよう。そして戦没者追悼のための新施設の必要性が、より声高に叫ばれることにもなるのだろう。 だが、靖国神社が宗教法人としてどれほど長い年月を過ごそうとも、「靖国の神」は永久に、国家国民統合の象徴である天皇という存在によって祀られた国事に殉じた同胞の神霊なのである。その事実は後世のいかなる力をもってしても変えることはできない。宗教法人である靖国神社が「国家護持」という目標を自ら放棄できない理由はそこにある。 むろん、現時点において、かつての靖国法案に盛り込まれたような特殊法人化などは望むべくもない。社会状況は大きく変わっているのだ。筆者が拙著で主張した「国家護持」とは、「靖国神社の英霊祭祀に国が一定の責任を負う仕組み」「靖国の公共性を担保する制度構築」といった意味合いに過ぎない。少なくとも、そうした議論が起こるだけでも「靖国の公共性」を持続させるに有益ではないかと考えたのである。 いずれにせよ、宗教法人の「私事性」を強めれば強めるほど神社の「公共性」が喪失されていく不安定な状態に置かれたままの靖国神社が、創建以来の伝統である「靖国の公共性」を今後も保持し続けるためには、遺族や戦友が少なくなってもなお、国民の中から「国家護持」の声が沸き起こるほどに絶大な支持と信頼を得られるかが課題となる。 当面は公益法人に求められる程度の法人運営を自発的に追求しつつ、国民意識の醸成を俟(ま)つほかないが、靖国神社自ら、私人の一宗教の類と認めることだけは断じて許されない。 なお、昭和50年を最後に途絶えてはいるが、鎮座以来、靖国神社にはその創建の由来と祭神の特殊性から折に触れて天皇のご参拝があった。50年毎の節目の年を振り返っても、大正8年の御鎮座50年には大正天皇が、昭和44年の御鎮座100年には昭和天皇が記念大祭に参拝されている。本年は御鎮座150年の記念大祭が斎行される年でもあり、天皇陛下のご参拝をひたすら乞祈(こいのむ)ばかりである。靖国神社元総務部長の宮澤佳廣氏 一部には例大祭に勅使の参向があることを理由にご参拝の重要性に言及するのを避ける向きもあるが、靖国神社の英霊祭祀は、宮司以下神職がいくら丁重に祭祀を執行したところで全うされるものではなく、天皇陛下のご参拝が事あるごとにあって初めて「厳修」されることになるのだと思う。 天皇陛下のご参拝を心待ちにしているのは他でもない、九段の宮居に鎮まる246万6千余柱に及ぶ国事に殉じた神霊なのだ。短い期間ではあったが、筆者が靖国神社の神職として奉仕する中で感得させられたのは、実にそのことなのである。■実は「天皇の靖国参拝」に道を開くカギがあった■なぜ創価学会は首相の靖国参拝を許さないのか■日本人も知らない靖国神社「A級戦犯」合祀のウソ

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    靖国宮司の天皇批判に思う「日本人が忘れた靖国神社の本質」

    新田均(皇學館大現代日本社会学部学部長) 今回の原稿依頼は「天皇の代替わりと重なる今年、靖国神社前宮司の小堀邦夫氏の発言に触れながら、創建150年を迎えた靖国神社の存在意義、天皇陛下や首相が参拝しないことの意味や是非などを論じてほしい」というものでした。そのような依頼が来たのは、私が以前、『首相が靖国参拝して何が悪い!!』(PHP)という本を書いたからでしょう。 そこでまず、小堀前宮司の発言についてですが、『文藝春秋2018年12月号』に載った「靖国神社は危機にある」という弁明によれば、今回の発言は、天皇陛下が一度も参拝されることなく譲位され、そのために新天皇の参拝も期待できなくなってしまうことと、靖国神社職員の意識の低さに対する強い危機感が原因だったようです。 ただ「天皇陛下に対して不敬な言葉遣いだったことは心から反省しています」と本人も認めているように、神社内の研究会における発言とはいえ、やはり表沙汰になれば、辞職せざるを得ない物言いだったことは間違いないでしょう。 この発言に関連して私見を二つ述べたいと思います。一つは、場合によっては組織内の深刻な対立や外部からの厳しい非難を受けかねない問題に対して、リーダーの発言はいかにあるべきか、ということです。そうした場面で私が考えていることは、会員制交流サイト(SNS)時代の今日、「ここだけの話」というのはもはや通用しないということです。 たとえ、友達との会話であっても、家族との電話であっても、それが世間に出たときに、致命傷にならない言い方を心がける。そうすることで、大切な問題について足元をすくわれる危険を避ける。とりわけ、国家の根幹に関わる組織のリーダーは、そのように普段から意識して自らの言動を自らチェックするべきだと思います。 二つ目は、靖国神社の意義に関わることです。靖国神社には二種類のご祭神が祀られています。一つは戦争で亡くなられた方々、もう一つは戊辰(ぼしん)戦争以前の維新の変革の中で犠牲になられた方々です。後者は数こそ少ないですが、志半ばで倒れていった同志をしのび、その志を継承して、生き残った者たちが営んだ招魂祭に由来し、それが靖国神社の原点でした。靖国神社の参拝に訪れる人々=2018年8月、東京・九段(鴨川一也撮影) その招魂祭が明治天皇のおぼしめしで東京招魂社に、やがて靖国神社へと発展する過程で「伝統的な温情と和解の心」が働いたと、東大名誉教授の小堀桂一郎氏は指摘しています(『靖国神社と日本人』PHP文庫)。 倒れていった志士たちは幕府によって反逆者や罪人として殺されたり処刑されたりした人々です。しかし、その幕府は天皇から統治を委任されていました(大政委任論)。したがって、その罪を突き詰めると天皇を批判することにもなりかねません。靖国神社の本質 また、明治政府は、幕府側で戦った人々をも政府の構成員として採用しました。五稜郭(ごりょうかく)の戦いで有名な榎本武揚(たけあき)らです。そうなると、許されて相応の名誉を保証された旧幕府関係者と、その幕府の手にかかって恨みをのんで死んでいった者たちとの関係はどうなるのか。それを解決したのが「冤枉(えんおう)罹禍(りか)」という発想でした。 志士たちは、幕府の判断ミスで無実の罪で災いを被った。その幕府の人々を朝廷が許したこと、また、犠牲になった志士たちの功績をたたえ、ともに祀ることで、犠牲者方でも、その事情を理解し、堪忍してやってもらいたい。これでかつての敵同士双方を、何とか円満になだめ、幽明境を異にしての和解をもたらそうとした。これが小堀桂一郎氏の解釈です。 靖国神社の祭神の中には、無念の思いで亡くなっていかれたであろう方々も多くいます。例えば、堺事件の犠牲者たちです。戊辰戦争の過程で、土佐藩の歩兵隊が誤ってフランス海軍の水兵20人(推定)を射殺してしまった事件です。 明治政府は、フランスによって土佐藩士20人の死刑を約束させられ、その結果、命令した隊長4人以外の16人を隊員の中からくじ引きで選びました。11人まで切腹したところで、フランスの立会人が凄惨(せいさん)さに耐えられず軍艦に逃げ帰ってしまい、残りの9人はフランスからの助命申請によって死を免れました。国家間の力の圧倒的な差によってもたらされた不条理な死です。ここには先の大戦の結果、BC級戦犯として処刑された人々にも通ずるものがあります。 今日の「靖国神社社憲」に「嘉永(かえい)六年(ペリー来航)以降国事に殉ぜられたる人人を奉斎し、永くその祭祀(さいし)を斎行して、その『みたま』を奉慰し、その御名を万代に顕彰するため」とある通り、靖国神社は、犠牲を強調して敵国に対する恨みを増長させたり、ひたすら祭神の功績をたたえて戦争を賛美したりすることを目的にしてはいません。ご成婚の2カ月半後に、お二人そろって靖国神社に参拝された皇太子ご夫妻 「万世にゆるぎない太平の基を開き」「安国の理想を実現」するために、「みたま」を慰め奉る。さまざまな状況の中で、さまざまな願いや思いを残して亡くなっていかれた方々の死を、意義深いものとして受け止め、「伝統的な温情と和解の心」を諸外国に対しても働かせにいく。そこにこの神社の本質があると私は思っています。 そのような観点から見て、靖国神社について語る際には、敵としてみえる相手に対しも、自らがどれだけ「伝統的な温情と和解の心」が体現できるのか。そういう課題が、語り手の側にも突きつけられることになると思います。 靖国神社が置かれている状況は複雑ですし、個々にみれば祀られている祭神も多様です。それらすべてを包み込む温情と和解の心の表現として、天皇陛下、内閣総理大臣には参拝していただきたいと思っています。■なぜ創価学会は首相の靖国参拝を許さないのか■大嘗祭の国費支出「天皇家の意向」を無視する政府の思惑■小室圭さんへの反発は「民主化した天皇制」の象徴かもしれない

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    両陛下、被災地「祈りの旅路」

    東日本大震災は、きょう発生から8年を迎えた。4月30日に譲位する天皇陛下と皇后さまは、この間幾度となく被災地に足を運ばれ、被災者に寄り添われた。そのお姿にどれだけ国民が勇気づけられたか。平成最後の年。両陛下の被災地訪問の歩みを改めて振り返る。

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    釜石市長手記「被災地を照らし続けた両陛下のお姿」

    野田武則(釜石市長) 東日本大震災のあの悲しみの日から8年の歳月が流れました。 いまだ、仮設住宅の生活を余儀なくされている方々もたくさんおられます。それでも、復興公営住宅や宅地造成など、被災された方々の住まいの再建も進み、ある程度復興の姿が見えてきました。 この8年間にわたり、復旧、復興のため、全国あるいは世界中からあたたかいご支援をいただきました。心からお礼申し上げます。 振り返れば、あの瓦礫(がれき)と化した街の中、避難所は十分な環境を確保できず、被災された方々は不安を感じながらも身を寄せ合い、助け合いながら、厳しい環境を乗り越えようとしていました。市内の至るところに設置された遺体安置所へ、行方の分からないご家族、知人、友人の確認のために、ご遺族の皆さんが訪ね歩き、巡りながら日々過ごしてきたことを思い出すと、今でも胸が痛みます。 そのような折、2011年5月6日に、天皇、皇后両陛下が釜石市にお見舞いに来られました。当時、報道で天皇陛下の体調があまり思わしくないと聞いていたので、大変心配しながらお待ちしていましたが、ヘリコプターから降りてくる両陛下の元気なお姿には、そのような様子は感じられませんでした。きっと無理をしながらも、何よりも「被災地の人々を励ます」という思いで、遠いこの地まで足を運んでくださったことに感銘しました。避難所を訪れ被災者に声をかけられる天皇陛下=2011年5月6日、岩手県釜石市の市立釜石中(代表撮影) 私は、両陛下と用意されたマイクロバスに乗り、多くの方々が避難していた釜石中学校へ向かいました。沿道には、手を振ってお出迎えをする多くの方々がいました。マイクロバスの中では、沿道の両側から手を振る市民へ、両陛下が右に左に移動しながら、まさに一人一人に声をかけるがごとく、手を振られていました。 私は「お疲れになりますから、どうぞお座りになられてください」と何度もお願いしましたが、天皇陛下は「市民の皆さんが手を振っていますから、私も手を振らなければなりません」と30分以上もの道中、立ちっぱなしで手を振り続けられました。両陛下の、ご自身の使命を果たそうとされるお気持ちと、体にむち打ちながらも、市民に手を振る姿を目の当たりにし、感動するとともにありがたい気持ちでいっぱいになったことを昨日のことのように覚えています。お見舞い中の地震にも… 釜石中学校の避難所で、被災された皆さんに会う前、両陛下とお話をする機会をいただきました。天皇陛下は「釜石では多くの方々が犠牲になられましたが、子供たちは皆、助かりましたね。子供たちの避難行動は素晴らしかったですね」と話されました。 当時はテレビや新聞などで、釜石の子供たちの避難行動が何度も取り上げられました。両陛下もその報道をご覧になっていたのでしょう。とてもよくご存じで、そのことについて話され、子供たちの成長と防災教育の大切さに思いをはせておられました。 避難所の体育館では、多くの皆さんに出迎えていただきました。両陛下はすぐさま膝をついて、励ましと、いたわりのお言葉を一人一人にかけ、被災者の心の痛みに優しく寄り添われました。被災された皆さんも大変に喜び、涙を流して感激していました。 両陛下がお見舞いを終えようとしていたそのとき、震度3の地震が避難所を襲いました。両陛下は揺れも気になさらず、被災された方々に励ましの言葉をかけ続けられていました。皇后さまの側にいた74歳の女性は、揺れに驚き、とっさに皇后さまの手を握ってしまいました。皇后さまは優しく手を握り返され「こうした地震は今もあるのですね。怖いでしょうね。大丈夫ですよ。落ち着いてください」と気遣われていました。 悲惨な状況の中で、励まし続け、被災地を気にかけてくださる両陛下のお姿は、被災地、被災者に勇気と希望を与えてくださいました。家族、友人、知人を失い、悲しみに暮れている方に、両陛下が励ましの言葉をかけられている。このご様子を見るにつけ、両陛下の存在とありがたさを感じました。避難所を訪問し、被災者に声をかけられる天皇、皇后両陛下=2011年5月6日、岩手県釜石市の市立釜石中学校(代表撮影) 震災直後、被災地には多くの支援物資やさまざまな支援の手などが必要でしたが、それ以上に、多くの方々が被災地を見てくれている、励ましてくれているという心と心の絆を感じることが大切だと思うのです。 全国のみならず世界中からいただいた支援と、それへの感謝。そこには、多くの人々が助け合い励まし合うという「絆」の大切さを感じずにはいられません。また、日本にはまだその絆があると確信が得られました。 平成の時代が終わろうとしています。天皇、皇后両陛下は30年の長きにわたり、日々、平和と国民の幸せを祈り続けてくださいました。心から感謝を申し上げます。そして次の時代も、人と人との絆を大切にする日本であってほしい、日本が絆を大事にする国であり続けてほしいと願ってやみません。

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    語り継がれる「天皇の旅」 批判はあっても膝をつかれた陛下のスタイル

    増長する民進党、女性宮家は皇統の「禁じ手」である■陛下のご意向を機に天皇の「人権」まで語り出す奇妙な皇室廃絶論

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    「天皇はかくあるべし」上から目線の知識人が錯覚した陛下のお気持ち

    高森明勅(皇室研究家) 東日本大震災よりずいぶん前。保守系の大物知識人がこんな発言をしていた。 「天皇陛下は、わざわざ被災地にまでお出ましになる必要はない。ただ宮中の奥深くで、神聖な祭祀(さいし)に携わっておられればよい」と。 一方、リベラル系の知識人には、それと正反対の意見もあった。 「天皇陛下は、被災者やハンセン病療養所の入所者のような、ハンディキャップを背負った人々に寄り添ってくだされば、古くさい祭祀などをお続けになる必要はない」と。 これらの意見は真っ向から対立しているかのように見えて、はっきりとした共通点がある。どちらも「上から目線」で、陛下の誠心誠意のなさりように、あれこれ無責任に注文をつけていること。いったい、何様のつもりかと思う。また、「皇室の祭祀」と「人々に寄り添うこと」を、切り離された別々のことのように捉えていること。これは大きな錯覚だ。この点について以下に述べよう。 天皇陛下が制度上の義務としてなさらなければならないことは、限られている。具体的に言えば、憲法に規定されている13項目の「国事行為」だけだ。憲法には「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ…」(4条)と明記している。 だから、他には公共的な性格を持つ行為は、一切なさらなくてもよい。むしろ、「なさるべきではない」という憲法解釈さえある。 だが、国事行為は原則として「国民」との接点が全くない(ご即位に伴う「祝賀御列の儀」で沿道の国民から祝意をお受けになるのがほとんど唯一の例外か)。それでは「日本国の象徴」ではあり得ても、「国民統合の象徴」としての役割を十分に果たすことはできない。 憲法は規範である。そこに「国民“統合”の象徴」と規定しているということは、客観的な事実(ザイン)を記述しているのではない。「かくあるべし」という当為(ゾルレン)を、天皇陛下に突きつけているのに他ならない。 その上、「国民統合の象徴」であるべきなのは、これまでの天皇の長い歴史からの要請でもあろう。 少なくとも、陛下はそのような理解に立っておられるように拝される。だからこそ、ご即位以来、全身全霊でご自身が果たされるべき「国民統合の象徴」としての役割を、追い求めてこられた。 国民の「統合」は、政治的対立や経済格差などさまざまな理由で、常に分断の危機をはらむ。その場合、当然ながら憲法にリストアップされた国事行為以外の(国政権能にかかわらず、象徴としてのお立場と矛盾しない)ご活動を探る必要が出てくる。それが「象徴としての公的な行為」だ(責任は内閣が負う)。 象徴行為は国事行為と違って、あらかじめ「正解」が用意されているわけではない。国民側からの依頼にお応えになるもの以外は、陛下ご自身が知恵を巡らされ、手探りで追求され続ける以外にない。それが制度上の「義務」でない以上、陛下の国民への強いお気持ちが前提となる。仙台市若林区の仮設住宅を訪れ、出迎えの人たちに手を振って応えられる天皇、皇后両陛下=2012年5月13日(代表撮影) 大規模な自然災害があった時に、なるべく早い時点で被災地にお入りになる。それも、天皇陛下がご自身で選び取られた象徴行為の一つだ。災害に苦しむ人々を絶対に孤立させない。その人々が「国民の輪」の中から外れたような孤独感を、決して抱かせない。「国民統合の象徴」として、その意思を身をもって明確に示されているのが、被災地へのお見舞いだ。 天皇陛下の被災地へのお見舞いは、いまや恒例のことのように受け止められているかもしれない。しかし、昭和時代にはほとんど例がなかった。今上陛下の強いお気持ちで続けられてきた「国民統合の象徴」としてのお務めの一つである事実を、見落とすべきではあるまい。「無私」のオーラ 平成3年の雲仙・普賢岳の大規模噴火の際に、まだ「安全宣言」が出ていない時点で現地入りされたのを皮切りに、直近では昨年、西日本豪雨と北海道胆振(いぶり)東部地震の被災地に赴かれている。その間、「初回」のお出ましだけで20回近い(陛下はその後も、繰り返し被災地にお入りになってきた)。 最も規模が大きかった東日本大震災の場合は、平成23年3月末から5月にかけて7週連続、しかも日帰りでのお見舞いという、極めて過酷なスケジュールを自ら組まれた。 当時、陛下は前立腺がん再発の不安を抱えてホルモン治療を続けておられたばかりでなく、同年2月には心臓疾患の兆候も見つかっていた。大げさではなく、まさに「命懸け」と言うべきお見舞いだった。実際に、同年11月には19日間にわたりご入院。翌年2月には冠動脈バイパス手術をお受けになっている。 陛下のお見舞いを受けた被災地の人々は、大きな「癒やし」や「励まし」を受け取る経験をしている。これは普通の出来事ではない。なぜそのようなことが可能になるのか。 ある記者はこう書いていた。 「被災者の心にまっすぐ届く言葉を発せられる人は少ない。それは巧みな修辞などではない。その人が被災者の悲しみを自身のことのように感じているかどうか。絶望の淵にある人は、言葉の奥にある感情を敏感に察知するのではないだろうか」(日本経済新聞・井上亮記者)と。 陛下の場合、ご日常そのものが、国民への「祈り」で貫かれている。その祈りの具体化が皇室の祭祀だ。 日々、人間を超えた存在と、清浄かつ無私な境地で触れ合う経験を重ねてこられている。その祭祀は、祭司(宗教者)による祭祀ではない。「国民統合の象徴」たる方の祭祀であり、したがって「国民のため」の祭祀だ。 ならば、その国民が傷つき、苦しんでいる時に、国民から遠く隔たった宮中奥深くで、陛下がもっぱら祭祀だけに打ち込んで、国民をまるで顧みないようなことは、あり得ない。それは、「国民統合の象徴」たる天皇の祭祀の意味「それ自体」を否定しているに等しい。 また、苦しむ国民も、国家の公的秩序の頂点(日本国の象徴)の地位におられる天皇陛下が、日々謙虚に神霊の前に深々と頭(こうべ)を垂れて、国民のために懸命に祭祀に携わる経験を重ねることで、自(おの)ずと身につけられた「無私のオーラ」に気づかないはずがない。 そのような方が、自分たちの声に優しく耳を傾けてくださり、心をこめてお声をかけてくださるからこそ、勇気づけられるのである。全国から献上され、新嘗祭に用いられる新穀を見られる天皇陛下=2013年11月1日(宮内庁提供) 陛下の祭祀は国民のための祭祀であり、その神聖な祭祀に携わられ、無私なご日常を過ごしておられる陛下のお見舞いだからこそ、国民にとってかけがえのない励ましになる。この両者を切り離したり、二者択一で考えることは、見当外れもはなはだしい。 ちなみに、「日本国の象徴」としての国事行為は、臨時代行や摂政への全面的な委任も可能だ。しかし、「国民統合の象徴」としての務め(象徴行為)は、そうはいかない。だからこそ、陛下はご高齢によるお身体の衰えを自覚されて、「ご譲位」という選択肢をお考えになったのである。■平成改元「運命の一日」官邸発表までの舞台裏■日本人に覚悟を問う「皇室は民主主義のロボットではない」■天皇大権を蔑ろにする「元号の事前公表」黒幕は誰か