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    安倍総理の「皇室軽視」にモノ申す

    御代替わりに伴う「退位礼正殿の儀」で安倍総理の誤読疑惑が浮上したが、その後の説明もなく「皇室軽視」との批判がある。重要な皇室行事だけに単なる言葉尻では済まされないからだ。総理に皇室軽視の認識などないかもしれないが、実は今回の誤読疑惑だけにとどまらない。これこそ「安倍一強」の弊害ではないか。

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    なぜ安倍総理は「皇室軽視」を繰り返すのか

    罪し、国民に対しても潔く説明をすべきではなかったか、と言いたいのである。 私は、安倍総理も天皇陛下や皇室に向き合うときは、軽々しい態度で向き合っていないと信じたい。むしろ、尊敬の念も強く感じられるとは思う。ただ、その一方で自らへの権威付けに皇室を利用しているようにも感じられるのだ。 5月14日には、安倍首相が天皇陛下に行った内外の情勢などを報告する「内奏」の様子を撮影した映像が公開された。宮内庁は「国事行為を広く知ってもらうため」と説明しているが、内奏は、内において行われるもので、無暗(むやみ)に公開するものではない。これこそ皇室を軽視した政治利用であり、「退位礼正殿の儀」での不敬を挽回したいという思いも感じられる。安倍晋三首相から「内奏」を受けられる天皇陛下=2019年5月14日、皇居・宮殿の「鳳凰の間」(宮内庁提供)  さらに、さかのぼること平成25年4月28日、憲政記念館で「主権回復の日」を記念する政府主催の式典が行われた。現行憲法は米軍占領下で作られた憲法であるが、本来ならば手続き上、占領下での憲法の制定は国際法違反に当たる。さらに、講和条約とともに締結された日米安保条約によりわが国には米軍基地が今なお存続できる権限を有し、この存在により日本の主権は制限されたままの状態である。 そんな状況下で、そもそも「主権回復」などという認識自体が間違っているわけだが、そこに天皇皇后両陛下の御臨席を賜り、記念式典を開催したのである。これは明らかに、安倍総理が自己の政治的主張に皇室という権威を付加するための行為であったと言わなければならない。トランプ会談の問題発言 先だっては、今上陛下と面会する最初の外国元首としてトランプ米大統領が5月下旬に来日することについて、同大統領は、安倍総理に「スーパーボウルと比べて、日本人にとってどれくらい重要なイベントか」と質問し、総理から「百倍重要」との説明を受け訪日を決断した、と明かした。 スーパーボウルというのは米プロフットボールの年間王者決定戦のことだが、いやはや、「スーパーボウルの百倍の価値」とは一体何なのか。 安倍総理としてはとっさに機転を利かせて数値化したのかもしれない。ディール(取引)の王様である米大統領にとっては分かりやすい返答だっただろう。だが、本来は日本人にとって皇室が何ものにも比較できない尊崇(そんすう)の対象であることをきちんと伝えるべきではなかったか。あえて数字を絡ませるなら、「プライスレスだ」ぐらいの発想がほしかったところである。 こうした事例から分かるのは、安倍総理の姿勢が場当たり主義で、「戦後レジームの脱却」「地球儀を俯瞰(ふかん)する外交」などというキャッチフレーズばかりが目立っているということである。 しっかりとした思想と哲学、使命感に裏打ちされた何かを成し遂げるというものではなく、昨今は自己保身のためのパフォーマンスに流れているといわざるを得ないのだ。 ところで、今回の一件で醜悪なのは、総理の「事前の準備」と「事後の対応」だけではない。この国の言論空間を見事に証明してしまっているマス・メディアの姿勢である。安倍総理の誤解を招く発言に、メディアがほとんど何も反応しないというのはいかがなものか。 それも、総理が「願っていません」と述べたとすれば、本人の意図ではないにせよ、本来、陛下にささげるべき内容と真逆の意味になってしまうにもかかわらず、一部夕刊紙がこれを指摘しただけで、大手メディアはほとんど沈黙の状態であった。米ワシントンのホワイトハウスで握手するドナルド・トランプ大統領(右)と安倍晋三首相=2019年4月26日、(共同) あるテレビ局などは「願ってやみません」と、わざわざご丁寧にテロップまでつけて安倍発言をフォローしていた。これは、明らかにマス・メディアの安倍総理への「忖度(そんたく)」であろう。疑問点を疑問点としてただしていく是々非々の姿勢がなくなったならば、それはメディアの自殺行為ではないのか。この点も一言付け加えておきたい。 ともあれ、私は皇室を尊崇し敬愛する一国民として、率直に今回の一件の疑問を問うとともに、頰かぶりを続け、政治課題に緊張感を欠く安倍総理の慢心に対して猛省を促したい。■新元号「令和」公表にチラつく支配欲と主導権争い■禍根を残す「やったふり外交」安倍首相の評価は65点止まり■日本人に覚悟を問う「皇室は民主主義のロボットではない」

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    愛子さまが天皇になる日

    「令和」が幕を開けた。列島は祝福ムード一色だが、新時代の皇室が抱える不安も少なからずある。平成の終わりに週刊誌上をにぎわせた「愛子天皇」待望論はその最たるものであろう。秋篠宮家を取り巻く最近の風評が多分に影響しているとはいえ、令和の次の時代に愛子天皇が誕生する日は本当に訪れるのか。

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    「愛子天皇」待望論者たちよ 、もう一度壬申の乱を起こしたいのか

    倉山満(憲政史家、皇室史学者) まず、皇室に関して最も大事な三つの原則を確認しておく。一つ目の原則は、皇室は先例を貴ぶ世界だということである。わが国は初代神武天皇の伝説以来、2679年の一度も途切れたことがない歴史を誇る。風の日も雨の日もあったが、昨日と同じ今日をこれまで続けてきた。幸いなことにわれわれの日本は、この幸せが明日も続きますように、と言える国なのである。 皇室の祖先である神々を祀っている最も格式の高い神社は、伊勢神宮である。正式名称は神宮。ユーラシア大陸でイスラム教が勃興した西暦7世紀には既に、「いつの時代からあったか分からないほど古い時代からあった」とされる。神宮では毎日、日別朝夕御饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい)という神事が行われている。毎日、同じ御食事を神様に捧げる。昨日と同じ今日が続いてきた証として。そして今日と同じ明日が続きますようにと祈りを込めて。 京都御所の鬼門を守るのは、比叡山延暦寺だ。その根本中堂には、伝教大師最澄が灯した不滅の法灯が今も光を放っている。叡山は三度の焼き討ちにあったが、そのたびに他の地に分灯していた火を戻し、1300年前に伝教大師が灯した光が消えることはない。毎朝、たった一筋の油を差す。その行為自体に何の意味もない。 しかし、毎朝油を差し続けているから、不滅の法灯が消えることはない。いかなる権力があろうと、武力や財力があろうと、今から神宮や不滅の法灯を超える歴史を作ることはできない。不滅の法灯は個人ではなし得ない。歴史を受け継いだからこそ存在しているのだ。 歴史に価値を認めない人間にとっては、何の意味もないだろう。そもそも不滅の法灯など、物理的には一吹きの息で消え去る。いくら言葉を尽くしても、「不滅の法灯などという面倒なものはやめてしまって、電球に取り換えればいいではないか」という人間を説得することなどできまい。そのような人間には、歴史を理解することができないからだ。先例など、何の意味も持つまい。 そういう人間は日本にもいた。それなのに、なぜ皇室は続いてきたのか。変えてはならない皇室のかたちを守ろうとした日本人が続けてきたからだ。もし、日本人が「皇室などやめてしまえ」「これまでの歴史を変えてしまえ」と思うなら、先例など無視すればよい。ただし、それはこれまで先人たちが守ってきた、皇室を語る態度ではない。 古来、皇室では「新儀は不吉」だとされてきた。これは、時の天皇の意向であっても変えることができない、皇室の慣習法である。貫史憲法とも呼ばれる。かの後醍醐天皇は、「朕が新儀は後世の先例たり」と宣言し、公家の支持を失った。歴史を無視し、時流にだけ阿(おもね)れば良いのなら、歴史はいらない。ついでに言うと後醍醐天皇の言う通りにすれば、当時の公家の存在価値などないから、あきれられるのも当然だろう。 もちろん、先例であれば何も考えずに従えばよいのではない。先例にも、吉例と悪例がある。歴史の中から、どの先例に従うのが適切かを探し、「発見」するのである。法は発明するものではなく発見するものであるとは、西欧人の自然法の発想である。日本人は西欧人が自然法を発見する千年前から、その知恵を実践していた。譲位を報告するため伊勢神宮外宮を参拝、板垣南御門に到着された天皇陛下(当時)=2019年4月、三重県伊勢市(彦野公太朗撮影) 幕末維新で国の存亡が問われたとき、御一新が求められた。古いやり方では西洋の侵略に対抗できない。元勲たちは必死の改革を行い、生き残った。その改革の最初が王政復古の大号令である。ここでは「神武創業の精神」が先例とされた。皇室とは、これほどまでに先例を貴ぶ世界なのである。 どうしても新儀を行わねばならないような非常事態はある。たとえば、大化の改新(645年)、承久の乱(1221年)、大東亜戦争敗戦のような場合である。大化の改新は、宮中の天皇陛下の御前で殺人事件が起きた。しかも犯人は天皇の実子である皇子である。殺された蘇我入鹿の専横に中大兄皇子が怒り、事に及んだのだ。そして多くの改革を始めていく。元号が制定されたのもこのときである。実の息子が起こした殺人事件に際し母親の皇極天皇は驚愕し、史上初の譲位を行った。悠仁親王につながる糸 承久の乱は、「主上御謀反」である。鎌倉幕府は、乱を起こした後鳥羽上皇らを島流しにし、時の九条帝を廃位した。九条帝は、践祚(せんそ、天皇の地位を受け継ぐこと)はしたが、即位していなかったので「半帝」呼ばわりされた。「九条廃帝」である。「仲恭天皇」の名が贈られるのは、明治3年。実に600年後である。なお、乱後に治天の君として院政をしいたのは守貞親王だ。後に後高倉上皇の名が贈られた。史上初の「天皇になっていない上皇」となった。 敗戦は、国土を外国に占領されるという未曽有の不吉だった。その際、昭和天皇が自らラジオで国民に語りかけ、結束を訴えた。玉音放送である。 いずれも、血なまぐさい不吉な事件により、新儀が行われている。もちろん、ここで挙げた例でも、元号、譲位、玉音放送(なぜかビデオメッセージと呼ばれる)は現代でも行われ先例となっているので、それ自体は悪いことではない。一方で、廃位や上皇の島流しなどは何度も行われているが、言うのも憚(はばか)るような悪例である。皇室において、新儀とは無理やり行うものなどではないのである。 二つ目の原則は、皇位の男系継承である。今上天皇まで126代、一度の例外もない。八方十代の女帝は存在するが、すべて男系女子である。男系継承をやめるとは、皇室を亡ぼすのと同じである。 現在、悠仁親王殿下まで、一本の糸でつながっている。その今、男系をやめる議論をすること自体が、皇室に対する反逆だ。いかに、これまでの歴史をつないでいくか、たった一本の小さな糸を守るべきかを考えなければならない。それをやめる前提の議論など、不滅の法灯をLED電球に変えようとするのと同じである。 蘇我入鹿も、道鏡も、藤原道長も、平清盛も、足利義満も、徳川家康も、皇室に不敬を働いた権力者は数あれど、誰一人として皇室に入り込むことができなかった。この中で陛下と呼ばれた者は一人もいないし、息子を天皇にした者はいない。せいぜい、自分の娘を宮中に送り込み、娘が生んだ孫を天皇にするのが、限界だった。男系の原則が絶対だからだ。それを今さら男系継承をやめるとは、今までの日本の歴史は何だったのか。男系継承は、皇室皇室であり続ける、日本が今までの日本であり続ける原則なのである。 三つ目の原則は、直系継承である。間違ってもらっては困るが、「男系継承の上での直系継承」だ。二者択一ではない。世の中には、勉強のしすぎで肝心な原則を忘れ、女系論を振り回す論者がいる。この人たちの言い分は、直系継承である。三分の理はある。しかし、肝心な原則である男系継承を無視して女系論を振り回すから、世の常識人に鼻をつままれるのだ。皇后さまのお誕生日を祝うため、皇居に入られる皇太子ご一家(当時)=2018年10月(代表撮影) 不吉なたとえだが、単なるフリーターが内親王殿下と結婚して男の子が生まれたら天皇になれるのか? そんな簡単なことが許されるなら、なぜ藤原氏は摂関政治などという面倒くさいやり方を何百年も続けたのか。 平民の男子は陛下になれない。内親王殿下と結婚しても、平民は平民である。これがわが皇室の絶対の掟である。わが国は一君万民であり、君臣の別がある。皇室から見れば、藤原も平も源も、皆、等しく平民である。皇室から見れば、貴族と平民に差はない。あるのは皇族と貴族・平民の差だけである。 ただ、私は男系絶対派の中で、最も女系論者に理解を示してきたつもりだ。理由を一言でまとめると、「一部の男系論者の頭が悪すぎるから」となる。女系論者の中には、「あんな連中と一緒にされたくない」「あのような連中が言っているのだから、たぶん逆が正しいのだろう」と考えたくなる気持ちはわかる。その愚かな主張から、代表的な二つを取り上げよう。一つは、「皇室のY染色体遺伝子が尊い」である。不敬な論理 いつから皇室の歴史を遺伝子で語るようになったのだ? ちなみに、この理屈、高校生物の知識としても間違っているのだが、それは本筋ではないので無視する。言うまでもないが、遺伝子どころか、アルファベットが生まれる前から、わが皇室には歴史がある。「Y染色体遺伝子」などで皇室を語るなど、児戯(じぎ)に等しい。なお当たり前だが、皇極天皇から後桜町天皇の歴代女帝のすべての方は、「Y染色体遺伝子」を有していない。こうした議論は今や見向きもされなくなったが、高校生物程度の知識で皇室を語る輩(やから)が後を絶たない。 最近よく聞く風説は、「皇太子より血が濃い男系男子が存在する」である。皇太子殿下は本日、めでたく践祚された。さて、この風説を流す者は、今の陛下の正統を疑う気か? 最初にこの失礼極まりない言説を聞いたとき、「それは今の殿下(今上陛下)が(上皇)陛下の実子ではないと言いたいのか?」と訝(いぶか)ったが、そうではないらしい。先般、お亡くなりになられた東久邇信彦氏とその御子孫の方を仰(おっしゃ)りたいらしい。 小泉純一郎内閣で女系論が話題になったとき、占領期に皇籍離脱を迫られた旧皇族の方々のことが話題になった。特に信彦氏は、両親と4人の祖父母が全員皇族(母方の祖父は昭和天皇)、さらに母方の曽祖父が明治天皇である。 しかし、皇室の歴史では、高校生物の理屈など持ち込まない。今の皇室の直系は今上陛下である。今上陛下は、上皇陛下と太后陛下の紛れもない嫡子であらせられる。この論点に争いはない、などと言わされるだけ愚かしい。皇室の直系を継いだ今上陛下より血が濃い方など、いらっしゃらないのである。 ご本人たちに迷惑な書き方だが、一部の風説に従い東久邇信彦氏の方が今の陛下よりも血が濃いとしよう。その根拠は、太后陛下が皇族の出身ではないからになるではないか。実に不敬である。 そもそも、男系が絶対ならば、天皇陛下のお母上は誰でも良いではないか。「皇太子より血が濃い」などと主張する論者は人として失礼なだけでない。男系絶対を言いながら自説の根拠が女系である。論理も破綻している。この論者の言う通りにすれば、古代国家のような近親結婚を永遠に繰り返さなければならない。皇居と宮内庁=東京都千代田区(産経新聞チャーターヘリから) 一部の男系絶対主義者のおかしな主張への反発で女系論に走った論者も、女系論の悪口さえ言っていれば、いかなるでたらめな男系論でも構わないとする論者も、何が大事か分かっていない。 男系継承は絶対である。しかし、直系継承もまた重要である。そもそも、わが国の歴史は皇室の歴史であり、皇位継承とは誰の系統が直系になるのかの歴史なのだから。今上陛下の父親の父親の…と男系でたどっていけば、江戸時代の第119代光格天皇にたどり着く。当時の第114代中御門天皇の直系が第118代後桃園天皇で途絶えたので、閑院宮家から即位された。「傍系継承」である。 しかし、後桃園天皇から父親の父親の…と男系でたどっていくと、第113代東山天皇にたどり着く。東山天皇から見れば、後桃園天皇は玄孫、光格天皇は曾孫である。東山天皇まで継承されてきた直系は、光格天皇から今上陛下まで継承されてきているのである。「五世の孫」の原則 ちなみに私はこの前、「光格天皇六世の孫」の方に会った。由緒正しき、光格天皇の男系子孫の男子である。血は完全だ。しかし、この方に皇位継承資格はもちろん、皇族復帰資格もない。「五世の孫」の原則があるからだ。 皇族は臣籍降下したら、皇族に戻れないのが原則である。もちろん、例外はある。定省王が臣籍降下して源定省となったが、皇籍復帰して定省親王となり、践祚した。第59代、宇多天皇である。元皇族から天皇になった、唯一の例である。 宇多天皇が源定省であったときに生まれたのが源維城(これざね)であり、後の第60代醍醐天皇である。生まれたときは臣下だったが、本来の皇族の地位を回復し、天皇になった、唯一の例である。元皇族と区別して、旧皇族と呼ぶ。いずれも当時の藤原氏の横暴により、皇位継承が危機に陥ったが故の、例外的措置である。決して吉例とは言えない。 ただ、明らかに現在は、醍醐天皇の先例に習うべき危機的状況だろう。かたくなに「君臣の別」を唱え、「生まれたときから民間人として過ごし、何世代も経っている」という理由で元皇族男子の皇籍復帰に反対する女系論者がいる。 では、誰ならば皇族にふさわしいと考えているのか。どこぞの仕事もしていないフリーターならば、よいのか。身分は民間人に落とされても皇族としての責任感を継承して生きてこられた方たちよりもふさわしい人がいるのか。女系論者は「実際に、そんな男系男子はいるのか」と主張し続けていたが、東久邇家の方々よりふさわしい方はおるまい。むしろ、女系論を主張するならば、東久邇宮家の皇籍復帰こそ命がけで訴えるべきだろう。 東久邇家の方々に限らず、占領期に臣籍降下された11宮家の方々は、父親の父親の…と男系でたどっていくと、北朝第3代崇光天皇にたどり着く。「五世の孫」の例外とされた伏見宮家の末裔の方々だ。男系では、直系からは遠すぎる。しかし、女系では近い。 本来、女系とは男系を補完する原理なのである。分かりやすい一例をあげよう。古代において、当時の直系は第25代武烈天皇で絶えた。そこで、第15代応神天皇の五世の孫である男大迹王(をほどのおおきみ)が推戴された。継体天皇である。神武天皇以来の直系は継体天皇の系統が継承し、今に至っている。なお、五世の孫からの即位は唯一であり、この先例が、直系ではない皇族は五世までに臣籍降下する原則の根拠となっている。 ちなみに、継体天皇と武烈天皇は十親等離れている。それこそ血の濃さを持ち出すなら、「ほぼ他人」である。継体天皇から光格天皇まで、傍系継承は何度かある。むしろ古代や中世においては、誰の系統が直系を継承するのかで、皇位継承が争われてきた。新年一般参賀に訪れた人たちを前にお言葉を述べられる天皇陛下と皇后さま(当時)=2019年1月、皇居(佐藤徳昭撮影) その最たる例が、壬申の乱(672年)だ。その壬申の乱は「天智天皇が勝った」と言えば驚かれるだろうか。第38代天智天皇の崩御後、息子の大友皇子(明治3年に弘文天皇の名が贈られた)と弟の大海人皇子(天武天皇)が皇位を争った。践祚した大友皇子に対し大海人皇子が兵を挙げ、自害に追い込み自らが即位する。その後、皇位は天武天皇の系統が継承した。天皇の崩御後は皇后が持統天皇として即位したが、以後の奈良時代の天皇はすべて天武天皇の男系子孫である。天武朝とも呼ばれる。奈良時代は女帝が多いが、天武天皇の直系を守ろうとしたからである。 ところが、健康な男子に恵まれず、称徳天皇の代で途絶えた。この女帝のときに道鏡事件が起きるのだが、「皇位を天智系に渡すくらいなら」との執念すら感じられる。もちろん、民間人の天皇など認められず、皇位は天智天皇の孫(施基親王の皇子なので男系男子)の光仁天皇が継承した。ここに天武朝は途絶え、直系は天智天皇の系統に移った。これが「壬申の乱は天智天皇が勝った」と評するゆえんである。臣民の責務とは ちなみに、女系を持ち出すなら、第43代元明天皇は天智天皇の娘である。第44代元正天皇は、元明天皇と草壁皇子の娘で、天智天皇の孫娘だ。よって、女系では天智天皇の子孫である。しかし、当時は早逝した草壁皇子の系統にいかに直系を継承するかが、天武朝の悲願だった。草壁皇子は天武天皇の息子である。女系でよいなら、天智系と天武系の血で血を洗う抗争は何だったのかと、古代史の門外漢の私ですら思う。皇室が女系で構わないと主張したいなら、古代史を書き換えてからにしていただきたい。 そして、天智朝にしても天武朝にしても、第34代舒明天皇の男系子孫であることには変わりないが、いずれが直系かをめぐり、100年の抗争を繰り返したのだ。それほどの抗争を繰り広げながらも、男系継承の原理を守ってきたので、皇室は続いてきたのだ。 このように、どの天皇の系統が直系を継承するかをめぐり争った歴史は何度かある。第63代冷泉天皇と第64代円融天皇の系統は、交互に天皇を出し合っている。この「両統迭立」は、円融天皇の孫の第69代後朱雀天皇の系統が直系を継承する形が成立するまで続いている。 自分の子供に継がせたいとする感情は、皇室でも同じなのだ。院政期の抗争もそうだ。それは保元の乱で爆発したが、院政期は常に抗争が繰り広げられた。鎌倉時代の両統迭立は南北朝の動乱にまで発展した。そして、大覚寺統(南朝)の中でも、持明院統(北朝)の中でも、直系をめぐる争いはあった。 北朝第3代崇光天皇は動乱の中で南朝に拉致され、そのまま廃位された。皇位は弟の後光厳天皇が継ぎ、直系はその系統に移った。しかし、後光厳天皇の直系が絶えたとき、崇光天皇の曽孫の彦仁(ひこひと)親王が即位された。後花園天皇である。崇光天皇が皇位を奪われてから、77年ぶりの奪還である。 戦国時代以降は、ここまでの激しい皇位継承争いはない。むしろ、皇統保守のために、宮家の方々は天皇陛下をお守りしてきた。江戸時代、幕府の圧力から朝廷を守った後水尾天皇にも、皇室の権威を回復した光格天皇にも、優れた皇族の側近がいた。後水尾帝を支えた近衛信尋は臣籍降下した天皇の実弟であるし、光格天皇は自身が閑院宮家において直系断絶に備えていつでも皇位継承できるよう準備をされていた。陛下御一人では、皇室は守れない。皇族の方々の御役割とは、かくも大きいのだ。 先帝陛下には先の美智子陛下がいらっしゃった。今上陛下を支える筆頭は、東宮となられた秋篠宮殿下である。将来、悠仁親王殿下が皇位を継がれ、日本国は守り継がれていく。お茶の水女子大学附属小の卒業式を終えられた悠仁さまと秋篠宮ご夫妻=2019年3月、東京都文京区(代表撮影) さて、ここまで皇室の歴史を簡単に振り返ったが、「愛子天皇」待望論を唱える者たちは、今の皇室の直系をなんと心得るか。いずれ皇統の直系が悠仁殿下の系統に移られたとき、愛子内親王殿下も陛下をお支えする立場にある。 それを、畏(おそれ)れ多くも悠仁親王殿下がおわすのに、どういう了見か。直系を悠仁親王殿下から取り上げようと言うのか。 もう一度、壬申の乱を起こしたいのか。それとも保元の乱か。はたまた、南北朝の動乱を再現したいのか。 今この状況で、「愛子天皇」待望論を唱える者たちよ。貴様たちは自分の言っていることが分かっているのか。 悠仁親王殿下につながる直系をお守りする。これが、臣民の責務である。■ 「眞子さまへの純真は本物か」小室圭氏よ、試練を歩み解を出せ■ 女性宮家の創設とは「制度化された道鏡」に他ならない■ 女性宮家以外にも「皇統の断絶」を防ぐ手立てはある

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    皇室の危機は一目瞭然、「愛子天皇」待望論の答えは一つしかない

    高森明勅(皇室研究家) このところ「愛子天皇」待望論が高まっているという。当然、予想できたことだ。 5月1日に皇太子殿下は即位されて126代の天皇になられた。新天皇にはご健康でご聡明(そうめい)なお子さまがいらっしゃる。ならば、そのお子さまに次の天皇になっていただきたいと願うのは、皇室を敬愛する国民の心情としてごく自然だろう。 そのお子さまが男子か女子かは、差し当たり二の次と考えられるはずだ。なぜなら、男女の区別よりも天皇との近さ、皇位との距離感こそが、優先されるからだ。 今の皇室典範も明治の皇室典範も、皇位継承の順序において、天皇の子(皇子)や孫(皇孫)を優先する「直系」主義を採用している。その理由は何か。1つには過去の伝統を尊重したため。もう1つは国民のそうした素直な感情に立脚したためである。 だから、「愛子天皇」待望論が浮かび上がってくるのは、決して不思議ではない。 それに加えて、秋篠宮殿下のご即位の先行きが不透明という事情がある。 皇太子殿下が即位されると、同じ瞬間に秋篠宮殿下は「皇嗣(こうし)」になられる。しかし、皇嗣というのは、ある時点でたまたま皇位継承順位が第1位である事実を示すにすぎない。次の天皇であるべきことが確定している「皇太子(または皇太孫)」とは立場が異なる。 天皇の弟で皇嗣の場合は歴史上、「皇太弟」という立場があった。このたびの皇室典範特例法でも、秋篠宮殿下の皇位継承上の地位を固めるためには、そうした称号を新しく設けるべきだった。だが、秋篠宮殿下ご本人が辞退されたと伝えられる。「皇太子になるための教育は受けてこなかったから」と。 常識的に考えて、秋篠宮殿下を単に「皇嗣」として、特段の称号を用意しないという法律の作り方は、かなり非礼な扱い方と言える。当事者のご意向を前提としなければ、こうしたやり方は一般的に想定しづらい。だから、そこに秋篠宮殿下のお考えが反映されている、と推測するのが自然だろう。 それが事実だとすれば、重大事だ。言うまでもなく、「天皇」という地位は皇太子(皇太弟)などより遥かに重い。ならば、皇太弟すら辞退された方が、そのまま天皇に即位されるというシナリオは、いささか考えにくいのではあるまいか。 その上、皇太子殿下と秋篠宮殿下はご兄弟で、ご年齢が近い。皇太子殿下が今上陛下と同じ85歳まで在位された場合、秋篠宮殿下は79歳または80歳でのご即位となる。さすがにそれは現実的には想定しにくいだろう。 そうかといって、皇太子殿下がまだまだご活躍いただける年齢で、早めに皇位を譲られるというのも、今回のご譲位の趣旨から外れてしまう。平成最後の「歌会始の儀」を終えて退席される天皇、皇后両陛下と皇太子さま、秋篠宮さま=2019年1月16日、皇居・宮殿「松の間」(代表撮影) 皇室典範には、「皇嗣」に「重大な事故」がある場合は「皇室会議の議により」「皇位継承の順序を変えることができる」という規定がある(第3条)。したがって、今の制度のままでも、秋篠宮殿下がご即位を辞退されるという場面は、十分にあり得る。と言うより、先の年齢的な条件を考慮すれば、その可能性はかなり高いだろう(朝日新聞4月21日付1面に、こうした見方を補強するような秋篠宮殿下のご発言が紹介された)。そのようであれば、愛子内親王殿下への注目はより高まるはずだ。「属人主義」に陥るな ただし、くれぐれも誤解してはならないのは、皇太子殿下の「次の」天皇については、具体的な誰それがよりふさわしい、といった「属人」主義的な発想に陥ってはならないということだ。 そうした発想では、尊厳であるべき皇位の継承に、軽薄なポピュリズムが混入しかねない。そうではなくて、皇位の安定的な継承を目指す上で、どのような継承ルールがより望ましいか、という普遍的な問いに立ち返って考えなければならない。 そもそも、皇位継承資格を「男系の男子」に限定したのは明治の皇室典範が初めてだった。しかも、明治典範の制定過程を見ると、2つの選択肢があった。 ①側室制度を前提とせず、非嫡出の皇位継承を認めないで、「男系の男子」という制約は設けない。 ②側室制度を前提とし、非嫡出にも皇位継承資格を認めて、「男系の男子」という制約を設ける。 これらのうち、①は明治天皇にいまだ男子がお生まれになっていない時点でのプランだった。しかし、その後、側室から嘉仁親王(のちの大正天皇)の誕生を見たため、①が採用される余地はなくなった。 ところが、今の皇室典範はどうか。 ②の「男系の男子」という制約は明治典範から引き継いだ。一方、それを可能にする前提条件だった側室制度プラス非嫡出の皇位継承は認めていない。つまり、①の前段と②の後段が結合した、ねじれた形になってしまっている。 ③側室制度を前提とせず、非嫡出の皇位継承を認めないで、しかも「男系の男子」という制約を設ける。 率直に言って、このようなルールでは皇位の安定的な継承はとても確保できない。 過去の歴代天皇の約半数は側室の出(非嫡出)であり、平均して天皇の正妻にあたる女性の4代に1人は男子を生んでいなかった。傍系の宮家も同様に側室によって支えられていた。 したがって、③をこのまま維持すると、皇室が行き詰まるのは避けられない。もし皇室の存続を望むならば、明治典範制定時の①と②からどちらを選ぶか、改めて問い直さなければならない。 しかし、いまさら②が前提とした側室制度を復活し、非嫡出による皇位継承を認めることができないのは、もちろんだ。何より皇室ご自身がお認めにならず、国民の圧倒的多数も受け入れないだろう。側室になろうとする女性が将来にわたって継続的に現れ続けるとは想像できないし、逆に側室制度を復活した皇室には嫁ごうとする女性がほとんどいなくなるだろう。 そのように考えると、答えは自(おの)ずと明らかではあるまいか。皇太子さまと資料を見ながら修学旅行について話をされる皇太子ご夫妻の長女、敬宮愛子さま=2018年11月25日、東京・元赤坂の東宮御所(宮内庁提供) 「愛子天皇」待望論についても、目先の週刊誌ネタなどによって短絡的に判断するのではなく、持続可能な皇位継承のルールはいかにあるべきかという、広い視点から慎重に評価されるべきだろう。■ 「眞子さまへの純真は本物か」小室圭氏よ、試練を歩み解を出せ■ 女性宮家の創設とは「制度化された道鏡」に他ならない■ 女性宮家以外にも「皇統の断絶」を防ぐ手立てはある

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    「愛子天皇」を実現させる令和おじさんの布陣

    治日程にのせたのは、2004年のことである。実はそれ以前の1997年、橋本龍太郎内閣の下でひそかに、皇室典範を所管する内閣官房を中心に、宮内庁と内閣法制局から有能なスタッフを集め、極秘の研究会を組織していた。 研究会は当時の古川貞二郎内閣官房副長官が故橋本首相の了解を得てスタートした。研究会のメンバーで研究の中心にあった宮内庁OBによると、研究会は2001年末の愛子さまご誕生により世論の動向を見極めるため一時中断され、2003年に再開、翌2004年に皇室典範の改正案を取りまとめた。その経緯についてはかつて毎日新聞が詳報したほか、本年3月下旬には政府の関係文書の存在が共同通信により明らかにされた。 2004年12月に発足した小泉首相の私的諮問機関「皇室典範に関する有識者会議」のたたき台となったこの改正案は大筋、有識者会議の最終報告書に反映され、女性・女系天皇を容認する方針が確定した。有識者会議では、すでに女性宮家の創設も検討され、女性天皇のみならず女性天皇の配偶者や皇室に将来、男子が誕生した場合についても織り込み済みとされた。しかし、男系維持を掲げる保守系の団体や国会議員が猛反発する中、2006年2月の秋篠宮妃紀子さまのご懐妊発表により、同改正案は棚上げされた。 すでにこの頃から、筆者は特定の皇族の即位を前提とした議論は危ういと考えるようになった。安定的な皇位継承のための制度設計には、冷静な判断と静かで落ち着いた議論の環境が必要である。こうした考えに今も変わりはない。そのため、率直に言って「愛子天皇」待望論に安易にくみすることはできない。何より皇位継承問題は国家の根幹にかかわる重大な課題だからである。皇后になられた雅子さまの心身のご健康などを考慮すれば、なおさらであろう。皇室典範に関する有識者会議で最終報告書を小泉純一郎首相(右)に手渡す吉川弘之座長=2005年11月、東京・首相官邸(門井聡撮影) われわれ日本人にとって皇室とは何か。天皇や皇族からなる皇室の歴史を振り返れば、日本が危急存亡の秋(とき)にわが国を守ったのが天皇や皇室の統合力であったことに気づかされる。かつて福沢諭吉は『帝室論』の中で「帝室は政治社外のものなり」とし、政治が皇室の尊厳やその神聖さを侵すことがあってはならないと警鐘を鳴らした。新天皇の課題 皇室の存在意義は、政治を超越した立場から社会秩序の維持に寄与することにある。戦後、福沢の描いた皇室像は、現行憲法の定める象徴天皇制度としっかりと結びついた。こうした福沢の思想を継承したのは、慶應義塾長(現慶応大)の小泉信三である。小泉は東宮御教育常時参与として、皇太子時代の上皇さまとともに福沢の『帝室論』を音読し、帝王学を施した。福沢の皇室像は戦後の象徴天皇を先取りしていたといえよう。 象徴天皇制度の下での帝王学は、天皇と国民との相互作用から天皇ご自身で体得されてゆく側面が大きい。すなわち、象徴天皇のあり方は、天皇自らが国民とのふれあいを通じて模索されるべきものである。上皇さまはいみじくも、「天皇像を模索する道は果てしなく遠く」と述べられた。その時代時代に合った象徴のあり方が模索されねばならないということであろう。 よって、いかに国民との関係を構築してゆくかは、陛下の最大の課題といっても過言ではない。同時に、日本国憲法1条は、天皇は「日本国と日本国民統合の象徴」であり、「この地位は、主権の存する日本国民の総意」に基づくと規定されており、われわれ国民もしっかりと主権者の自覚を持ちその責任を果たさなくてはならない。 現在の皇室は大きな不安を抱えている。いうまでもなく、それは皇統断絶の危機にほかならない。今世紀に入り、愛子さま、悠仁さまが生誕したとはいえ、若い世代の皇族方の多くは皇位継承権を有しない内親王や女王であり、年配の皇族方の薨去(こうきょ)や女性皇族の婚姻に伴う皇籍離脱により皇族の減少に歯止めがかからない。 皇族減少への対応の必要性については、小泉内閣、野田佳彦内閣、安倍晋三内閣の共通認識となっている。それぞれの内閣において、女系拡大論や女性宮家の創設などによる皇位継承の安定化や天皇の公務の負担軽減が議論されてきた。しかし、いざ皇位の安定継承策を議論すると、イデオロギー対立の先鋭化とともに国論がなかなかまとまらない。日本の大切な宝であり、国家・国民統合の象徴である皇室を守るためには、養子の解禁と一代限りの女性宮家の創設を組み合わせるなど思い切った皇室制度の改革が求められよう。慶応大学三田キャンパス内にある福沢諭吉の胸像=2008年10月、港区三田の慶應義塾大学内(大山実撮影) 3月18日の参議院予算委員会で、菅義偉官房長官は5月1日の陛下即位後、速やかに皇位の安定継承策について検討に入る意向を表明した。その後、メディアはさまざまな憶測記事やうがった見方を報じているが、あの菅氏が何の根拠もなくああした踏み込んだ発言をするはずがない。 2016年から翌17年にかけての「退位特例法」成立に向けた菅氏の手綱さばきは実に見事であった。これまでの経験を踏まえれば、皇位継承問題を前進させるには、長期安定政権でしかも内閣官房が指導力を発揮しないと成果をあげることは難しい。鍵は「旧自治省シフト」 皇位継承安定化策の立案をめぐっては、内閣官房のうち、とりわけ重要なのが内閣総務官室である。そのトップである内閣総務官(かつての首席内閣参事官)は次官級コースとされ、現に野田内閣の二人の内閣総務官はそれぞれ厚生労働審議官、内閣府事務次官に栄進した。現職の宮内庁長官も内閣府事務次官からのぼりつめた旧自治官僚であり、安倍内閣で辣腕(らつわん)をふるい「退位特例法」を成就させた内閣総務官と内閣審議官もまた旧自治省出身で、おのおの内閣府事務次官や内閣法制局の主要ポストに異動している。 菅氏の強力なリーダーシップの下に上記のような「旧自治省シフト」を動員し、大島理森衆議院議長を中心に国会とも緊密に連携すれば、事態は大きく動くと筆者は期待する。もはや「旧自治省シフト」は内閣官房のみならず、宮内庁や宮内庁が設置されている内閣府、さらには内閣法制局をも席巻している。これを警察庁OBがバックアップする格好だ。 そもそもこの問題は政治家にとって「リスクが大きい割に票にならない」ため、これまで率先して問題解決に取り組もうという内閣は少なかった。しかし、政府が手をこまねいているうちに、若い世代の女性皇族の婚姻に伴う皇族の減少はさらに深刻化していった。もはや待ったなしといっても過言ではあるまい。安倍内閣が同問題を先送りすれば、将来皇統断絶の危機に直面したとき、同内閣の不作為はまちがいなくやり玉にあげられよう。 もはや水面下では皇位継承安定策がかなり具体化しているはずである。確かにかつての民主党や民進党が熱心に取り組み、「退位特例法」の付帯決議にまで盛り込んだ女性宮家の創設は将来、女系拡大につながる可能性がある。よって、少なくとも「一代限り」といった条件付けが必要となろう。 一方、皇室典範9条が禁じる養子を解禁する方策はどうであろうか。養子といってもさまざまな形態があり、女性皇族との婚姻を前提とした婿養子には、婚姻を「両性の合意のみ」と規定する憲法24条が適用されることになる。現在のままではいずれ絶家となる運命の三笠宮家や高円宮家が養子をとることの方が現実的かもしれない。その場合、緊急避難的措置として特例法を用いることも選択肢の一つであろう。静養のため、JR長野駅に到着された皇太子ご一家=2019年3月、長野市(代表撮影) ここのところ、秋篠宮家をめぐる報道や愛子さまの高評価を伝える記事が散見される。しかし、これらは事実上の問題であって、制度上の問題ではない。もちろん象徴天皇制度を念頭に置けば、世論の動向は無視しえないが、やはり制度設計にあたってはいったん両者を切り離した上で冷静な議論が求められる。いずれにせよ、事の成否は安倍総理の決断と「令和の顔」となった菅氏の手腕にかかっているといえよう。■語り継がれる「天皇の旅」 批判はあっても膝をつかれた陛下のスタイル■新元号「令和」公表にチラつく支配欲と主導権争い■「天皇はかくあるべし」上から目線の知識人が錯覚した陛下のお気持ち

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    秋篠宮家の評判に関係なく「愛子天皇」を真剣に議論すべきである

    河西秀哉(名古屋大准教授) 愛子内親王が今後、天皇になるような方向性へ皇室典範を改正すべきではないか。 そもそも、日本には女性天皇が8人10代いた。現在のように、男性しか天皇になれないという規定は、明治時代に決められたものである。 明治の日本は、江戸期の「鎖国」によって、自らは欧州よりも遅れていると認識していた。欧州の植民地にならないため、そしてそれらに追いついて国際関係で肩を並べるため、国民を統一し、より強く国家をまとめ上げる必要があった。 そのための方策として、明治政府は国民に家制度を定着させようとする。それは家長である戸主を中心にした集合体で、戸主の統率によって家のまとまりを強固にし、それを国家のまとまりにつなげようとした。 そうした制度は、江戸時代の武士の家父長制的な伝統を引き継いでおり、基本的に戸主は男性とされる。こうして、明治期に制定された民法の中で、絶対的な権限を持つ戸主が規定され、家制度が出来上がった。 国民には、男性が家長であると言っているわけだから、国のトップが女性だと示しがつかなくなる。そこで、1889年に制定された旧皇室典範において、天皇を男性に限定した。2017年4月、「オール学習院の集い」の大合同演奏会に出演した愛子さま その他にも、男性優位は日本の固有の慣習、女性が天皇になれば夫に政治関与される、歴史上の女性天皇は「中継ぎ」であったので例外、などの理由を説明している。 この男系男子に天皇を限定する仕組みは、家制度が崩壊した敗戦後に変化させるべきであった。日本国憲法では第14条で「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」とあり、女性が天皇になれないことはそれに反する可能性があるからである。 明治期の「男性優位は日本の固有の慣習である」という説明が正しいかどうかは別として、そうした陋習(ろうしゅう)はここで断ち切られたはずであった。ただし当時は、民法が改正され家制度がなくなったとはいえ、その慣習が社会にまだ残っていた。女性天皇は「中継ぎ」にあらず そして、男性皇族もまだ多く、切迫した状況ではなかったかもしれない。そのため、女性天皇は考慮されず、旧皇室典範が廃止され、法律として新たに制定されたものの、明治期に形成された制度がそのまま継続した。 現在の日本社会は、国連の女子差別撤廃条約の批准、いわゆる男女雇用機会均等法の制定と改正などが行われ、敗戦直後以上に性別による差をなくす方向性に進んでいる。社会が、男女が平等になるようにさまざまな努力がなされている中で、なぜ天皇だけが男性に限定されるのだろうか。女性が天皇になれば夫に政治関与されるという明治期になされた説明も、天皇が政治に関わることがなくなった象徴天皇制においては意味をなさない。 そもそも、なぜ男性天皇は妻に政治関与されないという前提があるのだろうか。それこそ、女性ならば人の意見に左右されやすいという、女性への差別的な考え方が根本にあるのであり、現在では相いれない思考だろう。 歴史上の女性天皇は「中継ぎ」であったという説明も、現在の日本古代史の研究によって、それは否定されている。その時期の皇族の中で政治的に優れた年長の女性が天皇に即位しており、ならば現在でも人物的に優れた人物であれば男性でも女性でも関係なく天皇に即位することが、「伝統」的な考え方に合致しているのではないか。 むしろ、現在の象徴天皇制は、その人物がいかなる考えを持ち、行動をするかがマスメディアを通じて伝えられ、それによって人々から支持されている。「平成流」への評価はその最たるものだろう。性別に関係なく「人物本位」というのは、現在の流れとも合致する。 ここ最近、週刊誌やインターネット上で、「愛子天皇」待望論が出ている。しかしこれは、これまで述べてきた理由で提起されたものではない。従来、秋篠宮家の世間の評判は高かった。病気を抱える雅子皇后が皇太子妃時代、公務をこなす量が少ないことから、批判が出て、相対的に秋篠宮家への評価は高くなっていた。 しかし、この状況が変化するのが、眞子内親王と小室圭さんの問題である。小室さんの実家の金銭問題が浮上、それへの適切な説明がないと見られ、批判が噴出している。 妹の佳子内親王が国際基督教大(ICU)卒業に際して発表した文書の中で、自らの意思を強く示し、「姉の一個人としての希望がかなう形になってほしいと思っています」と姉を擁護したことも、批判が高まる要因となった。これらから、秋篠宮家に対する評価が下がり、今度は逆に相対的に皇太子一家への評価が上がり、「愛子天皇」待望論へと向かっているのである。2019年3月、「千葉県少年少女オーケストラ」の東京公演を鑑賞するため、会場に到着された秋篠宮家の長女眞子さまと次女佳子さま(代表撮影) これは、いい意味での女性天皇誕生ではない。秋篠宮家の評判が落ちているから、またその評判をより落とすために、たまたま女性である愛子内親王を天皇にしようとする動きが出ているに過ぎない。 求められているのはそうした動きではなく、現在の社会に合致した象徴天皇制のあり方である。国民の生活と遊離したもの、世間の風に影響されすぎるものではない。愛子内親王が天皇になることは、皇室典範を改正し、今後も女性天皇・女系天皇を安定的に認めていく制度にすることである。■ 「眞子さまへの純真は本物か」小室圭氏よ、試練を歩み解を出せ■ 女性宮家の創設とは「制度化された道鏡」に他ならない■ 女性宮家以外にも「皇統の断絶」を防ぐ手立てはある

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    女帝、斉明天皇はなぜ皇位を譲り、再び即位したのか

    吉村武彦(明治大学名誉教授) 飛鳥〈あすか〉時代前後から奈良時代にかけて(七~八世紀)、推古〈すいこ〉天皇から称徳〈しょうとく〉天皇まで、六人の女性天皇が即位しました。そのうち皇極〈こうぎょく〉天皇と孝謙〈こうけん〉天皇は二度即位していますので、六人で八代の天皇が存在したことになります。この時代が「女帝の世紀」と呼ばれる所以〈ゆえん〉です。 そして、女性天皇だけに見られる特徴がいくつか存在しました。とりわけ注目されるのが、天皇史において画期的な出来事とされる「譲位〈じょうい〉」及び「重祚〈ちょうそ〉」が、皇極天皇によって初めてなされたという事実です。なぜ皇極天皇は譲位し、また重祚して斉明〈さいめい〉天皇となったのか。時代背景も踏まえながら、斉明天皇はどんな存在であったのかを考えてみましょう。 皇極天皇は即位する前、寶皇女〈たからのひめみこ〉と呼ばれていました。父は茅渟王〈ちぬのみこ〉、母は吉備姫王〈きびつひめのみこ〉。同母弟に軽皇子〈かるのみこ〉(孝徳〈こうとく〉天皇)がいます。『日本書紀』の斉明即位前紀には、「初め用明〈ようめい〉天皇の孫高向王〈たかむくのみこ〉と結婚し」「後に舒明〈じょめい〉天皇と結婚して二男一女を生む」(現代語訳)とあります。 二男一女とは、中大兄〈なかのおおえ〉皇子(天智〈てんち〉天皇)、間人皇女〈はしひとのひめみこ〉、大海人〈おおあま〉皇子(天武〈てんむ〉天皇)のことでした。 さて舒明天皇十三年(六四一)に舒明天皇が崩御〈ほうぎょ〉すると、皇后の寶皇女が即位して、皇極天皇となります。この時、舒明天皇の第一皇子である古人大兄〈ふるひとおおえ〉皇子や、厩戸〈うまやと〉皇子の子である山背大兄王〈やましろおおえのおう〉らをさし措〈お〉いて、皇極が即位したのはなぜなのか。 最近の研究では、当時の即位には適齢期があったと考えられており、一つの基準を三十五歳と見ています。その点、古人はまだ二十歳前後、山背大兄も年齢的に達しておらず、適齢の皇子がいないということで、四十九歳の皇極が推古天皇に倣〈なら〉って即位したのでしょう。 かつては皇位継承で競合する候補が複数いる場合、争いを避ける意味で女帝を立てたと考えられました。その可能性も否定はできませんが、最近はむしろ適齢か否〈いな〉かが問題であったと見ています。飛鳥宮跡(伝飛鳥板蓋宮跡、明日香村提供) ところで女性天皇について、男性と変わりはなく「中継ぎ」ではないとする説があります。しかし、皇極は女性天皇として史上初の譲位を行ない、また史上初の重祚も行ないました。 一方、男性天皇の譲位は八世紀に下って、聖武〈しょうむ〉天皇が初めてです。こうした点からも、私は女性天皇と男性天皇は同じではないと考えています。たとえば持統〈じとう〉天皇も、明白に「中継ぎ」として即位していました。「乙巳の変」と史上初の譲位 「八月一日、天皇は南淵〈みなぶち〉の川上においでになり、跪〈ひざまづ〉いて四方〈よも〉を拝し、天を仰〈あお〉いで祈られると、雷鳴がして大雨が降った。雨は五日間続き、天下はあまねくうるおった。国中の百姓は皆喜んで、『この上もない徳をお持ちの天皇である』といった」(現代語訳)。 『日本書紀』には、日照〈ひで〉りに民や蘇我〈そが〉氏が雨乞いしてもほとんど降雨が得られなかったところ、皇極が祈るとたちどころに大雨になったと記され、皇極が巫女〈ふじょ〉的な要素を具〈そな〉えていたのではとする見方もあります。 もちろんそうした側面があってもよいのかもしれませんが、そもそも雨乞いは中国的な風俗で行なわれたもので、必ずしも土着の、日本の巫女的なものではありません。従ってこの記述は、皇極の巫女性というよりも、天皇の霊験〈れいげん〉があらたかであることを表現したものととらえるべきでしょう。 さて、皇極朝の頃、中国大陸では唐〈とう〉が膨張〈ぼうちょう〉し、朝鮮半島諸国にも政治的影響が及ぶ中、半島で政変が起こりました。高句麗〈こうくり〉では六四二年(皇極元)、大臣が国王を殺害し、政権を握るクーデターが勃発〈ぼっぱつ〉。また百済〈くだら〉では六四三年に国王の母が没すると、国王の弟や子どもが島に追放される事件が起こります。 こうした半島での政変の情報は、倭国にさまざまな波紋を投げかけました。貴族が実権を奪った高句麗型の政変と、国王が権力を集中した百済型の政変です。当時、政治の実権を握る蘇我本宗家〈ほんそうけ〉にすれば、飛鳥でも何か不測のことが起きるかもしれないと感じたことでしょう。邸宅の門周辺に武器を備えたり、火災除〈よ〉けの水桶を置いたりしたといわれます。 緊張感に包まれた六四五年六月、皇極の息子・中大兄皇子と、中臣鎌足〈なかとみのかまたり〉が謀〈はか〉り、板蓋宮〈いたぶきのみや〉で「三韓の調〈みつち〉」を献上する儀式の最中、権力を一手に握る蘇我入鹿〈いるか〉を暗殺しました。皇極天皇が臨席し、群臣が居並ぶ場においてです。 入鹿の死に、父・蘇我蝦夷〈えみし〉も自尽〈じじん〉し、蘇我本宗家は滅亡。「乙巳〈いっし〉の変」と呼ばれるこの政変は、大化〈たいか〉の改新〈かいしん〉の始まりとして知られます。 乙巳の変は単に権力を握る蘇我本宗家を倒しただけでなく、蘇我氏を代表とする貴族政権に、王家が鉄槌〈てっつい〉を下すという意味を持っていました。そしてこの時、皇極が譲位します。当時は「終身王位制」ですが、皇極が譲位に踏み切ったのは、女性ということもあったのでしょう。そして、貴族は介在せず、王家の意思で新帝を決め、皇極の弟・軽皇子が即位することになりました。孝徳天皇です。 乙巳の変を機に行なわれたのは、いわば天皇側の権力の奪還と集中であり、また皇極の生前譲位は、王家の自律的意思によって皇位継承がなされることを内外に示したものといえるでしょう。酒船石(明日香村提供) 皇極の譲位後、軽皇子が即位したのは、やはり適齢の問題と考えられます。かつては実質的トップが中大兄で、孝徳天皇はロボットだったという説が有力でした。しかし、実際は天皇が認めなければ詔〈みことのり〉は出ませんので、最近は孝徳を評価する動きがあります。 では、譲位後の皇極の政治的影響力はどうであったのでしょうか。皇極は「皇祖母尊〈すめみおやのみこと〉」と呼ばれることになり、天皇、皇祖母尊、太子(中大兄)の三人が群臣を招集して誓約を行なって、政治的意思統一を図りました。重祚と「時に興事を好む」 その後、孝徳天皇は難波〈なにわ〉に遷都しますが、白雉〈はくち〉四年(六五三)、事件が起こりました。中大兄が難波から大和〈やまと〉への遷都を進言し、孝徳が拒〈こば〉むと、中大兄は皇極と間人皇后〈はしひとのきさき〉を連れて、飛鳥へ戻ってしまうのです。 難波に残った孝徳はほどなく、失意のうちに崩御しますが、中大兄が皇極と同意の上でこうした挙に出たことを見れば、前天皇の皇極が一定の影響力を持っていたことは明らかでしょう。 孝徳崩御後、皇極は再び即位し、斉明天皇となります。史上初の「重祚」でした。斉明が重祚を選んだのは、終身王位制の影響が強かったのかもしれません。この時、孝徳の子・有間〈ありま〉皇子は十六歳前後、中大兄は三十歳前後ですので即位の適齢に達しておらず、中大兄が引き続き太子として政務を執〈と〉りました。 さて、『日本書紀』には斉明について「時に興事〈こうじ〉を好む」「溝を掘らせ、香久山〈かぐやま〉の西から石上山〈いそのかみのやま〉にまで及んだ」と大工事を行ない、「狂心〈たぶれごころ〉の渠〈みぞ〉の工事。むだな人夫を三万余り。垣〈かき〉を造るむだな人夫は七万余り」と人々から謗〈そし〉られたとあります。 他にも多武峰〈とうのみね〉に観〈たかつき〉と両槻宮〈ふたつきのみや〉を建てたり、苑池〈えんち〉などの土木工事も行なったとされ、実際にそれらしき遺跡も出土しているので、事実なのでしょう。 観や両槻宮は道教の影響も考えられますが(遺跡は未発見)、苑池工事は都づくりの一環〈いっかん〉と捉えることができます。この頃になると、来朝した外国人使節に見せるために盛んに造られていた巨大古墳は影を潜〈ひそ〉め、代わって王宮〈おうきゅう〉に付随した苑池や石敷き庭園などの充実が図られていくのです。 大化改新以降も、唐の膨張と朝鮮半島の動揺は続き、日本は東アジアの外交問題に巻き込まれざるを得ませんでした。一方、国内では領土拡張(=王権拡大)を狙〈ねら〉って、阿倍比羅夫〈あべのひらふ〉の北征が始まります。特に朝鮮半島と大陸に面する日本海側では、蝦夷を制圧して体制を整えておく必要があったと考えられます。 斉明六年(六六〇)、百済の使者が、百済が新羅・唐連合軍に降伏したことを伝え、さらに百済の遺臣が、日本にいる百済王子・余豊璋〈よほうしょう〉の帰国と援軍の派遣を求めました。 斉明天皇はこれを了承し、余豊璋を王位に就〈つ〉けて帰します。大和王権の百済王権への干渉であり、日本による冊封〈さくほう〉でした。一種の帝国意識の高まりをここに見出すことができるでしょう。 そして百済救援のため、斉明は自ら筑紫〈つくし〉に赴〈おもむ〉き、朝倉宮〈あさくらのみや〉で崩御しました。天皇自ら前線に赴いたところからも、百済滅亡への日本の危機感がいかに強かったかがわかります。白村江〈はくそんこう〉の戦いが起きるのは、直後のことでした。 乙巳の変に直面した皇極天皇時代、朝鮮半島の動乱に直接関わった斉明天皇時代。それはまさに半島情勢の急変が日本を直撃し、王家が政治の実権を奪還して、王権の拡大に乗り出した時期でした。その難しい舵取〈かじと〉りを二度即位した女帝が担〈にな〉ったという点は、実に興味深いといえるのかもしれません。関連記事■ 毘沙門天の化身・上杉謙信、その実像に迫る3月号■ 大坂の陣、参陣するなら、徳川方? 豊臣方?■ キリシタン武将・明石掃部の実像

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    愛子さまの目覚ましい成長、女性天皇容認の結論は令和3年か

    どうか極秘の検討会を開いていたことが分かった。(中略)2004年春の文書には、女性・女系天皇を認める皇室典範の早期改正方針が記されていた》 当時の小泉純一郎首相は、有識者会議を経て、典範改正に乗り出そうとしたが、2006年の悠仁さま誕生で断念したという驚きの内容だ。 なぜ改元直前のこのタイミングで報じられたのか。一部には、「新天皇の即位後、政府がすみやかに女性天皇を容認する典範改正議論を始めようとしていることへの布石」という見方が根強い。皇室ジャーナリストの神田秀一さんが指摘する。「天皇家にとって最大の使命は、皇統を途切れさせず、安定的に続かせることです。それは天皇陛下含め、皇族方が大切に考えていらっしゃることです。皇統の継承のために、女性天皇容認や女性宮家創設の可能性を含めた、さまざまな議論をすべきでしょう」 実際、皇太子さまは今年2月の誕生日会見で、「制度に関しての言及は控えたい」と付言しつつも、「女性皇族は結婚により皇籍を離脱しなければならないということは、将来の皇室の在り方とも関係する問題」と述べられている。 眞子さま(27才)や佳子さま(24才)の最近の振る舞いもあって、秋篠宮家の教育方針への疑問が少なからず浮かび上がっている。眞子さまは「結婚延期問題」が収束しておらず、佳子さまはICU卒業時に出した文書でご両親について《公的な仕事に関することや、意見を聞いたほうが良いと感じる事柄についてアドバイスを求めることがあります》と明かされた。静養先の長野県でスキーを楽しむ皇太子家の長女愛子さま=2019年3月(宮内庁提供) これに対しては皇室ジャーナリストから「両親とは仕事などの公的な会話にとどまり、“聞いた方がいいと判断したことだけ聞く”という宣言にも聞こえました。文書では同様の文言が繰り返され、佳子さまの強い意志を感じます」という声もある。 その一方で、皇太子ご一家への信頼感が増している。特に、高校生になられた愛子さまの成長ぶりには、周囲も目を見張るところがあるという。愛子さまへ高まる期待愛子さまへ高まる期待「愛子さまは幼い頃、“自分がなぜ注目されるのか”が理解できず、戸惑われることが多かった。学習院初等科時代には雅子さまに付き添われて登校されていたこともありました。ただ、幼い子供に“将来の天皇の一人っ子”であることの重責など理解できないのは当然のことです。 ところが、成長されるにつれ、ご両親の立場を理解し、ご自身の置かれた状況も深く自覚されるようになりました。愛子さまはもともと明るくて聡明な方です。それでも、自分が結婚して皇籍を離れるのか、天皇になる可能性があるのか、いまだに不安定な立場でおつらいにもかかわらず、ご自分の一挙手一投足が皇室全体に与えるイメージまでお考えになり、ふさわしい振る舞いをされることは、並大抵のことではありません。そうした愛子さまの健気な姿が今、メディアを通じて多くの国民に伝わっているのではないでしょうか」(宮内庁関係者) 3月下旬、長野でのご静養からの帰京時、東京駅日本橋口から姿を見せた皇太子ご一家を、何百人という人が出迎えた。「愛子さま!」と呼びかける声で溢れ、白いケープにラベンダー色のインナー、ベージュのワイドパンツにローファーを合わせた愛子さまは立ち止まって振り返られ、笑顔で手を振り会釈された。元宮内庁職員で、皇室ジャーナリストの山下晋司さんが語る。「最近の愛子内親王殿下は記者の質問に対して、少しはにかんだご様子ですが、笑顔で答えられ、その内容も高校生らしく親しみが持てます。立派に成長されているのは、皇太子殿下の影響が大きいでしょう。ご自身を厳しく律せられ、常に他人を気遣う皇太子殿下の振る舞いや考え方にお生まれになったときから接してこられたことで、自然に身につけられたものと思います。“愛子さまに天皇になっていただきたい”と期待する声の高まりも理解はできます」「女性天皇を容認するかどうか」の最新の世論調査(東京新聞1月3日付)の結果では、実に84.4%が「容認」と答えている。日本世論調査会によると、1975年には31.9%だった容認派が、2005年には83.5%、2016年には85%にまで達した。男女平等の理念は日本社会に浸透し、大多数の国民はすでに「天皇は男性でなければならない」というルールにこだわってはいないのだ。「皇統の安定的な継続のためだけでなく、秋篠宮家への不安も、女性天皇容認の声を後押ししていることは間違いありません。秋篠宮家に、天皇にふさわしい人格を育てる帝王教育ができるのか。将来、小室圭さん(27才)を義兄に持つ天皇が誕生して国民の信頼を得られるのか。そうした国民感情は、無視することはできません」(皇室ジャーナリスト) 菅義偉官房長官は3月18日、国会で「(新天皇の)即位後にすみやかに検討を始める」と、凍結されていた女性天皇や女性宮家についての議論を再開する意向を示した。 それでは、典範改正に向けた議論が一気に加速するのはいつだろうか。ある政府関係者は「今から2年後の『令和3年』だろう」と予測する。「2年後には小室さんが留学から帰国し、眞子さまとの縁談が進展する可能性が高い。また現在、お茶の水女子大学附属中学校に通われている悠仁さまは2年後、高校受験のシーズンを迎え、どのような進路を選ばれるかが注目される時期です。 さらに言えば、女性天皇に否定的な政治信条を持つ安倍首相は再来年の9月で任期が切れ、2年後の9月以降は首相ポストにいません。愛子さまが20才になられる『令和3年』に、何らかの結論が出そうです」 新時代の幕開けに、新しい皇室の在り方を模索する議論の号砲が鳴った。関連記事■佳子さま「恋愛についてご両親の言うことは聞かない」宣言か■孤立する眞子さま 悠仁さまがよろしくない態度を取ることも■秋篠宮家 お子さまの教育は結果的に「ほったらかし」か■愛子さま「激やせからの15キロ増」に周囲は心配の声■小室圭さんはなぜさっさと「400万円」返して解決しないのか

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    秋篠宮家 お子さまの教育は結果的に「ほったらかし」か

    後の対応の影響で、ご夫妻は結婚に対してかなり慎重です。しかし、眞子さまの結婚の意思は相変わらず固い。皇室全体に影響するので、早く結論を出すべきだという声は日増しに大きくなっているのですが、結婚についての親子の話し合いもままならない状況が続いているそうです」(秋篠宮家に近い関係者) 妹の佳子さま(24才)は3月22日、国際基督教大学(ICU)卒業にあたって文書を公表。ご両親について《公的な仕事に関することや、意見を聞いたほうが良いと感じる事柄についてアドバイスを求めることがあります》と明かされた。「両親とは仕事などの公的な会話にとどまり、“聞いた方がいいと判断したことだけ聞く”という宣言にも聞こえました。文書では同様の文言が繰り返され、佳子さまの強い意志を感じます」(皇室ジャーナリスト) さらに、眞子さまの結婚延期にも言及された。「佳子さまは《姉の一個人としての希望がかなう形になってほしい》と述べられ、『納采の儀は行えない』と発言された秋篠宮さまとの齟齬が鮮明になりました」(前出・皇室ジャーナリスト) そうした秋篠宮家の内親王姉妹の言動は、世間で大きな物議を醸している。ただし、ある宮内庁関係者は、「ご夫妻の教育方針に基づけば、仕方がないこと」だと言う。「ご夫妻は皇族としての『公』の部分と、プライベートの『私』の部分とを明確に分けることを徹底され、私的な部分では自主性を重んじる教育を施されてこられました。だからこそ、姉妹には“趣味や恋愛、結婚など私的なことは自由にしたい”というお気持ちが強い。 ただし、そうした姿勢は、“どのようなときにも立場としての義務が最優先であり、私事はそれに次ぐもの”という天皇皇后両陛下が貫かれた信念とは相いれないように思います。また、同じ人格の中の『公』と『私』に大きなギャップがあれば、国民も戸惑うでしょう」2019年3月、国際基督教大の卒業式を前に、写真撮影に応じられる秋篠宮家の次女佳子さま(代表撮影) 前出の秋篠宮家に近い関係者がご一家の内情を明かす。「皇室では、公務で多忙なご両親に代わり、ベテラン職員が自然に“お世話係”になってお子さま方の面倒を見ることが多い。しかし、紀子さまのあまりの“厳格さ”に対応できる職員が少なく、秋篠宮家の職員は短期間に交代してしまうので“お世話係”が育たず、お子さま方の教育やしつけに目が行き届かないんです。自主性を重んじると言えば聞こえがいいものの、結果的には“ほったらかし”の状態のようです」 秋篠宮家は、御代がわり後、皇太子家待遇の「皇嗣家」となり、秋篠宮さまが皇位継承順位1位、悠仁さまが同2位になられる。「秋篠宮家にその重責が担えるのか、ひいては、宮家からの天皇を国民が受け入れられるのか。宮家の現状に鑑みて、不安の声が高まっています」(前出・皇室ジャーナリスト)関連記事■佳子さま「恋愛についてご両親の言うことは聞かない」宣言か■孤立する眞子さま 悠仁さまがよろしくない態度を取ることも■小室圭さんはなぜさっさと「400万円」返して解決しないのか■秋篠宮さま、なぜ小室圭さん一家の詳細を知らなかったのか■小室圭さん母、夫と義父の死後遺産交渉 代理人の衝撃告白

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    平成最後の日に伝えたい「天皇の師」小泉信三の教え

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) 「平成」という時代が終わる。平成は経済が停滞したこと、そして日本が大規模な災害に直面したことでも記憶に残る時代となるだろう。個人的な思い出も含めて、一つの時代が終わることに、深い感慨を誰しも抱くに違いない。 平成の経済停滞と大規模災害を振り返るとき、参照すべき一人の人物を想起する。経済学者の小泉信三(1888~1966年)である。 小泉は、天皇陛下の皇太子時代に影響を与えた師として、今日では有名である。また、大正から昭和前半にかけて、経済学者だけではなく、文筆家としても著名であった。 慶応義塾大学では、教員として多くの逸材を育て、さらには塾長となって大学の発展に貢献した。昭和24(1949)年には東宮御教育常時参与を拝命し、皇太子の教育の責任を長く果たした。 小泉の貢献で注目すべきものは、「災害の経済学」という観点だ。日本でも、大規模災害に直面するごとに、経済活動が停滞し、人々の気持ちが沈み込むことなどで社会的にも「自粛」的な空気が流れることが多い。 もちろん、災害によって被災された方々に思いを寄せることは何よりも大切だ。同時に小泉は、大規模な災害のときこそ経済を回すことが重要であることを説いた。「みどりの式典」に出席された天皇、皇后両陛下=2019年4月26日、東京・永田町の憲政記念館(代表撮影) 小泉の直面した最初の国家的災害が、大正12(1923)年の関東大震災であった。死者・行方不明者10万5千人余り、日本の当時の国富の約6%を失い、また年々の国民所得でいえば約47%を失う大きな経済的被害も合わせてもたらした。 首都圏では多くの人たちが被災し、公園などで長期のバラック住まいを強いられた。また職を失い、生活の基盤を根こそぎにされた人も多かった。当時の政権の経済政策はデフレ志向の緊縮政策であり、そのことも災害の事後的な悪影響を人為的に拡大していくのに貢献した。「災害の経済学」は平時にあり 当時、小泉の自宅のあった鎌倉でも被害が広がっていた。辛うじて自宅の倒壊を免れた彼は、当時の復旧活動や鎌倉での罹災(りさい)共同避難所での活動を記録した。 小泉の記録では、官僚的で中央集権的ともいえる被災者へのずさんな対応に対する批判が記されている。一方で、現場の人たちのボランティア的活動を高く評価していた。 その中から、小泉が唱えたのが「災害の経済学」である。これは、直接には英経済学者アーサー・セシル・ピグーの経済学を応用し、それを小泉独自に発展させたものだ。特に、大規模な災害に直面した社会では、何よりも経済を回すことの重要性が唱えられていた。 被災地を支えるためには、災害の難を逃れた地域や人たちの経済活動が重要になる。もし被災しなかった人たちまでも経済活動が停滞してしまえば、それは被災地の支援にも大きなダメージを与える、というのが小泉の基本的な視座だった。 その上で、小泉は災害によってレジャーなど奢侈財(しゃしざい)への消費を自粛することもよくないと指摘した。これは、当時としてはかなり思い切った主張だろう。皇太子妃選びの中心的役割を担った小泉信三。若き日の皇太子さま(現在の天皇陛下)の「教育」に携わった 「自粛」という空気によって、スポーツや芸能、旅行などのレジャー消費が停滞することで、日本の経済全体を冷え込ませ、被災地を支えるべき経済まで損ねてしまう、というのが小泉の独創だった。それには、災害に遭った人たちに心を寄せることが大前提になることはいうまでもない。 また、小泉は関東大震災後、それまでにも増して文化的活動に傾斜していく。中でも、自らが名選手として知られたテニスをはじめ、スポーツに対する理解と賛助は大きかった。 小泉は、「災害の経済学」が、実は災害が起きていない「平時の経済学」でもあると説く。平和でも災害の下でも、人はスポーツなどのレジャーへの支出を重要視すべきだ、というのが小泉の主張である。「御成婚」へと至る道 一つの形として、テニスが文化的で創造的な消費だと、彼はとらえた。この小泉のテニスへの理解と啓蒙(けいもう)活動が、後に天皇、皇后両陛下が、軽井沢でのテニスを縁にした御成婚へと至る道を敷いたといえるのではないか。 小泉は陛下の皇太子時代にともに読書をし、さまざまな対話的教育の場を設けた。その貴重な記録は、『ジョオジ五世伝と帝室論』(1989年、文藝春秋)をはじめとする著作に残されている。 この著作には、陛下が理知的で、誠実で、およそ軽薄から遠い人物であることが、小泉の明晰(めいせき)な文章でつづられている。皇太子時代から今日まで、われわれ国民の広く知る人物像が、既にして若きころから育まれていたことがよく分かる。この本の中には、前述したテニスコート上の両陛下の出会いが描かれている。 昭和33年夏、軽井沢のテニスコートで、まだ独身であった両陛下が混合ダブルスで対戦し、皇后さまのチームが勝利したのを、小泉は目撃したという。このとき、陛下もまた小泉もその勝利した女性が、後に皇太子妃になることを想像もしていなかったと書いている。少し長いが、小泉の文章を引用しよう。 右のような次第から、このたびの御婚約を、テニスによって結ばれた御縁などといいそやすものがあれば、それはあまりに通俗的な想像であるが、しかし、何事にも慎重で、堅実な殿下が、その後も正田嬢をテニスコートで御覧になる機会を得られたことは、少なからず御判断を助けたことと思う。まことに幸せな次第である。『ジョオジ五世伝と帝室論』181ページ 小泉はお二人の今後の生活にも、その責務を担いながらも、どうかその間もお二人だけの楽しい時間をお持ちになるようにと、ここでも余暇(レジャー)の必要性を書いている。小泉の気持ちは若いお二人にも届く優しさであったろう。 御結婚の後は、義務の多い生活をお送りにならねばならず、お二人ともに十分にその御用意のあることを信ずるが、どうかその間にも、少しでも多くお二人だけの楽しい時をお持ちになっていただきたいと思う。お側(そば)の者も心しなければなるまい。『ジョオジ五世伝と帝室論』181ページ1958年12月、婚約内定後、東京都内でテニスを楽しまれる皇太子さまと正田美智子さん 「平成」から「令和(れいわ)」に元号が変わっても、われわれのさまざまなレジャーや文化活動をさらに発展させ、そしてさまざまな困難の前でも経済的に「自粛」することなく、経済活動をたくましくする。そして、困窮にある人たち、弱い立場に陥った人たちに、心でも経済でも寄り添うことが必要だろう。そのことを小泉の「災害の経済学」は教えてくれるのである。■新元号「令和」と「昭和」の知られざる共通点■「天皇はかくあるべし」上から目線の知識人が錯覚した陛下のお気持ち■もし父親なら小室圭さんに娘を託せるか、ましてや皇女である

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    元宮内庁長官、羽毛田信吾手記「今上陛下に象徴天皇の極致を見た」

    12月、皇居・宮殿「石橋の間」(代表撮影) 令和の時代を迎え、改めて将来にわたって国民から敬愛される皇室、国民の心の支えとなる皇室であり続けてほしいと願う。民主主義はともすると「自分さえ良ければ」「自分の国さえ良ければ」という思考に堕する危うさを内包していることを考えると、政治的な思惑や利害を超えて人々のために祈り活動される公平無私な存在が、一層重要に思えるのである。■釜石市長手記「被災地を照らし続けた両陛下のお姿」■語り継がれる「天皇の旅」 批判はあっても膝をつかれた陛下のスタイル■所功手記「新元号『令和』は想定外なれど、感服するほかない」

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    所功手記「新元号『令和』は想定外なれど、感服するほかない」

    今上陛下は「おことば」にこの御歌を引かれ、「このごろ(平成の初め)、全国各地より寄せられた『私たちも皇室とともに平和な日本をつくっていく』という静かな中にも決意に満ちた言葉を、私ども(両陛下)は今も大切に心にとどめています」と仰せられた。発表された新元号「令和」の書 言われてみれば、確かにその通りである。われわれ日本国民は、「平成」元号を使いながら、さまざまな形で「皇室とともに平和な日本をつくっていく」決意を持ち続けてきたことになろう。 もちろん、三十余年の現実は、理想どおりに進んでいないにせよ、それを共有理念としてきたことに意味があろう。しかも、これによって表意文字の良い漢字で年代を表示する元号の文化的意義が、広く理解されていることを知ることができる。「令和」の画期的意義 さて、この4月1日、今上陛下の「高齢譲位」による皇位継承に先立って、政府から公表された新しい元号は「令和」であり、その出典は『万葉集』である。これはまさに画期的な意義を有する。 まず「令和」という二文字は、共に漢音で「れいわ」(Reiwa)と読む(令は呉音なら「りょう」)。その和訓は人名で「よしかず」とも「のりやす」とも証する例がある。 確かに「令」という字は、「令息」とか「令嬢」のように「よい」とか「美しい」という意味もあり、また「法令」「訓令」のように「のり」(規範)の意味もある。 一方「和」はよく知られている通り、「和合」とか「平和」のように「やわらぐ」「なごむ」「仲良くする」という意味があり、古来「大和」(大いに和する)と称する日本の特性を最もよく表す語である。 それゆえ、日本の「大化」から「平成」に至る247の公年号では、「和」が19回も使われ(「和銅」~「昭和」)、「令和」で20回になる。それに対して「令」という字は、幕末の「文久」「元治」改元の際「令徳」という二文字で候補に上ったが採用されず、今回が初めてとなった。 だが、このような組み合わせは珍しくない。現に「昭和」「平成」の「和」や「平」は多く使われてきたが、「昭」「成」はこの時が初めてである。古来の用例を尊重しながら、新例も採り入れたことになる。足利学校で保管されている、江戸時代後期に木版印刷で作られた万葉集 この「令和」について、安倍晋三首相は正午の談話で「人々が美しく、心を寄せ合う文化が生まれ育つ」と説明した。確かに、現在も今後も「国民の理想としてふさわしい」在り方は、美しく穏やかな心を持ち、互いに助け合っていくことであろう。万葉歌人たちの梅花宴 その出典として、従来は専ら漢籍(中国の古典)が使用されてきたが、今回は初めて国書(日本の古典)が採用された。しかも、歴史書の『古事記』や『日本書紀』でなく、和歌(やまとうた)を集成した『万葉集』が典拠されたことは想定外ながら感服するほかない。 この『万葉集』巻五に、九州の大宰(だざい)府で、天平(てんぴょう)2(730)年正月13日に開かれた梅花を賞(め)でる宴会において、32人の官人たちが詠んだ和歌と、冒頭に序文が収められている。 その序文は、大宰帥(だざいのそち、長官)大伴旅人(たびと)か、筑前守(かみ、国守)山上憶良(おくら)の作とみられる。「時には初春(正月)の令月(よき月)にして、気淑く風和(やわら)ぎ(穏やかで)、梅は鏡前の粉を披(ひら)き(おしろいのように白く咲き)、蘭は珮後(はいご)の香(こう)を薫(かお)らす(匂い袋のように香っている)」などと、宴会の状況が的確に描かれている(括弧内の注釈は中西進氏『万葉集』全注釈)。 この文中にある「令」と「和」を組み合わせて「令和」という元号ができたのである。しかも、その背景として、唐風文化の開花期である天平時代に、大宰府という中国大陸や朝鮮半島との外交を統括する公館における梅花宴で、教養の高い官人たちが、漢詩でなく和歌を詠んでいることに思いを致すと、一層味わい深い。 梅というのは、中国伝来ながら、日本各地で旧暦1月の春先ごろに花が咲き、香りが芳(かぐわ)しい。わが国には「梅は寒苦を経て清香を発す」という名句がある。新元号「令和」の引用元の万葉集の歌が詠まれたとされる大宰府政庁跡にある坂本八幡宮=2019年4月1日 その句を加味すれば、天災などの苦難もみんなの助け合いで乗り越えてきた平成の日本人が、さらに今後も心を寄せ合って本当に美しい平和な日本を花咲かせよう、という理念を表明したことにもなろう。 今や国際化・グローバル化の加速する日本で必要なことは、日本人としてのアイデンティティーを再認識し、その上で可能な限り国内外のために貢献することではないかと思われる。そんな新時代への展望と期待をこめて、「令和」元号の誕生を言祝(ことほ)ぎたい。■ 呉智英が読む平成30年史「日本人はどう変わったか」■ 幕末幻の元号「令徳」が示す改元のインパクト■ 元号をめぐる「タブーなき議論」こそ平成と昭和の差である

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    新元号「令和」に言いたい

    平成の次の時代を表す新元号が「令和」に決まった。大化から数えて248番目となる元号は日本最古の歌集「万葉集」から引用されたが、「令」という漢字は初めて採用された。これまで元号で使われた漢字は、たった73文字しかないのも驚きだが、なぜ「令和」が選ばれたのか。その意味を考えたい。

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    新元号「令和」公表にチラつく支配欲と主導権争い

    終え引き揚げる安倍首相。奥左端は菅官房長官=2019年4月1日、首相官邸 明治22(1889)年に「皇室典範(旧)」ができ、一世一元が明文化されたが、第二次世界大戦後廃止される。以降、実は法的根拠もなく、なんとなく慣習で昭和を使っていた。 その後、昭和54(1979)年に「元号法」ができ、法的根拠が生まれた。この時、「元号法は、その使用を国民に義務付けるものではない」という政府答弁がある。 「『協力を求める』ことはあっても『強制するとか拘束する』ものではない」と繰り返し答弁している。これが公式見解だ。 ところが、平成6(1994)年に「公文書の年表記に関する規則」というものができて、「公文書の年の表記については、原則として元号を用いるものとする。ただし、西暦による表記を適当と認める場合は、西暦を併記するものとする」という「公文書の年表記に関する規則」ができた。 繰り返し述べてきた政府答弁との整合性が、よく分からない。現在、公式書類を書くときに「今は元号でいえば何年だ?」と困る理由は、ここにある。「令和」元ネタは中国? さてここでクイズです。平成 ・ 大正 ・ 昭和 ・ 明治 …と、ここに四つの元号がバラバラにあります。正しい順番に並べ、おおよその長さを答えなさい こんな問題は誰でも分かる。当たり前だ。しかしそれは、私たちが昭和や平成という時代を生きてきたからにすぎない。 ちなみに、そのわずか10年前にあった元号で同じクイズを作ってみた。慶応 ・ 文久 ・ 元治 ・ 万延 …と、ここに四つの元号がバラバラにあります。正しい順番に並べ、おおよその長さを答えなさい 即答できる人が、どれだけいるだろうか? 正解は、万延(1年)→文久(3年)→元治(1年1カ月)→慶応(3年6カ月)だ。慶応の次が明治になる。 ということはつまり、現代の私たちには自明の理である「明治(長い)→大正(短い)→昭和(とても長い)→平成(やや短い)」という流れも、今から100年後、200年後の人たちにとっては、「元号は、順番と長さが分からない」となるのだろう。 このように、元号には「イメージ把握力に優れている」が、「順番と長さに弱い」という欠点がある。紀年法として、これは大きな欠陥だ。人々の寿命が短く、ほぼ国内で完結していた昔は、それでも不都合はなかったのだろう(しかも、十干十二支の60年サイクルを併用していた)。 しかし現代、世界は狭くなって、ネットでも密接につながっている。世界共通の紀年法が必要であり、それが事実上西暦になっているのは理解できる。実は西暦だって、1年目から始まったわけではない。できた時は、いきなり525年! 一般化したのは十世紀と、意外に新しい。それを使うと便利だから各国が採用し、実質的な世界標準紀年法となっていった。 もっとも、民族、宗教、神話による独自の紀年法を持つ国も、珍しくはない。だがそれはそれとして、西暦を使っているのだ。 新元号は「令和」と発表があった。出典は『万葉集』で、「初春の令月にして、気淑く風やわらぎ…」からという。もっとも、発表後、中国の『文選』に元ネタとなる文章があるとも指摘された。『文選』は過去に元号の出典とされることが多い書物だし、一つの元号に出典が複数ある例だって珍しくはないから、別にそれでもいいとは思うが。街頭テレビに映し出された新元号発表の様子をカメラにおさめる人たち=2019年4月1日、東京都千代田区(早坂洋祐撮影)    「和」について違和感を持つ方は少ないだろう。「令」については、「命令」「辞令」という言葉や、幕末に不採用になった元号案「令徳」を思い出し、身構える方もいるかもしれない。あの時は「徳川に命令するという意味だ」と幕府側の一橋慶喜(後の徳川慶喜)が嫌い、「元治」になったのだ。 だが「令」には、「令嬢」「令息」のように、尊敬して使う意味もある。いい意味にとった方がいいし、元号とはしょせんそういうものだと思う。5月1日からは、この新元号「令和」になる。 元号は「明るい世の中になるように」という願いでつけられる。今回の改元報道の、ややお祭り騒ぎ的な取り上げ方を見ると、今後、元号は、紀年法としてよりも、縁起担ぎ・ムード作りという側面の方が強くなるのではないだろうか。■幕末幻の元号「令徳」が示す改元のインパクト■信長でも苦慮した改元「元亀から天正」暗闘の歴史■67年前、日本は「元号」を奪われる最大の危機にあった

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    新元号「令和」と「昭和」の知られざる共通点

    鈴木洋仁(社会学者) 新元号に決まった「令和(れいわ)」について、私はかなり意外な印象を持ちました。その理由は二つあります。 一つは、昭和の「和」と同じ文字が使われているからです。もう一つは、万葉集を出典としていることです。 すでに多くの解説で言われている通り、「令」という文字は、これまでの元号には使われていません。初出の文字です。「和」は、昭和をはじめとして、今回で20回目です。 昭和、平成がいずれも初出と頻出の文字の組み合わせでしたので、今回もこの傾向を続けています。 ただし、それ以上に私が注目したのが、この「令」という文字です。「令」という文字は、元号候補として、少なくとも一度挙がっているからです。幕末の西暦1864年に「元治」と改元されたときの最終候補といわれています。  このときの候補は、「令徳」でした。しかも、京都の朝廷からの候補とされています。 ところが、「令」は命令を、「徳」は徳川幕府をそれぞれ意味するといわれ、幕府側から難色を示されたと伝わっています。つまり、朝廷から徳川幕府への命令だと見なされたのです。 この経緯に鑑みると、今回の令和もまた、「令」を命令ととらえられなくもありません。もちろん、今回の令の出典は「令月」、つまり何をするにもよい、めでたい月ですから、「命令」とは違います。 ただ、「令」という文字から「令月」を連想できる人は、よほどの教養の持ち主ではないでしょうか。少なくとも私には、その教養はありません。 この点、すなわち漢字から意味をすぐには想像しづらい点からも「昭和」との共通点を感じさせます。「昭和」の「昭」という文字もまた、それだけでは意味や熟語をとっさには思いつくことができません。  さらに「令和」と「昭和」は、「和」が重なっているだけではなく、出典の意外性についても共通点があるように思えます。 そもそも、「昭和」は「明和」という元号と共通しています。この明和という元号は「明和9年」には、「迷惑年」と同じ音になり、不吉なことが起きると言われていたとされています。実際、この明和9年には、明和の大火と呼ばれる大火事が江戸で起き、安永に改元されています。  昭和の出典は『書経』の「百姓昭明、協和万邦」であり、明和と全く同じものです。つまり、よくないことが起きて改元した元号と出典を同じにしています。これは、良い意味を込める元号としては意外です。新元号「令和」が発表され、大型モニターに映し出された記者会見する安倍首相=2019年4月1日午後0時11分、東京都新宿区 一方、「令和」の意外性は改めて言うまでもなく、万葉集が日本古典として初めて元号の出典となったことにあります。 万葉集は、安倍首相の談話にもあったように日本語の根幹である、万葉仮名を生み出した古典中の古典です。また、出典の箇所ももちろん、とてもいい意味だとされています。 元号の歴史に照らし合わせた「伝統」という意味では、これまでがほぼすべて中国古典を出典としていますから、その流れに沿うべきだという考え方もあるでしょう。元号は誰のものか 他方で、日本固有の伝統としての「万葉集」を重視するという考え方もあり得ます。日本が生み出した文化が大事だと考える立場もあり得ます。今回、安倍政権は後者をとったと、私は見ています。 そうした昭和との共通性をふまえると、今回の新元号はいくつかの論点を示しています。一つは、元号は誰のものなのか、という論点です。 元号法は、元号は政令で定める、そして、元号は皇位の継承があった場合に限り改める、と定めています。この法律の主語は、誰でしょうか。政令は、政府が定めますので、手続きとしては、主語は政府です。すると、元号は政府のもの、ということになるのでしょうか。 あるいは、この政府を決めるのは国民だという立場に基づけば、元号は国民のものだ、ということになるのでしょうか。もしくは、皇位の継承が行われるのは、いうまでもなく天皇陛下によるので、すると主語は天皇陛下、ということになるのでしょうか。 少なくとも、法律の上からは、政府が主語だと考えざるを得ません。あくまでも、政府が元号を決めます。今回の新元号発表にあたっても、菅義偉官房長官が閣議決定事項として発表し、安倍晋三首相が談話として自ら述べました。  また、大化から昭和にいたる246の元号は、すべて最終的には天皇が決めてきましたが、元号法のもとでは平成も令和も内閣が決めています。こうした経緯をふまえて、それでもなお元号は誰のものなのか、という論点は残り得るのかもしれません。 また、次の論点として、元号は隠すべきものなのか、という点が挙げられます。今回、政府は元号に関する情報管理を徹底したと報じられています。新元号候補が、事前に報道された場合には、差し替えると語ったとも言われています。 ただ、そもそも、なぜ新元号を、ここまで隠す必要があるのでしょうか。もちろん、次の天皇陛下のおくり名(追号)として使われるのだから、国家の最重要機密なのだ、という理屈は、考えられます。新元号「令和」に関し記者会見で談話を発表する安倍首相=2019年4月1日午後0時21分、首相官邸 かといって、新元号候補や考案者を、かたくなに隠そうとするばかりです。少なくとも政府から公式には、上記の説明はありません。菅官房長官による公式の説明としては、3月29日の記者会見で「決定された新元号が、広く国民に受け入れられ、日本人の生活の中に深く根ざしていくものになること」と述べたところまでです。 「本当に」元号は「絶対に」隠さなければならないのか、という点については議論の余地があります。 他にも、元号予測が、ここまでイベント化してしまってよかったのかどうか。あるいは、保守派が主張するように、改元前の新元号公表は、そもそも是なのか、非なのか、といった論点が浮かびます。こうしたいくつかの論点をどのように受け止めるのか、ということが問われているのではないでしょうか。■ 信長でも苦慮した改元「元亀から天正」暗闘の歴史■ 67年前、日本は「元号」を奪われる最大の危機にあった■ 呉智英が読む平成30年史「日本人はどう変わったか」

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    新元号「令和」が持つ本当の意味を日本人はどれだけ理解しているか

    落合道夫(東京近代研究所代表) 新元号「令和(れいわ)」が発表された。これは万葉集が出典である。安倍晋三首相の解説によると、いろいろと慶ばしい意味を持っているという。あらゆる危機の中、ぜひ新しい天皇の下、良い時代になってほしいと願うばかりだ。 「令和」と聞いて私は、祝賀の歌として1270年前の天平21年に大仏建立にあたって大伴家持が詠じた「すめらぎ(天皇の意)の御世栄えむと東なるみちのく山に金花さく」を想起した。 しかし、同時に大東亜戦争後、敵に捕らわれ冤罪で処刑された坂本忠次郎中尉の詠んだ歌も忘れることはできない。「同胞(はらから)の犠牲(いけにえ)なればすめらぎの弥栄祈り我は散りゆく」。彼も歌心のある武人だった。 こうした長大な時代の積み重ねにより現代の日本がある。新しい「令和」の御世は新天皇の下で今後、無数の記録が書き込まれていく。そして全国民にとって各自の唯一無二の歴史となる。このように理解すると元号制度が極めて人間的で文化的なものであることが分かるだろう。 ところで新元号「令和」は、今上陛下のご譲位にあたり1カ月前に発表された。異例である。これは産業界の要請など政府にも事情があるのだろうが、伝統的権威は伝統によってのみ維持されるから天皇に関わる事柄は、すべて無条件で伝統に従うことが大原則だ。 今回の異例のご譲位と改元はご高齢であることが挙げられるが、本来摂政を立てられればよいことであり、これは日本が先の大戦を踏まえた講和条約を結んだにもかかわらず、いまだに占領で破壊された民族の大切な伝統が回復されていないことを示している。モニターに映し出された新元号「令和」の文字=2019年4月1日、東京都千代田区 したがって今回はやむを得ないとしても、なるべく早く「占領憲法」を改正し、次回からは伝統に戻すことが必要だ。これは政府だけでなくわれわれ国民の責務である。 そもそも日本民族における元号制度の機能は歴史に期間を設定し「時代」の概念を作ることである。これにより、元号制度が日本人にとって文化的、そして政治的、社会的に重要なものになってくるのである。 その一方で、元号反対論には誤解によるものと政治的な陰謀がある。誤解によるものは、暦は数えやすいようにキリスト歴一本にすべきという単純な意見である。しかし、これは短い人生を終える国民の歴史的感慨に配慮のない意見である。共産党の矛盾 結論としては、キリスト歴は巻尺であり、元号はもの差しに当たると考えて併用すればよい。換算が不便というが、たいした手間ではない。早見表を見れば良いだけの話で小学生でもできることだ。 共産党の志位和夫委員長はこれまで、元号制度は支配者が時を支配するものだから反対と述べたことがある。しかし、時というものは想像上のもので存在しないことは古代の龍樹、アウグスチヌス、道元などの先哲がすでに明らかにしている。 だから時は誰も支配などできない。そして共産党の代案がマルクス暦というのなら分かるが、キリスト歴というのでは驚いてしまう。共産党はいつからキリスト教徒になったのか。 そして唯物無神論ではなかったのか。あまりにも無原則で機会主義的だ。キリスト歴はあくまでも宗教暦であり、キリスト教徒の暦である。イスラム圏ではイスラム暦があり、中東の新聞ではキリスト歴はカッコ付きで付記されている。 そもそも元号問題は戦後2回、大きな政治問題になった。1回目は昭和25(1950)年に元号廃止が国会で検討されたことだ。これは戦後のドサクサを利用して日本の伝統文化を廃止しようとする左翼、キリスト教勢力の陰謀であったが、左翼の最優先課題がサンフランシスコ平和条約の反対運動にシフトしたため、幸い防ぐことができた。実に危なかった。 2回目は昭和53(1978)年で愛国的な国民が結集し元号法を制定した。この時は危機感の高まりで元号制度制定促進を求めて国民があの日本武道館いっぱいにあふれたのである。 また、元号制度は連続した歴史に期間を決めることにより「時代」の概念を作るが、これにより歴史はとりとめのない時点主義から人生の記録を示す人間の歴史になる。この中で各人は天皇の謚(おくりな)を通じて公の歴史につながることができる。新元号が「令和」に決まり、記者会見で談話を発表する安倍首相=2019年4月1日、首相官邸 私の場合、昭和に生まれ、平成を経験し、新しい元号の時代に死ぬことになるから三代の天皇を戴いて生きたということである。ささやかであるが、私の公的記録だ。また、歴史が時点主義から期間になることにより、共同体の成員にとって国家の歴史が成員の共有財産になる。 われわれ日本人は元号を介して歴史を共有する民族なのだ。これが、われわれが元号制度を守らなければならない大きな理由なのである。元号が持つ時代感覚 ところで、元号は日本の文化に多くの影響を与えているが、その一つとして俳句がある。有名な句に、俳人である中村草田男の「降る雪や明治は遠くなりにけり」がある。この句の感慨は明治だからこそであり、これがキリスト暦では俳句にならない。 そして明治という元号は明治天皇を戴き、全国民が心を一つにして大きな犠牲を払いながらも大敵を撃退した日本民族の苦しくも栄光の時代を意味している。この時代の国民の感動と感慨が夏目漱石の小説「こころ」、乃木希典将軍の殉死など、国民の深い感慨になっている。中村草田男もその一人だ。 また、明治の元号を冠する明治大学の校歌には明治時代の明るさと力強さを感じる。作家の戸川幸夫は、明治は日本人にとって特別の時代であったと記し、次のように述べている。 私は明治人間である。と言っても末年に生まれたので、大きな顔は出来ないが、それでも九州の片田舎で育ったので、当時はまだ明治の気風がそのまま色濃く残っていた。私は大東亜戦争に従軍し苦労を体験したので、戦後の平和な今を生きる若い人がうらやましいが、同時に不安も感じる。明治の人々やそれ以前の日本人が歩き残していったものを伝えるべきであった。その意味で今が明治の昔を振り返って学ぶべきことを学ぶ大切な時期と思う…(「明治の気概」抜粋要約) こうした時代の感動が元号による時代認識として共同体の成員に共有され、さらに若い世代に継承されるとしたら、これはすばらしいことである。時代機能のないキリスト歴では到底考えられない。元号はその共通の時代意識を通じて日本民族の伝統意識を作っている。これは日本社会の安定のために非常に重要だ。 フランスの社会心理学者、ル・ボンは19世紀欧州の革命暴乱をみて国民の精神的伝統の深層が破壊されると社会は流動的になり、それが強い刺激を受けると想定外の暴走を始め悲劇を生む、と民族の深層を守る伝統意識の重要性を記している。 彼によると、フランス革命前夜のフランス社会ではキリスト教の権威の衰退、地方から都市への移住、産業の変化などがそれまでのフランス人の深層意識を不安定化したため、パリの暴動事件が全国規模の革命の大乱に拡大したという。川越市立博物館蔵の五姓田芳柳筆「明治天皇肖像」 また、ロシア革命でも農奴解放や産業化による社会の変動が人心の流動化を招き、あの大規模な内戦と革命の悲劇を生んだ。ドストエフスキーは小説『悪霊』で19世紀中頃のロシア社会の深層の変化について、次のように記している。  それは一種特別な時代であった。以前の平穏さとは似ても似つかない何か新しい事態が始まりそれが至るところで実感されるのであった。その背後にそれらに付随する思想が生み出されていることは明らかであった。しかしそれがおびただしい数に上がるので突き止めようとしても不可能であった…的外れな元号非難 われわれ日本人は現在、幸い何となく安心して暮らしているが、その深層には同じ民族としての共通の信頼感があることは間違いない。その柱が天皇崇敬であり、それに伴う元号の作る共通の時代意識なのだ。 ル・ボンは社会の大乱を深海の大地震が起こす大津波に例えている。民族の深層が強固なら地震の揺れを吸収するが、そうでないと、大津波となって社会を崩壊させてしまうのだ。元号は天皇崇敬とともに、この大地震を吸収する有力な緩衝材の一つである。だからこそ元号制度は敵に狙われるのであり、われわれは意識してしっかり守らなければならない。 ただ、今上陛下の譲位を控えた本年の一般参賀にうかがった国民の数は15万人に上り、史上最多であった。また、先日の今上陛下の神武天皇陵参拝の関西行幸には異例の多くの国民がお迎えした。これは今上陛下への敬慕の思いと、自分の歴史としての平成の時代が過ぎていくことを実感し惜しんだからではないか。これはまさに平成という元号が国民各自の時代でもあったことを示している。 だから帝王が「元号によって時を支配する」などという非難が、全く的外れであることが分かる。これは同時に日本民族の深層が天皇崇敬と元号制度を通して、まだしっかり維持されていることを示しており心強い。 日本の元号制度とは、天皇の謚によって、長大でとりとめのない歴史を時代という概念で等身大に切り取り、それを保管、共有し、後世に伝えるという極めて高度で素晴らしい制度である。 ゆえに、新元号について、文字の善し悪しなどを論じるのは本筋から外れていると思う。時代は、元号の文字によるのではなく、その時代の歴史の評価で強く記憶されてきたからだ。それは現代ではわれわれが作るものであり、時代に生きるわれわれの力量を示すものである。帰京のためJR京都駅を出発される天皇、皇后両陛下=2019年3月、京都市下京区(代表撮影) 冒頭でも記したが、これが国家とともに自分個人の唯一無二の歴史を作ることにもなる。時代概念は時の容器である。新しい時代の始まりを見て期待とともに、ある種の畏(おそ)れの念を持つのは私だけではないだろう。 今われわれは過ぎ行く平成の御代を惜しみながらも、新しく始まる時代を迎える心の準備をしている。後世の日本人に感謝されるよう父祖にならって新しい天皇陛下の下で強く団結し、内外の危機を乗り切っていかなければならない。■ 呉智英が読む平成30年史「日本人はどう変わったか」■ 幕末幻の元号「令徳」が示す改元のインパクト■ 元号をめぐる「タブーなき議論」こそ平成と昭和の差である

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    新元号発表に「権力者は安易に元号にかかわるべきではない」

    )の会見は、時代を象徴する1ページとして、繰り返し目にしてきた。「元号について見識の深い人たち、特に皇室関係者の間では、“権力者が自らの権威づけのために、安易に元号にかかわることは避けるべき”と考えられています。 たとえば、明治天皇は15才という若さであったとはいえ、『明治』をくじ引きで決めたことは有名です。大正天皇も昭和天皇も、天皇の最高諮問機関『枢密院(すうみついん)』の判断に任せた上で、追認しました。『平成』も竹下登首相ではなく、小渕官房長官が発表した。 御代の名前の決定は、向こう何十年かの国の平安を左右するかもしれない責任重大な行為であって、過去の為政者たちでさえ慎重に距離を取った、畏れ多い行為なのです。私利私欲の道具にしていいものではありません」(宮内庁関係者)関連記事■新元号はもう決まっている! 立入禁止の秘密司令部に保管か■新元号の選び方に法則性 平成の次の頭文字はKか■「これ書いたらクビに…」安倍四選、新元号、石破除名の核心■「元号」と「年号」の違いと元号の6つの条件とは?■改元控え、皇太子さまと秋篠宮さまの「不穏な関係」に心配

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    新元号で「一世一元」に矛盾 急ごしらえ退位特例法に批判も

    呼ばれ、年に数回行われるが、皇太子さまへの報告は異例のことだ。実は、そこで驚きの会話がされたという。皇室ジャーナリストはこう語る。「首相から皇太子さまへ、来年に迫った東京オリンピックや天皇陛下の譲位に関連する儀式について報告するだけでなく、新元号についての説明もあったそうです。新元号の複数の案を示し、その中には(安倍首相の)『安』の文字もあったとされます。皇太子さまは穏やかに“みなさんでよくよく検討してください”といった対応をされたそうです。 また、首相は新元号の決定や公布の手続きを報告したようです。ただ、そのプロセスは皇太子さまのお立場を軽視したものではないかと波紋を呼んでいます」 そもそも、元号を最終決定するのは誰なのか。「昭和」までの246の元号は、天皇自らが決めてきた。元号は天皇の治世を表す名前であり、崩御されたあとは「おくり名」になる。天皇の意志が優先されるのは自然なことだ。 ところが、1979年に「元号法」が制定されると、内閣が新元号を決めることに変わる。具体的には、内閣から委嘱された専門家の提案の中から3案程度が絞り込まれ、有識者会議で検討されたのち、閣議にて改元政令が決定される。衆院議院運営委員会で天皇陛下の譲位を可能にする特例法案が可決され、佐藤勉委員長(左)と握手する大島理森衆院議長(中央)=2017年6月1日、衆院(斎藤良雄撮影) ただし、元号が天皇の御代に対応するものであることに変わりはなく、閣議決定後、天皇が政令に「署名」して初めて、新元号が公表される。前回の平成改元では、即位直後の天皇陛下が『明仁』とサインされた。「本来ならば、新天皇の即位後の最初の国事行為が、新元号の政令への署名になるべきです。次の元号は、皇太子さまの御代の名前なのだから、皇太子さまが『徳仁』とサインされるのが筋です。 しかし、4月1日の時点では、皇太子さまはまだ天皇ではないため、国事行為である署名を行うことはできません。つまり、今上天皇が『明仁』とサインされることになる。安倍首相は皇太子さまとの面会でそうしたプロセスを説明されたと考えられます」(前出・皇室ジャーナリスト) つまり、伝統的に続いてきた「一世一元」の原則が一時的に崩れ、皇太子さまは自分の治世の名を“自分で決める”ことができないということになるのだ。 生前退位という異例の御代がわりではあるが、「皇室の伝統を理解していない政治家や官僚が急ごしらえで退位特例法を作ったからこういう矛盾が出てくる」(別の皇室ジャーナリスト)という声も大きい。関連記事■新元号発表に「権力者は安易に元号にかかわるべきではない」■新元号発表日、ネットニュースがスクープ合戦の舞台に■新元号はもう決まっている! 立入禁止の秘密司令部に保管か■「これ書いたらクビに…」安倍四選、新元号、石破除名の核心■過去データを元に元号通が予想した新元号本命は何か?

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    新元号決定、不敬なプロセスが生む「第2の光文事件」

    るが、象徴天皇制にふさわしくないのではないか。 「即日改元」が定められたのは明治時代になってからで、皇室典範や登極令(旧皇室令)などによって、改元は新帝即位直後、文字案の審議は枢密院で行い、勅定するとした。明治天皇の病状が悪化すると、来るべき改元に備えて、西園寺公望(きんもち)首相が元号の内案作成を命じ、天皇崩御の後、新帝即位直後に元号案は枢密院で審議され、第1案であった「大正」が決定した。 改元詔書では明治45年7月30日以後を大正元年とすることが明記された。明治改元のときは慶応4年を明治元年に改元するとのみ書かれており、月日をはっきり明記するようになったのはこの大正改元からである。 大正天皇の病状悪化のときも、元号内案の作業に着手している。このときは宮中と内閣で別々に作業が始まっている。宮中では一木喜徳郎(いちききとくろう)宮内大臣が図書寮編修官に命じ、3案にまとめられ、牧野伸顕(のぶあき)内大臣と元老・西園寺公望の了解を得ている。大正天皇 一方、内閣の方では若槻礼次郎首相が着手を命じ、5案を得ている。この宮中3案と内閣5案をあわせて内閣書記官長が精査し、第1案を「昭和」、他2案に絞っている。この3案はすべて宮中案であった。 大正天皇が崩御し、新帝が即位すると、その直後に枢密院で元号案が審議され、第1案の「昭和」と決定した。このとき、毎日新聞の前身である『東京日日新聞』が、新元号は「光文」と誤報する。いわゆる「光文事件」だが、この「光文」は内閣から出された候補の一つで、最終候補にも入っていない。ふさわしい改元手続き 戦後新しい皇室典範からは元号規定が削除され、長らく元号は法的根拠を失った。元号法を模索する動きは水面下であったものの、革新陣営からは、天皇が時を支配するという考え方に抵抗感があり、成文化するには時間がかかった。 ようやく福田赳夫内閣で元号法制化による存続を明確化し、大平正芳内閣で元号法が公布された。ただ、元号存続の是非に関わる本質的な論戦を避けたため、非常に簡素な条文となっている。元号は政令で定めることと、皇位継承があった場合に限り改元する旨が書かれているだけである。しかし「即日改元」の原則は続けることになり、象徴天皇制下でもなお、天皇崩御を予期して、秘密裏に文字案の選定が進められることになった。 昭和天皇の病状が悪化すると、内閣の担当者で協議が始まり、新天皇が即位すると有識者による懇談会が開かれ、小渕恵三官房長官が三つの原案を示し、その後衆参両院の正副議長の意見を聞き、閣議を開いた上で「平成」を決定している。今回の選定過程もこの平成改元にならっている。 元号は天皇の在位期間を基本に数える政治的紀年法ではあるが、正確に天皇の即位と退位にあわせる必要はない。明治改元は明治天皇即位より1年9カ月後に行われている。前近代では先帝崩御の1年後、もしくは2年後に改元することの方が一般的であった。先帝に対する一定の服喪の期間を経て改元する方が、儀礼的にもふさわしい。例えば、崩御後翌年の1月1日をもって改元とすれば、このような綱渡りをしないで済むし、西暦との換算も楽になる。 元号は国民生活と密接な関係にあり、文字案の審議も原則公開で行った方がいいのではないか。天皇崩御を予期して改元手続きをしなければならないから、非公開にならざるを得ないのであり、翌年改元となれば、公開しても不都合はない。また秘密裏に進めれば、それを知りたくなるのが人情であり、マスコミによるスクープ合戦も起きる。ごく少数の人間で審議を進めると、元号の文字に致命的なミスが起きやすい。昭和天皇の霊柩を乗せた惣華輦(そうかれん)が、おごそかに、ゆっくりと葬場殿に向って進む=平成元年2月24日 今回の改元は、譲位によるものであり、崩御を予期しての改元手続きでないため、作成過程を公開しても問題はなかった。将来の課題として、象徴天皇制にふさわしい元号制定過程を検討した方がいいのではないか。■幕末幻の元号「令徳」が示す改元のインパクト■平成改元「運命の一日」官邸発表までの舞台裏■新元号をめぐる「タブーなき議論」こそ平成と昭和の差である

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    靖国神社「150年目の危機」

    靖国神社が揺れている。天皇代替わり後の今年6月に創建150年を迎えるが、平成の時代は陛下の御親拝が一度もないまま幕を閉じる可能性が高い。むろん靖国の存立に関わる危機である。いや、それだけではない。2代続けて宮司が任期途中で退任し、首相の参拝も見送られたままだ。いま靖国で何が起こっているのか。

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    元幹部告白手記「靖国神社150年目の危機」

    宮澤佳廣(靖国神社元総務部長) 筆者が靖国神社創建150年を極めて重く受け止めているのは、何も50年毎の節目だからというわけではない。靖国神社にとっての重大な岐路が、あたかもこの記念の年に符合して差し迫っているように思えてならないからである。 よくよく考えてみれば、150年という佳節を迎えたとき、靖国神社が国家の施設として維持されてきた戦前の歴史は約76年、他方、宗教法人として維持されてきた戦後の歴史は約74年になる。そして現状のまま推移すれば、宗教法人としての歴史が今後、一方的に積み重ねられて行くことになるのだ。 もとより靖国神社が私的な一宗教法人として存続することを余儀なくされたのは、連合国軍総司令部(GHQ)の強圧的な宗教政策によるもので、靖国神社が自主的に選択した途(みち)でも、国民の合意のもとに決せられた性格変更でもなかった。 しかも占領下にあっては護国神社とともに特別に危険視され、何時でも廃止・解散の対象とされ得る不安定な状況に置かれたのである。 さらに、占領解除後も昭和30年代には「祭神合祀と厚生省の事務協力」が、40年代には「靖国神社国家護持法案」が、50年代には「首相の靖国神社参拝」が国会論議の争点となり、60年8月15日に中曽根康弘首相が公式参拝を行って以降は、いわゆる「A級戦犯問題」が外交問題化して「天皇の靖国参拝」中止の直接的な原因と指摘されるまでに至っている。 今や靖国神社をめぐる諸問題は「A級戦犯問題」の解決によってそのすべてが解消されるかのような錯覚を与えているが、それはあまりに皮相的な見方である。戦後の靖国神社の歴史を振り返れば瞭然のように、それら問題はすべて、占領政策によって法制度上の地位が強制変更され「靖国の公共性」が不明瞭にされたことに起因するからだ。 つまり、占領政策の核心部に位置するこの問題を解消しない限り、すべての解決などは望むべくもないのである。 まして靖国神社は「特定の教義を信じる信者によって組織された私的な宗教団体」でもなく、靖国神社と国民とのつながりは、個人の信教の自由に基づいて信じる、あるいは信じないといった関係性にはない。さらに宗教法人法にいう宗教団体は社団的な性格が色濃く、宮司や少数の責任役員の意向で神社のあり様をいかようにも変質させることができ、場合によっては消滅することも起こり得る。 筆者が平成29年に『靖国神社が消える日』(小学館)を上梓して「国家護持」という言葉をあえて議論の俎上に乗せようとしたのは、このまま戦争の記憶が薄らぎ、靖国神社は宗教法人であって当然といった意識が支配的になれば、やがて「靖国の公共性」が喪失してしまうのではないかという危機感を抱いたからである。73回目の「終戦の日」を前に、靖国神社を訪れた参拝者=2018年8月14日、東京都千代田区(宮崎瑞穂撮影) そもそも神社が国家の宗祀とされた戦前は、神社の公共性は国の法律によって他律的に維持されていた。しかし、宗教法人となった戦後は、宮司と少数の責任役員の自覚と見識によって自律的に神社の公共性が維持されているに過ぎない。 そこに神社の「公共性」と宗教法人の「私事性」の相克が生じ、公共性が顕著な神社であればあるほど、その矛盾が大きな形となって表出する。靖国神社をめぐる諸問題はその最たる事例と言えるのだ。靖国の「公共性」 わけても靖国神社は、天皇の権威のもとに国民国家が形成されて行く明治維新の過程で創建された、嘉永6年以降の国事に殉じた人々の神霊を国家・国民の守護神たる「靖国の神」として祀る神社である。天皇・国家との密接不離な関係は言うまでもなく、その極めて顕著な公共性ゆえに「国家護持」が求められてきたのであった。 このように指摘すれば、靖国神社をめぐって論じられているさまざまな問題が、本源的には「靖国の公共性」に由来していることに理解が及ぶのではなかろうか。仮に「靖国の公共性」が喪失すれば、それら諸問題もその時点で終焉する。 国家が靖国の英霊に敬意を表する必然性がなくなれば、首相が靖国神社に参拝する意義など問われることもなく、「A級戦犯問題」も一宗教法人の私的信仰の問題となって外交上の懸案事項から外されよう。そして戦没者追悼のための新施設の必要性が、より声高に叫ばれることにもなるのだろう。 だが、靖国神社が宗教法人としてどれほど長い年月を過ごそうとも、「靖国の神」は永久に、国家国民統合の象徴である天皇という存在によって祀られた国事に殉じた同胞の神霊なのである。その事実は後世のいかなる力をもってしても変えることはできない。宗教法人である靖国神社が「国家護持」という目標を自ら放棄できない理由はそこにある。 むろん、現時点において、かつての靖国法案に盛り込まれたような特殊法人化などは望むべくもない。社会状況は大きく変わっているのだ。筆者が拙著で主張した「国家護持」とは、「靖国神社の英霊祭祀に国が一定の責任を負う仕組み」「靖国の公共性を担保する制度構築」といった意味合いに過ぎない。少なくとも、そうした議論が起こるだけでも「靖国の公共性」を持続させるに有益ではないかと考えたのである。 いずれにせよ、宗教法人の「私事性」を強めれば強めるほど神社の「公共性」が喪失されていく不安定な状態に置かれたままの靖国神社が、創建以来の伝統である「靖国の公共性」を今後も保持し続けるためには、遺族や戦友が少なくなってもなお、国民の中から「国家護持」の声が沸き起こるほどに絶大な支持と信頼を得られるかが課題となる。 当面は公益法人に求められる程度の法人運営を自発的に追求しつつ、国民意識の醸成を俟(ま)つほかないが、靖国神社自ら、私人の一宗教の類と認めることだけは断じて許されない。 なお、昭和50年を最後に途絶えてはいるが、鎮座以来、靖国神社にはその創建の由来と祭神の特殊性から折に触れて天皇のご参拝があった。50年毎の節目の年を振り返っても、大正8年の御鎮座50年には大正天皇が、昭和44年の御鎮座100年には昭和天皇が記念大祭に参拝されている。本年は御鎮座150年の記念大祭が斎行される年でもあり、天皇陛下のご参拝をひたすら乞祈(こいのむ)ばかりである。靖国神社元総務部長の宮澤佳廣氏 一部には例大祭に勅使の参向があることを理由にご参拝の重要性に言及するのを避ける向きもあるが、靖国神社の英霊祭祀は、宮司以下神職がいくら丁重に祭祀を執行したところで全うされるものではなく、天皇陛下のご参拝が事あるごとにあって初めて「厳修」されることになるのだと思う。 天皇陛下のご参拝を心待ちにしているのは他でもない、九段の宮居に鎮まる246万6千余柱に及ぶ国事に殉じた神霊なのだ。短い期間ではあったが、筆者が靖国神社の神職として奉仕する中で感得させられたのは、実にそのことなのである。■実は「天皇の靖国参拝」に道を開くカギがあった■なぜ創価学会は首相の靖国参拝を許さないのか■日本人も知らない靖国神社「A級戦犯」合祀のウソ

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    靖国宮司の天皇批判に思う「日本人が忘れた靖国神社の本質」

    新田均(皇學館大現代日本社会学部学部長) 今回の原稿依頼は「天皇の代替わりと重なる今年、靖国神社前宮司の小堀邦夫氏の発言に触れながら、創建150年を迎えた靖国神社の存在意義、天皇陛下や首相が参拝しないことの意味や是非などを論じてほしい」というものでした。そのような依頼が来たのは、私が以前、『首相が靖国参拝して何が悪い!!』(PHP)という本を書いたからでしょう。 そこでまず、小堀前宮司の発言についてですが、『文藝春秋2018年12月号』に載った「靖国神社は危機にある」という弁明によれば、今回の発言は、天皇陛下が一度も参拝されることなく譲位され、そのために新天皇の参拝も期待できなくなってしまうことと、靖国神社職員の意識の低さに対する強い危機感が原因だったようです。 ただ「天皇陛下に対して不敬な言葉遣いだったことは心から反省しています」と本人も認めているように、神社内の研究会における発言とはいえ、やはり表沙汰になれば、辞職せざるを得ない物言いだったことは間違いないでしょう。 この発言に関連して私見を二つ述べたいと思います。一つは、場合によっては組織内の深刻な対立や外部からの厳しい非難を受けかねない問題に対して、リーダーの発言はいかにあるべきか、ということです。そうした場面で私が考えていることは、会員制交流サイト(SNS)時代の今日、「ここだけの話」というのはもはや通用しないということです。 たとえ、友達との会話であっても、家族との電話であっても、それが世間に出たときに、致命傷にならない言い方を心がける。そうすることで、大切な問題について足元をすくわれる危険を避ける。とりわけ、国家の根幹に関わる組織のリーダーは、そのように普段から意識して自らの言動を自らチェックするべきだと思います。 二つ目は、靖国神社の意義に関わることです。靖国神社には二種類のご祭神が祀られています。一つは戦争で亡くなられた方々、もう一つは戊辰(ぼしん)戦争以前の維新の変革の中で犠牲になられた方々です。後者は数こそ少ないですが、志半ばで倒れていった同志をしのび、その志を継承して、生き残った者たちが営んだ招魂祭に由来し、それが靖国神社の原点でした。靖国神社の参拝に訪れる人々=2018年8月、東京・九段(鴨川一也撮影) その招魂祭が明治天皇のおぼしめしで東京招魂社に、やがて靖国神社へと発展する過程で「伝統的な温情と和解の心」が働いたと、東大名誉教授の小堀桂一郎氏は指摘しています(『靖国神社と日本人』PHP文庫)。 倒れていった志士たちは幕府によって反逆者や罪人として殺されたり処刑されたりした人々です。しかし、その幕府は天皇から統治を委任されていました(大政委任論)。したがって、その罪を突き詰めると天皇を批判することにもなりかねません。靖国神社の本質 また、明治政府は、幕府側で戦った人々をも政府の構成員として採用しました。五稜郭(ごりょうかく)の戦いで有名な榎本武揚(たけあき)らです。そうなると、許されて相応の名誉を保証された旧幕府関係者と、その幕府の手にかかって恨みをのんで死んでいった者たちとの関係はどうなるのか。それを解決したのが「冤枉(えんおう)罹禍(りか)」という発想でした。 志士たちは、幕府の判断ミスで無実の罪で災いを被った。その幕府の人々を朝廷が許したこと、また、犠牲になった志士たちの功績をたたえ、ともに祀ることで、犠牲者方でも、その事情を理解し、堪忍してやってもらいたい。これでかつての敵同士双方を、何とか円満になだめ、幽明境を異にしての和解をもたらそうとした。これが小堀桂一郎氏の解釈です。 靖国神社の祭神の中には、無念の思いで亡くなっていかれたであろう方々も多くいます。例えば、堺事件の犠牲者たちです。戊辰戦争の過程で、土佐藩の歩兵隊が誤ってフランス海軍の水兵20人(推定)を射殺してしまった事件です。 明治政府は、フランスによって土佐藩士20人の死刑を約束させられ、その結果、命令した隊長4人以外の16人を隊員の中からくじ引きで選びました。11人まで切腹したところで、フランスの立会人が凄惨(せいさん)さに耐えられず軍艦に逃げ帰ってしまい、残りの9人はフランスからの助命申請によって死を免れました。国家間の力の圧倒的な差によってもたらされた不条理な死です。ここには先の大戦の結果、BC級戦犯として処刑された人々にも通ずるものがあります。 今日の「靖国神社社憲」に「嘉永(かえい)六年(ペリー来航)以降国事に殉ぜられたる人人を奉斎し、永くその祭祀(さいし)を斎行して、その『みたま』を奉慰し、その御名を万代に顕彰するため」とある通り、靖国神社は、犠牲を強調して敵国に対する恨みを増長させたり、ひたすら祭神の功績をたたえて戦争を賛美したりすることを目的にしてはいません。ご成婚の2カ月半後に、お二人そろって靖国神社に参拝された皇太子ご夫妻 「万世にゆるぎない太平の基を開き」「安国の理想を実現」するために、「みたま」を慰め奉る。さまざまな状況の中で、さまざまな願いや思いを残して亡くなっていかれた方々の死を、意義深いものとして受け止め、「伝統的な温情と和解の心」を諸外国に対しても働かせにいく。そこにこの神社の本質があると私は思っています。 そのような観点から見て、靖国神社について語る際には、敵としてみえる相手に対しも、自らがどれだけ「伝統的な温情と和解の心」が体現できるのか。そういう課題が、語り手の側にも突きつけられることになると思います。 靖国神社が置かれている状況は複雑ですし、個々にみれば祀られている祭神も多様です。それらすべてを包み込む温情と和解の心の表現として、天皇陛下、内閣総理大臣には参拝していただきたいと思っています。■なぜ創価学会は首相の靖国参拝を許さないのか■大嘗祭の国費支出「天皇家の意向」を無視する政府の思惑■小室圭さんへの反発は「民主化した天皇制」の象徴かもしれない

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    両陛下、被災地「祈りの旅路」

    東日本大震災は、きょう発生から8年を迎えた。4月30日に譲位する天皇陛下と皇后さまは、この間幾度となく被災地に足を運ばれ、被災者に寄り添われた。そのお姿にどれだけ国民が勇気づけられたか。平成最後の年。両陛下の被災地訪問の歩みを改めて振り返る。

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    釜石市長手記「被災地を照らし続けた両陛下のお姿」

    野田武則(釜石市長) 東日本大震災のあの悲しみの日から8年の歳月が流れました。 いまだ、仮設住宅の生活を余儀なくされている方々もたくさんおられます。それでも、復興公営住宅や宅地造成など、被災された方々の住まいの再建も進み、ある程度復興の姿が見えてきました。 この8年間にわたり、復旧、復興のため、全国あるいは世界中からあたたかいご支援をいただきました。心からお礼申し上げます。 振り返れば、あの瓦礫(がれき)と化した街の中、避難所は十分な環境を確保できず、被災された方々は不安を感じながらも身を寄せ合い、助け合いながら、厳しい環境を乗り越えようとしていました。市内の至るところに設置された遺体安置所へ、行方の分からないご家族、知人、友人の確認のために、ご遺族の皆さんが訪ね歩き、巡りながら日々過ごしてきたことを思い出すと、今でも胸が痛みます。 そのような折、2011年5月6日に、天皇、皇后両陛下が釜石市にお見舞いに来られました。当時、報道で天皇陛下の体調があまり思わしくないと聞いていたので、大変心配しながらお待ちしていましたが、ヘリコプターから降りてくる両陛下の元気なお姿には、そのような様子は感じられませんでした。きっと無理をしながらも、何よりも「被災地の人々を励ます」という思いで、遠いこの地まで足を運んでくださったことに感銘しました。避難所を訪れ被災者に声をかけられる天皇陛下=2011年5月6日、岩手県釜石市の市立釜石中(代表撮影) 私は、両陛下と用意されたマイクロバスに乗り、多くの方々が避難していた釜石中学校へ向かいました。沿道には、手を振ってお出迎えをする多くの方々がいました。マイクロバスの中では、沿道の両側から手を振る市民へ、両陛下が右に左に移動しながら、まさに一人一人に声をかけるがごとく、手を振られていました。 私は「お疲れになりますから、どうぞお座りになられてください」と何度もお願いしましたが、天皇陛下は「市民の皆さんが手を振っていますから、私も手を振らなければなりません」と30分以上もの道中、立ちっぱなしで手を振り続けられました。両陛下の、ご自身の使命を果たそうとされるお気持ちと、体にむち打ちながらも、市民に手を振る姿を目の当たりにし、感動するとともにありがたい気持ちでいっぱいになったことを昨日のことのように覚えています。お見舞い中の地震にも… 釜石中学校の避難所で、被災された皆さんに会う前、両陛下とお話をする機会をいただきました。天皇陛下は「釜石では多くの方々が犠牲になられましたが、子供たちは皆、助かりましたね。子供たちの避難行動は素晴らしかったですね」と話されました。 当時はテレビや新聞などで、釜石の子供たちの避難行動が何度も取り上げられました。両陛下もその報道をご覧になっていたのでしょう。とてもよくご存じで、そのことについて話され、子供たちの成長と防災教育の大切さに思いをはせておられました。 避難所の体育館では、多くの皆さんに出迎えていただきました。両陛下はすぐさま膝をついて、励ましと、いたわりのお言葉を一人一人にかけ、被災者の心の痛みに優しく寄り添われました。被災された皆さんも大変に喜び、涙を流して感激していました。 両陛下がお見舞いを終えようとしていたそのとき、震度3の地震が避難所を襲いました。両陛下は揺れも気になさらず、被災された方々に励ましの言葉をかけ続けられていました。皇后さまの側にいた74歳の女性は、揺れに驚き、とっさに皇后さまの手を握ってしまいました。皇后さまは優しく手を握り返され「こうした地震は今もあるのですね。怖いでしょうね。大丈夫ですよ。落ち着いてください」と気遣われていました。 悲惨な状況の中で、励まし続け、被災地を気にかけてくださる両陛下のお姿は、被災地、被災者に勇気と希望を与えてくださいました。家族、友人、知人を失い、悲しみに暮れている方に、両陛下が励ましの言葉をかけられている。このご様子を見るにつけ、両陛下の存在とありがたさを感じました。避難所を訪問し、被災者に声をかけられる天皇、皇后両陛下=2011年5月6日、岩手県釜石市の市立釜石中学校(代表撮影) 震災直後、被災地には多くの支援物資やさまざまな支援の手などが必要でしたが、それ以上に、多くの方々が被災地を見てくれている、励ましてくれているという心と心の絆を感じることが大切だと思うのです。 全国のみならず世界中からいただいた支援と、それへの感謝。そこには、多くの人々が助け合い励まし合うという「絆」の大切さを感じずにはいられません。また、日本にはまだその絆があると確信が得られました。 平成の時代が終わろうとしています。天皇、皇后両陛下は30年の長きにわたり、日々、平和と国民の幸せを祈り続けてくださいました。心から感謝を申し上げます。そして次の時代も、人と人との絆を大切にする日本であってほしい、日本が絆を大事にする国であり続けてほしいと願ってやみません。

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    語り継がれる「天皇の旅」 批判はあっても膝をつかれた陛下のスタイル

    増長する民進党、女性宮家は皇統の「禁じ手」である■陛下のご意向を機に天皇の「人権」まで語り出す奇妙な皇室廃絶論

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    「天皇はかくあるべし」上から目線の知識人が錯覚した陛下のお気持ち

    高森明勅(皇室研究家) 東日本大震災よりずいぶん前。保守系の大物知識人がこんな発言をしていた。 「天皇陛下は、わざわざ被災地にまでお出ましになる必要はない。ただ宮中の奥深くで、神聖な祭祀(さいし)に携わっておられればよい」と。 一方、リベラル系の知識人には、それと正反対の意見もあった。 「天皇陛下は、被災者やハンセン病療養所の入所者のような、ハンディキャップを背負った人々に寄り添ってくだされば、古くさい祭祀などをお続けになる必要はない」と。 これらの意見は真っ向から対立しているかのように見えて、はっきりとした共通点がある。どちらも「上から目線」で、陛下の誠心誠意のなさりように、あれこれ無責任に注文をつけていること。いったい、何様のつもりかと思う。また、「皇室の祭祀」と「人々に寄り添うこと」を、切り離された別々のことのように捉えていること。これは大きな錯覚だ。この点について以下に述べよう。 天皇陛下が制度上の義務としてなさらなければならないことは、限られている。具体的に言えば、憲法に規定されている13項目の「国事行為」だけだ。憲法には「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ…」(4条)と明記している。 だから、他には公共的な性格を持つ行為は、一切なさらなくてもよい。むしろ、「なさるべきではない」という憲法解釈さえある。 だが、国事行為は原則として「国民」との接点が全くない(ご即位に伴う「祝賀御列の儀」で沿道の国民から祝意をお受けになるのがほとんど唯一の例外か)。それでは「日本国の象徴」ではあり得ても、「国民統合の象徴」としての役割を十分に果たすことはできない。 憲法は規範である。そこに「国民“統合”の象徴」と規定しているということは、客観的な事実(ザイン)を記述しているのではない。「かくあるべし」という当為(ゾルレン)を、天皇陛下に突きつけているのに他ならない。 その上、「国民統合の象徴」であるべきなのは、これまでの天皇の長い歴史からの要請でもあろう。 少なくとも、陛下はそのような理解に立っておられるように拝される。だからこそ、ご即位以来、全身全霊でご自身が果たされるべき「国民統合の象徴」としての役割を、追い求めてこられた。 国民の「統合」は、政治的対立や経済格差などさまざまな理由で、常に分断の危機をはらむ。その場合、当然ながら憲法にリストアップされた国事行為以外の(国政権能にかかわらず、象徴としてのお立場と矛盾しない)ご活動を探る必要が出てくる。それが「象徴としての公的な行為」だ(責任は内閣が負う)。 象徴行為は国事行為と違って、あらかじめ「正解」が用意されているわけではない。国民側からの依頼にお応えになるもの以外は、陛下ご自身が知恵を巡らされ、手探りで追求され続ける以外にない。それが制度上の「義務」でない以上、陛下の国民への強いお気持ちが前提となる。仙台市若林区の仮設住宅を訪れ、出迎えの人たちに手を振って応えられる天皇、皇后両陛下=2012年5月13日(代表撮影) 大規模な自然災害があった時に、なるべく早い時点で被災地にお入りになる。それも、天皇陛下がご自身で選び取られた象徴行為の一つだ。災害に苦しむ人々を絶対に孤立させない。その人々が「国民の輪」の中から外れたような孤独感を、決して抱かせない。「国民統合の象徴」として、その意思を身をもって明確に示されているのが、被災地へのお見舞いだ。 天皇陛下の被災地へのお見舞いは、いまや恒例のことのように受け止められているかもしれない。しかし、昭和時代にはほとんど例がなかった。今上陛下の強いお気持ちで続けられてきた「国民統合の象徴」としてのお務めの一つである事実を、見落とすべきではあるまい。「無私」のオーラ 平成3年の雲仙・普賢岳の大規模噴火の際に、まだ「安全宣言」が出ていない時点で現地入りされたのを皮切りに、直近では昨年、西日本豪雨と北海道胆振(いぶり)東部地震の被災地に赴かれている。その間、「初回」のお出ましだけで20回近い(陛下はその後も、繰り返し被災地にお入りになってきた)。 最も規模が大きかった東日本大震災の場合は、平成23年3月末から5月にかけて7週連続、しかも日帰りでのお見舞いという、極めて過酷なスケジュールを自ら組まれた。 当時、陛下は前立腺がん再発の不安を抱えてホルモン治療を続けておられたばかりでなく、同年2月には心臓疾患の兆候も見つかっていた。大げさではなく、まさに「命懸け」と言うべきお見舞いだった。実際に、同年11月には19日間にわたりご入院。翌年2月には冠動脈バイパス手術をお受けになっている。 陛下のお見舞いを受けた被災地の人々は、大きな「癒やし」や「励まし」を受け取る経験をしている。これは普通の出来事ではない。なぜそのようなことが可能になるのか。 ある記者はこう書いていた。 「被災者の心にまっすぐ届く言葉を発せられる人は少ない。それは巧みな修辞などではない。その人が被災者の悲しみを自身のことのように感じているかどうか。絶望の淵にある人は、言葉の奥にある感情を敏感に察知するのではないだろうか」(日本経済新聞・井上亮記者)と。 陛下の場合、ご日常そのものが、国民への「祈り」で貫かれている。その祈りの具体化が皇室の祭祀だ。 日々、人間を超えた存在と、清浄かつ無私な境地で触れ合う経験を重ねてこられている。その祭祀は、祭司(宗教者)による祭祀ではない。「国民統合の象徴」たる方の祭祀であり、したがって「国民のため」の祭祀だ。 ならば、その国民が傷つき、苦しんでいる時に、国民から遠く隔たった宮中奥深くで、陛下がもっぱら祭祀だけに打ち込んで、国民をまるで顧みないようなことは、あり得ない。それは、「国民統合の象徴」たる天皇の祭祀の意味「それ自体」を否定しているに等しい。 また、苦しむ国民も、国家の公的秩序の頂点(日本国の象徴)の地位におられる天皇陛下が、日々謙虚に神霊の前に深々と頭(こうべ)を垂れて、国民のために懸命に祭祀に携わる経験を重ねることで、自(おの)ずと身につけられた「無私のオーラ」に気づかないはずがない。 そのような方が、自分たちの声に優しく耳を傾けてくださり、心をこめてお声をかけてくださるからこそ、勇気づけられるのである。全国から献上され、新嘗祭に用いられる新穀を見られる天皇陛下=2013年11月1日(宮内庁提供) 陛下の祭祀は国民のための祭祀であり、その神聖な祭祀に携わられ、無私なご日常を過ごしておられる陛下のお見舞いだからこそ、国民にとってかけがえのない励ましになる。この両者を切り離したり、二者択一で考えることは、見当外れもはなはだしい。 ちなみに、「日本国の象徴」としての国事行為は、臨時代行や摂政への全面的な委任も可能だ。しかし、「国民統合の象徴」としての務め(象徴行為)は、そうはいかない。だからこそ、陛下はご高齢によるお身体の衰えを自覚されて、「ご譲位」という選択肢をお考えになったのである。■平成改元「運命の一日」官邸発表までの舞台裏■日本人に覚悟を問う「皇室は民主主義のロボットではない」■天皇大権を蔑ろにする「元号の事前公表」黒幕は誰か

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    「国民を見捨てない」陛下の覚悟さえも貶めた裏切り者の日本人

    倉山満(憲政史家、皇室史学者) 今年元旦から、皇室史学者を名乗ることとした。わが国の皇室のあり方を自分なりに勉強して、陛下が何をなされてきたのか、そして何をなされようとしているのかを、考えるべきではないかと強く思ったからだ。 現在の象徴天皇制は、古来の伝統法に文明国の通義に合わせて出来上がった明治の立憲君主制が、敗戦による外国勢力の介入に耐えて出来上がっている。そもそも、わが国の伝統法とは何か。戦前は国体と呼んだ。わが国の国体の根源は、君臣の絆(きずな)である。そして、わが国において天皇が民を見捨てることはなかった。 天災や飢饉が起きたときでさえ、歴代天皇は己の不徳を天に詫びるのが常だった。かの後醍醐天皇ですら、そうだった。古くは元寇に際し、時の治天の君である亀山上皇は「自分の身はどうなろうとも、国と民を守り給え」と皇室の御先祖である神々に祈られた。 はっきり言えば、亀山上皇や後醍醐天皇はわが国史において暗君ではあるが、外国の君主に両帝のような態度を示した君主が何人いるか。わが国の暗君も、外国では聖主なのである。 敗戦に際し、昭和天皇が自らの命を懸け、連合国軍最高司令官のダグラス・マッカーサーを説得したのは近代史の出来事である。1990年、どこぞの国の君主は、自国が外国に占領されたとき、国民を見捨てて真っ先に亡命した。わが国の皇室の歴史は、外国とはまったく違うのである。 戦前憲法学の泰斗であった、佐々木惣一京都帝国大教授の門下生に語り継がれている教えがある。佐々木先生は、憲法改正無限界説を唱え、「アカ」呼ばわりされた。当時の通説である憲法改正限界説が「いかなる憲法改正であっても、皇室を廃止することは許されない」と主張した。通説であり、政府の有権解釈だった。 これに対し、佐々木先生は「いくら法律の条文や解釈で縛ろうとも、国民が皇室を廃止しようとした場合、止められるものではない。よって、法学者としては限界説を採ることはできない」と反論した。法律論として、不可能は要求できないとする、法実証主義の立場だ。 ただし、これには続きがある。もし、国民が皇室を見捨てたときのことだ。佐々木先生は、「その時、日本は日本ではなくなる」とおっしゃられたと聞く。「である」論としての法律論と、「べき」論としての政治論は分けておられたのだ。昭和天皇とマッカーサー元帥=昭和20年5月 事態は佐々木先生が想像されたよりも早く訪れた。もちろん敗戦である。天皇は「象徴」とされた。ただ、マッカーサーにとって「象徴」とは決して軽い意味ではなかった。日本国憲法の草案はマッカーサーノートと呼ばれるが、そこには「Symbol=Head of state」と走り書きがなされている。象徴とは国家元首の言い換えなのだ。 だが、これを「ロボット」にしたのは裏切り者の日本人だ。東京大法学部教授の宮澤俊義と、当時の内閣法制局長官、吉國一郎だ。激励権行使は合憲 宮澤は教科書で「天皇はめくら判を捺すロボット」と断言した(『コンメンタール 全訂日本国憲法』74頁)。吉國は、「天皇の行動があらゆる行動を通じて国政に影響を及ぼすことがあってはならない」と言い切った(昭和50年11月20日参議院内閣委員会答弁)。 しかし、これらの解釈は世界の立憲君主国の標準、すなわち文明国の通義からかけ離れている。 世界の憲政の模範はイギリスだ。そのイギリスで「権威書」として憲政運用の解釈書として尊重されている、ウォルター・バジョットの『英国憲政論』は、立憲君主とは独裁者ではないと説く。同時に、単なる傀儡(かいらい、ロボット)でもないとも説く。 バジョットは、『英国憲政論』(『世界の名著』124頁)で「イギリスのような立憲君主制の下では、君主は三つの権利―諮問に対し意見を述べる権利、奨励する権利、警告する権利―をもっている。そして君主がすぐれた感覚や英知をもっているならば、このほかに必要とするものはなにもない。このような君主は、他に何も持っていないので、この三つの権利を非常に効果的に行使できることを知っている」と述べ、以下延々と君主が国政に対し影響を及ぼす方法について述べている。 君主が国政に影響力を行使してはならない、などとは言っておらず、逆なのだ。その証拠に日本国憲法第4条第1項を見よ。「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」とある。 権限(権能)がないとは書いているが、影響力を行使してはならないとは、どこにも書いていない。マッカーサーですら象徴天皇とは国家元首だと理解していたが、日本人自らの手で天皇をロボットに叩き落したのだ。そして、戦後教育においては、皇室と国民の絆を断ち切らんとする教育が行われ続けた。 さて、このような状況で陛下は平成の三十有余年を天皇としてのお務めを全うされた。国事はもちろん、祭祀にも熱心で、さらに国民との絆を保つ活動を、二度の大病を乗り越えて行ってこられた。 平成23年3月11日の東日本大震災に際し、社会の指導者たるべき人間たちが、原発事故の放射能が怖くて逃げた。あまつさえ、「陛下も京都へ逃げた」とデマを流しながら。 だが、事実は違った。3月16日、突如として「ビデオメッセージ」が流れてきた。横文字で何のことか分からないが、要するに玉音放送である。ただただ、国民を励まされるだけだった。激励権の行使である。ただし、国民に向けて語りかけられるという異例の形式だが、現行憲法下でも違憲ではない。仮設住宅を訪れ、出迎えの人たちに手を振って応えられる天皇、皇后両陛下=2012年5月、宮城県仙台市(代表撮影) 何も言い訳もしないし、ましてや自分を悪(あ)しざまに罵(のの)しった者どもに言い返しもしない。しかし、「決して国民を見捨てて逃げはしない」と明確に訴えられていた。 幾多の風雪に耐えた平成の御世が終わりかけている、今思う。国体は健在なり。(文中一部敬称略)■皇室の未来と「象徴」の地位を縛りかねない陛下のお言葉■自問すべきは「日本のかたち」 国民は陛下のご意向を静かに待てばよい■天皇大権を蔑ろにする「元号の事前公表」黒幕は誰か

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    被災地と「未来の皇室」 悠仁親王の配偶者問題は避けて通れない

    小田部雄次(静岡福祉大名誉教授) 被災地への訪問は、被災者の心の重さを受け止め、それに寄り添う純粋な心がなければ、逆効果になることもある。実際「上から目線」で視察して反発されたり、物見遊山で被災地に出掛けて顰蹙(ひんしゅく)を買ったり、そうした為政者やボランティアの事例も少なくない。 今上陛下の被災地訪問は、皇太子時代の1959年、天皇の名代として伊勢湾台風の被害地域を訪れたのが始まりだった。このとき、被災地は歓迎の声ばかりではなかった。むしろ、救助活動などで忙しい現場に皇太子が出向いていくことに批判の声も上がった。 しかし、皇太子の誠意が通じて、苦境に沈んだ多くの被災者の心を励まし、復興への前向きな気持ちを引き出した。皇太子自身も被災現場に立つことで、被災者の負った苦悩を共有し、そのことで被災を受けなかった多くの国民にも事態の深刻さを広く知らしめる役割を果たした。また、自らも将来の象徴天皇として果たすべき道を一歩踏み出したのである。 伊勢湾台風の際、美智子妃殿下は妊娠中で同行できなかったが、その後はご夫妻での被災地訪問が続いた。皇太子時代の1986年には、三原山の大噴火で東京に避難していた住民たちを見舞い、ご夫妻で床に膝をついて一人一人に言葉をかけた。被災者と同じ目線で接する「励まし」の始まりであった。 天皇に即位した後も、1990年に長崎県・雲仙普賢岳の噴火があり、北海道南西沖地震と奥尻島への津波、阪神・淡路大震災、三宅島噴火、新潟県中越地震や中越沖地震と自然災害が続き、その都度被災地を訪れた。そして、2011年3月11日に発生した東日本大震災では7週連続で各地の避難所を回られ、多くの被災者を見舞われたことは記憶に新しい。 この大地震は大規模な津波の被害のみならず、東京電力福島第一原子力発電所の事故による放射能被害及びそれによる地域の風評被害など、従来にない形と規模の災害となった。2011年4月、東日本大震災で被災した茨城県北茨城市の大津漁港を訪れ、黙礼される天皇、皇后両陛下(代表撮影) このとき、両陛下は関係機関と連絡を取りながら、細心の注意を払って、被災地訪問の計画を立てて実行された。最初に東京と埼玉の避難所から回られ、次に千葉、茨城両県を訪問されたのである。心のケアは誰がするのか その後、地震被害の最も大きかった宮城、岩手、福島の被災3県へ向かわれたが、被災3県が最後になったのは、被災直後で混乱が続く現地の状況や、復興しない交通手段の現状など、受け入れ側の立場を十分に尊重し、被災者一人一人と向き合おうとしたためであった。翌日の3月12日には、長野でもこの地震が誘発した大きな余震があり、そのことも視野に入っていたのであろう。 しかも、両陛下は現地に向かって被災者に言葉をかけるという形式化したスタイルを再現するのではなく、その被災の状態ごとに、どうすれば被災者たちの心に寄り添えるかという、自問自答も重ねられたという。 時に自分自身も災害の被害の過酷さを知ることで、その重さに潰れそうになる心を支えながら、肉体の限界まで努力してきたことが、その後の側近や関係者などの記録からうかがえる。そもそも、被災者の過酷な経験を、心を込めて聞くということは、自らもその過酷さを追体験することに他ならない。被災者の心を受け止めた両陛下の心のケアは誰がするのかと、今さらながら懸念は尽きない。 両陛下の訪問は、復興に必要な物や金銭を直接配ることを目的とはされていない。しかし、物や金銭では解決できない被災者の心のケアに努めることで、物や金銭以上の復興へのエネルギーを導き出している。 また、両陛下がそうした被災地を訪れることで、被災の現状が多くの国民に伝えられ、国民の支援を引き出すことになり、政府や行政の活動を活性化させることにもなる。その結果、多くの物や金銭も送られてくるのである。 平成は災害が多い時代であった。東日本大震災後も、各地で地震や集中豪雨などの被害が続いた。両陛下はそうした被災地に可能な限り、いち早く足を運んで被災者を励ましてきた。2016年9月、宿泊先の岩手県大槌町の「三陸花ホテルはまぎく」でハマギクをご覧になる天皇、皇后両陛下。左は千代川茂社長(代表撮影) だが、天皇の公務はこうした被災地慰問だけではない。憲法で定められた国事行為のほか、外国への親善訪問や「三大行幸啓(ぎょうこうけい)」(国民体育大会、全国植樹祭、全国豊かな海づくり大会)などの公的行為や、宮中儀式などの私的行為も含めると相当な数になる。 こうした公務のうち、憲法に規定されていないものまで行う必要はないとの声や、国事行為以外は伝統を維持するための宮中儀式だけしていればいいとの指摘もある。求められる負担への配慮 しかし、陛下自身も述べてられているように、天皇としての務めとは、人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なのである。その意味で、被災地訪問は天皇にとって重要な務めと言えよう。 政府や行政機関側も、天皇、皇后が被災地を訪問することで、物や金銭による救援の遅れや不備に対して、被災者側からの不満が大きく鎮められることを知っている。そのため、政府や行政機関にとっても天皇、皇后の被災地訪問は重要なのである。 とはいえ、こうした政府や行政機関の救援の遅れや不備の「補填」として、天皇、皇后の被災地訪問が形式化してしまうと、政府や行政機関の救済支援を「糊塗(こと)」するためと誤解され、被災者側からの不満がかえって高まる危険はある。 次代の天皇、皇后以後も、被災地の現状に無理をかけず、それでいてできるだけ早急に現地に向かい、被災者の心を受け止める心を持って対等に接し、一人一人を励ましていく努力が大切なものとなろう。 さらには、新天皇は水問題の専門家でもあり、水害を中心とした災害予防や被災対応への科学的な提言、それに基づく具体的なプロジェクト支援などを、政治的発言とならない範囲で期待できるのではないか。また、適応障害で苦労された新皇后も自らの体験を被災者の心に重ねることで、より踏み込んだ被災者への寄り添いがなされるのではないだろうか。 ただ、懸念されるのは、地球環境の変動に伴い、今後さらなる自然災害が頻発する懸念はぬぐい切れず、被災地訪問を担う天皇、皇后の負担が増えていくことである。天皇、皇后も人間である。肉体的、精神的な限界もあろう。そうした天皇、皇后の負担への配慮は、政府や行政、そして私たち国民一人一人に求められるべきことなのかもしれない。2009年9月、和船にお乗りになられた天皇、皇后両陛下と秋篠宮妃紀子さま、悠仁さま=神奈川県葉山町(栗橋隆悦撮影) 将来、秋篠宮悠仁親王の配偶者はこうした被災地訪問を心から成しえる方が望まれることとなろう。悠仁親王が天皇になるのはまだ40年ほど先かもしれない。 しかし、女性皇族が適齢期となり、いつでも皇籍を離れることができる現在、男系男子を維持するのであれば、悠仁親王の配偶者問題はそろそろ検討されなければなるまい。男子を産むだけでなく、被災者の心に寄り添って天皇とともに被災者を励ますことができる方となると、その候補者はかなり限られてしまうからだ。

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    皇居のハマギク 被災地ホテルに「逆境に立ち向かう力」くれた

     天皇皇后両陛下は、全国の国民一人ひとりの目の前に立ち、私たちの言葉に、思いに、幸せに、苦悩に、耳を傾けられる。「今上天皇ほど、国内外の各地を訪問された天皇はいません。各種資料を丹念に調べると、即位後に限っても『旅』の総移動距離は62万kmを超えます。地球を約15周半もできる距離です。天皇皇后両陛下は、平成の30年間という“マラソンコース”を、一つひとつ丹念に心を込めた旅を通じて“全力疾走”で駆け抜けられたという印象を抱きます」 そう語るのは、『旅する天皇 平成30年間の旅の記録と秘話』(小学館)を上梓した歴史探訪家で、文筆家の竹内正浩さんだ。平成という時代に、「旅」を通じて寄り添われた両陛下。東日本大震災の被災地も常に気にかけていらっしゃった。平成9年(1997年)岩手県 1997年、岩手県の大槌漁港を訪れた両陛下は、海沿いの「浪板観光ホテル」に宿泊された。その時、近くの崖際に咲く可憐な白い花に目をとめた天皇陛下は、「あの花は何ですか」と同ホテルの常務だった千代川茂さんに尋ねられた。 それは、日本原産の野菊であるハマギクだった。後日、千代川さんの兄・山崎龍太郎社長はハマギクの苗を皇居に贈った。 それから14年後、東日本大震災が発生した。町を襲った22mの津波に山崎社長はのみ込まれ、ホテルも営業休止に追い込まれた。 悪夢から半年後、美智子さまの誕生日に宮内庁が公開した写真には、皇居に咲く真っ白なハマギクが映っていた。「それを見た千代川さんは、“以前、皇居に贈ったハマギクに違いない”と息をのみました。ハマギクの花言葉は『逆境に立ち向かう』。写真と花言葉に勇気づけられた千代川さんは苦境から立ち上がりホテルの再建を目指しました」(竹内さん、以下同) 2013年8月、社長となった千代川さんのもと、ホテルは「三陸花ホテルはまぎく」と名を改めて再開された。平成28年(2016年)岩手県ハマギクが咲く花壇から海岸線の崖を見つめる、「三陸花ホテルはまぎく」の千代川茂社長=2016年9月、岩手県大槌町 2016年9月、3年ぶりに岩手県入りされた両陛下は、再開したホテルを訪問された。「お待ちしておりました」 玄関口で出迎えた千代川さんは万感の思いでそう告げた。「すると天皇陛下は、千代川さんに『がんばりましたね』と優しく声をかけられました。沖縄や三宅島などと同じく、三陸でも両陛下の旅が苦しむ人々の支えとなったのです」 千代川さんにとっての「ハマギク」のような勇気と希望を、両陛下は国民に与え続けられた。そんな長い旅が、もうすぐ終わろうとしている。関連記事■ 三陸のホテルと皇居をつないだハマギクの花の物語■ 警察権力の陰謀に立ち向かうチーム・バチスタ・コンビの最新作■ 被災地ホテルで「電話の受け方」マナー講習をする奇妙な光景■ 32才OL かつて嫌いだった継父がDV夫に立ち向かってくれ号泣■ バレンタインデーに中年男が美しく立ち向かうための作法指南

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    被災者の心を癒され続けた美智子さま その手は柔らかかった

    子さまの姿に『これは私も頑張らねえと』と心を決め、地震から3か月後に店を再開しました」(松田さん) 皇室ジャーナリストの山下晋司さんが続ける。 「皇后陛下を拝見していると、『国民に寄り添う』とはどういうことかがわかります。被災地ご訪問でも、相手のかたと一体化しているように、相手のかたのことをご自分のことのようにお話しされています」 被災地訪問と同時に、美智子さまが大事にしているのが「宮中祭祀」だ。宮中祭祀とは、天照大神が祀られている賢所、歴代天皇・皇族が祀られている皇霊殿、神殿からなる宮中三殿で行われる祭儀のこと。 「宮中祭祀では、国家の安寧、国民の幸せ、世界の平和が祈られます。国民とともにある皇室を願われる両陛下は、宮中祭祀を『最も重要なお務め』と位置づけて、決して休んだり手を抜いたりなさいません」(前出・宮内庁関係者) どんな時も国民とともにあり、尽くそうとされる美智子さま。聖心女子大学で美智子さまの3学年先輩だった作家の曽野綾子さん(86才)は、そのお姿は聖心時代の大勢いた下級生の1人だった頃から少しも変わっていないだろうと言う。 「皇后さまは、昔も今もご自分を立派に保ちつつ、しかも周囲のことを心にかけていらっしゃいますね。聖心には、『できることを以って人のために尽くせることを光栄と思え』という空気があり、誰もができる範囲で他人のため社会のために尽くすことが自然にできるように訓練されています。『その時にできる人が、できることをやる』ことがいいのです」 美智子さまのどこまでも相手を思いやり、尽くそうとする心は、学校で培われたものかもしれない。曽野さんは聖心女子大学の「愛」の教えは美智子さまに根づいていると続ける。 「『愛』とは人を好きになることではありません。どんなに自分がつらい状況でも、見返りを求めず、相手に尽くすことができることです。愛とは『見つめ合うことではない。同じ目標を見ること』だそうですから。皇后さまというお立場は、むしろご自分を犠牲にされても…とお考えかもしれません」 近年、ご高齢な上に、頸椎症性神経根症など、満身創痍の体で公務を続けてこられた。すべては国民のために。 いかなる困難を前にされても決して立ち止まることなく、歩みを進めてこられた美智子さまの姿に、いつしか人々は“国母”と呼び、崇めるようになった。そして美智子さまもそんな国民の思いに、全身全霊を懸けて応えられた。関連記事■ 美智子さまご登場に当時の若い女性が抱いた親近感と嬉しさ■ 皇室を国民にとって身近なものに変えた美智子さまの歩み■ 美智子さまが雅子さまの手を握り「皇室を支えてくださいね」■ 紀子さま 眞子さま結婚披露宴での「前例破り」に向け準備■ 天皇皇后両陛下 退位後の仮住まい候補地に問題山積

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    今上天皇の偉大さは沖縄問題への対応を見れば理解できる

    教団体 元号と改元めぐる暗闘■ 小林よしのり×石破茂 生前退位で安倍首相にもの申す■ 小室圭さん 「皇室のしきたり」を破り記者は顔色を変えた

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    もし父親なら小室圭さんに娘を託せるか、ましてや皇女である

    して望ましいことではないだろう。 ちなみに、天皇陛下の譲位、新天皇の即位の後には「天皇の退位に関する皇室典範特例法」に衆参両院がつけた付帯決議にしたがって、「安定的な皇位継承を確保するための諸課題、女性宮家の創設等」が検討される。今回の眞子さまのご婚約をめぐる問題は、それについての重大な警告となっているように思う。 言うまでもなく、「女性宮家」の創設を積極的に推し進めようとしている人々の狙いは、女性皇族に皇位継承権を与えるだけでなく、民間男性との結婚によって生まれた男系の血を引かない子孫にも皇位継承権を与えることにある。 この主張は、女性宮家を認めさえすれば、宮家にふさわしい民間男性は簡単に見つかるという前提に立っている。しかし、今回の件は、いろいろな意味で、皇室に入るにふさわしい男性を見つけることは、容易ではなく、選択を誤ると皇室の内部に大きな災いを招き入れることになりかねないということを教えてくれた。秋篠宮ご夫妻の長女、眞子さまとの結婚延期発表から一夜明け、自宅マンションを出る小室圭さん=2018年2月7日、横浜市港北区 小室さんと眞子さまの出会いは平成25年で、翌年にはプロポーズに至っている。そして、婚約内定発表が平成29年。お二人の交際は約5年間に及んでいるが、この間、小室家をめぐる問題が大切な問題として両家や宮内庁内で取り上げられ、検討されることはなかったようだ。ここに、皇族の自由意思による恋愛結婚の難しさが表れている。関係諸機関も大きな教訓として謙虚に受け止めるべきではなかろうか。■小室圭さんへの反発は「民主化した天皇制」の象徴かもしれない■「歌舞伎町の王子」と重なる小室圭さんの複雑なプライド■元東宮侍従手記「小室圭さんを興味本位で論評すべきではない」

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    「小室文書」で確信した! 彼が眞子さまにふさわしいとは思えない

    「解決済み」と主張する文書=2019年1月(共同) 内親王をはじめ女性皇族が民間人と結婚する場合は、皇室典範12条の規定に従い皇族の身分を離れることになる(皇籍離脱)。確かに憲法24条は婚姻の条件を「両性の合意のみ」に限定しているとはいえ、これまで女性皇族のお相手はいずれも名家の男性であった。2014年、高円宮家の次女、典子さまは出雲大社の権宮司、千家国麿氏のもとに嫁がれた。天皇陛下の長女で内親王の清子さまも、東京都庁勤務の黒田慶樹氏とご結婚され、さらに最近では、高円宮家の三女、絢子さまが大企業のエリート社員のもとに嫁がれている。 一方、小室氏は眞子さまと知り合うことになったICU(国際基督教大学)を卒業後、一橋大大学院に通う傍ら、都内の法律事務所にパラリーガル(弁護士の業務をサポートする法律事務職員)として勤務している。いわゆるシングルマザーの家庭に育ち、決して裕福でなかったとはいえ、それが直ちに内親王の配偶者となる資格を有しないということにはならない。 しかし将来のことはともかく、現在の小室氏自身に果たして内親王と結婚する基本要件としての経済力があるかと問われれば、歯切れのよい回答を出すことはなかなか難しかろう。もちろん眞子さまには婚姻に際し一時金が給されるが、秋篠宮ご夫妻のお悩みが軽減されるとは思えない。不運な出会いは必然 メディアの中には当初、「宮内庁が婚約に至る早い段階からお相手の身辺調査を行っているから心配ない」と報じる記事が少なくなかった。そうした報道の影響なのか、一般国民の間にもそう理解している人々が多いのではなかろうか。確かに皇族には警察庁直属の皇宮警察が身辺警護のためにSPを配置している。しかし彼らの任務はあくまで皇族方を警護し、そのセキュリティーを確保することにとどまっている。一般の人々が想像しがちな身辺調査のような任務を帯びているわけではない。 いわゆる皇室のお世話役である宮内庁もそうした役割を担っていない。宮内庁を直接的に規定している内閣府設置法や宮内庁法にもそうした任務について具体的な条文はうたわれてはいない。自由恋愛が当たり前のこの時代に、政府の一行政機関がいかに重要なこととはいえ、お相手である一般の民間人に対して歳費を割いてまで調査することなど憲法上許されることではない。 そもそも宮家と宮内庁の宮務課の間で女性皇族の婚姻に向けた身辺調査をめぐり協議がなされることはない。にわかに信じがたいと思う読者も少なくないかもしれないが、古びたイメージをもたれがちな宮内庁も今や通常の政府機関と何ら異なるところはない。 そうすると、今回のような不運な出来事から眞子さまをお守りできるのは、秋篠宮ご夫妻をおいて他にいないといっても過言ではない。憲法上、皇族には職業選択の自由や選挙権、被選挙権など基本的人権が制約されている。しかし象徴天皇制度の下では、天皇や皇族は国民の敬慕やあこがれの対象であり、政治利用を回避するための制約はあっても、その他の面では意外と自由を享受されている。 皇族も結婚や子育てなど自由の半面として、一般国民と同様の悩みを抱えられている。現に、秋篠宮家の教育方針も尊重され、皇族方お一人おひとりの自由も大幅に認められている。悠仁さまも学習院初等科ではなく、お茶の水女子大学付属小学校に入学、次女の佳子さまも学習院からICUに転校されている。皇室にあっても、時代とともに価値観の多様化が進んでいると言ってよかろう。したがって、今回のような不運な出会いは、起こるべくして起こったと言えなくもない。 一方、小室氏のような内親王の配偶者にふさわしくない男性が今後も浮上する可能性も多分に残されている。小室家の教育方針や小室氏の考え方はよく分からないが、必ずしも経済力に見合わない進路を選択し、しかもそうした教育費の不足を母親の元婚約者の金銭支援に頼ったことがこうした不幸な結果を生み出した側面は大きい。報道陣の取材に応じる小室圭さん=2017年5月17日、東京都中央区(桐原正道撮影) 一般に、金銭にルーズな人間は周囲から信頼されない。そのような男性が内親王の配偶者となることは避けられねばならない。渡米しニューヨーク州弁護士を目指してロースクールに通う小室氏にもさまざまな可能性があるとはいえ、現在の彼に将来皇位につかれる悠仁さまの義兄となる資格があるとはとても思えない。 現在の皇室が抱える大きな不安には、皇族の減少がある。婚姻に伴い皇籍を離脱した内親王やその配偶者にも、その深刻さを共有し、現代の「藩屏(はんぺい、皇族の守護の意)」として外側から皇室を支援するだけの力量と覚悟が求められている。小室氏にはあまりに荷が勝ち過ぎてはいまいか。■元東宮侍従手記「小室圭さんを興味本位で論評すべきではない」■小室圭さんへの反発は「民主化した天皇制」の象徴かもしれない■「歌舞伎町の王子」と重なる小室圭さんの複雑なプライド

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    小室圭さんは眞子さまにふさわしいか

    1年前のきょう、秋篠宮家の長女、眞子さまと小室圭さんの婚約延期が発表された。発端は小室さんの母親をめぐる金銭トラブルだったが、小室さん側が突如公表した文書には「解決済み」と記され、再び物議を醸した。お二人の幸せを心底願いたいが、どうもモヤモヤが止まらない。皆さんはどう思いますか?

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    「眞子さまへの純真は本物か」小室圭氏よ、試練を歩み解を出せ

    性の身分や家柄は問わなくなった。ただ、それでも皇族男子の結婚相手は、婚姻により皇族となることもあり、皇室会議の審議を経て、認可されなければならなかった。 過去において、今上天皇の皇后である正田美智子さん(当時は皇太子妃)、正仁親王(常陸宮)と津軽華子さん、寛仁親王(三笠宮)と麻生信子さん、憲仁親王(高円宮)と鳥取久子さん、文仁親王(秋篠宮)と川嶋紀子さん、そして皇太子徳仁親王と小和田雅子さんとの婚姻が、それぞれ可決されて実現したのである。津軽さん以外は全て旧華族家の出自ではなく、実業家や外交官、大学教授など一般市民社会の家で生まれ育った。 中でも大学教授の長女であった紀子妃は「3LDKのプリンセス」と称されるなど、庶民的な育ちがクローズアップされることもあり、その長女と次女もそうした環境と周囲の印象の中で育った。秋篠宮ご自身も皇位継承問題からは遠く隔たって育った方であり、どちらかと言えば自由で庶民的であった。婚約内定の記者会見で、小室圭さんを見つめられる眞子さま=2017年9月、東京・元赤坂の赤坂東邸 ところが、「将来の男子後継者がいなくなる」という危機感と世論の中で、当時一番若かった秋篠宮ご夫妻に男子出産の期待がかかり、めでたく悠仁親王がお生まれになった。だが、このため皇位継承順位は、皇太子徳仁親王、秋篠宮文仁親王、悠仁親王の順となり、今まで皇位継承問題などあまり意識しなかった眞子、佳子両内親王も、将来は天皇の長女、次女となり、さらには未来の天皇の姉となるという重い立場を負うことになったのである。 「将来は皇室を去る身なのだから、どこに嫁いでも恥ずかしくない生活態度や教養などを学ばせ、かつ伴侶となる男性は自分の目と心を信じて選んでほしい」。おそらく、秋篠宮ご夫妻は2人の内親王の教育において、このように望んでいたのだろう。従来と異なり、学習院大ではなく国際基督教大(ICU)への進学を容認したのも、そうした思慮があったからに違いない。法的問題はなし 実際、両内親王は、のびやかで思いやりがあり、かつ自立心のある素晴らしい女性に成長されたと、多くの人が認めている。しかし、2人が適齢期を迎え、そのお相手を巡り、少なからず暗雲も立ち込め始めたのも確かなようだ。 皇室典範第12条は「皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる」とあり、皇室会議でのお相手の審議などは義務付けられていない。「皇室を離れるのだから、特に審議は不要である」という考えなのだろう。 戦前であれば、内親王は皇族に嫁ぐものとされ、明治天皇の4人の内親王は適齢のお相手がいないため、新たに竹田宮、朝香宮、東久邇宮を創設したほどである。昭和天皇の長女も戦前に結婚したため、東久邇宮家に嫁いでいる。 しかし、戦後当初は旧華族の鷹司家、池田家、島津家などに嫁いだが、近年になって今上天皇の長女、紀宮清子内親王は、東京都の職員で旧華族家の流れではない黒田慶樹氏に嫁いだ。黒田氏は清子さんの兄である秋篠宮文仁親王の後輩にあたり、そうした縁があったという。 いずれにせよ、内親王の結婚相手も一般市民となり、かつ皇室会議の審議もないので、今後は内親王の結婚もより自由で制約のない形になっていくかと思われた。そうした中で、眞子内親王の「騒ぎ」が起きたわけである。 確かに、日本国憲法第24条の条文が存在するとはいえ、一般社会においても、婚姻は個人の問題ではなく、両家や両家につらなる親族などとの関係も強く作用してくる。このため直前に破断となった事例も少なくないはずだ。戦後日本では、憲法の条文と必ずしも一致しない慣習的な判断が諸方面に残るのも事実だ。そのため、法的には問題がなくとも、世論や雰囲気で実現されないことがしばしばある。案件によっては、憲法を超えた根強い慣習法が影響を持つ場合もあるようだ。 今回の眞子内親王のご結婚へ向けての法的な問題は、たぶん存在しないであろう。そもそも皇族女性が、婚姻で皇籍を離れること自体、認められているし、そのお相手に関する条件については何もない。皇室会議の審議も不要なのである。米国に出発する小室圭さん=2018年8月7日、成田空港 それでは、いったい何が問題なのか。小室圭氏の母親とかつて交際していたという男性との間の金銭トラブルが一番の原因としてあり、そのことの処理を巡る対応がうまくいっていないことにあろう。 おそらくは、皇族女性の婚姻相手も皇室会議での審議を義務づけられていたら、今回のような問題は事前に把握されていたろうし、しかるべき対応がなされたであろう。「フリーパス」であったがゆえに、かえって世論の奔流に巻き込まれ、それへの対応がさらに問題視されるという泥沼への道が始まったのであろう。時代の罠にはまった2人 このままでは、事態がますます悪化し、最悪の場合、眞子内親王も小室氏も傷ついて終わるだけだろう。前途ある内親王と、その内親王に認められた男性が、ここまでの試練を受けなければならないほどの「罪科」をなしたのであろうか。どこか時代の罠にはまった王女とその恋人の姿にも見える。 もっとも、小室氏がどんな人間なのか、私には判断する材料が全くない。眞子内親王がそこまで支持する男性なのだから、相応の人間なのだろうと信じ、まずはその前提に立って考えるのが「人間としての正しい道」と思っているだけである。 ただ、事態がここまで広がってしまった以上、私としても真相がどこにあるのか、知りたい気持ちは強い。そもそも、小室氏が400万円の金額が融通できない人間なのか、それとも不当な支払いには安易に応じないという信念の持ち主なのか、見えてこない。 この金銭トラブルへの対応の仕方に、小室氏が眞子内親王の伴侶としてふさわしいかどうかの「解答」があるような気もする。不当な支払い要求には安易に応じず、多くのバッシングにもめげず、ひたすら眞子内親王への純真を貫いているのであれば、私は小室氏を高く評価したい。そして、もしかしたら天皇になることも有り得る内親王の伴侶という、さらなる試練の道を歩める人物として大いに期待したい。 その私の期待を現実のものにするには、まずは事態の原因となった「金銭問題」を公正に解明してほしい。それも秘密裏に済ますのではなく、事態の発端や経緯を公にし、国民が広く事実を共有できる形にしてほしい。眞子さまのご婚約に関するニュースを伝える電光掲示板=2017年5月17日、和歌山市 そして、金銭問題の経緯や協議が、当事者同士で納得いく形で収まったのなら、国民もそれを受け入れ、小室圭氏を内親王のお相手として認めるべきであろう。逆に、協議の過程で、明らかに内親王のお相手として当初から問題がある方であったことが明確になれば、眞子内親王にもあきらめていただくしかないのではないか、とも思う。 いずれにせよ、現状のままでは、この「騒ぎ」のどこが法的に問題なのか見えないし、「騒ぎ」が将来の皇室安泰のためになされているとも思えない。事態がさらに泥沼化する前に、まずは国民にさらしても恥ずかしくない形で金銭問題を処理すべきだろう。 できれば、時間がかかっても民事裁判に任せた方が、かえっていいだろう。そのことは、内親王のお相手を巡る「騒動」の決着に対して、日本が世論扇動や密室処理で事態を収めてしまう時代遅れの「未開社会」ではなく、「公正」や「正義」という高い理念を有した現代社会にふさわしい法治国家の証しを、内外に示すことにもなろう。■小室圭さんへの反発は「民主化した天皇制」の象徴かもしれない■元東宮侍従手記「小室圭さんを興味本位で論評すべきではない」■「歌舞伎町の王子」と重なる小室圭さんの複雑なプライド

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    眞子さまと小室圭さんの仲を金銭トラブルで引き裂いていいのか?

    を存続させるべく、敗戦直後から天皇の「民主的」なエピソードを積極的に描いた。 また、戦前では低かった皇室記者たちへの扱いが、戦後になって大きく変わったことは、彼らにとって「民主化」を実感する契機ともなった。そして、そうした感情を基にした記事を量産していく。そのため、国民に「民主的」な象徴天皇像が定着したのである。 そのマスメディアも、経済成長に伴う大衆化や消費化が進む状況の中で、象徴天皇制をより民主的な側面から取り上げる記事を執筆していく。その頂点が、明仁皇太子と正田美智子さんによる1959年の「皇太子ご成婚」であった。 マスメディアに大きく取り上げられた2人の「恋愛結婚」は、まさに日本国憲法の理念との親和性を表現するものであった。それまでは、元皇族や元華族との結婚が噂されていた皇太子が、自分の意志を貫いて「平民」出身の正田さんと結婚することに、若い世代の国民は喝采を寄せた。国民はマスメディアで報道される美智子皇太子妃を歓迎し、「ミッチーブーム」となった。 そして、象徴天皇制は一つの到達点を迎えることとなる。この年を契機に、国民の中でも見合い結婚と恋愛結婚の比率が逆転したという。皇族の結婚が国民のモデルともなったのである。 こうした傾向は、平成に入り、徳仁皇太子や秋篠宮の結婚にも継続していく。平成の象徴天皇制は「開かれた皇室」といわれ、国民により近しい形へと変化して支持を得ていったこともあり、天皇や皇族もそのように行動していった。 2人の男性皇族の結婚も「恋愛結婚」として、マスメディアで大きく報じられ、国民からの支持を受けていった。国民に近しい「モデル」としての皇室が、象徴天皇制であったのである。2018年2月、ご婚約の延期発表から一夜明け、自宅マンションを出る小室圭さん。心境を尋ねる質問には応じず、タクシーに乗り込んだ 秋篠宮眞子内親王と小室圭さんとの「婚約内定」もこの延長線上にあった。2人は、国際基督教大学(ICU)の同級生として出会っており、まさにそれは宮内庁や誰かに選定されたものではない「恋愛」であったと考えられる。それは、国民の支持を受けてきた現在の象徴天皇制そのものでもある。 これを否定することは、現在の皇室のあり方自体を否定することにも繋がるのではないか。また、日本国憲法24条の「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立」することにも、抵触することになろう。 親の金銭問題によって、2人の仲が裂かれることが、果たして現代社会にふさわしいのであろうか。そうではないだろう。一方で、国民の支持を調達することを基盤としてきた象徴天皇制において、文書一枚で「法律的に解決した」と述べるだけでは、やはり国民の納得を得られないようにも思われる。小室さんには、その点が求められているように思う。■ 「歌舞伎町の王子」と重なる小室圭さんの複雑なプライド■ 元東宮侍従手記「小室圭さんを興味本位で論評すべきではない」■ 眞子さまが「ゴシップ報道」小室圭さんを選んでも別に不思議じゃない

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    眞子さまはまるで「人質」、秋篠宮さま「小室文書」への怒り

    呈した。小室家に要求する前に、まず家庭内の断絶を何とかするべきではないかという厳しい声もあります」(皇室関係者) 恋に身を焦がし、一途になる娘を前に、父親は無力だ。その点で秋篠宮さまを責めるのは、酷なようにも思える。親の言うことに聞く耳を持ってほしい、その一方で、思った通りに自由に幸せになってほしい。父親はそんな真っ二つの感情の間で、揺れ動く。 それでも、秋篠宮さまには小室さんに対して、どうしても許せないことがあるという。文書が公表された際に、《眞子さまと小室さんの結婚の意思は固い。眞子さまも文書の公表を把握している》と報じられた。※写真はイメージです(GettyImages)「眞子さまがメディアにお話しされるわけがないので、小室さん側からのリークとみられます。秋篠宮さまはかねてから、“借金問題は、まだ婚約前の他人の家のことであり、当家とは無関係の問題”という立場を貫いてこられました。皇族がそのような金銭トラブルに巻き込まれることは許されないという意識から、充分に注意されてきたのでしょう。 しかし、小室さん側が『眞子さまも文書の公表を把握』と報じさせたことで、眞子さまがスキャンダラスな借金問題の当事者に巻き込まれてしまうことになった。眞子さまが小室母子の主張を認めたことになり、Aさんから“なぜ眞子さまはそんな文書が出されることを認めたのか”と問題視されないとも限らない。それこそが非常に重大な問題であり、秋篠宮さまが怒られている点なのです。秋篠宮さまにとっては、眞子さまを“人質”に取られたにも等しいことになってしまった」(前出・別の宮内庁関係者)関連記事■ 小室圭さんはなぜさっさと「400万円」返して解決しないのか■ 小室圭さんが文書発表、母の元婚約者の困惑と眞子さまの落胆■ 紀子さま実弟のNPO、「100万円で食事」は皇室の利用か?■ 秋篠宮家と職員の関係と紀子さま「高学歴志向」の影響■ 小室圭さんの母、両陛下への「直談判」を試み周囲困惑

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    小室圭さんはなぜさっさと「400万円」返して解決しないのか

    アクションでしょう。事態が動き出したとは言えますが、秋篠宮殿下の言う“理解と祝福”まではほど遠い」(皇室記者) ダンマリを決め込んできた1年以上の間に世の批判は増すばかりだが、ここに至ってなお、小室さんが頑なに「借金トラブルは残っていない」と主張する理由はどこにあるのか。 「1つは、小室家の経済状況があるでしょう。父・敏勝さんは10年以上前に亡くなり、小室さんは、佳代さん、祖父との3人暮らしでした。法律事務所でパラリーガルとして働く小室さんと、洋菓子店でのパート勤務だった佳代さんの稼ぎは、すぐに400万円が返済できるほど潤沢とは思えない」(皇室ジャーナリスト) といっても、横浜市内の自宅マンションは敏勝さんが亡くなった際に住宅ローンが弁済されている。金融機関から“堂々と”借り入れてトラブルを解決することも可能に思える。 しかも、無事眞子内親王との結婚が実現した暁には、1億円以上の結婚一時金(女性皇族の結婚の際、「元皇族としての品位を保つ」ために支給される金銭)が夫妻の家計に入るという“見通し”もある。「何かしらの方法でお金は工面できたとしても、返済した場合、“やはり借金だった”と自ら認めてしまうことになる。小室さんサイドは、当初から『贈与』だと主張しており、秋篠宮ご夫妻にもそう説明していた。返済したらしたで、“皇族にウソをついていた”という別の問題が出てくる。※写真はイメージです(GettyImages) それが原因で破談にでもなれば、結婚一時金は入らず、“借金”だけが残る可能性もある」(前出の皇室記者) 小室さんに残された道は、「母の元婚約者に“解決済み”と認めてもらう」ことしかないのかもしれない。関連記事■ 「美智子さまが眞子さまロマンスに終止符」英国紙報道の波紋■ 眞子さま、婚約延期も職場では「結婚します!」と幸せオーラ■ 眞子さま 小室圭さんと最後にお会いになった時の行為が波紋■ 新天皇と秋篠宮、雅子妃と紀子妃 5月から様変わりする関係■ 眞子さまと小室圭さんが破談になったら…宮内庁が恐れること

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    日本人が知らない改元の意味

    改元とは何か。この意味をきちんと説明できる人は恐らく日本人でも少ないだろう。大化以降の歴史をひも解くと、江戸時代まで天皇の在位中に慶事や大災害があれば頻繁に改元が行われた。天皇一代限りの一世一元が原則になったのは明治以降である。平成の終わりに、改元の意味を考えたい。

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    平成改元「運命の一日」官邸発表までの舞台裏

    石附弘(日本市民安全学会会長、元内閣官房長官秘書官) 「Xデー」、それは111日目にやってきた。1989(昭和64)年1月7日の昭和天皇の崩御である。 あの日の小渕恵三官房長官による「平成の元号」発表(総理官邸記者会見室)の映像は、NHKニュースの視聴率が21%を超え、発表直後の読売新聞の電話調査で元号の好感度は61%を超えるなど、大変印象深く国民の目に映ったようだ。 そして誰とはなしに小渕長官に「平成おじさん」の異名が付いた。この愛称には長官も苦笑されていたが、国民に元号への親しみを持って受け入れられていることを示すこれ以上の言葉はない。その後も再三放映され、今や平成時代の始まりを代表する映像になっている。 実は、その元号が入った額を、会見場で小渕長官に手渡したのは、当時官房長官秘書官であった若き日の私であった。 総理官邸の内閣官房長官には、政務と事務の秘書官が付く。当時、事務の秘書官は、大蔵、外務、警察出身の3人で21省庁を3分割し、国レベルで対応すべき事案について、いわば「官房長官の黒子」として補佐していた。 例えば、官房長官には、政府の公式スポークスマンとして朝夕の記者会見を行うという重要な職責がある。内外で発生する事象に対して、政府の考え方を説明し記者からの質問に答える責務があり、秘書官はこの記者会見に備え、あらかじめ関係省庁から報告を受けたり、自らも関係情報を収集し長官と事前の打ち合わせをしたりする。警察庁出身の私は宮内庁を担当しており、頻繁に宮内庁と連絡を取り合っていた。 そもそも、元号は誰が発表するのか、元号法に定めはない。「昭和」の際は、宮内省が発表した。国家の一大事として総理大臣会見という選択肢もあったと思うが、小渕長官が竹下登総理と相談され、「政府唯一の公式スポークスマンである官房長官」が発表すると決まったと聞く。 そこで宮内庁担当であった私に「元号の発表方法を検討せよ」との下命があった。すわ一大事、大変な難問をもらったと思った。なぜなら先例がない。すなわち、明治天皇崩御から大正の時は新聞発表(ラジオがなかった)、大正から昭和の時はラジオ放送を使った発表であり、まるで参考にならない。テレビ時代にふさわしい元号の発表をゼロから考えなければならなかったのである。 平成元号の制定手順や発表のあり方について調べていくと、下記のような課題があることが分かった。 ①現憲法下、初の御代替わりに伴う元号であり、法令に定められた制定手続きを踏まえなければならない。②先例のないテレビ時代の元号発表方法を考案しなければならない(映像を通じて国民に親しみを持ってもらえるような発表)。③「元号」が有する歴史の重み(崩御という国民の深い悲しみの中で、新時代の幕開けにふさわしく、厳粛に、かつ格調高いものであることが望ましい)。④「Xデー」に間に合うように極秘裏、かつ迅速に諸準備を進めなければならない。1989年1月7日、元号「平成」を発表する小渕恵三官房長官=首相官邸 元号の字(縦書きか横書きか)、何に書くのか、見せ方などいろいろな選択肢があったが、①日本の筆の文化により墨書で縦2文字とし②揮毫(きごう)は河東純一(雅号は蜂城)氏(官房人事課所属で内閣組閣時に総理大臣等の辞令を書く書家で、後に「書の名人」として人事院総裁賞を受賞)が担当③元号を収める額は白木とすることが早めに決まった。そこで元号の揮毫者をご紹介いただき、揮毫と元号の額の扱い、記者会見室での発表のあり方までの流れを頭で描きながら検討を進めた。事前漏洩防止は必須 問題は、揮毫された墨痕が乾ききらぬ元号墨書の固定であった。書の固定は表具するのが一般的であるが、生乾きの紙では難しい。物がモノだけにアイロンをかけるわけにもいかない。ましてや、接着剤は使い方によって紙が傷む。とはいえ、何よりも超スピードで額を官房長官室へ運び、速やかに記者会見に間に合わせなければならない。 後々の保存のことを考えれば、元号の表面を、上からガラスなどで押さえつけて固定するのが書を傷めないベストの方法である。そこで長官番記者の方に内々に意見を求めたところ、記者会見場はテレビカメラのライトの光が四方八方から照射してしまうので、額の表面が反射するものは困るとの注文がついた。早速、河東先生に相談し、書を傷つけない程度の簡易固定を考案していただいた。 発表された元号の紙面の大きさであるが、実物がどのくらいの大きさだったかはあまり知られていない。縦41・5センチ×横29・5センチ、ほぼA3の紙を縦にした大きさである。 余談であるが、河東先生によれば、元号を書く紙は古来、公文書でよく使われる奉書紙と決めたものの、特製の紙は紙が厚く墨を良く吸うので擦れが出やすい。芸術作品であればともかくも、元号に擦れは許されない。そこで墨の濃さ、筆の墨量、運筆の速さなどを随分とご研究されたという。本番では一気に4枚「平成」と書き、4枚目を発表用とし、他はその場で廃棄されたという。 この額は後日、本表具され竹下総理の手元に、その後国立公文書館に寄贈された。 そもそも「Xデー」の始まりは、前年1988(昭和63)年9月19日、陛下が大量出血され、ご病床に就かれたことであった。当時、小渕長官のお供で東北地方に出張中であったが、陛下が欠かさずご覧になられていた大相撲をキャンセルされたという第一報に、嫌な胸騒ぎを覚えたことを思い出す。 陛下は、その前年の87(昭和62)年9月、宮内庁病院で手術を受けられていたため、この時の御不例は、天皇のご年齢も考慮し、内閣として万一に備え、諸準備を極秘裏に急ピッチで進めることになった。首相官邸の庭で竹下登首相(左)と談笑する小渕恵三官房長官=1987年12月撮影 小渕長官は、石原信雄内閣官房副長官、古川貞二郎内閣官房首席内閣参事官、的場順三内政審議室長、藤森昭一宮内庁長官、後藤田正晴前官房長官、佐々淳行内閣安全保障室長とよく連絡を取られていた。竹下総理の女房役として、「Xデー」という歴史の重圧を前に、秘めたる壮心と覚悟がみなぎっていたように思う。 大正から昭和への御代替わりでは、世紀の大誤報と揶揄された「光文事件」が発生したことから、事務方への指示として特に言われていたのは第一に、元号の事前漏洩防止だった。的場内政審議室長の一元管理とし、極秘裏に作業が進められた。私も揮毫者も直前まで「平成」の2文字については知らされていなかった。 二つ目は、新元号が国民の理想に沿う、国民に親しみのあるもの、受け入れやすいものであるようにということだった。新元号を国民がどのように迎え入れてくれるか、「庶民内閣」竹下総理の右腕であった小渕長官としては当然の思いであったろう。これには「昭和」の元号が当初、国民の評判がいまひとつであったという史実が背景にあった。 そして、その日がやってきた。89年1月7日午前6時33分、昭和天皇が皇居・吹上御所で崩御されたのである。宝算87。好評だった「平成」 「Xデー」の官房長官日程は、まさに分刻みというより秒刻みの超過密スケジュールであった。ご危篤(きとく)のお見舞い記帳、崩御の弔問記帳、「剣璽(けんじ)等承継の儀」参列等宮中関係の行事、また元号発表に先立ち、ご危篤や崩御の発表等総理官邸での記者会見(計5回)、崩御や元号制定のための一連の法的・事務的手続(事務次官会議、計4回の臨時閣議のほか、衆参両院や懇談会等多数)をタイムスケジュール通りに進めなければならない。 長官が手際よく段取りを進めていただけるよう関係先と連絡を取りつつ、黒子の私は朝から水分摂取を自粛した。トイレタイムで長官にご迷惑をかけたくなかったのである。 こうして、何とかつつがなく手順通りに粛々と一連の行事を終え、崩御から約8時間後の午後2時35分、ついに元号発表までこぎ付けた。「Xデー」という言葉の原義は軍事用語に由来するが、まさに危機管理作戦であったことを身を持って実感させられた。 そして記者会見において、元号をどのように情報発信すべきかということも大きな難問であった。最悪のケースは額を天地逆に見せてしまうことであり、黒子としては切腹ものだ。これを回避するため、内政審議室から届けられた紫の風呂敷の固い結び目を解き、額を出して官房長官室で一度リハーサルを行ったことが懐かしい。 次に、長官の胸元に額を立てるのか、両手で上に掲げるのか、左右に見えるように動かすのかなど、額の掲示方法についても長官番の記者や、官邸報道室はじめ多くの方から意見をいただき、長官に意見具申させていただいた。当時、お世話になった方には改めて感謝したい。 ところで、長官からの二つの宿題はどうなったかと言えば、まず元号が発表前に漏れることはなかった。そして「平成」の元号については、多くの国民が「安定」「明るい」「発展」というプラスイメージの評価で直後の電話調査(読売)では好感度61%(非常に好感27%、多少好感34%)であった。この報告に、小渕長官もほっとされておられた。そのお顔は今も忘れられない。なお、1カ月半後の調査では好感度は69%にはね上がった。 忘れられないのは、元号発表直後から官房長官(秘書官)のところに、複数の大臣や党の幹部など政財界の大物著名人から「記念にしたいので、ぜひ平成の揮毫をいただけないだろうか」との電話が鳴り続けたことである。ラジオ発表ではこういう現象は起こらなかったであろう。テレビの影響力を実感した瞬間でもあった。 2019年5月1日に、皇太子様が新天皇に即位するのに伴い、元号が今、再び話題になっている。これを受け、国立公文書館は所蔵品の「平成」の書の「平成クリアファイル」グッズ化を決め販売を始めたところ人気上々だという。「平成」の人気、今昔物語である。国立公文書館が販売している小渕官房長官が新元号の発表会見で掲げた「平成」の書のクリアファイル 当時、竹下内閣は、消費税の初導入と新元号制定という二大事業を成し遂げ、緊張の合間を縫って総理主催の官邸内幹部ら内輪の慰労会が行われた。その席上で竹下総理は、一国の総理たる気概・政治理念を熱く語った後、隣の小渕長官を見ながら「俺は消費税で『名』を残したが、この小渕は元号で『顔』を残した」と言って皆を爆笑させた。 テレビでは連日、元号発表報道がなされ、小渕長官には「平成おじさん」の異名が付いていたことは先に述べた。鎌倉時代の説話集『十訓抄』に「虎は死して皮を留め、人は死して名を残す」とあるが、映像時代にあっては、「皮」と「名」に加え、「顔」も付け加えなければならないだろう。■新元号をめぐる「タブーなき議論」こそ平成と昭和の差である■こうして元号は「時代を映す鏡」になった■67年前、日本は「元号」を奪われる最大の危機にあった

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    幕末幻の元号「令徳」が示す改元のインパクト

    後藤致人(愛知学院大文学部歴史学科教授) 元号とは、漢字と数字を組み合わせて、天皇の在位期間を基準にした政治的紀年法の一つである。ただ、明治に一世一元制を採用する以前は、災異や大変革が起こるといわれる年「辛酉(しんゆう)革命・甲子(かっし)革令」に基づく改元があった。 現在、元号は日本にしか存在しない。元号は、漢字と数字の単純な組み合わせではなく、そこに皇帝・天皇・国王の在位期間という要素が必要条件となる。元号とは、君主が時を支配するという思想に基づいた暦年法なのである。現在、漢字文化圏で君主制の残っている国は日本しかないため、元号もまた日本にしか存在していない。 中華人民共和国では公暦を使っており、これは西暦と同じである。台湾では、民国何年という数え方をしている。漢字+数字なので、一見元号のようであるが、これは元号ではない。1911年の辛亥革命で清朝が滅び、中華民国政府成立した1912年から数え始めた年の数え方であり、君主制とは関係がないので、元号とはいえない。 元号は、中国の漢代から始まっている。それが漢字文化圏に広がっていくのだが、日本では大化の改新で有名な「大化」から始まる。ただ、途中元号が建てられなかった時期があり、今日まで連続して元号が建てられるようになったのは、大宝律令で有名な701年の「大宝」が最初となる。律令体制は文書主義であり、文書に記述するため、より正確に時を記述する必要があったのであろう。 朝鮮では、日本の大化の改新より約100年前から新羅(しらぎ)暦が存在していた。ところが、その後独自の元号は持たず、中国暦を使用している。これは、新羅は中国唐の力を借りて、悲願の朝鮮半島統一を成し遂げたことに由来している。 唐を宗主国として立てる必要があり、そこから独自の元号である新羅暦を廃止したのである。以後、高麗(こうらい)王朝も朝鮮王朝も一時期を除いて独自の元号を持たず、中国暦を使用した。「大化の改新」の孝徳天皇をまつる豊崎神社=大阪市北区(木戸照博撮影) ところが、19世紀末に突如朝鮮暦は復活する。これには当時の国際状況の激変が背景としてある。19世紀後半、東アジア的な国際秩序が揺らぐ中で、ヨーロッパ的な国境概念が入ってきた。 日本は明治維新後、ヨーロッパ的国境概念に転換するが、中国の清は伝統的な中華思想を維持し、内国とは別に、朝鮮やインドシナ、チベットは属国(朝貢国・藩部)として位置づけていた。 この清による属国概念に、まずフランスが挑戦した。インドシナを舞台に清仏戦争でフランスが勝利すると、清による属国を否定した上で、インドシナを植民地とした。 朝鮮半島では、日本がこの属国概念に挑戦し、1894~95年の日清戦争で勝利すると、下関条約で朝鮮の独立を清に認めさせた。その結果、1897年に清の属国ではない大韓帝国が成立し、元号も建てられたのである。満州にも独自の元号 1896年、太陰太陽暦からグレゴリオ暦に転換するときに元号「建陽(けんよう)」が建てられ、清の元号から独立し、1897年大韓帝国成立とともに、「光武」に改元している。しかし、この大韓帝国の元号は1910年韓国併合によって消滅した。 「満州事変」後に成立した満州国でも独立した元号が建てられている。1932年3月、満州国が建国され、清朝最後の皇帝、溥儀(ふぎ)を「執政」の地位につけ、元号を「大同」とした。そして、1934年3月、溥儀が満州国皇帝に即位し、これをきっかけに元号を「康徳」に改元している。 満州国は事実上日本が実権を握っている国ではあったが、植民地ではなく、君主制を敷いていたため、元号が時を数える暦年として存在していたのである。「康徳」は、満州国滅亡まで続いた。 元号に使われる漢字には、時にメッセージが込められている。室町幕府15代将軍、足利義昭は、室町幕府の復興を祈念して「元亀」という元号を天皇に奏請している。 しかし、織田信長はこの元号を嫌い、1573年義昭を畿内から追放し、事実上室町幕府を滅ぼすと、改元を促した。そして、信長の旗印「天下布武」にちなみ、「天正」としたのであった。 幕末の元号にも、メッセージ性の強いものがある。ペリー来航以降の元号を並べてみよう。「嘉永(かえい)」・「安政」・「万延」・「文久」・「元治」・「慶応」・「明治」・「大正」・「昭和」・「平成」。どれが最もメッセージ性の強い元号か、分かるだろうか。満州国建国 満州国皇帝・愛新覚羅溥儀(左)と乾杯する武藤元帥(右) 「明治」は、その改元手続きが画期的であったことが知られている。明治天皇が東京へ行幸するのを前に、天皇代替わりに基づく改元を行うこととなった。このとき岩倉具視は一世一元を主張、あわせてそれまで行われていた公卿(くぎょう)による議論を繰り返す難陳(なんちん)という手続きの廃止を求めた。 この提言に基づいて、文学・史学の漢籍を専門とする「文章(もんじょう)博士家」である菅原氏らの勘文(かんぶん)の中から、議定の松平慶永が2、3の良案を選定して上奏した。 そして天皇は宮中の賢所(かしこどころ)でそれをくじで選び、明治の改元を行ったのである。天皇がくじで決めた元号というのは、このときをおいて他にない。ただ、「明治」という元号自体は、メッセージ性の強いものではない。 元号に使う字は、何でもいいわけではない。もちろん縁起の良くない字は不可であるし、国や時代によっても使う漢字の傾向は異なっている。近世以降の日本では「長く、平和で、安定した世の中が続きますように」というニュアンスの文字が並ぶことが多い。幻となった「令徳」 「嘉永」は、「嘉(よろこ)ばしく、永遠に」というニュアンスであるし、「安政」も「安定した政治」と解される。「万延」も「万のように永遠に」など、「平和で安定した政治」という意味合いのものばかりである。 ところが、「元治」は違う。「元」も「治」も元号ではよく使われる漢字ではあるが、これを組み合わせると、「元(はじま)りの政治」となり、新政府を宣言するメッセージが現れるのである。 この元号は、実は第2候補であった。本当はもっとメッセージ性の強い元号になるはずだったのだ。それは「令徳」である。この元号の衝撃度は、お分かりだろうか。レ点を付けて読めば、「徳川に命令する」となり、これからは朝廷が幕府よりも上位の世の中となる、ということを露骨に世間に宣言している。 江戸時代、改元手続きの主導は事実上幕府にあったが、この元号を主導したのは朝廷であった。1862年勅使関東下向によって文久の幕政改革が進み、その後1863年、将軍・諸大名が上洛(じょうらく)した。 幕府は安政の大獄の失政を謝罪した上で孝明天皇に忠誠を誓い、天皇・公家に対する武家側の儀礼が朝廷を上位として改善された。改元に関しても、幕府側の露骨な介入がはばかられたのだ。 1864年、甲子革令に基づく改元を行うとき、朝廷では「令徳」と「元治」が候補に挙がり、「令徳」が第1候補だとして、関白から幕府に内談があった。二条城二の丸御殿で再現された大政奉還のようす=2017年10月、京都市中京区(寺口純平撮影) 老中らは、「徳川に命令する」意味に解されるとして難色を示したが、老中からの申し立てはできかねる、と松平慶永に関白らへのあっせんを求め、第2候補の「元治」に決定したのであった。江戸幕府が相当苦慮していたことがうかがえよう。江戸幕府にしてみれば、「元治」もメッセージ性を含んではいるが、「令徳」だけは避けたかったのである。 こうして元号の歴史を考察してみると、「文久」と「元治」の間に、大きな政治的な変化があったことが分かる。1863年に将軍諸大名が上洛して以降、武士の間では「皇国帝都」という言葉が流行していた。つまり、日本は天皇を戴く国であり、帝のいるところが首都であるという考え方が広まっていたのである。 近代天皇制国家の出発は、必ずしも明治維新ではないのではないか。元号の歴史は、そのことを暗示している。■こうして元号は「時代を映す鏡」になった■67年前、日本は「元号」を奪われる最大の危機にあった■新元号をめぐる「タブーなき議論」こそ平成と昭和の差である

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    天皇大権を蔑ろにする「元号の事前公表」黒幕は誰か

    はさておき、そもそも元号の事前公表とは、どういう問題なのか。明治維新に際して一世一元の制が定められ、皇室典範で成文法化された(旧典範第12条)。だが、敗戦の際に旧典範は廃止され、その後は慣習法が元号の法的根拠となった。 やがて学界と言論界を中心に元号廃止運動が盛り上がり、対抗する形で保守陣営が元号法制化運動を進め、法制化された。成文法でも根拠を持った形になる。現行の元号法は2条しかない、短い法律だ。【元号法】第一条 元号は、政令で定める。第二条 元号は、皇位の継承があつた場合に限り改める。【附 則】 第一項 この法律は、公布の日から施行する。第二項 昭和の元号は、本則第一項の規定に基づき定められたものとする。 最初の元号である「大化」以来、元号が事前に公表された先例はない。皇室を論じる場合に最も大事なのは、先例である。皇室において、新儀は不吉である。新儀はやむ得ない場合に行うものであり、自ら行うものではない。 そうした日本国憲法どころか帝国憲法よりも以前から存在する皇室の慣習法を知らずとも、現行元号法のどこをどう読めば、元号を事前公表できるのか。 昭和から平成への御世代わりを思い出してみよ。1年間、昭和天皇のご病状は悪く、政府は「その日」に備えて新たな元号を用意していた。しかし、昭和64年1月7日の崩御まで公表は差し控えられた。同日、当時の小渕恵三官房長官が「平成」の元号を公表したのを昨日のごとく思い出す方も多いだろう。システム上の問題など、特になかった。 当時の竹下登内閣は、日本人としての道理を知っていた。竹下登と言えば中国に日本を売り飛ばした極悪人であり、闇将軍として次々と傀儡(かいらい)の総理大臣を挿げ替え平成の最初の10年を汚してくれた大悪党である。その竹下ですら、元号の事前公表などという暴挙は行わなかった。その暴挙を、保守を自認する安倍内閣が行おうとしている。 一世一元の制においては、元号は新帝の贈り名となる。だから、新帝の名で公表されるのだ。現行憲法では使われない用語だが、改元は天皇の大権なのである。一世一元の制において新帝践祚(せんそ)に際してのみ元号が公表されることにより、現行憲法改元大権は健在なのである。元号法第2条こそ、改元大権の規定なのだ。全国障害者スポーツ大会の開会式に出席された皇太子さま=2018年10月、福井市 どうしても事前公表したいのなら、元号法を改めるなり、一世一元の制をやめるなりすればよい。正当な手続きである、新規立法により行うべきだ。 わが国の国体とは、皇室と国民の絆である。その国民による選挙で選ばれた国会議員が法律を変えたいと言い出した時、止める方法はない。仮に元号の事前公表のために元号法を変えるなら、一世一元の制を廃することとなる。蔑ろにされた天皇大権 一世一元の制など150年の伝統しかないのだから、それ以前の先例に従い、天皇崩御に際して贈り名を熟議すればよい。結果として新帝の贈り名が先帝の御世に公表された元号であっても、この方法なら天皇の改元大権を傷つけない。今回で言えば、平成の間に元号を公表し、その元号が新帝の贈り名となっても、たまたま新帝が改元をしなかったというだけの話になるので。 今上陛下の御譲位が決まってから、1年もあった。新規立法の時間など、十二分にあった。政府が新元号を早めに公表したいのなら、国会に元号法の改正案を提出すればよかったのだ。ところが、何を今さら?安倍内閣は解釈により「事前公表は可能」との立場を採る。 なぜ、国会による立法ではなく、政府による解釈で乗り切ろうとするのか。これは安倍内閣の不手際のように見えるが、違う。陰謀である。改元大権を干犯しようとする黒幕の。 この場合の政府とは、安倍晋三でも杉田和博でもない。法律の解釈権を握る者だ。ここまで書けば、賢明なる読者諸氏には黒幕が誰か明らかだろう。  内閣法制局長官、横畠裕介である。  内閣法制局とは、憲法を頂点とする日本国の法令のすべてに対する解釈権を持つ。政府が国会に提出する法律は、法制局の審査(つまり許可)がなければ、閣議決定されない。今の日本国に、法制局の見解に逆らえる政治家と官僚は、一人もいない。その法制局は「天皇ロボット説」に固執し続けている。今上陛下の譲位に際しても徹底的に抗い続け、「天皇の意思による譲位はさせない」との立場を貫いた。衆院憲法審査会の参考人発言に対する政府見解について説明に臨む横畠裕介内閣法制局長官(手前)=2015年6月、国会内(酒巻俊介撮影) 今回、法解釈による元号の事前変更を安倍内閣にさせようとしている。安倍内閣の意思だけで、そんな大それたことができるわけがない。法制局の見解がお墨付きを与えていないはずがない。もしかしたら、安倍内閣の閣僚は、誰も事の重大性を分かっていないのではないか。改元大権を干犯しようとしていること、大化以来の先例を蹂躙(じゅうりん)しようとしていることの重大性を。 立法ではなく法解釈により改元前に事前公表すると、天皇の元号ではなく、政府の元号となる。新たな元号の下で、皇室も、政治家も、政治家を選んだ国民も、法制局の権威の下で生きていくということだ。 安倍内閣に申し上げたい。今からでも遅くはない。元号の事前公表など、はっきりやらないと宣言すべきだ。 確かに元号は常に時の権力者に左右されてきた。その意味で、改元大権は最も蔑(ないがし)ろにされた天皇大権の一つである。それでも、皇室は今まで生き残ってきた。だから、今回も改元大権が蔑ろにされたところで、天皇にも皇室にも傷はつかない。 しかし、これだけは言っておく。蔑ろにした者は、逆賊だ。(文中一部敬称略)■67年前、日本は「元号」を奪われる最大の危機にあった■日本人に覚悟を問う「皇室は民主主義のロボットではない」■皇室の未来と「象徴」の地位を縛りかねない陛下のお言葉

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    新元号の決め方と情報漏れ防ぐための厳し過ぎる掟

    る。 「今回はご譲位のため、新元号を予想することは決して不敬には当たらないと思います。むしろ、国民が皇室を身近に感じることができる絶好の機会ですので、新元号について広く議論が交わされるのがいいのではないでしょうか」(鈴木氏)著名人も続々と予想や希望を出す 実際、譲位決定後、多くのメディアで新元号についての議論が巻き起こっている。 例えば、2017年12月11日放送のラジオ『東京ポッド許可局』(TBSラジオ)では、マキタスポーツ(47才)、プチ鹿島(47才)、サンキュータツオ(41才)の芸人3人が新元号談議に花を咲かせている。過去に「貞治」という、王貞治の名を使った元号が存在したことから、平成のホームラン王・松井秀喜から取った「秀喜」やスクープを連発する『週刊文春』から取った「文春」といった独自の案を披露した。 昨年12月24日に放送された『ワイドナショー』(フジテレビ系)では、ダウンタウン・松本人志(54才)が「ぼくやっぱりベタに『志』って好きなので」と自身の名前の一文字を使った新元号を希望。 『週刊ポスト』(2017年6月30日号)では、中国の唐の時代の法律を基に日本で編纂された書に出てくるめでたい言葉から取った「景星」などが予想されている。 また『めざましテレビ』(フジテレビ系)でも「幸せに成る」という意味の「幸成」などの街の声も紹介している。 一方で、名前の一部に「平成」が入っている「Hey! Say! JUMP」やお笑いコンビ「平成ノブシコブシ」のためにも、「変えなくていいのでは」という意見も上がった。 今や新元号は国民の関心事となっており、今後、さらに議論は白熱していくだろう。関連記事■ 新元号 頭文字がM・T・S・Hと異なるKが有力との説も■ 朝日vsNHK、そして政治部vs社会部 新元号スクープの戦い■ 11月の眞子さまご結婚で、第二次佳子さまフィーバーも■ 2019年新天皇即位で「平成31年硬貨」は製造されるのか■ 天皇生前退位で新元号の準備着々、政府主導で制定へ

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    戦後に元号廃止の危機 「昭和」は法的根拠なく32年使われた

    され、朝鮮半島やベトナムもすでに使っていない。 日本でも戦後、元号廃止の危機があった。昭和22年に旧皇室典範が廃止されたときに、元号制度は法的根拠を失った。「昭和」は法的根拠がないまま使われていた期間があったのだ。 法的に“復活”したのはそれから32年後の昭和54年である。元号法が成立し、平成6年に「公文書の年表記に関する規則」ができ、公文書では原則、元号を用いると決められた。改元を前に、そうした歴史があったことも知っておきたい。●ふじい・せいどう/1955年生まれ。23歳で第1回「星新一ショートショート・コンテスト」入賞。これを機に作家・脚本家・放送作家として現在も活動中。関連記事■ 「改元」の残念な歴史 2か月で改元、15年の空白期間など■ 眞子さま「破談」となれば小室さんに1億円以上の解決金か■ 結構適当な「改元」 奈良時代には「亀」で4回決めた例も■ 小室圭さん、秋篠宮邸を訪れても眞子さまと会えず門前払い■ 美智子さま 史上初「退位行事」への静かなるご決断

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    平成の代替わりを仕切った石原信雄氏が語る「平成後」の変化

    来年の天皇の代替わりは、過去3代とは違う。崩御ではなく、今上天皇の意思表明によって、約200年ぶりに皇室典範に定めのない譲位(生前退位)という形式で行なわれる。「昭和から平成に時代がかわるとき、昭和天皇はそれ以前からずっと重篤な状態でした。崩御されたら、われわれ行政は次の瞬間から元号やら何やら具体的な準備をすぐ進めなければならない。でも、天皇陛下が崩御されることを前提に行政が動いているなんていうことを公にはできなかった。 今回の代替わりは一応法律をつくって行なわれることではありますが、発端は今上陛下の率直なお気持ちの表明からであったことは誰もが知っています。ですから、政府には今後の手続きも本当にオープンに進めてほしいと思います」〈天皇が健康を損ない、深刻な状態に立ち至った場合、これまでにも見られたように、社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます〉動き始めた“平成後” 2年前にそう述べられた天皇のお言葉から始まった譲位の動きは、それがオープンに進められてきたが故に、国民は近づく平成という時代の終わりを日々感じながら、新しい時代に向けた不安と希望に心を波立たせているのだ。動き始めた“平成後” 果たして“平成後”は国民の意識、生活、社会にどんな変化が起きるのだろうか。石原氏に問うた。「平成という時代は確かに『内平かに』という国内の平和は実現できましたが、国際的にみると中東や北朝鮮の問題があり、世界の秩序は揺れ動いている。次の時代の日本の課題でしょう。 そして国内的にも平成という時代はこの国の将来に大きな負の財産を残している。一つは赤字国債の乱発で国はたいへんな借金を抱えてしまった。子や孫たちに申し訳ない。平成は地震、台風など自然災害も多発し、これに備える国づくりもこれからです。 こうした負の財産を解決できずに次の次の時代にまで持ち越すことだけはやってはいけない。大切なのは、国民の一人一人が能力に応じて社会を支えるための負担に向き合うことではないでしょうか。 私の生まれた頃は3世代同居の大家族が当たり前、兄弟はライバルで支え合う仲間でもあった。また、昔の地域社会では子供が悪いことをすれば近所のおじさん、おばさんが叱ってくれた。そういうことが本当になくなってしまった。平成の課題を解決するには、日本社会が地域や家族の絆を復活できるかどうかがカギを握っているように思える」関連記事■ 小室圭さん、看板のない個室マッサージに月2回通う■ 雅子さま、ご成婚25周年で会見を開かれなかった本当の理由■ 小室圭さんの留学先が異例の優遇、ロイヤルパワーの濫用か■ 新元号発表から大嘗祭まで 天皇退位と即位に関する日程■ 眞子さまと小室圭さん、6か月間デートしていない状態

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    秋篠宮さま「宮内庁に叱責」の深意

    新天皇の即位に伴う皇室行事「大嘗祭」の公費支出をめぐり、秋篠宮さまが天皇家の私費で賄う具体案を提示していたことが明らかになった。先の会見では「宮内庁が聞く耳を持たなかった」とも述べられ、同庁が火消しに回ったことは記憶に新しい。秋篠宮さまの発言の深意を読む。

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    日本人に覚悟を問う「皇室は民主主義のロボットではない」

    れ、今や名ばかり経済大国にまで落ちぶれようとしている。しかし、すべてを失ったとしても、わが日本国には皇室がおられる。国民が皇室を守る限り、日本は何度でもよみがえるのだ。今までだって何度も危機を乗り越えてきた。 だから、お世継ぎ問題こそはすべてに優先する日本国の最も重要な課題なのだ。これは、単なる宮務ではなく、国の命運がかかった国民全体の関心事であると自覚しなければならない。 ここで、皇室を守るためにこそ、不吉を承知で申し上げたい。「皇室を滅ぼす最も手っ取り早い方法」を。悠仁親王殿下の結婚を可能な限り遅らせ、ご公務漬けにして子作りの時間をなくさせる。 さて、今の宮内庁がこれをやらないという保証を、誰ができるというのか。もちろん、宮内庁の職員諸君全員が皇室を滅ぼしたいわけではなかろう。しかし、今のお役所仕事の宮内庁に任せておけば、間違いなくこうなる。そして、それをやめさせよう、ご公務を軽減してお世継ぎづくりに専念してもらおうとする者の動きを妨害だけしていればよい。そうすればどうなるか? 皇室は滅ぼせる。 悠仁親王殿下に男の子ができないと明確になったときこそ、女系天皇の出番だ。そのときになれば、「今までの伝統である男系男子は維持できなくなった。皇室維持のためには、皇室と血のつながる女性に皇位を継いでいただき、その御子孫に皇位を継承していただきたい」と言い出す者も出てくるだろう。 まさか、女系を実現したいがために、悠仁親王殿下のお世継ぎづくりを邪魔する者など、宮内庁にはいないと信じたい。だが、信じられる根拠がないのも、また確かだ。 さて、ここまで書くのにも尋常ではない決心をした。庶民であっても、他人の家庭の子作りに口を出すなど、非礼だ。まして、ことは皇族の方々のお世継ぎである。だが、先日の秋篠宮殿下の記者会見を拝聴し、今まで書くのをためらってきたお世継ぎ問題について言及する覚悟を決めた。該当部分を引用する。チリ訪問から帰国された秋篠宮ご夫妻 =2017年10月、羽田空港(代表撮影) 「今、宮内庁として考えていることは、いったん全て皇太子殿下のお仕事を宮内庁の方で引き取って、それを整理して、それで次に私がどのものをその後行っていくか、というのを検討しているところです」 私はこの発言を聞いて、秋篠宮殿下は尋常ではない覚悟で発言されたと直感した。もし、私が皇室を滅ぼそうとする勢力の手先なら、こういう論陣を張るだろう。 「皇室の方々がご公務を引き受けてくださることで、多くの国民が喜び、皇室と国民の絆が強くなる。また、今上両陛下は、皇室と国民の絆を守るために、多くのご公務をなされてきた。ご公務軽減と言うが、簡単な問題ではない」と。公務見直しは重大事 もしかしたら、善意でそういう発言をする人も出てくるかもしれない。しかし、大日本帝国の末期のコミンテルン(国際共産党)の手口を思い出してほしい。「普段は何もしない。組織的、国家的に愚かな振舞いをしているときは、見ているだけで良い。正論が通りそうになったときだけ邪魔すればいい。それが成功すれば、気配を消せばいい」だった。 そして共産主義者で知られる尾崎秀実は、スパイ容疑で逮捕されるまで、熱狂的な愛国者を装っていた。尾崎の言論に煽(あお)られた大衆は熱狂し、泥沼の支那事変に突き進んでいった。「いったい、何のために戦っているのだ? 何を達成すれば、この事変は終わるのだ?」という当然の疑問の声はかき消された。 確かに、支那事変の尾崎は過去の話だ。だが、未来のお世継ぎ問題でこれをやらないという保証はどこにもない。お世継ぎ問題より大事なご公務とは何か。お世継ぎ問題は、すべてに優先する最優先事項ではないのか。そういう声がかき消されないなら、日本はとっくに正論が通る世の中になっている。 そもそも、今上両陛下の場合は、男子がお二人いらっしゃる。おそれ多くも、一身に皇室の存続を背負われることになる悠仁親王殿下の場合とは、事情が異なりすぎる。東宮となられる秋篠宮殿下が、皇太子殿下のご公務をすべてお引継ぎになられたとしよう。将来、悠仁親王殿下が東宮となられるとき、そのすべてを引き継ぐことになるのか。そうなれば、お世継ぎづくりに御専念できなくなるではないか。 秋篠宮殿下の立太子においてご公務を見直すというのは、極めて重大事だと見なすべきだろう。秋篠宮殿下のご発言を受け、マスコミは「お婿さん問題」に集中しているが、どうでもよろしい。それよりも、はるかに重要な発言を殿下はなされた。 秋篠宮殿下は「宗教色が強い行事は国費で賄(まかな)うのは適当かどうか。内廷会計で行うべき」との趣旨を仰られた。この発言の後に「大嘗祭(だいじょうさい)は絶対に行うべき。身の丈に合った儀式にすれば。これを宮内庁長官は聞く耳を持たなかった」と続く。 中には「皇族は黙ってろ」「政府に逆らうな」と言わんばかりの人もいるが、その根拠は何なのか。 譲位に関する「玉音放送」(なぜかビデオメッセージと称されている)に際し、共産党まで含めて陛下にひれ伏したというのに、一部の保守の輩(やから)だけが陛下に対する罵倒を繰り返した。陛下の慰霊の旅を罵(ののし)る宮司、「天皇は安倍政権の邪魔をするな」とわめいた雑誌編集長…。いつからわが国は、皇室に対して弓を引く人間が保守を名乗るようになったのか。象徴としてのお務めについての「お気持ち」をビデオメッセージで表明される天皇陛下=2016年8月(宮内庁提供) 自称保守が殿下に対し不敬をなすなら、私はその者どもを逆賊と呼ぶ。昔は皇族に対し物申すなど命懸けだったが、日本国憲法のおかげで軽くなったものだ。連中に救いがないのは、自分が誰に操られているかも理解していないことだ。たいていの自称保守、特に「天皇や皇族は黙っていろ」と言っているような安倍応援団は、自分の言っていることが分かっているのか。 両陛下や皇族は黙っていろというのは、「天皇ロボット説」だからだ。東大教授の宮澤俊義が「天皇は盲判を捺すロボット」と教科書で言い出し(『コンメンタール全訂日本国憲法』74頁。原文ママ)、内閣法制局長官の吉国一郎が政府の有権的解釈にした(昭和50年11月20日参議院内閣委員会答弁)。 一部の保守が主張する「天皇や皇族は黙っていろ。安倍さんの邪魔をするな」は、いっそ「内閣法制局が決めた日本国憲法の解釈に従え」と言い直してみたらわかりやすい。そのような人は宮澤俊義が言い出した「天皇ロボット説」に洗脳されているのだから。「皇室はロボットではない」 そもそも、今の安倍内閣自体が天皇ロボット説なのだから、無知蒙昧(むちもうまい)な安倍信者たちが、そこから抜け出せるわけがない。安倍内閣も、安倍応援団も、東大憲法学と内閣法制局の走狗(そうく)なのだ。 もちろん、皇族のご発言には慎重であるべきだ。政治にかかわることに関してのご発言は、特に。発言すべきか否かと聞かれたら、私は「原則として否」と答える。しかし、「発言してはならないか」と聞かれたら、「発言して良い」と答える。今回の秋篠宮殿下のご発言は、よくよくのことではないか。特に宮内庁長官を名指しで「聞く耳を持たなかった」とまで批判された。 臣民として恐懼(きょうく)すべきである。ところが、宮内庁も政府も「困惑するばかり」と、事の重大さを理解していない。帝国憲法下ならば、即座に宮内大臣は辞表を提出したはずだ。少なくとも私が名指しされた山本信一郎宮内庁長官ならば、己の不明を恥じ、即座に骸骨を乞う。山本長官は旧自治省出身だが、歴代宮内庁長官は全員が旧内務省系官庁の出身者だ。陛下にお仕えする宮内庁の長を、単なる天下りと思ってもらっては困る。 もしかして政府も宮内庁も、今の皇室を「国民主権下で認めてやっている」とでも思っているのか。日本国憲法第一条には、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」とある。象徴天皇など、国民が認めてやっている。東大憲法学も内閣法制局も安倍内閣も、同じ穴の狢(むじな)だ。 もはや、国民ひとり一人が自覚して、皇室の藩屏(守り)たらねばならない。秋篠宮殿下の真意は私のような身には計り知れない。しかし、慮(おもんぱか)ることはできる。 大嘗祭を国の予算ではなく、内廷会計(皇室の予算)で行うべきとはどういうことか。国費で行うということは、憲法に縛られ政府の干渉を受ける。実際、過去の政府は皇室を蔑(ないがし)ろにしてきた歴史がある。昭和から平成の御世代わりの大喪の礼においては、「移動式鳥居」なる代物まで登場した。皇居、宮内庁、宮殿=東京都千代田区(産経新聞チャーターヘリから) 憲法が規定する政教分離の観点から、皇室の行事では鳥居があって良いが、国の行事ではあってはならないので、鳥居を移動させられたのだ。神道色が強い祭具はすべて撤去された。すべて政府の所業であり、何を宗教色が強いとするかの解釈も内閣法制局が一手に握る。 私すら、このような政府に皇室の最も重要な祭事の一つである大嘗祭に触れてほしくないと思う。安倍内閣とて法制局の言いなりなのだから。 そもそも論だが、連合国軍総司令部(GHQ)が皇室の財産を大幅に取り上げた。皇室はスズメの涙ほどの財産しかない。明治天皇の時代のように軍艦を作れるほどの予算が必要かどうかはともかく、約3億円の内廷費は少なすぎるだろう。これでは自然とがんじがらめにされてしまう。 何度でも言う。皇室は民主主義のロボットではない。もし、民主主義がわが国に必要ならば、それは国民が皇室を守る。それがわが国の民主主義だ。(文中一部敬称略)■憲法上の問題をはらんだNHKの天皇陛下「ご意向」スクープ■自問すべきは「日本のかたち」 国民は陛下のご意向を静かに待てばよい■「生前退位」は選択肢の一つ、 望ましくない陛下のご意向の既成事実化

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    元東宮侍従手記「秋篠宮殿下は皇室の意思を代弁するにふさわしい」

    として行われますが、大嘗祭(だいじょうさい)は宗教的色彩を有するとの観点から、国事行為としてではなく皇室の公的行事として行われます。そしてその費用は、皇室の公的な活動に充てられる公金である宮廷費から支出されることに決定しています。 他方、毎年、皇室の行事として宮中祭祀(さいし)が行われており、この祭祀のうち、最も重要な祭祀が新嘗祭(にいなめさい)といわれ、毎年11月23日に行われております。大嘗祭は、新天皇が即位したときに新嘗祭の規模を大きくした形で一世に一度挙行されるものです。 新嘗祭を含む宮中祭祀は、宗教的色彩を有するため、皇室の私的行事として行われます。そのため、その費用は、憲法の政教分離の原則から天皇および皇太子ご一家の日常の費用に充てられる内廷費から支出されております。大嘗祭も新嘗祭と同様の性格を有することから、その費用は内廷費から支出することが論理的に整合性を有するものと考えられます。 しかし、政府としては「大嘗祭については、皇位が世襲であることに伴う、一世に一度の極めて重要な伝統的皇位継承儀式であるから、その儀式について国としても深い関心を持ち、その挙行を可能にする手だてを講ずることは当然であり、その意味において、大嘗祭は公的性格があり、その費用を宮廷費から支出する」との立場であります。 実際、今上天皇の大嘗祭においてもこのような立場から、その費用は、公金である宮廷費から支出されました。来年の大嘗祭においては、前回の例を踏襲することにしております。つまり、大嘗祭は、宗教的色彩を有するものの、公的性格があることから皇室の公的行事としてとり行うとの説明がなされております。宮内庁の山本信一郎長官=2017年9月3日午前、宮内庁(撮影・松本健吾) 大嘗祭については、旧皇室典範において「即位の礼および大嘗祭は京都において行う」と規定されていましたが、現行の皇室典範においては「皇位の継承があったときは、即位の礼を行う」との規定になり、大嘗祭を行うとの規定がなくなりました。 このような状況のもと、大嘗祭を行う必要はないという意見もあれば、大嘗祭を国事行為として行うべきであるとする意見まで存在しております。政府としては、総合的に判断して「皇室の公的行事」として、その費用は、公金である宮廷費から支出するとの結論に至ったものと考えられます。「ご発言」3つのポイント 秋篠宮殿下は、11月30日のお誕生日に際しての記者会見で質問に答え、①「宗教色の強い大嘗祭の費用は、内廷費から支出すべきであり、来年の大嘗祭の費用を先例に基づき宮廷費から支出することとなったことにすっきりしない感じをもっている」、②「相当の費用がかかるけれど、できる範囲で、身の丈に合った儀式にすることが本来の姿ではないか」、③「(山本信一郎)宮内庁長官に話したが、聞く耳を持たなかったのは、非常に残念なことだった」と発言されました。 秋篠宮殿下の内廷費から支出すべきとのご発言は、上述したように政教分離の観点から論理的に導き出されるもので本来、至極正当なご見解と思われます。 他方、大嘗祭の挙行を可能にする手だてを講ずることは当然であるとする政府の見解も、過去において、経済的理由などにより大嘗祭を挙行できなかった時代があったことを想起すれば理解すべきものと思います。 ただ、素朴に考えれば、宮廷費であろうと内廷費であろうと、どちらも国の予算から出ていることに変わりはありません。従って、憲法の政教分離の原則への疑義を指摘されない内廷費から支出することの方がすっきりするものと思われます。そのために、必要に応じて、内廷費を増やすことにすればよいのではとも思いますが、果たしてこのような議論が行われたのかは分かりません。 次に、秋篠宮殿下の2番目のご指摘も重要と思われます。今上天皇の大嘗祭の時は、一晩限りの大嘗宮を建設するのに、14億5000万円かかり、その他の費用を入れると全体で22億5000万円かかったとのことです。来年の場合にはもっと増えるかもしれません。53歳の誕生日を前に開かれた記者会見で、記者の質問に答える秋篠宮さま=2018年11月22日、東京・元赤坂の秋篠宮邸(代表撮影) 今上天皇は、ハンセン病患者や自然災害の被災者をお見舞いするなど社会的弱者や困難な立場にいる人々に心を寄せられてきております。また、国民に負担がかからないようとのお気持ちを持たれ、自らのご陵についてさえ経費削減を求められております。 質素とお慎みを旨とされておられるのです。そんな今上天皇をはじめ皇室の方々が、皇室行事として行われる大嘗祭に多額の国費が使われることに対し、どうお考えになっておられるでしょうか? 秋篠宮殿下の「身の丈に合った儀式とする」といったお考えに賛同する人が多いのではと思われます。宮内庁の意志疎通不足 1990年の大嘗祭の際につくられた大嘗宮は、大嘗祭の後、しばらく一般公開されました。私は当時、即位の礼の準備などに携わっており、大嘗宮を近くから見る機会がありました。14億5000万円もかけて作ったものを一晩だけ使用して取り壊してしまうことに、何ともったいないと思ったものです。 秋篠宮殿下の3番目のご発言、「宮内庁長官は聞く耳を持たなかった」との点については、お二人の会話がいかなるものであったか承知していないので、コメントしようがありません。宮内庁長官は「聞く耳は持っている」とし、「さまざまな議論がされた結果として宮廷費から支出することになった経緯などをご説明申し上げたが、そのようにお受け止めになられたのであれば、申し訳なかった」と述べております。 殿下が記者会見でこのようなご発言をされることにならないよう、十分な意思の疎通が図られればよかったものと考えます。いずれにしても、政府としては、改めて何らかの対応をすることは考えていないとの立場です。 秋篠宮殿下は「国事行為に関しては、何か発言することはできないけれど、皇室の行事に関してはある程度、私の考えというものもあっても良いのではないかと思っています」とも述べられております。 皇室のことについて、皇室の中の方が思ったことを述べられることは、あってしかるべきものではないかと思います。おそらく、秋篠宮殿下は皇室の意思を代弁される立場にふさわしいのかもしれません。皇室の中からのお気持ちについては、やはり、真摯(しんし)に対応することが望ましいのではと思います。皇居・東御苑に設営された大嘗宮(だいじょうきゅう)=1990年11月(共同) 以前、秋篠宮殿下は、2011年11月のお誕生日に際しての記者会見において、天皇の高齢化を念頭に、定年制などを検討すべきではないかと発言されたことがありました。このようなご発言に対して、周囲が積極的に対応したのかについては、疑問が残ります。結局、その後2016年8月8日に天皇陛下のビデオメッセージがあり、来年4月30日に退位することになった次第であることを最後に付記しておきます。■ 元東宮侍従手記「小室圭さんを興味本位で論評すべきではない」■ 大嘗祭は皇室の「家庭行事」 秋篠宮さまが問題提起した意味■ 大嘗祭、公費支出に疑義「秋篠宮さまは少し勘違いされている」

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    秋篠宮さまの戸惑い「聞く耳を持てない」宮内庁の裏事情

    篠宮さまの「戸惑い」に一定の理解を示している識者も多い。 問題は、そうした発言を記者会見という場で、皇室に最も身近な立場にいる宮内庁の山本信一郎長官に対し「聞く耳を持たなかった」と述べたことにあろう。直後、山本長官も「ちょっとつらいが、そう受け止められたのであれば申し訳ない」と、突然の「お叱り」に動揺した。 また、日を置いて、宮内庁の西村泰彦次長も「大変申し訳なく感じています」と詫びた。その後、秋篠宮さまも言葉が過ぎたと語ったと伝えられる。宮さまと宮内庁とのこうしたやりとりは、国民の多くに、宮さまと宮内庁の間の意思疎通はどうなっているのだろうかとの疑念を抱かせた。2018年11月29日、水産功績者表彰式後、記念のパーティーに出席された秋篠宮さま 秋篠宮さまと山本長官との間で、日ごろからさまざまな事柄についての会話が全くなかったわけではないだろう。会話はあったが、その会話は、秋篠宮さまと山本長官が、お互いの話を公的な場の公的発言として、受け止め合うことができなかったのだろう。 そもそも、宮内庁長官が皇族の発言を公的に受け止めて、それを政府に伝え、その内容を吟味して、妥当性があれば、具体的な対応を進めるというシステムは、現在の皇室にはない。かつて、昭和天皇の時代には、天皇の私的な相談に応じる参与的存在がいた。彼らは宮内庁幹部や政府要人との間のとりつなぎ役として、皇室が抱える問題などを円滑かつ合法的に処理する機能を果たしていた。突然ではなかったお言葉 首相経験者でもある吉田茂、かつての内大臣であった木戸幸一、慶応大学塾長であった小泉信三ら、錚々(そうそう)たるメンバーが皇室と政府の間の問題解決に尽力していた。このため、天皇や皇族方の発言は、時にスクープによって取り沙汰されることもあったが、公の場で突然「吐露」されることは少なかった。 「吐露」という意味では、天皇はじめ、皇室の方々との記者会見は、もっとも「吐露」しやすい場であった。想定された質問ではあっても、記者をはじめ、その会見を楽しみとする多くの国民は、生で語られる天皇や皇族方の発言から、日ごろ知ることができない皇室の内部事情などに触れることができ、そのことに心をときめかせてきたのである。 憲法が天皇の政治的発言を禁じているため、その条文が敷衍(ふえん)され、皇室の方々が「政治の裳裾(もすそ)」に触れる発言があった場合、「憲法違反」のレッテルで一蹴されるのが、従来のパターンであった。とはいえ、記者会見では時に、皇室の方々の回答が「政治の裳裾」に触れかねない質問を、あえて行っているふしもあった。 今回の秋篠宮さまの誕生日会見でも「長女の眞子さまと小室圭さんの問題」、「代替わりの行事や儀式についての考え」を問われていた。そうした問いにも、秋篠宮さまは言葉を選びつつ、誠実に答えようとしていた。その結果、「政治の裳裾」に触れざるを得ない発言となってしまった面がある。 だが、どうして、記者会見前に宮内庁幹部は秋篠宮さまの胸中を知ることができなかったのであろうか。宮内庁幹部の誰もが初めて聞いた「寝耳に水」の発言だったのだろうか。 そうではあるまい。秋篠宮さまは、日ごろから胸中を述べていたのだ。事実、会見でも「宮内庁長官などにはかなり私も言っているんですね」と話している。そして「言ってみれば、まあ、話を聞く耳を持たなかった」と語ったのである。 秋篠宮さまは日ごろから何度も胸中を述べていて、山本長官もおそらく聞いてはいたはずだ。しかし、それは私的な雑話か公的な進言か、区別がつかない場でのやりとりだったのだろう。2018年10月30日、高円宮家の三女絢子さんの皇籍離脱を皇統譜に登録する宮内庁の山本信一郎長官=宮内庁書陵部(代表撮影) 皇族が宮内庁長官に、その胸中を述べる公的なシステムはない。そして皇族の胸中を聞いた宮内庁長官が政府に、その具体的解決を求めるシステムもない。「どちらが悪い」話ではない ある識者は「皇族方も自由な発言を持つだろうが、それは皇室会議で述べるのがいい」と提案していた。示唆的な案である。 しかし、現実の皇室会議は皇室に入られる女性の婚姻の可否を決める際に開かれることが多く、先の今上天皇の譲位についても、政府の方針が固まってから国民の同意を得る法的な必要上で開かれたのである。「皇族方の胸中を吐露していただくために」、議長がしばしば皇室会議を招集するわけにもいくまい。 戦後も70年以上たって、憲法制定当時には想定できなかった諸問題が皇室を取り巻いている。皇室の方々が、新たに生起する現代的な諸問題に誠実に対応するには、独りその胸中に秘めているだけでは済まないだろう。 しかし、発言する公的な場がないために、その言葉は聞き流されるし、聞いた宮内庁長官もうかつには動けない。そうした時間が蓄積されて、あるとき、記者会見の場で突然の「吐露」となるのだろう。 だが、実は突然ではなかったのだ。山本長官も「聞く耳をもたなかった」のではなかった。聞いてはいるが、何もできなかったし、解決すべき問題との認識がなかった。一方、秋篠宮さまは「あれほど言っていたけれど…」との思いを深めていた。そこに行き違いがあった。 これはシステムの問題であり、秋篠宮さまか、山本長官および宮内庁幹部のどちらかが悪い、というようなレベルの議論ではない。皇族方が置かれた新時代の複雑な環境から生じるさまざまな問題への胸中を公的に受け止め、妥当性があれば、その具体的解決の道を探るシステムがない限り、今後もこうした皇族方のイレギュラーな発言は続くだろう。 これをイレギュラーとして驚き、憲法違反だと騒ぐのなら、まずは、皇室と宮内庁で非公式にせよ定期的な皇室懇談会のようなものを開き、互いの意見を交換する場を設けることが大事なのではないか。そして、その場で提案されて、具体化が必要と判断された議題は、皇族と宮内庁長官に加え、首相、最高裁長官、衆参両院議長の三権の長を交えた皇室会議のような場に提起されてはどうだろうか。2018年10月、宮内庁で開かれた皇室経済会議(代表撮影) そうすることで、変転する時代の中で、皇族方が抱える新たな問題を、適切に解決していく道を探ることもできよう。政府や宮内庁長官がそれすら考えないというのであれば、それこそ今回の秋篠宮さまの発言に「聞く耳を持たなかった」ことになるのではないか。■ 大嘗祭は皇室の「家庭行事」 秋篠宮さまが問題提起した意味■ 大嘗祭、公費支出に疑義「秋篠宮さまは少し勘違いされている」■ 眞子さま「早まった婚約」の裏にある皇族女子のアイドル化