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    陛下、靖国、富士、桜… 「日本人になりたかった」パラオ人

    した」 「日本人の戦いぶりはアジアの人々は皆知っているんですよね。それで日本を尊敬しているわけです。皇室と神社がある限り日本は倒れない。日本人が安心していられるのは、天皇陛下がおられるからですよ。天皇陛下がおられて、靖国神社があるからこそ日本は尊く、外国からも尊敬され、強い国となっています」 イナボさんの日本への思い、そして歌詞の意味を確かめるように一言一言を丁寧に歌ったテロイさんとウエンティさん。2人の心に去来するものは何か。 天皇、皇后両陛下のパラオご訪問が検討されていることに話が触れると、「最初、いらっしゃると聞いたときはだれも信じられなかった。まさかという気持ちで驚いた。天皇陛下にお目にかかれることを非常に楽しみにしている」と興奮気味に話した。先生に毎朝「おはようございます」 1914年、第一次世界大戦でコロール島を占領した日本は、ベルサイユ平和条約でパラオ共和国を20年に委任統治下に置き、2年後、南洋庁を設置した。小学校や実業学校、病院、郵便局などを設置したほか、インフラ整備も進め道路や港湾、飛行場などを建設した。法律は原則、日本の法律が適用された。 日本政府による統治は45(昭和20)年までの31年間続いた。パラオは日本の小都市のような発展を遂げ、日本人も23年に657人だったのが38年には1万5669人を数え、パラオの総人口の7割を占めた。44年時点では、パラオ人約6500人に対して約2万5千人の日本人(軍人を除く)が住んでいた。 元駐日パラオ大使だったミノル・ウエキさん(83)は「どんどん日本人が移住してきて、コロールの中心街は日本政府の出先機関やショッピングセンター、飲食業、娯楽施設が軒を連ね、『第2の東京』とさえ呼ばれた。農業や漁業などの産業も発展し、稲作やパイナップルなどの生産を促し、余剰作物は輸出に回した」と話す。 この間、日本政府はパラオ人に対する日本語教育にも力を入れ、3年間の義務教育課程である「本科」と2年間の「補習科」で構成される公学校が6カ所建設された。「先生の子と歌った」「先生の子と歌った」 日本政府の対パラオ政策の恩恵はペリリュー島にも及んだ。 ロース・テロイさん(94)によると、当時、ペリリュー島には病院が1軒あり、日本人の医者2人が常駐。日本人が経営する「シホ」という雑貨屋があり、50円で何でも買えたという。日本の会社も多く、島民は働き場所を得ていたという。 公学校は「中山」と呼ばれた山の麓にあった。戦後70年となる今、ジャングルに覆われ、わずかに門柱が残るだけだが、鉄筋コンクリート造りで、高さは5メートル近い。敷地内には畑があり、野菜を作っておいたといい、いかに立派な校舎だったか想像できる。 テロイさんのクラスメートは男女合わせて20人で、3クラスあった。パラオ人の先生も1人がいたが、日本語や日本の歌はハシモト先生に教わったという。 「夫婦で先生をしていて、奥さんは着物のときもありました。『親を大切にしよう』『ありがとうございました。どういたしましてと言おう』と教えられました。先生の2人の子供と一緒に歌ったこともあります。正月に日本人と一緒に遊んだことが今でも思い出されます」と、テロイさんは楽しそうに笑顔を見せた。ペリリュー島の日本軍司令部跡。長年の月日でツタや植物に覆われていた。一歩、踏み込むと弾痕や破壊された跡も生々しく残っていた=2014年12月11日、パラオ共和国・ペリリュー島(松本健吾撮影) マルタンサン・ジラムさん(83)は公学校跡地の門柱の前を通ると、毎朝「おはようございます」とヒラマツ先生にあいさつしていたのを思い出すという。公学校の2年生まで日本語の勉強をしたが、3年生の時、空襲で学校がなくなり、疎開した。 ジラムさんは当時を懐かしむように、「桃太郎」を歌ってくれた。「ヒラマツ先生に会いたい。優しくていい先生だった。『お父さん、お母さんを大事にしなさい』『家のことを手伝いなさい』『ありがとうと言いなさい』『困っている人がいれば手伝いなさい』と教えられた」 悪いことをすると叱られたという。「だから、私も子供が悪いことをすると謝るまで手を上げた。ヒラマツ先生に教えられたことは5人の息子に伝えてきたし、息子には子供ができたら同じように伝えなさい、と話している」と語った。新しい生活様式伝承 アマレイ・ニルゲサンさん(79)によれば、「半ズボン」「便所」「草履」「熊手」「大丈夫?」「先生」「大統領」「飛行場」「バカ野郎」「ごめんなさい」「よろしく」「面白い」「飲んべえ」「ビール」「野球」「勤労奉仕」「炊き出し」など、多くの日本語がパラオ語として定着しているという。 イサオ・シンゲオ・ペリリュー酋長(しゅうちょう)は「戦争は良くない。だが、日本は新しい生活様式を伝えてくれた。われわれの生活スタイルが近代化し、生活が向上したのは日本のおかげだと感謝している」と笑顔を見せた。ウエキさんも「統治時代の教育や経済発展を通して、パラオ人は日本人として育てられた。パラオ人は日本に感謝している。今は日本語を話すのは少なくなったが、われわれは日本に戻るべきだと考えている」といい、「天皇陛下がいらっしゃるのがうれしい」と何度も繰り返した。 イナボさんは雑誌のインタビューに「(日本人から)勉強、行儀、修身、男であること、責任を持つこと、約束を守ることを教えられた。男とは自分に与えられた義務を成し遂げる、任務を果たすことなんです。パラオは昔の日本と近い」とも語っている。 パラオの人たちの心のどこかに、日本を“親”“身内”のような存在ととらえているのではないだろうか。そして、パラオには日本以上に日本の心が生きているではないか-。そんな印象を抱いた。(編集委員 宮本雅史)関連記事■ 元特攻隊員が語る「日本人」としての戦い■ 百田尚樹がどうしても伝えたかった「奇跡の世代」への熱い想い■ 大切にしたい日本の美徳

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    もう一つの「終戦詔書」 ―国際条約の信義を守る国、破る国

    正論2005年9月臨時増刊号「昭和天皇と激動の時代[終戦編]」より再録※肩書、年齢等は当時のまま小堀桂一郎(東京大学名誉教授)(一)終戦の日付 普通「終戦の詔書」と呼ばれてゐるのは昭和二十年八月十四日の日付を有し、翌八月十五日正午に昭和天皇御自身による御朗読の録音を以て全国民に向けて放送され周知徹底せしめられた、あの歴史的文書である。詔勅集成として最も大部であり校訂上の権威を有すると思はれる森清人撰の『みことのり』の中ではこれは「大東亞戰争終結の詔書」と題されてをり、それが正式の呼称なのかもしれないが、一般には「終戦の詔書」と呼ばれてゐる。他に取り違へる様な詔書は全く無いのだから、その簡単な呼び方でよいのだらう。〈朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク〉との一節で説き起され、要するに天皇御自身が帝国政府に対し、去る七月二十六日付米英支ソ四箇国共同のポツダム宣言を受諾して戦争終結の手続きに着手する様命じられた、といふことを全国民に布告せられた詔書を指していふのである。 詔書は(此処に引用するまでもないと思ふが)この後の本文で、米英に対する抑々の宣戦の動機を回顧し、皇軍全將兵の善戦敢闘にも拘らず戦局は次第に不利となり、非命に斃れる国民の数と国土に受ける物的損害の増大、殊に原子爆弾の出現による非戦闘員の大量死傷の今後も測り知るべからざる惨害への憂慮を述べられる。そしてポツダム宣言受諾以後の正規の終戦手続の完遂までの前途の苦難の尋常ならざるを予想され、御自らも〈堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ビ難キヲ忍ビ〉平和恢復に向けて尽力する覚悟なのだから、といふことで国民の隠忍自重と志操の鞏固ならんことを求めてをられる。 有体(ありてい)に言ふと、この詔書の中で明白なる事実として天皇が確言せられてゐるのは、ポツダム宣言の受諾と、従つてその宣言が求めてゐる降伏条件に天皇は同意してをられる――と、そこまでである。そこから後の話、〈萬世ノ為ニ太平ヲ開カム〉との御念願が、どの程度、又どの様な形で実現できるのか、それは全く未知数の事に属し、又〈朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ〉と仰せられてはゐるが、それに確たる保證はあるのか、〈總力ヲ將来ノ建設ニ傾ケ〉、又国民による〈國體ノ精華ヲ發揚〉するとの御嘱望も果して可能なことかどうか、全ては是天皇のひたすらなる御希望・御念願の中にあることであつて、詔書自体がそれを予言、況してや約束してゐるわけのものではない。 右に暗示されてゐると筆者が読んだ終戦手続の完遂といふことにしても、それが具体的には講和条約の締結を意味することになるのはまあ国際法上の常識であるが、詔書の中に具体的に講和条約締結への御要請が言及されてゐるわけでもない。最も基本的な線にまで絞つて言ふとすれば、この詔書は、――四箇国共同宣言を受諾し、降伏要求に応ずる、武器を措け、戦闘行為を停止せよ、との御命令以上のものではない、と読むべきものである。 ところがこれを「終戦の詔書」と呼び慣はすことによつて、この一片の詔書を以て戦争が「終つた」かの如き錯覚が国民の間に生じた。そして九月二日の停戦協定調印は詔書に窺ひ見られる所の「終戦」の敵味方相互間の確認であるかの如き重ねての氣楽な錯覚が此に続いた。そして実は甚だ苛酷なものであつた占領政策実施の期間を経て、昭和二十六年九月六日のサンフランシスコでの平和条約の調印、翌二十七年四月二十八日の条約発効の日付こそが眞の終戦の日であり、その時まで連合国による日本への追撃戦は続いてゐたのだ、その期間はまだ戦争中だつたのだといふ厳しい現実を認識できず、六年八箇月の軍事占領の期間を既に「戦後処理」の歳月であつたかの様に思ひ做してしまふといふ大きな誤りを多くの国民が冒したのだつた。「戦後」は昭和二十年九月に始まつたのだとするこの誤認の悪しき影響は甚だ広く又深くに及んでゐる。(二)同一主題反復主張の弁明(二)同一主題反復主張の弁明 本稿の主題である「もう一つの終戦詔書」の意味に立ち入る前に、なほ少々この広く知れ渡つた文脈での終戦の詔書の果した意義に拘泥(こだは)つてみよう。但し一つお断りしておくべきは、この詔書の歴史的意義は多くの現代史家の手によつてほぼ論じ尽されてをり、筆者が今更木稿に於いて新たに付加へる様な新しい情報や解釈は皆無だといふ事実である。一時多少の謎を含むものの様にも思はれ、複数の相容れない見解が提出されてもゐたこの詔書の成立史的経緯についても、茶園義男氏の入念緻密な考証『密室の終戦詔勅』(昭和六十四年一月(ヽヽヽヽヽヽ)、雄松堂刊)が出、現在それと信ずるより他ない実相が明らかにされた。念の為に言へば、なるほど複雑で錯綜したその成立史的謎があらかた解明されたとはいへ、この詔書が昭和天皇その人の「みことのり」であるといふ事実には毫も変更はない。詔書とはさうしたものであつて、その事情は成立史的経緯が未だ余り問はれてをらず、またその必要も認められてゐないかに見える「もう一つの終戦詔書」についても同じことである。さうでなければ抑々拙稿の主題が成立し得ないことになつてしまふ。 論は出尽したと思はれる上に、筆者自身も終戦をめぐる二つの詔書の史的意義については既に一度ならず見解と主張の文を草してゐる。筆者は学界の末席に列る身であるが故に、同じ主題について二度以上文稿を草するのは文章の士として恥づべきことである、それは〈著者は自著を話題にして語るものではない〉(極く初歩の英和辞典にも文例として出てゐるThe author should be the last man to talk about his work.)との金言と同様、筆執る身にとつての御法度である、といつた教育を若年の日以来受けて来た。公けに人の眼にふれる紙面に文を售(う)るといふ履歴を踏み出してより四十年余、この禁忌を守り通し得たとはとても思へないが、受けた教を遵守するといふ意識だけは身から離した覚えがない。少なくとも研究者生活の枠内ではそのつもりであつた。(但し研究論文には過去の誤謬訂正や新発見の資料・情報に基づいて旧作に改訂増補を施す責任が生ずる場合があり、此は同一主題の二重発表とは話が別である。) 然し凡そ知識といふものが公開された形で広く世間大衆の耳から耳へと飛び廻る現今の情報社会の在り様と、その知識の一々の項目に然るべき固有の価値が託されて授受される学界とでは、同一主題の反復といふ行為にも、微妙ながら明らかに或る性格の違ひがついて廻る。簡単に言へば情報社会に於いては反復は避けることのできない重要な伝達技術の一方法である。 手近な例を以て語るならば、――大東亜戦争の真の終結の日付は決して昭和二十年の八月十五日でも九月二日でもない、それは正しくは対連合国平和条約が国際法上の効力を発生した昭和二十七年四月二十八日の事である――と、この簡単明白な事実についての認識が意外なほど世に疎かにされてゐるといふ実情がかねてより甚だ氣になつてゐたのだが、そのことの表現の一端として同憂の友人(入江隆則氏、井尻千男氏)と語らひ、「主権回復記念国民集会」といふ催しを計画したのが平成八年の秋、その第一回集会の開催を実現したのが平成九年四月二十八日である。爾来、早くも八年の歳月が流れ、「終戦の詔書」奉戴六十周年の記念年に当る平成十七年にはその第九回の記念集会を盛会裡に実行することができた。 記念日である四月二十八日を間近に控へて毎年配布する集会の趣意書は、その年々の国際政治の状況を反映して多少の変化(北朝鮮の最高実力者が何件かの日本人の誘拐を自ら認めた事件はその最も大きな一つだつた)はあつたけれども、基本的には毎回同じ趣旨の主張である。講演会か討論会形式か、集会の形は年々これも多少の変化を有するけれども設定された主題は所詮常に同じものであり、前記両氏と筆者を含む三人の代表発起人は毎年ほぼ同じ主張を繰返して壇上から述べることになる。論文といふわけではないが、同一主題の反復発表といふ禁忌を私共は連年犯してゐるわけである。若干の羞恥を覚えないわけにはゆかない。 然し乍ら、この集会を九年も続けてゐるうちに、私共は自分達の一種の弘報(宣伝と呼ばれてもそれは構はない)活動が次第に効果を表してきてゐることを判然と認め得る様になつた。運動の初期の頃には、「四月二十八日は何の日か」といふ問ひかけが、何か奇矯な質問の如くに受取られ、取り分け若い世代の人々の間には、それが何か不思議な謎ででもあるかの様な、答に窮するのみといつた反應をよく目にしたものであつた。それが昨今では、眞の終戦の日付は二十七年四月二十八日なのだ、との認識を含んだ言表に接することが少しも珍しいことではなくなつた。それを通じての一般の意識の変革が成つたといふにはまだ程遠いと言はざるを得ないが、この日付に関しての認識だけは定着に近づいてゐると言へるであらう。 それならば――、この効果に我と我身を励まされて、なほ同じ様な懲りずまの反復主張による成果を収めたいと思ふ弘報目標とでもいつたものがなほいくつか思ひ浮んでくる。そのうちの重要な一項が即ち「無条件降伏論争」の始末についての念押しの追論である。(三)再検討「無条件降伏」(三)再検討「無条件降伏」 所謂「無条件降伏論争」とは昭和五十三年に江藤淳氏と本多秋五氏との間に生じた紙上の論争であつて、この論争の抑々の発端と結末、その両者の議論が戦後の日本の思想界に対して有した意味等については筆者の旧稿「欺かれた人々――「無条件降伏」論争以後二十年」(PHP研究所刊の拙著『東京裁判の呪ひ』〔平成九年十月〕に収録)の中で、それ自体既に追論の形で述べてゐるので此処に繰返すことは慎む。但、その結論を一言以て要約しておくならば、昭和二十年夏のポツダム宣言に述べられた停戦条件の受諾を以てしての対連合国戦争の終結方式を、占領後の米軍の邪悪な宣伝工作によつてあれは無条件降伏といふ終戦形態だつたと思ひこまされてしまつたこと――、この歴史的事実と一般の認識との間の重大な齟齬に戦後の我が国の思想界を昏迷に陥れた全ての不幸の原因がある、との判断を言ふ。 本稿の此の節で又しても繰返しておきたいのは、右に記した昏迷や不幸のことではなくて、大東亜戦争の収拾過程に於いて、日本が最も避けたかつた、といふより此だけは絶対に回避しなくてはならぬとの決意を固めてゐた終戦方式が無条件降伏といふ負け方であり、又連合国の中核をなすアメリカ合衆国が初めから強烈に志向し、最後まで固執してゐたのが無条件降伏方式による日本打倒であつたといふ、その双方の執念の衝突のことである。付加へて言へば、日本はポツダム宣言の受諾によつて、無条件降伏の回避といふ念願を達成し得たことを確認したが故に停戦協定に調印し、一方アメリカ側は、当初の目標を獲得できなかつたが故に、日本武装解除終了の瞬間から欺瞞と謀略を以て実質上その目的を達成するための工作を開始した、といふ構造が生じた、その経緯である。我々は半世紀余の長きに亙つてこの構造の呪縛から脱出できないことの不利を甘受し続けた。 扨、この様に、日本国の戦後処理の上での重大な鍵概念となつた無条件降伏とは元来如何なる事態を指し、其処には又如何なる意味が籠つてゐるのであらうか。是亦筆者の旧稿(「戦争犯罪裁判と歴史の実相」(PHP研究所刊『再検証東京裁判』〔平成八年六月刊〕に収録)に於いて既に論じたところではあるが、その国際法上の定義について此処に反復略述しておくことの意味はあると思ふ。 その学術的定義を下してゐるのは、極東国際軍事裁判が弁護側反証段階に入つた昭和二十二年二月二十四日、弁護側の冒頭陳述として、清瀬一郎氏の有名な弁論(「総論A」)と同時に法廷で陣述される予定であつた、高柳賢三弁護人の「総論B」の第一部第一章「降服((ママ))文書と裁判所条例」に含まれてゐる論述である。 この冒頭陳述は裁判所によつて却下(法廷での朗読不許可)の扱ひを受けて一時弁護人の筺底に逼塞することを余儀なくされたが、一年余り後の昭和二十三年三月、弁護側の最終弁論段階に至つて、その間の著者の大幅な改訂増補により、却下された初稿の二倍余の長大な論文となつて復活し、陽の目を見た。これは現在高柳氏の著書『極東裁判と国際法』(昭和二十三年、有斐閣刊)に収められてをり、著者が自信を以て世に問うた決定稿と見られる。 この弁護側最終弁論稿の中で高柳氏は無条件降伏の実体について、ドイツ降伏の場合と日本のそれとを対比させて説明してゐるので甚だ解りやすい。要旨は以下の如くである。――ドイツは一九四五年五月一日ヒトラー総統が市街戦の唯中に、ベルリンの地下壕で自決を遂げたことで国家元首を失つた。翌二日ベルリン守備隊は降伏し、ソ連軍はベルリン全市を完全占領したが、其処には最早ドイツ政府なるものが存在しなかつた。ヒトラーの遺志によつて(と伝へられてゐた)海軍のデーニッツ提督が後継首班に指名されてゐたが、外交関係の中で新しいドイツ国元首と認められてゐたわけではなく、ただ五月七日正午にデンマークとの国境に近いフレンスブルクの海軍基地からラヂオ放送を通じて全ドイツ軍の米英ソ三国に対する無条件降伏を命令できただけであつた。 この降伏命令に先立つて米英ソの連合三箇国とデーニッツとの間に何らかの形での停戦交渉が行はれてゐたわけではなかつた。戦闘行為はドイツ全土の占領・政府の消滅を以て終つた。この様な敗戦の様態を高柳氏は国際法に謂ふ所のdebellatioであると定義した。これは法律学の術語で従つてラテン語であるが、Debellationといふ形のドイツ語として登録してゐる独語辞書もあり、戦争当事国が相手国の全土を占領しその政府が消滅した形での戦争終結形態である、と説明してゐる。ドイツの敗戦は正にこのデベラチオの定義にぴたりと嵌つたものである。たぶんこの様に書いただけで既に、日本の敗戦様態はドイツとは違つて国際法上の学術的意味でのデベラチオ=無条件降伏ではないことが、如何な素人の眼にも瞭然たるものがあるであらう。 二十年八月十五日、大本営が全軍に向つて武力抵抗の中止、戦闘停止を命令した時、日本国政府は健在であつた。沖縄本島及びその周辺と硫黄島以外の日本国領土は占領されてゐなかつた。国家元首たる天皇も毅然として帝都に留つてをられた。鈴木貫太郎内閣は、天皇の御決断を仰いで、といふ日本の立憲君主政治としては例外的な形をとつてではあるが、閣議決定といふ正規の手続を履んだ上でポツダム宣言の受諾を決定した。受諾決定に至るまでには、連合国の側から四箇国共同宣言(言ふまでもなく発出当時は米英華三箇国宣言、ソ連は八月九日の対日宣戦布告によりこの宣言に後から加入して四箇国となつた)といふ形での停戦交渉が提議されたのであり、日本は多分に時機を遷延させてしまつた形でではあるがこの交渉に応じ、相互の条件が折合つたが故に停戦の呼びかけに同意したものである。 ポツダム宣言はその後半部で七箇条に及ぶ日本降伏容認の条件を提議し、日本側は内部では申し入れるべき四箇条の条件を用意したが、交渉が長びくのを恐れて三箇条は伏せたままにし、実際に相手方に伝へたのは国体護持の保証といふ唯一箇条のみとなつた。交渉応諾条件の数の上での不均衡は覆ふべくもないが、壓倒的な優勢に立つ勝利者側に対して継戦能力をほぼ完全に失つてしまつた敗北者側としては要するに為す術もない厳しい現実だつた。 然し乍ら、幾重にも強調しておかなくてはならないが、八月十四日付の詔書は連合国からの条件附停戦申し入れを受け容れよ、との御下命を意味するものであり、その結果として、東京湾に進入してきた米軍艦ミズーリ号上での停戦協定調印式があつた。署名したのは日本帝国政府と大本営を代表する全権委員(外務大臣と参謀総長)であり、このことは執拗い様だが外交権を有する政府の健在を意味してをり、その権威が厳存してゐたが故にこそ、政府はポツダム宣言の要求に従つて全日本国軍隊(ヽヽ)の無条件降伏・抵抗中止を下命することができたのである。 近代に於ける対外戦争での敗戦を経験してゐなかつた日本国ではあるが、ポツダム宣言を溯ること三箇月前に生じた同盟国ドイツの真の意味での無条件降伏を観察する機会には恵まれた。他者の運命も、それを注意深く観察する眼にとつては立派な経験である。日本はこの経験に学んだ。その教訓は、どんなことがあらうと無条件降伏だけは避けよ、といふことだつた。 それにしても無条件降伏とは何故にそれほど恐るべき事態なのか。又その様な破局的事態をうみ出す思想は何時、何処で、如何様にして生れてきたものなのだらうか。終戦直後の大阪・梅田の闇市 無条件降伏の思想はアメリカの南北戦争(A.D.一八六一―六五)の終末時にグラント將軍の率ゐる北軍が、リー將軍麾下の南軍を徹底的に撃破した際の戦争終結様式に於いて初めて現れたもの、といつた記述を何かで読んだ記憶があり、そのあたりの事情を少し詳しく知りたいものと思つてゐたところ、平成十七年一月、戦史研究家吉田一彦氏の新著『無条件降伏は戦争をどう変えたか』(PHP新書)が刊行された。これある哉と早速求めて繙いてみたのだが、吉田氏の記述によればグラントはリーに対してそれほど苛酷な全滅作戦を展開したわけではなく、むしろ比較的寛大な条件を以て降伏を容認したといふことである。問題はこの時の戦争終結様式を不正確に記憶してゐたF・D・ルーズベルトが、一九四三年一月、英米首脳のカサブランカ会談後の記者会見で、独・伊・日の枢軸に対する戦争は無条件降伏方式で決着をつける、と語り、その無条件降伏の実態を説明するのに、南北戦争終結時の方式だ、と付加へたことにあつたらしい。吉田氏によればそれはルーズベルトの記憶違ひで、実際に無条件降伏方式と言へる様な徹底した破壊をもたらす焦土作戦が北軍によつて行はれたのは一八六二年のテネシー州フォート・ドネルソン包囲攻撃の際のことであつたといふ。 とすれば、それは所詮南北戦争といふ全体の中での一局面の戦闘での話にすぎないのだから、第二次世界大戦のドイツに於いて現出した如き一の国家の潰滅といふ現象とは大分話が違ふ。つまり一部に伝へられてゐた無条件降伏=南北戦争起源説は事実に即しての観察によるものではなく、F・D・ルーズベルトといふ一アメリカ人の頭脳が紡ぎ出した敵国撃滅への苛酷なる妄執の図式化だつたといふことになるらしい。 因みにルーズベルトはその時debellatioなる学術語で定義される様な敵国殲滅を思ひ描いてゐたわけではなく、字義通りのUnconditional Surrender=謂はば「一切の妥協を許さぬ完全な降伏」を以て枢軸国を屈服させることを考へてゐた様である。それは彼の後継者によつてやがて具体化された如く、日本(及びドイツ)が二度と米国に対する敵対者として彼等の国家発展の前途に立ち塞がる様な力を保持できないほどに完璧に叩きのめすといふことであつた。そのために敵国の降伏後にはその敵に対しアメリカが全権を以て戦後処理に当り得る様な徹底的な優越性を持つた上で降伏を承諾せしめることであつた。高柳賢三氏がドイツのデベラチオによつて連合国は諸地域に於いて、〈いはばルイ十四世のやうな専制君主の如く振舞ふこともできるのである〉との比喩を述べてゐるが、ルーズベルトの意図した無条件降伏も、つまりは敗戦国日本に対して己れが絶対専制君主に等しい権限を獲得し、以て日本を自分の思ふがままに処理し改造しようといふ所にその眼目があつた。 米大統領の主唱によつて(とは後から分つたことであるが)米・英・華の連合国が企んでゐるのはあの恐るべき無条件降伏方式によつて枢軸国を打倒することなのだ、と日本人が知つたのは昭和十八年十一月のカイロ宣言を通じてのことであつた。然しこの時、一般の日本人はこの方式が含んでゐる恐しい思想の意味を深刻には受けとめてゐなかつた、或いは理解してゐなかつたと思はれる。といふのも、その後戦闘が終つて米軍の日本占領が始まつた頃になつても、国民はそれほどの抵抗感もなしにこの詞を口にし、又自分達の祖国は連合国に無条件降伏したのだ、現在の占領状態はその結果なのだ、と思ひこんでゐる人が大半だつたからである。なるほど、降伏条件のうち日本から提出した最低限度の一項目たる国体の護持だけは一応相手方が遵守してくれてゐる様に見えてゐた。その上で、これが無条件降伏の結果生じた事態だと認識すれば、確かに無条件降伏はそれほど恐しい終戦方式だとは思へなくなつてしまふ。中には(これは実は昭和天皇の捨身の外交的御尽力の結果であるが)占領軍が敗戦直後の日本国民の飢餓状態を救つてくれたのだ、との恩誼を深く胸に刻んだ人々もゐた。 さすがに日本帝国の為政者層の事前の認識はそれほど甘いものではなかつた。殊に同盟国ドイツがデベラチオの実現といふ形で潰滅し、ルーズベルトの急死で急遽登場した新大統領トルーマンが、対ドイツ戦で得た勝利の方式を対日戦にも適用する、と公式の聲明を発するに及んで、時の日本国政府鈴木貫太郎内閣の受けた内心の衝撃は深刻なものとなつた。その時以降この内閣が天皇の御意向を体して挺身した終戦工作の努力が如何に苦しく且つ真剣なものとなつたか。そして鈴木首相が二十年六月の第八十七臨時帝国議会の施政方針演説を以て発信した米国内知日派向けの暗号通信が幸運にも受信相手に把握・解読され、決定的にその効果を発揮した次第、即ちポツダム宣言といふ形での停戦交渉提案に結実して行くまでの迂余曲折、このあたりの終戦工作の経緯は既に筆者が何度も論及したことなので此処での反復は慎むことにする。付加へて言へば、鈴木首相の暗号通信を解読したジョセフ・グルーを筆頭とする米国内の知日派が、無条件降伏方式の回避、国際法上筋の通つた停戦交渉の発議に向けて米国内で様々の政治工作を展開した、その始終についての研究は既に「完成」した状態にある様である。筆者はそれを岡崎久彦氏の『吉田茂とその時代』(平成十四年、PHP刊)及び杉原誠四郎氏の『日米開戦とポツダム宣言の真実』(平成七年、亜紀書房刊)を通じて間接に知つたのだが、その調査の完成を成就したのは五百旗頭真氏が『米国の日本占領政策』上・下(昭和六十年、中央公論社刊)で提出された詳密精細な考証の成果だつたとされてゐる。(四)「誓約履行」の御下命(四)「誓約履行」の御下命 扨、大東亜戦争の終結といふ難事業達成のための最後の鍵となつたポツダム宣言発出の経緯、そこに至るまでの日米両国の政治・戦争指導者達の苦心惨膽の努力の迹に関しては、是亦十分過ぎるほどの多くの研究が簇出してゐることでもあり、本稿では一切省略に従ふ。 語つておきたいのは、天皇をはじめとする日本国内の和平希求派と米国内の知日派及正常な国際法上の戦争観の持主達との間に、交互の通信杜絶状態にあつて猶且つ成立した不思議な連繋工作の存在である。このことによつて大東亜戦争は無条件降伏方式の回避といふ文明の流儀に則つて戦闘行為の終結にまで到達することが出来たのだ。それにも拘らずこの貴重な成果を蹂躙し、文明の作法に深甚な侮辱を加へた国がある一方、ポツダム宣言の受諾とそれに基く停戦協定への調印が国際法上の条約締結に当ることを正確に認識され、敗者といふ屈辱的な位置に在りながら、毅然として、条約の信義を守れ、との詔勅を発布せられた先帝陛下の御事蹟を、何とも不思議なる東西文明の対比図としてここに掲げておきたい。それを「昭和天皇と激動の時代・終戦編」に寄せるささやかながらふさはしい寄与たらしめたいとの筆者の念願が本稿執筆の動機である。 実は昭和二十年八月十四日付「大東亜戦争終結の詔書」に続いて八月中に二つのみことのりが発せられてゐる。八月十七日付「戦争終結につき陸海軍人に賜はりたる勅語」と同二十五日付「復員に際し陸海軍人に賜はりたる勅諭」とである。これも終戦に伴ひ、十四日付詔書の一種の補遺として、特にこの大事件の当事者である陸海軍の將兵に向けて発せられたねぎらひのお言葉である。それは国政に関はる御下命事項ではなく、天皇御自身の御心に発する人としての情の表現であるから「勅語」「勅諭」の題に窺はれる如く、国務大臣の副署も御璽の捺印もない、何らかの御奉答をも必要とするわけではない文書である。ところが次の二十年九月二日付「ポツダム宣言受諾誓約履行の詔書」は再び「詔書」であり、臣民に向けての御下命である。その有する意味は重い。その意味について、此も筆者は既に別の箇所で論及したことはあるが、今茲に再説に値すると思ふので、先づその本文を掲げよう。  朕(ちん)ハ昭和(せうわ)二十年(にじふねん)七月(しちぐわつ)二十六日(にじふろくにち)、米(べい)英(えい)支(し)各國(かくこく)政府(せいふ)ノ首班(しゆはん)カポツダムニ於(おい)テ發(はつ)シ、後(のち)ニ蘇聯邦(それんはう)カ參加(さんか)シタル宣言(せんげん)ノ掲(かか)クル諸條項(しよでうかう)ヲ受諾(じゆだく)シ、帝國(ていこく)政府(せいふ)及(および)大本營(だいほんえい)ニ對(たい)シ聯合軍(れんがふぐん)最高司令官(さいかうしれいくわん)カ提示(ていじ)シタル降伏(かうふく)文書(ぶんしよ)ニ朕(ちん)ニ代(かは)リ署名(しよめい)シ、且(かつ)聯合國(れんがふこく)最高司令官(さいかうしれいくわん)ノ指示(しじ)ニ基(もとづ)キ、陸海軍(りくかいぐん)ニ對(たい)スル一般(いつぱん)命令(めいれい)ヲ發(はつ)スヘキコトヲ命(めい)シタリ。朕(ちん)ハ朕(ちん)カ臣民(しんみん)ニ對(たい)シ敵對(てきたい)行爲(かうい)ヲ直(ただち)ニ止(や)メ武器(ぶき)ヲ措(お)キ、且(かつ)降伏(かうふく)文書(ぶんしよ)ノ一切(いつさい)ノ條項(でうかう)竝(ならび)ニ帝國(ていこく)政府(せいふ)及(および)大本營(だいほんえい)ノ發(はつ)スル一般(いつぱん)命令(めいれい)ヲ誠實(せいじつ)ニ履行(りかう)セムコトヲ命(めい)ス。終戦直後の大阪駅。目の前の広場は食糧難のため農園に変えられた この詔書は本来の「終戦の詔書」に比べると、その成立史的詳細がまだ問はれてもゐないし、その必要がないかにも見える、とさきに記したが、それはその単純な成立事情が文献的に追跡可能であり且つそこに何らかの謎も認められない以上、むしろ当然のことといふべきかもしれない。その文献とは、直接的には江藤淳氏の編・解説に成る『占領史録』(全四冊、昭和五十六―七年、講談社刊、現在同社學術文庫で全二巻)第一部Ⅲ「降伏調印」の章である。この詳細にして正確な校訂を経た第一次史料の集成本に拠つてみるに、米軍総司令部の厚木進駐・到着に先立つて日本国政府は代表をマニラに派遣して連合国軍と降伏手続の打合せに入る様要求された。マニラに飛んだ日本代表の参謀次長河辺虎四郎中將とアメリカ太平洋軍司令部参謀長サザーランド中將との間に会談が行はれたのは八月十九日夕刻の日本代表のマニラ到着後、少休を経て直ぐの午後八時半から深夜にかけてである。 この席上で日本代表は米軍側から三通の文書を手交される。一に「降伏文書」の草案、二に「天皇の布告文」の案文、三に日本軍の降伏を実施するための「陸海軍一般命令第一号」の案文である。 「降伏文書」(Instrument of Surrender)はこの草案が些細な字句の文法的訂正を経ただけでそのまま正式の「降伏文書」となつた。これは元来が「停戦協定文書」と名付けられるべき性格のものであるはずだが、強引にも「降伏文書」なる標題を有してゐた。日本代表の河辺中將に微妙ながら重要な意味を有するこの文書の標題に氣付くべきであつたと責めることは外交慣例に習熟してゐるわけではない軍人に対して無理な要求だつたであらうし、又仮令河辺中將がそれに氣付いてサザーランド参謀長に抗議したとしてもおそらくは聴く耳を持たぬとの扱ひを受けただけであつたらう。 この文書の中で「無条件降伏」といふ詞が「全日本国軍隊」に限つて使はれてゐることはポツダム宣言の文言をそのまま受け継いでのことであるし、又文書の末節〈天皇及日本國政府ノ國家統治ノ権限ハ本降伏條項ヲ實施スル爲適當ト認ムル措置ヲ執ル聯合國最高司令官ノ制限ノ下ニ置カルルモノトス〉といふ部分は、日本政府のポツダム宣言の受諾通告に対するアメリカ国務省のバーンズ回答の文言そのままである。占領軍司令官の制限の下に置く(原文は…shall be subject toで、本来「従属す」と訳すべき有名な部分、日本側も占領開始後に作成した降伏文書説明文では〈ソノ間日本ノ主權ハ聯合國最高司令官ニ隷属シ〉といつた表現を使はざるを得なくなる)とされた天皇及日本国政府の国家統治権は、裏から見ればその存立を容認されてゐるからこそこの表現になるわけで、つまり国際法上のデベラチオではないことの客観的事実の承認に等しい。河辺代表の持ち帰つた文書草案を検討した日本政府はもちろん上記の関連に十分の注意を払つた。『占領史録』には、録された史料の政府当路者の発言の端々に、――これならばまあよい、それほどひどい事態にはならないだらう、との安堵の感が透けて見える。 さうであればこそ、つい昨日までの敵であつた米軍から手交された第二文書「天皇の布告文」の草案に則つて「詔書」を起草する、といつた前代未聞・空前絶後の国辱的事態にも、日本政府は正に〈堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ〉の聖旨に則つて第一の試煉として九月二日付詔書の発布を実施せねばならなかつたし、おそらくは敢然たる決心を以て積極的にそれを断行したのだつた。 詔書の指示内容は手交された米軍起草の文案と意味の上ではほぼ同じである。然し、些細なことの様だが、原案の西暦による日付は昭和年号を用ゐてをり、且つ〈朕〉は原案に於いてI, myであつたのを、この詔書を英文に訳し返して米軍との終戦連絡事務上の記録に留めるに際しては尊厳の複数We, Ourに訂するといふほどの心得は見せてゐる。米軍側の心ある者が見れば、自分達が皇帝勅書の様式を知らない国民である、との自覚が一瞬念頭を掠めるくらゐのことはあつたかもしれない。 幸ひにして、この段階では単なる外面的様式のみならず、文体の面でも詔書にふさはしい威厳を具へた文章を構成し得る人材が政府部内に居た様である(余計な注釈かもしれないが、昭和二十一年一月一日付の「年頭、國運振興ノ詔書」の起草が課題となつた時には、政府部内には詔勅の文則を的確に駆使し得る人が最早居なくなつてゐた)。原文が英語の公文書であるにも拘らず、この詔書は「みことのり」の品位を具へてゐた。そして実際に『占領史録』中「降伏調印」の章によれば〈聯合國最高司令官ノ要請ニヨリ公布セラルル詔書ハ同司令官ノ要請ニ基キ之ニ與フルノ要アルニ付詔書別紙ノ通奉供 欽閲候間御親書(〔ママ〕)ノ上御下付相成様仕度此段謹テ奏ス/昭和二十年八月三十一日/外務大臣〉なる文書が殘つてゐるのであるから、詔書文案を陛下の御親閲に供し奉つた上で公布の御裁可を得たことは確かである。つまり実に異常な成立経緯を有するとはいへ、是は真正のみことのりに違ひないのである(編者により〔ママ〕を付せられた〈御親書〉が「御宸筆」の意味だとしたら慥にこれは一寸考へ得られぬことであり、存疑の表現とされるのが尤もである。おそらくは「親署」の字違ひで、署名と御璽押印の意ででもあらうか)。 真正のみことのりであるが故に、詔書に言及されてゐる所の「陸海軍一般命令第一號」が、その布告後、全軍によつて如何に厳密・忠実に遵守せられたか。それは最高司令官D・マッカーサー自身を始め、その幕僚達及び降伏受容れと武装解除の実施現場でその任に当つた連合軍將士の感歎を喚び起すに十分な規律厳正なものだつた。それは吉田茂が口にしたとされてゐる「負けつぷりのよさ」といつた通俗概念を以て評価するのでは到底足りない、といふよりもそれでは明らかに不当といふべき、実に重大な歴史的事実がそこに示されたと見るべきである。 我々日本人は皆、聖徳太子の十七條憲法第三條の「承詔必謹」のおさとしが千二百五十年の歳月を距てて茲に蘇つた、いや生き続けてゐたのだと考へて停戦時の軍の規律の正しさに深く納得する。日本国民である以上それは当然のことで、特別に殊勝の振舞ひであつたと己惚れるわけでもない。 このあまりにも指図がましい三種文書の受諾並に布告要求に対し、日本側でも文書原案到着直後に、いつたいこの様な要求に唯々諾々として屈服してしまつてよいものか、これらの文書の正文化及び発出は国内法上如何なる手続を取れば正当化できるのかについては大いなる疑問があり、議論も生じた。その疑問と議論の記録は極めて重要な先人達の苦心の痕を留めた史料である。残念ながら本稿ではそれを再確認して示すだけの紙幅の余裕がない。結局のところポツダム宣言の受諾によつて辛うじて終戦の機会を掴み得たといふ事実の重みが決定的だつたのだ。その名も忌はしい「降伏文書」は実質上「停戦協定」なのであるから、〈右ハ一種ノ国際約束ト見ルベキモノニシテ我方ハ之ニ依リ寡クトモ國際上ノ義務ヲ負フ次第ナリ〉といふ八月二十二日付外務省条約局作成の見解は正しい。とすれば、〈…降伏文書ノ一切ノ條項竝ニ帝國政府及大本營ノ發スル一般命令ヲ誠實ニ履行セムコトヲ命ス〉との詔書の結びの文言は元来「約束を守れ」との至高の道徳的御訓戒と読むべきもので、凡そ日本臣民たる以上、このみことのりに叛く者一人たりともあらうとは思はれぬ。勅命とその遵奉といふ伝統的君臣関係での千古未曽有の切羽詰つた非常事態が此処に現出したのだと見てもよい。 事実、この時の日本国民は勅命を奉じて世界史に比類なき誠実さで「約束を守つた」。連合国最高司令官マッカーサーの任務としての平和条約締結までの「日本保障占領」といふ大きく困難なる歴史的事業は、彼等の見地からすれば十分な、もしくは過分な成功を収めたと見るべきだらう。成功の原因は総じて言へば湊合的なる時運の然らしむる所、としておけばよいわけだが、その成功の大前提となるのは、日本といふ国家と国民が、ポツダム宣言に基く停戦協定が列記した諸般の国際的「約束」を忠実に履行したことである。(五)彼我の深刻な対照(五)彼我の深刻な対照 日本帝国は大東亜戦争収拾過程に於いて、天皇の詔書の文言そのままに飽くまでも国際条約の信義を守つた。九月二日付の詔書を奉戴したか否かに拘らず、他者との約束を守るといふ徳目は日本人の国民性の一端として人々の意識の中に深く染みついてゐる公準である。十七条憲法の第九条も〈信是義本、毎事有信、其善悪成敗、要在于信〉(信(まこと)は是義(ことわり)の本なり。事毎に信(まこと)あるべし。其れ善悪成敗、要(かならず)信に在り)とされてゐる。だが是亦、改めて聖徳太子の教を持ちだすまでもないであらう。近代では新渡戸稲造も『武士道』の中で約束遵守の「誠」が日本人の道徳性の重要項目である所以を著名な「武士の一言」を標語として論じてゐる。事の善し悪し、成功か失敗か、その要は信義を守るか否かにある――と、此は国民の遺伝子の中に潜んでゐた信念である。大戦争の終結時に際しても国民性の中の遺伝子がその然るべき特性を発揮したまでのことである。 故に国民は約束の遵守の結果として己が権利が侵され、身体が深い傷を受け、長く健康を損ふ様な不利を身に受けようとも約束の信義だけは守る、といふ途を選んだ。 それに対して、停戦協定の締約相手たる連合国側はどうであつたか。協定調印以前とはいへ、日本帝国の大本営が既に全戦線の將兵に停戦命令を下達し、且つその事を連合国側に通知した八月十六日以後の段階でソ連極東軍がどの様な暴挙に及んだか、此こそは六十年後の今日に及んで本稿が今更指摘するまでもない天下周知の史実であるから今は全て省略する。又九月二日付昭和天皇の第二の終戦の詔書とあまりにも対照的な、同じく九月二日付の「連合国最高司令官総司令部布告」第一、二、三号の含む米国側の激しい裏切り、約束の信義の蹂躙といふ事実に就いても、筆者はこれも前掲の「欺かれた人々――「無条件降伏」論争以後二十年」の中で十分具体的に詳述してゐる。此も要約の形にせよ再説するのは不謹慎であらう。唯一言だけ、此だけは何度反復して記しておいてもよいと思ふ件りだけを此処に記しておく。 昭和二十年九月二日午前九時、東京湾内に碇泊した米戦艦ミズーリ号艦上で米軍の呼ぶ所の「降伏文書」調印式が行はれ、日本側では政府代表として重光葵外相、梅津美治郎参謀総長が署名し、連合国側では最高司令官マッカーサー元帥、合衆国代表ニミッツ提督他八箇国の代表が署名した。調印式に先立つてマッカーサーは〈日本ハ吾人ノ条件(ヽヽ)ヲ以テ降伏シ吾人ハ之ヲ受諾ス〉(加瀬俊一氏聽取覚書)の一句を含む、短いが極めて紳士的態度のスピーチを行つた。〈降伏条件(ヽヽ)の遵守〉といふ表現は随員の一人であつた横山一郎海軍少將の手記の中にも録されてゐる。調印式の終了は午前九時二十分、日本政府代表団が首相官邸に帰着して総理大臣東久邇宮稔彦王に任務の無事終了を報告したのが午前十一時十五分だつた。日本側の理解では、調印によつて終戦への外交手続の第一段階に足を踏み入れ、爾後は詔書に仰せられた通りのポツダム宣言=停戦協定に謳はれた降伏条件の誠実な履行が外交上の最大の課題になる、と思はれた。協定が一種の国際条約である以上、協定に記された諸条件は相互的なもので連合国側にもその遵守の義務は生じてゐる、といふのが国際法上の正統な解釈だつた。戦災で焦土と化した日本橋付近(米軍撮影、産経新聞社所有) ところが、その日の午後四時、横浜(山下町のホテル・ニューグランド)に入つてゐた連合国軍総司令部に呼び出され、出頭した終戦連絡事務局長鈴木九萬(ただかつ)公使は、其処で前記の三種の「総司令部布告」なる文書を手交される。その第一号布告はマッカーサー元帥の名を以て次の様に書き起されてゐた。 〈日本国民ニ告ク/本官ハ茲ニ聯合国最高司令官トシテ左ノ通布告ス/日本帝国政府ノ聯合国軍ニ対スル無条件降伏ニヨリ日本国軍ト聯合国軍トノ間ニ長期ニ亙リ行ハレタル武力紛争ハ茲ニ終局ヲ告ケタリ……(後略)〉 以下多言に及ぶ旧稿の反復は慎しむ。日本帝国の「国としての無条件降伏」といふ無稽の神話は此処に胚胎してゐた。わづか七時間のうちに発生し、その効果を実現させてしまつたこの裏切と瞞着が以後どれほどの長きに亙つて我が国にとつての重大な禍であり続けたか。それは最早縷々説くを要しないだらう。 唯一言、日本国民は詔書の聖旨を奉じて誠実に国際条約の約束を守つた。それに対して連合国側の複数諸国が無殘にも条約の信義を蹂躙して顧みなかつた。この事実からは様々の教訓を、又凡そ国際関係についての深刻な考察の材料を汲み取ることができる。それは既に多くの研究者によつて試みられてきたし、今後もなされるだらう。但、本稿としても一言付加へておきたいことはある。国際条約に明文化された約定の遵守は相互的な義務である。二国間条約に於いて、我国が約定の信義を守るのは当然の事として、相手側にもし約束を破る態度が現れた時はどうするのか。相手側にも忠実にそれを守らせるといふ厳しい姿勢を我方が見せなければ、その条約の信義は真に守られたとは言へない。つまり真に信義を守るといふ姿勢には、当方が守ると同時に相手にもそれを守らせるといふ相互性を貫徹することが是非必要なのである。 このことを近年我々は日中平和友好条約(昭和五十三年)や日中共同宣言(平成十年)に約定した〈内政に対する相互不干渉〉の原則を、我方では常に遵守し相手側ではそれを度々毀損して恬然たるものがある、といふ関係に陥つてしまつたことで改めて痛感してゐる。自分さへ手を汚してゐなければ、なるほど良心の疚しさに嘖まれることはなしで済むかもしれないが、相手の破約を黙認したままでゐることは、法にひそむ信義それ自体を守るといふ究極の第一義にはやはり悖ることである。更には、対連合国平和条約(通称サンフランシスコ条約)第十一条の場合の如く、如何なる迷妄のなせるわざか知らないが、故意に自らに不利に、自己毀傷的な解釈を施すといふ我国の一部の政治家の心理も、不可解であると同時に先づ法の有つ義といふものの尊重に於いて却つて悖徳であり、罪過なのだ。 六十年後の後世からあの昭和二十年といふ年の悲痛な記憶を更新してみた結果の感慨は結局この様な暗澹たるものになつた。 こぼり・けいいちろう  昭和八年(一九三三年)、東京生まれ。東京大学文学部独文学科卒業。昭和六十年より同大学教授、平成六年から十六年三月まで明星大学日本文化学部教授。専攻は比較文化論、日本思想史。主著に『若き日の森鴎外』(読売文学賞)『宰相鈴木貫太郎』(大宅壮一ノンフィクション賞)『東京裁判 日本の弁明「却下未提出辯護側資料」抜粋』(講談社)『さらば東京裁判史観』(PHP文庫)『和歌に見る日本の心』(明成社)など多数。関連記事■ 世界が羨む「日本の力」■ 何が相撲の伝統を守ったか■ 【安倍政権考】日本とインドの深い関係

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    昭和天皇と激動の時代

    「昭和天皇が懐かしいです」と編集者仲間が言った。彼はまだ30代。昭和天皇がご健在のときは10代だったはず。となれば、それ以上の年代にはもっとたくさんの懐かしむ気持ちがあるにちがいない。

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    国破れて、廃墟に立つ

    正論2005年9月臨時増刊号「昭和天皇と激動の時代[終戦編]」より再録※肩書、年齢等は当時のまま中曽根康弘(元首相) 中曽根康弘元首相は大正、昭和、平成の三時代を生き、先の大戦に出征し、敗戦を体験、その後の日本の復興に政治家として尽くされた。最後の「首相らしい首相」と評される。その中曽根氏に、終戦時を中心とした自らの体験と、戦後六十年を振り返っての感想を率直に語ってもらった。 (聞き手/産経新聞正論調査室次長 奥村茂)海軍主計中尉として参戦 ――中曽根元首相は昭和十五年(一九四〇年)に高等文官試験に合格し、内務省採用が決まっていました。それがあえて海軍を志された動機はどこにあったのですか。 中曽根 東大法学部にいる頃から、自分は将来どういう人生を送ろうかと考えていました。しかし、次第に時局が切迫してきて、やはり大事なのは日本の統治、国政の問題だと思いました。そのためには高等文官試験に合格した上で国政に参画し、影響を及ぼし得る役職に就こうと決意しました。大蔵省か内務省かの選択では、当時の内務省には総合国策を推進するうえで非常に大きな権限がありましたので内務省を選びました。 海軍へ行った理由は当時、当然徴兵検査、軍務というコースがありました。海軍は臨戦態勢を覚悟したのでしょう。主計官を大幅増員しなければ間に合わないと、二年現役の主計科士官制度を作って募集していました。陸軍へ行って二等兵から始めるよりも、主計科士官になればすぐ主計中尉でしたから海軍を受けた。幸い合格して、四カ月間東京・築地の海軍経理学校で訓練を受け、十六年(一九四一年)八月半ばに連合艦隊に配置されて、巡洋艦「青葉」の乗組員として赴任しました。 ――海軍軍人になってどうでしたか。 中曽根 「青葉」に乗り組んでからは、駆逐艦隊を引き連れて敵の戦艦を攻撃する猛訓練を土佐沖へ出て行いました。それが終わると大分県の佐伯湾に来て休養してまた出ていくという繰り返しでした。艦にはガン・ルーム(青年士官室)というのがありまして、その長が海軍大尉の星野文三郎さんという通信長でした。兵学校出の少・中尉、われわれ大学出の二年現役主計、あるいは軍医の部屋を取り仕切っていました。この星野さんが十月頃でしたか、訓練が終わった後、甲板にデッキチェアを出してみんなを休ませていた。そのときに「いよいよ戦争だ」と言明しました。戦災で焦土と化した東京。日本橋上空から、本所方面をのぞむ そのとき、私は戦争のような大きな問題を急いで決断すべきでない、と言いました。ドイツのヒットラーは、当時ソ連に深入りして戦っており、まだ勝つか負けるか必ずしも決定していませんでした。ソ連はいつもモスクワまで退却して迎え撃ち、ナポレオンを破った歴史がありますから、独ソ戦の将来はまだ決断できない、もう少し情勢を見たほうがいい、と言ったのです。青年士官室内が「もう戦いだ」と極めて士気高揚していたときに、このようなひんやりした発言をしたものですから(笑い)、星野さんも「いや、もう石油は六百万トンしかない。今やらなければ石油がなくなってしまって戦いができなくなる」ということを言いました。それで、今度来た主計中尉には変なやつがいるという風評が艦内に一時立ったそうです。兵学校出のみなさんから見ればそう思ったのでしょう。 その星野文三郎さんは、私が昭和四十五年(一九七〇年)に防衛庁長官になったとき、自衛艦隊司令官になってた。それで横須賀へ私が巡視に行ったときに自衛艦隊司令官として拝謁にきました。 ――奇遇ですね。 中曽根 妙にこそばゆい感じがしました(笑い)。しかし、星野さんは非常に立派な軍人でした。 ――日本に燃料が少ないということを海軍はわかっていた。にもかかわらず戦争に突き進んで行った。それが戦争だといえば戦争なんでしょうけれども、もう少し冷静に考え、対応できなかったのでしょうか。 中曽根 そこが大学出の士官と兵学校でみっちり教育を受けた士官とには、ある程度の格差はあったのですね。しかし、いったん戦争になったら格差はまったくなくなりました。みんな一生懸命、国のために働いたということです。 ――実際に砲弾が飛び交う中での経験はありましたか。 中曽根 私は開戦の直前、設営隊主計長に転勤を命ぜられました。つまり飛行場は壊されてるし、地雷がたくさん埋められている。そのため敵前上陸して敵の飛行場を奪取し、修復して味方の零戦が三日以内に飛べるように直す。零戦がきたら一週間後には中型陸攻(海軍の爆撃機)を飛ばせるようにして南下して行く。そういう部隊の主計長に任ぜられて、呉で十一月二十日頃から約九日間、二千人の徴用工員を死にもの狂いで編成し、戦争機材を輸送船に積み込む指揮をしました。もう戦争だということははっきりしている。南方戦線で戦火をくぐる南方戦線で戦火をくぐる というのは、転任を命ぜられて呉の海軍に行き、参謀長に着任の挨拶をしました。「設営隊の主計長を命ずる」という辞令をもらった。それから二千人の部隊を編成し、必要な武器弾薬、セメント、工作機械など全部積み込んで、今月末には出航だという。参謀長に「一体どこへ行くんですか」と聞いたら、「そんな秘密をお前にいえるか」って黙ってしまった。そこで「しかし、いよいよ戦争となれば軍票がいります。行く先がわからなければ、どこの国の軍票を持っていっていいかわかりません」。そう言ったら、「そういえばそうだな。絶対ほかに言うなよ」と、紙にフィリピン三カ月、蘭印(あの頃はインドネシアのことを蘭印と言いました)三カ月。「二千人の徴用工員と、そのほかの工作関係の費用を計算して持って行け」と言われました。それで経理部から、フィリピンとインドネシアの軍票を七十万円受け取った。新しい部隊ですから置き場がない。だから、お棺のような木箱を七つ作って十万円ずつ入れて、呉の建築部長の部屋に並べ、その上に戸板と毛布をたくさん敷いて、蚊帳を吊り、その中で私は寝ていました。当時の七十万円は今に換算すると七十億円ぐらいです。七十億円の上に寝た者は私しかいないと(笑い)、威張ったものです。 出港したのが十一月二十九日です。九日間で全国から徴用で集まった工員二千人を編成して、セメントとか重油、あるいは武器弾薬、工作機械類を積み込んで、昼間は編成、夜は積み込みでほとんど寝なかった。 二十九日に十四隻の船団で呉を出港し、十二月三日か四日にパラオに着いて、待機していました。そして八日に開戦となり、真珠湾攻撃をパラオで聞きました。そのときはよくやったと、感激しましたが、それでも「勝てるかな?」という疑いは持っていました。 それからフィリピンのダバオに敵前上陸して飛行場を造った。それが戦争の始まりで、マニラの基地から飛んできたアメリカ軍のB17による爆撃をたくさん受けました。1983年11月、東京・西多摩の山荘で、来日したレーガン大統領(奥)、ナンシー夫人にお点前を披露する中曽根康弘首相 ――まさに戦火をくぐってこられた。 中曽根 そうです。それから次はタラカン、その次はバリックパパンと南に下がって行って飛行場を作っていったのです。バリックパパンに移動の途中、マカッサル海峡で十四隻の輸送船の中、四隻が爆撃と潜水艦でやられ、さらにバリックパパン上陸時、敵のオランダと英国の駆逐艦に、十隻のうち私の乗っていた「台東丸」の前後左右四隻が撃沈されました。泳いできている人たちを救援してるときに船尾に敵の砲弾が当たって火事が起きた。主計長というのは防火隊長ですから、飛んで行って防火作業をやろうとしたら、第四ハッチ(一番底のハッチ)で敵の砲弾が爆発した。そりゃあ、首は飛んでる、手足は転がっている。 私が一番かわいがっていた古田という班長は、前科が幾つかある剛の者でした。しかし、そういう刑余者がかなりいましたから、「台東丸」の中でそういう者の班長に彼を任命したのです。彼は一生懸命やってくれまして、非常にかわいがっていたんです。その彼が砲弾にやられて、背中におぶわれてきたのを見たら足首がぶらぶらしてました。それから胸の辺りに傷を負って血がだらだら流れていました。私が懐中電灯で、「古田、しっかりしろっ」と言ったら、ただ一言「隊長すまねえ」と言ったね。「早く医務室へ連れてけ」と言ったけど、着いたときにはもう死んでいました。 ――古田班長との間には、ちょっとしたエピソードがあったそうですが。 中曽根 古田を班長に任命するときに刑余者を全部集めたら、古田が一番統御力がありそうな親分肌の顔をしていた。それで「おい、古田、下へ来い」と、主計長の私の部屋へ連れて行って、「お前も随分天皇陛下に迷惑をかけたな」という話をした(笑い)。そして「お前、おれの子分になるか。班長やってくれるか」と言ったら、「ご命令なれば引き受けやす」と受けてくれた。「それじゃ一杯飲もう」と、従兵に一升ビンを持ってこさせて、茶碗に私が一杯ついで、「おい、古田、飲めよ」と言ったら、「こういうものは隊長が先に飲むもんです」。 ――ほとんど任侠の世界そのものですね。 中曽根 そういわれて、「あ、そうか」と私が飲んで彼に茶碗を渡し、これでもう親分子分です。私は上州・国定忠次の気風を受けている。大学出のシャバを全然知らない者が戦争へ引っ張り出されてやれるには、そういう何か思い切ったことをやらなければこれはできない。しかし、その古田が戦死したんです。 ――そのときは、どのくらいの方が戦死されましたか。 中曽根 私の船でも五十人以上です。それから周りの四つの船から泳いでくる者を助けたから、船は一杯になりました。しかし、そこから敵前上陸してバリックパパンの飛行場を奪取し、建設をしたんです。バリックパパンへ行ったのは、石油の精製所があるので、石油獲得が大きな目的でした。玉音放送を聞き、頭が空白に ――敗戦の玉音放送はどちらでお聞きになりましたか。 中曽根 私は南方作戦が終わったころ、台湾へ転勤を命ぜられて高雄の海軍施設部にいました。敵は台湾へ来るというので台湾に飛行場をたくさん造った。そうしているうちに十九年(一九四四年)九月ごろ、また転勤になり、海軍省兵備局補佐官を任命された。 二十年(一九四五年)六月ごろ、いよいよもう沖縄がだめになってきた。そこで、東京にいる補佐官は一斉に地方へ行って戦えということになった。私は高松の海軍運輸部に赴任して、呉と土佐湾の特攻隊との連絡を行っていました。そのときに終戦となった。だから、高松で天皇陛下の玉音放送を聞いたのです。 ――どのような気持ちで、お聞きになりましたか。 中曽根 玉音放送を聞いて、頭が空白になりました。一日半ぐらいは手つかずの状況でした。しかし、そのうち本省から、海軍の物資を民間に払い下げろという命令がきました。そこで、機帆船を四隻調達し、呉へ行って、軍需部から重油を四隻分もらった。そして高松へ戻り、漁業組合に重油をすべてタダで渡しました。つまり物質不足の時代ですから、魚をとって国民に供給してもらいたいということです。それが一段落したころ、軍籍を離れて故郷へ帰ってよいとなり、女房が疎開していた山梨県小淵沢に行って家族に会いました。 それから内務省へ戻って官房調査部に配置され、第八軍司令部との連絡官、リエゾン・オフィサーをさせられました。マッカーサー司令部は東京にありましたが、実際に日本の行政を担当したのは第八軍のアイケルバーガー中将で、横浜にいたんです。向こうの命令を受け取るわけです。とくに海軍や陸軍が持っていた敗戦後の物資をどういうふうに処理するか、ということを行ったのです。 しかし、そうしているうちに日本の社会は荒れてくるし、食糧はない。米軍が共産党を一時応援したことがありますから、共産党が猖獗を極めていました。この国はどうなるか、どうするか。もう官吏でいる段階ではない。GHQ(連合国軍総司令部)、マッカーサー司令部の占領行政に対してものを言うのは国会議員でなければだめだと思いました。当時追放令が出て、群馬県でも古い政治家が追放になっていたので、立候補を決断して当選したのです。 ――内務省に戻られたとき、首都・東京をご覧になられました。 中曽根 東京の焼け野が原を見て慄然としました。まさに廃墟でした。この国を再建することは非常に難しい、どうしたらいいのか、と一国民として心痛したものです。 リエゾン・オフィサーを務めていたとき、占領軍が無理をいうこともかなり多かったのです。いいことも行ってくれましたが、結局、占領軍に対して発言権を持つには役人ではなく、国民の支持で出てきた国会議員でなければだめだと強く感じました。そのような経験もあり、国会議員に立候補したのです。 ――家族は反対しませんでしたか。 中曽根 いやもう父は絶対反対、兄も絶対反対、家族も反対です。しかし、私は高松にいる頃から父に手紙を出し、内務省を辞めると伝えていました。そうしましたら、「絶対辞めるな」と、義理の兄がわざわざ高松まで説得に来ました。私は日本の状態を見たら、もう内務省にはいられないと、警視庁の監察官に転勤したときには辞める決心で東京へ出てきました。しかし、それでも家族や父は反対しましたね。 二十一年(一九四六年)十二月に辞表を出しましたら、警視総監が「お前辞めるな」と大分止められました。「辞表を受け付けない」と言われましたが、十二月末には辞表を出しっ放しにして故郷の高崎に帰りました。高崎では青年運動を行って、立候補の準備をしたんです。廃墟を前にし、政治家として立つ廃墟を前にし、政治家として立つ ――それが青雲塾ですか。 中曽根 そう、青雲塾。私の政治家としてのスタートと生涯は、利権とか、便宜供与とかで代議士になるのではなく、むしろ自分の思想とか、理想とか、国家論というようなものを中心に代議士になったと思います。それは一貫してきたと思います。 ですから占領中にマッカーサーに建白書を出しました。あれは昭和二十六年(一九五一年)一月、占領政策の是非を論ずる建白書です。GHQに行き、国会課長のドクター・ウィリアムスに会って、プレゼンテーション・トゥ・ジェネラル・マッカーサーと英文の建白書を持っていったのですが、受け取らない。占領下の国民が建白書を持ってきても、GHQは受け取らないという。 実は、私はその前年にアメリカに行って、上院議員のバークレー外交委員長とタフト上院議員に会ったときに、「マッカーサーの占領政策はどうか」と聞かれた。私は「これは一言では、また短時間では言えないから、日本へ帰って文書で申し上げましょう」と言って帰ってきて、改めて英文にしたためてマッカーサー司令部へ行く前日にアメリカに空送したんです。同じ英文を持ってマッカーサー司令部へ行きましたら、ウィリアムスが受け取らない。そこで、「実はこれはもうきのう航空便でタフト上院議員とバークレー外交委員長に送った」と言いました。彼は驚いて、慌てて読み出したら七面鳥のように顔色が変わりました。それでも彼は「受け取らない」と言うので、私は「勝手にしろ」と帰ってきました。 あとで聞くと、ウィリアムスは非常に驚いて、すぐにマッカーサーのところへ駆け込んだ。というのはマッカーサーは当時大統領選に出るつもりだったから、アメリカの上院議員の実力者にそういう文書が行ったということは大変な打撃なのです。それでマッカーサーは受け取って、読んでるうちに怒ってしまい、破ろうとしたんです。ところが少し厚い紙で、上と下はボール紙だったから破れないんです。ねじって屑紙箱へ投げたらぽんと飛び出してしまった。そのことがあとの検証でわかったんです。それはアメリカのメリーランド大学の図書館に今でも残ってます。1986年5月、東京での先進国首脳会議(サミット)に出席するために来日したレーガン大統領(右)の歓迎式典(迎賓館)。左隣は中曽根康弘首相 ――戦後のエピソードの一つですね。 中曽根 ええ。マッカーサーが怒ったのは、建白書の中にいかなる聖将、ホーリー・ジェネラルといえども、近代的な国民を五年以上も占領統治することは不可能である、という文章があった。それが気に入らなかったんでしょう。昭和天皇は気概を持たれた聖天子 ――戦後六十年たちましたが、振り返って印象に残ることがありましたら。 中曽根 まず第一に感ずるのは昭和天皇です。昭和天皇は、従来の日本の天皇の在り方の最後のお方ではなかったかと思います。昭和天皇の前半というものは非常に苦難に満ちた時代でした。大正天皇の摂政の時代から、関東大震災があり、大不況があり、それから満州事変、日支事変等で国際的に日本がもまれ、苦しみのうめき声を持っていた時代です。ついには大東亜戦争へ突入してしまいました。陛下は非常に平和主義者であられたが、そういう経験をされ、そして占領されて、昭和天皇としてはおそらく日本の皇祖皇宗の霊や歴史に対し甚だ申し訳ない、とお考えになっていたと思われます。 ですからそういう経験を経て、敗戦後の日本の建て直しに非常に責任を感ぜられた。あの頃一時は天皇退位論もありました。しかし、昭和天皇は自分が責任をもって日本をもう一回回復しなければならないという決意で、全国を行脚されて国民に接触されました。それはやはり日本を回復し、祖先の霊に報いなければならないという大きな責任感と、国を愛する気持ちからおやりになったと思います。 そういう体験が体に、顔に映っていました。だからある意味において聖天子という印象を私は持っています。総理として天皇陛下に五年間接してきましたから、非常に聖天子、ホーリー・エンペラー、そういう感じがしました。 天皇としての気概を持たれていらっしゃいました。皇祖皇宗の歴史をうけた天皇としての気概を持たれていた。ですから、例えば宮中でわれわれ少数のものが天皇陛下と会食の栄を賜わった。そういうときに待合室でみんなで話していると、陛下がおいでになって「みなの者、食事に行こう」といわれた。「みなの者」です。やはり厳然たる天皇の威厳を持っておられました。 今の陛下は民衆的天皇です。例えばお年寄りの養老院などに行かれると、天皇陛下も皇后陛下もひざまずいてお年寄りに話しかけている姿がテレビに映ります。あのような光景を見ますと、昭和天皇と平成天皇では非常に違ったと感じます。片方は歴史と伝統という長い、ある意味においては神秘的なものを背負った天皇ですし、今の陛下はむしろオープンマインドというか、民衆天皇として天皇制を維持しておられる。そういう感じがします。 また、新しい憲法の下の天皇ですから、政治に対する発言はされません。しかし、大正天皇の摂政以来、長い日本の歴史や政治を経験されていらっしゃる方ですから、政治に対する感覚は非常に豊富に持っておられる。総理大臣以上にお持ちです。それを黙っておられる。私はわりあいざっくばらんに、陛下に国情を申し上げたり、外国の情勢を申し上げましたら、「それからどうした」「それからどうした」と常々ご下問がありました。 あるとき、ご進講が終わって宮殿の下へ降りてきて自動車へ乗ろうとしたら、宮内庁長官が私を追いかけてきた。それで「総理、総理」というから、「なんだい」といったら、京都大学の猪木正道教授が書いた「近衛文麿論」がある。「あの本は非常に正しく書いてある。それを中曽根に伝えろ」ということを言いました。 開戦に至るまでのいろいろな過程で日本の重臣の挙措をよく見ておられた。それで頭にあった一つのことを、ある意味においては残しておこうというお考えがあったのかもしれません。政治家は国家像と国家路線を持て政治家は国家像と国家路線を持て ――今の政治、今の日本には、何が欠けていますか。 中曽根 戦後六十年経ちました。六十年というのは還暦の年、本卦がえりなんです。この六十年の大部分は冷戦の時代でした。冷戦の時代は自民党内閣の時代で、失われた国権の回復を行いました。沖縄を取り返すとか、韓国と国交回復するとか、ロシアと国交回復するとか、日中国交回復とか、そういう国権の回復を行った。しかし、平成三年(一九九一年)に冷戦が終わった。それまではアメリカ体系、ロシア体系、第三勢力体系に入っていたけれど、共産主義・ソ連が崩壊してロシアが敵でなくなった。そうすると、その中に依存する必要がないというので、各国が自立、独立の方向へ動きました。アメリカに対抗するヨーロッパということで、EUを作り、イラク問題でもフランス、ドイツ、ロシアはアメリカに同調しない。そういうナショナリズム、アイデンティティー、リージョナリズムがたくさん出てきた。中国にしても共産主義ではなく、ナショナリズムで国を動かしているのです。 日本がその間十年間、漂流してしまいました。大きな不況もありました。自民党の腐敗が出て、金丸問題以降は連立内閣になり、すべて一年半ぐらいで潰れてきました。その漂流していたのを小泉内閣が止めました。これは小泉首相の一つの功績です。 しかし、日本が漂流している間に、他の国はみんなナショナリズム、アイデンティティーを確立し、国家像や国家路線を持ちました。小泉首相は漂流を止めただけで、日本の二十一世紀の新しい国家像とか国家路線というものには手をつけず、目前の郵政と道路問題に熱中しています。非常に大きな政治のマイナスです。 国民の六三%が憲法改正に賛成に変わってきました。とくに若い人が多い。日本もナショナリズム、国の独立自尊の思いが、国民のほうからじわじわ湧き上がり、憲法改正賛成が多くなりました。政治が誘導したよりも、国民の中から湧いてきたような現象が出てきています。だから小泉内閣は、国民のその大きなうねりに対して追いつけないで歴史的に見て大きなマイナスが、私は出ていると思います。 この六十年の前半の日本の国権回復を行った時代というのは、大東亜戦争を経験した総理大臣です。吉田茂さん、鳩山一郎さん、佐藤栄作さんなど、われわれまでは体の隅々まで国家とか民族というものがしみている。ところが、それ以降の今の政治リーダーたちは、幼少から中学、高校へ行った頃には食糧は何でもある。自動車もある。テレビもある。そういう時代に学校へ行ったりした人たちで、われわれのような国家というものを体で体感するチャンスはなかった。だから理論で国家とか民族というのがわかっていても、体で本当にしみてわかってるとは思えません。だから佐藤さんでも、池田勇人さん、田中角栄さんも重みがありました。それはそういう経験がしみているからです。今の政治指導者たちを見ると、カリスマ性と重みがない。やはりそういう経験不足があると思います。そのことを今の政治家は自覚しなければいけません。 昔の政治家は、吉田さんでも、河野一郎さんでも、国会の廊下ですれ違うと風圧を感じたものです。吉田さんなんかとくにそうでした。ところが今の政治家の皆さんは、逆に向こうが風圧を感ずるのではないですか(笑い)。やはり戦争体験というものが、それだけの落差を作っていると思います。 また、最近の憲法改正論を見ますと、二十代、三十代が圧倒的に強いんです。六十代、七十代はむしろ改正に消極的な人が多い。二十代、三十代には非常に希望を託していい。今の年寄りよりは希望が持てる気がします。 日本の歴史の中で冷たい戦争の時代の政治、それから冷たい戦争が終わり、とくにニューヨークの大テロ事件以後、アメリカは新しい航路に動き出しています。トランスフォーメーションと称して日本からインド洋、湾岸に至るユーラシア大陸の南岸の腹の柔らかい部分に中心の対象を昔の共産ソ連から移動させています。そういう実体をよく見極めて日本の進路や行動を誤らないようにすることを今の政治家に期待しています。情勢によっては忠告をしたいこともあると思います。 ――大いに忠告していただきたいと思います。 なかそね・やすひろ 大正七年(一九一八年)群馬県生まれ。昭和十六年(四一年)、東京帝国大学法学部政治学科卒業、内務省入省。同年、海軍主計中尉に任官、終戦時は少佐。同二十二年(四七年)衆議院議員初当選。同五十七年(八二年)~六十二年(八七年)自民党総裁、首相。同六十三年(八八年)から世界平和研究所会長。平成三年(九一年)から自民党最高顧問。同九年(九七年)大勲位菊花大綬章受章。同十五年(二〇〇三年)国会議員引退。著書は『政治と人生』(講談社)『天地有情』(文藝春秋)『自省録』(新潮社)など多数。※記事の内容、肩書等は掲載時のものです。関連記事■ 世界が羨む「日本の力」■ 何が相撲の伝統を守ったか■ 【安倍政権考】日本とインドの深い関係

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    『昭和天皇独白録』を再読する

    代の目で改めて検証しておく必要がある。それを考えることは実は、日本という国のアイデンティティ、そして皇室という存在のありようが表面上大きく変化した時代しか知らない世代が、逆に誤って〝新しい視点〟の陥穽に落ち込む危険を避けることにもつながる。さらにはそこから、昭和天皇だけではなく明治天皇以来、この国が国際社会の中で歩んできた道筋、世界と日本の関わりを、皇室の伝統を通じて「日本」を考える大切な視点として次の世代に受け渡していく必要があるからである。そしてそれは、混迷の度を深める国際社会における日本の行き方にも大きな指針を与えてくれるであろう。 ここでは、敢えて『昭和天皇独白録』(以下『独白録』、文春文庫)から、あの厳しい時代を生きた昭和天皇の世界観、国際政治観を読み解いてみたい。というのは、この書をもって、今日一部に、東京裁判に際して昭和天皇の戦争責任を回避するための弁明を専ら目的としたもの、と決めつける見方が広がっており、これが冷戦後崩壊した社会主義イデオロギーの代替イデオロギーとしての戦争糾弾史観と合流する傾向すら見られるからである。 なお『独白録』は、昭和二十一年三月から四月にかけ、松平慶民宮内大臣ら側近五人が、一九二八年(昭和三年)の張作霖爆死事件から終戦にいたるまでの経緯を四日間五回にわたって昭和天皇から直接聞いてまとめたもので、五人のうちの一人、寺崎英成御用掛が遺した文書類を調べた遺族らの手によって世に出ている(初出は『文藝春秋』一九九〇年十二月号)。このことから考えると、『独白録』には確かに東京裁判を意識してまとめられている側面はあったかもしれない。しかし、その観点からは逆に不利になるような述懐が余りに多く、何よりも昭和天皇の肉声が伝わるような「本音」が実に率直に語られている第一級の史料なのである。君臨すれども命令できず まず、戦前の日本の国家体制を確認しておきたい。天皇の政治的役割については、『独白録』で注釈者の半藤一利氏(昭和史研究家)が補注した木戸幸一内大臣の東京裁判での証言が簡潔かつ的確に言い表している。《国務大臣の輔弼によって、国家の意志ははじめて完成するので、輔弼とともに御裁可はある。そこで陛下としては、いろいろ(事前には)御注意とか御戒告とかを遊ばすが、一度政府で決して参ったものは、これを御拒否にならないというのが、明治以来の日本の天皇の態度である。これが日本憲法の実際の運用の上から成立してきたところの、いわば慣習法である》(57頁) この点は、昭和天皇に憲法についてご進講した清水澄の講義録(『法制・帝国憲法』)にも「もし天皇が、国務大臣の輔弼なくして、大権を行使せらるることあらば、帝国憲法の正条に照らして、畏れながら違法の御所為と申し上ぐるの外なし」とされており、内閣の決定を天皇が拒否する、あるいは裁可しないということは憲法上あり得なかったのである。この意味で、戦前の日本の「主権者」は内閣なのであり、これが明治天皇以来、一貫した日本の立憲君主制の内実だったのである。 これは立憲君主制の国家ならどこも同じであり、イギリス国王も政治には基本的に関与しないけれども、内閣に対して「質問」と「助言」をすることができる「クエッション・アンド・アドバイス」という権利が憲法で認められている。 つまり、国民の君主に対する大きな尊敬と信頼に応えるという意味で、政治が一定の範囲から道を踏み外したりしないよう、憲法の枠内において配慮する責任を君主が負うことを認め、かつ求めるのが立憲君主制であって、現代の象徴天皇制も基本精神においては同じである。でなければ、およそいかなる君主制も成立し得ないからである。憲法上、日本と比べはるかに大きな政治的機能を君主に与えているデンマークやタイの王制も基本においては同様である。 戦後の日本では、天皇はたとえいかなる形でも一切政治に関わってはならない、というのが憲法上また民主政治の上から厳格に定められている、という誤った解釈がまかり通っているが、同じ発想で戦前の天皇は絶対最高の権力者であり、「全てが思うままになった」という非常に粗野な理解に基づく歴史教育が行われ、いまだに大きな影響力をもっている。天皇の「戦争責任」を主張する左翼勢力の典型的な議論も、「終戦は天皇が裁断を下した。天皇のいわば鶴の一声で、戦争は終わった。ならば開戦時も始めさせないという形で、独裁権を発揮できたはずだ」というものであるが、これも戦前の国家体制について余りに歪んだ理解をしていると言わざるを得ない。 確かに終戦時と二・二六事件に際して昭和天皇は自ら決断され、その判断が国家意思とされた。しかし、この二つのケースは、日本の内閣の意思、つまり政府が実質的に存在しなかった、あるいは機能しなくなっていたから、憲法に従って天皇の裁断が行われた特殊な事例であり、憲法上もまったく問題なかったのである。両国駅上空から南方向を撮影した写真(中央は隅田川)。終戦直後に米軍が撮影した東京(左、東京大空襲・戦災資料センター提供)は、空襲で焼け野原となり、幹線道路が露わになっている。一方で現在の東京(右、本社チャーターヘリから、松本健吾撮影)は、ビルが林立し見事な復興を遂げている いわゆる終戦の「聖断」は、八月九日深夜から十日未明にかけての御前会議で下された。ソ連参戦を受けて九日午前から開かれた最高戦争指導会議、さらに午後から夜にかけて二度にわたって開かれた閣議でもポツダム宣言を受諾するか否か結論は出なかった。議論が持ち越された御前会議も二時間半が経っても結論が出ず、内閣総理大臣の鈴木貫太郎が、内閣は機能しなくなったから「天皇の御裁可をお願いいたします」と申し出てご裁断を仰いだのである。つまり、戦争終結か継続か「全てを天皇に委ねる」ということが、内閣の決定だったのである。 これに対して開戦時は、天皇のご裁断を仰ぐという内閣の決定はなかった。対米開戦を辞さぬとした「帝国国策遂行要領」を決定した昭和十六年九月六日の御前会議では、あらゆる証拠から見て対米開戦反対の避戦論者であった昭和天皇にとって、明治天皇の「四方(よも)の海 みなはらから(同胞)と思ふ世に など波風の立ちさわぐらむ」との御製を二度にわたって読み上げるのが精一杯の「抵抗」であった。さらに事実上開戦を決定した同年十一月五日、最終決定をした十二月一日のいずれの御前会議でも、「開戦」が内閣の決定事項として諮られたのであり、天皇がそれを拒否されたら、憲法を無視した「上からのクーデター」となり、明治天皇以来の日本の国家体制の根底を揺るがすような事態になっていたのである。 当時を振り返った『独白録』の記述には、こうある。《(高松)宮は、それなら今(開戦を)止めてはどうかと云ふから、私は立憲国の君主としては、政府と統帥部との一致した意見は認めなければならぬ、若し認めなければ、東条(英機首相)は辞職し、大きな「(下からの)クーデタ」が起り、却て滅茶苦茶な戦争論が支配的になるであらうと思ひ、戦争を止める事に付ては、返事をしなかつた。/十二月一日に、閣僚と統帥部との合同御前会議が開かれ、戦争に決定した、その時は反対しても無駄だと思つたから、一言も云はなかつた》(89頁)※( )内は筆者註。 このように、昭和天皇ご自身も「君臨すれども命令できず」という日本型民主主義、あるいは君主国体下の民主主義という政体を遵守されていたことは疑問の余地がない。 一方、昭和十一年の二・二六事件で昭和天皇は、『木戸幸一日記』によれば、「今回のことは精神の如何を問はず甚だ不本意なり。国体の精華を傷(きずつ)くるものと認む」「速やかに暴徒を鎮圧せよ、秩序回復する迄職務に励精すべし」と機能を停止していた内閣を飛び越え、後藤文夫臨時首相代理に直接下命された。 つまりこの時、岡田啓介首相が首相官邸で反乱軍に襲われて「行方不明」となり、一時は「死亡」したと伝えられた(実は官邸の地下に隠れて無事だった)ほか、斎藤実内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎教育総監が殺害され、鈴木貫太郎侍従長も重傷を負って、内閣はもちろん政府全体がまったく機能しなくなっていた。つまりこの時の天皇の「討伐命令」も決して憲法を無視した決定ではなかったのである。伝統と合理主義の共存伝統と合理主義の共存『独白録』などによって昭和天皇の世界観というものを見るとき、三つの大切なものがあることが分かる。 第一は、平和への強い思いである。昭和天皇は戦前も戦後も一貫して平和主義者であられた。この事は、昭和天皇が日米開戦をなんとか避けようとされていたことなどが種々の資料から明らかになっており、もはや改めてここで詳しく触れる要もないであろう。またこれは昭和天皇だけのことではなく、先に紹介した御製を詠まれた明治天皇、さらに遡って日本の天皇家、皇室の根本精神が平和と民草(国民)の安寧にあることは言うまでもない。この日本皇室の顕著な平和志向の伝統が、帝国主義の跋扈した近代を通じ明確に継承されていたことは特筆すべきところであろう。 第二は、日本の伝統、今風の言葉でいえば「アイデンティティ」を体現され、特に天皇という地位と神話、神との絆を戦後も一貫して持ち続けておられたことである。このことと皇室の平和主義の伝統とは無関係ではない。またその「神につながる系譜」の体現者ということの一方で、現実の世界には、あくまで合理主義的で、プラグマチックな対応に徹しておられたことも昭和天皇の国際関係観を見る上で特筆すべきところである。「神の裔(すえ)」というアイデンティティと堅固な合理主義が互いに支え合うものとして昭和天皇の精神構造の特質としてあったのであり、それはまた皇室の伝統精神でもあった。この一見相反する二つの精神の在りようの共存こそ、実は日本人が現実の世界を相手にするとき、つねに心し、大切にしなければならないものなのである。日本人が伝統的精神を忘れ、西洋の物質論的合理主義―それがキリスト教道徳に支えられていることを知らずに―と、その対極を揺れ動いている近現代の日本社会の問題の所在は容易に理解できよう。 昭和天皇は、昭和二十一年の年頭にあたって出された詔書で、この二つの精神の大切さを説かれた。この詔書はGHQの意向によって〝現御神(あきつみかみ)〟〝現人神〟を否定された「人間宣言」として知られているが、実は書かれていない大きなポイントがある。GHQが当初内閣を通じて示した宣言案には、神格否定だけではなく、「皇室が神の子孫(裔(すえ))であることをも否定せよ」と指示されていたのである。しかし、昭和天皇は、この点は断固として拒否された。つまり昭和天皇は、天照大神、あるいは瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、伊弉諾(いざなぎ)、伊弉冉(いざなみ)の神、いわゆる天(あま)つ神と国造りの神々からの系譜を継ぐ立場であられるという神話的・歴史的、精神的アイデンティティについてはGHQに一歩も譲らない姿勢を示されたのである。銀座の中央通りを走る都電1系統(手前は銀座2丁目停留所、奥が銀座4丁目方面)=昭和42年、東京都中央区 「人間宣言」には、もう一つ重要なポイントがある。「五箇条の御誓文」を詔書の冒頭に置かれたことである。 終戦後初めて新しい年を迎えるにあたり、昭和天皇は、『五箇条の御誓文』に依拠して民主主義の重要性を改めて説き(「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」)、同時に国際関係においては合理主義と日本の存立の根幹である伝統との絆を大切にして世界とともに進んでいくよう(「智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ」)国民に呼びかけられたのである。 昭和天皇のこの時のお気持ちがいかに強いものであったかは、それから三十年以上後の昭和五十二年の記者会見で、「人間宣言」について話が及んださい、「あの宣言の第一の目的は『御誓文』でした。神格(否定)とかは二の問題でした。…民主主義を採用されたのは明治大帝のおぼしめしであり、民主主義が輸入のものでないことを示す必要があった。…日本の誇りを忘れさせないため、明治大帝の立派な考えを示すために発表しました」とお話しになったことからも分かる。先に述べたように、現代日本の荒廃を考えるとき、われわれは昭和天皇がこの言葉を国民に示された意味を改めて考える必要があるであろう。国際社会において「誠」を貫く大切さ 第三は、昭和天皇が国際社会における信義、世界の中での「日本の誠」というものをどれだけ重んじておられたかということである。国際関係においては、一旦他国と結んだ条約は守り抜く、という強い信念を一貫して持たれていたことは、『独白録』だけでなく他の多くの史料からも明らかである。 例えば昭和十六年六月、ドイツが独ソ不可侵条約を破り、突如としてソ連に侵攻した。この時、外務大臣の松岡洋右は、同盟国のドイツがソ連と戦争を始めたのであるから日本もソ連を攻めるべきだと昭和天皇に上奏するのであるが、松岡は、その二カ月前にモスクワに行き、スターリンと日ソ中立条約を結んだばかりであった。 この事に昭和天皇は激怒された。《松岡はソ聯との中立条約を破る事に付て私の処に云つて来た、之は明かに国際信義を無視するもので、こんな大臣は困るから私は近衛に松岡を罷める様に云つたが、近衛は松岡の単独罷免を承知せず、七月に内閣々僚刷新を名として総辞職した。/松岡の主張は、イルクーツク迄兵を進めよー(ママ)と云ふのであるから若し松岡の云ふ通りにしたら大変な事になつたと思ふ。彼の言を用ゐなかつたは手柄であつた》(『独白録』68頁) 昭和天皇は、松岡が日本外交の基本精神を踏み外している点を特にお怒りになったわけである。一旦結んだ条約は是非とも守らなければならない。日本の法治主義という伝統は、「言葉に出した約束はいかなることがあっても守る」という日本精神のアイデンティティ感覚によって支えられ、これを踏みにじるようなことがあってはならない。そしてそれは、たとえ弱肉強食の国際情勢にあっても貫かれねばならない。こうした思想が、昭和天皇の国際関係観の中核にあった。 このことは、昭和十五年九月に日本が三国同盟を結んださい、昭和天皇がドイツ、イタリアと同盟関係を結ぶことに強い懸念を示されたことからも読み取れる。 「独伊のごとき(ヽヽヽ)国家とそのような緊密な同盟を結ばねばならぬようなことで、この国の前途はどうなるか、私の代はよろしいが、私の子孫の代が思いやられる」(傍点筆者)とおっしゃったうえ、「日英同盟の時は宮中では何も取行はれなかつた様だが、今度の場合は日英同盟の時の様に只(ただ)慶ぶと云ふのではなく、万一情勢の推移によつては重大な局面に直面するであろう」と述べて、賢所への参拝と祖宗への報告をご希望になった(『昭和天皇語録』講談社学術文庫)。 昭和天皇が三国同盟の締結を躊躇された理由の一つはやはり、ドイツ、イタリアがファシズムの国だったからであろう。周知の通り、独伊ではナチス党とファシスト党という政党、つまり私的集団が国家を乗っ取り、いかなる意味でも立憲体制ではなくなっていた。そんな国と立憲君主制の日本が歩を揃えて行動すべきでないと天皇がお考えになったのは自然なことだろう。昭和54年6月、日本が初めて議長国を務めた東京サミットの全体会議で席につく各国首脳=東京・元赤坂の迎賓館 しかし、ここには、もう一つの重大な理由がある。戦前の日本は、実は他国と同盟関係や条約を結ぶときには、相手国の条約や同盟関係に対する態度、過去にどれだけ誠実に国家間の約束を守ってきたのか、あるいは破ってきたのかという歴史の記録を詳しく調べていたのである。 明治時代の日英同盟では、この調査によってイギリスは同盟の相手国として信頼できるということが分かり、同盟締結に向けて日本の国全体が動いた。ところが、ドイツは、ロシアに次いで最も頻繁に同盟や条約を破ってきた国だったのである。昭和天皇もドイツが条約破りの常習国家だということをご存じだったのであろう。「ドイツやイタリアのごとき」という厳しい言葉の裏には、そのようなお気持ちが隠されていたのである。 『独白録』では、真珠湾攻撃の三日後の昭和十六年十二月十一日、日本、ドイツ、イタリアの三カ国が結んだ「単独不講和の確約」、つまり、それぞれ単独では連合国と講和しないという協定に対する昭和天皇のお考えも紹介されている。 《三国単独不講和確約は結果から見れば、終始日本に害をなしたと思ふ》(62頁) 日本は、単独講和をしないというこの約束を最後まで律儀に守り抜いた。その結果、日本は連合国と停戦するきっかけを失って最後までドイツと運命を共にし、無条件降伏を要求されるような状態になってしまったのである。 ところが、ドイツはスターリンと講和のための秘密交渉を一九四三年から四四年まで何度も試みていたし、イギリスやアメリカとも単独講和しようとしていたのである。イタリアにいたっては一九四三年に連合軍がシチリア島から上陸してくると、国内のドイツ軍にまで攻撃を加えてムッソリーニをリンチの末に殺害し、それでいわば「落とし前」をつけたとして、「自分たちも今や連合国の一員だ」と言い張ったのである。さすがにアメリカは認めなかったが。 日本は、そういう国々を同盟国にして、大東亜戦争ではあれだけ多大な犠牲を払うことになったのである。個人的な話になるが、私も若い頃は、大東亜戦争で日本は単独不講和の約束を守るのに律儀にすぎた、日本もシンガポール陥落、あるいはミッドウエイ海戦の直前に連合国と条件交渉に踏み切っていたとしても、冷徹な国際政治の現実からすれば決して一方的に非難されることではなかったのではないか、と考えることもあった。 また前述のところでは、松岡外相の進言を容れ、たった二カ月前に結んだ中立条約を無視してでもナチスと協力してソ連を攻撃しておけば、日本自身が南進する余裕はなくなり、東南アジアや太平洋で米英と衝突することはなかったし、共産主義のソ連を倒すのであるから対ソ侵攻の大義名分も成り立つだろうと考えたこともあった。 しかし、国際政治史の研究を重ねるうちに、昭和天皇が、日本的価値観である「誠」というものに基づいた外交を通さねば国の基軸が立たなくなるとお考えになった、あの大きな判断によって、敗戦やその甚大な被害をも超えた、数百年という単位でわれわれが誇りとすべき日本史の記録というものが残されたのだと考えるようになった。 当面の戦略的必要から条約を破る、あるいは同盟関係を踏みにじるということをすれば、目先の利益は確保できるかもしれない。しかしそうして一旦国家の基本を踏み外せば、子孫がどんな不利益を被るか。言い換えれば、昭和天皇がドイツやイタリアを同盟相手とするのに躊躇されたような目で、将来日本は国際社会から見られるようになっていたかもしれないのである。 しかし、現代の日本は、その点では欧米をはじめ東南アジアの国々やインド、さらには中東に至るまで、中国や韓国などが決して得ていないような信頼、「約束は守る国だ」という深い信頼を得ている。このことは、たとえ日本のメディアが報じなくとも、現代の日本人はよく知っておくべきであろう。これは何も先の大戦でドイツやイタリアとの約束を守り通したからだけではない。例えば明治五年の新橋―横浜間の鉄道敷設の資金とした外国からの借款をはじめ、近代化のために外国から借りた資金を、あの弱肉強食の時代に全て完済したという歴史も、国際社会の記憶となっているのである。 日本が語るべきものは、軍事力でも経済力でもない。まさに、「信義」というものが日本外交の最大の財産である、と昭和天皇は、われわれに示されているのである。しかもこれは百年、千年という単位で国家の行き方を考える視点に基づくものであり、神代に繋がる連綿たる歴史観の中で日本という国の安泰を祈り続けてきた皇室という存在なしには考えられないことに思いを致し、その昭和天皇の御心、つまり倫理観をわれわれは受け継がなければならないのではないか。 またこうした点での昭和天皇のお考えは、日本が今後国の命運をも共にすべき国家を選択するさいの教訓もわれわれに示唆するものがあると言えるかもしれない。アングロサクソンは計算高く油断も隙もない民族ではあるが、ロシアやドイツと比べれば遙かに信頼度は高く、条約を遥かによく守ってきた。中国や北朝鮮というもう一つのタイプの大陸国家と比べてもアングロサクソン勢力は遙かに信頼性が高いことはもはや明白、と言えるかもしれない。かつての「ドイツやイタリアのごとき国家」は日本の周囲にもあるということである。「リットン報告書」に関する記述の真意「リットン報告書」に関する記述の真意『独白録』が世に出たさい、多くの歴史家の目を引いたのが「リットン報告書」に言及された点であった。 《例へば、かの「リットン」報告書[昭和六年の満州事変のさいの国連(国際連盟、筆者註)調査団による報告書]の場合の如き、私は報告書をそのまゝ鵜呑みにして終ふ積りで、牧野(伸顕内大臣、筆者註)、西園寺に相談した処、牧野は賛成したが、西園寺は閣議が、はねつけると決定した以上、之に反対するのはおもしろくないと云つたので、私は自分の意思を徹することを思ひ止つたやうな訳である》(30頁) 日本は結局「リットン報告書」を受け入れずに国際的に孤立して国際連盟を脱退したが、昭和天皇のお考えは、この報告書は受け容れられる内容ではないかというものだった。「リットン報告書」、つまり国際連盟は満州事変が日本の侵略だと断定はしたけれども、日本の満州における権益は認めるという立場であり、その現状について日中間で新しい条約を結ぶよう勧告していた。中国は満州における日本の権益はこれを正面から認めて排日運動などによって日本の権利を侵すようなことはしてはならず、日本も満州は中国の領土であると認める条約を結べ、というわけである。 満州事変は、日露戦争以来日本人がかの地に苦心して築いてきた合法的な権益を、中国共産党が中心となって排日、侮日運動によって日本人を追い出して力で日本の権益を根底から覆そうとしたのに対し、政府、幣原外交が無策であったために、関東軍が自衛のために立ち上がって起きた。その言い分は正しかったのだが、謀略的手法によって柳条湖で鉄道を爆破し、一挙に全満州を軍事制圧するというやり方が余りにお粗末であったのである。現在も残る大阪砲兵工廠跡(写真中央)。旧日本陸軍の兵器製造を担ったアジア最大規模の軍事工場は、戦後70年を経た現在、大阪ビジネスパーク(OBP)や大阪城公園の一角にひっそりとたたずんでいる=大阪市(安元雄太撮影) 「侵略」といえるかどうかは別にして、満州事変には他にも問題点はある。日本の権益を過剰に押し広げ、ソ連と国境を接してしまったことである。ソ連との暗黙の了解であった中部満州の南北を分ける線を超えて北部に出ていってしまった。これは中ソの両方を敵とすることを意味した。たとえソ連と直接軍事衝突することはないにしても、当時日本国内にもコミンテルンの指令を受けている共産主義者が大勢いたわけであるから、彼らの国家転覆活動が活発化する可能性も合わせて考えるべきであった。実際、ソ連の指令を受けた尾崎秀実やゾルゲらは、この満州事変の直後から動き始めて日本を日米戦争の奈落に誘い込んでいったのである。 そのように考えると、満州事変は戦略的には誤った行動ではあったが、本来正当な日本の権益は守られなければならないという点では決して間違ってはいなかったのである。従って、「リットン報告書」を受け容れれば、日本の主張の正当性を国際社会が認めることになるのだとお考えになった点でも、昭和天皇の大きなプラグマティズムに基づく国際政治観、大義と国益とをバランスよく見据えていくという戦略眼がうかがえるのである。 ところが、この天皇のお言葉を取りあげて、いまだに生き残っている左派歴史家たちの中には、「昭和天皇は満州事変を是認していた」「侵略肯定論者だ」と捻じ曲げて解釈する向きがある。『独白録』は専ら東京裁判で昭和天皇の戦争責任が追及されたときの弁明資料として作成されたものだとして、天皇の戦争責任を追及する藤原彰・女子栄養大教授、粟屋憲太郎・立教大教授、吉田裕・一橋大助教授、山田朗・東京都立大助手の共著『徹底検証 昭和天皇「独白録」』(大月書店、共著者肩書きは平成三年の初版発行時)にも、同様の批判が記述されている。 《満州は田舎であるから事件が起つても大した事はないが、天津北京で起ると必ず英米の干渉が非道くなり彼我衝突の畏(おそ)れがあると思つた》(『独白録』42頁) このお言葉についても、藤原らの『徹底検証 昭和天皇「独白録」』は、「昭和天皇は満州は田舎で英米の目に付かないのだから侵略してもいいと考えていた。侵略を明確に肯定している」と批判している。 しかし、これらは根本的に歪んだ前提に立った批判である。この部分の天皇のお言葉は、前述の通り満州事変それ自体は、国際社会から日本が認められた権益を守るための行動であったが、その入り方が間違っていたし、明白に中国政府の支配下にある北支で同様の衝突をすることは国際秩序に対する挑戦であり許されない、という意味なのである。 だから、藤原や粟屋らの批判は、どんな地域でも、いかなる場合でも武力を用いてはならないという戦後の「日本国憲法」第九条に根ざした空想的平和主義から一歩も出ない立場を前提としたものである。歴史を論じながら、当時の国際状況をまったく無視しており、国際関係が「彼我の関係」という相対性を本質とすることを敢えて否定する一方的な批判である。戦後平和主義をもって正統的平和主義を批判する愚 この関連で、さらに踏み込んで見ていくならば、第二次上海事変(昭和十二年八月)勃発後に支那事変が拡大する局面における『独白録』の記述からは、昭和天皇の正統的な平和主義と卓越した戦略観の一端が見えてくる。 《その中(うち)に事件は上海に飛び火した。近衛は不拡大方針を主張してゐたが、私は上海に飛び火した以上拡大防止は困難と思った。/当時上海の我陸軍兵力は甚だ手薄であつた。ソ聯を怖れて兵力を上海に割くことを嫌つていたのだ。湯浅[倉平]内大臣から聞いた所に依ると、石原(莞爾、筆者註)は当初陸軍が上海に二ケ師団しか出さぬのは政府が止めたからだと云つた相だが、その実石原が止めて居たのだ相だ。二ケ師の兵力では上海は悲惨な目に遭ふと思つたので、私は盛に兵力の増加を督促したが、石原はやはりソ聯を怖れて満足な兵力を送らぬ。/私は威嚇すると同時に平和論を出せと云ふ事を、常に云つてゐたが、参謀本部は之に賛成するが、陸軍省は反対する。多分軍務局であらう。妥協の機会をこゝでも取り逃した》(44頁) 左派史観は、これを「天皇の好戦性」を示すものとしてしきりに批判の対象とするのだが、もしかしたら、戦後の平和教育の中で育った日本人の中にも同様の見方をする者が一部に現れてくるかもしれない。しかしこれは全く平和の何たるかを理解しないものと言わなければならない。 その五年前の昭和七年一月に起きた第一次上海事変についての『独白録』の記述では、白川義則大将が上海派遣軍を率いて十九路軍(国民党軍)を撃退しながら深追いせずに停職したのは、《私(昭和天皇、筆者註)が特に白川に事件の不拡大を命じて置いたからだ》と明らかにされている(34頁)。 白川大将が国際連盟との衝突を避けたい天皇の戒めを守ったことにより、この時の日本軍の行動は国際連盟でも評価されることとなった。 ところが、先の『独白録』にあるように、第二次上海事変で日本は兵力の逐次投入という愚かな策をとった。一方の蒋介石軍は西安事件(一九三六年十二月)後の第二次国共合作により、国を挙げての大々的な日本攻撃を準備して、条約上の権利で上海に駐留していた僅か二千五百人の日本軍に十数万人の大軍をもって先制攻撃する挙に出たのである。そうである以上、昭和天皇は第一次上海事変と同じようにむしろ一挙に大規模な兵力を投入することによって和平への道を確保しようと考えられたのであった。ところが、石原莞爾ら不拡大派の主張によって陸軍は最初に二個師団を派遣しただけで、その後も戦況が不利となるたびに逐次増派するという泥縄の作戦しかとれなかった。このため上海での戦闘は泥沼化し、最終的に四万の日本兵が死傷する日露戦争の旅順攻撃以来の大損害を出したのである。 さらに、その大損害のために蒋介石・国民党軍と全面戦争に突入すべしの世論が高じ、「南京進撃」へと繋がった。確かに対ソ戦を優先して考えていた石原らの戦略にも一理はあったが、昭和天皇のほうがより現実を見据えた平和論として戦略的にも優れた見識であったように思われる。もし昭和天皇の見識が事態を支配していたら、結果的には平和的な解決につながっていたであろうし、そもそも国際政治のロジックを踏まえた大きな戦略観を天皇が持っておられたことに注目すべきではないだろうか。 ここでもまた、『徹底検証 昭和天皇「独白録」』は、《私は盛に兵力の増加を督促した》との記述をもって、「昭和天皇は平和主義者とは決して言えない」と批判している。しかし、これも武力の行使は一切してはならないという戦後憲法の前文と第九条的思考に縛られ、それを前提に戦前の日本の行動を裁断しているにすぎないことは改めて言うまでもない。 当時の日本は、上海で、三万人以上の日本人が住む「日本租界」という日本の法律が通用する地域を持つことが国際法上の権利として認められていた。ところが、それを守る兵力として前述の通り二千人強の海軍陸戦隊しかいない日本租界を蒋介石軍が十二万もの圧倒的兵力で攻撃しようとしたのであり、上海事変は完全な日本の防衛戦争、あるいは自衛戦争だったのである。混迷する時代にこそ心に刻むべき御心混迷する時代にこそ心に刻むべき御心 以上見てみたように、昭和天皇は満州事変には明確に反対しておられた。満州の権益を守ることは正しいが、そのやり方が国際秩序に反していて日本を危険に陥れていたからである。他方、支那事変に対しては反対されていない。むしろ第一次上海事変のように、上海での日本人の生命・財産と日本の威信を守るために積極的な軍事行動に出て、ある程度の成果を収めたら追撃せず即座に和平するというお考えであった。実際、あのとき平和を確保するにはその方法しかなく、その後の支那事変がたどった悲劇は間違いなく避けられたと思われる。 この昭和天皇の平和観と戦略感覚もまた、非常に大切な事をわれわれに教えている。国際秩序に決して挑戦してはならない。このことは天皇が繰り返し様々な場面で強調しておられた。他方、自らの利益を守り、自衛の権利を発動するときには、正々堂々、明確なかたちで国際法にのっとり断固とした態度を示すこと。それが憲法九条的な戦後平和主義ではない、もっとも正しい意味での普遍的平和主義だということである。 冷戦終結後、混迷の度を増す国際社会の中で、日本は自立した国家への手探りを始め、「このままでは国家としては立ち行かない」という意識も国民にようやく浸透してきた。しかし、自衛隊の扱いひとつをとってみても、憲法改正後の位置づけや海外派遣をめぐって議論は錯綜したままである。本来の平和主義とはいかなるものかという認識、国際関係の基本を踏まえた戦略の文化も育っていない。これは、国際社会で、日本がとるべき行動の基準、国家の基軸という意識がいまだに日本国民に根付いていないからである。 日本の国体というものは、お互いを思いやる「仁」と「誠」の精神を重んじ、日本の国と国民の安泰を祈り続けてきた皇室が厳然としてあり、国民がそれを尊崇し、そして自己の意志だけでは乗り越えられない存在の前に謙虚になって常に自己抑制を忘れず、そして国際社会の潮流、つまり「世界の進運」(終戦の詔勅)に遅れることなく、常に国際社会と軌を一にして発展していくところにある。そのベースとなるのは、二千年の歴史に根ざす伝統への絆から生じる、ゆったりとした大きな誇りであり、これが堅実な合理主義と強靭なプラグマティズムを支え、他国と真に平和的に共存できる「柔らかき心」を生み出してくれるのである。 昭和天皇は昭和五十年、戦後三十年を迎えて初めて記者会見に臨まれた。その場で「いわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか」と記者が正面切って聞いたのに対して、昭和天皇は「そういう言葉の綾(あや)については、私はそういう文学方面はあまり研究していないので、よく分かりませんから、そういう問題についてはお答えできかねます」とお答えになった。私はこのお言葉に昭和天皇の万感の思いが込められていたと強く感じる。本来の文脈を虚心にたどれば、そこには歴史観、あるいは歴史と国際関係の大きな基軸を踏まえ、立憲君主としての立場、また国家はいかにあるべきかという哲学がうかがい知れる。 「言葉の綾」という表現には、「そのことを論じ始めれば、実にたくさんのことを論じなければならない」という感慨、そして何よりも、「私は当事者だったし、あなた方の中にもその時代を生きた人たちがいる。この問題は後世の歴史家がしっかりと冷静に論じられる時代になったときに、自ずと真実が明らかになるはずだ」という万感の思いをむしろ率直に込められたのだと思う。 日本が国として立っていくための基軸について昭和天皇が遺されたこと、そして孫子の世代に受け継いで欲しいと願われた御心を、われわれは八月十五日を迎えるたびに、あの「万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス」と唱えられた終戦の詔勅とともに繰り返し思い出すべきなのである。それが、戦後六十年という節目を迎え、またこの春に昭和天皇の御誕生日が「昭和の日」という国民の祝日として制定された今、われわれに改めて求められる決意であろう。 なかにし・てるまさ 昭和二十二年(一九四七年)大阪府生まれ。京都大学法学部卒業。同大学院修士課程(国際政治学)、ケンブリッジ大学大学院修了。静岡県立大学教授を経て現職(総合人間学部教授)。著書に『大英帝国衰亡史』『なぜ国家は衰亡するのか』(以上、PHP)『日本の「敵」』(文藝春秋)『国民の文明史』(扶桑社)『帝国としての中国』(東洋経済新報社)など多数。※記事の内容、肩書等は掲載時のものです。関連記事■ 世界が羨む「日本の力」■ 何が相撲の伝統を守ったか■ 【安倍政権考】日本とインドの深い関係

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    昭和は日本の二十世紀だった

    象徴していた「鳥居」 平成元年2月24日、東京・新宿御苑に設けられた昭和天皇のご葬儀のための葬場で、皇室行事の「葬場殿の儀」が終わった。すると葬場殿前の幔門(まんもん)が閉じられ、内側で作業員10人が、白木の鳥居を固定してある根元のボルトを外し、“張りぼて式”の鳥居をわずか数分で撤去した。再び幔門が開き、国の儀式「大喪の礼」が始まる。 実はこの鳥居は、昭和天皇のご葬儀をどう行うか、という政府の苦悩を象徴していた。 戦前は、旧皇室喪儀令や登極令などの皇室令により、大喪、即位関連の儀式は国事行為として行われてきた。だが、新憲法施行に伴い旧皇室令は効力を失う。「政教分離」を規定した憲法と、宗教色が濃い皇室伝統との妥協点をいかに見いだすか―政府はひそかにその研究を行っていた。 福田内閣当時の52年6月首席内閣参事官の藤森昭一(69)=現宮内庁長官=を中心に、内閣審議室、法制局、宮内庁の幹部四人による極秘の勉強会がスタートする。メンバーの一人で、内閣審議室長だった清水汪(69)=現農林中金総合研究所理事長=はこう証言する。 「元号と、大喪、即位の諸儀式をテーマに、キャピトル東急ホテルで月に2、3回開いた。どこまでが政教の『教』なのかはっきりせず、議論すればするほど難しかった」 勉強会は53年秋まで続き解散。その後、本格的な検討に着手したのは57年11月に発足した中曽根内閣である。中曽根康弘(77)はこう明かす。 「内閣発足と同時に、官房副長官の藤森君、首席参事官の森幸男君らに研究を命じた。諸儀式の性格と範囲に始まり、参列者の範囲、皇位継承、大喪儀委員会の設置、経費などあらゆる問題を検討した。60年3月には総合的な研究に取りかかり、秋になると“鳥居”などの問題も議論し、想定問答も作成している」 検討結果は、62年11月に発足した竹下内閣にそのまま引き継がれる。中曽根は「竹下君に渡したときには大体準備ができていた。ほぼその通りに竹下内閣では実施された」と語る。 63年夏、政府は「大喪儀案」を作成する。だが、宮内庁の掌典職はこれに反発した。大正天皇の大喪を踏襲した掌典の当初案とはあまりにかけ離れ、鳥居や、皇居-新宿御苑と葬場内の徒歩列、牛車、弓矢などが姿を消していたのだ。掌典長だった東園基文(84)は、こう振り返る。 「本当に情けないことだった。こちらとしてはこうやりたいと言うと、クレームがつく。宮内庁の主張は通らないことが多かった」 その後の調整で、葬場内の徒歩列は了となったが、鳥居については最後まで再検討の動きはなかった。ところが、昭和天皇が崩御された直後から「国家基本問題同志会」の座長、亀井静香(59)ら自民党議員が猛烈に巻き返した。「大喪の礼」を終えて武蔵野陵に到着した昭和天皇の棺(ひつぎ)を乗せた御料車=平成元年2月24日、東京都八王子市 平成元年1月12日、亀井らは首相官邸で竹下登に会い、「牛車を使うことにしてほしい。せめて鳥居は建立していただきたい」と詰め寄り、竹下も「どうにか工夫してみる」と答えた。 官房副長官だった石原信雄(69)=日本広報協会会長=はこう振り返る。「鳥居は宗教的意味あいをもち、国の儀式である大喪の礼では外す必要があった。法制局は政教分離に厳格で、宮内庁は伝統を重んじる。激しい議論となったが、苦肉の策として、持ち運びができる鳥居にするという知恵が浮かんだ」 昭和天皇の柩(ひつぎ)を乗せた葱華輦(そうかれん)の担ぎ手の中には、歴代天皇の柩を担いできた「八瀬童子」(やせのどうじ)の姿はなかった。京都市左京区八瀬。今も百127世帯が「八瀬童子会」を組織している。起源は約650年前。足利尊氏に追われる後醍醐天皇を、八瀬の村民が助け、その功績から柩を担ぐ駕輿丁(かよちょう)として仕えるようになった。 会長の山本六郎(80)=現名誉会長=らは、崩御の翌日に上京し、宮内庁幹部に「今回もご用命いただければ」と申し出た。だが、八瀬童子会の約九割は会社員。アンケート調査も行い、大方は「数日ならば会社を休んでもご奉仕したい」と回答したが、消極的な者もいた。 結局、宮内庁の回答は「今回はご遠慮いただきたい」。式部官長だった安倍勲(81)は「お柩は大正天皇のものとは材質も違い相当重い。八瀬童子では難しいと、皇宮警察になった」と言う。だが、宮内庁は八瀬童子の内部事情を察知し断った、というのが真相のようで、山本も「時代の流れで伝統もああなった」と話す。 大喪の礼には164カ国もの国から元首などが参列した。 外務次官だった村田良平(66)=現外務省顧問=は「戦後、戦争の重みを背負い歩んできた日本が国際社会で地位を得て、重要な国だと認められたあかしがご大喪であり、昭和の仕上げだった」と語る。 外相だった宇野宗佑(73)=元首相=は、昭和天皇にお目にかかり、日本外交の在り方などについて所信を表明したことがある。「陛下は目を閉じられじっと話を聞いておいでになる。『昭和』を感じ、開戦、敗戦の時はどういうお気持ちだったろうと思った」 崩御の際、海外の一部マスコミは昭和天皇の戦争責任問題を取りあげたが、侍従だった卜部亮吾(71)には、「陛下はご自分で、戦争責任を背負っていらした」と映る。 外交評論家の岡崎久彦(65)=現博報堂特別顧問=はこう語る。 「昭和は日本の二十世紀だった。昭和天皇とともに二十世紀は終わり、実質的に二十一世紀に入ったといえる。ひとつの区切りでした」 (文中敬称略)関連記事■ 世界が羨む「日本の力」■ 何が相撲の伝統を守ったか■ 【安倍政権考】日本とインドの深い関係

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    全国巡幸 国民を慰め、励まされるための旅

    「戦後史開封」天皇御巡幸産経新聞連載再録(1995年8月8日から5回)※肩書、年齢等は当時のまま 昭和天皇は終戦の翌年の昭和21年から29年にかけて全国を巡幸された。敗戦によるショック、虚脱状態にあった国民を慰め、励まされるための旅だった。全行程は3万3000キロ。東京、ロサンゼルス間を2往復する勘定になる。一日平均200キロの強行軍だった。国民はそれまで現人神(あらひとがみ)とされていた天皇の姿に直接触れ、国家再建の道を歩むことになる。通りすぎるはずが突然お声を 昭和21年2月19日、神奈川県川崎市の昭和電工川崎工場で農業用濃硫酸係をしていた安藤義雄(75)は、工場の正門で同僚約20人と整列し、頭を下げていた。 昭和天皇はこの日、全国巡幸の第一歩として同工場を訪ねられた。食糧生産に不可欠の化学肥料を生産する工場だった。事務所は戦争で焼け、急ごしらえのテントで社長の森暁(故人)から説明を受けて視察を終え、帰ろうとしておられた。 予定では正門は歩いて通り過ぎるだけだった。しかし、ハプニングが起きた。天皇が足を止められたのだ。 「通り過ぎられたと思って顔を上げると、陛下と目が合いました」と安藤。天皇は安藤に話しかけられる。 「何年勤めているか」 「5年ちょっとです」 「生活は苦しくないか」 「何とかやっております」 「あっそう。頑張ってください」。これが天皇と一般国民が声を交わした最初だった。 「その日の朝、工場内放送で(巡幸を)知らされました。まさか、お声をかけていただくとは夢にも思いませんでした。目と目が合ったときは、どきどきしました。夢を見ているようだった」 天皇はさらに進まれた。そして女子事務員の佐久間信子(73)にも声をかけられた。 「何年勤めているのか」「生活はだいじょうぶですか」 「“はい”と答えるだけで、もうドキドキして、ぼーっとしてよく覚えていません。負けたのだから仕方ないと思いましたが、MP(米軍憲兵)や見物の米兵が陛下の目の前を横切ったりして失礼ではないかと憤慨したのを覚えています」 終戦から1カ月余りたった20年9月27日、天皇は連合国軍総司令部(GHQ)に最高司令官、マッカーサーを訪問された。その際、「わたしは失意と虚脱にあえぐ国民を慰め励ましたいので、日本全国を回りたい。しかし、一部に反対の声もあるのだが…」と申し出られた。マッカーサーは「遠慮なくでかけるべきです。それが民主主義というものです」と答えた。 天皇はただちに宮内省(22年5月から宮内府、24年6月から宮内庁)の幹部に巡幸の準備を命じられた。 旅立ちは背広にソフトの帽子、夏はカンカン帽といった軽装。隊列も鹵簿(ろぼ)と呼ばれた戦前の物々しさとは打って変わり、警護も当初はGHQが付けたMP二人だけだった。 21年2月19日の最初のご巡幸は朝、皇居を車で出発。MPのジープが先導、宮内相、侍従長らがお供をした。 昭和電工の工場では、天皇が説明を受けておられる間、待ち構えていた米兵が写真を撮るため、天皇のそでを引っ張ったり、小突いたりした。天皇は全く逆らわず、何ごともないような顔をして説明を聞かれた。 午後は横浜に向かわれた。戦災者用のバラック住宅では被災者に「これでは寒いであろう」「はい、大変寒うございます」「あっそう」。 天皇の「あっそう」はぎこちない印象を国民に与えたが、初めて庶民に接する天皇の精いっぱいの言葉であった。やがて「あっそう」は流行語になる。 翌20日は横須賀市の浦賀引揚援護局を訪問になった。援護局内の引き揚げ者に声をおかけになり、17日にパラオ島から復員してきた宇都宮の歩兵第五十九連隊を中心とした将兵から復員報告を受けられた。 五十九連隊は第一大隊がアンガウル島で玉砕、第二、第三大隊はパラオ島で終戦を迎えた。傷病兵は先に帰還したが、高崎の歩兵十五連隊の一部をふくむ550人はコロール島の清掃作業に従事、この日の復員となった。 同連隊は終戦後も階級章をつけ、戦時中と同じように軍紀を保っていた。 大尉で連隊副官代理をしていた深堀泰一(72)は「復員手続きが終わるまでは軍隊として行動した。階級章もそのまま、歩調をとって行進、週番肩章やラッパも持ち出して起床、点呼、食事、消灯などを実施した」という。 援護局の担当者は当初、やめるよう要請したが、連隊長、江口八郎(故人)は拒否する。援護局側もその姿勢に次第に尊敬心を抱き、復員業務を1日遅らせて、巡幸される天皇に復員報告をするように勧めたのだった。 宿舎に整列した将兵の前に天皇は進まれた。江口は挙手の礼をして上奏文を読み上げた。 「臣、八郎、歩兵五十九連隊連隊長としてパラオ諸島に転進、祖国防衛の任に当たりました。将兵は困苦欠乏に耐え、団結して最後まで米英撃滅のため戦って参りましたが、股肱輔弼の任を全うすること能わず、ポツダム宣言を受諾せざるを得ない状況に立ち至りましたことは、誠に申し訳なく慚愧の至りであります」 天皇は終始、沈痛な表情で聞かれ「あっそう」と相づちを打たれた。終わると兵の中を歩まれて声をかけられた。 侍従のひとりが連隊副官のところに来て小声で「米英撃滅ということばは慎まれるように」と注意した。周りにはMPや進駐軍関係者、米国人記者などが多くいたからだ。 江口のすぐ後ろに立っていた当時、中尉の橋本宏(75)=現栃木県南那須町長=は「陛下は軍服で来られると思っていたが背広だった。号令が“頭右”ではなく“最敬礼”だった。戦争は負け、軍隊はなくなったと実感した」と振り返る。 海外から復員した約300万人のうち、天皇に直接、報告したのはこの部隊だけだった。役場から「モンペ姿で農作業して」  神奈川県下で昭和天皇の初の巡幸が行われて9日後の昭和21年2月28日午後、東京・新宿のデパート「伊勢丹」前に大勢の人々が集まりだした。天皇が巡幸の一環として伊勢丹で開催されている「平和産業転換展」をご覧になるということを知った人たちだった。 東京への巡幸は当初、いちばん最初の2月14、16の両日が予定されていたが、一部新聞に漏れ、警備の都合から神奈川の後の28日と3月1日に変更されたいきさつがあった。 28日にはまず日本橋の焼け跡を視察の後、小石川の被災者用バラックを回られ、早稲田・鶴巻小学校で授業を参観。午後、伊勢丹に回られた。 天皇が伊勢丹を出られると取り囲んだ人たちから、「天皇陛下バンザイ」の絶叫が繰り返された。天皇は帽子を取ってお応えになり、車に乗ってからも手を振られた。 政府関係者たちもこの時点までは、敗戦による国民の天皇に対する感情をつかみかねていた。だが、この光景を目の当たりにして、国民の天皇に対する尊敬心は戦前と大きな変化はないと胸をなで下ろし、以後、巡幸は予定通りスムーズに行われるようになる。 翌3月1日は三多摩地区に足を運ばれ、八王子の都立第四高女(現南多摩高校)を視察になった。雨が降り、天皇は自ら傘をさされた。戦前では考えられなかったことである。 学校は戦災で全焼したが、教職員、生徒が一丸となって自分たちの手だけで仮校舎を作り上げていた。校長の岩崎源兵衛(故人)がそのことを報告すると「よく建てられましたね」とねぎらい、生徒の間を回って「食料に困っていないか」「家は焼かれたか」などと聞かれた。 4年生だった野尻(旧姓島田)和子(65)はこう覚えている。「長靴をはいておられました。“大変ですね”といわれて感激しました。口をきけるとは思っていなかったから、親しみを感じました」 巡幸をめぐってケガ人も出る。3月25日、群馬県群馬町の堤ケ岡開墾場にお着きになったとき、堤ケ岡農業会会長、大沢半之丞(故人)を先頭に多くの農民が整列して待っていた。 お車が到着して運転手がドアを開けたとたん、ドアが車のすぐ近くで最敬礼をしていた大沢の額を直撃してしまった。大沢は額から出血をしたが、めげずに直立不動を続け、天皇をお迎えした。 驚いたのは天皇である。目の前に額から血を流した老人が立っている。視察を後回しにされ、「大丈夫か」とすぐに侍医を呼び、手当てを命じられた。 後日、群馬県知事の北野重雄(故人)はお礼に皇居を訪れたが、侍従から天皇のお見舞いとして、大沢のための包帯、ガーゼ、脱脂綿などが贈られた。 埼玉県埼玉村(現行田市)で農業をしていた新井(旧姓木村)ハル子(72)は、村役場の人から「天皇陛下が来られるから、かすりのモンペ姿で農作業をお見せするように」といわれた。3月20日ごろのことだった。今でいえば“やらせ”っぽい話だ。 「辞退しましたよ。震えちゃう。勘弁してくださいってね。でも決まったことだからといわれて」 天皇は群馬県から3月28日、埼玉県に入られた。新井は継母のヒデ(故人)とともに、農作業のふりをした。役場からは「手ぬぐいをして農作業をし、お車が着かれたら手ぬぐい取って腰に挟み、最敬礼をしてください。お声をかけられても返事をしないように」と言われていた。 畑の周囲には何百人の歓迎の人がいた。後ろには小学校の児童も整列していた。 「お車が着いたので最敬礼しましたが、怖くなって義母と二人で、逃げようかと言って後ずさりしたら、役場の人から『ダメダメ』と元の位置に連れ戻されました」と笑う。 天皇は二人の前で「大変でしょうが、頑張ってください」とねぎらわれた。返事をしてはいけないといわれていたが、何も答えないのは失礼だと思って、新井はとっさに「ありがとうございます」と答えた。天皇が車に戻られて、二人は「もう大丈夫ね」と目配せして頭を上げた。 10月22日は名古屋に着かれた。名古屋駅近くの歓迎はすさまじかった。群衆は天皇をもみくちゃにしてついに警護のMPが威嚇発砲する事態にまでなり、侍従の一人が財布をすられてしまう。天皇はそれを聞くと「ほう、そういうこともあるのか」と妙な感心の仕方をされた。 22年8月には15日間にわたって東北をご巡幸になった。天皇の洋服がみすぼらしいため、侍従の入江相政(後に侍従長、故人)が「米国人も見ていますので」と背広の新調をすすめたところ、「米国は戦争に勝って裕福なんだからいい洋服を着ても当たり前である。日本は戦争に負けて(国民は)着るものにも不自由しているのだからいらぬ」と断られた。 山形では初めて民間の旅館にお泊まりになった。それまでは列車内や知事公舎、県庁、公会堂、学校、地方の豪農宅などにお泊まりになっていた。学校などでは教室の板の間にゴザを敷き、そのうえに布団を敷いて、黒いカーテンをかけてお休みになった。初めての民間旅館、山形県上山市の「村尾旅館」では部屋に入られた後、「ちょっと、みんなの泊まる部屋を見て来るよ」といって侍従らが泊まる部屋を見て回り、「宿屋というものは人を泊めるのに実に具合よくできているね」と感心された。涙でレンズが曇り撮れなかった写真涙でレンズが曇り撮れなかった写真 栃木県岩舟町で石材店を経営する川島健三郎(七九)は県庁から昭和天皇の巡幸の公式記録写真の撮影を依頼された。天皇は那須の御用邸を宿舎に昭和22年9月4日から5日間、皇后(現皇太后)を伴われて栃木県内を回られた。 川島は中学時代、体をこわしたとき、父から与えられたカメラが病みつきになり、撮影の腕は県下でも有数だった。しかも、プロのカメラマンでも手に入らないミノルタ・フレックスとドイツ・ツァイス社のスーパーシックスの2機種を持っていた。 川島の最初の写真は天皇が那須から国鉄宇都宮駅にお着きになり、お車に乗り込まれるときのものとなるはずだった。 「だめでした。周囲は歓迎の波。万歳の歓声に自然と涙が出て、レンズがくもってしまい、撮れませんでした。当時のカメラはピントを合わせるのが難しかったし、やはり、緊張したのですね」 結局、お車の後ろ姿を撮るのがやっとだった。それもピントがずれてしまった。その写真は県が後に発行した「昭和二十二年栃木県御巡幸誌」ではお帰りの時の写真ということで掲載された。 川島は陸軍幹部候補生出身の少尉だった。「(自分が軍人だったことを)意識したわけではないが、天皇は大元帥だったですからね」 両陛下は宇都宮市内をご視察の後、県庁に立ち寄り、さらに市内の母子寮を訪ねられた。夫、父を戦争で失った31世帯が入居していた。 どの部屋にも位はいが安置され、母子が正座してお迎えした。「随分つらいだろうが、辛抱してね」「お子さんたちを立派に育てるために、一生懸命頑張ってね」と励まされた。この後、子供たちの遊戯をごらんになった。終わって手を差し伸べる皇后に子供たちがすがった。「おばちゃんの服はきれいだね」「また来てね」というと、皇后は目頭を押さえながらほほ笑まれた。この時の様子を皇后は和歌に詠まれている。 「われもまた手をさしのべてはぐくまむみよりすくなき引揚の子を」 6日は真岡町の益子焼の絵付けをごらんになった後、日光市の古河電気工業日光電気精銅所に着かれた。ここで思わぬハプニングを川島は目撃する。 工場を1時間かけてご視察になった後、労働組合幹部の席に進まれると、整列していた中から労組委員長が、突然、大きな声を上げた。 「生産の向上と組合の発達を望む陛下のおぼしめしはありがたい。自分たちも努力するつもりである。労働者を激励する意味において、代表として自分に握手を賜りたい」と話し、右手を差し出したのだ。 川島はびっくりした。しかし、内心では期待もあった。握手の写真が撮れれば特ダネになる。侍従長も知事も立ちすくんでいる。川島は天皇の横に回ってカメラを構えた。 天皇はゆっくり口を開いた。「大変だろうが、一生懸命にやってください。握手の件は日本風にやりましょう」とカンカン帽を取られて会釈された。周囲から「ハァー」という安どのため息が漏れた。委員長は手を差し出したまま、ぼう然として天皇の後ろ姿を見送った。 「特ダネ写真は逸しましたが、内心ほっとした。それよりも、天皇は決められたスケジュールに従ってお話しされているだけと思っていましたが、委員長へのとっさの返事を聞いて、自分の意思でお話をされていると痛感しました」と、畏敬の念が深まったという。 巡幸取材では先回りするため、天皇の横を通り抜けたりすることもあったが、天皇はにこにこしておられた。また、お車や列車にお乗りの時はカメラを構えて待つが、シャッターを切るまで姿勢を崩されなかったという。 「あのころは陛下がいかに国民の間に溶け込もうとしていたかがはっきり分かった。しかし、その後は菊のカーテンの中に戻られてしまった」と川島は回想する。 新潟県にお出かけになったのは10月8日から5日間だった。その4日目は疲労も重なって公式の行事はなく、休養日に充てられた。高田村(現柏崎市)の豪農、飯塚家にお泊まりだったが、午前10時過ぎ、数人の側近とともに通称デコ山と呼ばれる山を散策になられた。 その少し前、若い女性二人が山へ入って大きな声で鼻歌を歌いながらキノコを採っていた。幼なじみの宮島トミ(69)と今井スミ子(69)だ。下から人が登ってくる気配がした。 案内していた写真館の主人が二人に「あんたら、ここに立っていてくれ。いま天皇陛下がおいでになるから」という。 「やだー。逃げよう」 だが、片方はがけ。道にはすでに天皇のお姿があり、侍従が追い付いて手を引き、「逃げたら失礼でしょう。道に出てかさを取ってください」。 天皇は二人を見つけるとニコニコされながら「これは何ですか」と竹籠の中をのぞき込まれた。 「ズボダケ」 「あっそう。ではこれは」 「ハツタケ」 「いっぱい採ったね。気を付けてね」 二人は深く礼をすると、山を下りた。 「陛下に会ったときは足ががたがた震えました。でも、帰りは足が軽くなった感じ。物柔らかな、お優しい声でした。陛下が登って来られたときは、私たちが見下ろす格好になり、申し訳なく思いました」。宮島はいまもデコ山の近くに住み、思い出を大切にしている。原爆孤児の少年僧に「声をかけたい」 昭和22年12月7日、昭和天皇は被爆地、広島市に入られた。宮島口から市内に向かう途中、五日市で広島戦災児育成所に立ち寄られた。ここには家族を原爆で失った84人の孤児が天皇をお迎えした。その先頭の墨染の衣をまとった5人の少年僧が人目を引いた。 最年少は小学生の朝倉義脩(60)=旧姓増田修三、現真宗大谷派大谷祖廟事務所長=だった。 朝倉は20年4月、広島市内から8キロ離れた寺に学童疎開した。「8月6日朝、体操が終わってしばらくすると、広島市の方が光って、間もなくドーンというものすごい音がしました。夕方には焼けただれた避難民がやってきた」 終戦。子供たちは迎えに来た家族や親せきに連れられ帰っていった。しかし、朝倉を迎えに来る者はだれもいない。父は前年に亡くなっていた。母と妹の住む自宅は爆心地に近く、絶望だった。 「自分が最後の一人になってしまい、12月になって育成所に入ることになりました」 育成所はこうした孤児を見かねた真宗本願寺派の僧侶、山下義信(故人、元参院議員)が私費を投じて開設した。 子供たちは夜になると泣いた。「お父さんに会いたい。お母さんに会いたい」。中には「どうすれば会えるの」と涙をためて山下に詰め寄る年長の子供もあった。山下はさとした。「お経をあげれば会える。坊さんになって修行しなさい」 朝倉らは21年11月に京都・西本願寺で得度して僧になった。新聞は「原爆少年僧」と呼んだ。この話を知った天皇が「広島市に入る前にぜひ声をかけたい」と立ち寄られたのだった。 天皇は整列する子供たちの前に進まれた。山下が原爆で頭髪が抜けた子供を抱えるようにして天皇にお見せした。天皇はその子の頭をなで、目頭を押さえられた。さらに少年僧らを「しっかり勉強して頑張ってください」と激励された。側近や多くの報道関係者がいたが、水を打ったように静まり返った。 「陛下に励まされたわけですから、正しい道を歩まなくては、と思ってやってきました」と朝倉は振り返る。 朝倉らの後ろに、朝倉とともに得度した今田義泰(60)の弟、荒木恒雄(五八)がいた。荒木は「ほかの人が会えない人に会えたんだ、という自負心が生まれた。ここまでやってこれたのは多くの人のおかげ。少しでも恩返しできればと思っています」という。荒木は高校を出た後、産経新聞の配達などをしながら大学を卒業、かつての育成所近くの精神薄弱者施設、「見真学園」の指導員をしている。 天皇は広島市内に入り、約七万人が集まった護国神社跡地の歓迎場にお着きになった。平和の鐘が鳴り響き、君が代の合唱の中、お立ち台に上がられた。市民からは万歳の声が上がった。正面には原爆ドームが見えた。天皇は終戦以来初めてマイクで直接市民に語りかけられた。 「広島は特別な災害を受けて誠に気の毒に思う。われわれはこの犠牲を無駄にすることなく、世界平和に貢献しなければならない」皇居・千鳥ケ淵のサクラ この様子を見て恐怖心を抱いた米国人がいた。“目付け役”として随行していたケントというGHQの民政局員である。侍従としてお供していた徳川義寛(89)=後に侍従長=も「ケントという変な男がついてきてあれこれ探っていた」と証言。広島の会場をそれまでの「奉迎場」から「歓迎場」と名称を改めさせたのもケントらだった。 「昭和天皇の御巡幸」(鈴木正男著)によると、「原爆が投下された広島市民は天皇を恨んでいなければならないとケントは思った。しかし、市民は熱狂して天皇を迎え、涙を流して万歳を叫ぶ。天皇制廃止論者のケントは怖くなった。このままご巡幸を続けてると、天皇制はますます確固不動になる。ご巡幸をやめさせねばならないとケントは考えた」。 民政局は巡幸の中止を政府に働きかけることにする。問題にしたのが、日の丸事件である。GHQは占領以来、日の丸の掲揚を禁止していたが、巡幸の先々で日の丸が振られた。民政局はその都度、宮内府に抗議した。宮内府は「国民が日の丸を振ることを禁止する権限は宮内府にはない」とかわしていたが、GHQは納得せず、宮内府の責任だと強硬姿勢に出た。 後の東宮大夫、当時、侍従の鈴木菊男(89)も「民政局はご巡幸で天皇の権威が復活するのを恐れていた」と証言する。 21年2月に始まった巡幸は22年末までに関東、関西の一部、東北、北陸、中部、中国をめぐり、順調にいけば23年中には終わる予定だった。 だが、22年12月、中国地方の巡幸が終わると、GHQは政府に宮内府の機構改革と首脳の更迭を指示。当時芦田内閣は何の抵抗もなく従った。この結果、宮内府長官、侍従長、宮内府次長の3人が辞職。巡幸は中止となった。 九州、四国を中心に全国からGHQ、政府、宮内府に巡幸復活の嘆願書が寄せられた。鈴木、徳川によれば「陛下も直接、マッカーサーに復活を願われた」という。 供奉員を削減するなど一層簡素化して、巡幸が復活するのは24年5月になってからである。 東西冷戦が顕在化し、米国としても日本を自由主義国家として確保する必要が高まり、GHQ内でも巡幸反対の民政局の勢力が衰え、冷戦担当のG2(情報二部)が力を得るようになっていた。引き返してもう一度「さようなら」引き返してもう一度「さようなら」 昭和24年6月6日、昭和天皇は宮崎市内の県立盲学校をお訪ねになった。目の不自由な子供たちにどうやって、天皇が来られたことを認識してもらおうか。関係者は考えた末、教室では天皇以外は裸足になり、靴音の主が天皇だと判断してもらうことになった。 小学部の2年生だった村社マツ子(55)が振り返る。「コツコツと靴音が聞こえました。先生が『いま、みなさんの教室に天皇陛下がお入りになりましたよ。マツ子さん、あなたのそばにいらっしゃいますけど分かりますか』というので、『どこにいらっしゃいますか』と反射的に両手を出しました」 差し出す村社の手に天皇の手が触れた。すると天皇は目を潤ませながら、体を村社の方に寄せられた。村社は天皇の左腕をつかんだ。 天皇は「不便でしょうが、しっかり勉強して立派な人になってくださいね」と励まされた。教室を出るとき、村社らが「天皇さま、さようなら」と叫ぶと、天皇はもう一度教室に戻られ、「さようなら、さようなら」と繰り返された。 「あの後、励ましの手紙をたくさんいただきました。『あなたは幸せです。うちの子は陛下にも会えず、寝たきりのまま死にました』というのもありました。自分より不幸な人もいる。くじけちゃいけない。そう思って生きてきました」。今、宮崎市でマッサージ師をしている村社の部屋には、天皇とお会いしたときの写真が飾ってある。 24年に巡幸が復活したさい、天皇はまず九州地方を回られた。5月27日には被爆地・長崎で、「長崎の鐘」「この子を残して」などの著書で知られる医学博士、永井隆を長崎医大病院にお見舞いになった。永井夫人は原爆で死亡、永井も白血病に苦しんだ。 枕元には14歳の長男と9歳の長女がいた。天皇は永井のベッドに進まれ、「どうです、ご病気は?」と声をかけられた。「早く回復してください。あなたの書物(「この子を残して」)は読みました」。永井は「それがこの子たちです」と二人を紹介した。 永井は手記に「(天皇の)全身の表情から私は、いつも顔つき合わせてゐる隣人のやうな、親しいものを感じた」と書いている。そして友人に「天皇陛下は巡礼ですね。洋服をおめしになっていても、大勢のおともがいても、お心はわらじばきの巡礼のお姿だと思いました」と語っている。永井はこの2年後に亡くなる。 今でも語り草の楽しい話も生まれた。雲仙・仁田峠から阿蘇山を双眼鏡で望まれたとき、側近が「あれが阿蘇山でございます」というと、天皇は「あっそう」。皆ふき出し、天皇も照れ笑いをされた。 福岡県久留米市では久留米医大を訪問された。一私立大を訪問というのは異例だったが、その陰には一人の学生の奔走があった。現在、長崎県琴海町の大石共立病院長の梶山茂(69)。「福岡県においでになるなら、ぜひお寄りいただこう」と大学に相談。大学は「難しいだろう」と本気にしなかった。しかし、梶山は一人で上京、宮内府に侍従の入江相政を訪ね、お立ち寄りを懇請する。入江から事情を聴かれた天皇は「そういうことなら」と行幸が決まった。 「全学挙げての歓迎でした。左翼の連中もおとなしくしていましたよ」と梶山は笑う。 巡幸はどこでも大歓迎だったが、時として天皇に反発する動きもおきた。 九州巡幸のさいの24年5月22日、佐賀県基山町の因通寺境内の戦災孤児収容施設「洗心寮」をお訪ねになった。住職、調寛雅(74)が父から引き継いで運営しており、多くはフィリピンなどからの引揚孤児。天皇は「お健やかにね」と子供たちの頭をなでられ、山門を後にされた。 このとき、調にはひとつ気になることがあった。沿道にシベリア帰りの共産党系の一団が戦争責任を追及しようと待ち構えていたのだ。 だが、天皇のひとことが、心配を吹き飛ばす。彼らの前で立ち止まられてリーダーのMに「長い間、外国で苦労をさせて申し訳ない。これからは日本再建のためにしっかり頑張ってほしい」と帽子を取られた。Mに感動の衝撃が走った。全員泣き出し、後に天皇制護持論者に転向した。 26年11月の京都大学への行幸では一部の学生が「再軍備について」などの質問状を手渡したいと騒いだ。 京大に着いたお車を約千人の学生、職員が取り囲んだ。降り立った天皇は一瞬、歓迎と勘違いされて、帽子を振ろうとされた。帰りはもっとひどかった。お車の窓をたたいたり、前に寝転んでインターナショナルを歌うなどして妨害した。警官隊が出動して学生を排除した。 法学部助手だった勝田吉太郎(67)=鈴鹿国際大学長=は「騒然たる状況でした」と振り返る。「車の前に寝転んだ学生に1年後輩がいた。彼は後に検察庁の首脳になったが、その話をすると『その話だけは忘れてください。一生のお願いです』といまでも頭を下げますね」 戦前、自由主義的として京大を追放された滝川幸辰(故人)がご進講した。「先生は天皇制に批判的だったが、ご進講の後、すっかりファンになって、天皇制擁護一辺倒になっちゃたんだ」と教え子の勝田は笑う。 巡幸は29年の北海道を最後に終わった。まさに巡礼であり、行脚だった。天皇は側近に「戦前からこうして国民と直接話ができたらいいと考えていた」と語られた。崩御されて六年半、最後まで沖縄への巡幸を果たさねばと気にかけておられたという。(文中敬称略)関連記事■ 世界が羨む「日本の力」■ 何が相撲の伝統を守ったか■ 【安倍政権考】日本とインドの深い関係