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    ヒントは韓国にあった! カジノ依存「7・3%の層」への具体策

    木曽崇(国際カジノ研究所所長) わが国のカジノ合法化と統合型リゾート施設(IR)導入に向けた論議が大詰めを迎えている。政府は、この通常国会に提出を予定しているIR実施法案において、日本人及び在日外国人のカジノ入場に対して入場料を課す案を提示した。また、一定期間内での入場回数上限を設けるとしている。連立与党である自民党と公明党はこの政府の主張に対し、入場料の設定を6千円とし、また入場回数上限を「週3回、月10日以内」とする案を両党間協議で了承し、近く法案の国会提出を行う予定だ。 一方、これら政府が示す規制案に対しては与野党のみならず、各メディアも含めてさまざまな論議が飛び交っている。まず入場料の設定に関してだが、現在与党が合意している6千円という価格に対して、カジノ反対派や慎重派の立場にいる人間からは「それでは依存対策にならない」との意見が散見される。 しかし、そもそもこの入場料は「国民の安易なカジノ入場を防止する」目的で設定されてはいるものの、政府も昨年昨年行われたIR推進会議の総括において「依存症対策として入場料の効果についての科学的知見は必ずしも確立されていない」と明言している。そのような何ら効果の検証されていない入場料に対し、「それでは依存対策にならない」という批判自体がいかにナンセンスなものであるかが見て取れる。 そもそも、国際的なカジノ研究の中で、入場料賦課はギャンブル上の問題を抱えるプレーヤーに対して、それほど大きな行動抑制策にはならないどころか、総体としてその施策は逆効果を生むとする説が主流である。ワシントン州立大のフィランダー准教授はレジャービジネス誌『UNLV Gaming Research & Review Journal Vol.21』に掲載された論文で、二つの経済モデルを利用しながらこれら入場料の「効果」の検証を行っている。 「Entry Fees as a Responsible Gambling Tool: An Economic Analysis(『責任あるギャンブルツールとしての入場料:経済分析』)」と題したこの論文では、入場料の賦課は健全な娯楽としてギャンブルを楽しむプレーヤーの需要を大きく減退させる一方、ギャンブル上の問題を抱えるプレーヤーに対する需要抑制としてはあまり効果がないことを論じている。この論文においてフィランダー氏は、入場料の設定がむしろカジノ産業に「ギャンブル上の問題を抱える消費者からの収益に重度に依拠した産業構造」を誘発させかねない施策であるとして警鐘を鳴らしている。2018年2月、大阪市夢洲での統合型リゾート施設の構想案を説明する米MGMリゾーツ・インターナショナルのジェームス・ムーレン会長 実はこのことは、2015年に発刊された拙著『日本版カジノのすべて』においても、私自身が相当の分量を割いて論じてきたことでもある。 一方で実はこれら(入場料が採用されている)地域においても、この入場料の徴収が真の意味で依存症対策になっているかどうかに関していまだ科学的な論証はありません。また、ラスベガスやマカオなど他地域のカジノ専門家の中には、むしろこの入場料の徴収が消費者にとってのサンク・コスト(撤退を行ったとしても回収ができないコスト)として認知され、ギャンブル依存者の施設内滞在を助長している可能性も指摘されています。『日本版カジノのすべて』(日本実業出版社)カジノに行きたい「7・3%」の危険 さらに、入場料金額の多寡に関してだが、これを論ずるにあたっては国内で同様に入場料の徴収が行われている類似のギャンブル産業と比較してみる必要もあるだろう。現在の依存対策論議では、カジノの入場料設定だけが論議の焦点として取り挙げられがちであるが、実はわが国の公営競技場はそれぞれの論拠法に基づいて、カジノ施設と同様に入場料の徴収が行われている。第五条 日本中央競馬会は、競馬を開催するときは、入場者(第二十九条各号に規定する者その他の者であつて農林水産省令で定めるものを除く。)から農林水産省令で定める額以上の入場料を徴収しなければならない。ただし、競馬場内の秩序の維持に支障を及ぼすおそれがないものとして農林水産大臣の承認を受けた場合は、この限りでない。「競馬法」 この競馬法と同様の規定は、わが国のボートレースを規制するモーターボート競走法にも存在する。一方で競輪やオートレースを規制する自転車競技法や小型自動車競走法では2007年の法改正によって「規制緩和」という名目で同様の入場料規制が撤廃されている。結果として現在、各公営競技及びパチンコ産業など、カジノと類似するサービスを提供している施設への入場料設定は以下のようになっている。【注】ただし、公営競技の場外投票券売場に関して入場料はない(筆者作成) このように見ると、現在わが国のカジノで導入されることが提案されている6千円の入場料設定は、国内の類似するギャンブル産業と比べて相当以上に「高額」な設定であることが分かる。 また、カジノ入場料の金額設定に基づく日本人顧客の消費意向の変化も非常に興味深い。以下は昨年9月にヤフー・ジャパンによって実施された「カジノ入場料、いくらまでなら行ってみたい?」という意識調査の結果である。この質問に対して、500円程度の入場料では100%が「行く」と答えたのに対して、当初政府が提案していた2千円程度の入場料の場合でも、カジノ訪問意向が半分(49・1%)程度にまで下がることが分かった。出典:「IR実施に向けた制度・対策に関する検討PT資料」(内閣官房) このヤフーによる意識調査では「いくらの入場料を課すと、どの程度の需要が抑制されるか」に焦点が集まりがちだが、実は最も注視すべきなのは、カジノ入場料が「いくらでも行く」と答えた7・3%の層である。むろん、この層の中には文字通りカジノ入場料がいくらであっても構わない超高所得者層が含まれている可能性もある。しかし、一般的にインターネット上で行われるこの種の簡易調査における超高所得者層の出現率というのは限りなくゼロに近い。 すなわち、この設問で入場料が「いくらでも行く」と答えた7・3%の人たちは「入場料がいくらであったとしてもギャンブルでその分勝てばよい」と考えている層、もしくは「自身の所得水準とそれに対する適正支出水準を念頭に置かずして入場料が『いくらでも行く』と答えた」層である可能性が高い。いずれにせよ、カジノ入場に対して適正な判断能力に欠けた解答を行っている層であると考えられる。 本来、依存対策というのは、このようなカジノ利用に際し、適正な判断能力に欠けてしまっている層に対する効果のある施策でなければならない。だが、この種の人たちに対しては入場料の設定が効果的に働かないことはこの意識調査の結果からも見て取れる。「入場回数」制限でもまだ甘い では、ギャンブル上の問題を抱える人たちに対して、どのように対処を行うべきか。その答えが、政府が入場料と併せてもう一つの施策として提示している「入場回数の上限措置」である。 「依存」とはそもそも、自らの理性的な判断によってはとどめられない衝動的な欲求に基づいて特定の物事に対し過度に執着してしまうという精神障害である。ギャンブル依存の場合、そのほとんどの場合がゲームへの参加頻度の上昇としてその症状が現れる。そこに制限をかけようというのが、今回の政府による施策案である。 実は、この「入場料設定よりも入場回数規制」という依存対策の方針は、入場料の賦課を重要視する論調が強かったわが国のカジノ業界にあって、それに異を唱える少数派の研究者として私自身が長年主張してきたものだ。そして今回、政府が依存対策としてこの入場回数の上限措置を前面に打ち出したのは、そのような一連の論議背景があってのことである。 そもそも、わが国のカジノ合法化はあくまで「観光振興」の一環として、例外的にカジノを含む統合型リゾートの設置を認めるものである。国民に対して、それを「日常の娯楽」として利用することを推奨するものではない。 そこで、今回提案されたのが「観光施設」としての利用にふさわしい利用回数を制度上定め、日本国民、もしくは在留外国人のそれ以上の利用を制限するという措置だった。制限措置の具体的な数値として出てきたのが、先般自民、公明両党で合意した「週3回、月10日以内」という入場制限である。 ただし、現在政府側から示されている制度案を見る限り、政府はこの入場回数規制をどのように依存対策として「有効に機能させるか」に関して、いまだ正しい理解をしていないように想える。そもそも、この入場制限は、制度そのものだけでは依存症対策に「ならない」。たとえ入場回数の制限があったとしても、ギャンブル依存者はその限られた入場回数の中で目いっぱいのギャンブルを行い、その内容をエスカレートさせていくからである。セガサミーHDと韓国パラダイスグループが共同開発した韓国初のIR施設「パラダイスシティ」に開業した外国人専用カジノ=2017年04月、韓国・仁川 では、どのようにこの上限措置を有効に機能させるのか。そのヒントは韓国のカジノ産業にある。韓国は、世界のカジノを合法とする主要な国の中にあって、自国民に対する入場回数制限を設定する代表的な国である。 韓国の入場回数上限は月あたり最大15日と、日本が計画している制限措置よりも緩慢である。だが、一定期間のうちにこの上限回数に繰り返し到達するような利用客に対しては、その人物が依存状態に「ある・なし」を問わず、強制的に専門家によるカウンセリングを受けさせる(受けなければ再入場できない)という施策を取っている。 すなわち、多くの依存者にとって共通して現れる「ゲームへの参加頻度の上昇」という現象を基準として、該当する人の中から依存リスクの高い人を抽出し、ギャンブル依存の早期発見、早期対処につなげていく。このような仕組みが韓国の入場回数規制の背後に存在している。それを日本政府が表層的にマネるだけでは、実効性のある依存対策にならないのである。 残念ながら現在、日本政府が示している制度案の中には、依存者を早期発見して次への対処につなげていくために、韓国のような具体的な施策部分が欠けている。つまり、依存対策としての施設入場回数制限は「不完全な提案」にしかなっていないといえる。政府には今の施策案で不足している部分を、新たな制度提案によって早急に補完し、より意味のある依存対策の構築に向けて動くことが求められている。

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    韓国よりも生ぬるい「ギャンブル依存症」対策で大丈夫か?

    鳥畑与一(静岡大教授) カジノを含む統合型リゾート(IR)解禁に向けた「世界最高水準の依存症対策」の政府案が2月末に明らかにされ、とりわけ「1週間3回以内」、「1カ月(28日)10回以内」というカジノ入場回数制限が賛否の的となった。依存症対策としては甘すぎるという批判の一方で、カジノの収益性を損なうものという批判も出され、自民党プロジェクトチーム(PT)からは「1カ月10回以内」に絞り込むよう要望がまとめられている。 ギャンブル依存症は、ギャンブル行為を通じた脳に対する刺激による脳の変化(ドーパミンの過剰分泌など)による病気であり、ギャンブルの「頻度×継続時間×賭け額」の大きさが客観的原因(いわゆるエクスポージャー理論)とされる。 英国ノッティンガム大教授のM・グリフィス氏らによれば、個人的要因のほかに、居住地からカジノ施設の距離、カジノ数、賭け行為の間隔や時間、賭け金額、勝つ確率などの状況的・構造的要因が依存症を誘発する客観的要因とされている(『欧州における問題ギャンブル』2009年)。 例えば、米国のJ・H・ウェルテ氏らの依存症実態調査によれば、カジノに近いまたはカジノ数の多い住民ほど常習者(週2回以上の頻度)になる確率が高く、そして常習者ほど依存症率が高いことが明らかにされている。 従って、カジノへの入場回数の規制は、政府案も認めるように一般論としては依存症対策として有効である。問題は、政府提案の入場制限数が依存症対策として有効であるか否かであるが、結論から言えば、提示されている入場制限数は、依存症を促進するものであっても抑制する水準ではない。カジノへの入場禁止を行う「自己排除(Self Exclusion)」制度を導入している国は欧米でも多くみられるが、入場回数制限を行っている国は韓国とシンガポールなど稀(まれ)である。 そこで政府案では、1カ月で15回以内の韓国と8回以内のシンガポールの事例を参考に提案を行っている。しかし、政府提示の入場制限数の具体的根拠は、国民の休日数や平均的な旅行宿泊日数との適合性であって、この回数が依存症対策として有効か否かの検討が行われているとは思えない。※写真はイメージ(iStock) 例えば、韓国で国民に唯一解放されているカジノであるカンウォンランド(2000年開業)で2006年から開始された入場回数制限は1カ月15回以内(地域住民は月1回のみ)だが、それが2カ月連続した場合は入場を制限し、カウンセリング実施などの措置が取られている。 韓国のKL依存症管理センターは、入場回数で依存症発生リスクを区分しているが「2カ月連続15日出入を繰り返すなど年間100日以上の常習出入」を高リスク、「2四半期連続で30日を超える顧客など年間100日以上の常習出入」を中リスクと位置付け、高リスク利用者には「特別管理(義務カウンセリング、病院治療など)」や「本人/家族への出入禁止を強く誘導」などの対策を適用している。抑制策にならない政府案 韓国カジノ管理委員会などの依存症調査(「ギャンブル産業利用実態調査」)では、中リスク以上を依存症者と位置付けている。政府案の1カ月10回以内では年間120日のカジノ入場を許容することになり、これでは依存症の抑制策たり得ない。 シンガポールでは、2010年のカジノ開業前の2009年に自己申請・家族申請・自動排除などでカジノ入場禁止を行う「自己排除制度」が導入されていたが、2013年6月から新たに自己申請・家族申請・第三者申請による入場回数制限(1月あたり1回、2回、4回、6回、8回の選択制)が導入された。 この回数制限で注目されるのは、シンガポールの国立問題ギャンブル評議会(NCPG)が、カジノへの頻繁な入場者をリストアップし、その家計状況(銀行口座、クレジットカード利用状況など)を審査し、ギャンブルによって家計的困難が生じている場合は、個人的状況に応じた回数制限を強制的に課す第三者申請の回数制限措置である。 表1に見るように、昨年末の回数制限適用者5598人中、第三者回数制限者は3715人(66・4%)となっている。審査対象者らの詳細は2016年から非公表となっているが、2015年末には4532人が「頻繁なカジノ入場者」として審査対象となり、そのうち2012人(44・4%)に回数制限が適用されている。資料:NCPG「Active Casino Exclusions & Visit Limits 」 NCPGの依存症調査によると、2011~14年にかけて依存症率が大きく減少している(表2参照)。それぞれの調査期間は3月~8月であり、14年時のデータは回数制限導入後1年余りでしかなく、回数制限がどの程度の効果があったのかは十分な判断はできない。 しかし、同調査では、週1回以上のギャンブル経験者が常習者とされ、依存症者(病的)の83%が常習者とされるので回数制限の有効性は推測できる。だが、ここで重視されるべき点は、この回数制限は単なる回数制限にとどまるものではなく、過度の常習者に対する家計調査やカウンセリングを行った上でより厳しい回数制限を課す制度が中心であるということである。資料:NCPG「Report of Survey on Participation in Gambling Activities     among Singapore Residents」2009、12、15年版  深刻な場合は、回数制限にとどまらず、入場禁止措置も取られることになっているが、日本においても単なる回数制限で終わるのではなく、家計状況調査などを踏まえた第三者申請による回数制限や入場禁止措置と一体となったものでなければ有効性は担保できないと言える。しかし、市民と永住権取得の成人人口310万人を対象としたシンガポールの入場回数制限制度を日本において有効に実施することは極めて困難と言わざるを得ない。 ところでラスベガス観光局の調査では、初訪問者のカジノ目的比率は1%であるが、平均3泊4日の滞在期間で73%がカジノでギャンブルを体験している。その結果、再訪問者のカジノ目的比率は12%と大きく増大している(Las Vegas Visitor Profile Study 2015)。偶然性に対する賭けであるカジノのギャンブルは多くの人に勝った経験を味わいさせることでリピーターにしていくビジネスモデルであるので、最大の依存症防止策はギャンブルを経験させないことに尽きる。 その点でカジノ入場禁止を課す「自己排除制度」が回数制限以上に有効な対策となるが、政府案では事業者に本人・家族申告による利用制限措置などの実施を義務付けさせるべきと述べるにとどまっている。 多くの国で依存症対策の一つとして自己排除制度が活用されている。例えば米国では、カジノ合法化24州中20州でなんらかの自己排除制度が導入されているが、有効に機能しているとは言えない。多くは氏名、住所、写真などを記載したリスト作成に基づき入場を制限する形式だ。だが、事業者に運営が委ねられた場合は依存症の危険性の啓蒙活動や制度の存在の宣伝がおろそかになるため、申請数が少ない上に、登録した場合でも入場時の確認が不十分なため機能しないとされる。有効なシンガポールの対策 とはいえ、シンガポールの自己排除制度は、表3に見るように大きな役割を発揮している。これは独立組織であるNCPGが自己排除制度の運用を担当し、依存症の危険性や自己排除制度の宣伝や申請のしやすさなどの促進に非常に力を入れているからである。資料:NCPG「Active Casino Exclusion & Visit Limit」 ここでも注目されるのは、政府から何らかの財政的補助や法的支援を受けている者や自己破産者らの家計困難者は自動的に入場禁止を課す自動的入場禁止措置の存在である。この結果、入場禁止措置を受けているシンガポール市民らは、自己申請、家族申請、自動排除の合計で7万774人(成人人口比約2・3%)に達している。 カジノ経験率(2011年7%から14年2%に低下)から推計されるカジノ利用市民約6万余を上回る規模の市民が入場禁止措置を適用されているのである。入場回数制限と共にこの自己排除制度による入場禁止措置が、シンガポール市民のカジノ利用の抑制策として非常に有効に機能したことが依存症率の低下に貢献したものと推測される。 日本においても「世界最高水準」を標榜するならば、シンガポールNCPGのような独立のギャンブル依存症対策機関による自己排除制度の運用が欠かせないと言える。 シンガポールでは、入場料徴収(1回100シンガポールドル、年間2000シンガポールドル)の他、市民対象のカジノの宣伝や勧誘活動の禁止、ATMの設置や市民への信用供与の禁止を課す一方で、NCPGなどを通じたギャンブル依存症の危険性の啓蒙宣伝活動が盛んに行われている。これが可能なのは、シンガポールのカジノ客のほとんどが中国などの海外からの来客で占められており、シンガポール市民に依存しなくてもカジノの高収益確保が可能だからである。 外国客向けには高額の賭け資金貸付も行うジャンケットも容認されており、LVサンズなどのカジノ事業者はその巨額投資を5年ほどで回収できるほどの高収益を維持しているが、ジャンケット禁止を予定している日本において、シンガポールと同様の高収益獲得の条件が乏しいのは明らかである。シンガポールの観光の目玉となっている「マリーナベイ・サンズ」=2018年3月(鳥越瑞絵撮影) 国内客を主要ターゲットとせざるを得ない外国カジノ事業者にとって、日本政府が求める巨額投資を行いつつ、出資者が求める短期の投資回収を可能にする高収益を実現する上で、シンガポール並みの依存症対策を実行することは不可能である。 刑法の賭博禁止の違法性を阻却するためにIRの経済効果の大きさを強調するほど、収益エンジンとしてのカジノと依存症対策が両立不可能な隘路(あいろ)にはまり込んでいるのではないだろうか。 

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    ある意味どえらい「カジノ法案」

    政府が今国会の成立を目指しているカジノを含む統合型リゾート施設(IR)実施法案の議論があまりにひどい。「週3回、月10回以内」「入場料6千円」といった具体案がようやく提示されたが、いずれもギャンブル依存症対策とは名ばかりの内容と言わざるを得ない。こんな法案でホントに大丈夫か?

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    カジノ法案成立で最も損をするのは誰か?

    田中紀子(ギャンブル依存症問題を考える会代表) 今国会でカジノを含む統合型リゾート(IR)実施法案が議論され、諾否が問われることとなると思うが、このIR法案の最大の焦点となっているものは何と言っても「ギャンブル依存症対策」である。 ところが、このギャンブル依存症対策について与野党ともども「しっかりやる!」と掛け声はかけるが、中味が一向に伴わない。与党は「IR実施法案を通過させるための言い訳程度の対策作り」に必死であり、野党は「IR実施法案を通過させないために、ギャンブル依存症対策を進めさせない」という、日程人質作戦に打って出ているとしか思えず、非協力的な態度が目につく。 与野党ともに「ギャンブル依存症で苦しむ人のために対策を!」と声高に叫びながら、どちらも政治的駆け引きに必死であり、当事者と家族は置き去りという展開になっている。一足先に与野党全議員の賛成を得て温かく見守られながら成立したアルコール問題の対策法案「アルコール健康障害対策基本法」とは雲泥(うんでい)の差で、我々ギャンブル依存症の当事者や家族は声が届かないもどかしさを感じている。 一般の方には、分かりにくいと思うが、IR実施法案の前に国会には「ギャンブル等依存症対策基本法」が提出されている。これは、パチンコを含めた既存ギャンブルに対する依存症対策基本法である。この基本法が通らぬ限り、IR実施法は通さないというのが与党の建前にあるため、政府はこの法案の通過を急ごうとしている。 しかし現在、この法案は野党だけでなく、既存ギャンブルの側も行く手を阻んでいる。当然ながら、既存ギャンブルは、極力対策を小規模に押さえたいと考えるわけだが、時節柄、表立って依存症対策に非協力的な態度は取れない状況にある。(画像:istock) 公営ギャンブルにとってはカジノのとばっちりを受けた形だが、我々にとってはカジノのおかげで、依存症対策が推進するという皮肉な結果になっている。中でも、公営ギャンブルは「いかに真摯に対策に向き合っているように見せるか?」ということに腐心しているとしか思えない対策案が次々に浮上してきている。 例えば、日本中央競馬会(JRA)は昨年末から、本人や家族からの申告でインターネットでの競馬投票券販売を停止する措置を取った。しかし、ネット投票を停止しても、競馬場や場外馬券場に行けば購入できてしまうという批判を受け、このたび競馬場や場外馬券場でも申告があれば、入場を禁止できるという措置を決めた。 ところが、その防止策が「家族から提出された顔写真でチェックする」という実にお粗末なもので、実効性があると思えない上に、個人情報の管理や人権への配慮という点でも疑問に思わずにはいられないやり方を打ち出してきたのである。本格的に依存症対策に取り組むのであれば、入口ゲートで防止できるようなシステム化を図るべきである。不可解な依存症対策 また、パチンコを含め公営ギャンブルでも盛んに「依存症対策の相談窓口を作る」「電話相談を受ける」など、最も対策をやりやすく、産業側の売り上げダメージの少ないものを作り、対策推進をアピールしているが、このような窓口はすでに精神保健センターや保健所、または当会のような民間団体など、既にさまざまな拠点で行われており、効果のほどは限定的になると言わざるを得ない。 では、カジノの依存症対策はどのようなものが挙がっているのか。これが実に不可解な対策で、「カジノの入場料を6千円にする」「カジノへのアクセス制限として週3回まで、月10日以内とする」というものなのである。 よく考えてほしい。週末2回しか行われていないJRAですら依存症は大きな問題となっているのである。我々の所には「競馬の借金のために会社のお金を横領した」「不動産を担保に入れてまで、競馬で借金をしてしまった」といった相談は決して珍しくないのである。 それなのに、週3回に限定することにどんな意味があると政府は考えているのだろうか。また、「カジノに来て数万円から数千万円の遊びをしよう」という人に、入場料を6千円程度取ったからといって、抑止力になるのか、甚だ疑問である。 その上、「カジノが国内に何カ所作られるのか?」といった重要なポイントはいまだ明確にされていない。エビデンスもない依存症対策を、華々しく打ち上げ、いかにも依存症対策を厳格にやっているかのように見せるイメージ戦略に、我々としては誤魔化されたくないと思っている。 では、求められる依存症対策とはどのようなものか。そもそもギャンブル依存症は特効薬があるわけでも、「これだ!」という治療法が確立されているわけでもない。2014年にIR法案が初めて衆議院に提出されるまでは、ギャンブル依存症対策は議論の対象にすらならず、もちろん国や地方自治体、医療機関などでもほとんど対策はなかった。そのため、日本ではギャンブル依存症の当事者と家族が中心になって対策を行ってきた経緯がある。(画像:istock) 今からおよそ30年前の1989年に、ギャンブル依存症当事者の自助グループ「GA」が生まれ、その2年後1991年にはギャンブル依存症者の家族の自助グループ「ギャマノン」が誕生した。そこから当事者や家族が支え合い助け合う形で、きめ細かい支援を行い、わずかに理解のある医療従事者とともにさまざまな困難事例を解決してきた。 つまり、自助グループはIRの議論とともに、にわかに誕生した専門家と名乗る医療従事者や研究者、そして行政よりもはるかに多くの事例を持つ、ビッグデータの役割を果たしているのである。だからこそ、この当事者や家族の知識や経験を生かし、ギャンブル依存症対策はネットワークを作る形で、網目状に作られていくべきなのである。 例えば、家庭内で暴言・暴力、脅しなどで毎日のように金銭を要求し、断れば暴れることを繰り返しているような依存症者に対しては、「介入」が必要であり、警察や精神保健センター、保健所や医療が連携し、入院や回復施設への入寮へと促すべきである。既存ギャンブルにも当てはめるのか? また、横領や窃盗や万引きなどの事件を犯してしまった場合は、弁護士、刑務所、更生保護施設との連携、失踪した場合は警察との連携、自殺未遂の際には救急病院から精神病院への連携などが欠かせないのだが、残念ながら、これらさまざまな連携やセーフティーネットはまだほとんど機能していない状況にあり、家族は理解のない対応にさらされ右往左往している状況である。 ここまで深刻な問題になっていなくとも、多重債務の対処の仕方や、家族は本人にどう関わっていけば良いのかといった、基本的な知識を相談担当者には理解してもらう必要があるが、その基本的なこともまだ行き渡っていない。 さらに、家族が本人の勤める会社に休職を申し出た際も会社側に理解がなく、なかなかスムーズにいかないのが現状である。そして何よりも根本的な問題として「ギャンブル依存症が病気で、相談できる」ということが知れ渡ってないため、問題が重篤化しているという啓発不足も否めない。 また、入場制限のような業界側への規制を強化するなら、経験上、一番効果が上がるのは「本人及び家族申告による入場規制」だと思う。特に「家族の申告による入場制限の条件をどのようにするのか?」をカジノを含め既存ギャンブルも足並みそろえて明確にしていただきたい。加えて、カジノでは入場制限が決定した人に対して、マイナンバーで排除するようだが、その条件を「既存ギャンブルにも当てはめるのか否か」、これは重要なポイントである。 このように真に必要なギャンブル依存症対策とは多岐にわたり、簡単に作ることはできない。関係各所との繋がりや、人材育成、何よりも支援の経験というものが必要になってくる。これらの対策を日本の隅々にまで行き渡らせるには、予算の確保が肝心であり、その予算はギャンブルの売り上げを国が吸い上げた中から「ギャンブル依存症対策費に何%を回すか?」ということを決定する必要があると思う。(画像:istock) ギャンブル産業がもうけるだけもうけて、負の部分はすべて税金に押し付けるという、この国の悪しき慣習をここで終わりにすべきではないだろうか。この国にはギャンブル依存症がすでに蔓延している。この上、カジノという新しいギャンブルができることで、さらにギャンブル依存症者が蔓延してしまったら、被害を受けるのは国民なのである。 これらギャンブル産業による負の側面をこれ以上拡大させないためにも、これまでの我々の長年の経験に基づいた、幾重にも重なる、効果あるギャンブル依存症対策が導入されるよう、世論にも応援していただきたいと願っている。

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    東証は日本最大のカジノか?

    塚崎公義(久留米大学商学部教授)前向きに読み解く経済の裏側 カジノ法案が通りました。日本にも、本格的なカジノができるのでしょう。カジノというと、バクチだと言う人がいます。バクチなら競輪や競馬やパチンコと同じではないか、という人もいます。しかし、それを言うなら、東証が日本最大のカジノかもしれません。今回は、株式投資がバクチなのか否かについて、考えてみましょう。 ルーレットで、赤が出るか出ないかは、全くの偶然です。実はディーラーは赤を出すか否かコントロールできているという噂もありますが、仮にそうだとしても、顧客の立場で見れば偶然だ、ということが重要なのです。ディーラーがイカサマをしていない、ということが大前提ですが。そこで、赤に賭けるのはバクチ(賭博とも呼びます)だと言われます。 では、株式投資はどうでしょうか? 今日株を買って、明日売るとします。株価が上がるか下がるかは、偶然でしょうか? 偶然ですね。それは、株価の短期的な値動きのメカニズムを考えればわかります。 今日から明日にかけて、株価が上がったとします。それは、投資家たちが「株価は値上がりするだろうから、買い注文を出して他の投資家よりも先に買おう」と考えるからです。投資家たちがそう考える理由は、ニュースが流れたり、噂が流れたりするからでしょう。「天気が良いので気分が良くなって買い注文を出した」という投資家が多くても株価は値上がりしますが(笑)。 問題は、今日の時点では、明日の投資家が買い注文を出すか否かが分からない、ということです。「今晩、良いニュースが流れるだろう」ということを予想出来る人がいれば、それは予言者です。もちろん、当事者で、秘密の情報を知っている人もいるでしょうが、そうした人が株の売買をしたとすれば、インサイダー取引として処罰されてしまうでしょう。 あるいは、自分で株価の上がりそうな噂を流すこともできますが、そんなことをしたら相場操縦の罪で、やはり処罰されてしまうでしょう。つまり、投資家たちは、明日の株価が上がるか否か、今日の時点では知り得ないので、株式に投資することは「ルーレットで赤が出る方に賭ける」のと本質的に同じだ、ということになります。東京証券取引所(iStock) ちなみに、カジノと同様、こうした株式投資の期待値はマイナスです。カジノでは、ルーレットの赤に賭けると、当たれば2倍になりますが、当たる確率は50%より若干低い(0と00は、赤でも黒でも無いから)ので、期待値はマイナスです。株式投資も、勝ち負けの確率が五分五分だとすると、証券会社の手数料や税金の分だけ期待値はマイナスになります。 「自分は才能があるから、勝率は5割以上だ」という人もいるかもしれません。デイトレーダーと呼ばれる人の中には、相場の流れを他の投資家より素早く読み、短期売買で利益を稼いでいる人もいるようです。そうした人についてもバクチだと考えるべきか否かは微妙ですが、「麻雀がとても強くて賭け麻雀の勝率が9割だ」という人でも賭博罪で捕まりますから、腕利きのデイトレーダーもバクチだと考えて良いでしょう。刑法の賭博罪には当たりませんが(笑)。長期投資なら期待値はプラス 会社を設立し、銀行から借金をして材料を仕入れて人を雇って物を作るとします。売値から材料費を差し引いた部分は、企業が生み出した付加価値です。これを銀行の利息、社員の給料、株主の配当(及び値上がり益)の形で配分することは、極めて健全な経済活動です。 上記の短期株式投資と決定的に異なるのは、価値を生み出していることです。今日と明日で会社の価値(すなわち株券の価値)は変わりませんが、価格は変わります。それに賭けているのが短期投資です。一方の長期投資は、価値を創り出して、その分配に与ろう、という行為なのです。 もちろん、企業経営にもリスクはありますから、長期投資でも株価が上がるか下がるか、偶然に左右される面は大きいでしょう。しかし、そこまでバクチだと言ってしまうと、世の中のビジネスは全てバクチだということになってしまいます。「虎穴に入らずんば虎児を得ず」ですから、リスク無しで儲けることはできないからです。 日本経済は、長期的にもあまり成長しないかもしれません。しかし、それでも株式の長期投資は期待値がプラスです。株価の期待値が「現状横這い」だとすれば、配当利回り分だけプラスになるからです。実際には証券会社の手数料がかかりますが、長期投資をしている間の配当で充分に取り戻せるでしょう。また、厳密には機会費用として銀行預金の金利を差し引く必要がありますが、昨今の金融情勢であれば気にする必要はありません。 以下は余談ですが、人はなぜ、期待値がマイナスと知りながら、カジノでルーレットに興じるのでしょう? 中には霊感を信じている人もいるかもしれませんが、多くの人は「運試し」をしたかったり、あるいは「当たれ」と念じている時のワクワク感を得に行ったりするのでしょう。 そうだとすると、その意味からも、長期投資はお得です。相場は毎日動きますから、毎日の運試しが無料でできますし、毎日(あるいは毎秒)「上がれ」と念じてワクワクすることができます。(iStock) 株式の長期投資は、期待値がプラスで、しかもインフレに強い資産を持つことでインフレリスクへの備えにもなり、加えてカジノで味わえるワクワク感をずっと味わい続けることができるので、大変お得です。「株式投資は怖いから嫌だ」と考える読者もいるでしょうが、カジノへ行くより手軽で安上がりでお得ですよ。是非、トライしてみましょう。 ただ、筆者の体験だと、「上がれ」と念じている時間が長くなりすぎて、仕事に熱が入らなくなるリスクがあります。その意味では、カジノの方が仕事と休日のメリハリがあって、良いのかも知れませんね(笑)。つかさき・きみよし 久留米大学商学部教授。1981年、東京大学法学部卒業後、日本興業銀行(現みずほ銀行)に入行。主に調査関連部署に勤務した後、2005年に銀行を退行して久留米大学へ。著書に『増補改訂 よくわかる日本経済入門』(朝日新書)、『老後破産しないためのお金の教科書』(東洋経済新報社)、『世界でいちばんやさしくて役立つ経済の教科書』(宝島社)、『なんだ、そうなのか! 経済入門』(日本経済新聞出版社)など多数。

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    「快感と依存は表裏一体」IR法案の前に知るべき脳内回路の仕組み

    津田岳宏(弁護士) 話題の統合型リゾート施設(IR)実施法案について、ギャンブル依存症対策として、日本人へのカジノ入場制限を課し、さらには入場料を徴収するという措置を取る方針だという。アメリカの神経科学者、デイヴィッド・リンデンの『快感回路』(河出書房新社)によると、依存症は脳の病気だという。人が何かに快感を覚えるとき、脳内の小さな一領域である内側前脳快感回路(快感回路)と呼ばれる部分が、刺激されて興奮する。 薬物であれ、ギャンブルであれ、高カロリー食であれ、あるいは慈善的な寄付行為であれ、人が快感を覚えるときには、例外なく快感回路が興奮している。薬物に手を出している人と、ボランティア活動で喜びを感じている人とで、脳内で起きている現象が同じというのは興味深い話である。 社会動物である人間は、社会的評価を受けると快感回路が強く刺激される。特に、快感回路内の「側坐核」「背側線条体」と呼ばれる部分が活性化するのだが、実は金銭的報酬で活性化する部分と同じらしい。金持ちが政治家になりたがるのは、どうやら科学的に説明できるという。 依存症者は、快感を感じ取る快感回路に異常が生じている。それは具体的に言うと「鈍く」なっているということである。普通の人と同じ量では快感がない。必然、より多くの量を求めるようになる。するとますます「鈍く」なる。さらに量を求める。この悪循環が依存症を進行させていく。 薬物依存症者は、他の人よりも薬物を欲しがるけれども、他の人ほど薬物が好きではないように見える。言われてみれば、私が麻雀店でアルバイトをしていた学生時代、「もう麻雀はあまり面白いとは思わない」と言いながら毎日来ている客がいた。それはもしかしたら依存症の初期症状だったのかもしれない。依存症予防の観点からは「昔ほど面白くないけど何となく…」と感じた時点で少し距離を置いた方がいいようだ。 依存症が進行していくときの快感回路の変化は、経験や学習によって記憶が貯蔵されていくときの神経回路の変化と同じである。皮肉なことに、人は経験によって学ぶ能力があるからこそ依存症にもなり得るのだという。 『快感回路』にはギャンブル依存症についても詳細に記載されている。ギャンブルの快感は、惜しい負け(ニアミス体験)によって増幅されていく。惜しい勝負が空振りするほど続けたくなるのだという。これはギャンブルファンなら実感できるかもしれない。ギャンブラーがもっとも快感を覚えるのは、結果が出るまでの待ち時間なのだという。スロットやルーレットが回っている時間や馬が最後の直線に入ったときに、快感回路がもっとも刺激されるわけだ。(iStock) 確かにギャンブルには快感が伴うが、全てのギャンブラーが依存症になるわけではない。誰もが食事をし、買い物をし、多くの大人は酒を飲むが、ほとんどの人は依存症にならない。同様に、たいていの人は時折ギャンブルを楽しむだけで、病的にのめり込んだりしない。 しかし、少数のギャンブラーが依存症になるのは事実だ。ギャンブル依存症の特徴は、女性より男性がはるかに多く、しかも遺伝することが多いという現実である。そして意外なことに、ギャンブル依存症者にはビジネスの世界で大きな成功を収める精力的な人物も多いことも挙げられる。少し前に著名な実業家がカジノで大枚をはたいた事件が有名となったが、当該人もビジネスマンとしては非常に優秀だったと聞いたことがある。資本主義は必然的に依存症を生み出す 依存症は脳の病気である。これには、依存症の発症は患者の責任ではないという考え方を伴う。しかし、依存症からの回復は患者の責任である。患者には、発症はさておき、回復への責任や、回復に伴うもろもろの問題への責任がある。病気なのだから責任はなく、何もしなくていいというわけでは決してない。 ギャンブルについては、患者にはもちろん、利益を上げている胴元にも、依存症の予防・回復への責任があるだろう。ギャンブル産業は大きな利益が上がる。しかしその半面、ギャンブル依存症を生むことになる。合法的ギャンブルが増えるほどギャンブル依存症者は増えるというのは事実である。とすれば、依存症への対策は、胴元の必須事項といえよう。 その観点からすると、今回の入場制限には一定の評価ができるものだ。とはいえ、当該措置に果たしてどの程度の効果があるか、疑問も残る。与党の合意によると、IR実施法案で、日本人のカジノ入場は週3回、月10回までに制限されるという。 しかし、ギャンブル依存症かどうかの診断においては、ギャンブルの回数はそれほど重視されない。そこではギャンブルを中断することによりいらだちが起きたり、ギャンブルをすることやその結果について人に嘘をついたり、ギャンブルがらみで借金をしたりする、といった付随的な行動をもとに依存症の判断がなされる。 週3回であろうが借金してまで通っているのであれば依存症であるし、毎日通っていても借金もせず嘘もつかず「健全な遊び方」をしていれば依存症ではないのだ。回数のみに着目した制限は違和感を覚える。 『快感回路』では興味深い指摘がなされている。それは資本主義と依存症との関係性だ。資本主義における経営主体の努力は、より多くの顧客を獲得しようとする努力である。それは言い換えれば、自らに依存してくれるユーザーを得ようとする努力である。より多くの「依存症ユーザー」の獲得に成功した企業が資本主義における勝ち組である。 資本主義は必然的に依存症を生み出すのだ、と。依存症はギャンブルだけの問題ではない。資本主義が高度化するにつれ、今後もさまざまな依存症が増えることが予想される。カジノ解禁に伴いギャンブル依存症対策を採るというのであれば、これを機に依存症全体のことを考えてもいいかもしれない。(iStock) カジノは賭博である。賭博について、法律はとかく臭いものにフタをしておけばいいというやり方を取っている。現行刑法にはいまだ賭博罪が存在する。しかしその「犯罪行為」を国家が経済施策として進めるのだという。賭博は悪なのか、そうでないのか。賭博は依存症を生むから悪いのだというならば、それは明らかに違う。 酒は依存症を生む。高カロリーの食事も、高額なバッグも、発達した資本主義社会における過剰サービスの多くが依存症の原因となる。魅力と依存症は表裏一体の関係にあるのだ。カジノ解禁には、ギャンブル依存症の温床となるという批判が根強い。これへのパフォーマンスとして安易な措置を取るだけは問題の本質的な部分を逃すのではないか。

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    カジノ解禁の問題点の一つはマフィアやテロ組織上陸の可能性

     カジノの合法化を進める「統合型リゾート(IR)整備推進法案」が、昨年末衆議院で可決。いよいよ、カジノ解禁に現実味が帯びてきた。しかし、そこにはいろいろな課題が残されている。たとえば治安の問題もそのひとつ。 2011年10月までに全都道府県で施行された、暴力団排除条例に基づき、官民一体となった暴排活動が進められた結果、暴力団の資金源は逼迫しつつある。このような暴力団がカジノへの関与に強い意欲を持つことは容易に考えられる。多重債務を重ねるパチンコ依存者を見てきた弁護士の新里宏二さんはこう話す。「暴力団が直接関与しなくても、その周辺の人が、ヤミ金融などを運営し資金獲得に出るケースも考えられます。資金の調達もますます巧妙になっていくかもしれません」 一方で巨額の金が動くカジノとマネー・ロンダリング(資金洗浄)は切り離して語れない。マネー・ロンダリングは、マフィアはもとより国際テロ組織などによって世界をまたにかけて行われており、そのまま使用すれば「足」の付いてしまう非合法な手段によって入手した資金を、「表の世界」でも使用できる「きれいな」資金へと転換して行くことを指す。 日本が加盟しているマネー・ロンダリング対策の政府間会合FATFでは、カジノ事業者はマネー・ロンダリングに利用される恐れが高い非金融業者に指定されている。 麻薬取引や脱税などで得た汚れたお金をカジノを通してきれいなお金にするというケースも見られる。(iStock)「カジノ業者に疑わしい取引の届け出を求めても完全にマネー・ロンダリングを封じ込めることはできないでしょう。つまり、マフィアやテロ組織のメンバーが日本にやって来る場所を作ることになる」(新里さん)子供は賭博に対する抵抗感がないまま成長する 今回のIR方式では、カジノのほかに、ホテルやショッピングモールを併設してリゾートを形成していくという。お父さんはカジノ、お母さんはショッピング、子供たちはアミューズメントパークへと、家族そろってのレジャーを提唱している。そして夜はみんなで食事──。「これ、おかしいですよね?」と声を荒らげるのは新里さん。「せっかくの家族でのお休みなのに一緒に遊ばないんですか? 夕飯でいったいどんな話をするんでしょう?“今日、お父さん、羽振りがいいね!”“カジノで勝っちゃって”“え、カジノってそんなにもうかるの?”“なんだ、お父さん。働くのばかばかしいね”って会話があったり、“今日、しょぼいね、お父さん”“カジノで負けちゃって…だからまたこの後、行ってくる”とか、そんな感じになったらどうするのか? 子供は賭博に対する抵抗感が少ないまま成長していく危険性があり、勤労意欲を失うことも指摘されています。だから賭博は禁じられてきた。そういったことをきちんと議論されないまま通過したのがカジノ法案なんです」(新里さん)関連記事■ 中国銀行 イタリアで組織ぐるみのマネーロンダリングが摘発■ 米大手金融機関 2020年に日本が世界2位のカジノ国になると予測■ 日本のカジノ「入場料1万円ぐらいと想定」とカジノ専門家■ 日本が参考にするアジアのカジノは資金洗浄の温床的側面も■ 【書評】日本のカジノ解禁を前に新たな観光の可能性探る一冊

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    フィリピンの「カジノ産業」、活況の影に潜む治安への懸念

    水谷竹秀(ノンフィクションライター)  観光地として名高いフィリピン中部のセブ州マクタン島に、カジノを含めた統合型リゾート施設(IR)が着工する運びとなった。首都マニラ以外では初のIR誕生で、フィリピンのカジノ産業が活況を呈している。 着工するIRの名称は「ラプラプ・レジャー・マクタン」。カジノを運営する政府機関、フィリピン娯楽ゲーム公社が5月上旬、事業を実施する開発公社に建設許可を出した。総工費3億4100万ドル。マクタン島の海辺に面した広さ12万5千平方メートル(東京ドーム2.5個分)の敷地に、カジノ施設をはじめ高級ホテルやコンベンションセンター、ショッピングモールが建ち並ぶ予定だ。2019年に部分開業し、22年の本格開業を目指す。 これに先立ち、昨年12月下旬にはマニラに日系のIR「オカダマニラ」がソフトオープンした。パチスロ機メーカー「ユニバーサルエンターテインメント」(本社・東京都江東区)が出資しており、総工費は24億ドル。 広さは東京ディズニーランドに匹敵する44万平方メートルで、マニラに現存する他のIR3カ所と比べても最大規模。このソフトオープンは日本でIR推進整備法案が可決された直後のことで、今後、日本にカジノができる際のモデルケースになる可能性がある。 さらに「オカダマニラ」の近くには20年、ホテルオークラが入居するIR「ウエストサイド・シティー」(広さ31万平方メートル)も開業する予定だ。 世界のカジノ産業に関する調査報告書によると、フィリピンのカジノ市場規模は、10年に5.6億ドルだったのが15年には倍以上の12億ドルを超えた。アジア域内ではマカオ(約621億ドル)、シンガポール(約71億ドル)、韓国(約26億ドル)に次ぐ4番目。韓国では今年4月、仁川国際空港の近くに初のIR「パラダイス・シティー」が開業したばかりだが、フィリピンのカジノ市場は今、韓国を追い上げる勢いで急成長している。2015年、マニラにオープンした巨大カジノリゾート施設「シティオブドリームス・マニラ」(iStock) この背景にあるのが中国人観光客の増加だ。カジノの収益は外国人富裕層を取り込めるか否かが鍵を握る。観光省によると、16年にフィリピンを訪れた観光客数は1位が韓国(約147万人)、2位が米国(約87万人)、3位が中国(約67万人)で、日本がこれまでキープしていた3位の座を中国に明け渡して4位(約53万人)に転落した。中国人観光客の増加率は前年比38%で断トツ。ドゥテルテ大統領が打ち出した親中路線の外交政策が影響しているとみられる。 一方、こうした産業活性化に水を差すように、首都マニラのIR「リゾーツ・ワールド・マニラ」では6月上旬に37人が死亡する銃撃、放火事件が発生し、一時的な営業停止に追い込まれた。焼身自殺を図って死亡した犯人は、元政府職員のフィリピン人男性と特定されたが、警備が厳重なはずのカジノに拳銃が持ち込まれたことから、治安への懸念があらためて浮上している。みずたに・たけひで ノンフィクションライター。1975年三重県桑名市生まれ。上智大学外国語学部英語学科卒業、カメラマンや新聞記者を経てフリーに。2011年『日本を捨てた男たち フィリピンに生きる「困窮邦人」』(集英社)で開高健ノンフィクション賞受賞。近著に『脱出老人』(小学館)。

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    「引っ越し難民」もアマゾンのせい?

    「何千もの小売業者を倒産に追いやっている」。米インターネット通販最大手、アマゾンについて、トランプ大統領の「口撃」が止まらない。日本でもアマゾンの台頭でさまざまなサービスが打撃を受けて久しいが、この春急増した「引っ越し難民」の背景にもアマゾンの影響があるという。なぜか。

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    空前の「引っ越し難民」はなぜ社会問題化したのか

    ネット通販の急激な普及に伴う宅配貨物の急増に宅配便のシステムが追いつかず、「物流の危機」として大きな社会問題となった。今日では、物流は社会的インフラの一つとして認知され、市民生活に不可欠のサービスとなっているが、国民一般の物流に対する認識は多くが旧態依然と言える。  このおよそ50年間、わが国ではトラック運送事業の発展で常に物流の供給過多の状況が続き、必要な時にいつでも低価格(運賃)で高質なサービスが入手できるという時代が続いてきた。しかしながら、現在のわが国の物流の実情は従来と状況が一変している。 実は、これまで3月に物流ニーズの急激な高まりで物流の供給がタイトになり、混乱を来したことは経験済みであった。2014年3月に翌月からの消費増税を控えて「駆け込み需要」の発生により、物流が混乱し引っ越しサービスにまで大きな影響を及ぼす事態が生じていた。 これを機に、企業の中には人事異動の時期をずらしたり、計画を事前に作り引っ越し事業者と打ち合わせをするなど、分散化の対応を取ってきている。しかしながら、今年はかつてないほどの危機が叫ばれている。この背景にはさまざまな事情があるが、大きな理由は引っ越し需要の「繁閑の極端な格差」と「人手不足」の問題であるといえる。(画像:istock) この両者は切っても切り離せない関係にあるが、まず前者については、例年3月には通常月の約2・5倍の引っ越し需要があるという極端な波動の存在である。4月に新年度、新学年が一斉にスタートするという社会慣行の中で、引っ越し事業者は経営的に苦しみ抜いてきた。 特に、今日の引っ越しは主として「引っ越し専業者」がサービスを提供しており、かつてのように一般的なトラック運送事業者が繁忙期だけ引っ越しサービスを提供するというケースは少なくなっている。利用者が引っ越し運送に付随する各種サービス(エアコンの取り付け、各種手続きの代行等)を求めるという傾向があり、引っ越し作業には多くのノウハウと熟練を保有する作業員が必要とされることも要因の一つと言える。利便性を追求する時代は終わり 次に後者については、周知の通りである。わが国においては少子高齢化の影響もあり、ほとんどの産業分野で人手不足が顕著になっているが、物流分野は依然、労働集約的な部分が多く、人手不足の深刻度が極めて高くなっている。ちなみに、直近のトラックドライバーの有効求人倍率は2・74倍となっている。物流産業においては労働条件の改善が急務とされているが、労働者の労働時間は一般産業の2割増し、賃金は2割減といわれている。 現在、働き方改革、生産性向上を目指す動きを官民挙げて取り組んでいるが、その成果はまだ未知数といえる。人手不足対策としての外国人労働力の活用についても、宅配、引っ越しは高質のサービスレベルを要求されること、また個人宅への配達等があるため容易に進んではいない。 また、政府においては、物流分野の長時間労働問題にメスを入れ実態調査を行うとともに、総労働時間規制の強化を打ち出している。具体的には、物流事業者においては時間外労働(残業)時間の厳格化の徹底を図りつつあり、この結果サービスの時間的柔軟性は限定的となり、一層ひっ迫の度合いを深めている。残念ながら、これらの二つの大きな課題に対しては、即効的に効果を出すことのできる解決策は見いだせていない。 さらにもう一つ、近年の新たな事情を付け加えるとすれば、ネット社会の出現ということがある。今やインターネット経由がすべてに当たり前の時代となったが、引っ越しサービスにおいても同様であり、ネット上での申し込みが多数利用されている。引っ越しサービスの比較サイトはあまた存在し、利用者はワンクリックで申し込みができるという利便を享受している。 事業者サイドにおいても、直接現地へ赴いての見積もりの手間が省ける等のメリットが出ている。しかし、利用者の中には手軽にネット上で複数の引っ越し事業者へ申し込みをしたものの、解約を忘れる(しない)という事態がしばしば生じるなど、各種の混乱が続いている。 こうした事態を受け、国土交通省では今年6月から現行の標準引っ越し運送約款を改正して、当日、前日、前々日のキャンセル料金を高くすることにより、解決を図ろうとしている。一方、引っ越し事業者については全日本トラック協会が「引っ越し優良事業者認定制度」を創設している。(画像:istock) これは一定の条件をクリアした事業者を優良事業者として認定、「引越安心マーク」を付与して、利用者に安心して引っ越しサービスを提供できる事業者の情報を提供しようというものである。 最後に、繰り返しになるが引っ越しなどの物流サービスがいつでも容易に手に入る時代は過ぎ去った。このことを認識した上で、物流への関心と情報の収集に一層努めてほしいと願っている。

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    「引っ越し難民クライシス」は逆にチャンスである

    片山修(経済ジャーナリスト、経営評論家) 「物流危機」は昨年、ヤマト運輸の労働組合が荷受量の抑制を訴えたのを機に一気に浮上した。危機は、いまや宅配業者だけでなく、日本郵便や引っ越し業者にまで波及、拡大している。宅配業者は宅配ドライバー不足が決定的なうえ、宅配時の不在問題もあって、長時間労働が常態化するなど疲弊が深刻だ。このままでは宅配ビジネスが成り立たないという苦境の中で、業者は一斉値上げに踏み切った。 例えば、ヤマト運輸は、個人向け宅配料金の値上げに加え、法人向けの値上げを交渉した結果、6割の大口顧客が値上げに応じた。平均値上げ幅は15%以上に及んだ。宅配便急増の最大要因といわれたアマゾンも4割超の値上げを受け入れたとされる。日本郵便も3月、宅配便「ゆうパック」の個人向け料金を平均12%引き上げた。 その余波というべきか、宅配業者の宅配ドライバーの労働条件や賃金改善に伴って、一部の引っ越し業者のドライバーが宅配業者に移籍した。その結果、引っ越し業者は人手不足に拍車がかかったといわれている。なにしろ、3~4月の異動期は年間引っ越し件数の約3割が集中する。ドライバーや作業員不足から、希望時期に引っ越しがかなわない「引っ越し難民」続出が懸念されているのだ。 その対策の一環として、日本通運やヤマトホールディングスなど引っ越し大手は、単身者向け引っ越し料金の値上げに踏み切った。それとともにアルバイトの人件費をアップする計画だ。でないと人手が集まらないからだ。 しかし、いくら宅配業者や引っ越し業者が値上げなど対策に乗り出しても、物流危機の抜本的な問題解決にはつながらない。というのは、今後もEC(電子商取引)市場の拡大は確実なことに加え、引っ越し時期の分散には限界がある。加えて、人口減少社会のなかでドライバー不足はますます深刻化する。果たして、問題解決の糸口はあるのだろうか。 求められるのは最先端技術を使った新時代型物流網の構築だ。スマート物流の実現である。つまり、衛星利用測位システム(GPS)やインターネット、モノのインターネット(IoT)、ビッグデータ、人工知能(AI)など、最先端技術を活用した物流革命の推進である。物流危機の解消はこれしかない。2018年3月、東京都目黒区にあるアマゾンジャパン本社が入るビル(奥) 具体例を見てみよう。例えば、ドローン(小型無人機)や無人運転車の利用によって配送の無人化が模索されている。日本郵便は2016年からドローンを使った郵便物輸送の実証実験に取り組んでいる。今年3月には都心公道において、将来の無人走行を想定して自動運転車による輸送の実証実験を行った。 ヤマト運輸はDeNAと組み、自動運転の実用化に向けて、神奈川県で「ロボネコヤマト」プロジェクトの実証実験を行っている。顧客が場所と時間を指定すると、自動運転車で配送する仕組みだ。現在はドライバーが乗車するが、将来的には自動運転を取り入れるという。また、国土交通省は18年度中に高速道路の長距離輸送の効率化を目指し、後続隊列無人走行の実証実験を開始する予定だ。引っ越し業界も「危機こそチャンス」 物流業者だけでなく、荷主側のアマゾンなどの通販業者も知恵を絞っている。サイバー空間で、いくら大量の注文を受け付けても、モノを届けられなければ事業は成立しない。アマゾンやヨドバシカメラなど、EC事業者は自社配送網構築に取り組んでいる。現に、アマゾンは、米国などでドローンによる配達の実証実験を行うなど、自社配送網の構築に余念がない。楽天もこの1月、2年以内に自社配送網を構築する方針を明らかにした。 その点、オフィス用品通販大手のアスクルは、すでに配送全体の約6割を自前配送網で賄っている。「業界でもっとも物流システムが進んでいるのは、間違いなくわが社だと思います」と、アスクルの岩田彰一郎社長は自負する。効率的な配送網のカギはAIだ。 例えば、アスクルの個人向け通販「ロハコ」では、「ハッピーオンタイム」というサービスを提供中だが、AIを活用して、消費者が1時間ごとに配送時間を指定できるシステムを構築しているのである。通常、配送業者のドライバーは、決められた担当地域の地図を記憶し、荷札と比較して効率的な荷物の積み込み順や配送ルートを考える。しかし、「ハッピーオンタイム」では、システムが配送ルートと時間を計算し、消費者の希望する時間をさらに30分間に絞り込んでメールで伝える。 到着時間は、システム上では秒単位で予測されており、前後15分の余裕をもって消費者に知らせる仕組みだ。コンピューターによるルート設定やAIによる予定と実績の差分分析を行い、到着時間の予測精度は従来比25%改善。通常約2割といわれる不在率を約2%に抑えている。 同社は、ドライバーの動きをリストセンサーで分析し、研究に生かす取り組みも行っている。ベテランと新人では、ドライバーの動きは大きく異なる。配送車を停めてから荷物を届けるまでに時間がかかる場合もある。配送ルートの気象情報、従業員の経験、荷物の重量、配送地域など、すべてをデータとして取り込み、AIで分析する。今後、BtoB(企業間取引)にも応用する考えだ。 さらに、物流センターでは、EC世界初となるピッキングロボットをはじめ、多くのロボットを導入している。最終的には、荷物を持ち上げてトラックの中に運び、積み込みまで行うロボットを視野に入れる。「いろんなロボットを検討している段階なんです。われわれの最終的な目的は、AIやロボットを物流センターや配送網に実装して、お客さま価値を上げることです」と、岩田氏はいう。ニトリのグループ会社「ホームロジスティクス」が運営する西日本通販発送センター。倉庫内を無人搬送ロボット「バトラー」が走り回る=2017年12月(沢野貴信撮影)「危機こそチャンス」とは、よくいわれることだが、物流危機は従来式のアナログな物流を、最先端技術を活用したスマート物流へと進化させる大きなチャンスと見るべきだろう。引っ越し業界でも、引っ越し需要の予測精度向上に、AIのアルゴリズムを活用するなど、最先端技術を活用した業務改善の動きがある。 今後、スマート物流網が急速に進んでいくのは間違いない。近い将来、AIの活用が業界の競争力を左右することになるだろう。

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    「美しすぎるバレーボール選手」滝沢ななえが同性愛を告白した理由

    滝沢ななえ(元バレーボール選手) 2016年のリオ五輪・パラリンピックでは、セクシュアルマイノリティーをカミングアウトした選手が50人以上で過去最多となり、話題になりました。2014年、オリンピック憲章に「性的指向による差別禁止」が明記されたことも背景にあって、エンブレムに「多様性と調和」のメッセージを込めた2020年の東京五輪がどうなるのか、世界が注目していると思います。 一方で、日本の現役選手で今、カミングアウトしている人はいません。もちろんカミングアウトすることが全てではありませんが、引退したスポーツ選手でもカミングアウトしているのはわずか数人というのが現状です。 そんな中、2017年11月に放送されたバラエティー番組『衝撃のアノ人に会ってみた』(日本テレビ系)で、私は女性とお付き合いしていることを初めてメディアの前でお話しました。要はレズビアンであることをカミングアウトしたのです。 取材で来た番組ディレクターに「彼氏か旦那さんはいますか?」と聞かれたので、「彼女がいます」と答えたんです。最初はびっくりされましたが、その後に「ぜひ使わせて欲しい」と言われて、放送することになりました。 ちょうど、そのテレビ番組のお話をいただく少し前、私が所属しているジム「SPICE UP FITNESS」の代表と、セクシュアルマイノリティーとしてもっと表に出ていけたら、誰かを勇気づけたり、誰かの考えや行動に変化が生まれたり、そういうきっかけをつくることができるんじゃないかって話していたんです。だから、テレビ出演のお話はタイミングが良かったですね。インタビューに応じる滝沢ななえ氏(瀧誠四郎撮影) ここから少し自分自身の話をしようと思います。自分の恋愛対象が女性だと初めて自覚したのは、バレーボールチーム「上尾メディックス」に所属していた22歳のころでした。それまで男性とお付き合いしたこともありましたが、友達と「恋バナ」をしていると、なんとなく違和感がありました。 というのも、女の子って恋をすると恋愛モードになるというか、すごく乙女になるじゃないですか。その感覚が私にはなかったんです。付き合っている男性のことは人として尊敬していたので一緒にいることはできるのですが、どうしても「友達」のような感覚で、なんでこんなに違うんだろうと思っていました。 そんな時、女優の上野樹里さんが性同一性障害の人を演じた『ラストフレンズ』(フジテレビ系列)というドラマを偶然みたんです。私は自分が女性であることに違和感は全くなかったのですが、ちょっと男っぽい部分もあるので、「あー、私も女性とお付き合いした方が心惹かれるのかな?」と、ふと思ったんです。そして実際に女性と付き合ってみたら、「ああ、みんなが恋バナをしていたときの恋愛モードってこういう感じか!」と初めて理解できたんです。男性ファンに対する罪悪感 とはいえ、女性が好きだと自覚してからも、恋バナをするのは難しいものでした。なぜなら、恋バナをするときって、必ず「彼氏いるの?」と聞かれるからです。その時点で少し違和感がありますが、相手も決して悪気があるわけではないので難しいですよね。私の場合、男性の立場で彼女とお付き合いしているので、彼女を彼氏と置き換えて話すこともできない。なので、本当はもっとしゃべりたいこともあるし、恋もしているけれど、恋バナのときはごまかしてしまうことが多かったです。レズビアンをカミングアウトしたときの心境を語る滝沢ななえ氏(瀧誠四郎撮影) 私は基本的にポジティブで、普通に明るく楽しく生きているので、テレビのドキュメンタリーのような深刻な話ではないですけど、もう一つ、日常で違和感があるとすれば、やっぱり結婚や出産の話ですね。私の妹はすごく家庭的で、ずっと結婚したいって言っているような子なので、いつも「ななえ、結婚しないの?」「子供かわいいよ」と私に言っていました。 妹も、もちろん周りの友達も、結婚して、家庭があって、子供がいるっていう生活が幸せだと思っていたからこそ、いつか私にも幸せになってほしくて言ってくれたんだと思います。みんな悪気があるわけではなく、無意識にそう言ってくれますね。ただ、私にとっては興味がない話というか、私にとって幸せのカタチは結婚や出産ではなかったというだけなんです。 プライベートではそういう小さな違和感もありましたが、バレーボール選手として、自分がセクシュアルマイノリティーだからといって何か不便があったり、嫌なことがあったりということはほとんどなかったです。自分がセクシュアルマイノリティーだからといって、何か競技に悪影響が出ることもありませんでした。同性愛者だからという理由で試合中にミスが増えるなんてことはないじゃないですか。 一つあるとすれば、男性ファンに対しての罪悪感でした。私は現役時代、男性ファンが多くて、「ななえちゃん、かわいい」と言われると、だましているつもりはなくてもちょっと申し訳なく思っていました。 表舞台に出る人間として、周りの反応、特に応援してくれている方々の目というのはどうしても気になると思います。ファンの方は、「この選手はこういう人だろうな」という自分なりのイメージを持っていて、そのイメージをあまり崩してはいけないという意識が当時は強かった。もしイメージと異なれば、どうしてもがっかりさせてしまうのではないかと考えていました。 私自身も、ファンがあってのアスリートだと思っていたし、だからこそファンの方を大切にしたいと思っていたので、カミングアウトするより、イメージのままの「滝沢ななえ」でいる方がいいのかな、と思っていました。DNAの代わりに「考え」を残したい 私はもう引退した身ですが、それでも公表するのは怖かったですね。収録はしたものの、本当に放送されて大丈夫なのか、ずっと不安でした。正直なところ、同性愛であることを公表したら、男性ファンは引いてしまうのではないかと思っていましたし、そうなったらなったで仕方がないと、覚悟もしていましたけど…。最後はセクシュアルマイノリティーの滝沢ななえを応援してくれる人が残ってくれればそれでいい。そう思って公表しました。 もちろん、どうしても受け入れられない人もいるとは思います。でも結果的に、「ななえちゃんがどうであれ、滝沢ななえっていう人間をこれからも応援していきたい」というお言葉をいただいたり、男性の方でも今まで通り応援してくれるファンが意外に多かったり、予想以上に温かい反響をいただき少し驚きました。 冒頭でも話した通り、今現役の日本人スポーツ選手でカミングアウトしている選手はいませんが、今の日本の状況ではまだ難しいだろうと思います。LGBTというという言葉が少しずつ社会に認知されてきていますが、自身がLGBTであるということをカミングアウトするのには、まだまだ勇気が必要だと感じています。「自分のDNAよりも自分の考えを残せたら」と語る滝沢ななえ氏(瀧誠四郎撮影) それでも、現役選手の方で、モヤモヤしている方がいらっしゃるのなら、ファンの人はファンのままだから、あまり怖がらなくてもいいんじゃないかな、と伝えたいです。これは私が今回公表したことで一番実感したことです。絶対に理解してくれる人がいるし、そういう面で気持ちが晴れてくると、競技にもいい形につながってくるのではないでしょうか。 アスリートにとって、自分の支えになってくれる恋人やパートナーの存在はすごくプラスになると思います。そんなことを考えるより競技に集中しろ、というご意見もきっとあるでしょうが、スポーツはフィジカルの部分、メンタルの部分どちらも重要です。そんな心の支えになっている存在を、隠して生きていかなくてはいけない、後ろめたいことをしているわけでもなく、普通に恋愛をしているのに、という状況は、やっぱりストレスになるものです。 だからこそ、仕事や自身の生き方が少しでもLGBTの方々の応援につながっていけば幸いです。私は子孫を残す、自分のDNAを残すということにあまり興味がない代わりに「自分の考え」を残せたらいいな、と思っています。 恋愛において、みなさんの「普通」と、私たちの「普通」はきっと同じです。男性も女性も、誰が好きであれ、私たちにとっては「普通」なので、明るく受け入れてほしい。東京五輪では、LGBTの人たちも、不自由なく参加できる環境にしてもらいたいですね。(聞き手 iRONNA編集部、中田真弥)たきざわ・ななえ 元バレーボール選手。1987年東京都生まれ。八王子実践高等学校を卒業。パイオニアレッドウィングスにて3年プレーした後、上尾メディックスに移籍。上尾メディックスでの4年間の選手生活を終え、バレーボールスクールのコーチなどを経て、現在トレーニングジム「SPICE UP FITNESS」トレーナー。

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    「自慰行為は週3回」75歳のヌードモデルが吐露した性的貧困の現実

    坂爪真吾(ホワイトハンズ代表理事) 高齢期には4つの「ムエン」があると言われている。一つ目は、人間関係の貧困を意味する「無縁」。二つ目は、社会的孤立を意味する「無援」。三つ目は、経済的貧困を意味する「無円」。そして四つ目は、性的貧困を意味する「無艶」だ。 現役時代にどれだけ性的に満ち足りた暮らしを送っていた人でも、超高齢社会においては遅かれ早かれ、この「無艶」に直面する時が必ずやって来る。国立社会保障・人口問題研究所の推計によれば、2024年には人口の30%が65歳以上の高齢者になるとされている。全ての人が高齢期の「無艶」に直面せざるをえない時代の中で、私たちは「生殖なき後の性」をいかに生きればいいのだろうか。 本稿では、高齢者の中でも男性と比べてメディアで取り上げられることの少ない性的マイノリティと女性の性に視点を当てて、このテーマを考えていきたい。iStock 黒沢心平さん(75歳・仮名)は、柔らかいライトに照らされた会場の中央で、一糸まとわぬ姿で直立している。黒沢さんの周りには約20人が座っているが、声を出す人は誰もいない。静寂の中で、スケッチブックに鉛筆を走らせる音だけが響き渡っている。 ここはバリアフリーのヌードデッサン会『ららあーと』(一般社団法人ホワイトハンズ主催)の会場である。年齢や性別、障害や病気の有無にかかわらず誰でも参加することができ、20代の学生から70代の高齢者まで、様々な世代の参加者がデッサンを楽しんでいる。黒沢さんが75歳でヌードモデルにチャレンジしようと思った背景には、どのような理由があったのだろうか。 岡山県で生まれた黒沢さんは、20歳の時に上京し、電話工事の請負・施工の仕事を始めた。会社の男性寮で生活していたので女性とは無縁の毎日だった。当時は電話が交換手による人力から自動に変わる転換期であり、黒沢さんは全国各地を回って仕事を精力的にこなしていた。 30歳の時、同郷の1歳年下の女性と見合い結婚する。結婚初夜が黒沢さんにとっての初体験だったが、セックスに関する知識は雑誌や医学書で読んでいたので、行為自体はうまくいった。そして結婚2年後には子供を授かった。 34歳の時に独立し、電話工事の請負・施工業務を行う会社を設立した。当時電話工事に関する需要は山のようにあり、仕事の依頼は途切れることがなかったという。 順調に仕事と家庭を築いていく一方、黒沢さんは30代半ば頃から「自分はバイセクシュアル(両性愛者)ではないだろうか」という思いを抱えるようになる。当時は今よりもはるかに性的マイノリティに対する偏見や差別が根強い時代だったため、バイセクシュアルであることを自分から誰かに打ち明けることはしなかった。 そんな中で、同じ性的マイノリティの人たちが集まる場所とされている映画館やバーなどに何度か足を運んだ。そうした場所で誘われて、男性と身体の関係を持ったこともあった。一時的に満足できたが、冷静になって振り返ると「本当によかったのだろうか」と後悔する時もあったという。73歳でヌードモデルに挑戦 カラオケスナックで知り合った大学生の男性とは一年程度の付き合いになり、一緒に泊りで旅行に行くこともあった。彼と別れてから現在まで、男性と付き合ったことはない。それでも男性と付き合いたいという気持ちは少なからずあるという。 40~50代の時には、男性同性愛者向けの性感マッサージに通ったことがある。好奇心で何度か通ったが、確かにお客様として丁寧に扱ってくれるものの、金額に見合った価値があるようには思えず、頻繁に通うまでにはならなかった。 現在は会社を休業し、週3日パートで清掃の仕事をしている。妻とは3年前から別居していたが、最近離婚が正式に確定した。黒沢さんがバイセクシュアルであることは、はっきりとは告げていないものの妻も薄々気づいていたらしく、それも離婚の要因の一つになったのかもしれない。 離婚を協議する過程で裁判になり、妻が弁護士を立てたので、こちらも立てることになった。しかしこれまで弁護士への依頼や裁判などは一度も経験したことのない黒沢さんにとって、妻を相手に争うことはかつてない大きなストレスになった。 このままだとストレスで自分がダメになってしまう。そこで黒沢さんは、この現実に立ち向かっていけるように「今までは絶対にできなかったようなことに挑戦して自分を強くしたい」と思い、73歳にしてデッサンのヌードモデルに挑戦することにした。 最初の登壇では頭が真っ白になるほど緊張したが、次第に会場の空気になじめるようになった。参加者からも「年の割にはいい身体をしていますね」と言われて自信がついたため、2回目の登壇にも挑戦した。こうした中で「自分にもできる」という気持ちが固まり、離婚をめぐる裁判も無事に乗り越えることができた。 最近はインターネットのゲイ・同性愛専門のアダルト情報サイトで、男性同性愛者向け風俗店のページや動画を観ながら性的欲求を発散している。有料サイトではなく、無料で閲覧できる素人の投稿動画もよく見ている。独り身になって色々とやらなければいけない家事があるので、短時間で欲求を解消できる動画がいい。iStock 自慰行為は週に3回くらいの頻度で行っているという。毎晩22時から23時半の間にパソコンでネットを見るのが習慣になっており、24時の就寝直前まで見ている時もあるという。「この年になっても、そんなことをしている人はいないと思うのですが…」と黒沢さんは恥ずかしそうに苦笑いする。 離婚に伴う財産分与で、現金の財産はほとんど無くなってしまったが、今のところは年金とパートの収入で生活できている。周りに性の話ができる相手は全くいない。そうした相手がいれば理想的だが、これについては仕方がないとも感じている。性欲旺盛な高齢女性 今の性生活の満足度は、100点中80点。同年代よりも下、50代くらいの人と交際ができればという思いはあるが、この年になると、誰かと付き合うことはその相手に何らかの負担をかけることにつながる。若い人と付き合うと結局お金の関係になってしまうので、それはやりたくない。そう考えると、これからの恋愛や結婚は現実的にはちょっと難しい。そうした状況の中、今のところはネットのアダルト動画を観る程度で性的には満足できている。 黒沢さんは、最近「自分はバイで幸せだったのか?」と自問自答する時があるという。両方の性を楽しめたのだから良かったのかもしれない。でもどちらも中途半端だったので、ストレートに女性だけを好きだった方が良かったのかもしれない。こればかりは他人に聞いても答えは出ないので、最後は自分で結論を出すしかないのだろうと考えている。 高齢世代の女性に関しては、「もうセックスは卒業して、性とは無縁の穏やかで円満な夫婦関係を送っている」というイメージ、そして単身の女性高齢者に関しては「性とは無縁の枯れた存在」というイメージがある。 しかし、それらはいずれも幻想に過ぎない。『セックスレス時代の中高年「性」白書』(日本性科学会セクシュアリティ研究会編 株式会社harunosora)のデータを見ると、パートナーとの性欲ギャップに悩んでいる生々しい中高年女性の姿、いくつになってもセックスへの未練や執着を断ち切れずにモヤモヤしている単身女性の姿が浮かび上がってくる。 「この1年間に性交をしたいと思ったことはどれくらいあるか」という質問に対する回答は、「願望があった」「たまにあった」を合わせると、配偶者のいる60代女性は42%、70代女性は33%に達する。単身者の場合も、60~70代女性の32%が性交への願望を抱いている。iStock 夫婦間のコミュニケーションや性生活のメンテナンスをこれまで何十年も怠ってきた場合、高齢期になってからそれらを再始動させることは極めて困難だ。その一方で、単身の人や配偶者と離別・死別した人が新たなパートナーを獲得することにも困難が伴う。 ありもしない夫婦関係の再構築や、ありもしない恋愛や結婚(再婚)による救済に惑わされずに高齢期の性を充実させる「第三の道」としては、女性の場合、アダルトグッズの活用や性感マッサージの利用などがある。 女性向けのAVに出演している男優(通称:エロメン)のサイン会やイベントには、少なくない数の中高年の女性たちが参加しているそうだ。サイン会では来場者一人一人に対して、男優がサインや握手だけでなく、名前を呼びながらハグをしてくれる。「憧れの男性が自分の名前を覚えてくれて、抱きしめてくれる」というシチュエーションに身を投じることで、十代の頃に戻ったような高揚感を味わえるという人もいる。 握手とハグだけであれば、夫を裏切っているわけではないので罪悪感も無い。ストリップ劇場に通って全裸の踊り子を見ることでエネルギーを充填する高齢男性は昔から存在するが、中高年女性にとってのストリップ劇場に該当するのが、エロメンあるいは半裸で踊る細マッチョの韓流アイドルなのかもしれない。死生観ならぬ「私性観」 中高年の女性にとって、ダイレクトに性的なサービスを利用したり、性愛をテーマにした催しや空間に集まるのは難しいことが多いため、こうしたエロメンやアイドルのサイン会、握手会のように、あくまで今の生活を変えないような形で、非日常と日常の中間地帯で緩やかに性的なものと触れ合い、語り合えるような居場所を作っていく必要がある。 高齢期の性を充実させるために必要なのは「性に関する自分なりのパートナーや居場所を作ること」だと言える。女性の場合、小説やアダルトグッズだったり、性のことを肩肘張らずに話し合える友人・知人と喫茶店で過ごす時間であったり、出会い系サイトで偶然出会った同世代の不倫相手という場合もあるだろう。 ちなみに出会い系サイトの世界では、中高年女性への需要は確実にあるようだ。60代を過ぎた女性は「こんな年齢の自分でもよろしければ、一緒の時間を過ごしてくださいませんか」というへりくだった態度を示すことが多く、かつ「お互いのできる範囲の間で、それぞれの希望に合わせたお付き合いができればよいですね」と、相手の立場に立った提案をすることができるため、あえて年配の女性に絞ってアプローチをかける男性もいる。 どのような場所で出会った相手であっても、どのような形の存在であっても、死生観ならぬ「私性観」=性に対する自分なりの価値観と行動原理に基づいて探し当てたパートナーや居場所であれば、自分を納得させることができるはずだ。 たとえ他人や世間からみて眉をひそめられるような状態、滑稽な状態に見えたとしても、誰を(何を)パートナーや居場所として選ぶかを決めるのは、あくまで自分自身。「私の性は、私が決める」という性の自己決定原則は、生涯を通して不変なのだから。 超高齢社会における性の問題を考える上で避けて通れないテーマは、自分の意思で判断、行動することの難しくなった要介護及び認知症の状態にある人の性である。iStock 脳梗塞後に認知症を発症した87歳の河万衣子さん(仮名)は、笑いながら人前でいきなり「おっぱい!」と叫んで胸を露出する癖がある。施設のフロア内でも頻繁に胸を露出するので、周りの利用者からたしなめられたり、職員から「男性の利用者の方もおられるので、やめましょうね」と注意されている。 認知症を発症する前の河さんは敬虔(けいけん)なクリスチャンであり、夫は公的機関で重職を担っていた。長女も福祉施設の施設長であり、次女と孫は学校の教師をしている。 そうした真面目な家庭で妻としての役割を担ってきた河さんが、認知症になってからは人前で「おっぱい!」「まんこ!」といった性的な言葉を連発するようになった。デイサービスでの入浴の際にも「メンス(生理)が来たから今日はお風呂に入らない」と拒否したり、女性職員に対して「あなた、子供は何人?私は5人産んだわ。(セックスを)やったら、すぐにできるの」と語りかけてくることもある。河さんのこうした言動について、担当の看護師は「自分はまだ女性として現役である、という意識を持ちたいのではないでしょうか」と分析している。 施設内での性的な言動が頻回になり、他の利用者への影響も出るようになったため、やむをえず職員が河さんの現状を家族に伝えることにした。話を聞いた河さんの長女は、「おかあさん、お願いだからもうそんなことはやめて!」と泣き出してしまった。長女の話によると、以前にも施設の男性理学療法士に性的な発言を繰り返し、先方からの苦情でサービスを受けられなくなったことがあったとのこと。 長女への相談以降、河さんの性的な言動はしばらく鳴りを潜めていたが、一定の期間が経過すると、再びそうした言動が目立つようになってきた。最近は周囲の利用者や職員も慣れてきて、河さんの言動を良い意味で受け流すスキルが身についてきた。今では河さんが「おっぱい!」と叫んで胸を露出しても、全ての職員が「はい、しまいましょうね」と冷静に対処できるようになったそうだ。理想は「誰もが晩節を汚せる社会」 高齢者の性を「あってはならないもの」として否定的に捉えるのではなく、人間らしく生きる上で「あって当たり前のもの」として肯定的に捉え、社会資源の活用や家族・関係機関・専門職との連携を通して対応する試みは、少しずつではあるが現場に広まってきている。 日々の生活の中でのプライバシーの確保、自慰行為のできる環境の整備などの「性に対する合理的配慮」を通して、その人が最期まで人間らしく生きていくために必要な、最低限度の性の健康と権利がきちんと守られるような仕組みを作っていくこと。これから「超」超高齢社会を迎えるにあたって、私たちの社会に求められていることは、この一点に尽きる。 性は生殖の手段であるだけでなく、他者とのコミュニケーションの手段でもある。加齢によって社会との関わりを失い、離別や死別によって家族との関わりを失い、認知症や病気によって自分自身との関わりをも失ってしまった人たちにとって、性は外界と自分を結ぶ唯一の手段として最後に残された一本の命綱=「蜘蛛の糸」である。iStock 今にも切れそうなその細い糸を「あってはならないもの」として断ち切ってしまうのか、それとも「人間らしさの最後のよりどころ」として大切に見守っていくのか。この選択を誤らなければ、将来私たち自身が同じ立場になった時にも、無明の中で「蜘蛛の糸」をつかむことができるに違いない。 孤独の中で漂流・暴発しがちな高齢者の性を「受け入れる」とまではいかなくとも、不必要に問題化せずに、当たり前のこととして「受け止める」仕組み、そして当事者にとっても支援者にとってもストレスの少ない形で、良い意味で「受け流す」仕組みが社会的に整備されていれば、私たちはいくつになっても安心して性的な存在であり続けることができるはずだ。そうした社会に暮らしているという安心感こそが、加齢に伴う性的孤独を少なからず和らげてくれるのではないだろうか。 来るべき「超」超高齢社会で私たちが目指すべき社会の姿は、こうした「誰もが安心して晩節を汚せる社会」だと私は考える。

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    どうする? 老後のセックス

    ひと昔前、「死ぬまでセックス」特集が週刊誌で大々的に組まれたが、最近はお堅いNHKでも老後のセックスを取り上げるご時世である。近い将来「100歳まで生きるのが当たり前の時代になる」と言われるニッポンの超高齢社会。高齢者の性事情とスローなセックスライフについて考えたい。

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    「セックスに引退なし」ED治療薬で激変した高齢者の性事情

    たら」の意図がある。高齢世代の恋愛と性は、単なる肉体のつながりだけではない点も見いだせる。無縁社会が社会問題化する中、人と人との「縁」を結ぶものでもある。 都会、地方問わず、孤独死が社会問題として深刻視されている。50代以下の若年の孤独死もあるが、その多くは高齢者だ。 私は高齢者の孤独死のニュースに接するたびに、「高齢者の恋愛や性こそ孤独死を予防するセーフティーネット(安全網)、抑止力になり得るのではないか」と考えさせられてきた。夫婦ではない関係で考えれば、互いの住居の行き来は、周囲の目を意識する場合もあるにせよ、恋人がやって来る特別な場所だけに整理整頓、掃除を心掛ける。必然的に、住居のゴミ屋敷化を防ぐ力になる。それ以前に、携帯電話やパソコンで随時、連絡を取り合うのは安否確認にもなっている。アンチエイジングの普及で理解も 一方に不測の事態が起きたとき、子どもや親族と疎遠になっている者にとってはパートナーこそSOSを発せられるライフラインの役割も果たす。いわば、無縁社会における危機管理策、とまじめに位置づけてもいい。何より、引きこもりとも関係なく、日々の身だしなみにも気をつけ、生き生きと社会生活できるメリットは大きい。 四季折々のイベントに対して「来年のお正月も一緒に」「来年のお花見も一緒に」「来年の花火大会も一緒に」「来年の紅葉も一緒に」「来年のクリスマスも一緒に」といった希望も見いだしているゆえ、互いに進んで節制し、健康にもより気を遣う。毎日体重計に乗るのもいとわぬばかりでなく、定期的に病院に通い、それぞれの検査シートを見せ合って互いの健康状況を把握もするのである。節制と健康管理は愛する人のため、でもあるのだ。 ただ、厳しい現実の問題もあることも最後に書いておこう。 確たるデータこそないのだが、心の支えとなっている好きな人が亡くなったときの精神的ショックは残された人の死期を確実に早め、1年以内に亡くなるケースも多い、という話は医療関係者や高齢者福祉関係者が指摘するところでもある。 先に逝く人は幸福の絶頂の中で人生を終えることができる。しかし、残された人は厳粛に人生最後の恋であるパートナーの死を受け止めざるを得ず、日常生活を送るのにも苦痛な鬱(うつ)状態に陥るのだ。iStock とはいえ、それも私は「クオリティー・オブ・ライフはクオリティー・オブ・ラブである」を反映している典型例ではないか、心のときめきもなく、ただ年齢を重ねるよりも人間的ではないか、と取材から感じてきた。 日本は有史以来、初めて迎える高齢社会の中で、高齢者の恋愛と性についての社会的な理解はまだまだ日が浅いと言えるであろうが、現代の70代以上の方は、その先駆者、開拓者たる存在として歩んできた。 一昔前は「いいトシをして」「みっともない」と陰口をたたかれて、何かと抑制を課せられてきたが、アンチエイジングの普及の中で、ようやく理解を得られつつある段階に入り、現在は新たな段階への発展途上、成熟の途上にあると言えるのだろう。

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    「官能小説に刺激はいらない」超高齢社会を生きるアダルト業界の今

    安田理央(ライター、アダルトメディア研究家) 現在、アダルトメディア業界を支えているのは中高年である。特にアダルト雑誌読者の高年齢化は著しく、メインの読者層は50代である。官能小説誌などの文字中心の雑誌となると、さらに高くなり60代、70代だ。現在唯一の月刊官能小説誌である「特選小説」(綜合図書)の表紙には「小説の文字が大きくて読みやすい!」という文字が躍っている。 アダルト雑誌の中心読者が中高年だと言うと驚く人は多い。エロ本は血気盛んな若者が読むものというイメージが強いからだろう。 読者の高年齢化が目立つようになったのは、90年代後半からだ。やはり大きいのはインターネットと携帯電話の普及による影響だ。若い層は、ごっそりとそちらに取られてしまった。 既にアダルト雑誌は、事実上滅びていると言ってもいいだろう。かつてエロ本を数多く発行していた出版社のほとんどがエロ本から手を引いている。活動を停止してしまった出版社も多い。(iStock) それでも、まだ書店やコンビニにはエロ本が並んでいると思うだろうが、そこにあるのはアダルトビデオ(AV)メーカーから素材を借りてつなぎ合わせただけのDVD付きムックばかりで、発行しているのは新興の出版社である。 そして今、アダルト雑誌を買い支えているのは、高齢者で、しかもネットができないという層なのだ。誌面でネットの記事を書くと「そういうわからないものを載せるのはやめてくれ」という反応が多いという。悪い言い方をすれば、もはやエロ本は情報弱者によって生き永らえているのだ。 それもそうだろう。少しの知識があれば、ネットやスマホからいくらでも無料のアダルトコンテンツが入手できるのだから。しかも、雑誌で見るよりも過激で濃厚なものばかりだ。「やっぱり紙じゃないと」というフェティッシュなポリシーで雑誌を買い続けているような読者は、ほとんどいないのが現実だ。もっとも雑誌読者の高年齢化はアダルトジャンルに限ったことではない。全ての雑誌は読者の高年齢化に悩んでいるのが現状だ。 それでは、30年前からアダルトメディアの王者の地位を守り続けているAVはどうだろうか。 こちらもまたユーザーの高年齢化が進んでいる。雑誌に比べるといくぶん若いが、それでもメインの年齢層は40代後半であり、徐々に50代に近づきつつある。AVショップやAV女優のイベントに行っても、目につくのは中年客ばかりだ。 若い世代がAVを見ないというわけではない。むしろAVを見たことがないという若者は男女共にほとんどいないだろう。彼らに話を聞いてみると、AVは携帯電話やスマホで見るものという意識が強い。そして無料で見るものなのだ。違法にアップロードされた動画共有サイトで見たり、あるいは通販サイトのサンプル動画で満足していたりする。高齢化で先を行く「官能小説」の世界 しかし、メーカーにとってユーザーとはあくまでも購入してくれる人である。お金を払って見てくれる人に向けて作るのは当然のことだ。よって、現在のAVは中高年をターゲットに作られているわけである。 熟女物が全体の3割以上を占めているというのも、そうした背景があるからだ。AVで熟女というと30代から40代が中心。つまりユーザーの同世代か少し下の女性ということで、性の対象としてはリアルなところだろう。 もちろん、若い女の子の出演作も多いわけだが、中高年でも若い女の子が好きだという人もいるわけだから、そうした層に向けて作るのも当然である。 ただ、ここ数年の動きを見ていると、AVにおいて、女の子は若ければいいという考えはだいぶ薄れてきている。吉沢明歩やつぼみ、Rioなど10年以上活動しているAV女優が珍しくなくなっているのも、その現れだろう。風間ゆみなどは今年20周年を迎える。これは90年代までのAV業界では考えられなかったことだ。(iStock) アダルトではないが、同じことがグラビアアイドルの世界でも起きている。20代後半から30代のグラビアアイドルが人気なのだ。これもユーザー層の高年齢化による影響だろう。 若い世代の流入が難しいとなれば、この先、アダルトメディアユーザーの高年齢化は進む一方だろう。するとニーズにあわせて、内容も変化するはずだ。一足先に読者が老年化している官能小説の世界でのニーズが参考になるかもしれない。 官能小説というと、ハードな凌辱物を連想する人も多いだろうが、現在ではそうした内容はあまり人気がない。主流となっているのは、女性が積極的に誘惑してくるというもの。かといってAVで人気の痴女物のような過激な迫り方ではない。またヒロインは30代がほとんどである。20代、ましてや10代のヒロインはあまり人気がないようだ。 面白いのは40代以上も、また求められていないということ。作家が40歳のヒロインを設定すると、編集者から39歳にしてくれと注文が入ったというエピソードも聞いている。AVの熟女物では、40代、そして50代も人気があるのだが、このあたりは文章と映像の違いに起因するのかもしれず興味深い。 なによりも重視されるのは「癒やし」というキーワードだ。現在の官能小説の読者は刺激を求めていない。30代の女性と癒やされるようなセックスをする、これが理想となっているようだ。その理由を編集者は「日常で疲れているのに、官能小説を読んでまで疲れるようなことはしたくないんじゃないですか?」と分析していた。 もし、AVのユーザーがさらに高年齢化が進み、官能小説と同じような年齢層になった場合、AVでも「癒やし」が重視されるようになるのかもしれない。 過激なプレイは廃れ、穏やかなスローセックスを楽しむAV。ちょうどAV女優の人権問題が騒がれ、過激なプレイに規制がかかりそうなムードが業界にはある。ニーズに関わらず、AVはそうした方向へ向かう可能性も大きい。 AVがそちらへ向かえば、その素材に頼っているアダルト雑誌も、必然的に同じ路線を歩むことになる。 かつては過激で先鋭的なイメージのあった日本のアダルトメディアは、高齢化社会を迎えた時、「癒やし」のメディアとして存続していくのかもしれない。

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    置き去りにされてきた「高齢者の性」をめぐる問題

    つひろ ライター。1977年横浜生まれ。2009年よりフリーランスライターとして活動。政治、経済から社会問題まで幅広くカバーし、主に研究者や学者などのインタビュー記事を執筆。現在、日刊サイゾーなどに執筆中。

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    東大元医学部長「死ぬまで現役」は崇高で人間的で健康的

     東京大学医学部の元学部長の石川隆俊氏が、『東大名誉教授の私が「死ぬまでセックス」をすすめる本当の理由』(マキノ出版刊)を上梓したことが話題になっている。「“セックスは高齢者に生きる力を与えてくれる”ということを、真剣に伝えたかった。それが、この本を書いた理由です」と語る石川氏が、高齢者のセックスについて語る。* * * コンドームの老舗メーカー「相模ゴム工業」が、2013年に20~60代の男女1万4100人に調査したところ、40代、50代の男性(既婚者、交際者あり)の約6割がセックスレスだと回答したそうです。東大名誉教授の石川隆俊氏 広い世代に広まっているセックスレスの原因は様々でしょうが、厳しい競争社会に生きていることも関係しているのかもしれません。でも、諦めてほしくありません。この高齢者の調査結果はセックスレスに悩む若い世代にとっても励みになると思います。 あらゆる動物はホルモンの作用で発情期が限定されており、その期間にだけ生殖行為を行ないます。人間もホルモンの分泌は加齢とともに低下しますが、それでもセックス可能なのは脳の働きがあるからです。 思考や言語機能をつかさどる脳の“大脳新皮質”は、ヒトが進化する過程で著しく発達してきた。その進化により、人間は異性を生殖の相手だけでなく、恋愛の相手として認識でき、生涯を通して寄り添える関係を築けているのです。高齢者のセックスこそが、他の動物にはない、人間を人間たらしめている崇高な行為なのです。 セックスは歳をとることによって失われがちな「生きる力」を私たちに与えてくれます。高齢の男女が集まって公園でゲートボールをやっていたり、ダンス教室で踊っている光景をよく見ますよね。こうしたレクリエーション活動にも実は、異性との触れ合いを求めてやっている人が多いのです。 そうした気持ちは“いい歳してみっともない”ことではなく、とても健康的なのです。“気になるあの人がいるからオシャレしよう”や“あの人と会話できたから一日中ウキウキ”とか、そういうささやかなときめきが、生きる力になるんです。 医学的、生理学的には、「性」とは「生」なのですから、「死ぬまでSEX」を謳歌することは人間的で健康的な行為なのです。関連記事■ 地方の人口減少や都市の高齢者激増等の今後の対策を考える本■ 日本医学界の権威が「死ぬまで現役」本を出した理由■ 高齢者性特集に批判の教授「社会的意義があるのでしょうか」■ 所在確認済みの日本最高齢者は佐賀県在住の113才の女性■ 高額講習受ける高齢ドライバーは交通行政の「カネのなる木」

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    女性介護士に求婚 「交際歴ゼロ」56歳男の暴走

     夏が近づくと、肌を見せるファッションや海辺へ出かけるときのため、むだ毛処理への関心が高くなる。むだ毛の処理は女性だけでなく男性にとっても普通のこととなりつつあるが、今ではさらに幅広い年齢層、高齢男性であっても真剣に取り組む課題のようだ。ライターの森鷹久氏が、50代になって婚活に目覚め美容に関心を払うようになった男の奮闘と、それに振り回される周囲の様子をリポートする。* * * 埼玉県南部にあるデイケア施設に通う清水さん(56歳・仮名)は二年前、職場で作業中に脳梗塞で倒れたが、緊急手術により一命をとりとめた。当初は社会復帰を目指しリハビリに励んでいたが、右半身の麻痺が悪化する一方で、若くして施設に通う事を余儀なくされたという。そんな清水さんには、あるヒミツがあるのだと施設関係者が声を潜める。「ずっと独身のあの人は、女性と付き合った経験がないらしいんです」 施設に入居した頃は、女性職員が声をかけると顔を紅潮させ、しどろもどろで返答するか、聞こえないふりを決め込んで脂汗を流していたほどの純情っぷりで、会話も成り立たないほどだった。当然、女性介護士による食事や排泄の介助も拒絶し、数少ない男性介護士が順番で清水さんの世話をしていたのだというが、30代の女性介護士・Y美さんの献身的な介助が清水さんの心を開かせた。……と、ここで終われば美談だが、現実は明後日の方向へ進んだ。(iStock)「Y美さんは既婚で二児のママさん。とにかく気立てが良く、施設の入居者の誰からも人気でした。清水さんはそんなY美さんから優しくされた事で好意を持ち、ラブレターを出してしまった。ただ、これも珍しいことではない。清水さんの場合は、その先が予想外でした」 女性の優しさに触れ、還暦直前に甘美な“恋愛感情”が芽生えた清水さん。はじめはY美さんにお菓子などのプレゼントを持ってきたりする程度だったが、日が経つにつれ、Y美さんではない介護士が清水さんの介助をしようとすると怒鳴りだし、Y美さんが休みの日は不機嫌になりモノや入居者に当たり散らし、ほとんど手がつけられない状態になっていった。優しいY美さんも、さすがに清水さんを敬遠しつつあったが、決定的な事件が起きる。「Y美さんが毛の濃い清水さんにクスリを塗りながら“毛深いですね”とつぶやいたのですが、翌週には首から下の毛が一本残らず剃り上げられていました。聞けば高齢の母親に手伝ってもらい、全身を除毛したのだと…。その直後にはY美さんのエプロンが無くなる騒ぎがあったのですが、清水さんのバックから発見され、広げると汚されていました」すっかり勘違いした清水さんは… 気味悪がっていたY美さんのよそよそしさを見て、清水さんはこれまでの言動を反省するのではなく、自分に気があるとでも勘違いしたらしい。なんと、Y美さんの前で婚姻届を取り出すと、職員や入居者の前でプロポーズをしてしまったのだ。気丈に振舞っていたY美さんもすっかり参ってしまい、グループ内の別施設に逃げるように異動した。 一方、施設に通い始めた二年前の照れ屋で純情だった面影はすっかり無くなり、今では妙な自信に漲っている清水さんは、今度はいろいろな女性へ向けて婚活に勤しんでいる。「Y美さんの後に“惚れた”女性職員の為に、髪を染めたり眉毛を整えたりしていましたが呆気無くフラれました。すると今度は、新卒の若い事務員女性の気を引こうと、母親の年金で永久脱毛に通っています。女性に介助されていい気分になるのはある程度理解できますが、清水さんの場合は手当たり次第に女性職員にセクハラを仕掛けるようになり、すでに四人が辞めるか、異動しました。“半径50cm以内に近づくと求婚される”と、女性職員は気味悪がって誰も近づきません」 清水さんの奮闘ぶりを滑稽と笑うのは簡単だ。しかし、日本の将来を考えたとき、彼の姿は特殊な例とは言い切れない時代が来るのではないか。たとえば昨年、女性との交際経験がない男性が20代未婚男性で53%にものぼったという調査結果がある(安田生命生活研究所調べ)。いま20代の男性が50代、60代になったとき、現在よりもずっと多くの人が「交際経験なし」になるだろう。異性との交際経験を積んでこなかった高齢者が、介護という仕事を自分への好意と勘違いしてしまう事態が、もっと頻繁に起きると容易に想像できる。“相手は老人”かつ“お客さん”として接するがあまり、清水さんのような婚活暴走老人が生まれてしまったというわけだが、現在でも彼の例は特殊と言い切れるものではない。関係者以外に知られていないだけだ。実際に、介護職員に思いを募らせるあまりラブレターを渡す高齢者は珍しくないし、職員の身体を触るなどのセクハラは日常茶飯事だ。 笑えそうで笑えない、超高齢化社会の我が国で起きている現実。今は取るに足らない小さなこと、特殊な事例だと思うかもしれないが、見過ごしているうちに大きな社会的問題になるだろう。関連記事■ 北近畿タンゴ鉄道アテンダント 仕事は観光客へのおもてなし■ 元鉄人・坂井宏行『アイアンシェフ』挑戦者としての出演に意欲■ 観月ありさ 清水良太郎と滝クリ従兄弟は“仲の良い友人”■ 清水富美加の著書に吉田豪氏「告白本ではなく宗教宣伝本」■ 大阪職員御用達の彫師「私は入れ墨彫った先生何人も知ってる」

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    電通より長時間労働もある医療界 患者の感謝が心の支え

     過重労働が社会問題としてたびたび取り上げられているが、政府が唱える「働き方改革」が、働く人にとって有益なものとなっている気配はない。それどころか、経済界からの意見に押されて、強く規制することをためらう内容になっている。諏訪中央病院名誉院長の鎌田實医師が、これから、どんな働き方を目指すべきなのかについて考察する。* * * 2015年のクリスマス、電通の新入社員だった高橋まつりさん(当時24歳)が女子寮4階から飛び降り自殺した。彼女は、月100時間以上の残業を日常的に行なっていたことが問題となった。 生前のツイッターから過酷な働きぶりがうかがえる。自殺の2か月前には「体が震えるよ……しぬ」、1か月前には「がんばれると思ってたのに予想外に早くつぶれてしまって自己嫌悪だな」などと投稿していた。 東京大学卒の頑張り屋。深夜帰宅が続き、「睡眠時間2時間」という日もあった。高橋さんの自殺は過重労働のためだったと労災認定された。電通は夜10時に消灯し、深夜の残業を防止。しかし、カフェで仕事をしたり、早朝出勤したりするなど長時間労働の実態は変わっていないという指摘もある。 それにしても、1か月100時間以上の残業時間というのは尋常ではない。医療界はもっとひどい。20代の勤務医の労働時間は、平均週55時間。これに、当直や待機の時間が週12時間加わる。これを1か月に換算すると120時間を超える時間外労働をしていることになる。こんな「ブラック」な状況下で、日本の医師は患者さんの命を預かっている。それでも、何とか続けられているのは、医師としての使命感や、自分が成長するプロセスを実感できるからだろう。患者さんが元気になり、「ありがとう」と感謝されることも、心の支えになっている。 諏訪中央病院に医師が集まるのは、地方の中小病院なのに100名の医師がいて、他院より余裕が少しあるためかもしれない。高橋まつりさんのツイッターで長時間労働以上に気になるのは、上司から言われた言葉の数々だ。「君の残業時間の20時間は、会社にとって無駄」「今の業務量でつらいのはキャパがなさ過ぎる」働きすぎるとどうなるか? 新入社員の彼女の仕事ぶりは未熟なことが多かったのかもしれないが、もっと長い目で彼女を見て、仕事の一部でも評価してあげていたら、こんなことにはならなかったのではないだろうか。 いや、すでにそのレベルは超えてしまっているのかもしれない。どんなに優秀な人でも、やる気のある人でも、十分に眠れない、休めない、自分の仕事に意味を見出せないという状況下では、遅かれ早かれ擦り切れてしまう。 イギリスの医学雑誌「ランセット」に一昨年、興味深い研究論文が発表された。脳卒中になったことがない約52万9000人を、平均7.2年経過を追った結果、働く時間が長いほど脳卒中の危険性が高くなることがわかった。週55時間以上働く人は、週35~40時間働く人に比べて、脳卒中のリスクは1.33倍に増える。高血圧や糖尿病、食習慣だけではなく、労働時間も脳卒中を引き起こす要因になっているということだ。 日本の法定労働時間は、原則1日8時間、週40時間と決められている。法定労働時間を超える場合は、36協定で残業時間の上限を「月45時間、年360時間以内」と規定されているが、罰則付きのぎりぎりの特例として「月平均60時間、年720時間」という規定も設けられた。 長時間働くことは、脳卒中やうつ病、過労死など、健康に害を及ぼすリスクがあることを、もっと重く受け止める必要がある。 国をあげて働き方改革が議論されているが、雇用者側に立った「働かせ改革」ではなく、働く人の健康や生き方を大切にするような「生き方改革」を進めていってもらいたい。●かまた・みのる/1948年生まれ。東京医科歯科大学医学部卒業後、長野県の諏訪中央病院に赴任。現在同名誉院長。チェルノブイリの子供たちや福島原発事故被災者たちへの医療支援などにも取り組んでいる。近著に、『遊行を生きる』『検査なんか嫌いだ』関連記事■ 音楽家が原発労働者を訪ね歩いて知られざる現実を記したルポ■ 福島原発作業員 平均約12時間拘束で日当は2~4万円■ 高齢化が進み生活保護受給者が増えたドヤ街の現状を描いた本■ 戦時徴用は強制労働は嘘 1000名の募集に7000人殺到していた■ 44の職業に就く女性の給与明細・残業時間・長短を紹介した書

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    「電通ブラック批判」急先鋒の朝日新聞がブーメランで沈黙

     大手広告代理店・電通の女性新入社員が過重労働で自殺した問題は、2016年9月に労災が認定され、11月には厚生労働省が家宅捜索に入るという事態となった。これまで広告代理店の不祥事には及び腰と言われた大手メディアも一斉にこれを取り上げたが、中でも急先鋒となったのが朝日新聞だった。 「朝日は労働問題には定評がある。とくに今回は亡くなった女性が学生時代に『週刊朝日』でアルバイトをしていたこともあり、深く追及した」(朝日関係者) 10月12日付の「社説」では〈形式的で不十分な労働時間の把握、残業は当然という職場の空気……。企業体質の抜本的な改善が必要だろう〉と厳しく指摘。家宅捜索のあった翌日の11月8日朝刊は、1面トップ、天声人語、さらに2面でも図表入りで解説する力の入れようだった。 ところが、である。その1か月後の12月6日、朝日新聞東京本社が社員に長時間労働をさせていたとして、中央労働基準監督署(労基署)から是正勧告を受けたのである。 財務部門の20代男性社員が2016年3月、法で定められた残業時間を4時間20分超過していたと労基署は指摘。編集部門の管理職が部下の申告した出退勤時間を短く改ざんしていたことも判明した。さらに12月15日、社内調査の結果、他にも5人の社員が労使協定の上限を超える残業をしていたことが分かったと発表した。 紙面で労働問題を意欲的に取り上げている最中という“ブーメラン”だが、この最も身近な労働問題に関する報道は切れ味が鈍かった。朝日がまさかの「特オチ」 是正勧告についてはインターネットメディア『バズフィードジャパン』を始め、毎日、産経、日経などが相次いで報じたが、真っ先に情報を入手していたはずの朝日新聞はまさかの“特オチ”。各メディアの報道が出た翌日になってから「労基署、本社に是正勧告」とわずか240文字の小さなベタ記事を載せただけだった。 その後も、電通事件については14日に「過労死の四半世紀」と題した記事をオピニオン欄を全面使って展開している一方で、その翌日に発表した追加の社内調査結果については、またしても小さなベタ記事なのである。 この落差には朝日社内でも疑問の声があがった。本誌が入手した朝日労組が実施した組合員アンケートの回答には、〈電通以上のブラック企業だ〉〈電通問題を胸を張って追及できなくなった〉〈本来であれば会社が率先して外部公表する内容の事案だ〉といった辛辣な言葉が並んでいる。 朝日は報道が遅れたことについて、「是正勧告について社内で検討し、10日付朝刊の掲載に至りました」(広報部)とした上で、「弊社は現在、ワーク・ライフ・バランスの推進を重要な経営課題として掲げ、時短に取り組んでおり、今回、長時間労働について是正勧告を受けたことを重く受け止めています。再発防止に努めるとともに、引き続き、時短を一層推進していきます」(同前)と回答した。 これを“天ツバ”と言う。関連記事■ ABCマートを送検した労働Gメン ブラック企業の摘発は進むか■ AIの発達によって日本でもBIが必要になるのか■ ヤマト運輸役員「サービス残業の黙認は会社にとってリスク」■ ブラック企業、非正規雇用等 労働問題をエヴァから語る本■ “派遣の規制” 審議したのは現場の声代弁せぬ経営者や学者ら

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    大山のぶ代さん「認知症介護」が教えてくれた3つのリスク

    古川雅子(ジャーナリスト) 「妻より先に死ぬわけにはいかない」。そう言い続けていた、俳優の砂川啓介さんが7月11日、入院先の病院で天国に旅立った。80歳だった。 妻はアニメ「ドラえもん」でドラえもんの声などを務めた女優の大山のぶ代さん。砂川さんは妻の認知症を公表し、献身的に介護を続けてきた。2008年に大山さんが脳梗塞で倒れてから10年弱。さらには12年秋、アルツハイマー型認知症と診断されてから5年。自宅介護で重ねてきた時間は、実に長い。大山のぶ代、砂川啓介さん夫妻(2007年6月撮影) 6月に厚労省が発表した国民生活基礎調査によれば、介護をする人とされる人が同居する世帯のうち、介護を受ける側も担う側もともに65歳以上の「老老介護」世帯の割合が過去最高の54%に達した。75歳以上同士の「超老老介護」世帯も30・2%と、初めて3割を超えた。砂川さんと大山さん夫婦は、まさにこの「超老老介護」世帯であった。 介護をする側である砂川さん自身も、13年には胃がんの摘出手術を受け、その他にも帯状疱疹(ほうしん)、肺気腫とさまざまな病気を患っていた。介護によるストレスも関係があると、医師からは指摘されていたという。70歳を超えてからの砂川さんは、自らの老いを突きつけられながらも妻の介護に明け暮れる日々だった。だからこそ、砂川さんは「老老介護」を自認していた。自著の『娘になった妻へ 大山のぶ代「認知症」介護日記』には、こんな記述がある。〈介護をする側の僕の体調だって万全じゃない。それなのに、介護をする側は、「頑張らなきゃ」「自分がなんとかしなきゃ」と、背負いこんでしまう〉 マスコミは、昨年4月に砂川さんに尿管がんが発覚して共倒れにならぬよう妻を介護施設に入居させたことを「おしどり夫婦を襲った老老介護の悲劇」として伝えていた。80近い齢(よわい)を重ねた男性が愛妻のために自宅介護を続けてきた「美談」と、介護する側が先に倒れるかもしれぬ「悲劇」の予感とが合わさり、そこに「老老介護」というわかりやすいラベルを貼ってニュースが大量生産されて…。そんな構図が垣間見えた。3つの「置き忘れの視点」 しかし、それだけでは「老老介護」の本質は見えてこない。私は一連の砂川・大山夫婦をめぐるマスコミ報道では、3つの「置き忘れの視点」があったと考える。 1つ目は、介護を担っていた側が相手をみとった後の「孤立のリスク」だ。老老介護とはいえ、少なくとも介護を担う側は健常であり、介護される側が遺(のこ)されるよりは何とかなるという思い込みがある。しかし、当初の砂川さんがそうであったように、他人を家に入れて介護サービスを受けるのが苦手、SOSを出すのも苦手な世代でもある。在宅介護を長年続け、まわりとの交流が途絶えた介護世帯が最も陥りやすいのは、孤立である。(iStock) 砂川さんの介護体験で最も学ぶべきだと私が感じたのは、自宅で介護を続けた美談よりもむしろ、妻の認知症を公表し、徐々に人に頼るということを受け入れていった「開く介護」にシフトしていった切り替えスイッチの見事さだった。著名人ゆえに当初は認知症を公表することにも躊躇(ちゅうちょ)していた砂川さんだが、公表してから途絶えていた友人との交流が戻り、支え手は自分だけでないことを知った。それまでは、〈一日中二人きりで家にいると、日によっては、どうしてもいら立ちを抑えられないことがある〉(『娘になった妻へ』より)という状態だったのが、公表してからは激励の電話、砂川さんが好きだった焼酎「百年の孤独」の差し入れ、電話をかけてきた友人などアクセスがどっと増えたという。砂川さんはそれから介護をするにも余裕が生まれ、〈一番変化したのは僕自身〉と著書にも記している。マネジャーや身の回りの世話をするお手伝いの女性にも頼ることが増えていった過程もしっかりと記録していた。仮に、砂川さんが介護をやり遂げ、妻を見送った側になったとしても、おそらくつないできたネットワークの力により孤立を回避しながら喪の時を過ごすことができただろうと想像する。 2つ目は、介護されていた側が遺された場合、その介護を引き継ぐ人との新たな介護関係が孕(はら)むリスクだ。砂川・大山夫婦には、死産など悲しい歴史があり残念ながら子供がいなかったわけだが、核家族で遠方に子供がいる夫婦の場合、老老介護で持ちこたえていた夫(妻)の一方がいなくなり、取り残された「介護をされる側」の引き取り先が子の世帯ということもある。子の側は親と暮らすこと自体に慣れておらず、介護にも不慣れ。その上、晩婚化でまだまだ子育て中というケースもある。介護と子育てとの板挟みで悩む、いわゆる「ダブルケア」状態である。連れ合いの衰えを見抜くのは難しい いきなりダブルケアに突入して混乱する現役世代側のリスクを回避するためには、遠距離で多少コストがかかったとしても、普段からなるべく親元に通って親とのコミュニケーションを増やし、親の生活習慣に目を向ける。他の支え手になりそうな親の交友関係を把握しておく。いずれ親を引き取ることも想定して脳内でシミュレーションをしておく。そんな準備期間を過ごしてきたかどうかが、いざというときに対処できるかどうかの分かれ目になるだろう。 老老介護における3つ目の置き忘れの視点は、本来は介護や手だてが必要なのにそれがなされていないという「見逃しのリスク」だ。老老介護といっても、砂川さんは身体がヨロヨロしてからも、人の手を借りてでも大山さんをしっかりフォローしていた。それは妻が認知症を発症しているという事実を認識していたからこそ。だが、夫婦の一方が認知症などで明らかに判断力が低下していたとして、見張り役の側がその異変に気づいていなかったらどうだろうか。 私が取材した40代の男性は老齢の親夫婦が九州で暮らしていた。現役世代の「子」である男性は東京で所帯を持ち働いている。久しぶりに親元に帰ったとき、80代の父親の運転する車に同乗して「これは危険だ」とそこで初めて親の老いに直面し、時間をかけて運転をやめさせるよう説得したという。一緒に暮らしている母親では日々の暮らしの延長線上にあるため、連れ合いの衰えを見抜くのは難しいのだと感じたという。 砂川さんのように、長年連れ添い自宅介護に難儀する「老老」の側面は確かに悲劇かもしれないが、家族の誰かがいきなり事故を引き起こして「老老」の現実を突きつけられるなら、惨劇である。それではあまりにも遅すぎる。(iStock) 「老老介護」の真の課題は、連れ添う夫婦の美談や介護地獄という悲劇性に涙するところで立ち止まっていては見えてこない。いかに目を背けずに、齢を重ねた者同士が支え合う世帯ならではの孤立、疎遠、無関心といった現実に向き合えるか。事前に対処できるか。それこそが「超老老介護」時代を迎える私たちが忘れてはならない大事な視点なのだと思う。

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    「老老介護」を切り捨てる国、ニッポンの悪夢

    中村淳彦(ノンフィクションライター) 日本は約4人に1人が65歳以上の高齢者であり、2035年には3人に1人になると推測されている。超高齢社会に激増する介護対策として2000年に介護保険制度が始まり、シニアビジネスへの注目が高まるようになって久しい。しかし、「介護」に焦点を当てると、どうもこれからの超高齢社会はお先真っ暗である。 介護保険制度をきっかけに、民間の力を借りて明るい超高齢社会を目指したが、それをあざ笑うかのように、また介護施設で大事件が起こった。岐阜県高山市の介護老人保健施設「それいゆ」では、7月末から8月中旬のわずか半月で、入居する高齢者3人が相次いで死亡、2人がけがをして入院する事態となった。岐阜県高山市の介護老人保健施設「それいゆ」= 8月18日 亡くなった高齢者3人の死因は、のどに食べ物を詰まらせる窒息死のほか、自室で頭を打ったことによる脳挫傷と頭蓋骨骨折、肋骨(ろっこつ)骨折で折れた骨が刺さり肺に血がたまる外傷性血気胸だった。事故か殺人か判然としない中、警察の捜査が続いている。 およそ半月の間で5人もの死傷者が出たのは異常な事態だが、筆者周辺の介護関係者や介護の現状に詳しい人たちは、こうした凄惨(せいさん)な事態に驚いていない。多くは「これから、こんなことばかりだろうね。高齢者はどんどん殺されるよ」と、もはや投げやりだ。 他にも、2014年に東京都北区の高齢者向け賃貸住宅で起きた入居者の80%が身体拘束される虐待事件、2015年の川崎老人ホーム連続転落死事件、さらに2016年の相模原障害者殺傷事件と、介護施設で世間を揺るがせる事件が相次いで起こり、老老介護の末に夫や妻を殺害する悲痛な事件も後を絶たない。 こうした事態の背景にあるのは、現在の介護現場で起きている異常な人手不足だ。無条件に人材採用するため、続々と専門性がない人が介護現場に投入されるといった「質の低下」を招き、それがさまざまな事件や事故の根底にあると言わざるを得ない。介護職は失業者のセーフティーネットに 本来、介護現場の人材不足は慢性的だったが、「募集をしても誰も来ない」という厳しい状況になったのは、第2次安倍内閣の発足以降だ。求人倍率が上昇して求職者が仕事を選択できるようになり、介護職の希望者は激減した。さらに2000年後半の世界不況以降、国の失業者対策で介護は雇用政策に利用されるようになり、介護福祉士の専門学校は入学定員の半分を割るという絶望的な状態になった。多くの報道陣が集まる「津久井やまゆり園」=2016年7月27日、相模原市(古厩正樹撮影) いわば介護は専門職ではなく、失業者のセーフティーネットという状況が続いている。実際、多くの介護施設では介護の「か」の字も知らない人物が介護職としてサービス提供する現実があり、本来は高齢者の命を預かる仕事だったはずだが、職員の質の低下は底なしとなっている。今回のように死をともなう事故、事件が起こることは、もはや関係者の多くが予想していた事態だった。 介護業界としては数々の凄惨(せいさん)な事故、事件に対する改善はなにもされていない。改善どころか、外国人技能実習制度で外国人介護職の大量受け入れることが決まり、刑務所出所者への就労支援で介護を重点分野にする事業が行われるなど、混乱にくさびを打つような人材確保の対策が、続々と繰り広げられている。 多くの事件や事故が象徴しているように、介護人材の質の低下は目を覆うレベルで、明らかに限界まで達している。そんな深刻な状況下で、地域では介護が必要な高齢者を65歳以上が介護する「老老介護」が拡大しているのだ。 総務省国民生活調査(2013年)によると、自宅で暮らす要介護者と主な介護者が65歳以上の世帯の割合は51.2%、介護者と要介護者が75歳以上「超老老介護」の世帯の割合は29%と、在宅介護者の半数以上が老老介護だ。65歳以上の介護者が夫や妻、親の介護をする老老介護は、介護者自身の体力が低下する中で体力的、精神的な負担は大きい。 介護者は自宅に閉じこもりがちとなり、大きなストレスを抱える。要介護者が認知症ならば徘徊(はいかい)などの問題行動が次々と起こり、介護者はどんなに疲れていようと常に目が離せない。要介護認定の理由で、最も多いのは認知症だ。介護者のストレスが大きく、ストレスや加齢から介護者自身も認知症になってしまったりする。要介護者、介護者の両者が認知症を患う認認介護は、現在大きな問題となっている。介護保険制度がどんどん悪くなる 老老介護を超えた認認介護だけでなく、認知症高齢者の単身暮らしも難しい。自立した普通の生活は、まず送れない。見守る人が必要であり、第三者がいち早く気づき、介護保険制度や地域の社会資源につなげ、誰かに助けてもらいながらなんとか生活していくしかない。しかし、苦しむ高齢者や家族にとって、最後のセーフティーネットといえる介護保険制度も、2015年4月からせきを切ったように制度改悪が進行している。 そもそも介護保険制度は3年に1度、改正される。「改悪」の例を挙げていくと、2015年の見直しで、利用者の自己負担金額が一律1割だったものが、一定以上の所得者に関しては2割に引き上げられた。高齢者が支払う金額は一瞬で2倍となった。月の自己負担金額の上限を定める「高額介護サービス費」も3万7200円から4万4400円に引き上げられ、地域のセーフティーネットとして機能する特養老人ホームには、要介護3以上の重症者しか入居できなくなった。 そして、軽度高齢者の切り捨てを目的とした自治体による地域総合事業も始まっている。地域総合事業は要支援1、2という軽度高齢者を制度から切り離し、自治体がそれぞれ支援するという社会保障費削減を目的にした苦しい施策である。 また、来年度の改正では、要介護者の介護度を改善させた自治体に財政支援する財政インセンティブの導入が決まっている。要介護高齢者が少ないほど評価される驚きの内容で、来年度からは要介護認定が厳格になる。地域によっては必要な要介護認定がされなくなり、介護保険制度は圧倒的に使いにくくなる。介護保険制度スタート。特別養護老人ホーム「デイサービス」でヘルパーらと談笑しながら食事をとるお年寄り=2000年4月1日 さらに現役世代並みの収入がある利用者の自己負担は、2割から3割にアップする。介護事業者に支払われる介護報酬も、業種によっては大幅に下がる。説明した通り、介護現場は圧倒的な負の連鎖の渦中、本格崩壊の瀬戸際にあるが、絶対に必要と現場から声が上がり続ける介護職の処遇改善どころか、さらに賃金は低下して人材獲得は困難になり、離職に拍車がかかる。異常な人手不足の中で、賃金が下がるという前代未聞の事態となるのだ。 財政難の国は、見境なく本格的な介護保険制度縮小にかじを切っている。介護保険制度はまだまだ改正を繰り返し、最終的には要介護1、2まで制度から切り離し、自己負担は収入に関係なく一律3割、現役世代の負担はさらに上昇して、高額介護サービス費もまだまだ上がるといわれている。制度から切り捨てられた高齢者の行く末 そして介護で最も手がかかるのは、実は徘徊する層だ。要介護1、2の歩行ができる認知症高齢者である。これまで続いた1割負担の時代は、軽度認知症高齢者は介護者と在宅で過ごしながらデイサービス、ショートステイなどを併用し、なんとか介護者の負担を低減しながら乗り切ってきた。 しかし、利用料を2倍、3倍と跳ね上がらせることによって、多くの中間層の高齢者は介護サービスを使えなくなる。高額な介護保険を使うのは富裕層、もしくは自己負担を公費で賄ってくれる生活保護者が中心となる。老老介護、認認介護に苦しむ多くの世帯は、高額な介護保険を使えない。制度改悪によって、必然的に老老介護、認認介護の世帯は激増することになる。 では、こうした老老介護、認認介護世帯が制度から切り捨てられることで、なにが起こるのか。入居者を介護する職員=8月29日、東京都(納冨康撮影) 認知症高齢者は住み慣れた地域でも、自宅から1歩外に出れば、道がわからない。自宅に戻ることができない。自宅を探して徘徊し、青信号、赤信号の判断もできない。赤信号を平気で渡る。主要道路の赤信号を横断したら、普通に車にひかれるだろう。 また、沿線の線路をひたすら歩くことも考えられる。都市部には踏切のある沿線が多く、認知症高齢者が自宅を求めて線路内を歩く風景が日常になれば、鉄道事故も増える可能性がある。 歩行だけでなく、認知症高齢者には、車で徘徊する人もいる。免許を返納させても、そんなことは覚えていない。信号無視の暴走、高速道路の逆走、アクセルとブレーキを踏み間違えることが相次ぐようになる。子供の集団登校に車が突っ込むような悪夢も、頻繁に起きかねない。 まして認認介護になれば、夫や妻が徘徊していなくなっても近隣に助けを求められないし、警察に通報ができない。自宅からいなくなっても、多くは捜索願すら出ない。高齢者は体が弱いだけに、地域や季節によっては、一晩で凍え死ぬことも起こりうる。 ゆえに、現在着々と進む介護制度の縮小、いわば利用料を上昇させて高齢者になるべく制度を使わせないようにする改悪は、すぐに国民全員に跳ね返ってくるおそろしいことなのだ。

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    「老老介護」とどう向き合う

    厚生労働省によると、介護が必要な65歳以上の高齢者を65歳以上の人が介護する「老老介護」の世帯の割合が過去最高の54・7%に達した。核家族化と超高齢社会が進行し、「大介護時代」に突入したニッポン。私たちはこの現実とどう向き合うべきか。

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    だんなDEATH NOTE 運営者・死神さんに開設理由聞いた

    「今すぐ死ね」「地獄に落ちればいいのに」…。名前を書かれた人は死に至るという、マンガ『DEATH NOTE』に登場した「デスノート」を模した投稿サイト「だんなDEATH NOTE」。そのあまりの闇っぷりが話題になっている。書き込むのは夫に死んでほしい妻たち。夫に対する嫌悪と殺意に満ちた過激な内容に反発し、ついにはラブラブ夫婦の書き込みサイトまで登場する騒ぎに。夫へ死んで欲しいという願いを書くホームページ「だんなデスノート」のトップページ「6月末に“オフ会をやる”ということが周知され、『旦那を殺す相談か。何を考えてんだ!』と非難轟々、アクセス数が急上昇したんです」 サイト運営者の“死神”さんは、30代半ばの独身男性だ。「現在、サイトに登録している会員は約1万人。投稿を含む1日のアクセス数は5万ほどです。投稿に対するコメントは、誹謗中傷やネガティブな内容のものについては、ぼくが全部削除しています」 子供の頃、母から父の悪口を聞かされて育ったトラウマとホスト勤務の経験から妻向けサイトを立ち上げたという。「女性って、悩みを相談するときに、実は解決策も共感も求めていないんですよね。話を黙って聞いてくれるだけでよかったりする。投稿で、少しでも吐き出してもらえれば…と。嫌悪の裏には、夫へのねじれた愛情もある気もしますけれどね」(死神さん) 「今の時代、このようなサイトが流行るのはよくわかる」と言うのは、心理学者で『どうしても「許せない」人』(ベストセラーズ刊)などの著書がある加藤諦三さんだ。「投稿をしている人には2タイプあると思います。1つは本気で死んでしまえと思っている人、もう1つは、夫への敵意に依存心が潜んでいるケースです。つまり、殺してやりたいほど憎いのだけれど、本当に死んでもらっては困る。悩む人にとって最大の救いは“悩み続けること”ですから、投稿することで少し溜飲が下がる。しかし、『私はこの問題を解決できない』という無力感は深刻化する。 それを夫のせいにして憎しみで蓋をする。人間の心理的成長とは、問題解決能力の成長です。まず、自分と向き合うこと。問題解決に向けて一歩踏み出す勇気を持たない限り、幸せにはなれません」(加藤さん)関連記事■ 中国の豚骨スープと喫煙に関するあまりにもひどいジョーク■ 米で人気の素人カップル動画投稿サイト 登録・投稿は5ドル■ 作家デビューの近道か 『ビリギャル』産んだ自伝投稿サイト■ 内職系仕事 ツイッター1クリック1円~動画投稿1万回千円~■ 「素人H写真投稿は平和だがAVはある意味残酷」と杉作J太郎

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    厳罰化でニッポンは「性犯罪大国」になる

    性犯罪を厳罰化した改正刑法が施行された。明治40年の刑法制定以来となる大幅な見直しで、被害者の告訴を必要とする「親告罪」規定の撤廃が改正の柱だ。被害者の精神的負担が大きく、事件化は氷山の一角とも言われる。潜在化した性暴力の立件が増えれば、ニッポンは間違いなく「性犯罪大国」になる。

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    「なぜ抵抗しないのか」改正後も性犯罪被害者を苦しめる立件の壁

    上谷さくら(弁護士) 先日の国会で、性犯罪に関する刑法が一部改正され、7月13日に施行された。明治40年の刑法制定以来、法律の不備についてさまざまな指摘がなされていたが、110年たってようやく被害の実態に近づく法律になった。報道などでは一般的に「性犯罪の厳罰化」と言われることが多いが、従前の法律が被害の実態に則しておらず、軽すぎただけであるから、今回の改正は「厳罰化」ではなく、「適正化」と評価すべきである。まだまだ不十分な点は多々あるが、まずは改正されたことを素直に喜びたい。刑法改正を受けて会見する「性暴力と刑法を考える当事者の会」の山本潤代表(前列中央)ら=6月16日、東京都千代田区の参議院議員会館(桐原正道撮影) これまで多くの性犯罪被害者の相談を手掛けてきたが、刑法上、被害者を苦しめてきた問題点は大きく分けて3つあったと考えている。1つ目は、強制わいせつ罪や強姦(ごうかん)罪は、被害者が告訴しなければならない親告罪であったこと。2つ目は、刑の下限が低すぎて執行猶予判決が多かったこと。3つめは、暴行・脅迫要件のハードルが高すぎて、立件されない事件が多すぎたことである。 まず、1つ目であるが、親告罪であること自体、被害者に二次被害を与えていた。被害者は、警察に相談に行くことだけでも相当な勇気を振り絞っている。そして、警察に行きさえすれば、後は警察が捜査してくれて犯人は逮捕され、裁判になると信じている。しかし、警察や検察で「事件にするかどうか自分で決めて」と言われてしまう。このことは、被害者にとって苦痛以外の何者でもない。そこで、加害者からの逆恨みを恐れ、告訴を断念した被害者も多い。 また、ほとんどの刑事弁護人が被害者に対し、「告訴を取り下げるなら被害弁償を支払う」と持ち掛けるし、「告訴を取り下げないなら、被害弁償はしない」とか「今ならそれなりの金額を支払うけど、起訴されたら金額は下がる」などという交渉をする。すると、被害に遭って心身ともに疲弊し、仕事やアルバイトができなくなって経済的に困窮した被害者は、泣く泣く告訴を取り下げて示談金を受け取るしかなかった。本来であれば、罪を犯した者は刑事責任を負い、損害賠償という民事上の責任を負うのが当然である。ところが、強姦罪などは親告罪であったがために、被害者は刑事か民事かという二者択一を迫られ、それ自体が二次被害となり、被害回復に多大な悪影響を及ぼしていた。 しかし、今回の改正によって非親告罪となったことから、被害者の負担はかなり軽減されると思われる。今までの刑罰は軽すぎた 2つ目の問題は、強姦罪の下限が懲役3年であり、強制わいせつ罪の下限が懲役6月であるなど、法定刑の下限が極めて低かったことである。これまで、強姦罪は強盗罪とよく比較され、暴行・脅迫により犯行を抑圧され財物を奪う強盗と、性的自由を奪われる強姦とで、なぜ強姦の方が刑が軽いのかなどと批判されてきた。 また、法定刑の下限が低いことから、検察官の求刑も低めであり、そのために執行猶予付き判決が出やすかったという現実もあった。特に、肛門性交や口腔性交などの悪質な犯行態様でも、これまでは強制わいせつ罪にしかならなかったことから、法定刑の下限は6カ月であり、前科がない場合はほぼ執行猶予判決になるという極めて理不尽な結果に終わっていた。性犯罪被害に遭うと、被害者は学校や会社に行けなくなってやめてしまったり、異性と交際できなくなり結婚を諦めたりする人が多く、被害結果は極めて重大である。それにもかかわらず、被告人が執行猶予判決を受けることは、被害者にとっては無罪放免に他ならない。そのことが司法に対する不信感となり、被害回復を阻害していた。 しかし、今回の改正により、強制わいせつ罪でしか処罰されなかった肛門性交や口腔性交が従来の強姦罪と同様の強制性交等罪とされ、刑の下限が懲役5年に引き上げられたことで、強制性交等罪では基本的に実刑となることから被害者救済に資するようになる。また、性犯罪を犯すと刑務所行き、ということが国民意識として定着すれば、抑止力も期待できる。 3つ目の問題点は、「暴行・脅迫」要件のハードルが極めて高いことである。被害者が問題としているさまざまな論点の中で、おそらく最も問題視されている点であるのに、今回の改正から外れたことは極めて遺憾である。 強姦罪・強制わいせつ罪などの「暴行又は脅迫を用いて」は、「被害者の反抗を著しく困難ならしめる程度」であることが必要というのが判例である。そのため、検察官が不起訴にする事件は非常に多く、検察官が相当絞って起訴しているのに無罪判決が出ることも少なくない。 この「暴行・脅迫」要件は、加害者側の「合意があったと思った」との弁解とも関連する。具体的な事例を紹介すると、まず被害者が行きずりの被害に遭った場合、加害者が被害者に殴る蹴るの暴行を加えたり、刃物を突き付けたりすれば、「暴行・脅迫」は認められやすいが、そこまでいかないケースが圧倒的に多い。現実問題として抵抗できない 例えば、人気のない夜道でいきなり声をかけられたり腕をつかまれたりすると、普通の女の子は驚きと恐怖で固まり、声も出ない。よほど訓練を受けた人か、日ごろからイメージトレーニングをしている人でない限り、逃げたり抵抗したりできない。まさに「反抗を著しく困難にされた状態」である。しかし、取調べや裁判では、「なぜ大声を出さなかったのか」「通りかかった人がいたのに助けを求めなかったのか」などと聞かれ、それをもって合意の証であると言い張る加害者もたくさんいる。 しかし、そのような目に遭った人が誰かに助けを求めることはまず不可能である。仮に助けを求めたとして、その人が助けてくれる保証はない。特に都会では、面倒なことに巻き込まれたくないと思い、その場を立ち去る人が多いのではないか。また、助けを求めたけど、その人に聞こえなかった場合、加害者が激昂して殺されるかもしれない、という恐怖心を抱くのは当然である。相手は行きずりで強姦してくるような人間なのだから。 さらに、被害者は服を脱がされていたりするから、恥ずかしくて助けを求めることができないということもある。それをもって助けを求められるのに黙っていた、だから加害者が合意と思っても仕方ない、よって立件できないなどというケースが非常に多い。これはあまりにも被害者の置かれた立場を顧みない残酷な実情である。 また、夜の時間帯だと、お酒が入っていることも多いので判断力が鈍っており、何が起こったのか分からずにあぜんとしていたら服を脱がされ、抵抗しようにも力が入らなかった。泥酔ではなく意識はあるので、準強姦罪にもならないといったケースも多い。 次に、被害者と加害者が顔見知りだった場合は、立件のハードルはより高くなる。特に難しいのは、上司と部下、先輩と後輩のようなそもそも被害者と加害者の立場が上下関係にあるような場合である。日ごろからパワハラを受けている上司から、仕事の話があると言って呼び出されると、被害者は上司が怖いので、その時点で萎縮している。仕事を失いたくないので上司に迎合せざるを得ない面もある。一度誘いを断ったら、翌日から仕事で嫌がらせを受け、職場にいられなくなったという人もいる。家計が苦しいため、絶対に仕事は辞められないと思い、泣く泣く上司からの求めに応じ続けていたという女性もいた。被害者が救われない現実 このような立場の女性は上司から仕事名目で呼び出され、2人きりになることを余儀なくされて迫られると、応じなければクビになると考える。その場面の写真や動画を取られていれば、「逆らえばネットにばらまかれるかもしれない」とおびえる。そのことが犯行を著しく困難にされた状態といえる。しかし、性体験がある大人の女性の場合、性行為を強要されると、「早く終わってほしい」という強い気持ちから、加害者が早く射精するように協力したり、せめて妊娠だけは避けたいと思って「避妊してほしい」と頼んだりする。それをもって合意と主張されてしまうことも多いが、合意ではなく、最悪の結果を避けるための苦肉に過ぎない。学校や部活の先輩・後輩の関係にある場合も、同じようなことが起きやすい。  以上のようなケースが何の罪にも問われないのは極めて理不尽である。したがって、被害の実情に即し、暴行・脅迫要件を緩和するとか、現在の強制性交等罪よりも暴行・脅迫の程度が弱い罪を創設することが必要である。そうしなければ、性的被害に遭っている多くの人々は全く救われない。この点は、性犯罪被害に関するさまざまな団体・個人から強い要望が出ていたにもかかわらず、先日の国会ではほとんど議論もされずに終わってしまった。今回の法改正で、最も残念な点である。 次に、今回議論の俎上に上らなかったが、性犯罪に関し、緊急に解決すべき課題について述べる。 まず、盗撮規制が必要である。現在、盗撮は各都道府県条例の迷惑防止条例で一定の規制があるに過ぎないことから、次のような問題が生じている。 今や性犯罪と盗撮はセットであるといっても過言ではなく、性犯罪の場面を動画や写メで撮られていることが非常に多い。被害者にとっては性犯罪に遭ったこと自体の被害はもちろん、その写真や動画があることに著しい不安を抱く。警察が画像を削除しても、他にコピーがあるのではないか、既に知らないサイトに流れているのではないかなど、一生不安を抱き続けることになる。その不安が解消されない被害者は、別人になろうとして、髪形や髪の色を変えたり、これまでとは違うファッションをしたりする。これでは自分らしく生きることはできない。つまり、盗撮は直接性的自由を奪う犯罪よりもダメージが大きいともいえる。ネットに流される恐怖 例えば、オイルマッサージ店を経営する男が複数の女性客に対して次々と強姦罪などを犯し、5件が起訴された事件がある。この男は犯行状況をビデオで撮影しており、検察側が任意提出するように促しても拒否した。そこで、裁判所が提出命令を出し、最高裁まで争ってようやく原本が没収された。また、刑事事件でも、ビデオ原本を没収する判決が言い渡されたが、これを被告人は争い、現在もまだ確定していない。 この事件は、性犯罪行為の撮影自体を禁止する法律がないことから生じた不都合である。提出命令や没収判決で対応できるが、あまりにも時間がかかり過ぎる。被害者はそうする間にも、ネットに流されるのではないか、という恐怖心にさいなまれ、刑事事件が終わっても気持ちが安らぐことがない。 また、都道府県条例に盗撮規制があるが、「公共の乗り物、場所」での盗撮しか規制されない条例も多く、私的領域の他、駅のトイレや会社の更衣室の着替えの盗撮などが野放しになっている例が多い。例えば、会社内のトイレの盗撮の場合、条例で規制できないと建造物侵入罪の成否のみ問題となる。建造物侵入罪の被害者は建物の管理者だから、盗撮された人は被害者にもなれないのである。 そもそも都道府県条例は、市民生活の平穏を守るという風紀を保つ観点から定められたものであり、個人の性的自由を守るものではない。誰もがスマートフォンを持つ時代になり、SNSが発達した現代では、盗撮は容易である一方、インターネットに流れると被害回復はほぼ絶望的である。 以上のように、盗撮行為自体を犯罪とする法律の制定が急務といえる。 次に、性犯罪の起訴状に被害者の名前を載せていいのかという問題がある。刑事訴訟法には、起訴状にはできる限り罪となるべき事実を特定しなければならない旨記載されている。しかし、被害者の名前が必要とは書かれていないことから、起訴状で被害者の匿名が認められた時期もあった。しかし、平成28年6月、強制わいせつ致傷罪の被害者が匿名とされた起訴状について、「実名を記載することで具体的な支障は生じない」として、訴訟手続に法令違反があったと断じた判決が出た後は、起訴状の匿名はほとんど認められなくなったようである。 特に通りすがりの犯行の場合、加害者は被害者の名前を知らないことが多い。被害者は加害者に刑務所に行ってほしいと願うが、自分の名前は絶対知られたくないのが当然である。名前が分かれば、今はFacebookなどで、どこに住んでいるか、結婚しているのか、子どもがいるのかなどの個人情報が簡単に分かる。被害者はSNSをやめろ、というのは時代に即さない。もともと加害者は被害者の名前を知らないのに、司法が被害者の名前を犯人に教えるようなことは許されないはずである。起訴状の匿名は条文に反しないのだから、原則として匿名にする運用を徹底するか、明文化するのか真剣に検討すべきである。

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    「性犯罪の中でも小児性愛は別格である」私が見た依存症治療の現実

    斉藤章佳(精神保健福祉士・社会福祉士) 「性犯罪の中でも、小児性犯罪は別格である」 これは、以前担当していたある小児性犯罪者の言葉である。「その常習性と衝動性は他の性倒錯の群を抜いている。好みの子どもを見ると、まるでそれに吸い込まれるように近づいてしまうんだ」。その言葉を一度だって忘れたことはない。だから、筆者は児童への性犯罪を小児性愛と言わずに「小児性犯罪」と明確に呼ぶことにしている。小児性愛というと、どこか子どもを愛しているが故の犯行というニュアンスが強く、以前から違和感を持っていた。合意の有無にかかわらず児童への性的接触や侵入は、愛情ではなく性暴力なのである。リンさんの遺体が見つかった遺棄現場で手を合わせる人 =4月2日、我孫子市北新田(林修太郎撮影) 2017/04 今年3月、千葉県我孫子市で小学3年生のレェ・ティ・ニャット・リンさん(以下、リンさん)が何者かに殺害された。その後、リンさんが通学していた小学校で保護者会会長をしていた男性が逮捕された。 私も含め、多くの人がこの類の事件の報道を耳にすると、2004年11月にあった奈良小1女児殺害事件を思い出す。実は、この奈良の事件をきっかけに2006年からわが国では初めて矯正施設や保護観察所で「性犯罪者処遇プログラム」が始まった。これと同時期に、榎本クリニック(以下、当院)でも社会内処遇の枠組みで、民間医療機関では日本で初めて「性犯罪者の地域トリートメント」に関する取り組みが始まった。そして時は流れ、現在明治時代から110年ぶりに性犯罪に関する刑法が改正される矢先、リンさんの痛ましい事件は発生した。 リンさんの事件に関しては、推定無罪の原則から刑が確定していない現段階で断定的なことは言えない。ちなみに国際的な診断ガイドラインであるDSM-Ⅴ(精神疾患の分類と診断の手引き)では、児童に対する小児性犯罪を「小児性愛障害」と呼んでいる。以下、診断基準を簡単に紹介する。【小児性愛障害(Pedophilic Disorder)】A 少なくとも6カ月にわたり、思春期前の子どもまたは複数の子ども(通常13歳以下)との性行為に関する強烈な性的に興奮する空想、性的衝動、または行動が反復する。B これらの性的衝動を実行に移したことがある、またはその性的衝動や空想のために著しい苦痛、または対人関係上の困難を引き起こしている。C その人は少なくとも16歳で、基準Aに該当する子どもより少なくとも5歳は年長である。※青年期後期の人が12~13歳の子どもと性的関係をもっている場合は含めないこと。 小児性犯罪は他の性倒錯に比べ再犯率が高いといわれている。また、先ほど述べたように合意に関するルールについても児童の場合は成立しない。これは相手がどのように受け止めていても全て犯罪とみなされる。そして、被害児童は成人してからもずっとその被害の後遺症に悩まされ苦しむ。これは家庭内性虐待の被害も同様である。 以上のような点で、リンさんの事件を見ても分かるように小児性犯罪は被害児童や社会に与える影響、マスコミの報道の仕方など、性暴力の中でも際立った存在であるといえる。学校などに潜む小児性愛者 小児性犯罪者には、大まかに幼い子どもにのみ性的欲求を感じるタイプと、成人女性にも性的欲求を感じるタイプとに分けることができる。筆者が出会ってきた小児性犯罪者は前者が圧倒的に多く、まれにではあるが男児への性的嗜好を持っている者にも臨床の場で出会ったことがある。男児の場合、加害者に同性愛的傾向があるため治療はより困難を極める。 彼らの頭の中はどのようになっているのだろうか。典型的パターンとして、職業選択や社会的役割を自らの小児性愛的嗜好を基準に選択しているケースがある。つまり、小学校の先生や保育士、本事件のように児童と接することができる学校の役割を担うなど、児童に関わることを何らかの理由を付けることで合理化し意図的に選択している者である。 彼らは口をそろえてこう言う。 「いずれ大人になったら経験することなのだから教育的な観点で性的接触を行っただけだし、相手もそのことについて好意を持っていたはずだ」 「可愛いからついついかわいがるつもりで一線を越えてしまった。決して傷つけようと思ったわけではないし相手もそれを受け入れていた」リンさんも歩いた通学路付近で保護者と下校する児童ら=4月14日、千葉県松戸市(宮崎瑞穂撮影) とんでもない認知のゆがみだ。ここでいう、認知のゆがみとは性的逸脱行動をくり返すための本人にとって都合のいい認知の枠組みと定義できる。児童にとって教師や身近にいる大人は拒否や反発が困難な絶対的存在である。また、大人側が「やってない」と否定すれば当該児童から根掘り葉掘りされたことを聞くことはあまりない。絶対的な立場を利用した卑劣な性暴力。現在ではこのような学校内での性暴力を「スクール・セクシュアル・ハラスメント」というが、被害児童は親にも打ち明けられず不登校になったり、自傷行為でSOSを出すなどのさまざまな後遺症に苦しめられる。子どもの性被害はよく「性的いたずら」と表現されることがあるが、そんな軽い言葉で表現できるほどこの問題は生やさしいものではない。「いたずら」という言葉にはそこまで大したことはないというニュアンスが含まれるため被害児童に使うべきではないし、やはり明確に小児性犯罪というべきだろう。  次に、そんな小児性犯罪の治療について迫っていきたい。 米国ではエイブルの研究があり「未治療の性犯罪者が生涯に出す被害者の数は380人」というデータがある。ところが、筆者が国内の某刑務所で性犯罪のプログラムに参加する受刑者にこの話をしたところ、「その数字は少ない」という反応が多数を占めていた。これは、小児性犯罪を繰り返す受刑者が多い治療グループでの反応だった。ということは、表面化(逮捕)しているのは氷山の一角である。性犯罪者の治療内容 被害者に与えるダメージを考えると、性犯罪者は厳罰に処すべきという意見が根強い。性犯罪は、今回の刑法改正案で厳罰化・非親告罪化されることになる予定だが、果たして再犯は減るのだろうか。実は、厳罰化だけでは再犯率は低下しないという明確なエビデンスが存在する。近年では、加害者臨床の分野にもEBP(Evidence‐Based Practice)のパラダイムが当たり前になり、性犯罪者を罰するだけのアプローチや、GPSによる電子監視だけでは再犯防止にほとんど効果はなく、医療モデル・教育モデル・社会福祉モデルを統合的に加えたアプローチこそが、再犯防止に最も効果的であるということが明らかになってきた(Andrews & Bonta,2010)。 そして、当院では反復する性的逸脱行動を嗜癖モデルで捉え、性依存症という疾病モデルからやめ続けるには専門治療が必要な病であると考え、日々再犯防止のためのプログラムを行っている。 性犯罪者の治療はある程度確立されている。当院では、約10年前から性犯罪および性依存症からの回復のための再発防止プログラムを実施している。性犯罪の治療プログラムは、世界的に共通する「RNRモデル(リスク・ニーズ・治療反応性の原則)」が確立されている。まず、リスクアセスメントの質問シートで低・中・高のリスク判定を施行し、各リスクに応じた密度のプログラムを受講する。高リスク群と低リスク群が共に治療を受けると、低リスク群の再犯率が上がるといわれていることから、いかに正確なリスクアセスメントが重要なのかということがわかる。 さらに、痴漢なら満員電車、盗撮ならエスカレーター、小児性犯罪なら学校のプールなど、各対象者の性的逸脱行動を起こしやすい状況をピックアップし、回避・対処行動を助言し、再犯防止計画(リスクアセスメントプラン)に加えていく。そして、本人の問題に応じた、最も治療効果を引き出せるプログラムパッケージを選択する。集中して治療を行う期間は、低リスク群は半年、中リスク群は1年、高リスク群は3年である。その後はメンテナンスプログラムに移行し、再発防止のための取り組みを継続する。男のサディズムと小児性愛(イメージイラスト) 日本ではグループワークが主で、本人の能力に応じたプログラムパッケージの選択がまだまだ不十分だが、当院では集団療法と個人療法を併用して再発防止のための治療を行う。場合によっては薬物療法も実施している。睡眠不足が引き金になって対象行為に至ってしまう人には、睡眠不足にならないスケジュール管理指導と並行し、睡眠薬を処方する場合もある。抗酒剤、向精神薬、SSRIなど、患者の状態によって薬の種類は異なる。 次に、この問題を理解している治療の協力者であるキーパーソンの立場も重要である。基本的には親、パートナー、友人などで、だれもいなければクリニックのスタッフがキーパーソンを務める。治療内容などの情報を共有し、再発防止のストッパーになってもらう。性犯罪者の常套句 通常、依存症の治療では「再発(リラプス)」は回復のプロセスであると考える。しかし、性犯罪に関しては被害者が背景にいるため、再発を回復のプロセスと考えるのは理論的に無理がある。従って、再発防止に最も重点を置く。このように、加害者臨床は他の心理臨床と異なる視点をいくつか持っている。ここでこの問題を考える際のヒントとして、私が加害者臨床で重視している視点を2つ紹介したい。 まず1つ目は、『従来の心理療法は「自分の行動や症状に対して責任を取る」という範囲にとどまっていたが、加害者臨床では「他者の行動や症状に対して責任をとる」という点を重視する。つまり自分の言動や生き方について被害者が聞いたらどのように感じるかを常に思考し被害者感情に少しでも近づく努力をし続けることである。しかもこの取り返しがつかないことをしてしまった責任性は人権侵害、すなわち「人格的な生存を破壊させてしまいかねないほどの、決定的苦痛を与えた」という、究極の責任性であることを前提としたものでなければならない』と考えている。 2つ目は、『加害者の加害行為の克服は、被害者の回復を促進する方向で進められるため、従来の心理療法とは異なる方針を数多く持つ。加害者は被害者とは非対等であり、問題解決のための負担を被害者に求めない方針をとる』という視点である。この2つの重要な視点をもとに治療プログラムでは「加害行為に責任をとる」とはどういうことかを深めていく。性犯罪はどんな理由があっても再発してはいけない。これはDVなどの加害者臨床でも同様であると私は考えている。 もう一点、近年日本にも導入されてきている新しい治療モデルが「グッドライフ・モデル」である。従来のプログラムでは、「回避する」「~しない」など禁止事項が中心であった。前述のRNRモデルや、依存症治療に用いられる認知行動療法はある程度効果はあるものの、禁止事項が多ければモチベーションが下がり治療継続率も低い。 彼らは「幸せになるための手段」として性犯罪をくり返すという誤った方法をとってきた。グッドライフ・モデルでは、「性犯罪以外の方法でどうなれば幸せな人生を送れるか」に注目し治療動機を高めていく。私は、性犯罪者に理解をという気持ちは毛頭ない。しかし、彼らを社会から排除するだけでは性犯罪はなくならないのだ。 彼らは反省しながらも、また再犯を繰り返すことがある。一見、深い反省をしているようだが、その数日後再犯することもある。そして裁判で同じような発言をする。さらに刑務所では非常に模範囚である。これは性犯罪の前科者だと周囲からいじめられるということがあるからおとなしくしているのかもしれないが、それにしても妙に静かである。彼らの常套(じょうとう)句は「もう絶対にやりません。今度こそ自分の力でやめることができます」である。 確かに一時的にやめることは可能かもしれないので、この発言はあながち嘘でない。しかし、この問題は「やめる」ことよりも「やめ続ける」ことが重要なのである。彼らに「あなたはやめ続けることはできますか」と質問すると、即答で返事は返ってこないことが多い。つまり、彼らは心底から児童への性的接触を悪いとは思っていないのと、この強力な性的欲求はずっと消えないことをどこかで知っているのである。そして、その行為がどれほどの深い傷を与えるのかという想像力が働かない。小児性犯罪は、被害児童の未来を奪う。そして、人間としての尊厳を深く傷つける。悲しいかなそれが小児性犯罪の現実である。

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    性犯罪者の再犯率を半減させた「心理+薬物」ダブル療法の威力

    原田隆之(筑波大教授) 「小児性犯罪を減らす、たった一つの方法」。千葉県松戸市の女児殺害事件を踏まえ、フェイスブックで発信されたこの提案が議論を呼んでいる。提案したのは、子育て支援などに取り組むNPO法人「フローレンス」代表理事で、全国小規模保育協議会理事長を務める駒崎弘樹氏だ。一つの方法とは「子どもに関わる教師や保育士の採用時、またPTA等のボランティア参加時において、性犯罪歴をチェックできる仕組み」をつくることだという。 これに対し、子供を持つある父親が駒崎氏の提案に懐疑的なコメントを寄せた。その理由として、教育関係者による性虐待は全体の1%もないこと(大半は父親によるものである)、教育関係者への不要な疑念を増大させるだけであること、現状でも禁錮刑以上に処せられた者は教職に就けないこと、などを挙げている。私もこの意見に概(おおむ)ね賛同している。レェ・ティ・ニャット・リンさんの遺体が発見された現場で花を手向ける男性=千葉県我孫子市 両者とも子供を残虐な犯罪から守りたいという熱意による意見であり、その目的では一致しているが、対策の有効性に関しては見解が分かれている。また、類似の事件が起きるたびに、怒りや不安からヒステリックで過剰な反応を求める声が起きることはこれまでも度々経験してきたことだ。 このように性犯罪をめぐっては、われわれはとかく感情的、過剰防衛的になりやすく、そのせいで多くの事実とは異なる見解がまかり通っているのも事実だ。その例として、「性犯罪者は再犯率が高い」「性犯罪が増加している」という指摘は、事件が起きるたびにメディアでも繰り返される論調で、これはどちらも事実に反している。 犯罪白書によれば、性犯罪者の同種事件の再犯率は約5%であり、これは窃盗や薬物事犯など他の罪種と比べると「相当に低い」と法務省は述べている。また、刑務所の統計を見ると、刑務所収容人口のなかで、性犯罪者が占める割合は何年もの間一貫して約3%であり、増加しているという事実はない。 もちろん、どれだけ数が少なく、再犯率が低くても被害者や社会に与える影響は計り知れないほど重大で、性犯罪対策は重要な社会的課題でることは間違いない。しかし、だからこそ過度に感情的になったり不安を煽(あお)ったりすることは慎むべきで、どのような対策を講じるべきか冷静に議論すべきであろう。人権上問題も多い米国の対策 いずれにしても、子供を犯罪から守ることは社会の責務であり、それは性犯罪であってもそれ以外の犯罪であっても同じである。しかし、ここで重要なことは、私がたびたび主張していることであるが、「その対処に効果があるのか」という点について、冷静に科学的な視点から考慮したうえで判断すべきだということである。 つまり、科学的エビデンスに基づいた真に効果のある対処を講じなければ意味がない。感情的に反発することは、一時的に溜飲(りゅういん)を下げることには効果があっても、本当に大事な「犯罪予防」には効果がないことが多い。 そこで、一般的な性犯罪を例に取れば、世界的に見てもさまざまな対策が講じられている。駒崎氏が提案するように性犯罪者を登録しチェックする仕組みのほか、GPSによる電子監視、刑務所出所後も病院に監禁する民事拘禁などが代表的なものだ。 性犯罪者の登録について、アメリカの例を見てみると、子供を対象とした性犯罪が起きたことを契機に、1996年に性犯罪者を登録し公開する法律が施行され、それは被害者の名前を取って通称「メーガン法」と呼ばれている。 この年までに全米で数十万人の性犯罪者が登録されているが、その効果には大きな疑問が寄せられている。コネチカット州の矯正当局は、メーガン法の効果を検証した結果、法施行の前後で再犯率にも被害者数にも有意な変化が見られなかったことから、法には何の効果もなかったと結論づけている。 さらに、実際的な問題として、制度の実行は州単位であるため、別の州に移動して犯罪に至るようなケースではチェック機能が働かず、このような「犯罪の転移」を防ぐことはできないという問題なども指摘されている。 GPSによる電子監視についても、その効果は疑問だ。電子監視が犯罪抑制に及ぼす効果を膨大なデータを基に検証した研究者は、「現存するデータでは、電子監視が犯罪を抑制するツールとなることは支持されなかった」としている。 また、民事拘禁は最も極端な手段であり、人権上の懸念も大きい。カリフォルニア州では、刑務所の刑期が終了した後も、複数のメンタルヘルスの専門家によって再犯の危険が残っていると診断された場合、州立病院に「拘禁」することが可能となっている。※写真はイメージ 私もこの「病院」を訪問したことがあるが、病院とは名ばかりで、高い塀と鉄格子、高圧電流の電線で囲まれた重警備刑務所そのものであった。拘禁されている間は、当然再犯に至ることはなく、その効果は確実である。 しかも、大多数の者は事実上、一生涯釈放されることはない。ただし、その経済的コストは膨大で、カリフォルニアでの民事拘禁のための年間総予算は4200万ドル(約42億円)、年間1人当たり20万ドル(約2千万円)かかるとのことである。性犯罪を減らすたった一つの方法 このように見ると、どの対策にも効果がなかったり、コストが膨大であったりすることに加え、人権上の問題もあり、現実的な対策とは言い難い。しかし、悲観するのはまだ早い。ここで再び、膨大な研究データに目をやると、一つだけ確実に効果のある方法がある。 それは「性犯罪を減らすたった一つの方法」の正解であり、つまり「性犯罪者治療」である。具体的には、「認知行動療法」と呼ばれる心理療法や薬物療法がある。前者は、強い性衝動が起きた際にそれをコントロールするスキルを教えたり、女性に対する歪んだ認知を修正したりする。後者は、男性ホルモンの作用を抑制する薬物を投与する。 ケンブリッジ大学のレーゼル教授らの研究によると、これらの治療を受けた性犯罪者の再犯率は、治療を受けていない者に比べると、半分程度になったという。要は50%抑制されたということである。特に、心理的な認知行動療法というアプローチの効果が大きいという。 わが国でも2006年から刑務所で「性犯罪者再犯防止プログラム」が実施され、私もその開発に携わった1人であるが、その効果について法務省は一定の再犯抑制効果があったことを発表している。府中刑務所=東京都府中市晴見町 また、私は民間の精神科クリニックにおいて、性犯罪者の外来治療を行っているが、これまで400人近い人々が治療を受けている。そのほとんどは痴漢や盗撮を行った者であるが、強姦や強制わいせつ、小児性愛などに関わった者もいる。治療成績としては、これまでのところ再犯率は約3%程度である。彼らは受診する前は、再犯を繰り返し、いわば再犯率100%の者たちであるから、その効果は歴然としている。 さらに、われわれの研究グループは性犯罪者の「再犯リスク」を査定するチェックリストも開発し、それはわずか10項目の質問で80%近い正確さで再犯リスクを予測することができる。これを用いれば、まだ軽微な問題行動であるうちに、将来のリスクを予測することができ、ここで適切な治療を行えば、重大な性犯罪へと発展するのを予防することも可能である。 このように、今や科学の力、心理学の力を用いれば、社会的な病気ともいえる犯罪を効果的に「治療」することができる時代となった。もちろん、どんな病気もそうであるように、100%の効果というものは現実問題として不可能である。しかし、一時的な感情で効果のない方法に頼るよりは、よほど賢明であることは言を俟(ま)たない。 被害者の感情などを考慮すれば、今回の性犯罪に関する刑法が大幅改正されたことの意義は大きい。ただ、性犯罪の抑止については厳罰化だけではなく、心理療法や薬物療法といった手法を組み合わせることによって、さらなる効果を生み出すだろう。

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    性犯罪対策のカギは「景色解読力」不審者ではなく場所に注意せよ

    小宮信夫(立正大文学部教授) 犯罪学では、人に注目する立場を「犯罪原因論」、場所に注目する立場を「犯罪機会論」と呼んでいる。犯罪原因論が「なぜあの人が」というアプローチから、動機をなくす方法を探求するのに対し、犯罪機会論は「なぜここで」というアプローチから、機会(チャンス)をなくす方法を探求する。つまり、動機があっても、犯行のコストやリスクが高くリターンが低い、すなわち犯罪の機会がなければ、犯罪は実行されないと考えるわけだ。 3月に起きた千葉県松戸市のベトナム国籍の女児が殺害された事件で、逮捕、起訴されたのは被害者が通っていた小学校の保護者会会長だった。この会長は、ほぼ毎日通学路で見守り活動をしていたため、保護者は「もうだれも信じられない」と嘆き、住民ボランティアは「ニコニコしながら子供に声をかけられない」と戸惑いを隠しきれなかったという。しかし、この苦悩は、間違った防犯対策による当然の帰結であり、正反対の方向に舵(かじ)を切りさえすれば、すんなりと消えてなくなるものである。 結論から言えば、注意すべき対象を人から場所(景色)へ移動すれば、問題は解決する。詳しく解説しよう。 犯罪機会論では「機会なければ犯罪なし」と考える。犯罪は、犯行の動機があるだけでは起こらず、動機を抱えた人が犯罪の機会に出合ったときに初めて起こる。それはまるで、体にたまった静電気(動機)が金属(機会)に近づくと、火花放電(犯罪)が起こるようなものだ。 海外では、犯罪原因論が犯罪者の改善更生を担当し、犯罪機会論が防犯(犯罪の未然防止)を担当している。ところが日本では、犯罪機会論は全くと言っていいほど知られていない。そのため、防犯への関心を高めた人たちが飛びついたのが犯罪原因論だった。もちろん、その人たちが犯罪原因論を意識していたわけではないが、「なぜあの人が」を連発するマスコミの影響を受けて、自然と犯罪者という「人」に目が向いたのだ。殺害されたベトナム国籍の女児が通っていた小学校正門付近にかけられた、不審者への注意を促す看板=3月27日午後、千葉県松戸市(川口良介撮影) しかし、防犯の分野では、まだ犯罪が起きていない以上、犯罪者も存在しない。したがって、「犯罪者」という言葉も使えない。そこで、苦し紛れに登場させたのが「不審者」という言葉である。 本来、犯罪対策にとっては、「事後」に登場するはずの犯罪原因論が、そのまま「事前」に持ち込まれてしまったために、事前の世界にも、犯罪者が姿を変えて、不審者として現れたわけだ。こうして、海外では使われることのない不審者という言葉が、日本では、誰もが知っていて当たり前に使われるようになったのである。外見だけで犯人特定はムリ 今でも家庭や学校では、「怪しい人に気をつけて」「知らない人にはついていかない」というように、子供たちを「人」に注目させている。しかし、こうした教え方では、「親切そうな人」「知っている人」が犯す誘拐は防げない。 私は時々、小学校で授業を行っているが、子供たちに「どんな人が不審者なのか」と聞くと、「サングラスやマスクをしている人」という答えが返ってくる。しかし、そうした姿の誘拐犯は聞いたことがない。こんな教育をしているから、子供は「サングラスやマスクをしていない人」についていく。実際、宮崎勤事件も、神戸連続児童殺傷事件も、奈良女児誘拐殺害事件も、だまされて連れ去られたケースだ。結局、外見だけでは、犯罪をたくらむ者を特定するのは不可能に近い。 それでも、無理やり不審者を探そうとすれば、平均的な日本人と外見上の特徴が異なる人を不審者とみなすことになる。過去にも、外国人、ホームレス、知的障害者が不審者扱いされ、人権が脅かされることがあった。ベトナム国籍女児遺体遺棄事件を受けて、保護者に付き添われ、集団登校する児童=4月17日、千葉県松戸市 さらに、疑心暗鬼になればなるほど誰でも怪しく見えてきて、子供たちは人間不信に陥る。子供は大人を怖がり、大人から離れていき、助けてくれる大人も拒否するようになる。一方、地域住民も自分が不審者扱いされたくないので、子供から離れていき、見て見ぬふりをするようになる。 このように、「人」に注意するやり方は、防犯面での教育効果がないだけでなく、地域の絆を切断し、犯罪者に狙われやすい環境を作り出してしまう。要するに、防犯の分野に犯罪原因論を持ち込んだ「ボタンのかけ違い」は、「百害あって一利なし」なのだ。 これに対し、犯罪機会論は「人」には興味を持たない。犯罪者が「知っている人」だろうが、誰だろうが、犯行パターンには共通点があり、その共通点を抽出することに犯罪機会論は興味を示す。 その共通点を一言で表すと、犯罪者は景色を見て、そこが「入りやすく見えにくい場所」だと判断すれば犯行を始めるが、そこが「入りにくく見えやすい場所」だと判断すれば犯行をあきらめる、ということだ。 「入りやすい場所」とは、だれもが簡単にターゲットに近づけて、そこから簡単に出られる場所である。そこなら、怪しまれずに近づくことができ、すぐに逃げることもできる。「見えにくい場所」とは、だれの目から見ても、そこでの様子をつかむことが難しい場所である。そこでは、余裕綽々(しゃくしゃく)で犯行を準備することができ、犯行そのものも目撃されない可能性が高い。子供がだまされないで済むには 住民によるパトロールというと、とかく不審者の発見を目的にしがちだが、それは有害無益と言わざるを得ない。そこで海外では、犯罪が起こりやすい場所を重点的に回る「ホットスポット・パトロール」が一般的である。ホットスポットとは、実質的には「入りやすく見えにくい場所」のことだ。残念ながら、日本でホットスポット・パトロールを実施している地域は1割にも満たない。 集団登下校やスクールバスの導入、あるいは防犯カメラの設置を提案する動きもある。しかし、子供が外にいる時間は、登下校時間の数倍に及ぶ。公園や塾の行き帰りの安全は、どう確保しようというのか。 防犯カメラにしても、犯罪機会論に基づくシミュレーションを前提にしなければ、犯人の検挙には役立っても、犯罪を未然に防止することは難しい。現状では、防犯カメラと言いながら、その実態は捜査カメラに過ぎない。 やはり、防犯対策の「1丁目1番地」は、子供が1人になったとしても、自分で自分の身を守れるようにすることだ。子供の性的誘拐のほとんどが、だまされたケースであることを考えると、最優先課題は「だまされないための教育」である。 では、どうすれば、だまされないで済むのか。人はウソをつくから、人を見ていてはだまされてしまう。だまされないためには、ウソをつかないものを見るしかない。それが景色である。景色は絶対に子供をだまさない。 私は、景色が放つメッセージを感受する力、言い換えれば、景色に潜む危険性を見抜く力を「景色解読力」と呼んでいる。景色解読力を高めれば、危険を予測して回避することが可能になる。景色に注意するだけで、人には注意しないので、地域の人間関係を損なうこともない。 では、どうすれば景色解読力を高めることができるのか。その簡単な方法が「地域安全マップ」づくりだ。地域安全マップとは、犯罪が起こりやすい場所を風景写真を使って解説した地図である。具体的に言えば、(だれもが/犯人も)「入りやすい場所」と(だれからも/犯行が)「見えにくい場所」を洗い出したものが地域安全マップだ。 ここで注意しなければならないのは、マップづくりとはいうものの、実際には能力の向上という「人づくり」であって、正確な地図の作製という「物づくり」ではない、ということだ。なぜなら、犯罪者は地図を見ながら犯行場所を探しているのではなく、景色を見ながら犯行を始めるかどうかを決めているからである。それは子供たちにとっても同じこと。地図を見ながら学校や友達の家に行ったりはしていないが、景色はいつも見ている。つまり、安全と危険は、地図の中ではなく、景色の中で判断すべきものなのだ。 景色を見ながら、安全と危険のポイントを解説した「写真集」として、『写真でわかる世界の防犯-遺跡・デザイン・まちづくり』(小学館)があるので、ぜひ参考にしていただきたい。そうした知的チャレンジを通して、通学路だろうが初めての場所だろうが、どこに行っても、景色からのメッセージをキャッチし、注意モードをオンにする景色解読力を高めてほしい。

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    小児性愛者を見分ける境界線 目で追う、性別で区別するなど

     千葉・松戸市で起きた小3女児殺害事件。ベトナム国籍のレェ・ティ・ニャット・リンちゃん(享年9)は姿を消した2日後、自宅から10km以上離れた我孫子市内の用水路脇で、変わり果てた姿で発見された。死体遺棄で逮捕されたのは、澁谷恭正容疑者(46才)。リンちゃんと同じ学校に2人の子供を通わせる父親であり、保護者会の会長を務めていた人物である。5月26日、リンちゃんの遺影を前に、悔しさをにじませる父レェ・アイン・ハオさん=千葉県松戸市六実 2014年に神戸市長田区で起きた6才女児殺害事件の犯人は離婚歴のある生活保護受給者。2005年に広島県安芸市で7才の女児を殺害し段ボールに詰めた男は定職につかない単身者。過去に子供が犠牲者となった凄惨な事件の容疑者には、常に閉塞感や孤独がついてまわった。 だが澁谷容疑者は、「子供たちがまっすぐ育つように」と地域で積極的に活動する保護者会会長であり、子煩悩で教育熱心な2児の父。率先して通学路に立ち、毎朝登校する子供たちに挨拶を欠かさない、今までの女児相手の性犯罪者のイメージとは似ても似つかない人物だった。 しかし実際、教育熱心に見えて子供の近くにいる大人が起こすわいせつ事件は後を絶たない。文部科学省の発表(2015年度)によれば、わいせつ行為やセクハラによって懲戒処分などを受けた教員の数は前年比19人増の224人で、過去最高を更新した。被害者のうち5.4%は自校の児童、35.3%は自校の生徒、3.6%は自校の卒業生。助けてくれるはずの教師からわいせつ行為を受けていたことになる。  今年に入ってからも、1月に教室で7才の教え子の女児の胸を触った小学校教諭(36才)が起訴され、4月には教室内で教え子の女児の服を脱がせてビデオで撮影した小学校教諭(29才)が逮捕されるなど相次いでいる。 そんな現実に「子供に優しく教育熱心な大人」に、声を大にしては言えないけれど、違和感を抱いてしまう母親は少なからずいる。 「子供たちを公園で遊ばせている時に、挨拶だけじゃなくて親しげに話しかけてきたり、たまに一緒に遊んでくれる中年男性がいますが、ありがたい半面、ちょっと警戒してしまいます」(30代・2児の母) 相手が教師や保育士、スポーツクラブのコーチといった立場にある人でも、男性であればやはり気になってしまうと悩む母親もいる。 「娘の保育園の保育士さんはすごく面倒見がよくて、“子供好きなんだろうなぁ”と思うような男性です。でも、おねしょした時にすぐに飛んできて、着替えさせてくれたと聞いて、“大丈夫かな”と思ってしまった」(20代・1児の母) もちろんそのほとんどが杞憂であり、子供のことを思って行動している大人がほとんどだ。小児性愛者を見分けるには? ただ、リンちゃんの事件では親切な大人の中に“羊の皮をかぶった狼”が紛れ込んでいないとは限らないと痛感させられた。では、子供好きな人の中に潜む、澁谷容疑者のような小児性愛者を見分ける境界線はどこなのか。犯罪心理学者の長谷川博一氏は、こう解説する。「かかわろうとする子供たちを“区別するかどうか”は大きな判断基準。例えば、女の子たちばかりに声をかけているならば警戒しましょう。本来の子供好きならば性別の分け隔てなく接するはずです」澁谷容疑者にも、「女児には優しく話しかけるのに、男児には厳しかった」などの証言があった。 ゆうメンタルクリニック総院長のゆうきゆう氏が言う。 「とくに男性の場合、興味があるものを無意識に目で追いやすいという特徴があります。例えば子供が通るたびに視線を送る、子供の声につい振り返るなど、わかりやすい行動もあります。関心のある対象が目につきやすいのは誰でもそうですが、性的欲求が刺激される対象の場合は関心の度合が違ってくるんです」 スキンシップの取り方も違う。「子供の頭をポンポンとなでるのは珍しくありませんが、小児性愛者の場合、頭をなでる時に髪の毛を指に絡ませることがあります。また、子供のズボンのホコリを払うときでも、普通はサッとはたくだけなのが、なでたりさすったりするなど、疑問に感じるようなスキンシップが見られることも。変だと思ったら、自分の夫に“男性から見てどう思うか”を聞いてみるのも手です」(前出・ゆうき氏) 精神科医の片田珠美氏は「1対1になりたがる人も注意が必要」と話す。 「容疑者も、“家でプールをやるから”と子供たちを呼んでいたという報道がありましたが、そのように好みの子を家に呼んで2人きりになろうとするケースもあります」 今回の事件で、“見守り”をしてきた側も不安を抱えることになった。4月16日の保護者説明会に出席していた男性保護者が打ち明ける。「毎朝“おはよう”と言葉を交わしていた子供たちから、“第二の澁谷”みたいに思われてしまうのではないかって…」すべての子供好きを疑うべきではないにせよ、こういう事件が起こってしまったならば、大人の側も、子供たちやその親を不安にさせるような言動には注意を払うべきだろう。「疑惑の目を持たれないためには男親の場合、必ず自分の子供もしくは妻など第三者を同席させること。何らかの事情で2人きりになるなら、誰かにそのことを一言告げるといった、オープンな連絡を心がけましょう」(前出・ゆうき氏) ベトナムからやってきた未来ある少女の命が奪われた事件は、全国の父母だけでなく、“優しい隣人”たちにも暗い影を落としている。関連記事■ リンさん遺棄現場至近で15年前に消えた「フィリピン少女」■ 松戸女児殺害 澁谷容疑者、最初の結婚相手は未成年■ 澁谷容疑者 あだ名は「澁デブ」、女子は「気持ち悪い」■ 年齢詐称62才山辺容疑者 「38才か39才」は絶妙すぎる■ キラキラネーム「反対」は76.2%、しかし親には命名権あり

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    首相腹心記者の強姦告発会見 全国紙は1行も報じなかった

    「レイプは魂の殺人です。山口氏が権力者側で大きな声を発信し続けている姿を見た時は胸が締めつけられました。この2年間、なぜ生かされているのか疑問に思うこともありました。レイプという行為は私を内側から殺しました」 5月29日、東京・霞が関の司法クラブで行われた記者会見。スラリとした体形に整った目鼻立ちが印象的な美女は、大きな瞳を潤ませて声を絞り出した。 この女性は海外でジャーナリストとして活動する詩織さん(28才)。家族の意向で苗字こそ明かさなかったが、30人以上の記者や多くのカメラが並ぶ前で顔と名前を公開した。彼女が訴えたのは強姦の被害。被害者が身元を明かせば、好奇の目に晒され、さらなる心の傷を負う可能性もある。レイプ被害者として、極めて異例の会見だった。 それでも詩織さんは勇気を振り絞って会見に臨んだ。彼女が被害を訴えた相手は、元TBSテレビ報道局ワシントン支局長でジャーナリストの山口敬之氏(51才)。安倍晋三首相(62才)の腹心として知られ、テレビ出演も多く、「総理に最も食い込む男」と呼ばれている。安倍首相への直接取材を行った著書『総理』や『暗闇』が代表作だ。 今回の問題が根深いのは、レイプという卑劣な犯罪もさることながら、犯罪行為が恣意的にもみ消された疑いがあることだ。それも「私の知り得ない何か“上のパワー”」(詩織さん)が働いた形跡があるのだ。 詩織さんは、2013年、ジャーナリズムと写真を学ぶためニューヨークに留学していた。現地で知り合ったのが山口氏だった。 詩織さんの主張によると、2015年4月、詩織さんは仕事の相談をするため、一時帰国中の山口氏と都内で会食。その最中に記憶を失い、連れ込まれたホテルのベッドの上で裸にされ、山口氏からレイプを受けた。避妊具はつけられていなかった。目を覚ました彼女に向かって山口氏はこう言ったという。「ごめん。きみのことが本当に好きになってしまって」 所轄の警察署は捜査の上、準強姦罪での逮捕状を取り、2015年6月8日、成田空港で帰国する山口氏を逮捕するために待ち構えていた。ところが突然、逮捕は中止になる。捜査員の目の前を、山口氏が通りすぎて行ったという。警察トップからの圧力「当時の捜査員のかたから、“警察のトップの方”からストップがかかったと聞きました。とても異例のことだと」(詩織さん) その後、詩織さんは警察から「示談にしなさい」と言われ、警察車に乗せられ、弁護士のところに連れていかれた。それについて詩織さんは「何かしらの意図」を感じたという。 その後、山口氏は準強姦罪で書類送検されたが、嫌疑不十分で不起訴となった。詩織さんに詳しい説明はなされず、結論だけを言い渡された。当時の刑事部長は官邸から信頼が厚く、将来の警察庁長官候補と目される。この刑事部長は『週刊新潮』の取材に対し、自らが逮捕取りやめの指示をしたことを認めている。「日本の法律は必ずしも私たちを守ってくれるわけではありません。当の捜査機関が、逮捕状をもみ消してしまうからです」(詩織さん) 詩織さんは会見当日、検察審査会に不服申し立てをした。「警察のかたには、“被害者らしく振るまいなさい”という言葉を言われたこともあるんです。被害者らしくというのは、泣いたり怒ったりすること。悲しい、弱い存在でないといけない。隠れていないといけない、恥ずかしいと思わなければいけない。今回、私は何も悪いことはしていません。こういった状況に疑問を感じ、今お話ししなければと思いました」(詩織さん) 強姦疑惑発覚後、山口氏はフェイスブックで《法に触れることは一切していない》と弁明している。避妊具を使用しない性行為については明言していないものの、山口氏は詩織さんに「精子の活動が著しく低調だという病気」だとメールで釈明していたと報じられている。 なお、この会見については翌朝の全国紙はすべて1行も報じなかった。 ひとりの女性の悲痛な訴えを「女性が輝ける社会」を掲げる安倍政権は無視し続ける。それどころか昭恵さんは、報道を否定した山口氏のフェイスブックに「いいね!」を押した。しかも5月15日、都内で開かれた『安倍晋太郎氏を偲び安倍晋三総理と語る会』の席では、「いいね!しただけで、あんなに責めなくてもね」と言い放ったという。関連記事■ 城島茂のお相手、E乳グラドルが出していた過激DVDの内容■ 芸能活動再開の清水富美加、大川総裁長男との結婚説を追う■ 21才グラドルと熱愛の城島茂 「振り回されとるなあ」■ 舛添要一氏「出張費&韓国学校で左右から矢が飛んできた」■ アン・シネ 膝上30cmミニスカ美脚で全力セクシー!

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    なぜ日本人は信仰を聞かれて「無宗教」と答えたがるのか

    島田裕巳(宗教学者) 日本人は自分たちのことを「無宗教」だと考えてきた。 それを裏づける資料もある。アメリカのギャラップ社が2006年から08年にかけて行った世論調査では、日本人のなかで信仰を持っている人間は25%で、対象となった世界143カ国のうち136位という結果が出た。 日本より信仰率が低いのは、香港や北欧諸国などわずか7カ国しかない。たしかに、日本は無宗教の国であるということになる。 しかし、これが果たして正しいのかどうか、実は怪しい。 NHKが1996年に行った「全国県民意識調査」というものがあるが、全国平均では、信仰を持っている日本人の割合は31・2%であった。ギャラップ社の調査よりは高いが、7割近くが無宗教であるということになる。 ところが、都道府県別に考えると、かなりのばらつきがある。最も低いのは沖縄の7・8%で、これが飛び抜けて低いが、次いで千葉県の18・1%である。関東はおしなべて低く、一番高い東京でも27・0%である。東北も低く、すべての県が20%台である。他に20%台は、新潟、山梨、高知である。 反対に、最も高いのが福井の58・0%で、広島も53・7%と半数を超えている。40%台は、富山、石川、長崎、鹿児島、香川である。多くの参拝者が訪れる西本願寺=5月31日、京都市下京区の西本願寺(北崎諒子撮影) 長崎の場合には、キリスト教が5・1%で、このことが信仰率を押し上げているが、他に高い県は、浄土真宗の信仰が強い「真宗地帯」である。鹿児島も浄土真宗は強い。 この点は重要で、浄土真宗の信仰が強いところでは、どこでもかなり信仰率が高いのである。平均してしまうと、この地方による違いが見えなくなる。男女別にみるとさらに興味深い結果が  また、2008年にNHK放送文化研究所も加わっている国際社会調査プログラム(ISSP、International Social Survey Programme)が行った調査では、日本人の信仰率は平均で39%という結果が出たが、この調査では、男女別年齢別に集計しており、興味深いことが明らかになった。春日大社に初詣に訪れた参拝者=2017年1月1日、奈良市 16歳から29歳では、女性が20%で男性が17%とかなり低い。ところが女性の場合には、30歳から39歳で28%、40歳から49歳で39%、50歳から59歳で43%、60歳以上で56%と年齢が上がるにつれて徐々に信仰率が上がっていくのだった。 さらに興味深いのは男性の場合である。30歳から39歳で19%、40歳から49歳でやはり19%と、50歳になるまでは若い頃と変わらず低いのだが、50歳から59歳では41%と急に上昇し、60歳以上では56%と女性と肩を並べるのである。 なぜ男性は50代になると、急に信仰を持つようになるのか。おそらくそこには、定年を意識するようになるということが関係していると思われる。私が今教えている女子大生の父親は、ちょうどこの世代にあたるが、急にお寺参りをするようになったとか、私の本を読んでくれるようになったとか、そう答える学生が多い。 この二つの調査結果を踏まえて考えると、果たして日本人は本当に無宗教といえるのかどうか、そのこと自体がかなり怪しくなってくる。 もしかしたら、無宗教は建前であって、宗教を信仰しているというのが本音なのではないか、そうとさえ思えてくるのである。 自分が無宗教であると標榜(ひょうぼう)するのは、他人から信仰を聞かれたときである。そのときには、自分が信仰を持っているとは答えにくい。それだけで警戒されるかもしれないと思ってしまうからだ。 ところが、世論調査の場合には、こっそりと記入するわけで、調査機関にしかそれは分からない。匿名で記入するのであれば、なおさら、自分がどう答えるかを気にする必要がない。だから、世論調査には本音が出る。そう考えられるのではないだろうか。本音で答えない理由は何か? 世の中で宗教のことが話題になるとき、その対象は新宗教であることが多い。女優の清水富美加が出家したというときにも、出家先は新宗教の幸福の科学だった。 新宗教はかつて「新興宗教」と呼ばれることが多く、そこには布教に熱心で、信仰に凝り固まっているというイメージが伴った。特に、高度経済成長の時代に創価学会や立正佼成会などの日蓮系の教団やパーフェクトリバティー(PL)教団が急成長したときにはそうだった。 そこから、新宗教に対する警戒心が生まれ、自分に信仰があると答えれば、そうした新宗教の信者だと思われるのではないかという意識が生まれた。そこで、聞かれれば無宗教と答えるようになった。そうした面がある。 その点で、日本人の無宗教というとらえ方には、自分は怪しげな新宗教の信者ではないというニュアンスが強くこめられている。女優・清水富美加=2016年9月22日東京・港区(撮影・高橋朋彦) しかし、日本人は無宗教と言いながら、日常的に宗教の世界と深くかかわっている。初詣には大勢の日本人が出掛け、そのなかにはかなりの数の若者が含まれている。葬式離れは進んでいるものの、仏教式で葬られる人はまだ少なくない。 それが真宗地帯ともなれば、「門徒(浄土真宗の信者のこと)」としての自覚は失われていない。四国地方などは、真宗地帯に属する各県に比べれば信仰率は低いが、それは、この地域で根強い真言宗と深くかかわりを持っていても、それを信仰や宗教としては意識していないからだ。 奈良や京都で古寺がいくつも残され、他の地域でも名だたる寺や神社がきっちりと守られてきたのも、日本人には強い信仰があるからだ。無宗教化が進むヨーロッパでは、古いキリスト教の教会でも維持できなくなり、モスクに売られたりしている。 そして、年を重ね、人生の終わりや老後を意識するようになると、日本人ははっきりと自分の信仰を意識するようになる。それしか、死に向かいつつある自己を支える基盤を見いだすことができないからだ。 日本人の本音は無宗教ではない。そのことを踏まえた上で日本人の宗教観を見直す必要があるのではないだろうか。

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    「浄土ってどこにあるの?」日本人の宗教離れはこの問いに隠れている

    向谷匡史(作家) 街を歩けば、そこかしこでコンビニを目にする。全国で約5万5千店。過当競争とも聞くが、「これだけあって、よくメシが食えているな」と、経営努力に頭が下がる。 ところが宗教団体の数はそんなものではない。仏教系単位宗教法人だけで約7万7千、これに神道系やキリスト教系など諸々を合わせれば18万余りが全国に散らばっている。宗教離れが指摘され、「日本人は無宗教」と言われながら、これだけの数が存在していること自体が驚きである。「よくメシが食えているな」という感慨どころか、目をむいてしまう。不謹慎かもしれないが、晩年に至って僧籍を得た私の、これが率直な感想である。 日本人が無宗教であるかどうかはともかく、宗教に対して一定の距離を置いていることは、一般の人でも皮膚感覚でわかるはずだ。 「私は××宗の熱心な信者なんです」 初対面でこう言われれば、 「それはそれは」 と当たり障りのない応対をしながら、「この人、ちょっと変わっているな」と距離を置きたくなる。 反対に、「人間、死ねば粗大ゴミ」「葬式なんかするわけがないでしょう」「地鎮祭? バカなこと言わないでください」―と鼻で笑う人に対しても、「ちょっと変わっているな」と距離を置きたくなるだろう。 宗教に対するこの「微妙な間合い感覚」が、現代日本人の「宗教観」ではないか。宗教心について各種調査を見れば、「自分は無宗教だ」と公言する日本人は少なくないが、そのうちの大半が「宗教心は大切だ」と答えている。この矛盾と「精神的なゆらぎ」に、私は現代日本人の実相を見る。 儒教が日本に入ってきたときから、すでに日本人の無宗教化が始まったともされるが、浅学の私に大所高所からの考察はできない。道俗―すなわち、物書き(俗)と僧侶(道)のはざまに立つ「小所低所」から私見を述べたい。 去る4月8日、全国のお寺で「花祭り」(灌仏会[かんぶつえ])が行われた。釈迦(しゃか)の生誕を祝うもので、子供たちがお寺に集い、白い像を引き、稚児行列が行われるのだが、「それは大きなお寺だけですよ。うちなんか、子供の参加者が年々減ってきて、今年は10人足らずでした」と、知人の住職がボヤきながら、子供が「寺離れ」する理由の一つとして、境内を遊び場として提供できなくなったことをあげる。画像は本文と関係ありません 「いまの時代、墓石が倒れて大ケガでもしたら訴訟沙汰になりますからね。本堂の手すりから落っこちてでもすれば管理責任を問われかねない。そんなことを考えると、怖くて『遊び場にしてください』とは言えないんです」 本山は地域と密着する場として、末寺に寺の開放を求めるが、「何でも訴訟」という社会風潮は、お寺をも萎縮させているということになるだろう。幼児が遊びに来なければ若いママも来ない。若いママたちは公園に集まり、公園ママ友になっていく。「境内を交流の場とする境内ママ友なんてことになればいいんですが、現状では無理でしょうね」と、この住職は嘆息する。 若いママが「お寺離れ」すれば当然、両親・祖父母の葬儀は簡素化の一途をたどる。「葬儀はしません。納骨だけお願いします」と檀家(だんか)の嫁さんから電話があり、「うちは霊園じゃねぇ!」と思わず叫びたくなったと、別の住職は自嘲する。「宗教心は大切だ」とアンケートに答えはしても、宗教離れは確実に進行していることが、現場では皮膚感覚としてわかるのだ。それでも宗教はなくならない 日本人が「無宗教」を堂々と口にするようになったのは、先の敗戦が大きく影響しているのではないか。天皇という現人神(あらひとがみ)の「人間宣言」によって価値観が一変。論理と科学に代表される西洋文明が一気に押し寄せた。論理的・科学的に証明されないものを排除し、現代に至ってそれがますます先鋭化してきたように思う。 私が僧侶の立場で浄土往生を説けば、「浄土ってどこにあるのよ」と、必ず意地悪い質問が飛んでくる。 「お浄土は人間界から西方はるか10万億の仏土を隔てたところにあり、阿弥陀如来を教主とし…」 説明を始めるが最後まで聞かず、「それって、証明できるんですか?」とツッコミを入れてくる。科学的に証明できるかどうか、これが価値判断の基準であって、「地獄極楽の存るを問うな。わが心に地獄の棲むを問へ」―という生き方論など「坊さんのたわごと」というわけだ。 それに加えて拝金主義。任俠道という精神性を標榜するヤクザですら、バブルを境に「経済ヤクザ」なるものが登場し、「マネー・イズ・パワー」と嘯(うそぶ)いてはばからない。私は空手道場をやっているが、そういう社会風潮にあって、「清く正しく美しく」と説教しても子供たちに通じない。「縁の下の力持ちになれ」と言えば「そんなの損じゃん」と口をとがらせる。「だます人よりだまされる人になりなさい」と言えばキョトンである。 戦後70年を経て、これが日本の行きついた先であり、現代日本人の「無宗教」は、宗教論として論じるよりも、精神世界を失いつつある結果であると私はとらえている。 その一方、宗教離れを論じるとき、スピリチュアルブームが引き合いに出される。「精神世界を失いつつあると言うが、スピリチュアルはブームになっているではないか」という主張で、これは既存宗教の怠慢であるという批判でもある。画像は本文と関係ありません だが、私はこう考える。人間の意識は常に振り子のように揺れているため、科学万能主義に厭(あ)きてくると精神世界へ回帰していく。既存の宗教に回帰しない理由は、赤ちゃんが玩具に厭きて放り投げるとそれには見向きもせず、新たな興味を引くものに手を伸ばすのと同じである―と、いささか乱暴に考えるのである。 時代がどう変わろうとも、死に対する根元的な恐怖、天変地異、そして日々を生きることの不安と苦悩から私たちが逃れられない以上、死後の救済を説き、心の安逸に資する宗教は決してなくならない。「宗派・教団」には経営努力が求められ、ここにおいて「宗教」は一線を画する。「日本人はなぜ無宗教なのか」という問いに対して「無宗教も宗教」と揶揄(やゆ)するのはたやすいが、日本人の少なからざる人が無宗教と公言し、それが戦後の時代風潮のなかで加速してきた現状について、今一度、考えてみるべきではないだろうか。「小所低所」からの私の提言である。 

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    無神論者は「ならず者」? 外国人には理解できない日本人の宗教観

    小島伸之(上越教育大准教授) 初めての海外旅行に臨む日本人が、ビザ申請や入国審査で記入する書類の「Sex」欄に「未経験(Inexperience)」と書いて恥をかいた、という海外旅行が珍しかったころからの古典的なネタがある(戦後日本で海外旅行が一般化したのは1970年代以降である)。 最近はF(astはやい)、M(ediumそこそこ)、それ以外という新ネタもあるようだが、あくまで大人のジョークの世界である。現実的な問題となりうるのは、「Religion」(宗教)の欄にどう書くべきか、ということである。 日本的な普段の感覚をもとに「なし(None)」とか、辞書を引いて「無神論(Atheist)」と書くことは避けるべきとされている。なぜなら、それによって冷笑されたり、不審がられることがあるからである。SNSプロフィールの宗教の欄や、直接の会話で「あなたの宗教は何ですか」と聞かれたときも同様であり、私的な人間関係において「無神論者」は露骨に敬遠・警戒される場合がある。 宗教文化にもよるが多くの外国人から見て、無神論者は、他者の信仰を含めてあらゆる神を認めることを積極的に拒否する者とみなされ、宗教こそが倫理や道徳の基礎となってきた宗教文化圏においては、無神論者は自らを日本語における「無法者」「ならず者」であると宣言する存在と見られる可能性がある。 したがって、こだわりがなければ「仏教者(Buddhist)」と書け、「神道者(Shintoist)」でもよい、本人の自覚はさておきそうするのが無難とのアドバイスが旅行者に対して事前にされることもある。 むろん日本人にとっては、特定の信仰の有無と倫理意識・道徳意識の高さが直結しているという意識は薄く、「無宗教」の人物がすなわち「無法者」「ならず者」であるという感覚はない。 むしろ、阪神大震災や東日本大震災による混乱に際しても、火事場泥棒はあれども大規模な暴動や略奪が生じなかったことを外国人が不思議がったように、日本人の倫理観・道徳観は国際比較の観点から相対的にかなり高いともいわれている。 ここには、相対的に高いとされる倫理観・道徳観が特定の宗教と無関係であることが、少なからぬ外国人には理解しがたいというカルチャーギャップが存在しているのである。 このカルチャーギャップは歴史的にもきわめて大きな問題であった。幕末以降日本が国際社会に積極的に再参加するに際し、非キリスト教国である日本が「文明国」であるということを当時の列強諸国(キリスト教諸国)に理解してもらうことが必要となったからである。 かつて明治期に新渡戸稲造が「武士道」という概念を用いて(『BUSHIDO The Soul of Japan』1899年)、また穂積陳重が「祖先教」という概念を用いて(『Ancestor-Worship and Japanese Law』1901年)、キリスト教国ではない日本も、倫理的・道徳的な「文明国」であるという説明を欧米で試みたのも、まさにこのギャップを埋めるためであった。 ちなみに、伊藤博文は、「帝国憲法制定の由来」(大隈重信撰・副島八十六編『開国五十年史』上、開国50年史発行所、1907年)で近世以来の日本社会の「文明性」を主張しているが、そこで展開される日本社会論の説明には「郷党社会」というキーワードが用いられ、日本社会の特徴は神道や仏教などの宗教とは関連付けられていない。総人口を超える「信者数」 さて、特定の信仰を有しないと考えている日本人は今日確かに多く、このことは社会調査によっても裏付けられている。近年の調査結果を見てみるならば、統計数理研究所による「日本人の国民性調査」(第13次調査、平成25年)では信仰や信心を「もっている、信じている」と答えた人の割合は28%だった。 また、読売新聞による「全国世論調査」(第10回、平成20年)では「何か宗教を信じている」と答えた人の割合は26.1%。國學院大日本文化研究所による「学生宗教意識調査」(第12回、平成27年度)では「現在、信仰を持っている」と答えた大学生の割合は10.2%であり、いずれも信仰を有していると答えている割合は少ないことがわかる。 ところが逆に信者ではなく教団側の視点から見てみると、日本人の宗教信者数はむしろ極めて多いことにもなる。宗教法人をほぼ悉皆的に対象とした文化庁の調査によれば、平成26年12月31日現在のわが国の宗教団体の「信者数」は、神道系9216万8614人、仏教系8712万6192人、キリスト教系195万1381人、諸教897万3675人の計1億9021万9862人である(文化庁編『宗教年鑑 平成27年版』)。 総務省による平成26年10月1日現在の日本の総人口推計は1億2708万3千人であり、文化庁の調査による日本の宗教団体の信者数は日本の総人口をはるかに超えている。この一見奇妙な信者数に関する調査結果は、まず、信者の定義自体が調査対象の宗教団体にゆだねられた自己申告による数字であることによる。 同年鑑は、「信者は、各宗教団体が、それぞれ氏子、檀徒、教徒、信者、会員、同志、崇敬者、 修道者、道人、同人などと称するものの全てを含んでいる。信者の定義、資格 などはそれぞれの宗教団体で定められ、その数え方もおのおの独自の方法がとられています」と説明している。宗教団体によっては、実際の信者数よりもかなり「水増し」した信者数を申告することも少なくない。 しかし、人口を超える信者数については「水増し」申告だけに還元できない要因もある。「家の宗教」および多元的・重層的な日本の宗教文化という要因である。個人的にある宗教の信者であるという自覚がなくても、属する家には宗教があることが多い。 江戸時代の寺檀制度などの歴史的経緯から、家は地域の神社の氏子として、また先祖の墓のある檀那寺の檀家として、それぞれ位置づけられていることが一般的である。つまり、日本人の多くは、本人が自覚的であるか否かに関わらず、地域の神社の氏子であると同時に家の檀那寺の檀家であることが多い。 何らかのきっかけでそれを自覚したとき積極的信仰に目覚めることは少なくとも、そうした位置づけられ方を積極的に拒否する人も少ない。こうして、日本人の多くは、「家の宗教」と多元的・重層的な宗教文化によって、地域の住人=氏子、家の一員である=檀家とみなされ、一人が神道の信者でもあり仏教の信者でもあるということになる。人口を上回る信者数は、こうした要因にもよるのである。日本人はいい加減で無節操? さらに、特定の宗教・教団(宗教組織)への自覚的所属意識にかかわらず、宗教的行動は盛んに行っていたり、宗教的感性は大切に思っていたりすることも日本人の特徴である。先に引いた調査においても、既成宗教に関わりなく「宗教的な心」は大切だと思う人の割合は66%(前記「日本人の国民性調査」)、盆や彼岸などにお墓参りをする人の割合は78.3%、正月に初詣でに行く人の割合は73.1%(前記「全国世論調査」)、「去年のお盆の墓参り」に行った学生の割合は56.4%、「今年の初詣」に行った学生の割合は61.4%(前記「学生宗教意識調査」)と、信仰を有していると答えた人の割合に比してそれぞれかなり高い割合となっている。 お盆や正月の帰省ラッシュの存在は、家族と再会する機会という世俗的目的と宗教的目的が相まって生じている現象なのである。 以上のように、総体的にみて今日の日本人と宗教のかかわりは、①主観的に特定宗教の信仰を有していると自覚する者は少なく、②一方で「形式的に」教団に所属しているとされる人数は多く、③特定の宗教・教団への所属意識がなくとも宗教的感性を有し宗教的行動は行う、というものである。 こうした日本人の在り方が無神論とは異なるとしても、「無宗教」であるといえるか否か。そもそも、大半の日本人が「無宗教」であるか否かという論点について、論理的に考えるならば、「宗教」ないし「無宗教」の定義によって、その結論が決まることになる。 しかし、「宗教」の定義自体が容易な問題でない。『宗教の定義をめぐる諸問題』(文部省調査局宗務課、昭和36年)には、104人の研究者による104通りの異なる定義が収録されているほどである。「宗教」の定義が容易でなければ、「無宗教」の定義も容易ではなかろう。容易に定まらない多様な定義のいずれに依るかにより、日本人は「無宗教」であるともないとも言い得ることになる。 少なくとも、すでに述べたように、こうした日本人と宗教のかかわりは国際比較的にかなりユニークなものであり、戦前から説明が試みられてきたものであるが、戦後においても例えば山本七平や小室直樹の「日本教」論(『日本教の社会学』1981年、講談社[2016年復刻、ビジネス社]など)や阿満敏麿の『日本人はなぜ無宗教なのか』(ちくま新書、1996年)、最近では松島公望・川島大輔・西脇良『宗教を心理学する データから見えてくる日本人の宗教性』(誠信書房、2016年)などがそれぞれ多様なアプローチによってこの問題を考察している。 この問題は、個人的レベル(海外旅行)や国家的レベル(外交)の実践的問題であるにとどまらず「われわれ日本人とはいかなる存在なのか」、というアイデンティティの探求にかかわっているため、時代を超えて関心を引き続けるのであろう。 なお、「特定の宗教を信じているわけではないが『宗教性』は大切だと思っている」という人を、「Agnostic(不可知論者)」と表するのが英語の意味的には一番実態と表現のずれが少ないという。 しかし、実際に書類に記入したりする場合「Agnostic」はよくわからないから、面倒くさいので「Buddhist」でいいや、というのがおそらく大方の日本人の心情であろう。これをおおらかで寛容と評するも、いい加減で無節操と評するも、立場によって可能である。

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    【百田尚樹独占手記】私を「差別扇動者」とレッテル貼りした人たちへ

    百田尚樹(作家) 私の一橋大学の講演中止が波紋を広げています。 講演反対運動を積極的に進めていたのは、同大学にある「反レイシズム情報センター(ARIC)」(以下ARIC)という団体です。 ARICは、「人種差別主義者である百田尚樹に講演させるわけにはいかない」という理由で、実行委員会に対して2カ月にわたって執拗に「講演中止」を要請していました。百田尚樹氏の講演会中止問題に揺れる一橋大学の国立キャンパス(桐原正道撮影) 私はこれまで人種差別発言などしたことはないし、ヘイトスピーチもしたことはありません。にもかかわらず、ARICは私のツイッター上の発言を恣意的に解釈して「百田尚樹はレイシストであり、差別扇動をする者」というレッテルを貼り、そんな人物に講演させるわけにはいかないと言い出したのです。 ちなみに、私の講演テーマは「現代におけるマスコミのあり方」というもので、ヘイトやレイシズムなどはまったく関係のないものです。にもかかわらず、ARICは私の講演そのものが差別扇動になると主張しました。 ARICはこうした勝手な前提を設けて、自分たちで作ったいくつかのルールを実行委員会に突きつけ、これを守らなければ講演させないと言いました。彼らのルールそのものは実に不当なものでしたが、中でも一番驚いたのは、以下の要求です。「百田尚樹氏講演会『現代社会におけるマスコミのあり方』に関しては、百田氏が絶対に差別を行なわない事を誓約したうえで、講演会冒頭でいままでの差別扇動を撤回し今後準公人として人種差別撤廃条約の精神を順守し差別を行なわない旨を宣言する等の、特別の差別防止措置の徹底を求めます。同時にこの条件が満たされない場合、講演会を無期限延期あるいは中止にしてください」 啞然とするとは、まさにこのことです。 「百田尚樹は差別扇動する者」という、まったく事実と異なる前提の上で、講演前に私にそれを撤回させ、さらに今後は二度とそのようなことを行なわないことを宣誓させるとは、呆れ果ててモノも言えません。 実行委員会は突っぱねましたが、ARICはその後、何度も執拗に実行委員会に講演中止を要請し、また大学の教員にも働きかけたようです(彼らは「講演反対」の署名運動も始めていました)。手慣れた「プロの活動家」のやり口 ARICは実行委員会との交渉の場で、「脅し」すれすれの言葉を使っています。たとえば、彼らは交渉の場においてこんな発言もしています。「われわれと別の団体の男が講演会で暴れるかもしれないと言っている。負傷者が出たらどうするんだ?」 これは直接的な脅しではありませんが、暴力をほのめかした恐喝と言えるものです。やくざ映画などで、親分が「わしは何もしないけど、うちの若い者の中には血の気の多い奴もいるのでな」というセリフを連想させます。 また、外国籍のある女子学生が「百田尚樹の講演を聞いて、ショックを受けて自殺するかもしれない。その時は実行委員会としてどう責任を取るつもりなのか?」という発言もありました。これなどは悪質なクレーマーのセリフ以外の何物でもありません。いずれにしても、手慣れた「プロの活動家」のやり口です。 対する実行委員会のメンバーは1、2年生が中心です。19、20歳の学生が、こんな悪質な圧力を2カ月近くも受け続ければ、たいていは参ってしまいます。実際、多くの学生が疲弊していきました。聞くところによれば、ノイローゼ状態になった人や、泣き出す女子学生までいたようです。こうして実行委員会の中にも「もうやめよう」と言い出す学生が次第に増えていきました。 それでも「不当な圧力に屈しない」という思いを持つ委員会のメンバーは講演会を実施するために、万一に備えて警備会社に依頼したそうです。しかし反対派の執拗な圧力に、警備の規模が大きくなりすぎ、他の企画にまで影響を及ぼすほどになったようです(これは実行委員会が講演中止に至った理由として書いています)。 そしてついに6月2日の夜、実行委員会のメンバーのほとんどが(一人を除いてと聞いています)、中止にしようと決めました。 以上がことの顚末です。 さて、ARICという団体ですが、その実態は不明です。代表は35歳の在日朝鮮人三世で、一橋大学の大学院生です。その活動のメインは、出版物や新聞、ネットなどから、「差別発言」を探し出し、それをデータベース化することです。2017年6月現在で、私をはじめとする120名を超える文化人や政治家など2700を超える発言が、「差別発言」として認定され、データベースに載せられています。その中には故人の発言もあります。しかし、そうして挙げられた発言のほとんどは差別とは何の関係もないものです。どこがヘイトスピーチなのか ちなみに私の発言は全部で19載っています。たとえば、次のような発言もヘイトとして認定されています。「悲しいことだが、すでに戦後の自虐史観の洗脳を受けてしまった人の洗脳を解くのは無理。これはもうほとんど不可能…(涙) 私に出来ることがあるとすれば、まだ洗脳を受けていない若い人々を、洗脳から守るということ」(ツイッターより)「特攻隊員たちを賛美することは戦争を肯定することだと、ドヤ顔で述べる人がいるのに呆れる。逃れられぬ死を前にして、家族と祖国そして見送る者たちを思いながら、笑顔で死んでいった男たちを賛美することが悪なのか。戦争否定のためには、彼らをバカとののしれと言うのか。そんなことできるか!」(同)作家の百田尚樹氏(宮川浩和撮影) これらの発言のどこがヘイトスピーチであり、レイシズム発言なのでしょうか。まったく意味がわかりません。他の人たちの発言も同様です。ちなみに安倍総理は31の発言がヘイトスピーチであると認定されています。 ARICのデータベースはネットで見られるので、興味のある方は覗いてみてください。なぜこれがヘイトスピーチになるのかと首を傾げるものばかりです。いったい彼らの目的は何なのか、今のところはまるでわかりません。 ただ、今回の講演中止運動を見てもわかるように、彼らは「差別反対」「ヘイトスピーチ反対」を錦の御旗として活動しています。しかし差別やヘイトの定義は曖昧です。例に挙げた私の発言を見てもわかるように、彼らのヘイト認定は実に恣意的です。 恐ろしいのは、ARICは自分たちが「差別主義者」と認定した人物は、発言を封じて構わないと考えていることです。そこにはヴォルテールの有名な言葉、「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」という精神はどこにもありません。ARICや彼らに賛同する人たちは今後、「言論の自由」や「表現の自由」を口にする権利はないと思います。 驚いたことに、今回の講演中止が別に問題ではないと言う人もいます。ジャーナリストの安田浩一氏もその一人です。安田氏は近年、対レイシスト行動集団(前身はレイシストをしばき隊)と親密になり、活動家としての発言が多いことでも知られています。彼は東京新聞のインタビューで、私の「沖縄の二つの新聞はつぶさんとあかんのですけど」という発言に言及し、「そのような人たちが言論弾圧というのは、チャンチャラおかしい」と言っています。他者の発言を封じる言論弾圧 ここには巧妙な論理のすり替えがあります。私の発言は自民党若手議員の勉強会の場でのものとはいえ、それはあくまで「私的な会合」です。その発言は公式のものではないし、不特定多数に向けてのものでもありません。私自身が沖縄の二つの新聞に過去、さんざん悪口を書かれてきたことに対して、一言冗談で恨み節を述べたものにすぎません。実際、沖縄の新聞に対してどうするかというようなことは一切言及していません。当たり前ですが、私には沖縄の新聞を潰せる力もありません。2015年6月、自民党の「文化芸術懇話会」であいさつする百田尚樹氏(斎藤良雄撮影) しかし、ARICは実際に実力行使して、私の講演を潰したのです。これを同列に並べることこそ、「チャンチャラおかしい」ものです。 漫画家の小林よしのり氏は、「言論弾圧とは政治権力が民間に対して為すもので、これは言論弾圧にあたらない」という趣旨のことをブログで発表したようですが、これも無理があります。「言論弾圧」は何も政府がするものだけとは限りません。民間の人物や団体が不当な圧力でもって、他者の発言を封じてしまう行為もはっきりと言論弾圧と言えるものです。  公正を期して書いたつもりですが、もしかしたら被害者寄りの書き方になったかもしれません。そう受け取られたならご寛恕いただきたい。 この事件は第三者的には、たいした事件ではないのかもしれません。大学祭での一作家の講演が中止になったというだけのことですから、これ自体は大袈裟に騒ぐほどのことでもないとも言えます。 しかしながら、この事件は危ないものを内包しています。というのは、これが前例となり、ARICのような団体が、自分たちの気に入らない人物の発言を封じてしまうようなことが常習化する危険性を孕んでいるからです。 これは決して大袈裟に言っているのではありません。この事件を多くのマスコミが見逃せば、やがてこういう事例が頻繁に起こることになるでしょう。気が付けば、自由に発言できない空気が生まれているかもしれません。そうなった時、「ああ、あれが最初だったか」と思っても、その時はもう手遅れです。

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    百田氏講演中止を報じないマスコミに「言論の自由」を語る資格はない

    一色正春(元海上保安官) 作家であり放送作家である百田尚樹氏が一橋大学の学園祭「KODAIRA祭」で、「現代社会におけるマスコミのありかた」というテーマで行う予定だった講演会が中止になり、同祭のホームページ(HP)でその理由が以下のように発表されました。 このたび本講演会を中止することになった理由についてですが、「本講演会がKODAIRA祭の理念に沿うものでなくなってしまったこと」が挙げられます。当学園祭は一般の学園祭と異なり、「新入生の歓迎」を第一義とするものです。当委員会の企画のために、新入生の考案した企画や、新入生の発表の場である他の参加団体の企画が犠牲となることは、当委員会では決して容認できるものではありません。 当委員会は本講演会を安全に実施するため、これまで幾重にも審議を重ね、厳重な警備体制を用意していました。しかし、それがあまりにも大きくなりすぎたゆえ、(いくつもの企画が犠牲となり、)「新入生のための学園祭」というKODAIRA祭の根幹が揺らいでしまうところまで来てしまいました。(一部抜粋)東京国立市にある一橋大学のキャンパス 話を要約すると「何らかの理由で講演会の安全が脅かされる事態が予測され、それに対応できないと判断したから中止する」ということのようです。その理由とは何なのかという話の前に、まずは発表方法に問題があったことを指摘しておきます。当初、百田氏はツイッターで上記中止発表画面を「私のところにはまだ講演中止の連絡がないのだが…。」というコメントとともにツイートしていました。 つまり、学園祭の主催者は当の本人である百田氏に何の相談や連絡もせず、一方的にホームページで中止を発表したのです。これは契約不履行云々(うんぬん)というビジネスの話以前の問題で、このような信義にもとるやり方は、一般社会では決して許されません。物事を頼んでおきながら自分たちの都合でキャンセルするのであれば、ホームページで一方的に発表する前に、まずは講演を依頼した百田氏に理由を説明し詫びるのが最低の礼儀です。これに対して世間を知らない学生だからと擁護する向きもあるようですが、ならば学生任せにせず良識のある教員等が社会の最低マナーくらいは指導すべきであり、いずれにしても、この一事だけで大学のイメージを損ねたことは間違いありません。公開の場なら言論で戦え とはいえ、百田氏のツイッター等の言によれば、主催者に対して講演会中止を求めるかなり「強力な圧力」があったようです。中には、暗に当日、物理的に妨害するとほのめかす脅迫ともとれるようなものもあったそうで、安全が脅かされると主催者が心配したのも無理はありません。加えて、度重なる嫌がらせなどによって、学生たちが精神的に疲弊してしまったことも中止に至る背景にはあったのでしょう。 それに対して「学生は根性がない」と言う人もいるようですが、誰がどのような形で圧力をかけたり嫌がらせをしたりしたのかを知る術のない私には、主催者の根性がいかほどであったのかは判断のしようがありません。ただ、結果を見れば、彼らが当初の意思を曲げて中止を決断せねばならないほどの重圧を受けていたことは確かであり、それが不当なものであったことは過去の例から想像に難くありません。最近、不当な圧力により中止になった催し物百田尚樹サイン会(厳重警備のもと決行)はすみとしこサイン会桜井誠早稲田祭千葉麗子サイン会(敬称略) この例を見ていただいてわかるように、これらは一般に開かれた催し物ですから誰でも自由に参加できるはずです。もし、この人たちの意見が気に入らないのであれば、自分も催し物に参加し相手の意見を十分に聞いた上で公開の場で質問するなど、言論で戦えば良いだけの話です。ところが、彼らは自分が相手に議論で敵わないことを知っているのか、言論以外の暴力的な方法で圧力をかけて催し物を中止に追い込み言論を封殺してきました。2016年3月、兵庫県警の捜査員らが警戒に当たる中、作家の百田尚樹氏(中央)によるサイン会が開かれた=兵庫県西宮市(小松大騎撮影) 彼らの手法は、まず自分たちの独断と偏見で「弱者」と「強者」、「被害者」と「加害者」などに社会を二分して対立を煽り、自分たちは「弱者」や「被害者」という批判を受けにくい立場に立ちます。一方で彼らは、対立する相手に「レイシスト」などという誰もが嫌悪感を抱くようなレッテルを張り、弱者や被害者は強者や加害者に対して何をしても許されるという自分たちが勝手に作ったルールにのっとり、相手に議論や反論を許さず一方的に罵倒し、それを執拗に繰り返します。これにマスコミが同調すると、さらに手がつけられなくなり、何を言っても無駄な状態になってしまいます。 そうやって今まで何人もの政治家が餌食になりました。このように相手には容赦のない人たちですが、相手が少しでも反撃してくると「差別だ」と大騒ぎして自分たちの陣地に立てこもり、知らん顔をします。本当に、あきれるくらい卑怯な人たちです。 最近はインターネットの普及により情勢が変わりつつありますが、今まで、このような攻撃が自分たちに向くことを恐れたマスコミが真実を報じなかったため、多くの国民が知らないまま、この方法でどれだけ正論が封じられてきたことか分かりません。 彼らに共通するのは「弱者は強者に何をしても良いが、強者が弱者に力を使うのは許せない」という考え方です。そういう考え方が根底にあるので「言論弾圧というものは権力者が一般国民に対して行うものだから、今回はそれにあたらない」という言い訳が出てくるのです。確かに「弾圧」という言葉は権力で押さえつけるという意味ですが、彼らも他人を力で屈服させることができる権力者ではありませんか。そういうと「権力とは…」という話になり、どんどん話が本筋からそれていくので、この辺りでやめておきますが、問題は言葉の定義ではなく、相手の言論を力で封じ込めることの是非です。弱者ならば何をしてもいいのか また、この「弱者や被害者は強者や加害者に対して何をしても良い」という考え方を突き詰めていけば「権力者が国民に対して危害を加える事はけしからんが、国民が正義のために権力者を殺すのは正しい」というテロ行為容認の極論に行き着きます。 彼らの恐ろしいところは自分たちが絶対的な正義であると思い込み、「それに反する人間の行為を正すことが自分の使命だ」「そのためには何をやっても許される」と思い込んでいるところです。これは地下鉄サリン事件などの凶悪犯罪を引き起こした宗教団体の当時の考え方と同じです。 話を百田氏の講演会に戻すと、彼らは「ヘイトスピーチ」なるものを理由として講演会の中止を求めたそうですが、まったく意味が分かりません。今回の講演のタイトルは「現代社会におけるマスコミのありかた」というもので、大人気テレビ番組の放送作家を四半世紀以上務めた百田氏にピッタリのタイトルです。一体このタイトルから、どうやって差別を連想できるのか理解できません。そもそも、彼らに百田氏の発言の善悪を判断できる能力と権利があるのでしょうか。 20年前、ジャーナリストの櫻井よしこ氏が「いわゆる従軍慰安婦問題に強制連行はない」と発言したことに対して人権を標榜(ひょうぼう)する団体が「差別だ」と圧力をかけて彼女の講演会を中止させたことがありました。当時、彼らが錦の御旗として振りかざした「差別だ」という主張が正しかったのかどうかということは、吉田清治の嘘を朝日新聞が認めた今は言うまでもないことですが、当時はその嘘を信じる人が多かったので圧力が通用し、「嘘が正しい言論を封じる」という結果になったのです。2014年8月15日、自民党議連「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」で、朝日新聞の慰安婦報道について話すジャーナリスト・櫻井よしこさん(左から2人目)。その右は古屋圭司会長=東京・永田町の自民党本部(早坂洋祐撮影) この教訓から学ぶべきことは、事実が確定していないことに対して安易に「差別」というレッテルを貼り、言論を封殺することは危険だということです。そのような能力や権利は誰も持たないし、持とうとしてはいけないのです。むしろ異なる意見を戦わせることによって真実が明らかになるのが理想ですから、明白な事実誤認でない限り、異論を排除すべきではないのです。勝手な思い込みで人の自由を奪う しかも、百田氏が講演会で話す予定だった内容については、一言も発していないことにも注目すべきです。仮に百田氏の過去の発言が害悪に満ちあふれ人々に危害をもたらしていたとしても、今の時点では誰に何の害も与えていません。これはどういうことかというと、「あいつは過去に盗みをしたから今回もやるに違いない」と断定し、おまけに「泥棒に自由を与えてはいけないから牢屋に入れておけ」と勝手な思い込みだけで人の自由を奪うようなものであり、非常に危険な考え方です。 百田氏の講演会に反対する人とテロ等準備罪に反対する人がリンクしているという前提で話しますが、彼らは今回の法改正で事前の準備段階を捜査するのはけしからんと言いながら、百田氏の発言は内容も把握せず事前に禁止しなければならないと同じ口で言っているのです。自分で言いながら矛盾を感じないのか、それとも百田氏の発言は「テロより恐ろしい」とでも思っているのでしょうか。 そして、圧力や嫌がらせの実態が具体的にわからないので断言できませんが、彼らの行為は下記の法令に違反している疑いがあります。日本国憲法第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。第二十三条 学問の自由は、これを保障する。刑法第二百二十二条(脅迫)第二百二十三条(強要)第二百三十条(名誉毀損)第二百三十一条(侮辱)第二百三十三条(信用毀損及び業務妨害)第二百三十四条(威力業務妨害)  今後、同じような被害者が出ないよう捜査機関には厳正な対処を願いたいものです。もし、現行法で捜査機関が取り締まることが困難であるならば、実際に体調不良などの被害を受けた人間がいるのですから、立法措置による被害防止などを国会で議論すべきです。日本国憲法 どこの世界にも不届き者は一定数存在し、その人間の不埒(ふらち)な言動は社会に害悪をまき散らかします。それは人間が存在する以上、決してなくなることはありません。だから法令により悪事を禁止し、それを破ったものを警察が捕まえて処罰する、それを見た人が事件に関心を持ち、同種の事件発生や被害拡大を図るという仕組みがあるのです。その中でマスコミは事件を広く国民に知らせるという重大な任務を与えられ、社会の正常性を保つ役割の一旦を担っているのです。講演中止を報道しないマスコミ ところが、今回の事件は民主主義の大原則である「言論の自由」にかかわる大問題にもかかわらず、ほとんどの大手マスコミが報じていません。(中には批判にあたらない報道を続けている人たちがいることは重々承知しておりますが、今回はあえて「マスコミ」とひとくくりにして話をします)。どういう理由で彼らが暗闘(だんまり)を決め込んでいるのかは分かりませんが、おそらく被害者が百田氏でなければ大々的に報じたであろうということは、前述した櫻井よしこ氏の講演会が中止になったときと、柳美里氏のサイン会が右翼を名乗る男の脅迫電話により中止になったときのマスコミ各社の報道姿勢の違いを比べて見れば容易に想像できます。 つまり、彼らの「言論の自由」には守るべきものと守ってはいけないものの二種類があり、それを彼らが事件ごと恣意(しい)的に判断しているのです。彼らが最もダメなのは自分たちに都合の悪い事実を報じないところです。情報源をマスコミに依存している人たちにとって、事件が報じられないということは、その事件は発生していないのと同じことになり、その結果、その人たちの「知る権利」は奪われ、さまざまな不利益を被ることになります。 仮に百田氏と反対の意見を持つのであれば、それは堂々と主張すべきであり、「一橋大の学生はレイシストと戦って大学の自由を守った」と報道すればよいだけの話なのですが、彼らは「公平中立」を装うためにそうはしません。テレビは放送法があるので建前上そうはいきませんが、完全中立な報道など不可能に近いのですから、日本の新聞も公平中立を謳(うた)うのではなく、他国のように各社の主張をもっと前面に出すべきではないでしょうか。一見、公平中立を装い、「編集権の自由」や「報道しない自由」を駆使して、自分たちの主張に沿わない事実を報道しないことにより、国民の知る権利を阻害し、自分たちに都合の良い情報だけを流すのではなく、思想的に偏っているのであれば偏っていると正直に言うべきで、それを言わないのは卑怯(ひきょう)です。昔であればいざ知らず、今はインターネットがあるのでマスコミの嘘はすぐばれます。もうマスコミが情報を独占していた時代は終わったのです。そのことに気がつかない、気がついても改善しようとしないマスコミは、これからも凋落していくことでしょう。 いずれにしても今回の事件は、まごうことなき「言論封殺」であり、言論の自由に対する挑戦です。大学はこれに屈するのであれば「学問の自由」や「大学自治」を、この事件を無視するメディアは「知る権利」を、これに異を唱えない言論人は「言論の自由」を、いくら主張しても説得力なんかありません。

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    百田氏の講演中止問題で剥がれ落ちた「護憲リベラル派」の化けの皮

    潮匡人(評論家) まず、今年6月7日付「産経新聞」朝刊1面に掲載されたコラム「産経抄」を借りよう。 「一橋大学の学園祭で予定されていた作家、百田尚樹さんの講演会が、中止に追い込まれた一件である。一部の団体から強力な圧力がかかり、大学の一部教員からも中止を求める声が出ていたという。(中略)市民団体による組織的な抗議電話などで、識者の講演会が中止に追い込まれるケースは、大学に限らない。(中略)ただ朝日新聞などは、リベラル派文化人の言論活動が妨害されると大騒ぎするものの、保守系文化人が同じ目に遭っても、それほど関心を示さない。奇妙な二重基準がまかり通っている」 事実そのとおり。上記コラムが掲載された以降も、リベラル派は関心を示さない。現に報道していない(6月8日時点)。産経新聞が取り上げたり、百田尚樹氏が自らツイッターで情報発信したりしたから、問題が露見したが、そうでなければ、埋もれていたであろう。 この件は「表現の自由」に深く関わる。憲法上、優越的地位を占める重要な精神的自由権が侵害されたにもかかわらず、護憲リベラル派は沈黙を続ける。朝日新聞は6月9日付朝刊で目立たない第3社会面でエクスキューズのように報じただけであり、同社の綱領に掲げる「進歩的精神」は死んだといえるのではないか。 そしてなぜ、一橋大学は問題視しないのか。法学部やロースクールで憲法を講義する教授らが、なぜ「自由を守れ」と声を上げないのか。不思議である。それどころか、「大学の一部教員からも中止を求める声が出ていたという」(前掲)。正気の沙汰とは思えない。百田尚樹氏の講演会中止問題に揺れる一橋大学=2017年6月、東京都国立市 百田氏の講演を中止に追い込んだ団体はネット上でこう呼びかけた。 「(前略)百田尚樹氏は、悪質なヘイトスピーチ(差別煽動)を繰り返してきました。下記はその一例です。(中略)『もし北朝鮮のミサイルで私の家族が死に、私が生き残れば、私はテロ組織を作って、日本国内の敵を潰していく』(中略)これらヘイトスピーチは、日本も95年に批准した人種差別撤廃条約が法規制の対象としている極右活動・差別の煽動行為に当たる違法行為です。(中略)このような殺人・テロをふくむ差別煽動を繰り返す百田尚樹氏が、学園祭に招かれることで、私たちは学園祭期間中に深刻な差別・暴力が誘発されることを憂慮せざるをえません。(中略)また国立大学法人一橋大学という公共性ある大学の施設で、公式に学園祭のゲストとして招かれることじたい、彼の差別・テロ煽動に大学がお墨付きを与えることにもなります。(後略)」 もし本当に、百田氏の言論が「違法行為」に当たるなら、講談社や新潮社、文藝春秋など大手や老舗の出版社は軒並み捜索対象となろう。もとより産経新聞社も無事では済むまい(笑)、などと本来なら一笑に付すべき署名活動だったが、彼らの目論見は成功した。 百田氏のツイートによると、「講演を企画した学生たちは、サヨクの連中から凄まじい脅迫と圧力を受け続けていたらしい。ノイローゼになった学生や、泣き出す女子学生までいたらしい」。ならば、それら自体が明白な「違法行為」であり、刑法上の犯罪に当たる。それも、「深刻な差別・暴力が誘発されることを憂慮」する団体の扇動によって(笑)…。いや、もはや笑い話では済まされない。警視庁は本件を正式に捜査すべきと考える。リベラル派に「自由」を語る資格はない 本件は憲法上も「表現の自由」に加え、「学問の自由」そして「思想・良心の自由」に深く関わる。ともに「内心の自由」と呼ばれ、「表現の自由などの外面的な精神活動の自由の基礎をなす」(芦部信喜『憲法』岩波書店)。とくに「思想・良心の自由は、内面的精神活動の自由のなかでも、最も根本的なものである」。そう、護憲リベラル派が大好きな教科書にも明記されている。 その「最も根本的な」人権が侵害されたにもかかわらず、護憲リベラル派は「自由を守れ」と声を上げない。彼らに、自由や人権、立憲主義を語る資格があるだろうか。少なくとも「内心の自由」を掲げて「共謀罪反対」を唱えるのは、もう止めてほしい。「共謀罪」に反対する国会前デモの参加者ら=2017年5月、東京・永田町 今回、百田氏を含む「保守」陣営の言論に「ヘイト」のレッテルが貼られ、「差別扇動」されたあげく、「違法行為」の誹謗中傷も受けた。脅迫行為を含む「深刻な差別・暴力が誘発」された。そうした「差別・テロ煽動に大学がお墨付きを与えること」になってしまった。だが、懸念の声をあげたのは保守陣営だけ。いまも護憲リベラル派は沈黙を続ける。最も根本的な人権が侵害されたにもかかわらず…。 彼らは口先で「リベラル」と言いながら、拠って立つべき「自由」を理解していない。問答無用で「保守」を断罪しつつ、守るべき「自由」を踏みにじっている。自身が憎むべき全体主義に加担していることに気づきもしない。 最後に、あえて彼らが大好きな思想家ハンナ・アーレントが残した教訓を借りよう。 「全体主義と闘うためには、ただ一つのことを理解する必要がある。全体主義は、自由の最も根源的な否定であるということをである。(中略)自由の否定は、すべての暴政に共通する。(中略)自由が脅かされるときに闘いに参集することができない者ならば、そもそもどのような闘いにも集うことはないだろう」(『アーレント政治思想集成』みすず書房)

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    私は「同性カップルに育てられる子どもがかわいそう」とは思わない

    藤めぐみ(レインボーフォスターケア代表理事) この4月、大阪市の男性カップルが里親に認定され、子どもを育てているというニュースが各種メディアで何度も流れた。関西地域では新聞の一面に大きく取り上げられるなど、全国のほとんどの新聞やテレビで報道された。そしてまた、ネット上では多様な意見があふれた。 私は2013年に任意団体「レインボーフォスターケア」(2015年一般社団法人化、以下「RFC」)を設立した。「同性カップルも里親に」をミッションに掲げて講演会やロビーイングを続けてきたが、今回の報道に対して実はかなり戸惑った。というのも、これまで同テーマに対する人々の反応が薄かったため、これほど大きく取り上げられるとは思わなかったからだ。 近年、LGBTをめぐるさまざまな取り組みは大きな進展を見せている。しかし、今回報道された「同性カップルと里親制度」については、多くの人から関心を持ってもらえなかった。そもそも、児童養護施設や里親制度といった「社会的養護」自体に世間の関心は低く、ある人からは「『同性カップルと社会的養護』ですか。マイノリティーとマイノリティーの話で、『超マイナー』な感じですね」などと言われた。 このように「同性カップルが里親になるなんて、しょせん『超マイナー』な話、到底実現できるわけがない」と世間が思っていた中で、それが実現したからこそ、このような大きな関心を集めたのかもしれない。 なぜ、同性カップルが里親になることが「実現できるわけがない」と思われてきたのか。それは、里親制度があまり知られておらず、養子縁組と混同されることもあり、「同性カップルは『法律上』里親になれない」と思われてきたからだ。要保護児童(保護者のいない児童)のための制度としては、「特別養子縁組」があるが、縁組をするには法律上夫婦でなければならず、民法の改正が必要だ。 しかし、里親制度は、子どもと里親の間に法律上の親子関係を作り出すものではなく、里親になれる人は夫婦である必要もない。実際、私の知人には「成人した娘とその母」で里親になった人もいれば、単身者で里親をしている人もいる。里親制度は「一定期間、お子さんをお預かりする」といった表現をされることもあり、かなり「緩やかな子育て」が行われている。 ところが、RFCの設立以来、「役所に問い合わせたが『(男性と)結婚してから電話してきて』といわれた」という女性カップルや、「偏見にあふれた言葉を口にされた」というゲイ男性の声が寄せられ、「事実上同性カップルは里親にはなりにくい」ことがわかってきた。自治体職員が法律を勘違いしている、あるいは、偏見に満ちあふれていて否定的なことを口にしていたためだ。同時に、自治体職員が勘違いしているということは、里親のなり手である同性カップルもまた、「里親になれない」と思い込んでいると予想された。私はこのような間違った情報や対応によって、里親の人的資源が非常に残念な形で失われていると危機感を覚えた。 今回、同性カップルが里親認定され、子育てをしていることが報道されたことで、このような「断られた」「なれないと思っていた」という状況が各地で起こっていたことが次々と判明しており、4月17日付の北海道新聞では、同性カップルの「私たちは里親になれないと思っていた」の声や法律婚でないと駄目と断られた事例を紹介している。 私は前記のような間違った情報や対応、思い込みといった状況を改善する有効な手段は、まずは自治体から「同性カップルも里親になれる」ということをアナウンスしてもらうことだと思った。認定側である自治体が発信すれば、双方の誤解が解け、同時にマイノリティーも里親の人材として歓迎する、という自治体のメッセージにもなる。そこで、RFCは2015年に大阪市の職員と意見交換を行った。その結果、大阪市の「里親として適任者であれば、差別や偏見でもってLGBT当事者を排除することは絶対にない」というメッセージが淀川区の広報誌に掲載されることとなった。今回報道されたカップルはこのメッセージに応じた形で里親申請を行ったのだ。子どもが欲しいはエゴか 過去には、女性カップルが単身者として同時に里親認定を受けたような例があると聞いているが、今回は自治体がアナウンスし、同性カップルである二人を一つの「世帯」として認定したことが大きなインパクトとなったと感じている。今回、同性カップルが里親認定を受け、子どもを委託されたことは「法律上可能なことが当たり前に可能になった」ということである。 大阪市の吉村洋文市長の言うように「(こうしたことが)ニュースにならないのが在るべき社会だと思う」という言葉が印象的で、「当たり前」に近づく一歩だと感じた。 一方で、ネット上には否定的な意見も見られた。 その一つが「里親制度は子どもの制度。子どもがほしい大人の制度ではない。勘違いしないでほしい」「子どもがほしい大人のエゴだ」といった意見だ。誰に対して「勘違いするな」なのか不明だが、里親制度は子どもたちのための制度であることは間違いない。今回の里親当事者も「『子どもがほしい』大人のための制度ではなく、子どものために『育つ家庭』を用意する、子ども中心の制度です」と述べている。 ただ、現実的に「里親になりたい」大人=「子どもがほしい」大人であることが多いのは事実だ。私のところにも「子どもがほしいんです」という同性カップルの問い合わせが入ることがある(まずは制度を知ってほしいので、社会的養護に関するサイトを紹介したり、勉強会の案内を送るようにしている)。 私は、そういった「子どもがほしい」という動機について、「エゴだ!」と毛嫌いしなくてもいいのではないかと感じている。なぜなら、「子どもがほしい」ということを入り口として、そこから里親制度、社会的養護の現実について学んでいく人が多いからだ。実際に、自治体が行う「里親説明会」に参加する人の大半は「不妊治療をしていたが子どもを授からなかった夫婦」である。テレビ番組で取り上げられる里親も、「子どもができなかったので」というのが最初の動機であると語っていることが多い。 そうした動機で制度に興味を持った大人たちが、里親研修を受け、認定をめざすことになるのだが、里親に認定されるまでの道のりはとても長い。座学の研修、施設の見学や実習、面談などを経て、最後に児童福祉審議会において、その人が里親として適切かどうかが審議される。仕事の休みをやりくりしながら研修に参加する場合、およそ1年の歳月がかかる。 たとえ「子どもがほしい大人のための里親制度」と「勘違い」していた大人がいても、研修の中で「子どものための制度」ということを何度も教えられる。早い段階で「考えていた制度と違った」と、あきらめる人もいれば、社会的養護の現実を知ったうえで「ぜひ子どもたちのために里親になりたい」と考えを変える人もいる。ゆえに、私はことさら「子どものための制度ということを知っているのか」と目くじらを立てる必要はないと思っている。 さらに、報道の反応を見ながら感じたことは、「異性カップルの里親」と「同性カップルの里親」に対しての反応が不均衡だということだ。前述の通り、夫婦で里親の人が「不妊治療で授からず子どもがほしくて」と言ったところで、世間から「エゴだ」「勘違いするな」と言葉を浴びせられることはほとんどない。一方で、同性カップルとなると、途端にそういった言葉が飛び交う。私はそんな現実に対して、「それこそが差別的なのでは」と首をかしげる思いだった。「いじめ」の問題 ほかに、「同性カップルに育てられるなんて、子どもがかわいそう」という意見があったが、それは偏見と差別以外の何物でもない。親元で暮らせない子どもは、現在約4万5000人いる。《厚労省「社会的養護の現状について」(平成29年3月)参照》  その大半が児童養護施設で暮らしており、厚生労働省は「家庭的養護の推進」を掲げて、里親の増加に取り組んでいる。同時に、児童養護施設の小規模化など、環境改善もはかろうとしている。ただ、施設ごとに大きく環境が異なることや、性的マイノリティー児童の中には児童養護施設の集団生活が苦痛となる児童がいるなど(※注)、課題は山積している。児童養護施設の環境を改善していく取り組みと同時に、一つでも多くの里親家庭を増やし、子どもにとっての選択肢を増やすことは喫緊の課題である。 そのような状況の中で、今回の報道は、一人のお子さんに安心して過ごすことのできる家庭が用意されたという喜ばしいものである。「同性カップルに育てられるなんてかわいそう」と言い放つ人は、「嫌がる子どもが無理やり連れ去られた」と想像しているのだろうが、それはとんでもない間違いである。 なぜなら、里親認定を受け、委託の打診がなされた後、すぐに子どもが委託されるわけではないからだ。委託できるかどうか、慎重にマッチングが行われ、小さいお子さんであれば、半年くらいかけて、少しずつ家庭に慣れていく期間が設けられる。4月18日付朝日新聞によると、男性カップルの里親だと説明を受け「抵抗感なく納得していた」という10代男子と引き合わせ、3人は今年2月から仲良く暮らしているという。 と報じられている。お子さんが納得したうえでの委託となっているのである。 「いじめられるからかわいそう」という声もあった。確かに「絶対にいじめられない」とは言い切れないだろう。 イギリスの『Proud Parents』という本には、同性カップルとその里子のインタビューが収められている。同性カップルの里子、ウィル君(17歳)へのインタビューで、「(里親が同性カップルということで)嫌がらせはあった?」と聞くと、彼は「あった」と答えている。以下が、彼のセリフだ。 「生徒たちが、僕がゲイカップルの里親と暮らしていることに気がついたんだ。彼らは僕をからかい、それは学校中に広がった。マークとキーラン(彼の里親)は学校に話をし、このこと(からかわれたこと)について連絡した。その後、その件は落ち着いた。最初にからかった生徒は注意を受けたよ」 彼のセリフから、彼の里親や通う学校が、いじめにきちんと対応していることがわかる。 ウィル君は、以前男女夫婦の里親のところにいたが、彼にとっては今のゲイカップルの里親のほうが自分に合うのだという。以前の里親が合わなかった理由は、「里親の小言が多くって、しかも田舎だったんだよね」だそうで、私はこのセリフを読んで、なんとも若者らしい発言だなと思った。ウィル君は、今の里親と初めて海外旅行に行ったり、日々の生活を楽しんでいる様子を語り、「まるで息子のように接してくれて、家族のようだ」と語っている。 このインタビューは「いじめられるかもしれない」という理由のみで子どもが家庭で過ごすチャンスをつぶしてはいけない、ということを示唆している。また、いじめが起こったとき、子どもが親に自分がいじめられていることを言える環境や、親が学校にいじめについて話し、学校が適切に対応することがとても大切だということが伝わってくる。(※注)RFCは「児童養護施設における性的マイノリティー(LGBT)児童の対応に関する調査」を実施した。集団生活になじめない性的マイノリティー児童の存在が明らかになっている。イデオロギーは関係ない ここで、「いじめ」の本質から「同性カップルの子どもはいじめられるからかわいそう」という意見について考えてみたい。 いじめというのは「マイノリティー性をあげつらう行為」だ。実際に、児童養護施設の子どもや、里親家庭の子どもがいじめにあっているという声を聞く。集団でいじめが行われるとき、子どもたちはそのターゲットの子どものマイノリティー性を見つけ出す。それは「めがね」でも、「デブ」でも、「金持ち」でも、「貧乏」でもいい。いじめのターゲットとなったマイノリティー性は、なんでも「からかい」の言葉に変わりうるのだ。そうだとすると、「●●だといじめられるよ」という言葉自体がいじめに近い言葉なのではないだろうか。「かわいそう」と言い放つ前に、自分自身が誰かのマイノリティー性をあげつらっているのではないか立ち止まって考えてほしい。 私は以前、知人から「同性カップルの里子なんてかわいそうだ。そんな人に育てられるよりも施設で暮らせばいい」と言われたことがある。施設がどういうところか知っているかと聞くと「知らない」と彼女は言った。性的マイノリティーの人に会ったことがあるかと聞くと「会ったことがない」と返ってきた。「AよりもB」と述べる人が「AもBも知らない」と答える姿に私は驚愕した。結局、「かわいそう」と言い放つ人は、子どもたちの状況を何も知らず、知ろうともしていないのではないだろうか。今回の報道を聞いて「かわいそう」と言う人は、ぜひ社会的養護についてもっと関心を持ってほしい。報道のような養育里親だけでなく、季節里親、週末里親、児童養護施設ボランティアなど、大人が子どもと関わる方法はたくさんある。ネット上に「かわいそう」と書き込んだ後、今回の報道を忘れずに、ぜひ社会的養護への関心を深めてほしいと私は願っている。 また、RFCの活動を続ける中で、さまざまな政治家と話をして、非常に興味深いと思ったことがある。それは、今回の報道に関して、政治家のイデオロギー面での思想と、同性カップルの里親認定に対する賛否が一致しなかったことだ。つまり、「保守=同性里親反対」「リベラル=同性里親賛成」というような形では、意見がわかれなかったのだ。 今回の塩崎恭久厚労相の発言のように「子どものための家庭を増やすことだからいいことだ」と応援してくれる保守層の方もいれば、「実現性も低ければ、優先順位も低い」と相手にしてくれないリベラル層の方もいた。塩崎恭久厚労相=4月7日、国会(斎藤良雄撮影) 今回の報道に関して、塩崎氏は「同性カップルでも男女のカップルでも、子どもが安定した家庭でしっかり育つことが大事で、それが達成されれば、われわれとしてはありがたい」と述べている。 私は常に「子どもたちのため、一つでも多くの里親家庭を増やそうとしている中で、マイノリティーへの無理解や偏見がその妨げになっている。そのような構造を変えたい」と訴えてきた。 今回の報道に関し、ネット上では「子どものためならいいがLGBTの人権推進なら反対」という意見も見かけたが、そのような「どちらの人権の問題なのか?」といった無意味な議論を行うのはやめにしよう。 「マイノリティーへの偏見に固執しているうちに、他の誰かのチャンスを摘み取ること」は、「同性カップルと里親」の問題以外にも起こりうることではないだろうか。今一度、社会の課題を振り返り、同じような問題が起こっていないか、皆で考えるきっかけにしてほしいと私は願っている。

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    子供の幸せを奪う同性カップルの「里親」などもってのほか!

    小坂実(日本政策研究センター研究部長)  今年4月、「男性カップル 里親に」という新聞の見出しを見て驚愕(きょうがく)した。虐待などで親と一緒に暮らせない子供を育てる「養育里親」に、なんと大阪市が30代と40代の男性カップルを認定したというのである。4月6日付の東京新聞はこう報じている。 「2人は2月から、市側に委託された十代の男の子を預かっている。厚生労働省は『同性カップルを認定した事例はない』としており、全国初とみられる。/社会が多様化する中、市は2人の里親制度への理解、経済的な安定など生活状況を詳細に調査した上で認定した。/自治体によっては、同性カップルを男女の結婚に相当する関係と認める動きもあるが、里親は夫婦や個人が認定されており、同性カップルに対し慎重な意見もある」 吉村洋文大阪市長は「LGBT(性的少数者)のカップルでは子育てができないのか。僕はそうは思わない。子どもの意思確認もした」とツイートし、市の判断の正当性をアピールした。だが、同市の判断には深刻な懸念を抱かざるを得ない。 というのも、同性カップルの里親認定には、「子供の福祉」の面で重大な疑問が拭えないからだ。論より証拠、同性婚が容認された米国では、同性カップルに育てられることが、子供に及ぼすさまざまな問題が専門家らの調査を通して指摘されている。※写真はイメージ 例えば、テキサス大オースティン校のマーク・レグニラス准教授による18~39歳の男女約3千人の調査だ。同性愛者の親に育てられた人は、結婚した男女の親に育てられた人に比べて、経済的、社会的、精神的問題を抱えている割合が高いことが分かった。 米カトリック大のポール・サリンズ教授が発表した研究結果では、4~17歳の同性カップルの子供は異性の親の子供に比べ、情緒・発達面で問題を抱える割合が2倍前後高いことが判明した(以上は森田清策・早川俊行編著『揺らぐ「結婚」』による)。 実際、同性愛などについての書き込みがあるブログ「ジャックの談話室」には、父母が揃った家庭に生まれ、両親の離婚後に同性カップル(レズビアン)の家庭で育つことになり、成人してから男性と結婚して子供を持った米国人女性たちの、次のような切実な証言も紹介されている。 「結婚して子供を持ってはじめて父親の役割がいかに重要であるか、また母親としての私の存在がいかにかけがえのないものであるかよく分かりました」 「初めて子供とその男親を持ったことは私にとって美しい、畏敬の念に打たれる経験でした。子供には父親と母親の両方が必要であるという信念がますます強まりました」深刻な「同性カップル家族」の認定 もちろん、これらの調査が今度の大阪市の事例に当てはまるということではない。ただ、こうした公開された知見がある以上、いかに里親が足りなかったとしても、同性カップルを里親に認定するのは、子供の福祉の観点から言って、甚だ軽率と考えざるを得ない。 養育里親は、18歳未満の子供を一時的に夫婦や個人が養育する児童福祉法上の制度で、里親認定の基準は、運営主体の都道府県や政令都市によって異なる。東京都は、同性カップルが里親になれない基準を設けているが、他の自治体には同性カップルを除外する規定はないと報道されている(4月16日付毎日新聞)。だが、以上のような知見を踏まえれば、それは同性カップルを容認しているからではなく、そもそも同性カップルを想定していないからだと考えるのが妥当であろう。※写真はイメージ とはいえ、問題はそれだけではない。同性カップルの里親認定の先には、同性カップルの特別養子縁組への参入、さらに同性婚の合法化が見据えられていることも指摘したい。 今回の大阪市の認定の背後には、一般社団法人「レインボーフォスターケア」の活動があったと言われている。事実、同団体の藤めぐみ代表理事はネットメディアBuzzFeedNewsで、最初に区長がLGBT施策に熱心だった淀川区に足を運んだことや、次に大阪市こども相談センター職員と2時間激論を交わしたことなど、実に興味深い「舞台裏」を語っている(「同性カップルの里親」はこうやって誕生した。立役者が語った「舞台裏」)。 見過ごせないのは、同団体の活動方針だ。同団体のホームページには、1 国や自治体に対して、里親・養親の候補として積極的にLGBTを受け入れるよう働きかけます。 とあるが、それに続いて、次のような方針が掲げられている。2 国に対して、特別養子縁組の養親に同性カップルが含まれるよう働きかけます。3 養子縁組あっせん団体に向けて、養親の候補としてLGBTを受け入れられるよう提案・連携をします。 要は、同性カップルの里親認定の先には、特別養子縁組の「養親」に道を開くという明確な目標があるわけだ。これは法律上の「同性カップル家族」を作ることを意味しており、同性カップルの里親認定とは比較にならない重大かつ深刻な意味を持つ。 先に触れたように、養育里親が18歳未満の子供を一時的に養育する制度であるのに対して、特別養子縁組は、養親との間に実の親子と同様の親子関係を成立させる民法上の制度だ。そのため民法第817条の3は、特別養子縁組については、「養親となる者は、配偶者のある者でなければならない」と定めている。この「配偶者」は、法的には「婚姻関係」にあるものに限られており、夫婦共同縁組が原則とされる。危うい大阪市の判断 つまり養育里親とは違い、特別養子縁組は法律上の親子関係を創設するものであり、結婚が条件となる。しかし、日本には同性婚の制度がないので、現状では同性カップルは特別養子縁組の養親にはなれない。同性カップルが特別養子縁組の養親となるには、民法第817条を改正するか、あるいは同性婚を合法化しなければならないわけだ。 いずれにしても、仮に同性カップルが特別養子縁組の養親になれるようになれば、法律に基づく「同性カップル家族」が誕生することとなる。これは「裏口からの同性婚」の容認ともいえ、そうなれば同性婚の合法化に向けた動きが加速するのは明らかだと思われる。 こう考えると、同性カップルの里親認定は、特別養子縁組の議論に進むための「呼び水」でもあり、同性カップルの特別養子縁組への参入は、同性婚合法化への「呼び水」と言うこともできるわけである。「子供の意思確認もした」などと言って、同性カップルへの養育里親を認定した大阪市の判断の「危うさ」は明らかではなかろうか。※写真イメージ  ちなみに、筆者は同性婚の合法化には反対である。同性婚の合法化によって、子供や社会の利益のための制度としての結婚は本質的な変質を余儀なくされるからだ。 長崎大の池谷和子准教授が指摘しているように、同性婚は結婚の定義から「子供の福祉」という視点を完全に抜き去ることで、一夫一婦制や貞操義務を弱め、親が生まれてくる子供を取捨選択する傾向を強め、男女の結婚や血縁に基づく家族の良さを強調できなくなるなど、結婚や家族の制度に重大な影響を及ぼすことが危惧される(月刊『正論』27年12月号)。 今回の大阪市の動きが、同性婚の合法化―つまり、結婚と家族という「子供の福祉」と「社会の持続可能性」を支える最も重要な社会制度の解体へ向けた「アリの一穴」とならないことを願うばかりである。

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    同性カップル里親制度を大学生427人に聞いてみたらこうなった

    水島新太郎(同志社大学嘱託講師) 2015年、オバマ政権下のアメリカで、最高裁によって同性婚を認める判決が出された。それを皮切りに、わが国日本では東京都渋谷区で同性カップルに対して結婚関係に準ずるパートナーシップ証明書が交付された。また、同じ島国で日本と親交の深い台湾では同性婚を認めない民法は違憲とする声が高まるなど、近年LGBT(性的少数者)を取り巻く社会環境が大きく変わろうとしている。 今年4月、大阪市が30代と40代の男性同性愛者カップルを養育里親として認定したことがメディアを中心に大きく取り上げられ話題となっているが、男性同性カップルの里親認定に対して世論は賛成、反対の真っ二つに分かれている。ここでは、明確な「賛成」の立場からセクシュアル・マイノリティーの人たちが生きやすい社会が何なのか、いくつかの点から取り上げ考えていきたい。 2012年、アメリカで公開され話題を呼んだ映画『チョコレートドーナツ』をご存じだろうか。この映画では、男性同性愛者のカップルがダウン症の子供を育てるという、愛に満ちあふれた人間関係が描かれているが、同性愛者であるという理由だけでカップルは裁判で親権を奪い取られ、子供は孤独の中で命を落とすという大変悲しい結末で映画は幕を閉じる。 しかし、この映画は同性カップルの直面する差別問題だけを取り上げているわけではない。作中では、同性カップルの子育てを好意的に受け入れ、理解し、他者からの批判を恐れず彼らのために証言台に立つ心優しい友人たちも描かれている。この作品で同性カップルは裁判に敗れ、自分たちの愛した子供の命まで奪われることになるが、彼らは決して司法に負けたわけではない。なぜなら、彼らには自分たちを受け入れてくれる周囲の優しさあふれる理解があったのだから。映画「彼らが本気で編むときは、」の初日舞台あいさつに出席した(左から)荻上直子監督、柿原りんか、桐谷健太=東京・新宿 『チョコレートドーナツ』のように、海外ではLGBTを主題として扱った映画作品が数多く製作されているが、日本でも数は少ないもののセクシュアル・マイノリティーの人たちを描いた映画作品がいくつか製作されている。今年2月に公開された、トランスジェンダーの男性と異性愛者の男性カップルを描いた映画『彼らが本気で編むときは、』もそんな作品の一つだ。監督を務めた荻上直子氏は、文芸誌『ダ・ヴィンチ』(2017年3月号)の中で自身のアメリカ生活を振り返りながら、日本では「確実に存在するはずのセクシャル・マイノリティの人たちになかなか遭遇しない」と、彼らの存在が見えないことに対する違和感について実直に語っている。「男性同性カップルの里親」大学生は賛成?反対? 政治や司法の在り方を変えていくことも大切だが、荻上氏が言うように、彼らの存在を「見える存在」に変えていく必要がある。近年メディアで活躍するオネエタレントたちの具現する「笑いの対象」としての見える存在ではなく、苦悩の中で必死に生きる、「実話」としてみえる存在の彼らを映画や小説、マンガが描き、大衆に広めていくことで、彼らセクシュアル・マイノリティーに対する理解は深まっていくのではないだろうか。 ここまで、映画の中で描かれてきた同性カップルの里親問題や差別問題について述べてきたが、LGBTの存在が過去にないほど頻繁にメディアで取り上げられる「現代」を生きる若者は、同性カップルの里親制度についてどう考えているのだろうか。彼らの声を聞くべく、ある調査を行った。筆者が同志社大生に行った「男性同性カップルの里親」に関するアンケート結果(氏名と学生ID番号をモザイク処理しています) 5月26日、筆者が同志社大で担当している全学部生を対象とする「国際教養基礎論」の講義の中で、この講義を履修している18歳から23歳までの大学生427人を対象に「男性同性カップルの里親制度を認めることに賛成か反対か?」をテーマに記述形式のアンケートを行った(本アンケートでは、平常点に関係ない協力調査を前提に、学生には自己の主観的意見を実直に述べるようお願いした)。 結果は筆者が予想していた通り、427人中、賛成が344人、反対が83人。反対者の共通意見は、男女の役割を生物学上の「性別」で完全に二分化して捉えたもの、また「差別には屈服して我慢するしかない」と考えるものが多く見受けられた(以下、反対者の共通意見)。「子供が学校でいじめられる」「女同士のカップルは自然だが、男同士はBL(ボーイズラブ)の世界でない限り気持ちが悪い」「自分の腹を痛めて生んでいない子供に愛情を注ぐことは難しい」「男は仕事が忙しくて子育てをする暇がない」「育児や家事は女性の方が得意である」 反対者の中で特に多かったのは、「子供が差別を受ける」とする意見である。これは親側の「エゴ」で子供の将来が大きく変わってしまうことを危惧する世論の声を代弁しているかのようにも思える。また、「休日に男2人が子供を連れて町中を歩いている姿を想像すると違和感を持ってしまう」とする意見も多くあり、「男は外、女は内」といった固定的な性役割を求める社会の声が若者世代にまだ一定の影響力を持っていることが伺える。これまで家事や育児を担ってきたのが主に女性であったことを考えると、女性同士が子供を連れて町中を歩いている姿の方が自然に見えるとする意見はあって当然なのかもしれない。 さらに、反対意見の中で最も興味深かったのは「血縁関係」について「女同士なら精子バンクなどで精子を購入すれば実子を身ごもることができるのに対して、男同士ではそれができない」という意見が多くあったことだ。アンケートで浮かんだ男性中心社会の価値観 日本テレビ系ニュース番組『NEWS ZERO』が5月22日の放送で「女性カップルの子育て」と題して同性カップルの問題を取り上げていたが、この特集からはある解釈ができる。それは、女性を「生殖」や「出産」といった子育てに直結した存在としてみる偏見が社会にいまだ根強くあるということだ。これが男性カップルに置き換えられた場合、「男はそもそも妊娠できない」といった身体観の下、男性カップルに対する「偏見」は女性カップルのそれよりもさらに増大すると考えられるのではないだろうか。 話を学生アンケートに戻すが、男女の違いや性差別に終始した反対側の意見と類似した意見は賛成側からもいくつか上がったが、賛成側の意見の多くからは、人間がいかに柔軟で、多様な生き方を選ぶことのできる生き物であるかを再度考えることを重要視したものが多く見受けられた。ここに賛成側の共通意見もいくつか取り上げてみよう。「男同士の方が経済力があって子供によりよい教育を受けさせられる」「女同士はよくて男同士はよくないのは不平等だ」「異性愛者の親のなかには子供を虐待したり育児放棄したりする親がいる」「他人の目は気になるだろうが幸せを決めるのは他人じゃなくて自分たち」「友人にゲイの人がいるから彼らにも幸せになってほしい」「シングルマザーやシングルファーザーなど1人で子育てしている人たちだっている」「女性同士は連れ子が血縁関係だが、男性同士ならそのようなしがらみがない」「男同士だと子供を産むことができないので、より一層子供に愛情を注ぐはず」「LGBTを否定すること自体、今の時代の流れにそぐわない」 これら賛成側の学生の共通意見で最も多かったのは、「男性同性カップルのほうが経済的な余裕がある」とする意見だった。つまり、賛成側の「男性=経済力」と考える意見は解釈によっては、日本社会が依然「男性中心」であり、そこにおける女性の役割はあくまで従属的であると考えることができるだろう。こうした賛成側の意見からも分かるように、男性カップルの里親問題に対する若者の理解は深まりつつあるように思えるが、彼らの理解のうちにはいまだ「男性=経済力」といった、男性中心社会の価値観が根付いているのだ。 また、賛成者の大半が女子生徒であったのに対し、反対者の大多数が男子生徒であった結果を考えると、男性側の意識を変えていくことがいかに重要であるかが分かる。男性にこれまで期待されてきた性別的役割をいかに流動化し変えていくかが、今後男性同性カップルの里親問題の在り方を考えていく上で重要な課題となりそうだ。里親資格をてんびんにかけるな 筆者は最近、『週刊SPA!』の企画した「女性の専売特許を男性が体験する」特集に論者として参加した。子供の弁当を夫が作って幼稚園の送り迎えをしたり、結婚式で新婦が花束を投げる代わりに、新郎が友人男性に向かって投げる「ブロッコリー・トス」を行うことが日常風景となりつつある現代において、これまで女性だけに限定されてきた性役割を男性が「体験」することは、自分とは違う他者を発見し、理解する上で重要な経験であるに違いないと考える。 しかし、里親制度に関して言えることは、命を預かり育てるという大変重要な役目を担うわけで、「体験」することとはわけが違う。ペットの里親になることですら身辺調査や住宅訪問などさまざまな適性審査がある今日、人間の子供を育てる里親制度の審査基準が厳しく設けられることはあって然るべきである。 ただ、同性カップルであるという理由だけで審査基準を厳しくすることは絶対あってはならない。日本は先進国でありながら6人に1人の子どもが貧困や教育格差という現実に直面している。そんな中、里親資格を異性か同性かだけで、てんびんにかけている場合ではないことを、少子高齢社会に生きるわれわれ国民は自覚する必要があるのだ。 ここまで話してきたように、男性同性カップルの在り方を描いた映画作品や、そういった作品を目にすることで固定概念から解放された場所で彼らを優しく見守ることのできる若者が増える現代、「弱者」が「強者」よりも柔軟で多様性に富んでいることが可視化される動きはより一層広がりを増すに違いない。著書『フラジャイル―弱さからの出発』の中で編集者の松岡正剛氏が示唆しているように、権力を行使する「強者」はその権力を奪い取られることに恐れているだけのつまらない存在で、そんな強者たちからもろく生きることを強いられた「弱者」のほうがとてつもない力、未来の社会を変える力を内に秘めていると信じたい。 数週間前、書店で偶然目に留まり購入したマンガ本がある。鈴木有布子(作画)と北川恵海(原作)の作品『ちょっと今から仕事やめてくる』だ。日々の仕事に疲れ果てた新卒サラリーマンの青年は、駅のホームから身を投げて投身自殺を図ろうとするが、自分を理解してくれる同性の親友に命を救われ、最後は周囲からの批判を恐れることなく会社に自ら辞表を出す。 男性同性カップルであるがゆえに理不尽な批判を受ける方々には、批判を受けることはむしろ自分たちの存在を社会に示す好機であると考えてほしい。「批判を恐れていても何も先に進まない」。そう自分に言い聞かせながら、私は私で男性の新しい生き方を模索し続けたい。

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    同性カップルの「里親」ってどうなの?

    世はLGBT(性的少数者)花盛りである。大阪市で男性カップルの「養育里親」が認定され、大きな注目を集めた。海外ではこうした事例がいくつもあるが、わが国ではほとんど例がないという。親のエゴか、多様な家族のカタチか。賛否が分かれる同性カップルの里親制度について考えたい。

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    中国に7000万人 LGBT向けビジネスが活発化

     中国で「LGBT」と呼ばれる性的少数者=L(レズビアン)、G(ゲイ)、B(バイセクシュアル)、T(トランスジェンダー)が7000万人に達していることが明らかになった。 これはイギリスの人口を上回る規模で、その年間消費額も4700億ドル(約53兆円)と推計されているが、中国ではLGBTを蔑視する傾向が強いことから、海外での挙式に関心を示しており、潜在的に大きな市場として海外の旅行業界などが開拓に乗り出している。米タイム誌などが報じた。香港のLGBTの権利保護を訴える団体が開いた集会 中国の同性愛者向け出会い系アプリ「Blued」の最高経営責任者(CEO)・耿楽氏によると、Bluedは世界で最大級の同性愛者向けアプリでユーザー数は1500万人にのぼる。 彼ら(彼女ら)は社会的なステータスが高い層が多く、平均月収は約1万元(約16万円)と全国の労働者の平均月収の5倍にも達しており、可処分所得が高くブランドモノを好む傾向が強いという。 これは大半のLGBTに子供がいないことが大きな原因だとみられる。 欧州や米国に次いで世界3位のLGBT人口を抱える中国が大きな市場として観光業者の関心を集めている。これは日本のみならず、欧米諸国も同じで、中国のLGBTを自国に取り込もうと躍起になっているというほどだ。 これは、中国内でのLGBTにはまだ市民権が与えられていないことも大きな原因だ。 中国では同性愛行為者が罪に問われた時代が長く続いていた。それが、違法ではなくなったのは1997年で、LGBTがタブー視されていない香港が同年7月、中国に返還されたためだとみられる。 その後、2001年からLGBTは精神疾患リストからも外されたが、一般的にはまだまだ認められていない。 ネット上では、同性愛者が「ハワイで結婚式を挙げた」などという書き込みに対して嫌悪感を表明する意見も少なくない。 日本でも同じような傾向はみられるが、中国の場合はこれまで一人っ子政策が適用されていたことから、「子供がいないのは罪悪」という感情がより強く、「一人っ子の男性の場合は『偽装結婚』をして、子供を作ってから、安心して同性愛にのめり込むという傾向が中国では強い」(香港紙「リンゴ日報」)とも報じられている。関連記事■ 同性愛者がなぜ必ずクラスに1人いるのかという謎に迫った本■ 米の性調査 同性愛者比率は60年前からほぼ変わっていない■ 中国大都市圏で同性愛エイズ患者拡大 一人っ子政策の影響も■ 聖火リレーに同性愛者象徴旗持つ男が乱入しプーチン怒り心頭■ 中国・周恩来元首相に同性愛説広まるも国内では反発の声

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    LGBTの介護サービス経営者に勇気を与えた言葉

     LGBTをめぐる社会の受け止め方は、この数十年の間に大きく変わった。奇抜なものではなく、当たり前のものとして受け止めようという働きかけも増え、少しずつだが変化してきた。長野県の諏訪中央病院名誉院長の鎌田實医師が、LGBTをモチーフとした映画『ムーンライト』と、LGBT当事者である介護サービス経営者との出会いを通して、お互いの違いを尊重し合える社会について考えた。* * *『ムーンライト』といえば、アカデミー賞授賞式でハプニングに見舞われた、あの映画だ。作品賞で『ラ・ラ・ランド』の名が発表され、喜びのスピーチが進むなか、『ムーンライト』の間違いだったと発表。ドッキリ番組だとしても、タチが悪い。 その『ムーンライト』を見た。これが実にいい映画だった。キャストはすべて黒人。“白いハリウッド”“白いアカデミー”という批判の反動という人もいるが、そんなヤワな映画ではなかった。LGBTをモチーフとした映画『ムーンライト』の一場面。アカデミー作品賞を受賞した この映画は、LGBTがモチーフになっているが、それ自体がテーマではない。あくまでも少年が自分探しをしながら成長していく物語だ。 画面全体が、月明かりに照らされているようにブルーに輝いている。黒い肌が美しく光を反射する。初めて見る映像美だ。人生の明暗をはっきりと際立たせる太陽の光ではなく、月の光は「生」を悲しく、躍動的に描きだすことにも成功している。 夢と希望の『ラ・ラ・ランド』もよかったが、アカデミー賞作品賞はこの映画で間違いなかった。人種や、LGBTという性の多様性を認めない一部の風潮に対して、「生」の輝きを見せつけようという映画人たちの心意気が込められているように思った。 ただ自然体でいれば、自分らしく生きられるというものではない。 葛目奈々さんは、LGBTの当事者。24歳で性転換手術を行っている。戸籍上の名前も男性名から現在の名前に変えた。水商売を経験した後に介護の世界に入り、介護サービスの経営者として働いている。 奈々さんが「ほかの人と何か違う」と感じたのは、子どものころから。小学校では女の子とばかり遊んでいた。高校生になると、同級生の男性を好きになり、心と体の性の不一致に苦しむようになった。18歳のとき高校を中退し、上京。新宿二丁目のニューハーフの店で働きはじめる。お金をためて、25歳になったら看護学校に入り、看護師になるというのが、彼女の夢だった。 この人のすごいところは、自分を客観視できていることだ。自分の現実をしっかり受け止めているところがいい。「自分らしく」あることの難しさと大切さ しかし、看護学校からLGBTという理由で入学を断られてしまう。10年以上前は、まだLGBTという言葉もよく知られていない時代だった。絶望のなかで彼女は介護の門をたたく。「どういうセクシュアリティーであれ関係ない」 介護の専門学校で言われたその言葉が、彼女に勇気を与えた。貯めたお金で、介護の勉強をし、残ったお金でデイサービスを開設した。現在では、デイサービスを2つ、訪問介護と居宅介護支援事業所も経営している。 奈々さんを精神的に支えたのは、母親の存在が大きかったと思う。彼女が看護師を目指したのも、母親が看護師だったからだ。 高校中退後、奈々さんがアルバイトをしていた店に、母親が飲みに来た。いい機会だと思い、LGBTであることをカミングアウトしたという。こうやって自分で壁を突破していくところがすごい。それでも、母親は「いまは病気みたいなもの。いずれ治るだろう」と思っていたらしい。2016年5月、LGBTへの理解を広げようと、NPO法人「東京レインボープライド」が主催して行われたパレード=東京都渋谷区(伴龍二撮影) 親子でよくケンカをした。20歳を過ぎたころから、「あなたの人生だから」と言ってくれるようになった。それでも酔っぱらうと「いつ嫁をもらうの」と泣きつかれる。母親も揺れているのだ。 奈々さんは、介護サービスの事業所を開設するとき、LGBTの職員を集めようと思ったが、色眼鏡で見られたくないと思い、ふつうの求人をした。 5年ほどして経営が軌道に乗り、ようやく公然とLGBTの人を受け入れられるようになった。それが原因で辞めていく職員もいたが、残ってくれる職員もいて、理解し合うことができた。 事業所では、少しでも働きやすいように、性転換手術のための休暇も認めている。そんな求人を見て、わざわざ引っ越してまで働きに来てくれる人もいた。いまは全体の4分の1がLGBT。人手不足が深刻な介護業界で、そこそこ人材を確保できているという。 堂々と「自分らしさ」を表現できない人たちはけっこう多い。性的少数者だけではない。人種や宗教、性別、年齢、出身地などによって、自分らしく生きることを制限されてしまう現実は、今も相変わらずある。 介護を受けている高齢者も、「年だから仕方ない」と、言いたいことをのみ込み、やりたいことを我慢してしまうことはないだろうか。年齢で人を差別するエイジズムは、自分の首を絞めることである。 以前、奈々さんの経営するデイサービスを訪ねたことがある。明るく、全体的にやさしい空気が流れているような気がした。「自分らしく」あることの難しさと大切さを知っている奈々さんだからこそ、高齢者が「自分らしく」いられるように、気を配っているように感じられた。「オレはオレだ」『ムーンライト』の主人公シャロンのように、だれもが堂々と言い切ることができ、お互いの違いを尊重し合えるような社会をどうやって築いていくか。とても大切なことだと思った。●かまた・みのる/1948年生まれ。東京医科歯科大学医学部卒業後、長野県の諏訪中央病院に赴任。現在同名誉院長。チェルノブイリの子供たちや福島原発事故被災者たちへの医療支援などにも取り組んでいる。近著に、『遊行を生きる』『検査なんか嫌いだ』。関連記事■ 自治体の介護サービス 練馬区には高齢者の出張調髪サービス■ 公共介護サービス受けるためにまずやらなくてはいけないこと■ 中国に7000万人 LGBT向けビジネスが活発化■ 民間介護サービス 「航空運賃割引」「介護タクシー」なども■ 過去18年間の介護殺人 全体の72%は少数派の男性が加害者

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    「自由」を履き違えたメルカリと情弱ユーザーは最低な組み合わせ

    藤本貴之(東洋大学教授、メディア学者) 不適切な出品や売買が問題となっているフリマアプリ「メルカリ」。現金の売買といったグレーな取引から、キャッシュバック販売や「妊娠米」のような法律に抵触しそうなもの、引いては悪質なジョーク出品に至るまで、その実態はあまりにカオスだ。本稿では、騒動となっている「メルカリ」について、具体的な利用実態の紹介も合わせて、その実像について考えてみたい。 今年4月に就任したばかりのメルカリ社長、小泉文明氏は「『メルカリ』では基本的には自由な出品を売りにしたいので、制限を設けすぎるのは良くありません」と述べてはいるものの、その実態は自由を履き違えた、いわば「無法地帯」というのが一連の騒動を見たほとんどの人の印象だろう。フリーマーケットアプリ「メルカリ」の画面 無法地帯化したメルカリの報道を見聞きし、驚く人がいる一方で、筆者のようないわゆるアラフォー世代から見れば、そこに「懐かしさ」を覚えることすらある。 チケット不正転売(ダフ屋行為)、違法薬物売買、危険物販売、許可が必要なモノの無許可販売、偽物やコピー品(CDなど海賊版)の売買、情報商材販売、不正金券、裏ビデオ、使用済み下着の出品、販売意思のないいたずら出品、それらを全てに関わる詐欺行為…これを見て「メルカリのこと?」と思う人は多いだろう。 しかし、上記はいずれも1999年にネットオークション最大手「ヤフオク!」(当時は「Yahoo!オークション」)がスタートした当初から近年に至るまで、問題になってきた不正の数々だ。古くは「アングラ掲示板で隠語を使った違法売買」などにも遡(さかのぼ)る。そして、それとほとんど同じような行為がメルカリでもなされていたわけだ。 ネットオークションは、近年に至るまで不適切売買の温床として、運営側とのイタチごっこを繰り返してきた。最近になって、露骨な不正は減少しているものの、完全に駆逐したとは言い難く、それらは「ネット売買の永遠の課題」といっても過言ではない。ゆがんだ急成長の背景 メルカリは、「フリマアプリ」という目新しいキーワードを利用しているが、その実態は従来の「ネット個人売買」と全く同じだ。もちろん、それが抱える問題や課題も上記の通り、ほぼ同じである。 目新しいキーワードを掲げることで、昔からある古典的なモノ・コトを新しいサービスや商品のように見せるテクニックは、DeNA騒動で話題となったキュレーションメディアなどでもみられた手法である。近年のネットメディア、ネットビジネスで頻繁にみられる常套(じょうとう)手段だ。 無許可なコピペや既存のコンテンツの切り張りで作られた「キュレーションサイト」は、基本的にはインターネット黎明期から続くいわゆる「アングラサイト」「違法サイト」と同根であり、その変名に過ぎない。 同様に、メルカリもフリマアプリという目新しいバズワード(明確な意味や定義が曖昧な流行語)を標榜することで、その実態を粉飾してはいるものの、決して新しいものではなく、むしろ極めて古典的なネット個人売買サービスに過ぎないのが実情だ。 しかしながら、既存のネットオークションやネット商取引(いわゆるeコマース)と比べ、2013年に創業したメルカリは、わずか3年でフリマアプリとしては単独首位になり、その成長スピードは驚くほど早い。 その反面、「ヤフオク!」誕生から20年近くたった2017年現在においても、メルカリでは信じられないほど危機意識の低い不適切出品や、今やネット業界では表面化しづらくなった違法・脱法売買が堂々と行われている光景には驚かされる。中には簡単に個人特定されてしまうような低い危機管理意識で不適切売買をしている事例も散見された。 このようなゆがんだ急成長の背景にあるのは言うまでもなく、それがスマホ(とアプリ)というプラットホームであったからに他ならない。 スマホの最大の魅力は、消費者と生産者が既存メディアよりもはるかに短い距離で接続された関係を作れることだ。例えば、テレビの場合、視聴者に消費させるためには、以下のように最低6つのステップが必要である。 ①テレビの前に行く→②テレビの電源を入れる→③チャンネルを合わせる→④CMを見る→⑤商材に感心を持つ→⑥購入(消費)行動に出る。 その中でも特に、テレビの前に行く、テレビを見る、といった2つの行動への誘導は今日、大きな課題だ。多様な娯楽にあふれる今、目的なくテレビの前に座らせることはこの上なく難しい。スマホが全てを変えた 一方で、スマホの場合、消費まではステップはわずかに以下の3つである。 ①スマホを起動(見る)→②商材に感心を持つ→③購入ボタンを押す(ポチる) テレビとの最大の違いは、スマホを起動することと「凝視」がイコールである、ということだろう。また、起動したアプリには自動的に広告が入り込み、消費者に選択を求めない。そもそも起動するか、しないかの選択のみであり、テレビのようなザッピングの概念がないので、手軽な広告回避ができない。 さらに言えば、表示された広告に感心を持った段階で、すぐに購入行動(ポチる)ができるので、後になって「買いにゆく」場合とは違い、タイムラグが発生しづらく、「改めて考え直す」という猶予を与えにくいのも特徴だろう。 テレビが若者の中で「娯楽の王様」から陥落した最大の理由は、スマホコンテンツの多様さもさることながら、スマホの急速な普及と、そこにある驚異的なまでの「手軽さ」にある。そして、そのスマホの特徴を最大限に生かしたサービスがメルカリであった、というわけだ。 アプリを含め、フリーマーケットは本来、不要物を売買する空間だ。いわゆる「蚤(のみ)の市」なわけで、原則として、定価よりも安い値段で売買できることが最大の魅力である。売る側から見れば、本来捨てるべきモノ(ゼロ円)が、たとえ安価でも現金化できることはうれしい。買う方も、市価よりもはるかに安く買えるのでお得感がある。これぞ「Win-Win」の関係、そのもののはずである。 しかし、フリマアプリを標榜(ひょうぼう)しつつも、「メルカリ」ではそのフリマの基本構造が完全に崩壊している。筆者の研究室のある学生から意外な話を聞いたことがある。メルカリを使ったことがあるという男子学生に「何をいくらぐらいで、どのように購入したか?」と聞いたときのことだ。 その学生は次のように答えた。 「定価2万円ほどのシルバーの中古アクセサリーを2万円ぐらいで購入した。新品と同じぐらいの価格だが、原宿にある販売店に買いに行くのが面倒くさいので、メルカリで購入した。中古でも『味がある』と考えれば気にならない」 この消費者意識に驚かされるとともに、スマホ利用が生活の中に浸透し、可能な限りスマホの中で生活のすべてを完了させようとする現在の若者たちのライフスタイルを実感させられた。新品を購入するために原宿に買い物に行くよりも、スマホのボタン一つで購入できてしまう「手軽さ」が優先されるのである。ネットに警戒心がない若者 また、ある女子学生は次のように話してくれた。 「バイト先のアパレルで定価4千円の服を従業員割引で1千円で購入した。それを何度か着て、飽きたらメルカリで2500円ぐらいで売っている」 格安で購入した服を楽しんだ上で、それを転売して1500円の利益を得ているというわけだ。おそらく、そこで買われた中古の服も再びメルカリで販売されるはずだ。場合によっては買ったときよりも値上がりしている場合すらある。いずれにせよ、メルカリが不特定多数のクローゼットをシームレスにつなぎ、その中を一定のお金が循環している。メルカリが値崩れを起こしづらい要因の一つなのだろう。 逆に、中古の服をメルカリで定価に準ずるような価格で購入している学生も少なくなかった。メルカリ利用の認識はさまざまだが、いずれの学生にも共通するのは「店に買いにゆくよりも手軽だから」であった。 コミュニケーション(SNS)も、遊び(ゲーム)も、情報(ニュースサイト)も、調べ物(ググる)も、そして買い物(メルカリ)も、すべてスマホの中にアプリとして「一元化」する。それが現在の若者層が求めるライフスタイルであり、メルカリはそのライフスタイルに最適化された「お買い物」の形式であったのだ。 メルカリはキュレーションメディア同様、極めて古典的なネットビジネスである。もちろん、そこで発生する問題や不正も古典的であることは先にも述べた。しかし、そのような古典的なネットビジネスが、今さら亡霊のように「90年代水準のネット無法地帯」まで生み出している。 その原因はメルカリユーザーの中心が10代、20代の若い女性である、という部分にあるように思う。言い換えれば、アラフォー世代(20歳前後の時期にインターネット全盛を迎えた世代)以上のユーザーが不在の空間である、ということを意味する。 アラフォー世代以上は、ネット社会の過渡期を過ごし、そのメリット、デメリットの多くを経験している。必要に迫られ、高いコンピューターリテラシーを持つ一方で、ネットへの警戒感も非常に強いのが特徴だ。 それに対し、現在の20歳前後の若者層は生まれたときには既にインターネットが一般化しているばかりか、初めて手にしたケータイがスマホの世代である。大学に勤務していると痛感することだが、今日の若者層はその生活環境とは裏腹に、驚くほどコンピューターリテラシーが低い。ワープロ作業も十分ではないどころか、自分でパソコンを所有していない人も珍しくない。90年代水準と何も変わらない その理由は、初めて手にしたデジタルデバイスであるスマホがあまりに「万能」であり、パソコンを所有して利用する必要性を感じていない、ということだ。しかも、「財布以上に携帯率の高いスマホ」である。常に座右にあり、パーソナルなツールとして身体化しているため、自分がスマホというデバイスを介してインターネットにアクセスしていること、またそこで個人情報を含めたさまざまな情報を意図せずに行き来させているという実感もない。ネットゲームの経験から、スマホ課金への障壁もない。 そのため、アラフォー世代以上であれば警戒してしまうようなネット個人売買や、課金、個人情報に対する危機意識があまりにも低い。顔や制服、氏名などがはっきり分かる形で不適切な写真をSNSで公開してしまう「おバカな若者ユーザー」が多いのもそのせいだろう。スマホが手軽で身近すぎるツールであるため、悪意なく、意図せず、軽い気持ちでかかわったことが犯罪や犯罪幇助(ほうじょ)になっている場合も少なくない。 ただ、危機意識の高い年配者がいるからといってネットが健全化するとは限らないが、少なくとも問題の探知はされやすい。それが冷やかしや「晒(さら)し」であったとしても、違法な行為や不適切な売買、記述をおもしろおかしく話題にするのも、「それなりのリテラシー」を持った大人たちだからだ。 若者層、特に若い女性が多いメルカリでは、中高年層がメーンを占める通常のネットオークションやネット売買と異なり、ネットの善悪を経験している「大人の目」が届きづらい空間になっている。これもメルカリが「90年代水準の無法地帯」を生み出している大きな要因の一つであるように思う。 DeNA騒動のキュレーションメディア問題のように、いまメルカリで起きている問題は「90年代水準のネット無法地帯」と酷似する。その実態は、同社が主張するような「自由やポテンシャルの広がり」とは到底思えない。 常に座右にあるスマホに生活の全てを一元化させるライフスタイルは確かに便利だ。しかし、それをフリマのような有機的な活動にまで広げるような在り方には「限界」がきている。このことに、そろそろ若者自身が気づくべきではないのだろうか。

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    「メルカリ」の正体見たり! 正直者が馬鹿をみる拝金ベンチャーの闇

    山本一郎(個人投資家・作家) 国会論戦もたけなわの4月25日、日本維新の会の衆議院議員、丸山穂高さんが質問に立ちました。これが、現在スマートフォンを中心に人気のフリーマーケットアプリ「メルカリ」で現金が出品されるという事態について金融庁などの対応を問う内容であったため、かねてから問題視されてきたメルカリほかアプリ無法地帯ともいえる現状がより広く知られるところとなったわけです。 このメルカリの問題については、かねてからSNSや雑誌記事などでも取り上げてきておりますので、経緯についてはそちらをご覧いただければと存じます。もちろん、表題はメルカリが中心となっていますが、実際には「ヤフオク!(旧・ヤフーオークション)」やC2C(消費者間の取引)のフリーマーケットアプリ全般の話が中心となっています。その意味では、昔から適切ではない商品の出品があったことは事実です。・急成長「メルカリ」にはどんな法的リスクがあるか(PRESIDENT)・「やったもん勝ち」ネット業界のイノベーションが世間を犯罪まみれにするまで(文春オンライン)  昨今、とりわけ問題視されているメルカリについては、大きく分けて2つの問題を抱えています。 ひとつは、本人確認が事実上なされず銀行口座などの情報にもひもづけられないため、問題出品をしている人物を取り締まることは容易ではないこと。もうひとつは、売り主から売掛金をメルカリが事実上の預かり金という形で計上しているにもかかわらず、出資法や資金決済法で定めた適法な措置を取ってこなかった点です。さまざまな物が売買されているメルカリ。「トイレットペーパーのしん」など、一風変った出品もみられる(寺河内美奈撮影) これらの問題の根幹には、日本初の大型ベンチャーを育てていくにあたって、多少の脱法的なビジネスもやむを得ない、グレーゾーンをついてこそベンチャー企業だという姿勢を取る経済産業省の特定部署の責任者や、証券会社、ベンチャー界隈独特の「空気」が存在します。 ある高級官僚は、経済産業省の競争促進を担う責任者がベンチャー企業経営者の集まる席上でむしろ脱法的、潜脱的なビジネスも容認する発言を見て、日本のイノベーションは消費者や生活安全の犠牲の上に成り立っていると深く嘆いたといいます。ここまでアプリ関連のビジネスが大きくなったいま、金融当局が「実は違法でした」と立ち入り検査をすることに逡巡(しゅんじゅん)する背景には、日本の経済が停滞から脱却し、力強い成長路線に回帰するためには活力ある創業環境が必要だという安倍政権のリーダーシップに逆らうのではないかという「忖度(そんたく)」があるともされます。同業者が一斉に「ドボン」する日 しかしながら、現状で発生していることは冒頭で述べた現金の出品を行うような事実上のクレジットカードの貸付枠の現金化であり、つまりはモグリの消費者金融と同様の手口です。しかも、これらは「お手軽なフリーマーケットを楽しませる」というメルカリ特有の本人確認のない匿名性の高さをよりどころに適法性が疑われる売買を黙認し、仲介を志したことになります。とりわけ問題視されるのは、この犯罪行為が明らかになるまでメルカリの利用規約が一時的に「現金類似物も出品可能な状態」にわざわざ書き換えられていたことからも伺えます。現金がチャージされたSuica。すでにSuicaも規制されているがいたちごっこが続く=4月27日 どうせやるなら適法にやればいいのに、真面目に本人確認させたって、メルカリほどの勢いであれば問題にならないだろうと思うのですが、これはメルカリに限らず、果物のりんごに見立てた写真で売買されるApple社のiTunesギフトや、返金可能な商品券や交通系ICカード「Suica」などを使っての売買など、いたちごっこは各所で発生しています。 さらには、本やDVDに特化した新しいメルカリのサービスが立ち上がりましたが、これらの商品の中古売買を行うために必要な古物商の資格は仲介するメルカリも確認していません。直接の売買であれば、業として行うわけではないとリーガル上判断したのかもしれませんが、その匿名で本やDVDを出品している人物が業者でないことをメルカリすらも把握していません。 要するに、お手軽さを追求して顧客を集め、本人確認や古物商の資格の有無、預かり金の管理を行うのに必要な「資金移動業者」としての信託など、いままで生活を安全に送っていくために構築されてきた法制度をすべてスルーすることで販売管理費を下げ、その分を広告宣伝費やシステム投資に回すことで他社よりも効果的に成長する戦略がメルカリの狙いであることは言うまでもありません。 これらの問題は、一種のチキンレースのようなもので、ある一定のタイミングで同業種が一斉に「ドボン」することになります。消費者金融の過払い金訴訟問題や、あるいはテレフォンクラブやダイヤルQ2、出会い系サイトといった生活安全の問題も、途中まではグレーゾーンの成長モデルとしてもてはやされた後で事件が起きて当局対応の果てに輝きを失い、結果として潰されたり大手資本系列に逃げ込まなければならないことになります。 それまでの間に、できる限りのことをやって儲けてしまえ、というのが日本のベンチャー界隈の常識だとするならば、いつぞやのライブドアショックで大いに批判をされた拝金主義と何ら変わることなくこの10年が過ぎたということでしょうか。 進歩がない、と言われればそれまでですが、ソーシャルゲーム業界にせよオンライン決済や仮想通貨の取引に使われるブロックチェーンなどの金融とITを組み合わせた「フィンテック」方面にせよ、この世の中は知らないものが馬鹿を見る百鬼夜行なのだと思えばそう間違いはないのかもしれません。

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    善意のスキマからメルカリにやってきた「怪しい人々」の正体

    北条かや(著述家) 国内最大のフリーマーケットアプリサービス「メルカリ」で、「現金が額面以上の値段で売られている」「チャージ済みのICカードや旅行券が売られている」、さらには「妊娠米」など怪しげな物品が散見されるとのニュースが飛び交った。筆者もメルカリの利用者なので見てみると、確かに「1万円札4枚」が4万7000円(送料無料)などの価格で出品されている。今すぐ手元に現金が欲しい多重債務者などが、クレジットカードで購入している可能性もあり、マネーロンダリング(資金洗浄)にもつながる可能性がある。 指摘を受けて運営側は4月末、監視体制を強化し(「メルカリ、安心・安全への取り組みについて」)、「現行の貨幣を出品禁止」とすること、さらにメルカリ側が「24時間体制で監視・削除の対応」を行っていくことを発表した。なぜこのような怪しげな出品が相次ぐのか。筆者もメルカリや同業のフリマアプリ「フリル」などの利用者であり、売る側、買う側それぞれの立場を経験している。本稿ではその経験もふまえ、フリマアプリで行われているさまざまなモノの売買を「優しさのあふれる空間」というキーワードから読み解いてみたい。 メルカリなどのフリマアプリサービスは、2012年頃に誕生したといわれる。それまでインターネットで個人が売買するサービスといえば「ヤフオク」「モバオク」「楽天オークション」など、大手企業が提供する「オークション型」が中心だった。現在は楽天オークションがサービスを中止し「ラクマ」というフリマアプリの提供をスタートしたため、事実上ヤフオク、モバオクしか残っていない状態だ。 CtoC(個人間取引)のみならず、BtoC(企業対消費者)取引のプラットホームとして非常に優れているが、最大手のヤフオクに出品するためには毎月の利用料が400円ほどかかり、売れても売れなくてもサービスにお金を払わなくてはならない。クレジットカードの登録が義務付けられるなど、利用者にとってはややハードルが高かった。すくいきれないニーズがあったのも事実だ。 そこに目をつけたのがフリマアプリだ。最大手のメルカリは、急速に普及したスマートフォンを「フリーマーケット」のプラットホームに変えた。その手法はあざやかだ。ネットオークションに敷居の高さを感じる人や、これまでオークションを利用してみようとすら思わなかった若者や女性、主婦層などでも「使ってみよう」と思えるシンプルなインターフェース(使用感)に加え、「簡単」「安心・安全」のキャッチコピーを売りに急成長したのである。幅広い層に訴えかけるテレビCMも功を奏し、14年頃から認知度が急上昇。現在は国内で3000万ダウンロード数を誇るという。こんなに簡単に不用品が処分できるのか 経済産業省が今年4月に公表した「平成28年度電子商取引に関する市場調査」によると、ネットオークションにおける個人間取引の市場規模が3458億円に対し、フリマアプリは3052億円に達している。わずか数年の歴史で、この成長はすさまじい。昨年時点でのマーケット規模なので、今年はさらに大きくなっているかもしれない。 86年生まれの筆者は学生時代からヤフオク、楽天オークションを経験してきた世代だが、ここ数年は足が遠のいていた。出品してもしなくても毎月の利用料がかかる上、楽天オークションなどは利用者が少なく、そもそも出品しても売れづらいなどのデメリットを感じたからである。フリマアプリがはやっていると聞き、気軽な気持ちでメルカリやフリルをダウンロードしてみたのが昨年夏。これが非常に使いやすく、初心者でも出品しやすい。 筆者は最先端のサービスには気が引けるタイプだが、使ってみると確かに「安心・安全・分かりやすい」アプリだと実感した。スマートフォンのカメラで撮影した衣類を出品するまでにかかった時間は、わずか5分。出品した商品は2日以内に売れ、定形外郵便でポストに投函(とうかん)して受取評価を待つだけだ。 こんなに簡単に不用品が処分できるのかと感動した。リサイクルショップへ持っていけば10円で買いたたかれてしまう古着が、1000円で売れたりする。送料は「出品者負担」を標準設定にするようなインターフェースになっているので、送料と10%の利用手数料を差し引けば、もうけは数百円程度だが、古着屋に10円で売るよりはマシかもしれない。買った人からは「大切に着ます」とコメントが届き、3段階のうち最も高い評価を付けてもらえた。対面して物を売るフリーマーケットのような気持ちのよいコミュニケーションが続き、はじめは楽しかったと思う。 フリマアプリでは、ネットオークションに多いブランド物やコンサートチケットなどの高額品より、古着や使わなくなったアクセサリー、キャラクターグッズなど、やや安価な商品が多く出品されている。カテゴリ別に見ると「レディースファッション」が最も多く、購入者も女性が目立つ。感覚としては、リユースショップへ持っていくような、もっといえば、そのままでは自分にとって「ゴミ」になってしまうような物をかなりの低価格で売り出し、「まだ使っていただける人に買ってもらう」サービスだと思う。いらないものを「欲しい」と言うありがたさ それこそフリーマーケット並みの価格で売らなければ、なかなか買ってもらえないが、自分が不要になったものを「欲しい」と言ってくれる人がいること自体が「ありがたい」のである。筆者もコメント欄で「値下げ」を要求されることもときにはあったが、買ってもらえるならと応じた。 こちらが商品を購入した際も、非常に安く買える上に「ご購入ありがとうございました」というお礼の手紙が添えられていたりして、ほとんど利益は出ていないだろうに「買ってもらえてありがとう」という気持ちが伝わってくる。何の変哲もない服は、多くの人が競り合うオークションでは値段がつかないことも多いが、フリマアプリなら数百円程度で売れる。それ自体が「ありがたい」のだ。 先述の経済産業省によるレポートでも、ネットオークションとフリマアプリの違いは次のように定義されている。 ネットオークションが「できるだけ高い値段で売りさばきたい」という目的が特徴である一方、フリマアプリは「利用しない持ち物を手軽に処分して換金したい」との想いで利用する人が多い「平成28年度電子商取引に関する市場調査」80ページ まさにフリーマーケット感覚で「不用品を(たとえ安い値段でも)他の人が使ってくれるならうれしい」というコミュニケーションが提供されているのが、フリマアプリなのだ。気軽さと、ある種の善意が満ちている。 ネットに限らず通常のオークションでは「買う側」が複数おり、ニーズに合わせてモノの価格はどんどん上がっていく。「売る側」はそれを黙って見ていればよいが、フリーマーケットはやや事情が異なる。出品されるものの「価値」が相対的に低く、「売る側」は利益の出るギリギリの範囲に価格を設定し、低姿勢で「買っていただく」空間である。それなりの「お得感」を提供できなければ見向きもされずに終わる上、フリマアプリではネットオークションよりも「売る側」がより優しく、低姿勢でいることが求められるのだ。 「私の不用品をあなたに買っていただけてうれしい」という善意がなければ、多くの場合は売れない。もうけようと高値をつけるアカウントや、送料を毎回着払いにするアカウントは人気がなく、とにかく「安くて、そこそこ良いものを譲ってくれる人」が評価されるサービスである。善意なきユーザーも簡単に入り込める このサービスは、出品者が徹底して良心的で、「低価格・低姿勢」でいるからこそ保たれる。買う側はただその善意を受け取ればよく、万が一不良品が届いても運営側に通報すればよいので気分はラクだが、売る側としてはストレスも多くなる。 なぜなら、ここ1、2年でユーザーが爆発的に増えたため、いわゆる常識はずれな購入者にも「低価格・低姿勢」で対応しなければならないからだ。説明文を懇切丁寧に書いても読まれていなかったり、送料を明記していても読まずに「高すぎる」とメッセージが来たりする。商品の状態を細かく質問されたので、じっくり答えたらあっさりスルーされるなど、優しく対応する「相手」が増えれば増えるほど、その思いが届かないストレスも大きくなってしまうのだ。善意にあふれたフリーマーケットの空間に、「普通の消費者」が大量に入ってきたようなものである。 フリマアプリのユーザーは右肩上がりで増えている。わずかな期間に莫大(ばくだい)なユーザーが押し寄せたため、「安くてそこそこ良いものを善意で譲りあう」フリーマーケットの精神性のようなものを「乱す」アカウントが出てくるのも仕方がないだろう。「現金」や「チャージ済みのICカード」、果ては「妊娠米」などを出品し、「グレーな手段でもうけよう」というユーザーが増えてきたのは、「不用品を安く処分できてうれしい」というフリマアプリの理想的な利用者層ではなく、ネットオークションに見られるような「できるだけ高く売りさばきたい」タイプの利用者が増えてきたということではないか。(画像はイメージです) 日本人の2人に1人、若年層でいえばほぼ100%がもつスマホをプラットホームに、できるだけ多くの利用者を集めようとしてきたフリマアプリ。サービスが莫大なユーザーを取り込み始めた以上、当初の「フリマ」とはかけ離れた使い方をし始めるユーザーが現れることは想像に難くない。 「不用品ならほぼ何でも売れる」フリーマーケットの空間だからこそ、ある程度良いものを安く売り買いするための「善意」が求められるが、リアルのフリーマーケットとウェブ上のアプリは利用者のケタが違う。善意のないユーザーも、顔が見えないから簡単に入り込める。 運営側が何度取り締まっても、規模が大きくなればなるほど、怪しげなモノ・サービスの売買は続くだろう。ユーザーの多さにともない悪貨が良貨を駆逐することのないよう、今度はシステム側が「フリマならではの善意」をうながすようなアーキテクチャを構築し、一枚上手をいくことが求められている。

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    高齢者に群がる「情弱ビジネス」の裏側

    老後に欲しいのは「幸せ」よりも「お金」。高齢者を対象にしたある意識調査で、欲しいものが「お金」と答えた人は4割に上り、「幸せ」の15%を大きく上回った。そうした心理につけ込み、老後資金を根こそぎカモにする「情弱ビジネス」と呼ばれる悪質なトラブルも横行しているという。その驚くべき実態とは。

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    「こんなはずでは」アパート経営で大損続出、サブリース商法の闇

      黒田日銀のマイナス金利は金融業界を中心におおむね不評だが、一方で大歓迎している業界がある。その一つが相続税の増税に加え、低金利が二重の追い風となっているアパート・マンション建設や長期の不動産管理を手がける企業群。経済紙の記者が解説する。 「サブリースと呼ばれている業界の景気はすごくいい。東証1部の大東建託やレオパレス21などが最大手で、特に大東建託は『いい部屋ネット』のCMが耳にタコができるほど流れたことからもわかるとおり右肩上がりの業績。2016年3月期の決算は売上高が過去最高の1兆4116億円に上り、8期連続の増収増益。17年3月期も過去最高を更新する勢いです。経営陣の鼻息も荒く、東京五輪後の21年には売上高1兆8000億円を目指すという中期計画を発表しています」 大東建託は1974年創業だから、40年で1・5兆円企業に成長したことになるが、そのビジネスモデルはいたってシンプルだ。遊休地を持つ地主に営業マンが接触してアパートを建設させ、その新築アパートを最長35年間、家賃固定で一括借り上げて、地主に代わってアパート経営をするのである。 地主にしてみれば、遊んでいる土地を活用できるうえ、家賃収入が増えたり減ったりする空室リスクを心配しなくて済む。従って、全額丸々借金でアパートを建築したとしても、返済計画を立てることが容易だ。さらに入居者募集や退去手続き、修繕やら清掃やらの諸々の雑務に煩わされる心配もない。しかも貸アパートは帳簿上の資産価値が下がるため、相続税対策としても有効で、なおかつ事業ローンであっても銀行融資の金利は史上最低。つまり、一石二鳥どころか三鳥にも四鳥にもなる話なのだ。「しかし……」と経済部記者が続ける。 「実は、この一括契約が後に問題となるケースが多くなっています。というのも、大東建託を含め多くの場合、家賃固定は当初の10年だけ。その後は空室率などを計算し直して、家賃の改定がおこなわれ、大概の場合は大幅減額になる。営業マンのセールストークを真に受け、まるまる事業用ローンを組んでしまったような場合、10年後には、毎月のローン返済を家賃で賄えなくなる場合もあるのです」 例えば、30年の事業用ローンを組んで5000万円の借金をしてアパートを建設した場合、10年後に約3000万円の残債が残った状態で、大家は毎月、返済に不足する分を持ち出ししなければならないことになるわけだ。さらに5年後、家賃が見直されてさらに減ることになれば、返済不能の状況に陥ることも想像に難くない。 そのため「こんなはずではなかった」と国民生活センターなどに駆け込むケースが目立ってきており、実際、大東建託に限らず、目下、サブリース業界全体でこの種の苦情が急増中なのだ。 これに行政側が応えたのが、国交省による「賃貸住宅管理業務処理準則」の改定だった。昨年8月中旬、国交省は、業者側が大家に対し、将来、家賃が下がる可能性があるという事実を重要事項として説明したり、書面を渡したりしなければならないとルールを変えたのである。逆に言えば、これまではこの点を曖昧にしていても、業者側が厳しいペナルティーを取られることはなかったのである。儲かる仕組み ある不動産業界の事情通が言う。 「もちろん、今までも地主さんとサブリース業者が締結する契約書にはそのことが明記されていました。しかし地主さんは営業マンを信用してアパートを建設するだけで、細かく契約を吟味しないので、家賃が下がるなんて気づかなかったのです。一方、国交省は、アパート経営をする地主は事業者であると捉えてきた。事業者とサブリース業者の契約ですから、お互いに契約書を細かく読むのは当然で、気づかなかったなんて話は通用しないというスタンスでした。ところがサブリース業者の業績拡大と比例するように、地主たちからの苦情が増加し、国交省もついに、地主は事業者というよりも保護されるべき消費者に近い存在であると、スタンスを改めたわけです」 一つのキッカケとなったのは、サブリース業者によるアパートの建設ラッシュが大都市圏だけではなく農村部にまで及び始めたことだ。事情通が続ける。 「大都市周辺のベッドタウンであれば、たとえ10年後にサブリース業者に家賃を下げられたとしても、借金返済の原資程度は何とかなる公算が高いのです。地価も上がっていますし、新たな入居者を探すことも難しくないからです。問題は地方の農村部で、営業マンに勧められるまま畑を潰してアパートを新築したようなケース。人口が極端に減っているため、10年以上経過した古いアパートに入る入居者を探すのは無理。結果、大家はそのアパートを売却して残債を支払うしかない。しかし、買い手を探すにはかなり値を下げる必要があるでしょう。最終的に、地主が土地もアパートも失い、銀行には不良債権が残るという最悪のシナリオが待っているのです」 では、空室ばかりのアパートをサブリースで経営して、どうして業者には儲けが出るのか。それはアパートを新築する際、自社の関連会社に建設させて、大きな利益を上げる仕組みがベースだからだ。  わかりやすい数字をあげて説明すると、大東建託の16年3月期決算では、売上高1兆4116億円に対して、建設事業の売り上げは5953億円、不動産事業の売り上げは7748億円である。売上高に対する比率は建設事業は42%、不動産事業は54%で、不動産事業のほうが規模が大きい。しかし、売上総利益2544億円に占める割合を見ると、不動産事業の利益が626億円で24%しかないのに比べ、建設事業の利益は1762億円でこちらは69%にも上る。建設事業は5953億円の売り上げに対して1762億円が利益だから、利益率約3割という濡れ手で粟の新築工事をしているわけだ。要するに、サブリース業者はその後の入居率を気にしないですむくらい莫大な利益を割高な新築工事で得ているのである。つまり、サブリース業者は新築アパートを立て続けていかなければ、最大の収益の柱を失うことになる。そのために強力な営業部隊を持ち、地方の大地主や、親が持っていた土地の相続人に営業をかけていくわけだ。将来の空き家を量産 さらに、空室になりにくい新築10年の間に、本来、大家に入るべき家賃の上前をはねる仕組みもきちんと存在する。 「アパート経営が始まって最初の3カ月は免責期間とかで、この間は家賃が入りません。また退去者が出ると、半月分の家賃が免責で入らなかったこともある」(サブリース業者と契約したことのあるアパート経営者) ごく一部の大手を除けば、退去者が出た場合の現況回復の修繕費は地主負担で、サブリース業者が指定する内装業者に発注しなければならない。当然割高だが、別の業者に頼むと一括借り上げの契約違反となってしまう。加えて、清掃業者、プロパンガスまでサブリース業者の指定である。見方を変えれば、地主はアパート経営の一切のノウハウを得ることなく、ただ家賃を様々な名目でサブリース業者に搾り取られているのである。 加えて、困ったことに今後、未来永劫、超低金利時代が続くわけではない。空室が目立つようになった新築10年経過の後、金利が上がり、ローン返済額が増えたら、全国のアパートオーナーたちに何が起こるのか。  総務省が5年おきに調査をおこなっている土地統計調査の平成25年版によれば、全国にある総住宅数は6036万戸だが、そのうちの820万戸が空き家。平成20年の調査に比べて空き家の数の伸び率は8・3%にも達している。仮に同じペースで空き家が増えていくと仮定すれば、平成30年には890万戸に達する計算だ。  主を失った家は荒れ果てていき、周囲の景観を損なうばかりでなく、やがて防災と衛生面でも深刻な事態に直面する。とはいえ、これが賃貸ではない持ち家だった場合は、取り壊して売却すれば一件落着となる。しかし、たっぷりアパートローンの残ったサブリースの賃貸アパートだとどうなるのか。  同じ調査によれば、空き家になっている賃貸用の共同住宅、つまりアパートやマンションの戸数は374万戸にも及んでいる。実に全国の空き家総数の42%がこれらアパートやマンションなのだ。そのうち、208万戸は広さが50平方メートル未満、まさにサブリース業者が建設しているタイプの部屋なのである。 アパートを建てたはよいが、全国には、同じタイプの部屋が200万戸も空き部屋になっている。しかも、大東建託だけでも、年間4500億円以上の売り上げが計上できるほど、建設ラッシュが続いていることも忘れてはならない。「月刊ベルダ」定期購読のお申し込みはこちらから そこには、深刻な空き家問題という燃え盛る炎に油を注ぐような構図が浮き彫りになっている。日本中に、ローンが20年も残っている空き家だらけのアパートが林立している光景は想像するだに恐ろしい。遠くない未来に大きなツケとなって社会に跳ね返ってくるに違いない。(月刊ベルダ 2016月9月号「いずれ大問題のサブリース商法」、2017年3月号「将来の空き家を量産「サブリース業界」より)

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    残ったのは空室アパートとローン、高齢者を騙すサブリース契約の罠

    のような様々な被害事例に取り組み、多くの事例で円満な和解による解決を実現してきた。今後も、この問題が社会問題として取り上げられ、少しずつでも予防と救済の対策が進むことを願う次第である。