検索ワード:連載/178件ヒットしました

  • Thumbnail

    テーマ

    ニッポンの「消費増税病」を憂う

    マレーシアで政権交代が実現し、92歳のマハティール氏が15年ぶりに首相に返り咲いた。彼は前政権が導入した消費税を廃止し、早速公約を実現した。背景にあるのは中国の「一帯一路」への危機感である。これは「消費増税病」に罹患したわが国の政治家にとっても、大いに参考になるのではないか。

  • Thumbnail

    記事

    消費増税廃止、マハティールにできて安倍首相にできない道理はない

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) マレーシアでマハティール政権が誕生したことは、英国からの独立後初めてとなる政権交代を実現させたこと以外に、二つの驚きをもたらした。一つは、マハティール氏が92歳の高齢にも関わらず、15年ぶりに首相の座につき意欲的な政治姿勢を鮮明にしたことである。特に中国の「一帯一路」政策について、厳しく批判している。 このマハティール氏の姿勢は正しい。中国の「国際的なインフラ事業」を偽装した、中国本位の安全保障対策に付き合うとロクなことにはならないだろう。そもそも、インフラ投資を名目にした「中華的帝国主義」の実体化である。付言すれば、この「一帯一路」政策をいかに骨抜きにし、無害化するかが今後、国際社会の求められる姿の一つだろう。 さらに、もう一つの驚きは、経済の安定化策として、「消費税」の廃止を公約にして、それを実行に移すことである。最近のマレーシアは、経済成長率が低下していて、その主因が消費の減少に求められていた。「元凶」は、ナジブ前政権が2015年に導入した物品サービス税(消費税)である。マハティール氏は、6月1日に税率を0%にすることで事実上廃止し、早速公約を実現したのである。 マレーシア経済も最近、発展が目覚ましいとはいえ、まだ発展途上国である。いわば所得格差も大きい。そのため、低所得層に負担の大きい消費税の導入には、国民世論的にも批判が高まっていた。特に、マハティール氏がかつて主導していた政策は、外資の積極的な導入による経済成長の促進策と、再分配政策の両輪を追求するものだった。これに対して、ナジブ前政権の消費増税政策は、過度に財政再建に傾きすぎていたと評価することができる。 これらのマハティール新政権の基本方針は、実は今の日本でも非常に参考になるはずだ。アジアインフラ投資銀行(AIIB)を中核とした中国の「一帯一路」政策は、巨大化しているようだが、かなり粉飾されているように見える。実際に、AIIBによるインフラ中心の投資額は、日本が主導するアジア開発銀行(ADB)の融資額に比べてまだまだ劣る。 だが、他方で最近、欧州の政策担当者たちから指摘されているように、AIIBのガバナンス(組織統治)が中国本位であるという批判は正当なものだろう。既にADBとAIIBは協調融資を実施している。2018年5月、マレーシア下院選勝利を受け、記者会見するマハティール元首相=クアラルンプール それでも、日本の政策当局者は「一帯一路」、そしてその手段の一つであるAIIBによる中国本位の融資の動きを常に監視し、警戒していく責務があると思う。また、それがアジアや中東などのインフラ需要を、中国本位ではない、それぞれの国民にとっての生活本位として満たすことにつながるだろう。 特に、ただ単に巨額の融資額に目がくらむようではダメだ。インフラ投資は、きちんと行えば経済成長に寄与し、国民の福祉を向上させる。だが、インフラ投資は投資先の国や地域の権力と結託することで、汚職の温床になったり、非効率的な投資につながることで、かえって経済成長を阻害することがある。 中国の政策当事者たちに、各国本位に立った政策構築を求めることは、度のすぎたジョークに等しいだろう。その意味でも、マハティール政権が中国資本による高速鉄道計画の見直しを表明していることは、国民本位のインフラ整備なのかどうかを再考するいい機会ではないだろうか。対案よりも「消費税廃止」 さらにマハティール政権の政策で注目すべきなのは、消費税の廃止である。今後の日本経済における最大の不安定要因は、2019年10月に予定されている消費増税である。現状の経済政策をざっとみれば、金融政策は緩和を継続する一方で、財政政策は積極的とはいえない状況である。今の国際情勢や経済情勢が運よくこのまま継続すれば、来年前半にはインフレ目標2%台に何とか到達し、そのときに雇用も最大化しているだろう。 しかし、情勢が運よくこのまま継続する保証などみじんもない。要するに、「2%台」も「雇用の最大化」もバカげた予測にすぎないのである。だからこそ、実際に経済が安定化するには、最大の国内障害である消費増税を凍結するか、もしくは廃止するのが理想的である。 そもそも現状の消費税のあり方についても、筆者は反対である。ただし今回は、来年の消費増税のみに議論を絞りたい。最近、財務省の宣伝工作と思われるが、新聞などで消費増税による悪影響への対案が報じられている。 このような悪影響がはっきりしているのであれば、対案を出すよりも、まず消費増税をやめることが第一である。ところが、財務官僚とそのパートナーである「増税政治家」と「増税マスコミ」には、そんな常識は通用しない。彼らにとっては「増税ありき」であり、理由などもはやどうでもいいのだ。 経済が安定化しつつある現状でさえ、税収の増加が顕著である。それをさらに軌道に乗せ、税収も安定すれば、財政再建の必要条件が満たされるだろう。だが、増税政治家と財務省にとってはそんな理屈はどうでもいいのだろう。消費税を上げるのは偏狂的な政治的姿勢が生み出した妄執であろう。そんな妄執は、国民にとって「経済災害」以外のなにものでもない。 与党だけではなく、対抗勢力である枝野幸男代表率いる立憲民主党、支持率が1%にも満たない国民民主党などの野党も含め、国会議員の大半がこの「消費増税病」にかかっている。ちなみに、日本共産党は消費増税に反対だが、経済回復の大前提である金融緩和に否定的なのでお話にならない。このように、国会議員ほぼ全員が消費増税病という事態は、本当に日本の深刻な危機である。2018年5月、立憲民主党の枝野幸男代表(右手前から4人目)ら幹部にあいさつする国民民主党の(左手前から)玉木雄一郎、大塚耕平両共同代表 最近、自民党のLINEを使ったアンケート結果を見たが、そこには経済対策を求める声が大きい。だが、その対策に消費増税が入っているとは思えない。ということは、自民党議員の多くは支持者を裏切るスタンスを採用しているともいえる。 そのような支持者たちを裏切る政治的背反はやめたほうがいい。そして何よりも、経済が安定化していない段階での消費増税は過去の失敗を見てもわかるように、いいかげん放棄すべき愚策である。 それを理解できない議員を政治的に排除していくことこそ、国民が選挙などで求められる視線かもしれない。その意味では、マレーシアのように、消費増税廃止を公約に掲げて国政選挙を行ってもいいぐらいだろう。 現状では、安倍晋三首相もこの消費増税路線を堅持している。首相の本音がどこにあるのかはわからない。過去2回延期したという貢献があるにせよ、今のところ消費増税路線を維持している限り、安倍政権もまた批判を免れることはできない。安倍政権には経済を安定化させる義務がある。それが対中安全保障を含め、この長期政権に今までも求められてきた最重要課題だからである。

  • Thumbnail

    記事

    政治的娯楽「モリカケショー」があまりにバカバカしい

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) 元首相秘書官の柳瀬唯夫経済産業審議官の国会への参考人招致を契機にして、学校法人「加計学園」(岡山市)の獣医学部新設問題に再び注目が集まっている。ただし、筆者に言わせれば、相変わらずの悪質な誘導報道めいた動きや、多くの野党の「疑惑がますます深まった」症候群が加速化しているだけでしかない。 この問題は日本のメディアの低レベルと政治の薄っぺらさを実証する以外に何の成果もないのである。だが、世論調査では、圧倒的多数の人が柳瀬氏の国会での発言に納得していないようだし、テレビのワイドショーの「識者」の発言も同じく批判的だ。 しかし、筆者の考えでは、加計学園問題は一種の政治的な娯楽で消費されているに過ぎず、いわば受け手や作り手の「好き嫌い」しか反映されていないものだと思う。つまり、映画や遊園地で遊んだことについて、お客さんに「満足」か「不満足」かのいずれかを問うものと同じレベルであるということだ。 世論調査では、加計学園問題に関する柳瀬氏の答弁や安倍晋三首相の説明について、世論、いや消費者たちは圧倒的に「不満足」である。彼らは政治的娯楽を「もっともっと」求めているように思える。 多くの野党議員が口にする「疑惑はますます深まった」という言葉も、要するに「次回のモリカケは?」とドラマやアニメの予告編を知らせるせりふでしかない。そこには真実の追求もなければ、政治的な展望もないのである。もはや、政治はワイドショーの「奴隷」のような状況だろう。 ちなみに、柳瀬氏が加計学園の獣医学部新設をめぐり、学園や愛媛県の関係者と面談したことは、事実関係でも単純な論理としても、安倍首相サイドによる優遇には全くつながっていない。一部マスコミの見出しでは、まるで加計学園サイドに「優遇して」面談の機会が与えられたかのような印象報道もある。2018年5月10日、衆院予算委の参考人質疑で答弁する柳瀬唯夫元首相秘書官(松本健吾撮影) でも、あくまで柳瀬氏側と面会の予約をすることができたかどうかの問題でしかないのである。それが何の疑惑の根拠になるのだろうか。真実よりも「好き嫌い」 また、愛媛県の中村時広知事や「反安倍」の識者、マスコミ、野党は、「首相案件」という文言にこだわっている。では、「総理案件」だろうが「首相案件」だろうが、フレーズがいずれであっても、いったい何の疑惑を生み出すものなのだろうか。まるで「疑惑ゆえに疑惑あり」「予告編は面白おかしくていい」というような薄っぺらい印象でしかない。 もう一度簡単に書くが、柳瀬氏と面談すること、そしてそのときのメモ書きに「首相案件」などと書かれていたことが、何か重大な政治的ミス、道義的な重大ミス、あるいは国益を損ねる犯罪などになるのだろうか。 実は、この問いに対し、具体的に答えた人はいまだにいない。国民の多くは、テレビや新聞、インターネットなどから「犯罪映画の予告編」を延々と流され、「なんか怪しそうだ」とあおられているだけである。まさに異常な事態といえるだろう。 筆者はこの異常事態をしばしば「魔女狩りの経済学」という視点で取り上げてきた。冒頭にも書いたように、加計学園と学校法人「森友学園」(大阪市)のいわゆる「モリカケシリーズ」は、報道ではなく娯楽の消費なのである。 すなわち、真実の価値よりも、単に「好き嫌い」や「面白い面白くない」が優先されるのである。そしてメディアは、世論にできるだけ楽に消費してもらえるように、勧善懲悪的な見方や単純な構図、そして一つの話題をなるべく使い回すことを選ぶ。 メディアにとって、真実の追求は「おまけ」でしかなく、かえって真実がゆがめられて報道されている。しかし訴訟を起こされない範囲であれば、この娯楽としての報道にリスクは生じない。特に任期も限られていて、公的な地位が高く、訴訟リスクの低い国会議員などは、娯楽としての報道には最適の道具でしかないからである。 他方で、長期的な「取引関係」にあるといっていい官庁や警察、有力芸能事務所などへの批判は控えめになる。これらのマスコミの「取引先」は大切なお得意さまなのかもしれない。2018年5月8日、閣議後、記者の質問に答える麻生財務相 例えば、財務省で立て続けに明らかになった文書改ざん問題やセクハラ問題は、財務省の体質や制度そのものに起因する悪質なものである。ところが、マスコミの多くは麻生太郎副総理兼財務相の「クビ」しか関心がない。財務省自体に損失を与えると、自らにとっても「マイナス」になるかのように、彼らの批判の矛先は麻生氏に向けられたままだ。「モリカケ問題」今後は? さらにマスコミは、政府が「悪」、それに対抗する勢力は「善」、と勧善懲悪的に描かれる。今回の加計学園問題においても、政府側は悪役であり、くめども尽きない「疑惑の泉」でもある。 筆者の知る人気のサブカルチャー識者の中にも「常に政府に反対するのが正しい」と主張する人もいる。あまりにも薄っぺらい見方だが、国民の一定割合の支持を受けているだけに侮れない。 一方で、ワイドショーをはじめとするテレビ・新聞の報道を真に受けない人たちも増えてきている。これらのマスコミの情報を踏まえながらも、ネットでの代替的・補完的な情報や意見を参考にする人たちである。 もちろんネットの情報には多くの深刻な間違いがある。また、ネット上の意見の多くがマスコミの意見や分析の焼き直しであることも多い。ただ、これらのマイナス面を割り引いても、インターネットの進歩が、既存のメディアが好んで作り出す「娯楽としての報道の危険性」に一定のブレーキをかけていることは間違いない。 ところで、モリカケ問題はこれからどのような動きを見せるのだろうか。真実の追求よりも娯楽の追求が問題の「真相」だとすれば、答えは一つしかない。テレビであれば他の番組にチャンネルが変わること、新聞であれば他の重大問題に一面が変わることである。 つまり、より「楽しい」娯楽が提供されるまでは、この問題に関する「疑惑」は生産され、消費され続けるしかないのである。経済学のゲーム理論を応用すれば、これはゲームのルールが変更されることを待つしかない。悲観的な見方ではあるが、実はそれほど絶望的でもない。娯楽はすぐに飽きられる面もあるからだ。2018年5月10日、柳瀬唯夫元首相秘書官の参考人招致を伝える東京・秋葉原の大型モニター 実際、一部の世論調査では、内閣支持率も下げ止まりをみせて微増に転じているようだ。これは北朝鮮などの外交問題といった違う娯楽を求め始める動きや、消費者の飽きを示すものかもしれない。もちろん、真実を望む多くの人たちの、ネットなどを中心とした言論活動の成果かもしれない。 いずれにせよ、既存のマスコミが真実を追求する報道ではなく、娯楽としての報道を提供する限り、それを国が保護する何の理由もない。今後、マスメディアに対する規制緩和、特に放送法の改正などが重要な課題になっていくであろう。

  • Thumbnail

    テーマ

    イチローとダブる伝説の天才打者「E」

    マリナーズのイチローが「球団会長付き特別補佐」に就任した。今季は選手としてプレーせず、チームに同行して選手や首脳をサポートするという。「生涯現役」にこだわるイチローらしい決断とも言えるが、彼の野球人としての生き様をみていると、伝説の天才打者「E」のことを思い起こさずにはいられない。

  • Thumbnail

    記事

    「さらば宝石」イチローとダブる伝説の天才打者「E」

    小林信也(作家、スポーツライター) イチローがマリナーズの「球団会長付き特別補佐」に就任した。今季は試合に出場しないが、来季以降の現役復帰に含みを残した「終身契約」だという。「事実上の引退」と報じるメディアもあるが、「50歳まで現役」を公言し、生涯現役のイメージの強いイチローらしい契約ではないだろうか。 試合に出ないのに、毎日チームに帯同し練習して、その背中で若い選手たちに範を示し続ける。そして選手たちからの疑問や質問にも答える。ちょっと不思議な感じもするが、イチローがただ理論だけで指導するコーチである方が違和感がある。 25人のロースター(出場選手枠)を争う現役選手なら、常に自分のポジションを脅かすライバルだから他の選手は心理的に穏やかでない。球団はリスペクトゆえマイナーに落とせないイチローを確実に登録し続ける余裕もない。こうした思いや現実を見事に集約した契約に感じる。 今季、イチローはレギュラー外野手が故障から復帰するまでが出番だと最初から分かっていた。そのため、最初の1カ月で「戦力」としての証明をする必要があった。しかし、残念ながら15試合の出場で41打数9安打、打率2割2分にとどまり、引き続き25人の中に残る意義を示せなかった。そのことはイチロー自身もよく理解しているから、今回の契約には十分な「リスペクトと配慮」を感じたはずだ。 今回の契約を聞いて、ふと思い起こした打者がいる。ノンフィクション作家の沢木耕太郎さんが『敗れざる者たち』(文藝春秋)の中で、「さらば宝石」と題して書いた「E」という天才打者のことだ。沢木さんはこう書いている。引退して数年たつのに、Eは依然として3時間から6時間のハード・トレーニングを自宅で続けている。(中略)いつかどこかの球団が自分を必要として迎えに来てくれる、と頑なに信じ込んでいるらしいというのだ。 Eとは、プロ野球史上最年少で2000本安打を達成し、首位打者2回、シーズン最多安打も4回記録している「安打製造機」榎本喜八である。 打撃の師、荒川博さんから合気道を基礎とした打撃を伝授され、自らも合気道を学んで独自の打撃を追求し続けた。その打撃には多くの猛者たちが一目置く一方で、求道者の度合いが深すぎ、試合中や試合前後の奇行も目立ったため、次第に「変人扱い」されるようになったと言われている。西鉄・榎本喜八のバッティングフォーム 沢木さんの作品の中でも、あえて「E」と書かれていることでも分かる通り、引退して数年経つのに現役に未練を残し続ける「哀しい男」といったニュアンスが強い。 私は荒川博さんからしばしば話を聞いた経験があり、その中で語られた榎本喜八の打撃を想像すれば、たとえ50歳になってからでも榎本なら打てたのではないか、と想像が膨らむ。榎本の無念が今、「平成の天才打者」イチローによって、一つ払拭されたようにも感じる。 榎本喜八とイチローは、性格的には少し違うようだが、「安打製造機」「求道者」という生き方には通じるものがあり、「どうすればヒットが打てるか」を追求し、把握していた打者という点でも歴史上、双璧を成すだろう。榎本には引退後、復帰の機会が与えられなかったが、イチローにはその可能性が残されている。 榎本の無念を思えば、一層イチローにはリップサービス的な契約でなく、本当に50歳になっても打てる証明をする契約であること、そしてその日に向けて、精進と挑戦を続けることを強く期待したい。 来春は東京でマリナーズの開幕戦(対アスレチックス)が予定されている。ベンチ入りの枠が海外公式戦では3つ増えるこの試合にイチローが出場する可能性は大いにある。まず「45歳でも打てる」という証明は東京で実現する可能性は高いだろう。さらに、レンタル移籍などを実現して、短期間でも日本のチームや海外のプロリーグで活躍し、「野球の伝道師」としてその役割を果たすことも期待したい。打てる秘密が明かされる? 「イチローの『会長付き特別補佐』『生涯契約』ってどれだけすごい契約なのですか?」とよく尋ねられる。何と答えるべきか。たどり着いた答えは次の二つだ。 一つは、イチローがメジャーのフィールドを「草野球」に変えてしまった、という事実である。 野球好きのオヤジが、フル出場はできないが、好きなときに「打席に立たせろ」「マウンドで投げさせろ」のわがままが通用するのが、愛すべき草野球の舞台だ。そこで若い者に負けないホームランをかっ飛ばし、あるいは「いぶし銀」の投球を披露して、後輩たちから尊敬を集める生涯現役の野球オヤジが筆者の周りにもいる。イチローはそれをメジャーで実現する権利を手に入れてしまった。野球少年にとって、これ以上の幸福があるだろうか。 もう一つは、イチローが一人のプロ選手としてすべてのメジャーリーガー、関係者たちを敬服させた点である。試合前の入念な準備、試合後の体調管理、オフの過ごし方に至るまで、そのすべてが第一線で長く活躍するための秘訣であり、他の現役選手の模範になっている。 イチローはこれまで、さまざまな記録を打ち立てて、その実力を証明し、評価と敬意を獲得してきた。日本では、3年目の1994年にシーズン最多(当時)の210安打を記録。マリナーズでは一年目(2001年)に242安打を放って新人王に輝き、4年目には262安打のシーズン最多安打をマークした。日米通算4367安打、大リーグだけでも3089安打。ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)での伝説も含め、彼が打ち立てた記録や活躍を挙げればきりがない。 だが、44歳を迎え、現役選手としての今後を判断される段階になって、イチローが得たのはグラウンドでの結果ではなく、試合前後の準備や私生活も含めた「野球選手としての姿勢」だった。まさに、これ以上のリスペクトはないだろう。かつて世界の野球界において誰も勝ち得なかった「最高の栄誉」を手にしたと言っても過言ではない。 イチローは記者会見で「野球の研究者でありたい」と彼らしい表現で今後の生き方を示唆した。ただ、これだけ現役選手として注目されながら、「イチローはなぜヒットを打てるのか?」という素朴な疑問だけはいまだ解明されていない。 自身は「自分がどうやってヒットを打っているか、分かっている」と話しているが、メディアも含め、第三者はその核心にたどり着いていない。日本で鮮烈デビューした当初、「振り子打法」はイチローの代名詞だった。日本中の小中学生、高校生、プロ野球選手でさえ、振り子を真似した。米大リーグのツインズ―マリナーズ。左前打で出て生還しベンチで迎えられるマリナーズ・イチロー外野手=2018年4月7日、ミネアポリス(共同) ところが、「振り子2世」で大成した選手はその後も現れなかった。それどころか、メジャーに行った後、当のイチロー本人が振り子を封印し、あまり左右にぶれない打法に変わった。つまり、振り子が「打てる秘密」ではなかったのである。イチローにとっては「企業秘密」であろう、その打撃の真髄がすべて解き明かされたとき、きっと多くの選手の打撃が飛躍的に改善し、より野球の楽しさが伝わって、野球界は再び活気を取り戻すだろう。 イチローは視力が悪いと言われている。「目が悪いのに、なぜ打てるのか?」「150キロ以上の速球に、なぜスローモーションみたいな感覚でゆったり打てるのか?」、筆者自身聞いてみたいことは山ほどある。もちろん、イチローはすべての問いに明快な答えを持っているはずである。イチローが「会長付き特別補佐」に就任したことで、野球の楽しみがさらに広がったとも言えるだろう。

  • Thumbnail

    記事

    「日本型ハラスメント」がなくならない理由はコレだった

    じた、「政策レジーム」の転換からも既に5年半を超えた。 この約5年間の経済政策の評価については、この連載でも最近まとめている。そこで、今回はよりミクロ的な側面、特に雇用状況のうち、失業動向や賃金以外の話題について書いておきたい。 今回特に注目したいのは、自殺者数の動向と職場におけるハラスメントの問題である。まず前者についてみておく。よく自殺者数が激増する要因として、景気との関係が指摘される。 不況によって職場を失ったことで、人は自分の生きがいや生きる意味を喪失してしまう。この精神的ショックは、具体的にいえば、今まで帰属していた組織との「絆」の喪失、今までの仕事から得ていたプライドの低下、失職後の家庭での役割の低下、再就職の不安などが挙げられる。とりわけ、男性の働き手には失職による精神的ダメージが顕著であるとも指摘されている。 そこで、図1の日本の自殺者数の長期推移をみると、1990年代以降で注目すべき傾向は、やはり日本が経済危機に見舞われた1998年以降の急増だろう。3万人台になった後も、この高い水準を10年以上も維持してしまったのである。言い換えれば、それだけ日本は経済停滞による職場の環境悪化、それに伴う国民の生命の危機を放置してきたといえる。【図1】自殺者数の長期的推移(「人口動態統計」より) 経済の停滞は人災である。何よりこの認識が重要だ。好不況の循環を自然現象のように考える人がしばしばいるがそうではない。さらに重要なポイントとして、自殺者数の増加が不況の突入よりも、その後の経済政策が「緊縮的」なために引き起こされることを忘れてはならない。 最近では、2008年に起きたリーマンショック以降の各国の動向を踏まえて、経済政策の失敗が人間の生き死にを直接に左右するという分析を、英オックスフォード大のデヴィッド・スタックラー教授(公衆衛生学)と米スタンフォード大のサンジェイ・バス助教授(医学博士)が『経済政策で人は死ぬか?』(草思社)で提示している。例えば、不況になれば失業者が発生する。このとき政府や中央銀行が適切に対処しなければ、失業の増加が自殺者の増加を招いてしまうだろう。 スタックラー氏とバス氏たちの著書でも、リーマンショックにより仕事を失ったイタリアの中高年の男性職人が「仕事ができない」ということを理由に自殺したエピソードを紹介している。つまり、この話のポイントは、経済的な困窮ではなく、地位や職の喪失が自殺の引き金になっていることである。2018年4月9日、首相官邸での会談を前に握手する安倍首相(右)と日銀の黒田総裁 筆者は、2002年に上梓した『日本型サラリーマンは復活する』(NHK出版)の中で、スタックラー氏やバス氏たちが指摘したものと同様の分析を書いたことがある。そのときは、評論家の宮崎哲弥氏から「自殺の原因は、経済政策の在り方に左右されるような単純なものではない」という批判を受けたことがある。自殺を高止まりさせる「人災」の正体 確かに宮崎氏の指摘は半分正しい。自殺の背景には実に複雑な要因が絡んでいるからである。だからといって、経済政策が緊縮的か、それとも不況に十分に対処できているかどうかに、自殺者数が左右されていることを原因から排除することにはならない。 ところで、不況が自殺者数の増加をもたらす経路には二つある、と上記の拙著で指摘した。その経路は図2にまとめてある。【図2】 図2の「循環的要因の悪化」というのは不況を意味する。不況は、第一にリストラや解雇の増加を生み出す。そして、リストラによる配置換えや降格・転勤、解雇などにより、社会的地位が不安定、不規則化する。筆者はこれをフランスの社会学者、エミール・デュルケームの『自殺論』(1897年)での議論を利用して、「アノミー型(不規則型)自殺」と名付けた。 不規則とはいえ、不況が長期化すれば、不規則(規範破壊的)が規則的、つまり「新しいデフレの規範」になってしまい、自殺者数の高止まりが固定化してしまうだろう。これは、失職しても新しい職をなかなか得ることができない、という意味で「退出」(エグジット)が制約されているとも表現できる。 もう一つの経路は「構造的要因」への影響である。ここでいう構造的要因とは、職場の人間関係や働く場のルールや「風土」とでもいうべきものである。ルールや風土は可視化されたものでも、暗黙のものでも変わらない。これらの構造的要因も不況によって悪化するのである。 これは従来の循環的要因と構造的要因をはっきり分ける見方とは異なる。つまり、循環的要因も構造的要因に影響を与えるのである。厳しい雇用情勢のため職探しを控える「求職意欲喪失者」の増減がそれだ。また、不況で人員が減ったことによる労働強化や、不況による営業成績の個人的悪化などに起因するストレスの増加なども考えられる。 しかも、どんなに職場環境が悪くてもそのことを口に出すことができない。これは「異論」あるいは「ボイス」の制約である。先ほどのエグジットもボイスも、ともにドイツ出身の異端の経済学者、アルバート・ハーシュマンの主張である。彼のエグジット・ボイス論を、ここでは筆者が日本の自殺における循環的・構造的要因との関係に利用しているのである。 この「異論=ボイス」の制約は、過労死や過労自殺問題に詳しい川人博弁護士の表現を借りれば「会社本位的自殺」とも言い換えることができる。川人氏の発言を引用しておこう。 中高年労働者の過労自殺は、直接的には、過労とストレスから起こるものであるが、その根底には個人の会社に対する強い従属意識があり、会社という共同体に精神面でも固く繋がれた状況があると言える。その意味では、これを「会社本位的自殺」と呼ぶことが可能であろう。川人博『過労自殺』94ページ(岩波書店) 経済政策が緊縮的なスタンスを継続することで経済の悪化が持続する、つまり、循環的要因の悪化が、上記した二つの経路から自殺者総数の大幅な増加を生み出してしまう。特に、日本ではこの悪しき傾向をずっと放置してきた。まさに人災である。2018年1月、電通違法残業事件で書類送検された元上司の不起訴処分が不当として、東京検察審査会に審査を申し立てた川人博弁護士(左)と高橋まつりさんの母、幸美さん この人災への対応は、ミクロ的とマクロ的の両方が考えられる。一つは、自殺者対策への国・地方自治体による予算や人的支援両面での充実である。これはミクロ的な自殺者対策といえる。この対応は民主党政権後期に本格化した。だが、これだけではまだ不十分である。特に上記のように、経済の全体状況が長期停滞したままでは、自殺者数の大幅な減少にはつながらない。「会社本位」の企業風土にメスを だから、冒頭のアベノミクスや、黒田総裁の下での積極的な金融緩和政策による大きな効果を見て取ることができる。実際に2013年以降、金融緩和政策の大規模化と自殺者数の急減に関係性がみられる。民主党政権のときよりも減少幅が大きいのである。図3を参照されたい。【図3】警察庁の自殺統計に基づく月別自殺者数の推移 現状では、最悪期の約3万2千人から2万1千人台まで減少し、その傾向は今のところ継続している。だが、まだ80年代の水準には戻っていない。もちろん自殺者が限りなくゼロに近づき、同時に人々が生きることに幸福を得ることができるようにしなければいけない。きれい事のようだが、それが経済学の目的であり、それ以外はない。 そのためにはどうすればいいのか。もちろん、現状の大胆な金融緩和政策を最低でも継続する必要がある。それだけはなく、拡大の工夫が求められる。例えば、インフレ目標の達成見込みを前倒しすることだ。これは、日本銀行の政策委員の物価見込みを前倒し可能なほどの強いコミットメントを促すことと表裏一体である。また、インフレ目標そのものを引き上げたり、長期国債の一層の買い入れ表明も必要だろう。 さらに財政政策のスタンスも重要だ。消費増税の廃止か、少なくとも凍結を表明することが大事である。また、全く無意味な財政再建の見通し指標である基礎的財政収支(プライマリーバランス)の黒字化目標を正式に放棄することも意味のあることだろう。もちろん財政支出の増額も重要な論点になる。 ところで、筆者は、上記の自殺の構造的要因で指摘した「会社本位」の企業風土にも以前から注目してきた。特に、マクロ的な雇用状況が大きく改善する中でも「悪化」が全く止まらない現象が職場の中にある。それが「職場のハラスメント(嫌がらせ)」といえるものだ。図4は、最近の都道府県労働局などにある総合労働相談コーナーに寄せられた「いじめ・嫌がらせ」に関する相談件数の推移である。【図4】都道府県労働局などに設置した総合労働相談コーナーに寄せられる「いじめ・嫌がらせ」に関する相談件数 これをみると、不況下の局面では相談件数の増加率が大きく、不況から脱却しつつある近年では相談件数の増加率は抑制されている。だが、それにも関わらず一貫して「いじめ・嫌がらせ」の増加がやむことはない。 図3もあわせて参照すれば、これは不況とは切り離して考えるべきであり、むしろ、日本の会社組織における構造的問題の側面が強いことがうかがえる。例えば、長時間労働が常態化する裏に職場のハラスメントがあることを、滋賀大の大和田敢太名誉教授が著書『職場のハラスメント』(中公新書)の中で指摘している。 不況から脱却できれば、労働強化や長時間労働などによる過労や精神的ストレスが大きく抑制されるといえる。実際に、図4にもマクロ的な観点での「増加率の減少」で現れている。だが、本来の構造的要因は残されたままだ。職場における嫌がらせやいじめに対する社会的な認知が進むにつれて、相談窓口に対してとはいえ、働く人たちが「異論」「ボイス」を大きく提起しているとみることも可能だろう。大和田氏も「職場のハラスメントは会社組織の構造的問題である」と指摘している。 長時間労働とハラスメントが表裏一体であることは、大和田氏が著書で繰り返し指摘している論点である。特に、大和田氏はハラスメントの範囲を日本ではパワハラやセクハラなどに限定して理解しているだけで、それに含まれない幅広い労働者の人格を毀損(きそん)し、生存を脅かす行為を見逃していると指摘している。その上で、労働基準監督署に対して、「広義」でのハラスメント対策として、直接会社に改善指導が可能となる法改正が望まれるとしている。大和田氏の重要な指摘を忘れてはならない。追記:今回で「田中秀臣の超経済学」も連載100回を迎えました。今回書いた日本のマクロ経済や、個々の働く人の問題、貧困、格差、弱者の問題、さらには政治と国際問題について、さらに議論をすすめていきたいと思います。読者諸賢のご理解とご支援を今後もよろしくお願いできれば幸いです。

  • Thumbnail

    テーマ

    「容姿は猿似」豊臣秀吉のウソ、ホント

    豊臣秀吉のイメージを聞かれると、多くの人は「猿」を連想するだろう。文献によれば、確かに顔つきや背格好は天下人らしからぬ貧相な見た目だったようだが、「容姿が猿似」という通説はどうも怪しい。実は秀吉憎しの外国人が意図的に貶める創作だった可能性もあるという。

  • Thumbnail

    記事

    「容姿は猿似」豊臣秀吉のウソ、ホント

    渡邊大門(歴史学者) 豊臣秀吉の容姿については、伝説を含めて多くの記録が残っている。秀吉の容姿に触れることは、権力者としての秀吉の側面などを考えるうえで、多くの示唆を与えてくれるように思う。 まず、秀吉には、指が6本あったといわれている。このことを指摘したのは、近世史家の三上参次氏である。根拠である前田利家の伝記『国祖遺言』(金沢市立図書館・加能越文庫)には、次のように記されている。「太閤様(秀吉)は、右手の親指が1つ多く6つもあった。あるとき蒲生氏郷、肥前、金森長近ら3人と聚楽第で、太閤様がいらっしゃる居間の側の四畳半の間で夜半まで話をしていた。そのとき秀吉様ほどの方が、3つの指(の1つ)を切り捨てなかったことをなんとも思っていらっしゃらないようだった。信長様は秀吉様の異名として『六ツめ』と呼んでいたことをお話された」(現代語訳) 秀吉は生まれたときから右手の親指が6本あり、それを切り捨てなかったことから、信長から「六ツめ」とあだ名がつけられていた。実は、この話に関しては、フロイスの『日本史』第16章にも「片手に6本の指があった」と記されている。では、ほかに秀吉の6本指を書き記した史料はないのであろうか。 秀吉に指が6本あったことは、朝鮮の儒学者、姜沆(カンハン)の著書『看羊録』(かんようろく)にも、次のように記されている。 「(秀吉は)生まれた時、右手が6本指であった。成長するに及び、『人はみな五本指である。6本目の指に何の必要があろう』と言って、刀で切り落としてしまった」 この記録で重要なのは、『国祖遺言』と同じく右手が6本指であると書かれているが、余分な1本を切り落としたと書かれていることだ。『国祖遺言』には、余分な指を切り落としたと書いていない。はたして切ったほうが正しいのか、切らなかったほうが正しいのか、どちらであろうか。 そもそも秀吉の右手が6本指であったというのは、現代の医学で言えば、先天性多指症という病気である。多指症とは通常より指が多い病状を示し、90%以上が親指であるという。発生比率は、男性が3に対して、女性が2であるといわれ、男性に多い病状であった。発生頻度は、2千人から3千人に1人であると指摘されている。 したがって、『国祖遺言』が「右手の親指が1つ多く6つもあった」と記しているのは、決して荒唐無稽(こうとうむけい)な話ではない。 多指症の原因は胎児が母親の胎内にあるとき、本来は1本の指になるところが、何らかの理由によって組織が分裂し、指が2本に分かれたものであるという。ちなみに、指は大小が生じ、大きい指は動かしやすく、小さい指は動かしにくいという。木下藤吉郎秀吉像=岐阜県大垣市墨俣町 面倒なのは、単に動かしにくい小さい指を切ればよいという問題ではないことで、指を再建する手術になる。これは、大手術になるといわれており、手術がうまくいかないと、再度指を再建することは困難になる。手術の難しさゆえに、ベテラン医師が手術を担当することが多い。一般的に手術は、おおむね1~2歳の間に行われる。 現代の医学水準においても非常に困難な手術であることを考慮すれば、当時の人々は経験的に指を切り落とすことのリスクを知っていた可能性がある。衛生面から言っても、指の切断後の措置がうまくいかなければ、細菌などによって死に至ることが考えられる。仮に切断後の措置がうまくいっても、残った指に障害が残る可能性も高い。 そのようなリスクを考慮すれば、秀吉は右手の親指の余分な1本を切らなかった可能性が高い。ただ、秀吉の指が6本あったということは、非常に好奇な目で見られたことであろう。そのことは、秀吉の性格にも大きな影響を与えたと考えられる。微調整された肖像画 では、秀吉の容姿は、どのように伝わっているのであろうか。フロイス『日本史』16章には、秀吉の容姿について次のとおり記されている。 「彼(秀吉)は身長が低く、また醜悪な容貌の持主で、片手には6本の指があった。目がとび出ており、シナ人のように髭が少なかった」 戦国時代といえば、現在のようにさほど栄養状態がよいわけではない。肉食を主とし体格のよい欧米人から見れば、さぞかし秀吉は小柄に見えたことであろう。おおむね身長は、150センチ台の半ば、あるいは140センチ台だったかもしれない。 実は、フロイス『日本史』16章は、秀吉がキリシタンに迫害を加えたことを非難する文面であふれている。そのような事情から、秀吉の容姿に関する記述を素直に受け取ることは危険なのかもしれない。「醜悪な容貌」というのは、多少はフロイスの悪意を感じなくもない。 戦国史家の桑田忠親氏は「秀吉の目が飛び出している」という点について、高野山蓮華定院、大阪の豊国神社など、秀吉と実見して描いたと考えられる肖像画は、「眼窩(がんか)がくぼんでいる」ことから事実に反していると指摘している。この見解については、いったいいかに考えるべきなのであろうか。 秀吉の肖像画は、秀吉が依頼して絵師に書かせたものである。その場合、秀吉は絵師に対して、さまざまな要望をしたに違いない。目がくぼんでいるとか、くぼんでいないかということよりも、全体が権力者としてふさわしい表情になっているかが重視されたはずである。そうなると、現在伝わっている秀吉の肖像画が、必ずしも正しい姿を伝えているとは限らず、秀吉好みに微調整された可能性が高い。豊臣秀吉像(京都・豊国神社) 秀吉の醜い容姿は、何もフロイスの『日本史』だけに書かれていることではない。後世の編纂物も含めて、実に多くの書物に書き残されている。 秀吉が「猿」と呼ばれたことは、よく知られている。もっともそれは、秀吉に多少の親しみを込めて呼ばれたようであるが。この点について、秀吉の容姿が醜く、背が低いという事実とあわせて、姜沆の『看羊録』には、次のように記されている。 「賊魁(ぞくかい。賊軍の長)秀吉は、尾張州中村郷の人である。嘉靖丙申(1536年)に生まれた。容貌が醜く、身体も短小で、容姿が猿のようであったので(「猿」を)結局幼名とした」 姜沆も文禄・慶長の役によって日本に無理やり連行されたので、秀吉にはよい印象を抱いていなかった。冒頭に秀吉を賊魁(賊軍の長)と記しているのは、そうした理由によると考えてよい。1行目の出生に関わる記述は、当時の情報を何らかの形で入手したと考えられる。いずれにしても、姜沆の目には秀吉の姿が醜く映っているのである。外国人から見た秀吉は、醜悪だったようだ。 毛利家の家臣・玉木吉保は、その著書『身自鏡(みじかがみ)』(1617年)の中で「秀吉は『赤ひげ』で『猿まなこ』で、空うそ吹く顔をしている」と書き残している。玉木吉保は秀吉の同時代の人物であり、伏見城築城にも従事した。「赤ひげ」とはひげが薄くて、赤っぽく見えたのであろう。「猿まなこ」とは、「猿の目のように、大きいくぼんだ目。きょろきょろと動くまるい目」という意味がある。 先に、秀吉の目がくぼんでいるか、飛び出しているかという点が問題になったが、「きょろきょろとした」点に重点を置くと、目が飛び出しているような印象を受ける。しかし、目の形状に関しては、いずれにしても年齢的なことも考慮しなくてはならないだろう。加齢とともに痩せ、目がくぼんでいったことも考慮する必要がある。髭が薄かったのは、別の史料もあり、事実のようである。「猿」と「はげ鼠」 同時代に近い史料として、李氏朝鮮側の記録『懲毖録(ちょうひろく)』(17世紀前後)があり、秀吉に謁見(えっけん)した朝鮮使節の感想を次の通り記されている。 「秀吉は、容貌は小さく卑しげで、顔色は黒っぽく、とくに変わった様子はないが、ただ眼光がいささか閃いて人を射るようであったという」 背が低く容貌が卑しいというのは、フロイスらの感想と一致しているところである。また、小さい頃から肉体労働に従事していた秀吉は、よく日に焼けていたと考えられる。眼光が鋭いというのは、権力者特有の趣が感じられたからであろう。秀吉は小柄ながらも、非常に野性味あふれていたに違いない。 若き秀吉と松下加兵衛との出会いの場面は、実に示唆深いものがある。秀吉と加兵衛は浜松の町外れで初めて出会っており、その様子は次のように記されている。 「加兵衛が久能から浜松に行く途中で猿(=秀吉)を見つけたという。異形の者で、猿かと思えば人に見えるし、人かと思えば猿に見える。どの国から来た何者かと尋ねると、猿は尾張から来たという。また加兵衛は、幼少の者が遠路をどのような用事で来たのか尋ねると、奉公を望んできたといった。加兵衛は笑いながら私に奉公するかと尋ねると、(秀吉は)了解したと述べた」 猿に見えたとは大袈裟な書き方ではあるが、秀吉の汚らしかったであろう服装と相まって、そう見えたのだろう。あとで加兵衛は主人である飯尾氏に秀吉を面会させると、秀吉は皮のついた栗を取り出し、口で栗の皮をむいた。その口元は、あたかも猿のようであったという。しかし、秀吉が沐浴を済ませ衣裳を改めると、姿かたちが清潔になり、はじめの容貌とは異なっていたという。秀吉が猿と称され、みんなから愛されたゆえんでもある。豊臣秀吉の像が立つ豊国神社=大阪市中央区 ただ、小和田哲男氏が指摘するように、松下氏に関する記述は事実誤認が多く、信の置けないところもある。秀吉が「猿」に似ていたというのは、むろん猿そのものの意味もあったであろうが、愛嬌のよさを含んだ意味もあったであろう。 秀吉の容姿は、「はげ鼠(ネズミ)」と称された例もあった。年未詳ながら、秀吉の妻・おね宛の織田信長の朱印状には、次のように記されている(「土橋嘉兵衛氏所蔵文書」)。 「お前さま程の細君は、あの『はげねずみ』には2度と求めることは出来まいから、お前さまも奥方らしく大様に構えて、軽々しく焼き餅など焼かぬように」 秀吉が妻・おねに対してたびたび不服をいうことについて、信長は手紙をしたためて、たしなめているのである。手紙の末尾には、「秀吉にこの手紙を見せるように」とあることから、信長と秀吉の強い結びつきや信頼感を感じ取ることができる。つまり、信長は親しみの意味を込めて、秀吉を「はげ鼠」と呼んだのかもしれない。抱き続けたコンプレックス ところで、ネズミといえば、朝鮮側の史料『宣祖修正実録』に大変興味深い記録が残されている。朝鮮から派遣された使者が戻ってくると、秀吉の容貌はいかなるものか質問した。その回答は「目が燦燦(あざやかで美しいさま。きらきらと輝いて美しいさま)としていて、これは胆智(肝がすわった知力ある)の人に似ている」であった。一方で、別の一人は「その目は鼠のようで、畏れるに足りない」と述べた。 前者は秀吉を侮(あなど)ってはいけないことを、暗に注意しているのだろう。そして、後者はそうであっても、畏れてはならないと考え、あえて「ネズミのような目」と形容したと推測される。したがって、秀吉の目がネズミのようであったというのは、当たらないと考えられる。とにかく秀吉は、見る人によって印象が異なったが、背が小さく醜い容姿であったことは、共通していることである。 一つ言えることは、少なくとも秀吉が美男子ではなかったということだ。その点に関して秀吉は、自らフロイスに次のように述べている(『日本史』14章)。 「皆が見るとおり、予(秀吉)は醜い顔をしており、五体も貧弱だが、予の日本における成功を忘れるでないぞ」 この一文を見れば明らかなとおり、秀吉は自身の容姿が良くないことを自覚しているのである。「五体も貧弱」というのは、体が普通の人より小柄であったことを示している。そのようなこともあって、わざわざ「私を侮ってはならない」ことを半ば恫喝(どうかつ)気味に伝えているのだ。外国人でなくても、同時代に秀吉と会った日本人の多くが、秀吉の容貌を醜かったと感じていたに違いない。 秀吉は子供の頃から貧しい生活を強いられており、服装も汚らしいもので、容姿もさえなかった。当時、指が6本あったことも、何かしら嘲笑されたことに違いない。身体は小柄で、日焼けして薄汚れた顔立ちは、さながら「猿」のようだったと考えられる。ときに「猿」のような顔立ちは愛嬌があったが、虐げられたキリシタンや朝鮮の人にとっては、憎らしさがあったと想像される。 長々と記したが、一言で言うならば、秀吉の容姿はさえなかった。秀吉は貧しい出自や指が6本あったこともあって、大きなコンプレックスを抱いていたと考えられ、その後の人生に大きく作用したのではないだろうか。 次回は、諸説ある秀吉の出自について考えてみたい。【主要参考文献】渡邊大門『秀吉の出自と出世伝説』(洋泉社・歴史新書、2013年)

  • Thumbnail

    記事

    さらば「鉄人」衣笠祥雄

    小林信也(作家、スポーツライター) 衣笠祥雄さんが亡くなり、野球界だけでなく多くの分野から惜しむ声が寄せられている。現役時代のフルスイング、野性味あふれる躍動ぶりとは対照的に、ちょっとハスキーながら穏やかな語り口と柔らかな物腰、野球選手の中では異彩を放つ紳士的な雰囲気が印象に残っている。その姿には、ひとりの男の人生の到達地点を見る思いがした。 プロ入り当初、衣笠さんは紳士でも一目置かれる存在でもなかった。野球によって社会に認められて自信を抱き、誇りを持って生きる人生を手に入れたようだった。あのころの野球はそれを可能にする世界であったと、遠い憧れのような熱い気持ちが湧き上がってくる。 少年時代に僕が見た衣笠さんは、ヤンチャそうな負けん気あふれる若者だった。私が田舎(新潟)で観ていた巨人戦のテレビ中継に衣笠さんが登場し始めたのは、衣笠さんが入団4年目でレギュラーの座を奪った1968年、ちょうど私が中学に上がった年だった。翌年に大卒で入団し、すぐに活躍を始めるチームメイトの山本浩二、阪神の田渕幸一らはどこかおっとりとしていて、ホームランこそ飛ばすが荒々しさは感じなかった。ところが衣笠は、目の前の自分より大きな動物に下から飛びかかろうとするような猛々(たけだけ)しい気迫を感じさせた。 それが、日本人である母とアフリカ系米国人の父の子に生まれたハーフの身の上、幼いころの心ないバッシングやいじめによって形成された心の奥の思いのためだったのかどうかはわからない。だが、明らかに衣笠さんは常に戦いを求めていたし、まるでボクシングで相手と殴り合っているような雰囲気で野球をしていたように感じていた。 ところが、そんなイメージとは裏腹に、当時から野球選手としては紳士的であった。死球を受けても、静かに一塁に向かう衣笠の姿がいまでも目に浮かぶ。衣笠は通算161個もの死球を受けており、清原、竹之内雅史に次ぐ歴代3位の記録だ。無事これ名馬というが、衣笠さんは死球をたくさん受けながら、休まず試合に出続けたのだ。 衣笠さんといえば、2215試合の連続試合出場記録が真っ先に語られるが、「鉄人」たるゆえんはそれだけにとどまらない。 衣笠さんは長嶋茂雄よりたくさんのホームランを打っており、その数は504本にのぼる。王貞治、野村克也、門田博光、山本浩二、清原和博、落合博満に続く歴代7位。張本勲と同数だ。実は田渕幸一、金本知憲、中村紀洋らのホームラン打者よりも多い。 盗塁も通算266を記録している。1976年、盗塁王にも一度輝いている。500本塁打以上では張本勲(319)に続く数字。長打力と機動力を兼ね備えた強打者だった。広島の衣笠祥雄選手(当時)=1968年6月  ゲッツー(併殺)と言えば、現役終盤のミスター巨人、長嶋の代名詞のように感じるが、ミスター鉄人はゲッツーでも長嶋をしのいでいた。併殺打の歴代1位は野村克也で378。これは鈍足ゆえもあるだろう。野村に続くのが衣笠で267。次いで大杉勝男が266、長嶋と中村紀洋は257で4位だ。三振を恐れないフルスイングの衣笠のスタイルがゲッツーの数に表れている。三振は意外と少なく、歴代9位の1587。1位清原(1955)、5位金本(1703)、6位中村(1691)らがはるかに上を行っている。 衣笠さんは、平安高校で春夏二度甲子園に出場したエリートではあるが、注目度はさほど高くはなかった。ドラフト会議は1965年から始まっているが、衣笠は「自由競争」の最後の年、1964年のオフに広島と契約を交わしている。6球団から誘いを受け、自らの意志で広島カープを選んだと語っている。当時の広島は新人たちがひしめいていた。何しろ、翌65年の第1回ドラフト会議で、広島は18人もの選手を指名している。このうち8人は入団拒否、入ったのは10人だが、衣笠が一軍に上がり、試合に出るには、大変な競争を勝ち抜く必要があった。衣笠の功績 二軍時代のやんちゃな逸話はよく知られている。契約金で買った高級外車を乗り回し、しばしば事故を起こした。深夜まで飲みに出て帰らない衣笠を合宿所で深夜3時まで待ち続け、それから朝までバットを振らせたコーチ関根潤三の逸話も有名だ。 入団3年目、監督に就任したのが根本陸夫だ。その後、西武、ダイエーの監督を歴任、フロントでも辣腕(らつわん)を振るった伝説の人物だ。 「ひと目見た時から、この人には逆らえないと感じました。人生のタガは外しちゃいけないと教えられた」と、後に語っている。その時のコーチが関根だ。 古き良き時代の指導者と、その熱血指導で才能を伸ばした選手。まだ発展途上だったプロ野球を隆盛に導き、日本中を野球の熱気で元気づけていた時代が遠ざかっていく実感がある。 パワハラ問題で揺れる世相の下、野球の指導姿勢も問われ、揺らいでいる。私自身、もはやスパルタ指導は違うと思うし、やらされる指導がプロ野球でも幅を利かせた時代は過去の遺物と思う。しかし、まだ成熟前の野球界で、少しでも世間の関心と好感と尊敬を得ようと必死になって野球に情熱を注いでいた当時の熱さは、子ども心に懐かしく感じられる。 思えば、衣笠がいなければ、いま当たり前になっている本拠地チームを熱く応援するムーブメントの礎も築かれなかったかもしれない。 関西のファンが阪神タイガースを熱烈に応援し、名古屋のファンが中日ドラゴンズを、広島のファンが広島カープを応援するのは当然のように思うファンが少なくないだろうが、赤ヘル旋風(せんぷう)が巻き起こる前は、関西でも名古屋でも日本じゅうで「半分は巨人ファン」というのが語られざる現実だった。 Bクラスが定位置の広島も例外ではなかったが、山本浩二とともに衣笠がカープを押し上げ、1975年には初のリーグ制覇するに至って、広島の誇りは勢いを持った。 Jリーグのホームタウン制が先駆けになったとはいえ、カープ優勝の感激を日本が体験していなければ、プロ野球にも本拠地チーム支持の伝統が今日のように定着するにはもっと時間がかかった可能性がある。その意味で衣笠祥雄は、日本のプロ野球に新たな生きる道を与え、次の夢をもたらした功労者と言えるだろう。衣笠祥雄氏の背番号「3」を掲げる広島ファン=2018年4月24日、横浜スタジアム(撮影・斎藤浩一) 惜しまれるのは、衣笠祥雄ほどの人物が、一度もコーチ、監督として後進の指導にあたる機会がなかったこと。なぜ引退後ユニホームを着なかったのか、これには諸説ある。いわく「球団との折り合いがよくなかった」「指導に興味も自信もなかった」「国民栄誉賞を受賞したために指導者として失敗が許されないと感じていた」といった逸話である。 特徴的な声、博識、歯に衣(きぬ)着せぬ発言も聞く者の心に響いた。評論家としての才覚が指導者への道を阻んだのかもしれない。 指導する「自信はない」と言う一方で、「60歳になったら子どもと一緒に野球をやりたい。全国を回って、そういう機会が持てれば」とも語っていた。プロ野球の指導者でなくても、小学生や中学生のグラウンドに衣笠が立ったら、どんな野球を演出しただろうか。それを思うと、衣笠のもう一つの夢が実現せずに終わったことを残念に思う。 他方で、広島カープ一途に歩み、1979年には悲願の日本一の立役者だった大先輩、衣笠祥雄に、2年連続リーグ優勝という「カープ黄金時代の再来」とも言える隆盛を見せた現監督、選手たちに敬意を表したい。 87年に当時の世界記録2131試合連続出場を達成し、本場アメリカにも日本野球の気高さを伝え、野球界発展に大きなエネルギーを与えてくれた衣笠祥雄さんのご冥福を心からお祈りします。

  • Thumbnail

    記事

    「ウナギが食べられない」歴史的不漁より影響が大きい噂の経済効果

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) ゴールデンウイークの始まりとともに、今年のシラスウナギの採捕期間が終わる。ニホンウナギの稚魚であるシラスウナギは、12月から翌年4月末までが漁期である。この期間中、シラスウナギの劇的な減少が話題になった。 昨年末、国内の養殖池で育てるために主要取引先の香港から輸入されたシラスウナギの量が、前年同時期の92%減となった。この歴史的な不漁が明らかになり、インターネット上でも「ウナギが食べられなくなる」「ウナギを食べるのをやめよう」といった発言が活発化した。 その後、3月に入って採捕量が増加し、シラスウナギを養殖池に放流する「池入れ」の量は回復していったようだ。それでも、報道によれば、平年の6割程度の池入れ状況だという。 シラスウナギの不漁の原因にはさまざまな理由があり、海流の変化、乱獲、環境の悪化などが挙げられている。だが、回復への決定打はないようで、わかっているのは、シラスウナギの採捕量が毎年減少傾向にあるということだけである。 ところで、「土用の丑(うし)の日」にウナギを食べるというのはいつから始まったのだろうか。記憶が曖昧でなければ、筆者の子供のころである昭和30年代から40年代は、あまり一般的な風習でもなければ、巷で広まってもいなかったように思える。バレンタインデーや恵方巻きがいつの間にか季節の風物詩になったのと同じように、業界の思惑が見え隠れしている。 いずれにせよ、通説では江戸時代後期に、平賀源内が夏の売り上げ不振に悩む鰻(うなぎ)屋のために、「土用の丑の日」にウナギを食べることを宣伝文句として考え出したといわれる。これも真偽については諸説あるようだ。ウナギの稚魚シラスウナギ(第11管区海上保安本部提供) ただ、PR戦術としては、かなりうまい工夫だと思う。最近でこそ、「今日は××の日」などと記念日が連日あるように、特定の財やサービスの消費を促す仕組みには困らない。それどころか、同じ日にいろいろな名目の記念日が並ぶことさえも珍しくない。 例えば、7月7日は、ラッキーナンバーの「7」が並ぶせいか、記念日の「猛ラッシュ」である。七夕はもちろん、国土交通省が便乗した「川の日」、ポニーテールの日、乾麺デー、サマーバレンタインデー、冷やし中華の日、カルピスの日、ゆかたの日、果てはギフトの日まで、軽く2桁に届いてしまう。「ウナギ好き」を後押しした相乗効果 多くは関連業界の販促目的であり、いわば「現代の平賀源内」が活躍した成果でもある。ちなみに筆者の誕生日の9月7日は、オーストラリアでは「絶滅危惧種の日」だそうだ。 このように「今日は××の日だから」××を食べよう、着よう、買おうと促されると、ついつい財布のひもが緩んだりする消費者も少なくないだろう。これを経済学では「フレーミング効果」と名付けている。フレームとは「参照される枠組み」ということであり、つまり、何かにかこつけることができる人は不合理な行動に出てしまうというものである。 例えば、フェイスブックに「友達」というカテゴリーがある。私もこの「友達」に何人ものユーザーを登録している。そしてフェイスブックでは「友達」だけが、自分の書いた投稿を閲覧できる、公開範囲の設定機能がついている。つまり、「友達」というフェイスブック内のフレームが、ユーザーに一種の安心感を与えているのである。そのため、「友達」向けに書く内容は、一般に公開される投稿よりもプライベートな情報が多くなりやすい。 でも、その「友達」が本当にプライベートな情報について他に漏らさないことを、フェイスブックはもちろんのこと、誰も保証してはくれない。そのため、重要な情報が「友達」の外に漏れてしまい、ネットで炎上するなど思わぬ損害を招く可能性がある。 このように、フレーミングには人に合理的な判断を不可能にさせる心理的な効果がある。もちろん「友達」のフレームを信じて、「友達」同士がより親しくなり、信頼関係を強化していく効果もある。フレーミングは、非合理性が人の不幸にも幸福にも貢献することを示しているともいえるだろう。 さて、「土用の丑の日」にウナギを食べるというフレーミング効果が、かなり発揮されていることに疑いはない。しかも、個々人がフレーミング効果の「とりこ」になっているだけではなく、相乗効果もある。台湾から空輸されたウナギ。漁獲量の減少から絶滅危惧種に指定された=2017年7月、成田空港 みんなが「土用の丑の日」でウナギを食べているので、私も便乗して食べよう、という判断も生じるからである。これを「バンドワゴン効果」という。バンドワゴンとは、カーニバルなど行列の先頭に登場する巨大な楽隊車を指す。つまり、みんながお祭り気分になる効果である。これもまた合理的ではなく、非合理的な消費態度だといえるだろう。 日本人は20世紀まで世界のウナギ消費量の3分の2を占めていた。まさに平賀源内のフレーミング効果と、バンドワゴン効果の「合わせ技」がフル回転していたわけである。その消費量は15万トンに及んでいた。ところが、21世紀に入ると、日本の消費量は急減してしまう。2012年には3万7千トンにまで落ち込んでいる。21世紀中に、世界全体のウナギ消費量が中国などの需要増の影響で微増しているにも関わらずである。 他方で、ウナギが、国際自然保護連合から絶滅危惧種の指定を受けたことも記憶に新しいだろう。絶滅危惧種の指定自体は、ウナギの消費動向や捕獲に関する罰則付き規定の導入に直ちに結び付いているわけではない。ただ一部の論者の中には、この絶滅危惧を重大視し、水産庁の対応不足などを指摘している。つまり、規制を強化すべきだと主張しているのである。「噂」の経済効果の影 研究者や企業も、ウナギの完全養殖や代替可能な食品の製造などに取り組んではいるが、まだまだ道半ばである。その意味では、絶滅危惧種指定を重大視すれば、この種の規制が重要になるかもしれない。では、21世紀に入ってからの日本のウナギ消費の急減は、この環境意識の芽生えが貢献しているのだろうか。 だが、答えはどうも違うようである。実は、日本における21世紀のウナギの消費量急減の背景には、中国産ウナギについての評価が影響を及ぼしているという指摘がある。一説によれば、中国産のウナギについて、一時期話題になった残留薬物問題や産地偽装問題がいまだに尾を引いたために輸入が急減し、そのことがウナギの消費自体まで減少させたという。 もちろん明言しておくが、現在の中国産ウナギには厳格な管理・検査態勢が敷かれているので、不適当な食材として流通する可能性は皆無に等しいだろう。だが「噂」の経済効果はばかにはできない。これはフレーミング効果が反対に作用し、消費を減らす効果を持ったといってもいいだろう。 要するに、「中国産」というフレーミングの、消費に対するマイナス効果が、「土用の丑の日」というフレーミングのプラス効果をかなり打ち消してしまったのだろう。さらに、多数の人間がそのような嗜好(しこう)に変わってしまったことで、バンドワゴン効果も消費を減らすことに大きく貢献しまったのである。 中国産ウナギの安全性が保証されても、マイナスのフレーミングとバンドワゴン効果を打ち消すことがなかなかできない。人間の非合理性のやっかいなところでもある。 それでは、日本産ウナギの方はどうだろうか。これについてはそもそもの捕獲量の減少も加えて、21世紀になって高価格帯を推移している。冒頭にも書いたように、今年は例年にない高値になりそうだ。 今までのウナギのかば焼きの価格推移をみると、中国産ウナギの消費が好調であった90年代は、1匹当たり500円台から600円台で推移していた。それが21世紀に入った現在は、日本産ウナギの価格が急上昇し、1000円台になっている。ウナギのかば焼き この価格上昇が、日本のウナギ消費量を抑制する一因にもなっているだろう。ただし、消費抑制の一方で、ウナギの供給者にとっては、完全養殖ウナギの開発や、ウナギに近い触感や味わいを持つ食材の開発を刺激する効果も持つかもしれない。これは消費者にとって供給を増加させるから好ましい動きともいえる。 実は、筆者もウナギが大好物である。だから、絶滅の危険がさらに高まって、消費そのものが禁止されてしまうと非常に困る。ウナギの未来は、複雑な経済の動きにかかっているのである。

  • Thumbnail

    記事

    #MeTooに便乗した枝野幸男のセクハラ追及は「限りなくアウト」

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) 立憲民主党や希望の党など、野党はいったい何をしているのだろうか。福田淳一財務事務次官のセクハラ問題からせきを切ったように、野党の安倍政権への「猛攻撃」が始まっている。だが、その「猛攻撃」に理はあるのだろうか。筆者は率直に言って理解しかねる面が多すぎると思う。特に野党6党の国会審議拒否、麻生太郎財務相の20カ国・地域(G20)財務相・中央銀行総裁会議への出席や、小野寺五典防衛相の訪米を認めない姿勢は国益を損ねている。 まず福田氏のセクハラ問題自体は、福田氏個人の問題である。麻生財務相はあくまでも事務次官の「職務上の行為」について責任を負っているにすぎない。もちろん、麻生氏が「謝罪」をするのは社会常識的に正しい。だが、それ以上に職員の私的行為にいちいち責任を負わなければいけないとしたら、あまりにも行き過ぎた要求だと思う。 それでも、セクハラ問題が報道された直後、財務省が、被害者の身元を財務省の窓口に自己申告してほしいという姿勢を採ったことは確かに傲慢(ごうまん)である。セクハラ問題の対象者が財務省の事務方トップであるならば、財務省とは別の官庁、例えば、厚労省や内閣府を窓口とすることを考えなかったのだろうか。 ただし、財務省の指定した弁護士事務所の対応細目はあまり注目されていないが、かなり丁寧なものだ。もちろん、それが被害者にとって十分な対応かは、別途議論の余地がある。だが、財務省にはセクハラを隠蔽する意図があるとは社会常識的に思えない。そもそも、問題がここまで公然化しているので不可能である。 また、被害者のプライバシー保護を無視することも難しい。要するに、自省の人間がセクハラを起こしたとき、しかもその相手が報道機関を利用して匿名で告発したときの初期対応が「傲慢」な印象を与えた。だが、これをもって麻生氏の辞任の口実にするにはあまりにも行き過ぎである。 筆者はいままで財務省や、場合によっては財務次官個人への批判を20年近く行ってきた。時には財務相の辞任を願うこともあった。だが、それはあくまでも財務省の仕事に関連した話である。 もちろん今後、財務省のセクハラ疑惑の解明が独自に進められると思う。その過程で、疑惑ではなく「真実」だと財務省が判断すれば、当該職員にペナルティーが課せられる可能性が大きいのではないか。この解明作業が不十分であり、社会的に見てもあまりにずさんであれば、そのときは別の批判を財務省に向ければよい。2018年4月20日、財務事務次官のセクハラ疑惑を受け「#MeToo」と書かれた紙を手に財務省へ抗議に訪れた野党議員ら だが、まだ被害者本人に財務省はおそらくコンタクトしていないだろう。これからの過程を静かに見守ることが、このようなセクハラの事象には必要ではないだろうか。物事を拙速に決めつけて進むべき問題ではないように思う。 だが、野党の姿勢は、この私的なセクハラ問題をむしろ「政治闘争」の素材にしてしまっているのではないか。中でも一部の野党議員は「#MeToo(私も)」運動を標榜(ひょうぼう)し、黒いスーツを着用して国会を中心にパフォーマンスを展開している。「身内」と矛盾する立憲民主党2018年4月22日、松山市内で取材に応じる立憲民主党の枝野代表 今回のセクハラ問題に対して、本当に野党6党が共同で抗議するのであれば、まずはセクハラ問題を起こした野党議員への対処をしたらどうか。例えば、J-CASTニュースによれば、立憲民主党のセクハラ問題を起こした2人の衆院議員について、同党の枝野幸男代表らは双方で話し合いや和解が済んでいることを理由にして、現状以上の処分を避けている。むしろ、野党6党が今、麻生氏に退陣要求している理屈を援用すれば、枝野氏自らの進退にもかかわるのではないか。 もし、現状の立憲民主党と同じ方針を採用するのであれば、財務省のケースも、まずは双方による調停や、また財務省が行っている調査や処分の経過を見守るのが正しいのではないか。今の立憲民主党による麻生氏への辞任要求は、さすがに「身内」への態度とあまりにも矛盾している。 だいたい、現在の世界情勢を考えると、国際的な情報収集のために、今こそ政治家たちが与野党問わず、奮闘すべきときだと思う。確かに、セクハラ問題の解明も重要であるが、現在は財務省の今後の対応を見守るべき段階であろう。むしろセクハラ問題を、見え透いた倒閣目的での利用に走る野党が残念で仕方がない。 マスコミにも問題はある。特に女性記者が在籍しているテレビ朝日である。自社の女性記者が上司に相談したとき、セクハラの訴えを事実上抑圧してしまっているからだ。そのため、女性記者は『週刊新潮』に身に起きた事態を告げたのだろう。また自社の記者がセクハラ被害をうけたときの社内対応が全くできておらず、それが1年以上続いたことで問題の長期化を招いた疑いもある。 だが、テレビ朝日の報道・情報番組では、自社の対応への反省よりも、ともかく安倍政権批判にが優先であるように思える。その一端が、問題発覚直後に放送された『報道ステーション』の一場面に現れている。 4月19日の番組内で、コメンテーターの後藤謙次氏は「テレビ朝日が最初、女性記者から相談を受けたときの対応は大いに反省してもらいたい」としつつも、「ただ今回、記者会見をして事実公表したことで、ギリギリセーフ」と述べた。 この見解はさすがにおかしい。女性記者の訴えが上司によって事実上握りつぶされてしまっていたからだ。また、女性記者がセクハラを長期間耐え忍んだことに、セクハラを事実上許してしまう会社の体質や、セクハラに対して不十分な態勢が影響していたのかどうか。それらの疑問点が番組では全く明かされることはなかった。 むしろ「ギリギリセーフ」どころか「限りなくアウト」としか筆者には思えない。また、多くのマスコミも一部を除いて、テレビ朝日の対応に批判的な声が上がっているようには見えない。これも実におかしなことである。テレビ朝日をはじめとするマスコミや、野党による今回のセクハラ問題をめぐる対応には、いろんな点でますます疑惑が深まるばかりである。

  • Thumbnail

    テーマ

    信長「パワースポット」で狙った起死回生

    桶狭間の戦いに神懸かり的な大勝利を収めた信長。次に目指す美濃平定のために打った手の一つが小牧山への居城移転だった。『信長公記』には、先に不便な山への移転を告知した後、小牧山に変更したことで家臣の抵抗を少なくしたとあるが、自らを神と信じる信長には、実は全く違う狙いがあったのだ。

  • Thumbnail

    記事

    信長が「おっぱい観音」に引っ越しを決めた理由

    橋場日月(歴史研究家、歴史作家) 大阪城の東、大阪市城東区に鴫野(しぎの)という土地がある。かつて大坂冬の陣で幕府軍の上杉景勝勢と豊臣軍の井上頼次・大野治長らが激突した古戦場で、城東小学校と八劔(やつるぎ)神社のあたりが上杉勢の陣が置かれた場所といわれているが、この八劔神社には次のような伝承が残る。 応永年間―室町3代将軍・足利義満の頃、近辺の住民の夢枕に「熱田の神」が立ち、「民を救うためこの地に現れようと思うから、明日淀川の岸辺で待て」と告げた。翌日、川には蛇が現れて鴫野村に入ったため、人々はそこに祠(ほこら)を建てた。それが社の始まりである、という内容だ。 この縁起でもわかるように、熱田社の神は蛇の姿で現れる。八劔神社の副祭神としては素戔嗚尊とその妻・奇稲田媛命(クシナダヒメノミコト)、八頭大神(ヤスノオオカミ、ヤツガシラオオカミ)などがあるが、素戔嗚尊は熱田社の副祭神でもあり、また八頭大神というのはとりもなおさず八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を指すものだろう。ここでも熱田・八岐大蛇・蛇は密接に結びついている。 また、武蔵の国の一宮として知られる埼玉県さいたま市の氷川神社は、境内に残る「蛇池」が発祥とされているのだが、この蛇池は見沼田んぼに流れ込む水源のひとつで、ここでも蛇=水の神となっている。さらにこの神社の主祭神も須佐之男命=素戔嗚尊であり、水の神、嵐の神としての性格を持つとされ、素戔嗚尊=大蛇の力を得た神=蛇=水という関係性が成立している。 ここでもう一度桶狭間の戦いを振り返ってみよう。信長はダウンバーストの発生を予測し、熱田の神に祈り、桶狭間に向かった。やがて、計算通りにひょうまじりの激しい風雨が西からやってきた。それは桶狭間の北東・沓掛付近に生えていた直径1mも1・5mもある楠の大木までなぎ倒してしまうほど強烈なものだった、と『信長公記』は記録し、これには皆「熱田大明神の神いくさか」と驚き合った、と続けている。この場合のいくさは「戦」ではなく「軍」と書く。熱田神宮に遺る信長塀(橋場先生撮影) 熱田大明神の神軍。風雨は熱田社の神の軍勢だ、という意味である。神軍が味方となってくれた、と信長方は狂喜し、勇みたった。何しろ、つい朝方に信長が熱田で必死の願いをささげていたばかり。信長も鳥肌を立てたオカルトグッズ 大敵を前にしてわらにもすがりたい思いの彼らが、「御大将には熱田の神、大蛇の神、雨ごいの神、水の神がついている、その証拠がこの大風雨だ!」と信じ込んだとしても何の不思議もない。『甫庵信長記』には、信長自身も熱田社から神宝のふたつの聖石――風を呼ぶ石と水を呼ぶ石を借り出してきていたとある。これが本当ならオカルトグッズの好きな信長らしい話で、その効き目の大きさに彼も鳥肌を立てていたのではないだろうか。 こうして神懸かりとなった織田軍は一丸となって今川軍に攻めかかっていき、信長は起死回生の勝利を得たのだ。桶狭間の長福寺には、この戦いで戦死した者の菩提(ぼだい)を弔う位牌(いはい)がある。それには、今川軍の死者2753人と記されている。 この戦いの経緯と結果は、のちに信長と家臣団に重大な影響を及ぼすこととなった。討ち死にした敵の総大将・今川義元は、緒戦で織田方の先鋒(せんぽう)隊を殲滅(せんめつ)したときに「義元の矛先には、天魔鬼神もたまるべからず」と豪語したが、図らずも彼は自分を天魔鬼神=魔神になぞらえた信長に敗れてしまった。 信長自身も、自分こそは蛇神と一体となり雨・水を自由にできる超越者、特別な存在――神であるという意識をこの時にハッキリと持ったことだろう。以降、信長はそれまで以上に大蛇・龍のパワーを意識してふるまうようになり、家臣たちは信長を神のようにあがめ始めたのだ。長福寺 この時期から数年の後、信長と面会したイエズス会宣教師のフロイスは報告書で、織田家の家臣たちが主君・信長を極めて凶暴な獅子のように恐れ畏(かしこ)む様子を描写し、「(信長は)尊大にすべての偶像を見下げ」ていたと記しているが、それも道理。信長自身が自分を霊験あらたかな大蛇神・龍神と一体化した存在と信じているのだから、他の神仏に頭を下げる必要はないではないか。 かつて信長に反抗した家臣たちも全員が神格化された信長にひれ伏し、織田家の人々は次の目標・美濃征服にベクトルを一致させたのだった。キモは「引っ越し」浅井長政像=滋賀県長浜市(関厚夫撮影) しゅうと・斎藤道三を討ったその息子・義龍は永禄4年(1561)に急死した。その死について、引導役の快川和尚(のちに甲斐の恵林寺で織田軍によって焼き殺されることになる人物)は「大地のすべてを呑み尽くす蒼龍」と評している。信長とともに龍に縁のあるあたり、いかにも好敵手としてふさわしい大人物だった。 これを好機と見た信長は、2日後に美濃へ侵入する。森部(現在の岐阜県安八郡安八町森部。岐阜羽島駅の長良川対岸)で斎藤軍と交戦した信長は、敵に「天の与える所だ」と挑みかかっていったという。仇敵の死はまさに彼にとって天の意志、神の意志なのだ。これ以降、「天ノ与フル所」というセリフは、信長の常套(じょうとう)句となっていく。 だが、義龍の跡を継いだ龍興を奉じる斎藤家臣団は手ごわかった。信長は数回にわたって美濃に手を出してははね返され、手詰まり状態となる。これを解決するために、外交と内政の両面で新たな手を打つ必要が出てきた。そこで信長が打った手とは何だろうか? ひとつは北近江の浅井長政との同盟。美濃を背後から牽制(けんせい)してもらうために、信長は長政に妹のお市をこし入れさせたのだ。 そしてもうひとつ。これが今回のキモ、永禄6年(1563)の本拠地移転である。この年、信長は清洲から小牧山へ居城を移したのだ。美濃国境に近い小牧山は、広々とした濃尾平野の中心にただひとつ、標高86mの独立峰となっており、美濃だけでなく尾張国内に残った敵、犬山城も見下ろすことができる。本拠を動かすというのは大変な事業だが、信長はそれだけの戦略と政略の価値があると信じたのだ。 ところが、この小牧山城移転には面白い話があって、信長はまず二の宮山という高山に引っ越すと家中に告知したという。発展して便利な生活を送っていた清洲から離れることを嫌った家臣たちは大ブーイングだったが、信長が「やはり二の宮山はやめて小牧山にする」と触れ出したため、「それなら河川が近くを流れているから引っ越し荷物の運漕(うんそう)ができて楽だ」と皆喜んだ。 これが信長の手で、最初から小牧山に移るというよりも、もっと不便な場所を提示しておいてから小牧山に変更した方が、家中の抵抗も少なくなるという計算だった、と『信長公記』は感心しているが、これはどうだろう?自らを神と信じる信長が、家来の反発や引っ越しの便宜を気にかけるものか?また信長を恐れ畏む家臣団が、表だって不満をぶつけるものか?決め手は「おっぱい観音」の正式名称 そこで、このフランチャイズ移転プロジェクトを詳しく検討してみよう。この話に出てくる二の宮山というのは、犬山城の南で小牧山からは北東方向、2カ所のほぼ中間点にあたる尾張国二ノ宮、大縣神社の山のことと考えられる。  この二の宮山も平野の中にポツンとある山で、しかも小牧山よりもさらに北に位置しており、とりでとして活用できる青塚古墳もあるため、拠点にはうってつけだ。それにも関わらず、信長は二の宮山でなく小牧山を選んだ。実は、そこにも信長の大蛇・龍への傾倒が影響しているのだ。 二の宮山に鎮まる大縣神社は尾張最古(つまり熱田社よりも古い)とされる由緒ある神社だが、女性を守る神として知られる。信長にはあまりひかれるところがない神というわけだ。これに対する小牧山だが、この山もどうやらかつては信仰の場所だったらしいのだ。 その寺院は、間々観音。現在は小牧山の北東隣にある寺で、伝承によれば「信長の命で小牧山から移転させられた」という。小牧山に移転し全体を城に造り替えるのに伴う措置だろう。この間々観音は間々乳観音ともいい、俗に「おっぱい観音」とも呼ばれる。文字通り健康な母乳をたくさん赤ん坊に与えられるよう祈りをささげる場所だ。 「なんだ、それでは大縣神社と変わらないじゃないか」と思われるかもしれないが、この寺、正式には「龍音寺」というのだ。龍。寺号にはしばしば使われる文字ではあるが、いかにも信長が飛びつきそうな名前である。 しかも、山号は「飛車山(ひくまやま)」。小牧山の古名が「飛車山」だったそうで、寺もそれを山号としていたのだ。 飛車は成ると「龍」「龍王」になる。信長は、龍の音にひかれ、どうせなら二の宮山よりも小牧山を選び、その別名・飛車山を自分の手で成らせて(造り替えて)龍王山にしようと考えた、とも想像できるではないか。信長が小牧山を選んだのは、意外にもそういう理由だったのかもしれない。彼は自分の手で龍王の城を築き、さらなるパワーを手に入れようとしたのだ。円頓寺商店街にある織田信長公像=愛知県名古屋市(中田真弥撮影) 現在、小牧山では小牧市による発掘作業が進められており、現地では信長による小牧山城跡のものと考えられる石垣の石材などが大量に積み上げられ調査を待っている。往時、これらの石材で固められ日の光を反射する小牧山城の主要部分は、遠く美濃からでも目に入り、信長の富と力の象徴として敵を威嚇するとともに、龍神の降り立つ「磐座(いわくら)」としても大いに存在感を発揮したことだろう。 次回はいよいよ、信長による稲葉山城攻めと龍・大蛇との関わりについて触れていこう。

  • Thumbnail

    記事

    小ネタの波状攻撃「安倍政権撲滅キャンペーン」にモノ申す

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) 3月2日の朝日新聞の報道から始まった「安倍政権撲滅キャンペーン」はいまだ続行中だが、現段階でまとめられることと批判を書いておきたい。 まず問題の局面は三つに分かれる。「森友学園をめぐる財務省の文書改ざん」「自衛隊イラク派遣時の日報問題」「加計学園に関する『首相案件』メモ」である。これにおまけとして「安倍晋三首相や麻生太郎副総理兼財務相などの発言や態度」「福田淳一財務事務次官のセクハラ疑惑」などが挙げられる。 こう列挙するといろいろな話題があったが、安倍内閣に総辞職に値するほどの責任があるかといえば、よほど政治的な思惑がない限り、答えはノーであろう。 もっとも、「安倍政権撲滅キャンペーン」の一番の狙いは、今秋に行われる自民党総裁選での安倍首相の3選阻止だろう。そのためには、一撃で辞任に値するほどの責任など必要はない。「小ネタ」を何度も繰り出して波状攻撃をかけていけば、それだけ世論は安倍政権への支持を下げていく。これがおおよそ、反安倍陣営の描いているシナリオではないだろうか。 事実、連日のようにテレビや新聞では、安倍政権への批判が盛んである。今のところ、反安倍派の狙いはかなり当たっており、言い換えれば視聴者や読者に安倍批判報道が好まれていることを意味している。何せ、米英仏によるシリア空爆という国際的な大ニュースよりも、日本の報道番組が上記の五つのニュースに割く時間の方が圧倒的に長い。 そのことだけで、いかに「安倍政権撲滅キャンペーン」がうまくいっているかを端的に表している。もちろんあらかじめ明言しておくが、そのような事態を好意的に評価しているわけでは全くない。むしろ、真に憂うべき状況なのである。獣医学部新設を巡り、愛媛県の職員が作成したとされる記録文書 さて、上記の五つの問題の現状について簡単にみていく。まず、「森友学園をめぐる財務省の文書改ざん」である。森友学園問題は、簡単にいうと財務省と学校法人「森友学園」(大阪市)をめぐる公有地売却に関係する問題であり、その売却価格の8億円値引きに安倍昭恵首相夫人が関わっていたかどうかが焦点である。現状ではそのような事実がないばかりか、安倍首相自身が関与したという決定的証拠もないのである。 ただし「反安倍的な見解」によると、「関与」の意味が不当なほど拡大解釈されてしまっている。例えば、文書改ざんでいえば、財務省の文書には森友学園前理事長の籠池泰典被告と近畿財務局の担当者の間で、昭恵夫人の名前が出たという。昭恵夫人の名前が籠池被告の口から出ただけで大騒ぎになったのである。森友は政権撲滅への「持ち駒」 ところが、それで財務省側が土地の価格交渉で何らかの有利な働きかけを森友学園側にしたという論理的な因果関係も、関係者の発言などの証拠も一切ない。それでも、印象報道の累積による結果かどうか知らないが、筆者の知るリベラル系論者の中には、「首相夫妻共犯説」のたぐいを公言する人もいて、老婆心ながら名誉毀損(きそん)にならないか、心配しているほどである。 また、文書改ざん自体は、筆者は財務省の「ムラ社会」的な体質が生み出したものであると発覚当初から批判している。ただし現在、佐川宣寿(のぶひさ)前国税庁長官ら関係者の立件を検察側が見送るとの報道が出ている。だが、法的には重大ではないとはいっても、財務省の改ざん行為が国民の信頼を大きく失墜させたのも確かだ。 政府側は、この機会に財務省改革を進めるべきであろう。識者の中でも、ブロックチェーン導入などによる公文書管理の在り方や、歳入庁創設に伴う財務省解体、また消費増税の先送りなどが議論されている。 だが、野党側やマスコミには政権側への責任追及が強くても、一方で財務省への追及は全くといっていいほど緩い。なぜだろうか。それは森友学園問題も文書改ざんも、あくまで安倍政権を降ろすことが重要であり、そのための「持ち駒」でしかないからだ。だからこそ、財務省改革など、多くの野党や一部マスコミの反安倍勢力には思いも至らない話なのだろう。 ちなみに、文書改ざんについて、麻生財務相や安倍首相の責任を追及し、辞任を求める主張がある。確かに、麻生氏が財務省改革について消極的ならば、政治的な責任が問われるだろう。その範囲で安倍首相にも責任は波及するが、あくまで今後の政府の取り組み次第である。とはいえ、官僚たちが日々デスクでどんな作業をし、どんな文書を管理し、どんな不正をしているかすべて首相が知っていて、その責任をすべて取らなければいけないとしたら、首相が何人いても足りない。今、安倍首相に辞任を迫るのは、ただのトンデモ意見なのである。 さて、「自衛隊イラク派遣部隊の日報問題」は安倍政権に重大な責任があるのだろうか。そもそもイラク派遣は2003年から09年まで行われており、第2次安倍政権発足以前の話である。日報そのものも、小野寺五典防衛相が調査を指示して見つかったという経緯がある。確かに、この問題は防衛省と自衛隊の間の関係、つまり「文民統制」にかかわる問題である。東京・霞が関の財務省の外観・看板=2018年3月(桐原正道撮影) だが、日報が現段階で見つかった過誤を、安倍首相の責任にするのは論理的にも事実関係としても無理がありすぎる。どう考えても、第一に日報を今まで提出しなかった自衛隊自体の責任であろう。この問題も今後の調査が重要であり、また文書管理や指揮系統の見直しの議論になると思われる。 この問題についても、リベラル系の言論人は「小野寺防衛相は責任をとって辞任せよ」という珍妙な主張をしている。文書の存在を明らかにした大臣がなぜやめなければいけないのか、甚だ不可思議だが、反安倍の感情がそういわせたのか、あるいは無知かのいずれかとしか思えない。加計問題、首相「介入」の意味はあるか 次に最新の話題である「加計学園に関する『首相案件』メモ」に移ろう。2015年4月に当時首相秘書官だった柳瀬唯夫経済産業審議官が愛媛県職員らと面会し、学校法人「加計学園」(岡山市)の獣医学部新設についての助言を求めた事案である。 そのときの面会メモに「首相案件」という柳瀬氏の言葉が記載されている。メモの存在は、当初朝日新聞などが報道し、その後、愛媛県の中村時広知事が職員の備忘録として作成したと認め、農林水産省にもメモの存在が確認されている。 柳瀬氏は国会での答弁で、何度も加計学園関係者との面談の記憶がないと言い続けてきた。だが、その愛媛県職員のメモには、柳瀬氏の発言として「本件は、首相案件となっており、内閣府の藤原(豊地方創生推進室)次長(当時)による公式のヒアリングを受けるという形で進めていただきたい」とあった。 面会の記憶は本当になかったのか、それとも、国会答弁をろくに調べもせずに答えたり、あるいは隠したりしたような違う事情があるのか、今後の進展をみなければいけない。いずれにせよ面会の事実はあるわけだから、柳瀬氏は反省すべきだろう。ちなみに、柳瀬氏が面会の記憶がないとコメントしたことを安倍首相が「信頼する」と述べたことを問題視する勢力がある。そもそも反証の事実が確定しないときに、国会の場で自分の元部下の発言を「信頼できない」ということ自体、社会常識的におかしいとは思わないのだろうか。 ところで、柳瀬氏のメモ内での発言である「首相案件」は、果たして安倍首相の「加計学園ありき」の便宜を示すものなのだろうか。いま明らかになっているメモの内容を読み解けば、何十年も新設を認められなかった獣医学部の申請自体をいかに突破すべきなのか、助言が中心である。 では、愛媛県側が首相秘書官に会い、助言を求めたことが大問題なのだろうか。筆者が公表された部分のメモを読んだ限りでは、まったく道義的にも法的にも問題はない。例えば、筆者も複数の国会議員にデフレ脱却のためにどうすればいいか、今まで何度も相談してきた。それが何らかの「利益供与」になるのだろうか。もしそう考える人がいたとしたらそれはあまりにも「ためにする」議論の典型であろう。その「ため」とは、もちろん「安倍政権批判ありき」という心性であろう。記者団の取材に応じる元首相秘書官の柳瀬唯夫経済産業審議官=2018年4月、経産省 加計学園は面会した2015年4月の段階で、内閣府の国家戦略特区諮問会議に獣医学部新設で名乗りを上げる前であった。そもそも、国家戦略特区諮問会議で決めたのは獣医学部の新設ではない。文部科学省による獣医学部新設申請の「告示」を規制緩和することだけだったのである。 獣医学部の設置認可自体は、文科省の大学設置・学校法人審議会が担当する。そして特区会議も設置審も、ともに民間の議員・委員が中心であり、もし安倍首相が加計学園を優先的に選びたいのであれば、これらの民間議員や委員を「丸め込む」必要がある。そんなことは可能ではなく、ただの妄想レベルでしかないだろう。 実際、今まで安倍首相からの「介入」を証言した議員や委員はいない。そもそも首相が「介入」する意味さえ乏しい。なぜなら、加計学園による獣医学部の申請が認められたことで、これ以後、獣医学部申請を意図する学校法人は全て同じ条件で認められるからだ。疑惑を垂れ流す「首相案件」 つまり、制度上は加計学園への優遇措置になりえないのだ。それが国家戦略特区の規制緩和の特徴なのである。この点を無視して、首相と加計学園の加計孝太郎理事長が友人関係であることをもって、あたかも重大な「疑惑」でもあるかのように連日マスコミが報道するのは、まさに言葉の正しい意味での「魔女狩り」だろう。 ちなみに「首相案件」は、言葉そのものの読解では、国家戦略特区諮問会議や構造改革特区推進本部のトップが安倍首相である以上、「首相案件」と表現することに不思議はない。そもそも「首相案件」ということのどこに法的におかしいところがあるのか、批判する側は全く証拠を示さない。ただ「疑惑」という言葉を垂れ流すだけである。 何度も書くが、これを「魔女狩り」と言わずして何というべきだろうか。政府の行動に対して常に懐疑的なのは、慎重な態度かもしれない。しかしそれが行き過ぎて、なんでもかんでも批判し、首相の退陣まで要求するのであれば、ただの政治イデオロギーのゆがみでしかない。ただ単にマスコミなどの「疑惑商法」にあおられただけで、理性ある発言とはいえない。 「安倍首相や麻生副総理兼財務相などの発言や態度」については、論評する必要性もない。この種の意見を筆者も高齢の知識人複数から耳にしたことがある。簡単にいえば、この種の報道は、首相が高級カレーを食べたとか、麻生副総理が首相時代にカップラーメンの値段も知らないとか、今までも散々出てきた話である。 確かに、国会発言が適当か不適当かはその都度議論もあるだろう。しかしこの種の「言い方が下品」系の報道で政治を判断するのは、筆者からするとそれは政治評価ではなく、単に批判したい人の嫌悪感情そのものを表現しているだけにすぎないように思う。 最後は「福田財務次官のセクハラ疑惑」である。これについては事務次官個人の問題であり、現段階では事務次官本人がセクハラ疑惑を否定している。また、セクハラ疑惑を報道した出版社を訴える構えもみせている。セクハラを受けたという女性記者たちと、事務次官双方の話を公平に聴かない限り、何とも言えない問題である。マスコミは、この財務事務次官のセクハラ疑惑も安倍政権批判に援用したいようだが、これで安倍政権の責任を求めるのはあまりにもデタラメな理屈である。財務省を出る福田淳一事務次官(奥中央)=2018年4月13日 筆者は安倍政権に対して、以前からリフレ政策だけ評価し、他の政策については是々非々の立場である。最近では裁量労働制について批判を展開し、消費増税のスタンスにも一貫して批判的だ。だが、上記の五つの問題については、安倍首相を過度に批判する根拠が見当たらない。要するに、これらの事象を利用して、安倍政権を打倒したい人たちが嫌悪感情、政治的思惑、何らかの利害、情報不足による無知などにより、批判的スタンスを採用しているのだろう。 もちろん、まっとうな政策批判、政権批判は行われるべきだ。だが、安手の政治的扇動がマスメディアを通じて日々増幅され、世論の少なからぬ部分が扇動されているのなら、少なくとも言論人は冷静な反省を求めるのが使命ではないだろうか。だが、筆者が先にいくつか事例を紹介したが、リベラル系の言論人を中心に、むしろ扇動に寄り添う態度を強く示すものが多い。まさに日本は「欺瞞(ぎまん)の言論空間」に覆われつつある。

  • Thumbnail

    テーマ

    「新選組」坂本龍馬はデタラメじゃない

    「坂本龍馬は新選組に入ったかもしれない」。こう綴ると、なんと奇をてらっているのかと思われる方も多いのではないか。だが近年、幕末政治史の研究は飛躍的に進み、ファンの常識を裏切り続けている。『池田屋事件の研究』などの著書で知られる京都女子大非常勤講師、中村武生氏が根拠に基づき仮説を検証する。

  • Thumbnail

    記事

    「新選組」坂本龍馬はなぜ有り得たか、禁断の幕末史には根拠がある

    中村武生(京都女子大非常勤講師) 「坂本龍馬は新選組に入ったかもしれない」。こう言うと、この筆者はなんと奇をてらっているのかと、読者の方は思われるかもしれない。 新選組は京都で龍馬の命を狙った組織の一つである。言わずもがな、龍馬は「幕府」を倒そうと東奔西走し、新選組は「幕府」を維持しようと尽力した。全くの水と油の関係である。その組織に龍馬が入るはずがない、と思うのも無理はない。 だが近年、幕末政治史は飛躍的に実証研究が進んでいる。その成果は従来のわれわれの常識を小気味よく裏切りつづけている。どうか以下の話をお読みいただきたい。 文久2年6月(1862年7月)、薩摩の実力者、島津久光が勅使を奉じ、約1000の兵を率いて江戸城に乗り込み、政治改革を推し進めた。一般に文久の改革とよばれる。この流れの中で、亡き大老井伊直弼の数年前に行った政策の多くが否定された。その一つが安政の大獄である。井伊の政治に反対して多数処罰された者たちが罪を許され、社会復帰を始めたのである。 将軍後継候補だった一橋(徳川)慶喜や、越前松平家当主を隠居させられた松平慶永(春嶽)らがそれである。彼らはそれぞれ将軍後見職、事実上の大老である政事総裁職となり、徳川政治の中枢にのぼった。新しい政治の風が吹こうとしていたのである。 これに反応したのが出羽庄内出身で、江戸神田御玉ケ池で剣術師範をしていた清河八郎である。同年閏(うるう)8月、清川は逃亡生活中だった。前年の文久元年5月、ささいなことで町人を殺害したからである。 清河の見解はこうだ。いまだ大赦が広く行われていない。慶喜や春嶽ら身分の高い者に限らず、速やかに身分の低い者も対象にすべきである。この実行が今日の急務である。そうすれば、全国の人々はみなその恩を感じ、天子(天皇)の徳は天地に広がり、徳川将軍家の威光も四方に輝くだろう。もっとも、大赦の対象となる者の中には、清河自身や仲間が含まれると考えているのであるが。 清河の考えに賛同したのが旗本の松平忠敏である。忠敏は新設の軍事学校、講武所で剣術教授方を務めていた。同じく教授方世話役で、清河と親しかった山岡鉄太郎(鉄舟)からこれを知らされた。新選組が壬生で旗揚げし、最初に屯所を置いた八木邸=2016年12月、京都市中京区 折しも、米国など5カ国と通商条約を結んでからというもの、国内では浪士による要人や外国人へのテロが相次いでいた。例えば、井伊直弼が殺された桜田門外の変、英国公使を襲った東禅寺事件が起きた。また本来なら政治発言を許されない立場の浪士が、禁裏(朝廷)にも意見を述べるなど混乱が広がっていたのである。 忠敏はこの状況を改善するため、浪士の取り立てには意味があると判断した。そこで江戸近郊の浪士のリーダーを選び、翌春に予定されている将軍家茂の上洛(じょうらく)に供奉(ぐぶ)させると主張した。天子(孝明天皇)が将軍に対して通商条約破棄(攘夷/じょうい)の期日を求めていた。その返事のために将軍は上洛する。龍馬を気に入った春嶽 忠敏の計画案に目付の杉浦正一郎(梅潭)や春嶽が賛同した。その結果、同年12月9日、浪士取立が正式に決定する。松平忠敏が浪士取扱に任じられた。 その直後の13日に忠敏から杉浦に対して浪士の名簿が提出される。一覧には取り立てるべき候補者として、12人挙がっていた。先頭に清河、続いて池田徳太郎、石坂宗順と並ぶ。当時獄中にあった清河の盟友である。続いて内藤文七郎や堀江芳之助、杉浦直三郎、倖塚行蔵などの水戸浪士をはじめ、磯新蔵(筑前)、大久保杢之助(常陸土浦)、村上俊五郎(阿波)が連ねる。他にも北方探索で知られる松浦武四郎の名があり、興味深い。 しかし、それ以上に注目すべきは、坂本龍馬の名前があったことである。もうお分かりだろうか。この浪士取立計画の延長で浪士組が結成され、その中から新選組が生まれるのである。その新選組と敵対する人物が、近藤勇や土方歳三が関わる前に、その母体の構成員候補だったわけである。すなわち「坂本龍馬は新選組に入ったかもしれない」わけである。 この名簿は、清河八郎から得た情報に基づいて作成されたと考えられる。清河と龍馬はともに北辰(ほくしん)一刀流で剣術修行していたので、清河は龍馬を知っていた可能性がある。それだけではない、一つ気になることがある。それはこの名簿が提出される直前、龍馬が松平春嶽を訪ねていたことである。 同年12月4日、龍馬は江戸城常磐橋の邸宅を訪れ、春嶽への拝謁(はいえつ)を願った。早速翌5日夜の約束がかない、同郷の間崎哲馬、近藤長次郎(のち上杉宗次郎)とともに訪問し、春嶽に大坂湾周辺の海防策を申し立てた。すなわち「京都防衛策」にほかならない。龍馬の策に春嶽が共感した。2017年10月、京都市の酢屋で坂本龍馬の肖像画が初めて公開され、大勢の見物客が訪れた(寺口純平撮影) 龍馬は海岸線の防衛、つまり「海防」への関心が非常に高かった。たまたま江戸に剣術修行に来ていた嘉永(かえい)6(1853)年、ペリー来航に出会う。故郷の父八平へ「外国船がところどころにやってきているらしいので、戦争も近いうちに起こると思います。そのときは外国人の首を打ち取り、帰国いたします」と手紙を送っていたことでも、興味のほどがうかがえる。 龍馬は同年12月、砲術家の松代家臣、佐久間象山に入門している。帰国後の安政2(1855)年11月1日、土佐山内家の砲術家徳永弘蔵の西洋砲術操練にも参加している。翌年4月には入門も果たしたようだ。土佐も沿岸の国である。海岸線でいかに日本を守るか、その思いを持ち続け、海防の見解を春嶽に述べたといえる。 先の訪問の4日後、近藤長次郎とともに三たび常磐橋邸を訪問した龍馬は、春嶽に建白書を提出した。建白書には「摂海之図」が添付されていた。図は現存しないが、「摂海」は大坂湾と同義語なので、直接に春嶽に述べた「大坂近海の海防策」を具体的に示したものであろう。その4日後、松平忠敏は最初の浪士名簿を提出したのである。春嶽は龍馬らの大坂海防策に共感できたわけだから、意に留めたことであろう。龍馬は「土佐勤王党」から嫌われていない武市半平太の自画像 ちなみに春嶽の回想によれば、このとき龍馬は勝海舟などへの紹介を依頼したという。春嶽がこれに応じ、龍馬は勝の門に入る。それほど春嶽は龍馬を信用した。その際、春嶽から松平忠敏に龍馬の情報が及んだ可能性を指摘しておきたい。 なお、言うまでもないが、龍馬は勝に海軍技術を学んだ。ここまでの流れでおわかりいただけると思うが、国防のためには砲術だけではなく、軍艦を操る技術の習得が不可欠なのである。その最高クラスの教養人である勝に学ぶのは当然である。だから「勝の弟子になった龍馬は『開国論』に転じた」とか、「徳川家の走狗になった」と土佐の領袖(りょうしゅう)武市半平太ら、いわゆる「土佐勤王党」メンバーから嫌悪されたというのはあたらない。 むしろ「土佐勤王党」メンバーの多くは勝に近づいている。例えば、のちに天誅(てんちゅう)組の挙兵を指導する吉村虎太郎が訪ねたことがあるし、「人斬り」で知られる岡田以蔵も、ある時期門人であった。新選組が襲撃した池田屋事件で落命する望月亀弥太は勝の弟子としても知られている一人だ。長州毛利家に付属して禁門の変(元治甲子戦争)に参加した安岡金馬(平安佐輔)も出陣前に勝にあいさつに来ている。門人だったからである。 それどころか、前述の間崎哲馬は、清河に宛てて「最近の勢いは、『尊攘(尊王攘夷)』のことも実現できそうです。なるべく『幕府』を補助し、『天朝(天子)』を推戴(すいたい)して『公武合体』となるよう、全国心を一つにして外国人から侮られないようにしたいと思います」と述べている。ここで注意してほしいのは、「土佐勤王党」の主要メンバーが「公武合体」を望んでいることである。 実は、当時のほとんど全ての人がこの国の防衛体制を心配し、「公武合体」を望んでいたのである。というのも、「公武合体」は「尊王攘夷」の対立用語ではなく、国論を統一するという意味で使われたからである。当時、徳川家が決めたことを京都の禁裏が平気で覆していた。これを「政令二途」という。これを「一途」にしなくてはならないと考えるのは当然である。これが「公武合体」である。 「尊王攘夷」も天子を尊び、外敵から国を守ることだから、これまた特別な思想でもなく、当時の日本人のごく一般的意識といえる。平野国臣や真木和泉など、一部の特異な考えの志士を除いて、文久年間(1861~64)に「倒幕(討幕)」を本気で考えた者などほとんどいなかったといってよい。 さて、浪士の人選に話を戻そう。目付杉浦正一郎のもとには、その後も松平忠敏から引き続き「浪士姓名」一覧が届けられている。翌文久3年初頭のものはとりわけ目を引く。龍馬のほか、平野、真木、田中河内介、藤本鉄石、原道太、水郡(にごり)善之祐、宮部鼎蔵、久坂玄瑞らが挙がっているのである。「浪士」を結ぶたった一つの共通点 久坂のような長州の家臣や、平野、真木など後に「親長州」浪士といっていい人物が多数いる。しかも、西郷吉之助(隆盛)まで含まれている。いずれも新選組を含む会津若松城主松平容保がのちに追討の対象とする人物たちである。宮部鼎蔵にいたっては池田屋事件での戦死者として知られる。いったいどういうことなのか。 ここまでの選抜者には一つだけ共通点がある。あくまで清河と交流のあった人間ばかりなのである。選ばれた側が浪士取立についてどのように思っていたか、分かる数少ない史料がある。京都国立博物館蔵「坂本龍馬関係資料」に含まれた「龍馬乃遺墨雄魂姓名録」である。これは龍馬の手記と長く信じられてきたが、最近では龍馬のおいで、同じく勝の門人であった高松太郎(小野淳助、坂本直)のものと理解されている。 この手記には「浪人頭清河八郎(略)、この人は浪人頭を命じられ、浪士がやってきたときは二人扶持(ふち)に加えて金十両を徳川政府より下されると聞いた。わずかの間に浪人が45人やってきたらしい。この浪人は将軍(「幕府」)上京のときにやってくると勝先生から夜聞いた。これは『春嶽公、大失策也(なり)』。『幕』も大いに勢いが無くなったと知るべきだ。『一笑、一笑』」とある。書かれたのは文久3(1863)年の1月22日夜である。 「大失策」と判断する理由はよくわからないだが、勝や龍馬に最も近い人物の見解として興味深い。勝も同じころ、日記に「江戸城に参上した。杉浦正(一郎)へ『偽浪人』の事を議す」と述べる。勝も杉浦と浪士取立について論じたことがあったのだ。「偽浪人」とはいかにも含みがありそうだ。 なお、龍馬も同じ時期、杉浦と軍艦順動丸に乗り合わせている。勝が順動丸を動かし、春嶽らを上方へ移送するためである。1月23日に品川を発した船は、兵庫を経て、29日大坂に着く。その順動丸にどこからか不明だが、龍馬は乗っていた。杉浦の日記に「順動丸艦中で坂本龍馬に初めて会った。歓話を尽くした」とある。具体的な中身はわからないが、どうやら会話が弾んだようである。「英名浪士」として当初から選抜されていた龍馬を杉浦は注目したことだろう。壬生寺にある近藤勇の胸像 しかしながら、龍馬をはじめ、ピックアップされた浪士たちは、結局浪士組に参加することはなかった。少なくとも江戸で松平忠敏が候補者に打診した形跡もみられない。どうなったのか。実は清河とその盟友たちを除き、浪士は一覧から選ばれず、改めて広く公募されたのだ。それに反応した者の中に、のちの新選組首脳となる近藤勇や土方歳三が含まれていたのである。こうして近藤や土方と、龍馬は同じ組織に入ることはなくなってしまった、というわけである。 もし、当初ピックアップされた人物たちが浪士組に入っていたなら、そして彼らが京都守衛に関わり新選組になっていたなら、幕末史はまったく異なったものになっていたはずである。その可能性は全くなかったとはいえない。【主な参考文献】三野行徳「幕府浪士取立計画の総合的検討」(大石学編『一九世紀の政権交代と社会変動』所収、東京堂出版、2009年)町田明広『攘夷の幕末史』(講談社現代新書、2010年)

  • Thumbnail

    記事

    谷岡学長に教えたい「八田イズム」の真骨頂

    小林信也(作家、スポーツライター) 女子レスリングのパワハラ問題に、ようやく一つの動きがあった。日本レスリング協会が委託した第三者委員会の調査報告書が出され、4つのパワハラが認定された。4月6日、協会は臨時理事会を招集し、この調査報告書の内容を認定した。同日、栄和人氏が強化本部長を辞任。そして理事会の後、協会の福田富昭会長ら首脳陣が謝罪会見を行ったが、副会長の一人である至学館大学長、谷岡郁子氏の姿はなかった。 報告書で、パワハラが一部認定され、栄氏が強化本部長を辞任したことは、一つの進展と言えるだろう。だが、栄氏だけが責任を負い、他は謝罪だけで現職にとどまっており、これで十分な検証と再発防止策が構築されたと言えるだろうか。 ただ、協会の理事会及び倫理委員会は、「第三者委員会の報告・認定をそのまま受け入れる」という基本姿勢を明らかにした。それは「誠に潔い」との印象を受ける。ところが、第三者委員会の認定は告発された問題のごく一部に限られ、そのほとんどは栄氏の行為に対するものだった。 一方で、日本レスリング協会や会長、専務理事らは、シロ(もしくはグレーだがクロではない)と判定されている。「決定を全面的に受け入れる」との宣言は、「協会や会長、専務理事に問題はなかった」との報告を受け入れることと同義となる。つまり、結果的にこの騒動はあくまで栄氏個人の問題であって協会の根本的な体質見直しを問うことなく終息しかねない流れになっている。 記者会見では、強化本部長に栄氏を選んだ会長の「任命責任」が問われたが、私は福田富昭会長の責任は「任命」にとどまらないと考える。強化方針や日常の指導姿勢に関して福田会長はおおむね理解し、承認していたと思われるからだ。そもそも監督としての栄氏の指導方針は、日本レスリング協会第3代会長、八田一朗氏にちなんで「八田イズム」と呼ばれ、協会全体が信奉し継承する思想を根底に置いている。東京五輪レスリング金メダリストの花原勉氏、コーチのドガン氏、八田一朗・日本アマチュアレスリング協会会長(左から)=駒沢体育館、1964年10月 八田イズムは、言い訳を許さず、人間的な成長も重視する合理的な教えでもあるが、すべては「勝利のため」、勝利至上主義が徹底して貫かれている。第二次世界大戦の敗戦から立ち直ろうとしていた日本の当時の時代背景を理解しないと、一つ間違えばパワハラそのものと言われかねない極端な精神論を含んでいる。 これが根本的に見直され、新たな時代の指導論が構築共有されない限り、パワハラ問題の根っこはなくならないだろう。協会ホームページのリンクから「伝統の八田イズム」の記述がすぐ読める。そこにこう記されている。 東京五輪で金メダル5個を取り、世界有数のレスリング王国を築いた日本レスリング。その裏には、八田一朗会長(日本協会第3代=1983年没)の独特かつユニークな強化方法があった。 のちの日本レスリング界をも支えた「八田イズム」は、一見して“スパルタ指導”ともとられた。確かに、その厳しさは半ぱではなかったが、極めて合理的なことばかりであり、そのすべてが強くなるために意義のあることだったといえる。日本レスリング協会の強化の基盤であり、世界一になった選手を支え、現代でもその精神は脈々と生き続けている。 八田会長の残したすばらしい偉業と現代でも通じる強化法を紹介したい。(監修/日本レスリング協会・福田富昭会長、同・今泉雄策常務理事) これを見る限り、協会が世界一を目指すことに主眼を置き、普及や健康、生きがい作りといった活動にはそれほど熱心ではない体制も感じられる。「八田イズム」はパワハラそのもの そもそも協会は「底辺拡大」「少年少女への普及」「シニア層の参加」を促進する活動をあまり重視していない。今、スポーツが「一部競技者の活動」にとどまらず、その競技を通じて「健康の増進」「生きがいの創出」「地域コミュニケーション」などが重視される趨勢(すうせい)の中で、協会は「金メダルを取ること」こそが使命だと偏っているように感じる。 福田会長は記者会見で見る通り、スキンヘッドだ。これは2015年の世界選手権で男子が一つもメダルを取れず、リオ五輪の代表権を獲得できなかった責任を取るため頭を丸めたと報じられている。これも八田イズムの一つだ。 上記、《伝統の八田イズム》に付随して、《八田一朗会長の思い出》と題し、福田会長自身がこう綴っている。 八田イズムの教えの中で、勝てる相手に負けたとき、逃げ腰の試合をしたとき、時間に遅れたとき、掟を破ったとき、上下のヘアを剃るペナルティーがあった。東京五輪前後の流行語にもなった「剃るぞ!」である。 頭の毛を剃るだけではない。下の大事な毛も剃る。毛が伸びてくるまでの間、毎日朝晩と顔を洗ったり、風呂に入ったりするときに、自分の何とも言えないみじめな姿を見ることで、その悔しさをエネルギーに変える目的だった。 自発的な行為なら咎(とが)められないだろうが、これに強制的な空気があったなら、パワハラそのものではないのだろうか。 人間的で敬愛すべき存在であったという八田氏への深い信奉、心酔は理解できるが、これを第三者に強いる難しさも、協会は見直さなければいけない時期に直面している。そう考えることが果たして、福田会長、高田専務理事をはじめ協会首脳にできるだろうか。 そして、協会の副会長でもある谷岡氏は、記者会見には同席せず、理事会後も報道陣に対して無言を貫いた。おそらく、3月15日に開いた記者会見に対するメディアや視聴者の反応があまりにもご自身の意向と違い、自分こそハラスメントを受けている被害者だ、との思いを強めているのではないだろうか。 翌日、谷岡氏は文書でコメントを発表し、至学館大レスリング部の指導は今後も栄氏に託す、つまり「栄監督続投」を宣言した。内閣府の調査結果がまだ出ていないにもかかわらずだ。その内容次第ではさらに厳しい責任が追及される可能性もある段階で、この宣言を出す意味は主に二つあるだろう。歪んだ価値観を持つ協会 まず、谷岡氏にとって何より重要なのは至学館大の大学運営と思われる。最初の記者会見も卒業式の直前に行われたものだ。今回は入学シーズン、栄氏を慕って入学、入部してくる新入生やその家族に与えている不安を払拭する必要がある。在校生とその家族の動揺を鎮める必要もある。 同時にこの宣言には、パワハラ認定は受けたものの、栄氏が生徒や選手にしている指導は、基本的に間違っていない、オリンピックで金メダルを取るためには必要な厳しさだ、との思いが込められているように感じる。謝罪の言葉が一切ないのは、その気持ちの表れではないだろうか。まさにこうした考え方、捨てきれない思い込みこそが、日本のパワハラ体質、スポーツに限らず日本社会に染みついている悪しき上下関係、結果主義を改善できない温床だといえる。 こうした状況を踏まえれば、谷岡氏は、「メディアやそれに影響されて自分をバッシングする人々は綺麗事に走っているが、それで金メダルが取れるほど甘くない、事実自分たちはその厳しさを貫いて金メダルを取ってきた、国民は感動したではないか、今後もそうやって金メダルを取ることが自分たちのアイデンティティーだ」と、信じているように感じる。 だが、私たちは目覚めなければならない。もうパワハラ的な指導で取った金メダルは支持しない、感動しないぞ、という考え方が必要だ。そうでなければ、日本のスポーツ界は永遠にパワハラを容認し、金メダルさえ取れば許される歪んだ価値観に蝕(むしば)まれ続けるだろう。 奇しくも、《伝統の八田イズム》の記述の8番目には、『マスコミを味方にしろ』と題し、次の一節がある。 八田会長は早大の後輩でありプロレス・メディアのパイオニア、田鶴浜弘氏との交流の中でジャーナリズムの重要性を学んだ。(中略)「ライオンとのにらめっこで精神力を鍛える」「沖縄へハブとマングースの戦いを見せに行き、戦う魂を学んだ」といった話も有名だが、強化に直接の実効性があったかどうかは疑問。オリ越しににらみ返してくるライオンはいないし、観光客相手の見世物を見て戦う魂がつくとは思えない。しかし、世間の注目を集めることで選手を追い込み、奮起させるに十分な役割を果たした。 耳が痛い記事があっても一切文句をつけず、レスリングに関する記事はすべて歓迎した。新聞記者には「批判記事でもいいから、毎日でもレスリングを書いてくれ」と注文し、周囲には「悪口も宣伝と理解する度量をもたないと、大きな発展は望めない」と説いた。 日本レスリング界が報道規制をほとんどせずマスコミの取材を歓迎するのも、八田イズムの真骨頂。周囲からの注目と応援も強化の大きなエネルギーとして活用した。 協会副会長でもある谷岡氏は、この一文を読んでいるだろうか。もし読んだとしたら、副会長としてこれをどう受け止めるのか。メディア対応も含めて、協会は新たな方針を共有する必要に迫られているのではないだろうか。

  • Thumbnail

    記事

    雇用の前提を誤った「イシバノミクス」が賢明ではない理由

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授)  4月に入って、興味深い「変化」が観測された。自民党の石破茂元幹事長の発言の「変化」である。だが、この「変化」はただの「印象」でしかない。 石破氏は、ことあるごとに安倍政権の批判を繰り返すことで、「政治的ライバル」の位置関係を自ら築いてきた。経済政策のスタンスも「反アベノミクス」というものである。特に金融緩和政策(リフレ政策)への消極姿勢は際立っていて、リフレ政策を導入すればやがてハイパーインフレにつながる可能性を主張していた。また消費増税による財政再建にも積極的であった。 ところが、ロイター通信によれば、石破氏は6日の講演会において、財政政策や金融政策の「激変策」を採用しないと述べたという。これだけ聞くと石破氏が従来の反アベノミクスの立場を修正したかのように思えてしまう。だが、そんなことは全くないのである。 ロイターの記事をよく読めば、積極的な財政政策や金融緩和の維持可能性に言及しているが、従来の石破氏の経済観と矛盾していない。要するに「積極的な財政政策はいつまでも維持できない」ということは、「やがて消費増税しなければいけない」と述べているのと同じである。また、金融緩和をいつまでも維持できない、すなわち何年も続けるとハイパーインフレになる、というように従来の主張と無理なく読み替えることができる。やはり全く変わっていなかったのである。 さらに、石破氏で注目すべきは、賃金が上がらない理由について、生産年齢人口が高齢層にシフトしたことや、女性や非正規などへの構造的変化に求めていることだ。これはまさにアベノミクスの発想と異なる。しばしばアベノミクス批判として利用される理屈と同じである。2018年4月、東京都内のホテルで講演する自民党の石破元幹事長 「アベノミクス元年」の2013年度から、高齢者の再雇用が増加し、またパートやアルバイトなどで女性の雇用も増えていることが指摘できる。これはアベノミクス採用以前では顕在化していなかった現象である。例えば、民主党政権時代やリーマンショックの直撃を受けた麻生太郎政権では、不況のために職を探すのを断念した「求職意欲喪失者」が急増していた。その中核は、高齢者や専業主婦層、新卒者たちだったのである。 だが、アベノミクスが採用されてから、景気が安定化していくことで働こうという意欲を再び持つ人たちが増えていく。退職後にも再雇用される人たちやパート・アルバイトができる専業主婦層が増加したのである。もちろん新卒採用も増加した。これは生産年齢人口の変化とは全く関係ない。 なぜなら、今説明したような労働市場への供給増加(労働力人口増加)のペース以上に、労働需要(就業者数)の増加ペースの方が上回ることで失業率が低下していく現象を、生産年齢人口の推移では説明できないからだ。国民が迷惑するのはご勘弁 また、女性の雇用増加もアベノミクス以降の雇用環境の改善が後押ししている。非正規雇用についても5カ月減少が続き、不本意な形で非正規雇用になっている人たちも減少している。対して、正規雇用はやはり増加し続けている。これらは労働力調査など統計を単に検索すればわかることであり、石破氏の想定とは違っているのである。 石破氏は雇用の構造的変化を前提にして、つまりアベノミクスによる雇用増を無視して、再分配的な賃上げが必要だと考えるのだろう。だが、現状では構造的な変化ではなく、景気の改善という循環的要因での変化が主流である。石破氏の認識は前提からして間違っていることは指摘した通りだ。ならば、賃上げは、まず「人手不足」(労働への超過需要)のさらなる全般化で生じるだろう。 例えば、よく反アベノミクス論者で話題になる「実質賃金が低下しているからアベノミクス失敗」というトンデモ経済論がある。これは上述したように、新たに採用される高齢者やパート・アルバイト、そして新卒の増加という、いわゆる「ニューカマー効果」を全く無視した議論である。失業率が低下するなど雇用状況が改善していけば、実質賃金の低下はままみられる現象である。これは単純な割り算でもわかることだ。 実質賃金は、平均賃金を物価水準で割ったものである。仮に物価水準は変わらないとしよう。今まで働いていた人の賃金を30万円とすると平均賃金も30万円である。そこに新しく採用された大卒社会人の賃金が20万円だと、平均賃金は30万円から25万円に低下する。これがニューカマー効果である。このニューカマー効果を無視して、実質賃金の低下ばかりに目が行く議論は筋悪である。 では、物価の変化を加味するために、平均賃金ではなく、総雇用者所得でもみてみよう。総雇用者所得は、平均値ではなく、簡単に言うと経済全体の所得のうち、働く人たちがどのくらい得ているかを表す指標である。これを物価水準で割ったものが実質雇用者報酬である。最近の数値でいうと、実質総雇用者所得の2018年1月の対前年比は0・8%増(名目は2・2%増)である。この1年あまりの対前年比の平均は1・2%増となっている。 緩やかな増加傾向にあるといってよく、さらに加速させていくことが重要になる。増加させるためには、さらなる積極的な経済刺激策が求められる。財政再建による消費税増税や金融緩和の出口政策を取ることではないのである。だが、この発想はもちろん石破氏にはない。2016年3月、衆院本会議で予算案が可決され、石破茂地方創生担当相(中央)らと笑顔を交わす安倍晋三首相(右、斎藤良雄撮影) ただし、石破流「再分配的な賃上げ」を筆者は否定しない。例えば、「就職氷河期」といわれる世代の生涯所得の落ち込みが深刻である。十分な所得を得られないままだと定年後に年金などの社会保障を十分に得られない可能性もある。この対応には、石破氏の案でもなんでもないが、就職氷河期世代に対象を絞った持続的な再分配政策も一案だと思っている。 他方で、経済認識の前提を誤った上で、うまくいっているアベノミクスを維持可能性がないからといって次第に弱めてしまうことが賢明とはいえない。石破氏が賢明でなくても別に構わないが、国民が迷惑することだけは勘弁願いたい。

  • Thumbnail

    記事

    昭恵夫人喚問は「疑惑のインフレ」 マスコミの洗脳報道を疑え!

    証人喚問を」と声を連ね、それを一部のマスコミも連日大きく取り上げるだけだろう、とも思った。だが、この連載でも何度も指摘しているように、森友学園問題に昭恵夫人が土地取引で「関与」した事実はいまだない。それでも、マスコミの洗脳めいた報道がよほど効いているのかもしれない。 筆者も学術界の年配の方々と最近話す機会があったが、いずれも「8億円の値引きを忖度(そんたく)させたのは昭恵夫人」説を信じ込んでいた。そもそも「忖度」も「忖度させたこと」も心の中の問題なので、実証はできない。 また現段階で、森友学園前理事長の籠池泰典被告の証人喚問での証言や、財務省の当事者たちも昭恵夫人の関与を否定している。そして忖度罪も忖度させた罪も日本の法律にはない。だが「関与」も「忖度」も、お化けのように膨れ上がった存在と化している。 このような「魔女狩り」にも似た世論の一部、政治の在り方を批判するのも、マスコミや言論における本来の役目のはずだ。今はどうひいき目にみても、反安倍と安倍支持に分断してしまっている。これは憂うべき事態である。2018年1月、山口県下関市で支援者と談笑する安倍首相(右)。左は昭恵夫人 世論調査の動向によって、安倍政権が万が一レームダック(死に体)化すれば、経済政策や安全保障政策を中心に不確実性が増してしまうだろう。特に経済政策では、「ポスト安倍」を狙う自民党内のライバルは総じて財政再建という美名を利用した「増税・緊縮派」である。 また、消費増税や緊縮財政はマスコミの大好物でもあり「応援団」にも事欠かない。自民党内のポスト安倍勢力が今後、世論の動向でますます力を得れば、日本経済にとって不幸な結果をもたらすだろう。

  • Thumbnail

    記事

    本能寺の変と「中国大返し」の謎、秀吉共犯説はこれで論破できる

    渡邊大門(歴史学者) 天正10(1582)年6月2日に勃発した本能寺の変には、羽柴(豊臣)秀吉が関与していたとの説がある。周知の通り、秀吉は主君である織田信長の死を知ると、備中高松城(岡山市北区)で毛利方の部将、清水宗治と交戦中にもかかわらず、急いで毛利氏と和睦を締結した。 その直後、「中国大返し」と称される尋常ならざるスピードで備中高松城から上洛し、同年6月13日の山崎の戦いで明智光秀を討った。これだけのスピードで戻るのには、秀吉が事前に光秀の計画を知っていないと不可能だと指摘する論者がいる。 はたして秀吉は、事前に光秀の挙兵を察知していたのだろうか。以下、その論点を挙げて、一つ一つを検証することにしよう。 スペイン人の貿易商人、アビラ・ヒロンが執筆した『日本王国記』には、「家康をはじめ、まだ臣従していなかったその他の人々も、内密にではあったが明智の側に加わっていた」と書かれている。「その他の人々」のなかには、秀吉も含まれていたと考えているようだ。つまり、秀吉は光秀に与していたという解釈である。木下藤吉郎秀吉像=滋賀県・JR長浜駅前 ヒロンは生没年不詳。文禄元(1594)年に平戸へ来日し、以後は東南アジア方面を往来し、慶長12(1607)年に日本に戻った。少なくとも元和5(1619)年までは、日本に滞在していたという。 彼の手になる『日本王国記』は、当該期の日本の事情を知る上で、貴重な史料と評価されている。特に、商業や貿易関係の記述は、重要であるとの指摘がある。なお、残念ながら同書の原本はなく、写本だけが伝わっている。 ところが、ヒロンと同じく16世紀末頃から17世紀初頭に日本に滞在したスペイン人のイエズス会士であるペドロ・モレホンは、『日本王国記』の記述内容について「著者みずからは正確であるといっているにもかかわらず、彼の日本に関する知識の僅少の故に数多くの誤りがある」と述べている。つまり、『日本王国記』の記述を全面的に信用するのは、危険であることを示唆している。 本能寺の変が勃発したのは、ヒロンが来日する14年前の出来事で、彼自身がどうやって秀吉が光秀に与していたかという情報を知り得たのか判然としない。おまけに『日本王国記』の記述内容が不完全な可能性が高いとするならば、秀吉と光秀が結託していたという説を素直に受け入れるわけにはいかない。よって、『日本王国記』の秀吉が光秀に与していたという記述には、いささか疑念を持たざるを得ないのである。 ほかにも、秀吉が本能寺の変に関与したと主張するユニークな説明がある。秀吉は毛利氏の政僧だった安国寺恵瓊(あんこくじえけい)と謀り、備中高松城の攻防中に毛利氏といつでも和睦を結べるようタイミングを調整し、信長横死の一報が届けられるとともに「中国大返し」で上洛したという説明がそれだ。はたして、これは事実と考えてよいのだろうか。秀吉と安国寺恵瓊の関係 ここでは和睦と書いたが、実質は一時的な停戦である。山崎の戦い後、毛利氏と秀吉は領土確定をめぐって、協議を進めることになる。つまり、詳細を後日詰めることを前提とした和睦であり、秀吉が信長の仇を取るべく急いでいたのは事実であろう。 この説の前提として重要なのは、織田氏の取次の秀吉と毛利氏の取次の恵瓊は互いに旧知の間柄であり、決して備中高松城の現場では一触即発の事態ではなかったという。織田氏と毛利氏との全面戦争にもかかわらずである。つまり、表面的には戦っているふりをしているが、秀吉と恵瓊はグルだったということになろう。 秀吉と恵瓊はたしかに旧知の間柄で、恵瓊は秀吉の台頭を予言し、その優れた手腕を評価した人物である。しかし、旧知であるなどの理由だけで、2人が共謀していたというのは、まったく話にならない説明である。2人が共謀していたという、たしかな証拠を提示しなくてはならないだろう。 信長の横死後、恵瓊は主導的な立場で、秀吉との和睦を独断で結んだといわれている。しかし、それは信頼できる史料に書かれているものではなく、関ヶ原合戦後の恵瓊の評価を考慮する必要がある。 慶長5(1600)年の関ヶ原合戦後、毛利氏は120万石から30万石の大名へと転落した。その際、毛利氏や吉川氏は恵瓊に責任を転嫁すべく史料を改竄(かいざん)するなど、さまざまなアリバイ工作を行い、恵瓊の独断専行ぶりを特に強調した。『陰徳太平記』は、その代表的書物だ。同書ではことさら恵瓊を論難している。重要文化財「関ケ原合戦図屏風」(右隻、大阪歴史博物館蔵) したがって、恵瓊の独断により秀吉と和睦を結んだというのは明確な根拠がなく、後世のでっち上げとすべきものである。 補足しておくと、恵瓊は毛利氏のみならず、秀吉にも仕えるという身分だった。このこと自体は、さほど珍しいことではない。秀吉と恵瓊がグルだったと主張する論者は、恵瓊が毛利氏に滅ぼされた安芸武田氏の子孫であることから、毛利氏に対して忠誠心がなく、いつかは毛利氏の足元をすくってやろうとしていたと指摘する。 しかし、恵瓊が毛利氏の足元をすくおうとしたという説はまったくの思い込みによる根拠の薄弱なもので、信用に足りない説である。というのも、関ヶ原合戦前の恵瓊は、毛利氏(あるいは豊臣家)を勝利に導くため、必死になって行動していた。それは、一連の史料を見れば明らかである。この説も根拠薄弱な思い込みである。 結果的に関ヶ原の戦いは西軍の敗北に終わり、恵瓊は非業の死を遂げるが、むしろ恵瓊を裏切ったのは毛利氏の側なのは明らかなのだ。毛利氏は恵瓊に黙ったままで、合戦前日に徳川家康と和睦を結んでいた。恵瓊を見殺しにしたのである。「夜久文書」が伝える真相 秀吉と恵瓊との関係について、もう1点補足しておこう。先に触れた通り、天正元(1575)年12月、恵瓊は信長がやがて滅亡するであろうことを予言し、同時に秀吉が台頭することを予言した。この点について、秀吉関与説を唱える論者は、以下のとおり奇妙な説明をする。 それは、恵瓊が予言をしたのは、秀吉から信長が数年のうちに破滅する可能性が高いと説明を受けていたからだという。秀吉の説明とは、信長は実力主義で家臣を登用したが、やがて家臣間の軋轢(あつれき)を生みだすとともに、忠誠心のない家臣の台頭を招き、謀反へつながるという内容である。実際に荒木村重、松永久秀らが謀反を起こした。こちらも、秀吉が恵瓊に説明したという史料はない。 秀吉が恵瓊に説明したというのは、後世を知る論者が勝手に想像しただけであって、まったく史料的な根拠はない。そもそも恵瓊の予言を過大に評価するが、あくまでそれはそのときに抱いた感想に過ぎない。したがって、秀吉や恵瓊を予言者と持ち上げるのは、いささか見当違いだろう。 結論を言えば、秀吉が恵瓊と結託し、和睦のタイミングを見計らい、信長の横死とともに「中国大返し」で上洛したという説は、確かな根拠がなく成り立たないといえる。 秀吉関与説にまつわるユニークな説明は他にもある。「中国大返し」を実現させた理由の一つとしては、秀吉が独自の情報ルートを持っていたとの説が提起されている。そうでなければ、ただちに信長横死の情報を入手できなかったと指摘する。 秀吉は丹波の夜久氏という領主の協力を得て、京都から備中高松城までの情報伝達ルートを確保していたという(年未詳6月5日羽柴秀長書状「夜久文書」)。そのルートは、備中高松城から姫路に向かい、姫路から一気に北上して羽柴秀長(秀吉の弟)の但馬竹田城に至り、竹田から和田山、丹波の夜久、福知山、亀山を経て京都に至るルートである。とりわけ夜久付近では、夜久氏の協力を得たということになろう。備中高松城址=岡山市 この説については、大いに疑問がある。以下、検討しておこう。 該当する「夜久文書」を素直に読むと、近江国から夜久方面の往来について、夜久氏の協力を得たとしか書かれておらず、先述した情報ルート云々の話は出てこない。秀長は路次確保の協力に対して、夜久氏にお礼を申し述べているだけである。 つまり、上記の「備中高松城から姫路に向かい、姫路から一気に北上して羽柴秀長(秀吉の弟)の但馬竹田城に至り、竹田から和田山、丹波の夜久、福知山、亀山を経て京都に至るルート」というのは、単なる想像に過ぎない。ちなみに、同史料の年次は、天正6年と考えられる。少なくとも天正10年ではない。史料の内容の解釈も、年次比定も誤っているといえよう。 史料解釈や年次比定のほかに、もっと大きな疑問がある。牽強付会な関与説 京都から備中高松城に向かうには、丹波や但馬を通り抜けると、かなりの遠回りになる。やはり、摂津、播磨を通って行くのが近道である。言うまでもないが、当時は電車や自動車があるわけでもない(仮にあったとしても遠回りはしないだろう)。常識で考えると、信長横死の情報を早く伝える必要があるのに、わざわざ但馬や丹波を通り抜けて、遠回りする必要はないのではないか。 したがって、秀吉が京都から丹波、但馬を経て、独自のルートを保持していたという見解は、到底受け入れることはできないのである。 秀吉関与説の他の理由としては、秀吉自身が信長の政権構想を考えるなかで、将来に悲観したという説がある。つまり、秀吉は信長の息子たちに仕えることを余儀なくされ、やがては近江長浜城を取り上げられ、さらに明に派遣される可能性があり、将来に危機感を抱いたという。秀吉は、信長を全面的信頼していなかったというのだ。果たして、それは事実なのか。 信長には、長期にわたる政権構想があったという。それは、信長の子息の信忠、信雄、信孝に領土と重要な地位を与え、実力のある家臣を各方面軍の司令官とし、やがては彼ら実力派家臣の領土を再集約しようとしたというのである。しかし、それは断片的な史料をもとにした憶測であり、実質的には何の根拠もないといえる。従うことはできない。では、信長の「唐入り構想」については、どう考えるべきか? 信長の「唐入り構想」については、フロイスの『日本史』『一五八二年日本年報追加』に「(信長が)日本六十六ヵ国の絶対君主となった暁には、一大艦隊を編成してシナを武力で平定し、諸国を自らの子息たちに分かち与える考えであった」との記述がある。これが事実ならば、信長の構想は壮大だったといえる。 話を別の観点から考えてみよう。天正13(1585)年以来、秀吉は「唐入り構想」を盛んに口にしており、それは信長の遺志を引き継ぐものとされてきた。しかし、近年の研究によると、秀吉が「唐入り」を言明したものではないと指摘されている。それは、九州平定を矮小化するためのレトリックであり、「唐入り」の表明と考えるのは早計ということである。単なる口実に過ぎなかったのだ。豊臣秀吉像(模本、東大史料編纂所蔵) フロイスには誇張癖があり、しかも『日本史』『一五八二年日本年報追加』には意図的に改竄した個所が多数あるという。史料的に全面的に信を寄せるのは、極めて危険である。『日本史』などの史料性の問題に加え、ほかに信長の「唐入り」の表明を記した史料がないのには難がある。 そのような点を考慮すると、信長の「唐入り」表明の事実には慎重になる必要があるのではないか。もし、信長の「唐入り」の構想が家臣らに伝わっていないならば、別に秀吉が明へ移されることを恐れる必要はない。 結論としては、秀吉が信長政権における自らの地位を悲観したというが、根拠が薄弱であると言わざるを得ないのである。むしろ、中国方面の司令官を任されたのであるから、前途洋々だったといえる。 ここまで秀吉が光秀と結託し、本能寺の変に関与していたとの説を取り上げ、とても受け入れられない説であることを指摘した。この説の弱点は、以下のようになろう。①信頼度の低い史料の記述を鵜呑みにしていること。②史料的な根拠がない憶測を展開していること。③著しい論理の飛躍がみられること。④史料の年次比定や解釈が誤っていること。 いずれにしても、秀吉関与説は牽強付会(けんきょうふかい)と言わざるを得ない。秀吉が本能寺の変に関与したと主張するならば、良質な一次史料で事実を指摘する必要があろう。※主要参考文献鴨川達夫「秀吉は『唐入り』を言明したか」(『日本史の森を行く』中公新書、2014年)谷口克広『検証本能寺の変』(吉川弘文館、2007年)渡邊大門『信長政権 本能寺の変にその正体を見る』(河出ブックス、2013年)

  • Thumbnail

    記事

    「平成政治史に残る大誤解」父親譲り、小泉進次郎のトンデモ持論

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) 森友学園問題が、財務省の文書改ざん問題に発展してから、財務省の政策を強化する政治的な動きが表面化している。こう書くと不思議に思う人たちも多いだろう。なぜなら、財務省の文書改ざん問題は、現在までの情報によれば、財務省理財局と近畿財務局が起こした問題だからだ。常識的に考えれば、社会的な批判を受けて、財務省は「おとなしくしている」ことの方が普通である。だが実際には違う。 この財務省の「政策強化」の動きのうち最たるものが、緊縮政策を主張する政治的勢力が元気づいていることだ。その代表が小泉進次郎衆院議員である。彼は自民党の筆頭副幹事長でもあるが、朝日新聞などの報道によると、政権批判的な姿勢を鮮明にしつつあるようだ。最近では、安倍昭恵首相夫人の証人喚問の必要性を示唆したり、また改ざん問題を「平成政治史に残る大事件」とまるで野党のような発言も残している。 森友学園問題自体は「平成政治史に残る大事件」かもしれない。だが、それはマスコミの一部と野党、それに政権批判勢力が作り出した政治的な茶番であり、「魔女狩り」であるという意味である。本来は関西における一学校法人と財務省の出先機関による交渉の不始末をめぐる問題でしかない。安倍晋三首相も昭恵夫人も今まで公開された事実レベルでは、何の関与の証拠もない。政治的あるいは感情的なバイアスがなければ、この見方が常識的ではないだろうか。2018年3月25日、東京都内で開かれた第85回自民党大会で、「森友学園」を巡る財務省の決裁文書改ざんに関し陳謝する安倍首相 ところが、小泉氏の発言はそうではなく、安倍首相や昭恵夫人しか知りえない「(関与にかかわる)事実」を匂わし、それゆえ昭恵氏の証人喚問の必要性を示唆しているのだろう。ある意味では野党などと同じ発想である。 ところで、安倍首相や昭恵夫人の「関与」については広範な誤解がある。昨年2月の衆院予算委での首相発言「私や妻が(国有地)払い下げや(小学校設置)認可に関与したら、それはもう総理の職も国会議員の職も辞することになります」のうち、テレビや新聞そして「反安倍勢力」とでもいうべき人たちは、この森友学園の土地の払い下げや認可に関わっていたら、という部分を省いて考えている。そのため、森友学園の籠池泰典前理事長の発言の中に一度、昭恵夫人の名前が出ただけで「関与だ」と大騒ぎするほどである。これでは本当の意味で魔女狩りだろう。まだある財務省の「政策強化」2018年3月、訪問先の香港で講演する自民党の岸田政調会長(共同) さて、財務省による「政策強化」の動きは小泉氏だけではない。例えば、自民党の岸田文雄政調会長は香港で、日本銀行の出口戦略を強調したり、また消費増税の必要性を強くコミットした。岸田氏はおそらく自他ともに認めるポスト安倍の1番手だろう。その岸田氏が金融緩和中心のアベノミクスに否定的で、さらに現状でも拡大基調とはいえない財政政策スタンスを増税による緊縮に転換すると公言したのである。これも反安倍=緊縮政策の流れとして見逃せない。 ところで、一部の人はなぜか財政政策のスタンスだけをみて緊縮か反緊縮かを評価している。そのため、財政だけをみて「安倍政権は緊縮だ」という批判があるが、相当に深刻な偏見である。経済全体が不調なときにそれを刺激する政策は二つある。一つは金融緩和政策で、もう一つは財政拡張政策である。 アベノミクスでは、改善の余地がまだあるにせよ、金融緩和政策は極めて高い水準で実行中である。他方で、財政政策は14年の消費増税によって事実上抑制気味であり、拡大の余地が大いにある。むしろ、消費減税するくらいがちょうどよく、19年10月に実施予定の消費増税の停止、廃止も早く打ち出すべきだ。ただし、財政政策の不十分性をもって、安倍政権の経済政策全体が緊縮政策だとする評価は、雇用を中心とした経済の改善をまったく説明できなくなる。単にトンデモ意見でしかないことをあえて注記しておく。 その上で考えると、今問題になっている緊縮政策の勢力は、小泉氏、岸田氏、そして石破茂元幹事長らポスト安倍勢力と事実上同じである。 ここから再び小泉氏に焦点を戻そう。小泉氏の政治的な貢献に、「全農改革」といわれる構造改革が挙げられる。農林水産省、農林族議員、農業団体の既得権益を打ち破る「功績」をあげたと評価されることが多い(田崎史郎『小泉進次郎と福田達夫』文春新書など参照)。小泉氏の父親である小泉純一郎元首相が道路公団民営化や郵政改革などで政官民の既得権益の壁を打ち破り、「構造改革」で支持を増やしていったのと似た構図である。増税論者の小泉氏には思い至らない発想 もちろん、農業の岩盤規制に風穴を開けることは重要である。だが、小泉政権の「構造改革」ブームを象徴した言葉「構造改革なくして景気回復なし」という経済政策の誤認識を小泉氏も持っているように思える。ちなみに、それは父親譲りというよりも日本の政治家の大半が抱えている深刻な偏見である。2018年3月25日、第85回自民党大会の終了後、記者団の質問に応える小泉進次郎筆頭副幹事長(春名中撮影) 例えば、構造改革をスムーズに行うためには、マクロ経済の安定が欠かせない。景気がよくなれば、人やモノ、お金の移動もスムーズになる。規制緩和すれば、それによって消費者の潜在的な便益の方が農業生産者の潜在的な損失を大きく上回り、それによって国民全体の生活水準が向上するというのが経済学の基本だ。また、時間が経過していけば、生産側にも経営資源の向上などで農業の生産性自体が実現できる可能性も高まる。 このような教科書通りのシナリオが現実通りにいくかどうかは、慎重に検討していく必要がある。特に経済全体が不況では、農業生産者が新しい試みをしても社会の購買力が不足してしまい、実現できずに頓挫する可能性が高まる。実際に、日本の長期停滞において、開業率と廃業率を比べると後者の方が継続的に高かった。これは企業ベースの話だが、企業内部や個人事業者のさまざまな試みは、不況期の方が頓挫しやすいことも想像に難しくない。簡単にいえば、「規制緩和≒構造改革」の果実が得られるかどうかの大きな前提条件として、マクロ経済の安定が欠かせないのである。 だが、そういう発想と小泉氏は真っ向から対立している。例えば、小泉氏が主導した「2020年以降の経済財政構想小委員会」の提言で一時期話題になった、いわゆる「こども保険」だ。現在の社会保険料に定率の増加分を乗せて、それで教育の無償化を狙うスキームである。「こども保険」と呼ばれているが、実体はただの「こども増税」である。 教育への投資は非常に見返りの大きいものであるため、国債を発行することで、薄く広く各世代がその教育投資を負担することが望ましい。しかも現時点では、追加的な金融緩和の必要性があり、そのために「こども国債」を新たに発行し、それを日銀が市場経由で購入することは、日本のマクロ経済の安定化に貢献するだろう。 だが、小泉氏のような増税論者=緊縮主義には思い至らない発想でもある。そしてこのような緊縮主義こそ財務省が長年維持している政策思想でもある。ここに財務省が現段階で危機にあるようでいて、むしろ財務省の権力が増加する可能性が大きい理由があるのである。

  • Thumbnail

    記事

    崖っぷち安倍政権 「増税教」が浮かれる退陣後の最悪シナリオ

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) 学校法人森友学園(大阪市)への国有地売却をめぐる財務省の決裁文書書き換え・改ざん問題が安倍政権を直撃している。世論調査は政権発足以降、最も低い支持率を記録している。ただ政党別支持率をみると、自公への支持は底堅く、野党に支持が回っているわけでもない。 支持率はこの数年、集団安保法制や森友・加計学園問題などで同様の動きを繰り返している。野党が本格的で具体的な政策を提示しない限り、現状の与党体制を突き崩す見込みはない。それが世論調査にも明瞭に表れている。 ただ、内閣支持率と不支持率の水準がこのまま長期化していくと、秋の自民党総裁選で安倍晋三首相の3選に「黄色信号」が灯るのは避けられない。ただし、総裁選が本格化するのはまだ5カ月も先であり、さらにあくまでも自民党内の事情に依存している。国政選挙の実施は今のところ考えられないので、その意味では安倍政権への現状での影響は限定的だとみるのが妥当だろう。ただし、内閣支持率の低迷が今後も深まったり、継続したりすれば、やはり政治的な火種になる可能性はある。 筆者は以前から安倍政権によるアベノミクス、特に第一の矢である大胆な金融緩和政策、つまりリフレ政策を支持している。しかも現状では、安倍政権以外にこのリフレ政策を採用する政治勢力が事実上存在しない。自民党内でもリフレ政策の支持者は安倍首相と菅義偉(よしひで)官房長官、山本幸三前地方創生相と3人しかいない。いま安倍政権が瓦解(がかい)するとなると、「ポスト安倍」の中に、安倍首相と同じ熱意と政策センスを発揮できる政治家は誰もいないのである。2018年3月19日、参院予算委員会に臨む安倍晋三首相(右)と財務省の太田充理財局長(斎藤良雄撮影) 現実的には、しばらくの間、現状の経済政策を継承するかもしれない。しかし、「ポスト安倍」たちの総意は消費増税による「財政再建路線」である。これは国際的には緊縮政策と呼ばれるものだ。それに対して、アベノミクスの大胆な金融緩和と、消費増税でとん挫しているが、機動的な財政政策は「刺激政策」と呼ばれているものだ。 この緊縮政策と刺激政策の対立が今、世界中で話題になっている。ただし、多くの国が政治あるいは経済学者の両陣営の割合がほぼ半々に近いのに対して、日本では政治家にほとんど刺激策側はおらず、大半が緊縮勢力である。 経済学者に至っては、デフレ不況の中での消費増税に対して、学会の重鎮たちを含め大挙して賛成を唱えていて、それはただの「増税教」の集団でしかない。世界的にみても異様な事態である。言い換えれば、政治家も学者も刺激策は日本では「異端」なのである。「異端」政策がもたらした大きな果実 今、この日本では「異端」の経済政策が行われ、かなりの成果を挙げている。特に代表的なのは雇用環境の改善である。この点を専修大の野口旭教授の優れた新刊『アベノミクスが変えた日本経済』(ちくま新書)を参考にして、簡単にみておこう。 リーマン・ショック時には5%台中盤まであった完全失業率は現時点では2・4%まで低下した。この水準は1980年代の平均的な水準に近く、そのレベルまで急減したのである。ただし、2・4%自体の数値はまだしばらく注意しておく必要がある。一時的な統計の誤りという見方もある。有効求人倍率の水準も大きく改善して、1970年代の状態にまでなった。 これらを生産年齢人口の減少で説明しようとする人たちがいるが、労働力人口(働きたいと思う人たち)と就業者数が安倍政権後に急増している理由を、生産年齢人口減少説は説明することができない。簡単に言うと、働きたいと思う人以上に、職についた人が多いという状況が現実化しているのである。そして、その原因は大胆な金融緩和以外には考えられない。 雇用環境の改善を政治的に無視したい人たちから、しばしば「雇用が増えてもそれは経済的な困窮を生み出しているだけだ」という指摘がある。だが、リフレ政策が実施された以降の雇用環境は量的だけではなく、質的にも大きく改善している。2018年3月、参院財政金融委で、自民党の西田昌司氏の質問に答弁する麻生太郎副総理兼財務相(奥)。手前は日銀の黒田東彦総裁(斎藤良雄撮影) 例えば、雇用市場では、交渉力が弱く「弱者」に陥りやすい新卒やパートを希望する主婦層、再雇用を望む高齢者、さらにアルバイトを希望する人たちの雇用増を生み出した。これはアベノミクスが開始された2013年から顕在化している動きであり、2014年の消費増税で一時立ち止まったが、今も改善を続けている。 つまり、富裕層の消費からのしたたりを待ったトリクルダウン(富める者が富めば、貧しい者にも自然に富が滴り落ちるという経済理論)ではない。いわば「下から=弱者からの雇用改善」をリフレ政策は生み出したのである。 また「失業の低下といっても低賃金の非正規雇用が増えたに過ぎない」という批判に対して、野口氏は「確かに、就業者にしめる正規雇用の比率は、2015年頃までは依然として低下し続けている。しかし、2016年以降は、それは明らかにトレンドとして上昇し始めている」とも指摘しており、この状況は現在も継続中である。緊縮勢力を喜ばせる黒田氏の発言 さらに非正規雇用の中身も大きく改善している。野口教授は「非正規就業者が数としては増加する中でも、『正規の職員・従業員の仕事がないから』という理由で非正規就業に甘んじている、いわゆる不本意非正規就業者は、数的にも割合としても一貫して減少してきたという事実である」と指摘している。非正規雇用そのものが悪ではもちろんない。さまざまな雇用形態が人々の暮らしに役立っていないだけである。 問題なのは、正規雇用を望んでいるのに非正規雇用に甘んじる人々がいることである。その状況はアベノミクス開始から一貫して大きく改善している。先の「雇用が増えても労働環境が改善していない」というのは個々の事例ではありえるかもしれないが、経済全体をみたときは妥当ではなく、むしろ誤りといえる。 さて、このようなアベノミクスの効果だが、実際には「リフレ政策=大胆な金融緩和政策」が大きく実績を挙げている。他方で財政政策は2013年だけが拡大基調で、後は消費増税など緊縮策に近いスタンスだ。財政政策には改善の余地が大きくある。来年に予定されている消費増税は早急に取り止めるべきだし、また政治的にハードルが高くても、消費減税を行うのが理想である。 さらに、金融緩和政策を継続していくことも重要である。なぜならまだ完全失業率には低下の余地がある。一つは、インフレ目標をいまだ達成していないからだ。これは他面では、われわれの賃金上昇が不足していることでもある。そのため金融緩和の継続は最低でも必要であり、また同時にさらなる緩和も必要である。 そのような状況の中、日本銀行の正副総裁人事が先日、国会で承認された。総裁には黒田東彦(はるひこ)氏が再任され、5年の任期を4月以降務める。同時に若田部昌澄早稲田大学教授と、雨宮正佳日銀理事が副総裁に任命された。この3名が新しい日銀の執行部であり、他の6名の政策委員とともに日本の金融政策を多数決で決める。2018年3月、参院議院運営委員会で所信聴取に臨む雨宮正佳日銀理事(左)と若田部昌澄早大教授(斎藤良雄撮影) 今のところ、安倍首相の主導によって黒田新体制もまた、金融緩和の継続を行うとみられている。ただし最近、黒田総裁は2019年度のインフレ目標達成を前提に、いわゆるリフレ政策の終了(出口政策)を模索することに関して発言している。実際には今の日銀は19年度にインフレ目標の達成を予測しているので、この黒田総裁の発言は見かけ上、矛盾しない。 しかし、大規模緩和を継続しても、追加緩和などをこの1年以上一切行わず、いたずらにインフレ目標の到達時期を後送りしてきたのである。このような人物が安易に出口政策を口にすれば、緊縮勢力をいたずらに喜ばせるだけだろう。実際に株式市場も「黒田出口発言」から大きく暴落し、現状でも不安定化する一つの要因となっている。政権瓦解が「最悪のシナリオ」 また、若田部副総裁は自他ともに認めるリフレ派の中心メンバーの一人であり、国会での所信聴取でも一貫して国債の買いオペ額の増加による追加緩和を主張している。財政政策でも消費税増税に反対している。他方で雨宮副総裁はリフレ寄りではなく、本来的には黒田体制の前まで継続していたデフレによる長期停滞を生み出した日銀の実務者の典型である。とりあえず、黒田体制の中では日銀官僚を代表して、リフレ政策のサポートを務めていた姿勢を偽装していた。副総裁は、そこを評価されて日銀枠によりエントリーされたのだろう。 つまり筆者からすると、雨宮氏は日本を経済不況にたたき込んだ「戦犯」の一人である。だから、政策に関する本音はインフレ目標に到達していようがしまいが、一刻も早く出口政策を採用したいのであろう。そういう雨宮副総裁の特徴をもちろん緊縮策勢力も理解している。 例えば、立憲民主党は総裁・副総裁人事案について、黒田・若田部案には反対だが、雨宮案には賛成だった。枝野幸男代表の政策スタンスにしても、「枝野ファン」には刺激派寄りに見えるのかもしれないが、彼と立憲民主党はゴリゴリの緊縮派であることがこの事例でも分かる。 他方で、自由党の山本太郎共同代表が若田部案に賛成し、他方で雨宮案に反対を投じたことは極めて興味深い出来事である。与野党問わずこのような刺激策への動きが広まればいいと思う。2018年3月、自民党本部で開かれた憲法改正推進本部の全体会合に出席する石破元幹事長 さて、話を冒頭の財務省の決裁文書書き換え・改ざん問題に戻そう。リフレ政策を支持する筆者からすればあまり想像したくはないのだが、仮に安倍政権が崩壊したならば、日銀の政策にも「赤信号」が灯るだろう。安倍首相が退陣すれば、石破茂元幹事長や岸田文雄政調会長が次の首相になる可能性もある。彼らのように緊縮策を好む政治家が首相になれば、インフレ目標を十分に達成し、物価が安定化する間もなく、出口政策にシフトする可能性もある。 そのときに主導するのは、政治忖度が強い黒田総裁と雨宮副総裁のコンビだろう。さらに、安倍政権瓦解のタイミングで、黒田総裁が高齢などを理由に任期途中で退任し、雨宮体制に移行する「最悪のシナリオ」も危惧されている。これは筆者の想像レベルであればいいのだが、今の国会情勢、世論の動向をみていると「想像」だけとは決して言いきれない側面もある。

  • Thumbnail

    記事

    森友文書「書き換え」 安倍退陣で勢いづく朝日新聞の責任

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) また、森友学園問題である。3月2日付朝日新聞が、学校法人森友学園(大阪市)との取引に関する決裁文書を財務省が書き換えたという疑惑を報道した。国会では野党がすぐに追及し、財務省側も大阪地検の捜査を妨げないという一定の条件を勘案して調査の検討を約束した。この「書き換え」問題はたちまち朝日新聞と野党、その支持者たちを勢いづけたようだ。朝日新聞の2018年3月2日付紙面 例えば、朝日新聞は立憲民主党の枝野幸男代表の「国家や社会がぶっ壊れる」という発言を大きく取り上げている。枝野氏の認識では「書き換え」から一歩進んで「改ざん」ということになっているらしい。また政治家や識者の何人かは、「書き換え」の責任は安倍晋三首相にあり、責任を取って退陣すべきであるとも主張している。 ところで素朴な疑問だが、なぜ朝日新聞は記者が「確認」したという、問題文書自体を画像などで開示しないのだろうか。2日付紙面では、国会議員に昨年開示された文書の写真が掲載されただけである。そもそもこの国会議員に開示された文書を「文書A」とし、朝日新聞の記者が確認したというものを「文書B」とすると、文書Aと文書Bのどちらが元であるかも実際のところ分からない。 朝日の記事を素直に読むと、文書Bがオリジナルのようで、それから文書を「書き換え」たものが国会議員に開示された文書Aのように思える。だが、文書Aがオリジナルであり、文書Bが書き換えられた可能性はどうして排除されたのだろうか。また、そもそも「書き換えられた」という表現自体がかなり慎重である。先の枝野氏のように「改ざん」という言葉をあえて回避している印象も受ける。もちろん慎重であることは、この森友学園問題においても、ジャーナリズムとしていい姿勢といえる。 それでも、本当に慎重だったのかどうかには疑問符もつく。今後、文書Bそのものの画像が出てくるかもしれないが、朝日新聞は少なくとも文書Aと文書Bを同時に紙面に掲載すべきではなかったろうか。ひょっとすると、読者に対して今後の注意を引くための戦略なのかもしれない。だが、過去に朝日新聞は少なくとも「モリカケ問題」で読者を誤認させかねない報道を2回行っている。「誤認させかねない」としたが、実際誤認した人も多かったろう。何を正せばいいのか2018年3月、森友学園問題の真相解明などを求め、デモ行進する参加者 一つは、いわゆる加計学園についての「総理のご意向」報道である。インターネットでも読めるが、新聞に掲載された文書はなぜか周囲にぼかしが入っていて読みづらい。しかも、記事の見出しである「総理のご意向」は、そのぼやけてよく見えない部分に記載されているように、「『国家戦略特区諮問会議決定』という形にすれば、総理が議長なので、総理からの指示に見えるのではないか」という個所と合わせて読むと、かなり違った印象になるだろう。総理の指示ではないが、総理の指示のように官僚たちが勝手に動いたともとれるからだ。だが、この記事だけではないが、加計学園の獣医学部新設に安倍首相自らが積極的に関与したかのような印象が当初広まった。だが、因果関係はいまだに一切立証されていない。 もう一つは、森友学園が新設しようとした小学校の名前が「安倍晋三記念小学校」であるという報道である。朝日新聞の取材に応じた森友学園前理事長、籠池泰典氏の発言によるものだったが、開示された小学校の設置趣意書に記されていた新設小学校は「開成小学校」であった。しかも、首相や昭恵夫人の名前も一切記載されていなかったのである。その後、国会で安倍首相自身が何度も朝日新聞を批判している論点にもなった。激しい政治的対立の論点になっているものに対して、一方の当事者の発言を裏付けもとらないまま掲載すること自体、やはり朝日新聞は批判を免れることはできないだろう。 この2点だけを挙げただけでも、モリカケ問題に関する朝日新聞の報道は、個人的には慎重に読まざるを得ない。もっとも、率直に言って、筆者はどの新聞の報道も、特に政治や経済問題については、そのまま真に受けないことにしている。 今回の報道も先に指摘したように、その朝日記者が確認したという文書Bを文書Aとともに掲示すべきだった。今のままではこの記事をもとに何を正せばいいのかわからない。 ただ、財務省の文書「書き換え」が実際に行われ、それが社会的に批判されるべきものだとしよう。念を押すが、これは現段階であくまで仮定の話である。その前提であれば、問われるべきは、近畿財務局という一地方部局の担当者、それに加えて公的データや資料の保管・廃棄ルールにすでに不備が見つかっていて、さらに仮の話としての「書き換え」問題が発生した財務省の責任である。 公有地をめぐる交渉ミスは批判されるべきだが、犯罪とは言えないだろう。しかし、公文書の管理の問題はそれとは異なる可能性がある。国家的な損失にこれからも直結する問題になるからだ。それを踏まえても、今回の安倍政権退陣ありきの論調は、「文書の書き換え」と安倍首相の責任との因果関係が不明な議論にとどまっている。安倍政権を批判するなら経済政策を含めて、いくらでもまともな手法があるだろう。消費増税のスタンスをいまだに採用していることがその典型だ。 他方で、財務省などの官僚たちの問題を追及するのは正直いい機会だと思っている。それぐらいの成果がないと、「安倍退陣」という政治的目的に延々と振り回されてきた国会で浪費された時間が報われないからだ。

  • Thumbnail

    記事

    桶狭間にゲリラ豪雨を降らせた信長の「ガチ祈り」

    橋場日月(歴史研究家、歴史作家) 永禄3(1560)年、織田信長はついにその前半生で最大の敵との対決のときを迎える。駿河・遠江・三河の3カ国を支配する今川義元との戦い―「桶狭間の戦い」だ。 尾張東部の今川方の拠点を奪おうと圧力を強めていた信長に対し、義元は5月10日に駿河の駿府を出陣する。彼が率いる軍勢は公称4万5000、実数は2万5000だったというが、それが藤枝を通過するとき、輿(こし)に乗っていた義元はやにわに刀に手をかけたという。彼はかつて今川家の家督を争って異腹の兄・玄広恵探(げんこうえたん)を攻め殺した過去があるのだが、その恵探その人が街頭にたたずんでいるのを目撃したというのだ。 ほかの誰ひとりそれを見た者はいなかったのだが、出陣前から義元の夢枕にはこの兄が立ち、尾張への侵攻をとりやめるよう義元をいさめていたという。「あなたはわが敵ではないか」と義元が拒むと、恵探は「今川家が滅亡するのを見たくないのだ」と嘆いた(『当代記』)。この合戦は、その幕開けからオカルティックな雰囲気が漂っていたようだ。桶狭間古戦場公園 三河から尾張に入った義元は沓掛城に着陣した。17日のことである。翌18日夕方、清洲城の信長のもとにも「今川軍接近!」の報が届いたが、彼は軍議すら開かず世間話をするだけで、夜が更けてくると「遅くなったから、皆もう帰れ」と言い出す始末。これには家老たちも「進退きわまると知恵の鏡もくもるとはこのことだ」とあきれ、苦笑しながら帰っていった(『信長公記』)。 桶狭間の戦いについては信長が動かせた兵力2000余りに対し、今川軍は前述の通り、2万5000といわれている。とはいってもそのうち2万数千までが強制動員された農民であったため、純粋な戦闘力ではほぼ対等だった、などという主張が近年有力となってきているが、これはおかしい。当時の農民は江戸時代のそれと違い兵農分離が未発達で、農民たちが農閑期ごとに金銭や米穀目当てで合戦に従っていた例は多い。彼らは半農半兵でそれなりに戦場に慣れた手だれだったのである。一方の織田軍はかつての御供衆(「チンピラ仲間」ともいう)で親衛隊メンバーの佐々成政・前田利家らが中心となる精鋭集団が中心とはいうものの、正攻法で来られれば数において圧倒的に劣る信長に打つ手はない。作戦の立てようもなく、ふてくされたように世間話にふけるのも当然だったのだ。「敦盛」を舞った信長の賭け しかし、そのまま何もしないでいれば、前線の織田方拠点は次々と攻め落とされ、信長を見限った家来たちから、今川軍に寝返る者も出てくる。やがては清洲城も内部から崩壊し、尾張は義元に蹂躙(じゅうりん)され、伊勢湾の支配権も今川家の手に落ちるだろう。 なんとしても生き残りたい! 信長は押し殺した表情でのんきに振る舞いながら、若いころ肌身離さず身につけていたひょうたんや火燧(ひうち)袋、三五縄などの魔除けグッズを出してひそかに祈りをささげていたのではないだろうか。 そんな信長のもとへ、19日未明になってまた前線からの使者が飛び込んできた。「今川軍が鷲津砦・丸根砦に攻め掛かりました!」 ふたつの砦は今川方の鳴海城と大高城を監視するためのものだったが、義元はこの目障りな砦を手始めに陥れようというのだ。 これを聞いた信長は、前回紹介した「敦盛」の幸若舞を舞った。「人間(じんかん)50年、下天(げてん)の内をくらぶれば、夢幻(ゆめまぼろし)のごとくなり。一度(ひとたび)生(しょう)を得て滅せぬ者のあるべきか」。桶狭間古戦場公園に立つ織田信長像=名古屋市緑区 勝算はなくとも、今このとき抵抗する姿勢を示さなければどのみち部下たちから見放されて滅びてしまう。ましてや相手も人間。天の味方を得ることができれば、逆に滅ぼすことも可能だろう。短い舞の中で、信長は一か八かの賭けに出ることを決意したのだ。 舞い終わった信長は、「ホラ貝を吹け! 甲冑(かっちゅう)を持ってこい!」と叫び、立ちながら腹ごしらえを済ませると、出された昆布と勝栗を口にした(『道家祖看記』)。これはこの時代に広くおこなわれていた必勝のまじないで、「勝ってよろこぶ」というものだ。ここでもやはり、信長は迷信に忠実である。 そして彼は5人の小姓を従えただけで城を飛び出し、熱田まで3里(12キロあまり)の道のりを馬で一気に駆ける。時刻は辰の刻(午前8時ごろ)。今の熱田神宮は当時熱田社と呼ばれていたが、彼がその摂社の源大夫殿宮(現在の上知我麻(かみちかま)神社)の前から東方を遠望すると、すでに鷲津・丸根両砦が攻め落とされたとみえ、煙が立ち上っている。このころには、後から慌てて信長の跡を追いかけた一行の数は200ほどに増えていた。なぜ熱田神宮じゃなければならなかったのか ここで信長はある行動に出るのだが、それが本稿のテーマに大きく関係するものなので注目していただきたい。「熱田社に参詣し、謹んで伏し拝んだ」。 これが熱田で信長がとった行動だ。記されているのは『甫庵信長記』という、やや信憑(しんぴょう)性に欠ける部分がある史料だ。ところが、現在の熱田神宮にも、信長がこのとき戦勝祈願をおこない、めでたく勝利をおさめた後で寄進したと伝わる「信長塀」が現存している。信長がここで参拝したというのは事実と考えてよいだろう。兵が集まって来るのを待つついでに参拝したと解釈しても良いが、実はここに深い意味があったのだ。熱田神宮 信長が祈りをささげた熱田社の神とは、いったい何か。それは「熱田大神」と呼ばれる。これは天照大神を意味するといわれているのだが、そのご神体が問題だ。「草薙剣(クサナギノツルギ)」。 第3回で紹介したように草薙剣は天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)とも呼ばれ、神話時代に素戔嗚尊(スサノオノミコト)が八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を斃(たお)してその体内(尻尾)から得た剣、すなわち大蛇(オロチ)の力そのものといえる聖剣である。素戔嗚尊はこれを姉の天照大神に献上し、彼自身も熱田社の副祭神とされた。 早い時期から蛇信仰に傾倒してきた信長は、人生の大一番に臨んで熱田社の大蛇(オロチ)に祈りをささげたことになる。当然、それはついでなどというものではなく、全身全霊をかけた真剣なものだったはずだ。 とはいえ、彼が大蛇(オロチ)に祈ったものは、ただ単に「我に勝利を与え給え」という、単純な、そして曖昧模糊(もこ)としたものでもなかっただろう。大蛇(オロチ)が何の神か、ということをもう一度思い出していただきたい。そう、水の神、雨の神である。これが今回のキーとなる。 熱田社で必死の祈りを終えた信長が拝殿から出てきたとき、その傘下の軍勢は1000とも2000ともいう数に膨らんでいた。前線に貼り付いている兵を合わせると、2500という全体の数に限りなく近くなるから、おおよそそれぐらいの兵が熱田にそろったのは確かだ。 そして、信長は正午過ぎには桶狭間の近くの善照寺砦まで軍勢を進めた。さらに家老衆の制止を振り切って中島砦に入り、義元が本陣を構えた「おけはざま山」(『信長公記』)と指呼の間に自身を置く。そして、ついには中島砦さえも出て、おけはざま山に連なる一帯の小丘陵の際まで接近したのだ。義元討ち取りを可能にした「情報」 と、ここで状況に変化が生じる。にわかに空がかき曇ったかと思うと、大雨が降り始めたのだ。雨は「石氷を投げ打つ様に」(『信長公記』)敵の正面に降りかかった。雹(ひょう)をともなった西向きの強い雨風の強さはすさまじく、沓掛のあたりにあった直径1~1・5メートルもあるようなクスの大木2、3本が東へ吹き倒されてしまうありさまだったという。 時期は現在の暦で6月12日。現代でいう「ゲリラ豪雨」だが、筆者は以前からこの気象現象を「ダウンバースト」だろうと指摘してきた。これは積雲や積乱雲(入道雲)からの冷たい下降気流が地面にぶつかって猛烈な突風を起こすもので、雹や霰(あられ)を伴うことが多い。その局地的なものはマイクロバーストと呼ばれ、一層破壊的な風雨をもたらすのだ。当然、この大風雨が起こる以前、西の空には入道雲が現れ、東に向けて動いていただろう。幕末の浮世絵師、月岡芳年が描いた今川義元の最期(静岡県立中央図書館蔵) 信長が桶狭間に向かう道すがら、それを目撃していたことは間違いない。当時、武将には必ず「軍配者(軍師)」と呼ばれる専門技術者が仕えていた。彼らは常に気象状況をチェックし、雲の色形や流れなどで合戦の吉凶を占う。つまり、これから天候がどう変わるかは、地元の利もあってこの軍配者がかなりの正確さで判断し、信長に上申していたはずだ。 その情報を得た信長は、雲に合わせて東に進み、ちょうどバーストが始まる直前に戦闘態勢を整えたというわけだ。  そして、大風雨が一帯を襲う。信長は、それが自分の頭上から東へ進むのを確かめると大音声をあげる。午後2時ごろのことだった。「空が晴れるのをご覧になって、すわかかれ、かかれ!と突撃命令を下された」。 ちょうどバーストに襲われたばかりの義元本陣は、信長勢の姿すら見ることができない。桶狭間一帯は、小丘陵群とその合間の「深田足入れ」と表現される低湿地が広がっている。本陣の前の山々に布陣していた先鋒(せんぽう)部隊は、通過した風雨の影響で「深田」がさらにたちの悪い泥沼と化してしまったため、本陣の急を知っても駆け付けることすらできない。 こうして、信長と義元の戦いはほぼ同数の一騎打ちとなった。敵へろくに顔も向けられず目も開けられない義元本陣の将兵は、またたくうちに信長勢に切り立てられてしまう。義元の300人ほどの旗本も中心の義元を守って円陣を組み戦っていたが、これも次第に討ち減らされていく。義元が討ち取られたのは、それから間もなくのことだった。

  • Thumbnail

    記事

    伊調馨「パワハラ騒動」に思うスポ根主義の弊害

    小林信也(作家、スポーツライター) 女子レスリング界で「名コーチ」として知られる栄和人強化本部長が、パワハラの告発を受けた。今週発売の『週刊文春』が報じた。 世の中が「パワハラ」に対して強い態度を明確にし、スポーツ界でもこの問題が告発された事例は過去にもある。しかしその都度、告発された当事者やその競技だけの問題として扱われ、スポーツ界全体が持っている「根本的な体質」までは指摘されることはなかった。 今回、五輪4大会連続で金メダルを獲得し、国民栄誉賞も受賞した伊調馨選手に関するパワハラ疑惑が表面化したことは、当該コーチや女子レスリング界の問題だけにとどまらず、スポーツ界全体が自分の問題と捉え、すべてのスポーツ指導者、スポーツ組織、もっと言えば選手やその親、支援者も含めて、本質的に考え直す契機になるのではないだろうか。いや、そうしなければならないと感じている。栄和人氏のパワハラを内閣府へ訴えた告発状の写し 告発状が伊調馨本人から提出されたものならば、「伊調馨と栄コーチの問題」と理解すべきだろうが、今回はそうではない。実際に告発状を提出したのは貞友義典弁護士であり、週刊文春の記事には貞友弁護士自身が「この告発状は、五輪出場選手を含む複数の協会関係者から依頼され、作成したものです」と語っている。 『伊調馨悲痛告白』の見出しが大きな活字で記された週刊文春の記事を見れば、伊調馨本人の告発のように思えるのだが、内容を読むとそれが第三者によるものだったことが分かる。また伊調自身は、所属するALSOK広報部を通じて「報道されている中で、『告発状』については一切関わっておりません」とのコメントも発表している。 つまり、今回の告発は、その目的が「伊調馨と栄和人監督の関係改善を求める」ことではないのである。具体的に最も明確なのは、伊調を熱心にサポートしたために、当時レスリング男子日本代表コーチだった田南部力氏が「警視庁のコーチを外され」「その後、代表コーチも外される」という「不当な圧力」を受けたことへの告発であり、田南部氏の復権と、パワハラという卑劣な行為がまかり通るレスリング界の「人事刷新」「体質改善」への要求とも受け取れる。「うちの子は殴っても構いません」 文春で告発が報じられた後、栄和人コーチは報道陣の取材に応じたが、いつもの陽気さや威勢の良さはなく、総じていえば「身に覚えがない」「誤解があったとすれば言葉が足りなかったのかもしれない」といった沈痛な言葉を重ねた。金メダルを決め日の丸を掲げ記念撮影に臨む伊調馨選手、 栄和人監督=2012年8月8日、英ロンドンのエクセル これだけを見ると、双方の主張には大きな隔たりがある。告発された事実を栄氏はほとんど認めなかった。現時点では栄氏がどんなパワハラをしたのか、そもそもパワハラの事実はなかったのか、断定することはできない。だが、この報道を見て筆者が感じたのは、スポーツ界全体を当たり前に覆っているパワハラ体質の根深さである。「勝つためにはそれが当然だ」とする指導者や組織全体の思い込み、それを改善できない社会的悪癖を今こそ見直すべきだという、切実な問題意識をスポーツ界はどう受け止めているのか。 今の時代、世間では体罰やパワハラが問題視される一方、オリンピックでメダリストが誕生するたびに、パワハラ体質を持つコーチや指導者たちが「名将」と持ち上げられ、賛美される現実がある。金メダルのお祭り騒ぎが続く中でいつしか「パワハラ」は不問に付され、選手と指導者の二人三脚による努力と根性の軌跡は、むしろ「感動ドラマ」に仕立て上げられる。鬼コーチは昔からスポ根ドラマには欠かせない存在であり、むしろ多くの日本人に愛されるキャラクターでもある。 スポーツ界のパワハラ体質をいかに是正していくのか。その取り組みの中で最も厄介な問題は、本来パワハラの被害者であるはずの選手や家族、支援者、アシスタントコーチといった「権力的に弱い立場」の当事者たちが、行き過ぎた指導があっても「必要だ」と思い込んでしまうことである。ある種の洗脳にも似た感覚的なものだが、当事者たちはそうしなければ勝てないと思っていたり、将来自分が指導者や組織の長になれば、同じやり方で行き過ぎた指導をするだろう、という歪んだ考えがスポーツ界を支配している気がしてならない。言い換えれば、「同じ穴の狢」が幾重にも連鎖しているのである。 筆者は過去十年間、少年野球、そして中学硬式野球チームのコーチ、監督を務めてきた。小学生の野球なのに、鉄拳を振るい、跳び蹴りをするコーチの姿を見て仰天したこともあった。今も言葉の暴力と思える言動は日常的に繰り返されている。野球少年の親たちの中には「監督、うちの子どもは殴ってもらって構いませんから」と体罰を容認する人だって決して少なくはない。そうした誤ったスポーツ観、教育観を覆さなければ、スポーツ界全体を巣食うパワハラはこれから先もずっと繰り返され、スポーツが真に文化や芸術の領域まで踏み入れることもないだろう。 今回の告発をきっかけに、本質的なスポーツ界の大転換が始まり、徹底的に新しい発想をスポーツの根底に据える挑戦をしなければ、2020年に東京オリンピックを迎える意味もない。勝利至上主義、金メダルのお祭り騒ぎ、成果を挙げた選手やコーチのタレント化、それを利用して本質を忘れたスポーツビジネスを持て囃(はや)す日本社会への警鐘だと筆者は感じる。これはスポーツ界だけではなく、日本社会に突き付けらた命題なのである。

  • Thumbnail

    記事

    寂しすぎる平昌五輪の経済効果、文政権は「宴の後」に苦しむ

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) 連日熱戦の続いた平昌冬季五輪も終わった。日本選手の活躍は目覚ましく、過去最高のメダル数を獲得した。それだけではなく、個々の選手のパフォーマンスやチームプレー、また各国選手との交流など、多くの日本国民は感動に包まれたことだろう。宴が終わると「オリンピックロス」の感情がいやでも芽生えてくるが、他方で経済的なロスも気になるところだ。燃え上がる平昌冬季五輪の聖火=2018年2月(共同) オリンピックやサッカーのワールドカップはその開催地域だけではなく、一国全体にも大きな経済効果を与える。開催が決定されれば、会場や道路などインフラ投資が活発化し、また五輪関連投資などで海外からの旅行客も次第に増加していくと考えられるからだ。この事象だけ捉えれば、開催国の経済浮揚に貢献することが多い。だが、五輪が終わればブームも一段落し、経済が減速しないかが話題の焦点になる。 では、平昌五輪の経済効果はどのくらいだろうか。韓国経済全体に与える影響をみると、過去の五輪開催国の「平均像」に比べてかなりパフォーマンスが悪いことがはっきりしている。この点について、日本銀行が公表した「2020年の東京オリンピックの経済効果」という展望論文が参考になる。過去の五輪開催国では、開催前の5~2年にかけて実質国内総生産(GDP)成長率が有意に上昇し、また開催年までに実質GDPの水準も累積で10%ほど上昇するという実証研究が紹介されている。 開催5~2年前というのは、2013年から16年の4年間である。この間の韓国実質成長率の平均は約2・9%である。リーマン・ショックの影響を受けた09年、そしてその反動増ともいえる10年を除いて、21世紀の韓国の実質成長率の平均は4・2%程度なので、この数値と比較するとそれほど高くはない。 また細かくみると、2014年に3・3%をピークにして低下している。このときから失業率も悪化傾向にあり、特に若年失業率は2桁前後に留まったままである。朴槿恵(パク・クネ)前大統領が失脚した背景には、この雇用不安や不満があったと思われる。ちなみに実質GDPの累積増は、従来の五輪開催国の中ではかなり高い。もちろん、この累積増も五輪開催以前の実質成長率の平均値が高いので、五輪の経済効果が目覚ましいとするには寂しすぎるのである。平昌五輪の経済効果が「寂しい」理由 五輪経済効果の「寂しさ」の原因の一つは、韓国の輸出が2014、15年と大きく減少したことにあるだろう。韓国は経済規模の半分ほどの輸出額がある、いわば「輸出依存国家」だ。だが、肝心の輸出が15年に前年比7・9%減、16年も同5・9%減と落ち込んだ。2017年に入ると輸出は堅調で、また実質成長率も3・1%に回復している。だが、回復を主導したのは投資であった。五輪効果が直近でようやく出てきたというよりも、韓国銀行の金利引き下げなどの緩和政策が効果を発揮している可能性がある。実際に輸出の堅調は、ここ数年では最もウォン安が進んだことに原因がある。ただし、雇用情勢の方は相変わらずで、17年も失業率・若年失業率ともに悪化したままである。 韓国にとって平昌五輪の経済効果、それ自体は「寂しい」。さらに五輪開催の最大のメリットともいえる、海外からの観光客数も17年から減少傾向にある。今年の数値はまだ分からないが、17年は約2割の大幅減だった。その主因は「THAADショック」による中国からの観光客の減少である。 韓国政府は米軍の最新鋭迎撃システム、高高度防衛ミサイル(THAAD)を北朝鮮の脅威への備えとして配備することを決定した。中国がその報復として、団体旅行客の訪韓を禁止したからだ。その後、昨年末の文在寅(ムン・ジェイン)大統領の北京訪問、そして習近平国家主席(総書記)との首脳会談によって「雪解けムード」が生まれた。韓国も平昌五輪開催に併せた中国観光客のビザなし来韓を可能にした。だが、いくつかの報道をみる限り、中国人観光客が大幅に増加しているという感じではなさそうだ。2017年3月、韓国・ソウルの繁華街、明洞。中国語表示の看板が目立つものの、中国人団体観光客は姿を消していた(桜井紀雄撮影) このように平昌五輪における韓国経済への「事前効果」は目立つものではない。では、「宴の後」はどうだろうか。もともと五輪の経済効果に目ぼしいものがないのだ。しかも、17年の実質経済成長率が3%台に上昇したのは、むしろ金融緩和政策が限定的に効果を発揮したからだろう。 ところで、いま「限定的」としたのは理由がある。韓国の金融緩和政策は経済全体を好転させるには、かなり不足した状況にあるからだ。特に雇用状況の改善には一段どころか二段ぐらいの緩和措置が必要だ。だが、韓国銀行は昨年末に11年以来の金利引き上げを行った。事実上の緩和政策の転換であろう。現状の韓国のインフレ目標である2%を達成していて、その意味では金融政策は「合格点」とみなす向きもある。だが、このインフレ目標水準は、韓国の雇用改善には低すぎるのである。韓国経済の命運を握っているのは?2017年4月、韓国・釜山で開かれた就職説明会に参加した若者ら(聯合=共同) 韓国では2桁前後の高い若年失業率を構造的問題に求めるのが「通説」だ。一般的には、大卒の若者たちが大企業に就職希望を集中させる「雇用のミスマッチ」や、定年の延長効果によって新規採用が手控えられたことが指摘されている。だが、ここ数年の若年失業者の9~10%台への上昇は、経済成長の減速、そしてそれに伴う物価水準のデフレ傾向と歩みを同じくしていた。例えば、インフレ目標の中央値が3%であり、なおかつそれを上回るインフレ率であった当時の若年失業率は、高いとはいっても平均して7~8%台だったのだ。つまり、今でもインフレ目標を3%に高めれば、若年失業率を押し下げる余地がある。その意味で一段の緩和が韓国経済にとって効果的だろう。 ただ、筆者は、さらに「一段」緩和が不可欠だと考える。文政権は公的雇用の増加や最低賃金引き上げに伴う企業への補助の大規模な財源が必要とされている。この財源調達においても、積極的な金融緩和政策が力になるはずだ。それが難しいのは、韓国政府が金融緩和政策をより進めると、自国の抱える対外債務がウォン安で膨らむことを懸念しているからだ、というのが「通説」である。だが、この種の懸念は賢明ではない。実際にインフレ目標が3%だったとき、韓国では対外経済危機が生じただろうか。むしろ韓国経済は輸出に大きく牽引(けんいん)されて好調だったのである。 一方、貿易構造が似ていた日本の輸出企業は韓国のライバル企業に苦戦していた。なぜなら、当時の日本は事実上デフレ政策を採り、円高スタンスだったからだ。だから、今の韓国銀行が低いインフレ目標を採用し、金利引き上げスタンスを維持するならば、日本の競争企業にとっては幸運だろう。言い換えれば、韓国の輸出企業にとっては苦難を意味するのである。 要するに、韓国にとって平昌五輪の経済効果はほとんど大したことはない。むしろ金融政策のあり方が、今までも、そしてこれからも韓国経済の命運の多くを握っていることになる。 文政権は五輪期間中、「ほほ笑み外交」をはじめ、北朝鮮寄りの人気取り政策へあからさまに傾斜した。その政治的な成果は国際的には否定的だろう。それどころか、70%を超えていた大統領支持率が一時50%台に急落した世論調査でも明らかなように、韓国国内でも同様である。文政権の行方は、むしろ不十分な金融政策と、北朝鮮への過度な「融和」的姿勢の行方にかかっている。

  • Thumbnail

    記事

    東京五輪、消滅危機に思うボクシングと日本人

    小林信也(作家、スポーツライター) 国際オリンピック委員会(IOC)のトーマス・バッハ会長が、2020年東京五輪の競技から「ボクシングを除外する可能性がある」と語った。共同通信は次のように伝えている。 国際オリンピック委員会(IOC)のバッハ会長は4日、韓国の平昌で開かれた2日間の理事会終了後に記者会見し、統括団体のガバナンス(組織統治)や審判の判定で問題が指摘されているボクシングを2020年東京五輪の実施競技から除外する可能性を明らかにした。国際ボクシング協会(AIBA)は1月下旬にラヒモフ副会長(ウズベキスタン)を新会長代行に選出したが、同氏は米財務省から「ウズベキスタンの代表的な犯罪者の一人で、ヘロイン売買に関わる重要人物」と指摘されている。AIBAでは、規約違反を指摘された呉経国会長(台湾)が昨年11月に辞任したほか、リオデジャネイロ五輪では相次ぐ不可解な判定で八百長や買収の疑惑が出るなど混乱が続く。IOCは独自調査の着手や、昨年12月に凍結した分配金を含む全ての支払い停止を決め、AIBAに報告書を求めた。(共同通信) ボクシングは紀元前4000年ころには既に行われ、古代オリンピックの正式種目だったともいわれる伝統的競技である。バッハ会長の発言は、競技者や関係者だけでなく、ファンの間にも動揺を与えたことだろう。 今回は主に統轄団体であるAIBAのガバナンスや管理体制に対する警告だが、以前からボクシングという「競技そのもの」に対する反対や禁止を求める意見も根強い。五輪からの除外が「競技の社会的立場」を悪くする。言い換えれば、「ボクシング禁止」の議論が今後、国内でも加速するのではないかという心配もある。ロンドン五輪でファルカン(ブラジル)を破り、金メダルを獲得した村田諒太。東京五輪以来、48年ぶりとなる日本人金メダリストとなった=2012年、ロンドン そもそもボクシングは「殴り合う」という、人間同士の最も原始的な衝突を起源としている。「戦わずして勝つ」の境地を求める武術と違って、相手を倒す、古くは相手を殺すまで戦い、それを貴族や観客が熱狂して見たという歴史に根ざしている。差別、体罰、パワーハラスメントなど、暴力的な人間関係を徹底して排除する現在の世界的な流れからすれば、「よほどの正当性がなければ存続は難しい」とみるのが妥当かもしれない。日常生活では法律で禁止されている暴力が、ルール上の制約の範囲内とはいえ、リングでは正式に認められている。言うなれば「治外法権的な競技」なのである。競技者の安全を確保するためにグローブという道具を使い、重大な障害につながらないよう、医療体制、管理体制を強化している。だが、ノックアウトという「目的」自体が、どう表現しても「危険」そのものであることに変わりない。 「危険だからこそ意味がある」。元来、それが持って生まれた人間の性質であり、社会の現実という主張も一方ではある。ボクシングには、人間の闘争本能、理屈抜きに魂を触発する要素が秘められている。これは善悪、道徳論を超えた人間の真理とも言える。だからこそ、数あるスポーツの中でも文学や映画の素材に選ばれ、描かれ、世界中の読者や観客に興奮と感動を与える作品が歴史的に多く残されているのだろう。 米ハリウッド俳優、シルベスタ・スタローン主演の映画『ロッキー』は、日本でも大ヒットした。そのテーマ曲は、他のスポーツ選手が練習中や試合前など、モチベーションを高めるために聴く音楽としても広く知られている。 実際のボクサーの生きざまにもファンは揺さぶられ、深く心に刻まれる事例は多い。カシアス・クレイ(後のモハメッド・アリ)は、1960年ローマ五輪ライトヘビー級で金メダルを獲った後、プロに転向、1964年にソニー・リストンを倒して世界ヘビー級王者になった。「蝶のように舞い、蜂のように刺す」と表現された華麗なスタイルは、ボクシングが単なる殴り合いではなく、「芸術性」を秘めていることを体現した。マルコム・Xとの出会いからイスラム教に改宗し、徴兵拒否によってアメリカ政府と争うなど、彼の人生そのものが文字通り「闘争」だった。白井義男と具志堅用高がもたらしたもの 1952年、王者ダド・マリノ(アメリカ)を破り、日本人で初めて世界チャンピオンになった白井義男は、日本中を興奮させた。まだ戦後の敗戦を引きずり、敗北感と劣等感が支配した日本社会に、大きな希望を与える出来事だったとも歴史は伝える。 1976年に世界王者となり、13回の防衛に成功した具志堅用高は、本土復帰したばかりの「沖縄の星」でもあった。ボクシングはこのように、選手同士の対戦という枠にとどまらず、社会の闘争を反映する側面も果たしてきた。ボクシングWBA世界Jフライ級王者の具志堅用高(左)がメキシコのフローレスにKO負け。故郷の沖縄では初めての防衛戦だったが、ダウン後も相手のパンチを受け続け、タオルが投げ込まれた=1981年、沖縄県 混乱のないよう書き添えるが、今回「除外」が取り沙汰されているのは「アマチュアボクシング」である。私たちが一般に目にするのは、大半がプロボクシングであり、仮に五輪のボクシング除外が決定しても、すぐに日本のボクシングシーンに大きな影響を与えるわけではない。ボクシングの場合、アマチュアの世界が必ずしもプロへの登竜門になっているとは言えないからだ。アマチュア経験なしにプロの門をたたく選手の方が圧倒的に多いのである。その点は、野球などとはまったく違う。野球はほぼ100パーセント、アマチュアが人材育成と供給の場である。アマチュア野球の衰退は、直接プロ野球にも影響する。そして、ファンもまた高校野球などのアマチュアの試合を観戦し、ファンになるケースも多い。 むろん、ボクシングでもアマチュア出身のスター選手は数多くいる。あの具志堅用高も「アマチュアでは62勝3敗」の実績を持ってプロに転向した。昨年10月、世界チャンピオンになった村田諒太もロンドン五輪で金メダルを獲得し一躍注目を集めた。また、つい先日、故郷・沖縄で1ラウンドKO勝ちし、15連続KOという日本記録を打ち立てた比嘉大吾も、高校ではボクシング部に入り、具志堅用高の目に留まってプロ入りした。こうしてみると、アマチュアボクシングの存在は、決して小さなものとは言えないのである。 五輪競技からの除外で、プロも含め、ボクシングへの風当たりが厳しくなることは否定できない。プロ組織は複数あるが、日本でも村田の世界戦の判定が物議を醸した通り、組織やジャッジの透明性と公平性がアマチュア同様、強く求められている。 IOCのバッハ会長が公式に表明した以上、AIBAはIOPCの求める基準を満たす健全な組織に生まれ変わる必要がある。ボクシングの教育的意義、社会に貢献できる役割を世間にはっきり示す必要があるだろう。 オリンピックに存続する道を探るとすれば、暴力性を排除し、競技としての方向性を強く確立することしかない。だが、安全性を求めれば求めるほど、観客を熱狂させる刹那的な要素や、危険と隣合わせだからこそにじみ出る選手たちの内面の激しさは削がれる可能性がある。アマチュアボクシング界はそれを是として受け止め、暴力性ではなく、人材育成を主眼に位置づけて「改革」できるか、それがボクシングの今後を左右するカギになるだろう。言うまでもなく日常生活で暴力は許されない。だが、勝ち負けを超えたボクシングの「美学」を体現する表現者がもし現れれば、この危機を救うかもしれない。現実的な話をすれば、現役の村田諒太や比嘉大吾らがリングで何を表現し、どんな深さで観衆と感銘を共有できるか。それがボクシングの明るい未来につながることだけは間違いない。

  • Thumbnail

    記事

    『10万個の子宮』に思う「デフレ不況論争」20年の苦闘

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) 医師でジャーナリストである村中璃子氏の新刊『10万個の子宮』(平凡社)は、若い産婦人科医が口にした衝撃的な問いから始まる。村中璃子氏の著書『10万個の子宮』(平凡社) 「僕たち日本人の医者だけ、あとどのくらい子宮を掘り続ければいいんですか?」 「子宮を掘る」とは、子宮を摘出することを意味する。日本では毎年、子宮頸(けい)がんで3千人余りが命を落とし、そして1万の子宮が摘出されている。この子宮頸がんを予防するワクチンが存在し、日本でも2013年4月に定期接種化が行われた。日本政府は積極的な接種勧奨政策を採用していた。関係機関や医学界の協調、また地方自治体の接種費用補助制度の貢献などによって、定期接種化以前でも日本では約70%の接種率を実現していた。この定期接種化によってさらに接種率の向上と国民のワクチン利用への理解を促すことが期待されていた。 だが、定期接種化からわずか2カ月後に、政府は「積極的な接種勧奨の一時差し控え」という急激な政策変更を行った。もちろん現在も子宮頸がんワクチンの定期接種は行われている。だが、この急激な政策変更によって接種率は大きく低下してしまい、なんと各自治体の接種率が軒並み1%以下に落ち込んでしまった。筆者によれば、まさに「事実上の接種停止状態」だという。 この政府の急激な政策変更の背景は、接種後にけいれん、歩行不可能、慢性的な痛みや神経の異常を訴える人たちが続出したことに加え、そしてテレビや新聞などのメディアが大きくこの事態を報じたことにある。村中氏の『10万個の子宮』は、この子宮頸がんワクチンをめぐる「事実上の接種停止状態」を問題視し、ワクチン接種の積極的勧奨の再開や、接種率の向上といった事態の打開を目指す苦闘の記録になっている。 未成年の少女たちが訴えるけいれんや歩行困難などの症状が、実は心因的である可能性が高いことが本書で指摘されている。例えば、ワクチン接種後に決まった時間にけいれんを起こす少女が、時間がわからない病室ではまったく発作が起こらなかったエピソードが紹介されている。ただ、少女らの保護者たちは病院の説明に反発を強めたという。「接種率向上」が限界な理由 村中氏は科学界で権威ある雑誌『ネイチャー』などが主催するジョン・マドックス賞を、この子宮頸がんワクチンに関する啓蒙的なジャーナリズム活動によって受賞した。受賞理由は、敵意や困難に負けずに、公益に資する科学的理解をジャーナリズム活動として行ったことに対するものだった。本書を読めば詳細に書かれているが、被害を訴える個人や団体、そしてワクチンの「害」を訴える医者や識者たちを相手に、村中氏がいかにエビデンス(証拠)と科学的見解で闘ってきたかがよくわかる。2017年11月、ジョン・マドックス賞の授賞式でマドックス氏の娘(右から2人目)らに祝福される医師でジャーナリストの村中璃子氏=ロンドン(本人提供) また、読者に専門的な知識がなくても、村中氏の冷静でその都度、根拠となる論理とデータをわかりやすく明示しているので、読む負担が少ない。世界保健機関(WHO)に代表される国際機関、日本の医学界は、子宮頸がんワクチンの安全性と効果について肯定する声明を出している。だが、本書を読むと、これらの「外圧」「内圧」いずれも、子宮頸がんワクチンの接種率を向上させるには限界があることがわかる。 その「限界」を生み出している一つの要因は、子宮頸がんワクチンに関する集団訴訟の存在だ。もちろん訴訟を起こす権利は誰にでもある。ただ、この集団訴訟が仮に最高裁まで審理されれば、10年ほどの時間がかかる。問題と感じるのは、政治や官僚たちはその間、子宮頸がんワクチンの積極的勧奨の再開を避けるだろう、という点だ。そもそも日本の政治家は官僚的だし、官僚も自ら「責任」をとって行動をすることはほぼない。政府の10年の不作為によって、1年で1万個、10年で10万個の子宮が失われ、そしてまた多くの人命が失われる可能性がある。これが題名の『10万個の子宮』の由来するところだ。つまり政府の不作為=過剰なリスク回避が、国民の生命を危機に陥れるかもしれないのだ。 本書には、新宗教やカルト、弁護士、メディアなど、この現象に群がる人たちが指摘されている。そして医薬品メーカーを批判的にとらえた言説も流布している。どんなエビデンスを明示した議論も受け付けようとしない現状もある。ここまで読んでいくと、私には自分がかかわってきたこの二十数年の日本の「デフレ不況論争」をどうしても思い出させるのだ。 例えば、「デフレから脱却するにはインフレ目標が重要である」と主張すると、「そんなものを導入すれば副作用でハイパーインフレが起きる」というトンデモ理論が当時流行していた。また、今のデフレは貨幣的な現象ではなく、「中国やインドなど新興国からの輸入品の価格が低下しているから起きている」というエビデンスの乏しい議論も流行った。壁を破るにはどうしたらいいか また、インフレ目標には政策を行う側の「責任」が生じるためか、日本銀行も政治家もあえて採用するよりも、できるだけ避けた。むしろ、インフレ目標政策など危険だと、回避を「後押し」するような姿勢をみせていたのである。このような態度は、村中氏が指摘する現在の厚生労働省の「存在しない薬害に実体を与え続ける姿勢」と極めて類似している。 仮に、この対比が正しいのであるならば、問題が深刻なように思える。われわれが主張する経済政策も海外の中央銀行が軒並み採用しても、時の日本銀行首脳はインフレ目標の採用を最後まで拒否した。最終的には、安倍晋三政権になってインフレ目標が採用されて現在の経済「回復」が実現されている。しかし安倍首相と数人ほどしかこのインフレ目標政策を支持する政治家が未だにいないのだ。2010年5月、子宮頸がんワクチンの集団接種を受ける小6女児=栃木県内の小学校(代表撮影) 政治家と厚労省の子宮頸がんワクチンについての不作為=「リスク回避」の壁も予想以上に高い可能性がある。ただし、メディアの意見は潮目をみて変化することがあるし、すべてのメディアが「敵」でもないだろう。ただし「官僚的なるもの」は体質を全く異にしており、政策責任を極力避ける仕組みなのだ。この壁を破るにはどうしたらいいだろうか。 われわれはそのために政治家たちに積極的に接近した。それは長くとても長く、多くは無意味に思える行動の積み重ねだった。政策に反対する人たちは同意できないだろうが、安倍首相がインフレ目標政策を中核とするデフレ脱却政策を採用したことは実に運がよかった。だがその背景には、根気強い政治への運動があったのである。 子宮頸がんワクチンの積極勧奨や接種率の向上も、やはり政治が動かないとどうしようもない。もちろんマスコミが積極的な勧奨キャンペーンに転じれば、状況はかなり変わるかもしれない。ただし、日本のマスコミも「リスク回避」=間違いを正さない風土が強い。こうした事象にマスコミが結果的に加担したのであれば、それを大胆に転換することは、日本のマスコミの官僚的風土では極めて困難である。 もっとも、これはかなり悲観的な見方かもしれない。村中氏の『10万個の子宮』を多くの人が読み、本書がたくさんの読者を獲得することで国民の声が高くなれば、政治も官僚もメディアも動かざるをえないかもしれない。その意味でも、ぜひ多くの人に読んでほしい書籍である。

  • Thumbnail

    記事

    「前代未聞の大将」明智光秀の謎多きルーツをたどる

    渡邊大門(歴史学者) 明智光秀が経歴という点において、信長のほかの家臣と大きく異なっている点は、どことなく漂うインテリの香りである。光秀は美濃国の出身として知られ、名門・土岐氏(美濃国などの守護)の支族・土岐明智氏を出自とするといわれている。のちに光秀のライバルとなり天下を獲った豊臣秀吉は、一般的に農民の倅(せがれ)であったといわれており、その差は歴然としている。 そして、光秀は豊かな教養を持っていたといわれている。彼が本能寺の変の直前に詠んだ発句「時は今 雨が下しる(あるいは『下なる』)五月哉」は、通常「土岐氏の子孫である自分が天下を獲る五月である」と訳されているが、さらに深い読み込みがなされ、多くの解釈が生み出されている。この技巧が優れているがゆえに、その教養が高く評価されているといえよう。同時に光秀の教養が深いゆえに、武人としての線の細さや弱々しさもイメージとして残っている。 では、本当に光秀は美濃・土岐氏の一族である土岐明智氏の出身なのだろうか。以下、具体的に検証を試みることにしよう。 光秀の経歴については、その前半生には実に不明な点が多い。その先祖についても不明な点が多い。光秀が史上に登場するのは、永禄12(1569)年1月のことであり(『信長公記』)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛した翌年にあたる。それ以前については、後世の編纂物(二次史料)などによって、ようやく動向をうかがうことができる程度である。光秀の前半生に関連する一次史料は、圧倒的に不足している。京都・小栗栖で落ち武者狩りにあう明智光秀 =『国史画帖大和桜』(昭和10年刊)より しかも、二次史料に基づいた光秀の前半生については、不確かなものが多い。光秀の事績を記す二次史料は、史料の性質が劣るため、疑問に感じる点が多いのである。明らかな間違いも多々ある。『明智軍記』などは、その代表的な質の劣る史料である。 次に、光秀の事績に関する通説を確認しておこう。 明智氏は、美濃国の名門で守護を務めた土岐氏の支族である。土岐明智氏という。土岐氏は清和源氏の末裔(まつえい)であり、美濃国に本拠を置く名族である。南北朝期以降の土岐氏は、室町幕府から美濃国などに守護職を与えられた名族である。 土岐明智氏の出身地については、二つの説が有力視されている。一つは岐阜県恵那市明智町であり、もう一つは岐阜県可児市広見・瀬田である。前者には明知城址があり、光秀にまつわる史跡があることから、現在も「光秀祭り」が催されている。 後者にはかつて明智荘という荘園があり、今は明智城址が残っている。互いに「明智」の名を冠していることから、土岐明智氏の出身地と考えられており、非常にややこしいことになっている。室町幕府に仕えた土岐明智氏 戦国時代研究の第一人者の小和田哲男氏によると、恵那市明智町は遠山明智氏ゆかりの地であって、光秀の出身である土岐明智氏に結びつけるのは難しいと指摘している(『明智光秀―つくられた「謀反人」―』PHP新書)。むしろ、可児市広見・瀬田のほうが、可能性が高いというのが結論である。遠山明智氏は藤原北家利仁流の流れを汲み、現在の恵那市明智町に本拠を築いた。 土岐明智氏が室町幕府に仕えていたことは、事実である。奉公衆(室町幕府の直臣)の名簿である『文安年中御番帳(ぶんあんねんちゅうごばんちょう)』には外様衆として「土岐明智中務少輔」の名を、『東山殿時代大名外様附(ひがしやまじだいだいみょうとざまふ)』にも同じく外様衆として「同(土岐)中務少輔」の名を、三番衆として「土岐明智兵庫助」の名を確認することができる。『常徳院御動座当時在陣衆着到(じょうとくいんごどうざとうじざいじんしゅうちゃくとう)』にも「土岐明智兵庫助」と書かれている。 外様衆の役割については不明な点が多いものの、有力守護の支族が名を連ねている点を考慮すれば、相当な格式と地位があったといえる。何といっても、外様衆は将軍の直臣でもある。土岐明智氏もまた土岐氏の支族であるがゆえに、外様衆に加えられたのであろう。そして、土岐明智氏の名は、おおむね14世紀半ばから15世紀の終わりにかけて、多くの一次史料で確認することができる。その本拠地は、やはり美濃国だった。 次に、光秀の年齢について触れておこう。従来、光秀の年齢は『明智軍記』や明智氏の系図類に基づき、多少のばらつきがあるものの、天正10(1582)年に55~57歳の間に亡くなったと考えられてきた。つまり、光秀の誕生年は、大永6(1526)年から同8(1528)年の間になる。 信長研究の第一人者である谷口克広氏は『当代記』(織豊政権期から江戸幕府の成立期にかけての歴史を記した編纂物)という史料に基づき、67歳で亡くなったと指摘した(『検証 本能寺の変』)。つまり、永正13(1516)年の誕生となり、従来よりも年長になっている。史料の質からいえば、『明智軍記』などよりも断然『当代記』のほうが高く、後者の可能性が極めて高い。明智光秀像(本徳寺所蔵) 光秀の父については、諸説あって定まらないところである。現在、知られている系図類では、光綱とするもの、光隆とするもの、光国とするものに分かれており一致しない。整理すると、次のようになろう。 ①光綱――「明智系図」(『系図纂要』所収)、「明智氏一族宮城家相伝系図書」(『大日本史料』11―1所収)。②光隆――「明智系図」(『続群書類従』所収)、「明智系図」(『鈴木叢書』所収)。③光国――「土岐系図」(『続群書類従』所収)。 残念なことに、光秀の父について語る史料は皆無といわざるを得ない。光秀のように史上に突如としてあらわれた人物の場合、意外と父祖の名前さえ判然としないケースが多い。系図によってこれだけ名前が違い、史料的な裏付けが取れないのであるから、これらの系図の記載を詮索してもほとんど意味がない。光秀の父については、不詳といわざるを得ないのが現状だ。 では、光秀の来歴を物語る史料はないのか。信長に与えられた「惟任」姓 光秀を語るうえで重要な史料として、『立入左京亮入道隆佐記(たてりさきょうのすけにゅうどうりゅうさき)』がある。この史料は、禁裏御倉職(きんりみくらしき)の立入宗継が見聞した出来事などの覚書を集成したもので、七世の孫・中務大丞経徳が書写したものである。ただ、後世に成った史料なので、内容にいささか注意する必要がある。 同史料には、天正7(1579)年に光秀が丹波を平定した際、信長から丹波一国を与えられたことを記し、光秀について「美濃国住人とき(土岐)の随分衆也」と記録している。そして、信長によって「惟任」姓を与えられ、惟任日向守を名乗るようになったと記す。光秀の栄達ぶりを示すものである。 随分衆とは、土岐氏の中にあって、相当な地位にあったことを示している。随分には、身分が高いという意味が含まれている。残念ながら、隆佐が光秀の経歴をどこまで知っていたかは不明である。「美濃国住人とき(土岐)」というのも、確証を得ないのではないか。ところで、『立入左京亮入道隆佐記』のこの記述には、前段に次の興味深い一節がある(現代語訳)。 惟任日向守(明智光秀)が信長の御朱印によって丹波一国を与えられた。時に理運によって申し付けられた。前代未聞の大将である。 理運にはさまざまな意味があるが、この場合は「良い巡り合わせ、幸運」くらいの意味と考えてよい。理運によって、光秀は丹波一国を与えられたので、前代未聞の大将だったのである。立入宗継にとっては、光秀が名門土岐氏の相当な地位にあったと想像していたとはいえ、丹波一国を授けられたことは驚倒すべき印象を持ったと推測される。となると、隆佐は光秀を「随分衆」とは言っても、実際には光秀の経歴を詳しく知らず、風聞に拠って知った可能性が高い。天正10年1月11日付斎藤利三の書状。明智光秀を示す「惟任」の字が見える(松永渉平撮影) 光秀の父以前や自身の前半生がほとんど不明であること、また周囲の評価において「理運」「前代未聞」とあるところを見ると、光秀は土岐氏支族の土岐明智氏を本当に継いだのか再検討する必要がある。裏付けが非常に乏しいのである。 つまり、幕府外様衆の系譜を引く土岐明智氏ではなく、まったくの傍系の明智氏である可能性や、土岐氏配下の某氏が明智氏の名跡を継いだ可能性も否定できない。光秀が本当に土岐明智氏の系譜を引いているのかについては、未だ疑問が多い。それゆえに、父の名前さえ系図によって、異なっているのであろう。 たとえば、幕府の奉公衆などの名簿の『永禄六年諸役人附』には足軽衆として、「明智」の姓が記されている。従来説では、この明智が光秀であると考えられてきた。ただ、肝心の名前が記されていないので、この「明智」が光秀である確証はない。足軽衆とは単なる兵卒ではなく、将軍を警護する実働部隊と考えてよいであろう。 『永禄六年諸役人附』に記載された足軽衆は、名字のみしか記されていない者も多く、メンバーはおおむね無名の存在ばかりである。奉公衆クラスを出自とする者は存在しない。そうなると、逆に土岐氏の支族で「名門」の土岐明智氏が、なぜ足軽という地位に止まったのか不思議である。かつて土岐明智氏は、外様衆という高い身分にあったからである。 つまり、これまでの光秀は、外様衆・明智氏を出自とすると考えられてきたが、誠に程遠い存在といえよう。『永禄六年諸役人附』の明智が光秀と同一人物であるか否かは不明であるが、いずれにしても当時の明智氏(あるいは光秀)は、まったくの無名の存在であったと考えるのが妥当ではないか。『永禄六年諸役人附』の記述をもって、光秀を名門の土岐明智氏に繋げるには、あまりに材料不足である。「よそ者」だった光秀 信長に仕えて以後の光秀は、無名のところからはい上がり必死であった。信長は能力主義者であり、名門の出自であることなどほとんど考慮しなかったであろう。ゆえに、信長の重臣の多くは、ほとんど無名の立場から這い上がった者が大半であった。したがって、光秀が名門土岐氏の支族である土岐明智氏の出自であることについては、頭から信用するのは危険であると考えなくてはならないと指摘できよう。 もう少し、光秀の出自について考えてみよう。 光秀の前半生を語るうえで、重要視すべきなのは二つの史料である。その二つとは、光秀が家中に発した「家中軍法」が一つであり、もう一つはフロイスによる光秀の評価である。この二つの史料について、これから考えてみよう。 天正9(1581)年6月、光秀は家中に「家中軍法」を発した(「御霊神社文書」)。その内容は18カ条から成り、戦場や行軍中に守るべきことや、与えられた石高に対して負担する軍備などが列挙されている。これ自体が珍しいものであるが、注目すべきは結びの言葉である。次に、示すことにしよう。 すでに瓦礫のごとく沈んでいた私を(信長が)召し出され、さらに多くの軍勢を預けてくださった。 この言葉は、実に重みのある内容を含んでいる。少なくとも光秀が苦しい前半生を送っていたことは間違いなかったと考えられるが、何らかの契機に信長に仕官することによって、この段階で大きく出世を遂げたのである。 注意しなくてはならないのは、豊臣秀吉が農民の倅(せがれ)を出自としながらも、信長の配下で大出世を遂げたことである。前半生が不明であることも含めて、信長に登用されたことが二人の共通点である。この史料の一節は、光秀の前半生が不遇であったことを伝えるものである。裏返して言えば、名門・土岐明智氏の出身でない可能性をうかがわせる。明智城址=岐阜県可児市 もう一つの史料がフロイスの手になる『日本史』である。同書には、光秀の立場について「殿内にあって彼はよそ者であり、外来の身であったので、ほとんど全ての者から快く思われていなかった」と記している。この史料もまた、光秀が信長に仕えるまで、さほど活躍していなかったことをうかがわせるものがある。さらに「よそ者」という言葉は、光秀の外様としての立場を如実にあらわしている。 これまでの光秀は、美濃国土岐氏の支族・明智氏の系譜を引く名門と考えられてきた。ところが、その可能性は低いのではないだろうか。そもそも父祖の記録がないことが気にかかる。光秀が土岐明智氏の名を勝手に名乗っているか、名跡を継いだという可能性も残されている。 『立入左京亮入道隆佐記』では、その辺りの事情を十分に把握していないので、本人の言葉を信じて記録したことも考えられよう。いずれにしても、確証を得ることができず、光秀の前半生は名門・土岐明智氏を出自とする点が疑問であり、あまりに謎が多すぎる。 つまり、光秀が美濃国土岐氏の支族・明智氏の系譜を引く名門という説は、再検討の余地が十二分にあり、現段階では何の証拠もないのだ。※主要参考文献 谷口研語『明智光秀 浪人出身の外様大名の実像』(洋泉社歴史新書、2014年) 渡邊大門『信長政権 本能寺の変にその正体を見る』(河出ブックス、2013年)

  • Thumbnail

    記事

    「金与正ブーム」に少女時代ソヒョンも巻き込んだ文政権の思惑

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) 平昌冬季五輪では各国選手が連日、白熱した競技を展開している。強風や猛烈な寒さの中での大会運営ということもあり、競技によってはテレビ観戦している筆者にもひやひやさせる場面が多い。それでも会場のボランティアや応援する人たち、そして選手たちの五輪に取り組む姿勢は見ていて心地いい。 だが、他方でこの五輪は開催前後から国際政治の最大の注目場所となった。もちろん北朝鮮側のいわゆる「ほほ笑み外交」攻勢のためである。金永南(キム・ヨンナム)最高人民会議常任委員長と、金正恩(キム・ジョンウン)朝鮮労働党委員長の実の妹である金与正(キム・ヨジョン)党中央委員会第1副部長らの高位級代表団が韓国入りしてからの過熱報道は、五輪そのものへの関心を上回るものがあった。韓国の文在寅大統領(手前右端)との会談に臨む北朝鮮の金永南・最高人民会議常任委員長(奥右)、金与正・党第1副部長(奥左)ら=2018年2月10日、韓国大統領府(聯合=共同) 特に注目を浴びたのは、各種報道で「実質ナンバー2」「金委員長に直言できるただ一人の人物」などと評されている与正氏の発言と動向であった。確かに、故金日成(キム・イルソン)主席の直系が韓国を訪問したのは初めてである。さまざまなメディアでは、与正氏が金委員長の「親書」を携えて、韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領に平壌での首脳会談を提案したことが報道されている。 この一連の報道を分析してきて、韓国・日本のメディアが「金与正ブーム」とでもいう空疎な現象に貢献している、と批判的に見ざるを得ない。まず韓国到着後、初めて文大統領と会談したときの与正氏の表情が、顎をしゃくりあげた感じでまさに相手を睥睨(へいげい)するかのような視線、いわば「女王様」的表情だったことが大きく報道された。 「白頭血統」というのだそうだが、故金日成主席に始まる北朝鮮の「金王朝の王女」とでもいうべき印象を、その写真は伝えている。だが、このような「白頭血統」なるものの起源、つまり抗日戦士として北朝鮮の独立に貢献した金主席の話は極めて誇張されたものである。ソ連による傀儡(かいらい)政治家として当初は祭り上げられた人物ではないか、というのが正しい見方だろう。南北協調で仕掛けた「アイドル戦略」 郵便学者の内藤陽介氏による『北朝鮮事典-切手で読み解く朝鮮民主主義人民共和国』や『朝鮮戦争:ポスタルメディアから読み解く現代コリア史の原点』などの著作を読むと、北朝鮮、金一族の政治的な宣伝工作(プロパガンダ)がどのように構築されていったかがわかる。つまり「白頭血統」や「金王朝」なるものはアイドル(偶像)の中でも最も虚偽性の高いものである。そのようなアイドルの欺瞞(ぎまん)的な側面を全開にした「女王様然」とした表情を垂れ流すメディアの印象操作には、やはり北朝鮮のイメージ戦略にくみしたと評されても仕方がないだろう。平昌冬季五輪の開会式で、北朝鮮の金与正氏(中央右)と金永南最高人民会議常任委員長(同左)の近くに座る安倍首相(右端)とペンス米副大統領=2018年2月9日(聯合=共同) この北朝鮮の政治的プロパガンダとしての「アイドル」の利用は、金委員長の父親である故金正日(キム・ジョンイル)党総書記からの得意芸であった。金総書記は、映画や音楽など文化部門への造詣があり、それを政治的手段としても利用していた。 今回は、美女ぞろいといわれる三池淵(サムジヨン)管弦楽団を韓国に先行して派遣し、まるで父親譲りの「アイドル攻勢」をしかけてきた。これは今回の「ほほ笑み外交」戦略の露払いとなり、またのちに触れるように金与正氏の訪韓イベントのクロージングにも役立っている。 もちろんこのような北朝鮮の「アイドル戦略」は、なにも北朝鮮単独で行われたものではない。韓国政府の強い協力がなければ不可能である。しばしば報道では、文政権が米国と北朝鮮の間にはさまれて苦境に陥ったとする評価があるが、本当だろうか。五輪の開催日程はとうの昔に決まっていたわけだし、そもそも金与正氏が来韓する情報はかなり以前から流されていたという。つまり、文政権にとっては別に政治的に苦境でもなんでもなく、まさに北朝鮮と共同演出した「金与正ブーム(仮)」なのだろう。 しかも、金与正氏の在韓最終日には、三池淵管弦楽団のコンサートを文大統領と隣り合わせで観劇するというクロージングまで用意した。さらに北朝鮮の「公式アイドル」といえる牡丹峰(モランボン)楽団の団長である玄松月(ヒョン・ソンウォル)氏が登場し、歌唱を披露したという。安倍発言は問題視されるべきか ここでも、韓国政府は北朝鮮と共同のサプライズを仕掛けている。韓国の人気ガールズグループ、少女時代の「末っ子」で人気の高いソヒョンとのコラボを企画していたのだ。報道では公演当日に依頼があったというが、日本でも人気の高い少女時代の、ソヒョンが単独で出演してきた背景には何があったのだろうか。三池淵管弦楽団の公演の舞台で、楽団の歌手と共に歌うK―POPグループ「少女時代」のソヒョン(右端)=2018年2月11日(聯合=共同) 実は、ソヒョンは昨年末に従来の所属事務所から契約満了時での退所を表明していた。ただし、その後も少女時代そのものには残るらしい。いまのマネジメントが具体的にどうなっているのかわからないが、少女時代全員の出演ではなく、ソヒョン単独だったのは事務所からの退所が関係していると思われる。 また、韓国大統領府がソヒョンに目をつけたもうひとつの理由として、彼女がかつて潘基文(パン・ギムン)前国連事務総長を「尊敬する人物」として挙げ、国連の活動イベントの際に面談したことが報じられている。そのほかにも、母校の大学に巨額の寄付をするなど社会的な活動が目立っていたからかもしれない。いずれにせよ、韓国政府が北朝鮮の「アイドル攻勢」に積極的に関与した証拠でもあるだろう。 さて、平昌五輪は永遠には続かない。米国は北朝鮮に変わらぬ強硬姿勢を示しており、今後は金融制裁など以前から効果的といわれてきた手法を駆使するだろう。韓国政府が北朝鮮の「ほほ笑み外交」という政治的プロパガンダに実質的な協力を行い、多くのメディアも知ってか知らずか加担してしまった。韓国国内でも世論の分断が加速するかもしれない。 訪韓した安倍晋三首相は、文大統領に対して「米韓合同軍事演習を延期すべきではない」と発言した。日本では、文大統領が「内政問題」だとして不快を示したことに、安倍批判が自己目的化した識者たちが、またも安倍発言を問題視している。しかし、米韓合同軍事演習は日本を含めた北朝鮮、そして中国・ロシアへの広域的な安全保障政策の一環であり、その延期に意見を表明することは間違いではない。韓国での分断も注意すべきだが、日本の世論の、あまり合理的な意見に基づくとはいえない分断にも注意が必要だろう。

  • Thumbnail

    記事

    株価暴落「アベノミクス終了宣言」の妄執

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) 2月第1週の株式市場は、米国での株価暴落を受けて、日経平均が一時600円を超す大幅な下げで始まった。このような株式市場の暴落があると決まって「識者」たちの「アベノミクス終了宣言」とでもいうべき発言が出てくる。この種の「識者」たちの発想の前提には、アベノミクスは株価と円安だけしかもたらしていないという「妄念」があるように思える。雇用改善や経済成長の安定化などはまったく考えの中に入っていないようである。 米国の株式市場は、トランプ政権の発足直後からの積極的な財政政策への期待の高まりや、イエレン前連邦準備制度理事会(FRB)議長の雇用を重視した金融政策の正常化路線を背景にして、かなり高いパフォーマンスをみせた。だが、よく検証してみるとトランプ政権の経済政策は実際には「何もしなかった」に等しい。2018年2月5日、米株急落を受けて大幅続落し、終値は前週末比592円45銭安の2万2682円08銭となった日経平均株価(寺河内美奈撮影) 政権発足当初の「目玉」であった大規模なインフラ投資はまったく実施されていない。議会を通過した減税政策だが、これもまだ実施には移されていない。金融政策については、トランプ大統領がこの1年、イエレン議長に対して信頼を置いていたようには必ずしも思えない。だが、FRBは金融政策の「正常化」を目指して、雇用に配慮しながら利上げを継続するスタンスを変えなかった。つまり、FRBと政府との協調において、基本的にオバマ前政権のものを継承しただけである。 さらに、貿易面では環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)からの離脱に典型的なように、これまた「何もしない」戦略を採用した。この1年のトランプ政権の「何もしない」政策スタンスは鮮明である。むしろ何もしなかったがゆえにオバマ前政権の遺産を継承して、経済が好循環したのかもしれない。実際に先週の前半まで、NYダウ工業株30種平均はこの1年で3割ほど上昇していた。経済成長率、雇用、物価上昇率ともに改善を続けていた。 今回のNYダウの9年ぶりとなる大きな下落に、なにか経済的な意味があるかどうかはもう少し情勢を見てみないとなんともいえない。このNYダウの下落は、トランプ政権の「何もしない」政策スタンスにいよいよ国民が失望したのか、それともイエレン氏に代わって新しいFRB議長に就任したパウエル氏の金融政策へのかじ取りに、市場が不透明感を抱いたのだろうか。 トランプ政権の「何もしない」政策スタンスは減税政策で変わるだろう、という見方もある。ただし法人税の引き下げが経済成長を高める効果があるかどうかは、欧米の経済学者たちを中心に激しい論争がある。これは日本のケースだが、1990年代冒頭から今日まで、何度かの法人税の引き下げを行ってきた。だが、法人税の引き下げにかかわらず、その時々の日本経済の状態は悪かったり良かったりさまざまである。つまり法人税の引き下げと経済成長は、消費と投資増加という因果関係で結ばれていないかもしれない。株価暴落はトランプへの失望? 後者については、雇用を重視していたイエレン氏が金融引き締めとなるようなシグナルを発する政策を採用することはなかった。ただし、金融政策の「正常化」、すなわち金融政策の手段として名目金利のコントロールを明示的に回復することを狙った。イエレン氏は最近、テレビ番組に出演した際に、議長に再任されなかったことを率直に残念がっていた。今度のパウエル議長は当面はイエレン氏の手法を継承すると思われるが、イエレン氏ほどの実績を残せるのかどうか不透明感がある。この意味でトランプ政権側にも政策の不透明感、そしてFRBにも不透明感が消えない。これらが市場の懸念を生み出し、暴落に至ったのかもしれない。いずれにせよもうしばらく事態を見ないとなんともいえない。手を振るトランプ米大統領=2018年2月2日(AP=共同) もし仮に、1年経過したトランプ政権の成果への失望、そしてパウエル新議長が金融政策の正常化よりも金融引き締めに移行するのではないか、という懸念が相まって今回の株価暴落に至ったとしたらどうだろうか。日本株の暴落は今回だけの問題ではなくなるかもしれない。 ところで、日本経済は昨年の世界経済の堅調を背景にして、日本銀行の金融緩和政策の継続とともに実体経済を含めて堅調に推移した。ただし、インフレ目標の達成は今年も厳しい状況だろうし、その半面で完全雇用に到達してその後の安定的な賃金上昇などの所得拡大が本格化するまではまだ道半ばだろう。極度に悲観するのは禁物だが、楽観もできない。今回のような海外からのショックが長引けば経済が再び失速する可能性はある。だが、日銀の金融緩和の姿勢が変わらなければ、中長期的にはこれまた極度の悲観は禁物だろう。 現在、国会で与野党の論戦が展開されている。興味深い論点もあるが、少なくともマクロ経済政策については、与野党の論戦は不毛な状況が続いている。ひとつには民主党政権の後継政党たち(立憲民主党、希望の党、民進党など)といった「民進党なるもの」の経済政策が、単なるアベノミクスの全否定に傾斜しており、それが事実上のマクロ経済政策の無策に直結しているからだ。 立憲民主党の経済政策は、個別の再分配政策のメニューが並ぶだけである。消費税をいますぐに上げることはできないといいつつ、同党をはじめ「民進党なるもの」が国会で消費税凍結を最大の論争点にしている動きはない。むしろ相変わらずの森友学園・加計学園問題を主眼にした国会戦略を立てているようである。同問題についてはすでに多くを書いてきたのでいまここで再論はしないが、端的にいって不毛な時間潰しである。立憲民主党は実質賃金の引き上げを主張するが、それを実現する具体的な政策が不明である。「モリカケ」の掛け声だけの国会 例えば、立憲民主党の主張には最低賃金引き上げが関係しそうだが、最低賃金は名目賃金である。ただし、過去の民主党政権のときよりも現在の安倍政権の下での方が最低賃金の引き上げ幅が大きい。どうして最低賃金の引き上げが安倍政権下で継続的に可能で、引き上げ幅も大きかったのだろうか。その理由は、労働需要(雇う側)がほぼ継続して拡大基調にあったからだ。労働供給(労働者側)のコストである最低賃金が引きあがっても労働需要側はそれを十分に吸収できる体力があったということである。そして労働需要を拡大する政策とは、これは安倍政権の下で採用された金融緩和政策に大きく依存している。 だが、立憲民主党などの「民進党なるもの」は、雇用の拡大は人口減少による人手不足だ、という偏見でとらえている。この「人口減少が雇用を拡大させた」や「もし金融政策に効果があるならばとっくに完全雇用が達成している」という意見は、極度の偏見である。おそらくこの種の主張は失業率と人口の動向しかみていないのだろう。安倍政権開始時の失業率は4・3%でそれが現状で2・8%の前後を推移している。この間、15歳以上65歳未満の人口総数である生産年齢人口は「人口減少」を示していて、約8000万人から現状では7600万人程度に減少している。このうち15歳以上で働く意欲と能力をもっている「労働力人口」は6542万人から6750万人超まで拡大している。 労働力人口は、就業者と完全失業者に分かれていて、安倍政権以降ではこの就業者の拡大と完全失業者の減少が続いている。就業者数は2012年12月の政権発足以降ほぼ一貫して上昇していて約6250万から現状では6540万人超にまで拡大している。ちなみに民主党政権時代はほぼ一貫して就業者数が減少している。他方で民主党政権時代は生産年齢人口も労働力人口も減少していた。つまり、民主党政権の時代では失業率が見かけの低下をしているが、それは労働力人口の減少を意味していたのである。これは職を求めている人たちが、厳しい景気のために職探しを断念している状況を意味する。2018年1月、羽織袴姿で年頭会見に臨む立憲民主党の枝野幸男代表(斎藤良雄撮影) 他方で、安倍政権では持続的に労働供給も増加している。これは景気の好転で職探しを再開している人が増加していることにある。このアベノミクスの労働供給の復活効果は大きく、そのため失業率に一層の低下余地があり、また完全雇用に時間がかかる背景にもなっている。もちろん、この労働供給の復活を十分吸収できるほど労働需要が活発であることが裏付けにある。そしてこの労働需要が拡大していることが、前述の最低賃金上昇を無理なく実現していることの背景にあるのである。 筆者はアベノミクスの全否定ではなく、このような効果の著しい金融緩和政策をさらに拡充しながら、消費増税の凍結や先送りよりもその放棄ないし減税など積極的な財政政策を勧めたい。だが、現状では国会では毎日のように「モリカケ」の掛け声などが大きいだけで、野党にはマクロ経済政策をよくしようという意思がまったくみられない。それを支持する「識者」を含めて、本当に懲りない人たちである。

  • Thumbnail

    記事

    決戦前夜、貴乃花親方が笑顔に変わったワケ

    小林信也(作家、スポーツライター) 任期満了に伴う日本相撲協会の理事候補選挙は、貴乃花親方が得票2票で落選した。 理事定数10に対して11人が立候補。1人だけ落選する選挙は101人の年寄(親方)による無記名選挙で行われた。当選した理事は3月、協会の最高決議機関である評議員会の選任決議を経て正式に就任する。今回は貴乃花親方が理事を解任され、もし選挙で当選しても評議員会が「認めない可能性がある」とけん制された中で行われた。そのこともあって、貴乃花一門からは一門の総帥である貴乃花親方だけでなく、阿武松親方も立候補した。阿武松親方は無事当選し、一門の理事枠は一つ確保した形となった。 選挙前に開かれた貴乃花一門の会合で、「今回は立候補を自粛し、2年間待つ方が賢明ではないか」との声も上がったが、貴乃花親方はこれを制して立候補の決意を表明。「みなさんは阿武松親方に投票してほしい。自分は一票で構わない」と発言し、当落にこだわらない姿勢を明かした。その前後から、貴乃花親方の表情はかなり清々(すがすが)しいものに変わり、テレビでも笑顔の貴乃花親方が見られるようになった。十両昇進が決まった貴公俊の会見に同席し、 笑顔を見せる貴乃花親方=2018年1月31日、両国国技館 弟子の貴公俊(たかよしとし)の十両昇進会見に同席したときの笑顔は、慶事ゆえに当然といえば当然だ。しかし、昨年末の貴景勝の小結昇進会見には姿を見せておらず、心境と状況の変化もうかがえる。立候補にあたってブログを更新した貴乃花親方は、「大相撲は誰のものか」というメッセージを発信し、かなりの共感を得たとも報じられている。無言を貫いていた時期には「何を考えているのか分からない」と周囲をやきもきさせる場面もあったが、ようやく本人の思いが語られたのである。 理事当選は「ほぼ絶望的」と見られた中で、あえて立候補した真意は何だったのだろうか。私見だが、二つの理由を挙げたい。一つは、選挙権を持つ101人の親方に対する痛烈な問いかけだ。 2010年の理事候補選で貴乃花親方は大方の予想を覆して当選した。後に「貴の乱」と呼ばれたが、これは一門の縛りを越えて、一部の親方が自らの意志で貴乃花親方に投票した結果だ。無記名投票による選挙なのだから、大方の予想を覆す結果になることは十分有り得る。 ただ、貴乃花親方がブログで「もっと自由に議論できる協会に」と提言したのはこの辺りを意味するのだろう。だが、他の一門の引き締めが一段と強かった今回は、貴乃花親方自身、当選に足る得票は期待していなかったに違いない。それでも、貴乃花親方が立候補したことで、他の親方にとっては「自分たちの権益を守るような動きばかりで良いのか」と自問自答する機会になったはずである。言い換えば、その問いかけこそが、貴乃花親方が立候補した本当の意味であり、目的ではなかっただろうか。リーダーは自ずと決まるもの 貴乃花親方の得票はわずか2票。これは、貴乃花親方が政治的な動きや裏工作をしなかった表れと見ることもできるだろう。「清々しい笑顔の裏には、裏取引が成立した」という勝算があったのではなく、自分の進むべき道が改めて見えた。そのことを晴れやかに示したのである。 貴乃花親方はブログの中で、下記のように綴っている。「改革するのではないのです。古き良きものを残すために、時代に順応させながら残すのです」「相撲は競技であると同時に日本の文化でもあります。つまり我々は文化の守り人であるということも忘れてはなりません」 相撲協会が公益財団法人である以上、理事が選挙で選ばれるのは当然である。一方で、文化を重んじるのであれば、投票や政治的な駆け引きは必ずしも馴染(なじ)まない。その道の継承者、次代のリーダーは自ずと決まって行くのが、歌舞伎であれ、華道や茶道の家元であれ、伝統芸能や文化の流れである。貴乃花親方も、北の湖前理事長とはそういった思いや使命感を共有していたのではないだろうか。 一門内での「談合」も、今は権益を守るための策謀のように語られるが、利権を他に渡したくないためだけの慣習ではなかっただろう。文化芸能の世界は、達人や名人に対する崇敬の念が基本にある。日本相撲協会の北の湖前理事長の銅像の前で記念撮影する(左から)貴乃花理事、八角理事長、(1人おいて)とみ子夫人、 横綱日馬富士関=2017年10月1日、川崎市 はっきり感じるのは、貴乃花親方が自分の利益のために協会の要職に就くつもりはなかったという事実である。相撲を取った経験のない日本人が増えている。力士になりたいと思う少年が、今どれほどいるのだろう。大相撲を取り巻くあまりに厳しい現実と切実への危機感。このままでは入門者がいなくなり、興行だって立ち行かなくなる。もはや大相撲は「絶滅危惧種のような存在」になっていると、貴乃花親方は認識し、他の親方も薄々感じている。だが、そうした危機感も組織を変革するうねりにはならなかった。 北の湖理事長の右腕として、吉本新喜劇の舞台に立ってまで大相撲のPRをし、それが「スー女(相撲女子)」ブームを生み出したと言われる貴乃花親方。次の2年間は、進境著しい4人の関取を持つ親方として土俵を沸かせる仕事もできる。今回の落選で貴乃花親方が失うものは決して大きくない。

  • Thumbnail

    記事

    共同通信「松吉」署名ツイートと山中教授「印象操作」の根深い病理

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) ノーベル医学・生理学賞受賞者で京大iPS細胞研究所の山中伸弥所長に関する報道をめぐり、筆者からすれば明らかな「印象操作」があった。ここでいう「印象操作」とは、記事を読んだものに偏見(バイアス)が生じる可能性が高いものをいう。共同通信社が入る東京・港区の汐留メディアタワー=2009年5月撮影 共同通信が1月25日に配信し、当初は「山中氏、科学誌創刊に深く関与か」と題した記事が問題の「印象操作」である。ネット世界でもこの報道は批判の対象として論じられ、また一部の報道でも「印象操作」とするものがあった。なぜこの記事が「印象操作」かを、以下で簡単に説明したい。 京大iPS細胞研究所に所属する助教が作成し、専門雑誌に掲載された論文に不正が発見された。当初は外部からの通報から始まり、委員会を立ち上げて調査し、その不正を確かめた。研究所の所長である山中氏は記者会見の席上で謝罪したが、それは社会通念上からは妥当だったろう。 現在、大学を含む研究機関では研究者が不正を行わないことを厳しく求める研究者倫理の研修も行われている。ただし、単に研究者倫理だけを声高に求めても、研究者側に動機付けがないと問題の解消にはならない。例えば、期限付きの研究職の採用だと、その期限内で一定の研究成果を厳しく求められているケースが多いだろう。もし、その成果のハードルが研究環境や研究者の能力を超えるものであったならば、今回のような不正行為が生まれる可能性がある。今回の不正がどのような動機付けで行われたかは不明だが、論文不正は研究者倫理だけの問題ではない。 記者会見では、山中所長の責任や辞任の可能性について質問する記者がいて、そのことも報道で広まっていた。その中で今回の共同通信の報道があった。だが、筆者は記事を読んだときに、いったい何が問題なのかさっぱりわからなかった。 「山中氏、科学誌創刊に深く関与か」の「科学誌」とはその不正論文が掲載された専門雑誌のことを指す。記事からの印象では、あたかも山中氏がその雑誌の創刊にかかわったことで「何か問題をはらむ」かのような印象をもたらすものだった。このような印象に誘導された人は筆者だけではない。多くの人たちが同様の印象を持った。 もちろん専門雑誌の創刊にかかわることと、今回の不正論文がその専門雑誌に掲載されたことには、全く関係がない。特に不正にかかわる因果関係もなんらない。だが、記事はそのような注記もなく、なにか問題があるかのように「匂わせた」のである。まさに「印象操作」といっていいだろう。「謝ったら死ぬ病」に感染したマスコミ この「印象操作」はネットを中心にして専門家や識者、そして一般の人たちから猛烈な批判を浴びた。一部報道によれば、共同通信側が「新たな要素を加えて記事を差し替えました。編集上、必要と判断しました」とのことで、ネット配信の記事のURLは同じまま、内容を大幅に書き換えた。この行為はおそらく多くの読者に不信を引き起こしただろう。また共同通信の配信を利用している地方紙では「山中氏、科学誌創刊に深く関与か」と見出しがそのままに大きく取り上げられた。ネット上の批判を知らない人たちにとって「印象操作」は放置されたままである。 だが、共同通信は今回の件で反省もなければ、もちろん山中氏や読者への謝罪もないままだ。経済評論家の上念司氏は今回の問題をうけて次のように指摘している。共同通信の山中教授を巡る印象操作記事で分かったこと。マスコミは「謝ったら死ぬ病」に罹っている。しかも、記事で批判する対象にも「絶対に間違えない」ことを強要し、謝罪、訂正はむしろ叩きまくり。まさに「謝ったら死ぬ病」の感染源だな。お前はアンブレラ社かと。上念司氏の公式ツイッター 実際に、共同通信が「山中氏、科学誌創刊に深く関与か」と題した記事は、上念氏が指摘するように、記者会見で謝罪した山中氏をさらに「叩く」要素があることは誰の目にも明瞭だろう。対して自社の記事については誤りを率直に認めない姿勢も今回はっきりしている。ちなみに「アンブレラ社」とは映画やゲームの『バイオハザード』シリーズで、ゾンビを生み出す根源となった企業名である。ゾンビものが好きな上念氏らしい表現といえる。京都市内で講演する京都大iPS細胞研究所の山中伸弥所長=2018年1月24日 もちろん「絶対に間違えない」「謝ったら死ぬ病」で表されるメディアの無謬(むびゅう)性へのこだわりは、なにも今回の共同通信の件だけではない。新聞やテレビなどのマスメディアでも陥りやすいだろうし、筆者を含め識者たちも陥りやすい罠ともいえる。今回の共同通信の件はその意味でも、公に意見を表明する者が深く教訓とすべきだろう。 前述のように、共同通信からはまだ何の反省の声もない。このことに関して、筑波大学の前田敦司教授が興味深い指摘をしている。共同通信といえば、こんな事件もあった。電通からカネをもらって特定の薬を持ち上げる記事を(広告とせず)配信していた。証拠を突きつけられるまでは否定。前田敦司氏のツイッター加計問題でもうかがえた「印象操作」 これは前田氏も参照している記事に詳細に書かれているのでそれをまず参照してほしい。記事を読めば、いかに共同通信の無謬性へのこだわりが強いかが少なくともわかるだろう。もし、報道記事がある程度の客観性を持つことを要求されるならば、無謬性はもっとも否定しなければならない態度である。常に反証可能性に開かれた態度でいなければならない。 筆者はこの山中氏に関する記事を共同通信の公式ツイッターで見た。そのツイートには「松吉」という署名があった。「松吉」はイニシャルなのか本名なのかはっきりしない。ただ、「松吉」の署名が記載されたツイートが参照している記事は多くなく、その意味では特に強調したい記事にこの署名が利用されているのだろう。 この「松吉」の署名記事で興味深い特徴があったので、加計学園問題を例として取り上げる。共同通信の記事から、具体的な加計学園問題の、そもそも「問題」が具体的に指摘されたことはないだろう。いままでも論点として提示されたものの根拠は、前川喜平前文部科学事務次官の証言だけである。「松吉」の署名ツイートでは、一貫して加計学園問題について徹底的に追求する姿勢が綴られ、また前川氏に関しては「官邸からすさまじいプレッシャーを受けながら、逆境をはね返した前川氏の内面の強さ、心の原点にスポットを当てた」とされる他の記者の署名記事を参照するものがあった。共同通信の公式ツイッターで、「松吉」署名のツイート 「官邸からプレッシャーを受けたとされながらも、『捨て身』の証言を行った前川氏。6月23日の日本記者クラブでの会見にそのヒントが隠されていました。(松吉)」というが、そのような前川氏の内面の「強さ」を報じることは、彼を政権批判の英雄として祭りあげることになりはしないだろうか。実際にこの記事が公表された前後は、前川氏をそのような政権批判のヒーローとして扱う人たちもいた。 そもそも「官邸からのプレッシャー」が本当にあったかなかったかも問題の大きな論点であろう。これが実際あったかなかったかでも大きく報道の「印象」は変わる。だが、その種の検証をこのツイッターの投稿も記事自体も行ってはいない。その意味で、この記事もまた「印象操作」に堕しているといっていいだろう。 今回の山中氏に関する報道は「印象操作」の氷山の一角なのだろうか。その点はより地道な検証が必要だろう。だが、ぜひ共同通信、またそれに限らずマスメディアはネットを含む世論の批判を柔軟に聞く耳を持つべきである。今回の山中氏についての報道とその後の対応は、その意味であまりにも頑迷だからである。

  • Thumbnail

    記事

    エコノミストを忌み嫌った「保守の真髄」西部邁の過ち

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) 保守派を代表する論客の西部邁(すすむ)氏が自殺したという報道は、多くの人たちに驚きと悲しみ、そして喪失感をもたらした。 筆者にとって西部氏の発言は、主にその「経済論」を中心に1980年代初頭からなじんできたものである。また80年代におけるテレビ朝日系『朝まで生テレビ!』の討論者としての活躍も印象に残る。個人的には、2013年に編集・執筆した『日本経済は復活するか』(藤原書店)で、いわゆるリフレ派論客の中に混じり、リフレ政策への批判的な立ち位置を代表する論者として、フランスの経済学者、ロベール・ボワイエ氏、榊原英資・青山学院大教授らとともに原稿を頂戴したことを、今も感謝とともに思い出す。ボワイエ氏も榊原氏も、そして西部氏もともに単なる経済評論ではなく、その主張には思想的または実践的な深みがあったので、彼らへの依頼は拙編著の中で太い柱になった。講演する西部邁さん=2010年3月(前川純一郎撮影) また06年に出版した拙著『経済政策を歴史に学ぶ』(ソフトバンク新書)の中では、西部氏の「経済論」やその背景になる主張を、筆者なりに読み説いて、批判的に論じた。先の『日本経済は復活するか』への依頼でもわかるように、筆者にとっては、「西部邁」は自分とは異なる主張の代表、しかも彼を批判することが自分の「勉強」にもなるということで、実に知的な「論争相手」だった。もちろん、いままで一度も実際にお会いすることはなかったのは残念である。おそらく、会っても彼の一番忌み嫌う「エコノミスト」の典型であったかもしれないが、それはそれでむしろ筆者の願うことでもあったろう。なぜなら、それだけ西部氏の「経済論」には賛同しがたい一面があるからだ。 だが他方で、評論家の古谷経衡氏が表した以下の喪失感も共有している。西部邁先生が居られない保守論壇なんて…考えただけでも恐ろしい。どんどんと劣化、トンデモ、陰謀論、区別という名の差別が跋扈するだろう。現在でもそうなのに。古谷経衡氏の2018年1月21日のツイート 西部氏はその最後の書『保守の真髄(しんずい)』(講談社現代新書)でも明らかなように、保守派の論客であった。だが、現在の自称「保守」の一部のように、例えば「韓国破たん論」をヘイトスピーチに誘導するような形で言及し、または各種の陰謀論を匂わすような手法も採ることはなかった。西部ファンは多くいても、「信者」のような形で囲いこむこともない。その意味では、西部氏の言動は現代の「保守」論壇の中でまれなものだった。 西部氏の「経済論」は、かなり昔からある「正統派経済学批判」の形を採っている。西部氏にとっての正統派経済学とは、1)人々は合理的な存在、2)市場は効率的な資源の配分を行う自律的なシステムである、という主張を核にしている。だが、西部氏にとって人間の社会的行動とは、そもそも合理的な面と不合理的な面の二重性をもっている。そしてこの不安定な二重性を平衡に保つ力を、西部氏は「慣習」あるいは「伝統」と名付けている。経済問題の文脈で理解するとどうなるか この「慣習」ないし「伝統」を経済問題の文脈で理解するとどうなるか。『保守の真髄』でも例示しているが、賃金など雇用関係がわかりやすい。賃金は「慣習」で決まることで、経済の安定と不安定との平衡化に寄与するのである。 企業の投資活動は将来の不確実性に必ず直面している。このような不確実性に対処するために企業は労使間のあつれきをできるだけ最小化することを選ぶ。なぜなら、労使でもめ事が発生すればそれだけ企業の直面する不確実性もまた増幅するからだ。これは経営者側に長期の雇用契約を結ぶ動機付けを与え、また労働者側も自らの生活の安定のために長期的雇用関係を結びたがる。このことが長期雇用関係を「慣習」や「伝統」として企業の中に、あるいは日本経済の中にビルト・インしていくことになる。 このような経済論は、初期の著作『ソシオ・エコノミックス』から最後の著作である『保守の真髄』まで一貫している。後者から引用しておく。 勤労者がその慣習賃金を受容するというのは、それで自分の家族の生活が賄えると思うからに違いない。ということは、勤労者の購入する主として消費財の価格について何らか安定した期待を持っているということでもある。総じていうと市場で取引される多くの商品の価格が公正価格の周辺で、需要と供給の差に反応しつつ少しばかり変動する、というのが市場なるものの標準的な姿である。『保守の真髄』142ページ ただし、このような「慣習」=公正価格や慣習賃金などは、平衡作用と同時に非平衡作用も生み出す力を持っている。例えば、長期的雇用関係は慣習賃金として、名目賃金の下方硬直性を生み出す。労使間の信頼ややる気などを損なわないために、不況であっても賃金を引き下げることを選ばない。すでに大企業に雇われている労働者は身分も賃金も保証される。だがその半面で、若者たちの新規採用を削減したり、または非正規雇用などを増加させるなど経済不安定化を生み出してしまう。(iStock) もちろん西部氏は、「伝統」や「慣習」は人間社会の合理性と非合理性の平衡を「綱渡り」的にとることができるとみなしているだけで、いま書いたように「伝統」や「慣習」が一部の人たちには安定的でも、経済自体に不安定化をもたらすことも想定していたと考えることはできる。 この「伝統」や「慣習」に二面性を求める見解、時には社会・経済を綱渡り的に平衡させ、時には非平衡化させてしまう働きというものは、西部氏の貨幣論にも典型的に表れている。 貨幣は社会的価値を交換可能にすることで社会の安定化に寄与するだろう。しかし他方で強烈な不確実性ショックに直面すると、この貨幣がかえって社会そのものの平衡を危うくする可能性を、西部氏は同時に示唆していた。過剰だった「官僚」への期待 例えば、強いデフレショックがもたらした貨幣価値の急騰(貨幣バブル)によって、人々は実物投資や消費、そして何よりも人間そのものにお金を使うこと(雇用、教育など)を控えてしまい、ひたすら貨幣をため込んでしまうかもしれない。西部氏自身は、多くの経済学批判者と同様にインフレの方がデフレよりも社会を非平衡化=不安定化するものと思っていたようだが、いずれにせよ、この「デフレ=貨幣バブル」を再平衡化するには「貨幣=慣習」の価値を微調整していくべきだ、というのが西部氏の政策論の核心である。 ただし、このとき西部氏は「貨幣=慣習」の平衡化は、金融政策よりもむしろ財政政策が担うものと考えていたし、また政策の担い手としては「官僚」に期待しすぎていた。 要するに、日本のデフレの長期化は、それが問題であるにしても、原因が金融政策の失敗というような観点についぞ、西部氏は立脚することはなかった。むしろ市場原理主義的なもの、グローバリゼーション的なものが、「慣習」や「伝統」の平衡化を阻害することで日本の長期停滞は生じたと、彼はみていたと思われる。そのため、デフレとデフレ期待の蔓延(まんえん)、それをもたらしている日本銀行の金融政策の失敗というリフレ派の主張には、西部氏は最後まで賛同しなかったと思われる。それは残念なことであり、西部氏の影響を受けている人たちの「経済政策鈍感」ともいえる現象を招いただけに、さらに残念さは募る。2000年11月、参院憲法調査会で意見を述べる参考人の西部邁さん さらに「官僚」への期待が過剰なようにも思える。ここでいう「官僚」というのは、実際の高級官僚たちだけではなく、政治家、言論人などを含むものだ。この「官僚」が「指示的計画」を策定し、市場経済の基盤であるインフラ整備を行うことで、社会を安定化させることを西部氏は期待した。しかしその「官僚」から、なぜか「エコノミスト」たちは排除されていた。なぜなら、「エコノミスト」たちは世論の好む意見しか表明しない、社会をよくする存在であるよりも、社会に巣くう連中であるにすぎないからだ。だが、他方で、西部氏の期待する「官僚」たちも大衆や世論が好むように発言し、活動するものがいるのではないか。 大衆や世論には、真理を求めるという姿勢よりも、常に自分たちの好むものだけを望む傾向があるのは確かだ。だが、他方で今日の財務省的な緊縮主義に対抗できているのは、大衆の反緊縮的姿勢だけではないだろうか。日本の言論人やマスコミ、政治家、そして高級官僚のほとんどすべてが、日々、緊縮主義の掛け声をあげているのが実情である。大衆に安易な依存も期待もできない。しかし他方で、そこにしか今の日本ではまともな政策、少なくとも経済政策の支持の声は強くない。この日本の特殊な言論・政策環境にこそ、日本の精神的病理があるようにも思える。 西部氏の著作や発言は膨大である。そこにはひょっとしたらこの問題への解もあるかもしれない。だが、いまはここまでにとどめておきたい。 最後になってしまいましたが、心からお悔やみ申し上げます。生前のご教示ありがとうございました。

  • Thumbnail

    記事

    相撲協会にとっても痛い「最弱横綱」稀勢の里の不甲斐なさ

    小林信也(作家、スポーツライター) 横綱稀勢の里(31=田子ノ浦)が休場した。初場所5日目を終えての成績は1勝4敗。年6場所制となった1958年以降、横綱では6人目となる5場所連続の休場となった。5日目の朝稽古の後には「やると決めたら最後までやり抜く」と語ったというが、4敗目を喫し、さすがに休まざるを得ない状況にまで追い込まれたとみるのが自然だろう。 「もうひと場所全休し、体調と相撲勘をしっかり戻してから復帰した方がよかった」 相撲界やファンの間では、そんな声が早くも聞こえてくる。1月5日の稽古総見で豪栄道に2勝3敗、横綱鶴竜に3戦全敗し、まだ復調の兆しが見られないことから、横綱審議委員会の北村正任委員長も「休場もやむなし」と発言。いわばお墨付きをもらったのだから、無理して出る必要はなかった。 大きな騒動があって混乱が続く相撲界に、爽やかな風を吹かせる唯一の特効薬は「日本人横綱、稀勢の里の活躍、そして優勝」が何よりだと、そんな重圧や責任感もあったのだろうか。しかし、その思いはあえなく空回りし、いよいよ深刻な空気も漂い始めた。同じく休場が続いていた鶴竜は、今場所の結果次第では「進退問題になる」との見方もあったが、稀勢の里はまだその段階ではないと空気が支配的だった。ところが、これだけふがいない相撲が続くと、「進退に影響」との活字がメディアで踊るのも当然である。 初日からの相撲を見ていると、まったく威圧感がない。横綱になかなか昇進できなかったのは、誰もが知る稀勢の里の「弱気の虫」だ。横綱昇進の勢いの中で、それが姿を消したかに見えた時期もあったが、けがに水を差されると、やはり「弱気」が稀勢の里を支配し始めた。思い切った相撲が取れていない。勝ちに行く相撲ではなく、負けない相撲をして逆に、攻めが遅くなる。慎重に行けば行くほど、相手に見切られて敗れる。本来なら横綱が相手を見下ろして取るべきところだが、はっきり言って平幕の格下力士の方に余裕さえ感じられる。いなされたり、たぐられたりして、横綱は何度も土俵の上を転がった。琴奨菊に突き落としで敗れた稀勢の里 =2018年1月17日、両国国技館 初場所の稀勢の里の取組を振り返ると、特に目立ったのが足腰の軽さだ。4日目には、土俵のほぼ中央で琴奨菊に突き落としで転がされた。まわしの位置が高い。無防備に突っ立ったような態勢で、楽々と技をかけられている。3日目の逸ノ城戦でも、立ち会いは互角にも見えたが、そこからあっさりと逸ノ城に優位を取られた。両者の足腰の重さの違いは歴然だった。横綱昇進前後の取組は、どっしりと土俵に根が生えた感じがあったが、この取組では重さを感じさせたのは逸ノ城の方であり、稀勢の里はやけにふわふわと浮いているようだった。今場所の逸ノ城も決して好調とは言えないが、それでも楽々してやられた。 横綱が5日目で4敗ともなれば、休場という判断はやむを得ない。それは「負け越しても降格しない」横綱ゆえの面子(めんつ)ばかりではなく、相撲協会にはそれが容易に許されない「カラクリ」もある。平幕力士が横綱が勝つと「金星を挙げた」と表現するが、これは名誉だけの話ではない。力士褒賞金の支給額が一律4万円プラスになる。つまり、年6場所で24万円の昇給になる。協会にすれば、単純に出費が増える。金星を「安売り」をされれば、それこそ協会の懐を直撃するのである。稀勢の里が負けた時の「出費額」 稀勢の里は2017年11月場所で5個の金星を配給し、武蔵丸と並ぶ不名誉な最多記録をつくった。今場所はすでに3個、たった2場所で8個もの金星を許してしまったのである。下世話な言い方かもしれないが、これは年間192万円の出費を協会に与えてしまったことになる。しかも、この褒賞金は減ることがなく、力士が現役を続ける限り支払われるから、仮に金星を挙げた力士たちがその後も5年間現役を続けると、出費の総額は約1千万円にもなる。決して笑えない数字だろう。つまり協会の側に立てば、平幕力士に簡単に負ける横綱を大目に見続けるわけにいかないのである。 稀勢の里の今場所は「序盤が勝負」と見ていた。初日、二日目、そして三日目あたりまで無難に白星を重ねることができたら、思い切った相撲が取れるようになるのではないか。稽古総見では、いいところがなかったが、三日後の8日に行われた二所ノ関一門の連合稽古では、琴奨菊、嘉風を相手に「三番稽古」(同じ相手と続けて相撲を取る稽古)をして14勝3敗。復活を感じさせる内容だった。不安材料も多いが、無難なスタートさえ切れたら、そんな期待もあった。ところが、初日に敗れた相手は新小結の貴景勝。いま売り出し中の若手力士だ。 二日目は北勝富士。ここまで3場所連続で金星を挙げている「横綱キラー」である。稀勢の里に敗れた後に白鵬を破り、土佐ノ海と並ぶ4場所連続金星のタイ記録に並んだ怖い存在だ。そして三日目が逸ノ城、四日目は元大関の琴奨菊、五日目嘉風と、気を抜く間がない。いずれも元気者、くせ者、簡単には取らせてくれない相手ばかりだった。稀勢の里ファンにすれば「もう少し取りやすい力士から場所に入れれば…」とぼやきたくなるような顔ぶれだったに違いない。大相撲初場所5日目。嘉風に押し倒しで敗れ、4敗目を喫した稀勢の里(手前) =2018年1月18日、東京・両国国技館 だが、これらの力士を簡単に翻弄(ほんろう)してこその横綱である。いまの稀勢の里には残念ながらそれだけの余裕がない。横綱と平幕の力が逆転してしまっているのだろうか。そう考えると、なんだか新しい展望も見えてくる。つまり、横綱稀勢の里の弱さを嘆くのでなく、新しい力の台頭、若い役者たちが多数登場している現状を歓迎するのも一興(いっこう)ではないか。 初場所7日目までで7連勝と破竹の勢いをみせる関脇・御嶽海は24歳、阿武松、貴景勝は21歳、けがで足踏みしてしまった遠藤、逸ノ城も復活の兆しが見えつつある。 くだんの日馬富士事件で、貴ノ岩が言ったとされるせりふではないが、相撲界の世代交代は思った以上に進み、期待の力士たちの台頭が著しい。貴乃花親方が構想しているという「第二相撲協会」をつくらなくても、古い慣習に毒された力士たちはまもなく一掃され、新しい姿勢の持ち主たちが土俵の中心を担う。 そんな初夢を見る方が、相撲ファンにとっては前向きなのかもしれない。稀勢の里がその輪に入るのであれば、しっかりと休み、身体と勘を磨き直した方がいい。素人目ではあるが、けがはすでにかなり回復しているように思える。後は自信の回復次第である。稽古と巡業で準備を重ねてからでいい。次に土俵に上がるときは、今度こそ「進退」をかけた最後のチャンスになる可能性が高いのだから。

  • Thumbnail

    記事

    デフレ不況の勝ち組「債券ムラ」と既存メディアの蜜月関係

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) テレビ報道を検証する任意団体「放送法遵守を求める視聴者の会」(百田尚樹代表理事)が興味深いアンケートを公表した。「最近のテレビは偏向報道が増えている」という質問に対して、「すごく増えている」と「増えていると思う」の回答両方で、67・8%にもなっているのである。 「偏向報道」というのは、専門的な知見や社会的な常識などから著しく偏った報道を一定期間行っているときに使われている言葉だろう。もちろん単に報道することだけではなく、いわゆる「報道しない」ことも含まれている。世界的に当たり前の知見や事実が日本だけ報道されていない事例などを指す。2017年3月、「放送法遵守を求める視聴者の会」の代表理事に就任し、あいさつする作家の百田尚樹氏(左から2人目) 特に日本では、放送法の第1条第2項で「放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによって、放送による表現の自由を確保すること」とある。しかし、森友学園問題や加計学園問題などを中心に、テレビの報道は本当に「不偏不党」だったのか、しばしば議論の対象になっている。もちろん二つの学園問題だけではない。筆者の主なる関心である経済問題についても、専門的な知見というよりも特定の既得権団体、つまり財務省などの官庁、国債市場や民間金融機関の関係者などの意見だけが大きく取り上げられている傾向に思える。 素朴な観測をすると、全国放送レベルで、「ニュースウオッチ9」(NHK)「報道ステーション」(テレビ朝日系)といった平日午後9時以降の報道番組で、いわゆるリフレ派の経済学者やエコノミスト、経済評論家が出演して、経済政策についてコメントや解説することはまれといっていい。 リフレ派とは、日本の長期停滞の原因がデフレとデフレ期待にあるとし、その解決策として日本銀行の政策スタンスが重要だとする政策主張者たちである。特に政治的な主張と連動しておらず、政治スタンスはそれこそ保守からリベラル、左翼まで属している。ちなみに、日銀の政策スタンスのキーは、デフレ予想を転換することであり、インフレ目標と大胆な量的緩和を唱えるのが定番である。 政策レベルでいえば、アベノミクス「第一の矢」である大胆な金融緩和政策とほぼ同じになる。「ほぼ」としたのは、日本銀行の現状の政策に少なからぬリフレ派が不満足だからだ。海外では、リフレ派が主張する経済政策、つまりリフレ政策は「当たり前の政策」のひとつである。経済が停滞しているときに、積極的な金融緩和と財政拡張を行うことは、国際的には標準的な政策ツールである。ところが、日本のマスコミ報道ではその「国際標準」は例外扱いになっているわけだ。長期停滞で「勝ち組」になった人たち リフレ派は現実の政策的にも重要な専門家集団なのだが、存在が明らかになってきた1990年代後半から今日に至るまで、日本の報道番組に出演する機会はごくごく限られたものになっている。むしろ、テレビの経済解説では、彼らとは異なる財政再建論者や長期デフレ論者、消費増税論者などがテレビに出演する「専門家」の中心であり、あえて言えばほぼすべてである。 ちなみに、日本のテレビ報道の重要な特性だが、民間の主要キー局がすべて大新聞の関係組織であるため、新聞とテレビでの報道が極めて類似している。例えば、日本経済新聞にリフレ派の論客のコメントが掲載されたり解説記事を書いたりことは極めてまれだ。それの合わせ鏡で、関連会社のテレビ東京「ワールドビジネスサテライト」にリフレ派の論者が出演することもめったにないのである。利付10年の日本国債 ところで、日本には「債券ムラ」と呼ばれる民間金融機関の債券部門が存在している。彼らは日本が長期停滞を続ける中で「勝ち組」といわれていた。長期停滞が続けば名目金利が趨勢(すうせい)的に低下していくので、取り立てて有能ではなくとも、その部署にいるだけで債券の売却益で荒稼ぎできたわけである。 短期国債の名目金利はゼロに早く到達したが、それでも長期金利はプラス域であった。デフレ期に多くの金融機関が国債保有の比率を増加させていたのは、債券購入と債券売却との利ざや(=売却益)を稼ぐためであった。 だが、最近では、長期名目金利もマイナス域から極めて低い金利でコントロールされている。そうなると債券ムラにとっては自分たちの不況で得てきた有利なポジションを奪われているという不満が募ってくる。しかも債券ムラの住人は、デフレ不況の期間において、新聞、テレビ、通信社など既存のマスメディアと長期的な関係を構築してきた。 なぜなら、長期デフレの間で、最も目覚ましい活躍(?)をしていたのが債券ムラの住人たちであり、その動向を報じることは、既存のメディアにとっても商売になったからである。そのためか、今もメディアの多くは、債券ムラの住人たちの意見に沿った報道をする傾向が強い。「出口戦略」を求めるムラの願望 例えば、日銀の黒田東彦総裁が何か発言するたびに、いわゆる「出口戦略」として解釈する傾向がそれだ。今の日銀は、インフレ目標が2%に到達し、場合によればそれを超えることをしばらく放任する姿勢を採用している。もちろん今の日本は、デフレ不況ではないが低いインフレ率のままであり、目標達成はまだまだ見通せない。だが、マスコミの報道は常に「出口戦略はまだか」という解釈で、日銀の政策を理解しようとするバイアス(偏向)がある。 実際に昨年、黒田総裁が「リバーサル・レート理論」について言及したとき、それを日銀の政策変更の予兆としてとらえる報道が相次いだ。リバーサル・レート理論とは、黒田総裁の当の発言がわかりやすいので引用しておく。「最近、『リバーサル・レート』の議論が注目を集めています。これは、金利を下げすぎると、預貸金利ざやの縮小を通じて銀行部門の自己資本制約がタイト化し、金融仲介機能が阻害されるため、かえって金融緩和の効果が反転(reverse)する可能性があるという考え方です」2017年12月、会見場に入る日本銀行の黒田東彦総裁(桐原正道撮影) これは先ほどの債券ムラの理屈で読み直すと、国債の利回りがマイナスから極めて低い名目金利になると、国債の売却益が縮小してしまい、そのことが民間金融機関というか、債券ムラの収益を損ねてしまう、ということになる。つまり黒田総裁がこのリバーサル・レート理論を持ち出したことは、債券ムラ的な発想からは、黒田日銀の政策転換のシグナルに解釈できるのだ。 実際、この黒田発言以降の多くの報道記事は、金融関係や国債市場の関係者たちがこれを日銀の出口戦略のシグナルとしてみたとするものが相次いだ。のちに黒田総裁自身はそのような日銀の政策転換をもたらすものではないと否定するのだが、当初の報道の多くは、この黒田発言を日銀の政策が変わりつつあるシグナルとして伝えるものが多かった。しかも、いまだにこのリバーサル・レート発言を話の枕にして、今年の日銀の政策転換を解説するマスコミの記事に事欠かない。 念を押すまでもなく、もし、インフレ目標未達のままで日銀が政策転換を行えば、今後の政策の信頼性は著しく損なわれてしまうだろう。そのことは日銀の損失だけではなく、もちろん日本経済の損失にもなる。だが、「出口戦略」=日銀の金融緩和政策の終わりを求める、既存マスコミと債券ムラの関係者の願望はそんな日本経済や国民生活などはどうでもいいのだ。そう、彼らの利害こそがすべてだからである。

  • Thumbnail

    記事

    信長殺し将軍黒幕説に終止符を打つハリボテ「鞆幕府」の真相

    渡邊大門(歴史学者) 明智光秀が本能寺の変を起こした有力な説の一つとして、足利義昭黒幕説がある。しかし、以前検討したとおり、同説は史料的な根拠が薄弱で否定されている。足利義昭黒幕説が提起された背景の一つとしては、「鞆(とも)幕府」なるものが存在し、実態として強大な勢力を誇っていたからだといわれている。果たして、それは事実なのだろうか。 天正元(1573)年、足利義昭は織田信長に反旗を翻したが敗北。その後は室町幕府再興を悲願としながらも、流浪生活を余儀なくされた。やがて、紀伊国に滞在した義昭は「天下再興」を名目として上杉謙信に「打倒信長」を呼びかけたり、各地の大名間紛争の調停に乗り出したりするなど、その存在感を強くアピールした。 義昭は紀伊国の湯河氏のような中小領主クラスをはじめ、薩摩国の有力な戦国大名・島津氏まで声をかけていた。紀伊国に下向以後も、義昭は各地の大名に檄(げき)を飛ばし、室町幕府再興の夢を追い続けたのである。足利義昭像(Wikimedia Commons) そして天正4(1576)年2月、義昭は密かに紀伊国を船で出発すると、毛利氏領国である備後国鞆津(ともつ)に到着した。広島県福山市にある鞆津は、今も中世の趣(おもむき)を残す港町であり、ちょうど岡山県との県境に位置している。 当時、備後国は毛利氏の支配下にあったが、毛利氏領国の東端に位置していた。義昭は鞆に押しかけ、毛利氏に「信長が(毛利)輝元に逆意を持っていることは疑いない」と主張し、自らを擁立して信長と戦うよう求めた。毛利氏はまだ信長との関係が決裂していなかったので、あえて安芸の本国に義昭を迎えず、鞆にとどめたのかもしれない。 義昭の鞆への渡海は、毛利氏の頭痛の種となった。義昭がいることにより、毛利氏は信長との関係悪化を恐れたはずだ。したがって、義昭の強引な毛利氏に対する申し出は、困惑を持って迎えられたに違いない。しかし、畿内とその周辺の政治的な状況は、一刻の猶予を許さなかった。 天正3(1575)年11月、但馬国山名氏の重臣・八木豊信は吉川元春に宛てて書状を送った。その内容とは、明智光秀がかねてから丹波国に侵攻していたが、やがて抵抗する荻野氏らを攻め滅ぼし、丹波の大半を掌中に収めていたという事実である。つまり、畿内周辺で信長は確実に威勢を伸張しており、さらに西へと進出するのは明らかだったのだ。 播磨国の赤松氏、龍野赤松氏、小寺氏、別所氏そして浦上氏などは、すでに上洛して信長にあいさつをし、配下に収まっていた。各地域の有力な名族といえども、信長の軍門に降るか、攻め滅ぼされるか二者択一を迫られており、それは毛利氏も例外ではなかった。 毛利氏は政治的情勢を分析した結果、全面的な信長との対決は避けられないと結論付けた。天正4(1576)年5月、ついに毛利氏は義昭の受け入れを決断したのである。毛利氏に受け入れられた義昭は、早速「帰洛(=室町幕府再興)」に向けての援助を吉川元春、平賀氏、熊谷氏などに依頼した。副将軍の意義 鞆滞在中の義昭は、毛利氏と連絡するため外交を担っていた僧侶、恵瓊(えけい)との関係を密にした。相変わらず義昭は精力的に活動し、上杉氏、北条氏らの有力大名に援助を呼び掛け、打倒信長の檄を飛ばし続けたのである。 一方で、義昭が力を注いだのは、室町幕府再興の下地となる組織作りであり、手始めに毛利輝元に対して副将軍職を与えた。天正10(1582)年2月に書き残された吉川経安の置文(「石見吉川家文書」)には、「毛利右馬頭大江輝元朝臣副将軍を給り(以下略)」と記されている。 室町幕府再興を目指す義昭にとっては、将軍の存在をアピールする意味での副将軍であり、大きな意味があったのかもしれない。実は、副将軍については、この時代に実際に存在したのかしなかったのか、よくわからない職でもある。 室町時代の最盛期、将軍の配下に管領が存在し、将軍の意を守護らに伝え、逆に守護らの意見を取りまとめて将軍に伝達するなどしていた。しかし、享禄4(1521)年に細川高国が摂津国大物(尼崎市)で横死して以後、基本的に管領は設置されていない。毛利元就の孫、輝元像=山口県萩市・萩城跡 応仁・文明の乱以降、守護は自身の領国へ戻り、室町幕府の全国支配のコントロールはあまり効かなくなっていた。以後、将軍を支えたのは特定の大名たちで、義昭の場合でいえば、最初は織田信長であり、のちに毛利輝元になった。 この頃、将軍を支えるのは単独の大名であり、それはかつての「管領」ではなく「副将軍」と認識されたのだろうか。同じような例は、義昭以前に歴代将軍を支えた大内義興や六角定頼などの例で確認できる。ところが、大内義興らには「副将軍」が与えられておらず、輝元に与えられた「副将軍」の意義はやや疑問であるといえる。 自然に考えるならば、「副将軍」とは義昭が輝元に気を良くしてもらうために言い出したのかもしれない。しかし、注意すべきは輝元が副将軍に任じられたことを示す史料は、天正4年から6年後に成立した回顧談的なものに過ぎない。副将軍職を過大評価するのは、少々危険ではないだろうか。 そして義昭の執念は、やがて「鞆幕府」という形で結実した。いちおう現役の将軍である義昭は、鞆に御所を構えて幕府を再興し、かつてのように多くの奉行衆・奉公衆を擁した。いうなれば幕府の必要条件を整えており、まさしく「鞆幕府」と言うべき存在かもしれない。ところで、「副将軍」の輝元以外の「鞆幕府」の構成員は、どうなっていたのだろうか。 「鞆幕府」の構成員は、義昭の京都時代の幕府の奉行人・奉公衆、そして毛利氏の家臣、その他大名衆で占められていた。毛利氏のなかでは、輝元をはじめ吉川元春、小早川隆景、などが中心メンバーで、三沢、山内、熊谷などの毛利氏の有力な家臣も加わっていた。 ここで重要なことは、彼ら毛利氏家臣の多くが義昭から毛氈鞍覆(もうせんくらおおい)・白傘袋(しらかさぶくろ)の使用許可を得ていることである。そもそも毛氈鞍覆・白傘袋の使用は、守護や御供衆クラスにのみ許され、本来は守護配下の被官人には許可されなかった。本来、毛利氏の家臣が許されるようなものではなかったのである。形骸化した栄典授与 そうしたことから、将軍によって毛氈鞍覆・白傘袋の使用許可を得た守護配下の被官人らは、ごく一部に限られ、彼等は守護と同格とみなされた。つまり、毛利氏の家臣は、義昭から最高の栄誉を与えられたことになろう。 しかし、現実には室町幕府の衰えが目立ち始めてから(16世紀初頭以降)、金銭と引き換えに毛氈鞍覆・白傘袋の使用は許可されるようになった。栄典授与の形骸化であり、インフレでもある。ただし、本来の価値を失っていたとはいえ、与えられたほうは大変に喜んだと考えられる。それが、将軍の権威だったのだ。 さらに重要なのは、将軍直属の軍事基盤である奉公衆が存在したことだ。一般的に、明応2(1493)年に起こった明応の政変で将軍権力は大きく失墜し、奉公衆は解体したと考えられている。 ところが、義昭の登場以降、奉公衆は復活しているのである。たとえば、美作国東北部には草苅氏という有力な領主が存在し、当主である景継は義昭の兄・義輝の代から太刀や馬を贈っていた。つまり、景継は幕府との関係を重視していたのである。 景継は幕府との関係を義昭の代に至っても継続しており、奉公衆の「三番衆」に加えてもらうように依頼した。その結果、足利義昭の御内書と上野信恵の副状によって、景継は三番衆に加えられた。景継は奉公衆に加えられたので、その喜びは言葉に言い尽くせないものがあったと想像される。 毛氈鞍覆・白傘袋の使用許可にしても、奉公衆に加えるにしても、与えられた者にとって何か意味があったのであろうか。要するに、栄典授与などを得ることにより、他者に対して何らかの形で優位に立てるかということだ。 結論から言えば、支配領域での実効支配の強化や戦争などが有利に展開したとは考えられない。ただし、与えられた当人が喜び、権威的なものを手に入れたと感じたことが一番重要だったといえるだろう。実効性はあまり期待できなかったと考えられる。織田信長像(東京大学史料編纂所所蔵の模写) 義昭は信長に追放され、将軍としての実権を喪失していた。とはいえ、義昭は半ば「空名」に過ぎない栄典を諸大名に与えることにより、彼らを自らの存在基盤に組み入れる根拠としたのである。それは、実権を失った義昭にとって最後の大きな武器であり、現職の将軍であることの強みでもあった。 義昭は何とか奉公衆を組織し、配下には大名たちもが付き従った。では、義昭のもとに馳せ参じた大名には、どのような面々が揃ったのだろうか。その一員の中には、武田信景、六角義尭(よしたか)、北畠具親(ともちか)などの聞きなれない人物が存在するが、彼らはいかなる人物だったのだろうか。その経歴に触れておこう。 武田信景は若狭武田氏の出身で、父は信豊、兄は義統(よしむね)である。義統の跡を継いだ子息の元明は、越前国朝倉氏の勢力に押され、のちに支配下に収まった。朝倉氏が滅亡すると、織田信長の家臣・丹羽長秀が若狭国を支配した。「ハリボテ」のような幕府 結局、元明にはわずかな所領しか与えられず、若狭武田氏は滅びたのも同然であった。こうした事態を受けて、信景は義昭のもとに参上したといわれている。信長に対しては、良い感情を抱いていなかったはずだ。 六角義尭は近江国六角氏の流れを汲み、義秀の子であるといわれている。六角氏もまた永禄末年に織田信長の攻撃を受け、もはや往時の勢いはなかった。武田氏と同じく、信長には好感を持っていなかっただろう。義尭は義昭の配下にあって、重用されたと指摘されている。それは、かつて六角氏が歴代足利将軍を支えたからだろう。 北畠具親は伊勢国司北畠具教の弟で、当初は出家して興福寺東門院主を務めていた。ところが、天正4(1567)年に織田信長が兄・具教(とものり)を殺害すると、還俗して北畠家の復活を目指した。 南伊勢に入った具親は、翌年に北畠一族や旧臣とともに挙兵したが、具親は北畠信雄(信長の次男)の前に敗れ去り、北畠家の再興に失敗する。そのような事情から、鞆へ来て義昭につかえたのであり、やはり信長は不倶戴天の敵だった。 このように見ると、「鞆幕府」を構成する中心メンバーは、毛利輝元、小早川隆景、吉川元春の3人であり、頼りなるのは毛利氏の家臣だった。ただ幕府を構成するには、形式を整えるため、烏合の衆のような存在も必要であった。それゆえに義昭は、彼らに毛氈鞍覆・白傘袋の使用許可を与え、忠誠心を植えつけようとしたのであろう。広島県福山市の景勝地「鞆の浦」 「鞆幕府」に組み込まれた諸大名(武田、六角、北畠の諸氏ら)たちは、いささか頼りない連中ではないだろうか。一つのパターンは、奉公衆の看板に魅了されて従った領主層である。残りのパターンは、「信長憎し」で集まった落ちぶれた大名連中である。 幕府が全国政権を標榜する以上、多くの諸勢力を糾合する必要があったのかもしれないが、毛利氏を除くと烏合の衆と言わざるを得ない。幕臣も京都にいた頃と比較すると、随分少なくなったと指摘されている。「鞆幕府」と称しているが、実際には単なる「寄せ集め集団」としか言いようがない。 「ハリボテ」のような「鞆幕府」であったが、一定の権力とみなされたのは事実である。特に、中小領主が積極的に加わり、「反信長」の対立軸になったことは評価しうるところである。そう認識された理由は、義昭が将軍という権威的な存在であったという一点になろう。 しかし、義昭には政治的権力が乏しく、軍事力は毛利氏頼みであった。各地の有力大名にあれだけ檄を飛ばしながらも、誰もすぐに飛んでこないのは、その証左と言えるだろう。したがって、形式的には「鞆幕府」と称しうるかもしれないが、その存在自体を過大評価すべきではないと考える。※主要参考文献 谷口克広『検証本能寺の変』(吉川弘文館、2007年) 渡邊大門『信長政権 本能寺の変にその正体を見る』(河出ブックス、2013年)

  • Thumbnail

    記事

    三橋貴明DV事件を機に考えたい「家庭内暴力の経済学」

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) 著名な経済評論家の三橋貴明氏が逮捕されたニュースは、経済など時事問題に関心の強い層を中心に大きな驚きを与えた。筆者が最初に目にした朝日新聞の報道によると、10代の妻を口論の末に「自宅で転倒させて腕にかみついたり、顔を平手で殴ったりして約1週間のけがを負わせた」とある。いわゆる家庭内暴力(ドメスティック・バイオレンス)に該当する事象での逮捕だろう。他の報道では、去年2回にわたり、妻への暴力をやめるように警察から警告を受けていたという。 これらの報道の信憑(しんぴょう)性を含めて、今後この事件がどうなるのか推移を見ていかなくてはいけない。釈放された三橋氏本人のブログでは、彼の視点による「事実」の説明とおわびの言葉が書かれている。ブログには「最後に、妻がかなりきつい言葉を私にぶつけ、一瞬、カッとなった私は、妻の左ほほを平手打ちしてしまいました」とあるので、暴力があったことは少なくとも明白だろう。 三橋氏の釈放を受けた報道には「裁判所が身柄の拘束を認めなかったため、三橋さんは8日午後、釈放された。三橋さんは警視庁の調べ容疑を否認していたということで、今後は、在宅のまま捜査が続けられる」(日本テレビ系 NNN)とある。報道が正しければ、捜査は継続中のため予断を許さない。経済評論家の三橋貴明氏=2014年4月(宮崎裕士撮影) 三橋氏とは今まで何度か討論番組で同席し、またラジオでは日にちが違うが同じ番組のコメンテーターを務めるなど、面識がある。三橋氏の人柄について個人的な感想は特に今はない。彼が主張する経済論には、今までも厳しい批判の姿勢を持っていた。ただ、そのことと今回の事件は特に関連するものではない。 ネットではさまざまな「陰謀論」めいた話が交錯しているが、なんの根拠もない、身びいきあるいはその反対の悪意に満ちたものがあるだけで読む価値はない。以下は今回の事件を契機にして、日本の家庭内暴力について、経済学者としての視点を中心に簡単な考察を試みることにした。家庭内暴力は「隠れた貧困」 家庭内暴力については、個人的にもトラウマ(心的外傷)に似た経験を持っている。筆者の幼少のころに母親、そして筆者自身も、父親の苛烈な家庭内暴力に見舞われていた。詳細は控えるが、父親からの加害によって母親は生涯、片足に障害を負ってしまった。冬場になると古傷が痛むらしく、よく足を引きずるようにしていたのを思い出す。今は両親ともに鬼籍に入っているが、家庭内暴力は筆者にとっても無縁の出来事ではないのだ。(iStock) 内閣府の統計によると、全国の配偶者暴力相談支援センターに寄せられた相談件数は年間で10万件を超えている。ものすごい件数である。アンケートでは、配偶者(事実婚や別居中の夫婦、元配偶者も含む)から「身体的暴行」「心理的攻撃」「経済的圧迫」「性的強要」のいずれかを一つでも受けたことがある人の数は、女性では20%以上、男性は16%ほどにものぼるという。 相談件数自体も驚くほど多いが、ほぼ一貫して件数などが上昇傾向にあることは見逃すべきではないだろう。もちろん他のアプローチも存在するが、家庭内暴力を経済学の視点からどう考えるべきか。それは一種の「隠れた貧困」と考えるべきかもしれない。 貧困といえば、満足な栄養や最低限の所得に欠けるような「絶対的貧困」、社会の一定割合を貧困状態であるとみなす「相対的貧困」など、多様な貧困の基準がある。 最近、日本の貧困研究の第一人者である日本女子大学名誉教授の岩田正美氏が『貧困の戦後史』(筑摩書房)を出版した。同書では、幼児の虐待死や未受診・飛び込み出産を「『かたち』になっていない貧困」と定義して分析している。「かたち」になっていない貧困とは、貧困として社会的な注目の濃度にまだ乏しいが、実体は貧困に起因するものであるという視点だ。生活保護から閉ざされるなど経済的な制約のために、児童への虐待が見られるという可能性を岩田氏は指摘している。 現時点の経済学の成果をみると、家庭内暴力も経済的な要因が無視できないほど大きい。ブラウン大のアナ・エイザー教授は家庭内暴力の経済学を積極的に公表している。その中で、エイザー氏は男女間の賃金ギャップに注目している。この男女間の賃金ギャップが縮小するほど家庭内暴力が減少していくという。つまり、労働報酬で男女間の賃金ギャップが少なくなれば、家庭の中での女性パートナーの交渉力が増し、それにより家庭内暴力が減って女性の健康が促進されていくというのである。家庭内暴力は周期性を持つ また、家庭内暴力が周期性を持つことをエイザー氏は指摘している。家庭内暴力を振るわれた女性パートナーが、当局に助けを求めても、しばらくするとその男性パートナーと暴力的な関係性に戻ってしまう現象が存在するという。この時の原因は、心的な依存関係もあるが、経済的依存関係が大きく左右するだろう。例えば、男性パートナーだけが働いているために、女性パートナーは経済的に自立しにくいケースが典型的には考えられる。この家庭内暴力に経済的な依存関係が大きな役割を果たすことは、別の欧米の経済学者たちによっても指摘されている。 これは視点を変えると、家庭における男女分業への伝統的な経済学の解釈を再考するきっかけともなるだろう。例えば、異なる仕事それぞれに特化しても、そのカップルには効率性はあっても、心の幸福を得られないかもしれない。男性パートナーが会社などで高い報酬を得、一方で専業主婦の女性パートナーが家庭内労働で大きな成果を挙げていても、それによりこのカップルが幸福といえるかどうかは別問題というわけである。エイザー氏の視点では、ここには経済的な依存関係が発生していることになる。 ただし注意すべきは、一例として女性パートナーの男性パートナーへの経済的依存関係が強いときは、家庭内暴力が深刻であっても女性パートナーが声を上げることが難しいかもしれないことだ。離婚や別居することで十分な生活を今後送ることができるのかどうかが最重要な問題だろう。また今までの人間関係を失うコストも重大なものだ。これらのコストを払うことができないまま、家庭内暴力に泣き寝入りする可能性がある。これはまさに「隠れた貧困」といってもいいのではないか。(iStock) ブリティッシュ・コロンビア大学の講師マリナ・アドシェイド氏は、『セックスと恋愛の経済学』(東洋経済新報社)の中で、外国人の妻たちが離別した後や家庭内暴力についての声をどれほど頻繁に上げているかを解説している。理由を簡単にいえば、彼女たちがその時点では経済的な依存関係から脱却しているからである。別な角度からみれば、経済的依存関係が深ければ、そのような声が出にくいだろう。 アドシェイド氏は、さらに経済的に効率的ではないかもしれないが、幸せなカップルになるには似たもの同士が好ましいと書いている。ある人が教えてくれた古いことわざに「割れ鍋にとじぶた」というものがあるが、経済学からもそれと同じ含意が出てくるのは興味深い。 もちろん家庭内分業がうまくいっているカップルも多くある。また、ささいなトラブルはどの家庭にもあるだろう。だが、私は前述した個人的な経験も踏まえていうならば、家庭内暴力に安易な妥協はしないほうがいいと伝えたいのである。

  • Thumbnail

    記事

    政治利用される平昌五輪に日本は「不参加」の選択肢があってもいい

    小林信也(作家、スポーツライター) 2017年末、平昌五輪の代表選考を兼ねたフィギュアスケートの全日本選手権が行われた。男子は羽生結弦がケガのため今大会を欠場したが、過去の実績を評価されて代表に選出された。ケガの復調具合が心配だが、平昌五輪では前回ソチに続く2連覇を狙っている。 羽生だけでなく、平昌五輪は冬季五輪で前例がないほど、多種目で日本人選手の金メダル獲得が期待されている。スピードスケート女子500メートルの小平奈緒、ジャンプの高梨沙羅ら「絶対本命」もいる。スノーボードでも男女とも複数のメダルが狙えると注目されている。選手たちが順調に実力を発揮すれば、1998年の長野五輪の金5個、銀1個、銅4個、計10個を超える可能性もある。2月9日の開幕早々にフィギュアスケート団体予選で日本が好スタートを切り、4日目のスキージャンプ女子ノーマルヒルで高梨沙羅、伊藤有希がメダルを獲得すれば、一気に五輪フィーバーが巻き起こり、不安な世界情勢など忘れたお祭り騒ぎに日本列島が浮かれる可能性も高い。2017年4月、フィギュアスケート世界選手権男子で3季ぶり2度目の優勝を果たした羽生結弦が帰国し、多くのファンから出迎えを受けた=羽田空港(今野顕撮影) だが、政治的、社会的な観点からは、平昌五輪自体の開催や成功が危ぶまれてもいる。12月2日の産経新聞は次のように伝えた。 北朝鮮の核・ミサイル危機を受け、欧州では平昌五輪への選手派遣を再検討する動きが出ている。 発端は、フランスのフレセル・スポーツ相が9月21日、ラジオで「状況が悪化し、安全が確保されなければ、フランス選手団は国内にとどまる」と発言し、派遣見送りの可能性を示唆したことだ。フレセル氏は翌日、ボイコットするわけではないと強調したうえで「私の役割は選手を守ることだ」と述べた。 フレセル氏自身が金メダルを獲得した元五輪フェンシング選手だったため、選手団の間には「家族は心配しており、危険を見極める必要はある。今は練習するだけ」(アルペンスキー選手)などの動揺が広がった。だが10月には仏五輪選手団が発表され、現在までに派遣差し止めの動きはない。 北朝鮮情勢への動揺が広がっていることに配慮し、IOCは9月22日、「関係国や国連と連携している。開催準備は予定通り進める」とする声明を発表した。「選手の安全は最重要課題。朝鮮半島情勢を注視していく」との立場を示した。平昌五輪で日韓が「駆け引き」 慰安婦問題で急速に冷え込む日韓関係にあって、平昌五輪が政治的な「駆け引き」に使われている。スポーツは、政治と無関係ではない。政治の舞台そのものだ。まず、11月15日の中央日報は次のように伝えている。 李洙勲(イ・スフン)駐日韓国大使が日本の河野太郎外相と会い、両国首脳間のシャトル外交復活に向けて努力することを確認した。 李大使は14日、外務省で就任の挨拶のため河野外相と会談を行い、韓日関係の未来志向的発展に向けた方案について意見を交換した。 この中で河野外相は「大統領の信任が厚い方が大使として日本に来られ、未来志向的な韓日関係につながっていくものと期待する」と話した。これに対し、李大使は河野外相に「先月の総選挙で、最多得票によって当選したことに対し、お祝いを述べたい」と答えた。李大使は会談後、記者団と会い、「来月あるいは来年1月に韓日中首脳会議が開催され、文在寅(ムンジェイン)大統領が日本に訪問した後、来年2月の平昌(ピョンチャン)冬季オリンピック(五輪)の時に安倍晋三首相が訪韓すればシャトル外交が復活する」としながら「このために共に努力していくことを確認した」と述べた。 だが、12月19日に韓国外相との会談で日本の河野外相は否定的な見解を伝えたという。以下は朝日新聞の報道である。 19日にあった河野太郎外相と韓国の康京和(カン・ギョンファ)外相との会談で、来年2月の韓国・平昌冬季五輪への安倍晋三首相の出席をめぐって日本側が韓国側を牽制(けんせい)する一幕があった。日本政府は慰安婦問題で韓国政府の対応に不信感を募らせており、外交的な「駆け引き」を仕掛けた格好だ。 複数の日韓関係筋が明らかにした。康氏が会談で「首相を平昌で歓迎したい」との文在寅(ムン・ジェイン)大統領のメッセージを伝えると、河野氏は文政権が2015年末の日韓合意に反する動きを見せていることに触れ、「このままでは(参加は)難しい」と伝えた。2017年12月、会談に臨む河野外相(左)と韓国の康京和外相=東京都港区の飯倉公館(代表撮影) 言うまでもなく、朝鮮半島は緊迫の度合いを増している。北朝鮮の動き次第で、世界的に戦闘的行動へ移行する一触即発の危機をはらんでいる。地理的にも、その影響を最も受ける国のひとつが日本でありながら、五輪を語り出すと日本人はそうした世界情勢の緊張感を忘れる。「平和ボケ」と呼ばれる兆候を示す端的な傾向だろう。スポーツを糾弾すればエンタメになる 私は北朝鮮の暴挙や韓国の姿勢を理由に「平昌五輪不参加」を強く提言する立場ではないが、スポーツをいつまでも万能な「平和の象徴」のように位置づけ、「スポーツ交流さえすれば仲良くなれる」「スポーツの感動さえあれば、世界は平和になる」という安易な思い込みからは早く脱却すべきだ。スポーツに打ち込む選手も指導者もそれを認識し、その上で「スポーツに何ができるか」を模索する深い目覚めと覚悟が求められている。2010年2月、バンクーバー五輪のフィギュアスケート女子表彰式で、銀メダルに終わり、こらえきれず涙を見せる浅田真央。右は金メダルの金姸児(キム・ヨナ)(鈴木健児撮影) 仮の話だが、想像してみてほしい。金妍児(キム・ヨナ)と浅田真央の戦いの舞台がもし平昌五輪だったら? そして、韓国の観客から見れば「不可解」と思われるジャッジで金妍児が敗れたとしたら。いやもしその相手が北朝鮮の選手だったら…。 競技を終えてノーサイド、互いに抱き合いたたえ合う、観客も心を同じくして深い友情の絆を感じる…。そのような美しい物語ばかりを期待できるだろうか。巨大なビジネスと化したスポーツ界には、巨額のお金と利権がうごめいている。選手はその膨大なビジネスのカギを握る中枢にいる。もはやセンチメンタルだけでスポーツは語れない時代だ。 ここ2カ月以上、テレビのワイドショーはずっと大相撲問題を取り上げている。スポーツをめぐる社会の空気が変わっている。お茶の間がスポーツを批判的な立場で糾弾し、「それがエンターテインメントになる」時代にシフトしたのだ。東京五輪のエンブレム問題、新国立競技場建設問題あたりから、急速に旗色が変わった。スポーツは賛美されるばかりの分野でなくなった。それはある意味、歓迎すべきことだと感じている。 果たして、平昌五輪もこの厳しい流れの中で、お茶の間を巻き込んだ新しい議論が生まれるのか。あるいは、やはり「空前のメダルラッシュへの期待」でお祭り騒ぎが国民の気分を支配するのか。日本人のスポーツに取り組む姿勢、そしてスポーツを通して実現を目指すべき中身の真価がいま問われている。

  • Thumbnail

    記事

    蛇神のためなら「たとえ火の中水の中」信長の脳内が分かる3つの逸話

    していた蛇・龍、雨乞いがセットになっていた場所こそが「あまが池」なのである。           本連載第2回では幼い信長が那古野城内の天王坊安養寺に通い「祭神の素戔嗚尊(スサノオノミコト)がヤマタノオロチを倒しその体内から草薙剣(クサナギノツルギ)を得た=オロチの力をわが物とした」という神話に親しく触れていた、と紹介したが、その信長が実際に大蛇(オロチ)が身近にいるかもしれない、と思ったとき、素戔嗚尊の故事にもとづき自分も大蛇の力を獲得して水を支配する力を得られるではないか、という考えに至ったのは自然な流れだったろう。ところが実際の信長は池の水の掻い出しすら思った通りにできない素の人間のままで終わってしまった、というオチでこの話は終わるのであるが。信長が家臣につけた名前の意味 これで信長がいかに大蛇に執心していたかがおわかりいただけたと思うが、ところで、読者の皆さまは何かに熱中したときにどういう行動をとるだろうか。信長のようにそれを手に入れて一体となりたいと思えば、品物であれば高額でもかまわずそれを買い求め、山野を探して回り、自分で造りだそうと寝る間も惜しんで製作にいそしむだろう。人物であれば、その人の髪形・衣装・話し方をまね、メイクも似せようとするだろう。SNSなどのハンドルネームもその人物の名を使ったりする人は多いだろう。 信長の場合はどうしたか。身につけるもの(三五縄)の話は以前にしたが、それだけではない。そのこだわりは、家臣の名前にも残っているのだ。 その家臣の名は、佐久間信盛。信長の重臣であり、他の家老たちがことごとく信長の敵にまわったときでも信長に従い、支え続けた筆頭格の家来で、忠義厚い武士だ。のちには「退(の)き佐久間」とあだ名されるほど、退却戦の殿軍をつとめさせれば抜群の粘りをみせた。これも主君・信長への信頼と忠誠心がなければできることではない。織田信長像(東京大学史料編纂所所蔵の模写) そんな信盛が、若い頃に発給した文書がある。天文年間(この時期から4年以上前)に熱田社の関係者に出したものなのだが、そこに記された彼の署名は「佐久間半羽介」というものだった。  筆者は以前、この「半羽介(はばのすけ)」というのは現在の名古屋弁にある「ハバ」と同じものかと考えていた。「ハバ」は仲間はずれ、という意味であり、信長とその近習たちが傾奇者の格好で人も無げに振る舞うのは、自分たちを世間の除(の)け者と規定し、家臣にもそのものズバリの名を使わせていたのではないか、というわけだ。「珍走族」の若者たちが奇抜なグループ名を名乗るのと似通っている。 だが、どうやらそれだけではなかったようだ。実は、「半羽介」のハバは、大蛇の代名詞でもあるのだ。『古事記』などを見ると、ヤマタノオロチを退治した素戔嗚尊の剣の名は「アメノハバキリ(天羽々斬)」なのだが、これはハバを斬るための天剣という意味である。つまり、ハバ=大蛇なのだ。 信長は、信頼する信盛に大蛇と名乗らせて、名前の上からも身の回りを蛇で固めていたということになる。信盛もまた信長の思想に賛同し大蛇の名を喜んでわが身に承(う)けた。そして家来たちはみな信長の大蛇信仰に同調し、集団でその力を追い求めていく。自分の手を焼いてでも信長が許せなかったこと 『信長公記』には、この蛇池のエピソードに続いてもう一つ、興味深い話が収録されている。それは、信長の身内と言ってもよい、乳兄弟(信長の乳母の子)にあたる池田恒興(つねおき)に関するものだ。信長の家臣・織田信房の家来と、同じく家臣・恒興の家来とが刃傷沙汰を起こし、裁判に持ち込まれる。ここで信長が命じたのは、「火起請(ひぎしょう)にせよ」ということだった。 火起請とは当時しばしばおこなわれた判定方法で、炎にくべ真っ赤に熱した手斧などの鉄製品を握らせて所定の場所に置くことができればその者は正しい、あるいは勝ち、ということになる。信長はこれを「三王社の前」でやらせたのだが、これは山王社=日吉神社の前だろう。清洲城跡の南、800メートルほどのところに三王日吉神社が鎮座しているのがおそらくそれだと思われ、この神社の由来にもこの話は自社でおこなわれたとされている。 かつて清洲の総氏神=名古屋の中心的神として大切にされていた神社。その社域の前ということではなく、当然火起請は神前でおこなわれた。つまり神の判断を仰ぐという意味である。 その場で、恒興の家来は焼けた手斧をつかむことができなかった。ところが、恒興は信長の乳兄弟という立場を利用して家来をかばい、命を助けようとしたのである。 これを聞いた信長は、怒った。現地におもむいて関係者全員を前に「どの程度まで手斧を焼いたのか、見せよ」と命じると、再び真っ赤に焼かれた手斧をわが手で受け取り、スタスタと3歩歩いて棚に置き、「見たか」と周囲を見渡し、恒興の家来を成敗させた。信長が火起承を行った日吉神社の境内にある申の像(中田真弥撮影) なんともすさまじい話であるが、重要なのはこれが日吉神社の神前だったという点だろう。日吉神社は津島の牛頭(ごず)天王信仰とも関係が深いといわれる。この神社の祭神・大山昨神(おおやまぐいしん。五穀豊穣、植物の成長を司る)はその本家・比叡山の日吉神社が猿を神の使いとし、「真猿」=魔が去る=厄除けの利益をもたらしてくれる神であり、魔除けに余念がなかった信長には大切な神だった。さらにそれだけではなく、厚く尊崇する素戔嗚尊も祀られていたから、その神慮を無視して私欲を優先しようとする恒興を許すことができなかったのだ。 灼熱(しゃくねつ)した鉄で自らの手の肉を焼くというすさまじいやり方をとってまで神意をはばかった信長。その姿は、無宗教主義者というレッテルからかけはなれたものというほかないではないか。 

  • Thumbnail

    記事

    「日本の借金1108兆円」NHKの歪んだ報道が国民をさらに惑わす

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) たまたまNHKを見ていて非常に懸念を抱いたニュースがあった。「来年度予算案 1100兆円の借金 財政の先行き一段と不透明に」という記事で、インターネットでも読める。 簡単に要旨を書くと、政府予算案の規模が大きく、歳出が増加する一方で歳入では国債の発行額が3分の1を占めるのが問題と指摘する。そして、来年度末には国と地方を合わせた「借金」が1108兆円に上り、「先進国中最悪」になることに警鐘を鳴らすものである。報道は、このような財政状況が若い世代に将来不安をもたらしていると結んでいる。筆者から見れば、このようなNHKの報道こそが、財政状況へのゆがんだ認識を広めることで、若い世代に不安を与えていると思う。東京都渋谷区のNHK放送センター まず、どこがゆがんでいるのだろうか。それは政府の「1108兆円の借金」という見方である。単純に、日本の財政は借金=負債だけが存在するのではなく、資産も存在している。政府の持つ資産と負債を比較して、その上で事実上の「借金」を特定すべきである。負債の方が資産を上回っていれば、それを「純債務」と名付けよう。ただし、この純債務の大小だけがわかっても財政状況はまだ判断できない。だが、ここまでの議論を「政府のバランスシート問題」と名付けておく。 たとえ借金の方が資産よりも多くても、将来それが返済可能であれば問題はない。つまり返済できる金額と返済しなければいけない金額を比較して、それがほどほどのバランスであればまず問題はない。以下ではこの点を「政府のバランスシート問題」の観点から検討する。 政府の資産と負債を比較できるバランスシートを見る重要性は繰り返し指摘されてきている。今回のNHKニュースに代表されるような「政府の借金(負債)」の大きさだけに注目するのは全く妥当ではない。これでは国民が財政再建、増税路線、緊縮政策といった特定の政策に誘導されてしまうだろう。実際NHKニュースでも、いまのところ再来年に実施される消費増税が、教育無償化などに使われることよりも、むしろ国債償還という「借金」返済に使われるべきだとの趣旨として読むことができる。だが、そのような誘導はもちろん真実への誘導ではない。誤解への誘導である。「政府+日銀」の保有を無視するのか 政府のバランスシートの最新版は以下の通りである。 これを見ると平成27年度末で、政府の純債務はマイナス520兆円である。前年度よりも30兆円近く増えているし、ここ数年でもその傾向はある。だが他方で、この純債務と日本の名目国内総生産(GDP)を比較すると、名目GDPが同年度で531兆円なので約98%である。 さらに政府の概念をより広げてみよう。特に日本銀行との関係が重要である。数年前に日本経済新聞の紙上で、コロンビア大学のデイビット・ワインスタイン教授は、日銀の金融緩和政策を好意的に評価したうえで、日銀はその保有する国債を永久に所持できる(実際には償還期限がきたものから日銀のバランスシートから剥落)と指摘している。この考え方を採用すると、広義の政府、つまり統合政府は「政府+日銀」となる。両者のバランスシートのうち国債保有の関係だけをみると、日銀は現状で国債を438兆円保有している(営業毎旬報告12月20日)。参照:財務省 政府部門の最新のものは、2015年3月末までなので類推しなければいけない。いま年度ごとの純負債の増加額が、毎年度約30兆円としておくと、現時点の政府と政府関連機関の純債務は571兆円と考えられる。対して日銀の現時点の国債保有額が438兆円なのでこれを571兆円から引き算すると、統合政府の純債務は現状では、133兆円である。名目GDPは約540兆円としておこう。すると名目GDPと純債務の比率は、約25%になる。これは同様の推計をした2014年末の比率では、約41%なので大きな縮小である。 このような統合政府からみた見解を、どうもNHKは無視したいようである。NHKがなぜ無視したがるのか、記事には載っていないのでわからない。だがしばしば国の借金だけを強調する論者や政治家たち、マスコミが指摘しているのは「日本銀行のバランスシートを組み込んで、そのような財政膨張を弁護してもやはり財政の信認が失われる」というものだ。日銀の国債保有の「メリット」 この論点については、経済金融アナリストの吉松崇氏が論説「中央銀行のバランスシート拡大と財政への信認」(原田泰・片岡剛士・吉松崇編著『アベノミクスは進化する』中央経済社)で集中的に検討している。簡単に要旨だけ書く。日銀が「質的量的金融緩和」で多くの国債を保有している。日銀の保有する国債からは金利収入が発生する。他方で日銀当座預金には0・1%の金利がつき、この部分は民間銀行に支払われる(実際の日銀当座預金への金利適用は複雑だがここでは単純化する)。だから金利収入からこの0・1%を引いたものが、日銀の得る通貨発行益(シニョレッジ)となる。 吉松氏の解説の通り、この通貨発行益は、日銀の収益であると同時に、国庫に納付するため事実上の国の収益である。つまり通貨発行益がプラスで推移していくことは、日銀の国債保有が政府にとってもメリットがあり、狭い意味での政府の財政を安定化させることに寄与しているということだ。 なお、日銀の説明ではもっと単純に「日本銀行の利益の大部分は、銀行券(日本銀行にとっては無利子の負債)の発行と引き換えに保有する有利子の資産(国債、貸出金等)から発生する利息収入で、こうした利益は、通貨発行益」としている。2017年12月、記者会見する日本銀行の黒田東彦総裁(桐原正道撮影) 日銀の公式の説明通りだと、昨年度だと国債の利息収入(貸出金の利息収入は小規模なので無視する)は、1兆1800億円超である。今年度はそれ以上のペースで増加しているようだ。もちろん吉松氏が指摘している通り、この金額は財政の安定に寄与している。 さらに、日銀の国債保有は「インフレ税」の面でも政府の財政安定化に寄与している。もし日銀がインフレ目標を実現すれば、その実現の過程ないし実現後に、固定利回りの国債やその他の債券を保有している人たちは、名目金利が上昇し債券価格が低下することで「課税」されたことと同じ現象が生じる。これをインフレ税という。もちろん政府はこの分だけ、インフレになったことで国債の償還の負担が軽減される。このインフレ税の増加はもちろん政府の財政安定化に貢献するだろう。 ただし吉松氏も指摘しているように、通貨発行益もインフレ税も日本が事実上のデフレの間や、インフレ目標が達成され、しばらく金融緩和基調が続く間だけの「一時的な財政安定化」の効果しかもたない。もちろんそれでも大きな効果だ。ただし、さらに恒久的な財政の安定化は、インフレ目標の達成により経済成長が安定化し、税収が増えていくことで実現されていく。 要するに、日本の財政の維持可能性、つまり日本の財政危機は、きちんとした政府と日銀のマクロ経済政策の成功か失敗かに依存しているのである。今回のNHKに代表される「政府の借金」論の偏った報道こそが、この正しい政策の見方を誤らせ、ただの増税主義へ国民を誘導しかねないだろう。

  • Thumbnail

    記事

    アベノミクス批判本に徹底反論! なぜ「成果」を過小評価するのか

    アベノミクス期間中の雇用の改善を否定し、過小評価する傾向があるからだ。(iStock) もちろんこの連載の読者ならばおわかりだろうが、雇用状況にはまだまだ改善する余地がある。だが、それは雇用の停滞という状況ではない。雇用はアベノミクス導入以前に比べると改善しているし、その成果は金融緩和の持続に貢献している。それに加えて、もちろん海外経済の好調もある。 金融緩和の雇用改善効果は、国内的には消費増税、国際的には2015年ごろの世界経済の不安定化によって一時期低迷したが(といっても底堅い状況だった)、現状では再び改善の度合いを深めている。ただし、消費の停滞は消費増税の影響が持続しているとみなしていいので、その面から日本の雇用の改善は抑制されてしまっている。 金融緩和や財政政策の拡大による経済政策を採用することで、雇用状況はさらに改善するだろう。例えば、より一層の失業率低下や賃金上昇、労働生産性の上昇などがみられるだろう。 さて、服部氏の主張を簡単にまとめておこう。1)アベノミクス期間で就業者数は増えた。ただし、それは短時間就業者が増えただけで、「経済学上の正しい雇用あるいは就業の指標」である「延べ就業時間」でみるとむしろ減少した。2)また、実質国内総生産(GDP)を述べ就業時間で測った労働生産性だと、その上昇率はほぼゼロにまで低下している。3)安倍政権は2%の実質経済成長率を目指しているが、そのためには延べ就業時間を増加させるか、労働生産性を上昇させるか、あるいはその両方が必要である。だが、1)2)により実現は不可能に思える。特に、延べ就業時間増加率は人口構造の変化(現役世代の減少)からゼロとみても楽観的なので、労働生産性次第になる。ところが、2)もほぼゼロなので、安倍政権はその目的を達しない。4)「労働生産性の上昇なき雇用の改善は、政策の成果ではなく、失敗なのである」(同書94ページ)。雇用状態より失業がマシ? 以上が、服部氏の「雇用は増加していない」という主張である。働く場が増えることは失業している状況よりも望ましいと思うが、服部氏はそのように考えていないということだろう。 まず延べ就業時間数だが、例えば労働力調査をみてみると非農林業の延べ就業時間(週間)は、民主党政権の終わりの2012年の23・58億時間から2016年は23・60億時間になっている。確かに、この数字だけみると、安倍政権は民主党政権と比べて雇用が全く増えていないということになる。他方で就業者総数は増加しているので、パートや高齢者の再雇用といった短時間労働が貢献しているかのようである。 だが、現状では、短時間労働の原因ともいえるパート労働などの非正規雇用の増加は頭打ちともいえる状況だ。最新の統計だと、2カ月ぶりに5万人ほど増加したにとどまる。対して正規雇用は、正規の職員・従業員数は3485万人。前年同月に比べ68万人増えて、35カ月連続の増加となっている。 それに加えて、服部氏はどうも失業よりも雇用された状態がいいとは思っていないのかもしれないが、専業主婦層のパート労働の増加は家計の金銭的補助となるだろうし、また高齢者の再雇用もまた経済的な助力になるだろう。延べ就業時間の「低迷」をいたずらに過大評価すべきではない。服部氏もそれを冒頭の番組で援用した島倉氏も、働くことができる人間的価値を軽視しているのではないか。また、最近では正規雇用の増加が進んでいるので、2017年の統計は服部氏目線でもさらに「改善」されている可能性が大きい。(iStock) 次に労働生産性についてである。服部氏の定義だと確かにゼロ成長率になる。ただ、この労働生産性の定義の場合、景気が回復していけば、延べ就業時間総数が一定でも実質GDPは事後的に増加していく。現状のような総需要不足の状況であれば、それを解消していくことで実質GDPは増加し労働生産性も伸びていく。それだけの話にしかすぎない。ちなみに、総需要不足の失業がある段階で、労働生産性の向上を重視するのは奇異ですらある。なぜなら失業のプールから雇用されていく人たちは限界生産性が低い人たちであり、そのため労働生産性は低下するからだ。先に指摘したように、どうも職を得るよりも服部氏らは労働生産性が重要なのだろう。しかしそれでは国民の幸せは向上しないだろう。 また、労働生産性の伸びがゼロに近くとも、正規雇用が増加し続け、それにより延べ就業時間も増加すれば、服部氏の定義でも問題はないだろう。そうであれば、答えは簡単だ。現状の「雇用の増加」傾向を強めることが必要である。そうである以上、少なくとも現状の金融緩和の継続をやめる理由はないし、また財政政策は現在明るみに出ている事実上の「増税シフト=緊縮主義」をますます正す必要があるだろう。

  • Thumbnail

    記事

    大谷翔平が「和製ベーブ・ルース」などおこがましい

    小林信也(作家、スポーツライター) 大谷翔平選手の米大リーグ、エンゼルス入団記者会見は、華やかで期待の大きさが伝わってきた。  マイク・ソーシア監督が二刀流での起用・育成を明言し、メジャーでの大谷の方向性も見えてきた。少し前まで、メジャーでの二刀流挑戦は悲観的に見られていた。投手か打者か、どちらかに絞っての契約になるだろうとの空気が大勢だった。ところが、大谷自身が日本ハムで投打に実績を挙げたこともあって、メジャーでの二刀流挑戦が現実になった。 それ自体に異論はないが、記者会見や一連の報道を見ていて、不思議な違和感ばかりを覚えるのは私だけだろうか。騒ぎ方と現実のギャップ。胸騒ぎといったら言い過ぎだが、宣伝文句やはやし立てるフレーズばかりが先行して、「本当に大丈夫か?」という不安に答えてくれるような問答はほとんどなかった。 大谷の課題ははっきりしている。まずは右足首のケガだ。今季は手術を受けずにプレーし、シーズン終了後の10月12日に有痛性三角骨を除去する内視鏡手術を受けた。無事成功し、リハビリも終えて2週間後に退院したと日本ハム球団から発表されているが、なぜかこのケガについては楽観的に報じられ、あまり騒がれていない。今季の登板が5試合にとどまった原因だけに、回復が期待もされるし、懸念もされる。本当に「二刀流」を無理なくこなせるまでに快復したのか、まずはそこが気になるところだ。「4番・投手」で先発した日本ハム・大谷翔平投手=2017年10月4日、札幌ドーム(共同) 次に技術の課題だ。投手としては、160キロ台の速球を「当てられる」ことへの疑問と不安が日本球界でも語られていた。藤川球児のようなホップする(浮き上がる)速球とは違う。速いけれど素直な球質がメジャーに行って、どう出るのか? 力勝負のメジャーリーグ。打者たちの大半は日本の打者のようにコツコツは当ててこない。思い切ったフルスイングが多いから、「球速の餌食になってくれる」との見方もできる。だが一方で、「速い球にはめっぽう強い」打者がそろっているから、ガツンと行かれる可能性も否定できない。 もちろん、大谷投手にはフォークボールとブレーキの鋭いスライダーがあるから、勝負どころでは低めの変化球で打者を翻弄(ほんろう)できる。160キロ台の速球と混ぜたら、メジャーの強打者のバットがクルクルと空を切る光景も容易に想像できる。だが、勝ち星と負け数が拮抗(きっこう)する、あるいは負けが勝ちを上回るような厳しさを経験する可能性はある。いずれにしても、ただ球速を求めるのでなく、「速球の質」を深めることが投手・大谷の課題であり、成長への道だろう。その手がかりをどうやって得るのか、メジャーにそのヒントがあるのか? もちろんそれは「企業秘密」だろうが、その点はいままったく触れられていない。大谷自身が、球質を変える意欲を持っているのかどうかさえ、わかっていない。  違和感を覚えた一因は、そうした本来すべき質問がまったく飛ばなかったことだ。期待に終始し、大谷を持ち上げる方向でばかり記者会見が進む。日本のメディアの面々もすっかりその雰囲気にのみ込まれ、普段は当たり前にする厳しい質問をする意志があらかじめ制圧されていた。あれは「お祝いの席」だから、それで文句はないけれど、シーズンが始まれば、現実は自(おの)ずと明らかになる。まるで芸能人の結婚会見 打撃の課題は、厳しい内角攻めへの対応だ。会見から帰国後の自主トレ風景を見ていても、左脇の甘さが目立つ。外の変化球を混ぜ、最後はインハイ(内角高め)に鋭い快速球を投げ込まれたら打てるのか? データ解析が徹底して進んでいるメジャーリーグで、こうした弱点があれば苦しい。これをどう乗り越えていくのか、投手としての課題同様、ほとんど問われることはなかった。 つまり、大谷翔平のエンゼルス入団会見は、「芸能人の結婚記者会見」のような内容で、野球選手としての本質にはほとんど触れられていなかった。それが違和感の根元かもしれない。 二刀流が実現すれば、野球の歴史を変える素晴らしい快挙だ。メジャーリーグの長い歴史の中でも、ほとんどそのような選手は現れていない。 「日本のベーブ・ルース」という形容がしばしば使われたが、大谷翔平とベーブ・ルースのイメージはまったく違う。「同じシーズンに投手で10勝を挙げ、打者で10本のホームランを記録した唯一のメジャーリーガー」がベーブ・ルースだ。大谷が2014年と2016年にそれを記録したことから、日米の二刀流の双璧と呼びたいのだろう。だが、体形やイメージからして二人は全然違う。ベーブ・ルースはどう考えても「二刀流」より「世界のホームラン王」として名高い。いまの大谷をベーブ・ルースと呼ぶにはいかにも早すぎる。 だが、ベーブ・ルースの名前をここに持ちだしてくるのは、それほどメジャーでも二刀流が希少だということだ。それに、データを調べればすぐわかるが、ベーブ・ルースは決して「二刀流」を目指していたのではなさそうだ。 「プロ入り当初は投手としても活躍した」という表現が正しい。最初に入団したボストン・レッドソックスでは、打者というより左腕投手として活躍が期待された。1年目の1914年こそ2勝1敗にとどまったが、2年目は18勝8敗、3年目は23勝12敗、4年目も24勝13敗。エースと呼ぶにふさわしい活躍を見せた。しかし、5年目は13勝、6年目9勝にとどまったところで、トレードが待っていた。1920年、ニューヨーク・ヤンキースに入団すると、今度は打者に「転向」。投手としての出場は毎年1試合か2試合となった。米大リーグ、エンゼルス入団会見の後に記念撮影に収まる大谷翔平投手(中央) =2017年12月9日、エンゼルスタジアム(撮影・リョウ薮下) いわゆる二刀流と呼べるのは、ボストンでの最後の二年間。勝ち星が少なくなるのは、徐々に打者としての出場が増えたからだ。 実はここ数年のメジャーリーグで「二刀流」は大谷の専売特許ではない。アマチュア時代に投打で活躍したジョン・オルルドらルーキーたちが何人か二刀流に挑戦したが、結局、どちらかを選んだ現実がある。 私の違和感のもうひとつは、投手としては打たない、打者としては守らない、それで二刀流と呼べるのか? ということだ。大谷本人もこれは会見で語っていたとおり、「ひとつの試合で両方やれるのが理想」である。それならば、なぜ指名打者(DH)制のないナショナル・リーグを選ばなかったのか? と突っ込みたくなった。

  • Thumbnail

    記事

    日本人医師の快挙を黙殺 「報道しない自由」はなぜ行使されたか

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) 医師でジャーナリストである村中璃子氏が、科学的に権威のある雑誌『ネイチャー』が主催するジョン・マドックス賞を受賞したニュースから、改めて日本のマスメディアの特異な現象を目の当たりにした。いわゆる「報道しない自由」ともネットなどで批判される態度である。 ジョン・マドックス賞は、公益に資する正しい科学や根拠を、困難や敵意に直面しながらも、人々に広める努力をした人に与えられるものである。ジョン・マドックスは『ネイチャー』の編集長を長期間務めたことで有名で、その功績を記念して2012年から続いている賞である。ジョン・マドックス賞が日本人に与えられるのは初めてであり、『ネイチャー』のもつ権威と国際的な知名度からも、村中氏の受賞は報道の価値が極めて高いものだったろう。 だが、現時点で、新聞では産経新聞と北海道新聞のみが伝えただけである。テレビ媒体は筆者の知る範囲ではまったくない。他方で各種のネット媒体では広く関心を呼び、大きく取り上げられていて、何人もの識者やネット利用者たちが話題にしている。ただし産経以外では、新聞やテレビ系列のネット媒体に記載はない。 当の村中氏はこの機会に自身の貢献を、あらためてネットを中心に訴えているところだ。だがマスメディアの代表であるテレビと新聞の大半は沈黙したままである。まさに「報道しない自由」が行使されているといっていいだろう。 そもそも村中氏の貢献は何だったのだろうか。ジョン・マドックス賞のホームページによれば、子宮頸(けい)がんワクチン(ヒトパピローマウイルス(HPV)ワクチン)について、科学的に正しい証拠に基づき多数の記事を書いたそのジャーナリストとしての功績に与えられている。(iStock) 子宮頸がんワクチンについては、世界保健機関(WHO)や医学界でその効果が認められているにもかかわらず、誤情報に基づく国民的キャンペーンによって、日本の同ワクチンの接種率は70%から1%に急減してしまった。村中氏は訴訟に遭遇し、また自身の社会的立場への恫喝(どうかつ)などに抗して、子宮頸がんワクチンの安全性の啓蒙(けいもう)に努めたことが直接の受賞理由である。村中氏は訴訟を含めてどのような困難に遭遇してきたかは、Buzzfeed Newsの記事が詳しい。また村中氏自身も受賞スピーチの中でその活動を伝えている。「報道しない自由」というコーディネーションゲーム 子宮頸がんそのものの情報は、国立がん研究センターの情報がわかりやすい。この情報によれば、年間の罹患(りかん)者数は1万人を超え、死亡者数も年間3千人近い。「年齢別にみた子宮頸がんの罹患率は、20歳代後半から40歳前後まで高くなった後横ばいになります。近年、罹患率、死亡率ともに若年層で増加傾向にあります」と記述にあることは注意すべきだろう。 子宮頸がんワクチンは、2013年に定期接種化されたが、痛み、記憶障害、運動障害を訴える人たちが現れたのを契機にして、新聞やテレビなどの大メディアではワクチン接種へのネガティブキャンペーンが生じた。これをうけて厚生労働省はワクチンの接種勧奨をとりやめたという経緯がある。 この事態に対しては、WHOは警鐘を鳴らし、また日本産科婦人科学会でも何度も接種勧奨の再開を表明している。つまり専門家集団ではワクチンの接種についてはその有効性について共通の理解があるようだ。スイス・ジュネーブにある世界保健機関(WHO)本部(IStock) 経済学者の高橋洋一嘉悦大教授は、ワクチンの接種には副作用があることを指摘しつつ、ただし「どのようなワクチンにも副作用があるが、それを上回るような効用がある場合、接種が許される。子宮頸がんワクチンの場合にはデータがあるので、副作用がデータから逸脱していたかどうかを、厚労省はより慎重にチェックすべきであった」と主張している。これはひとつの合理的な態度だといえるだろう。 ただし、ここではなぜ新聞やテレビで「報道しない自由」が生じたのかを考えたい。産経や道新だけが例外であった。道新は村中氏が北海道出身なので取り上げたともいわれているが、続報はない。これは一種のコーディネーション(協調)ゲームといえるだろう。 コーディネーションゲームとは、ゲームに参加するプレーヤーがみんな同じことをすることが全員のメリットになることをいう。ゲームとは、遊戯を指すのではなく、人のあらゆる相互作用、あらゆる社会的行動を指すことができる社会科学で主に利用されているワードだ。この場合のゲームは村中氏の受賞を伝えるか伝えないかのゲームである。そしてプレーヤーは、新聞やテレビということになる。ネット媒体はこのケースではゲーム外のプレーヤーともいえ、いわばマスメディアとネット言論は分断されているともいえる。典型的だった「VHS対ベータ」 コーディネーションゲームを考えるときに、しばしば持ち出される日本の事例としては「VHS対ベータ戦争」の帰結がある。VHSとベータとは、家庭用ビデオデッキの再生機器の名称だ。1980年代にどちらの規格がいいかで経済「戦争」が生じた。結果として国内ではVHS派が勝利し、ベータ派は負けた。だが、ベータの方が性能はいいとの評価は当時からあった。だがそのような評価は、みんながVHSを選ぶ前では意味を失っていた。(iStock) 確かに、みんながVHSの規格を選ぶと、それ以外の少数の規格をもつ人は友人同士のビデオの貸し借りでも不便だろう。レンタルビデオショップでも最初は両方あったが、次第にVHSのみが置かれるようになり、ベータ派はここでも不利だった。 このようにプレーヤー全員が同じ戦略を選ぶことで、その戦略の帰結が本当に社会的に望ましいか否かに関係なく、このコーディネーション(協調)が安定化してしまうことになる。例えば、日本では長く経済停滞が続いたが、それを打破しようという政策当事者はいまも少数派である。大多数はメディアも含めて、経済成長否定やただの財政再建論者のたぐいである。例えば、NHKの「日曜討論」などのテレビ番組に、デフレ脱却論者がでるケースはまれである。 むしろ、国際的にはデフレ脱却論が優勢で事実としても政策の有効性が認められているのに、テレビや新聞ではデフレ志向の論陣の方が圧倒的である。これは多数の前では多数に従うという、物事の良しあしを無視した現象の一例だろう。例えば、私の知人にも某経済系メディアに務める知人がいるが、彼は筆者の文化関係のつぶやきはリツイートやお気に入りをするのだが、立場上なのか経済政策の話題にはまったく反応しない。Twitterは私的な活動のはずだし、特に経済問題で意見の違いがあるわけではないのにも関わらずである。空気を読むとはそういうことなのかもしれない。 さて社会的帰結が望ましいにも関わらず、そうでない協調行動がとられてしまうと物事は厄介である。その安定性を突き崩すことはプレーヤーの数が多ければ多いほど難しいとされている。産経新聞も大メディアだし、ネット世論も今日かなりの威力をもつ。また海外からの今回の声もあるが、それらは「報道しない自由」というコーディネーションゲームの安定性を変更するほどではない。現時点では。 私見では、子宮頸がんワクチン接種反対派の意見も含めて、今回の村中氏の受賞や海外の事例を紹介することは、報道の多様性と意見の自由を担保とする観点からも重要だと思う。いまの新聞やテレビは、報道しない自由という悪いコーディネーションゲームに陥っている。 この悪い均衡、つまり「報道しない自由」を打ち破るには、ゲームのルール自体を変える必要がある。日本のマスメディアは率直にいって官庁の広報団体的な側面が強い。お上の意見に従う傾向が強いのだ。ならば、このあしき均衡はおそらく政治側からしか変更はできないだろう。それはそれでメディアの在り方として情けないことは確かだ。それでも、今回の一種の「外圧」は、この政治側のアクションを引き起こすひとつの契機かもしれない。

  • Thumbnail

    記事

    「中学生と練習したらセンバツ辞退」高野連のバカ規則にモノ申す

    小林信也(作家、スポーツライター) 中学生を練習に参加させただけでセンバツ推薦を辞退? そんなバカな「教育」があるか! ここ数日、高校野球の「不祥事発覚」のニュースが新聞やインターネットで報じられている。その中で、どうしても納得のいかない問題を一つ指摘したい。 暴力や飲酒、喫煙が「不祥事」と呼ばれるのはやむを得ないが、「中学生を練習させたこと」「そこに監督が立ち会っていたこと」が「不祥事」、つまり「高校野球が絶対にやってはいけない悪事」とされる報道を不思議に思った読者はいないだろうか。野球以外の他種目で、中学生を練習に参加させただけで厳罰を受ける競技があるだろうか。いや、日本以外の海外で「中学生と一緒に練習して悪者にされる国」なんてどこに存在するのか。 今回のケースは処分ではなく、正確にいえば自ら辞退を申し出たのだが、来春のセンバツ大会で21世紀枠候補だった市立川越高校はどのような経緯で辞退を申し出たのか。それを報じた新聞記事は次の通りだ。 日本高野連は5日、来春の第90回選抜高校野球大会の21世紀枠候補に埼玉県高野連が推薦した市川越から、監督らの不祥事のため一般枠を含めて推薦を辞退する申し出があり、了承したと発表した。 高野連によると、市川越の顧問は11月に中学生を練習に参加させ、監督も同席していたという。5日の審議小委員会で、処分を日本学生野球協会審査室に上申することを決めた。サンケイスポーツ 2017年12月6日 読者の皆さんはこれを読んで何が問題なのか、すぐ理解できただろうか。高校野球の関係者には分かる。だが、それは世間一般の良識に照らし、「本来あるべき姿」から考えてどうなのだろう。2017年10月、秋季高校野球埼玉県大会決勝の花咲徳栄戦、七回に同点に追いつき喜ぶ市川越ナイン=県営大宮公園球場(飯嶋彩希撮影) 簡潔に言えば、高野連は中学生との接触を厳しく制約している。高校野球の監督が中学生を指導するのは禁止。高校の野球部員が中学生に指導することも規制されている。今回の市川越も、高野連のルール上、明確な違反行為があったとして、せっかくの「センバツ出場」の望みがこれで泡と消えたのである。 今回の出場辞退をめぐり、私が問いたいのは「中学生の練習参加、中学生と高校生の交流がそんなに悪ですか? そもそも禁止するようなことですか?」という点だ。 夏休みや冬休みで高校の練習が休みになる前、高校野球部の監督や部長は選手たちに「出身の中学野球部の練習を見に行くのはいいが、後輩に指導をしてはいけないぞ」と注意しなければならない。もし、指導する光景を目撃され「告発」されたら、その高校の野球部は処分を受けるからだ。私は、それを厳しく選手に通達するある高校野球部長の姿を見ながら、「この人、教育者として矛盾を感じないのか?」と思った経験がある。良識あるファンたちよ、声をあげろ! 大好きな野球、高校で学んだことを後輩に教えたい気持ちは「悪」だろうか。それが「未熟なのに教えるなんて」という理由ならまだ理解できる。そうではなく、親しく指導することが「勧誘行為になる」。それが規制の理由というからますます言葉を失う。実際に、甲子園にしばしば出場する高校の監督の多くが、熱心に中学生を誘い、訪ねてくる中学生に練習の機会を与える。良ければ「1年夏から4番で使う」と約束したなどの逸話は、その選手の同伴者から直接聞いたことがある。そんな逸話は山ほどある。いずれも有名な監督たちだ。 数年前には、ある私学の監督からこんな嘆きを聞いた。「うちは中高一貫ですから、中学3年生も夏の大会を終えたら高校の練習に参加させていました。ところが、センバツ出場が決まった年、高野連から厳重に注意を受けました。誰かが高野連に告発したらしいのです。以来、同じ学校の中学生でも、春休みになるまで一緒に練習させるのはやめました」2016年3月、センバツ開会式で励ましの言葉を述べる日本高野連の八田英二会長=阪神甲子園球場(代表撮影) サッカーなどは、中学3年、高校3年の夏から受験期にかけて、半年以上もブランクを作る弊害をいち早く問題視して、できるだけ空白期を作らないよう、3年生の冬にも大会を開催し、競技が続けられるよう配慮している。野球界はほとんどそんな発想を持たず、半年以上もチームの練習から離れる現実を放置し続けている。それどころか、中学生が高校生に混じって練習することを「悪」とし、環境を狭めている。 なぜ高野連は「一緒に野球をすること自体が悪」という、自家中毒みたいな状態を自ら作っているのか。すべては「勧誘行為の禁止」という、野球が隆盛していた時代、行きすぎた競争を防ぐために作られた自主規制だ。 時代は変わっている。野球界は今、「野球少年の減少」「野球への好意的なまなざしの減退」という深刻な問題に直面している。野球を楽しむ環境がどんどん減っている。サッカー、バスケットボールなど、他の競技の人気上昇や多様化があって、野球を選ぶ少年が激減している。そんな中で、いつまでも偉そうに狭い組織の中でしか通用しない常識や権力を振りかざし続ける高野連は、まさに野球衰退の根源そのものだ。それのどこが「教育的」なのか。 良識ある野球ファンたちが声をあげて、「その程度の過ちで、市川越の辞退を受け入れるな」「規則そのものがおかしいのだから、即刻、規則を変えてもっと自由に交流させるべきだ」と改善を働きかけたらいい。

  • Thumbnail

    記事

    「首相の関与」は無理筋だった? 森友問題で一変した朝日新聞の責任論

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) 森友学園問題は、会計検査院が11月22日に調査報告を国会に提出したことで再び国民の注視を浴びることとなった。森友学園が大阪府豊中市に新設予定だった小学校用地の売却額が評価額よりも低かったことについて、会計検査院の報告は主に2点に集約できる。 一つは、用地の地下に埋まっているごみの量が、国土交通省大阪航空局が当時推計した量の約3~7割であった可能性があり、十分に調査されていなかったこと。もう一つは、その不十分なごみの埋設量をもとに計算された財務省近畿財務局のごみ処理の単価の基礎となるデータや資料が廃棄されたため、会計検査院が会計経理の妥当性について十分な検証ができないと公にしたことである。不十分なごみの埋設調査と、ごみ処理の費用計算の不透明性という二つの事実が、改めて国民に印象を強くした出来事であるだろう。森友学園に売却された国有地のごみ撤去費について、試算額が明記されていた会計検査院の報告書案 森友学園問題の真相については、筆者も含めて何人かの論者は、一部マスコミや野党、そして無視できない数の国民が思うような安倍晋三首相や昭恵夫人の「忖度(そんたく)」や「関与」はないものだと主張してきた。むしろ財務省近畿財務局という一地方部局の担当者の交渉ミスが原因であり、それに加えて公的データや資料の保管・廃棄ルールに不備があったという、財務省の問題とみなすのが妥当であろう。違法性の問題というよりも行政のミスのレベルというのが結論である。 森友学園問題がこれほど過大な注目を浴びてきた背景には、一部マスコミの「印象報道」ともいうべき流れがあることがはっきりしている。例えば、最近情報公開請求していた大学教授らに、財務省近畿財務局は森友学園が設置する予定だった小学校の設置趣意書を開示した。そこに記されていた、森友学園が新設を計画していた小学校の名前は「開成小学校」であり、首相や昭恵夫人の名前や関与は一切記載されていなかった。 これは多くの国民にとっては意外な事実だったろう。なぜならマスコミや野党は、森友学園の籠池泰典前理事長が安倍首相や名誉校長だった首相夫人の「ブランド力」とでもいうものを利用して、さまざまな利益を得ようとしていたという印象を伝えていたからだ。特にそのことが関係官僚たちに、首相や首相夫人と「懇意」である籠池氏に利益を供与する「忖度」をさせたという、マスコミや野党の批判の根源にもなっていたのではないか。メディアのミスリードにハマった国民 だが、実際には籠池氏の小学校には首相や首相夫人とのつながりを明らかに示す資料はなかった。だが、この森友学園問題が政治的に大化けする過程で、マスコミは籠池氏の発言をろくに検証することもなく、そのまま報道し続けた。その中で、あたかも新設小学校が「安倍晋三記念小学校」ではないかという印象を垂れ流すことに貢献したことは明白である。 例えば、朝日新聞は5月9日の記事で「籠池泰典・前理事長は8日夜、取得要望書類として提出した小学校の設立趣意書に、開設予定の校名として『安倍晋三記念小学校』と記載したことを朝日新聞の取材に認めた」と報じた。この記事によって籠池氏と安倍首相との「つながり」の濃さを信じてしまうというミスリードに陥った国民も多かっただろう。テレビなどもこの記事に似た報道を連日垂れ流し続けた。森友学園問題を取り上げた2017年4月2日付の朝日新聞社説 もちろん、朝日新聞はこの一方の当事者の発言を事実検証もせずに垂れ流した責任を取る気はさらさらない。むしろ最近では、どうも安倍首相への「忖度」が無理筋だと思ってきたのか、社説などでは、財務省のミスを追及する責任が首相にある、と論調を変化させている。 例えば、12月1日の社説「森友問題審議 無責任すぎる政府答弁」では、「責任は財務官僚にあり、自分は報告を信じただけ。そう言いたいのだろうか。だとすれば、行政府トップとして無責任な発言というほかない」と書いている。これは以下のように書き換えることができるだろう。 「責任は籠池泰典氏にあり、自社(=朝日新聞)は発言を信じただけ。そう言いたいのだろうか。だとすれば、言論の府としての新聞として無責任な発言というほかない」 実は朝日新聞と似たような報道を毎日新聞もしている。以下は毎日新聞の公式ツイッターでの発言である。「首相がすべきなのは、自身の関与がなかったとしても周辺に『そんたく』がなかったか徹底調査すること」。加計・森友問題の報道に関わってきた記者は指摘します。毎日新聞公式ツイッター(2017年11月16日) これまで散々「首相の関与」をあおってきた末のこの発言にはあきれるしかない。 だが、無責任な報道姿勢が改まることはないだろう。例えば、自民党の和田政宗議員が12月1日朝のブログで、「新しいメモ」でもないものをいかにも森友学園の不正を追及する新資料が発見された、といわんばかりの記事を掲載していると批判している。これはささいな問題に思えるかもしれないが、この種のミスリードの蓄積が「安倍首相は謙虚ではない」「安倍首相は人格的に好ましくない」といった印象へと導いていくのかもしれない。森友学園問題も加計学園問題についても、首相から発生する問題はいまだみじんも明らかになっていないのにである。「安倍擁護」の批判に応える 「われわれは知らず知らずに心の中で魔女裁判を行っているのではないか?」。このようなことを書くと毎度出てくるのが、安倍擁護をしているという批判である。経済政策や安全保障を含めて重大な問題がある中で、あくまで責任が全く明示されていない問題に過度にこだわることの愚かさを指摘しているのである。朝日新聞や毎日新聞に代表されるような無責任なマスコミの報道姿勢を追及することは、政権の政策ベースでの批判と矛盾することはない。実際に安倍政権の経済政策だけでも、前回の論考で消費税増税シフトを批判したように問題はある。報道によってミスリードされている世論の「魔女裁判」的状況の解消を願っているだけなのである。2017年11月、参院予算委で答弁する安倍首相 このようなマスコミの無責任な報道姿勢は、森友学園問題だけではない。朝日新聞がいまでも自社の誇り、もしくは売りにしているものに「天声人語」がある。いまでも入試のための必読アイテムだとか、文章の見本などと宣伝されていることがある。実際にはそんなものではない。 日本銀行の岩田規久男副総裁はかつて『福澤諭吉に学ぶ思考の技術』(2011年、東洋経済新報社)の中で、天声人語はいったい何が議論の本位なのか明示することなく、それを明示したとしても十分に論じることもなく終わってしまう悪い文章であると批判していた。まさに同意である。今回の森友学園問題も、いったい何が具体的な問題なのかわからないまま、「忖度」という議論になりえないものを延々と十分に論じることなく、一方だけの発言を恣意(しい)的に垂れ流していく。そのような朝日の報道姿勢が、そのメーン商品である天声人語にも明瞭だというのが、岩田氏の批判からもわかる。 岩田氏は、当時話題になっていた大相撲力士の野球賭博問題を絡めて以下のように書いている。 多くの日本人の責任の取り方は、福澤(諭吉)の言うように自己責任を原則とする個人主義とはかなり異なっている。自己責任を原則とすれば、裁くべきは法に照らした罪であり、世間が騒ぐ程度に応じて罪が変わるわけではない。メディアは力士が野球賭博をすると大騒ぎするが、普通の企業の社員がしても記事にもしないであろう。しかし、どちらも法を犯した罪は同じであるから、メディアがとりたてる程度で罪の重さが変わるわけではなく、同じように自己責任をとるべきである。 つまり法によらずに、メディアが「罪」をつくり出す風土にこそ現代日本の病理がある。

  • Thumbnail

    記事

    なぜ日本人は日馬富士引退に無関心でいられるのか

    小林信也(作家、スポーツライター) 大相撲横綱、日馬富士が引退した。世間の空気は「やむをえない決断」との認識で一致している。だが、引退会見やその反応を見ていて、複雑な思いも湧き上がってくる。みんなクールだ。日馬富士の引退を惜しむ声があまりに少ない。「身内の感覚」で受け止めた日本人がほとんどいないように感じられる。 もし、これが浅田真央の引退や羽生結弦の引退だったなら、あるいは「甲子園を沸かせたスターの突然の引退」なら、こんなクールに論じられるだろうか。常識論を振りかざす大多数のコメンテーターや街の声に、物心ついたころから相撲ファンだった私は、空虚な思いにかられた。 かつて八百長事件で追放されたメジャーリーグのスター選手に、「嘘だと言ってよ、ジョー!」と叫んだ少年ファンの逸話がある。今回の騒動を振り返り、テレビの前でそんな風に叫んだ少年ファンはいただろうか。引退会見を行う日馬富士 =2017年11月29日、福岡県、太宰府天満宮 横綱の突然の引退を、大騒ぎにこそすれ、多くの日本人は自分と直接関係のない出来事としか感じていない。これが「国技」と呼ばれる大相撲の現状である。残念ながら、相撲はもはやその程度にしか愛されていない。貴乃花親方の相撲人気復活への情熱や危機感も底流は同じかもしれない。 日馬富士は、今回の引退で相撲界に残る道を断たれた。事実上、「廃業」というのが正確な表現だ。 引退会見で日馬富士が自ら振り返った通り、16歳のやせっぽちの少年は、モンゴルからはるばる日本へやってきた。安馬(当時の四股名)は幕内に上がってもなお、ひときわ細く、身体の軽さで相手に圧倒されて敗れる相撲も少なくなかった。それを上回るスピードと闘志、勝利への執念が安馬を幕内上位へと導いた。 相撲は「柔よく剛(ごう)を制する」ものであり、身体の大きさがすべてではない。だが、筋力トレーニングが容認され、力勝負が土俵の趨勢(すうせい)となる中で、巨大化する関取衆を相手に三役を張る地位を得た。さらに大関、横綱へと昇りつめたのは、持ち味のスピードと闘志に加えて、日本の身体文化が伝える内面の力を発揮する術を日馬富士なりにつかんだ証しだった。 横綱は、ただ強いだけでなく、実践でしか継承できない見えない身体文化の継承者である。その横綱を追放して、むしろ厄介払いができたかのような今の空気は、あまりに相撲が軽視されていると言わざるを得ない。もっと言えば、相撲を理解していないからこそできる安易なバッシングにも思える。 日馬富士は引退会見で「相撲が大好きです。相撲を愛しています」と声を大きくして言った。私は素直にこれまでの日馬富士の精進に頭が下がる。日本人が半ば放棄している相撲そして日本独自の身体文化の追求を外国から来て実践し、継承し、愛してくれた。 今回の騒ぎでは、相撲をまるで理解していない人たちが「ビール瓶で殴った」などと断片的な情報に振り回され、最初から日馬富士を「ありえない乱暴者」のように決め付けた感が否めない。暴力やシゴキは、筆者自身も許せないと思うから擁護するつもりはない。「かわいがり」はいじめにつながるシゴキを意味するものだが、普段の相撲の稽古がどのようなものか、それを知っている人と知らない人では認識が全く違う。 強い先輩力士が若い力士に胸を貸し、土俵際まで押させたところで軽く土俵に転がす。何度もそれを繰り返す。「そこからが稽古だ」と言い伝えられている。だから、すぐにへたって起き上がらない力士に先輩力士と周りの兄弟弟子は容赦ない𠮟咤(しった)を浴びせる。悔しさの中で懸命に立ち上がり、乱れた髪に汗と砂をため、必死の形相でまたぶつかっていく風景は、相撲部屋では日常的な、いや正当な稽古そのものである。 それをいじめと声を大にして言えば、いじめになってしまうのが今の世の中である。 むろん、行き過ぎればいじめに変わりないが、その稽古自体は重要な鍛錬として、長く相撲界を支えてきた伝統である。土俵に寝たまま起き上がらない力士の尻を先輩が軽く蹴り飛ばすくらいは、日常的な光景だった。今の時代、それさえも「暴力」になってしまうのではないか。八角理事長の横に座った読売社長 九州場所は、白鵬がまた強さを見せて優勝した。今場所は「張って出る」相撲が目立った。立ち会い、相手力士の大半は白鵬に対して頭を下げ、猪突(ちょとつ)猛進的に頭でぶつかってくる。これに対して、白鵬は平手で相手の頰を激しくたたき、機先を制した。 「ガツン」と鈍い音を発する激しい頭突きも、平手打ちも、日常生活では「暴力」だが、土俵の中では正当な技であり、これを克服しなければ相撲界での躍進はない。日常社会で暴力と呼ばれる以上に激しい肉体のぶつかり合いが相撲の前提にある。 相撲の勝負の中に、このように激しい身体的な接触があることをまったく理解せず、すべてをいじめ、パワハラ、悪しき上下関係と断罪する世間には、言葉は悪いが憤りに近い違和感を覚える。 相撲の稽古といえば「四股」「鉄砲」が有名だ。これさえ正確に語れる日本人はもはや少ないだろう。片足を挙げて下ろす四股の目的が、「足腰を鍛える」、スクワットのような筋トレだと思い込んでいる人が大半だろう。実際、その目的のために選手や生徒に四股をやらせる他種目の指導者も少なくない。四股は本来、「臍下丹田(せいかたんでん)に気を集める」「ハラを鍛える」ために行うものだという。人間の力は、目に見える筋力だけではない。身体の内面から湧き上がる力こそ、人間の持つ素晴らしい潜在能力だ。だからこそ、小さな力士が大きな力士を翻弄できる。 最近は、親方衆でさえ欧米のパワー重視の練習法に影響され、四股や鉄砲の意義を忘れてしまっているのではないかと思うことがある。今回の騒動は、そうした基本の喪失と無関係でない気がする。 貴乃花親方の不可解な行動も、今回の騒動を大きくした一因との指摘はあながち間違ってはいないが、相撲の基本に光を当て「相撲界を再生したい」と切望する親方の真意もまたきちんと伝わっていない。横綱白鵬(右)を破り初優勝を決めた大関時代の日馬富士=2009年5月 新しい時代の流れの中で、古き佳(よ)き上下関係、師弟関係、先輩と後輩の関係をどう肯定的に受け継いでいくか。日本社会が直面する課題を今回の事件は浮き彫りにしている。ビール瓶で殴ることはないにしても、職場でも社会でも、同じような指導やかわいがりは日常的に存在する。私はしばしばそうした光景を目にするし、遭遇する。決して他人事ではないはずだ。まさに「自分たち自身の問題」だと思うが、「相撲界ってとんでもない」といった表現がネット上などでは飛び交う。不思議なほど、「自分たちもそうだ」との認識がないことも、この騒動と日本社会の途方もない不毛さを象徴している気がしてならない。 最後にもう一つ、11月30日に開かれた相撲協会理事会を報じるニュースを見て驚いた。八角理事長の左右を固める人物に目が点になった。 八角理事長のすぐ右隣に山口寿一理事、すぐ左隣には広岡勲理事補佐が着席していたのである。座った場所から見て、理事長を強力に支える「ブレーン」と理解するのが自然だろう。山口氏は、読売新聞グループ本社社長である。しかも、広岡氏は元スポーツ報知記者であり、かつて元巨人・松井秀喜のメジャー時代の記者会見のときにいた「専属広報」ではないか。今の相撲界は、その二人がなぜか中枢にいるのである。「開かれた組織に」という掛け声が、その目的通り公正な方向に発展すればよいが、もし一部の権力やメディアに支配される構造ができつつあるのだとしたら、貴乃花親方の異様とも言える頑(かたく)なさの背景も少しは理解できる。

  • Thumbnail

    記事

    安倍政権の「消費増税路線」が犯す3つの過ち

    1月、衆院本会議で共産党の志位和夫委員長(手前)の質問を聞く安倍晋三首相(斎藤良雄撮影) 筆者はこの連載でも指摘してきたが、野党の消費税凍結は偽の論点だと思っていた。立憲民主党も希望の党も2年後の凍結をうたうものの、その経済政策は、成長を否定する単なる緊縮主義か、または金融緩和への否定的評価に基づくものであった。要するに、今の日本経済がそこそこうまくいっている事態を否定する政治勢力と思えた。そのため消費増税の賛否という偽の論点に釣られることなく、経済政策全体をみる必要性を訴えてきたつもりである。今の国会の論戦では、この「消費増税凍結」がいかに国民の多くを「釣る」ために持ち出されてきた論点が明るみに出ているといえよう。つまり、今の野党は安倍政権を打倒できればそれでいいわけであり、日本の経済政策などまともに考えていないのではないか。 とはいえ、安倍政権が今もまだ消費増税路線を放棄していないことも深刻な間違いである。消費増税を推進する側の理由は、税の公正性、高齢社会にむけての福祉目的、そして「財政危機」への対応の三点を列挙するのが普通である。以下では、消費増税に反対する観点を、これらの賛成側の三つの理由に反論する形で書いてみたい。 日本で最も長く消費増税に反対を続けているのは、八田達夫大阪大学名誉教授である。『消費増税はやはりいらない』(1994年)、『日本再生に「痛み」はいらない』(2003年、岩田規久男氏と共著)などが代表的な著作である。八田氏の消費増税への反対は、消費税が税の公正性をもたらさないこと、高齢化社会の福祉目的として妥当とはいえないこと、そして消費減税をむしろ行うべきでありそのときは所得税改革とともに行うべきだ、という点にある。八田氏の従来の主張を参照しながら、消費増税の抱える問題を深く検討していこう。 税の公正性については、消費税推進派はしばしば「クロヨン」の解消を挙げる。クロヨン(9・6・4)とは、税務署の課税所得の捕捉率をいう俗称であり、給与所得者は9割、自営業者は6割、そして農業者・漁業者などは4割にしかすぎないことをいう。だが消費はすべての人たちが行うので、所得税から消費税に税制の基本をシフトすることは、このクロヨン問題の解消につながる、というのが推進派の理屈である。消費税率が上がれば上がるほど得する人たち このクロヨン解消について、八田氏は消費税はむしろ税率を上げれば上げるほど自営業者たちに「益税」(免税によって消費税を免れる額)をもたらす、第2のクロヨン問題を生み出していると指摘する。例えば、現在の消費税の免税点は年間売り上げが1千万円で基本的に設計されている。もし1千万円の売り上げがある事業者がいて、そのうち原材料費が200万円とすると、残り800万円についての自営業者は56万円の益税を得る。そしてこの自営業者は800万円のうち自分で消費する部分を半分の400万円とすると、最終的にこの人が得する額は56万円から自分の消費した分への課税28万円を引いた28万円になる。 そしてこの最終的に得をする金額は、消費税率が上がれば上がるほど上昇する。この場合、同じ設例で10%に上げると、お得な部分は28万円から40万円に上昇する。このような制度であるかぎり、自営業者など消費税版クロヨンで益を得る人たちは、消費増税の引き上げに反対するインセンティブ(動機付け)を持たない。八田氏は、このような益税の仕組みを正すには、税務署署員の増加など徴税コストをかける必要があるのに、全くなされていないと批判している。高橋洋一嘉悦大学教授も、徴税コストを効率化するために、歳入庁の導入を主張しているが、官僚側の抵抗にあって全く進展していない。八田達夫・大阪大名誉教授 八田氏はさらに高齢化社会の税源としての消費税にも疑問を提示している。高齢化すれば勤労者世代の税負担が増加するから、それを避けるために世代間でより公平な消費税にすべきだというのが消費税導入肯定派の主張であった。これに対して八田氏は次のように指摘する。平均的な所得の人は、所得税から消費税に課税の重心が移動することで確かに働いているときの税負担は減る。ただし老後(例:60歳から85歳まで)でも高い消費税率を死ぬまで負担しなくてはいけない。そのため働いている時代から、老後の税負担の分だけより多く貯蓄していくだろう。これでは税負担が全く変わらない。 そのうえ深刻なのは、働いているときに所得の低い人たちは、所得税で減税や非課税措置を受けているかもしれない。その人たちも現役を引退すると一律で高い消費税を負担する。他方で高所得者たちは所得税から消費税にシフトすることで現役のときは得をし、また高齢になっても低所得だった人たちと変わらない負担になる。低所得の人はもともと減税や無税なので、その意味で税負担は消費税へのシフトでも変化しない。つまり生涯を通じた税負担が、高所得者には有利に、低所得者に不利に作用する。この意味では低所得者層に大きなダメージを与え、「老老格差」とでもいうべきものを深刻化させてしまう。 八田氏はむしろこのような所得格差の深刻化を招く消費増税へのシフトではなく、所得税の強化を図るべきだと主張する。所得税の最高税率は、1986年までは約70%だった。つまり1億円を稼いでもそのうち手元には3千万円しか残らない。ところが、それは高所得者の働く意欲をそぐという理由のもとに次第に引き下げられ、1999年には37%までになった。その後、財政危機を名目にして税率が再度引き上げられて、今は45%である。ところが八田氏は、このような過去20年以上の所得税から消費税への課税シフトの結果、日本の個人所得税の対国内総生産(GDP)比率は、先進国の中で最低になっているという。そのため累進税率を引き上げる余地が十分にあるというのが、八田氏の主張である。3年前、経済復活をおじゃんにした人たち さらにこの高所得者層への所得税率引き下げは、取れるところから税金を取っていないため、90年代から今日まで財政赤字増加の潜在的な要因になっている。他方で、所得税率を上げれば高所得者が働く動機を本当に阻害されるかは全く不明である。おそらく働く動機は大して変わらず、むしろ徴税システムの不備を突く、タックスヘイブン(租税回避地)などを利用した税金対策に努力を傾注するのではないだろうか。 八田氏はまた消費増税シフトが景気の安定化効果を阻害することも指摘している。所得税に経済を安定化する効果があることはよく知られている。例えば、景気が過熱しているときは、人々の平均所得も増加するので、課せられる所得税率も平均的に高くなり、また所得税も増加する。これにより経済の過熱を抑制する。他方で経済が落ち込んでいるときは全く逆のことが起きる。所得が平均的に低いので、課せられる平均税率も低く、また所得税も低い。そのため人々の可処分所得は上昇することで、経済を回復させる効果がある。これを教科書では「自動安定化装置」(ビルト・イン・スタビライザー)と呼んでいた。 だが、最近の政府と財務省はこの機能をすっかり忘れてしまっている。2014年の消費増税が、前年までの経済の復活を全くおじゃんにしてしまった。 日本経済は14年の消費税引き上げ以降、消費を低迷させ続け、いまだに本格的な回復に遠い。八田氏が主張する消費税のさまざまな弊害をみても消費税には現在の日本にとってほとんど利益があるように思えない。むしろ現状では、消費増税シフトを停止し、所得格差をなくす税制に回帰すべきだろう。また14年以降の消費低迷を払拭(ふっしょく)するためには、むしろ消費減税こそが最大の処方箋として考えられると思う。閣議に臨む安倍晋三首相(左)と麻生太郎副総理兼財務相(斎藤良雄撮影) だが消費減税をする政治的資源(ポリティカル・キャピタル)が、安倍政権にないという人たちもいる。憲法改正よりも、消費減税や百歩譲っての永久凍結は難しいらしい。もし本当にそのように政治的に困難であるならば、その真因であるものはなにか。これほどの多数の民主的な支持を得ている政権でさえも実行できないとするならば、その原因こそ、野党や反安倍勢力が声高にいっている「立憲民主主義ならざるもの」ではないだろうか。そしてその正体が、財務省という一官僚集団であることもまたよくわかっていることではないか。そこを批判的に検討できないことに、政治や言論の危機を感じる。

  • Thumbnail

    記事

    強くても横綱失格、日馬富士よりもヒドい白鵬の「物言い」

    小林信也(作家、スポーツライター)嘉風の背中をたたく白鵬(右)。「待った」をアピールしたが認められず、 初黒星を喫した=2017月11月22日、福岡国際センター(仲道裕司撮影) 大相撲九州場所で横綱白鵬が2場所ぶり40度目の優勝を果たした。日馬富士の暴行事件で角界が揺れる中、横綱として結果は出したが、十一日目の黒星を喫した取組で「物言い」を要求するという前代未聞の行動を取り、またも物議を醸した。翌日にすぐ謝罪し、今のところ大きな問題になっていないようだが、日馬富士騒動の発端が白鵬にあったと報じられる中、自身もまたその姿勢や行動を問われる矢面に立つ可能性がある。   問題の場面を再現しよう。白鵬は嘉風に敗れ、土俵下に押し出された。本来ならすぐ土俵に一度戻るべきところ、勝負成立に抗議するように右手を挙げ、やりきれない表情でそのまま土俵下に立ち尽くした。そして1分近く、無言の抗議が続いた。相撲界の伝統に照らせば、「大横綱の暴挙」と言われても仕方がない。だが、行司も検査役(勝負審判)も、ただ呆然と待ち続けるだけで、相撲ファンがこれまで見たことのない、不穏な空気が漂った。 ひとりNHKの実況を担当する藤井康生アナウンサーだけが、「これはいけません」、毅然(きぜん)と白鵬の誤った行動をたしなめていた。ようやく、勝負審判に促され、白鵬は渋々土俵に戻り、嘉風が勝ち名乗りを受けた。 どうやら、「待った」があったはずなのに、勝負がそのまま継続され、成立したことへの抗議だった。 だが実際、この勝負を見る限り、どちらも「待った」をした形跡はない。 時間一杯となり、行司に促され、先に両手を着いて立ち会いの態勢に入ったのは嘉風だ。少し間合いを作って、白鵬が遅れて仕切りに入った。しっかり両手をおろして、先に立ったのはむしろ白鵬だった。その立ち会いを見て、嘉風も立った。ここまでに、勝負を止める理由はひとつも見当たらない。だが、確かに、ビデオテープで見直すと、土俵中央で嘉風のもろ差しを許した直後、白鵬が「ちょっと待った」とばかり、気を抜いて、明らかに戦いをやめ、棒立ちになった瞬間があった。その隙に乗じて一気に押し込んだ嘉風の勢いに圧され、白鵬は土俵を割った。   「ちょっと待った!」と白鵬が思ったのは間違いない。だが、なぜそう思ったのか。謎としか言いようがない。その段階で「待った」を主張するような正当な理由や不備は一切ないからだ。 第三者の目に正当な抗議の理由が見当たらないのに、白鵬の中では「おかしい」と思った。その心理の綾(あや)は、推測する以外にない。 簡単に言えば、あまりに見事に中に入られ、両方の回しを取られた。信じられないほど、嘉風万全の態勢になった瞬間、「そんなはずはない」「待った待った」と言いたい気持ちだったのではないか。白鵬の中ではありえないことだが、規則の範囲で見事に取られただけで、抗議する対象はない。それなのに、白鵬はその有り得ないことが起きたのは相手の素晴らしさのためではなく、何か不備があったからだと瞬間的に思い込んだ。それを白鵬の傲慢と言うこともできるだろう。ありえない態勢への驚きと言い訳、思い上がりが引き起こした「錯覚」だったかもしれない。 取り組み後のインタビューで、嘉風は満面の笑みを浮かべた。  「中に入りたいとは思っていましたけど、気がついたら中に入っていて」 立ち会い、少し遅れ気味に立ったことを聞かれて、こう答えた。  「思い切り当たって行っていつも横綱のペースになるので、根拠のない自信ですけど、横綱に当たられても大丈夫だと、しっかりこう懐に入って行こうと思って、そういう立ち会いをひらめいて、やったら、成功しました」 見事に自分の感覚を表現した言葉である。相撲にはこのような綾があり、その瞬間のひらめきで、ただの力勝負ではない深みが生まれる。まさに名勝負にふさわしい一番が展開された。くしくも白鵬がその敗者になった。白鵬がずっと求めた“後の先”の境地に近いものが、この一番にはあったのかもしれない。あまりに見事に虚(きょ)を突かれた。その事実をすぐ受け入れきれなかったのかもしれない。白鵬に物言える人間はいないのか 白鵬はなぜ、そのような自分本位な誤解を土俵上で感じるほどの傲慢(ごうまん)さと混乱を内部に持ってしまったのか。 白鵬といえば、2015年1月場所後、部屋で行われた恒例の優勝インタビューでも審判部批判を展開し、物議を醸した過去がある。 13日目の稀勢の里戦、軍配は白鵬に上がったが、物言いがついて取り直しになった。その一番を自分から話題にして、「帰ってビデオを見たら、子供が見てもわかる。なぜ取り直しにしたのか。簡単に取り直しはやめてほしい」と訴えた。 敬愛する大鵬親方の45連勝が、後に「世紀の誤審」と呼ばれるミスで止まった(昭和44年春場所)。それがビデオ判定導入のきっかけになったと言われる経緯も挙げて、白鵬は公正な勝負審判を求めた。むろん、こうした提言がタブーになってはならない。白鵬の主張は、相撲界では異例であっても、それを受け入れ、反映する柔軟さ、公正さこそ相撲界は持たなければならない。ところが、次第に、「日本人より日本人的」とさえ言われ、相撲道の精進を尊敬されていた白鵬の雰囲気に変化が起こった。荒い相撲や行動が目立つようになったのである。弓取式前も土俵に立ち続ける白鵬 =2017年11月22日、福岡国際センター(撮影・仲道裕司) 白鵬からすれば、相撲道を求めたいのに、誰も導いてくれない。今の相撲界には、自分が尊敬し、師と仰げる存在がない。双葉山を目指し、「先の先」「後の先」といった相撲の極意とも言われる境地を目指したが、それを共有できる同志が相撲界にいない失望感、孤独感もそれに拍車をかけたのだろうか。 いつしか、奥義を究める発言は影をひそめ、勝負や結果にばかり集約されるようになった。良くも悪くも目の上のたんこぶのような存在だった朝青龍が相撲界を去り(2010年2月)、2013年1月に元大鵬親方が亡くなり、白鵬にとっては重石も頼るべき先達(せんだち)もなくなった。 加えて、新弟子のころから白鵬の師匠であり恩人と言われた現宮城野親方と、大島部屋解散の際、モンゴル人力士受け入れを拒まれたことをきっかけに冷たい関係になった。そして今や宮城野部屋の中に、白鵬とその弟子グループが別に存在するような状況だとも伝えられている。すでに自分自身が親方のような存在になって、白鵬に提言できる存在もいなければ、耳を傾ける意志を持つ先輩や師匠的な人物さえいないのかもしれない。 この出来事からも、親方が相撲道を究めた親方でなく、理事長がビジネスの責任者になってしまった現在の相撲界の難しさが浮かび上がる。本来は、相撲道こそが根元にあり、師匠と力士の信頼関係が基盤になって成立する。横綱になること、優勝回数を重ねること、経済的に繁栄することばかりに重きを置かれた弊害が、今の相撲界を覆い、さまざまな問題を露呈しているように感じてならない。

  • Thumbnail

    記事

    イエズス会が信長を暗殺? 本能寺の変、3つの黒幕説のウソ、ホント

    渡邊大門(歴史学者) 本能寺の変に関しては、朝廷や室町将軍が黒幕だったという説のほかに、いくつもの黒幕説が提起されている。それらの説を確認しておこう。 本願寺教如(きょうにょ)が本能寺の変の首謀者であった、という説がある。大坂本願寺は、長らく織田信長と抗争を繰り広げたことで知られている。天正8(1580)年閏(うるう)3月、正親町天皇の仲介により、両者は和睦を結んだ。大坂本願寺の顕如(けんにょ)は無念の思いを抱きつつ、紀州の鷺森別院へと向かった。 教如は顕如の長男であり、信長との徹底抗戦を主張していた。親子は路線が対立してしまい、顕如は教如と親子の縁を切った。したがって、「信長憎し」の思いを持つ教如ならば、立派な黒幕の候補と言えるのかもしれない。  黒幕説の概要は、以下の通りである。教如上人像(和歌山県立博物館所蔵) 丹羽長秀の率いる織田軍は、紀州雑賀の顕如を攻撃しようとしていた。その一報は、播磨英賀(あが)にいた教如のもとにもたらされたという。縁を切ったとはいえ、2人は親子であり、教如は居ても立ってもいられなかったかもしれない。 一方、正親町天皇は本願寺の滅亡を阻止するため、教如の意向に基づき、光秀に信長討伐を命じた。吉田兼和(兼見)と近衛前久(さきひさ)の2人が仲介役となり、教如、正親町、光秀の間を取り持ったという。教如は朝廷を動かすことにより、光秀に信長を討たせたということになろう。 織田軍が顕如を攻撃することを示した『大谷本願寺由緒通鑑』は、基本的な誤りが多い俗書と評価されており、そのほかの関連史料の解釈も全般的に誤っている。したがって、根本となる史料の問題があり、この時点で教如の黒幕説は成り立ちにくい。 また、本能寺の変の直前、教如が備中高松城にいた秀吉に対し、光秀謀反の情報をリークしたという。事前に光秀の謀反を秀吉に知らせることにより、毛利氏との講和を促し、上洛(じょうらく)しやすい状態に持ち込んだということになろう。イエズス会が黒幕という説も そして、この中国大返しの途中の姫路城で、秀吉は教如と面会し、互いに交誼(こうぎ)を結んだというのである。ところが、こちらも関連史料の年次比定を誤っており、中国大返しの行軍日程も従来の誤った説によっている。 非常に劇的な興味深い説であるが、根本的に史料解釈の誤りや曲解があり、本願寺教如首謀者説は成り立たないといえよう。 イエズス会が信長の暗殺に関わったというのが、「南欧勢力黒幕説」である。この説は、イエズス会による壮大な戦略の一環として位置付けられている。国の重要文化財に指定されている「絵本著色フランシスコ・ザビエル像」(神戸市立博物館所蔵) 次に、南欧勢力黒幕説の概要を確認しよう。  イエズス会はもっとも頼りにしていたのは、キリシタン大名で最大の庇護(ひご)者である豊後の大友宗麟だった。そして、信長は大友氏を通して、イエズス会から鉄炮を提供されていた。つまり、信長にとってイエズス会は不可欠な存在だった。 南欧勢力はイエズス会を通して信長に資金援助等を行い、信長はその資金で天下統一に邁進(まいしん)した。南欧勢力の最終目標は、信長を使って中国を征服することで、信長はイエズス会の手駒にすぎなかったという。そして、イエズス会を支えていたのは、堺の商人、朝廷の廷臣、幕府の幕臣らであった。 ところが、途中から信長は独自の路線を走り、イエズス会にとって厄介な存在になっていった。信長はイエズス会に対して、武器と資金を提供してくれる便利な存在にすぎず、キリスト教の教えに関心はなかったという。周知の通り、信長がキリスト教と距離を置いたのは、確かなことである。 そのような事情から、イエズス会が信長を操ることは困難になっていった。逆に、イエズス会にとっても信長が邪魔な存在になり、暗殺を計画。これが本能寺の変の発端になった、というものである。 結果、イエズス会は、光秀に信長を討つよう命じて成功した。秀吉が光秀を討伐したのも、シナリオ通りだった。本能寺の変は、朝廷がイエズス会の意向を受け、光秀に信長討伐の命を下したものであったというのが結論である。 その背後では、津田宗及らが暗躍したという。単に信長や本能寺の変だけの問題ではなく、世界的な規模の非常に壮大な説である。 ところが、そもそもイエズス会には、上記に示したような人脈や資金力がなかったと指摘されており、根本的に実証的な裏付けがほとんどない。おまけに史料の誤読と曲解、そして論理の飛躍によって論が構成されており、全体として破綻している。到底、首肯できない説といえよう。光秀が壮大なことを目論んでいた? 南欧勢力黒幕説と並んで、壮大な説となっているのが「明智光秀制度防衛説」である。以下、この説の概要に触れておこう。 天正元(1573)年、信長は、足利義昭を追放し、「信長政権」を樹立した。しかし、京都には幕府奉公衆と奉行人で構成される「室町幕府」は存続し、その中心になっていたのが明智光秀だったという。 信長は自身が太政大臣になり、家康を征夷大将軍とし、「室町幕府」を滅ぼそうとした。「室町幕府」の重大な危機である。光秀らはその動きを阻止すべく、信長らを討とうとしたという。幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師、月岡芳年が描いた本能寺の変での織田信長=明治11年(静岡県立中央図書館蔵) 光秀は本能寺の変で信長の討伐に成功したが、家康を逃がしてしまった。原因は、細川幽斎の裏切りである。その後、幽斎は備中高松城の秀吉に本能寺の変の情報を伝え、すぐに帰京するよう依頼した。 こうして山崎の戦いで光秀は敗れ、「室町幕府」は滅亡したのである。つまり、光秀は「室町幕府」を存続させるため、信長に反旗を翻したということになろう。これが明智光秀制度防衛説の概要である この説は近年の室町幕府などの研究成果を無視しており、おまけに憶測と論理の飛躍と史料の誤読と曲解を重ねただけで、まったく説得性に欠けている。 例えば、信長が太政大臣になり、家康を征夷大将軍になろうとしたことは、まったく史料的な根拠がない。また、細川幽斎が光秀を裏切ったとか、秀吉に本能寺の変の情報を伝えたなども、単なる憶測にすぎない。 したがって、この説の可否については、否定的な見解が多数を占めているといえる。つまり、成り立たないのだ。 今回取り上げた説については、これまでと同様に次のような共通点がある。 ①信頼できる史料に基づいていない。 ②史料の誤読や曲解などに基づいている。 ③著しい論理の飛躍。 本能寺の変については虚心坦懐(たんかい)に史料を読み解き、冷静になって考えるべきかもしれない。壮大な説ほど注意が必要である。【主要参考文献】鈴木眞哉・藤本正行『信長は謀略で殺されたのか』(洋泉社新書y、2006年)谷口克広『検証 本能寺の変』(吉川弘文館、2007年)渡邊大門『信長政権 本能寺の変にその正体を見る』(河出ブックス、2013年)