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    「過去最高」コロナ煽りは、もう潮時だ

    新型コロナ感染症の新規陽性者が全国的に拡大傾向にある。だが、連日の報道のように「過去最高」の新規感染者数に注目するだけでいいわけがない。春とは状況が異なることを踏まえ、経済的な損失を考慮しつつ、本格的な「第2波」に備えるべきだ。すでに「過去最高」という煽りに付き合う局面ではない。

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    「数字の恐怖」に騙されない!経済と両立できるコロナ第2波への良薬

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) ワイドショーの煽りがやまない。新型コロナウイルスに関するほとんどの報道が、全国や都道府県別の新規感染者数や、家庭内や若者に代表される感染経路に偏って報じられているからだ。 前者は、特に「過去最高」という視点からの報道が主流になっている。これは新聞など他媒体でも変わらない。 8月2日の朝日新聞デジタルでも、ほぼ感染者数の動向しか記載していない。確かに感染者数だけ見ると「過去最高」の数字は深刻に思える。しかし、新規感染者数の全国・都道府県別の総数だけを強調することが、本当にバランスのとれた報道といえるのだろうか。 政府の新型コロナウイルス感染症対策分科会が7月31日に提出した「今後想定される感染状況の考え方(暫定合意)」を見ても、そうでないことは明らかだ。感染者数「だけ」の推移を見たり、3〜4月ごろの感染者数の動向と単純比較するのが正しくないことが明瞭に解説されている。 3、4月と6、7月の感染拡大を比較すると、後者では検査能力の拡充による無症状病原体保有者なども計上されていることや、医療機関や高齢者施設などの感染防止対策の成果等もあり、若年層を中心とした感染拡大が生じている。そのため、現在までのところ感染者数の増加に対して、入院者や重症者の割合が低くなっている。 この結果、3、4月の感染拡大時に用いた新規感染者数や倍加時間、感染経路の不明な症例の割合といった指標は、そのままでは医療提供体制のダメージなど、防がなければならない事態との関係性が、以前とは同等ではなくなっている。 検査の在り方や医療機関や高齢者施設における感染症対策の向上、そして治療法の確立が、3〜4月期に比べて変わった点だ。これは経済学でも「政策レジーム転換」といわれるものにあたる。いわば「ゲームのルール」が変わったのである。 野球でいえば、三振でアウトになっていたのにが四振でアウトに変われば、間違いなくゲームの大きなルール変更だろう。それまでの選手データは当然、直接的に比較するのが難しくなる。 同じことは経済政策でも言えて、経済環境が従来から大きく変化するときに、これまでと同じような政策を用いても効果があるとは限らない、という意味である。 政策ルールをいつまでもデフレを継続するようなものから、デフレ脱却にコミットするルールに変更する。この政策レジームの変更と同じことが、感染症対策の評価についてもいえる、と政府の分科会は指摘しているのだ。新型コロナウイルス感染症対策分科会の冒頭、あいさつする同会の尾身茂座長=2020年7月6日(川口良介撮影) つまり、ワイドショーや他の媒体で、3〜4月期の感染者数と直近の感染者数の多寡を比べるのは適切な報道の在り方ではない。こうしたことは政府の公式資料を見れば、数分で気が付くことだ。だが、マスコミはそのような配慮をせずに、単純な「数字の恐怖」を煽るだけである。 では、今はどの点に留意すべきか。この点についても、先の分科会の文書が明瞭に指摘している。夏の「接触機会」減らすには? 検査体制(PCR陽性率など)、公衆衛生への負荷(新規報告数、直近1週間と先週の1週間との比較、感染経路不明の割合 など)に加えて、「新しいルール」では、特に医療提供体制への負荷(医療提供体制の逼迫(ひっぱく)具合)への注意を強調している。この指摘を踏まえて、今の政府の判断はどうなっているのか。 分科会の暫定合意は、単にマスコミ報道のように感染者数の人数のグラフで煽っているような爆発的拡大ではない。ただ、上図のように、既に緊急事態宣言といった強制性のある対応を検討する段階であり、メリハリの利いた接触機会の逓減を提起している。 特に挙げられる論点は、やはり夏休みの帰省だろう。それも、単に移動距離が大きい旅行だからではないことは明らかだ。 若い家族が自らの実家や田舎に帰る。そこには高齢の親戚がいるかもしれない。若い人たちに感染が拡大している状況では、かなり深刻な感染リスクをもたらすだろう。 この論考を書いている段階でも、新型コロナ対策を務める西村康稔(やすとし)経済再生相が分科会で対策を検討すると述べているので、掲載された時点では何らかの対応が発表されているかもしれない。いずれにせよ、お盆休みが接触機会の逓減を実現できるかどうかの山場となるであろう。 3〜4月期に比べると、今回は感染症対策と経済対策のトレードオフについて、合理的な解を見つけようと政府と分科会はかなり苦闘しているように思える。分科会の小林慶一郎委員は相変わらず「PCR至上主義」ともとれる資料を提出しているが、それに関してはノイズでしかないだろう。 ただし、不況が企業を淘汰してより高い生産性を実現する「清算主義」という「トンデモ経済学」で批判されている小林氏でさえ、中小企業の現状の深刻さを示す資料も提供している。もし、前回の緊急事態宣言と同じことを実施すれば、日本経済を決定的に悪化させ、中小企業の多数の倒産や営業停止、失業の高止まりなどが発生するだろう。これは小林氏だけではなく、筆者ら多くの経済学者やエコノミストが指摘していることである。 そのため、新しいルールで示されているような医療体制の充実と、それに伴う予算措置が必要になるだろう。もちろん、医療従事者に十分な給与を保障し、医療施設が経済的に困窮しない支援を併せて行うべきだ。そのための予備費活用も重要になってくる。 さらに、緊急事態宣言のような強制的な接触機会の制限がどれほど有効なのか、米国で経済学者と公衆衛生学の専門家が共同で取り組んでいる。 一例として、米カリフォルニア大ロサンゼルス校(UCLA)のデビッド・バカーイ助教授ら経済学者と、公衆衛生学の専門家たちが、分野を超えて提起した論文「第2波への対策」(Baqaee et al. 2020)がある。この論文では、米国を事例とした第2波対策を二つのシナリオでシミュレーションし、その結果を比較している。結論は次の図で示した通りだ。  この二つの図はともに、垂直軸に死亡者数と失業率を同時にとっている。水平軸は時間の経過を示す。失業率と感染者数、低下させるには? この論文では、第2波は7月以降に起きると想定されていた。両方の図にある点線の垂直線は、左側がこの論文が発表されたときまでの現実の動きを示している。垂直線の右側はこれからの「予想」を描いていることになる。 この前提を踏まえて二つの図を確認すると、明瞭に異なる点がある。左の図は、仮に第2波がきたときに、今まで欧米で採用された厳しい外出制限や営業禁止などを伴う経済的なシャットダウン(ロックダウン)を再び行った場合のシミュレーションだ。 失業率は高いまま推移し、シャットダウンしたにもかかわらず、感染による死者数が減るどころか、むしろ増加している。これは家庭内感染や小規模な友人・知人などのクラスター、病院や老人ホームなどで感染者数が激増し、死亡者も増えるということだ。店が閉まっていても、最低限の人付き合いまでなくなったわけではないからである。 右の図は一切シャットダウンしないケースだ。そうなると経済活動は普通に行われるので、失業率は急激に下がる。そして同時に「あること」を実行すれば、感染者数も劇的に低下する。 これらの仮想的な比較実験から、バカ―イ氏らは次の結論を導いた。1.経済的介入(シャットダウン)と死亡者の減少は相関していない。むしろ、経済的介入は失業率の上昇と死亡者数の増加の両方を実現してしまう。2.感染拡大と相関してないので、仕事の継続は可能だ。ただ、同時に上記の「あること」をする必要がある。それは、米疾病予防管理センター(CDC)のガイドラインに従った生活方針、ソーシャルディスタンス(社会的距離)の継続やマスク着用などを採用することである。これは、日本でも同様のことを「三密」対策や「新しい生活様式」として提示している。 2-1.屋内での大人数集会の制限。劇場、スポーツ、その他のライブエンタテインメント(米経済の消費量の1%未満を占める)などリスクの高いビジネスの当面の閉鎖。→限定的なシャットダウンの採用。 2-2.マスクの着用、社会的距離の維持。 2-3.ウイルス検査と接触追跡の増加、自己隔離のサポート。 2-4.高齢者(75歳以上の人々)のための特別な保護、そのような補助生活施設や老人養護施設のスタッフや住民の定期検査実施のための財政支援、および高齢者を介護する労働者のための個人的保護具(マスク、フェイスシールドなど)の常備。そのための財政的な支援の実施。東京都庁で記者会見する小池百合子知事=2020年7月31日 バカ―イ氏らの研究は、今の日本でも大いに参考になるだろう。例えば、次の点が指摘できる。1)日本でも「第2波」が来たときに、全面的な休業要請よりも地域・業態を絞った休業要請に可能な限り留める。失業率の上昇など経済的な損失をできるだけ防ぐ。2)高齢者や持病を抱えている人たちなど、高リスクの人たちへの検査体制・追跡調査(接触確認アプリ「COCOA」の積極的推奨)・クラスター対策、医療・隔離施設の充実。その点に集中的に予算を配分する。3)マスク、社会的距離など「自主防衛」の徹底を促す。 もちろん、これとは別に、積極的な財政・金融政策を、その一部である予備費の有効活用を含めて実施することは言うまでもない。

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    コロナが鳴らす「世代間闘争」のゴング

    緩和ムードを吹き飛ばすように、新型コロナの感染再拡大が止まらない。専門家が危機感を募らせる中、心もとない国や自治体の姿勢に、感染が広がる若年層から重症化リスクの高い高齢者まで、すべて翻弄され、このままでは社会の分断を招きかねない。第3回はコロナ下でも変わらない日本の責任回避の心理を解き明かす。(写真はゲッティイメージズ)

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    老若男女を翻弄、コロナ下でもはびこる「責任回避マインド」

    杉山崇(神奈川大人間科学部教授)麻生マリ子(家族心理ジャーナリスト)司会・対談構成:梅田勝司(フリーライター、編集者、「PressRoom.jp」記者) 5月の緊急事態宣言の解除前後には、マスコミでも盛んに言われていた「ステップ3」という言葉は、新型コロナウイルス感染拡大の再加速の前に、すっかりかき消されてしまった。東京都の「ステップ3」は、休業要請を3段階で緩和していく「ロードマップ」(行程表)の1ステップだ。カラオケ、バー・スナック、ネットカフェなどの遊興施設やライブハウス、接待を伴う飲食店、さらにマージャン店やパチンコ、遊園地やゲームセンターなど遊戯施設が6月12日から緩和され、19日に全面解除された。 国の「ステップ3」は、イベントや展示会開催などの制限を4段階で緩和する過程の1段階だ。7月10日からプロスポーツやコンサートの参加者数を上限5千人まで、会場の収容人数の50%までに拡大した。しかし、東京など都市部を中心に新規感染者数が拡大したことで8月1日に予定されていた制限解除は撤回された。 制限が緩和されるにつれて、都内の繁華街や昼のオフィス街に人が戻リ始めた。しかし、新宿の劇場でクラスター(感染者集団)が発生するなど、夜の街を中心に陽性者が続出、感染経路不明者も増加している。果たして「ステップ3」の緩和判断は正しかったのだろうか。* * * 梅田 東京都では、新型コロナの陽性が判明した人が連日のように200人を超えていますが、この数字は驚きを持って迎えられましたね。 杉山 いろんな意味で驚きですね。まず、この数字で騒ぐことに少し驚いています。本当に大事なデータは重症者数と死亡者数のはずですが、実は、重症者も死亡者も大きくは増えていない。減っている傾向もありました。その中で、検査の実施件数を5月に比べて2倍から3倍に増やしているんですよね。注目すべきところが違うのではないかと思ってしまいます。 それと、新型コロナでリスクが高いのは高齢者です。死亡者の70%は80代以上ですから。なので、若者を閉じ込める施策ではなく、高齢者を守る施策を進める必要があるのですが、あまり取られていないですよね。高齢者のみなさんは、自分が守られる施策を嫌がるのかなあ…。マスクを着用し、東京都庁で記者会見する東京都の小池百合子知事=2020年4月 麻生 杉山先生のおっしゃる数字のお話は、検査実施数という分母の異なる陽性者の数を単純比較することはナンセンスではないか、という疑問ですよね。それに、私は「感染者数」ではなく、より正確に「陽性判明者数」とした方がよいのではと考えます。それに、人口10万人あたりの陽性判明者数と検査実施数、受診者数や重症者数、死亡者数の推移を、その地域の風土、移動手段や人口密度、産業比などと照らし合わせて考察しないと、単に陽性者数だけに着目して扇情的に論じても…とも感じます。 また、高齢者を守るという点では、高齢者には「大切にされたいけれど、労られたくはない」というアンビバレンスが見られることがままあります。「年寄り扱いをされた」と感じる接し方に抵抗があったり、自尊心を傷付けられたりする人が決して少なくないのです。 これは高齢の親や親族との家族問題、介護問題の相談や、介護現場の方からよく聞かれることですね。もし高齢者を守る施策に当事者が抵抗を感じるとすれば、似たような心理が働いている面もあるのでしょうか。「世代間闘争」無き日本 杉山 それもあるかもしれないですね。それでも万一のリスクが高い人を守る施策、今の状況であれば高齢者への対策が最も効果があるはずで、例えば高齢者と若い人の接触を減らしたりするような対策をとった方がいい。それなのに「若い人が危ない」みたいな世論に持っていこうとしているのを感じます。 そもそも「世代間闘争」、つまりジェネレーション間の闘争は欧米では当たり前なんですよ。一方、日本は世代間闘争がないのが特徴です。とはいえ、実は若い人の不満がくすぶっている。 今の高齢者の年金は徐々に減額されてきたとはいえ、まだまだ手厚いですよね。ところが、私の世代やさらに若い世代は、年金はほとんどもらえないといわれています。企業では、仕事しないベテランのしわ寄せがいっぱい働く若手にきていて、給与格差が倍くらいあるという話もあります。 日本では若い人は表立って上の世代を批判しませんが、実は不満だらけなんです。その中で、若い人たちの不満をさらに積み上げるような施策や報道が続いているのが不安です。 麻生 世代間闘争のお話がありましたが、私は俗に言う「氷河期世代」です。同世代にはそれなりの大学を出ていても非正規雇用だったり、地方では家庭や子供を持つことはおろか、ひとり暮らしすらままならない賃金で自立できずに実家を出たことがない人が、非常に多くいます。 2019年に始まった「就職氷河期世代支援プログラム」によって、地方の役所など主に公的機関から求人の動きが始まった矢先に、新型コロナの問題が起きました。氷河期世代はますます救われないですよね。就職氷河期世代を対象に行われた厚労省の筆記試験=2020年2月2日、東京・霞が関 今の若い世代、特に就職を控えた学生たちも、売り手市場が続いていたところに、コロナのせいで大変な事態に陥っていますよね。そういう世代に対して、温かい目を向ける氷河期世代もいれば、自分たちの報われなさから同じ苦しみを味わえばよいという人たちもいるようですね。 コロナ禍で早期退職を募る企業も増えており、マスコミでも例外ではありません。ある企業では早期退職者募集以前に2、3月時点で中途採用の求人を掛けていました。他社でキャリアを積んだ若手というのは、新卒よりも育成コストが安く、50代以上の在職社員よりも安い給与で、仕事のセンスも若い存在ですからね。人件費削減や、社内体制の刷新が目的なのではと感じました。専門家で「御用会議」? 梅田 もう生涯を一社に捧げるという時代でもなくなってきていますよね。日本で長く続いた年功序列の給与体系も、今回を機に大きく変わりそうですね。 麻生 そうですね。 梅田 政府や自治体の対応に関して言えば、新型コロナ感染症対策分科会(元・専門家会議)には逼迫(ひっぱく)感があります。しかし、政府や都知事などは言葉でごまかして対応が遅い印象で、ダメージを少なく見せている気がします。庶民感覚と明らかに違う為政者の心理はどうなっているんでしょう。 杉山 行政を執行する側としては、「できれば無闇(むやみ)に責任を被りたくない」という心理が働いていると思います。一方で、成果と実績はちゃんと評価されたい。こういう心理はどんな時代でも働いているのではないでしょうか。 専門家会議というのも、要は「御用会議」になりやすいんですよね。学者の中でも「御用学者」と呼ばれる人が多く招聘(しょうへい)され、未知の人はあまり呼ばれないですね。 梅田 政権に近かったり、省庁などからヒアリングされて接触があった学者や識者ですね。 杉山 行政にとって、専門的な部分において自分たちでは責任を取れないという問題がありますね。そこで専門的な部分で責任を取ってくれる専門家が欲しいんですよ。逆に言うと、責任を被ってでも行政に協力したい人が御用学者になるわけですよ。新型コロナ感染症対策分科会の冒頭、あいさつする尾身茂会長(前列中央)。左は加藤勝信厚労相、右は西村康稔経済再生相=2020年7月6日(川口良介撮影) 梅田 ある意味、覚悟を決めている人たちなんですね。 杉山 とはいえ、責任は二重構造になっていて、学者や専門家が責任を取るのは自分の見識に対してです。ただ、その見識を採用して対策を立てる責任は行政にありますが、行政は「専門家の見識に基づいて施策を取りました」と、見識そのものに関しては専門家に責任を預ける。専門家は、自分の専門分野の学識や研究成果に責任を預ける。そういう構造で、うまく行かなかったときの責任を個人に負わせない仕組みになっているのです。日本固有の「責任分散」構造 麻生 専門家の議事録で、発言者を記録していないことが問題になりましたね。 杉山 発言者を記録した議事録もありますが、記録すると委員個人の責任が重くなってしまって、個人に責任を負わせるきっかけになりますね。こうなると委員をやってくれる人がいなくなっちゃうので、最近は少ないみたいです。 企業でもそうなんですけど、日本は基本的に、責任を個人に被せないようになっています。責任を細分、分散させて、組織として責任を取る形が日本は一般的なんです。欧米では、もう少し個人に責任を被せますね。そのかわり、責任に見合った待遇を個人に与えます。 日本の社長は世界的に見れば、給料が非常に安いんですよ。カルロス・ゴーン被告ではないけど、欧米の社長が数億円を手にするのは、万一のときの代償なんです。日本では法律の規定により、総理大臣の年収が約4千万円台になりますが、国のプレジデントという責任の重さを考えれば、安いんですよね。それでも給料が安いのは責任が分散されているからで、責任を取って辞めるということがそうそうない構造になっているわけです。それがいいか悪いかは別ですけどね。 梅田 そんな責任回避ばかりしているから、日本は対策の打ち出しが遅くなっているのでは? 杉山 日本的な責任回避が対策を遅くしている面もあるかもしれませんが、コロナ対応で日本の対策が遅れがちなのは、事態が想定されていないからなんです。米国の対応が早いのは、軍隊の延長線上に感染症対策の組織があるので、生物兵器を敵が使ったときのシミュレーションも対策もできている。でも日本は対策してないし、そもそも憲法上で軍隊がない。「緊急事態宣言」といっても、自粛の要請であって強制できない。実は日本って米国よりも民主的な国なんです。 米国はもともと「ルールは絶対だ」という意識の人が多くない感じがしますね。まずは、ルールが正しいもので納得できるかどうか考える。日本人よりも、自分は自分で守るという発想の国民性のような気がします。一方で、日本人はルールに同一化したい人が多いので、「要請」であっても守ろうとする国民性があるようです。参院予算委で答弁のため挙手する安倍首相=2020年6月11日 梅田 そんな中で、ステップ3が解禁されたそばから、「夜の街」を中心に陽性者が増えましたね。 杉山 「自粛解禁」と言われると、まずやんちゃな人たちから動き出すんですよね(笑)。で、濃厚接触しまくりみたいなやんちゃなことから始める。そうすると、やっぱり拡大するだろうなと。メディアの「高齢者」忖度 梅田 デパートや名所の再開で、オープン前から並んでいる高齢者がよくテレビでインタビューされていますが。 杉山 高齢者でも「やんちゃ」というわけではないけど、自粛が窮屈だったかもしれないですね(笑)。ただ、楽しみがなければ人間は生きられないので、並んで待つ気持ちもすごく分かるんですけど。 高齢者がうちの近くでよくジョギングしてるんですけど、マスクしてないんですよ(笑)。 高齢者ほどウイルスを排出して、人に感染させやすいという研究結果も日本感染症学会で発表されています。しかし、この結果をマスコミはあまり大きく取り上げない感じがします。 麻生 20代を中心に30代、40代へ行動を抑制するように警鐘を鳴らす向きはありますね。経済を支える層でもあるのですが、あたかも彼らがウイルスを媒介し感染を広げているかのような…。※画像はイメージです(ゲッティイメージズ) 杉山 そうなんです。でも、本当にそう断言してもいいのでしょうか。* * * 第4回は少しずつ緩和が進んでいるエンターテインメント業界と人間心理の関係、そして、「夜の街」に関する問題点を心理面から検証していく。 すぎやま・たかし 神奈川大人間科学部教授、同大心理相談センター所長、臨床心理士、1級キャリアコンサルティング技能士。昭和45年、山口県生まれ。学習院大大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学。心理学専攻博士後期課程単位取得。専門は臨床心理学、応用社会心理学、産業心理学など。心理学オンラインサロン「心理マネジメントLab:幸せになる心の使い方」を主催する。著書に『ウルトラ不倫学』(主婦の友社)など多数。監修書に『マンガでわかる 心理学的に正しいモンスター社員の取扱説明書』(双葉社)。 あそう・まりこ 家族心理ジャーナリスト。昭和52年、福岡県生まれ。出版社勤務などを経て現職。生きづらさの背景として、親子・母子関係に着目。家族問題、母娘関係や子育て、孫育てなどをテーマに取材活動を続ける。そのほかにも家族問題に関する心理相談を行っている。

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    TikTokやパクリ商法全開、中国の「合理的狂気」が止まらない

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) 中国共産党政府が「発狂」している。正確に言うならば、合理的発狂である。 その理由は簡単である。自ら拡大させた新型コロナウイルスで世界が弱っていることにつけこんで、本気で「世界秩序」を変えようとしているからだ。 香港の「一国二制度」を完全否定した「香港国家安全維持法」(国安法)の施行、尖閣諸島や沖ノ烏島へ執拗に繰り返される侵犯行為、南シナ海での違法な軍事的占拠、他国を過剰な借金漬けにして国ごと乗っ取る「債務の罠」戦略、ウイグル族に対する強制収容や宗教弾圧など、数え上げればきりがない。国際的な政治秩序の安定化からはほど遠く、まさに現在の自由と民主の価値観を根本から否定する覇権主義のモンスターである。 これらの行為が中国の理屈だけで世界にまかり通ると考えて実行していることが、狂気の本質である。狂った目的だが、それでも中国政府が目的を叶えるために合理的に算段している点を見逃してはならない。だからこそ「合理的狂気」なのである。 今までも中国の発狂行為に対し、世界は見て見ぬふりをしてきた。経済面でいえば、公然の「パクリ政策」を、中国が先進国に追いつくための「キャッチアップ効果」だの、政府主導の「産業政策の成功」だの、と一部で称賛してきた。 憐れむべき知的退廃である。本稿では、その実態を改めて示してみたい。 結論から言えば、やっていることは単に国家主導による先進国技術のパクリである。しかも、中国のパクリ経済の全貌がはっきりとつかめない。 最近では、ブルームバーグが「中国の攻撃でナンバーワン企業破綻か、トップ継いだのはファーウェイ」で、パクリの実態に注目している。記事では、カナダを代表する世界的通信機器メーカー「ノーテル・ネットワークス」が、21世紀初めから、中国政府からと思われるサイバー攻撃を受け、顧客情報や重要な技術を盗まれたという。 ノーテルは、このサイバー攻撃にあまりに無防備で対策も緩かったために、悲惨な道をたどる。ノーテルは技術的優位、とりわけ人的資源とマーケットを、中国政府の巨額の支援を受けた華為技術(ファーウェイ)に奪取されたのである。結局、ノーテルは2009年に破綻してしまった。中国空軍の航空大学を視察する習近平国家主席(右端)=2020年7月23日、中国吉林省長春市(新華社=共同) ファーウェイは元中国人民解放軍エンジニアの任正非(にん・せいひ)氏が創立した会社であることは広く知られている。識者の中には、ファーウェイと中国政府は必ずしも協調しておらず、むしろ対立していると指摘する人もいる。頭の片隅ぐらいには入れておいてもいいかもしれないが、正直役には立たない。 そんなことよりも、人民解放軍のサイバー攻撃隊が産業スパイの世界で君臨しているが、中にはイスラエルや北朝鮮が中国のサイバー攻撃をパクって、中国のふりをして攻撃している、とでも指摘した方が役に立つだろう(参照:吉野次郎『サイバーアンダーグランド』日経BP)。中国政府や人民解放軍、その系列企業に対する生ぬるい考えは捨てた方が無難だ。産業政策「成功」簡単な謎 こうして見れば、中国の産業政策がなぜ成功するのか、その「謎」は簡単だ。上述のように、先進国で成功している企業の情報や人材をそのままパクることで、市場自体も奪い取るからだ。 政府が望ましい産業を選別する伝統的な産業政策とは全く違うものだ。伝統的な産業政策はそもそも成功する確率が極めて低い。なぜなら、政府には市場に優越するような目先の良さも動機付けもないからだ。事実、日本の産業政策は死屍累々(ししるいるい)の山を築いた。 だが、中国の産業政策は基本的に市場をまるごと盗むことを目指す。パクる段階で逮捕や制裁のリスクがあるぐらいで、それも人民解放軍という、リスクをとることにかけてのプロが文字通り命がけでやってくれる。ものすごい「分業」に他ならない。 日本でも、中国政府や軍からのサイバー攻撃が続いている。今年に入っても、NECや三菱電機が大規模サイバー攻撃を受けたことが明るみになったように、自衛隊に関する情報の取得を目的に、防衛省と取引関係にある企業が狙われている。このように、日本の安全保障や民間の経済が脅かされているのである。 中国の合理的発狂といえる世界秩序改変の中で、新たな経済的覇権を目指す動きがある。その際も、いつものようにパクることから始まる。 米国のビーガン国務副長官や共和党のルビオ上院情報委員長代行が、中国の在米領事館を「スパイの巣窟」として長年にわたって問題視してきたことを明らかにしている。ロイター通信も、米政府が閉鎖を命じた南部テキサス州ヒューストンの中国総領事館が「最悪の違反ケースの一つ」である、と政府高官の発言を伝えている。 そのケースとは、おそらく新型コロナウイルスのワクチンに関する研究だ。このワクチンが世界でいち早く開発されれば、膨大な利益を生み出すことは間違いない。現在の米中の領事館の閉鎖の応酬は、中国のパクリ産業政策をめぐる攻防戦であり、姿を変えた米中貿易戦争といえる。 さらには、中国政府からの個人情報の保護も問題となってくる。米国のポンペオ国務長官は、動画配信サービス「ティックトック」に代表される中国製ソーシャルアプリの使用禁止を検討していると述べた。 多くの識者は、中国で活動する企業や、中国発の企業データを中国共産党のものと理解する傾向を指摘している。だから、ティックトック側がどんなにこの点を否定しても何度も疑いが生じてくる。ティックトックのロゴが映し出されたスマートフォンの画面(ロイター=共同)  7月、韓国放送通信委員会(KCC)がティックトックに対し、保護者の同意なしに子供の個人情報を海外に送信したというコンプライアンス(法令順守)違反で、同社に1億8600万ウォン(約15万4千ドル)の罰金を科したのもその表れだろう。韓国政府とティックトック側は現在も協議中だという。 ところで、ティックトックの国内向けの姉妹アプリ「抖音(ドウイン)」(ビブラートの意味がある)では、中国国内でティックトックのダウンロードや閲覧ができる。ロイター通信によれば、そのドウインからRain(ピ)やTWICE、MAMAMOO、ヒョナなどのK-POPスターのアカウントが削除や一時的なブロックを受けたらしい。米中、いずれを選ぶのか ロイター通信は確言していないが、中国政府側の「報復」の可能性を匂わせている。同様な事象が、これから特に人民解放軍系の企業や中国政府と密接な関係にある企業で生じるかもしれない。 ちなみに、こんなことを指摘していると、米国だって同じことをしているではないか、という反論がすぐに出てくる。短絡的な反応か、悪質な論点そらしか、鈍感なバランス取りだとしか言いようがない。 その点については、まずは米国の情報監視活動を暴露した米中央情報局(CIA)元職員のエドワード・スノーデン氏に関する書籍を読んで、満足すればいい(『スノーデン 独白: 消せない記録』河出書房新社)。筆者は、世界秩序の改変を目指す中国政府の方により強い危険を感じるのである。 確かに米国にも、日本の利益に反するリスクは経済上でも安全保障上でも存在する。それでも、あえて極言すれば、中国と米国どちらかを選べと言われれば、明白に米国を取る。 これは筆者個人の選択だけの話ではない。日本の選択としてこれ以外にないのだ。 米国は、問題があっても国民の選択によってよりよい前進が可能な、日本と同じ民主主義の国である。他方、中国は共産党支配の「現代風専制国家」であり、そもそも政府の問題点の指摘すら満足にできない。 ただし、現代風の専制国家では、パリ政治学院のセルゲイ・グリエフ教授が指摘する「情報的独裁」の側面が強い。暴力的手段は極力採用せず、インターネットを含めたメディアのコントロールを独裁維持のために利用する。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) 政治的独裁に強く抵触しなければ、かなり「自由」な言論活動もできる。むしろ「自由」に発言させることで、政治的反対勢力の人的なつながりをあぶり出す可能性を生じさせるのである(参照:ベイ・チン、ダーヴィド・ストロンベルグ、ヤンフイ・ウー「電脳独裁制:中国ソーシャルメディアにおける監視とプロパガンダ」)。 中国か米国かの選択について、ジャーナリストの櫻井よしこ氏が月刊『Hanada』2020年9月号の「習近平の蛮行『世界大改修戦略』」の中で明瞭に述べている。最後にその言葉を引用しておきたい。 日本にとって中国という選択肢はありえない。だが同時に、米国頼みで国の安全保障、国民の命の守りを他国に依存し続けることも許されない。米国と協力し、日本らしい国柄を取り戻し、米国をも支える国になるのが、日本の行く道だ。 櫻井氏のこの発言に共感する人は多いのではないか。

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    コロナ苦境に必要な環境メンテと心痛を和らげる「2つの脳」

    杉山崇(神奈川大人間科学部教授)麻生マリ子(家族心理ジャーナリスト)司会・対談構成:梅田勝司(フリーライター、編集者、「PressRoom.jp」記者) 「withコロナ」で強いられる「新しい生活様式」の中、スポーツやエンターテインメントでも観客を入れる試みが戻ってきた。しかし、以前と同じような状態にはまだまだ戻れそうにない。また現在でも、企業破綻や閉店の動きは後を絶たない。人々の不安と緊張感が続き、社会の混乱も収まりそうもない。* * * 梅田 県境をまたぐ移動も自由になり、電車・バスなどで通勤する社会人も戻りつつありますが、在宅ワークを引き続き取り入れている会社も多いようですね。 麻生 大手ゼネコン社員に取材したときに伺ったのは、どうしても社外へ持ち出せないデータや、会社のパソコンにしか入っていない設計関係のソフトウエアなどもあるため、3月から5月にかけても在宅勤務できる日が少しはあったものの、出社せざるを得ない日の方が多かったということです。従業員が個人の携帯端末を業務でも利用するBYOD(Bring Your Own Device)導入へのハードルは、システムを大幅に改善してセキュリティー面も強化すること。そうしなければ解決しない問題だと思います。 梅田 そもそも、日本の企業そのものが在宅ワークを想定していなかった面もありますよね。日本の雇用の70%が中小企業だと言われますが、設備投資を考えれば、IT化そのものが立ち遅れている企業も多そうですね。 麻生 業種によっては、やはりIT化の難しさや遅れが顕著に表れていますね。中小企業でも特にIT化の進みづらい面がある小売や飲食のチェーンでも、IT化やAI技術を駆使した無人店舗の運営を目指し、コロナ禍以前から試験運用を重ねている先進的な企業もあるのですが、多くはありません。  業種や経営者の考え方によるでしょうし、企業間のIT格差は残りそうですね。経営者側や管理職の方のITリテラシーも、在宅ワークやリモート会議の導入を左右するでしょうね。 梅田 会社を創業した高齢経営者は意固地に会社に来ることにこだわりそうな気がしますね。 ※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) 杉山 そういったケースも少なくないですね。これは「恒常性錯覚」です。社会心理学の言葉では、「確証バイアス」といいます。自分が知っている、自分が分かっている、慣れ親しんでいるものを確証したい、確認したがるんです。新しい世界や新しい物に対し、非常に心が閉ざされている。年齢が上がるほどこの傾向は強くなります。 心理学では「結晶性知能」とも呼びます。塩の結晶とか雪の結晶をイメージしてください。結晶性知能は、経験の蓄積からこの世界を理解するためのパターンや、ある構造みたいなものを見つけ出して結晶化していく。 経験を結晶化していくと考えてもらえれば分かりやすいと思います。高齢者ほど優秀と言われています。ただ、あくまで結晶なので、柔軟性がないんですよね。心を保つ「環境メンテナンス」 梅田 自分のセオリーに誇りを持っていらっしゃる方ということですね。 杉山 そうですね。だから相手の方は新型コロナウイルスの感染を嫌がってるんだけど、「営業にはとにかく足で稼げ」みたいな自分の成功セオリーを押し付けるわけですよ。 梅田 ワクチンができない時期が長引けば、そんな人がリーダーになっている会社やお店は立ち行かなくなる可能性もあるのでは。 杉山 「withコロナ」「アフターコロナ」だからといって、全てがオンラインに変わるわけではありません。今後縮小するだろうけれど、「ビフォーコロナ」的なマーケティングやマーケットを好む層の範囲内で、その市場をうまく取り込んで事業展開すれば、ビフォーコロナの手法に誇りを持っていらっしゃる方でも生き残れる可能性があるんです。しかし、市場規模は明らかに小さくなるので、小さくなったマーケットを上手につかめるかどうかが勝負になるかなという気がします。 梅田 悩みを抱えていらっしゃる若い経営者や、柔軟さを持ち続けている経営者もたくさんいそうですね。杉山先生は企業の運営や人事のコンサルティング経験もありますが、企業カウンセリングはこれからますます重要になるのではないでしょうか。 杉山 社会保険労務士の資格を持つ知り合いも臨床心理士がいまして、「社長専属カウンセラー」というキャッチコピーで売っていますよ。経営者は結構孤独ですから、忙しくしてます。 社員も含めた企業カウンセリングも当然必要になるでしょう。ところが、そこにお金を出せる企業がどんどん減ってきています。 オンラインでキャリアコンサルティングやカウンセリングを展開している事業所は、その影響を被っています。新型コロナ禍の前はそれなりの契約数があったんですけど、コロナで先行きが見えなくなったせいもあるのか、契約打ち切りやキャンセルが相次いだそうです。本当は必要なときなのに、切り捨てられている。ただ、企業から見れば稼ぐ部門ではないですからね。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) ただし、従業員のメンテナンスを行わない企業は、これから伸び悩むだろうと思います。とはいえ、経営者の気持ちになってみると、まずは財政基盤の安定が先に立つんですよね。 心は環境に反応してどんどん変化していくものなので、心をいい状態に保つには、かなりの環境メンテナンスが必要です。社会人であれば、仕事の中でメンテナンスができれば理想的です。 仕事を通して自尊心の確認や、自分が役に立っていることの確認、それらを周りから評価してもらえるような、自尊心のメンテナンスができていると、いい状態を保てます。しかし、コロナ禍の中で仕事そのものがなくなってしまうと、メンテナンスもできないし、経済的にも困ってくる中では、心も経済も大打撃なんですよね。カウンセリングは安くない 麻生 自分のせいではないので、ある意味不可抗力的ですよね。 杉山 そこで無力感を感じる人はさらに感じてしまうし、今できることは何か考えられる前向きな人は、新しい生き方や新しい仕事、新しい生きがいを見つけられるんでしょうけどね。そこで一番ダメージを受けるのが、受け身のタイプです。よく言われる「命令待ち」の人ですね。自分から何かを仕掛けようとしませんからね。 麻生 それって、組織との一体感に安心する日本人には非常に多いのではないでしょうか? 杉山 そうですね。まさに現在のような状況が苦手な人が日本には多いですね。 梅田 かといって、心療内科やカウンセリングを自分で探して受診するのも少しハードルが高そうですね。 麻生 心療内科や精神科の受診や、カウンセリングを受ける方が急増したというような話は聞かれていないですね。コロナ禍でメンタルの不調を訴える方は確実に増えてはいるのですが、通院や外出による感染リスクが怖いため、受診したくてもできないという声は非常に多く聞かれました。 杉山 それと、カウンセリングって安くないんです。金額に幅がありますけれど、一番安くても5千円、高いと1万5千円くらいになります。仕事が減っていたり、職を失ってしまった人にそんな額を出す余裕はないと思えます。 お金がない人にとって、カウンセリングは行政の支援待ちになってしまいます。業界では、リタイアした臨床心理士が善意でボランティア活動をしたりしています。 麻生 私もコロナ禍で無料電話相談を受けていますが、カウンセリングでも友人への相談でも、話を聞いてもらうだけでちょっと気持ちが楽になることもありますよね。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) 杉山 心の痛みは大脳辺縁系で作られるんですよ。私は「ウマの脳」と呼んでいますけど、この大脳辺縁系は、気分の重さや心の痛みを誰かが共感してくれると活動が緩和します。 話を聞いてもらって、共感されると、気が楽になる。人間の大脳辺縁系が仲間を求める役割を果たしているからです。仲間がいることは、自分が社会的に安全でもあることなので、自分の社会的安全が確認されれば、心の痛みも軽くなっていくわけです。 ただ、共感され慣れてる人と、され慣れてない人がいるんですよ。共感され慣れてない人にしつこく共感すると、嫌がられますね。「外在化」で整理する 麻生 求めるものがクライアント側にもいろいろあって、共感や心情に寄り添うことを求めてる人もいれば、コーチングのように引っ張ってくれるもの、具体的なアドバイスが欲しい人もいますね。同じクライアントでも時々で求めるものも変わりますから、要求も汲み取る必要性がありますよね。 杉山 カウンセリングの話でいえば、ポイントはウマの脳をおとなしくさせることなんです。ウマの脳のほかにも、自分の立場や評価を気にする「サルの脳(内側前頭前野)」、課題達成や計画性を担う「ヒトの脳(外側前頭前野)」があるんですが、人類になってから進化した部分が働き始めると、ウマの脳の働きを緩和してくれるんです。 つまり、助言や提案、アドバイスによってヒトの脳は活性化するんですね。ウマの脳をおとなしくさせ、ヒトの脳を活性化させることで、人は気が楽になリます。この両方を行うのがカウンセリングというわけです。 麻生 近年はカウンセラー登録サイトをビジネスとして運営する企業もあるそうですが、「話すカウンセリング」と「書くカウンリング」では、書くカウンセリングの需要が上がっているようです。 杉山 文字にする行為は、心の中を外に出してみる意味で「外在化」と言うんですけれど、外在化すると、自分と距離を取って見ることができる。そうすると合理的に見えるから、ウマの脳を外に出すことで切り離せます。合理的に考えられないこと考えるときは、だいたいウマの脳が暴走している。これを調整するために文字化して、外在化で整理をするわけです。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) 麻生 確かに文章化する行為だけでも効果がありますよね。頭の中、心の中を文字にして外へ出す。そして、その文章を見る自分がいる。そうして距離を取ることで、自身を客観視できる。いわゆる「メタ認知」ですね。 杉山 あと、オンラインカウンセリングってずっとカメラに向かっていて、しかも自分の顔が映っているから、緊張感もあるし、何より疲れるんですよね。そういう面でも支持されているのかもしれませんね。* * * 社会の混乱が続く中、家族に変化はないか、同僚や部下などにも変調がないか、きちんと向き合っていく必要もありそうだ。次回は、より以前に近い状態を取り戻す「第3ステップ」に進むための問題点を探っていく。 すぎやま・たかし 神奈川大人間科学部教授、同大心理相談センター所長、臨床心理士、1級キャリアコンサルティング技能士。昭和45年、山口県生まれ。学習院大大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学。専門は臨床心理学、応用社会心理学、産業心理学など。心理学オンラインサロン「心理マネジメントLab:幸せになる心の使い方」を主催する。著書に『ウルトラ不倫学』(主婦の友社)など多数。監修書に『マンガでわかる 心理学的に正しいモンスター社員の取扱説明書』(双葉社)。 あそう・まりこ 家族心理ジャーナリスト。昭和52年、福岡県生まれ。出版社勤務などを経て現職。生きづらさの背景として、親子・母子関係に着目。家族問題、母娘関係や子育て、孫育てなどをテーマに取材活動を続ける。そのほかにも家族問題に関する心理相談を行っている。

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    トラブったのも必然、GoToトラベル「ボタンの掛け違い」

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) 政府の新型コロナウイルス対策としての観光支援事業「GoToトラベル」が、トラベルならぬ「トラブル」化している。東京都で新規感染者が増加傾向にある状況を踏まえ、東京を発着とする旅行を割引対象から除外し、さらに若者や高齢者の団体旅行の自粛も求めることになった。 「GoToトラベル」を含む「GoToキャンペーン」は旅行やイベントなどの費用補助や、飲食のポイント還元を行う需要喚起策だ。2020年度の第1次補正予算に計上されている。 「GoToトラベル」の場合、国内旅行をすると費用の半額が補助される。1人当たり1泊2万円、日帰りは1万円を上限としている。補助相当額の7割が旅行代金の割引、3割は9月以降に実施する「地域共通クーポン」として配布される予定だ。 当初の実施予定は8月からだったが、旅行業界からの早期実施の要請を受けて、政府が7月22日に前倒しを決めていた。「GoToキャンペーン」の予算総額は約1兆7千億円であり、新型コロナ危機で悩む旅行や飲食、イベントの各業界にとって、予算を使い切れば、かなりの経済効果がある。ただ、1次補正の際、この予算項目が入ったことに、筆者はかなり奇異な感じがした。 なぜなら、そもそもこの「GoToキャンペーン」自体が、感染が十分に抑制された後の景気刺激策だからである。 感染症対策の難しさは、経済活動と感染抑制がトレードオフの関係にあることだ。経済活動が活発化すればするほど、新型コロナの感染抑制が難しくなる。 逆に感染抑制を徹底していけば、経済活動を休止しなければならなくなり、人々の生活は困窮する。経済活動と感染抑制のトレードオフの「解」をうまく見つけ出すことが、国や各自治体の課題になるが、これが難しいことは日本だけでなく、世界の状況を見ても明らかである。 多くの国はトレードオフの「解」を見出すために、経済対策を二つのフェーズに区分している。最初の「フェーズ1」は、感染拡大期の政策であり、続く「フェーズ2」では、感染拡大が終息して景気刺激を始める段階の政策である。会見で記者団の質問に答える自民党の二階俊博幹事長=2020年3月(春名中撮影) フェーズ1の政策では、経済活動を休止した個人や企業への給付金や貸付などが中心になる。経済活動を拡大するのではなく、あくまで「維持」が主な目的である。 フェーズ2の政策の中心は、経済活動の再開や拡大を促すためのもので、消費減税や補助金交付を実施していく。今回の「GoToキャンペーン」はその意味で、典型的なフェーズ2の政策にあたる。 しかし、この「GoToキャンペーン」が予算化されたのは、まだ感染拡大が本格化したばかりの時期だった。フェーズ1の政策の中に、特定業界の景気刺激策が先行して入ったのは、全国旅行業協会会長を務める自民党の二階俊博幹事長の影響力も大きいだろう。キャンセル補填じゃ不十分 旅行業への経済支援、それ自体はもちろん間違っていない。実際、直近の雇用統計を確認しても、「宿泊業、飲食サービス業」「卸売業、小売業」「生活関連サービス業、娯楽業」などが特に悪化しており、深刻な状況だ。 ただ、現在の政府の対策はあくまで経済の現状維持を中心とするフェーズ1の政策で、しかもその効果は今秋にはほぼ消滅すると考えていい。このままでは旅行業界だけではなく、その他の業界でも中小企業を中心に倒産ラッシュになりかねない。 前回の論考でも指摘したが、現在の東京の感染拡大に関して、感染者の多くが若い世代であることや、重症者の少なさが強調されることで、3~5月上旬の第1波より軽視する見立ては間違っている。専門家たちが指摘するように、重症者のピークは患者発生数よりも後に来るために、今後の重症者増加が懸念される状況なのである。 その意味では、「GoToトラベル」が東京を除外したことや、対象者の自粛を要請していることはひとまず理解できる。だが、そうであるならば、感染抑制期であるフェーズ1の経済対策の強化も必要になる。具体的には、旅行業界に対して追加的な金銭的補償を行うことだ。 そのためには、予備費を活用するのがいいだろう。現状、政府はキャンセル料の補填(ほてん)を考えているが、それだけでは不十分だ。 旅行や飲食、娯楽関係に従事する中小企業を中心に従来の持続化給付金の上限を撤廃し、観光シーズンに当たる7~9月の前年比の売り上げ減少分を補填する。劣後ローンなどの活用も重要だ。 そして、政府や東京都などの地方自治体は感染症対策に全力を尽くす。このような予期せぬ感染拡大に応じて、柔軟な経済支援を行うための枠組みとして、多額の予備費を計上していたのだから、ぜひ活用すべきだ。 ところで、立憲民主党の逢坂(おおさか)誠二政調会長は「GoToトラベル」の延期を求めた上で、「2020年度第2次補正予算の予備費で、観光、交通事業者を支援すべきだ」と述べた。しかし、立民は5月末に「10兆円の予備費は空前絶後で、政府に白紙委任するようなものだ」と反対していたではないか。全く、この種の二枚舌というかダブルスタンダードには毎度呆れ果てる。観光支援事業「GoToトラベル」について記者会見する赤羽一嘉国交相=2020年7月17日 しかし、政府にも課題が重くのしかかる。まずは、現状の都市部での感染抑制が最も重要な一方で、旅行業界や、前回の論考でも触れた医療業界などに対し、予備費を用いた金銭補償は急務だ。 さらに現状の感染拡大の終息を踏まえて、フェーズ2の景気刺激政策として消費減税をはじめとする積極的な財政政策を、日本銀行のインフレ目標の引上げのような大胆な金融緩和とともに行う必要がある。その際には、予備費の活用の在り方で、野党との「約束」に縛られる必要はない。 国民目線に立脚すれば、消費減税の基金としても活用することができるだろう。足りなければ第3次補正予算も求められる、政府はそのような現状であることを理解しなければならない。

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    「史実と創作」歴史学者悲喜こもごも

    たとえ有名な歴史小説でも大部分は創作である。前回のトンデモ戦国史が象徴的だが、テレビ番組や自治体の発表などでも、面白くするために「ウソ」が散見される。ただ、史実と混同する視聴者や読者は後を絶たず、歴史研究家の悩みの種だ。特に戦国時代はドラマ性が強くファンも多いだけに、悲喜こもごもといったところか。

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    歴史学者はつらいよ、戦国ファン多きゆえに寄せては返す喜びと悲しみ

    渡邊大門(歴史学者) 新型コロナウイルスがいまだ終息しない。私は生涯学習講座の講師もしているが、受講者に高齢者の方が多いため、開講するのが難しい。会場は基本、夏は冷房、冬は暖房で、窓は締め切りのため、何かあったら大変だ。当面、歴史講座の開講は絶望に近いだろう。 ところで、歴史講座の講師を務めていると面白い。面白いといえば語弊があるが、いつも珍妙な出来事があるので、困惑するというのが本音だろうか。 講座の多くは、終了後、講師に対する質問の時間が設けられている。質問がないときもあるが、張り切って質問される受講者も少なくない。その中で多いのは、「司馬遼太郎先生の説とは違うようですが…」「先日見たテレビ番組とは違うようですが…」という質問だ。こういう質問に答えるのは、なかなか難しい。 司馬遼太郎は歴史小説家である。小説というのは、フィクション(創作)である。司馬作品はおおむね史実に沿って書かれているが、歴史研究ではない。私も好きで若い頃に読んでいたが、自分が歴史研究をするようになると、司馬作品の間違いに気づく。いや、間違いというのは変である。創作物なのだから。 戦国時代を扱った司馬作品を読むと、根拠はおおむね後世に成った二次史料(軍記物語、家譜など)である。司馬は二次史料のユニークな逸話を素材としつつ、登場する人物の豊かな人間像を描いた。それは天才的で、ほかの小説家も真似ができないだろう。つまり、司馬作品は歴史小説なのだから、歴史研究を忠実に反映させていないのは当然なのだ。 司馬作品に絡んだ質問が出た場合は、上記のように歴史小説と歴史研究の違いについて説明し、現在の研究で正しいとされる根拠や説などを説明する。こうすると、たいていの人にはご納得いただけるようだ(中には食い下がってくる人もいるが)。 念のために申し添えると、歴史小説がダメだということではない。そもそも目的(創作と研究)が違うものなのだから、比較して優劣を論じても意味がないのだ。文化勲章を受賞し、記者会見する司馬遼太郎氏=1993年10月、京都市下京区(山下香撮影) 問題なのは、テレビの方だ。こちらは創作なのか、研究を反映させているのか分からない場合もあり、ときに大学教授が出演するから面倒である。 その前に余談になるが、筆者とテレビとの関わりついて、少しだけ述べておこう。実は、私もテレビに協力することがある。以前、協力した番組では「中国大返し」を取り扱った。 「中国大返し」とは、天正10(1582)年6月の本能寺の変後、羽柴秀吉が備中高松城から山崎まで信じがたいスピードで帰還を果たしたことである。その際、スタッフの方がよく勉強されていた。諸説を取り上げて比較検討し、良い番組になったと思う。 しかし、それがすべてではない。嫌な思い、不愉快な思いをしたことも少なくない。非常識なテレビ制作も たとえば、あるとき番組の制作会社からメールが送られてきた。企画書が添付されてあった。メールの本文を読むと、「歴史のクイズを50問作ってください。ただ、当番組では予算がないので、謝金は払えません」というものだった。もちろん、メールを即削除。でも、応募する人が成り立つのだろう。 ほかにも番組の制作会社からのメールで、質問事項を10個ほど並べてきて、「答えてください」というものもある。私が返信メールで「謝金は出ますか?」と尋ねると、返事は帰ってこない。予算を準備していないのだろう。 番組の制作会社が電話をかけてきて「ちょっと教えてほしいことが…」とか、「今は予算がないのですが、相談だけでも…」というのも珍しくない。一度、付き合ったら最後、何度でも電話をかけてきて、質問責めにあうのですべて無視している。 また、ある番組の制作会社からは、まったくの根拠がないことを言ってほしいという依頼もあった。それは食の番組で「戦国武将の〇〇は、××が大好物だった」ことについて、「渡邊先生のお墨付きがほしい(テレビで発言してほしい)」と言われた(しかも謝金はない)。もちろん断った。 おそらく番組の制作会社の中には、タダで答えてくれる人を探して、あっちこっちにメールを送っているのだろう。酷い話である。 「それくらいタダで教えたら」と、思うかもしれないが、それは違う。私の場合は会社を設けており、歴史に関することで収入を得ている。しかも、質問にきちんと答えようとするならば、念のために調べなくてはいけない。 そういう労力なり時間なりが必要なことを理解していないのだから、実に非常識である(別に、法外な額を要求しているわけではない)。ただ、お付き合いのあるテレビ局や番組の制作会社はきちんと謝金を支払ってくれるので、ご安心を。 つまり、すべてではないが、テレビ番組の中には予算を組んで、しかるべき監修者を立てず、可能であればタダで情報を得ようとするケースがあるように思える。仮に監修者を立てようとして、まっとうな研究をしている大学教授に依頼しても、断られることがあるだろう(現にテレビには絶対に出ないという大学教授を知っている)。したがって、どういう調べ方をしているのか疑問である。 私はテレビの歴史番組を意識して見ていないが、食事中などにテレビをつけると、ふと目に留まることがある。そして、卒倒することも多い。 ある歴史番組では、「合戦が起こると、誰が戦功(合戦における貢献度合い)を認定するのか?」というクイズがあった。出演者が首を捻りながら考えていたが、解答が浮かばない。すると、歴史研究家なる方が「軍(いくさ)目付です」と答えた。軍目付が合戦の様子を見て、誰が戦功を挙げたのか確認しているというのだ。これには驚倒し、思わず箸を落とした。※写真はイメージ(ゲッティイメージズ) 常識で考えてほしい。数千、数万の軍勢が入り乱れる中、どうやって軍目付が自軍の将兵の活躍を一人ひとり確認できるのか! 不可能である。そもそも軍目付は、合戦の状況を監察する役割をしており、将兵の個別の戦功を認定するものではない。歴史バラエティー番組は要注意 一般的にいうと、各将兵は敵の首(あるいは鼻など)を獲り、首実検によって戦功を認定された。首が大将格の首ならば、恩賞は多くなる。慶長19、20(1614、15)年の大坂の陣になると、将兵は複数で行動するようになり、互いに戦功をチェックして、戦功を挙げた証人になってもらうことがあった。 数え上げたらキリがないが、こういう酷い例は枚挙に暇がない。そもそも出演する歴史研究家には、前回指摘したトンデモ歴史家が出演することがあるので、大いに注意が必要である。「テレビで言っているのだから大丈夫。正しいはず」というわけにはいかない。 「大学教授が言っているから大丈夫!」という人がいるかもしれないが、それは正しくない。私もたまたま見たテレビで、卒倒するような説をたびたび目にした。自分の専門外にもかかわらず、積極的に間違いを発信するので注意が必要である。 なぜこういうことになるのかと言えば、歴史を取り上げる際はバラエティー番組になっていることが多いからだ。むろん研究会や学会ではないので、「常に真剣勝負でやれ!」と言わない。結局、「お遊び」の要素が多くなり、しかるべき歴史研究者が適切な解説をしないので、おかしな「トンデモ説」が独り歩きするのである。 歴史がバラエティー番組になってしまうと、まず期待しない方がいい。中には意図的なのか、学界では見捨てられたような酷いトンデモ説を取り上げて、あたかも正しいかのように放送することも珍しくない。それを見た視聴者が講演会で「この前見たテレビ番組では…」と質問するのだから始末に負えないのである。 では、「テレビはともかくとして、行政(教育委員会や博物館の職員)の言うことなら大丈夫なはず!」と思うかもしれない。しかし、こちらも実に微妙なところがあって、決してそうとは言えないのである。 自治体では、コロナ以前から観光客を呼び込むことに力を入れている。そこで、注目されるのは歴史である。歴史を目玉にして、観光客を呼び込もうというのだ。たとえば、世界文化遺産は代表的なものであるし、NHKの大河ドラマも1年間限定ながら、非常に効果がある。 とはいえ、みなさんもご存じの通り、実際はそうはいかない。世界文化遺産も長く安定的に人気スポットになるところがあるが、ブームは認定直後だけで、あとは訪れる人の数が急減することも多い。「一度、行けば十分」ということだろう。世界文化遺産になることが、訪れる人の安定供給を保証するわけではないようだ。 おまけに新しい史料が見つかった際、教育委員会などが新聞やテレビにニュースリリースをするが、紛らわしい発表をすることが少なくない。遺跡が見つかったら「邪馬台国発見か!」、後世に成った二次史料に書かれたことなのに「新事実が発見される!」などは一例である。注目を集めるため、誤解を受ける表現がなされているのだ。 私も自治体などが主催する講演会などで講師を務めることがあるが、悲劇的な例を幾度が見たことがある。※写真はイメージ(ゲッティイメージズ) まずは講師の選定である。せっかく歴史の話を聞くのならば、しかるべき専門家に依頼すべきと思うが、すべてがそうではない。集客を見込んで、「テレビでおなじみの…」といったトンデモ歴史家に依頼することはままある。 自治体としては人がたくさんくればよいので、世に知られていない専門家を呼ぶよりも、テレビでおなじみのトンデモ歴史家を呼んだ方が効果があると考えたのだろう。実際に人はたくさん来る。時には自治体も また、稀にあるのが主催者から講師に対する要望である。むろん、テーマについては要望があってしかるべきだが、具体的な中身に踏み込まれると問題が多い。 たとえば、「戦国武将の〇〇とその妻の××は深い愛情で結ばれていた」ことを言ってほしいという要望があった。これには困惑した。一般論としては離婚してないのだから仲は悪くなかったのだろうが、深い愛情で結ばれていたことを示す一次史料はない。というか、そんなことをわざわざ言う必要はないように思えた。どうもそれが「売り」なようだったので、積極的なコメントがほしかったのだろう。 別の講演でも困ったことがあった。私は自著の中で、ある戦国武将の有名な逸話(美談が多い)は後世に成った二次史料に拠るもので、疑わしいと書いたことがあった。拙著を読んだ自治体の職員から連絡があり、「ぜひ講演を」という話になった。むろん応じたのであるが、そこで不愉快なことが起きた。 講演の直前、自治体の担当者から連絡があり、「本で書いているような手厳しいことは言わないでほしい」と要請された。逆に、「通説による美談でお話しいただけないか」と懇請された。その自治体では会議の中で「これから観光客を呼ぼうと必死なのに、厳しいことを書く人(渡邊)に講演をさせると水を差す」という意見が出たようだった。 それならば、トンデモ説を唱える人はいくらでもいるのだから、そういう人にお願いしていただき、私は辞退すると言うと「それでは困る」という。もうすべて準備が整ったので、今さら変更できないのだ。私としては、本に書いていることと逆のことを言うわけにいかず、大いに困ったが、結局は逸話の真偽を問うテーマを避けることにした。 つまり、自治体にはさまざまな事情があるので、こちらもくそマジメに講演するのではなく、大人の対応を迫られるわけである。 以上の通り、歴史に関する小説、テレビ、講演のことを考えてみると、歴史研究の未来は暗いと言わざるを得ない。 その背景には、明らかに歴史教育の問題がある。荒っぽく言えば、歴史の勉強は有名な事件と人物の暗記だった。何年に何が起こったのか、あるいは固有名詞をひたすらおぼえる無味乾燥なものだった。面白味に欠けるのである。 しかし、そう感じている人が魅了されてしまうのがトンデモ歴史本である。トンデモ歴史本は、あたかも合理的に歴史的な事件の真相を説明する。ロマンもある。専門家の説明は慎重で、奥歯にものが挟まったようなもどかしさがあるが、トンデモ歴史本は明解である。これに引っかかってしまうのだ。 念のために申し添えておくと、先述の通り歴史小説が悪いわけではない。トンデモ歴史本だって、それが「お遊び」であることを理解して読むのならば、娯楽の一種として認めてもいいだろう。それは、テレビの歴史バラエティー番組だって同じである。 現状では歴史小説のように「小説」つまり「フィクション」と銘打っているものはともかくとして、それが「お遊び」なのか「研究」なのか、境界線が不明瞭である。特に、自治体主催の講演会やテレビ番組は、「嘘を言わないはず」と思っている人が多いに違いない。もとより一般の人には、真偽を判定することが難しいのだ。※写真はイメージ(ゲッティイメージズ) 嘘を信じてトンデモ歴史本を買い漁っている人や、間違えた情報を垂れ流しにする講演を聞いたり、歴史番組を見ている人のことを考えると悲しくなる。あまりに悲惨すぎるので、そこではた少しは考えてほしい問題である。

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    コロナ禍でもおとなしい「不安遺伝子」が宿る日本人の拠りどころ

    杉山崇(神奈川大人間科学部教授)麻生マリ子(家族心理ジャーナリスト)司会・対談構成:梅田勝司(フリーライター、編集者、「PressRoom.jp」記者) 新型コロナウイルスの感染拡大は、2020年の世界を大戦期のような事態に追い込んだ。現在も決定的なワクチンの開発には至っていないが、各国は独自の対策で新型コロナと向き合い、7月に入ると、経済活動の再開に向けて動き出した国が日本も含めて増えている。 日本では、事態進行に対策の遅れが指摘されていたが、4月7日に安倍晋三首相が発令を表明した「緊急事態宣言」が、当初予定から約20日後の5月25日まで続き、その間、国民は自粛生活を余儀なくされた。2月25日に出された「新型コロナウイルス感染症対策の基本方針」では、企業にできる限りのテレワークを呼びかけ、各種学校などにも休校を要請し、大半が応じることとなった。 まだ終わりの見えない新型コロナ禍の中で、私たちはこれまで体験したことのない生活を強いられている。感染抑制と経済活動を両立させる「新しい生活様式」の下で新型コロナと共存するには、心を壊さないための知識が求められる。コロナ禍の発生から今までを振り返りながら、心理学者で神奈川大人間科学部教授の杉山崇氏と、家族心理ジャーナリストの麻生マリ子氏に、対談を通して解説してもらう。* * * 杉山 私の勤務する大学の状況は、テレワーク半分、出勤半分です。やはり大学を維持しなければならないですから。テレワークといっても、子供が自宅待機になっている中では難しい方が多いですよね。 学生は8月まで完全オンライン授業です。教職員の出勤について、緊急事態宣言発令の前日までは、中間管理職クラスだと、あくまで要請だから普通に出勤と考えている人が多かったですね。それが一転、発令されたらすぐに大学への入構制限とテレワーク導入を決定しました。それだけ緊急事態宣言は威力があったと思います。 ちょっと話が広がるんですけど、この対応には「同調圧力」を感じました。同調圧力に抵抗すると、イメージも悪くなってしまう。大学に限らず、自社のブランドイメージを気にする企業や店舗などは緊急事態宣言を重く受け止めて、休業や在宅ワークにせざるを得なかったと思います。学童保育に子供を迎えに来た保護者ら。新型コロナウイルスによる臨時休校の影響で、一人親世帯の不安が募っている=2020年3月、大津市 梅田 麻生さんもお子さんがいらっしゃいますけど、大変でしたか? 麻生 現在、学校は再開されていますが、都内はおおむね6月の初めから分散登校が2週間続き、3週目から一斉登校になりました。2月27日夜に一斉休校要請が出て、取材した中ではおおむね翌週の3月2日か3日から休校に入りました。学校再開の時期に地域差はありますが、休校期間は特定警戒都道府県を中心に5月末まで最長3カ月に及んでいます。 休校中の学童保育(以下、学童)も地域や学校ごとに致し方ない差や方針の違いがありました。学童の多くは自治体から民間企業へ委託される半官半民で運営されています。お子さんが学校へ行っている時間帯や、放課後の小学生を対象に地域体験学習と居場所を兼ねた「放課後子ども教室」事業が行われている学校や地域では、その時間をパート勤務や傷病の療養にあてていた家庭もあり、その緊急受け入れをする学童もありました。それに伴う学童の支援員の緊急増員など自治体も大変だったと聞いています。 でも、隣の街に行けば、そもそも学童は常に待機児童を抱えている状態で、そのような対応はできないと言われたり、閉所になっていました。また、預かる学童にしても、医療関係者や生活インフラに関する業務に従事されている家庭や一人親家庭、自宅介護をされている家庭などに限定されていたそうです。そうなると、民間学童や、障害のあるお子さんであれば「放課後等デイサービス」に預けるしかありません。しかし、英会話教室や塾、スポーツクラブの運営する民間学童は、月額8万円ほどかかってしまうという話も取材の中でよく伺いました。社会問題が浮き彫りに 梅田 今は学校への登校も再開され、学童も同様だと思いますが、各種調査によると、出勤再開後も在宅ワークを取り入れる企業も増えてきたようですね。 麻生 取材した中では、この機に在宅やリモートワークを活用していく方向に舵(かじ)を切ったり、併用する企業が多い印象を受けています。出社したとしても時差出勤や分散勤務です。これは業務効率化の問題よりも、やはり新型コロナ禍の影響ですね。 時差出勤や時短という形態をとる企業は、在宅にはできなくても、感染リスクを極力下げるために緊急事態宣言中からその方法を採用していましたよね。コロナがきっかけではあったけれども、効率化にも繋がるから今後も在宅勤務やリモートワークを併用していこうという企業が、最も多いように見受けられますね。 梅田 今回の新型コロナ禍は、これまで放置されていた社会のさまざまな問題を浮き彫りにして、目に見えるような形にしてしまったというか、現象として顕在化させたような印象があるのですが、それに関して思われるところはありますか? 杉山 現代社会には矛盾というか、問題がいっぱいあったんですけど、問題をごまかしながらなんとかやってきたわけです。これまでも、問題が極限に行き着いたら大改革が起きたり、果ては革命や戦争が繰り返されてきましたが、新型コロナ禍のように社会を巻き込むような現象が起こると、一番弱いところに影響が集中してしまいます。 現代社会で最も影響が出るのが、派遣社員・バイトやフリーランスの方たちです。今回、生活や権利を守る社会の仕組みがないまま、政府がその働き方を推奨してきた問題が浮き彫りになりました。※画像はイメージです(ゲッティーイメージズ) 梅田 社会を回していく上で、社会一般の人たちの心理として、弱者は構造的に必要なんでしょうか? 杉山 犠牲はどの社会でも必要としています。古代ギリシャや昔の欧米列強でも奴隷制度がありました。便利に使われてくれる人というか、いろんな矛盾や問題を吸収してくれるような働き方をしてくれる立場の人は、どの社会でも時代でも必要だったということでしょうか。 これはよく言われる立場の上下を取り合う「マウンティング」ではなくて、社会を上手に回すために、臨機応変に柔軟に動いてくれる人が単純に必要なんです。 麻生 非正規雇用者などが社会の調整弁となってしまっていますよね。実際に、ショッピングモールのテナントでパート勤務されていた方は、3月から営業時間が徐々に短縮されていき、就労時間が短くなって収入減を心配していた矢先に、モールの従業員に新型コロナの感染者が出たため、臨時休業になって、翌日から仕事がなくなりました。突然収入が途絶えて、絶望的な気持ちになったそうです。 梅田 それで言えば、休業補償も給付金もまだ全然行き渡ってないですよね。だから休業中も従業員に給料を自腹で払える会社はいいんですけど、そうではないところはもうスタッフを切るしかない。緊急事態宣言前後で雇い止めが問題になりましたが、これは社会的に切り捨てられる人から先に切り捨てられたということでしょうか?デモをしない国民性 杉山 そう言えると思いますが、実際は自腹で休業中の給料を払えない企業の方が日本では多いわけで、実際とあるタクシー会社は一斉に全社員を切りましたね。これは、その間に失業手当をもらってくれ、というアイデアでしたが。 麻生 Uberもフルタイム勤務の従業員を対象に、世界で3千人以上の解雇を5月中に2度行ってますね。計6700人もの大規模な人員削減です。事業所の閉鎖や統合も行われました。コロナ禍で配車サービス事業が80%減少したことが主な理由です。 Uber Japanでも日本進出当初から数々の事業立ち上げに参画してきた日本人社員が解雇された事例もあります。一方巣ごもり消費で、Uber Eatsの配達員が担う仕事量は増加していますが、配達員は独立した一業者としての契約なので、社会的には弱者の立場といえるでしょうか。 梅田 となると、今回の新型コロナ問題では正社員も雇用の危機にさらされている。インターネットでは「おかしいじゃないか」という声が湧き上がっていましたが、時期的な問題もあって大規模デモなどは起きませんでした。米国はお構いなしにデモをやっていますけど。 杉山 日本人は、あまりデモなどで暴れない国民性なんです。まあ昔からですね。江戸時代にデモでもしたら打首ですからね。切り捨て御免の国でしたから。 だから、もともとあまりデモの文化がないというんでしょうか。戦後になってから、学生運動の時代の活動家たちがデモをしていましたが、別にみんながデモをしたというわけではなくて、「ノンポリ」と言われる学生運動に無関心な学生たちがけっこういました。今の日本でデモを起こして何かが変わると思ってない人はけっこう多いかもしれないですね。 というのも、日本人には会社に協力しようとするマインドが働くんです。いわゆる日本人気質というものです。組織に協力的なマインドを持った人しか日本では生き残れなかった。昔は村社会が組織ですから。村社会に協力的な人だけが生き残れる社会だったから、どうしても協力しようとする遺伝的な傾向が働いた。そういうマインドの人が子孫を残してきた結果が現在ですからね。安田講堂が学生らに封鎖された当時の東大本郷キャンパス=1968年7月 といいつつも、大正の近代化以降は、協力的でなくてほぼ村八分になるような一部の人が社会を変えてきたりしてきたんですけどね。でも、大多数はやっぱり村社会に協力的な人たちですよ。そういう遺伝的傾向を持った人が日本人は多いですね。 麻生 米国の方からは「この情勢下で、なぜ日本人はおとなしく暮らしているのか」とまで言われました。 梅田 日本人はあまりお上に逆らわない傾向がたしかにある気がします。SNSで声を上げている人はいて、時々盛り上がることもありますが、日本の根本は変わりませんね。「不安遺伝子」と日本人 杉山 心理学的に説明すると、「不安遺伝子」を持ってる人が世界で最も多い国の一つが日本なんですよ。不安を解消する方法はいろいろありますが、そのうちの一つが大きな組織の一部になってしまうことです。孤立は不安を高めるため、大きな組織と一体感を得ることで、自分が大きくなった気持ちになれる。だから、組織との一体感を求める人は多いです。 不安遺伝子とは別に「チャレンジャー遺伝子」というのがあって、これを持ってる人そのものが日本人では少ない上に、不安遺伝子があるとチャレンジャー遺伝子を働かなくしてしまう。不安遺伝子とチャレンジャー遺伝子学が拮抗して逆に身動きが取れなくなる。 梅田 今回の新型コロナ禍ではマスク不足が続いて、いろいろな企業や工場などがマスク作りに取り組み始めましたが、それはチャンレンジではないんでしょうか? 杉山 社会全体が「命を守れ」をスローガンのようにしているので、「みんなの身を守る」という流れに乗ることで、自分たちが大きくなった気持ちになれると思うんですよ。  何より、それは企業戦略としてマスク製造・販売で名が知られることにもつながるので、不安遺伝子の働きによるものといっていいと思います。 あと、マスク製造自体は、あまりチャレンジにならないですね。作り方は分かっているから、誰もやったことがないことをやるレベルのチャレンジではないんです。分かっていることで確実に結果が出ることやろうというのは、不安遺伝子が大好きなこと。マスク作りをするものづくり企業が増えるのは、日本人的な感覚として間違ってはいないんです。※写真はイメージです(ゲッティーイメージズ)* * * 次回はさらに、コロナ禍で浮き彫りにされた人間関係の心理について読み解く。 すぎやま・たかし 神奈川大人間科学部教授、同大心理相談センター所長、臨床心理士、1級キャリアコンサルティング技能士。昭和45年、山口県生まれ。学習院大大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学。専門は臨床心理学、応用社会心理学、産業心理学など。心理学オンラインサロン「心理マネジメントLab:幸せになる心の使い方」を主催する。著書に『ウルトラ不倫学』(主婦の友社)など多数。監修書に『マンガでわかる 心理学的に正しいモンスター社員の取扱説明書』(双葉社)。 あそう・まりこ 家族心理ジャーナリスト。昭和52年、福岡県生まれ。出版社勤務などを経て現職。生きづらさの背景として、親子・母子関係に着目。家族問題、母娘関係や子育て、孫育てなどをテーマに取材活動を続ける。そのほかにも家族問題に関する心理相談を行っている。

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    ワイドショー民はいつになればコロナの「不都合な事実」に気づくのか

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) 7月に入ってから、新型コロナウイルスの感染拡大が東京圏を中心に再び加速している。12日現在、新規患者の報告件数が4日連続で200人を超えた。 特に新宿、池袋のいわゆる「夜の街」で働く人たちを中心に感染者数が増加している。この感染者数の増加には主に二つの理由がある。 一つは東京都と新宿区が連携して、夜の繁華街で働く人たちを中心にPCR検査の集団検査を実施していること、もう一つは接客業やホストクラブ、キャバクラでの陽性率が30%を上回る高率であることだ。緊急事態宣言の下での陽性率の最高値が31・7%だったのでそれに匹敵する。 ただし、新宿区の検査による会社員らの陽性率は3・7%と、東京都の5・9%(7月10日現在)よりも低い。ワイドショーなどマスコミの一部報道では、新宿に市内感染が大幅に拡大しているとするものがあるが、このデータを踏まえれば報道は正しくない。特定の業態で拡大が深刻化しているというのが実情だ。 筆者がここで特記したいのは、集団検査などで積極的に協力している「夜の街」の人たちへの感謝である。この点を忘れてはならない。 もちろん、東京都の感染状況は全く安心できるレベルではない。感染経路不明者が占める割合が高くなっていること、都道府県にまたがる感染が拡大していることが挙げられる。さらに、重症患者数は低位だが、感染者数がこのままの増加スピードで推移すれば、対応できる病床確保レベルが逼迫(ひっぱく)する恐れも生じる。 また、現在目にしている数値は、潜伏期間などを考慮すれば1~2週間前の感染レベルともいえ、現状はさらに感染が拡大している可能性がある。それに報道では、感染者の多くが若い世代であることや、重症者が少ないことが強調されているが、これも正しいとはいえない。 感染症専門医の忽那賢志氏は「重症者のピークは患者発生数よりも後に来るので、今重症者が少ないからと言って安心はできません。東京都の流行の中心は今も若い世代ですが、すでにその周辺の高齢者や基礎疾患のある方も感染しており、今後の重症者の増加が懸念される状況」だと、警鐘を鳴らしている。東京・新宿の歌舞伎町をマスク姿で歩く人たち=2020年7月10日 また個人的には、緊急事態宣言解除以後の、日常的な感染予防対策の緩みを実感している。例えば、狭い空間にもかかわらず、筆者以外全員がマスクしない環境で取材を受けたこともある。空調が効いているので息苦しくないはずなのにマスクを着用しておらず、正直非常にリスクを感じた。 これに類した体験を持つ人も多いだろう。当たり前だが、緊急事態宣言が解除されても、新型コロナ感染の脅威が終了したわけではないのだ。感染予防のマナーが日常的に求められている状況であることを忘れてはならない。苦境を救う予備費 ところで、インターネット上などで「新型コロナはただの風邪だ」とする意見が後を絶たない。 免疫学者の小野昌弘氏はツイッターで、「コロナはただの風邪ではない。『伝染する肺炎』と受け止めるのが的確と思う。そもそも肺炎は医学的に重大な状態。しかもコロナの肺炎は血栓ができやすい、全身状態の急速な悪化を招きやすいなど、タチが悪い。重症者で免疫系の異常な反応がみられ、この手の免疫の暴走は危険。やはりただの風邪ではない」と指摘している。これは多くの医療関係者の共通認識だろう。 新型コロナ対策を担当する西村康稔(やすとし)経済再生相は、「夜の街」対策が急務であると認識しているようだ。具体的には、今後の情勢次第で、東京都と埼玉・千葉・神奈川の3県に、改正新型インフルエンザ等対策特別措置法に基づく休業要請を行う考えを示した。 ただ、休業要請に踏み切るならば、やはり政府の支援による金銭的な補償が必要になるだろう。今までの政府の見解では、休業要請と金銭的補償の連動に否定的だ。 その「肩代わり」をしているのが自治体だが、財政事情が大きくのしかかっている。政府には10兆円の予備費があるのだから、それを活用すべきだ。 医療機関への負担も積極的に軽減すべきだろう。感染症対策の直接的な医療体制の充実を図る必要がある。 また、新型コロナの感染を避けるために「受診控え」が広がり、多くの医療機関の経営が悪化している問題を指摘しておかなければならない。 NHKによると、3割にあたる医療機関のボーナスが引き下げられているということだ。このような医療機関の経済的苦境にも、予備費などで積極的に国が対応すべきだろう。新型コロナウイルス感染症対策分科会終了後、会見に臨む西村康稔経済再生担当相=2020年7月(川口良介撮影) ただ、ワイドショーレベルの報道では、予備費の活用などという意見は出てこない。ワイドショーだけの話ではなく、予備費が巨額であることや、その使途が特定化されてないことを批判する論調が中心だった。新型コロナ危機の本質を理解していない意見がマスコミや識者の論調の主流だった。 新型コロナ危機の本質はその根源的な不確実性にある。つまり、この先どうなるのか誰も分からない。ワイドショーの「PCR至上主義」 予備費はこの不確実性の高さに柔軟に対応できる枠組みである。それこそ経済刺激のために、追加の定額給付金や、1年間程度の消費減税の財源にも使える「優れもの」だ。 だが、財務省は予備費の額が膨らむことや、使途が減税などに向けられることを極度に警戒していた。つまり日本のマスコミの多くは、財務省の考えに従っているともいえる。 予備費批判は、野党や反安倍政権を唱える一部の識者にも顕著だ。よほど財務省がお好きなのだろう。 予備費を活用してお金を配ることよりも、この手のワイドショーや、番組と一緒に踊っている「ワイドショー民」が好きなのが、政府や自治体のリーダーシップ論だ。先日のTBS系『サンデーモーニング』でもリーダーシップ論が展開されていた。 ジャーナリストの浜田敬子氏は、米ニューヨーク州のクオモ知事のリーダーシップが新型コロナ感染の抑制に成果を挙げているとし、日本のリーダーシップの不在を批判していた。浜田氏は、検査が1日に6万6千件行われ、その結果を知る時間も極めて短く、無料で資格も問われずに何度も受けられることを称賛していた。 だが、ニューヨーク州は死者数が3万2千人と全米でも最も多い。一方で、日本は約1千人、東京が約300人である。 しかも、ニューヨークのように米国は厳しい都市封鎖(ロックダウン)政策を採用しているので、経済的な落ち込みも日本より激しい。ワイドショーではこの不都合な事実はめったに報道されない。 日本のワイドショーは「PCR至上主義」だ。検査に積極的であればあるだけ高い評価を与え、他の側面は無視しているに等しい。もちろん、検査体制の充実は必要だと筆者も考えている。 だが、日本のワイドショーや踊らされているワイドショー民には、検査が充実しているニューヨーク州が、なぜ都市別で世界最高水準の死者を出しているのかわからないのではないか。検査拡充は感染終息の必要十分条件ではない。2020年7月1日、米ニューヨークで記者会見するニューヨーク州のクオモ知事(ゲッティ=共同) 今、検査で陰性だとしても、それは「安全」ではないのだ。偽陰性の問題や、検査後にすぐ感染する可能性など、PCR検査が「安全」を保証することはない。 むしろ、マスク着用や正しい手洗いの励行、社会的距離(ソーシャルディスタンス)をとることといった感染予防の徹底が必要だ。そして言うまでもないが、積極的な経済支援がこれまでも、そしてこれからも極めて重要な政策であり続けるのである。

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    政治へのホンネを露わにした小泉今日子の気がかりな「新境地」

    片岡亮(ジャーナリスト) 5月31日、歌手で女優の小泉今日子が共産党の機関紙「しんぶん赤旗」日曜版で大々的に掲載され、女優の渡辺えりとオンラインで対談して注目を集めている。渡辺は「赤旗」で共産党支持を表明し、インタビューなどにもたびたび登場している。小泉も近年、政治的な発言を続けており、しかもリベラルのスタンスを鮮明にしたこともあって物議を醸している。 小泉は、自身が代表取締役を務める制作会社「明後日」の公式ツイッターでも、東京都知事選への投票を呼びかけたり、小池百合子知事の再選という結果を受けて「現実は受け止めないといけないが、投票率の低さに驚いた」と感想をつぶやいていた。 中でも注目が集まったのが、検察官の定年を引き上げる検察庁法改正案に対して、反対のツイートを連発したことだ。改正案を含む国家公務員法改正案は結局廃案となったが、5月25日には産経新聞記者、朝日新聞元記者との賭けマージャン問題で辞職した東京高検の黒川弘務前検事長の処分について言及していた。多くの人が「おかしい」と感じ、社会的にも反響の大きかった問題だけに、意見を表明すること自体は特筆することでもない。 ただ、その内容が、安倍晋三首相の写真が掲載された記事とともに「こんなにたくさんの嘘をついたら、本人の精神だって辛いはずだ。政治家だって人間だもの」というものだった。明らかに権力者に対する皮肉で、強い政治的メッセージだといえる。 小泉だけでなく、日本の俳優や歌手がこうした問題に意見を述べるたびに騒がれ、「芸能人が政治的発言をすることへの賛否」が持ち出される。ただ、その点への議論が深まることはなく、単に発信者の内容に対する極端な賛否だけがもっぱら注目されて終わってしまう。今回の小泉に対するネット上の反応を振り返っても一目瞭然だ。 「政治利用されている」「共産党に取り込まれた」などと小泉がまるで思考停止した広告塔と勝手に位置づけて批判する声や、「日本から出ていけ」と非国民扱いするものまであった。女優の小泉今日子=2018年9月 一方で反政権の意向を持つ人は、小泉が何者か、その職業に関係なしに「選挙に出てほしい」とか「純粋な思いで発言している」と支持している。このように、発言内容で物議を醸したのではなく、単に有名人が各自の政治信条を述べて、その影響力を含めて賛否を示しているだけなのだ。 三原じゅん子や今井絵理子、蓮舫のように現職だけとってもタレント出身議員は山ほどいるし、山本太郎は参院議員や政党党首に就き、東京都知事選に出馬した。このような現状で、そもそもタレントの政治的関心自体を議論することさえ無意味な話だ。型を破ったアイドル 中には「タレントが政治に首を突っ込むな」という国民の権利や民主主義すら否定する人もいる。しかし、こんな主張は「ではどんな職業だったら政治の話をしていいのか」という反論で一蹴されるのがオチだ。 結局、小泉の政治的発言は、彼女のスタンスに対して好き嫌いを明確にさせただけだ。 そうなると、人気商売の芸能人にとって、国民を分断する論争に積極参加することは、本来得策ではないといえる。多くの芸能プロダクションが所属タレントに政治的発言を控えるようにクギを刺すのは、むやみに嫌われたり、好感度を下げることでCMなどの出演オファーから外されることを恐れるためだ。 事務所の求めに従う芸能人にしても、「ビジネス上の中立」を見せているにすぎず、選挙になれば与野党のいずれかの候補には投票している。米国では、タレントの政治的発言そのものが賛否を巻き起こすことはなく、戦時に反戦を訴えた女性カントリー歌手が保守層の多いファンから猛批判を浴びたことで謝罪した例があったが、こちらもビジネス上の損得を考えた上で撤回しただけだった。 小泉の場合は、急に政治色を強めたようにも見える。だが、もともと彼女はアイドル時代、従来の着せ替え人形のような、それまでのアイドルのステレオタイプから脱却し、自己主張を強めたキャラクターでさらなる人気を得た女性である。 これまで政治的発言が目立たなかったのは、大手事務所に所属していたことが大きい。2018年2月に独立し、自由に発言できる立場になって「たとえ仕事を失ってでも自己主張はやめない」という姿勢を本当にとっているのだから、自己主張キャラはむしろ本物といえるかもしれない。女優の小泉今日子=1984年7月撮影 先ごろ、大手事務所から独立した途端、種苗法改正案に関して言及して物議を醸した柴咲コウも同様である。今後は独立して事務所に縛られずに自由な発言をする芸能人が増え、その言葉に対する好き嫌いの感情を露わにした人たちが支持と批判を繰り返すのだろう。その裏には、19年に芸能事務所を退所したタレントの活動を一定期間禁止するような、事務所が強い立場を利用した契約は許されないと公正取引委員会が判断したことも後押ししている。 しかし、当たり前だが、日本国民として政治的発言は言論の自由であり、何ら問題のない話である。ただ、芸能人という職業を「プロフェッショナル」という視点から捉えればどうだろうか。 お笑いコンビ、ウーマンラッシュアワーの村本大輔は政治的関心を強めるあまり、本業の芸にまでその色を持ち出したため、「笑い」という観点では以前より面白くなくなったとの声が多々ある。もちろん何をしようが彼の自由だが、今や人を笑わせる漫才師というより、評論家に転身してしまったかのようだ。「本業」にはプラス? ただ、ビートたけしのように政治もネタとして扱いながら芸人の枠を超えたスターになった成功例もあるだけに、方向性を間違ったとはいえない。ただ失敗すれば、本業に徹することができない「芸能人の出来損ない」と見られるリスクがある。 独立後、プロデューサー業に専念しているとはいえ、小泉の本業は女優だ。「さまざまな役を演じる」ことが仕事であり、その道のプロとして見れば、わざわざ素のキャラを見せて反政府的な色を付ければ、今後の演技に影響が出ることは否めない。 フーテンの寅さんを演じた渥美清のように、演じる役に感情移入してもらうため、つまりは自分の芸を守るために私生活を見せないようにしてきたプロはたくさんいる。 亡くなるまで家族が笑えるコントで勝負し続けた志村けんは、自ら生み出す笑いに邪魔になるような無駄な主張は控えてきた。ある大物俳優は私生活では熱心な自民党支持者だったが、そのことを公言したことは一度もなかった。 小泉が人として何を主張しようが自由だし、彼女の政治信条を支持する人もたくさんいるはずだ。その中に、彼女の本業である女優としてプラスになるかどうかを考えている人がどれだけいるだろう。これから何を演じても政権批判している素の表情がちらついて、ドラマや映画に集中できない視聴者や観客が出てきたらどうか。 また、この上ないキャリアを築いた大女優として見れば、主張に物足りなさを感じるところもある。新型コロナウイルスの感染拡大の影響で、多くの芸能・演劇関係者が苦境に陥り、政府に俳優や声優の公的支援を求めたことが話題となった。「赤旗」でもこの話を取り上げ、支援のある海外の事例を語って「日本だってやればできるはず」と主張している。タレントの志村けんさん=2016年9月撮影 芸能という娯楽は大衆文化でもあって、必ずしも公的支援を受けなければ成り立たないものではない。プロスポーツでは無観客興行やクラウドファンディングで運営資金を募るなど、知恵を絞って自主努力を進めている。 小泉ほどの立場にある大物女優であれば、同業者の緊急事態に「政府はもっと支援しろ」というのが最初の主張なら少々残念な話だ。それに、彼女の興味が演技から政治にシフトしているという証でもある。 純粋に彼女の芸に惚れてきたファンなら、単に「そんなことよりも、よい演技と歌を見たい」と思っていることではないだろうか。

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    九州豪雨でも露見した「人的災害」の備えに残された時間が少ない理由

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) 九州地方を中心に記録的な大雨が続いている。特に熊本県では土砂災害や河川の氾濫で、多数の死傷者や行方不明者が出ている。 また、家屋損壊や交通網の寸断により、多くの人たちが孤立してしまった。新型コロナウイルスの感染拡大がまだ十分に抑制されていない中で、避難所や仮設住宅など慣れない場所での生活を余儀なくされ、大変なストレスや健康被害をもたらす可能性も高い。 静岡大防災総合センターの牛山素行教授の分析によると、被害が特に集中した熊本県南部の球磨(くま)川流域では、「24時間降水量については、球磨川流域における最近数十年の記録の中では最大」だったという。また、大規模な浸水被害に直面している人吉市の市街地は「浸水想定区域(想定最大規模)」として洪水・土砂災害が起こりうるハザードマップ(災害予測地図)で示される区域に重なっている。 もちろん自然災害には不確定な要素が多くある。それでも、従来から災害リスクが指摘されていた地域で、甚大な被害が起きてしまったことになる。 豪雨による自然災害は近年頻繁に発生しており、日本社会が懸念する最大の課題の一つになっている。気象庁では、風雨に伴う災害予想を身近なイメージで表現している。1時間に50ミリの「非常に激しい雨」では、水しぶきで視界が悪くなるために自動車運転は危険である。 このレベルの豪雨の年間発生量を比較すると、最近10年間(2010~2019年)の平均年間発生回数、約327回は、1976年からの10年間(約226回)より約1・4倍に増加している。トレンドで見ても、ほぼ一直線で増加傾向を示しているのが実情だ。豪雨の回数が今後も増加傾向にあると見て、ほぼ間違いないだろう。球磨川(奥)の氾濫で浸水した特別養護老人ホーム「千寿園」(中央手前)。ホームの裏手には球磨川の支流「小川」が流れる=2000年7月5日、熊本県球磨村(共同通信ヘリより) 今回、甚大な被害に見舞われた地域もハザードマップに重なるところであり、かなりの確度で被害が予想できている。これらのことを考えると、事前に十分な対策が可能だと思われる。 豪雨被害への備えには「お金」の問題がカギとなる。豪雨を原因とする自然災害を予防するために、河川の護岸工事や地滑りなどを防ぐ治山事業が求められる。いわゆる「インフラ整備」が重要だ。 インフラ整備は豪雨被害だけの対策ではない。頻発する地震や酷暑でも、国民の生命と生活を守るためには実に重要になる。消極転換した「政権交代」 だが、日本では90年代からの財務省による緊縮主義が続くために、インフラ整備に十分な予算をかけずにきた。今回の豪雨被害を受けた球磨川支流に川辺川ダムの計画があった。 川辺川ダムの事業計画には関係者の利害や政府、自治体の方針などが錯綜し、まさにダム利権の温床となった側面がある。ただ治水面では、地域住民に恩恵のある点で共通の理解はあっただろう。 その恩恵の可能性を潰したのが、財務省の緊縮主義と、「コンクリートから人へ」というスローガンで世論の支持を得た民主党政権だった。川辺川ダムの計画は、鳩山由紀夫内閣で、前原誠司国土交通相が「当初の(利水、発電、治水の)三つの大きな目的のうち(利水、発電の)二つがなくなった。事業を見直すのが当たり前」と発言したことで、事実上凍結されてしまった。 この方針は、その後の民主党政権や自公政権でも続いている。その背景には、インフラ整備に対する消極姿勢が反映されていることは疑いない。 中央大の浅田統一郎教授は、90年代中ごろから政府のインフラ投資などの名目公的資本形成が急減してしまい、2010年代に入る直前にはほぼ半減してしまったことを指摘している(ケインズ学会編、平井俊顕監修『危機の中で〈ケインズ〉から学ぶ』作品社)。 特に21世紀に入って、森喜朗政権から小泉純一郎政権にかけての減少は顕著である。麻生太郎政権でリーマン・ショック対応として増加にやや転じたものの、民主党政権の誕生で再び大きく減少した。「コンクリートから人へ」の政策の転換である。これが増加するのは安倍晋三政権以降である。 林野庁の治山事業の予算を例に、具体的な数字を確認してみよう。同庁の説明によれば、この事業は「集中豪雨、流木等被害に対する山地防災力を高めるため、荒廃山地の重点的な復旧・予防対策、総合的な流木対策の強化により、事前防災・減災対策を推進」するものである。 この予算推移を確認すると、自公政権下で編成された08年度が1052億円、09年度は991億円だった。民主党政権に入って10年度からの3年間は、688億円、608億円、574億円と急減している。国交省職員に案内され、ダム予定地付近を視察する前原誠司国交相(当時)=2009年9月(矢島康弘撮影) 安倍政権の現在ではどうなっているのだろうか。18年度の当初予算額は597億円、年度内の補正予算を加えると792億円、19年度の経常予算は606億円で、そこに防災・減災、国土強靭(きょうじん)化の緊急対策枠である「臨時・特別措置」を加えると、総額で856億円となった。 今年度も、経常分に「臨時・特別措置」枠が加わって815億円で推移している。金額こそ減っているが、とりあえず拡大傾向は維持されている。「臨時措置」が消えるとき ただし、国土強靭化枠はあくまで臨時的な措置である。アベノミクスの範囲内の政策だ。 つまり、安倍政権以後も維持されるかは分からない。むしろ、経常支出だけ比較すると、民主党政権時からせいぜい微増程度にすぎず、財務省の緊縮主義にがっちり固められているといえる。 今噂されているポスト安倍の顔ぶれを見る限り、安倍首相の退任以降、この国土強靭枠はおそらく消滅してしまうだろう。 社会的に必要なインフラ整備と、景気対策としての補正予算を利用した公共事業の支出はもちろん分けられるべきだ。この理解に乏しいのが、日本のマスコミや世論、特にワイドショーに影響される「ワイドショー民」の残念な特徴である。 ただし、新型コロナ危機の下では、景気刺激策として公共事業の増額も当然求めるべきだ。もちろん、社会的に必要なものであれば、防災インフラ整備の投資もどんどん進めるべきだ。 国民の生命と生活を守れず、どこに政府の存在意義があるのだろうか。 しかし、緊縮主義の勢力は強い。日本を代表する財政学の専門家である慶應大経済学部の土居丈朗教授が、小池百合子知事の再選に終わった東京都知事選に関して、次のようにつぶやいていた。消費減税・廃止を掲げた候補者が落選したのだから、消費減税・廃止は東京都民には支持されなかったということになる。#東京都知事選 #東京都知事選挙2020 だが、東京都政の主要な論点として、消費減税や廃止が上ることはさすがになかった。土居氏の発言は、消費減税や廃止を拒否するご本人の強い意見表明かもしれない。日本の財政関係の学者に、土居氏のような見解は多いのではないか。当選確実となり、報道陣に対応する東京都の小池百合子知事=2020年7月5日、東京都新宿区(桐山弘太撮影) おそらく今後、社会的に必要なインフラ投資や、景気刺激政策を牽制(けんせい)する緊縮主義の動きが加速するだろう。だが、緊縮主義こそ国民の生命を危険にさらす最大の「人的災害」だと言わざるをえない。

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    東京都知事選は「遊び場」にあらず、信念なき乱立候補に怒り心頭!

    上西小百合(前衆院議員) 6月18日に告示された東京都知事選がクライマックスを迎えようとしている。日本一の人口を誇り、政治、経済、文化などが一極集中する首都東京のトップとなると、総理大臣に引けも取らぬほどの存在だ。そのため政財界はもちろんのこと、あらゆる業界が都知事選の行方に注目している。 選挙以外であっても、東京都知事は他の地方の首長と異なり、メディア露出の機会も多く、現職は総じて知名度が高い。また、新型コロナウイルスの感染拡大への対応発表により、ここ数カ月は小池百合子知事の顔を見ない日はなかったと言っても過言ではない。 さらに言えば、現在の日本の選挙というものは未熟で、個人の政策や人柄うんぬんよりも有名度やどの政党が公認や推薦、支持しているかで、勝敗が大方決着する。ゆえに、今回の結果は選挙前から既に見えているだろうから、私が前回指摘した河井夫妻の公職選挙法違反(買収)事件のようなケースは発生する隙もないはずだ。 とは言いつつ、都知事選はいつも個性豊かな候補者が勢ぞろいし、まるでフェスティバルのように感じる。しかも今回は過去最多となる22人が立候補しているため、数人しか出馬しない選挙よりは選択肢も一応増える。けれども、当選を一切目的としない人たちの立候補は、私自身いかがなものかと思ってしまう。 一人の人間が選挙で立候補するにあたり、人件費もろもろの費用が税金で賄われている。当選が難しくとも、継続的に自身の政策を街頭活動などで訴え続けている候補者には、それなりの支援者が存在する。 そうした候補者であれば、現在の政界にくさびを打つ鉄槌(てっつい)ともなり得る。しかし、金もうけのために自身の知名度や信用を得たいなどという、利己的な理由で立候補するのはもってのほかだ。最近はユーチューバーなどの動画配信者が300万円の供託金という「投資」を行い、その数倍にもなる視聴料を稼ぐために選挙を利用しているという話も聞く。そのため話題性だけで立候補する候補者は、私としては大変許し難い。 ユーチューバーといえば、NHKから国民を守る党(N国)の立花孝志党首がなぜか「ホリエモン新党」という政治団体を設立し、自身も含め3人が立候補をしている。ポスターには「私も(堀江貴文氏)も応援しています」などの文言がないので、公選法上では問題ない。 ただ、著書やユーチューブなどで発信しているとはいえ、堀江氏の政策が何なのか、さらにはNHKをどうしたいのか、いまいち分かりにくい。掲示板に張られた東京都知事選の候補者ポスター=2020年6月18日、東京都新宿区(土谷創造撮影) 推測できるのは、立花氏が「小池氏や堀江氏と同姓同名の候補者を出馬させる」とできもしない話を流し、マスコミに注目させ、ユーチューブの広告収益につなげようとしていることくらいだ。立花氏からすれば、結果として「知事選と同じ投開票日の都議補選に出馬した候補者の支援にでもなればいい」というところだろう。 N国の丸山穂高副代表は、この状況にどのような気持ちでいるのだろうか。政党助成金を満額で受け取り、今後の生活の糧としたい彼の気持ちも分かる。ただ、かつての同僚として彼の名誉のために忠告しておくと、衆院議員としての最後は離党して終えた方がいいのではないか。ぜひお勧めしておきたい。共闘の難しさ なお、私と丸山氏の古巣の日本維新の会はといえば、結党当初から愛用していたグリーンの政党カラーをすっかり小池氏に取られてしまった。今回の都知事選で、維新は熊本県副知事だった小野泰輔氏を推薦している。 しかし本来であれば、候補者は別の人間が適任ではないだろうか。都議選での恩義をあっさりと踏みにじり、一時期落ち目だった小池氏に後ろ足で砂をかける形で反目し、維新にくら替えし、東京選挙区で当選を果たした音喜多駿参院議員こそ、本来立候補するのが政界の筋であろう。 音喜多氏の地元・東京北区の選挙区では多少なりとも支持層はいるだろうから、音喜多氏の出馬は維新の顔も立つはずだ。ゆえに参院議員を潔く辞した上で、小池氏に対抗する自身の公約と政策を都民のために掲げてほしかったものだ。 もっとも、職業議員気質の人は落選確実の選挙に現職を辞してまで立候補する気はないだろうし、勝ち馬の小池氏を敵とするほどの改革精神などは持ち合わせていない。 ゆえに、助けを求めてきたとはいえ、熊本県の副知事を差し出したという格好であれば、立候補した小野氏が少々気の毒だ。音喜多氏の「議員であり続けるためなら何だってする」というその執念は悪くないが、改革を掲げる議員としてはふさわしくないのも確かだ。 難病「筋萎縮性側索硬化症(ALS)」を患うれいわ新選組の舩後靖彦参院議員が新型コロナ感染の防止を目的に国会を一時欠席したとき、音喜多氏は「歳費返納がなければ厳しい」とツイートしたが、買収疑惑が浮上した際に欠席した河井夫妻に対しては同様の言及がなかったと指摘され、謝罪に追い込まれた。その程度の政治理念だから、彼の言葉はいつも支離滅裂なのだ。 ちなみに私が興味深く見守っているのが、宇都宮健児氏と山本太郎氏の獲得票数である。両氏の立候補は、野党の票を分裂させることになってしまった。願わくば、野党一本化した状況での宇都宮氏、山本氏それぞれの獲得票数を見たかったところだ。 だが、野党共闘というのは本当に難しいものだ。2017年の衆院選の際に、私も3期目に挑戦するかどうか判断する際に、身に染みて思い知らされた。当時の私は無所属として、議員となった当初の志である「政権と対立軸を立てて国民のために戦うという」原点を貫き、人権、福祉制度、中小企業支援や森友・加計問題などを中心に国政に携わっていた。かつて所属した維新も、12年はこうした理念を持つ政党だった。 そのため、野党共闘候補として立候補できないか、小沢一郎衆院議員など重鎮議員らと話し合いもしていた。地元の野党系支持層も「どうせ応援するならば無名の候補者よりは、当選する可能性がある有名な候補者を野党共闘で応援したい」と掛け合ってくれていた。 しかし、私の選挙区となると、マスコミが殺到するのを予想して「今の人生がパッとしないので知名度を上げたい。あわよくば議員になりたい」という腐った口八丁の輩(やから)がちょろちょろし出すのだ。そんなこんなでコトはすんなりと進まず、急な解散で私の選挙区は自民党候補の一人勝ちとなった。維新や野党共闘ができなかった共産党候補者も比例復活できないほどの惨敗を喫した。 野党統一候補として出馬すれば、選挙区事情のほか、「当選した後、どこの党に所属するのか」だの「議員の支援者が立候補者したいと言っている」だの「立候補できるなら寄付したいという人がいる」などと有象無象のしがらみや眉唾(まゆつば)話満載で、収拾がつかなくなってくる。東京都の対策本部会議後、記者会見する小池百合子知事=2020年7月2日、都庁 ここは、野党議員がもう少し国民のために政権交代を実現するという、力強い信念を持たなければならない。 いずれにせよ、新たな都知事の肩には、第2波が危惧(きぐ)される新型コロナへの対処、そして1400万人の都民の未来がかかっている。候補者たちには、その重責の意味をしっかりと胸に抱いてほしいと願うばかりである。

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    都知事選「玉石混交」候補22人の違和感

    新型コロナ対策が主な争点となった東京都知事選は投開票日を迎えた。過去最多となる22人の立候補者についても注目された選挙戦。選挙にいわゆる「泡沫候補」はつきもので、法的にも問題はないとはいえ、あまりに節操のない候補が散見されたのも事実だ。まるで「遊び場」のような選挙はいかがなものか。

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    再開しても明けないJリーグの「長い夜」

    サッカーJ1が約4カ月ぶりに再開の日を迎えた。今回の新型コロナ禍は選手やリーグをはじめ、サッカーに関わるあらゆる人たちにさまざまな変化を突き付けた。クラブにも今後苦難が待ち受けるかもしれないが、「生死より重要」とばかりにチームを愛する人たちがともに歩んでくれる、それがサッカーというものだ。

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    レジ袋有料化、官僚とメディアがつくり出す「反理想郷」

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) 7月1日から、全国の小売店でプラスチック製買い物袋(レジ袋)の有料化を義務付ける国の制度が始まる。海洋プラスチックごみ問題の対策や、持続可能な環境対策の一環として行われるのだという。 新型コロナ危機でほとんどテレビに露出しなくなった小泉進次郎環境相だが、「環境省プラごみゼロアンバサダー」に任命したタレントの西川きよしと、東京海洋大名誉博士でタレントのさかなクン、モデルのトラウデン直美と一緒に積極的にキャンペーンを展開している。当然テレビでの露出も増えていくことだろう。 環境省はCM用のアニメーションも作成し、テレビ放送も開始されている。みんながマイバッグを使うことで、レジ袋の使用を辞退しようと呼びかける内容だ。さらに「資源の枯渇」「海洋ごみ」「地球温暖化」という巨大なテーマが映し出され、人々の問題意識を啓発している。 新型コロナ危機で影が薄くなっていたのは、小泉氏だけではなく、環境問題の活動家全般ではないだろうか。一例を挙げるなら、スウェーデンの環境活動家グレタ・トゥンベリ氏だ。 彼女のことも日本のメディアでほとんど話題にならなくなった。一つには、環境活動家たちの多くが夢想している人為的な経済活動の抑制によって、実に厳しい生活の困難を引き起こすことが明らかになったからだ。 また、経済活動の強制的な自粛からくる精神的・肉体的なストレスも半端ではなく、そのことが世界の人たちに実感として認識されたからだろう。環境への配慮と経済活動のトレードオフは、一歩間違えれば、現実世界のディストピア(反理想郷)、つまり地獄に陥る。 今、小泉氏がワイドショーなどで積極的に露出を展開している、日本のレジ袋有料化もこの地獄への入口の一つかもしれない。それは、先述したCMが公開された29日の閣議後の記者会見にも表れている。新型コロナウイルスの感染拡大を避けるため、国会内で屋外会見を行う小泉進次郎環境相=2020年4月(奥原慎平撮影) NHKによると、小泉氏は「海洋プラスチックごみの問題は依然として危機的で、2050年の世界の海では魚よりプラスチックごみのほうが多くなるのではないかとも言われている。なぜ有料化が必要なのかをしっかり伝えて、多くの人に納得してもらいたい」と述べたという。この問題意識を伝える役割は、任命されたプラごみゼロアンバサダーが受け持つ。 特に注目されるのが、国民的人気の高いさかなクンの発言だ。彼は25日に行われたキャンペーンの席上で、「魚に会いたくて海に潜ると、レジ袋や細かいプラスチックごみがたくさん浮かんでいるんです」と述べた。さかなクンより侮れない「力」 ただ、さかなクンの国民的人気が高いがゆえに、このような発言がそのまま真実とされてしまうのは問題がある。NHK的なら「ボーっと生きてんじゃねーよ!」といったところか。実際にすぐさま、郵便学者の内藤陽介氏がツイッター上で具体的な事実をもとに反論した。漂着プラごみの種類別割合では、重量比でレジ袋が全体の0・4%で漁網等が41・8%、容積比ではレジ袋0・3%に対して漁網等が26・2%。彼はどこの海に潜ったのか 内藤氏の方が、さかなクンの情緒に訴えるやり方に比べれば、格段に納得がいくだろう。しかし、侮れないのがメディアと官僚たちの力だ。 消費税引き上げの際もそうだが、既存メディア、とりわけテレビはなぜか増税の前には、それを引き上げる政府や官僚側のスポークスマンになることが多い。あれほど、普段では「安倍晋三首相が河井克行、案里議員夫妻を介して町議レベルまで現金を配っている」かのような印象報道を猛烈に垂れ流すのに、増税については事前では「そろそろやるよ」的な告知に成り下がっている番組が大半だ。 そして、増税した後に「税金が上がって苦しい」的なニュースを流す。日本のテレビや新聞が、いかに官僚組織の代弁者であるかがよく分かる見慣れたシーンだ。 官僚組織は、情報のリークや官製情報の解説者として、マスコミと長期的な関係を築いている。つまり、彼らは同じ「ムラ」、同じ利害関係を有する「仲間」なのである。 それでいて、たまには都合の悪い一部の仲間を切り捨てて、それをムラの外に追い出すと同時に、「スキャンダル」としてマスコミに豪華な「エサ」として売ることも忘れない。最近では、産経新聞記者、朝日新聞元記者との賭けマージャンで失職した東京高検の黒川弘務前検事長がいい例だろう。レジ袋辞退者の倍増に向けたキャンペーンの発足式で、マイバッグの活用を呼び掛けるさかなクン=2020年6月25日 このマスコミと官僚のもたれ合いは、マスコミと政治家のそれほどに国民は批判していない。実際に現在のテレビニュースのほとんどは、官公庁のホームページを見ていれば足りるレベルである。 筆者は日常的にはテレビのニュースはほとんど見ないし、日本の新聞もほとんど読まない。時事問題の解説や論考を書いているにもかかわらずである。つまり、プロフェッショナルとして使えない情報の集まりなのだ。 テレビや新聞の大半は、一次情報を加工した二次情報でしかない。そんなものを利用するよりもデータそのもの、政府などの決定そのものの一次情報にアクセスした方が正確である。「ポイント還元」と入れ替わり このテレビと新聞は二次情報の集まりである、という意見は一般には目新しいらしい。嘉悦大の高橋洋一教授が新著『「NHKと新聞」は噓ばかり』(PHP新書)で詳細に解説していることでもある。 テレビのニュース番組を見るときは、必ず映像の印象に惑わされないようにする。今回のレジ袋有料化の場合なら、それこそ海に浮かぶ大量のレジ袋でも映すかもしれない。そういう映像の作為から距離を置くことが大切だ。 だが、現実にはテレビの印象だけで、モノゴトの成否を決める人が多い。「ワイドショー民」現象と個人的に名付けているものだ。 レジ袋の有料化をめぐっては、さまざまな議論がある。私見では、「資源の枯渇」「海洋ごみ」「地球温暖化」に与える影響はほとんど無に等しい政策だと思っている。レジ袋有料化の問題点については、先の内藤氏のツイッターなどを参考にしてほしい。 筆者の専門であるマクロ経済の観点からいえば、少なくとも「今」実行する政策ではない。経済アナリストの森永康平氏も、やはりツイッターで次のようにつぶやいている。今月末でポイント還元が終わって、7月からレジ袋が有料にまだコロナの影響で経済は弱ってるのに、問答無用で全てが予定通りに進んでいくっていうね…ここから更に「コロナ税」なんてやったら、何が起きるかは言うまでもない消費オジサンはおこです 森永氏の懸念はかなり当たっているだろう。ちょうど、レジ袋有料化の開始と入れ替わりで、消費税増税に合わせて政府が導入した、キャッシュレス決済のポイント還元が終了するタイミングにある。7月1日からのレジ袋有料化を知らせるファミリーマートムスブ田町店の張り紙=2020年6月、東京都港区 この事実上の消費税の追加増税などをめぐる報道は、ワイドショー民をターゲットに「増税に慣らすこと」を、官僚側がマスコミと一緒に画策でもしているかのようである。実際レジ袋有料化とポイント還元終了について、各家計の負担を強調する報道を事前にはしていない。この点を確認するために、ここ数日の新聞とテレビの報道はチェックしたが、メディアのいつものパターンはここでも発揮されていた。 レジ袋有料化を何のために実施するのか、本当に理由が分からない。もし「理由」があるとすれば、それは家計の負担増に慣らすためのメディアと官僚の思惑かもしれない。

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    安土「信長ワールド」最後のピースが埋まった

    信長は、自らが天皇も将軍も超越する存在だと宣言するため、安土城にオカルトパワーをこれでもかと詰め込んだ。しかも、最上階に古代中国の伝説上の帝王を迎えた上で「最後のピース」を埋めて完成させたが、飽きたらなかったらしい。世に知らしめるべく、城外に「テーマパーク」までこしらえていたのである。

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    信長ワールドを世に知らしめた安土城と「テーマパーク寺院」

    と、その末社である信長が幼時から少年時代に通った那古野城内の亀尾天王社(現・那古野神社)については同連載の第3、4回で触れた。この牛頭天王が神農の正体だという説がある。平安時代末期に成立した関白、藤原忠実の筆録集『中外抄(ちゅうがいしょう)』がその最初だ。 そして鎌倉時代初期、天台密教(台密)に対して「東密」と呼ばれた真言密教の図像を抄録した『覚禅鈔(かくぜんしょう)』でも言及されている。牛頭の神農が牛頭天王と同一視されるのは自然な流れだったのだろうが、以前にも触れたように牛頭天王は素戔嗚尊(スサノオノミコト)の本地となったとされている。本地とは、外来の仏教神が日本の神の姿をとって降臨することだ。もう一つ張られた「結界」 宗教的な正否は別として、ここでポイントとなるのは信長の当時、「神農=牛頭天王=素戔嗚尊」という認識があったということだ。 八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治して、その体内から草薙剣(くさなぎのつるぎ)を得て、オロチの力をわが物としたスサノオ。 信長が龍・大蛇に傾倒する入り口となった神のもう一つの姿という神農が、三皇のトリを飾る。水を支配し、龍と大蛇に深い関わりを持つこの三皇が天主最上階の座敷、信長の居所を飾る世界。それは、東洋画古来の画題という以上に、信長の精神世界を表したものだったのだ。 それを守護するのが四方の内柱に描かれた上り龍、下り龍というわけなのだが、実はさらにもう一つ、信長の「結界」を守るものがあった。座敷の絵画の紹介が終わった後、『信長公記』はこう続ける。ひうち・ほうちゃく数十二つらせられ 「ほうちゃく」は「宝鐸」と書く。寺のお堂の軒下を見ると、よく四隅に吊ってある装飾用の鈴(風鈴)で、「風鐸(ふうたく)」とも呼ぶ。 信長がこれとセットで座敷の周囲に吊り下げた「ひうち」は、「火打鉄(ひうちがね)」だろう。火打鉄は、火打石に打ち付けて火花を発し種火をつけるための鉄鋼片だ。安土城跡の摠見寺三重塔=滋賀県近江八幡市(関厚夫撮影) 宝鐸は鈴(風鈴)と説明したが、風鈴である以上、内部には紐でぶら下がった「舌(ぜつ)」というパーツがある。それが風に揺られて外側の本体に当たり、音を発するわけだ。 この舌が、火打鉄と誤認されたケースが考古学の世界ではある。双方の形状が似ていたためだが、『信長公記』の場合はわざわざ宝鐸と舌を別々にカウントする必要もなく、また舌と火打鉄を混同することも考えられない。 まさに火打鉄そのものが、宝鐸とは別に吊り下げられていたのだろう。座敷の天井に宝鐸6個、火打鉄6個。安土城に示した信長の「宣言」 問題は、この火打鉄だ。火打鉄といえば、第1回で紹介した若き日の信長の姿がすぐに思い起こされる。ひうち袋、色々余多(あまた)付けさせられ(火打ち石の入った袋など色々身につけ)御腰のまはりには猿つかひの様に火燧袋・ひようたん七つ・八つ付けさせられ(腰のまわりに猿使いの様に火打ち石袋・7~8個の瓢箪を付けていた) という、燧袋(ひうちぶくろ)を腰から提げたスタイルだ。これが魔除けのアイテムだったことは第2回で説明した通りだ。 この燧袋の中には火打ち石だけでなく、火打鉄もセットで入っていたのだろう。天主最上階の座敷の天井から提げられた火打鉄も、魔除けの役割を与えられたのは間違いない。 天文22(1553)年から26年。信長は己が拠って立って来たものをこの天下布武の城に詰め込み、可視化したのだ。 足元を琵琶湖の内湖である大中湖(だいなかのこ。戦後の干拓事業により、現在は陸地となっている)が洗い、水上交通の安全を守り長寿をもたらす蛇石を運び上げ、山麓の石部神社、尾根続きの繖山(きぬがさやま)とともに龍の結界を張り、天主には龍と蛇、それに魔除けを仕込む。 龍と蛇、水のパワーを最大限に取り込んで、小牧山城を大きくしのぐ空前絶後の「磐座(いわくら)の城」は、信長自身が天主に入り、住まいとすることで名実ともに完成した。言わば、信長自身が彼の世界の最後のパーツだったのだ。 そしてこの城はまた、近い将来の日本統一を視野に入れた信長の、来るべき政権の在り方を表すものでもあった。本丸には天皇の清涼殿と将軍の御殿をしつらえ、公武の双方を天主の足元に見下ろす。それは、信長自身が天皇も将軍も超越した存在になろうという高らかな宣言だ。 その本丸から南西に延びる尾根上には、仏教寺院が建立された。摠見寺(そうけんじ)である。安土城跡にある摠見寺の二王門。楼門と門内の木造金剛二力士立像は重要文化財に指定されている(筆者撮影) 摠見寺の建築物は、近江各地から集められた「押収物」であったらしい。現存する三重塔は甲賀・石部の長寿寺から移築され、同じく二王門(仁王門)も甲賀の柏木神社から移されたものだ。「テーマパーク寺院」 前者については「天正年間、信長の甲賀攻めで寺水口の柏木神社の旧楼門が接収されて摠見寺に移築された」という社伝が残っている。甲賀衆が信長に敵対したのは、元亀元(1570)年5月19日の杉谷善住坊(ぜんじゅうぼう)による千草越での狙撃事件(失敗)、信長は出馬せず、柴田勝家と佐久間信盛が甲賀衆も加わった六角勢を撃破した同6月4日の野洲河原の戦いが最後であった。 それ以降は信長に協力しているから、天正年間に攻められて奪われたとするのは難しい。長寿寺と対を成していた常楽寺の三重塔は現在国宝指定されているくらいだから、長寿寺のそれも出来の良さを気に入った信長が普通に接収を申し渡したのだろう。 他の建造物は嘉永7(1854)年に火災で失われて石段と削平地が残るばかりだが、往時はこうしてあちらこちらから集められた名建築の寄せ集めだったのだろう。言うならば、近江の「ランドマーク」を一堂に集めた「テーマパーク」だ。 このテーマパーク寺院については後にその重要な役割が明らかになるのだが、ここでは安土城内にリアルな仏教施設が作られたということだけに注目しておこう。それは、天主5層目の八角構造の座敷の中に描かれた仏教をテーマとした世界が、6層目の三皇以下古代中国の神話世界の下に位置しているのに呼応する。 天主から見下ろされるという点では、清涼殿や将軍館と同じく仏教も信長の足元にひれ伏すべき存在と宣言されたことになる。逆に言えば、天主は中華世界を至高の存在と既定して、公家、武家、出家(仏教)から超越した信長自身の象徴でもあった。 さらに驚くべきことには、信長はこの天主内外の「信長ワールド」を安土山の外にも広げようとしていたらしい。『信長公記』は天主の描写を終えた後「抑(そもそ)も当城は」から始めて周囲の情景を描写している。その一節を抜き出してみよう。西より北は、湖水漫々として、舟の出入りみち/\て、遠浦帰帆(えんぽきはん)・漁村夕照 「遠浦帰帆」「漁村夕照」は既に出た天主1階の「遠寺晩鐘(えんじばんしょう)」と同じく「瀟湘(しょうしょう)八景」の画題だ。ということは、琵琶湖を湘江が流れ込む中国の洞庭湖(どうていこ)に見立て、水の神・湘君を降臨させようとの意図が隠されているのだろう。ここでも、天主内外の相似が隠されている。安土山から西の琵琶湖方面を望む。信長が居を構えた当時は足元に大中湖の水が満ち、山の南に入り江が回り込んでいた(筆者撮影) ちょっと待った、湘君を呼び寄せるのならば君山に相当する島が必要ではないか。「プリンセスの島」を意味する君山こそが、女神・湘君の拠る場所だからである。 そう思って『信長公記』を見ると、文章は「湖の中に竹生島(ちくぶじま)とて名高き嶋あり」と続いている。そう、安土山の真北の湖上に浮かぶ竹生島。水の神でもある弁才天を祀るこの島こそが、琵琶湖における君山だったのだ。

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    望月衣塑子記者に贈る「ダブスタ」にならないためのアドバイス

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) ツイッターの政治風刺アカウントとして有名で、筆者と同じくアイドル業界にも詳しい「全部アベのせいだBot」をフォローしていると、面白いニュースに気が付くことが多い。6月22日朝、その「全部アベのせいだBot」が東京新聞の望月衣塑子(いそこ)記者に関するニュースをネタに投稿していたが、とても興味深い内容だった。 それは、「東京新聞『望月衣塑子』記者の弟が “詐欺まがい” オンラインサロン会員から悲鳴」と題する『デイリー新潮』の記事だ。望月記者の実弟、龍平氏の運営する会員制サロンに関するいくつかの「疑惑」が指摘されている。 この「疑惑」の真偽について、筆者は正直なところ関心外である。ただ、記事に出てくる経済評論家の上念司氏のイラク通貨の「ディナール詐欺」についての解説は参考になるので、ぜひ熟読してほしい。一般的な意味で、オンラインサロンで蔓延(まんえん)するという「外貨詐欺」からの自己防衛として、役に立つことだろう。 実弟の「疑惑」について、望月記者は弟と連絡をとっていないとした上で「オンラインサロンについての詳しいことは分からないので、コメントは控えさせてください」と答えたと、記事は結ばれでいる。 当たり前だが、家族のことであれ誰であれ、本人が責任を負うことがない事例で、他人に批判される筋合いは全くないと筆者は思う。ただ、望月記者の今までの「記者の作法」を思えば、どうしても単純な疑問が沸いてしまう。 望月記者は安倍昭恵首相夫人について、「花見パーティーに続き、今度は山口に旅行とは。。 #安倍昭恵 夫人には誰も何も言えないのか」とツイッター上で批判していた。筆者は、昭恵夫人が新型コロナウイルスの感染拡大への警戒が強まる中で、大分に行こうが花見パーティーを開こうが、それが公益を侵すことがなければ何の関心もない。望月記者がこのような批判をするのは、昭恵夫人が「首相夫人」であることを抜きに考えることは難しいだろう。オマーンのマスカット国際空港に到着した安倍首相と昭恵夫人=2020年1月(代表撮影) 首相夫人は、政府見解では私人扱いであり、大分に行こうが花見パーティーをしようが、それは正真正銘プライベートな行為でしかない。もし、首相夫人であることが批判の資格になると望月記者が思っているならば、やはり今回の実弟の「疑惑」についても事実を明かし、積極的に答える責任があるのではないか。 別に筆者はそれを積極的に求めているわけではない。ただ、望月記者の今までの政治批判の姿勢が二重基準に陥ることがないための「アドバイス」である。「望月ポピュリズム」の独自性 ところで、筆者は望月記者の手法を、以前から「ポピュリスト的なジャーナリズム」によるものだと思っている。ポピュリストとはポピュリズムの担い手を指すが、本稿でのポピュリズムは、米ジョージア大のカス・ミュデ准教授とチリのディエゴ・ポルタレス大のクリストバル・ロビラ・カルトワッセル准教授の共著『ポピュリズム』(白水社)に基づいている。 彼らはポピュリズムを「社会が究極的に『汚れなき人民』対『腐敗したエリート』という敵対する二つの同質的な陣営に分かれると考え、政治とは人民の一般意志(ヴォロンテ・ジェネラール)の表現であるべきだと論じる、中心の薄弱なイデオロギー」と定義している。 望月記者の手法は、反安倍陣営を「汚れなき人民」とし、安倍首相や首相夫人を「腐敗したエリート」として対立させている。そして、前者こそ「人民の一般意志」であり、安倍政権のような「腐敗したエリート」を打倒すべきだと考えている。 この「望月ポピュリズム」の独自性は、安倍首相を「腐敗したエリート」に仕立てるその独特の話法に基づく。望月記者の共著『「安倍晋三」大研究』(ベストセラーズ)には、そのポピュリズム話法が全面に出ている。 その「腐敗」の象徴が、安倍首相の「嘘」だというのである。今でもインターネットや一部の識者からは、「安倍首相は嘘つきである」というどうしようもない低レベル発言を見かけるが、本著ではその首相の「嘘」を切り口にしている。 望月記者が一例で挙げるのが、首相が国会で自身を「立法府の長」と言い間違えたことだ。ただの言い間違えなのだが、それが安倍首相の代表的な「嘘」として何度も言及されている。正直、これでは中味スカスカと言っていい。参院予算委で答弁のため挙手する安倍首相=2020年6月11日 だが本著は、この「首相の嘘」をテーマにして、評論家の内田樹氏との対談にかなりの分量を割く構成となっている。また「エリート」部分では、祖父の岸信介元首相との血縁や政治的権威との関係を強調している。 要するに、「汚れなき人民」を代表して「嘘」つきの総理大臣を批判するという、どうしようもなく単純化された手法が、望月記者の手法のほぼ全てである。だが、本当に望月記者は「汚れなき人民」の代表なのだろうか。安易な二項対立の罠 そもそも、ポピュリズム的手法自体が一種の嘘っぽい単純化された対立図式である。あまり真に受けて考えるのも「イケズ」なのかもしれない。 ただ、本稿では望月記者もまた「エリート」なのだということを指摘すれば十分だろう。望月記者は、菅義偉(よしひで)官房長官の定例記者会見で執拗(しつよう)に質問を繰り返すことで著名だ。 だが、そもそもこの記者会見に出席できるのは、記者クラブという「エリート」のメンバーがほとんどである。記者クラブ以外の出席はかなり制限されている。つまりは、記者エリートの「代表」として質問しているのである。 政府の失敗を質(ただ)すことがジャーナリズムの仕事である、と単純に思い込んでいる人たちがいるのも事実だ。その思い込みが、暗黙のうちに「正義」の側にジャーナリストを立たせてしまっているのである。 いわば善と悪の対立である。悪=「嘘」をつく首相と、善=「嘘を暴く」記者たち、という安易な二項対立だ。もちろん既存マスコミも十分に腐敗し、そして権威化していることを忘れてはならない。 東京高検の黒川弘務前検事長と産経新聞記者、朝日新聞元記者との賭けマージャン問題により、マスコミと検察のズブズブな関係が明るみに出た。最近では、河井克行元法相と河井案里参院議員夫妻の逮捕劇が、なぜか先行してマスコミにリークされていたこともある。これもまた検察とマスコミのズブズブな関係を暗示させるものだ。菅義偉官房長官の記者会見で挙手する東京新聞の望月衣塑子記者(手前)=2020年2月 ひょっとしたら、検察庁法改正問題から河井夫妻の逮捕劇まで、マスコミと検察の「共作」ではないか、と疑問を抱いたりもする。それだけ情報が検察とマスコミとの間で共有されているようにも思えてくるのだ。 もちろん望月記者は、河井夫妻の逮捕劇を首相に結び付けようと最近も必死である。だが筆者は、検察とマスコミの国民が知ることもないズブズブな関係にこそ、問題の根があるように思えてならない。

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    読んではいけない、トンデモ戦国歴史本はこうしてつくられる

    渡邊大門(歴史学者) 新型コロナウイルス感染拡大に伴う緊急事態宣言だけでなく、都道府県の移動自粛要請も解除され、日常が戻りつつある。だが、第2波の恐れもあるだけに、イベントなどの中止が相次ぎ、自宅にいることも多いだろう。せっかくなので、読者の皆さんには、ぜひこの機会に歴史の本をひも解いていただきたいと思う。 私は日本史(主に中世史)の本を書いたり、講演したりすることで生活の糧を得ているが、受講生(主にご老人)と接していつも気になることがある。 講演の終了後、ときどき聴講したご老人が声をかけてくださる。しかし、その手にはしっかりトンデモ戦国歴史本(以下「トンデモ本」と省略)が手に握られており、「先生!この本を読まれましたか!目から鱗です!勉強になりました!」と同意を求めてくる。私は顔面を硬直させて、「へえー!そうですか!」と言葉を濁しつつ、会場をあとにする。こういうことが、いったい何回あっただろうか…。 そもそもトンデモ本とは、いったいどんな本なのだろうか。私なりに定義すると、次のようになろう。①歴史研究を本格的にしたことがない人が書いた、戦国時代に関するデタラメな本②先行研究や史料に基づき実証的に書いていない、戦国時代に関するデタラメな本③根拠もないのに意図的におもしろおかしく書いた、戦国時代に関するデタラメな本 ただし、これでは説明が荒っぽいので、もう少し補足が必要だろう。順に説明することにしよう。 ①については、大学や大学院で歴史を勉強することが最もオーソドックスだが、なにも限定する必要はないだろう。大学や大学院で歴史を学ばずとも、独学あるいは私淑する歴史家から指導を受け、優れた研究業績を残した人は多い。したがって、学歴で判断するのではなく、正しい方法で歴史研究を行った経験があるかないかが問題となる。 ②は①と関連するが、歴史研究の方法を取得しているかが問題である。歴史研究の手法としては、少なくとも実証主義が求められる。実証主義では先行研究を整理してプライオリティーを確認し、自分が証明したいことを史料に拠って裏付ける。むろん、史料ならば何でもいいというわけではなく、用いる史料の批判を十分に行い、その史料が証拠としての価値を持つのか確認することが必要だ。※写真はイメージ(ゲッティイメージズ) つまり、歴史研究とは学歴を別として、少なくとも正しい研究方法を身に付けていることが指標となる。とはいえ、歴史研究は人間のすることなので、さまざまなミスが生じるのは仕方がない。一流と言われる歴史家でも、史料の誤読やケアレスミスなどをしてしまう。そういうミスは、トンデモ本ではないことを付記しておきたい。代表例は「本能寺の変」 一方で、「大学の先生が書いた本だから大丈夫だろう」というのは、早計に過ぎる。一部の大学の先生は、先行研究の確認や史料に拠って裏付ける作業を放擲(ほうてき)し、実証主義と決別した方もいる。当然、書かれた本の中身は、まったく信用に値しないが、「大学の先生が書いた本だから」という理由だけで、広く読まれているトンデモ本もめずらしくない。 ③は①と②と深く関係しており、正しい歴史研究の方法を身に付けていない人が、先行研究も史料もろくに確認をせず、意図的にデタラメなことを書いた本である。もはや小説なのか、なんなのか分からない。③はかなり極端な例で、実際にはさまざまなパターンがあるので、追々紹介していくことにしよう。 そもそも歴史研究の現場では、泉が湧くように「あっ!」と驚くような新説が次々と発見されるわけではない。また、新しい史料が発見されることで、「あっ!」と驚くような事実が判明することは少ない。これまでの通説がひっくり返ることなどは、そう多くはないといえる。 もちろん、これまでの研究を前進させることはあるが、それは少し前に進んだ程度にすぎないことが多い。せっかく新説や新史料が公表されても、史料の解釈や位置付けをめぐって論争になったりして、なかなか確定しないこともめずらしくないのである。そういうプロセスを経て、新説は定説として定着する。 歴史研究のトレーニングを積んだことのない人が、「新説だ!」と言って次々と目新しい説を連発できるはずがない。そもそも学界で精査されたわけではないのだ。常識で考えれば分かるはずである。 ついでに申し上げると、トンデモ戦国研究家の中には「歴史家は根拠となる史料がないと口を閉ざすが、私は史料がなくても極限まで考え抜いて…」などと発言する向きもあるが、実におかしな話である。簡単に言えば、裏付けとなる証拠の史料がないのに、なぜ史実を確定できるのかという話である。 警察官が犯人を逮捕する場合、「動かぬ証拠」が必要だろう。たとえば、スーパーで万引き犯を捕まえるときは、犯人が盗品を持っていたり、防犯カメラに犯行の模様が映っていたり、目撃者が複数いるなど、さまざまな証拠が必要なはずだ。証拠もないのにいきなりある人を捕まえて、「お前は目つきが悪いから、きっと犯人だ!」などと決めつけることなどあろうはずがない。 証拠のない説の代表としては、「本能寺の変」の黒幕が南欧勢力だったという説がある。それは、ポルトガルがイエズス会を窓口にして、織田信長に武器を供給していたが、やがてコントロールが効かなくなったので、明智光秀に命じて殺させたという説である。しかし、南欧黒幕説を裏付ける史料は皆無である。現在の本能寺。信長時代とは場所が異なる では、なぜ史料がないのに、南欧黒幕説を提起できるのか。この説を提唱した方は、「関係する史料は機密情報で、秘中の秘だった。だから、現存していない」という趣旨のことを述べている。これでは、まったく理由にならず、ご都合主義だと言われても仕方がないだろう。二次資料では意味がない あるいは、織田信長がキリスト教を保護したのは、南蛮貿易で利益を上げていたからだという説がある。当該分野の専門家に話をうかがうと、「聞いたことがない」という。私も聞いたことがない。実は、提唱者も裏付ける史料がないことを認めていて、理由は「大友宗麟がそうだったから」だという。困った話である。 たとえば、ある高校の野球部の部員の何人かがタバコを吸って、捕まったとしよう。しかし、野球部の部員全員がタバコを吸っていたとは言えない。「何人かの部員がタバコを吸っていたのだから、部員全員がタバコを吸っていたはず」とはならないはずだ。きちんと調査をして、喫煙の有無を確定する必要があるのは言うまでもない。 このようにトンデモ戦国史研究家は、何の根拠もないのに思い込みと妄想だけで新説を提唱することは決してめずらしくないから、注意が必要である。 ここまで述べたように、根拠となる史料もないのに「新説だ!」と大騒ぎするのは、デタラメとしか言いようがない。しかし、ときにトンデモ戦国史研究家は史料を提示することがある。それが二次史料である。では、二次史料とは何なのか? 史料には大別すると、一次史料と二次史料がある。一次史料は、同時代に発給された書状などを意味する。たとえば、博物館に織田信長の朱印が押された手紙が展示されることがあるが、具体的にはそういうものを指す。現代で言えば、市長などが公印を押した文書などが該当するだろう。 一方の二次史料は、後世になって作成された軍記物語、家譜などを指す。織田信長の伝記史料の『信長公記』のような良質なものもあるが、そうでないものの方が多い。家譜などは家の顕彰が目的で作成されるので、よいことしか書かない。※写真はイメージ(ゲッティイメージズ) ほかにも、根拠がない単なる武将の逸話集もある。幕末に作成された『名将言行録』は、小説や映画などの格好のネタ集であるが、ほぼ根拠がない逸話にすぎない。一般的に二次史料は、信頼度が落ちるのだ。 結局、史料と一口に行ってもさまざまで、信頼度の低い二次史料を使ったところで意味がない。多くのトンデモ本は、何の疑いもなく二次史料を用いていることが多いが、普通の人はそこまで分からないのが実情だろう。 加えて言うと、二次史料の史料批判は難しい。とりあえず「名家に伝わるから」「成立年が早いから」なという人もいるが、その史料が良質であることを必ずしも意味しない。そもそも二次史料には編纂の目的があり、先祖を顕彰しがちである。成立年が早くても、デタラメを書いている史料はいくらでもある。名家に伝わろうが、成立年が早かろうが、ダメな二次史料はダメである。巧妙なトリック なぜ、二次史料を使いたがるのか。これはトンデモ本を書く人だけでなく、そこそこの研究業績を残した歴史家でも使いがちである。 小瀬甫庵が書いた『信長記』という織田信長の一代記がある。『信長記』は良質と評価される太田牛一の『信長公記』を下敷きにしているが、内容は脚色やデタラメな記事も少なからずあり、似ても似つかぬ愚劣な編纂物である。普通は歴史研究で使わない。 ところが、自説が有利になるなら、話は別である。そこそこの歴史家でも「この史料は質が低いと評価されているが、この部分だけは真実を書いているのはないか」「誠に興味深い記事であり、捨てるには忍び難いところがある」などと安易に認めてしまう。なぜそうなってしまうのか、私にはさっぱり理解できない。 仮に、一次史料を読むにしても、これは敷居が高い。戦国時代の書状などは漢文で書かれており、慣れないとかなり難解で文意を取りづらい。言葉も現代で使わないものも多く、意味が分かりづらいものもめずらしくない。主語がなかったりは当たり前で、内容も抽象的だ。読みこなすのは大変なのである。トンデモ戦国史研究家は、漢文を読まないし、そもそも読めない。 また、トンデモ本を書く人の巧妙なトリックとしては、史料に書いていないことを「書いてある」といい、史料から読み取れないことを「読み取れる」とすることだ。これは誤読以前の問題であるが、やはり一般の人には分からない。 最近のトンデモ本の場合は、ほかにも手口がある。最近は現代語訳した史料もあるので、そういうものを活用して「史料に独自の解釈を施した」と豪語する。常識的に考えると、「独自」もへったくれもない。史料は、書いてあることをそのまま素直に読まなくてはならないのだ。裏の裏をかいて珍妙な解釈をすることなど、言語道断である。「雲烟林」に収められている織田信長の書状(右)と、豊臣秀吉の書状(左上)など=2020年3月、東京都千代田区 トンデモ本は、論法も独特である。歴史はおおむね結果が分かっているが、それを逆手にとって珍説を披露する。「大胆な仮説」と「論理の飛躍」は、常にセットである。 天正10(1582)年6月の本能寺の変は、その好例だ。そこで、トンデモ戦国研究家は「大胆な仮説」と称して「トンデモ説」の結論をあらかじめ設定し、あらゆる現象を自身の「トンデモ説」の結論に結びつけて考える。むろん、信頼度の落ちる二次史料も平気で組み込んでいく。 たとえば、「豊臣秀吉が黒幕だ」と「大胆な仮説」いや「トンデモ説」を設定したら、あらゆる出来事を秀吉が黒幕であるとの結論に結び付けて論を進めていく。口がうまい人もいるので、読者は矛盾や「論理の飛躍」に気付かず、コロリと騙される。デタラメだけに面白い つまり、トンデモ本の特長は、①史料の性質を理解せず、②しかも満足に史料が読めず、③そのうえ自分の都合のよいように史料を勝手に解釈し、④最初に結論ありきでデタラメな説(結論)をあらかじめ「大胆な仮説」として設定し、⑤自説に合わせて矛盾や論理の飛躍を重ねたものといえよう。最初からデタラメなのだ。 では、なぜ専門家でなくても、トンデモ本は書けるのか。最大の理由は、歴史は敷居が低く馴染みやすいからだろう。たとえば、皆さんの周囲に「歴史好き」という人は少なからずいると思う。しかし、「物理が好きだ」という人は圧倒的に少ないはずだ。つまり、歴史というのは非常に馴染みやすく、本を読めばおおむね理解できる。 おまけに本能寺の変のように、今残っている一次史料から光秀が信長を襲撃した動機を探ることが困難な場合、彼らが言うところの「想像の翼を広げて」推理をすることができる。史料は読めなくてもOKだ。しかも、その推理はデタラメであればあるほどおもしろく、人々が飛びつく。最初からデタラメだと気付いていて、それを楽しむなら話は別だが。心の底から信じていたら、誠に不幸である。 そうなると、読者は歴史家が黙っているはずがない、反論あるいは批判して然るべきだろうと思うはずだ。しかし、それは難しい問題である。 第一に、トンデモ本を読もうとする気が起こらない。自分の勉強にもならないし、はっきり言って時間の無駄である。 第二に、トンデモ本を批判するのは、「労多くして益少なし」いや「労多くして益なし」である。本来、研究上での論争は、一歩でも真理に近づこうとする営みである。論争を通して真理に近づくなら、当該研究に貢献したことになる。しかし、トンデモ本を批判しても、間違いを一方的に指摘するだけでオシマイである。真理に近づくわけではない。 第三に、仮にトンデモ本を批判しても、本を書いた相手には伝わらない。そもそも歴史研究の手法をマスターしておらず、史料も読めないのだから、批判してもまったく意味がないのである。議論は常に平行線で、何ら理解されることはない。結局、批判は徒労に終わる。※写真はイメージ(ゲッティイメージズ) いずれにしても、トンデモ本は読まない方がいいだろう。教科書や通史の類は劇的なことが書かれておらず、つまらないかもしれないが、まずは読んでみることだ。

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    「コロナ増税」よりも予備費の追及、野党は財務省の別動隊か

    狩り」や「疑惑商法」に踊らされているものが多いことに呆れている。 呆れてばかりもいられないので、この連載でも、疑惑商法などに踊らされないための警告を毎回のように発してきた。だが、今までの警告は、本稿で取り上げる話題に比べれば深刻度は低い。 一つは経済実態が想像以上に悪い可能性があることだ。そして、経済実態をさらに深刻化させることが確実な、財務省の「増税シフト」が明瞭になっていることである。 まず前者だが、ポイントは「見かけのデータに釣られるな」である。これは反安倍系の識者たちが指摘している政府による統計データの「偽造」とは全く異なる。データを注意深く観察すれば、分かることだからだ。 内閣府は8日に法人企業統計を反映した今年1〜3月期の国内総生産(GDP、季節調整値)改定値を発表した。物価変動を除いた実質GDPで前期比0・6%減、仮にこの伸び率が1年続いた場合の年率換算は2・2%減で、名目GDPは前期比0・5%減、年率は1・9%減だった。 日本中に衝撃を与えた、同期の実質GDP速報値の年率換算3・4%減から比べると、かなりマシになったかに見える。しかも、景気変動の主因である設備投資が速報値の前期比0・5%減から大きく上昇して1・9%増と、需要項目でただ一つ増加していることが好感された。 だが、注意すべきは、法人企業統計アンケートの回収率が通常の場合よりも10ポイントほど低下していることだ。通常7割程度あるところ、今回は全企業で6割程度にとどまっている。 しかも、設備投資の下振れが最も懸念されている中小企業からの回収率低下が目立つ。考えられるのは、新型コロナ危機の影響で、企業の内部情報の集約に問題が生じていて、調査に協力できなかった可能性だ。企業が足元の設備投資についての情報を集約できていないことは、将来に向けた設備投資「計画」の策定が十分にできていないことも意味する。政府の緊急事態宣言発令から1週間が経ち、マスクを着用しながら東京・銀座を歩く人たち=2020年4月14日 景気は内需といわれる消費や設備投資に加えて、政府支出や純輸出(海外からの受け取りの純増)で決まる。特に、変化の度合いを決定するのが設備投資の動きだ。その設備投資が不安定化していることが、1~3月の統計で分かる。 つまり、改定値でのGDP「改善」は盛りすぎだということだ。速報値に近いか、場合によれば悪化している可能性さえも否定できない。経済対策、二つのフェーズ さらに深刻なのは、新型コロナ危機における日本の「本番」が、言うまでもなく4月以降だということだ。これから日本経済の統計データは信じられないような深刻な数字を連発するであろう。 では、迎え撃つ政府と日本銀行の政策はどうだろうか。新型コロナ危機の経済対策は、大きく二つの局面に分けて考える必要がある。 一つは感染抑止を目的とした経済を「冷凍状態」にした局面、これが「フェーズ1」だ。そして、感染抑止に成功し、経済を解凍して刺激政策をバンバン行う局面、「フェーズ2」へと続くのである。 当然、経済対策の特徴もフェーズごとに異なる。現在の日本経済はまだ感染抑止モードである。 フェーズ1の経済対策は、ともかく現状維持が最優先だ。「お客さんが来なくても倒産しない」「仕事がなくても解雇されない」状態をできるだけ実現する。 ただし、雇用でも、若年や高齢、非正規労働者のような立場の弱い人たちは解雇される可能性が高いだろう。万が一、クビになっても「生きていける」だけのお金を支給していく。これがフェーズ1の経済対策の基本である。 8日に国会に提出された2020年度第2次補正予算は、基本的にフェーズ1の経済対策に当たる。今の日本経済がなんとか「凍結」を切り抜けるには、ざっと約30兆円が不足している。補正予算案の一般会計歳出総額は約31・9兆円なので、それに見合う額になる。 内容は大きく、現金給付、融資、予備費、感染症対策の四つに別れている。現金給付では、医療従事者への慰労金支払いや「家賃支援給付金」の創設、雇用調整助成金の上限引き上げ、そしてひとり親世帯への支援などが入る。 融資では、劣後ローンを全面的に押し出しているのが特徴だ。一般債権と比べて返済の優先順位が低く、資本に近い性質のため、「ローン」であってローンではないといえる。 つまり、企業は劣後ローンを借りることで、負債扱いではなく、むしろ資本増強として利用することができるのだ。これは中小企業にとって、特にバランスシート改善の点で有利に働く。第2次補正予算案が審議入りした衆院本会議に臨む安倍晋三首相=2020年6月8日(春名中撮影) 一部上場などの大企業も、日本銀行をはじめとした各国の中央銀行の超金融緩和や事実上の株価安定政策の恩恵により株価上昇トレンドを描いていて、企業業績の極端な悪化を防いでいる。 2次補正の国会審議で、論戦になるのが予備費の扱いだ。立憲民主党など野党4党は、予備費の減額や使途の明確化を求めてきた。情けない経済認識 予備費が10兆円にのぼり、議会民主主義の観点から「白紙委任」はまずい、というのが野党の主張だ。だが、新型コロナ危機の特徴を全く理解しておらず、情けない経済認識というほかはない。 新型コロナ危機の特徴は、その根源的不確実性にある。天候で言えば、明日が快晴か台風か、その確率も全く不明の状況にある。 新型コロナに置き換えれば、感染拡大がいつ終息するのか誰も分からないということになる。この根源的な不確実性に備えるために、予備費を多額積み上げていくことは、政策の迅速性という点からも合理的なのである。 予備費の積み上げについては、財務省も反対していた。あまりに過大だというのが彼らの理屈だったが、政府・与党が押し切った。 過大さだけではなく、使途にも財務省は警戒していた。例えば、減税や定額給付金の財源に使われることを危惧しているようだ。 その意味では、今の立民ら野党4党の予備費への姿勢は、この財務省の「懸念」を払拭する方向となっている。まるで財務省の別動隊である。 現在の政府の経済対策はかなり健闘していると筆者は見ている。感染症対策と合わせ、国際的な評価もかなり高い。 香港に拠点を置く英国のシンクタンクが公表した新型コロナに対する安全な国ランキングで、日本はスイス、ドイツ、イスラエル、シンガポールに次ぐ5位だという。この新型コロナ対策とは、感染症の押さえ込みと同時に求められる経済対策を合わせた総合順位である。 わざわざこのランキングを紹介したのは、世論が政府の経済対策や感染症対応をあまりにも低評価しすぎているように思えるからだ。反安倍系のマスコミによる印象報道にあまりにも踊らされるのは、客観的な指標を理解できないことにつながり、危険でさえある。衆院本会議に臨む立憲民主党の枝野幸男代表(右)と、国民民主党の玉木雄一郎代表=2020年5月26日(春名中撮影) もっとも、安倍政権の経済対策を手放しで高い評価を与えているわけではない。せいぜい2次補正の総額とその支出の方向性に高い評価を与えているにすぎない。 景気刺激が必要とされるフェーズ2の経済対策について、政府の姿勢はゼロ解答に近い。冷凍にそこそこ成功しても、解凍に失敗しては何の意味もないからだ。 そのためには、消費減税とインフレ目標の引上げを組み合わせた大胆な経済政策が必要とされるだろう。現状、与党内で噂されるポイント還元の拡充や旅客・飲食などへの支援策は、極めて限定的な効果しか上げないだろう。経済全体を押し上げる政策立案をはっきりさせるべきだ。「増税シフト」見たり この点でさらに重大な懸念がある。やはり財務省の存在だ。 2次補正にしても、総額と支出だけ見るようでは、財務省の「陰謀」は分からない。実は、財務省が「増税シフト」へと巧妙に移行していると思われる。 2次補正は全額、赤字国債と建設国債で資金調達される。これは日銀が民間を経由して、事実上吸収するという「財政と金融の協調政策」である。 ここまでは問題ない。協調政策は経済危機において、むしろ最善の対応だ。ただ、もう一歩突っ込んで確認しなければ、財務省の増税シフトは分からない。 2020度の国債発行予定額を見てみよう。2次補正でより明瞭になったのは、国債の種類が「短期化」したことだ。 つまり、財務省が財政政策の財源を、より短めの国債を発行することで賄っているのである。最近、積極的な経済政策に「覚醒した」とされる麻生太郎財務大臣も、国債発行計画まではチェックしてないだろう(していたら謝罪する)。 2次補正で、新規国債と財投債を合わせた国債の発行額は64兆7千億円になる。ただし、市中発行額で見れば、政府短期証券と2年物国債の割合が、1次補正、2次補正ともに8割ほどを占めている。せっかく日銀が長期債中心の買い入れを目指しているのに、財務省はあえて短期的な国債ばかり発行していることになる。 財務省の発想では、国債は必ず税金の形で返さなくてはいけないものだ。経済成長に伴う税収増なんて、財務省的にはただのノイズでしかない。彼らの目標は増税による「借金」返済なのである。衆院本会議で財政演説をする麻生財務相=2020年6月8日 短期的な国債に大きく依存していることは、早くて1〜2年以内に財務省が「大増税路線」を考えていることを意味する。しかも、これは財務官僚の判断だけで決めたことだ。 この策動こそ、議会をないがしろにしかねない。国会はこの国債発行計画を問題視すべきであり、むしろ長期債シフトに転換させていく必要があるのだ。 だが、立民などの野党は勘違いも甚だしい予備費批判を繰り広げることで、むしろ財務省の思惑に乗っかっているといえるし、与党もこの点を追及する姿勢に欠けている。このままでは、消費減税とインフレ目標の引き上げによる経済政策よりも先に、「コロナ増税」の方が実現しそうである。与野党挙げて、経済危機をもたらすコロナ増税の芽を徹底的に潰すときである。

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    『小西寛子のセカンドオピニオン』第4回(後編)

    iRONNAの動画チャンネルにて、声優、小西寛子氏の動画番組『小西寛子のセカンドオピニオン』がスタートしました。これまで自身が経験したNHK『おじゃる丸』降板騒動や、声優業界の闇など、当サイトで執筆活動を行ってきた小西氏が「アンカーパーソン(総合司会)」を務め、さまざまな問題に斬り込みます。

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    なぜ日本は中国の横暴に安穏としているのか

    中国海警局の船が先月、尖閣諸島周辺の領海に侵入し日本の漁船を追尾した。見過ごせないのは、中国公船が長時間にわたり領海にとどまったことだ。案の定、日本メディアの多くは大きく報じず、政府の弱腰姿勢も変わらない。今、日本は新型コロナだけではなく、横暴を重ねる中国の「侵略行為」に改めて憤怒し、闘うべきだ。

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    緊急事態宣言の解除で欠かせないアフターコロナ「経世済民」の四本柱

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) 5月25日、新型コロナウイルス感染拡大を受けた緊急事態宣言の全面解除が決まった。4月7日、首都圏など主要都市部を有する7都府県から始まった長い「闘い」に、一応の区切りがついた。 今後、経済や社会は「コロナとの共存」に警戒しながら、徐々に回復の途を歩みだすだろうが、大きな不安があるのも事実だ。新型コロナの感染が再び急拡大する第2波の恐れ、そして経済の深刻な落ち込みである。 緊急事態宣言が解除されたからといって、経済活動がフル回転できるわけではない。そもそも世界経済全体の落ち込みも回復していない。 困難がしばらく続き、その不確実性の世界は不気味なほどの深さと広がりを持つ。この「コロナの時代」をどのように生きていくか、そこに経済対策の在り方もかかってくる。 4月から約50日に及んだ緊急事態宣言によって、日本経済の落ち込みは、年率換算でマイナス20%を超える大幅な減速と予測されている。これは民間のエコノミストたちの平均的な予測ではあるものの、今年の1〜3月期についても、国内総生産(GDP)速報値と彼らの予測は大差なかった。 しかも、この予測は第1次補正予算を含めたものであり、緊急事態宣言のゴールデンウィーク以降の継続だけでも相当の経済ショックを与えるだろう。緊急事態宣言延長とその後の経済減速を勘案すると、おそらく27兆円規模の需要支持が必要である。 この数字は先ほどのエコノミストたちの平均予測から仮に算出したものだ。彼らの数字はあくまで年率換算であるため、GDP総額を530兆円とし、経済への衝撃がずっと同じレベルで続けば、年間で20%消失するというわけだ。したがって、4〜6月の第1四半期で見ると、4分の1の約27兆円の経済ダメージが生じる。 さらに、感染期における経済対策なので、人々の経済活動が新型コロナ危機の前のように戻ることを想定するのは難しい。ソーシャルディスタンス(社会的距離)を引き続き採用し、自粛を継続することで、産業や業態ごとの活動率もバラバラになるだろう。 要するに、緊急事態宣言のような経済の冷凍状態ではないが、「半冷凍」が続くと思われる。この中では、従来のような「真水」に注目するのは妥当な解釈とはいえない。 従来の「真水」は、経済を刺激して、GDPを押し上げ、完全雇用を達成することに貢献する政府の財政支出を示している。例えば、新しい事業が増え、働く場が生まれ、経済が活性化することに貢献する財政支出の部分だ。営業を再開した松屋銀座で、ソーシャルディスタンスを取って会計待ちをする来店客=2020年5月25日、東京都中央区(松井英幸撮影) だが、感染期の経済対策は、感染拡大を防ぐために経済をかなり抑制しなければならない。この状況は緊急事態宣言が解除されても、しばらくは続く。 そのために「お客は来なくても倒産しない」「仕事がなくても失業しない」という状態を実現しなければならない。これはかなりの難度の高い政策である。2次補正の補完策 通常であれば、消費減税は景気刺激の「1丁目1番地」に位置する。今回の日本の経済苦境は、米中貿易戦争を背景にした景気後退、昨年の消費増税、新型コロナ危機の「三重苦」の経済であり、とりわけ消費増税が恒常的に消費を引き下げ、経済を停滞させている。 だが、感染期では、消費減税政策の推進は少し後退せざるを得なくなる。なぜなら、感染期の経済対策は、消費のための「お金の確保」が最優先されるからだ。 そのため、お金自体を増やす政策、定額給付金や各種のローンの支払い猶予などが中核になる。その意味で、1次補正に盛り込まれた国民一人当たり10万円の定額給付は、正しい政策オプションの典型だ。今は、この方向の政策をさらに強化すべき段階にある。 政府内で検討されている第2次補正予算も、基本的にはこの感染期の経済対策に当たる。とはいえ、この時点で消費減税の議論をやめる必要はない。むしろ積極的に行うべきだ。 2021年度予算策定の今秋をターゲットにすればいいだろう。感染終息の保証はないが、それでも景気刺激の時期を見据えるいいタイミングになるのではないか。 ともかく2次補正の話に戻ろう。27兆円規模の経済対策を最低でも盛り込むべきことは先述の通りだが、この点で提言がある。 先日、三原じゅん子参院議員を座長とする「経世済民政策研究会」が菅義偉(よしひで)官房長官に対し、2次補正を念頭に置いた政策提言を提出した。この提言には、政府が現在検討中の2次補正を補完する有力なツールが並べられている。菅義偉官房長官(右から3人目)に新型コロナの感染拡大に対応する経済政策に関する提言を手渡した三原じゅん子座長(同4人目)ら「経世済民政策研究会」のメンバー(同会提供) 経世済民政策研究会は、もともと自民党でリフレ政策を勉強するための研究会として始められたが、新型コロナ危機に際して、感染期の経済対策を検討することになった。不肖筆者も顧問を引き受けているが、提言の基礎となったのは、研究会の参加議員による積極的な提言や議論、そして講師(原田泰、飯田泰之、上念司の3氏ら)の報告である。以下には提言の骨子だけを掲げたい。1.国債発行による財政措置・困窮した個人および企業の社会保険料の減免・感染期に月額5万円の特別定額給付金の継続・2次補正総額の半額を新型コロナ感染症対策予備費として確保2.地方自治体に対する支援策・新型コロナ感染症対応地方創生臨時交付金を10兆円規模に拡充・地方債発行の後押し3.金融政策・日本銀行による中小企業へのマイナス金利貸出・日銀による地方債、劣後債の買い取り4.景気回復期の財政金融政策の在り方・インフレ目標の4%への引き上げと積極的な財政政策との協調・「アフターコロナ」に向けた民間投資の支援 4点目は景気刺激期の政策であり、この点は研究会でまだ具体的に話題を詰めている最中だ。消費減税の採用や恒常的な最低所得保障(ベーシックインカム)が議論されるのはこの項目である。臨機応変の備え 2次補正など感染期の経済対策として優先されるのは、1〜3点目である。特にマスコミで注目されたのは、日銀によるマイナス金利貸出である。 新型コロナ危機に伴う中小企業の運転資金の不足は深刻である。これは中小企業を中心に、民間の資金需要が緊急性を帯び、かつ高まっている現状を意味する。 日銀は従来からさまざまな貸出支援プログラムを実行している。日銀による中小企業へのマイナス金利貸出は、この現行システムを拡充して、現在の新型コロナ危機に対応することを目指す。 具体的には、日銀の提供する貸出支援制度を利用し、民間や公的な広範囲の金融機関が、マイナス金利(マイナス0・1~0・2%を想定)で日銀から借り入れる。これを資金不足に悩む中小企業に原則、無担保マイナス金利で貸し付けする。中小企業の緊急性を要する資金需要が増大する中では、最適の政策だろう。 さらに、定額給付金を月額5万円としたが、もちろん週当たり1万円でもいい。 問題は行政の体制である。マイナンバーの本格導入や預貯金口座とのひも付けの義務化が急がれる。 この点が整備されると、週ごとに支給した方が、感染期の終息に伴って柔軟に停止することもできる。支給が継続されれば、恒常的なベーシックインカムへの移行も可能だ。金額が4~5万円であれば、現状の税制や社会保障制度をそれほど改変しなくても継続が可能な金額である(原田泰『ベーシックインカム』)。特別定額給付金のオンライン申請が始まり、マイナンバーカードの取得手続きなどで混雑する大阪市浪速区役所の証明発行窓口=2020年5月11日(寺口純平撮影) 多額の予備費計上も重要だ。上記の提言は、2次補正の「補完」や「一部代替」を目指しているため、現在の2次補正に盛り込まれる学費支援や家賃支援はあえて外している。当然だが、これらの政策はもちろん必要だ。 予備費は、感染の終息が見えない中、不確実な経済状況に対して、臨機応変に動くための備えになる。そのためにも、なるべく金額を積み上げておくことが重要だ。 マイナス金利貸出、持続的な定額給付金、予備費、その他の政策オプションも不確実性の高い経済状況に応じられる政策である。もちろん、これで終わりではなく、どんどん具体的な政策を重ねて提言していく必要があることは言うまでもない。

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    「本能寺」直前、明智光秀の発句は信長殺しの決意だったのか

    た記事を挙げ、「とき(時)」に「土岐」が掛詞として重ねられていることは首肯できるとする。ただし、この連載でも以前触れた通り、光秀が土岐氏の流れを汲むという説には、明確な根拠がなく疑問が残る。 さらに「天が下しる(知る、治る)」に「天下を治める」という語義を認めながらも、主語は「土岐」でなく「天皇」と主張する。理由は、「中世には天皇を指して、『治天の君』といった」からであるという。津田氏は天皇を「天が下しる(知る、治る)」の主語とする理由について、下句の「五月哉」を踏まえて、次の通り主張する。①源頼政が以仁(もちひと)王を奉じて挙兵したのは、5月である(『平家物語』)②足利高氏(尊氏)、新田義貞が挙兵して北条氏を滅ぼしたのは、5月である(『太平記』) 古典に通じた光秀は、それらの流れを想起し、自身も源氏の末裔(まつえい)として「横暴」な平氏(織田信長)を討とうとした。それは、幕末に討幕を掲げた長州藩の人々が、楠木正成の討幕活動になぞらえて「正成をする」と称したように、さしづめ光秀は「高氏をした」ことになると解釈する。つまり、「五月」というタイミングは、先人に倣(なら)ったということになろう。こうして津田氏は、「五月哉」に重い意味があると考える。 一見すると説得力があるが、こじつけと考えざるを得ない。光秀には連歌の素養があったし、『源氏物語』に親しんでいたことは明らかである。しかし、中国の古典はもとより、『平家物語』や『太平記』を細部にわたって覚えていたのかは、別途証明が必要であろう。ましてや、信長を討つという難題について、古典になぞらえて決意をしたというのも不可解な解釈である。タイミングは、政治情勢を見極めたうえでのことだろう。清洲公園にある信長像=愛知県清須市 津田氏の解釈は、付句の「水上まさる 庭の夏山」にも及ぶ。付句の解釈は、『平家物語』の「橋合戦」を踏まえた句であるという。先述した頼政は、平家方の上総介忠清と宇治川を挟んで戦いに及んだ。忠清は頼政の善戦に焦りつつも川を渡る際に、「いまは河をわたすべく候が、おりふし五月雨のころで、水まさッて候」と述べた。こじつけは可能 現代語訳すれば、「今、川を渡ろうとしたのだが、おりふし五月雨の頃なので、川が増水している(ので渡河できない)」という意になろう。そして、上総介忠清の本姓は「藤原」で、「上総介」も信長の官途だった。こうした点から、付句の「水上まさる 庭の夏山」を評価する。 三句目の紹巴の「花落つる 流れの末を せき止めて」は、『源氏物語』の「花散里」が原型になっているという。光源氏は、政敵の右大臣と娘によって官位を剥奪され、都から追放された。光源氏は失脚を予見して、愛人の花散里のもとに別れを告げるために訪れる。それが五月雨のときだった。 また、津田氏は右大臣が信長の官職だったことにも注目すべきという。光源氏の危機は王権の危機であり、それを今の朝廷の危機になぞらえたとし、紹巴は朝廷から光秀のもとに送り込まれたと述べる。 それは、同じく紹巴の「一筋白し 月の川水」という句でも裏付けられると指摘する。中国の伝説によると、月には桂の大樹があり、その根元から清流が湧いて川になるといわれ、王朝の和歌でも好まれたという。 津田氏は「月の川水」こそが、光秀が渡河した「桂川」であることが決定的であると論じる。つまり、紹巴は光秀に対し、桂川を渡って、京都攻めを促しているというのである。それは、朝廷の使者として信長討ちを促したということになろう。 しかし、連歌は場の文学である。連衆が心を合わせて、一つの作品を作らなくてはならない。その場で、一瞬のうちに古典のさまざまな場面が脳裏を駆け巡り、そうした意思表明ができるのか。極めて疑問である。結論から言うと、この段階で光秀が信長討伐を意識していたかどうかは別として、わざわざそのようなことを連歌会で表明しないだろう。 いずれにしても、津田氏の解釈は思い込みによる部分や無理をして数々の古典から解釈を導き出している点が多々あり、にわかに賛同することはできない。光秀の発句に織り込まれた語句を古典に求めるならば、同じ語句を用いたものはたくさんあり、いくらでもこじつけることが可能だからである。 根本的なことを言えば、津田氏が支持する「朝廷黒幕説」は、すでに成り立たないことが明らかとなっている。むしろ、津田氏は「朝廷黒幕説」を成り立たせるため、『愛宕百韻』を主張したことにならないだろうか。愛宕神社の石段=京都市右京区. また、『愛宕百韻』について、ユニークな解釈を示したのが、作家で歴史研究家の明智憲三郎氏である。明智氏の主張の一つには、光秀の出自とされる土岐氏の再興がある。長らく、光秀は土岐明智氏の流れを汲むといわれてきたが、それは繰り返しになるが立証が困難である。「信長討伐」予告は不自然 光秀の出自が土岐明智氏でないとするならば、明智氏が提示した『愛宕百韻』の解釈にも疑問が生じよう。改めて『愛宕百韻』の冒頭の三句は、以下の通りである。 発句 ときは今 あめが下なる 五月かな(光秀) 脇句 水上まさる 庭の夏山(行祐) 第三 花落つる 池の流を せきとめて(紹巴) 上の3句は、一般的に次のように解されている。発句 時は今、雨の下にいる五月だ脇句 折しも五月雨が降りしきり、川上から流れてくる水音が高く聞こえる夏の築山第三 花が散っている池の流れを堰き止めて しかし、明智氏は土岐氏の歴史の理解を前提として、次のように読めるという。発句 時は今、五月雨にたたかれているような苦境にある五月である(6月になれば、この苦境から脱したいという祈願)脇句 土岐氏の先祖(水上)よりも勢いの盛んな(夏山のような)光秀様(そうであるから祈願は叶うという激励)第三 美濃守護職を失った(花落つる)池田氏の系統(池の流れ)をせきとめて(明智氏が代わって土岐氏棟梁を引き継げばよいという激励) こう解釈したうえで、『愛宕百韻』が毛利氏討伐の出陣連歌であると同時に、土岐氏の栄枯盛衰を重ねたもので、土岐氏再興への激励でもあったという。本能寺の変における光秀の動機の一つとして、明智氏は土岐氏の再興を挙げている。つまり、『愛宕百韻』とは、光秀による信長討伐の意思表明であり、紹巴らはそれを激励したということになろう。 光秀の出自が土岐明智氏であるか否かを差し置いたとしても、この解釈には疑問が残る。そもそも連歌の読み方で、それぞれの句に暗号のようなメッセージを託すようなことがあったのだろうか。いずれの解釈とも、それぞれの語句に強引に自説の解釈を当てはめただけで、とても納得できるようなものではない。 加えて言うならば、紹巴らが光秀を激励することについて、何かメリットがあったのかという疑問だ。紹巴は光秀と昵懇(じっこん)であったに違いないが、秀吉らほかの武将とも連歌を通じて、親しく交流していた。 連歌師は生活を支えるため、多くの武将と交わったが、それはあくまで連歌という文芸の場に限られた。ましてや、紹巴が秀吉らほかの武将に通報する可能性もあるのだから、光秀が不注意にも自らの謀反を予告することはないだろう。 先述の通り、連歌とは一座した作者たちが共同で制作する座の文芸である。それは、句と句の付け方や場面の展開のおもしろさ(付合)を味わうことにあり、暗号のようなものを託して詠むものではないだろう。そうなると、平凡ではあるかもしれないが、連歌研究者による通説の解釈に従うべきだろう。 結論を言えば、『愛宕百韻』の光秀の発句については、次のように考えるべきだ。 ①光秀が愛宕山に参詣した理由は、愛宕山にまつられている勝軍地蔵菩薩に毛利征伐の無事遂行を祈願するためである。 ②その翌日に行われたのが、戦勝祈願の一環の『愛宕百韻』である。 ③当然、発句を詠むのは総大将の光秀であり、毛利を征伐すれば、天下が治まるという趣旨を詠まなくてはならない。 ④「天が下知る」とは毛利征伐で天下を治める意であり、「ときは今」はこの一戦に賭けるという光秀の祈願成就の意気込みである。坂本城跡に建つ明智光秀像=大津市 史料の裏の裏を読み、新たな解釈を示した例は、『愛宕百韻』にもたくさんある。史料の読み方を追究することは大切だが、無理をして読んでも仕方ない。そこから導き出された読みが平凡であっても、それが正しいのならば、よしとしなくてはならないと考える。 結局、『愛宕百韻』の解釈をめぐっては、まず自説ありきで話が進められ、そこに向かって発句などが解釈される。歴史研究では、最もまずいパターンである。いずれにしても『愛宕百韻』の解釈は、まず自説から切り離し、改めて虚心坦懐に読解を進める必要がある。※主要参考文献明智憲三郎『本能寺の変 四三一年目の真実』(文芸社文庫)島津忠夫校注『新潮日本古典集成 連歌集(第三三回)』(新潮社)田中隆裕「愛宕百韻は本当に「光秀の暗号」か? ―連歌に透ける光秀の腹のうち―」(『歴史読本』45-12)津田勇「〔コラム〕『愛宕百韻』を読む ―本能寺の変をめぐって―」(安部龍太郎ほか編『真説 本能寺の変』集英社。廣木一人「連歌の方法 ―「愛宕百韻」を手がかりに―」(同『連歌の心と会席』風間書房)渡邊大門『明智光秀と本能寺の変』(ちくま新書)渡邊大門『光秀と信長 本能寺の変に黒幕はいたのか』(草思社文庫)渡邊大門『本能寺の変に謎はあるのか? 史料から読み解く、光秀・謀反の真相』(晶文社)

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    それでも無理と言えないJリーグ、再開にこぎつける「慎重策」

    清水英斗(サッカーライター) 「今はサッカーどころじゃない」「今年はJリーグ無理」 4月の緊急事態宣言を受け、このような反応を散見するようになった。新型コロナウイルスに対し、得も言われぬ不安に駆られ、身構えるのは当然だ。多くの人が神経を尖らせている。 「Jリーグ、今年は無理だ」とさっぱり諦めることができたら、どれほど安心か。どれほど楽だろうか。 しかし、その選択肢は存在しない。正邪好悪を問う以前の話だ。「今年は」という都合のよい選択肢がないのだ。 仮に「今年は無理」と全ての試合を中止したとする。クラブは入場料収入の全てを失う事になる。さらに放映権収入、広告収入にも響く。 その状態に耐えられるクラブがいくつあるのか。市民クラブはもとより、親会社があるクラブでも、その業態によっては現実的な危機が訪れる。 Jリーグのクラブの内部留保は決して多くない。そもそも、プロスポーツクラブの経営は内部留保を溜め込むことが難しい。仮に黒字を出し続けるクラブが王者になれず、中位に甘んじていれば、「選手を補強しろ!」とファンやサポーターといったステークホルダー(利害関係者)に要求されるだろう。 公共性が高いからこそ、過剰に内部留保を蓄えられない。だからこそ、たった1年の不測の停止が、深刻な危機を引き起こすわけだ。もちろん、政府の休業補償があれば話は別だが、現状で充分なものはない。 実際、ドイツではブンデスリーガ1部と2部の計36クラブのうち、13クラブに破産危機が迫ったと伝えられた。5月にリーグ再開出来なければ7クラブが破産、6月にも再開できなければ、さらに2クラブの破産が予測されている。2019年度決算で約20億円の赤字を計上し、オンラインで取材に応じるJ1鳥栖の竹原稔社長=2020年4月26日 そして、1カ月ごとに破産クラブは増える。他の欧州リーグも似た状況か、あるいはドイツ以上に深刻かもしれない。Jリーグにとっても、決して他人事ではない。 もしくはJクラブに限れば、Jリーグや日本サッカー協会(JFA)の支援、借入金によって耐えられる可能性はある。しかし、そこに資金を引っ張られれば、市井のクラブや育成組織はより厳しい状況に追い込まれてしまう。これまで子供や社会人のプレー環境を作り、選手を育ててきた土壌を失うことは、Jリーグが基盤を失うことに等しい。 そう考えれば、「今年は無理」と安易には言えなくなる。Jを「不要普通」にするな 「今年は無理」=neverだ。今年が無理なら、クラブ自体が消滅し、来年以降もずっと無理かもしれない。サッカーに限らず、全てのスポーツや芸能に通じることだが、「今年だけやめる」という選択肢は最初からない。 不要不急が長引けば、「不要普通」だ。文化を止めれば、文化は死ぬ。今は仮死状態だが、長引けば、やがて二度と蘇生できない状態になってしまう。「今年は無理」に、その覚悟があるのか。 そうした危機感が渦巻く中、Jリーグは予定を白紙としながらも、今後は1カ月刻みで再開の検討を続けることを発表した。 当面は6月、7月、8月が意識されている。Jリーグは今季を降格なしとした上で、シーズンの成立条件を「全試合の75%以上、各クラブ50%以上の消化」と定めた。 8月再開はギリギリの防衛ラインだろう。再び中止に追い込まれる事態も想定するなら、早めに再開したい。 もちろん、安全の確保は必須だ。闇雲に「安心」を求める行為ではなく、安全、つまりリスクを社会が受容可能なレベルまで極小化した状態を得られるか、そこが再開の焦点である。6~8月に再開する場合は、最初の1カ月を無観客で行うことも視野に入っている。 しかし、果たしてそれで済むだろうか。4月初旬にリーグの再延期を決めたとき、「市中の蔓延期であることや、移動などで選手をリスクにさらすと考えると無観客試合も難しい」と否定した経緯を踏まえれば、6~8月になって、状況が自然クリアされているとは考えにくい。正直、無理だろう。 単なる無観客では再開が見通せない。そこで参考になるのは、イングランドのプレミアリーグで検討されている「セントラル方式」だ。一つのスタジアムに全チームを集め、集中的に無観客試合を行う。 この合宿方式なら、試合に関わる選手の移動リスクは抑えられる。Jリーグもこのセントラル方式=合宿隔離方式を、単なる無観客以上の対策として準備してはどうか。2020年3月28日、横浜FC戦の前半、先制ゴールを決めた名古屋・阿部=豊田スタジアム(甘利慈撮影) セントラルの場所は東北や九州など、感染者数が少ない地域とする。なおかつ無観客でも周辺に集まろうとするファンの接触を遮断可能な大きめのスタジアムがいい。 選手やスタッフは街への外出を禁止する。また、サポーターが絶対に現地へ行かないよう、各クラブが注意喚起し、制止を振り切る者には無期限の入場禁止処分を課す。「楽観的」な再開予測 そして、J1、J2、J3ごとにセントラル方式を行うとすれば、各地に約20チームずつを受け入れるホテル、旅館などの施設が必要だ。もちろん、日本各地からJリーガーとその関係者が集合するのは、現状では好ましくない。 しかし、この閑散とした状況で、マナーなどに強く注意もできない一般の旅行者が多少訪れることを期待するより、要求にきちんと対応するJリーグに一括で借り上げてもらった方が、現地のホテルとしては、経営的にも衛生的にもありがたいのではないか。自治体がホテルに休業要請しているケースでも、例外と捉えることは不可能ではないはずだ。 さらに、選手の不安を取り除くため、セントラルで集合した直後の2週間は、ランニングといった非接触トレーニングのみでコンディションを整え、生活も最大限の警戒をしながら過ごす。そうやって感染の不安を取り除いた後、本格的なチームトレーニングに移行し、試合を迎える。 仮に選手やスタッフが感染した場合に、軽症者や無症状者を隔離するホテルなどの施設もあらかじめ用意しておく。入院が必要な重症者については、現地を頼るしかないが、できる限り現地医療を圧迫しないよう、対策を取る。 また、その軽症者ホテルには空き次第で現地の一般患者を受け入れてもいいかもしれない。ここまで対策を施せば、社会的にもOKと、安全を認めてもらえるのではないか。 この方式で試合を消化しつつ、場合によってはYBCルヴァン・カップもこの方式で行う。そして、状況が許すようになれば、ホームアンドアウェー方式の無観客試合で選手を家へ戻し、次のステップとしては、観客を50%入れて開催するなど、段階的に緩和していけばいい。 今の状況が6~8月までに好転し、再開できる状態になるとは限らない。むしろ、その予測はあまりに楽観的だ。 仮に好転しなくても再開可能と認められる案を考え、今、準備に移らなければ、6~8月も流れ、やがてシーズン不成立となる恐れがある。それは、放映権料や広告料を失い、クラブが存続不可能になる事態を意味する。 2月、Jリーグはいち早く試合延期を打ち出し、対策チームを立ち上げたことで世間の称賛を得た。しかし、延期以上に難しいのが再開だ。新型コロナウイルス対策の合同連絡会議の設立に関する会見で説明するJリーグの村井満チェアマン(右)。隣はNPBの斉藤惇コミッショナー=2020年3月(加藤圭祐撮影) 今度は「安心」を求める世間を説き伏せつつ、矢面に立って進まなければならない。いよいよ難局だ。 スポーツや芸能など、数多くの興行が中止と延期を迫られる中、Jリーグには勇気と知恵を与える前進を期待している。理解あるファンはそれを後押しするはずだ。

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    お次はアベノマスク、野党の「炎上商法」にまた騙される人たちへ

    モリカケ・桜・アベノマスク」は、まさにこのデュープス向けの「食材」である。 今回で200回を迎える本連載でも、「モリカケ」「桜」両問題について、たびたび取り上げてきた。国会でも何年にもわたって議論されているが、デュープスが目指している安倍首相の「疑惑」は少しの証拠も明らかにされていない。 さすがに何年続けていても、安倍首相の「疑惑」が明らかにならないので、デュープスたちは、首相を「嘘つき」とみなす傾向がある。自分たちが「疑惑」の証拠を提供できないので、その代わりに他人を「嘘つき」よばわりするのだろう。 これでは、単なる社会的ないじめである。だが、こういう意見を持つ人は多く、中には著名人も安倍政権や首相を嘘つきだと断ずる傾向がある。全く安倍首相もお気の毒としかいいようがない。参院決算委員会で答弁を行う安倍晋三首相=2020年4月1日(春名中撮影) ただし、デュープスが生まれる経済学的背景もある。私はしばしばこれを「魔女狩りの経済学」と呼んでいる。 新聞やニュース番組、ワイドショー、そのほとんどが「真実」を報道することを目的としてはいない。あくまで販売部数や業界シェア、視聴率を目的とした「娯楽」の提供にある。 これは経済学者でハーバード・ビジネス・スクールのマイケル・ジェンセン元教授の指摘だ。ジェンセン元教授の指摘は多岐にわたるが、ここでは主に2点だけ指摘する。娯楽で消費される政府批判 ニュースに対して読者や視聴者が求めるのは真実追求よりも、単純明快な「解答」だ。専門的には「あいまいさの不寛容」という。 たとえ証拠と矛盾していても、複雑な問題であっても、単純明快な「答え」が好まれる。ニュースの消費者の多くは、科学的な方法を学ぶことにメリットを見いだしていない。 そのため、ニュースの消費にはイメージや直観に訴えるものが好まれる。実際に筆者の経験でも「安倍首相は悪いことをすると私の直観が訴える」と言い切る評論家を見たことがある。 さらに、ジェンセン元教授の興味深い指摘が「悪魔理論」だ。これが「魔女狩りの経済学」の核心部分でもある。要するに、単純明快な二元論がニュースの読者や視聴者に好まれるのである。 善(天使)vs悪(悪魔)の二項対立のように、極端なものと極端なものを組み合わせて論じる報道への関心が高い。特に、政府は「悪魔」になりやすく、政府のやることは全て失敗が運命づけられているような報道が好きなのだ。 根拠のある政府批判は当然すべきだ。だが、この場合の政府批判は、単なる「娯楽」の消費でしかなく、事実に基づかなくても可能なのである。 「モリカケ」「桜」両問題も、「魔女狩りの経済学」の構図にぴたりと当てはまってきた。「疑惑」は「安倍首相は権力側の悪い人なので、何か悪いことをしているに違いない」とでもいう図式によって生み出されている。この魔女狩りの経済学に、今度は新型コロナウイルスの感染防止策として全世帯に配布する2枚の布製マスクが加わりそうである。 マスクについては、新型コロナ危機が始まってから、医療や介護現場に代表される供給不足問題に加え、一般のマスク不足が一貫して問題視されていた。政府は当初、民間の増産体制によってこの問題を解消できると予測していたようだ。新型コロナウイルスの感染拡大策として、全世帯に配布される布製マスク2枚=2020年4月23日(三尾郁恵撮影) だが、その目論見は完全に外れた。特に、民間の需要は底が知れないほどで、ドラッグストアには連日長蛇の列ができ、インターネットでは高額転売が横行した。これは明らかに政府のマスク政策の失敗だったといえる。政府が払うマスクの「ツケ」 結局、供給解消を狙って、さらに増産体制を強化し、ネットなどでの高額転売禁止、医療機関へのサージカルマスクの大量供給、福祉施設や教育機関への布マスクの配給を矢継ぎ早に行った。特に、サージカルマスクなどの高機能マスクは、地方自治体を経由していると供給不足に対応できないとして、国がネットの情報を利用して、不足している医療機関への直接配布を決定した。 だが、それでも医療需要に十分応えているわけではない。政府のマスクに関する甘い見立てのツケはいまだに解消されてない。 問題のキーポイントは、マスクの増産と割り当て(供給統制)を同時に進めるべきだったのに、前者に依存して後者を当初採用しなかったことにある。危機管理が甘いといわれても仕方がない。 国際的な成功例である台湾では、マスク流通を政府が感染初期から完全に管理している。購入には国民健康保険に相当する「全民健康保険」カードを専用端末に挿入する必要があり、一人当たりの購入数も週2枚に限定されている。さらに、履歴は「全民健康保険」カードに記載され、徹底的に管理されている。 他方で、マスク増産に軍人も起用して、今は大量生産に成功し、日本など海外に輸出するまでになっている。これに対し、日本政府は現在に至るまで、あまりに不徹底で戦略性に欠けている。 当初のマスク予測を誤ったツケが、俗称「アベノマスク」をめぐる一連の騒動の背景にもなっている。ただし、このときの「背景」は合理的なものよりも、モリカケ・桜問題に共通する「疑惑」や感情的な反発を利用した、政治的思惑に近いものがある。マスコミもアベノマスクを恰好の「娯楽」として、ワイドショーなどで率先して報道している。2017年3月、台湾行政院のデジタル関連会議に出席する唐鳳IT担当政務委員 このアベノマスクに関しては、反安倍系の人たちが率先して批判しているが、それには幼稚な内容が多い。顔に比べてマスクが小さいという主旨だが、顔の大きさに個人差があるのは否めない。 そういう幼稚な批判におぼれている人以外には、人気ユーチューバーの八田エミリ氏の動画「アベノマスク10回洗ったらどうなる?」が参考になるだろう。簡単に内容を説明すると、実際に届いた新品のマスクについて紹介した動画で、14層ある高い品質であり、洗濯すると多少小ぶりになるが、何度の使用にも耐えられるものであった。マスク不足に悩む人たちには好ましい対策だったろう。 一部では不良品があり、その検品で配布が多少遅れるようだ。マスコミはこの点を追及したいし、全体のマスク政策をおじゃんにさせたいのだろう。だが、現在配布を進める全世帯向けの半分にあたる6500万セットのうちに、どのくらいの不良品があるか、そこだけを切り取って全体のマスク政策を否定するというのは、まさに魔女狩りの経済学でいう「あいまいさの不寛容」そのものだ。愚者のための政治ショー おそらく、この「あいまいさの不寛容」におぼれたデュープスを釣り、その力で政権のイメージダウンを狙うのが野党の戦略だろう。そのため、補正予算の審議でもこのアベノマスク問題が取り上げられる可能性が高い。まさに愚者のための政治ショーである。 なお「あいまいさの不寛容」の観点で言えば、不良品が多く発見された妊婦用マスクと全世帯向け配布用マスクは異なるが、多くの報道で「巧みに」織り交ぜることで、さらなるイメージダウンを狙っているようだ。全世帯用にも不良品が見つかるかもしれないが、その都度対処すればよく、マスク配給政策そのものを否定するのはおかしい。マスクの全世帯配給に、少なくともマスクの需給環境を改善する効果はあるだろう。 また、マスク配給の当初予算が466億円だったのが、実際には91億円で済んだ。これは予算の使用が効率的に済んだのだから好ましいはずだ。 だが、立憲民主党の蓮舫副代表は違う見方をとっている。蓮舫副代表は、予算が余ったのだから「ずさん」であり、ならば「マスクも撤回してください」と要求している。 なぜ、予算が少なく済んだことが批判され、なおかつマスク配給政策全体を撤回しなくてはいけないのか。デュープスであることぐらいしか、この理由に思い当たる人は少ないのではないだろうか。 現在の日本では、新型コロナ危機で、数十兆円規模の経済危機が起きている。これに立ち向かうために、大規模でスピードを早めた経済政策が求められている。 例えば、企業の家賃のモラトリアム(支払い猶予)も喫緊の問題だ。このままの状況が続けば、6月末には多くの中小企業で「コロナ倒産」の急増を生んでしまうだろう。参院予算委員会で質問する立憲民主党・蓮舫副代表兼参院幹事長(右)=2020年3月2日(春名中撮影) だが、与野党ともに家賃モラトリアムについては、あまりにもスピード感に欠けた提言してかしていない。マスク問題も、政府のマスク買い上げや規制強化の遅れにより、現在まで障害を残している。 本来であれば、家賃モラトリアムや、さらなる定額給付金の供与など、経済対策のスピードをさらに加速させる必要がある。アベノマスクのように、ワイドショーで溜飲を下げるデュープス相手の話題にいつまでもこだわる時間は、少なくとも国会には残されていない。

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    新型コロナ、長期戦を生き抜く「毎週1万円案」ここが素晴らしい

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) 新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、7都府県を対象としていた緊急事態宣言が全国に拡大された。東京圏や近畿地方、福岡県を中心に、感染の拡大はまだ収まっていない。 緊急事態宣言はゴールデンウィーク明けの5月7日で終わることが決まってはいる。だが、さらに延長があるのか、延長しなくとも全面的な解除になるのかどうか、など予断を許さない状況だ。 医療従事者、医療インフラを維持する人たちの懸命な努力が日々、会員制交流サイト(SNS)やマスメディアで伝わってくる。医療資源になるべくストレスを与えないように、われわれの経済活動を中心にした「自粛」はさらに積極的に求められている。だが、このことでわれわれの経済生活や肉体的健康、そして心理的ストレスはかなり厳しくなっていることも自明だ。 感染拡大が終息しなければ、このような困窮は抜本的に解消困難である。だが、ある程度の緩和をすることはできる。それは適切な経済対策である。つまり、政府がきちんとおカネを出し、われわれの生活を防衛することが必要なのだ。 だが、日本では官僚主義の弊害が著しく、日本の「おカネの番人」とでもいうべき財務省の緊縮主義がこの危機の中でも威力を発揮している。緊縮主義とは、できるだけ政府がおカネを使わない姿勢を示す用語だ。国民は感染の脅威と同時に、この財務省の緊縮主義という病とも戦っていかなければならない。 財務省の緊縮病は本当に手強い。政府は先日、国民一人当たり10万円を配る「定額給付金」政策が、新型コロナウイルス危機の経済対策として採用した。政策自体はとてもいいことである。 だが、採用に激しく反対していたのが財務省である。そのため、当初は所得制約を厳しくして、給付金30万円で補正予算が立てられた。 30万円給付金案の方が額が多いように思えるが、それは間違いである。まず、30万円案では、新型コロナウイルスの影響で、所得が大きく減少していないと受領できない。記者会見する麻生太郎財務相=2020年4月17日(林修太郎撮影) しかも、支給対象が世帯単位なので、どれほど家族が多くても、給付は30万円だけである。そのため、30万円案の予算総額は、たかだか4兆円ほどだった。30万円という数字だけで考えれば、多く感じられるが、できるだけ給付金総額を絞り込む財務省の悪質な緊縮主義が表れている。 それに対し10万円給付案では、予算総額が12兆円と8兆円も多い。しかも、経済危機で収入が半額まで減少しない人や、家族の多い低所得者層にも恩恵が及ぶ。「30万円案」固執の不思議 何より30万円案最大の欠点は、所得が減少したことを自己申告で役所の窓口に出向いて証明しなければいけないことだ。それが受理されて、初めて給付金が下りる。これだけでも相当の手間と時間がかかる。フリーランスの人たちにとっては、そもそも所得減少を証明する書類を揃えるのが難しい場合があるはずだ。 問題はこれだけではない。悪徳企業経営者がいたら、社員の給料をわざと半減させて、それで社員に30万円の給付金をゲットさせるだろう。言い換えれば、本当に必要な人に届かなくなるのだ。 立憲民主党などは、この30万円給付に固執し、補正予算案を批判している。それは国民の生活を考えない党利党略的な判断でしかない。 それに比べて、全国民一律に10万円を配布するのは、最もムダがない。資格調査がいらない分だけでもスピードが速い。 政府がこの案を当初採用しなかったのは、財務省の緊縮主義からの抵抗があったからにほかならない。もちろん富裕層からは年度末の確定申告で税金をより多く徴取するので「公平」にもなる。ただし、給付金を単に消費に回す点だけに話を絞れば、高所得者層の多くも他の所得者層と大差なく、給付金を消費に回すことが実証分析で知られている。 10万円給付案への反論として、定額給付金が過去に実施されたときに、30%程度しか消費されず、あとは貯蓄に回されたというものがある。だが、三つの理由から間違っていると言わざるを得ない。 (1)貯蓄に回ることで、むしろ将来不安の解消に貢献すること、(2)貯蓄は将来の消費でもあるので、感染症の蔓延期が長期化して、家計が苦しくなれば消費に向かうかもしれない、(3)社会全体が余裕(=ため)をもっていれば、感染期が終わったときに力強い景気回復が可能になる、と考えられる。 要するに、ムダなおカネなどはないということだ。「貯蓄=ムダなおカネ」という言説は、財務省が喜んで流布する素人騙しの都市伝説でしかない。新型コロナウイルスの感染拡大防止のため東京・銀座では多くの店舗が休業、街は閑散としていた=2020年4月18日(三尾郁恵撮影) さて、問題なのは、この定額給付金が1回で済むかどうかである。新型コロナウイルスの感染拡大がいつ終わるのか、日本国内だけでもいまだ不透明だ。 ましてや、世界の動向も全く分からないので、長期戦を覚悟する必要がある。そのときにわれわれの生活を支える仕組みが求められる。 ここで、大阪大の安田洋祐大准教授が提案する面白い給付金政策を紹介しておこう。感染終息まで、毎週1万円を全国民に支給するというものだ。「毎週1万円」最大のメリット この場合、政府支出は月総額約5兆円になる。感染期が1年続けば、60兆円になる。60兆円は巨額だが、実は経済の専門家たちが、終息せずに1年続いたときに生じる経済損失として計算した金額と等しい。 実際には、感染期が夏には終わっているのか、それとも何年も続くのかは分からない。安田案の優れているところは、感染期が続く限り、政府が支援を継続するという約束(コミットメント)が強力だということだ。 しかも、このコミットメントは単なる口約束ではない。実行を伴う仕組みがある「約束」である。 もちろんこれとは別に、感染期のピークに一括して、国民一人当たり10万円や20万円を、事態の変化に応じて再度配布する案もある。ただし、感染が予想外の長期間となった場合、そのたびに予算案を立てなければならず、スピードに問題が生じる。 筆者は最近、リフレ政策に強い関心のある自民党国会議員の研究会で報告する機会があったが、質疑応答が活発に行われた。その経世済民政策研究会(世話役:三原じゅん子参院議員、事務局:細野豪志、長島昭久両衆院議員)で、補正予算に多額の予備費を計上する案が出た。 予備費の額は青天井なので、新型コロナ危機だけではなく、自然災害の多発などに備えて、補正予算に今から数兆円規模の予備費を計上することは、審議時間の短縮に繋がり、望ましい。また、政府と日本銀行が協力して、上記の安田案の実現のために新型コロナ対策基金を100兆円規模で構築することもあり得るだろう。 いずれにせよ、この不確実性に対応した定額給付金を軸にして、税金や社会保険料、家賃、光熱費といった生計費や運転資金を先送りしたり、免除していく政策を組み合わせれば、感染期の経済対策としては合格点に近い。付言すると「先送り」は、感染が終息して、負担が一気に押し寄せることがないように、強い減免措置と組み合わせる必要がある。 そして、感染期の終了後に、経済全体を落ち込ませないためにも、財政政策と金融政策の協調による一層の刺激政策を取ることが望ましい。そのときの有力オプションは消費減税であろう。 ただし、恒常的な消費減税を感染期から実施することを、筆者は強く薦める。感染期における持続的な定額給付金(事実上のベーシックインカム)と恒常的な消費減税は、不確実性の高い経済を安定化させる錨(いかり)の役割をすることだろう。細野豪志元環境相=2019年1月(森光司撮影) だが日本では、財務省を中心にした緊縮病が、この感染期の経済対策を妨害しているといっていい。このことは前回でも指摘した。しかも、この経済危機でも緊縮しようという意思は強い。今はおとなしくしているが、いずれ「新型コロナ税」でも発案しかねない。 阻止するためには、リーマン・ショックや東日本大震災のときに比べ、世論形成への影響が格段に強まっているSNSの力が必要だ。SNSを中心に不合理な財務省の緊縮病を監視し、国民の力で退治していくことが大切なのである。

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    米倉涼子の円満独立で分かった芸能界に「寄る年波」

    片岡亮(ジャーナリスト) 人気女優の米倉涼子が3月24日、27年間所属してきたオスカープロモーションを3月末で退社することを発表し、芸能界に衝撃を与えた。「新しい活動については、近日中にご報告をさせていただきます」と後日改めて発表があるようだが、関係者によると「他に移籍するのではなく、個人事務所でやっていくと聞いている」という。 近年、大手の芸能事務所を退所する所属タレントが増えた。公正取引委員会(公取委)が、芸能プロダクションとタレントの専属契約に違法性があると見て、移籍や独立を阻む問題の調査に乗り出したことが大きい。公取委はこのような事務所が強い立場を利用した契約が独占禁止法に当たるとの見解をまとめ、原則禁止している。 かつて日本の芸能界を暴力団が仕切っていた名残で、以前は独立したタレントが干されるということも当たり前だった。背景には、芸能プロがテレビやスポーツ紙をはじめとするマスコミに強い影響力を持ってきたことにある。不自然に出演アーティストが決まってしまう『NHK紅白歌合戦』も、このゆがんだ構図の産物だといえる。 いまや、そのことを多くの人が感じているから、世間では「事務所からの独立」はタレントが「巨悪」と戦っているように見えるだろう。ただ、芸能プロの圧力が強いほど、当のタレント自身が得をしてきたのも事実だ。 長くヒット曲のない歌手でも紅白に出場できているし、ちっとも面白くない芸人が、他の人気タレントと同じ事務所所属という理由だけでバラエティー番組のひな壇に座っていられる。情報番組のコメンテーターやドラマのヒロインも、実力通りなら人選は全く違うものになるだろう。 プロダクションのプッシュを最も必要とするはずの芸能人が事務所から出たがる、その理由は一般社会の離職や転職と大差ない。ただ、優先順位が違うだけなのだ。女優の米倉涼子=2019年10月(桐原正道撮影) 一般社会では、「会社を辞める理由」で上位を占める回答といえば、「給与が安い」「休日が少ない」「将来への不安」といった待遇面における不満だ。加えて、上司のパワーハラスメントなどの「人間関係」、そして「やりがいを感じない」という仕事内容への不満がある。それでも人気タレントが独立するわけ これまで芸能界を約20年取材してきた経験で言えば、待遇面での不満は、芸能界の場合だと新人など若いタレントや中堅に多い。逆に言えば、どんなに待遇の悪い事務所であっても「一発屋」でもない限り、実績を積み重ねていけば相応に報酬は上がる。 5本のCMに出演しているのに、1本分しかもらえないケースなど聞いたことがない。吉本興業所属の芸人が「ギャラが3千円だった」と愚痴を言うのは、そもそも駆け出しのころのエピソードだったり、ブレイクしないままくすぶっているからだ。 人気が急上昇した若手が「もっともらえてもいいのでは…」と不満を抱くこともあるが、主演作や冠番組に困らないタレントになれば、よほどタチの悪い事務所でない限り、一般人がうらやましがるレベルの報酬が手に入るものだ。休みがないという多忙なスケジュールへの不満があっても、むしろ「うれしい悲鳴」であり、「だから、辞めます」ということにはなりにくい。つまり、人気タレントが独立する理由に、待遇面での不満が挙がることは決して多くはないのだ。 それを証明する動きが続いているのが、ジャニーズ事務所だ。近年退所したタレントの多くが、「コンサートで歌って踊り、ファンクラブの会員を増やす」本業に嫌気が差した者たちだからだ。 KAT-TUNの赤西仁は音楽活動での海外展開を志向し、在籍中からソロ活動を始めていた。KAT-TUNの田口淳之介や、関ジャニ∞(エイト)の渋谷(しぶたに)すばるもシンガー・ソングライターを目指し、ジャニーズを去った。 元SMAPの稲垣吾郎、草彅剛、香取慎吾の「新しい地図」の3人にしても同様のことがいえる。SMAPでは、敏腕マネジャーの飯島三智氏が事務所の方針に反してまで、バラエティー番組に積極的に売り込み、さらにドラマやソロ活動を展開したことで、SMAPは国民的アイドルの地位を築くことができた。メンバーが飯島氏への信頼を厚くするのは当然で、極論だが、事務所の「王道路線」に背いたことが退所の発端といえなくもない。 ただ、彼らが実際に離脱にこぎつけたのは、皮肉にも高待遇であったからだ。つまり、アイドルのうちに十分貯蓄できていたからこそ、自分の「やりたいこと」にシフトできたわけである。 嵐の大野智が退所覚悟で休業宣言したのも、中居正広が3月末での独立を決めたのも、自分のペースで選んで仕事をしたいことが最大の理由だ。これは一般社会で言う「やりがい」の理由と合致する。公正取引委員会から注意を受けたジャニーズ事務所=2019年7月、東京都港区 米倉の場合、所属のオスカーのスタッフがテレビ局に頻繁に通い、まるで映画パンフレットのような出来のプロモーション資料を担当者の机の上に置いていく強い営業力で知られる。女優の剛力彩芽がこの上なく「ゴリ押し」されたのも営業力の結果だ。 タレントからすれば、神様みたいに有り難いバックアップだから、やはり待遇面の不満は生じにくい事務所だ。所属女優には、飯島氏のように自分をスターにしてくれた担当マネジャーを付けてくれる。高齢化「世代交代」の弊害 ところで現在、こうした大手事務所に続発しているのが、トップの高齢化による世代交代だ。しかも、世襲が多いせいで、創業者を継いだ2代目が、先代ほどの実力がないにもかかわらず、態度だけはボス気取りという人間が少なくない。結果、一般社会でもよくある「二頭体制」の弊害が出てくる。 オスカーは以前からそんなウワサが聞こえていた事務所で、近年、スタッフが次々と辞めていた。フリーランスの筆者にも笑顔で接してくれた人物も、業界でかなり評判が良かったのに、少し前に「仕事は好きですが、オスカーではもうやれない」と意味深な言葉を残して、他の業界へ転出していった。 タレントにとって、担当スタッフは「最大の味方」だ。必死に仕事を取り、会社との間に入って自分の意向を伝えてくれ、体調の気配りもしてくれる家族のような存在で、「新しい地図」が飯島氏の後に続いたのも、そのような心理が働いたといえる。 最大の味方が辞めるとなれば、タレントの事務所への忠誠心はかなり低下する。オスカーのスタッフが消えるにつれ、女優の草刈民代や忽那(くつな)汐里、モデルのヨンア、タレントで女優の岡田結実と、所属タレントが続々退社していった。もちろん、公取委の方針が後押しになったのは、言うまでもない。 中居が既存の事務所に移籍せず、個人事務所「のんびりな会」の立ち上げを選んだのは、彼にはもう大手芸能プロの力が必要ないからで、米倉にも同じことがいえる。しかも、米倉は出演ドラマの打ち合わせで、テレビ局に足を運ぶことを苦にしないから、仕事は自分でも取れるし、十分な貯蓄もある。 プロモーション資料に常にトップ掲載されてきたオスカーの看板女優だが、もう後押しがなくても自由にやれる。「演劇以外のCMなどは積極的にやりたがっていなかった」とも聞くから、むしろ今後はさらに仕事を選べるだろう。 一部では交際するアルゼンチンダンサーの男性に、事務所が猛反発したという話も伝わるが、それが長年第一線でやってきた超一流のプロフェッショナルに起こった独立問題の核心であるわけがない。女優でタレントの岡田結実。2020年3月末で所属事務所を退社した=2019年9月 一般社会では、従業員の平均勤続年数が短くなってきているというが、ある程度稼いだ芸能人が独立の選択肢を取るケースは今後も増えるし、プロダクション側も殿様商売をしていられなくなるのは時代の流れだ。一般企業でも、パワハラ上司に我慢して働くのは愚かだという認識が広まり、有能な人材なら「自分で起業した方が早い」と考える。 芸能界でも、タレントのフリーランス化が進み、個人で有能なマネジャーを雇うようになる。大手芸能プロがどんなに「育ての恩」を語り、「圧力の壁」を築いても、合理化と適正化の波は止められないだろう。

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    あいちトリエンナーレ、なぜ私は負担金「不払い」に賛同したのか

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) 国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」は、公的な文化助成のあり方を再考する機会となった。筆者は名古屋市から依頼を受け、「あいちトリエンナーレ名古屋市あり方・負担金検証委員会」の委員に就いたが、3月27日の第3回会合で報告書をまとめることができた。 内容は、「あいちトリエンナーレ実行委員会」に対して、名古屋市は留保していた負担金を支出しなくてもやむを得ないとするものだった。また、あいちトリエンナーレへの今後の取り組みについても、名古屋市に対して積極的な提案を盛り込んだ。 ただ、報告書案の採決は3対2と票が割れた。賛成したのは、元最高裁判事の山本庸幸座長と大東文化大副学長の浅野善治委員、そして筆者だ。反対は美術批評家の田中由紀子委員と、弁護士で元名古屋高裁長官の中込秀樹副座長だった。 3回にわたる会合でも、意見が完全に二つに割れ、その間を埋めることができなかった。まさに、この問題が招いた社会の分断の縮図を見るようだった。 同日、同市の河村たかし市長は報告書を尊重する形で、負担金の未払い分約3300万円を支出しないと表明した。報告書案に賛成した委員として当然だが、筆者は市長の判断を全面的に支持する。 簡単ではあるが、報告書の要旨は次の通りだ。まず、委員会の目的は「名古屋市が負担することが適切な費用の範囲について検討する」とともに、「次年度以降の名古屋市のあいちトリエンナーレへの関わり方について検討する」ものであった。市民からの税金をどのように利用するか、その適切な利用をめぐる問題が大きな焦点だった。そして、主に「表現の不自由展・その後」をめぐる三つの事実を指摘する。(事実1)予め危機管理上重大な事態の発生が想定されたのにもかかわらず、会長代行(河村たかし市長)には知らされず、運営会議が開かれなかったこと。(事実2)「表現の不自由展・その後」の中止が、事前に会長代行には知らされず、運営会議が開かれないまま会長(愛知県の大村秀章知事)の独断で決定されたこと。(事実3)中止された「表現の不自由展・その後」の再開が、事前に会長代行には知らされず、運営会議が開かれないまま会長の独断で決定されたこと。 詳細は近く名古屋市のホームページ(HP)で公表される報告書を参考にしていただきたい。企画展「表現の不自由展・その後」を開催した国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」をめぐる2回目の検証委員会。手前右から2人目が筆者=2020年2月14日、名古屋市役所 ところで、名古屋市はあいちトリエンナーレ実行委に負担金を支払うべきという「債務」を負っている、と認識している人たちが一部いる。しかし、この認識は妥当ではない。報告書では、その点でも解釈をきちんと提示している。 名古屋市は、そもそも実行委員会に対して、既に通知した「あいちトリエンナーレ実行委員会負担金交付決定通知書(以下「交付決定通知書」という。)」に記載した通りに負担金を全額交付すべき債務を負っているか否かを検討する。結論から言うと、交付決定額171,024,000円を全額交付すべき債務はないと考えられる。なぜなら、交付決定通知書に記載した負担金の交付は、実行委員会に対して、3回に分けて各回これだけの金員を支払うつもりであるという意思を一方的に通知したに過ぎないと考えられるからである。「報告書」2ページ「不自由展」がもたらした社会の分断 また「市長は、負担金の交付決定後、事情の変更により特別の必要が生じたときは、負担金の交付の決定の全部若しくは一部を取り消し、またはその決定の内容若しくはこれに附した条件を変更する場合があります」という留保条件にも注目した。この「事情の変更により特別の必要が生じたとき」があったか否かについて、主に先述の三つの事実に依拠しながら、検証委は次のような結論を提起している。 そこで、会長によるこのような実行委員会の不当な運営に対して、事情変更の効果として、3回目として当初予定していた負担金の不交付という形で、名古屋市が抗議の意志を表すということは、必ずしも不適当とはいえず、他に手段がない以上、当委員会はやむを得ないものと考える。「報告書」7ページ 繰り返すが、河村市長がこの報告書の判断を元に、未払い分を支出しない決定を下したことに、報告書を可決した委員として当然だが、全面的に支持したいと思う。 以下は、報告書自体には直接に関係ない、この問題についての私見である。特に、報告書にかかわる個別意見は、報告書に付帯したので、名古屋市のHPに公開された際に参照してほしい。 報告書は、何よりも法的な根拠がしっかりあるものでなければいけない。個人的には残念なことだが、今まで支払った分の返還請求が法的に難しく、断念した点である。 あくまで筆者個人の思いとしては、実行委側は今まで受領した負担金を自主的に返還すべきだと考える。あいちトリエンナーレにおいて「表現の不自由展・その後」がもたらした社会の分断は深刻なものであり、それはまさに「政治的な対立」そのものだからだ。 また、この「社会の分断」や「政治的な対立」は、「事前に」十分に予想できる警備上の深刻なリスクをもたらした。これは事後に起きた脅迫行為などを言っているのではない。あくまでも事前に予測可能なリスクの話である。 私見であるが、警備上の深刻なリスクが生じる作品群を、あえて公的な支援の下に市民に鑑賞させるのは不適切だと思っている。当たり前だが、市民は政治的なリスクを担いながら、美術作品を鑑賞しにきているわけではないからだ。このリスク面については、報告書の個別意見や会議の場でも詳述した。 ところで、劇作家の山崎正和氏が読売新聞の論説「あいちトリエンナーレ 表現と主張 履き違え」(2019年12月)で指摘した通り、「表現の不自由展・その後」で議論の焦点になった少女像や天皇陛下の肖像を用いた作品を燃やした動画などの展示行為を、「背後にイデオロギーを背負った宣伝手段の典型」と評したが、筆者もこの言葉に賛同する。愛知県の大村秀章知事(左)と名古屋市の河村たかし市長=2020年3月 今回の報告書はあくまで公金の使途をめぐる法的解釈が中心であり、展示の解釈には立ち入るものではない。だが、この山崎氏の批評は、この展示の性格について追加の言葉を不要にするものだ、と確信している。 今後、このような社会の分断をあおる政治的イデオロギーに偏った展示が、少なくとも公的支援の下で安易に行われないことを願っている。

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    「信長殺し」後の明智光秀、家康側近「天海」説はなぜ流布した?

    河ドラマが近づくと、明智光秀にまつわるさまざまな珍説、奇説が突如としてクローズアップされることは、本連載でもたびたび触れてきた。それだけでなく、根拠不詳な「光秀ゆかりの地」なるものも次々と現れる。 それらの根拠は、当時の一次史料(古文書や古記録)に記されているものではなく、二次史料(のちになって編纂された史料。地誌、軍記物語、系図など)や伝承の類であることが大半だ。二次史料単独の記述や伝承はアテにならないことが多く、検証が不可能である。おおむね「眉唾(まゆつば)もの」と考えてよいだろう。 しかし、そういう「眉唾もの」の話であっても、気が付くと大学教授や教育委員会職員、博物館学芸員の「お墨付き」をもらって、「本当」になってしまうことも珍しくない。それを聞いた住民の中には、心の底から信じてしまうことも! そうなると悲劇だ。 二次史料や伝承がダメだとは言わない。それがたとえ「ウソ」であっても、なぜそういうことが語り継がれたのかを考えるのは重要だ。光秀ゆかりの地に住む皆さんには、ウソか本当かをよく知ったうえで、後世に語り継ぐことを切にお願いしたい。 以下、そうした光秀にまつわる「アテにならない」伝承問題を考えてみよう。 京都府福知山市には「明智藪」(あけちやぶ)なるものがあり、よく知られている。光秀の終焉地とは、まったくの別物だ。天正7(1579)年に丹波を平定した光秀は、福知山城を築城した。その際、たびたび氾濫を起こした由良川と土師川の合流地点で治水工事を行い、「明智藪」という堤防を作ったというのだ。福知山城天守閣=京都府福知山市 「明智藪」は音無瀬橋のやや上流にある雑木林に築かれたが、戦後の堤防改修工事によって、今では北端部分だけしか残っていない。この堤防によって、由良川、土師川の氾濫が収まった。光秀は福知山城下を整備し、税の免除なども行ったので「名君」と称えられるが、そこには「明智藪」の業績も含まれている。 しかし、実際には江戸時代から明治・大正時代にかけて、その堤防は「蛇ケ端御藪」(じゃがはなおやぶ)と呼ばれていた。では、光秀が本当に堤防を築いたのだろうか? 光秀が堤防を築いた根拠は、寛政年間に福知山藩の古川茂正と篠山藩の永戸貞が編纂した『丹波志』だ。同書は光秀が没してから、約100年後に成立した編纂物である。 とはいえ、『丹波志』には「明智藪」とは書かれていない。おまけに、光秀が堤防を築いたことを示す一次史料はない。「明智藪」と書いているのは、昭和59(1984)年に刊行された『福知山市史』第3巻だ。以降、地元の人は「明智藪」と呼ぶようになったという。 つまり、「明智藪」には明確な史料的根拠がないのだ。しかし、私は別に目くじらを立てて怒っているわけではない。「明智藪」には「明確な史料的根拠がない」という認識のうえで、顕彰活動を行ってほしいと思うだけである。 ほかにも、光秀にまつわる妙な伝承がある。光秀はその後生き延びた? 明智光秀は本能寺の変から11日後の天正10(1582)年6月13日、土民によって討たれた。わずか11日で討たれたので、光秀は「三日天下」などと揶揄(やゆ)された。光秀の首が晒(さら)し首にされ、今も各地に墓や供養塔が残っている。光秀が亡くなったことは、当時の公家日記にも書かれており、動かしがたい事実である。 ところが、実は光秀は殺されることなく生き延び、何と徳川家康の側近として活躍した天台宗の僧侶「天海」になったという説がある。この説は、すでに大正5(1916)年の須藤光輝著『大僧正天海』(冨山房)で指摘されていたが、長らく取り沙汰されることはなかった。 須藤氏の研究によると、「光秀が天海となり、豊臣氏を滅ぼして恨みを晴らした」という「奇説」を唱える者がいる、と記されている。つまり、いつの頃からか、光秀は天海になったと言われ、大正期には一部で広まっていたようだ。 一見するとバカバカしい話ではあるが、以前からテレビなどで取り上げられ、俄然注目されている。これは、史実として認めてよいのだろうか。 天海の生年は天文5(1536)年説が有力で、亡くなったのは寛永20(1643)年と100歳を超える長命であった。ちなみに光秀の生年は享禄元(1526)年など諸説あるが、十数歳ほどの開きがある。同時代の人物といえば、たしかにそうかもしれない。 では、なぜ光秀=天海説が唱えられたのであろうか。いくつか根拠となる説を取り上げて、考えることにしよう。 そもそも、光秀は本能寺の変の後、死ななかったという言い伝えが残っている。たとえば、宇治市の専修院と神明神社には、山崎の戦いの後に光秀を匿(かくま)ったという伝承がある。 また、山崎の戦いの後、光秀が妙心寺(京都市右京区)に姿を現し、その後和泉に向かったといわれているが、確かな根拠がなく非常に疑わしい。 光秀の画像を所蔵する大阪府岸和田市の本徳寺には、光秀が潜伏していたといわれており、「鳥羽へやるまい女の命、妻の髪売る十兵衛が住みやる、三日天下の侘び住居」という俗謡すらあるほどだ。ただ、こちらも伝承の域を出ない。大阪府岸和田市の本徳寺に所蔵されている明智光秀像 ほかにも、生き残ったという伝承があるが、明確な史料的根拠がない。しつこいようだが、光秀が殺されたのは動かしがたい事実だ。 江戸幕府の二代将軍である徳川秀忠の「秀」字は光秀の「秀」字を採用したという。この話を勧めたのが、天海だというのだ。しかし、一般的に秀忠の「秀」字は、豊臣秀吉の偏諱(へんき)を受けたといわれているので、この説はまったく当たらない。 同じく三代将軍・家光の諱(いみな)も金地院崇伝が選んだもので、光秀の「光」字を採ったものではないだろう。いずれも、光秀=天海が関与したものではない。こじつけの域を出ない説 徳川家光の乳母は、明智光秀の重臣・斎藤利三の娘・春日局だった。また、家光の子の徳川家綱の乳母は、光秀の重臣・溝尾茂朝の孫娘・三沢局が担当していた。この事実をもって、天海=光秀と指摘されているが、説得力が弱い。 日光東照宮陽明門(栃木県日光市)の随身像の袴などには、明智家の家紋である桔梗(ききょう)が用いられているというが、これは織田家の家紋である木瓜(もっこう)紋が正しい。単なる見間違いである。やはり、光秀=天海は関係ないようだ。 また、天台宗の比叡山松禅寺(大津市)に「慶長二十年二月十七日 奉寄進願主光秀」と刻まれた石灯籠があることから、この「光秀」が明智光秀であり、天台宗の僧侶、天海が関わっていたのではという説がある。しかし、光秀という名だけで、明智光秀と同一人物であると即断できないだろう。 さらに比叡山の叡山文庫には、俗名を光秀といった僧の記録があるという。しかし、「光秀」はありふれた名前であり、必ずしも明智光秀と同一人物であるとは言えないようだ。いずれの説も、単なるこじつけに過ぎないだろう。 栃木県日光市には、明智平という場所があり、今も観光地として人気のスポットである。明智平の命名者は、天海であるとの伝承がある。ゆえに天海は光秀だったと指摘するが、命名も単なる伝承であり、本当に天海が名付けたとは言えないようだ。 関ヶ原町歴史民俗資料館所蔵の「関ヶ原合戦図屏風」には、鎧(よろい)で身を固めた天海の姿が描かれている。軍師的な役割ならば、戦闘の経験のある光秀にほかならないという。ゆえに光秀=天海との指摘がある。 天海が関ヶ原合戦に出陣したか確証を得ないが、安国寺恵瓊(えけい)のように戦場に赴いた僧侶は存在するのは事実だ。しかし、後世に成った合戦屏風にどこまで信憑性があるのか疑問である。やはり、根拠は薄弱であり、とうてい信を置けない。徳川家康の側近として知られる僧侶「天海」の銅像=栃木県日光市 ほかにも光秀=天海説の根拠は提示されているが、いずれもこじつけの域を出ないもので、証拠になりえないものばかりである。したがって、光秀=天海説はまったくの想像の産物で、成り立たないのである。 ところで、光秀に埋蔵金伝説があるのはご存じだろうか。 兵庫県の丹波地方には、光秀が天正6(1578)年に多紀郡と氷上郡の境界に位置する金山に金山城(兵庫県丹波市)を築き、埋蔵金を埋めたとの言い伝えがある。光秀は宿屋の主人に歌を書き与えたが、その内容は金山城付近に埋蔵金を埋めたことをうかがわせたという。 また、本能寺の変後、光秀は家臣の進士恒興に対し、安土城内の財宝を京都に運ぶよう命じたという。しかし、運搬の途中で、光秀の死の一報が伝えられた。恒興は予定を変更し、丹波国周山(京都市右京区)の慈眼寺近くに財宝を埋めた。そして、運搬に関わった者を皆殺しにしたと伝わっている。 光秀の埋蔵金は、先述の兵庫県の丹波地方、京都市右京区だけでなく、光秀の家臣が琵琶湖に沈めたという説のほか、光秀の居城である亀山城(京都府亀岡市)にもある。光秀の埋蔵金の話は、信じていいものなのだろうか。地元への「忖度」は不要 光秀の埋蔵金伝説は、光秀が生き延びたという説とも密接に関わっている。 山崎の戦いに敗れた光秀は逃亡中に殺害されたが、それは光秀の影武者(あるいは身代わり)であって、実際に光秀は生き延びていたと伝わる。徳川家康が亡くなった元和2(1616)年、埋蔵金は明智家再興のために掘り出されたが、「護法救民」のために埋め戻されたという。ただ、真相は闇の中だ。 埋蔵金と言えば、徳川埋蔵金伝説などが有名であるが、実際に埋蔵金が出てきた例は乏しい。光秀の埋蔵金についても、単なる伝承に過ぎないと考えられる。 次に、光秀の墓(供養塔)について考えてみよう。 先述の通り、天正10(1582)年6月13日に落命した。その首は本能寺に晒され、同月24日に京都・粟田口(京都市東山区・左京区)に首塚が築かれたという(『兼見卿記』)。実は、光秀の墓(供養塔)は複数あることが知られている。 一つ目は、亀岡市にある真言宗寺院・谷性寺(こくしょうじ)である。光秀の家臣・溝尾庄兵衛が光秀の首を隠しておき、のちに谷性寺に懇(ねんご)ろに葬ったという。そこに建立されたのが、「光秀公首塚」という供養塔だ。 この首塚をよく確認すると、安政2(1855)年に建立されたと書かれている。光秀の死後から、約270年も経過している。となると、実際に庄兵衛が首を埋めたというよりも、のちに光秀の菩提を弔うため建立されたと考えられないか。 二つ目は、大津市にある天台宗寺院・西教寺である。同寺は、光秀が近江を支配した際、総門や庫裏(くり)を寄進した。そうした関係から、光秀だけではなく、妻の熙子や明智一族の供養塔が建立された。明智の菩提寺である。 ほかにも、光秀の墓は高野山(和歌山県高野町)にもある。いずれが本物かと問われれば答えに窮するが、それぞれの所縁の地で、光秀を慕う人々が菩提を弔いたいと願い、供養塔を建立したというのが事実であろう。2019年5月に建立された明智光秀公像=京都府亀岡市古世町(同市提供) また、京都府宮津市の盛林寺には、娘ガラシャのもとへ光秀の首が運ばれ、首が埋葬されて首塚が建立されたと伝わる。そのほか岐阜県恵那市明智町の龍護寺、同山県市の桔梗塚、京都市東山区の尊勝院、京都市山科区の胴塚を含めて、光秀の墓(供養塔)などは多数存在する。 以上のように、光秀にまつわる伝承は非常に多い。学識ある研究者は、それらが伝承の類であることを明確にしたうえで、なぜそのような伝承がその土地に伝わったのかを真摯に考え、地元住民に伝えるべきだろう。地元住民に対する妙な忖度は不要である。主要参考文献渡邊大門『明智光秀と本能寺の変』(ちくま新書)渡邊大門『光秀と信長 本能寺の変に黒幕はいたのか』(草思社文庫)渡邊大門『本能寺の変に謎はあるのか? 史料から読み解く、光秀・謀反の真相』(晶文社)

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    コロナ不況でも消費増税? お粗末すぎる日銀の「族委員」

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) 中村豊明、という名前をご存じだろうか。申し訳ないが、筆者も最近名前を存じ上げた次第である。中村氏は日立製作所取締役で、日本銀行政策委員会の審議委員候補として政府から国会に提示され、同意を得ることができるかどうか、現在は審議の真っ最中である。 日銀の政策は、最近の危機的な経済情勢において特に重要である。経済危機でなくても、日本の経済政策の根幹を担う重要な組織であり、政策委員会の審議委員は政策のかじ取りを任されている最重要ポストである。 だが日本では、この「最重要ポスト」に対する認識がお粗末に過ぎる。「産業枠」「女性枠」「銀行枠」などと、人物の主張や業績に関係せず、意味のない「枠」を設け、カテゴリーに沿った人材を充てているだけだ。「女性枠」なんて女性蔑視でしかなく、恥ずかしい限りである。 日本の経済政策に対するお粗末なレベルを、まさに審議委員の「枠」がはっきり示している。もちろん例外もある。主張や業績で選ばれている「リフレ派枠」のことだ。 現在は「リフレ派枠」に3人いるが、これまた意味不明な「定数」扱いされている。リフレ派とは、インフレ目標にコミット(関与)することでデフレを脱却し、日本経済の長期停滞から再生を目指す政策集団のことである。 ただし、リフレ派は特別な集団ではない。欧米では普通に存在する経済学者たちのことだが、日本のように経済政策への理解が乏しい国家では今も例外扱いされ、ひどいときは異端視されている。 もちろん、インフレ目標の達成を目指し、金融緩和を継続させているのは、アベノミクス「三本の矢」の一つでもあるし、日銀の現在の運営方針でもある。だが、そのリフレ派も少数勢力でしかないのが、現在の日銀政策委員会の不幸な実態を示している。本来なら、普通の経済政策観を持つリフレ派の人たちの意見が中心であるべきだと思う。2020年2月19日、日銀本店で開かれた金融政策決定会合 どうでもいい組織なら、リフレ派が少数でももちろんかまわない。だが、先にも述べたように、日本の経済政策を政府とともに進める両輪の一つがこの体たらくでは、どうしようもない。それだけ、上述のような「枠」選抜は大きな問題を抱えている。ふさわしくない「過去の発言」 結論を言えば、審議委員に中村氏を充てる人事は、過去の経済政策に関する発言に加え、意味の乏しい「枠」選抜という点の二つにおいて、妥当ではないと思う。 これは個人攻撃でもなんでもない。国会同意人事とは、国の重要な役職に就くことの当否を、民主主義のルールにのっとって決めているからだ。 過去にも日銀の国会同意人事で、その役職に妥当ではないとして否決された人たちもいる。2012年の民主党政権では、エコノミストの河野龍太郎氏を人事案として提示されたが、追加緩和などに消極的だとして参院で否決された。後にリフレ政策が日銀で採用され、日本経済が「長期停滞の沼」から一応はい出ることに成功したことを考えれば、この人事案の否決の持つ意味は大きかった。 産業界において、中村氏はすばらしい貢献をしたと思われる。その点について異論はないが、本稿で評価したい点でもない。 問題は、今の日本経済の行方を考えた上で、審議委員就任にはなはだしく疑問だからだ。簡潔に言って、人事案が否決されることを希望したい。 その理由は、中村氏が国会で述べた過去の発言にある。2012年8月、中村氏は日本経済団体連合会(経団連)を代表し、参院の社会保障・税一体改革特別委員会の中央公聴会に、公述人として出席した。当時、日立の副社長だった中村氏は、経団連の税制委員会企画部会長でもあった。 国会での発言は、民主党政権が決めた「社会保障と税の一体改革」という名の消費増税路線を、積極的に推し進める内容だった。つまり、現在の日本の経済的困難を、新型コロナウイルス(COVID-19)とともに生み出した元凶の、消費増税を主張した人物である。 日銀の岩田規久男前副総裁の著書『日銀日記』(筑摩書房)にも明らかだが、インフレ目標達成を妨害した最大の要因は、2014年の消費税率の8%引き上げであった。日銀の金融政策の実行を妨害した、その主要因を唱えた人物が中村氏ということになる。2014年4月、奈良市内のスーパーで貼られた、8%の消費増税に伴い本体価格と税込価格の併記を知らせるポスター 本来であれば、日銀の政策目的と相反する人選になるはずだ。それでも「産業枠」で起用しようとするのだから、具体的な選抜方法が分かるわけもないが、推測するに財界からの要望であろう。財界と財務省が国民をないがしろ 日本の財界は、日本の顧客である国民をないがしろにしていることで有名である。おそらく、自分たちの社会的・経済的な地位に大きく依存してしまって、端的に言えば、国民の苦境にも想像力が一切欠けてしまっているのだろう。 要するに、彼らは国民によって、今の会社が回っていることを忘却している。そのため、現在の経済危機であっても、財界首脳部は消費減税をできるだけ避け、「赤字国債」の発行を控えて、緊縮政策を採ろうとしているのである。 この経済危機下での緊縮主義の表明は、国際的な経済政策の水準から見れば、もちろん異常なものだ。だが、財界と財務省という閉鎖された世界に住み、人々の生活に疎い人たちには異常ではなく、「正常」に思えるらしい。真に恐ろしいことであり、このままでは財界と財務省だけ栄えて、国民が滅びかねない。 今回の「中村人事案」は、そのような緊縮主義に対する貢献を考慮され、提示されたのかもしれない。いずれにせよ、過去の中村氏の消費増税を推し進めた発言は、現在の日本経済が置かれた危機的な状況にふさわしいものではない。ともかく、現在の日本経済には、消費減税をはじめとする、政府と日銀による積極的で反緊縮的な経済政策が望まれる。 世界経済、日本経済の状況は日に日に悪化している。いまだ推測の域を出ないが、悪化レベルはリーマン・ショック級か、それ以上の観測も提起されている。 私見では、日本だけでも最低12兆円規模の経済政策が必要だ。ただし、この数字はあくまで現状の認識であり、明日にでも大きく増額する可能性もある。それほど悪化の度合いとスピードについて、不確実性が大きいのだ。 場合によっては、20兆から30兆、それ以上の経済対策が求められるわけで、まさに「危機の時代」を迎えている。危機の時代には、ふさわしい人材が登用されるべきであって、危機をさらに悪化させ、国民の生命と生活をリスクにさらすような消費増税的緊縮主義の発想を抱く人材を日銀に送るべきではない。2014年10月、決算会見に出席する日立製作所の中村豊明副社長(当時)。2020年6月末に任期満了を迎える日銀審議委員の後任候補として国会に提示された だからこそ「中村人事案」は真っ先に否決される必要がある。同時に、今こそ意味の乏しい「産業枠」「銀行枠」「女性枠」という存在を政策委員会から放棄すべきではないだろうか。

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    編集委員が見せた朝日の「上から目線」は1枚の写真でハッキリします

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) 朝日新聞の関係者たちによる発言や記事のひどさが目立つ。特に3月13日、朝日新聞の小滝ちひろ編集委員が、ツイッターの個人アカウントで「(略)戦争でもないのに超大国の大統領が恐れ慄(おのの)く。新型コロナはある意味で、痛快な存在かもしれない」と投稿した問題は最たるものといえる。 小滝氏は朝日のソーシャルメディア記者として、ツイッターから発信を続けていた。朝日のガイドラインによれば、「ソーシャルメディア記者は、ソーシャルメディア上の『朝日新聞社の顔』」である。 朝日新聞の顔である人物が非倫理的な発言をしたのは、どう考えても不謹慎というより、まずいと言わざるを得ない。しかも、社会的な批判を浴びて、説明や謝罪もなく、発言もろともアカウントを削除して「逃亡」した。 会員制交流サイト(SNS)ではよくある話だが、さすがに「朝日新聞の顔」がこんな対応では困る。朝日新聞社は一連の事態を謝罪し、小滝氏のソーシャルメディア記者の資格を取り消した。 新聞社に属する記者たちがSNS上で発言することは、一般的には好ましく捉えられるだろう。多様な発言そのものに価値があると考えられるからだ。 また新聞社の「顔」なのだから、どのような問題にどのような責任をもって発言しているのかも理解している。朝日新聞のSNS「公認記者」(ソーシャルメディア記者と同じだと思われる)がどれくらい存在するかは、朝日新聞デジタルの「記者ページの紹介」を見ていただきたい。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) 今、このソーシャルメディア記者の一人、藤(とう)えりか氏のアカウントに「個人攻撃」が加えられている。政治学者の三浦瑠麗氏がその攻撃を「適切に批判することと他人を含め攻撃することは全く別物」だと批判していた。内部批判「炎上」のワケ 人としての尊厳を傷つけるような批判や誹謗(ひぼう)中傷は言語道断である。それに藤氏の発言をさかのぼると、小滝氏の行動や自社対応(編集委員登用のあり方)を批判していた。 藤氏のツイートは、いわば内部批判であった。それなのに、なぜ炎上してしまったのか、さすがに筆者も理解できない。 ただ、昨今の朝日新聞の新型コロナウイルス問題についての報道に、不信と強い批判の思いを抱く人も多いだろう。「朝日新聞社の顔」であることが、ソーシャルメディア記者の性格であるならば、やはり組織を代表しての存在になってしまうのはやむを得ない。 言い換えれば、朝日新聞社が公認記者たちのリスク管理を十分にしていないのだ。組織としては、個人記者に社会からの批判を丸投げして逃げてしまっていると表現されても仕方がないだろう。 そういう無責任な組織の体質にまで踏み込んで、藤氏が自社批判をするならば喝采したい。しかし、藤氏が関わる朝日主宰の映画サロンに、さらなる議論をしたい人を招くツイートもなぜかしている。全く意味が分からない。 イスラム思想研究家の飯山陽氏のツイートが、問題の在りかを実に明瞭に指摘している。 朝日新聞の藤えりか記者は、同じく朝日新聞の「コロナは痛快」編集委員を批判するツイートをし、それについた一般人からのコメントにひどくご立腹であるが、同時に自らの主宰する朝日新聞のサロンを宣伝し、人々をそこへ誘導している。私から見れば、全部まとめて朝日新聞である。朝日新聞東京本社にたなびく同社の社旗(寺河内美奈撮影) 小滝氏の発言から感じるものは、自らの地位を他に優越したものとする目線の強さである。要するに、傲慢(ごうまん)な姿勢だ。「傲慢」感じた1枚の写真 朝日の記事を読むと気づくのだが、この姿勢は会社の組織自体が傲慢な社員の態度を育てているともいえないか。最近、それを感じたのは1枚の写真にある。 東日本大震災で被災し、14日に9年ぶりの全線再開を果たしたJR常磐線を報じた写真で、映像報道部の公式ツイッターでも紹介されている。そのツイートには、「写真は、大野駅(大熊町)近くの #帰還困難区域 を通る列車です」とつづられ、帰還困難区域による立ち入り禁止を示した立て看板と、保護柵の横を電車が通過する画像が載せられていた。 全線復帰を祝う地元の人たちの目線よりも、なんだか薄っぺらい反政府の姿勢だけが感じられただけである。実にうすら寒い。「反政府」も「反権力」も、ひたすら上から目線なのだ。そこには人々への共感はない。 この上から目線的な姿勢は、権威を有り難がる心理と表裏一体かもしれない。嘉悦大の高橋洋一教授の最新刊『高橋洋一、安倍政権を叱る!』(悟空出版)は、新型コロナウイルス問題や消費増税で減速する現在の日本経済を背景にした舌鋒(ぜっぽう)鋭い政策批判の書だ。高橋氏は本著で、朝日新聞がローレンス・サマーズ元米財務長官のインタビュー記事を掲載したことについて、朝日の権威主義的な側面に言及している。 高橋氏はサマーズ氏の発言を次のように整理する。 日銀を含めた統合政府で純債務残高を見れば、日本は財政危機とはいえない。昨年の消費増税によってデフレ懸念がある。現在はマイナス金利だから、財政拡大して5Gや医療・ITに投資したほうがよい。 高橋氏も指摘しているように、この意見は、特にサマーズ氏に語らせなくとも、一つの世界的標準でしかない。より具体的で詳細な「処方箋」についても、高橋氏はもちろん、われわれ「リフレ派」という政策集団なら常に唱えていることばかりだ。最後の不通区間だった浪江~富岡駅間の再開で、JR常磐線が全線開通。双葉駅に到着する車両を地元の人たちが出迎えた=2020年3月14日(佐藤徳昭撮影) だが、朝日は身近なインタビューよりも、どうも権威を有り難がっているようだ。だから、高橋氏の意見を朝日が同じサイズの紙面を割いて報じてみたら、どんなに面白いだろう、と思えてくるのである。

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    ワイドショー発コロナパニックで現実となる「破滅博士」の予言

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) 新型コロナウイルス(COVID-19)問題を中心に、マスコミの報道についての姿勢が問われている。中でも、今回は目に付く3点を批判的に紹介したい。 まずは、「日本の感染者数に関する過大報道」である。世界保健機関(WHO)など国際機関や著名な研究機関では、クルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」での感染者数は「国際輸送」あるいは「その他」で別枠として掲示されている。 そもそも、「ダイヤモンド・プリンセス」の感染者数の大半は、日本政府が介入する以前から感染しており、その意味でも日本の感染者数の中に換算することは、日本の感染実態を考える上で誤解を招くはずだ。だが、日本のマスコミの多くはなぜか「ダイヤモンド・プリンセス」の感染者数を組み入れて報道している。 一例では、TBS系の『サンデーモーニング』が、そのような「過大」な感染者数に基づく報道を繰り返している。直近の放送では、この「過大」な感染者数をベースにして、この1カ月の感染者数の増加を中国と比べ、その多寡を評価していた。異なる状況の2国を単純に比較するのも問題があるが、いずれにせよ、このような「過大」な感染者数はテレビを見る側を不安にさせる。 何より感染者数の総数「だけ」に注目するのは適切ではない。病状に応じて適切な医療サービスを提供できているか否かが、より重要だろう。社会的な防疫政策が上手に機能しているかどうかも重要である。その意味では、死亡者数(3月8日で6人)や重篤な患者の推移(低位推移)、回復者数(3月8日で80人と増加傾向)、新規感染者数の動向などを重視すべきだ。記者会見中に額を押さえるWHOのテドロス事務局長=2020年2月28日(ロイター=共同) あくまで現段階であるが、日本の感染症介入政策は「後手後手」という批判にもかかわらず、かなり健闘しているのではないだろうか。少なくとも、WHOは懸念すべき国に日本を含めていない。 「後手後手」批判の代表例とされる中国への「水際対策」にしても、日本は世界に先駆ける形で、武漢というホットゾーンからの入国制限を採っている。その意味で、日本の水際対策を全面否定するような動きには異論を唱えたい。 次に挙げたいのが、「検査や医療を過剰に要求する報道」だ。言うまでもなく、医療資源は有限である。設備や医療スタッフには各国とも限りがある。医療資源「制約」はどこへ行った この医療資源をいかに安定的に維持できるかが、今回の新型コロナウイルス問題でもクローズアップされている。だが、ワイドショーやニュース番組では、医療資源の制約を無視したような「医者」や「専門家」たちが多く出演している。 特に、新型コロナウイルスを高精度で検出するPCR検査の実施数が多ければ多いほどいい、という論調がワイドショーを支配している。この発想がいかに医療資源を浪費し、最悪、医療崩壊に至る危険性を秘めているかは、感染症専門医の忽那賢志氏による解説を参照されたい。 PCR検査は優れた検査法だが、万能ではない。偽陰性や偽陽性の問題が発生するからだ。忽那氏は一つの推論として、東京都民1千万人にPCR検査を受けさせた場合、1320人の真の感染者が見逃され(偽陰性)、その10倍の1万人の偽陽性が発生するとしている。 つまり、この1万人がただの風邪にもかかわらず、感染症指定医療機関に隔離されて治療されることになってしまう。ちなみに、平成29年医療施設調査によると、全国の感染症病床は1876床にしかすぎないことは、大正大の高原正之客員教授の指摘を参照すれば分かることだ。 つまり、どんどん検査すればいいわけではないことが、この簡単な例でも分かる。無制限な検査は、医療資源の制約を徐々に厳しくし、やがて医療崩壊につながる。具体的には、現場でさばききれないほど病院に殺到する武漢の人たちの映像などをイメージすればいい。 今の政府方針は、相談・受診の目安を(1)風邪の症状や37・5度以上の発熱が4日以上続く、(2)強いだるさや息苦しさがある、としている。これも、発表された当初はワイドショーなどで批判する向きが強かった。 しかし、これは大勢の患者が病院に殺到するのを避けるための基準であることは明瞭である。ちなみに、個人的な経験だが、最近持病があるために、かかりつけの大きめの病院に行ってみると、驚くほど閑散としていた。患者が病院に集中することによるリスクを、日本の人たちが合理的に判断した結果でもあるだろう。新型コロナウイルスの検査に使われる装置(岐阜県保健環境研究所提供) それでも、ワイドショーでは、いまだにPCR検査を受ければ受けるほどいい、という主張が根強く、日本の医療システムの直接的な脅威となっている。日本のマスコミがパニックを生み出すことに寄与するとしたら、看過できない。 ワイドショーの中には、政府があえて検査をしないかのような「陰謀論」を語るコメンテーターを好んで出演させているようだ。これも視聴者の不安な心理を煽っているのだろう。「政府vsマスコミ」 最後に「政府vsマスコミ」の問題を取り上げたい。新型コロナウイルス問題をめぐるワイドショーや新聞などの報道姿勢については、しばしばインターネットとの対比で語られていた。 個人的には、現在はテレビのワイドショーの大半とニュース番組は見ない方がいいかもしれないと思っている。ドラッグストアやスーパーからトイレットペーパーやティッシュペーパーが消えた映像や写真が大量に流されると、合理的な行動としても感情的な行動としても、人は大挙してトイレットペーパーなどを買いに走るだろう。このような群集心理を煽る効果がある。 さらに、最近では、政府とマスコミの間で報道をめぐる「論争」が生じている。厚生労働省が一部メディアに会員制交流サイト(SNS)上で行った反論だが、内容は次のようなものだ。 一部報道で「新型のコロナであるため、感染が新しいウイルスであり、私たちには基礎的な免疫がなく、普通のインフルエンザよりもかかりやすい。」との指摘がありました。新しいウイルスのため基礎免疫はありませんが、普通のインフルエンザよりかかりやすいということにはなりませんし、そのようなエビデンスはありません。また、3月3日に世界保健機関(WHO)は、新型コロナウイルスの特徴について、中国で得たデータを踏まえ、季節性インフルエンザと比べて感染力は高くないとの見解を示しています。 このような政府の公的言論としての姿勢は評価したい。まだ試行段階であるが、マスコミが事実と異なるニュースで社会的不安を煽るようであれば、当然の対処だといえる。 ワイドショーなどのテレビ報道、そして新聞報道の在り方がこれからも厳しく問われるだろう。それはいいことだ。 今まで、この「権力」はあまりにもデタラメでありすぎた。政府の公的言論を含めて、国民の討議の中で、その「権力」によるデタラメな報道が検証されるべきである。これは「言論弾圧」などとはまったく異なる。新型コロナウイルスに関して会見する加藤勝信厚労相と厚生労働省のロゴマーク=2020年2月20日(宮崎瑞穂撮影) 3月9日現在、新型コロナウイルスの欧米への感染拡大が、死亡者数と感染者数の増加、そのスピードを見ても深刻化している。それが世界経済の先行きに濃い暗雲をもたらしている。東京株もついに2万円台を大きく割ってしまった。 現状で利用できる代表的な経済予測を確認しておきたい。経済協力開発機構(OECD)の基本シナリオでは、2020年の世界経済は従来の成長率2・9%から2・4%に減速、さらに、ドミノシナリオでは1・5%にまで経済成長率が落ち込む。また、「破滅博士」の異名を持つ米ニューヨーク大のヌリエル・ルービニ教授の予測はドミノシナリオとほぼ同じレベルである。リセッション入りは確実 日本経済への影響だが、OECD基本シナリオの予測では、経済成長率が19年0・7%から20年0・2%と、従来予測(0・6%)から0・4ポイント減速する。ドミノシナリオでは、日本個別は不明だが、基本シナリオの3倍のインパクトと考えればマイナス0・6%ほどに落ち込む。 「破滅博士」は、日本とイタリアのリセッション(景気後退)まで予測している。このリセッション入りは確実だろう。 日本経済がドミノシナリオ通りに、マイナス成長に落ち込んだ場合、補正予算ベースで最低でも6兆円超は必要になる。これでも、それ以前の消費増税と景気後退効果は払拭(ふっしょく)できないのだ。 払拭するためには、さらなる財政政策と金融政策の協調が必要である。この点については前回も指摘したので参照されたい。 OECDでも「破滅博士」でも、基本シナリオ通りなら、20年第1四半期で新型コロナウイルスの経済的影響が終息することが必要である。第2四半期(2020年4~6月)、第3四半期(同7~9月)まで、北半球(日本では特に環太平洋地域)での世界総需要の動向がカギを握る。ここが落ち込むとその深度に応じて、ドミノシナリオが真実味を帯びてくるだろう。 仮に世界景気が思ったほど失速しなくても、日本が経済政策で「無策」を採用すれば、日本だけが深刻な不況に直面するだろう。内閣官房参与でイェール大の浜田宏一名誉教授は、最近の論文で「財政政策の機動性を十分に生かせ」と提言している。 既に中国、韓国など海外からの観光客の急減に加え、風評被害ともいえるコロナショックに見舞われている業態も出始めた。非正規雇用を中心に雇い止めの動きが加速する懸念も強い。2020年3月9日、2万円を割り込んだ日経平均株価の終値と1ドル=102円台の円相場を示すボード 経済評論家の上念司氏は、文化放送「おはよう寺ちゃん活動中」やツイッターで「予備費2700億円とかショボい事言ってるからだよ。あと、本予算通らないと補正予算議論できないなんて手続き論は市場では通用しないのさ」と発言したが、筆者も激しく賛同する。政府が早急に補正予算を打ち出すことが重要だ。日銀も緊急政策決定会合を開くべきだ。 ワイドショーの煽るパニックも恐ろしいが、政府と日銀の無策が生み出す経済不況も恐ろしいものだ。日本は今、この二つの脅威に直面している。

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    コロナショックと闘う「良薬」は消費減税だけと思うなかれ

    020年2月、リヤドでのG20閉幕後に記者会見する麻生財務相(左)と、日銀の黒田総裁(共同) 過去の連載でも既に提起したが、新型コロナウイルスの経済に与える影響を「2019年10月の消費増税」並みと考えれば、補正予算ベースで少なくとも6兆円、可能であれば10兆円が必要となる。政策委員「三つの提言」 手段としては消費減税がベストだ。新型コロナウイルスのショックが特に消費に顕著なのは自明だからだ。理想的には消費税率を5%に戻したいところだ。しかし、政治的対立が激しくなる可能性もある。 それを踏まえれば、嘉悦大の高橋洋一教授が日ごろから主張している軽減税率を全品目に適用する案もある。現状の軽減税率8%に合わせるか、5%にまで下げるのかは、政治的な議論があるだろう。 さらに、期限付きクーポン券の配布や、香港が実施したような国民に対する現金の一律支給や、所得減税や社会保険料の減免も考えられる。公共事業の増額も、もちろんありだ。 筆者や高橋氏は、マイナス金利での貸出制度を提唱してもいる。手数料を入れてゼロ金利にするかは、設計次第になろう。 金融政策の方はどうだろうか。日銀の片岡剛士政策委員は最近の講演の中で、三つの政策提言をしている。 まず、「政府と日銀の政策協調の必要性」は、前回の論考で解説した若田部副総裁の講演と整合的な提言だ。簡単に言えば、政府が景気対策に使うお金は日銀が何の心配もなく出しますよ、ということだ。この提言をもとに、政府と日銀は一刻も早く世界に宣言すべきだ。 次いで「金融政策の方の具体的な緩和案」では、短期金利の深掘りが考えられる。これは政府が新規の長期国債を発行し、それを日銀が吸収するという最初の提言を実施した上で、マイナス金利の深掘りをすれば有効になる。具体的にはマイナス0・3%はどうだろうか。2020年10月1日、消費税増税に伴い、二つの価格を表す牛丼店の領収書。店内飲食には10%(右)、持ち帰り商品には8%の軽減税率が適用されている=東京都港区 最後の「日銀の示す将来的な物価見通し」だが、政策金利の指針「フォワードガイダンス」の目標値に対して、実績値が乖離(かいり)すれば、それに応じて緩和姿勢を強調する。いわゆるコミットメントの強化も必要だ。さらに、上場投資信託(ETF)の年間買い入れ額を6兆円から7兆円に拡大することで、マーケットに一種のサプライズを与えるだろう。 上述のように、やるべき政策手段が無数にあることは明らかだ。問題は、世界経済が危機的な様相に転じた中で、いかに財政と金融が協調できるかどうか、その一点に日本経済の浮沈がかかっている。

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    「本能寺の変」明智光秀の目的は信長の非道阻止だったのか

    とはいえ、大河ドラマはあくまでフィクションである。史実を忠実に再現したものではない。 たとえば、この連載でこれまでにも指摘したが、明智光秀が土岐明智氏の末裔(まつえい)であるという確固たる証拠はない。証拠として残っているのは、系図などの二次史料(系図、軍記物語など後世に編纂された史料)に過ぎない。また、前回の連載でも指摘したように、光秀が越前や近江にいたという確証もない。この点には、注意をすべきであろう。 ところで、「本能寺の変」の要因に関しては、かつて「朝廷黒幕説」「足利義昭黒幕説」などが提唱された。熱狂的に支持された時期もあったが、今ではいずれも誤りであるとされている。それらの説は、史料の誤読や曲解などに基づいているからだ。もはや消え去ったと言ってもよいだろう。 近年では「朝廷黒幕説」と他の諸説をミックスしたような説として、「信長非道阻止説」がある。 この説を簡単に言えば、信長が朝廷などに対して非道なことを行うので、光秀は自らそれを阻止しようと立ち上がったという説である。それを端的に表現すれば、「信長の悪政・横暴を阻止しようとした」ということである。別に黒幕はいないが、光秀が自主的に謀叛を起こしたということになろう。 従来説と異なるのは、光秀には信長に対する個人的な恨みがなかったとする点である。したがって、怨恨説、不安説、野望説などとは一線を画する。従来とは、完全に視点が異なった見解である。 この説のポイントは、次の五つの点に集約されている。 ①正親町(おおぎまち)天皇への譲位強要、皇位簒奪(さんだつ)計画 ②京暦(宣明暦)への口出し ③平姓将軍への任官 ④現職太政大臣の近衛前久への暴言 ⑤正親町天皇から国師号をもらった快川紹喜を焼き殺したこと はたして、信長非道阻止説とは妥当性のある説なのだろうか。現在の本能寺。信長時代とは場所が異なる ①②はすでにこの連載でも検討したところであるが、改めて確認しておこう。正親町天皇の譲位については、信長から強要されたのではなく、提案されたといってよいだろう。しかも、正親町天皇は信長の提案に大喜びし、早速、準備を進めようとしたのである。結果として譲位は実現しなかったが、信長から強要されたものでないことは明らかである。重ねた論理の飛躍 当時、天皇は早々に子に譲位して、上皇になるのが当たり前だった。戦国時代の3人の天皇(後土御門、後柏原、後奈良)は、現役の天皇のまま亡くなった。当時の公家日記などを読むと、それがあまりに気の毒であると記されている。正親町天皇は信長から譲位を勧められ、逆に大いに感激したのである。 そうなると、①の説は成り立たない。 皇位簒奪計画についても同様で、正親町天皇への譲位の強要や信長の神格化の延長線上にある説である。正親町天皇への譲位の強要や信長の神格化には否定的な見解が多く、ましてやたしかな史料で信長による皇位簒奪計画を確認することはできない。したがって、現在では支持されていない。 この説の解説によると、信長は正親町天皇から子の誠仁親王に譲位させようとした。そして、信長は新天皇になった誠仁から「准三宮」の待遇を受け、さらに誠仁には子の五宮に譲位をさせるというプロセスである。 五宮は、信長の猶子(ゆうし)だった。五宮が天皇になると、義父である信長は「治天の君」になるというのである。これにより、間接的ながらも、信長の皇位簒奪計画が完成する。それが、信長の目論見だったという。 しかし、信長の皇位簒奪計画を明確に記した史料はない。五宮が信長の猶子だったという事実から、皇位簒奪の意図があったと、論理の飛躍を重ねただけに過ぎない。このように、明確な根拠がないのに、憶測だけで決めつけるのはいかがなものか。 そもそも信長は天皇家の一族でも何でもないので、仮に正親町天皇から皇位を奪取したところで、治天の君たる上皇になれるのか疑問である。他の研究者も信長の特殊性をことさら強調するため皇位簒奪計画を主張していたが、それは誤りである。 したがって、やはり①の説は成り立たない。 京暦(宣明暦)への口出し(尾張で使われていた暦への変更)については、かつて信長が天皇家から「時の支配者」たる権利を奪おうとしたと言われてきた。これもまた事実ならば、正親町天皇を窮地に追い込むようなことである。 この説は京暦(宣明暦)が日食を予測できなかったためであり、信長は尾張の暦を採用することで日食を正しく予測し、正親町天皇を不吉な日食の光から守ろうとしただけと考えられた。つまり、信長は天皇家から「時の支配者」たる権利を奪おうとしたわけではなかったのである。明智光秀像(本徳寺所蔵) しかし、その後の研究によって、京暦(宣明暦)が日食を正しく予測したと指摘され、話は振り出しに戻った。暦の問題は当時の戦国大名が領内の暦を統一した経緯を踏まえ、ことさら信長が天皇家から「時の支配者」たる権利を奪うことに結び付ける必要はないと指摘されている。そもそも信長は朝廷への奉仕に力を入れていたのだから、そう考えるのが妥当だろう。 よって、②についても成り立たない。①および②については、信長の非道でないことが明らかである。根拠のない憶測 ③については、朝廷は信長に征夷大将軍を与える意向だったかもしれないが、これも将軍の足利義昭のことを考えると、決して容易ではなかった。いったん義昭の職を解く必要があるからである。 また、この説の主張では信長が、歴史的に前例がない平姓の将軍に就任することが許せなかったという。その根拠として、光秀は美濃源氏の土岐氏の一族である明智の一族だったからだと指摘する。源氏である光秀は平姓の将軍の出現が歴史の秩序を乱すと考え、信長に謀反を起こしたというのである。 すでに触れた通り、光秀が美濃源氏の土岐氏の一族である明智の一族であったことは確証がない。また、平姓の信長が将軍になることについては、朝廷が三職(関白、太政大臣、征夷大将軍)のうちのいずれかを提案しているのだから、特に障害がなかったことが指摘されている。 その背景には、源平交代説なるものがあった。これは、支配者が平清盛(平氏)→源頼朝(源氏)→北条氏(平氏)→足利尊氏(源氏)と交代し、源氏と平氏が交代で政権を担ったので、生じた説と言われている。しかし、戦国時代に源平交代説が広まっていたのかは、疑問視されている。 ましてや光秀が平姓の将軍の出現が歴史の秩序を乱すと考えたというのは、根拠のない憶測に過ぎない。繰り返しになるが、もし源氏だった光秀が平姓の征夷大将軍を阻止しようとしたというならば、光秀が土岐明智氏だった事実を確固たる史料で論証する必要があるだろう。 ゆえに③もまた成り立たないといえる。 ④については、信長が天正10(1582)年3月に武田氏が滅亡した後の論功行賞後の逸話である。信長が帰還する際、当時、太政大臣だった近衛前久が馬を降りて「私も駿河からまわってよいでしょうか」と尋ねたところ、信長は馬上から「近衛、お前なんかは木曽路を上ったらよい」と言い放ったというのである。 いかに信長が権力者とはいえ、太政大臣に対する言葉としてはあまりの暴言である。光秀は、それを許せなかったということになろう。これが信長による前久への暴言で、出典は武田氏の戦略・戦術などを記した軍学書『甲陽軍鑑』である。大津市の坂本城跡にある明智光秀像=2007年9月、滋賀県大津市(安元雄太撮影) かつて、『甲陽軍鑑』の史料性は疑問視されてきたが、最近では史料性を高く評価する向きもある。しかし、信長の暴言は他の史料には書かれておらず、あまりに荒唐無稽である。いかに『甲陽軍鑑』の価値が高まったとはいえ、あくまで史料の吟味が必要であり、この件はとても史実として認めがたいところである。 よって、④についても成り立たないといえる。 ⑤は、天正10年4月3日に織田信忠の軍勢が恵林寺(山梨県塩山市)を焼き払い、高僧の快川紹喜が焼死したことである。このとき快川紹喜は、「安禅不必須山水 心頭滅却火自涼」(安禅必ずしも山水を須=もち=ひず 心頭滅却せば火も自づと涼し)の辞世を詠んだという。『武家事紀』には偽文書も 快川紹喜は、正親町天皇から大通智勝国師なる国師号を授けられていた。しかも、快川紹喜は美濃土岐氏の出身と言われ、光秀と同族だったと指摘し、光秀は内心穏やかではなかったのではないかという。しかし、快川紹喜は美濃出身であったと言われているが、その出自については諸説ある。 とはいえ、その点にも明確な根拠が提示されておらず、光秀が土岐氏の庶流・明智氏だったことは、先述の通り確証を得ない。したがって、土岐氏の一族たる快川紹喜が焼き殺されたことに怒りを感じたというのは、検討の余地があるといえよう。 したがって、⑤も成り立たないと考える。 ところで、光秀が天正10年6月2日に美濃野口城(岐阜県大垣市)の西尾光教に対して、書状を送っている(『武家事紀』所収文書)。本能寺の変の直後である。その書状の冒頭には、「信長父子の悪虐は天下の妨げ、討ち果たし候」と書かれている。つまり、信長、信忠父子は悪虐で天下の妨げなので、光秀が討ったというのである。これも、「信長非道阻止説」の一つの根拠になっている。 「信長非道阻止説」の説の主張では、「信長父子の悪虐」とは、先述した①正親町天皇への譲位強要、皇位簒奪計画、⑤正親町天皇から国師号をもらった快川紹喜を焼き殺したこと、を意味していると解釈する。文面には「信長父子の悪虐」が明確に書かれていないので、やはり単なる憶測であろう。 とはいえ、この光秀の書状は原本がなく、写しが残っているに過ぎない。冒頭の「信長父子の悪虐」という文言のうち、「悪虐」という言葉は当時見ることができない。『武家事紀』所収文書には偽文書と思しき文書をも収録されているので、これも偽文書ではないかと考えられる。 以上の通り、「信長非道阻止説」は、すでに誤りと指摘されていることが根拠となっているか、根拠史料の性質が悪いか、または根拠のない憶測が多いので、成り立ち難いといえるだろう。本能寺跡を示す石碑=京都市中京区(恵守乾撮影) そもそも光秀が義憤に駆られて、信長を討ったところで、その先には何があったのだろうか? 世直しや鬼退治をしたあと、光秀には何か将来的な展望や構想があったのだろうか? 光秀には何もメリットがなさそうなので、到底受け入れることはできない。※主要参考文献渡邊大門『明智光秀と本能寺の変』(ちくま新書)渡邊大門『光秀と信長 本能寺の変に黒幕はいたのか』(草思社文庫)渡邊大門『本能寺の変に謎はあるのか? 史料から読み解く、光秀・謀反の真相』(晶文社)

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    五輪マラソン最後の1枠最有力、大迫傑が見せた「賢者の選択」

    酒井政人(スポーツライター) マラソンの東京五輪代表争いがクライマックスを迎えようとしている。男子はマラソングランドチャンピオンシップ(MGC)で2位以内に入った中村匠吾(富士通)と服部勇馬(トヨタ自動車)の代表が内定。3位の大迫傑(すぐる、ナイキ)はMGCファイナルチャレンジで日本陸連の設定記録を突破する選手がいなければ代表内定となる。 大迫は自ら五輪チケットを奪いに行くべきか。それとも、果報を待つべきか。日本記録保持者の動向が注目されていた。 そのような中で、大迫は3月1日の東京マラソンにエントリーした。最後の1枠は「東京決着」の予感が漂ってきた。 MGCファイナルチャレンジで日本陸連が定めた設定記録は大迫が保持する日本記録を1秒上回る2時間5分49秒。冷静に考えると、この記録を上回るのは簡単ではない。日本陸連の瀬古利彦マラソン強化戦略プロジェクトリーダーは「私が大迫の立場なら出ない」と話すほどだ。 男子のMGCファイナルチャレンジは、昨年12月の福岡国際、3月1日の東京、同8日のびわ湖毎日の3レースが指定されている。福岡国際は、日本人トップ(2位)の藤本拓(トヨタ自動車)のタイムが2時間9分36秒で、条件を満たすことができなかった。びわ湖は、大会記録が2時間6分13秒で、前回の優勝タイムが2時間7分53秒。設定記録に届く可能性は極めて低い。 チャンスがあるとすれば、高速コースの東京しかない。大会記録は2時間3分58秒で、3年連続して設定記録を上回るランナーが出現。2年前の大会では設楽悠太(ホンダ)が2時間6分11秒の日本記録(当時)、井上大仁(ひろと、MHPS)も2時間6分54秒をマークしている。MGC男子、スタートする(左列手前から)大迫傑、設楽悠太ら=2019年9月(川口良介撮影) 大迫が東京に参戦するのは「賢者の選択」といえるだろう。まずはメンタル面。自分が出場しないレースで誰かが設定記録をクリアした場合、後悔することになるが、同一レースを走って負けたとなれば、納得の結果となる。まだある大迫のアドバンテージ そして、「MGC3位」というアドバンテージを生かしてレースを進めることができるのもメリットだ。設定記録に届くか微妙な状況でも、自らレースを引っ張る必要は全くない。 日本人トップ選手の背後について、悠々とレースを進めることができるのだ。当日の気象状況などを見て好タイムが望めないと判断すれば、「欠場」という選択肢をチョイスすることもできる。 また、大迫のマラソンキャリアを振り返ると、17年4月のボストン(3位/2時間10分28秒)と12月の福岡国際(3位/2時間07分19秒)、18年9月のシカゴ(3位/2時間5分50秒)と19年3月の東京(途中棄権)と、1シーズンに2回のマラソンに出場してきた。今季は9月のMGC(3位/2時間11分41秒)を走っている。2時間17分30秒(6位)だった12月のホノルルは、本人がコメントしているようにトレーニングの一環だったこともあり、東京出場によりシーズン2回のリズムを継続した方が絶対にいい。 マラソンは間隔が空きすぎると、レース感覚が鈍ってくる。本番を見据える意味でも、東京もしくは3~4月のマラソンを走り、8月の東京五輪というスケジュールがベストの流れになるだろう。 東京マラソンは3年前にコースが一部リニューアルして、高速コースとなった。前回は中間点を1時間2分2秒、30キロを1時間28分16秒で通過し、優勝タイムは2時間4分48秒だった。冷雨の厳しい条件で日本人トップだった堀尾謙介(中大、現トヨタ自動車)は2時間10分21秒に終わったが、気象条件に恵まれれば、2時間5分49秒の設定記録をめぐる戦いは面白くなる。 今回の東京マラソンは東京五輪だけでなく、日本新記録で実業団マラソン強化プロジェクト「Project EXCEED」の報奨金1億円もゲットできる。2本のニンジンがぶら下がっている状況だけに、ラストでは「未知なるパワー」が絞り出される可能性もある。東京マラソンの出場者会見で、マラソンの日本記録更新に意欲を示す設楽悠太=2020年1月28日 東京マラソンには前日本記録保持者の設楽、18年アジア大会・金メダルの井上が出場予定。設楽はMGCで果敢な飛び出しを見せており、東京では日本記録の奪還を目指している。「厚底」勢が大爆発? 井上はMGCで完走した27人中最下位に沈んだが、世界のマラソンを席巻しているナイキの厚底シューズにチェンジ。ニューイヤー駅伝(全日本実業団対抗駅伝)では最長の4区で17人抜きを演じると、設楽が保持していた区間記録を22秒も塗り替えた。ともに条件さえ整えば、ビッグチャンスを狙える位置にいる。 他にも、昨年の東京で22・5キロ付近までトップ集団に食らいついた佐藤悠基(日清食品グループ)、昨年9月のベルリンで2時間8分56秒の自己ベストをマークした村山謙太(旭化成)らが高速レースにチャレンジすると予想する。 なお、大迫、設楽、井上、佐藤、村山の5人はナイキ厚底シューズの愛用者だ。同シューズはニューイヤー駅伝で8人、箱根駅伝で12人に区間新をもたらしている。東京マラソンでは厚底シューズの新モデルが「登場」予定で、その威力が大爆発するかもしれない。 少し悩ましいのが東京マラソンのペース設定だ。今回は世界歴代3位の2時間2分48秒を持つ前回覇者のビルハヌ・レゲセ(エチオピア)を筆頭に、2時間3分台が2人、同4分台が5人と、国内レースでは「史上最強」ともいえる海外勢が揃う。大会側は男子のペースメーカーを2パターン準備する予定で、ファーストは「2時間2分台」、セカンドは「2時間4分40秒~5分30秒くらい」のフィニッシュタイムをイメージしているという。 ただし、外国人ランナーがペースメーカーを務める場合、予定通りに進まないことは珍しくない。設定記録突破を目指すには、どこで走るのかという「選択」もポイントになる。ニューイヤー駅伝、4区で力走するMHPSの井上=群馬県太田市(代表撮影) 大迫がシカゴマラソンで日本記録を打ち立てたときは、中間点を1時間3分04秒で通過して、25キロ以降にペースアップしている。終盤がフラットコースの東京マラソンでは、うまく高速レースに乗り、30キロまでに「貯金」を作る戦略が有効になる。 ラストは「東京五輪」と「1億円」という二つのモチベーションがランナーたちのポテンシャルを極限まで引き出すだろう。「2時間5分49秒」以内を突破する選手は現れるのか。東京五輪を目指す日本人ランナーたちの激戦に刮目(かつもく)したい。

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    コロナショック直撃、救えるのは日銀の「非公式見解」しかない

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) 新型コロナウイルス(COVID-19)感染の影響が、経済的にも社会的にも拡大し始めている。経済的な影響は、昨年からの経済動向を分析すると、3段階の局面が重要になっている。 一つ目は、日本経済が米中貿易戦争などの影響で2018年秋から減速傾向を見せ始め、19年には明らかに景気下降局面入りになった。このタイミングで、10月に消費税率10%引き上げが政治的な思惑を優先する形で導入された。 二つ目は、消費増税が政府の対応策をほぼ無効化し、消費や設備投資、輸入など日本の購買力を直撃し、その影響が現段階まで持続している。その状況で今回、新型コロナウイルスによる経済的な影響が国内外で発生している。 三つ目の局面は今後の状況にかかっている。それは、「景気下降局面」プラス「消費増税」プラス「新型コロナウイルス」の「三重苦」がいったいいつまで持続するかだ。 この三重苦の中で、比較的短期に終息しそうと思われているのが、新型コロナウイルスの経済的ショックだろう。ここでは、中国、日本、そして世界における本格的感染の終息宣言が、世界保健機関(WHO)や各国政府などから早期に出されるケースを想定している。その場合でも、本格的な感染がいつ終わるかによって、日本経済には深刻なダメージが待ち受けている。 もちろん、それは今夏の東京五輪・パラリンピックの開催をめぐるものだ。中でも、嘉悦大の高橋洋一教授は最も悲観的な予測を提示している。 高橋氏によれば、国際オリンピック委員会(IOC)が開催するか否かの判断時期を5月中に設定する場合、WHOの終息宣言は少なくとも5月下旬がリミットになるが、それまでに本当に終息するかどうか微妙だ、という。もし、東京で開催しないと決定されれば、その経済的影響は計り知れないというものだ。下げ幅が一時1000円を超えて急落した日経平均株価を示すモニター=2020年2月25日午前、東京・八重洲 ただ、高橋氏の「悲観シナリオ」はあくまで一定の前提の上での話であることに注意が必要だろう。WHOや各国政府の終息宣言がいつ出されるか、まだ全く不確定な話でしかないからだ。 五輪やサッカーのワールドカップといったスポーツのビッグイベントの経済効果を、よく言われるようにインバウンド(外国人観光客)消費の増加や公共事業による経済浮揚効果に限定するのは、正しくはない。ビッグイベントに伴うインフラ整備は、開催までにそのほとんどの「経済効果」を使い切っている。あとは、その既存設備がどのように活用され、社会資本として機能していくかだけになる。「三重苦」への経済対策は インバウンド消費も直接面だけを見るのは妥当ではない。五輪などの一時的な観光客増を嫌って、人々が他国や地域に観光に出掛けるかもしれないし、違う形態の消費におカネを使うかもしれない。つまり、混雑効果を考慮しなくてはいけなくなる。 ある実証研究では、五輪の経済効果は、開催国の国際的な信頼性を上昇させることで輸出が増加する効果として現れるという。他方で、五輪などのビッグイベント自体の経済効果よりも、金融政策などのコントロールがうまくいっている方が重要だ、という実証もある。 仮に、高橋氏の悲観シナリオが不幸にして成立してしまえば、日本の「国際的信頼」は毀損(きそん)され、輸出にも影響を及ぼすかもしれない。他方で、増加が見込まれるインバウンド消費や五輪を当て込んだ国内消費や投資などは大幅に失われる。 今回の新型コロナウイルス問題以前に提起されていた東京五輪による経済効果の各種推計を読み解くと、既に2020年は各種インフラ整備への支出はほぼ終わっているため、キャンセル効果は大きくない。インバウンド消費が3~4兆円、国内消費も1兆円程度が失われる。 ただ、本当に「失われる」かどうかは分からない。先ほど簡単に例示したが、五輪の混雑を忌避する観光客の消費増が国内外から発生するかもしれない。もっとも、これも新型コロナウイルスの風評被害がゼロであるという前提に立っている。 新型コロナウイルスの感染拡大が収まらないことで、五輪が中止になれば、日本の「国際的な信頼」が毀損されるだろう。「観光立国」というブランド(があるとして)も大きく低下するかもしれない。 いずれにせよ、上述の悲観シナリオの当否は取りあえず別にしても、「景気下降局面」プラス「消費増税」プラス「新型コロナウイルス」の「三重苦」に対応する経済政策が必要になる。現在の国会で審議されている補正予算だけでは不十分だ。都庁で行われた記者会見で新型肺炎の東京五輪に対する影響について説明する東京都の小池百合子知事=2020年1月31日 では、どのくらいの規模が必要だろうか。現在、審議中の補正予算案は4兆3千億円程度でしかない。これではおそらく「三重苦」の「景気下降局面」プラス「消費増税」、二つの悪影響の、それも3分の2程度しか打ち消すことができないだろう。 やや粗い計算になるが、公表されている日本銀行の需給ギャップ(国内総生産=GDP=ギャップ)推計を利用してみよう。 日本経済の潜在GDP(資本や労働が完全利用されている水準のGDP)と約530兆円ある現実のGDPとの開きは、2019年の第3四半期でプラス1・02%と3四半期連続で悪化していた。この状況に「消費増税ショック」がのしかかるが、14年の増税並みと仮定すると、日銀推計のGDPギャップはおそらくマイナス域に限りなく接近するか、場合によっては小幅マイナスになるだろう。消費増税ショック再び? 「マイナスといっても、小幅だからいいじゃないか」という話ではない。次期日銀審議委員に決まったエコノミストの安達誠司氏が以前指摘していたが、日本経済がデフレ脱却に最も近づいたころが2018年秋ぐらいまでだ。その時期の日銀推計のGDPギャップは2%超だったが、この水準(以上)を目指さなくてはいけないからだ。 仮に、新型コロナウイルスの経済的影響を14年の消費増税ショック並みと見れば、上述の「三重苦」でGDPギャップは最悪マイナス1%近くまで落ち込む。要するに、消費増税が半年足らずの間に2度やってくるようなものだ。 これを打ち消すには、現状の19年補正予算4兆3千億円に加え、6兆円以上の新たな補正予算が必要になるだろう。さらに2018年秋レベルのデフレ脱却可能な水準にまで引き上げるには、さらに6兆円以上の補正予算が求められる。新型コロナウイルスの影響次第だが、補正予算ベースで総額16兆円規模になる。 これらは粗い計算ではあるが、一つの目安ぐらいにはなるだろう。「デフレ脱却を後回しにして、取りあえず経済を『三重苦』から脱却させろ」というせっかちな(愚かな?)要求ならば、10兆円程度になる。新たな補正予算には6兆円超が確実に必要というわけだ。 日銀の政策委員会にはいわゆるリフレ派が3人いる。現状では、若田部昌澄(まさずみ)副総裁と片岡剛士審議委員、そして原田泰審議委員だ。原田氏に代わり、3月26日からは安達氏が委員に就任する。 政策委では、金融政策決定会合で反対票を投じる片岡氏と原田氏がしばしば注目される。しかし、両氏以上に重要なのが、若田部氏の「隠れたメッセージ」を解読することだ。 総裁、副総裁2人から成る執行部は意思統一を強く求められるため、日銀の「公式見解」とずれる内容をなかなか言いにくい。だが実は、若田部氏は読む人がしっかりと読めばわかる大胆な提案を、講演や記者会見で発言している。青森市で記者会見する日銀の若田部昌澄副総裁=2020年6月 最近の講演では、やはり彼が政府と日銀の協調を提起しているところがツボである。黒田総裁なら、しなびたミカンの皮程度のことしか言わないものだ。 日本銀行が大規模金融緩和を継続するもとで、経済情勢に対応して機動的に財政政策が運営されることは、金融緩和と財政刺激の相乗作用を高め、景気刺激効果をより強力なものにすると考えています。一般に、政府が国債増発を通じて政府支出を増加させると、長めの市場金利に上昇圧力が加わり、これが次第に民間投資などを抑制するメカニズムが働きます。これに対して、政府支出が拡大するもとでも、中央銀行が市場金利の上昇を抑制すれば、民間投資などへのマイナスの影響は限られ、景気刺激効果の強まりが期待できるということです。若田部昌澄「最近の金融経済情勢と金融政策運営」2020.02.05 若田部氏のメッセージを実行する、このことが何よりも求められるのである。

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    野球離れには「改革3本柱」これで日本のプロ球界が面白くなる

    川上祐司(帝京大経済学部教授) 「この前、公園でキャッチボールをやっていたら、近くにいた人に『危ないから止めなさい』って注意されちゃった」 「それは、『ボール遊び禁止』の公園だったからでしょ」 「でも、ボール遊びが禁止でない公園なんてあるのかな?」 政治、経済の中枢機能が集中する東京都千代田区では、2013年4月から「千代田区子どもの遊び場に関する基本条例」が施行されている。冒頭のやりとりは、条例の前文に記されている区内小学生の会話だ。 第1条には「子どもが外でのびのびと遊ぶことができる環境づくりに協力し、もって子どもの体力及び運動能力の向上並びに健やかな育成を図る」と目的が掲げられている。同区内の公園や施設では、時間と場所は限定されるものの、ボール遊びが自由にできる「子どもの遊び場事業」を進めている。昨年末、スポーツ庁の調査で分かった小学生の体力低下への対応につながっている。 筆者が少年期を過ごした1970年代は、ボールとバットさえあれば「どこでも」野球で遊べた時代であり、周囲も少々のことは目をつぶってくれていた。巨人戦のテレビ中継や野球マンガ、アニメには、大人から子供までくぎ付けになった。 今思えば、巨人の底知れぬ強さが庶民の生活を豊かに彩っていたのかもしれない。しかし、その憧れだったプロ野球は、今も親会社の経営手段としてのビジネスモデルに大きな変化は見られない。 その理由は、昭和29年8月に国税庁が出した「職業野球団に対して支出した広告宣伝費等の取扱について」という通達にある。これにより、職業野球団(プロ野球球団)に対して親会社が球団に支出した広告宣伝費、また球団が出した赤字を補塡(ほてん)しても親会社の経費とすることができ、球団に対し支出した賃付金までも損金にできるため、実質上は親会社の節税にも寄与しているのである。年々上昇する選手年俸はサラリーキャップ(年俸上限)制度のない日本野球機構(NPB)のチーム経営の行方を左右する。 この特権が与えられたNPBの球団数は今もセ・リーグとパ・リーグそれぞれ6球団、計12のままだ。2019年シーズンのセ・リーグの総観客動員数は約1490万人、1試合平均では約3万4700人、一方、パ・リーグは約1170万人で1試合平均約2万7千人になる。東京・千代田区がキャッチボールなどが可能な場所を設けるための実証実験で、ボール遊びなどで遊ぶ子供たち=区立和泉公園 これまで、不動の巨人人気に支えられてきたセ・リーグだったが、パ・リーグとの差は年々縮まっている。実はNPBの年間観客数、約2600万人は米大リーグ機構(MLB)の約6800万人に次ぐ、世界2位の集客を誇るプロスポーツリーグである。 MLBでは各30球団、レギュラーシーズンでそれぞれ162試合を行うから、その数字になるのもうなずける。とはいえ、2季連続で7千万人を下回り、観客数減少が取り沙汰されているものの、リーグ全体の収益は飛躍的に拡大している。そこには日米プロスポーツリーグの経営手法に大きな違いがある。MLBの背中が遠のくNPB 日本人選手として2人目のメジャーリーガー、野茂英雄投手がロサンゼルス・ドジャースに入団した1995年は、前年8月から始まったプロスポーツ史上最長のストライキの影響で、ファン離れのダメージは深刻だった。94年シーズンのリーグ収入は約14億ドルでしかなく、NPBの約1300億円と大差はなかった。 そのMLBが、現在103億ドルまで収益を拡大させ、米スポーツビジネスを牽引(けんいん)している。一方、NPBはその後も大きな進展を遂げることなく2018年シーズンの収益は1800億円程度にとどまる。 MLBの背中が遠のいた理由には、「リーグ主体の経営体制」によるマネジメントにある。放映権ビジネスの拡大やスタジアムの「ボールパーク化」、スポンサーシップビジネスにおけるアクティビティ化、さらにはITの進化などで後れを取っているからだ。 ここに、わが国の野球事情で、さらに深刻なのは「野球離れ」に伴う競技人口の減少が加わる。野球人口は5年連続で減少しており、特に中学校の軟式野球部員で顕著である。また、甲子園球場での春夏大会を頂点とする高校硬式野球も盛り上がってように見えるが、部員は約14万人と5年連続で急減している。 一方で、現在の野球統括団体は18団体を数えるが、とても連携が取れているとは言い難いのは、わが国のスポーツ組織の特徴でもある。 日本における「野球離れ」の起源として、94年に発足した日本プロサッカーリーグ、Jリーグによる影響は大きい。さらに、近年のプロ化を目的としたスポーツリーグの設立が活発化しており、競技者と観客を含めた子供の取り合いが必死に繰り広げられている。そこに海外サッカークラブも参入するありさまである。豪快な弾丸ライナーを左翼に放った巨人・長嶋茂雄=1971年5月撮影 現在、アルファベットを頭文字にしたスポーツリーグは既に14団体にも及ぶが、これらに所属するチーム経営は極めて厳しく、本来のプロスポーツの姿とは程遠い。 わが国のスポーツは明治期以降、富国強兵の一環で「国民的統合」の手段として、帝国主義化の中でのナショナリズムやアマチュアリズムと融合していく。特に、野球は「武士道精神」のもとで「根性論」や「勝利至上主義」、そして「スポーツでお金を儲けてはならない」ことが美学とされ、アマチュアスポーツを次第に崇高させていく。 「甲子園」という高校野球、さらには「都市対抗」という企業スポーツがメディアの恩恵を受けながらその名残を今も残す。その後も、わが国のスポーツチームは企業の広告手段として、プロスポーツビジネスの発展を拒み続けたアマチュアスポーツのプロ化現象としてはびこるのであった。 さて、先日行われた私が教鞭(きょうべん)を執る経済学部のゼミナール発表会で、ゼミ生からNPBのボールパーク化と観客動員数との関係について興味深い内容が発表された。2014年から18年までのチーム勝率とボールパーク化指数との関係から、次の四つのセグメントに分類してそれぞれ該当する球団を示したのである。「ボールパーク」を目指すわけ〔ボールパーク化が進むチーム〕勝利至上的フランチャイズ型経営:福岡ソフトバンク、広島、北海道日本ハムサービス至上的フランチャイズ型経営:東北楽天、横浜DeNA〔ボールパーク化が進まないチーム〕勝利至上的宣伝媒体型経営:巨人、埼玉西武親会社依存型経営:阪神、東京ヤクルト、中日、オリックス、千葉ロッテ 過去10年間の観客動員数が年々増加したチームは、ボールパーク化が進む広島とDeNA、楽天の3球団であったという。広島は2016年からリーグ3連覇を果たす好成績を残している。 ただ、DeNAと楽天はチーム成績との相関性なく着実に観客動員数を伸ばしており、ファンの定着は勝敗うんぬんだけではないことを示した。一方MLBでは、その要因について既に20年前から着目されている。 そもそも、わが国の野球観戦ほど、過酷で苦痛なものはなかった。入場ゲートでは、施設管理業者のアルバイトスタッフから笑顔もなしにお出迎えを受ける。 狭いコンコースをかき分けて観覧席にたどり着いても、視界がダイヤモンドからずれ気味で、お客さんの頭も気になるし、何よりシート間隔が狭い。観客のことを考えているとは到底思えない。 一息つこうと売り子からビールやつまみを買うが、よくよく考えれば、その売り上げは球団には入らない。周りに顰蹙を買いながらようやくトイレにたどり着くも決して奇麗とは言えない。試合中は鳴り響く鳴り物で会話を楽しむどころではない。この環境で3時間近く観戦するだから、もはや「パーク(公園)」とは似ても似つかない。 そもそも、なぜスタジアムがボールパークを目指す必要があるのか。答えの一端は、MLBのオープン戦となるスプリングトレーニングキャンプから見て取れる。 筆者は、毎年3月に米アリゾナ州で行われる通称カクタス(サボテン)・リーグに参加するサンフランシスコ・ジャイアンツに同行している。レギュラーシーズン前とあって、スター選手の出場がまばらにも関わらず、スタジアムは多くのファンで埋め尽くされる。米大リーグ春季キャンプオープン戦レッズ戦の一回、レッズ・ボットに対して投球するマリナーズ・菊池(右)=2019年2月、ピオリアスタジアム(山田俊介撮影) 思い思いにこの空間を楽しんでいるのはファンだけはない。スタジアムのスタッフやボランティアも同じ思いで働くので、その意味ではディズニーランドと変わらない。つまりは、選手を含め、ここで働く人全てが楽しくなければ、来場するファンだって楽しめないのだ。 思想は内野の芝生にも表れている。外野だけではなく、内野にも天然芝が張られているのは、「プレーヤー・ファースト」の視点だけではない。これからのNPBに不可欠なこと スタジアムを訪れる多くのファンが興じているのは内野芝をバックにした写真撮影だが、スタッフが丁寧に管理することで芝生の美しい緑が保たれている。「ボールパーク」というファンサービスを提供する空間であることを、スタッフ全員の責任として自覚しているのである。 ここからは、日本の野球について、今後のNPBのマネジメントを中心に提言したい。リーグ主体の経営体制が不可欠なことは言うまでもない。 これまで、先駆者たちがリーグ刷新を試みながらも、既得権益者がその知恵を否定し続けてきた。しかし、そろそろ「『チームビジネス』だから」から「『リーグビジネス』だからこそ」に、意識変革が求められている。 まずは、多くの魅力ある白熱した商品としての「試合」を提供するにあたって、リーグ側が推し進めるべきは「戦力均衡」である。その実現に向けて、サラリーキャップの導入、ドラフト制度の刷新、レベニューシェア(売り上げを分け合う)の三つの柱を機能させる。 主な効果として期待されるのが、戦力と財務状況の均衡である。二つの均衡をつくり出すことで、どのチームが優勝してもおかしくない状況を生み出し、ファンとスポンサーに期待感を創出させるのである。先述の国税庁通達には、金額的制限なり条件なりを付与すべきであろう。 そうしたところで、チーム数を16球団に拡大し、セ・パ両リーグの再編に手を付けたい。両リーグを東西2地区に分け、各8球団によるリーグに編成し直し、ポストシーズンの活性化を実現させるのだ。 これらによって、現行のクライマックス・シリーズよりも試合数の増加が期待でき、さらなる収益拡大につなげられる。日本シリーズは、今まで通りポストシーズンを勝ち抜いた両リーグチャンピオンチームで争えばいい。 もし、Jリーグが国際標準に合わせる形で9月開幕に移行すれば、1年を通して野球とサッカーが楽しめることできるとともに、ファンやスポンサーの食い合いも回避できる。 各球団には、支配下に複数のファームチーム保持を義務付ける。現行でいえば、2軍に加えて、全チームが3軍を編成するのである。既にソフトバンクは3軍を本格稼働させて、育成選手だった千賀滉大(こうだい)投手や甲斐拓也捕手を輩出した自慢の選手育成にさらなる磨きをかけている。日本シリーズを盤石の強さで3連覇し、記念撮影する(前列右2人目から)ソフトバンクの王球団会長、孫オーナー、工藤監督ら=2019年10月23日、東京ドーム(村本聡撮影) ファーム専用の球場、タマホームスタジアム筑後は、2軍独自のマーケティング展開拠点だけでなく、地域にも開放されたボールパークとして機能している。MLBがスプリングトレーニングキャンプで使用するベースボールファシリティー(施設)に近い。「スポーツ先進国」は看板倒れ? 各球団がチームとファシリティー環境を全国的に配備することで、大都市に集中しがちなプロスポーツチームを分散させ、地域社会にも積極的に開放する。こうして、地域社会への娯楽を提供するとともに、「遊び」と「するスポーツ」として野球人口増加を目的に、サービスを至上とするフランチャイズ型の球団経営を目指す。 場合によっては、各地で運営されている独立リーグとの統合も考えられよう。チーム人件費は地域のフランチャイズを有するNPB球団が充当し、運営資金はリーグからのレベニューシェアで賄う構造である。 スポーツファシリティー建設を促進させるためには、税制面での「支援」も必要となる。わが国のスポーツビジネスが発展しない大きな理由の一つに、莫大な税金支出からスタジアムが保持できないことにある。本来なら、スタジアムはスポーツビジネスの拠点となるはずなのに、わが国ではコストと捉えられてしまうのだ。 したがって、ほとんどのスタジアムが行政からの「借り物」となり、十分なサービスを提供できない現状がある。東京ドームは巨人や読売新聞グループ本社と直接の資本関係のない株式会社東京ドームが所有しており、巨人戦での飲食や物販の売り上げが同社に計上される。 賃貸料を支払った方が安いのか、固定資産税などを支払った方が安いのか、球団含めた親会社の経営戦略に委ねるが、スポーツチームがスタジアムを保持する理由は何も勝敗だけの問題ではないことも理解しなければならい。 ところで、東京ドームには車いす席が何席用意されているかご存じだろうか。公式戦でたったの22席である。 サンフランシスコ・ジャイアンツがスプリングトレーニングキャンプで使用する1万2千人収容のスコッツデールスタジアムでさえ、100席が用意されている。スポーツ先進国とは言いがたいスポーツ環境がわが国には普通に存在している。 MLBでは、毎年ダイバーシティー・ビジネス・サミットが開催されているが、「The doors of baseball are always open to everybody.」(野球の扉は誰に対しても常に開いている)というメッセージが込められている。プロ野球オーナー会議に臨む各球団オーナーら=2019年11月27日(長尾みなみ撮影) つまり、プロスポーツチームにおいても、社会的責任を果たすことが最大のマーケティングになる、このことをリーグ自体で公言しているのと同じだ。欧州のプロスポーツチームも、公共財として社会的連帯経済を基盤とするソーシャル・エンタープライズ(社会的企業)として、地域との関係性を高めながら人々の繋がりに貢献している。 東京五輪の開催が迫る日本において、最も歴史と人気のある野球が、この国を豊かにしなければならない。その中核を担うNPBのマネジメントが今まさに問われている。

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    「内需総崩れ」安倍首相の楽観シナリオを壊すのは「桜」ではない

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) 週明け発表された2019年10~12月期の国内総生産(GDP、季節調整済み)速報値は、物価変動の影響を除く実質で前期比1・6%減、仮にこのペースが1年続いた場合の年率換算は6・3%減と、市場の予測を大きく上回る下振れとなった。2月13日に発表された民間エコノミストの経済見通し「ESPフォーキャスト調査」では年率4・05%減だったが、この調査結果も大きく下回った。 ツイッターのトレンドワードには「内需総崩れ」という言葉が上位にあったが、まさにその通りである。もっとも、日本のGDP速報値と改定値は大きくずれる場合もあるので、その点は念頭に置かなければならない。いずれにせよ、速報値を見る限り、「内需総崩れ」という言葉は最もふさわしく、各項目でも悪い数字が並んでいる。 財務省の影響が強い日本の経済メディアでは、19年10月の消費税率10%引き上げと並ぶほど、大型台風の上陸や暖冬の影響を言い立てる記事が多いが、これは明らかにミスリードだろう。 海外の経済情勢の悪化を受けながら踏み切った消費増税が日本経済を失速させている、これが基本的なシナリオである。一例として、台風の影響を比較的受けていない関西を含め、各地域の鉱工業生産指数やスーパーなどの売り上げが低下していることでも明らかだ。 それでは、GDP速報値の中身を紹介しよう。以下は、最初の数字は年率換算の寄与度、その後の()内は同じく年率の前期比である。 今回の「6・3%減」だが、いわゆる内需は、民間消費6・3%減(11%減)、住宅投資0・3%減(10・4%減)、民間設備投資2・4%減(14・1%減)、民間在庫変動0・5%増(算出せず)、公的資本形成(公共投資)と政府消費の合計である政府部門の支出が0・4%増(5・5%増)だった。 いわゆる外需は、純輸出が1・9%増、輸出0・1%減(0・4%減)、輸入1・9%増(10・1%減)であった。内需もそうだが、輸入も急減しており、これは国内の購買力の低下を示しているといえる。松坂屋上野店で消費増税に向けて準備をする売り場に用意された、税率10%の対象となる商品を知らせる札=2019年9月30日 特に注目すべきなのが、民間設備投資の不振である。経済の変動は総需要(内需、外需)で規定される。 そのうち、最も景気変動の主因となるのが投資である。今回の設備投資の不振は、前回2014年4月の消費税率8%引き上げ直後の落ち込み(年率換算7・3%減)を倍近く上回っている。おそらく、この点が今回の市場関係者の予測を大きく見誤らせた主因の一つだろう。首相の「楽観シナリオ」 そんな中でも、週明けの国会論戦は首相主催の「桜を見る会」問題で明け暮れた。ただ一つ気を吐いたのが、馬淵澄夫元国土交通相の経済政策に関する質疑であった。馬淵氏は、安倍晋三政権の経済見通しが過度に楽観的であることを指摘した。 それに対して、安倍首相の答えは残念ながら官僚答弁のような楽観的なシナリオに基づいたものであった。特に2014年の増税時に比べ、消費の落ち込みが少ないことを指摘するものだった。 確かに、速報値では消費に関しては前回ほどの落ち込み(年率18%減)は観測されていない。だが、それは14年の税率引き上げが3%で、19年は2%と、そもそも引き上げ幅に見合う形での変化にしかすぎない。 注目すべきは、6年前もそうだったように、消費増税対策が今回も全く有効に作用していないことだ。前回の消費増税対策の失敗は教訓として何ら活用されていないといっていい。 前述の通り、消費だけ取れば、前回よりも影響は小さい。ただしその後、消費はほぼ2年半にわたって落ち込み、さらに経済の低迷を誘導し、雇用改善のペースさえも鈍化させた。 単純に推論すれば、今回も1年半ほどは消費低迷に陥るかもしれない。しかも、問題は他の需要項目が前回よりもはるかに悪いことにある。衆院予算委で、立憲民主党の辻元清美氏へのやじを飛ばした問題について謝罪する安倍首相=2020年2月17日 設備投資の前回を上回る大幅な落ち込みは、不況に直結する可能性がある。輸入の弱さも、これは内需の弱さの表現である。これらを見ると、現状では少なくとも前回並み、最悪であれば前回以上の経済低迷をもたらす可能性が高い。 総需要全般の落ち込みは、もちろん不況局面入りをさらに進めてしまうだろう。雇用状況も、今はまだ堅調だが、やがて製造業やサービス業などで大きな調整が始まる可能性がある。アベノミクス「最大の成果」が消える? ただ、かすかな光明は、株価が大きく下落し続けないことと、また為替レートの円安傾向が定着していることである。ここで言う「円安」は単に金融緩和継続のシグナルと考えていい。これらが企業業績の悪化を何とか食い止めている。 だが、賢明な読者ならばお気づきであろうが、今まで解説したことは、年明けからの新型コロナウイルスの感染拡大による経済ショックを全く考慮に入れていないのだ。それが先に指摘した最悪のシナリオにつながる。 新型コロナウイルスへの政府の対応は「後手」だとの批判が多い。「国内発生の早期」段階という政府発表を前提にすれば、私見では、今後どのように本格的流行のピークを低くし、早期終息するかがポイントになってくる。 この点はどうなるのか、専門家も十分予測できていない。経済への影響も短期的に終わるか、あるいは長期化するか、全く予断を許さない。 嘉悦大の高橋洋一教授は、国の直接の財政支出であり、国民の購買力に直接寄与する「真水」で数兆円規模の第2次補正予算を編成することを主張している。筆者も高橋氏の主張に賛成だ。これらの政策がうまくいかなければ、アベノミクスの最大の成果である雇用改善がやはり損なわれていく可能性がある。 ちなみに、前回の消費増税が雇用に与えた悪影響をおさらいしておこう。安倍政権が発足した12年12月の完全失業率は4・3%だった。それ以降、消費税率が8%に引き上げられた14年4月には3・6%と、0・7ポイント改善していた。嘉悦大の高橋洋一教授=2018年3月(宮崎瑞穂撮影) だが、増税以降、失業率の低下スピードは衰える。同じ0・7ポイント低下するまでに、約3年を要してしまった。 ところが、さらに0・5ポイント低下するのに、17年2月から18年10月までの1年半しかかかっていない。失業率は改善が進むほどに低下スピードが衰えるはずだが、それよりも後の時期の改善スピードよりも極めて遅かったことで、消費増税が雇用にも深刻な影響を与えていたことが分かる。ホテルよりも災難な人々 今回は6年前と異なり、日本経済が景気後退局面で行われた増税であった。そのため、前記のように「総需要全面ダウン」の状況だ。 それに加え、新型コロナウイルスの不確実性が加わる。日本経済はいまや本格的な雇用悪化の可能性に直面しており、早急な経済対策が必要だ。 だが、週明けの国会は大半の野党による「桜を見る会」の政治ショーであった。立憲民主党の議員らが、ANAインターコンチネンタルホテル東京からの書面回答を元にして、安倍首相を追及していた。新型コロナウイルスや経済問題はほぼ二の次である。 一応、野党側の主張をまとめておくと、ANAインターコンチネンタルホテル東京に文書で問い合わせしたところ、過去7年間のうち、同ホテルで桜を見る会の前夜祭を3回開催し、首相後援会が主催したという。それを前提に、立憲民主党の辻元清美議員は「宴会やパーティーで、見積もりや明細、請求書を発行しなかったケースがあるか」とのホテル側に質問したという。 ホテル側の答えは「1件もない」というものだったらしい。政治家にこの点について特別な配慮をするかとの質問にもノーと回答したという。 これに対し、首相側の答えは「安倍事務所がホテル側に問い合わせたところ、広報が辻元議員にあくまで一般論として答えた。個別の案件は営業秘密で回答してない」というものだった。今回の事例は、ホテルニューオータニのケースと全く同じである。詳細については、この論説を参照されたい。衆院予算委で質問する立憲民主党の辻元清美氏=2020年2月17日午前 もちろん、反安倍の人たちはこの回答で満足していない。ホテル側に政治的圧力があったとか、忖度しているなどという意見が、相変わらずインターネット上などで見受けられる。ANAインターコンチネンタルホテル東京もとんだ災難だろう。 だがもっと災難なのは国民全員だ。日本経済を一刻も早く立て直すためには、「桜を見る会」問題の追及よりも、安倍首相に楽観的な経済見通しの修正を迫ることが求められる。

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    信長はこうして「7階建て」安土城にオカルトパワーを詰め込んだ

    漆で固められた漆黒の部屋が出現したのだ。これはいったい何を意味するのだろうか。そこには、これまでの本連載で紹介してきた信長の思想が込められていた。 陰陽五行(いんようごぎょう)の思想では、黒は水を表す。それを象徴する霊獣は玄武だ。この架空の生物については第12回でも触れたが、亀と蛇が一体化した水の神だ。 龍・大蛇のパワーによって水を制御し、戦いに勝ち抜いてきた信長にとっては本来欠かせない存在のはずだ。しかし、将軍足利義昭が「元亀」の元号によって亀が主、蛇が従と規定したことを忌避して、信長は義昭追放と同時に「天正」への改元を実行している。 それから6年、彼は義昭から取りあげた玄武をようやく完全に自分のものとしたことになる。そして、「玄武=黒=水」が象徴する自分の精神の根底を具現化してみせたのだ。 ちなみに、『信長公記』の作者、太田牛一による『安土日記』には「御殿(天)守は七重、悉(ことごと)く黒漆なり」と書かれているので、これは地上1階だけでなく6層すべてが同じ世界観で統一されていたと考えられる。ちなみに、座敷内だけでなく外に面する柱や狭間戸(窓の扉)なども同様の技法で真っ黒にされていた。 さて、その黒い世界の内、1階西側の12畳敷き座敷には、狩野永徳により梅の墨絵が描かれていた。「下から上までことごとく金」とあるのが墨絵と矛盾するとの説もあるが、「御絵所」という説明がついているので、これは漆黒の部屋の中で障壁画が飾られる場所、つまり絵のある襖(ふすま)や屏風、壁の一角だけが上下金箔(きんぱく)貼りで、その上から墨絵が描かれていたと考えるべきだろう。※写真はイメージです(ゲッティイメージズ) その隣の部屋は書院で、ここには「遠寺晩鐘(えんじばんしょう)」の絵があり、その前に「ぼんさん」が置かれている。ぼんさんは「盆山」と書く。庭園に人工的にこしらえた盛り土・石積みの築山(つきやま)を指すこともあるが、ここでは水面に見立てたお盆の上に石を置き、それに苔や小さい木を植え付けることによって、島を表現したものをそう呼んでいる。「遠寺晩鐘」に浮かぶ仮説 遠寺晩鐘は「瀟湘(しょうしょう)八景」と言われる中国の山水画のテーマの一つで、「烟寺晩鐘」「煙寺晩鐘」とも書く。夕刻、遠くおぼろに浮かぶ清涼寺から響いてくる鐘の音を聞くというテーマで描かれたものだ。 問題は、これが湘江(しょうこう)という大河の沿岸の風景であるということだ。湘江には伝説がある。神話時代の中国の聖帝に舜(しゅん)がいるが、この舜は治水に努めたとされる。 その2人の娘、娥皇(がこう)と女英は、父が亡くなると悲しみのあまり、湘江に身を投げて死に、「湘君」と呼ばれる川の神になったという。この湘江が流れ込む洞庭湖(どうていこ)には君山と呼ばれる島(今は砂の堆積によって岸とつながっている)があり、湘君が遊んだとされている。 つまり、盆山は背景の遠寺晩鐘の湘江から下った洞庭湖の君山を表しているのではないかという仮説が成り立つわけだ。川の神・水神の世界が、「黒=水」の結界の中に出現する。 そしてもう一つ、別の見方をしてみよう。湘君の棲む湘江の風景画の前に置かれた盆山。これは湘君を呼び寄せるための「磐座(いわくら。神が坐(ざ)す岩であり、ご神体そのものでもある)」とも考えられる。水のパワーを招くための仕掛けという解釈も可能だ。 1階の他の場所を見てみよう。書院の次には鵞鳥(がちょう)の絵の十二畳座敷、鳩・雉の親子の絵がほどこされた部屋が並ぶ。画題として鳥はポピュラーだが、一応チェックしておこう。 鵞鳥には、大国主神(おおくにぬしのかみ)の義兄弟として国造りを手伝った少彦名命(すくなひこなのみこと)が、鵞鳥の皮の服を着ていたという謂(い)われがある。今まで何度も引き合いに出してきた大国主神(大物主神)絡みの画題だ。 そして、鳩は武家にとって大切な武神、八幡神の使い。雉についてはさらに面白い。中国では、雌の雉が蛇の精を受けて産んだ卵が蛟(みずち)という怪獣になり、洪水を引き起こすという言い伝えがある。日本でも、雉は災害を予知し吉祥として尊ばれ、「白雉(はくち)」という元号も使用されたほどだ。滋賀県のJR安土駅前にある織田信長像 以上のように、1階の鳥の絵はすべて瑞兆(ずいちょう)を表している。 それに続く座敷には、中国の儒者たちの絵。儒者は儒教を研究・信奉・実践する者たちで、古くから内裏の障壁画として採り上げられていたものだが、この場合の具体的な内容はわからない。2階にたたずむ「仙女」 とにもかくにも、水神・瑞祥(ずいしょう)の鳥たちに続いて、中国古来の儒教をモチーフとした部屋があったことだけは確かだ。このあとにも、さらに部屋や納戸が連なって1階部分が構成されている。 続いて2階へ上がってみよう。花と鳥が描かれた「花鳥の間」。中国の伯夷と叔斉が描かれた「賢人の間」。伯夷と叔斉は儒教の聖人だ。 この賢人の間には、「ひょうたんから駒」の絵も描かれている。これは中国の方士(仙人)・張果老が、白いロバを白紙に変えてひょうたんの中にしまい、移動のときはその紙をひょうたんから出し、元の白ロバに戻して乗ったという伝説にもとづくもので、若いころは魔除けのひょうたんを腰から吊していた信長としては好みの題材だろう。 ここで儒教と神仙という中国本来の宗教世界(仏教は外来宗教)が同居している。この他にも仙人の呂洞賓(りょどうひん)、西王母(せいおうぼ。『西遊記』にも登場する天界の仙女王)が描かれた部屋がそれぞれある。 このように書くと、いかにも詩的な世界観だが、一つ注意しなければならないのが西王母の部屋だ。 この仙女の王は、後世になって絶世の美女の姿で描かれるようになったが、原初の風体は、牙を剥いた鬼女そのもの。おまけに、その下半身には蛇(豹とも)の尾が生えている(『山海経』)。漢の時代の中国の絵に残されている西王母は龍も従えており、両脇の侍臣の下半身は蛇で、互いに絡み合う。 この安土城天主の2階に描かれた西王母が美女の像か、あるいは古代の鬼女の像だったかは不明だが、西王母が龍や蛇に密接な関係がある存在だったのは確かで、これも信長の世界観にはピッタリだ。この他さらに数室が続いて、3階へ。 3階では龍虎が争う様子を描いた部屋、それに鳳凰(ほうおう)を描いた部屋が目立つ。それぞれ画題としてはメジャーで、それに松、竹の絵の部屋もあり瑞祥の連続だ。天主跡まで急な石段が長々と続く安土城=2015年3月、滋賀県近江八幡市 許由(きょゆう)と巣父(そうほ)という古代中国の隠遁者たちを描いた部屋もある。これも障壁画の題材としては一般的なものだが、俗権力を徹底的に避けたふたりを描かせた信長には他に何らかの意図があったのだろうか。 4階に絵は無く、5階は八角形。これは法隆寺の八角円堂として有名な夢殿と同じ構造だ。実際、その内部は釈迦(しゃか)の十大弟子や釈迦が悟りを開き説法をおこなうまでの物語が描かれており、外周の縁側には餓鬼・鬼という仏教上の「餓鬼道」が配され、内部の人間道・天道との対比を成して、仏教の世界観を完成させている。「八角形」もう一つの謎 そしてもう一つ。八角形というと八卦鏡(はっけきょう)が連想される。 「当たるも八卦、当たらぬも八卦」などというが、これは中国の八方位陰陽説に基づいた風水占術を表している。八卦鏡は風水上、玄関や水回りに配すると凶を防ぎ、そのパワーが八方から吉を呼び寄せるという。ちなみに元伊勢籠神社神宝となっている天照大神ゆかりの辺津鏡(へつかがみ)・息津鏡(おきつかがみ)も八芒星(あるいは太陽の象徴だろうか)があしらわれている。 また、キリスト教では八角の星(八芒星)を「ベツレヘムの星」と呼ぶ。自然界の八つの要素がエネルギーの流れを支配し、力、権力を生むという星だ。以前長篠の戦いの際に触れた五芒星や六芒星より能動的にパワーを高めるという点では最強といえる。 信長が宣教師からその知識を得ていたかどうかはさだかではないが、結果としてその形状を天主5階に導入していたことになる。魔除けアイテム・パワーグッズに凝った信長がそれを知っていれば、さぞや得意満面の表情を浮かべただろう。 その八角堂の外周、縁側の欄干には擬宝珠(ぎぼし)が付けられている。これは信長の権力の高さ、大きさを表す。本来擬宝珠は朝廷や将軍の特権だからだ。 その縁側の端戸(はたいた。縁側の行き止まりにはめられる板)には龍と鯱(しゃち)が描かれていた。鯱も龍と同じく水を制する霊獣であり、いかにも信長らしい。 いよいよ、最上階の6階にたどり着いた。内・外ともに金貼りされた座敷の四方の内柱には、昇り龍・下り龍があしらわれている。2年前、「天下布武」印に取り入れた下り龍の意匠に昇り龍も組み合わされた。安土城天主跡からの展望、現在田畑が広がる場所は当時琵琶湖の内湖であったという=2010年1月撮影 信長はその座敷の中央に座し、龍のパワーの降臨を仰ぎ、その力で運気上昇する態勢を整えたのだ。壁には三皇五帝や孔門十哲などといった古代中国の聖帝・儒教の名士たち、中国文明の粋といえる要素で埋め尽くされていた。 最後に、この天主を含む安土城の主郭部の跡からは、鬼瓦には宝珠などの招福アイテムをモチーフとしたものが出土している(『安土城1999』安土城考古博物館)。これも信長の縁起担ぎ好きの一面をよく示しているものだろう。

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    連帯責任なんてもう古い?日大ラグビー部にみるニッポンの不寛容さ

    上西小百合(前衆議院議員) 日大ラグビー部の部員が大麻取締法違反(所持)容疑で先月逮捕され、その後起訴された。「自分で使った」と容疑を認めていたことを受け、同部は無期限の活動停止と、捜査に協力し再発防止に向けて全力で取り組むと発表した。 以前も高校野球大会で準決勝まで駒を進めていた強豪校の部員数名が喫煙していたという理由で大会の出場を辞退した上に、当面の活動を自粛したことがあったので、おなじみの不思議な連帯責任劇に日本文化の悪い部分をまざまざと見せつけられた気がした。  同時に、その処分により巻き添えを食らい、努力を無駄にされた同部員たちのメンタルを案じる気持ちが沸きあがってきた。 日本ラグビー協会の会長は、日大ラグビー部員が逮捕されたことを受け「がっくりくる。1人の行動によって、ラグビー界全体が言われるんだということの教育をやらないといけない」と述べている。  当然、事件の再発防止や逮捕された学生の処分は厳正に対処していただきたいところだが、なぜ日大は逮捕された部員1人の責任を、大麻と何の関係のない部員たちに「連帯責任」という罰で押しつけたのだろうか。 遊ぶ間を惜しみ、寝る間を惜しみ、厳しい部活練習に耐えてきたにもかかわらず、チームの1人がプライベートで悪事に手を染めたため、その努力が無駄にされてしまう。そんな連帯責任を負わされた報われない学生たちにいったい何が残るというのだろうか。人ならば誰しもが当たり前に抱く感情、「憎しみ」「怒り」「悔しさ」が残るのではないだろうか。生涯でたった4年間しかない大学生活の主軸を権力者によって「連帯責任」で奪われるのだ。 実際日大は、今季の関東大学リーグ戦では1部に所属し2位。昨年12月に行われた全国大学選手権では8強進出を達成したが、逮捕された部員は選手権大会ではベンチ外だった。ラグビー大学選手権準々決勝(早稲田大対日本大)後半点差を広げられた日大フィフティーン=2019年12月21日 (岡田茂撮影) 加えて、こういう案件が生じれば、その分野のイメージが悪くなるという声が毎回のように上がるが、実際問題そんなことはない。報道を見る読者も視聴者も、そこまで冷静な判断ができないわけではない。単に集団の中の個に問題があっただけで、それは一部の話だということくらい理解できる。 つまり、今回の処分は日大の上層部が「日本大学」ブランドを守ることに執着をし、大学の権力者たちが非権力者の学生たちに連帯責任という罰を負わせ、世間体だけを保っているとしか考えられない状況なのだ。連帯責任の根底にあるもの 実は日本には歴史的に見ても1人(個人)の責任を連帯責任(全員)にすり替える習慣がある。律令制の「五保」や江戸時代にあった「五人組」、戦前の「隣組」も似たような発想によるものであり、相互扶助の精神を大切にするためと建前で言いつつも、一番の目的は集団の和を乱さずに、権力者への貢納確保や密告が目的だったと言われている。 すべての者に同じように従うことを求め、外れてしまったものは村八分といういじめに遭わせる。要するに、権力者が非権力者に対して自分の支配力を高めるために「連帯責任」を利用してきたという悲しい一面がある。 こうした背景もあってか、日本は基本的に、すべて皆同じようにあらねばならず、個は認められにくい、いわゆる「不寛容社会」だ。 不寛容社会の象徴とも言えるのが、何でもかんでも謝罪を欲しがる大衆の心理である。連日、テレビをつけると騒動を起こした有名人や政治家が「辞めろ」「謝れ」と恐ろしいほどに袋だたきにされている。 そして、俳優が不祥事で「引退する」と言えば、「潔い」と大絶賛ムードに、閣僚が疑惑報道で辞任すれば、「やったぜ!」というムードに世間が包まれる。「皆」が「同じようにとりあえず謝罪」して引っ込めば、根本は何も解決せぬままに物事が一段落していく。ばかばかしいこと限りない。 このマイナス面を現代にまで大切に握りしめておくのはいかがなものかと思うが、決して「連帯責任」自体が「悪」というわけではない。 私は衆議院議員時代に自衛隊員の方々から話を聞く機会があったのだが、自衛隊の訓練の中ではあらゆる局面で連帯責任を負うそうだ。緊迫する環境下で人命にかかわる職務を遂行する際に、1人がふと気を抜いてしまったことで人の生死や国家の安全にとんでもない影響が出ることも想定される。 ゆえに自衛隊員は、個ではなく集団として協力することでさまざまな障壁を乗り越え、国民の生命や財産を守ってくれている。これが日本の自衛隊のクオリティの高さのゆえんでもあるため、一概に「連帯責任」が「悪」とは言えない。 ただ今回の日大のケースは、連帯責任によるマイナス面の影響が大きいと言えよう。あくまでも、ケースバイケースで臨機応変に“連帯責任の使い方”を判断していかなければならない。※写真はイメージ(GettyImages) こんな社会ゆえ、日大側が「謝罪して引っ込むのが一番の幕引き」という思考回路に陥ってしまうのだろうが、理不尽に責任を負わされた日大ラグビー部員たちには、どうかくじけずに残りの大学生活有意義なものにしていただきたい。 「連帯責任」の本当の意味や歴史を理解し、適切に使うことが必要だ。

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    社会常識もかすむ「いつまでも桜を見る会」には、お気の毒です

    して国会の質疑時間を大きく割くほどの重大なものかどうかは別問題だ。 既に「桜を見る会」については以前連載でいくつかの論点を挙げて分析してきた。掲載から2カ月ほど経過するが、基本的な論点は変わらない。ぜひ読者にはこの論考を参照いただきたい。「桜を見る会」を巡る問題を追及する野党合同ヒアリングで、配られた内閣府の資料=2020年1月23日 ただ、いくつか新事実も明らかになったので紹介しておこう。あらかじめ結論を書けば、「桜を見る会」の規模が、年々拡大したこと自体は反省すべきである。実際に運用などを政府が見直すことになっている。本当であれば、この時点でほぼ問題は終わるが、そんなことを許さないのが反安倍勢力である。 後援会の人間が多く呼ばれた点は反省すべき点があるだろう。ただし、安倍政権だけが後援会や「議員枠」などで招待客を募っていたわけではない。民主党政権下含む歴代の内閣が同じことを行っていた。社会常識さえかすむ? 夕刊フジの取材によると、民主党の菅直人政権時代の「桜を見る会」では、当時の滝実(まこと)総務委員長名で、民主党所属の国会議員にメールが送られていた。「『桜を見る会』へのご招待名簿の提出について」と題された文書は、後援者や支援団体の幹部などの招待を促す内容だった。現在の野党や先の毎日新聞のような一部メディアが問題にするような「私物化」とは、かなり異なる印象だ。 つまり、後援会をはじめとする支持者を招くことは、おそらく民主党政権時代においても、以前からの慣例なのだ。その時点では問題にならなかったのに、今回だけ異様に批判されている。 しかも、見直しを政府が表明しても「私物化」疑惑が終わることがない。疑惑追及の延長で、会合参加者の名簿提出を野党などは要求しているようだが、政治的な思惑が優先してしまい、個人情報の悪用の方がむしろ心配になるほどである。 さらに「桜を見る会」の安倍事務所主催の後援者向け夕食会(前夜祭)がいまだに問題となっている。この件については、5千円の価格設定も不思議ではないことや、ホテル側が参加者に発行した領収書が存在し、マスコミを通じて領収書の画像もわれわれは確認することができるが、特段おかしな点はない。 ホテル側が明細書を出さなかった点も、ホテル側との信頼関係などで出さないことはあるだろう。政治資金収支報告書にこの夕食会の収支記載がないことも、単に安倍事務所は「仲介者」(仲介手数料もない)でしかなく、ホテル側と参加者との契約関係にしかすぎない。そのため、金銭のやり取りがなければ、政治資金収支報告書に掲載する必要性もない。 ところが、このホテル側と参加者が契約関係にある、という点に疑問を投じる反安倍系の識者たちがいる。「参加者が個人的にホテルと契約」という点をあざ笑うような指摘があったのである。 正直、社会常識さえ反安倍の前にはかすむのだろうか。いちいち契約書面などは書かないが、われわれの社会行動で契約はありきたりのものである。記者に囲まれ「桜を見る会」を巡る質問に答える安倍首相=2020年11月、首相官邸 例えば、切符を買うことは、電車に乗る行為を鉄道会社と利用客が双方合意して締結している。これと前夜祭のホテルと参加者の関係も全く同じである(山形浩生氏の例示から引用)。 なぜ、この点が反安倍系の識者たちのあざ笑う対象になるのか、全く理解できない。おそらく、それほどまでに反安倍というイデオロギーというか、認知バイアスが強いのだろう。哀れむべき現象と言わざるを得ない。

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    「中国離れ」を左右するコロナショックと忖度リスク

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) 春節(旧正月)明けの中国株式市場は予想通りの暴落で始まった。新型コロナウイルスの中国本土での感染拡大を受け、市場取引の連休期間を延長していた。 代表的な指数である上海総合指数は売り注文が殺到し、連休前だった1月23日の終値から、一時最大で8・7%、結局4年5カ月ぶりの大きさとなる7・7%の大幅下落を記録した。もっとも、中国の政策当局も手をこまねいていたわけではなく、株価安定のための対策を準備していた。 中国人民銀行(中央銀行)は、資本市場の資金不足を防ぐために、1・2兆元(1740億米ドル、19兆円強)もの流動性資金の供給をアナウンスしていた。また、ロイター通信によれば、中国当局は各証券会社に対し、3日の空売り注文を規制するように要請したという。 特に中国人民銀行の動きは重要である。なぜなら、中央銀行の重要な役目として、金融システムの安定性を維持する「最後の貸し手」としての機能があるからだ。 「新型コロナウイルスショック」は今のところ、人やモノの取引といった実物面だけにほぼ限定されている。影響が及んでいるのは、国内外の物流への影響、国内外の観光客やビジネスでの移動制限などだ。 だが、これに留まらず、株価の予期しない下落から金融機関、企業などに「おカネの取引」の面で影響を及ぼせば、経済的な被害ははるかに甚大なものになる。資金ショート(不足)を防止するために、中央銀行は潤沢な資金供給をもって応える必然性が出てくる。 この対応は中国だけではなく、金融システムの不安定性が懸念されれば、どの国であっても採用する政策だ。市場関係者では、現状の7~8%台の株価下落は予想の範囲内だとの見方が強い。その意味では、現時点では中国の政策当局の「必死の攻め」が効果を挙げているのだろう。もちろん、これで話が終わりというわけでは全くない。 米中貿易戦争の影響で、既に中国経済は大きく減速していた。昨年10月に2019年第3四半期(7~9月)の実質国内総生産(GDP)成長率が前年比プラス6%と発表されたが、通年で6%を下回る予測が既に出ていた。 この率は、1992年の四半期データ公表開始以来最も低い数値となった。ただし、中国の習近平指導部はこの公表値にも強気の姿勢であり、いわば政治的には「織り込み済み」であった。WHOのテドロス事務局長と会談する中国の習近平国家主席=2020年1月31日、北京の人民大会堂(共同) トランプ大統領自身の再選がかかる「政治の年」では、米政府が大胆な中国への経済的圧力を現状以上には出せないという見方もあったのだろう。だが、今回の「新型コロナウイルスショック」は、中国指導部の楽観シナリオを狂わせたのではないか。SARSとコロナ、経済的ショックは? そこで、2003年の重症急性呼吸器症候群(SARS)の流行による中国や世界経済の影響と比べてみよう。今回は02年よりも国内景気が悪い中国の経済状況下で、「世界の工場」だけでなく世界の物流や消費の一中心地になったことで、世界経済における位置も変化している。この状況を勘案すれば、SARSのときの国内外に与える影響を各段に上回るものと予想できる。 03年のSARSの経済的な影響については、高麗(こうらい)大の李鍾和(イ・ジョンファ)教授とオーストラリア国立大のワーウィック・マッキビン教授の論文「SARSからの教訓:次なるアウトブレイクに備えて」が有益である。両氏の論文では、SARSショックは、中国経済の成長率を1・1%引き下げ、香港に至っては約2・5%も引き下げた。 ただし、世界経済への影響は軽微であり、米国は0・1%ほどの引き下げ効果しかなかった。両氏の論文には特に日本への言及はないが、03年の日本経済は、世界経済ともSARSショックとも無縁な形とはいえ、デフレ不況の中で「格闘」中であった。 2月1日の夕刊フジでもコメントしたように、「現在の中国は世界の生産の主体であると同時に、世界の消費者としての地位を築き、ビジネスでも多数の人が動くようになった」。そもそも03年、中国の経済規模は世界第6位程度であり、GDPでは日本より小さかった。 だが、今日では、世界第2位の経済規模であり、貿易関係一つとっても各段に異なる。03年当時の中国の貿易総額は1兆ドルに満たなかったが、2018年には、約4兆6千億ドル超にも達している。 中国からの落ち込みによる外国人観光客(インバウンド)消費の減少に加え、貿易を通じた悪影響が、日本を含め世界各国で懸念されるだろう。観光立国であるタイでは、既に、深刻な観光不況がささやかれ始めている。 さらに、中国の国内消費や生産の落ち込みが早くも出ているところがある。典型例として、中国の石油需要が消費全体の20%に相当する日量300万バレル程度減少したと報じられている。複数の市場関係者の推測では、やはり新型コロナウイルスのよる影響だという。 この報道を受けて、原油先物価格が一時低下した。仮に中国の石油などのエネルギー需要低下が持続すれば、原油価格に依存している新興国経済にとっては極めて重要なリスク要因だろう。重症急性呼吸器症候群(SARS)の集団感染が発生し、封鎖された北京市内の工事現場。中に民工が隔離されたままで、昼どきには大量の弁当が運びこまれていた=2003年5月 このような中国発の経済リスクを嫌って、「中国離れ」も加速化するかもしれない。米国のロス商務長官はテレビのインタビューで、中国に依存した世界の供給網(サプライチェーン)の見直しが行われる機会になるかもしれないと発言した。 実際に、SARSショックから十数年で、同規模かそれ以上の経済・安全保障上のリスクが中国から発生しているわけである。これは各国の対中長期投資に関して、少なくとも再考を促す機会になることは間違いない。「中国離れ」できないワケ しかし、「中国離れ」、あるいは中国との距離の見直しが加速化できないところもある。国際機関に染み込んだ中国依存体質だ。 今回の新型コロナウイルス問題では、SARSでの情報公開の遅れとそれに伴う世界的大流行(パンデミック)の出現と比較して、中国の政治体制に根付くより深刻なリスクが顕在化している。それが今書いた国際機関を中心とする中国依存体質、あるいは中国の指導部の顔色を忖度(そんたく)する国際的なリスクだ。これを「中国忖度リスク」と表現しよう。これには、国連への分担金が日本を抜き去り、世界第2位になった背景もあるだろう。 フランスのル・モンド紙が、先月22、23日に開催された世界保健機関(WHO)の緊急委員会で、中国政府が新型コロナウイルスについて「緊急事態宣言」を出さないように政治的圧力を行使していた疑いを報じた。この圧力のためか、31日の緊急委後に出された「緊急事態宣言」は、渡航・貿易制限などに触れられていない抑制されたものになっている。 だが各国政府は、この「緊急事態宣言」より踏み込んだ渡航や入国制限を実施している国が目立ってきている。WHOの「中国忖度リスク」に備えたかのようだ。 この「中国忖度リスク」は、意外なところで日本にも迷惑を与えている。日本経済新聞の滝田洋一編集委員のツイッターで知ったのだが、WHOが「緊急事態宣言」を掲載したホームページでは、なぜか発生源の中国ではなく、成田空港の写真が現在でも使われている。 実に奇怪な印象操作と言わざるを得ない。もし「操作」ではないとするならば、このような悪影響を諸外国に与えるイメージは即刻撤回すべきであろう。日本政府の対応が求められる。 ところで、新型コロナウイルスの医学的な判断をこの論説で行うことはできない。筆者が参照にしたのは、感染専門医の忽那賢志(くつな・さとし)氏や、医師でジャーナリストの村中璃子氏の論考だ。特に村中氏は、日本政府がWHOや中国政府の発表を当初鵜呑みにした対応を問題視していた。 評論家、石平氏の中国問題に対する見識も、筆者は常々参考にしている。最近のインタビューでは、「上海、深圳(シンセン)などハイテク産業が盛んな地域に広がる可能性もある。このまま主要都市の生産活動が3カ月もできなければ、GDPは数割減に落ち込む可能性もある」という極めて厳しい予測をコメントしている。大幅に下落する上海総合指数のボード=2020年2月3日(萩原悠久人撮影) 実際のGDPの落ち込み予測はともかくとして、確かに上海や深圳にまで武漢同様の影響が波及すれば、中国経済の落ち込みは深刻なものになるだろう。いくつかの経済シナリオを頭の中に置きながら、今の世界経済、そして日本経済を読み解いていかなければならない。 新型コロナウイルスの感染波及が全く見通せない中では、経済的には不確実性に備えた体制を採用するのが望ましい。日本であれば、政府と日本銀行が協調した経済拡大スタンスの採用を強くアナウンスすること、それに尽きるだろう。

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    二兎を追うしかない森保監督「融合」に立ちはだかった理想と現実

    清水英斗(サッカーライター)「森保を解任しろ!」「もう限界だ!」 U-23(23歳以下)アジア選手権がグループステージ敗退に終わり、森保ジャパンにかつてないほどの逆風が吹きすさぶ。それは戦術不足や采配などピッチレベルの不満も多いが、それ以外に、A代表と五輪代表を兼任する体制について疑問を呈する向きも多い。森保一監督の解任、あるいは兼任の中止を迫る声は勢いを増すばかりだ。 「兼任」に対して懐疑的な声が増えたのは、昨年11月の「はしご」が始まりだった。 11月は、A代表のワールドカップ(W杯)2次予選、アウェーのキルギス戦を14日に戦った後、森保監督は帰国し、既に11日から合宿中のU-22日本代表に合流した。そして17日のU-22コロンビア戦で指揮を執ると、0-2で敗戦。その後、再びA代表へ合流し、19日のベネズエラ戦で指揮を執ったが、こちらも1-4で完敗した。 行ったり来たりの、はしご采配。それで結果が出たのなら文句は言われない。しかし、出なかった。それどころか、内容も乏しく大敗した。「1チームに集中した方がいい!」「(五輪代表を担当する)横内コーチに任せた方がいい!」 そんな声が出てくるのも無理はない。その前月である10月、U-22日本代表は南米遠征でU-22ブラジル代表と親善試合を行い、3-2で勝利を収めたばかりだった。 指揮を執ったのは横内昭展(あきのぶ)コーチである。9月の北中米遠征ではU-22メキシコ代表に0-0で引き分け、U-22アメリカ代表に0-2で敗れ、結果は出なかったが、10月はサッカー王国に勝利を収めたことで、先行きへの期待が膨らんでいた。 その直後の11月、指揮が森保監督に代わると、コロンビアに完敗。表層的な事実だけを追うなら、森保監督の動きが良い流れに水を差したように見える。2020年1月、サッカーU-23アジア選手権のカタール戦に臨む森保監督(右)と横内コーチ=タイ・ラジャマンガラスタジアム(中井誠撮影) もっとも、森保監督の指揮下でも、トレーニングの落とし込みや交代選手への指示は横内コーチ主体で行っているため、戦術的な影響がどれだけあったのかは微妙なところだ。それ以上に、この11月はA代表でプレーする堂安律(PSVアイントホーフェン)や久保建英(たけふさ、マジョルカ)をU-22代表へ招集した「融合開始」のタイミングでもあった。彼らを含めてメンバーが入れ替わったので、連係の積み上げがいったん弱くなったことは大きい。 しかし、だからこそ普段はA代表で、特に堂安とは分かり合っている森保監督が、最初から五輪代表に帯同してコミュニケーションを取っていれば、「融合」をスムーズに進めることは期待できた。森保監督が2チームをはしごした、兼任のデメリットは間違いなくある。「兼任」の良しあし また、このデメリットはA代表にも波及している。ベネズエラ戦のメンバーは、キルギス戦から9人が入れ替わり、初招集も4人いた。森保監督としては彼らとコミュニケーションを取り、プレーの要求を行い、選手からも何かを引き出す必要はあった。  しかし、ベネズエラ戦は1-4で完敗。「結果の責任については、準備の段階での私の選手、チームに対する働きかけだと思うので反省しないといけない」と森保監督は語ったが、そもそもU-22代表をはしごしたために、働きかけの機会が減ったのは間違いない。 二兎(にと)追う者は一兎(いっと)をも得ず。兼任のデメリットが、A代表と五輪代表の両方で足を引っ張ったのが、11月の代表活動だった。 単純に忙しすぎる、というのもある。12月から1月にかけての森保監督は、東アジアE-1選手権、U-22ジャマイカ戦、年始はすぐにタイへ移動してU-23アジア選手権と、合宿や試合ばかりで休みを取れていない。11月とは違い、スケジュールかぶりこそなかったが、これほどの忙しさの中で各チームの準備や分析に全力を尽くすことができたのか、その点も疑問が残る。 ならば、やはり兼任は中止した方がよいのでは? というか、そもそも、なぜ兼任監督なのか。一度、兼任のメリットとデメリットを整理しておく必要がある。 主な兼任のメリットは二つだ。・A代表と五輪代表で選手が行き来しやすくなる・複数のチームが一貫性を持ち、同じ哲学、同じコミュニケーションで指導できる 一方、デメリットは既に述べた通りだ。・監督が一つのチームに集中できない(スケジュールかぶり+過重労働)2019年11月、キリンチャレンジカップ杯の前半、ベネズエラに4点目を奪われ、両手を広げるGK川島ら日本イレブン=パナスタ メリットとしては、「A代表と五輪代表で選手が行き来しやすくなる」ことが第一に挙げられる。過去の日本代表でも起きたが、別々の監督が率いると、各自が結果を出すために、選手の「綱引き」が発生してしまう。 原則はA代表優先。ロンドン五輪では当時U-23世代にもかかわらず、ちょうどマンチェスターU入りの決まった香川真司(サラゴサ)が招集されなかったように、A代表優先の方針が貫かれてきた。踏み込んだ「融合」 しかし、今回は東京である。自国開催の五輪は、過去の大会に比べて、重要度がはるかに高い。時にはセオリーを破り、「五輪優先」の判断も必要になってくる。 そこで、A代表と五輪代表を兼任監督に任せることで、指揮系統の摩擦が起きないようにした。これが兼任の大きなメリットだった。 とはいえ、就任1年目は、このメリットがあまり生かされていない。ロシアW杯のメンバーを大幅に入れ替え、若手を抜てきした森保監督だが、東京五輪世代でA代表入りしたのは堂安と冨安健洋(ボローニャ)の2人だった。アジアカップ後に広げても、久保建と板倉滉(フローニンゲン)くらいだ。 たかが3、4人がA代表と五輪代表を行き来するだけなら、兼任などと大げさな体制を組まなくてもいい。2人の監督の間に技術委員会が入り、「今は五輪優先の時期」「ここはA代表優先で行く」と調整すれば、それで済む話だ。 しかし、森保監督はより大胆な戦略を展開した。堂安や冨安らの自然発生的なA代表入りだけでなく、実力的には時期尚早なU-22世代の選手も含め、やや強引にでもA代表との融合を進めた。 それが昨年6月の南米選手権(コパ・アメリカ)、12月のE-1選手権である。上田綺世(あやせ、鹿島)や大迫敬介(広島)をはじめ、かなり多くのU-22選手をA代表に組み入れた。自然発生ではない、森保監督による人工的な融合である。 A代表ともU-22代表ともいえない中性的なチームは、兼任監督でなければ組めない編成だった。どちらの大会も結果は出なかったが、むしろ各国のA代表を相手にこれで結果が出る方が驚く。もちろん、現地側から「大会軽視」とそしりを受ければ返す言葉はない。 そうまでして強引に融合を進めた目的はもちろん、東京五輪に向けたU-22世代の徹底強化である。そして目的はもう一つ、W杯最終予選に向けたA代表の準備も挙げられる。 4年前を思い返すと、リオデジャネイロ五輪で活躍したU-23世代の大島僚太(川崎)が、W杯最終予選の初陣となるアラブ首長国連邦(UAE)戦で、ヴァイッド・ハリルホジッチ元監督によってスタメンに抜てきされた。しかし、準備期間はほとんどなし。大島は持ち味を発揮できず、試合もUAEに1-2で敗れ、苦しい最終予選の始まりとなった。 本大会を見据えれば、五輪で国際経験を積んだU-23世代が、A代表の新陳代謝を促すのは大事なことだ。2014年W杯に臨んだザックジャパンを思い返すと、ロンドン五輪世代の山口蛍(神戸)、齋藤学(川崎)、大迫勇也(ブレーメン)、柿谷曜一朗(C大阪)らの突き上げは遅く、W杯本大会の7~8カ月前からようやく始まった。2013年11月、サッカー日本代表の新オフィシャルユニホーム発表会見で話すザッケローニ監督と(右から)山口、大迫勇、柿谷、高橋秀ら=千葉・成田市(山田俊介撮影) その点、ハリルジャパン時代は、結果的には本大会に選ばれなかったが、井手口陽介(G大阪)や浅野拓磨(パルチザン)、久保裕也(シンシナティ)らが、最終予選の途中から抜てきされ、融合が進められた。しかし、最初に大島の融合に失敗したこともあり、当時は最終予選の敗退が現実味を帯びたのも確かである。やはり「絵に描いた餅」? もう少しリスクを抑え、スムーズに融合できないものか。 最大のネックは、8月に五輪を終えた後、9月の最終予選スタートまで親善試合が1試合も組めないことである。五輪世代をスムーズに抜てきするなら、A代表との融合は五輪の以前から始め、手応えを得なければならない。つまり、この半年のうちに森保監督が、やや強引に進めてきたコパ・アメリカやE-1選手権の中性的なチームは東京五輪だけでなく、W杯最終予選を見据えた「種まき」でもあった。 二兎追う者が、二兎ともに得る。そのための兼任監督。6月のコパ・アメリカ以降は、A代表と五輪代表の間で選手の行き来が活発になっており、森保ジャパンは思い切ったトータルの成長戦略を進めてきた。その考え方は面白い。 ところが、である。実際のチーム作りは、描いた理想の通りには進んでいない。実践段階では多くの問題を抱え、ともすれば絵に描いた餅になりかけているのが、正直なところではないか。 なぜか。それは二つ目の兼任メリットが、十分に生きていないことに起因する。 「複数のチームが一貫性を持ち、同じ哲学、同じコミュニケーションで指導できる」ことが兼任のメリットであるはずだが、その実感がない。むしろ、11月のU-22コロンビア戦、12月のE-1選手権、1月のU-23アジア選手権と続く中で、選手の方からは「毎回『初めまして』で難しさがある」「毎回イチからのやり直しになる」といった声が漏れてくる。はて、兼任監督がもたらす「一貫性」のメリットは、どこへ行った。 一貫性のメリットがあまり感じられないのは、A代表で4バック、五輪代表で3バックと、異なるシステムを用いていることもあるが、より大きいのはチームマネジメントだろう。森保監督はチーム戦術の構築について、あまり細かい指示をせず、選手の自立を促し、自ら対応力を発揮することを求めてきた。これは重要なポイントだ。 監督の中に答えはあっても、それ以上に、選手の中から主体的に導かれる答えを待つ。試合中の指示も「サイドに開け!」ではなく、「サイドに開いてはどうか?」といった提案だ。これは「森保式」というより、西野朗(あきら)前監督から受け継がれた手法でもある。 焦(じ)れったく、時間のかかるやり方ではあるが、このように培って完成した組織は、各自が進んでチームに関わろうとする「選手自立型」「全員参加型」の性格を備えることになる。近年はベンチを含めたチームの一体感が重視されているが、森保監督はそれを「西野式」に学び、戦略的に目指している。2019年11月、サッカーW杯アジア2次予選 キルギス戦を控え、練習に臨む森保一監督(中央)=ビシュケク(蔵賢斗撮影) ただし、こうしたチームの成長は実践的であり、経験的だ。試合を行う中でトライ&エラーを繰り返し、選手からさまざまなアイデアを引き出さなければならないが、それはその場にいた選手しか共有できない。しかも兼任体制により、A代表と五輪代表で選手の行き来を増やしているため、「初めまして」が頻繁に起き、選手依存の連係は毎回ゼロに戻ってしまう。 つまり、兼任のメリットがケンカしているわけだ。選手の行き来を活発に行える一方、一貫した森保監督の指導メソッド「選手自立型」は時間と体験を要するため、上記のように連係面で問題を抱えやすい。兼任のメリットが実感できなければ、当然デメリットばかりが残ることになる。「真の目的」は成し遂げられたか もちろん、決め事がゆるいのは仕方がない。競争と発掘のフェーズでチームを固め過ぎると、新しい選手が入りづらくなるからだ。 とはいえ、あまりにも決め事がなく、最低限のグループ戦術すら連係を取れなければ、選手を見極める基準は1対1やフィジカルばかりだ。グループでどう攻め、グループでどう守るか。サッカーの重要な能力を見極める視点が欠けてしまう。それは発掘のフェーズとしても問題があった。 最低限の連係すら怪しいという不安は残るが、ともかく東京五輪の発掘フェーズはほぼ終了した。3月の代表活動からは堂安、久保建、冨安、中山雄太(ズウォレ)、板倉、前田大然(だいぜん、マリティモ)、三好康児(アントワープ)といったU-23欧州組に、場合によっては大迫勇ら24歳以上のオーバーエージ枠も加わり、チームの様相ががらりと変わる。強化フェーズは仕上げの段階、「本番のチーム作り」に移行する。 代表は登録メンバーが固まってからが本当のチームだ。競争が終わり、全てのライバルが真のチームメイトになる。チームの質は総合的に変わり、対戦相手も決まることで、詳細な戦術の積み上げも始まる。 ある意味、この半年間は、大胆に競争と融合のフェーズを進めたことで、兼任体制では最も結果を出しづらい時期だった。とはいえ、この期間の真の目的は「選手の成長」である。それは成し遂げられたのか。 正直なところ、種まきが成功したかどうかはよく分からない。どんなに見つめても、ただの地面。芽が出るかどうかは予測できない。 また、これからのこの仕上げフェーズでも、「兼任」のメリットとデメリットは差し合いになるだろう。 報道されている通りなら、3月の代表活動は森保監督が五輪代表に専念し、堂安、冨安、久保建、大迫勇らが招集される。五輪代表にとっては最高の強化機会だ。2019年6月、エルサルバドルに勝利し、堂安(左)とタッチを交わす久保建。中央は冨安=ひとめぼれスタ しかし、一方のA代表は監督と主力数人を欠き、W杯2次予選の残りを戦わなければならない。おそらく6月の代表活動も同様だろう。 仮に五輪代表の試合が今ひとつで、A代表もミャンマーやモンゴルにまさかの敗戦を喫することがあれば、「兼任」への批判は一層強くなるだろう。逆に素晴らしい成果を見せれば、風向きは変わるかもしれない。 二兎追う者は、二兎ともに得るのか、それとも、一兎をも得ずか。これから森保ジャパンは緊張感漂う、収穫の時期を迎える。

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    アベノミクスにもよく効く「パンデミック」の教訓

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) 新型コロナウイルスの脅威が高まっている。中国本土では、ウイルスによる肺炎の死者が81人、患者数は2744人になり、世界中では3千人に迫る規模で増加している。武漢市当局者の発言や医療従事者の証言によれば、市内ではさらに1千人規模で感染者が増える可能性があり、感染力自体も高まっている。 既に日本でも患者が確認されており、今後も社会的な防疫体制の強化が必要だ。日本政府はチャーター機を手配するなどして、武漢からの邦人の全員帰国を実現しようとしている。 ただ、新型コロナウイルスに関して、これまでの日本政府の広報体制は十分なものとはいえない。画像を参照してほしいが、27日早朝の厚生労働省のホームページには、季節性のインフルエンザに対する注意喚起程度しかない、といっていい状況だ。参考として紹介している国立感染症研究所の情報も、単なるコロナウイルスの種別解説しか記載がない。 他方で、インターネット上では、国内外の報道や医療関係者の具体的な発言を無数に確認することができる。もちろん、その中には虚偽の伝聞や、過剰な煽りも多い。 日本政府の情報発信のレベルの低さは、すなわち危機管理力の決定的な遅れだ。社会的な疫病対策には、病そのものへの対応と同時に、社会的な不安を抑制する仕組みも必要だろう。その点で、日本政府の情報発信はまさに稚拙以外の何物でもない。 NHKでは、世界保健機関(WHO)の発表を紹介し、ウイルスの感染力が患者1人から2・5人(以前は1・4人)に拡大していること、致死率は3%であることを伝えている。感染力や致死率は、2003年に流行した重症急性呼吸器症候群(SARS)に比べれば格段に低い。ただし、多くの医療関係者は、人から人に感染していく中での変異を懸念する声も多い。 昨夏大きな注目が集まった日韓の輸出管理問題では、当時の経済産業相だった自民党の世耕弘成参院幹事長が積極的にツイッターでマスメディアの報道の問題点や、制度自体の詳細を解説して、国民の誤解を防ぐ役割を果たしてきた。河野太郎防衛相も、外相時代から始めた外交・防衛活動を現職まで続けることで、リアルタイムに政府の取り組みを知らせることに成功したといえる。 だが、今回の件では、加藤勝信厚労相の積極性は皆無だ。上述の通り、厚労省の広報もネット時代に対応できておらず、全くダメだ。車両の通行が制限され閑散とする中国・武漢市内=2020年1月26日(共同) 繰り返すが、社会的な防疫体制に、今はネットによる情報発信が極めて重要だ。その意味で、政府の現時点の対応は稚拙なものである。 最近の報道では、SARSとの比較が目立つが、新型ウイルスの猛威によって世界中で多くの人命が損なわれたのは、約1世紀中では1918年のインフルエンザのパンデミック(世界的大流行)だろう。そのときの経験から学べる教訓は多い。パンデミックの「教訓」 米歴史学者、アルフレッド・W・クロスビー氏の『史上最悪のインフルエンザ』(みすず書房)や、最近惜しくも亡くなられた歴史学者の速水融氏『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』(藤原書房)で、当時世界的規模で流行したことが実証的に明らかになりつつある。当時、日本では45万人、米国でも67万5千人、全世界では推計4千万人の死者が出た。 交通網の整備や人口の集中度合いなどが、致死率を高めることにつながった。現代は、1918年当時とは比較にならないほど都市化と国際的な人的交流の発展が進み、新型感染症の脅威はさらに高まっている。なお、ウイルスの基礎知識やパンデミックの定義など初歩的な解説としては、BBCの動画ニュースを参考にするといいだろう。 18年のインフルエンザと今回を比べる上で、ミシシッピ大のトマス・A・ガレット教授の論文「パンデミック経済学:1918年インフルエンザと今日の含意」(2008年)がいまだに役立つ。ガレット氏の論文を参考にして、重要な論点を列挙しておく。1)1918年のケースでは、都市部と地方で致死率に大きな違いがあり、都市部の方が致死率は高かった。しかし今日では、交通網の整備などで都市部と地方での有意な違いはないかもしれない。2)18年当時では、低所得階層で特に致死率が高かった。今回の武漢のケースでも貧困層が最も高い罹患(りかん)のリスクに直面しているとの指摘もある。3)18年当時では、都市部住民は比較的医療サービスを受けやすい環境にあったが、医療サービスの供給を過度に超える需要が存在することで、かえってインフルエンザの集団発生に貢献してしまった。例えば、狭い医療空間の中での患者や医療関係者が直面する場合である。報道によれば、武漢の一部の医療機関では、患者たちの過密する状況があるようだ。4)18年当時では、保険に加入していた人たちは経済的負担をある程度回避できたが、この保険でも低所得者層には致死率の面で、高所得者層に比べて不利だった。医療保険は正常財であり、所得が大きければより購買量が増える財だからだ。5)18年当時では、米国のフィラデルフィアとセントルイスは対照的だった。前者はカーニバルで多くの人が特定地域に密集し、全米で最もインフルエンザの脅威に晒された。対して、セントルイスでは地域を早急に封鎖することで、インフルエンザの波及を食い止めた。春節中の国外旅行を事実上禁止した中国政府の動きはこの教訓からいって妥当だったかもしれない。武漢などの「都市封鎖」もこのときの経験を参照したのかもしれない。 過去の教訓として重要なのは、ガレット氏が「パンデミックの経済学」で述べているように、公的機関の協調だ。これら政府の協調が失敗しないためには、人々の公的機関の情報に対する信頼性が何よりも鍵になる。 ただし、経済成長率や人権抑圧の状況でもそうだったように、中国政府が提供する情報は多くの人たちに疑問視されてきた。この信頼性の欠如が、今回の新型コロナウイルスの事例でもネックになりそうだ。日本政府の情報発信の問題については先に述べた通りである。 安倍晋三政権の危機管理能力が残念な点は、新型コロナウイルス対応への情報発信だけではない。経済問題に関しても深刻である。核心にあるのが、消費増税による悪影響を低く見積もる姿勢だ。これは政府だけではなく、日本銀行を含めた体質でもある。 先日閉幕した世界経済フォーラム(WEF)年次総会(ダボス会議)の記者会見の席で、日銀の黒田東彦(はるひこ)総裁が、2019年10~12月までの経済成長率がマイナスになるとの見方を示した。国内総生産(GDP)統計(速報値)自体は2月17日に公表される予定だ。マイナス成長の主因は相次いで日本に上陸した大型台風の影響だという。金融政策決定会合後の会見で質問する記者を指名する日銀の黒田東彦総裁=2020年1月21日(酒巻俊介撮影) 大型台風の影響が深刻で今も爪痕が残ることは理解できる。だが、それは10月に集中していたはずだ。同じく10月に実施された黒田氏の発言は、消費税率10%引き上げの影響をできるだけ大きく見せないように終始しているように思えた。これは悪質な欺瞞である。 岩田規久男前副総裁は『日銀日記』(筑摩書房)の中で、黒田氏が14年の消費税率8%引き上げの最大の功労者=戦犯であると指摘している。岩田氏も同僚であったので、慎重な書き方ではあるが、一読すれば趣旨は明瞭だ。防疫も経済も協調なし? 日銀による金融緩和政策の効果を大きく削いでしまったのは、金融政策の責任者である黒田氏自身にあった。財務省出身という黒田氏のキャリアが、消費増税を推進するスタンスに大きな影響を与えているのだろう。 ここで、金融緩和政策と消費増税の関係を比喩的に説明しよう。大胆な金融緩和政策を採用する「アベノミクス」以前は、駅前のロータリーをそれなりの速いスピードでぐるぐる回るだけでしかなかった。 これは金融緩和に否定的な人たちがよく用いる形容であるが、「マネーをじゃぶじゃぶ」しても、デフレ停滞から一向に脱することができなかったことを意味している。つまり、どんなにスピードを上げても駅前のロータリーから出られないのだ。 アベノミクスはこの政策スタンスとは違う。まず目的地を設定して、高速道に乗って近くのリゾート地に向かうことを決めている。それがインフレ目標2%であり、目標を通じた雇用や経済成長の安定化だった。車は当初は高速道を80キロくらいのスピードで順調に運転していた。これが2013年終わりまでのアベノミクスの根幹である金融緩和政策の姿だ。 だが、2014年4月の消費増税は、高速道で同じスピードのまま猛烈な向かい風に当たることになる。当然にアクセルを踏む力が同じままであれば、速度は大幅にダウンする。 ただし、とりあえず進むことは進んでいる。雇用の持続的改善の主因は、目的地を見据えた緩和の継続にある。これを「アベノミクスは史上最悪の緊縮政策」「消費増税で日本経済ハルマゲドン」論者たちが見落としていることだ。 もちろん、強烈な向かい風があれば、アクセルを踏み込んで80キロに上げればいいのだが、そもそも、消費増税という向かい風を政府自らが起こす必要はないはずだ。ところが、今回の増税でもその手法を採用している。 防疫体制もそうだが、国民の生命は経済政策によっても保障されている。その経済政策の点から、政府と日銀は国民に対して、長期停滞という深刻な病に再び陥ることを強要しているともいえる。新型コロナウイルスに関連した感染症対策に関する関係閣僚会議で発言する安倍晋三首相。手前は加藤勝信厚労相=2020年1月24日(春名中撮影) 新型の感染症対策には、公的機関の協調が必要であり、その核は公的機関の発信する情報の信頼性にあると指摘した。経済対策でも同じことだ。 黒田総裁や政府からは消費増税の悪影響をできるだけ過小に見せかける発言しか聞こえてこない。これでは、国民の信頼を得ることはできないだろう。まずは、安倍首相自らがインフレ目標2%へのコミット(関与)を再度強調することが必要であろう。

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    ちぐはぐ経済再生で日本も染まる『ジョーカー』の世界

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) 映画の祭典、第92回米アカデミー賞の各賞候補が先ごろ発表された。日本でも話題になっている韓国映画『パラサイト 半地下の家族』や動画配信大手、ネットフリックスのオリジナル映画が作品賞にノミネートされた。 特に「ジョーカー」は最多11部門で候補に挙がり、改めて注目を集めている。『ジョーカー』は暴力シーンが多いため、R指定(日本ではR15+)を受けたが、そのハンディを乗り越えて、世界興行収入で1100億円超、同時に封切られた日本でも50億円を突破する大ヒットとなっている。 題名となったジョーカーは、アメリカンコミックや映画、アニメなどでなじみ深い正義のヒーロー、「バットマン」最大の敵役の名前である。この映画ではバットマンは出てこない。ある男がなぜ凶悪なジョーカーに変貌したかが描かれている。しかし、単純な善悪の構図を描いていないのが、この映画の最大の魅力だ。 名優ホアキン・フェニックスが演じるのは、障害のある売れないコメディアン、アーサー・フレックで、普段はピエロに扮装(ふんそう)し、小規模店舗の宣伝などをして日銭を稼ぐ男だ。年老いた母親を介護しつつも、職場で疎外され、付き合う人はほとんどいない。アーサーはまさに孤絶の生活を送っていたのである。 この映画は評価が分かれており、それも「絶賛」か「嫌悪」かという両極端に集中している。おそらくこの孤絶した境遇の彼がジョーカー、つまり殺人を犯す非道の人物に変わりながらも、やがて街で暴動を起こしている群衆のヒーローとなっていくことに、評価が割れる理由が求められるだろう。 ところで、映画の中で路上で暴動を起こしている人たちは、富める者やその代表としての政治家たちに反抗していた。米メディアでは、『ジョーカー』で描かれている世界は現実世界の「写し絵」であり、同時に現実世界にも影響を与えていると解説しているものもあった。 例えば、南米チリで暴動が起きたことは記憶に新しい。地元の代表的な新聞社が入っている高層ビルが炎上するなどの被害があった。 チリでの暴動やデモは、一向に解消されない経済格差や失業の増加などを背景にした若者中心の過激な抗議であった。このとき、多くの若者たちが『ジョーカー』に触発されたピエロのメークをしてデモに参加していたことに、米国のメディアが注目したわけである。2019年9月、第76回ベネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞した「ジョーカー」のトッド・フィリップス監督(左)と主演のホアキン・フェニックス(ロイター=共同) 確かに、『ジョーカー』に描かれた暴動と現実は限りなく接近している。経済格差や貧困、社会での疎外からの自由を訴えた大衆の抗議活動は過激なものになった。チリだけではなく、同じく南米のベネズエラ、「黄色いベスト」運動のフランス、そして「一国二制度」の危機を訴える香港のデモなど、世界では「ジョーカー的」ともいえるデモの動きが加速しているようにも思える。トランプと左派政治家の共通点 特に注目したいのは、やはり経済格差や経済的困窮を背景にした大衆の抵抗だ。この動きを後押しする政治勢力も欧米を中心に活発である。 大統領選イヤーを迎えた米国では、サンダース上院議員が民主党大統領候補として有力な位置につけている。また、同党急進左派のオカシオコルテス下院議員も若者を中心に人気を集めている。 この2人は大衆の貧困や経済格差を解消する政策を特に打ち出し、いわゆるポピュリズム(大衆迎合主義)政治家として知られる。ポピュリズムは大衆の支持のある政策を志向することで、一般的にはマイナスのイメージが付きやすい。だが、現代のポピュリズムの背景には、社会の分断や対立を緩和する動きもあり、一概に否定すべきではないと思う。 特に、今列挙した代表的なポピュリズム政治家たちは、経済政策の観点から共通した立場を採っている。それを「反緊縮政策」という。 これはもちろん、緊縮政策の対抗軸として打ち出されたものだ。「反緊縮政策」の目的は雇用を回復し、経済成長の安定化を図ることである。 上記のサンダース、オカシオコルテス両議員ともにその政治信条は左派的だ。だが、雇用を重視する点においては、真逆の政治的な立ち位置のトランプ大統領も同じである。2020年1月21日、世界経済フォーラム年次総会(ダボス会議)で笑顔を見せるトランプ米大統領(AP=共同) トランプ政権の経済政策は、ラストベルト(衰退した工業地帯)や農村部の利害が中心だと見られることがあるが、筆者はそうは考えていない。トランプ大統領は、国内的には連邦準備制度理事会(FRB)に積極的な金融緩和を求め、対外的には中国を筆頭に2国間の貿易交渉を迫っている。 これらの政策は、ともに米国の雇用を回復させることを狙っていると筆者は見ている。その意味では「反緊縮」であって、雇用重視では従来のリベラル型の経済政策だと思う。 次の図では米国の労働参加率の動向が描かれている。この図からもわかるように、リーマン・ショックによる労働参加率の落ち込みから回復していない。図:米労働参加率 おそらくトランプ政権の当面の目標は、この労働参加率がリーマン・ショック前まで戻り、さらに賃金などが安定的に上昇していく過程を想定しているに違いない。『ジョーカー』で描かれた情景は、あたかもトランプ政権下の経済状況に対する批判としても解読できる。ある意味で、映画(虚構)と現実には大きなズレがある、と筆者は思っている。「緊縮」「反緊縮」政策の違い ところで、肝心の緊縮政策と反緊縮政策の中身についてもう少し詳しく説明したい。 緊縮政策は、不況もしくは不況から十分に回復しない段階で、財政政策では増税、公的予算削減など政府から出るお金を引き締める政策だ。景気対策のもう一つの軸である中央銀行が実施する金融政策も、財政政策に合わせてお金を引き締めるスタンスになる。 不況のさなかに、なぜ政府や中央銀行はお金を絞る政策を採用するのか。緊縮政策を主張する人たちは「清算主義」という考えにとらわれている。 不況によって、経営がでたらめな企業が倒産したり、怠けて技能を向上させない労働者が職を失うことがあるが、この状況を経済の非効率的なものが「清算」されたと考えるのだ。本来であれば、企業は困難に打ち勝つアイデアや組織作りに励む。労働者も、職を得るために自らの技能を磨き、より高度な教育を受けようとするだろう。 このような民間部門の自助努力が経済全体をより高みに持ち上げる、と緊縮政策を支持する人の多くは考えている。「破壊なくして創造なし」なのである。 反対に、反緊縮政策は不況もしくは不況から十分に回復しない段階で、減税や公的予算の増加といった財政拡張政策や、金融政策は出来るだけお金を出すというスタンスを支持する。反緊縮政策を行わないと、民間の自助努力だけでは、いつまでも経済はよくならないと考えている。これは「合成の誤謬(ごびゅう)」としても説明することが可能である。 例えば、不況においては、商売の売り上げも落ち込んでしまう可能性が高まる。多くの経営者たちはやむを得ず、従業員の給料をカットしたり、新規採用を控えたり、さらにはリストラを断行するだろう。不況下では、致し方がない経営者の合理的な態度だといえる。この姿勢を批判しても始まらない。 ただ、不況の中で、リストラに励む経営者が多く出始めたらどうなるだろうか。給料がカットされたり、職を失った人たちは、なおさらお金を使わなくなる。つまり、経済全体では不況がさらに加速してしまうのだ。12月の日銀短観では、企業の景況感の悪化が鮮明になった=2019年12月、東京都中央区の日銀本店 本来、不況下では正しい個々の経営努力も、経済全体では不況をさらに深めることで、かえって個々の経営者や労働者をさらに苦境に陥らせる。これを「合成の誤謬」というのだ。 先の緊縮政策では、不況下でのリストラはむしろ肯定的だったが、反緊縮政策では社会的な害悪そのものになる。民間の経営者や労働者の努力ではどうにもならず、むしろ景気をさらに悪化させかねない。そのため、政府や中央銀行が積極的な景気対策を行う必要が出てくる。これが反緊縮政策の考え方の基本である。ノーベル賞学者も批判 「不景気になれば、政府は景気対策をしているではないか?」と多くの読者は思われるかもしれない。だが、少しでも考えれば、現実はそうとも言い切れないことがわかる。 現在の日本経済は、米中貿易戦争の影響で落ち込み始めている。このタイミングで、昨年10月に消費税率の10%引き上げを実施した。これでは、世の中にお金が出回らない緊縮スタンスになってしまう。ただし、日本の経済政策が総じて緊縮志向かといえば、そうとは言い切れない。実にちぐはぐな対応をしているといえる。 1月20日に通常国会が召集されたが、安倍晋三首相は衆参本会議で行った施政方針演説で、「経済再生なくして財政健全化なし」という基本方針を示した。経済再生が最優先されるのだから、日本経済が不況に陥らないことが第一となるはずだ。 だが他方で、あれほど強調していたデフレ脱却が後景に退いてしまった。日本のインフレ率は、まだ目標の2%のはるか手前だ。景気の下降は既に一昨年の段階から進んでいる。経済の先行きを示す景気動向指数(CI、先行系列の6カ月前・対比年率)を参照すると、2018年7月から経済の先行きのボリューム感がマイナスに転じ、それは徐々に拡大しながら今日に至っている。 今国会では、補正予算案や過去最大の予算が組まれようとしているが、少なくとも景気下降を長期間放置していたことは明白である。その中で景気に悪影響を与える消費増税を実行したのだから、経済再生最優先を採用しているとは言い難い。 ただし、安倍政権の経済政策を全て否定するつもりなど筆者にはない。「今の安倍政権は史上最悪の緊縮政権だ」と発言する奇妙な人たちがいるが、全くおかしな話である。それほど厳しい緊縮政策なら、そもそも補正予算も編成しない。 よほど政治的なイデオロギーで目が曇っていなければ、雇用の改善は明白である。失業率は政権発足時の4・4%から2・4%に下がり、就業者数も400万人も増加した。失業率は自殺者数と連動していることが知られている。失業率の大幅な低下と自殺対策への予算増加の貢献で、昨年はついに自殺者数が2万人を下回った。 この数字を虚構だとして批判するおかしな人たちがいるが、経済評論家の上念司氏がフェイスブック上で痛烈に批判しているのでぜひ参照されたい。つまり、安倍政権の経済政策は、元々は反緊縮政策なのだ。日本銀行の大胆な金融緩和はそのコアを成す。反緊縮は雇用を守るだけではなく、人命も守るのである。衆院本会議で施政方針演説に臨む安倍首相。左は麻生財務相=2020年1月20日 だが、既に指摘したように、今の状況が実にちぐはぐしていることは確かだ。最近、「文春オンライン」で、ノーベル経済学賞を受賞したポール・クルーグマン米ニューヨーク市立大教授が、消費増税は緊縮財政だとして、インフレ目標に達して好景気になるまで待たなかった安倍政権の経済政策を「首尾一貫しない」と批判しているのは、この点を突いている。もちろん、クルーグマン教授の発言を持ち出すまでもなく、消費増税と「アベノミクス」は整合的ではない。 経済政策で首尾一貫せずに、失業率の再上昇などで長期停滞に完全に戻ってしまえば、『ジョーカー』のような極端な思想に振れた人々が過激な活動を始めてしまうかもしれない。既にネット上では、全否定か全肯定かでしか考えられない人たちを多く見かける。それを受け入れる悪しきポピュリズムの動きも政治の中で見られる。その動きの本格化を防ぐには、まっとうで首尾一貫した反緊縮政策を推し進めるしかないのである。

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    驚異の記録連発、厚底シューズ「禁止」にモノ申す

    酒井政人(スポーツライター) エチオピアの英雄、アベベ・ビキラは1960年のローマ五輪を裸足(はだし)で走り、2時間15分16秒2の世界記録で金メダルに輝いた。その4年後、東京五輪ではシューズを履いたアベベがベイジル・ヒートリー(英国)の記録を1分44秒も塗り替える2時間12分11秒2の世界最高記録で再び金メダルを獲得した。 4年間で約3分のタイム短縮は「シューズ」というギアの影響が多分にあったことだろう。当初、アベベはシューズの使用を嫌がっていたというが、現在は裸足よりもシューズを履いた方が速く走れるということが常識になっている。 2度目の東京五輪を迎えようとしている現在。今度はナイキが仕掛けた厚底シューズが「常識」を覆している。 これまでレース用で使うスピードタイプのシューズは「薄くて軽い」が常識だった。シューズが100グラム軽くなると、マラソンのタイムが3分近く縮まるという研究データもある。余計な機能をそぎ落として、1グラムでも軽くすることで、エネルギー効率を高めたのだ。 その流れの中で、ナイキは軽量化以上に、推進力を得られやすくすることと着地のダメージから脚を守ることにシフトチェンジ。反発力のあるカーボンファイバープレートを、航空宇宙産業で使う特殊素材のフォームで挟むという「厚底シューズ」を完成させた。 『ズームX ヴェイパーフライ ネクスト%』の踵(かかと)部分の厚さは37ミリ。薄底シューズの3倍近くある。それでいて重量は28センチで片足190グラムと薄底シューズとさほど変わらない。東京都千代田区のスポーツ用品店のランニングシューズ売り場に展示されたピンク色のナイキの厚底シューズ 速さの秘密は硬質なカーボンファイバープレートにある。地面を蹴る直前に湾曲して、元のかたちに戻るときに、グンッと前に進むのだ。加えて、プレートを挟んでいる「ズームXフォーム」にも最大85%のエネルギーリターンがある。その二つの効果が従来にはない「速さ」と「持久力」を可能にした。厚底は規定に抵触しているか その結果、ナイキの厚底シューズは世界のメジャーマラソンを席巻。時計の針も大きく動かした。 2018年9月のベルリンではエリウド・キプチョゲ(ケニア)が従来の世界記録を1分18秒も短縮する2時間1分39秒という驚異的なタイムをマーク。昨年10月のシカゴではブリジット・コスゲイ(ケニア)が従来の女子世界記録を一気に1分21秒も塗り替える2時間14分4秒をたたき出した。 ナイキの厚底シューズを履いたランナーたちが好タイムを連発していることに、一部で「疑惑の目」が向けられている。1月15日、複数の英国メディアが、ワールドアスレチックス(国際陸連)が新規則でナイキの厚底シューズを禁止する可能性が高いと報じたのだ。現在、専門家による調査が行われており、1月末にも結果が公表され、3月の理事会で何らかの回答が出るという。 即刻禁止ということはなく、少なくとも3月までは従来通りに使用できるし、禁止されない可能性もある。 国内では、マラソングランドチャンピオンシップ(MGC)ファイナルチャレンジが男女とも2レースずつ残っている。男子は3月1日の東京マラソンと同月8日のびわ湖毎日マラソン。東京五輪代表を獲得するには、日本陸連の設定記録、2時間5分49秒を突破しなければならない。設定記録は大迫傑(ナイキ)が厚底シューズで打ち立てた日本記録を1秒上回るタイムだ。 使用率が8割を超えた箱根駅伝と同様に、東京とびわ湖でもナイキの厚底シューズを着用するランナーが多いと予想する。2019年1月2日、箱根駅伝往路で一斉にスタートする選手たち。大半が厚底シューズを履いている=東京・大手町 ワールドアスレチックスは、「使用される靴は不公平な補助、アドバンテージをもたらすものであってはならず、誰にでも比較的入手可能なものでなければならない」という規定を設けている。ナイキの厚底シューズに使用されているカーボンファイバープレートは他メーカーでも採用されており、同シューズは一般発売されている。現状、ナイキの厚底シューズが規定に抵触しているとは思えない。 ただし、ナイキは「厚さは速さだ」というキャッチフレーズのもと、ソールの厚さを武器にする新戦略を推し進めてきた。現在発売している『ズームX ヴェイパーフライ ネクスト%』は、最初の厚底シューズである『ズーム ヴェイパーフライ 4%』と比べて、ミッドソールのフロント部分が4ミリ、ヒール部分が1ミリ厚い。12年前の騒動が重なる 昨年10月にウィーンで行われた非公認レースでは、キプチョゲが「超厚底」ともいえるプロトタイプのシューズで42・195キロを1時間59分40秒で走破している。ソールを厚くすることで、エネルギーリターン(反発力)を高めているのだ。 では、ナイキの厚底シューズにどのような「制限」が加えられるのか。英国メディアの中でも論調が異なっていて明確ではないが、ソールの「厚さ」が規制されるか否かという問題になるだろう。 ソールを厚くすることでエネルギーリターンを増やすことができたとしても、その分、シューズは重くなり、安定感も失われていく。ソールを厚くすれば、速く走れるという単純なものではない。ナイキの厚底シューズは企業努力の賜物(たまもの)だ。 もし、ソールの厚さに制限が加えられることになり、これ以上「厚さ」を増すことができなければ、この2~3年に起きたような好記録の連発はなくなるだろう。メーカーは数年後を見据えて商品の開発をしており、突発的な「ルール変更」は大きな損害になる。 各メーカーがどのようなコンセプトで商品を作っているかは、メーカーが発表するまで分からない。ワールドアスレチックスは大手メーカーにヒアリングした上で、新規則を定める必要があるだろう。 今回の騒動は、12年前に競泳界で起きた英スピード社の高速水着「レーザー・レーサー」のときと似ている。レーザー・レーサーはその後、使用禁止となったが、多くの種目で当時樹立された記録を上回っている。「超厚底」シューズを履いて、特別レースで非公認ながら、マラソン史上初となる2時間切りを達成した男子マラソン世界記録保持者のエリウド・キプチョゲ=2019年10月、オーストリア・ウィーン(ロイター=共同) アスリートたちのスピードアップはテクノロジーの発展とともにある。厚底シューズが「制限」されることになったとしても、そのルール内でシューズは進化して、これからも記録はどんどん短縮されていくだろう。 ただし、アスリートたちがトップレベルでいられる期間は長くない。素晴らしいギアがあるならば、それを生かして、最大限のパフォーマンスを発揮したいと考えているアスリートたちは多い。彼らのささやかな願いは届くのだろうか。

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    『麒麟がくる』主人公、明智光秀のトンデモ俗説を論破する

    ずである。自治体関係者の方などは、観光客がどれだけ来るのか心配される向きもあろう。 とはいえ、前回の連載で、光秀が土岐明智氏の出自であることは、残っている史料では成り立ちがたいと指摘した。質の悪い史料を並べて論じたところで、まったく意味がないのである。実は、ほかにも光秀の出身地とされる場所が各地にある。 たとえば、『淡海温故秘録(おうみおんこひろく)』という17世紀後半に成立した史料がある。そこには美濃出身の明智氏が土岐氏に逆らって牢人となり、近江の六角氏を頼って佐目(滋賀県多賀町佐目)に逃げてきたと書かれている。それから2、3代後になって、光秀が佐目の地で生まれたというのである。 事実ならば、光秀の誕生地は滋賀県多賀町佐目ということになる。ちなみに、佐目の地には、「十兵衛屋敷の跡地」などの関連史跡があり、光秀に関する逸話・伝承の類が残っているという。「光秀佐目出身説」は、事実と考えてよいのだろうか。 結論を言えば、この説もまったく信憑性に欠けるといえよう。光秀の出身地については、この例に限らず、質の劣る後世の編纂物や系図などに書かれている。『淡海温故秘録』は、良質な史料とは言えない。地元に伝わる伝承の類などもあてにならない。 光秀の出身地であると胸を張って言いたいのであれば、一次史料(古文書や古記録の類)で立証すべきである。質の悪い二次史料を持ち出して言い出し始めると、キリがないのである。以下、似たような説を考えてみよう。 光秀が滋賀県にゆかりがあったという説は、ほかにもある。永禄9年10月20日の奥書を持つ『針薬方』(医薬書)には、光秀が田中城(滋賀県高島市安曇川町)に籠城していたとの記述がある。この一節を根拠にして、光秀が琵琶湖西岸部を本拠にしていたとの指摘もあるほどだ。はたして、それは本当なのか? 以下、この件については、土山公仁氏(「光秀を追う7」岐阜新聞2019年7月2日付)や太田浩司氏(『明智光秀ゆかりの地を歩く』サンライズ出版)の諸説をもとにして考えることにしよう。 『針薬方』とは、光秀が田中城に籠城していた際、沼田勘解由左衛門尉に口伝され、米田貞能が近江坂本(大津市)で写した。室町幕府15代将軍、足利義昭は国人衆に味方になるよう呼び掛けた手紙を書いたが、結局、出すことがなかった。『針薬方』は、その手紙の裏に書かれたものである。つまり、反古紙を利用したものだった。 沼田勘解由左衛門尉は熊川城(福井県若狭市)に本拠を置き、義昭に仕えていた。米田貞能は医術によって、足利義輝・義昭に仕え、のちに肥後細川氏の家老になった。貞能は永禄9年に義昭が越前に逃避行する際、同行した人物である。つまり、実在の人物が書写したことが明らかなので、良質な史料と言えるのかもしれない。昨年5月に建立された明智光秀公像=京都府亀岡市古世町(同市提供) しかし、疑問がないわけではない。永禄9年8月29日、逃避行中の義昭は矢島(滋賀県守山市)を出発し、9月7日に敦賀(福井県敦賀市)に移動した。10月になると、義昭は朝倉氏を頼るべく交渉を開始していた。そのような緊迫した情勢の中で、米田貞能がわざわざ敦賀から坂本へ移動し、医薬書を写す必然性があるのかということである。 加えて、光秀が田中城に籠城していたという史実を裏付ける史料は、ほかには存在しない。ましてや、琵琶湖西部を本拠にしたという指摘があるが、当該地域に光秀が発給した文書は1点も見いだせない。太田氏は、『針薬方』の記述内容が当時の近江の状況とかけ離れていると指摘する。一次資料に登場しない光秀 したがって、現在では『針薬方』の記述には疑問点が多く、史料性に疑問があると指摘されている。筆者も同意見で、光秀が田中城に籠城したというのは、まったく根拠に欠けていると言わざるを得ない。光秀が籠城したという事実は、そもそもなかったのではないか? 籠城したというならば、信頼できる史料で裏付ける必要がある。 ほかにも、光秀が越前に長らく滞在していた、あるいは越前朝倉氏に仕官していたという説がクローズアップされている。光秀が朝倉氏に仕えたとされる根拠史料は、後世の編纂物『明智軍記』『綿考輯録』である。以上の史料に基づき、ごく簡単に光秀が朝倉氏に仕えた経緯などを触れておこう。 光秀は父を失ってからのち、各地を遍歴していたという。そして、弘治2(1556)年に訪れたのが越前国であった。光秀は越前国に留まり、朝倉義景から500貫文(現在の貨幣価値で、約5千万円)の知行で召し抱えられたといわれている。これは、かなりの破格の待遇である。 光秀は義景から命じられるままに鉄砲の演習を行い、その見事な腕前から鉄砲寄子を100人も預けられたという。光秀の軍事に対する高い才覚は、義景に評価されたのだ。大抜擢といえよう。以上が、光秀が義昭に仕えるまでの流れである。 ただ、問題なのは、光秀がそれだけの人物でありながらも、朝倉方の一次史料や記録類に一切登場しないことである。上述したことが事実ならば、朝倉氏の重臣と言ってもいいくらいなので、非常に不審な点である。さらに、根拠となる『明智軍記』や『綿考輯録』は、史料としての問題点が非常に多い。それは、前回指摘した通りである。 とは言いながらも、光秀が越前と深い関係を有していたとの指摘もある。『武家事紀』所収の天正元年8月22日付の光秀書状(服部七兵衛宛)に基づき、一時期、光秀が越前で生活していた根拠とされている。 書状の内容を確認しておくと、「この度、『竹』の身上について世話をいただいたこと、うれしく思っております。恩賞として100石を支給します。知行を全うしてください」というものである(現代語訳)。平たく言うと、知行宛行状(ちぎょうあてがいじょう)である。 この史料からは、残念ながら光秀が越前にいたことを示す内容とは読めない。この史料は、単に光秀が「竹」なる人物の世話をしてくれた恩賞として、服部七兵衛に100石を与えたものである。光秀がかつて越前に滞在していたとは、一言も書いていない。 そもそも「竹」なる人物は不詳であり、光秀との関係も分からない。この史料は越前朝倉氏を討伐した関係で服部七兵衛に発給されただけで、少なくとも光秀が越前にいたという証拠にはならないだろう。なぜ、この史料が、光秀が越前にいたことを示す証拠になるのか、さっぱり理解できない。 ほかに光秀が越前にいたことを示す史料としては、『遊行三十一組 京畿御修行記』天正8年1月24日条に光秀の記述がある。 この史料は、天正8(1580)年7、8月に同念が東海から京都・大和を遊行(修行僧が説法教化と自己修行を目的とし、諸国を遍歴し修行すること)したとき、随行者が記録した道中記で、信頼できる史料であると評価されている。確かに、同史料は一次史料である。※写真はイメージ(ゲッティイメージズ) そこには光秀について「惟任方(明智光秀)はもと明智十兵衛尉といい、濃州土岐一家の牢人だったが、越前の朝倉義景を頼みとされ、長崎称念寺(福井県坂井市)の門前に10年間住んでいた」と書かれている(現代語訳)。極めて少ない一次資料 この史料を読む限り、光秀が美濃の土岐氏の一族で牢人だったこと、朝倉義景を頼って越前を訪れ、長崎称念寺の門前に十年間住んでいたことが判明する。長崎称念寺は福井県坂井市に所在する時宗(じしゅう)の寺院で、数多くの武将が帰依したという。 実のところ、光秀と長崎称念寺との伝承は、ほかにもいくつか残っている。『明智軍記』には、光秀が美濃から越前を訪れた際、妻子を長崎称念寺の所縁の僧侶に預けたと記している。所縁というほどだから、光秀は以前から越前と何らかの関りがあったのだろうか。その間、光秀は諸国をめぐり、政治情勢を分析したというのである。廻った国は50余国に及んだというが、怪しげな話である。 光秀が長崎称念寺の近くで寺子屋を開き、糊口を凌いでいたとの伝承すらある。牢人が寺子屋を開いた逸話としては、長宗我部盛親の例がある。慶長5(1600)年の関ヶ原合戦で敗北した盛親は、京都で寺子屋を開いた。 ただし、ほかにも挙げるとキリがないが、光秀と長崎称念寺の逸話を載せる地誌類は多いものの、いずれも裏付けとなる一次史料がない。また、越前における光秀関係の史跡もあるが、同様である。あくまで、伝承や口伝の類に過ぎない。 『遊行三十一組 京畿御修行記』における、光秀が長崎称念寺にいたという点は、地元の口伝などに基づいた記録と考えられる。同念は、直接光秀から聞いたのではなく、噂を書き留めたのである。記述内容が聞き書きなのは、確かである。したがって、同史料に基づき、光秀が越前にいたことの証左とするには疑問が残る。 そもそも朝倉氏の家臣であるならば、なぜ本拠の一乗谷ではなく、長崎称念寺の門前に住んでいたのか。根本的な疑問である。後述するが、先に取り上げた『針薬方』には、朝倉氏が用いた薬の記述があるので、光秀は朝倉氏の上級家臣だったという説すらある。※写真はイメージ(ゲッティイメージズ) 光秀の居住場所は、もう一つの説がある。一乗谷から峠を一つ越えた福井市東大味には、明智神社がある。神社は光秀を祭神として祀っており、光秀の屋敷址も残っているが、実際は小さな祠(ほこら)に過ぎない。 ここは一乗谷に近いが、朝倉氏の家臣は一乗谷に集住していたのだから、単なる伝承ではないのかと疑問が残る。朝倉家において、光秀の処遇はよくなかったから一乗谷に住んでいなかったのか。 ちなみに、朝倉氏に関する一次史料で、光秀のことを記した史料は1点もない。光秀が上級家臣ならば、なんで関連する一次史料が残っていないのか。光秀が朝倉氏の家臣だったという説を唱える人は、そうした疑問には答えていない。越前だけでもさまざまな伝承や口伝があるのだから、どれが正しいのか判然としない。 ところで、『明智軍記』巻一の成立には、時宗関係者の関わりがあったと指摘されている。この指摘を考慮すれば、すでに天正8年の段階において、時宗関係者の間で光秀が越前に在国していたという説が流布していたのかもしれない。 あるいは、光秀は長崎称念寺と何らかの深い関係があったのだろうが、その可能性があるとするならば、天正元年の朝倉氏滅亡後のことである。その際、光秀が越前支配の一端を担っていたのは確かである。光秀と時宗の関係は、さらに追究する必要がある。 もう少し、朝倉氏と光秀について考えてみよう。「光秀は医者だった」の疑問 先述した医学書『針薬方』には、「セイソ散」が「越州朝倉家之薬」と書いてある。「セイソ散」とは「生蘇散」のことと考えられ、中世後期に成立した医学書『金瘡秘伝下』には「深傷ニヨシ」と書かれている。合戦などで傷を負った武将が用いていたのだろう。 問題なのは「セイソ散」を「朝倉氏の秘薬」などと紹介していることだ。セイソ散は一般的に知られていた薬であり、特別なものではなかったのではないか。「越州朝倉家之薬」は、「朝倉氏が持っていた薬(=セイソ散)」程度の意味だろう。「セイソ散」が「朝倉家の秘薬だった」という指摘には、首を傾げざるを得ない。 当時、一乗谷には医師が滞在していた。これは事実である。しかし、それをもって、朝倉氏が薬剤を独自に開発しており、医学がかなり普及していたとは、大きな論理の飛躍があろう。これでは、まるで現代の製薬会社であり、病院みたいなものである。当時、そうしたことがあったのか、極めて疑問である。 当時の医学は今のように外科、内科などに分かれていたわけではない。それらはおおむね民間療法レベルで、薬草などを調合して服用するのが一般的だった。戦国武将の場合は合戦に出陣し、ケガを負うリスクが高いのだから、民間療法レベルの医学知識は普及していたはずである。庶民も同じだろう。 『針薬方』の記述をもって、「光秀は医者だった」「光秀は越前で医学を学んでいた」「光秀は朝倉氏の上級家臣だった」などの見解があるが、いずれも根拠薄弱である。一次史料で裏付けられない。単に『針薬方』にあらわれたキーワードを拡大解釈したに過ぎない。しかも、すでに触れた通り、『針薬方』は疑問が多い史料である。 したがって、光秀が朝倉義景に仕えたという説には大きな疑問があり、この点を信頼できない史料に拠って鵜呑みにすると極めて危険である。仮に百歩譲って、光秀が越前に在国していたにしても、朝倉氏に本当に仕えていたのかは極めて疑わしい。 「光秀の出自が近江だった」「光秀は越前朝倉氏に仕えていた」「光秀は医者だった」といった説は、①信頼性に乏しい二次史料に依拠した説②疑わしい史料記述を拡大解釈し、論理の飛躍をした説、と指摘することができよう。あるいは、自説を有利にするための「結論ありき」といえるかもしれない。大津市の坂本城跡に立つ明智光秀像=2007年9月(安元雄太撮影) 今後も光秀の出自や前半生、あるいはその他のことについて、さまざまな説が出るだろう。それらは、注目を浴びたいがための俗説に過ぎないのではないか。そうした説に接した際には、根拠となる史料の性質、そして史料の拡大解釈や論理の飛躍がないのか、注意を払いたい。新説は、泉が湧くように出てこないものである。※主要参考文献渡邊大門『明智光秀と本能寺の変』(ちくま新書)渡邊大門『光秀と信長 本能寺の変に黒幕はいたのか』(草思社文庫)渡邊大門『本能寺の変に謎はあるのか? 史料から読み解く、光秀・謀反の真相』(晶文社)