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    『10万個の子宮』に思う「デフレ不況論争」20年の苦闘

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) 医師でジャーナリストである村中璃子氏の新刊『10万個の子宮』(平凡社)は、若い産婦人科医が口にした衝撃的な問いから始まる。村中璃子氏の著書『10万個の子宮』(平凡社) 「僕たち日本人の医者だけ、あとどのくらい子宮を掘り続ければいいんですか?」 「子宮を掘る」とは、子宮を摘出することを意味する。日本では毎年、子宮頸(けい)がんで3千人余りが命を落とし、そして1万の子宮が摘出されている。この子宮頸がんを予防するワクチンが存在し、日本でも2013年4月に定期接種化が行われた。日本政府は積極的な接種勧奨政策を採用していた。関係機関や医学界の協調、また地方自治体の接種費用補助制度の貢献などによって、定期接種化以前でも日本では約70%の接種率を実現していた。この定期接種化によってさらに接種率の向上と国民のワクチン利用への理解を促すことが期待されていた。 だが、定期接種化からわずか2カ月後に、政府は「積極的な接種勧奨の一時差し控え」という急激な政策変更を行った。もちろん現在も子宮頸がんワクチンの定期接種は行われている。だが、この急激な政策変更によって接種率は大きく低下してしまい、なんと各自治体の接種率が軒並み1%以下に落ち込んでしまった。筆者によれば、まさに「事実上の接種停止状態」だという。 この政府の急激な政策変更の背景は、接種後にけいれん、歩行不可能、慢性的な痛みや神経の異常を訴える人たちが続出したことに加え、そしてテレビや新聞などのメディアが大きくこの事態を報じたことにある。村中氏の『10万個の子宮』は、この子宮頸がんワクチンをめぐる「事実上の接種停止状態」を問題視し、ワクチン接種の積極的勧奨の再開や、接種率の向上といった事態の打開を目指す苦闘の記録になっている。 未成年の少女たちが訴えるけいれんや歩行困難などの症状が、実は心因的である可能性が高いことが本書で指摘されている。例えば、ワクチン接種後に決まった時間にけいれんを起こす少女が、時間がわからない病室ではまったく発作が起こらなかったエピソードが紹介されている。ただ、少女らの保護者たちは病院の説明に反発を強めたという。「接種率向上」が限界な理由 村中氏は科学界で権威ある雑誌『ネイチャー』などが主催するジョン・マドックス賞を、この子宮頸がんワクチンに関する啓蒙的なジャーナリズム活動によって受賞した。受賞理由は、敵意や困難に負けずに、公益に資する科学的理解をジャーナリズム活動として行ったことに対するものだった。本書を読めば詳細に書かれているが、被害を訴える個人や団体、そしてワクチンの「害」を訴える医者や識者たちを相手に、村中氏がいかにエビデンス(証拠)と科学的見解で闘ってきたかがよくわかる。2017年11月、ジョン・マドックス賞の授賞式でマドックス氏の娘(右から2人目)らに祝福される医師でジャーナリストの村中璃子氏=ロンドン(本人提供) また、読者に専門的な知識がなくても、村中氏の冷静でその都度、根拠となる論理とデータをわかりやすく明示しているので、読む負担が少ない。世界保健機関(WHO)に代表される国際機関、日本の医学界は、子宮頸がんワクチンの安全性と効果について肯定する声明を出している。だが、本書を読むと、これらの「外圧」「内圧」いずれも、子宮頸がんワクチンの接種率を向上させるには限界があることがわかる。 その「限界」を生み出している一つの要因は、子宮頸がんワクチンに関する集団訴訟の存在だ。もちろん訴訟を起こす権利は誰にでもある。ただ、この集団訴訟が仮に最高裁まで審理されれば、10年ほどの時間がかかる。問題と感じるのは、政治や官僚たちはその間、子宮頸がんワクチンの積極的勧奨の再開を避けるだろう、という点だ。そもそも日本の政治家は官僚的だし、官僚も自ら「責任」をとって行動をすることはほぼない。政府の10年の不作為によって、1年で1万個、10年で10万個の子宮が失われ、そしてまた多くの人命が失われる可能性がある。これが題名の『10万個の子宮』の由来するところだ。つまり政府の不作為=過剰なリスク回避が、国民の生命を危機に陥れるかもしれないのだ。 本書には、新宗教やカルト、弁護士、メディアなど、この現象に群がる人たちが指摘されている。そして医薬品メーカーを批判的にとらえた言説も流布している。どんなエビデンスを明示した議論も受け付けようとしない現状もある。ここまで読んでいくと、私には自分がかかわってきたこの二十数年の日本の「デフレ不況論争」をどうしても思い出させるのだ。 例えば、「デフレから脱却するにはインフレ目標が重要である」と主張すると、「そんなものを導入すれば副作用でハイパーインフレが起きる」というトンデモ理論が当時流行していた。また、今のデフレは貨幣的な現象ではなく、「中国やインドなど新興国からの輸入品の価格が低下しているから起きている」というエビデンスの乏しい議論も流行った。壁を破るにはどうしたらいいか また、インフレ目標には政策を行う側の「責任」が生じるためか、日本銀行も政治家もあえて採用するよりも、できるだけ避けた。むしろ、インフレ目標政策など危険だと、回避を「後押し」するような姿勢をみせていたのである。このような態度は、村中氏が指摘する現在の厚生労働省の「存在しない薬害に実体を与え続ける姿勢」と極めて類似している。 仮に、この対比が正しいのであるならば、問題が深刻なように思える。われわれが主張する経済政策も海外の中央銀行が軒並み採用しても、時の日本銀行首脳はインフレ目標の採用を最後まで拒否した。最終的には、安倍晋三政権になってインフレ目標が採用されて現在の経済「回復」が実現されている。しかし安倍首相と数人ほどしかこのインフレ目標政策を支持する政治家が未だにいないのだ。2010年5月、子宮頸がんワクチンの集団接種を受ける小6女児=栃木県内の小学校(代表撮影) 政治家と厚労省の子宮頸がんワクチンについての不作為=「リスク回避」の壁も予想以上に高い可能性がある。ただし、メディアの意見は潮目をみて変化することがあるし、すべてのメディアが「敵」でもないだろう。ただし「官僚的なるもの」は体質を全く異にしており、政策責任を極力避ける仕組みなのだ。この壁を破るにはどうしたらいいだろうか。 われわれはそのために政治家たちに積極的に接近した。それは長くとても長く、多くは無意味に思える行動の積み重ねだった。政策に反対する人たちは同意できないだろうが、安倍首相がインフレ目標政策を中核とするデフレ脱却政策を採用したことは実に運がよかった。だがその背景には、根気強い政治への運動があったのである。 子宮頸がんワクチンの積極勧奨や接種率の向上も、やはり政治が動かないとどうしようもない。もちろんマスコミが積極的な勧奨キャンペーンに転じれば、状況はかなり変わるかもしれない。ただし、日本のマスコミも「リスク回避」=間違いを正さない風土が強い。こうした事象にマスコミが結果的に加担したのであれば、それを大胆に転換することは、日本のマスコミの官僚的風土では極めて困難である。 もっとも、これはかなり悲観的な見方かもしれない。村中氏の『10万個の子宮』を多くの人が読み、本書がたくさんの読者を獲得することで国民の声が高くなれば、政治も官僚もメディアも動かざるをえないかもしれない。その意味でも、ぜひ多くの人に読んでほしい書籍である。

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    「前代未聞の大将」明智光秀の謎多きルーツをたどる

    渡邊大門(歴史学者) 明智光秀が経歴という点において、信長のほかの家臣と大きく異なっている点は、どことなく漂うインテリの香りである。光秀は美濃国の出身として知られ、名門・土岐氏(美濃国などの守護)の支族・土岐明智氏を出自とするといわれている。のちに光秀のライバルとなり天下を獲った豊臣秀吉は、一般的に農民の倅(せがれ)であったといわれており、その差は歴然としている。 そして、光秀は豊かな教養を持っていたといわれている。彼が本能寺の変の直前に詠んだ発句「時は今 雨が下しる(あるいは『下なる』)五月哉」は、通常「土岐氏の子孫である自分が天下を獲る五月である」と訳されているが、さらに深い読み込みがなされ、多くの解釈が生み出されている。この技巧が優れているがゆえに、その教養が高く評価されているといえよう。同時に光秀の教養が深いゆえに、武人としての線の細さや弱々しさもイメージとして残っている。 では、本当に光秀は美濃・土岐氏の一族である土岐明智氏の出身なのだろうか。以下、具体的に検証を試みることにしよう。 光秀の経歴については、その前半生には実に不明な点が多い。その先祖についても不明な点が多い。光秀が史上に登場するのは、永禄12(1569)年1月のことであり(『信長公記』)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛した翌年にあたる。それ以前については、後世の編纂物(二次史料)などによって、ようやく動向をうかがうことができる程度である。光秀の前半生に関連する一次史料は、圧倒的に不足している。京都・小栗栖で落ち武者狩りにあう明智光秀 =『国史画帖大和桜』(昭和10年刊)より しかも、二次史料に基づいた光秀の前半生については、不確かなものが多い。光秀の事績を記す二次史料は、史料の性質が劣るため、疑問に感じる点が多いのである。明らかな間違いも多々ある。『明智軍記』などは、その代表的な質の劣る史料である。 次に、光秀の事績に関する通説を確認しておこう。 明智氏は、美濃国の名門で守護を務めた土岐氏の支族である。土岐明智氏という。土岐氏は清和源氏の末裔(まつえい)であり、美濃国に本拠を置く名族である。南北朝期以降の土岐氏は、室町幕府から美濃国などに守護職を与えられた名族である。 土岐明智氏の出身地については、二つの説が有力視されている。一つは岐阜県恵那市明智町であり、もう一つは岐阜県可児市広見・瀬田である。前者には明知城址があり、光秀にまつわる史跡があることから、現在も「光秀祭り」が催されている。 後者にはかつて明智荘という荘園があり、今は明智城址が残っている。互いに「明智」の名を冠していることから、土岐明智氏の出身地と考えられており、非常にややこしいことになっている。室町幕府に仕えた土岐明智氏 戦国時代研究の第一人者の小和田哲男氏によると、恵那市明智町は遠山明智氏ゆかりの地であって、光秀の出身である土岐明智氏に結びつけるのは難しいと指摘している(『明智光秀―つくられた「謀反人」―』PHP新書)。むしろ、可児市広見・瀬田のほうが、可能性が高いというのが結論である。遠山明智氏は藤原北家利仁流の流れを汲み、現在の恵那市明智町に本拠を築いた。 土岐明智氏が室町幕府に仕えていたことは、事実である。奉公衆(室町幕府の直臣)の名簿である『文安年中御番帳(ぶんあんねんちゅうごばんちょう)』には外様衆として「土岐明智中務少輔」の名を、『東山殿時代大名外様附(ひがしやまじだいだいみょうとざまふ)』にも同じく外様衆として「同(土岐)中務少輔」の名を、三番衆として「土岐明智兵庫助」の名を確認することができる。『常徳院御動座当時在陣衆着到(じょうとくいんごどうざとうじざいじんしゅうちゃくとう)』にも「土岐明智兵庫助」と書かれている。 外様衆の役割については不明な点が多いものの、有力守護の支族が名を連ねている点を考慮すれば、相当な格式と地位があったといえる。何といっても、外様衆は将軍の直臣でもある。土岐明智氏もまた土岐氏の支族であるがゆえに、外様衆に加えられたのであろう。そして、土岐明智氏の名は、おおむね14世紀半ばから15世紀の終わりにかけて、多くの一次史料で確認することができる。その本拠地は、やはり美濃国だった。 次に、光秀の年齢について触れておこう。従来、光秀の年齢は『明智軍記』や明智氏の系図類に基づき、多少のばらつきがあるものの、天正10(1582)年に55~57歳の間に亡くなったと考えられてきた。つまり、光秀の誕生年は、大永6(1526)年から同8(1528)年の間になる。 信長研究の第一人者である谷口克広氏は『当代記』(織豊政権期から江戸幕府の成立期にかけての歴史を記した編纂物)という史料に基づき、67歳で亡くなったと指摘した(『検証 本能寺の変』)。つまり、永正13(1516)年の誕生となり、従来よりも年長になっている。史料の質からいえば、『明智軍記』などよりも断然『当代記』のほうが高く、後者の可能性が極めて高い。明智光秀像(本徳寺所蔵) 光秀の父については、諸説あって定まらないところである。現在、知られている系図類では、光綱とするもの、光隆とするもの、光国とするものに分かれており一致しない。整理すると、次のようになろう。 ①光綱――「明智系図」(『系図纂要』所収)、「明智氏一族宮城家相伝系図書」(『大日本史料』11―1所収)。②光隆――「明智系図」(『続群書類従』所収)、「明智系図」(『鈴木叢書』所収)。③光国――「土岐系図」(『続群書類従』所収)。 残念なことに、光秀の父について語る史料は皆無といわざるを得ない。光秀のように史上に突如としてあらわれた人物の場合、意外と父祖の名前さえ判然としないケースが多い。系図によってこれだけ名前が違い、史料的な裏付けが取れないのであるから、これらの系図の記載を詮索してもほとんど意味がない。光秀の父については、不詳といわざるを得ないのが現状だ。 では、光秀の来歴を物語る史料はないのか。信長に与えられた「惟任」姓 光秀を語るうえで重要な史料として、『立入左京亮入道隆佐記(たてりさきょうのすけにゅうどうりゅうさき)』がある。この史料は、禁裏御倉職(きんりみくらしき)の立入宗継が見聞した出来事などの覚書を集成したもので、七世の孫・中務大丞経徳が書写したものである。ただ、後世に成った史料なので、内容にいささか注意する必要がある。 同史料には、天正7(1579)年に光秀が丹波を平定した際、信長から丹波一国を与えられたことを記し、光秀について「美濃国住人とき(土岐)の随分衆也」と記録している。そして、信長によって「惟任」姓を与えられ、惟任日向守を名乗るようになったと記す。光秀の栄達ぶりを示すものである。 随分衆とは、土岐氏の中にあって、相当な地位にあったことを示している。随分には、身分が高いという意味が含まれている。残念ながら、隆佐が光秀の経歴をどこまで知っていたかは不明である。「美濃国住人とき(土岐)」というのも、確証を得ないのではないか。ところで、『立入左京亮入道隆佐記』のこの記述には、前段に次の興味深い一節がある(現代語訳)。 惟任日向守(明智光秀)が信長の御朱印によって丹波一国を与えられた。時に理運によって申し付けられた。前代未聞の大将である。 理運にはさまざまな意味があるが、この場合は「良い巡り合わせ、幸運」くらいの意味と考えてよい。理運によって、光秀は丹波一国を与えられたので、前代未聞の大将だったのである。立入宗継にとっては、光秀が名門土岐氏の相当な地位にあったと想像していたとはいえ、丹波一国を授けられたことは驚倒すべき印象を持ったと推測される。となると、隆佐は光秀を「随分衆」とは言っても、実際には光秀の経歴を詳しく知らず、風聞に拠って知った可能性が高い。天正10年1月11日付斎藤利三の書状。明智光秀を示す「惟任」の字が見える(松永渉平撮影) 光秀の父以前や自身の前半生がほとんど不明であること、また周囲の評価において「理運」「前代未聞」とあるところを見ると、光秀は土岐氏支族の土岐明智氏を本当に継いだのか再検討する必要がある。裏付けが非常に乏しいのである。 つまり、幕府外様衆の系譜を引く土岐明智氏ではなく、まったくの傍系の明智氏である可能性や、土岐氏配下の某氏が明智氏の名跡を継いだ可能性も否定できない。光秀が本当に土岐明智氏の系譜を引いているのかについては、未だ疑問が多い。それゆえに、父の名前さえ系図によって、異なっているのであろう。 たとえば、幕府の奉公衆などの名簿の『永禄六年諸役人附』には足軽衆として、「明智」の姓が記されている。従来説では、この明智が光秀であると考えられてきた。ただ、肝心の名前が記されていないので、この「明智」が光秀である確証はない。足軽衆とは単なる兵卒ではなく、将軍を警護する実働部隊と考えてよいであろう。 『永禄六年諸役人附』に記載された足軽衆は、名字のみしか記されていない者も多く、メンバーはおおむね無名の存在ばかりである。奉公衆クラスを出自とする者は存在しない。そうなると、逆に土岐氏の支族で「名門」の土岐明智氏が、なぜ足軽という地位に止まったのか不思議である。かつて土岐明智氏は、外様衆という高い身分にあったからである。 つまり、これまでの光秀は、外様衆・明智氏を出自とすると考えられてきたが、誠に程遠い存在といえよう。『永禄六年諸役人附』の明智が光秀と同一人物であるか否かは不明であるが、いずれにしても当時の明智氏(あるいは光秀)は、まったくの無名の存在であったと考えるのが妥当ではないか。『永禄六年諸役人附』の記述をもって、光秀を名門の土岐明智氏に繋げるには、あまりに材料不足である。「よそ者」だった光秀 信長に仕えて以後の光秀は、無名のところからはい上がり必死であった。信長は能力主義者であり、名門の出自であることなどほとんど考慮しなかったであろう。ゆえに、信長の重臣の多くは、ほとんど無名の立場から這い上がった者が大半であった。したがって、光秀が名門土岐氏の支族である土岐明智氏の出自であることについては、頭から信用するのは危険であると考えなくてはならないと指摘できよう。 もう少し、光秀の出自について考えてみよう。 光秀の前半生を語るうえで、重要視すべきなのは二つの史料である。その二つとは、光秀が家中に発した「家中軍法」が一つであり、もう一つはフロイスによる光秀の評価である。この二つの史料について、これから考えてみよう。 天正9(1581)年6月、光秀は家中に「家中軍法」を発した(「御霊神社文書」)。その内容は18カ条から成り、戦場や行軍中に守るべきことや、与えられた石高に対して負担する軍備などが列挙されている。これ自体が珍しいものであるが、注目すべきは結びの言葉である。次に、示すことにしよう。 すでに瓦礫のごとく沈んでいた私を(信長が)召し出され、さらに多くの軍勢を預けてくださった。 この言葉は、実に重みのある内容を含んでいる。少なくとも光秀が苦しい前半生を送っていたことは間違いなかったと考えられるが、何らかの契機に信長に仕官することによって、この段階で大きく出世を遂げたのである。 注意しなくてはならないのは、豊臣秀吉が農民の倅(せがれ)を出自としながらも、信長の配下で大出世を遂げたことである。前半生が不明であることも含めて、信長に登用されたことが二人の共通点である。この史料の一節は、光秀の前半生が不遇であったことを伝えるものである。裏返して言えば、名門・土岐明智氏の出身でない可能性をうかがわせる。明智城址=岐阜県可児市 もう一つの史料がフロイスの手になる『日本史』である。同書には、光秀の立場について「殿内にあって彼はよそ者であり、外来の身であったので、ほとんど全ての者から快く思われていなかった」と記している。この史料もまた、光秀が信長に仕えるまで、さほど活躍していなかったことをうかがわせるものがある。さらに「よそ者」という言葉は、光秀の外様としての立場を如実にあらわしている。 これまでの光秀は、美濃国土岐氏の支族・明智氏の系譜を引く名門と考えられてきた。ところが、その可能性は低いのではないだろうか。そもそも父祖の記録がないことが気にかかる。光秀が土岐明智氏の名を勝手に名乗っているか、名跡を継いだという可能性も残されている。 『立入左京亮入道隆佐記』では、その辺りの事情を十分に把握していないので、本人の言葉を信じて記録したことも考えられよう。いずれにしても、確証を得ることができず、光秀の前半生は名門・土岐明智氏を出自とする点が疑問であり、あまりに謎が多すぎる。 つまり、光秀が美濃国土岐氏の支族・明智氏の系譜を引く名門という説は、再検討の余地が十二分にあり、現段階では何の証拠もないのだ。※主要参考文献 谷口研語『明智光秀 浪人出身の外様大名の実像』(洋泉社歴史新書、2014年) 渡邊大門『信長政権 本能寺の変にその正体を見る』(河出ブックス、2013年)

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    「金与正ブーム」に少女時代ソヒョンも巻き込んだ文政権の思惑

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) 平昌冬季五輪では各国選手が連日、白熱した競技を展開している。強風や猛烈な寒さの中での大会運営ということもあり、競技によってはテレビ観戦している筆者にもひやひやさせる場面が多い。それでも会場のボランティアや応援する人たち、そして選手たちの五輪に取り組む姿勢は見ていて心地いい。 だが、他方でこの五輪は開催前後から国際政治の最大の注目場所となった。もちろん北朝鮮側のいわゆる「ほほ笑み外交」攻勢のためである。金永南(キム・ヨンナム)最高人民会議常任委員長と、金正恩(キム・ジョンウン)朝鮮労働党委員長の実の妹である金与正(キム・ヨジョン)党中央委員会第1副部長らの高位級代表団が韓国入りしてからの過熱報道は、五輪そのものへの関心を上回るものがあった。韓国の文在寅大統領(手前右端)との会談に臨む北朝鮮の金永南・最高人民会議常任委員長(奥右)、金与正・党第1副部長(奥左)ら=2018年2月10日、韓国大統領府(聯合=共同) 特に注目を浴びたのは、各種報道で「実質ナンバー2」「金委員長に直言できるただ一人の人物」などと評されている与正氏の発言と動向であった。確かに、故金日成(キム・イルソン)主席の直系が韓国を訪問したのは初めてである。さまざまなメディアでは、与正氏が金委員長の「親書」を携えて、韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領に平壌での首脳会談を提案したことが報道されている。 この一連の報道を分析してきて、韓国・日本のメディアが「金与正ブーム」とでもいう空疎な現象に貢献している、と批判的に見ざるを得ない。まず韓国到着後、初めて文大統領と会談したときの与正氏の表情が、顎をしゃくりあげた感じでまさに相手を睥睨(へいげい)するかのような視線、いわば「女王様」的表情だったことが大きく報道された。 「白頭血統」というのだそうだが、故金日成主席に始まる北朝鮮の「金王朝の王女」とでもいうべき印象を、その写真は伝えている。だが、このような「白頭血統」なるものの起源、つまり抗日戦士として北朝鮮の独立に貢献した金主席の話は極めて誇張されたものである。ソ連による傀儡(かいらい)政治家として当初は祭り上げられた人物ではないか、というのが正しい見方だろう。南北協調で仕掛けた「アイドル戦略」 郵便学者の内藤陽介氏による『北朝鮮事典-切手で読み解く朝鮮民主主義人民共和国』や『朝鮮戦争:ポスタルメディアから読み解く現代コリア史の原点』などの著作を読むと、北朝鮮、金一族の政治的な宣伝工作(プロパガンダ)がどのように構築されていったかがわかる。つまり「白頭血統」や「金王朝」なるものはアイドル(偶像)の中でも最も虚偽性の高いものである。そのようなアイドルの欺瞞(ぎまん)的な側面を全開にした「女王様然」とした表情を垂れ流すメディアの印象操作には、やはり北朝鮮のイメージ戦略にくみしたと評されても仕方がないだろう。平昌冬季五輪の開会式で、北朝鮮の金与正氏(中央右)と金永南最高人民会議常任委員長(同左)の近くに座る安倍首相(右端)とペンス米副大統領=2018年2月9日(聯合=共同) この北朝鮮の政治的プロパガンダとしての「アイドル」の利用は、金委員長の父親である故金正日(キム・ジョンイル)党総書記からの得意芸であった。金総書記は、映画や音楽など文化部門への造詣があり、それを政治的手段としても利用していた。 今回は、美女ぞろいといわれる三池淵(サムジヨン)管弦楽団を韓国に先行して派遣し、まるで父親譲りの「アイドル攻勢」をしかけてきた。これは今回の「ほほ笑み外交」戦略の露払いとなり、またのちに触れるように金与正氏の訪韓イベントのクロージングにも役立っている。 もちろんこのような北朝鮮の「アイドル戦略」は、なにも北朝鮮単独で行われたものではない。韓国政府の強い協力がなければ不可能である。しばしば報道では、文政権が米国と北朝鮮の間にはさまれて苦境に陥ったとする評価があるが、本当だろうか。五輪の開催日程はとうの昔に決まっていたわけだし、そもそも金与正氏が来韓する情報はかなり以前から流されていたという。つまり、文政権にとっては別に政治的に苦境でもなんでもなく、まさに北朝鮮と共同演出した「金与正ブーム(仮)」なのだろう。 しかも、金与正氏の在韓最終日には、三池淵管弦楽団のコンサートを文大統領と隣り合わせで観劇するというクロージングまで用意した。さらに北朝鮮の「公式アイドル」といえる牡丹峰(モランボン)楽団の団長である玄松月(ヒョン・ソンウォル)氏が登場し、歌唱を披露したという。安倍発言は問題視されるべきか ここでも、韓国政府は北朝鮮と共同のサプライズを仕掛けている。韓国の人気ガールズグループ、少女時代の「末っ子」で人気の高いソヒョンとのコラボを企画していたのだ。報道では公演当日に依頼があったというが、日本でも人気の高い少女時代の、ソヒョンが単独で出演してきた背景には何があったのだろうか。三池淵管弦楽団の公演の舞台で、楽団の歌手と共に歌うK―POPグループ「少女時代」のソヒョン(右端)=2018年2月11日(聯合=共同) 実は、ソヒョンは昨年末に従来の所属事務所から契約満了時での退所を表明していた。ただし、その後も少女時代そのものには残るらしい。いまのマネジメントが具体的にどうなっているのかわからないが、少女時代全員の出演ではなく、ソヒョン単独だったのは事務所からの退所が関係していると思われる。 また、韓国大統領府がソヒョンに目をつけたもうひとつの理由として、彼女がかつて潘基文(パン・ギムン)前国連事務総長を「尊敬する人物」として挙げ、国連の活動イベントの際に面談したことが報じられている。そのほかにも、母校の大学に巨額の寄付をするなど社会的な活動が目立っていたからかもしれない。いずれにせよ、韓国政府が北朝鮮の「アイドル攻勢」に積極的に関与した証拠でもあるだろう。 さて、平昌五輪は永遠には続かない。米国は北朝鮮に変わらぬ強硬姿勢を示しており、今後は金融制裁など以前から効果的といわれてきた手法を駆使するだろう。韓国政府が北朝鮮の「ほほ笑み外交」という政治的プロパガンダに実質的な協力を行い、多くのメディアも知ってか知らずか加担してしまった。韓国国内でも世論の分断が加速するかもしれない。 訪韓した安倍晋三首相は、文大統領に対して「米韓合同軍事演習を延期すべきではない」と発言した。日本では、文大統領が「内政問題」だとして不快を示したことに、安倍批判が自己目的化した識者たちが、またも安倍発言を問題視している。しかし、米韓合同軍事演習は日本を含めた北朝鮮、そして中国・ロシアへの広域的な安全保障政策の一環であり、その延期に意見を表明することは間違いではない。韓国での分断も注意すべきだが、日本の世論の、あまり合理的な意見に基づくとはいえない分断にも注意が必要だろう。

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    株価暴落「アベノミクス終了宣言」の妄執

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) 2月第1週の株式市場は、米国での株価暴落を受けて、日経平均が一時600円を超す大幅な下げで始まった。このような株式市場の暴落があると決まって「識者」たちの「アベノミクス終了宣言」とでもいうべき発言が出てくる。この種の「識者」たちの発想の前提には、アベノミクスは株価と円安だけしかもたらしていないという「妄念」があるように思える。雇用改善や経済成長の安定化などはまったく考えの中に入っていないようである。 米国の株式市場は、トランプ政権の発足直後からの積極的な財政政策への期待の高まりや、イエレン前連邦準備制度理事会(FRB)議長の雇用を重視した金融政策の正常化路線を背景にして、かなり高いパフォーマンスをみせた。だが、よく検証してみるとトランプ政権の経済政策は実際には「何もしなかった」に等しい。2018年2月5日、米株急落を受けて大幅続落し、終値は前週末比592円45銭安の2万2682円08銭となった日経平均株価(寺河内美奈撮影) 政権発足当初の「目玉」であった大規模なインフラ投資はまったく実施されていない。議会を通過した減税政策だが、これもまだ実施には移されていない。金融政策については、トランプ大統領がこの1年、イエレン議長に対して信頼を置いていたようには必ずしも思えない。だが、FRBは金融政策の「正常化」を目指して、雇用に配慮しながら利上げを継続するスタンスを変えなかった。つまり、FRBと政府との協調において、基本的にオバマ前政権のものを継承しただけである。 さらに、貿易面では環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)からの離脱に典型的なように、これまた「何もしない」戦略を採用した。この1年のトランプ政権の「何もしない」政策スタンスは鮮明である。むしろ何もしなかったがゆえにオバマ前政権の遺産を継承して、経済が好循環したのかもしれない。実際に先週の前半まで、NYダウ工業株30種平均はこの1年で3割ほど上昇していた。経済成長率、雇用、物価上昇率ともに改善を続けていた。 今回のNYダウの9年ぶりとなる大きな下落に、なにか経済的な意味があるかどうかはもう少し情勢を見てみないとなんともいえない。このNYダウの下落は、トランプ政権の「何もしない」政策スタンスにいよいよ国民が失望したのか、それともイエレン氏に代わって新しいFRB議長に就任したパウエル氏の金融政策へのかじ取りに、市場が不透明感を抱いたのだろうか。 トランプ政権の「何もしない」政策スタンスは減税政策で変わるだろう、という見方もある。ただし法人税の引き下げが経済成長を高める効果があるかどうかは、欧米の経済学者たちを中心に激しい論争がある。これは日本のケースだが、1990年代冒頭から今日まで、何度かの法人税の引き下げを行ってきた。だが、法人税の引き下げにかかわらず、その時々の日本経済の状態は悪かったり良かったりさまざまである。つまり法人税の引き下げと経済成長は、消費と投資増加という因果関係で結ばれていないかもしれない。株価暴落はトランプへの失望? 後者については、雇用を重視していたイエレン氏が金融引き締めとなるようなシグナルを発する政策を採用することはなかった。ただし、金融政策の「正常化」、すなわち金融政策の手段として名目金利のコントロールを明示的に回復することを狙った。イエレン氏は最近、テレビ番組に出演した際に、議長に再任されなかったことを率直に残念がっていた。今度のパウエル議長は当面はイエレン氏の手法を継承すると思われるが、イエレン氏ほどの実績を残せるのかどうか不透明感がある。この意味でトランプ政権側にも政策の不透明感、そしてFRBにも不透明感が消えない。これらが市場の懸念を生み出し、暴落に至ったのかもしれない。いずれにせよもうしばらく事態を見ないとなんともいえない。手を振るトランプ米大統領=2018年2月2日(AP=共同) もし仮に、1年経過したトランプ政権の成果への失望、そしてパウエル新議長が金融政策の正常化よりも金融引き締めに移行するのではないか、という懸念が相まって今回の株価暴落に至ったとしたらどうだろうか。日本株の暴落は今回だけの問題ではなくなるかもしれない。 ところで、日本経済は昨年の世界経済の堅調を背景にして、日本銀行の金融緩和政策の継続とともに実体経済を含めて堅調に推移した。ただし、インフレ目標の達成は今年も厳しい状況だろうし、その半面で完全雇用に到達してその後の安定的な賃金上昇などの所得拡大が本格化するまではまだ道半ばだろう。極度に悲観するのは禁物だが、楽観もできない。今回のような海外からのショックが長引けば経済が再び失速する可能性はある。だが、日銀の金融緩和の姿勢が変わらなければ、中長期的にはこれまた極度の悲観は禁物だろう。 現在、国会で与野党の論戦が展開されている。興味深い論点もあるが、少なくともマクロ経済政策については、与野党の論戦は不毛な状況が続いている。ひとつには民主党政権の後継政党たち(立憲民主党、希望の党、民進党など)といった「民進党なるもの」の経済政策が、単なるアベノミクスの全否定に傾斜しており、それが事実上のマクロ経済政策の無策に直結しているからだ。 立憲民主党の経済政策は、個別の再分配政策のメニューが並ぶだけである。消費税をいますぐに上げることはできないといいつつ、同党をはじめ「民進党なるもの」が国会で消費税凍結を最大の論争点にしている動きはない。むしろ相変わらずの森友学園・加計学園問題を主眼にした国会戦略を立てているようである。同問題についてはすでに多くを書いてきたのでいまここで再論はしないが、端的にいって不毛な時間潰しである。立憲民主党は実質賃金の引き上げを主張するが、それを実現する具体的な政策が不明である。「モリカケ」の掛け声だけの国会 例えば、立憲民主党の主張には最低賃金引き上げが関係しそうだが、最低賃金は名目賃金である。ただし、過去の民主党政権のときよりも現在の安倍政権の下での方が最低賃金の引き上げ幅が大きい。どうして最低賃金の引き上げが安倍政権下で継続的に可能で、引き上げ幅も大きかったのだろうか。その理由は、労働需要(雇う側)がほぼ継続して拡大基調にあったからだ。労働供給(労働者側)のコストである最低賃金が引きあがっても労働需要側はそれを十分に吸収できる体力があったということである。そして労働需要を拡大する政策とは、これは安倍政権の下で採用された金融緩和政策に大きく依存している。 だが、立憲民主党などの「民進党なるもの」は、雇用の拡大は人口減少による人手不足だ、という偏見でとらえている。この「人口減少が雇用を拡大させた」や「もし金融政策に効果があるならばとっくに完全雇用が達成している」という意見は、極度の偏見である。おそらくこの種の主張は失業率と人口の動向しかみていないのだろう。安倍政権開始時の失業率は4・3%でそれが現状で2・8%の前後を推移している。この間、15歳以上65歳未満の人口総数である生産年齢人口は「人口減少」を示していて、約8000万人から現状では7600万人程度に減少している。このうち15歳以上で働く意欲と能力をもっている「労働力人口」は6542万人から6750万人超まで拡大している。 労働力人口は、就業者と完全失業者に分かれていて、安倍政権以降ではこの就業者の拡大と完全失業者の減少が続いている。就業者数は2012年12月の政権発足以降ほぼ一貫して上昇していて約6250万から現状では6540万人超にまで拡大している。ちなみに民主党政権時代はほぼ一貫して就業者数が減少している。他方で民主党政権時代は生産年齢人口も労働力人口も減少していた。つまり、民主党政権の時代では失業率が見かけの低下をしているが、それは労働力人口の減少を意味していたのである。これは職を求めている人たちが、厳しい景気のために職探しを断念している状況を意味する。2018年1月、羽織袴姿で年頭会見に臨む立憲民主党の枝野幸男代表(斎藤良雄撮影) 他方で、安倍政権では持続的に労働供給も増加している。これは景気の好転で職探しを再開している人が増加していることにある。このアベノミクスの労働供給の復活効果は大きく、そのため失業率に一層の低下余地があり、また完全雇用に時間がかかる背景にもなっている。もちろん、この労働供給の復活を十分吸収できるほど労働需要が活発であることが裏付けにある。そしてこの労働需要が拡大していることが、前述の最低賃金上昇を無理なく実現していることの背景にあるのである。 筆者はアベノミクスの全否定ではなく、このような効果の著しい金融緩和政策をさらに拡充しながら、消費増税の凍結や先送りよりもその放棄ないし減税など積極的な財政政策を勧めたい。だが、現状では国会では毎日のように「モリカケ」の掛け声などが大きいだけで、野党にはマクロ経済政策をよくしようという意思がまったくみられない。それを支持する「識者」を含めて、本当に懲りない人たちである。

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    決戦前夜、貴乃花親方が笑顔に変わったワケ

    小林信也(作家、スポーツライター) 任期満了に伴う日本相撲協会の理事候補選挙は、貴乃花親方が得票2票で落選した。 理事定数10に対して11人が立候補。1人だけ落選する選挙は101人の年寄(親方)による無記名選挙で行われた。当選した理事は3月、協会の最高決議機関である評議員会の選任決議を経て正式に就任する。今回は貴乃花親方が理事を解任され、もし選挙で当選しても評議員会が「認めない可能性がある」とけん制された中で行われた。そのこともあって、貴乃花一門からは一門の総帥である貴乃花親方だけでなく、阿武松親方も立候補した。阿武松親方は無事当選し、一門の理事枠は一つ確保した形となった。 選挙前に開かれた貴乃花一門の会合で、「今回は立候補を自粛し、2年間待つ方が賢明ではないか」との声も上がったが、貴乃花親方はこれを制して立候補の決意を表明。「みなさんは阿武松親方に投票してほしい。自分は一票で構わない」と発言し、当落にこだわらない姿勢を明かした。その前後から、貴乃花親方の表情はかなり清々(すがすが)しいものに変わり、テレビでも笑顔の貴乃花親方が見られるようになった。十両昇進が決まった貴公俊の会見に同席し、 笑顔を見せる貴乃花親方=2018年1月31日、両国国技館 弟子の貴公俊(たかよしとし)の十両昇進会見に同席したときの笑顔は、慶事ゆえに当然といえば当然だ。しかし、昨年末の貴景勝の小結昇進会見には姿を見せておらず、心境と状況の変化もうかがえる。立候補にあたってブログを更新した貴乃花親方は、「大相撲は誰のものか」というメッセージを発信し、かなりの共感を得たとも報じられている。無言を貫いていた時期には「何を考えているのか分からない」と周囲をやきもきさせる場面もあったが、ようやく本人の思いが語られたのである。 理事当選は「ほぼ絶望的」と見られた中で、あえて立候補した真意は何だったのだろうか。私見だが、二つの理由を挙げたい。一つは、選挙権を持つ101人の親方に対する痛烈な問いかけだ。 2010年の理事候補選で貴乃花親方は大方の予想を覆して当選した。後に「貴の乱」と呼ばれたが、これは一門の縛りを越えて、一部の親方が自らの意志で貴乃花親方に投票した結果だ。無記名投票による選挙なのだから、大方の予想を覆す結果になることは十分有り得る。 ただ、貴乃花親方がブログで「もっと自由に議論できる協会に」と提言したのはこの辺りを意味するのだろう。だが、他の一門の引き締めが一段と強かった今回は、貴乃花親方自身、当選に足る得票は期待していなかったに違いない。それでも、貴乃花親方が立候補したことで、他の親方にとっては「自分たちの権益を守るような動きばかりで良いのか」と自問自答する機会になったはずである。言い換えば、その問いかけこそが、貴乃花親方が立候補した本当の意味であり、目的ではなかっただろうか。リーダーは自ずと決まるもの 貴乃花親方の得票はわずか2票。これは、貴乃花親方が政治的な動きや裏工作をしなかった表れと見ることもできるだろう。「清々しい笑顔の裏には、裏取引が成立した」という勝算があったのではなく、自分の進むべき道が改めて見えた。そのことを晴れやかに示したのである。 貴乃花親方はブログの中で、下記のように綴っている。「改革するのではないのです。古き良きものを残すために、時代に順応させながら残すのです」「相撲は競技であると同時に日本の文化でもあります。つまり我々は文化の守り人であるということも忘れてはなりません」 相撲協会が公益財団法人である以上、理事が選挙で選ばれるのは当然である。一方で、文化を重んじるのであれば、投票や政治的な駆け引きは必ずしも馴染(なじ)まない。その道の継承者、次代のリーダーは自ずと決まって行くのが、歌舞伎であれ、華道や茶道の家元であれ、伝統芸能や文化の流れである。貴乃花親方も、北の湖前理事長とはそういった思いや使命感を共有していたのではないだろうか。 一門内での「談合」も、今は権益を守るための策謀のように語られるが、利権を他に渡したくないためだけの慣習ではなかっただろう。文化芸能の世界は、達人や名人に対する崇敬の念が基本にある。日本相撲協会の北の湖前理事長の銅像の前で記念撮影する(左から)貴乃花理事、八角理事長、(1人おいて)とみ子夫人、 横綱日馬富士関=2017年10月1日、川崎市 はっきり感じるのは、貴乃花親方が自分の利益のために協会の要職に就くつもりはなかったという事実である。相撲を取った経験のない日本人が増えている。力士になりたいと思う少年が、今どれほどいるのだろう。大相撲を取り巻くあまりに厳しい現実と切実への危機感。このままでは入門者がいなくなり、興行だって立ち行かなくなる。もはや大相撲は「絶滅危惧種のような存在」になっていると、貴乃花親方は認識し、他の親方も薄々感じている。だが、そうした危機感も組織を変革するうねりにはならなかった。 北の湖理事長の右腕として、吉本新喜劇の舞台に立ってまで大相撲のPRをし、それが「スー女(相撲女子)」ブームを生み出したと言われる貴乃花親方。次の2年間は、進境著しい4人の関取を持つ親方として土俵を沸かせる仕事もできる。今回の落選で貴乃花親方が失うものは決して大きくない。

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    共同通信「松吉」署名ツイートと山中教授「印象操作」の根深い病理

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) ノーベル医学・生理学賞受賞者で京大iPS細胞研究所の山中伸弥所長に関する報道をめぐり、筆者からすれば明らかな「印象操作」があった。ここでいう「印象操作」とは、記事を読んだものに偏見(バイアス)が生じる可能性が高いものをいう。共同通信社が入る東京・港区の汐留メディアタワー=2009年5月撮影 共同通信が1月25日に配信し、当初は「山中氏、科学誌創刊に深く関与か」と題した記事が問題の「印象操作」である。ネット世界でもこの報道は批判の対象として論じられ、また一部の報道でも「印象操作」とするものがあった。なぜこの記事が「印象操作」かを、以下で簡単に説明したい。 京大iPS細胞研究所に所属する助教が作成し、専門雑誌に掲載された論文に不正が発見された。当初は外部からの通報から始まり、委員会を立ち上げて調査し、その不正を確かめた。研究所の所長である山中氏は記者会見の席上で謝罪したが、それは社会通念上からは妥当だったろう。 現在、大学を含む研究機関では研究者が不正を行わないことを厳しく求める研究者倫理の研修も行われている。ただし、単に研究者倫理だけを声高に求めても、研究者側に動機付けがないと問題の解消にはならない。例えば、期限付きの研究職の採用だと、その期限内で一定の研究成果を厳しく求められているケースが多いだろう。もし、その成果のハードルが研究環境や研究者の能力を超えるものであったならば、今回のような不正行為が生まれる可能性がある。今回の不正がどのような動機付けで行われたかは不明だが、論文不正は研究者倫理だけの問題ではない。 記者会見では、山中所長の責任や辞任の可能性について質問する記者がいて、そのことも報道で広まっていた。その中で今回の共同通信の報道があった。だが、筆者は記事を読んだときに、いったい何が問題なのかさっぱりわからなかった。 「山中氏、科学誌創刊に深く関与か」の「科学誌」とはその不正論文が掲載された専門雑誌のことを指す。記事からの印象では、あたかも山中氏がその雑誌の創刊にかかわったことで「何か問題をはらむ」かのような印象をもたらすものだった。このような印象に誘導された人は筆者だけではない。多くの人たちが同様の印象を持った。 もちろん専門雑誌の創刊にかかわることと、今回の不正論文がその専門雑誌に掲載されたことには、全く関係がない。特に不正にかかわる因果関係もなんらない。だが、記事はそのような注記もなく、なにか問題があるかのように「匂わせた」のである。まさに「印象操作」といっていいだろう。「謝ったら死ぬ病」に感染したマスコミ この「印象操作」はネットを中心にして専門家や識者、そして一般の人たちから猛烈な批判を浴びた。一部報道によれば、共同通信側が「新たな要素を加えて記事を差し替えました。編集上、必要と判断しました」とのことで、ネット配信の記事のURLは同じまま、内容を大幅に書き換えた。この行為はおそらく多くの読者に不信を引き起こしただろう。また共同通信の配信を利用している地方紙では「山中氏、科学誌創刊に深く関与か」と見出しがそのままに大きく取り上げられた。ネット上の批判を知らない人たちにとって「印象操作」は放置されたままである。 だが、共同通信は今回の件で反省もなければ、もちろん山中氏や読者への謝罪もないままだ。経済評論家の上念司氏は今回の問題をうけて次のように指摘している。共同通信の山中教授を巡る印象操作記事で分かったこと。マスコミは「謝ったら死ぬ病」に罹っている。しかも、記事で批判する対象にも「絶対に間違えない」ことを強要し、謝罪、訂正はむしろ叩きまくり。まさに「謝ったら死ぬ病」の感染源だな。お前はアンブレラ社かと。上念司氏の公式ツイッター 実際に、共同通信が「山中氏、科学誌創刊に深く関与か」と題した記事は、上念氏が指摘するように、記者会見で謝罪した山中氏をさらに「叩く」要素があることは誰の目にも明瞭だろう。対して自社の記事については誤りを率直に認めない姿勢も今回はっきりしている。ちなみに「アンブレラ社」とは映画やゲームの『バイオハザード』シリーズで、ゾンビを生み出す根源となった企業名である。ゾンビものが好きな上念氏らしい表現といえる。京都市内で講演する京都大iPS細胞研究所の山中伸弥所長=2018年1月24日 もちろん「絶対に間違えない」「謝ったら死ぬ病」で表されるメディアの無謬(むびゅう)性へのこだわりは、なにも今回の共同通信の件だけではない。新聞やテレビなどのマスメディアでも陥りやすいだろうし、筆者を含め識者たちも陥りやすい罠ともいえる。今回の共同通信の件はその意味でも、公に意見を表明する者が深く教訓とすべきだろう。 前述のように、共同通信からはまだ何の反省の声もない。このことに関して、筑波大学の前田敦司教授が興味深い指摘をしている。共同通信といえば、こんな事件もあった。電通からカネをもらって特定の薬を持ち上げる記事を(広告とせず)配信していた。証拠を突きつけられるまでは否定。前田敦司氏のツイッター加計問題でもうかがえた「印象操作」 これは前田氏も参照している記事に詳細に書かれているのでそれをまず参照してほしい。記事を読めば、いかに共同通信の無謬性へのこだわりが強いかが少なくともわかるだろう。もし、報道記事がある程度の客観性を持つことを要求されるならば、無謬性はもっとも否定しなければならない態度である。常に反証可能性に開かれた態度でいなければならない。 筆者はこの山中氏に関する記事を共同通信の公式ツイッターで見た。そのツイートには「松吉」という署名があった。「松吉」はイニシャルなのか本名なのかはっきりしない。ただ、「松吉」の署名が記載されたツイートが参照している記事は多くなく、その意味では特に強調したい記事にこの署名が利用されているのだろう。 この「松吉」の署名記事で興味深い特徴があったので、加計学園問題を例として取り上げる。共同通信の記事から、具体的な加計学園問題の、そもそも「問題」が具体的に指摘されたことはないだろう。いままでも論点として提示されたものの根拠は、前川喜平前文部科学事務次官の証言だけである。「松吉」の署名ツイートでは、一貫して加計学園問題について徹底的に追求する姿勢が綴られ、また前川氏に関しては「官邸からすさまじいプレッシャーを受けながら、逆境をはね返した前川氏の内面の強さ、心の原点にスポットを当てた」とされる他の記者の署名記事を参照するものがあった。共同通信の公式ツイッターで、「松吉」署名のツイート 「官邸からプレッシャーを受けたとされながらも、『捨て身』の証言を行った前川氏。6月23日の日本記者クラブでの会見にそのヒントが隠されていました。(松吉)」というが、そのような前川氏の内面の「強さ」を報じることは、彼を政権批判の英雄として祭りあげることになりはしないだろうか。実際にこの記事が公表された前後は、前川氏をそのような政権批判のヒーローとして扱う人たちもいた。 そもそも「官邸からのプレッシャー」が本当にあったかなかったかも問題の大きな論点であろう。これが実際あったかなかったかでも大きく報道の「印象」は変わる。だが、その種の検証をこのツイッターの投稿も記事自体も行ってはいない。その意味で、この記事もまた「印象操作」に堕しているといっていいだろう。 今回の山中氏に関する報道は「印象操作」の氷山の一角なのだろうか。その点はより地道な検証が必要だろう。だが、ぜひ共同通信、またそれに限らずマスメディアはネットを含む世論の批判を柔軟に聞く耳を持つべきである。今回の山中氏についての報道とその後の対応は、その意味であまりにも頑迷だからである。

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    エコノミストを忌み嫌った「保守の真髄」西部邁の過ち

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) 保守派を代表する論客の西部邁(すすむ)氏が自殺したという報道は、多くの人たちに驚きと悲しみ、そして喪失感をもたらした。 筆者にとって西部氏の発言は、主にその「経済論」を中心に1980年代初頭からなじんできたものである。また80年代におけるテレビ朝日系『朝まで生テレビ!』の討論者としての活躍も印象に残る。個人的には、2013年に編集・執筆した『日本経済は復活するか』(藤原書店)で、いわゆるリフレ派論客の中に混じり、リフレ政策への批判的な立ち位置を代表する論者として、フランスの経済学者、ロベール・ボワイエ氏、榊原英資・青山学院大教授らとともに原稿を頂戴したことを、今も感謝とともに思い出す。ボワイエ氏も榊原氏も、そして西部氏もともに単なる経済評論ではなく、その主張には思想的または実践的な深みがあったので、彼らへの依頼は拙編著の中で太い柱になった。講演する西部邁さん=2010年3月(前川純一郎撮影) また06年に出版した拙著『経済政策を歴史に学ぶ』(ソフトバンク新書)の中では、西部氏の「経済論」やその背景になる主張を、筆者なりに読み説いて、批判的に論じた。先の『日本経済は復活するか』への依頼でもわかるように、筆者にとっては、「西部邁」は自分とは異なる主張の代表、しかも彼を批判することが自分の「勉強」にもなるということで、実に知的な「論争相手」だった。もちろん、いままで一度も実際にお会いすることはなかったのは残念である。おそらく、会っても彼の一番忌み嫌う「エコノミスト」の典型であったかもしれないが、それはそれでむしろ筆者の願うことでもあったろう。なぜなら、それだけ西部氏の「経済論」には賛同しがたい一面があるからだ。 だが他方で、評論家の古谷経衡氏が表した以下の喪失感も共有している。西部邁先生が居られない保守論壇なんて…考えただけでも恐ろしい。どんどんと劣化、トンデモ、陰謀論、区別という名の差別が跋扈するだろう。現在でもそうなのに。古谷経衡氏の2018年1月21日のツイート 西部氏はその最後の書『保守の真髄(しんずい)』(講談社現代新書)でも明らかなように、保守派の論客であった。だが、現在の自称「保守」の一部のように、例えば「韓国破たん論」をヘイトスピーチに誘導するような形で言及し、または各種の陰謀論を匂わすような手法も採ることはなかった。西部ファンは多くいても、「信者」のような形で囲いこむこともない。その意味では、西部氏の言動は現代の「保守」論壇の中でまれなものだった。 西部氏の「経済論」は、かなり昔からある「正統派経済学批判」の形を採っている。西部氏にとっての正統派経済学とは、1)人々は合理的な存在、2)市場は効率的な資源の配分を行う自律的なシステムである、という主張を核にしている。だが、西部氏にとって人間の社会的行動とは、そもそも合理的な面と不合理的な面の二重性をもっている。そしてこの不安定な二重性を平衡に保つ力を、西部氏は「慣習」あるいは「伝統」と名付けている。経済問題の文脈で理解するとどうなるか この「慣習」ないし「伝統」を経済問題の文脈で理解するとどうなるか。『保守の真髄』でも例示しているが、賃金など雇用関係がわかりやすい。賃金は「慣習」で決まることで、経済の安定と不安定との平衡化に寄与するのである。 企業の投資活動は将来の不確実性に必ず直面している。このような不確実性に対処するために企業は労使間のあつれきをできるだけ最小化することを選ぶ。なぜなら、労使でもめ事が発生すればそれだけ企業の直面する不確実性もまた増幅するからだ。これは経営者側に長期の雇用契約を結ぶ動機付けを与え、また労働者側も自らの生活の安定のために長期的雇用関係を結びたがる。このことが長期雇用関係を「慣習」や「伝統」として企業の中に、あるいは日本経済の中にビルト・インしていくことになる。 このような経済論は、初期の著作『ソシオ・エコノミックス』から最後の著作である『保守の真髄』まで一貫している。後者から引用しておく。 勤労者がその慣習賃金を受容するというのは、それで自分の家族の生活が賄えると思うからに違いない。ということは、勤労者の購入する主として消費財の価格について何らか安定した期待を持っているということでもある。総じていうと市場で取引される多くの商品の価格が公正価格の周辺で、需要と供給の差に反応しつつ少しばかり変動する、というのが市場なるものの標準的な姿である。『保守の真髄』142ページ ただし、このような「慣習」=公正価格や慣習賃金などは、平衡作用と同時に非平衡作用も生み出す力を持っている。例えば、長期的雇用関係は慣習賃金として、名目賃金の下方硬直性を生み出す。労使間の信頼ややる気などを損なわないために、不況であっても賃金を引き下げることを選ばない。すでに大企業に雇われている労働者は身分も賃金も保証される。だがその半面で、若者たちの新規採用を削減したり、または非正規雇用などを増加させるなど経済不安定化を生み出してしまう。(iStock) もちろん西部氏は、「伝統」や「慣習」は人間社会の合理性と非合理性の平衡を「綱渡り」的にとることができるとみなしているだけで、いま書いたように「伝統」や「慣習」が一部の人たちには安定的でも、経済自体に不安定化をもたらすことも想定していたと考えることはできる。 この「伝統」や「慣習」に二面性を求める見解、時には社会・経済を綱渡り的に平衡させ、時には非平衡化させてしまう働きというものは、西部氏の貨幣論にも典型的に表れている。 貨幣は社会的価値を交換可能にすることで社会の安定化に寄与するだろう。しかし他方で強烈な不確実性ショックに直面すると、この貨幣がかえって社会そのものの平衡を危うくする可能性を、西部氏は同時に示唆していた。過剰だった「官僚」への期待 例えば、強いデフレショックがもたらした貨幣価値の急騰(貨幣バブル)によって、人々は実物投資や消費、そして何よりも人間そのものにお金を使うこと(雇用、教育など)を控えてしまい、ひたすら貨幣をため込んでしまうかもしれない。西部氏自身は、多くの経済学批判者と同様にインフレの方がデフレよりも社会を非平衡化=不安定化するものと思っていたようだが、いずれにせよ、この「デフレ=貨幣バブル」を再平衡化するには「貨幣=慣習」の価値を微調整していくべきだ、というのが西部氏の政策論の核心である。 ただし、このとき西部氏は「貨幣=慣習」の平衡化は、金融政策よりもむしろ財政政策が担うものと考えていたし、また政策の担い手としては「官僚」に期待しすぎていた。 要するに、日本のデフレの長期化は、それが問題であるにしても、原因が金融政策の失敗というような観点についぞ、西部氏は立脚することはなかった。むしろ市場原理主義的なもの、グローバリゼーション的なものが、「慣習」や「伝統」の平衡化を阻害することで日本の長期停滞は生じたと、彼はみていたと思われる。そのため、デフレとデフレ期待の蔓延(まんえん)、それをもたらしている日本銀行の金融政策の失敗というリフレ派の主張には、西部氏は最後まで賛同しなかったと思われる。それは残念なことであり、西部氏の影響を受けている人たちの「経済政策鈍感」ともいえる現象を招いただけに、さらに残念さは募る。2000年11月、参院憲法調査会で意見を述べる参考人の西部邁さん さらに「官僚」への期待が過剰なようにも思える。ここでいう「官僚」というのは、実際の高級官僚たちだけではなく、政治家、言論人などを含むものだ。この「官僚」が「指示的計画」を策定し、市場経済の基盤であるインフラ整備を行うことで、社会を安定化させることを西部氏は期待した。しかしその「官僚」から、なぜか「エコノミスト」たちは排除されていた。なぜなら、「エコノミスト」たちは世論の好む意見しか表明しない、社会をよくする存在であるよりも、社会に巣くう連中であるにすぎないからだ。だが、他方で、西部氏の期待する「官僚」たちも大衆や世論が好むように発言し、活動するものがいるのではないか。 大衆や世論には、真理を求めるという姿勢よりも、常に自分たちの好むものだけを望む傾向があるのは確かだ。だが、他方で今日の財務省的な緊縮主義に対抗できているのは、大衆の反緊縮的姿勢だけではないだろうか。日本の言論人やマスコミ、政治家、そして高級官僚のほとんどすべてが、日々、緊縮主義の掛け声をあげているのが実情である。大衆に安易な依存も期待もできない。しかし他方で、そこにしか今の日本ではまともな政策、少なくとも経済政策の支持の声は強くない。この日本の特殊な言論・政策環境にこそ、日本の精神的病理があるようにも思える。 西部氏の著作や発言は膨大である。そこにはひょっとしたらこの問題への解もあるかもしれない。だが、いまはここまでにとどめておきたい。 最後になってしまいましたが、心からお悔やみ申し上げます。生前のご教示ありがとうございました。

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    相撲協会にとっても痛い「最弱横綱」稀勢の里の不甲斐なさ

    小林信也(作家、スポーツライター) 横綱稀勢の里(31=田子ノ浦)が休場した。初場所5日目を終えての成績は1勝4敗。年6場所制となった1958年以降、横綱では6人目となる5場所連続の休場となった。5日目の朝稽古の後には「やると決めたら最後までやり抜く」と語ったというが、4敗目を喫し、さすがに休まざるを得ない状況にまで追い込まれたとみるのが自然だろう。 「もうひと場所全休し、体調と相撲勘をしっかり戻してから復帰した方がよかった」 相撲界やファンの間では、そんな声が早くも聞こえてくる。1月5日の稽古総見で豪栄道に2勝3敗、横綱鶴竜に3戦全敗し、まだ復調の兆しが見られないことから、横綱審議委員会の北村正任委員長も「休場もやむなし」と発言。いわばお墨付きをもらったのだから、無理して出る必要はなかった。 大きな騒動があって混乱が続く相撲界に、爽やかな風を吹かせる唯一の特効薬は「日本人横綱、稀勢の里の活躍、そして優勝」が何よりだと、そんな重圧や責任感もあったのだろうか。しかし、その思いはあえなく空回りし、いよいよ深刻な空気も漂い始めた。同じく休場が続いていた鶴竜は、今場所の結果次第では「進退問題になる」との見方もあったが、稀勢の里はまだその段階ではないと空気が支配的だった。ところが、これだけふがいない相撲が続くと、「進退に影響」との活字がメディアで踊るのも当然である。 初日からの相撲を見ていると、まったく威圧感がない。横綱になかなか昇進できなかったのは、誰もが知る稀勢の里の「弱気の虫」だ。横綱昇進の勢いの中で、それが姿を消したかに見えた時期もあったが、けがに水を差されると、やはり「弱気」が稀勢の里を支配し始めた。思い切った相撲が取れていない。勝ちに行く相撲ではなく、負けない相撲をして逆に、攻めが遅くなる。慎重に行けば行くほど、相手に見切られて敗れる。本来なら横綱が相手を見下ろして取るべきところだが、はっきり言って平幕の格下力士の方に余裕さえ感じられる。いなされたり、たぐられたりして、横綱は何度も土俵の上を転がった。琴奨菊に突き落としで敗れた稀勢の里 =2018年1月17日、両国国技館 初場所の稀勢の里の取組を振り返ると、特に目立ったのが足腰の軽さだ。4日目には、土俵のほぼ中央で琴奨菊に突き落としで転がされた。まわしの位置が高い。無防備に突っ立ったような態勢で、楽々と技をかけられている。3日目の逸ノ城戦でも、立ち会いは互角にも見えたが、そこからあっさりと逸ノ城に優位を取られた。両者の足腰の重さの違いは歴然だった。横綱昇進前後の取組は、どっしりと土俵に根が生えた感じがあったが、この取組では重さを感じさせたのは逸ノ城の方であり、稀勢の里はやけにふわふわと浮いているようだった。今場所の逸ノ城も決して好調とは言えないが、それでも楽々してやられた。 横綱が5日目で4敗ともなれば、休場という判断はやむを得ない。それは「負け越しても降格しない」横綱ゆえの面子(めんつ)ばかりではなく、相撲協会にはそれが容易に許されない「カラクリ」もある。平幕力士が横綱が勝つと「金星を挙げた」と表現するが、これは名誉だけの話ではない。力士褒賞金の支給額が一律4万円プラスになる。つまり、年6場所で24万円の昇給になる。協会にすれば、単純に出費が増える。金星を「安売り」をされれば、それこそ協会の懐を直撃するのである。稀勢の里が負けた時の「出費額」 稀勢の里は2017年11月場所で5個の金星を配給し、武蔵丸と並ぶ不名誉な最多記録をつくった。今場所はすでに3個、たった2場所で8個もの金星を許してしまったのである。下世話な言い方かもしれないが、これは年間192万円の出費を協会に与えてしまったことになる。しかも、この褒賞金は減ることがなく、力士が現役を続ける限り支払われるから、仮に金星を挙げた力士たちがその後も5年間現役を続けると、出費の総額は約1千万円にもなる。決して笑えない数字だろう。つまり協会の側に立てば、平幕力士に簡単に負ける横綱を大目に見続けるわけにいかないのである。 稀勢の里の今場所は「序盤が勝負」と見ていた。初日、二日目、そして三日目あたりまで無難に白星を重ねることができたら、思い切った相撲が取れるようになるのではないか。稽古総見では、いいところがなかったが、三日後の8日に行われた二所ノ関一門の連合稽古では、琴奨菊、嘉風を相手に「三番稽古」(同じ相手と続けて相撲を取る稽古)をして14勝3敗。復活を感じさせる内容だった。不安材料も多いが、無難なスタートさえ切れたら、そんな期待もあった。ところが、初日に敗れた相手は新小結の貴景勝。いま売り出し中の若手力士だ。 二日目は北勝富士。ここまで3場所連続で金星を挙げている「横綱キラー」である。稀勢の里に敗れた後に白鵬を破り、土佐ノ海と並ぶ4場所連続金星のタイ記録に並んだ怖い存在だ。そして三日目が逸ノ城、四日目は元大関の琴奨菊、五日目嘉風と、気を抜く間がない。いずれも元気者、くせ者、簡単には取らせてくれない相手ばかりだった。稀勢の里ファンにすれば「もう少し取りやすい力士から場所に入れれば…」とぼやきたくなるような顔ぶれだったに違いない。大相撲初場所5日目。嘉風に押し倒しで敗れ、4敗目を喫した稀勢の里(手前) =2018年1月18日、東京・両国国技館 だが、これらの力士を簡単に翻弄(ほんろう)してこその横綱である。いまの稀勢の里には残念ながらそれだけの余裕がない。横綱と平幕の力が逆転してしまっているのだろうか。そう考えると、なんだか新しい展望も見えてくる。つまり、横綱稀勢の里の弱さを嘆くのでなく、新しい力の台頭、若い役者たちが多数登場している現状を歓迎するのも一興(いっこう)ではないか。 初場所7日目までで7連勝と破竹の勢いをみせる関脇・御嶽海は24歳、阿武松、貴景勝は21歳、けがで足踏みしてしまった遠藤、逸ノ城も復活の兆しが見えつつある。 くだんの日馬富士事件で、貴ノ岩が言ったとされるせりふではないが、相撲界の世代交代は思った以上に進み、期待の力士たちの台頭が著しい。貴乃花親方が構想しているという「第二相撲協会」をつくらなくても、古い慣習に毒された力士たちはまもなく一掃され、新しい姿勢の持ち主たちが土俵の中心を担う。 そんな初夢を見る方が、相撲ファンにとっては前向きなのかもしれない。稀勢の里がその輪に入るのであれば、しっかりと休み、身体と勘を磨き直した方がいい。素人目ではあるが、けがはすでにかなり回復しているように思える。後は自信の回復次第である。稽古と巡業で準備を重ねてからでいい。次に土俵に上がるときは、今度こそ「進退」をかけた最後のチャンスになる可能性が高いのだから。

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    デフレ不況の勝ち組「債券ムラ」と既存メディアの蜜月関係

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) テレビ報道を検証する任意団体「放送法遵守を求める視聴者の会」(百田尚樹代表理事)が興味深いアンケートを公表した。「最近のテレビは偏向報道が増えている」という質問に対して、「すごく増えている」と「増えていると思う」の回答両方で、67・8%にもなっているのである。 「偏向報道」というのは、専門的な知見や社会的な常識などから著しく偏った報道を一定期間行っているときに使われている言葉だろう。もちろん単に報道することだけではなく、いわゆる「報道しない」ことも含まれている。世界的に当たり前の知見や事実が日本だけ報道されていない事例などを指す。2017年3月、「放送法遵守を求める視聴者の会」の代表理事に就任し、あいさつする作家の百田尚樹氏(左から2人目) 特に日本では、放送法の第1条第2項で「放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによって、放送による表現の自由を確保すること」とある。しかし、森友学園問題や加計学園問題などを中心に、テレビの報道は本当に「不偏不党」だったのか、しばしば議論の対象になっている。もちろん二つの学園問題だけではない。筆者の主なる関心である経済問題についても、専門的な知見というよりも特定の既得権団体、つまり財務省などの官庁、国債市場や民間金融機関の関係者などの意見だけが大きく取り上げられている傾向に思える。 素朴な観測をすると、全国放送レベルで、「ニュースウオッチ9」(NHK)「報道ステーション」(テレビ朝日系)といった平日午後9時以降の報道番組で、いわゆるリフレ派の経済学者やエコノミスト、経済評論家が出演して、経済政策についてコメントや解説することはまれといっていい。 リフレ派とは、日本の長期停滞の原因がデフレとデフレ期待にあるとし、その解決策として日本銀行の政策スタンスが重要だとする政策主張者たちである。特に政治的な主張と連動しておらず、政治スタンスはそれこそ保守からリベラル、左翼まで属している。ちなみに、日銀の政策スタンスのキーは、デフレ予想を転換することであり、インフレ目標と大胆な量的緩和を唱えるのが定番である。 政策レベルでいえば、アベノミクス「第一の矢」である大胆な金融緩和政策とほぼ同じになる。「ほぼ」としたのは、日本銀行の現状の政策に少なからぬリフレ派が不満足だからだ。海外では、リフレ派が主張する経済政策、つまりリフレ政策は「当たり前の政策」のひとつである。経済が停滞しているときに、積極的な金融緩和と財政拡張を行うことは、国際的には標準的な政策ツールである。ところが、日本のマスコミ報道ではその「国際標準」は例外扱いになっているわけだ。長期停滞で「勝ち組」になった人たち リフレ派は現実の政策的にも重要な専門家集団なのだが、存在が明らかになってきた1990年代後半から今日に至るまで、日本の報道番組に出演する機会はごくごく限られたものになっている。むしろ、テレビの経済解説では、彼らとは異なる財政再建論者や長期デフレ論者、消費増税論者などがテレビに出演する「専門家」の中心であり、あえて言えばほぼすべてである。 ちなみに、日本のテレビ報道の重要な特性だが、民間の主要キー局がすべて大新聞の関係組織であるため、新聞とテレビでの報道が極めて類似している。例えば、日本経済新聞にリフレ派の論客のコメントが掲載されたり解説記事を書いたりことは極めてまれだ。それの合わせ鏡で、関連会社のテレビ東京「ワールドビジネスサテライト」にリフレ派の論者が出演することもめったにないのである。利付10年の日本国債 ところで、日本には「債券ムラ」と呼ばれる民間金融機関の債券部門が存在している。彼らは日本が長期停滞を続ける中で「勝ち組」といわれていた。長期停滞が続けば名目金利が趨勢(すうせい)的に低下していくので、取り立てて有能ではなくとも、その部署にいるだけで債券の売却益で荒稼ぎできたわけである。 短期国債の名目金利はゼロに早く到達したが、それでも長期金利はプラス域であった。デフレ期に多くの金融機関が国債保有の比率を増加させていたのは、債券購入と債券売却との利ざや(=売却益)を稼ぐためであった。 だが、最近では、長期名目金利もマイナス域から極めて低い金利でコントロールされている。そうなると債券ムラにとっては自分たちの不況で得てきた有利なポジションを奪われているという不満が募ってくる。しかも債券ムラの住人は、デフレ不況の期間において、新聞、テレビ、通信社など既存のマスメディアと長期的な関係を構築してきた。 なぜなら、長期デフレの間で、最も目覚ましい活躍(?)をしていたのが債券ムラの住人たちであり、その動向を報じることは、既存のメディアにとっても商売になったからである。そのためか、今もメディアの多くは、債券ムラの住人たちの意見に沿った報道をする傾向が強い。「出口戦略」を求めるムラの願望 例えば、日銀の黒田東彦総裁が何か発言するたびに、いわゆる「出口戦略」として解釈する傾向がそれだ。今の日銀は、インフレ目標が2%に到達し、場合によればそれを超えることをしばらく放任する姿勢を採用している。もちろん今の日本は、デフレ不況ではないが低いインフレ率のままであり、目標達成はまだまだ見通せない。だが、マスコミの報道は常に「出口戦略はまだか」という解釈で、日銀の政策を理解しようとするバイアス(偏向)がある。 実際に昨年、黒田総裁が「リバーサル・レート理論」について言及したとき、それを日銀の政策変更の予兆としてとらえる報道が相次いだ。リバーサル・レート理論とは、黒田総裁の当の発言がわかりやすいので引用しておく。「最近、『リバーサル・レート』の議論が注目を集めています。これは、金利を下げすぎると、預貸金利ざやの縮小を通じて銀行部門の自己資本制約がタイト化し、金融仲介機能が阻害されるため、かえって金融緩和の効果が反転(reverse)する可能性があるという考え方です」2017年12月、会見場に入る日本銀行の黒田東彦総裁(桐原正道撮影) これは先ほどの債券ムラの理屈で読み直すと、国債の利回りがマイナスから極めて低い名目金利になると、国債の売却益が縮小してしまい、そのことが民間金融機関というか、債券ムラの収益を損ねてしまう、ということになる。つまり黒田総裁がこのリバーサル・レート理論を持ち出したことは、債券ムラ的な発想からは、黒田日銀の政策転換のシグナルに解釈できるのだ。 実際、この黒田発言以降の多くの報道記事は、金融関係や国債市場の関係者たちがこれを日銀の出口戦略のシグナルとしてみたとするものが相次いだ。のちに黒田総裁自身はそのような日銀の政策転換をもたらすものではないと否定するのだが、当初の報道の多くは、この黒田発言を日銀の政策が変わりつつあるシグナルとして伝えるものが多かった。しかも、いまだにこのリバーサル・レート発言を話の枕にして、今年の日銀の政策転換を解説するマスコミの記事に事欠かない。 念を押すまでもなく、もし、インフレ目標未達のままで日銀が政策転換を行えば、今後の政策の信頼性は著しく損なわれてしまうだろう。そのことは日銀の損失だけではなく、もちろん日本経済の損失にもなる。だが、「出口戦略」=日銀の金融緩和政策の終わりを求める、既存マスコミと債券ムラの関係者の願望はそんな日本経済や国民生活などはどうでもいいのだ。そう、彼らの利害こそがすべてだからである。

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    信長殺し将軍黒幕説に終止符を打つハリボテ「鞆幕府」の真相

    渡邊大門(歴史学者) 明智光秀が本能寺の変を起こした有力な説の一つとして、足利義昭黒幕説がある。しかし、以前検討したとおり、同説は史料的な根拠が薄弱で否定されている。足利義昭黒幕説が提起された背景の一つとしては、「鞆(とも)幕府」なるものが存在し、実態として強大な勢力を誇っていたからだといわれている。果たして、それは事実なのだろうか。 天正元(1573)年、足利義昭は織田信長に反旗を翻したが敗北。その後は室町幕府再興を悲願としながらも、流浪生活を余儀なくされた。やがて、紀伊国に滞在した義昭は「天下再興」を名目として上杉謙信に「打倒信長」を呼びかけたり、各地の大名間紛争の調停に乗り出したりするなど、その存在感を強くアピールした。 義昭は紀伊国の湯河氏のような中小領主クラスをはじめ、薩摩国の有力な戦国大名・島津氏まで声をかけていた。紀伊国に下向以後も、義昭は各地の大名に檄(げき)を飛ばし、室町幕府再興の夢を追い続けたのである。足利義昭像(Wikimedia Commons) そして天正4(1576)年2月、義昭は密かに紀伊国を船で出発すると、毛利氏領国である備後国鞆津(ともつ)に到着した。広島県福山市にある鞆津は、今も中世の趣(おもむき)を残す港町であり、ちょうど岡山県との県境に位置している。 当時、備後国は毛利氏の支配下にあったが、毛利氏領国の東端に位置していた。義昭は鞆に押しかけ、毛利氏に「信長が(毛利)輝元に逆意を持っていることは疑いない」と主張し、自らを擁立して信長と戦うよう求めた。毛利氏はまだ信長との関係が決裂していなかったので、あえて安芸の本国に義昭を迎えず、鞆にとどめたのかもしれない。 義昭の鞆への渡海は、毛利氏の頭痛の種となった。義昭がいることにより、毛利氏は信長との関係悪化を恐れたはずだ。したがって、義昭の強引な毛利氏に対する申し出は、困惑を持って迎えられたに違いない。しかし、畿内とその周辺の政治的な状況は、一刻の猶予を許さなかった。 天正3(1575)年11月、但馬国山名氏の重臣・八木豊信は吉川元春に宛てて書状を送った。その内容とは、明智光秀がかねてから丹波国に侵攻していたが、やがて抵抗する荻野氏らを攻め滅ぼし、丹波の大半を掌中に収めていたという事実である。つまり、畿内周辺で信長は確実に威勢を伸張しており、さらに西へと進出するのは明らかだったのだ。 播磨国の赤松氏、龍野赤松氏、小寺氏、別所氏そして浦上氏などは、すでに上洛して信長にあいさつをし、配下に収まっていた。各地域の有力な名族といえども、信長の軍門に降るか、攻め滅ぼされるか二者択一を迫られており、それは毛利氏も例外ではなかった。 毛利氏は政治的情勢を分析した結果、全面的な信長との対決は避けられないと結論付けた。天正4(1576)年5月、ついに毛利氏は義昭の受け入れを決断したのである。毛利氏に受け入れられた義昭は、早速「帰洛(=室町幕府再興)」に向けての援助を吉川元春、平賀氏、熊谷氏などに依頼した。副将軍の意義 鞆滞在中の義昭は、毛利氏と連絡するため外交を担っていた僧侶、恵瓊(えけい)との関係を密にした。相変わらず義昭は精力的に活動し、上杉氏、北条氏らの有力大名に援助を呼び掛け、打倒信長の檄を飛ばし続けたのである。 一方で、義昭が力を注いだのは、室町幕府再興の下地となる組織作りであり、手始めに毛利輝元に対して副将軍職を与えた。天正10(1582)年2月に書き残された吉川経安の置文(「石見吉川家文書」)には、「毛利右馬頭大江輝元朝臣副将軍を給り(以下略)」と記されている。 室町幕府再興を目指す義昭にとっては、将軍の存在をアピールする意味での副将軍であり、大きな意味があったのかもしれない。実は、副将軍については、この時代に実際に存在したのかしなかったのか、よくわからない職でもある。 室町時代の最盛期、将軍の配下に管領が存在し、将軍の意を守護らに伝え、逆に守護らの意見を取りまとめて将軍に伝達するなどしていた。しかし、享禄4(1521)年に細川高国が摂津国大物(尼崎市)で横死して以後、基本的に管領は設置されていない。毛利元就の孫、輝元像=山口県萩市・萩城跡 応仁・文明の乱以降、守護は自身の領国へ戻り、室町幕府の全国支配のコントロールはあまり効かなくなっていた。以後、将軍を支えたのは特定の大名たちで、義昭の場合でいえば、最初は織田信長であり、のちに毛利輝元になった。 この頃、将軍を支えるのは単独の大名であり、それはかつての「管領」ではなく「副将軍」と認識されたのだろうか。同じような例は、義昭以前に歴代将軍を支えた大内義興や六角定頼などの例で確認できる。ところが、大内義興らには「副将軍」が与えられておらず、輝元に与えられた「副将軍」の意義はやや疑問であるといえる。 自然に考えるならば、「副将軍」とは義昭が輝元に気を良くしてもらうために言い出したのかもしれない。しかし、注意すべきは輝元が副将軍に任じられたことを示す史料は、天正4年から6年後に成立した回顧談的なものに過ぎない。副将軍職を過大評価するのは、少々危険ではないだろうか。 そして義昭の執念は、やがて「鞆幕府」という形で結実した。いちおう現役の将軍である義昭は、鞆に御所を構えて幕府を再興し、かつてのように多くの奉行衆・奉公衆を擁した。いうなれば幕府の必要条件を整えており、まさしく「鞆幕府」と言うべき存在かもしれない。ところで、「副将軍」の輝元以外の「鞆幕府」の構成員は、どうなっていたのだろうか。 「鞆幕府」の構成員は、義昭の京都時代の幕府の奉行人・奉公衆、そして毛利氏の家臣、その他大名衆で占められていた。毛利氏のなかでは、輝元をはじめ吉川元春、小早川隆景、などが中心メンバーで、三沢、山内、熊谷などの毛利氏の有力な家臣も加わっていた。 ここで重要なことは、彼ら毛利氏家臣の多くが義昭から毛氈鞍覆(もうせんくらおおい)・白傘袋(しらかさぶくろ)の使用許可を得ていることである。そもそも毛氈鞍覆・白傘袋の使用は、守護や御供衆クラスにのみ許され、本来は守護配下の被官人には許可されなかった。本来、毛利氏の家臣が許されるようなものではなかったのである。形骸化した栄典授与 そうしたことから、将軍によって毛氈鞍覆・白傘袋の使用許可を得た守護配下の被官人らは、ごく一部に限られ、彼等は守護と同格とみなされた。つまり、毛利氏の家臣は、義昭から最高の栄誉を与えられたことになろう。 しかし、現実には室町幕府の衰えが目立ち始めてから(16世紀初頭以降)、金銭と引き換えに毛氈鞍覆・白傘袋の使用は許可されるようになった。栄典授与の形骸化であり、インフレでもある。ただし、本来の価値を失っていたとはいえ、与えられたほうは大変に喜んだと考えられる。それが、将軍の権威だったのだ。 さらに重要なのは、将軍直属の軍事基盤である奉公衆が存在したことだ。一般的に、明応2(1493)年に起こった明応の政変で将軍権力は大きく失墜し、奉公衆は解体したと考えられている。 ところが、義昭の登場以降、奉公衆は復活しているのである。たとえば、美作国東北部には草苅氏という有力な領主が存在し、当主である景継は義昭の兄・義輝の代から太刀や馬を贈っていた。つまり、景継は幕府との関係を重視していたのである。 景継は幕府との関係を義昭の代に至っても継続しており、奉公衆の「三番衆」に加えてもらうように依頼した。その結果、足利義昭の御内書と上野信恵の副状によって、景継は三番衆に加えられた。景継は奉公衆に加えられたので、その喜びは言葉に言い尽くせないものがあったと想像される。 毛氈鞍覆・白傘袋の使用許可にしても、奉公衆に加えるにしても、与えられた者にとって何か意味があったのであろうか。要するに、栄典授与などを得ることにより、他者に対して何らかの形で優位に立てるかということだ。 結論から言えば、支配領域での実効支配の強化や戦争などが有利に展開したとは考えられない。ただし、与えられた当人が喜び、権威的なものを手に入れたと感じたことが一番重要だったといえるだろう。実効性はあまり期待できなかったと考えられる。織田信長像(東京大学史料編纂所所蔵の模写) 義昭は信長に追放され、将軍としての実権を喪失していた。とはいえ、義昭は半ば「空名」に過ぎない栄典を諸大名に与えることにより、彼らを自らの存在基盤に組み入れる根拠としたのである。それは、実権を失った義昭にとって最後の大きな武器であり、現職の将軍であることの強みでもあった。 義昭は何とか奉公衆を組織し、配下には大名たちもが付き従った。では、義昭のもとに馳せ参じた大名には、どのような面々が揃ったのだろうか。その一員の中には、武田信景、六角義尭(よしたか)、北畠具親(ともちか)などの聞きなれない人物が存在するが、彼らはいかなる人物だったのだろうか。その経歴に触れておこう。 武田信景は若狭武田氏の出身で、父は信豊、兄は義統(よしむね)である。義統の跡を継いだ子息の元明は、越前国朝倉氏の勢力に押され、のちに支配下に収まった。朝倉氏が滅亡すると、織田信長の家臣・丹羽長秀が若狭国を支配した。「ハリボテ」のような幕府 結局、元明にはわずかな所領しか与えられず、若狭武田氏は滅びたのも同然であった。こうした事態を受けて、信景は義昭のもとに参上したといわれている。信長に対しては、良い感情を抱いていなかったはずだ。 六角義尭は近江国六角氏の流れを汲み、義秀の子であるといわれている。六角氏もまた永禄末年に織田信長の攻撃を受け、もはや往時の勢いはなかった。武田氏と同じく、信長には好感を持っていなかっただろう。義尭は義昭の配下にあって、重用されたと指摘されている。それは、かつて六角氏が歴代足利将軍を支えたからだろう。 北畠具親は伊勢国司北畠具教の弟で、当初は出家して興福寺東門院主を務めていた。ところが、天正4(1567)年に織田信長が兄・具教(とものり)を殺害すると、還俗して北畠家の復活を目指した。 南伊勢に入った具親は、翌年に北畠一族や旧臣とともに挙兵したが、具親は北畠信雄(信長の次男)の前に敗れ去り、北畠家の再興に失敗する。そのような事情から、鞆へ来て義昭につかえたのであり、やはり信長は不倶戴天の敵だった。 このように見ると、「鞆幕府」を構成する中心メンバーは、毛利輝元、小早川隆景、吉川元春の3人であり、頼りなるのは毛利氏の家臣だった。ただ幕府を構成するには、形式を整えるため、烏合の衆のような存在も必要であった。それゆえに義昭は、彼らに毛氈鞍覆・白傘袋の使用許可を与え、忠誠心を植えつけようとしたのであろう。広島県福山市の景勝地「鞆の浦」 「鞆幕府」に組み込まれた諸大名(武田、六角、北畠の諸氏ら)たちは、いささか頼りない連中ではないだろうか。一つのパターンは、奉公衆の看板に魅了されて従った領主層である。残りのパターンは、「信長憎し」で集まった落ちぶれた大名連中である。 幕府が全国政権を標榜する以上、多くの諸勢力を糾合する必要があったのかもしれないが、毛利氏を除くと烏合の衆と言わざるを得ない。幕臣も京都にいた頃と比較すると、随分少なくなったと指摘されている。「鞆幕府」と称しているが、実際には単なる「寄せ集め集団」としか言いようがない。 「ハリボテ」のような「鞆幕府」であったが、一定の権力とみなされたのは事実である。特に、中小領主が積極的に加わり、「反信長」の対立軸になったことは評価しうるところである。そう認識された理由は、義昭が将軍という権威的な存在であったという一点になろう。 しかし、義昭には政治的権力が乏しく、軍事力は毛利氏頼みであった。各地の有力大名にあれだけ檄を飛ばしながらも、誰もすぐに飛んでこないのは、その証左と言えるだろう。したがって、形式的には「鞆幕府」と称しうるかもしれないが、その存在自体を過大評価すべきではないと考える。※主要参考文献 谷口克広『検証本能寺の変』(吉川弘文館、2007年) 渡邊大門『信長政権 本能寺の変にその正体を見る』(河出ブックス、2013年)

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    三橋貴明DV事件を機に考えたい「家庭内暴力の経済学」

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) 著名な経済評論家の三橋貴明氏が逮捕されたニュースは、経済など時事問題に関心の強い層を中心に大きな驚きを与えた。筆者が最初に目にした朝日新聞の報道によると、10代の妻を口論の末に「自宅で転倒させて腕にかみついたり、顔を平手で殴ったりして約1週間のけがを負わせた」とある。いわゆる家庭内暴力(ドメスティック・バイオレンス)に該当する事象での逮捕だろう。他の報道では、去年2回にわたり、妻への暴力をやめるように警察から警告を受けていたという。 これらの報道の信憑(しんぴょう)性を含めて、今後この事件がどうなるのか推移を見ていかなくてはいけない。釈放された三橋氏本人のブログでは、彼の視点による「事実」の説明とおわびの言葉が書かれている。ブログには「最後に、妻がかなりきつい言葉を私にぶつけ、一瞬、カッとなった私は、妻の左ほほを平手打ちしてしまいました」とあるので、暴力があったことは少なくとも明白だろう。 三橋氏の釈放を受けた報道には「裁判所が身柄の拘束を認めなかったため、三橋さんは8日午後、釈放された。三橋さんは警視庁の調べ容疑を否認していたということで、今後は、在宅のまま捜査が続けられる」(日本テレビ系 NNN)とある。報道が正しければ、捜査は継続中のため予断を許さない。経済評論家の三橋貴明氏=2014年4月(宮崎裕士撮影) 三橋氏とは今まで何度か討論番組で同席し、またラジオでは日にちが違うが同じ番組のコメンテーターを務めるなど、面識がある。三橋氏の人柄について個人的な感想は特に今はない。彼が主張する経済論には、今までも厳しい批判の姿勢を持っていた。ただ、そのことと今回の事件は特に関連するものではない。 ネットではさまざまな「陰謀論」めいた話が交錯しているが、なんの根拠もない、身びいきあるいはその反対の悪意に満ちたものがあるだけで読む価値はない。以下は今回の事件を契機にして、日本の家庭内暴力について、経済学者としての視点を中心に簡単な考察を試みることにした。家庭内暴力は「隠れた貧困」 家庭内暴力については、個人的にもトラウマ(心的外傷)に似た経験を持っている。筆者の幼少のころに母親、そして筆者自身も、父親の苛烈な家庭内暴力に見舞われていた。詳細は控えるが、父親からの加害によって母親は生涯、片足に障害を負ってしまった。冬場になると古傷が痛むらしく、よく足を引きずるようにしていたのを思い出す。今は両親ともに鬼籍に入っているが、家庭内暴力は筆者にとっても無縁の出来事ではないのだ。(iStock) 内閣府の統計によると、全国の配偶者暴力相談支援センターに寄せられた相談件数は年間で10万件を超えている。ものすごい件数である。アンケートでは、配偶者(事実婚や別居中の夫婦、元配偶者も含む)から「身体的暴行」「心理的攻撃」「経済的圧迫」「性的強要」のいずれかを一つでも受けたことがある人の数は、女性では20%以上、男性は16%ほどにものぼるという。 相談件数自体も驚くほど多いが、ほぼ一貫して件数などが上昇傾向にあることは見逃すべきではないだろう。もちろん他のアプローチも存在するが、家庭内暴力を経済学の視点からどう考えるべきか。それは一種の「隠れた貧困」と考えるべきかもしれない。 貧困といえば、満足な栄養や最低限の所得に欠けるような「絶対的貧困」、社会の一定割合を貧困状態であるとみなす「相対的貧困」など、多様な貧困の基準がある。 最近、日本の貧困研究の第一人者である日本女子大学名誉教授の岩田正美氏が『貧困の戦後史』(筑摩書房)を出版した。同書では、幼児の虐待死や未受診・飛び込み出産を「『かたち』になっていない貧困」と定義して分析している。「かたち」になっていない貧困とは、貧困として社会的な注目の濃度にまだ乏しいが、実体は貧困に起因するものであるという視点だ。生活保護から閉ざされるなど経済的な制約のために、児童への虐待が見られるという可能性を岩田氏は指摘している。 現時点の経済学の成果をみると、家庭内暴力も経済的な要因が無視できないほど大きい。ブラウン大のアナ・エイザー教授は家庭内暴力の経済学を積極的に公表している。その中で、エイザー氏は男女間の賃金ギャップに注目している。この男女間の賃金ギャップが縮小するほど家庭内暴力が減少していくという。つまり、労働報酬で男女間の賃金ギャップが少なくなれば、家庭の中での女性パートナーの交渉力が増し、それにより家庭内暴力が減って女性の健康が促進されていくというのである。家庭内暴力は周期性を持つ また、家庭内暴力が周期性を持つことをエイザー氏は指摘している。家庭内暴力を振るわれた女性パートナーが、当局に助けを求めても、しばらくするとその男性パートナーと暴力的な関係性に戻ってしまう現象が存在するという。この時の原因は、心的な依存関係もあるが、経済的依存関係が大きく左右するだろう。例えば、男性パートナーだけが働いているために、女性パートナーは経済的に自立しにくいケースが典型的には考えられる。この家庭内暴力に経済的な依存関係が大きな役割を果たすことは、別の欧米の経済学者たちによっても指摘されている。 これは視点を変えると、家庭における男女分業への伝統的な経済学の解釈を再考するきっかけともなるだろう。例えば、異なる仕事それぞれに特化しても、そのカップルには効率性はあっても、心の幸福を得られないかもしれない。男性パートナーが会社などで高い報酬を得、一方で専業主婦の女性パートナーが家庭内労働で大きな成果を挙げていても、それによりこのカップルが幸福といえるかどうかは別問題というわけである。エイザー氏の視点では、ここには経済的な依存関係が発生していることになる。 ただし注意すべきは、一例として女性パートナーの男性パートナーへの経済的依存関係が強いときは、家庭内暴力が深刻であっても女性パートナーが声を上げることが難しいかもしれないことだ。離婚や別居することで十分な生活を今後送ることができるのかどうかが最重要な問題だろう。また今までの人間関係を失うコストも重大なものだ。これらのコストを払うことができないまま、家庭内暴力に泣き寝入りする可能性がある。これはまさに「隠れた貧困」といってもいいのではないか。(iStock) ブリティッシュ・コロンビア大学の講師マリナ・アドシェイド氏は、『セックスと恋愛の経済学』(東洋経済新報社)の中で、外国人の妻たちが離別した後や家庭内暴力についての声をどれほど頻繁に上げているかを解説している。理由を簡単にいえば、彼女たちがその時点では経済的な依存関係から脱却しているからである。別な角度からみれば、経済的依存関係が深ければ、そのような声が出にくいだろう。 アドシェイド氏は、さらに経済的に効率的ではないかもしれないが、幸せなカップルになるには似たもの同士が好ましいと書いている。ある人が教えてくれた古いことわざに「割れ鍋にとじぶた」というものがあるが、経済学からもそれと同じ含意が出てくるのは興味深い。 もちろん家庭内分業がうまくいっているカップルも多くある。また、ささいなトラブルはどの家庭にもあるだろう。だが、私は前述した個人的な経験も踏まえていうならば、家庭内暴力に安易な妥協はしないほうがいいと伝えたいのである。

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    政治利用される平昌五輪に日本は「不参加」の選択肢があってもいい

    小林信也(作家、スポーツライター) 2017年末、平昌五輪の代表選考を兼ねたフィギュアスケートの全日本選手権が行われた。男子は羽生結弦がケガのため今大会を欠場したが、過去の実績を評価されて代表に選出された。ケガの復調具合が心配だが、平昌五輪では前回ソチに続く2連覇を狙っている。 羽生だけでなく、平昌五輪は冬季五輪で前例がないほど、多種目で日本人選手の金メダル獲得が期待されている。スピードスケート女子500メートルの小平奈緒、ジャンプの高梨沙羅ら「絶対本命」もいる。スノーボードでも男女とも複数のメダルが狙えると注目されている。選手たちが順調に実力を発揮すれば、1998年の長野五輪の金5個、銀1個、銅4個、計10個を超える可能性もある。2月9日の開幕早々にフィギュアスケート団体予選で日本が好スタートを切り、4日目のスキージャンプ女子ノーマルヒルで高梨沙羅、伊藤有希がメダルを獲得すれば、一気に五輪フィーバーが巻き起こり、不安な世界情勢など忘れたお祭り騒ぎに日本列島が浮かれる可能性も高い。2017年4月、フィギュアスケート世界選手権男子で3季ぶり2度目の優勝を果たした羽生結弦が帰国し、多くのファンから出迎えを受けた=羽田空港(今野顕撮影) だが、政治的、社会的な観点からは、平昌五輪自体の開催や成功が危ぶまれてもいる。12月2日の産経新聞は次のように伝えた。 北朝鮮の核・ミサイル危機を受け、欧州では平昌五輪への選手派遣を再検討する動きが出ている。 発端は、フランスのフレセル・スポーツ相が9月21日、ラジオで「状況が悪化し、安全が確保されなければ、フランス選手団は国内にとどまる」と発言し、派遣見送りの可能性を示唆したことだ。フレセル氏は翌日、ボイコットするわけではないと強調したうえで「私の役割は選手を守ることだ」と述べた。 フレセル氏自身が金メダルを獲得した元五輪フェンシング選手だったため、選手団の間には「家族は心配しており、危険を見極める必要はある。今は練習するだけ」(アルペンスキー選手)などの動揺が広がった。だが10月には仏五輪選手団が発表され、現在までに派遣差し止めの動きはない。 北朝鮮情勢への動揺が広がっていることに配慮し、IOCは9月22日、「関係国や国連と連携している。開催準備は予定通り進める」とする声明を発表した。「選手の安全は最重要課題。朝鮮半島情勢を注視していく」との立場を示した。平昌五輪で日韓が「駆け引き」 慰安婦問題で急速に冷え込む日韓関係にあって、平昌五輪が政治的な「駆け引き」に使われている。スポーツは、政治と無関係ではない。政治の舞台そのものだ。まず、11月15日の中央日報は次のように伝えている。 李洙勲(イ・スフン)駐日韓国大使が日本の河野太郎外相と会い、両国首脳間のシャトル外交復活に向けて努力することを確認した。 李大使は14日、外務省で就任の挨拶のため河野外相と会談を行い、韓日関係の未来志向的発展に向けた方案について意見を交換した。 この中で河野外相は「大統領の信任が厚い方が大使として日本に来られ、未来志向的な韓日関係につながっていくものと期待する」と話した。これに対し、李大使は河野外相に「先月の総選挙で、最多得票によって当選したことに対し、お祝いを述べたい」と答えた。李大使は会談後、記者団と会い、「来月あるいは来年1月に韓日中首脳会議が開催され、文在寅(ムンジェイン)大統領が日本に訪問した後、来年2月の平昌(ピョンチャン)冬季オリンピック(五輪)の時に安倍晋三首相が訪韓すればシャトル外交が復活する」としながら「このために共に努力していくことを確認した」と述べた。 だが、12月19日に韓国外相との会談で日本の河野外相は否定的な見解を伝えたという。以下は朝日新聞の報道である。 19日にあった河野太郎外相と韓国の康京和(カン・ギョンファ)外相との会談で、来年2月の韓国・平昌冬季五輪への安倍晋三首相の出席をめぐって日本側が韓国側を牽制(けんせい)する一幕があった。日本政府は慰安婦問題で韓国政府の対応に不信感を募らせており、外交的な「駆け引き」を仕掛けた格好だ。 複数の日韓関係筋が明らかにした。康氏が会談で「首相を平昌で歓迎したい」との文在寅(ムン・ジェイン)大統領のメッセージを伝えると、河野氏は文政権が2015年末の日韓合意に反する動きを見せていることに触れ、「このままでは(参加は)難しい」と伝えた。2017年12月、会談に臨む河野外相(左)と韓国の康京和外相=東京都港区の飯倉公館(代表撮影) 言うまでもなく、朝鮮半島は緊迫の度合いを増している。北朝鮮の動き次第で、世界的に戦闘的行動へ移行する一触即発の危機をはらんでいる。地理的にも、その影響を最も受ける国のひとつが日本でありながら、五輪を語り出すと日本人はそうした世界情勢の緊張感を忘れる。「平和ボケ」と呼ばれる兆候を示す端的な傾向だろう。スポーツを糾弾すればエンタメになる 私は北朝鮮の暴挙や韓国の姿勢を理由に「平昌五輪不参加」を強く提言する立場ではないが、スポーツをいつまでも万能な「平和の象徴」のように位置づけ、「スポーツ交流さえすれば仲良くなれる」「スポーツの感動さえあれば、世界は平和になる」という安易な思い込みからは早く脱却すべきだ。スポーツに打ち込む選手も指導者もそれを認識し、その上で「スポーツに何ができるか」を模索する深い目覚めと覚悟が求められている。2010年2月、バンクーバー五輪のフィギュアスケート女子表彰式で、銀メダルに終わり、こらえきれず涙を見せる浅田真央。右は金メダルの金姸児(キム・ヨナ)(鈴木健児撮影) 仮の話だが、想像してみてほしい。金妍児(キム・ヨナ)と浅田真央の戦いの舞台がもし平昌五輪だったら? そして、韓国の観客から見れば「不可解」と思われるジャッジで金妍児が敗れたとしたら。いやもしその相手が北朝鮮の選手だったら…。 競技を終えてノーサイド、互いに抱き合いたたえ合う、観客も心を同じくして深い友情の絆を感じる…。そのような美しい物語ばかりを期待できるだろうか。巨大なビジネスと化したスポーツ界には、巨額のお金と利権がうごめいている。選手はその膨大なビジネスのカギを握る中枢にいる。もはやセンチメンタルだけでスポーツは語れない時代だ。 ここ2カ月以上、テレビのワイドショーはずっと大相撲問題を取り上げている。スポーツをめぐる社会の空気が変わっている。お茶の間がスポーツを批判的な立場で糾弾し、「それがエンターテインメントになる」時代にシフトしたのだ。東京五輪のエンブレム問題、新国立競技場建設問題あたりから、急速に旗色が変わった。スポーツは賛美されるばかりの分野でなくなった。それはある意味、歓迎すべきことだと感じている。 果たして、平昌五輪もこの厳しい流れの中で、お茶の間を巻き込んだ新しい議論が生まれるのか。あるいは、やはり「空前のメダルラッシュへの期待」でお祭り騒ぎが国民の気分を支配するのか。日本人のスポーツに取り組む姿勢、そしてスポーツを通して実現を目指すべき中身の真価がいま問われている。

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    蛇神のためなら「たとえ火の中水の中」信長の脳内が分かる3つの逸話

    していた蛇・龍、雨乞いがセットになっていた場所こそが「あまが池」なのである。           本連載第2回では幼い信長が那古野城内の天王坊安養寺に通い「祭神の素戔嗚尊(スサノオノミコト)がヤマタノオロチを倒しその体内から草薙剣(クサナギノツルギ)を得た=オロチの力をわが物とした」という神話に親しく触れていた、と紹介したが、その信長が実際に大蛇(オロチ)が身近にいるかもしれない、と思ったとき、素戔嗚尊の故事にもとづき自分も大蛇の力を獲得して水を支配する力を得られるではないか、という考えに至ったのは自然な流れだったろう。ところが実際の信長は池の水の掻い出しすら思った通りにできない素の人間のままで終わってしまった、というオチでこの話は終わるのであるが。信長が家臣につけた名前の意味 これで信長がいかに大蛇に執心していたかがおわかりいただけたと思うが、ところで、読者の皆さまは何かに熱中したときにどういう行動をとるだろうか。信長のようにそれを手に入れて一体となりたいと思えば、品物であれば高額でもかまわずそれを買い求め、山野を探して回り、自分で造りだそうと寝る間も惜しんで製作にいそしむだろう。人物であれば、その人の髪形・衣装・話し方をまね、メイクも似せようとするだろう。SNSなどのハンドルネームもその人物の名を使ったりする人は多いだろう。 信長の場合はどうしたか。身につけるもの(三五縄)の話は以前にしたが、それだけではない。そのこだわりは、家臣の名前にも残っているのだ。 その家臣の名は、佐久間信盛。信長の重臣であり、他の家老たちがことごとく信長の敵にまわったときでも信長に従い、支え続けた筆頭格の家来で、忠義厚い武士だ。のちには「退(の)き佐久間」とあだ名されるほど、退却戦の殿軍をつとめさせれば抜群の粘りをみせた。これも主君・信長への信頼と忠誠心がなければできることではない。織田信長像(東京大学史料編纂所所蔵の模写) そんな信盛が、若い頃に発給した文書がある。天文年間(この時期から4年以上前)に熱田社の関係者に出したものなのだが、そこに記された彼の署名は「佐久間半羽介」というものだった。  筆者は以前、この「半羽介(はばのすけ)」というのは現在の名古屋弁にある「ハバ」と同じものかと考えていた。「ハバ」は仲間はずれ、という意味であり、信長とその近習たちが傾奇者の格好で人も無げに振る舞うのは、自分たちを世間の除(の)け者と規定し、家臣にもそのものズバリの名を使わせていたのではないか、というわけだ。「珍走族」の若者たちが奇抜なグループ名を名乗るのと似通っている。 だが、どうやらそれだけではなかったようだ。実は、「半羽介」のハバは、大蛇の代名詞でもあるのだ。『古事記』などを見ると、ヤマタノオロチを退治した素戔嗚尊の剣の名は「アメノハバキリ(天羽々斬)」なのだが、これはハバを斬るための天剣という意味である。つまり、ハバ=大蛇なのだ。 信長は、信頼する信盛に大蛇と名乗らせて、名前の上からも身の回りを蛇で固めていたということになる。信盛もまた信長の思想に賛同し大蛇の名を喜んでわが身に承(う)けた。そして家来たちはみな信長の大蛇信仰に同調し、集団でその力を追い求めていく。自分の手を焼いてでも信長が許せなかったこと 『信長公記』には、この蛇池のエピソードに続いてもう一つ、興味深い話が収録されている。それは、信長の身内と言ってもよい、乳兄弟(信長の乳母の子)にあたる池田恒興(つねおき)に関するものだ。信長の家臣・織田信房の家来と、同じく家臣・恒興の家来とが刃傷沙汰を起こし、裁判に持ち込まれる。ここで信長が命じたのは、「火起請(ひぎしょう)にせよ」ということだった。 火起請とは当時しばしばおこなわれた判定方法で、炎にくべ真っ赤に熱した手斧などの鉄製品を握らせて所定の場所に置くことができればその者は正しい、あるいは勝ち、ということになる。信長はこれを「三王社の前」でやらせたのだが、これは山王社=日吉神社の前だろう。清洲城跡の南、800メートルほどのところに三王日吉神社が鎮座しているのがおそらくそれだと思われ、この神社の由来にもこの話は自社でおこなわれたとされている。 かつて清洲の総氏神=名古屋の中心的神として大切にされていた神社。その社域の前ということではなく、当然火起請は神前でおこなわれた。つまり神の判断を仰ぐという意味である。 その場で、恒興の家来は焼けた手斧をつかむことができなかった。ところが、恒興は信長の乳兄弟という立場を利用して家来をかばい、命を助けようとしたのである。 これを聞いた信長は、怒った。現地におもむいて関係者全員を前に「どの程度まで手斧を焼いたのか、見せよ」と命じると、再び真っ赤に焼かれた手斧をわが手で受け取り、スタスタと3歩歩いて棚に置き、「見たか」と周囲を見渡し、恒興の家来を成敗させた。信長が火起承を行った日吉神社の境内にある申の像(中田真弥撮影) なんともすさまじい話であるが、重要なのはこれが日吉神社の神前だったという点だろう。日吉神社は津島の牛頭(ごず)天王信仰とも関係が深いといわれる。この神社の祭神・大山昨神(おおやまぐいしん。五穀豊穣、植物の成長を司る)はその本家・比叡山の日吉神社が猿を神の使いとし、「真猿」=魔が去る=厄除けの利益をもたらしてくれる神であり、魔除けに余念がなかった信長には大切な神だった。さらにそれだけではなく、厚く尊崇する素戔嗚尊も祀られていたから、その神慮を無視して私欲を優先しようとする恒興を許すことができなかったのだ。 灼熱(しゃくねつ)した鉄で自らの手の肉を焼くというすさまじいやり方をとってまで神意をはばかった信長。その姿は、無宗教主義者というレッテルからかけはなれたものというほかないではないか。 

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    「日本の借金1108兆円」NHKの歪んだ報道が国民をさらに惑わす

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) たまたまNHKを見ていて非常に懸念を抱いたニュースがあった。「来年度予算案 1100兆円の借金 財政の先行き一段と不透明に」という記事で、インターネットでも読める。 簡単に要旨を書くと、政府予算案の規模が大きく、歳出が増加する一方で歳入では国債の発行額が3分の1を占めるのが問題と指摘する。そして、来年度末には国と地方を合わせた「借金」が1108兆円に上り、「先進国中最悪」になることに警鐘を鳴らすものである。報道は、このような財政状況が若い世代に将来不安をもたらしていると結んでいる。筆者から見れば、このようなNHKの報道こそが、財政状況へのゆがんだ認識を広めることで、若い世代に不安を与えていると思う。東京都渋谷区のNHK放送センター まず、どこがゆがんでいるのだろうか。それは政府の「1108兆円の借金」という見方である。単純に、日本の財政は借金=負債だけが存在するのではなく、資産も存在している。政府の持つ資産と負債を比較して、その上で事実上の「借金」を特定すべきである。負債の方が資産を上回っていれば、それを「純債務」と名付けよう。ただし、この純債務の大小だけがわかっても財政状況はまだ判断できない。だが、ここまでの議論を「政府のバランスシート問題」と名付けておく。 たとえ借金の方が資産よりも多くても、将来それが返済可能であれば問題はない。つまり返済できる金額と返済しなければいけない金額を比較して、それがほどほどのバランスであればまず問題はない。以下ではこの点を「政府のバランスシート問題」の観点から検討する。 政府の資産と負債を比較できるバランスシートを見る重要性は繰り返し指摘されてきている。今回のNHKニュースに代表されるような「政府の借金(負債)」の大きさだけに注目するのは全く妥当ではない。これでは国民が財政再建、増税路線、緊縮政策といった特定の政策に誘導されてしまうだろう。実際NHKニュースでも、いまのところ再来年に実施される消費増税が、教育無償化などに使われることよりも、むしろ国債償還という「借金」返済に使われるべきだとの趣旨として読むことができる。だが、そのような誘導はもちろん真実への誘導ではない。誤解への誘導である。「政府+日銀」の保有を無視するのか 政府のバランスシートの最新版は以下の通りである。 これを見ると平成27年度末で、政府の純債務はマイナス520兆円である。前年度よりも30兆円近く増えているし、ここ数年でもその傾向はある。だが他方で、この純債務と日本の名目国内総生産(GDP)を比較すると、名目GDPが同年度で531兆円なので約98%である。 さらに政府の概念をより広げてみよう。特に日本銀行との関係が重要である。数年前に日本経済新聞の紙上で、コロンビア大学のデイビット・ワインスタイン教授は、日銀の金融緩和政策を好意的に評価したうえで、日銀はその保有する国債を永久に所持できる(実際には償還期限がきたものから日銀のバランスシートから剥落)と指摘している。この考え方を採用すると、広義の政府、つまり統合政府は「政府+日銀」となる。両者のバランスシートのうち国債保有の関係だけをみると、日銀は現状で国債を438兆円保有している(営業毎旬報告12月20日)。参照:財務省 政府部門の最新のものは、2015年3月末までなので類推しなければいけない。いま年度ごとの純負債の増加額が、毎年度約30兆円としておくと、現時点の政府と政府関連機関の純債務は571兆円と考えられる。対して日銀の現時点の国債保有額が438兆円なのでこれを571兆円から引き算すると、統合政府の純債務は現状では、133兆円である。名目GDPは約540兆円としておこう。すると名目GDPと純債務の比率は、約25%になる。これは同様の推計をした2014年末の比率では、約41%なので大きな縮小である。 このような統合政府からみた見解を、どうもNHKは無視したいようである。NHKがなぜ無視したがるのか、記事には載っていないのでわからない。だがしばしば国の借金だけを強調する論者や政治家たち、マスコミが指摘しているのは「日本銀行のバランスシートを組み込んで、そのような財政膨張を弁護してもやはり財政の信認が失われる」というものだ。日銀の国債保有の「メリット」 この論点については、経済金融アナリストの吉松崇氏が論説「中央銀行のバランスシート拡大と財政への信認」(原田泰・片岡剛士・吉松崇編著『アベノミクスは進化する』中央経済社)で集中的に検討している。簡単に要旨だけ書く。日銀が「質的量的金融緩和」で多くの国債を保有している。日銀の保有する国債からは金利収入が発生する。他方で日銀当座預金には0・1%の金利がつき、この部分は民間銀行に支払われる(実際の日銀当座預金への金利適用は複雑だがここでは単純化する)。だから金利収入からこの0・1%を引いたものが、日銀の得る通貨発行益(シニョレッジ)となる。 吉松氏の解説の通り、この通貨発行益は、日銀の収益であると同時に、国庫に納付するため事実上の国の収益である。つまり通貨発行益がプラスで推移していくことは、日銀の国債保有が政府にとってもメリットがあり、狭い意味での政府の財政を安定化させることに寄与しているということだ。 なお、日銀の説明ではもっと単純に「日本銀行の利益の大部分は、銀行券(日本銀行にとっては無利子の負債)の発行と引き換えに保有する有利子の資産(国債、貸出金等)から発生する利息収入で、こうした利益は、通貨発行益」としている。2017年12月、記者会見する日本銀行の黒田東彦総裁(桐原正道撮影) 日銀の公式の説明通りだと、昨年度だと国債の利息収入(貸出金の利息収入は小規模なので無視する)は、1兆1800億円超である。今年度はそれ以上のペースで増加しているようだ。もちろん吉松氏が指摘している通り、この金額は財政の安定に寄与している。 さらに、日銀の国債保有は「インフレ税」の面でも政府の財政安定化に寄与している。もし日銀がインフレ目標を実現すれば、その実現の過程ないし実現後に、固定利回りの国債やその他の債券を保有している人たちは、名目金利が上昇し債券価格が低下することで「課税」されたことと同じ現象が生じる。これをインフレ税という。もちろん政府はこの分だけ、インフレになったことで国債の償還の負担が軽減される。このインフレ税の増加はもちろん政府の財政安定化に貢献するだろう。 ただし吉松氏も指摘しているように、通貨発行益もインフレ税も日本が事実上のデフレの間や、インフレ目標が達成され、しばらく金融緩和基調が続く間だけの「一時的な財政安定化」の効果しかもたない。もちろんそれでも大きな効果だ。ただし、さらに恒久的な財政の安定化は、インフレ目標の達成により経済成長が安定化し、税収が増えていくことで実現されていく。 要するに、日本の財政の維持可能性、つまり日本の財政危機は、きちんとした政府と日銀のマクロ経済政策の成功か失敗かに依存しているのである。今回のNHKに代表される「政府の借金」論の偏った報道こそが、この正しい政策の見方を誤らせ、ただの増税主義へ国民を誘導しかねないだろう。

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    アベノミクス批判本に徹底反論! なぜ「成果」を過小評価するのか

    アベノミクス期間中の雇用の改善を否定し、過小評価する傾向があるからだ。(iStock) もちろんこの連載の読者ならばおわかりだろうが、雇用状況にはまだまだ改善する余地がある。だが、それは雇用の停滞という状況ではない。雇用はアベノミクス導入以前に比べると改善しているし、その成果は金融緩和の持続に貢献している。それに加えて、もちろん海外経済の好調もある。 金融緩和の雇用改善効果は、国内的には消費増税、国際的には2015年ごろの世界経済の不安定化によって一時期低迷したが(といっても底堅い状況だった)、現状では再び改善の度合いを深めている。ただし、消費の停滞は消費増税の影響が持続しているとみなしていいので、その面から日本の雇用の改善は抑制されてしまっている。 金融緩和や財政政策の拡大による経済政策を採用することで、雇用状況はさらに改善するだろう。例えば、より一層の失業率低下や賃金上昇、労働生産性の上昇などがみられるだろう。 さて、服部氏の主張を簡単にまとめておこう。1)アベノミクス期間で就業者数は増えた。ただし、それは短時間就業者が増えただけで、「経済学上の正しい雇用あるいは就業の指標」である「延べ就業時間」でみるとむしろ減少した。2)また、実質国内総生産(GDP)を述べ就業時間で測った労働生産性だと、その上昇率はほぼゼロにまで低下している。3)安倍政権は2%の実質経済成長率を目指しているが、そのためには延べ就業時間を増加させるか、労働生産性を上昇させるか、あるいはその両方が必要である。だが、1)2)により実現は不可能に思える。特に、延べ就業時間増加率は人口構造の変化(現役世代の減少)からゼロとみても楽観的なので、労働生産性次第になる。ところが、2)もほぼゼロなので、安倍政権はその目的を達しない。4)「労働生産性の上昇なき雇用の改善は、政策の成果ではなく、失敗なのである」(同書94ページ)。雇用状態より失業がマシ? 以上が、服部氏の「雇用は増加していない」という主張である。働く場が増えることは失業している状況よりも望ましいと思うが、服部氏はそのように考えていないということだろう。 まず延べ就業時間数だが、例えば労働力調査をみてみると非農林業の延べ就業時間(週間)は、民主党政権の終わりの2012年の23・58億時間から2016年は23・60億時間になっている。確かに、この数字だけみると、安倍政権は民主党政権と比べて雇用が全く増えていないということになる。他方で就業者総数は増加しているので、パートや高齢者の再雇用といった短時間労働が貢献しているかのようである。 だが、現状では、短時間労働の原因ともいえるパート労働などの非正規雇用の増加は頭打ちともいえる状況だ。最新の統計だと、2カ月ぶりに5万人ほど増加したにとどまる。対して正規雇用は、正規の職員・従業員数は3485万人。前年同月に比べ68万人増えて、35カ月連続の増加となっている。 それに加えて、服部氏はどうも失業よりも雇用された状態がいいとは思っていないのかもしれないが、専業主婦層のパート労働の増加は家計の金銭的補助となるだろうし、また高齢者の再雇用もまた経済的な助力になるだろう。延べ就業時間の「低迷」をいたずらに過大評価すべきではない。服部氏もそれを冒頭の番組で援用した島倉氏も、働くことができる人間的価値を軽視しているのではないか。また、最近では正規雇用の増加が進んでいるので、2017年の統計は服部氏目線でもさらに「改善」されている可能性が大きい。(iStock) 次に労働生産性についてである。服部氏の定義だと確かにゼロ成長率になる。ただ、この労働生産性の定義の場合、景気が回復していけば、延べ就業時間総数が一定でも実質GDPは事後的に増加していく。現状のような総需要不足の状況であれば、それを解消していくことで実質GDPは増加し労働生産性も伸びていく。それだけの話にしかすぎない。ちなみに、総需要不足の失業がある段階で、労働生産性の向上を重視するのは奇異ですらある。なぜなら失業のプールから雇用されていく人たちは限界生産性が低い人たちであり、そのため労働生産性は低下するからだ。先に指摘したように、どうも職を得るよりも服部氏らは労働生産性が重要なのだろう。しかしそれでは国民の幸せは向上しないだろう。 また、労働生産性の伸びがゼロに近くとも、正規雇用が増加し続け、それにより延べ就業時間も増加すれば、服部氏の定義でも問題はないだろう。そうであれば、答えは簡単だ。現状の「雇用の増加」傾向を強めることが必要である。そうである以上、少なくとも現状の金融緩和の継続をやめる理由はないし、また財政政策は現在明るみに出ている事実上の「増税シフト=緊縮主義」をますます正す必要があるだろう。

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    大谷翔平が「和製ベーブ・ルース」などおこがましい

    小林信也(作家、スポーツライター) 大谷翔平選手の米大リーグ、エンゼルス入団記者会見は、華やかで期待の大きさが伝わってきた。  マイク・ソーシア監督が二刀流での起用・育成を明言し、メジャーでの大谷の方向性も見えてきた。少し前まで、メジャーでの二刀流挑戦は悲観的に見られていた。投手か打者か、どちらかに絞っての契約になるだろうとの空気が大勢だった。ところが、大谷自身が日本ハムで投打に実績を挙げたこともあって、メジャーでの二刀流挑戦が現実になった。 それ自体に異論はないが、記者会見や一連の報道を見ていて、不思議な違和感ばかりを覚えるのは私だけだろうか。騒ぎ方と現実のギャップ。胸騒ぎといったら言い過ぎだが、宣伝文句やはやし立てるフレーズばかりが先行して、「本当に大丈夫か?」という不安に答えてくれるような問答はほとんどなかった。 大谷の課題ははっきりしている。まずは右足首のケガだ。今季は手術を受けずにプレーし、シーズン終了後の10月12日に有痛性三角骨を除去する内視鏡手術を受けた。無事成功し、リハビリも終えて2週間後に退院したと日本ハム球団から発表されているが、なぜかこのケガについては楽観的に報じられ、あまり騒がれていない。今季の登板が5試合にとどまった原因だけに、回復が期待もされるし、懸念もされる。本当に「二刀流」を無理なくこなせるまでに快復したのか、まずはそこが気になるところだ。「4番・投手」で先発した日本ハム・大谷翔平投手=2017年10月4日、札幌ドーム(共同) 次に技術の課題だ。投手としては、160キロ台の速球を「当てられる」ことへの疑問と不安が日本球界でも語られていた。藤川球児のようなホップする(浮き上がる)速球とは違う。速いけれど素直な球質がメジャーに行って、どう出るのか? 力勝負のメジャーリーグ。打者たちの大半は日本の打者のようにコツコツは当ててこない。思い切ったフルスイングが多いから、「球速の餌食になってくれる」との見方もできる。だが一方で、「速い球にはめっぽう強い」打者がそろっているから、ガツンと行かれる可能性も否定できない。 もちろん、大谷投手にはフォークボールとブレーキの鋭いスライダーがあるから、勝負どころでは低めの変化球で打者を翻弄(ほんろう)できる。160キロ台の速球と混ぜたら、メジャーの強打者のバットがクルクルと空を切る光景も容易に想像できる。だが、勝ち星と負け数が拮抗(きっこう)する、あるいは負けが勝ちを上回るような厳しさを経験する可能性はある。いずれにしても、ただ球速を求めるのでなく、「速球の質」を深めることが投手・大谷の課題であり、成長への道だろう。その手がかりをどうやって得るのか、メジャーにそのヒントがあるのか? もちろんそれは「企業秘密」だろうが、その点はいままったく触れられていない。大谷自身が、球質を変える意欲を持っているのかどうかさえ、わかっていない。  違和感を覚えた一因は、そうした本来すべき質問がまったく飛ばなかったことだ。期待に終始し、大谷を持ち上げる方向でばかり記者会見が進む。日本のメディアの面々もすっかりその雰囲気にのみ込まれ、普段は当たり前にする厳しい質問をする意志があらかじめ制圧されていた。あれは「お祝いの席」だから、それで文句はないけれど、シーズンが始まれば、現実は自(おの)ずと明らかになる。まるで芸能人の結婚会見 打撃の課題は、厳しい内角攻めへの対応だ。会見から帰国後の自主トレ風景を見ていても、左脇の甘さが目立つ。外の変化球を混ぜ、最後はインハイ(内角高め)に鋭い快速球を投げ込まれたら打てるのか? データ解析が徹底して進んでいるメジャーリーグで、こうした弱点があれば苦しい。これをどう乗り越えていくのか、投手としての課題同様、ほとんど問われることはなかった。 つまり、大谷翔平のエンゼルス入団会見は、「芸能人の結婚記者会見」のような内容で、野球選手としての本質にはほとんど触れられていなかった。それが違和感の根元かもしれない。 二刀流が実現すれば、野球の歴史を変える素晴らしい快挙だ。メジャーリーグの長い歴史の中でも、ほとんどそのような選手は現れていない。 「日本のベーブ・ルース」という形容がしばしば使われたが、大谷翔平とベーブ・ルースのイメージはまったく違う。「同じシーズンに投手で10勝を挙げ、打者で10本のホームランを記録した唯一のメジャーリーガー」がベーブ・ルースだ。大谷が2014年と2016年にそれを記録したことから、日米の二刀流の双璧と呼びたいのだろう。だが、体形やイメージからして二人は全然違う。ベーブ・ルースはどう考えても「二刀流」より「世界のホームラン王」として名高い。いまの大谷をベーブ・ルースと呼ぶにはいかにも早すぎる。 だが、ベーブ・ルースの名前をここに持ちだしてくるのは、それほどメジャーでも二刀流が希少だということだ。それに、データを調べればすぐわかるが、ベーブ・ルースは決して「二刀流」を目指していたのではなさそうだ。 「プロ入り当初は投手としても活躍した」という表現が正しい。最初に入団したボストン・レッドソックスでは、打者というより左腕投手として活躍が期待された。1年目の1914年こそ2勝1敗にとどまったが、2年目は18勝8敗、3年目は23勝12敗、4年目も24勝13敗。エースと呼ぶにふさわしい活躍を見せた。しかし、5年目は13勝、6年目9勝にとどまったところで、トレードが待っていた。1920年、ニューヨーク・ヤンキースに入団すると、今度は打者に「転向」。投手としての出場は毎年1試合か2試合となった。米大リーグ、エンゼルス入団会見の後に記念撮影に収まる大谷翔平投手(中央) =2017年12月9日、エンゼルスタジアム(撮影・リョウ薮下) いわゆる二刀流と呼べるのは、ボストンでの最後の二年間。勝ち星が少なくなるのは、徐々に打者としての出場が増えたからだ。 実はここ数年のメジャーリーグで「二刀流」は大谷の専売特許ではない。アマチュア時代に投打で活躍したジョン・オルルドらルーキーたちが何人か二刀流に挑戦したが、結局、どちらかを選んだ現実がある。 私の違和感のもうひとつは、投手としては打たない、打者としては守らない、それで二刀流と呼べるのか? ということだ。大谷本人もこれは会見で語っていたとおり、「ひとつの試合で両方やれるのが理想」である。それならば、なぜ指名打者(DH)制のないナショナル・リーグを選ばなかったのか? と突っ込みたくなった。

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    日本人医師の快挙を黙殺 「報道しない自由」はなぜ行使されたか

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) 医師でジャーナリストである村中璃子氏が、科学的に権威のある雑誌『ネイチャー』が主催するジョン・マドックス賞を受賞したニュースから、改めて日本のマスメディアの特異な現象を目の当たりにした。いわゆる「報道しない自由」ともネットなどで批判される態度である。 ジョン・マドックス賞は、公益に資する正しい科学や根拠を、困難や敵意に直面しながらも、人々に広める努力をした人に与えられるものである。ジョン・マドックスは『ネイチャー』の編集長を長期間務めたことで有名で、その功績を記念して2012年から続いている賞である。ジョン・マドックス賞が日本人に与えられるのは初めてであり、『ネイチャー』のもつ権威と国際的な知名度からも、村中氏の受賞は報道の価値が極めて高いものだったろう。 だが、現時点で、新聞では産経新聞と北海道新聞のみが伝えただけである。テレビ媒体は筆者の知る範囲ではまったくない。他方で各種のネット媒体では広く関心を呼び、大きく取り上げられていて、何人もの識者やネット利用者たちが話題にしている。ただし産経以外では、新聞やテレビ系列のネット媒体に記載はない。 当の村中氏はこの機会に自身の貢献を、あらためてネットを中心に訴えているところだ。だがマスメディアの代表であるテレビと新聞の大半は沈黙したままである。まさに「報道しない自由」が行使されているといっていいだろう。 そもそも村中氏の貢献は何だったのだろうか。ジョン・マドックス賞のホームページによれば、子宮頸(けい)がんワクチン(ヒトパピローマウイルス(HPV)ワクチン)について、科学的に正しい証拠に基づき多数の記事を書いたそのジャーナリストとしての功績に与えられている。(iStock) 子宮頸がんワクチンについては、世界保健機関(WHO)や医学界でその効果が認められているにもかかわらず、誤情報に基づく国民的キャンペーンによって、日本の同ワクチンの接種率は70%から1%に急減してしまった。村中氏は訴訟に遭遇し、また自身の社会的立場への恫喝(どうかつ)などに抗して、子宮頸がんワクチンの安全性の啓蒙(けいもう)に努めたことが直接の受賞理由である。村中氏は訴訟を含めてどのような困難に遭遇してきたかは、Buzzfeed Newsの記事が詳しい。また村中氏自身も受賞スピーチの中でその活動を伝えている。「報道しない自由」というコーディネーションゲーム 子宮頸がんそのものの情報は、国立がん研究センターの情報がわかりやすい。この情報によれば、年間の罹患(りかん)者数は1万人を超え、死亡者数も年間3千人近い。「年齢別にみた子宮頸がんの罹患率は、20歳代後半から40歳前後まで高くなった後横ばいになります。近年、罹患率、死亡率ともに若年層で増加傾向にあります」と記述にあることは注意すべきだろう。 子宮頸がんワクチンは、2013年に定期接種化されたが、痛み、記憶障害、運動障害を訴える人たちが現れたのを契機にして、新聞やテレビなどの大メディアではワクチン接種へのネガティブキャンペーンが生じた。これをうけて厚生労働省はワクチンの接種勧奨をとりやめたという経緯がある。 この事態に対しては、WHOは警鐘を鳴らし、また日本産科婦人科学会でも何度も接種勧奨の再開を表明している。つまり専門家集団ではワクチンの接種についてはその有効性について共通の理解があるようだ。スイス・ジュネーブにある世界保健機関(WHO)本部(IStock) 経済学者の高橋洋一嘉悦大教授は、ワクチンの接種には副作用があることを指摘しつつ、ただし「どのようなワクチンにも副作用があるが、それを上回るような効用がある場合、接種が許される。子宮頸がんワクチンの場合にはデータがあるので、副作用がデータから逸脱していたかどうかを、厚労省はより慎重にチェックすべきであった」と主張している。これはひとつの合理的な態度だといえるだろう。 ただし、ここではなぜ新聞やテレビで「報道しない自由」が生じたのかを考えたい。産経や道新だけが例外であった。道新は村中氏が北海道出身なので取り上げたともいわれているが、続報はない。これは一種のコーディネーション(協調)ゲームといえるだろう。 コーディネーションゲームとは、ゲームに参加するプレーヤーがみんな同じことをすることが全員のメリットになることをいう。ゲームとは、遊戯を指すのではなく、人のあらゆる相互作用、あらゆる社会的行動を指すことができる社会科学で主に利用されているワードだ。この場合のゲームは村中氏の受賞を伝えるか伝えないかのゲームである。そしてプレーヤーは、新聞やテレビということになる。ネット媒体はこのケースではゲーム外のプレーヤーともいえ、いわばマスメディアとネット言論は分断されているともいえる。典型的だった「VHS対ベータ」 コーディネーションゲームを考えるときに、しばしば持ち出される日本の事例としては「VHS対ベータ戦争」の帰結がある。VHSとベータとは、家庭用ビデオデッキの再生機器の名称だ。1980年代にどちらの規格がいいかで経済「戦争」が生じた。結果として国内ではVHS派が勝利し、ベータ派は負けた。だが、ベータの方が性能はいいとの評価は当時からあった。だがそのような評価は、みんながVHSを選ぶ前では意味を失っていた。(iStock) 確かに、みんながVHSの規格を選ぶと、それ以外の少数の規格をもつ人は友人同士のビデオの貸し借りでも不便だろう。レンタルビデオショップでも最初は両方あったが、次第にVHSのみが置かれるようになり、ベータ派はここでも不利だった。 このようにプレーヤー全員が同じ戦略を選ぶことで、その戦略の帰結が本当に社会的に望ましいか否かに関係なく、このコーディネーション(協調)が安定化してしまうことになる。例えば、日本では長く経済停滞が続いたが、それを打破しようという政策当事者はいまも少数派である。大多数はメディアも含めて、経済成長否定やただの財政再建論者のたぐいである。例えば、NHKの「日曜討論」などのテレビ番組に、デフレ脱却論者がでるケースはまれである。 むしろ、国際的にはデフレ脱却論が優勢で事実としても政策の有効性が認められているのに、テレビや新聞ではデフレ志向の論陣の方が圧倒的である。これは多数の前では多数に従うという、物事の良しあしを無視した現象の一例だろう。例えば、私の知人にも某経済系メディアに務める知人がいるが、彼は筆者の文化関係のつぶやきはリツイートやお気に入りをするのだが、立場上なのか経済政策の話題にはまったく反応しない。Twitterは私的な活動のはずだし、特に経済問題で意見の違いがあるわけではないのにも関わらずである。空気を読むとはそういうことなのかもしれない。 さて社会的帰結が望ましいにも関わらず、そうでない協調行動がとられてしまうと物事は厄介である。その安定性を突き崩すことはプレーヤーの数が多ければ多いほど難しいとされている。産経新聞も大メディアだし、ネット世論も今日かなりの威力をもつ。また海外からの今回の声もあるが、それらは「報道しない自由」というコーディネーションゲームの安定性を変更するほどではない。現時点では。 私見では、子宮頸がんワクチン接種反対派の意見も含めて、今回の村中氏の受賞や海外の事例を紹介することは、報道の多様性と意見の自由を担保とする観点からも重要だと思う。いまの新聞やテレビは、報道しない自由という悪いコーディネーションゲームに陥っている。 この悪い均衡、つまり「報道しない自由」を打ち破るには、ゲームのルール自体を変える必要がある。日本のマスメディアは率直にいって官庁の広報団体的な側面が強い。お上の意見に従う傾向が強いのだ。ならば、このあしき均衡はおそらく政治側からしか変更はできないだろう。それはそれでメディアの在り方として情けないことは確かだ。それでも、今回の一種の「外圧」は、この政治側のアクションを引き起こすひとつの契機かもしれない。

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    「中学生と練習したらセンバツ辞退」高野連のバカ規則にモノ申す

    小林信也(作家、スポーツライター) 中学生を練習に参加させただけでセンバツ推薦を辞退? そんなバカな「教育」があるか! ここ数日、高校野球の「不祥事発覚」のニュースが新聞やインターネットで報じられている。その中で、どうしても納得のいかない問題を一つ指摘したい。 暴力や飲酒、喫煙が「不祥事」と呼ばれるのはやむを得ないが、「中学生を練習させたこと」「そこに監督が立ち会っていたこと」が「不祥事」、つまり「高校野球が絶対にやってはいけない悪事」とされる報道を不思議に思った読者はいないだろうか。野球以外の他種目で、中学生を練習に参加させただけで厳罰を受ける競技があるだろうか。いや、日本以外の海外で「中学生と一緒に練習して悪者にされる国」なんてどこに存在するのか。 今回のケースは処分ではなく、正確にいえば自ら辞退を申し出たのだが、来春のセンバツ大会で21世紀枠候補だった市立川越高校はどのような経緯で辞退を申し出たのか。それを報じた新聞記事は次の通りだ。 日本高野連は5日、来春の第90回選抜高校野球大会の21世紀枠候補に埼玉県高野連が推薦した市川越から、監督らの不祥事のため一般枠を含めて推薦を辞退する申し出があり、了承したと発表した。 高野連によると、市川越の顧問は11月に中学生を練習に参加させ、監督も同席していたという。5日の審議小委員会で、処分を日本学生野球協会審査室に上申することを決めた。サンケイスポーツ 2017年12月6日 読者の皆さんはこれを読んで何が問題なのか、すぐ理解できただろうか。高校野球の関係者には分かる。だが、それは世間一般の良識に照らし、「本来あるべき姿」から考えてどうなのだろう。2017年10月、秋季高校野球埼玉県大会決勝の花咲徳栄戦、七回に同点に追いつき喜ぶ市川越ナイン=県営大宮公園球場(飯嶋彩希撮影) 簡潔に言えば、高野連は中学生との接触を厳しく制約している。高校野球の監督が中学生を指導するのは禁止。高校の野球部員が中学生に指導することも規制されている。今回の市川越も、高野連のルール上、明確な違反行為があったとして、せっかくの「センバツ出場」の望みがこれで泡と消えたのである。 今回の出場辞退をめぐり、私が問いたいのは「中学生の練習参加、中学生と高校生の交流がそんなに悪ですか? そもそも禁止するようなことですか?」という点だ。 夏休みや冬休みで高校の練習が休みになる前、高校野球部の監督や部長は選手たちに「出身の中学野球部の練習を見に行くのはいいが、後輩に指導をしてはいけないぞ」と注意しなければならない。もし、指導する光景を目撃され「告発」されたら、その高校の野球部は処分を受けるからだ。私は、それを厳しく選手に通達するある高校野球部長の姿を見ながら、「この人、教育者として矛盾を感じないのか?」と思った経験がある。良識あるファンたちよ、声をあげろ! 大好きな野球、高校で学んだことを後輩に教えたい気持ちは「悪」だろうか。それが「未熟なのに教えるなんて」という理由ならまだ理解できる。そうではなく、親しく指導することが「勧誘行為になる」。それが規制の理由というからますます言葉を失う。実際に、甲子園にしばしば出場する高校の監督の多くが、熱心に中学生を誘い、訪ねてくる中学生に練習の機会を与える。良ければ「1年夏から4番で使う」と約束したなどの逸話は、その選手の同伴者から直接聞いたことがある。そんな逸話は山ほどある。いずれも有名な監督たちだ。 数年前には、ある私学の監督からこんな嘆きを聞いた。「うちは中高一貫ですから、中学3年生も夏の大会を終えたら高校の練習に参加させていました。ところが、センバツ出場が決まった年、高野連から厳重に注意を受けました。誰かが高野連に告発したらしいのです。以来、同じ学校の中学生でも、春休みになるまで一緒に練習させるのはやめました」2016年3月、センバツ開会式で励ましの言葉を述べる日本高野連の八田英二会長=阪神甲子園球場(代表撮影) サッカーなどは、中学3年、高校3年の夏から受験期にかけて、半年以上もブランクを作る弊害をいち早く問題視して、できるだけ空白期を作らないよう、3年生の冬にも大会を開催し、競技が続けられるよう配慮している。野球界はほとんどそんな発想を持たず、半年以上もチームの練習から離れる現実を放置し続けている。それどころか、中学生が高校生に混じって練習することを「悪」とし、環境を狭めている。 なぜ高野連は「一緒に野球をすること自体が悪」という、自家中毒みたいな状態を自ら作っているのか。すべては「勧誘行為の禁止」という、野球が隆盛していた時代、行きすぎた競争を防ぐために作られた自主規制だ。 時代は変わっている。野球界は今、「野球少年の減少」「野球への好意的なまなざしの減退」という深刻な問題に直面している。野球を楽しむ環境がどんどん減っている。サッカー、バスケットボールなど、他の競技の人気上昇や多様化があって、野球を選ぶ少年が激減している。そんな中で、いつまでも偉そうに狭い組織の中でしか通用しない常識や権力を振りかざし続ける高野連は、まさに野球衰退の根源そのものだ。それのどこが「教育的」なのか。 良識ある野球ファンたちが声をあげて、「その程度の過ちで、市川越の辞退を受け入れるな」「規則そのものがおかしいのだから、即刻、規則を変えてもっと自由に交流させるべきだ」と改善を働きかけたらいい。

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    「首相の関与」は無理筋だった? 森友問題で一変した朝日新聞の責任論

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) 森友学園問題は、会計検査院が11月22日に調査報告を国会に提出したことで再び国民の注視を浴びることとなった。森友学園が大阪府豊中市に新設予定だった小学校用地の売却額が評価額よりも低かったことについて、会計検査院の報告は主に2点に集約できる。 一つは、用地の地下に埋まっているごみの量が、国土交通省大阪航空局が当時推計した量の約3~7割であった可能性があり、十分に調査されていなかったこと。もう一つは、その不十分なごみの埋設量をもとに計算された財務省近畿財務局のごみ処理の単価の基礎となるデータや資料が廃棄されたため、会計検査院が会計経理の妥当性について十分な検証ができないと公にしたことである。不十分なごみの埋設調査と、ごみ処理の費用計算の不透明性という二つの事実が、改めて国民に印象を強くした出来事であるだろう。森友学園に売却された国有地のごみ撤去費について、試算額が明記されていた会計検査院の報告書案 森友学園問題の真相については、筆者も含めて何人かの論者は、一部マスコミや野党、そして無視できない数の国民が思うような安倍晋三首相や昭恵夫人の「忖度(そんたく)」や「関与」はないものだと主張してきた。むしろ財務省近畿財務局という一地方部局の担当者の交渉ミスが原因であり、それに加えて公的データや資料の保管・廃棄ルールに不備があったという、財務省の問題とみなすのが妥当であろう。違法性の問題というよりも行政のミスのレベルというのが結論である。 森友学園問題がこれほど過大な注目を浴びてきた背景には、一部マスコミの「印象報道」ともいうべき流れがあることがはっきりしている。例えば、最近情報公開請求していた大学教授らに、財務省近畿財務局は森友学園が設置する予定だった小学校の設置趣意書を開示した。そこに記されていた、森友学園が新設を計画していた小学校の名前は「開成小学校」であり、首相や昭恵夫人の名前や関与は一切記載されていなかった。 これは多くの国民にとっては意外な事実だったろう。なぜならマスコミや野党は、森友学園の籠池泰典前理事長が安倍首相や名誉校長だった首相夫人の「ブランド力」とでもいうものを利用して、さまざまな利益を得ようとしていたという印象を伝えていたからだ。特にそのことが関係官僚たちに、首相や首相夫人と「懇意」である籠池氏に利益を供与する「忖度」をさせたという、マスコミや野党の批判の根源にもなっていたのではないか。メディアのミスリードにハマった国民 だが、実際には籠池氏の小学校には首相や首相夫人とのつながりを明らかに示す資料はなかった。だが、この森友学園問題が政治的に大化けする過程で、マスコミは籠池氏の発言をろくに検証することもなく、そのまま報道し続けた。その中で、あたかも新設小学校が「安倍晋三記念小学校」ではないかという印象を垂れ流すことに貢献したことは明白である。 例えば、朝日新聞は5月9日の記事で「籠池泰典・前理事長は8日夜、取得要望書類として提出した小学校の設立趣意書に、開設予定の校名として『安倍晋三記念小学校』と記載したことを朝日新聞の取材に認めた」と報じた。この記事によって籠池氏と安倍首相との「つながり」の濃さを信じてしまうというミスリードに陥った国民も多かっただろう。テレビなどもこの記事に似た報道を連日垂れ流し続けた。森友学園問題を取り上げた2017年4月2日付の朝日新聞社説 もちろん、朝日新聞はこの一方の当事者の発言を事実検証もせずに垂れ流した責任を取る気はさらさらない。むしろ最近では、どうも安倍首相への「忖度」が無理筋だと思ってきたのか、社説などでは、財務省のミスを追及する責任が首相にある、と論調を変化させている。 例えば、12月1日の社説「森友問題審議 無責任すぎる政府答弁」では、「責任は財務官僚にあり、自分は報告を信じただけ。そう言いたいのだろうか。だとすれば、行政府トップとして無責任な発言というほかない」と書いている。これは以下のように書き換えることができるだろう。 「責任は籠池泰典氏にあり、自社(=朝日新聞)は発言を信じただけ。そう言いたいのだろうか。だとすれば、言論の府としての新聞として無責任な発言というほかない」 実は朝日新聞と似たような報道を毎日新聞もしている。以下は毎日新聞の公式ツイッターでの発言である。「首相がすべきなのは、自身の関与がなかったとしても周辺に『そんたく』がなかったか徹底調査すること」。加計・森友問題の報道に関わってきた記者は指摘します。毎日新聞公式ツイッター(2017年11月16日) これまで散々「首相の関与」をあおってきた末のこの発言にはあきれるしかない。 だが、無責任な報道姿勢が改まることはないだろう。例えば、自民党の和田政宗議員が12月1日朝のブログで、「新しいメモ」でもないものをいかにも森友学園の不正を追及する新資料が発見された、といわんばかりの記事を掲載していると批判している。これはささいな問題に思えるかもしれないが、この種のミスリードの蓄積が「安倍首相は謙虚ではない」「安倍首相は人格的に好ましくない」といった印象へと導いていくのかもしれない。森友学園問題も加計学園問題についても、首相から発生する問題はいまだみじんも明らかになっていないのにである。「安倍擁護」の批判に応える 「われわれは知らず知らずに心の中で魔女裁判を行っているのではないか?」。このようなことを書くと毎度出てくるのが、安倍擁護をしているという批判である。経済政策や安全保障を含めて重大な問題がある中で、あくまで責任が全く明示されていない問題に過度にこだわることの愚かさを指摘しているのである。朝日新聞や毎日新聞に代表されるような無責任なマスコミの報道姿勢を追及することは、政権の政策ベースでの批判と矛盾することはない。実際に安倍政権の経済政策だけでも、前回の論考で消費税増税シフトを批判したように問題はある。報道によってミスリードされている世論の「魔女裁判」的状況の解消を願っているだけなのである。2017年11月、参院予算委で答弁する安倍首相 このようなマスコミの無責任な報道姿勢は、森友学園問題だけではない。朝日新聞がいまでも自社の誇り、もしくは売りにしているものに「天声人語」がある。いまでも入試のための必読アイテムだとか、文章の見本などと宣伝されていることがある。実際にはそんなものではない。 日本銀行の岩田規久男副総裁はかつて『福澤諭吉に学ぶ思考の技術』(2011年、東洋経済新報社)の中で、天声人語はいったい何が議論の本位なのか明示することなく、それを明示したとしても十分に論じることもなく終わってしまう悪い文章であると批判していた。まさに同意である。今回の森友学園問題も、いったい何が具体的な問題なのかわからないまま、「忖度」という議論になりえないものを延々と十分に論じることなく、一方だけの発言を恣意(しい)的に垂れ流していく。そのような朝日の報道姿勢が、そのメーン商品である天声人語にも明瞭だというのが、岩田氏の批判からもわかる。 岩田氏は、当時話題になっていた大相撲力士の野球賭博問題を絡めて以下のように書いている。 多くの日本人の責任の取り方は、福澤(諭吉)の言うように自己責任を原則とする個人主義とはかなり異なっている。自己責任を原則とすれば、裁くべきは法に照らした罪であり、世間が騒ぐ程度に応じて罪が変わるわけではない。メディアは力士が野球賭博をすると大騒ぎするが、普通の企業の社員がしても記事にもしないであろう。しかし、どちらも法を犯した罪は同じであるから、メディアがとりたてる程度で罪の重さが変わるわけではなく、同じように自己責任をとるべきである。 つまり法によらずに、メディアが「罪」をつくり出す風土にこそ現代日本の病理がある。

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    なぜ日本人は日馬富士引退に無関心でいられるのか

    小林信也(作家、スポーツライター) 大相撲横綱、日馬富士が引退した。世間の空気は「やむをえない決断」との認識で一致している。だが、引退会見やその反応を見ていて、複雑な思いも湧き上がってくる。みんなクールだ。日馬富士の引退を惜しむ声があまりに少ない。「身内の感覚」で受け止めた日本人がほとんどいないように感じられる。 もし、これが浅田真央の引退や羽生結弦の引退だったなら、あるいは「甲子園を沸かせたスターの突然の引退」なら、こんなクールに論じられるだろうか。常識論を振りかざす大多数のコメンテーターや街の声に、物心ついたころから相撲ファンだった私は、空虚な思いにかられた。 かつて八百長事件で追放されたメジャーリーグのスター選手に、「嘘だと言ってよ、ジョー!」と叫んだ少年ファンの逸話がある。今回の騒動を振り返り、テレビの前でそんな風に叫んだ少年ファンはいただろうか。引退会見を行う日馬富士 =2017年11月29日、福岡県、太宰府天満宮 横綱の突然の引退を、大騒ぎにこそすれ、多くの日本人は自分と直接関係のない出来事としか感じていない。これが「国技」と呼ばれる大相撲の現状である。残念ながら、相撲はもはやその程度にしか愛されていない。貴乃花親方の相撲人気復活への情熱や危機感も底流は同じかもしれない。 日馬富士は、今回の引退で相撲界に残る道を断たれた。事実上、「廃業」というのが正確な表現だ。 引退会見で日馬富士が自ら振り返った通り、16歳のやせっぽちの少年は、モンゴルからはるばる日本へやってきた。安馬(当時の四股名)は幕内に上がってもなお、ひときわ細く、身体の軽さで相手に圧倒されて敗れる相撲も少なくなかった。それを上回るスピードと闘志、勝利への執念が安馬を幕内上位へと導いた。 相撲は「柔よく剛(ごう)を制する」ものであり、身体の大きさがすべてではない。だが、筋力トレーニングが容認され、力勝負が土俵の趨勢(すうせい)となる中で、巨大化する関取衆を相手に三役を張る地位を得た。さらに大関、横綱へと昇りつめたのは、持ち味のスピードと闘志に加えて、日本の身体文化が伝える内面の力を発揮する術を日馬富士なりにつかんだ証しだった。 横綱は、ただ強いだけでなく、実践でしか継承できない見えない身体文化の継承者である。その横綱を追放して、むしろ厄介払いができたかのような今の空気は、あまりに相撲が軽視されていると言わざるを得ない。もっと言えば、相撲を理解していないからこそできる安易なバッシングにも思える。 日馬富士は引退会見で「相撲が大好きです。相撲を愛しています」と声を大きくして言った。私は素直にこれまでの日馬富士の精進に頭が下がる。日本人が半ば放棄している相撲そして日本独自の身体文化の追求を外国から来て実践し、継承し、愛してくれた。 今回の騒ぎでは、相撲をまるで理解していない人たちが「ビール瓶で殴った」などと断片的な情報に振り回され、最初から日馬富士を「ありえない乱暴者」のように決め付けた感が否めない。暴力やシゴキは、筆者自身も許せないと思うから擁護するつもりはない。「かわいがり」はいじめにつながるシゴキを意味するものだが、普段の相撲の稽古がどのようなものか、それを知っている人と知らない人では認識が全く違う。 強い先輩力士が若い力士に胸を貸し、土俵際まで押させたところで軽く土俵に転がす。何度もそれを繰り返す。「そこからが稽古だ」と言い伝えられている。だから、すぐにへたって起き上がらない力士に先輩力士と周りの兄弟弟子は容赦ない𠮟咤(しった)を浴びせる。悔しさの中で懸命に立ち上がり、乱れた髪に汗と砂をため、必死の形相でまたぶつかっていく風景は、相撲部屋では日常的な、いや正当な稽古そのものである。 それをいじめと声を大にして言えば、いじめになってしまうのが今の世の中である。 むろん、行き過ぎればいじめに変わりないが、その稽古自体は重要な鍛錬として、長く相撲界を支えてきた伝統である。土俵に寝たまま起き上がらない力士の尻を先輩が軽く蹴り飛ばすくらいは、日常的な光景だった。今の時代、それさえも「暴力」になってしまうのではないか。八角理事長の横に座った読売社長 九州場所は、白鵬がまた強さを見せて優勝した。今場所は「張って出る」相撲が目立った。立ち会い、相手力士の大半は白鵬に対して頭を下げ、猪突(ちょとつ)猛進的に頭でぶつかってくる。これに対して、白鵬は平手で相手の頰を激しくたたき、機先を制した。 「ガツン」と鈍い音を発する激しい頭突きも、平手打ちも、日常生活では「暴力」だが、土俵の中では正当な技であり、これを克服しなければ相撲界での躍進はない。日常社会で暴力と呼ばれる以上に激しい肉体のぶつかり合いが相撲の前提にある。 相撲の勝負の中に、このように激しい身体的な接触があることをまったく理解せず、すべてをいじめ、パワハラ、悪しき上下関係と断罪する世間には、言葉は悪いが憤りに近い違和感を覚える。 相撲の稽古といえば「四股」「鉄砲」が有名だ。これさえ正確に語れる日本人はもはや少ないだろう。片足を挙げて下ろす四股の目的が、「足腰を鍛える」、スクワットのような筋トレだと思い込んでいる人が大半だろう。実際、その目的のために選手や生徒に四股をやらせる他種目の指導者も少なくない。四股は本来、「臍下丹田(せいかたんでん)に気を集める」「ハラを鍛える」ために行うものだという。人間の力は、目に見える筋力だけではない。身体の内面から湧き上がる力こそ、人間の持つ素晴らしい潜在能力だ。だからこそ、小さな力士が大きな力士を翻弄できる。 最近は、親方衆でさえ欧米のパワー重視の練習法に影響され、四股や鉄砲の意義を忘れてしまっているのではないかと思うことがある。今回の騒動は、そうした基本の喪失と無関係でない気がする。 貴乃花親方の不可解な行動も、今回の騒動を大きくした一因との指摘はあながち間違ってはいないが、相撲の基本に光を当て「相撲界を再生したい」と切望する親方の真意もまたきちんと伝わっていない。横綱白鵬(右)を破り初優勝を決めた大関時代の日馬富士=2009年5月 新しい時代の流れの中で、古き佳(よ)き上下関係、師弟関係、先輩と後輩の関係をどう肯定的に受け継いでいくか。日本社会が直面する課題を今回の事件は浮き彫りにしている。ビール瓶で殴ることはないにしても、職場でも社会でも、同じような指導やかわいがりは日常的に存在する。私はしばしばそうした光景を目にするし、遭遇する。決して他人事ではないはずだ。まさに「自分たち自身の問題」だと思うが、「相撲界ってとんでもない」といった表現がネット上などでは飛び交う。不思議なほど、「自分たちもそうだ」との認識がないことも、この騒動と日本社会の途方もない不毛さを象徴している気がしてならない。 最後にもう一つ、11月30日に開かれた相撲協会理事会を報じるニュースを見て驚いた。八角理事長の左右を固める人物に目が点になった。 八角理事長のすぐ右隣に山口寿一理事、すぐ左隣には広岡勲理事補佐が着席していたのである。座った場所から見て、理事長を強力に支える「ブレーン」と理解するのが自然だろう。山口氏は、読売新聞グループ本社社長である。しかも、広岡氏は元スポーツ報知記者であり、かつて元巨人・松井秀喜のメジャー時代の記者会見のときにいた「専属広報」ではないか。今の相撲界は、その二人がなぜか中枢にいるのである。「開かれた組織に」という掛け声が、その目的通り公正な方向に発展すればよいが、もし一部の権力やメディアに支配される構造ができつつあるのだとしたら、貴乃花親方の異様とも言える頑(かたく)なさの背景も少しは理解できる。

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    安倍政権の「消費増税路線」が犯す3つの過ち

    1月、衆院本会議で共産党の志位和夫委員長(手前)の質問を聞く安倍晋三首相(斎藤良雄撮影) 筆者はこの連載でも指摘してきたが、野党の消費税凍結は偽の論点だと思っていた。立憲民主党も希望の党も2年後の凍結をうたうものの、その経済政策は、成長を否定する単なる緊縮主義か、または金融緩和への否定的評価に基づくものであった。要するに、今の日本経済がそこそこうまくいっている事態を否定する政治勢力と思えた。そのため消費増税の賛否という偽の論点に釣られることなく、経済政策全体をみる必要性を訴えてきたつもりである。今の国会の論戦では、この「消費増税凍結」がいかに国民の多くを「釣る」ために持ち出されてきた論点が明るみに出ているといえよう。つまり、今の野党は安倍政権を打倒できればそれでいいわけであり、日本の経済政策などまともに考えていないのではないか。 とはいえ、安倍政権が今もまだ消費増税路線を放棄していないことも深刻な間違いである。消費増税を推進する側の理由は、税の公正性、高齢社会にむけての福祉目的、そして「財政危機」への対応の三点を列挙するのが普通である。以下では、消費増税に反対する観点を、これらの賛成側の三つの理由に反論する形で書いてみたい。 日本で最も長く消費増税に反対を続けているのは、八田達夫大阪大学名誉教授である。『消費増税はやはりいらない』(1994年)、『日本再生に「痛み」はいらない』(2003年、岩田規久男氏と共著)などが代表的な著作である。八田氏の消費増税への反対は、消費税が税の公正性をもたらさないこと、高齢化社会の福祉目的として妥当とはいえないこと、そして消費減税をむしろ行うべきでありそのときは所得税改革とともに行うべきだ、という点にある。八田氏の従来の主張を参照しながら、消費増税の抱える問題を深く検討していこう。 税の公正性については、消費税推進派はしばしば「クロヨン」の解消を挙げる。クロヨン(9・6・4)とは、税務署の課税所得の捕捉率をいう俗称であり、給与所得者は9割、自営業者は6割、そして農業者・漁業者などは4割にしかすぎないことをいう。だが消費はすべての人たちが行うので、所得税から消費税に税制の基本をシフトすることは、このクロヨン問題の解消につながる、というのが推進派の理屈である。消費税率が上がれば上がるほど得する人たち このクロヨン解消について、八田氏は消費税はむしろ税率を上げれば上げるほど自営業者たちに「益税」(免税によって消費税を免れる額)をもたらす、第2のクロヨン問題を生み出していると指摘する。例えば、現在の消費税の免税点は年間売り上げが1千万円で基本的に設計されている。もし1千万円の売り上げがある事業者がいて、そのうち原材料費が200万円とすると、残り800万円についての自営業者は56万円の益税を得る。そしてこの自営業者は800万円のうち自分で消費する部分を半分の400万円とすると、最終的にこの人が得する額は56万円から自分の消費した分への課税28万円を引いた28万円になる。 そしてこの最終的に得をする金額は、消費税率が上がれば上がるほど上昇する。この場合、同じ設例で10%に上げると、お得な部分は28万円から40万円に上昇する。このような制度であるかぎり、自営業者など消費税版クロヨンで益を得る人たちは、消費増税の引き上げに反対するインセンティブ(動機付け)を持たない。八田氏は、このような益税の仕組みを正すには、税務署署員の増加など徴税コストをかける必要があるのに、全くなされていないと批判している。高橋洋一嘉悦大学教授も、徴税コストを効率化するために、歳入庁の導入を主張しているが、官僚側の抵抗にあって全く進展していない。八田達夫・大阪大名誉教授 八田氏はさらに高齢化社会の税源としての消費税にも疑問を提示している。高齢化すれば勤労者世代の税負担が増加するから、それを避けるために世代間でより公平な消費税にすべきだというのが消費税導入肯定派の主張であった。これに対して八田氏は次のように指摘する。平均的な所得の人は、所得税から消費税に課税の重心が移動することで確かに働いているときの税負担は減る。ただし老後(例:60歳から85歳まで)でも高い消費税率を死ぬまで負担しなくてはいけない。そのため働いている時代から、老後の税負担の分だけより多く貯蓄していくだろう。これでは税負担が全く変わらない。 そのうえ深刻なのは、働いているときに所得の低い人たちは、所得税で減税や非課税措置を受けているかもしれない。その人たちも現役を引退すると一律で高い消費税を負担する。他方で高所得者たちは所得税から消費税にシフトすることで現役のときは得をし、また高齢になっても低所得だった人たちと変わらない負担になる。低所得の人はもともと減税や無税なので、その意味で税負担は消費税へのシフトでも変化しない。つまり生涯を通じた税負担が、高所得者には有利に、低所得者に不利に作用する。この意味では低所得者層に大きなダメージを与え、「老老格差」とでもいうべきものを深刻化させてしまう。 八田氏はむしろこのような所得格差の深刻化を招く消費増税へのシフトではなく、所得税の強化を図るべきだと主張する。所得税の最高税率は、1986年までは約70%だった。つまり1億円を稼いでもそのうち手元には3千万円しか残らない。ところが、それは高所得者の働く意欲をそぐという理由のもとに次第に引き下げられ、1999年には37%までになった。その後、財政危機を名目にして税率が再度引き上げられて、今は45%である。ところが八田氏は、このような過去20年以上の所得税から消費税への課税シフトの結果、日本の個人所得税の対国内総生産(GDP)比率は、先進国の中で最低になっているという。そのため累進税率を引き上げる余地が十分にあるというのが、八田氏の主張である。3年前、経済復活をおじゃんにした人たち さらにこの高所得者層への所得税率引き下げは、取れるところから税金を取っていないため、90年代から今日まで財政赤字増加の潜在的な要因になっている。他方で、所得税率を上げれば高所得者が働く動機を本当に阻害されるかは全く不明である。おそらく働く動機は大して変わらず、むしろ徴税システムの不備を突く、タックスヘイブン(租税回避地)などを利用した税金対策に努力を傾注するのではないだろうか。 八田氏はまた消費増税シフトが景気の安定化効果を阻害することも指摘している。所得税に経済を安定化する効果があることはよく知られている。例えば、景気が過熱しているときは、人々の平均所得も増加するので、課せられる所得税率も平均的に高くなり、また所得税も増加する。これにより経済の過熱を抑制する。他方で経済が落ち込んでいるときは全く逆のことが起きる。所得が平均的に低いので、課せられる平均税率も低く、また所得税も低い。そのため人々の可処分所得は上昇することで、経済を回復させる効果がある。これを教科書では「自動安定化装置」(ビルト・イン・スタビライザー)と呼んでいた。 だが、最近の政府と財務省はこの機能をすっかり忘れてしまっている。2014年の消費増税が、前年までの経済の復活を全くおじゃんにしてしまった。 日本経済は14年の消費税引き上げ以降、消費を低迷させ続け、いまだに本格的な回復に遠い。八田氏が主張する消費税のさまざまな弊害をみても消費税には現在の日本にとってほとんど利益があるように思えない。むしろ現状では、消費増税シフトを停止し、所得格差をなくす税制に回帰すべきだろう。また14年以降の消費低迷を払拭(ふっしょく)するためには、むしろ消費減税こそが最大の処方箋として考えられると思う。閣議に臨む安倍晋三首相(左)と麻生太郎副総理兼財務相(斎藤良雄撮影) だが消費減税をする政治的資源(ポリティカル・キャピタル)が、安倍政権にないという人たちもいる。憲法改正よりも、消費減税や百歩譲っての永久凍結は難しいらしい。もし本当にそのように政治的に困難であるならば、その真因であるものはなにか。これほどの多数の民主的な支持を得ている政権でさえも実行できないとするならば、その原因こそ、野党や反安倍勢力が声高にいっている「立憲民主主義ならざるもの」ではないだろうか。そしてその正体が、財務省という一官僚集団であることもまたよくわかっていることではないか。そこを批判的に検討できないことに、政治や言論の危機を感じる。

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    強くても横綱失格、日馬富士よりもヒドい白鵬の「物言い」

    小林信也(作家、スポーツライター)嘉風の背中をたたく白鵬(右)。「待った」をアピールしたが認められず、 初黒星を喫した=2017月11月22日、福岡国際センター(仲道裕司撮影) 大相撲九州場所で横綱白鵬が2場所ぶり40度目の優勝を果たした。日馬富士の暴行事件で角界が揺れる中、横綱として結果は出したが、十一日目の黒星を喫した取組で「物言い」を要求するという前代未聞の行動を取り、またも物議を醸した。翌日にすぐ謝罪し、今のところ大きな問題になっていないようだが、日馬富士騒動の発端が白鵬にあったと報じられる中、自身もまたその姿勢や行動を問われる矢面に立つ可能性がある。   問題の場面を再現しよう。白鵬は嘉風に敗れ、土俵下に押し出された。本来ならすぐ土俵に一度戻るべきところ、勝負成立に抗議するように右手を挙げ、やりきれない表情でそのまま土俵下に立ち尽くした。そして1分近く、無言の抗議が続いた。相撲界の伝統に照らせば、「大横綱の暴挙」と言われても仕方がない。だが、行司も検査役(勝負審判)も、ただ呆然と待ち続けるだけで、相撲ファンがこれまで見たことのない、不穏な空気が漂った。 ひとりNHKの実況を担当する藤井康生アナウンサーだけが、「これはいけません」、毅然(きぜん)と白鵬の誤った行動をたしなめていた。ようやく、勝負審判に促され、白鵬は渋々土俵に戻り、嘉風が勝ち名乗りを受けた。 どうやら、「待った」があったはずなのに、勝負がそのまま継続され、成立したことへの抗議だった。 だが実際、この勝負を見る限り、どちらも「待った」をした形跡はない。 時間一杯となり、行司に促され、先に両手を着いて立ち会いの態勢に入ったのは嘉風だ。少し間合いを作って、白鵬が遅れて仕切りに入った。しっかり両手をおろして、先に立ったのはむしろ白鵬だった。その立ち会いを見て、嘉風も立った。ここまでに、勝負を止める理由はひとつも見当たらない。だが、確かに、ビデオテープで見直すと、土俵中央で嘉風のもろ差しを許した直後、白鵬が「ちょっと待った」とばかり、気を抜いて、明らかに戦いをやめ、棒立ちになった瞬間があった。その隙に乗じて一気に押し込んだ嘉風の勢いに圧され、白鵬は土俵を割った。   「ちょっと待った!」と白鵬が思ったのは間違いない。だが、なぜそう思ったのか。謎としか言いようがない。その段階で「待った」を主張するような正当な理由や不備は一切ないからだ。 第三者の目に正当な抗議の理由が見当たらないのに、白鵬の中では「おかしい」と思った。その心理の綾(あや)は、推測する以外にない。 簡単に言えば、あまりに見事に中に入られ、両方の回しを取られた。信じられないほど、嘉風万全の態勢になった瞬間、「そんなはずはない」「待った待った」と言いたい気持ちだったのではないか。白鵬の中ではありえないことだが、規則の範囲で見事に取られただけで、抗議する対象はない。それなのに、白鵬はその有り得ないことが起きたのは相手の素晴らしさのためではなく、何か不備があったからだと瞬間的に思い込んだ。それを白鵬の傲慢と言うこともできるだろう。ありえない態勢への驚きと言い訳、思い上がりが引き起こした「錯覚」だったかもしれない。 取り組み後のインタビューで、嘉風は満面の笑みを浮かべた。  「中に入りたいとは思っていましたけど、気がついたら中に入っていて」 立ち会い、少し遅れ気味に立ったことを聞かれて、こう答えた。  「思い切り当たって行っていつも横綱のペースになるので、根拠のない自信ですけど、横綱に当たられても大丈夫だと、しっかりこう懐に入って行こうと思って、そういう立ち会いをひらめいて、やったら、成功しました」 見事に自分の感覚を表現した言葉である。相撲にはこのような綾があり、その瞬間のひらめきで、ただの力勝負ではない深みが生まれる。まさに名勝負にふさわしい一番が展開された。くしくも白鵬がその敗者になった。白鵬がずっと求めた“後の先”の境地に近いものが、この一番にはあったのかもしれない。あまりに見事に虚(きょ)を突かれた。その事実をすぐ受け入れきれなかったのかもしれない。白鵬に物言える人間はいないのか 白鵬はなぜ、そのような自分本位な誤解を土俵上で感じるほどの傲慢(ごうまん)さと混乱を内部に持ってしまったのか。 白鵬といえば、2015年1月場所後、部屋で行われた恒例の優勝インタビューでも審判部批判を展開し、物議を醸した過去がある。 13日目の稀勢の里戦、軍配は白鵬に上がったが、物言いがついて取り直しになった。その一番を自分から話題にして、「帰ってビデオを見たら、子供が見てもわかる。なぜ取り直しにしたのか。簡単に取り直しはやめてほしい」と訴えた。 敬愛する大鵬親方の45連勝が、後に「世紀の誤審」と呼ばれるミスで止まった(昭和44年春場所)。それがビデオ判定導入のきっかけになったと言われる経緯も挙げて、白鵬は公正な勝負審判を求めた。むろん、こうした提言がタブーになってはならない。白鵬の主張は、相撲界では異例であっても、それを受け入れ、反映する柔軟さ、公正さこそ相撲界は持たなければならない。ところが、次第に、「日本人より日本人的」とさえ言われ、相撲道の精進を尊敬されていた白鵬の雰囲気に変化が起こった。荒い相撲や行動が目立つようになったのである。弓取式前も土俵に立ち続ける白鵬 =2017年11月22日、福岡国際センター(撮影・仲道裕司) 白鵬からすれば、相撲道を求めたいのに、誰も導いてくれない。今の相撲界には、自分が尊敬し、師と仰げる存在がない。双葉山を目指し、「先の先」「後の先」といった相撲の極意とも言われる境地を目指したが、それを共有できる同志が相撲界にいない失望感、孤独感もそれに拍車をかけたのだろうか。 いつしか、奥義を究める発言は影をひそめ、勝負や結果にばかり集約されるようになった。良くも悪くも目の上のたんこぶのような存在だった朝青龍が相撲界を去り(2010年2月)、2013年1月に元大鵬親方が亡くなり、白鵬にとっては重石も頼るべき先達(せんだち)もなくなった。 加えて、新弟子のころから白鵬の師匠であり恩人と言われた現宮城野親方と、大島部屋解散の際、モンゴル人力士受け入れを拒まれたことをきっかけに冷たい関係になった。そして今や宮城野部屋の中に、白鵬とその弟子グループが別に存在するような状況だとも伝えられている。すでに自分自身が親方のような存在になって、白鵬に提言できる存在もいなければ、耳を傾ける意志を持つ先輩や師匠的な人物さえいないのかもしれない。 この出来事からも、親方が相撲道を究めた親方でなく、理事長がビジネスの責任者になってしまった現在の相撲界の難しさが浮かび上がる。本来は、相撲道こそが根元にあり、師匠と力士の信頼関係が基盤になって成立する。横綱になること、優勝回数を重ねること、経済的に繁栄することばかりに重きを置かれた弊害が、今の相撲界を覆い、さまざまな問題を露呈しているように感じてならない。

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    イエズス会が信長を暗殺? 本能寺の変、3つの黒幕説のウソ、ホント

    渡邊大門(歴史学者) 本能寺の変に関しては、朝廷や室町将軍が黒幕だったという説のほかに、いくつもの黒幕説が提起されている。それらの説を確認しておこう。 本願寺教如(きょうにょ)が本能寺の変の首謀者であった、という説がある。大坂本願寺は、長らく織田信長と抗争を繰り広げたことで知られている。天正8(1580)年閏(うるう)3月、正親町天皇の仲介により、両者は和睦を結んだ。大坂本願寺の顕如(けんにょ)は無念の思いを抱きつつ、紀州の鷺森別院へと向かった。 教如は顕如の長男であり、信長との徹底抗戦を主張していた。親子は路線が対立してしまい、顕如は教如と親子の縁を切った。したがって、「信長憎し」の思いを持つ教如ならば、立派な黒幕の候補と言えるのかもしれない。  黒幕説の概要は、以下の通りである。教如上人像(和歌山県立博物館所蔵) 丹羽長秀の率いる織田軍は、紀州雑賀の顕如を攻撃しようとしていた。その一報は、播磨英賀(あが)にいた教如のもとにもたらされたという。縁を切ったとはいえ、2人は親子であり、教如は居ても立ってもいられなかったかもしれない。 一方、正親町天皇は本願寺の滅亡を阻止するため、教如の意向に基づき、光秀に信長討伐を命じた。吉田兼和(兼見)と近衛前久(さきひさ)の2人が仲介役となり、教如、正親町、光秀の間を取り持ったという。教如は朝廷を動かすことにより、光秀に信長を討たせたということになろう。 織田軍が顕如を攻撃することを示した『大谷本願寺由緒通鑑』は、基本的な誤りが多い俗書と評価されており、そのほかの関連史料の解釈も全般的に誤っている。したがって、根本となる史料の問題があり、この時点で教如の黒幕説は成り立ちにくい。 また、本能寺の変の直前、教如が備中高松城にいた秀吉に対し、光秀謀反の情報をリークしたという。事前に光秀の謀反を秀吉に知らせることにより、毛利氏との講和を促し、上洛(じょうらく)しやすい状態に持ち込んだということになろう。イエズス会が黒幕という説も そして、この中国大返しの途中の姫路城で、秀吉は教如と面会し、互いに交誼(こうぎ)を結んだというのである。ところが、こちらも関連史料の年次比定を誤っており、中国大返しの行軍日程も従来の誤った説によっている。 非常に劇的な興味深い説であるが、根本的に史料解釈の誤りや曲解があり、本願寺教如首謀者説は成り立たないといえよう。 イエズス会が信長の暗殺に関わったというのが、「南欧勢力黒幕説」である。この説は、イエズス会による壮大な戦略の一環として位置付けられている。国の重要文化財に指定されている「絵本著色フランシスコ・ザビエル像」(神戸市立博物館所蔵) 次に、南欧勢力黒幕説の概要を確認しよう。  イエズス会はもっとも頼りにしていたのは、キリシタン大名で最大の庇護(ひご)者である豊後の大友宗麟だった。そして、信長は大友氏を通して、イエズス会から鉄炮を提供されていた。つまり、信長にとってイエズス会は不可欠な存在だった。 南欧勢力はイエズス会を通して信長に資金援助等を行い、信長はその資金で天下統一に邁進(まいしん)した。南欧勢力の最終目標は、信長を使って中国を征服することで、信長はイエズス会の手駒にすぎなかったという。そして、イエズス会を支えていたのは、堺の商人、朝廷の廷臣、幕府の幕臣らであった。 ところが、途中から信長は独自の路線を走り、イエズス会にとって厄介な存在になっていった。信長はイエズス会に対して、武器と資金を提供してくれる便利な存在にすぎず、キリスト教の教えに関心はなかったという。周知の通り、信長がキリスト教と距離を置いたのは、確かなことである。 そのような事情から、イエズス会が信長を操ることは困難になっていった。逆に、イエズス会にとっても信長が邪魔な存在になり、暗殺を計画。これが本能寺の変の発端になった、というものである。 結果、イエズス会は、光秀に信長を討つよう命じて成功した。秀吉が光秀を討伐したのも、シナリオ通りだった。本能寺の変は、朝廷がイエズス会の意向を受け、光秀に信長討伐の命を下したものであったというのが結論である。 その背後では、津田宗及らが暗躍したという。単に信長や本能寺の変だけの問題ではなく、世界的な規模の非常に壮大な説である。 ところが、そもそもイエズス会には、上記に示したような人脈や資金力がなかったと指摘されており、根本的に実証的な裏付けがほとんどない。おまけに史料の誤読と曲解、そして論理の飛躍によって論が構成されており、全体として破綻している。到底、首肯できない説といえよう。光秀が壮大なことを目論んでいた? 南欧勢力黒幕説と並んで、壮大な説となっているのが「明智光秀制度防衛説」である。以下、この説の概要に触れておこう。 天正元(1573)年、信長は、足利義昭を追放し、「信長政権」を樹立した。しかし、京都には幕府奉公衆と奉行人で構成される「室町幕府」は存続し、その中心になっていたのが明智光秀だったという。 信長は自身が太政大臣になり、家康を征夷大将軍とし、「室町幕府」を滅ぼそうとした。「室町幕府」の重大な危機である。光秀らはその動きを阻止すべく、信長らを討とうとしたという。幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師、月岡芳年が描いた本能寺の変での織田信長=明治11年(静岡県立中央図書館蔵) 光秀は本能寺の変で信長の討伐に成功したが、家康を逃がしてしまった。原因は、細川幽斎の裏切りである。その後、幽斎は備中高松城の秀吉に本能寺の変の情報を伝え、すぐに帰京するよう依頼した。 こうして山崎の戦いで光秀は敗れ、「室町幕府」は滅亡したのである。つまり、光秀は「室町幕府」を存続させるため、信長に反旗を翻したということになろう。これが明智光秀制度防衛説の概要である この説は近年の室町幕府などの研究成果を無視しており、おまけに憶測と論理の飛躍と史料の誤読と曲解を重ねただけで、まったく説得性に欠けている。 例えば、信長が太政大臣になり、家康を征夷大将軍になろうとしたことは、まったく史料的な根拠がない。また、細川幽斎が光秀を裏切ったとか、秀吉に本能寺の変の情報を伝えたなども、単なる憶測にすぎない。 したがって、この説の可否については、否定的な見解が多数を占めているといえる。つまり、成り立たないのだ。 今回取り上げた説については、これまでと同様に次のような共通点がある。 ①信頼できる史料に基づいていない。 ②史料の誤読や曲解などに基づいている。 ③著しい論理の飛躍。 本能寺の変については虚心坦懐(たんかい)に史料を読み解き、冷静になって考えるべきかもしれない。壮大な説ほど注意が必要である。【主要参考文献】鈴木眞哉・藤本正行『信長は謀略で殺されたのか』(洋泉社新書y、2006年)谷口克広『検証 本能寺の変』(吉川弘文館、2007年)渡邊大門『信長政権 本能寺の変にその正体を見る』(河出ブックス、2013年)

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    ムガベ大統領と日銀、どっちの通貨政策が信用できる?

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) ジンバブエのロバート・ムガベ大統領が、軍のクーデターによって退陣を迫られている。現段階では辞任を拒否しているようで、事態は混とんとしたままだ。ジンバブエといえば、経済学的には人類史上でもまれなハイパーインフレ(物価の異常な高騰)をもたらした国として有名である。また最近では、日本がアフリカ外交のひとつの拠点にしようと画策していた点でも注目されていた。 このジンバブエの経済の現状は、ハイパーインフレを防ぐための米ドルを中心とした複数外貨制を採用した結果、落ち着きを取り戻し、一時期は高めのプラス成長であった。だが、近年は低成長とデフレ経済に悩み、失業率が累増していた。つまり、社会的な不満がかなり蓄積されていたことが、今回のクーデターの背景にあったのかもしれない。ちなみにジンバブエ経済は、ギリシャ経済と似ている。自国独自の通貨を持たず、そのため金融政策は封じられている。他方で巨額の対外債務を抱え、また官僚や軍などの政府組織のリストラにも手がつけられない。金融・財政そして成長戦略ともに思うように動けないから、両国は似ているのである。テレビ演説するジンバブエのムガベ大統領=2017年11月19日、ハラレ(AP=共同) ジンバブエが過去に経験したハイパーインフレには、顕著な特徴が存在する。それは各国の中央銀行のマネーの供給量と物価の上昇レベルが「連動していない」ことだ。つまり、中央銀行が貨幣を刷る量をはるかに上回ってインフレ率が進んでいく。貨幣の量と物価の関係性が切断されている、とも表現できる。それだけ自国通貨への信頼が毀損(きそん)されてしまったのだ。 このハイパーインフレの状況は「貨幣の増加レベル+通貨の信認の低下=物価の急上昇」という公式で理解するとわかりやすい。左辺の第2項「通貨の信認の低下」がとりわけ重要だ。この「通貨の信認の低下」というものは、「そもそも貨幣とは何か」という問題に直結しているからだ。 貨幣とは何か、という基本的な問題に、最近の経済学者は「貨幣は貨幣として使われるから貨幣である」という「貨幣の自己循環論的定義」を与えている。つまり、貨幣として人々が使うがゆえに貨幣であるのだ。まるで禅問答のようだが、これがいまの経済学が貨幣を解明する上で与えた最先端の解である。代表的には、経済学者のコチャラコータ元米連邦準備制度理事会(FRB)理事や国際基督教大学の岩井克人客員教授がそのような主張である。インフレ5千億%でも使い続けた国民 貨幣が貨幣であることを保証するのは、人々がその紙や金属片を「貨幣」だと信認するときだけである。それだといかにも頼りなげであるが、存外にこの信認は強固である。例えば、ジンバブエでは5千億%のインフレになっても国民はまだこのジンバブエドルを使い続けた。物々交換や他国の通貨を闇で使うことはあったが、自国通貨を完全に放棄することはなかった。そのため、私も知人から譲ってもらったのだが、100兆ジンバブエドル紙幣まで登場していた。どんなに信用が下落しても、通貨の信用はゼロにはなりきれないのだ。(左から)10億、10兆、100兆ジンバブエドル(iStock) ただし、信認をほとんど失うことは可能で、それがジンバブエのハイパーインフレの背景だったろう。この経済危機を乗り越えて、ムガベ政権の安定性は高まったかにみえたが、前述した経済運営などの失敗が背景にあり、ムガベ大統領のほうが今度は信認を失ってしまったようだ。 さらにジンバブエの教訓は日本にも参考になる。「通貨の信認」は要するに政府や中央銀行の政策スタンスがかかわってくる。ハイパーインフレが、貨幣の発行量と連動していない、むしろ信認のキーになる政策スタンスが重要である。日本では長くデフレが問題視されてきた。デフレを脱出するためには、日本銀行がデフレ脱却に強いコミットメントを発揮する必要がある。しばしば、日銀のマネタリーベース、ざっくりいうと日銀がコントロール可能なマネーの残高や、マネーストック(通貨供給量)の残高などをみて、金融政策の評価をする人たちが多い。これらは完全に誤りではないにしても、いままで述べてきた話でいえば妥当な見解ではない。 先の式を書き換えると「貨幣の増加レベル+日銀の政策への信認=デフレからの脱却」という公式になる。貨幣の増加レベルには、マネタリーベースの増加レベルと考えていい。ただしそこが論点ではない。なぜなら、90年代からマネタリーベースを増加させても、デフレから脱却は難しかったからだ。 ところが、2012年終わりから13年を通じて、日銀が強くコミットしたインフレ目標の導入と大規模なマネタリーベースの拡大(水準でも変化率でも大幅増加)が極めて有効に働いた。消費者物価指数(CPI)では民主党政権末期のデフレ域から、総合でみて2%に迫る勢いで上昇し、また生鮮食料品やエネルギーを除くコアコアCPIでも0・7%まで上昇した。おそらく翌年の消費増税などの障害がなければインフレ目標に到達していた可能性が大きい。日銀「政策への信認」は強い? だが、いまの日銀にこの「日銀の政策への信認」が強いかといえば、筆者は正直かなり疑問を抱いている。以前の論説で書いたように、日銀には一段の金融緩和が必要である。だが、それに対して日銀の現在の執行部は慎重すぎる姿勢だ。これではデフレ脱却へのコミットについて疑義も生じかねない。 ちなみに、このような私と同じ疑義を抱いているのは、デフレ脱却を重視している人たちだけだ。他の「疑義」を日銀に抱いている人たちの多くは、単にいまの金融緩和を妨害して、できるだけ早く「出口戦略」(金融緩和の終わり)を目指したい人ばかりだ。そこは同じ日銀の政策への批判でも明瞭にわけてほしいものだ。 いずれにせよ、いまのままでの政策スタンスを継続していればよほど運のよい事態が生じないかぎり、早期のインフレ目標の達成は困難である。再びデフレ経済に戻ってしまう可能性は、ジンバブエ経済と同様に通貨への信認次第になる。もちろんデフレとハイパーインフレは真逆の現象だが、通貨への信認という点では共通する。このデフレ脱却への強い信認を得るための最も安上がりの方法は、日銀の正副総裁の交代であろう。筆者からみると、現在の黒田東彦総裁の続投は「最悪中の最善」でしかない。リフレ派の岩田規久男副総裁は交代するだろうから、副総裁もリフレ的な考えの人を入れないと市場からはリフレ的政策の交代とみなされるだろう。2017年11月18日、ジンバブエ・ハラレで「ムガベは去れ」とのポスターを掲げ、大統領退陣を求める集会に詰め掛けた人たち(中野智明氏撮影・共同) 黒田総裁に代わる人材や、リフレ的な副総裁はどれだけ在野に残っているだろうか。ブルームバーグの取材に本田悦朗駐スイス大使は、現執行部の退任とインフレ目標への強い再コミットを求めている。そして自身が総裁に任命されれば「命を懸ける」と言ったという。取材記事なのでどこまで本当かわからない。ただ本田氏の従来の発言からは矛盾はしない。本田氏以外に、在野にいるリフレ派で日銀の中で孤独を恐れず信念を貫ける人材はどれだけいるだろうか。その人数はおそらく6、7人ほどでしかない。ある意味で恐ろしいほどの人材難である。だが、それが日本の現実である。 ジンバブエでは大統領が辞任しなさそうで混乱が懸念される。日銀の正副総裁人事も、政治的に混乱することなく、デフレ脱却=リフレの本筋を貫き通してもらいたい。

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    信長「天女のコスプレ」に隠された弟殺しの真相

    橋場日月(歴史研究家、歴史作家) 織田信長にとって、弘治(こうじ)2(1556)年は父、信秀の死以来積もり積もった家中の矛盾を解決する重要な年となった。稲生の戦いで弟の信勝を支持する家老、林秀貞と柴田勝家らの軍勢を破り、庶兄の信広が美濃の斎藤義龍とむすんで敵対して来たのを数回にわたる戦闘で降参させたのだ。 『信長公記』には「御迷惑なる時、見次者(みつぐもの)は稀なり」と記されているが、これは信長が困っている時に協力してくれる者はほとんどいなかった、という意味だ。ではなぜそこまで孤立していた信長が勝てたかというと、その後に同書は「屈強で武功を重ねた侍衆7~800人が部下として揃っていたからだ」と説明している。つまり、親族や重臣が「見次いで」くれなくても、彼には子飼いの直属武士がいて、団結し機動的に合戦をおこない勝利をつかんだ、というわけだ。 この部下というのが、かつて傾奇ファッションに魔除けアイテムをたくさん提げて町を闊歩(かっぽ)していた信長の供、前田利家や佐々成政らだった。彼らは有力国人の次男や三男が多く、家のことは父や兄に任せて信長と四六時中行動をともにして来た「子飼い」の家来たちだった。信頼もおけるし、合戦でも信長とあうんの呼吸で命がけの働きを示し、烏合(うごう)の衆を負かすことができたのだ。尾山神社の前田利家の像=金沢市尾山神社 しかし、果たして信長は利家たちの忠誠心だけを頼りにしていたのだろうか?翌弘治3(1557)年の彼の動きを見ると、どうもそれだけではなかったようだ。この年はめぼしい合戦が見当たらず、正月に嫡男の信忠が生まれるなど信長にとってはつかの間の憩いのようなひとときだった。 そんな平穏の中で夏を迎えた7月18日、津島に彼はその姿を現した。 「上総介(かずさのすけ)殿(=信長)は天人の御仕立(おしたて)に御成候(おなりそうらい)て、小鼓をあそばし、女踊りをなされ候。津島にては堀田道空の庭にてひと踊りあそばし、それより清須へ御かえりなり」 当時の7月18日は現在の8月22日。つまりお盆の時期だ。信長は「天女のコスプレ」で小鼓を打ち、女舞いを踊ったのである。 そして、その場所は前回触れた、この4年前の斎藤道三との会見をセッティングした人物の屋敷の庭だった。彼の名は堀田道空という。信長の敵に仕えていた道空の正体 道空は通称を孫右衛門、諱(いみな)が正定(正貞)で、のちに道悦と入道名を改めたか、あるいは道悦という兄弟がいるらしい。彼は木曽三川で尾張と美濃を結ぶ舟運業を背景にした財力とネットワークで道三の家老にまでなった津島の有力者だ。道三と信長の会見場を木曽川に近い富田の聖徳寺に用意し、信長に「この方こそ道三様でございますぞ」と紹介した、織田・斎藤両家の取り持ち役である。堀田一族からは津島神社の神官も出ていたというから、その末社で那古野城内にあった亀尾天王社に通い学問をした信長にもゆかり深い。津島の全景=国立国会図書館近代デジタルライブラリー『尾張名所図会』 この道空、前年に道三が討ち死にした後はその子の義龍に仕えたという。義龍は道三を討った張本人で信長にも敵対していたから、道空は信長にとって「敵側」の人物なのだが、それにもかかわらず信長は彼の屋敷で踊ったのだ。果たしてそこに危険はなかったのだろうか? 津島は織田家の支配下にあり、道空も尾張と美濃の流通で儲けている以上、信長とも良好な関係を築いていた。事実、『尾張群書系図部集』の堀田系図にはこの道空が「織田信長に仕う」と記されており、彼は尾張織田家・美濃斎藤家に両属する形をとっていたと思われる。津島の富を背景にすれば、そんなことも可能だったのだ。 そんな道空だから、この時期、彼としても義龍と信長、どちらが勝っても良いように一段と両面外交に徹し、信長の機嫌もとっておこうと考えていたのだろう。 だが、信長の側には、道空以上に関係を良好にしたい事情があった。信長を評価し期待していた道三が生きているうちは良かったが、義龍の指示で道空が信長と疎遠になり津島衆がそれにならうようなことがあれば、信長は津島という経済基盤を失ってしまうからだ。そして、信長の踊りは、そのためのパフォーマンスだった。 といっても、信長は道空の前で道化を演じ、媚びを売ろうとしたわけではない。この踊りには重要な意味があった。それをひもとくために、まず信長の踊りは何だったのかを確認してみよう。 『尾張名所図会』によれば、この信長のパフォーマンス以後、津島では「津島踊り」が大流行し、貴賤(きせん)上下を問わず皆が踊り楽しんだ、とある。ということは、信長の踊りは流行する以前からおこなわれていた「津島踊り」と解釈できる。 同書にはまた、「道悦(道空)の屋敷で津島踊りという「古雅な戯れ」がおこなわれていた」とあるから、信長の女舞い以前から、堀田屋敷で限定的に津島踊りは開催されていたのだろう。信長の女舞いと「蛇志向」 この津島踊りの流れをひくとされる「くつわ踊り」は傘役、くつわ役などそれぞれ4人がひと組となって踊るが、信長も家来たち4人を「鬼と地蔵」組(地蔵は地獄界や餓鬼界、修羅など六道をめぐり、鬼の責め苦を人々に代わって受ける存在と考えられていた)、同じく4人を「武蔵坊弁慶」組にしていたから、根本は同じと考えて良い。 このくつわ踊りは雨乞いの踊りといわれる。つまり、信長の女舞いは堀田屋敷の雨乞い儀式である津島踊りの一バリエーションだったのだ。しかも信長が演じた天人の女性、つまり天女の代表的な存在である弁才天女は、水の神として祀られていることから、信長自身も雨乞いを強く意識していたと推し量ることができる。 さらに興味深いことに、日本の弁才天女は頭上に宇賀神像を乗せる形でその像が多く造られているのだ。この宇賀神、日本特有の神で、頭は翁、胴体は蛇。これで豊穣をもたらす御利益があるという。本体の弁才天女同様、水の恵みに関連づいているのだろう。 最後尾、扇を持つ天女姿が信長=国立国会図書館近代デジタルライブラリー『尾張名所図会』 前回のテーマだった信長の「蛇志向」が、こんなところでもチラリと顔を出してきた。 雨乞いと蛇というのは密接な関係を持っており、京の朝廷が雨乞いをする際にも竜や蛇の姿を写した器具を用い、竜や蛇が住むとされる神泉苑や大和の室生山で祈祷がおこなわれた。津島の天王社は前回紹介したようにヤマタノオロチの力を手に入れた素戔嗚尊(スサノオノミコト)を祀る神社なので、その近くの堀田屋敷で雨乞いの踊りがおこなわれるというのも、これに準じた発想だったのだろう。 実は、このとき尾張の人々は深刻な悩みを抱えていた。正確には尾張だけではなく、日本の多くの国々が同様に苦しんでいた。それは、「旱(ひでり)」である。  「5月26日から8月9日まで、雨1度も降らず、大炎天。諸国の田畑はすべて干上がってダメになってしまった」(『足利季世記』) 「近年にない大飢饉となった」(『重編応仁記』) 各種の記録が示すようにこの年の夏は大干害が発生し、秋には大飢饉(ききん)となる。飢餓の恐怖が迫る中、当時の劣悪な灌漑(かんがい)技術では、人々にできることは神に降雨を祈るよりほかには無かった。尾張の人々も雨を渇望し、天を仰いでいたことだろう。信長の弟殺しは家督争いではなかった? そんな中、津島の雨乞い踊りに信長が参加した。領民の願いを代表して踊る信長に、領民は歓呼する。『信長公記』には、このあと津島の5ヶ村の長老たちが清洲へおもむき、信長の御前でお礼の踊りを披露したと書かれている。これはただ単に信長が自分たちとともに楽しんでくれたことに対する感謝を示したわけではなく、雨を願う気持ちを共有し、ともに神に祈ってくれたことを謝したのだ。清洲城跡の復興模擬天守 長老たちは信長から一人一人言葉をかけられ、団扇であおいでもらったり茶を出されたりして感激し「炎天の辛労を忘れ」るのだが、この辛労というのも津島から清洲におもむく道すがらが暑かったというのんきな話ではなく、この夏の渇水への恐怖と苦労を指していた。 このあと信長の女舞いの効果があって多少なりとも雨が降ったかどうかは別として、少なくとも道空以下、津島衆の気持ちをグッとつかむことはできたはずだ。 さて、今書いたように、信長の雨乞いが功を奏したかについて直接天候を記録した史料は存在しないのだが、降雨の有無はさておき、やはり恐れていた通り凶作、飢饉は発生したようだ。それは、この年の11月2日に彼の弟、信勝(信行)が死亡したことでわかる。 この事件は、信長を排除して織田家当主に就くことをあきらめない信勝を、信長が仮病を構えて清洲城へおびき出し暗殺したというものなのだが、これにこの年の信長の雨乞いを重ね合わせて考えると事件の全貌がはっきり見えてくる。 「信勝は、信長の御台所入りの篠木三郷という収穫高の良い土地を押領しようとした」 これは事件の直前のこととして『信長公記』が記すところなのだが、つまり渇水・干害による凶作で尾張国内は食糧危機に陥り、信勝は実入りが見込める信長の直轄領を奪おうとしていたということになる。篠木荘は那古野城の北東、現在の春日井市にあり、庄内川によって豊かな土壌が形成された水田地帯である。清洲城よりも信勝の本拠の末盛城に近いから、信勝としては何としても支配下に収めて飢饉に苦しむ家来や領民たちを救済する必要があったのだろう。 しかし、雨乞いまでして飢饉回避を願った信長にとっても、篠木荘の収穫は生命線だから譲るわけにはいかない。これが、信長による弟殺しの直接の原因である。織田家家督をめぐる争いの果てというよりも、より動物的で本能的な食糧闘争の結果だったのだ。

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    日馬富士の暴力より日本人に定着した「悪のイメージ」の方が怖い

    小林信也(作家、スポーツライター) 『横綱・日馬富士が巡業中の酒席で、同じモンゴル出身の幕内力士・貴ノ岩をビール瓶で殴打し、頭に骨折などのケガをさせた。貴ノ岩はそのため、九州場所を休場している』というのが、今場所3日目の朝、最初に伝わった報道だ。 「それが事実なら、日馬富士が引き続き横綱として土俵に上がるのは難しいのではないか」と多くのファンが感じただろう。この問題は、最初にそうした「結論」めいたイメージが形成されたところから始まっている。2017年11月15日、日馬富士や貴ノ岩らが休場したことを示す大相撲九州場所4日目の電光掲示板=福岡市の福岡国際センター 取材が進み、現場にいた当事者や関係者たちからの証言で事実が明らかになると、「第一報で抱かされた認識や未来が必ずしも妥当ではない」「しかし、第一報によって形勢された日馬富士の『悪』のイメージは定着し、覆せない空気が出来上がっている」という、問題の核心とは別の状況も浮かび上がってきた。 この原稿を書いている17日朝の段階で、非難の矛先は主に日馬富士と、対応の遅い日本相撲協会に向けられている。日馬富士は前夜遅く、北九州から東京に戻った。警察の事情聴取を受けるためといわれる。ファンの関心は「日馬富士がどんな処分を受けるのか、あるいは決断を下すのか」。つまり「横綱の地位にとどまり、今後も土俵に上がることが許されるのか、それとも土俵生命を失うのか」に注がれている。 私はそれを誰が判断するのか、どう判断すれば「世間」が納得するのか。その「『世間』とは何か?」に漠然とした怖さを感じている。 日本相撲協会を「体質改善のできない時代遅れで甘い団体」と評価している「世間」は、厳しい処分を求めるだろう。協会がその「世間」の要求と「世間」からの評価を得るために判断するのは本来妥当ではない。なぜなら、世間のイメージは、すでに正しいとは言い切れない第一報によって形成されたからだ。 インターネットの普及もあって、瞬時に情報が拡散され、誤った事実や印象も共有され、固定化されてしまう現状がある。それを誰かが作為的に利用し、ある人物が社会的な立場を失うような動きも実際にある。 日馬富士に限らず、こうした「世間」の風潮を利用した情報操作によって、実態と違うイメージを形成され、才人たちが活躍の場を奪われたり、制約されるのは受け入れられない。そのことに憂いを覚える。 今回の出来事には冷静に分析すると不可解な点が多々ある。「頭の骨折」と聞けば誰もが震撼(しんかん)する。だが、「全治2週間」と聞けば重症のイメージはない。貴ノ岩はケガを負った翌日、巡業の土俵に上がり、しかも勝利している。当事者同士は握手をかわし、和解したかの様子も目撃されている。それなのに、貴乃花親方から警察に被害届が出された。親方は警察には届けたが、相撲協会には報告していない。貴ノ岩の師匠・貴乃花親方の謎 報道が重なるにつれ、警察に被害届を出し、「取り下げる気はない」と強硬な姿勢を取り続ける貴ノ岩の師匠・貴乃花親方の対応が少し柔軟性を欠いているのではないかという印象も徐々に広がっている。 日馬富士の師匠である伊勢ヶ浜親方は、前回の理事長選で貴乃花親方に一票を投じた。いわば貴乃花親方の同志だった。しかし、理事長選に敗れた後は「目も合わせない関係」になったといわれている。 モンゴル勢と貴乃花親方の関係もこじれているという。巡業先で乗るバスでは、巡業部長である貴乃花親方が座る場所が決まっている。この席に横綱・白鵬が座ったのが発端で、後日、まだ白鵬がバスに乗っていないのを知りながら貴乃花親方がバスを出発させ、今度は白鵬を激怒させたといわれる。その白鵬にはモンゴル国籍のまま一代年寄として相撲協会に残りたい意向があるが、貴乃花親方の反対もあって進展せず、結局白鵬は近い将来の日本国籍取得を希望していると伝えられるようになった。十両に昇進し、部屋の看板の前でガッツポーズを見せる貴ノ岩(左)。右は師匠の貴乃花親方=2012年5月、東京・中野区の貴乃花部屋 今回もすぐ使われた「隠蔽(いんぺい)体質」という言葉の乱用にも注意が必要ではないだろうか。私は暴力を容認する気はないので、暴力に対して寛大な処置を求める気持ちはない。スポーツ界にはびこるパワーハラスメント体質、体罰だけでなく「言葉の暴力」への認識を改め、一掃する必要は身に染みて感じる。 だが、一方で、何もかも「隠蔽体質」といった画一的なキーワードで縛り付けるのもまたある種のパワハラ、暴力的な体質のように感じる。 犯罪を秘匿し、法に触れる行為を共謀して隠蔽するのは当然、断罪されるべきだが、当事者間で和解が成ったことに第三者が首を突っ込む行為は、行きすぎの場合も少なくない。身内が身内に愛を持って更生の機会を与えるのは、ある意味自然なことでもある。古今東西、その人物や社会をいい意味で支え、育てるために古くから存在したことだろう。 傷害罪は親告罪ではない。たとえ当事者間で和解が成立しても、あるいは被害者が訴えなくても警察は起訴し、罪を問える。一方で、和解が成立すれば、不起訴になる場合も少なくないという。そういう種類の犯罪だ。警察や裁判所でも情状酌量的な判断や措置があり、過ちを犯した人の更生、その後の人生の確保を考慮する。いまのメディアや「世間」は、そうした幅を持たず、断罪を望む傾向が強いようで、少し怖いところがある。日馬富士の「直言」本当の意味 日馬富士の酒癖についても語られている。私も「酒乱」と呼ばれる人の変貌ぶりを目の当たりにしたことがある。普段は温厚で誠実そのものの人物が酔うと、自制心をなくすというよりも別人と化し、仕事先の社長という考えられない相手に殴りかかる姿を見て、驚愕(きょうがく)した。お酒によって「人が変わる」体質の人が本当にいる。もし日馬富士がその傾向を持つならば、適量以上のお酒を飲まない、飲ませない、といった配慮が重要だ。今回は親しいモンゴルの仲間だけの酒席だから、参加者はみな日馬富士のそうした傾向は知っていたのではないか。知った上でその席にいた。 暴力は許されるものではない。だが、暴力に至る経緯を聞く限り、日馬富士の主張はもっともだ。日馬富士が感じたこと、貴ノ岩への忠告はいずれも頭が下がる。多くの日本人がわが子や後輩になかなか直言しきれなくなった大切なことだ。その指導に暴力を用いたことに理解の余地はない。暴力に訴えたことで立場が逆転する。それは当然だ。貴乃花部屋宿舎に謝罪に訪れた日馬富士(左)と伊勢ケ浜親方=2017年11月14日、福岡県田川市 今回の事件で「横綱の品格」が問われているが、日馬富士の直言はまさに横綱ならではの姿勢や考えを示している。 テレビのワイドショーなどで、評論家が日馬富士を非難するシーンを見ていて、言いようのない違和感も覚えた。道徳的に非難するのは当然だが、相撲の厳しさをおそらくまったく理解していない発言だ。 今場所の初日、日馬富士が新小結・阿武咲(おうのしょう)に敗れた一番。テレビの前にまで、立ち会いのゴツンという鈍い音が聞こえた。敗戦後の日馬富士のまなざしを見たら、脳振とうを起こして、一瞬、意識がもうろうとしたための敗北ではないかと思えた。それが大相撲だ。頭と頭が容赦なく激突するあの激しさは日常生活には存在しない。私は普段から相撲好きを公言し、いまでも中学生たちと相撲を取る。その楽しさを子供のころから味わっている。だが、そうした遊びの相撲とプロの相撲の決定的な違いが「立ち会い」にある。 平幕力士が初めて横綱と対戦したとき、「まるでダンプカーにぶつかるような恐怖を感じた」と聞いたことがある。それほどの衝撃と恐怖を常に感じて、力士たちは土俵に立つ。その厳しさをまったく理解せず、忘れて、ただ道徳論だけで相撲を語るのでは足りない。相撲は元来、そのような、一般人が日常的には経験しない身体的な衝撃を前提とする文化伝統なのだ。 それだけに、気概が足りなければ、激しい方法で闘志を喚起する方法が採られてきたのだろう。暴力を容認する気はないが、そうした背景を理解する必要もあるだろう。そのことを忘れて、ただ一般人の常識論、道徳論の次元でこの問題を非難する滑稽さにも私たちは気づくべきだと思う。

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    玉木さん、あなたにモリカケ疑惑を追及する資格はない

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) 間もなく特別国会の審議が本格化するが、野党は相変わらず森友学園・加計学園問題を追及する構えである。最近、加計学園の獣医学部新設を認めるように、文部科学省の大学設置・学校法人審議会(設置審)が答申を行ったことで話題が再燃している。 筆者は、両学園をめぐる一連の「疑惑」には事実に基づくものではない、という立場である。マスコミの一連の報道も「疑惑」だけをあおるものが多いという印象を強く持っている。両方の学園の問題については前々回に総論的なものを書いた。今回はそのとき触れていないいくつかの問題について簡単に書いてみたい。2017年11月、岡山市内で講演する文科省の前川喜平前事務次官 まず「前川喜平問題」がある。朝日新聞の加工された画像で有名になった、文科省から流出した文書に関連して、前川喜平前文科事務次官が批判する、「総理のご意向」が国家戦略特区諮問会議で審査されていた加計学園について「行政をゆがめた」、というおなじみの問題である。 「総理のご意向」文書自体に証拠となる信憑(しんぴょう)性が乏しいのは、国会での質疑などを通じて明らかになっている。つまり文科省の内部文書であるとマスコミが喧伝(けんでん)していたものは、単なる職員の裏取りなしのメモであった。また萩生田光一官房副長官(当時)、和泉洋人首相補佐官らが前川氏に「圧力」をかけたという点も、当の前川氏の証言以外になにも裏付けが取れていない。安倍政権を批判する人たちや、「疑惑」に事実と論理もなくこだわり続ける人たちは、いまだにこの前川氏の発言を重視している。 そもそもこの「総理のご意向」というのはなんだったのか。もし単に規制緩和のスピードを速めるように、諮問会議などで発言していたことを指すのならば当たり前である。国家戦略特区諮問会議は、規制緩和が必要な分野についてそのスピードと確実性をあげる制度だからだ。もし反対に、特定分野だけは規制緩和のスピードを手加減すべきだといったのなら、それのほうが大問題である。 ここで出てくるのが、加計学園の加計孝太郎理事長は安倍晋三首相の刎頸(ふんけい)の友だからだ、という「疑惑」である。友達ならば便宜を図って当然という意見だが、その種の意見がまったく規制緩和の議論において意味をなさないことは前々回に丁寧に書いたのでそれを読んでほしい。 規制緩和は特定の人間や組織に利益を与え続ける枠組みではない。それこそ獣医学部を申請することは複数校で認めたいというのが、特区会議のスタンスである。前川氏の発言は、あたかも「総理のご意向」で加計学園にのみ便宜が図られて、その結果「1校だけに限る」という結果になったというシナリオに組み込まれて、マスコミなどで宣伝されている。しかし、「1校に限る」動きは、日本獣医師会が安倍首相以外の政治家に働きかけた結果であることは、当の日本獣医師会側も認めているところである。前川氏が本当に「正義の人」ならば、「総理のご意向」で加計学園1校に絞られたわけではないことを認めるべきだろう。「天下り」と「規制」は同じコインの両面 もちろん前川氏はそんなことはしない。前川氏は課長時代から「現在ある規制はすべて望ましい」と発言している文科省の「利権の権化」だからだ。冒頭の獣医学部新設認可の答申を受けて、毎日新聞のインタビューでも「定年間近の教員が多い。(最初に入学する学生の)卒業前に先生が辞めるのなら無責任だ」「博士課程もないのに先端研究ができるわけがない」などと、新設反対の姿勢を崩していない。八田達夫大阪大学名誉教授の表現を借りれば、「筋金入りの岩盤規制の擁護者」である。 ちなみに教員の潜在的不足も、博士課程の未設置も深刻な問題ではない。前者は海外も含めて人材を募ればいいだけだ。後者は大学院や研究所の設置を別途図ればいいだけである。要するに新設を認可しない積極的な理由にはまったく当たらない。それがまた設置審の結論でもあったのだろう。前川氏の言い分は単なる揚げ足取り以外の何物でもない。 前川氏は天下りあっせんに関連して懲戒処分を受けた人である。天下りの問題は、天下り先が非効率的な事業を継続することで国民に損失を与えることである。その非効率性は官僚側の厳しい規制によってしばしば生じる。つまり、天下りによる弊害と規制の厳しさは同じコインの両面である。 既存の獣医学部には、文科官僚たちが多く天下りしている。もちろん獣医学部だけではない。文科官僚が広範囲に大学などに天下りしているのは周知の事実である。大学はさまざまな規制が厳しい。その中でも獣医学部は何十年も新規参入許可どころか、その申請さえも受け付けなかった岩盤規制の牙城である。現状の規制がすべて正しいとする官僚にとって、確かに規制緩和自体が「行政をゆがめる」ものに映るのだろうが、それは単に天下りなどで大学を食い物にしてきた側の理屈である。 ところで「前川喜平問題」だけではない。加計学園問題を追及する野党側にも「疑惑」がある。玉木雄一郎衆院議員は、加計学園問題で政府を追及していた急先鋒(せんぽう)だった。そして希望の党の共同代表に選ばれた現在も、やはり同問題で国会での審議を求めているようである。だが、玉木氏には過去に日本獣医師政治連盟から100万円の献金をうけた事実が判明している。つまり今回の規制で保護される側からお金をもらっていることになる。2017年11月、希望の党の共同代表に選出され会見する玉木雄一郎氏(斎藤良雄撮影) 玉木氏の国会での加計学園問題に関する追及が、そのような政治的・金銭的なつながりを「忖度(そんたく)」したものでないことを、ぜひ国会で証明してほしい。玉木氏はこの種の「悪魔の証明」を行う義務がある。それができないときは、そろそろこのバカげた不毛の問題から、野党の党首らしい政策論争に主軸を移すべきだろう。だが、それはおそらく無理な注文だろう。

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    大谷翔平の「踏み台」にされた日本のプロ野球が情けない

    小林信也(作家、スポーツライター) 大谷翔平選手(北海道日本ハム)が、ポスティング制度を利用してメジャーリーグ(MLB)に渡ることが正式に発表された。「メジャーでも二刀流」「球速165キロへの期待」など、早くも大谷の新たな未来を歓迎する報道があふれている。大リーグ移籍表明会見を行う日本ハム・大谷翔平選手=2017年11月1日、東京都千代田区 日米の新たな入札制度の合意など、流動的な要素もあるが、今週中にもMLBのオーナー会議で改正案が了承される見通しだという。日本ハム球団も積極的にアメリカ行きを容認し、支援する姿勢を示しているので、大きな支障はないだろう。順調に交渉が進めば、年内にも大谷翔平選手の新たな所属チームが決まるだろう。 私もいまさら大谷のメジャー流失を憂い、反対する気持ちはないが、あまりに無防備で、既定路線を受け入れる風潮に物足りなさを感じる。そもそも第一に、「大谷翔平は本当にヒーローだったのか?」と、あえて反問を投げかけたい。 投手で二桁勝利、打者でも二桁ホームラン。投げれば最速160キロ超。文句なしの実力、実績。だが、札幌に本拠を置く北海道日本ハムの選手だったこともあり、全国の野球ファンが実際に目撃する機会はさほど多くなかった。昨年、11.5ゲームを逆転してのリーグ優勝、そして日本一達成は彼なしには実現しなかったろうが、「大谷翔平ってすごいね」とは思わせても、「大谷翔平に泣かされた」「大谷翔平とともに泣いた、笑った」という、感情を揺さぶられる体験をどれだけの日本人がしただろうか? 少し大げさな表現をすれば、「大谷翔平は本当に実在したのか?」と反問したくなる。テレビやメディアの中に存在し、記録や数字のすごさで日本中を驚かせはしたが、生身の大谷が、日本中を感動させた出来事がどれだけあっただろう。札幌やパ・リーグのファンにとっては実在のヒーローだったに違いないが、それ以外のファンにとっては星飛雄馬と同じ、アニメ・ヒーローのような存在だったとさえ感じる。 最も日本中の期待を担うはずだった今春のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)にはけがで出場ができなかった。全国の野球ファンは、大谷に肩透かしを食らわされたまま、アメリカ行きを見送ることになった。田中将大との決定的な違い ファイターズ・ファンにしても、今季は欠場が続き、日本での最後のシーズンは不完全燃焼に終わっている。その意味で、楽天ファンだけでなく、日本シリーズで対決したジャイアンツ・ファンさえも感動させ、涙させ、日本中に熱い思いを注ぎ込んで米大リーグ機構(MLB)に渡った田中将大投手と色合いがずいぶん違う。 プロでの実績は積んだ、実力も証明した。それでMLBに行くとなれば、日本のプロ野球は本当にMLBの傘下にあるマイナー・リーグのような存在になる。アメリカが上、日本が下。いまでも、それは当然でしょう、という雰囲気もある。 だが、日本のプロ野球はせめて、MLBと肩を並べ、これをしのぐ方向性を提示しなければならないと思う。何もせず、MLBのマイナー化を甘んじて受け入れる姿勢で将来が明るいとは思えない。 まして、7球団競合の末に清宮幸太郎選手(早実)の交渉権を獲得したのが、北海道日本ハム。もし清宮が順調に成長すれば、やはり喜んで送り出されるだろう。それを阻止しろと言いたいわけではないが、まるで高校野球を3年で卒業するように、日本のプロ野球は4年か5年で卒業される、それが当たり前になったのでは日本野球機構(NPB)の威厳や権威はどうなるか。試合終了後に引き揚げる日本ハム・大谷翔平選手(左)。シーズン最終戦は4打数無安打に終わった=2017年10月9日、Koboパーク宮城 その意味で、侍ジャパンは重要だ。日本のプロ野球を本拠とし、世界を相手に戦う。世界にその名を轟(とどろ)かせ、実力も存在も示せる時代だ。それなのに、侍ジャパンの注目度も広報努力もまだ低い。16日から始まる「アジアプロ野球チャンピオンシップ」も、始まればそれなりに注目されるだろうが、稲葉篤紀監督の地味さ、Uー24で若手主体のメンバー構成という事情もあって、盛り上がっているとは言えない。 強化合宿初日の記者会見で、稲葉監督は、「勝利至上主義、勝ちに行く」といった表現で意気込みを示した。多くのメディアもファンも、この言葉をすんなり受け止めていたが、私はあまりの当たり前さにぼうぜんとした。野球少年の減少が課題としてあり、野球の底辺を支える人気衰退が深刻化する中で、侍ジャパンの代表監督が発するメッセージとしてはあまりに物足りない。そんな憂いや不足を感じない鈍感さも、日本野球の危機を如実に物語っていると言えないだろうか。 実際はもっと、侍ジャパンを頂点とする、日本野球のレベルアップ、魅力向上を野球界全体で企画し、推進しなければいけないのに、その危機感も意欲も感じられない。本当は、大谷翔平のメジャー挑戦を手放しで喜んでいる場合ではない。

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    元SMAP3人のホンネに国民的アイドルの真髄を見た

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) 日本のソーシャル・ネットワーク・サービス(SNS)、特にその芸能関係において歴史的な3日間だった。元SMAPのメンバー、稲垣吾郎、草彅剛、香取慎吾による『72時間ホンネテレビ』(AbemaTV)は、世界水準での注目を集める一大イベントになった。しかも地上波のように計算され、緊密な展開の番組ではなかった。むしろメンバーの素に近い感情のふり幅が存分に映し出され、3日間の緊張と疲労からくるグダグダ感もあり、ただそれが全て新たな自由の息吹の前で素晴らしく昇華されていた。1年8カ月ぶりの生歌唱で72曲メドレーを披露した左から草彅剛、香取慎吾、稲垣吾郎(C)AbemaTV グランドフィナーレの企画「3人だけの72曲生ライブ」を終え、他の出演者たちからの心のこもったエールが流されるエンディング。そこで本当の最後の最後に、元メンバーの森且行が出てきて「ずっとずっと仲間だから」と語ったとき、3人の目には熱いものが流れた。と同時に筆者もまた深い感動に打たれた。そしてTwitterでその思いを簡潔に以下のようにつぶやいた。感動した。SMAPで感動したのはいつぶりだろうか? この1年、感動よりも息苦しい問題意識しか抱かなかった。それを薙ぎ払う、ともかくいい番組だった。田中秀臣氏のツイッターより このつぶやきには、1000を軽く超えるリツイートと2000を超える「いいね」を頂戴した。SMAPについて書くといつも思うのだが、SMAPのファンの方々は本当に気持ちが温かく、また包容力のある方々が圧倒的に多いことだ。これは多くのアイドル批評家たちが共通して感じていることではないだろうか。 アイドル批評は、あくまでも客観的な観点からアイドルを評価するスタンスが求められる。それは時にファンの感情とは違う方向にいくだろう。筆者もSNSで何度かその「すれ違い」によってファンの方々からの批判、いやしばしば誹謗(ひぼう)中傷に遭遇することがある。ところが、SMAPの論説を書いたり、感想をつぶやいても、そのような目に遭うことは極めて珍しい。 むしろ、論説を書くたびに実感するのは、ファンの方々がみんなSMAPを愛し、そして彼らの未来に自分たちの未来も重ねて応援していることだ。その温かい心と秘めた思いに、筆者もまた心を打たれる。これは日本のSNSでは稀有(けう)な体験である。もちろんそれは筆者の個人的な体験だけではない。彼らを見守る世界の人々全ての感情だろう。今回の3人のホンネテレビへの出演で、長い間忘れていた言葉、「国民的アイドル」の本当の意味を思い出した。 SMAPは温かいのだ。そしてファンもまた温かい。世界と時代を変えるのはアイドル 今回のAbemaTVで3人が関係したSNSは幅広い。Twitter、YouTube、ブログなどさまざまであり、3人の使い慣れていない感じさえ、ジャニーズ事務所時代とは異なる自由な雰囲気も感じた。特に森との再会を契機にして、「森くん」がTwitterトレンド世界一を獲得するなど、彼らの人気はネットの中でも健在であった。この自由なアイドルの雰囲気こそ、日本が長く忘れてきた未来への可能性ではないだろうか。 くしくも、日本経済はようやくバブル崩壊後の長いトンネルを脱するところまできた。ホンネテレビが放送された翌々日、「バブル崩壊」の象徴のひとつでもあった日経平均株価は、ついに崩壊後の最高値を更新した。確実な企業業績の改善を受けて、今後株価は日本経済の巡航速度に20数年ぶりに戻るだろう。まだ何度か調整局面があるにしても、それは日本経済の上昇トレンドを阻害するほど深刻にはならないだろう。もちろん好調なのは株価だけではなく、雇用の改善も継続しているので、若い世代を中心にして労働市場は堅調だ。いろいろ難題はあるが、それでもこの20数年の長期停滞にいよいよ別れを告げる大きな段階まできたといえる。 そして20数年の長期停滞の苦しみ、特に「ポスト団塊世代」といわれる「失われた20年」の苦しみを最も受けてきた世代。その世代の代表こそが、今回の3人、森、そしてジャニーズ事務所に残る2人の「オリジナルSMAP」なのだ。SMAPはその意味で、日本の長期停滞をともに苦しみ、戦い、そして長期停滞が終わるのとまったく軌を一にして、メンバーの大半が「自由」を得た。このような時代との符号。時代の精神と経験を象徴することこそ、国民的アイドルという称号にふさわしい。森且行(右)と再開した(左から)稲垣吾郎、草彅剛、香取慎吾(C)AbemaTV 日本を代表するアイドル批評家の中森明夫氏が、筆者にTwitterで以下のように書いたことは、まさに真実を正確に描いている。やっぱり世界と時代を変えるのはアイドルですよね!中森明夫氏のツイッターより そしてこの約30年をともに歩んできたファンの方々も、SMAPの生み出した喜び、楽しさ、癒やし、そして魂の共感を得てきた。簡単に約30年と書いたが、とんでもない永い時だ。ファンのみなさんに敬意を表したい。日本のアイドル文化が豊かなのは、みなさんのおかげであると。アイドル批評の端くれにあるものとしてこれだけは書いておきたく、この小論を書かせていただいた。そしてこれがこの1年のSMAPをめぐる問題について何度も書いてきた最後の論説となるだろう。ありがとう 新しいこの場所が好きになった 風通しいい感じ ありのまま伝えたいホンネテレビ テーマ曲「72」 3人とSMAPファンだけではなく、今度は、われわれ国民全員とそして日本経済が「新しい場所」を獲得する番である。

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    信長に感謝した正親町天皇が「暗殺の黒幕」など有り得ない

    渡邊大門(歴史学者) 本連載の第1回で取り上げた「朝廷黒幕説」について、今度は別の角度から考察してみよう。まず、織田信長が勧めたという正親町(おおぎまち)天皇の譲位の問題に関しては、その意味をめぐって議論となっており、真っ向から対立する二つの見解に分かれている。① 正親町天皇に譲位を迫り朝廷を圧迫した② 譲位の申し出を受け正親町天皇は感謝の気持ちを持った正親町天皇肖像画(泉涌寺所蔵) 朝廷黒幕説の根拠は①の立場である。信長は嫌がる正親町天皇に譲位を迫り、窮地に追い込み、「打倒信長」をたくらむ朝廷は裏で明智光秀を操って本能寺の変を引き起こさせたというのである。最初に、正親町天皇の譲位問題の経過を確認しよう。 天正元(1573)年12月3日、信長は正親町天皇に対し、譲位を執り行うように申し入れた(『孝親公記』)。正親町天皇は信長の申し出を受け、譲位の時期について関白の二条晴良(はれよし)に勅書を遣わしている。正親町天皇は快諾したのであろう。晴良は勅書を受け取ると、すぐに信長の宿所を訪れ、正親町天皇が譲位の意向を示している旨を家臣の林秀貞に申し伝えた。 すると、秀貞は「今年はすでに日も残り少ないので、来春早々には沙汰いたしましょう」と回答した。晴良は「御譲位・御即位等次第」について、余すところなく伝えたという。「御譲位・御即位等次第」の内容は詳しく伝わっていないが、日程や費用の問題について協議が行われたと推測される。 戦国期には経費負担が問題となり、天皇が即位式を行えない状態が続いた。実際に譲位を行うと、単に天皇位を譲るだけで済まなかった。即位式やその後の大嘗祭(だいじょうさい)などを挙行するのに、かなりの費用が必要であった。それゆえ、信長の譲位の勧めは、誠にありがたい申し出だったといえる。また、ありがたいのは、財政支援だけではなかった。 院政期以後、一般的に天皇は譲位して上皇となり、上皇が「治天(ちてん)の君」として政務の実権を握るようになった。しかし、戦国期に至ると、そうした状況は大きく変化を遂げる。例えば、後土御門(ごつちみかど)、後柏原、後奈良の三天皇は、生存中に譲位することがなかった。彼らが亡くなってから、天皇位は後継者の皇太子に譲られており、それは不本意なことだった。 むろん、そうした事態は、彼らが望んだものではない。即位の儀式や大嘗祭などには莫大(ばくだい)な費用がかかるため、譲位をしたくてもできなかったというのが実情であった。彼らは、費用負担を各地の戦国大名に依頼するなどの努力を惜しまなかったが、ついに希望をかなえることができなかったのだ。正親町天皇の反応は ところで、正親町天皇は信長の譲位の勧めに対して、「後土御門天皇以来の願望であったが、なかなか実現に至らなかった。譲位が実現すれば、朝家再興のときが到来したと思う」と感想を述べている(「東山御文庫所蔵文書」)。文字通り、正親町天皇は大変喜んでいるのだ。結論をいうと、正親町天皇は信長の申し出に対して、いたく感激したのである。東山天皇御即位図(東京大学史料編纂所所蔵) 早速、朝廷では譲位に備えて、即位の道具や礼服の風干(ふうかん。衣装を風に晒(さら)すこと)を行った(『御湯殿上日記』)。しかし、ついに信長の存命中に譲位は挙行されなかった。信長は将軍・足利義昭との関係が破綻してから、その対応に苦慮しており、多忙を極めていた。また、各地の大名との戦いも負担になっていた。譲位が執り行われなかったのは、信長側の事情が大きかったと推察される。 一連の経過を見る限り、信長が譲位を通して天皇を圧迫したという考えは、正しいとは言えない。したがって、従来の説で指摘されたように、信長と朝廷との間に対立があったという考え方は、改めて見直す必要があろう。逆に、正親町天皇は信長の提案を受け、喜んで譲位を受け入れたと解釈すべきなのである。 また、信長が朝廷を圧迫した例として、京都で挙行された馬揃えの件がよく挙げられる。「馬揃え」とは、信長軍団の軍事パレードのようなものである。次は、この馬揃えについて考えてみよう。 天正9(1581)年1月15日、信長は馬廻(うままわり)衆を安土城に招き、左義長(さぎちょう)を催した。左義長では爆竹が鳴らされ、見物人がどっとはやし立てたという。同時に織田家の一門がほぼ勢ぞろいし、信長自らが豪華な衣装を身にまとって登場するという派手なパフォーマンスぶりだった。 とりわけ騎馬行列は多くの見物人の目を引き、皆一同に感嘆の声をあげた。このイベントの話が正親町天皇の耳に入り、強い関心を寄せていたようである。こうして正親町天皇の要望に応え、京都においても馬揃えが挙行されることになった。 同年1月23日、京都における馬揃えの準備は明智光秀に任された。馬揃えの規模は壮大で、参加者の人数も多く、見学者も多数やって来ると予想された。駿馬(しゅんめ)を準備するための努力も最大限に行われ、徳川家康も鹿毛の駿馬を1匹贈っている。馬揃え当日には、正親町天皇のために禁裏(きんり)の東門付近に行宮(あんぐう)が設けられた。 同年2月28日、信長は正親町天皇を招き、禁裏の東門外で壮大な馬揃えを行った(『御湯殿上日記』など)。会場の大きさは、諸説あるものの、長さは南北に約436m~872m、幅は、東西に109m~163mもあったという。馬揃えの狙いとは 参加した武将は約700名であり、見物人は約20万人にのぼったといわれている。騎馬武者の衣装もきらびやかで、公家衆も数多く見学に訪れた。参加した誰もが壮大な馬揃えを見て、信長の威勢に圧倒されたはずである。(iStock) ところで、信長が馬揃えを行った本心は、一体どこにあったのであろうか。朝廷黒幕説の主張によると、信長は正親町天皇に壮麗なる馬揃えを見せ、その軍事力を顕示し、正親町を威圧して譲位を迫ろうとしたという見解だ。ところが、先例にならって正親町天皇は譲位を望んでいたので、こうした見解は妥当ではない。では、信長は何を考え、正親町天皇はどう受け止めていたのだろうか。 信長の目的は、天下(=畿内)が治まりつつある中で、正親町天皇と誠仁(さねひと)親王の奉公すべきものと考えていた。信長の考えは、「天下(=畿内)において馬揃えを執り行い、聖王への御叡覧に備える」と記されている(『信長公記』)。 これは、信長の畿内近国制覇を誇示し、信長軍団の威勢の顕示と士気高揚を目的としたものと指摘されている。結果、「このようにおもしろい遊興を正親町天皇がご覧になり、喜びもひとしおで綸言(りんげん)を賜った」とある(『信長公記』)。つまり、正親町天皇は威圧されたのではなく、大喜びだったのだ。 おそらく信長は天皇の権威を熟知し、利用しながら天下(=畿内)統一を進めようとしたのだろう。したがって、自らの軍事力を正親町天皇に誇示し、威圧するという考えは当たらないと考えられる。威圧するならば、ほかに方法はいくらでもあったはずで、あまりに回りくどい方法といわざるをえない。 馬揃えの意義に関しては、天下(=畿内)統一をもくろむ信長が、畿内周辺の諸勢力を集めて自らの力を顕示した点にある。正親町天皇を招き、その面前で馬揃えを執り行ったことに大きな意味があった。別に、正親町天皇を窮地に追い込み、譲位を迫ろうとした意図はない。繰り返しになるが、正親町天皇は譲位に賛成だったのである。 馬揃えは天皇を推戴し、自らの権威を高めようとした信長の思惑である。馬揃えという一大イベントは京都だけでなく、全国各地に情報が伝わったに違いない。そうであるならば、信長の本懐は十分に達せられたことになる。【主要参考文献】・桐野作人『だれが信長を殺したのか 本能寺の変・新たな視点』(PHP新書、2007年)・谷口克広『検証 本能寺の変』(吉川弘文館、2007年)・渡邊大門『信長政権 本能寺の変にその正体を見る』(河出ブックス、2013年)

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    モリカケで生き延びようとする「民進党なるもの」たち

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) 自民党の圧勝に終わった総選挙だが、この1週間余り、テレビの報道は立憲民主党と希望の党に関するものでほぼ埋めつくされている印象がある。もちろん民放局は営利企業なので、視聴率のとれる話題を扱うのはやむをえない面がある。ただし、立憲民主党も希望の党も、まだ残存している民進党ももちろん、すべて「民進党なるもの」であることに注意が必要だ。つまり希望の党も、代表の小池百合子東京都知事以外はほぼ旧民進党系の議員で占められているし、他の政党は言うまでもない。2017年10月25日、国会内で開かれた希望の党の両院議員懇談会。奥中央はあいさつする小池百合子代表 つまりテレビの報道は、「民進党なるもの」の宣伝をこの1週間積極的にしているとみていいだろう。テレビの報道はさておき、民主党政権の負のイメージを抹消するために党名を変更し、そして今はアメーバのように生き残りをかけて分裂を繰り返すその政治的な生命力には感心するよりも、あきれているというのが率直なところだ。 さて、その政治的生命力たくましい「民進党なるもの」が国会で追及するとマスコミで意気込んでいるのが、例によって「モリカケ問題」である。つまり森友学園・加計学園についての安倍晋三首相への「疑惑」解明である。 さすがに半年近くやって「疑惑」以上のことがまだ何も出てこない話をまたやるのか、とあぜんとせざるをえない。いま、「与党2割、野党8割」という国会の質問時間の配分があまりに野党側に偏りすぎていることを、自民党の若手議員が問題提起して話題になっている。賛否あると思うが、単純に半々にして、少数派の声も反映させるのがいいのではないか、と思った。ところが、野党が「またモリカケ問題をやる」というあまりに無反省な発言をみて考えなおした。やはり議席配分通りでいいのではないか。 議会は政治的やりとりの場ではあるが、マスコミというかワイドショーのネタを提供する場では少なくともない。なんの論理的・実証的なものがない「疑惑」をショーのように野党がやろうとするならば、これはなんらかの歯止めが必要だろう。さらに特殊な事情もある。それは現時点の野党の三大勢力は事実上、冒頭でも書いたようにみんな「民進党」だからだ。これでは民進党の単独ショーに国会がなりかねない。 国民の大半は、野党に票をいれたのではなく、与党に票をいれたのだ。しかも最近では、国会での質問が議員の評価にもつながる傾向がある。「モリカケショー」はもういいだろう。だが、それで納得しない人のために以下にモリカケ問題とは何か、その現状の論点を書いておく。これを読んでまだ納得しない人たちは政治イデオロギーに汚染させているのだろう。 「森友」2つの論点 森友学園問題とは、同法人に払い下げた国有地が周辺の取引価格の実勢よりも極端に低かったことだ。最近の報道によれば、会計検査院の調査では、値引き額が最大6億円過剰だったという。このような過剰な値引きがなぜ起きたのか、というのが第一の論点になる。 第二の論点は、このような過剰な値引きについて安倍首相や安倍昭恵夫人が関わったのではないか、という問題である。過剰な値引きが、法的もしくは道義的な責任を伴うものならば、当然首相も昭恵夫人もその責任を問われてしかるべきものである。典型的には、贈収賄などが考えられるだろう。だが、現時点でそのような事実はまったくない。 ところが、安倍首相が国会で「私や妻が(土地の値引き交渉に)関係していたということになれば、首相も国会議員も辞める」と発言したことが異様な拡大解釈を生み出すことになる。この「関係」を野党や反安倍系の識者、マスコミは、不法なものや道義的なものではなく、後述する「忖度(そんたく)させた罪」という一種の「魔女狩り」にまで発展させた。このことで森友学園問題は理性という歯止めを失ったと筆者は解釈している。 この「忖度させた罪」とは以下のような話である。財務省近畿財務局をはじめ、関係した省庁や職員などが、安倍首相や昭恵夫人を「忖度」して、森友学園に対して土地の価格値引きなどの便宜が図られたのではないか、という「疑惑」である。そしてこの官僚たちの「忖度」(相手の気持ちをおもんばかること)の責任を、安倍首相に要求していることだ。つまり官僚たちに「忖度させた罪」を首相は認めて、政治的責任をとれということである。 もちろんこのような「忖度させた罪」は違法でもなければ、そもそもなんらかの罪でもない。言い掛かり以上のものではない。疑いをかけられた官僚も「忖度」はないと答えればそれで終わりだ。もちろん国会でも野党の質問に官僚側はそう答えている。ましてや、赤の他人がどう思って行動しようが、基本的にわれわれには関係ない。ある日、あなたの家に警察が訪ねてくる。あなたがよく知らない他人が「あなたの気持ちを忖度して盗みを働いたかもしれないので、あなたを逮捕します」と宣告する。これを暗黒社会といわずしてなんというだろうか。「魔女狩り」の構図 森友学園問題について、野党やマスコミが追及するには、信頼できる証言や物証を掲示しなければいけない。つまり挙証責任は追及する側にある。だが、野党や一部の反安倍系の識者、そしてマスコミの一部もそのような理性的な態度ではない。これが森友学園をめぐる魔女狩りの構図である。「森友学園」が小学校用地として取得した大阪府豊中市の旧国有地。現在は国の所有に戻っている=2017年6月 このようなことを書くと、「安倍首相があんな発言をするのが悪い」と魔女狩りへの擁護論がでてくるが、本当に「いじめられるのはいじめられた方が悪い」と同じ幼稚な言いぐさである。だが、そのような幼稚な論理がまかり通っているのが日本の現状でもある。一時期ほどではないが、いまだにこのような魔女狩りとその弁護は有力なのである。 森友学園問題で最も参考になるのが、嘉悦大教授の高橋洋一氏の『大手新聞・テレビが報道できない「官僚」の真実』(SB新書)、『ついにあなたの賃金上昇が始まる!』(悟空出版)などの著作である。 高橋氏が指摘する森友学園問題の真因は簡単明瞭である。過剰に安い土地価格取引になったのは、森友学園と直接に交渉した近畿財務局の失敗である。土地に大量のごみが投棄されている可能性が大きいのに、このごみの埋設の事実を隠して、あるいは告知することを怠って森友学園と契約したことにある。そのためごみの埋没が明らかになった過程で、森友学園側に土地価格で大幅な譲歩を迫られたというのが、高橋説である。そもそも近畿財務局は、森友学園と直接の契約(随意契約)ではなく、入札方式で行うべきだったとも高橋氏は指摘する。さらにこの経緯を記した財務省側の資料が廃棄されたことも、厳しく批判している。要するに、財務省、直接の交渉者である近畿財務局の責任である。 ところが野党やマスコミ、一部の識者は、政争的思惑などから昭恵夫人や安倍首相の「忖度」責任追及に忙しい。これではむしろ野党などは、国民の多くに真実を伝えない努力をしていると指摘されても仕方がない。ライバルが断念しただけの話 加計学園問題については、野党やマスコミの姿勢はさらに深刻なものである。端的にいえば「報道しない自由」とフェイクニュースの問題である。それに加えてこの問題を追及している野党側の方こそ政治的・道義的な問題が生じていることである。 さて、あらためて加計学園問題とはなにか。加計学園の加計孝太郎理事長が首相と友人関係にあり、そのため同学園の獣医学部新設について優遇されたという疑惑のことである。この問題についても筆者は何度もこの問題について書いてきた。そもそも獣医学部の新設についての申請自体を認めない状況がおかしい。文科省などの官僚側の規制のひずみが深刻であった。そのため獣医学部新設の申請を認める、という議論が国家戦略特区会議で行われた。申請されたが、それを認めるかどうかは別問題である。この点さえもごっちゃにする議論は後を絶たない。2017年7月、衆院予算委員会の閉会中審査で、玉木雄一郎氏の質問に対して答弁する安倍晋三首相(右、斎藤良雄撮影) そして、日本獣医師会からの圧力などもあり、なんとか1校だけ申請が認められた。そのときに、十数年にもわたり繰り返し申請許可を求めていた加計学園が最優先で認められただけである。新潟市の候補も長年にわたり申請許可を求めていたが、あまりに時間がかかりすぎて途中で断念した。またしばしば話題になる京都産業大学は最近プレーヤーとして登場してきたにすぎない。京産大自身の説明でも、準備不足ということが辞退の主因になっている。時間がかかりすぎてライバル校が断念、または準備不足でもまた別のライバルが断念したために、加計学園が長年の準備を認められて申請することを許されただけである。 ここに安倍首相の「友達」だからそのような申請を認めたとする余地はない。しかも八田達夫国家戦略特区ワーキンググループ座長が明瞭に指摘しているように、国家戦略特区制度では、ある一つの特区で認められた改革は他の特区でも適用されるということである。つまり重複した議論をする必要がなくなる。八田氏の発言を引用しよう。 「話を獣医学部に戻せば、この特区法の原則では、今治市だけに特区を与えることは不可能です。1区域でできれば他でも同様にできて、必ず競争が生まれる。つまりわれわれとしては、まず『特区ができる』ことが大事なのであって、それが『どこで最初にできるのかは』重要ではありません。新しい獣医学部ができるのが、京都でも、新潟でも、愛媛でも、どこでも構わない。WGの議事録から明らかなように、実際に私は、どこが出してきたときでも賛成しています。特区の原則の下では、加計学園が最初の新設獣医学部になったとしても、それは利権になり得ません」(八田達夫「『岩盤規制』を死守する朝日新聞」『Hanada』2017年10月号)。深刻すぎる「報道しない自由」 しかも最大のポイントは、獣医学部の申請校を複数から一つに絞ることが、国家戦略特区の目的ではない。国家戦略特区を悪用して、1校に絞る画策を安倍首相がしたかのような「疑惑」をマスコミなどは繰り返し報道して、世論を誘導している。これは完全に誤りだ。国家戦略特区の目的は、先に述べたように、獣医学部の申請を、異常といえるほど何十年も認めなかったその「規制を撤廃」することにあり、それに尽きる。 獣医学部の規制撤廃は、特定の組織や関係者に利益をもたらすものではない。むしろ現状のように、獣医学部の申請さえも受け付けない官僚とその背後になる既得権団体や政治家たちの存在こそが、特定者の利益温存に動いているのである。この既得権者たちの利害構造については、国会などで前愛媛県知事の加戸守行氏は鋭く批判を展開している。しかしこの加戸氏の発言を紹介するテレビや大新聞はほとんどない。また先の八田氏も、朝日新聞に対して岩盤規制の側に立つか否か公開質問をしているが、その八田氏自身の主張の紹介を含めて、まったく朝日からは返答はない。加戸・八田両氏はともに加計学園問題のキーマンである。その証言や発言をほとんど無視するマスコミの「報道しない自由」ほど、今回深刻なものはない。2017年5月、加計学園の獣医学部新設計画を巡り、民進党が国会内で開いたプロジェクトチームの初会合で発言する玉木雄一郎氏(左) さらに野党側にも「疑惑」がある。希望の党(前民進党)の玉木雄一郎議員は、国会で首相追及の急先鋒(せんぽう)だった。しかし報道にもあるように、玉木氏には獣医師連盟から100万円の献金が行われていた。つまり規制で守られている側と親しい。このことは玉木氏が国会で行った一連の質問が、既得権者の利益を代弁して行ったものである「疑惑」がある。安倍首相のケースと違い、金銭の授受が明瞭である。この点の「疑惑」を与野党やマスコミはむしろ追及すべきだろう。ただしこの点でもネットではともかく、新聞・テレビでの追及はほとんど行われなかった。 さて、間もなく開かれる国会で、「民進党的なるもの」たちがどのようにまたモリカケ問題を追及するのか、またそれをどのようにマスコミが報道するのか、そして識者たちはどのようにコメントするのか、もういいかげんうんざりな向きも多いだろう。実際に今まで書いてきたように、根拠なき「疑惑」をまき散らすマスコミや、それを安易に信じてしまう世論にこそ反省を求めるときだと、筆者は思う。

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    貧乏だった幼少期、信長の心の隙間を埋めた「大蛇信仰」

    橋場日月(歴史研究家、歴史作家) 父、信秀から那古野城を与えられた信長。それがいつだったかは諸説あるが、いずれにしてもまだ児童から少年にかけての不安定な時期だったことに違いはない。なにしろ、信長が3歳の時に「大御ち(おおおち)」(大御乳、のちに信長の部将となる池田恒興の母)が乳母の役に就くまでは、次々と乳母の乳をかみ切るほど癇(かん)の強い子供だったというのだから。 癇、すなわち「かんしゃく」は、親の愛情を独占したい、注目を集めたい、という欲求不満が原因らしいけれども、そんな子供が両親から引き離されて那古野城に置いていかれ、いきなり城主となって周囲には林秀貞、平手政秀、青山与三右衛門、内藤勝介の4家老以下、大人たちに囲まれて暮らすようになったのだ。精神的に不安定になるのは自然の成り行きである。 その上、まだ年端もいかない信長にはもうひとつ困った問題があった。『信長公記』によると、この頃の信長の生活は「御不弁かぎりなく」というものだったという。どうしようもなく不弁=経済的に困窮していた、という意味だ。第二家老の平手政秀は、公家の山科言継が「目を驚かされた」と書き記すほど豪華な屋敷を持つ裕福な武将だったが、それでも貧乏だったとはどういうことだろう。 実はこの時期、信長の父・信秀はさかんに隣の美濃・三河に遠征を繰り返しており、その戦費として膨大な金を投入していた。おそらく信秀は那古野城の経費などもほとんどかえりみることなく軍事に有り金をはたいてしまったのだろうが、信長にとっては「城付きの捨て子」のようなものである。物心がついていくなかでこの境遇が彼の精神形成に及ぼした影響の大きさは容易に想像がつくではないか。 そんな中、『信長公記』は彼の日常について、こう言及している。「天王坊と申す寺へ御登山なされ」――。 お寺に参ることを登山するという。寺院の名称は○○山××寺という形で山号と寺号がセットになっているからだ。 この天王坊は、織田家に関わりの深い津島の牛頭(ごず)天王社(現在の津島神社)だともいわれているけれども、それは誤りで、実は那古野城の三の丸にあった亀尾天王社を指している。神社だから登山ではないじゃないか、と思われるかもしれないが、「坊」と付くのは、当時は神仏習合で神社を管理する寺=別当寺というものがセットになっていて、天王社の寺ということなのだ。これは亀尾山安養寺華王院という名称で、明治の廃仏毀釈(きしゃく)によって廃寺となっている。名古屋城二の丸庭園に遺る那古野城跡の碑 つまり、信長は城内の天王社の中にある安養寺に通っていたのである。それはそうだ、いくら昔の人が健脚でも、そう何度も那古野城から津島まで、約18kmもある道のりを通えるものではなかろう。信長が畏れ憧れた神の正体 現在は名古屋市中区丸の内、名古屋城の南方に移され「那古野神社」となった亀尾天王社は、津島牛頭天王社の末社。神仏の方が出張して来てくれているのだから、何も徒歩なら片道3時間以上、騎馬なら2時間(?)もかけて津島まで通う必要もない。「信長公蛇石曳之図」(伊藤龍涯作、摠見寺所蔵) それに、信長は何も仏様に詣でるために天王坊へ通っていたわけではなかった。では何のためかというと、それは学問修業のためだ。当時の有力武士の子弟は必ず寺院で勉強し、学問と教養を身につけるのがならわしだった。上杉謙信は林泉寺、武田信玄は古長禅寺、今川義元は善得寺、徳川家康は臨済寺と、それぞれ寺院で教育を受けている。当時は僧侶が学問のエキスパートであり、京の上流階級や他の大名とまじわるための嗜(たしな)みを広め伝える文化の担い手でもあったのだ。というわけで、信長も貧乏ながら那古野城の若殿様である以上、日々天王坊に通って学ばなければならないのである。 そしてこの天王坊安養寺が守る、つまり本社の津島牛頭天王社の祭神でもある主祭神に注目しておきたい。それは、素戔嗚尊(スサノオノミコト)だ(ちなみに、安養寺のご本尊はごく普通に阿弥陀如来だったらしい)。 スサノオの物語は皆さんよくご存じだろう。『古事記』に登場するこの荒ぶる神は、出雲で八俣の遠呂智(ヤマタノオロチ。『日本書紀』では八岐大蛇)を退治しその体内から草薙剣(サクサナギノツルギ)を得た。神話の時代の話ではあるが、オロチを斃(たお)してその「本体」とも考えられる草薙剣を手に入れたということは、オロチの力をわが物としたと解釈できるだろう。 ちなみにこの説話は、スサノオに象徴される大和王権が、すぐれた鋼(はがね)を生み出す出雲に進攻し、製鉄技術を獲得したことを象徴するともいわれている。スサノオはまさにオロチの力を獲得した神なのだ。スサノオは後にこの剣を姉の天照大神(アマテラスオオミカミ)に献上したが、本人は出雲に新居を構えた。その子孫には大国主命がいる。オロチ=出雲の鋼鉄はスサノオが支配し続けたのだから、オロチの力は草薙剣を手放しても彼の手に残ったといえる。 信長からだいぶ話が離れてしまった感があるが、ここで前回の話を思い出していただきたい。信長が刀の柄に巻いていた三五縄の話である。この魔除けの縄が表していたのが蛇。そしてオロチは、蛇、大蛇そのものである。頼る肉親もいない寂しい生活の中、信長は日々天王坊でスサノオの説話に触れて育ったのだから、スサノオが得たオロチの力への畏れ、憧れは深層心理に知らず知らず沈殿していったはずなのだ。もっとも、ここまで話が飛躍すると「なんだ、所詮はこじつけじゃないか。信長は蛇の力なんかに頼らない、自分の力しか信じないタイプの男だろう」と仰せの向きもあるだろう。そういう方は、ぜひもう少し我慢していただきたい。斎藤道元はなぜ信長に入れ込んだのか 孤児のように那古野城で成長した癇癖(かんぺき)の強い信長が傾(かぶ)いたスタイルで往来を闊歩(かっぽ)し、離れて暮らす両親の注目を集めるためか奇矯な振る舞いをくりかえすようになって何年かがたち、天文21年(1552年 異説あり)3月、父・信秀が病のために世を去る。第1回で紹介したように、信長が例の魔除けアイテムづくしのまま葬儀にやって来たのは、このときの話だ。このありさまに心を痛めた平手政秀は、息子が愛馬をめぐって信長とケンカしたこともあって絶望し、信長をいさめるために切腹して果てている。この件については持論があるのだが、テーマから逸(そ)れるので割愛することにしておこう。 その翌年、信長は那古野城から北西、木曽川沿いの富田(とんだ。現在の一宮市の富田=とみた)に向かった。そこで待つのは、信長が5年前に娶(めと)った濃姫(帰蝶)の父親である美濃の大名・斎藤道三だ。道三は、前年の信秀の死の直後、信長の大叔父・玄審允秀敏にこう手紙を書き送っている。「御家中の状態は外聞が悪く、私も困惑している。あまり期待をかけず放置してみて、どうにもならないようなら相談してくれ。三郎殿様は若いので、苦労するのは仕方がない」名古屋市内・大須万松寺にある信秀の墓 三郎殿様というのは信長を指し、その家中が主君の信長にふりまわされて分裂状態になってしまっていたことが分かる。家中の長老として信長を後見する立場の秀敏は、信長の舅(しゅうと)で信秀の同盟者だった道三に事態の深刻さを相談したのだろう。これに対し、道三はさすがにあれこれ周囲が干渉すればかえって信長が反発し収拾がつかなくなる、と見定め、しばらく様子を見るように、とアドバイスし、信長が若いのだから皆の我慢が肝心だ、と諭しているのだ。富田で信長と初めて会おうと彼が申し入れたのは、信長の器量を見定め、今後も同盟関係を続けるかどうかの判断を下すためだったと思われる。信長は魔除けと蛇志向から解放されたのか? 結果として信長はこの会見で長柄の槍や鉄砲を道三に見せつけ、その度肝を抜いた。そのうえ、例の傾奇ファッションで富田にやって来た彼は、会見の席には長袴を着け髪もキチンと結い上げて登場する。これで道三は完全にやられた。帰路、彼は家臣に「わしの子たちは信長の家来となるだろう」と予言し、以後は信長を熱心にバックアップし始める。翌天文23年(1554)、村木砦というところへ出陣する信長のために那古野城へ留守番兵を送り込んだほどで、隙あらば他者の城を奪い取ろうという戦国時代にあって「梟雄(きょうゆう)」と呼ばれた道三が、信長が凱旋(がいせん)してくると那古野城を素直に返しているのだから、その入れ込みっぷりは類を見ない。彼は信長の人間力を見て、その将来性を高く評価したのだ。斎藤道三(東京大学史料編纂所所蔵の模写) では傾奇ファッションを捨ててノーマルないでたちへと大変身を遂げた信長は、これでそれまでの魔除けアイテムへの執着や深層心理にひそむ蛇志向から解放されたのだろうか? それがどうも、そうではないようなのだ。 例えば、この村木砦合戦に際して彼が乗った馬の名は「ものかは(わ)」。「嵐もものかは、外出する」などの用例で分かるように、「問題にしない」という意味の言葉だ。この場合は大敵も物の数ではない、という縁起担ぎを目的としたネーミングだったのだろう。 さらに、後年信長が羽柴秀吉(のち豊臣秀吉)に下賜したという伝承を持つ大阪城天守閣所蔵の信長遺品「緋羅紗地木瓜桐文陣羽織(ひらしゃじもっこうきりもんじんばおり)」。緋(ひ)色の羅紗(らしゃ)というものは当時猩々(しょうじょう。猿のような怪物)の血で染めると考えられており、それは鉄砲の弾を除ける効果を持つとありがたがられたらしい。まさに魔除けのアイテムということになる。これなども信長が呪術的部分を持っていた傍証かもしれない。 この後、尾張統一戦―今川義元との桶狭間の戦い―美濃併合―上洛(じょうらく)と勢力を拡大していく中でその傾向はたびたび顕(あらわ)れる。次回はその最初にして決定的な例を紹介しよう。 

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    清宮幸太郎は巨人だけには行かない方がいい

    小林信也(作家、スポーツライター)  ドラフト会議が近づき、プロ入りを宣言した清宮幸太郎(早稲田実業)の争奪戦が最大の目玉となっている。次いで、今夏の甲子園で6本のホームランを打った中村奨成(広陵)。ほかに、強打で知られる安田尚憲(履正社)、投手では即戦力の呼び声高い左腕、田嶋大樹(JR東日本)らがいるが、どうしても直近の甲子園で活躍し、話題となった選手に世間の注目は集まり、メディアも彼らこそが「ドラフトの目玉」であるかの騒ぎ方を崩さない。 ただ現実には、甲子園での実績がプロ野球での活躍に直結しないのは、多くのファンが知るところだ。平成18年夏の決勝で、再試合の末に優勝を飾った早実のエース、斉藤佑樹が、プロ野球では苦しんでいる。一方、三振を取られ、最後の打者となって苦笑いを見せた敗者・田中将大は24連勝の偉業を成し遂げ、楽天を日本一に導き、メジャー4年目を迎えた今シーズンはワールドシリーズ進出を逃したものの、ヤンキース躍進を支える活躍を見せた。 それでもドラフト会議では、「甲子園の実績」という幻想をスカウトや球団でさえ捨てきれないのが現状だ。果たして、高校時代の実績がどれほどプロ野球の活躍と直結しているのか? 日本プロ野球の歴史を彩った投打のレジェンドの高校時代に光を当てて検証してみたい。国鉄スワローズ入団当時の金田正一投手=1950年 投手では真っ先に名前の浮かぶ、通算400勝の金田正一。プロ入り8年目で2000奪三振を記録。通算4490奪三振。史上最年少の18歳でノーヒットノーランを達成。1957年には史上4人目の完全試合。挙げたらきりがないほど、その実績、怪腕ぶりは球史に燦然(さんぜん)と輝いている。 愛知県で生まれ育った金田は最初、名古屋電気学校(現在の愛知工業大学名電)に入学。1年生の5月、享栄商業に編入した。昭和8年8月生まれの金田が、まだ14歳の昭和23年春に高校入学した理由はわからない。金田の公式ウェブサイトによれば、高校時代の実績は次のとおりだ。  昭和23年5月7日 享栄商高野球部へ入部(同時に同学校へ入学)、甲子園大会へ補欠で出場(登板の機会は無し) 昭和24年(16歳) エースとなるも、春・夏とも県予選で敗退 昭和25年(17歳) 3月 国鉄スワローズの西垣さん来宅(誤解から入団内定)、8月 甲子園県予選・準決勝で敗退。すぐ国鉄スワローズ入団 一年の夏に甲子園のベンチには入ったが、甲子園ではほとんど活躍していない。上記、西垣さんとあるのは、その年誕生したばかりの国鉄スワローズ初代監督、西垣徳雄のことである。監督自ら金田家を訪ね、入団を要請したのだろう。国鉄は1年目のその年(1950年)、シーズン序盤に14連敗、4月下旬からも10連敗を喫するなど、8球団中最下位と苦しんでいた。その夏、甲子園予選で敗れた金田がすぐに高校を中退して国鉄スワローズに入団した。今の規則ではあり得ない芸当だが、8月1日に17歳になったばかりの金田がそれから8勝をマークし、7位だった広島を抜いて結局7位でシーズンを終えた。長嶋伝説の裏話 長嶋茂雄のデビュー戦で4打数4三振に斬った伝説があまりに有名だが、金田自身、「17歳夏から入団して8勝」という、今では考えられない伝説を作ったことはあまり知られていない。しかも、金田は「甲子園のヒーロー」ではなかった。その夏の甲子園優勝校は松山東。後にプロ入りした同期の高校球児には吉田義男、大沢啓二がいるが、後にも先にも金田以上にプロで活躍した投手はもちろんいない。 通算勝利数で金田に次ぐ350勝を挙げた2位の米田哲也も境高校(鳥取)時代、甲子園には届かなかった。しかも高校入学時は捕手だった。当時、鳥取で名を馳せていたのは、米子東のエース、義原武敏だった。巨人に入団し、4年目に10勝もマークしたが、実働7年、通算33勝でプロ野球人生を終えている。高校時代の評価や実力とプロ野球での活躍が直結しない皮肉な実例とも言えるだろう。  「投げる精密機械」と異名を取り、320勝で通算3位の小山正明は、高砂高(兵庫)3年の秋、阪神タイガースの入団テストを受け、テスト生としてプロ球界に入った。同時に大洋松竹ロビンスのテストも受けたが、こちらは不合格だったという。  「神様・仏様・稲尾様」で知られる稲尾和久は、西鉄ライオンズの3年連続日本一に貢献した伝説の鉄腕投手。1961年にはシーズン42勝を挙げ、1939年のスタルヒン(巨人)と並ぶシーズン最多勝利も記録。その稲尾も、別府緑丘高(大分)時代はまったく無名の存在だった。入団当初、三原脩監督(当時)が「稲尾はバッティング投手として獲得した」と公言した逸話まで残っている。 最近の高卒投手に目を移せば、松坂大輔、ダルビッシュ有、田中将大ら、確かに甲子園のヒーローがプロでも活躍する例も少なくない。一方で、先に挙げた通り、優勝投手の斉藤佑樹は苦しんでいる。松坂伝説の翌年に夏の覇者となった桐生第一のエース、正田樹も日本ハムに入団後、新人王こそ獲ったが、その後は苦労を重ね、今は独立リーグでプレーしている。 現役最多の128勝を挙げている内海哲也は、高校時代からスカウトの注目を集めていたが、春のセンバツはチームメイトの不祥事で辞退、夏は予選の決勝で敗れて甲子園には出ていない。現役2位126勝の和田毅は浜田高(島根)3年夏に甲子園出場、準々決勝まで進んだ。昨年引退した黒田博樹に至っては、上宮高(大阪)時代、控え投手だったことが広く知られている。金田正一(左)、王貞治(右)らとくつろぐ長嶋茂雄=撮影日不明 この10年、20年の間に、甲子園で輝いた投手が何人もプロに入っているが、多くは期待された活躍ができないままプロ野球を去っているか、今も苦闘 を続けている。 打者で真っ先に挙げるなら長嶋茂雄だろう。佐倉高3年夏、「県立大宮球場のバックスクリ ーンに打ち込んだホームラン」がプロのスカウトの目に留まり、一躍その名が轟いたという伝説は今も語り継がれる。だが、チームは敗れて甲子園には出場していない。その打球は、高校生離れした弾丸ライナーだったというから、とてつもない打球だったのだろう。だが、私は記録本に目を通して、おもしろい事実に気がついた。左右両翼の距離は球場によって差があるが、大抵の球場は当時もセンターまで120メートルでほぼ共通している。ところが、この県立大宮球場だけは108メートルしかない。だからといって「長嶋伝説」に異論を唱えるわけではないが、伝説とはこんな風に生まれるものかと苦笑いした次第である。部活に馴染めなかった落合 王貞治は早実でセンバツ優勝投手だった。プロに入って打者転向して世界のホームラン王になったことは語るまでもない。 王に次ぐ657本塁打を打ち、戦後初の三冠王に輝いた野村克也は、高校時代は無名中の無名の存在だった。峰山高(京都)は2年の夏に2回戦に進んだのが最高で、ほぼ1回戦負けが当たり前。南海ホークスにはテスト入団している。 史上最多、三冠王を三度獲得した落合博満は、秋田工出身だが、体育会的な体質になじめず、試合だけ出場したことはあっても、事実上ほとんど野球部では活動していない。進学した東洋大も1年の途中で退部し、その後中退した。2年後に東芝府中に誘われ、25歳でプロ入りした異色の経歴の持ち主だ。  こうして見ると、プロ野球界のエリートは、むしろアマチュア球界の変わり種、非エリートが少なくない。 現役打者では、歴代3位となるホームラン王6回の中村剛也(西武)が名門、大阪桐蔭高の出身だが、甲子園には出場していない。筒香嘉智(横浜DeNA)は、1年春から横浜高の4番を打ち、2年夏には甲子園で2打席連続ホームランを放つなど活躍。だが、3年夏は準々決勝で自らのエラーがきっかけで横浜隼人にサヨナラ負けを喫し、甲子園出場を逃している。 むろん、このような歴史があったとしても、清宮幸太郎への期待が変わるわけではない。何球団から指名されるのか、そこばかり注目されているが、正直そんなことはどうでもいい。むしろ、スカウトや球団フロントの無策と覚悟の欠如の証しと言いたい。私は本当に清宮を必要とし、清宮がその才能を開花できる球団と結ばれてほしいと願っている。  一部に、「セ・リーグも清宮対策のためDH制採用」などの記事も流れたが、賛成はしかねる。DH制専門でホームランを連発しても、果たして球界を代表するリーダーになれるだろうか? その意味では、あえてセ・リーグに進み、三塁手としての経験を積んでほしいと期待している。もちろん、それを前提とするならパ・リーグでもいいが、そもそも指名打者など18歳の新人に用意する場所ではない。ドラフトの目玉、早稲田実業の清宮幸太郎。指名球団数が注目される(長尾みなみ撮影)  巨人、ソフトバンク、西武などは、メジャーへの早期挑戦の道が閉ざされる可能性が大きいから、早く渡米したいなら絶対に避けるべき球団だ。その点では今季、大谷翔平を送り出す日本ハム、田中将大を送り出した楽天など、実績ある球団の方が安心だろう。 巨人に入れば、原辰徳や松井秀喜がそうであったように、日本球界の王道を行くようなレールもあるが、巨人人気の衰退は単に「スター不在」が原因ではなく、その存在や本質的な方向性の問題である。清宮一人に復活を託すのはかわいそうだ。巨人がもし清宮を指名するなら、球団としての新しいビジョンを提示することが前提だと思う。清宮の人気頼みの球団に、指名する資格などない。 一方、広島はいち早く中村奨成の1位指名を公言した。これに割って入る球団の動きも聞こえる。 果たして、幻想にとらわれず、的確な判断をし、有望な人材を獲得するのはどの球団か。冷静かつ独自のドラフト戦略がセ・リーグ2連覇の重要な勝因とも言われる広島のような眼力と覚悟を持つ球団がどれほど存在するか。各球団の姿勢を探る上でも、ドラフト会議はやはり興味深い。

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    「フェイクニュースの惨敗」メディアの腐敗が後押しした安倍一強

    方で今回の選挙でも自民の圧勝をもたらしている。これはなかなか賢い国民の選択だともいえる。 筆者はこの連載で繰り返しているように、両学園問題は言葉の正しい意味で、首相の責任ということに関してはフェイクニュースであると確信している。その理由は前回の論説で書いた通りだ。その一方で、このフェイクニュースによって政治状況が左右される「フェイクニュース民主主義」とでもいう事態には警戒感を強めている。残念ながら、今回の選挙によってもこの種のフェイクニュース民主主義の芽がついえたわけではない。今後も警戒を続けなければいけないだろう。 経済学では、市場はお金、人材、設備などといった資源を効率的に利用できる経済環境であるとされている。だが、環境問題などに典型的なように、市場活動の結果、社会的な害悪をもたらす事実や可能性が絶えず存在する。そのとき、市場活動に問題の解決をまかせることはできない。政府の介入余地が必要になってくる。これを「市場の失敗」といい、社会的に望ましい状態と現状とのかい離を表現するものである。 ただし、このときの政府はしばしば賢く、また社会的に望ましい状況にむけて改善するものだと、一種の性善説を前提にしていることが多い。だが、実際には政府はそのような存在ではない。さまざまな既得権益や利害対立をはらむ存在である。つまり「政府の失敗」が存在する。 この「政府の失敗」を正すものはなんだろうか。それが実際にはマスコミの役割だったはずだ。だが、マスコミ自体も「報道の失敗」を引き起こす。マスコミも権力機構であり、腐敗するのだ。このようなマスコミの腐敗、またはフェイクニュース民主主義への誘導を厳しく検証する必要がある。その役割は誰がするのだろうか。 衆院解散の検討を厳しく批判した、2017年9月19日付の毎日新聞社説(左)と2017年9月18日付の朝日新聞社説 それは国民自らの関与でなくてはならない。インターネットでのマスコミ監視や、マスコミに代替・補完するさまざまな活動かもしれない。もちろん話は最初に戻り、われわれの経済活動の根幹をなす市場も失敗する。試行錯誤が続くだろう。だが、その活動をあきらめてはいけない。現状のフェイクニュース民主主義がもたらす弊害は深刻だ。そしてそれゆえに、われわれは失敗を恐れず、常に政治とマスコミの両方を冷静に事実と論理で検証していかなくてはいけないだろう。

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    有権者をそそのかす報道ステーション「依存効果」の罠

    計問題への党首討論での過度な傾斜は異様にさえ思える。ちなみに同問題については、私はかなり早い段階に本連載で、安倍首相個人や政権の固有の問題ではない、その意味での議論は事実上フェイクであると指摘してきた。マスコミがあおりたい対決図式 現状では、関係者ともいえる国家戦略特区ワーキンググループの八田達夫座長から、朝日新聞など事実上のフェイクニュースをただす公開質問が出されているが、それに対して朝日新聞の応答はまったくない(参照:「岩盤規制」を死守する朝日新聞)。その他にも多くの識者・関係者らから同問題の報道姿勢について、マスコミに批判が加えられている。その意味では、上記した朝日新聞や報道ステーションなどの、あまりに政治的に過度に偏った報道姿勢が問われている局面ではないだろうか。マスコミのあり方が、実はいまの選挙でも問われている隠れた論争点かもしれない。 マスコミの多くは選挙における政策的論争点を、「消費増税(与党)vs消費税凍結(野党)」という対立図式であおりたいようだった。この図式がいかに誤っているかは前回の寄稿で解説した。 簡単にまとめると、現在の日本経済は総需要不足、つまり国民にお金が不足している状態である。過去20年の停滞期よりははるかに改善されているが、まだ不十分である。このはるかにましになった状況は、政府と日本銀行がデフレ脱却にコミットした持続的な金融緩和の成果である。財政政策は2013年こそ拡大基調だったが、それからは14年の消費増税や以降の財政緊縮スタンスであまり効果は発揮されていない。そのため金融緩和政策を否定する政党には、日本経済の改善をストップさせてしまうから評価はできない。また消費増税はそもそも2年後であり、そのときの経済状況に大きく依存する話である。 もちろん減税をいまの段階で決めることがベストだが、それでも金融緩和政策という経済回復の前提条件を否定してまでやるとすれば、それは単に倒錯した政策スタンスでしかない。つまり何が重要かは、「いまの段階でどんな政策をやるか」そして特に「金融緩和政策への姿勢」こそが問われる。2017年10月、党首討論会を終えた(左から)公明党の山口那津男代表、自民党の安倍晋三首相、日本共産党の志位和夫委員長、希望の党の小池百合子代表、立憲民主党の枝野幸男代表=日本記者クラブ(宮崎瑞穂撮影) その点から評価すれば、自公政権のスタンスは金融緩和政策の継続であり、この経済回復のための前提条件を満たしている。ただし2年後の消費増税を現時点で許容していることで、今後も大きな政策的争点になる。また財政政策については基礎的財政収支(プライマリーバランス)の2020年の黒字化目標を取り下げたため、目前の財政政策の制約がなくなり拡大スタンスを取りやすくなっている。もちろん取りやすくなっただけで実際にデフレ脱却のために財政政策も積極的にやるかどうかは厳しく今後も検証すべきだろう。少なくとも衆院選後の補正予算の構築が大きな経済政策上のテーマになる。一番の争点はやっぱりこれだ さて、対する与党の最大ライバルである希望の党、立憲民主党は公約を見る限り、現時点の経済政策については、緊縮スタンスと反リフレ政策(デフレ脱却政策の否定)を主にしている。そのためそもそもの経済回復の前提条件を満たす政策を、この両党は提起しえないでいる。せいぜい2年後の消費税を凍結するといっているだけだ。つまり、これから2年間は緊縮政策とリフレ政策の見直しを続けると明言しているのである。 確かに2年たてば「凍結」せざるをえないかもしれない。ただし、日本経済がどうにもならない危機的状況になっていて、政治的に「凍結」しないとその時の政権が持たなくなるからだ。その意味では、希望の党も立憲民主党もともに危機的な政党といえる。ちなみに各党の経済政策についての評価は、エコノミストの安達誠司氏とネット放送で徹底的に議論したのでそれを参照していただきたい。 以上書いた理由から、消費増税vs消費税凍結というのはニセの論点であり、むしろ経済政策全体をみていく必要がある。この常識的な観点が、マスコミの問題設定に誘導されるとみえなくなるおそれがあるだろう。 さらに投開票日が差し迫った選挙の論点は経済問題だけではない。やはり「北朝鮮リスク」こそが選挙で問われる本当のテーマであったろう。この点についてはあまり議論が盛り上がっていないというのが率直なところだ。だが北朝鮮リスクが今後、高まることはあれ低くなることがない情勢である。2017年10月9日、平壌駅前に設置された朝鮮労働党創建記念日の飾り(共同) 端的にいえば北朝鮮リスクが戦争状態にまでなるのか、それとも北朝鮮の政治体制の大きな変更になるのか、その選択になっている状況といえるかもしれない。そのときに日本はどのような状況におかれるのか。さまざまなシナリオが具体的に考えなければいけない局面だろう。例えば、難民問題をどうとらえるのか、国連軍が立ち上がったときに日本はどう関与するのかしないのか。北朝鮮リスクを客観的に考えることは今後ともに極めて重要になるだろう。

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    知られざる名投手「特攻帰還兵」武智文雄の人生

    小林信也(作家、スポーツライター) 「私が生まれたばっかりに、父の二度目の完全試合がダメになってしまった。私は生まれたときから親不孝者です」 初めて会った日、その女性は真面目な顔で言った。 「完全試合を二度やった投手はメジャーリーグにもいないそうです。もし父が二度達成していたら、もう少し世間に知られた存在になって、野球の殿堂にも入れてもらえたのではないでしょうか」 日本のプロ野球史上二人目の完全試合投手、と聞いてすぐ名前が浮かぶ野球ファンがどれほどいるだろう? 史上初の完全試合は、巨人の藤本英雄だと、多くのファンが知っている。だが、二人目となると、知る人は少ない。女性はその人、武智文雄(近鉄パールス)の長女、美保さんだ。 2013年7月、武智文雄は病気で亡くなった。遺品を整理していると、ボールやユニホームが出て来た。それをどうしたものか、どれほど貴重なのものか、誰かにその相談をしたいと紹介されて筆者が会った。その時の自己紹介が冒頭の言葉だ。 武智文雄は、26勝を挙げて最多勝投手に輝いた翌年の1955年(昭和30年)6月19日、大映スターズとの試合で完全試合を達成した。史上二人目、パ・リーグでは初となる快挙だった。そしてその年の8月30日にも、同じ大映戦で9回1死まで完全に抑えていた。 「文(ふみ)さん、またやるぞ!」、球場は期待と緊張に包まれ、「同じ年に二度もやられてたまるか!」、大映ベンチには悲壮な空気が流れていた。 その時、ひとつの難問が近鉄ベンチに投げかけられていた、と美保さんは言う。 「ちょうどその日、私が生まれたのです。ベンチにその知らせが届いて、監督、コーチはそれを父に伝えるかどうか、迷ったそうです。9回1死になって、ベンチはタイムを取り、マウンドにいる父に私の誕生を伝えた……」現役当時の武智文雄投手 女の子が生まれたぞ、と。その途端に、代打で出て来た新人の八田正にセンター前に打たれた。鈍い当たり、テキサス・ヒットだった。これで世界でも初、「同じ年に二度の完全試合」は断たれた。だから、「生まれたときから親不孝」と美保さんが自嘲するのだ。その逸話を、美保さんはまだ幼いころ、自宅に遊びに来た近鉄の選手から聞かされた。しかも、誰かがそのことを書いた記事も見せられたという。だから、自分が生まれた8月30日は誕生日であっても、常に苦い思いとともにある、美保さんにとっては複雑な気持ちにかられる日だという。 さらに、武智文雄(結婚して婿養子になる前は田中文雄だった)が名門・岐阜商に進学、野球部での活躍を期待されながら夏の甲子園大会が中止になったこともあり途中で退部。自ら予科練を志願し、野球をあきらめた人だと知らされた。 運命の糸に引かれるように、私は武智文雄の人生をたどり始めた。「神風」から「桜花」へ 武智文雄が配属されたのは、特攻隊。神風特攻隊から、やがて桜花特攻隊員へ。桜花は別名「人問ロケット」と呼ばれた。エンジンがついていない親機にぶらさがり、引っ張られて上空に昇る。そこで切り離されると、加速用のエンジンだけを噴かして時速600キロで急降下する。出撃したら、生きて帰る道がない。武智文雄の頭には生きて輝く未来はもう描けなかった。野球どころではない。死ぬことが目的となった日々。 野球評論家、近藤唯之が書いた夕刊フジ(1977年10月21~23日)のコラム「背番号の消えた人生」に、文雄自身の回想とともに、下記のように掲載されている。 「男の運命ぐらい、不思議なものはない。戦争中、田中文雄は特別攻撃隊神雷隊員だった。最初はゼロ戦に乗っていた。しかし戦争末期はゼロ戦ではない。『桜花』と名づけられた、翼のあるロケット特攻機である」  「一式陸攻が桜花を腹にかかえて飛ぶんです。そして敵艦の近くにきたら桜花を胴体から切り離す。すると桜花は5分間ほど自動ロケット装置で飛び、時速600キロのスピードで敵艦に突っ込んでいく。私はこの桜花特攻隊員になったから、いずれは間違いなく死ぬと思ってました」 「それが生き残った。紙一枚の差というか、まばたきする瞬間の差というか、すれすれの作戦変更で彼の特攻出撃はないまま、戦争は終わった」 幸運にも、武智文雄は出撃命令のたびに何らかの理由で出撃が中止され、出撃した際も天候不良で作戦が中止され不時着するなど、大けがは負っても死は免れ、終戦を迎えたのだ。日本海軍の特攻専用機「桜花」 復員してしばらくは「愚連(ぐれん)隊」を自称して荒れた日々を過ごした。生きて還ったものの、飛び立ったまま二度と戻らなかった仲間たちを思えば、生きている自分を恥じる気持ちが消えなかった。その後、社会人野球に誘われ、思いがけず野球の世界に戻った。所属した大日本土木(岐阜)が都市対抗野球で2連覇を飾るなど実績を積んだ武智文雄は、1950年(昭和25年)、誕生したばかりの近鉄球団の契約第1号選手としてプロ野球に入った。 武智文雄の人生をたどりながら、私は改めて、戦争の悲惨さを知った。戦争は多くの命を犠牲にする、だから絶対に繰り返してはならないと思っていた。それだけではない。武智文雄のように、九死に一生を得て、生き延びた人にとっても、その周囲の家族にも、実は一生消えない心の傷を与え、生涯その痛みを抱えて苦しみ続ける。 私たちの父親たちがそうだったように、その世代の日本人の多くは案外、戦争体験やその後抱え続けた心の苦悩を自分の中にとどめ、表現しようとしなかった。いや、どう表現すればいいのか、どう理解すればいいのか、ついにはっきりした答えが見つからないまま、人生を重ねていたのかもしれない。 また私は、死ぬことを覚悟して生きた青春時代を持つ武智文雄の生きざまから、野球という競技そのものの、そして日米の野球観の違いなどに気づくことができた。 野球は27の「死(アウト)」を重ねて勝利を目指すゲームだ。日本の草野球では、アウトをただ「アウト」とコールするが、アメリカの野球では必ず「ヒー・イズ・アウト」と言う。 ひとつひとつの「死」をどのように生かすか。日本とアメリカではまったく考え方が違う。それをただ戦術論として捉えがちだが、その背景には、社会の価値観、個人の尊厳をどれだけ尊重するかの重要な社会の空気も反映されているように気がついた。そんな新たな視点もまじえ、筆者は彼の人生を『生きて還る 完全試合投手となった特攻帰還兵 武智文雄』(集英社インターナショナル刊)にまとめた。高校時代、武智文雄と同じアンダースロー投手だった私が、武智文雄に出会ったのも何かの運命かと感じている。

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    自民か希望か立憲民主か、「増税」対「凍結」で判断したらダメな理由

    田中秀臣(上武大ビジネス情報学部教授) 22日に投開票される衆議院選挙をめぐって、主要政党の経済政策についての考えが出そろった。ここでは、自民党、希望の党、立憲民主党を中心にみておく。言うまでもなく、経済政策はわれわれ国民の生活を養う上で極めて重要度の高いものだ。北朝鮮リスクが潜在的に高まっている中でも、安全保障政策と並ぶ重要な関心事である。有権者の判断材料としても大切なものであろう。衆院選の政策を発表する希望の党の小池百合子代表=10月6日、東京都千代田区(宮崎瑞穂撮影) 日本経済の現状はどのようなものであるか、そのときに望ましい政策はどのようなものであるか、この二つの点を明らかにしたうえで、各党の経済政策を評価していきたい。 現在の日本経済は「総需要不足」の状態にある。総需要不足とは、私たち民間の消費や投資といったモノやサービスを購入するお金の不足を表す。この原因は、消費や投資を可能にする経済全体の所得が不足しているということでもある。総需要不足というのは要するに購買力不足のことだ。この状況は、デフレーション(デフレ、物価の継続的下落)を伴っている。 簡単にいうと、デフレが継続するということは、日本経済全体で総需要不足が今後も継続する可能性が高いことを示している。例えば、経済全体でモノやサービスが売れ残っているとすれば、モノやサービスの平均価格が低下することになる。この辺りは直観的には、スーパーが売れ残りを避けるため夕方以降に総菜などの料金表示を割引価格に貼り替える状況に似ている。もし売れ残りが恒常化したり、店舗全体の売り上げも伸び悩めば、やがてスーパーの閉店や従業員・パートタイマーの解雇という最悪のケースにもつながるだろう。そのような状況が経済全体で起こっていると理解してほしい。 もちろん、経済全体で不景気が蔓延(まんえん)しているという認識は完全に誤りである。日本経済は現状では経済停滞の状況から脱却する過程にある。直近の2017年4~6月期の国内総生産(GDP)成長率は2.5%でかなりいい。雇用状況はここ数年改善傾向を続けていて、失業率も低下し、実質雇用者報酬が上昇している。正規雇用は増加し、他方で非正規雇用は昨年から減少傾向にある。デフレと総需要不足、三党の政策は? ただし、上記の総需要不足は依然として継続していて、それが日本経済の景況感をいまひとつのものにしている。これは言い換えれば、日本経済はいまだにデフレにハマっているからだ。実際に物価指標をみると、直近ではエネルギーや生鮮食料品を抜いた消費者物価指数(コアコアCPI)をみると0・2%と極めて低い水準にある。さまざまな物価指標があるが、私見ではこのコアコア物価指数が安定的に2%に近くならないかぎり、日本はデフレ経済のままであろう。つまり日本は潜在的に経済停滞に陥るリスクを常に抱えたままだといっていい。現状の雇用の大幅な改善などは、世界経済の不安定化、北朝鮮リスクの顕在化、あるいは国内政策の失敗といった何かのショックにより、容易に「失われた20年」といわれる状況に再び戻りかねない。 このような日本経済の状況を改善する経済政策の特徴は明らかである。デフレと総需要不足を解消することである。この観点から主要三党の経済政策をみておきたい。 安倍晋三首相の「アベノミクス」、小池百合子東京都知事が率いる希望の党の「ユリノミクス」、そして枝野幸男元官房長官が代表に就いた立憲民主党の「中間層の再生」政策の三つとも消費税が焦点になっている。衆院選で掲げる政権公約を発表する自民党の岸田政調会長=10月2日、東京・永田町の党本部 安倍政権は、消費増税を確約し、増税時には従来の使途の配分を修正するとしている。具体的には、国の借金の返済に充てる分から、教育の無償化など社会保障の充実に充てる部分を拡大するという。このことは基礎的財政収支(プライマリーバランス)の2020年度黒字の先送りを伴う財政支出の拡大を潜在的に伴う。小池氏の希望の党は、19年10月の消費税引き上げを「凍結」すると主張している。この点では枝野氏の立憲民主党と同じである。ただし希望の党は、凍結に伴う代替財源として内部留保課税や行財政改革など政府の支出見直しを行うとしている。他方で立憲民主党ではこの代替財源そのものへの言及はないようだ。 この消費税を「増税」するか「凍結」するか、「それだけ」に注目するのはあまり得策ではない。もちろん現時点で消費増税を行えば明らかに経済に与える影響は悪い。実際の消費税の引き上げは2年後であり、そのときの経済状況次第だが、私見ではいまの経済政策が順調に機動したとして、ようやくインフレ目標に到達できたころであろう。まだ安定しているとは言い切れない。その意味で、消費増税は否定すべき政策である。消費増税「だけ」に注目していけない理由 ただし、注意すべき点がある。消費増税「だけ」に注目してしまうと、経済政策全体のあり方を見失ってしまうことがあるからだ。最近、ノーベル経済学賞を受賞したシカゴ大学のリチャード・セイラー教授は、人間の経済的判断が非合理的なものだとして「行動経済学」を主張している。選挙になると、各党ともキャッチフレーズを利用して特定の論点だけに人々の注目を集めようとする。これを「アンカリング効果」ともいう。例えば、安倍政権の「消費増税」というレッテルだけに注目してしまうと、まるで緊縮主義的に思えてしまう。対して希望の党や立憲民主党の「消費税凍結」の方は総需要不足を解消するような経済拡大をもたらすように見えてしまう。 だが、このような見方は「アンカリング効果」の結果にしかすぎない。「アンカリング効果」が発揮されると、われわれの判断は非合理的なものになりやすくなる。確かに安倍政権の「消費増税」が実施されれば、デフレ経済に再び転落する可能性は大きい。だが、そもそも実施が2年後であり、首相の発言では、その間「リーマン・ショック級」の事態があれば見直すともいっている。この発言は前回の消費増税先送りのときにも見られたものだ。また日本銀行による金融緩和の継続などデフレ脱却を主眼としている。つまり経済政策全体でみれば、総需要不足解消・デフレ脱却に主眼をおき、また目標未達ではあるが、経済の良好なパフォーマンスを築いてきた実績がある。経済を拡大し、税収増の中で財源を確保していくスタンスでもあるのだ。 対して希望の党は消費増税凍結をするものの、経済政策全体では「緊縮主義」的だ。消費増税凍結の代替財源として内部留保課税などを挙げている。ただ、内部留保に課税すると企業の投資に悪影響がもたらされる。総需要の主要な構成は消費と投資であり、内部留保課税はその意味で総需要不足の解消にはマイナスに作用する。また金融政策については、財政政策とともに「過度に依存しない」としており、金融政策の「出口戦略」を強調している。 デフレ脱却という目標達成の強い意思を見せないままに、金融引き締めを意味する「出口戦略」をいまから強調することは得策ではない。まずは国民の懐具合を改善するには、デフレ脱却が優先であるべきだ。またインフラ整備などの長期的な公共事業の見直しなども含めて、その姿勢は小泉政権時の構造改革を想起させる。構造改革は、経済の潜在的な成長率を高める政策ではあるが、それが正しく機能するにはまずは総需要不足を解消することが重要である。その意味で「消費増税凍結」といいながらも希望の党の経済政策は緊縮主義そのもので形成されているといっていい。立憲民主党の経済政策は? 枝野氏の立憲民主党の経済政策は、財政政策については若干拡大スタンスであり、児童手当や高校などの授業料無償化(所得制限廃止)などが盛り込まれている。この点は評価すべきだ。消費増税の凍結は、これらの財政政策の拡大と矛盾しない。また所得税の累進税率強化、相続税増税、金融課税の強化を主張している。特に所得税と相続税の見直しは、経済格差の縮小に貢献するだろう。ただし金融課税については、国際的な競争の観点から慎重に考えるべきだろう。政策発表に臨む立憲民主党の福山哲郎幹事長(左)と長妻昭代表代行。左は政策パンフレット「国民との約束」=10月7日、東京都港区(松本健吾撮影) だが、基本的に立憲民主党の財政政策のスタンスは、総額を拡大するというよりも、あくまでも総額が一定もしくは微増の下で、再分配機能を強化するものでしかない。事実上、過去の民主党政権の財政政策スタンスと変わらず、デフレ脱却を意図したものではないのだ。その中で「消費増税凍結」も位置づけるべきだろう。また、金融政策については同党の方針ははっきりしない。枝野氏は、いまの日銀の金融緩和を直ちにやめることを考えるのは難しいと発言しているが、他方でデフレ脱却への強いコミットをしているわけでもない。つまり財政政策については拡張的な姿勢だが、他方でデフレ脱却のための必要条件ともいえる金融緩和政策については消極的である。金融政策への消極姿勢をとるということは、現状の経済の好転からすると政治的な不安定要因になりかねない。 要するに、希望の党も立憲民主党も「消費増税凍結」とはいいながら、その経済政策全体は緊縮主義に大きくとらわれている。対して安倍政権の経済政策は反緊縮主義(リフレ主義)だが、将来の「消費増税」に不安を抱えている、という形だ。デフレ脱却を確実に実現するという絶対的評価からすれば三党ともに不十分であるか、またはお話にならない。しかし相対的基準でいえば、現政権の経済政策は他の二党よりもはるかにましである。その理由はすでに書いた。 公明党は安倍政権と基本的に同じだとみなしてかまわない。日本維新の会は消費増税凍結を訴えるが、やはりマクロ経済政策全体がはっきりしない。共産党は消費増税中止だが、金融緩和政策も否定的なので、マクロ経済政策の観点からは論外である。 ノーベル経済学賞を受賞したセイラー教授が指摘しているように、人々の判断は必ずしも合理的に行われるとはかぎらない。むしろ、非合理的に判断することが普通だという。消費税の「増税」対「凍結」という論点のみでみてしまうと、経済政策全体が拡大重視か、緊縮的かという構図を見失いがちである。経済状況と経済政策全体のスタンスをもとに、有権者がよりよい投票を行うことを願いたい。

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    足利義昭「将軍黒幕説」が成り立たないこれだけの理由

    渡邊大門(歴史学者) 前回は、本能寺の変における「朝廷黒幕説」の一つの原因とされる「暦問題」を取り上げ、その説が成り立たないと結論付けた。 ほかにも重要な黒幕説としては、将軍・足利義昭が黒幕だったという「将軍黒幕説」がある。この説が有力視されるのは、義昭が織田信長と決裂して信長包囲網を形成し、中国の毛利輝元や大坂本願寺(石山本願寺)などと結託し、信長を討とうとしていたからだろう。そのためには、明智光秀の助力が必要だった。以下、最初に当時の政治情勢を簡単に取り上げ、次に将軍黒幕説の当否を考えることにしたい。室町幕府を開いた足利氏ゆかりの鑁阿寺本堂。国宝に指定された=2013年5月11日、栃木県足利市 永禄11(1568)年9月、義昭は信長に推戴(すいたい)されて、念願の上洛(じょうらく)を果たした。しかし、両者は政治志向の相違などもあり、天正元(1573)年に関係が破綻した。義昭は信長の圧倒的な軍事力に敗北を喫し、紆余曲折を経て、天正4年に備後国鞆(広島県福山市)を訪れた。こうして義昭は、毛利輝元の庇護を受け、各地に「打倒信長」の檄(げき)を飛ばしたのである。 しかし、ことは義昭の思い通りに進まなかった。天正5年以降、信長の命により羽柴(豊臣)秀吉が中国経略に出陣すると、たちまち毛利氏は劣勢に追い込まれた。天正10年3月以降、毛利方の備中高松城(岡山市北区)は包囲され、秀吉の水攻めによって苦境に立たされたのである。 そして、同年6月2日に本能寺の変が勃発した。変は偶然起こったのではなく、義昭が光秀と連絡を取り合って、計画的に起こしたというのが将軍黒幕説の主張である。義昭は積極的に有力な諸大名と関わりを持って来たので、光秀と関係していたとしても不思議ではない。しかし、本能寺の変の前に義昭と光秀が結託していたことを示す決定的な根拠史料を欠くのは大きな問題で、批判も数多くある。以下、将軍黒幕説の根拠を確認することにしよう。 大村由己(ゆうこ)の手になる『惟任(これとう)謀反記』には、「光秀は公儀を奉じて2万余の兵を揃えたが、備中に下ることなく密かに謀反を企てた(現代語訳)」という記述がある。本能寺の変の直前の記述である。本来、光秀は本能寺を襲撃するのではなく、備中高松城を攻める秀吉の救援に向かう予定だった。資料をどう解釈するか 将軍黒幕説の主張者の指摘の通り、文中の「公儀」を義昭と考えると、「光秀は義昭を擁立して謀反を起こした」という解釈になり、将軍黒幕説が成立する。しかし、この「公儀」の語については、すでに指摘があるように、義昭ではなく信長を意味する。 改めて先の史料を解釈すれば、「光秀は信長の意を奉じて2万余の兵を揃えたが、備中に下ることなく、密かに謀反を企てた(現代語訳)」ということになる。2万騎の兵を集めたのは義昭のためではなく、信長の命令を受け、備中高松城に向かう予定だったのだ。 二つ目は、『本法寺文書』の乃美兵部丞(ひょうぶのじょう)宛て天正10年6月13日付足利義昭御内書をめぐる解釈である。この御内書は「信長を討ち果たしたうえは、上洛の件を進めるよう毛利輝元、小早川隆景に命じたので、いよいよ忠功に励むことが肝要である…」と解釈された。 冒頭で示した「信長討果上者(原文)」を「信長を討ち果たしたうえは」と解釈することにより、義昭が光秀に命じて信長を討ち果たしたと理解するのがポイントである。 しかし、こちらも「信長討ち果つる」と読み、「信長が討ち果たされたうえは」と解釈すべきと指摘されている。つまり、義昭が光秀に命じて討たせたというよりも、信長が本能寺の変で横死したという解釈になる。そうなると、やはり義昭と光秀との共謀という説は、成り立ちにくいと考えられる。 最後は、『森文書』の土橋平尉(つちはしへいのじょう・紀州雑賀の土豪)宛て天正10年6月12日付明智光秀書状の解釈である。最近になって美濃加茂市民ミュージアムに原本で公開されたが、もともと『森文書』の写しが知られていた。明智光秀が天正10年6月12日に土橋重治に宛てた書状の原本と確認された「土橋重治宛光秀書状」(美濃加茂市民ミュージアム所蔵) 土橋氏は紀州にあって反信長の行動を取っており、毛利氏や義昭とも連絡を取り合っていた。土橋氏はこれ以前に光秀に書状を送っており、この光秀書状はその返事なのである。つまり、この書状は義昭と光秀を結ぶ接点となろう。 もともと同史料の冒頭部分は「なお、受衆が上洛するならば、協力することが肝要である(現代語訳)」と解釈されてきた。文中の「受衆」は、義昭の謀反に応じた者たちと理解され、首尾よく信長を果たした光秀と義昭が事前に連絡を取り合ってきたと考えられたのである。「受衆」とは何を示すのか しかし、現在は「受衆」の崩し字を「急度」と読むべきであり、先の解釈は成り立たないと指摘されている。そのほうが妥当な解釈であり、光秀と義昭が事前に通じていたとの証左にはならないと考えられており、今では「受衆」説は撤回されている。 何より重要なのは、あくまで光秀が義昭の支援を表明したのは、6月12日でのことであって、それ以前に両者が打倒信長を画策した史料は残っていない。つまり、将軍黒幕説の主張者は、この時点で両者は協力関係にあったのだから、それ以前に遡及(そきゅう)することができると考えているのだろう。 そのような論法が通用するとは、とても思えない。変以前に光秀と義昭が結託した確かな史料を挙げるか、納得しうる状況証拠を示すよりほかはないと考える。現状の説明では、とても将軍黒幕説が受け入れられる余地はない。 変後の光秀は、丹後の細川藤孝(幽斎)・忠興父子や大和の筒井順慶らに味方になってくれるよう要請していたが、色よい返事をもらえなかった。したがって、光秀が味方を募るべく、変後に目的を同じくする義昭と結託したことは、特段不思議なことではない。現状の史料残存状況では、そのように考えるのが妥当だろう。 実は、本能寺の変を4日経過しても、毛利氏は正しい状況をつかんでいなかったと指摘されている。6月6日付の小早川隆景の書状によると、「京都のこと、去る1日に信長・(長男の)信忠父子が討ち果て、同じく2日に大坂で(三男の)信孝が殺害されました。津田信澄、明智光秀、柴田勝家が策略により討ち果たしたとのことです」とある(『萩藩閥閲録』)。信長時代の本能寺跡=2011年5月18日、京都市中京区(木戸照博撮影) 信長が殺されたのは未明なので1日でよいとしても、信孝が殺害されたというのは明らかに誤報である。光秀の勢力に津田信澄や柴田勝家が加わっているのもおかしい。義昭が光秀と結託していたならば、もっと正確な情報を得られるはずではないか。 そもそも義昭だけが正しい情報をつかんで光秀とともに打倒信長を果たし、毛利氏には適切な情報を与えないというのは不可解である。苦戦していた信長に挑むならば、義昭は光秀だけでなく、毛利氏を交えて計画を練るべきだろう。単純に考えてみても、現状では将軍黒幕説は成り立たないのである。 将軍黒幕説を成り立たせるには、より合理的な史料解釈を示すか、本能寺の変の前に義昭と光秀が結託していたことを示す決定的な根拠史料を挙げるしかないだろう。【主要参考文献】・谷口克広『検証本能寺の変』(吉川弘文館、2007年)・渡邊大門『信長政権 本能寺の変にその正体を見る』(河出ブックス、2013年)

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    小池新党と民進党の「ドタバタ野合」に政治の倫理的腐敗を見た

    田中秀臣(上武大ビジネス情報学部教授) 10月10日公示、22日投開票が行われる衆議院選挙をめぐる政治情勢が混沌(こんとん)としている。特に民進党の前原誠司代表が提案した、小池百合子東京都知事が率いる希望の党との事実上の「合併」をめぐる問題は、国民の多くに分かりにくい政治劇として映っているに違いない。全国幹事会・選挙対策者会議であいさつするため演壇に向かう、民進党の前原誠司代表=9月30日、東京・永田町の民進党本部(古厩正樹撮影) 簡単に整理すると、小池知事の抜群の知名度と国民の高い支持を民進党の全国的組織、資金力と交換することで、双方が選挙で実利を得るという作戦だった。そこには両党の「理念」や「政策」の一致を真剣に議論した痕跡は皆無であり、単なる選挙対策のための、まさに正真正銘の「野合」である。 そのためか、あれだけマスコミを中心にして行われていた「大義なき解散」という批判はどこかに吹き飛んでしまった。むしろ今の国民の焦点は、この理念も政策も全くない両党の野合と、そして対する安倍政権(自民・公明連立政権)が続くか否かの二つに向けられている。どちらかというと、前者の方がこの原稿を書いている段階で注目度が高い。 希望の党と民進党の野合は、前者が後者を事実上吸収する形をとった。その際に、選挙での立候補者を「選別」することが前提条件だったようである。おそらく筆者が指摘したような野合批判をかわすためのものだろう。 この「選別」をする過程で興味深いことが起こった。ひとつは、希望の党は、政策方針として憲法改正と安全保障法制賛成の立場を鮮明にしていた。改憲は、安倍晋三首相が提案した憲法9条第3項(自衛隊の明記)ではなく、より広範囲に及ぶものにするという積極的なスタンスだ。もちろん民進党の中にも改憲派が多くいたが、それでも党内の分裂を避けるために大っぴらには議論されてこなかった。また安全保障法制については、同党は全面否定の立場で国論をリードしてきた。その基本方針に賛同してきた議員は多数に上る。その過去を一切捨てて、今や積極的に賛成する側にまわっている。安全保障法制の委員会採決のときに、体を張って阻止しようと「蛮行」に及んだ議員が、いまでは「親類に自衛隊員がいて賛成している」とにこやかに語る始末である。まさに政治の倫理的腐敗のオンパレードを見る思いである。希望も民進も経済再生に本気なのか 憲法観や安全保障の在り方をどう考えるかは、政治家としてのアイデンティティーにかかわる問題だと思うが、どうもそんな意識はいかようにも変化するのだろう。そうなると、ただ単に生活のためか、権威欲のために政治家になっている連中がこれほど多かったということになるのだろう。 民進党の希望の党への合流について、ある有名政治家はギリシャ神話の「トロイの木馬」と称したり、ある大学教授は「安倍政権を倒すために反対の立場でもともかく糾合するのだ」と発言したりしている。仮にこの「トロイの木馬」戦略を採用して政治的に主導権を握っても、立場の違いから党の中は四分五裂してしまい、この北朝鮮リスクが顕在化する状況で、国内政治の混乱がもたらされるという最悪の結果になるだろう。まさに愚か者を超えて、悪質な政治ゲームに国民を巻き込む者たちである。 「選別」の過程で起きたもうひとつのことは、いわゆる「日本型リベラル・左派」勢力が少数ながら結集したことである。現段階の報道では、民進党の枝野幸男代表代行ら希望の党から「排除」される議員を中心に新党を立ち上げるという。この日本型リベラル勢力は第三極的な立ち位置で、共産党や社民党などとの連携を強めるのかもしれない。 ちなみに、なぜ「日本型」リベラルというと、この政治集団の多くは再分配政策には意欲的でも、積極的なマクロ経済政策には消極的だからである。現在の日本のように完全雇用に達していない経済で、積極的なマクロ経済政策に消極的であることは、経済格差、貧困、そして雇用の不安定化に寄与するだろう。それは社会的弱者を保護するリベラル的な発想から最も遠い。もちろん枝野氏も、最近では消費税凍結や現状の金融政策の維持を唱えるが、いずれも消極的な採用でしかない。リベラルであれば、例えば前者の財政政策ならば増税ストップではなく積極財政を採り、後者であればより一層の金融緩和政策を唱えるのが常とう手段であろう。しかし、これは希望の党でもいえるのだが、消費増税凍結を持ち出せば国民の関心を引きつけると思って言っているだけではなかろうか。連合の神津里季生会長との会談を終え、記者の囲み取材に応じる民進党の枝野幸男代表代行=10月2日、東京都千代田区(川口良介撮影) そもそも希望の党も民進党も経済停滞を脱する意識に乏しい。これでは過去の民主党政権がそうだったように、消費増税をしないといいながら、やがて最悪のタイミングでその法案化を決めたやり口をまた採用するのではないか。希望の党も、民進党の希望移籍組も新党合流組も、行政改革など政府支出を絞るという緊縮主義、財政再建主義だけがかなり明瞭だ。他方で、マクロ経済政策、特に金融政策についてはまったく評価が低いままである。このような政治集団が政治的に力を得れば、即時に為替市場や株式市場に悪影響をもたらし、消費や投資を抑圧して再び経済停滞に戻してしまうだろう。首相会見で重要な発言は消費税ではない 自民党と公明党の政策に対する批判もある。その代表的なものは、衆院解散の意図が分からないというものだ。冒頭の「大義なき解散」の言い換えである。安倍首相がこの時期に解散を決めた要因は、大きく三つあるだろう。ひとつは、北朝鮮リスクが11月の米中首脳会談後に高まる可能性があることだ。そしてこの北朝鮮リスクはそれ以降、短期的には収束することなく、むしろ高止まりしたままになる可能性がある、という判断からだろう。 残りの二つはいずれも選挙対策的なものだ。内閣支持率の改善がみられたこと、そして小池知事の新党の選挙準備が不十分なこの段階を狙ったというものである。ただこれらふたつの要因は、マスコミの報道の仕方や、新党の行方に大きく依存するので、首相側からすれば確たる解散の理由にはなりにくい。いずれにせよ、どんなに遅くとも来年末には任期満了を迎えるので、北朝鮮リスクが相対的に低い現時点での解散に踏み切ったということではないか。 また経済政策については、安倍首相の2019年の消費増税を前提にして、その消費税の使途変更が注目されている。簡単に言うと、国債償却から教育の無償化などへの使途変更である。これについて、あたかも2019年10月の消費増税が確実に行われるとする皮相な見方がある。過去の消費増税の見送りもそうだったが、増税自体はその時々の経済状況をみて政治的に判断されてきた。使途の変更と増税「確定」は分けて判断すべきだろう。 むしろ首相の記者会見では、日本の財政再建の旗印であった基礎的財政収支(プライマリーバランス)の2020年までの黒字化達成を断念したことの方が筆者からすれば重要である。これによって中長期的な財政支出への重しがとれたことになる。経済低迷や北朝鮮リスクによる意図しない政府支出にも十分対応可能になるだろう。一方で、経済面で残念なこともある。それはインフレ目標の早期達成をはかるためには、日本銀行との協調を再強化しなければならないのに、その点への認識が甘いように感じられる。選挙のためには、現在の経済状況の良さを強調するという戦略だろうが、まだまだ日本経済は不完全雇用の状態である。それに立ち向かえるだけの政策の装備をしなくてはいけない。報道陣の取材に応じる希望の党の小池百合子代表=10月1日、東京都中央区 このままいけば、今度の選挙の論点はワイドショー的な「安倍自民vs小池希望」という構図で騒がれてしまうだろう。または小池新党をめぐる政治的混乱に注目が集まってしまう。今の政治状況では、ワイドショー的なものがかなり政治的なパワーを持っている。もし、また安易にテレビなどの報道にあおられて、「一度チャンスを与えよう」とか「新しいものがいい」などという安易で空疎な態度で、選挙に挑まないことを筆者としては祈るばかりである。

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    信長のヤンキーファッションに隠された「3つの魔除けアイテム」

    橋場日月(歴史研究家、歴史作家) 前回の最後で、若き日の信長の風変わりないでたちについて触れた。 浴衣の原型になる袖を外した湯帷子(かたびら)、半袴(足首までの長さの袴)、朱鞘の太刀、紅と萌黄(もえぎ)の2色の糸でハデに結い上げた髷(まげ)までは当時、傾奇者(かぶきもの)と呼ばれた不良少年、青年にありがちな風体ということで理解できるのだが、問題はそれ以外に身につけていたモノだ。太刀と脇差しの柄は三五縄(みごなわ)で巻かれ、腰回りには火燧袋(ひうちぶくろ)と7、8個のひょうたんをぶら下げていたというところに妖しい臭いがプンプン漂っているのである。 まず三五縄だが、これは三五七縄とも書き、どちらも「しめなわ」とも読む。つまりしめ繩だ。もうお分かりかと思うが、神社、神木、神岩などに張られるしめ繩は「ハレとケ(晴れと汚れ)」との境界を示し、ケから清浄なものを守る結界の役割を果たす。家庭で正月飾りに用いるしめ飾りも同様で、家の中にケ(厄)が入ってこないように祓うという意味があるのだ。これを鞘(さや)に巻いたということは、信長がその魔除け効果を期待した、あるいは信長自身が神聖な存在というアピールだったと考えられないだろうか。 無論、「いやいや、合理主義者の信長は戦闘のとき、敵の血でぬれた柄が滑って刀を取り落とさないよう、縄で巻いただけだろう」という解釈も可能だろうが、それなら荒縄で良いではないか。筆者は単なる縄ではなく、しめ繩だったというところに信長の意図を感じるのだ。そして、これは後々、重要な意味を持ってくるので留意しておいていただきたいのだが、しめ繩は「蛇」と密接な関係を持っている。口縄坂、西側の案内碑と説明板 少し話がそれるが、大阪の天王寺(大阪市天王寺区)近く、夕陽丘は活断層によって形作られた上町台地の上にあり、西の市街地とは「天王寺七坂」ほか、多くの急坂で結ばれている。その一つが「口縄(くちなわ)坂」だ。「口縄」は大阪の古語といわれるが、戦国時代の日本ですでに広く使われていた。当時の『日葡辞書』(ポルトガル語を日本語に訳した辞書)にも収録されている日常語で、蛇を意味する。「朽ち縄=古びて切れた縄」が蛇を思わせるところからこの言葉が生まれたことは容易に想像がつくけれども、この坂も起伏が蛇に似ているところから名付けられたという。つまり、緩やかな傾斜が途中から急になるため、蛇が鎌首をもたげて前進する形を連想したのだろう。 「三五縄=しめ繩」もまた、蛇を表す。『蛇 日本の蛇信仰』(講談社学術文庫)の中で著者の吉野裕子氏は、しめ繩の形が蛇の交尾に由来していると説く。確かに雄と雌の蛇は体を互いに巻き付かせて交尾し、しめ繩の形にそっくりだ。古代から日本にはヤマタノオロチ伝説や奈良・三輪山の大神神社(奈良県桜井市)の祭神として信仰をあつめる蛇神・大物主(大国主神)などの蛇信仰があった。信長が火打ち石を携帯していた謎 ちなみに江戸時代、摂津国嶋上郡(現在の大阪府三島郡島本町ほか)の原村では、毎年2月8日の天王祭で縄を蛇の形にしてその目を射るという儀式が行われた(『諸国年中行事』)。これは破魔とともに「目当てに的中する」、つまり願い事成就も意味する。蛇自体はケの象徴だが、同時に願い事=ハレをも体現するという面白い位置づけだ。口縄坂、奥で急に斜度があがる 閑話休題。ともあれ、信長が刀の柄に巻いた三五縄は「魔除け、厄除け」の意味を持ち、同時に蛇を表現するものでもあった、ということだ。 次に火燧袋だが、これは火打ち石を入れる袋。ライターもマッチもない当時、どこでも手軽に火を起こせる道具は火打ち石しかない。野遊びが大好きだった信長としては、ぜひ身につけておきたいところだろう…と思うのだが、よく考えてみると信長は腐っても織田家の若様。『信長公記』を見ても、常に従者(小姓衆)を連れ、彼らによりかかったり背中にぶら下がったりして歩いていた、とある。そんな身分の信長が自ら火を起こす必要なんかないではないか。まだ犬千代と言った前田利家ら小姓衆の仕事を取り上げてしまっては「主君失格」なのである。 では信長はなぜ火打ち石を携えていたのか。実は、これもまた魔除けアイテムだったのだ。時代劇オールドファンには、大川橋蔵の「銭形平次」で、出掛ける平次の背に妻のお静が火打ち石と火打ち金(かね)をカチッと打ち合わせるシーンはおなじみだろう。あれは「切火(きりび)を切る」といって、火花を起こすことがおはらい、厄除けになるという民俗信仰から来ている。 少なくとも江戸時代にはこの風習はあったというが、仮に信長の時代にはまだ火打ち石で厄を除けるという考えはなかったとしても、火打ち石が生み出す火や炎は古代神話の時代から清めの効果を持つと考えられてきた。『古事記』では伊弉諾(いざなぎ)神が、死んだ妻、伊弉冉(いざなみ)神の真実の姿を見るときに火を用い、あやうく難を逃れている。京をはじめ各地の神社では毎年11月に「清めの御火焚」が行われるが、これも火の持つ破魔の効用だ(「十二ヶ月風俗図」)。信長の大マナー違反 また、『古事記』には火燧袋自体も登場している。日本武尊(やまとたけるのみこと)も天皇から東国平定を命じられ、倭比売命(やまとひめのみこと)に草薙剣と袋をもらって出発。敵に火を付けられたときに袋を開けると火打ち石が入っていたので、剣で草をなぎ、それに火を付けて向かい火にし、難を逃れた。火燧袋はいわば「ラッキーアイテム」であり、火が厄を祓ったのである。 古事記の時代から200年近くたった平安時代、歌人、源公忠の『公忠朝臣集』には、田舎に下る人に火打ち袋を贈った際の作として 《うち見ても 思ひ出でよと 我が宿の しのぶ草にて すれるなりけり》と詠んだものが収められている。この場合、火打ち石は餞別(せんべつ)として喜ばれる旅の必需品であり、安全祈願のアイテムでもあったということなのだろう。 つまり、信長の時代には切火という魔除けのまじない自体が仮にまだ存在しなかったとしても、火打ち石は魔を祓い厄を除けるための火を生み出す重要な道具と見なされていた、というわけだ。 信長の時代より少しだけ前、享禄元(1528)年に伊勢貞頼が著した武士のマナー指南書『宗五大草紙』などには「火燧袋は40歳以後に提げるべし。それも晴れの時や主君の御前では提げてはいけない。火打ち袋は刀に提げる」と記されているから、通常火燧袋は老境に差し掛かってから非公式の場合のみ、刀に結びつけて提げるものだったようだ。すると、まだ若い内から火燧袋を提げていた信長は大マナー違反をやらかしていたことになる。このあたりも「大うつけ」と呼ばれた信長らしいといえばらしいのだが、マナーを無視してまで魔除けの効用にすがりたい―そんな思いが信長の胸の中にあったのかもしれない。「信長公出陣の像」=愛知県清須市の清洲公園(関厚夫撮影) 最後に、ひょうたんについて触れておこう。ひょうたんが古くからお守り、縁起物、魔除けとして喜ばれたのはかなり知られている。信長の覇業を継いで日本統一を達成した豊臣秀吉の馬印「千成瓢箪」が好例だが、それ以外でも九州福岡の太宰府天満宮では厄除けのためにひょうたんに詰めた酒を飲む風習があって今でも「厄晴れひょうたん」が参拝者に授与されているし、島根の出雲大社の爪剥(つまむぎ)祭でも洞切にした生のひょうたんに柄を付けた柄杓(ひしゃく)でご神水を供えるときに使用している。信長が魔除けグッズに頼った理由 古来、作物の種の入れ物として使われたひょうたんは豊穣(ほうじょう)を意味した。豊穣はすなわち凶作を封じる、厄をけるという意味につながり、またひょうたん固有の機能として酒の入れ物に用いられたことで清めの象徴ともなる。酒が神への供物であり、また外傷の消毒用に使われたことも大きかっただろう。豊臣秀吉の馬印だった瓢箪=2012年2月8日、京都府(安元雄太撮影) その結果、ひょうたんは縁起物として絵や着物の柄などに採用され、家紋にも無数のバリエーションが存在する。日本人の「ひょうたん頼み」は尋常ではないのだ。信長が腰からぶら提げていた7、8個のひょうたんというのも、実用オンリーであればひとつは水、ひとつは酒、ひとつは灯油(当時は荏胡麻油)などフィールドワークで必要ないくつかと、あとは信長が大好きな火縄銃を撃つ際の火薬、弾丸ぐらいは思い浮かぶが、あと2つ3つが何か、思い浮かばない。 砂でも詰めておけば、他のひょうたんと合わせて結構な重量になるから鍛錬にはなるだろうが、よもや「大リーグボール養成ギプス」でもあるまいし、それなら日頃から甲冑をつけるなり、大太刀でも提げておけばよい。何より家来に持ち運ばせるという主人としての「義務」を無視することにもなるから、やはりこれも魔除け効果を期待した「必携グッズ」だったのだろう。 当時、信長はその異様な形(なり)や粗暴なふるまいによって織田家の重臣連から疎まれ、弟の信勝に期待が集まる中、いつ誰から暗殺されるかも分からない日常を送っていた。常に命の危険にさいなまれる中で精神を正常に保つためにはこれらの魔除けグッズに頼るしかなかったのではないだろうか。そして、その魔除けグッズの一つ、三五縄に潜む蛇のイメージ。それを求めた信長の心の源流をこれから探ってみよう。 天文3年5月12日(1534年6月23日)、織田信長は父、信秀と土田御前の次男として生まれた。庶腹の兄、信広がいたものの、正室の土田御前を母に持つ信長は嫡子である。その生地は、現在の名古屋城二の丸辺りにあったとされる那古野城が、当時まだ信秀の支配下となっていなかったということで、勝幡城(現在の愛知県の愛西市勝幡町から稲沢市平和町六輪にかけての一帯)説が有力となっている。その後、那古野城を手に入れた信秀は、まだ「吉法師」と呼ばれていた信長にこの城を与える。そこで信長はある経験をするのだが、その話はまた次回に。

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    メディアは猛省せよ! ハリル監督の日本サッカー批判に敬意を表したい

    小林信也(作家、スポーツライター) サッカー日本代表・ハリルホジッチ監督の「異例の講義」が話題になっている。猛抗議になぞらえて「猛講義」と表現したメディアもあるほど熱い語りだったようだ。 9月28日、来月初旬のキリンチャレンジカップ2017に臨む日本代表メンバー24名を発表する記者会見が行われた。集まった報道陣にハリルホジッチ監督はすぐメンバー発表をせず、18分にわたってまず「講義」したのだ。 各紙の報道によれば、内容は主に、「日本のサッカーは、独自のアイデンティティーを築かなければならない」「日本ではポゼッション(ボール支配)の重要さが強調されるが、ポゼッションが高ければ勝てるわけではない」「それより大切なのはデュエルだ」 といったメッセージだった。 ちょうど直前行われたヨーロッパのチャンピオンズ・リーグ、バイエルン対PSGの試合内容と結果が、「わが意を得たり」の展開だったことも、講義を行う意志に勢いを注いだようだ。ハリルホジッチ監督はこの試合のデータを挙げて言った。 「PSGのポゼッションは38パーセント。パスの数も368対568、シュートもバイエルンの方が多い。コーナーキックはPSGが4本でバイエルン18本。クロスも4本対36本」 ところが、3対0で快勝したのはそれらの数字で劣るPSGだった。 「PSGが上回ったのは、デュエルの成功率だ。ポゼッションだけでは意味がない。モダンサッカーでは、ゲームプランやゲームコントロールが大事なのだ」サッカーW杯アジア最終予選。オーストラリアに勝利し選手らに水をかけられるハリルホジッチ監督=8月31日、埼玉スタジアム それはまさに、2018ワールドカップ出場を決めたオーストラリア戦でハリルが描き、見事勝利を収める要因になった戦術そのもの。その勝利でハリルホジッチ監督の再評価が進んでいる今だから、「猛講義」は説得力があった。常に「上から目線」で評論したがる傾向の強い日本のサッカージャーナリストやサッカー指導者たちにも一考を促すきっかけになっただろう。 デュエルという用語は、ハリルホジッチ監督が日本代表を率いるキーワードに設定し、盛んに使うことで日本でも広く認識され始めた。デュエルはフランス語、直訳すれば「決闘」という意味だ。ハリルホジッチ監督はサッカーのあらゆる局面で起こる《球際の勝負》をこれに投影している。日本人はオタク理論好き? 球際の強さにはもちろん技術の裏付けもあるが、同等かそれ以上に重要なのが「見きわめる目」であり「激しい闘志」だ。日本のサッカー選手にはそれが足りないと、代表監督に就任してすぐ感じたようだ。日本ではどうしても、目に見える技術や戦術が重視され、語られる。《サッカーの勝負を支配するのは、そのような数字や技術ではない。戦術論は、日本のサッカー界やジャーナリストたちが思っているほど、勝負を左右する核心ではない》 ハリルホジッチ監督は日本代表監督を引き受けて以来ずっと、ストレスに感じていたのだろう。日本では、評論家たちや戦術論が好きなサポーターたちは、チームを率いる監督でさえも、机上の空論とまでは言わないが、理論優先のおたく的思考に傾きがちだ。 「球際の強さが重要だ」と言われて反論する人はいないだろう。だが、ハリルホジッチ監督が言いたいのは、それだけではない。《デュエル》というキーワードが意図するもっと深いサッカーの構造、勝負を支配する綾(あや)まで、ハリルホジッチ監督が展望する方向性に寄り添って、日本のサッカー関係者がビジョンをなかなか共有してくれない。 「球際の勝負に勝てば、自(おの)ずとボール・ポゼッションも増える」と考えたら、「だからやっぱりポゼッションは大事じゃないか」となってしまう。サッカー日本代表メンバー発表会見の冒頭で熱弁を奮うハリルホジッチ監督=9月28日、東京都文京区(撮影・山田俊介) 「言いたいのは、そこじゃないんだ!」 ハリルホジッチ監督はストレスといら立ちを爆発寸前まで抱えていたのだろう。 試合時間の大半、ずっとボールを相手に渡しても、渡していること自体を支配し、ゴールマウスに蹴り込ませないコントロールができていれば、勝負に支障がない。勝負どころの球際で相手を支配し、負けず、決定機をモノにする。それこそがサッカーの勝負を分ける核心。それはまさにハリルホジッチ監督がオーストラリア戦で代表選手とともに体現して見せた勝利の方程式だ。 日本のメディアは、本田圭佑が落ちた、香川真司が外れた、といった話題が優先して語られる。それも関心事には違いないが、監督の立場からすれば、優先順位は高くない。勝つためにどんな試合を展望し、それができる選手たちでチームを編成する。勝つ戦術を理解し、チームで徹底し、結果を出すことが重要であって、その試合に本田がいたか、香川がいたかは重要ではない。ハリル監督の使命 私自身の立場からすれば、今回のハリルホジッチ監督の「猛講義」は、スポーツ報道やそれに携わるジャーナリスト、熱心なサポーターたち、さらには日本の指導者たちへの強烈な一撃だと感じる。 「お前ら、偉そうに言うけど、本当のところはわかっていないんだよ」 ハリル監督の感情を直訳すれば、そうなるのではないか。私自身、スポーツ表現に関わりながら、その矛盾やジレンマをしばしば感じる。 プロ野球の投手が「160キロを記録した!」となれば、大きな話題になる。大切なのは、打者を抑えたかどうか、試合を支配し勝利したかだ。が、数字が独り歩きする。160キロの投球をバットに当てられたとあれば、何か不足がある、と考えるのが選手の実感だ。数字を見て騒ぐのは、外野席の感覚だ。ファンが騒ぐのは自由だし、それもスポーツの楽しみだが、メディアやジャーナリズムが、本質から離れた外野席の発想では核心から外れる。勝手な思い込みで競技の本質を誤った方向に(あるいは狭い理解で)導くのは発展を妨げる。未来ある選手たちの可能性もむしばむことにつながる。日本代表メンバー発表会見の冒頭で熱弁を奮うハリルホジッチ監督=9月28日、文京区(撮影・山田俊介) その意味で、ハリルホジッチ監督の勇気と挑戦に敬意と拍手を送りたい。私たち伝える側の人間、熱く語るサポーターたちも、本当は何が試合を支配したのか、もっと謙虚に当事者に聞き、探り、無限に追求し続ける謙虚さが必要だということを肝に銘じたい。 ハリルホジッチ監督がただ「お仕事」でなく、《日本サッカーのアイデンティティーを築く一助になりたい》、そう自覚している感じが日を追うごとに伝わってくる。 「代表の監督を引き受ける」とは、ワールドカップに出場させる、ワールドカップで勝ち進むという命題とともに、そういう使命があることを当然自覚して、ハリルホジッチ監督は任務に当たっている、私はそんな風に感じる。フランス人(ハリルホジッチ監督はユーゴスラビア出身、現在はフランス国籍)にとってサッカーとは、人生や社会と深く結びついた活動だから、ハリルホジッチ監督にとってはそれが当然の感覚なのだろう。そのことも含めて、私たちは外国人監督から学び、サッカー文化を深める大きなきっかけになればいい。

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    安倍政権が黒田日銀に仕掛けた片岡委員「反対票」の舞台裏

    し、低インフレ状態で経済を安定化させることを目的としている。筆者もそのリフレ派の一員であることはこの連載で何度も書いているのでお分かりの読者も多いだろう。片岡氏は就任会見でも、物価安定目標の達成に並々ならぬ意欲をみせた。 また、若田部昌澄早大教授は片岡氏を評して「勇気の人」と述べている。片岡氏は長年、民間のエコノミストとして活動してきており、一企業のいわば組織人である。片岡氏の発言をみてきた経験でいうと、彼の発言は所属する組織の利害と全く関係なく、その経済学に立脚した視点と事実に対する検証に裏付けられた政策観で首尾一貫していた。日本の組織は一般的に同調圧力が強い。今回の決定会合のように、最初から自説を展開できる人が今までいなかったことも、論理と事実の検証という理屈が、いかに組織的な同調圧力=「空気」の前に弱いか傍証しているだろう。そのような日銀にも代表される同調圧力に抗する「勇気」を、片岡氏は民間エコノミスト時代から養っていたのだろう。 片岡氏の今回の日銀における「抵抗」は非常に強いメッセージを発している。片岡氏は日本銀行法が20世紀の終わりに改正されてから最も若い審議委員である。それ以前の日銀の歴史の中でも、われわれと立場が似ていた日本を代表するエコノミスト、下村治(1910-1989)に次いで2番目に若い審議委員である。またリフレ派でもあることを考えれば、この人選には官邸の意志が強く反映していると考えるのが普通だろう。つまり言い方をかえれば、官邸は片岡氏の意見を重視するはずである。ただのマイナーな意見の表明とは質が違う、と考えるべきだ。そして片岡氏が「勇気の人」であるならば、日本経済の状況と政策のあり方が変わらない限り、この「反対」の意見もまた変わることがないだろうと予測できる。繰り返すが、この「反対」は日銀への評価として、官邸や言論の場にも影響を与えることは間違いない。停滞脱出は金融政策のたまもの さて、次にいまの日本経済における金融政策のあり方を簡単にみておく。その上で今回の片岡氏の「反対」の理由について簡単にコメントしておきたい。 経済を安定化させ、雇用や生活の水準を改善していく役目を、各国の中央銀行は担っている。日本の中央銀行は日本銀行であり、その政策を決定するのは日銀正副総裁3人と審議委員6人からなる政策決定会合である。いまの日銀は経済の安定化を、物価安定目標(インフレ目標とも呼称される)を対前年比2%の水準を達成することで果たそうと考えている。なぜならば、日本経済の長期停滞は物価下落(デフレ)の継続にその真因があると、日銀は考えているからだ。 ただし、物価安定目標が導入されてから4年以上経過したが、いまだに物価水準は0%近くの低位置のままだ。その原因は、主に2014年4月導入の消費増税による消費低迷が現在も持続していることである。そして15年から本格化してきた新興国経済の不安定化、ギリシャ危機、英国の欧州連合(EU)離脱ショック、なによりも米国の金融政策が不透明化したことも大きい。 今日、後者の世界経済の撹乱(かくらん)は一息ついている状態だ。前者をみれば、17年6月の消費は名目・実質ともにプラス域に転じている。その意味では、ここ数年の日本経済の不安定感は次第に薄れているようでもある。だが、2%の物価安定目標への道のりは依然として厳しいだろう。もっとも雇用状況を含めて大半の経済指標は、日本が長期停滞に入る前の水準か、あるいは統計史上でもまれなほど改善しているものもあり、実体経済はかなり堅調ではある。これらは明らかに、不十分とはいえ長期停滞を脱しつつある証拠であり、また日本の金融政策の成果であることは疑いない。なぜなら日本経済全体を改善する政策効果のひとつである財政政策のスタンスは、この連載でも指摘しているように13年度は拡張基調だったが、それ以降は事実上の緊縮スタンスである。平成30年春に卒業予定の大学生らを対象にした企業の採用選考が解禁となり、三井住友海上火災保険の採用面接で、順番を待つ学生たち=6月1日、東京都千代田区 雇用状況を、世界経済の好転や生産年齢人口の減少による人手不足に求める不可思議な議論がある。だが、前者に関してはいま述べたように、ここ数年の世界経済は撹乱要因が大半であった。08年のリーマン・ショックにより落ち込んだ前後6年で比較すると、前では7・4%、後では5・3%である。先の「いまの雇用状況などがいいのは世界経済の好転のせい」という仮説に従うと、リーマン・ショック前は現状よりも日本経済はいいはずだ。だが、そんなことにはなっていない。つまりニセの議論なのである。 後者の生産年齢人口が減少したためにいまの雇用状況がいい、という議論もまたトンデモ経済論である。例えば、生産年齢人口は21世紀初頭から今日まで約1000万人減少している。今世紀に限定しても17年間、この減少は継続している。もし先の「生産年齢人口減少仮説」が正しければ、この減少トレンドと同時に失業率の低下や有効求人倍率の改善がみられただろう。だが実際には、小泉政権後期から08年までのリーマン・ショック以前、そして第2次安倍政権以降を抜かせば、失業率は高止まりし、有効求人倍率は極めて低かった。そうなると金融政策の緩和継続こそが、いまの雇用状況の改善に効果があったということはいえるであろう。安定的な経済再生にはあれしかない ただし、要するに金融政策は効果が極めて高かったが十分ではない。特に、経済の安定化というのは一時的なものであってはならず、継続的なものでないといけない。そのためには早急な物価安定目標の実現が必要である。その意味でも片岡氏の「抵抗」は高い評価に値する。それでは、現状までで公にされている片岡氏の反対理由をみておきたい。 「資本・労働市場に過大な供給余力が残存しているため、現在のイールドカーブ(国債の利回り曲線)のもとでの金融緩和効果は、2019年度頃に2%の物価上昇率を達成するには不十分であるとして反対した」と日銀のアナウンスメントにはある。これはまだ雇用状況の改善が不十分であり、まだまだ失業率の低下の余地もあり、そしてその結果としての賃金上昇圧力の可能性があることを、現状認識として言っている。資本市場の方は簡略にいうと企業の設備投資にまだ余力があるということである。この労働市場と資本市場の不完全利用を解消するには、いまのイールドカーブコントロールという日銀の政策手段は不十分である、というのが片岡氏の主張だ。これには私も賛同する。すでに今年の4月、この連載の中で指摘したことと全く同じだからである。以下に当該部分を再録する。 残念ながら、日銀の大胆な金融緩和政策は継続こそすれ、もう一段の緩和には動き切れていない。ここ1年をみても、短期・長期の金利を操作する「イールドカーブコントロール」やマイナス金利などを追加的に採用しただけである。これらの政策の効果はきわめて限定的だ。 例えば、イールドカーブコントロールは、具体的には国債の金利を操作することである。これは日銀の保有する国債の金利構成を変更することにもつながる。より大胆な政策であれば、最近、ノーベル経済学賞受賞者のジョセフ・スティグリッツ米コロンビア大教授が指摘し、さらに昔にさかのぼればベン・バーナンキ前米連邦準備制度理事会(FRB)議長も主張していたように、日銀のバランスシート(貸借対照表)の構成を変化させる、例えば保有国債の償還期間長期化を財務省と交渉することも一案である。そうなれば、10年物国債を20年、30年と長期化させることが可能だろう。 さらに、高等教育無償化などの目的を持つ国債を新規発行して、それを日銀に引き受けさせるのも一案である。いずれにせよ、政府との協調が重要であることは言うまでもない。この財政政策と金融政策の協調こそが、日本経済の安定的な再生のキーポイントである(「デフレ脱却はどうなった? 黒田日銀総裁4年間の『通信簿』」)。 筆者の観測が正しければ、片岡氏の「反対」には、黒田東彦総裁が安倍晋三首相と約束した「アコード」(政策協調)の再検討が含意されているのではないだろうか。そこに今回の片岡氏の「反対」のもつ大きな意義がある。経済財政諮問会議で、あいさつする安倍首相(左端)。右端は黒田日銀総裁=1月25日、首相官邸 やがて総選挙が行われるが、そのときに改めて政府と日銀の関係が問われることになるだろう。そのときに片岡氏の「抵抗」のもつ意味がより鮮明になってくるであろう。できればその「抵抗」が日本経済に実りをもたらす方向になることを期待したい。

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    巨人澤村のはり治療ミスと重なる江川卓「禁断のツボ」事件

    小林信也(作家、スポーツライター) 巨人が「澤村拓一投手に謝罪した」というニュースが報じられたのは9月10日。このニュースに接してからずっと、胸が痛む思いが消えない。   契約更改を終え、会見に臨む澤村拓一投手 =2016年12月、東京・大手町の球団事務所 胸が痛むのは、活躍の場を持つ投手が、人為的なミスによってその機会を奪われることへの痛切な哀感。本人の気持ちを思えば、言葉がない。同時に、その原因とされた球団トレーナーの気持ちや未来を思うと、いたたまれない。なぜなら、私自身が、はり治療によってスポーツ選手のケガを治し、オリンピックの金メダルを獲得させるなど、スポーツ施術の現場に直接関わっていた経験があるからである。私は鍼灸師ではないが、今回の騒動をめぐり世間から批判を浴びているトレーナー側、いわば当事者に近い立場でもあった。 まずは、事件の経緯を確認しよう。サンケイスポーツ紙はこう伝えている。 開幕前に右肩の異常を訴えて2軍で調整していた巨人の沢村拓一投手の故障の原因が球団トレーナーのはり治療での施術ミスである可能性が高いとして球団が謝罪していたことが10日、分かった。石井一夫球団社長、鹿取義隆ゼネラルマネジャー(GM)と当該のトレーナーが9日に川崎市のジャイアンツ球場で沢村に謝罪した。鹿取GMによると本人は納得しているという。 これを公表した巨人の姿勢に一定の評価を与える反応もあるが、同じ球団に所属する選手とトレーナー間で起きた治療ミス(事故)とはいえ、「本人は納得している」という解決法で終わっていい問題なのかどうか。 結局、「最善を尽くしても失敗することはあり、医療ミスは起こり得る」から、お互いの思いやりで「なかったこと」にするのが最も平和な解決だという現実はあるにはある。だが、もし本当に戦列離脱を長引かせた理由がはり治療だったとしたら、球団は澤村投手にもっと明確な補償をし、再発防止策を真剣に探る責務がある。 同紙はさらに次のように報じている。 球団関係者によると、沢村はキャンプ中の2月25日に右肩の不調を訴え、27日にはり治療を受けた。その後も状態が上向かなかったため、複数の医師の診察を受けて「長胸神経まひ」と診断された。まひは外的要因によるものとされ、はり治療で一時的な機能障害が引き起こされた可能性があるとの所見が出たことで、球団が謝罪した。 この記事の下りには「複数の医師の診察」とある。「複数だから間違いなさそうだ」という印象を与えるが、ここにひとつの不公平が隠されている。検証のため診察したのは、いずれも西洋医学の医師であり、原因とされたのが東洋医学に基づくはり治療を施したトレーナーである。スポーツ界に限らず、日本の医学界はある時期からずっと西洋医学主導で動き、東洋医学を冷遇、または排除する方向に働いてきた。はり治療はこうして浸透した 私は昭和60年代の半ばから数年間、はり治療を得意とする白石宏トレーナーのマネジメントとプロデュースを担当した。彼との活動を通して、治療技術を持ったトレーナーという新しい分野を拓き、普及させる一翼を担った。ロス五輪で4つの金メダルを獲ったカール・ルイス、ソウル五輪で金メダルを獲った水泳の鈴木大地(現スポーツ庁長官)、柔道の斉藤仁、さらにはテニスの伊達公子、松岡修造、マラソンの有森裕子ら、数え切れない選手たちのケガを治療し、競技に復帰させた。目標を果たす傍らにいた白石トレーナーの活躍を私は身近で支援し、それを雑誌や単行本で発信したこともあり、実際にトレーナーを志した人たちも少なくないと聞かされている。シート打撃練習に登板した巨人・澤村拓一=7月28日、ジャイアンツ球場(撮影・矢島康弘) その当時、はりを使うトレーナーに対する医学界の「拒否反応」はあからさまだった。鈴木大地、斎藤仁両選手から要請を受け、五輪の会期中ソウルに赴いたが、選手村に入ることは当然許されず、私はソウル市内に部屋を確保し、両選手が選手村から治療に通ってくる環境を整えた。西洋医学の医師たちが治せなかったケガだからこそ、選手は藁にもすがる思いではり治療を選択し、夢を達成した。それなのに、はり治療を根拠のないものとして排除しようとする組織的パワーを痛いほど感じた。 実際に、はり治療で選手がケガから回復した例は数え切れない。西洋医学的な治療より効果があり、短期間で競技に戻った例をたくさん知っている。反対に、スポーツ選手のケガや障害に関して、検査による診断はできても改善できない医師たちの現状もたくさん知っている。投薬や手術では改善できないスポーツ障害がたくさんある。 はり治療がスポーツ界で注目されたひとつのきっかけは、いま日本陸連のマラソン強化戦略プロジェクトリーダーを務める瀬古利彦だ。福岡国際マラソンを3連覇、ボストンマラソンにも優勝して広く国民的なスターだった瀬古利彦が、足のケガで長くレースから遠ざかった時期がある。いくつの病院を訪ねても治らなかったケガを治し、レースで走れるまでに回復させてくれたのが、はり治療家、小林尚寿だった。彼の伝説は、当時のファンにはよく知られている。アメリカのトレーナー制度を学んで帰国し、当初は西洋的なシステムに傾倒していた前述の白石宏トレーナーが痛切にはり治療を学ぶきっかけとなったのも、瀬古のケガを小林尚寿が治す姿を間近で見たからだ。 このように、西洋医学で治せなかったスポーツ選手のケガをはり治療が改善した事例は、その後の日本スポーツ界にもたくさんある。だが、日本各地に立派な競技場が建設され、その内部にトレーニング場やメディカル・ルームが併設されるが、東洋医学的なトレーナールームが採用された例を私はあまり知らない。ここは日本であるにもかかわらず、そういう場合に幅を利かせるのはやはり西洋医学的な施設なのだ。江川卓の引退は鍼のせい? はり治療に関わっていた者にとって、冷や水を浴びせられるような出来事は過去にもあった。苦い記憶のひとつは、巨人のエース、江川卓投手の引退コメントだ。まだ誰も引退を予想していなかった時期に早々と引退を発表したことが世間を驚かせた。 江川が引退を決意したきっかけは、澤村と同じ右肩のコンディション不良である。江川も長年、肩痛を抱えて苦しんでいたが、ここに打ったらもう二度と投げられなくなるという「禁断のツボ」に中国ばりを打った。そのため投手生命が終わった、というエピソードを引退会見で語ったのである。これはどう考えても納得のいかない表現だった。そんなツボがあるのか、という突っ込みはずいぶん後になってから指摘されたが、あまりに突然で衝撃的な引退発表だったため、「中国ばりが江川の投手生命を奪った」ような印象が強くファンに刷り込まれた。 もちろん、施術ミスは許されるものではない。だが今回の澤村にしても、不調の原因が本当に球団トレーナーの施術ミスだったのか、現時点で断定できる材料は見当たらない。画像は本文と関係ありません ひとつ、はり治療を近くで見ていた立場から「世間があまり認識していない現実」をつけ加える。はり治療は、ツボにはりを打って自然治癒力を高め、回復を促す効果があると一般には理解されている。しかし、スポーツ選手が受けるはり治療の大半は違う。小林尚寿が瀬古利彦に施したのは、要約すれば「痛みに直接打つはり」だと報じられた。白石宏は小林から直接指導を受け、身近にいてその技を学び、これを継承した。ふたりの存在は、はり治療を使うトレーナーたちの誕生に大きな影響を与えた。 この治療法は、もろ刃の剣、という側面がある。おそらく、はりの学校ではこのような治療法は教えない。国家資格に基づき、経絡を教え、ツボを刺激する治療を基本としている。はりの国家資格を取った治療家やトレーナーたちは、そこから自分の試行錯誤で独自の治療法を追求する。それをしないと治らないケガに多く直面し、また他のトレーナーより抜きん出た存在となって、仕事のチャンスをつかむことができないからだ。 そこに、真理とは違う我流がはびこり、治るときは治るが、治らないときもある、もしくはむしろ悪化する場合もある、といった現実が広がる可能性もある。 日本のスポーツ界は、これを機に、ただ東洋医学的な治療を排除するのでなく、積極的に西洋医学の医師、現場の監督、コーチ、研究者が一体となって連動する動きを促進すべきだと強く希望する。

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    本能寺の変、朝廷黒幕説を覆すキーワードは「日食」だった

    渡邊大門(歴史学者) 天正10年(1582)6月2日、京都の本能寺において、織田信長は明智光秀に襲撃され自害した。光秀が謀反を起こした原因については現在までにさまざまな指摘がなされており、いまだに注目を浴びるのは、光秀の背後に黒幕がいたという説だ。最近では、「土橋重治宛 明智光秀書状」(美濃加茂市民ミュージアム所蔵史料)の原本が発見され、光秀が室町幕府の再興を狙ったのではないかという議論が活発になっている。この件については後日詳述する「将軍黒幕説」の中で取り上げたい。 さらに他にも、朝廷が光秀の黒幕であったという説がこれまでも有力視されていた。つまり、信長が朝廷を圧迫あるいは蔑(ないがし)ろにしたため、反発した朝廷が光秀を背後から操り、信長を討伐させたというのである。では、信長が朝廷を圧迫あるいは蔑ろにした事実というのはあったのだろうか。その一つ一つを確認することにしよう。「宣明暦」吉田光由著 寛永21年(1644)(国立天文台所蔵) 最初に取り上げるのは、暦の問題である。信長はこれまで朝廷が採用していた宣明暦を止めるよう要望し、地方で使用されていた三島暦の採用を強要したといわれている。暦といっても大した問題でないように思われるが、実際は時間の支配に関わるもので大きな意味があった。暦の採用は朝廷の権限に属するものであり、他者が口出しすべき問題ではないということだ。 信長が三島暦を強要した理由については、これまでどのように考えられてきたのか。一説によると、本来は朝廷の掌中にあった「時の支配」を信長が掌握し、正確な暦法の確立を目指したという指摘がなされている。これを平たくいえば、信長が朝廷の権限の一つを奪取しようと考えたということになる。以下、経緯を見ることにしよう。 天正10年1月、信長は陰陽頭・土御門久脩(つちみかど ひさなが)が作成した宣明暦を取り止め、尾張国など関東方面で使用していた三島暦の採用を要望した(『晴豊記』など)。こうした要望は異例でもあり、信長が朝廷を圧迫したものの一つと解釈されてきた。 宣明暦とは中国から伝来した暦法のことで、日本には貞観(じょうがん)元年(859)に伝来した。以来、宣明暦は江戸時代の貞享(じょうきょう)元年(1684)までの約800年間も利用される。しかし、宣明暦には日食や月食の記載があっても、実際には起こらなかったことがたびたびあり、不正確であるという大きな問題があった。そのような事情も加味され、貞享元年以降は渋川春海(しぶかわ はるみ)が作成した貞享暦が用いられるようになる。三島歴を推した理由とは? 信長が要望したのは、以下の内容である。宣明暦では天正11年正月が閏(うるう)月に設定されていたが、三島暦では天正10年12月が閏月だった。信長は三島暦に合わせて、天正10年12月を閏月にするよう要望したのである。検討された結果、信長の意に反して、朝廷は宣明暦の天正11年正月に閏月を定めた(『天正十年夏記』)。この時点で、信長は強硬な姿勢や態度をとったわけではなく、いったんは納得したのである。信長が採用するよう要望した「三島暦」(国立天文台所蔵) 暦問題はこれで終息せず、信長は再びこの問題を蒸し返す。事態が急展開を遂げたのは、本能寺の変の前日の天正10年6月1日のことだった。この日、公家衆は信長の滞在する本能寺を訪れた。そのとき信長は公家衆に対して、再び宣明暦から三島暦に変更するよう迫ったのである。これは、いったいどういうことなのだろうか? 最近の研究によると、信長が変更を迫った理由は宣明暦が同年6月1日の日食を予測できなかったからであると指摘されている。先述のとおり、宣明暦は日食や月食の予測が正確にできなかった。では、信長はどのような理由で、日食が把握できなったことを問題視したのだろうか。 当時は現在のように科学が十分に発達しておらず、日食や月食は不吉なものと捉えられていた。日食や月食が起こると、朝廷では天皇を不吉な光から守るため、御所を筵(むしろ)で覆うようにしていたのだ。今となっては迷信であるが、当時の人々は天皇の身の安全を守ろうと真剣に考えていたのである。 同年6月1日、信長は自身で日食を確認し、宣明暦の不正確さを再認識した。宣明暦では不十分であり、三島暦の方が正確であると、信長は改めて認識した。つまり、信長が暦の変更を強く迫ったのは、天皇を不吉な光から守るためであり、そのことを公家衆に伝えたかったのだ。信長は自身が慣れ親しんだ三島暦を用いるようゴリ押ししたのではなく、あくまで天皇の身を守ろうとしたのである。 これまでの流れを見る限り、信長が三島暦の採用を提案した理由は、天皇の身を案じたと見る方が自然なようである。信長は「天皇を守りたい」という親切心で、三島暦の採用を進言したと考えられる。少なくともこの一件については、信長が朝廷を圧迫あるいは蔑ろにした事例とはいえず、逆に感謝される出来事だったといえる。よって、暦の問題は朝廷黒幕説の適切な理由の一つと言えないようだ。【主要参考文献】・桐野作人『だれが信長を殺したのか 本能寺の変・新たな視点』(PHP新書、2007年)・渡邊大門『信長政権 本能寺の変にその正体を見る』(河出ブックス、2013年)

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    無欲の走りでつかんだ桐生祥秀「9秒98」の金字塔

    小林信也(作家、スポーツライター)日本学生対校選手権の男子100メートル決勝で、9秒98の日本新記録を樹立し喜ぶ桐生祥秀=9日、福井県営陸上競技場 9月9日、陸上男子100メートルで桐生祥秀(東洋大)がついに9秒98を記録し、日本人で初めて100メートル「10秒の壁」を破った。桐生が先鞭(せんべん)をつけたことで、同じく9秒台を狙うサニブラウン・ハキーム(東京陸協)、ケンブリッジ飛鳥(ナイキ)、多田修平(関西学院大)、山縣亮太(セイコーホールディングス)らも次々に9秒台に突入する期待がふくらんでいる。 世界のスプリント界は伝統的に黒人選手の天下が続いている。これまで100メートルを9秒台で走った選手はすでに100人を超えるが、その中で、黒人以外のスプリンターはたった3人しかいなかったという。クリストフ・ルメール(フランス)9秒92、パトリック・ジョンソン(豪州)9秒93、蘇炳添(中国)9秒99。桐生は「4人目」となった。 黒人優位の100メートルにあって、桐生が9秒台を突破できたのは、そして桐生に続く期待のランナーが片手で数え切れないくらい控えている日本の高レベルの背景には何があるのか。 ひとつは、日本の中学、高校の陸上指導者の情熱と努力。大学の研究者も含め「日本人が100メートル10秒を突破する夢」を誰もが追い求め、それぞれに「人生をかける」ほど日々の努力を重ねてきた、その集大成ともいえるだろう。 9秒台の夢を多くの陸上関係者が追い求めてきた。不断の努力が全国津々浦々で行われていた。その中から、才能ある桐生が飛び出し、次いでサニブラウン、ケンブリッジ、今年はさらに多田が9秒台に迫る実力を身につけた。 記録が伸びた背景にはトレーニングの進化や、何十台ものビデオカメラで撮影してフォーム分析するなどの技術研究の成果もある。加えて、シューズやトラックの開発も挙げられる。 1968年のメキシコ五輪のころから、アンツーカーに代わって、ポリウレタン舗装の全天候トラックが主流になった。弾力性に富むウレタン素材はストライドを伸ばしやすく、記録が2パーセント良くなるといわれている。この素材開発も年々重ねられているから、選手の実力が同じでも記録は向上する環境が整っている。 さらに、日本のシューズメーカーを中心に、スパイクの改良、開発も日進月歩、重ねられている。カール・ルイスの勝利を支えるために「片足たった115グラム」の軽量スパイクが提供され、話題になった。かつては耐久性も兼備していなければ「市販に耐えない」という考え方があったが、カール・ルイスのころからは選手のプロ化もあり、「記録を出すための一発勝負のスパイク」を選手たちが使うようになった。これも記録短縮に大きな役割を果たしている。「少し遅すぎた」壁を破った無欲の力 桐生の9秒台はもちろん快挙だ。歴史を開く一歩であるのは間違いない。だが、「少し遅すぎた」という気持ちを持つ関係者、ファンも少なくないだろう。 電動計時で世界初の9秒台が記録されたのは、1968年10月、ジム・ハインズ(米国)の9秒95。それから49年もたっている。ただ、ハインズの記録が高地メキシコでマークされたものだったため、1983年5月、カール・ルイスが出した9秒97が「平地で初めての9秒台」とも形容されている。それからでさえ、34年も過ぎている。 ウサイン・ボルトが9秒58の現世界記録をマークしたのは2009年8月のベルリン世界陸上。桐生の記録と0秒4もの差がある。伊東浩司が10秒0をマークしたのは、1998年12月。この記録更新に19年近くかかった。それだけ難しかったとも言えるだろうし、桐生の快記録を誰も驚きはしなかった。それは「機が熟していた」と誰もが感じていたからだろう。それだけに、ここからの飛躍に期待がかかる。 世界の現状に目を移すと、9秒98は決して手放しで喜べる記録ではない。国際陸上連盟のホームページに、世界歴代ランキングが掲載されている。桐生は99位にランクされている。すでに引退した選手も多いが、世界はまだ決して近くはない。 今季のベスト10を見ても、トップがクリスチャン・コールマン(米国)の9秒82。2位がヨハン・ブレークの9秒90、3位ジュリアン・フォルテの9秒91とジャマイカ勢が続く。11位に9秒97で5人が並んでいるから、桐生より速い選手がまだ15人いるわけだ。内訳は、アメリカ5人、ジャマイカ3人、南アフリカ3人、フランス、トルコ、英国、コートジボワール各1人。そのうちのボルトは引退した。もちろん、このランクなら、決勝進出は射程内といっていい。決して夢ではないだろう。だが、他の選手が実力どおりの走りを展開したら、まだ金メダルを確実に狙えるまでには至っていない。 京都・洛南(らくなん)高2年のとき、ユース世界記録の10秒21をマークし、桐生は一躍脚光を浴びた。9秒台を実現するのに、それから5年の月日が必要だった。この長い5年の間に桐生は何を感じ、何をつかみ取ってきたのか。それが大きな糧となって、五輪ファイナリスト、さらにはメダル獲得につながればいい。陸上の日本選手権男子100メートル決勝で4位に終わった桐生祥秀(中央)。右は10秒05をマークし、初優勝したサニブラウン・ハキーム。左は2位の多田修平=2017年6月24日、ヤンマースタジアム長居(撮影・甘利慈) 今回の記録達成は、実はあまり期待されていないレースだった。コンディションはよくなかった。そのため、普段はあまりやらない長い距離を走る練習を数日間やっていた。そのためか、後半の失速が遅かった。いつもは55メートル付近でトップスピードを記録するのが、今回は65メートル付近が最速だったという分析がある。これが世界の上位に食い込むための、意外に大きな手がかりになるのではないかとの見方もある。 ずっと望み続けた9秒台だが、このレースに限っては「無欲」な記録達成が、桐生に思いがけないひらめきと新たな感覚を与えた可能性がある。

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    山尾志桜里は不倫スキャンダルで政治家の価値を高めるかもしれない

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) 民進党の新代表に前原誠司元外相が選出された直後、山尾志桜里元政調会長のスキャンダルによって同党は出だしからイメージを大きく損ねてしまった。最近では、ワイドショーをはじめとするメディアの「印象」によって政治が大きく左右されてしまっている。安倍政権における森友・加計学園問題もそうだし、豊田真由子衆院議員の暴言も東京都議会選挙の行方にかなりの影響を与えただろう。民進党の両院議員総会に出席し、拍手する山尾志桜里元政調会長=9月5日、東京・永田町の民進党本部(斎藤良雄撮影) 報道によれば、前原氏は山尾氏を幹事長の要職に据えたかったらしいが、スキャンダルによってそれはかなわなかった。山尾氏は民進党から去ることで問題の沈静化を狙っている。 山尾氏のスキャンダルは男女問題が原因である。男女問題のスキャンダルについては、山尾氏が与党議員に対して倫理的な観点から厳しい批判を展開していた。そのため、今回の彼女のスキャンダルは「特大ブーメラン」などとして批判を浴びている。 また離党の理由もよくわからない、という批判もある。9月7日に行われた離党会見の文言も「倉持(麟太郎)弁護士と男女の関係はありません。しかし、誤解を生じさせるような行動で様々な方々にご迷惑をおかけしましたこと、深く反省しお詫び申し上げます。そのうえで、このたび、民進党を離れる決断をいたしました」となっている。 スキャンダルに根拠がなければただの嘘である。嘘をつかれた責任をとる必要はまったくない。ただ、安倍晋三首相に「(官僚などに)忖度(そんたく)させた罪」を問うてきた民進党だけに、その党のやり口を自身の問題にも適用したのだったら、それはそれで首尾一貫している。もっとも褒められたものではないが。パリス・ヒルトンでわかる「スキャンダルの経済学」「お騒がせセレブ」パリス・ヒルトン(2013年6月撮影) 離党の理由は、倫理的な問題よりもむしろ政治的な計算だろう。スキャンダルは必ずしも政治家や有名人にとって致命傷とはかぎらないからだ。問題はどのように制御するかに依存する。拙著『不謹慎な経済学』(講談社)の中で、ハーバード大学のジョージ・ボージャス教授の「パリス・ヒルトンの経済学」というものを紹介したことがある。パリス・ヒルトンといえば最近は、香水販売やアパレルなど実業家の側面が話題だが、少し前までは上流階級のお騒がせセレブだった。10年前、そんな彼女が交通規則違反で刑務所に収監されたことが話題になった。 ボージャス教授は「パリス・ヒルトンの経済学」の中で、この刑務所生活が彼女のセレブ価値にどんな影響を与えるかを経済学的に分析したのである。その結論は、予想に反して、「セレブとしての価値を高めるのに、今回の刑務所での服役は長期的に有効である」というものだった。その理由は「奔放なセレブ」「富豪の苦労知らずの娘」というイメージに、服役という人生の試練を受けたという「箔(はく)」を与えたことで、彼女の市場価値が高まったとみなしたのである。ボージャス教授の予言が正しかったのかはわからないが、パリス・ヒルトンはいまだに10代から30代の女性の生き方のモデルとして健在なのは確かだ。 さて、「山尾志桜里議員の経済学」はどうだろうか。ポイントのひとつは議員辞職ではなく、あくまでも民進党からの離党だということだ。冒頭でも書いたが、最近の政治はワイドショーを中心とするメディアの印象によってその方向性が大きく左右されている。特に一議員のスキャンダルが、党全体の問題として印象づけられる傾向が強い。先述した都議選のときの豊田議員の暴言や稲田朋美前防衛相の失言問題は、女性層を中心にして自民党への支持を失わせた典型例だ。 一議員の問題が党全体に波及する。経済学的には一種の外部効果だが、いまのワイドショーなど報道の在り方をみてみると、特定の政党を「悪魔」のように仕立て上げて批判することで、視聴率獲得などの歓心を得ようとしている。そのため政党に影響があればあるほど、一議員の問題の価値もまた高まるというフィードバック現象がみられる。この負の連鎖をとめるには、議員辞職が最善の選択になる。議員であるがゆえに、「不倫」というよくある出来事も報道の市場価値を持つからである。宮崎謙介元衆院議員のケースはこの対処法であった。政治家はなかなか食えない「生き物」8月21日、民進党代表選の出陣式で、山尾志桜里元政調会長(左)とあいさつを交わす前原誠司元外相(斎藤良雄撮影) 山尾氏は、議員辞職ではなく民進党の党籍を離れたので、いわば「次善の策」だ。一説には、10月に行われる衆院の三つの補欠選挙に絡んでいるともいわれている。いまの段階で議員辞職してしまうと、山尾氏の選挙区でも同日に補選を行うことになるため、候補者探しなどのコストを民進党が避けたという解釈だ。山尾氏個人は、議員であるかぎり当分の間、スキャンダルを引きずるというコストが発生する。他方で、民進党を離れたことで先の負のフィードバックから免れるという便益を得ることができる。この便益とコストの比較での民進党からの離脱だろう。 短期的には、民進党を離れたことにより党からの金銭的な支援なども受けられなくなり、その意味でのコストも発生している。他方で、長期的にみると必ずしも損ばかりとは言い切れない。議席を維持しているので、次の国政選挙のときに民進党に復帰し闘うことも可能である。その意味では、パリス・ヒルトンが一時期刑務所に入っていても「箔」がつきセレブ価値を長期的に高めたように、政治家というセレブとしての価値も長期的には高まる可能性がある。要するに、政治家はなかなか食えない生き物だということだ。 山尾氏の問題については、一部の識者たちのダブルスタンダードともいえる発言も目立っている。自民党議員に同種の問題があれば苛烈な批判をしていたのに、山尾氏には弁護的だ、というものだ。これは認知バイアス(政治的偏見)の問題だろう。 ただ、政治家の私的スキャンダルで、政党の評価を決めるような社会的風潮はやはり問題なのだ。政党の評価でいうなら、前原代表の経済政策観には深刻な問題がある。例えば、消費税を引き上げることで、社会のすべての人の幸福を実現し、分断社会にも歯止めがかかるという。 社会の分断が防げるのならそれは大いに賛成だ。だが、引き上げる消費税率だけがやたら具体的で、他方でその税金でどのくらい私たちの生活水準が向上するのか(1人当たりの所得)、また、ジニ係数などを用いて経済格差がどのくらいの数値で低下するのか、といった具体的な政策目標の値は明示されていない。ただ、単にやたらはっきりとした税率の数字と、「all for all」というスローガンが先行しているだけである。ひょっとしたら、1人当たりの生活水準の向上を断念しているのではないかとさえ思える。それこそ「反成長主義」「成長断念」というトンデモ経済思想ではないだろうか。 「山尾スキャンダル」よりも、やはり前原氏の経済政策の方が個人的にはよほどスキャンダルである。

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    高山善廣の悲劇を繰り返さないために昭和のプロレスから学ぶべきこと

    小林信也(作家、スポーツライター) 試合中の事故で療養中のプロレスラー高山善廣の症状が重く、首から下がまひして現状では回復が難しいと伝えられ、ファンならずとも多くの人が心を痛め、衝撃と波紋が広がっている。 高山善廣は今年5月4日、DDT豊中大会(大阪府)の試合直後に救急搬送され、頸髄(けいずい)損傷および変形性頚椎(けいつい)症の診断と発表されていた。高山は回転エビ固めをかけに行って失敗し、頭からマットに落ちた上に相手レスラーの全体重が首と頭にかかる形になり、動けなくなった。 今回の発表を受け、レスラー仲間からさまざまなメッセージが発せられている。 この問題を特集したTOKYO MXテレビの番組に出演した人気レスラー蝶野正洋は、「リング上の事故は使う側がルールを作らないと止まらないと思う」と語った。 今回の事故だけでなく、プロレス界はある時期からリング上での事故が増えている。 2009年6月、人気レスラーでプロレスリング・ノアの代表取締役でもあった三沢光晴の事故は衝撃的だった。バックドロップを受けて頸髄離断、心肺停止状態となり、その夜に亡くなった。ノア・小橋建太復帰戦タッグマッチで、三沢光晴(右)のエルボーを受ける高山善廣=2007年12月2日、日本武道館(撮影・荒木孝雄) 00年4月には福田雅一(新日本プロレス)が死亡。女子プロレスでも1997年8月にプラム麻里子(JWP)が、99年3月に門恵美子(アルシオン)がリング渦で亡くなっている。 こうした事故は、日本のプロレス界の「変化」「風潮」がもたらした背景がある。技が過激化したこともあるが、一方には、「プロレスはリアルか、フェイクか、エンターテインメントか」という、常に語られる(あるいは見る側の心の奥にある)素朴な思いに対するプロレスラーの挑戦とプライドのようなものが絡み合っている。 日本のプロレスの歴史は力道山に始まり、ジャイアント馬場、アントニオ猪木らが受け継いで、ひとつの時代を築く。街頭テレビで日本中が熱狂したと言われる時代は知らないが、試合と試合の間に電気掃除機が登場し、マットをきれいに掃除する風景でもおなじみだった日本プロレス中継は、男性だけでなく、中年以上の女性たちにも人気が高かった。 「四の字固め」のザ・デストロイヤー、「頭突き」のボボ・ブラジル、「鉄の爪」フリッツ・フォン・エリック、バックドロップが得意な「鉄人」ルー・テーズら、個性が明快な敵役との対決がファンの心をかきたてた。激しくほのぼのした、あのころのプロレス 「日本人」対「外国人」という対決の構造も明確だった。多くのファンの中には、「このダイナミックな勝負は、お互いの呼吸がなければ成立しない」という認識はあって、「だからプロレスは面白くない」という批判にはつながらなかった。当時のプロレスには、リアルかどうか、といった議論を遙かに上回る魅力と吸引力があったからだろう。そして、時代も、大衆も、そうした昂奮(こうふん)とストレス解消を求めていた。 昭和31年に生まれた私の世代は、小学校の高学年になると当たり前のように「プロレスごっこ」に興じた。雪国だったから、降り積もった新雪の上に友だちをバックドロップで投げる光景は珍しくなかった。 プロレスごっこをすると、とくに大技になればなるほど、攻め手ひとりの力では成し得ない。技を受けるレスラーの呼吸もなければ、ファンが昂奮し、感嘆する鮮やかさは生まれないと体感する。だから、と非難するのでなく、それこそがプロレスの深さだと子ども心に了解した。もちろん、ささやかな葛藤もあるにはあるが、その了解がなければプロレスは成立しないと理解したのだと思う。その辺の機微を見事に表現し、プロレスの見方に新しい自信を与えたのが、作家・村松友視の人気作《私、プロレスの味方です》だった。 当時のプロレスには、激しさの一方に、どこかほのぼのとする空気もあった。 極悪ガイジンレスラーの凶器攻撃、口の周りを血だらけにして高笑する「吸血鬼」フレッド・ブラッシーの姿には慄然(りつぜん)とした。その怖さは半端でなかったが、実際に日本人レスラーは死ななかったし、毎週、元気な姿をテレビで見ることができた。 ところが、「暗黙の了解」の了解を打破する動きを売り物に台頭する勢力が現れた。その先鋒(せんぽう)が、ずっとジャイアント馬場の二番手のような立場に甘んじていたアントニオ猪木だ。あのころ、私自身も猪木のファイトに衝き動かされた。その挑戦をワクワクする思いで見つめた。(もしかして、猪木のプロレスは本気なんじゃないか) そんな幻想を抱いた。そして、その幻想がもしや真実かと思わされる瞬間の鋭い昂奮は、それまでのプロレスにない新しい地平だった。モハメッド・アリと闘ったのも、猪木がリアルに強いことを証明するひとつの階段だったろう。1976年6月26日、格闘技世界一決定戦でモハメド・アリ(右)とアントニオ猪木が対決=日本武道館 しかし、83年6月、後に「猪木舌出し失神事件」と称される事故が起こった。人気レスラーのハルク・ホーガンとの試合。ロープの外のエプロンサイドと呼ばれるエリアに立っていた猪木に、ホーガンが得意技のアックスボンバーを見舞った。腕を水平にして首筋に叩き込む技。リング下に落ちた猪木は、ファンが予想した動きとはまったく別の雰囲気を醸し出した。立ち上がらない、反応しない。やがて、緊急事態が宣言され、猪木の救急処置が行われた。舌出し失神事件の「罪」 舌出し失神事件と呼ばれるのは、窒息を防ぐため、猪木の舌を引き出したからと言われる。この事件には諸説あって真相はわからないが、素直なプロレスファンだった私にとって、プロレスとの訣別を感じたターニングポイントでもあった。振り返れば、あの日以来、無邪気にプロレスを見ることができなくなった。「暗黙の了解」を打破する方向に動き出せば、猪木の事故のような出来事が起こるのは必然。その方向に立ち入ってはいけないという警鐘だったかもしれない。日本のプロレス界はそれを自覚できなかった。むしろ、馬場・猪木以後のスター選手群雄割拠の時代となり、より過激な方向に向かった。 その代表は、有刺鉄線デスマッチであり、その鉄線に電流まで流されるようになった。 リング上で展開される技もより過激を求められ、過激な技を受けることを相手レスラーも求められる風潮がエスカレートしていた。新日本プロレスのノーロープ有刺鉄線電流爆破マッチで、長州力(上)のさそり固めから逃れるために自ら有刺鉄線に手をのばす大仁田厚=2000年7月30日(荒木孝雄撮影) 過激化し、リアルを求めざるを得なかった背景には、総合格闘技の隆盛もあっただろう。K-1などの人気が沸騰し、一時はプロレスの影は薄かった。その存亡さえ危ぶまれた。そうした事情も一方にあるだろう。 アメリカでは、WWEという勢力が人気を得ている。完全にストーリーがあり、配役があり、さまざまなドラマや設定の上でプロレスが展開される。リアルを追求するのでなく、エンターテインメントを追求した結果の集大成ともいえる形だ。日本でもCSテレビなどを通じて人気がある。 またアメリカのプロレス界では、頭部や首筋への攻撃を基本的には禁止、危険な技も規制されているという。パイルドライバー(脳天逆落とし)といった大技は、雪の上のプロレスでよく登場したダイナミックな技だが、相手を高く持ち上げ、頭や首でなく背中から落としてやると、見た目の豪快さと裏腹に、受け身も取りやすく、ダメージは小さい。アメリカのレスラーたちはこうした工夫を凝らしているという。 蝶野の発言は、こうした規制を含んだ指摘だろう。また、心身が不十分な状態でも無理矢理出場する選手が少なくない現状の中、主催者がレスラーの健康状態を把握し、リングに上がれる状態でなければ出場を認めないなどの規則も必要だと訴えている。 それ以上に、力道山、馬場、猪木の系譜をしのぐ、明るくダイナミックでドラマチック、レスラーとファンが新たな感動と昂奮を共有できる新しいプロレスの創造。その方向に敢然と舵(かじ)を切ることこそ、根本的な急務だと感じる。 安心して見られるプロレスと言ったら誤解されそうだが、ハラハラしながらも心の奥底では安心を持って見ている…。それがまさに、リアルとエンターテインメントのギリギリの“プロの水準”ではないのだろうか。

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    神仏を恐れぬ織田信長の「悪魔信仰」を示唆する2つの記述

    橋場日月(歴史研究家、歴史作家) 2017年。織田信長が天下統一を前に本能寺の変で非業の死を遂げてから435年になる。この間、信長はどういう性格の男と考えられてきただろうか。 同時代の公家、山科言継(やましな ときつぐ)は永禄12年(1569)1月に信長が将軍・足利義昭のために造営を開始した京・二条第の工事現場で何度も接触をはかったが、信長は「機嫌が悪いとして対面しない」ときもあり、また「寒いから」と会わずに済ませることもあったという(『言継卿記』)。 そのほかにも、信長が公家たちと立ち話だけで大事な用件を片付けた例は多い。仮にも当時の上級貴族、朝廷の洗練された礼儀作法や圧倒的な教養、全国へ伝わる情報の発信源ともなる公家に対するこの人もなげなふるまい。体面を気にせず、無駄な礼儀作法や時間の浪費をとことん嫌う彼の性格が表れている。 一方、キリスト教布教のためにはるばる日本へやって来たポルトガル宣教師ルイス・フロイスは、信長に関する多くの感想を書き遺(のこ)した。彼も「信長はだらだらした長話や無駄な前置きを嫌った」と表現し、言継と同じ二条第工事現場での信長についても「虎皮を腰に巻き、どこでも座れるようにした粗末な身なりをしていた」と記録している。 さらに「地球儀によって地球が丸いことを説明された信長は『理にかなっている』と即座に理解した」とも説いており、当時ヨーロッパでもまだまだ地球が球体であることを納得していない人が多かったことを考えると驚くべき頭脳の柔らかさではないか。 フロイスが見た信長も、時間を有効に使い、人目を気にせず行動するだけでなく、筋道が立った理論であれば先入観無く受け入れる人物だったのだ。横瀬浦公園のルイス・フロイス像(長崎県観光連盟提供) 以上のような同時代人の証言から浮かび上がる信長の姿は、一言でいえば「合理主義者」。だが、こんなものはまだまだ序の口にすぎない。フロイスがこう続けた。 「信長は神と仏に対する祭式と信心をいっさい無視した」 「彼は良い理性と明晰(めいせき)な判断力の持ち主で、神および仏のいっさいの礼拝、尊崇、ならびにあらゆる異教(非キリスト教)の占いや迷信的慣習を軽蔑していた。(中略)霊魂の不滅、来世の賞罰などはないと見なした」(以上フロイス『日本史』)。 日本人のほぼすべてが神々を敬い仏教をありがたがる中で、彼はそれを明確に否定していたというのだ。信長のこの思想については、「日本では自分自身が生きた神・仏になり、石や木で出来たものは神ではない、と言った」と、強敵・武田信玄が死去した直後の天正元年(1573)4月20日のフロイス書簡(『耶蘇会士日本通信』)に顕(あらわ)れたのが一番早い例だ。どうしても気になる2つの文章 しかし、信長はその3年前の元亀元年(1570)には浄土真宗の本願寺との戦争状態に入り、翌元亀2年(1571)には有名な比叡山延暦寺(えんりゃくじ)(天台宗)の焼き討ちもおこなっている。そして何よりも、天文21年(1552)に父の信秀が亡くなった際に信長は葬儀の場で焼香に立つと、「抹香をくわっとつかんで仏前に投げかけて帰った」という若き日の強烈なエピソードもある(『信長公記』)。 無駄な時間と虚礼を嫌う合理主義者であり、神仏を無視した信長。これがあいまって、「彼は無宗教だった」と言われるようになった。そこからさらに進んで、彼が特定の神社や寺を保護した実例もあるから、宗教すべてを完全に否定していたのではない、という論議も出ている。「信長は自分に従わない宗教を敵としただけだ」というわけだ。 だが、全国制覇をめざす信長としてみれば、すべての宗教を敵にまわすなど「時間と労力の無駄」の最たるものだったのではないだろうか? 従来の信仰生活の中で暮らしている家臣たちにも動揺が広がる。信長は、計算ずくで宗教に理解を示すポーズをとることがあった、とも解釈できるのではないか。 これも有名な話だが、先に紹介したフロイスの書簡には、信長は「第六天の魔王」と自称したとも書かれている。第六天魔王というのは仏教の修行を妨げる存在なのだが、これについては後で詳述することにしよう。字面に忠実ならば、これは信長自身が無宗教どころか反宗教であることを公言していたとしか説明できない。安土駅の織田信長像 いずれにしても、現在の一般的な信長像は「科学的な思考法を持つ徹底した合理主義者であり、神仏を否定する無宗教論者」といったところだろう。妥当な信長観であり、筆者自身も、一応それに納得し賛同するひとりである。 ところが、だ。もうひとり、心の奥の方にいる別の私がどうしても異議を唱えたくてうずうずしているのだ。筆者には、以前からどうしても気になって仕様が無い文章が2つある。まずその一つ目を紹介しよう。 皆さんは『甫庵(ほあん)信長記』という信長伝記をご存じだろうか。小瀬甫庵(おぜ ほあん)という人物が、信長の近侍だった太田牛一の『信長公記』を底本としてそれに脚色を加え読み物として整えたもので、大坂冬の陣の3年前、慶長16年(1611)に刊行されたものである。信長は「鬼神を敬った」 その性格上、信頼性という点では割り引いて考える必要があるのだが、その中に信長について、「鬼神を敬い、社稷(しゃしょく)の神を祭らなかった」という一節があるのだ。これは信長が志なかばで死を迎えなければならなかった理由のひとつとして書かれている。 社稷の神というのは土地の神、すなわち氏神のことなのだが、それは取りあえず置いておこう。ここで問題なのは、「鬼神を敬った」という部分だ。当時の日本語を採録した『日葡(にっぽ)辞書』をひいても、「鬼神」は「悪魔」という意味でしかない。信長が鬼、悪魔を信仰していたとしか解釈不能なのだ。 「史料的に信頼性が低い本なのだから、気に留める必要もないのではないか」とも思うのだが、それでは『甫庵信長記』とは比較にならないほど史料価値の高さを認められ、学者や研究家がこぞって参照している『信長公記』はどうだろうか。 同書には、先述したように信長が父の葬儀で抹香を投げつけた逸話以外にも、ハッとする記述が多くある。中でも、永禄3年(1560)桶狭間の戦いの直前、前哨戦の勝利に喜んだ信長の敵・駿河遠江三河3カ国の大大名、今川義元がこう述べたというのは興味深いところだ。 「義元の矛先には、天魔鬼神も対抗できない」。討ち果たすべき相手の信長を魔神に例え、今川軍はそれを上回る強さなのだ、と誇っている。まぁ、敵を「天魔」と呼ぶのは日蓮や上杉謙信など他にも多くの例が見られるからあえてあげつらう必要は無いのかもしれないが、「鬼神を敬った」と考え合わせると、妙に不気味ではないか。そう思うと、どうにも好奇心がとまらなくなって来る。好奇心は、「信長は鬼神に代表されるオカルト信仰に凝っていたのではないか」と筆者にささやきかけるのだ。夕闇迫る桶狭間古戦場公園に立つ織田信長像(左)と今川義元像=2016年12月9日、名古屋市緑区(関厚夫撮影) そこで『信長公記』から順を追って信長の生活、行状を見ていこう。抹香を投げつける前の年から、それは始まる。なお、これ以降は意訳だけでなく原文も併記するので、若干お読みいただく手間は増えるかもしれないが、細かいニュアンスを感じていただきたいケースもあると思うので、ご寛恕(かんじょ)願いたい。若き日の異様な服装 天文20年(1551)、信長は数えで18歳だった。この頃までの彼の風体はこう描写されている。 「明衣(ゆかたびら)の袖をはづし、半袴、ひうち袋、色々余多(あまた)付けさせられ、御髪(おぐし)はちやせんに、くれなゐ糸・もゑぎ糸にて巻立てゆわせられ、太刀朱ざや」(袖無しの湯帷子を着て半袴をはき、火打ち石の入った袋など色々身につけ、髪は紅や萌黄(黄色っぽい緑色)の糸で巻き茶筅曲げに結い上げ、朱色の鞘の太刀を佩いた) 湯帷子(かたびら)というのは現在の浴衣の原型で、それに半袴(長袴ではなく、足首までの長さ)を履き、火打ち石の袋などを腰から下げ、カラフルな糸で髷を結う。朱色の鞘(さや)の太刀は、傾奇者の象徴でもあり、絵に描いたような不良少年の姿なのだが、翌年の信秀の葬儀の場ではどうだろうか? 「長つかの大刀・わきざしを三五なわにてまかせられ、髪はちやせんに巻立、袴もめし候はで」(長い柄の太刀と脇差しを差しているのだが、その柄を三五縄で巻き、茶筅(ちゃせん)曲げの髪型で袴も穿かず) おやおや、このときには袴すら履かない着流しスタイルだったようだ。岐阜公園の入り口に立つ「若き日の織田信長像」奇矯ないでたちをしていた頃の信長を想像させる この葬儀の翌年、信長はしゅうとで美濃の大名である斎藤道三と面会する(信長の正室は道三の娘、帰蝶だった)。ここでも信長の格好は変わりない。いや、ひとつ異なるところがあった。 「御腰のまはりには猿つかひの様に火燧袋・ひようたん七つ・八つ付けさせられ」(腰のまわりに猿使いの様に火打ち石袋・7~8個のひょうたんを付けていた) ひょうたんが何個も腰にぶら下がっていたという。 道三との会見の場で信長は礼式にのっとった正装へと鮮やかな変身を遂げ、以降はまともな身なりをするようになるのだが、それまではこの異様な装いを通していたのだ。 次回はここで問題となる若き日の信長スタイルのアイテムについて、掘り下げていきたいと思う。

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    北朝鮮危機、日本経済のリスクはこうやれば回避できる

    とで同じ影響を及ぼすだろう。9月3日、ソウル駅で北朝鮮の核実験を報じるテレビ(共同) ただし、前回の連載でも書いたが、現時点ではまだ「北朝鮮リスク」が日本経済に破滅的な影響を及ぼすほどではない。現時点で株式、為替など資産市場の不安定化は、ある程度は予想の範囲内でもあり、しばらくすればリスク発生前の水準に戻る可能性が大きい。ただしこれはあくまで楽観的な予測であり、実際には「北朝鮮リスク」がどうなるか、中長期的にみていく必要がある。 この原稿を書いている段階でも、韓国国防省は北朝鮮がさらなるミサイル発射を準備していると、韓国の国会で報告している。実際にミサイル発射が繰り返され、半島情勢が危機感を深めていけば、「北朝鮮リスク」による経済危機の可能性も高まっていく。アベノミクスの財政政策は緊縮そのもの 「北朝鮮リスク」そのものは、もちろん北朝鮮の軍事的意図をその根源にして発生しているものだ。つまり「北朝鮮リスク」を抑制ないし、払拭(ふっしょく)するには、外交的・軍事的なカードしかない。 日本が経済面でできる「北朝鮮リスク」への備えはなんだろうか。それは冒頭にも書いたが、金融政策と財政政策を経済刺激に向けてて協調させることに尽きる。だが、現状では、財政政策が事実上の緊縮スタンスのままで、この協調を破綻させてしまうだろう。それは「北朝鮮リスク」に対して日本経済を脆弱(ぜいじゃく)なものにしかねない。 財政政策の緊縮スタンスは深刻である。アベノミクス初年度である2013年度だけ、予算規模(補正含む)が約106兆円であった。2014年が101兆円、2015年が100兆円を下回り、2016年は約100兆円で推移した。初年度だけ拡大で、あとは一貫して抑制気味なのは明らかである。そして、2017年度は当初予算規模で97兆4千億円であり、いまだ補正予算の声を聞くことは少ない。 しかも、2014年度以降の予算規模において注意すべきポイントとして、消費税のマイナスの影響を勘案しておかなくてはいけない。ざっと消費税の税収を年度ごとに8兆円とすれば、上記の予算規模からこの数字を引き算する必要がある。そうなると例えば、2014年度は実際には93兆円であり、アベノミクス初年度に比べてなんと約13兆円も緊縮財政に大きく振れたことになる。もし今年度の当初予算に同じやり方を適用すれば90兆円台を割り込んでしまう。大緊縮財政になってしまうだろう。3月27日、参院本会議で、平成29年度予算が成立し一礼する安倍晋三首相(右)ら閣僚(斎藤良雄撮影) 「北朝鮮リスク」が顕在化している状況でこのような大緊縮財政を採用するのは、強い言葉でいえば狂気の沙汰である。至急、大規模な補正予算を策定する必要があるだろう。例えば、アベノミクス初年度をひとつの目標とするならば、消費増税の影響を含めた実質の予算規模との差は、約17兆円である。これだけの規模の補正予算をすれば、「北朝鮮リスク」の中で、経済を安定化させる最低限の守りができる。もちろん積極財政の資金源は、国債発行で賄う。一例としては、教育国債を発行すれば、それを日銀が買いオペすればいいだろう。もちろん公共事業(できれば多年度のインフラ投資が望ましい)、減税、あるいは防衛費の増額などでも積極的な財政の必要は大きい。 このような積極的な財政政策と金融政策の協調が行われない場合は、「北朝鮮リスク」の影響をもろにかぶってしまうだろう。言い換えると、日本経済にとっての真の「北朝鮮リスク」とは、自らの緊縮政策のことなのである。

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    成績不振が原因なのか? ロッテとヤクルト監督退任に言いたいこと

    小林信也(作家、スポーツライター) まだ8月のうちに、千葉ロッテの伊東勤監督、ヤクルトの真中満監督が辞意を表明。今季限りの退任が正式に発表された。 伊東監督は、8月13日の西武戦前に、自ら記者たちに今季限りでの辞意を表明した。オールスター戦前には伊東監督自身が決断。8月5日に球団幹部に辞意を伝え、了承されていた。公式戦終了まで口外する気持ちはなかったが、一部メディアが続投を伝えるなどしたたため、誤報がひとり歩きして迷惑をかけては申し訳ない、と公表した背景がある。  2013年に就任してからの成績は、3位、4位、3位、3位。2013年と2016年はクライマックスシリーズのファイナルステージまでチームを率いたが、日本シリーズには届かなかった。今季はオープン戦で13勝2敗3分、圧倒的な強さを見せて仕上がりの良さをアピールし、ファンの期待も高まった。ところが、オープン戦の成績が必ずしも反映しない過去の例を証明するかのように、開幕4連敗。投打の主力が戦列を離れ、新外国人打者も不振。借金が膨らみ続けて優勝の望みは遠ざかった。戦況を見守るヤクルト・真中満監督=8月23日、神宮球場 ヤクルト・真中満監督は、8月22日の阪神戦の前に記者会見し、球団から続投を要請されたが固辞したことを公表した。就任1年目にリーグ優勝。2年連続最下位だったチームの優勝だけに、監督としての手腕が高く評価され、真中株は急騰したが、残念ながらそれがピークだった。昨年は5位、今季も開幕から低迷を続けた。 問題提起したいことは2点ある。「成績低迷がただ監督のせいなのか?」と「30試合以上も、クビになったも同然の監督が指揮を執り続ける是非」についてだ。 今季は6月に巨人の堤辰佳ゼネラルマネジャー(GM)が成績不振の責任を問われて退任し、球界は衝撃が走った。これは高橋由伸監督の責任を問うのでなく、チーム編成を担当したGMこそが責任者だという、ある意味で、日本野球の新しい形というか、責任追及の新スタイルだった。巨人は、生え抜きのエリートである高橋由伸監督を守り、GMを斬ったのだ。 だが、たいていはやはり、今回の伊東、真中両監督のように、監督が成績不振の責任を取らされる伝統がこれからも続くだろう。 釈然としないのは「成績不振の要因が、本当に監督にあるのか」が曖昧だからだ。山口俊の処分もおかしい 選手が体調を崩す、ケガをする、期待どおりのパフォーマンスを発揮しない、できない原因は、プロ野球の場合、監督以外の理由が大きい。それでも監督たる者、たとえ前年活躍した有名選手でも続けて活躍できる素材かどうか、性格や普段の生活態度、選手を取り巻く人間模様なども把握してクールに分析するべきかもしれない。そしてもし、期待したい選手でも不安な要素があれば、代役を探し、抜てきする準備が求められる。こう書けばいかにも正論だ。が、プロ野球界はそれを全面的に支援する仕組みになっていない。ドラフト会議によって、必要な戦力を着実に補強する道は制約され、メディアは知名度の高い選手を連日報道して、半ば出場を強要する雰囲気も作る。 球団は、明確なチームの方針を描き、その上でGM、監督と一体となってチームを運営しているだろうか。巨人・堤GM解任の後味が悪かったのは、堤前GMは、球団の方針や司令に従って選手補強を進め、それが失敗したのに堤氏個人が詰め腹を切らされた印象が拭えなかったからだ。ビジネスと現場が一体となって初めて成立するプロ野球である以上、責任は何より球団にある。その球団がほとんど責任を負わない体質に根本的な矛盾がある。 暴力事件で処罰を受けた山口俊投手の問題は、選手会の提言で新展開を迎えているので、今後の展開に関心が集まっているが、大臣の不祥事ではないが、山口俊にフリーエージェント(FA)で入団を懇願した球団にも任命責任ならぬ選択責任がある。それをまったくひとごとのように認めない球団の厚顔にあきれる。また、あまり指摘がないが、「1億円の減俸」は球団にとってはその分、「お得」な処分だ。球団は処分して得をする側で、選手だけが処分され、非難され、損をする立場というのは正しいのだろうか。厳しい表情を見せるロッテ・伊東勤監督=6月18日、東京ドーム もうひとつ、まだ8月、30試合以上も残して事実上の退任発表。「今季で引退します」と公表し、残り試合をファンと特別な思いを共有しながらプレーする選手と監督は違う。また高校野球なら、「この夏限りで勇退」と大会前に発表することで選手たちが特別な感情を抱き、チームが理屈を越えた一体感で強さを発揮する例は少なくない。今夏も新潟・日本文理、熊本・秀学館がその例で、甲子園出場を果たした。けれど、今回の2監督の場合は違う。もう事実上、鮮度が落ちた監督に率いられるチームをファンから入場料を取ってお見せするのがプロ野球としてマナーに沿うのか。 契約やいろいろな事情もあるだろうが、「来季の契約を結ばない」と公表した時点で、監督の威厳や尊敬は失う。だから、その日をもって退任し、代行監督を立てるのが筋だと思う。その方が、来季の監督選びの現実性も高まる。例えば、次期監督とうわさに上がる、ロッテなら井口資仁、ヤクルトなら高津臣吾2軍監督に残りのシーズンを任せてどんな試合が見られるのか。それをファンとともに共有し、来季の展望を語り合うなら、プロ野球としては話題も提供でき、夢も膨らむのではないだろうか。