検索ワード:連載/403件ヒットしました

  • Thumbnail

    記事

    日本経済最大の「悪」と為す蓮舫-野田ラインの増税シンパ

    税路線こそ日本の経済が改善する道を妨げている最大の「悪」だと確信している。確信するだけではなく、この連載でも何度も事実と論理を提示してきた。アベノミクスがデフレ脱却という点で困難に陥りそうなのは、この消費増税路線の妨げによることが大きい。もちろんインフレ目標の到達が難しくなっているだけで、雇用面では何十年ぶりの改善がみられるし、実体経済も底堅い。しかし、より発展の余地があるのを妨害しているのは、2014年4月から続くこの消費増税の影響であることは疑う余地はない。消費増税の三党合意まで「復活」 なぜなら2014年4月以降、消費は急激に減少し、その後も低水準を継続しているからだ。例えば消費支出(実質)をみていくと、2014年は前年比マイナス2.9%、2015年はマイナス2.3%であり、直近でも前年同月比でマイナス0.5%(2016年7月)の低水準のままである。ちなみに消費増税のいわゆる「駆け込み需要」の影響を控除した、アベノミクスがフル稼働していた2012年終わりから2013年の実質経済成長率は2.6%の高率だった。消費もプラス成長であった。 このような消費増税の「悪」をいっさい認めることなく、むしろより推し進める勢力の中心が、この財務省―藤井―野田―蓮舫の流れだ。もちろん他にもこのグループの構成員は多く、民進党のほぼ9割超の議員はその先兵である。また与党も例外ではない。一例だが、山口那津男公明党代表が野田幹事長の就任に際して、「消費増税10%引き上げを決めた三党合意のときの首相であり、いまもその枠組みは活きている」という発言要旨で、増税路線への期待感を事実上表明している(http://www.asahi.com/articles/ASJ9K71RJJ9KUTFK00K.html)。筆者の記憶では、この公明党が特に強く推し進める軽減税率導入に民主党が反対することで、事実上、(民主党の側から)三党合意は崩壊したはずだった。それが野田幹事長の起用で、いつの間にか「復活」している。蓮舫=野田民進党の消費増税路線は、党内外で国民の世論とはいっさい関係ない形で“増税シンパ”を増やしているようである。 筆者はかつて民主党政権発足のときに、その経済政策がデフレを推し進め、日本経済に未曾有の危機的状況をもたらすとラジオなどで指摘した。その際に、民主党支持者を標榜する人たちから猛烈なバッシングをうけた。それも「まだ政権が始まったばかりで決めつけるな」とか「一回はやらせてみよう」などと、ほとんどの発言は根拠がないものだった。リーマンショック後の経済停滞期に、経済全体を成長させることなく、ただ単に緊縮(蓮舫代表「二位じゃだめなんでしょうか」発言の事業仕分けなどが典型)や増税をすすめて、そこで得た果実を自分たちのお気に入りの分野に再分配する。このゼロサム思考にどっぷりつかった発想が、いかに国民全体を苦境に陥れたか、その顛末は心ある圧倒多数の国民がいまも生々しく記憶に残っていることだろう。ただ発想の背景には、財務省という日本のタブーともいえる官僚組織がある。財務省がエージェント(代理人たる政治家)を駆使して現実政治にさまざまな影響を及ぼしていることについて、国民の理解は一般的ではない。 蓮舫代表の新しいイメージによって、国民の多数が再び、「民進党にもう一度やらせてみよう」と思うことはきわめて危険だ。そのような安易な発想こそ日本経済を確実に頓挫させてしまうだろう。 実は筆者は「緊縮策」にも期待している。ただし緊縮の矛先は、民進党およびその他の増税主義議員の数に向けられている。反省なき政治家には一刻も早い退去をお願いしたい。

  • Thumbnail

    記事

    もし、今も朝鮮統治が続いていれば、日本はどうなっていたか

     今回は日韓併合時代における朝鮮半島出身者の社会的権利のうち参政権について考えてみます。 参政権とは読んで字のごとく選挙権と被選挙権に代表される政治に参加する権利で公民権とも言い民主主義国家の根幹をなす権利です。それは多くの国において自国民に限定され、一定年齢以上の国民に同等の権利が与えられています。また、一般国民に参政権が与えられているか否かが、その国が民主国家か否かを判断する重要な基準であるとも言えます。 戦前、日本の議会構成は選挙によって選ばれる代議士で構成される衆議院と、皇族、華族、勅任議員によって構成される貴族院の二院制でした。衆議院選挙の選挙権は、当初、納税額による制限がありましたが、1925年から25歳以上の日本国籍を持つ男子であれば本籍や納税額に関係なく投票が可能になり、被選挙権(立候補する権利)も本籍(出身地)による制限はなく、日本国籍を有する30歳以上の男子であれば誰にでも代議士への道は開かれていました。ただし、選挙区は内地に限定されていたため、住む場所によって選挙権は制限されていたと言えます。衆院本会議 それはどういうことかと言えば、朝鮮や台湾などの外地は、日本と同じ国になったといっても、ついこの間まで違う国であったため、内地とは経済や教育の水準だけではなく、生活慣習、ものの考え方や言語が根本的に違いましたから、当初から憲法をはじめとする日本の法律は一部しか適用されていませんでした。ですから外地は日本の法律を作る議員を選ぶ場ではないと考えられ、今のように在外投票というシステムがなかったため外地に住む人間は内地出身者であっても選挙区がないため選挙権や被選挙権がなく、反対に内地は日本の法令が適用されているわけですから、そこに住む日本人は出身に関係なく法律を作る議員を選んだり選ばれたりするということです。 つまり日本と朝鮮は併合により同じ国になったため両国の国民は同等の参政権を持つようになったのですが、法律の適用範囲の問題で出身を問わず外地居住民は国政選挙に投票できなかったということです。そして、内地における参政権は、どこかの国のように空手形ではなく、選挙権に関しては日本語の読み書きができない朝鮮半島出身者にはハングルによる投票も認めており、被選挙権に関しても朝鮮半島出身者の朴春琴が朝鮮名のまま東京の選挙区から衆議院議員選挙に4度立候補し、そのうち2回当選して通算9年間代議士を務めています。 このような選挙制度に対して現代の常識を当てはめれば色々と不備があることは確かですが、アメリカで1970年代まで黒人に事実上の選挙権がなかったことを考えると、この時代としては、かなり先進的であったと評価できるのではないでしょうか。 更に、1945年4月には改正衆議院選挙法と改正貴族院令が公布され朝鮮半島から7人、台湾から3人が貴族院議員に選ばれ、衆議院についても朝鮮、台湾、樺太に新たな選挙区を設け、それぞれ23人、5人、3人の定数を定めました。確かに内地に比べて人口当たりの議員数は極端に少ないですが、順次増やしていく予定であり、彼我の経済や教育の水準の違いなどを考慮すれば開始当初としては妥当だったのではないでしょうか。本気で朝鮮半島出身者の政治参加を進めた日本 これに対して、終戦間際のアリバイ作りだという人もいるでしょうが、それは後知恵というもので、8月15日が来るまで日本が負けると思っていたのは詳細に戦局を知り客観的に判断できる極少数の人間だけでした。それに当時は大多数の日本人が内鮮一体を固く信じており、たとえ戦争に負けたとしても台湾はともかく朝鮮が日本から分離するなどとは夢にも思っていませんでしたから、歩みは遅くとも日本政府は本気で一歩一歩、朝鮮半島出身者の政治参加への道を開く努力をしていたのです。 また、朝鮮半島においては朝鮮出身の日本人に政治家だけではなく高級官僚への道も開かれており、朝鮮総督府では知事13人中5名程度は朝鮮系日本人で主要局の局長クラスにも多数の人間が登用されており、1943年ころになると内地の中央官庁にも朝鮮系日本人が採用されるようになりました。 これらのことは、当時の日本政府が将来的に朝鮮半島出身者であっても政官両面から国政に深く携わることができる様な政策を推し進めていたということで、こういった流れを見ると日本と朝鮮は、いずれ内地外地の区別や本籍地による差別がなくなり完全に同じ国になる方向を目指していたのではないかと思われます。その考え方に対して賛否はあろうかと思いますが、日本の朝鮮統治は当時世界中で欧米列強により当たり前のように行われていた現地を搾取対象としか見ない植民地政策とは明らかに一線を画していたことは否定できません。日韓併合後の朝鮮を統治した旧朝鮮総督府庁舎 もし、今も日韓併合が続いていれば国会議員の半数は外地から選ばれ、霞が関にも多数の朝鮮半島出身者が勤務し、朝鮮総督府は北海道や沖縄の開発庁のようなものになり、最終的には自ら解体していたかもしれません。こういう話をすると、「日本人は朝鮮人を差別していたのだからありえない」と条件反射的に否定し、思考が止まってしまう人がいますが、はたして当時の日本人と朝鮮人の関係は本当にそのように単純なものだったのでしょうか。確かに、言語、習慣、歴史、文化、伝統などが異なる民族がいきなり同じ国民になるわけですから当初は軋轢が生じ、その結果として差別が行われていた事は容易に想像する事ができます。 しかし、問題はそれを国家がそのまま放置するなどして固定化しようとしたのか、それとも差別を否定して解消しようとしていたのかということですが、日本政府は併合当初から李王家の当主は王、その親族を王公族として皇族に準ずるとし、朝鮮貴族も日本の華族に準ずる待遇を与え、生まれたときから人権のなかった人たちを救うために奴隷制度を廃止し、かつてないほど学校を増設して教育機会の均等化を図り、創氏改名により名前に基づく差別の解消を試みるなど、一貫して朝鮮民族をなるべく同等に扱おうとしていました。 確かに現在の基準に比べると不十分な点もあり、一部の不心得者が差別をしたかもしれませんが、少なくとも当時のアメリカが日本人移民を排斥する法律を作るなど国をあげて人種差別を行っていたような事実はなく、この問題も他の問題と同様に個人ではなく国家が何をしたのかを見るべきではないでしょうか。何しろ日本は第一次世界大戦後のパリ講和会議の国際連盟委員会において、連盟規約に人種差別の撤廃を明記するべきだと世界史上初めて提案しているのですから、当時の欧米列強とは違い自国内で人種差別を容認できるはずがありません。日韓併合以来、一貫して差別解消を目指した日本 これらの事実を踏まえて当時の流れを振り返れば「日本政府が朝鮮系日本人に参政権を与える政策は終戦前に突然思いついたものだ」という批判がいかに的外れであるかということが良くわかります。そして日本政府が朝鮮系日本人に参政権を与えたのは日韓併合以来一貫して漸進的に取り組んできた差別解消を目指した政策の延長線上にあるものだと言えるのではないでしょうか。 おそらく、このような話を現在の韓国人にすれば、十中八九怒り出し「我々は、そのようなことは望んでなかった。」と言うでしょう。しかし、当たり前のことですが、今の日本人が当時の日本人と考え方が違うように、今の韓国人の考え方と当時の朝鮮系日本人の考え方は違います。日本政府のそのような政策に対して当時の人々の心境は本当のところはどうだったのでしょうか。韓国の朴槿恵大統領(聯合=共同) また、参政権と表裏一体である徴兵制はどのように行われていたでしょうか。徴兵制というと、私が子供のころから繰り返し聞かされてきたのは「朝鮮は力ずくで日本の植民地にされ、徴兵で兵隊にとられて無理やり戦争に行かされた」というような類の話ですが、はたして本当に朝鮮半島の人たちは命ぜられるまま己の欲せざる戦争に行くような主体性のない人間ばかりだったのでしょうか。 自称「他国を侵略したことのない平和国家」の朝鮮半島には地位や名誉を失い投獄されても徴兵を拒否した、カシアス・クレイのような人は1人もいなかったのでしょうか。その答えが、当時の人々の心境を推し量るヒントになると思いますので、まずは日本の軍隊と徴兵制度について簡単に振り返って見ます。 いつ日本に近代的な軍隊ができたのかと言うことについては諸説色々とありますが、戊辰の役が始まりだとすると、その時、実際に幕府側と戦ったのは各藩の藩兵で、実態は諸藩連合軍でした。また、政府直属であった御親兵も実態は長州藩の諸隊の一部と浪人の集まりでしかなく、明治政府設立当初は名実ともに国軍と呼べるものがありませんでした。 当時のアジアは欧米列強の草刈り場と化しており、日本にも何時侵略の手が伸びてくるかわからない状況であるだけではなく、国内的にも各藩がそれぞれ兵を持っているため全国的に治安が安定しているとは言えず、一刻も早く国軍の創設が望まれる状況でした。当時の政府首脳の大半は元々武士であり、しかも薩英戦争や馬関戦争で欧米列強の実力を、身を持って体験した薩摩藩や長州藩出身が多かったので、この状況に危機感を抱き国軍創設のため国民皆兵制度を実施すべく努力していましたが、それにより自らの特権を失う士族の反対が強く難航しました。 紆余曲折を経て日本政府は1872年にようやく徴兵規則を制定し各府藩県に対して1万石につき5人の兵士を拠出するよう求めることができるようになり、これに応えて一部の府藩県から出身階級に関係なく数十名の若者が兵部省に入りましたが、それだけで戦力となりうるには程遠い人数でした。「徴兵制」を始めると何がどれほど必要になるのか そこで翌年、日本政府は戊辰の役の主力であった薩長土から約6000名の献兵を受け、東北と九州に鎮台を設置し各藩の士族兵を解散させたうえで志願者を募り、兵部省に陸軍部と海軍部を発足させて何とか国軍としての体を整えましたが、その時点ではそれが精一杯で本格的な徴兵開始は1873年の徴兵令の発布を待たねばなりませんでした。何とか1873年に始まった徴兵制度も開始当初は、予算などの関係上、召集する人間を抽選で選ぶうえ、「一家の当主」「跡継ぎ」「養子」「役人」などは対象外とされていたため国民皆兵とは言い難い実態でした。 それは、今まで軍事を独占していた士族だけではなく、自分たちが戦の主役になることなど考えたこともなかった百姓や町人出身の人たちの反対が根強かっただけではなく、何しろ徴兵というのは候補者名簿の作成、入所前に行う身体検査、入所に際しての事務的な手続き、入所後の生活費、訓練費用や給与などなど多大な費用と手間がかかるため、当時の日本の国力では一気に制度を整えるのが難しかったからです。 どうも昨年の安保法審議の時に反対派の人間が「徴兵制は戦争を始めるための準備」「実施すれば戦争が始まる」と人々の恐怖心を煽り、「法案が可決すれば、すぐにでも徴兵制が始まる」と、荒唐無稽な理屈を並べ立てていたにもかかわらず、一時的とはいえ少なくない人間が、その出鱈目を信じていたのを見ると、今の日本人の多くは「徴兵制」と聞いただけで条件反射的に反発し、正しく中身を理解していないように思われます。そこで、具体的に今、徴兵制を始めるとなると何がどれくらい必要なるのかを簡単に試算してみます。5野党と安保法制反対諸団体との意見交換会で挨拶する枝野幸男氏(中央)=3月9日 この間の参議院選挙で新たに選挙権を得た18歳と19歳の合計人数が240万人と発表されていましたから、単純計算で一学年の男子は60万人ですが、この人たちの名簿を作り身体検査の案内を発送して、医師等の人材や設備を整えて全員に検査を受けさせるだけでも一苦労です。そのうち8~9割の50万人が検査に合格し20歳から29歳の10年の間に2年間の入隊義務が生じ、彼らが毎年均等に入所すると仮定すれば毎年5万人が入所し、2年任期とすれば自衛隊は常時10万人の徴兵隊員を抱え込むことになります。 現在の自衛官の定員が24万7千人(実際の隊員数は22万7千人)ですから、いかに多い人数であるかということがわかるかと思います。そして彼らのために宿泊や教育訓練のための施設等を新設または増設する必要があり、更に増加した徴兵隊員に関する事務、教育訓練、賄等の支援に携わる人間も増員しなければなりません。公務員は法律や規則がなければ動けませんから、それを作る作業も必要です。 費用の方も徴兵隊員1人当たりの給与(ボーナスを含む)、食費や光熱費等の生活費、福利厚生費、消耗品代などの費用を1日1万円、その他、被覆や訓練教育資材等が年間15万円(計算しやすいように)かかると仮定すれば1人頭1年間で380万円、10万人だと3800億円になります。徴兵制に伴う人員増加を1万人(徴兵隊員10人に1人)、彼らの年間給与を平均600万円、年金保険退職金や福利厚生費、装備品等にかかる経費が年収と同額とすると1人頭年間1200万円、総額で年間1200億円となり、徴兵制に伴う費用の増加は合計で年間5000億円程度となります。(かなり大雑把な計算なので一応の目安として考えてください)現在の防衛予算が年間約5兆円ですから、その数字がいかに大きいかということがわかるかと思います。 徴兵制と聞くと、誰彼構わず出来るだけ多くの人間を集めるというイメージをお持ちの方が多いとは思いますが、人数を集めれば集めるほど前述のように手間や費用が掛かるため平時においては優秀な人間から順番に入所させる方向で行っていたのが実態です。そして忘れてはならないのが徴兵には戸籍と教育が不可欠であるということです。徴兵制の適用なしに不満を抱く朝鮮系日本人 このため開拓に若い労力が必要であったという事情もあったのでしょうが、本土で1873年に発布された徴兵令も、北海道と小笠原諸島はその14年後の1887年、沖縄は更に遅れること11年の1898年になるまで施行されませんでした。そうやって制度的にも地域的にも少しずつ日本全土に徴兵制が定着していった過程に鑑みれば日韓が併合したからといって朝鮮半島で簡単に徴兵制が実施されるはずもなく、徴兵制は長い間朝鮮系日本人に適用されませんでした。また、当初は一般兵士の募集も行われていませんでしたから、当時の朝鮮系日本人が軍人になる道は陸軍士官学校に入校するしかありませんでした。 今の韓国人男性に徴兵制の是非を問えば十中八九「兵役を課せられないのは良いことだ」と答えるでしょうが、当時の朝鮮系日本人たちは「同じ日本人である自分たちだけが徴兵されないのはおかしい」と、自分たちに徴兵制が適用されないことを不満に思い、併合から23年たった1933年には、朝鮮半島出身者に対しても徴兵制を適用するよう帝国議会に請願書が出されるほどでした。しかし日本政府としては、もしかすれば自分たちに反旗を翻すかもしれない何万の若者に軍事訓練を施して武器を与えることに慎重になったのか、兵員が充足していたからなのか「時期尚早」と、彼らの願いは退けられました。 しかし、そんな彼らの願いに応えようとしたのか、支那事変が勃発したからなのか、翌1938年度から徴兵制ではなく陸軍特別志願兵制度が実施され朝鮮系日本人にも一般軍人(高級将校や憲兵補助員などの軍属になる方法は以前からあった)になる道が開かれました。徴兵制は6年後の1944年9月に朝鮮系日本人にも適用されることが決まりましたが、実際の入所が翌年の1月からだったので、全員が訓練期間を終えることなく終戦を迎え、朝鮮系日本人の徴兵兵士は1人も戦地に出征しておりません。 つまり、戦地に赴いたのは志願兵だけだったということで、無理やり戦地に行かされたという心の中の話はともかく、少なくとも「徴兵された」という話は、まったくの出鱈目ということになります。そして、徴兵制開始3ヶ月後の1945年4月に衆議院選挙法が改正され朝鮮半島に選挙区が割り当てられたことは、国家が国民に対して義務だけを課すのではなく、国民が国家に権利だけを求めるのではない、国家と国民の正常な関係の表れで、徴兵制と参政権の両者とも終戦により日の目を見ませんでしたが当時の日本政府の本気度合いを読み取ることができます。  では、実際に戦地で戦った志願兵の実態がどうであったのか、各年度の志願者数と入所者数を見てみます。年 度     志願者数   入所数   倍 率1938年度   2,946     406    7.31939年度  12,348     613   20.11940年度  84,443   3,060   27.51941年度 144,743   3,208   45.11942年度 254,273   4,077   62.31943年度 303,394  約6,000   50.5 初年度こそ倍率は約7倍でしたが年を重ねるにつれ志願者数と倍率はうなぎのぼりに上がっています。志願した理由は様々で、己の立身出世のため、朝鮮民族の地位向上や独立のため、食べるため等々、中には武装蜂起のために入所した人間もいたかもしれません。しかし、約30万人の若者が入隊を希望したにも関わらず、そのほとんどの人間の希望が叶わなかった事を表す、この数字を見れば「無理やり兵隊にされた」という話の真偽がわかるのではないでしょうか。大東亜戦争を共に戦った韓国人に敬意を しかもこの数字は戦争中のもの(入隊=戦場へ行く)であるという点も見逃せません。昨年、徴兵制が始まると風説を流布していた人たちの論法では「集団的自衛権を容認すれば戦争が起こり、入隊希望者が減るから徴兵制が始まる」という幼稚なものでしたが、実際に戦火が激しくなればなるほど志願者が増えています。このことは当時の人たちが、今「戦争反対」と叫んでいる人たちとは、戦争や平和に対して異なる考え方をもっていたということで、彼らが当時の人たちの心境を代弁しても説得力はありません。 こういうことを言えば、当時の人たちは「皇民化教育で洗脳されていた」「騙された被害者だ」などと言って反論する人がいますが、はたして昔の朝鮮民族全員が何年間も騙され続けた愚鈍な人間だったのでしょうか。中には、そういう人もいたかもしれませんが、国力がないばかりに他国に併合され、苦しい生活の中で懸命に生きていた人たちを、今の時代に生きる自分たちの都合のために馬鹿にするのはいかがなものでしょうか。 30万人もの多くの若者が祖国のため死地に赴くに等しい入隊を希望したという事実は消し去ることはできません。人それぞれの意見はあるでしょうが、彼らの中には特別攻撃隊に志願した人もいる訳で、彼らは国が変わっても己にできることを出来る限りやろうと、自らの意志で日本人として西欧諸国の植民地支配に対抗すべくアジア諸国解放のために大東亜戦争を戦った誇りある立派な軍人だったのだと私は思います。八重桜を振って特攻機を見送るなでしこ隊の女学生たち =昭和20年4月12日、旧陸軍知覧基地 そして、そのような彼らに応えるべく日本政府は彼らに参政権を与えて将来的には完全に同じ国になることを目指し、朝鮮民族の中にも日本人になりきろうと努力していた人も少なからずいたはずです。そんな彼らは大韓民国設立後、長年にわたり軍隊で主要な地位を占め、朝鮮戦争においても勇敢に戦い祖国を守りぬきました。そんな祖国の恩人たちを、自分たちの主張を正当化するために「日本に騙された愚か者」「祖国を裏切った親日派」などと売国奴扱いをするのはどうかしているとしか言いようがありません。 同様に、大東亜戦争を日本人として一緒に戦ったにもかかわらず、日本に対して「戦犯国」と恥ずかしげもなく言い、先人たちが命を懸けて戦った象徴である旭日旗の真の意味を知らずに「戦犯旗」とわめき散らすのは、天に向かって唾を吐くようなもので自分たちの先祖を愚弄しているのと同じです。とは言うものの日本人の中にも彼らが日本のためアジアのために戦ったということを知らない人が多いのが実情です。 日韓両国の国民はともに「歴史を直視」して、日本人はかつて同胞として大東亜戦争を共に戦った韓国人に敬意を払い、韓国人は欧米諸国の植民地支配と戦った自分たちの先祖に誇りを持ってもらいたいものです。

  • Thumbnail

    記事

    アベノミクスを翻弄するヘッジファンドの「カジノ資本主義」

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) 最近、いわゆるリフレ派のメンバー(エコノミスト、経済学者、評論家などからなる緩い政策集団)と何度も話す機会があった。リフレは、単にデフレを脱却し、低インフレ状態で経済を活性化させることを目指す政策の総称である。経済の活性化の中身は、雇用の改善、一人当たりの生活水準の向上などが含まれる。ちなみにリフレはリフレーションの略語である。 日本の雇用状況は失業率をみると3%で、また有効求人倍率など雇用指標は極めていい。また(主に反アベノミクス陣営で話題の)実質賃金も、雇用増加の中で、最近は上昇傾向にある。つまり名目賃金の変化が、物価水準の変化以上に増加している。この実質賃金は雇用環境にとっていい傾向だ。ただ、実質賃金は一面で企業側のコストにあたるので、これが増加することは採用減につながるが、いまの日本では雇用と実質賃金、両方の増加がみられる。すわなち、さきほどのリフレの最終目的として掲示した、雇用の改善と1人当たり生活水準の向上が見られるということでもある。この理由は簡単で、雇用状況が改善している結果、名目賃金など雇用環境も改善しなくては、企業サイドが望む人材が集まらないからだ。平成29年春に卒業予定の大学生らを対象とした企業の採用面接が解禁され、三菱商事本社の受付に並ぶ学生たち。平成27年では8月だった選考開始時期が6月に前倒しされた=6月1日午前、東京都千代田区 問題は物価水準だろう。現状では消費者物価指数をみると、総合、生鮮食料品を除く総合はマイナス、そして食料及びエネルギーを除く総合(コアコアCPI)もプラス幅を縮小させている。つまり、いまだに実質的なデフレ経済にあるのだ。例えば、実質賃金は名目賃金を物価水準で割ったものである。分母の方は多少減少しても分母の伸びの方が大きいので、いま現在の実質賃金は、わずかにではあるが増加傾向にある。ただし他方で、物価水準の低落傾向は、日本経済の消費や投資などが活性化していないことを裏付けている。つまりもっと消費や投資が活発化すれば、物価水準は上昇し、いまの雇用環境はさらに改善(具体的には名目賃金のさらなる増加、非正規雇用の正規雇用への転換、社内失業的状況の消滅、ブラック企業の淘汰など)がみられるはずだ。実質賃金の分母も増えるが、それ以上に、失業率低下など雇用環境がいっそう改善されることで分子の報酬部分が増加する。やがて労働市場は完全雇用状態に到達し、失業率も2.5%近傍に下がると思われる。この段階では、物価水準も2%前後に到達しているとみるのがリフレ派の考えである。 確かに現状の雇用状況は堅調であり、次第に「完全雇用」水準に向かって進んでいる。しかし他方で物価水準については、リフレ派の望むような水準には遠い。リフレ的な傾向が進めば、さらに雇用の改善スピードがあがり、また一人当たりの生活水準も改善するだろう。ここに冒頭に登場したリフレ派の共通の問題意識がある。 そして日本では物価の好ましい水準を達成する責務を負うのは、日本銀行である。日銀は9月に総括的検証を行う。理解が乏しいか、またはアベノミクスに批判的なエコノミストやアナリスト、経済評論家やメディアの記者などからは、この日銀の「総括的検証」がいままでの金融緩和スタンスを「やめる」方向で検証しているかのように取る向きがとても多い。もちろん日銀の公式文書や日銀総裁・副総裁らの発言を素直に読めば、インフレ目標達成のために金融緩和の方策をどうすればいいかという検証であり、「やめる」方向ではなく「おしすすめる」方向と考えるのが正解だ。海外投資家に金融政策に消極的だと見破られた日銀 さきほどの「理解が乏しいか、またはアベノミクスに批判的なエコノミストやアナリスト、経済評論家やメディアの記者」を、長いのでここでは「市場関係者Z」とまとめる。この市場関係者Zは、事実上のリフレの実現を妨害する既得権集団である。その意味では、消費増税などの緊縮政策で、実質的なデフレ経済を継続させ、また金融政策に重い負担を強いている財務省と同様の勢力だ。これらの集団に加えて、今年になって急速に存在を誇示している「反リフレ」「反アベノミクス」集団が存在する。マイナス金利でも円高に投機的なポジションをとるヘッジファンドである。内閣官房参与の浜田宏一イェール大名誉教授 今年になって採用された日銀のマイナス金利政策には、金融緩和の効果がある。もちろん効果の大小で議論はあるが、緩和スタンスであることは変わりない。金融緩和は自国通貨を減価、つまり円安の方向に誘導していく。他方で今年に入って円高の傾向は著しく、1ドル120円台から現状では102~3円であり、一時は1ドル100円を割った。25%以上の円高傾向が現出しており、これはほとんどの通貨についても同様の傾向がみられる。金融緩和傾向の中で、この過度な円高傾向は異様に思える。 この過度な円高進行については、中国経済の減速リスク、米国経済のピークアウトの可能性、イギリスのEU離脱ショックなどで、「比較的リスクの少ない安全資産である円買い」の動きの帰結として説明されている。だが、このような見方に対しては、リフレ派の何名かは違った見方を提示している。浜田宏一イェール大学名誉教授、高橋洋一嘉悦大学教授、そしてエコノミストの安達誠司氏(丸三証券経済調査部部長)らである。 ここでは優れた世界経済の展望ともなっている『英EU離脱 どう変わる日本と世界』(KADOKAWA)を出版したばかりの安達氏の見解を、同著から紹介する。安達氏によれば、世界経済が「リスクオフ・モード」(投資家がハイリスク・ハイリターンの投資戦略を回避する状況)になると、円が買われる(=円高になる)傾向が今年になって特に強い。これは「安全な資産」として円を買うというよりも、むしろ世界経済が「リスクオフ・モード」になっても、日銀の金融政策がより消極的だったことで実現したという。例えば、イギリスのEU離脱の国民投票のあともこの「リスクオフ・モード」の状況であり、そのときに日銀は追加緩和しないだろうという観測が、海外投資家に急速な円買いを促した。安達氏は「海外投資家」といっているが、その中の有力プレイヤーはヘッジファンドだろう。浜田氏、高橋氏もほぼ同様の見方をとっている。「カジノ資本主義」に翻弄される日本経済 このヘッジファンドや海外投資家勢の投機的なスタンスは、足元の日本経済には事実上の「障害」である。例えば日銀が今後、金融緩和政策としてマイナス金利のさらなる引き下げ(いわゆる深掘り)だけをすすめたりすると、ヘッジファンド勢はこの政策決定を日本銀行の金融緩和の「限界」と受け取って、さらに円高の投機攻撃をしかけてくる可能性が懸念される。これはマイナス金利的な経済政策の短期的な「足かせ」になるだろう。読者にわかりやすくいえば、マイナス金利を深掘りすれば、ヘッジファンドによる円高投機の結果、円高が過度に進んでしまえば、例えば外国人旅行客が大幅に減少して日本経済に痛手を短期的にもたらすかもしれない。まさに日本経済は「カジノ資本主義」に翻弄されるのである。 だが、この種の円高投機懸かりにあっても、経済学的には中長期的な維持が不可能な代物ではある。また退治方法も、先の論者たちはいくつかの処方を提供している。一番は、日銀による一段と積極的な金融緩和姿勢の表明と、それを支援する政府の積極的な財政政策である。例えば、政府と日銀がインフレ目標を2%から3~4%に引き上げることで合意するのも市場に効果を与えるだろう。雇用の安定化を明記した日本銀行法の改正を宣言するのもいい。先の論者の何人かは、日銀は外債購入をすべきだと主張している。ただし、日銀と相変わらず日本経済を阻害する役目しか果たしていない財務省は、縦割り行政の弊害で日銀の外債購入に反対するかもしれない。しかし日銀が実際にどの資産を購入するか手段の自由はあるので、外債購入の可能性は排除すべきではない。ただ筆者は、外債購入ではなくても、国債の買い入れを一段と増やす余地はあると思っている。日銀の国債市場でのシェアがより拡大し、マイナス金利の深掘りが連動して行われれば、かなりの緩和効果を発揮する可能性が高いからだ。 また財務省が「円安の為替介入」を行うべきだ、という主張もある。このとき、米国の政治的な反対は避けられない。ただFRBが金利引き上げを今月行うのであれば、ヘッジファンド勢の投機的スタンスには大きな変動がみられるだろう。 いずれにせよ、ヘッジファンドによる円高投機の「カジノ資本主義」の現出には、日銀と財務省の中途半端な姿勢が寄与していることは間違いない。政策手段の余地はあるのに、それをしない理由付けに奔走する官僚的マインドをいかに払拭できるかに、リフレの成否の多くはかかっている。雇用環境がいいうちに問題の解消をはかるべきだ。

  • Thumbnail

    記事

    反省なんてまるでない! 「緊縮ゾンビ」だらけの民進党代表選

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) 民進党の代表選が始まった。立候補したのは、蓮舫代表代行と、前原誠司元外相、玉木雄一郎国対副委員長の三名だ。この選挙戦を通して、民主党時代から続く党勢の低迷に歯止めをかけたい狙いは、三者共通するものだろう。民進党とその支持者たちにとっても、これを機会に国民の間で根強い「民主党≒民進党はダメ」という空気を換えたいと当然思っているはずだ。しかし私見では、民進党への支持率の低さは、国民の合理的な判断が大きく作用した結果なのだ。民主党政権時代の経済運営も最低だったが、現在立候補している人たちの政策公約もまた同じ過ちを繰り返すことが確実の無残な内容である。そのことを国民の多くは見逃してはいない。民進党代表選への出馬を表明し記者会見する(左から)玉木雄一郎国対副委員長、前原誠司元外相、蓮舫代表代行=9月2日、東京・永田町の党本部 蓮舫氏、前原氏の選挙用のチラシや出馬会見時の配布資料、そして玉木氏の直近でのブログでの経済関係の発言などから、三人に共通する経済政策に関する共通項を摘出することができる。一言でいうと、消費増税路線。またの名は「緊縮病」である。 三氏さまざまな表現を使っているが、基本的には民主党政権のときの基本路線と変わらない。経済政策的には財務省主導による消費増税路線であり、その意味では民主党政権の崩壊をいささかも反省していない見事なブレのなさである。 例えば前原氏は、「まず身を切る改革・行政改革。その上で希望と安心のALL for ALL 『尊厳ある生活保障』」と題された出馬会見時(8月26日)のときの資料をみてみると、消費税を10%に引き上げるなどしたうえで、教育や保育の充実を目指すとする。まともなマクロ経済政策(総需要不足の経済低迷時には積極的な金融・財政政策を行うこと等)に否定的、もしくは完全に無視する、まさに民主党政権時代の誤った経済政策そのものである。 蓮舫氏も同様であり、選挙用のチラシをみると、2020年度のプライマリーバランスの黒字化へのコミット、「社会保障充実と身を切る改革・行革の実行を前提にする」消費増税路線を採用している。配偶者控除の見直し、法人税減税や所得税の見直しなども三氏ほぼ共通している。 憲法観や安全保障について、出馬した三氏はかなり共通している。実際には党内でも憲法についての意見はバラバラなのだが、なぜか民進党の経済政策については、ほとんどの国会議員が共通する意見(財務省主導による消費増税路線=緊縮病)を採用しているのが興味深い。興味深いと書いたが、率直にいって野田政権の失敗にこりない「緊縮病ゾンビ」の群れにしか思えない。 玉木氏の具体的な政策集的なものはこの原稿を書いている段階では(出馬がギリギリになったためもあるのか)ネットでも見当たらない。だが彼の過去の発言をみても、消費増税への執着は明瞭である。「危険な政治」をもたらしかねない緊縮ゾンビ 現在の日本のように経済が総需要不足の状態にあるとき、行政改革などの「身を切る改革」やまたプライマリーバランス黒字化に固執する「財政再建主義」は、「危険な政治」をもたらしかねない。ブラウン大学教授のマーク・ブライスは『緊縮策という病』(NTT出版)の中で、先進国の歴史と現状を実証したうえで、「緊縮が要求するデフレはより有害な政治をもたらす」と明言している。 「というのはだれかの自己防衛にかかわる最初の動き(例えば、仕事にとどまるために給与カットを受諾する)は、実際には他の人すべての人々の動きに対してゼロ・サムになる(というのは、給与カットはその人の消費を減らし、他の全員に対する需要を縮小させる)からだ」「勝者はおらず敗者しかいない。欧州周辺国が過去数年間にわたって証明しているように、勝とうと努めるほど結末は悪くなる」(ブライス前掲書、22頁)。9月の代表選に不出馬の意向を表明し、記者会見場を後にする民進党の岡田代表=7月30日、東京・永田町の党本部 このブライスの指摘と同じで、デフレ経済のときに「身を切る改革」や消費増税を行えば、それによって経済全体が縮小してしまい、「社会保障の充実」も達成できなくなる。どんな理想的な「社会保障の充実」を唱えていても、まさに実現性の乏しいものか、または国民全体は困窮化していても「自分たちだけがよければそれでよい」とする悪しきエゴイズムに行き着くだけだろう。ちなみに候補者たちだけではなく、多くの政治家がこだわっている「プライマリーバランスの黒字化を、2020年に達成」というものは、経済的な重要性はまったくない(消費増税なくして「財政再建も社会保障もなし」の大ウソ)。目的自体の経済合理性がないのだから、それで話は終わりなのだ。だが、消費増税をしたい「緊縮病ゾンビ」の人たちにとっては、消費税を上げたいためならばどんな理屈でもいいのである。あるいはゾンビゆえに国民経済を考えるというまともな思考がすでにできないのかもしれない。ちなみに「緊縮病」をゾンビに例えたのは、ジョン・クイギン教授(クイーンズランド大)の『ゾンビ経済学』(筑摩書房)によっている。 かつて民主党政権誕生のときに、筆者は今回書いたのと同様の意見をもって、ラジオやネット上で警鐘を鳴らしたところ、「まだ政権が始まったばかりで決めつけるな」とか「一度はやらせてみるべきだ」などと猛烈なバッシングを浴びた。だが、民主党政権の経済政策の無残さは事実が証明している。太古の昔から、官僚たちの専横で腐敗した国は多いが、民主党政権ほど財務省のいいなりだった政権もなかった。民主党の経済政策の無残な成果はその表れのひとつだったろう。 大番狂わせがなければ、代表に最も近いであろう蓮舫氏は産経新聞のインタビューで「私はバリバリの保守ですよ。野田佳彦前首相並みの保守ですよ」と語った。これを「私はバリバリの消費増税論者ですよ。野田佳彦前首相並みの消費増税論者ですよ」という緊縮ゾンビの発言にも読み替えることができるかもしれない。

  • Thumbnail

    記事

    財務省の「使い捨て議員」小泉進次郎はポスト安倍にはなれない

    り、安全保障政策は安保法制と積極的な外交戦略だ。ここでは主に前者に話題を絞る。 アベノミクスは、この連載でも何度も強調したが、日本の経済停滞をデフレの継続に求め、その解消を狙うものだ。そしてデフレ脱却の結果、雇用環境を改善し、経済成長を安定軌道に乗せ、さらに結果的に(副次的に)財政再建やまた防衛費の無理のない増額を通じて安全保障にも貢献しようとしている。 いわゆる「バブル崩壊」以降、経済停滞が続く中で、アベノミクスのような発想は採用されてこなかった。多くは政府主導の「財政再建路線」と事実上のデフレの放置であった。政治家たちの多くの政策思想の中で、デフレ(あるいは不況)放置と「財政再建路線」は分かちがたく結ばれていた。財務省のカルト的な妄執との闘い 例えばかって小泉純一郎元首相は在任時に「景気が回復すると構造改革ができなくなる」と明言した。あるいは筆者もラジオ番組で、某自民党有力議員から「景気回復待ってると増税できなくなる」と直接聴いたことがある。もちろんここのでの「増税」は消費増税のことである。消費増税は、財政再建路線の日本における中核的な手段である。手段でしかないのだが、実際には消費増税はしばしば自己目的化してもいる。衆院選翌日、会見を終えた安倍晋三首相=2014年12月、東京・永田町の自民党本部 アベノミクスは金融政策を中心にしてデフレ脱却を目指すのだが、2012年末から13年までの(消費増税による駆け込み需要期を抜かす)実質GDPで2.6%の増加という目覚ましいものであり、その間、雇用状況が現在に至るまで大幅な改善に至っている。アベノミクスの成果を客観的にみることが重要だ。そしてこの金融政策中心の効果を今日に至るまで妨害している国内要因は、消費増税の持続的な悪影響である。消費増税自体は民主党政権の負の産物だが、安倍政権がその実行を2014年4月にしたことは事実であり、それは明瞭な「失政」だ。ところが興味深いのは、この消費増税の「失政」は政治的なライバルたちにはほとんど焦点があてられていない。むしろ与野党問わずに、アベノミクス批判は、消費増税や不安定な海外要因ではなく、アベノミクス(つまり中核の金融政策)自体の効果が乏しいか、あるいは悪しき副作用があるために、いまの経済の低迷があると語られていることだ。これは主要メディアや「市場関係者」(実際には数十名程度のアナリストを中心とした既得権的な小集団)も同様の態度をとっている。ともかく消費税の悪影響をできるだけ無視するのが、安倍政権のライバルや批判者たちの発言パターンである。 ところで消費増税は誰が推進しているのだろうか? 経済政策は自然現象ではないので「誰が」が存在する。簡単にいうと財務省以外にその主体はありえない。さらにいえば財務省とそれをとりまく上記の「消費税の悪影響を無視している」政治家、メディアや市場関係者たちも含む、「財務省グループ」だ。しばしばその行動は倒閣的なものにつながるほど、日本ではすさまじいスーパー権力だ。その具体的な政治的パワーは、例えば山口敬之『総理』(幻冬舎)などを読まれるべきだ。実際に、消費増税を二度も先送りした第二次安倍政権でさえ、先ほどのように2014年には一度「失政」をしているし、またデフレ脱却のためには消費増税ではなく「消費減税」と同時に消費増税路線の廃棄が望ましいのだが、それを果たしえていない。それだけ財務省の消費増税というほとんどカルト的な妄執は強いとみていい。それでも現状の安倍政権は、この財務省のカルト的な妄執と過去いかなる政権もなしえなかったほどの「闘い」をみせたことは最大評価すべきだ。小泉進次郎議員はより深刻かもしれない そしてこれが「ポスト安倍」が安倍首相以外にありえない答えにもなっている。与野党問わずに、「ポスト安倍」と目される政治家や政治勢力は、財務省の消費増税路線の妄執の奴隷でしかない。さきほど消費増税は財政再建のための「手段」でしかないが、しばしば「手段が自己目的化」していると書いた。まさに消費増税ありきの財務省脳的な政治家が日本の圧倒的大多数である。むしろ財務省的な経済政策観をもたない政治家を数える方が容易だ。アベノミクス(の金融政策中心)的政策観をもつ国会議員は、その数は二けたいかないだろう。 財務省にとって消費増税が自己目的化しているため、それに貢献する政治家たちもすべて消費増税のための手段でしかない。なんといっても財務省的な経済政策観をもつ政治家は腐るほどいるのだ。視察先で桃を摘み取る小泉進次郎農林部会長=7月3日、福島県福島市 ちなみに自民党の中の「ポスト安倍」と目されている人たち―稲田朋美防衛大臣、小泉進次郎衆議院議員、石破茂衆議院議員らーの過去の発言をみれば、消費増税ありきの財政再建主義か、もしくは金融政策中心のデフレ脱却への懐疑や批判が明瞭である。稲田大臣は、先の再延期の前には「消費税をまず1%引き上げる」案をだしたが、これも「なぜそもそも消費増税を経済が低迷しているときにこだわるのか?」という疑問に一切答えがない、消費税引き上げが自己目的化したものだ。また小泉議員はより深刻かもしれない。先の再延期のときの報道を読むかぎりでは、消費増税先送りへの懐疑的な態度にくわえて、親譲りなのだろうか、ともかく経済的な倹約(社会保障の見直し)という視点しかない。むしろ消費増税は積極的に先送りすることで、経済成長を安定化させ、そこで財政再建(社会保障制度の積極的な拡充)も実現していくべきなのだろうが、その手の発想は過去の発言をみるかぎり希薄だ。石破議員は、デフレ脱却を金融政策中心で行うと高いインフレに帰結するなど副作用の可能性を指摘してきた。いずれも財務省の消費増税路線やその背景にある財政再建主義に親和的だ。とりあえず代表的な三者をあげたが、さきほど指摘したように他の政治家もごく少数を抜かして同じ考えだと断言していい。 財政再建は大事かもしれない。だが経済が十分に復活しないときに、増税や財政支出の緊縮を行えば、それは国民の経済生活を困難なものに陥れるだろう。経済のまともな発展の副産物として、財政再建は実現されるものでしかない。 筆者の希望的な観測だが、国民の多くが実はこの財務省的な政策観が「狂ったもの」であることにうすうす気づいているのではないだろうか?  安倍政権の支持率の高さが、「ポスト安倍は安倍晋三」といわせる背景には、この国民の覚醒があるように思えてならない。だが、これは希望の芽であると同時に、現状では安倍政権以外に、まともな経済政策観を抱く有力な政治勢力がないことを示唆してもいて、そこに日本の潜在的なリスクがあるといえるだろう。

  • Thumbnail

    記事

    まさに不勉強の産物! SEALDsは「貧困プロパガンダ」で自滅した

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) いろいろ世間を騒がせ、日本の左翼やリベラルに妙な期待と幻想を植え付けたSEALDsが8月15日に解散した。SEALDsの一年ほどの活動のピークは、昨年の安保法制をめぐる国会論戦の最中であった。政治に参加する若い世代の新しい力としてマスコミなどに注目されるようになり、実際に左翼やリベラル的勢力の支持は、ネットや国会前のデモを中心に熱くなる一方だった。 筆者の見聞する範囲でも、SEALDsに批判的な発言をした論者が、とある有名ライブ会場に、その発言ゆえに出演することが難しくなったことも聞いた。それだけ熱狂的なファンがいたことは間違いない。ただしネットの一部や国会前のデモが、どれほど国民の支持を集めていたかというと、ほとんど実体を伴っていたようには思えない。 例えば、安保法制反対や安倍政権批判を全面に出した先の参院選では、SEALDsと同じ「若い世代」と目されている人たちの投票結果はどうだったろうか? 共同通信社の出口調査では、20代、30代の半数近くは自民党に投票したし(43・2%、40・9%)、10代もそれと同程度の40・0%だった。この数字は全世代の平均よりも高かった。その一方で、SEALDsと事実上の共闘関係にあった共産党や社民党などは10代では他の世代よりも低い支持率だったし、また民進党も同様だった。解散を表明し、会見するSEALDsの奥田愛基(左)氏ら=8月16日、衆院第二議員会館(斎藤良雄撮影) 簡単にいうとSEALDsは若者の代表でもなんでもなかったのである。では、なぜ同じ世代の人たちの多くが自民党を支持したのだろうか。それは安倍政権以前まで、特に麻生政権後期から民主党政権でピークを迎えた経済の大停滞の苦しい経験をリアルに知っているからではないだろうか? 民主党政権下の2011年に大学の就職率は最低水準(91・0%)にまで落ち込んだ。この数字の背景には、就職先がなく途中で求職自体を断念した膨大な人数を無視している。筆者は当時、大学の就職指導の担当だったが、職務先や近隣の大学も総じて就職はまさに「大氷河期」の様相だった。また高卒・専門学校も就職地獄であった。筆者は当時、就職指導による過労のあまり倒れてしまった。 この状況は安倍政権の経済政策が発動するまで基本的に変わらなかった。ちなみに最新の統計(2016年春)では、大卒の就職率は統計を取って以来最高の水準である。また高卒の就職率も24年ぶりの高水準であった。要するに若い世代の多くは、SEALDs以上に実際の経済や社会の動向に敏感だったのだ。 では、SEALDsは何を代表していたのだろうか? 政治的な行動(国会前での長時間のデモなど)に時間を割くことができる、経済学的にいえば時間当たりの機会費用が低いひとたち。要するに暇人の代表であった。 筆者は暇が大好きである。暇がなければ社会も文化も成立しない。だが、どうやらSEALDsのメンバーはあまりその暇を有効には活用していなかったかもしれない。少なくとも前記のような経済の動向を同世代の若者たちより学ぶ機会に利用しなかった。確かに先鋭的な政治スタイルへの評価はある。しかし少なくとも経済を見る視点は同世代に比べて鈍感だったし、また正しくもなかった。アベノミクス批判ありきの経済観 SEALDsのホームページをみてみよう(http://www.sealds.com/#opinion)。そこにはオピニオンと称して、同団体の経済観が網羅的に記述されている。テーゼは「持続可能で健全な成長と公正な分配によって、人々の生活の保障を実現する政治」であり、これだけだと異論は何人からもでないだろう。問題は具体的な中味だ。まず安倍政権批判ありき、つまりアベノミクス批判ありきの、事実一切無視の現状認識が展開されている。 逐条的になってしまうが、いくつか引用してみよう。ちなみにこのホームページが公開されたのは昨年2015年であることに留意されたい。参院選挙戦最終日に、候補者の応援演説をするSEALDsの奥田愛基氏=7月9日夜、東京都新宿区 「派遣村、就職難、ワーキングプアなど、現在の日本はかつてない貧困のなかにあります」とある。まず派遣村は2008年から10年当初までの出来事(施策)であり現在の話ではない。就職難も先ほど書いたように解消され、過去にない水準にまで回復している。失業率も3%を切る目前まで低下しているし、有効求人倍率も全県・全国で大幅に改善している。雇用状況をもっとよくする余地があるのは事実だが、どう考えても日本が「かつてない貧困」にあるようには思えない。人々を間違った事実認識に誘導する悪質なプロパガンダか、単に事実を認識していない不勉強の産物である。 SEALDsは「ワーキングプア」が増えたといいたいのかもしれない。次の一文からもその意思だけは伝わる。 「現政権は、格差拡大と雇用の不安定化を促進し、中間層・貧困層を切り捨てた、いびつな成長戦略を実行しています。アベノミクスの結果、一部の富裕層の所得は増えたものの、中間層の所得は減りました」 まずアベノミクスの核心をとらえ損ねている。アベノミクスは、積極的な金融政策、機動的な財政政策、成長戦略の3つである。特に第1の「積極的な金融政策」がアベノミクスの核心である。なお第2の「機動的な財政政策」のメニューに消費増税が当初から入っていたわけではない。消費増税は「機動的」でもなんでもないし、民主党政権のときに法律で決められてしまっていた「非機動的」なものだからだ。ポール・クルーグマンが指摘したように、実際に日本経済に効果を与えたのは、「積極的な金融政策」だけである(「Abenomics and the Single Arrow」 , The New York Times)。つまり、先ほどの就職状況や雇用環境の大幅改善は金融政策が実現したものであり、また金融政策がしばしば雇用政策といわれる理由でもある。SEALDsではそのような事実と常識レベルの経済学の知識を踏まえずに、アベノミクスは「雇用の不安定」を生み出していると主張していた。まさにいいかげんなレベルの事実認識だ。さらにSEALDsの文言では「成長戦略」となっているが、「雇用の不安定化」が起きるどころか大改善しているので、アベノミクスの成果として考えればいいだけだ。ちなみにアベノミクスの成長戦略自体には見るべきものはほとんどない。むしろ三本の矢に入っていない最低賃金の引き上げが毎年継続し、さらに労使にベアの引き上げを誘導するような所得政策的な方向性も根強い。これらは雇用の安定化に寄与する隠れたアベノミクスだ。消費増税を条件付で容認したSEALDs さらにアベノミクスが格差拡大や貧困を加速したという証拠は、2015年当時も現在も代表的なデータは事実上ない。つまりSEALDsの勝手な思い込みにすぎないのだ。例えば、貧困率は2012年までしか利用できず、ジニ係数の推移は2010年までしか利用できない。経済格差は高齢化とともに拡大する傾向にあるが、現段階の雇用状況の大幅改善、雇用者報酬の増加、さらには最近の実質賃金の増加傾向も含めると、安倍政権の政策の結果で貧困や格差が増加しているようには思われない。もちろんさらに経済状況を改善する余地があるとか、または現状の消費低迷からくる経済低迷(停滞ではない!)を改善するという主張なら賛成である。しかしSEALDsはまずアベノミクス全否定ありきなのだ。こんな事実に支持されず、また若い世代の実感にも乏しいオピニオンが支持されるわけがないだろう。 ちなみにトンデモな意見として「失業していた方がましだったのにいやいや非正規で働くので、アベノミクスは失敗」というものをネットでしばしば目にすることがある。この種の「やむなく非正規」を含んだ広義の失業率もアベノミクス以降、二けただった水準から2%近く低下した。これをさらに引き下げる余地はある。だがSEALDsはそもそもアベノミクスでの雇用の改善を全否定しているので、このような事実も一切無視であろう。2015年9月、国会前でリズムに乗って安保関連法案に反対するSEALDsのメンバーら 最後にSEALDsの消費税に関する態度も問題ありまくりのものだった。 「社会保障を中心とした再分配システムが再建されないまま消費税増税が行われれば、格差拡大はますます進行します」これは要するに消費増税の条件付容認である。だがSEALDsの考える「社会保障を中心とした再分配システム」の「再建」とはなんなのか、まったく具体策はない。まるで官僚の作文である。ちなみに民進党の政策パンフレットでも同様に、自分たちの考える再分配システムが成立するなら「本来やるべき消費税引き上げ」を実施すべきだと書かれている。 だが、消費増税ありきというこの発想こそ、いま問われるべきなのだ。実際に消費増税は所得下層の経済状況を悪化させてしまう。ならば事後的な再分配に頼る必要はない。消費増税をしなければいいだけなのだ。もっともSEALDsの消費税ありきの発想は、財務省のお気に入りの考え方なので、その方面からの支援を受けられたかもしれない。 SEALDsは自ら解散を予定したかのように説明している。確かに文言だけを追うとそうだろう。だが、本当のところは若い世代から見放されてしまったのだと思う。ただし効用もあった。古い政治イデオロギーにすがる高齢層の「政治的おもちゃ」の役割は果たしたと言えるからだ。

  • Thumbnail

    記事

    『シン・ゴジラ』が浮き彫りにしたニッポン停滞のメッセージ

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) 毎回ハードな経済政策について論じているこの連載だが、お盆休み真っ只中で書いている今回は、少し小休止の意味もこめて、「これは傑作だ」と確信した映画について書きたい。もちろん、日本中の映画ファンの話題を一身に集めている『シン・ゴジラ』についてである。『エヴァンゲリオン』などで著名な庵野秀明氏が総監督・脚本を、そして樋口真嗣氏が監督・特技監督を務めた超話題作である。 筆者は劇場公開初日の初回で見て、短い感想をSNSに書いた。以下はその全文である。近所のシネコンで早朝の回。普通に傑作。もう一度みたい。 『シン・ゴジラ』は、3.11の国民的な体験を前提にしていることは疑いない。怪獣映画としてのカタルシスはあるが、他方で何人かの評者が指摘してたように政治ドラマ。最後のシーンは新しい「原爆の図」をみるかのようだった。 『シン・ゴジラ』は完全な情報統制が敷かれていて、事前情報はほとんどなかった。だが公開日になると、多くの映画評や感想がネットに溢れた。そこでは従来のゴジラシリーズとはまったくコンセプトの違う映画、まさに想定外すぎる災害に対する日本の各人・各組織、そして時には米国や諸外国がどう対応するかの「ポリティカル・フィクション」であることが指摘された(「前田有一超映画評」)。宣伝コピーである「虚構対現実」は、この映画のテーマをまさに集約している。自衛隊が総力を挙げてゴジラに向かう映画「シン・ゴジラ」 (C)2016 TOHO CO.,LTD. すでに映画が公開されて半月以上が経過しているので、優れた『シン・ゴジラ』論が続々と発表されている。iRONNAでもおなじみの評論家の古谷経衡氏はテレビ番組「モーニング CROSS」やTwitterなどで『シン・ゴジラ』の素晴らしさをまさに言葉を尽くして伝え、また庵野映画の系譜の中で『シン・ゴジラ』の特徴をおさえながら絶賛した。 『シン・ゴジラ』を傑作とする評論家の宇野常寛氏は、その必読のインタビューの中で、以下のように優れたいくつもの発言を残している(「評論家・宇野常寛氏が語る『シン・ゴジラ』-この映画は99%の絶望と、1%の愛でできている」)。 そして明らかにこの映画は「3.11の原発事故が東京を直撃していれば、日本はちゃんとスクラップ&ビルドできたのかもしれない」という強烈な風刺が根底にあると思います。そのあり得たかもしれない現実を描くっていうフィクションの力というのを最大限に引き出す存在が今回のゴジラですよね。みんな忘れているけど、怪獣ってもともとはそのために生まれてきたものなんです。庵野映画に現れる「スクラップ&ビルド」というメッセージ この「スクラップ&ビルド」という言葉は、劇中で主要人物のひとりが、ゴジラをとりあえず防衛した後に語った言葉である。歴史の中で日本は「スクラップ&ビルド」のたびにのし上がってきた、と。この「スクラップ&ビルド」的なメッセージは、庵野映画にしばしば現れる中心的なものである。『シン・ゴジラ』の総監督・脚本を務めた庵野秀明監督 例えばその典型が、従前の代表作『新世紀エヴァンゲリオン』である。この映画の背景となる社会は非常に奇妙なあり方をしている。いわば想定外の災害さえも内部に取り込むことが可能な、「超防災社会」としての姿を見せているのである。ファーストインパクトによって人類の半分が絶滅した後の社会であるにもかかわらず、劇中で描かれた社会は巨大土木工事と都市自体を兵器化するという備えによって、きわめて安定的な世界になっている。交通網や社会的インフラは完備し、また食料の供給も滞りない(登場人物たちは気軽にコンビニで買い物ができる等)。それだけではない。「使徒」の度重なる攻撃にもかなりの程度耐え、まるでその退治の後には何事もないかのように日常が送られる。例えば、学校の教育など戦地真っ只中で平常通りに行われる。つまり、大規模災害をある程度包摂し、そこできわめて効率的な社会運営が行われているのである。しかも今日の我々が直面している資本主義経済的なものとして。まさにエヴァの中で描かれているのは、日常的な「スクラップ&ビルド」社会である。 社会や経済が厳しい環境に落ち込むことで、かえって以前よりも効率性をまし、潜在的可能性を発揮すると考える思想を、経済学では「清算主義」といっている。例えば景気が悪化することによって、非効率的な企業や能力のない人員が整理されて、それがかえって経済全体を以前よりも押し上げるという思想だ。不景気が深ければ深いだけ、それに耐える優良な企業や労働者が残ると考えるわけである。この清算主義は、最近では別名「緊縮主義」ともいわれている。不景気であっても安易に拡張・緩和的な経済政策を行うべきではなく、むしろ安易に政府が救済してしまうと、経済はダメなままになってしまうと考えるのである。「不況を極限まですすめる」。これが清算主義=緊縮主義のメインテーマである。 このような清算主義、緊縮主義が猛威を振るったのが、戦前では1920年代から30年代にかけての大恐慌時代であった。また最近でもリーマンショック以降の「大停滞」の時代に、同様の思想が様々な形で主張されている。さすがに「不況を極限まですすめよ」と声高に言う政策当事者たちはいないが、それでも経済が危機的状態からそれほど回復していないのに、「財政再建」などを名目にして増税に走るという態度は、この清算主義や緊縮主義の立場と基本は同じである。 エヴァシリーズにも今回の『シン・ゴジラ』にもこのような清算主義的思考が顕著である。『シン・ゴジラ』では、ゴジラのはじめの襲撃後に、円安・株安・国債暴落などが語られるシーンがある。また失業の増加、避難生活を送る人々の苦境にも簡単に触れられている。これらの諸現象の背景には、「スクラップ&ビルド」=清算主義的メッセージが横たわっている。現在の苦境は、明日の成長のための養分なのである。『シン・ゴジラ』に通じる村上龍の世界観 このような『シン・ゴジラ』の清算主義的メッセージの由来はどこにあるだろうか。もちろんそれは脚本も担当した庵野総監督の思想の由来を尋ねることになるだろう。この点について、『シン・ゴジラ』の映画的由来を解説した先ほどの古谷氏や宇野氏の発言も重要である。またライターの飯田一史氏の論説「村上龍最良の後継者であり震災後文学の最高傑作としての『シン・ゴジラ』」は、村上龍氏の作品からの影響関係で、庵野氏の思想世界を解明していることで注目できる。庵野氏は村上龍の小説『ラブ&ポップ』を実写映画化したり、エヴァの登場人物に村上龍氏の作品から名前を借用してもいる。両者の影響関係はそれだけではないことを、飯田論説は詳細に解明している。 実は村上龍氏の作品世界もまたこの「スクラップ&ビルド」=清算主義的メッセージが中心である。いまから10年以上前に、筆者は村上龍氏の清算主義的世界観を総合的に論じたことがある(『最後の「冬ソナ」論』(2005年、太田出版)の第6章)。特に村上氏がこの清算主義的世界観を、彼の主宰するJMM(ジャパン・メール・メディア)などのメディア活動を通じて、いわば日本の「失われた20年」の経験から抽出し、それを強固なビジョンにまで仕立てあげたことはあまり知られていない。 村上氏の「失われた20年」の日本経済とは「異常な低金利が続き、市場から退席すべき衰退企業が延命することになった」(村上龍『ハバナ・モード』)ものであった。そしてマクロ経済政策よりも、優れた企業達の活動に目をむけ、そこでの様々なイノベーションのあり方に注目する、「マクロからミクロへ」という視点が、いまの村上氏の経済社会論における基礎である。それは事実上、マクロ経済の問題=不況などの解決を、企業の活動によるミクロ的な試みで解決すると信奉している、市場中心的な創造破壊の見方だ。このような村上龍的な清算主義は、『シン・ゴジラ』などの庵野作品における「スクラップ&ビルド」=清算主義的メッセージと同類であり、事実上その思想的親であろう。 この「スクラップ&ビルド」=清算主義的メッセージは、単純な論理であり、心情的にも受け入れやすい。だが『シン・ゴジラ』で、ゴジラ以上に中心的な役割を担う政治家や官僚たちが採用してしまえば、人災となって社会に襲い掛かってくるはずだ。だが、実は『シン・ゴジラ』のテーマとは、怪獣という自然災害ではなく、そもそも「人災」の話であるように思われる(詳細はネタばらしになるので控えるが)。その意味ではこの作品における「スクラップ&ビルド」=清算主義的メッセージは複雑な色彩を帯びているともいえる。「シン・ゴジラ」公開直前イベントin大阪に登場した(左から)石原さとみ、長谷川博己とシン・ゴジラ=7月26日、大阪市中央区(撮影・永田直也) もちろん私は『シン・ゴジラ』を「スクラップ&ビルド」=清算主義的メッセージがあるからダメだといっているのではない。むしろこの日本の現状の戯画化として成功したこのドラマが、日本を事実上停滞させてきた清算主義的な思想が根本にあることに、ひとつの深い興味を抱いているだけにすぎない。 ところで筆者は、現時点で三回『シン・ゴジラ』を見ているのだが、石原さとみ氏の魅力は特筆すべきであると思っている。同映画での彼女の役柄への批判は多いが、それは妥当ではない。とりあえず4DX対応の映画館でまた『シン・ゴジラ』を見に行きたいといま熱烈に思っている次第である(「シン・ゴジラを絶対に4DX対応の映画館で見るべき理由は石原さとみ」)。

  • Thumbnail

    記事

    アベノミクスを取り戻せ! 経済の常識を知らぬプロが多すぎる

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) もう10数年前のことになるが、『昭和恐慌の研究』(2004年、東洋経済新報社)の形になる共同研究を行った。この書籍は出版年度の日経・経済図書文化賞を受賞するなど一定の評価を得、今日でも増刷されて広く愛読されている。この本はいわゆるリフレ派(デフレを脱却して低インフレに移行することで経済を安定化させる政策を志向する集団)のマニフェスト的な位置にある。しばしば共同研究会の場で、エコノミストの故・岡田靖氏が、「中長期的には貨幣数量説が成立する。問題の核心は日本銀行の政策のあり方だ」という趣旨の発言をしていたことを思い出す。よくデフレ(物価の継続的下落)は貨幣的現象といわれるが、その特徴を明瞭に要約したものだといえる。『昭和恐慌の研究』はいわばその詳細な理論・歴史・実証の総括的な分析の本だった。 岡田氏の要約のように、日本銀行がデフレを脱却し、低インフレにもっていくことにコミットすることがまずは重要だ。現実の政策手段では、現在の日本銀行のように2%のインフレ目標を採用することにある。日本銀行本店(早坂洋祐撮影) それに加えて、中長期的に貨幣数量説が成立するような政策枠組みが必要になる。言い換えると「貨幣数量説が中長期的に成立することを市場が予想するような政策手段を考案する」ことがキーとなる。具体的にはなんだろうか? 単純な貨幣数量説は、MV=PYという式で表現されることがある。Mは貨幣数量、Vは一定期間の取引回数(貨幣の流通速度)、Pは物価水準、Yは経済の取引量(GDPなど)である。PYは名目GDPとも解釈ができる。いまVをとりあえず一定とすれば、Mの増減はそのままPYや(Yを一定にすれば)Pの増減に対応する。物価はまさに貨幣的な現象となる。この関係が中長期的に成立することを、市場に存在するたいていの人が予想するような政策の枠組みが必要となる。岡田氏が研究会で話した発言はそう解釈できる。「レジーム転換」の足を引っ張る消費増税 具体的には、経済全体のマネーをコントロールするためにマネタリーベースを変化させることが必要だ。マネタリーベースの増減は、日本銀行がいまも直接の政策手段にしている。現状では長期国債やETFなどの買い入れで年間80兆円のペースで増加させている。このことが市場に中長期的に貨幣数量説が成立する予想をもたらす具体的な方策になる。なお短期的には貨幣が実物経済(雇用、生産など)に影響を与えるので、金融緩和政策は雇用増加・改善政策となる。また「中長期」もいつでもいいというわけではない。いまの日本銀行と同様に「できるだけ早期」にデフレを脱出することにコミットしないと、短期的な経済改善効果も大幅に損なわれてしまう。 このインフレ目標、そしてマネタリーベースの増加といったものが、日本銀行がデフレを放置する政策から、低インフレ(前年度比2%のインフレ)に移行する政策に転換したと、人々の予想のあり方を大きく転じることに貢献することになる。これを「レジーム転換」という。 さらに政府の政策的な協調が必要だ。いままでの説明の範囲内でいえば、政府は名目GDPに影響を与えることができるからだ。財政支出は、税、補助金、公共事業などの形態で経済に刺激を与えることができる。なので先ほどの「レジーム転換」には、政府との協調が欠かせない。日本銀行がデフレ脱却を目指して金融緩和をしているのに、他方で政府が増税してしまえば、「レジーム転換」は困難になる。わかりやすくいえば、日本銀行の金融緩和政策が政府の増税によってその効果を大きく減退させるのだ。 ここまで書いてわかるように、政府が増税を採用し、中央銀行が金融緩和政策を行っているのが現在の日本だ。アベノミクスが行われている下で、消費増税を行えば、人々の予想が大きく乱れる。そのことが政策の効果を減じてしまい、デフレ脱却が遠のくだろう。実はこのような見取り図は、リフレ派の専門家たちは、安倍政権が消費増税を行うはるか前から予測し、警鐘を鳴らしていた(一例:田中秀臣編著『日本経済は復活するか』藤原書店2013年)。だが不幸にもそのデフレ脱却レジームは現在も揺らいだままである。 より具体的な指標では、いわゆるデフレギャップが6兆円から10兆円の規模で存在し、さらに 6月の消費者物価指数(食料及びエネルギーを除く総合、対前年同月比)は0.4%だった。次第にプラス幅を縮小させており、統計的な見地からいえばデフレ経済に戻る臨界水準であるといっていい。 このデフレ経済再突入の危機をどう脱するか。すでにここまで詳細に書いたように、アベノミクスを再起動させることが重要になる。金融緩和と財政拡張のポリシーミックス(政策組み合わせ)が必要だ。「金融緩和縮小」見方を広めた市場関係者と一部マスコミ ところでこの当たり前の話が、どうも自称「市場関係者」や一部のマスコミにかかると一気に不透明になってしまうようだ。7月の日本銀行の政策決定会合で、その公式文章の最後に、「2%の『物価安定の目標』をできるだけ早期に実現する観点から、次回の金融政策決定会合において、『量的・質的金融緩和』・『マイナス金利付き量的・質的金融緩和』のもとでの経済・物価動向や政策効果について総括的な検証を行う」とした文言が奇奇怪怪な反応を引き起こした。 「市場関係者」(実際の市場は膨大な人数がかかわるが、この場合はたかだか数十名の既得権益をもったアナリストやエコノミストたちにしかすぎないことに注意)や一部マスコミは、この文言をもって現状の日本銀行の金融緩和の手段を終わりにする、もしくは縮小すると解釈したのである。まさに驚きの超解釈だ。「マイナス金利をやめる」「マネタリーベースの増加スピードを緩める」「インフレ目標を放棄する」などなど、まさに本当に経済学の基礎を学んだのだろうか? という発言や記事のオンパレードであった。ちなみに先に書くが、学んでないというのが正解だ。記者会見で金融緩和縮小に向かうとの市場の観測を否定した日銀の岩田規久男副総裁=8月4日、横浜市 これは金融政策とは関係ないが、ある経済評論家との対談で、比較優位の説明をしたところ、初めてきくような新説のような顔をしたことがあった。あとで「これは驚くことはなく、ただの比較優位である」と種明かし(?)したら、その経済評論家は憤然として「そんなのは経済学を学んだからわかっている!」と怒り出した。ちなみにその経済評論家は日本銀行の金融緩和政策についても間違った解釈を今も精力的に行っているようだ。閑話休題。 日本銀行の公式文章を素直に読めば、2%の物価目標を「できるだけ早期に」実現するのだから、金融緩和を持続するに決まっているのだ。だがそのような常識が通用しない人たちの声の方が、いまの「市場関係者」や「一部マスコミ」には多いのである。 さすがにこのようなノイズを懸念してか、日本銀行では黒田東彦総裁も岩田規久男副総裁も、「金融緩和の縮小はない」と当たり前の発言をしなければいけない事態になった。いかにいまの日本の論壇が知的な意味で貧しい状況なのか端的に示す事態だろう。 「これまで、「量」・「質」・「金利」という3次元を駆使してきましたが、2%の「物価安定の目標」の早期実現のために、どういう組み合わせが一番よいかということを、これから検証していくということです。金融政策の緩和の程度を緩めるというようなことは、元々あり得ないと思っています。」(岩田副総裁記者会見、8月4日)。 アベノミクス(デフレ脱却政策)を取り戻すことが必要だ。まずは、「市場関係者」や「一部マスコミ」の知の暗闇から!

  • Thumbnail

    記事

    日本銀行の無策は「犯罪行為」に等しい

    個人消費を刺激する政策が採用されていた。ところが今回は、インフラ整備などの公共事業が中心である。この連載でも何度か指摘しているが、2014年4月以降、個人消費が大きく下落し、そのまま消費低迷が継続している。この消費低迷こそが日本経済をデフレ経済にしている主因だ。公共事業でももちろん消費は増加するが、あくまでも波及効果次第である。この波及効果を「乗数効果」といっているが、90年代からこの効果が失われていることが問題視されていた。 やや専門的になるが「マンデル・フレミング効果」が乗数効果低下の筆頭としてあげられるが、これは大胆な金融政策を行えば、財政政策は効果のあるものになる(教科書的な説明だがこの理解にも乏しいのが現状だ)。実際に2013年初頭の財政政策は金融政策とともに効果を十分に上げたものだった。ただし公共事業に利用できる人的資源や物的資本は有限であり、質的に高度なものが求められているので「供給制約」が厳しい。簡単にいうと、首都圏などでインフラ整備がすすめば、例えば震災や大規模災害で復興に割り当てている資源が不足する。または民間の土木・建築の活動が抑圧されてしまうかもしれない。このことは公共事業の効果を限定的なものにしかねない。 例えば、経済産業省は全産業の活動指数を公表している。この中で公的部門と民間部門それぞれの「土木・建築活動指数」や土木・建築個々の活動指数をみると、公的部門の活動指数はアベノミクス発動以来、高い水準を維持している。他方で、公的な活動指数が増加するとほぼそれに連動して民間の土木・建築(そしてそれぞれの)活動指数が低迷している。これは土木や建築に必要な資源(人・もの)を民間部門から公的部門が引き抜いてしまい、新しい雇用の創出などで制約が厳しいことを意味している。新しい雇用創出などに制約があれば、もちろん新規の所得創出も制約され、消費も追加的に増加できにくい。底堅い雇用は「無策」では続かない なぜか日本では財政政策=公共事業という図式でしか考えることができない人たちが多い(公共事業バイアス)。以上のような公共事業制約説を主張すると、「財政政策の否定だ」という人が実に多いが、おそらくそういう人たちは教科書レベルの経済学さえ理解していないといっていい。公共事業に制約があっても、もちろんその制約に配慮しながら行えばいいだけのことである。問題は公共事業「だけ」でいまの消費低迷を脱出できる見込みが乏しいことだ。景気を刺激する財政政策には、公共事業以外に、減税や各種の補助金政策が存在する。日本、韓国は公共事業に過度に依存するが、欧米ではむしろ減税や補助金政策で工夫するのが財政政策の常道だ。 この連載でも繰り返し提起しているのは、消費に直接効き目がある政策である。理想は消費減税なのだが、残念ながら安倍政権ですら財務省の増税主義に抗すことができていない。これは本当に日本の不幸だ。代替案は直接給付や社会保障負担の軽減だろうが、どうも今回はその種の発想に乏しい。これが財政政策をとりまく不安だ。金融政策決定会合に臨む日銀の黒田総裁(中央)ら=4月28日(代表撮影) さらに今週末に行われる日本銀行の決定会合はことさら重大である。アベノミクスの継続を好感して、株価も上昇し、また為替レートも円安傾向にある。この市場の期待は、そのまま日本銀行が追加的な金融緩和を行うかどうかに依存しているといってもいい。しかしいまの日本銀行はあまりにも動きが鈍い。まるで消費増税しなければ追加緩和はしないとでもいうようなシグナルを、黒田日銀は発しているようだ。このような財務省中心主義的な懸念が各所で聞かれる。 もし実際に今度の政策決定会合で「無策」に等しい判断をすれば、市場の予想は崩壊し、(現状で想定している範囲内での)デフレ脱却に赤信号がともるだろう。日銀の「無策」は事実上、国民の生活を再び低迷させることになるので、もはや「犯罪行為」に等しい。実際、景気低迷のときに、財政・金融政策をしっかり行わないと自殺者数が増加するなど国民が本当に死んでしまう、という実証結果は豊富だ。確かにいまの日本はまだ雇用改善の結果を受けて、経済苦などによる自殺者数が大幅に減少傾向にある。だがこの勢いをとめてはいけない。底堅い雇用は「無策」でも続くものではないからだ。アベノミクスの本気度が、そのまま国民の生命に直結していることを、安倍政権と日本銀行の首脳陣はよくよく考えるべきだ。

  • Thumbnail

    記事

    日本のリベラル左派が民主主義を救うのは無理かもしれない

    米の保守政権が好むような構造改革や財政再建政策が好まれる傾向にある(そのルーツの一部については過去の連載で触れた)。そして安倍首相の経済政策がむしろ欧米リベラルそのものであることを、謙虚に評価する必要があるのではないだろうか。これを頑迷なリベラルや左派ではなく、柔軟な精神をもつ人たちに伝えたいと思う。

  • Thumbnail

    記事

    アベノミクスにYES、カルト現象にはNOを突きつけた18歳選挙権

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) 10日に投開票が行われた参議院選挙は、多くの世論調査の通りに与党の圧勝に終わった。 マスコミの多くが、「改憲勢力が三分の二をとれるかどうか」に選挙の焦点を特別に絞っていた。だが事前の世論調査では、どのメディアでも「社会保障」「雇用・景気」などの経済問題が圧倒的多数の有権者の関心であった。 また他方で今回の選挙は、「18歳からの投票」が可能になった初の国政規模の選挙になったことでも注目された。なぜ18歳から投票権が引き下げられたかは、現状の日本の人口構成比をみると、例えば65歳以上の高齢者たちが人口の圧倒部分を占めていて、そのため将来の社会を担う若年者の関心や政治的権能をすくい取ることが難しくなってきた実情をいくばくか反映している。世田谷区役所で期日前投票PRのデモンストレーションを行った女優の広瀬すずさん=7月4日、世田谷区 簡単にいえば高齢層が自分たちの既得権(特に年金給付が焦点)を失いたくないために、投票で事実上の結託をしてしまう“シルバー民主主義”が懸念されている。 だが今回の参議院選挙の投票率は過去の歴史の中でも低水準であった。「憲法改正」も無論そうだが、経済問題や「18歳からの投票」なども多くの国民の投票行動を平均的な投票率を超えて刺激することはなかった。 平均値も下がったが、若年者の投票率も毎回のように低迷したままである。もちろん年齢を引き下げたので、若年層の投票人口は増えているが、率としてみればいつもと同じく40%に届かず低迷したままであろう(これはこの原稿を書いている時点では、出口調査などからの推測でしかない)。対して高齢者の投票はこれまた毎回のように若年者に比して投票率でも上回り、また投票者数でもはるかに上回っている。例えば前回並みとすれば60歳代で70%に近く、20歳代のほぼ倍である。 高齢者たちのシルバー民主主義は健在であったわけだ。もし今後、このシルバー民主主義を抑制し、若年層の利害をより反映する仕組みにするならば、次の方策が考えられる(参照:八代尚宏『シルバー民主主義』中公新書)。1)被選挙権者の年齢を引き下げて若年層の利害をより反映することができる候補をたてることで、若年層の投票率を引き上げていく。2)全年齢層での投票の義務化。である。前者はかなり有望な選択肢である。後者は投票する事由、しない自由を含めて議論が多いだろう。経済合理的な意見を持っていた18、19歳の人たち 前者は筆者個人も推している。例えば今回の選挙でも「若者代表」というようなイメージを利用するかのような候補や戦術は多かった。例えばSEALDsはその初期からそのような「若者」の政治参加として注目を浴びてきた。今回の参議院選挙でもその動向は一部の人たちには注視されてきただろう。また東京都選挙区で立候補した三宅洋平氏は「選挙フェス」という目立つ手法で、聴衆の“熱狂”を駆り立てて、主にネットの世界で話題になっていた。 特に三宅氏には一部のタレントや著名人が支援をしたり、またtwitterなどでは「当確」だとか書く人たちもいて、正直、その熱狂はカルト的な雰囲気を生じさせていた。他方でその三宅氏の主張には他の識者たち(かくいう私を含めて)やネット民の間では批判が強かった。特にユダヤ陰謀論や似非科学的な言説(EM菌、ホメオパシーの推奨など)に批判が集中した。 今回、ネットでの熱狂とは異なり、東京都選挙区では早々に敗退が確定し、この原稿を書いている段階では各種調査では泡沫的候補に近いレベルでしかなかった。ネットが局所的な熱狂を生み出しやすく、また分極化(極端な主張にふれて対立しやすい)の典型例になったといえるのかもしれない。今後も注意してみておかなくてはいけない現象だろう。 ところで「18歳からの投票」を行った18、19歳の人たちの関心はどうだったろうか。先ほどのように投票率は低かったものの、他方でSEALDsなどが喧伝する「若者」的な意見とはかなり異なっていたようだ。NHKの出口調査によると、支持政党では自民党が他の政党を圧倒的に引き離していた。また安倍政権の経済政策(アベノミクス)を「大いに評価する」、「ある程度評価する」と答えたものは合わせて64%だった。これは他の世代に比べてもかなりユニークな特徴といえる。7月の世論調査では全年齢でアベノミクスに肯定的評価を与えたのが48%であったからだ。これは筆者の私見だが、2012年までの経済停滞よりもそこからアベノミクスによって高卒・専門学校卒、大学卒など新卒市場が大幅に改善されたことを、この年齢層の人たちが敏感に反応したからかもしれない。その意見はきわめて経済合理的だ。他方で18、19歳では憲法改正に慎重であり、また将来の財政・社会保障への不安を感じる度合いが高年齢層並みに高いのも注目すべきところだろう。 今回、メディアは憲法改正を大きなテーマにしてきたが、各種世論調査でも経済問題が最優先であった。結局、自称「改憲阻止」を訴えた政党はその念願を達成することなく終わるだろう。その意味では惨敗である。

  • Thumbnail

    記事

    共産党議員「人殺す予算」発言のホンネと安保法「違憲多数決」の誤解

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) NHKの討論番組で、共産党の藤野保史衆議院議員が防衛費を「人殺しのための予算」と発言したことが問題視され、その責任をとって党政策委員長を辞任したことは記憶に新しい。表向きは、藤野発言が共産党の方針と違うための辞任であると伝えられている。しかしネットではこの藤野発言こそ、共産党の自衛隊や防衛費に対する典型的な見方だという意見も多い。その傍証も目にすることができる。参院選に向け街頭で支持を訴える共産党の志位委員長=6月5日午後、札幌市中央区 例えば共産党の尾張美也子市議(東京国立市)は、Twitterで「人殺しの道具等の軍事費」として防衛費を批判している(現在は削除されて書影が保存されている)。また共産党がその党の綱領で、日本国憲法の全文を保持する一方で、自衛隊を違憲だとみなしていることは有名である。憲法違反の存在だから自衛隊の行う活動は違法だという、共産党の考えがストレートに表れている話だろう。個別的な自衛権の行使で、仮に何者かが殺傷される事態が生じれば、共産党の発想では法的裏付けがないために「人殺し」とみなすのだろう。そう理解してもなんの不思議でもない(念のために、個別的自衛権の行使で人が殺傷されるケースが生じないことを筆者が願っているのは言うまでもない。そういう事態を防ぐために我々はできる限りの努力をするべきだ)。 現状で、共産党や社民党以外の政党で自衛隊を違憲であると党是で主張している政党は国会で議席を占めていない。憲法九条は、日本が個別的自衛権を有していることを認めていて、自衛隊はその権利(個別的自衛権)の行使を行う主体として合憲である、というのが、圧倒多数の政党とまた国民の世論調査でも過半数を大きく上回る人たちの支持を得ている事実である。 だが共産党以外に、「自衛隊=違憲」が多数を占めているケースを比較的最近目にしたことを思い出す。朝日新聞が行ったいわゆる安保法制(平和安全法制)をめぐる憲法学者へのアンケート結果である。ちなみに朝日新聞だけではなく、テレビ朝日の「報道ステーション」や東京新聞も同様な調査結果を得ている。圧倒的だった憲法学者の「安保法制は違憲」 朝日新聞の当時(2015年7月11日)の報道によれば、安保法制が憲法違反にあたるか、という問いに対して、回答を得た憲法学者の答えは、おおよそ次の三つにわかれた。憲法違反が104名(報道ステーションでは127人)、違反の疑いがあるが15名(同12人)、また違反の疑いはないが2人(同3人)である。 このアンケートは一人歩きを始めて、いまも「憲法学者の圧倒多数が違憲といっているので安保法制は違憲だ」というものとして利用されている。つまり専門家たる憲法学者の圧倒多数がいうことが「正しい」という見方だろう。これを学術的に支持するような意見も目にする。 最近、坂井豊貴・慶應大学教授の新著『「決め方」の経済学』(ダイヤモンド社)を読んだ。坂井教授は『多数決を疑う』(岩波新書)で、新書大賞の上位にランクするなど新進気鋭の論客としても注目されている。筆者も坂井教授の『社会的選択理論への招待』(日本評論社)は名著だと評価している。 坂井教授は「多数決で正しい判断ができる確率」がどのくらいなのか、を問題にしている。これは「コンドルセの陪審定理」というものとして知られている。いくつかの前提が必要なのだが、坂井教授は安保法制が違憲か違憲ではないのかを、専門家たる憲法学者に聞くことこそがこの陪審定理の恰好の素材と考えている。 陪審定理を利用して、憲法学者の多数(上記のアンケートでは安保法制違憲派)がどのくらい「正しい」のか確率でわかるのだ。 報道ステーションの方の結果を利用した坂井教授の計算によれば、安保法制が違憲だと考える人たち(上記の127名)が、正しい意見であるという確率はなんと99%以上になる。 坂井教授の言葉を借りると、「安保法制は違憲の疑いが高いというよりも、純粋な違憲である」(『「決め方」の経済学』、160頁)となる。これは単に「多数決がいつも正しい」という次元のものとは違うことを指摘しておきたい。科学的な論証なのだ。 だが、筆者は坂井教授のこの計算は正しくないと思う。正しくないというのが言い過ぎならば、注意が足りないと指摘したい。 報道ステーションのアンケートには、調査対象になった憲法学者が、そもそも自衛隊を違憲と考えているかという質問項目がなかった。だが他方で、朝日新聞のアンケート結果では(当時、紙面にこの問いの結果が掲載されてないと批判を浴びたことは記憶に新しい)では、そもそも自衛隊自体を違憲と考えている人たちが大多数だったということが重要だ。陪審定理を単純に応用できない政治バイアス 冒頭の共産党ではないが、そもそも安保法制の行使主体である自衛隊そのものが違憲であるので、当然に安保法制も違憲なものとみなすのは自然な流れだ。だからこそ共産党は、安保法制を「戦争法案」と批判しているのだろう(筆者は愚論かデタラメだと思うが)。 日本報道検証機構がまとめた記事だと、実名がわかっている人たちの回答をまとめてみると、当たり前だが自衛隊を違憲と思っている人全員が、安保法制を違憲だとみなしている。他方で、自衛隊は違憲ではないと答えた憲法学者は実名では19名。そのうち違憲だとするものは8名、違憲ではないとするものは2名であった。「立憲デモクラシーの会」が主催する集会で、発言する早稲田大の長谷部恭男教授(右端)=2015年9月16日夕、参院議員会館前 陪審定理にはいくつかの前提条件があるのだが、その前提のひとつに「空気を読め」とか「ボスの支持にしたがう」など、自分の熟慮以外のものに影響されないというものがある。しかし自衛隊を違憲であるとするのはかなり政治的なバイアスをもつことは自明ではないだろうか。 例えばアベノミクスのうち、金融政策はリフレ政策ともいわれているが、このリフレ政策を支持しているマルクス経済学者もしくはその影響にある人は、筆者の知る限り、日本では松尾匡・立命館大学教授と稲葉振一郎・明治学院大学教授の二名ぐらいである。他の数千名に達するだろうマルクス経済学者たちはリフレ政策に反対か懐疑的である。マルクス経済学者に「リフレ政策は正しいか否か」を聞き、その結果を陪審定理で判断したら、間違いなく、リフレ政策は「誤ったもの」になってしまうだろう。つまりこのケースもそうだが、自衛隊=違憲という政治バイアスをもつ憲法学者が多数のケースに陪審定理を単純に応用するのは正しくないのだ。 ちなみに自衛隊を合憲とする人たちだけに絞り、陪審定理を適用しなおすと、安保法制が違憲であるという人たちが「正しい意見」になる確率は約55%になる。約99%とした坂井氏とは違い、まさに安保法制が専門家の見地からみても容易にどちらが「正しい解釈」であるのか、少なくとも陪審定理ではほぼ半々だ。このような安易な理論の援用ではなく、安保法制が日本の安全保障という現実の前でどのような意味をもつか、それと憲法解釈との真摯な対話という、まさに立憲主義の本義に沿って問うべきことだろう。

  • Thumbnail

    記事

    追加緩和に踏み切れない黒田日銀がハマった「先入観」

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) 日本銀行は6月16日の政策決定会合で、当面の金融政策の運営について「現状維持」を決めた。日本銀行が現状維持を採用するのではないか、ということはいわゆる市場関係者の多くが予想していた。この予想が裏付けられたことを反映して、株価は急落し、また為替レートは大きく円高にふれた。 また日本銀行の政策(2%の「物価安定の目標」の実現を目指し、これを安定的に持続するために必要な時点まで、「マイナス金利付き量的・質的金融緩和」)に期待をかけている人たちに、今回の決定はかなりの失望をもたらした。円高が進行し1ドル103円台を表示する証券会社の株価ボード=6月16日午後、大阪市中央区(恵守乾撮影) 安倍首相の消費増税の2年半後への再延期をうけて、日本銀行側がどのような政策判断をするかに注目が集まっていたからだ。特に最近の世界経済の不透明感や、また個人消費を中心にした国内経済の低迷をうけて、このタイミングで追加緩和を行うべきだという見方があった。例えば、中原伸之元日銀審議委員は、メディアの取材に対して、消費増税という障害が取り除かれた今こそ、「号砲一発」大規模な金融緩和を行うべきであり、その手段として国債の年間買い入れペースを現状の80兆から100兆に増額することなどを提起していた(http://digital.asahi.com/articles/ASJ6956RFJ69ULFA01F.html)。 もちろん筆者も中原氏らの意見を支持しており、むしろ日本銀行の追加緩和はもっと早い段階で行うべきだったと確信していた。だが残念ながら冒頭にも書いたように今回も見送られた。 公式的にはその理由は、「雇用・所得環境の着実な改善」を背景にした「緩やかな成長」を実現しているので、緩和する必要を認めないということだろう。物価上昇率も、弱含みを認めつつも、目標にむけて改善していると解釈している。簡単に言うと「日銀シナリオ」に変更はない、ということだ。 公式的な理由以外では、1)委員会を主導する黒田総裁の「財務省的バイアス」、2)今年初めに採用されたマイナス金利政策の効果待ち、などがあげることができる。 黒田総裁の財務省バイアスというのは、財務省出身である黒田総裁にとっては、同省の悲願である消費増税を実現するためだけに金融緩和政策は貢献すべきであり、消費増税が先送りされた現状では追加緩和の余地はない、と考える姿勢である。「増税なくして追加緩和なし」とこの財務省バイアスはまとめることができるが、もし本当にそう思っているならば相当に重症なトンデモ経済論である。「金融政策は雇用政策である」 多くの中央銀行が共通して保持している政策は、究極的にはその国の経済の安定、わかりやすい指標で言えば実質経済成長率の安定化にある。実質経済成長率を安定化させる(=その国の潜在的な経済能力に見合った成長率を維持すること)は、雇用の最大化を通じて実現できる。中央銀行は金融政策を通じて、雇用の最大化を目指すので、しばしば「金融政策は雇用政策である」と表現されている。 この実質経済成長率が安定化したいわば副産物として税収が増加し、また税制度自体の信頼性が高まっていくだろう。どの中央銀行当事者も「増税」しかも「消費増税」のために金融政策を判断するなどと本心でも抱懐してはいまい。黒田総裁には、政府との協調を語る以上に、財政再建にかかわる発言が多いのは事実である。ただ財務省バイアスがどれだけ本当に政策判断を曇らせているのかは不明だ。 マイナス金利政策の効果待ちという姿勢は、黒田総裁の記者会見での発言でも明瞭に表れている。今回の政策決定会合後でも、マイナス金利の効果が住宅投資の改善など実体経済面にも波及していて、これからより具体化するとしている。 だが、マイナス金利政策のマクロ経済に与える効果は、現状の政策フレームの中ではきわめて限定的なものだろう。確かに政府の純債務に与える圧縮効果は大きいという財政面での貢献はある。長期国債の利回りもマイナス圏を安定的に推移している。他方で、個人消費や投資など総需要に与える影響はきわめて限定されたものになるだろう。その理由は簡単だ。マイナス金利は消費や投資を促す原因である実質利子率を引き下げる効果がその主たる狙いである。 実質利子率を計算する手法はいろいろあるが、ここでは簡便に財務省のホームページにある実質利子率の推移を見てみる。アベノミクスが行われた2012年後半以降では、現状の実質利子率は期間中の高め圏に属するものであり、マイナス金利の効果を検出することは難しい。確かに今後、マイナス金利政策の効果が表面化する可能性はある。 例えば、最近話題になっている三菱東京UFJ銀行の国債入札の「プライマリー・ディーラー」の資格返上は、ありていにいえばマイナス金利政策によって国債保有をする経済的魅力が急減した証拠であろう。市場での国債買いオペにはもちろん支障はないし、銀行が過度に国債を保有するのではなく、貸出増加に傾斜していくことはむしろ歓迎すべきだろう。 だがマイナス金利政策が実体経済に与える影響を見つけることは、今も指摘したがかなり難しい。むしろ実質利子率が、アベノミクス始動後では高め圏にあることが問題だ。これを低下するためには、今現在の追加緩和が必要であろう。だがマイナス金利の効果待ちという日本銀行の姿勢そのものが、追加緩和の「足かせ」になっている可能性が大きい。日銀の公式見解、シナリオの背後にある罠 ところで、さらに問題なのは、公式見解「雇用・所得の着実な改善」というシナリオの背後にあるものだ。これは日本銀行がいわゆる構造的失業(金融政策では引き下げることができない失業率の水準)がどの程度であるか、という「こだわり」だ。日本銀行自体が明示的な目標失業率を明示したことはないが、おおむね3.5%前後を構造的失業率と考えているらしい。構造的失業率に到達すれば、あとは急速にインフレ率が上昇するだけなので、経済的損失が大きくなり、むしろ金融引き締めに転じることが望ましい。会見場をあとにする日銀の黒田東彦総裁=6月16日、日銀本店(大西正純撮影) だが、日本の失業率は現在3.2%であり、日銀の暗黙の目標失業率からかなり下回っている。この失業率はまだ低下する余地があるというのが標準的な経済学の示すところだ。常識的に考えても人手不足になれば、経営者側は雇用条件を改善し、多くは賃金を引き上げていくだろう。所得や賃金の改善は、やがて旺盛な需要となって財やサービスの価格を平均的に引き上げていくだろう。だが、そのような段階まで人手不足にはなっていないことは常識的な観察からもいえるだろう。 常識的な観察から離れた経済学の推計でいえば、日本の構造的失業率は2.7%から2.4%の間のどこかである。「どこかである」というのは不正確な話に思えるかもしれないが、実際には構造的失業に接近すれば、賃金・物価が上昇し始めるのでそれをみて政策判断をすればいいだけである。またそのための2%のインフレ目標ともいえる。経済が過熱してもインフレ目標の範囲内で金融政策をコントロールして、雇用の最大化、実質経済成長率の安定化を達成するのが、当たり前の経済政策の運営方法だ。 日本銀行が追加緩和しない背景にはこの構造的失業が高めに設定されているという可能性がある。だがそのような「こだわり」は単に間違いである。なぜならいまも書いたが、本当に構造的失業率に至っているのならば、現状のように物価上昇率が低下リスクにさえも直面することはありえないからである。 実は構造的失業率を高めに推測し、またその反映でインフレ目標の到達を軽視する姿勢は、日本銀行だけの問題ではない。米国のFRBも同様の姿勢を採用してしまっているといっていい。 米ブラウン大学のガウティ・エガートソン教授は「日本経済新聞」への寄稿の中で、FRBが雇用の最大化を実現できていないこと、つまりは米国経済の潜在成長率に見合った雇用を生み出していないにもかかわらず、金利引き上げスタンスを維持していることを問題にしている。言い換えれば、米国は金利引き上げどころか、むしろ金融緩和スタンスに回帰すべきなのだ。筆者もこのエガートソン教授の見解に賛成である。 日本では米国同様に雇用への間違った見方が採用されているのに加えて、財務省バイアスの潜在的可能性、そしてマイナス金利政策の「足かせ」が、日本銀行を大きく拘束してしまっている。それは日本経済が再び停滞の罠に引き戻される不気味な予兆でもあるだろう。

  • Thumbnail

    記事

    財務省的「クソゲー」政策論が無視する財政危機の真犯人

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) 日本のインターネットで話題になっていることのひとつに、東京財団がネット上で公開した「長期財政推計モデル」がある。朝日新聞などがこの財政推計モデルに言及して、この推計があたかも現実の財政状況の見通しを与えているかのような報道したのをきっかけに、ネットで議論の火がついてしまった。 例えば、この推計モデルで計算すると、先に延期が決まった消費増税を2017年度に予定通り実施しても、まだ政府の債務残高は名目GDPに対して大きく発散拡大してしまう。消費税率が8%のままだと、名目GDP比でいうと約4倍になってしまうという。これはあえて家計に例えると、年収(名目GDPに該当)の4倍ほどの借金を抱えて、その借金の額の増加に歯止めがかかっていないことを意味している。 報道ではさらに、「消費税を北欧並みにあげるか」もしくは同時に「医療費の自己負担を増加するか」しないと、この債務残高の発散はとまらないと“現実的”な政策提言に結びつけている。 結論を書けば、この長期財政推計モデルを使って、それが将来必ず起こる「財政危機」的な状況だと思い込むことは間違いだ。 ましてやこの推計モデルの結果を利用して、1)現在の消費増税の延期について評価する、2)将来の消費税率の引き上げや医療費などの社会保障の見直し議論に直接結び付ける、といった発言は、ただの「トンデモ」である。 まずネットでも批判の主眼になっているが、この長期財政推計モデルは、例えば消費税率をどれだけあげてもまったく経済成長に影響することはない。簡単にいえば、消費税率をあげればあげるだけ財政状況が改善するだけの、まさにクソゲーである(高橋洋一・嘉悦大学教授の指摘)。ネットの有志が、1000%に消費税をあげたところ、税収の方が経済規模を上回るという異常な事態が現れるという。 マクロ経済要因を一定にしたうえで、消費税率の変化がどのような財政予測を出すかを示しただけ、というもっともらしい「弁護」もあるが、それこそこの予測モデルの政策論的な意味でのダメっぷりを示しているものはないだろう。 なぜなら現状の財政悪化の真因は、過去の消費税率引き上げなどの「緊縮病」や、また日本銀行の事実上のデフレ放置のつけが溜まっていたからだ。つまりこの予測モデルが仮定で除外している、消費税率からマクロ経済要因への影響こそが決定的に重要なものだった。20年前から日本が罹患した「緊縮病」 このことを端的に示すのが図表1だ。この図表1は、国債残高比率(名目GDPに対する名目国債発行残高の比率)での推移を示したもので、これは先の東京財団の長期推計で重視されていた指標の“現実の動向”である。中央大学の浅田統一郎教授による優れたマクロ経済の教科書である『マクロ経済学基礎講義 第3版』(中央経済社)では、この国債残高比率が近年急増しているのは、まさに財務省の消費増税路線=「緊縮病」と、日本銀行のデフレ放置によるものであったことを解説している。図表1 浅田教授の解説を簡単に紹介すると、1980年代に低位安定していた国債残高比率が1997年以降急速に増加に転じたのは、財務省(当時は大蔵省)によって主導された3%から5%への消費増税引き上げが原因である。この97年以降から、日銀がコントロール可能なマネーの成長率が極めて低く、また財務省と政府がコントロールしている名目政府支出の成長率も極めて低くなった。まさに「緊縮病」に日本は罹患した。日本銀行はマネーをしぼり、政府・財務省は公共支出を減少し続けた。 浅田教授は以下のように書いている。 「消極的な財政金融政策によって引き起こされる経済停滞により、国債残高比率の分母である名目GDPが増えなくなってしまうということが主な原因」であった。 このように東京財団の長期財政予測と称したモデルは、日本の政策議論にかえって誤解をもたらしかねない。実際に先の新聞報道はそのような誤解の典型だ。 東京財団のモデルでは、報道などでも解説されていたように、消費増税の延期は国債残高比率を発散させることに貢献してしまう。しかし現実の経済をみれば、今回の消費増税延期は、むしろ経済の大きさを安定化することで、財政危機的状況を回避するだろう。 また将来的な消費税率の引き上げもマクロ経済への影響を無視してはいけないことになり、これも東京財団モデルでは除外されていることだ。さらに同様のことが、医療費の自己負担の増加についてもいえる。自己負担額の増加も増税と同じ緊縮的な方向に寄与するだろう。 要するに東京財団モデルの特徴を誤解して利用するマスコミなども問題だが、そもそもこの予測モデル自体が政策ベースで使えない代物なのだ。 過去20年にわたって行われてきた経済政策論争は、「社会保障の拡充」や「財政危機」を錦の旗(=言い訳)にして、財務省や日本銀行の主導のもとに一貫して緊縮病的な政策思想にふりまわされてきた。今回の財務省的「クソゲー」騒動には、この緊縮病がいまだに健在であり、社会的なエスタブリッシュメント(官僚や官僚的組織、マスコミ、そしてアカデミズムなど)の中にがっつり根をおろしていること、それを退治するにはまだまだ困難が待ち受けていることを証明している。

  • Thumbnail

    記事

    消費増税なくして「財政再建も社会保障もなし」の大ウソ

    解消する方法は、首相自身が指摘しているように、税収を大きく今後の2年半で伸ばしていく方法だろう。この連載では何度も消費税の先送りは当然で、減税こそが経済を好転させると述べてきた。そして減税こそが、税収を増やすことで社会保障の拡充にもつながるはずだ。 だが、今回はまだ財務省や旧民主党(現在のほぼ民進党)の負の遺産である「税と社会保障の一体化」という悪しき政策を引き継いでいる。そのため減税を採りえることができない。ここに安倍政権の経済政策の限界がある。まさに「アベノミクスの失敗」ではなく、実は「民主党(≒民進党)の失敗」をいまだに引きずっているのだ。安倍首相の判断ミスは、この民主党(と財務省のコラボ)政権のときの負の遺産を過小評価していることにある。 だが次善の政策として多年度にまたがる政府からの直接給付政策を行うことは可能だろう。その財源は外国為替資金特別会計や、先の高橋教授の新刊に解説されている財投債などを活用した資金調達などが考えられる。またさらに有効なのは政府紙幣の発行だ。具体案はいくつも存在する。消費減税とそれと協調した金融緩和政策こそがもっとも効果的だが、現状で消費減税を採用しないならば、これらの次善の財政政策をいくつも組み合わせていくことを政府にはぜひとも望みたい。 積極的な財政・金融政策こそ、財政再建と社会保障の拡充をもたらすのだ。世論の意識から「消費増税しないと社会保障拡充や財政再建できない」という財務省が無責任に作り出した現代の神話(緊縮病)を放棄することに全力をつくすべきだ。

  • Thumbnail

    記事

    「サミットもアベノミクスも失敗だ!」と政治対立を煽る悪いヤツら

    なように効果はきわめて限定的である。 むしろいま求められるのは、財政政策に関しては消費減税である。本連載「増税先送りは当然! 消費減税こそ日本経済を救う」でも言及したのでぜひ一読をお願いしたい。最近では若田部昌澄早稲田大学教授が英語ブログで同様の主張を展開している(「日本の首相は消費税引き上げを延期するだろうか?」)。 若田部教授はさらに家計への直接的な給付も提言し、また日本銀行のさらなる金融緩和を提言している。これにはまったく異論がない。実際に減税や直接給付については、その財源不足を声だかに叫ぶ増税勢力の主張がでてくるだろう。これについては、日本銀行が積極的にサポートすべきだし、また未利用な財源が存在している(参考:消費減税には100兆円「余剰資金」を動員するしかない!)。 これからますます増税勢力とアベノミクスを支持する勢力との政治的闘争が白熱するであろう。予断なくこの政治の季節を国民は良識をもって判断していかなくてはいけない。

  • Thumbnail

    記事

    補正予算なんかじゃ消えない消費増税の「逆効果」

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) しばしば安倍政権のアベノミクスに批判的な記事を大量生産する新聞や通信社を中心に、「安倍首相が消費増税の再延期を決断した」とするニュースを目にする。その報道が大きく伝わるたびに、官邸はこの「決断ニュース」を否定することを繰り返している。このようにアベノミクスに批判的なメディアに限って「決断ニュース」を繰り返すのは、メディアが政治の行方を自ら操作したいという思惑もあるのかもしれない。つまりメディアの「政局工作」の一面がどうも匂ってしかたがない。 実際には、安倍首相と菅官房長官は消費増税を「予定通り行う」とのコメントを繰り返している。最近では国会の党首討論の場で、民進党の岡田代表に対して、「専門家の議論も聞いて、適時適切に判断する」と発言している。要するに素直に解釈すれば、消費増税については現状では「予定通り」だが、その最終決断について首相は、メディアや野党の扇動に乗らずにフリーハンドをいまだ有しているという状態だろう。 ところでこの消費税増税をめぐって興味深い動きが、最近2つあった。ひとつは、民進党が消費増税の先送りを提言したこと、もうひとつは自民党の有志議員からなり、首相に近いといわれる山本幸三議員が会長をつとめる「アベノミクスを成功させる会」が消費増税と補正予算対策の組み合わせを主張したこと、である。「アベノミクスを成功させる会」であいさつする山本幸三衆院議員(右)。中央は本田悦朗内閣官房参与=2014年10月22日午前、東京・永田町の自民党本部(酒巻俊介撮影) 民進党の経済政策の認識には、いわゆるマクロ経済(雇用、経済成長、物価の問題)をまともに扱う認識に欠けている。その代わりに同党が長く保有しているのは、「局地戦思考」である。例えば、今回の消費増税先送りも、先の5%から8%への消費増税が今現在の日本経済の低迷をもたらしているとは考えていない。アベノミクスが失敗したゆえの経済減速と考えている。特にその失敗の過半は金融政策にあるというのが基本的な認識だろう。対して、民進党の進める政策は昔風にいえば「構造改革」、つまりは政府部門の収支の見直しということになる。最近の民進党首脳の発言でも、財政収支の見直しが消費増税先送りの条件になっている。 現在の日本経済は2014年4月以降から、消費水準の低下が持続していること、それに応じて設備投資などが不安定化していることが特徴である。消費の低迷は消費増税以外に考えられないが、それでもこの事実を消し去りたい人たちが指摘してきたのが、アベノミクスの成果にウソをつくことや、火山噴火やエボラ出血熱・デング熱が消費低迷を招いたとすること、さらには有名なところでは野菜不足を消費低迷に結び付けたものだ。後者のふたつはあまりにバカバカしいのでここでは触れない。ただこれらのバカバカしい主張がしばしば政府の委員会や組織で語られてきたことだけは指摘したい。 アベノミクスの成果についてウソをつくということは、簡単にいうと安倍政権ができてから消費増税が行われるまでの(実際には駆け込み需要の効果を抜かす)経済成長率の高さが実質GDPで2.6%の増加という目覚ましいものになり、その間、雇用状況が現在に至るまで大幅な改善に至っていることをまったく評価しないか、「アベノミクスでは成長は実現していない」とウソをつく姿勢を表している。アベノミクス批判の典型的な態度である。補正予算では消費増税対策にはならない! ところで直近の2016年1−3月期のGDP速報値でみると、実質GDP成長率は1.7%だが、多くの論者が指摘しているように、消費には力強さが欠け、設備投資は減少傾向で不安定化している。日本経済が民間部門を中心に不調なのは統計でも裏付けられていることだ。その主因は(民間部門の貢献する)総需要が不足していることにある。そうなると政府部門がこの経済の不足を補う必要があるのだが、先の民進党の「構造改革」路線では、むしろ政府部門のリストラをすることになり、政府から流れるお金を縮減してしまうだろう。経済が低迷しているときに採用すべきものではないが、マクロ経済を見ずに局地戦に魅かれる政党の体質ゆえに、なかなか改まることはないだろう。 他方で、自民党のほうも深刻だ。アベノミクスへの理解がかなりあると目されている山本幸三議員が会長をする「アベノミクスを成功させる会」が、消費増税を予定通りする一方で、10兆円超の補正予算を組んで増税への対応をするという提言をした。端的にいえば、これほど財務省が喜ぶ政策提言はないだろう。2014年の増税のときも補正予算を5兆円程度組んで挑んだが、その成果は悲惨であり、マイナス成長が持続し、さらなる追加緩和や補正予算が要求され、そして首相の増税延期に至った。ここが肝心だが、そのような追加対策を行ってもまったく消費が回復せずに、今日のはっきりしない景況を生み出していることだ。いいかえると、補正予算での対応は、まったくといっていいほど経済回復に効果を発揮していない。むしろ消費増税の実現を狙いたい勢力だけが、その成果を得ているだけだ。 この補正予算での財政政策の効果がない理由は単純だ。補正予算は一回限りのものだということ。それに対して消費増税は恒常的なものだ。いま現状で5%から8%への増税による負担部分が、だいたい10兆円ある(総需要不足の額と同じ)。そこにさらに税負担が2%増えると5兆円ほど(2%の消費税収に該当)、単純に総需要は落ち込むだろう。これに対応して今年度10兆円の補正予算を行っても、翌年度もそのままこの消費税ショックは残る。 さらに政府側が増税して事実上の緊縮財政スタンスを取っているのに、他方で日本銀行だけが金融緩和スタンスという、ちぐはぐした政策の組み合わせが金融緩和政策の効果を大幅に削減してしまうだろう。2014年以降の消費増税以降、マイナス成長と現状でも実質ゼロ成長が続く中で再度増税を行えば、マイナス成長に落ち込む可能性がきわめて高い。そしてそれは自民党の総裁任期を考えると、安倍政権が続く残り二年、現状よりも悪い事態が継続することを意味する。もちろんデフレ脱却は困難になるだろう。 注意が必要なのは、単に消費税を8%から10%にあげるリスクだけではないのだ。すでに5%から8%へ消費税を引き上げた悪影響が、まるまる残った中で、さらに同程度のマイナスのショックをわざわざ引き起こそうとしているということに、日本経済を沈没させる深刻なリスクがあるのだ。 いいかげんに財務省を中心とする増税勢力に国民の生活と政治がふりまわされる事態を止める必要があるだろう。

  • Thumbnail

    記事

    「日本型共産主義」を生み出してしまった江戸幕府の“悪政”遺伝子

    に安倍政権と日本銀行のリフレ政策が不安定化し、日本経済に再び長期停滞に陥る危険が迫っていることは、本連載で毎回のように書いていることである。 ところで上念司氏の近著『経済で読み解く明治維新』(KKベストセラーズ)は、この金融政策の転換(デフレからインフレへ)が、江戸幕府の崩壊と明治維新の成功を解き明かす最大のキーであることを示した優れた評論である。先のラジオ番組の合間にも、上念氏のこの近著を話題にして大いに盛り上がった。幕府がデフレを選んだ理由 詳細は同書を読んでほしいのだが、江戸幕府というのはデフレの維持を目的にした経済システムである。幕府も諸藩もともに緊縮財政の結果、経済が疲弊し、米価の低迷はさらに財政状況を悪化させ、経済全体を停滞させてしまった。 なぜ幕府はデフレを選んだのか? それは緩やかなインフレになってしまうと経済が活性化してしまい、特に農村部から(より経済的利益を生みやすい)都市への人口流出を生んでしまう。農村部は米の生産、つまりは幕府や諸藩の収入の基礎である。そこから農業生産者が流出してしまうことは、当時の幕府・諸藩には認めることができない事態だった。そのためそのような人口流出(米の生産減)を抑制するために一貫したデフレ政策がとられた。たまに江戸時代の中で貨幣改鋳などでマネーの量を増やし、経済を低インフレの形で活性化する政策がとられても、すぐに当時の財務省官僚的な連中が「緊縮!」と叫んで、たちまち経済はデフレに戻り、停滞してしまう。停滞すれば幕府は安泰と考えてしまっていたのだ。以前、ある政治家と議論したときに、「景気がよくなってしまうと消費増税ができない」と言っていたが、その議員の発想は江戸時代並みだということになるだろう。加賀藩主も立ち寄ったと言われる江戸時代の「米屋」 だが実際にはデフレを続けることで、幕府や諸藩の財政状況はさらに悪化してしまい、それが江戸幕府の終焉を招いてしまった。この過程を上念氏の『経済で読み解く明治維新』は実にわかりやすく解説している。 ところでこの幕府のデフレ政策は、のちに日本のマルクス主義者たちに引き継がれていった。戦前日本のマルクス主義の代表者である河上肇(1879-1946)は、江戸時代のデフレ政策を高く評価していた。マネーだけ増やしても経済では贅沢だけが増えてしまい、むしろ経済格差が深刻化してしまうだろう。しかも農村から都市へ人口が流出してしまうと、農村が人口の供給源なので人口減少を招き、人口減少は経済や社会の停滞をもたらす。農村の人口減を阻止するデフレが望ましいのだと考えた江戸時代の官僚たちの発想は、河上にとっても重要なものだった。むしろ農業部門で働く人たちを増やし、日本経済を導くリーディング産業として農業を再生することが、日本の経済発展の基礎である、と河上は信じていた。 ところが河上はのちに米騒動(1918(大正7)年)を契機にして、農業部門の生産性の限界(米の構造的不足)を認識するようになり、もはやいまの資本主義経済では日本を支えることはできない、むしろ体制を転換してソ連型の共産主義国家にすべきだと強く確信するようになった。ちなみにその当時激しさを増していたデフレ型の恐慌は体制転換に伴う“必然”的なものであり、金融政策を転換してデフレ経済をインフレ経済にしても意味がない、と主張した。実際に河上はこの立場から、当時のリフレ派であった石橋湛山と昭和恐慌の時代に激しく論争した。注目に値する坂本龍馬の経済論 いずれにせよ、江戸幕府から続くデフレ政策好きな遺伝子が、明治以降もマルクス主義や日本型共産主義の中に脈々と受け継がれていき、一種の「金融緩和政策嫌い」「リフレ嫌いデフレ好き」とでもいう病理的現象を生み出していったひとつのルーツをここに見出すことができる。 ところで明治維新を生み出した功労者であった坂本龍馬の経済論は、江戸時代の官僚や河上肇に比べると金融政策の転換を重視していることで注目に値する。坂本は今日の「会社」の先駆といえる海援隊を設立・運営したり、貿易を立国の基礎と考えていた。そのため彼は貿易に欠かせない為替レート政策の構築を重視した。江戸幕府の為替レート政策もまた「失政」であったことは、上念氏の先の著作にまた詳しい。そして諸藩の財政危機の根源が、借金をリスケジュールすることで解消するということ、そのキーがリフレ政策であることも理解していたように思われる。 坂本龍馬が実際にどんな人であったかは、現在は文庫版で『龍馬の手紙』(講談社学術文庫)という本がでているのでそれを読めばおおよそのことがわかる。例えば慶応三年(1868年)に後藤象二郎に宛てた手紙には、大政奉還を実効性のあるものにするために、貨幣鋳造の権利を幕府からとりあげて、さらに銀座を京都に移すことをすれば、幕府の権力も有名無実のものになると書いている。これなどは龍馬の政府運営における金融政策の転換を重視する立場を端的に表しているだろう。龍馬の経済政策の師匠である横井小楠は積極財政政策を唱え、「日本のケインズ」ともいわれているが、龍馬が金融政策の転換を重視したのは、マネーを増やし、それで財政政策も積極的に行えば、日本経済も活性化すると思っていたと解釈することはそんなに間違ってはいないだろう。 さらに坂本が起草した「船中八策」や「新政府綱領八策」には、新政府の取り組むべき問題(八策の中のただひとつの経済項目)として、「金銀物貨宜しく外国と平均の法を設くべき事」が強調されている。為替レートを日本経済に負担をかけない形で、諸外国と交渉すべし、という態度は、他の幕末の志士たちにはあまり見られない卓見である。少なくとも「円高=円が尊敬される」と盲信している現在のトンデモな経済論者たちよりも数段ましであることは確かである。

  • Thumbnail

    記事

    世界市場が失望した日銀の「無策」に裏はないのか

    回答に等しく、日本銀行のインフレ目標の到達を先送りするというマイナス材料までも提供したものだった。本連載でも書いたように、今回の政策決定会合でより強力な金融緩和政策を実施すべきだったが、日本銀行の対応は失望するに値するものであった。 エコノミストやアナリストの多くが、今回の日本銀行の追加緩和の動きを予想していたし、市場でもその観測が根強かった。そのために日本銀行の事実上のゼロ回答は、株式市場と為替レート市場に強い衝撃を与えた。一瞬ではあるが、日経平均株価は1000円以上の暴落、また為替レートのドル円で2円以上通貨安に大きく振れた。結局、東京市場は前日比624円安で引け、この原稿を書いている時点(4月29日朝)では1ドル108円台と多少の落ち着きは取り戻している段階である。ただし日本銀行の政策決定の「驚き」は、世界市場にも拡大した。株価は現状ではやや戻しつつあるが、ニューヨーク証券取引所のダウ平均株価も大きく下落、上海総合指数も下落した。市場が予期しない形で金融政策が変化することは、必ずしも悪いことばかりではないが、今回の「無策」に応じた予期せざるショックは、ただでさえ不安定化していた株価や為替レートに好ましくない影響を与えたことだけは確かである。下げ幅がことし4番目の大きさとなった日経平均株価の終値を示すボード=4月28日午後、東京・八重洲 今回の日本銀行の金融政策「無策」への予測は、何人かの論者から出ていた。それぞれ傾聴に値するので簡単に紹介していこう。まず日銀の元審議委員である中原伸之氏は、ブルームバーグの報道(4月26日 https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2016-04-26/O68AMX6JTSE801)によれば、インタビューの中で「日銀はいまは動く必要がない(と安倍首相は思っている)」と語ったという。特にその理由は、マイナス金利政策の効果が現れるのと見届けるべきだということと、食料(酒類を除く)及びエネルギーを除く総合物価指数が2月公表段階で前年同月比0.8%の上昇(最新では0.7%)であること、また中原氏によれば一ドル110円台の為替レートは「居心地がいい水準」であることも理由にあげている。「ヘリコプターマネー政策」採用の可能性は? また中原氏は安倍政権の政策指南役の一人とみなされているが、公的にもその立場をもつ内閣官房参与の本田悦朗氏も複数のメディアに対して、日本銀行は今回は動く可能性がないことを指摘し、また6月の政策決定会合での追加緩和の可能性を示唆するコメントを行っている。特に5月下旬の伊勢志摩サミットを契機にして、安倍政権が拡張的な経済政策に転換する必要性を力説しているところが注目すべきところである。消費税凍結・金融緩和・補正を含む大規模な財政出動の三者をほぼ同時に行うことで、「政策転換」を国民に印象づけるのは、本田参与のいうように政策効果の点ではきわめて大きなものになるであろう。本田参与が今回、日本銀行が動かない理由として挙げているのは、報道によれば中原氏と同様に日銀がマイナス金利の効果をまだ見たいということだ。さらに海外での英語ブログの執筆を続ける早稲田大学教授の若田部昌澄氏のエントリー記事も重要だ。「日本の上空にヘリコプター(マネー)は舞うのか?」(4月25日付)http://www.forbes.com/sites/mwakatabe/2016/04/25/will-helicopter-money-fly-over-japan/#1639263c4bcc では、従来の日本銀行のマイナス金利と質的・量的緩和政策を上回る緩和政策として、ヘリコプターマネー政策を採用する可能性を示唆しつつ、現状では大胆な政策転換の可能性は4月はないだろうと予測するものになっている。 へリコプターマネー政策とは、本連載でも取り上げているが、減税やまたは大規模な財政出動をするために発行する新規国債を(場合によれば市場を経由せずに)日本銀行がほぼそのまま買い取り、その見返りとしてお金を発行するものだ。政府は事実上、日銀を経由してお金を(インフレというコストを考えなければ)無制限に発行することも原理的に可能になる。もちろん実際にはインフレというコストが発生してしまうので、通常はそのような政策が行われることはない。だが、現在の日本経済は事実上のデフレ経済の体質の下にあり、4月の政策決定会合でも先送りされたように、インフレ目標にまだ未達の状態が続いている、そのためにインフレ目標という制御の下であれば、このようなヘリコプターマネー政策は、日本経済の刺激政策として十分に効果的なものである。このことについては、日本のリフレ派(デフレを脱して低インフレにすることで経済を活性化する世界標準の経済学)では共通の理解として従来から採用されているものだ。リフレ派の考え方に親和的な、黒田日銀総裁、そして安倍首相も十分にこの政策の意義を考慮にいれていると思われる。 いずれにせよ、この政策には、政府と日本銀行の協調が必要になってくる。私は日本銀行が今回の政策決定会合において、金融政策の大胆な転換を示して、政府の財政政策の幅を拡大すること(つまりヘリコプターマネーの準備完了)を告げることで、政策をリードするほうが望ましいと考えていた。だが残念ながらそのような政策転換は「先送り」された。日銀「だけ」のマイナス金利政策では意味がない マイナス金利政策については、いろいろ細かい技術的な側面が語られているが、マクロ経済政策的にみて重要なのは二点しか存在しない。ひとつは、消費や投資に効果を与える実質利子率への影響だ。もうひとつはマネーの量的な拡大と“合体”しないと効果が乏しいという側面だ。前者の実質利子率効果とはこういうことだ。消費や投資は現在だけでなく将来の計画も重要だ。車や住宅を購入する際のローン、または企業の新規ビジネスのための資金調達でも現在から将来にまたがる利子率の負担を考慮することはきわめて重要なことだろう。現在の名目上の利子率から、将来に発生するだろうインフレ率の予測を引き算すると、現在から将来にまたがる実質的な金利負担が求められる。それを「実質利子率」という。実質利子率は、名目利子率から予測されるインフレ率を引き算したものだから、現状の名目利子率は(マイナス金利の前までは)事実上ゼロだった。消費や投資を刺激するためには、日本銀行と政府はインフレ目標政策を導入することで、将来の予測インフレ率をコントロールすることで、この実質利子率を低下させてきた。 マイナス金利政策とは、それに加えてこれまで名目利子率はゼロだという「固定観念」を打ち破り、マイナスにもなるということを示した。他方でマイナス金利の幅はたかだか0.1%にしかすぎないことを見ることも重要だ。つまり実質利子率の引き下げ幅が小さすぎるのだ。そのため消費や投資への効果はきわめて限定されたものでしかない。そのため日銀「だけ」のマイナス金利政策は、私見によれば現状での事態がすべて語るように、ほとんど実際の経済には影響を与えないとみて差し支えないだろう。 4月の政策決定会合をうけての黒田総裁の記者会見では、今回追加緩和を見送った理由としては、要するに「マイナス金利の効果をまだ見守る」ためということだった。だが、いま書いたように、日本銀行「だけ」のマイナス金利政策では実質利子率効果の側面ではその影響は過小であり、世界経済のかく乱が続く中では今後もその効果が発現する可能性は低いだろう。さらにマイナス金利の幅を細かく引き下げる可能性はあるが、それは(原理的には引き下げ幅は無制限だが)逐次後退戦略的なものと理解されるおそれがある。金融政策決定会合後の記者会見を終え席を立つ日銀の黒田総裁=4月28日午後、日銀本店 だが、日銀「だけ」ではなく、政府との協調とともに行うのであれば話は別である。先ほどのヘリコプターマネーもこのマイナス金利政策とタッグを組めばきわめて効果的なものになるのだ。この「合体効果」による経済刺激効果は、例えば政府が行う財政政策が(デフレとデフレ予測が根にある経済では)ほとんどコストなしに行うことが可能だということになる。税金の調達もいらない(消費増税の必要もない)、また国債の将来返済も大きな問題ではない(マイナス金利なので)。 黒田総裁が記者会見で重視したマイナス金利の効果が明瞭になったり、またマイナス金利政策をより深掘りするためには、政府側との協調こそが最大の眼目になるだろう。今回の日銀の「無策」は市場を不安定化させた点でお世辞にもほめることはできないが、それでもこの政府との協調に希望は見いだせる。 雇用の指標などは相変わらず堅調だが、それでも新卒採用などは次年度の計画を大手企業の多くが夏の始まりとともに策定することが多い。そのためにも梅雨入り前の経済状況は極めて重要な意義をもつ。もちろん(悪化を防ぎ、より改善するためにも)雇用全般もこのままでいいわけではない。 5月下旬のサミットの前後で、安倍首相がどのような政策転換の決意と行動を示すのか、それに応じて6月の日銀の政策決定会合でどのような行動がとられるのか、実際にここにアベノミクスがどうなるのか、その命運がかかっている。

  • Thumbnail

    記事

    「ブラック部活顧問」問題から考える、教師ってナンだ?

     小中学校の「ブラックな部活顧問」の業務状況が問題にされ始めている。 ただでさえ忙しく、勤務時間の長い教員が半ば強制的に部活動の顧問を担当し、平日の放課後だけでなく、土日も出勤して部活動の指導や引率にあたる現状を「ブラックな職場環境だ」と一部が声を上げたというのだ。 4月25日の毎日新聞は次のように伝えている。 昨年12月、若手の教員らが、部活の顧問を引き受けるかどうかの「選択権」を求めてインターネット上のウェブサイトで署名を集める運動を始めたところ、3カ月間で約2万3500人分が集まり、3月初めに文部科学省に届けられた。 この背景には、部活動の位置づけの曖昧さ、部活に対する顧問の意欲の温度差、最近とみに強まっている運動部のパワハラ的指導に対する社会的批判などもある。 中高年の世代には、「部活動は大切な学校教育の一環」という意識が根強く浸透し、高校も含めて、「部活動がなければ毎日きちんと学校に行ったかどうか。部活のために学校に行っていたようなものだ」と笑う人たちは少なくない。その感覚は、いまも何割かの子どもたちに通じている。ところが、教員にも、「働く者の権利」が重視される世相になり、部活動のような曖昧な存在は正当な奨励の根拠を失いがちになる。毎日新聞は同じ記事の中で、このように伝えている。「部活動」は国語や社会などの教科と異なり、教育課程に位置付けられていない。文部科学省が定める学習指導要領には「生徒の自主的、自発的な参加により行われる部活動については、スポーツや文化及び科学等に親しませ、学習意欲の向上や責任感、連帯感の涵養(かんよう)等に資するものである」「(部活は)学校教育の一環として、教育課程との関連が図られるよう留意すること」と記されている。  文科省の教員勤務実態調査によると、2006年の時点で部活動顧問を務めていない中学教員は13・7%。「全員顧問制」の学校もある。  活動時間はほとんどが放課後や休日だ。文科省の担当者は「一般的に、土曜や日曜に部活動の指導を4時間程度した場合、日額3000円が支給される」と説明する。具体的な支給の要件や額は自治体が条例などで定めている。  部活動の成果や重要性は認められているものの、実は教育課程に位置づけられていない。ある時期から「サービス残業」という言葉が普及したが、教員にとって部活動はまさに「サービス業務」のような存在だ。それでも長年の伝統があるため、部活動を熱心に指導し運営するのは学校として当然という大勢が保たれてきた。 ところが近年、教員の通常業務もさらに増加し、勤務時間の長さが問題となり、加えて働く者の環境やワークライフバランスの確保が社会的に強く認識されるようになって、部活動が厄介な存在、「なければいいのに」と疎まれる存在になり始めている。学校の存在こそが曖昧 一方には、部活動どころか、学校の位置づけの曖昧さが顕著になっている現実もある。 学校は「勉強するところ」なのか、「人間形成の場、人格的な教育の場」なのか。また、「勉強は学校でするのか」「受験勉強は塾でするのか」という問題も併せ持っている。 いまの時代、人格形成を施す指導を明快な哲学を持って推進すると、過剰な思想への関与だと批判されかねない。学校にそこまで深い人格指導は求められていない。つまり、学校の存在こそが曖昧なのだ。 6歳から15歳までの少年少女が、「朝から午後(夕方)までの時間を集団的に過ごす社会的な場である」という以上の機能を学校が果たし得ない状況が出来上がりつつある。練習に励む女子サッカー部の選手たち。 部活動は学校でなく、「地域のスポーツクラブなどで行えばいい」という主張も高まっている。現実に水泳や体操、テニス、サッカーなどの競技で本格的に上位を目指している少年少女たちの多くは学校の部活動ではなく、専門のクラブやスクールに所属し、競技力向上を目指すのが一般的になっている。野球も同じで、高校野球の強豪校に進学し、いずれプロ野球を目指したいと考えている選手の多くは、部活動でなく、シニアやボーイズと呼ばれる地域のチームの門を叩く。 「部活動はやりたくない!」という選択権を与えるべきだという訴えはもちろん理解できる。「教員にも適正な労働環境を!」という主張にも賛同する。だが、一方で学校の現実をもっと全体的な視野で捉える必要がある。 専門的な役割を教員以外の外部が担う傾向が進む現実の中で、学校の先生は「何をする人」になっていくのか? 不登校やイジメなどに対する相談は「カウンセラー」が担当する。スポーツや音楽などの部活動は「専門の指導員」が外部から起用される。 勉強は、先生が教えるつもりかもしれないが多くの親子は「受験勉強は塾で教えてもらう」と思っている。授業は塾の講師に依頼した方が「成果が上がるのではないか」との議論も出始めている。実際、教育委員会の意向で「塾の講師による講習を受けさせられた」と憤慨していた友人(高校教師)の声を聞いたことがある。 「授業に最大の誇りを持つべき教員が塾の講師に教えを請う時代になって、教師の誇りや存在意義はどこに行くのか」と彼は嘆いていた。授業さえ外部スタッフに任せる潮流が生まれたら、本当に学校の先生は「何をする人」になるのだろう? 先生は、生徒たちの悩みと向き合う必要もなく、部活動を通して触れ合う必要もなく、進路に関わる受験勉強の責任さえ求められない。 私はいま地域に根ざす中学生の硬式野球チームの監督を務めている。学校の部活動で野球をするのでなく、地域のチームを選んだ中学生たちと放課後と週末を利用して、野球を通した人格づくりに取り組んでいる。クラス替えなどの話題を報告してくれる中学生たちの言葉や表情から感じるのは、「中学は友だちとの愉快な場であり、担任はその愉快な場を邪魔せず、心地よい空間を醸成してくれる、“わかっている人”がありがたい」といった感覚だ。「このままでは教員がお役所の係員みたいになる」 多くの子どもや親が、もはや専門的な能力など公立小中学校の先生に求めていないと断言したら行き過ぎかもしれないが、そのことを教員自身が自覚したほうがよいと思う。 私にこのような示唆を与えてくれる高校の部活顧問たちや小中学校の教員を務める知人たちはそのような認識を持ち、「このままでは教員がお役所の係員みたいになり、教育に携わっている実感がどんどん失われそうだ」と危機感をつのらせている。このままエスカレートすると、先生は「書面づくりや学校運営の管理遂行を担当する事務職員」のようになりかねない。教員グループによるインターネットでの署名活動 頭に浮かぶのはテレビ局の社員の現状だ。テレビ番組の制作に携わりたくて難関を突破しテレビ局に入社しても、実際に制作現場に関わる人は多くない。制作現場を受け持つのは外部の制作会社や専門職(脚本家、演出家ら)である。子どもの教育に携わりたくて学校の先生になったのに、現場はすべて外部のスタッフが担当し、先生は「その管理が主」といった状況になりかねない。 教員の労働環境を整備するのは重要だが、学校の本質を根っこに持たない議論は子どもたちを幸せにしない。部活顧問の強制がブラックだという問題ばかりを部分的に論じることは、いま学校や教員、もっといえば子どもたちが直面している本質的な悩みや課題に光を注ぐ具体的な行動にはならない。 忙しすぎるというならば、通常の業務の見直しがまず先ではないか。なぜ、子どもたちと直接触れ合い、人間関係の温もりで子どもに情熱や知恵を注ぐべき小中学校の教員が書面づくりに追われるのか。 放課後や週末、部活動に情熱をそそぐ英気を養う余裕を日常の勤務時間の中で確保する改善こそが本質だと考える。 このままだと、「学校自体がいらないのではないか」「子どもたちは学校以外の場所に通わせたほうがよほど人間的に豊かに育つのではないか」といった社会的な目覚めが起こり、学校そのものの存続が問われる可能性とつながっていることも認識する必要がある。

  • Thumbnail

    記事

    大地震を利用する増税派の悪質な手口を忘れるな

    過し、また消費税増税法案も決まってしまった。この消費増税がいまも日本経済の不調の主因であることは、本連載でも繰り返し強調してきたところである。 では、今回の熊本地震に際しての増税派的な動きはどうだろうか?自民党の全国政調会長会議であいさつする谷垣幹事長。隣は稲田政調会長=4月18日午後、東京・永田町の党本部 例えば自民党総務会メンバーは、4月19日に会合をもち、報道によれば「財政規律」や「(景気対策のための)財源のための増税」を主張する議員がいたとされている。景気対策のためには財源が必要であるとすることはいかにももっともらしいが、現時点で経済的な困難に直面している国民を救うために、一方では景気対策をし、一方では増税でさらに負担を増やす、という意味が不明の「悪しき財源論」は、日本の経済政策の中でも最もトンデモな議論といっていい。しかも前者の景気対策は短期的に終わってしまうが、後者の増税は恒久化してしまう。まさに国民の不幸につけこんだ非情なやり口である。 また稲田朋美自民党政調会長は、「固定概念にとらわれることなく議論する必要がある」として消費税のまずは1%の引き上げを志向する発言も伝えられている。もし「固定観念」にとらわれないとしたら、いままでの大災害や景気対策での「財源」としての増税路線を転換することが、まさに「固定観念」を打破するものではないだろうか? 他方で、与党の中では、景気の悪化や今回の熊本地震を考慮して、消費増税が困難になったという見方も強い。ただ安倍首相自身は、繰り返し消費税増税のスケジュールに変更はないことを今でも強調している。もしこれを額面通りにとれば、もちろん(地震災害と景気悪化の前では)最悪の選択となる。玉虫色な政策決定では効果は持続しない ただ消費増税をするか否かの政治的判断はまだ最終的なものではない、というのが大方の見方である。仮に現段階で、首相が消費増税の「先送り」や「凍結」を打ち出してしまうと、野党勢力はいまも公言しているが、このことを安倍政権の「口約違反」や政策のミスとして追及していくだろう。場合によっては内閣不信任案の口実とさえなりかねない。野党は(いろいろな能書きがあるようだが)表向きは消費増税に反対する態度を示しているが、政治的にみれば首相の消費増税凍結を阻止しているともいえる。参議院選挙を控える中で、首相はぎりぎりまで消費税に関する態度決定を回避することになろう。 また首相が玉虫色な政策決定をする可能性はあるだろう。例えば消費増税と同時に、一時的な給付金や大規模な公共事業を行う政策である。しかしこのような給付金&公共事業の組み合わせは、前回の5%から8%への税率引き上げ時にも行われたが、結局は金額も過小になり、また効果も持続的なものではなかった。その証拠に、今日の景気失速の主因は2014年4月の増税開始からまったく実質消費が回復しないことである。いまは景気対策をする一方で、他方で増税するという「悪しき財源論」や「財政規律」に依存する政策から脱することが必要なのである。後者でいえば、むしろいまこそ「財政規律」を破壊すべきなのだ。国の財政はなんであるのか? それは我々国民の生活を豊かにするためだ。現時点で経済的な困難に直面している国民に対して財政的救済を行わない政府などその存在意義を疑われてしかるべきだろう。それはもちろん被災された方々の苦境を救うために必要な絶対条件ともいえるものだ。 具体的な政策の大枠は前回のコラム「消費減税には100兆円「余剰資金」を動員するしかない!」http://ironna.jp/article/3146 で書いた通りである。消費減税を中心とする財政政策がベストであり、それをサポートする金融緩和政策が必要条件になる。金融政策の決定会合は、今週27日(水)28日(木)に迫っている。例えば、長期国債の買い取りペースを拡大し、政府が震災対策として発行する新規国債を吸収して予算をバックアップするのもいいだろう。また新規発行された「財投債」、既存の地方債や社債、さらに有力候補としては外債の買い取りによって、日本銀行のバランスシートの規模を拡大させ、緩和基調の経済を生み出していく。このような金融緩和政策を前提にして、政府は「悪しき財源論」「財政規律」論を封じこめ、より積極的な財政政策を打ち出すことが、何度も繰り返すが必要であろう。 われわれ国民ができることは、災害を利用する増税勢力をつねに監視し、警戒を強めていくことである。彼らは甘くはない。

  • Thumbnail

    記事

    消費減税には100兆円「余剰資金」を動員するしかない!

    消費増税のマイナスの影響を払拭するためには、約8兆円規模の消費減税が必要であると主張している。私も本連載で強調してきたように、消費減税に賛成するものである。 他方で、このような「減税」議論をすると必ずでてくるのが、“財源論”という奇怪な考えである。そもそも増税によって経済が停滞してしまい、それが将来的な財源を失ってしまうので、それを回避するために減税を行うというのが趣旨だ、それなのに、なんで今現在の減税に財源を要求されるのかまったく理解しがたい。減税する一方で、それと同額の財源(増税など)を課せば、プラスマイナスゼロでまったく意味のない政策になってしまう。しかしそれがいまの日本の財務官僚とその支持者たちの発想なのである。 先の三人の公開討論でも話題になったのだが、現在の政治状況と世論の動向を踏まえると、すでに消費増税の凍結は自明のことのように思われる(むしろ実施すれば安倍政権とその経済政策の終焉を意味するだろう)。 問題はいつそれを公表するかだ。5月26,27日に開催される伊勢・志摩G7サミットの会期中もしくはその前後が有力視されている。と同時に、(ドイツを除く)多くの先進国が共通して志向している世界同時リフレとでもいうべき事態に対応すべく、日本政府と日本銀行はより積極的な財政政策と金融政策の採用が求められている。受身じゃない、攻めの政策決定を 消費増税の「凍結」もしくは「先送り」は、いわば受け身の政策決定であり、これ自体は政府の政策スタンスを確立するうえではきわめて重要なのだが、当面の景気失速を解消する手段ではない。攻めの政策決定の核は、消費減税を中心にするのが最善だ。 もっとも現実の財政政策にかかわる動きを推察すると、旧来型の公共事業の増額、各種給付負担の減免など細々した項目が集積した、官僚たちの“お勉強”の結晶になってしまう可能性がある。金額も片岡氏の推奨する金額にははるかに届かないのではないか、と懸念している。おそらく先の“悪しき財源論”が大胆な財政支出を制限するものとして機能している。 冒頭で紹介した外為特会にある外為資金(中核は米国債)を活用した政策は、このようなとは一線を画すものだった。 2015年3月末の外貨準備は約1兆2600億ドルである。現在のレートで日本円に直すと136兆円ほどになる。これだけの巨額の外貨を積み上げている必然性に乏しいことは、経済学者の高橋洋一氏らによってもしばしば指摘されてきた。おそらくこれだけの巨額の外貨準備が積みあがる背景にはそれなりの既得権益が存在するに違いないが、それはまた別の機会に譲りたい。 田村秀男氏は先の『日本建替論』の中で、「外為特別会計の中にある米国債など外貨資産をそっくり日銀に売却し、日銀の資産に置き換える。日銀は政府から譲渡された外貨資産相当の日銀資金を発行し、政府に支払う。政府はこの100兆円の資金を創設する「復興・再生基金」に組み込んで」、当時の議論の対象であった大震災からの復興事業やデフレ脱却のために活用する、というのが我々の主張のひとつであった(同書、215頁以下)。 もちろん100兆円(現状では130兆円規模)すべてが利用できるわけではない。田村氏の主張では曖昧になっているが、外為特会は資産と負債からなっていて、日銀から米国債の代わりに日銀券で政府側資産が置き換わっても、負債側(為替介入のときに発行された政府短期証券など)はそのまま残っている。また現状では、(2012年当時とは異なり)外為特会の運用基準が変更され、外為資金の運用収入からコストを引いた剰余金の半分ほどが一般会計の歳出に繰り入れられてもいる(平成27年度では1兆4280億円)。もちろんこの額を増額することは原理的に可能であり、最低でも追加的に1兆円超の金額を活用することができるのではないだろうか。拡張的な財政政策を金融緩和が支援せよ ところで田村案が今日でも重要性を持つのは、日銀と政府の協調を指摘しているところだ。先の三人の討論会でも日本銀行の金融政策の緩和拡大が、財政政策のいわば必要条件として議論された。例えば、首相が消費増税の「凍結」もしくは「先送り」の表明と同時になんらかの拡張的な財政政策を打ち出す(繰り返すができれば消費減税が最善だ)。その拡張的な財政政策を支援するのは、財政政策の「財源」ともなる新規国債や既発国債の買い取りを(市場経由だが)より一層日銀が拡大していくことが必要だ。日銀の財政政策を支援する金融緩和政策の公表タイミングは、早くて4月下旬の政策決定会合か、あまり評価できないが遅くても6月の政策決定会合にすべきだ。 例えば、どのくらいの金融緩和が必要かといえば、私見ではその規模は(インフレというコストを無視すれば)事実上制約はない。例えば、日本銀行は、長期国債については、保有残高が年間約80兆円に相当するペースで増加するよう買入れている。これを倍増することも容易だ。より極端にいえば、市場に存在する(また新たに追加される)国債をすべて吸収する構えでもいいのだ。田村氏のかっての主張をまねて、新たに「100兆円の余剰資金」を用意することも、日本銀行の現状の政策フレームで可能だろう。 もちろんインフレ目標があるので、金融緩和政策の効果でインフレ率が上昇していけば、その買い入れペースを調整していけばいいだけである。なおETFや社債などの買い入れ枠の増加も同様の理由で行うべきである。 このような金融緩和による政府の財政支援は、きわめて効果のあるものになる。実際に政府と日銀の協調的な拡張政策がとられることが確実視される段階で、株価と為替レートが好転する可能性さえあるだろう。実際にそれが起きたのが、安倍政権の誕生が確実視された2012年秋以降の展開であった。 今回は政権誕生というモニュメントが不在である。対して国際リフレ競争表明の場になると期待されるG7の場が用意され、また消費増税の「凍結」といった政治的な好機はある。これを利用して、日本経済の景気失速を防ぐことを期待したい。(注)冒頭の上念、片岡、田中の公開討論会の内容は、以下から(無料会員登録でも)購入可能である。https://y-e-lab.cd-pf.net/?next=%2Fstore

  • Thumbnail

    記事

    「円高シンドローム」が国民を殺すだろう

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) 日本経済に赤信号が点灯している。 もちろん「アベノミクス失敗」であるとか、「失われた20年」に完全に戻ってしまったとか、あるいはより具体的に失業が激増したとか、倒産件数が急上昇とか、そういう現状ではまったくない。しかしこのまま事態を放置すれば、日本経済は間違いなく長期停滞に再帰してしまうだろう。 日本の経済低迷の主因はデフレとデフレ予想の定着にある。 デフレとはデフレーション(物価下落)のことであり、これは財やサービスの平均価格のことである。個々の商品の値段が下がることと区別することが重要で、例えば、吉野家の低価格商品として豚丼の復活が最近話題になったが、この豚丼の価格低下をデフレとはいわない。これは単にひとつの財の価格の低下であり、財やサービスの(代表的なものを組み合わせた)平均価格とは全く異なる概念である。 このデフレが進行する状態は、(日本経済の現状から)ざっくり言うと人々の財やサービスを購入するお金が不足するために生じている。具体的には民間の消費、投資、政府から出るお金、そして海外から入るお金の純増部分(輸出マイナス輸入)から構成されている。この経済全体での物を購入するお金の不足を「総需要不足」という。 日本のデフレはこの「総需要不足」が招いている。またより深刻なのは、このデフレが現在だけでなく将来にわたって続くと人々が予想する「デフレ予想」(デフレ期待)である。現在だけでなく将来にわたって、人々がモノを買うお金に不足する(これが経済全体で生じていることがポイント)と考えてしまうと、消費を控えるだろうし、また企業も売り上げの低迷を予想して投資活動を抑制するだろう。デフレ予想が続くと現在だけでなく将来の経済の低迷までも招いてしまうのである。 このデフレとデフレ予想は、経済に回るお金の量の不足とそれが今後も続くという予想のことだから、解決策は、現在のお金を増やし、将来のお金が増えるという予想を生み出すことに尽きる。これを言い換えたのが、インフレ目標を伴う金融緩和政策であり、積極的な財政政策である。「インフレ目標」は将来、デフレではなくインフレ(物価上昇)をもたらすほどお金を増やし続ける、という政策のスタンス(姿勢)を明確にするためのものであり、現在のいわゆるアベノミクスの基本中の基本的な政策ツールである。なぜ「円高」傾向が赤信号なのか さてこの基本ラインをおさえたうえで、現在の日本経済の「赤信号」をみておきたい。その問題点は、進行する円高(この原稿を書いている段階では1ドル107円台)と、年初からの株価の低落傾向である。特にここでは前者が重要だ。 「円高」傾向がなぜ赤信号か。簡単にいうと為替レートは異なる二国間(1ドル107円とは、ドルと円)の交換比率のことである。この為替レートは、二国間の通貨の総量の比率に等しい。違う考え方やより精緻な為替レートの決定理論があるが、現状の日本経済をシンプルにとらえるには、為替レートは二国間の通貨総量の比率で考えるのが、便利なのだ。例えば、米ドルの総量は変化しないまま、日本円の総量が減るとしよう。ドルに対して円の価値が高まるので、円高になる。この円高は、先ほどのデフレ(お金の不足)とデフレ予想(今後のお金の不足が続くこと)が蔓延する経済では生じやすい。実際に、アベノミクスが始動した2012年後半まで、(一時期を除いて)日本は円高が20年以上進行していた。これを「円高シンドローム」と呼んでいた。経済の病理的な現象とみなしていたのである。なぜ病理的か? それは経済に出回るお金の不足(これが円高傾向の原因)を治せるにもかかわらず、放置してしまっていた異常事態だからだ。 円の不足は、先ほども解説したように、日本銀行が基本的に解消する。その解消するという政策スタンスをみせて、消費者や投資家などの予想を変化させることも重要だ。重要度でいえば、政策スタンスの方が、実際のお金の供給量よりもはるかに上回る。 いまドルやユーロなど主要通貨に対して円高が加速しているということは、これは日本銀行や政府がお金を増やす政策ではなく、お金を引き締めてしまう政策(その方向性)を事実上採用していると、市場がみなしているからだ。もちろん他国のお金の供給に対する政策スタンスも重要である。例えば、米国経済では利上げ観測が遠のいている。また現状のマネタリーベース(米国の中央銀行が操作可能なお金の量)は減少ではなく、高め水準を維持したままだ。簡単にいうと米国は(いま説明したかぎりでの)緩和スタンスを維持している。欧州中央銀行やイングランド銀行の政策スタンスも緩和的だ。言い換えれば、それだけ世界経済は不安定化、脆弱化している。市場に緊縮政策のシグナルを送っている日本 これに対して、日本は諸外国に比べて、より「緊縮政策」を採用しているとみなされているのだ。その主因は、ふたつある。その最大のものは、まず消費増税だ。2014年の増税による現在時点での消費低迷。それに加えて来年に予想される消費再増税の姿勢がいまだに維持されていること。これらは将来の経済のさらなる低迷、つまりはデフレ予想をもたらすだろう。緊縮的な政策スタンスのシグナルは、円高傾向をもたらす。1ドル=108円台をつけた円相場を示すモニター=4月7日午後、東京・東新橋 二番目に、この消費増税と再増税という緊縮政策によって、日本銀行のインフレ目標という政策スタンスが妨害されていることだ。インフレ目標の達成がどんどん先送りされてしまうことは、人々の予想を不安定化させ、日本銀行の政策スタンスに対する信頼性を損ねてしまうだろう。現状の円高傾向という日本経済の「赤信号」の背景には、このような政策スタンスの毀損がある。 では、解決策としてはどんなものがあるだろうか? まず政府と日本銀行が協調して財政政策と金融政策の拡大を行うべきだ。財政政策のかなめは、消費再増税の事実上の凍結であり、また消費低迷を打ち消すだけの減税(最善では消費減税)だ。これについては以下を参照されたい(http://ironna.jp/article/3028)。また財政面では長期国債の新規発行額を増やし、また同時に超長期国債の発行も重要だ。日本銀行の金融緩和政策は、政府の財政面での支援と両建てでないとおそらく効果は乏しいものになるだろう。 現状では、日本経済には「赤信号」が点灯しているが、その信号を早期に消灯しなければいけない。現状では、この数年の景気回復を背景にして、雇用状況は大幅に改善した。それをうけて、失業率と連動している自殺者数もピーク時に比べると大幅に減少した。その減少傾向はいまも続いている。しかし「赤信号」が長期化すれば、日本経済は再びデフレ経済に再帰してしまうだろう。そうなれば、再び数千人単位で新たに自殺者数が増加してしまう。景気が悪化すると、自殺者数が3割以上増えるという実証もある。 日本経済は20年以上、緊縮政策を続けることで、国民の生活を苦境に陥れ、またその人生の可能性の芽を摘んでしまった。その最たるものが(失業率と連動する)自殺者数の動向だ。この緊縮的政策スタンスの悪夢を再現してはならない。いままさに決断のときだ。

  • Thumbnail

    記事

    「練習は週4日以上するな」バドミントン桃田の違法賭博を教訓に

     また悲しい報道に接した。バドミントン界の期待の星・桃田賢斗選手と田児賢一選手らの裏カジノでの賭博問題。やるせない気持ちで、私自身、力が抜ける思いだ。遠征先のマレーシアから帰国したバドミントン男子の田児賢一選手 (手前)と桃田賢斗選手=4月7日、成田空港(春名中撮影) もう10年以上前から、スポーツ界の構造的な堕落を訴えてきた。ところが、メディアも多くがスポーツを盛り上げ、本質的な問題を棚上げして、2020東京五輪に猛進してきた。柔道連盟の不祥事が出た時も、様々な競技の多くの選手の事件が露呈した時も、メディアの大多数が一貫して、問題を起こした個人や当該組織が引き起こした部分的な問題だと扱い続けてきた。 私は終始、「それらは現代のスポーツをめぐる環境が引き起こす構造的な問題であって、その体質は一部の問題選手、問題組織を腐敗させているだけでなく、スポーツに打ち込むすべての人々をも蝕む、危険な体質をはらんでいる。だから、少年少女にスポーツを熱心にやらせることも考え直したほうがいい」と警鐘を鳴らしてきた。幸か不幸か、そうした叫び声はほとんど取り合ってもらえないほど、日本中のスポーツへの支持率は高かった。ところが、大相撲の八百長問題、昨年の東京五輪エンブレム盗作問題、新国立競技場問題で立て続けにスポーツ界に逆風が吹き始めた。そして、巨人選手の野球賭博事件、さらに今回の事件が追い打ちをかけて、いよいよスポーツ全体を見直すべきだと考える空気が覆い始めたように感じる。バドミントン全日本総合選手権、桃田賢斗選手 =12月3日、代々木第二体育館 一体、何がスポーツ選手をこれほど安易な行動に導くのか? 残念ながら、「人間性を高める」などという、美しい言葉で飾られる目標への取り組みに、最近のスポーツ現場で心底感動を伴って接する機会は少ない。 勝てばいい、強ければいい、結果が出ればいい。そのために、見えないところで汚い手を使うのは当然。パワハラやイジメとも思える厳しい叱責や扱いにも耐えて当然、それで挫けるやつはそもそも見込みがない、という考え方はいまだに多くのスポーツ指導者に染み付いている。それは、トップレベルの競技現場に限らない。少年野球など、いわゆるお父さんコーチたちでさえ、コーチの立場を持つとなぜか口汚い言葉を使い、人格が変わる、不思議なスイッチがスポーツにはある。その体質を徹底して変革するのは、相当に強いメッセージの発信と強烈な転換の自覚と意志が必要だ。文武両道の実現はありえないバドミントン・ヨネックス・オープン・ジャパン 男子シングルス 予選1回戦で韓国選手にポイントを奪われ厳しい表情の田児賢一=2015年9月8日、東京体育館 少年たちに強い動機を与えたい時、周りの大人たちがエサにするのは野球なら「甲子園」「プロ野球」であり、年齢が進んだ選手には「美女アナと結婚できる」「5億、10億は稼げるぞ」いった俗なセリフを平気で口にする。野球の深み、極める楽しさなどを語る大人は極端に少ない。日本社会がそのような俗物的なレベルに覆われているからだろうか。 今回私の周りでも、桃田選手が派手な格好をする理由を問われて、自分が華やかな存在になれば憧れてバドミントンを始める子どもたちが増えるのではないかと語ったことに「落胆した」「その程度のレベルなのか」と嘆いた人が複数いた。私も同じように感じる。だが、裏カジノでの賭博が露呈せず、いまもリオ五輪の星であったならば、その率直な感想は隅にやられ、イマドキのイケメンといった肯定的なイメージばかりが世間を支配していただろう。 深さを追求する喜びを忘れたスポーツ界に、文武両道の実現はありえない。 この機会に、あえて大胆な提案をしたい。 高校生までは、同じスポーツの練習を週4日以上してはいけない。例えばそのような共通認識を作ったらどうだろう。中高生は、もっとほかにすべきことがある。学校の勉強に限らず、広く社会を学び、経験する機会を作ったほうが将来に生きる。そのことで案外競技レベルは低下しないと思うし、たとえ世界に比べて十代の競技レベルが落ちたとしても、それの何が問題なのか? 人間性のレベルや幅が落ちることのほうが遥かに深刻ではないか。日本はもう何十年も、人間の幅や次元が落ちることを無視して、いたずらにスポーツに打ち込む姿を美化し続けてきた。いい加減、目を覚ます時ではないか。

  • Thumbnail

    記事

    民進党の経済政策じゃ、また大停滞に逆戻り?

    政府からのお金の流れが減少することで、景気の下降局面にある日本経済には悪影響しかないだろう。 前回の連載記事(http://ironna.jp/article/3028)で解説したように、日本が長期停滞にまた戻らないためには、民進党が推し進める構造改革路線と社会保障の充実路線ではなく、通常のマクロ経済政策(積極的な金融政策と財政政策)が必要だ。社会保障の充実は、このマクロ経済政策による経済状況の改善の中で実現されるべきだ。 だが、民進党の経済政策には、この当たり前の財政・金融政策の組み合わせがまったく欠如している。基本的に(財政再建を中心とした)緊縮政策を志向する政党といっていだろう。緊縮をすすめるなかで、社会保障を充実すれば、どうなるか? その答えを十分に日本の国民は過去の民主党政権時代に経験したのではないだろうか? 欧米では、保守的な政治勢力に対する対抗軸として、リベラル側が拡張的な財政・金融政策を高々と掲げ、支持を集めている。それに対して、日本の自称「リベラル」勢力はまったく逆向きの緊縮政策を追求しているようにしか思えない。ここに日本の政治構造の不幸のひとつがあるのだろう。

  • Thumbnail

    記事

    まさに天国と地獄! 謝罪から始まった巨人の嬉しい誤算

     謝罪からシーズンが始まった読売ジャイアンツが好調だ。 開幕連勝こそ4で止まったが、高橋由伸新監督はこれ以上ないと言っていいほど、幸先の良いスタートを切った。 ここ数年、外国人に長距離砲に当たらなかった巨人の新外国人ギャレットが5試合で早くも3本のホームランを放ち、5番のクルーズもホームラン2本、打率.389と持ち味を発揮している。それに何より、高橋監督にとってうれしい誤算は捕手・小林誠司の活躍だろう。開幕3連戦では投手たちをよくリードし、自ら殊勲打を放って、連日勝利の立役者になった。守備練習をする巨人・阿部慎之助(左)と 小林誠司=2月 16日、 沖縄県那覇市の奥武山運動公園(撮影・吉澤良太) 昨季もホームベースを任されながら期待に応えきれず、シーズンオフには一塁手に転向していた阿部慎之助が再び捕手に呼び戻され、小林誠司は半ば正捕手失格を宣告されたような状況だった。その阿部がケガもあり、コンディション不十分で開幕2軍スタートになった。それは、新生・高橋巨人にとっては青天の霹靂とも言える一大事だったが、小林誠司の奮闘で、大ピンチは逆に大きな希望の糧になった。 以前のコラムでも触れたことがあるとおり、昨シーズンのプロ野球各チームは、「捕手併用」が目立った。併用と言えば意図があるように感じられるが、全試合でマスクをかぶってもらえる「絶対的な正捕手」がいない現実が最大の理由だ。かつてはV9巨人の森捕手、南海の野村捕手、さらにはヤクルトの古田捕手、阪神・矢野捕手ら、優勝するチームには必ずと言っていいほど、毎試合その座を譲らない正捕手の存在があった。 試合数も多く、移動距離も長い、しかも連戦が続くメジャー・リーグでは全試合に同じ捕手が出場するのは「クレージー」との認識があり、正捕手を補う第二捕手の存在は重視されている。とはいえ、正捕手はやはりはっきりと固定しているチームが長いシーズンを優位に展開している。昨季は12球団のうち10球団が複数の捕手を併用した。優勝したのは、セ・リーグが中村捕手固定のヤクルト。パ・リーグがやや併用ではあるが細川捕手という軸のあるソフトバンクだった。その意味では、阿部慎之助が再び正捕手として窮余の策とはいえ、今季巨人が覇権を現実に見据えるための最低条件のはずだった。 あるいは、高橋由伸監督が、最初から小林誠司を軸に据えるため、阿部に捕手復帰を依頼し、小林誠司の成長を刺激したのだとすれば、ここ数年の最大の功労者をまるで捨て石のようにするわけだから、監督と阿部とのものすごい信頼感、まさにチームワークの賜物と言えるし、それに応えつつある小林誠司もまた「男」だと言えるだろう。金銭授受問題をうやむやにしてはいけない 果たして、これが開幕ダッシュの一時的なあだ花なのか、このまま確かな成長と活躍を続けるのか、今季の巨人の浮沈を握るカギのひとつだろう。野球賭博への関与を認めて謝罪する巨人・高木京介投手 =3月9日、東京都千代田区の巨人球団事務所(撮影・矢島康弘)  阿部慎之助もやがて一軍に上がり、活躍の機会をうかがっている。一塁には好調ギャレットが立っているから、阿部がどのようなポジションで力を発揮するのか。レベルの高い捕手併用が実現すれば、さらに戦力は高まることになる。うれしい誤算から生まれた新たな選択肢をどう活かすか、高橋由伸監督の手腕が試されるところでもある。 野球賭博に端を発し、金銭授受問題にまで発展した球界の不祥事は、開幕すると想像以上に重かった空気がずいぶん明るく転換したように感じる。開幕の華やぎで体質改善をうやむやにしてはいけない。問題の本質を見極め、新たな道を共有する必要があるだろう。高校野球のニュースを見ていて、同じ根を持つ社会の体質をひとつ感じたので、ここでみなさんに問いかけてみたい。 今春の選抜高校野球選手権から、ネット裏の席に連日、地元の少年野球のチームが招待されることになった。2013年8月の第95回全国高校野球大会。 ネット裏最前列の定位置に座っていたラガーさん(円内)。  高校野球の熱心なファンならばご存じだろうが、ここ数年、ネット裏の席に早朝から並んで陣取り、他の観客にストレスを与えているグループが話題(問題)になっていた。今回の企画を聞いて、そのグループを排除するためだな、と思った人も少なくないだろう。私もそう感じたし、ネット上ではそのような推測が盛んに発信されている。 だが、高野連はそれとは無関係との姿勢を貫き、あくまで地元の少年たちに高校野球に親しんでもらうためだと説明している。もちろん、余計なことを言えば角が立つし、高野連の態度は当然とも言えるが、多くの人が本音と建前をそこに感じる。そのようにして、いまの日本社会は、本当の話をしない、できない風潮になっていないだろうか。プロ野球の金銭授受問題も、まな板に上がっている選手たちを、自分の日頃の生活や習慣、例えばゴルフで握るとか、それをまるでないもののような前提で批判する。それでは本当の解決策も、あるべき社会常識の形成も難しいと思う。本音で語る場所があってこその建前だと思う。

  • Thumbnail

    記事

    増税先送りは当然! 消費減税こそ日本経済を救う

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) 今年のゆうばり国際ファンタスティック映画祭で、審査員特別賞と観客賞を受賞した映画『脱脱脱脱17』は、高校三年生の松本花奈氏が監督したことで話題になった。若い才能が評価されることはとても嬉しいことだ。この『脱脱脱脱17』は、17歳のときからある事情で高校を卒業できないまま34歳になった男(ノブオ)と同級生の少女をめぐるドラマである。ノブオはなぜ20年近くも高校生のままなのか? そして彼はその状態を「脱出」することができるのだろうか? この映画のことを、知人の評論家中森明夫氏から聞いたときに、まっさきに思い出したのは、「失われた20年」といわれた日本経済の状況だ。日本経済は90年代から2012年頃まで長期の経済停滞を経験した。特に97年の経済危機以降は、本格的なデフレ(物価の継続的な下落)に陥り、日本は「デフレ不況」と称される状態になってしまった。1998年1月生まれの松本監督はいわば、デフレ不況=失われた20年の中で生まれ育ったといえるだろう。映画の主人公のように、日本は「デフレ不況」という状態から脱出することができないまま、年齢を重ねて(少子高齢化して)いった。『脱脱脱脱17』は、そんな日本が長くおかれた状態の比喩としてみることも可能かもしれない。 ところで安倍晋三氏が2012年秋の自民党総裁選で勝利して以降、「デフレ不況」脱出を意図したリフレ政策を採用してきた。「リフレ」というのは、デフレを脱し前年比2%程度の物価水準を目標にすることで、経済の活性化(雇用や経済成長の安定化)を実現する政策のことである。世に言う「アベノミクス」とはこのリフレ政策を核にするものだ。 早稲田大学教授の若田部昌澄氏は、「政権交代の起こった2012年10-12月期と、(消費税増税の駆け込み需要が発生した2014年1-3月期の直前である)2013年10-12月期までの実質GDP(名目GDPから物価上昇分を差し引いたもの)を比べると、2.6%の成長を果たし」、リーマンショック以前の実質GDPの水準に戻ったと指摘している(『ネオアベノミクスの論点』PHP新書、36頁)。つまりアベノミクスは消費税増税の影響が表れる前までは、経済の活性化に威力を発揮したことに疑いがなかった。国際金融経済分析会合(第1回)であいさつするスティグリッツ教授(左)。右は日銀の黒田東彦総裁=3月16日午前、首相官邸(斎藤良雄撮影) またしばしば「アベノミクスはトリクルダウン理論に依存している政策だ」という批判を目にする。この「トリクルダウン理論」というのは、富裕層や大企業が(アベノミクスの成果である)株高や円安によって儲けることで、その「おこぼれ」が所得中間層から下位層に滴り落ちてくることで経済拡大を目指すという考え方だ。ノーベル経済学賞受賞者のジョセフ・スティグリッツ氏(コロンビア大教授)は、このトリクルダウン理論を「新自由主義」や「市場原理主義」に基づく間違った政策だとして徹底的に批判している。スティグリッツ氏によれば、トリクルダウン政策を実施しても、実際には富裕層からの「滴り」は生じておらず、富裕層や大企業のみがますます富み、それ以外の者たちはより貧しくなることで経済格差が深刻になると非難している。日本のアベノミクス批判者たちは、アベノミクス(リフレ政策)を、この起こりもしないトリクルダウン効果に依存した、経済格差を拡大してしまう危険な政策だとみなしている。「リフレ政策では経済を活性化できない」批判に応える だが、先ほどのアベノミクス発動最初の一年の実績(2.6%の高い成長)の中身をみてみると、アベノミクスはトリクルダウン理論とは大きく異なる性格をもっている。まず日本銀行が2%のインフレ目標の実現をめざし、大規模な量的緩和政策を採用したことによって急速に円安、株高が進行した(実際には安倍政権が確実視された12年秋から円安・株高は本格化していた)。また公共事業中心の大規模な財政政策も機動した。この金融政策と財政政策の本格的な拡大政策によって、日本経済は目覚ましく好転していった。 特に経済を引っ張ったのは、金融政策がもたらした株高や円安による「資産効果」である。12年11月から13年終わりにかけて日経平均株価は約70%の増加、為替レートは対ドルで25%ほど円安が進んでいた。株高と円安は人々の保有する金融資産を増加させ、消費を刺激した。2012年10-12月期から13年10-12月期までの一年間の高い成長は、この消費増加と、財政政策による公共投資の増加、円安による輸出増加(ただし輸入も増加しているので効果は限定的)によって牽引された。また設備投資も堅調な動きだった。資産効果はもちろん株などを保有している所得階層でも上位の人たちに顕著に表れている。ここだけ見ると、スティグリッツ氏の批判したトリクルダウン効果とまったく同じである。だが、アベノミクスを評価するときに、なぜか批判者たちが見落としているのが、雇用状況の改善である。2012年10-12月期から雇用状況も好転していく。一般に雇用は経済の実態を遅く反映するとされているが、今回は雇用の改善スピードも速かった。 企業など労働の需要側が、将来に対する展望を改善することで、積極的に雇用を増加させていった。実際に完全失業率は政権交代期では4%真ん中だったものが、一年後では3%半ばまで減少した。また有効求人倍率も大幅に改善した(2割程度の改善)。この雇用状況の改善は現在まで持続的に続いている。特に不況の中で職探し自体を断念していた人たち(パートやアルバイトを探していた主婦層等や、再雇用先を求めていた高齢者)が、消費増税の効果が表れるまでは、雇用回復の主役であった。また学卒者の雇用状況も大幅に改善している。つまり労働市場で金銭的な待遇面(経済的勢力という)や社会的な評価(経済外的勢力という)で不利な立場におかれやすい、雇用弱者の立場が真っ先に大幅改善したのが、アベノミクス最初の一年の成果であった。雇用の改善は、もちろん経済成長の成果でもあるし、また同時に経済成長自体を底支えする基盤でもある。 まとめると、アベノミクスは経済を上からも下からも両方で改善し、それが消費増税の効果が顕著になる2014年1月までの高い経済成長をもたらしたといえるのである。そのため、トリクルダウン理論に手厳しいスティグリッツ氏ではあるが、アベノミクスの基本的な方向性には高い評価を与えている。 なぜここまで(消費増税の効果が現れるまでの)アベノミクスの成果を事細かに解説したかというと、「リフレ政策の支持者は、消費増税の悪影響を強調するが、アベノミクス=リフレ政策にはたして経済を活性化する能力があったのだろうか」という批判をしばしば目にするからである。それに対する答えはいま解説したように、「とてもあった」というのが答えである。そして拡張的な金融・財政政策の両輪からなるアベノミクス(=リフレ政策)がそのまま継続していけば、経済成長は安定化し、いまだに堅調な雇用状況はさらに改善しただろう(例えば名目賃金の大幅改善・実質賃金の増加、完全失業率の2%台への低下、正規雇用増加の本格化、ブラック企業の淘汰の一層の加速など)。「商品券ばらまき」では解決にならない このリフレ政策に大きくブレーキをかけ、2014年の経済成長率をマイナスにおとしいれ、さらに15年も(推測だが)0%程度でしかない低成長に落とし込んだのが、消費の低迷、その原因としての14年4月からの消費増税の影響である。片岡剛士氏(三菱UFJリサーチ&コンサルティング経済・社会政策部主任研究員)は、2014年4月以降、家計消費はL字型に大きく落ち込み、そのまま回復せずに消費は低迷したままだと指摘している。そして消費の落ち込みが、この二年余りの経済低迷の主因でもある。しかも片岡氏は、2015年秋以降は、さらに家計消費は落ち込みはじめ、「消費の底割れ」が見られるという(「消費低迷の特効薬」を考える http://www.murc.jp/thinktank/rc/column/kataoka/column/kataoka160304)。リーマン・ショック級のような出来事が起らなければ、消費再増税を明言している安倍首相(斎藤良雄撮影) この「消費の底割れ」の原因は、それまでの消費増税によるL字型への消費落ち込みの継続に加えて、15年7月から顕在化した世界同時株安による資産効果の縮減が大きく寄与しているだろう。また現状では堅調なままの(ただし改善の余地は前述したように大きくある)雇用状況も、経済低迷が今後も続き、また中国経済の減速など国際環境の変化などを踏まえると悪化の可能性が否定できない。まさに日本経済は再び「失われた20年」に逆戻りする瀬戸際に立っているだろう。そしてこの状況は、政策サイドが何もしないでは悪化することはあれ、改善することはない。 特に来年度に予定されている消費税の10%への再引き上げは、日本経済の息の根をとめかねないインパクトをもたらすだろう。政府の「国際金融経済分析会合」に招かれたスティグリッツ氏や、ポール・クルーグマン氏(ニューヨーク市立大学大学院教授、ノーベル経済学賞受賞者)は口をそろえて、安倍首相らに消費増税の先送り(スキップ)を提言している。と同時に、消費増税(財政緊縮)ではなく、いまの日本の状況では財政拡大こそが望まれるとしている。もちろん金融緩和の継続、そして追加緩和も早急に必要とされるだろう。 最近の政府首脳サイドの発言をみると、消費増税のスキップをするハードルが徐々に引き下がっている印象がある。安倍首相は以前はリーマンショック並みの経済危機がないかぎり再増税を行うとしたが、最近では菅官房長官の発言では税収低下や株価下落などが再増税見送りのシグナルになっている。世論調査をみても、消費税再増税見送りを支持する意見は圧倒的多数だ。むしろ、安倍政権が再増税すること自体が、サプライズともいえる状況が生まれつつあるといえるだろう。 だが、仮に消費再増税が再び先送りになったとしてもそれは経済状況の確実な破たんを回避しただけであって、現状の消費低迷、経済低迷を治す処方箋ではない。消費低迷の原因が、消費増税なのだから、抜本的な政策は「消費減税」であるはずだ。望まれる消費減税の幅は3%だろう。最近では、財務省の支配下にあるといっていい経済財政諮問会議から若年層向けの商品券をばらまく政策が、消費低迷の対策として提起されてきている。だが、この政策の効果はきわめて限定的だ。なぜなら消費の低迷が持続しているのは、消費増税が持続的な悪影響をもっているからである。その持続的な効果を打ち消すのに、一時的(単年度)の商品券ばらまき政策はほとんど効果をもたないだろう。同じことが一時的な給付金や減税政策にもいえる。 現状の日本経済を救済できるのは、継続的な効果のある財政政策(最善は3%の消費減税、次善の策としては持続的な(複数年度にまたがる)減税と給付金政策)と、さらなる追加緩和政策(最善はインフレ目標の引き上げ、名目国民所得ターゲット政策の採用)である。 政策の舞台は、消費増税のスキップは当然(仮にすれば日本経済は再び大停滞へ、安倍政権は終焉、続く政権も短命化必至)で、むしろ消費減税にその力点は移りつつあるといえるだろう。

  • Thumbnail

    記事

    モラルをなくしたプロ野球 諸悪の根源は高校野球にもある

     選抜高校野球選手権の開会式、21世紀枠で選ばれた香川・小豆島高の樋本尚也主将が選手宣誓をした。いつもは宣誓の文言やその声などに注目が集まるが、今回は野球帽を取った樋本主将の長髪に目が行った視聴者が多かったのではないだろうか。 高校球児といえば「丸刈り」が半ば常識だが、小豆島ナインは樋本主将だけでなく多くが長髪だった。スポーツ刈りよりもっと長い、ごく平均的な小中学生男子の髪の長さくらいの長さだった。故郷や母校への思いを込めた宣誓をする小豆島高の樋本尚也主将 =3月20日、甲子園球場(代表撮影) 樋本主将は、来年新たに統合されて現在の高校が消えることから、「当たり前にある日常のありがたさを胸に、僕たちはグラウンドに立ちます」と語った。 その言葉は、彼の長髪と相まって、現在の野球界が真っ直ぐ直視すべき、重要な示唆に富んでいると私には感じられた。 プロ野球が揺れている。野球賭博の発覚を契機に選手たちのモラルや基本的な日常が問われている。その温床は高校野球にもある。 まずは長髪から話を進めよう。「甲子園に出るのに、丸刈りでなくてもよかったんだ」 樋本主将を見て、そう思った人は少なくないだろう。甲子園出場規定に「丸刈り」はない。それなのに、大半の球児たちは丸刈りで登場する。 高校野球に身を投じると決めた時点で「髪を切る」のは当然の宿命であり、決断のようになっている。それが嫌で野球を辞める少年たちも少なからずいる。「強豪」と呼ばれる中学野球のチームもミニ高校野球のような雰囲気で、丸刈りを強制しているチームも少なくない。 その点を直視してもすでに「当たり前の日常」から逸脱しているのではないかと思う。野球が「特別な道」になり、当たり前の社会感覚とずれていく。ずれているのに、それが優越意識となり、本人たちはいわゆるエリートとは別の野球エリート意識を心の中にふくらませていく。 「甲子園を目指している」と言うだけで、どことなく誇らしく、周囲から賞賛されるような雰囲気もこれまではあった。それが実体の伴った誇りや自信につながればよいが、結局、モラルをなくし、野球賭博で処分を受けたプロ野球選手たちのように、日常や社会から「ずれた感覚」を大きく育ててしまう懸念もある。 長髪の球児が甲子園に登場するのは今回が初めてではない。私が高校1年生だった昭和47年夏、甲子園に出場してベスト8になった高松一高(香川)の選手たちが長髪で話題になった。私も仰天した記憶がある。それから少しずつ、丸刈りを見直す動きが広がり、スポーツ刈り程度の高校球児も増えていった。 調べてみると、朝日新聞と高野連が共同で行ったアンケートの数字が見つかった。それによると、平成10(1998)年には、丸刈りの高校野球部は31%しかなかった。ところが、15年には46%、20年には69%、25年には79%と増加傾向にあるのだ。ちょっと意外な数字だったが、このところ丸刈りがまた「常識化」していることを裏付ける数字でもある。 少し前、「丸刈りのアイドル」の出現もあって、丸刈りがファッションとして「クール」な印象を持ち始めたこととも関係があるのかもしれない。以前ほど「丸刈りは恥ずかしくない」「むしろカッコイイ」社会的イメージを追い風にして、丸刈りはまた半ば強制的な伝統として高校球界に復活していたのだ。高校野球の世界に残る「古き悪しき体質」 私は『カツラーの秘密』という著書もある、まさにカツラの人である。20代の半ばすぎにして髪が薄くなり、27歳にしてカツラを購入した薄毛人間だから、「人生で髪がふさふさ自然に生えていた期間は短かった。そのうちの3年間を丸刈りで過ごしたので、「なんともったいなかったか」と、これは半ば冗談だが、「髪は生えるうちに伸ばした方がいいぞ」と思っている。選抜高校野球 小豆島-釜石=2016年3月21日、 甲子園球場(二星昭子撮影) 高校野球の一番の問題点は、「本人の意志でないのに、やらされる」ところにあると感じている。規則ではないのに、拘束されていることが少なくない。それはすごくタチの悪い空気(環境)ではないだろうか。 例えば、日本高野連は、適度な休養が大切という観点から、週に一度を休みを取るようにと通達し、いまはどの高校も「練習は週6日」が徹底されている。ところが、本来休日であるはずの1日は、多くの高校で「自主練習」に充てられている。自主的だから個人の意志かといえばそうではなく、さっさと帰宅しようとすれば、「お前、帰るのか?」といった厳しい視線を浴びるチームもあると聞く。 かつて、定時に帰ることがはばかられていた日本の職場環境に似ている。ワークライフバランスの重要さが認識され、日本の職場も変わりつつあるが、大人たちの「古き悪しき体質」が、高校野球の世界では根強く残っている。丸刈りもそのひとつである。選抜高校野球 釜石に敗れ、ベンチ前で一礼する小豆島ナイン =2016年3月21日、甲子園球場(共同) 丸刈りにする時点で、監督に絶対服従を誓う意志表明のように思えてならないのは気のせいか。野球をするのに、監督に服従を誓う必要はない。監督の指示通り動き、サインに忠実に従うことは、むしろ弊害があると私は感じている。 走者もいないのに、打席からベンチを振り返り、一球一球、監督の指示を仰ぐ選手を異様だと感じるのはむしろ少数派かもしれないが、仮にも「高校野球」、つまり高校生が主役であるべき部活動の舞台で、大人たちの駆け引きで勝負が決まり、大人たちが社会的名声を得るための場になってはないないか。丸刈りは、その根本ともつながっている。 あらゆる場面で最適な判断を瞬時に行い、最高のプレーをする。それが野球の面白さだし、それを育むところに野球が人間形成につながる素晴らしさがある。高校野球は指示に従い、忠実な歯車になることを求める傾向が強い。精神的に丸刈りを強制することは、すでに個人の自由な意志や発想を束縛し、制約している。「ひとりはチームのために、チームはひとりのためにというバランスが、基本的に崩れてはいないだろうか。

  • Thumbnail

    記事

    韓国経済、「失われた20年」への招待状

    田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授) 先日、韓国の公営放送KBSから取材をうけた。題材は「韓国経済は日本と同じように失われた20年に陥るのだろうか」というものだった。私の答えは明瞭で、このままの政策を続ければ確実にイエスであった。 2015年の経済成長率は、政府の目標成長率である3.1%を下回る2.6%であり、朴槿恵政権が発足してからの平均成長率は2.9%と過去の政権の中でも低レベルな成果しかあげていない。98年のアジア経済危機以降では、歴代政権の中で最低の平均成長率だともしばしば批判されている。 また経済の減速は、実感レベルでは特に顕著であり、「ヘル朝鮮」(地獄のような韓国)という流行語までも生み出している。実際に失業率は3.6%だが、若年層の失業率は過去最高の9.2%にまで達している。どの経済でもある程度共通しているが、新卒などの若者、主婦層などの女性、高齢者などは、労働市場での交渉力が弱く、また社会的評価(経済外的勢力という)が低いために、不利な雇用環境に直面しやすい。韓国でも経済失速の重しが、雇用弱者である若者層に強くのしかかっている。また職を探しても見つからないので断念してしまう、「求職意欲喪失者」も増加している。韓国の真の失業率は、「求職意欲喪失者」などを含めると二けた近いだろう。働く能力が著しく低い社員を企業が解雇できるという政府の方針に抗議し集会を開く労組員ら=1月25日、韓国・ソウル(共同) 経済評論家の上念司は、ニールセン(米国の調査会社)の公表した消費者信頼感指数を利用して、韓国の景気停滞への実感は、ちょうど日本でいえば東日本大震災と長期不況が重なった2011、12年頃に該当するだろうと指摘している。また韓国の四大財閥が擁する企業群も不振であり、サムスン電子、現代自動車、LG電子などの主要企業の減益が顕著である。 このような経済の停滞をうけて、韓国では「日本化」(90年代後半からの20年に及ぶ経済停滞=失われた20年)を警戒する論調が盛んになっている。また韓国の朴大統領をはじめとする政策当事者、経済学者やエコノミストたち主流派の意見は、この韓国の経済低迷の主因を「構造的要因」に求めているのが一般的だ。 例えば、韓国銀行(中央銀行)が公表した論文では、韓国が21世紀になってから次第に低成長に移行していく過程を、全要素生産性の低下として解説している。全要素生産性とは、ある国が一定の資本や労働の下でどれだけ効率的に財やサービスを生み出すことができるかを示す指標である(生産性パラメーター、効率性パラメーターなどともいう)。日本とダブり始めた低迷原因の仮説 全要素生産性が低下しているということは、人間の体でたとえると肉体の節々に老廃物がたまり、次第に疲労が募り、十分に自分の体を動かすことができなくなることに似ている。韓国での主流の意見は、この老廃物がたまりやすいのは、生活習慣のため(構造的問題)であり、これを徹底的に鍛え直すことが重要だというものだ。日本でも「失われた20年」で一貫して唱え続けられてきた「構造問題仮説」の韓国版である。この構造問題仮説は、例えば韓国の代表的企業がグローバル経済に対応できなくなり、旧来型の産業構造が温存されているためだとする「グローバル構造不況説」、または韓国の消費者たちが新しいイノベーションを伴った製品が現れないために飽きてしまったとする「消費飽和説」などとして、政策レベルで議論されている。日本でいうと、小泉純一郎政権発足間もないころに標語になっていた「構造改革なくして景気回復なし」と同じ議論である。そして小泉政権の時もそうだったが、韓国経済の最近の低迷もまた構造問題説でとらえるのは端的に間違いである。 一国の経済は総供給(財やサービスの生産側)と総需要(財やサービスを実際に求める側)とに分けて考えるのが妥当である。いまの韓国経済の状況は、総需要(消費、投資、政府支出、純輸出)が不足している状況が継続している。先ほどの構造問題というのは、すべて生産する側をいかに効率化するかという問題である。総需要不足が問題の核心であるならば、いくら生産する側を効率化しても事態は改善しない。例えば売上げ不振に悩む企業がそのためにリストラをして生産の効率化をすすめれば、当然に解雇された人たちの所得は大幅に減少する。そのためその人たちの消費が低下し、それはまた企業の売上に響いてくるだろう。 朴大統領自身もしばしば韓国の労働市場の「構造改革」をすすめることを今般の停滞の打開策のひとつとしている。先ほどの若年層の失業率の急上昇を抑制するために、賃金ピーク制の導入を進めたい考えだ。韓国では60歳以上の定年延長が義務化され、これに対応して延長された年限に応じて賃金を下方調整していく仕組みである。これで企業側の若い労働者の採用コストを低めようという狙いだ。しかしこのような構造改革では経済停滞は脱出できない。 総需要不足に原因があるのは、実は上記した一連の経済データから明らかである。朴政権になってからの経済成長率の低下、失業率の累増、そして加えるにデフレ突入を懸念されるインフレ率の低下といった現象を同時に説明できるのは、総需要不足でしかありえないからだ(詳細は、野口旭・田中秀臣『構造改革論の誤解』東洋経済新報社参照)。実際にOECDの統計では、2012年度以降、総供給(潜在GDP)と総需要の開きは拡大する一方である。 実は日本でも90年代から、経済成長率の低迷、失業率の高止まり、低インフレからデフレへの長期継続といった現象が観測されてきた。消費や投資など総需要不足が原因なのは疑いなかった。だが、政策の現場やマスコミなどでは構造問題仮説が主流であり、そのため経済の無駄をなくせの大合唱のもと、構造改革が推し進められてきた。このことは単に政策のミスマッチでしかない。このミスマッチを解消する方向に政策の舵を切られたのが、第二次安倍晋三政権、つまりアベノミクス採用後である。朴政権と韓国銀行に蔓延している間違った政策観 なんで「失われた20年」にも及ぶほど、日本は正しい経済政策をとりえなかったのだろうか。簡単にいうとそれは財務省・日本銀行が政策のミスを認めたくなかったこと、そしてそれに事実上の支援を続けた日本の政治家たちに原因がある。 同じことがいまの韓国経済にもいえる。問題の本質は総需要不足にあるならば、構造改革は問題解決になりえないどころか、解決を遅らせるだけ害をもたらす政策思想である(既得観念ともいう)。中国経済の景気後退は韓国の輸出に大きなダメージを与え、それはまた韓国の総需要を低下させる。また昨年のMERS(中東呼吸器症候群)による売り上げや観光客減少などももちろん無視することはできない。しかしチャイナショックもMERSショックもたかだか昨年からの出来事であり、ここ数年も続く低迷を説明することは困難である。経済分野の会議で声を張り上げ不満を爆発させた韓国の朴槿恵大統領=2月24日、ソウルの青瓦台(聯合=共同) 例えば、韓国銀行はインフレ目標政策(3%±1%)を採用しているが、朴政権誕生後、そこから逸脱し、デフレが懸念される状況を放置している。度重なる金利低下を韓国銀行は採用をしているが、日本がアベノミクス下で行った大胆な金融緩和で目標インフレ率の回復を目指すという意思に乏しい。事実上の“非”緩和スタンスのため、為替レート市場では一貫してウォン高が進行している。これが韓国の代表的な企業の「国際競争力」を著しく低下させていることは疑いない。 では、なぜ韓国は大胆な金融緩和政策を採用することができないのか? それは大胆な金融緩和を行えば、一挙にウォン安が加速する。そうなるとウォン建ての資産の魅力が急減し、海外の投資家たちが韓国市場からひきあげてしまい、株価などが大幅に下落することを、政府と中央銀行が恐れている、というのが日本のいわゆるリフレ派論者の見方だ(代表的には、高橋洋一、上念司、片岡剛士ら)。もちろんいまの事態を放置してしまえば、緩やかに韓国は長期停滞に埋没していくだろう。それはアジア経済危機のときのような劇的なものではなく、日本がかって体験したように持続的に緩やかに経済がダメになっていくのである。 日本の論者には、韓国が大胆な金融緩和政策を行えないのは、日韓スワップ協定などで潤沢なドル資金を韓国に融通する枠組みに欠けているからだという指摘もある。たしかにその側面はあるかもしれないが、私見ではより深刻なのは、朴政権と韓国銀行に蔓延している間違った政策観(既得観念による構造問題仮説)である。この既得観念が政策当事者を拘束しているかぎり、韓国経済に「失われた20年」の招待状が届く日は目前である。

  • Thumbnail

    記事

    なぜポスト澤と期待された岩渕真奈がいまもスーパーサブなのか?

     なでしこジャパンがリオ五輪の出場権を獲得できなかった。 誰がこの事態を想像しただろう? 多くの日本人が、なでしこジャパンは間違いなくアジア予選でリオ五輪出場権を手にすると思い込んでいたに違いない。もし案じていた人がいたとすれば、それは内情に詳しい関係者か当事者などごく一部だろう。女子サッカー・リオ五輪アジア最終予選 日本対オーストラリア  大儀見優季(左から2人目)らと話す日本・宮間あや(左端)ら =大阪・キンチョウスタジアム 2月29日 現実は厳しかった。初戦でオーストラリアに敗れ、続く韓国戦にも引き分けて暗雲が広がった。第三戦、勝つしかない中国戦で先制を許し、懸命に反撃するも突き放されて1対2で敗れたとき、五輪出場の望みはほとんど断たれた。ベトナムには6対1と大勝したが、その試合が始まる前、中国が韓国に勝った時点で完全にリオ五輪出場の可能性は消えていた。 敗北の最も大きな要因は、「チームの一体感の欠如」との指摘が大勢だ。サッカーは言うまでもなく、個々の力の足し算でなく、チームとしての化学反応が巻き起こった結果の「総合力」や「勢い」つまりは「プラスアルファのチーム力」だ。これをどう起こすかは、監督、中心選手のリーダーシップと信頼感、さらには時勢の運なども大きく左右する。5年前のW杯では、しばしば「奇跡」の言葉が使われたように、驚異的な「粘り」と「執念」がなでしこジャパンを世界の頂点に押し上げた。 東日本大震災で被災した日本に、なでしこジャパンの勝利が希望の光をもたらした。そのような社会的背景もあのときはあった。まさに「プラスアルファの力」があっての勝利だった。 今回は、監督と選手の信頼感の欠如、中心選手と若手選手の溝が指摘されている。 大会後の報道を見ると、2012年のロンドン五輪で銀メダルを獲得したころから、佐々木則夫監督となでしこジャパンのメンバーたちの間には冷たい風が吹き始めていたという。実績的な意味でも「子ども扱い」が失礼でなかったなでしこたちが、2011年のドイツW杯優勝でいっぱしの「大人」になり、ロンドン五輪銀メダル獲得でさらに「超一流選手」のような存在になった。世間的には、佐々木監督の評価も急上昇し、2011年度のFAFA年間表彰式で、アジア人初のFIFA女子世界年間最優秀監督賞に選ばれた。だが、選手と監督の間の距離はW杯優勝前とはずいぶん変わってしまっていたようだ。 変わったといえば、選手たちの意識も変わっていなかっただろうか? 5年前、「日本中に勇気を与えたい」と言い続けた、そして勝った。メディアの大半は、「なでしこ、勇気をくれてありがとう」と表現したが、私は「被災し、光を切望する日本中がなでしこに力を与えたのではないか」と感じていた。なでしこたちはどう感じていたのか? 世界での快進撃が続き、いつしかそのような感謝は忘れ、「競技者として一流である」という、そちらの意識ばかりが高まってはいなかったか。澤の後継者として期待された岩渕真奈 私は、マスメディアがあまり報じない、もうひとつの側面からなでしこジャパンの課題を指摘したい。澤穂希(左)と話す岩渕真奈=カナダ・エドモントン=2015年6月 撮影・岡田亮二 岩渕真奈は、2011年のW杯ドイツ大会の前、「今回は岩渕の大会になるだろう」との声があったほど評価と期待が高かった。当時まだ17歳の女子高生。女メッシと呼ばれたドリブルの鋭さは、2010年のU-20 W杯で世界の賞賛を浴びた。チームは予選で敗退したが、大会MVP候補10人のひとりに選ばれたことが衝撃の高さを物語っている。“リトルマナ”は、世界の女子サッカー関係者やファンの多くが知る存在となった。 A代表に選ばれて2試合目の中国戦で早くも得点を決めるなど、岩渕真奈の勢いは素晴らしく、順風満帆なサッカー人生に見えた。すぐにでも先輩・澤の後継者になりうると多くの人たちが期待をふくらませた。ところが、ドイツ大会は、「なでしこジャパンの大会」にはなったが、岩渕は精細を欠き、なでしこフィーバーの輪の中にさえいないような感じだった。私は当時、『武蔵野スポーツ新聞』という、武蔵野市を中心とする地域新聞を主宰し発行していた。 岩渕真奈は中学時代からその新聞で最も注目に値する地域のヒロインだった。当然、編集部でインタビューもさせてもらっている。岩渕真奈が幼いころ、やはりサッカー選手であるお兄ちゃんとサッカーボールを蹴って遊んだ公園は、私の自宅のすぐ近く。私が息子とキャッチボールをしていた思い出深い公園だから、身近な縁を感じ、岩渕真奈に肉親のような思いを寄せてドイツW杯を見ていた。その目には、なんとも岩渕の表情は物哀しく、優勝の喜びと似つかわない翳りを感じさせた。大会中に岩渕真奈がどんな葛藤、どんな切なさと直面していたのか。気になった。 岩渕自身、そのことを詳しく語っていない。インターネットを検索すれば、ファンの推測にすぎないけれど、チーム内で精神的なストレスがあったことを感じさせる書き込みがすぐに見つかる。女子のスポーツの集団には、男子の先輩後輩関係とはまた別の難しさがあるとしばしば聞かされる。金メダルを取るほどの最高レベルのチームで、才能をつぶすような低次元な行為があったと思いたくないが、クリクリと輝いていた岩渕真奈の眼差しに翳りが宿っていたのは事実だ。 なでしこ敗退の要因のひとつに、「世代交代の遅れ」「澤の後継者の不在」が挙げられている。五輪やW杯を区切りに、4年ごとにチームを一新する流れからすれば、澤中心の時代は2011年で終焉を迎えていた。すでにあのとき、澤はピークを過ぎたと言われ、チームは澤中心からの脱却を図っていた。だからあと4年引っ張って2015年W杯を宮間、大儀見中心に戦ったとしても、2019年のW杯を見据えた2016年のなでしこジャパンはもはや「ポスト宮間、ポスト大儀見」を立てて戦うのが当然の流れだったろう。実績を残したベテランたちがなでしこジャパンの一員であり続けることに異論はない。だが、中心は次の世代に譲る、新しい中核を育てる方針を採るのが自然ではなかったか。 それが、なぜできなかったのか? 負けるといろいろな現実が報じられる。澤不在の穴は、「プレーよりもチームをまとめる上で大きかった」との報道が多い。宮間、大儀見、大野らの世代と、彼女たちより若い世代の溝が大きく、「その間に入ってチームの潤滑油になれるのは澤しかいなかった」と。なでしこたちは、金メダル、銀メダルという栄光を手にし、日本に栄誉と感動をもたらした。だが、その内側で、もっと大事なことをおろそかにしていたとすれば、その波紋はまた大きい。 2011年のドイツW杯優勝で得たものは大きかった。だが、失ったものも一方で大きかった……。それが形になって表れたのが今回の予選だとすれば、監督交代や戦術分析、選手選考にとどまらない、もっと本質的な課題があるということだ。協会内部ではそのような課題を明らかにし、今後の指導、運営に厳しく生かしてもらいたいと願う。そうでなければ、女子サッカーという競技そのものが、スポーツの悪しき側面を残し、全国に暗い影を広げる温床になりかねない。

  • Thumbnail

    記事

    沖縄や徳島にも球団が誕生? 「プロ野球16球団拡大」のXデー

     2月15日の衆議院予算委員会で「プロ野球16球団構想」についての質疑応答があった。 まずは日刊スポーツの報道を引用して紹介しよう。 自民党の後藤田正晴衆院議員は15日の衆院予算委員会で、プロ野球を現在の12球団から「16球団」に増やす構想に触れた上で、政府がどう対応するか、覚悟をただした。安倍晋三首相、石破茂地方創生担当相、石原伸晃経済再生担当相、高市早苗総務相の名前を挙げ、「4人が(推進すると)言えば、NPB(日本プロ野球機構)も分かった、というと思いますよ」と、迫った。 後藤田氏は、地元の徳島県や南九州、沖縄県にプロ球団がないとした上で、「今までのプロ野球は、企業の宣伝みたい(な役割)だった。そうではなく、地方再生と同じパターンで、(地方に球団が)できたら盛り上がると思う」と、提案。サッカーのJリーグでは、チーム数がプロ野球より多いことも指摘した。 これに対して石破氏は、「球団が増えれば若い人たちに競争の機会を与えられる。楽天みたいに地域活性化にもつながる」とした上で、「官がものを言うことはなく、民が主導することになるが、ご指摘を踏まえて、政府としても検討する」と応じ、前向きに検討する考えを示した。 これに対する世間やメディアの反応は案外、冷ややかだった。 「えっ、プロ野球が16球団に増えるの!」といった無邪気な歓声はほとんど聞こえて来なかった。それが私には不思議に思えた。 「16球団構想」は2年前、自民党の日本経済再生本部(本部長・高市早苗政調会長)による「日本再生ビジョン」の安倍晋三首相への提言の中に盛り込まれたことに端を発している。アベノミクスに沿って、「プロ野球市場の拡大を通じての地域活性化」を狙う提言だった。ところが、この時もプロ野球関係者やメディアの反応は辛辣だった。 「現在の12球団のうち、黒字経営がいくつあるのか知っているのか」「4球団増やしたら何人の選手が必要か分かっているのかね」といった声が球界関係者から挙がっている」と報じたメディアもあった。 政治側からの一方的な提言は「筋違いだ」という理屈はあるが、上記の批判はまったく本末転倒の感が拭えない。2年経ったいまも、同じような反応で、世間の空気が動き出すことはどうやらなかった。肝心なプロ野球側、その周辺にいるメディアまでが、16球団構想を冷笑し、阻止する方向に舵を切っている。大手新聞の中には、このニュース自体を黙殺して報じなかった会社もあるという。 私は、別の機会に「プロ野球存在の意義と使命」を明快に共有する必要を前提にした上で、「プロ野球16球団構想」を歓迎する立場で今回の原稿を進める。 野茂英雄投手がMLBに挑戦した当時、MLB全体の売上げは年間約1200億円程度で、日本のNPBの売上げ約1200億円とほとんど同じビジネス規模だったと言われる。ところが、大リーグ選手会が長期ストライキを決行し、野球に対する冷ややかな空気が全米に広がったことに危機感を覚えたMLBは、結束して新たなビジネス構築に動き出した。その結果、この約20年でMLBは売上げを約6倍に伸ばし、いまも健全な成長産業として発展を続けている。一方、日本のNPBは相変わらず約1200億円の規模にとどまり続けている。メジャーリーグに学んだ楽天、DeNA 前記の「12球団の中に黒字球団がいくつあるのか知っているのか」はその通りで、「多くの球団が親会社の広告宣伝効果に対して補填を受け、経営している実態がずっと続いていた」との指摘は常識化している。そもそも、その体質こそが問題であって、球団が独立採算で利益を上げる方向に転換しなければ企業としての発展はない。以前からその方針を貫いているのが広島カープだ。広島は、マツダ(東洋工業)はスポンサーであって親会社ではない。そのため「貧乏球団」などと揶揄されることも多かったが、本当はプロ野球経営の王道を歩み続けてきたといってもいい。いまその流れを追従し、メジャーリーグ球団の経営に学び、新たな方向性を模索し始めているのが、楽天、横浜DeNAなどの新しく参入した球団だ。 このオフ、横浜DeNAが横浜スタジアムを買収したことが話題になった。あれは、球団経営にとって核心にも通じる大きな変革だ。なぜなら、球団が期待できる最も大きな収入源のひとつが、スタジアムでの販売事業だからだ。チームや選手のオリジナルグッズを初めとするお土産品、お弁当やお酒・ソフトドリンクなどの飲食売上げは、莫大だ。球団がスタジアムを持っていなければ、これら収入は球場側に入って、球団は一部をパーセンテージで受け取るにとどまる。これまで、それを放っておく球団があったこと自体が、ビジネスの観点からいえば不思議と言える。それも、「どうせ親会社が補填してくれる」という暢気な発想が底流にあったからだろう。 最近、巨人が新たな球場を建設するらしいとの噂が一部でささやかれている。東京ドームの耐用年数の問題があるからだと言われるが、同時に、上記の問題にも通じる。東京ドームは巨人軍と別の会社だ。つまり、人気球団であり、球界の盟主を自認する巨人軍でさえ、経営の中核に置くべき球場での販売収益を他社に大盤振る舞いしている。 このような経営の隙は他にいくつも例を挙げることができる。それほど、球団経営は大らかに行われてきた。その点を改善し、プロ野球の経営をもっとビッグスケールに変革しようと動き出せば、いくらでも増収増益、スケールアップの可能性はある。 サッカーのJリーグが、現にJ1、J2さらにはJ3まで組織している。Jリーグの各チームがいずれも健全な収益を確立しているとは言えないが、旗を立て、それぞれが収益を目指し精進する先に繁栄の可能性がある。サッカーは着実に日本じゅうに種を蒔き、根を張りめぐらせている。野球はといえば、高校までは全国にチームがあるが、それ以上の年代になるとあとは草野球チームがあるだけで、自治体や地域と連動して発展を目指す本格的なチームはほとんどない。野球の未来が見えないのはある意味当然だ。プロ野球阪神宜野座キャンプ ファンにサインをする福留孝介外野手 =2016年2月22日、宜野座村野球場(撮影・松永渉平) 私は、J3やJFLのような組織が日本じゅうにもっと円滑にできておかしくないのは野球の方だと感じている。プロ野球16球団はもとより、さらに多くの傘下のチームが各都道府県にできたら、楽しいだろう。 プロ野球を16球団に増やすための本拠地は、日本海側の新潟または金沢、東海の静岡、四国のいずれかの県、南九州または沖縄県など候補はある。親会社に頼るのでなく、独自の会社を立ち上げ、地域の企業や自治体と強い絆を結んで経営する方向で進めば、プロ野球改革のみながら、日本の社会そのものを変革する一石にもなる。 最後に……。IT企業の参入もあり、またアメリカで経験を積んだフロントの人材台頭もあり、日本のプロ野球ビジネスの内部にも新しい発想を持つ人々は着実に育っている。ところが、「巨人の人気があればプロ野球は大丈夫」「巨人人気こそプロ野球発展の核心」と信じる旧態依然とした経営者、実力者の牙城がなかなか崩せず、プロ野球は停滞を続けている。忸怩たる思いをしているのは、実は改革を急務と感じているこれら当事者たちだろう。 侍ジャパンを支える会社を独自に立ち上げたことなどは、せめてもの抵抗というか、現勢力下でできるささやかな一歩なのだと感じている。すでに水面下では、プロ野球改革の構想は多くの人々がふくらませている。旧態依然とした態勢が変わるのは、大物実力者が引退する日であろう。このXデーに向けて、準備は進んでいるはずだ。そうでなければ、本当に日本のプロ野球の呼吸は止まりかねない。

  • Thumbnail

    記事

    「捕手には配球を任せない」ラミレス新監督による衝撃的な新方針

     プロ野球のキャンプも中盤をすぎ、まもなくオープン戦の季節に移ろうとしている。新監督の動き、新人選手の実力診断、松坂を含むMLBからの復帰組の調整具合、等々、見どころは尽きない。その中で、私がとくに興味を感じるひとつは、《キャッチャーをめぐる新しい潮流》だ。 そもそもまず、12球団を見渡して、「不動の正捕手」と呼ばれる存在がほとんどいない。かつてはどの球団にも絶対的な捕手がいて、スタメンには必ずその選手が名前を連ねていた。V9巨人には背番号27の森昌彦捕手(当時の名)がいた。南海には野村克也捕手。その野村監督が率いて黄金時代を築いたヤクルトには古田捕手がいた。ところが、最近は、よく言えば複数併用制になり、シーズンを通して「ひとりでホームベースを守り抜く」タイプの捕手がほとんど姿を消しつつある。投手の多様化に合わせて、特定の投手専門の捕手起用なども戦略として用いられる影響もあるが、どの捕手も決め手を欠くため、結果的に併用中心になっている感が拭えない。ブルペンで田口麗斗のボールを受ける阿部慎之助=沖縄県那覇市の奥武山運動公園(撮影・福島範和)、 2月16日  巨人・高橋由伸新監督は阿部の捕手復帰を決断した。阿部がかつてのように正捕手として毎試合、投手陣をリードする態勢が確立できれば、安定した戦いが期待できると見る向きは多い。だが、体調も考慮して一度は捕手から一塁にコンバートされた阿部が、期待どおり捕手として活躍できるかどうか、まだ不安もある。 そんな中、横浜DeNAのラミレス新監督の方針は、日本球界としては画期的で、注目を集めている。「捕手の負担を減らすため、捕手には配球を任せない。それはすべてベンチから指示を出し、捕手は配球を一切考えなくていい」と決めた。「配球を含め、投手をリードするのが捕手の最も大切な務めではないか」と思い込んでいた野球ファンにとっては、戸惑いを隠せないほど衝撃的な新方針ではないだろうか?捕手の最も大事な務めをベンチが奪い取る 名捕手の証明、イコール、好リード。好リード、イコール、巧みな配球というイメージが根強い。実際に捕手のリードは、投手との間の取り方、投手から見える捕手の雰囲気づくりなど、配球に限らない。だが、配球こそがその中核を成すと信じられてきた。その最も大事な務めをベンチが奪い取る。 それは決して、常識外れのことではない。データ分析の進むMLBでは、ベンチがサインを出すのは珍しくないという。捕手にはむしろ、捕手にしかできないプレー、つまり強肩で盗塁を阻止する、どんな投球も捕球する、ボテボテのゴロの処理、そして攻撃の際の強打を求める傾向も強い。プロ野球 DeNA春季キャンプ 紅白戦 ベンチで盛んにメモをとるアレックス・ラミレス監督(右) =沖縄・宜野湾市立野球場(撮影・荒木孝雄)、2月7日 かつて日本では、「捕手はデブでも鈍足でも構わない」というイメージがあった。ところが、最近の野球で「捕手の条件」といえば、「足が速いこと、動きが素早いこと」も重要になった。低めの落ちる変化球が多用されるようになって、捕手のすぐ前に転がるボテボテの打球が急増した。昔はそのような打球はあまりなかった。これを捕って一塁でアウトにできるのは、捕手以外にいない。投手では間に合わないからだ。そこで、捕手のすぐ前の打球に素早く対応することは、捕手の重要な役目のひとつとなった。そうなると、捕手が常に意識を向けるべき要素はますます多様になって、キャリアの浅い捕手は「配球まで余裕がない」、そのため、打撃面で低打率にあえぐ捕手も多く見られるなどの現実が実際にある。そこを解消するのがラミレス監督の狙いだろう。 果たして、それで選手は面白いのか、野球は面白くなるのか。 実は、日本の高校野球ではすでにこの方式は広く採用されている。どうしても負けられない、一発勝負のトーナメント戦を勝ち抜いて甲子園出場を目指す高校野球の監督たちの中には、配球のサインをベンチから自分で出している監督も少なくない。練習試合ではベンチで出し、捕手を指導するという監督もいるが、大事な試合になればなるほど、監督が捕手の配球を支配する例は強豪校にはよく見受けられる。日本野球においては、この傾向が、プロ野球にも波及する形だ。果たして、それで若い捕手がのびのびとプレーし、投手によい影響を与えるのか、打撃で活躍する捕手が増えるのか、チームの成績は上昇するのか。また、捕手はやりがいをもって伸びるのか? オープン戦からここを注目し、シーズンを通して、目を配って見るポイントといえるのではないだろうか。

  • Thumbnail

    記事

    なぜ日本出身力士は10年間も優勝できなかったのか

     大相撲一月場所で大関・琴奨菊が初優勝を飾った。10年ぶりの「日本出身力士」の優勝とあって、久々に日本中がお祭りムードに沸いた。 今場所は幕内だけでなく、十両、幕下、三段目、序二段、序の口まで含め、全段で日本人力士が優勝した。平成15年7月(名古屋)場所以来、12年半ぶりという、もうひとつの快挙も果たされた。 それにしても、なぜ10年もの間、日本出身力士が優勝できなかったのか? それを変える努力はあったのか? 平成18年1月場所で大関・栃東が優勝して以来、日本出身力士の優勝は久しくなかった。この間59場所、優勝杯を胸に抱いたのは圧倒的にモンゴル勢で計56回。他に琴欧洲、把瑠都が1回ずつ。モンゴル勢の内訳は、朝青龍9回、白鵬36回、日馬富士7回、鶴竜2回、旭天鵬1回、照ノ富士1回。全部足して58にしかならないのは、途中、八百長疑惑による開催中止がひと場所あるからだ。豪栄道を破り、日本出身力士として10年ぶりに優勝を果たした大関、琴奨菊=1月24日、東京・両国国技館 この内訳を見れば、「日本人力士が優勝できなかった」最大の理由のひとつは「白鵬がいた」「白鵬の全盛時代だった」ことが挙げられる。それにしても、その白鵬を止めた力士もまたモンゴル勢だったことは、古くから相撲に親しみ、日本人力士が中心となって展開する大相撲を望むファンには忸怩たるものだった。 それにしてもなぜ、日本人力士はこれほど長い間、賜杯を胸に抱けなかったのか。 素質のある人材が角界に身を投じない、という現実が第一の理由だろう。かつて、身体の大きな少年は、有無を言わさず相撲部屋が誘っていったような歴史がある。周囲もまた、彼らの角界入りを当然のように思い、背中を押した。いまはそういう世間の雰囲気は失われている。それは、相撲界に対する理解が変わっていること、少年たちにとって相撲が魅力的に見えないからだろう。若貴人気(若乃花、貴乃花)で相撲界が賑わっていたころ、日本人入門者の数は多かった。ところが、若貴が何かとスキャンダラスな話題を提供し、相撲の社会的イメージが低下するのと呼応するように、日本の少年たちは相撲界に目を向けなくなった。野球だけでなく、サッカーの人気上昇と定着がある。さらに、オリンピックへの関心がますます高まる傾向があって、五輪種目でない競技が新しい競技者の獲得ができにくくなっている。そうした世相の中で、ふんどしひとつで土俵にあがる気恥ずかしさもあってだろう、相撲は「憧れ」の対象ではほとんどなくなっている。 野球界では、親子でキャッチボールをしたことのない父子が増えていると嘆かれている。これが野球人口の減少に影響を与えている可能性は大いにある。同じように、父親と相撲を取ったことのない子どもも増えている。すでに、父子で相撲をした経験のない世代が父親になっている。 いきなり報酬の話を持ち出すのは恐縮だが、相撲界は、決して待遇の悪い世界ではない。力士は相撲協会から毎月お給料をもらっている。その他に場所手当などあり、横綱の基礎収入は、年間3300万円以上といわれる。大関で約2800万円、三役になれば約二千万円。優勝賞金は幕内で一千万円。そのほかに、取り組みごとの懸賞金がある。力士は、給料をもらった上に、一番ごとに賞金が稼げるのだ。勝負の後、土俵上でもらう祝儀袋の中には、税金を引いた手取り金額三万円が入っている。白鵬は最高でひと場所545本の懸賞金をもらった。金額にすれば1635万円だ。これら収入だけで一億円は越える。加えて、様々なご祝儀、広告出演料など入れたら、他のスポーツと比較しても高い方だ。相撲の良さを知らない日本人が増えた しかも、相撲界は実績さえ積めば、終身雇用的な仕組みが出来ている。いろいろ批判の的にもなっているが、年寄株を入手して協会に残れば、今度は協会のいわばフロント・スタッフとして働く道がある。部屋を興すか継承すれば、協会から部屋を運営する費用も補助される。日本の他のスポーツを見回しても、引退後の安定した立場が約束されているプロ・スポーツはほかにない(相撲をスポーツと呼んでいいかどうかの議論はあるが、ここではあえて他のスポーツと対照して話を進める)。大相撲 初場所千秋楽 大一番を前に気合を入れる大関、琴奨菊=1月24日、両国国技館 角界は、こうした相撲界の良さ、待遇を広く日本の少年たちに広報する努力を怠っていた。それも、長らく日本出身力士が優勝から遠ざかっていた一因ではないだろうか。 かつては当たり前に日本人が共有していた相撲の魅力、相撲の良さを、いまは知らない日本人が大半になった。悲しいことだが、それが現実だ。相撲の魅力をもっと世間に伝える努力が根本的に必要だ。 手始めに、親子で相撲をする習慣を盛り上げる手立ても必要だろう。相撲が身近になれば、自ずと相撲への親しみは湧く。 最後に、「日本出身力士の優勝」という、奥歯にものがはさまったような表現についても触れておこう。ある時期までは、「日本人力士の優勝がずっとない!」という表現だった。これがいつからか変わった。それは、平成24年5月場所で旭天鵬が優勝してからだ。旭天鵬はモンゴル出身力士だが、日本人と結婚し、優勝した時はすでに日本国籍を取得した「日本人」だった。つまり、その時点で「日本人の優勝」は果たされていたのだ。そのために今回の報道でも一様に「日本出身力士の優勝」という表現が使われている。「日本人の優勝!」を喜び、「日本人横綱を待望」するのは、日本人の素直な感覚だと思う。だが一方で、「ボーダレス化が進む世の中で、《日本》とか《日本人》をどう意識し、守り育てるのか?」という新しいテーマも浮上している。 10年間、日本の大相撲を支えてくれたのはモンゴル勢だったわけだし、彼らなしにはこの数年の相撲界の活況はなかった。昨秋、社会現象のようになったラグビー日本代表の活躍も、多くの外国人選手があって実現した。ここ数年、外国人を父(または母)に持つ日本人選手の台頭が多くの種目で目立っている。野球界ではオコエ(東北楽天)、陸上界では短距離のサニブラウン・ハキーム(城西大城西高)、先日全豪オープンで勝ち進んだテニスの大坂なおみ、バスケットの八村塁(明成高)、バレーボールの宮部藍梨(金蘭会高)ら、枚挙に暇がない。日本人ひとりひとりがこうした現実を受け入れ、これまでの常識や観念を新たに越えていくことも今後の重要なテーマだと思う。

  • Thumbnail

    記事

    「東京五輪でアメリカを倒す」17歳の八村塁が日本バスケを変える

     スポーツ界に十代の新星が続々と登場した2015年、年の瀬に超新星が輝いた。 高校生ながら、すでに男子バスケットボール日本代表候補に選ばれている八村塁選手だ。 「最もNBAに近い日本人選手」と呼ばれる八村塁は、年の瀬に開催されたウィンターカップでも大活躍、明成(宮城)を3連覇に導いた。決勝戦では、土浦日大に第3クォーターまでリードを奪われながら、最終第4クォーターに明成は12連続得点で逆転、劇的な勝利を果たした。1試合34得点を挙げた八村塁がもちろんその中心を担った。これまで198センチと言われていた身長が今大会では201センチと報道されている。まだ伸びているのだろう。足のサイズは34センチだという。父親がベナンの人。甲子園を沸かせ、東北楽天に入団した野球のオコエ瑠偉選手、世界陸上で注目を浴びたサニブラウン・ハキーム選手と同じく、バスケット界にも外国人を父に持つ新しい星が登場している。   バスケットボール 全国高校選抜優勝大会最終日 男子決勝 明成―土浦日大 第シュートをブロックする明成・八村塁=12月29日、東京体育館 ウィンターカップの初戦では、前橋育英を相手に明成は100対81で快勝。八村はこのうち30得点を挙げ、14のリバウンドをものにして空中戦を支配。明成を勝利に導いた。  これまでNBAにチャレンジした日本選手は、田臥勇太、富樫勇樹、ともに小さい身体を逆に生かした素早い動きやドリブル、鋭いパスワークを武器にしていた。八村は長身に加えてがっしりした身体、大きな相手にも当たり負けしない強さとたくましい身のこなしを持っている。 長身を生かしてしなやかにレイアップ・シュートや豪快なダンクを決めるだけでなく、ミドルの距離、3ポイントのポジションからも高い確率でシュートを決める。抜群のシュート力が魅力だ。たくましく、しなやか。身体の背後にも目を持っているかのような大きさと器用さを兼ね備えている。日本にはこれまでいなかった、世界に通用する本格的なセンターだ。2013年9月にはアジアU16選手権で3位、エースとして日本代表を15年ぶりの世界選手権に導いた。2014年8月のU17世界選手権では大会の得点王に輝いた。  来春、高校卒業後は、アメリカの大学に進学を希望。すでに、NBAのスーパースターを輩出している上位ランクの大学に入学が内定したとの噂もある。どこの大学にせよ、アメリカのカレッジ・バスケットが次の活躍の舞台になりそうだから、順調に成長を重ねたら、八村本人が目標に掲げる「NBAでの活躍」はもう夢物語ではない。そうなれば、八村が描くもうひとつの夢、「2020年東京五輪でアメリカを倒すこと」も可能性を帯びてくる。全国高校総体第7日 バスケットボール男子決勝 明成―桜丘明成・八村塁が豪快なダンクシュートを決める=8月3日、京都・ハンナリーズアリーナ  2014年夏のU17世界選手権で日本代表はアメリカと対戦し、122対38で大敗した。八村は25得点を挙げてひとり気を吐いたが、チームはまったく歯が立たなかった。現段階で「打倒アメリカ」を語るのは非現実的なようだし、それはもちろん容易い挑戦ではないが、実現したら日本中がどれだけ沸き上がることか。想像するだけで熱くなる。  八村塁がいれば、そして八村を中心に日本代表が劇的な変化を遂げれば、「いままで夢想もしなかった出来事が現実になる可能性だってある」と期待がふくらむ。実際、今年秋にラグビー日本代表がそれをやってのけた。ラグビーの快挙を5年後の東京五輪で男子バスケット日本代表がやってくれたら痛快だ。  時代は大きく変わっている。浅黒い肌の日本人選手が、多くのスポーツの日本代表の中心で活躍する時代になった。同じウィンターカップの女子の部門には、オコエ瑠偉の妹・オコエ桃仁花(もにか)選手(明星学園2年)も出場し、活躍している。身長180センチ。今後の成長が楽しみだ。   日本のスポーツ界はこうした新しい人材の出現に刺激を受けて、新たなうねりを巻き起こしている。この潮流は2016年以降もさらに加速するだろう。

  • Thumbnail

    記事

    「古き良き日本野球」を継承する前田健太はメジャーで成功するか

      前田健太のドジャース入団が決まり、正式に発表会見が行われた。  先発ローテーション投手となかなか契約できなかったドジャースと「西海岸志向が強い」と言われていたマエケンとは「相思相愛」と報じられ、日本のファンに馴染みの深いドジャース入りともあって、お祝いムードが大勢だ。ロバーツ監督と握手を交わす前田健太 前田健太は、140キロ台後半の速球と縦のカーブ、鋭いスライダーのほかカットボールなど小さな変化球をまじえて打者を打ち取る。豪球、魔球といった突出したイメージではなく、テンポの良さとコンビネーション、打者との間合いを制してアウトを重ねていく。日本野球の古き良き時代(私自身の少年時代、青春時代)に、典型的な「頼れる本格派エース」と呼ばれたタイプのように感じる。それだけに、マエケンのメジャーリーグでの活躍は、日本の野球少年、未来のプロ野球選手に明快な指標となるだろう。その意味でもぜひ、前田健太にはメジャーリーグの舞台で輝いてもらいたい。 身長は公称182センチ。これはメジャーリーグに挑戦する日本人投手の中では小さい方だ。野茂英雄188センチ、伊良部秀輝193センチ、吉井理人188センチ、木田優夫188センチ、斎藤隆188センチ、ダルビッシュ有196センチ、田中将大188センチ。広島の先輩・黒田博樹185センチ。 実は、メジャーリーグで活躍した日本人投手の大半が190センチ近い、あるいは190センチを超える身長の持ち主だった。現役大リーガーのダルビッシュ、マー君もそれに該当する。岩隈久志も190センチ、上原浩治も188センチ。そのことが、知らず知らず日本野球に影響を与え、中学、高校の世代から「高身長の投手が重用される傾向」につながった可能性はある。昭和の時代から180センチを超える好投手は多かったが、いまほど「高身長が投手の必要条件」と言われる度合いは強くなかったように思う。大谷翔平193センチ、藤浪晋太郎198センチの活躍もあって、さらにその認識は強くなっている。 そんな中で、前田健太がメジャーリーグに挑戦する。182センチは一般の認識でいえば十分に「背が高い」部類だろう。だが、プロ野球の投手、ことにメジャーリーグを目指す投手としては「決して大きくない」。身長ではなく、ボールのキレ、投球術、打者との間合いを制するピッチングが世界最高峰リーグでも打者たちを翻弄できることを見せてもらいたい。前田健太自身も、その意気込みは胸中に秘めているだろう。それは、日本野球が今後、世界の舞台でどのように戦い、どのように勝利していけるかを示す手がかりになる。同時に、日本の野球少年たちがどんな選手、どんな技術習得を目指すかの貴重な手本にもなる。身体の大きさがモノを言うだけの野球では味がない、深みがない。マエケンの活躍は、日本人が日本野球に誇りを感じることにつながる。「日本人の先発投手は長持ちしない」通説を覆せるか 多くのメディアや野球ファンが、マエケンのメジャーリーグ行きをダルビッシュ、マー君と同列に扱っているように感じるが、それは少し違う。アメリカに行ってもサイズでコンプレックスを感じる必要のない彼らと、一般の日本人が大きなアメリカ人たちに囲まれてどことなく気後れするのと同じ境遇で戦う前田健太とは挑戦の意味が違う。だからこそいっそう、マエケンの活躍を応援したい。米大リーグ 入団会見後、ユニフォーム姿でドジャースタジアムのマウンドに 立つ前田健太投手=1月7日、米カリフォルニア州ロサンゼルス(リョウ薮下撮影)  もうひとつ、前田健太には大きな使命がある。それは、「故障せず、元気に投げ続ける」こと。残念ながら、「日本人の先発投手は長持ちしない」という認識がメジャーリーグで定着し始めている。松坂大輔しかり、田中将大しかり、ダルビッシュしかり。活躍はするが短い期間で故障する。堅実な活躍を続けた黒田博樹は少数派で、ほとんどの先発ローテーション投手は事実、手術を受け、長く戦列を離れる例が多い。 今回の契約は、8年総額約29億円と言われている。他に出来高払いの条件があるとはいえ、年平均3億5千万円だから、広島時代の推定年俸3億円と大きな差がない。これは、マエケン自身の「日本での登板過多の影響」を案じられ、「身体検査でイレギュラーなところがあった」という事情もあるが、それ以上に、先輩たちの悪しき前例が大きい。 あの松井秀喜でさえ、周りの選手のパワフルなバッティングに不安を感じたと言われる。松坂大輔も同様だ。それで、熱心に筋トレに取り組み、それが逆に本来の動きやフォーム、身体のしなやかさを失わせ、ケガを誘発したとも見られている。マエケンには先輩たちの過ちを教訓にしてほしい。マエケンは先輩たちより身長が低い、だからこそ、身長やパワー不足をコンプレックスに感じるのでなく、あくまで自分の持ち味を信じ、いっそう磨いて勝負する覚悟が成功のカギではないだろうか。 かつて、「そんな投げ方はメジャーリーグでは許されない」くらいの批判を浴びながら動じず、一切自分の流儀を変えずに「トルネード投法」で旋風を巻き起こし、新たな歴史の扉を開いた野茂英雄。彼に続いて黙々と自分の役割を果たし続けた先輩・黒田博樹の背中に学んで、マエケンらしい投球を展開してほしい。

  • Thumbnail

    記事

    新国立競技場「AかBか」上辺だけの情報で見落とされる本質

     新国立競技場の新しい案がふたつ発表されたのが14日。その後3日間にわたって競技関係者からヒヤリングを行った上で、19日には両案の採点評価を終えた。新国立競技場の設計・施工業者の選定に向けた 審査委員会に臨む委員ら=12月19日午前、東京都港区 報道に接するかぎり、最終的な判断基準は「外観デザイン」。内部の構造や詳しいコンセプトはあまり公表されていないから、まずは「箱の形」を決めるプロセスなのだろう。こうした大規模建築コンペの慣例を知らない素人からすると、中身より外見だけでいいの? と戸惑いを覚える。しかも、残り時間が少ないとはいえ、2案からひとつに絞る期間も慌ただしく、拙速の感が拭えない。 テレビや新聞、ネットなどのメディアではしきりに「どちらが良いか?」、国民の意見を求める報道が行われた。情報を公開し、広く民意を募っている印象を与えているが、主に報じられるのは上辺の限られた情報。それで民意そして競技関係者の要望が反映されたのか疑問だ。 競技場の良し悪しは、箱のデザインだけで判断できるものではない。これだけ国民的な関心事となった新国立競技場建設問題が相変わらず核心抜きの議論になっている「日本の現状」に首を傾げてしまう。大事なことは巧みに隠され、国民の多くもそこに突っ込まない。メディアが誘導するままに、提示された話題に食い付いてそれ以外の論点には目を向けない風潮を感じる。 私は、招致運動が盛り上がっているころから一貫して東京五輪招致に異議を唱えていた立場から改めて提言したい。 2020年東京五輪に疑問を投げかけていたのは、「オリンピックは感動的だ」「スポーツは素晴らしい」といった、もはや幻想ともいえるイメージを共通理解の根底に置いていたからだ。スポーツ界で不祥事が頻発し、スポーツがイジメや体罰の温床になっている現状を直視すれば、そしてスポーツがもはや無償の行為でなく商業的な報酬と利益を前提としたビッグ・ビジネスとなったいま、1964年の東京五輪で国じゅうが感動に打たれたあの時代とは違うことをきちんと国民に説明する責任が本来はある。 ところが、東京五輪音頭の推進者たちはむしろあの幻想を持ち出して国民の同意を得るプロモーションを展開した。2020年東京五輪を歓迎する政府や自治体、企業の思惑はまさにスポーツ以外のインフラ整備や経済効果などにある。だから本質的な問題から国民の関心を遠ざけ、真意を隠す意図が施されたのかもしれない。日本はいま、東日本大震災からの復興という最重要課題を抱えている。それがまだ根本的に解決されず、展望も見えていないのに、復興支援を二の次にして東京五輪を推進する姿勢に私は申し訳なさを感じる。 2020年に東京五輪を迎えることになったいま、私たち日本人がまずしなければならないのは、なぜ東京五輪を開催するのか? 復興支援に影響を及ぼしてまで開催する意義、将来にわたってスポーツが社会に果たす役割や必然性といった将来展望を共有することだ。スポーツっていいよね、ではなく、スポーツには弊害もある、現状厳しい課題にも直面している。これらをオリンピック開催という大事業を通じて共有し、新しい道筋を見いだし、醸成していく姿勢が大前提だ。 そうした根本理念、東京五輪開催の明確なビジョンがないから、東京五輪の象徴ともいえる新国立競技場のコンセプトが明確に浮かび上がって来ない。 デザインで選ぶにしても、なぜ石ではなく、木なのか。ただ「和のイメージ」でなく、ヨーロッパ的な『石の文明』と日本古来の『木の文化』の違い。歴史的事実や背景を伝えることで改めて日本文化に自信を持つ絶好の機会にもなるはずなのに、そうした核心的なメッセージは伝えられない。安全対策や五輪後の施設利用の方向性は? 報道によれば、今回の再公募に際して示された基本要項の中に、「日本らしさ」「木の活用を図る」という要素が入っていた。そのためAB両案とも「杜のスタジアム」という同じコンセプトで、木材が印象的に使われているのだという。どうやらそれは、林業・木材関係者からの強力なプッシュがあった、新国立競技場の建設を契機に林業振興を図りたい意図があった、と指摘する声もある。個人的にそのことは賛成だが、ここでもやはりスポーツが主体ではなく、産業的な思惑にスポーツが利用されている感が否めない。 本当は「スポーツの根本的な社会的役割」について、東京五輪を契機に深く議論し、思いを共有したいと私は熱望している。スポーツはなぜ国民にとって大切なのか。どのような姿勢、どんな認識で取り組むと本当に心身を増進させる好影響を個人にも社会にももたらすのか。そうした動きがほとんど見えないことに、スポーツを愛する者として私は失望している。 極端な提言と言われるかもしれないが、旧国立競技場が解体されていま原っぱとなり、クローバーが生い茂る都会のオアシスの風景が私には魅力的に感じられる。これをそのまま原っぱとして整備・活用できないかとの夢も広がる。JSC(日本スポーツ振興センター)の取り壊し工事が終わった 国立競技場の跡地=11月16日午前、東京都新宿区(鴨川一也撮影) 日本はそして日本人はこの時代の転換期に、「都心のスタジアム」を選ぶのか、「都会にオアシス」を創るのか。こういう選択肢だっていまなら許される。原っぱを基調にして、外周を少し起伏のある林に造成し、ランニング・レーンを配置する。一部の競技者のためでなく、都心に国民のための原っぱと小さな杜を作ることは明確な未来へのメッセージとなるだろう。東京五輪の開会式、閉会式は、2019年のラグビーW杯と同じく、調布市にある味の素スタジアムで行う選択肢もあったのではないか。 都心の原っぱが無理だとすれば、AB両案がどんな基準で採点されたのか? 私は最終決定された案が少なくても「三つの要素」を満たしていることを期待する。 ひとつは、「スポーツ界の象徴的な施設」となるのだから「今後の日本のスポーツが歩み出す姿勢とスピリット」が表現できていること。本当は外観だけでなく、内部の施設も重要だ。大きなスタジアムのスタンド下には、トレーニング施設や医科学研究所なども併設されるのが近年の傾向だ。その方向性が、相変わらず欧米のスポーツ医科学や筋力トレーニング重視の施設なのか? 外観が「和」のイメージなら内部にも日本の伝統的身体文化である武術的な研究施設を併設するなどの発想は込められているのか? ふたつめは、最も懸念すべき「安全対策」だ。地震に対する備え、異常気象が続く高温対策、そして現実の危機となりつつあるテロ対策だ。この建物が、テロリストの目から見たときに堅牢なのか、隙があるのか。テロ対策をする立場から見たら十分な可能性を持っているのか、対策が取りにくいのか。当然、そのような検証が行われた上で決まったと信じたい。 そして三つめは、五輪後の施設利用の方向性だ。日常的に一般の利用者にどう開放されるのか。その役割をどれほど大きな比重で設定するのか。新国立競技場は「見に行く」だけの舞台なのか、「普段は誰もがスポーツのできる拠点」なのか。いずれかで全体の構えも違うはずだ。 かつての国立競技場はジョギングやトレーニングに励む人々の日常的な拠点としても機能していた。新国立競技場も両方の機能を持つなら、例えばふたつの玄関が必要だろう。国賓を迎える表玄関と、公共交通機関からのアクセスのよい通用門。双方を満たす配慮は当然織り込み済みだと思うが、そうした情報をなぜ積極的に広報しないのか、不思議だ。 本当はこうした概要が公表された上で、もっと詳細に議論した上で判断されたらなおよかったと思う。

  • Thumbnail

    記事

    第7回 秋のろくでなし祭りだ祭りだ~ドンドコドンドコドンドコドンドコ!(*゚∀゚)/

     iRONNA読者のみんな、まんにちは!まんこの妖精・まんこちゃんだヨ! 10月15日、やっと再始動したろくでなし子さんのまんこアート裁判♪ 前回は、弁護団が申し立てていた証拠開示請求に対して、検察側の「保留」のおかげでちょっぱやで終わってなんかショボかった、ってお話は、この前したよネ? ということで、弁護団もなし子さんも、この日をたのしみにしてたんだ。 11月2日。裁判がはじまるほんのちょっと前に法廷に入った時、検察側は大きな箱を用意してきてたの。むかし、「舌切りスズメ」って童話があったでしょ? あんな感じの紺色のふろしきをかぶせた大きなつづらとちいさなつづらが計6コ♪ …この26コの作品は、検察がワイセツと判断した3コのデコまんじゃなくて、ガサ入れの時に刑事たちがなんでもかんでも持っていっちゃったやつで、いわば事件とは関係ない押収品。 関係ないなら、なし子さんたちが「返して~」ってさんざんお願いしてきたのに、検察が返してくれない。「んじゃ、裁判官にも見てもらおうヨ~」っていう話になったワケ。 なし子さんは、ワイセツとされた3点よりも、どっちかいうと関係ないとされた26点の方に思い入れがあるの。 たとえば、3Dマンボートプロジェクトの3Dまんこデータで作った「フクシまん」は、話題にすることもタブーとされてしまう福島の原発を、これまたタブーとされているまんこの上で表現した作品だし、「戦場まん」は戦争というマッチョな男性中心社会での人間の殺し合いを、生命がうまれいづるまんこの上に載せた作品。 そして、汚い!醜い!いやらしい! とさげすまれてきたまんこを最新の3D技術を駆使してスマートなプロダクトアートに昇華した「iPhoneが入らないiPhoneカバーまん」(作ってみたらiPhoneが入らなかったので)などなど。 なし子さんが真剣に制作したそれらの作品がたくさんもっていかれてしまってたから。(これらの作品は、ろくでなし子さんの単行本「ワイセツって何ですか?-自称芸術家と呼ばれた私-」でカラー写真で見れるヨ!)  3週間後の、11月2日(月)の第5回公判では、さすがに「保留」って訳にはいかないよネ!  その中には、なし子さんのまんこアート作品26点が入ってる。  これらの26作品を、裁判官にじ~っくり見てもらえば、なし子さんの活動がこれっぽっちもワイセツじゃないということを公平に検討してもらえるはず。 そう思って、なし子さんもまんこもワクテカし てたら、開始5分もしないうちに裁判官が「本証拠は問題となっている作品ではない(起訴された3作品ではない)ので、ここで取り調べる必要性がありません。。」 って言うじゃない!?( ゚д゚)ポカーンポカーンポカーン 裁判なのに、証拠を調べる必要なし???? ありえなすぎて一瞬虚をつかれたやまべんこと山口貴士弁護士や森本憲司郎弁護士が「異議あり!」と申し立てをしても棄却されちゃったの~!!!! …民主主義って、なんじゃらホイ??? まんこ、あまりに理不尽すぎて、頭がこんがらがってきちゃった。 つーかさ、問題となってないから見なくていいんだったら、マジではやく作品返せやコラ~~~プンプン(●`□´●)/ムスッ ってことで、前回も今回も、なんだかナー!な展開だったけど、次回第6回公判11月20日(金)は、弁護側の証人として、上智大学の林道郎先生が法廷に来て証言をしてくれるそうなので、もうちょっと盛り上がりそうだヨ! それとネ、引き続き「秋のろくでなし裁判フェア」開催してまーす(*´∀`*)裁判の傍聴や説明会に来てくれた人にポイントカードを配っているヨ。傍聴できなくても抽選に並んでくれた人や警察手帳を見せてくれた人にはWスタンプ!スタンプを6コ貯めるとろくでもないモノがもらえるんだって! あそびに来てネ~o(^-^)oろくでなし裁判説明会会場:ハロー貸会議室虎の門 3F会議室東京都港区虎ノ門1-2-12 第二興業ビルhttp://www.hello-mr.net/detail/?obj=39(年内の裁判報告会は全てこちらで開催予定です。毎回16時から入室可能です!)(記者:まんこちゃん)

  • Thumbnail

    テーマ

    神回だったろくでなし子裁判 証人尋問の巻

    第6回公判ではろくでなし子の証人として上智大の林道郎教授が出廷。ろくでなし子作品の「芸術性」を証言するのは荷が重そう…と思ったらスラスラとよどみなく証言してくれて、まるで一休さんのよう。盛り下がりっぱなしだった裁判がやっと盛り上がってきたゾ~!

  • Thumbnail

    記事

    流行語大賞になった「トリプルスリー」が日本の野球を変える!

     「トリプルスリー」が今年の流行語大賞に選ばれた。 打率3割、30本塁打、30盗塁を同じシーズンに達成すること。長いプロ野球の歴史の中で、昨季までわずか8人しか果たしていないトリプルスリーを、今季はセ・リーグで山田哲人(東京ヤクルトスワローズ)、パ・リーグで柳田悠岐(ソフトバンクホークス)が達成した。二人同時達成は65年ぶり。65年前の1950年、岩本義行(松竹ロビンス)、別当薫(毎日オリオンズ)が達成している。ユーキャン新語・流行語大賞2015で「トリプルスリー」が年間大賞を受賞。 フォトセッションでポーズをとるヤクルト・山田哲人(左)とソフトバンク・柳田悠岐 =12月1日午、東京都千代田区の帝国ホテル (撮影・大橋純人)  岩本は39本塁打、34盗塁、打率.319。別当は43本塁打、34盗塁、打率.335。この二人が日本プロ野球史上最初のトリプルスリー達成者だ。実はその年、ホームランが1本足りず記録を逃した選手がいた。“打撃の神様”川上哲治(巨人)だ。29本塁打、34盗塁、打率.313。もし川上があと1本ホームランを打っていれば、3人同時達成となっていた。 「あと1本」と言えば、長嶋茂雄もそのひとり。すでに各所で紹介されているとおり、入団1年目に長嶋は29本塁打、37盗塁、打率.305の成績を残している。しかも、本当は30本を打っていた。シーズン終盤、「幻」となった28号を打った際に一塁ベースを踏み忘れ、アウトになった。それさえなければ、長嶋もトリプルスリー達成者になっていた。プロ野球日本シリーズ阪神対ソフトバンク第1戦  右適時打を放つソフトバンク・柳田悠岐 =10月25日、甲子園球場 (撮影・山田俊介)  達成者はほかに、中西太(西鉄ライオンズ)、蓑田浩二(阪急ブレーブス)、秋山幸二(西武ライオンズ)、野村謙二郎(広島東洋カープ)、金本知憲(広島東洋カープ)、松井稼頭央(西武ライオンズ)だ。 トリプルスリーという言い方は、野球界でも“通”は使っていたが、それほどみんなが知っている言葉ではなかった。それが今年、一気に“流行語大賞”に選ばれるほど常識的な言葉になった。 野球に関わるひとりとして、この“流行”は今後の野球界にとって大きな意義を持つ、将来が楽しみだと感じている。“トリプルスリー”を目指す流れが野球界の新潮流になれば、間違いなく野球は面白くなる、レベルアップするだろう。 ここ数年、野球界で選手個人を評価する場合、打者なら「ホームランの数」、投手なら「スピードガンの数字」を重視する傾向が続いていた。スカウトがドラフト候補を探すとき、メディアが注目選手を語るとき、それらが最もわかりやすいバロメーターに使われるようになって久しい。本当はそれだけでなく、足の速さ、肩の強さ、守備力など、他の要素も検討材料には違いないが、真っ先に語られるのが「通算本塁打数」と「最速スピード」だから、どうしても、選手も指導者ともその数字を気にする。トリプルスリーで日本の野球が変わる! 遠くに飛ばす! 速い球を投げる! そこを求めると、どうしても力に頼る傾向が強くなり、野球が短絡的になり、ケガの危険も増す。野球の妙味はそこだけでないのは言うまでもない。今年、トリプルスリーが注目されて、オールラウンドな能力を持つ打者の魅力が見直された。ホームランを打つ長打力もありながら足も速い、粗い打撃でなく、やわらかさを持った打者。そういう打者こそが「王道」だと認識され、トリプルスリーを目指す野球少年が増えるのは素晴らしい未来につながると思う。プロ野球日本シリーズ第2戦ソフトバンク対ヤクルト ソフトバンク・柳田悠岐(左)とヤクルト・山田哲人 =10月25日、福岡・ヤフオクドーム (撮影・大橋純人) だが、現実は甘くない。トリプルスリーが二人同時誕生! と聞くと日本の野球が変わった印象も受けるが、今季の記録を調べてみると、球界全体の潮流がトリプルスリーに向かっているわけではない。山田と柳田が突出しているだけ、といってもいい。2013年に47盗塁、2014年には20盗塁、25本塁打、打率.293をマークした陽岱鋼(日本ハムファイターズ)や糸井嘉男(オリックスブルーウェーブ)らにもトリプルスリーの期待がかかっていたが、ケガや不振で今季は遠く及ばなかった。 彼らは、トリプルスリーを目指したがゆえに、その壁にはね返された側面もあるかもしれない。いずれも高いハードル、とくにホームラン30本、30盗塁は、かなり意識を高く持って積み重ねていかないと、到達できない。  山田はシーズンオフに、走れるスパイクをオーダーし、トリプルスリー達成に備えたと言われている。通常のスパイクの歯の数を変更した。かかとの歯を2本に減らし、爪先で走りやすい仕様に変えたのだという。重さも約50グラム軽くした。そうした準備が山田の場合は追い風となった。プロ野球 日本シリーズ第2戦 ソフトバンク対ヤクルト シリーズ初盗塁となる二盗に成功するヤクルト・山田哲人= 10月25日、福岡・ヤフオクドーム (撮影・塩浦孝明) 今季のプロ野球で、「10本塁打、20盗塁」まで基準を下げても、両方をクリアした選手は、山田、柳田以外にたった二人しかいないのだ。「10本塁打、21盗塁」の片岡治大(読売ジャイアンツ)と「13本塁打、28盗塁」の梶谷隆幸(横浜DeNAベイスターズ)。そもそも、20盗塁を記録した選手が、セ4人、パ3人、わずか7選手しかいない。最近の野球がいかにリスクを回避し、盗塁をしないかがこの数字からも窺える。 今季の全盗塁成功数は1026個。全858試合だから、ファンは1試合平均約1.2回しか盗塁成功のシーンを目撃できなかった。さらに、規定打席に到達した54選手、いわばレギュラー・クラスの選手たちの盗塁数は459個。レギュラー選手が、野球でも最もスリリングな瞬間のひとつと言っていい盗塁を狙って走る姿は、ほぼ2試合に1回しか見られなかった計算になる。 盗塁は、足のスペシャリストかまだ若くて元気な選手が出塁したときの楽しみに限定されているといってもいい状況だ。もっと走ってもらいたい、躍動する野球が見たい、と私は思う。トリプルスリーへの意識が高まり、少年時代からそこを目指す野球少年が増えることで、日本の野球がよりスリリングに、よりエネルギッシュに変わるとうれしい。

  • Thumbnail

    記事

    13歳で力士になった北の湖の「たたき上げ」相撲道

     「憎らしいほど強い」と形容され、史上最年少の21歳2ヵ月で横綱昇進を果たした経歴から、多くの相撲ファンは北の湖を「生まれながらの天才力士」と思い込んでいるのではないだろうか。ところが、北の湖の成績を検証すると、意外な記録が浮かび上がってくる。 北の湖は1966年(昭和41年)、中学一年のとき三保ヶ関部屋に入門。1967年(昭和42年)1月に初土俵を踏んでいる。そして1年後の1968年(昭和43年)1月場所、序二段で全勝して早くも怪物の片鱗を見せる(決定戦で敗れて優勝はならず)。ところがすぐ次の3月場所、西三段目20枚目で北の湖は7戦7敗、なんと全敗しているのだ。後に横綱昇進した力士で全敗の経験を持つのは北の湖ただひとり。これは相撲ファンにとって信じがたい記録である。 もっとも、このとき北の湖はまだ14歳、中学2年生。いくら身体が大きいとはいえ、十代後半あるいは二十代の力士を相手に北の湖も力の差を思い知らされた。二段目と三段目にはそれ相応の力の差がある。当時の北の湖には三段目で易々と白星を挙げる力はなかったのだろう。さらに、初土俵から十両昇進までの4年間に北の湖は6回の負け越しを経験している。決して、無敵の快進撃を重ねていたわけではなかった。まだ義務教育の学齢。当然中学への通学を優先し、毎朝の稽古ができない事情もあったようだ。十両以下で一度も優勝経験がないのも、若き天才力士のイメージからは意外な事実だ。 中学卒業間際の1969年3月に15歳9ヵ月で幕下に昇進。「北の怪童」の異名を取るなど徐々に注目を集め、1971年4月には史上最年少(17歳11ヵ月)で十両昇進を決めた。後年その実績ばかりが強調され、「早熟」「天才」の印象がひとり歩きしているが、北の湖には自らの弱さと対峙し、懸命に我慢と精進を重ねる「下積み時代」があったのだ。新入幕を果たし、番付を手に喜ぶ北の湖=東京都墨田区の三保ケ関部屋 十両でも2場所目に6勝9敗で負け越し。新入幕の1972年1月場所も前頭12枚目で北の湖は5勝10敗。幕内の厳しさを思い知らされ、勝ち越せず十両に陥落している。翌場所すぐ10勝を挙げて返り咲くが、幕内上位に上がった1年間は、6勝9敗のほか、新小結で4勝11敗も経験している。北の怪童も三役陣にすぐ通用するほどの強さを誇っていたわけではなかった。 ところが、再入幕を果たして8場所目、前頭4枚目で8勝7敗と勝ち越したあたりから、北の湖は俄然、上昇気流に乗り始める。このときちょうど20歳。入門してから7年の月日が流れていた。返り小結で8勝を挙げ関脇に昇進すると、まず10勝。翌1974年1月場所は14勝1敗で初優勝。大関に昇進し、10勝、13勝(二度目の優勝)、13勝。わずか大関在位3場所で横綱に駆け上がる。このわずか一年の間に、北の湖は「憎らしいほど」の強さを体得し、体現し始めたのだ。1974年7月、大相撲名古屋場所で横綱輪島(左)と対戦する大関北の湖=愛知県体育館 北の湖は最初から強かったのではない。中学一年で入門し、約7年の歳月を重ねて着実に才能を育み、成長を遂げ、一気に開花した。 この快進撃から北の湖は50場所連続勝ち越し、幕内連続2桁勝利37場所を記録。優勝回数も22回まで積み上げて「憎らしいほど強い横綱」の伝説を不動のものにした。現役時代の終盤はケガに苦しみ、1983年には3場所連続全休も経験した。復帰を果たして苦しい土俵を続けながら1984年5月場所で全勝優勝したときには、それまでと違う拍手と歓声が北の湖を祝福した。それが最後(24回目)の優勝となった。このときは、13日目に同じ部屋の弟弟子・北天祐が隆の里を破った瞬間に北の湖の優勝が決まった。勝った直後、土俵上から北天祐が控えで見守っていた北の湖に微笑んだ。すると北の湖も北天祐に微笑みを返した有名な光景がある。苦境から返り咲いてつかんだからこその温かな光景。全盛時代の北の湖にはありえないことだったかもしれない。 北の湖は当然ながら勝負に厳しく、相手力士に容赦なく勝つことからも「憎らしいほど強い」との印象を深めた。対金城との対戦成績29勝0敗は、無敗の対戦成績としては史上最多の記録である。ほかにも蔵間に17勝0敗、青葉山に12勝0敗など、10戦以上して一度も白星を許さなかった力士がたくさんいる。春場所初日を翌日に控え、土俵祭りに出席した白鵬(奥)と北の湖理事長 =2015年3月7日、大阪市浪速区のボディメーカーコロシアム 一方で、元大関・朝潮には7勝13敗(不戦敗1を含む)と負け越している。北の湖は入幕後、巨漢力士の高見山に連敗したことから、「自分より大きな力士に弱い」、朝潮を苦手にしたのもそれが理由ではないかと言われた。しかし、もうひとつの見方もある。真摯な仕切りを重ねる北の湖に対して、巨漢力士はゆったりと遅く仕切る。朝潮はとくにトリッキーな動作もあった。こうした動きには普段の呼吸を乱されがちだ。それでも北の湖は黙々と仕切り、内心の苛立ちを抑えて表情を崩さなかった。そのような土俵を貫いていた名横綱だからこそ、白鵬の猫だましに毅然と苦言を呈した。それは、毅然とした北の湖の相撲道を貫いた先輩横綱として当然の指摘であったのだろう。

  • Thumbnail

    記事

    白鵬はなぜ「猫だまし」をして笑ったのか

     白鵬の猫だましが物議を醸している。 取り組み後、「気持ちよかった」と、あえて相撲協会と日本の相撲ファンを逆なでする笑いを浮かべたのだから、「確信犯」と言っていいだろう。白鵬は、その言動が何を意味するか、どんな反応が起こるかを十分わかっているはずだ。その上であえて、猫だましをし、開き直った笑みを浮かべた。その真意はどこにあるのだろう?猫だましを繰り出して栃煌山に勝ち、支度部屋で笑顔の白鵬 =福岡国際センター 最近は、横綱でありながら、ツッパリ高校生のような振る舞いが目立つ。ちょっと大人げないのは事実だ。双葉山、大鵬の後を追い、相撲道の奥義を究めたい主旨の発言をしていた白鵬がまるで別人になってしまった感がある。あれほど日本人以上に日本の文化伝統を理解し愛していると敬愛されていた白鵬の糸がなぜ切れてしまったのか? 北の湖理事長は取材に対して「前代未聞だ」「横綱がやるべきことではない」とはっきり不快感を表し、横綱を厳しく非難した。北の湖理事長の急死でその言葉がまるで遺言のような重さを持ってしまったから、白鵬としてはますます多勢に無勢といった感じで、旗色が悪い。軽率な行為を謝罪しなくては人間性まで疑われかねない空気になっている。 理解者であり、いい意味で怖い存在でもあった大鵬さんが亡くなって、白鵬は拠りどころを無くしたのかもしれない。 私も相撲を愛し、日本の礼儀を愛する者として、白鵬に落胆していた。だが、つい数ヵ月前には、「後の先を追求したい」相撲道の極意を究める思いを語っていた白鵬が、ここまで荒んだ態度に変わった要因は何か?  白鵬を一方的に責めるだけでは本質は見えない。そこで今回は、白鵬の立場から、猫だましを考察してみたい。 猫だましの伏線は4日目(11日)の嘉風戦にもあった。 立ち合い、わずかに右に体をかわした白鵬に対応できず、嘉風はバッタリと手と膝をついた。あまりの呆気なさに、白鵬自身がその時、意外そうな表情を浮かべた。さすがにそこまで鮮やかに決まって戸惑ったのか。あるいは、咄嗟の動きに自分自身、驚きを隠せなかったのか。 横綱が相手力士の立ち会いに胸を出さないと「変化した」と非難される。だが、VTRでも見直したが、白鵬は早々に横に逃げているわけではない。嘉風から見ると、白鵬はまるで「消えた」感覚ではなかったか。これは「逃げた」のでなく、白鵬が当たる前に嘉風を先に制したから起こった鮮やかなドラマ。白鵬なりに「後の先」を体現した、ある意味、会心の勝利だったのではないだろうか。  相手にほとんど手や体で「力」を作用させることなく、嘉風を土俵に這わせた。それが簡単でないことは、やってみればわかる。逃げた、変わったと言われるが、逃げたらつけ込まれて自滅する場合も多い。普通は逃げても相手は追いかけてくる。だが、白鵬はまったく嘉風につかまらなかった。嘉風はまったく方向を変えることができず直進して自ら沈んだ。 猫だましで戸惑わせたのではなかった 嘉風戦を「変わった」と非難された失望とやるせなさがさせたのか、さらに誰の目にも「見えるように」実践したのが、栃煌山戦だったのかもしれない。 栃煌山に奇策の猫だましを繰り出して勝った白鵬。 (上から)立ち合いの猫だ まし、大きく左に回り、2 度目の猫だまし、勝って にんまり=福岡国際センター 栃煌山戦の猫だましも、よく見直すと、猫だましで栃煌山を戸惑わせたのではない。猫だましは「ついでのいたずら」のようなもので、それ以前に白鵬は完全に栃煌山の出足を制している。わざわざ猫だましをしているが、その動作をしなくても、栃煌山はもうすっかり棒立ちになり、出足の勢いを制されている。猫だましの前に勝負はついていたのだ。 双葉山を追いかけて探り続けた「後の先」を、白鵬は白鵬なりにつかみ始めた。だがその領域を見守り、感激を共有してくれるファンはおろか、協会関係者も少ない。誰もわかってくれない。むしろ、表面的な道徳論で白鵬が批判の的になる。その苛立ち、虚しさがあっても不思議ではない。「後の先」をつかみかけた、それを目に見える形で示した、それが栃煌山戦の猫だましだったなら、「気持ちがいい」という言葉もよく理解できる。 猫だましという奇襲で勝った、それだけなら、史上最多の優勝を誇る大横綱が「気持ちがいい」とは言わないだろう。もし土俵上で時には遊びも必要だなどと本気で言うくらいなら、さっさと引退するに違いない。白鵬がただ奇襲作戦で猫だましをしたのではない証拠は、立ち合いの表情にも表れている。嘉風戦でも同じ。いずれの取り組みでもまったく危なげがない。自信満々に取り、立つ前から勝利を確信している。逃げたのでも、変わったのでもない。ただ逃げを打って勝とうと一縷の望みに賭ける力士の顔はそのような確信に満ちていない。 「横綱が猫だましをするなんて」との非難はわかる気もするが、本当は、「相手を制する技を究めている横綱だから、猫だましが効く」。 そのような技の深み、相撲の勝負の綾をほとんど理解していない「いまの日本」を白鵬は笑っているようにも思えてきた。 ファンも協会もマナーや振る舞いにはうるさいが、その意味をわかっていない。日本はそこまでレベルが下がってしまった。そのことを白鵬は、あえて悪役を甘受し、身をもって示しているとすれば、猛省すべきは相撲界、そして日本の方にある。

  • Thumbnail

    記事

    第6回 ろくでなし子、ドローン少年と出会うの巻

     iRONNA読者のみんな、まんにちは!まんこの妖精・まんこちゃんだヨ!  ここんとこパッタリ動きがなかったろくでなし子さんのまんこアート裁判が、10月15日(木)13時半~、法廷429号にて、再始動!  今までは検察側の攻撃だったけど、これからは弁護団側からの攻撃がはじまるの。なしこさんもまんこも、戦闘モードに突入~( ´ ▽ ` )ノ♪  まずは、弁護団側が”冒頭陳述”っていう、ろくでなし子さんの作品はワイセツじゃないヨッ!なぜならこういう理由なのッ!ってゆう書類を読み上げるところから、はじまりはじまり。(どうでもいいけど、冒頭陳述のことを法曹業界用語で「ボーチン」っていうんだって!ムフ♪)  問題とされた作品やデータについては、「好色的興味に訴えるために作ったものではないし、性欲を刺激することもない」と強調した弁護団。性行為や性愛的といった要素、いわゆる「エロ」の要素が一切ないものだ、と主張。  つーか、そんなの作品見ればわかるやん?(´д`)  お祭りやぐらをのっけたまんことか、iPoneカバー型まんことか、ラジコンで走るまんことかで、君たち、チンコ勃つ!?   そもそも「まんこ=エロ」って勝手に決め付けて、人間が生まれてきた故郷を汚がったり見下す日本のおかしな常識に物申すため、なし子さんは活動してきたんだゾ~\(○`ε´○)   さて、そんなボーチンが終わったあとは、以前から弁護団側から請求していた証拠(起訴された3作品以外の、ガサ入れ時に警察が押収したデコまんやらジオラまんやらなし子さんの作品ぜーんぶ裁判で公開しようヨ!っていう請求)に対して、検事が回答する番だったんだけど。  なんと、10月1日に請求してた物もあったのに、検事側の答えは 「保留」。 ( ゚д゚)ポカーン  …お前らこの数日なにボーっとしてたんだヨ!税金ドロボ~~~!!  検事が保留っていうから、そのあとの予定がなにも進まなくて、この日は弁護団のボーチンだけの、たった40分くらいであっけなく終わっちゃったヨ!  なしこさんもまんこも、やっと裁判が再開してワクテカだったのに、ガッカリだヨ~(´д`)  でもね、11月は、2日(月)の他に、あと2回裁判が開かれるみたい。いよいよ煮詰まってきた感じだヨ♪(期日は確定次第、ブログやツイッターでお知らせするネ!)  それから、裁判が終わったあとは、裁判を傍聴できなかった人や、傍聴できても意味がよくわからなかった人のために、毎回弁護団となしこさんの説明会を開いてるのだけど、この秋冬はろくでなし裁判フェアと称して、説明会に来てくれたみんなにポイントカードを配るサービスをはじめたヨ!  まんこちゃんスタンプをたくさん貯めると、ろくでもない物がもらえるんだって。裁判を傍聴した人、傍聴の抽選に並んだ人はWスタンプ。警察手帳を見せてくれた人にも特典があるヨ!  10月15日の説明会には、珍しいお客さんも来てくれたの。  ドローンを浅草の三社祭に飛ばすと示唆する動画を流して威力業務妨害で逮捕された、あのドローン少年ノエルくん。ノエルくんも、なんだかよくわからないけど警察やメディアに悪者扱いされていた、いわばなし子さんの仲間。  説明会の様子もニコニコ動画で配信してくれたんだ。弁護団の説明を動画配信してくれるのは、すごくありがたいよネ!また遊びに来てほしいナ!なんなら裁判所の上にドローン飛ばしてほしい!  みんなも、秋のろくでなし裁判フェアに遊びに来てネー♪o(○´ω`○)o♪ (記者:まんこちゃん)<秋のろくでなし裁判フェア>対象:11月~12月のろくでなし子の裁判期日の弁護団説明会に来てくれた方全員日時:ろくでなし子事件裁判期日(ろくでなし子のwebサイトやTwitter、Facebookなどで随時告知します)会場:ハロー貸会議室虎の門 3F会議室東京都港区虎ノ門1-2-12 第二興業ビルhttp://www.hello-mr.net/detail/?obj=39※裁判期日の予定は直前にずれる可能性もあります。 (年内の裁判報告会は全てこちらで開催予定です)※原文のまま掲載しております

  • Thumbnail

    記事

    ラグビー五郎丸フィーバーと「拝みポーズ」に感じる違和感

     五郎丸人気が止まらない。 スーパーラグビーのレッズとの契約発表には多くのメディアが集まり、会見の模様が全国に生中継もされた。五郎丸株は上がり続けている。 ラグビーへの注目より、五郎丸ばかりが注目される雰囲気に流れがちな風潮には苦笑いもある。が、ラグビーをめぐる世の空気が一変したのは30年来ラグビーを応援し、もっとラグビーの魅力が伝わればいいのに、と願い続けてきたスポーツライターには感慨深い。このままラグビーが熱く応援されるよう願っている。 だから、ラグビー人気にも五郎丸フィーバーにも水を差す気はない。けれど一方、今回の騒ぎでやはり見えてくる日本の不思議な現状を記しておきたい。五郎丸のレッズ入りで、スーパーラグビーの仕組みなどもワイドショーで詳しく紹介されている。そこまで時間を割いて伝えるかと驚くばかりだが、それでも一切報じられていないことがある。 ひとつは、「スーパーラグビーだけが世界の最高峰ではない」ということ。 世界のラグビー界には、日本で知られる15人制ラグビーのほかに、13人制の「リーグ・ラグビー」という流れがある。実はこちらが先にプロ化し、ニュージーランド、オーストラリアでは高い人気を博している。これに対して「ユニオン・ラグビー」と呼ばれる15人制側は、長くアマチュアリズムの伝統をを守り続けたため、リーグ・ラグビーに人材を奪われ、人気で後塵を排する流れになりかけた。そこで遅ればせながら方向転換を図り、現在のスーパーラグビーへと発展するスーパー10などのリーグを発足させた経緯がある。 日本のラグビー界は、日本ラグビー「協会」と称することでもわかるとおり、ユニオン・ラグビーの傘下にある。かつて私の友人がリーグ・ラグビーの普及を依頼され、日本代表を組織して国際大会に参戦した歴史もあるが、これに参加すれば二度と協会の試合には出場させないといった警告も発せられて、いまでいうトップリーグの選手は参加せず、大きなムーブメントにはならなかった。リーグ・ラグビーはいまだに日本では「存在しないもの」のようになっている。江戸時代の鎖国的な情報管制が、いまも日本のラグビー界では生きているのだ。 いまでいうトップリーグの選手は参加せず、大きなムーブメントにはならなかった。 五郎丸を見にオーストラリアまで出かける新たなファンもいるだろう。現地でテレビをつけたら、スーパーラグビーと同じかそれ以上に華やかなリーグ・ラグビーの試合も中継しているはずだ。 ちなみに五輪種目となった7人制ラグビーはユニオンが主宰する種目だから、15人制とはルールも醍醐味もずいぶん違うが「ラグビー」と認められている。ラグビーW杯イングランド大会 サモア代表対日本代表 先制のペナルティゴールを決める日本代表・五郎丸歩=ミルトンキーンズのスタジアムMK(撮影・山田俊介) もうひとつ、話題沸騰の「おがみポーズ」にも触れておこう。 五郎丸は蹴る前のおがみポーズで高いゴールキック成功率を誇っているのだから、「効果があるに決まっている」という前提で会話が盛り上がっている。岐阜にある同じポーズの仏像を持つ寺院の参拝者数が3倍に増えたとの報道もある。昔からモノマネの対象になりやすい選手ほど人気を得るのはスポーツ界では定番だし、こういう楽しい話題を真面目に批判するのは野暮と知りつつ、考察しておきたい。 これを若い選手や子どもが真似したら、「キックが上手くなるか?」といえば、そういう効果はないだろう。おがみポーズは、スポーツ界では「ルーティン」と呼ばれる心理的なスキル。同じ動作を習慣化することで迷いを排除し、自然な集中状態に自分を導いていつもの動作が出来るよう促す。イチロー選手が打席に入るまでのプロセス、打席に入って大きくバットを回してから構える仕種もこのルーティンとして知られている。だから、欧米のスポーツ科学を学んだ方々からすれば「おがみポーズは科学的なスキル」として推奨されることになる。だが、ちょっと冷静に考えればわかることだ。 いまそれを言ったら野暮なのは承知の上だが、大真面目にルーティンを賛美する風潮には、スポーツライターとして釘を刺しておきたい。ルーティンはたしかに「できる人にはよりできる」助けにはなる。けれど、できない人がやっても効果はない。また五郎丸自身も、いざ調子を落とし、体力が衰えるなどしてキックの精度が落ちた時に、これさえやれば「入る!」とは行かないだろう。 かつて、やはりゴールキック前の動作が人気を呼んだ早稲田の先輩キッカーがいた。ボールをセットしたあと、大股で一歩、二歩、三歩と下がる動作に合わせて、スタンド全体が「イーチ、ニー、サーン!」と叫ぶ楽しさを共有したものだ。けれど現役生活の終盤、彼が久々にキックを大きく外し、スタンドに失笑がこだまするところまでが「ルーティン」になった。残念ながら、ルーティンもスタンドの大合唱も、彼の失われた技量に力を注ぐ効果まではなかったのだ。 「勝つ」という目的に限って言えば、ルーティンにも一定の効用はあるがろう。けれど、「心技体を磨く」というスポーツ本来の目的に照らしたらどうだろう? ルーティンは半ばおまじないであり、いわば「依存」とも言える行為だ。いまスポーツ界には、サプリメントをはじめ磁気ネックレス類まで、依存症グッズが溢れている。その提供者は重要なスポンサーになっている事情もあって、憂うべき依存症傾向を戒める指摘も少ない。本当は、スポーツに打ち込むことでたくましい心身を磨くのがスポーツの意義であるはずなのに、勝利を求めるあまりスポーツ選手が依存に走る風潮、周囲もそれを傾向を推奨するおかしさに気づかなければならない。五郎丸が拝むのは不安があるから?五郎丸が拝むのは不安があるから?ラグビー練習試合ヤマハ-東芝 ヤマハ・FBの五郎丸歩選手=2015年10月30日、遠州灘海浜公園球技場(撮影・納冨康) そもそも、五郎丸がおがむのは、キックが入るかどうか不安があるからではないか? 不安を敵に見せるのは、真剣勝負の中では愚かな行為。ラグビーの試合中としては特別な、敵が攻撃を仕掛けてこない守られた時間だからできることとはいえ、本来は感情を表さず、できるだけシンプルな動作でゴールを目指す姿勢こそ「次元が高い」ことは、スポーツ・ファンならわかっておいてほしい。 五郎丸は、拝む時の指のからめ方を進化させるより、何もしないで、ボールを置いたらサッと蹴る方向に進むのが本道だ。五輪予選決勝の中継で多くの人が目にしただろう、7人制のゴールキック。時間短縮のため、ボールを地面に置かず、両手で保持したボール地面に落としてショートバウンドで蹴る。両手がふさがっているから、拝めない。五郎丸ファンにはあっさりしてつまらないだろうが、こちらの方がスピードとテンポを重視する最近のスポーツの流れでもあるだろう。 ただ、W杯の大舞台でもゴールキックの精度を支え、初めて見る日本人ファンの大半を魅了した「おがみポーズ」の効用も検証すべきだろう。 脳科学の世界的権威で、イネの遺伝子完全解読プロジェクトを先頭に立って成し遂げた村上和雄博士(筑波大名誉教授)はいま「祈り」を生涯の研究テーマにされているという。季刊誌《どう》秋号の巻頭対談で、武術家の宇城憲治師範にこう語っている。 「『祈り』というのは、『心』よりもっと深いところに根ざすもの。自分のことより他人のために祈る。世界の平和を祈る、というように、非常に広くて大きいんですね。そういう心が人間にあるんじゃないかと。それを魂と言っているんです」 「祈りによって遺伝子は目を覚ます。本当に遺伝子にスイッチが入るんですね」 もし五郎丸選手が、自分のキック成功のためでなく、日本ラグビーの未来のために祈って蹴ったとすれば、その魂がボールにこもった可能性はある。

  • Thumbnail

    記事

    国家の独立と安全を「警察」に委ねる日本の非常識

     前回は日本国憲法の欠陥についての話を簡単にしましたが、今回はもう少し具体的に何が問題なのかについてお話します。  まずは、我が国が具体的にどうやって自衛権を制限しているのかを見てみましょう。   日本政府は、武力行使が可能な条件として 1 わが国に対する武力攻撃が発生したこと、またはわが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること2 これを排除し、わが国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないこと3 必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと という三要件を昨年に閣議決定しています。  国会という開かれた場において野党議員が政府に対して、この三要件の具体的例示を求めていましたが、そんなことをすれば敵に日本侵略の具体的手段を教えるようなもので、利敵行為と言っても過言ではありません。そもそも抑止力というものは、相手に「少しでも手を出せば、相手から何をされるかわからない」と思わせることにより攻撃を思いとどまらせるものです。それを最初から、どのような条件がそろえば武力を行使するのかということを公表し、しかもその反撃は必要最小限しか行わないとまで言えば、その効果は著しく低下することは言うまでもありません。 仮に、他国が日本を侵略しようとしたときに、この三要件の具体的な例示を参考にして、それを満たさないよう巧妙に攻撃を仕掛けてくれば、日本は法的に反撃ができないため、その国のやりたい放題になってしまいます。そのような事態を防ぐため、具体的に何がこの要件に該当するのかは明言せずにぼかしておくのは当たり前のことで、「相手がこう来たら、どういうふうに反撃するとかしないとか」軍隊の詳細な行動指針を公表している国など、私の知る限り世界のどこにもありません。  さて、それはともかく、この三要件についての話ですが根底となる考え方を一言で表せば「正当防衛」です。刑法第三十六条  急迫不正の侵害に対して、自己又は他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為は、罰しない。 前述の三要件と上記の条文を見比べてみれば、武力行使が可能になる三要件は刑法における正当防衛を骨格とした警察官が犯罪者に対して武器を使用する要件をベースにしたものであることが解るかと思います。つまり日本は警察力で国を守ろうとしているのです。自衛隊は警察予備隊を祖とし、法令上は軍隊ではないとの位置づけなので、そうなるのかもしれませんが、近代国家においては警察と軍は明確に区別すべきであり、いくら装備が立派でも警察権により自国の防衛を行うのは無理があります。  警察権の何が問題かという話の前に「警察」と「軍隊」との違いを押さえておきましょう。この二つの組織はともに武器を装備し、最終的には力で相手を制圧すること許されている数少ない組織であるため、両者を混同し、その違いを装備や組織の規模のだと思っておられる方も少なくないようですが、それは結果的にそうなるだけのことで、そもそも組織としての目的や性質が根本的に違うのです。  警察は「個人の生命、身体及び財産の保護など公共の安全と秩序の維持」 軍隊は「国家の独立と安全、侵略に対する防衛」を目的としています。 同じように国民の生命財産を脅かすような行為でも 警察は「生命財産の保護、犯人の逮捕および犯人の有罪を立証するための証拠の収集等」 軍隊は「脅威の排除、場合によっては敵の殲滅」 を主な目的として行動します。これは、ハイジャックなどの人質事件での対応方法の違いを思い出していただければ良くわかるかと思います。 陸上自衛隊相浦駐屯地海岸湾内でボートでの上陸訓練をする隊員ら=長崎県佐世保市(鈴木健児撮影)   警察は平時に起こるイレギュラーな出来事に対応するため、人々の日常生活にできるだけ支障がないよう、あらかじめ厳格に定められた要件のもとに限り権力を行使するよう定められています。武器の使用に関しては、犯人をなるべく傷つけないように比較的殺傷能力の低い武器を警察官職務執行法や警察比例の原則などに基づいて限定的にしか使用できず、犯人逮捕に際しても刑事訴訟法などにより人権尊重のための厳格な手続きが定められており、それに則った行動をとらねばなりません。 一方の軍隊が主に対応するのは他国から攻撃を受けた場合など、そのまま放置すれば多数の人命が失われ、最悪の場合は国がなくなってしまうというような、回復不可能な損害を被る可能性の高い事案であるため、いかなる手段を用いても、その被害を未然に防がねばなりません。おまけに、そのような事案は、予測不可能かつ緊急性を伴うものが多いので、あらかじめ手続きを定めておくことが困難であり、また、厳格な手続きに沿っていれば手遅れになるため、手続きはできるだけ簡略化し、部隊の行動基準はなるべく行動を縛らないよう、多くの国では国際法による最低限のルール(例:捕虜の虐待、民間人の殺傷等)以外は、いかなる手段を用いても目的を達成するために行動できるようにしており、そのためには国民の権利が多少制限されることも止むを得ないとされています。  少し話がそれますが、これに対して軍隊が動かなければならないような非常事態においてさえ国民の権利を少しでも制限することに対し、憲法などを根拠に反対する人もいますが、過度な権利の主張は東日本大震災のときに救助活動の妨げ(例:流された車や瓦礫には所有権があるため勝手に処分できない)となった事例に鑑み、現行憲法における「個人の権利」と「公共の利益」とのバランスがこのままで良いのか、改めて考えなおす必要があるのではないでしょうか。  話を本題に戻すと、武器の使用に関しても、軍隊は国家同士で行われるルール無用(国際法により最低限のルールはある)の戦いにおいて、国そのものを守らなければならないため、最高水準の兵器を最大限性能が発揮されるよう効果的に使用するのが当たり前で、自衛隊のように最初から武器の使用を必要最小限に制限している国はありません。だいたい、相手の国が全力で攻撃してきているのに、こちらが必要最小限の反撃しかできないというのは最初から勝つ可能性を否定しているのと同じことで、例えて言えば相手陣内に入れないサッカーのようなものです。いや、サッカーの試合であれば可能性は低いですがロングシュートでの勝利や時間切れ引き分けという結果も期待できるので、まだましな方かもしれません。国際紛争の場合は試合時間が決まっておらず、日本は長距離ミサイルをはじめとする相手国の領域を直接攻撃する兵器の所有を自粛しているため最終的には必ず負けることになります。  そもそも軍隊というのは非常事態に対応する組織であるため、その行動が平時の一般的な法令の枠内で収まらないケースが多々あります。それを一般的なルールの範囲内で収めようとすると無理が生じるので、各国には一般社会では通用しない特別なルール(軍法)があり、それに基づいて軍人を裁く軍事裁判所があるのですが、我が国は憲法により、その設置を禁じられています。日本国憲法第七十六条第二項  特別裁判所は、これを設置することができない。 行政機関は、終審として裁判を行ふことができない。 以上、警察と軍隊の違いを簡単に説明しました。そこで、我が国の自衛隊は如何なる組織なのかと言いますと、自衛隊法に「我が国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、直接侵略及び間接侵略に対し我が国を防衛することを主たる任務(後略)」と定められており、軍隊としての役割を担わされている一方で、同法などにより行動規範があらかじめ厳格に定められており、それ以外の行動を禁じられています。つまり自衛隊は他国の軍隊と同様に国防の任を負わされているにもかかわらず、他国とは違い警察のような厳格な行動基準に基づいて行動しなければならないという過酷な条件を課せられているのです。   これを人間同士の喧嘩に例えるならば、文字通りルール無用の喧嘩として攻撃してくる相手に対して、自ら「先制攻撃禁止」「投げ技禁止」「蹴り技禁止」などのルールを課し、しかもそれを相手に教えているようなもので、このような過酷な条件下での戦いを強いながら、いわゆる集団的自衛権にかこつけて自衛官のリスクを心配するなど本末転倒としか言いようがありません。現行憲法を変えることなく「自衛隊は自衛隊のままで良い」などと言っている人たちは「自分たちが憲法を守る限り日本の平和はまもられる」というようなナイーブな認識で、「自分だけは平和を愛する良い人間でありたい」という自己満足に酔いしれたいがため、自衛官に対して世界に類を見ない過酷な任務を強いているのです。彼らは、ある意味、自衛隊にとっては敵よりも厄介な存在だと言えますが、そのような身勝手な人たちをも守らねばならないのが自衛官なのです。  そして、この問題は自衛官だけではなく、国家や国民を不要なリスクに晒し続けています。自衛隊は法律により任務を定められ、それ以外の行動を禁じられているため、国際情勢の変化などにより法令に定められていない新たな任務を行う必要に迫られたときは、その根拠となる法律を作ってから対応しなければなりませんので実際に部隊が動き出すまで、長い時間を必要とします。過去、PKO、インド洋給油、海賊対処などを初めて行うときは、その都度、立法措置に約1年という歳月を費やしました。このままでは突発的に予期せぬ事態が発生した場合、自衛隊が迅速に動くことができず、いたずらに国民の命が失われることになりかねません。実際、過去にポジティブリストの弊害により多くの日本人が犠牲になってきました。ポジティブリストの弊害ポジティブリストの弊害福島第一原発の30km圏内で捜索活動をする陸上自衛隊員 =福島県(陸上自衛隊提供) 今でこそ改善されましたが、昔は自然災害が発生し救助を必要とする人がいたとしても自衛隊は独自の判断で救助することができず、阪神淡路大震災の時、日本政府や地方自治体のトップが的確な判断を下さなかったため自衛隊の救助活動が遅れました。  また、海上自衛隊は通常業務として領海警備という任務がありませんので、通常航行中は目の前に不審船がいても海上保安庁に通報することしかできず、その結果、数多くの不審船を逃がしています。  そして今においても、北朝鮮に拉致されたままの何百人ともいわれる人たちを取り返しに行くことは、自衛隊の任務とされていませんので、その可能性を検討することすら許されていません。  斯様に自衛隊の行動を過剰に縛ることにより日本国民の生命や人権を蔑ろにしてきたことに何ら反省もないまま、ただ単に憲法を守ってさえいれば日本は平和だというのは、いかに現実離れした話かということです。  では、様々な事態に対応できる法律を作れば良いではないかということを言われる方もおられますが、はたして世の中の森羅万象を予測して立法化することなどできるでしょうか。オレオレ詐欺や脱法ドラッグなどの事件を見てもわかるように、世の中には法律の裏や抜け道をかいくぐる人間がごまんといるのです。はたして、国民の生命財産を守る国家の安全保障に、そのような抜け道が存在する余地を残しておいて良いのでしょうか。  大ざっぱに言えば日本では軍隊が警察のように運用されているわけですが、逆に警察が軍隊のような運用の仕方をされるとどうなるかと言いますと、それはそれで恐ろしい話になります。日本では憲法33条により禁止されていますが、どこかの国のように犯罪を行う可能性があるという理由で身体を拘束したり、犯罪の予防という名目で個人のプライバシーの侵害が堂々と行われたり、国民の人権が日常的に制限されかねません。だからこそ「警察」と「軍隊」は明確に区別し、それぞれの役割に沿った任務を行うべきなのです。  では最後に、もう少し具体的な例として侵略者に対する警察と軍隊の違いを見てみましょう。まず、戦争映画に出てくるようなジャングルを想像してください。敵を待ち伏せしているのが軍隊の場合、敵に気づかれないよう息をひそめ相手を十分ひきつけてから、いきなり自動小銃などで攻撃を仕掛けるのが普通です。 しかし警察の場合は、たとえ相手が明らかに武器を所持していたとしても、こちらから相手に声をかけることなく一方的に武器を使用するなどもってのほかで、日本には瀬戸内海シーハイジャック事件のように人質籠城事件で警察が人質の安全のために止むを得ず犯人を射殺しても殺人罪や特別公務員暴行凌虐罪で告発する人たちがいますので殺人未遂等で訴えられかねません。原則としては、まず、警察手帳を提示するなど警察官であることを相手に告げてから相手が何者であるかを確かめなければなりません。そして相手が銃を持っている場合は、相手に対して銃を捨てるよう警告し、相手が従わない場合は相手に銃を向け「撃つぞ」と警告し、それでも従わない時にはじめて威嚇射撃を行うことができます。しかも相手が攻撃してこない限り不法入国や銃刀法違反の容疑だけでは、警察官職務執行法の規定により相手に危害を加えることはできません。  これは法令通り杓子定規に動くと仮定した極端な例ですが、基本的に守らなければいけないことは同じです。はたして、時々刻々と変化する状況にあわせて違法か適法かを瞬時に判断し、躊躇することなく発砲してくる相手から自己を守りつつ、相手を傷つけずに逮捕できるでしょうか。相手の弾は絶対に当たらないが、自分の撃つ弾は百発百中命中する映画やテレビドラマの主人公でもない限り不可能な話です。相手は、こちらの配慮など考慮するはずもなく、こちらの存在を悟った瞬間に発砲してくるでしょう。このケースとは逆に相手が待ち伏せしている場合はなおさらです。つまり、警察が侵略軍に対する場合は、いくら訓練を積んだ優秀な人間が最新鋭の武器を装備していようとも警察側に何らかの被害が発生することは避けられないのです。要は敵味方どちらの生命に重きをおくのかという話で、はたして味方に不要な犠牲を強いてまで、悪意をもって我が国に攻撃を仕掛けてくる人たちの生命や安全には配慮しなければならないのでしょうか?  沖縄の島に相手の軍隊が上陸してきた場合、仮に相手が投降してきたとしても、警察は逮捕しなければなりませんが、そもそも相手が一個師団であれば少なく見ても五千人以上いるわけで、片や沖縄県警は内勤を含めても半分の2千五百名程度しかいません。だいたい、そのような数の手錠などないでしょう。仮に、他省庁の助けを得て、なんとか全員逮捕したとしても、留置場はどうするのか?通訳や弁護士はどうするのか? 48時間以内に調書を作って送致できるのか?72時間以内に拘留請求できるのか?領事館通報はどうするのか?などなど、どう考えても物理的に不可能なことばかりで、結局は強制送還という形しか取れないでしょう。そうなれば強制送還された人間が再び日本に攻めてくるというエンドレスな戦いが続きます。警察が他国の軍隊に対応するというのは、こういうことなのです。  そろそろ我が国も、これらのことを踏まえたうえで、自国の防衛がこのまま警察権によるもので良いのかどうか、本気で考える時期に来ているのではないでしょうか。続き→「平和ボケから目が覚める! 一色正春のニッポン自衛論」

  • Thumbnail

    記事

    ソフトバンクがメジャーで通用するこれだけの理由

     パ・リーグを圧倒的な勝率で制し、日本シリーズでもヤクルト・スワローズを寄せつけず、ソフトバンク・ホークスは二連覇を果たした。あまりの強さに、「ホークスがメジャー・リーグに参戦したら通用するだろうか?」と話題にする人たちも現れ始めた。   そのような声が上がったのは、V9を果たした巨人以来ではないか。   あくまで想像に過ぎないが、「短期決戦ならばホークスは互角以上の戦いができるのではないか」と思う。長いシーズン、長距離移動や時差のあるペナントレースを戦い抜くには、戦力だけないプラスアルファが必要。だから、そう簡単にシーズン優勝が可能とは言えないが、もしワールド・シリーズを制したロイヤルズと対決したら、好勝負を期待するのは夢物語ではない。ソフトバンク・武田翔太=ヤフオクドーム(撮影・中川春佳)   日本シリーズ初戦で好投し、スワローズ打線の牙を抜く役割を果たした武田投手の落差のあるカーブ、緩急を生かした投球はメジャーリーグの強打者には有効だ。中継ぎを担う森、千賀らの真っ向勝負、硬派なマウンド姿はアメリカの野球ファンに好感を持たれるだろう。    攻撃陣の多彩さもメジャーの破壊力に引けを取らない。あくまで全選手がトップ・コンディションで臨めたらの条件付きだが、長打力に加えてスピードもある「トリプル3」達成の柳田、大砲・李大浩、ハッスルボーイ松田、くせ者・明石と個性豊かなキャラクターが揃っている。日本シリーズは欠場した中軸・内川の打棒が本場でも通用することは過去のWBCで実証済みだ。 それでも、「個々の力量を比べたらやはりメジャーリーガーのパワーには一歩及ばないのではないか」と疑問の声が上がりそうだ。 たしかに捕手陣はメジャーリーグに少し見劣りするか。メジャーでは捕手も投手のリードより肩の強さ、打力が重視される。日本はリード優先だから、そこに大きな違いがある。   明らかにホークスがメジャーリーグを凌いでいる強みを挙げよう。そのひとつが「監督と選手の信頼関係」だ。メジャーでは最近、監督の指導力不足、人望の無さがしばしば話題になる。 今年のワールドシリーズ開催中にも監督采配を嘆く報道があった。選手は、「どうせプレーするのはオレたちだから、監督の指導力なんてどうでもいいさ」と気にしない姿勢だと書いたメディアもあった。ホークスはといえば、工藤監督への信頼、監督の選手への信頼が日本シリーズでも感じられた。    端的に言えば、工藤監督は、自分の眼と感覚で選手を起用している。良い意味で、現役時代に磨き上げた眼力、予測力を采配に生かしている数少ない指揮官のひとりではないかと感じる。中日の落合前監督もそうだった。自分を信じている。結果やデータに左右されない。シリーズの第3戦で山田に一発を浴び敗戦投手になった千賀投手を4戦目でも意に介さず投入し好投を引き出したのはその好例。「千賀の球なら絶対に抑えられる」、確固たる自信がある。見込んで起用されれば選手も意気に感じる。野球にはそういった心の力も大きく作用する。その辺の化学反応を起こす素養をホークスは持っている。2年連続7度目の日本一を達成したソフトバンクの(左から)武田翔太投手、孫正義オーナー、内川聖一、松田宣浩=神宮球場(撮影・中川春佳) 球団を買収したときから、孫正義オーナーは「世界クラブ選手権構想」を打ち上げ、「目標は日本一でなく世界一」と公言している。野球界ではその実現性の薄さ、非現実感が蔓延しているため、ファンからも失笑を買ったが、同じ夢を抱く私はひそかに喝采を送り、その実現を待ち望んでいる。真のワールドシリーズの実現は、日本野球を愛する者なら夢見て不思議ではない目標だ。 野茂英雄、イチロー、松坂大輔、松井秀喜、ダルビッシュ有、田中将大ら幾多の日本のスター選手がメジャーリーグで活躍している実績を見れば、日本のチームだって互角以上にやれて不思議ではない。 来春からは60億円の予算を投じた新しい二軍の施設も誕生するという。12球団でいち早く3軍を組織して若い選手たちに試合経験の場を確保したホークスの選手層の厚さは、内川欠場の影響をまったく感じさせなかった日本シリーズの戦いでも実証された。ホークスの強みは、実力のある選手がたくさん揃っているだけでなく、彼らが常に「準備OK」でいつでも一軍で活躍するコンディションで待機しているところだ。他チームはどうしても「調子を崩して2軍落ち」「2軍でくすぶっている」雰囲気になりがちだ。ホークスは違う。2軍にいる投手や打者がウエスタン・リーグの個人成績上位を占めていることでも明らかなとおり、ファームが力を伸ばす準備の舞台になっている。これも、あえてチームを別々にし、各レベルでシーズンを戦うメジャーリーグ、マイナーリーグに通じる姿勢を感じる。 こうしたチーム一体の取り組みも含めて、「ホークスがメジャーでも通用する」と言うのは空想ではない。

  • Thumbnail

    記事

    第5回 堂々と、ワイセツ図画チン列!?永青文庫の春画展にイッてきたヨ( ´ ▽ ` )ノ

    ている細川家の美術館、なんで警察は逮捕しに来ないのかなぁ…(。´・ω・)???(記者:まんこちゃん)<まんこちゃんよりお知らせ> 10月のろくでなし子さんの裁判は、15日15時~のほか、10月21日13時半~(東京地方裁判所刑事法廷425号室)も確定したヨ! ただいま、秋のろくでなし裁判フェア開催中!裁判後の弁護団の説明会で裁判のポイントカードを配布します。ポイントが貯まるとろくでもない物がもらえるヨ!みんな、遊びに来てネ~♪※原文のまま掲載しております ろくでなし子漫画家・まんこアーティスト。2013年秋、まんこを3Dスキャンし、そのデータで今性器(世紀)初のマンボートを制作、たまん川(多摩川)にて進水を果たす。その制作費用に利用したクラウドファンドで、出資者へのお礼に3DデータをダウンロードできるURLを送信した事などが要因で、2度に渡り逮捕される。釈放後は勾留中の体験を漫画や書籍に執筆し、表現の自由を訴える活動を精力的に続けている。単行本「ワイセツって何ですか?—自称芸術家と呼ばれた私—」(金曜日刊)が発売中

  • Thumbnail

    記事

    「戦争反対」と叫ぶなら改憲を訴えるべきだ

     すったもんだの挙句に、ようやく安全保障法案が可決されました。その是非はともかくとしても日本の安全保障に関心を持つ人が増えたのは結構なことなのですが、相変わらずマスコミはピントのずれた話ばかりで問題の本質を論じようとしないため、いまだ巷には的外れな意見が散見されます。 ここで確認しておかねばならないのは、日本国憲法には国防に関する条文は戦争の放棄を定めた第9条以外はなく、その憲法のどこにも「自衛権」などという文言は記されておらず、昨年から急に注目を浴び始めた「集団的自衛権」や、我が国の国是とされる「専守防衛」などの言葉は憲法解釈によって生み出されたものだということです。つまり、「専守防衛」や「集団的自衛権の限定行使」という我が国防衛政策の基本方針は政府の憲法解釈に基づいて決められているのです。憲法記念日に横浜市で開かれた憲法集会に参加する作家の大江健三郎さん(前列中央)ら=5月3日、横浜市西区 法令の解釈というものは時代の移り変わりとともに変わるものですから、現在のところ日本政府は、先制攻撃を禁止し集団的自衛権は一部しか行使してはならないとの立場をとっていますが、将来、現行の日本国憲法のまま解釈を変更して先制攻撃や集団的自衛権の全面行使ができるようになる可能性はゼロではありません。 本来、「戦争反対」と声高に叫ぶのであれば、そのような事態を防ぐため解釈の余地を残さない形に改憲するしかないのですが、護憲派を名乗る自称平和主義者の大半は「何が何でも憲法を一字一句変えてはならない」と現実から目をそらし続けてきました。 このため今回に限らず、時の政府は自衛隊の任務が増えるたびに、なんとかそれを正当化しょうと、苦しい解釈改憲を重ねながら、その場しのぎを繰り返してきましたが、今やそれも限界に達しようとしています。 現在、日本への侵略の意図を持った隣国が、その意図を隠そうともせずに我が国領海への侵犯を繰り返すようになり、他にも同朋を拉致して返さない国や領土を不法に占領したままの国に囲まれ、しかもその内の3か国が核兵器を保有しているという、我が国の非常に厳しい現実を鑑みれば、最早、部分的な、その場しのぎの解釈改憲では対応できないことは明白です。  まずは、この日本が置かれている状況を正しく認識する必要があります。そして今の憲法や、その解釈が現代日本の現実に照らし合わせて正しいのか、今一度、我々はそこから考える必要があるのではないでしょうか 国際法の観点からみれば、人が生まれながらに人権を持つように日本国は国家の成立とともに自衛権を備え持っており、国連をはじめとする国際社会もそれを認めています。現在の政府見解においても、「憲法9条は自衛権を否定しない」としていますから、本来であれば憲法の内容いかんに関わらず、誰はばかることなく国防に関して様々な政策等を実行できるはずなのですが、一方で日本政府は自衛権について「必要最小限」のみ認められるとして、憲法が自衛権を制限しているという立場をとっています。 具体的には第9条における「武力」や「戦力」には自衛権を含まないとする解釈により自衛隊を合憲とし、それは自衛権ゆえに必要最小限の武力行使しかできないという理屈で、実質的に自衛権を制限しているのです。つまり日本政府は、憲法は自衛権を否定こそしないが必要最小限に制限しているという中途半端な解釈を行い続けているのです。 また、政府は憲法9条が自衛権を否定しえない理由として、第9条が第13条の「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」を否定するものではないとしていますが、そうすると第13条で、その「国民の権利」を最大限補償しておきながら、片や第9条で、その「国民の権利」を守るための自衛権を必要最小限に制限するという、おかしな話になってしまいます。 このように、現行憲法には相矛盾する条文が混在しているため、その辻褄合わせに無理な憲法解釈が必要となるのです。そもそも第9条が、すべての国家が保有する、人間に例えれば人権に相当するほど重要な国家の自衛権を真っ向から否定するかのような内容であることが問題の根源なのです。もっと言えば「自衛権」=「国民が自由に幸福かつ平和的に生きる権利」なのですから、その自衛権を必要最小限に制限することは、これら国民の権利を制限することに他ならず、我々日本国民は、具体的な事象が生じていないので気が付いていないだけで「自由に幸福かつ平和的に生きる権利」を制限されているのです。 そして、我が国が武力行使可能な「必要最小限」の範囲も時の政府の解釈次第で拡大縮小する可能性があります。このように国防政策の基本的な重要事項が憲法解釈により大きく変わるという問題は、日本国憲法が国防に関する条文をたった一つしか持たず、しかもそれが国の守りを否定していることが原因であり、そして、それは非常に危険なことなのです。 現行憲法のもと自衛隊は合憲であるという政府の憲法解釈により存在していますが、逆に政府が違憲だという解釈に変更すれば憲法を改正(国民に直接信を問うことを)しなくとも自衛隊を解体することが可能であり、もしも自衛隊廃止を党の綱領に掲げる政党が政権を掌握し自衛隊法などを改正又は廃止すれば、日本は一夜にして丸裸になってしまいかねません。確かに現実味に欠ける話ですが、そのような政党が合法的に存在し、一定数の議席を得ていることを鑑みれば可能性はゼロとは言えません。 また、憲法は「国家権力を縛るためのもの」というのであれば、本来は憲法に国民の生命、自由及び幸福追求に対する権利を保護するため、国家に対して国防の義務を課す条文がなければならないはずです。いずれにしても憲法に国家の重要課題である国防に関する明確な定めがないというのは法律として致命的な欠陥であるといっても過言ではないでしょう。 (つづく)

  • Thumbnail

    記事

    第4回 警察があのデータを900マン円プリンターで印刷って!

     気付けば2015年もあと3ヶ月で終わっちゃう!? ヤダ、はやーい! まんこの裁判はぜーんぜん進んでないのに∈(´Д`)∋ 最近はろくでなし子さんも、あまりに暇ですることがないからと、自分自身をレンタルする「ろくでなし子レンタル」を始めたんだって。クソの役にも立たないろくでなしを誰がレンタルするのか謎だったけど、意外と繁盛してるらしいヨ。 さてそんな中、次の公判日がやっと10月15日に決まったので、なし子さんもまんこも、インナーマッスルぎゅぎゅっと引き締め、イックヨ~!…その前に、先月6月16日のろくでなし子さんの裁判公判第三回目のレポを紹介しそびれていたので、ビラッとお届けするネ! この日は、検察官側の証人が呼び出され、ろくでなし子のまんこアートがいかに卑猥であるかを法廷で証言させる、そこそこ盛り上がる催し日。 前回、検察側が要請した証人は二名。なし子さんの3Dまんこデータを実際にプリントした科学捜査研究所の職員(Aさん)と、なし子さんのバイト先だった女性向けアダルトショップ店に内偵に来た女性巡査(Bさん)。 Bさんについては、なし子さんのバイト先に来て「デコまんを売ってくれ」と言ってきたいかにもあやしいおばちゃんのことだと思っていたら、実は2014年6月30日にも内偵されていて、法廷にやって来たのはそっちの方の、30代くらいの地味な女性。 当時、客をよそおい店内の様子を隠しカメラで撮影していたその人に、検事から質問という形で証人喚問がはじまったんだけど、 これが予想以上にツッコミどころマン載! なし子さんのバイト先のお店はアダルトショップではあっても女性向けだからよくあるアダルトショップとは雰囲気がぜんぜん違うことを弁護団側が確認しようとすると、警視庁保安課の巡査なのに「わたしは他のアダルトショップには入ったことが無いからわかりません」とかいうし、 なし子さんのデコまん作品が、 「見た瞬間にはっきりと女性器とわかる作品だった」 といってたのに、それがどの作品だったか聞いても「覚えてない」。  それでも弁護団がしつこく尋ねたら、 「ガンダムのようなものやジオラマを載せたもの」 どこがまんこやねん!?って、関西人じゃないのに関西弁でツッコみた くなるわ! さらに、弁護団が「当時の現場写真の中で、どれがその作品だったか指で示してください」とお願いしたら、巡査Bが指差したのは、まんこ作品でもなんでもない飾りで置いていた単なるスマホカバーのケースだったのには、なし子さんもまんこも椅子から本当にズリ落ちたヨ! 証人Bさんのまんこ観、大丈夫??  これだけでも十分おもろいけど、次に来た証人Aさんによってもナマあたたかい事実が判明したヨ。 科捜研で3Dデータを専門に研究しているAさんは、なし子さんの3D まんこデータをプリントアウトした張本人。 その前に、なし子さんは支援者に3Dまんこデータを配って逮捕されたのだけど、そのデータを実際にプリントした人は誰もいない、という事実を、実はあまり知られていないようだから言っておくネ。 家庭用の3Dプリンターは安くなったとはいえ、10万~20万円くらいするから貧乏ななし子さんには手が届かなかったし、 警察以外、本気でなし子さんのまんこをプリントしたいとまで思う人も誰も居なかったっていうこと。 だから今回、なし子さんはちょービックリしてたの。 なし子さんですらプリントできなかった3Dまんこをわざわざ警察がプリントしてくれて、あらゆる角度からその写真を撮り、まるですばらしいアートカタログのように資料を作ってくれたから、ありがたいよネ! しかも、そのプリンターは証人Aさんによれば、およそ900万円もする超高級プリンター!! クッソ高! 警察はほんとにお金持ちでいいなぁ☆ そんな高級プリンターなら、そりゃあリアルなまんこ造形物ができるヨ。 事件が解決したらそのプリンターを是非使わせてほしいネ!って、なし子さんと話しているヨ。今からとっても楽しみ☆ そんな感じで、この日の証人喚問も、なし子さんにはたのしくハッピーなイベントとして幕を閉じたヨ。 次回裁判は10月15日(木)13時半から。今までは検察側の攻撃だったけど、いよいよ弁護団側の攻撃がはじまるんだって。これは見逃せないネ! iRONNA読者のみんなも、ビラビラ傍聴に来てネ~!!!(記者:まんこちゃん)※原文のまま掲載しております

  • Thumbnail

    記事

    番外編! 中国の闘うアーティストと会ってきたヨ!

     まんにちは!まんこの妖精まんこちゃんだヨ。 ろくでなし子さんの裁判の様子をルポするこのコーナーだけど、肝心の裁判がぜんぜん進まないので、最近、ちょっとだらけ気味。 そんなろくでなし子さんに気合いを入れるため、埼玉大学の牧陽一先生が、なし子さんとまんこを中国旅行に誘ってくれたの。 目的は、中国で活躍するアーティストのアイ・ウェイウェイさんとお会いすること。(え?被告人なのに、海外旅行できるのかって? 裁判所に申請すれば、大丈夫だヨ、マジで!) アイ・ウェイウェイさんは一見フツーのおっさんだけど、凄い人。(アイ・ウェイウェイさんのwikipedia) 作品は、反政権的で反権威的。2008年の四川大震災で、中国政府の手抜き工事による小学校倒壊の犠牲となった子供達のことをひた隠しにする政府への抗議をこめ、亡くなった子供達の名簿を現地でかき集め、その名簿をアート作品として発表。 そしたら、当局から何度も逮捕されたり暴行を受けたんだって。中国政府、ひどすぎんご! 釈放されてからも、アイさんを24時間体制で監視する警察に対して、逆にアイさんは監視カメラを沢山設置して、監視を監視し返したとか。 やられたら黙ってないでおもしろい手でやり返すところがかっこいいよネ! ヌード写真を発表したらワイセツ罪でも捕まったりして、いろんな意味で、ろくでなし子さんの大先輩! そんなアイ先輩(もう勝手に先輩呼ばわり☆)は、今、中国の警察からパスポートを押収されて国外に出られないそう。日本もひどいけど、中国政府も最悪やんか〜! さてさて、なし子さんとまんこはお土産にアイ先輩が喜びそうなまんこグッズを持参して、指定された北京の高級ホテルに向かったの。ドキドキしながら待ち合わせ場所のラウンジに着いたら、よれよれのピンクのシャツに半ズボン姿のなんだかモッサリしたおっさんが新聞読んでるなぁと思ったら、それがアイ・ウェイウェイ大先輩。 だけど、さすがに目力がすごかった。やっぱ偉大な人は、放つオーラが違うわ! そして、笑顔もチャーミング! 世界的に有名な人なのに、とっても気さく!まんこ、一瞬で恋におちた!アイ・ウェイウェイさんとろくでなし子さん (アイ・ウェイウェイさんのインスタグラムより) アイ・ウェイウェイさんとろくでなし子さん (アイ・ウェイウェイさんのインスタグラムより) パスポートを国にとられてションボリしてるかなぁと思いきや、アイ・ウェイウェイ大先輩は、むしろますますパワフルに活動されていました。 作品のすべては海外にあるので、本人は行けなくても現地のキュレーターに指示すればいくらでも展示ができるんだって。良かったネ! だけど、被告人のなし子さんでも裁判所に申請すれば海外旅行に行けるのだから、やっぱりこんな仕打ち国際基準でおかしいヨ! 思わずなし子さんが、「先輩、国からパスポートを奪われたのに、どうしてそんなにパワフルでいられるんですか?」と尋ねたら、 「僕のパワーの源はまんこなんだ。僕にとって奪い返したいパスポートはまんこだからネ!」って、笑顔で返してくれて、まんこ感激! さらに、 「君のマンボートがあれば国外逃亡できるのに」って、お茶目な先輩☆ マンボートが警察に押収されてなかったら、いますぐアイ先輩に差し出すのに! そういえば、なし子さんもよく「逮捕されて裁判なんてお気の毒に」と気の毒がられるけれど、本人は「漫画のネタになる」「酷い仕打ちに逆にエネルギーがわいてくる」ってホクホクしてる。叩かれれば叩かれるほど面白がるところは本当にアイ先輩とソックリ! 大先輩に会えたお陰で、なし子さんもまんこも裁判への士気が改めて高まったヨ! ところで、意外なことに中国ではなし子さんのようなまんこアートはそんなに怒られないんだそう。最大のNGは中国政権批判や警察への悪口。 中国で「習近平の独裁者!」なんて公の場で口にしようものなら、いきなり拉致され収容所にぶちこまれ、砂をザルですくうだけの無益な労働をひたすら強制され、頭をおかしくされてしまうんだって!日本ではツイッターで「安倍のバーカ」とかつぶやいても大丈夫なのに。しかも、中国ではTwitterやFacebookなどのSNSが利用できないよう制限されている。海外に情報発信も入手もできないって、どんだけ〜!? …この状況にくらべたら日本はまだマシなのかなぁと、うっかり思いかけたけど、まんこで逮捕されちゃうのも、やっぱどうかと思うわ!国によって規制はちがえど、表現の自由を守るため、なし子さんもまんこもアイ先輩を見習って、まんこ引き締めがんばるヨ!ビラツ!※この対談が行われた6月の時点ではまだアイさんにパスポートが返還されていませんでしたが、その後無事返してもらえたそうです(記者:まんこちゃん)※原文のまま掲載しております

  • Thumbnail

    記事

    なんでもかんでも先送り…裁判って、なんじゃらホイ!?

     iRONNA読者のみんな、まんにちは! まだ6月なのに、毎日暑くてイヤになっちゃうネ! まんこ、見た目どおりビラビラしてるから、この季節は湿気で蒸れて、タイヘンなの~(; ̄□ ̄A ところで、暑さでどうでもよくなりそうだけど、先月5月11日のろくでなし子さんの裁判公判第二回目のレポをビラビラお届けするヨ!  この日は、検察官の追加の証拠調べと、それに対する弁護人の意見チン述と、検察官が提示する証拠の取り調べ。ろくでなし子さんのトークタイムもなく、ただ検事の話をぼ~んやり聞いてるだけの、地味~な回なので、記者会見も行われなかったというのに、たった29枚の傍聴券を求めて104人も集まってきたらしいヨ。  ただ、ちょっとヘンなのは、そこまで傍聴券を求める人たちがいながら、法廷では、なぜかいくつか空席があったこと。傍聴券の抽選に並んでいた人の話によれば、「抽選間際にスーツを着た男性の団体が急に入ってきて、抽選が終ったら、ゾロゾロと桜田門の方に去って行った」とか。…もしかして、みんなに傍聴させないように、誰かが妨害をしてる!? 桜田門と言えば…ま、さ、か、ネ~? また新しいネタが増えちゃう☆証人をめぐってひともんちゃく さて、裁判の方はというと、やっぱり検事がナンチャラカンチャラと専門用語ばかりで、最初はちょう眠かったとなし子さん。あいかわらず 「漫画のネタに行き詰まって犯行に及んだ」とか「女性器でなら食べていけると思って犯行に及んだ」とか、まじめに語れば語るほどおかしな表現で棒読みする検事にワロリンゴ。このまま時が過ぎゆくかと思いきや、次(第三回目)の裁判に検事側が呼びたい証人(ろくでなし子さんの“犯罪”を法廷に来て証言する人)の候補の話になって、ひともんちゃく。 検事が呼びたい証人は、Aさん・Bさんの2名。Aさんは、ろくでなし子さんのまんこの3Dデータをプリントアウトした科学捜査研究所のおにいさん。 ろくでなし子さんがネットを通して支援者に配ったとされる3Dまんこデータは、実は、受け取った人は誰もプリントアウトしてなかったので、このデータがワイセツかどうかを警察が実際に3Dプリントして、あらゆる角度から写真をとり、豪華な美術カタログのようにまとめてくれたんだけど、その機種の型番をググったら、およそ900マン円もするちょうぜつ高級3Dプリンターだったの! つまり、警察は、普通の人はぜったい買えないすごいプリンターで印刷して、「ほら!こんなに精巧で淫らなまんこが刷れたヨ!ワイセツじゃ、ワイセツじゃ!」と騒いでるの。そんなクソ高いプリンターなら、さぞや立派なまんこが刷り上がるっつーの!普通の人でも手に入れられる3Dプリンターで検証すべき! だから、この科捜研のおにいさんには、むしろ是非とも法廷に来てほしいくらいだヨ! だけど、問題は、もう一人のBさん。問題っていうより、呼ぶ必要があるのか、謎なの。 Bさんは、おそらく、ろくでなし子さんがデコまん作品などを展示していた女性向けアダルトグッズショップ「ラブピースクラブ」にこっそり内定に来た警察のおばさん。べつにBさんを呼んでもかまわないけど、店内の様子はすでにBさんがこっそり隠し撮りしたと思われる写真や動画や、警察がガサ入れに入ったときに沢山写真をとってるから、あらためて証言なんてしなくても十分だし、呼んでも時間のムダ。裁判は、今後もまだまだ長引きそうだから、ちゃっちゃっとやりたいよネ? そこでろくでなし子さんの弁護団のやまべん(山口貴士弁護士)が、Bさんの呼び出しに異議を申し立てたんだけど、検事がこう言ったの。「証人Bの呼び出しは妥当です!Bは当時の店内を説明できるので!なぜなら、ワイセツ性の判断のためには陳列状況も重要だからです!」 …ん~?なんかヘンだヨ? もしも、デコまんがワイセツ物なら、どの場所でどうやって展示されていてもワイセツはワイセツなはず。なのに、検事は“アダルトショップでの展示“にこだわってる。それって、デコまんそのものだけではワイセツ物だと言い切る自信がないってことじゃネ??? だけど、検事はあくまでもBさんを呼ぼうとする。やまべんはそれに異議を申し立てる。で、仕方ないから3人の裁判官達が、「合議します」って、別室に3分ほどおこもりヨ。話し合うほどたいしたことでもないのに。んで、しばらくして、裁判官たちが帰ってきて結果発表したんだけど、なんて言ったと思う? 「ケツ論は、次回まで、保留」 …この日は他にも裁判官たちが合議という名のおこもりをしたけど、結局「保留」「保留」で、なーんにも決まらなかったの。裁判って、なんじゃらホイ!? こんな事ばかり続くなら、まんこ、イライラして口から経血吹き出しちゃうヨ!ブホーーーー! (記者:まんこちゃん)※原文のまま掲載しております ろくでなし子漫画家・まんこアーティスト。2013年秋、まんこを3Dスキャンし、そのデータで今性器(世紀)初のマンボートを制作、たまん川(多摩川)にて進水を果たす。その制作費用に利用したクラウドファンドで、出資者へのお礼に3DデータをダウンロードできるURLを送信した事などが要因で、2度に渡り逮捕される。釈放後は勾留中の体験を漫画や書籍に執筆し、表現の自由を訴える活動を精力的に続けている。単行本「ワイセツって何ですか?—自称芸術家と呼ばれた私—」(金曜日刊)が発売中