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    高まる排外主義へのディズニーの強烈な危機感が生んだ「ズートピア」

    古谷経衡(著述家)徳川夢声が感嘆したディズニーアニメ再び 日米戦争華やかりしころ、戦中・戦後に第一級の文化人として活躍した徳川夢声がシンガポールで日本軍が鹵獲したディズニーのアニメ映画『ファンタジア』を観て、そのあまりの完成度の高さに衝撃を受けたというエピソードはあまりにも有名である。 今次公開されたディズニー映画の最新作『ズートピア』を観た小生も、夢声ほどではないがやはり大きな衝撃を受けた。 日本のアニメは物量(予算等)の関係からリミテッドアニメ(コマ節約)の制約を受け、古くから如何に物量を演出力や大人向けの世界観で補うかの試行錯誤を経たことにより、1980年代には「ジャパニメーション」と呼ばれる世界屈指の作品群を生み出すまでに至った。その「ジャパニメーション」はいまや「クールジャパン」の一角に包摂され(日本政府がどれほどそこへの正確な理解があるのかはともかく)、世界のアニメファンを魅了し続けている。 それに比して、フルアニメーションの歴史と伝統を誇る世界的大家こそがディズニーであるが、2013年の『アナと雪の女王』(アナ雪)を遥かに上回る屈指の傑作こそ、『ズートピア』であるといえよう。「ズートピア」(C)2016 Disney. All Rights Reserved. 前々作『アナ雪』は”女性の自立アニメ”ではない 前々作『アナ雪』でディズニーは、不遇の超能力者エルサ(雪の女王)とその妹のアナが融和することにより、白かった雪の結晶が多種多様な色彩のグラデーションで示される多様な価値観と人生の共生を示した。 この映画を観て「女性の自立」を読み取ったある社民党議員が居たが、その感想はあまりにも凡庸に過ぎる。『アナ雪』のテーマは多様な価値観の共生であり、であるからこそエンドロールで示される氷の結晶の多彩な色調が多文化共生への輝かしい未来を暗示しているのである。『アナ雪』はエルサが自立するフェミニズム万歳映画などではない。 今作、『ズートピア』は、基本的に『アナ雪』の基本的理念、つまり多文化共生の尊さを踏襲するものとなってはいるものの、『アナ雪』の公開からたった2,3年で世界情勢は大きく変化した。 21世紀最大の民族問題ともいえるシリア難民の流入、そしてそれに呼応するフランスを含む欧州での同時多発テロ、露骨な排外主義を掲げるトランプ候補の共和党大統領候補の指名(確実)等々、世界は多文化共生を拒絶する方向へと着実にその歩を進めている。この世界情勢の激変は、ディズニーに大きな影響を与えたことは想像に難くない。世界情勢の緊迫が『ズートピア』を生んだ世界情勢の緊迫が『ズートピア』を生んだ『ズートピア』は寓話である。人間の一切登場しない動物たちだけが暮らす大都市「ズートピア」は、肉食動物と草食動物、大型動物と小型動物等々、根本的に生態が違う動物たちが暮らす”理想郷=ユートピア”の象徴である。 その理想郷で突如沸き起こる排外主義と動揺。主人公でウサギの「ジュディ・ポップス」は新米警察官として「種族間のヘイト」を煽る巨大な陰謀にキツネの相棒・ニックと共に立ち向かっていく。 白眉なのは主人公のウサギが全面的な正義ではないこと。このウサギにも無意識の差別感情が存在することが劇中、鋭利に指摘される。それを乗り越え、受け入れること、融和することでキツネのニックと最高のコンビを形成する様は、『マイアミ・バイス』や『110番街交差点』など、往年の”人種を超えた”最高のバディ・ムービーの系譜をもれなく踏襲するものだ。「ズートピア」(C)2016 Disney. All Rights Reserved. 「多文化共生」とは、耳に柔らかい美辞麗句である。「移民」先進国であるヨーロッパの事例を見れば一目瞭然のように、先住者と移民のとめどない憎悪の応酬は、具体例を挙げるまでもなく現在進行形で繰り返されている。「移民」に免疫の薄い日本人は、このような欧州(あるいは米国)の先行事例から学び取ることはあまりにも多い。日本が今後、多文化共生という「ある種の理想」とどう折り合いをつけるのかは明瞭ではないが、『ズートピア』の示すテーマは、そのテーマソング「Try everything」というタイトルからも自明のように、試行錯誤の後にあるべき人類の理想形を追い続けるものだ。 たとえそれが綺麗ごとであっても、たとえそれが到底実現不可能な理想であっても、誰かが言い続けなければ世界は変わらない。まさにキング牧師の「I have a dream.」の名演説である。現下の世界情勢を鑑みた上の、ある種の強烈な危機感が、ディズニーをして『ズートピア』を創らせたのだろう。その試みは敬意に値する。 そしてそれは人間ではなく、どうしても動物に置き換えなければならなかった。なぜなら人間世界はそれほどまでに荒み、憎悪に満ちているからだ。この物語は動物の話にしなければ、とても寓話としての訴求を持ちえないと判断したのだろう。それほどまでに現下の世界は多文化共生が不可能になりつつある危機的情勢だからである。誰かが唱え続ければならない理想。その代弁者としての”ディズニー”誰かが唱え続ければならない理想。その代弁者としての”ディズニー”「みんな仲良くしよう」「お互いの違いを認め合おう」―。 この手のデモや集会を横目で見るたびに、「何を馬鹿な」「夢想的だ」「偽善ではないか」という批判が飛び交う。かくいう小生も、確かにその批判には一理あると思う。 言うや易し行うは…、とはよく言ったもので、近所の河原でリア充どもが集団でBBQや花火をやっているだけで眉間に皺を寄せる小生にとって、「多文化共生」は美辞麗句、欺瞞・偽善の象徴たるフレーズかもしれない。「ズートピア」(C)2016 Disney. All Rights Reserved. 大ヒット上映中 しかし、世界から、例えそれが到底実現困難であるとしても、理想をいう人がいなくなったら、どうなるのだろうか。「現実主義」とは名ばかりの卑小で卑屈な理論だけがまかり通り、今日と明日のカネ勘定(そして晩飯の献立と貯金額の計算)だけが支配する殺伐とした世の中になろう。そして小生に言わせれば、その卑小な損得勘定こそ、「戦後レジーム」の正体そのものである。 小生は到底実現困難であるとしても、憲法改正と対米自立という「夢想」を言い続けたいと思っている。自分の生きている間は無理でも、その子孫、またその子孫の時代にそれが実現されたとすれば、自らの言動は後世の歴史家の手によって、歴史の中に記憶されるであろうから、と固く信じるからだ。 ディズニーも同様である。「多文化共生」をいくら『ズートピア』で訴えたところで、現実は変更されない。ウサギが飛び跳ねるフルCGアニメが上映される傍らで、ガザ地区ではイスラエル軍のロケット攻撃によって無辜のパレスチナ人が死んでいる。子供が死ぬ。赤ん坊が死ぬ。アラブ青年はユダヤ人への報復を誓って自らの体に爆弾を巻いて自爆攻撃を仕掛ける。負の連鎖である。 彼らにとっては先進国の空調の効いた何不自由ない劇場で乱舞する、歌って踊るウサギやガゼルやバッファローよりも、目の前の生と死、そして憎悪こそがリアルだ。 だが、言い続けなければならない。誰かが理想を。理想の世界を。その役割を担っているのが、小生はディズニーであると信じる。

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    「アジアのトラブルメーカー」中国にどう対峙すべきか

    黄文雄(評論家)《徳間書店『世界に災難をばら撒き続ける 中国の戦争責任』より》はじめに 二〇一五年十月二十七日、アメリカはイージス駆逐艦を南シナ海に派遣し、中国が自国の領土だと主張し人工島の建設を進めているスービ(渚碧)礁の一二海里以内を航行させた。いわゆる「航行の自由作戦」(FONOP)である。 中国は南シナ海を一方的に「自国の領海」とし、ベトナムやフィリピンなどの周辺国と衝突を繰り返してきたが、防空識別圏を勝手に設定するなどやりたい放題の状況に、アメリカの堪忍袋の緒がついに切れたのである。 数年前には東シナ海の尖閣諸島をめぐり日本とも一触即発の事態となったことは記憶に新しいが、もちろん中国による東シナ海への侵略行為と日本に対する挑発は現在も進行中である。 思い返せば、一九四九年の中華人民共和国の成立から、中国はチベット侵攻、中印国境紛争、中ソ国境紛争、中越戦争などを引き起こし、朝鮮戦争に介入するなど、戦争ばかりしてきた。そして現在も新たな紛争・戦争の種を撒き散らしているのだ。 だが、それは共産党一党支配の中国に限ったことではない。歴史的に中国は、つねにアジアにおけるトラブルメーカーとなり続けてきた。とくに近代におけるアジアの紛争は、ほとんどが中国が原因となっている。中国が日本の「戦争責任」を執拗に追及している日中戦争も、実際にはその元凶は中国側にあった。 列強の植民地となったアジア諸国の独立を妨げてきたのは華僑であり、そのために東南アジアでは華僑排斥運動が何度も繰り返されてきた。 本書はそうした実態と「中国の戦争責任」を明らかにするとともに、中国はなぜこれほどまでに戦争をしたがるのか、中国人の伝統的な戦争観、侵略観、領土観などを解明し、これから日本、世界はどのように中国に対処すべきかを論考したものである。世界のものはすべて中国のもの 領土紛争において、中国はつねに「歴史的には中国のもの」という「決まり文句」や主張を掲げるが、これは単に中国人の「口癖」というだけであり、国際法的な「領土主権」とは関係がない。それはただ古代中国の「天下王土に非ざるものなし」という「王土王民」思想である。言ってみれば、「世界のものはすべて中国のもの」という思い込みにすぎない。 清の乾隆帝の時代の『皇清職貢図(こうしんしょっこうず)』にイギリスやオランダまでも「朝貢国」と書き込んだが、同様に、現在の中国の領土主張はただの思い込みである。要するに「かつて交遊があった」だけですぐに「自分のもの」という錯覚を起こしているだけのことだ。 中国政府はよく「古典に書いてある」と主張するが、この「書いてある根拠」も、せいぜいこの類のものだ。しかし、「お笑い草」で「話にならない」と反論をすれば、中国はすぐに逆上して「戦争だ」と喧嘩腰に出る。これも国民性の一つである。 私もかつて、インド政府関係者から、「『歴史的に中国のもの』という主張に、なにか『確実』な記録でもあるのか」と確認されたことがある。あの遠い天竺には、せいぜい支那僧が取経に来たくらいのもので、インド仏教が支那だけでなくユーラシア大陸東半分に伝え広がったことはあっても、支那の文物が天竺に入ったことはほとんどなかった。 中国がインドにまで国境紛争を仕掛けたのは、ただ「農奴解放」という口実だけでチベットを軍事占領した後、「チベットのものは中国のもの」という「三段論法」を用いて、印パ紛争の隙につけ込んでケンカを売ったにすぎない。「有史以来、中国人は一人としてヒマラヤを登ったことはない。それなのに、よく『ヒマラヤは中国のもの』などと言えるものだ」とネパール政府が皮肉ったのは正論である。 私が高校生のときは、軍事教官から地図を広げて「シベリアは中国の固有領土」と教えられたが、そこにはなんの根拠もない。アラスカまでが中国の領土だという主張は、ただ上海語(呉語)において、「アラ」は「われわれ」と、「スカ」は「自家」と発音が似ているから、「われわれの家」というこじつけであり、ただの小咄にすぎない。 中国では、アメリカは中国人が発見したという話もある。二万年前に中国人が発見したとはいうが、二万年前に中国人はまだこの地上に現れていない。そのとき米州にいたのは、せいぜいネイティブ・アメリカンか、もっと以前の石器時代の人類かもっと前の原人か猿人ぐらいのものである。 コロンブスの新大陸「発見」以外には、古代フェニキア人やら北欧のバイキングなどが来たという説も多々ある。中国では明の時代に艦隊を率いてアフリカまで航行したとされる鄭和(ていわ)がアメリカを発見したという説まである。だが、鄭和は去勢された西南のイスラム教徒である。南海遠航(「下西洋」ともいわれる)の主役は、むしろモンゴル系のイスラム教徒であった。たったそれだけのことで、すぐに「アメリカは中国人が発見したもの」「BC兵器でアメリカを叩き潰して回収する」とまで主張する者たちすらいるのだ。 ネット世代は月まで中国の固有領土と言うが、その根拠はただの中国の伝説「嫦娥奔月(じょうがほんげつ)」だ。これは日本の『竹取物語』に似たお伽話である。そこからすぐに「宇宙戦争」まで空想妄想し空理空論を振り回すが、これは中国国内にしか通用しないことである。 これらは単なるホラ話の域を出ないが、笑い話で済まないのが中国の厄介なところだ。そうした神話や伝説、古典を利用して、時には「新事実の発見」までを捏造し、既成事実を積み重ねて勢力拡大を狙ってくることだ。 東シナ海については、中国船が「釣魚臺列嶼中国領土」(尖閣諸島は中国領土)と刻まれた石碑を、尖閣近くの海域に何本も沈めていることが明らかになっている。南シナ海の島礁においても、古い貨幣をわざわざ地中に埋めたり、古石碑を海中に沈めていたことが判明している。いずれそれを掘り返して「やっぱり中国の土地だ」と言い張ることは目に見えている。 しかも、現在ではモンゴルのチンギス・ハーンまでも中華の「民族英雄」と見なしている。これに対してモンゴル政府は猛烈に反発している。 そういう中国人のこじつけについて、旧ソ連のフルシチョフ元書記長は「中国は有史以来、最北の国境である万里の長城を越えたことはない。もし古代の神話を持ち出して理不尽な主張を続けるならば、それを宣戦布告とみなす」と警告した。ベトナムは「漢の時代からずっと管理」 ベトナムは七世紀ごろにすでに南沙諸島(ベトナム名・黄沙、長沙諸島)を発見し、領有を主張していたのに対し、中国ではもっと以前、二千余年も前の漢の武帝の時代にすでに発見し、宋の時代に領有を宣言したと言い張った。しかし、そこにはいかなる論拠もない。中国が「核心的利益」(絶対に手放せない利益)として、「絶対不可分の固有の領土」としているのが台湾である。一時、古代からすでに中国のものだったと語るために、最初の書『尚書(しょうしょ)』(『書経(しょきょう)』)・禹貢(うこう)篇にある「島夷卉服(とういきふく)」というたった四文字を根拠にしたことがある。この四つの文字をもって、卉服を帰服と読みかえ、台湾が四千年前にすでに中国の朝貢国であったと主張したが、しかし、南洋に浮かぶ当時の南沙諸島は「島夷」がいないどころか無人の島ばかりであり、しかも満潮時にはすっかり海面下に水没してしまう暗礁だらけの海であった。そんなところに「島夷卉服」のたった四文字だけを根拠にして主権や固有領土を主張するのは、荒唐無稽である。 そのため、中国政府の公式の主張としては、「漢の時代からずっと管理している」というのみが正式な見解として残っている。 習近平主席は自らアメリカ政府に対し、南シナ海の諸島は太古から中国の固有領土だと主張した。中国人民解放軍の統合作戦指揮センターを視察する習近平国家主席=2016年4月20日、北京(新華社=共同) その習近平だが、文革中に正式な学校教育を受けていなかった。なのに博士号までもっていることに対し、ネット世代の真相探りによって、学歴詐称との話まで出ている。 習は中国史でさえ一知半解であり、正確な知識はないので、勝手に言っているだけである。勝手に「太古から」と言い、「ずっと管理している」とする中国の公式の主張には、はたして根拠があるかどうか。 このように、ときには捏造までして領土主張をする中国、中国人のメンタリティはどうなっているのか。中国の拡張主義や恫喝行為をどう受け止め、処理すべきなのか。 それを考えることは、緊迫の度合いを増しているアジア情勢の中で、日本がいかにして中国に対峙すべきかを考えることでもある。 本書が中国理解と今後のアジアを考えるうえで参考になれば幸いである。 二〇一五年一二月中旬 黄文雄黄 文雄(コウ ブンユウ) 1938年、台湾生まれ。1964年来日。早稲田大学商学部卒業、明治大学大学院修士課程修了。『中国の没落』(台湾・前衛出版社)が大反響を呼び、評論家活動へ。1994年、巫永福文明評論賞、台湾ペンクラブ賞受賞。日本、中国、韓国など東アジア情勢を文明史の視点から分析し、高く評価されている。著書に17万部のベストセラーとなった『日本人はなぜ中国人、韓国人とこれほどまで違うのか』の他、『世界から絶賛される日本人』『韓国人に教えたい日本と韓国の本当の歴史』『日本人はなぜ特攻を選んだのか』『中国・韓国が死んでも隠したい 本当は正しかった日本の戦争』『世界が憧れる天皇のいる日本』(以上、徳間書店)、『もしもの近現代史』(扶桑社)など多数。

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    戦争と殺戮ばかりの国・中国

    黄文雄(評論家)《徳間書店『世界に災難をばら撒き続ける 中国の戦争責任』より》戦争がない時代はなかった中国 中国ほど戦争をしてきた国はない。また、自国民を含めた殺戮を行ってきた国もない。 共産主義の中国になってからでさえ、チベット侵攻(一九四八─一九五一)、中印戦争(一九六二)、中ソ国境紛争(一九六九)、中越戦争(一九七九)を行い、加えて南シナ海の東沙諸島、西沙諸島を略奪し、現在は南沙諸島を自国領土に編入しようと目論んで、フィリピンやベトナムと衝突を繰り返している。『共産党黒書』(ステファヌ・クルトワ、ニコラ・ヴェルト著、恵雅堂出版)によれば、二十世紀において中国の共産主義によって犠牲になった人々は六千五百万人にのぼるとされている。 しかし、それはなにも二十世紀にかぎってのことではない。台湾の歴史家であり作家でもある柏楊(はくよう)氏は、中国史上「戦争のない年はなかった」とまで言っている。 中国はそもそも、歴史が連続した国ではない。現在の中華人民共和国は一九四九年の成立だが、その前は清朝であった。中国は秦の始皇帝による統一から、易姓革命(皇帝の姓が変わる、つまり王朝交代)を何度も繰り返してきた。元、清のように異民族によって支配された時代もあった。「万世一系」の日本人にはわかりづらいかもしれないが、易姓革命ということは、まったく違う国に取って代わられるということだ。それは改革でも変化でもない。だから「革命」という言葉が使われる。 王朝交代時に戦乱を伴うのはもちろんのこと、謀反や反乱、内乱、農民蜂起などが日常的に頻発しており、そのため中国は「一治一乱」(治めたと思えばすぐに反乱が起こる)だと言われてきた。南シナ海・スプラトリー諸島のヒューズ礁に建設された施設と監視塔(右)=4月14日(タインニエン紙提供・共同) 太古から資源や領土の奪い合いを繰り広げてきた中国は、現在もなお、他国領土に対する侵略を続けている。東シナ海、南シナ海での中国の身勝手な振る舞いはその典型である。 もちろん戦争は一騎討ちから総力戦に至るまで、戦争の型はさまざまである。後述するが、唐の玄武門の変のように兄弟の戦争から、明の靖難(せいなん)の変の叔父と甥、漢の武帝と皇太子との長安の都での親子の決闘もある。無辜の「難民」も出る。 私の小学生のころに国共内戦後に追われた中国から数十万人の難民と学校の教室を生活の場として共有共生したこともあった。決して遠い昔々の話ではない。 自国民虐殺だけでなく、異民族虐殺も中国では現在進行形の「犯罪」である。儒教の国である中国では、中華の民とそれ以外の民を厳しく峻別(しゅんべつ)してきた。中華以外の国は夷狄(いてき、未開の野蛮人)であり、獣と等しいと考える。そのため獣偏や虫偏をつけて「北狄」「南蛮」などと呼んできた。これを中華の徳によって文明人に変えることが「徳化(王化・漢化ともいわれる)」なのである。そして、儒教の発展理論である朱子学や陽明学では、天朝(中華の王朝)に従わない異民族は天誅を加えるべしという論となり、正当化されている。 十九世紀末から現在に至るまで延々と続くイスラム教徒(ウイグル人)の大虐殺、十六世紀の明末から十九世紀の清末に至るまでの西南雲貴高原の漢人による少数民族のジェノサイド、辛亥革命後の満洲人虐殺、通州(つうしゅう)事件などの日本人虐殺、人民共和国時代の文革中の「内モンゴル人民革命党員粛清」に象徴されるモンゴル人大虐殺、チベットに対する数百万人の虐殺と文化抹殺、台湾人に対する二・二八大虐殺など、近代中国人によって行われた民族浄化の大虐殺……近代中国では、こうした人類に対する犯罪がまかり通っているのである。「すべて自分たちのもの」と考える中華思想 後述するが、こうした異民族に対する優越意識、さらにはすべて自らが世界の中心であると考える中華思想が、現在の中国においても、かつての王朝が統治していた場所のみならず、「歴史書に記述があった」くらいの場所までも、すべて自分たちのものだと主張する大きな要因となっている。 だが、これらについてはまったく根拠がない。後の章でも詳しく説明するが、それについて簡単に述べると、①中華歴代王朝は、漢の時代からだけでなく、春秋戦国時代まで遡(さかのぼ)っても、城や関による国禁(入出国の禁止)が厳しく、戦国時代に築かれた長城や秦時代の万里の長城がそのシンボルである。それ以外にも、明時代には南方の苗(ミャオ)族を防ぐために建設された「南長城」まで発掘されている。それほど中原より外の世界との関わりあいは避けてきたのだ。 漢以後の歴代王朝も陸禁(陸の鎖国)と海禁(海の鎖国)がますます厳しくなっていった。たとえばもっとも開放的で国際色豊かとされる唐でさえ、その国禁については、鑑がん真和上の日本への密航や、渡唐僧の空海らの入につ唐、三蔵法師玄奘和尚が陸禁(関所越えの禁止)を犯して天竺に取経に行った故事がその真相を物語っている。②海洋的思考や海上勢力、航海力、海の英雄譚さえなかったのは、史前から典型的なハートランド国家であったからである。 宋は陸のシルクロードのすべてを北方雄邦に押さえられ、江南まで追われた。明は北虜南倭(ほくりょなんわ)(北のモンゴル人と北の倭寇)に悩まされ続け、清は広州十三洋行という海の窓口しかなかった。海については、海岸から五十里の居住禁止や「寸板不得入海」(一寸のイカダでさえ、海上に浮かべることは禁止)など、海に出たら「皇土皇民」を自ら棄すてた者、「棄民」とみなされた。華僑も例外ではない。帰国断禁どころか、厳しい場合は一族誅殺、村潰しまでの悲劇が避けられなかった。③宋の時代の海への知識は、華夷図が代表的で、海南島はあっても台湾の存在さえ知らず、南海は未知の領域であった。④東亜大陸の民は、原住民の原支那人の先祖たちも、華夏の民・漢人も、基本的には農耕民か城民としての商人、それ以外に、満洲人も狩猟採集民だった。モンゴル人などの遊牧民を除いては、土地に縛られる陸の民と言える。古代東アジアの北から南洋、さらにインド洋に至るまで、河川、湖沢、海岸に暮らし広く分布していた倭人は、不可触賤民として、中国人どころか天民や生民とさえみなされていない。 陸の民は太古から海を忌避し、暗黒の世界とみなしていた。字源にしても、黒は海と同系の発音である。海は有史以来、中土、中国としては認められていなかった。陸を離れてなおも「絶対不可分の神聖なる固有領土」とする与太話は、正常な人間なら絶対に認知すべきではない。⑤今の中国人は「近代の国際法は西洋人が勝手につくったものだ。中国はもうすでに強くなったので、一切認めない」と主張するが、大航海時代以後の海洋に関する諸法を認めるとか認めないとか、あるいは勝手につくるとかしても、それはあくまでも中国だけの都合である。 そもそも太古から海洋をずっと忌避してきた中国人は、海洋とは無縁であり、法をつくる能力もない。海洋に関するかぎり、中国がいくら理不尽な主張をしても、ただ強欲を口にしているだけで、そこにほとんど説得力はない。「中華民族」とは何か「中華民族」とは何か 中国は「南シナ海は漢の時代の二千年前から中国の一部だった」などと主張し、習近平国家主席は「中華民族の偉大なる復興」を掲げている。では、この場合の中華民族とは、どこまでの人たちを指すのか。 そもそも中原の漢人の「華夏」と称される原中国人(支那人)の祖先であるはずの夏人、殷人、周人は、今現在の自称中国人とはいったいどこまでつながっているのか。かつて北方の雄だった匈奴(きょうど)をはじめ、五胡(ごこ)などの子孫たちは今現在、いったいどの民族で、どこにいるのか。「自己主張」だけではなんの証拠にもならない。 国家と民族の歴史をあまり区別しない人が少なくない。ことに「民族」は、近代になってから近代国民国家とともに生まれた人間集団の用語で、客観的な存在というよりも心理的かつ意識的な存在としての近代ナショナリズムの歴史的産物である。「民族」というのは生理的や心理的な概念として、法的な概念である「国民」とは違う。たとえば南ヨーロッパのラテン人は、中南米のラテンアメリカに至るまで新旧大陸に広く暮らしている。共有の文化と言語をもっていても国が違うというのは決して稀有なことではなく、違和感もない。そもそもヒトラーはオーストリア人で、ドイツ国籍を取るためにドイツ軍に入隊した。ナポレオンももとはといえばコルシカ人である。 同一語族や民族でも、多くの国々に分かれているのは、決してヨーロッパにかぎらない。たとえば、同じくモンゴル人でも、現在モンゴルと中国・ロシアに分かれている。コリアンも北朝鮮・韓国のみならず、中・露など多くの国々に分かれている。アジアの南のタイ系やマレー・ポリネシア系の人びとも同様だ。 だから民族の歴史をいくら遡っていってもきりはない。数万年前まで遡ってDNAから見てみれば、それは第二の「出アフリカ」に突き当たる。 中華民族がいるところが中国ならば、華僑のいる東南アジアやアメリカでさえ中国となってしまう。華人が伝統的に海を忌避していたことは述べたが、そうした歴史や伝統を踏まえれば、南シナ海も東シナ海も中華民族のものではないことになる。 ギリシャ文明の歴史は、中国の三代(夏・殷・周)から春秋戦国時代とほぼ同時代だったが、ギリシャの北のブルガリアは六千年前の人類最古の黄金文明がのこっている。いったい彼らは、このバルカン半島でどう暮らし、どう活躍していたのか。 地中海域のヨーロッパ文明の先駆の地は有史以来、北からはフン族やゲルマン人、スラブ人が南下してきて、東の砂漠からはモンゴル系やトルコ系の人びとが入ってきたので、特定の民族が「われわれの祖先の地」などと称するのは、じつに難しい。さまざまな異民族に支配された過去がある中華の地にしても、同様である。 人類史上において、民族や種族による分別が先で、国家は後で生まれたのだ。 もっとも、現在では太古の「部族国家」は「都市国家」に比べ、あまり国家らしくなくても、「××国家」と称される。「封建国家」や「天下国家」(世界帝国)、「近代国民国家」は歴史的に国家として認知されている。 だが、ことに近現代になって、すべての国家の条件をそなえても、国際法的には認知や承認が必要とされるようになった。たとえば、わが祖国の台湾はその一例で、中国が「自分たちのものだ」との主張を譲らないために、いくら中国より進んだ民主主義や経済、技術を持っていても、世界的には独立国家として認められていない。 日本人にとって、国家とは神から生まれたものとして「記紀」の国生み物語にある。もちろん「国」は神から生まれたものだから、私から見れば、じつに夢の夢として羨ましい。たいていの近代国民国家は生まれたものよりもつくられたものがほとんどである。「生まれた」ものは血の繋がりがあるため、「つくられた」ものとはまったく違うのである。「アイデンティティ」だけでも天と地の差があるのではないだろうか。「国家と民族」についての中国の主張のでたらめ「国家と民族」についての中国の主張のでたらめ だが、現在の中国、中国人の「国家と民族」についての主張はじつに矛盾だらけで、ご都合主義だらけである。 「悠久の歴史」があっても、「一治一乱」と分離集合を繰り返してきたことを無視して、あくまで中国という国家が太古から存在していたかのように主張している。華夷が交代して中華世界に君臨した事実も無視しており、つまりミソもクソも一緒なのである。 加えて、「人の世」と「神の代」を区分せずに、「神の代」まで擬人化し、伝説と歴史が混合、混乱。民族史や国家史のスパンだけでなく、中国史の時間と空間の設定も確定もできていない。 だから、同じ中華人民共和国であっても、時代によって主張がころころ変わって、一定していないのだ。ここで、現代中国の歴史観の変化とその問題点について、箇条書きにしてまとめてみよう。①中国史の長さについて、始皇帝の統一からではなく、春秋戦国から、さらに遡って「三代(夏・殷・周)」、そして伝説時代の「三皇五帝」から「推定」四千余年を「四拾五入」して「五千年の悠久なる歴史」と小学校から教えてきた。 習近平の時代になってからは、さらに「五千余年」と膨らませている。②中華世界には、国家としては、「一治一乱」の歴史法則にしたがって、国家と天下とが揺れ動き、「易姓革命」だけでなく、華夷などの主役交替も時代によってあった。 二十世紀初頭前後に起きた、清朝において大中華民族主義(異民族も含めて中華民族として扱う)と大漢民族主義(漢民族こそが中華の中心であるとする主義)との論争があり、辛亥革命後、大中華民族主義が主流となりつつあったが、毛沢東の人民共和国時代になると、「世界革命、人類解放」を目指し、「民族」は否定され人民の敵とみなされるようになった。 だが、一九九〇年代からは中華民族主義がマルクス・レーニン主義、毛沢東思想に代わって強く説かれるようになった。 習近平政権になると「中華民族の偉大なる復興」を連呼絶叫するようになったが、その「中華民族」の実態は、チベットやウイグルなど異民族の文化を抹殺することで創作しようとしているだけである。③漢族と五十五の非漢族を一つの中華民族に強制創出することは、なおも模索中である。目下は民族の同化と浄化の手しかない。「五千年の歴史」をかけても、なおも五十五の非漢族が存在すること自体、漢化・華化=徳化=王化の限界を如実に物語るものである。 そもそも、元帝国のモンゴル人、清朝の女真人まで中華民族だというならば、従来、歴史教科書に救国の英雄として載っている南宋の岳飛(がくひ)、文天祥、明末に元に抵抗した史可法など、女真人、モンゴル人、満洲人に反抗した「民族英雄史」は、「中華民族史観」の下で再編、書き換えざるをえないはずだ。④異民族による征服王朝である遼・金・元・清について、あるいは夷狄が中国を征服、君臨した歴史を、中国は階級闘争史観にもとづいて、「支配的階級の交替」のみで書き換えようとしてきた。だが、中国史の全史を改編しないかぎりそれは無理だ。だから本当の歴史は語れない。⑤中華世界の「征服民族」や「支配民族」の変更については、「易姓革命」だけでなく、民族ことごとくの変更である。大元時代のように、モンゴル人、色目人、漢人(北方漢人、女真人、高麗人)、南人などの人種による階級規定まであった。また、「反清復明」(清に背いて漢人の明朝を再興する)のような、「反胡(はんこ)」の民族的抗争もあった。 中華民族主義史観をナショナリズムとして成熟させ、史論、史説、史観として確立することは、空想妄想のファンタジーでしかない。⑥歴代王朝は、主役民族の違いや交代のみならず、国家と天下の歴史循環も時代によって異なり、領土範囲のスケールも時代と国力によって異なっていた。空理空論、空想妄想で国家と民族の歴史を説くのは、きわめて非現実的である。⑦イタリアがローマ帝国の正統なる継承国家、ギリシャ人が「東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の正統なる相続人」と主張し、そのかつての領土を要求したら、ヨーロッパはいったいどうなるのだろうか。「天下大乱」が待っているだろう。心のなかではそのような矜持を持っていたとしても、実際には要求などしないのが、近代国家、近代国民である。だから中国は永遠に近代国家にはなれないのだ。 このような「チャイナの振り子」のような歴史時間と空間の変化の下で生まれた歴史観、史説と歴史意識は、じょじょに中国人のものの見方と考え方として、歴史観から世界観、人間観、人生観、そして価値観として定着していった。 では、具体的に、それらはどのようなもので、どうやって中国人に定着していったのだろうか。以下、要約して簡略にとりあげる。①歴史観については、以下の史書が史観として定着していった。 ・『史記』──皇帝中心史観。 ・「二十四正史」──『漢書』をはじめとする歴代王朝の明滅亡までの「正史」であり、易姓革命の正当性と正統主義により、新たな王朝は前の王朝の後継王朝だと自己主張する。 ・『春秋』──尊王攘夷、華夷の分、春秋の大義。 ・『資治通鑑』──中華思想の確立。②新儒学としての「朱子学」と「陽明学」が、華夷の分と別、そして夷狄の排除と虐殺を「天誅」として正当化し、理論的、学問的基礎となった。③勝者が歴史をつくり、敗者が歴史を学ぶ優勝劣敗の歴史法則の確立。④「有徳者」が天命をうけ、天子となる「徳治(人治)主義」の正統性の主張が、「道統」(道徳的正統性)から「法統」(法的正統性)へと拡大解釈されていく。変わる中国人の戦争手法変わる中国人の戦争手法 戦争の定義については、字書、辞典、百科全書、政治用語辞典などなど、それぞれの概念規定、注釈があっても、時代とともに概念が変わり、歴代の戦争論や戦争観が変わるだけでなく、時代とともにますます追いつかなくなってきている。 では、内訌(ないこう)や内乱、朋党(官僚がつくった党派)の争い、政争、村と村の決闘である「械闘(かいとう)」、さらに今現在進行中のサイバー・ウォーが戦争かどうか、「経済戦争」や「貿易戦争」が「戦争」かどうかが問われる。そればかりか、戦争の字義だけでなく、命名も論議され、対立までしている。 「大東亜戦争」か「太平洋戦争」かだけではない。日本で通称「アヘン戦争」については、英国では「Trade War」と称されるので、名称も異なる。 六〇年代に、私と同じ大学の院生たちが夏休みに帰国した際、「経営革命」や「マーケティング革命」などの専門書が税関に没収された。中国共産党が「世界革命」を唱え革命の輸出を目論んでいたあの時代には、台湾の政府は「革命」という文字に神経を尖らせていたので、専門書であろうと政治とはまったく関係ない書籍であろうと、「革命」という文字を目にしただけで、すぐ「造反」と思い込み、没収された。なにしろ、あの時代は歌曲まで三百余曲が公式に禁唱されていたので、精神的ななぐさめは、トイレの中で、小さな声で唄い、あるいは心の中だけで楽しみ、声を出さずに済まさなければならなかった。あの時代には三人以上でひそひそと話をしたら、「造反の密議」とみなされたので、友達をもたないことが最高の生活の知恵となっていた。 インドネシアでビジネスをしている大学時代の友人は、日本に来るたびに日本語の著書をそれぞれ選んで持って帰っていた。インドネシアは一時、反華僑、反華人の国策を断行し、漢字をすべて禁止した。漢文や中国語書籍まで持ち込みが禁止されていた。国によっては文字や言語についての考え方がそこまで違うので、「戦争」や「平和」、「侵略」についての解釈は狭義から広義までそれぞれ違う。学者だけでなく、民衆の意識に至るまで、ことに概念からイメージに至るまで、共有するのはじつに難しい。 人類史にはさまざまな戦争(平和も)についての論議がある。たとえば、世界で有名なクラウゼヴィッツの『戦争論』をはじめ、『韓非子(かんぴし)』やマキャベリの『君主論』もそれに含まれると言える。「孫呉の兵法」をはじめとする「武経七書(ぶけいしちしょ)」(『孫子』『呉子』『司馬法』『尉繚子(うつりょうし)』『六韜(りくとう)』『三略』『李衛公問対』)だけでなく、トルストイの『戦争と平和』をも含めて、純理論からハウツー本、そして小説に至るまで、戦争についての考え方、兵法に至るまで、戦争についてはさまざまな異なる考えがある。もちろん今でも新著が続けて出ている。戦争と平和については、異なる考えがあるだけでなく、対立するものも多い。「春秋に義戦なし」と孟子は言っていても、「十字軍の東征」について、キリスト教徒とイスラム教徒の考えはまったく対立的にして両極端である。 それでも、今では西洋の正義と中洋(イスラム)の大義、そして東洋の「道義」があって、対立もしている。中国の「超限戦」の限界 クラウゼヴィッツは、戦争は政治の延長と説き、毛沢東はレーニンの戦争観を受け入れ、クラウゼヴィッツの戦争論について、「政治は血を流さない戦争であり、戦争は血を流す政治である」と言い換えた。しかし、レーニンは戦争を「正義」の戦争と「不義」の戦争に二分し、プロレタリアの革命戦争、植民地の解放、独立戦争こそ「正義の戦争」と戦争の「正義」を説いた。「毛沢東の戦争論こそマルクス・レーニン主義の戦争論を最高峰にまで発展させたもので、それは矛盾論、実践論をも含めてまさしく、戦争をもって戦争を否定する最高の『仁』だ」とべた褒めし、礼賛する日本の進歩的文化人もみられる。 このように、戦争の定義はいろいろな意見があるが、現在の中国が採用している戦争の定義とその手法は、「超限戦」というものだ。 これは、一九九九年に中国軍大佐の喬良(きょうりょう)と王湘穂(おうしょうすい)が共著で出版した戦略研究書の名前であるが、現在の中国および中国軍の戦略は、これに則っていると思われる。 私はかつて台湾大学の歴史学教授の友人から「ぜひ一読を」と勧められ、台北で買い求めて大学の研究室に持ち帰り、研究者たちと共同研究会で勉強したことがある。 この著書は、通常戦のみならず外交戦、情報戦、金融戦、ネットワーク戦、心理戦、メディア戦、国家テロ戦など、あらゆる空間や手段による戦争を提唱したものである。外国人漁業規制法違反の容疑で海上保安庁に停船させられた中国サンゴ漁船=2014年11月21日、小笠原諸島嫁島沖(第3管区海上保安本部提供) 実際に現在、中国によるサイバーテロや、日本のメディアを利用した情報操作や世論撹乱、アメリカでのロビー活動、アジアインフラ投資銀行(AIIB)による金融戦などが展開されている。 当時、私は「超限戦」の戦争観について、 「特定の戦争はなく、正面対決もない。武器、軍人、国家、技術、科学、理論、心理、倫理、伝統、習性などにも、限界や境界はない。そして多くの場合は戦火も砲火も流血もないのだが、その戦いが引き起こす破壊力は軍事戦争に劣ることはない。 『超限戦』にはまた、陸海空、政治、軍事、経済、文化などの境界もない。孫子、呉子の兵法やクラウゼヴィッツの戦争論を超え、無限の手段で敵を服従させるのが超限戦の真骨頂である」 と分析した。そしてすぐ討論に入った。 しかし、まずイスラム学者から、「いくら超限戦といっても、イスラムのようなジハードは不可能なのではないか」と、中国人の考えている「超限戦」の限界が指摘された。 考えればそのとおりである。いくら超限戦と言っても、中国人には日本人のような「特攻」や「割腹」はない。イスラムのような信仰もない。 それが極端に利己的で現実主義の中国人の限界ではないのか。中国は海外の島々に対して、「歴史的に中国のもの」と主張し、「心理戦、世論戦、法律戦」という「三戦」を繰り広げているが、それでも核ミサイルの増強といった「力」に頼ることに必死になっている。 そこにも中国の「超限戦」の限界が見られる。黄 文雄(コウ ブンユウ) 1938年、台湾生まれ。1964年来日。早稲田大学商学部卒業、明治大学大学院修士課程修了。『中国の没落』(台湾・前衛出版社)が大反響を呼び、評論家活動へ。1994年、巫永福文明評論賞、台湾ペンクラブ賞受賞。日本、中国、韓国など東アジア情勢を文明史の視点から分析し、高く評価されている。著書に17万部のベストセラーとなった『日本人はなぜ中国人、韓国人とこれほどまで違うのか』の他、『世界から絶賛される日本人』『韓国人に教えたい日本と韓国の本当の歴史』『日本人はなぜ特攻を選んだのか』『中国・韓国が死んでも隠したい 本当は正しかった日本の戦争』『世界が憧れる天皇のいる日本』(以上、徳間書店)、『もしもの近現代史』(扶桑社)など多数。

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    戦艦「三笠」の故郷・英バローを訪ねて

    岡部伸(産経新聞ロンドン支局長) 1904(明治37)年2月に始まった日露戦争は、翌年5月の日本海海戦での連合艦隊の勝利で大勢が決した。欧米を驚かせたのは、その大勝利が極東の開国したばかりの非白人小国によって達成されたことだった。「日本は鎖国を解いて50年、海軍をもって10年で早くも世界一流の海軍国になった」(米『ニューヨーク・サン』紙)。しかし、「皇国の興廃この一戦にあり」とZ旗を掲げて勝利した背景に「大英帝国」の存在があったことはあまり知られていない。日本海でロシアのバルチック艦隊を撃破して世界史に残る大偉業を達成した連合艦隊旗艦「三笠」をはじめ日本艦艇の9割が英国で製造され、当時最高級の英国産「カージフ炭」を燃料とするなど英国が少なからぬ側面援助をしていたのだ。世紀の勝利は帝政ロシアと覇を競った英国によって支えられていた。 「三笠」の故郷である英イングランド北部のバロー・イン・ファーネスを訪ねると、一世紀前の日英交流の想い出と「三笠」を建造した誇りが今も語り継がれていた。それは干戈を交えた先の大戦中も変わることがなかったという。語り継がれるMIKASA ロンドンから電車で5時間。アイルランド海に面したバローは造船の町だ。沖合に自動車レースで有名なマン島。近くには「ピーター・ラビット」の作者、ヘレン・ベアトリックス・ポターが創作活動を行なった湖水地方のニア・ソーリーがある。 19世紀後半から20世紀初頭、世界で最初に産業革命に成功した英国が世界の工場だった時代に、バローは造船会社「ヴィッカース」の企業城下町として発展した。現在は、「ヴィッカース」を引き継いだ防衛航空宇宙企業「BAEシステムズ」が原子力潜水艦を建造して英国における安全保障の一端を担っている。 「三笠」は1899(明治32)年、最新戦艦として起工され、1900(明治33)年11月進水した。市内のカンブリア公文書館には、進水式の写真と地元紙の挿絵などが保存されている。駐英日本大使が出席した進水式には、数多くの地元市民が参加して熱烈な声援を受けた。地元紙には「アジアの最新興の列強国日本の発注を受け、最大の戦艦を建造したことは、英国さらにバローのヴィッカースの誇り」と記されている。 百年余を経て、「三笠」を誇りに思う市民の気持ちは現在も変わらない。 街の対岸のウォルニー島に、造船従業員の社宅が立ち並ぶ「ヴィッカース・タウン」がある。通りの名前は同社が建造した船名から名付けており、その一つ(約50m)が「MIKASA ST」と命名されている。「三笠」が建造された1900年に名付けられたのだが、以来116年間、日英が戦った第2次大戦中も名前を変えていない。バローの「MIKASA STREET」(写真:筆者、以下同) 一般的な道路で、命名の由来を記した記念碑もない。玄関の壁に「MIKASA ST」と書かれた通りの発端の「ミカサ・ストリート」56番地に住むウィリアム・ヒギンソンさんは、40年間ヴィッカースで造船工として原潜などを造った。「ミカサ」を「マイカサ」と発音して、「先輩が偉大な戦艦を造ったことを誇りに思う。ロシアを負かしたから。マイカサは私たちの歴史」と述べた。日本が学んだ英国の造船技術日本が学んだ英国の造船技術 日本が「三笠」建造を英国に頼んだのは、当時の造船大国英国をお手本に造船技術を向上させるためだった。ヴィッカースも、新たに開発した技術を海外からの受注艦に実装して試すことができるメリットがあった。その技術は、当時の最新鋭だった。 完成した「三笠」は122mの船体の前後に旋回式の連装砲塔を各一基備え、舷側にずらりと副砲を並べた。進水式で市民から絶賛されたのは、艦橋や居住部、火砲の配置に無理がなく均整が取れた容姿が先進的だったためだ。 1年数カ月かけ兵器などの装備を取り付けて、1902(明治35)年3月1日、サウサンプトンで日本海軍に引き渡された。翌2日、プリマスで英国の戦艦「クイーン」の進水式に参列した初代艦長、早崎源吾は、「英国側から非常なる歓待を受けたのは、日英同盟のおかげ」と海軍大臣、山本権兵衛に書いている。英国が日本と同盟を結んだのは2カ月前だった。いわば「三笠」は日英同盟の象徴として日本に提供されたといえる。 「三笠」を建造した古い石積みの「船渠(ドック)」が残っている。その「船渠」跡地を改造して、造船業の歴史を展示する「ドックミュージアム」がある。博物館前には、船の舵とスクリューを模った記念碑があり、ヴィッカースが建造した船の名前が書かれてあり、「三笠」や「金剛」の名も記されている。 博物館には、「三笠」の1年前に建造されモデルとなったフランスの戦艦「ヴェンジャンス」と共に、日露戦争後、1913(大正2)年8月に竣工された「金剛」の模型などが飾られている。 「金剛」は日本海軍初の超弩級巡洋戦艦として発注した戦艦で当時、世界最大で世界最強、最先端だった。高速戦艦として第二次大戦でも活躍するが、学芸員のグラハム・カービンさんによると、ヴィッカースは「三笠」建造を誇りに日本海軍と親密な関係を続け、「金剛」建造にあたって企業秘密を隠さず「技術供与」を図った。日本側からの造船技術者派遣、調査や船体の図面入手や同型艦の日本国内での建造まで許可した。英国は、同盟国日本に最先端造船技術を惜しみなく提供したのであった。「金剛」の模型を前に語る「ドッグミュージアム」の学芸員 この結果、日本は同型艦「比叡」「榛名」「霧島」3隻を国内で建造して造船技術を世界一流に引き上げた。「三笠」建造以来十数年間、バローには技術者や訓練する水兵ら海軍関係者などの日本人が定期的に滞在し、地元の市民らと積極的な交流が行なわれた。バローの市民が日本に親しみをもっているのは、こうした歴史があるからだろう。 日露戦争当時、日本の主力の戦艦六隻はすべてニューカッスルなど英国で製造された。 装甲巡洋艦8隻のうち半数が英国製だった。当時英国は世界一の造船大国で、同盟国として最先端技術がそろう最新鋭艦を提供した。勝利を収めた要因の一つはここにあった。 日露戦争後も日本は英国に人を派遣して戦艦の造船方法を研究した。「金剛」の建造を通じた技術盗用は成功し、その後日本は独自の造船技術を確立する。バローで造船技術を学んだ技術者のなかには、のちに戦艦「大和」の主砲を製造した者もいる。英国で学んだ造船技術は日本流にアレンジされ、その後の「大和」や「武蔵」など巨大戦艦を造る基礎となり、戦後日本が造船大国として復興する礎にもなった。 同じようにヴィッカースはトルコから戦艦の発注を受けたが、第一次大戦勃発直前に英国が接収して英海軍戦艦「エリン」となり、トルコに渡さなかった。効率よいカージフ炭を輸入効率よいカージフ炭を輸入 日露戦争で日本海軍は英国で採れる「カージフ炭」という石炭を燃料とした。カージフ炭は英国のウェールズで産出される石炭で、当時最高級を誇った。それまで日本で使用していた石炭は、黒煙が多く出るが火力が弱く、艦船用燃料として不都合だった。 そこで日清戦争後、ロシアとの戦争に備えた山本権兵衛海軍大臣は、カージフ炭を英国から大量に買い付けた。山本は1898(明治31)年から日露戦争が終結するまで、7年2カ月海軍大臣を務め、国内造船所や製鉄所の整備、艦上での食事の改良に取り組んだ。英国海軍から取り入れたカレーライスや肉じゃがは現在、日本の国民食として定着している。カージフ炭を輸入して日本海軍の燃料性能は飛躍的に向上、日露戦争の勝利につながった。 さらに、日本海海戦でロシア海軍の主力となったバルチック艦隊は、旧ソ連ラトビアのリバウから7カ月かけて極東まで向かったが、英国は植民地の英領の港に艦隊が入るのを拒んだ。7つの海を支配していた英国は、バルチック艦隊が大西洋、インド洋、フィリピン沖を回航する途中、燃料と食料の補給を妨害したのだ。ようやく日本海に辿り着いたロシア人たちは疲れ果てていた。東郷元帥率いる日本の連合艦隊に負けるのは当然だった。リアリズムから日本と同盟 ただ、日本に多大な便宜を図った英国にも戦略があった。19世紀末、世界は弱肉強食の帝国主義の時代だった。とりわけ不凍港を求めて南下する帝政ロシアと、エジプト、インド、中国を結ぶ海上ルートを支配したい大英帝国は、利害が激突して熾烈なグレート・ゲームが展開された。 クリミアでロシアの地中海進出の野望を挫いた英国は、アフガンでもインド洋への進出を阻止する。ユーラシア大陸の西で出口を失ったロシアは、東の極東に失地回復を求め、シベリア鉄道の建設を進め、日本海に出た。シンガポールから香港を拠点にアジア支配を進めた英国は、朝鮮半島から満洲(中国東北部)まで戦線を拡大できず、日本を武装させて極東でのロシアの南下に対抗させようとした。そこで生まれたのが日英同盟という軍事同盟だった。日露戦争の2年前にあたる1902(明治35)年のことだ。 「栄光ある孤立」として非同盟政策を貫き、欧州の紛争に介入せず、あらゆる国と自由貿易を行ない、自国製品の販売や輸出で世界経済の中心として栄えた英国だが、他の欧州主要国が連合体制(三国同盟、露仏協商)を敷いて優位性が揺らいだことも大きかった。南下政策を行なうロシアとことごとく対立し、同じくアジアでロシアに脅威を抱く新興の日本と手を組む決断を下したのである。 英国からすると、日露戦争で日本がロシアに勝利すれば、自らの手を汚さずにロシアを封じ込められる。たとえ日本が負けても傷がつかない。近代国家として成立したばかりの東洋の新興国日本と軍事同盟を結び、先端軍事技術を惜しみなく提供した背景には、したたかな大国のリアリズムがあった。いわば日本は、英国の帝国主義の先兵とされたとも解釈できる。日露戦争は英国の代理戦争ではなかったかとの見方さえある。 日本は、帝国主義の時代、大国と軍事同盟を結び安全を確保しなければいけなかった。 周辺諸国へ侵略を繰り返すロシアに備えるため、薩長藩閥の日本政府は、明治維新以来、友好関係にあった英国を同盟相手に選ばざるをえなかった側面もある。帝政ロシアを媒介に利害が一致したことは間違いない。横須賀市や舞鶴市と姉妹都市交流を横須賀市や舞鶴市と姉妹都市交流を 「百年近く歴代市長が大切に受け継いできた、日本との交流を示す日本の記念品です」 バローの中心のタウンホール(市庁舎)の市長室で、アン・トンプソン市長が語った。歴代の市長の写真が飾られた市長室の真ん中に、透明のガラスケースに入れて日本製の大皿が大切に飾られていた。東郷平八郎贈呈の記念品と並ぶバローのトンプソン市長 大皿の記念品は手製の「金華山焼」で作製された陶器である。日露戦争後の1911年に、英国王ジョージ5世の戴冠式のため渡英した東郷平八郎元帥がバローまで足を延ばし、「三笠」建造の感謝と新起工される「金剛」の依頼のため当時の市長を表敬訪問した際、連合艦隊を代表して贈呈したものだ。 23歳から7年間も英国に留学した東郷は、かつての留学先の「ウースター」校も訪問して日本海海戦で「三笠」に掲げられた大将旗を寄贈している。バロー市の説明では、「三笠」を建造したバローを東郷は愛し、建造中の「三笠」や「香取」を見学にしばしば足を運んだという。 表敬を受けたバローも日本海海戦における東郷の偉業に敬意を表して、寄贈品の隣に「三笠」のブリッジで日本海海戦の指揮を執る東郷元帥や艦長の伊地知彦次郎を東城鉦太郎画伯が描いた『三笠艦橋之圖』画の写真が誇らしく添えられていた。 タウンホールのロビーには、東郷元帥が日本海海戦で歴史的な勝利を収めたちょうど百年前の1805年、トラファルガーの海戦でネルソン提督率いる英艦隊がナポレオンのフランス・スペイン軍を破った絵画が展示されている。トンプソン市長は「アドミラル・トーゴー(東郷元帥)は、日本のネルソン提督として市民の熱烈な歓迎を受けました。MIKASAの活躍に当時の市長はじめ多くの市民が熱狂したそうです」と語った。東郷元帥を招いて昼食会を開催したバンケットホールは数百人を収容できる天井が高い大ホールで、ロシアを破った「アドミラル・トーゴー」を当時の市長は手厚くもてなしたという。 「ドックミュージアム」には、この歓迎昼食会の式次第とメニューが展示されている。それによると、ヴィッカースの従業員で構成する「バロー・シップヤード・プライズ・シルバー・バンド」の演奏で、「日本の旋律 ホソカ」で昼食会は始まり、「ロマンス ジャポネーズ」「ダンス オリエンタル」や「日本で人気の愛の歌による日本のダンス」も披露された。また、菊の紋章が入ったメニューには「バウムクーヘン」とともに「タルト・トーキョー」などのデザートも供された。 バローには東郷元帥のほかにも、「三笠」が建造された1900年4月、日本海海戦で東郷元帥の下で作戦担当参謀を務め勝利に導いた秋山真之と、旅順閉塞作戦で軍神として名を馳せた広瀬武夫が訪れており、完成間近の「三笠」を見学している。 大戦中もミカサ・ストリートの名前を変えなかったことについてトンプソン市長は、「ミカサはわれわれの誇り。元市長がミカサ・ストリートに住んでいたくらいだ。国同士が交戦しても、私たちが造ったミカサの歴史は変わらない。今後もミカサ・ストリートの名前を変えるつもりはない。市長室に飾ってきた記念品も永遠に飾り続ける」と語った。 現在、「三笠」は横須賀市で保存されている。また横須賀市とともに母港だった舞鶴市には、バローと同じように「三笠通り」がある。「三笠」の生誕地バローのトンプソン市長は、「三笠」の縁を通じて横須賀市、舞鶴市と結び付きを深められないか調査するワーキンググループを立ち上げる方針だ。実現には議会の承認が必要だが、姉妹都市提携などを通じて交流を深め、日本からも「三笠」の故郷に足を運んでほしいと話している。関連記事■ 【歴史街道.TV】横須賀歴史散歩■ 創設150年・横須賀製鉄所なくして日本の近代化はなかった■ 日本海海戦…日露両艦隊の「総合戦闘力」を比較すると■ 敵艦隊を震撼させた「下瀬火薬」と「伊集院信管」

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    日本を歴史問題で貶め続ける中韓の「戦勝国包囲網」に気をつけよ!

    ケント・ギルバート(米カリフォルニア州弁護士)小浜逸郎(批評家)安倍外交の相次ぐ失態の原因小浜 中共(中華人民共和国)が主張してきた「南京大虐殺30万人説」には確実な目撃証言もなく、写真資料などの証拠も偽造ばかりであることは、日本側の歴史研究者のあいだでは常識になりつつあります。ところが2015年10月10日、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産に、中共が申請した「南京大虐殺文書」の登録が認められてしまいました。 さらに同年12月28日、日韓両政府はいわゆる慰安婦問題の最終解決に向けて合意したと発表しましたが、明らかに安倍外交の致命的失敗だと評価せざるをえません。「旧日本軍は20万人のセックス・スレイブ(性奴隷)を強制連行し、虐待した」という戦勝国による定説をオウンゴールで追認したことになるからです。 外交・歴史問題で日本は中共や韓国にいいようにやられているわけですが、その原因はむしろ日本自身にある、というのが私の考えです。ケントさんが著書『まだGHQの洗脳に縛られている日本人』や『やっと自虐史観のアホらしさに気づいた日本人』(いずれもPHP研究所)で展開されているように、GHQ(連合国軍総司令部)のウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)によって、私たちは「日本が悪い国だった」という自虐史観を植え付けられた。安倍外交の相次ぐ失態の原因を突き詰めていくと、その背景にはこのWGIPがあります。ただ、ケントさんの著書にも書かれているとおり、GHQによる占領期間は7年間にすぎませんでした。ケント そう、1945年8月から52年4月の7年弱。52年は私が生まれた年でもあります。小浜 それからすでに60年余りが経っているにもかかわらず、WGIPの洗脳が解けていないのは、これこそ「日本が悪い」というほかありません。 もう一つの問題は、日本人は外交・歴史問題を「対中共」「対韓国」など個別の二国間問題として捉えがちですが、よりグローバルな構図のなかで考えるべきだということです。アメリカをはじめ、イギリス、オーストラリアなど欧米圏には、戦勝国の大義を保つためにいつまでも日本をナチス・ドイツと同じような「悪の象徴」にしておきたい、という心理がある。中共や韓国はそうした戦勝国の心理に付け込んで日本に対する「戦勝国包囲網」をつくり上げ、外交戦で優位に立とうとしている。その意図の恐ろしさを日本人は認識すべきです。ケント たしかに先の大戦の戦勝国のなかで、イギリスは戦前の日本に対する態度を引きずっているかもしれません。先の大戦の勃発がインドの独立を早めた部分もあるわけですから。 一方、現在のアメリカは日本をよきパートナーだと考えています。私が子供のころに不思議だったのは、ニュース番組などで西側同盟国を「アメリカとヨーロッパ、日本」といっていたことです。アメリカとヨーロッパが一緒なのはわかる。でもなぜ、日本が入るのか。それでも、子供心に「とにかく一緒に冷戦を戦っている国なんだな……」と、漠然と感じていました。だから私は現在に至るまで、一度も「日本が悪い国だ」という感情をもったことがありません。いまのアメリカ人のほとんども「かつて日本とは激しく戦ったが、いまはトモダチだ」という意識だと思います。小浜 ほとんどのアメリカ人がですか? 一般的なアメリカ国民がアジアの片隅にある日本に対して、ケントさんのように幅広く歴史的に深く考えているとは思えません。ケント アメリカで世論調査をすると、いちばん人気がある国はやはり日本なんですよ。日本の漫画やアニメは大人気で、いまやポケモンを知らない子供はいない。私の故郷、ユタ州の州都であるソルトレイクシティでコスプレのコンベンション(見本市)をやったら、3日間で10万人も集まりました。アメリカ人は日本発の「変な文化」が大好きなんです(笑)。小浜 反日教育を行なっているはずの中共や韓国の国民も、日本文化に憧れをもっているそうですね。でも、そういう文化現象と習近平や朴槿惠の対日政策は別です。同じように、いくらアメリカで日本の文化が人気だといっても、政治や外交、経済の分野でほんとうに日米がトモダチといえるのか。そう単純には言い切れない部分があると思いますが。たとえば、TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)。私は国会の承認が進まないことを強く望みます。ケント 小浜さんはTPPに反対なんですか?小浜 断固として反対です。ケント 僕はいちおう賛成ですけどね。小浜 TPPについて議論を始めると永遠に続きそうなので(笑)、要点を絞ります。TPPは自由貿易を名目にしながら、結局のところ強い国(つまりアメリカですね)が参加国の経済的主権を奪っていくような構図になると思います。ケントさんが、祖国であるアメリカの利益になるような条約に賛成なのはわかります。しかし、私たち日本人がそうしたアメリカの要求をやすやすと受け入れてしまうのは、従属国家の証しというか、自主独立の精神の欠如です。これこそ、まさにケントさんがおっしゃるWGIPの呪縛がいまだ続いていることの証左ではないでしょうか。ケント 私の考えは異なります。1952年に日本がサンフランシスコ講和条約の発効で独立を回復した際、軍隊をもってはいけないことになった。日本の防衛はアメリカが担うから、日本は経済復興に専念してください、と。ところが当時は、アジアにまともな市場がありませんでした。そこで日本に対してアメリカの市場を開放することになった。しかしその後、日本は経済的に十分すぎるほど発展しました。もういい加減、特別措置はいらないのではないか。TPPそのものがよい協定かどうかは別にして、日米は対等な貿易体制が求められる時代になっています。経済面で相互関係を強め、さらに日本が憲法を改正することで、安全保障の面でもアメリカ任せではなく、自分で責任を負う国家となるべきです。世界記憶遺産はナンセンス世界記憶遺産はナンセンス小浜 安全保障に関するご意見には完全に同意します。しかし、アメリカがほんとうに日本の自立を望んでいるかとなると、私には疑問ですね。先の「南京大虐殺文書」という名の捏造資料がユネスコに登録されて喜ぶのは、中共や韓国だけでなく、じつは戦勝国であるアメリカも同じでしょう。もちろん同盟国としての関係も大事なので、そこには一種のダブルスタンダードがあるのではないでしょうか。ネガティブなほうのスタンダードに着目すると、東京大空襲や広島、長崎への原爆投下といった「アメリカの戦争犯罪」を隠すために、日本にはいつまでも悪い戦争を仕掛けた国でいてほしいわけです。ケント しかし、それと同じことはアメリカに関してだけでなく、すべての戦勝国にいえるのではないですか。たとえば、ロシア(旧ソ連)はシベリアで日本人捕虜に対して行なった非人間的な行為を長く謝罪しなかった。小浜 「シベリア抑留資料」については日本が申請して登録が認められましたが、すぐにロシアが文句をつけてきましたね。シベリア抑留は紛れもない事実ですが、そもそも私は、ユネスコの記憶遺産という事業そのものがインチキだと思っています。ケント 私もそう思います。ずいぶん政治的なものになっていますから、世界記憶遺産はもうやめたほうがいいでしょう。歴史に関する問題は、専門の学者に任せておくべきです。なにもユネスコにお願いする必要はありません。小浜 歴史というものは、いうまでもなく国の立場や利害によってさまざまに見方が変わります。それをユネスコという国連の一機関が「事実」として認める、という発想自体がナンセンスですね。ケントさんがご著書で書かれているとおり、国際連合とは要するに戦勝国連合です。その証拠に、国連は日本やドイツに対する「敵国条項」を今日に至るまで残しています。ケント 他に国際機関がないから便宜上、国連が使われているだけで、アメリカ政府は自分たちの出先機関にすぎないと思っています。そのアメリカですらユネスコの政治的なスタンスに反発しており、2012年から拠出金も出していません。30万人という犠牲者数を記した南京大虐殺記念館の壁=2015年10月5日、中国江蘇省南京市(共同)小浜 他方、いままさに中共はユネスコに多数の「工作員」を送り込み、ロビー活動をやっていますね。ケント 中華人民共和国(PRC)には、アメリカをアジアから追い出して太平洋の半分を制覇するという大きな目的がある。PRCのこの計画をマイケル・ピルズベリー氏(ハドソン研究所中国戦略センター所長・国防総省顧問)は「中国の百年マラソン」と呼んでいます。PRCがユネスコに「南京大虐殺文書」を認めさせたのも、アメリカに「日本は悪い国だった」と思い込ませて信頼関係を失わせることで、日米安保の解体につなげたい、という長期的な野望があるからです。アジア版NATOを創設せよ小浜 他方、アメリカは中共のそうした覇権主義をどこまで本気になって阻止するつもりなんでしょうか。2015年、スプラトリー諸島(南沙諸島)海域で中共が人工島を建設し、フィリピンやベトナムなど周辺国に脅威を与えた際、アメリカは「航行の自由」作戦を行ないました。しかし、中共の人工島建設は明らかな侵略行為です。フィリピンはもちろん、いまやベトナムでさえもアメリカの友好国であることを考えれば、その対応はじつに「手ぬるい」と思いました。ケント アメリカは、南沙諸島の領土問題には巻き込まれたくないのです。フィリピンやベトナムと友好関係を保ちつつ、PRCとも喧嘩はしたくない。すでにいまのアメリカは世界の警察官を担うのではなく、同盟国のなかで一定の貢献をしたい、という考えに変わっています。そこで私が提案するのは、アジア版NATO(北大西洋条約機構)の創設です。名付けて「ATO」(笑)。小浜 それは大賛成ですね。そのATOの中心になる国は、やはり日本でしょう。ただし前提として、まず民主主義国の頭目アメリカが共産主義の中共に対して強く出てくれないと困る。日本も弱腰ではいけませんが、ともかく中共を怖がらせないと話にならないからです。その上で日本がアメリカと緊密な関係を保ちながらアジア諸国に協力を呼び掛ける、というかたちが理想です。ケント 日本がATOの中心になるためにも、憲法改正が必要でしょう。そもそも、南沙諸島についてアメリカの対応が「手ぬるい」ということ自体、アメリカ依存症患者のような発言です。エネルギーや食糧を運ぶ輸送上、南沙諸島がPRCのものになっていちばん困るのは、日本ではないですか。小浜 決して依存心からではなく、現状ではそれが戦略的に一番有効だというつもりなんです。ですが、いちばん困るのは日本というのはそのとおりですね。日本へ向かう大型タンカーが通る海上交通路、すなわちシーレーンを中国共産党に押さえられたら、日本は石油供給が途絶えてアウトです。ケント だとすれば、どの国よりも率先して日本が対応すればいい。何でもアメリカにお願いすれば済む時代は終わったのですから。小浜 そのとおりです。しかし、いまの安倍政権と国内世論の動静からすると、現実的に憲法改正や海外派兵は難しい。ケント だとすれば、南沙諸島はPRCのものになることを覚悟するしかないですね。それは日本が憲法改正をしないことの代償だといえます。戦略的な対外宣伝活動を担う組織を戦略的な対外宣伝活動を担う組織を小浜 憲法改正の大きな壁となっているのは、国内世論です。昨年9月、平和安全法制が成立しましたが、日本のメディアはこぞって「戦争法案」「徴兵制の復活」という言い方で反対の世論を煽りました。ケント だからこそ、私たちはいまメディアを変えようとしているのです。私が呼びかけ人の一人に名を連ねている任意団体「放送法遵守を求める視聴者の会」は、政治について国民が正しく判断できるように、公正公平な報道を放送局に対して求める活動をしています。昨年11月14日付と15日付の『産経新聞』『読売新聞』には「私達は、違法な報道を見逃しません」という全面意見広告を出しました。日本のマスコミは国民を誘導する義務や責任、使命があると思っているようですが、これは大いなる勘違いです。マスコミの役割は、複数の角度から正確な情報を国民に提供することであり、それ以上のことをする必要はありません。記者会見した「放送法遵守を求める視聴者の会」の(左から)上念司氏、すぎやまこういち氏、小川榮太郎氏、ケント・ギルバート氏=2015年11月26日、東京都千代田区(三品貴志撮影)小浜 ケントさんの活動にはほんとうに頭が下がりますし、こうした試みをどんどんやってもらいたい。インターネットを使えば、民間のボランティアでも情報発信ができる時代になっていますから、マスコミの偏向報道による歪みは、ある程度、正すことができるでしょう。 問題なのは対外活動のほうです。くだんの「南京大虐殺文書」の登録について、中共は何年も前から申請の準備をしていた。日本の外務省はそれを知っていたにもかかわらず、何もしませんでした。ケント 申請が認められてから、慌ててちょっと抗議しただけ。じつにお粗末な対応です。元谷外志雄さん(アパグループ代表)は「日本の正しい情報を世界に発信するための組織を政府がつくるべきだ」とおっしゃっていますが、私も同意見です。じつは、私はそういう組織に勤めていたことがあるんです。USIA(米国文化情報局、1953年設立。99年、国務省に統合、国際情報計画局に引き継がれた)という海外向けの広報活動を担当するアメリカ政府の機関があります。CIAとは違いますよ(笑)。 USIAで私がどんな仕事をしたかというと、たとえば1975年、日本の沖縄国際海洋博覧会でアメリカ・パビリオンのガイドを務めました。このパビリオンには、表向きの文化事業とは別に「アメリカ式民主主義を世界に売り込む」という明確な国家目的があった。当時の私はそれをあまり意識していなかったのですが、7カ月そこで働いて得た給料で大学院に進み、弁護士になることができたという思い出があります。小浜 アメリカは以前からずっとそういう活動をやっていたわけですね。ケント はい。冷戦中、アメリカが行なった宣伝活動として、1951年に放送を開始した「ラジオ・フリー・ヨーロッパ(RFE)」は有名です。東欧の旧社会主義国に対して、民主主義の素晴らしさをアピールしていた。そのおかげで89年にベルリンの壁が崩れた際、東欧諸国はすぐさま民主主義体制に移行できたわけです。小浜 アメリカと違って、日本には戦略的な対外宣伝活動を担う組織がありません。ケント だから「情報はアメリカにお願いすれば無料で手に入る」と思っているんです。もっと日本政府がお金を効果的に使わないと。小浜 敗戦以来、日本人は潜在的に対米依存で来ていますから、なんとかその壁を打ち破らないといけない。日本の悪評が世界中に…ロビイストを雇え!日本の悪評が世界中に小浜 冒頭で述べた慰安婦問題をめぐる日韓合意なるものについて、岸田文雄外務大臣は韓国の尹炳世外相との会談(2015年12月28日)で「軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた」「日本政府は責任を痛感している」と述べました。この発言は、誰が読んでも軍の強制性を認めたものとしか受け取れません。『朝日新聞』が不十分とはいえ慰安婦問題の誤報を認めたにもかかわらず、それすら台無しにする行為です。あまりのショックで、血圧が上がりましたね。ケント 私も以前から「日本政府は韓国政府とのあいだで妥協的な解決を二度と行なうべきではない」と言い続けてきましたので、日韓合意の第一報を聞いたときはかなり落ち込みました。ただしばらくして、こう考えるようになりました。日本はいつまでも慰安婦の強制連行という「作り話」に振り回される必要はない。加えて日本は10億円の拠出金と引き換えに慰安婦像の撤去を求めるボールを韓国側のコートに送ったのだから、とりあえず相手の出方を待つべきであると。小浜 いや、このままではまずいですよ。現に日本の悪評がすでに世界中を駆け回っているからです。オーストラリア・ジャパン・コミュニティー・ネットワーク(AJCN)代表・山岡鉄秀氏の調査によれば、「日本政府は潔く謝罪した。韓国は受け入れるべきだ」と主張する海外のメディアは皆無であり、「日本政府がついに性奴隷を認めた。その多くは韓国人女性だった」という論調だったそうです。 これはほんの一例ですが、米紙『ニューヨーク・タイムズ』(2016年1月1日付)は、慰安婦問題に関する共著をもつアメリカの大学教授による次のような投書を掲載しています。「生存者の証言によれば、この残酷なシステムの標的は生理もまだ始まっていない13、14歳の少女だった。彼女たちは積み荷としてアジア各地の戦地へ送られ、日常的に強姦された。これは戦争犯罪のみならず、幼女誘拐の犯罪でもある」。ケント まったく呆れる内容ですね。しかし日本のジャーナリストは海外メディアの誤った報道に対して、英語できちんと反論していない。それ以上に問題なのは、専門の広報機関が日本にないことです。ロビイストを雇えばいい小浜 本来、そうした仕事は外務省がやるべきですが、いまの外務省にはまったく期待できない。ケントさんは、どうすればよいと考えていますか。ケント これから日本が海外向けの広報機関をつくるにしても、外務省から独立した組織が望ましいでしょう。外務省の管轄にすると結局、何もしない組織が新たに増えるだけで終わりかねない。では、いまの日本には打つ手がないのか。そんなことはありません。簡単なことで、ロビイストを雇えばいいんです。昨年4月に安倍首相が渡米した際、アメリカ上下両院の議員に対して「希望の同盟へ」と題する演説を行ないました。あの演説が実現して大成功に終わったのは、日本政府が雇ったロビイストのおかげです。一方で韓国も2013年5月、朴槿惠大統領が同じくロビイストを使ってアメリカで議会演説をしました。ところが「歴史に目を閉ざす者は未来が見えない」と対日批判をして安倍首相を妨害しようとしたら、見事に失敗した。つまり、日本にはロビイストを使った戦いで勝利した前例があるわけです。小浜 先に名前の出たAJCNにしても、民間のボランティアの集まりです。それでもオーストラリアで慰安婦像の建設を阻止するなど、政府以上の活動を展開している。政府が歴史問題に関する事実を公式に訴えていくとともに、民間の団体も活発に活動して官民一体となって動くのが理想ですね。ケント いや、私は政府が表に出るべきではないと思っています。あらかじめ政府が「公式のお金」で海外のロビイストを雇い、現地の世論をいかに誘導するかを考えていくべきです。「慰安婦」女性の遺影の前で両ひざをついて線香をあげるエド・ロイス米下院外交委員=米カリフォルニア州グレンデール(中村将撮影)小浜 中共や韓国はそれを日常的にやっているということですね。もちろん、アメリカも。ケント そうです。アメリカ国内で慰安婦像が建ってしまったのも、韓国に雇われたロビイスト、小浜さんの言葉を借りれば「工作員」の働きがあったからです。もちろんPRCも工作員を日本のメディアに浸透させている可能性があります。今年2月、菅義偉官房長官は「わが国はいかなる国に対してもスパイ活動に従事していない」と発言しましたが、日本がほんとうに何も情報活動していないのだとすれば、そちらのほうが大問題です(笑)。スパイ活動はともかく、日本は海外向けの宣伝活動にもっとお金を使うべきですよ。日本の歴史認識や政策を広めるためには当然のことでしょう。経済規模からいっても、日本は十分に「大国」です。しかし、自国の正義なり、政策を外国に説明するような体制をもたない大国なんていうものが世界にありますか。さらにいえば、自分の防衛をすべてヨソの国に委ねている大国がありますか。アメリカ頼みの時代はもう終わったのですから、取るべき政策を早く取ってほしいですね。小浜 自国の基地に外国の軍隊がこれほど駐留している国は大国どころか、そもそも独立国家の名に値しません。日本に課せられた役割は、名実ともに大国となり、アジアの平和を守る盟主として台湾やフィリピン、ベトナム、インドネシア、オーストラリア、インドなど利害の一致する友好国をまとめ上げ、中共や北朝鮮に対抗する集団安全保障体制を築くことなのです。Kent Sidney Gilbert 米カリフォルニア州弁護士、タレント。1952年、米アイダホ生まれ。1971年に初来日。1980年、国際法律事務所に就職して東京に赴任。TV番組『世界まるごとHOWマッチ』に出演し、一躍人気タレントへ。最新刊は『不死鳥の国・日本』(日新報道)。公式ブログ「ケント・ギルバートの知ってるつもり?」で論陣を張る。こはま・いつお 批評家。1947年、横浜市生まれ。横浜国立大学工学部卒業。2001年より連続講座「人間学アカデミー」を主宰。家族論、教育論、思想、哲学など幅広く批評活動を展開。現在、批評家。国士舘大学客員教授。著書に、『日本の七大思想家』(幻冬舎新書)、『なぜ人を殺してはいけないのか』(PHP文庫)など多数。関連記事■ 少年法は改正すべきか■ 中国のチベット人虐殺こそ世界記憶遺産に登録せよ!■ 韓国は日本のストーカーだ!■ 五輪エンブレム問題から学ぶ――現代人が守るべき表現倫理とは

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    肉フェス4連覇のプロが語る「お肉の常識・非常識」

    千葉祐士(門崎熟成肉・格之進オーナー)近年は空前の「肉」ブーム。焼き肉店はどこも盛況で、A5ランクの国産牛を謳う店、話題の「熟成肉」を扱う店など、バラエティも広がっている。だが、『和牛の真髄を食らい尽くす』の著者であり、人気焼き肉店の経営者として黒毛和牛の魅力を伝え続けている千葉祐士氏は、「日本人の多くが、間違った肉の常識にとらわれている」という。それはどういうことなのか、ご寄稿いただいた。今、「肉フェス」が大人気に! 巷では、空前のお肉ブームが起きています。 昨年1年間だけでも、国内外のお肉料理を集めた国内最大イヴェント「肉フェス」は、春と秋の2回、東京(駒沢公園)、千葉(幕張)、横須賀、新潟、三重等で開催され、延べ200万人もが集まりました。今年の正月には大阪ドームでも開催され、ここでも約7万人が入場し肉の味を楽しんでいます。「肉フェス」表彰式にて 私はこれらの大会に「黒毛和牛」「熟成肉」「塊焼き」を旗印に出店し、4大会連続で総合優勝を飾ることができました。 それもこれも、「黒毛和牛」の魅力あってこそのこと。私は、このお肉ブームのど真ん中で、日本の宝である黒毛和牛の魅力を語り続けることを使命とし、その本当の美味しさを読者(消費者)に伝えたい一心で活動をしています。「A5ランク」はおいしさの基準ではない!? ブームが起きると一時市場は沸き返りますが、えてして間違った情報が流れたり、まがい物が氾濫したりします。例を挙げれば、「一番おいしいのはA5ランクの肉」という、「常識」があります。 私が、A5ランクがお肉の美味しさを示す評価基準ではないと言うと、ほとんどの方が驚きます。なぜならA5とは、その牛の枝肉の歩留り量が多いかどうかと、霜降りの見た目の評価に過ぎないからです。 そう言うと、「肉質がやっぱりうまさの決め手では?」と思うかもしれません。しかし、たとえサシがたくさん入った霜降りでも、脂の質で旨さは大きく異なります。そこには見ただけでは決められない、血統や飼料などの要素が大きく影響しているのです。 こうしたお肉の真実を知ると、これまでのお肉の常識がいかに脆いものだったかわかると思います。その熟成肉、「本物」ですか?その熟成肉、「本物」ですか? ここ数年、爆発的に増えた「熟成肉」についても然りです。昨今では焼き肉チェーン店や牛丼チェーン店でも「熟成肉」がうたわれていますが、最大の問題は、日本では熟成について明確な定義がないことです。 アメリカからやってきた「ドライエイジング」については明確な定義があります。「真空パック詰めされていないお肉を、温度1度前後、湿度70~80度の庫内で2~3週間寝かせる。その庫内には、お肉と相性のいい菌を木に付着させて置き、ファンで風を当てる」 今ではアメリカからやってきたように語られるこの技術ですが、実は日本にも、まだ「熟成」という言葉が輸入される前から「枯らし」と呼ばれる熟成方法がありました。 市場から買ってきた枝肉(骨付きの牛の半身)を、そのままの状態で室温1~4度程度に設定した冷蔵庫内に吊るして3~4週間放置します。風を当てたりはしませんが、庫内にはお肉に相応しい菌が繁殖していて熟成が進みます。この業界では昔から「お肉は腐りかけが美味しい」と言われていましたが、私たち日本人も経験的に「枯らす」「干す」ことで熟成させていたのです。枝肉 ドライエイジングという手法は、欧米で主流のブラックアンガスやホルスタインといった牛種に合います。ところがサシが豊富に入った和牛の場合には、枯らし熟成のほうが合うようです。さらに4週間程度枯らし熟成をかけたあとの「追加熟成」という工程も大事です。 このように、多くの経験知に導かれ手間と時間をかけたお肉でなければ、本物の熟成肉とは言えないのです。奥深き「赤身」の世界 黒毛和牛の美味しさのもう一つの秘密は、世界でこの種でしか食べられない「希少部位」の存在にあります。焼肉屋のメニューでも、かつては「ロース」と「カルビ」が主流でした。けれど現在では、「はねした」「みすじ」「イチボ」「ともさんかく」等、様々な部位が記されるようになりました。 私は一頭の牛を大きく「肩」「ロース」「ばら」「もも」と4分類し、小分類としては80以上に分けています。なかには、一頭から数百グラムしか取れないような幻の希少部位もあります。各部位にはそれぞれに個性があり、味わいが違います。 たとえば、肩にある「さんかく」です。近年は希少部位として肉料理店のメニューに載ったり、焼き肉屋では特上赤身として出していることも。 全体に美しいサシが入り、赤身とのバランスがとれているのが特徴です。脂の旨さと赤身の味と、どちらもしっかりと味わうことができ、焼いたときには香ばしい香りが感じられ、ファンを増やしています。 脂がくどくかったり、見た目だけ美しい霜降りに飽きた肉好きたちが、今もこうした赤身の世界を切り拓いています。「なじみの肉屋さん」を作っておこう!「なじみの肉屋さん」を作っておこう!筆者が手掛ける門崎熟成肉の魅力を最大限に引き出す「塊焼き」。 ところで、これら希少部位は、焼肉屋さんで高いお金を払わなければ食べられないというわけではありません。対面販売している昔ながらのお肉屋さんに行けば買うことができ、家庭でも味わえます。そうしたお店の職人に好きな部位や食べ方の好みを伝えれば、喜んで希望の部位をとっておいたり勧めてくれたりするはずです。 かつてお肉は、お客様の好みで職人が「あつらえて」くれる物でした。スーパーでのパック詰めが全盛となったいまでは、そんな希望を聞いてくれる職人は少なくなりましたが、ぜひ馴染みの肉屋を作って家庭でもお肉を楽しんでいただきたいと思います。肉で地域を元気にしたい! 近著『和牛の真髄を食らい尽くす』では、こうしたお肉に関する誤解を解くとともに、熟成肉の真実や各部位による味の違い、料理との合わせ方など、黒毛和牛を本当に楽しむための方法をご紹介しています。 私がこうした本を書いたり、各地でお肉の魅力を語ったりするのは、「お肉を通して日本の地域や生産者を元気にしたい」という「思い」があるからです。「解体ショー」の様子 私は岩手県一関で「馬喰郎」(牛の選別・流通を手掛ける仕事)をしていた父のもとで生まれ、牛とともに育ちました。いまは故郷で育つ「いわて南牛」を中心に扱っていますが、このビジネスを通して故郷を元気にしたい。牛に限らず米農家や野菜農家も元気になって欲しい。そう願って私の店では、米も野菜も調味料も、可能な限り一関や岩手産の物を使っています。 また行政と組んで、一関の美味しい食材を楽しむ食事会を開いたり、故郷の生産者と都会の消費者を様々な形で繋げたりする活動も続けています。 お客様にも恵まれ、いまでは一関まで足を運んで生産者たちと交流したり、一関の生産物を都内で紹介してくださったりする方も増えました。「同じお金を使うならば、将来に渡って持続的に生産してほしい生産物を買いたい」という考えをもつお客様の存在が、日本の地方や生産者を勇気づけてくれているのです。 後継者問題やTPP等、生産現場の苦境は続きます。けれど日本の宝である黒毛和牛がこれからも栄え、世界の宝になるように、私は「お肉一筋」の人生を歩みたいと思っています。ちば・ますお 門崎熟成肉・格之進オーナー。1971年、岩手県一関市生まれ。27歳で脱サラし1999年故郷で焼き肉店「格之進」を開業。実家の牧場の牛を一頭買いし、熟成肉とコース料理を切り札に人気店となる。2002年から黒毛和牛の熟成に向き合い「門崎熟成肉」というブランドを立ち上げ、加工〜流通までを一貫して担う。現在は六本木2店舗、代々木八幡、桜台、一関に7店舗展開している。関連記事■ なぜ、モスバーガーは愛され続けるのか?■ 手軽でおいしい!「缶詰グルメ」を味わおう■ 疲れない身体を作る食習慣 4つのポイント

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    牛・豚・鶏にも「ブランド肉」 そのネーミングは案外難しい

     ブランド肉が近場のスーパーでも手頃に入手できる時代になった。ただそれが良いことばかり、とはいかないようで。食文化に詳しい編集・ライターの松浦達也氏が解説する。* * * 国内における肉のブランドは牛肉だけで数百に渡る。正式に登録しているものから、自由に名乗ったものまでさまざまあれど、近年では豚や鶏など、新しいブランド肉も次々に登場する。TPPなど周囲の喧騒は止まらないが、今日も「肉」のまわりは総じて活気があると言っていい。 食肉のブランド名の由来は、ざっくり4つのパターンに分類できる。1.地名、2.飼料など育て方、3.生産者の名前、4.その他、といったところだ。 たとえば牛肉では、1.の地名は神戸ビーフ、松阪牛、宮崎牛などの黒毛和牛について、一定のルールに基づいてその名が冠される牛肉が多い。主に「雌牛のみか、去勢も含むか」「肉質等級(5~1)、歩留まり等級(A~C)」などが基準となっている。各地域でそれぞれ異なる基準を設け、複数の肥育農家の間で運用できるルールがある。2.は、北海道の鶴居村アップルビーフ、大阪ウメビーフ、小豆島オリーブ牛、宮崎のパイン牛など、飼料由来の名前がつけられたパターン。3.の個人名は神戸高見牛や宮崎の尾崎牛など生産者の名前が冠されたものだ。 肉の味を「血統7割、飼料3割」と言う生産者もいる。試して舌に合うようであれば、2.の飼料や3.の牧場指定のほうが、より味の方向性が明確なので、指名買いをするのもいい。 実は豚肉にも5段階で枝肉の格付けはあるが、消費者の判断材料として提供されることはまずない。その分、熱心な畜産農家は「血統」「飼料」「生育環境」を組み合わせて、独自のブランド豚を作り上げることに熱を入れている。鶏については、日本農林規格(JAS)で「地鶏」の定義が定められている。「在来種純系血統50%以上」「飼育期間80日以上」「28日齢以降は平飼いで1㎡当たり10羽以下」など一定の基準があるため、より厳格な飼育を行うなどして、強固なブランドを構築しようという養鶏家もいる。 そして4パターン目の「その他」。実はここが悩ましい。ブランド名から「味」が見えてこなかったり、「?」とクビをかしげてしまうようなネーミングのものが多いのだ。たとえば牛肉のブランド名のリストを見ていると、「美味旨牛」「しあわせ絆牛」「しあわせ満天牛」「しあわせ牛」といった名前がそこかしこに……。 気持ちはわからないでもないが、「うまい」「しあわせ」といった気分については、どうか食べ手のわれわれに預けていただきたいところ。豚肉でも「コレナイ豚」という銘柄を発見して、「?」マークが頭上を駆け巡ったが、どうやら「コレステロールが少ない」という意味のようだ。「少ない」を「ナイ」と表記してしまうと、最近の傾向としては炎上しかねないんじゃないかとか、余計なことが心配になる。 もっとも先日、さらにすごいキャッチコピーのついた肉を発見してしまった。都内のとある飲食店の紹介文で、「黒毛和羊」「羊の中で唯一の肉専用種『サフォーク種』」という謎の表記を見つけてしまったのだ。 何が謎かというと「黒毛和牛」をもじったのであろう「和羊」という表記だ。和牛には品種に明確な定義がある。サフォークはイギリス原産で「和羊」ではないし、黒いのは顔など体の一部だけだ。しかも肉用種の羊にはサフォークのほか、「肉めん羊の王」とされるサウスダウンなどもある。 普段なら「信州サフォークは数十頭しか飼育されておらず、幻の羊とも呼ばれています」などの表記はスルーするが、あまりにツッコミどころ満載なので、信州サフォークのお膝元、信州新町支所の産業振興担当に問い合わせてみることに。 まず飼育頭数は「出荷の前後で変わるが、多い時期で約500頭、少ないときには250頭くらい」だという。ケタがひとつ違う。さらに「黒毛和羊」について聞くと、担当者は苦笑いしながら「一時期、そう呼んでいたお店もありましたが、こちらでは、まずそういう呼び方はしません」とバッサリ。 もったいない。あまりにもったいない。というのも、信州サフォークはとてもおいしい羊だ。出荷されるのは、ラムより味が乗り、マトンより香りがやさしいとされる12~24か月までの「ホゲット」。主にチルド・冷蔵で流通に乗せているので、肉の状態もいい。 そこにどんな意図があるにせよ(もしくはないにせよ)、情報はものの価値を操作してしまう。お手軽に「盛った」ところですぐバレてしまう。いいものであれば、そのいいところに向けて、真摯に焦点を合わせ、光を当てたほうが生産者や食べ手にも喜ばれる。あふれかえる情報のなか、ブランディングにも当然のように誠実さが求められる時代なのだ。本来は、いつの時代でもそうあるべきではあるのだが。関連記事■ 武井咲 LAVIE新ロゴ発表会で早着替えパフォーマンス披露■ 子供に大人気 ピカチュウカレーの作り方■ フィンランド人の精子の数 日本人の精子の数の1.47倍■ 北乃きい 腕組み2ショットでウルトラマンもメロメロに!?■ 「スッキリ幸せ女子」平子理沙 スタイル抜群のお腹出し衣装

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    熟成肉ブームの裏に腐敗リスクあり 良質な旨味の見極め方は

     ここ数年、肉を一定期間寝かせてから食す「熟成肉」がブームになっている。 最近ではファミリーレストランの「デニーズ」が熟成肉のステーキを扱ったり、「吉野家」「松屋」といった牛丼チェーンが冷凍の牛肉から冷蔵熟成に調理方法を切り替えたりするなど、身近な外食でも味わえる機会が増えた。 しかし、飲食店関係者によれば、いつもリスクと隣合わせなのだという。「熟成の仕方や期間などに明確な定義や規制がないため、店によって品質・安全管理がまちまちなのが現状です。 これだけ人気になっても消費者側の知識が乏しく、実際には“腐敗”一歩手前の肉を提供する店があっても、『これが熟成肉の特徴なんだ』と勘違いしているケースがある。 一度でも食中毒を出す店が出たら、熟成肉を提供するすべての店が打撃を受けることになるのです」(都内の焼肉レストラン店主) 熟成と腐敗は紙一重――。それは「ウェットエイジング」、「ドライエイジング」という2つの一般的な熟成法と旨味アップのメカニズムを知れば理解できる。 ウェットエイジングは真空パックや布などで肉を包み、乾燥を抑えながら低温で30~50日寝かせる方法。ファミレスや牛丼チェーンは主にこの製法を用いている。 一方、ドライエイジングは空気に触れる低温・高湿度の環境で肉を保管し、扇風機などで風を当てながら水分を飛ばしてじっくりと熟成させる。保存食の意識が強いアメリカでは古くから赤身の肉で取り入れており、日本のブームに火をつけたのもこの製法だ。「ドライエイジングは熟成が始まると肉の表面が黒ずんで青かびが付着してくるが、他の菌を寄せ付けないので肉は痛むことなく、ゆっくりと発酵させることができる。そうしてカビを削って出来上がった熟成肉は、甘みや柔らかさが格段に上がる」(精肉業者) いずれの製法も、酵素の働きで肉のタンパク質が分解され、アミノ酸やペプチドに変化することで旨味が増すとみられている。 この業者がいうには、「腐るか腐らないかのギリギリのところで食べるのが一番おいしく、それ以上寝かした熟成肉はアンモニア臭が漂ってしまう」のだという。 では、良質な熟成肉を見分けるポイントは何か。熟成肉炭火焼店「旬熟成」(東京・六本木)などの飲食店を運営するフードイズム代表の跡部美樹雄氏に聞いてみた。「生の熟成肉の場合は、質のいいものは肉の色がはっきりと赤く、肉臭さがまったくないのと同時に、ほのかにチーズのような香りがします。ねっとりとした触感も特徴的です。また、焼いた熟成肉の場合は、ナッツのような香ばしくも甘い香りがします。 どちらで食べても良質な熟成肉は口に入れた途端にまろやかに溶け出し、肉の脂が体に蓄積されないので食べやすく、胃もたれするようなこともありません」 跡部氏は“究極の熟成肉”を目指し、日々実験や研究を重ねている。店で提供する熟成肉の中には、最高で140日間もの熟成をかけているというから驚きだ。「今後、熟成肉を扱う店舗の人たち、有識者、畜産農家も交えた価値向上のための協会を設立できたらいいなと思っています。 やはりお客様の口に入るものなので、何か事故があってからでは遅い。安全管理を徹底させて熟成肉がブームで終わらず日本人の食文化に定着してほしいと願っています」(跡部氏) 牛や豚の生レバー規制など、食の安全がなにかと問題になっている昨今。だが、消費者自身も、もっと食に対する知識を持ち、新しい食べ方の特徴や好みを見極める「五感」を磨くべきだろう。関連記事■ 1か月長期熟成肉を900度で焼き上げる旨み凝縮極上ステーキ■ 赤身牛肉ブーム 太りたくないが肉を食べたい欲求が満たされる■ 牛丼が「三社三様」の変革期に突入 過去の常識は通用せず?■ 隔離病棟のASKA被告 「第二のシャブ愛人」報道に絶叫した■ ドラマ『昼顔』大ヒット 不倫妻を演じる上戸彩を撮りおろし

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    西洋人を「白人」と呼ぶのはやめろ 差別語を追放する提案

    北原惇(哲学者) 二十世紀も終わりに近づく頃、いくつかの非常に興味のある現象が西洋文明の中に見られるようになった。その一例は一九八九年にアメリカのテレビで放映されはじめた「シンプソン一家」と題されたアニメのシリーズである。これはスプリングフィールドと呼ばれるアメリカの小さな町に住む、ごく平均的なヨーロッパ系アメリカ人一家の毎日の生活を扱ったものである。 これは最初はアメリカ国内だけの放映であったが視聴率の高い番組となり、その後ヨーロッパや日本などで世界的に放映されるようになった。これは息の長い番組で現在でも見られるほどの人気を博す有名なシリーズとなってしまった。 このアニメはシンプソン一家が毎日のように体験するいろいろな事件をおもしろおかしく描写する。それらの出来事はアメリカでの日常生活でごく当たり前に見られるもので、そのためアメリカ人の視聴者ならば誰でもこれらの出来事を直ちに自分のことのように感じとり、一家の人物と一緒になって一喜一憂するわけである。そしてこれがこのシリーズが大成功をした理由であると思われる。 このシリーズの最も興味深い点は、シンプソン一家を含め、スプリングフィールド住民の大多数、つまりヨーロッパ系の住民、が明らかに黄色の肌をしていることである。それと共にアメリカの町であるために少数のアフリカ系の住民も登場する。さらには現在のアメリカを描写しているためにインド系の人物も登場する。これらのアフリカ系やインド系の人物は黄色ではなく濃い茶色の肌に描かれている。そしてアフリカ系住民の肌の色は黒ではなく濃い茶色であるのが注目すべき点である。 このシリーズでよく知られている特徴として政治や文化などあらゆる分野のアメリカの有名人がほぼ毎回登場する。そしてこれらの有名人がヨーロッパ系であっても、その皮膚の色はやはり黄色なのである。 あるエピソードでは一家は日本に行くが、描写されている日本人はヨーロッパ系と同じ肌色かほとんど白と言ってもよい灰色になっている。このエピソードでは日本の有名人として天皇が登場するが天皇の皮膚もシンプソン一家と同じ色となっている。 二番目の例としてスウェーデンで見られた現象を取り上げたい。一九九一年に「新民主党」と呼ばれる新しい政党がスウェーデンで結成され、早くもその年の選挙でスウェーデン議会に党員を送り込むことに成功してしまった。それまでに存在していたスウェーデンの政党のエンブレムは花やアルファベットの頭文字を用いたものが多かったが、新民主党は型破りで、童顔をした若い男の顔をエンブレムに用いた。 人間の顔を政党のエンブレムに用いたこと自体がスウェーデンで型破りであったのはもちろんであるが、更に興味深いのはこの男の顔の皮膚の色が黄色であり、髪の色は黒であるという点である。念のために明記しておく必要があるが、新民主党はスウェーデン国民全体から支持票を得るために結成されたもので、「黄色の肌と黒い髪」の人々を意識して発足した政党ではない。そして事実スウェーデン国民は新民主党を他の全国政党とまったく同じようにスウェーデン人全体のための政党と理解したのである。 三番目の例はデンマークにある「レゴランド」と呼ばれるテーマパークである。このテーマパークの中にはあちらこちらに像が設置されているが、これらの像はすべて黄色の顔をしている。日本でもよく知られている、レゴと呼ばれるプラスチック製の積み木のようなものを組み立てる玩具があるが、レゴランドはレゴを使って組み立てた建物や動物などを多く集めたテーマパークである。 用いられるレゴはいくつかの色のもので、白、黒、黄色、緑色などいろいろあり、白のレゴを選んで顔にするのはもちろん可能である。にもかかわらず立っている像の顔には白ではなく黄色のレゴが用いられている。 四番目の例はオーストラリアで放映された「パジャマを着たバナナたち」という子供向けのテレビ番組である。その題名のとおり、二つのバナナがパジャマを着て二人の人間のようにふるまう。当然であるが主人公二人はバナナであるので体全体は黄色である。これはオーストラリアの子供たちの人気番組で、二〇〇〇年にシドニーで夏季オリンピックが開催された時には二人のバナナも開会式の入場行進に参加した。西洋文明内の意識の変化西洋文明内の意識の変化 筆者は長い間スウェーデンに住んでいるため、日本以外にヨーロッパ、特にスカンディナビアのマス・メディアからも毎日世の中の情報を得ている。それとともにあらゆる種類の広告にもお目にかかる。これらの経験から一貫して言えることは、ヨーロッパでヨーロッパ人の皮膚の色を黄色や薄い茶色に描くことは一般的であり、白く描くことは事実上ない。新聞のように黒と白の選択肢しかない場合は例外で黒を用いないでいるだけのことである。 これまでの世界の常識と慣習ではヨーロッパ人、そしてアメリカやオーストラリアなどのヨーロッパ系住民を「白い」と考え「白人」と呼ぶのが一般的であった。日本も例外ではない。この思想の基礎にあるのはヨーロッパ人は遺伝的に「白い」皮膚をしているのだから「白い人」つまり「白人」であり「白人」と呼ばれて当たり前であるという理屈であるものと思われる。 しかしそれならば二十世紀末ごろからの世界でなぜヨーロッパ系の人間の皮膚の色を明らかに黄色や薄い茶色に描いたりするようになったのであろうか? ヨーロッパ系の人間の皮膚の色が黄色に描かれていてもヨーロッパ系の背景の一般大衆がそれを疑問に思わず、黄色に描くのは間違っているとなぜ指摘しないのであろうか? シンプソン一家のしていることを見ているヨーロッパ系アメリカ人たちが、なぜ彼らの体験することをあたかも自分たちのことのように感じとり、一喜一憂するのであろうか?「シンプソン一家」にほとんど毎回現れるヨーロッパ系の有名人たちが黄色の肌をしていてもなぜそれがおかしい、間違っていると思わないのであろうか? すでに述べた他の例についても同様のことが言える。スウェーデン国民は新民主党の黄色の肌と黒い髪のエンブレムに何の疑問も持たなかった。マス・メディアもこの現象を取り上げたことはなく、人種主義的な発言などまったく現れなかった。レゴランドの像の黄色の肌もこれまで疑問視されたことはない。 西洋文明のこのような認知的な変化にはいくつかの理由が考えられる。一九五〇年代にアメリカで始まった公民権運動の結果、保育所から大学までの人種差別の撤廃や機会均等の思想とその実行などにより、すべてのアメリカ国民は他の人種や民族について考えさせられ接触させられることとなった。その結果異なった人々の皮膚の色や自らの皮膚の色についてより客観的に眺めるようになった可能性が考えられる。 それと共に映画やテレビは白黒から色のついたものとなり、その後インターネットも実用化された。世界の人々は経済的に豊かになったおかげで外国旅行も可能になり、異なった人種や民族と簡単に接触できるようになった。 これらの理由により世界のヨーロッパ系の人々が人間の皮膚の色をより客観的に眺めるようになった可能性が考えられる。別の表現を用いると、世界の民族や人種を色で表現するのは写実的でも科学的でもなく、むしろ文化的、文明的なものであるということを理解し始めたとも推測できる。人種を色によって分類する歴史 西洋文明で人種に関して最初に発表された学術論文はフランソワ・ベルニエという医師によるもので、これは一六八四年に出版された。ベルニエは世界には四種類の人種があるとし、その分類の根拠は地理的なものであった。この論文で注目すべき点はヨーロッパ、北アフリカ、インド、西アジア、そしてアメリカ大陸の先住民を一つの人種としていることで、その特徴は「明るい皮膚の色」であった。東南アジア、東アジア、中央アジアの人々は別の人種のグループと見なされ、その皮膚の色は「白い」とされている。ここで注目すべきはヨーロッパ人は白いとは描写されておらず、単に「明るい皮膚」であるとされ、アジア人が「白い」とされている点である。 カール・フォン・リンネが一七五八年に出版した学術書でも原則として四種類の人種が認識されている。その分類はベルニエの場合と同様に地理的なものであるが、ベルニエに比較すると皮膚の色の問題が強調されている。それによればアメリカ大陸の先住民は赤い、ヨーロッパ人は白い、アジア人は黄色い、アフリカ人は黒いとしている。リンネはこの他に二種類のグループがあるとしているが詳しくは述べていない。 西洋文明の思想史で人種の分類に関して決定的な影響を及ぼした学術書は一七七六年に出版された。それはヨハネス・フリードリッヒ・ブルーメンバッハによるもので、原則的にはリンネの分類方法と皮膚の色の重要さを継承している。しかしアジア人は二種類に分けられ、リンネの認識していた重要ではないとされた二種類のグループは除外されている。 このブルーメンバッハの分類はその後学術的に広く認められ、人類学の歴史の根底に確立された。そればかりでなく、これは世界の「常識」となり、日本も例外ではなく、日本人の「常識」になってしまっている。 二一世紀の人類学では分子生物学、DNAとRNA、YクロモソムDNA、ミトコンドリアDNAなどの研究が基本である。現在の人類学では皮膚の色で世界の人々を分類するなどという考えは全くの時代遅れであり、そのような主張をすれば本職の人類学者には嘲笑される。しかし人類学者ではない一般人にとっては、この古い非科学的な思想が日本でも世界でもいまだに普遍的である。色についての単語が含有している善悪と優劣の意味合いいくつかの疑問 西洋文明の人種についての思想史を簡単にふりかえってみると、いくつかの疑問が浮かんでくる。第一に、ベルニエはなぜヨーロッパ人を「白」ではなく「明るい」肌色をしていると描写したのであろうか? 第二に、ベルニエはなぜアジア人を「白い」と描写したのであろうか? 第三に、リンネとブルーメンバッハはなぜヨーロッパ人を「白い」と描写したのであろうか? 第四に、リンネとブルーメンバッハはなぜアジア人を「黄色い」と描写したのであろうか? 第五に、リンネとブルーメンバッハはなぜアフリカ人を「黒い」と描写したのであろうか? 第六に、ベルニエの学術論文はなぜ最近まで無視されていたのであろうか?色についての単語が含有している善悪と優劣の意味合い ブレント・バーリンとポール・ケイというアメリカの二人の文化人類学者は世界の多くの言語を調査し、大変興味のある結論を出している。それによると、人類の歴史で最初に現われた色についての用語は「黒」と「白」であるとのことである。そして文化が進化するにつれ、他の色を表現する別の用語が現われたという結論を出している。 この研究によれば、人類の歴史の最初の時点では「暗い」ものはすべて「黒い」と見なされ、「明るい」ものはすべて「白い」と見なされた。人類が最初に認知した世界は「黒」か「白」であったわけである。 時が経つにつれてこの二分法は善悪と優劣の意味合いを持つようになった。黒い色は悪い、危険な、怪しい、好ましくない、醜い、劣った、不道徳な、などの状態を意味するようになり、その反面、白い色は良い、安全な、信用できる、好ましい、美しい、優れた、道徳的な、などの意味合いを持つようになった。 これは言語の違いに関係なく世界中の言語で広く見られる現象であるとされている。人類の初期の時点では、生きてゆくためには夜や暗いところは危険であるのでこのような意識が発達したと推測するのも可能であろう。 日本語には「身の潔白」「晴天白日のもとに」「色の白いは七難隠す」「黒幕」「腹黒い」「世は闇だ」「お先真っ暗」「黒い霧」「ブラック企業」などといった表現がある。 英語では「ブラック・マーケット」「ブラック・リスト」「ブラック・マジック」「ブラックメール」「ブラック・シープ」「ブラック・レッグ」「ブラック・ボール」などと言う表現があり、そのいくつかは日本語にも取り入れられている。これらの表現は物理学的な観点から見た光の波長とは全く関係がない。すべて善悪と優劣を象徴しているのである。 西洋文明では「白」は純正、公正、処女性、道徳、美、正直、優越、安全、神、などを象徴し、その反対に「黒」は不純、不道徳、犯罪、醜、不正直、劣等、危険、悪魔、などを象徴している。この対照は日常の言語に見られるだけでなく、大衆文化、文学、舞台芸術、絵画、哲学、神学にも明確に見られる。 ここで注目すべき点はリンネとブルーメンバッハの頃から「黒」と「白」という色を描写する用語がアフリカ人とヨーロッパ人を描写するために使用され始めたことである。西洋文明ではこの他に「赤」「茶色」「黄色」という色を描写する用語も人種描写に用いられるようになった。 これらの五種類の用語が西洋文明の中でそれぞれどれだけ好ましいか、または好ましくないかという点を調べてみると、「黒」は最も好ましくない色で「白」は最も好ましい色である。その他の三つの用語はこの両極端の中間にある。植民地形成と帝国主義を正当化する手段としての人種主義思想考えられる仮説 これらの考察から、すでに述べた六つの疑問に答える仮説が考えられる。その仮説とはつぎのようなものである。十六世紀以来、西洋は世界を侵略し植民地の形成を始めた。それを正当化し実行するために人種主義の思想が必要となり、色の用語の好ましい、または好ましくないという意味合いを利用したのではないか、という仮説である。 この仮説を裏づける根拠も存在する。ベルニエの論文は一六八四年に発表され、リンネの本は一七五八年に出版された。ここには七四年の年月の経過があるが、この間西洋文明には何が起こったのであろうか? 歴史を振り返ってみると、この七四年の間に西洋による世界の侵略と植民地形成が積極的に実行された事実がある。南北アメリカはほぼ完全に西洋のものとなり、先住民たちは侵略され、虐殺され、支配される立場におかれてしまった。 イギリス、デンマーク、オランダ、フランス、スウェーデンなどの国々の東インド会社は植民地形成に積極的に貢献した。一七五〇年代以来、イギリスの植民地形成は世界的なものとなり、ロバート・クライブは一七五八年にインドのベンガルの総督になった。植民地形成と帝国主義を正当化する手段としての人種主義思想 西洋文明が色の用語が含有している好ましい、または好ましくない意味合いを利用して侵略と植民地形成を実行したのには三つの理由が考えられる。 第一に、侵略するヨーロッパ人たちにとって、自分たちをヨーロッパ人と呼ぶには抵抗感があったものと考えられる。なぜなら事実上すべての侵略者と入植者にとって、それはヨーロッパでの悲惨な過去を意識させられることになるからである。彼らは貧乏、差別、飢え、戦争、などの理由によりやむをえずヨーロッパを去らなければならず、ここには罰としてオーストラリアやアメリカに送られた受刑者も含まれていた。 これらの侵略者や入植者がヨーロッパで多大の心理的苦痛を体験させられ、それを何らかの形で軽減し、できれば解消してしまう必要があったことは充分推測できる。 ここで用いられた効果的な解決策は自分たちを「ヨーロッパ人」ではなく「白い人たち」と呼ぶことであった。「白い人たち」は哀れで、貧しく、飢え、迫害され、犯罪を犯した罪人たちではなくなり、全く別の種類の新しく素晴らしい人たちに変身したのである。 これは人種・民族的、宗教的、職業的な理由などで馬鹿にされ迫害されていたヨーロッパ人にとっては特に効果的な解決策であり、侵略し植民地化した地域の先住民に対し罪悪感を持つどころか優越感を持って土地の強奪と殺戮を実行できたのであった。 第二に、「白い人」と自称することにより、自分たちは美しく、知能が高く、勤勉で、正直で、優れていて、すばらしい人たちであると確信できるようになった。これらの美点は「有色人種」には見られるものではないとされ、侵略と植民地形成はごく自然のなりゆきであると解釈できたのである。場合によってはキリスト教が引用され、これらの行動が宗教的に承認され正当化された。 ここに存在していた「白人対有色人種」の思想により侵略と植民地形成は「良い人と悪い人」「優れた人と劣った人」「美しい人と醜い人」「利口な人と馬鹿な人」「勤勉な人と怠け者」「進歩した人と未開の人」という問題にすりかえられてしまったのである。歴史的に見た西洋の人種観 第三に、この「白人対有色人種」の思想により、ヨーロッパ人は自分たちが侵略者や不法な入植者である事実を忘れることができた。「白人」と呼ぶことによって、自分たちは合法的な原住民であると信じることができた。自分たちはその場所に合法的に住んでいる住民の一種であるという理屈を持ちだし、先住民から奪った土地を所有することは当然の権利であると議論するようになった。 したがって奪った土地は暴力をもって守らなければならず、別の侵略者や移民には力をもって対決するという思想になった。自分たちの土地を保持することは当然の権利であり、先住民であろうが他の侵略者であろうが移民であろうがすべて断固として追い払い土地を死守するという考えが常識になった。 これはアメリカでは西部劇の映画にごく当たり前に見られる話であり、のちに各種の移民排斥運動の根拠にもなった。オーストラリアのワン・ネーション党やアメリカのクー・クラックス・クランも別の例である。歴史的に見た西洋の人種観 西洋文明の大規模な植民地形成と人種主義は十六世紀以来のもので、ここには明らかに相関関係がある。しかしそれ以前の西洋では事情は異なっていた。 ギリシャ文明やローマ帝国では人々が野蛮で残酷な扱いを受ける場合があったのは周知の事実である。しかしそれは必ずしも人種や民族と相関したものではなかった。そして異なった人種や民族に対する認識も十六世紀以後の西洋のものとは同じではなかった。 例えばフン族がヨーロッパを侵略したとき、その主導者のアッティラは人種的には明らかにヨーロッパ人とは異なっていたにもかかわらず、当時の記録は特に悪意をもってその人種的特徴を文章で描写してはいない。アッティラは恐れられた侵略者でありヨーロッパ人の侵略者と同じように見なされていた。事実アッティラの肖像がヨーロッパ人のように描かれている点に注目すべきである。 そしてヨーロッパ人は自分たちはフン族には軍事的にはるかに劣っていると理解したのである。そのためローマ法王レオ一世はわざわざアッティラの駐屯地まで出向き、ローマを侵略して壊滅しないよう請願したのであった。 しかしその後西洋文明が次第に強力な軍事力を持ち、世界を支配するようになると、西洋独特の人種主義とそれにともなう傲慢さが現われるようになった。このような思想的変化は西洋の侵略と植民地形成を正当化し、ヨーロッパ人自身を洗脳し、侵略され植民地化された人々たちをも洗脳するのに役立ったのである。 「白と黒」「白人と有色人種」の思想は効果的に用いられた。色の用語「白」は侵略し植民地化するヨーロッパ人を――そしてヨーロッパ人だけを――描写するために用いられ、ベルニエによって「白い」と見なされたアジア人は侵略と植民地形成をするヨーロッパ人ではないために「白」ではなく「黄色」であるとされた。 「白」の対象語「黒」はヨーロッパ人によれば世界で最も未開で、醜く、馬鹿な人たちと見なされたアフリカ人を描写するのに用いられた。ダービンの進化論は十九世紀の半ばに発表されたが、進化論の考えは効果的に利用され、または悪用され、それによって人種主義と植民地形成を正当化し自己満足ができるという利点があった。相反する思想が共存する現代西洋文明 以上の考察からすでに述べられた六つの疑問に答えることができる。西洋の大規模な世界の侵略以前の時点で発表されたベルニエの学術論文ではヨーロッパ人は「白」ではなく「明るい色」の肌をしていると描写された。その後西洋が侵略と植民地形成を世界で実行するようになると、ヨーロッパ人は「白」と見なされ、リンネとブルーメンバッハの考えが学術的な業績として広く受け入れられるようになった。これによって西洋の侵略と植民地形成は学術的に承認され支持されることになったわけである。 しかし二十世紀中ごろにアメリカで始まった公民権運動とそのかなりの成功の結果、ヨーロッパ人は人種の問題に直面し再考することをよぎなくされた。このような知的環境の変化により、それまで無視されていたベルニエの人種についての学術論文も歴史的観点から再認識され始めたものと言える。相反する思想が共存する現代西洋文明 一九五〇年代にアメリカで始まった公民権運動はアメリカ社会に抜本的な変化をもたらし、人種の平等を主張する考えは西洋文明全体に大きな影響を及ぼした。わずか五〇年ほどの間に西洋は大きく変わってしまったのである。しかしこれによって西洋の昔からの人種主義の考えが消滅したわけではない。 二一世紀始めの西洋文明には昔ながらの人種主義と、より客観的な人種観という相反する二つの思想が共存している。この共存現象はマス・メディア、教育界、言語の使い方、大衆文化などに繰り返し繰り返し見られる。 例えばヨーロッパ系アメリカ人は「シンプソン一家」のテレビ番組を熱狂的に視聴し、黄色い肌のシンプソン一家の人々を我がことのように感じとり一喜一憂している。にもかかわらず、同じヨーロッパ系アメリカ人は昔ながらに自らを「白人」と呼んでいる。 南アフリカの住民は「黒人」か「白人」であり「アフリカ先住民」と「ヨーロッパ系住民」とは見なされていない。「黒人対白人」の思想は侵略と植民地形成の犠牲者とそれを実行した侵略者の歴史と現実をたくみに隠蔽している。「白人」とは南アフリカに昔から存在していた人たちと見なされてしまい、「黒人」と「白人」はアフリカの昔からの二種類の人たちのように心理操作をしてしまっているのである。結論 西洋文明が圧倒的な支配をする現在、日本がその支配と影響から逃れるのはほぼ不可能である。西洋文明の思想全般、特にその人種主義も例外ではない。現在の日本では「黒人」「白人」「有色人種」などという、西洋が世界侵略と植民地形成のためにこれまで使用してきた表現に何の疑問も持たずにそれらを受け入れ、使用している。この現象は「右翼」であろうが「左翼」であろうが政治思想に関係なく観察される。 しかし現在の西洋文明にはこれまでの人種主義の言語表現に疑問をもたせるような変化が現われ始めている。読者はこの点を注意深く考えていただきたい。そして西洋から盲目的に移入された人種主義的な用語を日本文化から排除することを熟考すべきである。別の表現を用いれば、これらは差別語であると言ってよい。 それでは人類学者ではない世間の一般人は、世界に現存するいろいろな人たちをどう描写すればよいのであろうか? これはマス・メディアがこのような差別語の使用を避けるためには重要な課題である。 その回答はしごく簡単である。ベルニエが示してくれた、世界の人々の地理学的な分布という出発点に戻り、地理学的な用語を用いればよい。「白人」ではなくヨーロッパ系、「黒人」ではなくアフリカ系、と描写すればよい。必要であればこれを更に詳しくし、南ヨーロッパ系とか北アフリカ系などとすることもできる。アジアは広いので西アジア系、東南アジア系、東アジア系、などとするのが適切である。これによって色の用語が含んでいる人種主義を排除することができるわけである。注:これは二〇〇七年に花伝社から出版された北原 惇著『黄色に描かれる西洋人――思想史としての西洋の人種主義』の要約である。この要約の英語版はMichio Kitahara, "Western Racism as a History of Ideas," Eastern Anthropologist, Vol. 63:3-4, pp. 303-308, 2010 である。きたはら・じゅん 本名は北原順男(きたはら みちお)。1937 年生まれ。横浜出身。武蔵高校卒。1961 年モンタナ大学(米国モンタナ州ミゾーラ市)卒(社会学と人類学の二専攻)。一九六八年ウプサラ大学(スウェーデン)修士課程修了(社会学専攻)。1971 年ウプサラ大学博士課程修了(社会心理学専攻)。同年哲学博士号を受ける。メリーランド大学、ミシガン大学、サンフランシスコ大学、ニューヨーク州立大学(バッファロ)などでの教職、研究職を経て1997 年までノーデンフェルト・インスティテュート(スウェーデン・イエデボリ市)所長。マーキズ・フーズフーその他海外約20 のフーズフーに経歴掲載。英語の著書はChildren of the Sun (Macmillan,1989), The Tragedy of Evolution (Praeger, 1991), The Entangled Civilization (University Press of America, 1995), The African Revenge (Phoenix Archives, 2003) など。日本語の著書は『なぜ太平洋戦争になったのか』(TBSブリタニカ、2001)、『幼児化する日本人』(リベルタ出版、2005 年)、『生き馬の目を抜く西洋文明』(実践社、2006 年)、『ロック文化が西洋を滅ぼす』(花伝社、2007 年)、『黄色に描かれる西洋人』(花伝社、2007 年)、『現代音楽と現代美術にいたる歴史』(花伝社、2009 年)、『脱西洋の民主主義へ』(花伝社、2009 年)、『ポルトガルの植民地形成と日本人奴隷』(花伝社、2013 年)、『戦争犯罪と歴史意識 日本・中国・韓国のちがい』(花伝社、2014年)

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    原節子が満州・朝鮮国境で騎兵銃をぶっ放す!

    下川正晴(元毎日新聞論説委員) 95歳で亡くなった「伝説の女優」原節子さんの珍しいプライベート写真を公開したい。 22歳の彼女が今井正監督「望楼の決死隊」(1943)撮影のため、満州・朝鮮国境の満浦鎮(現在の北朝鮮慈江道満浦市)で、1943年の正月を迎えた時の記念写真である。この映画は、国境警備隊長の妻を演じた原節子が、村を襲撃した匪賊ゲリラ撃退のため騎兵銃をぶっ放す、という破天荒なシーンがあることで知られている。写真は、撮影当時の国境警察署長の官舎で撮影された。 この貴重な写真を紹介しながら、日本映画史に埋もれた日朝合作の傑作「望楼の決死隊」を考察したい。「日本一の女優」(「キネ旬」アンケート)と評された原節子さんの死去は、日本現代史がひとつの帰結を迎えた2015年の象徴的な出来事であり、日本人がバランスのとれた認識を持つための優れた教材であると思うからだ。(以下、敬称略)写真に潜む悲惨な終戦史  写真は、私が大分県立芸術文化短大教授として在任していた2010年、「望楼の決死隊」を上映した際に、国境警察署員だった亡父の遺品として、遺族がご持参いただいた。写真の中段右から5番目(チマ・チョゴリの女性の左隣)が、原節子である。写真の裏には、「昭和18年1月5日、東宝『望楼の決死隊』ロケーション記念撮影(朝鮮平安北道江界郡満浦邑文興洞警察署長官舎)」との記載があった。原節子さん(中段の右から5番目)と地元民ら (C)下川正晴 映画関係者のうち男性陣は警察署で、女性陣は署長官舎で新年の祝宴を開いたという。記念写真を見ると、何人かの日本、朝鮮の女優らしき姿が見える。チマ・チョゴリ姿の女性は、明らかに当時の朝鮮トップ女優である金信哉だ。その他の人物は特定できていない。 写真を所持していたのは大分市の無職、宮明健児(75)である。右端の女性は健児の母親(9年前に90歳で死去)。彼女に抱かれている子供が健児だ。彼は「この写真は父親が大分にいる妹に送っていたために、我が家に残っていたのではないか」と言う。 父親の松夫(明治45年生まれ)は、普通文官(準キャリア)試験に合格した警察官であり、当時は満浦警察署に勤めていた。7年前に96歳で死去した。松夫は戦後、故郷の大分県に帰ったが「朝鮮戦争が起きると、公安調査庁からたびたび復職するように勧められたが、断っていた」(健児の話)という。 松夫は終戦時、新義州にあった平安北道警察高等教育課の幹部(警部補)だった。その際、上司のN課長が一家心中する悲劇に遭遇した。坪井幸生「ある朝鮮総督府警察官僚の回想」(草思社)の「あとがき」にも短く記述されている事実だ。健児によると、真相はソ連に抑留される直前に、課長は短銃自殺、妻と子供たちは服毒自殺したという悲惨な事件だったという。Nは故郷が福岡県椎田町であり、父親の松夫はたびたび墓参に出かけていた。 銀幕引退から52年   原節子は東京五輪が開かれる前年の1963年に銀幕を引退した。この年が戦後史の画期点であることは、再論する余地がないほどに明確である。そして、彼女が亡くなった戦後70年目にして、日本現代史は新たなステージに入った。安保法制、TPPという安全保障、国際経済の重要事項とともに、「原節子の死去」を時代が変わったメルクマールとして、後世は記録するだろう。 しかし、彼女の「不在」がきわめて長期にわたったため、その存在は「伝説の女優」として神秘化された。世界映画史上の「名女優」として、現代の日本人が明瞭に記憶しているか疑わしい。 もうひとつの問題は、名画座やテレビで上映される彼女の映画は、黒澤明監督「わが青春に悔いなし」(1946)小津安二郎監督「東京物語」(1953)など戦後制作の作品が多いことだ。原節子の映画人としてのキャリアは、1935年4月15日、14歳で日活多摩川撮影所に入社し、同年の日活映画「ためらふ勿れ若人よ」(田口哲監督)でデビューしたことから始まる。 彼女の戦前期の映画は、計51本もある。しかし、いま上映される戦前の映画は決して多くない。戦後映画に偏重しているのだ。本稿で取り上げる「望楼の決死隊」にしても、ようやく今年の夏にDVDが出るなど、これまで看過されてきた作品なのである。 この映画の主な特徴を列記すると、以下の通りだ。 (1)戦争のさなかに、朝鮮国境で撮影された希有な作品である(2)「内鮮一体」を基調とする日朝合作の国策映画である(3)米国映画「ボー・ジェスト」を下敷きにした活劇映画である(4)巨匠・今井正監督(戦後は共産党員)が演出した国威発揚作品である(5)朝鮮映画界の巨匠になる崔寅奎(チェインギュ)が演出補佐として参加した―などが挙げられる。日本から「永遠の処女」原節子が出演する一方、朝鮮からは「永遠の少女」と称された金信哉(キム・シンジェ)が出演(巡査の妹役)していることも、もちろん特筆大書すべきである。戦中派による「望楼」批判 戦中派による「望楼」批判  「撃ちてし止まむ」。戦時期の国策映画の通例として、映画の冒頭に登場するのは、激烈なアジテーションだ。 「後援:朝鮮総督府」「制作応援:朝鮮映画制作株式会社」「朝鮮軍司令部検閲済」 「この一編を国境警備の重責に当たる警察官に捧ぐ―」 「演出:今井正」「演出補佐:崔寅奎」「脚本:山形雄策、八木隆一郎」とクレジット。 さらに、 「鴨緑江、豆満江に境される北鮮地方一帯は、日本の重要産業地帯である。しかし、かつては山岳重畳たるこの地に、満州国討伐軍に追われた匪賊の群れが、最後の暴威を逞しうした。昭和10年の頃・・・」と続き、本編が始まるのである。映画「望楼の決死隊」 (C)東宝 主演の国境警備所長(高津警部補)を演じたのは、戦前の二枚目スター高田稔(1899ー1977)だ。彼は崔寅奎監督が演出した朝鮮人特攻隊映画「愛と誓ひ」(1945)にも出演するなど、朝鮮映画との因縁が強まった。 原節子(1920-2015)は、この国境警備所長の妻役である。国境の村の助産婦として貢献する一方、匪賊の襲撃には銃撃戦で立ち向かうという、後代の「永遠の処女」らしからぬ活躍を見せるのは、すでに紹介した通りだ。 この映画に対する批評は、従来、厳しいものが多かった。その代表例が、映画評論家・佐藤忠男による批判だ。講座日本映画史4「戦争と日本映画」(岩波書店)所載の「国家に管理された映画」で言及している。抜粋すると、以下の通りだ。 <朝鮮で抗日ゲリラ運動がなぜ起こったか、彼らの目的はなんであり、なぜ彼らは活動をつづけていられるのかといったことに、この映画はいっさい触れていない。一般の日本人は抗日ゲリラを山賊のようなものだと思っていたのであり、山賊が出没するような野蛮な土地の良民を、日本人が自らの血を流して守ってやっているのだ、というふうに考えて、すませていたからである。それはまた日本政府の公式見解であり、この映画はそれに忠実だっただけである> このような批判は戦中世代の佐藤(1930年生まれ)としては当然の受け止め方であるが、私のように1949年生まれの戦後世代ともなると、自ずから別の感想も出て来る。以下は、5年前に書いた私の記述だ。 <この映画をソウルの韓国映像資料院で見ました。面白かった。なにせ西部劇仕立ての植民統治映画ですからね。それを戦後、共産党に入党した今井正監督が演出し、「伝説の女優」原節子が警備隊長夫人として登場する!! 現在の視点から見ればアナクロニズムの極地ですが、当時の映画の水準からすれば、とてもよく出来た「娯楽映画」でもあった> 我ながら、きわめて軽いノリで書いている。私は毎日新聞ソウル特派員(1989-1994)だったし、コリアに関する関心は大学時代から現在まで継続して来た。「抗日ゲリラ」の意味するものを十分に理解しているが、それでも、この映画は上記のような理由で「面白かった」のだ。 「戦後民主主義」の代名詞  原節子は韓国の映画ファンにも人気が高い。ソウルの有名大学の映画学科教授に頼まれて、写真集「原節子」(マガジンハウス編)を買い求め、韓国まで配達したこともある。彼は現在、韓国映画評論家協会の会長だ。小津安二郎作品などで見た彼女が忘れられないのだそうだ。 この写真集「原節子」の巻末には、佐藤忠男が「原節子の魅力」を書いている。 <原節子は、1930年代半ばから1960年代の初めまで、ちょうど戦争の時期を挟んで30年近く、日本映画界でトップスターの座にあった大女優である><花の盛りのときに戦争の時代を過ごさなければならなかったことは、彼女にとって実に不幸だった><敗戦後、民主主義啓蒙の時代が来ると、知的で生真面目なキャラクターを持つ彼女の出番がやってくる> 確かに原節子の名前は、「戦後民主主義」と関連して語られることが多い。だから国策映画「望楼の決死隊」で、彼女が騎兵銃をぶっ放すシーンには、本当に仰天してしまうのだ。だが原節子は「民主主義」「軍国主義」の二項対立だけで語ることができる女優なのだろうか。 彼女が映画で演じた「進歩的思想傾向は彼女自身とは関係のないもののようである」。佐藤忠男は前出の「原節子の魅力」で、このように述べ「彼女は義兄の熊谷久虎監督の影響下にあり、熊谷監督は右翼的な人だったからだ」と指摘した。 原節子の姉が熊谷の妻だった。熊谷が原節子に与えた影響については、今井正の次のような証言もある。講座日本映画史4「戦争と日本映画」(岩波書店)の中の「戦争・占領時代の回想」である。「望楼の決死隊」朝鮮ロケに関する証言の一部だ。 <宿に着いた晩、原節子がやってきて、今井さん、これ兄(熊谷監督)からですって封筒を差し出すんです。その手紙には、日本は全勢力を挙げて南方諸国に領土を確保しなければならない。その時に日本国民の目を北方にそらそうと目論んでいるのは、ユダヤ人の陰謀だ、この「望楼の決死隊」は日本国民を撹乱しようとするユダヤの陰謀だから、即刻中止されたいというようなことが書いてあった。その影響で原節子までユダヤ人謀略説をとなえるありさまだった> これは、「生身の原節子」を伝える意外な逸話である。 しかし、その今井正にしても、戦後の共産党員という経歴が示す通り、「社会派映画を主に手掛け、戦後日本映画の左翼ヒューマニズムを代表する名匠である」(ウィキペディア)というのが、定番の評価だ。戦後は「戦犯映画」と批判の矛先に戦後は「戦犯映画」と批判の矛先に 今井は「望楼の決死隊」について、前述書で以下のように語る。 <このロケハンの間に、太平洋戦争が勃発したでしょう。戻ると撮影所も戦時色一色になってね、満浦鎮という鴨緑江の中程にある平壌から汽車で20時間もかかる国境の街に、翌年の3月に、原節子や高田稔の俳優も一緒に出発したわけです。朝鮮側からは、浮浪児問題を扱って「家なき天使」といういいシャシンを撮っていた崔寅奎という監督が全面的に協力してくれて、そのおかげで朝鮮の映画スターがずいぶん出てくれたわけです> しかし、この国策映画は戦後になると、一転して批判の矛先に立たされた。 <いつか、どっかから、「望楼の決死隊」というシャシンを戦争中に撮ったそうだけど、戦犯映画だなんて言ってきたから、僕の責任で作ったんだから、ちっとも答えないなんていうことはないんだよ、と言ったことがある。><僕は学生時代、左翼運動をやって何回か引っ張られた後、転向手記を書いたし、戦争中には「戦争協力映画」と言われても仕方ないようなのを何本か作っている。そのことは、自分の犯した誤りの中でいちばん大きいと思っているんです。だから、自分の弱さを知っているだけに、戦後もなかなか自信が持てなかったわけですよ> こういった映画業界の雰囲気が左右して、「望楼の決死隊」をはじめとした戦前戦中期の映画は、今日も上映される機会が少なくなった。本稿は映画人の「戦争責任」を考察するものではないが、テークノートしておきたい。 「望楼の決死隊」は、現在の韓国ではどう評価されているのか?  まず根本理恵が日本語訳した「韓国映画史」(キネマ旬報社)。30人ほどの気鋭の映画研究者が手分けして書いている。「日帝末期の合作宣伝映画」に、「望楼の決死隊」に関する記述がある。筆者は、キム・リョシル(釜山大学国語国文学科教授)だ。 <この映画は軍民一体のイデオロギーを盛り込んだスパイアクション物だ。内容は鴨緑江沿いの国境警備を担当する日本の警察隊が、朝鮮人住民と力を合わせて中国人ゲリラを一網打尽にするというものである。日本でも上映された「望楼の決死隊」は唯一、興行的に成功した国策宣伝映画だが、今井正監督によれば、ハリウッド映画「ボー・ジェスト」(1939)を翻案したものだという> きわめて客観的な評価であり、不思議なことに、僕の「軽いノリの感想」と似ている。硬めの文章にすると、こういう形になりそうな内容だ。評価する韓国の監督、評論家 次は韓国映画界の元老監督である金洙容(キム・スヨン)が見た「望楼の決死隊」だ。彼はなんと、中学1年のころ日本人教師に連れられて、団体で「望楼の決死隊」を見に行った。1929年生まれ。韓国芸術院会員。彼の「生きている歴史の本『望楼の決死隊』」という文章が、韓国の「映像文化情報」2号(1996年冬号)にある。 「中学1年の頃だったか、日本人教師に引率されて団体観覧した」キム・スヨンは、この映画を、最近もう一度見て「警備隊が危機に陥り、家族たちは自決のためのピストルを手にする。破裂する手榴弾、壊れる窓ガラス、壁に当たる銃弾、射殺されるゲリラなど息を呑む場面が絶え間なく演出される。53年前の映画とは信じられない。やはり映画というのは、正確な映画文法に立脚した精巧な編集が生命」であると激賞する。 彼は「映画を見た後、ひたすら勇敢だった警備隊の勝利に、あやうく拍手を送るところだった。しかし、ゲリラが馬賊ではなくて抗日独立軍だったら、と考えると、戦慄を感じた。映画の魔力は観客を敵と同寝させることも出来る」とも評価した。彼らしい正直な感想だ。国策映画「望楼の決死隊」が興行映画的には成功作だったことを立証する文章である。 最後に、韓国映画評論の元老格である金鐘元(キム・ジョンウォン)の名著「韓国映画100年」(ヒョンナム社、2001年)。「望楼の決死隊」に関して、次のように記述する。 <日本人の今井正が演出し、ハン・ヒョンモが撮影した「望楼の決死隊」は、いわゆる国策映画全盛期に作られた多くの作品が、大衆性や質的な面で期待に叶わぬものであったのとは違い、唯一つ、成功した力作としてあげられる。この映画は韓半島の北側、朝鮮と満州が境界を接する国境地帯の満浦鎮(平安北道江界)に出没する共産匪賊(抗日ゲリラ)と戦う日本の警備隊の活躍を、一人の警察官の視点で記録したものである。今井の5本目の作品である「望楼の決死隊」は、映像と音響が鮮明であり躍動的であるという評価とともに、正確な映画文法に基づく編集も関心を呼んだ。> 「映画は映画として評価する」。彼の批評には不動の信念が感じられる。キム・スヨンによる批評にも目を通した形跡がうかがわれる文章である。 「望楼の決死隊」の快感と悲惨  結論的に言うならば、「望楼の決死隊」に対する韓国映画界の評価は、驚くほど高いのである。 これには、映画自体の出来映えが大いに影響しているのは、前述の通りだ。戦中期の日本映画に対しても、このような客観的な視点を持ち得るようになったのが、今日の韓国映画界のパワーの根源にある。それが私の見立てだ。いつまでたっても「被害者史観」にとらわれ、国際水準の外交が構築できない韓国政治のあり方とは対照的だ。もちろん韓国映画界にも「反日史観」による金儲け主義があるのは事実だが、その深層部に真っ当な映画人がいることを見落としてはならない。 「植民地末期の朝鮮映画史の正しい復元のためには、親日と抗日、抵抗と闘争、屈従と拒否の間の複雑な連鎖が現れる植民地朝鮮の日帝宣伝映画を、もう少し多層的かつ多様に読み込むという試行が先行しなければならない」 植民地期の朝鮮映画を分析した若き韓国映画史研究者パク・ヒョンヒ「文芸峰と金信哉」(2008)の結語部分にある言葉であり、彼女の決意表明だ。上記のような日韓映画界の「望楼の決死隊」評を参考にしながら、この映画をご覧頂ければ幸いである。日本が生んだ希代の女優・原節子の騎兵銃乱射シーンに、薬師丸ひろ子ならぬ「カイカン」を感じていただいても結構だが、2015年の私たちは、本稿の冒頭に記した「終戦時の警察一家心中事件」という歴史の真実にも、思いをはせる必要があるだろう。

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    「見栄」を手放せば何事にも動じない心が手に入る!

    蛭子能収(漫画家/タレント) いつも笑顔でマイペース。テレビで観る蛭子能収氏の立ち居振る舞いは、至って自然で無理がないように感じる。そののびやかさは、どういう心の持ちようから生まれているのだろうか? 物事にとらわれない自由の秘訣をうかがった。「自由気ままにやっているわけではないんですよ!」 漫画家とタレントという2つの顔を持つ蛭子能収氏。その幅広い活動の中でも最近とりわけ注目を集めているのが、テレビ東京系で放送されている番組『ローカル路線バス乗り継ぎの旅』で見せる自由奔放さだ。その姿に、視聴者は一種の憧れを抱く。とくに会社勤めのビジネスマンは「あんなふうに自由に振る舞えたら」という気持ちになるのではないだろうか。しかし、蛭子氏本人は、「決してしたい放題に行動してはいない」と語る。 「何も考えていないようでいて、実は考えているんですよ。思いを言葉で上手に表現できないほうなので、誤解されがちなのですが……。 スタッフの指示は必ず守っています。そこから外れることは決してしていません。それ以外の、たとえば『飲食店で何を食べるか』といったことは指示されていないから、好きなものを頼んでいるだけです。それで、その土地の名物ではなく、パンとコーヒーなどを注文したりするのが、視聴者の方々には面白いのでしょうね」 この番組は、路線バスのみを使って4日以内に所定の目的地に到達するというルールのもとで進行する。スタッフと出演者は、時に過酷なスケジュールをこなしつつ、旅の成功を目指す。 「制限時間内の到着が全員の共通の目的。僕も『成功させたい』という強い思いを持って臨んでいます。その中で、許された範囲で僕らしさを出す感じですね。自由そうに見えるのも、実は演技かもしれませんよ?(笑) それはともかく、僕も番組を作るチームの一員として、ちゃんと考えながら仕事をしていることは確かです」仕事はきちんとする。だから、好きなことができる このように、仕事に対する蛭子氏の考え方は意外にストイックだ。しかし、そこにストレスや悲壮感の影は感じられない。この「真剣で気楽」な姿勢は、これまでに就いたどの職業においても持っていたものだという。 「仕事は一生懸命やる。その結果として得られるお金と自由を楽しんで使う。この点は一貫していると思います」 漫画家になる前、蛭子氏はサラリーマンだった。最初に就職したのは看板店。その後、ちり紙交換の仕事を経て、ダスキンの配達と営業を8年にわたって務めた。 「ちり紙交換もダスキンの仕事も、1人でクルマを運転する、自由にやりやすい仕事でした。ダスキンのときはお客さんの家を1日に200軒くらい回るんです。勤務時間は8時間でしたが、ムダなく効率的に回れば5時間で終わります。そうすれば、早く競艇場に行けるわけですよ(笑)。好きなことをするために、どう効率的に仕事をするかを考えていました」先のことを手堅く読むから不安はあまりない ダスキン時代は常に一定の成果を出し、社内の人間関係も良好だったと振り返る蛭子氏。しかし一方で、「漫画家として食べていきたい」という思いもずっと持ち続けていた。「上京して間もない頃から、プロを目指して投稿を続けていました。そうこうするうち、漫画雑誌『ガロ』で賞をいただいて、にわかに夢が現実味を帯びてきました」 こうして、1982年、長年務めた会社を退職。かねてからの夢を叶えたとはいえ、安定した仕事を離れることに不安はなかったのだろうか。「辞めて大丈夫かどうか、綿密に計算しましたよ。当面の貯蓄、退職金、失業保険、今後の収入の見込み。見込みは、連載など、確実性の高いものだけを計算しました。それらと1カ月の生活費を比べて、『これなら生活していける』と判断してから辞めたんです。だから、不安はありませんでした」「収入が3倍なら、いいか」。自分の生き方に固執しない 蛭子氏の漫画は独特の画風とエキセントリックで不条理なストーリーを持っているが、それを描くときの気分は至って呑気なものだそうだ。 「何を描くか悩んでしまう、ということはありませんね。すごい作品を作ろうなんていっさい思っていません(笑)。ただ、締切りは必ず守ります。指示されたことだけはきっちりやるという仕事のやり方は、会社勤めのときから変わっていません」 熱心なファンもつき、充実した漫画家生活を送っていた87年、再び転機が訪れる。「劇団東京乾電池」のポスターを手がけた縁で舞台への参加を求められて出演。その舞台がきっかけで、テレビ出演という新しい道が拓けたのだ。 「恥ずかしかったんですけど、僕は断わるのが苦手なんですよ。頼まれるがままにドラマに出て、バラエティに出て、としているうちに、漫画のファンが離れていってしまいました。作品のイメージとテレビに映る僕のイメージがあまりにかけ離れていたからだと思います」 ずっとなりたかった漫画家という夢をせっかく叶えたのに、漫画家としてよりもタレントとして世の中に広く認知されるようになっていく。そのことに、蛭子氏は悩まなかったのだろうか。 「テレビに出てもらえる収入が、漫画を描いてもらえる収入の3倍くらい高かったんです。しかも、漫画を描くのはなかなかの重労働。『テレビのほうがラクだ!』と思ったら、すぐに気持ちが切り替わりました。抵抗はなかったですね」「仕事が第一。人間関係は二の次」と割り切ってしまおう 1人で仕事をする漫画家と違い、テレビの仕事では数多くのスタッフや共演者とつきあうことになる。人づきあいが増えれば、それによるストレスも増えたのではないか。 「確かに、僕はずっと1人でやる仕事ばかりをしてきたし、性格的にも1人でいるのが好きです。でも、人が嫌いなわけではないんですよ。 人を嫌うのは、決して愉快な感情ではありません。だから僕は、苦手な相手であっても、ネガティブな感情は絶対に見せないようにしています。誰かに対して『2度と一緒に仕事をしたくない』と思うこともないですね。どんな人とでも、頼まれれば何度でも共演します。内心の苦手意識は我慢します」 我慢はしても、ストレスを溜め込むことはない、と蛭子氏。日頃、上司や部下、お客や取引先に対して我慢を重ね、神経を擦り減らしているビジネスマンからすると、ぜひ、その秘訣を聞きたいところだ。 「仕事だと考えているから、我慢してもストレスにならないのではないでしょうか。ビジネスマンの方々も、ビジネスのことを一生懸命にやればいいのだと思います。会社は仕事をする場所であって、人間関係は二の次でしょう。上司が偉そうでも、部下が生意気でも、大した問題ではありません。そんなことよりも、仕事がきちんと進むことのほうが大事だと思っていたら、ラクになりますよ」結構ひどい仕事であっても「断わらない」 仕事のほうが大事とはいえ、他人に嫌われたくないというのは、蛭子氏もいつも思っていることだ。そのためにしていることは至ってシンプル。「笑顔でいること」と「断わらないこと」の2つに尽きると蛭子氏は言う。京都国際映画祭、セクシードレス姿の橋本マナミ(右)の背中(脇?)をガン見する蛭子能収。左はトリンドル玲奈=2015年10月15日、京都市東山区(榎本雅弘撮影) 「いつもニッコリしていれば、嫌われる心配はまずないと思っています。それから、頼まれごとにもできるだけ応えたいですね。単に断わるのが下手なだけということもあるかもしれませんが(笑)。仕事も、パラシュート降下みたいに怪我や命の危険を伴うようなものでない限りは、結構ひどい扱いをされたこともありますけど、どんなものでも引き受けてきました」 スタッフや共演者とは、ある程度の関係を築ければ、必要以上に仲良くすることはないと考えている。 「共演者に自分から話しかけることはまずありません。向こうから話しかけられれば、もちろん話をしますよ。 これは、誰か特定の人と仲良くなることを避けたいと思っているからなんです。『Aさんとはよく話すのに、Bさんとはあまり話さない』という不均衡や、固定された関係ができてしまうことが嫌なんですね。それくらいなら、1人でいたほうがいい。1人を寂しいと感じることもありません」 このように話を聞いてくると、どのような環境も自然に受け入れ、自分らしく生きる蛭子氏の自由さは、決して考えなしのものではなく、むしろ明確な考え方に裏打ちされているものであることに気づかされる。 「そう、意外と計算しているんです(笑)。人間関係もそうですが、お金や生活設計に関しては、さらに緻密に先を読んでいます」仕事なんて、選ばなければいくらでもある! 人によっては、先々のことをあれこれ考えると、かえって不安になるかもしれない。蛭子氏がそうならないのは、「何をしてでも生きていける」という自信が根底にあるからだろう。 「僕は今年で68歳になりますが、もしタレントとしても漫画家としても食べていけなくなったとしたら、別の仕事をすればいいと思っています。また配達業に戻ってもいいし、肉体労働でもいい。 仕事なんて、選ばなければいくらでもあるじゃないですか。将来、食べていけるか不安だという人は、見栄があるんじゃないかな。僕にはないんでしょうね。 昔から、どんな仕事をするか考えるとき、内容にこだわることはありませんでした。仕事はお金を得る手段ですから、『いくらもらえるか』のほうが大事。見栄を捨てれば、生きる方法はいくらでもある。少し見方を変えれば、人生で思い悩むことは少なくなると思いますよ」《取材・構成:林 加愛 写真撮影:永井 浩》えびす・よしかず 1947 年、長崎県生まれ。長崎商業高校卒業後、看板店勤務を経て70 年に上京。ちり紙交換、ダスキンの配達などの職業を経て漫画家となる。その後、俳優やタレントとしてバラエティ番組やテレビドラマ、映画にも出演。『蛭子能収コレクション』(マガジン・ファイブ)をはじめとする漫画作品の他、ベストセラーとなったエッセイ『ひとりぼっちを笑うな』(角川新書)などの著書がある。関連記事■ “コミュ障”のアナウンサーが教える「困らない話し方」■ 12月より開始「ストレスチェック制度」って何?■ 何事も「どうにかなる」という鈍感力を身につけよう■ <松井忠三・竹下佳江特別対談>「セッター思考」とは何か?

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    視聴率男・太川陽介にオファー殺到 56歳で再ブレイクの理由

     太川陽介(56)が売れに売れまくっている。2年ほど前から『ローカル路線バス乗り継ぎの旅』(テレビ東京系)における蛭子能収とのコンビが話題を呼び、テレビ出演の機会が激増。1月30日には、20時台の『ぴったんこカン・カン』、21時台の『中居正広の金曜日のスマたちへ』(TBS系)に連続出演。TBSのゴールデン帯を“ルイルイ色”で飾った。テレビ局関係者が話す。路線バスに乗る(左から)蛭子能収、太川陽介、ゲストの宮地真緒。昨年4月には「出雲大社編」「松本城編」、1月には「出雲~枕崎編」「四国ぐるり一周編」のDVDが発売された「TBSの金曜は、基本的に『爆報!THEフライデー』から『金スマ』まで連続2ケタが続いている。TBSゴールデン帯で、最も好調なのが金曜なんです。逆にいえば、絶対に視聴率を落とせない時間帯。その枠に、連続で“ルイルイおじさん”こと太川陽介をキャスティングした。『ぴったんこ』『金スマ』は、ゲストの人選で数字が決まると言っても過言ではない番組です。『金スマ』は1時間ぶっ通しで太川を特集したわけですから、いかにTBSが太川の持っている“数字”を信用しているかよくわかります」 実際、視聴率を見ると、『ぴったんこ』14.9%、『金スマ』15.2%と、いつもよりよい数字で、太川は結果を残している。「この日に限らず、太川は今まさに視聴率男ですよ。準レギュラーである『ぶらり途中下車の旅』(日本テレビ系、土曜9時25分~)では、太川出演の1月24日に今年度最高の12.2%を記録。前週は7.7%でしたから、かなり伸ばしています。ちなみに、12月20日の2時間スペシャルに出演したときも、11.1%をマークしている。 ゲスト出演した1月11日の『誰だって波瀾爆笑』(日本テレビ系、日曜9時55分~)は、10%を獲得しました。この番組は、毎週だいたい1ケタですから、2ケタに乗せるのは快挙。1人のゲストにスポットを当てる構成なので、太川が数字を持っている何よりの証拠なんです」 それにしても、56歳にしての再ブレイクはなぜ起こったのだろうか。芸能記者はこう語る。 「今、テレビをよく観る層は主に40代以上です。彼らの幼少期や青春時代、太川はアイドルとして活躍していた。1977年にはレコード大賞の新人賞を獲っているし、芸能界におけるアイドル全盛期に、NHKの若者向け音楽番組『レッツゴーヤング』の司会を7年も務めていた。ほかにも、『欽ちゃんのどこまでやるの!?』(テレビ朝日系)、『カックラキン大放送』(日本テレビ系)、『ヒントでピント』(テレビ朝日系)という高視聴率番組のレギュラーだったことも、かなり大きい。振り返ると、太川は昔から“数字を持っている男”だったのかもしれません(笑)。 要するに、有名番組のレギュラーが多かったこともあり、もともとの認知度がかなり高い。そして、何よりも『ルイルイ』のインパクトが強かった。『ルイルイ』に関しては、太川自身も『意味がよくわからない』と言っていますが、あのような歌詞は何年経っても記憶に残る。アイドル時代は嫌だった『太川=ルイルイ』というイメージに、今は助けられていますね」 たしかに、同年代で太川より売れたアイドルは何人もいるが、印象度で『ルイルイ』に勝てるものはそうそうない。前出・テレビ局関係者は、こう分析する。 「現在のテレビのターゲット層である40代、50代に、太川の生き様は訴えかけるものがある。アイドル時代以降、思うように売れず、陰に隠れていた太川が、不遇の時を経て、56歳になって大ブレイクしている。40代以上の男性からすれば、『自分も頑張ればまだ行けるはずだ』と励みになるし、太川をテレビで見掛けなくなった時期も知っているから、共感できるんです。年を取れば取るほど、同年代の活躍は嬉しいものですからね。 また、40代以上の女性からすれば、アイドル時代をよく知っている懐かしさに加え、妻の藤吉久美子に一途で、大事にしている姿も応援したくなる要因のひとつ。家事も積極的にこなし、子供の面倒もよく見る太川は、『こんな夫がいたらなあ』という主婦の願望を体現しているんです。『バス旅』でも、わがままな蛭子能収への温厚な対応を昔から、途切れることなく続けている。画面から主婦に『偽りのない優しさを持っている』と伝わっているのでしょう」 若い頃もがき苦しんだ太川は、56歳にして時代の流れに乗ったようだ。関連記事■ クリス松村が独自視点で綴ったアイドル論 特典商法に警鐘も■ 太川陽介 バスの旅で最もイライラした蛭子能収の言動を告白■ 太川陽介 旅番組が高視聴率連発で「何か持っている」の声も■ 950曲掲載 ジャケットだけでも楽しいアイドルディスクガイド■ 94cmJカップアイドル こぼれちゃった“下乳ショット”5連発

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    蛭子能収 何してもうまくいく千人に一人の手相と絶賛される

     鑑定予約は14か月先までいっぱい、メディアに引っ張りだこの喫茶店のスピリチュアルマスター・室井健助さん。そんな彼の霊視相談に現在“裏視聴率男”と再ブレーク中のあの人が登場。天然キャラの裏に潜むのは、幸運か悪運か…? 自分の孫の名前が覚えられない。葬式のかしこまった感じが苦手で、ヘラヘラ笑ってしまう。グルメ番組のロケでも特産品を無視して食べたいものを食べる…蛭子能収さんには数々の“伝説”がつきまとう。  だが、当の本人から「嘘をつくのが苦手だから、もし占いが当たってなかったら違うって言っちゃう。平気かなぁ、怒られないかなぁ」と頭をポリポリされると、その自由さこそ魅力だと感じられる。“へへっ”と笑う蛭子さんにつられて自然と笑みがこぼれるムロケンだったが、その右手を見た瞬間、彼の表情が一変した。室井:いやあ、驚きました。1000人に1人のすばらしい手相です。“超大運線”といって、頭脳線も感情線もまっすぐ突き抜けた線が1年くらい前から出現しています。これは何をしてもうまくいくすごい手相なんです。しかも生命線も4本もあって長生きする。お顔を見ても、肉厚の大きな鼻も濃い眉毛もお金がどんどん入ってくる証拠です。絶好調ですね。蛭子:え~…自分では鼻が大きくて顔がちょっと整ってないもんで、嫌だなと思っていたんですけど…。その、大運線っていうのは、いつまであるんですか。今年はたしかに忙しいけど、来年になると心細いから。室井:いやいや、10年、20年先までずーっと続きますよ。蛭子:それまで生きてないかも…。室井:長生きしますから大丈夫ですよ(笑い)。テレビにはあと30年は出続けられます。タレントとして売れている限り、漫画も、ほかの仕事も入ってくる。それに、仕事がうまく回るときは、健康運も家庭運もすべてがうまく回ります。こんなにうまくいってるのは、なんでだと思います?蛭子:やっぱり“路線バス”(テレビ東京系『ローカル路線バス乗り継ぎの旅』)が当たったからでしょう?室井:いや、大運線が出るまでは、そこまでブレークしていなかったはずです。とくに若い時は苦しかったですね。芸能界に入った直後は少し(仕事が多くて)よかったけど、40才くらいでグッと落ちて、そこからは細々と低迷期が続きましたよね。お金は入ってもすぐ出ちゃっていたし。蛭子:ちょうど賭け麻雀で捕まっちゃって、仕事がなくなった時ですね(苦笑)。まあ、ギャンブルも好きですし。室井:でも破産とか借金までには至らず、なんとかなっちゃうんですよね。それは、蛭子さんがすごく守護霊に守られているからなんですよ。たとえ事故に遭っても、無傷かかすり傷で済むタイプ。大病になったこともないはずです。お墓参りとか、結構されているんですね。蛭子:はい、死んだ女房の墓参りは行ってます。室井:うん、奥さまもちゃんとそこにおられますね。おじいさんとおばあさんも。そしてお金の入るかた、えびす顔をした人がほんとについていますよ。蛭子:なんかちょっと怖いな~、ここにいると思うと(笑い)。でもそんなに金運いいのかなあ、ギャンブル、ものすごく負けてるんですけど。室井:お客さんが勝ち続けたらギャンブルの運営会社がつぶれちゃうでしょ。そうならないような仕組みになっているんだから当然ですよ(苦笑)。蛭子さんは女性関係は全然だけど、ギャンブルに関してはスケベ根性があるから、100円しか手元になくても、最後のそのお金も賭けちゃうんですよね。蛭子:そうそう! よくわかったなぁ(笑い)。室井:もしもっと金運を高めたいと思ったら、その立派な鼻を、いつもきれいにするよう心がけるといいですよ。勝負事の時に鼻をこするとか。蛭子:わぁ、それなら簡単だからやってみようかな!関連記事■ 和室のYURIと洋室のYURI つい太ももに目が行っちゃいます■ 櫻井翔「男は周りの女の子は自分のことが好きだと思ってる」■ 中谷美紀の白くて柔らかそうなナマ脚に悶えちゃいますね■ 橋田壽賀子「次はイチローを通して米国人を描きたい」と告白■ 「豊かな胸羨ましい」と言われ30万円補正下着買わされた女性

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    広島vs大阪!? お好み焼きルーツ戦争

    歴史街道編集部 世の中にはふたつの派閥があります。広島風お好み焼き派と、大阪風お好み焼き派。 しかしどちら派にせよ、どっちでも良いよ! という方にせよ、意外とそのルーツを知っている人は少ないのでは? 広島風と大阪風、どう違うの? という疑問にも触れつつ、探ってみましょう。【広島風vs.大阪風】そもそも何が違うの? お好み焼きをよく食べる方にとっては当たり前かもしれませんが、意外と知られていないのが、そもそもの違い。 中華そばが入っていれば広島風なんでしょ? と思っている方も多いかもしれませんが、それは違います。大阪風でも、そばを入れれば「モダン焼き」として成立してしまうので、本質的な違いではありません。 二つの違いは、その作り方にあります。 大阪風は、生地と具材を一緒くたに混ぜこんでからおたまですくって平らに焼きます。 広島風は、まず生地をクレープ状に鉄板に薄く伸ばし、その上にキャベツをどさっと置いて、さらにその上に豚肉をかぶせ、いったんひっくり返します。その脇でそばと卵を焼き、お好み焼きをその上に乗せて、もう一度ひっくり返して出来上がりです。 違いは断面図を見てみると一目瞭然。生地でつながった素材が均一な大阪風に対し、広島風は層状なのです。広島風は大阪風より分厚いことが多いいつから生まれたの? お好み焼きの起源については実は確固たる証明がなされているわけではありませんが、いわゆる「一銭洋食」の発展形だろう、という説が有力です。 単純に小麦粉を焼いただけのものなら江戸時代にも既に食べられていましたが、昭和初期、西日本の駄菓子屋で子どもたちに流行った一銭洋食というおやつは、かなり現在のお好み焼きにも近いものでした。 小麦粉を薄く焼いて、ねぎや粉ガツオ、とろろ昆布などをちょちょっと乗せて、ソースをかけて半月状に折って食べるのです。 しかしそれは、その名の通り、あくまで安い子供向けのおやつ。大人が喜んで手を伸ばすようなものではありませんでした。(ただ、今でもお持ち帰り用のお好み焼きを半分に折ってパックに入れるお店があるのは、その名残かもしれません) ところが戦争が終わり、物資が乏しく、特に深刻な米不足に悩まれた日本では、俄然小麦粉に注目が集まるようになりました。 小麦粉を「メリケン粉」とも称する通り、アメリカ軍が多くの小麦粉を提供したのです。ここに、大阪でも広島でも、お好み焼き文化は花開くこととなりました。こちらは大阪風広島風が「ああなった」理由は…… 殊、原爆の被害で食糧不足が著しかった広島では、このメリケンの粉が非常に重宝されました。広島で、大阪と比べて小麦粉の使用量が少なくて済むお好み焼きが根付いたのは、そこに理由がありそうです。 また、広島市内では、観音ねぎというねぎ(九条ねぎの一種)が作られており、始めはそれを入れて食べていましたが、次第に、もっと安くてボリュームのあるキャベツを大量に入れるようになります(小麦粉の少なさを補うためかもしれません)。さらに復興が進むにつれ、大人の腹も充分満たせるよう中華そばやうどんも加えた「広島風」の形が出来上がっていったのです。 ちなみに、広島にいらした方は覚えがあるかもしれませんが、広島のお好み焼き屋さんには、「みっちゃん」「れいちゃん」という女性のあだなのような店名が少なくありません。それは、戦争で寡婦となってしまった女性が、焼け野原で女手一つで生きてゆくために出したお店が多いからなのです。*** では、お好み焼きの「元祖」は広島とも大阪とも決めがたいのでしょうか? 後編では、東京の下町フード、もんじゃ焼きも仲間に加えて、お好み焼きの歴史を整理してみましょう。【後編】広島風vs.大阪風 結局、どっちが元祖なの? 前編では、広島と大阪のお好み焼きのそもそもの違い、そしてその違いが生まれることとなった広島独特の事情について探っていきました。 が。つまるところ、どちらのほうが歴史が古いのでしょうか。【広島風vs.大阪風】結局、どっちが元祖なの? 正直なところ、広島風も大阪風も、昭和初期に子どもたちの間で流行した「一銭洋食」が発展したものです。 もちろん、原爆投下で文字通り壊滅した広島において、「小麦粉の使用量を減らしながらもお腹がいっぱいになる」今の広島風お好み焼きのスタイルが定着したわけですが、ルーツは大阪風と同じ。 では、その「一銭洋食」発祥の地はどこなのでしょうか? それを探るためには、一銭洋食が流行するさらに前の時代に遡る必要があります。ルーツのルーツのルーツは…… そもそも小麦自体は、日本では弥生時代から食されていた伝統的な食材でした。ただ、この頃は小麦を重湯のようにして食べていたのみで、これを粉にするという発想はまだなかったようです。 しかし奈良時代には、留学生・吉備真備が、唐で学んだ料理を日本に持ち帰ります。彼は小麦を粉にして水で溶き、薄く伸ばして焼く、「煎餅(せんびん)」を作りました。ただ、それが国内に受け入れられるには、もっと時間が必要でした。 そして時は安土桃山。豊臣秀吉に仕えた茶人・千利休がお茶菓子として、「麩焼き」という和菓子を作らせます。これは、小麦粉を水で溶いて薄く焼き、味噌や砂糖を塗ってからくるくる巻いたもの。 吉備真備の煎餅の発展形でしょうか。利休の茶会の記録をまとめた『利休百会記』にもしばしば登場し、定番のお菓子だったようです。 これが江戸以降も受け継がれ、明治には新たな展開を見せます。 西洋文化の流入激しい東京、下町の駄菓子屋で人気を博した――そう、もんじゃ焼きです。路地裏のお店で、家には無いような大きな鉄板を使って友達と一緒に焼くというスタイルが、子どもたちに受けました。 名前の由来は、子どもがその鉄板に生地で文字を書いて遊びながら食べていたこと。もじ→もんじ→もんじゃ、と変化したのです。 ただ、とろとろのもんじゃ焼きはお店で鉄板に向かわなければ食べられません。同じ小麦粉料理で、テイクアウトや移動販売ができないか? そこで、もっと水分を少なくし、生地を固くした「どんどん焼き」が考案されます。 どんどん焼きは人口の密集した東京ではあまり広まりませんでしたが、むしろ地方に伝播し、大いに受け入れられました。 そしてこれが、関西で「一銭洋食」と呼ばれ親しまれたのです。しかも、その流行の中心地は、意外にも京都でした。ただ、次第に大阪、広島でも流行を見せ、太平洋戦争を経て今に至るのです。*** 煎餅、麩焼き、もんじゃ焼き、どんどん焼き、一銭洋食、そしてお好み焼きへ。身近な大衆食にも、意外と長い歴史が隠れています。 ただ、広島vs.大阪、お好み焼きルーツ戦争、東京に勝利を奪われるのは、地方出身者にはちょっと悔しいかもしれませんね。関連記事■ 「たこ焼き」と「明石焼き」と「ラヂオ焼き」■ 小岩井農場の「小岩井」は地名じゃない!?■ 「低糖質ダイエット」論争、体験者の言い分■ 疲れない身体を作る食習慣 4つのポイント■ やせたい人は、今夜もビールを飲みなさい―メタボが気になる方に朗報!

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    棚橋弘至は力道山と猪木を超えられるか

    もあります。プロレスは輝きを取り戻すのではなくて、もっと輝き続ける。僕はそう信じています。(聞き手 iRONNA編集部 川畑希望)たなはし・ひろし  昭和51(1976)年、岐阜県生まれ。平成11年、立命館大学法学部卒業後、新日本プロレスに入門。キャッチフレーズは「100年に1人の逸材」。類まれな肉体美と全力投球のファイトスタイルが人気を集める新日本プロレスのエース。第45・47・50・52・56・58・61代IWGPヘビー級王者。同王座の最多戴冠記録(7回)、通算最多防衛記録 (28回)保持者。著書に『棚橋弘至はなぜ新日本プロレスを変えることができたのか』(飛鳥新社)など多数。

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    男たちよ、デートではおごりなさい

    細川珠生(政治ジャーナリスト) 新年度を前後して、特に気になっていたことが二つある。一つは産休・育休明けで職場復帰を望んでいた人たちの動向。もう一つは新入社員たちのこれから、である。 前者については、年度初めでの職場復帰に向けて、数か月前から“入園活動”に勤しみ、それでもなかなか入れる保育園が見つからないと焦っていた女性たちが、その後、職場復帰を果たせたのかどうかということだ。ちらほらと耳に入ってくることは、「職場とは逆方向の保育園だけど、何とか入れた」「できたばかりの、薄暗いキッズルームで、不安はたくさんあるけど、そこしかなくて」など、決していい条件ではないケースが多い。政府は、少子化対策として、またアベノミクスの目玉政策でもある「成長戦略」の一つとして、待機児童の解消に力を入れているはずだが、それでもまだ足りないのである。 後者については、社会人一年生が、会社をすぐにやめず、しっかり生き抜いていけるのかということだ。この春の新入社員の就職内定率は、大卒者で86・7%、7年ぶりの高水準という。しかし、せっかく入社したにもかかわらず、大卒者の3年以内の離職率は32・4%。1年以内でも13・4%。留学や転職などの前向きな理由もあるが、「見込み違い」が圧倒的に多く、思っていた仕事内容や職場環境、人間関係ではないと、あっという間に辞めてしまうのだ。 社会での活躍の場を求め、必要な社会の整備や意識改革を強く求める女性たちと、片や男性でも、嫌なことがあるとすぐに辞めてしまうという現状。私は同性でありながら、彼女らの主張のすべてに共感するわけではないが、それでもその心意気は大したものだと思う。自己実現に対する強い意欲は、男性以上である。 周囲を見回してみれば、特に若い男性には、いわゆる“草食系”がいかに多いかと実感する。残業を嫌がることはもちろん、海外赴任も嫌、職場の飲み会や懇親会も行きたくないのだそうだ。「夫は外、妻は家」という性別役割分担意識も、「そうだと思う」という20代の独身男性は約4割。できれば妻も働いて、家計を支えてほしいと思う若者が、半数以上になっている。巷間言われるような景気回復を実感できない現状では致し方ないとも思うが、自分が将来、結婚して家庭を持ち、一家の「大黒柱」として家族を養っていくという意識や、そもそも「大黒柱」などという感覚すら前時代のものとなっているようだ。 聞けば、今の若い人たちは、デート代も割り勘が基本。女性に支払ってもらうことに、躊躇や恥じらいもないことも珍しくないという。もちろん、お互いの年齢なども関係するが、それでもすべてが同等ということには、私は違和感がある。 もう何年も前からだが、彼女のバッグを持ってあげている男性が多いことに驚いてしまった。荷物の多さや重さにかかわらず、「持ってあげる」という優しさはよいとしても、女性物のバッグ一つ、男性が肩から掛けているのは、恥ずかしくないのだろうか。持つ方も持つ方だが、持たせる女性にも大いに問題がある。 自分に合わせてくれる心地よさを感じたとしても、好みの違いはあれども結局のところ、女性は頼りがいのある男性を好むはずである。どんな社会状況、職場環境であっても、力強く生き抜く男性こそ、結婚相手となりうるのである。女性が高学歴化、高収入化し、晩婚化が進んでいる。当然、求める相手の条件も高くなる。50歳時の未婚率は、男性は女性の2倍の20・1%だという現実が、いかに男性が女性に頼りにされていないかを象徴しているように思えてならない。セクハラと言われるかもしれないが、男性の非婚化も深刻な社会問題だと私は思う。 男女雇用機会均等法の施行後に社会に出た私の世代も、まだまだ「男性優位社会」にどっぷりと浸って生きてきた。その中でも、自分の能力を生かし、努力して活躍している女性たちもたくさんいる。そこには、私たちの親の世代が、「男らしさ」「女らしさ」という教育を否定しなかったからこそ、自らの役割をしっかりと自覚し、お互いの能力を尊重し、それが結果として、社会のバランスを保つことにもなってきたように思う。 とにもかくにも、男性は、女性が努力して開拓しようとしている今の社会の中で、その勢いや意欲に負けないように、それを上回る力で努力しなければならないのである。「俺が家族を養う」とか、「俺がデート代は払う」という気概を、特に若い男性には持ってもらいたい。ほそかわ・たまお ‘68年東京都生まれ。聖心女子大学卒業。米ペパーダイン大学政治学部留学。20代よりフリーランスのジャーナリストとして政治、地方自治や教育を中心に取材、執筆、講演活動等を行う。2003~2011年 品川区教育委員。現在、国土交通省有識者会議等の委員、星槎大学非常勤講師を務める。「細川珠生のモーニングトーク」(ラジオ日本・毎土7:05~7:20)放送中。「政治家になるには」「自治体の挑戦」他、著書多数。父は政治評論家の故細川隆一郎。  

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    「感動をありがとう」にノーセンキュー

    加地伸行(立命館大フェロー) いつだったか、もう忘れてしまったが、日本代表として出場した女子マラソン選手が入賞後のインタビューでこう言っていた。「自分で自分を褒めたい」と。 なるほど。利己主義全盛の今日、まことにずばりとよく言うよ。あんたの旅費から合宿費、強化訓練に使われた費用などなど、大半は国費ではないか。もちろん国民のそれこそ血税ではないか。 とすれば、まずは祖国の日本に対して感謝のことばが最初にあるべきである。第一、日の丸ゼッケンを付けている。誰のお蔭で、そして誰のために走っているのか。 祖国のことより自分のこと、これが現況である。それがことばにしぜんと出てきている。 もっとひどいのは国立大学の教員や学生ども。彼らの中で、国営されている大学を通じて国家に感謝している者が何人いるのであろうか。ほとんどの者は、感謝どころか、逆に不満を洩らしている。 そういう中で感心したのは、山中伸弥・京大教授。同氏はノーベル賞受賞時のインタビューにおいて、国家の名を背負っていることと感謝とをきちんと述べていた。人物である。 一応の人であるならば、自分の立場とは、社会的にどういうものであるかということを考えた上での発言でなくてはならないのに、それができていない人が多い。今やテレビ名物の一つとなってきている謝罪会見でそれがよく分る。 例えば、こう言う。自分側の失態であるのに、「皆さまに御心配をおかけしまして……」と。 何を言う。だれもあんたのことやあんたの組織について心配などしていない。そうではなくて、怒っているのだぞ。相手の自分に対する怒りや侮蔑や非難などを実感せず、つまりは心からの反省がないから、失態を同情へ引きこもうとする。それは、真の謝罪などないことを自ら示している。厚かましいのである。この厚顔無恥が利己主義者の態度であることは言うまでもない。 さて、今やことばの世界の主流は、テレビとインターネットとになってきた。残念ながら、新聞や雑誌はその後塵を拝している。まして書籍はますます趣味的となってきている。 しかし老生は、インターネットとはまったく無縁なので、その世界の話は分らないし、もちろん知らない。辛うじてテレビは折節見る程度の、時代遅れの人間である。それだけに、逆に気になることによく出会す。 例えば、共同作業のときの合言葉。物体を数人で持ち上げるとしよう、老生が幼少時から身に付いているのは、「1、2の3」の掛け声の内、「3」でぐっといっしょに持ち上げる方式。それが本流であった。 ところが近ごろは違う。テレビでそういう場面を見ていたとき、こうだった。「1、2の3、よいしょ」であり、「よいしょ」のときにぐっといっしょに持ち上げたのである。それを見ていて老生はこけた。いや、心が折れた。共同作業のしかたが根本的に変ってしまっているのだ。しかし、「1、2の3、よいしょ」はないでしょう、「1、2の3」ですよ。 どうしてそのように変化したのか、その理由らしきものとしては、どうも西洋流のカウントダウン方式のような気がする。 「5、4、3、2、1、発射」である。この「発射」が「よいしょ」に当るのではあるまいか。 となると、美輪明宏の持ち歌、「ヨイトマケの唄」も「トオちゃんのためなら、エーンヤコラ」の「コラ」で落す打杵は、後世、「エーンヤコラ、(よいしょ)」と一呼吸置いての落下になるのかもしれない。歌は世につれ、人につれではあるわ。 事実、テレビにおいては、或る映像を映し出す前にカウントダウンを取り入れており、順に「(3)、(2)、(1)」と数字を示して、その次に映像の登場。もうこれはふつうになっている。「(3)、(2)、(1)」の(1)のところで映像が示されることはない。 そういう変化の中で、新聞紙上、最近すごく気になることばがある。それは「も」という助詞の使いかたである。 「も」のふつうの用法は、並べるときである。「リンゴもバナナも食べた」というふうに。もちろん、古文にまで溯るならば、強めることや感動を表わすこともあるが、それは現代文ではほとんど現われない。 ところが、新聞の見出しにおいて、異様と言ってもよいような使いかたが近ごろなされている。例えば、次のような見出し。 (1)橋下再選も議会運営困難 (2)円安も輸出拡大遅れ (3)直訴も幹部不問 (1)は、「橋下再選があったとしても」、(2)は「円安になっても」、(3)は「直訴をしたとしても」といった意味である。すなわち、「も」を「……だけれども」と逆接の意味に使っているのである。 逆接の助詞となると、形の上で「も」字があるものを拾ってみると、「行かなくとも」の「とも」、「行けども」の「ども」がある。 すると、この「……するとも」・「……すれども」の「とも・ども」の「と・ど」を抜いて「も」に逆接の感じを被せたのであろうか。 これには、老生、非常に抵抗を覚える。「するとも」或いは「すれども」の意を勝手に「も」一字に託すのは、国語の破壊ではないのか。 そういう勝手な「も」用法が産経新聞の見出しにも増えている。これは改めるべきである。 推測であるが、見出しという短いスペースであるため、そこにぎゅっと意味を圧縮して示したいのであろうが、それは邪道である。 不自然なことばづかいはしないことである。「感動をありがとう」だの、「元気をもらいました」だのなどというような、気障で歯が浮くような不愉快なことばづかいがテレビで多く飛び交っている。なんだか今や〈節度〉という心得がなくなってきているような感じである。 しかし、現代ではもはやテレビの存在を否定することはできない。それはそれとして避けられない現実である。 とすれば、結局は国語教育を充実させるほかないという基本に帰ってくる。 ただし、「国語」の意味が分っていない人が多いので、あえてその定義を記しておこう。「国語」とは、「国」家の歴史・文化・伝統を背景として展開してきた言「語」であり、その中間を省略して「国語」と言う。だから必然的に古典が入るのだ。 「日本語」というのは、日常会話レベルのもので外国人用。外国人は日本語は分っても我が日本国語は分らない。 同じく、日本人は英語や米語はできるようになれるが、英国語や米国語は一生かかってもできない。英・米それぞれの歴史・文化・伝統が身についていないからである。 われわれ日本人にとって大切なのは国語である。英米語はいくら学習しても底が知れている。国語学習の徹底が今こそ求められているのだ。かじ・のぶゆき 昭和35年、京都大学文学部卒業。名古屋大学・大阪大学・同志社大学教授を歴任。現在、大阪大学名誉教授、立命館大学フェロー。文学博士。中国哲学専攻。著書に、加地伸行著作集全三巻(『孝研究』『中国論理学史研究』『日本思想史研究』・研文出版)、『儒教とは何か』(中公新書)、『沈黙の宗教―儒教』(ちくま学芸文庫)、『論語全訳注』『漢文法基礎』(講談社学術文庫)など。    

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    マタ? モラ?… ハラハラし過ぎだ!

    小浜逸郎(批評家)♪トントトトン、チリテンシャン熊 兄ぃいるかい。いつも物知り気取ってるから一寸聞きてえと思って来たんだが。兄 気取ってるたぁご挨拶だな。俺は気取ってるんじゃなくてほんとに物知りなの。熊 へいへい。じゃ聞くけど、セクハラって知ってっか。兄 バカにすんじゃねえ。おめえみてえなスケベ野郎がよ、女が嫌がってんのに抱かせろって迫ったり、ケツ触ったり、いやらしい言葉吐いたりすることさ。熊公、やってんじゃねえか。事と次第によっちゃあお上に引っ張られんだぞ。熊 兄ぃこそてめえの心配してもらいてえな。じゃ聞くけど、パワハラって知ってっか。兄 知ってっかもねえもんだ。仕事場なんかで権柄づくで手下に無理強いすることよ。熊 おう、なかなかやるじゃねえか。兄 あったりめえよ。お次はなんでえ。どんと来い。熊 お次はマタハラ。兄 マ、マタ、マタハラ?……なんでえ、やけに「ハラ付き」ばっかし集めてきやがったな。いってえぜんてえどういう風の吹き回しだい。ハラハラさせんなこんちくしょう。熊 (小声で)知らねえんだな。ついでにもう一丁。モラハラって知ってっか。兄 この野郎、俺を試す気だな。その手は食わねえ。まずマタハラから行こう。マタハラってのはな、その、つまりな……股と腹の間あたりにツボがあるってことで、漢方のほうの用語よ。熊 そんなバカな。兄 バカとは何だ、バカとは。熊 漢方だったらもっと小難しい言葉使うぜ。肩井とか曲泉とか。兄 日本語になまったの! ……じゃ、なにかい、てめえ知ってんのか。熊 知ってますよー。マタハラってのはさ、マタニティ・ハラスメント。子ども孕んだり産んだばかりで仕事してる女に、辞めてもらうためにいろんな嫌がらせすることよ。格下げとか仕事移すとか給金減らすとか辞めろって言うとかな。不景気な昨今、こういう女多いだろ。んで、いま世間じゃそういう目に遭った女が訴え起こしてる例がけっこうあるって話さ。兄 この野郎、よく調べやがったな。それだけ知ってんなら俺に聞くこたぁねえだろ。でもよ、ちょっと待てよ。雇ってる親方や大旦那のほうからすりゃ、そういう女はどうしたって働きが落ちるし続かねえことが多いから、辞めてもらいてえって思うのは当然じゃねえのか。そりゃ、じめじめした嫌がらせやるなんざ、俺もでえきれえだけどな。熊 なるほど。兄ぃもたまにはいいこと言うな。兄 ぬかすな。だから言ってんだろ。世間よく見てる俺が知らねえことはねえんだって。熊 さっきは漢方がどうのこうのとヘンなこと言ってたじゃねえか。兄 うるせえ。物知りってのはな、ただ知ってる知らないじゃねえんだ。ここ(と頭を指して)が使えるか使えねえかって話のことよ。いいか、熊公。まだあるぞ。何も大きな腹抱えたり乳飲み子抱えたりしてまで無理して働くことねえだろう。うちの嬶も金坊産んだときは育てるのに手一杯でてえへんだったぞ。こう見えてもそん時は俺も仕事いっぺえ取ってきて頑張ってな、おまけに思いっきり嬶に優しくしてやったもんだ。熊 ごちそうさまってもんで。でもそれができりゃいいけどよ。おまんま喰えなきゃ、嬶にも働いてもらわなきゃなんねえんじゃねえか。稼ぐのが好きで働きてえ女もいるし。兄 そこよ。そりゃ働き好きの女もいるさ。だけど世の中そんなに甘くねえ。大方の女は安い給金でこき使われるのが落ちだぜ。お上はそういうことちっとも考えてくれねえからな。熊 ふーむ。何だか話がややこしくなってきやがったな。兄 ややこしい話持ち込んだのはてめえだろうが。もっとややこしいこと言うとな。そのハラワタとかカタハラとかいうヤツ、お上に何でも訴えりゃいいってのは少し筋が違うんじゃねえか。熊 てえと?兄 つまりさ、そりゃなかにはひでえ嫌がらせもあるかもしんねえけどよ、孕んだ女や乳飲み子抱えた女は負担が大きいから、親方のほうで気ぃ効かしてな、そのぶん軽い仕事に代えてやるとか、責任減らしてやるって気持ちでそういうことを勧めてる場合も多いんじゃねえの。そうだとすりゃ、そりゃむしろ人情ってもんだぜ。それをおめえ、カタハラだあ、カタハラだあって騒ぐと、親方ともギスギスしちゃう。こりゃあんまりいいことじゃねえと思うんだがな。大事なのは人情だよ、人情。熊 そういう場合が多いかもな。今日は兄ぃ、何だか坊さんみてえな悟ったこと言うじゃねえか。でもたしかに、分限をわきまえねえで騒ぐのはみっともねえ。それはそうと、カタハラじゃなくて、マタハラ。兄 この際どっちでもいいやね。それで何だっけ。もう一つの何とかハラは。熊 モラハラ。兄 モラハラってのはな、つまり、その……上方のほうじゃ、モグラのことをなまってモラっていうのさ。そんでそのモラが孕むと、たくさん仔を産んで畑のミミズを全部喰っちまう。だからモグラを孕ませねえように警戒を怠るな、モラハラに気をつけろってのが、この言葉の起こりよ。熊 また始まりやがった。せっかくいい線行ってたのに、百日の説法屁一つたあこのことだ。モラハラってのはぁ、モラル・ハラスメント。上方じゃなくて遠い伴天連のお医者さんが言いだした話。殴ったり蹴ったりしていじめるんじゃなくて、言葉や付き合い方を通してじわじわといじめていって、相手の心を痛めつける、ひどいときには脳みそもやられちゃうって話さ。見かけは慇懃にふるまってながら、こういうことをしたくってしょうがねえ気性の悪いヤツがけっこういるんだってさ。いまんとこお咎めなしだけど、被害訴えるのが増えてるそうだ。兄 それだよ。いるいる。まるで俺んとこの大家みてえなヤツな。だからその気性の悪いヤツがモグラだよ。モグラが孕むと子どもは親のまねしてどんどんそのいじめが広がってく。今度あのねちねちした大家が店賃の催促に来やがったら、「おい、モグラ!」って呼んでやっからな。みなさん、モラハラに気をつけましょう!熊 何言ってんだか。店賃滞らせてるのは誰だよ。そろそろ帰るぜ。兄 ちょっと待った。話は最後まで聞け。あのな、熊公、おめえのハラハラ話聞いてて思ったんだけどな。近頃は、海の向こうから来たそのたぐいの言葉ぁやたら使って、てめえだけがこんなに被害に遭ってまーす、何とかしてくださーいって訴えるずるっこい野郎女郎が多すぎねえか。そのモラハラとかいうヤツだってよ、要するに昔から俺たちが経験してる人付き合いの縺れだろ。長屋連中だって、そんなもめごとはしょっちゅうだぜ、だけどそんなのいちいちお上に訴えようなんて奴は一人もいねえ。みーんな辛さに耐えながらてめえたちで解決してんだ。だいたいお上なんて俺たちゃ信用してねえからな。世の中ってのは、お上が決めた決まりがどうのこうのの前に、どいつもこいつも混じり合って暮らしてんだ。いろんなことあるに決まってるじゃねえか。あの大家にだって俺は「おい、モグラ!」、これで終わりよ。伴天連の偉い先生だか何だか知らねえが、ヘンな言葉作ってやれストレスだ、心の傷だと大げさすぎるんだよ。セクハラだってよ、ちょっとケツ触ったぐれえでセクハラセクハラって騒ぐなてえんだ。いい女ってのは、たいていそのへんうまくかわしてるもんだぜ。熊 やっぱケツは触らねえほうがいいと思うけど、その見え切りはなかなかのもんだな。兄ぃ、なぜかまた急に正気に返ったみてえだ。それが続きゃあ、本気で尊敬するんだけどな。知らねえくせにホラ話ばっかしねえほうがいいんじゃねえの。そのうち長屋連中にあいそ尽かされてモラハラに遭うかもよ。兄 なに、そんときゃ、こっちがモグラになってやるだけのこった。♪テンテケテン、ストトントンこはま・いつお 昭和22(1947)年、横浜市生まれ。横浜国立大学工学部卒業。国士舘大客員教授。    

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    「怪物」清宮幸太郎はこうしてつくられた

    湯浅大(サンケイスポーツ編集局運動部) 西東京代表・早実のスーパー1年生、清宮幸太郎内野手による空前のフィーバーが日本中を席巻している。今や、高校野球100周年の節目に出現した若きスターがメディアに登場しない日はない。長男の早実・幸太郎内野手をスタンドから応援するラグビートップリーグ、ヤマハ発動機の清宮克幸監督=8月13日、甲子園球場(撮影・松永渉平) 早大ラグビー部などで活躍し、現在はトップリーグ・ヤマハ発動機の監督を務める克幸氏を父に持ち、DNAは超一流。早実初等部時代には東京北砂リトルのエースで4番として132本塁打し、世界一も経験。米国で「和製ベーブ・ルース」の異名も取った。中学時代に右肩を痛めた影響で打者に専念すると、高校入学後に1年生ながら伝統校の3番を任され、約3カ月間で13本塁打を放っている。 早実といえばかつて5季連続で甲子園に出場し「大ちゃんフィーバー」を巻き起こした荒木大輔氏、「ハンカチ王子」として人気を集めた斎藤佑樹(現日本ハム)らスター選手を輩出してきた。野球部の指揮を執る和泉監督は当時の斎藤も指導しているが、「斎藤のときは(甲子園での)優勝という過程があってからの加熱だった」。地方大会が始まる前から騒がれている清宮フィーバーとの違いを語り、それは「想像以上」と加えた。それでも「本人はまだ怖いもの知らずで、全部受け入れて楽しんでいる様子がある」というから驚きだ。 清宮のすごさは何よりも、このハートの強さにある。技術面はこれからいくらでも伸びていく。1年生離れしたパワーは実証済み。これからも多くの経験から学び、練習していくことで技術は向上していくはずだ。早実には恵まれた指導者や、専用グラウンドをはじめ室内練習場やウエートトレーニングルームなど充実した練習環境も整っている。 今後も着実に成長していく技術面を、16歳とは思えない強心臓が支えている。清宮は幼いころから克幸氏に一番を目指す教育を受けてきた。幼稚園時代、七夕の短冊に「世界一を獲る」と書いて周囲を驚かせたこともある。野球と出会う前はラグビーをはじめ相撲、水泳など複数の競技に挑戦し、勝負根性をたたき込まれてきた。7歳だった2006年8月に早実・斎藤と駒大苫小牧・田中(現ヤンキース)が投げ合った甲子園決勝の再試合を生観戦し、野球の道を選んだが、このときも克幸氏から頂点に立つことを前提に認めさせたという。 目標が高いところにあるから自然と発言も大きくなる。西東京大会初戦、夏の公式戦初安打は遊撃後方へポトリと落ちるものだった。「あんなんですみません。みっともないですね」と照れた。4安打を放った試合でも「ここで打たなきゃ3番打者の意味がない」。同大会では6試合で20打数10安打を放ち、10打点は大会トップの数字だった。それでも「100%を発揮できていない」と大会を振り返る。少し悔しさをにじませている口調は、リップサービスではないことを示していた。今治西との初戦の一回、打席に入る早実・清宮幸太郎=2015年8月8日、甲子園球場(村本聡撮影) 甲子園に乗り込んでも、強気な姿勢は打席でも見てとれた。愛媛代表・今治西との初戦。相手バッテリーから徹底して内角を攻められた清宮は、第2打席で死球を受けた。カーブが右足首のあたりに直撃。幸い、レガース(防具)に当たったため、何事もなく出塁したが、特筆すべきはその後の打席にあった。 第3、4打席ともにしっかりと踏み込み、甘く入った初球を狙ったのだ。前の打席で当てられた残像による影響や恐怖心はみじんもみせずに積極的に攻めのスタンスを貫いた。そうして4打席目に強烈なゴロで一、二塁間を破る甲子園初安打。タイムリーというおまけつきだ。 ただし、いや、もちろんというべきか試合後は安打に喜ぶどころか渋い表情。好機で凡退した3打席を悔やんだ。「全然だめですね。チャンスでことごとくだめでした。どうしようもないですね」。並の高校1年生であれば、甲子園初安打を素直に喜ぶのではないか。最低でも及第点は与えるだろう。だが、清宮は違った。 実は強気な発言の裏には克幸氏の教えがある。「小さい頃から人前で『頑張ります』というのはやめるように父にいわれているんです。それがしみついているのか、人と同じことを言うのが嫌なんです。人と違うからこそ伸びるというか…人と同じならそこで埋もれちゃうので」。16歳とは思えない価値観。独自の理想論を語り、そこを目指して努力する。達成することで成長し、また新たな目標を口にする。怪物は練習だけでなく、自身の発言も進化への“種”としている。 「自分の活躍はまだ期待に追いつけていない。期待に添うようなプレーができれば。1年の夏から甲子園に出られるのは貴重なこと。人生最大の財産になる」。雰囲気にのまれるどころか、楽しみながら、あこがれの聖地の土を踏んだ。無限大の可能性を秘めたスーパー1年生・清宮の伝説は、まだ始まったばかりだ。

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    絶望のマクドナルドに策はあるか

    日本マクドナルドの業績悪化が止まらない。12日に発表した2015月6月期連結中間決算は最終損失が262億円、中間期としては上場以降最大の赤字となった。異物混入問題などが尾を引き、サラ・カサノバ社長の施策もことごとく不発に終わっている。マクドナルドは泥沼から抜け出せるのか。

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    「ひとり負け」マクドナルドがおそらく今やるべきこと

     8月12日、日本マクドナルドホールディングスはサラ・カサノバ社長の記者会見の中で、上期予想とほぼ同じ上期売上高1720億円、当期純損失は262億円と発表しました。4月16日に発表した日本マクドナルドの『ビジネスリカバリープラン』から4ヶ月が経ち、新たなマクドナルドがブランド力強化や顧客満足度の回復のためにどのような施策を打ってくるのかが焦点となっています。平成27年12月期第2四半期連結決算状況および特別損失の計上のお知らせhttp://www.mcd-holdings.co.jp/news/2015/release-150812a.html 昨年7月に使用期限切れ鶏肉問題が発覚してからというもの、失墜した顧客からの信頼を回復することがなかなかできず18カ月連続減収に喘いでいる状態で、減益幅こそ徐々に縮小しつつあるとはいえ日本市場ではダウントレンドから抜け出せていません。 何しろ、全店客数が前年比マイナス19%、全店売上高で前年比マイナス27%ですから、どれだけ厳しい数字であるかは想像に難くありません。私事ながら、今年のマックのハッピーセットはポケモン各種遊具であり、私の家の子供たちは見事にまったく食いつきません。以前、ハッピーセットにブーブという車のおもちゃが起用されたときは、この子達は一生マックを食べて生きていくのではないかと不安になるほどのリピートをしていたんですけれども。 個人的な事情と合致するように、外食系の調査会社ではかねてからマクドナルドが強いとされてきたファミリー客の足が遠のき、一回の購買あたりの訪問客数平均も減少。それに被さるように、一時はマックコーヒーで盛り返したはずの顧客が今度はコンビニのコーヒーに取られ、結局はもっとも客単価の低いティーン層に店舗スペースを長時間占領される、という悪循環に見舞われております。つまり、落ち着いた雰囲気でコーヒーを飲みたい層も、ファミリーで手軽な食事を楽しみたい層も失い、よりジェネラルには新鮮な野菜の入ったハンバーガーやサンドイッチを百円高くても食べたいニーズをすべて落として、学生と近所のサラリーマンやOLのランチ需要だけで成り立っているような状態です。 昨今では新たに進出した中国市場での苦戦も伝えられるなど、グローバルに展開する優良企業であったはずのマクドナルドの暗雲が晴れません。一方、堅調な欧州市場や一部のアジアでは顧客とのエンゲージメントにある程度成功しており、そういううまくいった事例をロールモデルに日本でどのような展開をするのか関心を持たれてきました。決算会見で説明する、日本マクドナルドHDのカサノバ社長(中央)=12日、東京都中央区(荻窪佳撮影) が、今回の発表の中には、マクドナルドが顧客への信頼回復策や、変化するニーズに対応するための抜本的な改革を打ち出すのではないかと予測される向きもありましたが、蓋を開けてみるとこれといった内容はなく、むしろマクドナルドとして何に取り組むのが良いのかいまなお思案中であるかのような印象を受けました。 日本では、むしろマクドナルドだけでなく、ワタミグループやゼンショーホールディングスの各チェーン系業態の伸び悩みを埋める形で新たな需要を創造する店舗が拡大し、マクドナルドの凋落した「朝食市場」での争いや、居酒屋業態での脱低価格居酒屋といった別の次元の競争が始まっているのが現実です。 一連の問題の根幹には、マクドナルドが本来持っていた強みがマイナスに転嫁してしまう社会変化があります。というのも、マクドナルドに代表される外食チェーンにおいては一般的にコストを低減させるための大きな方法として本社機能の強化による集中購買がまずメインにあります。そこから、手間のかかる一次加工から場合によっては店舗で簡単な調理だけで済ませられるよう「半製品化」を行うセントラルキッチン方式や、経験の乏しい店員でも一定の味付けにできるようなマニュアル化や、すべての店舗で同じサービスが提供できるような均一化されたデザインといった、安く、一定の品質のものをどこでも同じサービスで提供できるようにする、というのがマクドナルドのビジネスの勝ちパターンであったわけです。 おそらく、マクドナルドの不調は、きっかけこそ鶏肉の使用期限問題だったものの、根本の原因はマクドナルドをマクドナルドたらしめているメソッド、ビジネスモデルそのものが、日本の外食を楽しみたいメイン層のニーズから離れてしまった、というかなり危機的なものであることは言うまでもありません。つまり、ブランド力の低迷や商品企画力という表向きの話よりも、もっと根底にある「安いものよりも新鮮でおいしいものを食べたい」という日本国内市場の環境変化をもろに被ったということです。 7月に投入したレギュラーメニューにたっぷり野菜を加えた新商品がありましたが、客足の早期の回復には結びつかず不発に終わりました。マクドナルドが取り組むべき改革の方向性としてはおそらく間違っていないもののマクドナルドが本来持つ強みとは異なった施策であるため、効果が出てくるまで時間がかなりかかるのでしょう。やはり、マックで飯といえば、しょっぱいポテトと紙コップに入った冷たい炭酸飲料というセットメニューがベースにある限り、上に野菜が載ったところで食指が伸びるのか、というところだろうと思います。 おそらくは、やるべきことは現状の顧客ニーズに合う商品企画を打ち出してブランドの修正を徐々に行いつつ、次の消費者のトレンドがマクドナルドに有利になるまで地道に清掃や業務見直しをして準備することでしょう。当面の「ひとり負け」の現状から脱するために、どの客層にフォーカスした事業に仕上げていこうとするのか、マクドナルドの挑戦を見守っていきたいと思います。