戦後75年、追憶の「大東亜戦争」

戦後75年、追憶の「大東亜戦争」

戦後75年の節目は、コロナ禍の中で迎えることとなった。コロナ禍も戦後最大の国難とされるものの、やはり先の大戦とは比較にならない。そして戦争そのものは過ちだが、個々人の思いは別だ。75回目の終戦の日。改めて、計り知れない犠牲や苦悩を経て今の日本があることをかみしめたい。

戦後75年の節目は、コロナ禍の中で迎えることとなった。コロナ禍も戦後最大の国難とされるものの、やはり先の大戦とは比較にならない。そして戦争そのものは過ちだが、個々人の思いは別だ。75回目の終戦の日。改めて、計り知れない犠牲や苦悩を経て今の日本があることをかみしめたい。

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決して遠い過去ではない

 ニッポン放送の早朝番組「飯田浩司のOK! Cozy up!」(平日午前6時~)を担当して、3年目の8月を迎えました。「広島・長崎の原爆の日」、そして「終戦の日」をどう報じるのかは、夕方のニュース番組を担当していたときから試行錯誤してきました。
飯田アナウンサーの祖父が属した中隊の記録
飯田アナウンサーの祖父が属した中隊の記録
 現在の番組は自分の名前が付いていますから、もう少し自分個人の話を求められる場面が増えています。とはいえ、私は戦争体験者の孫世代。子供のころに、祖父や祖母に聞いたことを棚卸ししましたが、死線を越えた記憶をすべて孫に語るのははばかられたのでしょう。断片的にしか語ってもらえませんでした。
 そんな折、「2年前に亡くなった母方の祖母の遺品を整理していたら、1冊の本が出てきた」と連絡がありました。えんじ色の布張りのしっかりした装丁で、背表紙には「工兵第五十三聯隊第二中隊戦史」と書かれています。そこには、私の母方の祖父、岡光男が学徒応召し、少尉任官、第三小隊長としてビルマ(現ミャンマー)で戦った記録も含まれていました。 祖父は、昭和57(1982)年の秋、私が1歳の時に亡くなったので直接の記憶はありません。母や祖母からは、漠然と「学徒で行ってビルマでポツダム宣言だった」という話しか聞きませんでした。
 ビルマというと、無謀な戦いの代名詞とされる「インパール作戦」を思い浮かべます。祖父の部隊は、直接の戦闘に参加こそしなかったものの、後詰部隊として前線に送られ、英国・インド連合軍を中心とする攻勢の矢面に立ちました。
 祖父の本を読むと、その前にマラリアとの戦いに消耗した様が見て取れます。昭和19(1944)年に日本を発つときに254人であった中隊総員のうち、終戦時で戦死者は21人でした。一方、戦病死者は124人に及び、祖父の小隊でもバタバタと病に倒れたようです。実に、総員の半数が戦病死だったわけで、これだけでも「よくぞ生き延びてくれた」と思いました。 さらに、敵戦車部隊を迎え撃った際、陣地を別部隊に譲って主要都市のマンダレーに転進した矢先、その陣地が敵戦車に蹂躙(じゅうりん)され、引き継ぎ部隊は全滅したそうです。マンダレーでも決死隊へ編入されようとした矢先に、転進命令を受け玉砕を免れるなど、まさに紙一重の差で生き残ってきたのを初めて知りました。
 当たり前の話ですが、祖父なくして母なく、母なくして私はいません。わずかな違いで、私はこの世に存在しなかったかもしれない。そう感じた瞬間、戦争は人ごとではなくなり、戦慄しました。
 戦後75年がたち、直接体験者の話を聞くことは年々難しくなっています。ただ、決して遠い過去ではありません。1世代か2世代前の話で、その体験は、こうした自費出版の戦史などで人知れず残っていることがあります。コロナで外へ出られないので、家の整理をする方も多いと聞きますが、こうした貴重な書物があなたの家にも眠っているかもしれません。(ニッポン放送アナウンサー・飯田浩司「そこまで言うか!」 zakzak 2020.08.12)

語り継がれるべき「記憶」

敵から敬意を抱かれる男たち

戦後75年、追憶の「大東亜戦争」