「引き揚げ者の街」舞鶴に刻まれた記憶

「引き揚げ者の街」舞鶴に刻まれた記憶

戦後75年の節目を迎え、先の大戦について考える機会が増えたことだろう。中でも終戦を迎えながら帰国に困難を極めた「シベリア抑留」は戦後を象徴する歴史の一つだ。その主な引き揚げ港となった京都府舞鶴市に「舞鶴引揚記念館」がある。同館の資料に改めて目を向ければ、歴史を超えて語り継ぐべき「戦後」が見えてくる。

戦後75年の節目を迎え、先の大戦について考える機会が増えたことだろう。中でも終戦を迎えながら帰国に困難を極めた「シベリア抑留」は戦後を象徴する歴史の一つだ。その主な引き揚げ港となった京都府舞鶴市に「舞鶴引揚記念館」がある。同館の資料に改めて目を向ければ、歴史を超えて語り継ぐべき「戦後」が見えてくる。

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桟橋の先にあったドラマ

 「舞鶴」と聞いて、何が思い浮かぶだろうか。歴史に興味がある人であれば日本海軍の鎮守府、または海上自衛隊の基地があることかもしれない。だが、「引き揚げ」もしくは「シベリア抑留」が第一に浮かぶ人は少ないだろう。
 残暑が厳しいながら時折雷雨に見舞われた9月上旬の舞鶴市を訪れた。JR東舞鶴駅から車でおよそ15分。市街を抜け、海岸沿いの丘に上がると「舞鶴引揚記念館」がある。戦後75年という節目の夏。そもそも「戦後」とは何なのか、その原点に触れるためだ。
 先の大戦で敗戦した日本は、中国や朝鮮半島、南洋諸島などから軍人・軍属と民間人を合わせ約660万人以上の日本人が本土へ復員、引き揚げを行った。舞鶴は、そのうちの1割にあたる約66万人を受け入れたがゆえに、戦後直後の舞鶴は「引き揚げの地」であった。
 昭和20年(1945)年9月2日、降伏文書に調印した日本政府は当初、海外の日本人は現地定住の方針を掲げ、引き揚げには消極的だったが、連合国軍総司令部(GHQ)の方針によって、一斉引き揚げに方針転換した。
 中国や朝鮮半島南部、東南アジアからの引き揚げや復員が比較的順調だったのに対し、満州で旧ソ連に抑留された日本人の引き揚げは困難を極めた。ソ連は投降した多くの日本兵や民間人を日本へ送還せず、シベリアをはじめソ連領内各地へ連行し、強制労働に従事させたためだ。その数はおよそ60万人とされるが、正確な人数は分かっていない。
 シベリアでの抑留者たちは厳しい寒さと劣悪な生活環境の下で森林の伐採や炭鉱の採掘、鉄道建設などの重労働、さらに伝染病の流行などにより5万5千人以上が現地で命を落としたとされる。
 今回取材した舞鶴引揚記念館は、そうしたシベリア抑留から帰還した人々の資料を展示する日本で数少ない施設として知られる。館内のほとんどの展示物は、引き揚げ・シベリア抑留帰還者やその家族らからの寄贈品だ。
 「戦後40年を迎えた際、引き揚げを振り返る行事を舞鶴で行ったことで、当時のシベリア抑留体験者を中心に、自分たちの苦労と次世代への平和の思いを伝える施設を建ててほしいという声がきっかけになりました」。山下美晴館長が設立の経緯を教えてくれた。
 ただ、建設には多額の費用がかかることから、人口10万人ほどの舞鶴市にとって、当初実現が難しかったそうだ。それでも設立にこぎつけたのは、シベリア抑留体験者とその家族、そして舞鶴市民らの寄付という資金的な協力があったからこそだという。
 舞鶴が多数の引き揚げ者の港となったのは、昭和20年以降、日本各地の引き揚げ港が相次いで閉鎖される中、33年の引き揚げ船終了まで受け入れが続いたからだ。この間、約66万人の引き揚げ者を迎え入れた舞鶴では、当然だが、その数の分だけ帰国を待ちわびた家族らとのドラマが生まれた。
多くの引き揚げ者、シベリア抑留者が帰還した平引揚桟橋(西隅秀人撮影)
多くの引き揚げ者、シベリア抑留者が帰還した平引揚桟橋(西隅秀人撮影)
 辛苦を極めた戦争とシベリア抑留の日々。ようやくかなった平和と故郷への思い。そして舞鶴は終戦を実感する舞台となった。のちに歌や映画になった『岸壁の母』は象徴的だ。
 ただ、冒頭で触れたように、近年、舞鶴を引き揚げの歴史を持つ街として知る人は少ない。これは舞鶴に限ったことではないが、戦争の記憶は当事者の高齢化で急速に薄れつつあるのも確かだ。だが、同館は引き揚げ者や家族の苦悩、そして寛大に彼らを受け入れた街としての記憶を知ることのできる唯一の施設だ。
 「その記憶と価値を語り継ぐことが極めて重要ではないか」。そう決意した舞鶴市の想いが結実したのが、2015年10月だった。所蔵する資料570点が国連教育科学文化機関(ユネスコ)の「世界の記憶(世界記憶遺産)」に登録された。これを機に語り部の活動も活発化し、20人ほどの登録者だった語り部の数が約70人まで増加、さらに中学生による語り部も誕生した。
 また、新型コロナウイルス禍に苦しむ社会とつながる一面を力説するのは、同館学芸員の長嶺睦氏だ。
 「この先行きが見えない、不安な日々のコロナ禍だからこそ、シベリア抑留者たちの生きようとした力、戦後生活がままならない中で抑留者たちを温かく迎えた舞鶴の人たちの豊かな心に共感できるのではないでしょうか」
 終戦直後の舞鶴も決して豊かではなく、厳しい生活を強いられる中で、「シベリア抑留といった引き揚げ者の苦難を思えば」と、舞鶴の人々は自分たちのわずかばかりの食糧を分け与えるなど、家族や親族らを超えた心温まるエピソードが残されているという。
 そもそも、記憶とは薄れゆくものである。だが、その記憶を失ってはならないものがある。75年前の10月7日、引き揚げの第一船が舞鶴港に入港した。当然ながら、戦後はこれからも80年、85年、90年と続いていく。復元された桟橋から舞鶴湾を眺めつつ75年前に思いを馳せてみた。まさに舞鶴に「戦後」の始まりの一つがあるのだ。(iRONNA編集部、西隅秀人)

戦後75年に考える舞鶴の歴史

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