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軍人とお姫サマ-朴槿恵研究-
「日本人として恥じざるだけの精神と気魄を以て一死御奉公の堅い決心でございます」。満洲国軍人を志願した朴正煕は血書をもってこの嘆願書を窓口に書き送った。軍人魂をみずから叩き込んだのが朴正煕だとすれば、娘の朴槿惠はタダのお姫サマ!? ナッツ姫ほどではないにせよ…。
「日本人として恥じざるだけの精神と気魄を以て一死御奉公の堅い決心でございます」。満洲国軍人を志願した朴正煕は血書をもってこの嘆願書を窓口に書き送った。軍人魂をみずから叩き込んだのが朴正煕だとすれば、娘の朴槿惠はタダのお姫サマ!? ナッツ姫ほどではないにせよ…。
立林昭彦の視線

専用車が大学にさしかかるや、大統領は単身、クルマからとび出して正門に向ってあるきだした。驚いたのは学生側で、投石どころかクモの子を散らすように逃げだした……大統領はそのまま大学の総長室へ。が、総長は逃げ帰ったまま不在。数十分後、一報を聞いて駆けつけた総長に大統領が告げた。
「こういう時に総長が責任を執り、学生に説得しないという法はないだろう」
砲火弾雨をかいくぐってきた将校にとって「相手は学生。ただの石コロじゃないか」といった気概ではなかったか。
そこで想起するのはセウォル号事故のテンマツだ。スタコラと逃げた船長は論外として、大統領の姫サマはどこにいたのか。いまもって闇の中なのだ。
呉善花さんは朴正煕大統領時代、韓国陸軍に入隊した経験がある。そこへお姫サマがおいでになったのだ──。
「当時の彼女は24歳、服は白いワンピース、髪は後ろで束ねて結んでいて、まことに清楚。その姿は母親の陸英修そっくりでした」
当時の国民は朴大統領を「国父」と呼び、夫人を「国母」と呼んで敬愛していた。
さて、お姫サマが立ち去ったあとも、
「私たちは“お姫さまがいらした、お姫さまがいらした、仙女のようだ、聖母マリアのようだ”とひとしきり騒いだものです」(呉善花『朴槿惠の真実』文春新書)
父君の朴正煕にはタマがあった─。しかるに、お姫サマには…いえ、ここでいうタマは「魂」です。念のため。
3年半ぶりの首脳会談

の朴槿恵大統領、中国の李克強首相=11
月1日、 韓国・ソウルの青瓦台
「三人寄れば文殊の知恵」が期待されたが、3首脳がにこやかに握手したのとは裏腹に溝は埋まらなかったようだ。とりわけ歴史認識問題では、中国の李克強首相が「一部の国はいまだに深い理解が成り立っていない」と暗に日本を批判した。韓国の朴槿恵大統領も「歴史を直視」にこだわった。
「三つ子の魂百まで」はちょっと意味が違うかもしれないが、変化は期待できない。中韓両国が日本を悪者にしようとする限り「三方一両損」の大岡裁きもありえない。安倍晋三首相は「特定の過去ばかり焦点を当てる姿勢は生産的ではない」と言った。日本が譲歩する必要はない。(2015年11月2日 産経新聞)
総額5億ドルの行方
父娘で違う産経への対応
朴正煕元大統領は生前、日本のメディアのインタビューを3回だけ受けている。最初は1975年の毎日新聞であと2回が76年と77年の産経新聞だ。77年のインタビューはフジテレビで放送され、これが日本のテレビとの最初のインタビューになった。
朴元大統領は日本のメディアに対し不満が強かった。日本の大方のメディアが朴正煕政権をクーデターで政権を奪った独裁政権と否定的にとらえ、その近代化政策や経済発展よりも野党や知識人に対する弾圧の方に関心を示したからだ。当時の日本のメディアは北朝鮮については独裁体制には触れず、社会主義建設が進むいわば“理想の国”のような報道が多かった。「暗い韓国VS明るい北朝鮮」というのが、朝日新聞を筆頭にした日本メディアの潮流だった。
そのなかで産経新聞だけがほぼ唯一、朴元大統領の近代化政策や経済建設を高く評価し、かつ北朝鮮には厳しい論調で終始した。朴元大統領は76年のインタビューでは「産経新聞が公正な態度で偏見のない報道を貫き、日本国民の正しい認識を深めるのに尽くされていることに対し感謝したい」と述べている。

達也前ソウル支局長=2015
年11月27日、大西正純撮影
その結果、慰安婦問題など歴史認識をめぐって日本の立場を主張する産経は反韓的といわれ、韓国の立場を支持する朝日は良心的になった。娘・朴槿恵(パク・クネ)時代の韓国に産経新聞の記者が名誉毀損(きそん)で裁判にかけられていることを父は草葉の陰でどう思っているだろうか。お互い残念なことだが、これは時代および日韓関係の変化の象徴である。(ソウル駐在客員論説委員 黒田勝弘 産経新聞 2015年6月18日)