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豊臣秀吉は史上最強の「大悪党」だった
天下人、豊臣秀吉の実像に迫る貴重な文書が見つかり、歴史ファンらの注目を集めた。見つかったのは「賤ケ岳七本槍」の一人として知られる重臣、脇坂安治へ宛てた朱印状33通。かつての主君、織田信長へのコンプレックスを窺い知る中身もあったという。天下を簒奪した秀吉は史上最強の「大悪党」だったのか?
天下人、豊臣秀吉の実像に迫る貴重な文書が見つかり、歴史ファンらの注目を集めた。見つかったのは「賤ケ岳七本槍」の一人として知られる重臣、脇坂安治へ宛てた朱印状33通。かつての主君、織田信長へのコンプレックスを窺い知る中身もあったという。天下を簒奪した秀吉は史上最強の「大悪党」だったのか?
脇坂安治に宛てた秀吉の朱印状33通
賢弟を亡くしタガが外れる
「内々の儀は宗易、公儀の事は宰相存じ候」。これは天正14(1586)年、九州・豊後(大分県)の戦国武将、大友宗麟(そうりん)が、薩摩(鹿児島県)の島津による圧迫で窮地に陥り、当時の大実力者である豊臣秀吉に援助を求めに上洛したとき、秀吉が宗麟に向かって言った言葉である(『大友家文書禄』より)。
その意は、内々のことは、秀吉の側近で茶人の千利休(宗易)が処理する。豊後と薩摩の国同士の軋轢(あつれき)の処理といった、外交・内政・戦闘といったことは、弟の秀長(=宰相)がすべて管掌しているから、よく相談しなさい、といったところだろう。
秀吉は、弟の秀長に全幅の信頼をおいていた。温厚、篤実、寛容、真面目。秀吉の天下経営の陰には、この名補佐役に徹した弟がいた。秀吉だけではない。その人柄は誰からも愛され、信用された。
後年、秀長が体調を崩して、有馬温泉(神戸市)に湯治に行った際、当時大勢力だった一向宗のトップ、顕如(けんにょ)の見舞いがあったという。
こんな話もある。秀吉と徳川家康との生涯ただ一度の戦場での直接対決、小牧・長久手の戦いは、局地戦だったが家康が勝利した。これとは関係なく、秀吉の天下獲り戦略は着々と進んでいたが、この敗北の印象を薄め、天下獲りスケジュールが揺るぎなく進んでいることをアピールするために、秀吉は全国の大名に対して、実力者・家康が上洛して自分に臣従する姿を見せたいと思った。
家康を上洛させるためには、秀吉はなりふり構わなかった。既婚者である妹、朝日(旭)を強制離婚させて家康と結婚させたり、実母を人質として家康に差し出したり…。秀吉の上洛打診をぬらりくらりとやり過ごしていた家康だったが、さすがに、この「実母人質」に至って、ついに上洛を決意する。
しかし、家康の家来たちが「単身での上洛は身の危険」と止めるのを説得する材料として、秀吉は「家康の宿所は秀長の屋敷」と回答した。これは、家康の安全は保証されたも同然と、周囲を納得させる力があった。
このように、秀吉は「ここぞ」というときに、秀長の名と力を借りた。秀吉にしてみればかけがえのない賢弟だった。だからこそ、この弟が病死した後、秀吉のタガは外れた。
「歴史にイフ(if)はナンセンス」を承知の上でいえば、秀長がもし長生きしていれば、彼の卓越した調整能力は、文治派の石田三成らと、武断派の加藤清正らとの関係をあそこまで悪化させなかっただろうし、利休の切腹もなかった。秀次一族の大虐殺もなく、朝鮮半島での残虐行為も防げたのではないか。嗚呼、何より秀吉の名のために、秀長の死を悼む。(フリーアナウンサー・松平定知 夕刊フジ、2016年1月8日)
国民的人気はどこへいった
秀吉とお市 本当の関係
小説の世界では、秀吉は若いころから織田信長の妹、美人の誉れ高いお市の方に恋いこがれていた。けれどお市は秀吉を嫌い、彼のライバルである柴田勝家と再婚し、滅びの道を選択したといいます。ですが良質な史料からは、秀吉がお市を好きだったこと、お市が秀吉を避けたこと、ともに確認することができません。

「浅井長政夫人像」
信長と家康に共通するのは、主人として生まれついたこと。下克上があったり、隣国が攻めてきたり、厳しいのだけれども、ともかく人の上に立つのが当たり前。おおらかに育っているから、女性に人間らしく対応できたのかも。結婚歴、子供の有無、年齢、家柄。そんなものにはこだわらない。いま目の前にいる、この女性を愛するかどうか。
ところがさんざんに苦労している秀吉は、そうはいきません。もうなにが何でもお姫さま。こころみに、名前が明らか(『伊達世臣家譜』)な愛妾(あいしょう)6人をあげてみると、淀どの(お市の方の娘)▽三の丸どの(信長の娘)▽姫路どの(信長の弟の信包(のぶかね)の娘)▽松の丸どの(京極高吉の娘)▽三条どの(蒲生氏郷(がもう・うじさと)の姉妹)▽加賀どの(前田利家の娘)-となります。有名ということは、それだけ寵愛(ちょうあい)の度が深かったということですから、この人たちが秀吉の奥向きの主要メンバーだったことは間違いがありません。しかもそこには、織田家の関連の女性が3人も含まれている。
これはうーん、すごくわかるような気がしませんか。軽輩であった自分にはとても手の届かなかったお嬢さまたち。彼女たちを侍(はべ)らせることにより、秀吉は「ああ、私はついにここまでになった」。そうした思いを新たにしていた。そして絶対の主人であった信長の血筋。それは彼にとって、何にもまさるあこがれだったのでしょう。
こんな状況があって、秀吉のお市への恋慕、というエピソードが定着した。でも彼にしてみれば、織田家のお姫さまを追い求めたのであって、お市という特定の女性である必要はなかったのではないでしょうか。そこには多少のズレがある。そのズレが歴史研究と歴史小説の違いになるわけですが、さて、どちらがおもしろいのか。研究は小説に負けないくらい、興味深い話題を提供しなくては、そう思っています。(東大史料編纂所教授・本郷和人 産経新聞、2010年10月10日)
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