
14581
原発を止めたい人たちがまた騒ぎ出した!
「かもしれない運転」のすすめ。朝日新聞の天声人語に、熊本地震の震源に近い鹿児島県の川内原発の即時停止を求めるコラムが掲載された。「想定外に備えよ」という趣旨だが、過度に不安を煽る言説は相も変わらない。大災害やテロが起これば必ず騒ぎ出す「原発アレルギー」。もうこの手には乗りません!
「かもしれない運転」のすすめ。朝日新聞の天声人語に、熊本地震の震源に近い鹿児島県の川内原発の即時停止を求めるコラムが掲載された。「想定外に備えよ」という趣旨だが、過度に不安を煽る言説は相も変わらない。大災害やテロが起これば必ず騒ぎ出す「原発アレルギー」。もうこの手には乗りません!
被災者のクオリティ・オブ・ライフ
熊本県を中心とする今回の震災に接してあらためて思うのは、メディア報道やネットでの情報の提供において、「緊急時に何が必要か」ということだ。緊急時に「分析」は必要なのだろうか。どの活断層が揺れ、それはプレート型とどう違い、何年周期かは確定できないといった分析は緊急時に必要か?
また緊急時に「ジャーナリズム」は必要か?第四権力としてのジャーナリズムの必要性は僕は認める(というか求める)。が、水を飲むことと食べることを優先せざるをえない緊急時においては、第四権力も政治権力と妥協し協調する時期があると僕は思う。それが、成熟した社会であることを示す。また緊急時にあまりにニッチな説明が最優先されるか? それぞれの関心領域のニッチな支援は必要ではある。が、それは「生存」という基本条件が整備されてこそのニッチだ。

陸上自衛隊の給水車の前には水を汲む被災者が詰めかけた=25日、熊本県益城町(上田直輝撮影)

また緊急時に「原発批判」は必要か?(「原発という理念」についての議論は必要か?) 近くに原発がありそれが九電のいろんな意味での生命線だとしても、いま原発批判し、その先にアベ政権批判することが、まず最優先の発信活動だろうか(原発が「地震に強く津波に弱い」という事実が、大きな理念の議論になぜか消される)。
僕は、まずは「水と食べ物」だと思うのだ。言い換えると、生きていく上での基本条件を支援していく時期があると思う。
その基本条件の整備の仕方にその国なりの個性があろうとも(日本であれば硬直的官僚主義=村上春樹いうところの「壁」)、その個性を看過したうえで、人々の「クオリティ・オブ・ライフ(生命の質)」を社会全体で守っていく時がある。僕は地震学は素人なので直感的にしかわからないが、東日本大震災から5年程度で今回の震災が起きたことは、ちまた言われるように、この列島が「活動期」に入っているのだろう。江戸時代後期の記録などを見ても、この状態は数十年単位で続くように思える。
だからこそ、地震発生後の「緊急時のエシックス(倫理)」を確立させる必要がある。今のこの緊急時は、まずは「被災者のクオリティ・オブ・ライフ」が優先される時期だと僕は思う。マスメディアもネットメディアもSNSも、被災者にとって何が最善の利益か考える時期なのではないか。それは、「水と食糧と寝る場所」だと僕は思います。
(田中俊英「子ども若者論のドーナツトーク」2016.4.18)
(田中俊英「子ども若者論のドーナツトーク」2016.4.18)
教訓忘れた危険な賭け
偏った報道では困ります
どちらを信ずべきか

それでも、『新潮』(4月28日号)はワイド型式で「『熊本地震』瓦礫に咲く花」14ページ。『週刊文春』(4月28日号)は「熊本大地震“不都合な真実”」10ページ。焦点は原発だ。
『文春』が「原発は本当に大丈夫か?」と〈徹底検証〉。『週刊朝日』(4・29)も「川内、伊方、玄海 やっぱり原発は危ない」。これに対し『新潮』は「『川内原発停止』を言い出した野党『便乗政治家』の見識」と真っ向対決。
『文春』では、岡村眞高知大特任教授(地震地質学)が、目安となる「基準地震動」が昨年650ガルに引き上げられたが、それでも伊方原発は危うい、と。
〈「熊本大地震は1580ガル(中略)固い岩盤の上にあるとはいえ、650ガルでは到底耐えられない」〉
『新潮』では東大大学院の岡本孝司教授が。
〈「川内原発は260ガルで自動停止しますが、2000ガル程度の揺れが来ても耐えられるほど余裕がある設計。ですので今回の場合(補助建屋1階で12・6ガル)は、石ころが当たったようなもの」〉
どちらを信ずべきか。(花田紀凱・月刊『Hanada』編集長、産経新聞 2016.4.23)