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大橋巨泉のがん闘病に何を学ぶ
テレビの寵児として人気を博したタレント、大橋巨泉さんが11年にも及ぶがん闘病の末、82歳で亡くなった。死後、妻の寿々子さんが在宅医療の医師によるモルヒネ系鎮痛剤の「誤投与」を訴え、物議を醸した。巨泉さんの死は「天命」だったのか、「無念」だったのか。その是非を問う。
テレビの寵児として人気を博したタレント、大橋巨泉さんが11年にも及ぶがん闘病の末、82歳で亡くなった。死後、妻の寿々子さんが在宅医療の医師によるモルヒネ系鎮痛剤の「誤投与」を訴え、物議を醸した。巨泉さんの死は「天命」だったのか、「無念」だったのか。その是非を問う。
100%の結果は約束されない医療
少し気になった記事です。(大橋巨泉氏のモルヒネ投与医師はニキビ治療専門家だった)元防衛医大の名前が出てました。
最初奥様のコメント記事に、多分在宅主治医との言葉の行き違いがあったのだろうなと考えていたため、勝手な思い込みは無意味なので特にブログ等への記載はしませんでした。ところが別の記事にある在宅医のこの言葉は少し残念なものです。

約14年間司会を務めたTBS「クイズダービー」の最終収録後、記念撮影に臨む左から北野大、井森美幸、新司会者の徳光和夫、大橋巨泉、竹下景子、はらたいら=赤坂・TBSホール

>医者からは「緩和ケアをするものだと勘違いしていた」と詫びの電話があった。(上記引用の記事ではありません)
緩和ケア専門の医師の解説記事(大橋巨泉さんのご逝去とモルヒネ投与について)がありますので、私は癌になった時教科書的な対応をすることでかえって死期を早める事象について述べたいと思います。ちなみにがんが再発していなくても緩和ケアは行います。
MDSのビダーザ、再発肺がんのオプジーボ(PD−1)は患者さんの全生存率(OS)を改善、つまり長生きさせてくれる確率が上昇します。しかし最初の数ヶ月において、実は治療群の方が観察群や他の抗がん剤群より早期死亡が多いことが知られています。つまり、その治療をすることでかえって早期に死亡する患者が増えるのです。
臨床試験ですので、患者さんの条件はかなり厳しく設定されており、症例はしっかり選択されています。ビダーザやオプジーボ群の患者さんが特別だったわけではありません。つまり無茶な治療はされていません。 正しい治療を施してもこのように結果が悪いことは存在することが医療なのです。だからこそいつがんになっても、いつ再発してもいいように体を鍛えていてねと伝えています。
緩和治療を含めて教科書レベルの治療を施すことがまず最低限の医療。そしてその人の病態等に合わせてオーダーメイドの治療を施すことができる医師は優秀ですが、それでも100%の結果は約束されていません。正直がんセンターからの伝達がうまくいっていなかったことが問題であればそれは明らかなミスですが、ミスはなくても患者の命は保てないことがあることを理解していただくため提示しました。お判りいただければ幸いです。(「中村ゆきつぐのブログ」2016.08.13)
■大橋巨泉さん死去 妻・寿々子さんコメント全文(ORICON STYLE)
■大橋巨泉さん死去 妻・寿々子さんコメント全文(ORICON STYLE)
終末期医療の課題
永六輔さん、大橋巨泉さん逝去で僕が考えたこと
このところ、永六輔さん、大橋巨泉さんと、僕と同じ世代で、テレビで活躍してきた人たちが立て続けに亡くなっている。少し前に亡くなった蜷川幸雄さんや野坂昭如さんも同じくらいの世代だ。
同世代が次々とこの世からいなくなるのは、非常に寂しいかぎりである。

永六輔さん

野坂さん、蜷川さん、永さん、大橋さんは、戦争を知っている世代。大橋巨泉さんは、僕と同じ1934年(昭和9年)生まれの82歳。戦争を知っている最後の世代だった。
僕は、小学5年の夏休みに天皇の玉音放送があり、敗戦を知った。その経験から、僕らの世代には、いかなる理屈があろうと戦争はダメだという気持ちがある。
終戦の年は、教師や校長や新聞・ラジオが1学期に言っていたことと、夏休み後の2学期になって言い出したことが、全然違うものだった。
1学期まで、教師やマスコミは、この戦争は聖戦で、世界の侵略国であるアメリカやイギリスを打ち破って、アジアの国々を独立させるのだと言っていた。2学期になったら急に、日本の戦争は間違った戦争で、侵略戦争だったと、ガラリと変わった。
そういう経験をしているので、大人やマスコミが言うことは信用できないという気持ちがある。それが僕らの世代の原点になっていて、いまも心の中に持っている。
そういう気持ちを持った戦中世代が、だんだん減ってきている。それだけに、「言論・表現の自由は絶対に大事で、どんな理屈があっても戦争はダメなのだ」と、使命感を持って言わなければいけないという気持ちが強くなっている。
永さんや大橋さんも、そういう思いでテレビの仕事をやっていたのではないかと思う。(田原総一朗ブログ 2016.08.01)
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