「平成最後の夏」にあの戦争を考える

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「平成最後の夏」にあの戦争を考える

「平成最後の夏」。こんなワードがネット上で広がっているという。先の大戦から73年目の夏でもある。終戦の日。今上天皇が最後の戦没者追悼式にご臨席された。大戦の記憶は薄れゆくが、あの戦争とは結局何だったのか。平成最後の夏に考えたい。

「平成最後の夏」。こんなワードがネット上で広がっているという。先の大戦から73年目の夏でもある。終戦の日。今上天皇が最後の戦没者追悼式にご臨席された。大戦の記憶は薄れゆくが、あの戦争とは結局何だったのか。平成最後の夏に考えたい。

第一人者、常石敬一の見解

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「大東亜戦争調査会」の意義

 日中戦争の起点となった盧溝橋事件の勃発から80年目。この年月は戦争の相対的な評価には十分な時間の経過である。しかし、今日においてもこの戦争をどう評価すべきか、対立が続いている。戦争原因の追究は戦争責任の追及と表裏一体の関係にある。戦争原因の客観的な追究は、戦争責任の主観的な追及に妨げられる。
幣原喜重郎元首相
 別の問題もある。日中戦争は満州事変および日米戦争と相互に連関している。よって前後の歴史的な文脈のなかで評価する必要がある。敗戦直後の日本には、満州事変から日米戦争までの戦争の原因を客観的に考える試みがあった。1945(昭和20)年11月、幣原喜重郎内閣は、「敗戦の原因及実相調査」を目的とする政府機関「大東亜戦争調査会」(のちに「戦争調査会」と改称)を設置している。以下ではこの政府機関の活動を通して、戦争の歴史を検証することの意味を考える。
 「大東亜戦争調査会」は、敗戦国の政府が自立的に戦争の原因を追究する国家プロジェクトとして、始まる。40回以上に及ぶ会議における議論、当事者インタビュー、資料収集と現地調査、これらによって「大東亜戦争調査会」は、政治・外交・軍事・経済・思想・文化などの多角的な視点から戦争原因の追究を進める。これほどの大規模プロジェクトでありながら、今日では忘れられている。対日理事会(米英ソ中4カ国による連合国軍最高司令官に対する諮問・勧告機関)の意向によって、1年もたたずに廃止を余儀なくされたからである。それでも「大東亜戦争調査会」の活動は、振り返るに値する。残された資料から、たとえば次のことが分かるからである。
 第一に軍部の政治介入には社会的な背景があった。第一次世界大戦後、日本にも「平和とデモクラシー」の潮流が押し寄せてきた。平和は軍縮によって裏づけられる。軍縮は緊縮財政による戦後不況からの脱却のためにも必要だった。国民に軍人蔑視の感情が生まれる。軍部の社会的な地位が下がる。「平和とデモクラシー」が軍部を追い込み、のちの反発につながる。軍部は政治介入によって国家の改造を目指すようになった。
 第二に「戦争調査会」の議論は日中戦争が回避可能だったことを示唆している。1920年代後半、中国が軍事的に国家統一を進める過程で、事件が頻発する。日本人の生命・財産が脅かされる。この時、国際連盟に中国の非を訴えて、国際的な支持を得られれば、満州事変は起きなかった。あるいは満州事変が起きても、満州国を固めながら、自由貿易体制を支持して、経済発展を目指せば、日中戦争は起きなかった。
 第三に敗戦の直接的な原因は、陸海軍の戦略の不統一だった。日米の国力の差にもかかわらず、対米予防戦争ならば見込みがあった。なぜ真珠湾攻撃を中途半端に終わらせたのか。真珠湾で決定的なダメージを与えることができれば局面は大きく変わっただろう。あるいはミッドウェー海戦を避けガダルカナル島を放棄し、陸海軍の戦略の統合によって一度の決戦に集中して戦果を挙げれば、戦争終結に向かう可能性があった。
 以上の「戦争調査会」の議論は、今日の研究水準と比較すれば、第一は先駆的な知見、第二は依然として論争的なテーマ、第三は思いがけない問題提起-と評価することができるだろう。ここではこれ以上「戦争調査会」の議論の適否を判断することはしない。強調すべきは、当時の政府が敗戦国日本の国家再建を目指しながら、歴史の教訓を後世に残す目的で、「大東亜戦争調査会」を設置したことである。(学習院大学学長、井上寿一「正論」 産経ニュース 2017.10.03

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