西郷隆盛「征韓論」のウソ、ホント
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西郷隆盛「征韓論」のウソ、ホント

NHK大河ドラマ『西郷どん』が最終回を迎えた。維新の立役者、西郷隆盛が下野するきっかけになった「征韓論」をどう描くのか、それも見どころの一つだった。ドラマでは描き切れなかったであろう、日本近代史最大の謎、征韓論の真実にiRONNAが迫る。(写真は国立国会図書館デジタルコレクションより)

NHK大河ドラマ『西郷どん』が最終回を迎えた。維新の立役者、西郷隆盛が下野するきっかけになった「征韓論」をどう描くのか、それも見どころの一つだった。ドラマでは描き切れなかったであろう、日本近代史最大の謎、征韓論の真実にiRONNAが迫る。(写真は国立国会図書館デジタルコレクションより)

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征韓論と遣韓論

 日本が明治維新を断行すると、隣国の朝鮮は、伝統を捨て西洋化することを軽蔑し、いわば国交断絶状態となった。当時の日本にとって「ロシアの南下」は最大の脅威であり、これを食い止めるためには、何としても朝鮮に自立して近代化してもらう必要があった。そのため明治政府は、李氏朝鮮に開国を促すのだが、交渉は進まず、日本国内には武力で開国を迫る「征韓論」が持ち上がった。
 征韓論を唱えたのは、西郷隆盛や板垣退助らで、これに異を唱えて反対したのが、岩倉具視や大久保利通らだった。使節団を組んで長期にわたって欧米を見聞してきた岩倉や大久保らは、「欧米諸国と伍(ご)してゆくためには、まず自国の近代化に注力すべきで、外征する余裕はない」と、征韓論を真っ向から否定した。もっとも、板垣らの強硬論とは異なり、西郷の主張は、まずは西郷自身が使節となって朝鮮に乗り込んで交渉する“遣韓論”だった。
 新政府内の朝鮮をめぐる意見の対立の溝は埋まらず、西郷はついに官職を退いて下野する。鹿児島に戻った西郷は、彼の後を追って帰郷した士族のため、いわゆる軍官学校たる「私学校」をつくって受け皿とした。全国各地でも、不平士族による反乱が起きていた。そんなとき、西郷を警戒する明治政府による西郷暗殺計画が露呈した。これに反発した私学生らが、鹿児島の弾薬庫を襲った。こうして、西郷は挙兵せざるを得ない状況になったのである。
 1877(明治10)年2月、「西南戦争」が勃発した。当初、熊本城をめぐる攻城戦や、田原坂での大激戦が展開された。戦上手の薩軍といえども、兵器の質に勝り、2倍の数の官軍相手では、戦いの趨勢(すうせい)を変えることはできなかった。
西郷隆盛が最期の5日間を過ごしたとされる鹿児島市城山の「西郷洞窟」=2016年2月
 こうして迎えた同年8月15日、宮崎県・延岡の和田越で、西郷率いる薩軍3500人と、山縣有朋率いる官軍5万人が激突した。この戦いで西郷軍は撤退を余儀なくされ、鹿児島・城山に陣取って最後の戦闘を行ったのである。同年9月24日、西郷は、東に向かって明治天皇に最後の遥拝を行い、別府晋介の介錯で、その49年の生涯を終えたのだった。
 古今無双の英雄たる西郷が亡くなった西南戦争では、後の日清戦争・日露戦争で指揮官として大活躍した多くの英傑が、官軍として戦っていたことを忘れてはならない。山縣をはじめ、大山巌、児玉源太郎、川上操六、黒木為もと(ためもと)、奥保鞏(おく・やすかた)、乃木希典らである。のちの清国やロシアを相手に対外戦争を勝利に導いた名将だった。つまり西南戦争は、大きな“対外試合”を前に、西郷が胸を貸して新生日本軍の力を試し、彼らを鍛え上げた“紅白戦”となったわけである。
 現在、西郷が立て籠った洞窟の案内版には、西郷の死を悼んだ勝海舟のうたが紹介されている。
 《ぬれぎぬを 干そうともせず 子供らが なすがまにまに 果てし君かな》
 自らの意思に反して私学生らが反乱を起こし、挙兵とならば、最高責任者としてすべての責任を引き受けたのだった。人の上に立つ者としての覚悟-。西郷は、現代の日本社会が失ったものを教えてくれている。(ジャーナリスト・井上和彦、zakzak 2018.07.17

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